聖ヶ丘講話
自由解脱への
道
五井昌久
帖
著者(1916~1980)
聖ヶ丘講話シリーズ刊行のことば
ひじりがおか
聖ヶ丘講話とは、市川市中国分にある聖ヶ丘道場統一会でなさった五井昌久先生のお話である。
お話のあと、先生のご指導のもと世界平和の祈りを全員でするのだが、祈りの言葉を単純に心の
中で唱えつづけることによって、想いを世界平和の祈りに統一する実修をした。
お話はたいがいは質問に応えてなさったもので、これから続々と刊行される聖ヶ丘講話には、
質疑応答で終始する本も当然出てくる。質問もさまざまなら、お話の内容も多岐にわたっていて、
ご身辺の問題から、ひろく世界の平和や宇宙の問題、霊界や死後の生活のこと、永遠の生命の覚
醒、霊性開発という本質的な問題、またご自分のことなど、きわめて親切に、わかりやすくまた
面白く答えて下さり、人間とは何か、いかにして解脱して自由の心にいたれるかを、うまずたゆ
まず説いて下さっている。なお、聖ヶ丘道場での講話以外のお話も聖ヶ丘講話として収録した。
平成三年一月1
から
私は空っぼになった
まか
任せるところから始まる
神さまをひたすら思うこと
自由解脱するために
目
次
135 112 62 7
解脱への大道
装偵笹本悦子
187
私たちの考え
私たちは、人間の真実の生き方について次のように考え、実行しております。
にんげんほんらいかみわけみたまごうしょうしゅごれいしゅごじんまも
つねに守護霊、守護神によって守ら『人間は本来、神の分霊であって、業生ではなく、
れているものである。
よくのうにんげんかこせげんざいあやまそうねんうん
この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念が、その運
めいあらきときおこすがた
命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
くのうあらかならききさ
いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去るのであるという
つよしんねんいまぜんねんおここんなん
強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難のなかにあっても、
じぷんゆるひとゆるじぷんあいひとあいあいまことゆるげんこう
自分を赦し、人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづけてゆくと
しゅごれいしゅごじんかんしゃこころおもせかいへいわいのいの
ともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の祈りを祈りつづけてゆけ
こじんじんるいしんすくたいとくでき
ば、個人も人類も真の救いを体得出来るものである』
せかいへいわいの
世界平和の祈り
4
せかいじんるいへいわ
世界人類が平和でありますように
にほんへいわ
日本が平和でありますように
わたくしたちてんめいまっと
私達の天命が完うされますように
しゅごれいさましゅごじんさま
守護霊様、守護神様ありがとうございます
いのこいせんせいしんかいやくそくごといの
この祈りは五井先生と神界との約束事で、この祈りをするところに
かならきゅうせだいこうみょうかがやじぷんすくせかいじんるい
必ず救世の大光明が輝き、自分が救われるとともに、世界人類
こうみょうかだいらようわぜつだいらからはっき
の光明化、大調和に絶大なる力を発揮するのです。
5私たちの考え
げだつ
自由解脱するために
人間は自由である
宗教の押し売りというのはいけません。たとえば夫なら夫が今、私のところに来ている。
私の教えがいいからといって、むりやり妻に押しつけたってだめだし、妻が夫に押しつけ
ても子供に押しつけてもだめなんです。それは何故かというと、人の自由を奪ってしまう
からです。人間は自由性を持っていて、自由自在に生きなきゃならないんです。そして自
由になって、本心(神) のままになって生きてゆくのが、本当の宗教の極意なんです。
ところが、逆に、宗教というのが自由を縛ってしまうのです。先祖がたたっているとか
7自由解脱するために
罰があたるとか、なんとか云って自由を縛るんです。縛ってむりやり自分の教えの中へ引
っ張っていこうとする。その教えの中へ引っ張っていこうとする想いは、業想念なんです。
そういう宗教は本ものではないのです。そういう教えでは、入った人が本当の悟りにはい
かないのです。
ひと
それよりも自分の行ないとか、日頃から自然に現われてくる人格というものが、他人に
魅力を感じさせる。あの人は何だか知らないけれど魅力がある。なんだか知らないけれど、
あの人に会っていると心が明るくなる。心がやさしくなる。慰められる。それで市川さん
なら市川さん! とやってくる。それで、実はこうだよ、と話をする。本を見せる。とい
うように自然についてくるんです。そういうふうにならないとだめなんです。
その一番の根本というのは、人間は自由である、ということです。なんで自由かという
と、本心がそのまま自由自在である、という意味からなのです。今の自由主義というのは、
業想念の自分のやりたい放題をやることが自由だと思っているけれど、それは間違いです。
げだつ
本当の意味で自由解脱することを教えているのが、宗教なんです。自由解脱するためには
8
くロつくロつ
どうしたらいいか、というと”空” になることです。空というのは今迄の仏教的な云い方
でいうと、とてもむずかしいんです。むずかしくてむずかしくて話している当人もわから
ない。
空ということ
くニノ
空というのは言葉では云えるんです。知識的にはどんな状態かわかる人もあります。と
ころが実際に自分が行なっていないと、或いは行なった人と一緒に生活したりしないとわ
く つくロつ
からない。空になった人がいて、その人と一緒に生活していれば、ああ空の状態というの
くロつ
はこういうことだな、と自然にわかってくるのです。ところが空にならない人が、或いは
くロつくロつ
空になった人を知らない人が空を説いても、それは理屈だけになってしまうのです。
白光誌にも書いてありますが、学者が空、空と空のことを云うけれど、空とは一体何か
はんにゃしんきょう
さっぱりわからない学者がたくさんいます。たとえば宗教学者の中には、般若心経を説き
ながら、般若心経がちっともわからない人がいるんです。般若心経でみんなが一番覚えて
9自由解脱するために
しきそくぜくうくうそくぜしきくうことくうこと
いるのは「色即是空、空即是色」という言葉ですね。色は空に異ならず、空は色に異なら
ず、という言葉ですね。
しきしき
空即是色の色というのは光のことです。はじめの色というのは、この世の物という意味
くうくうくう
で、この世に現われているものはみんな空だ、空と同じものなんだ、空から現われている
くスノ
んだ、というんです。空になるとどうなるかというと、今度は物ではなくて、光がそのま
ま本当の色が現われてくるんだ、ということです。色即是空の色は神と業想念がまざった
くりつくロつ
ものなのです。それが空になると、空になったとたん光り輝いた、金色燦然とした本物、
光が現われてくる、というのが般若心経の極意なんです。
その間に、無い無い無い、みんな無いと否定しています。目に見えるものも無い。触れ
るものも無い。感ずるものも無い。迷いも無い。迷いがないという想いも無い。そういう
また
想いも亦無い。とやっているんです。だから私の教えているのは、般若心経そのままやっ
ているようなものです。無い無い尽しを消えてゆく消えてゆくとやっているわけです。「み
んな自分が悪い」と思う。「ああ自分はだめな人間だ」と思う。「どうやっても自分はだめ
だL と思う。「自分はよくなろう、よくなろうと思いながらも、悪い心がうんと現われて来
てしまう。なんて情けない人間だろう」と思う。そういう現われてくる想いはすべて消え
てゆく姿なんだ、と私は云うわけですね。嫌な人間だなと思う。悪い想いが現われてくる
その想いを否定する想い、それも消えてゆく姿i と私のはやるんです。それは無い無い
無いと云っているのと同じなんです。
ところが無い、ない、無いではわからないでしょう。どうしてわからないかというと、
いろんな想いがあるからです。悲しい想いもあれば、恨みの想いもあれば、妬みの想いも
あれば、病気もあれば、貧乏もあります。そういういろんな想いがあるんだから、無いで
はわかりませんね。
人間の頭というのは微妙なものでして、本当の真理からすれば、無いということも、消
えてゆく姿ということも同じなんですけど、消えてゆく姿のほうが無いというよりも、ず
くぼつ
っと手前にあって、しかも空につながってゆくわけです。自然で無理がないんです。たと
えば病気が現われているのに、生長の家は”ない” という。嘘ではない、本当のことなん
II自由解脱するために
だけれど、病気が現われても「それは無いのだ」と云うんです。貧乏なように見えても
「それはないのだ」悪が現われても「それはないのだ」と云うんです。それはそうです。
般若心経は「ない、ない」と云っているんですから。
くりつくロつ
無い、ない、無い、何にもない。無いと思って全部否定した時に、空になって、空の中
から真実のものが現われてくる、というのが般若心経なんだけれど、そのようにチャンと
解釈していた人は今迄誰もいない。色即是空、空即是色というのを、みんな同じに解釈し
ているんです。それで「空になれ、空になれ」と云っているんです。しかし「空になれ」
くのつ
ということが何んだかわからない。空になった時から、本当に光り輝-いたもの、本心が現
われてくると、昔の禅宗の偉いお坊さんなどは思ったけれど、今のお坊さんはそんな風に
は思ってない。空のあとがわからないから、本当の意味の神や仏がわからないんです。
神と仏とは違うのか
げだつ
仏教では、仏というのと神と違うと思っているんです。人間が解脱した姿が仏だと思っ
とらこ
ている。つまり、業想念に把われなくなって、業想念を超えたそういう人が仏さまだ、と
いうんです。それは本当なんです。ところがそれは神と違うと思っている。神なんていう
ものはないんであって、人間が一番偉いんだ、人間がすべての主なんで、人間は自分が主
人公であって、自分の他に神なんていうものがあるもんじゃないんだ、というように仏教
では説いているようなところがあるんです。そのように学説がだんだんなってしまって、
くコつ
仏が内在していて、その仏を出すために空になるんだ、というふうに説明するわけなんで
す。それも本当なんですよ。だけど片面だけ云っているわけなんです。
人間というものは、内部に仏の人間があると同時に、五官の外に見えるところに働いて
ヘヘへ
いるいのちがある。大叡知がある。それが神というんです。「神さまと仏さまと違うんです
か? 」と質問する人もあるけれど、それはどう違うかというと(本当は同じ) 敢えて違う
ように説明すれば、神というと宇宙の絶対者、すべてのすべてである創造主です。仏とい
うのは人間の内部を掘り下げて掘り下げていって、一番最後の内部にあって光り輝いてい
る無硬自在、自由自在なる力、知恵の持ち主をいうんです。要するに解脱したという意味
13自由解脱するために
ですね。すべてからほどけたという意味です。それが仏陀なんだと説明するわけです。
ところが中の仏というのと、神とは同じなんです。ただ向こうからこの中を見た場合に
仏であり、外を見た場合に神、というふうに説明しているわけです。実際、神というのは、
キリスト教などでも〃神は汝の内にあり” と、神の国というのは汝の内にあるんだと云っ
てますから、仏教と同じことなんです。だから神というのは、内にもあり外にもあり、宇
宙に満ち満ちている。仏も満ち満ちている。
お釈迦さまは仏陀でしょ。お釈迦さまは肉体に生きた人間ですが、生きた人間が全部の
業想念を解脱して、神の力をそのまま現わし得たから仏といったんです。お釈迦さまは肉
あしゅく
体にあって仏だし西方極楽浄土には阿弥陀仏、東方には阿開仏、南方には何々仏、北に何
々という仏がいるわけです。お釈迦さまが肉体として生きている時に、お釈迦さまが仏で
ありながら、他に仏がいっぱいいた。それはどういうことかというと、神はすべてにある
ということです。中にあるだけじゃなく外にもある。宇宙いっぱいにひろがっているもの
が神さまなんです。それを仏とか如来とかいう名前にしただけなんですね。それを仏教のi4
学者はわからなくて、仏ということだけ云って、仏陀は如来だというんです。
神ということを一切否定しちゃって「神なんかないんだ。仏なんだ。人間が本当に悟れ
ば仏になるんだ。仏は中にあるんだ。だから人間が一番偉くて、神に頼る者はだめなんだ。
神なんかに頼っている以上は、人間はだめなんだ、それは迷信なんだ。まして守護神なん
てものはないんだ」というふうに学者たちは云うんです。その仏を悟るにはどうしたらい
いかというと、空になるんだ、というんです。空になるにはどうしたらいいか、といった
ら、坐禅をするんだ、と云うんです。
ところが坐禅をしてみた人はたくさんいる。仏教が始まってから今迄だいぶたちます。
その間、坐禅をして本当に仏の境地になった人がいるかというと、わずかしかいない。し
かも専門的な宗教家が山などに入って、食べるのに事欠かないで、幼少の頃から年老いて
八十になるまでも坐禅観法して、やっとこさ悟った人もある。あるいは悟らない人もたく
さんある。悟らないほうが多くて、悟ったほうが僅かなのです。だからそういうふうなむ
ずかしい仏教の説き方をしていたら、いつまでたっても誰も悟れない。一般大衆二十何億
IS自由解脱するために
という人たちは到底、悟りに入れませんね。
(註一)真言密教のマンダラでは、中央の大日如来と四方にある四仏をさして五仏という。金剛界マ
ンダラでは、大日如来を中心に、東に阿閤如来、西に阿弥陀如来、南に宝生如来、北に不空成就如来
を配する。
i6
空になる教え
そこで空になる教えを一番やさしく説くために、私がここに出て来たわけです。坐禅観
しんざんゆうこく
法といって、深山幽谷に入って、誰も人がいない所で、飯も食わないで坐ってごらんなさ
い。今の人には出来ませんよ。
今日のように文明文化が開いてしまって、うまいものの食べ放題、どこかへ行くには電
車や汽車に乗りゃ、サッと行ける。遠くでも飛行機に乗りゃ、サッと行っちゃう。苦労が
いらなくなっている世の中になったわけです。一旦、文明文化が開いてしまうと、人間の
な
欲望というか、そうしたものが習慣的に慣れてしまうのです。昔は歩いて箱根を越したん
でしょ。江戸から大阪へ行くのでも歩いて行ったんです。歩いて行くのが当たり前だから、
歩いていって平気だった。今の若い人が大阪まで歩いて行ってごらんなさい。歩けやしな
いから。大阪はおろか、山梨県までだって歩いてゆくのは骨が折れます。それは何故かと
いったら、くせがついちゃったからです。
戦争中、米も何もなくなっちゃって、海草めんという変なものを食べさせられたんです。
今の若い人は知らないだろうけれど、それは砂の入ったおそばのお化けみたいなものなん
ヘヘへ
です。そして最後にはふすまという馬か牛のエサのようなものを食べさせられたんです。
それでも他に食べるものがないから、仕方がなく食べたんです。だからたまにかたいご飯
めし
なんかが出ると、米の飯だ、と有難がって食べたでしょ。ところがそれは戦争中で、他に
なくて絶体絶命だから、みんながそうなんだから仕方がなく食べたけれど、あれを今、自
みじ
分だけやってごらんなさい、惨めで惨めでしようがないから。他の人は白米食べて、カツ
レツや刺し身なんかを食べているのに、自分は海草めん食べてごらんなさい。食べられた
もんじゃないでしょ。何故かというと、一般の人全部がそういう立場にあれば、人間は出
来るんです。それが自分だけだったら、惨めで惨めでしようがない。出来っこないですよ。
17自由解脱するために
それと同じように、今、悟ろうと思って、深山幽谷に入って坐禅観法なんて、つづくも
んじゃない。またそれでは食べてはいけない。第一、この社会がだめになっちゃいます。
みんなが山へ入ってごらんなさい。みんなが西行法師みたいに、あるいはお釈迦さまみた
いに、男が出家して坊さんになってごらんなさい。女と子供ばかり残っちゃって、産業は
全部止まっちゃいます。
だから私はそういう宗教のやり方は好きじゃないです。何故かというと、宗教の殿堂は
多くなるかも知れないけれど、産業はだめになっちゃいます。工場に千人の人が働いてい
たとする。みんなが宗教に入れあげちゃって、千人がそこへ行っちゃってごらんなさい。
工場がだめになっちゃうでしょ。会社はバタバタつぶれちゃってそれこそ国家は生産がだ
めになって、国家の運営はおかしくなる。
そういうやり方、そういう宗教は、今のこの世の中ではその国を衰亡させ、滅亡に追い
やるのです。
インドをはじめ東南アジアの国々が栄えないというのは、どういうわけかというと、あ
1$
まりにも昔の宗教的くさいからです。要するに解脱するということを日常生活の中でしな
いで、空の修行を日常生活の中でしないで、一つの形式の中にはまって修行しているから
です。だから牛を食べてはいけないとか、牛がいたらよけて通らなきゃいけないとか、い
ろいろ面倒くさい掟がいっぱいあります。ガンジーのようなあんな偉い人でも「機械を使
っちゃいけない」と云ってたんですからね。それは何故かというと、昔の宗教の流れを汲
んでいて、形式の中へはまってしまうんです。形式の中へはまってしまうと、文明文化と
いうものは栄えないんです。
ヨーロッパ諸国というのは現実主義ですから、どんどんどんどん現実の肉体生活に便利
なことを研究したわけです。だから肉体生活に便利なような文明が開いた。それでヨーロ
ッパは機械文明が開いていったんです。
ところがアジアは、宗教で内面的に内面的に形式の中へ入っていくものだから、文明文
化が開かない。何故かというと、肉体を問題にしないからです。「肉体というものはだめな
もんだ。魂だけが大事だ。魂だけが高いんだ」というんで、魂だけ大事にしちゃって、肉
Ig自由解脱するために
体をまるでいじめちゃって、肉体の幸福を思わないで、肉体の便利を思わないで、内面的
なことばかりやってるから、どんどん追い越されて、ヨーロッパが栄え、アジアがヨーロ
ッパの属国みたいになってしまった。今は独立して来ましたけれど、それでも戦争にでも
なりゃ、とてもかないっこないでしょ。アジアが束になってかかったって、アメリカにか
ないはしません。
というように文明文化的に遅れてしまったんです。後進国と云んですね。先進国という
のはアメリカ、イギリスあっちのほうでしょ、日本はじめ東南アジア諸国は後進国という
んです。魂的には先進国なんだけど、肉体的な文明においては後進国で、どんどん遅れて
しまうわけです。
宇宙の運行が変わってきている
そういうやり方、在り方は、もう現代でおしまいなんです。それで今度は、宇宙の運行
がズーッとまともになって来るんです。今迄曲がっていたものが、まともになって、違う
星が主になって活躍することになるんです。そういうふうに宇宙の運行が変わってきてい
るんです。そうすると、逆に魂的な国が持ち上がるんです。
今迄は肉体を主にした文化というものが栄え、肉体のことばかり思ったほうがどんどん
栄えて来た。そして魂的なことばかり形式的なことばかりやっていたほうがどんどん滅び
てきた。それが逆になって、中間に平らになってくるんです。
言い換えれば、霊的なことを考えたのが縦とし、物質的なことを考えたのが横とします。
今迄それがバランスがとれなくて、アンバランスになっていたわけです。精神的に考えて
いたのが下へ行き、肉体的な文明を考えていたほうが上になっていた。それがだんだん宇
宙の運行が変わるにしたがって、平らに平均してくるわけです。縦の線と横の線が十字交
叉して、ちゃんと十字架になってくる。縦と横とが調和してくる、という時代になってき
こコつ
て、今はその最初で、第七劫なんです。
そうするとどういうことになるかというと、今迄の行き過ぎた霊的ないき方、肉体を蔑
視した宗教的ないき方も是正されて、もう少し上がってくる。それから肉体ばかりを考え
21自由解脱するために
てきた肉体文化の栄えてきた諸国も、だんだん変わってくる。そして右に寄りすぎたもの
は左に寄ってくる。左に寄りすぎたものは右に寄ってきて、お互いが手を取りあって、本
当の肉体的でもあり霊的でもあるという文化というものがここに出来るわけなんです。そ
ういう風に宇宙が変わってきたんですね。
そうなると、今迄のように、修行だ修行だといって山へ行って修行したり、坐禅だ坐禅
だと、家の仕事を放っぼらかして、お寺へこもって坐禅したりすることもだめな代わりに、
肉体的なことばかり考えて、唯物論的な共産主義的な「ものがすべてのすべてだ」という
ような、物だけの面ではかる精神、肉体にくっついた物の一部のように考えている精神と
いう観方もだめなのです。そのような考え方とは違って、霊というものと肉体というもの
をはっきり見きわめて、別に考えて、しかも霊が肉体に働いていて、肉体と霊との調和に
よってこの世界が出来るんだ、ということがハッキリ証明される時が、今きたんです。
空と消えてゆく姿
22
くサつくロつ
そうなるんです。そうなるにしても、空にならなきゃだめなんです。空にならなきゃそ
れにならない。だからやっぱり一番の問題は空になることなんです。いくら時代が進んで
もです。
くコつ
わたしに神さまが来て説いていることは、空になることというのは〃消えてゆく姿をや
っているうちに空になるんだ” という教えなんです。今迄は、無し無し無しの般若心経で
やってきた。病気もないのだ、貧乏もないのだ、見えるものもないのだ、すべてないんだ、
くロつ
無いんだ無いんだ、すべて空なんだ、空から出てくるんだ、とこうお釈迦さまはやってい
た。
くロつ
ところがそのお釈迦さまの教えはそのまま出てなかったんです。空になったら光が出て
くる、なんて云ってないんです。それはわたしが云ってるんだけど。けれどそういうふう
にお釈迦さまは云っていたんです。書いたんじゃなくて云ったんです。それを後の人たち
が解釈をし違えたんです。それで本当のお釈迦さまの教え、無というのが消えてゆく姿と
いう言葉と変わって、今現われて来ている。本当に般若心経がそのまま実生活に現われる
23自由解脱するために
時なんですね。般若心経ならたいがい宗教をやる人は知ってます。色即是空、空即是色と
いうのを知らない人はあんまりないですね。
それでどうするかというとー
この世の中が本当によくなるために、一番邪魔になるものは何か、それは人間の感情で
ねた
す。好きだ嫌いだ、いやだ、欲しい、嫉ましいなどという想いです。これは邪魔なんです。
邪魔なんだけど、これがなかったら世の中は成り立たないんです。むずかしいんですよ。
なけりゃ困るし、あっちゃ邪魔なんですから。そこで感情の純化といって、感情が浄まっ
てくるということが必要なわけです。
それにはどうするかというと、いっぺん今ある感情というもの1 自分の感情、ここに
起こる感情、あるいは考える力、思考力、思慮分別、そういうものを一度なくさなきゃな
くロつ
らない。空にしなきゃならない。
くスノ
そこでまた空が出てくるんです。それではどうしたら空になるかというと、この感情、
この考える力、あるいは憎いとか恨めしいとか思う想い、そういうものは、本心、仏さま24
の姿、神さまの心とは違うんだ、ということをはっきり認識しなければだめなんです。
仏さまというのは自由自在なものなのです。自由自在になんでも出来る。思う通りにな
る。なんにも迷うこともない。叱ることもない。嫉むこともない。そういうものが仏さま
なんです。
人間一人一人は仏さまで神さま
人間というものはみんな仏さまなんです。一人一人そうなんです。誰も仏さまでないも
のはいません。全部仏さまです。言い換えれば神の子なんですね。神の子でないものは一
人もいない。神さまから出てきた神の分霊でないものは一人もいない。全部が神の分霊な
んです。その神の分霊が本当の自分なんであって、怒ったり、嫉んだり、恨んだり、叱っ
こうそうねん
たりいろいろする、そういうものは業想念といって、神さまの子であることを忘れてしま
った想いが積もり積もって、癖になり、習慣になって、怒ったり、妬んだりするんです。
そういうことをはっきりと認めなければだめです。
25自由解脱するために
だから今、自分が腹が立って腹が立ってしようがない。「あのヤロi 、帰ったらひっぱた
いてやんなきゃ」と思っている。そう思っている時にー思いながらでいいんですよ。思
いながら「ああこう思っているのは業のほうの私だなア、私は本当は神さまなんだ、ちょ
っと思えないけど、神さまなんだ」とやるんですよ。腹が立っている時なかなかそう思え
るもんじゃない。こんちくしょう! と思った時「私は神さまの子だ」なかなか思えない
けど、思えなくてもいい。嘘でもいいんだ。
「神の子だ、と先生が云ったんだから、きっとそうだろう。神の子だ。こんちくしょう。
神の子だ、こんちくしょう」と家に帰ってから云いなさいよ。そのうちに「こんちくしょ
うは消えてゆく姿。こんちくしょうは消えてゆく姿」とやっているうちに、怒りが直っち
ゃう。直らないまでも、だんだんだんだん薄くなってしまいます。
自分のところに出てくる自分の心を不安にする想い、いらだたせる想い、波立たす想い、
心臓をバクバクさせる想い、そういう想いはすべて、消えてゆく姿なんです。消えてゆか
ないものは一つもないんです。みんな消えてゆくんです。腹が立って腹が立っていくらもa6
腹が立って、たくさん積もるように腹が立ってもいいです。腹が立ったままでいいから
「消えてゆくんだ、消えてゆくんだ、消えてゆくんだ」と云いながら帰りなさい。そうす
ると、消えてゆくんだと思わないで腹の立ちっぱなしで行く人よりは、「こんなに腹が立っ
ても消えてゆくんだなア、これは私の本当の心じゃない。消えてゆくんだ、消えてゆくん
こう
だ、消えてゆくんだ」とやっている人のほうが、業が現われてもわずかです。「このヤロ
ー」がわずかですんでしまいます。しまいにはこんなにうすくなっちゃいます。というよ
うになるんです。妬み心でも同じです。
よく宗教的な人、いい人に限って「自分はだめな人間だ」と云うんですね。自分はだめ
な人間だということは、人間は神の子じゃないということと同じなんです。「自分はだめな
人間だなア、自分はだめなんだ」と思う想いは、自分は神さまの子じゃないという想いと
同じなんです。そうではなくて、自分は神さまの子なんだから、だめな想いというのは消
えてゆく姿なんですね。自分はだめだなアと思う想い、否定の想い、自分はいけないいけ
ないと思いながら、憂うつになってくる。なんだか知らないけれど憂うつになって、イラ
27自由解脱するために
イラッとしてくる。みんな経験がありますね。経験ない人なんか一人もいない。あるいは
淋しくて淋しくてしようがなくなってくる。いたたまれないほど淋しくなることあるでし
ょ。そういう想いはみんな自分じゃなくて、業想念の波がひっかかってきたんです。自分
の責任に思わなくていいんですよ。ひっかかって来たんだから、ひっかかって来たやつを、
天のほうへ放せばいいんです。それは消えてゆく姿なんです。
祈りで神さまの中へ入る
消えてゆく姿だよ、と云いながらどこまで行けばいいかというと、祈りの中に入ってい
けばいい。「世界人類が… … 」と云えなかったら、たとえばあんまり腹が立ったりなどして
いる時には「世界人類が… … 」と云えないんですよ。そういう時はしようがない。「五井先
生!」と呼ぶんです。五井先生の五井もめんどくさかったら「先生!」と呼ぶ。なんでも
いいから、神さまの光のほうヘピューッと怒りのままで、その想いを持ってっちゃうんで
す。いっぱいたまっている想いのままで入っちゃうんです。2$
きたな
道ばたでころんじゃって、体にベタベタ泥がついて汚くなっちゃったら、お風呂ヘバッ
と汚いままで入っちゃえば、きれいになるでしょう。お風呂は汚れるけれど、汚れたのは
また洗えばいいんだから。そういうふうに、とにかく汚いままでいいから、自分が業をか
ぶったままでいいから、自分はだめだとかなんとか、よけいなことを自分で云っていない
で、そのままでもって神さまの中へ「神さま、助けて!」と云って飛びこんで行くんです。
そうすると、神さまが「よしよし」とやってくれるんです。
その神さまは誰かと云ったら、自分の本体なのです。守護霊でもあり守護神でもあり、
自分の本体でもある。その中へ飛びこみさえすりゃいいんです。自分の仏さまの中へ飛び
こめばいいんですよ。
それをみんな、自分でなんとか出来ると思って、自分の仏さまの中へ飛びこまないで、
業の中で、あっぷあっぷしてるんです。業の中でいくらあっぷあっぷしてもだめですよ。
自分の心が悪いからとか、自分は妬みの心が多いからとか、自分は恨みの心が多いから、
自分はだめだ、なんてそんなことでグルグル回っていたら、いつまでたってもだめです。
2g自由解脱するために
ごう
ところが今迄の宗教はそうやって教えたのです。仏さまを説き、神さまを説きながら業
の世界の中で説いているんです。「怒ってはいけませんよ」これは業の世界です。妬んじゃ
だめですよ。優しくしなきゃいけません、とやっているんです。教えているほうも業の世
界の中にいながら「だめですよ、だめですよ、だめですよ」とだめだだめだと業の中で回
っているんです。いくらやったってこんなもの、よくならないです。なっても僅かつつし
かいかないです。
私の教えているのはどういう方法かというと、ふつうの教えはたとえば、階段を一段一
段上ってゆくようなものです。ところがそれは無限に高い階段なので上りきれないわけで
す。私のほうはエレベーターなんです。そして守護霊守護神という運転手がいるんです。
それで「これは消えてゆく姿ですよ。守護霊さん守護神さん有難うございます、と云いな
さい。サア消えてゆく姿の中に入りなさい。世界平和の祈りをなさい」と云って、戸を開
けてくれるんです。そうしたらだまされたと思っていいから「ああそうですか」とエレベ
ーターに乗るんですよ。そして「守護霊さん守護神さん」と云っていると、云っても云わ30
なくても守護霊さん守護神さんはそこにいるんだから、エレベーターに乗りさえすれば、
自分は何もしなくても、スーッと神さまの世界へ持っていってくれるんです。
因縁因果をこえる
今迄の修養とか修行とかいうのは「ハイ、石段を上がりなさい、なんだ、足がふらふら
しているぞ、だめだ!」とやるんで、仕方がない。また上がろうとすると、とても高くて
上がれない。引っぱってもくれないで、上がれ、上がれとやるんです。だから一段上がる
のが大変なんです。そうやって一段ずつ上がっているんですから、上がり終えるのはとて
も苦しい。それで怒られるのでなお足がすくんじゃう。そういうふうな教えなんです。
私のは守護霊、守護神がちゃんといるので、乗りさえすればいいんです。乗るところは
何かというと、消えてゆく姿というのと、守護霊さん守護神さん有難うございます、とい
う想いの中へ乗って行きさえすればいいんです。乗ればスーッと行っちゃうんです。それ
を教えているんです。
31自由解脱するために
くロつ
そうして乗って、知らない間に消えてゆく姿をやっていると、だんだん空になってくる。
くロつくワつ
空なんてむずかしいこと云わなくたって、坐禅観法しなくたって、そうしていると空にな
ってゆくんです。
消えてゆく姿だから、怒りが出てきても、痛みが出てきても、いらいらしても、〃ああい
らいらしているのは消えてゆく姿だなア” と思っているんですから。そりゃ大したことな
いんですよ。なかなか出来ることじゃないですよ。ふつうの宗教では出来っこないです。
いらいらしている私はだめだという想いも、これは困ったなという想いも、痛いなアとい
う想いも、みんな消えてゆく姿なんだ。痛いは消えてゆくんだ、痛いは消えてゆくんだ、
消えるんだとやっているうちに、だんだんだんだん消えてゆくんです。本当は無いんだか
ら。
真実は、人間の世界というのは神さまの世界なんで、神さまの光が光明燦然とした大調
和の世界だけしかないんだから。ただ天界からこの地上界に移ってくる間に、人間が勝手
に神から離れて、業想念をつくりてしまったんです。その業想念が今、取りまいているわ32
けです。そしてぐるぐるぐるぐる回って走っているんです。急スピードで走っているんで
す。どこを走っているかというと、潜在意識の中なのです。「あのヤロi憎らしいヤツだな
ア、生まれ変わったらやっつけないではおかない」と前の世で思ったこと、想いがみんな
潜在意識に入っているんです。それがぐるぐる回って、潜在意識から顕在意識へ出てくる
んです。
そうすると、ある人間なら人間をみると、「なんだかあいつを見ると腹が立って来てしよ
うがない。虫の好かないヤローだ」となる。たとえばこの間、女子高校生が殺されました
が、あれもふだんはなんでもなく、女子高校生に会うととたんに殺したくなったりする。
それは何かというと、その女の子と殺した人との前世の因縁が、あべこべになってきてや
っちゃったわけです。だから前の世でやったことは必ず今生に返ってくるんです。いいこ
とをしたらいいことが返ってくる。悪いことをしたら悪いことが絶対に返ってくるに決ま
さんがいこう
っているんです。それは三界の業の話ですよ。
「因縁だよ、あきらめな」という話もあるんです。「あなたが悪いんだ、そりゃもう」と
33自由解脱するために
いうやつです。それだけだったら因縁因果説でもって、救いがない。前の世でやったこと
がそのまま返ってくるんだ。悪いことをしたから悪い報いがくるんだ。お前はいいことを
したからいい報いが来たんだ、とやるわけです。これは本当です。嘘じゃない。
運命を修正してくれるもの
そこで守護霊さん守護神さんがついている。前にやった悪いことが、たとえば一万なら
一万の悪いことをしても、その人が「守護霊さん、守護神さん」と思って、守護霊守護神
のほうへぶつかって入ってゆくと、このグルグル回っている業想念の潜在意識まできて、
そこをくぐって守護霊守護神の中へ入っちゃうんです。そうすると、業想念の三界をこえ
てしまって、神さまの世界へ自分の想いが入っているんです。グルグル回っているものも、
ちょつとふれるぐらいで、たとえば一万も千万も借りがあっても、それが百か十かで済ん
でしまうもんです。それを運命の修正というんです。
運命の修正、要するに運命を直してくれるのは誰かというと、守護霊であり、守護神で34
あり、五井先生なんです。自分の努力というのは勿論ありますよ。だけど、自分自身が意
気ばって、自分の短気を直そうとか、意気ばって自分の淋しさを直そうとか、意気ばって
悲しみを打破しようとかいうのは、長くつづきません。調子のいい時は出来ますよ。「なに
を!」と云って出来るけれども、調子の悪い時はどうにもならないです。
調子のいいとか悪いとかいうものは度外視して、調子がいい悪いなんて問題じゃなくて、
消えてゆく姿なんだ、守護霊さん守護神さん有難うございます、世界人類が平和でありま
すように、あるいは「五井先生!」と云ってしまうと、想いがいつでも三界をこえてゆく
んです。
いつも業想念をこえていかなきゃならない。三界というのをこえていかなきゃならない
んです。三界というのは、迷いのある世界のことをいいます。いうなれば肉体界、幽界、
霊界の低いところを三界というんですが、それをこえる練習をいつもしている。それが消
くワつ
えてゆく姿なんです。そうすると空になっちゃうんですね。仏教学者がむずかしい言葉で
くコつ
説くような空が、消えてゆく姿をやると簡単に出来てくるんですよ。知らない間に自分で
35自由解脱するために
出来てくるんです。
そうすると、自分でやったことも、神さまがやってくれたことも一つになって、スッと
動ける。たとえば、歩いてA さんの所へ行こうとフッと思う。ところがB さんの所にも行
かなきゃならない。A さんの所とB さんの所とどっちを先に行ったらいいか、なんて思っ
て、Aさんの所へ行くとB さんが来てたりして、パッといっぺんに用が足せるようなこと
が随分ある。あるいは、義理としてA のほうへ行かなきゃならない。しかし心がどうして
もA じゃなくて、B のほうへ行きたいと思う。それでB の所へ行くと、B へ行ったほうが
いいことがあったり、B の家へA が来てたりして、両方いっぺんに用が足せるとか、そう
いうことはたくさんあるんです。そういうのはみんな守護霊さんがしてくれるんです。
この肉体の頭ではそれは出来やしません。何がやっているかというと、うしろにいる目
き
の利く人、遠くが見える人、未来のことが全部見えている守護霊、守護神がみんなやって
くれるんです。だから肉体の人間というのは、どんな偉そうなことを云ったって、今、現
在の一瞬のこときりわからないんです。一分先、一秒先のこともわからないんですよ。「一
3 6
晩あけりゃ朝になって、朝になったら飯を食うだろうL と思うだけです。だけど飯は食え
ないかも知れないし、わかりゃしないんです。
そのように、人間の肉体の頭では一秒先、一分先のことも、先のことは何にもわからな
いんです。暗中模索しているわけです。なんにもわからないけど、わかったような気がし
て生きているんです。守護霊守護神は、ところがちゃんとわかっている。霊というのは先
のことなどみんなわかっている。だから霊にまかせるんですね。というのは、守護霊守護
神にまかせてゆくと、自分の業、自分の悪いくせもみんなどんどん消してくれる。どんど
ん消してくれるのは守護霊守護神です。それを他力というんです。それを浄土真宗では
「阿弥陀さまにまかせろ、南無阿弥陀仏」というんですね。
業想念の引き算
何回も云いますけれど、
いか。いらいらするのを、
腹が立って腹が立ってどうしようもない、それをどうしたらい
くじつ
心臓がバクバクするのをどうして止めたらいいか。それは空に
37自由解脱するために
くロつ
なるより仕方がない。しかし空になる方法はむずかしくて出来ないでしょ。山に行くわけ
くロつ
にいかない。坐禅をしたってそんな簡単に空になるわけじゃない。そうしたらそれは消え
てゆく姿をやればいいんです。
「ああ腹が立ってくる。これは過去世の因縁、自分の今迄の習慣の想いが、今消えてゆく
へ
姿なんだ。一つ腹がたてば一つ減ったんだ。二つ腹が立ちゃ二つ減ったんだ。三つ腹が立
ちゃ三つ減ったんだ」
とどんどんどんどん引き算にしていけばいいんです。そうするとしまいにはなくなっち
ゃうんですよ。それは限りがあるからです。業想念というのは無限じゃないんです。ある
期間から出て来たものなんだから、無限じゃなくて有限なんです。神さまの子である光、
愛、調和というものは無限なんです。無限億万年から光があるんです。だからこれは絶対
に無限につづいてゆくわけです。神さまは消えっこないんです。ところが業のほうは消え
ちゃうんです。どんな怒りの想いも、どんな妬みの想いも、どんな淋しい想いも、どんな
悲しい想いも、どんな恐怖も、みんな録音してあるだけのものが出てしまえば、なくなっ
3 8
ちゃうんです。業だけは消えてしまい、あとは神さまだけが現われてくるんです。
簡単な理屈なんです。むずかしくもなんともない。それを仏教学者なんかがむずかしく
むずかしく解釈しちゃったんです。お釈迦さまはそんなにむずかしいことは云ってないで
す。よく仏教学者などが「お釈迦さまは偉い!」と云うんです。何が偉いかというと、あ
んな膨大なる本が出来るような話をしたから偉い、というんですが、そんなことないです
よ。本がたくさんあるから偉いなんてことはない。本をたくさん出した人が偉いなんてこ
とはないんですよ。最も簡単に、最もやさしい言葉でみんなが救われるような教えをする
人が、一番偉いんです。
だいぞうきょう
あればあるほど煩雑でしようがない。大蔵経というのがありますね。一般大衆で大蔵経、
いっさいきょう
一切経を全部読んだ人なんかいやしませんね。宗教の専門家は全部読んだかも知れない。
あんなに膨大な本などどうしているものですか。膨大な本があればあるほど、世の中は迷
っちゃうんですね。そこへゆくと、キリスト教の聖書は割方短い。だから入りやすい。そ
して言葉もわかりやすい。”何を食わんと思い煩い、何を着んとて衣のことを思い煩うや、
39自由解脱するために
野の鳥を見よ” と云うんでしょ。そうだな、ほんとだ。いくら思ったって「身丈一尺を加
えんや」というんでしょ。いくらお前が思いわずらったって、いくらわめいたって、お前
が勝手に身の丈一尺を加えられるか、なんだったら高くなってみろ、と云うわけですね,
簡単ですね。
それは何故かというと、西洋の人はいとも簡単に書くものを持っているんですね。東洋
の哲学というものは中国から来ています。仏教も大体、中国から回ってきています。中国
というのは漢文でむずかしいことを書いちゃうから、うんとむずかしくなっちゃう。それ
に学者が筆を加えてまたむずかしくしちゃう。片方はやさしい、あれだけのもので聖書は
出来ている。大したことありゃしない。けれど仏教のほうは膨大で読めやしない。そんな
ものどうするのか、と云うんです。お釈迦さまはあんなふうに説いちゃいないんですよ。
もっといとも簡単に説いているんです。
40
みんな一つのいのち
今度「阿難」が単行本になって出ますが、これを一冊読むと、本当に短かくてわかっち
ゃうんです。お釈迦さまが云いたいことを、根本的にズバリと現代の人間が生活の中にや
れるように書いてあるんです。だからあれだけでたくさんなんです。膨大なる量の本とい
うのはかえって人間を惑わすものなんです。人間を惑わしてはいけません。だからやさし
く説く。それは何かと云ったら〃消えてゆく姿” なんです。それだけなんですよ。とても
簡単でしょ。簡単だけどこれは実に深い。素晴らしい良い言葉なんです。
「私は悪いことをしまして、もう昨日までの私は悪いζ とばかりしまして」なんていうと
「ああ昨日までのことはみんな消えてゆく姿。昨日のあなたと今日のあなたは違うんだ。
昨日どんなに悪いことをしようと、昨日のあなたは昨日のあなた。今日のあなたは今日の
あなた。昨日までのあなたはみんな消えてゆく姿で、あなたは神さまの子なんです」とこ
う答える。すると「先生、有難うございます」で赦されちゃう。
そうすると昨日までどんな悪いことをしても、どんな間違った行ないをしていても、今
日「五井先生」と来た場合、「ああそれは昨日までは消えてゆく姿、あなたは今日が始まり
41自由解脱するために
なんだ、あなたは神さまの子でもって、あなたはちっとも悪いことをしてないんだ、悪い
ことは業が消えてゆく姿なんだよ。あなたは今日から本当のいのちを生きなさい。守護霊
さん守護神さんに感謝をし、世界平和の祈りをしなさいL と云うと、その人は赦されて
「有難うございます」と云う。消えてゆく姿なんだから赦されるんです。
人間の世界ではとがめることは何にもないんですよ。自分をとがめることもないかわり
ひと
に、他人をとがめることもないんです。ところが宗教をやったり修養をやった人に限って、
とがめてとがめて、とがめっぱなしなんです。他人のことばかりとがめて、自分のことは
ちっともとがめない。「自分は神の子だ。自分は仏の子だ、自分は一つも悪くない」って。
みんな他人が悪くて、自分はちっとも悪くない。そういうことはないですね。他人の悪い
ものが映ってくるのは、自分の業も消えてゆく姿なんです。
ひと
ということは、もっと深く言えば、自分も他人もないんです。自分というものも他人と
いうものも、これは一つなんです。同じ神さまの命をお互いに分けられているんです。だ
から元をただすと、みんな一つのいのちなんだから、他人が悪いことをした場合には、や
42
はり自分もその一部を負うんです。たとえば戦争なら戦争があったりした場合には、二十
何億全部の共同責任なんです。いいですか、その業の世界においては共同責任です。本心
の世界では誰も悪くないです。
それですから、本心というものと業想念というものをはっきり分けなきゃいけない。そ
れで、いつも自分は、どんな想いが出て来ても他人がどんなことをしても、それはみんな
業の消えてゆく姿であって、自分の中の本当の自分も、向こうの本当のその人も、みんな
悪いんじゃないんだ。みんな消えてゆく姿なんだ。ということから、本当の世界平和が出
来るんです。
相手をとがめながら、お前の教えは悪い、わしの教えだけがいい、お前の教えはだめだ、
わしの教えがいい、と云って相手ばかり押えつけていたらば、それは相対的でしょ。神さ
まが上から「お前の教えは消えてゆく姿だ、それは業の教えだ」と云うのならいいですよ。
ところが相対的に見て、お前が悪い、お前が悪い、とやっていたら、これは喧嘩になりま
す。だから今迄の宗教というのは喧嘩になっている。自分というものが天にあるんじゃな
43自由解脱するために
くて、地にあるからなんです。相対的に向かい合ってやっているからです。ところが私の
は向こうで消えてゆく姿をやっているんです。
「ああみんな消えてゆく姿でしょ」と言っているんです。だから何か理論をふっかけて来
ても、「ああそうなんですか、あなたのはそうなんですか。私のはみんな消えてゆく姿なん
です。あなたのおっしゃることもみんな消えてゆく姿なんですよ」とやるんですから喧嘩
になりゃしないですよ。わからないやつはどうかしているんです。
そのままで神さまの中へ入れ!
消えていかないものなんかありやしない。目で見、耳で聞き、全て消えていかないもの
なんかないでしょ。みんな消えてゆく姿なんです。本当の意味の消えてゆく姿は、もっと
もっと深い消えてゆく姿なんです。すべてこの肉体界に現われているものも、幽体に現わ
れているものも、霊体に現われているものも、みんな消えてゆく姿で、あるものは神さま
の光だけ、神さまの人間だけしかないんだ、というわけです。
44
要するに、神さまそのものがいろいろに現われて生きているんです。神道というのはそ
ヤオヨロズ
こが素晴らしいんですよ。神道は八百万の神でしょ。神代というのはみんな神の子なんで
ミコトヒメ
す。みんなヒメでありミコトなんです。何々の命、何々の媛でしょ。ヒメというのは霊の
女です。ヒメのヒというのは霊です。ピコというのは霊の男のことをいうんです。それで
ピコ、ヒメというんです。
日本の昔の人は偉かった。みんな神の子だということを、ちゃんと知っていたんです。
知っていて神の子の行ないをしていた。その頃、高天原というのがあったのです。高天原
というのは神の世界です。神の世界そのまま現実世界で生活していたんです。その頃の道
が神道なんです。その神道がそのまま現われてくればいいんだけれども、そこに業想念の
いろいろな哲学などが入ったりして、神さまの日本の、本当の姿が今現われてないんです。
日本の姿が現われてなくて、外国の間違った文化が入ってきて、精神的に乱れちゃったん
です。分析する学問がはやってしまった。分析して分析して切りきざんで、わざと悪いも
のを掴み出すというようになった。
45自由解脱するために
仏教もその一つなんですよ。小乗仏教的なものは悪いものを掴み出したんです。ところ
がお釈迦さまは、あとで法華経や般若心経などをちゃんと説いて「消えてゆく姿」をやっ
ているんです。ところが人を責めるような、因縁因果をつかむようなものばかりが入って
来てしまったわけです。
神道というものはそんなものじゃない。神道というものは、人間はみんな神の子であっ
て、他のものは全部消えてゆく姿なんだ、消えてゆく姿なんだ、というのが根本なのです。
だから私の説いているのは浄土門的、法華経的神道なんです。浄土門的に説きながら、法
華経の真髄を説いて、神道を説いているのですよ。仏教を深くやった人ならすぐわかる。
「人間は神の子なんだ、神の分霊なんだ、業生じゃないんだ、業想念、カルマの子じゃな
いんだ。カルマのように見えるものはみんな消えてゆく姿なんだ。喜怒哀楽はみんな消え
てゆく姿なんだ。だから、消えてゆく姿だと思って、どんなことが出て来てもそのままか
まわず神さまの中に入りなさい」と云っている。
怒りを消して、嫉みを消して、それで神さまの中に入れ、じゃだめなんですよ。似てい
46
るけれどそうじゃない。妬みが出たら妬みを消しながら神さまの中へ入りなさい。怒りが
出て来たら怒りを消しながら守護霊守護神さんの中へ入りなさいーではないんです。こ
れでは出来ません。間違えないで下さい。
怒りがあったら怒りのままで、妬みの心があったら妬みのままで、不安の心があったら
不安の想いのままで、そのままで、自分を否定したなら自分を否定した想いのままで、か
まわず想いを持ったまま、大光明の中へ入ってしまうんですよ。「守護霊さん守護神さ
ん!」「五井先生!」とやると、ピューッとそのまま入ってしまうんです。そうすると自分
で消さなくたって、そんなもん向こうから見ればわけないんだから、光でヒューッと消し
ちゃうんです。だから想いを持ったままで入らなきゃだめです。
法然や親轡…は偉かった。法然や親轡…はそうやって教えたのです。持ったままで、罫醸灘
らゆうあみだ
重の凡夫のままでかまわないから、阿弥陀さまの中へ入っちゃうんですよ。そのままでか
まわないから世界平和の中へ入っちゃうんです。初めは出来ないような気がするけども、
へ
だんだんだんだんやっているうちに、知らない間に業が減って来ますから。そうすると世
47自由解脱するために
界平和そのものがこの中で鳴りひびいてしまう。神さま仏さまがそのままこの中で鳴りひ
びくようになるんです。
くり返して云います。
妬みがあったら妬み心を消してから入るんじゃない。哀しみの心があったら哀しみの心
を消してから入るんじゃない。恐怖があったら恐怖の心を消してから入るんでは入れやし
ない。恐怖があったらあったまま、妬み心があったらあったまま、自己否定の心があった
らあったまま、その業想念を持ったままで、神さまの中へ入ってゆく。
〃迷い心迷えるままにまずなさめ世界平和の神の祈りごと
“
だから迷ったままでいいから、神さま! と入ってゆくんですよ。お風呂に入るのと同
じですよ。お風呂に入ってから洗いますね。外でスッカリ汚れを落して、体をふいて、そ
れから入る人もあるけれど、まずお風呂に入っちゃうんです。まず世界平和の中へ入っち
ゃう。汚れたままでよござんす。妬みのままでよござんす。そうやらなきゃだめですね。
これが私の教えているところなのです。4g
それを間違えて「あなたの信仰が足りないからいけないのだ。あなたが信じなきゃいけ
ない」とやるんです。「あなたが信じないからその病気は直らないんです」「あなたが五井
先生! と思わないから直らないんですよ」とやるんですね。それは間違いなんです。や
りたいところでしょ。ちょっと間違えて、「あなたが信じさえすればいいんですよ」「あな
たが五井先生! といえば助かるんです。云わないからいけないんです」と云うんですが、
それはだめなんです。
説く人の人格がきめて
鳴かせてみようホトトギス、じゃないけれど「五井先生!」と云わないような想いの人
に、自然に「五井先生!」と云わせるようにしなければだめです。それにはどうしたらい
いかというと、その人の人格です。云う人の人格がうつってきて「あの人の態度をみたり、
あの人の純心な信仰を見たら、私もそこへいってみたい」とか「あの人はやさしい、やわ
らかい、なんていい人だろう。あの人の行っている先生なら行きましょう」とかいうよう
49自由解脱するために
になる。そうでなくて「先生は本当にいいのかしら悪いのかしら。直るかしら直らないの
かしら」と云っているのを「それはあなたが信じないからよ」と引っぱってきちゃだめな
んです。それは強制だから。それは私の教えと違うんです。「五井先生を信じさえすりゃい
いの」なんて、引っぱっては来られますよ、だけど反感を持っちゃいます。自由を縛られ
るから。信じるようにさせなければ。
信じるようにさせるにはどうしたらいいかというと、五井先生と人との間に立って、愛
に満ちた態度で「あ㌧そう、つらいわね。大変ね、そんなにつらいの」と聞いてやるんで
す。誰でも何か打ち明けたいんだから。愚痴を聞いてもらいたくてしようがない人はたく
さんいるんだからね。ああこの人いい人だと思うでしょ。聞いてあげると、この人が好き
になっちゃう。それで「では私と一緒に五井先生の所へ行きましょう」と云うと行くんで
すよ。私の所へ来ればもうしめたもんなんです。
まず自分が見本にならなくて、いくら言葉だけで「愛ですよ。すべては愛なんです。神
は愛なんです。信じなさい!」なんて云ったって、愛じゃなくて、向こうはあいそ尽かし50
ちゃいますよ(笑)。愛が強制であるべきはずがない。愛が人の心を縛るわけがない。人の
自由を縛るのは愛じゃない。強制です。いかなるいい教えでも、人の自由を縛っちゃいけ
ない。縛ったものはだめ、縛った時はだめになる。これは相当できた人でもついやるんで
すよ。一生懸命になるからね。「先生の所へ行きや助かるのに、先生を思えば助かるのに」
と思うでしょ。実際みんな助かっているんだから、助かるにちがいない。そりゃそうでし
ょ。業想念が光の中に入って消えちゃうんだから。それを頭ごなしにやらないで、自分の
人格を中継ぎにしてやるように、みんなやれば、この世の中は世界平和になりますよ。そ
れを私は望むんです。
くどいようですけど、もう=遍云います。ここは大事なところだから。
「あなたの信仰が薄いから、あなたの病気が直らない。五井先生の想い方が足りないから、
あなたの病気が直らない」というのはだめなんです。いいですね。私はそれが大嫌いなん
です。それをやったら私の教えが全部こわれちゃうんです。
信じられない時には信じられない時間があるんです。業想念がグルグルグルグル回って
51自由解脱するために
いるんだからね。その回っている業想念の中にいるんだから、押し上げてくる力にはかな
わないのです。行こうとすると押され、行こうとすると押されて、なかなか行けないんで
す。行けないのにやると、責めることだからこれは業想念です。だから折角出て来たのが
ひっこんじゃいますよ。そのまま出させとけばいいんです。「五井先生はだめなんだ」と云
ったら、だめだっていいよ。そのまんま聞いていたっていいんですよ。そんなの消えてゆ
く姿と思えばいいんです。そうすると早く消えちゃいます。
それより「あの人の業想念が一日も早く消えて、五井先生につながりますように」と
「天命が完うされますように、世界人類が平和でありますように」とやっていればいいん
です。そうすると業を追い出しているようなもんです。言葉でもって業が出ようとすると
ころを「信仰が足らないからだ、五井先生を思わないからだ」とやると、奥へ押しこんで
しまうことになる。素直に出て行こうとするのを押えるから、つまっちゃうんです。そう
すると胃腸をこわしたり、腸カタルになると同じように、それは一番下手なやり方なんで
す。一番よさそうで下手なやり方なんです。
52
出るものは出させるんですよ。出しながら「早く出て消えますように、本当に天命が完
うされますように」と追い出してやるんです。そうするとどんどんどんどん回って出て行
くんです。出てしまうと、初めて「先生!」と深く思えたり、世界平和が深く思えたりす
るんです。そういうもんなんですよ。それを私がいつも云うんですよ。
自分の人格を中間に入れて、五井先生というのと自分の人格を一つにして、それで引っ
ぱってゆく。世界平和の中へ自分が入っていって、自分の人格を土台にして、エレベータ
ーにして、エスカレーターにして引っぱってゆく。そういうようにしなきゃだめです。
それは妻の場合でも、夫の場合でも、あるいは近所の人の場合でも、同信者の場合でも
同じことです。決して強制してはならない。良い神さまになればなるほど、強制しないん
です。強制するものがあったら、どんな宗教でもそれはだめだ、と思っていいです。人を
いじめ、人の心を傷つけるんだから。人の心を痛めちゃいけません。それを私はいつもい
つも云うんです。
53自由解脱するために
死んだ後の世界は保証されている
人間というのは、この身体がここにいますが、実は宇宙大にひろいんです。自分の中が
宇宙なんです。だから自分の心の中を奥へ奥へと入ってゆくと、宇宙一杯にひろがるんで
す。実感としてわからないだろうけれど。形がこういう束縛されている形ではないんです。
この中は宇宙なんです。そして一人一人が菩薩さまなんです。本当は菩薩なのに、ああ
じゃない、こうじゃないという自分の想いが菩薩さまの本体を隠しちゃって、凡夫になっ
ているんですよ。
凡夫というのは、ああじゃないこうじゃないと思い惑う思慮分別というものが凡夫なの
です。それがなかなか取れないんだ。ところが初めっから悟っているんです。悟っていて
菩薩さまなんです。如来さまの所にいるんです。だけれどそれがわからないでしょ。村田
正雄さんみたいに(村田さんは前生から私と一緒に修行している人ですが) 今生では本当
にはっきりわかってきたわけです。(註2)「私の霊界通信」の著者。54
あなた方がたとえば死にますね、すると自分の世界がちゃんとあるんです。その世界で
}番高い所が菩薩様の世界です。如来様と一緒にいた世界で、神の子の世界ですね。そこ
に行けるんです。誰でも行けるんです。けれども普通は行けないんですよ。自分の本当の
姿なんだから、誰でも帰れるんです。けれど帰れない。
どうして誰でも行けるのに、普通は行けないのか。何故か。それは自分はだめだ、と思
っているからです。自分なんか自分なんか、なんかなんかと思っているからなかなか行か
れない。そこで私がここへ来て、
「もうあなた方はそこ(神の子の世界) にいるんだから、世界平和の祈りをしていれば、
業があるままでかまわないんだから、喜怒哀楽があるままでも世界平和の祈りさえしてい
れば、ちゃんと菩薩様の本体の所に帰れるんだよ」とやさしく教えているんですよ。です
から、みんな世界平和の祈りと五井先生さえ思っていればいいんです。そうすれば死んだ
世界では必ずいいところへ行きます。私、保証しますから。
だからいつも言うでしょう。「保証しているんだから、もし死んで、行かなかったら、私
55自由解脱するために
ば
のところへ化けて出なさいよL と(笑)。うちにはお年寄りがたくさんいるんだから、もし
死んで”先生はそんなこと言ったけど、私は一生懸命世界平和の祈りをやったけど、いい
ば
所へ行かなかった” という人があったら、化けて出て来なさい。首絞めてもいい。なんで
もいいから持ってらして下さい。私はそれを引き受けているんだから。
その代わり、世界平和の祈りをやってくれなきゃ困りますよ。五井先生を呼ばなきゃ知
らないよ。呼んだ場合に「ああ呼び方が少ないからいけない」なんて云わないです。ちょ
っとでも呼んだらいいです。必ず行きます。呼び方が少なかったから… … なんていう言い
訳は絶対にしません。行くというのは当たり前なんで、向こうにいるんだから。本住の地
はそこなんだから。行くも行かないもなく、いるんです。行くも行かないもないんです。
余計な想いさえなければ、神さまがすっと現われてくる。
私などはよけいなことを思わないから、こうなったんです。よけいなことを思わないか
ら、自分の本体の中へそのまま入っていて、そのまま本体は働いているでしょう。何にも
持っちゃいない。いいも悪いもない。そのまま動いているんです。それを自然法爾という
5 6
んです。無凝自在。そのまま動いている。ふつうは誰でもいいとか悪いとか思います。思
ったら思ったでいいんです。いけないことだったらやらなきゃいいんだから。いけない、
と思ったら二度とやらなきゃいいでしょう。いけない、いけないと云って又やっているん
だから、それはなおいけない。いけない、と思ったら「ああそれも消えてゆく姿だ、もう
再びやるまい、神さま、世界人類が平和でありますように」とやればいいんです。
パッと転換する
〃あやまちを悔ゆるはよけれ悔いのみに生くるいのちは愚かしきもの
“
あやま
という歌がありますが、過ちにしても、それをいつまでもいつまでもゴチャゴチャ云っ
ていないで、やっちゃったら「ああいけない!」もう二度と再びしまい、世界人類が平和
でありますように、と世界平和の祈りの中、五井先生の中に入ってゆくと、業が消える。
そうすると、その時は本体の中に入っているんです。「神さま!」と思う時には、自分の本
体の中へ入っているんです。「五井先生!」と思う時には、如来さまの中へ入っているんで
57自由解脱するために
す。だからむずかしいことじゃないんです。やさしいことなんですよ。
それが癖があって、なんだか反省しなきゃいけない、というんですね。しかし反省をし
たときにはパッと変わるんです。パッと転換するんです。それを私は教えているのです。
それが消えてゆく姿なんです。
パッパッと転換することを教えているのが消えてゆく姿なんですよ。いつまでもいつま
でもしつこく「私が悪い、私が悪い」とやってるのはいけないんです。それは業の中に入
っている。「私が悪い、私が悪い」といつまでもいっている時は、神さまから離れている時
なんですよ。「私が悪い」と思ったら、・思った瞬間にはもういい方に入っている。「ああい
けないことをしたなア」という時には、もういい所へ入っている。
反省した時にはもう神さまの中に入っているんだから、こっち(いけない、いけないと
思うこと) はいらないんです。こっちは消えてゆく姿なんだから、「神さま!」とやればい
いのに、二度も三度、八度も九度もいつまでも一年も三年も、死ぬまで一生思っている。
「あの時にこういうことをしたから… … 」そんなこともうしようがないじゃないですか。
、
5 8
それはみんな消えてゆく姿なんです。
ということを村田さんは神さまに絵画的にみせられるんです。目で見ると本当に実感が
こもるんです。みんなに見せてやりたいけれど、まだ見せられないですね。見なくても胸
でパッとわかればそれで結構です。皆さんに一番本当に知ってもらいたいことは、皆さん
はこのままでもって菩薩さまだということです。地に想いが来ている。ところが人間側が
まだ地の中にもぐっていて、顔を出さないんです。今、世界平和の祈りをすればいいな、
とわかって来て、だんだん顔を出してゆく。世界平和をそのままやっていると、天と一つ
になってくる。世界平和の祈りをしている時は、天に入っている。あのヤロウこのヤロウ
と思うと地下に入ってしまう。年中それをやっている。
〃あのヤロウ、このヤロウ
” のほうは消えてゆく姿、自分はだめだ、と思えば消えてゆく
姿にしていけば、神さまの中に入っているでしょ。だから、いつでも祈りをしろ、という
のはそこなんですよ。
祈りというのは坐ってやらなくてもいいんです。黙っていつでも心の中で祈っていれば
ラg自由解脱するために
いい。この道場から帰る時も、電車に乗っている間、世界平和の祈りをやっていればいい
んですから。それをいちいち「世界人類が、世界人類が」と言葉で云うと面倒くさくなっ
ちゃうでしょ。またそれに捉われるから。
「世界人類が平和で… … 」といちいち云わなくてもいい。いっぺん云ったらそのままその
中へ入っていればいい。「世界人類が平和でありますように、日本が平和でありますように、
私たちの天命が完うされますように、守護霊さん守護神さん有難うございます」と云った
らば、そのままあとはスーッとその中に入ってればいいんです。それでまた変なものが出
て来たら「世界人類が… … 」をやればいいんです。それを「世界人類が平和でありますよ
うに、世界人類が平和でありますように」なんていつまでもいつまでも云っていると、心
がくたびれちゃうでしょ。そういうやり方をするんじゃないんですよ。それは把われなん
です。いっぺん云ったら想いがそこへ入るんだから、あとはジイッとしていればいいんで
す。そのまま寝ちゃったっていい。鼻たらしてたってかまわない。想いがそこへ入ってる
んだから。そういうことを教えているんです。60
五井先生! と云えばいいんです。
ると、中でちゃんとやってますから、
ことになるのです。
そして電車の中でそのまま寝ちゃえばいい。そうす
その時には菩薩さまになっているんです。そういう
(昭和3 年9月25 日のお話)
61自由解脱するために
6z
神さまをひたすら思うこと
神さまの目から見た肉体人間
さつきK さんが面白い話をしましたネ。子供が泣いたり、すねたりする場合、言葉で小
言をいったり、なだめたりしてもだめなんですね。神さまを想いながら抱いてやる。それ
な
で頭でも撫でてると、みんなニコニコニコニコしてしまう、ということです。子供にはお
おとな
説教なんか一切無用ですね。子供ばかりではありません。皆さん方大人でも、子供と大し
て違いやしないんだ(笑)。ちょつと年令が古くなっただけの子供なんですよ(笑)。神さ
まの目から見れば、みんな孫や子供で、みんな偉そうな顔をしてるけどさ(笑)。皆さんは
おとな
偉そうな顔を一つもしてないんだけども、大体四十になり五十になると、いかにも大人に
なって(現象的にはですよ) 子供を叱ったり、孫をたしなめたりするんだけれども、実を
いうと、自分だって大したこと出来ないんですよ。だけども大人になったような気がして
いるだけなんです。
神さまの目から見ると、みんな幼稚園の園児であり、小学校の児童なんです。何故かと
けいりんほんとう
いうと、大きな神様の経編というか、神さまの真実の姿の中からみると、この肉体世界に
生まれている人間というのは、何も知らないと云っていいくらいなんです。それが宗教に
入って、
「人間というものは肉体だけじゃなかったんだ。この五十年六十年七十年という肉体の世
界は、ほんの僅かであって、幽界もあれば霊界もあれば、神界もあれば、長い長い永遠の
生命をこの一瞬の肉体界に生きているんだ」
こういうようにだんだんわかってくるんです。わかってくる人は、学校も大分上の学校
へ行っているわけなんです。全然わからない人が随分いるわけです。皆さん方のように年
63神さまをひたすら思うこと
中話を聞いていますと、だんだんわかってくる。
なん
K さんではないけれど、何にもわからないで、がむしゃらに仕事を始めたんだけれども、
何にもわからないでやっているうちは苦しいんですね。ところが原理がわかってきて、自
分のやる仕事は自分の肉体がやるんじゃなくて、肉体の奥にある自分の魂、自分の霊そう
いうものからくる力でやる。云いかえれば、守護霊、守護神さんがうしろにいて、神さま
がうしろにいてやらせてくれるんだ、という形になってしまったわけです。だから子供が
なげ
嘆いても、子供がわめいても、経営の方法でも、なんでもかでもすべて神さまにお任せし
て「五井先生!」と皆さんが使っている神さまの代名詞を使って、「五井先生!」と云って
五井先生の中へ入ってしまう。すると、五井先生というのは神さまのことですから、神さ
まの中に入ってしまう。
これ説明するのに、自分のことを云うんで、非常にむずかしいんだけれども、「五井先
生!」と呼んで肉体の五井先生を頼んで、大宮だの千葉県の奥だの、静岡だのに来てくれ
るかしら、とよく思いますね。九州だの北海道だのとたくさんありますが、「五井先生!」
64
と呼んだら肉体の五井先生が行けるかと云ったら、そんなことは出来ませんよね。出来ま
せんけれど、五井先生は呼べば呼ぶ所に行くんです。どこへでも行くんです。北海道と九
州と四国と、どっからでも一ぺんに呼んだって、一ぺんにそこへ行くんです。何が行くか
というと、五井先生という肉体に入って働いている神様の光が、パーッと向こうへ走って
ゆく。もっといいかえれば、自分の中にある神さまの光が外へ出てゆくということです。
同じことなんです。
元は一つ
人間というものは、二十何億の人間に分かれているけれども、本当は神一元で、一つの
宇宙神の中にあるんです。それが細かく分かれて二十何億になっているだけなんです。そ
わけみたまらよくれいなおひ
れを分霊というんです。その中心が直霊ー直毘といいます。それが分かれ分かれてみ
んなの中へ入っているんで、元をただせば一つなんです。その原理がわかってくると、「五
井先生!」というと、どこへなりとも行くということがわかるんです。「五井先生!」と思
65神さまをひたすら思うこと
えば、五井先生はそこにいるに決まっているんです。
五井先生という肉体を考えますと、肉体は一応、因縁性で現われています。五井昌久と
いって、お母さんから生まれてきているものがいます。その五井昌久という肉体は、要す
うつわ
るに、五井先生と称する神さまの使っている器なんです。
たとえば、イエス・キリストという人がいました。イエスという人はやはり肉体でしょ。
ゴータマ・シッダールタという人がいました。ゴータマという人は肉体でしょ。肉体のゴ
ータマさん、肉体のイエスさん、そういう肉体の人は器なんです。器がからっぼになって、
自分の想いがすっかりなくなると、神さまの働きそのものが出来てくるわけなんです。だ
が
から、人間の中で一番立派な人というのはどういう人かというと、自分の我というもの、
自分の業想念自分のこうしたい、ああしたいという想いがなくなった人で、全部
なくなった人が一番偉いわけなんです。業想念がなくなるに従って偉いわけなんですね。
頭の中にたまっている知恵、知識なんていうものは問題にならない。この世を生きてゆ
くのに知識も大事は大事ですよ。ガス栓のひねり方もわからないというんでは困るんです
66
よ。包丁による刻み方だってやっぱり知識から出た修練ですね。そういうことも必要だけ
もと
れども、一番大事なことは何かというと、根源の光、神さまの光を自分の中で一〇〇パー
ほとけぼさつあらかん
セント出せるようになれば、その人は仏とか、菩薩とか、阿羅漢となるわけです。
げだつ
阿羅漢というのは、仏教の言葉で、要するに悟った人、解脱した人をいうのです。解脱
というのはどういうことかというと”解く” “脱する” という字で表現しているように、肉
ア
体の業想念、欲望、肉体の縛りからすべて離れた人ということです。「阿難」の最後で、阿
ナン
難がやっと解脱して立派になります。解脱するとまるっきり変わっちゃうんです。自分の
知識で、こうしようああしよう、こうしなきゃいけない、ああしなきゃいけない、といつ
も思っている。そういう想いから離れますと、本当の力が出てくるんです。
前の世からのつながり
この肉体の五井昌久という人は、前の世でも生まれていた。その前の世でも生まれてい
こんじょう
た。何べんも何べんも生まれ変わってきて、いろんな修練をした人なんです。それが今生
67神さまをひたすら思うこと
でもって、いわゆる解脱しまして、自分の想いが何もなくなってしまって、神さまの器そ
のままになっちゃったわけです。こうやって集まってくる皆さんは、前の世も、その前の
世も、またその前の世も、前の前の世も、私が生まれ変わってきたその間に、必ず知り合
っている人なんですね。それは数が非常に多いんです。私に教わった人もたくさんいます。
私の親戚だった人もあるでしょう。近所の人もあるでしょう。いろんな人がこうやって集
まって来て、「こんにちは」「こんばんは」とやっている。ですから初めて会って「こんに
ちは」といった途端に、とっても五井先生がなつかしくて、好きだという場合もある。
「こんにちは」と云った途端に泣く人もずいぶんあります。一日に三人か五人に泣かれま
す。だからいつも手拭いを二本持って、一本は来た人の涙をふく手拭い、一本は私の汗を
ふく手拭いと分けているんです(笑)。親切でしょ(笑)。ちゃんと泣いたあとの顔を直さ
せようと思って、小ちゃい鏡まで持っていて「そら泣いたでしょ、これ見て直して行きな
さい」と用意周到にしてあるんです。
何故ここへ来て泣いてしまったり、嬉しくなったりするか、というと、前の世で私が坊
68
さんでいたとする。その時にお弟子になっていた。今生に生まれてまためぐり会った、と
かいろいろあります。そういう人たちが会うと「先生!」と心から思うんです。これはも
う理屈じゃない。理屈で「どうして私は先生が好きなんだろう」と云ったって、これはし
ょうがないですね。それは前の世で親しかったもんで、魂がワァーッと好きになるんです。
それがうっかり前科十犯か二十犯か、まだつかまらないで逃走中なんていう人と因縁が
合ったりして、それで一緒になって追っかけられたりすることがある。よく新聞で情婦な
んて出て来たりする。そういう場合もあるわけですね。しかしそれさえもみんな因縁で消
えてゆく姿なんです。この世の現われというのは、みんな過去世の因縁の現われては消え
てゆく姿なんです。
この世でやっている日常生活は、前の世のことが今、現われているんです。前の世でや
ったことのつづきが現われて、今消えてゆくところなのです。ところが本当の人間という
のは、その消えてゆく姿の奥にあるものなんです。みんな兄弟姉妹なんだ、みんな同じ一
つのいのちなんだ。その一つのいのちが結ばれて、円になって宇宙神になっているんです。
69神さまをひたすら思うこと
その宇宙神が分かれ分かれて一つの霊魂になり、また分かれて霊魂になり、この現象の世
界では霊界、幽界、肉体界という三段階に分かれて、生活しているわけですね。
だから皆さんと私は、あるいはお隣りとお隣りは、みんなここにいる人たちは一つのい
のちで、一つのいのちが分かれ分かれになって、兄弟姉妹になったり、友だちになったり、
知り合いになったり、親子になったり、夫婦になったり、また、他人のように見えていて
も、すべて一つのいのちがつながっているのです。その一つのいのちが分かれ分かれにな
って、役目を果たしてゆく。そして神さまの本当の姿をこの世に現わそうと、神さまはな
さっているわけです。
70
いい悪いではなく過去世の業の消えてゆく姿
われわれの中に、分霊として働かしている、そして外には守護霊守護神として守ってい
る。そうやって、内と外で守って働いているわけなのです。だから人間というものは、分
霊の自分だけで働いているんじゃないですよ。一人の人間が動いている場合には、守護霊
守護神が援助しているわけです。少なくとも四つの光が一緒になって働いているのです。
一人の分霊がいます。正守護霊がここ(頭の上) にいます。副守護霊が二体ここに(両
肩あたり) に必ずいるんです。その正守護霊の上に守護神がいるんです。四つの光が必ず
守っている。そして中のものを動かしているんです。それが一つの人間なんです。
それがわからないで、たいがいの場合、自分でやろうとする。自分の頭でやろう、自分
の知識でやろう、自分で解決しようとこう思うんですね。しかしうまくいかなく悩むので
すね。
よく自分が悪いとか人が悪いとか、ああだこうだと云うけれど、それは自分が悪いんで
も、人が悪いんでも、なんでもなくて、前生の因縁がそこに現われてきて、いろいろなこ
とになっているのです。恋愛事件でもそうだし、知り合いになってお金を貸して、それで
損をしちゃうこともそうだし、商売でつっかえることもそうだし、だまされることもそう
です。みんな過去世の因縁がそこに現われて決算しているのです。前生の借金をみんな返
えしてゆくわけです。
71神さまをひたすら思うこと
たとえば前生で結婚は出来なかった、という人がありますね。結婚が出来なくて「ああ
あの人と結婚したいしたい」と思って死にますね。その人が今生に生まれてきて、やっぱ
りあの人と結婚出来ず、そしてA という人と結婚しちゃったとします。ある時、その前生
のあの人とパッとどこかで会うんです。すると無性にこの前生の人のところへいきたくな
ったり、もらいたくなったりするんです。すでに結婚しているのに、結婚している夫や妻
以上にあの人が好きになったりして、それでいろんな痴情事件というのが起きます。しか
しそれはその人が悪いわけでも、向こうが悪いわけでもない。夫が悪いわけでも、妻が悪
いわけでもないんです。
ところがふつうの宗教ですと、夫が浮気をしたとします。すると「奥さんのサービスが
悪い、それは奥さんが旦那さんにやさしくしないからだめなんです。あなたの心の影です
よ」とこうくるわけです。「あなたが悪いから旦那さんが浮気をする」と云うんですね。し
かし、奥さんがとても立派で立派で、旦那さんに仕えて仕えて仕えていても、それでもな
おかつ浮気する旦那さんもいるんですよ。もし「奥さんのサービスが悪くて、奥さんが大72
事にしないから、いろいろ遊んだりするんだL というならば、奥さんが旦那さんをもっと
もっとひどい目に会わせていても、浮気もしないで、真面目に奥さんに仕えている人もた
くさんいます。「それはどういうことなんだ」と云うことになりますよ。
今生のその人だけのやり方が悪いんじゃなくて、過去世からの因縁があって、たまたま
夫以外に、前の世で知り合った人が現われてくる。そうすると、向こうにもサービスしな
きゃ悪いような気が、潜在意識的にあるんですね。それでいろいろと事件が起こるんです
よ。だけどその事件そのものは、やっぱり消えてゆく姿なんです。
業を消してくれるのは誰か
うちの教えの一番の特長は”消えてゆく姿” という真理を徹頭徹尾やっていることなん
です。消えてゆく姿をはたから応援して、どんどん業を消してくれるのは何かというと、
守護霊と守護神なのです。自分が消すわけじゃない。自分が消そうとすると、それが我に
なりまして、自力になるんです。自力になるから苦しくなっちゃう。「私はこんなに消そう
73神さまをひたすら思うこと
消そうと思っているのに、いつまでたっても消えないL とかね。それは自分が消すんじゃ
ないんです。自然に消えてゆくんです。ということは、守護霊、守護神が消してくれてい,
ることなんです。神さまが消してくれている。
だからどんな間違ったことが起きても、例えば旦那さんがどんな間違いを起こしても、
奥さんがどんな間違いを起こしても、子供がどんな不良になっても、それはその子供が悪
いとか、旦那や奥さんが悪いとか、親が悪いとかなんとか云うんじゃなくて、過去世の因
縁がみんな消えてゆく姿なんです。わかりますね。
それがわからないと、お前が悪い、あいつが悪いと、この世の中は責めっこになります
よ。お前が悪い、あいつが悪い、こいつが悪い、と云っている間は、宗教というものは成
り立たないんです。少しでも人を責める心があったら、成り立たないんですよ。ところが
宗教家というものは、責めることが専門みたいになっている。「お前の心が悪い」「お前の
やり方が悪い」修養団体なんか特にそうですよ。「お前さんがそういう心を持たないから、
夫が悪くなる」「子供が悪くなる」と言うんですね。74
しかしそういう心を持とうと思っても持てない場合がたくさんありますね。心というも
のはそんな自由になるものじゃない。「相手を嫌いになれ」と云われたとします。「好きに
なっちゃいけない、嫌いになろう、嫌いになろう」と思うと、ますます好きになっちゃっ
たりする。そんなもんですよ。「酒を飲んではいけない」と云われると、よけいに飲みたく
なったりする。また「タバコを吸っちゃいけない」と云われると、よけいにタバコを吸い
たくなる。よほど意志力の強い人は別ですよ。意志力が本当に強い人は止められます。し
かしそういう人は少ないんですね。自分の意志力だけでやめられる人は非常にいい。しか
しなかなかそうはいかない。
悪い癖は忘れた時なおる
自分の悪い癖というものは、自分が認めて「いけない、いけない、いけない」と思いつ
づけていれば直るかというと、そうじゃない。それを忘れた時、直るんです。自分の悪い
癖というものを忘れた時に直ります。「酒飲んじゃいけない、いけない」と思っている時は、
75神さまをひたすら思うこと
酒を飲まないではいられない気がする。ところが酒飲むことがいいも悪いもなくて、それ
は消えてゆく姿と思っている、そして守護霊、守護神さんを一生懸命思っていると、自然
に消えちゃう場合がずいぶんあります。
だから私のところへ来て、タバコが吸いたくなくなった人もずいぶんあるし、酒飲みた
くなくなった人もずいぶんある。なぜ飲みたくなくなったかというと、守護霊さん守護神
さんが消してくれているんです。
そういうふうに、自分で消そうと思っても、なかなか消えるもんじゃない。自分でいけ
ない、いけないと思って、自分でやっているうちは苦しくて苦しくて、どうしていいかわ
からないように苦しかったんだけれども、私のところへ来て「ああそれはこれこれこうで
ことこと
すよ」と、ひと言かふた言ポンポンとやると、スーッと心が静まっていって、なんでもな
くなってしまう。なぜかというと、その人の業想念が、業を掴んでいる想いが「ああこう
好かれちゃ困るんだ、困るんだ。どうしよう、どうしよう」そういう想いが=遍で先生の
ほうに入ってしまうから、消えちゃうんです。76
自分の中で思っているゴタゴタしている想い、いいとか悪いとか、汚ないとかきれいだ
とか、好きだとか嫌いだとか、病気だとか、貧乏だとか、そういうつまらない想いは、な
んでもかんでも全部、神さまに投げ出しちゃうんですよ。「神さま! これみんな上げます
からどうぞ」と、差上げちゃうんですよ。そうすると神さまがいいようにしてくれるんで
す。
実際問題みんなそうなんですよ。食べ物でも好き嫌いがありますね。嫌いな昆布を食え
食え、と云われたって食べられないでしょ。嫌いな酸っぱいものを「これは栄養があるか
ら」と云われたって、なかなか食べられるものじゃないです。甘いものが嫌いな人に「こ
れはおいしい」と云って食べさせようとしても、なかなか食べられるものじゃないです。
なぜかというと、「嫌いだ」という想いを掴んでいるからなんです。掴んでいるからいつま
でたっても好きにならないですね。だから嫌いも好きもすべて神様に任せておいて、ごは
んを食べる場合に「神さま有難うございます」と世界平和の祈りをして、食べればいい。
そうすると、食べたほうがいいものは食べてきますし、食べて悪いものは食べなくなりま
77神さまをひたすら思うこと
す。
自分の適性をのばすには
そういうふうに自然にi 自然法爾と云いますが、ひとりでに動いて、ひとりでに生き
てゆく。そういう生き方をすることが要するに達人の生き方なんです。名人達人というの
はそういう生き方をしている。剣道やっても柔道やっても、野球をやってもそうなんです。
野球だってそうでしょ。練習していても、練習だけでうまくなるもんじゃない。素質とい
うものがある。
たとえば。プロ野球の巨人軍の長島選手がいる。彼は六大学の立教にいて、初めからうま
いんですね。長島と同じぐらい練習した人はたくさんあるだろう。もっと練習した人もあ
るかもしれない。しかし。フロ野球に入ってもやっぱり素晴らしく打って、一か二かなんて
評判になってますね。そのように備わったものがある。あの人は野球選手になったからい
すもう
いんですよ。相撲とりになったってしょうがない。自分の天命というのがあり、それにう
78
まく乗ったわけですね。それは運がいいということなんですよ。
そうすると、運がいいか悪いか、自分の天命がどこにあるか、自分の適性はどこにある
か、ということは自分じゃわからないんです。”へたの横好き” というものがあります。歌
謡曲で有名になると、我も我もといって、ジャズシンガーになったり、歌謡曲の歌い手に
なったりしようとして「三つの歌」かなんかに出てきて、聞いていられないようなのがあ
るけれども、自分じゃ結構うまいと思ってるんですね。それで歌手になろうとする。
よく私のところへも来るんですよ。「私、映画スターになりたいんです」見るとね、とて
もじゃないがいけません。スターどころか馬の足にもなれないんじゃないかと(笑) 思う
人が「先生、どうでしょう」って来るんです。私、にべもなく否定するとかわいそうです
から「そうだね、ちょつと惜しいね」、まるっきり惜しいんだけどさ(笑) 「まアそうだね
エ、なれるかも知れないけれど、なったら大変だよ、苦しいよ」というふうなことを云っ
て、だんだんだんだん止めさせるようにするわけです。
そういう例がたくさんあるんですよ。「歌手になりたい」と来るのもあれば、「うちの娘
79神さまをひたすら思うこと
をぜひピアニストにしたいんですL なんて連れて来るのもあります。ピアノはおろか、木
琴もうまくひけないんじゃないかと思うようなのもあるんです。そうかと思うと、ただ巧
みにピアノが弾けるというだけの人もあります。そういう人がステージに立って、聴衆を
魅了するわけにいかない。しかし親の目から見たり、当人の目から見たら上手か下手かが
うぬほ
わからないんだ。自惚れというのがありますからね。
ピアノは叩けば音が出る。ポンポンポンときれいにひける。するとそれでうまいと思っ
ひ
ちゃう。私はこうやって聞いてるんですが(霊的にきいているということ) その弾き方は
音楽家の弾き方じゃないわけです。ただ指がきれいに動いているだけなんですね。私のよ
うな目から見れば、或いは専門家が見れば、それはだめだと思う。一生懸命勉強しても勉
強しても、その人は演奏家にはなれないわけですね。そうすると、私はたくみに違う方向
に転向させていくんです。それがなかなかむずかしい。その人を痛めないようにしなきゃ
ならないでしょ。こういうみんながいる場で言ってる場合は、誰のことを言ってるかわか
りゃしませんからね。もっともこの中の人じゃないけれどもね(笑)。
80
大勢に話すのは気が楽です。本当のことが云えますからね。誰のことを云ってるんだか
わかりゃしないから、それで本当のことを云うこともあるんです。
適性というのは自分じゃわからないんですね。ではだれがわかるかと云うと、中にいる
自分の分霊だとか、うしろにいる守護霊守護神さんです。それがはっきりわかってるわけ
です。それを一生懸命教えているんです。「お前さんだめだよ。ピアニストになろうたって
こう
だめだよ」とか、「お前さん、声楽家になってもだめだよ」と教えてるんだけれども、業の
ほうが、やりたいやりたいと思うわけなんです。それでやれば失敗してしまう。
だから、いつでもやりたいものが業のほうから出ないで、守護霊さんのほうから出てく
るようにするにはどうしたらいいかというと、いつもいつも守護霊さんを思ってればいい
んです。「守護霊さん守護神さん、有難うございます」と、世界平和の祈りをするわけです。
世界平和の祈りの中には、短いけれどもやさしい言葉で、みんな入ってます。
「私どもの天命を完うせしめ給え、守護霊さん守護神さん、神さま有難うございます」と
まか
お祈りするんですから、その祈りがだんだん重なってゆくと、そのままお任せしたことにな
81神さまをひたすら思うこと
るんです。そうすると、知らないうちに神さまの光がそのまま入ってきて、こっちの自分
の肉体的な想いと、神さまの想いとが一つになって、そして天命を完うさせるんです。こ
れが一番楽なことなんです。
思慮分別と内催し
お釈迦さまの教えの中には、思慮したり分別したりすることはだめだ、・とあるんです。
ところがこの世の考え方からすれば、思慮分別しなきゃだめじゃないですか、思慮分別し
なくてどうしてこの世の中を渡っていけますか、と云う。実際問題としては、何も考えな
いで、この世を渡ってゆく人はないんです。おかず一っ買うんだって考えちゃう。今日は
ます
鮭にしようか、鱒にしようか、それとも目刺しにしとこうか、面倒くさいタラにしよう、
なんてね(笑)考えるでしょ。考えなければ出来ないように出来ている。
だからこそ、反対にそういう考えは、消えてゆく姿なんだから、神さまにみんな任せな
さい、と云う。「任せなさい」と云われて全部任せきれる人は素晴らしいんだけれども、な
8z
かなか出来やしないですね。それで任せきる気持ちになって、この世とあの世、あの世と
いうのは神さまの世界のことですが丁度うまくいくんですよ。
実際問題としてものを思わないで歩いたり、生きたりすることは出来ませんね。特殊な
霊的な人は出来ます。しかし当たり前の人は何も思わないで、道を歩くわけにはいかない
ですね。ここにいるS さんじゃないけれど、何も思わない’でスーッと行っちゃったり、道
も聞かないで目的地に着いたりすることもあるけれども、そういう霊的な人は特別として、
ふつうの人は一々ものを考えて、たとえば「ここまでは十円区間内だけど、ここからは二
十円だから、ここで降りて一駅歩こう」なんてね(笑) さもしい考えでもって、大体やっ
てるでしょ。人間というのはそういう風に考えちゃうね。この世では考えるように出来て
いるんです。
ところが教えというのは逆に「考えることはいらないんだ、そういうものは消えてゆく
うらもよお
姿なんだから、すべて守護霊守護神さんに任せておいて、内催し、中から催してくる想い
通りに動きなさい」と教えますでしょ。本当に徹しますと、中から自然に浮かんでくる。
83神さまをひたすら思うこと
しんらん
中から自然に動かされる動き方で動いてゆくのが一番いいんです。それを親鸞も云った。
自然法爾、ひとりでと。自然で守護霊のままに動く、神さまのみ心のままに動いてゆくの
が一番いいんです。
私たちはどうしているかと云うと、やっぱりそうなんです。私なんかスーッと動いてい
るんですよ。こうやって話してるんでも、考えちゃいないですよ。「さあ次は何を話そう」
なんて全然思っちゃいない。浮かんでくるそのままを話してるんです。だから「先生、冗
談も神さまが云うんですか」とよく云われるんですけれど、そうなんですよ。ここに冗談
いっきゅうそろりしんざえもん
音楽のほうもいるんです。一休か曽呂利新左エ門か、何かついているんだろう、と冗談云
うんだけどね。そういうものも、全部まとめて向こうから来るんです。
$4
親の心子知らず
大体、神さまという観念が今までの人はみんな違っているんです。神さまというと、必
ず白髪でひげが生えていて、ものすごくいかめしい厳粛な感じだけを考えるんだけれども、
実は神さまというのは厳粛な感じの場合もあれば、ニコニコニコニコして、とびついてい
きたいような感じの場合もある。すべての感じがあるんです。大体、五井先生という形で
現われているのは、慈愛のほうの神様なんです。愛なんです。「さあみんな、悩みがあった
らとんでいらっしゃい。何でもいいからいらっしゃい」というふうに、何でもかんでもみ
んな引き受けましょう、というような形で、神さまの働きが現われてきているんです。
ですから私は叱りつけることはないですね。間違っても、云うことを聞かなくてもね。
よくあるんですよ、私が「この結婚はしちゃいけませんよ」と云うのに、しちゃうんです
ね。そして泣いてくる。「先生のおっしゃった通り、あの人は見かけはよかったけれども、
恋愛時代はやさしかったけれども、いったん嫁いだらひどいんです」さんざん悪口を云っ
てくる。でも私は「それみろ、私が悪いと云ったのに」なんて云わない。云っても結婚し
ちゃったんだからしょうがないですから。もう取り返しがつかないですからね。だから
「前のことはしょうがないから、じゃこうやろう、ああやろう」と、だんだんだんだんよ
くするように教えるのです。だって過ぎちゃったことは仕方がないでしょ。それはもう業
85神さまをひたすら思うこと
の消えてゆく姿だからね。ところがふつうの場合だったら怒ります。「それみなさい、私が
云った通り、もう知らん!」なんて云われますよ(笑) それは凡夫のやり方なんですね。
自分の子が間違った場合、親の責任だから、親はどうしても許さないわけにはいかない
です。なんとか救わなきゃならない。それと同じように、神さまというものは、この世に
生まれてくる人間は全部自分の子なんです。どんな悪いことをする者も自分の子なんです。
だから「あのヤロウ、悪いやつだから勝手にしやがれ、もう死んじまえ!」と云うわけに
はいかない。どんなことをしてでも救わなきゃならないでしょ。そこに宗教家のつらさが
あるんです。
そむ
宗教家というのは、一ぺん自分のところに来た者は、なんとしても、どんなに背いても、
どんなことをしてもそれを救わなきゃいられない。救いたいんですね。だから怒ったって
救いにならないですよね。先生の云うことを聞かないで、自分では悪い悪いと思って来て
いるのに、「お前は!」と云って怒ってもしょうがないですから、怒らないです。そしてや
さしく「仕方がない、こういう風にやろう」と云って教えてやるようにするんです。86
勿論、方便的に怒ることもありますよ。でも本当に怒っているわけでなく、ただ声だけ
大きくしておどかすだけです。神さまというのはそういうものなんです。だからどんなに
自分が間違っても、間違ったら間違ったで結構なんです。「私、こんな間違いをしました。
すみません」と来れば、神さまは「よしよし、それじゃこういう方法があるから」と教え
てくれる。
あやま
ところが大体、間違ったことをしたり、過ちをしたりすると、自分でそれを直そうとす
るんです。ところが或る軌道をはずれてしまうと、自分じゃ元へ戻れないんですよ。どう
やっても自分じゃ戻れないんです。いつも云うけれど、どぶ田の中へ入ってしまうと、い
くらもがいても、自分だけじゃ出られない。「誰か助けてくれ!」と云って助けてもらうよ
り仕方がないんです。それを人間というのは自分でやろうとするんです。
どぶ田の中へ入っちゃったら「助けてくれ!」と云えばいいものを、「自分でやる、や
る」と云うんです。「自分のやったことは自分の責任だから」とやろうとする。それは非常
けっこう
に結構なようだけれど、実は結構じゃないんですね。自分をいじめてしまうんです。助け
87神さまをひたすら思うこと
てもらっていいんですよ。「助けて下さい!」と素直に言えばいいんです。
子供が間違ってしまった。すると親は「私に相談すればいいのに」と思います。「勝手に
しやがれ」と言葉では云っても、心の中で「私にあやまってくれば許してやるのに」と思
っているんです。ところが〃親の心子知らず
” で、神さまも同じことなんです。だからど
んな失敗をしようと、どんな間違った考えを起こそうと、起こしたら起こしたでいいから、
「しまった!」と思ったら、神さまに「すみません」と云って、神さまの中にまたとびこ
んでゆくんですね。そうすると神さまのほうから知恵が出て「こうしなさい、ああしなさ
い」とよく教えてくれるんです。
それで一番いいのは、いつでもいつでも「守護霊さん守護神さん有難うございます。守
護霊さん守護神さん有難うございます」と守護霊守護神の中に入って、入りきっていると、
そのまま自分は自然法爾で動いてゆくんです。自然自然に動いてゆくんです。
一にも二にも神さまを想うこと
88
自然自然に動いていって、目の前に結果が悪いように現われてきても、それは悪いこと
ではないんです。それを悪い悪いと思って「私はせっかく神さまのことを思ってやってい
るのに、こんなに悪いことが現われる」と思ったら、それだけその人のマイナスです。何
故ならば、みんな悪いことは消えてゆく姿なんですからね。
もっと深くいけば、この世の中というのは神さま一つしかないんだ。神さま一つしかな
くて、神さまのみ心が分かれて現われているんだから、悪いようになりっこないんですよ。
悪いようになりようがないのに、悪い悪い、とこう思うんです。その悪い悪いという想い
は業想念が消えてゆく姿なんですよ。
だからどんなことがあっても、自己の神性自分は神さまから来ているんだ、という
ことを否定する想いがあったら、その否定する想いはみんな消えてゆく姿なんです。又、
人を見た場合に、悪いことをしたというのがいるけれども、それら悪いことはみんな消え
てゆく姿であって、その中の本当の姿は、神さまから来ているんです。それがわからない
と、この世の中は仲良くならないんです。
89神さまをひたすら思うこと
たとえば世界を見ると、ソビエトなんかとても悪いです。この間もハンガリーのナジと
いう元首相をバッサリやっちゃったでしょ。(一九五八年六月死刑) ひどいでしょ。ひとの
国に勝手に入って来て。ああいうのは現象的に悪いですよ。しかし悪い悪いと云っていて、
ソビエトがよくなるわけじゃない。それは消えてゆく姿にしなきゃならないでしょ。
それにはどうしたらいいかと云ったら、そこに光をたくさん当てなきゃいけない。悪い
やみ
という〃悪” というのは暗ですからね。暗というのは間違った想いで、間違った想いは黒
雲と同じです。黒雲を消すにはどうしたらいいかと云うと、世界平和の光を当てなければ
だめです。そこで私が「世界平和の祈りをしろ」と云うわけですね。
「世界平和、世界平和」と世界平和の祈りをしていると、それは大光明だから、光明が世
界中にひろがってゆく。悪いソビエトにもゆくでしょう。そうすると光が入るから、首脳
部の考えが少しずつ変わってゆくんです。光が入ってくると、良心が目覚めて、それでそ
んなにひどい悪いことは出来なくなるんですね。
だから一にも二にも、三にも四にも神さまを想うことなんです。神さまを想うにも、た
go
だ想ったんではなんだか神さまも想いにくいから、世界平和の祈りをするわけです。「世界
人類が平和でありますように、日本が平和でありますように、私たちの天命が完うされま
すように、守護霊さん守護神さん有難うございます」という祈りをひっきりなしにするん
です。
ひっきりなしにやるということは、言葉で一々云うわけじゃないですよ。言葉で云わな
くたっていい。心の中でいつもそれを思っているんです。歩いている時は頭がひまだから
「えーきょうは勘定をあそこに取りに行くんだが、あいつはいるかな、いないかな。いな
かったらどうしよう、いたらどうしよう」なんてことを考えなくたって、行けばわかるわ
けだ。ところがそういうことを大概やるんですよ。「この品物売れるかしら、売れないかし
ら」と電車の中で考えたって、そんなものわかりゃしないですよね。試験なら試験場にい
って、きょうの試験が出来るか出来ないか、就職出来るか出来ないか、とそんなことを考
えるよりも、世界平和の祈りをしながら行くんですよ。
91神さまをひたすら思うこと
世界の運命も個人の運命も一つ
どんな仕事をするときでも、道を行く場合には、必ず世界平和の祈りをして行くんです。
そうすると、思わぬいいことが起こってくる。何故かと云うと、その間は神さまの中に入
っているんだから、神さまの光が向こうへも伝わってゆくわけです。就職なら就職先にも
行っている。学校の先生の中にも行っている。すべて光が流れて入ってゆくから、自分の
いいようになるんです。それがわからないんですね。
よくあるんですよ。「世界平和の祈りといったって、自分が困っているのに、自分の頭の
蝿も追えないのに、世界人類… … なんて私とっても云えません」とね。みんな耳が痛いで
しょ(笑)。だから私は「じゃあ、あなたはどこに住んでるの?」と云いたくなる。世界人
類の一員として住んでるんですよね。世界人類というものから離れて、その人があるわけ
じゃないんです。なんだか自分と関係のないような気がするんです。しかし自分は世界人
類の中の一人でしょ。92
「私の運命を」というのも、「世界人類の」というのも同じことなんですよ。世界人類の
中に自分が加わってるんだから。「私の」と云えば自分だけです。しかし「世界人類の」と
云ったら、同じ努力で大きく拡がるんです。「世界人類の平和」という時には、自分の平和
もその中に入っているんです。入っているんだけれども、「私は」を重ねて「私たちの天命
が完うされますように」と入れてあるんです。何故入れてあるかと云うと、みんな「世界
人類」だけじゃ、なんだか自分が入らないで心細いように思うからです。
よく「私は世界人類の平和を唱えてから、うちの者の名前をいちいち全部云うんです。
それからまた親類縁者の全部を呼んでいるんです」と云うんです。呼んだっていいですよ。
だけど本当は呼ばなくたっていいんだ。世界人類の中に全部入っているんだから。という
ことは、いわゆるゴタゴタした頭の中の業想念を、神さまの中へ入れちゃえばいいんです
ね。それを教えているんです。種もしかけもないんですよ。
人間は本来神の分霊なんです。”光明燦然” として輝いている光なんだから、その光を邪
魔して自分の運命を悪くしているものは想いです。自分が要らざる智恵を出し、要らざる
93神さまをひたすら思うこと
思慮分別をして光を曇らせているだけなんですよ。「うちの息子は悪い子になっちゃうんじ
こ
やないかしら」「うちの娘はだめなんじゃないかしら」「うちの夫は浮気していやしないか
しら」というように勝手に思うでしょ。思う想いが業想念なんですね。神さまの完全性を
否定する想いなんです。
ところが長い間、過去世からそれをやってるでしょ。だから悪いほうへ悪いほうへ考え
る癖を持ってるんですね。癖を持ってるもんだから、なかなかそれは消えないのです。子
供がちょっと遅くなると「あ㌧怪我しているんじゃないか」と思う。怪我したんじゃない
かと思ったって、思わなくたって、怪我している時はしますよね。それは癖だからその人
が悪いわけじゃないです。過去世の癖が出てくるんです。
そういう想いが出たならば、「ああ神さま、世界人類が平和でありますように」というふ
うに、平和の祈りの中にその想いを入れちゃうんです。そうすると、例えば怪我をする寸
前に、自動車とぶつかりそうになっても、その時にお母さんがフッと思って、怪我しない
ということがあるんです。それは何かというと、光の波が業の波をバーンとはねのけて、94
業と業とがぶつからないようにしているんです。
自動車にひかれるということも、ひくほうの運転手の業がある、ひかれたほうの業もあ
る。その業と業とがぶつかって、そこに怪我や何かが出来るんです。だから片方が業を越
えていけば、怪我しないんですよ。しても軽くて済んじゃいます。それで「世界人類が平
和でありますように」と云うと、業がぶつかってきた時に、業を超えられるんです。光の
波が業を超越させる。パッと消してしまう。そうするとそこでぶつからないんですね。
光の中に消える
テレビ番組で〈空想科学劇場〉というのがあるんですが、この間〃テレビの中に消えた
人” とかいう映画をやってました。これが面白かったんです。
物質はエネルギーに還元することが出来るというんです。原子爆弾なんかがそうでしょ。
物質というものはエネルギi 、力になってしまうと云うんです。物質は電流に変わること
も出来る。電流は光の波に変わることも出来る、科学もそこまでいっているんです。だか
95神さまをひたすら思うこと
ら肉体の人間も、ある科学的装置をすれば光の中に消えてしまうことが出来るんだ、とい
う結論なんです。
“空想
” とは打ってありますよ。しかしそういうことは真理なんですね。「出来るんだ」
と云うんで、ある老人がいろいろ科学的研究をしたんです。それでダイヤルを回していて、
テレビの中に入っちゃうんです。宇宙船がきて、宇宙船と交信して「いついつ、そちらへ
行くからよろしく頼む」という信号を出すと、「よろしい、いらっしゃい」と宇宙船のほう
・が云うわけです。ダイヤルを回して何か装置すると、人間がだんだん薄くなっていって、
光波になって、姿が消えちゃって宇宙船のほうに行っちゃう、という映画なんです。
あれを見ていて、科学者はまだ本当に出来るかどうかわからないから、空想と云って映
画にしているけれども、「ああ本当のことをやってるな」と思った。
人間というものは、物質に現われているけれども、実は電流なんです。電流といっても
この電流とは違う。もっと微妙な電流ですね。いわゆる”光波” というものが現われて、
ここに出ているんです。それをふつうの人間は「肉体、肉体、肉体」と肉体ばかり考えてg6
いる。ところがこれは本当に光の波なんだから、元の世界に想いが全部いっちまえば、光
になってとけちゃって、神さまの世界へ入っちゃう。
肉体がここにいながら、人間は太陽のように光り輝いているんです。宇宙に星がありま
すね。星というものは自分だ、と思えば間違いないですよ。自分の本体というものは、あ
の星のように輝いているものであって、こっちに来ているのは、その光の波がただここに
映っているだけなんです。だからこっちが消えちゃったって、何でもないですよ。この肉
体は、消えれば元へ戻るだけなんです。
元に戻るにも、一番戻りやすい方法神に還元するという意味、直霊に入っちゃうと
いう意味i それはどうしたらいいかと云うと、こちらの我がないことが一番いいわけな
んです。肉体の我をなくすということです。
自分の都合で判断しないこと
本当にばかばかしいことは、自分の子どもでも、夫婦でも、親類縁者でも、人間という
97神さまをひたすら思うこと
のはいつもいつも、この世のこの肉体の、現象の自分に都合悪い人はみんな恨んじゃう。
自分に都合悪い人はみんな嫌いになるんです。そして自分に都合のいい人だけが好きなん
ですよ。そうじゃないですか、皆さんも(笑)。
よくあるんですよ、「先生、この人はどういう人でしょう」と名刺など持ってくる。それ
で私が観ると、悪い人なんですね。悪い人なんだけれども、その人には都合がいい人なん
です。それで私は「この人は一般的から見ればとても悪い人で、いろんな悪いこともして
ますよ。しかし、あなたにとっては、この人は都合のいい人ですよ」と教えるんです。そ
うじゃないと間違えますからね。たとえば、その人を「あ㌧これはいい人ですよ」と云い
ますね。そうするとその人がまた他の人に紹介する場合もあるでしょ。他の人とは悪い場
合があるんですからね。他の人は損しちゃうでしょ。そうすると「先生はいいと云ったけ
ども、悪かった」ということになってくる。だから私は「あなたにとってはいい人だけれ
ども、他の人にとっては悪い人ですよ」と、ちゃんと念を押しておくんです。
因縁の合う人はとてもいいんですが、因縁が合わなくなりゃ悪い人になるんですね。何9g
故かというと、因縁が業想念の結び合わせだからです。ところがそれを超えちゃって、神
さまの世界へ入って、自分が光体になっちゃっていると、肉体に仮に現われるだけです。
自分が光だということはわかっていながら、わざわざ肉体に現われて菩薩行をしているよ
うな人は、誰をも悪くみないです。どんな悪い人を見ても「あ㌧あれは悪いな、しかしあ
れは消えてゆく姿として悪いんだ」というふうにあっさり見ちゃうんですよ。
ちょっとは思いますよ。たとえば強盗殺人をした人がいたとする。「あいつ悪いやつだ
な」と思うでしょ。その想いは勝手な想いで、この世の想いですから、それは消えてゆく
姿なんですね。
そのように、たとえどんな人に会っても「あ、その人は業想念が消えてゆく姿なんだ。
あの人が悪いんじゃないんだ。人間は神の子なんだ」「あ、それは業想念が消えてゆく姿な
んだ」と思えるようになると、自分のために都合が悪い人であっても、それは都合が悪い
人ではないんです。自分に都合が悪いように現われるのは、自分の業想念というものを、
その人がとってくれているんです。
gg神さまをひたすら思うこと
たとえば「どこかへ行きたい」という時に急に客が来る。それもいやな客が来ると、「あ
あいやだな、なんでこんな時に」と思うでしょ。だけど頭から云えないから、仕方ないの
で、ジリジリしながら相手をしているうちに、とうとう行かれなくなることもありますね。
しかしそれは、その人が悪いんじゃなくて、何かの因縁があって、業想念があって、消え
てゆく姿として向こうは消してくれていたわけです。あるいはその人はその日どこかへ行
かなかったほうがよかったかも知れない。そういう風になっているんです。
すべてその場その場で現われる出来事を、自分の都合だけで、それもその場の都合だけ
で、いい悪いを考えたり、イライラするようなものは、すべて業想念なんです。だからあ
くまで、この世の中で現われてくるいいことも悪いことも、みんな消えてゆく姿だと思わ
なければいけないんです。
それで何を思っていればいいかと云うと、世界平和の祈りをしていればいい。自分は世
界平和の祈りの中に入りこんでしまっていれば、業想念はどうこようと問題ではない。ど
んな悪いことがあろうと、どんないいことがあろうと、いいことがあれば喜べばいいし、100
悪いことがあれば消えてゆく姿だと思えばいい。もうすべてそのまま消えてゆく姿だと思
えばいいです。いちいち自己判断しないほうがいいんです。
抜け目のない人、抜けた人
ふつうこの世で知恵のある人というのは、冷たい人が多いんです。頭のいい人というの
は抜け目がない。「あの人は抜け目がない」というのは悪い意味で使う言葉でしょ。頭がよ
くてあんまり整っていると、人は付き合いにくい。何故かというと面白くない。いわゆる
業で固まっていて、中の光が出てないから暖かく感じなくて、何か冷たい、ひんやりした
ものを感じるんです。
ちょっと抜けたような人は、付き合いいいですよ(笑)。みんなで喜んだりして、さては
抜けてるな(笑)。私だってそうですよ。現象的には抜けたようなところがあるんです。私
はいつもこうやって話をするんでも、まじめに「神さまというものは、光明燦然としてい
て、君らのような」(声つきも変わる) とやってたら、誰も聞きに来ないですよ。「や
IOI神さまをひたすら思うこと
だよ、先生の話は堅くてL ところが時に抜けたような話をするでしょ。それでお互いに抜
けてるもんだから(笑) 共鳴するんですよ。「全くだ」とこう思うんです。そこが手なんで
す(笑)。
本当に抜け目のない人というのは、あんまりいいもんじゃないですよ。また抜け目のな
いような人は、ここへ話を聞きに来ないんです。何故、話を聞きに来ないかと云うと、自
分だけで何でも出来ると思うから。「おれは抜け目がないんだ。おれは頭がいいんだ。なあ
にそんな人の話、聞かなくたっていい」と思うんですね。そういう人は憐れむべき人なん
です。この世では幸せじゃない、いつまでたっても神さまがわからない。
しかしここへ来るような人は抜け目があるから、どこかが抜けてるから、抜けてるとこ
ろを足し増ししてもらおうと思ってやってくるんですね(笑)。どこか穴があいてたほうが
いいんです。そうするとそこへ神さまの光が流れ入ってくるんですから。
例えば、ここにまずい飲み物があるとします。それをコッ。フいっぱいに入れてしまうと、
いっぱいだからもうあとは何も入らない。ところがいっぱいでなく、いくらか抜けてると、IO2
何かいいものが入って来ます。だからいつも自分の器というものは、からっぼにしておく
ほうが得なんです。からっぼにしておいて、神さまの光を自分の中に入れとけば、神さま
の光はそのまま働くでしょ。それを私はいつも云うんです。
人を自分をとがめない
それは世界平和の祈りでなくても、他の祈りでもいいかもしれないけれど、世界平和の
祈りにまさる優しい祈りというのはないんですよ。ちょっと他に考えられません。たいが
いむずかしいです。アオウエイ、とやってもいいですよ。植芝先生(合気道開祖) じゃな
コトダマ
いが、アオウエイの言霊をやっていると、とっても気分いいですよ。私この頃、ちょっと
真似してやってみるんですがね。そうすると高橋君なんか「あっ植芝先生そっくりだ」な
んて云う。しかしそれは私の専門じゃない、植芝先生の専門でしょ。私の専門は世界平和
の祈りです。「アオウエイ」をやる時、私は人真似なんです。世界平和の祈りをやる時は私
は本物なんです。
Io3神さまをひたすら思うこと
この世にはたくさんの宗教家がいて、いろんな話をしているわけです。おのおの特長が。4
あって、どれもこれもいいでしょうけれども、皆さんは縁があって世界平和の祈りの会に
入って来たんですから、世界平和の祈りを一生懸命やっていればいいんです。
愈い言葉よりも長い言葉のほうが神さまがよく聞けるだろうと・長い長い唱きとをす
るのがあります。「めじをはるかに眺むれば、なんとかでかんとかで… … 」とたくさん祈り
を教えるんです。一体どれやっていいかわからないんですね。それよりは、いつでも決ま
ったもののほうがいいですね。心がなれて、リズムに乗ってくる。そうすると知らないう
ちに、その人たちは本当の世界に入っちゃうんです。だから世界平和の祈りが一番いいで
すよ。楽でしょ。みんな覚えちゃったでしょ。覚えちゃったということは、自分の中へ入
っちゃったことです。一
そうすると、いつどんなことがあっても、世界平和を思いますね。いざ間に合わない時
は五井先生になります。自動車にひかれそうな時に「世界平和」と云うのはちょつと長い
でしょ。「あっ自動車が来た! 助けて、五井先生!」と云うと、パッと車が止まったりす
る。車がはね返ったりする。本当にはね返るんですよ。なぜはね返るかというと、その
「五井先生!」とか「世界人類が… … 」という祈りの中は完全円満だからです。世界平和
なんだから完全円満で、完全円満な中には悪があるわけがない。悪は消えてゆく姿です。
わかりますね。
それをはじめから悪がない、とか、この世は完全円満だから悪いことは無い、とか、病
気は無い、とか、貧乏はない、不幸はない、とか「無い」と云いきることは、その人が本
当に消えようと思えばパッと消えられる。パッと光り輝いて見える。自由自在にパッとど
こかへ飛んで行かれる。そういうように神通自在に姿が現わせる人ならば、「病気は無いん
だ、不幸は無いんだ」と云っても効き目はあるけれども、そう言いきる人自身がそれが出
来ないとするならば、それは云えないでしょ。金星人あたりが「病気はない、貧乏はない、
不幸はない」と云えば云えるんです。みんなそうですからね。しかしこの世の人たちは、
実際病気もある、貧乏もある、不幸もあるでしょ。あるんだから「無い」とは云えないん
です。
Io5神さまをひたすら思うこと
実際は無いんですよ。病気も無ければ、不幸もなければ、貧乏もないんです。真の人間、
しんじん
真人というものにはないんです。ないんだけれども、この世の肉体の世界にはあるんです。
そうするとやっぱり現われるんです。だから私は、現われては消えてゆく姿、現われては
消えてゆく姿と云うんです。だから消えてゆく姿というのは、とっても人の救いになるん
です。
私はさっきも云ったように、慈愛の働きで、みんな赦すほうなんです。自分を赦し人を
赦し、自分を愛し人を愛し、と云うでしょ。すべて愛して赦してゆくわけです。とがめる
ことがないように、人の心をとがめないように、一言もとがめることがないように、と思
って出来た教え、それが消えてゆく姿なんです。消えてゆく姿なら、なんでもないでしょ。
たとえば「病気は無い」と教わるとします。病気はない筈なのに自分が病気になったと
すれば、或いは人が病気になったとすれば、どこかに間違いがあるということになります。
「あなたの心の中に間違いがあるから、病気になっているんだ
」となる。ない貧乏をして
いるわけですね。ない不幸になってるわけでしょ。ない不幸があるとすれば、それはそのio6
人が間違ってることになるでしょ。そうすると自分で自分を責めることになっちゃうんで
す。「あ㌧自分の心に何か間違いがあるから、不幸になったんじゃないかしら」と思う。
大体どこの宗教でも、自分を責めることを専一にしているんですね。宗教をやる人は責
めて責めて責めぬいているんです。そこで私は”自分を赦し” というのを一番初めに出し
たのです。自分を赦さなければ人を赦すことは出来ません。自分を赦すに一番いい方法は、
消えてゆく姿なんです。今は病気だけれども、これは過去世の因縁が現われて消えてゆく
姿である。今は貧乏だけれども、それは神さまから離れた過去世の想いが、ここで現われ
て消えてゆく姿であり、やがてよくなるに決まってい虚何故ならば、自分は神さまの分
霊だから、となってくる。それにしかも守護霊守護神が守っているのだから、「守護霊さん
守護神さん有難うございます」と思います。そうすると、自分を責めないで、人を責めな
いで、いつの間にか明るくなるんです。
私は人を赦したくて、人を赦したくてしょうがない。「あなたが悪いんじゃない、あなた
方が悪いんじゃないんだよ。もしあなた方が悪いとするならば、人間の一人一人が悪いと
Io7神さまをひたすら思うこと
するならば、神さまが悪いことになる」そうでしょ。人間を一人でも悪いと思うなら、神
さまが悪いことになる。それは神さまの責任だ。人間が悪いということは神さまの責任で
す。そこまでいかないと理論が成り立たないですよ。
「神さまは悪くないんだけれども、人間は悪いんだ」と云うならば、神さまの他に人間が
あることになっちゃう。それは二元論ですね。神さまは完全円満なんだから、絶対に人間
は悪いことはない。悪いことがあるというのは、過去世において神さまを離れた想いが現
われて、消えてゆくところなんです。本当はハッキリ云えば、それは今の自分も悪いんだ
よね。だけどそう云ったんじゃ身もふたもないでしょ。
ところがこっちは赦したくてしょうがないものだからね。責めないでよくなればいいで
しょ。私のところへ来る人はさんざん宗教やった人が多いんです。それで私のところへ来
ますと「消えてゆく姿であって、あなた方が悪いんじゃない。向こうが悪いんでもなんで
もない。それは過去世の因縁が消えてゆく姿なんだよ。みんな守護霊さん守護神さんが消
してくれるんですよ。有難いんですよ」と云われると、救われた気がするんですよ。今まIO8
で自分を責めてるからね。「あ㌧そうだ、みんな悪いんじゃないんだ、みんないいんだ。み
んな悪いものは消えてゆく姿なんで、いいものきりしかないんだなア」ということが本当
にわかってくる。それがわかった人は、今度は他の人にもやさしくなるんですね。私の教
えを聞きながらも、まだまだなかなかわからなくて、よくならない人もあります。そうい
う人が相談にくると、前の信仰の癖があって、ついうっかり「あなたの信仰が足りないか
らです」とやっちゃうんですよ。「あなたの信仰が足りないから、神さまへの想いが足らな
いから、だからあなたは悪くなってるんだ」というようなことを、うっかり云うんですよ。
それは本当かも知れない。けれども、そういうふうに云うことは私、教えていないんです。
そういうふうな云い方は消えてゆく姿なんです。
信仰が足りないというのは仕方がないでしょ。その人は一生懸命やってるんだ。足りな
かったのも「足りない」と責めたんじゃ、身もふたもないですね。だから「足りない」と
いうようなことを云っちゃいけない。その人の欠点をついちゃいけない。たとえ愛であっ
ても、愛の言葉のように見えても、人の欠点をついたり、人が痛がってるところにふれて
Iog神さまをひたすら思うこと
はいけない。m
I
本人は一生懸命やってるつもりでいるんだから、それを「やってない」と云われたら、
どうしていいかわからないでしょ。その人にしてみれば全力をあげてやっている。でもこ
ちらから見ればもっと力があるように見える。しかし本人にはそう想えない場合「お前の
信仰が足りない」と云われたら、その人は立つ瀬がないでしょ。だからそういう時はそう
云わないで、「あ㌧それでいいんですよ、今にきっとよくなりますよ」と、なんでもいいか
ら、向こうの云うのを聞いてやればいいんですよ。聞いてやって「世界人類が平和であり
ますように、五井先生、どうか助けてやって下さい」と心の中で念じてやれば、その光が
向こうへ伝わって、いつの間にか強くなるでしょ。
ですから私の教えを聞いている人は、決して人を責めちゃいけませんよ。どんなにその
人が間違っていても、それを「間違ってる、間違ってる」と責めるんじゃなくて、それは
消えてゆく姿として「消えてゆく姿」を認めてやらなきゃいけない。そしていいほう、い
いほうを想わないとね。それには世界平和の祈りを黙って祈ってやるんですね。言葉で小
言を云うよりも、黙って世界平和の祈りを祈ってやり、その人の天命が完うされますよう
に、と祈ってやるほうが、その人を生かすことになるんです。それを私が一所懸命教えて
いるわけです。(昭和3 年7 月5 日のお話)
III神さまをひたすら思うこと
まか
任せるところから始まる
II2
〈高橋英雄氏の体験談があった。「新しい朝」参照〉
白光誌の発刊をめぐって
せがれ
只今の高橋君は、いつも私のそばにいますから、私の埣みたいなんですね。いつも、一
緒に歩いているので、たまたま一緒でない時がありますと、近所の人が「先生、きょうは
息子さんをお連れになりませんね」というくらい、息子のようになっているんです。
この子は非常に純真な子なんですよ。もう大きくなったけど、子どもですよね。この子
に初めて会いました時、私は、これは困ったと思ったんです。何故困ったかと云うと、運
命が非常に難関にぶつかることがわかってるからです。「死ぬか生きるかだな、これは」と
思って、初めギョッときて、だんだん高橋君が熱心になるにつれて、ますますギョッとし
て来たんです。「これは全部、責任を負わなきゃならない」と思ってネ。死ぬか生きるかの
病気なんですから。もしかすると死ぬかもしれないわけです。線が分かれていまして、片
方へ行けば、少しでも信仰がゆるむと逝っちゃうという形なんです。それでじーっと見て
いたわけなんです。
びゃっこう
そのうちに、この子と松浦さんと二人が〈白光〉を出し始めたんです。
私のやり方は、自分の我で、自分の頭で、これやろうあれやろう、ということは一切思
じねんほうにまか
わないんです。自然法爾、なるがままに任せて生きてゆくと、そういう生活なんです。で
すから白光誌を出すんでも、「白光」を自分で出そうとか、出すまいとかは思わないんです。
自然に任せてあるんです。そうすると、自然に出てくるわけです。
「白光」は初めは文芸雑誌でした。第三号目の時「先生、何か文章を書いてくれません
II3任せるところから始まる
か」ということで、第三号からガラリと変わっちゃって、今の「白光」が生まれまして、、4
1
それからだんだんだんだん進歩して来たんです。
しゅくん
だから「白光」を出したのは、高橋君の殊勲なんですね。あれは非常にいい雑誌になり
まして、今は皆さん、ずいぶん読んでいらっしゃる。
その頃から高橋君は病弱でして、だんだんだんだんやせ衰えてくるわけです。ご飯も食
べられなくなってくる。「困ったなア」と私は思いました。運命がまだ決まってないんです
から。修正しつつあるけれども決まっていない。そしてだんだんだんだん最後の極点に来
まして、そのうちに寝こんでしまい、ついに家に帰ってしまったんです。
私はなるたけ楽をさせて、いたわっていたんです。なるたけ動かさないように、なるた
け休ませるようにしてたんです。何故休ませるようにしたかと云うと、先がわかってるん
ですから。もう一に静養しなければだめなんですね。一番危険なのは、病気であっても
「病気はない」とやるんですね。「病気じゃない。お前寝てちゃいけない。寝てるから病気
なんだ。ない病気でなぜねてるか。起きなさい!」てなこと云って、山登りなんかして死
んじゃった人があるんですよ。
この前も話したけれど、N さんの姪御さんがやっぱり病気だった時に、他の宗教やっ
ている人が親戚か知り合いかにあって、要するに病気なのに働かせたりするんですね。そ
れで私のところに相談に来た時に、私は「もう絶対にお医者にかかって、安静にしなきゃ
だめだ」と云ったんです。今はすっかりよくなって退院しました。
そういうように無茶をしてもだめなんですね。その人の身体に合わないのに働かせたっ
てだめなんです。「病気はない」というのは本当の言葉だけれども、そこまでいかない人に
「病気はない」なんていう教えをすると逆になってしまう。無理をしてしまうんです。人
じんつうじざい
間の肉体には限度がありますからね。本当に神通自在にならない限りは限度がある。だか
ら疲れた時は休めばいい。眠たい時は眠ればいい。お腹がへったら食べればいい。そのよ
うに疲れた時に、無理して働くことはあまりいいこととは思えないですね。
そういうことで、真理の言葉も行きすぎますと、実行が伴わないで、現実と真理がうん
と離れすぎちゃって、ついにいのちを殺しちゃうようなことがあるんです。病気というも
1巧任せるところから始まる
のはやっぱり心の影だ、
なっちゃうんです。
といじめてみたり、病気がないと云ってみたり。すると、だめに
、6
1
おまかせ効果一〇〇パーセント
私は逆に、高橋君がかわいそうで、かわいそうでね。一日一日死の世界が迫ってくるん
ですからね。そのうちに家に帰ってしまい、ねついちゃったんです。その時はすでに肺結
核で、腸結核で、喉頭結核でという状態で、もう線路すれすれだったんです。これでもっ
て、家中の人が全部、神さまに生きるも死ぬも任かせきらないと、生きないんです。
ところがそれがうまく成功したんです。それはどういう方法をやったかというと、私は
ちょいちょい行ってやりたかったんですが、ちょいちょい行ったんでは、効果がない。な
かなかここがむずかしいんです。それで待ちに待って、会いたくて会いたくて仕方がなく
なって、もう一言で効果が上がるようなとこまで待っていて、最後に、今日行かなければ
死んでしまう。という時に、ちょうどおばさんが云って来たんで「さあ行きましょう」と、
横関さんと二人でカステラを持って行ったわけなんです。最後の土壇場なんですから。そ
の日に行かなきゃ死んじゃうんですからね。それで行って祈ったんです。
その時に、お父さんにもお母さんにも「もうだめなんだから、亡くなったと思って、も
う天上にいると思いなさい」とあきらめさせたわけです。それでご両親もすっかりあきら
めて、もう仕方がないと思って、生死を神さまに任せた。というよりあきらめちゃったん
ですね。それで心が軽くなったわけです。だからお父さんもお母さんも「死んじゃしない
か」という恐怖の想いがなくなっちゃったわけです。「もう死んじゃうんだ」と思わせるよ
はら
うに私が云ったからね。そのようにお父さんお母さんの恐怖の想いを祓っておいて、それ
から浄めたんです。そしたらこれがテキ面に効いたわけです。
待ちに待っていたところへ、サッと行って浄めたからです。光がまともに入ったんです
ね。それまで何も食べられなかったどころか水さえ飲めなかったのに、カステラが食べら
れた。神さまに任せちゃったことと、当人が全部私に任せきったものだから、そこで効果
が一〇〇パーセント現われたわけですね。
II7任せるところから始まる
現われた効果というのはもう一つあるんです。それは脳性小児麻痺の妹さんがいたわけ
です。その人は年をとって、だんだんだんだん長生きすればするほど、親がいる間はいい
けれども、もしいなくなった場合には、兄弟に負担がかかるわけで、そうなると家の者も
困るし、その子もかわいそうなんです。そこでその子に高橋君の業想念を全部背負っても
らって、身代りになってもらったんです。そのかわりその子の魂をうんとあげてやって、
あちらへやった代りに、こっちを助けた、ということになって、すっきりと直っちゃった
わけなんです。まずああ云うのは、はたから見りゃ奇跡なんです。私もどっちかなアと思
ったから。それで完全によくなった。
直ってしまったあとの高橋君というのは、非常に明るくなりました。前は暗かったんで
す。道場にいても、ほとんどしゃべらないんです。一日に一言ぐらいしゃべるかな。こっ
ちから話しかけなければしゃべらないんです。今はいくらか冗談も云うけど。今だって冗
談云えたでしょ。大体があんな冗談なんか云える子じゃないんですよ。すごくまじめで純
真でね。お父さんがまたこれに輪をかけたような黙った人なんです。だからおそらくあの118
二人がいたら、一日全然しゃべらないと思う(笑)。そういう親子なんです。
お父さんはとてもいい人で、やさしい人なんだけれど、要するに恥ずかしがりなんです。
子どもと口を聞くのも恥ずかしいんでしょうね。生長の家もやっていたんですが、止めち
ゃったわけです。それで宗教というものにあんまり興味がなくなっていた時なんです。と
ころがこの子が直ったために、お父さんが熱心に来る。お母さんは前から来ていましたか
ら、もう一家全部でもって入って来て、今は光明燦然と、それこそ一家中が光り輝いてい
る。それで座談会もやってますし、全く生まれ変ってしまって、まるで別の家になっちゃ
ったわけです。
神さまの中に人間はいる
そういうように、神さまへのお委せ、全託するということは、素晴らしい効果があるん
です。すべては委せることから始まるんです。何故委せることから始まるかと云うと、も
ともとは神さまのものだからです。
Ilg任せるところから始まる
人間は神さまから離れてあるものではないんです。神さまの中に人間があるんです。神
さまの中に人間があるのに、人間と神さまは別だと思っている。神さまは天にあって、人
間は地にあって、神さまと人間とは別々だという考えは根深いんです。「人間は神さまと一
つなんですよ」と云っても、なかなか一つだと思わない。「神さまはあなたの中にいるんで
すよ」と云っても、なかなかそう思わない。それはなかなか根深いものです。
そこで私は、そういうふうに云わないで、神さまは守護霊守護神という形をとって守っ
ている。守護霊は祖先の悟った人、その上に神さまの救済の働きとして守護神がいらっし
ゃる。だから人間は守護霊、守護神に守られているのです。中にも神さまはいるんだけれ
ど、それだけじゃわからないから、守られているように私は唱えている。
ところが守護霊守護神というのは目に見えない。居るか居ないかわからないが、私が
「居る」というから居るんだろう、と信ずるだけですね。ところが五井先生とい
うのはこ
こにいます。だから「五井先生を思いなさい」というのは楽ですね。だから「守護霊も守
護神も思えない人は”五井先生!” と思いなさい」と云うんです。そうすると、五井先生120
という肉体を通して、神さまのほうへみんな想いがいってしまうんです。
この肉体は肉体に見えるけれど、実は光なんです。これは光の柱なんです。光の柱にな
って、天と地をつないでいるものなんです。だから「五井先生!」とこっちへ想いが来る
と、ここからすっと光のほうへ、神さまのほうへ想いがいってしまう。
それで高橋君は、もう何かあると「五井先生!」と云う。五井先生も云わないで「先
生!」と云う。そういう想いでもって、ついに何月かでもって、その大病を克服したんで
す。これはちょっとした奇跡なんですよ。三つの結核でもって、死ぬか生きるかだったの
が直って、ちゃんと働いて、毎晩こうやって遅くなってもなんでもない、という身体にな
るということは、ちょっと考えられないことなんですね。そういう奇跡がたくさんある。
それで高橋君の場合は顕著なる事実なんです。
それは、全託の心「み心ならば、み心ならば」と云っておまかせした、そういう全託の
心にあるんです。だから全託さえすればいいんですよ。神さまに全部の運命をまかせると
いうことが、一番大事なことなんです。
121任せるところから始まる
半分まかせるというのはダメなんです。全部まかせないといけない。高橋さんの場合でη
1
も、半分だけまかせたり、一家が全部まかせなかったら、高橋さんは死んでいるんです。
ところが全部まかせたから、きれいに直ったというわけです。
皆さんでも、どんな病気でもかまわない、どんな貧乏でもかまわない、どんな自分の性
格が悪くてもかまわない。悪い性格も、病気も不幸も、全部まかせるんです。自分で直そ
うと思ったり、自分でとやかく思っちゃいけません。自分というものは即ちないんです。
自分というものは消えてゆく姿なんです。自分だ自分だ、と思う自分は消えてゆく姿なん
です。いいことをしようとする自分も、悪いことが出てくる自分も、すべてそれは消えて
ヘヘヘへ
ゆく姿であって、あるものは神さまの子としての自分なんです。
そくさい
神さまの子としての自分、というのは何かと云うと、光り輝いている自分、無病息災な
健全なる自分なんです。怒りの心なんか出るわけがない自分、妬みの心なんか出るわけの
ない自分、そういう神さまを否定する想いは出るわけのない自分なんですよ。それなのに
あるでしょ。それは過去世の因縁が消えてゆく姿なんです。
過去世の因縁が消えた
高橋君の場合なんか、みごとに過去世の因縁が消えちゃったわけです。死ぬか生きるか
わからないその土壇場で、今まで水も飲めなかった人が、カステラが食べられるというこ
とはちょっとないでしょう。どうしてそうなったかというと、病気の業想念があった、そ
こに私のほうから光が入った。それはまかせたから、業想念にきれいに穴があいて、光が
通ったんです。そのために業想念がパッと消えていったんです。
業想念というのは闇のようなものなんですよ。電灯がつけば明るくなるでしょ。まして
やみヤミ
太陽が照り輝けば闇はなくなりますね。病と闇は同じなんです。闇の心が病なんですよ。
病気になって喜んでいる人はちょつとないでしょ。「おれは肺病だ。ガンだ、ありがてエ」
なんて云っている人はないでしょ(笑)。心が暗くなりますね。闇なんですよ。言葉という
ものは面白いもので、大体発音が同じ言葉は同じ意味なんですね。
今度は悟って「ああすべては消えてゆく姿だ」と思うようになると、たとえばお腹が痛
123任せるところから始まる
かろうと、のどが痛かろうと、どこが痛かろうと、それに心が把われることはないんです。
斎藤秀雄さんなんかも、こうなる前に、死ぬか生きるかみたいの病気があったんです。だ
けど一日かそこらでパッと直っちゃった。それは病気が消えてゆく姿とわかっていたから
です。直ったあとで本当のものが現われて、今度は霊能的になって、いろんなことがわか
るようになった。
だからひどい病気とか、不幸とか貧乏とかがあると、あったのを契…機として、パッと自
分の中の心が開いて、本当の自分が現われてくるんです。高橋さんでも、病気をひっくる
めた高橋さんと今の高橋さんじゃ、今の高橋さんのほうがいいんです。病気の瀬戸際の時
に真剣に先生を思った。それは真剣に思ったけれども、今のほうが真剣というよりも、い
つも思っているから思いっぱなしなんです。思いっぱなしというのは、なんだか思わない
ような気がするんですよ。
世界平和の祈りでもそうです。常に思っていると、思わないような気がするんです。そ
れで特別に云えば思ったような気がするけれども、実は思いつめに思いつめていると、い
、
X24
ちいち「世界人類が」とか思わなくても、咄嵯に出てくるんです。
世界平和の想いがいっぱいだから、わざわざ「世界平和」と云わなくても、ちゃんとこ
こ(心の中) にあるんですよ。たとえば自分のそばにいる人は呼ばないでしょ。隣りに妻
が坐っているのに「おい妻よ」と呼ばないでしょ(笑)。そばにいるから呼ばないですむ。
それと同じように、いつも神さまを自分の中に入れておくと、「神さま!」と呼ばなくても
神さまはあるんです。それは世界平和の祈りも同じことで、常に心の中に世界平和の祈り
があると、わざわざ「世界人類が」と特別に云わなくても、ピカッとこの中から(自
分の中から)世界平和が出てくる。
五井先生の役目
世界平和の祈りが出てくるというのは何かと云うと、光っているということです。自分
が光り輝いているということなんです。だから本当は世界平和をいちいち云わなくてもい
いんです。いつも思っていればいいんです。思いが足りない時は云えばいい。皆さんが世
125任せるところから始まる
界平和の祈り、あるいは五井先生! というのを、思いつめていると、いつでも思えるんで
す。
今、高橋君が云いましたね。「世界人類がI 」は長いんで、「先生!」が短くていいっ
てね。あれは実際問題そうなんです。本当に痛い時や苦しい時は「世界人類が… :・」なん
て云ってられないんです。一番短いのがいいんです。「五井先生!」でも間に合わない。
「先生!」と云うんです。ついそういうふうになっちゃうんです。そういうために肉体の
先生がいるんです。
肉体の先生というのは、思わせる一つの場所なんです。皆さんに救いの光が伝わってゆ
くはしご段みたいなものです。あるいはエレベーターボーイだな(笑) 「はい、お次の方」
かじ
と云って乗せてゆくんですよ。私が舵をとっているんですから。みんなを乗せて、神さま
の中に入ってゆく。向こうには光の浴場があるから、そこで洗って、また降ろしてくるん
です。それを毎日やっているんですよ。こうやっている時は(お浄めしている時は) 神さ
まの中の光の浴場に入れて洗ってやっているんです。三助までやらなきゃならない(笑)。
エ26
エレベーターボーイから、三助から、風呂屋までやらなきゃならない(笑)。それを毎日や
っているんです。楽じゃないですよ。
今日もあそこ(会場のすみの小さい部屋で、お浄めと個人相談を昼間なさった) へ入っ
て、ここは涼しそうですけれど、あそこは暑いんです。暑くて暑くて、なんだか頭がこげ
そうです。こっちは風が自由に入るけれど、あそこは風通しが悪い。あそこに坐ってやっ
ていると難行苦行なのだけれども、これも前世の因縁(笑) とあきらめて、そうでもない
けど(笑) あそこに坐りっぱなしなんです。
あれを真似して一日やってごらんなさい。大概のびちゃうから。だけど私はのびないで
が
す。何故のびないかと云うと、我がないからです。あるのは愛だけなんです。人が救いた
くて救いたくてしょうがないんです。みんなを苦しめたくなくてしょうがないんです。子
供のころからそうだけど、みんながよくなるように、とそればかりが私の頭の中にあるん
です。
ですから観念論的に、ただ教えだけ説いていればいい、という気がしないんです。教え
127任せるところから始まる
だけ説いてすましていればいいような気が、どうしてもしない。実際、自分がぶつかって、28
1
一対一でもってその人を救わないと、とても気持ちが悪い。教えを聞いただけではわから
ないというのは、お前の信仰が足りないんだ、お前がわからないのはお前の罪だ、なんて
いう気にはならない。
私は実践活動家
私がもし神さまというものを知らないで、信仰生活に入らなければ、私はおそらく共産
党員ですよ。中央執行委員ぐらいになってますよ(笑)。昔、工場にいて、文化運動をやっ
て、音楽を教えたり、文芸のことを教えたりいろんな活動をやったんです。その頃は、と
にかく青年がみーんな集まった。少年工や女工さんなどを救わなきゃいられなかった。か
ばわなきゃいられないという気があった。だから、組長と喧嘩したり、課長と喧嘩したり
しながら、女の子や少年たちを守っていたんです。いつでも矢面に立って守っていた。工
場では少年保護員というような看板でやってました。
そういうことをしなきゃいられないんですね。だから青年の頃から社会事業をやろうと
思っていたんです。宗教がなければ、おそらく共産党や社会党のような直接運動、直接的
に人を救う、社会を改革するような運動に入っていたと思うんです。
そういうのが今でも私の中に残っていて、どうしても観念論的に道を説いているだけじ
ゃいられないんです。観念的に「こうすればいいんだよ」とか「この道を通ればいいんだ」
「それがわからない人は救われないでもいい」ということを云う気にはならない。どうし
てもみんなを救いたい。人類全部を救いたいような気があるんです。
だから実践運動なんだね。私は実践運動家なんです。この現象の世界を救わなきゃだめ
だと思ってね。そのようにして神さまに願っていたわけです。それで今のようになったん
です。
今、どうやっているかと云うと、一人一人会っている。この前も云ったように、私はど
んなに忙しくなっても、どんな大きな仕事をしても、こうやって一人一人に会って、一人
一人浄めて、出来る限りのことをしようと思っているんです。ねる間もねないでもいいか
12g任せるところから始まる
ら、一人一人にぶつかって、それで救いたい気がするんです。いやでもそれより仕方がな
3・
1
いんですよ。他のことは考えられないんです。
は
}人一人が可愛くて可愛くてしょうがないんです。頭の禿げたおじいさん、白髪ばかり
のおじいさんから、みんな可愛んですよ。なんだか自分の子どものような気がするんです。
よわい
私はこの世の齢は数えで四十三歳、満で四十一歳だけど、いつの間にかその歳を忘れて
しまって、八十歳の人も八十五歳の人も子どもみたいなんです。松浦さんのおばあちゃん
なんか、「先生」と、私を見るとかじりついて泣いちゃうんです。金子さんのおばあちゃん
でも、すぐ私にかじりついて泣かれちゃうんです。それで私は、可愛い可愛いとなでてあ
げるんですよ。幼稚園の生徒ですよ。とっても可愛んです。
何故可愛いかと云うと、神さまの気持がここ(胸) に入ってるからです。神さまから見
わけみたま
ればみんな分霊だから子供でしょ。だから叱る気がしないですよ。
肉体に生まれている者は、大体が修行に来ているんです。菩薩として来ている人もあり
ます。しかし大体修行に来ている。修行しているうちに菩薩になったりすることもあるん
ですね。修行に来ているんだから、どこかに落度があるに決まっているんです。肉体の人
間が完全円満であるわけがないんですよ。
肉体の人間はさっき云ったように、どこか抜けていたり、穴があいているんです。その
抜けているのを補うために、守護霊や守護神がいるんです。肉体の人間は完全じゃないん
です。その内なる神性、完全性を現わすために、守護霊守護神がいて、或いは菩薩の人が
いて、救ってゆくんです。それで私たちは菩薩行しているんです。
私ばかりじゃありません。幹部になったような人はみんな菩薩行しているんです。そし
てだんだん皆さんが菩薩行をするわけです。ここにいる人はみんな菩薩行している人です。
その一番やさしい菩薩行が「世界平和の祈り」なんです。そうすると実証が現われてくる
んです。たとえば今話した高橋君が、病気が直ったような、或いは他の人がいろんなふう
にして直ったような、そういうものが実証的に現われなければ、いくら教えを説いてもだ
めですね。
ところが教えを説いて祈っているうちに、みんな幸福になってくる。生活が安定してき
131任せるところから始まる
たり、心が安らかになってきたり、恐れがなくなってくる。だんだん生活が変わってくる
んです。変わってくることは実証なんです。やっているうちに心が変わったり、人相まで
変わってくるようなことは、実証されていることです。要するに効果があったということ
ですね。
私の宗教は現実的に効果があるんです。と同時に、知らないうちに魂も高くなってゆく。
心も安定してゆく。ただ商売を繁盛させたり、ただ病気を直すだけじゃだめです。それで
はいつまでたっても、自分に業想念がくっついているんだから。業想念がくっついたまま
なら、その場だけ直ったって、あとまた出てきます。それではだめです。だから私は、今
生において私に一生ついてくる人は、必ず天国に上げようと思っているんです。それは何
べんも云いますが、私は必ず上げようと思っている。これは嘘でも何でもない。
何故そう思っているかというと、こっちは向こう(天) にいるんだからね。要するに、
が
我がなくなると、どういうことになるかと云うと、自分の体が大きくなるんです。自分だ
けのことを思ってる人は五尺何寸の体きりないです。しかし二人の人を思えば二人分になX32
り、三人の人を思えば三人分になります。五人思えば五人、百人思えば百人分の体になる
んです。全部のことを思えば全部、つまり宇宙大になっちゃう。だから少なくとも私は、
これだけの人を思っていれば、これだけの人の体になっているわけですよ。ところが実際
にはもっともっと多くの人のことを思ってます。人類全部のことを思っています。それが
〈世界平和の祈り〉になったんです。
皆さんが本当に世界平和の祈りをすれば、皆さんは人類の全部になるわけなんですよ。
自分の体は世界人類にひろがってゆくわけです。真剣に世界平和の祈りをやると、自分は
世界人類と同じなんです。宇宙大にひろがるわけです。
もっと云い換えれば、光一元になってしまうんです。光の体になっちゃう。肉体に現わ
れていて、実は光の体と一つになっちゃうんです。そうすると、自分の中に不幸がなくな
ってしまう。消えてゆく姿だから、あったって、そんなの問題になりません。
本当に私の教えがわかると、過去世の因縁が現われて来たって、そんなの問題じゃない
です。病気になったって何でもない。貧乏になったって何でもなくなっちゃうんです。そ
133任せるところから始まる
れでいて必ず自然によくなります。商売をやっていれば必ず繁盛するでしょう。成果もあ34
1
がるでしょう。ただ完全になる過程としては、いろんなものが現われて来ます。しかし、
教えを本気になって三年もやれば、いや三年とは云いません。一年もやれば必ずその人た
ちは、前の生活とまるっきり変わります。それははっきりしています。高橋君みたいに、
ちょっとの間にパッと変わる人もあります。(昭和3 年7月5 日のお話)
から
私は空っぽになった
〈この日、五井先生のお話に先立って、斎藤秀雄氏(故人) の体験談発表があった。生ま
れた時は未熟児で、保育器(斎藤さんはビンとそれを表現した) で育った、という話があ
った〉
きまっていること
びん
斎藤さんは大体生まれた時から瓶の中に入って坊やになったんで、始めから終わりまで
びんぼう
貧乏しちゃった(爆笑)。でもああいう体験は尊いですね。
私が一番最初、斎藤さんの履歴書を見せてもらってびっくりしちゃったんです。とにか
135私は空っぽになった
く何年何月、何年何月、とズラーッと書いてある。職業を三十回も四十回も変えたりする
36 1
人はちょつとないですね。大体多くたって十回ぐらいでしょ。うちの家内もそれを見てび
っくりして「そんな人はだめかも知れない」(笑) そして「そんな人、重要な役目につけた
ら大変ですよ」といったんですよ、本当は。今だからいうけどね(笑)。
ふつう職歴が三十回も四十回も変わったら、たいがい悪いほうにとるんですよ。ところ
が斎藤さんの守護霊がよかったから、ちゃんと最後の段階で菩薩行が出来るようにさせた
わけです。というけれども、実は生まれた時から決まっているんです。人間は始め生まれ
た時から死ぬ終わりまで決まっているんです、本当は。決まっているんだけれど、決まっ
ている以下になるか、以上になるか、という差が出てくるのです。
ということは、丸なら丸で決まっている。三角に生きる人は三角に決まっている。四角
に生きる人は四角に決まっているんだけれども、その大きさがあるんですよ。最大がこれ
で、最小がこれというのがあるんです。いつもいうけれど、大工さんになるんでも、下端
になるか、棟梁になるかは、その人の働きによって違うでしょ。代議士になるけれど、大
臣になる人と大臣になれない人とあります。だから代議士にならない運命をもっている人
が、いくら頑張ったって代議士にならないだろうし、音楽家にならないものをもっている
人が、いくら頑張っても音楽家にはなりませんね。途中でいやになってしまう。そういう
ふうに決まっている。その決まった中で生きてゆくわけです。
だから斎藤さんは、宗教の運動、世界平和の運動に役立つために生まれてきたわけなん
です。それが五十五歳までわからないわけです。今日になってやっとわかったわけなので
す。気が長いようなものですね(笑) さんざんいろんな経験をしてね。前の世ではよほど
経験が乏しかったんで、今生であらゆる経験をしたんですね。私は前の世でさんざん経験
したんです。いろいろなことを前の前の世でやって、いろんな修行をして、そして今にな
っているんですね。
たつどし
私は斎藤さんより十二若いんです。同じ辰年なんです。うちは面白いんですよ。理事長
の横関実さんが辰年なんです。斎藤さんの十二年上なんですよ。六十七歳。辰年ばかりが
役員になっているわけです。”三辰集まればその家栄ゆ”という諺があるんですね。わざわ
137私は空っぼになった
ざ辰ばかり集めたわけじゃないんだけど、自然に集まっちゃった。そういうわけでちゃん
38
と決まっているんですね。
神さまのみ心が現われるに決まっている
私は三十歳ぐらいで解脱した形になった。どうして三十歳ぐらいで解脱する形になれた
かというと、それは前の世があるからです。前の世があれば、その前の世もあれば、その
また前の世もあれば、その前の世、その前の世… … とずうっとあるわけなんです。人間の
天命というのは、この世の五十何歳、八十何歳じゃなくて、前の世のその又前の世の、前
ちょくれい
の前の世、ズーッと過去をさかのぼって、大神さまから分かれた直霊が人類の元をつくり
ます。そのとき、直霊から分霊が出来、分霊から分霊が生まれ、その分霊から分霊が出来、
というようにたくさん出来るわけです。その分かれ始めから決まっているのです。初めか
ら「この人はこういう役目をして天命を完うしてゆくんだ」とか「こういう人はこういう
役目をして天命を完うするんだ」とか「この人はこう」と決まっているんですよ。
その決まっている役目を果たすまでに、いろんな苦労をしたり、経験をしたりしてやっ
てくるわけなんです。ですから本当は、この世の中が亡びるように見えたって、どういう
ふうに見えたって、最後は神さまがやっているんだから、必ず神さまの世の中が出来るの
に決まっているのです。それが出来なかったら、神も仏もありゃしないんです。必ず神さ
まの御心がこの地上界に現われるに決まっている。
その決まっている一番はじめに、この太陽系では金星が一番先に成就したわけです。一
番立派な人類を先につくったわけなんです。それは昔からそうなんで、今更、金星が出て
来たわけじゃない。初めてアダムスキーが宇宙人といってから、みんな急に宇宙人、宇宙
人といいはじめ、ブームになったけれど、実は昔から宇宙人はあるわけなんです。この世
の中は、地球の人類だけでは救われない世の中、ということは決まっているんです。
ちょくれい
それではじめから神さまが直霊と守護神に分かれて、守護神のほうから来たのは守護霊
わけみたま
だし、直霊のほうから分かれてきたのは分霊なんです。内部的には直霊- 分霊ときている。
そして外部的には守護神- 守護霊ときて、それらが四者一体となってこの地上天国をつく
139私は空っぽになった
ることになっているんです。四者一体といったけれど本当は一つなんです。
それを神さまということを知らない人たちは、この肉体人間だけで世の中が平和になる
と思っている。守護霊でもなければ守護神でもなく、肉体の世界だけで、肉体の人間だけ
でこの世界を平和にしようとする。地上天国を創ろうとする。そういう生き方をすると、
かつて斎藤さんが入っていた共産党の主義のような形でなければ出来ないわけなんです。
みんなが平等でなければ、地上天国になりっこないでしょ? 片っ方は金を持っていて、
自動車は三台持っている。もう片っ方は食うに食えない。そういうのが入りまじっていて、
お互いが片っ方をさげすんで「あんなやつなんだ」と思い、「あのヤロウ、自分だけあんな
にタラふく食べてやがって、あんなものつぶしちゃえ」と思う。そういう想いがあるうち
は地上天国など出来やしません。
といって今度は、プロレタリアートが集まって、ブルジョアを引きずりおろして、自分
と同じ位置にしたら、これはズーッと下へさげて生活してゆくわけです。平均点がぐっと
さがってゆくわけです。さがってやっていくとき、形だけ同じ平等になって始めたとしま
i40
す。するとやはり、この中で役員なら役員をつくらなければならない。書記長なり委員な
りが出来なきゃならない。書記長に選ばれた人、委員に選ばれた人は能力のある人です。
やっぱり上があって、下が出来るわけです。
どんな平等にしても、何か仕事する場合、社会を構成する場合には、どうしても上と下
ができるんですよ。そうすると、書記長になった人は威張るでしょ。スターリンだって威
張った。ブルガーニンが黒パン食べてるとは云っちゃいませんね。今のフルシチョフでも
そうでしょ? 上に立った人はやっぱり自由な生活ができる。いわゆる”いい生活” がで
きます。それで下の使われている人は黒パン食べているんでしょう。だからソビエトにな
ろうと、中国になろうと、やっぱり平等じゃありません。精神的に大体平等じゃないです
よ。片っ方は「オイ、オィ」と使うんだし、片っ方は使われるんだから結局は。
そうすると、いかにどんな方法をとってもこの世の中は、地球人類というものはそうい
う平等生活は出来ないんですよ。となれば地球人類が平等になるということは、永劫にな
いわけですよ。地球が本当に平和になったとしても、同じ形の上の平等というものはない
141私は空っぽになった
わけです。どうしても位がつくから、ピラミッド型に上と下ができるわけです。上と下と42
1
いうことは、たとえば人間があります。頭になる人もあるでしょう。耳になる人もあるで
しょう。鼻の人も、口の人もある。手の人もある。足の人もある。みんな頭ばかり、みん
な手ばかりというんでは困るでしょ。何も出来ませんね。
人間の体というのは実によく出来ているんですよね。頭もあれば、口もあれば、目もあ
れば、鼻もあれば、手も足もある。それで足がなかったらどうですか、といったら困りま
すよね。手がなくても困るでしょ。目がなくても困る。鼻がなくても困る。口がなくても
困る。といって「頭なんかいらない」というわけにはいかないでしょ?
「天皇なんかいらない、あんなの捨てちゃえ」と頭をとっちゃったら方角がわからないで
しょう? 天皇があっても治まらないのに、天皇がなくなったら、日本人なんかもうメチ
ャクチャになっちゃいます。そうでしょ。今考えたって、総理大臣を誰が尊敬しています
か? 岸がなろうと、吉田がなろうと誰がなろうと、総理大臣になって悪口を云われない
人はいませんね。総理大臣でほめられた人なんかいないですよ。よく考えてごらんなさい、
誰もいない。
昭和天皇の素晴らしさ
この終戦来、吉田、鳩山、片山その他いろんなのがなりましたけど、誰一人ほめられた
総理大臣はないでしょ。日本人なんていうのは大体そうです。みんなで選挙しながら、や
っぱり自分達の気に入る人は誰も出てこないでしょ? ですから天皇のような形のものは、
けなけな
疑すところはなんにもないんですよ。ないのだけれどわざわざ慶しているだけであって、
けな
疑すところなんかありゃしないです。なんにも自分が無いんだから。自分というものが無
くて、スーッと坐っているだけですよ。
みんなが指図して、時間を決めて「陛下、ここで三十分お話し下さい」「もうちょっと話
したい」「いやお時間がございます」とか、「相撲にもう少し早く行きたいな、十両の終わ
り頃からみたいな」と思ったって、「そんなのいけません」というわけで、もう三役近くに
なって行き、終わって「もうちょっと何か話したい」と思っても、「陛下どうぞ」とくる。
X43私は空っぽになった
自分なんか何もないでしょ? 私はごめん蒙りたいと思います(笑)。「是非」といわれて4
1
も「かんべんしてくれ」(笑)。とてもじゃないが天皇陛下になれませんよ。なれる人があ
ったらお目にかかりますよ。誰もならないから。
が
生まれながらにそういう枠の中に入って、そのまま育っていって、我というものは一つ
わざ
もなくて、みんな他の人の指図で動くのでしょ。あれは出来る業じゃないですよ。「天皇な
が
んかいらない」というけれども、あ㌧いうふうに、全然我のない形でなっていらっしゃる
んだから、ああいうことはとてもできないことだ。あの方はそういうふうになるようにな
っているんです。
吉田でも、鳩山でも、岸でも、総理大臣というのはそうじゃないですね。ふつうのうち
に生まれて、したいことをして、食べたいだけ食べて、やっているわけです。自分の自由
でもって、とにかく会談があったって、よそへちょっと行きたきゃ会談をごまかして行っ
ちゃうかもしれないし、隠れることも出来るし、自由です。ところが天皇陛下は自由でな
いでしょ。自由がないということは、十字架にはりつけになっていることですよ。国民な
ら国民のいう通りに動いているわけだ。国民の代表が集まって内閣をつくっている。その
内閣が宮内庁を管理しているわけだ。その中に天皇陛下はこうやって十字架にはりつけに
なって動いているんですよ。そして一番いやーな終戦のとき、負けて謝る証文を書いたり、
「朕の身は… … 」と投げ出したんです。
つまり、自分の身はいらないから、どうか国民全部を救ってくれ、私はどうぞ死刑にで
も何でもしてくれ、と投げ出すんですよ。はじめから十字架にはりつけになっていて、最
が
後になって国民のために自分の身を投げ出せるというのは、やっぱり我のある人じゃ出来
が
ない。我がない人でなければ出来ない。
総理大臣は投げ出せるか。「私の身を投げ出して」なんていった総理はいやしない。みん
な逃げちゃうだけだ。切腹しちゃえば楽です。自分は逃げちゃうんだから。切腹しないで
が
生き残って「さあ、どうでも」と敵の中へ投げ出せるということは、我があったら出来な
が
いです。そういうふうに、天皇陛下は全部我を投げ出している人なんです。
が
それで、そういう人が中心になったほうがいいか。総理大臣のように、自分が我があっ
X45私は空っぽになった
て、「私の責任じゃない。向こうが悪いんだ」といってどこへでも逃げてしまう、逃げられ46
1
るような人を中心にしたほうがいいか。といったらもう明らかだね。我のない、国民のた
めだけしか思わない人を、中心にしたほうがいいに決まってるでしょ?
そうすると一番いい形は何かというと、日本の天皇制が一番いいんです。たゴ今までは、
から
天皇はまわりのいうことだけ聞いてやってたでしょ。空っぽの器ですから。「陛下こうきま
りました」パチャン。「こう決まりました」パチャン。「このように」パチャンと判を押し
さえすればよかったわけだ。だからまわりに、間違った考えをした人とか、智恵の浅い人
たちが集まっていれば、パチャンパチャンで押していって、しまいには自分は命を投げ出
さなきゃならない形になるけれども、自分のほうから投げ出したから、ちゃんとそのまま
だった。これが神意なんだけれどね。
しかし今後はそれじゃだめなんだ。それは国民の側と天皇の側とが調和していないから、
そうなっちゃったんだ。これからの世の中はどうなるかというと、天皇は十字架のままで
いいんです。国民のままに動いていればいいのです。
政治的な話になったけど、選挙して代議士ができたり、大臣が決められたりすれば、い
つまでたっても、吉田さんが出来、岸さんが出来るだけです。よーく考えてごらんなさい。
どの人間を選んでいいかわかりゃしないんだから。自由民主党を選ぶとしたって、あんな
悪いことをして全然だめだし、社会党を選んだらソビエトと組んじゃってだめでしょ。勿
論共産党はだめでしょ。どうも選びようがない。実際、正直な話、もう選挙なんかするの
はいやですよ。どういうことかというと、まだ芝居が混沌としているところなんです。本
当のものが何も出て来てないんです。
本当のものとは何かというと、神さまが本当に現われなきゃ、本当の政治は出来ないん
です。今までのはもう業の政治なんです。業想念の政治家なんです。日本もそうだし、ア
メリカもそうだし、ソビエトもそうだし、どこもここもみんな業想念の政治をやってるわ
けなんです。
中心に帰一するものが一つもないんですね。ところが日本だけは昔から、中心に帰一す
るというもの、天皇というものがあったわけです。そこへ中心を帰一してきたわけなんで
147私は空っぼになった
カらカ
す。天皇は空っぽで、我がないんだから、そこへ集まってうまく出来るわけです。天皇は
カラッポで我がなかったけれども、まわりが我を出したから、ガーガーガーガーいってパ
ンでしょ(笑)。それで敗れてしまって、我が消えちゃって、皇太子が今度は天皇になろう
としているわけなんだね。
皇太子が天皇になった場合、また国民が我があってガーガーガーいってたら、これは皇
太子もだめになっちゃいます。
なんといっても、世界中で一番いい形はやっぱり中心帰一の形なんですね。フランスを
見たら一番よくわかります。フランスは年中内閣が変わっている。それは世論ばかり聞い
ているから、ヨロンヨロンして(笑) 全然まっすぐに歩けないですよ。それでとうとう強
力なる軍人内閣のドゴールがなっちゃった。それはあまりフラフラしているので「これじ
ゃだめだ、もっと力のあるやつを」という世論でそうなったんです。そういう形は情けな
い形ですね。
日本みたいに、始めから坐わるべき人がちゃんといるんだから、一番楽なんです。それ
148
をみんながいい想いを出して、守っていればいいわけです。そのためには、その守ってゆ
く政治家たちが立派な政治家でなければなりません。ところが今の政治家というもの、代
議士諸公、大臣諸公が神さまのことを本当に知っているかといったら、知りゃあしない。
人間はいかなるものであるかを知らないでしょ。人間はどういうもんだ、日本というのは
どういう国か、ちっとも知らない。
肉体人間は無力
人間は神さまによって創られていて、うしろで守護霊守護神が守っていて、いつでも守
護霊、守護神のいうことを聞いて、まっすぐつながっていれば、間違ったことはしない。
なんてことは知らないんですよ。私の本を読んでいる人ありますか? 〈世界平和の祈り〉
のパンフレットを読んでいる人はありますけど、まともに読んでいかなければ中身はわか
らない。ズーッとみんなに配ってありますから、読んだことは読んだでしょう。だけど
「あ㌧なかなかいいことをいっているなア、ウンなかなかいい」ぐらいなものだと思うん
149私は空っぽになった
ノ
だ。繰り返し繰り返し読んで「本当にこの五井先生のいう通りだ」なんて思っている人は、5。
マアいるかもしれないが、数少ないと思うんです。
どうしてかというと、自分の身、自分の目の前のことばかりが可愛いから、先を考えて
いる余裕がないんですよ。「代議士落っこっちゃ大変だ」「大臣を落っこっちゃ大変だ」と、
代議士なら代議士の、大臣なら大臣の椅子に掴まっているだけなんですよ。だから目を開
いて見る余裕がないんです。それは代議士ばかりじゃなく、この社会の国民もみな全部同
じなんです。
それで私の教えは「自分たちの肉体の人間では何も出来ないんだ」ということをいつも
いうんです。肉体の人間では心臓を動かすことも出来ない。肺を動かすことも出来ないん
だ。眼玉を動かすことだって出来ない。
私、こういうことがあったんです。修行中のある時、鏡を見ていたんです。そうしたら
左の眼玉だけグルグルッと動くじゃないですか。あれっと思って眼をすえてみたんです。
するとまた左が動いている。
大体、鏡を見ていて、自分の眼玉が動くのが見えるかといったら、見えやしないですよ。
両方動いちゃうからね(笑)。それがいつまでたっても左だけ動くんです。私、気違いにな
ったと思った。イヤーな気持ちだったです。その時から自動書記が始まったんだね。その
眼玉を動かしたのは、戦争で亡くなった弟の五郎なんだが、
「兄さん、面白かったねえ」という。こっちはちっとも面白くない(笑)。
「眼玉、動いたろう」というんで「動いた」といったら、
「私がやったんだ」という。
というのは、守護霊みたいになった弟の五郎が、たくさんの守護霊を代表して出てきて、
眼玉を動かしたり、自動書記をさせたりしたんです。渡辺という友達がいたんだけど、そ
ういうのも出てきて盛んに私を錬磨させたんですね。その時、左の眼だけが動いたわけで
す(笑)。
今日帰ったら鏡を見て下さい。眼が動くかといったら、決して動きはしないから。動い
たって動いたように見えない。そうした時に私は初めて「あ㌧眼というものも、自分で動
巧1私は空っぽになった
かしているように見えるけれども、うしろから動かせばどんなでも動いちゃうんだL とい52
うことがはっきりわかったですよ。それから手が動き、足が動き、自然に動き出しちゃつ
たんだね。私は、操り人形だよ。
その時初めて「あ㌧人間というものは肉体じゃないんだなあ」ということを、しみじみ
感じましたね。人間は外からのもの(背後のものともいいます) 或いは内からのもの、そ
れが動かしているわけです。リューマチなんかになったら動きはしないですよ。神経痛だ
ってそうだ(笑)。動こうと思ったって動かないときがあるんですよ。
いのちが生きること
眠っている時が一番わかります。眠っていても心臓は動いています。その心臓を動かし
ているのは誰か。自分では無意識でしょ。無意識な時に動かしているものが、一番力があ
るものじゃないですか? 心臓、肺臓、胃腸など、みんな無意識に動いていますね。無意
識に動かす力というものが動かしているわけでしょ。それがいわゆる生命です。ふつう
わけみたま
“神様
” といいますね、それがこの中(自分) に入っています。それを私は分御霊のいの
わけいのち
ぢ、分生命というわけです。
神様から分かれたいのちがこの中にあって、それで心臓を動かし、肺臓を動かし、その
他のものを動かしている。それがいうことをきかなくなってしまえば、病気になって死ん
じまうわけでしょ。そうすると、この動かしているものと、自分の頭で考えているものと
が一つになれば、肉体は自由にどうにでも動くわけです。それを今この中で心臓を動かし
肺臓を動かし、頭脳を動かそうとしているものと、人間は肉体だと思っている業想念とが
バランスがとれなくて、自我欲望の多い人はバランスが崩れている。
バランスが崩れてしまうと、病気になり、不安になり、貧乏になり、怪我をしたりいろ
いろなるわけです。それで五井先生になっちゃうと、五井先生というのは何かというと
「神様の集まったもの」という意味なんです。肉体のこれは形は皆さんと同じです。生ま
なか
れたのはお母さんのお腹の中からです。天から降ってきたんじゃないんですよ。ちゃんと
なか
お母さんのお腹から生まれたのです。キリストだってお釈迦様だって、ちゃんとお母さん
153私は空っぼになった
のお腹から生まれたに違いない。腋の下から生まれたとかいっているけれど、それは偉く
見せるためにいうんであって、本当はちゃんとお腹から生まれてきているんです。
生まれて来た時は、あたり前の人間なんですよ。肉体が生まれた時は誰も同じなんです。
同じものが、一方で三十才で解脱してしまう人もあり、他方ではいくつになってもそうな
らない人もある。真理に会わない人は、九十九になったって、そのまま肉体は肉体であっ
て、神様とは何か考えない、霊魂のことも考えないで、死んでしまう。死んだ先でもって、
暗闇の中でウロウロ歩き廻っている。
この世の中にはたくさんいるんです。死んでから先、あの世というところへ往って、真
っ暗の中であてもなくさまよい歩いている人は、ずい分いるんです。その人たちが「うち
の伜は?」「うちの娘は?」なんて思うと、スーッと伜や娘のところへ来るんです。そうす
つ
ると障りということになって、慧かれたほうが「先生、なんとかして下さい」と来るわけ
です。私がパンパンパンと手を叩くと、さわりがサーッと浄まって、それで元通りになっ
て「先生、私、軽くなりました」ということになるわけです。154
だから九十まで生きたってだめなんだ、ただ生きているだけじゃ。それは生存している
だけで、本当にいのちが生きているんじゃないんです。私みたいなのは、いのちがうんと
生きてるんです。私の手相をみせるとわかるけれども、生命線というのが実にくっきりと、
彫ったようになってます。生き生きとしているもんだからそうなっています。手相も違う
すご
んですよ。それは何かというと、いのちをそのままに、さわやかに健やかに、皆さんのた
めに生かしているからです。
この個人の五井昌久なんていうものは、三十で死んじまったんだからね。「さあ神様差し
上げます。どうか神様の御心のままに神様のお仕事に使って下さい」と投げ出した時に、
「お前のいのちはもらった」と貰われちゃったんだから。だから向こうさんの言う通りな
んです。
地球大掃除のとき
大神様というのは宇宙万般をとりしきっている。金星も動かし木星も動かし、太陽系ば
i5ラ私は空っぼになった
かりでなく全宇宙を動かしている大神様です。だから大神様が直接人間に働いている、と56
1
いう宗教がよくあります。それは嘘なんです。そんなことは絶対ない。地球界の人間に働
くのは、地球界に働く神様、守護神がやってるわけです。それを間違えてはいけません。
よく宗教家が「ただ神は一つなり、宇宙神である」と簡単におっしゃるけれど、なに云
ってんだ。宇宙神はどれだけ広いものかわからない。無限に広いものなんですよ。よく考
えて下さい。太陽が一つあります。太陽のまわりを地球や金星、木星などがあります。太
陽系宇宙は銀河系宇宙のはじっこにあります。そうした銀河系島宇宙が十二集まったもの
がある。それがまた十二集まって宇宙をつくり、更にその宇宙がまた十二集まったものが
更にまた十二集まって… … というようなものが無限にあるんです。その限りが無いものを
チャンと運行させているのが大神様でしょ。よく考えてみると大きいんですよ。地球だけ
のことを大神様みずからやりませんよ。地球を運行支配しているのは地球霊王というので
す。しかし地球霊王だけでは、地球の人類は業想念があんまり深く積みすぎて、間に合わ
ない。そこで太陽系の金星の霊王とか、火星の霊王とかいるんですが、その中で金星が一
番優れているんです。一番先に人類が進化したわけです。その霊王つまり長老ですが
ーが来て、「さあ、地球人の手助けをしよう」という形になって、今、働いているんです。
今までも働いていたけれど、そんなに積極的に働いてなかった。何故かというと、業が
深くて、業が一杯積もっていて、中の光が出てこない。掃除するにしても、畳の目にうん
とごみが入ってるうちは、パンパーンと叩かなくてはきれいにならない。叩いて、ほこり
が出て、それから掃くわけでしょ。今、さかんに、パンパーンと叩かれて、それで戦争が
おこったり、いろんな革命がおこったりしてきているわけです。戦争がおこり、革命がお
こったことは、その時は嫌だけれども、今になってみると、ほこりが叩かれて外へ出てき
かわ
たわけです。いよいよ地球の上っ側へ出て来た。そこのところで、今度は守護神が全部総
働きに働いて、それこそ火星、金星、土星の長老たちが集まって、地球界に働きかけて大
掃除するわけなんです。
大掃除の本当の主体は地球人類でなければならない。地球の人間が大掃除をしなければ
ならないんです。ところが地球の人間だけでは大掃除が出来ないんです。ごみがいっぱい
157私は空っぽになった
たまりすぎて、ごみが動かないんだ。掃けども掃けども、あとからあとからごみが出、垢58
が出てきてだめなんだ。そこで金星や他の太陽系の星に住んでいる守護神たちが出てきて
「サアやろうく」と応援してくれて、これから大掃除をし、地球を本来ある神様のみ心
のように現わそうとしている。
神のみ心、本当の悟り
〃神様のみ心
” というのはどういうものかというと、やっぱり中心帰一の一つの底辺が円
形のピラミッドなんですね。それが今出来るようになっているんです。それには皆さんの
一人一人が、ふつうの今迄の人間のように、肉体ばかり大事にして、肉体だけ後生大事に
守っていたんではだめです。いいですか。よく考えて下さいよ。後生大事に肉体だけを守
っても、八十になったら死ぬんですよ。せいぜい九十ぐらいで死んじゃうわけです。肉体
だけ守って死んでゆくと、迷ってしまう。つまり暗い中をただ歩いて、行けども行けども
野原ということになる。誰にも会わない、無人の野原ばかりを歩いているような人がいる
んですよ。そういう生活をするんです。
そんな地獄なんて無い、と思っているけれどあるんです。皆さんは行きませんよ。何故
かというと五井先生という信仰を持っているから。そんな所へ行かせませんよ。五井先生
がチャンと引っぱってくれますから、皆さんは大丈夫だけれども、そういうのがあるんで
すね。それだけを越えたって、まだだめなんです。まだ個人だけが生きているだけですか
ら。
いのら
本当の悟りというのは何かというと、自分は神様の子なんだ、神様の生命の分けられた
ものなんだ、ということがわからないと、悟りにならないんです。だから今までの修養で、
つつし
短気をつつしんで、妬み心をつつしんで、すべてをつつしんで… … あまり眞んでばかりい
て、まじめな固いカチカチな人間が出来ている。ところが本当に短気がなくなったんじゃ
なく抑えているだけなんです。本当に妬み心がないのかというと、ないんじゃなくて恥ず
かしいから抑えているだけです。
ですからそのように修養したり宗教をやったような人が、案外に、この生きてる世の中
159私は空っぽになった
でつまらない生活をして、いつも慎んでばかりいて、酒も慎み、タバコも慎み、慎み通し
になって小さくなって生きている人がいるんです。そしてその人は天国へゆくかというと、
行かないんですよ。私はジーッと観ているけれど、慎んでばかりいて生きている人が天国
いのらいのら
へ行くかというと行かないんです。何故かというと、生命を生かしてないからです。生命
まで慎んじゃっている(笑)。神様の子なんだから、もっと自由にのびのびと生きりゃいい
いのらいのろ
でしょ。生命をのびのびと生かす。のびのびとすることが要するに、生命が生きるという
ことです。
赤ん坊をみていると、よくわかります。赤ん坊を抑えるといやがりますよ。なぜかとい
うと、いのちがのびのびと生きないといけないから。足と手を年中動かしてますよ。なぜ
かというと、いのちが躍動してるんです。それを抑えようとは赤ん坊は思わないでしょ。
ところがふつうの大人になると、蹴とばしちゃ悪いから一寸足を縮めるけど、赤ん坊は
蹴とばしたって平気です。だから赤児の如くなれ、というんですね。宗教家は”赤児のよ
うな心になって生きなさい” というでしょ。そうすると「そうか、オレはオッパイをのみ
i60
たいから、ひとつきれいな娘さんの所へ行こう」そういうんじゃない(笑)。業のほうでは
なく、いのちを赤児のように素直に生かせ、ということなんです。
私は昔、思ったんだ。「赤児のように素直に生きうという。そうすると、こうやって遠慮
したりするのはいけないのかな。赤児のようになろうか」と。けれども出来なかった。な
んでもいいたいことを云って、泣きたい時泣いて、というようにやってみたら面白かろう
と思ったけれど、とうとう出来なかった。どういうことかというと、心の中に良心という
ものがあり、知性というものがあるからね。この知性は神様からきているんですよ。良心
も神様からきているんですよ。だから出来ないんです。
“赤児の如くなれ
” というのは、いのちを素直に、いのちのまま伸ばして生きろ、という
意味です。だんだん大人になって教育も受ける。いろいろ出来てくると頭が出来てきます
ね。頭が出来てきたら、いっぺん頭にあるいろんなものを捨てちゃうんです。全部神様の
ヴ
中に入れちゃって、いのち素直に生かさなきゃならないんです。
よく「神様にまかせろ、といったって、まかせはするけど、どうやって生きていいかわ
161私は空っぽになった
からないL という人があるけれど、それはウソです。神様に全部まかせると、神様のほう62
から自然に動かされます。私がその体験者だからね。私は肉体の五井昌久という者は全部
まかせちゃって”五井先生” となった。
救世の大光明の働き場
五井先生というのは何かというと、五というのは七五三というように、中心なんです。
そういう姓に自然になっているわけです。これはこの五井昌久という肉体のことをいうん
じゃないですよ。間違えちゃいけません。肉体は仮に五井先生という名前で現われている
けれど、救世の大光明が働いてゆく一つの場所なんです。だからこういう人が他にもいる
わけです。そしてそういう人たちが協力して手をつないでゆくんです。みんな他にもいて
やっているんです。そして私は五井昌久という名前なんだね。そして五井先生という神様
が集まった場所なんです。これは私が云うと変だけど、遠慮しないで云うとそうなんです。
いろんな神様が集まっています。キリストも来てます。お釈迦様も来てます。
イエス・キリストはイエス・キリストで役目があってそうなった。お釈迦様はお釈迦様
でそういう役目があった。弘法大師は弘法大師で役目がある。法然は法然で役目がある。
親鸞は親鸞で役目がある。出てきた人はみんな役目があった。しかしからっぼです。みん
な自分のことなんかありません。自分のことはなくて何か人のため、ということだけを考
えている。もう人のためさえも考えないかも知れない。ただふわーっと生きている。生き
てると、神様仏様がその体を使って働かせたわけです。
アミダ
親鸞の場合は阿弥陀様が働かせたわけです。阿弥陀如来が親鸞を使ってやった。だから
親鸞即阿弥陀如来であり、法然即阿弥陀如来なんですよ。親鸞と阿弥陀如来、法然と阿弥
陀如来が別なものではありゃしない。法然、親鸞というものは阿弥陀如来なんですね。阿
弥陀如来が使って生かして、阿弥陀様の「ナムアミダブッ」を広めたでしょ。阿弥陀様に
帰一するという教えを広めました。それは法然、親鸞がもう阿弥陀様なんですよね。そう
いう意味で、五井先生というのは大救世主なんですね。この肉体が救世主だ、といってい
るわけじゃないですよ。お間違いのないように、念の為。
163私は空っぽになった
ただ皆さんとしては、大神様という宇宙神、唯一なる神を「神よ神よ、宇宙神よ」とい64
1
うよりも、先に宇宙神につながった者、道を開いてくれたところへついていったほうがい
いですね。科学というのがあります。科学は前人の経験をその次で生かして、それでまた
伸びてゆく。更にまたその経験を生かしてまた伸びてゆく。たとえば飛行機なら飛行機が
出来た。初めはこんなふうに飛んだ。今度はこうしたらいいだろう、と改良して改良して、
前の経験を重ねて、それでだんだん素晴らしいものが出来てゆくでしょ。
人間は日々新生
それと同じように宗教もそうしなきゃいけないんですよ。それが今迄の宗教はそうしな
かったのです。前の経験を生かさないで、また全然別にやろうとする。別に滝にあたり、
また全然別に海に入って大修行して、難行苦行して、また前と同じことをしているんです
よ。いつまでたっても前の人がやったことをやっているんですよ。
前の人が何十年もかかってやったとします。それで聖者になったとします。次の人がま
た前の人と同じことをやったら、やっぱり何十年かかるじゃないですか。そして同じとこ
ろしかいかない。また次の人が同じことをやったら、同じ所しかいかないでしょ。そんな
バカなことをやったらだめなんですよ。私は過去世からつづいて、前の世から前の世から
やってきたことでもってこうなった。それはどうしたかというと、神様に全部想いを返し
ちゃったんです。みんな返しちゃった。
業想念も何も、悲しいも恨めしいも妬ましいも、欲望もすべて”神さま!” と神様一人
に返しちゃった。返したら神様のお力が、み心がこの中に入ってきて、そのまま自然に動
くようになったんです。だから私が手をひとつふるんでも、足をひとつ動かすんでも、一
つしゃべるんでも、みんな神様のお言葉であり、お力なんですよ。それをハッキリ自分で
知っている。
こうしてしゃべっているんだって、肉体の頭の中では何も考えちゃいません。冗談一つ
いうんでさえ考えてないです。向こう(天) の力が私の頭の中にあるものを使って、自由
にしゃべっているだけであって、何もこちらの肉体の生まれて三十歳になったというもの
16ラ私は空っぽになった
とは関係ないんです。
たとえば斎藤秀雄という人がいます。斎藤秀雄が未熟児で生まれ、ビンの中で育って今
日の斎藤秀雄になるまでに、斎藤秀雄というのは全然違っているんです。共産党にいた斎
藤秀雄と世界平和の祈りの会の斎藤秀雄と全然違うんです。別者です。同じものじゃない。
ただ名前と体が同じようだから、同じだと思うと全く違います。斎藤秀雄は五井先生のと
ころに来て、パッと変わっちゃった。違う斎藤秀雄なんです。
きょロつ
人間という者は、一瞬一瞬違っているんです。きのうのあなたは今日のあなたじゃない。
あしたおととし
今日のあなたは明日のあなたではないんです。まして去年の、一昨年の、先おととしのあ
なたとは全然違う。全然違うものが毎日毎日生まれる。だから日々新生というんですね。
きのうどんな悪事を犯そうと、悪事を犯した自分と今「あ\ そうじゃなかった、神様にお
返しするんだ」という今の自分とは違うんです。前の自分は消えてゆく姿です。今の自分
は神様につながっているものです。全然違うんですよ。
それをいい人、良心的な人といわれる人は、いつまでもく自分のやった屍でもないよX66
うなことを海やむ。「きのう隣のおかみさんに悪いこと言っちゃった。あ㌧悪い悪い」と言
って一年ぐらい覚えてる奴がある。いいじゃないの悪口くらい言ったって。それは消えて
ゆく姿です。悪い人は平気ですよ。「なんだいあのヤロウ、バカヤロウ」なんて平気ですよ。
人殺ししたって平気なヤツもいるんだからね。ところが良い人になると、ちょっと悪口言
っても、ちょっと誰かの…機嫌を損ねても、いつまでもく屍でもないようなことを掴まえ
て持っている。
「私あの人に面目なくて会えないんです」
「どうしたの」
「おととしの何月何日にこんなことを云っちゃった」なんて、向こうはとっくに忘れてい
ますよ。それを自分のほうで覚えていて「あの人に会えない、あの人に会えない」と云っ
ている。よくあるでしょ。女の人なんか特にある。どっちだっていいよ、そんなものは。
それは今の自分と関係ないのです。
昨日の自分と今の自分とは何も関係ないです。いいですか。片方は因縁性の消えてゆく
167私は空っぼになった
姿であり、こちらは神様につながっている縦の線の神の子です。「神さま! 神さま!」と
思って神様に全部任せてある自分というものは、きのうの自分とは違うんです。それを覚
えて下さいよ。おとといはどんな悪いことをしようとも、もうどんな悪い人間であったろ
うとも、そんなものと、今の「神さま! 五井先生!」と云っている自分とは違うんだ、
ということを私は自分で体験したんです。
神様の中に入りきった
私が三十歳まで清浄無垢で、何も悪いことを一つも考えなかったかというと、そんなこ
とはない。きれいな女の子を見りや「あ㌧デートしてみたいな、連れ立って映画でも観た
いな、音楽でも聴きたいな」と思ったことは随分ありますよ。「あ㌧あのライスカレi食い
たいな」と思ったこともあるし、「あの憎らしいヤツ、やっつけちゃおう」と思ったことも
ありますし、人を殺しちゃった夢を見たこともありますよ。「あのヤロウ憎らしい、やっつ
けてやるから思い知れ!」と思ったら、人殺しそうになって追っかけたような夢も見たこX68
とがあるんですよ、前にね。そういう風に、何も悪いことを思わないで生きてきたわけじ
ゃない。
お釈迦さまだってそうです。何も悪いことを思わないで、それで聖者になったわけじゃ
ない。何でもしたんです。私よりよっぽどやったよ(笑)。お釈迦さまは王様の子だけれど、
占者が「この王子はもしかすると出家するかもしれない」と王様に云ったら、王様はびっ
くりして、この王子を宮中に止めておこうと思い、なんでもかんでも歓待して、美人をは
べらせたり、ありとあらゆる王子のわがままを許したわけだ。だからいろんなことをして
るわけですよ。でもいくらそんなことをしても、魂が清いからあきちゃうわけです。しか
しやらなかったかというと、やったわけです。ちゃんと奥さんも貰った。それで奥さんも
捨てちゃった、子どもも捨てちゃった。奥さんを捨てたり、子供を捨てることはいいこと
じゃないよ。ちっともいいことじゃない。だけどそれにもまして、仏になってみんなを救
ったということがいいことでしょ。だから奥さんを捨てたことや子供を捨てたことが帳消
しになっちゃったんですね。
16g私は空っぽになった
それが仏になってから「あ㌧わしは妻を捨てちゃった、あ㌧わしは子どもを捨てて何と
7・
1
いう… … 」なんて思ってたら、お釈迦さまできやしない。みんなきれいでさっぱり〃それ
は消えてゆく姿” とやったわけですね。それでお釈迦さまは仏になったでしょ。「我は最勝
最智の如来なり」と自分から云ったんだから。度胸がいいよ実際(笑)。私なんか遠慮ばか
りしている。「肉体の私は天の… … 」なんてバカ云ってるけど、これは気が弱いからなんで
すよ。お釈迦さまみたいに「我は仏なり」と云えたらさぞかし気持ちいいだろうと思うけ
ど、なかなかそうは云えないです。お釈迦さまはやっぱり偉いんだねエ。
私のほうが今生においてはお釈迦さまより悪いことはしなかったんだ。だけど人間とし
て、肉体として生まれてくれば、必ず誰でもが同じような想いをするんです。その想いか
らいかに早く解脱するか。どんな悪い想いがあってもそこからパッと神様の世界へぬけち
やって、自分が想いごと全部神さまの中に入っちまえば、これはスーッと消えてゆくんで
すよ。報いは来るかもしれませんよ。来たってそんなもの問題じゃない。報いさえも消え
てゆく姿。いろんなことが消えてゆく姿として行っちゃうわけです。自分はいつまでも神
の中にいるわけです。
善に把われてはいけない
私がここにいます。そうすると皆さんが「お腹が痛い」と思うと、お腹の痛いのがここ
へ来ます。胸が痛いと来ます。悩ましいと来ます。「先生、助けて!」と危ない時一番深く
思えば、顔がそのまま現われて来ますよ。すると私のほうがパッとそれを受け取ってやる。
するとそれだけちょっと悩む時もある。寝ていて足がつっちゃう時もある。いろんなこと
がありますよ。あるけれども、それを掴まえてはいない。可哀そうだなあと思いますよ。
「あ㌧あの人を救ってやらなきゃ可哀そうだなア」とも思うけれども「可哀そうだく」
なんてやってやしない。それでしたら一人きりしかやれないから。あとから来た人はつぶ
されちゃうもの。可哀そうだな、パッ、そのままでしょ。そうするとそれが消えてゆくわ
けです。光だからね。
「可哀そうだくく」といつまでもいっているのは、いかにもいい人らしいよね。”い
171私は空っぼになった
い人” というのは自分のいい心に酔っちゃうんです。そして「自分はあの人のために泣い
72 1
てやった」とか「可哀そうだ」といって本当に泣くんだ。泣いていると自分で感激しちゃ
って「あ㌧私はいい人なんだ、あの人のために泣いてやった
」と思う。バカなこと云うな
というんだ。それは迷いなんです。泣いてやってもいいんですよ。あっさり泣きゃいいん
ですよ(笑)。「ほんとうに気の毒に」と泣いたとたんに、パッと光にならなきゃだめです
よ。初めから泣かなきゃだめですよ。初めから泣かないで「実は私の子供が死にました」
「あ㌧それは消えてゆく姿だ」(笑)。これはもうバカなんです。生悟りというんです。
向こうが悲しんでる時に、こっちが喜ぶわけにはいかないですよ。悲しんでいる時には
悲しみがピーッと来るから「あ㌧悲しいだろうな」と思いますよ。「あ㌧お気の毒に」と思
います。そして時には泣きます。けれどいつまでも泣いちゃいません。泣いても、あ㌧そ
れは消えてゆく姿と、口には出さないけれど心の中で思っている。悲しんでいる者を悲し
んだまま自分の中にいだいて、スーッと上へあがっていかなきゃ菩薩にならないです。そ
れを云うんです。
ふつうのいい人というのは、皆そうなんですよ。よくよく耳をほじくって聞いて下さい。
思い当たるから。私がそうだったんだから。
自分だけが幸福でいるとする。そして貧しい人、困った人がたくさんいると、「あんな困
った人がたくさんいるのに、私はそんな贅沢していていいのかしら」といって胸を縮めて
いる人があるんです。いい人はたいがいそうなんです。「私だけ幸福で… … 」なんて。この
頃少し悟ってきたからやらなくなりましたけど、初めそうですよ。「こんなに貧しい人がた
くさんいるのに、私はこんな楽なことをしていいのかし・ら。何とかしなきゃ」といってま
した。私が前にやっぱりそうでした。自分だけがいいということが、なんだか人に悪いよ
うな気がするんですよ。
自分がたとえばタクシーに乗るとする。こっちは急いでいるから、狭い路地の中をずっ
と入っていくんです。すると前にいた人が車をよけるでしょ。そうするともう申し訳なく
なっちゃうんだね。「ごめんなさい、ごめんなさい」私、自動車の中で頭ばかり下げてるん
です。この頃はそれが嫌だから乗らなくなった。実に気持ち悪いんですよ。追い越してく
173私は空っぽになった
というやつは。広い通りはいいですよ。銀座通りなら平気な顔して乗っていられる。けど
かなまら
金町あたりの狭い所を、歩いてる人を追い越す、道の悪いときなんかは追いのけて行くん
だからね。ほんとに気の毒ですよ。しかも泥がはね返るんだから。こっちははね返らない
からいいけど、向こうははね返るでしょ。そうすると悪い気がしてく頭下げ通しで行く
ようなんですね。
私、昔、金町の会へ行った時、自動車で行ったけど面倒くさくなって、いやになっちゃ
たんだ。そういう気持ちが自分の中にもあるんですよね、皆さんの中にもあるんです。し
かしそれはつまらないことなんだ、本当は。どっちが大事かということね。自分の使命な
ら使命が大事だったら、その時は「ごめんなさい」と思っても、そのまま通ってもいいわ
けなんだ。皆、そういう気持ちがあるでしょ。平気な人はないんですよ。
だから私がよく言うんだ。宗教家が自動車を二台、三台持ち、平気で乗っていられると
いう度胸は大したもんだよ。あれは悪度胸だよね。貧しい世界があって、自分より貧しい
人がたくさんいて「気の毒だなア」と思う。思いながら、しかも「よし、自分が浄まって、
174
この貧しい人たちを救おうL というので、自分が神様の中へ入っちゃって、サァーッと光
を方々に配りて歩いて、その貧しい生活をよくするように浄めていくほうが、菩薩行でし
ょ。それを私いつも思うんです。
だから皆さんは把われちゃいけません。「過ちを悔ゆるはよけれ悔いのみに生きるいのち
は愚かしきもの」という私の歌があります。それと同じように、想いというものはいつで
もくパッパッく放してるわけなんだ。ところがなかなかうまく放せないんですよ。そ
こで「神様!」というふうに放すんですよ。ところが「神様!」ともなかなか思えない。
神様といっても何かピンと来ない時があるんですね。そこで皆さんは、私に縁があるんだ
から、私の「世界平和の祈り」に入ってもいいし、世界平和が間に合わない時は、五井先
生でもいいと思うんです。
皆さんは、斎藤さんのいったことをそのまま受けていいんですよ。こちらの五井先生と
しては言い訳をするけれども、皆さんは斎藤さんの言ったことをそのまま受けたっていい
と思うんです。
175私は空っぽになった
前々の世からの縁
皆さんは私に縁があって、五井先生という人に縁があって、世界平和の祈りの会に縁が
あって、前の世から前の世から縁があって来ているんです。いいですか。それからどこか
の人はどこかの偉い人がいて、そこへ縁があって行ってるかも知れない。またどこかの人
はどこかに縁があって行ってるかも知れない。それはどうでもかまわない。縁によって結
ばれて、縁によってともに浄まってゆく。それで皆さんはもう五井先生に会ったんだから、
皆さんにとっては五井先生以上の人は絶対いません。どこを探したって、世界中探したっ
て、皆さんに五井先生以上の人はいないことは断言します。私より下がるに決まってる。
これは私はっきり言います。
なぜ下がるかというと、私は無いから、何にもないんです。いつも斎藤さんが云ってい
るように「何もない」んです。だけどふつうじゃ五井先生というのは、ちょつとわからな
い。斎藤さんはどうしてわかったかというと、私の中に入って来たんです。私の中に入っ
i76
てきたというのは、私の働きの中へ全部入って来ちゃったんで、それでわかったんです。
それまではわかりませんよ。外から見てたんじゃわからない。中へ入るとわかる。
よく斎藤さんは「先生はどういうふうな頭なんですか。ちょっと頭の中を見たい」とい
うんです。だから私は「頭の中はからっぼだ」というんだ。からっぼというのはバカと同
じですよ。大バカなんだね。肉体的にみれば私なんか大バカなんですよ。というのは何も
無いんだから、この中に。からっぼなんだ。ちょうどこの部屋みたいなものですね。から
っぽで何があるかというと、私の一念があるだけです。「神様にお任せした」という「どう
みわざ
か私のいのちを神様のみ心のままに使い給え。神様の御業のままに使い給え」という一念
があるだけなんですよ。「神様にみんなあげた」という一念があるだけなんですよ。それだ
けがあって、あと何もないです。
たかみくら
その一念がのぼって神様の高御座の中に入っちゃったわけだ、全部ね。入っちゃったら
何もないですよ。あと何もない。”何を飲み、何を着んとて衣のこと思い煩わず” で、自分
のことは何も思い煩っていることはない。思うことは何かといったら「みんなが幸せであ
177私は空っぼになった
りますようにL ということだけです。「あそこの誰が病気だ。早く治るように、あ㌧大丈夫
78
く」「何の誰かが… … あ㌧大丈夫く」「きのう手形が… … あ㌧大丈夫く」というふう
な想いしかない。
私はからっぽになった
何もないということは、私だけしかわからないわけ。ところが斎藤さんは中へ入ってき
てわかったんです。「先生というのは何もないんだなア」と。それを斎藤さんはわかった。
村田さんも大体わかってる。大体わかってくる人がずい分あるんです。何もないというこ
とは、何でもあるということなんです。だから宇宙大に大きいということなんです。
植芝先生なんかハッキリ云いますね。「自分は天御中主神になった」ハッキリしてますよ
ね。あれだけの歳になると、あれだけのことが云えるんです。八十になれば、みんな自分
あめのみなかぬしのかみおおさるたひこ
より若いんだから「わしは天御中主神になった。大猿田彦じゃ」と云ったって何でもない
んだけど、ちょっとこっちは肉体的に年が若いから、少し遠慮するんですよね。十二歳も
二十四歳も年上の人がいるからね。少し遠慮して言うと、「私はからっぽになった」と云う
わけです。
からっぼになったということは、神様はここ(体をさす) の中にいるということなんで
すよ。皆さんもそうなんです。皆さんも神様に全部いのちを投げ出して「神様! どうか
私のいのちをお使い下さい」と言った時には、一念でそれでもう神様になったんです。い
いですか。それを思いなさいよ。自分の体はどうなっても構わない、とか何とか、そんな
こと思わなくていいんです。それは余計なことなんだ、どうなっても構うんだからやっぱ
り(笑)。
そんなことを云うんじゃないですよ。「神様のみ心のままに私を使って下さい」と投げ出
すんですよ。「神様にいのちを捧げます」というんですよ。そうすると、この一念ーこれ
が一念の念仏なんですーをしたら、もうあとはいいんです。あとは余計なことを何も思
わなくていいんです。ところが思うんです。「神様のみ心のままに」といった途端に「あし
たの米は」「あしたどうやって暮らそうか」とか「子供の運命は」とこう思うんです。それ
179私は空っぽになった
は任せてないからなんだ。み心のままにさせたなら、み心のままにさせとけばいいじゃな8・
1
いですか。なぜ明日は、と思うんだろう?
私は正直なものだから「神様!」と投げ出したら、そのまま投げ出しちゃったんだ。あ
と何も思わなかった。「神様ありがとう、神様ありがとう」しか思わなかった。
何も思わなかったからこうなったんです。神様だけを思ってたから。神様を十何年も思
えば、たいがい神様になりますよ。他のことは思わないんだもの。だから皆さんも、他の
ことを思う必要はないんですよ。「神様!」と任せてね。皆さんの場合は、五井先生が先に
そういう道を開いてくれたんだから「五井先生!」といいさえすれば、そのままスッと入
っていけるわけでしょ。
入ったら入ったままでいいんですよ。入ってからまた何かを思うから面倒くさいんです
よ。「五井先生、といってるけども、まだなかなかよくならない」というのは余計なことだ。
それなら初めから思わないで、いわれるだけのことをやったらいいですね。五井先生も神
様もないから、やりたいだけのことをやってみるといいと思うんですよ。ところがやりた
いだけのことを、やってみる勇気もないんだ。そういう中途半端ではいけないから「五井
先生!」と思ったら、「五井先生!」でいく。なんでもいいから、そのままパッと飛びこむ
んですよ。飛びこむと、天御中主神の中へ入っちゃうんです。
くりつ
天御中主神というのは空のことです。だから天御中主神のまん中なんだよね。そうする
と天御中主神が出てくるんです。本心が輝き出てくるんです。ですから誰も一人一人が天
御中主神であり、天照大御神なんですよ。あなたもあなたも、一人一人がみんな天御中主
あめうきはし
神になると、天の浮橋に立つと、からっぼになると、神様に全部任せると、中の神様であ
る天照大御神がバーツと出てくるんですよ。タネもしかけもないんです。秘訣もない。任
せるだけなんです。
任せるんだけど、ふつうじゃちょつと神様がないでしょ。ところが今度はここにいるで
しょ。科学の進歩と同じように、先にやった人たちがいるんだから、その先にやったいろ
んな人が「五井先生!」といって、みんな救われていますね。そういう人がいるんだから、
科学的な体験が出来てるんだから、ただ「五井先生!」と思えばいいわけですよ。そうす
181私は空っぽになった
ると南無阿弥陀仏と同じになるんです
82 1
おそらく法然や親鸞がいた時には、みんな言葉では「南無阿弥陀仏」といったけど、い
つでも法然、親鸞のことは胸に描いて「法然さんナムアミダブツ」「親鸞さんナムアミ
ダブッ」といったに違いないと思うのです。「五井先生世界人類が平和でありますよう
に」とみんながやっているのと同じことです。「法然さんナムアミダブツ」「親鸞さん
ナムアミダブッ」というのと、「五井先生世界人類が平和でありますように」というのと
同じなんですよ。それをやればいい。
法然が生きていた時のように、親鸞が生きていた時のように、みんなが救われていった
わけです。死ぬ時にいい顔をして死んでった人が随分多いんです。ところが法然、親鸞が
亡くなったあと、大したことない弟子に「なむあみだぶつ」を教わった人は、みんな無残
な顔をして死んでった、と日蓮が云ってますね。それで日蓮にやられちゃったわけなんで
すよね。
任せなさい
ところが現在、ここにちゃんと体験者がいるんだからね。「五井先生なむあみだぶつ」
「五井先生世界人類が平和でありますように」とやればいいんですよ。そうすると五井
先生と世界平和と一つにつながって、それで皆さんは一念の念仏になるわけです。だから
任せりゃいいんです。ところが今まで〃任せなさい、任せなさい” と云ったって、任せて
責任を負ってくれる人がいなかった。
お任せというのは、だからとてもむずかしかったんです。今までのお任せぐらいむずか
しいものはなかったですよ。任せる対象が誰もいないんだから。
ほんとは誰でもいいんだ。少し嘘でもいいから「私に任せなさい」と云ってくれりゃ、
それに任せて、なんとか向こうへいっちゃうんです。ところが「私に任せなさい」と言っ
てるやつがよろめいてるでしょ。だからだめなんですよ。
しかし任かせたほうは救われますよ。たとえその人が悟ってなくて、それでも「私に任
183私は空っぽになった
せなさいL と云ったとする。「お任せします」といって全部その人に任せたとすれば、任か84
1
せたほうは救われます。悩みがなくなるから、悩みを人に任かせちゃうから。そういう人
は天へいっちゃいます。「任せなさい」と言った人よりも上へ行っちゃうかもしれない。
私の場合は、現にここにいる。そして自分が体験してるんです。体験したことを実際に
味わった人もたくさんいるんです。「あ㌧五井先生はそういう体験をしてるんだなア」と味
わった人もたくさんいます。村田さんが私をみるとします。私がいなくなっちゃう。肉体
くコつ
の感応が全然なくなっちゃった。それで「先生は空だ」と思うんですね。
私の想いなんかどこにも見当たらないです。いろんな行者が「五井昌久」と聞くと、そ
れは見えないです。何故見えないかというと、そんなもの居やしないもの、三界の世界に
いないんだから、四界にもいない、五界にもいない。ずーッと上のほうへ行っちゃってる
から、いくら探したって見えないです。五井昌久を恨み、ねたんで祈り殺してやる、とい
ったって、どこへもさわって来ない。相手がどこにもいないんだから。からっぼの中に向
かって来たって、太陽の中に矢を射ったって、なんにもならないでしょ。
それと同じようなもので、こっちは任せきったんですよ。だからそこへ入ってくればい
いんですよ。「五井先生世界人類が… … 」と云って入ってくりゃいい。そうすると天照大
御神のお光が皆さんの上に流れていくんです。
皆さんは自分が天御中主神なんです。自分の体が高天原なんだ。天御中主神は”からっ
くロつ
ぼ” ということ、空になることです。空になるためには、一つの目標に向かって、自分の
想いを投げ出してしまうことです。「神様!」というのもいいけれど、神様はなかなか掴み
にくいから、五井先生! と思いながら世界平和の祈りの中へ入っちゃうんです。
もう悲しいことがあろうと、妬み心がおころうと、自分はだめだなアと思おうと、あ㌧
世界はだめだなアと思おうと、そんなことはどうでも構わないから、その想いのままで世
界平和の祈りの中へ入っちゃうと、天御中主神になるんです。そうすると、天の真ん中か
ら太陽が、天照御大神の光がパーッと出るんですよ。すると本心が開いてゆくわけです。
そして近所の人などもずっと明るくなってくる。
それをみんながやれば、世界が平和になるんですよ。そうすると本当の日本が出来るん
185私は空っぼになった
です。昭和鈎年2月のお話
X86
解脱への大道
〈祖師というのは直霊と一つ神我一体になった人なのですか、という問いに答えて〉
神性・仏性を開眼した人
祖師というのは、例えば弘法大師もそうだし、法然上人も親轡上人も祖師だし、仏教で
いえばお釈迦さまが一番の祖師の大元ですね。祖師の中でも、本当に解脱して仏陀として
の姿を現わしている人と、そうでない人とがあります。仏陀というような姿を現わした人
なおび
は、直霊そのもの、直毘そのまま、神そのままなわけです。それを仏というんです。そう
いう意味で、お釈迦さまはどんな学者が何をいおうと仏さまです。だから釈迦牟尼仏とい
187解脱への大道
.つ。
ところが釈迦牟尼仏の他にあんまり仏さまというのを多くの人は知らない。仏陀といえ
ばお釈迦さまのことだと思う。ところが仏陀の位を得た、いわゆる仏になった人、死んだ
ら仏になるっていうあの仏じゃなく、解脱して直霊とそのまま一つになった人、そういう
人がかなりいるんです。支那にも随分いますし、日本にもいます。だから仏陀とはお釈迦
さまだけではないんです。祖師(教祖という意味) の中にも仏陀の資格を得ている人がず
い分あるわけです。仏そのままの姿を現わした人、仏性を開眼した人です。たとえば道元
や法然などもそうですね。キリスト教の人は、イエスさんだけがキリストであって、神さ
まの右に坐している、要するに一番神さまの側にいるんだ、神の子はイエス一人であると、
思っているわけです。それではお釈迦さまの存在というものがとても説明しにくいわけで
す。
私どもの考えからいきますと、考えというより、霊覚で見ます姿におきましては、イエ
スさんもお釈迦さまも、道元も法然も弘法さんにしても同じような地位にあるわけです。18$
ただ教えの中心となって、仏教として働いているのはお釈迦さまで、キリスト教はイエ
ス・キリストということになっています。マホメットという人もおりますし、老子も孔子
もいるわけです。普通教祖といわれる方々はだれも彼も直霊と一つ、仏陀であるというわ
けにはいきません。だからといって、仏というのはお釈迦さまだけであり、キリストとい
うのはイエスさんだけというわけではないのです。わかりますね。
人類のはじまり
そこでもう少し話を進めますと、この肉体の人間には、この地球界に生まれる前がある
んです。普通は肉体の人間が生まれたことが人間の始まりだ、人類の始まりだと思います
ね。ところが実際は、人類というものは、肉体として生まれた時が、初めてじゃなくて、
霊人としての世界もあったし、神霊体をまとっていきいきと輝いている世界にもいました。
初めは神そのものの形であったわけです。大生命は神そのものの形でいくつかに分かれて
いるんですね。それから今度は少し下がって霊界にいく。霊界でも何段階もあるんですよ。
189解脱への大道
それから今度は幽界を通して肉体にくるというふうに何段階にも進化発展してくるわけで9。
1
す。
進化発展というのはどういうのかというと、もともと神さまというのは完全円満な実体
です。大生命は完全円満でなし得ないことはない。ところが「神と人間」にも書いてあり
ますように、一つの神さまがいくら動いたって、自分だけ動いても動きようがない。これ
は見るものがないからね。だから常に見るものと見られるもの、見る側の神さまと見られ
る側の神さまと、そういう形にどうしても分かれなきゃあならない。それで二つに分かれ
る。やがて四つに分かれ、八つに分かれというようにどんどん分かれてくるわけです。そ
ういう形でまず神霊の世界、神界をつくっているわけです。それだけでは微妙すぎて、も
っともっと粗い波動のほうへ今度は光を投げかけてくるわけです。それで霊界ができ幽界
ができ、幽界を通して肉体界ができた。
それで肉体の人間から見れば、霊界や神界はひとまずおいて、肉体人間としての始まり
をもって、人類の始まりと見るわけです。しかし、人類の始まりについて、その肉体がで
きた時が人類の初めだというような考えからしますと、どうしても唯物論になりがちなの
です。ある科学実験において、炭素から生命ができたとか、蛋白質から生命ができたとか、
要するに生命は物質から出来たというようなことを科学者はいっています。だからといっ
てそれが本当ではなく、蛋白質というものに生命が宿ってくるわけです。蛋白質自体に宿
るわけじゃあないけれども、蛋白質の合成されたものですね、それに生命が宿っている。
人間の肉体も蛋白質やいろんな物質が混ざって出来ているわけです。そこに生命が宿らな
ければ、これは物ですから動きようがないわけです。そこで生命が宿る。
生命の実体はどこからくるかというと、神さまのみ心の奥深いところ、神霊の世界から
くるわけです。肉体生命の源に、霊なる生命がある。肉体人間の中に、その奥深くに、霊
なる人間が存在しているんだということがはっきりわからないと、この世はやがて核戦争
のようなことになって滅びてしまう。そこで、それを教えるために、お釈迦さまも出てい
らしたし、イエス・キリストもでてきて、パンのみにて生きるにあらずといってますね。
パンという物質の食物だけで生きるんじゃないんだ、霊の食物を食べながら人間は生きて
191解脱への大道
いるというわけです。
天壌無窮
霊と肉と霊肉一体によって、この地球人類が栄えていくわけです。それがだんだん科学
が進んでまいりますと、霊のほうは置き忘れてしまって、物質のほうだけになってきた。
普通は肉体の人間が考えると思っているでしょう。頭でいろんなことを考え、計画し、実
行していくのはみんな肉体の人間の知恵能力だと思う。ところが肉体人間の知恵能力を動
かしているのは生命の実体であって、神霊の世界から来ているんです。それを各教祖が盛
んに説いているんですけれど、だんだん時代が進んでくると、昔の教祖のいった言葉では
わからなくなってくるわけです。
初めは地、水、火、風、空の五大といってね、そういうものが元だという。確かにそう
に違いないけれどもそれだけじゃわからない。それが現代にくると、それを科学的にいっ
て原子だ電子だ、素粒子だ、あるいは蛋白質だ、窒素だ、炭素だと、こういうふうにいろ192
いうと科学的な言葉がついてきて分解されていくわけです。そうするとただ火であるとか、
水であるとか、土であるとかいう説明では納得しないわけです。それを分析して分析して
いけば、必ず、要するに実体が一つあるというふうに科学者は思って、大は天体から小は
細胞の一番細かいところまで研究しているわけです。電子顕微鏡ができてから非常に細か
いところまでわかるようになった。いわゆる電子のもっと底の素粒子、中間子とか中性子
とかいう素粒子というものがだんだん発見された。
そういうふうにだんだん微妙な世界に科学の目がいきわたってくる。大は宇宙の星座の
ほうにむかっていく。しかしいくら研究探究していっても、小にはもっと微妙なものがあ
り、天をさぐればどこまでいっても大なるものがある。大は極まりなく、小は極まりもな
てんじょうむきゅう
し、大小共に極まりがないんです。天壌無窮といいますね。極まりのないのがこの世界の
実体だということがだんだんわかってくる。そうすると科学者の頭のよい人たち、宗教心
のある人たちは、我々のやっている科学というものは、宇宙の片鱗のほんのわずかのわず
かのところしかわかっていない、わからない部分がほとんどなんだ。だから我々は宗教心
193解脱への大道
を持たなけりゃならないんだというふうに、思ってくる。アインシュタインも非常に宗教94
1
的ですね。原子力の研究をしまして、そういうのが土台になって原爆や水爆ができました。
そんなことに対してアインシュタインは非常に嘆いて、今度は霊界でもって非常に働いて
いらっしゃる。そういうふうに科学者はどんどん探っていくけれども、探っても探っても
探りきれない、元が探れないわけです。
形の世界をこえ、想いの世界をこえて… …
宗教のほうはどうかというと、各祖師を初め、その弟子たちがずうっと受け継いできて
いる。その教えの道は何かというと肉体の人間の想いを超越して、小智才覚を捨てて、こ
のぐるぐると思い巡る想念の波に巻き込まれないで、それを超越して、本体を知ろうとす
はあく
る。直接把握するわけです。科学というのは直接把握じゃありません。ものを通して極め
ていく。宗教の世界は物を通して極めていくんじゃなくて、心の奥底に入って極めていく。
想いを超越していく。想いを超越していかないと、五感で感じる想い、五体で感じる想い
だけに把われてしまって、その想いの底の本当の心というものがわからない。そこで想い
を超越する方法をいろんな角度からみんな教えているわけです。
ヨガの統一があります。お釈迦さまもヨガの影響を非常に受けていることは確かなんで
しかんたざ
す。それで、お釈迦さまは坐禅観法といって、只管打坐して瞑想するんですね。いろんな
統一の段階があって、最後にはなんにもなくなってしまう段階がある。なんにもなくなる
というのは、すべてがなくなるんじゃなくて、この世で実在していると思っているような、
形の世界、想いの世界、そういうものが、全部なくなるというわけです。
ヘへ
初めは形の世界はなしとみる。肉体もないんだ。いわゆるすべてが実在しているものじ
ゃなくて、単に現われているものにすぎないと、そういうところに悟りがくるわけですね。
それで物質を超越してくる。ところが物質を超越してもまだ残るものがある。それはなに
かというと想いなんです。ちらちら想いますね。そういう想いが存在する。だからその想
いを消滅するために、また坐る。坐って坐って坐りつづける。我々でいえば祈りつづける
くのつ
という意味です。そうしていくうちに想いも超越して、空の世界に到達するわけです。空
195解脱への大道
の世界でも段階がありまして、空の奥のまた空の、そのまた奥のその空のって「老子講義」96
1
にも書いてありますように、空の空の奥のほうがあるわけです。一旦空になりますと、肉
体界は超越するけれども、それは幽界へ行くか霊界へ行くかわからない。私流にいえば消
えてゆく姿、消えてゆく姿と、どんどんどんどん消してゆくと、消すものがなんにもない
世界へ行くんです。そのときにハッキリわかってくるのは人間というものの実体なんです。
くうかん
それをお釈迦さまなんかは空観でもって教えたわけです。
くサつ
ところがこれには素質というものがありましてね、誰も彼もが空になれるわけではない
んです。特別に過去世で修行を積んだ、霊性の本当に秀れた人が空観を体得するのであっ
て、誰も彼も空観ができるわけじゃあない。だから誰も彼もが、そのまま坐禅観法したか
ら、その悟りに達するわけではないわけですね。そのために八十のお坊さんも九十のお坊
さんもまだ悟りを開かないでいる人がずい分あります。
現代人の空観の行
よくテレビに出るお坊さんがありますね。八十歳位になって、祖師のようにもてはやさ
れているお坊さんがいます。テレビで対談なんかしているのを見ますと、私はああこの人
はなんにもわかっていないなと思うんです。ただ言葉じゃいろんなことをいうけれども、
ちっともわかっちゃいないんですよ。テレビに出ているから偉い坊さんかと思うとそうで
ない。まだ対談している松下幸之助さんのほうがよくわかっちゃって「それ、もっと具体
的にどうやったらよござんすか」と実業家だから具体的に知りたいわけ。実際は知ってい
るんですよね。片方はもうエヘラエヘラで、それこそ禅問答、コンニャク問答みたいで、
ちっとも説明が要をえない。なぜ説明ができないかというと、形の世界にいながら観念論
的に観念だけでもって形を越えた世界を説明しようとする。形にこびりついた想いの世界
にいながら、想いを越えた世界、形のない世界を説明しようとするから説明出来ないので
す。
私共はどうしたかというと、消えてゆく姿を実行して、すべてを消えてゆく姿とたち切
って、どんな感情がでても、どんな不幸がでても、どんな災難がでても、それは過去世の
197解脱への大道
因縁の消えてゆく姿であって、人間の本心が現われるための不幸であり、災難であり、嫌
な感情であると知っているわけです。そして、それは実在でないからすべて消えてゆくん
だ、と現われの世界の想念も出来事も一ぺん全部否定してゆく。それでその消えてゆく姿
をどこへやるかというと神さまのみ心の中へ入れてしまう。神さまのみ心といっても神さ
まはどこにいらっしゃるかわからないわけです。実際に掴めないわけですから、み心を掴
むより仕方がない。
神さまのみ心は何かというと、神は人類の大親様なんだから、神さまは元の姿です。そ
うすると人類が争い合うことを望むわけはない。人類がみんな仲良く自分の心を成就して
くれるように、そう思っていらっしゃるに決まっています。親が子供の不幸を願うわけは
ないんだから、親は子供の幸せを願う。そして小生命である人間に神さまが生命エネルギ
ーを下さって、みんなに分けて、さあこの生命エネルギーをやるから、みんな自分の道を
開いて仲良くやりなさいよ。私はお前たちにあげただけで干渉しないから、人間たちよ、
我が子たちよ、仲良く手をつないでやりなさいよと、こう神さまはおっしゃっているんで19g
す。みんな平和でやりなさいよ、ということです。ところが肉体の人間がそういう親心を
忘れてしまって、自分の肉体環境だけ、自分だけが良くあればいい、あるいは自分の親戚
だけがよくあればいい、自分の国だけが良くあればいい、自分の民族だけがよくあればい
い、こう考えてお互いが相対して、争いが起こったわけです。
生命の親の神さまは、ばかな子供たちだな、わしの心がわからんで、なぜこうわからな
いんだろう。私はお前たちが平和に仲良く暮らせばいいと、それだけを念じて力をあげて
いるのに、生命エネルギーを分けてやっているのに、お前たちはその生命エネルギーを無
駄に使って、自分で自分の不幸をつくっていく、しょうがない子供たちだ、というわけで
つか
す。そして、神様は自分の力を分けて、守護神というような形で人類に遣わして、背後か
ら「お前はこれじゃ違うんだ。こうだ」といっていろいろ教えているわけです。教えてい
るのだけれどそれがわからないわけです。波動が違うからみんな感じないわけです。片方
は微妙な波動で、片方は粗い波動ですから、通じ合わない。そこで守護神と通じ合うよう
な人、あるいは守護神がそのまま化身として肉体に生まれ変わってきたような人が祖師に
199解脱への大道
なって、あらゆる宗教を説くわけです。神の化身というわけですね。そういう人たちがた
くさんいて、いろいろな教えを教え、いろんな行じ方を教えて、人類の進化を計っていく
わけです。
それがだんだん人類の潜在意識の中に入っていきまして、誰の心にも宗教心が芽ばえ、
理論的にも宗教がわかってくるような人が多くなっている。事実、人間の世界は乱れてお
りますけれども、原始人時代と比べればもうすばらしい進歩をしているわけです。昔は人
を殺したってなんでもありません。人喰人種なんてのがまだあるらしいですけれども、人
の肉を食べたってなんでもない。おなかがすけば人を食べちゃう。そういうことが平気な
ような人間がいたのだけれども、現在では人を殺して食べちゃうような無知なことはあり
ません。やっぱり、形の上だけでも生命を尊重する、お互いが人間の生命を尊重しあって
います。そういう時代になっている。ところが、個人的には人間の生命を尊重しあっても、
それが民族の利益を守るためとか、国家の利益を守るためになると、今度は大義という、
国家に尽くす正義という名を借りて、あまり心が痛まずに人殺しが出来るような形になっ
200
てきている。
世界平和の祈りの中へ
そこで、私たちに神さまのほうからきた教えというものは何かというと、神は平和を願
っているんだ。お前たちがなんでもいいから仲良くすることを願っているんだ。だから神
という実体がつかめなければ、その行ないの中にその想いを入れればいい。我々は世界人
類が平和であるように、と思っているのだから、みんなが仲良くやるように思っているの
だから、お前たちもそれを願え、という形です。そこで私は「世界人類が平和であります
ように」という率直な、誰でも思う言葉を祈りごとまでに高めたのです。普通では、世界
人類が平和でありますようにというのは祈りではない、ただ願望です。世界が平和であり
ますようにと願っているわけです。しかし毎日願っているわけではない。たまたま願うわ
けです。ああ世界が戦争になっちゃ困るな、戦争は嫌だな、だから平和でなきゃ困る。み
んなこれだけなんです。そんなこといったって、なんにも天に通じません。平和でなきゃ
201解脱への大道
困るなんていったって駄目です。本当に自分の想いが常に「世界人類が平和でありますよ㎝
2
うに」という中にすっぽり入らなけりゃあ駄目です。
すっぽり入るためにはどうしたらいいかというと、たまたま思ったって、そんなものは
力になりません。お金をためるにしたってそうです。たまに、一年にいっぺんぐらい百円
位入れたって溜まりません。貯金箱に毎日毎日百円入れれば溜まります。それと同じよう
に、想いというのもそうなんであって、祈り言葉に高めあげて、世界人類が平和でありま
すようにと毎日毎日、日日瞬々をそれで生活していると、自分の想いはいつも、自分の業
を持ったままで神さまのみ心の中に入っていくわけです。
世界人類が平和でありますように、という祈り言葉は神さまの心と全く一つにつながる
わけです。そうするといろんな他のことを行じなくても、世界人類が平和でありますよう
に、とそれをやっていると、自分の想いはいつも神さまの中へ入っているということなん
です。それで神さまありがとうございます、守護霊さん、守護神さんありがとうございま
す、というのを付け加えているんです。本当はそれが元なんです。その祈り言とともに想
いが入っていくわけです。そうすると現象的に自分の所へ不幸な波がきていても、嫌な想
いがきていても、いつのまにかそれが平和の祈りの中へ入っていって、消されていくわけ
です。それによってお釈迦さまやキリストさまや老子さんやいろいろな祖師が説いていた
道に、おのずから、知らないうちに入っていくんです。そういう教えを私は受け持たされ
たわけです。
だから皆さんが世界平和の祈りに本当に徹底して生きていれば、その人はキリストなん
です。他のことはすっかりなくして”ああ世界人類が平和でありますように” と本当に真
剣に祈っているときは、その一瞬はキリストであり、仏陀なんです。それはどういうこと
かというと、自分の本心がそのまま現われている。直霊とそのままつながっている姿なん
です。だからいつも”世界人類が平和でありますように” という気持ちがいっぱいであれ
ば、その人はいつでもキリストになっていられるわけです。祖師につながっていくわけで
えん
す。私がこうなったのは、役の行者のお陰もあるし、法然さんのお陰もあるし、お釈迦さ
まのお陰もあるし、いろんな過去世からの祖師のお陰をこうむってこうなっているわけで
203解脱への大道
す。守護神みたいになって役の行者が私をたたきあげてくれたわけでしょう。そういう先
達や、仏陀、キリストが応援してくれて今日の私ができてきた。そして私が説き始めると、
その言葉がみなさんの心にしみていって、みなさんがだんだん立派になっていく。みなさ
んの一人が立派になっていくと、また、まわりにいろんな立派な人が増えていく。こうや
って、だんだんねずみ算式に立派な人が増えていく。そうすると私がこの世を去ったとし
ても、その後についた人はまた、そのように立派になっていくんです。
Zoo
想いを浄めよう
そのときにはもうすでに、この地球界は今の次元よりもずっと素晴らしい進化した次元
になっています。テレビなどでも今みたいにボックスを見なくたって、パッとやれば画像
が見える世界になっているかも知れない。家ごとすーっと、どこかへ旅にいけるような時
代になっているかもしれない。科学力だって増してくるんですからね。すべてそういうふ
うにして、今の粗い波動の世界がもっともっと微妙なスピードの速い世界になってくるわ
けです。スピードの速い世界というのはどういうことかというと、想いがパッとすぐ実現
する世界のことです。そういう世界になるためには、人間の想いが浄まっていなけりゃ大
変なんです。浄まってなくて想いが実現したら〃あの野郎、ぶんなぐって殺してやろう”
なんて想ったとたんにパッと殺しちゃったりする。この世界が地獄になってしまいます。
幽界はそうなっているんです。だからそれを、想いが浄らかになるために、いつもいつも
世界平和の祈りをするわけです。
世界平和の祈りをしていつも魂を洗い浄めているような人は、どんなに想いがでてきて
も大したことはない。だいいち、そんなに悪い想いを出さないから、想いが返ってきたっ
て大したことはない。よくあることですが、魂が浄まってきますと、想ったことがすぐ出
てくるんです。魂が浄まれば浄まるほど、自分が悪いことをちょつと思いますとすぐその
お返しがきます。なぜくるかというと汚れが積もっていないからすぐ感じるわけです。汚
れがつもっていると、なかなか消えるために表面にでてこない。こういうことがあります
ね。人が風邪をひいてたとする。〃弱い奴らだな、風邪なんかひいて。私なんかちっとも風
20ラ解脱への大道
邪ひいたことない〃なんていっていると”ゴホン” とすぐ返ってくるわけです。そういう。6
2
ふうにちょっと威張り心を出したり、不遜な心を出したりするとすぐ返ってくる。それは
浄まっていればいるほどすぐに返ってくる。そのかわり早く消える。たまらないわけです
ね。業がたまって大病になったり、大変なことにならない代わりに、ちょこちょこ出てく
る。だからちょこちょこ病気が出たり、悪いことがあったら〃ああ魂が浄まってきたな”
と思えばいいんです。本当にそうなんですからね。
常に心に覚悟を
悪い奴ほどよく眠るっていうのがあるでしょう。悪人は平気な顔をして、威張って悪い
ことばかりしている。そして一生無事にすむような人があります。悪いことをしながらゆ
うゆうと一生をすませる。そうすると悪が栄えた、と思うのだろうけれども、私共の目か
ら見たら、亡くなった世界の幽界、地獄へ行ってすごい苦しみをするわけです。今迄の富
でいい気になっていた、その何十倍、何百倍という苦しみが未来に待っているわけです。
だからできることならばこの肉体にあるうちにあらゆる業を消しておいたほうがいいんで
す。
過去世から積んできたものは、みんなこの世の中で、この肉体をもったままで消してゆ
けば、それは非常に楽に消せる。肉体の亡くなった幽体の世界で消すには大変な苦労です。
だからあらゆる苦しみが来たって、ああ肉体で受ける苦しみは大したことないんだ。幽体
へ行ったらもっとこの何層倍も苦しいんだ。たとえば痛みがあっても、ああこの痛みを幽
界で受けるよりもっといいんだ、というふうに思ったらいいんです。そういうような想い
になると、それはあまり苦しくなくなる。
覚悟していれば苦しくないんです。例えば人に殴られるにしても、ふいにやられたら倒
れてしまいます。けれど覚悟をしていれば殴られたってそう倒れやしません。痛みだって
違います。だから常に覚悟をしておかなければいけない。あらゆる自分に都合が悪いこと
が現われてきても、痛みや病気や不幸が現われてきても、それはあくまでも過去世の因縁
の消えてゆく姿であって、自分の本心が、その不幸とか災難とか痛みとかが現われたこと
207解脱への大道
によって、それだけ開いたんだから、ああ、これで私はまた霊界の地位があがったな、と
そういうように思うんですよ。そうすればその人はいつも明るい、どんな不幸がきても明
るい顔をしていられるわけです。
そういうことがわかっているから、みなさん方はいつも明るい顔をしているわけです。
側から不幸なような状態に見えるような人でも、明るい顔をしているから”あんたどうし
て不幸そうな状態なのに、そんな明るい顔をしていられるんですか” と人に聞かれたりす
る。”実は私、五井先生に教わって世界平和の祈りをしています” “まあ、そんなにいい教
えなら私も入りましょう” といって入ってくる人がずい分あるんです。
下手なお説教をするよりも、柔和な顔をして、勇気にみちた態度でいれば、みんなそう
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いうふうになりたいものだから自然についてくる。そういうあり方が一番いいんです。そ
うすると、その人そのものが見本をみただけでも良くなります。そういうやり方を私共は
やっていくわけです。ですから皆さんがそういう生き方をして、世界平和の祈りの中で、
それこそ雨にも負けず風にも負けず雪にも負けず、ゆうゆうと伸びやかに、この世を終わ・
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っていけば、それだけあなた方が人類世界に尽くしたことになるわけです。
(昭和四十二年二月)
20g解脱への大道
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