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8/19/2022
五井昌久著
自分も光る人類も光る
著者(1916~1980)
講話集刊行にあたって
五井昌久先生は、昭和三十年代から昭和五十年代初めにかけて、千葉県市川市の新田
道場や聖ヶ丘道場(当時)をはじめ、さまざまな場所で講話会を開かれ、人々に生きる
勇気と感銘を与えてこられました。
本書は、そうした五井先生の講話のうち、機関誌や書籍に発表されていなかったもの
を時系列にまとめたもので、これがシリーズ第三集目となります。
お話はたいてい質問に答えてなさったもので、日常の身近な問題から、ひろく世界の
平和や宇宙の問題、霊界や死後の生活のこと、永遠の生命のこと、霊性開発という本質
的な問題、またご自分のことなど、極めて親切に、分かりやすく、また面白く説いてく
ださっています。それらを通して、人間とは何か、いかにして自由無擬の心に至れるか
を知ることが出来ます。
そのような自由無磯の生き方を誰しもが出来る日を、五井先生は天界で待っておられ
るに違いありません。
平成二十三年五月
刊行にあたって
編集部
1
∴ ・且
撫へ
一
難鱗2
黙
喝薯鵜幣
刊行にあたって1
神様の人類救済計画
科学の進歩の先にあるもの6
いよいよ霊的革命が始まる-
分かれ分かれの世界が一つにならなければ
すべての心を一つにする世界平和の祈り
とにかく業想念を大霊光の中へ
18
33
2
神様は絶対なる愛
天のひびきを伝える音楽家・宗教家
業想念を祈りに入れれば真、善、美が現われる
42
4
神様は絶対なる愛8
神のみ心を自分のものにする
理想を現実に現わすには? 70
理想と現実のギャップを祈りの中へ
神様の行ないに不調和はない89
この世で自分が行使できる権利は祈りだけ
守護霊、守護神と分霊の協力体制
82
4
自分も光る人類も光る
肉体を人間だと思っている以上は
99
地球全部を救うのが世界平和の祈り
空の心が愛になり、光に変わる
形ではなく本源を掴む勝
罪を祈りに投げ入れると人間は神様になる
m
102
“
136
3
暗い想いと明るい想いをとりかえる
143
4
私は偽善者をつくらない宗教を開いた
無理はいつか破裂する幽
“肉体人間はダメなんだ
“と一旦認める
善悪の把われを神様にお返しする
肉体の自他に期待するなm
どれもこれも神様に見えてくる
175
1G9
病気というもの
医業と霊作用
靭
病気の正体は抑圧された想い
187
190
講話集3 自分も光る人類も光る
6
神様の人類救済計画
(昭和35年2月10日)
東洋大学講堂にて
科学の進歩の先にあるもの
こうまんじどうめい
私が紅卍字会に関心を持ったのは、七、八年前なんです。紅卍字の道名を持った
方が、私のところに五、六人見えて、ある運動を少し始めたことがあったのです。
それを忘れておりましたら、突然、心霊研究家の小田秀人先生がお見えになった。
まつしたまつぞうながす
小田先生はおわかりなかったけれど、松下松蔵といって、熊本県長洲にいらつしや
ながす
って、人々から長洲の神様と慕われていた、とても素晴らしい立派な品格を持った
方がいらっしゃったのですが、その方は昭和二十二年頃に亡くなられた。その方が
小田先生を連れて見えたんです。
小田先生にお目にかかって、すぐ紅卍字の話が出ました。それで私が紅卍字会に
ごせいげん
関心を持っている、ということが始まりで、そのあくる日、呉清源先生がお見えに
なったんです。その時は紅卍字の神様が連れていらっしゃった。
ということは、人間が一人歩いている時には、肉体が歩いているんではなくて、
そのうしろに守護霊守護神が一緒について歩いているわけです。たくさんの守護霊
がついていらつしゃる方もあれば、二、三人の守護霊がついていらつしゃる方もあ
る。というように肉体だけが歩いているのではなく、守護霊がついて歩いているん
です。
肉体は霊魂を運ぶ車なんです。
肉体というものは車であり、場所であり、器であって、肉体に人間の主体がある
わけではないんです。それなのに、肉体が主体だと殆んどの人は思っている。
かたまり
肉体というものがふつうは、固体、塊だと思っていましたが、だんだん科学が進
7 神様の人類救済計画
んでまいりますと、今の科学の世界では、塊でなくなって、物質というものは原子
であり素粒子であり、もっとさかのぼると、粒子であると同時に波動になってしま
う、波に還元してしまうもんだと解明されたわけです。
自然科学も、霊魂の世界霊的な波動の世界に近寄ってきているわけです。
一方では電子科学では、電子波動を使ったテレビジョンのようなものが出来まし
たね。テレビ受像機が市川にありますと、東京で放送していることが、光の波、音
の波となって受像機に届き映ってくる。
明治時代あるいは江戸時代の昔の人が見ましたら、びっくりすると思う。なんだ
魔ものじゃないか、と思うでしょう。なぜかというと、受像機にはしゃべる人間も
いなければ、誰も人間がいないのに、ちょっとダイヤルだけを廻したら、いろんな
姿が映ったり、声が聞こえたりするんだから。摩詞不思議なことが、不思議でない
ように現われている。
実をいうと、テレビジョンの構造や仕組みなどでも、どうして映るか、というこ
8
とは専門知識のある人でないとわからない。または物質が原子であり素粒子であり、
波動であるということは科学者以外にはわからない。わからないけれども、科学で
こうだという説明がありますと、そういうのなら本当だろう、とみんな納得して思
うわけです。
くすり
日本人には薬迷信というのがありまして、風邪をひけば薬、お腹をこわせば薬、
なんでもかんでも薬と言っている。私はクスリと笑ってんだ(笑)。なんでも薬を
のめばいい、というように、科学というと、すぐああそうか、と思うんです。
わら
ところが霊的な説明、あるいは宗教的な説明になりますと、鼻の先で暇うような
人が大分いる。神様有り難い、仏様有り難いと素直について来られる人は、本当に
じょうこん
上根ないい方たちだと思います。何か理論的な説明がない限り「オレは信じない」
「ここに神様を出してみろ、出したら信じる」なんていうことがあるんです。
昔、S教団の講師をしていました時に、ある会に出ましたら、S教団の人たちと
共産党の人たちが集まっていました。私は講師として行ったわけではなく、友だち
9 神様の人類救済計画
と一緒について行ったんです。いろいろな議論のとどのつまり、共産党の連中が「神
様があるなら、ここに出してみなさい、なんか出したら神様を信じようじゃないか」
と言うんですよ。友だちはふつうの人で霊的な人じゃないもんですから、困っちゃ
って「そう言ったって神様はあるんです」「あるんなら出してみろ」「ある」「なら
出してみろ」といつまでたってもきりがつかない。
そこで私が出ていって、「神様というものは、目に見えるものでもなければ、手
にとれるもんじゃないんだ。手にとれるもんなら、神じゃなくて物質なんだ。神様
というものは宇宙大に大きく、小さくなれば微妙な波なんだから、あなた方の目に
はつかまりっこないんだけれども、神様ではないけれど、少し不思議なことを見せ
てあげましょう」と言って何をやったといいますと、みんなの前に座布団をおいて、
その上に坐ったわけです。
これは邪法なんですよ。神様の仕事じゃないんですよ。それをみんなにまずこと
わった。
10
「これは神様のやることではなくて、あなた方が不思議な力を見せてほしいと言
うから、ちょっとお目にかけましょう。これはあくまでも神様のみ心じゃないんだ。
あなた方にちょっと奇跡を示すだけなんだから、別に不思議でも何でもないことな
んですよ。まあ見せないと、あなた方が納得しないだろうから、座談会が終わらな
いだろうから、一つやってみますよ」
ふとん
布団に坐ったまま、布団をつけたまま、パーッと飛び上ったんです。これはなん
でもないことなんです。しかしふつうの人には不思議なことなんです。布団がつい
たままで、パーッパーッと飛びはねたんです。そうしたらみんなびっくりしまして
ね、それで会は終わりになった。神様がどつかへいっちゃって、奇蹟的なことだけ
がそこに残ったわけですね。別に神様を納得させたわけじゃないけれども、世の中
には自分たちの知らない不思議なことがたくさんあるものだ、ということがその人
たちはわかったわけです。潜在意識に入ったわけです。
何が私をしてそうさせたのか、というと、それは神様がやったわけでもなんでも
11神様の人類救済計画
ない。ちょっと霊人を使ったんです。要するに、物質界、肉体界のまわりにウロウ
ロしている生物がたくさんあるんです。肉体のまわりには幽体というものがありま
して、丁度それは録音機の録音盤のように、幽体には自分が想ったことのすべて、
あるいは向こうから知らせてくることなど、みんな溜って、波になってぐるぐるぐ
あら
るぐる廻っているところなんです。肉体が粗い波動とするならば、幽体というのは
もっと細かい波動、もっと細かい微妙な波動が霊体であり、神体になっているわけ
です。そのように何重、何層にもなって人間は出来ているんです。
ところがふつうの人間には、物質の肉体だけしか見えない。その物質の肉体が、
そのまま自分の想いを行なっているかというと、そうでない。
かよはくばくようそ
魂というものが霊体、幽体に通ってある。醜というもの醜要素というものを、私
は肉体要素と呼んでいますが、その肉体要素は感情の面、つまり私が業想念と言っ
ている業想念の波のほうを受けとっているわけです。
業想念というのは、全部ないほうがいいかというと、そうでもない。業想念がな
12
かったならば、この地上界に人間は生まれて来ないし、地上界の発達は出来てこな
いわけです。
業想念というのはどういうものか、というと、肉体は肉体身で存在していて、神
様というものとは別に関係なく、個々別々に存在している。それでお前と私は別な
んだ、あの人とこの人と違うんだ、すべて個人個人が個人個人のことを思いながら
生きていかなければ、自分の生存が危ないんだと、要するに自己保存の本能と私は
言うんです。自己保存の本能が自分を守ってゆくわけです。その自己保存の本能か
らすべての業想念が出てくるんです。それは赤ん坊の時から、生まれながらにして
あるわけです。人間には自己を守るというものが生まれながらにしてあるからこそ、
おっぱいも吸うわけです。
この本能があるから各人が各人の立場を守って、各人の生活をやっていけるわけ
なんです。これは必要なわけなんです。それが民族を守り、国家を守り、お互いが
自分たちを守り合う。そういうところに切磋琢磨があり、そこから科学が発達した
13神様の人類救済計画
わけです。
こうしなければ自分の子どもが亡びてしまう、こうしなければ民族が亡びてしま
う、国家民族がお互いに自分で守らなければ亡びてしまう、というところで、科学
的研究が錬磨されまして、軍事力や経済力が増大して来た。そこで原子力の研究も
進み、原子爆弾も出来、水爆も出来た。しかしこのままいったんではお終いなんで
す。原水爆まで来ますと、科学の進歩はそこで終わりなんです。人工衛星が出来ま
した。人工衛星から爆弾でも落したらそれこそ終わり。そういう時代にまで、今突
き進んできている。
科学の進歩は頭打ちになってしまった。物質的進歩というものは頭打ちになって
ひ
しまって、これ以上はニッチもサッチもいかない。退くにも進むにもどうにもなら
ない。断崖絶壁に来たわけです。
14
いよいよ霊的革命が始まる
世界の情勢を見ますと、二大勢力としてアメリカとソビエトがあります。この両
国は常に軍備の競争です。片方が原爆をつくれば片っ方は水爆、片っ方は人工衛星
というように、争い競い合っている。これを魂ばっかり発達しているような人は、
力が平均して、お互いの力がバランスを保っているから、戦争が起こらないんだ、
だから軍備も増強しなければいけない、とこう言うんです。ところが力と力のバラ
ンスというのは、いつ崩れるかわからない。たとえばアメリカ軍の原爆を積んで飛
んでいる飛行機の兵士が、ちょっと頭が狂ったらボタンを押さないとは限らない。
あるいはソビエトの兵士が水爆のボタンを押さないとは限らない。人間いつ頭が狂
うかわかりゃしない。大体狂っているんですから(笑)。人類を立て直して、神様
の国にするのはなかなか難しいけれども、人類を亡ぼすにはちょっと一人気違いに
すればいいんですから。
今、原水爆がやさしく出来る方法を、アメリカは各国に公表するというのですね。
15神様の人類救済計画
公開すれば、小さい国、パキスタンだとか、イラン、イラクだとかいろいろありま
すが、そういう国が核兵器を持つとするならば、うっかりポンとボタンを押せば、
人類が全部、原子爆弾で亡びてしまう。それは小さな国の戦争から始まるんです。
そして最後に全人類が亡びてゆく。
おさ
一人が気が違っても大したことはありません。精神病院に入れれば治まります。
しかし世の中の政治家が全部気が違ってしまったら、大統領や総理大臣が気違いに
なったら、一人や二人の気違いでは終わりません。人類がそのまま亡びてしまう。
というところまで、人間の業想念というものは、地球界に浮き上ってきて、もう突
発的に、滅びるか亡びないかという境になってきている。
そうなりますと、いよいよ今度こそ方向転換しなければならない。そういうこと
は、ちゃんと神様のみ心の中にすでにあるわけなんです。神様は全知全能です。絶
対者です。神様に違算があるわけがない。ちゃんと天のソロバンをはじいている。
あまてらすおおみかみ
天照大御神が田を造ったといいますね。田というのはすべてが計算づくめで出来て
1G
いるということです。それが法則というんです。神のみ心の中には、すべてが計算
ずみになっているわけです。
そして現在ではどういうことになっているかというと、科学が頭打ちになって、
いよいよ霊的な革命、霊文明が正面に現われてくるんだ、ということになっている
んです。こうしなければならない、ああしなければならない、ではなくて、そうな
るようになっている。現われるべき人が現われ、現われるべき教えが現われ、すべ
てが結集してなるようになっている。個人もなるようになっている。世界もなるよ
うになっている。
それをなるようになっているという、神様の大愛、神様の叡知を信じないで、各々
が自分勝手な行ないをしているから、自分たちが苦しむだけなんです。個人が自分
勝手なことをすれば、個人が苦しむ。国家が自分勝手なことをすれば国家が苦しむ。
人類が自分勝手なことをすれば、人類が苦しむ。
ところが神様は苦しんでいるのを黙って見ているわけにはいかない。大神様から
17神様の人類救済計画
すれば全部自分の子どもですからね。だから何とかして、この人類を苦しみ少なく
して救おうじゃないか、ということが、神様のみ心の中に始めからあるわけです。
やはり物質文化が盛んになり、醜の世界が開けて、そこでどこかでつまずくことは
神様の中ではわかっているわけですから、守護神、守護霊というものをつかわして、
霊的要素が働いている。霊が神様で、魂が霊的要素それから醜となって、霊魂醜で
一つなんですよ。
18
分かれ分かれの世界が一つにならなければ
霊は光り輝いたものなのです。それをわからず幽霊などと言う。幽霊なんてあり
こんばく
っこないんですよ。あれは幽霊魂醜なんです。幽想念が残っていて出るんです。霊
が化けて出るわけじゃない。霊は神様です。想いが残って、形に現われたのを、み
んな幽霊と言っている。だから幽霊という言葉は間違っているんです。本当は幽想
念、業想念と言わなければならない。
近ごろテレビで「世にも不思議な物語」というのがあります。幽霊のことをたく
さん上映しています。いい物語もあるし、こんなもの見ないほうがいいな、という
ものもあります。このごろはだんだん幽的なものを社会が取り上げるようになって
きたわけですね。それだけだんだん霊的に変わってくるわけで、幽霊魂ではなくて、
霊魂醜になってくる。
みんなは知らないけれど、各人の後ろにいつも幽想念を一杯つけて歩いている。
自分はちっともわからない。それでいかにも偉そうに、いいことばかり言っている
悪い奴がいると、ある人が言っています。口ばっかりで行ないが出来ないで、何を
言うか1 と神様は言うんですよ。そういう人が多い。政治家志望の人じゃないけ
れど、当選したい時には、何でも致します、と言ってペコペコ頭を下げているけれ
ど、いったん当選したら、オレ知らない、とやっている。
ともかく、自分の業想念が満足できさえすれば、後は野となれ山となれ、地球が
崩れたってかまわないんだから。そういうような想いがこの地球界には充満してい
19神様の人類救済計画
はら
るんです。その充満している業想念を祓い浄めないかぎりは、この世界は平和にな
しせいせんてんろうそ
らない。祓い浄めるために紅卍字では、至聖先天老祖と名乗られて、大神様が大救
世主のかたちで現われているんです。そして各人優れた人にその光明をくださって
いるわけです。
それで私にも白羽の矢が立って、サァ紅卍字に入って来い、一緒にやろう、とい
うわけです。ということはどういうことかといいますと、日本には、外国もそうで
すけれども、あまりに宗教が多すぎる。宗教だらけ。どこの神様、どこどこの神様、
あっちの神様こっちの神様、どっちの神様が偉いんだろう。おかみさんならいくら
居てもいいけれども(笑)。神様がそんなに居ては困りますよ。うちの家内じゃな
いけれど、神様もお安くなったもんだ、というわけ(笑)。
そんなに神様がいなくたっていいんですよ。神の子がいりゃいいんだ。神様のみ
心を、自分の内にもって、神のみ心を現わした生活が出来る人がたくさん出来るこ
とが、人類としては望ましいんです。
20
宗教商売がたくさんあって、こっちの神様が偉いんだ、オレの教えがいいんだ、
オレの祈り方がいいんだって、やっている。そういうことではダメなんです。地球
界が支離滅裂になり、分かれ分かれになっているところに、戦争のような状態が起
こっている。不安が起こっている。
中国は二つに分かれている。日本は表面上は二つに分かれていない。けれども思
想的には三つにも四つにも分かれている。例えば安保条約改正ということがありま
す。片方では改正しなければ絶対ダメだといい、片方は安保条約など廃止してしま
えと言っている。その中立の人もある。三派にも四派にも分かれている。それは政
治的見解だから、違っても仕方がない。
そういう人たちはみな凡夫ですよ。神様の知恵で安保条約を結んでいるわけでも
なければ、安保がいらないと言うんでもない。ただ自分たちの狭い知識で、いけな
いとかいいとか言っている。ところがよくよく考えてみまして、安保条約を改正し
たらいいのか、となりますと、それはどうだか誰にもわからない。一般大衆はおろ
21神様の人類救済計画
か、知識をもった人たちも改正したほうがいいのか、廃止したほうがいいのか、そ
んなことはわからない。なぜわからないか、というと一長一短があるからね。
安保条約はアメリカとの提携ですね。アメリカと提携すれば、中共、ソビエトは
敵になるわけです。これは間違いないことです。といって条約をやめれば、中共と
ソ連と仲よくなってくるわけですから、アメリカが黙っていないで、敵になる。
この現象界ではどうしていいかわからないんですよ、本当のことを言うと。肉体
人間の知識ではこの現象界の歩みは、一歩も先に進めない。神様をぬかして、今の
現状になったら一歩も進めない。私はこう思う、なんていうことを言うんだったら、
その人の頭がどうかしているんです。今はもう絶対絶命のところですよ。よくある
んですよ。自分は何にも出来やしないのに、人のことにだけはなんとか文句をつけ
る人ですよ。それでもっていかにも自分が発表したから、自分は偉いと思っている。
そんなことじゃない。
人間というものは、肉体だけでは、要するに醜だけでは何にも出来ないんだ。肉
22
体人間としては全部凡夫で、一寸先のこともわからない。何にもわかりゃしない。
わかりゃしないのに、わかったような顔をする。だからますますわからなくなって
くる。
わからないことはわからないんだ、とまず割り切らなければいけない。自分では
何にもわからないから、神様、どうかわからしてください、どうか自分の天命が完
うされますようにって、神様に全部すがるような気持ちになればいいわけでしょう。
宗教教団がたくさんあるけれど、各々が自分の教団だけが儲かればいい、大きく
なればいい、とやっている。今度、何十億で教会を建てた。こっちでは何億で建て
た。何も立派な殿堂なんて建てなくたっていいんですよ。立派な殿堂を建てなくた
って人は集る。いい話は胸にこたえます。大きな建物がなければ話が出来ない、な
んていうことはない。型はどうあろうと、人が入ればいいんです。お互いが権勢欲
にかられ、自分の教団が大きいんだ、良いんだということを、きらめかすために、
いろんなものを建てている。無駄ですよ。四十何億もかけた殿堂なんか建てるより、
23神様の人類救済計画
そのお金を困った人に分けてごらんなさいよ。どれだけ助かるか、住宅のない人に
分けてやってごらんなさい。
宗教家が殿堂建築に二十何億もかけるお金があったらば、それを住宅に困った連
中に、アパートでも建ててあげて、安い家賃で入れてやるような、そういうような
働き方に、宗教家が向かってゆけば、共産主義なんてなくなります。与えるほうの
立場に宗教家がならなけりゃなんないのに、貰うほうの立場にばっかりなってんだ。
そんなものはまだ業が深いんだから仕方がないとして一先ずおいて、紅卍字みた
いな至聖先天老祖に、目に見えない世界から、お前の役目はこれだ、とパンパン決
さにわ
めてもらって、審神してもらうと私はいいと思うんです。宗教団体が一辺全部、審
神してもらうといい、と思っているんです。そうすると嫌や応なしに決まり、手を
つないでゆくことになるでしょう。それで私は入ったんです。役目は自分でわかっ
ている。
ということは、心を一つにする、せめて神様一つにしてもらわなければダメです
24
よ。あちらの神様、こちらの神様、向こうの神様というのは、その教団にあっても
いいから、大神様は一つなんだ、みんな一なる神様から分かれているもんなんだ、
ということをみんなに思ってもらって、手をつながなければならない。このことが
私の心の中にいつもあるんですよ。いつもあるところに、紅卍字が現われた。これ
はいいことだと思った。
すべての心を一つにする世界平和の祈り
先ほども土屋先生が話されていたように、フーチといって、二人が一本の棒の両
はじを持ち、棒の中ほどに筆が固定されていて、それで字を書くわけです。そうす
るとそこに人間の考えが入らないわけです。二人でやってんだからね、考えがあっ
たら二人が変になってしまう。そうすると、そこに神様のみ心が伝わって現われて
くる。それはどこでやっても同じものが出てくる、というわけです。
そのようにフーチを通して、神のみ心がはっきり現われる。神様のみ心というの
25神様の人類救済計画
がこっちに通じてくるんですよ。同じことだからね。大神様は一つなんだから。
入ったばかりなのに副処長をやれ、というんです。ふつうだと私ご辞退します、
その任にたえません、とかバカな遠慮をするんです。けれど私は肉体の人間の想い
というのを、全然というほど使っていない。だから神様のみ心のまま、動く時はス
ースーと動く。そのかわり、来てくれ、と言われたって神のみ心が動かなければ行
かないし、来てくれるな、と言われたって、行きたいところには行く。話してくれ
って言われても、いやなら話さないし、話すな、と言ったって話を聞かせる。そう
いう立場でズーッと動いているんですね。その動いているものが、自己満足で自分
むつね
だけがそうなんだ、というんで自分で宣伝して動いていたんでは、これは狐(幽界
の生物)かもわからないでしょう。それはわかんないでしょう。
ところが私のところへ来ている人たちは、霊眼の利く人がたくさんいます。”光
り輝いています” とかなんとか皆さんおっしゃる。しかしお弟子さんの人たちの自
分褒めもありますよ。自分の先生は偉く見せたい、と思う。だから私はそういう発
2G
言は全然問題にしていない。ところが合気道の植芝盛平先生、この方も古い紅卍字
づまま
の会員です。この盛平先生が私のことをベタ褒めに褒めてくれるんです。そうした
ら西田天香先生が私の写真をみて、これはいいと褒めてくれたわけだ。誠の人だと
褒めてくれた。是非、一度お会いしたい、とこうおっしゃったそうです。
いくしゅう
紅卍字に入ったら、豆修という名前を下さった。小田先生がさっきおっしゃった
ように、太陽の光、宇宙神の光というものを身に輝かせている、という意味なんだ
そうです、だから褒めてくれた。
私は褒められたら、ああそうですか有難う、と思っちゃう。そうだろうと思っち
ゃう。神様のほうからそう言ってくださった。サーお前、副処長でとにかく紅卍字
の道院を建てる手伝いをしろ、ということになった。それでかしこまりました、と
いうんで、私は自分の会の人たちを、サァみんな入りなさい、と言って片っ端から
紅卍字に入れようと思うんですよ。
そのようにほかの宗教団体の人がやればいいんですよ。五千人いようと五十万人
27神様の人類救済計画
いようと、さあ私が入ったからみんな入りなさい、と言ってみんな入ってくるよう
だと、宗教界も一つになる。それを運動しようと私は思っている。まず先がけて私
は、自分の仲間を全部入れちゃおうと思うんです。合体しちゃおうと思う。そうい
う考えを持っている。そのくらいの捨て身なことがなくて、何んの仕事が出来るも
のですか。
私の役目はどういうのか、というと、紅卍字会の壇訓にもあるんです。お前、何
か提案しろ、お前が提案することはみんな賛成してくれるから、提案しろ、とこう
言うんです。
紅卍字としては、形としては災害があった時、お金を寄付する、というように現
われているけれど、世界平和運動としてはまだなんにも現われていない。そこで、
お前がやれ、と言うんで私に命令が来ているんですよ。それは壇に出して提案して
あります。
ちんぷんかんぷん
紅卍字の教えというものは漢文です。漢文を読めない人には珍文漢文ですよ(笑)。
28
それで呉清源先生とか土屋先生とかわかる人が訳しておられる。訳をみると、いい
文章です。実にいい教えです。光輝を放っています。私どものように感じる者はい
いんだけれど、感じない者はわからない。しかしとてもいい文章で、中味はとても
いい。訳もうまいんだと思います。でもあの訳だけではまだ難しい。
紅卍字は何を考えているのか。というものを私が霊覚で推測すると、簡単に言う
と世界平和なんですよ。世界を平和にしなければいけない、人類が平和でなければ
いけない、今一番大事な時だ、サァ急げ1 というように、老祖さんのほうから声
がかかっている。それで私を引張り出したんです。何を提案しろというのかという
と、祈りによる世界平和運動ということを、私にやらせようと思っている。それで
引張り出されたんです。それを壇に出しているんです。
それはいいからやれ、とか、もう少し言葉を変えてやれ、とか言ってきます。そ
れはいけない、なんていうことはない、いけないなんていう神様だったら、そんな
もの一宗一派であって、大神様でもなんでもない。世界平和の祈りがいけない、な
29神様の人類救済計画
んていう壇訓があったら、それは神様でもなんでもない。一宗一派だ。
一宗一派というのは形があるんです。こういう祈りをして、こういう型を整えて、
こうしなければならない、というのが一宗一派。うちの教団ではこういう形をとつ
て、こういう儀式を致します。キリスト教はこういう儀式を致します、仏教ではこ
う致します、というのは一宗一派です。そういう一宗一派では絶対手がつなげない。
自分の形があるから、こっちへ入ってくるわけがない。それほど偉い人はいない。
一宗一派を超えたもの、それが紅卍字なんです。
紅卍字というものは、形が一宗一派を超えなくちゃいけませんよ。紅卍字会それ
さんぽいなゆうはい
自体の形なんてあるもんじゃない。三拝九拝してお礼をし、何かを食べて何かを燃
やして、消して、そんなものでどうするのか。そんな形だけですよ。形の世界をぬ
けなければ、本当の世界が現われない。本当の大神様のみ心というものは、形じゃ
ないんですよ。行ないなんだ。光なんだ。光り輝くものなんだ。一挙手一投足が神
まニと
のみ心の愛と真に叶えば、それが大神様のみ心の現われなんです。わかりますね。
30
三拝九拝したからいいんじゃない、鐘を鳴らしたからいいんじゃない。鈴を鳴ら
したからいいんじゃない。そんなものは形の世界です。そういうものを超えた命を
かけた世界平和を念願する大希望の行ない、愛と真の行ないが紅卍字の精神。紅卍
字は今まで何もわかっていなかった。紅卍字会をやった人はそうした精神はわから
えいえい
ない。ただ形だけを営々として行なっていた。道院という形を建てればいいと思っ
た。建てて何になる。
建物じゃない。行ないだ。愛と真の行ないよりこの世界を救うものはありません。
枝葉でどんなことをしようとかまわない。少しぐらい嘘をついてもいい。少しぐら
いソロバンをはじいて儲けてもいい。そんなことは後のこと、後のこと。
つぶけつ
世界が潰れるか潰れないかの時、そんな小さな枝葉の、穴めどをほじくるような、
お前は短気だからいけないとか、お前泣き虫だからいけないとか、そんなことは後
廻しにして、大義につく、小異を捨てて大同につくんです。それが世界平和の祈り
です。
31神様の人類救済計画
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
日本だけじゃないですよ、中国もそう、母国の平和を祈る。今ここは日本だから、
日本が平和でありますように、
私どもの天命が完うされますように
ごてん
そして、守護霊さんと守護神さんを平和の祈りにつけた。しかし大本教の悟天先
生というのは、守護霊守護神はおかしいだろう、と言うんでそれをやめて、至聖先
天老祖様有難うございます、にしました。
となごと
そういう言葉はどうでもいい。ただ一つ称え言に、誰が見てもおかしくない、一
宗一派の人々も世界人類の平和を願っているのだから、世界人類が平和であります
ように、誰がこれにケチをつけることが出来ますか。
私どもの天命を完うせしめ給え、誰がケチをつけることが出来ますか。
おさなこ
それで神様有難うございます、と言う、こういうやさしい幼児でも老人でも、誰
32
でもわかるような祈り言を私は提案したんです。
私が提案したんじゃないんだ。神様がいい時期が来た、提案しろ、と提案させた
んだ。それでもゴタゴタする。委員会の中で怒った人もあるけれど、そんなこと問
題じゃない。壇訓が証明します。
とにかく業想念を大霊光の中へ
というように、今は一人の人間が、自分の心を直すために、モタモタモタモタと
坐っている時じゃないんですよ。形の外側をいつまでもいじくっていたら、何百年
経っても世界はよくならない。自分自身もよくならない。
ないしゅうがいじ
紅卍字が内修外慈といった。内を修め、外に慈悲をたれる、という教えがありま
す。いっぺんには出来ない。内修して自分を修めていても、なかなか外に出ない場
合もあります。だから私は世界平和の祈りをすることによって、自分が修まると言
っている。
33神様の人類救済計画
なぜ修まるのかというと、魂の世界、肉体要素の世界は業想念に包まれているん
です。自分はあの人を愛したいと思う。あの人たちに尽したいと思う。けれどもソ
ロバンをはじくと損になるから止めちゃうんです。怒ってはいけないと思う。しか
し録音機が回るように、潜在意識に記録された怒りの想いは回って、自然に怒って
しまう。怒りが出てくる。恨んじゃいけないと思っても、恨みが自然に出てくる。
あの人を恋しちゃいけない、と思っても恋心が出てくる。人間というものはそうい
うものなの。それがなかったら人間じゃない。
そういう人間のこの世における本質、霊界における本質じゃありませんよ。この
世において業想念の中で、生きている人間の持ち味というものを無視して、いかに
神様の道を説いたって、そんなもの胸の中に入るわけはない。
私は本当に怒りたくないと思います。何十年も恐れないで、無恐怖の状態になり
たいと思います、と言うけれど、サァ地震がグラグラッとくると、本能的に驚く。
身を守る本能があるからね。
34
そういうものを無視して、神様はこうなんだから、こうしろ、と言ったって無理
なんですよ。そこで私は、恐がってもいい、妬んでもいい、恨み心が出てもいい。
それは仕方がない。止められない。止めようと思っても止められない場合が随分多
いんだから。止められる時は止めたほうがいいんですよ。けど止められない。
そうしたらそういう業想念の想いをもったままで、その想いをどこかへ昇華させ
ちゃいなさい。捨てちゃいなさい。どこへ捨てたらいいか。神様のみ心の中に捨て
ればいい。至聖先天老祖の中に捨てればいい。
捨てる方法はどうしたらいいか。至聖先天老祖というと、紅卍字を長くやった人
はわかるけれど、ふつうの人はわからない。キリスト教の人はイエスをキリスト様
と思っている。仏教ではお釈迦様を思っている。だから老祖といっても感じられな
いのごと
い。なれれば感じられると思います。しかしそれより先は、世界平和の祈り言の中
に、憎らしいと思った時には”世界人類が平和でありますように”、あのヤローと
思った時に。世界人類が平和でありますように”、ああ恐ろしい、と思った時に”世
35神様の人類救済計画
界人類が平和でありますように”というように、想いをすべて平和の祈りの中にぶ
ちこんじゃうんですよ。そうすると業想念が消えるんだ。
世界平和の祈りは神様の大光明だからね、単に至聖先天老祖様有難うございます、
とやってれば老祖様は消してくださる。神様の大霊光が業想念を消してくださるか
ら、小さなことにかまわず、神様の光の中に入れる。
出るものは出る。出たものを追いかけ廻して、私はこんな悪いこともした、私は
こんな悪い想いをした、悪いことを言っちゃった、とそんなことで悩んでいるよう
なバカなことをしない、そんなことをやって何になるか1
今までの宗教はそうやって教えたからいけない。それは消えてゆく姿なんだ。人
間の本来の姿ではない。
人間の本来の姿は神様のみ心が現われている姿なんだ。完全円満なんです。光り
輝いている姿なんです。光り輝いている姿に悪があるわけがない。悪魔があるわけ
がない。あるとすれば、神様のみ心を離れた時の想いのカスが、幽体に録音されて
36
いて、今、想いに現われ、行ないに現われて消えてゆこうとしているところなの。
それを掴まえて、お前が悪い、どうだこうだと言ったってしようがない。そんな
ものみんな抱いて、世界人類が平和でありますように、日本が平和でありますよう
に、私どもの天命が完うされますように、至聖先天老祖様有難うございます、とパ
ーッと神様のみ心の中へ投げ出しちゃうんですよ。そうすると気持ちが晴れやかに
あき
なり、おおらかになり、明るい明らかな心になるんです。
まつまうヘヘへ
これが末法の世における一番いい方法だと私は思う。そこに私はいのちをかけて
いるんです。
私がこうしゃべっているんだって、何も肉体の私がしゃべっているんじゃない。
いくしゅう
光り輝いている星修がしゃべっている。豊修というのは光り輝いている姿ですよ。
めかた
肉体の私はこんなやせっぽちだ。誰よりも背が低くて、目方は十一貫何百しかなく
て、貧弱な肉体をしている。私より大きい人はたくさんいる。肉体の目方でいけば、
私なんか一番小さい。
37神様の人類救済計画
この肉体というのは、ただ容れものです。場所です。器です。ラッパです。
神のみ心がそのまま現われてこなけりゃダメなんです。神のみ心を邪魔するもの
は何か? それは醜です。業想念です。自己保存の本能です。それはなくならない。
いいですか、あるんです、この地上界にある以上は。
あるけれども、それを利用して、業想念の本能で、欲しいと思い、憎いと思い、
恨めしいと思い、妬ましいと思い、恐ろしいと思う。そういう想いが出た時、サァ、
しめたことだ。想いが出たら出た時、しめた! と世界平和の祈りの中に入れるん
です。そうすると、平和を念願する想いがいつでもいつでも中にあるわけですよ。
業想念が出るたびに、よけいに神様のみ心の中に飛びこむでしょう。そうすると、
本当の世界がその人の中に開くのです。わかりますか。私がそれをやってきたんだ。
それで光り輝くものとなったんだ。
私の中には業想念はない。なんにも私心がない。ただ私はこうやってしゃべって
いるだけなんですよ。
38
さっき呉清源さんが私に話してくれた、日本語がそうなれていらっしゃらないん
ですね。失礼ですけど、話が下手かと思っちゃったの。そうしてこの壇上に立って
話をされたら、光り輝いています。やっぱり話は胸にしみました。
人間というものは、誠の心で話せば、誰の胸でも打つのですよ。三才の童児が話
しても、八十の老人が話しても、誠の想いでもって話をすれば胸にしみます。どん
なことでも。
まニと
だから皆さんは、誠の心で一貫して貫くんですよ。真で貫けば神様が必ず助ける。
だんだんこヘヘへ
断々乎としてまことを貫く。肉体のいのちなんか惜しくないんだ。どんなに生き
たって百年です。
ところが皆さんのやっている行ないというものは、未来永劫に生きます。皆さん
の心の状態、皆さんの一挙手一投足、それは未来に向かって光を放つんです。子孫
代々にまで光を放つんですよ。
まつ
皆さんが世界平和の祈りをやる。世界平和の祈願をする。そういうことは未来末
39神様の人類救済計画
だい
代まで、皆さんの子孫に光を及ぼすんです。
そのために、枝葉のことはどうでもいいから、世界人類が平和でありますように、
とやるんですね。その一番頂点に立つのが、至聖先天老祖です。大救世主です。わ
かりますか。
丁度時間となりました、またのご縁で。
40
こうまんじかい
◎世界紅卍字会とは
どういんチ ナン
道院、紅卍字会は一九二一年、中国の山東省濟南で創立された宗教団体。「道院」
ずきょう
は会員が集って内部で修坐諦経する場所。紅卍字会は会員が対外的に慈善事業、社
会奉仕を行なう組織である。両者は表裏一体をなす。
「道院」というが「道教」の一派ではない。その教義は宇宙の主宰神「至聖先天
老祖」を祀り、世界の五大宗教(キリスト教、イスラム教、仏教、儒教、道教)の教
主や世界歴代の聖者賢者を崇拝し、老荘思想によって世界宗教の統一をはかり、世
界平和を願うものである。
卍は陰陽五行の象徴を示す。戦前、旧満州を中心に中国全土で二百近い支部を有
し、大勢の会員を誇ったが、中華人民共和国の建国とともに自然消滅し、戦後は香
港や台湾、東南アジアの華僑社会で命脈を保つ。
三五館刊『安岡正篤人生は難題克服に味がある』ー編者あとがきよりー
41神様の人類救済計画
42
神様は絶対なる愛
(昭和35年2月1日)
飯田橋・東京割烹女学校にて
天のひびきを伝える音楽家・宗教家
オーケストラの演奏には必ず指揮者がいて、棒を振っています。あれはただ振っ
ているんではありません。たとえば第一バイオリンは何人にしよう。第ニバイオリ
ンは何人にして、トランペットは何人にして、というように指揮者が自分で考える。
自分の音楽をそこで組み立てるわけです。それから、天から光を受けて、光をメン
バーに流し出すんですよ。そうするとすべてのパートがみんな調和してゆくわけで
す。
たとえば私がこうやっています(といって手を振る)。皆さんは目をつぶっている
からわからないけれど、いろいろと両手を動かし、指を使ったりしているんです。
な
これは波動を調節しているんです。統一会の場合、不調和な波が出ていますと、そ
の波を印で調和させる、たとえばダイヤルを第一放送に回した。こうやれば第四チ
かしわで
ヤンネルに回した、という具合に、調節をしておいて、柏手を打ちます。
柏手にもリズムがあります。柏手は光をまっすぐに強烈に流す。さまざまな印で
もって波長を合わせる。如来印というのは、如来様に波長が合うから如来印という
のね。こういうのがあったり、こういうのがあったり(いろいろ両手で印の形を示さ
ししふんじんざんまい
れた)中には獅子奮迅三昧とかいろいろな印があるんです。
印を組んだり、柏手を打ったり、いろいろな変化をしてやっているんです。
皆さんはバイオリンの一つの糸なんです。自分ではわからないんだけど、みんな
音を出しているんですよ。各々パートパートを受け持って、二十八億分の一人とし
て光を出しているわけなんですよ。自分のひびきを自分の体を楽器にして出してい
43 神様は絶対なる愛
るんです。そのひびきがいいひびきであれば、その人の運命はよくなるし、世界人
類はよくなるんだけれども、残念ながら二十八億のうち二十七億何万何千何百人か
しらないけれど、業想念を出している。せっかくドミソという音を出したつもりが、
調子がはずれて違う音になっている。それを聞いたら気持ちが悪くてしようがない。
そんな音を出している。
そこで私みたいな人が出て、ドミソと調整するわけ。パンパンと柏手を打ち、印
を結んで調整してゆく。そうするときれいなハーモニー音が出る。不協和音という
のが、協和音になる。協和音を出すように私が調整している(統一で)。それが印
なんです。あまりひどいと、柏手を打って止めさせちゃう。というよりうしろから、
手を押さえて引いてやったり、いろいろするわけです。その役目を誰がしているか、
というと守護霊守護神がしている。その守護霊守護神の調和をとるために、ここに
肉体の五井昌久というのがいて、調和をとり、それでみんなよくしている。これが
私のお浄めなんです。
藪
統一会の時は、調和、調整を縦横無尽にやっているわけです。それが印で柏手で
ひょうしぎ
す。たとえば「火の用心1」といって拍子木を叩くでしょ。私はそれを柏手でやる
んですよ、時々(笑) それと建前(上棟式) で、おめでただ1 といって打つのが
あるでしょう。これだってお浄めなんです。みんな知らないでやっているんです。
神主さんが神社で決まりきった柏手を打ちますが、教わってそうやっている形で
すね。形だけでは光は出て来ない。自然に神様のほうから流れてきて、それが光に
なって皆さんに伝わる。神と人間が一つになって、天と地がつながってひびき渡る
のが柏手なんです。(先生、柏手を打つ)自然になる。
みんなが先生もうお疲れになるでしょう、と言う。そりゃあお疲れになります。
けどふつうの人が考えているような疲れ方はしない。なぜ疲れないかというと、私
は肉体というもの、想いというものを使っていないから、肉体の想いを使って、こ
の人にはくたびれたからいい加減にしよう、そんなことをやっていたんでは浄めに
ならない。すべての光を受けて打たなければ(柏手を打ちつつ)鳴らないでしょう。
45 神様は絶対なる愛
ふつうの人が柏手を打って、このぐらいの音しか出ないけれど、私はそれが簡単に
鳴る。
この音はどこからくるかというと、天からくる。名曲はみな天からくる。べート
ーベンの曲とか、ショパンの曲だとか、ハイドン、ヘンデルの曲とかバッハの曲、
チャイコフスキーの曲というのはみんな天の光が来るんです。それは光の波のよう
にサーッと流れてくる。ベートーベンは耳が聞こえなくなっても作曲したんです。
耳が聞こえなくなった時、彼は第九交響曲を書いた。最高傑作を書いた。
耳が聞こえないのに、どうして作曲が出来るか、というと、響いてくるんです。
その響いてくるものを楽譜に書いたんです。天の動きなんです。それを野暮な大し
たことのない作曲家は頭で書く。これとこれを合わせれば音になる。これでいいと
思って曲が出来ちゃう。それをレコード会社に持ってゆくと買ってくれたりする。
素晴らしい天界の音楽は買ってくれないんだね。今のところはそういう時代になっ
ていますけれど。
妬
大したことのない作曲家は儲かるけれども、ベートーベンもショパンもシューベ
ルトも、みんな貧乏だった。モーツァルトにしたって貧乏で、若くしてみんな死ん
だ。肉体は滅びたけれども、その名曲というものは世界各国で演奏されている。世
界各国でベートーベンを知らない人はいないでしょ。天皇陛下の名前を知らなくて
も、ベートーベンの名前を知っている。ふつう音楽に関心がなくても、ベートーベ
ンと言ったらお菓子の名前だとは思わないでしょう(笑)。そういうふうに知られ
ている。
バッハなんていう人は、私から言うと音楽界の仏陀なのね。ミューズの神とか美
の神の現われですよ、バッハは。ベートーベンは人間性が濃かったけれど、今は守
護神になって働いています。
作曲家の素晴らしい人は、みんな神々の啓示を受けた。要するに守護神の現われ
なんですよ。守護神のひびきを伝えて音楽にしている。だから素晴らしい。素晴ら
しい宗教家というのも同じ質なんですよ。
47神様は絶対なる愛
本当の宗教家だったら、音楽のひびきの良さがわからなければならないし、美術
の素晴らしいひびきがわからないわけはないんです。だからたとえば、音楽もわか
らない美術もわからない、何にもわからないという教祖があったとすれば、それは
大したことはない。ダメですよ。これが踊りだ、天からの踊りですなんて言ったっ
て、天からのひびきになっていない。ただ単なる霊動です。やっぱり天からのひび
きだったらきれいですよ。ああ美しいなーという踊りになるし、ひびきになる。
48
業想念を祈りに入れれば真、善、美が現われる
神様のみ心が現われると、真、善、美でしょう。愛と真と美ですよ。美しいもの
が現われないと、神様のみ心というわけにはいかない。それが一人一人の行ないと
すれば、美しい行ないとなる。
美しい行ないとはどういうことか、というと、お化粧して、口紅ぬって、人食い
人種みたいのが美しいんじゃない。目のところに何か入れて、真っ青にして、それ
で美しいでしょうなんて、とんでもない。見る人が見ればそれは美しいんじゃない。
行ないの中に、人格の中に自ずから美しさが感じられる、そういうものが美なんで
す。鼻が高いとか低いとか、目が丸いとか三角とか、それは始めから決まっていま
すよね。おでこが狭いのも広いのも、眉が濃いのも薄いのも、これは決まっていま
すでしょう。
信仰していたら、眉が濃くなった、なんていうのはない。そういうこととは別に、
現われてくるもの、中の人格が美しくなれば、清らかになれば、光を受けて光その
ままが現われていれば、自ずから形の世界、姿形に美しいものが出てくる。道具だ
ては仕方がない。鼻だけ直してごらんなさい。目が細いのに鼻だけ高くて、それで
似合うか、そんなの似合いません。形だけ直してもダメですよ。中味を直さないこ
とには、神様のお気に召さない。
神様のお気に召すには、やっぱり自分の気持ちを、明るい大らかな美しいものに
しなければならない。
49神様は絶対なる愛
明るくなければいけません。
大らかでなければいけません。
人のしたことが一々気になって気になってしようがないようでは、それはまだ神
様のみ心に遠い。人のことも気にならない、自分のことも気にならない。あんまり
気にならなくても困るけれど。人に借金しちゃって、オレは気にならない(笑)。
五井先生がそう言った、なんて(笑)言われては困る。そういうんではなくて、把
われがなくなって、しかも超常識、常識を超えた世界がそのまんま、ごく当たり前
の姿、当たり前の行為になって現われてくる。常識がふつうの世界で地です。超常
識が天です。天と地がすっきりつながって、常識、超常識を一貫して当たり前の姿
に現われてくる、当たり前の行動に現われてくる。そういう人にみんながならなけ
れば、世界は平和にならないんですよ。
そうなるためにどうしたらいいか、昨日、紅卍字で話したことじゃないけれど、
天の理想の、こうしなければならない、ああしなければならない、こう美しくなけ
50
ればならない、と言ったって、持っている業想念というのがあります。短気の人は
短気の業想念を持っている。病弱の人は病弱の念を持っている。気の弱い人は気の
弱さを持っている。嫉妬深い人は嫉妬深いものを持っているでしょう。これが問題
なんですよ。
それは前生から前々生から持っている、持っているのを、いっぺんに、お前それ
はいけない、と言って、ハイさようでございますか、明日から改めます、って言つ
なま
て、パッと明日から直るような、そんな生易しいもんじゃない。なぜかというと、
何生をかけたものが幽体に録音されていて、それがぐるぐる廻っているのです。何
百年も何千年もかかって積んだものを「それはいけません」ハイと言ってピッと切
れるようなことは、どんな聖者でも出来ないんですよ。
それを切り、なくす方法は持っている業想念に把われないことなんです。短気の
想いに把われているうちは、短気は直りません。臆病な自分に把われているうちは、
臆病は直りません。妬みの心がある人は妬みに把われているうちは、いつまでたっ
51神様は絶対なる愛
ても妬みはとれません。人間、欠点をつかれると、自分でなくそうと思ってもなく
ならない所をつかれるから、疲れてしまう。くたびれちゃう。それでまた欠点の渦
の中に入ってしまうんですよ。お前の業想念はこれだ1 と言われて、その中にま
た入ってしまって、いつまでたってもその渦から出られない。
だから私は言うんです。臆病なら臆病でいいじゃないか。短気なら短気でいいじ
ゃないか、そんなの怖れていたらダメなんだ。いけないというから怖れるんです。
おびや
恐がっちゃだめですよ。人間を脅かしちゃダメですよ。それでなくたって、人間し
かもご婦人方というものは、臆病に決まっているんだ。その臆病のところにもって
きて、お前は悪い、ああだこうだ、と言われるから、なおさら臆病になる。だから
げげ
そういう教えは下の下。
ちぢき
そういう宗教が多かったから、今まで宗教をやる人はみんな縮かんじゃって、気
はく
迫がなくなって、青菜に塩みたいな顔をして”私はダメでございます” と言ってい
る。そんなことを言ったって良くなりゃあしないんだ。私はダメでございます、あ
52
なたはいけないんです、というのをひっくるめて、神様の中へお返ししなさい、と
いうのが私のやり方なんです。
全部はじめから神様から来たんだから、神様はみんな見通しで知っているんだか
ら、洗いざらい全部ぶちまけて、神様の中へ「私はこれだけでございます」ってサ
ァーと投げ出してしまえ、と言うんです。「私はこれだけの人間でございます、ど
うぞご自由に、お好きなようになさってくださいませ」とパーッと投げ出してしま
う。投げ出す方法は私が教える。
今までの宗教は、こうしてはいけない、ああしてはいけない、こうあるべきだ、
こういう人間が立派な人間で、神様のみ心に叶う人間だ、と見本を出して教えるん
だけれど、どうしたらそういう人間になれますか、ということは誰も教えなかった。
教えたのはどういうことかというと、滝にあたり、水をかぶり、肉体の感覚をに
ぶらせて五感を超えなければダメだ、とこうやるんですよ。そう言われたって実際
問題として、やれやしない。続かない。水をかぶるんでも、三日か五日は続くけど、
53神様は絶対なる愛
普通一般の人は水もかぶれない。
そこで私は一番楽な、一般大衆がなんでもなく業想念を解脱できる方法を教えた
のです。神様は私に教えさせた。その方法は何かというと「祈り」なんです。
今までは目的に対して祈ったことがない。昔はお願いだけなんです。私の病気が
治りますように、子どもが立派になりますように、商売繁盛、家内安全、それだけ
でしょう。それが祈りだと思った。それは自我欲望達成の自分勝手なお願いです。
それだけだと心細いです。
おそ
立派な人は神様に自分事を頼んじゃ申し訳ない、神様を畏れかしこむでもいいか
ら、頼んではいけない、という言葉があるんです。それで自力になってしまう。自
分で力んで、それで苦しくて、幼ない心の人は、神様神様と言って、自分の願いご
はんぱ
とだけを願う。どっちも半端です。
私が提唱している世界平和の祈りというのは、自分の想いも願いも、世界人類の
本当の姿を現わすことも、すべて一つにして、世界人類の運命も自分の運命も一つ
54
にして、サァ神様にお返ししましょう、と言って祈るのが世界平和の祈りなんです。
誰だってこの世に生きていて、自分の子どもが幸福になることを願わない親はい
ない。自分の妻や夫が元気で暮らしてもらいたいのを願わないものはいない。誰で
も別離は悲しいから、別れたくない、なるたけ別れないで、長くみんな一緒にいた
い、と思うのは当たり前です。私もそうです。
うちに来ている人たちが、一人でも不幸がないようにと願っています。そういう
願いは誰にでもある。それは本元の願いで、悪いことでもなんでもない。自分の家
内安全を願い、商売繁盛を願うのは当たり前です。当たり前だけど、それだけ願う
んでは貧弱すぎて仕方がない。自我欲望だけで、なんとなくうしろめたくてしょう
がない。ちょっと知性のある人は恥ずかしくて。だから恥ずかしくないように、大
らかな気持ちになるようにしてお願いさせる方法が、世界平和の祈りなんです。
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
55神様は絶対なる愛
堂々としていますでしょう。そこへもって来て、
私どもの天命が完うされますように
と言う。私どもの天命が完うされますように、の中には、家内安全も商売繁盛も
みんな入っているんです。私どもというのは自分もまぜた全部ですよ。
だからわざわざ病気が治りますように、商売が繁盛しますように、と言わなくた
って、天命が完うされるために商売繁盛したほうがいいなら繁盛するんだし、病気
が治らないと天命が完うされないのなら、病気は治るんだし、すべて自分の願い事
というのは「私どもの天命が完うされますように」の中にふくまれているのです。
それに天命が完うされますように、という言葉は貧弱じゃありません、みじめでは
ありません。病気を治したまえ、学校へ入れてくださいだけでは、貧弱で恥ずかし
いです。
学校へ入れてくださいだけじゃ、私は苦しめられているの。(白光誌の)巻頭言
に書いておきましたけれどね。いい学校へ入りたいのは無理ない。入れてあげたい
56
なアと思います。しかし神様のみ心としたら、どこの学校へ入ったら、その子のた
めになるか、人間の考えと神様の考えと違うことがあります。合うこともあります。
だから自分勝手にどうのこうの言ったって、そうは神様はおろさない。大根おろし
ならすぐおろせるけど(笑)神様の願いは、そうやすやすとおりないこともある。
そこで学校へ入ろうと入るまいと、神様に私の子どもの天命が完うされますよう
に、と祈って、それで出た答えならば、それが一番いい答えです。その答えの中に、
その子のすべての運命が刻まれているわけ。たとえば慶応に入りたいのが日大に入
ったとしても、あるいは試験に落ちたとしても、一年浪人したことがその子のため
になるかもしれない。しれないじゃなくて、なるに決まっている。
天命を完うせしめ給え、と祈っている人たちには、神様がその天命を果させない
わけがない。なぜかというと、神様はすべてを見通していらっしゃるんだし、人間
は神様の子なんだから、神様は大親なんです。親様は子どもの不幸を願うわけはな
い。絶対ない。
57神様は絶対なる愛
ところが変なもので、人間は親様から出て来ているのに、親様が間違えて、自分
を不幸にしやしないか、と思っている。そういう神様に対する不信の想いというも
のは、やっぱり運命に現われてくるんですよ。それが過去世からつながって今の運
命に現われてきている。
58
神様は絶対なる愛
神様は絶対なる愛なんです。これを信じなきゃダメです。私なんかこうなる間に、
随分神様の愛を知ってきました。ごとごとに神様(守護神) の愛をよーく知り素晴
らしいなアと思っています。守護神は危うくなれば助けてくれる。溺れそうになれ
ば引き上げてくれる。まいりそうになったら絶対に助けてくれる。神様に全託して
不幸になることは、絶対にないことを、私は自分で確信しています。
また私のところへ来ている人たちも、皆そうです。だから第一番になさねばなら
ぬことは、神様は愛なんだ、神様は絶対に人間を不幸にすることはない、と断固と
して思うことです。神様は絶対に人間を不幸にすることはないんだ。だから神様に
すべてをあずけて、世界平和の祈りをしていればいいんだ。自分の運命は神様が知
っていらつしゃるんだから、神様に協力して、世界人類の平和を願おう。そういう
気持ちになると、その人はダーンと高くなってしまう。
どうか病気を治して、子どもの運命を… … とやっているのが、世界人類が平和で
ありますように、私どもの天命が完うされますように、と祈ると、ダーンと上にあ
がっていっちゃうんですよ。
世界人類の幸福を願う想いと、自分一人の運命の幸福を願う想いと、どちらが広
いか、これは一目瞭然わかりましょ。世界人類が平和でありますように、という想
すうこうゆだ
いは崇高なる想いです。その想いの中に、全部自分の運命を委ねるんですよ。そう
しますと、自分の体から後光が射します。光り輝くのです。
私がこうやって話していて、ああ先生の体から光が出ています。先生は光です。
と言われたら、私は当たり前だと思っちゃう。
59神様は絶対なる愛
なぜ当たり前かというと、なんにもないんだもの。世界人類の平和しか願ってい
ない、皆さんの幸福しか願っていない。そういう人がくもっていたらどうかしてい
る。光り輝いているのに決まっている。だから「光り輝いています」と言われれば、
そうだろうと。当たり前のことなんです。
皆さんも自分の幸福を願う想い、自分の子どもたちの幸福を願う想い、その想い
とともに、すべてを世界平和の祈りの中に入れてしまうんですよ。そうすると、自
分の子どもは必ず幸福になります。自分の運命は必ずよくなります。しかも世界人
げんそうおうそう
類の運命も必ずよくなります。それが往相と還相とを一緒にした祈りなんです。
往相というのは、人間として昇ってゆく姿。還相というのは菩薩として人々を救
よし
う姿、それが天と地一本につながって、光り輝くんですよ。その走りとなったのが
私なのね。「天と地をつなぐ者」という私の自叙伝があります。あの中で書きまし
たように、自分の分霊というものが天にあがっていって、直霊と一つになり、ダー
ッと光の柱になったんです。自分自身よく知っている。それを植芝先生(合気道開祖)
GO
がごらんになれば、ああ五井先生という方は光り輝いている、という。紅卍字で言
いくしゅう
えば豊修といって、光り輝いているもんだ、という。みんながそうおっしゃる。
それはなぜかというと、自分というものがなくなっているからですよ。じゃ初め
から私は自分がなかったか、というとそうじゃない。やっぱり自分の幸福を願い、
音楽家になろうとして音楽を勉強したり、文学者になろうとして小説を書いたり、
いろんなことをしています。
いろんなことをしているけれど、いつも私は何をやったかというと、一生懸命だ
った。脇目もふらず一生懸命だった。寝るのも寝ないで一生懸命だった。素直に神
様の言う通り、一生懸命にやっただけですよ。一生懸命にやったけれども、音楽家
として名をあげたわけじゃない。文学者として名をあげたわけじゃない。そういう
ものはみんな中途半端になってしまった。しかし中途半端にならないものがあった。
それは私の天命だった。私はまさか教祖みたいになって、人に道を説くとは思わな
かった。夢にも思わなかった。思わなかったことが現われたんです。
61神様は絶対なる愛
だから子どもの天命でも、どこにあるかわからない。大学入試を落ちたために偉
いお坊さんになるかもしれない。高等学校に行かなかったために、素晴らしい発明
家になるかもしれない。神様のみ心というものは、どういうところに現われるかわ
からないんですよ。だから現われてきた、目先の喜怒哀楽、目先の出世だとか、学
たい
校に入った入らない、そんなことはあまり大したことではない。
一番大したことは何かというと、しっかりと神様につながっていること。どんな
悪いことが出ても、ああこれは消えてゆく姿だ、私の本当の姿がこれによって現わ
れてくるんだ、ああこれも消えてゆく姿なんだ、これで本当の姿が現われてくるん
だ、というように、いつもいつも明るい希望、灯をこの中で、自分の中で照してる
ことです。
いつもいつも自分が光り輝かなければダメだ。光り輝くのは明るい心です。楽天
的な大希望ですよ。大きな希望を持ち、楽天的な気持ちを持つ。これが人間が立派
になるための易しい方法です。
G2
暗い心の人があるならば、陰気な淋しい想いの人があるならば、神様1 ってす
がりなさいよ。ああ神様は愛なんだ、神様が私を悪くすることはない、とそう思う
のです。
私は世界平和の祈りも何にもない時に生まれて来た。それで私は何をしたかとい
うと、私は「神様1 神様1」って言ったんですよ。神様有難うございます、神様
有難うございます、神様有難うございます、朝から晩まで、神様有難うございます、
だったの私は。
「どうぞみ心のままになさしめ給え。どうぞ神様のいいように私をお使いくださ
い」それだけだったの。そうしたら神様は「よーし使ってやる」ということになっ
たのでしょう。それはハッキリ私に聞こえたわけだね。それからいろんな苦労もし
たけれども、ついに今みたいになった。だから皆さんも、神様は愛であることを信
じなさい。絶対なる1 信ずる通りに汝になれ、というのは本当なの。ただ信じれ
ばいいんです。
63神様は絶対なる愛
とやかく言っているのは消えてゆく姿、どんなに疑っても、どんなに考えても、
大神様の正体をわかった人は一人もいない。
大神様はどこから出てきたのか、わかりゃしない。自分はどこから出てきたかも
わかりしゃしない。明日のいのちもわからない、みんなわからない。人間の知って
いることというのは、僅かの僅かのちょっとだけなんです。それほどわからないん
です。
誰がわかっているのか? 自分の運命を世界の運命を誰がわかっているのか?
それは自分を創ってくれたもの、人類を創ってくれたものがわかっているだけです。
人類を創ったものは何か、それは絶対者、神という名前で現われている絶対者です。
その絶対者はどこにあるか。自分の中にある。外にもある。中には分霊として直霊
としてある。外には守護霊守護神としてある。これが一体になって、人間は本当の
仕事が出来る。
人間というのは、本当の人間の爪の垢ぐらいしか生きていない。本当の人間とい
磁
うのはこんな貧弱なものではないんですよ。今、地球に住んでいるような、こんな
貧弱なものじゃないんです。一望千里、すべて見通しのつくもの、すべてがわかる
んです。アメリカにいようとイギリスにいようと、ああこの人はこうでして、とわ
かる。私なら誰々というそういう人はサッとわかる。写真を見ても、名前を聞いて
も聞かなくても、誰か一人の人がくれば、パッとわかります。その知り合いの人は
こんな人とすぐわかっちゃう。なぜわかるかというと、自分がないから、ないから
向こうの心の中に入っちゃうわけです。そういう人が本当の人間なんですよ。神人・
真人・真の人なのです。皆、真人になる要素がある。
神様というのは、突然に現わしてくれるんだ。私の経験でよくわかる。力でも智
恵でもパッと現われる。気が小さくてはいけませんよ、気が大きくなくちゃあ。や
さしくて、あくまでやさしく、あくまでたくましくなければね。ところが優しい人
は気が弱い。それではいけない。気が強くて、気が強いというのは、しっかりして
てこ
いるということで、そして優しくて、慈愛に満ち溢れていて、いざとなったら挺で
65神様は絶対なる愛
も動かない、不退転の大決意があるという、そういう人間になるためには、神様に
すがって、神様は愛であって、自分たちを不幸にすることは絶対ない、という大確
信を持たなきゃダメ。それは私が保証するから。
神様に本当にすがっていて、悪くなったら、私が救いにゆくから。絶対に救いに
来る。だから神様にすがりなさい。そして朝から晩まで夜中まで、ズーッと世界平
和の祈りを唱えていて、唱えると言っても、ロで唱えなくてもいいんですよ。心の
中で唱えていれば、夢の中でも世界平和の祈りがやれるようになればいいんです。
夢の中でも五井先生って言えるようになれば、それはスーッと山に登る姿です。そ
ういう人は必ず不幸を越えます。そういう人は立派な生活を築くに決まっているん
です。それが原則なんだから、皆さん気を大きくして、世界平和の祈りをやりなさ
い。それだけですよ。
それが唯一の救いの道、個人の救いでもあり、世界人類の救いでもあるんですよ。
その間の形なんかどうでもいい。寝ていようと、しゃべっていようと、起きて何を
66
しようと構わない。ただ心の中で世界人類の平和を願う、熱烈なる想いになってく
る。そうすると活気が出ますよ。
真心をもって明るい顔をしていれば、みんな安心して祈りをやりますよ。皆さん
だって、暗い人に会ってごらんなさい。自信のなさそうな人に会ってごらんなさい。
この人どうだろうと思っちゃうものね。
こそこそとつまらない人のアラばかり見つけているような人間は、もういらない。
今までの宗教はダメなんです。なぜかというと、人のアラばかり探して、お前の心
はどこが悪い、お前の目つきはなんだ… … そんなことはどうでもいいじゃないの。
小さなこと。過去世の業想念が消えてゆく姿。消えてゆく姿ばかり掴まえて、ああ
じゃないこうじゃない、ということは、宗教でもなんでもない。
宗教というものは、人間が神様のいのちを自由に発揮して、いのちあるがままに
生き生きと生きることなんですよ。生き生きと生きている。それが自由解脱ってい
うんですよ。今までの宗教は結果として、みんな解脱させないように、させないよ
67神様は絶対なる愛
うにした。お饗銭をあげた奴がいいんだ。殿堂を建てるために寄付した奴がいいん
だ。金を取ったり、奉仕させたり、そんなことばっかりしている。
それは教団が勝手にむさぼり取っているんだ。そんなもの詐欺漢だ1 神様は怒
っている。このごろは形ばっかり作って、大げさなことをやって、それでいかにも
宗教が大きいような気がしている。そんなことあるもんか!
宗教は殿堂なんかではない。宇宙に満ち満ちている光だ。私がこうやってしゃべ
っていることは、宇宙にひびきわたっているんですよ。建物は借りているんです。
借り家だから礼金は払わないといけない(笑)。礼金は皆さんが払ってくれて、借
りている。
それでもみんなが育ってゆく。そういうもんだから、気を楽にして、大きくして、
神様の愛を信じて、世界平和の祈りをしていれば、必ず皆さんはよくなります。
68
(注1 )
(注2 )
統一とは、自己の想念が自己の本心、神のみ心と一つになること。また、そのた
めに行なう行のことであり、かつて千葉県市川市に本部(聖ヶ丘道場)があった
当時、定期的に統一会が行なわれていた。
自己の想念が本心と一つになると、自ずから愛と真と美の正しい行為が自己の日
常生活の中に現われてくる。
白光真宏会の月刊機関誌。
G9 神様は絶対なる愛
70
神のみ心を自分のものにする
(昭和35年2月18日)
飯田橋・東京割烹女学校にて
理想を現実に現わすには?
今までの生き方でゆきますと、自分の悪い癖というものを、自分の力で直してゆ
くのが宗教であるし、修養となっています。
怒りの想いを自分で直す、妬みの想いを自分でなくす、荒々しい気持ちを自分で
鎮める、というように、自分が修養して、切磋琢磨してゆくわけです。それも必要
ですよ。でもあまりそれに把われますと、自分がだんだんみじめになってくるので
すよ。いくら自分の癖を直そうとしても、一朝一夕でなかなか直るものではないか
らです。これは長い間の積み重ねがあって直ってゆくものなのです。
一年や二年や三年で、なかなか癖が直るものではない。直そうと思うとまたねじ
曲げられる。またやろうとするとねじ曲げられ、しまいに「ああ私はこんなに一生
懸命やっているのに、どうして自分の性質はよくならないのだろう、自分の運命が
よくならないのだろう」と苦しくなってくるのです。
ときとき
そこで一日一日が大事です。一時一時が大事です。そして、一日一日、一時間一
時間というものを、どういうような生き方にするかというと、自分の想いというも
の、癖というものを常に世界平和の祈りの中に入れて、神様のみ心の中に入れて、
その中から生活するというようにすることが大事です。
いっぺん自分を昇天させてしまうのです。自分というもの、自我というものがあ
りますね、自分でいい悪いと判断する。自分で自分の心を押さえる。そういう想い
をいっぺん祈りの中に入れてしまうのです。自分でいい悪いと判断する、自分の心
を押さえるというのは、いい癖ではないのです。思慮分別といいます。
71神のみ心を自分のものにする
お釈迦様は、宗教の根本は思慮分別してはいけないことだ、と言っています。考
えたり、思案していたのでは、本当の仏の心はわからない、とお釈迦様はおっしゃ
っている。唯物論者に言わせれば「ものを考えないで、思慮分別をしないで、どう
して生きられるのか、それではバカと同じじゃないか」という反応が出るわけです。
そういう意味ではなく、思慮分別を捨てた中から、改めて思慮分別が出るわけです。
この三界を生きている人たちが、本当の宗教がわからない場合、それは人間の業
生の世界を認めているわけです。この世界は人間が作って、悪い所といい所がまざ
って、むしろ悪いほうが多くて、不幸なほうが多くてという生活が、人間の生活だ
と思っている。自分が悪い心を持っている、欲しい欲しいという欲望を持っている、
それは人間だから当たり前だと思うわけです。欲望がなければ生きていかれないじ
ゃないか。こう思うのが普通の考え方でしょう。
理想論の宗教的な考え方からすると、欲望などというものは、神様のみ心ではな
いからないのだ、というわけですね。神様というのは完全円満で光り輝いていて、
72
善ばかり美ばかりだから、そういうものはないのだ、というわけです。
では私はどういうようにするのか。
当たり前の一般大衆が見ているように、人間というのは欲望があるのが当たり前
だ、と一応は認めています。認めながら、その認めた想いごと、いのちの根源であ
り、心が出てくるところの本源である神様のみ心の中に、いっぺん入れてしまう。
ところが神様のみ心というのは、どういうものかわかりませんね。神様と言って
も掴みようがありません。掴めるものは何かというと、それは神様の目的です。目
的の中に神様の心があるわけだから、目的に合致する生き方さえすれば、神様のみ
心の中に入ったことになるでしょう。神様はどういう目的を持っているかというと、
自分の姿をこの地球世界にはっきり写し出そうとしています。今は写し出そうとし
ている過程なのです。
他の星でもって、完全なものが出来た、金星も出来た。地球界はまだ出来ていな
い。その過程にあります。しかしあくまでも神様のみ心が現われるべくなっている
73神のみ心を自分のものにする
世界なのです。神様のみ心が現われ出るということは、神の国、天国浄土がこの地
上界に出来るということです。そのように出来るように、み心の中ではちゃんとな
っている。それが神様の目的です。その目的に合うように、人間各自の想いがなれ
ば、神様の中に入ったことになりますね。
それも今までは、ただ単に神様神様と言ったり、神社に行って鈴を鳴らしたり、
お饗銭をあげて、なるたけ最小の投資で最大の利益を得たい、というのが今までの
信仰している人の生き方だった。そういう信仰は本当の信仰ではありません。最大
の富を得るには、神様の御姿を現わすような、神様のみ心をそのまま現わすような
生き方が出来れば最大の富、最大の幸福になるのですね。
ところが神様というと、お宮の中にいたり、仏閣の中にいたり、神棚の中にいた
り、動きのとれない神様だ。神様は動けないのです。伊勢神宮なら伊勢神宮に行か
なければ、伊勢の神様がいなかったりする。今までの古い観念の神様は、その場所
に行かなければいないような神様です。
74
本当は神様というのは、宇宙に満ち満ちているのです。と言われるとまたわから
なくなってしまう。どうかな、掴んでみよう、と言っても掴みようがないのです。
そこでどうしたらいいかとなると、やっぱり神様の目的に自分の想いを合致させれ
ば、神様が現われてくる。神様と一つになるわけです。
まこと
そこで言葉としては「愛と真を行じなさい」とか「美しい行ないをなさい」とか
「人を愛するのですよ。愛の行ないの中に神様はおわします。美しい行ないの中に
神様はいらつしゃる。真の行ないをすれば、神様はそこにいらつしゃる」というよ
うに教えるわけです。
サァ今度は、その愛と真がわからなくなってくるのですね。愛の行ないをしなけ
ればならない。隣の人が困っている場合には、自分のものを捨てても、隣の人に奉
仕しなければならない。隣の人は貧乏して、ラジオも買えない。自分の家にはテレ
ビもある。家庭電化製品がいろいろある。電気洗濯機もあれば電気ストーブもある。
そうすると良心的に考えると、自分が悪い人間のような気がしてくるのですよね。
75神のみ心を自分のものにする
何かあげなければならないような気がしてくる。こんないい暮らしの半分でも隣り
にやったほうがいい、といい人は本当に思うのです。
そうした場合、実際にやってごらんなさい。夫なり、子どもなり、妻がいると、
怒ります。
「お前はなんてバカなことをするのだ。お隣りはお隣りの勝手じゃないか。なんだ」
と文句を言いますよ。家庭不和になります。夫はふつうの人で奥さんが素晴らしい
愛の深い人で、自分の勝手にやったりすると、夫とうまくいきっこありません。そ
の反対でも同じです。
自分は国家社会のためにやっているんだ、と夫が意気張っている。妻が当たり前
の人で、家庭が円満であればいい、自分の家がうまくいけばいい、と思っている。
夫はどんどん自分のものを持ち出し、金を持ち出し、社会事業のために使ってしま
う。そうすると貧乏になって、妻は食うに食えなくなってくる。夫を恨みます。そ
ういうケースが随分あるのです。
76
夫がいいことをしているように見えても、妻や子どもを泣かすからには、いいこ
とにならないですよ。不調和だから。自分のお膝元が一番不調和になってしまうの
です。そういう状態が出来てくる。本当にまっすぐにやると。だからむずかしいで
す。本当に良心的な人は悩むのですよ。世間が社会が貧しいのに、自分だけ無事に
すんでいるけれどいいのか、自分はこういうふうに裕福に暮らしているけれども、
自分だけこんな生活をしていていいのかしら、と思うのですよ。金があっても何も
買えなくなってしまいます。それで自分の家のものをいちいち配っているうちに、
なんにも無くなってしまう。今度は妻なり子どもなりが不運になる。こういうジレ
ンマに陥る人がいい人には随分あるのですよ。
蟻の町のマリアではないけれど、お父さんやお母さんが理解があったから、貧乏
の仲間に入って生きたけれど、もしお父さんお母さんの理解がなければ、ああやっ
て飛び込めやしません。止められてしまいますよね、そうしたら、あの人は悶々と
して一生を送ったでしょう。ご両親の理解があって飛び込んだけれど、無理をした
77神のみ心を自分のものにする
から若くして死んでしまったんですね。
問題は全般的にみて、あれがいいことか、悪いことかということになるのですよ。
蟻の町のマリアの真似をしよう、あんなにいいことをした、しかもみんなに讃えら
れた、私もああいうことをしたい、と言って、自分の娘さんが飛び出していった場
合、ここにいるお母さん方が”ああいっていらっしゃい” と言うか言わないか。た
いがい言わないと思うの。私は自分の子どもだったらやりません。なぜやらないか。
それをこれからだんだん話しますけれど、百人いたらおそらく、九十九人までやら
ないと思いますよ。
ちゃんと学校を出してやっているのに、あんなに貧しいバタヤさんの部落に、自
分の娘が行くと言ったら、ハイとやれますか。それはやれないと思う。ここにいる
人はほとんどやれないと思う。
自分は奉仕したいという想いと、親たちが止める想いと、どっちも愛ですよ。親
としては見ていられない。子どもを不遇にしたくないから、やりたくないと思いま
78
す。マリアさんみたいな人は行きたいと思う。さあ愛と愛とが鉢合わせになります。
そうするとお互いが困るでしょう。お互いが善意です。親のほうは子どもを思う善
意、子どものほうは人類社会というものを思う善意。両方がぶつかります。愛し合
いながら、お互いが愛を行ないたい、と思いながら、ぶつかってゆくのですよ。
だから単純にいいことをしたい、という、愛を行じたいというけれども、厳格に
考えると、本当に突き詰めると、なかなか愛を行なうのも難しいのです。私なんか
せいらい
生来そういう愛行をしたい一方の人間なのですよ。そういうことで母親とぶつかり
ました。母親は生きているうちは当たり前の、律儀な人です。人に金を借りないけ
れど、人にお金を貸さない。借金は一銭もしたくない。しかし人には貸さない。貸
すならやったほうがいい、という人です。
私は友だちが困っていると、着ているものを脱いでもやってしまう、という人で
しょう。これをうまく融合することがむずかしい。うちの子はとてもいいことをし
ている。私なんか思いもつかないようないいことをする子だけれども、せっかく稼
79神のみ心を自分のものにする
いでためて買った洋服を人にやっちゃうバカがありますか、ということになります
よ。だから当たり前の人は、愛の深い人と一緒に暮らしていたら、付き合いかねる
のですよ。他人の行ないの場合には、「ああなんて美しい行ないをしたろう、ああ
蟻の町のマリアは偉いなア」と思うのだけれど、さて自分にふり返って、自分の子
どもになってくると、そうやっては困る、というのが人間の通常性です。
そういう人間の心を考えながら、政治もとらなければならないのだろうし、宗教
の話もしなければならないのですよ。ところが今までの宗教家、宗教指導者という
のは、そういう人間の通常の心を考えないのです。こうすべきである、こうならな
ければいけないと、理想ばかり持ってゆく。そうすると、まじめに、まともに理想
を聞いた人は苦しんでしまうのですよ。私なんかまともだったから、それで随分苦
しんだ。どこかで折り合わせをつけなければと思ったけれど、折り合いがつかなか
った。今までの宗教ではつかなかった。
たとえばイエスキリストが「上着をとる者があったら下着をも与えよ」というで
80
しょう。「右の頬を打たれたら左の頬も打たせなさい」と言う。実際の話として出
来ないです。そこまで出来る人は、この地球界の人類においては、何人もないので
す。ほとんどないと言っていいくらいないのです。
たとえば布団が一枚あったとする。隣の人がないとする。自分の布団は隣の人に
あげて、自分は藁に寝て、隣人に布団をしかせるか。しかせやしない。二枚あった
とする。一枚やるかもしれない。三枚あったら一枚半(笑) そうでもないけれど。
同じには分けられない。同じどころではない。一枚もやらないです。たいがいの場
合、自分のところに余ったものをやります。余ったものをやってもいいことをした
と思うのです。とても自分が嬉しくなってしまうのです。そんなものですよ。
本当のよいことになると、自分と同じに分けなければならないわけだ。平等でな
ければならない。そこまで本当に考えなければならない。そこまで突っ込んで考え
て、さて出来ない、という結論に達するのですよ。理想は現実にそのまま現われる
わけにはいかないから、それで出来ないということになる。でも出来ないではしよ
81神のみ心を自分のものにする
うがないでしょう。そこで私どもの教えがあるのです。
82
理想と現実のギャップを祈りの中へ
この地球世界にあると、身近かな者を愛するのです。一番身近かな者は自分なの
だ。自分より身近かな者はありはしない。それから夫であり妻であり、子どもであ
り、兄弟姉妹であり、親戚であるというようになり、一番親しい友だちということ
になってきますよね。そうやってだんだん遠い人になってゆくわけです。これは嘘
偽りのない話です。私は嘘偽りは嫌いだから、嘘偽りのない話です。
そうすると、本当の純粋の愛を行じようとすると、どうしてもギャップが出る。
ギャップが出ることは仕方がない。そこで愛せないこともあるし、自分のことを先
に考えてしまうこともあるし、自分の子どものことを先に考えることもある。だけ
ど、そういう想いをかまわず、神様のみ心の目的、地上天国を創るための目的であ
る、世界平和の祈りの中に入れてしまえ、というのです。
「ああ私は本当はこれだけやらなければならないけれど、それをやると私のほう
が困ってしまうし、うちのお母さんに怒られるし困るから、ごめんなさい、世界人
類が平和でありますように」と世界平和の祈りを唱えるのです。そうすると、世界
平和の中に、いつもいつも自分が入っているわけです。
もっと言いかえますと、人間は本当はすべて一人一人が兄弟姉妹なのです。だか
ら生命としてはみな平等でなければならないのです。隣の人が困っているのを、見
過ごしていてはいけないのですよね。でも実際問題としては、そういうことは出来
ない。出来ないギャップはどうしても残る。そういうものを、全部いっぺん神様に
お返しをしなければいけない。
一ついいことをしたから、いいことをしたというのではなくて、また、マイナス
面で悪いことをしたというのが悪いことはなくて、そういうものは、みんな消えて
ゆく姿として、この世に波として現われてくる。話を先に戻せば、過去世において、
いろいろなことをやった。施しをして、いろいろな人に恵んだりした。貧しい中か
83神のみ心を自分のものにする
らも一生懸命恵んだ人があるとする。そして自分は貧乏していたとします。その人
かわ
が生まれ甦ってくると、金がどんどん入って来たりして、そんなに余力がふつうよ
りあるわけがないのに、いっぱいお金を持っている人があります。地位がうんと上
がる人もあります。そういう人は、必ず前の世で、あるいは前の前の世で布施をし
ているのです。人を助けたりしているのです。そういう人が必ず金持ちになるので
す。
たとえば、今、性格が悪くて、今いやなヤローだと思うような人でも、お金をう
んと持っている人があるとする。それは前の世ではとても人に恵んでいる、そのお
返しなのです。恵むということは、天の倉に宝を積むのだから、貯金したと同じこ
とです。その貯金が今帰ってきて、自分の財産になっているわけです。前の世で優
しい愛の行ないをしていた人は、今生に生まれ変わると、実に美人に生まれるので
す。前の世で優しい心の人だったのだから、今生でも優しくなればいいのだけれど
も、そうはいかないらしいのだなあ。優しい人もあるけれども、美人で優しくない
84
人もあるからね。
みな前の世のこと、あるいは前の世のまた前の世のことが返ってくるわけなので
す。この世で貧乏で苦しんでいる、体も悪いとすると、その人は前の世でその反対
の人生をしていたわけ。お金は持っていても、自分だけに使っていた、人を蹴とば
して生きていた、というような場合があるわけです。そうすると今生で苦しむわけ
です。苦しむことによって、前の世の業が消えてゆく姿になって消えてゆくわけな
のです。
貧乏なら貧乏していること、病気なら病気をしていること、苦しんでいることは、
それはかわいそうであるけれども、その貧乏を助けただけでは解決しないのです。
表面のその苦しみを助けただけでは、その人が良くなるわけではないのです。その
人に一番必要なことは、こういう行ないをすればこうなるのだ、という原理を教え
ることなのです。ところが頭ごなしに原理を押しつけると、その人をいじめたこと
になります。「お前の心が悪いから、貧乏しているのですよ」とこうやる。これは
85神のみ心を自分のものにする
今までの宗教です。そうではなくて、それはみんな過去世の因縁が消えてゆくので
すよ。だから消えてゆくのだと思いながら、世界平和の祈りの中に入って、神様に
貧乏も苦しみも病気も、いっぺんお返えししましょう。というように世界平和の祈
りをして、神様のみ心の中に入れてしまえばいいのです。
その人の貧乏という業が全部、世界平和の祈りの中に入ってゆく。どんどんお祈
りをしてゆくと、知らないうちに貧乏の業がなくなってしまうわけです。そうする
と改めて、神様のほうからいいものが入ってくるのです。それは間違いなくそうな
のです。そういう原理を教えてあげるのが、一番の愛の行ないです。それならば、
自分のお金も半分分けてやらなくても自分の生活はそのまま安泰です。そういうよ
うに本当の真理を開けてやればいい。光を与えてやればいい。神様につなげてあげ
ればいいわけね。
神様というのは無限、絶対なものだから、神様の中には無限の財産もあれば、無
限の知恵があって無限の能力があって、すべてがあるわけですよ。だからそこにつ
86
はしたがね
なげてあげさえすれば、すべてがその人に与えられるわけです。一万や二万の端金
をやるより、はした金でもないけれども(笑)絶対無限なる神様の中に入れたほうが、
その人を救ったことになるのですよ。
今生の行ない、今生の運命というものは、すべて過去世の行ないの裏返し。だか
ら一日にたとえれば、その日にやったことが、やはり明日、明後日、しあさってに
現われてくる。だから一日一日が大事なのです。朝起きた時に世界平和の祈りをし
て、皆が無事であることを祈って、それで始まる。その日それでズーっとその世界
平和の祈りの波に乗って仕事をして、また寝る時、世界平和の祈りで明日につなげ
てゆく。毎日毎日、世界平和の祈りでつなげてゆけば、世界平和の祈りというのは、
神様の目的なのですから、神のみ心がそのまま現われている世界なのだから、その
中に毎日毎日入ってゆく。毎日毎日入っていることは、その人自身が光の中に入っ
ているのだから、その人自身が必ずよくなるに決まっている。
それと同時に、世界平和の祈りの中には、隣りの人も向かいの人もみんな入って
87神のみ心を自分のものにする
いるのだから、その人たちも光の中に入ってくるわけです。するとその人たちもよ
くなるに決まっている。というふうに、すべての人が世界平和の祈りをしていれば、
お金をやるとか物品をあげるとかするよりも、よほど光り輝く世界に導いてくるの
だから、その方が愛でしょう。
そういう教え方ならば、宗教が人を縛る道具になりませんよね。皆が蟻の町のマ
リアにならなくてもすむのです。蟻の町のマリアさんはそれはそれでいいでしょう
ね。マリアさんという人が出たということは、ああ立派な行ないをする人がいるん
だな、私も少しでもいいことをしたい、という気持ちをみんなに持たせるから、そ
れは効果がありますからね。とても効果があったけれども、そのために泣いている
人もあるわけだ。親なんかは誰でも泣きますよ。どこかに無理があるから、マイナ
スが出てくるわけです。自然な行ないじゃないのですよね。その人にとっては、や
むにやまれない行ないだけれど、周囲の親とか親戚とかは、せっかくあそこまで育
てて、情けないと思うのですよ、腹を割ればね。
88
若い人で真面目な人は、家を放り出してやりたい人が随分ありますよ。親などを
捨てても、社会運動をやりたい人はたくさんあります。しかし親を捨て、兄弟を捨
ててやったことが果たしていいことか、というと、私はいいとは思わない。なぜか
というと、そこに不調和があるからね。
神様の行ないに不調和はない
神様の行ないというものには、どこにも不調和があってはいけませんよ。家庭に
も不調和が起こってはいけない。周囲にも起こってはいけない。それでもって、社
会人類のためにもなる、という行ないをしなければ、それは完全円満な行ない方で
はありません。どこかに調和しないところがある。私は深くそれを思いますよ。
家庭を乱して、それで神様事をやっているということはいいか悪いか。それでは
何にもならないですよ。家庭は一番近いところだからね。また家庭の奥さんとか子
どもなんかというものは、お父さんにいちいちお礼を言わないです。大体文句ばっ
89神のみ心を自分のものにする
かり言っている。お金を貰っておいて文句を言っている。有難うと言わないですね。
喜んでくれる人にやりたくなってしまう。だから、すべて喜んでやらなければいけ
ないですね。
たとえば子どもが何をしても喜んでやる。夫が何をしても喜んでやる。人間には
喜んでもらいたいという気持ちがあるのですよ。やってもらったら、素直に喜ぶ。
やったらそのことで喜んでもいいのです。もらったほうも喜べばいい。お互いがど
んな些細なことでも、喜んで受けたらいいのです。それが変に硬く、遠慮して、い
らないと言ってみたり、何か喜ばない人が随分あるのです。
よく母親にありますよ。古い母親に、今ごろはないかもしれない。子どもが何か
お母さんのために買ってくるのですよ一生懸命。
「お母さん、これ買ってきた」
「よけいなことをしないでお前、お金を使わなくていい、よけいなことをして」
(笑)。
90
小言を言うのですね。それじゃ嫌になっちゃうでしょう。これはまずいですよ。
母親としては子どもにお金を使わせたくないから、要らない、私なんかにしなくて
いい。と言うのだけれど、子どもを思うあまり言うのだけれども、子どもの愛を受
け入れないのですよ。そういう頑なな親が随分いますよ。そういう時は無駄使いし
なくてもいい、と思っても、その愛情というものは高価なのです。金にかえられな
い、品物にかえられない尊いものなのです。だから気軽に有難う、と受けとればい
いのです。有難うと受ける、という気持ちはいいのですよ。要らないとかいるとか
言わないで。向こうがたとえ義理とか何かで出したっていいじゃないの。こっちは
愛情だと思って貰っておけば(笑)。
なんでも貰うものは有り難い、と思って貰えばいいし、あげるものは有り難いと
思ってやればいいのです。貰ってくれる人があるので、出す喜び与える喜びがある
わけでしょう。貰ってくれる人がなくなってごらんなさい。与える喜びがないです
よ。人間というのは与える喜びもほしいのです。頂く喜びもいいのです。貰うこと
91神のみ心を自分のものにする
も嬉しいですよ。ほんと持ってきてもいいですよ(笑)。貰う喜び、与える喜び両
方あるのです。だから両方がお互い満足し合わなければいけないのです。
すべてに把われてはいけません。自由な大らかな気持ちで、愛情を交換し合わな
ければいけませんね。西洋人は割り方そういうところが大らかですね。ところが日
本というのは、ギリギリ一杯、型にはまった悪い家族制度みたいのがあります。東
洋は全部そうかもしれない。儀式ばった義理にはまった、こうしなければならない、
というのがあるのです。もっと自由でなければいけません。本心のままにやったほ
うがいいですよ。本心のままにやって、向こうが喜んでくれるようなそういう人間
にみんななればいいのだからね。そういう性格に自ずからなってゆくのは、祈りの
生活なのですよ。祈りの中、神様の中に入って、そして生活してゆく。それを毎日
毎日やっていますと、知らないうちに神様のみ心が、自分の中からそのまま現われ
てくる。そうすると、パンと一言いったことが、向こうのためになったり、何気な
くお金をやったら、その人がとても困っているところだったり、そういうようなや
92
り方が出来るのです。なぜかというと、神様が知っているからです。
大神様と言わなくても、守護霊守護神さんはお互いが知り合っているのです。一
年中、顔を合わせているのです。「やあ今日は」と言っているのを、みんな知らない。
みんながうしろを向いていたって、守護霊さんたちは話し合っている。大阪と東京
と離れていたって、守護霊さんたちは話し合っているのですよ。
人間はだから、つねにうしろにいる守護霊さん守護神さんに話しかけるつもりで
いるといいですよ。ああ自分のうしろに、自分のこと、子孫のことを全部知ってい
らつしゃる方がいらつしゃるのだと、守護霊と話をすればいいのです。どういうふ
うに話すのかと言ったら、その話し言葉は世界平和の祈りなのです。
世界平和の祈りの中に、神様の中に想いを入れると、もう守護霊同士が話し合っ
てる。守護神同士が話し合っている。一つになっているということです。世界平和
の祈りの中に入ると、そこがいっぺんにパーッと広がるところであって、みんなが
通じ合うのです。本望が通じ合う所なのです。だから世界平和の祈りの中に、全部
93神のみ心を自分のものにする
が入っていれば、一日一日が充実した生活になるのです。寝たっきりの人もあるで
しょう。寝ていることは一つもムダじゃない。寝ながら世界平和の祈りを一生懸命
ヘヘへ
やっていれば、その人のいのちは世界平和の祈りの中に生きているのです。それで
守護霊同士がみんな働いている。無限に働いている。寝ながらでも働ける方法なん
てほかにありません。それは世界平和の祈りです。
94
この世で自分が行使できる権利は祈りだけ
世界平和の祈りだけは、寝ながらだって、なんだって効くのです。今までの祈り
というのは、神社にいって柏手を打たなければダメ。神棚に手を合わせなければ祈
りにならない、という不自由極まりない祈りだったのです。
神様は宇宙を動いているのです。生き生きと動いているのですよ。それが何か固
ったような気がするのね。そこで私は救世の大光明というのです。光という言葉を
使っているのです。何々の神というと固まっているような気がするでしょう。何々
仏というと何か固まっている気がする。救世の大光明というと、サァーッとひろが
っている気がする。だから私は何々の神様ということを、いっぺんも言わないでし
ょう。私のうしろには何々の神様がいる、と言わないでしょう。救世の大光明が働
いているという。
神様には名前がたくさんあるのだから、たとえば天照大神というような形で現わ
れる神様。日本では天照大神だけど、英国ではなんて言うのだろう。中国でなんて
言うのでしょう。アラビアではインドではなんて言うのでしょう。みんな違うでし
ょう名前が。だから名前をつけてしまうと、固定してしまって、不自由です。「う
ちは先祖代々阿弥陀さまです」「うちは先祖代々大日如来」「うちは天照大神」「う
ちはキリスト」ということになるでしょう。同じものなのに同じもののような感じ
がしないのですね。そこで私は救世の大光明という。大光明ならどこだって同じだ
ものね。英語で訳せばいいし中国語で訳せばいい。皆同じこと。そういう立場で私
は働いているのです。
95神のみ心を自分のものにする
そこで救世の大光明というのは、私の場合なんで働いているかというと、世界平
和の祈りとして働いている。宇宙に世界平和の祈りが鳴り響いているのです。それ
は神様のみ心です。神様は世界人類を平和にしたくてしょうがないのだし、それが
神様の役目なのだし、理念だし、み心なのです。だからそれに合わせるような生活
をすればいい。世界平和が実現するための生活をすればいいわけですよ。
平和を実現するための生活、と言って、政治に携わるわけではありません。一般
大衆というものは政治に携わっているわけではないでしょう。選挙でも、自民党は
いやだけれども、社会党に入れたら、共産党になったら困るから、自民党に一票入
れましょう、というのが大半です。あるいは自民党はけったくそが悪いから社会党
に入れてしまう。なんだかわかりはしないのです。あなた方が選んだ国会議員だか
ら、大臣だから、あなた方の責任ですよ。と言われたって、ちっとも責任のような
気がしないのですよ。一票投じた人はわかりはしないのだ。ふつうの人にはわから
ない。選挙なんていうのは、義理合いで入れているみたいなものですよ。「あそこ
9G
に頼まれているから、しようがないから入れましょう」そういうもんですね。
この世界というのは、終始一貫、自分の権利なんて行使できません。自分の権利
が行使できるのは何か、と言ったら祈りだけです。神様の中に入るということは自
由なんです。神様の中に入って、神様のみ心を自分のものにすることは、自由なの
です。どんなに好きな人がいたって、あそこに行きたいと思ったって、あの人を嫁
にもらいたい、と思ったって、向こうで違う人を好きだったら、これはしようがな
いです。あの会社に勤めたいと思ったって、向こうで雇わなければしょうがないで
しょ・つ。
ところが神様だけは「神様、私はあなたが好きですよ」と言ったら「ハイよ」と
言うのです。神様はどんな人でも、鼻が曲った人でも、口が曲った人でも「あなた
が好きです」と言ったら、いつでも、「アイよ」と言うのですよ。「さあいらっしゃ
い」と抱きかかえてくれるのは神様です。だから淋しい時、悲しい時、何でも神
様! と言って入っちゃえばいい。ところが神様だけでは何だかわからない。そこ
97神のみ心を自分のものにする
で世界平和の祈りの中に入ってゆくわけです。神様1 と自分が助けてもらいた
い、とすがったことが、実は助けてもらうと同時に、人のためにもなる働きになっ
てくるのです。
たとえ話でわかりやすく言うと、株を買いますね。株は自分が配当をもらうから
得をします。株をみんなにたくさん買ってもらえば、会社も大きくなり、生産も上
って伸びます。両方得をするでしょう。株を買うことをすすめているんじゃありま
せんよ。これはたとえ話。世界平和の祈りはそういうものですよ。自分が救われた
いと思って祈るのだけれど、祈っている内に、自分だけが救われるのではなくて、
世界人類が救われてゆく協力者になっているわけです。株の投資に似ています。株
はいい株を買わなければならないけれど、神様にいい神様というのはない。神様は
一つだからね。どんな守護神でも皆一つの神から分かれて、現われてくるわけです。
世界平和の祈りをとにかく祈りさえすれば、自分が救われると同時に、自分の想い
が光にかわって、世界人類を浄めるのですよ。
98
世界平和の祈りを、朝から晩まで心の中でやっていれば、やっているといっても、
いちいち唱えていたら面倒ですよ。唱えてなくても世界平和を思っていれば、自分
の中で鳴っているのです。そうすると朝起きても目覚めがいいし、夜寝る時の寝心
地もいいし、夢の中でもいい夢を見る。悪いことを見る時には、それは消えてゆく
姿。光に追い出されてゆく姿です。過去世の業が光に追い出されて、消えてゆくの
ですよ。それだけ自分の心が光ってくる。
守護霊、守護神と分霊の協力体制
あら
神様というのは微妙な波動なのです。物質界というのは粗い波動なのです。神様
が自分を分けて、物質界をまず創らせたわけです。そして、神様がまた分かれて、
人類に働く直霊として、直霊の分霊をあらためて物質界に派遣したわけ。微妙な波
動の働きが粗い波の中に、一度入ってくるわけですね。粗い波動を通り抜ける時、
それはあたかもトンネルを掘っているようなもので、トンネルを切り開けば光が入
99神のみ心を自分のものにする
って来ます。切り開くまで、土をかぶって真黒になってしまうでしょう。それで汚
いと同じように、細かい波動が粗い波動の中で働いているうちに、細かい波動なら
一瞬にして行けるのに、粗い波動ではそれが出来なくて、時間がかかる。時間のマ
イナスがすべてのマイナスで業になるわけです。
細かい波動は粗い波動の中では、細かい波動本来の力が発揮できないのですよ。
いつも言うことだけれど、人間が裸で泳げばとても速いのに、着物を着て、その上
に重い潜水服を着たら、裸本来の泳げる力が出ないでしょう。それと同じようなも
のです。そこで背後から守護霊守護神という力を加えて、はじめて本来の微妙な人
間の働きが出来るようになるのです。
今までは守護霊守護神というものを説いていないものだから、説いていてもいい
加減な説き方をしているものだから、今までの宗教ではそれがわからなかった。そ
こでどうして業が出来たのか、完全円満なる神の子がどうして苦しんでいるのか、
というのだけれども、完全円満という姿は、分霊と守護霊守護神と三つ合わせての
100
姿なのです。
大神様が守護霊守護神と分霊とまぜた上で、はじめて完全になるように仕組んで
あるのです。守護霊守護神をぬかした分霊だけでは、完全ではありません。三者が
協力して、はじめて完全な神様の姿が出来るわけです。今までは三者がまだ協力し
ていなかったから、その間のギャップが業想念になって、不完全が出来たのです。
そこで私のような人が現われて、守護霊守護神と分霊と三者が合わせて働かなけ
れば、本当の世界が出来ないのだ、と教えているわけです。守護霊さん守護神さん
有難うございます、と常に守護霊守護神さんの中に想いを入れてしまう、世界平和
の祈りの中に入れてしまうという教え方をしているわけです。そうするとはじめて
完全になってきます。完全円満な人間がこれから出来ますよ。
101神のみ心を自分のものにする
102
自分も光る人類も光る
(昭和35年2月21日)
飯田橋・東京割烹女学校にて
肉体を人間だと思っている以上は……
皆さんは私の話を聞いているから、大体わかっているけれど、普通一般の人は人
間というものがわかっていない。
人間というものは肉体を持ったものがここに現われて、食べたり飲んだりしてい
る物体の物質の人間だと思っている。固体の固まった不自由な人間だと思っていま
にっちさっち
す。人間を固まった肉体だけが人間だと思っている以上、この世の中は二進も三進
もいかなくなり、どんづまりになってしまう。
どういうことかというと、アメリカにしろソ連にしろ、日本にしろ支那にしろ、
皆この固まった肉体の人間を守ろうとするから、戦争になるわけです。人間は神様
の子である、ということになれば、戦争ということは起こりっこないのです。とこ
ろが人間は肉体だと思って、この形がなくなったらお終いだ、と思っています。形
の国がなくなればお終いだと思っている。そこでこの形の人間が住みやすいように、
安楽に暮せるようにと思うために、お互いが領土争いをするわけ。
人間がこの肉体と思えば、一番可愛いのはこの肉体ですね。そうすると、この肉
体から生まれてきた子どもだとか、自分の肉体に近い人たちが一番、親しいわけで
すね。そうするとそれを守ろうとする。それが大きくなって、民族とか国家とかい
うものになっても、やっぱり自分の民族が可愛いし、自分の国が可愛いのです。こ
れは当たり前ですね。自分の民族より他の民族が可愛いということはないのですね。
ですから肉体が人間だと思っている以上は、この世の中はどうしたって相対的にな
ってしまう。敵味方が出来るわけですね。
103自分も光る人類も光る
この現われの世界においては、絶対ということはありません。たとえば地球にし
ても太陽系宇宙の中の場所が決まっています。日本という場所が決まっています。
アメリカという場所、ソビエトという場所が決まっている。その場所以外に必要な
場合が出来てきます。アメリカは軍事基地が欲しいとする、すると沖縄を自分のも
はぼまいしこたん
のにしてしまうのですね。ソビエトが軍事基地が欲しいとすれば、歯舞、色丹でも
千島列島でも、みな自分のものにしてしまう。
いくら自分の国が広くても、自分の国のために便利のように、より自国の権益が
拡大されるようにと思って、他の国にちょっかいをかけるわけです。それが武力的
にかける場合もあれば、経済的に圧迫をかける場合もある。日本が大東亜戦争、太
平洋戦争を始めましたね。あれは負けたからこそ、日本だけが悪いことになってい
るけれども、日本だけが悪いのではない。喧嘩両成敗で、日本も悪いし、アメリカ
も悪いし、イギリスも悪い。みんな悪いのですね。
お互いの業がぶつかり合って、力の強いものが勝っただけの話で、アメリカに神
104
様が味方して日本が負けたわけじゃない。日本が神様に見捨てられて負けたわけで
もない。お互いの肉体人間というものが、すべてだと思っている想いがぶつかり合
ったわけです。だから肉体人間だけが人間だと思っている。そういう観念からすれ
ば、いくら神様神様と思っても、神様! と言って信仰があるように見えても、肉
体世界だけが人間世界だと思っている以上、結局、戦争のほうに行ってしまうので
す。
アメリカはクリスチャンの国です。赤ん坊に生まれた時、洗礼を受ける。子ども
になれば日曜学校に行く。いつも日曜日には教会へ行って礼拝する。義務みたいに、
行かなきゃおかしいようになって行っている。イギリスでもみんな教会に行って、
礼拝というのをしている。だから子どものころから、神様! というのが植えつけ
られている。神様によって人間は創られたものだ、と植えつけられているのだけれ
ども、だんだん大きくなってゆくと、いつの間にか神様を離れている。「神様、神様」
と言って教会に通いながら、いつの間にか神様から離れている。
105自分も光る人類も光る
どういうふうに離れているかというと、肉体の人間というものに自分の想いが入
ってしまって、肉体の人間というものを主にして思っている以上は、神様から離れ
ているのです。なぜかというと、神は霊だから目に見えない姿です。目に見えない
ものだから、目に見えるものだけに把われていると、いつの間にか、目に見えるも
のの中に入ってしまって、神様から離れてゆくんですね。
だから神様神様と、ただ言っていても、肉体の人間だけを全存在だと認めている
ようでは、終いにはやっぱり神様から離れてゆく。いい例は、アメリカの大統領に
アイゼンハワーという人がいます。アイゼンハワーという人はクリスチャンで、大
変立派な人なのですよ。立派な人だけれど、やっぱり神様が全存在だと思っていな
いのです。神様がすべてのすべてで、自分が動いていることも、何かもすべて神様
に任せさえすれば、神様のほうでうまくやってくれる、ということは思わないわけ
です。やっぱり自分の力、自分の周囲の力、人間の力というものを過信しているわ
けです。
106
アイゼンハワーばかりでなく、まわりの人もクリスチャンです。それでいながら、
自然に力の関係というように、軍備を拡大してゆくわけです。どうして軍備を拡大
するかというと、軍備でもって産業が膨張しています。これを軍縮にすると、軍需
工場で働いていた人たちが、みな失業するわけでしょう。他の仕事にまわすという
わけにはいかなくなってくる。まわすにしては仕事が足らない。そうすると、失業
状態が多くなって、景気が悪くなってくるわけですよ。
これは肉体の人間というものが主になっているからですよ。それでそういうこと
になってくる。
ソビエトのほうはまだ産業が未開発の地がたくさんあります。開発しなければな
らない土地がたくさんあるわけですから、そっちへ廻せばいくらだって人間は要る
わけですよ。しかも否応なしの命令でやりますからね。幹部が決めたことは、なん
でもかんでもやるわけです。だから早いですよ。まとまりがいい。スポーツにして
も、芸術にしても、科学の面でもアメリカを超えています。すべてにおいて、今ア
107自分も光る人類も光る
まさ
メリカよりも優っています。力を重点的に軍備なら軍備、スポーツならスポーツ、
芸術にもってゆくからですよ。国家が全部やっている。だから急激にあれだけ素晴
らしくなっている。
ところがアメリヵのほうではそうではない。あっちの人の意見、こっちの人の意
見を聞きながらやっている。その意見というか世論というのは、神様の心を心とし
て言うのではなく、自分たちの都合のいいようなことを提案する。日本でも同じで
すよ。おらが村の大臣さんが出てくる。そうすると、陳情といって出てくるわけで
すが、大臣はその言うことを聞かないと、次の選挙に落ちてしまうから、なんだか
んだと村の代表として、自分の意見を通そうとして、自分の村の利益をはかるわけ
ですよ。
こっちの町の、こっちの市の大臣も来て、みんなでもって大臣競争をやるわけで
す。「こっちの河川を直してくれ」「こっちに道を通してくれ」お互いが自分の町と
か村とか市とかというものを主にしてやる。そうするとA の町とB の町とは利害関
108
係が違う。Aの町を先にやったら、予算がAに行ってしまうから、Bのほうに出来
ない。Bの町を先にやればCの町が出来ない。そこで強い大臣が権限を通せば、こ
の大臣は力があるから、とまたそれを代議士にし大臣にするわけですよね。
そういったことは日本にもあるし、アメリカにもある。お互いが自分のまわり、
自分の立場というものだけを守るわけです。そこに人間の苦しさがある。
人間というのは形のある世界、形のある肉体の世界、形ある町というもの、形あ
る国家というものを土台としている以上は、どうしても対立します。絶対量が足り
ないのだから。どこまで行っても国があるわけではない。海になってしまうでしょ
う。地球というものはこれだけに決まっているわけだ。地球の外でまで生活は出来
ない。
「地球は嫌だから、金星に行こう」なんて今は行かれない。やがて行かれるけれ
ど今のところは行かれない。だから地球だけしか生活できない。しかも地球の国と
いう小さい範囲でしか生活できない。だからどうしても自分の利益だけを考えてい
109自分も光る人類も光る
る。肉体的自分というものを考えている間は、相対的になり、自分の利益のために
は相手をやっつけなければならなくなってくるんですよ。
これはどんなにうまいことを言ってもダメなのです。話し合うといってもダメで
すよ。ソ連とアメリカが軍備の拡張をし、いろいろ科学兵器をつくって、優位を競
っている。アメリカとすれば「自由諸国のため、自由諸国を守るために自分がやる」
と言うけれど、実は本当に自分だけ自分の国だけを守りたいのですよ。自分を守る
ために、自分の道連れに日本を抱きこむわけでしょう。
ソビエトはソビエトで、共産圏を守るために、というのだけれど、本当に自分を
拡大したいんだ。そのためにうまいことを言っては、アメを買って与えては、だん
だん仲間につけてゆくわけです。
ソビエトもアメリカもお互いが、自分の権益を守るための味方にしようとしてい
る。これは間違いない事実。だから話し合いをしたってダメですよ。なぜダメかと
いうと、自分のことを譲らないから。自分の権益は権益のまま持っていて、それで
110
話し合おうとしたって、話し合いがつくわけはない。
それはどこから出てくるか、というと、肉体人間だけが人間だと思っているから、
霊の世界、神の世界とか、無限の拡大された世界、生命の本当の世界を知らないか
らなのです。要するに自分というものを知らないことから始まっている。
そこでソクラテスなどは「汝自身を知れ」人間は自分のことがわかればいいのだ、
自分がどういうものであるか、ということがわかれば、すべてが解決するのだ、と
いうように言っているのですね。
「汝自身を知れ」ということはどういうことなのか。それは、人間というものは、
肉体だけではないのだ、ということを知ることなのです。今ごろは心霊主義スピリ
チュアリズムといって、霊魂のことを研究して、人間は死んでも死なないのだ。死
んだ世界があるのだという研究が盛んに行なわれるようになってきた。英国、フラ
ンスなどは非常に盛んなのです。日本もこのごろ盛んになっていますけれど、今の
ところ下火になっています。
111自分も光る人類も光る
それは心霊主義というものが、だんだん新興宗教のような形になって、教祖がた
くさん出てきたからです。それで競争しているわけですね(笑)。ところが、その
てんとう
教祖たちが本末顛倒してしまって、人間を本当に救うために働いているのではなく
なって、みな自分の利益を拡大するために、自分の権勢欲を満たすために、ただ構
わず信者を獲得している。わかるわからないじゃないのです。とにかく勢力を増や
せばいいのだ、ということでどんどん勢力を拡張している。信者数が増えるように
なると、政界に進出して、政治家をたくさんつくって、自分の思うままにこの世界
をしようと思っている。
だから宗教でもなんでもなくなってしまう。自我欲望、自分たちの権益、自分た
ちの幸福というものを、自分たちが主になってつくろう、と始めている。
112
地球全部を救うのが世界平和の祈り
この間、こういう質問が手紙で来た。
「予言によると地軸が傾いてしまって、地球が亡びるという予言がある。その時
はいつか、その時に初めて空飛ぶ円盤が来て救われるという話だけれど、空飛ぶ円
盤が来て、宇宙人が地上に降り立って救いに来る時に、一部の選ばれた者だけ、つ
まり宇宙人に関心を持っている者、自分たちみたいに宗教をやっている者だけが救
われるのか」という質問でした。私は高橋君にこう言ったの。
「そんなバカなことはない。地軸が傾いていて、地球が滅びるようになっている
けれど、そのために世界平和の祈りが出てきたのだ。この祈りが出てきて、地球が
傾くのを緩和させて、地上界の人類の損害を最小限度のもっとも最小限度、ほとん
どないくらいにして、地球をそのまま維持するのだ、地上天国を創るのだ。そのた
めに世界平和の祈りが出ているんだ」それから、「選ばれた、要するに信仰心があ
るから、宇宙人のことを思っているから、その人たちだけが救われるのか、という
と、そんなことはない。全部救う。地球人類全部を救わなければ、神のみ心は成就
しない。神のみ心というのは、信じないものを救わない、信じた者だけを救う、そ
113自分も光る人類も光る
ういうものではない。太陽の光というのはすべてに当たるのと同じだから。すべて
を救うのだ」と言いました。
少なくとも、五井先生というものがやっている運動というものは、選ばれた者だ
け救おうなんていう運動じゃありません。一般大衆全部、地球人類全部を救うため
の働きをしようという、そういう活動なのです。わかりますね。
だから宗教をやっていながら、自分たちだけが救われればいいのだ、自分たちは
一生懸命やっているから、自分たちだけが救われればいいのだ、救われないのは、
自分がやらないから悪いので救われないのだ、というようについ思ってしまうので
すよ。変でしょう。
宗教というのは、神様のみ心の中に入るのだから、自分の中の神を引き出すのだ
から、そのために神様を求めるーそれが宗教です。
「神様神様」と本当に神様の中に入ったならば、神様はすべて一つなのだから、
一人の人でも怪我したり、一人の人でも滅びることは嬉しくないことですよ。それ
114
を、自分たちだけが救われればいいのだ、というような想いがどこかしらにあるな
らば、それは宗教ではない、それは自我欲望、形を変えた自我欲望だ。そんなこと
を私は教えているのじゃない。断固として言います。
今、新興宗教がたくさんありますが、何か自分たちだけが救われればいいような
感じを持っているのが、たくさんあるのですよ。自分たちだけが救われよう、とい
う観念がある以上は、世界は一つになりっこないし、争いがなくなることもないし、
平和になることはないのです。
私はおかしいと思うのですよ。
宗教宗教と言っていたり、神様神様と言っていながら、本当は神様のみ心がわか
らないものだから「自分たちだけ、自分たち」とこう言う。
本当に神様のみ心がわかって、自分が神の子であるとわかると、自分とかなんと
かがなくなっちゃうのです。自分のため、自分たちのため、というのはないのです。
自分という時には、自分がすべてになってくるのです。
115自分も光る人類も光る
自分が救われるということは、すべてが救われること。すべてが救われた時でな
ければ、自分が救われたという気がしてこない。私なんか、みんなが救われてこな
ければ、救われた気がしないですよ。
いつでも自分の想いの中には、人の想いがあって、人の悩みなどがここにあるわ
けです。だから全部の人が救われない限り、その人の想いや煩悩は消えない。世界
わきあいあい
人類が本当に平和になって、本当に和気鵠々として、闘争心や憎悪の想いがなくな
った時、初めて五井先生の救われがあるのであって、私の救われはすべての平和が
成就しなければ、無いわけです。そのために私は来ているのです。
だから自分だけがよくなればいい、そういうチャチな想いがあるのだとしたら、
それはダメだ。それは業想念で消えてゆく姿です。私たちの運動というのは、自分
だけがなんとかという、ちっぽけなことを考えていないのです。全人類が共に救わ
れる。全人類が救われない時には、共に自分たちも滅びましょう、ということなの
ですよ。
116
かっかく
そういう想いならば、肉体が滅びたってその人は菩薩身だから、赫々と霊界で輝
きますよ。自分の肉体だけが救われたい、自分の立場だけがよくなればいい、とい
うような想いは、それは業想念なのだから、そんな想いをいつまで持っていたって、
霊界でよくなるわけではない。
なぜ自分たちだけ、自分たちだけと思うかというと、肉体人間だけを全存在だと
見ているから。肉体人間を自分だと思っているから、自分という時には、この肉体
を思ってしまう。
私たちの世界では、自分という時には肉体なんか問題にしていないです。肉体は
ありゃしないのだから。ただ現われている。本当の人間、本当の自分というものの
働きを現わすために、肉体があるだけであって、肉体が消えれば霊界で現わすので
すよ。
現在は、この肉体がみんなあります。だから肉体の世界において、本当の自分の
いのちの光をここで輝かすために、ここに生まれてきているのです。どんなよぼ
117自分も光る人類も光る
いのち
よぼのおじいさんでも、生まれたての赤ん坊でも、本当の生命、神様の子である生
命、霊なる生命をこの肉体世界で生かそうと思って、ここに来て働いているわけで
す。赤ん坊が「おぎゃあ」といって、ニコニコしたことで、まわりにいる人たちが、
ああなんて可愛いのだろう、輝やかだな、ああいいなアと思う。その時、みんなの
中に愛が芽生えますよね。
赤ん坊を見て、憎らしい、なんて思う奴はいない。ニコニコと赤ん坊に笑われて
ごらんなさい、もうとても嬉しくなっちゃう。それはなぜか? 赤ん坊は何もしな
いですよ。ただニコニコとやっているだけで、おぎゃあと泣いただけで、みんな周
囲の者が、ああよかったなア、嬉しいなアと、みんなの中から光が出るんです。喜
びが出るんです。喜びが出た時はそこが光なのです。喜びは光です。そこで愛らし
いなアという愛情がみんなに出ます。それは光です。
赤ん坊が一人いることが、周囲の何人もの人をみな輝かすことになる。赤ん坊が
寝ていて、おしっこをしていて(笑)。それでもってみんなを喜ばせ、輝かせている。
118
それは赤ん坊がいのちそのままむき出しに現わしているからです。だからその
いのちいのち
生命の光に打たれる。生命というのは神様ですから、神様の光にみんなが打たれる
わけです。それで愛情が湧いてくるわけなのです。だんだん大人になってくると、
輝かせていないのだ。くもらせちゃうのだ。
どういう姿が生命の輝いている姿かというと、それは素直な明るい姿ですよ。柔
かな穏やかな平和なものを、自分が持っていると、何も話さなくたって、持ったも
のが出てくる。そうすると会っている人は、なんだかいい気持ちだな、なんだか輝
かしくなってくる。そういう人間というものは、肉体だけの存在ではないのです。
肉体から出るのではなく、神様のみ心が、神様の光がこの肉体を通して出てくる姿
ですよ。それにみんながふれるわけなのです。そうするといい気持ちになる。
空の心が愛になり、光に変わる
だから理論的に「汝自身を知れ」といっても、解剖学的に皮をはいだってわから
119自分も光る人類も光る
ない。どこに汝があるのか? 本体はどこか? と頭を叩いても、心臓を切り開い
ても本体はありませんよ。どこに本体があるのか。それはわからないのです。
しかしわかる方法が一つある。
肉体的な想念というもの、自分というものをなくせばいいわけ。自分というもの
をなくすと、サアッと神様が現われてくる。
くロつ
空になると、パッと現われてくる。ところが空、空と言ったって、簡単に空には
なりはしません。空になるという方法は何かというと、ふつうは仕事に打込んでい
る時よ。どんなつまらない仕事でも、一生懸命、仕事に愛情をもって、お裁縫なら
お裁縫でも、この仕事によって、着る人が幸福になりますように、という気持ちで
くうそくぜしき
やっている。愛の心ですね。それが空です。空即是色です。空の心がたちまち愛に
なって光り輝いている。
どんな仕事でも愛をもって、そのまま一生懸命、愛に托して仕事をしている場合
には、それは空即是色になって、空がそのまま光になって出ている姿です。ただ坐
120
っているだけで空になるというのではないのです。それだけじゃない。それで空に
なれる場合も随分あります。皆さんが統一会で、坐って統一していると、スーッと
空になる。空即是色の光が出てくる場合もある。それは勿論いいことです。しかし
年中、坐ってばかりいられない。お母さんが朝から晩まで坐っていては、子どもは
食えなくなっちゃう。空じゃない、おなかが空だと言っちゃう(笑)。それじゃダ
メです。
当り前に、日常生活の中で空になれる方法は何か、といったら仕事に熱中するこ
とです。たとえば天才的なピアニストがいる。あるいはオイストラッフほどのヴァ
ひ
イオリニストがいる。彼らだって、練習に練習をつづけて、空の状態になって弾い
ているのですね。なにか気が入ってごらんなさい。そうすると、早い曲だったら間
違えてしまうもの。それが空になって、一生懸命になって勉強したものが、光にな
って出ている。
空になった時にはじめて、光が出てくるわけなのですね。すべてそう。だからど
121自分も光る人類も光る
んなにつまらない仕事も、たとえ廊下をぞうきんで拭くのだって、部屋を掃除する
のだって、いい加減な心でやるのだったら、空には一生なりません。どんなつまら
ない仕事でも、一生懸命やれる、本当に愛をもってやれるようになると、それは空
の状態なのです。
やさしいでしょう。空なんていうと難しそうな気がするのだ。坐らなければなら
ない。坐禅観法してやらなければ空にならない。そんなことはない。
空になるということは、本当のものを出すために空になるのです。肉体想念のま
もと
つわっていない肉体の業生ではない、業生をぬけた神様の本当の元の光、それを出
すために空になるのです。だから空になった、ただ空という時間はないわけです。
空になる時というと、必ず光が働いている時なのです。本当の光が働いている。だ
から斎藤さん、村田さんが坐って統一していて、何もなくなった。体もなくなった、
意識もなくなったという時、それは空ですね。その時には霊体がうんと働いている
時です。
122
それと同じように、お掃除していても、つまらない仕事をしていても、その一生
懸命、誠をもって”これをきれいにすれば、みんなが喜ぶ” という気持ちでやって
ニ
いるのは愛の心です。それは光ですからね、それはもう空を超えているのですよ。
だからいちいち空になってから、光が出てくるのではなくて、空になると途端に、
光が出ている。光になる時には空を超えているということです。
いのちいのち
何回も言いますが、どんなつまらなそうな仕事でも、生命をかけて、生命をその
まま出している、素直に喜んでやっている。その姿は空の姿です。そうするとその
人は必ず成功しますよ。
私は一生懸命やったけれども、ちっともよくならない、という人があるとしたら、
それは一生懸命ではないのだ。不平不満があるんだ。空じゃないんだ。光じゃない
んだ。業想念でやっているからね。儲けたい儲けたい儲けなければ… … とやってい
るから儲かりはしない。儲けなければ… … というのは業だからね。本当に一生懸命
にやっていれば、儲けようと思わなくたって、儲かります。金が要らないと思った
123自分も光る人類も光る
って、要ると思ったって、ちゃんと出てきます。
私どもがいい証拠です。何にも思っちゃいない。ただただ人を救おうと思って、
やっただけでしょう。それでこうなる。こうなろうと思っていない。何も思わなく
て、なるのです。それは本源の光を掴んでいるからね。空になって本源の中に入っ
てしまっているから。だから本源のところから出てくるのですよ。必要なものは何
でも出てきます。必要でないものは出てきません。必要でないものが、もし出てき
たとしたならば、それはマイナスになります。
ここにたとえば億万円の金を使えない人があるとしますね。使うだけの器量のな
い人に、億万円来てごらんなさい。どうしようもないから。持ったって宝のもちぐ
されですよ。裏長屋に住んでいたとします。そこにダイヤモンドなんかもらったっ
てしようがないでしょう。それと同じように、一番自分に適したものが現われてく
るわけです。適当なものが現われて、魂がだんだん光を増してきたら、またそれに
つれて物質も来る、ということになるのであって、本源さえ掴めばいいのですよ。
124
本源を掴みさえすれば、世界は平和になるのです。
形ではなく本源を掴む
本源を掴まないで、肉体の人間に掴まっている。肉体の自分に掴まっている。肉
体的な国家に掴まっている。形の上の社会に掴まっている。だからダメなの。根本
が違う。根本問題を何んにも解決しないで、目に見える世界だけを追求しているか
ら、やっていけっこないのです。絶対量が足りないのに人口が増えてゆく。絶対量
が足りないのだから、無理ですよ。そこを押してゆくから、相手から奪い取らなく
てはならない。だから奪い合いになる。
それがわからないで、世の為政者たち政治家たちというものは、力と力の関係だ
から、力を増やさなければダメだ。力の均衡がなければ、力が崩れたほうが攻めら
れて負けてしまう。だから力を……といつまでもやっている。これは恐怖の連続で
す。いつまでたっても恐怖がつづく。終いにはボタンを押し違えて、原子爆弾が落
125自分も光る人類も光る
ちて、お終いになっちゃう。
そういう世界が続くならば、生きていたって仕方がないんだ。先に伸ばしている
だけだから。一丁早く片付けてしまったほうがいい、と青年たちは刹那享楽主義に
なる。その日その日が面白く遊べればいいのだ。とチャラチャラとやっているでし
ょう。ロカビリーなんて腰を震わせて、あれは酔っぱらいの姿よね。テレビの番組
なんか見ていると、どうかしてしまっている、と思って見ている。狂って狂って、
若い人たちは狂っている。全学連が国会を乗っ取ったでしょう。あの時、大藪とい
う青年作家が、機関銃を据えつけて、ババーッとやっちゃったらいい、と言ってい
ましたね。無責任極まりないことを、平気で言うのです。今の若い人たちはわから
ないだろうけど、それは無責任。
無責任というのは誰のせいかというと、社会のせいなのです。その子たちのせい
もあるけれど、社会の波が無責任なのです。大人たちが無責任なのです。何にも目
途がないのだから。青年たちを幸福にしてやる、という目途を誰も持っていない。
1a6
総理大臣、大統領をはじめ、青年を幸福に出来る、という自信が一人もないのです
よ。
「若い人たちがおれたちの言うことを聞いていれば、若い人たちは皆幸せになれ
るのだ」と言うのは誰もいない。そんなことを言える人はいないのです。真実の宗
教家以外にはないのです。政治家にはおりません。そうでしょう。アメリカの言う
ことを聞いて、青年が幸せになるか。なりはしない。いつ戦争に引っ張り出される
かわからない。日本にしても、安保条約が改正になった。日本は軍備を拡大しつつ
ある。そうしたらいつ徴兵令が出るかわからない、出ないとは誰も言えやしない。
憲法はなんといったって平和憲法でしょう。平和憲法だ平和憲法だと言っても知
らないうちに、軍隊が出来てしまって、うーんと大きくなっているのでしょう。憲
法改正もへったくれもないわね。もう軍隊になっちゃっているのですよね。そのよ
だま
うに知らない問に、軍隊規模も広がってくる。騙されてしまうのです。大人が青年
を騙して、青年に向かって、真面目になれ、正直になれ、と言ったって、言うこと
127自分も光る人類も光る
ききませんよ。そういう観念を大人が先に直さなければ、青年なんかよくなりませ
ん。大人が嘘を言って、人を騙し合っているような生活をしながら、子どもには悪
いことをするな、と言うのですからね。
たとえていえば、お米は統制ですよね。統制というのは名ばかりで、ほとんど闇
市で買っているのでしょう。この間も米屋が闇米を買ったほうが安い、と闇を買っ
ているようなことを言っていました。闇というのが明るみに出ちゃって、明るみの
ほうが闇にいっちゃったりする。なんだかわけがわからない(笑)。何のために統
制するのかわからないでしょう。ただ形だけ。何か考えはあるのだろうけれどね。
要するに道義的なところからゆけば、闇はいけないに決まっている。でも闇をや
らなきゃ食えないので、闇を見過ごしているように政治が出来ている。闇をしては
いけない! と言ったら、闇をやらないように指導者である大臣が、まず闇をやめ
なければならない。ところが料亭なんかで闇を食べているのですよ。それで担ぎ屋
をやれば、引っかかったりする。ああいう嘘も八百だよ、この世界は。だからまと
128
もにこの現象世界を見ている青年は、何言ってやんだい1 とあばれたくなるので
すよ。自分がやったら自分が損をするのだけれど、やりたくなる気持ちもわからな
いではない。
だからそういう世界をなくさなければいけません。そのために、まず気づいた人
たちが「ああそうだなア、先生の言う通り、本当に全く嘘ばかりだ。この嘘ばかり
の世界に自分も嘘をついて生きているかもしれない。そういう世界にいて、さてど
うしたら本当のことが出来るか、本当の生き方が出来るか」と考えることです。
この肉体の世界というものを、この肉体の自分というものを実在と認めて、それ
に主旨を置いている以上はダメです。肉体生活を維持しようと思う以上、嘘をつか
ないで生きてはいられない。少しでも悪いことをしないで、人間は生きてはいかれ
ないのですよ。たとえば肉を食べなきゃ生きていかれない。魚を食べなきゃ生きて
いかれない。肉は牛や豚やトリや馬などを殺している。魚も皆殺している。殺生戒
を犯しているので、仏教なら仏教をそのまま持って来てやってごらんなさい。
129自分も光る人類も光る
殺生戒といって、殺すなかれ、というのが一番はじめにある。仏教ばかりでなく、
いましめ
宗教には、殺すなかれ、という戒が一番はじめにある。魚を食べているのは魚を殺
している。肉を食べているのは動物を殺しているのです。たいがい魚を食べている。
私も食べています。そうすると形の世界で、自分の肉体だけを満足させようとする
と、他のいのちを殺さなければいけない。
人間というのは矛盾しているのだ。牛や豚を自分で飼っていても、自分で殺して
は食べられない。牛肉屋で買ってくる分には平気で食べちゃうのだ(笑)。そうで
しょう。それでちっとも心が傷まないでしょう。ずるい話だね全く。そういうもの
です人間は。私は何も悪いことをしてない、とか言ったって、皆、殺生戒を犯して
悪いことをしているのです。自分を生かすために他のものを殺しているのですよ。
というところでお話がお終いならば、私も普通の並の宗教家で、人を責めるだけ
になっちゃうのだけれど、ここからが私の話なのですよ。私も食べているのだから、
私も同罪なのだから(笑)。
130
そこですよ問題なのは。たとえば豚を食べないでごらんなさい。豚は食べないと、
日本人が決めちゃって、アメリカ人も決めちゃって、皆がそう決めて豚を食べなか
ったら、どうなりますか。誰も豚を飼わなくなります。誰もエサをやらなければ豚
は死んじゃいます。絶えてしまいますね。そうすると豚というものはいなくなっち
ゃいます。豚の天命がなくなっちゃうのですよ。だから豚というものは、この現在
の地上界においては、飼って育てて、食べて肉体に入れてもいいと私思うのです。
人間がだんだん進化してくると、豚肉など食べなくなるけれども。
たとえば生活のためにお金を儲けるために、飼っている牛を売って、殺したりす
る。それでその一切れが私なら私のところに来るとします。そうすると、私は世界
平和の祈りそのものだから、その牛の一切れを食べた時、私の肉体になって肉体を
維持します。そうすると牛が私の肉体の中で、私と一緒に働いたことになるのです。
世界平和のため、人類の平和のために牛が働いているのです。牛でも豚でもこの中
に入って、私の肉体に化けてうんと働いているわけでしょう。そうするとその牛も
131自分も光る人類も光る
豚も、位一級あがって働いていることになるのですよ。そこが問題ですよ。
皆さんも豚を食べるなり、牛を食べるなりするならば、ただムシャムシャ食べた
らいけません。豚を食べるにしても、トリを食べるにしても、牛を食べるにしても
「世界人類が平和でありますように」と祈って「豚の天命が完うされますように、
豚さん、牛さん、トリさん有難うございます」と言って食べることです。そうする
と豚の天命が完うされるのです。
世界平和の祈りを祈ることは、世界人類が光明化することです。世界人類が平和
でありますように、と言う時には、光が大光明がここ(肉体をさし) に降りてくる
わけです。自分に降りてきた光が豚なら豚に入ってゆくわけですよ。誰か一人が祈
ったとすれば、その豚一頭は生きるのです。天命を完うするのです。豚が食べられ
たことがその天命を完うしたことになる。人類のためになることになる。
人類のためになるということは、神様のために役に立ったことになる。それをい
い加減なことをして食べて「まずい、こんなもの1」と言って食べたら、それは豚
132
の天命を完うさせないだけでなくて、自分の天命も完うしないのです。だからいか
なる食べ物を食べる時でも、それは感謝しないといけない。有難うございます、だ
けでもいいけれど、食べるたびに”世界人類が平和でありますように、日本が平和
でありますように、私どもの天命が完うされますように” と言って祈らなくてはい
けない。
いちいち豚さん、牛さん、トリさん、魚と言わなくてもいいですよ。わざわざ細
別しなくてもいいけれども、それを大まかに、世界人類が平和でありますように、
の祈りの中に、すべての食物を入れなければいけませんよ。だから道を歩いていて
もそうですよ。歩いていれば、蟻をつぶしているかもしれない。小さな虫をつぶし
ているかもしれない。草を踏みにじっているかもしれない。人間の都合でみんな殺
して歩いているのです。向こうにとっては蟻でも草でも自分のいのちなのだから。
それでも世界人類が平和でありますように、と祈りながら殺したとすれば、向こう
のいのちが生きるのです。
133自分も光る人類も光る
どんなものを食べてもいいから、どんなことをしてもいいから、どんなことをし
てもいいからって、悪いことをしても、と言うのじゃないですよ。止むにやまれな
いものは、という意味ですよ。避けられるものは避けたほうがいいです。だけどあ
なたが牛を食べなくたって、豚を食べなくたって、どこかで誰かが食べているのだ
から、全人類が食べなくなるまではね。だからあなたが食べている豚が一頭あった
とする。その内の九十九% がアメリカに行って、一切れが自分の中に入ったとする。
他では何もしなかったのに、あなたが世界平和の祈りを祈った時には、一頭全部が
生きるのですよ。天命が完うされる。
ここに集っている人たちが、豚でも牛でも食べた時に”世界人類が平和でありま
すように”という想いで食べたならば、他の人に食べられた豚が生きてしまうわけ
です。そういう生き方をすれば、世界は光明化するのですよ。
それを今までは、平気で殺生戒を犯した。平気で食べた。それで私は悪いことを
していません、とやるのですよ。していないじゃないよ。殺生戒を犯しているのだ
134
からね。殺生戒を犯してはいけない、豚や牛を食べてはいけない、ということにな
ると、窮屈になって、今度、生きられなくなります。植物もいけなくなるからね。
野菜だって、お米や麦だって、なんだっていけなくなる。そうすると何も食べられ
ないのだから生きられませんね。
だから生きるために、災を転じて福となすように、ひっくり返えせばいい。豚が
災難を負っているのだから、牛が災難を負っているのだから、その災難を救うため
に、自分が世界平和の祈りを祈りながら、豚さん有難う、牛さん有難う、と食べれ
ば彼らが生きるわけです。
すべてがそういう生き方で、肉体というものを主にしないで、霊というもの、光
というもの、それをもっと具体的に言えば、世界平和の祈りというものの中に、す
べてを入れて生活をするのですよ。そういう生活をしてごらんなさい。その人はい
つでも光り輝いているから。その人の周りに来るものは、みんな光るのです。着物
を着たら着物が光る。洋服を着れば洋服が光る、食べたものはみんな光ってくる。
135自分も光る人類も光る
罪を祈りに投げ入れると人間は神様になる
人間というものは四角四面に、これしちゃいけない、あれしちゃ悪い、というと、
心が狭くなって、気が小さくなって、この世界が暗くなります。だからそういうこ
とに把われる必要はありません。今まではそういう嘘ばかりやっていた。殺しては
いけない。嘘を言っちゃいけない。何々してはいけない。といけないという教えだ
けはある。しかし教えている坊主からして、みなそれを犯しているのです。それを
ごまか
誤魔化している。今まで誤魔化してきた。誤魔化してはいけませんよ。
ざいあくじんじゅうぼんぷ
肉体を持った人間は、罪悪深重の凡夫なのだ。多かれ少なかれ、私をはじめ、全
部罪を犯しているのです。それをとりあげると、人間はすべて罪の子ということに
なる。真宗でいえば、罪悪深重の凡夫よ、ということになる。これは嘘ではない。
本当なの。ただし、それは肉体の人間側から見ればのことです。
罪の子である肉体、罪悪深重の凡夫である肉体人間を、いっぺん世界平和の祈り
の中に入れて、神様に返しちゃうのですよ。世界人類が平和でありますように、と
136
全部神様に返して、世界平和の祈りの中から生活すれば、どんなことをしてもそれ
は生きるのです。それでなかったら、救われっこないですよ。
どこかの国の司祭が共産党なのです。それでスターリンが偉い、共産主義がいい
と言っているのです。罪があるものと言ったら、それは神だけだ、と言っているの
です。なぜかといったら、そういう罪を犯す人間が出来たのは神の罪じゃないか、
と言うのですよ。一理あるでしょう。このままだとすれば神様の罪ですよ。私もそ
う思うのだ。
このまま罪悪深重の凡夫ばかりいて、みんなが苦しむのだったら、それは誰が悪
いのでもない、神が一番悪いのだ。大神様が一番悪いのです。だから恨むなら大神
様を恨めばいいのだ。そこまで割り切らなければダメよ。
いたずらに神様を怖がってもしょうがない。そんな怖がって、戦々恐々として生
きることはありません。人間が悪いなら神様が悪いのです。人間が罪の子のまま、
罪悪深重の凡夫のままだったら、神様は一番悪いのだ。ところが神様のほうでは「わ
137自分も光る人類も光る
しは悪いものは創っておらん。完全円満なものだけしか創っていない」とおっしゃ
る。
あなた方が罪悪深重の凡夫であり、罪の子てあり、不幸や災難がそこにあるとす
るならば、あなた方のやり方がまずかったのですね。
神様のほうでは皆神の子だと言っている。完全円満なのだと言っているのだから
ね。
そこで「お前たちを罪の子として創っていない」と神様はおっしゃるのだから、
それを正直に聞いて「ああ、そうですか、神様有難うございます」とサーッと神様
の中に入ってしまう。世界平和の祈りを通して神様に入ってしまう。それで現われ
た自分が悪かったら、それは神様のせいじゃないですか。私なんかそう思っている
のですよ。
いのち
私なんか、神様どうぞ私の生命をお使いください、と神様にすべてあげちゃった
でしょう。そして神様が「お前のいのちはもらった」というところから始まった。
138
神様に全部あげちゃったから、私の言うことは神様の言うことだ、と思いこむとい
うようなことではなく、もっと深く深く思っている。行ないそのものが神様。だか
ら私の言うことははすべて真理だと思っている。だから、私は一挙手一投足全部、
神様のみ心であり、み言葉だと思っているのですよ。事実そうなのです。
全部そうなるかというと、全部神様にあげちゃったから。全部あげたから、自分
がないから、恐ろしいものなど何もない。私の言うことが間違いだという奴は、そ
っちが間違いだと思う。相手がいかにどんな神様であろうと、そんなものは間違い。
と私は思う。それでいやだったら、殺すなら殺してみろ、というぐらいの覚悟なの
ね。お前が間違いだと殺すなら殺してみろ、どんな罰でも当ててみろーというく
らいの勇気があるわけよ。そう言うのは、真理を私は知っているからよ。
自分というものをすべて、世界平和の祈りの中に投げ出して、世界平和の祈りの
中から生活したら、なんにも怖くないですよ。世界平和の祈りにすべて投げ入れ、
そこから一歩一歩踏み出してゆけば、なんにも怖くないですよ。たとえ病気が出て
139自分も光る人類も光る
も、それは消えてゆく姿。不安が出ても消えてゆく姿。どんなことが現われても全
部消えてゆく姿になる。
神様の中に入れないで、消えてゆく姿と言ってもそれは消えませんよ。認めてい
るのだもの。だから人間は、肉体を持っている自分たちはいっぺん罪悪深重の凡夫
なのだ、何か知らないけれども罪を犯しているものなのだ、と思うのです。思って
思いこめなかったら、ズッと深く考えてみなさい。必ず何かしら犯しているとわか
る。わかったら、正直にそれを認めて、そういう自分を全部、神様に返しちゃうの
です。そして世界人類のために私のいのちをお使いください、と改めて「世界人類
が平和でありますように、日本が平和でありますように」と平和の祈りの中にみん
な入れちゃうのですよ。私は、いつも入れているのです。歩きながらでも。
わざわざ心で思わなくてもいいですよ。仕事をしている時は思えないからね。そ
うではなくて、いつもこの中に思い出さなくてもあるように思うのです。自分の子
どもは思い出さなくても中にありますよね。いちいち何ちゃんどうしてる、と朝か
140
ら晩まで思ってはいないでしょう。思っていないけれども、ありますね。お母さん
なんかよくわかるわけだ。子どもを思うような、親を思うようなそういう想い方で、
世界平和の祈りをするのです。子どものことはたまたまどうしたろう、と思うくら
いで、あとは思っていないですよね。思っていないで思っています。そういう想い
方が信仰なのですよ。
言葉でいちいち出すのではない。想いの中にいちいち出すのではない。想い出さ
なくても、言葉に出さなくても、この中で鳴り響いているようなそういう祈り方を
する。それは慣れれば出来ます。子どもを思うのと同じです。いつでもぴたっとく
っついている。それは練習によってだんだん出来てきます。
そうすると、その人の一挙手一投足はみなすべて、神様のみ心になるのです。神
わざ
の子としてのみ業になり、み心になり、み言葉になるのです。そういうような生き
方をしましょうよ。そうすると世界平和が開けてくるのです。そういう人が多くな
ればなるほど、世界平和が早く開けてくる。
141自分も光る人類も光る
宗教信仰に入ろうとする人は、大体気のよさそうな、気の弱いような、臆病な人
が多いのです。あまり臆病でない、根っから度胸のあるような奴は「なに、神なん
かに頼るか、俺は俺でやってゆく」といって生きていますからね。けれど終いに間
違っちゃうのだけれどね。
気の弱そうな臆病な人が、神様を本当に掴むと、今度は勇気が出てくるのです。
それは度胸がいいと頑張っている唯物論者よりも、ズーッと強くなる。迷わない、
怖れない、そういう強い信念が出てくる。なぜそうなるかというと、神様がいれば
他になんにもないのだから、この世の中に、神様の他に何もないのですよ。
それをみんなは影を掴んでいる。そして悪魔がある、悪がある、と思っている。
それは消えてゆく姿ですね。それは自分たちが神様から離れていた想いが、消えて
ゆく姿であって、本当の世界には悪もなければ、不幸もないのですよ。何もないの
です。あるものは光だけなのです。神様のみ心だけなのです。それがわかってくる。
142
暗い想いと明るい想いをとりかえる
私などは人の想いがみんなくる。くるからお腹が痛かったり、頭が痛かったり、
肩が痛かったり、腰が痛かったり、年中、どこかしらが痛い。痛いけれど、痛いの
と自分の迷いとは別なのです。痛いのは痛いけれど、別に何にも気にならない。あ
あ、お腹が痛い、ワハハハ、とやっている。頭が痛い、なんて言っていても歌を唱
っている。それは別に何の関係もないのですよ。消えてゆく姿だから。それをハッ
キリ知っているものだから、関係はない。
皆さんもお腹が痛くても、歌が歌えるような、頭が痛くてワハハと笑えるような、
そういう人間にならなければダメですよ。貧乏して明日のお米がなくて「明日の米
ないのよハハハ… … 」と言える、そういう人にならなければダメですよ。そうなる
と、ちゃんとお金が入ってきます。それは私が保証しますから。
暗い想い、不満の想い、不安な想い、そういう想いがマイナスなのですよ。そう
いう想いが自分の運命を悪くし、神から離れるのです。そういう不安な想いや恐れ
143自分も光る人類も光る
る想いや、いろいろな想いが出たら、それを持ったままでいいのだから、そのまま
世界平和の祈りの中に入るのです。世界平和が間に合わなかったら、五井先生1
と言えばいいのです。そう思うことは光だから、光の中に入ってしまうから、業想
念はパーッと消えてしまう。
それを年中やっていると、いつの間にか、そう思わなくても、いつも心が明るく
て、穏やかなものになってくる。いわゆる観の転換です。
今までは不幸を実在だと認めている。自分の悪い心も実在だと認めている。自分
の心だと思っている。そうじゃないのだ、過去世のものが消えてゆくのだ、と言っ
て言葉で消してゆくわけね。それで消えるところがなければいけないので、世界平
和の祈りという大光明の中に入れて消してしまうわけですよ。消してくださるのは
救世の大光明。本当に神々は光り輝いているのですよ。その中にスーッと入ってゆ
くo
波なのだからね。人間の肉体だって波なのです。波の現われです。心も波の現わ
144
れです。波の現われの中で一番いいところは、光り輝いている波のところです。そ
あら
の細かい光の波動の中に、粗い波動を入れてしまえばいいのだから。業想念の不安
だとか、恐怖、憎しみなんていうものは、みんな粗い波なのだから、粗い波を細か
い波の中に入れればいい。その入れ方は、世界人類が平和でありますように、と言
うと入ってゆくわけです。そうすると、自分の体の中にサーッと明るい光が入って
くる。チェンジする。
暗い想いと明るい想いを取りかえるのですよ。自分一人では取り替えられないか
ろか
ら、五井先生が仲立ちになって、世界平和の祈りが仲立ちになって、業想念を濾過
してくれるわけです。だからそのまま世界平和の祈りをし、間に合わなかったら、
五井先生1 と言えば光が中に入ってくる。
これはなんべん聞いてもいいですから、なんべんも聞いて、自分で体得していか
なければならない。坂井さんにしても、斎藤さんにしたって、初めからものがわか
ったわけではない。何もわからなかった。普通の人だった。世界平和の祈りをしな
145自分も光る人類も光る
がら、消えてゆく姿をやっているうちに、ものがわかってくる。人の運命がわかっ
てきたり、坐っていたらサッと統一して、霊界のいろいろなことがわかったり、宇
宙人のことがわかったりする。村田さんは始めから宇宙人に会っていたわけではな
いですよ。自然に浄まってゆくうちに、宇宙人と会えるようになってくる。そうい
うふうに自然になってくる。
だから皆さんも、黙って世界平和の祈りをして、当り前の日常生活をしていなが
ら、不平不満があったならば、あったままで構わないから、世界平和の祈りをして
いれば、自ずから心が明るくなるのです。そうすると本当の人間になるのです。
にせ
今までは本当の人間ではないのだ。みな偽の人間なのだ。偽の人間に地球を渡し
ていては、どうにもならないじゃないですか。偽を脱皮してゆく、偽の皮をはいで
ゆくわけです。何をはぐかと言ったら、救世の大光明が皆さんの業想念を浄めてゆ
くわけです。
大光明に協力する意味で、皆さんはかまわずどんどん世界平和の祈りをしてくだ
14G
さい。そうすれば自分も光ると同時に、世界人類が光ってきます。
147自分も光る入類も光る
148
私は偽善者をつくらない宗教を開いた
(昭和35年7月17日)
飯田橋・東京割烹女学校にて
無理はいつか破裂する
ものが見える、というのは、何を見ているかというと、光の波を見ているんです。
光の波が反射して、それで見えるわけなんです。
肉体の人間同士が人間を見れば、今、皆さんが見えるように見えます。人間が見
るのではなく、犬が人間をどう見ているか、猫が人間をどう見ているか、象は人間
をどう見ているか、蟻は人間をどう見ているか。
人間が人間を見るのと、猫が人間を見るのと、犬が人間を見るのと、蟻が人間を
見るのと、みんな見方が違うわけですよね。おそらく蟻から人間を見れば、断崖絶
壁のようなすごく巨大なものに見えると思うんです。象から見れば蟻なんて、なん
てちっぽけなものがいるのだろう、と思うでしょう。
肉体の人間同士が見ても、形の世界から見ると同じように見えるけれど、Aなら
Aという人が見た人と、B が見た人と全く同じかというと違うんですね。Aが見た
中村さん市川さんと、B が見た中村さん市川さんとは違うのです。違うけれど総合
してみると、やや似ている、やや形が掴めるというもんで、今度、中味になってく
ると、Aも違う、Bも違う、Cも違う。
本当の人間というのは、みんな見ている人とは違うかもしれないんですね。たと
えばやさしい穏やかないい人だ、と見た人が、実はたくましくて、素晴らしく強く
て、もう底意地が悪いかもしれない。表面で見ていて、つきあいが浅いとわからな
い。つきあいが深くなれば深くなるほど、その人が本当にわかってくる。
ところが結婚してから三十年も経つけれども、私は主人のことがちっともわから
149私は偽善者をつくらない宗教を開いた
ないんですよ、と言って私に教えを乞いにくる人がおります。三十年も一緒にいて
わからないのはおかしいようだけれど、実はわかったように思っているだけで、本
当はわからない。というよりもっと深く言えば、実は自分自身のことがわからない
んですよ。自分は一体どういうものかわからないのですよ。
いくつもいくつも心(想い)があって、いろいろ探ってみると、一体自分は気が
弱いのか強いのか、気が長いのか短かいのか、情深いのか冷淡なのか、わからなく
なってくることがあるんです。
何が自分を判断するのかというと、自分の好みとか自分の習慣の想いで、自分を
判断し、人を判断するわけです。習慣の想いは何かというと業想念という。前の世、
前の世の過去世からのいろんな想いや行ないがありまして、それが幽体に積もって、
習慣になり、習慣の想いというものが積もり積もって業になるわけなんですね。
そういう目から観じますと、人間というのは業想念の、相対的な自分の善悪、い
わゆる自分の都合で変わってくるわけ。去年まで付き合って、あんないい人はない、
150
と言っていたのが、何かの都合で、自分に都合の悪いことを言ったり、やったりす
ると、あんな意地の悪い、あんな悪い人はない、と言ってきますものね。
この間まで、誉めて誉めて誉めちぎっていた人を、今度は、あんな悪い人はあり
ませんと言う。自分に都合が悪くなると、途端に悪くなっちゃうんですよ。それほ
どに人間の頭の判断力というものはお粗末なもんです。
政治家なんかそうですよ。昨日の友は今日の敵で、昨日は何々派だったと思うと、
今日は何派に変わっちゃう。年中変わっています。自分の仲間だと思って「やあ君、
一緒にやろう」と言っているうちに、いつの間にか勢力のいいほういいほうに移っ
てゆく場合が大分ある。
肉体の人間というものは、おおむね自分の利害関係で動くものなのですよ。だか
ひと
ら他人も利害関係で動いているから、あのヤロウはバカヤロウだ、ということを強
く言える、自信のある人は本当はいないんです。自分の都合が悪くなれば、平気で
動きます。
151私は偽善者をつくらない宗教を開いた
イエス・キリストの弟子にペテロという人がいます。ペテロという人はとてもい
い人で、純真な偉い人です。もう師がいなくては生きていられないような、そんな
ような人なんだけれど、そのペテロでさえも、自分のいのちが危うくなると「あの
人とは関係ありません」と咄嵯に言っちゃうんですからね。業なんですね。言って
しまって自分で悪いと思います。
こんなに慕っていた先生を、唯一無二の師、先生なんですね。その先生さえも、
自分のいのちが危なくなると、嘘を言ってしまう。
そういゾつふうに人間というものは、自分の不都合になると、嘘でもなんでも言う
んですよ。それが業想念なんです。それは絶対いけないかというと、いけないとか
いいとかいうもんじゃなくて、そうなっちゃうんだから仕方がない。咄嵯にそうな
っちゃう。
たとえば五井先生についていけば、大丈夫だと思っている。ところが、先生がや
っている仕事を進めていったら、ハリツケになるとかということになるとしますね、
152
おどかすわけじゃない。そんなことは実際にないけれど。たとえばの話です。ハリ
ツケになってしまう。一緒にやっている者はみんなハリツケになるということにな
ると、サァついてくる人が何人あるでしょう?
なかなかついては来られないものなんです。いざ命を捨てて、ということになる
と、ついて来られないもんです。私はそれが悪いとも思わない。仕方がないと思っ
ているんですよ。たとえば自分がついてゆくとしても、今度は子どもなり妻だとか
がやられるという場合があります。自分は生死を賭して、正義のために、やるんだ、
と固い決意を持っていて、自分だけが出来ても、妻だの子どもだのがやられるとい
う場合は、いっぺんに悲鳴をあげてしまうもんね。
大石蔵之助の忠臣蔵の芝居では、天野屋利兵衛は男でござる、という人がいたけ
れど、あの場合、子どもがやられるんですよね。でもあの人は偉い人で白状しなか
った。あんな人は稀にみる人であって、大抵の人だったら子どもがやられたら、い
ね
っぺんに音をあげちゃう。「私のいのちはどうなってもかまわないから、子どもだ
153私は偽善者をつくらない宗教を開いた
けは… … 」と命乞いをするでしょ。じゃ白状しろ、と言われれば白状しちゃうと思
うんですね。
そうしたら、その人はダメな人間か? そこまでしなければダメな人間だという
ことになると、この二十七億ある人類のうち、ダメな人間でない人は何人いるかと
いうんです。ごく少ないです、そういう人は。二十七億ほとんどダメだと思うんで
す。
自分のいのちは捨てられる人はあります。自分のいのちを捨てても、神のみ心の
ために働くという人はあるかもしれない。けれど、自分の妻や子どもや両親を痛い
ヘヘへ
目に合わされて、それでも神のためにいのちを投げ出すか、というと、そこまでく
ると大変なんだ。ほとんどないんです。
ところが今までの宗教観念というのは、そうしなければいけない、と言うんです。
二兎を選んではいけない。神のみ心だけだ。私の言葉で言えば、全然、業想念なん
か捨てきって、それで神のみ心のままに生きなければならない、そうしなければ、
154
あなた方は救われないんだし、人類は永劫に救われないんだーというわけでしょ。
宗教というものは全部、そういうところにもっていっているわけです。それは真
理の一番頂点なんですね。一番高い頂点なんだけれども、この世でみんな出来なき
ゃならない、出来るんだ。それで出来ない人はダメなんだ、信仰が浅い人なんだ、
それではダメなんだというふうに言われているわけですよ。それでズーッと来たわ
けです。
そうすると、宗教をやろうとする人は、いかにも出来るような顔をするわけです
よ。”いつでも神様にいのちを投げ出せます” “何があっても神様のためにすべて捨
てます” というふうに、みんな表面上はそういう形をみせるわけです。
ところが実際、内面的には出来やしないんだ。出来ないから、自分で自分の心を
さいな
責め、痛め苛んでしまうんです。自己被虐といって自分をいじめてしまうんですね。
それでいじめつづけているんです。そういう人が生まれ変わりをして、今生にはな
んだか気の弱い人になって生まれてくる。信仰のある宗教的な人が案外、気の弱い
155私は偽善者をつくらない宗教を開いた
場合が随分あるんですよ。
なぜ宗教的な人が気が弱いかというと、過去世において、今言ったような経験を
しているわけです。自分の正直な想いを隠して、いかにも自分は信仰が深いという
ような生き方をみせるわけです。昔の坊さんなんかみんなそうなんです。
たとえば家庭も欲しい、女の人も欲しい、欲しいという心は中から燃えあがって
くるものだから、これは本能的に出てくるものです。それをギュッと抑えているわ
けです。修行で抑えているわけです。抑えて抑えて抑圧しているから、抑圧したも
のは必ず破裂するんですよ。抑圧したものがないんじゃなくて、あるんだから、そ
こで抑圧したものがバッと出てくると、内緒事をするわけ。内緒事をすると、だま
したことになるわね。だますと自分をいじめるわけ。それがガタガタと廻ってきて、
過去世において坊さんをやったような人は、今生ではならず者になったり、遊び人
になったりする場合があるんです。
前の世でもって修行して、要するに戒を守ってやって来たような人が、生まれ変
156
わってくると、案外、道楽者になったりする場合が多いですよ。要するに、道楽者
なんかみていると、過去世において大分修行したような人があるんですよ。修行に
耐えられなくて、その時はごまかしていたんだけれど、生まれ変わってくると、今
度はそれがパッと出て、女の人を三人も五人もつくったりするんです。
どうしてそうなるかというと、ごまかしているからね。どうしてごまかしている
かというと、本当は出来ないからです。いっぺんに出来るようなものでない理想を、
あたかもすぐ出来るように持ってくるからです。宗教家が悪いんです。自分でさえ
もなかなか出来ないようなことを、あたかもみんな出来るんだ、誰でも出来るんだ、
げこん
というように説くでしょ。そうすると、出来ない自分が悪いんだ、自分は下根で、
自分はダメだから出来ないんだ、というように、自分をいじめてゆくんです。
ところが私はこう考えて、幼い時から思っていたんだけれど、むずかしいと思っ
た。ああ坊さんなんか偉い、キリスト教の牧師は偉い、みんな偉いと思った。本当
に神様のように欲望をみんな捨ててやっているんだ、と思ったのね。そして霊覚に
157私は偽善者をつくらない宗教を開いた
なってみて見たら、あにはからんや、みんな出鱈目で、嘘なんだ。みんなごまかし
ているだけなんです。
皮をかぶってるからね、心が見えないでしょう。だから見せかけだけど、うまい
ことばかり言ってりゃ、いかにもごもっともに聞こえるからね。いかにもその人が
偉そうに見えます。ところが私が霊覚になって見たら、もう情けなくなっちゃった。
ああ、あの人もダメだ。この人もダメだ。あれもごまかして、これもごまかしてと
思いましたよ。
その時にああそれは当たり前だと思った。出来ないのも無理ないなと思っちゃっ
た。それで人を責める気にはならなかった。さあ今度は、私はどういうことをやろ
うと思ったかというと、私は誰にでも出来る宗教を開こうと思った。みんな苦しん
で、いわゆる自分をごまかさないと生きていけないような、そういう宗教のやり方
ではダメで、要するに偽善者を創る宗教はダメだ、と思ったんですよ。偽善者を創
らない、当たり前に誰でも出来る生き方、そういう宗教を創らなければダメだと思
158
いました。
思いましたというより、思わされたんですよ、守護神のほうから。私はそういう
いぎょうどう
役目だからね。易行道の、楽にみんなが救われる、しかも人類をも救うという、そ
ういう役目のこの器なんですよ。自然にそういう体験をさせられて、そういうふう
になってくるわけね。
“肉体人間はダメなんだ
“と一旦認める
それで私のやっているのが何かというと、みんなが理想をそのまま自分だけで現
わすことは出来ない、ということを覚悟しなさい、とまずこういうわけです。
肉体の人間というものはみんな凡夫なんだからね。みんな業想念があって、理想
を、神のみ心をそのまま現わすわけにはいかないんだから、仕方がない。現わせら
れないものなんだと、いっぺん割り切っちゃったんですよ。だから高きを望まない。
私はみんなに高きを望まないんだ。肉体の人間には高いことを望んでないんです一
159私は偽善者をっくらない宗教を開いた
つも。
姑さんが嫁さんよりも自分の娘が可愛いいのは当たり前だ。こう思っちゃうんで
す。娘が姑より自分の親の方が好ましいに決まっているーこう思った。自分の親
に尽くすほど姑に尽くせっこないーと思ったんだ私は。自分の親ならば、何も尽
くそうと思わなくたって、本能的に自然に親のために尽くすことは出来ます。親も
心配します。しかし姑となると、これはつくりものなんですよ。今度はね本当の親
と同じように愛することは出来ないのです。だから姑さんのほうじゃ嫁さんのこと
を、自分の娘と同じように、自分を愛させようと思ったって、これは無理よ。絶対
無理なんです。よほど前世の因縁があった人は別よ。大体において、そうなんです。
それは無理があるわけです。
そういうことがハッキリわからなければならないんです。人間というものは、現
われている世界、自分の心というものを、本当に見極めなきゃダメです。ダメなこ
とはダメでいいんだから。ああ人間というものはそういうもんだ、自分の心はどこ
160
までいっているか、ああ私はこれだけのものだ、と。私はどうやっても、自分の利
害関係を全部捨てて、自分の子どもでも母親でも全部捨てて、それで本当に神様を
掴めるか? ダメだなア。
本当に他人と自分を同じに愛せるか? 自分を愛するように他人を愛することが
出来るか? ダメだなアと思う。
自分の子と同じように他人の子を愛せるか? ダメだなアーこうなるでしょ。
私は自分の子以上に他人の子を愛します、なんて言う人があったら、手をあげて
ください。ありゃしないんだから、嘘なんだからそれはね。そういう嘘をやったら
いけない。嘘のままでもって、あたかも宗教信仰深き者のように嘘のことをやった
らいけませんよ。
本当のことを他人に知らせることはないですよ。私はダメなんだーそんなこと
は言う必要はない。自分の心の中で、自分の本当のものを出すのですよ。自分の中
で。
1G1私は偽善者をつくらない宗教を開いた
ああ私はこれだけの人間だ、とハッキリ自分で自覚しなればいけません。それが
宗教の第一歩です。そこから宗教というものは始まるのです。自分をごまかして、
自分はなんとか出来るんだと、ごまかしているうちはダメですよ。それは宗教では
ないのです。宗教でもなんでもない。
自分はダメなもんだ、肉体の自分というものはダメなもんだ、ということが、本
当にわかってきた時に、はじめて”ああ神様、この何もわからない、ダメな人間を
どうかお助けください” ってことになるわけなんです。わかりますか?
自分はダメだからこそ、神様にすがるんだから。ダメでなくて、自分が肉体のま
まで完全なる神様なら、何にも要りませんよ。自分の心のままにいけばいいんだか
らね。それを間違える場合があるんですよ。
自分の思う通りに人間はなるんだ、というような考え方を持っていると、自分の
思う通りになるんだから、神様は何にもいらなくなっちゃうんだ。
だから宗教の一番の第一歩というものは、まず自分というものはダメなものだと、
162
肉体の人間というものはダメなものである、ということがわからないと、踏み出せ
ない。
それにはやはり、正直に自分をみつめないと、そういうことがわからないんです
よ。肉体の人間に、理想をそのまま押しつけると、みんな責めるようになってしま
います。何だあれは、宗教をやっているくせに、悪いことをしているじゃないか、
他人をだますこともあるじゃないか、この間、猫の子を捨てたじゃないか、という
ことになり、責めるようになる。
宗教をやっているばかりに、猫が子どもをうんと産んでしまって、貰い手がなく
て、捨てるに捨てられず、猫をかかえてどうしていいかわからない。それで自分で
育てなければいけないというんで、猫ばっかり育ててごらんなさい。猫が二十匹も
三十匹も増えちゃいますよ。なるたけ人にやったほうがいいけども、貰い手がなけ
れば捨てるより仕方がない、ということもあるでしょ。
宗教精神というものに把われていると、何にも出来なくなってしまう。私なんか
163私は偽善者をつくらない宗教を開いた
その点で、非常に不便なことがあるんですよ。蚊や蝿はナムアミダブツと殺せます。
ネズミなんてもう殺せない。ネズミの子なんかチューチュー鳴いて、かわいそうで
ね、可愛いくなっちゃって殺す気になれません。薬があるそうですけれど、それも
使えない。
それでしょうがないから、ネズミさんに言ったんです。「ネズミさんネズミさん、
お前さんが天井でガタガタしていると、どうしても私はあんたを殺さなきゃならな
くなっちゃうから、あなたを殺すに忍びないから、どこか他のところに行ってくれ。
どこか一番あんたに適当なところに行っておくれ」と言ったら、いなくなっちゃつ
た。ネズミが出てくるたんびに、私はそうやって頼んでんだから。そうじゃないと
殺さないとならないでしょ。それがいやなんです。出来ないのね。だけど本当は、
それも把われなの。
別にネズミは人間のために働いているわけじゃない。お米を作っているわけでは
なくて、喰うばかりだからね。だから人間には邪魔なわけですよ。ところが生命と
164
してそこに現われて来ていると、サァ殺すのに忍びないですね、そこで我慢すべき
だと思っちゃうんだよね。そこがむずかしいところ。
そこで悩むということが、それはいいことなんですよ。あっさりとネズミをチュ
ーと殺しちまえ、猫はじゃまだから捨てちまえ、というんだったら、それは情がな
いということで、愛がないということで、生命を粗末にすることで、あんまり感心
したことじゃないんですよ。把われないと言っても、そこで可愛いそうだから仕方
がない、と涙をのんで、ナムアミダブツ、どうかいいところへ今度は生まれてくれ
と言って、ネズミがいいところへ行ってと言うと、,どこへ生まれるか知らないけど
も(笑) そういう気持ちで涙をのんで、まア殺すぐらいが丁度いいんですよ。そう
いうふうに人間は出来ているんですよね。
殺してはいけないと悩んで、しかし仕方がない、どうか神様お許しください、と
いう形で、ナムアミダブツの心境でやってゆくと、そこに人間の美しい情愛の世界
が生まれて、本当の神の国が生まれる一歩になるんですよ。それが行き過ぎてしま
165私は偽善者をつくらない宗教を開いた
うと、どうにもならなくなってしまう。猫を何十匹って飼っている家があります。
猫屋敷でしょ。それじゃ人間が”私が家出しよう”と出ちゃうかもわかんない(笑)。
蚊は蚊菩薩、蝿は蝿菩薩にして、蝿がいるのは汚いところがある、と知らせてい
るんだし、汚い水を溜めないように蚊は教えているんだから、人間の世界をだんだ
んにきれいにするための蚊であり、蝿なんであるし、ウジ虫でもあるし、ノミでも
ある。だからあんまり並外れたことをすると、他の者に迷惑になる場合がずいぶん
あるんです。
たとえば、学校などに寄付を出すんでも、一人の人がズバ抜けて寄付金を出すと、
後の人が金がなくても出さなければいられなくなっちゃう。そうすると無理してで
しち
も、借金したり、物を質においても出さなければならない。そうすると一人の人が
いいことをしたんだけれども、後の人のためにはいいことじゃなくなっちゃう場合
があんのよ。とてもむつかしいことがある。
調和するためには、やりすぎてもいけない。そういうことを考えたら、人間世界
1GG
なんてのは神経症になります。いいことか悪いことかわかんなくなっちゃう。そこ
でイザコザしたことを、全部、神様に投げ出さなきゃダメなんです。いっぺん全部、
神様の中に想いを返しちゃえばいい、と言うんです。神様の中に想いを返してしま
うと、神様のほうから、適当に行動させてくれるんですよ。どういう行動に出るか
わかりませんよ。けれど馬鹿気たことはしないに決まっている。自然に自然に行な
こごと
う。小言をいう場合がいい時は小言を言うかもしれない。優しいのがいい時は優し
くするように出るかもしれない。借金をしに来た者に、パタッと断ることもあるか
もしれない。あるいは貸してやるようになるかもしれない。
神様のみ心から、行ないとして現われて来たことは、すべて万事オーケーなんで
す。万事いいんです。そこまでいかないとダメなんです。
神のみ心と一つになって、悪いことは絶対しない。なんでもかんでも真理のまま
に行なおうとすると、人間が窮屈になって、苦しくて生きられません。そこで阿弥
陀様があるんですよ。法蔵菩薩のような人があるんです。あるいは親鸞上人みたい
167私は偽善者をつくらない宗教を開いた
な人があるんです。イエス・キリストみたいな人がいるんです。
人間は凡愚で、神様のみ心のままに行なえないだろうから、サァ私の通りにおい
でなさい。私が代わりにあなたの悪いところを背負ってあげますから、みんな私と
一緒にいらっしゃいーとこういうわけなんです。それが阿弥陀様の法蔵菩薩であ
ゆる
り、イエス・キリストのマリアであるというんですよ。マリアさんが中に立って赦
してくれるというのがありますね。
それと同じように、今は世界平和の祈りがみんな赦してくれるんです。世界平和
の祈りの中に自分がとびこんでしまえば、自分たちの至らないところを神様の中に
入れてしまって、改めて至る人間にしてくれるんです。
そのかわり、世界平和の祈りを祈りながら行なう場合には、なんにも悔いなんか
しないほうがいい。そのまま行なったらいい。そこで悔いたら、ハッキリと悪いこ
ととわかったら、ああそれは消えてゆく姿だった、もう再び致しますまい、世界人
類が平和でありますように… … って祈りの中に入ってゆくんですよ。そういうやり
1G8
方なんです。
善悪の把われを神様にお返しする
私たちのやり方というのは、今までの把われ、過去世からの把われ、善悪に対す
る把われ、これがいい悪いという把われを、みんなひとまず神様の中にお返しして
しまって、改めて神の子として日々を送る、というやり方なのです。その一番易し
い方法が世界平和の祈りなんですよ。
真理ばっかり求め、真理にばっかりくっついていたら、真理に把われることにな
る。把われたら悪となる。いい事をしなければいけない、いいことをしなければい
けない、とそればかり思っていると、今度はいい事に把われちゃうんです。ちょっ
とでも真理にずれたことをすると、至らない自分が苦しくて苦しくて、生きている
すべがなくなっちゃう。そうするとその想いが今度業想念になって、病気なり不幸
なりになって現われてくるの。
169私は偽善者をつくらない宗教を開いた
だからそういうやり方じゃダメなんですよ。自分の行なっていることが、もし悪
いとするならば、悪いなら悪いで仕方がない。やっちゃったんだからね。兄弟喧嘩
をする。隣人と喧嘩する。ああしまった1 と思いますね。しまったと思った時に
「これは消えてゆく姿だったんだ、もう再びこういうことはしますまい、世界人類
が平和でありますように。隣人の天命が完うされますように、私たちの天命が完う
されますように」そういうふうに世界平和の祈りをすれば、喧嘩したことがかえっ
て、相手への祈りとなって、相手を祝福することになって、それで昇華されてゆく
わけでしょう。喧嘩という災いが転じて福となるんです。そういうふうにやんなきゃ。
失敗したことをみんな幸せになるようにやってゆくのが、世界平和の祈りなのね。
そうすると何にも把われない。あなたがいいも、私が悪いも、そんなこと一つも言
わなくてすんじゃう。何にも責めることがなくなっちゃう。自分を責めることもな
くなっちゃう。そうするとその人はどういう人になるかというと、世界平和の祈り
の中から生まれた神の子になってくるんですよ。原理としたら実に易しいんです。
170
行ないとしても易しいんです。やりさえすればいいんです。こういう教えを今、私
は一生懸命説いているわけですね。
それで心をいつも透明にしている。ごたごたしたものを、いつも世界平和の中に
入れちゃって、いつもこの中はスッキリとしている。いつも透明になっているよう
な人間になれば、姿が見えなくなる透明人間より、よっぽどいいですよ。心がスッ
キリしているんだから。そうなれば「死んでも生きても神様のみ心のまま」という
ことが本当に行なえるようになるわけです。
業想念が幽体の中にいっぱい溜まっていて、無理矢理に命を捨てよう、命を投げ
出しても、神様1 なんて言ったってそれはダメなのよ。
肉体の自他に期待するな
私などずいぶんいろいろな人の経験をしています。先生のためなら命もいらない、
なんて言ったって、なんかで都合が悪くなれば離れてしまい、どこかへ行っちゃつ
171私は偽善者をつくらない宗教を開いた
たりする。それでまたやがて都合がよくなって「先生、どうもご無沙汰いたしまし
て1」とやって来ます。
私は肉体の人間など、悪いけれども、何にも信用していない。私が信用している
のは、守護霊だけですよ。皆さんの本心と守護霊守護神は信用していますけれど、
肉体の人間というのは業想念だからね、悪いことを言われてもなんとも思わない。
さんざん恩を着せた人が他で悪口を言ったとしても、それは当たり前、消えてゆく
姿だと思っています。別に何とも思わない。あのヤロウこのヤロウ、くやしいなん
て思わない。もう始めから諦めているから。
あんまり肉体人間に期待しちゃダメですよ。友だちにも親にでも、なんでも期待
しすぎると、しっぺ返しされますよ。向こうは向こうの都合でやってんの。実はこ
っちもこっちの都合でやってんの。みんなお互いが都合でやってんですよね。自分
の都合で、この人愛したほうがいい時は愛するし、離れた方がいい時は離れようと
するわけなんです。表面でも心でも同じことですよ。
172
それをいつでもいつでも、あの人は愛していてくれる、あの人はいつも私のため
にやってくれる、こう思っていますと、向こうに他の友だちが出来たりして、向こ
うと親しくなって、こっちのことを忘れかけたりする。そうすると、あの人はひど
い人だ、あんなに誓った間柄なのに… … 恨み心が出てくるでしょ。そういうのは凡
夫のやることなんです。業想念のやることなんだよね。そういうやり方じゃダメな
んです。
自分に対しても、他人に対しても、肉体人間は業想念の人間だから、肉体人間に
は一切期待してはならない。火を見たら火事と思え、人を見たら泥棒と思え、そう
いうんじゃないんです。そういう言い方じゃないんですよ私の言い方は。肉体の人
間を全部あてにしないこと。そして世界平和の祈りの中から出て来た人だけは当て
にするんです。これは間違いないから。もっと言い換えると、守護霊、守護神だけ
相手にするんです。
A という人が悪い人だとします。しかしその守護霊守護神は、その悪いことを消
173私は偽善者をつくらない宗教を開いた
そうと思って、一生懸命になっているんだ。神様なんだから。だから守護霊守護神
さんに対して”ああ守護霊さん守護神さん、どうぞあの人をよろしくお願いします。
私との仲をうまくやってください” とこういうふうに頼んでおくのです。そうする
と、どんな悪い人でも守護霊守護神と結んじゃうと、今度、この人に対して敵対し
て来なくなるんです。そういうやり方よ。
肉体人間のやるほうはみんな消えてゆく姿、守護霊守護神がちゃんとやってくれ
る。だから肉体の人が、守護霊守護神、神様に見えてくればいいわけなんだ。ああ、
あの人も神様なんだ、この人も神様なんだ、仏様なんだ、というふうに見えてくれ
ばしめたものよ。その人が何をしたって何でもない。”ああ神様が私のために、こ
ちらの業想念を取ってくださるために、ああいうひどいことをなさってくださるん
だ、有難うございます” とこうなってくるわけね。
そこまでゆくには相当な事実、経験がからむんですよ。いっぺんにそこまで行か
れないから、そこで「肉体人間はみなダメなもんだ」といっぺんやっちゃうんだ。
174
肉体人間にあんまり期待しちゃダメだ。
今日、好きだ好きだと言っていて、明日は嫌いだ嫌いだ。そうなっちゃうんだか
らね。それがいいとか悪いとかの問題じゃなくて、それは業想念の因縁因果のため
だから仕方がないんですよ。理想をあんまり求めてはダメだというんです。肉体人
間に求めたらダメですよ。そうすると本当に泣く時があるからね。悲嘆のどん底に
陥ることもある。だから一切求めない。求めるとしたら、守護霊守護神に、神様の
中に求めるんです。
今度は神様になって現われる。しかしこの人は向こうにとっては神様ではないか
もしれない。他の人にとっては悪くても、自分にとってはよくなってきます。それ
が世界平和の祈りなんですよ。
どれもこれも神様に見えてくる
世界平和の祈りの一番最初の、根本の出方は、肉体人間の自分はダメなんだと、
175私は偽善者をつくらない宗教を開いた
肉体人間のこの地球人類はダメなんだ、いっぺん否定してしまわなければダメです。
そうしないと、神様をぬきにしても、世界平和の祈りをぬきにして、なんか他に方
法がある、という考え方になるんですよ。他に方法があると思っている以上はダメ
です。
神のみ心から出てくる想い以外に、世界平和の祈り以外に、他にも方法があるだ
ろう、という想い方でやっていたんでは、その信仰は成就しません。途中で崩れま
す。
すべてが神のみ心だ。「世界平和祈るは神のみ心のひびきにあれば祈るたのしさ」
で、すべて神様の中から出てくるんだ。すべて神様の中から出てくるものを、自分
は頂いて、自分の行ないとして生きてゆくんですね。それならば首をバーンと切ら
れてもいいんですよ。サーッと天国へ行っちゃうからネ間違いなく。そういう生き
方をするのが宗教精神なのね。
お祈りをしたから、明日儲かって、お祈りしたから、今日病気が治って、そうい
176
うのは枝葉です。うちでも随分そういう事実があるんだから、それもいいですよ。
それは神様の心と波動があって、神様の中にその人の心が入った時、パーッとよく
なってくる。それだけ本心が開いてゆくんだから、その人が立派になってゆくんだ
から、それは本当のよくなり方です。有り難いですね。
立派にならないで、業想念をかぶせてしまって、それでもって商売繁盛したって、
役が上になったって、業がかぶさって、欲がよけいに出てくるようじゃ、何にもな
らないでしょ。そんなんだったら宗教なんか要らないです。そういうことは私は教
えない。あくまでも本心が開いて、神様の子である本当の自分がここに現われてく
ることを念願して、私は教えているわけね。
それで一番いいのは、世界平和の祈りだと言うんですね。世界平和の祈りの中に
入ってしまう。世界平和の祈りの中には、悪もなければ何にもない。光り輝いてい
る本当の姿があるだけなんです。神の子の本当の姿があるだけなんです。
神の子の本当の姿がこの地上界に現われてくるまで、いろいろな業想念が消えて
177私は偽善者をっくらない宗教を開いた
ゆく姿として現われてくるわけです。それで全部、業想念が消えてしまう。そうす
ると本当の世界平和の祈りがここに実るわけです。
仮りに自分だけ業想念が消えたとします。きれいになった。ところが世界人類は
全部まだ浄まっていないんだから、人類の波がかぶさってきます。その時は菩薩と
して、他人のものも背負って、また世界平和の祈りの中に入れてやるわけです。そ
うやっていると、自分がますます大きくなってくるんですよ。一人救えば一人だけ
大きくなる。十人救えば十人だけ大きくなってくる。それで宇宙全部を救えば宇宙
神で、宇宙そのままになっちゃう。そういうような生き方が大事なわけです。
始めのころは、お金がぼんぼん儲かる場合もあるんです。先生のところへ来たら、
病気は治った、商売も繁盛してきた。心はもう安らかになって、家庭も安全になっ
てきた、ということになる。ところが一年やった。二年したら、このごろは体が悪
くなりました。家庭がなんとなくおかしい、と言ってくる人もある。
それは菩薩的になったから、一段階上の世界で、少しずつ苦しいこともある。そ
178
れが済むと、またパーッと一段階上に行くんです。そうすると終いに、なんにも問
題にならなくなる。出て来ることが、どんないいことが出て来ようと、悪いことが
出て来ようと、あまり問題にならなくなる。ただつねに神様への感謝だけで生きら
れるような、そういう人になってくるんですよ。
そうなると”こんにちは” と挨拶すると、ああ、あの人は神様の子だ、というの
がピーッとくるんですよ。みんなが神様の子に見えて来ます。どれもこれも神様に
なってくるんですよ。そうなるためにいろいろ苦労をするわけなんですけれど、や
がてみんな、そうなるんですよ。
誰を見ても憎む心が起こらない。人を見て、あのヤロウこのヤロウと思う想いが
なくなってくる。どんなことをされても、その人が憎くなくなってくるような、そ
ういう人間に自分がなるわけです。その人はなんて幸せな人でしょう。その人の住
んでいるところは天国に決まっています。
人を憎む想いがない。恨む想いがない。貧る想いがない。そういう人は天国に決
179私は偽善者をつくらない宗教を開いた
まっています。天国に住んでいる人なんです。そういうふうにみんながならなきゃ
ね。
儲かったって、病気が治ったって、そんなものは大したことはない。本当に消え
てゆく姿なんだからね。やがてはどうせ死んじゃうんだもの。肉体はどうせなくな
っちゃう。何が残るかというと心だけが残る。永遠に残ってゆくのは心だけよ。心
だけが残っている。生命と心ですね。肉体は滅びるんです。
肉体に付随する肉体の損得なんて、二の次三の次。ところが新興宗教に入るよう
な人たちは、肉体の損得が最上のものなの。明日のことはいいですよ。今日のこと
ですよ、来年より今月をよくしてくれ、とこうやってくるのよ。そういうふうに言
ってくる人には、ハイハイと言いますよ始めはね。ポンポンとお浄めして、実際よ
くなってきます。それで少しアメをなめさせておいて、しばらく経つと、だんだん
本性を現わして、本当の話を始めますよ。そのころには言われた人もわかってきま
すから、本心が開いてきているから、言われても、ご尤もこ尤もということになる。
180
そのこ尤もこ尤もになると大したものよ。現象利益を問わなくても”ああ、ご尤も
ですね、先生有り難いなア” とついて来られるようだったら、ふつうの人より偉く
なっている。
そう思って自覚してなさい。そうやって磨かれてくると、みんな偉くなってくる。
現象利益だけを追い回しているうちは、チャチな人です。現象利益は誰だって追い
ますよ。思わない人はおりません。誰だって病気の人は病気が治りたいのは当たり
前だし、お金がない人はお金があったほうがいいに決まっているし、地位が低いよ
りは高いほうがいいんだし、これは当たり前で、本然の姿なんです。
高きを求め、完全円満なものを求めているんだから、形の世界でも良い生活を望
むのは当たり前ですよ。良い生活より貧乏生活がいいっていうことはないんだ。負
け惜しみなんですね。金がないより、あったほうがいいんです。私だってそうなん
だから。そんなにないけれども、ただ把われないことよね。
思うのは結構です。思うのさえいけない、と思う人があるんですよ。銭にあんま
181私は偽善者をつくらない宗教を開いた
り把われちゃって”ああ私は金が欲しい、ああいけない、金が欲しいなんて思うの
は業だ” なんて苦しんでいる人がある。そんなことはない。思ったら思ったでいい
ですよ。ああ恋人が欲しいな、と思ったら思ったっていいですよ。思ったのをいち
いち悪いと言ってちゃ生きられないから。思うなら思うでいい。思った途端に、世
せん
界平和の祈りの中へ入れちゃうんですよ。ああ思っても詮ないことだ、世界人類が
平和でありますように、と唱えたほうがいい。想った現象利益になんか把われない、
ということです。
思ってはいけない、ということはないんですよ。イエス・キリストは思っちゃい
けないと言った。思うだけでそれは行なったことだというふうに。仏陀もそう言い
ました。昔の聖者はそういうふうにむずかしく真理を説いています。それだから救
われなかったんだよね。想念を説いたけれども人類は救われていなかった。戦争は
たくさんあったし、飢餓や飢謹や大地震もあった。みんな苦しんでいます。
なぜ苦しんでいるかというと、心の目が開いてきたからです。お釈迦様の言葉を
182
聞き聖者方の言葉を聞いて、心の目を開いた人が随分あります。心の目が開けてく
ると、善悪がハッキリわかってくる。ハッキリわかってくると、悪いこの状態、現
象の世界というのに耐えられなくなってきます。それで昔の武士は殺生のこの世界
にたまらなくなって、出家して、山に隠遁したりした。
その時代はもう過ぎたんです。自分だけが山に籠もって安心しているという時代
は過ぎた。山に籠もっても原爆が落ちればお終いなんだから、一人だけが救われた
ってしょうがない。自分の救われが同時に人類のためになるような、そういう教え
が現在なければならないでしょ。それが世界平和の祈りなんです。
そこで第一歩として、悪いことに把われない。自分の悪にも、自分のマイナスに
も把われない。他人のマイナスにも把われない。すべて把われない。把われないと
いうことは、思っちゃいけないという意味じゃない。思っちゃいけないと言ったっ
てしょうがないんだ、思っちゃうんだから。思ってはいけませんよ、あの人を好き
になってはいけませんよ、ハイ、と言ったところで、好きになっちゃう。そうでし
183私は偽善者をつくらない宗教を開いた
よ。そういうもんですよ。いけません、と言われると余計に出てくんのよ。おかし
あまじやく
なもんだね人間の想いは。天の邪鬼なのね。だからそういうものも、ああそうか、
といって、世界人類が平和でありますようにって、世界平和の祈りの中に入れる。
世界平和が間に合わなかったら、先生1 と呼んでもいい。あるいは気をどこかに
変えてもいい。
ともかく中で出して、消さなくちゃダメ。そのために消してくれるのは、守護霊
守護神に、世界平和の祈りなんだから、その中に入れて消してもらうのです。私は
一つも無理言ったことないんだから。易しいことを言っているんです。易しいこと
で出来なければ、世界人類が救われるわけないよね。
むずかしいことを言って、これをしてはいけない、何をしてはいけない。こうし
てはいけない、といけないづくしでやってごらんなさい。生きていけなくなっちゃ
う。ましてこの大変な世の中なんだから、業生の世界なんだから、汚れた波が漂っ
た中で、自分だけがですよ、全然汚れないで生きてゆくなんていうことは、出来っ
184
こないんだから。汚れをどうしたって身に受けるんだからね。だから自分だけが完
全円満で生きて行こうなんて思ったら、苦しくて生きてゆけない。
汚れたら汚れたでいいんだ。汚れたままで自分の分も他人の分も背負って、世界
平和の祈りの中に入れちゃえ、って私は言う。世界平和の祈りの中に入って、じゃ
ぶじゃぶ洗って、また汚れたらまたじゃぶじゃぶ洗ってくればいいんですよ。なん
のことはない。向こう(救世の大光明) で待っているんだから、サァいらっしゃい
と待っているんだから、世界人類が平和でありますように… … と想いさえすれば、
向こうで上げてくれるんです。
それは阿弥陀様のやり方なんですよ。どんな悪人でも救ってくださるというのが
阿弥陀様でしょ。そのために法蔵菩薩が願をかけ、それで阿弥陀様になったんだか
ら。その教えを法然や親鸞は説いたんです。
自分がよくなろうと思って、自力でやるんじゃないんです。自分が磨こうとして、
阿弥陀様を呼ぶんじゃないんだ。汚れたままで、悪いままで、短気なら短気のまま
185私は偽善者をつくらない宗教を開いた
で、欲望があるんならあるがままで、そのままで阿弥陀様の中に、南無阿弥陀仏っ
て入んなさい、と言うんでしょ。
それと同じように、汚れたままの心でいいから、把われたら把われたままの心で
いいから、世界平和の祈りの中に入りなさい。年中入っていれば、世界平和の祈り
の救世の大光明がきれいに消してくださるんだよーというわけ。だから年中、そ
れをやっていればいいわけですよ。
そうすると、いつの間にか自分の霊体が浄まっていって、肉体もすっかり浄まっ
てきて、妬み心がなくなってくる。恨みの心がなくなってくる。不安の心がなくな
ってくるわけですよ。それを私がやさしく説いているんですよ。そういうわけです。
186
病気というもの
(昭和35年8 月25日)
医業と霊作用
今、小児麻痺がはやっているのですね。これに対してワクチンが非常に効果があ
るということです。昔は天然痘がはやり、亡くなる人が多かったのですが、種痘が
発見されて、天然痘はなくなりましたね。そこで今、薬というものと霊作用という
ものとは、どういう関係があるのだろうか、という質問が出たわけです。
さわ
人間の病気には大体、三つあります。一つは霊作用といわれる障り、つまり幽界
のいろいろな想いがついて、生命がまっすぐ通ることを邪魔することによって起こ
るもの。二つは肉体的だけのもの、三つは精神状態、自分の心が乱れて病気になる
187病気というもの
もの、こういう三種類があるんです。
小児麻痺というのは、完全なる霊作用なんです。祖先の迷った人の想いが骨に来
るわけです。骨というのは頭蓋骨から足までつながっている。天から地までつなが
っているものですから、祖先を現わすものです。特に背骨というのは、それで小児
麻痺をみると、祖先の親戚縁者の迷いの波がかかって、足や手がぶらぶらになっち
ゃう。ところがワクチンで治るという。
天然痘は種痘がはやらなかったら、ずーっと蔓延していったでしょう。種痘でど
うして治ったか、ということですね問題は。
それはこういうことなんです。種痘を発見した人、ワクチンを発見した人の愛の
想いが癒す、ということになるんです。薬自身も効きめがありますよ、しかし、そ
れに愛の想いが加わって病気を治すわけなんです。
一人治り二人治り、大勢治ってくると、ワクチンを使えば治る、種痘をやれば大
丈夫だということが、皆の中に非常に強く影響するわけです。人の心に伝わってゆ
188
く。そうすると、病気にならない、治る、という信念が強くなってきます。それで
治りが非常によくなってくる、ということがあるんです。
発見者の愛の想い、薬の効きめ、それが効いたことによって「効いた」という信
念、この三つが加わって病気が治ってゆくんです。だから本当のことを言えば、病
気にならないという信念があったりすれば、病気にはならないわけなんです。とこ
ろが心の底から「オレは病気にはならない。絶対に病気なんかにならない」という
信念を持った人は、数少ないわけです。そこで医学等が必要なわけなんです。
だから霊作用と医業の問題が一番難しいわけです。小児麻痺を医学的処置だけで
治る、というよりも、中に押しこんでしまうわけです。出てきたものを抑える、抑
えるから現象的には治ったように見えるけれど、今度は違う病気になって現われて
くる。種痘でもって天然痘はなくなりましたね、なくなった代わりに、他にガンが
増えたり、不思議な病気がいろいろと増えてくるわけです。症状は変わるけれども
病気が治ったわけじゃないんです。症状は変わった、依然として毒素は中にある。
189病気というもの
障りも依然とあるわけです。それは本当に治ったわけではなく、抑えておくだけで
す。
実際問題とすると、その場が治ればそれで助かった感じがするから、それでいい
わけなのです。今の西洋医学というものはそういう医学なのです。現われてきたも
の、症状を治す。だけれども病気を治したわけではない。
190
病気の正体は抑圧された想い
病気の原因はどこにあるか、というと幽体にある。潜在意識の中にあるわけです。
思っているのが現われている。これは顕在意識です。自分では思っていないけれど、
以前思ったとことが知らないで溜っている、それが潜在意識です。潜在意識という
のはズーッと深くて、神界までつづいているわけです。
肉体界、幽界、霊界、神界とつながっています。潜在意識もつながっているわけ。
顕在意識の心の現われているものは、僅かしか現われていない。その僅か現われて
いるものだけで、人間は生活しているんです。しかし作用するものは、現われてい
る心ではなくて、現われていない潜んでいる心の方で、それが人間の運命を創って
ゆくわけです。
おおかた
病気なども大方が潜在意識から現われてくる。仏教的に言えば因縁です。因があ
って縁にふれ、そして果が現われてくる。因縁因果の法則なんです。だから急に病
気になるということはないわけです。病気になるには、前に潜在意識の中に病気の
タネ
種がありまして、その病気の種が縁にふれて現われてくるわけです。因縁因果の波
が現われて、病気になったり、不幸になったりするんです。
どんなにいい薬をもってきて、その症状を治しても、その人が良くなったという
んではない、病気が変わった、症状が変わっただけで、抑えられて、一旦、内に潜
んだというわけです。やがて折があると、縁にふれて、今度は違う病気になって現
われてくるわけです。そこで本当に健康になり、本当に運命をよくするためにはど
うしたらいいかというと、潜在意識- 潜んでいる心いわゆる幽界の幽体の中に、
191病気というもの
いろいろな病気になる原因の想いが潜んでいるわけです。それがある折にふれると、
毒素になって体に現われてくるわけです。
はじめは想いだから気体なわけです。それが液体になり固体になり、毒素になっ
てくるわけです。すると毒素が邪魔ですから、中の生命力、治す力が働いて、毒素
を融かすわけです。融かしてゆく時に、熱が出たりして病気になるんです。その病
気になったものだけをとらえて、病気を治そうとするのが医学です。精神状態を治
そうとするのが精神医学と言われています。
かんしやく
精神状態によって、たとえば腹を立てれば胃腸が悪くなる。欄癩を起こせば胃の
中に毒素が出来て、胃が悪くなるんだから、痴癩を起こしていけない、というよう
なことです。想いと健康の関連を研究するのが精神医学。それからもっと深くなる
と、それは障りだから、自分の心だけでなく、生命が素直に動いているのを邪魔し
ているものがある。それは亡くなった人の想いだ、というのを研究するのが心霊医
学なんです。
192
この三つが今の医学になっているわけなんですが、国家が開業を許可しているの
は、一と二の医学だけで、症状を見て、現われてきたものだけを治す、というやり
おく
方なんです。しかしこれは遅れているんです。これからはだんだん訳のわからない
ポリオ
病気がたくさん増えてきます。これまで小児麻痺などは日本になかったですね。そ
れがだんだん現われてきている。
ポリオを非常に恐れています。伝染するというのです。本当は伝染するのではな
い。そういうとお医者さんに怒られる。けれど伝染するわけじゃない。想いが感染
するのです。ポリオになるような想いがこの中にある。あるところに祖先の迷った
想いがついてくる。そうするとそこに麻痺状態が起こるわけです。生命がそのまま
素直に動いていれば、病気にもならない、不幸にもならないのだけれど、生命が素
直に動かないようになる。それは自分の想いで動かさないようにするのか、あるい
は他界(幽界)からの干渉で動かなくなるのか、どちらか二つなんですよ。
そこでポリオなんかの場合には、九〇パーセントが幽界からの迷いの想いが来る。
193病気というもの
うしろからあるいは前からかぶさってくる。そうすると生命はまっすぐに進もうと
思っても進めなくなるでしょう。少し歪んでしまうんです。これが病気の状態です
ね。それが骨あるいは筋肉に来たのがポリオです。今までは小児麻痺を治す方法が
なかったんです。ワクチンの普及で治ってきたけれど、そんなに治っているわけじ
ゃないんですよ。ワクチンで治るなら、アメリカなんか小児麻痺がなくなってしま
うわけだけれど、アメリカが一番多いのです。日本など少ないですよ。
なぜ、日本が少ないかというと、日本は祖先崇拝でしょう。祖先を祀って、祖先
わりかた
のためにお経を読んだり、いくらかやっています。やっているから割方そういう障
りが少なかった。アメリカなどは祖先を問題にしません。そういう意味で、外国で
は割方小児麻痺が多かった。ところが近頃では日本でも、祖先なんか問題にしてい
ない。親だって問題にしやしない。結婚するのだって、お嫁さんは「親のところに
なんのたれお
行くのではありません。私は何野誰夫さんのところへゆくんです(笑) 親なんかど
うでもよございます」というわけでしょう。
194
この間も聞いた話なんだけれど、昔は農家に嫁ぎますと、お嫁さんは大変でした。
まるで馬代わり牛代わりに使われちゃった。要するに労働力の一つだからね。朝か
ら晩まで使われちゃうんです。それで嫌だったら出されちゃうでしょう。出される
とお嫁さん、しおしおと実家に帰ってくる、ところが今ごろはそうじゃない。姑が
「出て行け」と言うと「ハイ」とお婿さんと二人で出ちゃう(笑) 親だけ置いてい
しゅうとめしゅうと
かれちゃうんです。それで姑や舅の方が謝って「サァお嫁さん帰ってきてください」
と言うんで、二人で悠々と帰る。こういうのが現代版なんですよ。
これはあながち悪いことだけではないんです。今まではあまりに女の人が惨めだ
か
った。嫁しては夫に従え、老いては子に従え、そういうことでしょう。なんでも従
ってばかりいたから、そういう想いがいっぱい溜まっていたんです。無理に無理に
従う。自分の本当の心はまっすぐに行きたいのに、抑えつけていたものが、今度生
まれ変わってきて、自由主義だ、男女同権だと言われたので、バアッと出ちゃった。
それで自由に言えるようになった。過剰なくらい女の人がなっちゃった。今まで抑
195病気というもの
えていた反動なんです。だからなんでも抑圧してはいけないんです。
病気の正体というのも、抑圧した想いというものです。あまり抑えに抑え、我慢
に我慢をしていると、堪忍袋の緒が切れちゃうんです。そうすると魂の緒まで切れ
てしまいます。それで病気になるんです。だから抑圧したものがいけないんです。
ストレスというのですか、それが病気の原因なんですよ、暢気なノウノウとした人
はあまり病気しません。「わしはまた病気になったアハハハ… … 」と言っている人
はないと思う。病気になれば皆ハーハーやっているでしょう。暢気な明るい人は割
方病気しないんです。なぜかというと、心が抑圧されていないから、のびのびとし
ているから。だからのびのびと生きなきゃね。
いのちというのは自由に生きるものなんだから。いのちは自由に生き生きとして
います。赤ん坊を見ればよくわかります。昨日生まれたばかりの赤ちゃんを見てき
たけれど、顔中こんなになって動いている。赤ん坊ぐらい大人が動いたらくたびれ
ちゃうだろうと思うけれども、年中じつとしていることはないです。眠っていても
196
いのち
動きます。あれは生命が動いているんです。生命が動かないではいられないんです。
動かないでいられないものを、ぐっと抑えちゃうでしょ。「我慢しなきゃならない。
ここが堪忍のしどころだ」とやっている。「お嫁にいったら帰ってきてはいけない。
二度と家の敷居をまたいではいけない」と言われてお嫁にきたんでしょ皆さん。大
体今四十過ぎてるような人はそうです。涙ながらに別れの盃をかわしてゆくわけで
すよ。
個人と個人ではなく、家と家とが結婚するんだからね、ひどいのになると、見合
いも何もしなくて、相手を知らなかった。そして会ってみたら顔がひどかった(笑)
親が決めちゃうから、知らないで行ったりする。そんな人もあったわけです。そう
いうように結婚してしまって、それで忍耐して忍耐して暮らしているわけです。そ
ういうのが溜まっているのです。それが病気の原因であり、不幸の原因であるんで
す。小児麻痺でもやっぱりそういう原因もあるんです。親たちが抑えている。それ
が変に出てきた。そこに迷ったものがついてくる、というわけですよ。
197病気というもの
小児麻痺になった子どもが悪いわけではなく、親たちの想い方が間違っていたわ
ほど
けです。だから治すにはどうしたらいいか、と言ったら解いて元に返せばいい。元
に返すにはどうしたらいいかというと、迷っている想いをなくせばいいわけでしょ
う。なくすのが祈りなんですよ。我慢している想い、抑圧している想い、そういう
想いをなくさなければダメです。なくすためには、その想いをどこかにやらなけれ
ばならない。それが消えてゆく姿なんです。
ああこうやって溜まっている不幸や病気も短気も、悪い想いもみんな過去世から
我慢に我慢していた想いが溜まっているんだから、なくさなければいけない。なく
すためにはどうやったらいいか。と言ったら、神様の中にやればいい。神様の中と
いっても、神様は見えない。どうやって神様につながろうかというんで、世界平和
の祈りが出来たわけですから、世界平和の祈りをすれば、世界平和というのは神様
の望んでいることだから、望んでいることは神のみ心だから、世界人類が平和であ
りますように、と言って神様のみ心の中に自分の想いを全部入れてしまえば、心が
198
きれいになってしまいます。きれいになってしまうから、病気も治ってしまえば、
不幸も直ってくる、ということになるんです。
小児麻痺がいくら出ても、ワクチンだけに頼ることはないんです。ワクチンはお
医者さんがくれるから、あとは一生懸命祈るんですよ。迷っているものを浄めなけ
ればいけない。浄めるのに誰が一番いいかと言ったら、神様にやってもらうのが一
やまいやみ
番いい。病というのは闇だから、光の中に入れればいい。光はどこから来るかとい
うと、救世の大光明から来る。世界平和の祈りの中から来るんですよ。だから世界
平和の祈りの中に入れちゃえば、小児麻痺なんかでも治るんです。
ひまはかかりますよ。かかりますけれど、病気になりたてだったら早いです。何
年も経つとなかなか治らない。想いが固まっちゃうからね。始まりなら大丈夫なん
ですよね。
病気だって不幸だって、みんな自分がつくるわけなんだ本当は。自分がつくるん
だけれど、この世だけの自分がつくっているんじゃなくて、前の世前の世の過去世
199病気というもの
の自分がつくったわけなんです。
200
人間と真実の生き方
202
ごうしょうしゅリノリれいしゅこじん
人間は本来、神の分霊であって、業生ではなく、つねに守護霊、守護神によっ
て守られているものである。
かこせ
この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念が、
その運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去るのである
という強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難のなか
ゆるまこと
に あっても、自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦しの言行を
なしつづけてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和
の祈りを祈りつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得出来るものである。
世界平和の祈り
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様ありがとうございます
守護神様ありがとうございます
203参考資料
〈宇宙神ー直霊-分霊について〉
宇宙神
第1図
宇宙神(大神様) は、まず
天地に分かれ、その一部の光
やまだまこだま
は、海霊、山霊、木霊と呼ば
れ、自然界を創造し、活動せ
しめ、その一部は、動物界を
創造し、後の一部の光は、
ちょくれい
直霊と呼ばれて、人間界を
創造した。(第1図)直霊は、
各種の光の波を出し、霊界を
ぷんれい
創り、各分霊となり、各分霊
が直霊より分けられた光(心)
、業因縁の世界ノ
\ 界ノ\ 界ノ\ ノ
礁講憲簿讐
第2図
により創造力を駆使して幽
界、肉体界を創造した。その
過程において、各分霊は、自
ロヒけういん
ら発した念波の業因の中に、
しだいに自己の本性を見失っ
ていった。
そこで、直霊は自己の光を
分けて、分霊たちの守護神と
なし、守護神は、最初に肉体
界の創造にあたった分霊たち
こういんねん
を、業因縁の波から救い上げ
た。この分霊たちは、守護霊
となり、守護神に従って、ひ
きつづき肉体界に働く後輩の
分霊たち(子孫) の守護にあ
たることになった。そして分
霊の経験の古いものから、順
次、守護霊となり、ついには
各人に必ず一人以上の守護霊
がつくまでになって、今日に
及んでいる。(第2図)
204
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