こんな人こそ
1 序文に代えてー
五井昌久
しあわせ
人の幸福を自分のことのように喜び
人の悲しみを自分の悲しみのように悲しむ
それでいてその喜びに把われる想いをもたず
その悲しみに沈みこむ愚さもない
自分のしたどんな善いことにも
他人のしたどんな悪いことにも
いつまでも想いがとどまらずに
何んでも可でも神様が善いようにして下さると信んじきっている
それでいながら
善い事柄ならどんな小さなことでもおろそかにせず
少しの悪い行為をも即座に消し去ろうと努める
心はいつでも青空のように澄んでいて
体中から温かいほほえみが一杯溢ふれている
その心にはいささかの誇る想いもなければ人をさげすむ想いも無い
ただ心の奥底から湧きあがってくる世界平和の祈りの中で
いのち
生命生き生きと生きている
は
そんな人々が世界中から沢山育ぐくまれてくることを
私は
平和の祈りをしつづけながら願っている
2
自らを信ぜよ目次
こんな人こそ
自分というもの
序文に代えてー
神々の様々な働き方
神愛について
人間の救れについて
安心立命ということについて
真理の愛を行ずる生き方
神への全託の他に道はない
自らを信ぜよ
106 93 78 64 51 38 22 7 1
真・善・美の道
宗教の道を妨げる想念
宗教の本道を外れるな
今日からの宗教
164 148 133 117
装偵/進藤敏男
.
自分というもの
自分がわからないことは恐ろしいこと
人間はほとんどの人が、この肉体の身体をもった人を、自分と思っています。突然こんなことを
いうと、当り前じゃあないか、この他に自分なんていうものがいるものか、とすぐ反擾がきます。
ところが、その反擾してくる人のほうが、人間というものを全く知らない人なので、そういう人
達が大半のこの世なので、争いや不調和や不幸がおこってきているのです。私がいつも申しており
ますように、肉体身は人間自身ではなく、この肉体身が自分自身でもありません。真実の自身から
分れたものという意味で自分自身というのなら、この肉体身自身も自分であるわけですが、普通一7
自
分
と
い
う
も
の
般の人が思っている意味での自分ではありません。
ぶんれいこんこん
人間の本心、本体は神霊の世界にありまして、分霊として霊界に、分霊魂として幽界に、分霊魂
ばく
魂として肉体に分けられて現われているのです。ですから、肉体身としての人間が生まれていない
以前に、神霊としての自身の生命が生きいきと働いているのであります。その真理を知らないで、
肉体の自分として現われた時をすべての出発点と思って、肉体身だけを頼って、生活しているのが
ほとんどの人間です。
肉体身や物質に縛られていたのでは、生命が自由に生きいきと生きるわけにはいきません。どう
しても、物事が相対的になり、一定にせばめられた動きより出来なくなります。物質界も肉体身
も、有限なものなので、その有限の中で、自分たちの有利な世界を発展させようとします。そこで
お互いの利害関係が生じ、それが国家関係になりますと、戦争というような恐ろしい事態になって
くるのであります。
人間が人間そのものを知らぬ、自分というものを知らぬ、ということは恐ろしいことといわねば
なりません。しかし、人間の本質、本体というものが生命そのものであり、五感に直接ふれること
ができないので、生命の力によって動いていて、直接ふれることができる肉体というものを、自分
8
自身と思い誤ってしまうのも無理もありません。
しかし、無理がないですましているわけにはゆきません。そういう誤った考えでいては、人類は
やがて滅びてしまわなければならないからです。その真理を知らせようとして、いろいろ聖者がこ
の世に現われているのであります。そうして、そうした聖者方をこの世に現わしていた守護の神霊
方は、たゆみなく肉体人間に真理を知らせようとして、身近に働いているのであります。
肉体は生命の働き場所
わけいのち
人間は、神の分生命として実在しているもので、肉体人間としてこの地球界に現われているの
は、物質の地球世界に対応して生活するために、生命の本体が肉体人間のような形で現われてい
て、神のみ心をこの世界にも現わしてゆこうとしているのです。肉体人間は、実在というより、実
在である生命の働き場所として、地球界に物質的姿を現わしているにすぎないのです。
ですから、肉体人間としての現れは、ある時間経過を経ますと、人間の本体の生命がその肉体を
脱けでて、肉体の死ということになるのです。この肉体身の死は、肉体の死であっても人間の本体
の死ではありません。本体の生命の働きが、肉体への働きを終えて、違う次元の働きに重点を移し
9自分というもの
ていったにすぎないので、その人は永遠に生き続けているのであります。
この真理を一口で申し上げますと、教義(巻末「私たちの考え」参照) に書いてありますよう
こうしよう
に、人間は本来神の分霊であって、業生ではなく、常に守護霊、守護神によって守られているもの
である。とありますように、,悪や不幸や不調和のある業生ではないのであります。業生の人間は神
のみ心をこの地球界に現わすための観音像の彫刻の削りくずのようなもので、彫刻が出来上がった
時には、きれいになっているのです。
10
自分を赦し、ということについて
ではこの場合教義にある、自分を赦し人を赦す、自分を愛し人を愛す、という自分とは一体神霊
としての自分なのか、業生としての自分なのか、業生なら、業生が本心を赦すなどというのはおか
しいし、本心ならば本心が本心を赦すというのもおかしい。この場合の自分というものについて、
もう少しくわしくご説明願いたい、という質問も編集部の方にきていましたので、あらためて、自
分という者について説明いたしましょう。
この教義の中に書かれている自分という者は、神の分霊であって、業生ではありません。しか
し、この地球界に肉体人間として生活していますと、どうしてもこの地球世界の物質波動にあわせ
生きてゆかねばなりません。ですから、神霊の分かれの自分であっても、物質世界でのやりとりの
過去世からの業の流れが、いつも自分を取り巻いています。その業は、あたかも神霊の自分自身が
つくったように、肉体身の想いのほうからみえるのです。しかし実際は、神霊の自分のほうは、生
命エネルギーを出しているだけで、物質界の業生のほうが、そのエネルギーを力として、業生同士
の和合をはかっているのであります。
神霊のほうの調和というのは、全く汚れもけがれもない調和ですが、物質業のほうの和合は、お
互いの利害打算の妥協によって、調和のようにみえているだけなのです。そういう妥協の姿は、神
霊のほうに心をおいてみると、不潔な汚れたものであって、責め裁かずにはいられないような、真
理にもとるものをもっています。ですから、どうしてもそういう他人の姿を責め、自分の心をも責
め裁くことになってしまいます。
そこのところが非常に問題で、今日までの宗教のあり方では、責め裁きつΣ、真理に近づいてい
こうとします。他人を責め裁くことを止めても、自分の心が始終責め裁きつづけてゆきます。そう
いう心の姿勢は、他人を責めまいとしながらも、いつの間にか責めつづけています。ですからどう11自
分
と
い
う
も
の
しても、業の波がぐるぐる廻りをして、その人から離れてゆきません。
私は、それを本心から離してLまうために、消えてゆく姿という言葉を使って、そういう責め裁
く想いを、自分を取り巻く業の波のほうに向けたり、他人の業のほうに向けたりせずに、一挙に神
霊世界に光明波動の中で消してもらうための世界平和のお祈りをしてゆくのであります。
12
自他への不信感をぬぐい去る
こ
この自分は、物質界の業生の中にありながら、業の波を超えている自分、つまり本心の一つの現
れということができます。このことは、今更特に説明しないでも、直感的にわかって下さるものと
思っていましたし、多くの人はなんの疑問も出なかったのでありますが、何でも知識的に解決しな
ければいられないような頭の組織になっている人が、こういう質問を出してきているのです。しか
し、こういう質問もまた、宗教の深みが知識としてもわかってきて、無駄なことであるとはいえま
せん。
世の中には人の行いに寛容で、自分の行いには厳しい、という人ははなはだ少なくて、人の悪を
裁いても、自分の誤ちはかくそうとする人は多いのです。人の欠点に寛容そうにみえる人でも、自
分の心に厳しい人は、どうしても心から人の誤った行いを赦すことができません。いつも潜在意識
に残っています。
そこでどうしても、潜在意識にある自分への不信感も、他人への不信感をも、常にすっかりぬぐ
い取っておかなければなりません。その方法が、消えてゆく姿で世界平和の祈りということになる
のです。これが言葉を返していえば、自分を赦し、人を赦しということになるのです。
人類は正に神の子
このお祈りの中には、悪というものは一つもありません。世界平和の祈りのひびきだけが肉体身
のほうから神霊の世界のほうへひびき渡ってゆくのでありまして、元来平和そのものである神霊の
ひびきとそのまま一つになってきます。そういたしますと、神霊の世界の調和したひびきが、その
まま肉体身のほうに返ってくるのであります。
せんさく
ですから、自分というものが、どういうものかという詮索をする必要もなく、神と一体の自分が
そこに実在として、存在することになってくるのです。そういう生き方が続いていますと、その人
は全く業生にわずらわされぬ神人として、この世界で生きてゆけるのであります。そういう行いを13自
分
と
い
う
も
の
おの
多くの人がするようになってゆけぽ、地球世界は自ずから平和世界となるのであります。
自分というものが、天地に一つにつながり、自他というものが、平和のひびきによって横にすっ
きりつながってゆきますと、この地球世界は、平和世界にならざるをえなくなります。
こういうわけで、自分を赦しという意味がよくおわかりになったことと思います。すべての存在
が神様の生命の働きによってある、ということは、そのすべての存在を肯定し、この人間世界に応
用し、人間世界の助けとしている人類が、神の子として、み親である、神のみ力をはっきり認識し
ている証拠なのでありまして、人類がなければ、神も自然もこの地球界では認識されることができ
ないのです。
人類は神の子として、常にみ親である神の生命の働きを、種々様々の場において、みているので
あり、利用させて頂いているのであります。人類は正に神の子でありまして、他の何者でもないの
です。しかしこの人類というのは地球人類のみではなく、宇宙のあらゆる星々に生存しているもの
であることも知らねばなりません。
この宇宙入類の大調和のために、地球にも神々が働かれて、人類の神の子の本質を、この地球に
おいて、発揮させようとしているのであります。地球人類は、神の分生命としての微妙な体の上
14
に、地球の物質波動の粗い体をまとって、働いていますので、本来性の微妙な働きができず、そこ
に本来性の神の子と物質波動をまとった人類とのギャップが生まれでたのであります。それが業な
のであります。
物質界は、微妙な神霊波動の世界からみると、光のまだゆきとどかない部面が非常に多く、闇の
中を進んでゆくようなものです。しかし、光明波動である神の子人間がすすんでゆけぽ、それだけ
闇はとけて、光明の世界が開けてゆくのです。
ですから、人間は、うまずたゆまず、神の子であることを信じて、いくら業生の波がふりかかっ
てきても、それはすべて、闇の消えてゆく姿として、突き進んでゆけぽよいのです。仏教では、業
のはじまりを無明といいますが、確かに明りのないところに業が生まれているのであります。キリ
スト教のほうでは、肉体人間として生まれた時から、原罪をもっている、といわれていますが、皆
等しいことです。
人間は常に、肉体人間になる以前の微妙な体をもっていた神霊の自分を思いおこしているとよい
のですが、なかなかそういうわけにはゆきませんので、守護の神霊への感謝と共に、世界平和の祈
りをしていることが大事なのです。15自
分
と
い
う
も
の
現在自分が時折り間違った想いをおこしたり、行なったりしたとしても、また他人が悪い行いを
16
していたとしても、その人の本体は、神⑳子なのですから、その間違った想念行為や、悪の行いが
再び自分やその人に現われないように、世界平和の祈りで神々の光明によって、消していただく㊨
でけ。
自分を赦し、人を赦し、といっても悪業の想念行捻を赦すのではありません。悪業の想念行為に
からまれている、本心本体のほうの自分をあらためて、世界平和の祈りによって、想いおこさせる
のでありまして、悪業の想念行為は、再びあってはならぬものとして、消し去ってしまうのであり
ます。悪業の想念行為をそのまま容認しておいては、消えてゆく姿も何もあったものではありませ
ん。
昔、念仏さえしていれぽ、死後の世界で極楽往生ができると聞かされて、日々南無阿彌陀仏を唱
・兄ながら、悪事をしていた、という話をよく聞きますが、これなど赦しの宗教を誤って行なってい
る、見本のようなものです。
平和と人間観
し
この肉体だけが、自分であったならぽ、親子兄弟や、知人の間でさえ意見や利害のくい違いで、
争い合ったりしている人間なのですから、国家間というような大きな人の集りどうしのこの地球世
界に、真の平和は永久に来そうもありません。
二百カイリ問題や、領土問題のように、すぐ自国の武力を背景に相手国を圧迫しながら、自国の
都合のいいように計ってくるのが、近頃はますますはっきりしてきました。米国やソ連に多くの国
が一歩をゆずっているのは、経済的なこともありましょうけれども、その武力の大きさによること
が多いのです。
米国やソ連と戦いにでもなったら大変だ、とどの国も思うから、一歩をしりぞいてしまうので
す。人間というのは、この肉体人間の他には存在しないのだ、という考えの下では、武力の強いほ
うが、利益を多く得ることになります。
そういう人間観のままで、中立を叫んだり、無防備の行き方を提唱したりしても、それははなは
だ馬鹿気たことで、武力の強い国の横暴を更に強くさせてしまうだけです。肉体人間観のままでい
るうちは、安易な無防備平和論など唱えていても、口惜しい泣きをみるだけです。
17自分というもの
18
私の平和論
私の平和論は、人間神の子、という真理をしっかりつかんでいて、この肉体にある自分達という
ものが、神の生命の分かれたもので、この物質界(肉体界) に渦巻いている業想念波動にわずらわ
されるものではない、という世界観から出ているのです。そして、その方法として、自分達の愛や
勇気をくらまそうとしてかかってくる、神のみ心を離れた、いわゆる誤った想念行為を、世界平和
の祈り言をエレベーターとして、神霊の大光明波動の中で消して頂いてしまうのです。
私たちの生活は、常に神霊と一緒なのでありまして、力弱い、誤り多い肉体身だけの生活ではな
いのです。肉体身に現われている自分たちと、神霊の世界の自分たちが、全く一つになって働くと
ころに、その世界の完全平和が達成されるので、神霊の協力のない平和運動や、無防備論などは、
単なる想いにすぎません。
今日からの世界は、神霊の存在を信じ、その力を頂いてこの地球世界を運営してゆくか、各国
が、それこそ自国を守るために、出来得る限りの武装をして、外国の侵略を防ぐほうにゆくか、二
つに一つしかありません。神霊の力強い存在も信ぜず、神霊の援助を受ける方法も知らずに、ただ
無防備で、平和世界をつくろうなどということは、夢物語です。
この地球世界に、真の平和世界をつくりだすためには、絶対に神霊の援助がいるのです。再三申
しておりますように、地球は単なる地球ではなく、大宇宙の一員としての地球なのです。大宇宙の
調和を計ってゆく上にも、地球の平和は、是非とも成しとげねばならぬことなのであります。
その理を知らないで、いたずらに武力を増強させて外敵を防いでも、お互いに傷つき倒れて、地
球を自分らの手で滅ぼしてしまうことになるのです。
よくよくこの世界の様相をみてごらんなさい。肉体人間だけの力で、平和になるように思えます
か。少し頭のいい人なら誰でも、このままでは地球は危ないと思わずにはいられません。しかし、
その対策が考えられないのです。考えられないはずです。肉体人間の力だけでは、地球は存在して
いけないようになっているからなのです。地球という物質世界をきり開いていくためには、どうし
ても神霊の援助が必要なように、神様のほうでは計画ができているのです。
天の声を素直にきこう
他の先輩星も、みなそうして高い進化をとげてきたのであります。今は地球が一段と進化をとげ19自
分
と
い
う
も
の
み時なので、天の声を素直にきくべきなのです。天の声は、一歩先に進んだ人、あるいは、初めか
ら天使として天降ってきている人達の言葉によって、知らされるわけです。
消えてゆく姿で世界平和の祈りというこの教えも、その一つなのですから、充分に書かれたもの
を読んで、熟読玩味して下さい。
鶏が先か卵が先かではないですが、人類や生物の肉体が先か、生命が先かということになります
と、生命がなければ生物が存在するわけがないので、生命が先ということがはっきりします。また
仮りに、一番最初の生物と生命とが同時に生まれたとしても、それを成育させ進化させてゆく力と
いうものの存在を肯定しないわけにはゆきません。
その根源の力は何んという名で呼ぽうと、人類をこの世に存在させている愛の力に他なりませ
ん。その愛は、面倒ですから普通のように神と呼びます。その神の力なくしては、生物は一つだに
生存していることができないのですし、神が生存させようと思えぽ、どんなことをしても、その生
物を生存させておくのです。そういう絶対力をもった神が、神々として、この地球人類の上に改め
て働きかけてきているのですから、それを素直に信じて、神様への感謝と共に、祈りをつづけ、目
にも見えず、耳にも聞えぬかもしれないけれど、神の愛を信じてゆくことが必要なのです。
20
私たちのように、神々の存在をはっきり知って、如実に心を一つにして地球世界の平和のために
働いているものがあるのですから、皆さんも、自分たちもそうなのだと思って、世界平和の祈りの
中から、平和のひびきを地球上にふりまいて下さい。
やがて、神々の姿が皆さんの五感に感じられる時がくるでしょう。近頃の円盤騒ぎや、宇宙人の
話は、その先がけであるのです。徳川時代なら考えられもしなかったテレビや宇宙船ができている
今日、宇宙人が現われても何んの不自然さもないでしょう。
すべては神の愛を信じて、日々の生活をつゴけていって下さい。世界平和の祈りをつ讐ける人が
多くなればなる程、神々の援助の力も強くなり、地球の平和も実現可能になってくるのでありま
す。
21自分というもの
22
神々の…様々な働き方
神は一即多神
このことは、もう何度となく申し上げていることですが、神様は絶対神としての一神として存在
するだけではなく、多神として多くの異なった働きを、大宇宙の隅々までに及ぼしているのであり
ます。神は一即多神であって、一の神はナールマイティの存在なのでありますが、その働きを大宇
せいしん
宙の多くの星辰として現わされ、多くの神々として働かれて、この大宇宙の存在が確立されている
のであります。そして、この地球人類もその多くの神々のみ働きによって、存在しているものなの
であります。
一神である大宇宙神は、ありとしあらゆるものの生命の根源であり、生命そのものでもありま
す。ですから、生きとし生けるものは、この大生命の力なくしては、一瞬の存在もゆるされないの
です。そしてこの大宇宙神、大生命は、その働きの瞬間にはすでに多神として、その力を各働きに
分けて働かれるのであります。私の「神と人間」という著書にも書いてありますように、一なる神
は各様相に異なった光として放射され、その時から大宇宙の創造活動が始められたのであります。
うみだまやまだまこだま
神はまず天地に分れ、そして、その一部の光は、海霊、山霊、木霊と呼ばれ自然界を創造し、活動
せしめ、その一部は動物界を創造し、後の一部の光は直霊とよぽれて人間界を創造したのでありま
す。くわしくは「神と人間」を参照してご覧下さい。
守護の神霊なくして人間は生きられない
ともあれ、地球人類の根源は、大宇宙神であり、地球人類を今目のように存在せしめているの
は、諸神全霊のみ働きであります。そしてもっとも肉体人間としての人類の身近かに働いているの
は、守護の神霊なのであります。守護の神霊がなくては、肉体人間は一日として生きてゆけないの
です。一口に人間と申しますが、人間がこの肉体界に生きているためには、大生命から分けられた23神
々
の
様
々
な
働
き
方
わけいのち
小生命(分生命) と、その小生命を外面的に加護しつづけている守護の神霊との調和によってなさ
れているので、一つの生命が、ぽつんと独立して生存しているのではないのです。人間として存在
している神の分生命を、宇宙神のみ心に沿った行き方にさせているのは、守護の神霊のコソトロー
ルによるのでありまして、分生命はひたすら大生命からの生きる力を吸収してゆくことが、必要な
のであります。必要というより、そうしてゆかなければ、分生命の存在は成り立たないのです。そ
して、その道を妨げる様々の事柄を身に受けて、防いでくれているのが守護の神霊なのです。です
から、分生命と守護の神霊との協力がなくては、一人の人間が生きてゆくことができないのです。
人間は、物質界であるこの肉体界に、最初に生まれでたのではなく、初めは様々な神霊の世界に
おいて働いていたのであります。大宇宙神のみ心は、無限でありますので、次々と新しい世界を開
いてゆきます。肉体人間の世界もその一つでありまして、私たちは、地球界という肉体世界に現在
は住みついているわけです。私たちが、大神様のみ心のままに自分達の天命を完うして、幸せな良
き生活をしようとするならば、常に守護の神霊の加護を信じ、感謝してゆかねばならぬのです。
神も神霊もない肉体人間としての自分だけを主張して、生きているような人々は、必ず最後はみ
じめなことになってしまいます。何故ならば、来た道も目的の道も知らないで、唯でたらめな歩み
24
をしているに過ぎないからです。でたらめな歩みでは、遠大な神のみ心の法則に合うわけが癒いの
ですから、自滅してしまうより仕方がないのです。私は、人類そのものがそうならないように、い
ろいろと説きつづけているわけです。
自然界と神の働き
神という言葉を嫌う人は、自然の作用という言葉で、神秘不可思議な宇宙の在り方を説いていま
すが、その自然の作用というのは一体どうして起るのでしょうか。その人たちは、それはすべてこ
れからの科学の究明によって、解明されてゆくといいますが、かえって、究明してゆく秀れた科学
者のほうが、神の存在を信じて、自分たちの学問は、この大宇宙の実体を把握するほんの一部の知
ぼう
識にすぎない、と思っているのです。実にその通りで、膨大なる大宇宙の働きは、人間智の及ぶと
ころではないのです。
雨が降る、風が吹く、という何でもなさそうな自然現象でも、何の智恵も計画もなくて、その
場、その時に、いたずらに降ったり、吹いたりするものではないのです。霊覚によってみますと、
たとえ少しの雨、少しの風といえど、神のみ心が働かなければそこに作用することができないので25神
々
の
様
々
な
働
き
方
す。
雨風には雨風を作用するための存在が、厳然としてあるのです。そうした天象をあつかう神様
は、時にはいろいろの竜神の姿として、霊能ある人々に感得されています。唯一滴の雨、一陣の風
といえど地球界においては、地球人類の想念行為を元として、天象をあつかう神々が、人類進化の
一こま一こまとして、人類をよりよく生かすための愛の行為として、行なうものなのであります。
台風などがおこって、大きな被害を人類に与えることがありますが、それは人類を蔽っている業
を、もっとも良い方法で消滅していてくれるのでありまして、それがなければ、より大きな何らか
の災害によって、人類は自己の業を消滅してゆかなけれぽならないのです。人類がこの地球世界
を、円満に調和した世界にするためには、人類自身の業をすっかり消滅してしまわなければならな
いのです。さもなければ、人類の業の厚みで滅亡してしまうよりしかたがないものなのです。
26
守護の神霊の守り方
あら
人類が、地球人類として微妙な波動の神霊世界から、粗い波動の肉体界に住むようになって、神
霊界と肉体世界との大きな波動のへだたりが、地球人類を神霊世界の在り方と全く異なった行き方
に習慣づけてしまって、何時しか神霊世界に存在している自己の本体を見失なってしまったのであ
ります。そこに神のみ心からはなれた業が生まれ、地球人類は今日のような物質偏重の善悪混交の
存在となってしまったのであります。
つか
その誤りを正そうとして、神霊の世界から幾多の聖者賢者が地球界に遣わされたのですが、未だ
に地球人類は、神のみ心のほうに真直ぐに向いてはいないのです。そうした物質偏重的な人間を神
の法則にのせようとして、各自の守護の神霊は、全力を尽して働いているのでありますが、肉体人
間はなかなか神の方向に心を向けようとはしないのです。守護の神霊は、そうした人間の苦しみ
を、その場その時々に身代りしながら、肉体人間の本心の在り方も知らせようと、働きつづけてい
るのです。
私は、自己の体験として、その事実をはっきり知っておりますので、しきりに守護の神霊の存在
の大事なことを説きつづけているのであります。守護の神霊は、時には厳しく、時にはやさしく、
肉体人間を守ってゆくのでありまして、その努力はなみ大抵のものではないのであります。しか
し、その事実を知る人は、数少ないのであります。
ひようい
例えていえば、自分の守っている肉体身に執念となって愚依している霊魂を、自分達の力だけで27神
々
の
様
々
な
働
き
方
は取り除きにくい場合があるのです。そうした時には、誰か強力な霊力をもった人に助太刀をして
もらわなければなりません。しかし、この肉体身の縁としてはそういう人が見あたりません。そう
した時に守護の神霊は、縁から縁をたどって、そういう人を見つけ出し、その人の助力を得るので
す。
神霊というと、何から何までオールマイティ式にできると思うでしょうが、そういうものではあ
りません。守っている人間の力を充分に発揮させるようにして、その上足りぬ力をそそぎ込むよう
にしてゆくのが、守護の神霊の在り方で、何から何まで力をかしたのでは、その人間が充分にその
能力を発揮するチャンスがなくなってしまいます。だからといって、その肉体人間の力だけでは、
カルマ
この業に満ちた地球界で生きてゆくことはできません。まるまるその肉体人間の苦しみを、肩がわ
りをすることはできないが、どこかで肩がわりしてやらなければ、その人間は滅びてしまいます。
その限度がなかなかむずかしいのです。神様が守っていてくれるのに、何故こんなに不幸災難で、
苦しまなければならぬのか、という質問を時々受けます。確かに、神様に守られているのに、苦し
わけいのち
みが続くというのは、おかしな話のように思われます。しかし、神様のみ心は、分生命の人間が肉
体という物質体に住みながらも、その微妙な霊質の力をどれだけ発揮できるか、を勉強させている
28
ので、人間の苦しみというのも神様の愛の厳しい面の現れといえるのです。
どんな苦しみもやがては消え去って、神様のみ心が、その人の表面に現われてくるようになるの
ですから、過去世の業因縁の深さによっては、苦しむこともやむをえないことがあり、その苦しみ
によって、その人の霊魂は大きく成長してゆくのであります。今生の苦しみの深さ浅さは、過去世
こうしよう
からの業因縁の深いか、浅いかによって定まっているものでありまして、業生の深い人間を守る守
護の神霊は、それだけ大変な力がいるのです。それでいて、その現れの面としては、過去世のよか
った人々のように、良いことぽかりがその生活に現われませんで、やっとのことで、この世の生活
を切り抜けてゆく、というような状態になっているのです。ですから、そういう人々は、ますます
守護の神霊にすがりつき、神との一体化をはかってゆく必要があるのです。そういたしますと、思
いもかけぬような、明るい世界がその人の上に開かれてゆくものなのであります。
守護の神霊の声か? 潜在意識か7
みなさんの中には、神様の姿を見たり、声を聞いたりして、教え導びいてもらいたい人が、かな
りいると思います。ところが、真実そうなるためには、その人の心境がよほど秀れてきていない29神
々
の
様
々
な
働
き
方
と、非常に危険な状態に落ち入ることがあるもので、かえって、自己の運命を損い、他人の運命を
も傷つけてしまうことが、多々あるのであります。人間には誰にも、潜在意識というものがあるの
でありまして、その潜在意識が神霊の心のような状態で、声で、いろいろなことをその人に教えた
り、命令したりすることが多いのです。それが真実の神霊の声と入り混って聞えてくるので、その
判断をすることが実に難しいのです。
神霊の声は、めったに聞えず、ほとんどが自己の潜在意識であったりする場合が、随分あるので
す。潜在意識というのは、表面の意識で、気付いても、気付かなくとも、やはり自己の意識なの
で、神の声のように真実を伝えるものではありません。一人の人を判断するのでも、潜在意識がそ
の人に悪意をもっていれば、その人が事実、立派な良い人であっても、そのお告げは、あの人は悪
い人である、というように出てまいります。又実際にはやらなくてはならぬことでも、潜在意識で
やりたくない場合には、やらなくともいい、という命令になってしまいます。それが自分だけの生
き方であるのなら、損をしても自分だけのことですが、これを他人の指導に用いた場合には、他人
の運命をくるわせることになってしまいます。
ですから、やたらに神の声を聞きたがることは、無謀なのであります。神の声を聞くには、聞け
30
るだけの心の立派さというものが必要なのです。宗教の道は、初めから終りまで、神との一体化を
願う魂のみがきにかかっているのです。普通一般人への守護の神霊の働きかけ方は、守られている
人間がそのおかげを、知ろうと、知るまいと、守り通すのでありまして、守っていることを、いち
いち声で聞かせて、知らせるようなことはいたしません。肉体人間の何気ない一挙手一投足の間に
その使命を遂行してゆくのであります。
例えば、その人に会ったほうがよいという有益な人には、何気なく会わせたり、知らないうちに
傷室『過ちを防いでくれたり、日常会話の中の一言が、相手の運命を開く言葉になったり、あらゆ
る面で目に見えないところから守っている肉体人間のプラスになるように、働きかけているのが守
護神であり、守護霊であるのです。ですから、声でささやかれたり、目で見たりする必要は毛頭な
いのです。目で見たり、声に聞いたりすると、かえってそのことに把われて、潜在意識で自他の運
命を危くしてしまうことがあるのです。
忘れてはならぬ守護の神霊への感謝行
神の姿をみることや、声を聞いたりすることを願わなくとも、その人の心が立派に神のみ心にか31神
々
の
様
々
な
働
き
方
なっていれば、時には姿をみせるのであり、声を聞かせてくれるのであります。そういう時まで、
余り神秘不可思議な現象のみを求めないようにしなけれぽいけません。ただ常になさねばならぬこ
とは、守護の神霊への感謝なのであります。
はば
人にはそれぞれの運命の幅や、定まりがありまして、いくらどんなに勉強し、努力しても、大臣
になれぬ人はなれないのですし、自分ではそんな風になろうとも思わないのに、芸能家として有名
になったりする人もあるのです。運命はひとまず守護の神霊にお預けして、学生なら学生の、社会
人なら社会人としての本分を尽し、周囲との調和をはかってゆくことが大事なのです。そうしてい
ても、その人にふさわしい学問、知識や、技術や必要な知識は守護の神霊のほうから、自然のうち
にさずけてくれるのであります。ただ単に物事に夢中になるというのでは、その運命に危険がとも
ないます。その物事に熱心でありながら、執着していない、というような人間になるには、すべて
守護の神霊に託した生き方ができるようになることが大切なのです。
32
大神さまのみ心
わけいのち
神の分生命としての自分と、守護の神霊の加護との協力によって、神のみ心をこの地球界に完う
してゆく自分であることを、充分に知るよう勉強しなければなりません。その勉強の入口が世界平
和の祈り言であり、出口が世界平和の祈りそのものなのです。世界平和の祈りは、大宇宙の調和そ
のものであり、大神様のみ心そのものでもあるのです。
大神様のみ心は、人類には直霊、分霊(分生命) として、内面的に働き、守護の神霊としては、
その内面の働きを助けて、外面的から働くのであります。そして、動物、植物、鉱物の面において
は、大神様のみ心を全面的に現わす中心としての人類の協力者として、一切を神の支配のままに働
くのであります。動物も植物も鉱物も、神の被造物でありまして、人類のように、自己の意志や、
創造力を持ってはおりません。神に造られたるままに行動してゆくのであります。しかし、その行
動の中には、人類からおくられる業想念の波によって、行動させられてしまう部面が多くありまし
て、弱肉強食の姿となっていたりするのです。植物や鉱物が、人類の心に支配されていることは、
皆さんご存知のとおりです。しかし、植物も動物も鉱物も、その形の奥には、神様の存在がはっき
りしていまして、古い樹木の場合ですと、白髪、白髭の神々しい老翁の姿をした神様が、ありあり
とみえることがあります。
33神々の様々な働き方
34
天地万物に感謝せよ
人類を中心にして、すべて力を結集し、大宇宙神のみ心を、この地球界に現わしてゆくのです
きようじんせいれん
が、現代の人類の姿では、動物の強靱さ、植物の純一な清廉さ、鉱物の忍耐力にはとても及びませ
ん。人類が神のみ心のとうりの働きもせぬのに、動植物に感謝もしないで、食していることは、と
んでもないことで、食事のたび毎に、動植物への感謝をささげなけれぽいけません。万物の霊長で
ある人類は、長であり、中心者である本領を発揮して、動植物や鉱物の働きを、有効にさせなけれ
ばならないのです。
人類があらゆる生物、事物のその本質を生かして、地球界において働く時、地球世界は完成に向
ってゆくのでありまして、そのためには、もっともっと守護の神霊との一体化を行じて、進まねば
ならぬのです。
太陽には太陽神があるように、地球には地球霊王が厳然として存在して、物質界を支配している
のであります。例え一つの小さな物質といえど、地球にあっては、地球霊王のみ心が働かなくて
は、その存在が成り立たないのです。
ですから人間が、この地球界において生きてゆくには、守護の神霊への感謝は勿論ですが、天地
の恩恵に感謝しないではいられないわけなのです。古事記には様々な神様の名が出てきますが、そ
の名はすべて、その神様の働きを現わしているので、元は唯一神である大宇宙神のみ心からその力
がでてくるのであります。
神様は、キリスト教でいうように、一神でありますが、また多神でもあるのです。私がいつも申
しますように、神を大生命であり、宇宙の法則そのものである、とみておりますと、厳然としすぎ
ほつ
まして、人間の欲している観世音菩薩的愛が感じられなくなってきます。そこで私は、神を法則と
しての神と、救済の面の神との両面に説いているのであります。罪悪灘郵蜥の厩好である肉体人間
は、常に宇宙の法則の調和からはずれてしまいがちです。そこでどうしても、救済の面の神の力を
かりなければならなくなるのです。私が、守護の神霊の働きを強調しているのは、この理由による
のであります。
転生を重ねて進化しつづける人類
私たちのように、神の存在をはっきり知っており、神の助けなくしては、人類が一瞬といえど生35神
々
の
様
々
な
働
き
方
きてゆけないことがわかっている人間にとっては、無神論者や、唯物論者のあることが不思議でな
らないのですが、この世の一生だけを人生とみている人々にとっては、そういう見方も成り立つの
かもしれません。
しかし、人間は、生まれ変り死に変りして、過去世というものをもっている、という仏教の教え
が真実であることを知っているか、知らなくともその事実を信じている者にとっては、無神論や唯
物論ではとても生きてはゆけません。ところが現代では、過去世のあったことを人々に知らせるこ
とは、なかなかむずかしいことです。今日でも、細々ながら心霊科学の道が開いていますけれど、
その働きの範囲はまだまだとても狭いので、無神論者や唯物論者を導き入れることはできにくいの
です。そこでどうしても、この心霊科学的な働きの範囲を広めてゆかなければなりません。私共の
研究しております宇宙子波動生命物理学は、やがてその面でも急速に拡まってゆくことでしょう。
そういたしますと、人間の生命は、肉体を去っても、幽界や霊界で生きつづけていることも、生ま
れ変り死に変りすることも過去世の存在することも、はっきりわかってくるのです。
この世界は、あの世もこの世も、精神も物質もすべて波動でできております。電子も微粒子も、
元は波動なのです。その波動の根元は、宇宙心といって神のみ心です。その神のみ心が、科学的な
36
働き方をしてきますと、先ず第一に宇宙子核という働きの場がもうけられ、それが宇宙子という波
動の根源となって、精神ともなり、現実に見える物質ともなって、生物の世界を造っているのであ
ります。
これは、単に説明してもわからないことなので、やがては科学の学問として、世界に発表するこ
とになるでありましょう。ともあれ、神々は、種々様々な変化をしながら、この宇宙の運行をはか
っているのであります。
私共人類は、今は地球の進化のために、神々の力の応援を得て、働きつづけているのであります。
37神々の様々な働き方
38
神愛について
神さまは人間の願いをきいてくれないのか
自分たちの生命は、神からきていることも、神様の存在も信じているけれど、自分たちの運命
は、自分たちが開くもので、神様が援助してくれたり、助けてくれたりするものではない、人間は
神様に創られたものだけれど、創られた人間というものは、神様とは全く別なもので、人間が神様
になることはできない、神は神、人間は人間なのだ、と半分唯物論的な生き方の人がインテリ層に
はかなり多いのです。
重病の人が、一生懸命神様に助けを求めても助からなかったり、仕事がうまくゆかないので、真
剣に神様を呼んでもうまくゆかず、破産してしまったりする人がありますので、神様をいくら呼ん
でも、お助けを願っても、神様は個人の運命には関係しないのだ、と思われがちですが、神様は常
に個人の運命を好転させようと、働いていて下さるのです。それは、大宇宙神として、生命の根源
として、法則的に働いていらっしゃる面の力ではなく、守護の神霊として、はじめから人類の援護
のためについていらっしゃる神々が、個人救済、人類救済のために働いて下さっているのです。
そのことは「神と人間」の本にも詳しく書いてありますが、神には法則の神と救済の面の働きの
神々とがあるので、宇宙絶対者であり、法則そのものである神のほうをみている人は、神はすべて
のすぺてであるが、人類の運命には、関与しないと思っているようです。
尤も法則の神が、法則をはずれた生き方をして運命を悪くしている人間を救うために、法則をい
ちいち変えていたら、大宇宙の運営はなり立ちません。法則はあくまで、動かすことはできませ
ん。ですから、法則として存在していらっしゃる神様が、人類を救う働きをすることはありませ
ん。人類を救うために働いていらっしゃるのは、あくまで守護の神霊として働かれる神々なので
す。大神様は法則の神と守護の神霊との二本立になっていまして、人類が頼りにしている神は守護
の神霊なのであります。私が特に守護の神霊への感謝を祈り言葉の中に入れているのはそういうわ39神
愛
に
つ
い
て
けなのです。
40
神さまからみた人類の幸せとは
ところで、神様からみた人類の幸福というものは、どういうものなのでしょう。神様から人類を
しんれいゆう
みますと、肉体人間としてだけうつるのではなく、神、霊、幽という階層にも同時に働いている生
命体としてみているのです。そこで、その全階層を通しての幸福ということを、神様からみれば、
生命の自由自在性を各自のものとしている状態を幸福とみ、その状態に全人類をもってゆこうとし
て愛の光を投げかけているのでありまして、肉体人間側が、肉体生活の幸福だけを全幸福とみてい
て、その線にそった生活だけを望んでいるのとは違うのであります。真理を求める古来からの宗教
くうくう
者が、現世利益の願いを捨てて、空の境地に突入しようとしていたのは、空の世界から改めて神霊
の働かれる、自由自在な世界が開かれてくることを観じたからなのであります。
くれノ
空とは、肉体感覚や幽体感覚に全く把われなくなった状態をいうのです。そういう状態から、神
くうなん
霊の光明波動が自由に働きだしてくるのです。ともすると、空の世界というのは、何にもない世界
くうさかい
と誤まって考えられている場合がありますが、とんでもないことで、空の境地を境にして、神仏の
み心がフルにひびきわたってくるのであります。誤った考えの僧侶たちが、唯物論的になっていた
くう
りするのは、真の空の境地を知らないからなのです。
くユン
しかし、ペソではこう簡単に書きますけれど、真の空の境地になるのは大変なことで、誤った道
に入ってしまった人を、責める気にはなれません。
神の道に無理はない
肉体人間として、現象の地球世界に暮して生活している人々が、肉体人間にまつわる現世の幸福
くう
を願い求めることは、当然のことで、そういう幸福を願う想いをふり切って、空の世界に飛び込ま
せようとする宗教の道は、どうも大分、無理があるようです。無理をして道を求めていますと、足
元が乱れて、肉体社会の生活とアンバランスになり、物質的な幸福や家庭的な幸福から、見放され
くコう
てしまいがちです。それでいて、真実の空の世界へも突入できず、常に宙ぶらりんの生き方をして
いることになってしまいます。天に頭がとどかず、地に足がつかない状態になってしまうのです。
肉体社会の生活をしている以上は、その社会との調和を保ちながら、真の幸福をみいだしてゆく
道をみつけなければいけません。その道を私はみつけだしたのであります。それが消えてゆく姿で41神
愛
に
つ
い
て
世界平和の祈りの道なのであります。スポーツでも、武道でも、無理をした動きでは大成は致しま
せん。人間の生きる道全部が無理をしてはいけないのです。無理を通せば道理ひっこむ、で無理な
行為では真の道は見出せません。
神様は無理をしなければ、真の幸福が得られぬような人間を創ってはおりません。無理をしない
で、真の道を歩むことを、私は私の修業によって知ったのです。それは人間の体の諸器官が、心臓
も肺も胃腸も肝臓も、無理をして働いているのではなく、自然に働いているのであります。人間の
頭でいちいち命令して動くのではなく、生れ育ってきたそのままの力で働いているのです。それな
のに人間は頭で考えることだけは、無理をしがちになるのです。
内臓が自然に働いているように、智慧も自然に湧いてくるものなのに、大元の智慧とは関係のな
あだ
い肉体人間としての知識で考えてしまうのが、仇となるのであります。
神のみ心と肉体人間の知識経験からくる行動とが離れてしまいますと、ますます真理の世界観が
かすんでしまいまして、業想念の波が濃くなり、物質的に有限な、弱肉強食の世界がつづいてゆき
ます。そして、有限な物質的幸福を得るために、個人も国家間も、他に優越する力を養ってゆくの
であります。個人においては地位や権力、国家においては武力を強めてゆこうとするのです。
42
物質的地球世界に、人間が生活してゆくためには、どうしても一度はこうした状態になることが
予測されていましたので、守護の神霊方は肉体人間の近くにいて、いろいろと智慧能力の光の波を
そそぎこんでいるのであります。しかし肉体人間のほうはそういう真実を知りませんので、常に自
カルマ
分たちの力だけで生きてゆこうとしますので、業想念波動の渦の中でしか働くことはできないので
す。
そこで守護の神霊方は、古い経歴を経た人間を使って、自分たちの存在や人類の真の生き方を人
類に知らせようとするのです。その人々を聖者賢者と呼びます。
守護の神霊は肉体界の幸福を得させようとしている
しかし肉体人間にとって一番困ることは、肉体人間以外の人間を信じないということなのです。
自分が肉体世界を去って、他の世界に生きつづけるということが、肉体をもっていますと、どうし
ても実観として湧いてこないのです。
ですから、肉体生活での幸福だけしか、望めないのが実観なので、あの世での幸福などというこ
とは、現代になればなる程薄い感慨になってくるのです。守護の神霊方は出来得る限り、守ってい43神
愛
に
つ
い
て
る肉体人間の、肉体社会での幸福を得させようと働かれるのですが、その人々の過去世からの業因
縁によっては、肉体社会での幸福というものを成就させることができず、あの世へ往ってから、は
じめて幸福を感じ得るようなことになることも、随分と多いのです。これは現在の肉体人間として
は、どうにもならないことで、守護の神霊方や、聖賢の人々が、心身を挺して働いても、肉体人間
すべての満足を得るような成果は現われてこないのです。
だからといって、神に願っても、神は答え給わない、というのではなく、神々は常にその答を出
しているのですが、肉体人間のほうがその答をわからずにいるのであります。手の不自由な人がい
て、その人に水を飲ませようとするのですが、その人が水から顔をそむけていたら、飲ませようと
するほうはどうにもなりません。神霊の力は強いので、自分のほうに心が向いていないでも、或る
まとも
程度の光を与えることはできますが、真正面に自分のほうに向いてくれる人のほうが、光を与え易
いのはきまりきったことです。
そこでどうしても、神霊のほうに心を向けてくれる人間が多くなればなる程、肉体人間の救われ
る率が高くなるのです。人間の想いが神霊の光とぴたりと一つになった時には、あっと驚くような
奇蹟が現われたりするのです。そういう例もイエス様ならずとも随分とあるのです。
44
神様のほうは誰にでも、満遍ない愛を与えているのですが、与えられている人間のほうがその愛
を自ら受けるか受けないかの違いによって、その人の幸福のたかがきまってしまうのです。
そこで私たちは、何んにしても、守護の神霊が、人間各自に必ず守っていて下さるのであること
を知らせようと、書いたり、しゃべったりして、真剣になって働いているのであります。
守護の神霊への感謝こそ
守護の神霊が自分を守っていて下さるということが何んとはなくわかって来ますと、日々の生き
方が明るくなって来ますし、それだけでも、幸福な道は近づいてきたようで、心がしっかりしてく
るものです。守護の神霊への日々の感謝と世界平和の祈りの生活をつづけている、私たちの同志
ふたいてん
が、日増しに元気に明るくなってゆき、ついには不退転の自信をもつようになってきているのは事
実なのであります。
神様は永遠の生命の調和のために働いて下さっていることは勿論ですが、肉体人間社会の幸福の
ためにも、そのお力をそそいでおられるのも、私たちの体験の上で事実であるのです。ですけれ
ばんぜん
ど、肉体人間の要望のほうが万全を望んでいるので、その望みが少しでも欠けると、おかげがなか45神
愛
に
つ
い
て
ったと思うのです。例えていいますと、或る人が肉体を去ったとします。すると、そのことがもう
そのままおかげがなかったと、浅い宗教信者は思うでしょうが、神様にすがっていた場合には、そ
あとのちのちとく
の人の死というものが後のものの後々のために必ず得になるようになっていますので、その場だけ
のことで、神への不信感を起こしてはいけないのです。そして、神様にすがっていたその人は当然
あの世での生活が神を信じていない人々より、楽であるに違いないのです。
そうであることを、私たちは多くの体験で知っているのであります。様々の生活環境の場合で
も、守護の神霊への感謝で生活している人は必ず、よくなっているのは決っているのです。
46
神は大親、人類は兄弟
神々はみな人類の親様方です。神は一神でありますけれど、働きとしては、様々に分けられまし
て、宇宙の運行から、人類の救済までそれぞれのお働きをなさっておられるのです。そして人類
は、そうした神々の子供としてまた、弟子として、いろいろの星の世界でくらしているのでありま
す。私たちは今地球という星で生活しているわけですが、この地球での生活経験が終われば、他の
星での生活にうつってゆくのです。
縦には神と人類は親子として、横には人類相互が兄弟姉妹として、大宇宙創造の働きを手分けで
しているのであります。地球人類は今、最後の進化の段階として、急速に心身共なる進歩を遂げな
ければならぬのです。その進化のためには、いたずらに人類同士が争い合っているようでは仕方が
ありません。しかしながら、事実上はこの地球人類は常に争いの波の中で生活しているのでありま
すから、お互いの自己本位の想いを何んとかしてしまわねばならぬのですが、なかなか自己本位の
想いが、個人からも国々からも消え去ってゆきません。
現在の地球人間の心では、自分と人とは全く別な存在であり、自国と他国とはいつもせり合って
いる、利害を争っている関係にあるような状態なのですから、自国の得は他国の損、他国の得は自
にら
国の損ということになり、常に武力や権力を背景にした睨み合いということになり、遂いには核兵
器の大量増産ということになって、いつ地球が消滅するかわからぬような現状なのであります。
宇宙天使の援助
神様の愛の心はこういう状態を見過しになさっているわけではありませんので、守護の神霊方に
加えて、宇宙天使方の援助をも本格的に地球人類の上に及ぼしているのであります。47神
愛
に
つ
い
て
宇宙天使とは、地球人が宇宙人と呼んでいる人々の最高の境地の人たちで、神々の位にある人々
なのです。日本人ぼかりではなく、西欧人でも、神というと、どうも宇宙絶対者というべき一神の
みが頭に浮かんでいるようですが、神はあくまで、神々として各種各様に働かれているのです。現
在私たちに働きかけておられるのは、科学の面での働きかけで、地球科学をはるかに超えた、宇宙
子科学というものを、くわしく教えてきているのであります。
宇宙子科学は、現在は仮りに宇宙子波動生命物理学という名称で呼んでいますが、宇宙神の深い
み心の中から、霊質、幽質、物質として現わされている波動の様々を科学の式によって説明されて
いるので、学問上は、この地球科学を勉強しているのと同じことなのですが、教えられている内容
は、地球科学では思いも及ばない超越した内容であり、計算方法なのであります。
宇宙の奥、つまり神のみ心の中心から、次第に地球科学との結びつきにまで、その教えは進んで
きています。しかしむずかしいことは、この教えを受けるためには、心のひびきのととのった、真
理のみを目ざしているような人でなけれぽ受けられぬので、私共の研究員は常にその線にそうよう
にと、祈りつづけているのであります。
この研究員はもう米国にもおりますが、その他にやがては世界各国から宇宙天使に選ばれて、研
究員になる人が出てくることになっ。ています。ですから宇宙天使の許しもなしに、宇宙子科学云々
といっても、それは真実ではありませんから、宇宙子科学に興味をもたれる方々もその点に気をつ
けていて下さい。
・宇宙子科学の完成は、神の大愛の発露でありまして、この科学の完成によって、はじめて、地球
を自ら壊滅させてしまうような、核兵器をはじめとする地球の破壊兵器は、使いものにならなくな
ってしまうのであります。
現在の地球を救うのには、こうした破壊力を抑え得る力が現われなければならないのです。云い
かえれば、米ソ中のような武力大国の上をゆく調和の力の存在が必要になってくるのであります。
宇宙子科学は正にそれなのであります。
宇宙子科学の完成こそ、神の大愛の現れなのであります。その事実は着々と進められているの
で、私たちはこのことを信ずるより仕方がありません。信じざるを得ないのです。他に一体どんな
方法で地球を平和にしようというのでしょう。真の宗教から生まれ出た大調和科学。この調和によ
ってこそ、地球は救われてゆくのであります。そしてこの力はすべて神々天使からくるのであり、
私たちはその忠実なる場となり、器となって働くのであります。49神
愛
に
つ
い
て
そくしん
その完成を促進させるためにも、祈りによる平和運動、世界平和の祈りが必要であり、
多くの同志が世界平和を祈りつづけて下さるよう、願ってやまないのであります。
一人でも50
人間の救れについて
救われるという真実の意味
人間が救われる、ということの真実の意味を判っている人は意外と少ないもので、一寸した幸福
感でも救われている、と思っている人が多いのです。
真実の救れというものは、真実の幸福と同じものなのですが、救れという言葉が、この肉体世界
のことより、霊界のことのように思われていますし、幸福というのは、霊界というより、この肉体
界のことのように思われております。
そこで今回は、救れということと、幸福ということの同意義であることを述べてゆくことに致し51人
間
の
救
れ
に
つ
い
て
ます。
救れという言葉は宗教的な言葉なので、救れという言葉の奥には、神仏の姿が大きくひろがって
いるわけで、神仏によって、人類が救われる、という形になっているわけです。病気が治った、救
われた。貧乏から脱出して救われた、というそういう表面的なこともありますが、救われる、とい
カルマ
う真実の意義は、人間の心が神仏との一体感を得て、心に不動心を得る、ということ、人類の業を
超越して、神仏のみ心の中で、自分の生活ができるようになった、ということであります。
ですから、宗教の門を叩くのは、人間が真実の救れに入る為でありまして、現世の利益を得る、
という為だけのものではないのです。真実の幸福というものも、つきつめてゆきますと、真実の救
れと同じような立場になっている、ということでありまして、昨年は幸福、今年は不幸などという
ものではありません。
52
今までは幅せまき救れ
さてそこで、真実の救れに入るのにはどうしたらよいか、ということになります。これは宗教の
課題でありまして、何宗でも、何派でも、みなそこに向ってゆくわけです。それがなかなかむずか
しい。人類は長い間、物質世界の地球上で生活していますので、どうしても、物質に対応する体を
必要とします。それが肉体であります。
もし肉体がなくて、霊体や幽体だけであったら、物質波動と波が合わなくて、というより、地球
世界の物質波動とは波が合わなくて、一つの階層に住むことができません。肉体界も、幽界も霊界
も、縦横十字になっており、碁盤の形のようになって波動が交流しているわけで、縦の波は生命の
奥の方につながっており、横の方は肉体人間的にいえば物質の方につながっているわけです。
そして、肉体界、幽界、霊界とその階層が異なるのです。現在の地球世界では、肉体が主となっ
ている人間が住んでおりますので、まず第一に肉体の眼や手で物事を見分けます。勿論精神的なも
のも加わりますけれど、その精神的なものも、肉体に附随した働きをしているもので、肉体の利害
得失を主にしているわけです。
そこで他の階層の働きは二の次ぎ三の次ぎということになってしまいます。宗教的ないわゆる霊
肉を通した救れ、ということでも、肉体とそれに附随した精神の救れのように小さく、幅せまく考
えられているのです。
そこで大半の人が肉体人間として生きていて、肉体人間の最も必要である物質に、第一の重要性53人
間
の
救
れ
に
つ
い
て
を感じているわけです。肉体人間にとっては、物質が第一に必要だということです。そして、個人
の集団である国家というものが、自集団の物質世界を守ろうとして、武力を増強し、遂には核兵器
まで使用するようになってしまったのです。
54
大調和を根本に
さあ、ここまできますと、もうこの先きは、自己や自国の物質生活を守るだけで生きていってい
いのか、という大きな疑問が起ってきます。
根本的な宇宙観がこの辺で変わらないと、人間が自ら守りとして作った兵器で、地球の物質世界
を打ち壊してしまうことになりますから、自国を守るのにお互いが武力を用いるのではいけない、
ということがはっきりしているのです。
だせい
しかし古来からの惰性で、自国を守り、他国を滅ぼすのには武力を主にするという方法から、い
つ迄たってもぬけ出すことができずにいるのです。このままでは必ずといってよい程、地球世界は
滅びてしまいます。その事実をしっかり把えて、そのことを根底にして、国際間の政治政策を行な
わなければいけないのですのに、イランなどでは、イラソのイスラム教の最高の指導者と自他共に
ゆるしている人が、米国に武力を使わせてしまいそうな、宗教者として実に不調和な人質をとって
のかけ合いを米国としているわけです。
宗教の根本はあく迄、調和ということにあるのですから、もし相手が悪く立ち廻ってきても、そ
れに立ち向って、自分も同じ姿勢で戦おうなどという心があっては困りものです。
神のみ心の働く国は?
宗教信者というものは、間違うと非常に一方的になり、根本の調和ということをすっかり忘れ
て、自分たちの神からの指示と思われる方法で、自分たちの在り方を強調しつづけます。それが肉
体身を惜しまずやっているので、相手にとっては困ったことになってしまい、遂には武力をもちい
てしまう、ということになりそうなのです。
米国とイランがそうならなければよいが、と祈るばかりです。そういう眼で世界中を見まわしま
すと、どこも、ここも、危なかしいところばかりです。どうして調和ということを忘れてしまうの
でしょうか、お互いが眼前の利害関係にぽかりとらわれて、先きのことにまで考えが及ばないから
なのです。いな、考え及ぽないのではなく、考えてはいるが、眼先きの問題解決の方が先で、先の55人
間
の
救
れ
に
つ
い
て
‘
ことはその後のことというわけです。
国と国との動きには、そのまま地球上の重大な運命がかかっていますし、為政者の在り方によっ
ては、即座に自国の浮沈にもかかってきます。ですから、そういう風にすれば後にはよいのだと判
っていても、そのやり方が、現在の自国にとって不利益であれば、後にはよいことであっても実行
できないということになります。
現在の利益をすてても、後々の利に起つことのできるような指導者が、政治家の頂点にいればよ
いのですが、今日までそういう政治家は現われていません。一人ぐらい現われても、多くの他の政
治家の反対でよいことでも実行できなくなってしまうのです。
国家が急激にその政策を変えるのは、唯物的な革命によるものの他はなく、地球の物質の争いの
優位な方向に国を立ち向わせようとするもので、神のみ心の働いている国の動きではないのです。
神のみ心の働いている動きとは
神のみ心の働いている動きと申しますのは、他国も自国も、上も下もすべて優位になってゆくと
いうもので、一つや二つの場だけがよくなってゆくというものではありません。片方が優位になっ
56
ても、片方に怨みの想いが残っているようでは、これは神のみ心が働いているというわけにはゆか
ぬのですから、むずかしいものです。
上も下も自国も他国も、同じように優位になるということなど、物質的にみれぽありようがない
のですが、神のみ心からみればあるのです。優位とか損得とかということを、肉体人間的に考えれ
ば、すぐに物質的なものに見立ててしまうのですが、神のみ心が素直に働いていれば、自国も他国
も上も下も、すべて優位になってゆく、ということが実際に現われてくるのです。
それは国々の為政者が心を合わせてやれば一番よいのですが、そこ迄にゆく為に、国家人民の一
人一人が、神のみ心を知って、神のみ心の通りに動いてゆけばよいわけなので、それが祈りという
ものなのです。一人一人が神のみ心に合わせる為の祈りをするのは、やり易いのですが、国家民族
が一つになって祈るということは実にむずかしいことなのです。
それは各国家各民族共に、古来からそれぞれにその国家民族としての宗教の型やしきたりがあり
まして、いわぽキリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒソズー教等々どうしても、自国の信ずる宗
教を一番高いところに置こうとして、各国が一つに祈る、というところにはゆきつかないのです。
かえって同じイスラム教やキリスト教の中でも、異なった型やしきたりがあって、国家間、民族間
57人間の救れについて
が角つき合わせるということになっていたりするのです。そこでうっかりすると宗教戦争のような
ことになってしまいます。
またそうした宗教を一切持たない唯物主義の国家などでは、自分たちの主義に地球人類を一つに
しようとして、神仏を否定して唯物主義一筋の政治政策を貫き通してきます。米国とソ連との間柄
をみればよくわかります。
58
国際間に真の調和の祈りが生まれるまで
また米国でもイランでもイスラエルでもアラブ、中近東諸国でもみなそれぞれの宗教をもちなが
ら、それぞれの祈りをもちながら、国の為政者達の祈りは、相手国に負けまいとしての神仏への願
いでありまして、そこには相手を真に愛するという想いはなくなっているのです。私たちが欲して
いる大調和を根底にした真の祈りなどは、国際間の祈りには全くないといってよいのです。
ですから、国際間に真の調和の祈りが生まれるまでは、各国各民族の一人一人が、神仏の愛の
心、大調和の心と一つにつながって、自己の肉体身を通して、地球上の波動を神のみ心につなげて
ゆくこと以外に、地球を救う方法がない、ということになります。
国としてできなくとも、個人としては、真の大調和の祈り、愛の祈りができることは、私たちが
三十年近くも祈りつづけてすでに実践しているわけです。神仏と一つになった真の祈りは自分自身
を浄めさると同時に、他の人をも浄めていることは確かなので、そういう祈りのできる個人が増え
てゆけぽゆく程、国家に真の祈りをさせる時機も近づくのである、といえるのであります。
人類は神の生命の働きを分けて頂いて存在していることは勿論で、神のみ心を成就する為に置か
れた立場において、働いているわけなのでして、現在、肉体身をもっている人間は、この物質的存
在の地球世界に、神のみ心を現わす働きをしなけれぽならぬようになっているのです。
しかし、神のみ心の自由自在性を、肉体という物質体に包んでしまって、物質世界の遅鈍な動き
の波動に合わせて働かねぽならぬので、いつの間にか、自らの本質も遅鈍な動きとなってしまって
いますので、神霊の世界で神のみ心の自由自在に近い働きをしていた頃に、一度戻らねぽ、神のみ
心をこの地球界にはっきり現わすわけにはゆかなくなってしまったのです。
そこで、何よりも先に、人間の想いを、神のみ心と一つにしきってしまい、神霊の波動と同じよ
うに自由に働けるようにしなければなりません。その方法が祈りなのです。祈りとは肉体人間とし
ての生命波動が、物質波動を超えて、神の自由自在なみ心、完全円満に大調和した心と一つとな59人
間
の
救
れ
に
つ
い
て
る、そういう方法なのです。
ですから祈りというのは、自分勝手な願いごとを、次々と神様にお願いする為のものではないの
すそ
です。そういうことは神我一体となる本来の祈りのお裾分けとしてなされる祈りなので、神様とい
って、お願いごとだけしていればことたりるというようなものではないのであります。
60
祈りの本質をハッキリさせる
そこで、世界中のあらゆる宗教の祈りも、その本題に照らしてなされることが必要なので、自国
や自民族の繁栄の為には、他国家や他民族が滅びてもよい、というような自分勝手な不調和な祈り
は、祈りの本質から外れているということになります。私はその祈りの本質をはっきりする為に、
やす
全人類の誰にでも分り易いようにと、世界平和の祈りを、世界中の祈りとして取り上げて貰うよう
にと、先ず日本からその運動をはじめ、今日ではかなりの同志が増えてきているのであります。
要するに、人類が神のみ心のままに生きなけれぽ、やがては滅びてしまうということなのですか
ら、どんな智慧才覚をつかうより、神様のみ心の中にこちらから飛びこんでしまうことが第一なの
です。それが祈りなのです。そこで今日の急務は、戦争や天変地変で、滅びぬことを、と誰しも想
うことですが、その想いのままを、神様のみ心に訴えることが必要なのです。神様は人間の生命の
親なのですから、子供をいたずらに殺したいわけがありません。
地球の滅亡を防ぐために祈りを!
神様! 私たちの運命を開いて下さい。私たちを滅ぼさないで下さい。ということを、人類が一
つ心になって叫ぶのです。自分たちだけが助かれば、他人や他国がどうなってもよい、では、親さ
まである神のみ心が承知なさるわけがありません。人類すべてが助かりますように、そして神様の
み心の通りの世界をこの地球界に現わしてゆけますように、という叫びを、人類は今等しくあげな
ければいけないのです。
その叫びを、日常茶飯事の、しかも一瞬として忘れることのできない、世界人類の平和というこ
とに、一人一人の人間の心を結びつける、単純な簡単な祈り言として、世界人類が平和であります
ように、という言葉を人類すぺての祈り言の中心として唱えつづけることが、人類の心を一つ祈り
にする、最短距離であることを知ったのであります。
心ある人なら、心に世界の平和を想わない人はおりません。日頃の想いがそのまま祈り言とし61人
間
の
救
れ
に
つ
い
て
て、知らないうちに、個人個人が神との一体化を進ませている、というのが、この世界平和の祈り
なのです。
これは祈ろうと想った時には、もうその人の生命の本質が、神のみ心にしっかりつながった時な
ので、努力しなくとも力まなくとも、お早よう、今日は、というように祈り言が心に浮かんでくる
ようになるのであります。
毎度申しておりますように、人間一人一人には必ず、守護の神霊がついていて下さるのですか
ら、常に守護の神霊への感謝をつづけていれぽ、自分では祈りを忘れたと思う時でも、守護の神霊
が代って祈っていて下さるのです。
もう人類がここまで窮地に追いこまれますと、肉体人間同士では、自分たちを救いようのないこ
とははっきりしているのですから、素直に神の存在を信じ、神様の力によって人類を救って頂くよ
うにすることより生きる道はないのです。
各宗教宗派の人たちは、それぞれの祈り言はそれぞれでつづけてゆかれれぽよいでしょうが、全
宗教の合言葉のように、世界平和の祈りを中心にして祈ることが必要なのです。今は何宗も何派も
ありません。地球の滅亡を防ぐことが、唯一無二のことなのです。地球を滅ぼすのは、鬼でも悪魔
62
でもありません。人間の誤った業の心、不調和な心が自らを亡ぼそうとしているのです。その業の
心を持ったままで、日々瞬々世界平和の祈りごとにのり、神の大光明の中で、その業を消して頂く
のです。
その繰り返しによって、個人も救われ、やがては人類そのものも救われてゆくのです。
神と人間との一体化以外には、人類の救れはないということを、あらためて認識して下さい。
63人間の救れについて
64
安心立命ということについて
安心立命に至る二つの道
安心立命ということは、読んで字のごとく、心を安んじ、命を立てるということです。命を立て
るということは、命本来の働きが、充分にできるということです。口でいえば、ただこれだけの短
かい言葉ですが、このことがなかなかできなくて、人々は錬磨研讃するのでありますが、その境地
にならなくて、一生を終ってしまう人が多いのです。
もっとも、安心立命ということは、宗教の道の奥義でありまして、その人が大悟徹底したことに
なります。ですからなかなかその境地に行きつくことができない、むずかしい道なのであります。
安心立命に至る道は、大別して二通りあります。私のすすめる道は、徹底した世界平和の祈りで
ありまして、すべてを神のみ心に全託する道であります。私と共にやってゆく人達は、病気が治り
たくて来た人、貧乏から脱却したくて来た人、家庭の不調和をなおしたくて来た人等々、いろいろ
の望みを含めた安心立命の道を求めている人々が多かったのですが、消えてゆく姿で世界平和の祈
りという私の示す道をすすんでゆくうちに、そういう現世利益の望みが消え去ってゆき、本格的な
安心立命の道一筋に生きてゆくようになってきているのです。それも自分だけの安心立命の道とい
おうそうそくげんそう
うのではなく、地球人類すべてを同時に安心立命させようという、往相即還相の道なのでありま
す。
はじめから、本格的な宗教の奥義を求めようとする人は、悟りということに重きをおいて、いろ
いろと修業しているのでありまして、その人々にとっては、現世の利益などを考えることは、宗教
を求める者の恥辱と思っている程なのです。
まったくその通りで、宗教の奥義に至るには、現世のあらゆる利害関係、あらゆる事件事柄を捨
てきらなければ、行きつけないところなのです。しかしながら、この現象世界に生きている肉体人
間にとっては、現世の利害関係や、現世の事件事柄を捨て切るということは、とても至難なこと
65安心立命ということについて
で、常人にできることではありません。ですから、昔から庶民の宗教信仰というものは、観音信仰
いなり
であったり、稲荷信仰であったりするのです。観音信仰も稲荷信仰も自分達の現世の利益を主とし
た信仰でありまして、病気を治して下さい、貧乏から抜けださせて下さい、よき配偶者を与えて下
さい、出世させて下さい等々の願いごとが主になっているのです。
現代の新しい宗教団体でも、現世の願いごとの叶いそうな団体に人が多く集まり、大きくなって
いるのであります。それだけ庶民一般大衆の心は、常に、自己や自己にまつわる現世の利害関係を
主にして生きているのであります。
これも、実にもっともなことでありまして、自分達のことを自分達の力でみなければ、他人は誰
も自分のことのように尽してくれるわけはありません。自分達の力の足りないところは、やはり、
神々様の力をかりて、おぎなってもらわなけれぽなりません。庶民の心は、神様を宇宙神とか、大
生命とか、真理とかいうようにみるより、自分達のこの世や、あの世の願いごとをきいて下さる慈
悲深い神様であってもらいたいのです。
そういう人が、この世の大半の人なのです。そして、たまたま真の悟りを得たいという悟り一本
の人、神我一体のみを志す人もいるのです。そういう真理を目ざす知性的な人の生き方は、実に快
66
よいものであり、清々しい感じを人々に与えます。
しかし、その人自体の現世の生活は、きびしく、むずかしいものであります。何故ならば、真理
一本、悟り一本の道というものは、兎角、汚れきっているこの現世の生活とは、相い容れぬものが
ありまして、富にも地位にも恵まれにくいものになってしまいがちなのです。
小悟と大悟
ここでちょっと、悟りについて少しく申し上げてみましょう。前にも書いたことがありますが、
べん
悟りという字は、立心偏に吾という字が一つになってできております。これはどういうことかと申
しますと、吾の心という意味であります。吾の心、つまり本心ということです。悟りとは本心がそ
のまま現われている状態をいうわけであります。
本心がそのまま現われている状態とはどういう状態かといいますと、神のみ心そのものである、
愛、調和が現われている状態ということになります。そして、神のみ心が完全に体得でき、そのみ
心を現わしえていたら、その人は、大悟徹底した人というべきなのです。しかしながら、そこまで
はなかなか行き着かなく、神のみ心の片鱗を少しずつ知ってゆく、小さな悟りを人々は重ねてゆく67安
心
立
命
と
い
う
こ
と
に
つ
い
て
のであります。
はくいん
白隠禅師が、小さな悟りは数知れず、といっていることは、そういうことをいうのです。この地
あら
球界に生きるには、粗い波動の肉体をまとっていなければならないので、神霊そのものの微妙な動
きができにくいのであります。ですから、どうしても、神霊の世界の微妙な動きと、肉体の粗い波
動の動きとの間に、大きな隔りができてしまいます。そこで、この地球界では、神のみ心の愛や調
和の完全性が、そのまま現わせない環境が自然とできてしまっているのです。
例えていうならぽ、想念だけでゆくなら、アメリカへでもヨーロッパへでも、すぐに行けます。
しかし、肉体のほうはそうはゆきません。また、他人のためにその行為や物品で愛を行じたく思っ
ても、想いの波としては万全なことができますが、肉体を通しての実際の行為としては、思ってい
る何分の一もできません。
そのように、想いの世界の基でありエネルギー源である神霊世界の光の行為と、肉体界の行為と
の隔りは、どうにもならない大きな隔りとなっているのであります。
そこで、悟りを得ようとする人は、肉体波動の世界を超越しようとして、滝行をしたり、山へこ
もったり、断食をしたり、不眠行をしたりして、自己の肉体の苦痛を超えることによって、悟りの
68
道を得ようとするのです。
ところが、肉体のそうした錬磨は、小さな悟りには到達しますが、大悟徹底の境地に至ること
は、はなはだ少ないのです。何故それ程の行をしても大悟徹底の道に至らないかといいますと、肉
体を超越するための修業であっても、肉体というものを相手にしての修業は、あくまでも、肉体世
界のあり方であって、神霊世界のあり方ではありません。大悟徹底の境地というのは、肉体界にい
わけいのち
る自分は、神の分生命であり、その分生命はそのまま大神様の生命と一つのものであるということ
を知ったことであり、その箋地の中には神霊の体と、肉体との隔りがもうなくなっている境地なの
です。
悟りとは別な境地
肉体の中に、はっきりと自分の意識がありながら、神霊の体の自分として働いている、そういう
状態が大悟徹底した人の状態なのです。肉体がありながら、肉体の何事にも把われていない、痛け
れば痛いなりに、嬉しければ嬉しいなりに、常人と何の変りもなくその状態を受けとめながら、そ
の想いの中に入ってゆかない、そういう心の状態を真の悟りの人は持っているのです。火の中に入69安
心
立
命
と
い
う
こ
と
に
つ
い
て
っても焼けもせず、どんな肉体の衝撃も痛みにならない、というような人が時折りいますが、それ
は、真の悟りとは別な境地でありまして、そういうことを超える修業をした人達なのであります。
真の悟りを得た人でも、痛みや、苦しみや、悲しみを普通人のように感じる人はたくさんありま
す。しかし、感じた時に、それがすべて、真実のものではなく、仮の姿の消えてゆくためであるこ
とを知っているのです。釈尊でも、阿難に「我が背痛む、背をさすって下され」というように云っ
ておられ、肉体の痛みを、うったえておられます。ですから、そういうことで、真の悟りを云々す
ることはできません。
前記のような、火にも焼かれず、どんな苦痛にも耐えうるというような人は、その道の特別の修
業の結果であり、心が大悟徹底したというのとは、別なことであります。もっとも大悟徹底した心
の状態として、火にも焼かれず、水にも溺れず、いかなる苦痛にも超越できる状態になっている人
もあります。しかし、いつれも一般大衆の行く道としては、むずかしすぎて手がとどきません。で
すから、一般大衆のできうる安心立命の道を、私は私の体験を通して、知らせてゆきたいと思って
いるのです。
要は、肉体身や、肉体身にまつわる把われから脱却することが、悟りそのものでもあり、神との
70
一体化がなされた証左でもあります。普通の人ではとてもできないような、修業方法を通してでな
ければ、大悟に至らないということはありません。白隠のいうように、小悟に小悟を重ねて、その
うちにいつの間にか大悟していた自分に気づくということがあるのです。その一番易しい方法を、
私は消えてゆく姿と世界平和の祈りという方法で、人々に知らせているのです。
悟るということは、それが小さな悟りでありましても、その人を蔽っている業のすき間から、本
心の光が少しく輝いたということでありまして、人間が業生から本来の神の子の姿を現わす一つの
状態なのです。ですから、そういう悟りを、何度か続けているうちに、自分で気づかぬうちに、大
悟の境地に近づいている場合が多いのです。
私の説いている道
私の説いている消えてゆく姿とは、この現象界で自分や自分の周囲に起ってくる悪や不幸は、そ
の人の本心の現われるための、誤った過去からの業想念行為の消えてゆく姿として解釈しています
ので、そうした消えてゆく姿が出てくる度びに、そこに本心が現われて、小さな悟りのような形に
なってゆくのであります。71安
心
立
命
と
い
う
こ
と
に
つ
い
て
人間の身体は、肉体だけではなく、幽体や霊体や神体など、いくつもの体を持っていることは、
いつも申し上げております。そして、肉体に一番近い幽体には、神体霊体のひびきと、肉体界での
過去世からの想念行為が蓄積されています。その意識層を潜在意識といい、奥の深いところの意識
は神霊意識というのです。そして、この意識が基になって、今生の各自の運命が定まっていくので
す。この潜在意識には、自分を損ね、人を傷つけたりする暗い意識のほうが多く溜っており、神霊
意識のほうはなかなか肉体行為として現われにくいのです。そして、この潜在意識は、肉体行為と
して、運命として現われれば消えてゆくのです。ところが、苦痛として、不幸として、いやな運命
として、消えてゆこうとするのを、人間はその想いを把えて、放そうとしないのです。ですから、
折角守護の神霊の力によって、悪いいやな潜在意識を、消し去ってしまおうとする、その邪魔をし
てしまうのです。
そこで私は、すぺては過去世の因縁の消えてゆく姿として、大光明波動の世界から生まれてきた、
世界平和の祈りの中へ、守護の神霊への感謝と共に、投げ入れてしまいなさい、そうすれぽ過去世
からの、いやな業因縁は、大光明の中で消され、世界平和の祈りがもつ、神のみ心そのものの明る
い波が、幽体の中に溜っていくことになり、いつのまにか暗い運命が、明るい運命に変ってゆくこ
72
とになるのです、と説いているのです。これは、大きくは社会国家人類の場合も同じなのです。
一人一人の幽体の波動は、縁ある人の幽体の波動と交流しあい、ついには人類すべての、つまり
幽界波動をプラスにもし、マイナスにもしてゆくのであります。ですから、一人の世界平和の祈り
でも、救世の大光明の明るい波動を幽界に流し込むことになり、人類の運命を左右している幽界の
波動を、明るい浄化したものにしてゆくのであります。
無理がなく、感情をも納得させる
どんなに理論的に考えてよいことであっても、肉体的の習慣の中では、できにくいことがたくさ
んあります。
例えば、人間はすべて平等でなければならぬといっても、努力に努力を重ねて、土地や家屋を自
分の物にした人が、知人が土地や家を持たずにいるということを知って、自分の土地や自分の家
を、その人にただちに分け与えてやるようなことができるでしょうか。それは、よほど広い土地で
も持っていなけれぽ、できることではありません。そこの主人公は自分の知人なので、愛情のあま
りできるかもしれません。しかし、その妻や子供達は、決してそのことに賛同はいたしません。人
73安心立命ということについて
の心とはそういうものです。金銭の場合でも全く同じことがいえます。人々が助け合うということ
でも、片方が物品に余裕があってはじめてできることであって、余裕のない物品を人に分け与える
ということは、容易なことではありません。
宗教的に深い人や、過去世の因縁で、人を助けたい心の深い人は、そういうことも、何気なくで
きているようですが、それは一般大衆の中でも、ほんのわずかな人であって、一般大衆のできるこ
おのずか
とではありません。一般大衆から抜け出た、そういう立派な心の人が多くなれば、この世は、自ら
立派なものになってゆくのですが、事実はこれと全く反対に、人の足を引っばってでも自分の生活
を優位にしたいと思っている人が多いのです。国家や民族同士でも、それと似かよったものです。
そこで私が思っているのは、一般大衆のすべてが、そう意気張らずに、いつのまにか立派な人間に
なっているような、そういう道を作り出すことだったのです。
消えてゆく姿で、世界平和の祈りの道は、そういう易行道なのであります。自分の想いがしたく
ないことを、おさえつけて実行しようと思っても、なかなかできることではありません。自分の想
念をおさえつけずに、自然に、人類愛の想いに変えてゆくというのが、世界平和の祈りであり、安
心立命への道なのであります。
74
感情を無理におさえるのではなく、自然と順応してゆくそういう道が、世界平和の祈りの道なの
です。浄土門の信者達が、何気なく念仏を唱えていると同じように、何気なく世界平和の祈りが、
心の中に浮び、口をついて出てくるようになっている人が、私達の仲間にはかなりいますが、その
人達は世界平和の祈りを知らなかった昔とくらべると、まるでその柔和さが違い、明るい雰囲気が
身心からあふれでています。たゆまざる世界平和の祈りの生活をしているうちに、いつの間にかそ
の人の幽体は神々に浄められ、いつの間にか高い人格が形成されていたのであります。
悟りをひらくのも、安心立命の道に入るのも、こうした日常生活の祈りの行が、年月を経るうち
に、その望みをとげさせていてくれるのです。
理論の中に安心立命の道はない
宗教の道には、理屈はいらないのです。深い理論があっても、それさえも捨てて、単純素朴な行
を実行してゆくことが必要なのです。法然や親鸞のように、学問智識の深い人が、あの単純な唱名
念仏一本の道に入っていったのですから、現代の知識人も一度は理論を捨てて、祈りの行の中に身
を投げ入れてみるとよいのです。安心立命の道は、この世的に生まれた理論の中には決してありま75安
心
立
命
と
い
う
こ
と
に
つ
い
て
せん。この世的の自分ということを、絶対愛なる神のみ心になげ入れた時に、はじめて開かれるの
です。
ただ、絶対の神といっても、頭ではわかっても、感情的に一つにあることがむずかしいので、私
はその間に守護神、守護霊という救済の神霊の存在を人々に教えているのであります。守護霊と
は、守護神のみ力によって、悟りを開かせてもらった各祖先の霊であり、守護神とは、人類の一人
一人を救うために、大神様から派遣されている神なのですから、守護神、守護霊に加護を頼むこと
は、神霊世界の、おちいちゃんおばあちゃん、私を救って下さいと願うのと同じことなのです。私
どもは常にそうした守護の神霊の加護に感謝し、世界平和の祈りの行によって、絶対者なる神との
一体化をはかっているのであります。
人間はどうしても、自分の感情が納得しないと、その道を進むことができないようにできていま
す。そこで宗教の道でも、自己の感情を納得させながら、進んでゆかねば、一つところで止まって
しまって、なかなかその奥に入ってゆくことができないのです。
私の推し進めている、守護の神霊の加護を主として、絶対神と一つになってゆくという方法は、
人間の感情が自然と納得できる方法でありまして、祖先の悟った霊の加護という当然のことを、改
76
めて、想いみて祈るのですから、易しい方法といえるのです。
日常生活をそのまま損わず、自然の成り行きのようにして宗教の道に入り、世界平和の祈りとい
う、人類愛の祈りにまで、自己の想いを高めてゆく、ということは、悟り悟りと悟りの道を求める
ために、家庭や周囲の者たちと異なった方向にむかっていってしまう、昔ながらの出家的姿、世捨
人的姿と違って、この世の生活がうまくゆくようにもなってゆくのです。
守護の神霊へのたえまなき感謝と、消えてゆく姿で世界平和の祈り、という私たちの道は、この
世の日常生活をそのままに、社会人として、人々との調和を計りながら、宗教の奥の院に入ってゆ
ける道であり、自然に悟った心になり、安心立命の道を自ずと歩いているということになっている
のであります。
人間の表面の想い、顕在意識が祈り心一念になり、光明一念となって、幽体に蓄積されている潜
在意識と、全く一つにつながって、しかも潜在意識もすでに、神霊の世界のひびきをそのまま受け
て、光明化しているとするならば、その人は神我一体というべき人でありまして、その人の身心か
らは自ずと光明が放たれているのであります。そういう人に、いつの問になってしまう道、その道
を私たちは望み、そして進んでいるのであります。77安
心
立
命
と
い
う
こ
と
に
つ
い
て
78
真理の愛を行ずる生き方
知性的と本能的
人間の生き方には、知性的な生き方と、本能的な生き方とがあります。知性が本能をコソトロー
ルしながら行動してゆけぽ、その人間の生き方は秀れた立派な生き方になりますが、知性が本能に
曇らされて、その人の行動がなされているようですと、その人の生き方はあまり立派な生き方とは
言えなくなると思います。
何故かと申しますと、知性は神のみ心の真理そのままの心のあらわれでありますし、本能という
のは、食欲、性欲、物質欲で代表されているように、肉体界の生活にかたよっているので、真理の
心に照らし合せて、制御してゆかなければ、争いや不調和が常に絶えることがない世の中となって
しまいます。そこで真理の心そのものである知性で、この本能を調和させてゆくことが必要になっ
てくるのです。・現在までの地球世界は、知性が本能を制御しきれずにいる不調和な時代となってい
るのです。
大神様のみ心は、完全調和なみ心なのですが、多くの分れとなり、広い範囲で働かれているの
で、現れの世界においては時間や場の面において、分れ分れの力となって現わされてゆきます。で
すから、すべての力が完全に現われてくるまでは、不調和不完全な姿をそこに現わしてゆくわけで
す。そして、長い間にそうした生き方が肉体界においては習慣性になってしまっていまして、知性
の制御もなかなか思うようにゆかなくなってきているのであります。
愛ということにしても、真理そのものの愛と、本能的な愛とがありまして、知性的な愛は、本能
的な愛に比ぺて、行ずるのにこの世的な抵抗が多かったり、物質面や社会機構の面において行ない
にくかったりして、本能の愛のように自然な形では行なえないのです。
母親の愛を例にとってみましても、その子の将来を考えずに、湧き上がってくる本能的な愛情だ
けで、子供に接するのは楽ですが、子供の将来のためを思っていろいろと知性的に教育しようと思79真
理
の
愛
を
行
ず
る
生
き
方
いながら愛するのは、むずかしいことです。これが国際間の愛の問題になったりすると、実にむず
かしくなってまいりまして、国や民族を愛する本能はどうしてもその自分勝手な利己主義的な行為
に、国や民族を引っばってゆきます。しかし、知性的な愛は国や民族というものより根本に、地球
人類全体の運命ということに思いをいたします。そこで、自国や自民族の利害得失より先に、地球
人類全体のための働きを中心にして、行動してゆくことになりますが、この知性的な愛の行為は、
なかなか行ないにくくて、核実験をしてはいけない、と他国には言いながら、自国は陰で実験を続
けてゆくような大国があります。この大国たちは、真理の愛より本能的な自己愛のほうが強いとい
うことになるのです。自己愛のほうが強くて、その行為をすれば地球の滅亡のほうに一歩も二歩も
進んでしまうということは、頭で判っていながら、自国を守ろうという意識から、ますます核爆弾
を強力にしていったり、軍備を拡張していったりするのであります。
それらの大国は、小国同士の対抗の様子をみると、お互いの側にひそかに武器を送って力づけて
やりながら、口先きでは平和を説いているのですから、どうにもなりません。
80
頭をきりかえる
それほどにこの物質世界である地球における自国の地位を守ろうとすると、自己愛が真理の愛を
離れていってしまうのです。一体こうした世界において、真理の愛を行ずる知性的生き方をするの
にはどうしたらよいのでありましょうか。国という大きな集団になりますと、今のところどうにも
なりませんから、先ず手はじめに個人から、その行為をしてゆくより仕方がありません。
物質科学の発展は、玉石混交でありますが、核爆弾が生まれ出てからは、もう玉は石に砕かれて
しまう状態で、物質を超えて永遠の生命につながる、大調和科学が生まれ出なければ、地球の運命
は終りになってしまう公算が大きいのです。
そうした科学は現在のような物質科学的頭では生まれでてはきません。どうしても一度頭を切り
かえて、全く違った道を通ることにしてみたらよいのです。
それには人類は今日までの物質に片寄った考えを捨てて、永遠の生命である、神のみ心の中から
すべてを頂き直す心にならなければ駄目なのです。自分たちの頭だけで何んとかなるとか、今日ま
での学問をつき進めてゆけば、人類の運命は更に開けてゆく、というような思い上がった考えでは
いけません。今日までの学問を進めてゆけぽ、玉もいくつか生まれるでしょうが、それと同じよう
に石がたくさんでてきまして、生まれてきた玉は、人類諸共砕かれていってしまうのです。だから81真
理
の
愛
を
行
ず
る
生
き
方
といって、長い間の習慣の生き方を急に転向して、神のみ心一辺倒というわけにはゆきません。
こがどうにも困りものなのですが、その間を補って祈りというものがあるのです。
そ82
祈りとは神との一体化の道
祈りは自己の本心を、神を想うことによって表面に表わして貰う行事なのです。神と人間との一
体化の道を誰にでもできるようにすることが祈りなのです。
宗教者によっては、祈りと願い事、それに念力などみな一つにして教えている人もありますが、
願い事はまあよいと致しまして、念力は、宗教の道ではありません。祈りとは全く違った道なので
す。釈尊の頃でも、バラモソの人たちが、しきりに念力争いをしていまして、真の宗教から道を外
くニフ
してしまっていましたので、釈尊は空の行を説かれ、念力が宗教の道でないことを人々に示された
のであります。
先日の高校野球で、或る宗教団体の学校で、催眠術を選手たちに行なって出場させるということ
を、テレビで放送していました。自己催眠で、打てる打てる打てる、というように自分の心に暗示
したり、必ずストライクだと自己暗示をかけたりして、試合に向かうということでした。そして、
当日その学校は試合に負けてしまいました。
早く試合に負けたからよいものの、そんな方法で試合に勝っていたら、宗教精神からだんだん離
れていって、相手より優位に立つことや、自分の都合のよいように、世の中を動かすという方向に
想いがむけられてしまって、人間にとって最も大事である、精進努力という当然のことがおろそか
にされがちになってしまいます。何もその学校がそうなるというのではなく、催眠術のような念力
的生き方は、遂いには念力競争になってしまって、昔のような、宗教の争いが起ってしまいます。
宗教というのは祈り心によって神との一体化がなされるものでありまして、念力とは業想念の働
きであります。善いことにもいざという時には念力を使うことがあるかも知れませんが、その時に
は念力というより祈り心のほうが強く大きく働きますので、神のみ心が念力のような形でそこに力
を現わすことになるのです。
肉体の世界は相対的な世界なので、どうしても念力のように自己の力で、相手に打ち勝ちたいと
思ってしまいますが、それでは戦争が絶えなかった昔の生き方と同じでありまして、いつかは核爆
弾を使うことになってしまいます。
宗教の生き方はあく迄、神様に全託するという方向に向ってゆくことで、その生き方が大調和精83真
理
の
愛
を
行
ず
る
生
き
方
神に通じるのであります。ですから、今日までの生き方はそのままにしておいて、瞬々刻々世界平
和の祈りをつづけてゆきますと、知らないうちに、今日までの生き方に変化が起り出しまして、今
まで、何んでも、自分本位に生きていたものが、何んとはなく他の人の事を考えて、自己の行為を
するようになって来たりするようになるのです。
それが世界平和の祈りの効果です。世界平和の祈りはどうしても世界中に拡がってゆかねばなら
ないので、そういう努力を私共がしなければいけないのです。イソドやアセアソ諸国は、日本の本
うかが
心を窺いながらも、日本の力を頼りにしています。昔のように日本が武力を持ちはしないかと恐れ
ながら、日本の力を借りたいと思っているのです。
84
日本は平和一筋の国であることを知らせよう
そこで日本はあくまで平和一筋の国であることを、それらの国々に徹底して知らせなけれぽ駄目
なのです。日本はどんなことがあっても、武力をもって起つことはない、世界平和をつくりあげる
ことに専念している国である、ということを、政府にばかりまかせておかないで、私共民間人が手
をつなぎ協力して、世界中に知らせてゆくことにするのです。私共はもう二十数年前からその運動
一筋に突き進んでいるのであります。
世界人類が平和でありますように、心の底からそのことを思いつめて、祈りにまで高めあげたの
ですから、神々のほうはその心を光明と受けとめて、神々が結集された大光明として、私共を通し
て世界中に光明を振りまいているのです。
そして、私共と神々との中に立って、何かと援助してくれているのが、祖先の悟った霊である守
護霊さんと、祖先を悟らせて守護霊として下さった守護神様とであります。今日では宇宙の星々の
代表である宇宙天使がその強力な力を地球人類の上に投げかけてきているのでありまして、神々と
人類との協力によって、地球の滅亡を防こうとしているのであります。
そのことは私たちが直接接触しているのでよく判っているのです。そのことをどうぞ信じて下さ
さなぎ
い。肉体人間だけの知恵や知識ではもうどうにもならないことは判りきったことなのですから。蝸
さなぎ
から蝶になるように、人類は未だ蝋でこれから蝶になって、自由に空中を飛び廻ることができるよ
うになるのです。それをもうすっかり蝶になりきっているつもりで、空中を自由に飛ぼうとするの
で、うまくゆくわけがないのです。肉体人間が自由自在な蝶になるためには、守護の神霊の援助が
なくてはならぬのです。そして、その守護の神霊は救世の大光明として働かれる神々や、宇宙天使85真
理
の
愛
を
行
ず
る
生
き
方
と連絡し合って、その人々を救い同時に人類のためにも有益な働きをさせるのであります。
日本が平和に徹した国であることを、世界中に認識させることは、日本の天命達成のために大事
なことでありまして、そのために、世界平和の祈りの宣布が必要なのです。私共はアメリカをはじ
め、世界中に祈りのポスターやリーフレットを配って、日本の心を知らせているのであります。多
くの日本人がこの真意を知って、積極的に祈りにょる世界平和運動をやって下さったら、日本の心
が世界中に知れ渡る期間が、早まると思います。そういう日本の平和の心が判ると、アジア諸国が
安心して日本に協力し、世界平和運動を自信をもってはじめると思います。そういう先がけに、日
本を一日も早くさせたいものであります。
86
心素直に神のみ心を考えよ
幸に、今の政治家たちは、世論には弱いので、世界平和運動が日本中に広まり、アジアや欧米に
まで広まっていると思えぽ、自分たちも真剣によそ見をせずに、平和に向う政治を行なってゆくと
思います。国民大衆は、ただいたずらに政府や役人を責めたてていないで、具体的な平和運動をし
てゆくことが大切です。平和運動には、一切敵をもってはなりません。政府や与党が敵であった
り、自由諸国が敵であったり、社会主義国が敵であったりするのでは駄目なのです。すぺてが敵の
ように見える時があっても、世界平和の祈りの大光明に照らされれば、やがては、その敵はいなく
なってしまうのであります。
心素直に神のみ心を考えてみて下さい。自分の生んだ子供である人間たちを、苦しみ悩ませ争わ
せて、喜んでいるはずはありません。みんなが生命における兄弟姉妹として、仲よく、手を取り合っ
て、神のみ心をこの地球世界に現わしたい、と思っておられるのに違いありません。もういたずら
に自我を出さず、幼な児が母親を慕うような気持で、世界人類の平和を祈り続ければよいのです。
祈りのひびきは、神の愛の心と一つになって、世界中にひびき渡ってゆきます。それが一人より
二人、二人より三人と人数が多いほど、そのひびきは力強く増大されてゆくわけです。戦争の起り
そうな波も、天変地変のきざしも、この神の愛のひびきによって、調整されているのです。この祈
りを続けながら、実際面の政治行政や、科学の発展の上に力を注いでゆくことが大事なのです。そ
うすれば、科学の面においては、大調和科学の道が開けてきますし、国際間の政治の面において
も、正直な現われ方で、平和の道が開けてゆくに違いありません。
兎にも角にも、この道を実行し続けてゆくことを私たちは天命として信じているのです。人間87真
理
の
愛
を
行
ず
る
生
き
方
は、あまり小智才覚をふりまわすより、素直に天の声に従って、生きてゆくことが大事なのです。
天の声を聞くためには、祈り心が必要なのです。
素直と言えば、またこの間の高校野球の話に戻りますが、或る高校の一年生のピッチャーが、思
いもかけず素晴しい出来で決勝まで進出したのであります。決勝で惜しくも監督のミス指導で、負
けてしまいましたが、この一年生の立派な成績は、素直に監督やキャッチャーの指導のままに、私
心をすべて捨てて、投げぬいていたところにあったと、後で当人や監督が話していましたが、さも
あらんと、私もうなずいたのであります。その反対が、優秀投手と称されていた或る高校の三年生
のピッチャーが、監督やキャッチャーが相手が強打者だし、長打を打たれるといけないから、四球
を出せ、とサインしていたのに、自分の腕を過信してそのサインに首をふり、よい球を送ってホー
ムランを打たれ、負けてしまったケースもありました。一年生ピッチャーは、その素直さが自分を
生かし、三年生ピッチャーは、自己への過信がチームを敗北におしやってしまったのでした。
自信をもつことは、勿論よいことですが、それが過信になって、周囲との和を欠くようになって
はいけません。やはり、素直に先輩や周囲の声を聞いて、その中から今度は自信をもって、自分の
行いをしてゆけばよいのです。それが宗教信仰の立場からすれば、祈り心の中から素直に行為して
ゆくということになるわけで、祈りの奥には神のみ心があるわけです。
信念と念力
よく信念と念力を一つのものとして使っていますが、信念は信ずる想いということで、想いの上
に何か神なら神という、仕事なら仕事という、信ずるものがあって、その信が想い(念)として強
く働くのでありますが、念力とは、そういう神や仕事への信を別にして、精神集中のように想いの
そこ
力を強めるのであります。信念の力は、己れに利益しても、他を損なうものではありませんが、念
力は、兎角対抗的になりまして、お互いを損ない合うようになることが多いのです。念力でも相手
を損なわない場合はよいですけれど、念力集中が習慣になってきますと、つい何かと念力を使っ
て、自己を有利にしようとし、相手を自分の想いで引き廻してしまいそうです。
ですから、宗教的な人は祈りの中から何事も行じるようにして、特別に念力を使わぬほうがよい
のです。要は、自分や自己の周囲がよければ、他はどうなってもよい、という想いではなく、自分
が良くあると同時に、他も良くあってほしい、という行き方に多くの人がなってくれることが望ま
しいのです。自分たちのことはどうなっても、他のものが良けれぽよいという心境になるのは大変
89真理の愛を行ずる生き方
ですから、そういう想いは、世界平和の祈りの中に入れておくとよいと思います。
90
守護霊さんのお働き
ここで一寸、祈りの中で守護霊さんはどういう風に働いておられるかということを、説明してみ
ましょう。
守護霊さんは、守っている肉体人間とは、かつては血縁のあった霊なので、お互いの交流がしや
すくなっています。普通の場合は、肉体人間のほうからは交流してこないので、もっぼら、守護霊
さんのほうから瞬時の隙なく、被守護体を守りつづけているので、それは大変なことなのです。し
かし、世界平和の祈りを知って、守護霊さんへの感謝をささげている人は真に守りやすいのです。
守護霊さんにとっては、守っている肉体人間の今後の運命がはっきり判っていますので、その運命
が少しでも良いほうに向かうように、常に波動を調整しているわけです。
例えば、その日予定の飛行機に乗ったら、死傷ざたが起こる運命に守っている肉体人間があると
いう場合、これを正すために、急に病気にしたりして、その日の旅行を取り止めざるを得ないよう
にして、その惨事を救ったり、その人の運命のために、会っては悪い人間に会わねばならぬ、とい
う時、もっと重要な事柄が起って、旅行にたたねぽならぬようにしたりして会わせなかったり、い
ろいろの方法で、その人の苦難の道を防いでやっているのです。
守護霊さんは、肉体人間の両親や祖父母と違って、守っている子孫の心の中の運命からすべてが
判っているので、実にたよりになる存在なのです。ですから、肉体人間のほうでは常に常に守護霊
さんへの感謝をつづけ、ますます守りやすいようにしてゆかなければならないのです。守護霊さん
は、自分の力の及ばぬ時は、守護神さんに援助を求めて、あくまで守っている子孫を立派にしてゆ
こうとしているのです。
守っている子孫が大きな苦しみにあっているような場合でも、それがその子孫の魂をより立派に
するものであれば、じっとそれを見守っています。そしていざとなれば、一挙に救ってしまう場合
もあります。
何はともあれ、大神様は地球人間を立派にしようとして、神々に援助の手を差しのべさせている
のでありますから、人間側は、それを信じて、世界平和の祈りと、神々への感謝を行じつづけてい
たらよいのです。
私たちは、それを実行し、そのことが真実であることを、はっきりと知っているのです。地球は91真
理
の
愛
を
行
ず
る
生
き
方
今や、たんなる地球ではありません。大宇宙の中の一つの世界としての地球であって、これから
は、多くの星々と手を取り合って、大宇宙の大調和のために、働いてゆくことになるのです。そ
のために、世界平和の祈りは、大事な祈りでありまして、一人でも多くの実行者を得たいと思い
ます。
もう過去のような宗教のあり方ではなく、個人人類同時成道の宗教の時代になってきているので
あります。宗教と科学が十字交叉して、地球世界の完成へと進んでゆくことになるのであります。
92
神への全託の他に道はない
人間は幅広い生命体
人間というものは、物質波動と精神波動とによって、自己の運命をつくってゆく生命体である、
ということは、私が常に申していることであります。
精神も物質も波動であることは一寸考えれば判ることですが、一般の人たちは、そんなことは考
えたこともなく、人間とは肉体身である、と思いこんでいるのです。しかし、人間とは肉体身であ
る、という考えだけでは、もう生きつ竺けてゆけない時代に今はなってきているのであります。
米ソの権力争いも、肉体身の集団の国家と国家との権力争いでありまして、相手国の人間を殺し93神
へ
の
全
託
の
他
に
道
は
な
い
てでも、自国の権力を拡張したいと思っているのでありまして、米ソともに直接相手国に向って戦
争をしかけてゆくには、自国のほうが絶対に生き残って、相手国を壊滅させる、という自信がない
ので、ソ連など、小さな武力の弱い、アフガニスタンなどに攻めこんで、その国の人々を容赦なく
殺して、米国に対抗する立場をよくしようとしています。次には何処の国がソ連の…犠牲になるかわ
かりません。
ふる
そのようにソ連にとって、肉体身の集団である自国の権力を揮う為の領土を次々とひろげてゆこ
カくさく
うとしているのです。それに対抗して米国も小国を一国でも多く自国の権力下に置こうとして画策
おもわく
しているのでありますが、ソ連のように周囲の国々の思惑など気にせず、チャソスをつかんではす
ぐ侵略してゆくようなことはできず、ついソ連に一歩先んぜられています。
しかし両国共に、肉体身の集団である国家という、その国家の権力を拡大しようとしての運動で
あることは間違いありません。
彼らにも精神の重大さは判っているのですが、この精神も肉体身の中から生まれてくるものであ
って、肉体身より高度の階層からくる精神波動ということは判らないのです。ですから、精神力を
つかって相手に対抗するにしても、常に肉体人間の立場を優位にする為のものであって、その為に
94
は、地球の運命や、宇宙の運命などは、
働きになっているのであります。
忘れられてしまったり、後のこととして、肉体人間本位の
自己の宇宙観を考え直そう
ところが、肉体人間の立場だけの働きでは、どうしても相対的になって、お互いに物質的な優劣
を競い合うことになり、果ては戦争になっても仕方がないと自国を優位にしてゆくほうに走ってし
まうのであります。
この世が相対的にしかみられぬ立場では、物質や領土が限られたものであるのですから、武力の
強いものがその物質を多く自国のものとして、武力の弱いものは、物質的不自由な立場にいつも立
たされてしまうのであります。現在は米ソの二大国が、お互いに小国を抑えつけて、お互いの権力
拡張の為に武力を磨いているわけなのです。このままでは人類の運命は滅亡に向かってゆくより仕
方がありません。
そこでもうこ玉までくると、すべての人が自己の宇宙観を変えてゆかねぽ一歩も前に進めないよ
うな人類の運命になってきてしまっていますので、地球人類の危機を憂う人から先ず自己の宇宙観95神
へ
の
全
託
の
他
に
道
は
な
い
をじっくり考えてみるといいのです。
96
物質も精神も波動
精神は目に見えずに伝わるものですから、波の動きであることは考えなくとも判ります。しか
し、物質が波動である、ということは、一般の人には一寸考え及ばないのかも知れません。だが一
般の人々は、科学的というと、すぐに信ずるくせをもっています。物質が波動である、ということ
も科学的にもそうなのであります。
前にも度々述べておりますが、肉体は細胞組織でできております。その細胞は、原子というもの
から成り立っております。そして原子は、原子核と、電子によってできています。原子核は素粒子
と呼ぽれる粒子によってできております。粒子の元は波動となり、波動が粒子となり、粒子がまた
波動になったりしておりますが、究極は波動ということになります。私共の宇宙子科学では、この
波動を宇宙子と呼び、すべての素粒子の動きの元になっているのであります。
地球科学では、現在のところ原子核から、素粒子というところまでで、その奥の発見はまだなさ
れておりませんので、宇宙心の働きを知ることができません。ですから地球科学の分野は素粒子ま
でで、その奥のことは宗教的な祈りによる直感力に頼るより仕方のないことになっております。
大直感力を自分のものにする
そこで私は、宇宙子科学のことは後の話にして、地球科学で人類の文明文化が、今日のような発
展を遂げた、人類の素晴しい智恵に感嘆しながらも、未だ地球科学でわからないその奥の事柄、つ
まり人類の生命のことや、その生命の根源のことなどは、宗教的祈りによる、直感、直感というよ
り、生命の根源との接触による大智慧、大能力の発現という、今日までは偉大なる聖者の他にはさ
ずからなかった力を、自己のものとすることを、多くの人々ができ得る方法を、私は説きつづけて
いるのであります。
その為には、科学者をも含めたすべての人々が、真実の祈りということを知るように努力しなけ
ればならないので、今日までは祈りのことや宗教のことが半ば誤り知られていたので、宗教とい
わら
い、祈りというと、知識階級の人々は、ふんと鼻の先で啖って、心を向けようとはしなかった向き
わら
が多かったのですが、その人たちが鼻の先で唆った宗教というのは、自分たちだけが幸福でありま
すようにと、自分自身で考えればすぐにも判るようなことでも、神様神様と呼び、すべて願いごと97神
へ
の
全
託
の
他
に
道
は
な
い
の祈りをして、自己の智慧や知識を働かせようとはしなかった、
をみていたからなのであります。
安易な生き方の人々の宗教や祈り98
真実の祈りの力を信ずる
唯物的インテリや唯物的科学者は、意志も智慧も知識も想念も、みな肉体身の中からでてくるの
であって、肉体身の奥の神霊の中に、その源があるなどということは考えてもみません。
ですから、肉体にある意志や智慧や知識や想念に自己の運命を託しているので、肉体身の他の力
に依存している神詣での人々を智慧のない人として低くみてしまうのであります。しかし智慧や知
識の豊かな科学者の現在ゆきついている先は、原子電子の発見であり、その力は政治家によって殺
人兵器として、人類すべてをおびやかしているのです。科学者にはこうした殺人兵器核兵器を使用
できぬようにする方法がないのです。
肉体人間の智慧で発見され、出来上がったものが、地球人類の運命を滅亡のほうに追いこもうと
さいきん
しているのであります。これは核兵器ばかりでなく、細菌や毒ガスなどによる殺人兵器もできてい
るのです。
こうなると、科学の発展が人類の運命を善くしてきたのか、悪くしてきたのか判らなくなってし
ていそく
まい、真実の宗教でなくとも、御利益信仰の低俗な人たちのほうが無難であるともいえそうです。
だが今日までの各国の軍備が凄いものになってきますと、唯物的科学者の智慧や知識でも、低俗な
無難な人たちの生き方でも、どうにもならない地球の運命になってきているわけで、すべての人々
が今日までの宇宙観、人生観を変えて、真実の宗教、祈りの力を信ずるようにならなければいけな
いのです。
人類の善なる意志力
肉体の中に想念や感情があったのでは、その想念や感情が悪いものであっても消しようがありま
せん。自国に対抗するものは皆殺しにしてでも自国の権力を拡大しようなどと思う国が増えたら、
すぐにでも核戦争になってしまいます。しかし、悪い想念感情も善意の意志の力で、その爆発をふ
せがれているのであります。その人類の意志というものは果してどこにあるのでありましょうか。
意志は肉体の中にあるのではありません。肉体が生まれる以前の霊波動、神のみ心の中にあって、
人間に分けられているのであります。99神
へ
の
全
託
の
他
に
道
は
な
い
神の意志はあらゆる自然や生物を調和の状態において、宇宙に神の大絵巻を完成させたいのであ
り、み心においてはもうすでに完成されているのであります。その神の意志の分れとして人間生命
は、人類という形において、あらゆる宇宙に神のみ心の完成の為に働きつづけているのであり、地
球人類もその一つの集団として働いているのであります。
あら
人類の意志力は、人類が神霊波動の世界から肉体波動の世界に波動を粗くして、いわゆる物質地
球に合わせた、物質的肉体として、働くようになって、光明波動であるべき心の働きが、地球の物
質界の波の中で生活する、一個一個の相対人間として働くようになった為、微妙な光明波動と、粗
雑な物質波動との混交した波動になって、現在の想念感情となって、人間界の運命をつくってゆく
主なる波動となってしまったのであります。
そして、その想念感情によって国際関係に争いが生じ、いろいろの戦争が生じ、今日では地球滅
亡に直結する核戦争の危機の時になってきたのです。しかし神に直結している意志の力が、戦争を
抑え、争いを止めていたのであります。人間は常に意志の力と感情の波との戦いをつづけているの
でありまして、意志の力が弱まれば、人間は感情想念のままに振りまわされて、ごとごとに人々が
対立抗争し、自我欲望で地球の波が汚れきってしまうのです。
100
人類の意志力と祈り
だが神に直結している意志力の強い人々がいて、誤って働く感情想念の波動を抑えて、国家社会
の危機を防いでいるのであります。私はこの意志力を祈りのほうにつかって、世界平和の祈りが、
神そのものの祈りであることを、人間の一人一人の心にはっきり意識させてゆきたい、と思ったの
です。
人間の肉体が窮極は波動であり、精神も波動である、そしてその波動の元は宇宙子科学でいえば
宇宙子であり、宇宙子核であり、その本源は宇宙心ということになっているのでありまして、宇宙
心、つまり神のみ心のままに宇宙子が働いているのにもかかわらず、電子、原子、分子とその働き
が大まかになり肉体身としての人間ということになってきますと、先程から申しておりますよう
に、善悪混交の世界をつくりあげてしまうのであります。
そこで、すべての人々が一度、自己の生命の元である神様のほうに、はっきり想いをむけて、自
己の本質を知るようにならなければ、この世界の物質波動も精神波動も汚れたままになってしまい
ます。ここに祈りの必要性が生まれてくるのであります。祈りとはお願いごとというより、自己の101神
へ
の
全
託
の
他
に
道
は
な
い
生命を充分に働かせる為の方法で、自己の感情想念にも、他からの想念にもわずらわされぬ、生命醜
そのままの働きを、この世において実行できるような人間になってゆく為のものなのです。
祈りとは
祈りとは神様のみ心とぴたり一つになることでもあるのですから、神様のみ心の他の何事何もの
にわずらわされぬようにすることなのです。しかしこの世ではいろいろの出来事がありまして、自
他の想念感情が常にぶつかり合って、生命をまっすぐに生かすことはできにくいのです。そこで私
は、そういう生命の働きを妨げる感情想念やそれによって現われてくる不幸や災難を、すべて過去
世から今日に至る因縁の消えてゆく姿として、祈り心と共に守護の神霊のみ心の中で消して頂いて
しまおう、といっておるのであります。
守護霊様、守護神様ありがとうございます、という守護の神霊への感謝の心は、人間の心の録音
盤にキャッチされますので、過去世から吹きこまれていた業想念の波はその度びごとに消されて、
やがては、世界平和の祈りの心だけが人間の録音盤の中に残り、生命そのままの明るい美しい心だ
けの生活ができるようになるのです。
神様のみ心というのは、愛であり、調和であり、美であり、善であります。そしてこういう神様
のみ心が、常に人類に実現するようにと働きかけておられるのであります。その要約したものが、
世界平和の祈りに直結するわけで、世界平和の祈りを祈る、人間の人類愛の心がそのまま、神のみ
と
心に融けこんでゆくのです。
そして、その人類愛の心は、過去世からの誤り、汚れた業想念波動を、神の大光明の中に投入し
て、その光明で消滅して頂いているのであります。ですから、普通の今日までの世界観では、人類
のが
が善悪混交の業の中から遁れることもできず、弱肉強食の生き方を正すこともできずにいたもの
が、消えてゆく姿で、世界平和の祈りという、神様への直結の道がひらかれて、神のみ心が人間世
界にまともに直接現わされてゆくことができるようになるのです。
神の代理者としての人間
人間がもっともっと真剣に考えなければならないことは、人間が神の子であるということです。
神は生きとし生けるもの、すべての生命の本源であり、神のみ心によらずに生存しているものはな
いのちせいしん
いのです。まして人間という存在は神の分け生命でありまして、神の代理として、各星辰を治めて103神
へ
の
全
託
の
他
に
道
は
な
い
いるのであり、地球人類は、地球に神のみ心を現わそうとして生きているのであります。
このことはもう何千べん、何万べんしゃべったかわかりませんが、この大事な大事なことをおろ
そかにして世界をよくしようなどといっても、とても無理なことなのです。
神の生命、神のみ心なくして、どうして人類の生存がありましょうか、そこのところをよくよく
考えつづけることです。
各国の政治家たちは、その真理を考える余裕を心にもっていないのです。目前に繰りかえされる、
現象的損得にふりまわされて、そんなことをしていたら、ますます神のみ心を離れてしまい、やが
てはすべてが滅亡してしまうなどと考えられないで、その場、その時々の政策をとっているのです。
そこで、私たち民間の心ある者たちが、先ず神のみ心に全面的に入ってゆき、神のみ心を自分た
ちの歩みとし、働きとして、その時々の現象の姿に把われず、もし把われたら把われた想いをもっ
たまま、世界平和の祈りの中に入ってしまい、世界平和の祈りから自然と生まれてくる、その日芳
の時の行動をよしとして歩んでゆくのであります。
一つの例をとって、人間が軍備を増強したほうがよいのか、今のままでよいのか、または軍備け
全くないほうがよいのか、といろいろと考えさせられます。軍備を全く持たぬほうがよい、といぢ
104
ことは、今のように自衛隊がしっかりできている時には、もうできない相談です。では今のままの
ような自衛の軍備でよいのか、または軍備をできる限り増強したほうがよいのか。
今のままぐらいの軍備にしておいたほうが、ソ連の反感をあおらないで、平和的である、と考え
る人たちの心もわからぬではないのですが、ソ連は他国の弱みにつけこんでは、その国を侵略して
くる。それは東欧諸国やアフガニスタソでの現在の侵略で、よくわかる、だから日本もソ連に弱味
をみせぬように、出来る限りの軍備をして、おくことがよい、ということもよくわかります。しか
し、両方ともにその時にならなければ真実のことはわかりません。その真実を知っているのは、神
々だけであります。
そこで私は、徹頭徹尾、世界平和の祈り心で、神との一体化をはかり、神々の援助のもとに、日
本の歩みを進め、世界の平和に貢献してゆくことに、多くの人々の同意を得たいと働いているので
あります。
神は愛であることを信じて下さい。
105神への全託の他に道はない
106
自らを信ぜよ
自信・過信・確信
自信をもってこの世を生きている人は幸せですし、たいしたものだと思います。しかし自信をも
ってこの世を生ききっている人は、なかなか見当りません。音楽家などで、十代位いで大人をぬき
出て、第一線で活躍している人がおりますが、これらの天才は確かに自信をもって、その音楽の道
を突き進んでゆくとよいと思います。
自信だと自分では思っていますが、実は他から見ると、過信であったりすることが随分とありま
す。自信でなく過信であったりすると、いつかはその信は崩れて不幸をまねいてゆきます。
事業をやっている人たちでも、時の機運にのって、その事業が成功し、一躍実業家といわれる仲
間に入ってゆきますと、騰貯自信のようなものが湧いてきて、何をやっても成功するような気にな
ります。
実業家というのは、先の見通しのきく目と、直感力と決断に対する勇気等を持っていないと、大
成はいたしません。そういうところからくる自信と、たまたま気運にのっての成功による自信とで
は、まるで違います。そういうところが、当人にもわからないところなのでしょう。
その人その人によって、そなわった道があるのですから、その道に乗っている人は、自ずから自
ぎようこう
信が湧いてくるということがあるのですが、そなわっていない道でたまたまの僥倖でその時成功し
ても大成致しません。芸術の道などにはそういうことが多いようですが、事業の道でもそういうこ
とがあるので、自己を過信しないで、適当なところで事業をひきしめてゆく必要があるのです。私
などは若い頃から何の才能も特徴もあるわけでない、平凡な善良だけが取得の人間だったのです
が、只一つ、自分がこの世に生まれてきたことは、何か神様のおぼしめしがあったことなのだろう
から、何かはやらせて下さるに違いない、だから、現われてきた事柄や環境で一生懸命やっていさ
えすればよいのだ、と何にでも力をつくしてやってきました。何も特別に自分は何になるのだ、と107自
ら
を
信
ぜ
よ
いうような信念はなかったのですが、終戦になると、にわかに心の底からこれから本当の自分の働
きができるのだ、という自信のようなものが強く湧いてきて、次第に宗教の道に入ってしまったの
であります。
ですから、私の場合、自分の才能というものへの自信はないのに、神様が何かに使って下さると
いう確信が自然と湧いてきたのであります。いいかえれば、なまじっかの才能がなかったことが、
かえって幸いして、神への全託の道に私の心を集中させてゆく、ということになったのでしょう。
108
目立たない才能
世の中には、自分の才能に対する自信をもっている人もありましょうが、自分の才能に自信のな
い人のほうがより多いと思います。しかし皆さん心配なさることはないのです。才能があるとかな
いとかは、自分で勝手に思っていることでありまして、たまたま早くから何かの技術や技能や芸術
の面で、その才能が現われた人が、世間からもてはやされることになるのでありますが、人に目だ
たずにその才能が次第に現われてきている人も随分とあるのです。
幼児で昇天してしまう人は別として、ある程度以上成育をしてゆく人たちは、誰でも何かしらの
才能をもっているのです。ただそれを自分で知らないだけなのです。才能というと、人に目だつも
のばかりと思っておりますが、人にも自分にも目だたず、人にぬき出ている生き方をしている人も
あるのですが、誰もがあまりに平凡に見えるので、それを見過ごしてしまうことが多いのです。
一例をとってみますと、甲と乙という仲の悪い人がありましても、丙という人が間に立つと、自
然と甲乙が話し合ったりするようになる、という、人と人とを調和させる才能を持った人。その人
に対すると、幼児や少年たちがいつの間にか、身内のように慕ってしまう、そういう人柄をもった
人等々、才能がそのまま人柄となっているような人もたくさんいるのです。
ただし、そういう人たちが、自分の生き方に自信をもっているか、というとそれはまた別の問題
です。普通自信をもつためには、自他共にゆるした表面的に現われた才能が、あるかないかによる
ことが多いのです。
そういうことになりますと、表面的に現われた才能をもたぬ人々は、一生自信をもって生活して
ゆくことができないということになります。自分の生活に自信がなければ、いつも不安で、心がお
ちつきません。生まれながら楽天的な人は、その限りではありませんが、生まれながらの楽天とい
うと、これも一つの才能かもしれません。109自
ら
を
信
ぜ
よ
先に申し上げました、自然と人を調和させる人柄や幼児や少年に慕われる人柄などは、本人がそ
れと自覚して、自信というような形になってきますと、そこに把われができて折角のその人柄がか
えってくずれてしまうことになります。
表面的に目だつ才能の場合には、自信をもてばもつほど、その才能がより強く発揮されることに
なります。そこのところが、二つの道の異なるところです。
110
自分を神の近くに引き上げること
私の場合など、目だたぬほうの側でしたが、神を慕う気持一念で、自分の生き方が何時の間に
か、確信に満ちた生き方になっていったようで、肉体頭脳で、とやかく思ったわけではなかったの
です。私の経験といたしましては、目だたぬ才能の人たちが、よりよい生き方をするためには、や
はり、神様の近くに自分を引き上げる方法をとらなければいけません。そのためにはどうしても、
祈りの習慣をつける必要があるのです。
祈りということを、ただの願いごとのように思って、いたずらに恥ずかしがり、実行しない人が
多いようですが、いつも申しますように、祈りは、自分の生命を生かしきるための行で、神のみ心
に自己の想いをなげいれて、想念に邪魔されずに、本心をはっきり現わす方法なのです。
ところが、神様のみ心というものが、どこにあるかわからないので、神は愛である、ということ
を基点にしますと、世界平和ということが、神のみ心の根本の働きであることがわかりますので、
肉体人間側としましては、これを世界平和の祈りとして実行してゆくことにしたのであります。
そういたしますと、天の神と、地の人間とが縦にしっかりつながって、一つに結ばれていくので
あります。そういう方法を私は人類の祈りとして、皆さんにおすすめしているのであります。こう
いう方法ですと、単なる個人の願いごとではなく、個人人類を一つにした大きな希望として、理想
として、現わされてゆくことになるのです。この方法なら、何も恥ずかしくなく、祈りが行じられ
るわけです。
“己が幸願ふ想ひも朝夕の世界平和の祈り言の中
“という和歌の通りなのであります。
神と自分のつながりに重点
もう今日の世の中では、表面的にその天才ぶりをはっきり現わす人が多くなったとしても、それ
だけでは人類の危急を救うことはできないのです。人類の多くの人々が、神との一体化を行じて、
111自らを信ぜよ
神の大調和の光でこの地球界を浄め去らなければならないのです。それ程にこの地球界は、業想念
波で汚れきっているのです。
ですから、人々は、自己の環境や才能というより、まず神と自分とのつながりを強めてゆくこと
に重点を置いて生きるべきです。そのための世界平和の祈りなのです。そういたしますと、いつの
間にか、心の底から生きてゆく自信のようなものが、自ずと湧きあがってくるのであります。
米ソは、相変らず、強力なる武器を造りつづけています。また地球の地軸の傾きがゆがんできて
いて、いつ大天変地変がおこるかもわからない時になっているのです。
神のみ力にすがらないで、人類が助かる方法が他にあるでしょうか、あるわけがないのです。単
に自分自身だけが生き抜いてゆけるというような自信ぐらいでは、地球を救う少しの力にもなりま
せん。今日ではもう、個人はそのまま地球人類の運命とつながっておりますし、地球人類の運命は
そのまま、国家の運命であり、個人の運命である、というところまできているのです。
自分たちで気づかずに行動しておりますが、個人一人一人の行動は、国家人類の運命を左右する
動きに、幾分つつでも影響しているのです。それが幸福になるほうに影響しているか、不幸になる
ほうに影響しているかが、重大な問題なのであります。
112
たゆみない世界平和の祈り
現在、人類が望んでいることは、地球世界の平和なのであります。ですから、平和のために少し
でも役立っていれぽ、その人の存在は明るいのです。それをどうしたことでしょう、多くの人々は
心で平和を思いながら、想念行為は、人類破滅の暗い悩みのほうに向いてしまっているのです。
普通一般の人の想いは、自己の肉体生活の幸福だけを想っているのですが、それがその時々、そ
の場その場の幸福感でありまして、先日も佐藤愛子さんが、ある新聞に書いていましたが、中年の
しかもインテリ的の人々の話題を書いていましたが、女性の品さだめをしたり、それも、人間性の
ことではなく、性的魅力のことだの、あの女性は処女であるとかないとか、というつまらない話だ
の、エレベーターの中で女子社員のお尻にさわる話だとか、兎に角愚にもつかないことで閑をつぶ
していたりする話なのですが、実際それと大差ない話題や出来事で、その日その日がくれているよ
うです。また国や世界の話をすれば、ただ悪口をいったり、不満を述べたりするだけで、どうした
ら国や世界を善くするか、などという実のある話はめったにでないのであります。
こういう態度だけで、一般人が生活していれば、過去からの人類の悪業の渦と同化してしまいま
113自らを信ぜよ
して、いやでも人類滅亡のほうに流れていってしまうのです。人類の悪業を超越するためには、先
程から申しておりますように、そういう渦から抜けでた生き方をしなけれぽいけません。それは神
と一体化の祈り以外にはないのです。
お色気の話もいいでしょうし、金もうけの話もいいでしょう。しかし、それはそれとして、世界
平和の祈りをたゆみなく実行してもらわなけれぽ、自分たちが滅びてしまうのです。そこのところ
を、よくよく考えてみて下さい。人間には肉体についている、さまざまな悪癖がありまして、霊性
を常に汚しているのでありますが、世界平和のような高い広い祈りの世界にはいってしまえば、そ
ういう悪癖もいつかは消え去ってしまうのです。
114
自らを信ずることと自信との相違
ここで一寸いい忘れていましたが、自信ということと自らを信ずる、ということとの相違を申し
述べてみましょう。
一寸聞きますと、全く同じことのように聞こえますが、自信というのは、一つ一つの才能に対す
るものでありますが、自らを信ずるということは、自分の人柄や、生き方に対する信のことであり
まニと
ます。自らの生き方が、神のみ心の愛や真や調和にそむいているか、いささかでもそうした道をふ
んでいる人であるかどうか、そういう人格的なことで、自らの生き方を信ずる、ということであり
ます。
芸術の天才などには、人柄的には普通一般の人よりおとっているような現われ方をする人もあり
ますが、それはそれで、その作品の偉大さが、人々のためになるので、神々もそれを見過していら
っしゃるのでしょうが、中途半端の才能では、やはり人格を立派にしてゆかなけれぽ、この世に生
きている甲斐がないのであります。
人間は生まれ変り死に変りして、この世における様々の経験の上に、その人柄を立派にしてゆく
ことになっているのでありますが、自分の人柄の磨きをそっちのけにして、この世におげる感情の
満足だけで、生きているようでは、地球滅亡の先端をゆくようになってしまいます。人間は常に人
格を磨きつづけて生きてゆくことが大事なので、人格が磨かれるに従って、自らを信じる力が増し
てくるのであります。
人間にとって一番大事なことは、愛の行いです。愛の行いは、常に奉仕的であります。他人に国
に人類に常に奉仕していることは、愛の行いそのものであります。言葉であらためて奉仕などとい
115自らを信ぜよ
いますと、何か堅くなりますが、真の愛を行じている人は、自ずから奉仕の生活をしているのであ
ります。
まこと
愛と共に大事なことは、真の行いであります。愛のようにみえても、他の目を気遣って、奉仕の
ような形で生活していても、それでは駄目で、その愛の行いには真心がこもっていなけれぽなりま
せん。そして、そういう愛の行いが、人類を調和に導いてゆくのであります。
といっても、すべてその人その人の過去世からの生き方のつづきでありまして、むりむり愛を行
じようとしてもできるものではありません。それを無理なくできるようにするのが、世界平和の祈
りなのであります。どうぞ今年もたゆみなく、世界平和の祈りを行じて、自己の人格を磨くと共
に、人々のために尽くして下さい。
116
真・笠口・美の道
日本画と洋画
先生は、絵がお好きのようですが、日本画と洋画と、どちらがお好きなのですか、とよく人に聞
かれます。私は自分では、絵は画けないが、絵や彫刻をみることは大好きだし、美術には常に心を
ひかれます。よいものは日本画も好きだし、洋画も好きだし、特にどちらが好きと、はっきりする
わけにはいきませんが、日本画のいいものには、いつまでも心をひかれていることは事実でありま
す。
近頃は、日本画とも洋画ともつかない、そういう画が生まれてきていて、日本という国は次第に
117真・善・美の道
日本独特の美を失いかけています。マチスやピカソや、シュールレアリズムの絵に、美を感ずる人
もあるらしいのですが、私にはそういうものから美を感ずることはできません。ただ作家達の思想
の変遷や、今日までの絵では満足できぬ作家意欲というものは感じとれます。しかしそれは、そう
いう意欲だけが表面にでているのでありまして、絵画本来がもっている美というものからは、ほど
遠いものと私には思われます。
今私は、会員の鈴木武平宮司さんから贈られた美術全集の名画を次ぎ次ぎと心楽しくみせてもら
っています。その度毎に贈って下さった鈴木武平さんに感謝しています。当代まで残っている画家
や現代の一流画家達は、いろいろと悪口をいう人はあっても、人の心をひきつける美しい、それぞ
れの持ち味を生かしていまして、やはりいいものだと私などには思われます。
例えていえば、横山大観など悪くいう人もかなりいるのですが、どの絵をみても、やはり真実の
美をそこに現わしていて人々に卓越している技術をもっていることは確かです。
小林古径の絵など、その線の美しさ、絵柄のもっている気品、その色彩の素晴らしさと空間の生
かし方、等々賞めれぽきりがない程よいものです。洋画の大半が、表面から圧倒的に観る者の心を
打ってくる作品が多いのですが、日本画は、線の一本、色彩の調和が次第に美の奥の世界に、観る
118
人を引きつっていって、深い高い美の境地に同化させていってしまうのです。
日本画と洋画とは、全く反対の表現がなされておりまして、日本画の線の一本一本、色彩の一つ
一つが各自はっきり独立しながら、一つの絵柄として調和しているのに、洋画はまつ描かれている
風景なり生物なりが、全体の力として観る者の心を打ち、観る者は全体の構図や色彩の力に打たれ
た後で、あらためてその絵の細部に目を向けてゆくという形になります。
そうした絵の違いのような美のあり方が、古来から日本の根本になっていまして、それが生け花
や、茶の湯に現われていたりします。日本女性が、自分の心を表面に出さず、常に夫のかげにいな
がら、夫をたてて家庭をなしていたのも、日本の美しい在り方の一つだったのですが、近頃は女性
も男性に負けずに、自分の思ったことを表面にだし、自分の思ったことをそのまま行なうというよ
うに、女性本来の心の美しさを、自ら打ちやぶってしまっています。
女性の美しさ
心の奥にあるものや、風景の奥にあるものを、やたらに表面に出してしまっては、その心もその
風景も浅いものになってしまいます。日本画のように、奥にある様々の美を、一本の線、一つの色119真
・
善
・
美
の
道
彩で表面につないでおいて、やがて多くの線、様々な色彩で、一つの図柄として、多くの美しさを
見る者の心に沁み込ませてゆくのであります。日本古来の女性の生き方は、そうした日本画の在り
方に似かよったところがあったのですが、今日では日本画とは、似ても似つかぬ日本女性が多く輩
出して来てしまっているのです。
日本の着物などは、日本画の素材として多く使われますが、女性の肉体をすっかり包んだ、着物
のもっている美しさが、内に包まれている女性の肉体の美しさを見るものに連想させて、肉体その
ものをあらわに見なくとも、肉体全体の美しさを感じさせます。直接、女性の肉体をそこに示し
て、その美しさを観賞する者に見せるか、肉体を内にかくして着物姿の美しさから肉体の美しさを
想像させるか、この二つが欧米式の女性美の観賞の仕方と、日本古来の女性美の鑑賞の仕方との相
違なのですが、近頃はこの相違が、余り目立たなくなってきております。日本人の女性美への関心
が欧米的になってきているからです。といってそれが悪いとか良いとかという問題ではありませ
ん。ルノアールの裸婦など、女性のもっている生命力が輝いており、女性のもっている肉体の美し
さ、力強さが実にはっきり画面に現わされておりまして、思わず女性の肉体の美しさに心をひきつ
けられる想いがします。それは、いやらしい性的の想いのみじんもない女性本来の美しさにひかれ
120
るものなのです。
人間の肉体の美しさは、女性の美しさに代表されますが、生命本来の美しさがそのままそこに現
われているのは、幼な児の寝顔にかなうものはありません。幼な児の寝顔は、そのまま神の生命の
美しさであるといっても過言ではありません。「あΣ、なんという美しさ、可愛らしさであろう」
と私など幼な児の寝顔を見るたびに魂の浄まる想いがするのです。肉体的の美しさにおとる男性
は、女性以上に常に心を磨き、魂の美しさ、生命の美しさをあらわしていなければいけません。か
つては、幼な児のもっている美しさの人間であった自分達が、どうして年令を重ねると、次第にそ
の美しさが減少してゆくのか、考えさせられる問題です。時には、老令になればなるほどその美し
さを増している人もありますが、この人達は、歳と共に魂に磨きがかけられてゆく聖なる心の人々
なのです。目鼻立ちや顔立ちが整っていても、冷たい感じだけで少しも美しさを感じさせない人も
いれば、目鼻立ちを超えた中からの心の美しさを感じさせる人もいます。
ですから、真の美というものは、表面に現われたものだけではありません。内にある心のひびき、
生命のひびきが真の美として、表面の美を生かしてゆくのです。戦争中など、工場で女性もたくさ
ん働いていましたが、いずれも、だぶだぶのモンペや、男子と同じようなカーキ色の作業衣で、そ
121真・善・美の道
れだけみれば着物の美しさにかなうわけがありません。しかし、そういう服装をした女性が、うち2
1
揃って作業に打ち込んでいる姿は、着物を来て、物見遊山のしゃなりしゃなりとした姿とは、比べ
るべくもない美しさでした。
どうしてそういう美に対しての反対のような現象が、起ったかと申しますと、工場の作業に打ち
込んでいる女性達の真剣な心のひびきが、生命そのものの美しさとして、身を包むだぶだぶのモン
ペさえも、美しくみせていたのであります。国のために働いているという真剣な心のひびきと、
生命そのものの働きとが、表面の美を越えて、彼女達を美しい姿にしたてあげていったのであり
ます。
一つの仕事に打ち込んでいる人の姿や、スポーツに真剣になっている姿などを、誰しもが美しい
と思うのは、すべてそこに生命がいきいきと生きているからであります。
仏像の美と信
仏像などは、その素材は木であったり、青銅であったり、石であったりしますが、ひとたび制作
者の手にかかって、その仏像の形として出来上りますと、その美しさがまるで違ってくるから不思
議です。同じ素材を使いながら、どうしてそこに美しさの違いが現われてくるのでしょうか。それ
は制作者の仏に対する信仰の深さやその理解力と、その技術によるのです。もう一つ加えなければ
ならないことは、この制作時の仏との生命の交流の深さによるのです。今度は、その制作された仏
像が、観る者の心の状態によって、より美しくなったり、美しさを失ってしまったりするのです。
それは仏像によらず、すべての芸術作品がそうなのです。仏燥は、その制作された国々や、その時
代時代によって、その顔の相や、形がいちじるしく違ってくることがあります。しかしながらいず
れも、現代にまで残っているような作品は、やはり傑出した美をもっています。国や時代によっ
て、その顔、形が違うのは、その国やその時代の人達の仏像に対する最高のイメージが、どうして
も自分達の顔形の最高のものとして、現わされているからです。
直観的民族
美というものは不思議なもので、その色彩や、形が美しいというだけで真の美の現れというので
はなく、常にそこには生命や、自然の奥深い息吹きが必要なのです。そういう奥深い息吹きをその
作品に現わしうる人を真の芸術家というのです。123真
・
善
・
美
の
道
西洋の庭は、平面的に芝生や草花で飾られて、横広がりの美しさであるのに、日本の庭は、山や
丘を形どって天地を結ぶ美しさと、芝生や草花や池などをあしらった平面的美しさとが、巧みに調
和されています。アメリカやカナダやオーストラリアのように彪大な土地がある国と違って、狭い
土地に多くの人間が生活している日本では、何かとそれらの国と違った生き方、違った在り方をし
なければなりません。美に対する感覚なども、確かにそういう面での違いがあります。
勿論、日本人の美に対する素質は、欧米人とはどこかで異なったところがあります。それが洋画
と日本画の違いにょく現われておりますし、庭の在り方などにもはっきり現われております。それ
は一体どういうところにあるのでしょう。それは、日本人が素質的に理論的な国民ではなく、直観
的な民族であることを現わしているということです。直観的といっても、理論的なことが全然ない
というのではありません。たゴ直観に比べて、理論的な割合がずーっと少ないのが日本人の本質な
のです。
実権のない天皇制が二千年も続いていることなど、他の民族には類のないことです。常に天皇の
下には、その時の実権を握っている実力者が権威をふるっていたのですが、反対派が現われて、そ
の権力者を倒しても、天皇の位は、依然としてそのままで、次の権力者はまた天皇をかついで、そ
124
の実権をふるっていたのであります。
理論的に考えれば、そんな馬鹿気た政治方式はありません。時の権力者を倒した反対派の首脳者
は、天皇という位が日本の最高のものであれば、自分がその最高位について政治を行なえばいいは
ずのものですが、常にそれら首脳者は、天皇の親族を新しい天皇の位につけて、自分は政治の権力
者としての主導権を握ってゆくのであります。
ですから、日本の最高の位置にある天皇は、自らの戦力も権力も弱いものであって、実力者は次
の位にいるのです。どの実力者もこの体制を理論的に考えてしているのではなく、自然に直観的に
そうしているのであります。ここのところが、日本人と他の民族と異なったところなのでありまし
ょう。
自然の風光を観賞するのには、先に理論をつけて、観賞するのではなく、直観的にその美にうた
れ、その美を賛嘆するのであります。
その美につけられた理論的なものは、すべて後からのものであります。富士山をみて、誰がいっ
たいその美を理論づけてから、ほめたりするでしょうか。誰も彼もが、富士山の姿を仰ぎみた時、
直観的に、あ玉美しいとか、あΣ尊い姿とか思うのであります。自然をみる目は、すべてそういう125真
・
善
・
美
の
道
ものでありまして、この社会の生活の中で作られているような、理論づくめの世界は、自然の中に
はないのです。すべてが理論づくめになってきますと、心の交流がすみやかにはいかず、何かとど
こうるものが、そこに生まれてくるのであります。
天皇の存在などは、自然の姿と同じように、神意によっておかれているともいえるのです。
126
自然のエネルギーの根源にふれる
自然美というものは、人工美にはない素朴で、奥深いものをもっていまして、人間はどのような
人工美の中に住んでいましょうとも、自然の風光にひかれる心をもっているのです。登山家達が生
まと
命を的にけわしい山々の頂上をきわめようとしたり、探検家が寝食を忘れて未知の世界を探り当て
ようとしたりするのは、自然の奥を知りたい人類の願望を代表しているのです。近代はそうした自
然の心の奥底を探るための科学の発展が急速になされまして、原子や素粒子学の進歩、電磁波の進
展等々、科学的に大自然の奥底を探り当てようとしています。
しかしながら残念なことに、科学的な方向が、機械器具にたより過ぎていて、人間の心の問題が
なおざりにされていたのです。
ところが、意外にも唯物論そのものの国と思われているソ連が、機械器具を従にし、人間の心を
主体にした科学の道を、国家をあげて突き進んでいるのであります。
それは、人間の心は、他の人間や他の動植物及び機械器具にまで、その影響を及ぼすという、超
心理学的事実を発見したからであります。それは、テレパシーの研究でもあり、現在日本のマスコ
ミなどでもよく取り上げられている、オカルト現象の研究なのであります。このことは、以前にも
書いたことがありますが、自然のエネルギーの根源にじかにふれてゆくような研究でありまして、
そのあり方によっては、世界を自由に動かすことのできるほどの力を得ることができるのでありま
す。簡単にいえば、精神力の錬磨、強力なる想念意志を作り上げる方法でありまして、もし一国が
おのず
そういう方法に成功すれば、世界は、自から、その国に従ってゆかねばならぬようになります。そ
れは、使いようによっては核兵力よりも恐ろしいものなのであります。
念力は宗教の本道ではない
私がいつも申しておりますように、この世はすべて、波動でできておりまして、人間の肉体も想
いも、すべて波動の現れであります。中でも人間の想念波動というものは、他の想念波動にも肉体127真
・
善
・
美
の
道
波動にも常に影響しておりまして、自己の想念波動を錬磨して強めれば、他人の運命を自己の自由
にすることもできるのです。この想念波動は、肉体界に働くばかりではなく、幽界、霊界、神界と
いう他の波動の世界にも働きかけることができるので、一人の人間の想念波動が、自己の利益のた
めならどのようなこともするというような、想念波動であったならば、不調和そのものの波動の世
界でできあがっている幽界の生物と、その想いが合致し、その人間の働きに大きな力を加えてくる
のです。そこでその人間は、悪思想や悪事の中で、大きな成功をおさめてゆくのです。しかしやが
ては、幽界の生物の餌食となって、その肉体は滅びていってしまうのです。しかし恐ろしいのは、
国家や民族や思想集団が、自分達の野望を成しとげようとして、想念波動の錬磨に力を入れて、こ
の地球世界の他の国家や民族に、挑戦していった場合、幽界の生物の集団的応援も加わって、強力
なる他を圧する力となり、世界はその人々のとおりに、動かされてしまうことになりかねません。
そこが、念力の恐ろしいところで、私が常に念力は宗教の本道ではない、念力を磨くことと祈り
とは違うのだ、と申してきたとおりであります。祈りは、生命を開くためのものであり、生命の本
源の神と一つになろうとしての行為なのでありまして、真の祈りは、いつも神の光明と一つになっ
ているものであります。しかし念力即ち想念波動は神の光明波動とは違いまして、只単なるエネル
128
ギー波動なのであります。ですからその波動は、悪いほうにもいいほうにも使えるわけです。おお
むね人間は、自我欲望のために、想念波動を使っているわけで、ソ連のように国費をあげて、その
念力を強力なテレパシーの力として、他国に優先しようとしてゆくことなど、核戦争にまさる恐ろ
しい行為なのであります。
念力と念力とが戦い合えぽ、それは精神の世界まで破壊してしまうことになり、真の人類絶滅ま
で至ってしまいます。
神(真善美) との接触を
ですから、この念力戦争を防ぐためにも、神の大調和波動と一つになっている人が、多くならな
ければいけないので、ここに真の宗教信仰が必要になってくるのです。真の宗教とは、人間が神の
み心にすっかり入り込んでしまうこと、神と一体の生活をこの世に導きだすことでありまして、そ
の方法が祈りなのであります。祈りも世界平和の祈りのような個人人類同時成道のようなものがよ
いので、私達はその道を真剣に進んでいるのであります。
しかし、どうしても祈りとか、神への接触とかができない人は、大自然の大きな美に常にとけこ129真
。
善
・
美
の
道
んで、自分の心を自然の波長と等しくしておくことがよいのです。
それは、山に登ることもよいでしょう。ただ山を見つめて暮しているのもよいでしょう。あるい
め
は美しい花々を賞で常に心を美しくしておくことがよいのです。何故かと申しますと、他の心を自
己の念力で支配しよ・うとする人々とは、波長の合わない世界というのは、神の光明の中に入ってい
る世界か、大自然の深い美しさの中にとけこんでいる世界への二つの道であるからです。そういう
道に入っていないとこれからは、ますます念力を磨いて、他の生活を侵略しようとする人々がふえ
てきますので、是非とも、心正しい道を探究していって下さい。そしてもう一つ大事な道は、いつ
でも人の幸せを願い、世界人類が幸福であることを願っている愛の心です。そしてその愛の心を、
たとえどんな小さなことでもよいから行じてゆく生活をしてゆく習慣をつけることです。
130
真・善・美の世界の復活
昔からさまざまな聖者賢者達が、真善美の道を進め、と人々に働きかけていたわけですが、過去
世から地球にまつわっている業想念波動と、日々瞬々刻々人類のすべてが出している、自己保存の
本能からくる権力欲や争いの想いや、自分勝手の想いによって、この大宇宙を創世し、活動しつづ
けさせている大宇宙神の調和の心を乱しに乱しているのです。こうした神の大調和の心を乱す業想
念波動によって、人類は真善美の世界を失いかけているのです。それを真の宗教活動、芸術の道と
大自然への接触とによって、かろうじて真善美の道を人類の世界に残しているのであります。
こういう時代になってまいりますと、むずかしい宗教の道を行じさせようとしていても、とても
無駄なので、日常茶飯のやさしい行事として、誰にもできる宗教の道によって、神のみ心の真善
美、愛と調和の心をこの世界に示してゆくことが必要になってきているのです。
この世には現象的に悪いことや、不幸なことやいやなことが一杯あります。しかし、それらはあ
くまでも、今の想念波動が作ったものでなく、過去世からの神の愛をはなれた人間の自分勝手の想
いが、そういう原因をつくっておいて、その結果として今日、悪や不幸やいやなことが続出してい
るのであります。
ですから、これを直すためには、過去のことは過去のこととして、現われて消えてゆくのですか
ら、世界平和の祈りによる大光明波動の中で、一日も早くそうした業を消していただき、今日から
先は、しっかりと神の愛にすがって、出てくる業想念をすべて消えてゆく姿として、祈り一念の生
活をしてゆくのであります。そうしますと、間違って吹き込んだ録音が、新しい正しい吹き込み替131真
・
善
・
美
の
道
えによって、そこに真実の姿を現わしてゆくように、
くようになるのです。
この地球世界も人間の正しい姿を現わしてゆ醜
宗教の道を妨げる想念
平常の行いの中に宗教はある
平常心是道という言葉は、全くよい言葉です。私も常にこの心で、人々にお話しているのです
が、宗教の道というと、ともすれば平常の行いではいけないように思い、普通と異なった行いをし
ようとします。
例をあげますと、神のみ心と一つになろうとする心はよいのですけれど、実は、その人の目ざし
ているものが、神のみ心ではなくて、神秘不可思議の世界、つまり四次元世界以上の五感に触れな
い世界、幽界霊界のように肉体の力でない働きを持っている世界、そういう世界を自分のものにし133宗
教
の
道
を
妨
げ
る
想
念
て、自分の力を増大し、運命を好転したい、人々より強い能力を、その世界から得たいという欲望
314
をもっていながら、それが神を求めている姿と、誤解している人々が、宗教の道を求める人の中に
は、意外と多いのです。
それから、この世の仕事のどれもこれもが、自分の心の自由をおさえられて、面白くないので、
身心共に自由自在に働ける道を求める。実際にそういう道を求めるならよいのですけれども、宗教
の集りの中でそういう道が安易に得られると思って、世の中の仕事を捨てて、宗教の道一本でやっ
てゆこうとする人がいます。
宗教の道で、身心共に自由自在になるためには、それまでの自分の想いというものを、すべて、
神様のみ心の中におかえしして、神のみ心のままに生きてゆくという大覚悟がなければなりませ
ん。肉体人間の道から、天の道へ昇ってゆくためには、肉体人間としてもっていた自分という想い
が、一番邪魔になります。肉体人間の自分をそのままにしておいて、神の道に昇ってゆこうとして
も、それは、波長が大分異なるので、無理なことなのです。
宗教の道を進む場合に、よほど自分を見つめないと、知らぬうちに間違った道を歩いていること
があるのです。それは、今書いてきたような生き方と、家庭をもちながら、家庭の人達のことを一
切かえりみず、自分の欲する理想の道だけを歩もうとすることなのです。
宗教の教祖や、聖者方が説いておられることは、全く正しく完全な道ですが、それを説いた聖者
方は、いずれも家庭をもたなかったり、もっていても、妻子がその夫と心を一つにして、社会人類
のために身心を投げうっている場合だけが、うまくいっていて、そうでない場合は、聖者が家庭
を捨てて生活の自由な身になり、はじめて自分の説いている道が実行できるということになるの
です。
青年は、まずきびしく自分を見きわめよ
ですから、これから宗教の道をまっしぐらに進もうと思う青年たちは、自分が望んでいること
は、自分の身心を投げうっても社会人類のために進んでゆくべき道なのか、自分の生活の喜びとい
うものが、その中になければつまらないと思うほどのものなのか、まずそれを見きわめて、進まね
ぜんばく
ばなりません。それを浅薄に考えて、経済生活をそっちのけにして、自分の理想論に共鳴する女性
と結婚したりしてゆきますと、次第に経済の苦しみに圧迫されて、家庭が不調和になってきたりす
るのです。青年の頃は、人道主義的な事柄や、理想論に心をひかれるものですが、宗教の道に真実135宗
教
の
道
を
妨
げ
る
想
念
に挺身する場合には、どうしても自己犠牲の精神を発揮しなけれぽ、とても長い間、その道を進ん
でゆくことはできません。
私の場合などは、全く神様に身心をおかえししてはじまった宗教の道です。ですから、いつどん
な風に自分の運命がなろうと、いつ天国に召されようと、一切かまわない、という気楽な気持でし
た。妻などもらう心は少しもなかったのですが、私が気違いになったら、一生その生活はみてゆこ
うという決意のもとに来てくれた女性があって、今日のように家庭をもちながら、祈りによる平和
運動を続けられているわけで、こんなケースは、めったにあるものではありません。神様が、私の
心が真実、神様に全託したのを認められて、今日のようになったのだと思います。
他人の救いに立とうとか、人類救済のために働こうとかいう場合は、とも角自分の立場とか、感
情とかを、一度は切り捨てxおかないと、とても長つ罫きするものではありません。自分の損得と
か、自分の喜びとかがどこかにありますと、他人への救いとか、人類救済とかいう心と、どこかで
ぶつかってしまいます。
ご
自分の損得とか、自分の感情とかいうものを超えて立ち向った時に、はじめて真の喜びが心の底
から湧いてくるのです。そのように人類救済の道というものはなかなか大変なものなのです。そこ
136
で私はそうむきになって、他人の救いとか、人類救済とかといわないで、自分はその日常生活その
まΣ で、そこに少しの無理もなくて、人類救済の道が進めるということを、祈りによる平和運動の
実践によって見出すことができたのです。
本格的に救うことの難しさ
他人の救いといっても、たまたま少しばかりのお金をやって助太刀したり、病気の世話をしてや
ったりすることはできますが、本格的に一人の人間を救うということはとても骨の折れることなの
です。ここに一人のノイローゼの青年がいたとします。この青年のノイローゼを治すということ
は、お医者さんの分野の仕事なはずなのですが、事実は、現在の医学では入院させても、なかなか
全快することができなくて、退院したり、入院したりして、一生を棒にふっている人々が非常に多
いのです。医学で直すというより、環境の変化によって、知らぬ間に治っている、といった工合な
のが、このノイローゼ患者の特徴です。ノイローゼの患者は、精神的なものと、神経障害的なもの
と、愚霊作用的なものとがあります。この見極めが医学でもできにくく、一律に同じような治療法
で取り扱ってしまうのであります。専門家が一対一で真剣に愛情をもって、立ち向わなければ治ら
137宗教の道を妨げる想念
ないノイローゼ患者ということになれぽ、一寸した愛情の片手間の相手をしていたのでは、効果が
あるわけがありません。そこでかえって、自分自身もその波の中に入って、自分の生活まで暗いも
のにしかねないのです。
私なども、一人一人を相手にして、その相談にのっていた頃は、ノイローゼのかなり強度のもの
も、つぎつぎ治ってゆきましたが、次第に一人一人に時間がとれなくなってくると、その治り方が
遅れるようになりました。そのようなもので、他人を救うということは、容易なことではないので
す。この肉体世界は、過去世からの長い時間に、神のみ心の完全さから離れた業想念、つまり人間
には大した力がないという誤った考えや、自分と他人の生命の交流をはぽむ自分勝手の想いなど
で、本来の人間性からみて、はるかに小さな力弱い存在の人間としてしまったのです。
138
根本的な人類の誤りを正すことが先決
人類全体が現代では、神の分生命である完全性をもった人間であることを忘れはてて、物質の世
界を主にした生活をしつづけることになってしまったのです。そういう根本的な人類の誤り、個人
個人の宇宙観、人生観の無智を直さないことには、ちょこちょこと、一人一人の弱い人間や、気力
のとぼしい人々に、少しばかりの愛情をかけても、余り効果はないのです。
よく純真な青年たちが、困った人や弱い人たちに、大人たちが真剣に愛情をかけないことを、憤
ったりしていますが、この大人たちもかつて青年だった頃、その頃の大人たちのやり方に不満をも
って、自分たちで、困った人や、弱い人々を救おうと働きかけたこともあるのです。そして、それ
がすべて、徒労に終って、その経験から、適当にその人たちに対処するようになってしまったので
す。
人類愛的な心をもった青年たちは、人道主義的な話や、ロマソチックな話に心をひかれます。自
分の将来の身分や、現在の経済的なことなど少しも考えず、人々が精神的な調和した生活を営むに
は、どうしたらよいか、人々が平均した経済生活をしてゆくには、どういう方法がよいか等々を頭
の中で考えていて、いつまでたっても実行にうつす方法がわかりません。
しかし、その話を日頃から聞いていた女友達は、その人道主義的な心に打たれて、その人と結婚
して、共にそういう世界の実現に尽したいと思い、そのことを両親に相談します。両親は心のきれ
いな、ものわかりのよい人で、娘の心はよくわかるのですが、このむずかしい世の中で、自分たち
になんの経済の基盤もなく、これという後援者もないのに、頭の中だけで理想の世界を描いている
139宗教の道を妨げる想念
ことが、危なっかしくて、その結婚にイエスの答えを与えられずにおります。
私はそういう相談を、その両親から受けたことがありますが、前にも書いておりますように、自
分たちが、自己犠牲の心をもって、すべてをそういう新しい道作りのためになげうつ程でなけれ
ば、そういう道をゆくのは危険ですと、暗に娘さんの結婚に反対する意見を述べておきました。
青年期の人道主義的な気持は、尊いものですが、次第に年をとってきて、経済的な難関に何度も
ぶつかってきますと、いつの間にか、その人道主義的な気持が薄らいできて、経済的に何とかしな
ければ、という自己保存の本能が、浮かんでくるのです。女性はまして、子供たちの学校のこと
や、その他世間とのつきあいのことなど考えて、尚更、人道主義的な気持がしぼんでしまいます。
現代のような社会機構の中で、各自が自分達の家庭の経済を、自分たちで何とかしてゆかなけれ
ばならぬ仕組になっていますと、青年期の人道主義的な気持を通して生活してゆくことが、大変に
むずかしくなってくるのです。
青年は一時期、熱に浮かされたように、人道主義的な気持になって、人々のために尽くそうと思
うことがあるのですが、熱に浮かされたような、衝動的な心では、決してその運動は、長続きする
ものではなく、そういう運動を始める前には、冷静な心で自分をしっかり、みきわめなければなら
140
ぬのです。
真の祈りが求められてくる
そこで宗教には、神のみ心、自己の本心と一つになる祈りが必要になってくるのです。この祈り
によって、自己の想念の波立ちや、乱れや不調和の想念波動を、神様のみ心の中で、消滅させてい
ただくのです。そして、鎮魂されたひびきの中から、改めてこの世のあり方をみいだしてゆくので
す。
そういう行をくりかえしくりかえししているうちに、いつの間にか、自己のうちから智慧能力
や、善き方向に向って働きだす機会が与えられてゆくのです。
人間は肉体的な想いで、いくら頑張ってみても、自分の思ったような生活を築き上げられるもの
ではありません。そこには常に運命というものが、根幹になっているのであります。その運命とい
うものは、その八十パーセントが、過去世の因縁によるものでありまして、その運命を変化させる
ためには、その運命の外にいて、常に各個人を助けてくれている、守護霊、守護神の力にすがらな
ければなりません。そこで寝ても、覚めても、守護の神霊の常日頃からの、守護に対する感謝をし141宗
教
の
道
を
妨
げ
る
想
念
つづけてゆかねばならないのです。
人間の運命を、変化させるのは、守護の神霊以外の力ではないからです。各個人を守っていて下
さる守護の神霊こそ、その個人を立派にし、世界人類の平和を築く、基礎の力となるのでありま
す。私共は守護の神霊への感謝と共に、世界平和の祈りを祈りつづけて、いつの間にか、人類の心
が、神のみ心を理解してゆけるような状態になることを、実践しているのであります。守護の神霊
の存在は、私が日々の体験として、はっきり知っていることなのであります。
神様が天の方の遠いところにしかいなかったり、神社仏閣にしかいない、と思っているのは誤り
です。神様は、自分たちの父母や、祖父母のように、自分の身近で、瞬時も隙なく自分を見守って
いて下さるのです。その真実を知らないで、神様を自分から遠くへ離してみていたり、一定の神社
仏閣にゆかなくては、お守りして貰えないものと思ったりしている人が、宗教を信仰している人に
も案外多いのです。
こも
宗教の道に入るというのは、何も殊更神社仏閣にお詣りするということでも、山に籠ったり、滝
にあたったりすることでもなく、神が自分の身近に守護の神霊として、父母や祖父母のように、自
分を守って下さっている、という、真実のことを知ることが大事なのであります。
142
そして、そうした守護の神霊への日々の感謝。それに加えて、自分を生かしてくれている、肉体
すべての細胞に対する感謝、空気や水やその他自分たちに必要である自然の要素に対しての感謝等
々、よく落ちついて考えれば、神々や自然や物事への感謝こそ、宗教精神の重大な要素といえるの
です。
そこに湧き上がってくる他人や他の物事についての愛情、大きくは人類愛の心を大切にして、そ
の実行にうつってゆくことが必要なのです。
世界平和の祈りは、こうした感謝の心を代表した祈りなのです。ですから、日常生活そのまま
で、世界平和の祈りを祈りつづけてゆけぽよいので、何も日常生活をこわしてしまって、人類愛の
行動だけで日常を送るような必要はないのであります。そういう必要があり、そういう天命に定ま
っている人は、自分がいくら、日常生活をくずさずにやってゆこうと思っても、それを超えた生活
に神様の方から飛びこませてしまうのです。しかしそういう人は少ないのですから、普通は、常に
日常生活を崩さぬようにして、他人の為、人類の為という働きをすればよいのです。
これからの人類進化の大眼目
143宗教の道を妨げる想念
たびたび申しておりますように、この宇宙は、進化につぐ進化を続けておりまして、人類もこの
宇宙の進化におくれているわけにはまいりません。好むと好まざるとにかかわらず、現在より進化
してゆかなければ、この地球人類は滅びてしまうより仕方がないのです。今日からの地球人類の進
化の第一は、人間はこの肉体ではないということです。肉体は単なる人間の器であり、場であっ
て、人間そのものではない、ということを知ることです。人間の本質は、宇宙神の分生命であっ
て、その生命の働きが、宇宙運行の大きな場をしめているのであります。現在、肉体人間として地
球に存在しているのは、地球という物質世界を、人間も肉体をまとって、物質体として、地球と同
化し、共に更に微妙な波動体にさせてゆくことが、進化の大眼目となるのであります。
人間が、物質的肉体人間として生活しながら、しかも、生命そのものの微妙な霊波動として、地
球の波動をも微妙に霊化してゆかねばならぬのです。現在はその過程にあって、科学の発明発見
は、地球の働きを本来の微妙な波動の働きに還元せしめて、宇宙の先輩星との大調和をさせようと
しているのですが、それは地球人間の背後から、神の智慧能力を使って様々な発明発見をさせ、科
学の発展を促進させている守護の神霊の心の中のことでありまして、当の肉体人間は、そういう深
い意味を知らずに、科学の道を突き進んでいるのであります。そうした科学の道には、どうしても
144
マイナス面ができまして、様々な公害となって、人類をおかそうとしているのであります。そこ
で、今日までの科学の道では、そういう深い真理がわかっておりませんので、人類の進化である宇
宙との大調和を根底にして、できあがってゆく科学の道が、必要になってくるのです。
いわゆる宗教の道と、今日までの科学の道とが、融合調和されて、できあがったような科学の道
なのです。その科学を我々は、大調和科学と呼び、宇宙子科学とも呼んでいるのです。このこと
は、専門的になりますので、ここにおいての説明ははぶきます。
平和の祈リを続けよう
なんにしても今日は大変な世の中になっていまして、国際的にみても、自然の運行からみても、
地球は安泰でいられそうもないのです。米ソ中の対立抗争は、陽になったり、陰になったりしなが
ら、ずうっと続いています。表面的には、次第に世界が社会主義酌傾向になって、米国が非常にや
りにくくなってきています。日本なども、表面的には自由主義、保守的な状態で、社会が運営され
ているようにみえますが、マスコミや知識階級の動きは、ともすれぽ、社会主義的な動きになっ
て、保守政権打倒の重要な働きを示しています。
145宗教の道を妨げる想念
ロッキード事件で、前首相が逮捕されたことなど、そういう働きの一端なのであります。現在の
日本は、世界の国々の中でも、きわだって住みよい国であり、自由を保証されている国であること
は、先日のある新聞社の世論調査で、日本での現在の生活は、貴方にとって幸福であるか、不幸で
あるか、という問題に答えて、大半が幸福であると答えていることでもわかります。
確かに、政界の中には、収賄もあり、派閥争いもあり、汚れていることは、誰にもわかります
が、国の繁栄をはかり、国民の生活がよかれと願って働いていることも確かなのであります。
もし不用意な社会運動で、日本が社会主義政権のもとで生活する、ということになっておこって
くる、各個人の不自由さは、現在の比ではないのです。社会主義政権というものは、どうしても、
政府が強い力をもたなけれぽ、すぐくずれてしまいます。
現在のように、一寸統制されたり、政府の政策を、強引に押し進めてきたりした時、国民は現在
と同じように、政府に文句をいったとします。しかし社会主義政権は、政権そのものが、国民のも
のということになっておりますので、その文句は只単に自分に返ってくるだけで、政府の政策は一
向に変わらないのです。
それに一番困ることは、今まで何かと、勿論自国の利害関係を考えてのことでありますが、経済
146
的に日本の為になってくれていた米国が、日本の社会主義政治を極端に妨げてくるでありましょ
う。それは経済的にも外交的にもすべての面にわたって、保守系の政府が政治をとっていた時のよ
うな、好意的な態度は蔭をひそめてくるでしょう。
日本が折角、どうやら不況の波を乗り越えて、経済的に立ち直ってきている今日、またぽかっと
経済的不況が押し寄せてきたら、国民は今度こそなかなか立ち直れない経済的貧困の生活においこ
まれていきかねないのです。ですから今日の保守党の中に、いろいろな悪がひそんでいましょうと
も、何とか国民の力によって、その悪の活動を防御しながら、正しい保守政権を作り上げてゆかな
ければ、アメリカとの交友もヨーロッパや世界の信用も、失ってしまうのであります。
そういう政治的なことを一まずおいても、今日の日本人は、自分達をかばうために他を責めすぎ
ます。他を責めるよりまず自分の心を正しくすることが大事です。そのための宗教の道なのであり
ます。神は大愛であり、美しさ正しさの見本であります。私共はそうなれるように、祈りつづける
必要があるのです。すべては、神への祈りのあとにまわしてよいものなのです。どうぞ日々あきる
ことなく、世界平和の祈りをつづけて下さい。世界平和の祈りは、今日の世界を正しく導いてゆく
神の慈愛のひびきなのです。147宗
教
の
道
を
妨
げ
る
想
念
148
宗教の本道を外れるな
へんなくせ
私が、前からも度々申しておりましたが、宗教信仰に入った人々が、入らぬ前より、勿論、よい
くせ
ところが多く出てきているには違いないでしょうが、常人と違った変な想いの癖がついてしまうこ
とがあるのです。
例えぽ、人に会うとすぐ合掌して別に有難いこともないのに、有難がってみせる癖、相手の立場
におかまいなく、朝昼晩の時間におかまいなく、人の家を訪れて自分の宗教の説教を相手の心に、
しんしやく
斜酌なしにしゃべりまくる癖、お金や物は全て、神様からいただいたのだからと想って、物品を直
ろく
接くださった人には、緑なお礼もいわない癖、何を話すのでも因縁話にしてしまう癖、何事も霊的
さわりつき
障にしてしまったり、愚もののせいにしてしまったりする癖、妙に医薬をきらい、家人が病気にな
っても、医者にみせたり、薬をやったりすることを、むやみとこぽむ癖。
こうやって例をとれば、まだまだたくさんありますが、宗教の本質は、神と人間との一体化にあ
りまして、すべてのものに対する調和ということにあります。ですから、たとえ自己の所属する宗
教教団で、どのようなことを教わろうとも、常識の世界の人々と、余りかけ離れた行為は、その人
達との調和を破ることで感心したこととはいえません。合掌して有難うございます、ということな
ど、行為としてはよいにきまっております。しかし、それが心からのものでないと、なんともいえ
ぬくさみがあって、合掌したり、有難うといったりするそのことが、かえって偽善的な雰囲気を相
うき
手に感じさせるのです。またやたらに狐や狸や幽界の生物の愚ものの話では、常人は、とてもその
話についてはいけません。
医薬と信仰
それから困ることは、病気の場合のことです。宗教信仰をしている当人が、信念にもとついて医149宗
教
の
本
道
を
外
れ
る
な
者や薬物にたよらず、神の愛一筋に身心をゆだねていることは結構ですが、家人の愛情や心配を少
しも思いやらず頑強に医薬を否定している場合です。
そこには、そうした病人の頑固さに対する家人のいらだちが、不調和の波となってただよいま
す。それでもまあそのことは、当人の宗教的信念によることなので、しかたがないとしましても、
そうした形の宗教信仰者が、えてして、家人に対しても医者や薬を、否定させることが多いので
す。やたらに、医薬にたよりすぎることは、決してよいこととはいえませんし、私なども自分は勿
いのち
論、神様にささげた生命なので、神様の命令のない限り、医者にかかったり薬をのんだりすること
はありません。
ゆ
人間の内部には、神の力そのものが働いている自然治癒力があるのですし、その力に、ゆだねれ
ばゆだねる程、その力は増大されてゆきます。ですから、できうる限りは、その自然治癒力にゆだ
ねたほうがよいのです。
しかし、歯が抜けたり、骨折したりしたような場合、どうしても医者の世話にならぬわけにはま
いりません。そういうこともあるのですから、家人に頑固と思われ、家庭に不調和の波を起させる
ような医薬否定の態度をとるものではありません。それと同時に、しきりに医者にかかりたがって
150
わら
いる病気の家人に対し、その心をあざ喧うような態度をみせて、その家人は医者にはいきたいのだ
わら
が、自分の信仰の薄さを唆われるような気がして、ついつい医者にみてもらうことができず、病状
が悪化してしまうことがあるのです。本人の心が神にすっかりゆだねて、自然治癒力の働きを、増
大させているような場合は、よほどの大病でも医薬にたよらず、治る場合もありますが、本人が、
病気を恐れながら、医者にもろくにかからぬようでは自然治癒力の働きが少なく、医薬の助けもな
いのでは、その病状がよいほうに向うはずはありません。
夫なり、妻なり、父母なり、自分自身は、宗教信仰の力で医薬もいらぬと思っていても、そうい
う病人には、やはり常識通り医者にみてもらうのが一番よいのです。
超常識は常識外れと違う
常識ということは、本来は神のみ心そのものの現われた意識のことなのですが、いつのまにか、
肉体人間としての意識に変ってしまったのです。だからといって、この常識があってこそ人と人と
の交際や、社会を維持することができるので、常識外れの人間ばかりいたら、社会は立っていきま
せん。
151宗教の本道を外れるな
宗教の道が深くなれぽなるほど、この常識の巾が広くなり、奥行きが深くなって、ついには、超
常識の行為ができるようになり、本来の神のみ心の現れの常識となってゆくのであります。
ですから、現在の常識が巾が狭く、奥行きの浅いものであって、こんな常識に左右されて生活し
ていたのでは、人類の進化はこれ以上望めない、と思われても、極端に常識外れの行為をせず、自
然に、次第に、常識が広まり深まるような、祈りの生活や、科学の発展に力をつくしたほうがよい
のです。
今日までの科学の発展によって、どれだけ人類の常識が、広がり深まったか知れません。例えて
いえぽ、人間が、空など飛べっこないという常識が、飛行機の発明によって、人間も飛行機を使い
さえすれば空を飛べるという常識に変りました。また遠く離れていたのでは、その人たちの声も聞
えず、姿も見えぬという常識が、テレビの出現によって、どんなに遠く離れていても、声も聞え、
姿も見えるということになり、そういう状態が常識とされるようになりました。
そういう意味で、科学の発展につれては、人間の常識の範囲は、どれだけ拡がってゆくかわかり
ません。この科学の発展と並んで、宗教的な深まりは、心の世界においての常識を、本来の神のみ
心のままなる、常識にまで深め広めてゆくことができるのです。
152
宗教信仰の道
宗教信仰というと、何か特別なことのように思いがちの人が多いのですが、宗教というのは、自
分の本当の姿を、本当の心をさぐりあてる教えであり道なのです。人間が、初めてこの地球界に降
りてきたとき、一体どんな風であったのか、やはり現在のように考える力も、創造する力も持って
いたわけです。とすると、そういう能力は、U体誰が人間に与えてくれたのでしょう。
人間を造ったものは、一体誰なのでしょう。これだけの智慧能力をもった人間が、ぽっつり単な
る物質の中から生まれてくるはずはありません。魚や鳥でさえなんの力も他から影響もなく、生ま
れてきたとは思えません。そういうように、虫でも魚でも鳥でも動物でもそして生命あるすべての
ものを、今日のようにあらしめている大きな能力を、我々は大生命とも呼び、神とも呼んでいるの
です。
神すなわち大生命、人間すなわち小生命、との一体化をはかり、人間が神のみ心そのものの生き
方ができるように願って精進するのが、宗教信仰の道なのです。
153宗教の本道を外れるな
幽界霊界で道草をくわないこと
154
こり
狐狸や、幽霊などとの接近をはかったりするのは、宗教信仰の道ではなく、ただ単に道草をくっ
ている状態なのです。勿論、この肉体があると同じように、幽霊、実は幽魂のあることも確かなこ
となのですが、肉体も幽魂も、神のみ心が、すっかり現われるにしたがって、きれいに浄まり、人
類から不幸不調和の波を消しさってしまうわけですが、肉体や幽魂に想いがとらわれてしまいます
と、かえって、神のみ心の現れを妨げることになってしまいます。肉体は、こうして五感でみえる
ので、どうもそれに把われるのも致し方ないとしましても、五感にみえない幽魂の世界に把われ
て、神のみ心の現れを妨げる必要はありません。幽界があるということを知ることは、知識として
よいことですが、知ってしまったら肉体のすべてのごとごとと同じように、消えてゆく姿として神
のみ心に、祈り心で消していただく必要があるのです。幽魂などにいつまでも把われていたら、決
して神の大光明世界に入ってゆくことはできません。
禅宗などでは、どんなに神仏の姿がみえようと、幽界の生物の姿がみえようと、すべて無しと断
くとフ
じ て、空の世界のみをめざして坐禅観法をしてゆくわけなのです。ですから、禅宗の修業をした人
の中には、死後の世界や、幽界霊界の生物の存在を全く否定しきっている人たちもいるのです。そ
こがなかなかむずかしいところで、事実は肉体がこうしてあると同じように、幽界も霊界もあり、
その界に住む生物がいるわけですから、ただ単にその存在を否定してしまうと、自分がこの肉体界
を去った場合、自分の想いが死後の世界や、幽界霊界を否定しているのですから、自分のいる場所
がなくなってしまうのです。
そういたしますと、肉体界から想いがはなれきれず、幽界霊界に住居もないのですから、その人
ちゆうう
の想いは、中有に迷ってしまうのです。そうして、幽界霊界の存在を肯定するまで、中有に迷った
ままでいるわけです。
中有というのは、肉体や幽界霊界のように現象的には確固たる場をもっているところと違い、そ
の人々の、その時々の想いの迷いただよっている夢のような状態なのです。
肉体や幽界霊界でも、神界のように実在そのものの世界ではなく、あくまで現象界なのですが、
肉体が手でつかめ、目ではっきり見えるように、幽界も霊界も、その界の住人となればはっきり
と、その存在を確認しうるのです。しかし、中有とは、夢幻の状態のところで、なんらの実体もな
いのです。溺れまいとして、海の中でもがきただよっているようなものです。しかしそうした状態
155宗教の本道を外れるな
も、やがては、守護霊、守護神や祖先の悟った人たちの力によって、脱却してゆくのです。
ですから、単に、死後の世界がないとか、幽界霊界などあるものかと思うような、浅薄な宗教の
道ではだめなのです。
禅宗でも、悟った禅師たちは、死後の世界や、幽界霊界のあることを知っての上で、そうした界
層への把われを断ち切るために、空の世界一辺倒にしているわけで、その差ははなはだしく違うの
です。
幽界霊界のことを研究する場合には、心霊科学のように、すべて科学的な態度ですすめていった
さわり
ほうが、幽霊物語や、障磯に悩まされたりすることが少く、妖しい雰囲気にならずに、物質世界以
外の存在を知ることができるのです。
神の愛を信じ、予言にまどわされるな
しかし宗教の道は、あくまでも人間の本体、本心を求めてゆく道で、神と人間の一体化を実現す
るためのものです。ところが、こうした本道にそれて、いたずらにさまざまの未来の予言をして、
この社会を騒がしている宗教がかなりあるのです。
156
キリスト教のある一派などは、地球人類滅亡を叫んで、その教えにふれた人々が、この世の日常
生活を、まともにやる気力を失い、商売は失敗し、勤めはおろそかになり、常人とは全く違った世
界に迷いこんでいってしまうのです。その人達は、どうせこの世は滅びるのだから、この世のため
に働くことなど捨てて、ひたすら、最後の審判の日に救われることを願い、人々にも一心にそのこ
とを説き続けているようなのです。
近頃は、キリスト教ばかりではなく、いろいろな宗教や、知識人の中にも、地球滅亡を明言して
いる人が多く、人心は暗く沈んでゆく傾向にあるのです。確かに、この世の世界中の状勢をみてい
ましても、地球がこのまま無事にすみそうにも思えぬことは、誰しもうなずくところです。といっ
て、それをすぐ地球滅亡に結びつけてしまったのでは、神も仏もなくなります。そこからが、いよ
いよ神仏の偉大な力が、発揮されてくるわけなのです。
折角今日まで、文明文化の発展をみて、かなりの進化を示してきた地球人類が、このまま滅びて
しまったのでは、余りにも神の愛が足りぬ気がします。神の愛はそんな浅はかなものではないと思
こう
います。人類の業の流れのままでは、確かに地球は滅びの方向に向かってゆきます。しかし人類の
こう
奥には、神のみ心が輝いているのです。この地球人類を業の流れのままに打ち捨てておくわけがあ
157宗教の本道を外れるな
りません。
人々は、そうした神の愛を信じて、地球滅亡の予言にまどわされず、ひたすら神との一体化を祈
り、この世の日常生活を真剣にやりぬいてゆくとよいのです。そのために生まれたのが、世界平和
の祈りなのです。
神(大宇宙神) のみ心は、地球を含めたあらゆる星々の運行、運命の大調和をはかっておられ、
たん
無限の進化がなされているのであります。地球という星の運行が乱れ、運命が破綻すれば、大宇宙
そのものの運行が乱れ、大調和がくずれてしまいます。ですから、地球の運行、運命は、どうして
も最後には、大宇宙の運行にそって正しくあらねぽならないし、運命も明るく調和したものでなけ
ればならぬのです。そのために宇宙神は、各人を守護霊、守護神によって守らせ、地球そのものに
は、地球人類の進化を助けるための神々を派遣してあるのであります。
158
宗派争いは愚の骨頂
そういう神のみ心で地球人類の存在が、確立されているのですから、そうした大きな神のみ心を
体して、地球人類は生きなけれぽいけないのです。神のみ心の一番の根本は、大調和ということに
あります。いかに各人、各国家民族が、お互いの正義を主張しあっても、お互いに相手を倒そうと
するような不調和な想いでは、その行為は神のみ心にあわないし、正義ということにならないので
す。
中近東諸国が、常に宗教の勢力争いで、武器を取ったりしている姿は、決して神の喜ぶところで
はありません。神を敬い、慕うことはよいことですが、自分の信ずる宗派だけをよしとし、自分達
ひぼう
の崇める神だけを唯一のものとして、他の宗教を誹諺し、無いがしろにすることは、神の大調和の
心に照らして、誤りであることは確かです。
本来調和の道であるべき、宗教を遵奉している国や民族が、どうして戦争などするのか、おかし
な話です。どこにその間違いの原因があるのでしょう。それは、神というものの本質を知らないか
らなのです。神は、一国家一民族のためにあるわけでもなく、信仰している者達だけのためにある
わけでもありません。神は、すべてのすべての生命の親であり、神にとっては、すべての生物は
皆、我が子なのであります。そして、神には一定の名前があるわけではなく、人々の要望によっ
て、その働きを仮の名称にして現われられるのです。ですから、あちらに現われた神も、こちらに
現われた神も、根元は等しいものであって、自己の遵奉する神のために、他の遵奉する神をひぼう159宗
教
の
本
道
を
外
れ
る
な
して、争いあうことなどは、とんでもない誤りなのです。
そこには、人間の自己保存の本能からくる欲望が、神の力を背景にして、他との争いを引き起す
のです。自己の欲望達成のために、他の利をそこなう行為をするようでは、真の宗教の信仰者では
ありません。ただ明らかに相手の宗教が邪教であるとわかっている場合、その邪教と妥協するわけ
にはいきません。そこで、その宗教の道が正しいものになるように、自己が遵奉する神に祈りつづ
けることが必要なのです。
神は一神であり、そして多神として、その働きを現わされます。神は一神であるということに把
われず、多神として、何の神、何の神として信仰しても、その信仰は間違っているわけではありま
せん。しかし、どの神を信仰しても、元は、大宇宙神のみ心に通じてゆくのであります。私はその
一番身近かな神を守護神と呼び、その守護神によって浄められた祖先の悟った霊を守護霊と呼び、
この守護の神霊にすべてを託して、日常生活をしてゆくように人々に説いているのです。
宗教宗派の争いなど、一日も早くこの世からなくなるよう祈らずにはいられません。
ところで人々は、宗教というと特別な道のように思いがちですが、実は、愛の行い、善の行い、
真の行い、美の行いなどを、人間の絶対必要な行いを、神のみ心として行なってゆこうと努力精進
160
,
してゆく道なのであります。そのように努力精進してゆくうちに、神のみ心と、
つになって、聖者とも呼ばれるような、立派な人格になってゆくわけです。
人の心とが全く一
感応のある人、感応のない人
宗教の道に入って、祈りつづけていると、光が見えたり、仏、菩薩の姿が見えたりするようにな
ることがあります。またそうした人と同じくらいの努力精進しても、なんらの感応のない人もいま
す。そこでともすると、感応のある人のほうが偉く、感応のない人のほうが低いと、自からも思い
がちですが、実は、そうした感応だけで、霊位や、人格の高低を定めるわけにはいきません。
じこも
仏、菩薩や、光明を見なくとも、霊位が高く清らかな人は、祈っているうちに自から、心自依が
明るくなったり、確固たる勇気が、湧き上がってくるものなのです。仏、菩薩や光明をみる人は、
過去世からの霊修業の結果がそこに現われているのですが、これにも二種類ありまして、肉体が全
く神霊の体と一つになり、神界の真の姿をみている場合と、幽体の想いの波の中で、幽界の生物の
けさ
化作する仏、菩薩の姿をみせられたりする場合があるのです。この場合は、神霊の体と一つになっ
て神界をみているのと違い、心の底からすっきりと光明化している感じはしないのです。そこのと161宗
教
の
本
道
を
外
れ
る
な
ころで、よく自分の統一をみきわめるとよいのです。
仏、菩薩や光明を直接みないけれど、統一していると、心が明るくなり、心が落ち着いてくるよ
うな人は、過去世で特別の霊修業はしないけれど、愛の行為、善の行為をしてきたすぐれた人々な
のです。
ということで、各人各様の統一の状態があって、人のまねをする必要もなけれぽ、人を羨やむ必
要もないのです。それから、いくら統一しても、雑念ぼかり湧いてどうにもしょうがないという人
もありますが、その場合はその人の幽体についている雑念が、統一による神霊の光明に照らしださ
れて、しきりに消えてゆく状態であって、その人のその場における想念波動は、神霊の波の中にあ
って、その雑念とは関係ないのです。その真理を知ることが、宗教的境地を急速に高める大きな要
素となるのです。
162
〈さい宗教者にならないように
といっても、いちいちその想いに把われることはなく、日々守護の神霊への感謝をおこたらず、
世界平和の祈りを心の中で唱えつづけていれば、その人の魂は自分が気付かぬうちに、浄まり高ま
ってゆき、立派な人格として接する人々の目に映ってくるのです。ですから、霊位のことを考える
ことも、仏、菩薩や光明を見ようとすることも必要ないので、もし守護の神霊が、その人のために
仏、菩薩や光明をみせたほうがよいと思えば、みせてくれるものなのです。
要は、宗教をやらぬ一般常識人の目でみて、余り奇異にうつらぬよう、ひたすら守護の神霊に感
謝をしつづけ、世界平和の祈りを続けていけばよいわけです。一つの宗教団体に入ったために、独
善的になり、近所付き合いや、知人交友関係が狭まってゆくようでは困ります。宗教の道に入れば
入る程、心が明るくなり、心が広くなって、多くの人の想いを入れて、それを昇華してゆくことが
出来るようになることが、本当の宗教者なのです。
いわゆる、くさい宗教者にならぬようにと私は願っているのです。個人が、神との一体化を完成
し、愛そのものの人格となる時、国や民族の心も、それだけ調和したものになってゆくことでしょ
う。そのため世界平和の祈りを根底にして、私達は生きてゆこうと思うのです。
163宗教の本道を外れるな
164
今日からの宗教
日本に国教はなかった
一般的日本人の宗教というものは面白いもので、欧米諸国のように、キリスト教ならキリスト教
で、生まれた時から日曜日には、教会へ行く、というようなきまりがなく、各自勝手に自分の選ん
だ宗教をやっていて、国の大半が日曜日には教会へ行くなどという習慣はありません。
かいきよう
外国の多くは、キリスト教とか、回教とかいうように、国教或いは、国教的なあり方で行じられ
ておりますが、日本には憲法で定められたように、国教も、国教的なものもなく、自由そのままに
行じられております。戦前には、神道が国教のようにあつかわれていましたが、これは天皇家が伊
こうたいじんぐう
勢の皇太神宮を信奉しておられたので、国民は天皇に右へならいをしていたのであります。
ですから、欧米人がキリスト教を国教のようにしていたのとは、わけが違うようです。そこで終
戦になって信教の自由の憲法ができると、国民は、唯物論の者は別として、神道、仏教、キリスト
教と気ま玉に宗教の道に入ってゆき、今日では、新興宗教に走る人が多く、既成宗教の力が失われ
ていったのでした。
欧米諸国が大体キリスト教を根幹にしていますのに、日本ではどうして根幹になるような宗教が
あらひとがみ
ないかと申しますと、かつての日本の宗教の根幹は、天皇を現人神としての神道宗教であったので
した。それが終戦によって一挙に崩れてしまったので、国民の心は、思い思いの宗教の道に走るこ
とになったのであります。
日本の宗教は、欧米式の宗教観念ではなかったともいえるのです。欧米諸国は、どちらかという
と、魂的に哲学的に宗教を求めていた、という向きが多かったようですが、日本では、自分たちの
生活の守護の力として、魂の救れというより、現世利益的に、神々にすがっていた、いわゆる、観
音信仰、稲荷信仰というものが多かったのです。
戦前でも、表面には神道がでておりましたが、一般には仏教信仰が多く、それも現世利益的なも
165今日からの宗教
のや、現世利益的観念で、あの世での幸福を仏さまからいただこうというような形になっていまし
た。それが、今日では新興宗教に走っていった大きな原因となっているのでしょう。
166
聖者方の出現
ですから、現世利益をぬいた既成宗教は、力を失っていったのです。しかし宗教の正しい道は、
釈尊をはじめ諸聖者が説いている教えの中にあるのでして、現世利益はあくまでその行いの中から
たんとうちよくにゆう
自然にもたらされるものであるのです。キリスト教などは、単刀直入に、絶対者である神の国に
入ることをすΣ め、神の国の正しきことを知れといっているので、現世利益よりも何よりもかによ
まきよくげん
りも、真っしぐらに神を求めることを極言しているのです。そこで私も現世利益のことは、さてお
いて、宗教の根本の道を、各聖者の教えに照らして、書いてゆきたいと思います。
くうかいでんぎようほうねんしんらんどうげんにちれん
仏教には、人々に知られた人で、空海、伝教、法然、親鸞、道元、日蓮など数えきれないほどの
聖者がいます。そして各自が、各自の教えを身をもって行じてます。
空海と法然親鸞、法然と道元、道元と日蓮、根本は皆同じなのですが、教え方や行じ方が、まる
ねんぶつむげんぜんてんま
で異なっていたりします。日蓮などは、念仏無間、禅天魔、等といって、自己の教え以外を徹底的
ばとうむげん
に罵倒しました。はたして日蓮のいうように、念仏の教えは、人々を無間地獄に落したり、禅の教
えが天魔の教えだったりしたのでしょうか。念仏の教えや、禅の教えを間違って行じて、地獄に落
ちた人もあったでしょうが、教えそのものが間違っていたということはないのであります。
こΣ で、ちょっと各聖者の在り方を書いていってみましょう。先づ弘法大師、空海ですが、空海
さんは、全国各地の道を開いていった方で、一般国民の間ではお大師さまといわれ、各地で運命を
あが
守って下さる神様として、広く崇められておりますが、教えとしては一般的にはあまり知られてお
しんこんみつきよう
らず、真言密教として、その道の専門家の間で研究されつづけております。空海さんは奇蹟の宗教
ふだしよ
家として、大師の歩かれた各所でその奇蹟の話がたくさん残っておりますし、各所ではお礼所とし
て、大師の開かれたところを、お詣りして歩く人々が多数おられます。西国の霊場三十三ケ所、四
国八十八ヶ所というなど有名なことです。
道元と坐禅
たんざさんぜん
道元さんとなると、これとは全く反対に、端坐参禅といって、ひたすら坐わることを実行させて
おります。道元さんの教えは、すべてに把われぬこと、というのが主眼でありまして、教えにも教167今
日
か
ら
の
宗
教
ぶつぼう
える人にも、如何なる師にも把わるxことなくひたすら法の流れに乗り、仏法そのものになりきる
ことを説いていたのであります。これはどういうことかと申しますと、肉体人間にも幽体の人間に
くみノ
も、すべての現れの想念行為をすっかり離れきった空の境地を求めつづけるため、釈尊にすら想い
をとどめてはいけないといっていたのであります。
道元さんにとっては、個人の自己として現われている者を、すっかり捨てきらなければ、仏法の
もとい
基である真の実体を知ることができないと想えたからなのです。肉体は勿論、幽体であれ、霊体で
いのち
あれ、神体であれ、自己として現われた想いをすべて捨て切らなければ、絶対者であり、生命その
ものである、実体を知ることはできない、という、とことんのところまで突き進んだ心になってい
たのであります。
ざぜんかんぼう
ですから、坐禅観法の中で、仏菩薩の姿に接しようとも、それすらに把われず、捨て切ってゆ
く、という坐り方をしたのであります。この坐わるということでも、足を組んで坐わるということ
だけではなく、歩いていても、働いていても、心はいつも動かない、という境地になることを実行
していたのであります。
しようぽうげんぞうずいもんき
正法眼蔵随聞記の中から、道元の言葉を少し引いてみましょう。
168
坐禅のことについてこういっています。
ざはぶつぎようざはすなはちふいなりこれすなはじこしようたいなりこほかべつぶつぼうもとべな
「坐すなわち仏行なり、坐即不為也。是即ち自己の正体也、此の外別に仏法の求む可き無き也」
(随聞記三-十)
これは坐禅することがすべてであって、他に方法はないと極言しているわけです。坐わることに
しゃりかいげんどうげん
よってすべてを捨離し本心を開顕し得ると道元さんは信じていたのであります。また別のところで
こじん
は、古人の言葉として、
ひやくしゃくかんとうさら
百尺の竿頭に更に一歩を進むべし、といっています。これは肉体的想いの働きを捨て切って前
へ進めということでありまして、坐禅観法によって得るところの境地なのであります。また次のよ
うなこともいっています。
道元と法然
すべて、自分というものを捨てるということをいっているのですが、念のために書いてみます。
(現代語訳)
ていおうひけつ
「俗世の帝王の道の秘訣を説くのに『心をむなしくしていなければ忠言を受け入れることができ169今
日
か
ら
の
宗
教
ない』といっている。その意味は、自分の考えをすてて、忠臣の言葉にしたがって、道理のままに
帝王の道を行なうのである。
禅僧が仏道を学ぶ秘訣もまた、この通りであろう。もし自分の考えを持っていると、師匠の言葉
ほう
が耳にはいらないのである。師匠の言葉が耳にはいらなければ、師匠の法が身につかないのであ
る。
さらに、ただ教えの上でのちがった考えを持たないばかりではない、世俗の事をいっさい持ちこ
ほう
まず、飢えや寒さも念頭におかず、ひたすら身心を無にして法を聞く時こそ、真に身に親しく聞け
ふしん
るのである。このようにして聞くとき、道理も不審も、自然に明らかになるのである。
とくどう
真実の得道ということも、これまでの身心をなげ捨てて、ただまっすぐに師匠の教えについてゆ
けば、それがとりもなおさず真実の仏道の人なのである。
これが第一の秘訣である」(随聞記一-十四)
じこしやり
と徹頭徹尾、自己捨離の道を説いているのです。そして、坐禅観法によって、仏法そのものを行
じることのできる境地になるよう、教えているのであります。
ほうねんどうげん
法然さんになりますと、道元さんのように厳しく自己を叩きつゴけるというようなことはなく、
170
ただひたすら、念仏一念になって、すべてを阿弥陀様におまかせするという、他力行によって、お
と
のつから自分というものを捨てきってゆく、いいかえれぽ、阿弥陀様の中に自分を融けこましてし
まう、という生き方を、人々にすすめたのであります。
道元さんと法然さんとでは、自力と他力という対照的な在り方にみえますが、根本の生き方は、
だいせいめい
共に絶対者、大生命の中で生きつづけている自己を見出そうとしての自力行であり、他力行なので
す。
阿弥陀仏の化身
ささんぽう
自力といっても道元さんも、寝ても醒めても三宝を唱えることをすすめていることもありますの
で、絶対自力ということは誰にもできないことなのでしょう。法然さんのように、その頃の随一と
しようみよういちねん
いわれた学者なのに、そのすべての学問知識を捨てて、阿弥陀仏の中に称名一念で飛びこんでい
ちよつと
ったのですから、実に見事なものといわねばなりません。一寸の知識でもこれみよがしに鼻にかけ
て、自己をみせたがる人の多い人間の中で、法然さんのような人は滅多にあるものではありませ
にく
ん。法然さんの出現によって、その頃宗教的に悩んでいた人々は勿論、その頃の生き難い社会で、171今
日
か
ら
の
宗
教
苦悩の日夜を過していた多くの人々が救われていったのですから、絶対他力ともいうべき法然さん
とくひつたいしよ
の生き方は、日本宗教史の上にやはり特筆大書すべきでありましょう。
法然さんの出現によって、親鸞さんが生まれました。親鸞さんは、法然さんとはまた違った意味
さいたい
で多くの人々の生き方の参考になったのです。法然さんは妻帯致しませんでしたので、一生独身の
自由の身だったのですが、親鸞さんは妻や子をもっていましたので、法然さんのように身心が自由
でなかったこともあったでしょうが、常に自分の周囲の生活環境をみつめては、思い悩んでいたこ
しさく
とがあったようです。親鸞は元来今でいう知性派的な想いのあった人だったので、何かと思索しが
ちな性情をもっていました。それで、その頃はじめての僧侶の妻帯ということで、人一倍心を悩ま
していたに違いありません。
もし仮りに法然が妻帯していたとすれぽ、親鸞のようには悩まず、その時々の環境もすべて阿弥
陀仏に任せきって生きていただろうと思いますが、これはそうなってみたことがないのではっきり
とは言い切れませんが、法然さんの日頃の行為に照らし合わせてみますと、親鸞さんよりは一歩深
と
く阿弥陀仏の心に融けいっているようで、より大きな深い心をそこに見出します。
けしん
言いかえますと、法然さんという人は、もうすでに肉体身の法然ではなく、阿弥陀仏の化身とし
172
ての法然であったようです。それにくらべますと、道は一つの道でありながらも、親鸞さんはその
ゆえん
境地にまではゆきついていませんでした。それは親鸞さんがあまりにも知性的であったことに由縁
するのでしょう。しかし親鸞さんのそういうところを、現代の知性派の人々は同感しまして、イン
テリゲソチャーには親鸞好きの人が多いのであります。
宗教界の光明
いぎようどう
それはそれとして、法然親鸞という系統を一つにして、易行道の念仏の道が築かれておりますの
じこぎようし
で、法然と親鸞とを離して考えることはできません。法然の慈悲心と親鸞の徹底した自己凝視、こ
れは後世の人に大きな道標となっているのであります。同じ易行道他力の道でありながら、すっか
り他力になりきっていた法然さんの生き方と、南無阿弥陀仏一辺倒になりながらも、常に自己反省
をおこたらなかった親鸞さんとは、真理の面からみれば、法然さんがはるかにぬきんでています
が、宗教的魅力の点では親鸞さんが上のようです。ともあれ、法然親鸞の出現は、日本の宗教界に
おいては、光明そのものであったのには間違いありません。
法然出現以前の宗教団体は、一般国民の融けこんでゆけるようなものではなく、学問知識をもて173今
日
か
ら
の
宗
教
あそんでいた感じでありまして、上層階級は入ってゆけても、一般国民の救いにはなっていません
しよみん
でした。鎌倉時代というのは、庶民はただ生きてゆくのに大変で、生きているより死んだほうが増
しだというような生活状態の人が多かったのです。
ですから、むずかしい宗教理論よりも、すがれぽ救ってくれる宗教をのぞんでいたのです。そこ
へ法然さんの易行道念仏門が出現したのでありますから、我も我もと、南無阿弥佗仏を念ずるよう
さいほうごくらくじようど
になったのです。念仏さえしていれば、この世はとも角、あの世へ往く時は、西方極楽浄土にいら
コもと
っしゃる阿弥陀様の下に往けるのだ、というので、庶民の心はにわかに明るいものになっていたの
です。
伝教大師たちの教えは立派で素晴しいものでしたが、庶民の手のとどかぬところにあったので、
かつ
渇えた人が水を飲むように、念仏一辺倒になっていったのでした。しかし、そうした理論的には学
ひえいざん
問要素の少ない教えにあきたらない人で、比叡山仏教には入れない人たちが、法然没後に出現した
道元禅師の下に走ったのですが、道元の教えは厳しくて、弟子として確実にその道についていった
人は少なかったようです。
いしずえ
鎌倉時代は、そうした秀れた僧がかなり出て、日本仏教界の礎がつくられたのであります。日
174
しようとくたいしもとい
本の仏教は勿論聖徳太子によって、その基が出来たのですが、鎌倉時代に至って、真実踏み行なっ
てゆける日本仏教が生まれ出たともいえるのです。
日蓮上人などその最たるものです。あの戦闘的な他宗排撃は宗教の調和に欠けていたようですが、
それにはまたそれの意味があったのでしょう。
現代が求めている真実の道
こんこう
日本の新興といわれる宗教団体は、大体神道系統と日蓮宗系統それに神仏混交、それにキリスト
たましいてき
教、心霊研究などの型が多いのですが、勿論魂的精神的だけ求めている団体や信徒はおります
が、大半は病気が直りたい、生活が楽になりたいという、現世利益的な宗教が多いのです。肉体が
主になって生活している人間にとっては、それも当り前の気持かも知れません。
しかし今日の世界状勢は、個人生活だけがよければよい、というような状勢ではありません。
個人の生活はそのまま国家人類につながっておりますので、今こそ真の宗教的生き方が必要にな
っているのです。
ところが、実際は、自分たちの生活を守るために必死で、自分たち以外のことを考えるのは、な
175今日からの宗教
かなかむつかしいのです。自分を捨てて人のためにつくしたいという人もいるのですが、そういう
人は共産主義者や特殊な生き方をするようになっていて、他との調和に欠けてしまうのです。世界
が真実に平和になるためには、個人の一人も調和した心になって生活しなけれぽいけないので、自
分たちだけの生活方法がよいからといって、他の生活を排撃したりしてはいけないのです。
ていしよう
そこでどうしても、私の提唱し推進しているような、祈りにょる世界平和運動という在り方がよ
いということになってきます。悪いもの不調和な状態は、すべて過去世からの或いは人類の歴史的
か
な誤った生き方が、果と現われて消えてゆく姿として、そこから改めて大調和の生き方をしてゆ
く、消えてゆく姿で世界平和の祈りという教えになってくるわけです。日本の今日からの宗教はこ
ういう生き方にしてゆかねばならぬと思います。そして一方大調和に向う科学の道が開かれてゆ
く、という二本立てで日本も世界も立派になってゆくのであります。
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