光明をつかむ


序文
人間がこの世における理想としてもっているものは、生きてゆく苦しみ、病気の
苦しみ、貧乏の苦しみ、争いによって起る苦しみ、死の苦しみ、といった苦しみの
ない世界を、この世につくりあげることである。
いいかえれば、個人と人類の完全平和達成ということである。
ところが、現実の世界は、いつまでたっても、この苦しみをなくすことはできな
いし、かえって昔より苦しみの増しているものさえあるくらいなのである。
いろいろ
遠い昔から、種々な聖者賢者が各時代に出現して、この苦しみを超える方法や、
無くす方法を教えてくれてはいるのだけれど、この方法がすべてといっていいくら
1
い、理想のほうに近くて、現実の方法としてはむずかしいことばかりなのである。
むいくう
老子の無為にしても、釈尊の空の教えにしても、キリストの全託の教えにしても、
あまりに理想のほうに近ずきすぎていて、現実に実行するにしては、なかなか手が
とどかない、という嫌いがあるのである。
たとえていえば、「汝の右の頬を打つ者があらば、左の頬も打たせよ」とか、「下
衣を取る者があれば、上衣をも与えよ」とかいう、イエスの教えでも、これを実行
しようとして、精神を深めてゆく効果はあるが、実行するとなると、できる人がは
なはだ少嶋
老子や釈尊やキリストの聖書を読むことは、精神が純化されて、その時だけでも、
魂が高揚するので、非常に人間にとって、ためになるので、人類にとって実に益の
こう
あることなのだが、現実生活での実行の面となると、この地球界の業の波が強すぎ
て、これらの聖者の教えている真理への道を歩むことが、まことにむずかしいので
ある。
2
そこで、どうしても、こうした聖者の教えと現実生活とを結ぶ教えが生れてこな
ければならぬ、と私は若い時から考えていた。そこに生れたのが、消えてゆく姿で
世界平和の祈りという教えなのである。
現実生活そのままで、特にむずかしい行というものもなく、何気なく入り得て、
いつの間にか、自己の魂が純化されている、という方法が、この教えなのである。
理想理想と理想を追い求めるのではなく、現実生活での一寸した努力精進で、自
己の心が立派になり、そのことがそのまま、人類の理想達成にもつながってゆく、
という方法が、この本にはくどいほど書かれているのである。一読して、書いてあ
る通りの方法を気楽に実行していただければ、筆者も幸甚である。
昭和四十七年一月
著者識
3
4
9
目次
序文
総親和について
自分との調和
く凝ノ
空について
理想と現実
57 40 23 7 1
宗教理念と実生活
妥協と調和
2 75
相対観念を超えよ
現実生活を生かす
人間の生命と体
精神生活と物質生活の調和
真理の光に照らされた生活
183 165 146 t28 110
5
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人間と真実の生き方
わけみたまごうしようしゆこれいしゆごじん
人間は本来、神の分霊であって、業生ではなく、つねに守護霊、守護神によって守
られているものである。
かこせ
この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念が、そ
の運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
いかなる苦悩といえど現われれぽ必ず消えるものであるから、消え去るのであると
いう強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し茜どんな困難のなかにあ
ゆるゆるまことゆる
っても、自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづ
けてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の祈りを祈
りつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得出来るものである。
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総親和について
社会生活の中で人間性の探求を
なんじ
ギリシャの哲人ソクラテスは、「汝自身を知れ」といって、自分自身の本質を知ることによって、
宇宙の心を知ることができると説いていますが、実際、人間の本質を知ることはむずかしいことで
す。
この世の人々は、哲学とか宗教とかの道を進む人は別として、ほとんどの人が自分自身を知ると
いう一番重要なことをないがしろにして、社会生活の渦に巻き込まれてしまっています。しかし、
これもいたし方ないことと思います。なぜならば、この社会の動きというものは、急速な変化をと
げつつあり、それに適応していくのに忙しく、自分自身を内面的に見っめつづけている時間が非常7







に短いのです。そこで、社会生活と切り離した自分自身の本質を探求するという機会が失われてい
くわけです。昔の西行や芭蕉のように、家を捨て、諸国を巡りながら、自己の本質を見っめつづけ
てゆくというような悠長な時間は、現代の人々には許されていません。
一人の人間はそのまま社会人であるということが現代人の特徴であり、自己を磨きつづけてゆく
ということも、社会人のそれとしてでなければ、なかなかできにくくなっています。一人ひとりが
社会人であることによって、その社会の発展もその国家の発展もあるのです。
私は現代の人々が、そうした社会人としての連帯責任をのがれて宗教教団にはいりこみ、なんら
の生産活動にたずさわらずに、自己自身の心の安らぎだけに没頭するというような状態を好ましい
とは思いません。一人ひとりの個人が社会生活の中で、ある人はメーカーの社員となり、ある人は
商社や銀行の勤務のなかで、ある人は工員や農夫となり、ある人は役人や教育者や科学者や芸術家
となって、社会のために働きつづけるということが、社会人としての、さらに国民としての義務で
あり、生きがいであると思うのです。
現代では、いま述べたように社会生活を通じて人間を磨き、その本質を見出してゆかなければな
らないのです。
8
社会をはなれての個人はなく、国家をはなれての国民もなく、人類世界という共通の場をはなれ
た国家もないのです。個人、社会、国家、人類というものは、まったく一つにつながった存在であ
り、この一つひとつを切りはなして人間を考えることは、もはやできないのが現代なのです。
ですからあなたといい、私という一人ひとりの人間は、個人というものであると同時に、職場と
いう集団の一人であり、社会、国家、人類というしだいに大きな広がりを持つ集団の一人であると
なんじ
いうことになります。ソクラテスのいう「汝自身を知れ」ということも、こういう時代の状態と社
会性を考えて、その基盤にたってなされないと、社会からはみ出したものになり、世に容れられな
いもの、中途半端なものになってしまって社会生活から落伍してゆくのです。自分自身の本質を知
るという大事なことが、ないがしろにされてしまうということは、こういう現代社会の生活状態か
らそうなるのであり、逆に考えれば、現代生活こそ自分自身の生活を知りうるもっともやさしい時
代なのです。
自我と社会集団の調和を
人間の大脳を考えると、大脳皮質の中には古い皮質と新しい皮質があり、古い皮質には、集団で
総親和について
9
生きずにはいられない本能的な働きがあり、新しい皮質には個人の自我本能があって、自分を現わ
すためには他を消滅させることもいとわぬ闘争本能があるといわれています。
このように大脳の仕組みの中には、集団のなかで生活したいという本能と、個人の自我を現わし
たいという本能とを上手に調和させることによって、その人は社会生活の中で、職場の中で、自己
の能力を十分に現わしながら、社会に役立つ有意義な働きができるのだと思います。
このようにだれにもある自我を現わしたいという思いと、集団生活をしたいという思いとの二つ
の本能の中で、自我を現わすという本能が強くなった場合には、いかなる才能があろうとも、その
人はついにその職場や社会においての敗残者となってゆくのです。
大脳の仕組みは、明らかにそれを証明しています。さらに脳幹の生命そのままに働くという本能
のあることを知りますと、人間の生き方というものが、一つの方向を指向されているのがよくわか
るのです。現代における真理の探求は哲学とか、昔ふうの宗教観念のなかにあるのではなく、意外
とおと
なことに科学の道にあることが判明してきます。聖徳太子のいわれた「和をもって貴しとなす」と
いう言葉が、大脳の仕組みの中にもあったということはおもしろいことです。
ひたい
大脳の仕組みというものは、じつにおもしろくできていて、ちょうど額の奥のあたりに前頭葉と
10
いうところがあります。これは人間以外の動物にはないもので、ものを考える場、ものをつくり出
す場、そして意志決定をする場、情操の心の座という場なのです。こういうすばらしい場でありな
がら、反面には個性を与える座としてあるために、優越感や自負心や競争意識がこの場で培かわ
れ、それが征服欲、権力欲などになり、人類を戦争にまでかり立ててしまうのです。一方では人類
の進歩に寄与していながら、一方では人類を滅亡に導く働きを持っているという、大きな矛盾があ
るのです。
こういう両面の働きが大脳皮質の前頭葉にあるということは、人類が大自然の産物でありなが
ら、自らが自らの運命を決定していかなければならないという、動物とは異った自由意志を与えら
れていることにほかなりません。
ですから、個人も人類もすべて自己の意志によって、自らの幸、不幸をつくり出してゆくもので
あり、他動的に決定されてゆくように見える運命も、じつは個人および人類が長い期間、個人的に
は仏教的にいう過去世からの自己の想念所業によるものであり、人類的には過去からの歴史の歩み
にょるものなのです。
人間とは、鉱物(元素)、植物(自律神経系)、動物(大脳の古い皮質の働き) の上に、それらを
11 総親和セこついて
統御、発展させる前頭葉の働きがあり、大自然(神) の運行に準じていくものなのです。そして、
その大自然の運行というのは、小は素粒子の働きから、大は宇宙の星々の動きに至るまで、すべて
その大調和をめざしてなされているのですから、人類がその運行を確固たるものにするためには、
大自然の運行のとおりに調和をむねとして生活していかなければならないのです。
12
現代人に必要な調和の精神
人類が調和を度外視して人類の発展を考え、国家間が調和を乱しつつ各国の利益を計ったとする
と、それはその場、その場で一時的に利益はあったとしても、将来大きな損失を招くのは当然で
す。ところが人間というものは、大脳の前頭葉の一面の作用で、自己を現わしたいという欲望が起
るので、一方では調和しなければいけないと思いながら、片方の自己顕示の欲望に引きずられて、
他を追い落しても自己の地位の向上をはかったりしがちなのです。これが国家という大きな集団に
なると、ますますこの欲望が増加して、自国の利害のためには他国の損失などに思いが至らぬほど
になり、お互が他国の上に出ようとするのです。
現在の国家間の様相を見ると、大国といわず、小国といわず、そうした態度が歴然と現われてい
ます。他国を援助する場合でも、必ずといっていいほど自国の権益の拡張とか、自国の傘下に引き
入れようとする意図などが隠されていて、純然たる愛の精神や調和の精神とはなっていないので
す。いつまでたっても国際間の紛争が絶えないのは、やはりこうした利己主義の態度が各国家にあ
るからで、こういう態度では世界の完全平和など思いも及びません。
そこである人々は、世界人類の平和などとても望みのないことだから、瞬間瞬間を、刹那刹那を
楽しんで暮そう、あとのことはどうにでもなれ式の生き方をしているのです。
ところが世界人類の平和というのは、結局は一人ひとりの個人の心の問題が大きく左右するので
あり、一人ひとりの個人が調和した毎日の生活をつづけていれば、その広がりはやがて社会、国家
に影響し、ついには人類すべての平和ということに結びついてゆくのです。
自分が平和をつくる行為をなに一つしないで、かえって自己の職場において他との融和を欠くよ
うな行為をしている人が、口先きだけで戦争反対を叫び、他国や自国の政策を非難し、世界平和を
唱えているのをよく見かけますが、世界の平和は国家と国家とで突然にできるものではなく、各国
家に籍を置く個人個人の平和な心が、調和した日常生活が、その国を真実の平和国家としていくの
であります。職場で自己の思想を通そうとしてお互いがいがみ合い、人に嫌われるような行為をし総






13
ていたのでは、その人は社会の秩序を乱し、さらには世界の平和を乱す人といわねばなりません。
世界人類の平和を招来するのはせんじつめれば、各自の心が平和に向っているか、いないかにあ
るのです。ですから、あまり大きなことをいう必要はありませんが、自分自身がつねに家庭におい
て、職場において調和した気持になり、だれとでも親しく協力していくことが、世界平和につなが
り、すべての人々との親和をつくり出す知性のある現代人に課せられた大きな使命だと思います。
14
人類が負う共通の課題
人間というものはおかしなもので、こういう生き方をしていては、将来において悪い結果を及ぼ
すのだ、と思いながらも、日頃の習慣の惰性にひきずられて、その場その時々の自己をかばう想い
とか、自己の欲望を満足させるためとかで、行為しがちです。
それは個人ばかりではなく、国家間の問題でも同じです。国家間のことはひとまずおいて、個人

のことについて申し上げますと、夜更かしをしては明日の仕事に差し支えるということは充分承知
していながら、友だちとの関係とかその遊びの面白さとかにひかされて、当然睡りに入る時間まで
遊んでしまう、そういう悪い習慣がついてしまうと、なかなかそこをぬけ出せないで、なにか大き

な失敗をしてしまい、そこではじめて目覚めてその悪習慣を超えることができるようになる、とい
うことが、日常茶飯事にたくさんあるのであります。
自分で悪いと思う習慣があったならば、どんなことをしても、その悪い習慣や誤った行為を改め
なければいけません。これはだれでもいうことだし、あたりまえのことでありますが、日々瞬々自
分で直そうと気をつけないと、いつの間にかぬきさしならぬ悪癖となってしまうのです。

その中でも一番根本的なことでもあり、どうしてもその問題を超えなければ、個人も人類も真の
幸せをつかむことができない、という悪癖を人類のすべての人が持っているのであります。それは
いんぺい
どんなことかと申しますと、自己保存の本能ということと、自己隠蔽ということなのです。自己保
存の本能というものは生物すべてに与えられている本能でありますが、人類においてはその本能が
複雑な内容をもっているのでありまして、この本能を純化しない限りは、やがて人類は滅亡するよ
り仕方のない、という生物には必要でありながら一方では恐るべき本能なのであります。それは前
述しました、大脳の仕組みが、個人に優越感や自負心を与えるとともに、集団生活をしなければい
られない、集団のために働きたいという、一見矛盾する仕組みになっているので、自己顕現のため
の他との競争意識ということと、集団の一員としての自己抑圧ということとの調和が実にむずかし総






15
いことになってしまうのです。
この矛盾を取りのぞくためには、どうしても、自己保存の本能というものを超越してしまわなけ
ればならないのです。これからの人類の進化というものは、この一点にかかっているのでありま
す。現在の人類というものは、確かに幾多の進歩をとげて今日に至っております。しかしこの本能
を超えなければ、人類の進化はここでストップされ、やがて自滅してしまわなければならなくなり
ます。
16
調和乱れる人類の現状
ちなみに国家間の様相をみて下さい。米国のベトナム爆撃といい、ソ連のチェコ侵入といい、一
体これはどういうところから起ってきている事態なのでしょうか。すべてこれ、自国を守ろうとい
う本能的な行為から起っているのです。個人的にいえば、自己保存の本能なのです。ベトナムが共
産主義になっては、アジアがすべて共産主義化してしまう、そうなればアメリカも危い、というそ
ういう恐怖心から、米国が先手を打って、自国から少しでも遠く離れたところで、共産主義の滲透
はば
を阻もう、という意図でベトナム戦争がはじまったわけです。一方のソ連はチェコがソ連と異なっ
た自由化思想にチェコを持っていってしまえば、やがては西欧や米国の自由陣営にひきずられてい
ってしまう、そんなことになったら、ソ連は孤立化してしまってソ連自体が危険になってしまう、
というところから、世界中の反感をものともせず、武力の威嚇の下にチェコに侵入していったわけ
で、これも自国防衛の意識過剰な行為なのです。
こういう米ソの在り方を冷静に客観的にみておりますと、実に無法な馬鹿げた行為にみえるので
いんべい
ありますが、さてこれが、自国の問題となってまいりますと、様々に自国の良心を隠蔽しながら、
適当な言い訳けをしながら、自国も米ソと同じような行為をしないとはいえないのです。個人にし
ても国家にしても、自己保存の本能が純化されない限りは、こういう馬鹿げたような事態がつづく
のです。
自分を守るという本能と、自己の本心(良心)をおしかくして、物質欲とか、権力欲とか、性欲
いんぺい
とかの想念に流されてゆくのを、言い訳けする自己隠蔽の想いとが混ざりあって、この世の道を住
みにくくしているのでありまして、これが大きく国際間の問題となってきますと、戦争という形に
なってくるのであります。
米国やソ連や中共という大国の在り方にも、イスラエルやアラブ諸国やその他諸々の小国の在り総






17
カルマ
方にも、仏教的にいう人類の業というもの、キリスト教の原罪というものの恐ろしさというものが
にじみ出ています。個人的にも自己の生活を守るために、自己の良心をおしかくして生きているの
だし、国家的にも、国を守り、自国の権力を広げるために、宇宙の本質である大調和の流れを乱し
て恥じないでいるのですから、ここで人類全体がなんとか考えなければ、個人も人類も同時に滅亡
の方向に運び去られてしまうのです。
自己を守り、自国を守るという本能そのものは別に悪いことではなく当然なことなのですが、こ
れが、他人や他国もそうであるのだ、お互いを守り合いたいのだから、お互いが侵しあってはいけ
ないのだ、とはっきりわかれば問題はなく、個人も人類世界も、正しく明るく神のみ心のままに生
きてゆけるのですが、どうしても、お互いが自己をより以上現わしたいと思ったり、自国の権力を
増大させたい、という気持を起してしまうのです。ある個人やある国家は、つつましく自己を守っ
て生きてゆこうとするのですが、自己顕現欲の強い個人や国家が、そうしたつつましい個人や国家
の権限を侵かしてでも、自己拡張をしようといたしますので、どうしても地球世界の調和は破れて
戦争状態が起ってしまうのです。動物世界と同じような弱肉強食の世界が人類にもくりひろげられ
て、せっかく他の生物に比類のない、創造力や知能力を与えられながら、その結果は動物以下の惨
18
状を呈することになっているのであります。
正義の基礎
そこで私は申し上げたいのです。個人あっての人類であり、人類あっての個人であって、単なる
個人だけの個人というものは、現在の社会では通用いたしませんし、個人のない人類というものも
カルマこ
あり得ないのですから、個人がまず立派に業や原罪を超えて生きてゆき得れば、それだけ人類の
カルマ
業、つまり誤った生き方が減るわけなのです。
一人ひとりの個人というものほど、会社にとっても社会にとっても、国家にとっても、人類全体
にとっても大事なものはないことになります。そして自分自体にとっても、自分ほど大事なものは
ないことになります。自分を大事に成長させることほど、自分にとっても世界にとっても大切なこ
とは他にないのであります。その原理がわからなくて、いたずらに会社の在り方に反抗したり、政
府の施策にいちいちたてついたり、他国の在り方を非難攻撃して、革命まがいの暴力沙汰を起した
たぐい
りすることは、幼い子供の類のすることでしかありません。
自己の正義感を満足させるために、会社の在り方に常に反抗する従業員というものは、全体の調
19 総親和について
和を破ることになるので、その会社では必要としないことになります。その従業員は速やかに自己
の正義感を満足させる職場を求めて去るべきです。国家においてもその通りです。正義正義という
はやすいのですが、一体何が正義なのか、会社にしても、国家にしても枝葉のことでは各自の見解
の相違があって、よほど大きな立場、つまり神のみ心のような大きな立場からみないと、その正邪
の判定はつきかねます。ただはっきりいえることは、その集団の調和をはかること、これが最大の
正しいことなのであります。調和なくして仕事が発展することも、その国家が栄えることもありま
せん。いくら議論してもいい合っても、その心が、真直ぐ会社の発展を願い、国家の安泰を願って
のことならよいのですが、自己の正義感の満足とか、自己顕現のためのものであってはならないの
です。もっと純粋な、生命そのものが現われている清らかなものでなければならないのです。
20
総親和への道
人間には完全な人は一人もおりません。すべてがたゆみなき進化をとげてゆくべき生命体なので
す。ですから欲望もあり誤った考えもありましょう。私はそれはそれでょいと思うのです。もし自
己の心が純粋に会社を愛する心や国家を愛する心でなかったならば、素直にその心を顧みて、ああ
これは今日までの自己を守ろう、自分を善くみせようとする、自己隠蔽の想いの現われなのだ、と
すぐ心に、観の転換をはからなければいけないのです。
この方法を、私は仏教の諸行無常という言葉を明るい方向に使って、すべての想いも行為も現わ
れれば消えてゆく、消えるにしたがって、本心の完全円満性が現われてくるのだ、だから過去に把
われずに、本来の光明にむかって進んでゆきなさい、消えてゆく姿で未来の光明をつかむのだ、と
いう風に説いているのであります。人間の本心というものは神からきたものであり、想念というも
のは神の生命エネルギーをつかって自分でつくり出したものです。ですからすべての想念を一度本
心の中に消えてゆく姿として入れきって、本心の中から改めて現わしてゆけばよいのです。
本心といってもつかみどころがないので、一口に神様といってもよいし、大生命といってもよい
し、大自然といってもよいし、なにか大きな根本のものの中に、自己を入れきってしまう練習をす
るのです。私はそれを「世界人類が平和でありますように」という大きな広い願いごとの中に入れ
きって、本心(良心) の開発をすることを人々にすすめているのであります。小さな正義感や自己
くユノ
を現わそうとする想いでなく、仏教でいう空になる練習のかわりに、消えてゆく姿で世界平和の祈
りという観の転換をはかって、大きく会社や社会国家人類のために働き得る人間に、自己を成長さ総






21
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自分との調和
自分の中にひろがる未知の世界
人間というものは、自分のことを知っているようでいて、実は深く自分を知っている人ははなは
だ少いのであります。自分のことは自分が一番よく知っている、といって、他人の忠言や忠告を無
視しようとする人がずいぶんありますが、この人がどれだけ自分のことを知っているかと申します
と、私どもの眼からみますと、ほとんど知らないにも等しいほどしか知っていないのです。
自分たちが知っていると思っている範囲は、表面に出ている想念波動、自己意識だけでありまし
て、それさえも正当にみているわけではなく、自分で意識しては工合の悪いことは、なんとなくご
まかして、自己判断しているわけなのであります。23 自



調

人間というものは、表面に出ている意識や想念だけのものではありませんで、いつも申しますよ
けんざいいしきひそ
うに、表面の想念や意識は顕在意識、現われている想念でありまして、その底に潜んでいる潜在意
識層というものは、顕在意識とは比ぶべくもないほど、深い層をなしているのです。現われている
意識、つまり顕在意識は、全体の五% にも充たない、といわれています。ですから全体を百% とし
ますと、後の九五%が人間の脳裡に浮び出ていない、潜在意識想念なのでありまして、それはあた
かも氷山のようなもので、表面は小さな氷の固りが実はピラミッド型に底へゆくほど大きく広がっ
ている、というのと同じようなものなのだと、深層心理学者はいっているのです。
そしてその顕在意識、潜在意識のもっと奥深いところに神意識という実在の世界が存在するので
ありまして、その実在世界が、そのままこの世的に現われてくれば、この世が天国浄土になってく
るのであります。
こういう深いところに、真実の自分は住んでいるのでありまして、普通、人が、これが私なの
だ、という自分は、ほんの僅かの自己の現われに過ぎないのです。

この世が何千年経っても、病気や不幸災難の種類は変っても、一向にその現われが絶えないの
おちい
は、人間が真実の自分を知りもしないのに、知っているような錯覚に陥って、自分の深い心の内部
24
を表面に出すことを知らないからなのであります。
表面意識に現われている自分とか、他人とか国家とか民族とか、世界人類とかを、唯一の実在と
思っているようでは、人類から戦争や病気や不幸災難がなくなることはないのです。なぜかと申し
ますと、本来は百% の能力を出すことによって、この世に神の世が現われ、大調和世界が実現する
のであるのに、その五% ぐらいの能力で、この世の幸せを達成しようというのですから、土台無理
な話です。
ですから、この世界を立派な世界、調和した世界にするためには、まず自分が自分自身をしっか
りと見定めて、百%とまでゆかなくとも、五十%や六十% の能力を出してゆくようにしなければ、
自分も世界も共に滅びてしまうのは当然なことです。現在はもう滅亡一歩手前という危険な状態に
人類は置かれているのです。
自分を見定めよう
世界のどこを見わたしても、戦争の危険のないところはありませんし、天変地異の絶対に起るは
ずのないところなど見当らないのであります。これはどうしてなのかと申しますと、どこの国の人自



調

25
たちも、どこの民族も、自分自身の本質を知らないで、表面意識や表面の情勢だけで判断して自分
せき
の行く道や、国家民族の行く道をきめようとして、それに反するものを敵として憎み排斥してしま
うのであります。これではとうてい真実の道が開けてくるわけがありません。それは小さな自分、
小さな国家民族意識でありまして、天の意に叶うものではありません。
個人に潜在意識層、実在世界があると同じように、国家や民族にも同じような世界があるのであ
りまして、表面に現われている米国やソ連や中国や日本という、この物質世界の国土のみではない
のです。日本には日本の天命が、米国には米国の、中国には中国の天命がそれぞれありますので、
この天命をまず知ることが大事なのであります。天命以外の道をいくら強行して通そうとしても通
るものでもありませんし、自他共に傷つくことになるのです。
イスラエルの状態などをみますと、全く歴史的な民族の潜在意識に踊らされているのが、はっき
りわかるのです。これが善い面に現われている場合と、悪い面に現われている場合とがありまし
て、エジプトやアラブ諸国を憎む想いなどは、極端な悪い面の現われでありまして、これは、エジ
プトやアラブ諸国にもいえる言葉であるのです。
ふりかえって日本はどうかと申しますと、日本の天命は「和を以て貴しとなす」という、聖徳太
26

子の言葉のように、また日本という国名や、大和という呼び名のように、日(霊) の本の大調和を
この世界に現わす中心の役目をすることに定まっているのでありますから、武力をもって世界を征
覇する、というような天命ではないので、止むに止まれぬ立場に起たされたとはいえ、日清、日露
カルマ
の戦争といい、太平洋戦争といい、戦争をするということは、たんなる日本の業の消えてゆく姿で
カルマ
あったのです。ただその業の消えてゆく姿を役立たせて、日本本来の大和の精神を発揮させ、地球
世界大調和実現の指揮を取る方向に、日本を進ませてゆくことこそ、日本の指導者の等しくなさね
ばならぬ大事なことなのであります。
ほんとうメソツ
こういう真理を真実に知らないと、国の面子の問題とか、たんなる表面上の利害関係のことで、
他国を憎み、一戦をも辞せぬ、という気持を政治指導者たちが、もってしまわぬとも限らないので
す。自己を知ることが大切なことは何も個人だけのことではなく、国家としても同じことなので
す。
現在は個人としても、国家民族としても、最も大切な時でありまして、真実の自己を知ることな
しに、うかうかと日を過しておりますと、地球滅亡という、とんでもない土壇場に立たされてしま
しず
うことになります。心を鎮めてよくよく考えねばなりません。自



調

27
28
自分が分裂していませんか
まず最初に自分の本質を知って、自分との調和をすることからはじめることが必要です。自分と
の調和などというおかしな言葉がでてまいりましたが、他人と調和することが上手にできるために
は、自分自身の心が分裂しているような状態では仕方がありません。医学上の精神分裂症でなくと
も、人間はどこかで自己分裂を起しているのでして、自分が完全に調和している人は、仏陀であ
り、聖者賢老なのであります。
どういうところが自己分裂しているかと申しますと、自分のしたいことが、すべて自分のために
なり他人のためにもなる、という心の状態の人がどれだけ存在するでしょうか、ここからまず考え
て下さい炉麺面的意識では病気になりたくないのに、病気になっている人がどれほど多いことでし
ょう。また、貧乏をしたくもないのに貧乏になっている人。人の上に立ちたいのに人の下に立って
いる人。災難などにあいたくもないのに災難にあっている人。だれとでも仲良くしたいのに、どう
しても好きになれない人がある、という人。こう数えあげますと、自分の表面意識とは違った状態
が、自分の生活環境に現われてくることが、この人生には非常に多いのです。
こういうことでは、この世が幸せになることはありません。病気をしたくなかったら病気をしな
い、貧乏したくなければ貧乏しない、人と仲良くしたければ、だれとでも仲良くなれる、という状
態にこの世がなってこそ、世界の平和が成り立つのです。ところが現実はそうではありません。
どうして、こう自分の想うことと、現われてくることとに食い違いができるのでしょう。それ
は、表面意識つまり顕在意識と潜在意識の食い違いによって、こうしたアンバランスの状態が現わ
れてくるのです。だれでも、表面意識で自分や自分の親族知人の不幸災難をのぞむ者はめったにお
りませんし、人と争いたいと思っている人もあまり見当りません。それなのに不幸も災難も病気も
争いも方々で起っているわけで、神が完全円満なら、何故このように、悪や不幸災難に充ちた世界
をおつくりになったのだろう、と神様に不平をいいたくなる人もあるわけです。
だがしかし、この世の不幸災難も、個人個人の不幸災難も、そして悪のように現われている諸現
象も、すべては神のみ心によってつくられたわけではなく、人間の潜在意識がつくり出しているも
のなのであります。
先ほども申しましたように、顕在意識の五% にくらべて、潜在意識層は九十五%というほど、広
い大きな範囲に広がっておりまして、顕在意識でいくら思ったとて、念願したとて、潜在意識が、自



調

29
その念願に同調していなければ、とてもその念願は叶わぬことになっております。
それもそのはずでしょう。五%の力と九十五% の力とでは力において格段の開きがありまげU そ
ういう真実も知らずして、自分のことは自分が一番よく知っているなどといっている人は、実に自

分に不忠実な誠意のない人ということになります。私どもの霊覚で観ますれば、その人自身の知っ
ていることの何層倍ものことがわかるのであります。その人の知らない潜在意識層のことから、最

も大切なところである、潜在意識をもはるかに超えた奥深いところの神のみ心の中までわかるので
あります。神のみ心は個人の場合は本心ということになります。
30
潜在意識を浄化する
人間は本心本体において、神のみ心と一つのものなのです。神道的にいえば、本心本体のことを
ちよくれいなおび
直霊あるいは直毘というのであります。ところが、この地球界の人間は直霊の働きが直接肉体的に
こんばく
働いているわけではなく、分霊魂魂として、肉体という物質界で働いているわけで、直霊の場と肉
へだた
体の場とは、波動的にみて、大きな距りがあるのです。
ちどん
直霊のような微妙極まりない光明波動と、肉体のような遅鈍な場とでは、なかなか直線的に一本
になり得ないので、その間に霊界という波動界、幽界という波動界が自ずと生れ出て、個人的に

は、霊体、幽体という体を纒った上に、肉体という体を纒って生活するということになったのであ
りまして、肉体頭脳の表面に浮び出ている意識を顕在意識と呼び、幽体と霊体の一部分に潜んでい
る意識を潜在意識と呼び、霊体の上位と神体にある意識を神霊意識または神のみ心というのであり
ます。
ひそ
そして、幽体という波動層は、過去世からの肉体意識を潜めているところでもあり、神霊意識を
たこんこう
貯めているところでもあって、肉体人間そのままに玉石混清した場なのです。ところがこの幽体と
いう波動層が、肉体人間の運命を決定している場でありまして、この幽体が光明波動で浄まってい
れば、その人の人格も自ずと高潔であり、運命も明るい善いものになりますが、これが汚れて濁っ
ておりますと、人格も低劣になり、運命も汚れた濁ったものになります。
この世的には悪いことをしながらも、運命の非常に善い人などは、人間が何度でも霊幽の世界と
肉体世界を輪のように生れ変わりしている過去世において、なんらかの徳を積んでいた人なのであ
りますが、その徳が消滅するにしたがって、その上に善徳を積んでおかぬ限りは、いつか、運命は
下落してゆくことになるのです。自



調

31
もし、一生善い運命で生活できたとしても、その後の世界、つまり幽界においては実に苦しい生
おちい
活に陥ってゆくのであります。仏教的にいう因縁因果説、因果応報ということは真実のことなので
す。
おか
ですから、今生でいかに人のためにつくし、善く生きていたとしても、過去世で大きな誤ちを冒
してきた人は、今生では善い運命になり切れぬ人がたくさんいるのであります。そこからはどうし
ても宗教の世界になるのでありまして、神仏のみ心に素直に入ってゆくことだけが、そういう因縁
因果を超え得ることになるのです。
いかに肉体頭脳的に秀れていても、過去世から潜在意識層に積み重ねてきた、自己の悪い想念所
業は、一朝一夕どころではない、一生をかけても超え得ることはできませんで、顕在意識の上で、
生活上においても、人格においても善くなりたいと願いつつ、その方向に進もうとしていても、潜
在意識層から湧き上がってくる、誤った想念、悪想念所業が、その運命を阻害してしまうのです。
それはちょうど、テープレコーダーに吹きこんである言葉が人を傷つけ、世を損うような悪いも
のであれば、そのテープを聞いた人は、自分をも含めてすべて気持の悪いものです。それを直すた
めには、どんなに悪い言葉がそのテープレコーダーから聞えてきても、その言葉に迷わされずに、
32
自分も欲っし、人も欲っする善い言葉、善い行為をしつづけることが大事なのです。人間というも
のはだれでもこういうテープレコーダーを持って生きているのでして、自己のテープレコ1ダー
に、過去世に吹きこんだ悪い想念行為を、すべて消えてゆくものと思いこんで、その上からでよい
のだから、常にたゆみなく善い想念、善い行為を吹きこんでゆくことが絶対に必要なのです。
しかし、それだけではどうしても過去世からの潜在意識にある悪想念行為の湧き出てくる力には
敵いません。そこで、今度は神仏の助けを乞うのです。神仏の世界こそ、この潜在意識の深い奥に
あって、すべてを生み育てるとともに、この宇宙世界に必要でないもの、調和を乱し、完全を損う
ものを消滅させる絶大なる力をもっている光明世界、実在界であるのですから、その中に潜在意識
をもったままでよいから、素直に飛びこんでゆくことが大切なのです。これが唯一最大の救われの
道なのです。
なまはん
生半か肉体頭脳の秀れていることを信じている人や、自己の行為を善なりと想いこんでいる人
は、真剣に素直に神仏のふところに飛びこんでゆかぬことが多いのですが、常に自己の心の矛盾に
悩み、正しき道を求めつづけ、自己完成を願いつづけている人や、先哲や諸仏諸聖の教えを素直に
行じようとしている心素直な人々は、すぐにも神仏の光明に抱かれることができるのです。自



調

33
人類愛の祈リ言葉を潜在意識にふきこめ
人間というものを真実真剣に考えてみて下さい。どんな偉そうにみせても、天地をはじめ、気候
風土、穀物植物の恩恵を受けずに、自分の力だけで生きられる人は、一人も存在しないのです。太
陽の恩、空気の恩、水の恩、両親の恩、先輩知人の恩と、数えあげればきりのないほどの数々の恩
恵にょって生活していられるわけで、その最大の生命そのものへの恩恵は感謝しつくせぬものがあ
るわけです。
そういうふうに静かにすべての恩義を感じることは、やはり、人間が真実の自分を知る上におい
て、重大なことなのであり、尊いことでもあるのです。潜在意識層にどのような自分を破壊する悪
想念がひそんでいようとも、大生命である神への大恩を感謝しながら、神のみ心に素直に飛びこん
でゆく時、その人の精神は光明化し、それにしたがってその生活も開けてくるのであります。
何故ならば、神の大光明波動は、その人の完全性を阻げる、潜在意識層の悪想念行為を消滅させ
て下さるからです。それとともにその人は、たゆみなく善い想念、明るい想念を新しく潜在意識層
に吹きこみ、未来に現われる運命を顕在意識と潜在意識とがまったく一つの想念によって調和した
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ものになるように働きかけてゆくことが必要なのです。
じんちゆうみだ
浄土門などでは、罪悪深重の几夫と自分の力を一切否定して、ただひたすら弥陀の救いを頼む、
唱名念仏一念の生活にしてゆくわけで、この中から聖者のような妙好人などが現われてきたのであ
ります。
おうそう
私のほうでは、この浄土門と同じような想いで、それを広く人類的に一歩進めて、往相(神仏に
げんそう
救われようと昇ってゆく姿) と還相(神仏と一体になって人類救済のための働きをする姿)とが同
ごと
時に行えるような祈り言にしたのであります。それが消えてゆく姿で世界平和の祈り、という祈り
方でありまして-
世界人類が平和でありますように、と祈る時には自己の運命もその中に加えて、世界人類という
広い範囲に神仏の救いを拡大させてゆく祈り言を捧げることになるので、自己が救われようと神の
ぼさつ
み心に昇ってゆく姿と、世界人類全体が救われますように、という人類愛の菩薩心の現われとが一
つになっているわけです。
ひそんでいるこエろあらわれているこエろ
自己の潜在意識層の善悪を、顕在意識の祈り心の中にふくめて、神仏の世界、救世の大光明の
世界に投入してしまい、自己の顕在意識も潜在意識も、過去世から現在に至る、すべての自分とい自



調

35
うものを、神様にお還ししてしまって、改めて、日々瞬々の運命を神様からいただき直す、とい
うふうになっているのであります。
これは浄土門のやり方と同じことなのでありますが、このほうが現代に合いますし、心に抵抗な
くできる祈り言になっているのです。潜在意識ということに対しては、言葉としては知っていて
も、実観としてその重大さを知っている人は少いのですが、改めて潜在意識ということを重要視し
まか
て、過去世から今日までの潜在意識は世界平和の祈りによって、神様にお委せして、今日以後は潜
在意識層に善い想念、明るい、自分も他人も世界中の人々が喜び合える、そういう想念をそそぎこ
んで録音しておくことです。すべてを神様にお委せしておいたつもりで、実はいつの間にか神様の
み心を離れてしまっていることがあるのですから、神様のみ心は生命いきいきとすることを望ま
れ、明るい純な心を喜こばれる、ということを心得ておくことが大切です。
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真実の自分との調和を
いくら人のためにつくしているようでも、自分の心を暗くし、家庭を不和にしているようでは、
あまりょいとはいえません。やはり潜在意識に暗い想念を吹きこんでしまうことになってしまいま
す。人のためにつくしながらも常に光明心を汚さずに、神のみ心のような調和した心境でいられる
ようになることが、真実に自分のためにも人のためにもなることなのです。
あらわれているこころひそんでいるこころ
顕在意識と潜在意識との調和、そして双方の意識がそのまま神のみ心に通じている、という状
態になれば、自ずとその人の人格も立派であることにもなり、運命も善いものになるのであって、
そういう人間の存在が、一番世界平和のためにも役立つことになるのであります。
この最もやさしい方法が、先ほどから申しております、消えてゆく姿で世界平和の祈りなので
す。この方法は何度び申し上げてもよいことなので、ここで再び申し上げますが、釈尊の説かれる
しきそくぜくうくうそくぜしき
ように、色即是空、空即是色という心境になり、すべてを無と断じ、無と断ずることさえも無なり
と想う、その想いさえ更に無い、という心の状態に成り得れば、その心はもはや現象界の心ではな
く、実在界、神仏の心でありますので、何も申し上げることはないのですが、こういう心境になり
切れる人は、一時代に何人もあるわけではありませんので、今日のように、業想念波動、つまり神
くうそくぜしき
仏の心から離れ去っている想いや行為の多い世の中では、ますますこうした空即是色の心境になり
得る人は少くなってきます。
三十五億の誤り、プラス幽界波動の汚れや濁りを、こんなにむずかしい方法で、どうして浄め去自



調

37
ることができるでしょうか。専門の僧侶が一生かかっても到達できぬ境地を、だれでもできるよう
に説いていたとしたら、それは天の星を竿で取ろうとするほどの不可能事を、可能のように説いて
くう
いると同様なのです。私なども空になる練習を想念停止という方法で、守護の神霊から天下り式に
しやり
やらされたのでありますが、常に生命を投げ出しきり、自己を捨離しきっていないと、とうていで
き得ないことでありましたが、幸いに私はその頃独身でもあり、この世になんの責任もない立場に
立たされていましたので、すばりと自己を投げ出し、神に生命を捧げることができまして、今日の
霊覚を得たのであります。(拙著天と地をつなぐ者参照)普通ではなかなかできにくいことであ
る、と私は私の苦しみの中で思ったのです。
そこで私は、空になることの普通人には不可能なことを知り、空になるエレベーター、をつくる
ことにしたのです。それが消えてゆく姿という言葉なのです。今自己に現われている悪も不幸も災
いやい
難も、自分の心に起っている嫌な想いも、他人から仕向けられている忌むべき事態も、すべては過
去世から今日に至る神仏のみ心を離れていた想念行為の結果として現われてきたもので、現われて
しまえばそのまま消えてゆくものである。そして、消えてゆくにしたがって、神の子の本心本体が
おの
自ずと現われてくるのであるから、その消えてゆこうとして現われてくる、悪や不幸や災難を、す
38
べて消えてゆく姿として、世界人類の平和を祈る、人類愛の祈りである、世界人類が平和でありま
すように、という祈り言の中に入れきってしまいなさい、と説教らしくなく、容易に納得できる方
くう
法で、空の心境になり得る道に、人々を導き入れることにしているのであります。
くうくとノ
これなら、無理に空になろうとする必要もなく、時日がたてば自然と空の心境に近づき、やがて
くうそくぜしき
は空即是色の心境にもなり得るのです。なんにしても、この現象世界に、実在界の真実の光明を現
わし得るようになればよいので、個人も国家も人類すべても、みな調和し和合してゆける地球にす
ることが何よりも大事なことなのです。
その方法はやはりむずかしい方法ではいけません。昔風の宗教の在り方では、今日の人は真剣に
かた
ついてゆくことをいたしません。真剣のようにみえる人が、案外と一宗一派に片寄った、頑くなな
不自由な心の人であったりして、なかなかすうっと神の世界が実現しそうにはありません。
あせ
そこでやはり忍耐強く、焦らず、あわてず、たゆみなく消えてゆく姿で世界平和の祈りを実行し
てゆくことによって、自分もその周囲も自ずと明るく立派になり、世界人類の光明化の一役を買う
ことになるのです。
どうぞ自分自らが調和した人間になるよう世界平和の祈りをおつづけ下さい。自



調

39
40
空について
空という心境
はんにやしんきよう
すでに拙著「愛・平和・祈り」の中で、般若心経の解説を私なりにしておりますので、その文の
中で空についての私の考えをご承知の方も多数おられるとは思いますが、この空という問題は、宗
教信仰の道を歩みつづける人々にとっては最も大切な問題でありまして、この空の境地にどれほど
なり得ているか、なり得ていないかによって、その人の悟りの程度が定められるともいえるので
す。
ですから昔から宗教者は(仏教者以外は空という言葉では説いておりませんが) そうした境地を
求めつづけて様々な難行苦行をしてきたのであります。そして真に名僧高僧といわれ、聖者といわ
れるような方々は、皆、この境地に到達して弟子たちを導き、世のため、人のために役立ってきた
わけです。
くうじようこん
ところが、この空という境地には、よほどの上根(素質の善い) の人が、家を捨て身を捨てるほ
どの大決意での修業をしなければ、とてもなれるものではないので、ただたんに宗教学問を頭の中
くヒノ
につめこんだだけでさしたる修業をしたこともない人が、人間は空にならなければだめなのだ、す
くう
べてを無と断じて空の境地にならぬ限りは何事もわかるものではなく、できるものではない、と、
さも自己がその境地にあるがごとき態度で言葉や文章をもって説いているのをみると、私はその人
の霊魂の高さや、その人の日常生活の在り方が、霊覚でわかるだけに、しゃべったり書いたりする
ことはだれにでもできるものだ、とおかしくさえなってくるのです。
くう
本当に、しゃべることや書くことはだれにでも楽にできるのですが、真実に大衆を空というよう
な境地に導きあげてゆくことは、これは並みたいていのことではないのです。私のように自己の生
くう
命をすべて神様に返上して、神様のほうから新しい生命を得た者は、一度実際に空という境地を通
しきモくぜくうくうそくぜしきしきしん
って、色即是空から、空即是色の色身、つまり光明体の人間を自覚しての生活になっているのです
くうそくぜしきしきモくぜくうくうそくぜしき
から、空即是色(この色即是空、空即是色のことはまた後からくわしく述べることにしますが) こ空




41
くうそくぜしき
の空即是色の世界、つまり実在の世界の姿を体得しているのです。とともに、空の境地になること
の難かしさを、いやというほど知らされているので、口先きで空にならなければ駄目だとか、把わ
れてはいけないとか、欲望を離れなければいけない、すべてを無と断じなければ駄目だなどと、簡
単にいう気にはならないのです。
自分たちの説く宗教が立派であるということをみずからも思いこみ、人にも思わせようとするた
めか、何か、高い理想的なことを書いたり説いたりしないではいられないで、大衆の入りやすく行
きら
じやすい、現世利益の匂いを、それほどに嫌わなくともよいのに、と思われるほど毛嫌いする人々
がいるのですが、その人々は、.釈尊やキリストが説いた真理の内奥が、一般大衆の宗教信仰者に日
常生活を崩さずに開け得ると思っているのでしょうか、私はとても不可能だと思っているのです。
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誰にでもでき得る悟りの道を示すことが必要
日常生活をそのままにして、この一生において、釈尊やキリストの説いた真理の奥深いところを
じようこん
行ずるということは、よほど上根の最も秀れた僅少の人々にしかでき得ないことだと私には思われ
ます。
キリストのいうように、上着を取る者があったらみずからすすんで下着をも与え得る人が、この
世の中にどれほどありましょうか。また、右の頬を打たれたなら左の頬をも出しなさい、と教わっ
ても、恐怖の想いでそうするのではなく、寛容の心、愛の心でそうした行為を為し得る人が一体何
人あるでしょうか。あるいは、美しい女性を見て心をひかれぬ青年が、身心異常者でない限りは、
滅多にあるものではありません。
理想は勿論高いほうがよいでしょうが、その高い理想が、あたかもだれにでも達し得るように説
かれていると、良心的な人はかえって、みずからを顧みて、みずからの心を責めさいなんでしまい
かねません。
理想論を聴聞するのもよいことにきまっておりますし、秀れた人の通ってきた道を聞くのも心の
糧になることは事実であります。私なども、少年の頃、佐藤紅緑という人の少年小説を読んで、そ
の中に出てくる勇気と正義感に温れた主人公の少年のようになりたいと、心を躍動させたことがあ
り、私の今日の生き方にかなりの影響を与えていることを感じているのです。
ですから私は、善い小説や、偉人聖者の伝記などを、青少年のみならず、大人の人たちも常に読
んでいると、生きてゆく支えになり滋味になると思って、人にもすすめているのですがハそれとと空




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もに、平凡な一般人が、なんでもなくでき得る悟りへの道をさし示すことが大事なことであると昔
から思っていたのであります。
金持の生活様式を、貧乏人がいくら聞いてもどうにもならぬと同じように、上根でない、宗教的
に特別秀れた素質をもっていない人々に、宗教的天才の通ってきた道を説き、その天才の到達した
くう
境地になれといっても、これは無理な話です。そこで私は空ということを説くにしても、人間の理
想の道を説くにしても、常に、一般大衆にでき得る方法で説くことに心を定めているのです。
特定の少数の人だけしか通り得ぬような道では、この世における宗教者の役目が果せないと私は
思っているからです。
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色即是空、空即是色とは
しきそくぜ
さて、これから空の境地になるためのやさしい方法を説くことになるのですが、その前に色即是
くうくうそくぜしき
空、空即是色という般若心経の中の有名な言葉を私なりの解釈でしてゆこうと思います。今私の手
元に、高神覚昇氏の般若心経の解釈がありますから、その一部の空のところについての説明をぬき
書きして、大方の仏教者の色即是空、空即是色の解釈と私の解釈との相違点について述べてみるこ
とにいたします。
すぺてもの
ーまことに因縁より生ずる一切の法は悉く空です。空なる状態にあるのです。まさしく「樹を
まふゆ
割りてみよ、花のありかを」です。雪ふりしきる厳冬のさ中に、花を尋ねても、花はどこにもあり
ませぬ。これがとりも直さず、「色即ち是れ空」です。しかし、霞たなびく春が訪れると、いつと
はなしに、枯れたとみえる桜の梢には、花がニッコリ微笑んでをります。これが即ち「空即是れ
色」です。何事によらず、いつまでもあると思ふのも、無論間違ひですが、また空だといっても、
何物もないと思ふのももとより誤りです。いかにも謎のやうな話ですが、有る様で、なく、無い様
すがた
で、ある、これが世間の実相です。うき世の本当の相です。ーまことにその「有」たるや、「空」
に異らざる「有」です。空と云っても決して無ではありません。有に異らざる空です。空と有と
は、所詮、一枚の紙の裏表です。生きつつ死に、死につつ生きてゐるのが、人生の相です。生じて
とら
は滅し、滅しては生ずるのが、浮世の姿です。しかし私どもはとかく有といへば有に囚はれます。
空といへば、その空に囚はれ易いのです。故に心経では、有に囚はれ、色に執着するものに対して
は、色は空に異ならず、色がそのまま空だといふのです。また空に囚はれ、虚無に陥るものに対し
ては、空は色に異ならず、空は即ち是れ色、だといっているのです。心経のこの一節は、実に素晴空




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しい巧みな表現といはざるを得ないのです。けだしわが大乗仏教の原理は、この一句で、十分に尽
きてをるといってもよい位です。-
以上が高神覚昇氏の色即是空についての解釈なのです。こうした空の解釈でも、空を虚無という
ような解釈をする人よりは勿論よいのですが、これだけでは、釈尊の正覚からきた、色即是空、空
即是色にはならないのです。人間に生きる力、勇気というものを与える生きいきとしたところがあ
りません。
この色即是空、空即是色という言葉は、般若心経の中心的言葉であり、仏教思想の根本的な衷現
でもあるので、実に大事な悟りへの道なのであります。
高神氏、これは高神氏だけではなく、自己が空即是色の世界に入ったことのない人は、どうして
しき
も、この現われの世界だけを基準にしての色、色というものは、これはものという意味なのです
が、この現われている世界の色というものと、空になってからの色というものとを一つに考えてし
まいがちなのです。色は即ち是れ空なり、というのは、この世に現われているすべてのものは、そ
のものが実在そのものではなく、現われては消え、生じては滅してしまう、無いということと同じ
ような、空なのだよ、そうした現われては消えてしまうような、そんな形の世界、物の世界、五感
46
六感の世界のものにいつまでも把われていては、とても悟れるものではないよ。だから、すべての
ものごと、事柄や思想想念、この世で感ずるありとしあらゆるものを、一度空なりと断ち切ってし
まいなさい。というのが般若心経でいう色即是空の解釈なのであります。これはあらゆる仏教者が
同じように説くことでありましょう。ところが、空即是色のほうの解釈の仕方が大方の仏教者と私
との相違する点なのです。
空と色について
これは「愛・平和・祈り」にくわしく書いているのですが、改めて書いてみましょう。色即是空
しき
の色は、神の光と人間の業想念とが混同して現われている物であり、事柄であり、思想想念なので
あり、行為なのであります。しかし、空即是色の色は、光り輝く色であり、ものであり、事柄であ
り、想念であり、行為なのです。この真理を知っていないと、ただたんなる諦めの世界に人間をひ
っばっていってしまいますし、神仏への感謝というところまで人間をもってゆけません。まして、
人間は仏子なのである、神の子なのである、完全円満なる神性なのである、という光明思想にはと
てもなり得ません。どうも諸行無常的な考え方に人間の心をもっていってしまいます。高神氏等の空




47
解釈では、仏教者のだれでもが説く、ごく当り前の解説で、有に把われる者のために色即是空、空
に把われる者のために空即是色とか説かれてあるのだというような、そんな安易な意味ではないの
です。
すべての物に把われ、事柄に把われ、思想想念に執していた自己の一切を、無しと断じて空の境
地になった時、その空の境地の中から現われてくる物事事柄、想念行為は、すべてみ仏(神) のみ
心が、そのまま光り輝いて生きてくるのだ、それは、すべての現われは空だという、色即是空とい
カルマ
う言葉で表現された物事や事柄、想念行為のようにみ仏の心と業との混合された現われではないの
だ、ということが、空即是色のほうの解釈でなければならないのです。
人間世界の生活といっても、肉体をもった人間世界の生活もあり、幽界における人間の生活もあ
り、霊界、神界における人間の生活もあるのです。ですから肉体人間にまつわる精神だけを心と考
えて、肉体が滅びればその人の心も滅びてしまうと思うのは大変な誤りなのです。心は個人の心と
して個性として永遠に存続しているのであり、その根源の世界は神界であり、み仏の住む世界であ
るのです。
そして、空即是色といわれる、空の境地になってから現われる色は、神界、み仏の世界から直
48
接、なんの磯りもなく現われる、光明燃鰹たる鶴であり、実在そのものの姿なのであります。です
から、人間がすべて空の境地になり得れば、そのままこの世は大調和の世界、神の国になってしま
うのです。
色即是空の色は、変化消滅する現われの世界の色であり、空即是色となった、空より現われた色
は、永遠不滅の色なのです。一方は神と人間の業の混合の現われで、その混合の現われを、空の境
地に入れると、業の波動が消え去って、光一源の神の姿がそこに現われてくるのです。
こう考えてまいりませぬと、悪も不幸も不完全も皆神仏がつくり出したことになり、人間はいつ
までも不完全、不円満の世界に住んでいなければなりません。私の説いておりますように、空にな
るということによって、その人の不完全、不円満の姿が、実在の世界、神の世界において、空にな
った一瞬に消滅されてしまい、完全円満の姿が、神のみ心が、権能が、その人の全生活に現われて
くるのであります。
そういうことでなければ、空ということの重大さが失われてしまい、空ということが、ただたん
なる諦めの世界に入るという程度になってしまいかねません。
49 空について
50
空になることのむずかしさ
ところで問題になってまいりますのは、空の境地になるということのむずかしさなのです。把わ
れてはいけないとわかっていても、ついいつか何事かに把われている自分を発見するのであり、す
はんにやしんきよう
べてを無しと断じ、空になることを説く般若心経のような境地には、一般人はとてもなれっこない
のです。
以前の週刊新潮(昭和35年4月4日号) に、神に反抗する牧師という題で、山本三和人という牧
師が、私は聖書を憎まずにはいられない、といっているのですが、それはどういうことかといいま
すと、聖書に書かれてある言葉が、普通一般人にとてもでき得ない事柄ばかりで、そうした言葉が
だま
自分の心を騙せなかった山本牧師の心を責めさいなむので、その苦しさのためにかえって聖書を憎
み、聖書の言葉からの解放のために戦ってきた、というのです。そして、聖書を読むと今でもむか
むかしてきて、何ウソをついているんだ、という気になりながら、しかも無関心にはなれないとい
っているのです。
私はこの文をみて、こんな人も随分いるんじゃないかなアと思ったのです。たくさんいるのだ
が、牧師の座にいる人がこんなことをいうことは珍らしいので、ジャーナリストが取り上げたのだ
と思うのです。私は牧師ともあろうものが、こんなことをいってはいけないと思うので、この人の
いうことに感心しているわけではないのですが、口だけで聖なる言葉を吐き、自己の行為はその聖
そむ
言に逆いて、テンとして恥じない宗教者よりは、まだこの人のほうが正直な気さえするのです。
実際に、キリストや釈尊のいう言葉には深い意味があり、真理そのものの言葉なのですが、こう
した宗教的天才、めったに出現しないような聖老の一言一句を取り上げて、こうしなければいけな
い、と説教されても、それは単なる理想論になって、とても現実的には行い得ないことがたくさん
あるのです。山本牧師なども、行おうとして行い得ないそうした聖言に自己の心を傷っけられて、
反抗的になっていったのだと思います。全く、良心的な人は、あまり理想論を押しつけられて、こ
うでなければならぬ、とやられると、どうしてよいかわからなくなり、真理を知らぬ以前のほうが
苦しみが少く、明るい生活ができていたということになって、しまいには宗教的ノイローゼになっ
てしまうのです。
くうがわ
空になれという説教などでも、指導者の側が、なれるように導いてやらなければ、とても一人で
なれるものではありません。人間の今日まで積み重ねている業想念の厚さは、ちょっとやそっとの空




51
修業では、空になって本心を輝き出すというようにできることではないのです。聖書の言葉を額面
通り行い得る人などは、この世の中にたんとあるとは思われぬのと同じことです。
52
神の教えは天才のためにあるのではない
だからといって、聖書や仏典は無用かというと、そんな馬鹿なことはありません。絶対必要にき
まっているのです。といっても、二千年も三千年も昔の、しかも異なった国柄習慣の中で生まれた
教えを、そのまま現代人に押しつけようとすることに無理があると私は思っているのです。
どんな立派な教えでも、多くの人が行じられぬようなものでは、とうていこの世の救済はおぼつ
かないので、どうしても現代人のしかも一般の人々がやさしく行じられるということでなければ、
現代の世界を救うということにはなりません。
卑近な話ですが、流行歌調はいけない、ジャズは駄目だ、といくら識者が叫んで、国民歌謡のよ
うなものを次々と作曲しても、そうした国民歌謡は歌われないで、やはりジャズや流行歌調が全盛
をきわめているのは、やはり安易に調子に乗りやすいところにあるので、ジャズや流行歌調の歌謡
曲を追放して、しだいに高尚な音楽を一般大衆に歌わせるためには、ジャズや流行歌調の調子のよ
いところを取り入れて、少しつつ高尚にしてゆくことが大事なのだと思います。一般の人々に行じ
させるためには、宗教の道もまたこの例と同じで、一般の大衆の行じ得ない理想論をふりまわし
て、ひとりで良い気になっていてもだめなのです。
やさしく行じられて、しかも現象の利益を伴ないながら本心が開発されてゆく、というような教
えでなければ、入らぬと罰が当たる、とおどし文句で強制的にでも行じさせぬ限り、その宗教に入
る人は少いでしょう。
空と世界平和の祈り
私はいっもそのことを念頭に置いているのです。そして提唱しはじめたのが世界平和の祈りなの
であります。私は空という問題を説くにしても、一般の人々はとても空の境地なぞに尋常一様の手
段ではなれっこない、ということを考えて、空にならねばいけませんよ、などという、むずかしい
ことをいわないで、あなたの病気も、あなたの貧乏も、あなたの不幸な環境も、あなたの悪癖も、
みんな過去世からの業想念の消えてゆくために現われている姿だから、自分が悪いの、人が悪いの
といっていないで、そうしたすべての環境想念を、消えてゆく姿と思って、世界平和の祈りの中に53 空




入れてしまいなさい、そうすれば、世界人類を平和にしようとして働いておられる救世の大光明神
霊団の光明で、そのような業想念はすべて消滅されてしまい、あなた本来の神の子の姿である本心
が、知らぬ問に開発されてくるのですよ、とやさしく説いているのです。
空の境地というものも、要するに自他一切の想念行為に把われぬ、というところから生まれてくる
ので、すべてに把われぬ境地になればよいわけなのです。すべてに把われなければ、それは無いも
同然で、病気でも貧乏でも、形の上ではそう見えながらも、その人自身は病気や貧乏の想いをつか
んでいないので一向に病気でもなければ、貧乏でもないわけです。ところが、それだけではまだ足
りません。その病気や貧乏の姿を過去世の業因縁の消えてゆく姿として、神様の光明の中、自分の
本体の中へ投げ入れてしまって、病気と現われ貧乏な環境として現われてきた業想念を、光明心、
ぽんのうそくぼだい
神のみ心と入れかえてしまわなければならないのです。それが仏教でいう、煩悩即菩提なのです。
カルマ
そして、その方法をもう一段上昇させると、世界平和の祈りの中に、そうした業の現われを投入
してしまうということになってくるのであります。それはどういうことかと申しますと、神様とた
だいうだけでは、それは自分だけの救われになってしまいます。それが世界平和の祈りという、世
界人類の平和を祈り、母国の平和を祈り、自分たちの天命を完うされることを祈る、広い範囲に拡
54
がる祈り言をもって神様の光明の中へ入ってゆくことになると、自分の本心が開発されるど同時
に、世界人類のためにも光明心をふりまいて、役立っているということになるのであります。
理想を現実化する実践法
こういうふうに、空だ空だと空を押しつけなくとも消えてゆく姿という赦しの言葉で、各人の業
想念に把われる意識を、世界平和の祈りの中に入れさせてしまうことで、空即是色という悟りの境
地に、いつの間にかなってゆくことができるのです。
宗教生活というのは、何も特別むずかしいことをする必要はないので、自分がしてもらったら嬉
しいようなことを、人にもしてやればよいのです。いいかえれば思いやり深い人間になればよいの
ですが、これをもっと具体的な高い深い行為にすると、世界平和の祈りを根底にした日常生活をす
ることが、宗教生活そのものであるといえるのであります。
世界平和の祈りは、特別な意志が必要でもなく、それほどの努力の必要もない、ただ業想念の行
為の出た直後、あるいは直前には是非やってもらいたいと思うのです。直前にやるのはなかなか熟
達してでないとできないと思いますから、その点は、歩いている時、電車に乗っている時、食事の55 空




時、寝る時、起きる時というように心に暇のある時、常時やっていればよいのです。そうしていま
すと、業想念、たとえば、怒りとか恐怖とかの想いが出てきた時、とっさにその想念を世界平和の
祈りの中に入れることができるようになり、業想念消滅が早くなるのであります。
世界平和の祈りをする時には、必ず救世の大光明が光り輝くので、病気などが立どころに直った
りすることもあるのです。現今では守護の神霊の救援の力が非常に強まってきていますので、世界
平和の祈りをすることによる生活改善が、容易になされるようになってきています。
ですから統一実修会なども回を重ねる度びに種々の奇蹟が起り、安心立命への道が速かに開いて
きています。自己の体験として守護の神霊との交流をしていない宗教学者などが、守護霊だとか守
護神などにかかわっていてはいけない、宗教の目的はただ空になることによって達せられる、とい
うようなことをいっていますが、空になるためには、守護の神霊の絶大なる加護援助がなければで
きぬことを、その人々はご存知ないのでありましょう。人類の救いは守護の神霊の援助なくしては
とうてい達成でき得ません。その守護の神霊が大挙集団として働いているのが、救世の大光明であ
るのですから、世界平和の祈りの効果が大きく現われてきたのも当然といえるのでありましょう。
現代はもはや理屈をぬきにした実践あるのみです。
56
理想と現実
確固たる信念による真理実現
地上世界での人間生活は、なかなか複雑でむずかしいもので、これが善で、これが悪である、こ
れが真理であって、あれは真理にもとるのだ、と表面に現われた事柄だけをみて、一言で片づけら
れるようなものではありません。
これを、あまり簡単に判断したり、割り切ったりすると、とんでもない結果をまねきやすいもの
です。
さが
青年層の人たちには、右と左、善と悪を、はっきり分けて考えなければ気の済まぬ性の人がたく
さんあります。57 理




そうした単純にものを割り切る人たちが、戦後は反天皇主義になったり、共産主義になったりし
ておりますが、その人たちは、物事を、自分自身の心で、はっきり見きわめて、自己の進路を見出
したわけではないのですから、確固たる信念で、自己の道を語ることはできません。少し物の理の
わかった人に、突っこまれると、すぐに答につまってしまいますが、それでいて、自分の言行をひ
るが、兄そうとはせず、自分の言葉をいいつのり、非を理のごとく押し通そうとします。いわゆる反
省力がないのです。
物事の善悪理非というものは、時と処と相手によって、変化してゆくもので、ある時善と思えた
言動が、ある時は悪となり、ある処では理であったことが、ある処では非になる場合もたくさんあ
るのであります。
真理そのものには変化はないのでありますが、真理の現われ方に、その場や、環境によって変化
があるのです。
例・兄てい、兄ば、戦争という行為にしても、現今では、はっきり戦争は悪である、と皆が思ってお
りますが、日本にしても、諸外国にしても、過去の歴史においては、真理を現わすための戦争もあ
ったし、善である戦争もあった、と認められております。

戦争という同じ行為が、ある時は善であり、ある時は何故悪となるのか、と申しますと、その戦
争という行為によって、多くの人々に幸福がもたらされたか、不幸がもたらされたかということ
に、その善悪の判断がかかっているわけです。
今日の世界で、戦争が明らかに悪とみなされるのは、多くの人の生命がそこに失われ、様々な災
害がそこに起ってくる、というだけではなく、ついには地球人類絶滅という大危機に人類を追いや
ってしまうからであり、その行為は何者にとっても幸福をもたらせることができないからです。
ですから、今日迄の戦争観、特に戦国時代のと、今日以後の戦争観とは、まるで異なってこなけ
おか
ればならないのです。今日迄であれば、自国の権益を冒されたり、自国の利益を害するようなこ
とを他国が行えば、直ちに戦争という行為で、その権益を回復し、利益を取り戻す、ということが
できたのであり、それを忠君や愛国の行為として、悪とは認めないでいられたのですが、今日以後
は、一国同士の戦争ということはあり得ませんで、いつかはその戦争は世界にうつってゆき、核戦
争にょる地球絶滅という危機を生むことになりかねないのです。そこで、たとえ自国を守るための
戦争であっても、もう戦争そのものが、愛国の行為ではなく、人類を滅亡へ導く行為ということに
なってきます。根本的には宇宙の調和を乱す戦争行為は、真理としては、いつの時代でも悪である理




59
べきなのですが、その時代やその時の環境によって、善と認められるものがあった、ということ
は、現今の人にとっては、おかしなことでもあるのです。しかしながら、丸腰平和論というのも、
うず
理想ではあっても、現在のようなまだ業想念渦まく世界においては、現実に即しているのか、どう
か、と考えさせられるものをもっています。
6Q
真理を汚す想念
先日、ふと行く気になって、日光に行ってきたのですが、中禅寺湖畔にある立木観音像を彫刻さ
れた、日光山の開祖である、勝道上人の霊が現われて、私の来訪を非常に喜こばれたのであります
が、勝道上人はi 近来、日光の霊地が、俗人間の物見遊山のために、非常に汚れて、昔日の面影
がないーと、嘆じておられたのです。私も全く同感で、そのへんを浄めて帰えってきたのでし
た。
きわ
勝道上人が、延暦元年に難行苦行の末、男体山頂を極め、後に中禅寺を開基し、日光山の開祖と
なったのは、霊地を人々に開放し、仏法を広めるための目的であったのですが、こうした真理への
理想は、今は、無惨にも、打ち砕かれて、その意義はほとんど失われた形になっているのでありま
す。
それは、はじめは開かれた霊地を、人々に広めるために、種々の建築物を造り、催し物などをし
ていたのが、しだいに参拝の人々が増加するに従って、その俗界の汚れた想念の積み重なりによっ
て、土地の人々や、主催者側の欲心が湧きあがり、敬盧な霊地が、物見遊山の地と化し去っていた
こうそうねん
からであります。かくて、勝道上人の志は、業想念の中に消え失せてゆこうとしているのでありま
す。
これは、たんに日光ばかりではなく、親鸞の意志に全く反する本願寺、日蓮の理想を汚す日蓮信
へだた
徒という工合に、理想と現実は、実に大きな隔りとなって、私たちの眼の前に展開されているので
す。
理想と現実の差異
近頃の宗教一般を見廻わしてみますと、あちらでも、こちらでも、理想と現実のはなはだしい差
異をはっきりとみせているのであります。
各宗教教祖は、勿論、神仏(絶対者)と人間とを一っにしよう、人間の本体を知らせて、人間を61理




自由自在心(身) にしようとして、道を説かれたのでありましょうが、そうした真理の言葉も、現
今の人たちが説きますと、その根本精神が抜けた不自由きわまる道徳論、修養論になってしまい、
教えを聴聞した人々が、かえって業想念に把われやすい人間になってしまってそうした教えを聞か
ない以前のほうが、まだ自由性をもった、面白味のあった人間だった、などという場合が、かなり
出てきているのです。
一つ二つ例を取りますと、ある新宗教では、人間は自然のまNに生きなければいけない、という
根本真理を、そのまx実生活に取り入れて、病気になっても絶対に医者にかかってはいけない、薬
を服してはいけない、というのであります。
そうしたことは、すべて自然に反することである。人間の中には自然に備わった自然治癒力があ
はいせつ
るのであり、その自然治癒力が、体内の先天的毒素を外部に排泄しようとして働いている姿が、病
気と見える姿なのである。つまり浄化している状態、浄まっている状態が、病気の症状なのである
から、その症状を止めようとして、外部から、自然に反する薬のような毒物を体内に注入すれば、
かえって、自然治癒力の妨げになるばかりで、なんの益もないというのであります。
真理としては、全くそうであり、私もその根本的な考えには賛成なのでありますが、その真理
62
を、そのま瓦だれにでも適応させ、日常生活に取り入れさせることが、果して適当であるか、どう
かということになると、これがまた、簡単にイエスといえるほどのものではないのです。
どうして簡単にイエスといえないかと申しますと、この現世の人間は、各自各様に、異なる精神
状態と、意志の強弱があり、その上、今迄の生活の習慣も相違しているのであります。そして、そ
うした教えに対する信仰心の浅さ、深さということもあるのです。
ひょっとしたことから、その宗教団体に入会したが、現在迄、医薬一方によって、病気の症状を
消し去ってきた、つまり病気が治癒してきたことを信じている人々に対して、医薬はいけない、薬
のの
を服むのは、毒を服むようなものだ、といって、その人の服薬を止めるようなことをしたならば、
その人は、教えの根本原理の自然治癒力はわかるが、薬を無視することはできないので、その宗教
せんだつせん
の先達に黙って、服薬をしてしまう。しかし、常に薬毒、薬毒といって、薬の毒であることを、先
だつのそむ
達たちにきかされているうち、服んだ薬が、本当に毒のような気がしてくる。そのうちに神に逆い
たような気さえしてきて、薬もきかず教えもきかなくなって、神経衰弱気味になってしまった、な
すす
どという例や、その宗教の信者であるが故に、家族や、周囲の愛念によって薦める薬を、にべもな
く断って、服薬せず死んでゆき、後に残った家族に心残りの想いを抱かせたりする例もあるのであ理




63
ります。
私は、根本原理が、いかに真理であるとしても、一度に急速に、それを実施しようとする態度そ
のものが、真理に反すると思うのであります。
一時から二時になり、春から夏になるように、この世の動きには、すべて順序というものがある
いつとき
のであって、一時に真理そのまxが現われるということはないのです。
真理の生き方としては、自然に生み出されたそのま二に、生き、育ち、生活してゆけばよいので
ありますが、今日の現実生活は、自然そのま玉、真理そのまxを行じ生かしてゆくことは実にむず
かしいことであり、できにくいことなのであります。
病気は確かに、人間の魂の浄化であり、そのま瓦放って置いても、生きるものは生き、死ぬるも
のは死ぬのでありますから、その原理を、はっきり認識して、病気に対する恐怖のない人にとって
は、医者も薬も不要であります。
自分に対して、この世の役目がまだ終りでないならば、生きつ父けることは確実であり、役目が
終っていれば、他界に転移するのだ、という覚悟をしっかりもっていれば、病気も災難も、平気で
いられるのですが、さて、今の世の人で、この覚悟をもっている人は、そうたくさんはおりますま
64
い。
そう考えますると、自然のまΣ に生きるのが真理だといって、だれにでも、薬毒と説き、医者不
しようそう
要を説くことは、時期尚早といわざるを得ません。

薬が毒になるか、益になるかは、その人の心しだいであって、薬を服むなら、その薬をつくった

人の愛念や、岡囲の人の愛念を感謝して服めば、その感謝の念によって、その薬が、真理の光とな
りののの
って効果を発揮すると思います。しかし、服みたくない人は服まなければよい、服みたい人は服め
ばよいので、そのようなことは、宗教者のとやかく指図することではなく、各人の自由意志による
のであります。
理想と現実との調和
如何なる真理といえど、押しつければ、それは不自由となり、真理ではなくなってしまうので
す。真理とは常に自由に行われるものなのであります。
天地万物に感謝する、ということでも、天地万物に感謝すること、その真実は、最高の真理への
行為であり、それが日常行える人は、実に幸福な人であり、真の人間であります。65 理




ひとた
ところが、この立派なことが、一度び、声に出る言葉となって、他人に強要された場合は、この
内容が、まるで死んでしまうのであります。また強要した人も、もはや感謝の人ではなくなってい
るのであります。
感謝ということは、人に強要されることではなく、人に強要することでもないのです。内部か
ら、自然に湧きあがってくる想いであり、感情であるのであります。
ですから、感謝くと、感謝を売り物にしていたら、感謝の本質は、全く消え去ってしまって、
にせ
感謝という形だけの贋ものが、残っているだけになってしまうのです。
人間は神の子である、という真理でもそうなのであります。人間は神の子であり、神そのもので
もあるのは真理なのでありますが、それは、文字の上や、声に出る言葉でいうべきものではなく、
その人の全人格、言語動作、全行為に現われるべきものであって、文字や、発声による言葉でいう
のは、ただたんに、その真理につなげるための、一つの動作であるのです。
それを、ごとごとに人間は神の子なのだ、円満完全なのだと、他人の立場やおもわくを無視して
しゃべりまくって、自らの想いを満足させているような者があるとしたら、その人は、ゆきすぎた
人というべきなのであります。
66
.
神が現われる時には、愛となり、慈悲となり、真となり、美となり、善となり、調和となって現
われるのであって、ただ単なる、文字や、発声による言葉に現われるのではありませんe
その行為が、愛であり、慈悲であり、真であり、美であり、善であり、調和でなければ、その人
は神の子とはいいがたいのです。
現世の人間は、神を内部に蔵して、その僅かの光を外部に発光しているものであって、まだ神の
みえ
子である、と大見得を切るほど、光明化してはいないのであります。
理想はいかほど高くともよいのでありますが、その理想のみに把われて、理想と現実の差異を忘
れ去ってはならない、と私はいいたいのです。
理想はそうであっても、この世で、今の状態では、できにくいことがたくさんあるのでありま
す。といって、その理想に近づくことをおろそかにしてはならないのです。
そこに、理想と現実との調和ということが大事になってくるのであります。
仏教思想と大衆とのギャップ
この現実界では、とてもできがたいことを、これが真理だ、といって突きつけられても、一般大67理




衆には、どうにもできそうにないようなことが、宗教の観念の中にはたくさんあるのであります。
はなくう
例えば、五欲を離れよ、という教えであります。空になれ、という教えであります。
くう
現世の人たちの中で、五欲を全く離れ、空の心の状態に在る人が、どれほどいるでしょうか。世
へだ
界に数えるほどしかいないのではないでしょうか。とすると、理想と現実の差のはなはだしい隔た
りが思わポます。
といたしますと、理想と現実とは、常に大きな差異をもって相対しつ黛けるものなのでありまし
ょうか。
くう
五欲を離れ、空になり得た人が、釈尊在世の頃から今日に至るまで、指を屈するほどしかいなか
った、ということは、未来もそうであろう、ということに結論づけられるものでしょうか。
地上天国の出現ということは、常に理想であって、現実化し得ないことである、といい得るであ
りましょうか。
私は、否というのです。過去の三千年と、これからの年限とは、全く異なる進化を遂げてゆくの
で、過去と未来とを同じように考えてはいけないと思うのです。
現今の科学的進歩がついにテレビジ・ソのような、素晴しい機械を発明した、と同じように、霊
68
的世界、精神的世界にも大きな進歩への一歩が踏み出されているのであります。
くうげだつ
それは、現在までの宗教は、空とか解脱とか、無抵抗とかいう高い理想を真正面から一時に押し
つけようとして、理想と現実との差異の大きさを、一般大衆にまざくと見せつけていました。と
ころが、現今ではこうした不用意な教導方法が一般大衆に宗教の神髄を知らせることが少く、かえ
って誤った道にひき入れ、人々を失望せしめ、宗教の進歩を遅らせていた、という長い先人の体験
るいせぎ
を踏み台にして、科学と同様な、体験の累積を、霊的な面から利用して、これを実生活に生かす方
法が、宗教面の教導方法にも生まれてきているのであります。
ギャップを埋めるもの
その一つの方法は、心霊科学の実験によって、人間の死後には幽界、霊界があって、種々の界を
へめぐ
経巡りながら、永遠に個性を存続したま玉生きつ父けてゆくものである、ということを実証する方
法であります。その方法によれば、現世の本人の想念行為が、死後及び未来世の、その人の運命を
決定するものである、という因縁因果説を、はっきり示すことができて、単なる宗教的説法より、
はるかに効果的であるのであります。理




69
その二の方法は、仏教の般若心経、法華経、華既経などの、餐論、巽梯論だけでは大衆には理解
しにくいので、それに救世主思想、弥陀思想を混入させて現代調に説いてゆく方法なのです。その
説き方を要約すると、人間世界は、善悪混交の世界であり、喜怒哀楽の世界であり、迷いの世界
であるように見えるけれども、実は、それは、神仏の姿が、人間世界に、その真実の姿を現わす過
みだ
程にあるからであって、真実の姿が現われた時には、この世に完全円満なる実相世界、弥陀の浄
りき
土、地上天国が出現するのである。だから、人間は、いたずらに力むことも、あわてることも、自
はら
己の悪心、迷い心を払い去ろうとして、自己をいじめ、さいなむような必要もない。現在の世界
や、自己の心や環境が悪いのは、あたかも、道なき道路を掘りかえし、掘りかえしして、コンクリ
ート道路にしようとしているようなもので、その工程において、道が穴ぼこだらけになろうと、凸
凹道にならうと、それをいちく苦にすることはないのである。穴ぼこ道、凸凹道は、その姿その
まN見れば、嫌な姿であり、不完全な姿であるにきまっているが、それは、完全なる道路ができる
過程にあるのだから仕方がないのだ。しかし、その歩きにくい不完全な姿も、その姿を嫌がって、
元の道に戻そうとして、工程を妨害さえしなければ、やがては立派な道路ができ上がることは既定
の事実なのである。
70
ということと同じようにこの人類世界が、いかに醜い、争いに充ちたように見えようとも、ま
た、個人個人の生活態度が、迷いと悪意と、五欲に充ちているように思われようとも、それは、
あくまで、人間の真実の姿、人類の完成された姿が、やがて顕現される過程であるので、そうした
姿は、すべて、完成への道を、うつりかわり、消え去り、うつりかわり、消え去ってゆく姿であ
る。だから、善も悪も妬心も、憤怒も、欲望も、心の表面に現われ、あるいは行為として現われた
時は、みな消え去ってゆくものであって、再び自己の心内に戻ってくるものではないと想い、その

想いを、完全調和した姿、つまり神仏のみ名の中に溶けこませてしまうのです。
その神仏のみ名は、阿弥陀仏でも、キリストでも、観世音菩薩でも、不動尊でも、守護神でも、
とな
守護霊でもよいのであります。各人各様に、自分が一番ぴったりする信仰対象の仏名、神名を称え
ればよいので、そうした神への唱名に加えて、世界人類の平和を祈る、世界平和の祈りをすること
を私はす二めているのであります。それは、戸迷い、乱れる想念を、一点に集中させる方法であっ
て、同時に、神仏に対する感謝の想いとなり、天地万物に対する感謝の想いにもなるのでありま
す。
71 理想と現実
72
神性開発のやさしい方法
この方法には、むずかしいことは一つもないのです。
くう
五欲を去れともいわない。空になれともいわない。これをしてはいけない、あれをしてはいけな
いともいわない。何様を祭れともいわなければ、何々の修業をしろ、ということもない。
日常生活をそのま玉にしていて、喜怒哀楽をそのま玉にしていて、ただ、そういう想いが現われ
れば消え去る、という真理と、神仏のみ名を称えるという実行があるだけなのであります。
しきそくぜくうくうそくぜしき
要するに、色即是空、空即是色、という代りに、消えてゆく、という真理の言葉によって、立ち
ひら
迷う想念を消し、神仏のみ名を称えることによって、人間の完全性への道を展きつ慧けるわけなの
であります。
悪い悪いと自己を責めつづけては、自己の神性、仏性の現われよう道理はなく、その想いは一転
して、他の誤ちをも責め裁く心にもなるのであって、自己の善悪、他者の善悪を、常に注視してい
るようでは、とうてい完成された人間は現われ出ません。また修業修業、修養修養といって、自己
の経済生活を無視するようでは、家庭の調和を破壊し去ります。
神性発揮、仏性発現の最大の方法は、何ものにも、何事にも把われない。あるいは、把われが少
くなる、ということにあるのであります。把(執)われを離れた時、神仏の力、人間の本体の力
じねんほうに
が、完全に発揮されるので、何事も自然法爾にできるようになるのであります。仏陀、キリストが
そうであり、過去の聖者、偉人は皆そうであったのです。
そのため、仏陀は、八聖道を説き、般若心経を説いたのであります。
把われを放つために、かえって修業修養に執われさせるような、指導方法では、いつまでたって
も、完成された人間はでき上りません。完成された人間、あるいは完成に近づく人間を、一人でも
多くつくるためには、安易に無理なくできる方法でなければなりません。
私はこれを第二の方法として説いているのであって、私のこの方法は、神仏の存在を信ずること
のできる人なら、老若男女にかかわらず、自然とできる方法なのであります。

種々と頭脳を駈け巡る想念思想を、神仏の中に投入してしまうことの他には、短期間で、自己を
安心立命させ、悪想念から離れさせる方法はありません。この世界は、神仏の他に存在しない世界
であることが、真理なのであります。そうした理想を現実化するために、私はこの方法を説きつy
けているのです。そして少し深く入った人には、世界平和の祈りを教えているのであります。理




73
すべての現象を消えてゆく姿と消し去り、すぺての想念行為への把われを自ずと放させ、自分を
ゆるゆる
赦し、人を赦し、自分を愛し、人を愛す、そして守護の神霊への感謝の実行をつ黛ける、これが、
私の根本義であります。
その第三の方法は大調和科学の出現でありますが、それはまた改めて説くことにいたします。
74
宗教理念と実生活
求道のために家庭を捨てるの是非
先日ある人から、釈尊はまあ別にしても、昔から宗教を探究してゆく人が、妻子を捨てΣ山に籠
ってしまったり、妻子の生活の責任を負わずに、自分だけ妻子を離れた別生活に閉じ籠ってしまっ
たりする例が、かなりありますが、その行為は、宗教を探究し、真理を求める者の一途なる心、純
粋なる心と解釈すべきか、または利己主義的な行為ととるべきか、どちらでありましょう、と種々
な人の名を例にとって、私にこう質問されたことがありました。
私は、例に出た人、各自について、この人はこうで善く、この人はあのようなことをしてはいけ
なかった、と答えたのでしたが、こうした問題は、その人の心の状態によってよしあしがきまるの
75宗教理念と実生活
であって、一般論的に答えるのはむずかしいことなのです。
しかし私の根本的な説き方は、自分の生活環境そのま二を生かしながら悟ってゆくことを説いて
いる、いわゆる在家宗教でありますから、妻子を捨てたり、家族をそのために困窮させたり、周囲
の調和を乱したりすることを否定しています。
宗教生活への逃避を私は絶対に否定します。私たちが、この現象世界に肉体身として生まれてき
ていることは、この肉体世界の様々な規定の中で、その様々な規定に縛られぬ精神生活を営むこ
とに究極の目的があるのであって、肉体生活を放棄して、精神の満足を求めるという生き方は、自
然(神仏) の意志に逆くものであるといわねばなりません。
人間がこの世に赤児として誕生するだけでも、神の力、霊界の諸霊の働きは大変なものなのであ
ります。考えてもごらんなさい。肉体的物質の皆無なところから、立派な驚くべき諸機能をもった
人間が生まれ出てくるのです。この世に生まれたということが、仇やおろそかに思えぬことは、今
更いうまでもないことと思われます。
そうした驚くべき誕生をして肉体人間としてこの世に存在する者が、いたずらに肉体生活を嫌っ
いんとんとも
て隠遁したり、せっかく妻子と借なる家庭生活を営むようになったりしたものを、精神生活に重点
76
を置いて宗教生活に自己だけが飛びこんでいったりすることは、どうしても自然のまxの生活、神
仏の喜び給う生活とは私には受けとれないのであります。
肉体生活も神の意志
肉体界には肉体界の生活様式があるのであり、その生活を最も浄らかに、最も調和した美しいも
の、善なるもの、真なるものにするために、精神の働き、霊的働きがあるのであります。精神的な
働き、霊的な働きが、肉体生活を無視して行われることがよいのであるならば、神や諸霊が、その
生命力を、物質界に誕生させる必要もなければ、その生育を援ける必要もないことになります。
神がそのような無駄な力をふるわれるわけがありません。神が必要のない肉体界を創る援けをし
たとするならば、神は完全な智慧者とはいいがたくなり、信仰生活は土台から崩れてしまいます。
神は常に、人間の霊性を、肉体界(物質界) の完全なる創造のために働かせているのでありま
す。ですから霊性(精神) の働きは、この肉体界においては、肉体界を、より完全なもの、立派な
調和したものに仕上げるために働いているのであって、たんなる肉体放棄のために働いているので
ないことは自明の理であります。宗







77
78
環境そのま》の求道
天理教などで、信者に、すべての物質を捨てなければ救われぬ、ということを説いて、全財産を
投げ出させ、従ってその職業も廃業させ、教会に引き取って、教会の仕事をさせたりしているむき
が相当あります。こんなことで救われるということは、全くおかしな話であります。
なぜならば、多くの人々が、このようにして職業を捨て、財産を宗教教団に捧げて、宗教教団内
すいび
の仕事に従事するようになったら、日本の産業界に、働く者が減少して、日本の産業は衰微し、日
本の国力は衰えてしまいます。
職業を捨て二宗教団体に走るということは、これは実に恐るべきことでありまして、日本の働く
力、日本の産業の興隆する力を、衰亡させてしまうものなのであります。
ヘヘへ
宗教信仰とは、そのような形のものではなく、真実の救われというものも、そのようなものでは
ないのです。
その身そのま瓦、その職業そのま二、その環境そのま二で救われる、それが真実の宗教の在り方
なのであります。
肉体界に住む以上、肉体界の生活に各自の技術をもって忠実に奉仕しながら、その生活の中で、
精神の光を輝やかせる生き方をしなければ、この世はやがて滅亡してしまうのです。
宗教精神を現実生活に生かせ
誤まれる宗教観は、唯物論同様、この地球世界を滅亡にもっていってしまうのであります。天理
教祖のいわれた言葉は、心を裸にして神の下にこい、ということであって、その財産を教団にすべ
て捧げて、この教団に入ってこい、ということではないと思います。それを後の人が、自分の教団
のみの発展を考えて、金品を捧げさせる方法に変えてしまったのではないかと私は思っておりま
す。
資本がなければ事業はできません。その資本であるべき財産を極度に捧げさせれば、その職業は
むやみ
自然につぶれてしまうのは当り前です。ですから、無暗と信者に金を上げさせることは、その人た
ちの職業を自然と萎縮させてしまうことになるのであります。
きそお
こうしたことを、宗教団体が競ってやるようになれば、宗教の価値は地に落ち、唯物論者の有利
な立場が展開されてくるのです。79宗







人間は何をやるにしても、大地にしっかり足をつけていなければなりません。自分の置かれてい
る立場を無視したり、自己の環境をいたずらに逃れようとしての宗教入りなどでは、その人はとう
てい救われの生活に入ることはできません。
80
真の求道心は不退転の大決意
釈尊の場合などは、人類を救済しなければならぬという、止むに止まれぬ、内部からの湧き上が
ってくる心に押し出されての出家であったので、この世からの逃避ではなく、この世から神界、仏
界への進出であったのです。それは生命の完全燃焼の姿であり、不退転の大決意であります。自己
のすべてを捨て去って、人類に捧げた姿なのであります。
やすだらやすだらぜんかく
こうした釈尊ですらも、その妃、耶輸陀羅を捨てx顧みなかったために、耶輸陀羅の父、善覚王
の深い恨みを買ったのであります。
ですから、妻子や、家庭を捨て、職業を捨て玉宗教の門に入るということは、自己のみの救われ
ぐらいの気持では、マイナスになればとてプラスになることはありません。妻子や職業や俗世界と
の交流を放棄してまで、出家する、今でいえば宗教団体入りするというからは、釈尊と同じような
精神状態から出発しなければなりません。自己の希望を達成することが、他の人々のマイナスにな
るような方法でなされることは、大義のためとか、道のためとかの絶対的境地に立ってなされぬ以
上は、あまり感心したやり方とは思えません。
道のためとか、真理探究のためとかいいながら、実はこの現象世界の業想念の圧迫に耐えかねる
弱い心が、その圧迫から逃れ去ろうとして、そうした圧迫の少い宗教団体とか、山野に逃避行しよ
うとしているのであり、そういう人が、かなりあるのです。
そのような弱い心で、どうして真理を悟ることができましょうか。真理を悟る、本心を開発す
る、神仏と人間の関係を知るということは、自己の環境が、いかに自己に不利と見え、自己に不為
であるように見えようとも、その揚を逃れようとするひ弱な心ではできにくいものなのでありま
す。
自分の置かれた環境を逃れようとして、もがけばもがくほど、自分の立場は苦しくなるものなの
です。それは逃れよう逃れようとする気持が業想念であり、真理を遠ざかる想いであるからです。
信仰の美名に隠れて自己の環境を逃れようとしたりする行為の中から真理の光明が照すことは絶対
にありません。夫は夫の立場、妻は妻の立場、子は子の立場というものを、しっかり認識し、そう
81 宗教理念と実生活
した立場に腰を据えて、その立場をはずさずに信仰生活ができるようでなければ、この近代世界か
らは、いつの間にか置き去られてしまうことでありましょう。
夫が悪いから、私は夫と別れて信仰生活に入る、妻が悪いから、妻と別れて宗教信仰一本でゆ
く、などという人がありますが、その気持そのものが、もう信仰生活を離れたものであり、宗教心
から遠ざかった想念であることを、その人たちは考えてみなければなりません。
82
結婚生活そのま》が神の理念の現われ
ある在家の宗教家が弟子にいった言葉に、妻などというものは面倒なものだから、相当年長の女
をもらって、一日も早く、面倒な夫婦生活などを卒業してしまえ、そうすれば一途に宗教生活がで
きる、という意味の言葉があった、とその相弟子の人に聞いたことがありましたが、この言葉はい
かにも宗教一途の言葉のように聞えて、そうかなと同感される人があるかも知れませんが、私はこ
れほど馬鹿げた言葉はないと思います。その弟子が、そのような言葉を本当にして、そんな気持で
結婚生活を営んだらどうなりましょう。相手の女性こそい二災難で、その男に利用されるにすぎな
い結婚生活となるにきまっています。これほど女性の人格を馬鹿にした結婚はありません。
結婚とは欲望を充すためにあるのではありません。結婚とは男性の長所と女性の長所とを合体せ
しめて一家という単位となし、その単位を綜合して、社会、国家、人類の発展のために完全な活動
をなさしめようという、神の意図によって結ばれるものなのであります。そうした結婚生活を、い
こころ
玉加減な態度で過すような精神の持主であるなら、その人の前から真理の光明は姿を消し去ってし
まうでしょう。そのようなことを弟子に教える先生は、真理を知らぬ人という他はありません。そ
れならいっそのこと、はじめから結婚をさせずに、昔の僧侶のような生活に向わせたほうが、むし
ろ正しいと思います。
行き過ぎた宗教観念は、かえってその人々を、真理の道から遠ざけてしまうものなのでありま
す。
親鸞の純粋性と私の宗教観念
ここで想い出されるのは親鸞であります。親鶯こそ、今の話の先生とは全く反対の道を、万難を
排して突き進んだ人であるからです。あの時他の僧侶は全部独身生活であったのですが、湧き上が
る本能の力に耐え得ず、戒は破らぬけれど、そのために悶々と身もだえしていた僧侶も相当数あっ宗







83

たようであります。
ぎまんこ
ですから僧侶の大半が自他を欺隔した生活をしていたわけであって、真からこの煩悩を超えた人
は数少なかったようであります。
道一本で突き進む僧職ですらそのように苦しむ道を、凡俗の世人が進めるわけはない、大衆が行
じ得ぬような宗教が、大衆を救うわけがない。この盲点を、親鸞は自己の体験を通して、はっきり
しやもん
認識し、自己と大衆と同じ地点に足を止め、沙門(僧侶)最初の結婚生活に踏み入ったのでありま
す。これは日本宗教史上特筆すべき事実であって、これは親鸞及び法然の真理探究へのすさまじい
までの打ちこみ方、真剣さをまざくと見せた一事であり、また、法然及び親鱒の大衆救済の熱意
のほとばしりであるともいえるのであります。
自己を大衆より一枚上に置いていて、大衆にむかって、ここまで上ってこい、というような説法
で、どうして大衆を救うことができましょう。自分が大衆と同じ地盤に立ち、大衆と同じ家庭生活
をもって、はじめて、大衆に納得できる宗教道への教えができるのであります。その点に親鸞の自
いつわ
己を偽れぬ性格の純粋性と、自他一体の愛念とが、はっきり示されていると思います。
私は現代の宗教が、特殊な人々の悟りのためであってはならないと常々思っているのでありま
84
す。自己が悟るとともに、その道は、神仏を信ずるものならば、だれにでも無理なく進んでゆける
道でなければならぬと思っているのです。
妻があっては悟りの邪魔になる、というのでは、そうした教えにつき従ってゆける人は数少いと
思います。妻があろうと子があろうと、そのままの生活の中で救われの道に入り得るのでなけれ
ば、現代のように人口も多く複雑な社会生活を営まねばならぬ時代にあっては、役立ちそうにもあ
りません。
妻を捨て、子を捨てなどの宗教観念は、現代にあっては、もはや馬鹿げきったものであるといえ
るのであって、一家全部がともに真理の道に入ってゆけるようにならぬ限りは、この地上世界は永
劫に救われるわけにはゆきません。
自分は救われている、だが業深き妻子らよなどと、自分だけ高みに置いて、妻子を上から見下し
ているような態度は、私の宗教観念の中にはありません。
因縁あって自分の親となり、妻となり、兄弟となり、子となった者たちが、業因縁の渦巻きの中
で、溺れかねない状態でいる場合に、自分だけは、その業因縁の圏外に出ることができた、再びそ
の圏内に入るのは嫌である、という気持で、そうした縁深き親族を、高いところより見下している宗







85
ような心の状態が、はたして悟った人の態度であろうか、と私は思うのであります。
汚れても汚れてもその業因縁の中に飛びこんで、縁ある者を救い出してゆく、ということこそ、
真の宗教者の態度であり、神仏の喜び給うところであろうと私は思いつゴけております。
はな
宗教理念だけが宙に浮いていてはいけません。宗教理念はしっかりと、現実生活の中で華咲いて
いなければ、神仏の慈愛の実を結ぶことはできないのです。
86
説法者の救われはその人の行為による
はな
愛という言葉も、誠という言葉も、すべてその人の行為として現われた時に、地上にその華を咲
かせるのであって、言葉だけが流れていては、真理の言葉は言葉なりの光を持ちながらも、その言
葉を語る人自身を救おうとはいたしません。
日常生活が、常人以下の宗教者が、一度び説法をはじめると、その説法が素晴しい真理の言葉で
あり、聴聞者の胸にひしひしとひyいてくる真理の光明の波を感じさせる、ということがあるもの
です。
説法あるいは著書から受けるその人と、日常生活から受けるその人との感じぶ、天地雲泥の差異
があることがあるのですが、という質問をよく受けるのですが、それは、説法あるいは著書は、過
うつわ
去世のその人の善因縁によって、高級神霊が、その人の体を器として使って、説法させ、著述させ
るのであって、現存のその人の肉体身(想念行為)が偉大なためではないのであります。
説法あるいは著書は、高級神霊の光明によって光り輝いているので、聴聞者の魂にひびいてゆく
のでありますから、その説法や著書によって救われの道に入ってゆく人もできてくるのであります
が、そのことは、直接その肉体の説法者、著述者の救われとはなんらの関係もないのであります。
その肉体者は、やはり一個の聴聞者として、自己の悟りの状態をこの世において行為しなければ、
救われるわけにはゆかないのです。
例えていえば、常に愛の説法をしながら、愛にもとる行為をしているような人があるとすれば、
その人は偽善者となるのでありまして、真理の道から遠ざかっているのであり、救われの道に入る
ことはでき得ないのであります。
そのことを知らず、教祖といわれて思い上がり、先生といわれて高慢不遜になっている人々は、
純真なる一般信徒に劣ること数等の霊的地位に陥落してゆくのであります。
教祖といわれ、先生と呼ばれた時こそ、より一層身をつ玉しみ、行為を正しくしなければならぬ宗







87
そら
もので、思い上がりの心などは、空恐ろしくてできるものではありません。
その人の霊的地位は、すべてその人の想念行為の高低によるのであることを銘記しないと、指導
的地位の人々が、かえって地獄に陥ちることになってしまうのです。
偉そうに人の行為を責め裁くよりは、その人の過去世からの悪因縁の一日も早く消え去ること
を、ともに祈ってやることのほうが、宗教者としては上出来であると、しみじみ思います。
ですから、宗教理念と現実生活との調和こそ、この世に神の世を創設する重大なことなのであり
ます。
宗教理念をどこで現実生活と調和させるか、これは、時代によって非常な相違ができてくると思
いますが、宗教者は常に現実生活をよくみつめ、大衆の立場に立って、宗教理念を現実化しなけれ
ばなりません。そうしなければ唯物主義者の実際に即した(しかし神の理念に反した)運動に圧倒
されてしまいます。
純粋素朴に神を信じよう
宗教者は常に、神の力を現実世界に、より多く、より広く、
うつわ
より強く発現させる器となり、場所
8s
となるために精進する者であるはずなのであって、自己独り清し、としたり、一般大衆と離れ住む
ような精神態度ではならないものであります。
平凡と見える生活の中で、心は常に神とつながっている、自然のうちに、愛と真の行為をしてい
る、日々感謝に充ちている。そうした人こそ、真の宗教者といえるのではないかと思います。
真の宗教への道には、そうむずかしい理論はいらないのです。
第一に生きとし生けるものは、すべて神によって生かされている、ということを素朴に信ずるこ
と。
第二に神はそのように人間の生命の根源であり、大親様なのだから、人間の幸福のためにのみ働
いていて下さるので、罰や不幸を与えるわけがないということ。
第三に罰と見え、不幸と見え、災難と見える姿は、すべて人間が、人間の生命の本源、つまり神
仏の心から離れていた過去世からの想念行為の誤りによるのである。具体的にいえば、自己と他と
を全く離れた存在と考えて、自己や自己の周囲の者のみを守ろうとしていたために起った喜怒哀楽
の想念、または、すべては肉体の力のみでやらなければならぬとの考え、あるいは自己の誤りや、
想念感情をおしかくそうとしたり、抑圧したりしていたための業想念の蓄積等々、神(本心) と肉宗







89
体人間との関係を知らぬ無智から起こされた想念行為によるのであるということを知ることであり
ます。
第三の事柄を考えることがむずかしかったら、そんなふうに考えなくとも、これは私が毎々いっ
ているように、自己の周囲に起ってくる病気も不幸も災難も、すべて過去世からの誤った想念行為
の消えてゆく姿であって、その姿を把えずに、神仏のみ名(守護の神霊への感謝) を唱えつゴけて
へんじよう
いれば、やがて、あなたの周囲に神仏の姿、光明遍照の生活が現われてくるのです、という教えを
素朴に実行すればよいのであります。
9Q
幸いなるかな
いかなる哲学も理論も、目的は、人間の本体を知らせようとしてのものであって、いくら哲学思
想の学問をやっても、みずからの想念行為の中に、神の姿、自他一体の心、愛と真と美の行為が現
われなければ、その学問はなんの役目も果さなかったということになり、その人は、そんな学問を
やる時間で、現実世界に直接役立っ、科学や技術の学問をしたほうがよほど有効であったというこ
とになります。
素朴に純粋に神仏の存在が信じられ、すべてに対する感謝の生活ができる人ほど、幸福な人はあ
りません。宗教哲学の学問は、神仏と人間との関係を知識的に明らかにして、神仏の理念を、この
現実世界に現わそうとする意図のもとにはじめられたものであるのですから、そうした学問もせず
に、素朴に純粋に神仏の理念を直感し、愛の行為、美なる行為、誠ある行為のできる人ほど幸福な
生まれ性の老はないと思います。
ともむいふ
神我れと倶にあり、の信仰から無畏怖の心が起り、神に忠実である、という心から神の理念であ
る愛と真と美への行為が生まれることは確かな事実でありましょう。
やがては眼に見えぬ力(守護神、守護霊)が、日々我々の身辺で働きつ黛けていることのはっき
りわかる日がくるのであります。宗教理論、哲学理論をもてあそぶよりは、世界平和の祈りをな
し、守護の神霊への感謝を念じたほうが、どれほど自己のためになり、世界人類のためになるか
は、今に判然としてくることを、私は明言いたします。
世界人類が平和でありますように”
宗教理念と実生活
91
92
妥協と調和
末世の今日
今日までのいつの世でも、この世は住みにくい、と一般大衆のこぼさぬ時代はないのですが、今
日ほど物惰騒然とした、今にも世界が壊滅してしまう大戦が起りそうな、不安混迷の時代は少いと
思います。今までの戦争と違って、今度戦争が起ったら、世界中どこにも逃がれるところも、住む
ところもなくなる、全くの人類滅亡の姿になると想像されるからであります。
世界の指導者たちは馬鹿ではないのだから、みすみす世界が滅びてしまうような、核兵器など使
いっこない、核兵器はお互いが相手を抑えるための威嚇兵器だ、といっている人々がありますが、
人間の業想念の波というものは、一瞬にして、そうした常識を破壊してしまう、恐ろしい力をもっ
ているもので、普通人よりは常識も知識もあると思われる、代議士諸公が、いざとなると、集団的
想念の波に巻きこまれて、まるで小さな子供たちがやりそうな常識外れの行動で議会の尊厳を傷っ
け損ねてしまったり、最高学府の知識教養を身につけた学生諸君が、日頃の教養もどこへやら、投
げ合い殴り合いの全くの常識外れのデモ行動をしてしまったりするのです。
各国指導者の動きをみても、あれが平和を築こうとする指導者の態度であろうか、と思われる言
てんゼん
語動作をして、悟然として恥じない人々がたくさんおります。
クリスチャンである筈の米国歴代の大統領でも、自国家や、共産主義のもっている業想念波動に
巻きこまれて、平和を念願しながら、いつの間にか、平和を離れた政策面に行動してしまっている
カルマ
のです。汝の敵をも愛せよ、というキリスト教国の政策が、世界人類のもつ業の波には抗し得ず
に、平和の波から離されてしまいそうになっていることは悲しむべきことであります。
米国を頂点とした西欧陣営と、ソ連中国を中心とした共産主義国との対立は、どちらか一方が屈
しない限りは、いずれは戦火を交じえずにはおられない宿命的な方向にむかっています。それは全
く相容れない思想の対立であって、どこにも調和し得る余地のない根本的に相異なった思想の地盤
に立っているからなのであります。妥


調

93
94
一時のがれの妥協
そこで、細かい部分における妥協ということで、その場その時の一時逃れをやっているわけなの
ですが、妥協はあくまで妥協であって、調和とは違います。妥協という場合は、なんらかの利害関
とく
係によって、その場その時は譲り合ったほうがお互いに得だということで譲り合うのですが、調和
ととの
とは、心から調い和するということであります。米ソ中の関係をみていますと、心から調い和する
という状態は、根本思想において異なるのですから、絶対にといってよい程実現することはありま
せん。妥協という点においてすら、ほんのいささかの妥協であって、大戦を恐れるのあまりの妥協
なのです。しかしながら、米ソ中国に武力を持って相手を抑圧しようという気持のほうが、妥協に
おいて、相手の気持を柔らげようとするより勝っておりますのが現在の三極陣営の状態なのですか
ら、国際情勢は緊張の度を増加しているのであります。
こうした米ソ中の気持が、一方は日本に安保条約の強化をすすめ、一方は安保条約を破棄させよ
うとして、脅迫めいた言動を弄しているのです。そして日本は総体的には米国側に組しながらも、
ソ連中国の出方を恐怖の眼をもってみつめているわけなのであります。
日本国民が戦争を恐怖することは、非常なもので、こんな気持で一度でも爆撃を喰ったら、安保
条約などは問題にならず、戦争反対の内乱が起ってしまうのではないかと思われます。といって、
日本が米国から離れての独り立ちなどは、全く成り立たない現在の状態なのですから、だれしもが
困り切ってしまっているのです。
まず自分自身の心の在リ方をみつめること
地球人類が現在まず一番最初に考えなければならぬ問題は、一体なんなのでありましょう。それ
は、米国がどうの、ソ連、中国がどうの、という問題ではなく、自分自身の心の在り方を真剣にみ
つめることなのであります。
自分自身の心の在り方が正当でもなく、はっきりもしていないで、日本がどうの、米ソ中国がど
うの、といってみても、どうにも仕方のないことなのです。
自分自身がいかなる者であり、人間とは一体どんなものであるかがわからないで、国家や世界人
類の問題を、とやかくいったところで、国家や人類を盲滅法にひっばっていってしまうだけで、危
いことこの上なしなのです。そうした姿が現在の人間の姿であり、国家人類の姿なのであります。妥


調

95
ですから世界の指導者たちが、だれに変わろうと、政治態勢がどのような形になりましょうと、そ
の指導者たちや権力をもった人々が、人間の真の姿を知らず、国家や人類の天命を知らない人々で
こらしよう
あるならば、決して地球人類の平和は樹立でき得ないのであります。こうした人間の姿を、業生の
りんねてんしよう
世界における輪廻転生の姿というのです。
人間が神の子であり、一人一人の人間が、神のみ心のままに、お互いに調和し合って、人類世界
に、大神のみ心み姿を顕現してゆくのが真理でありますのに、お互いに反擾し合い、憎しみ合い、
倒し合おうとしていながら、どうして神のみ心である世界平和ができるでありましょうか、実に嚇
うべき愚かなる想念行為を現在の人類は日常茶飯事においてまで示しているのです。
現在の人類世界は、真理が業想念行為の波動に蔽い隠されて、人々は業想念の波動の流れの中
で、善悪を論じ合い、すべての行動を為しているのであります。
こうした業想念波動の中には、真の調和生活は成り立ちませんで、調和のように見えても、それ
はお互いの利害関係による妥協に他ならないのです。それは個人も社会も人類も同じことなので
す。
96
調和とはなん.ても相手のいうなりになることではない
調和主義のようにみえていても、常にその人が、自己の心が弱いために、なんにでも妥協して、
調和した生活者のように見せている場合もあります。これは自己の光が弱いために、相手の業想念
に抑圧されて、相手の業想念と妥協している姿なのですから、こうした人を真の調和主義者と呼ぶ
ことはできません。それは闘争の波とはまた違った業想念の世界の人であるからです。
これは国家においても民族においてもいい得ることで、相手が強いから、長いものには巻かれ
ろ、という事なかれ主義で、相手のいう通りになっての政治を行っているような場合にも適合し得
るのです。
個人にしても、国家にしても、妥協して相手のいう通りになっても、別に真実の人間、国家の天
命に対して、なんらのマイナスにもならぬような問題ならよいのですが、人間の神性を傷つけ、国
家の天命を損うような場合には、そのような相手のいい分通りになってはいけないと思います。
そんな重大な時にでも、平和や調和の名分のもとに、そうした業想念に妥協している限りは、そ
の個人もその国家も、その天命を永劫に果すことはできなくなり、その存在理由を失ってしまいま妥


調

97
す。
98
一人の人間がこの世に存在し、一つの国家がこの世界に存在するのは、各自が神より与えられた
天命を果すためなのであります。もしその天命が果せなければ、その人もその国家も存在理由を失
ってしまうのです。自分自身がなんらかの天命を完うするのだ、という意識をもっている人間は、
絶対にその天命を果すまではこの世を去りませんし、あの世の生活、後々の世までの生活までも生
きいきとした明るい楽しいものとなるのです。国家もまた同じなのであります。
心弱さから業に妥協してはならぬ
人間にはそうした信が必要なのです。そうした信の生活が生まれるためには、やはり、自分が神
ちから
から分れてきている神の子であって、自分の中には神の権能が、そのまま働いているのだ、という
信仰がなければなりません。そうした信仰がなければ、その人の想念は、常に不安に乱れ、恐怖に
さいなまれて、業想念波動に妥協しつづける生活をつづけなければならなくなり、生きながら死ん
でいる生活となり、生命を生かすことができなくなってしまいます。また業想念波動に妥協して、
この世の地位や富を得たとしても、その人には心から安心立命した、神の子の清々しい生き方はで
きませんし、あの世での生活は全くみじめなものとなるでありましょう。しかしながら、そうした
業想念波動に妥協して生きてゆくより仕方のない弱い心の人々もなかなか多いのです。
そこで、私はこうした自己の心弱さから、常に業想念に妥協しやすい人をも、業想念波動を超え
た世界に常住させようという、大救世主の慈愛のみ心を受けついで、世界平和の祈りという、救世の
大光明波動に、やすやすと直結でき、いつの間にか安心立命のでき得る人、強い心の人に成し得
る、念仏と同じような、易行道の門をひらいたのであります。
常に闘争心をもって人に対する人も駄目ですげれど、自己の利害関係のために、どんな業想念行
為にも妥協して、調和らしき生活を保っている人もいけないと思うのです。それはどちらも業生世
界に住みついている人々で、真実の人類世界にマイナスとなる人々なのです。
肉体人間を一旦否定し切ること
私は、自己の想念の声に正直に耳をかたむけ、自己の弱さ、自己の欠点をはっきりみつめ、肉体
人間の自己を一度、駄目なりと否定し切り得る人を偉とするのです。人間を一たん否定し切ったと
ころから、はじめて真実の神の子の姿が現われてくるのです。何故ならば、自己を一たん否定し切妥


調

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ゆうぜん
った時に、自己の生命の本源の声が聞えてくるのです。すなわち、神への憧憬が油然と湧きあがっ
てくるのです。肉体人間の自己が無くなった時、そこに生まれてくるのは肉体人間の自己でなくし
て、霊なる自己が生まれてくるのです。私はそれをそうむずかしくは説かずに、どんな誤った想念
が心に浮ぼうと、不安や恐怖が現われようと、そうした想念をもったまま、世界平和の祈りの中に
投入してしまいなさい、そうすれば、世界平和の祈りがもつ大光明波動で、あなたの心は浄められ
てしまうのです、そして神の子のあなたがその場で現われてくるのですよ、と教えているのです。
私のところにくる大半の人々が、何がなんだかわからぬままに世界平和の祈りをしているうち
に、いつの間にか安心立命した生活状態をつくり出しているのであります。
私は、私自身も業想念に妥協致しませんが、同志の人々にも、妥協とも調和ともそんなことを言
葉でいうことはあまりせず、ただ、ひたすら世界平和一念の生活をつづけることをすすめていて着
々成果を挙げているのです。
100
真の調和と世界平和の祈り
真の調和は、世界平和の祈りをしているところから、おのずから生まれてくるのでありまして、
言葉でとやかく教えてできるものではないことを、私は今日までの宗教生活で、随分と経験してき
ているのです。
世界平和の祈りというのは、何人とも何国とも争わぬ、大調和の祈りです。世界平和の祈り、大
調和の祈りが、何人とも何国とも争わぬということは、どんな人とも、どんな国とも、いかなる悪
行為とも妥協して、その行為を認めてしまうというような、力のない弱いものではありません。
誤った思想行為は、誤った思想行為としてはっきり認めて、しかもそれも、人間の本心、人類の
本体の顕現されてゆくための消えてゆく姿として、その悪を把えつづけていない、ということが私
たちの生き方なのであります。
ですから、誤った思想行為を、それは誤りであると厳しく批判することもありますし、手をっな
いでゆこうとの申出があっても、知らぬ顔で聞き流してしまう時もあります。腹の中では、あいっ
何をいっているんだ、という軽べつの想いをもちながら、ただ単に口先きや筆先きで、いかにもそ
の思想にも同感だというような、おざなりの言葉をいったり、文章を書いたりすることを、私は嫌
っているのです。そんな行為は、消えてゆく姿を、長い時間消さずに置くような行為だからです。
この世の中に数多くある思想想念というものは、消えてゆく姿としてのものと、神のみ心として妥


調

101
の光り輝いたものとがあるので、一人の思想家の言動にしても、ある時は消えてゆく姿としての言
葉を吐き、ある時は神のみ心をそのまま言葉なり文章なりに光り輝やかせている時もあるのです。
ですからある時はその人の言葉を称え、ある時は批判することもありうるわけなので、いつも、だ
れにでも賞め言葉だけを与えていて、それが調和精神だと思っていたりしたら、とんでもない間違
いです。
102
安易な妥協は自分も人も生かさない
思想家というものは、常に神のみ心と業想念とをはっきりと区別し得る心の状態を保っていなけ
ればならぬものなので、安易なる妥協は相手をも自分をも高める行為ではありません。
私は神のみ心の地球界における最大の現われを、世界平和の祈りとして、その世界平和の祈りの
もつ大光明思想の中から、すべての物事、事柄をみっめつづけているのです。そう致しますと、い
かなる巧妙なべールで包まれた業想念行為であっても、それが神のみ心の現われではなく、消えて
ゆく姿として、そこに現われてきた思想行為であることが、はっきりみきわめられるのです。そし
てそうした業想念行為を、世界平和の祈りの中に運び入れて、いちはやく消し去ってしまうように
するのであります。
ですから私たちの世界では、そうした業想念思想を発した人々を、いちいち憎んだり、抑圧した
りしようとする気持は毛頭なく、ただ消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中に送り入れてしま
うだけなのです。私たちはそうした消えてゆく姿に妥協することはないと同時に、消えてゆく姿を
やっつけようという気持もないので、ただ、すべてを世界平和の祈りのもつ救世の大光明の中に投
入することだけしかしていないのであります。
世界中に充ちている業想念波動を、少しつつでもよいから、救世の大光明の中に送りこんでゆく
のが私たちの役目なのであります。
日本には日本自体の生き方がある
戦争を恐怖するのあまり、どんな思想をもった国家とでも妥協してしまおう、というような弱い
心でいては日本は滅びてしまいますが、それと同じように、悪い思想を認めて、それを抑圧しよう
とする対抗意識をもっていたとしたら、日本は戦火をあびることになるのです。
ここのところが実にむずかしいところなので、現在の日本人の考え方は、この二つのうちどちら妥


調

103
かになっているのであります。私はこの二つの在り方を両方共に駄目な在り方だと否定しているの
です。
妥協と調和とは違うのだ、ということを、今こそ本当に考えてみなければなりません。共産主義
と下手な妥協をすれば、日本は滅亡してしまいますし、米国との下手な妥協もやはり同じことにな
るのであります。といって中立などは夢に過ぎません。日本を真実に救い、世界人類のために、日
本が真実に天命を完うするには、国民が揃って、真の調和精神を自己のものとするより他にないの
であります。
共産主義も西欧主義も、すべて消えてゆく姿なのです。日本には日本自体の生き方があるので
す。そのことを日本人は等しく悟らなければならないのです。その生き方が大調和主義なのです。
真の調和生活には絶大なる勇気と信が必要
その大調和主義の第一歩は神への還元なのです。自己の想念行為を、自己の生命の本源である神
へおか、兄しすることにあるのです。調和調和と口では、いかにもやさしくできそうにいっている人
々もありますが、真の調和生活をするためには、絶大の勇気と、大いなる神への信が必要なのであ
104
ります。
信なく勇気なくして、調和した生活がつづけてゆかれる筈がないのです。調和とは、自己が自己
自身と調和することが第一であり、家族と調和し、周囲と調和し、すべての人々と調和してゆくこ
となのでありますが、なかなかこの行為はできにくいのです。
これをいいかげんにしておりますと、或る宗教のように、絶対調和を説きながら、敵を認める運
動をしてしまったりするのです。共産主義は勿論誤った思想であります。しかし、この思想も、人
類が過去から蓄積してきた業想念の消えてゆく姿として現われてきたもので、これを対抗的に迎え
打ったり、抑圧しようとしたりすれば、折角現われて消え去ろうとしているものが、抑圧されて中
に籠り、かえって反擾して大きな力となり、多くの損失をこの人類世界に与えてしまうのです。消
えてゆく姿のものを何故敵として認めるのか、私には判断に苦しむのです。まして、それが絶対調
和の光明思想を説く或る宗教がやっているのがおかしいと思うのです。
そこが神にしっかりつながっていない者の悲哀なのです。絶対なる信とは、神がすべてであり、
神の他に在るもの無し、の大光明思想でなければなりません。神はあなた方の中にも外にも、輝き
つづけています。あなたのうちには本心として分霊として、外からは守護霊として守護神として、妥


調

105
いついかなる時にも光明を放ちつづけているのです。それを私は、はっきり知っているのです。私
にあっては、分霊も守護霊、守護神も全く一つに融け合って生き生きと輝きつづけているのです。
合気道の植芝盛平先生もそのような方だったのです。神は慈愛です。人間をみじめな目に会わせる
ために、この世に生んだのではありません。戦争をさせ、闘争をさせるために生んだのでもありま
せん。しかし、今日までは地球界の開発のために競争意識的な発展の道をたどってきました。だ
が、今日はもうそうした競争意識の発展の必要のないまで、地球文明は発達してきました。
106
今日から大調和精神による発展を
今日からは競争ではない、せり合いではない、力に対する力という関係ではない、大調和精神に
よる発展過程に地球界は進化向上してきているのです。それを知らぬ人々が、今日までの習慣的業
想念で、今日以降の世界をもひきつってゆこうとしているのですが、その誤りは、神のみ心にはは
っきりうつっておりますので、その誤りを消えてゆく姿とするために守護の神霊の集団的働きの時
代となってきたのであります。救世の大光明団と、肉体人間との協力による世界平和の達成の第一
歩が、世界平和の祈りとして現在誕生しているのであります。
大調和生活に必要なる信と勇気が、世界平和の祈りをしていると、無理せず、力まずに自然と自
己のものとなってきて、安心立命の生活が成り立ってくるのです。生きるいのちをそのまま生か
し、いついかなる時処においてこの世を去ってもよい、という覚悟が、知らぬ間にできてくるので
す。それ程に、世界平和の祈りのもつ光明力は強いのであります。
この世の生活にそのまま沿いながら、内面生活は神のみ心の中に生活している自覚を、教育のな
い老婆でさえ自己のものとしてゆくのです。
世界平和の祈りの生活だからといって、何事も恐れない、一度も怒らない、などというのではあ
りません。恐れても怒っても、直ちにその想念を消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中に投げ
入れることのできる幸福をこの人々はもっているのであります。
業想念をいつまでもつかんでいない、ということの幸福は、何もの、何ごとにも代えられぬ喜び
であるのです。
教えは分裂してはいけない
妥協と調和
宗教の教えはあまりむずかしくては民衆がついてゆけませんし、多くの教えが入り交じっていて斯
もいけません。
教えは分裂してはいけません。あくまで神ひとすじに、いかなる想念行為もすべて神のみ心の中
で一度は消滅し去って、神のみ心の中から、改めて出直す日常生活でなければ、真の宗教生活とは
いえないのです。
自分を赦し、人を赦し、自分を愛し、人を愛し、の教えは、すべて消えてゆく姿と世界平和の祈
りがあって、はじめて成り立つのであります。自分の業想念をつかんでいては自分を赦すことはで
きない。人の業想念をつかんでいては人を赦すことはできない。すべては消えてゆく姿として、世
界平和の祈りの中に投入してゆく生活、それが私たち同志の日常の生活法なのであります。
このくらいのことは人間だから仕方がない、といって自分を慰めている人がありますが、これは
消えてゆく姿ではありません。消えてゆく姿とは、ああ、これはいけない、しまった、と思い、そ
の想念を過去世の因縁が現われての失敗だ、この失敗によって、自分の業想念がそれだけ消えてい
ったのだ、という瞬間的な反省があって、はじめて消えてゆく姿になるのであります。そしてその
消えてゆく姿だという想念を、世界平和の祈りの中に入れてしまえば、その因縁はそこで真実に消
え去ってゆくのです。しかし、同じような想念が過去世からたくさんたまっている人もあるのです
108
から、幾度びもやらなければすっかり消えない場合もあるのですから、なんべんか、かまわずやっ
ているうちに、いつの間にか、世界平和一念の祈りの生活に自分が入ってしまっているのに気がつ
くのです。
自己が救われると共に世界人類が光明化される世界平和の祈りこそ、現代の最もやさしい大乗の
道なのであります。
109 妥協と調和
110
相対観念を超えよ
現実を深くみつめれば

私は月刊誌の白光を通して、常に、肉体人間の業想念、つまり肉体的自己保存の本能を超えよ、
自我欲望の想念行為を超えなければ、自己も国家も人類も遂いには破滅してしまうのだ、と説きつ
黛けており、その方法をやさしく説きあかしているのでありますが、編集部が、朝日新聞社で発行
している、朝日ジャーナルをもってきて、巻頭論文の「政治家にとって現実とは何であるか」とい
う文章にたくさんの赤線を引いて私に示しながら、「これを書いた人はジャーナリストの代表的評
論家なのですが、先生と同じように、政治家に現実を偽りなく直視することを要望していますね」
というので、私が取り上げて、その文章を読んでみました。
その文章は、このまxの生き方、このま二の歩み方、考え方では、人類は滅びてしまう、政治家
は無垢の心になって、現実をもっと深くみつめて政治をとらなければいけない、という主旨の論文
なのでありました。
以下少しくその論文の所々を抜粋して、私の考えをその論文の上に加えてみようと思います。な
ぜその気になったかと申しますと、国家や人類の運命を真剣に憂慮している知性者たちは、この論
者とほとんど同じような考え方をしていると思えるし、私の考えもこの人たちと一応は同じ線に立
っているからです。同じ線に立っているといいましても、私の立場は一度は同じ線に立ちながら、
その線をもっともっと深く掘り下げて、神のみ心の中に飛びこんでいるのですから、そこのところ
が、大分違った意味をもってきているのです。その点について論評してゆきたいと思うのです。
この文はまず、核兵器が生み出した恐怖の奴隷、という小題で、「日本国民をふくめて、全人類
のために、いまほど政治のもたらす意味が重要な時期は、ないといってよかろう。国内政治、国際
政治を通じて、いまほど、全人類の運命と、その生死の分れ道が、政治家たちの手にゆだねられて
いる時期があったであろうか。そして政治家たちの、この重い役目は、これからさき、年を加える
たびに、その重さをまして行くにちがいない」相







111
という書き出しから、「… … なぜ、大陸聞弾道兵器をはじめとする、、・・サイル競争が行われてい
るかといえば、弾道兵器のもたらす恐怖で、相手をおどし、おどすことによって、相手が戦争に訴
えるのを防止するという、いわゆる抑止の効果をねらっているのである。本来の意味での国防は、
すでに意味を失ったが、戦争抑止のためということで、核兵器軍備の拡張を理由づけているわけで
ある。大国がたがいに、このような考え方で、軍事努力を進めている現状が、いわゆる恐怖の均衡
であって、この均衡を保つために、絶えず双方が恐怖の上に恐怖をつみ重ね、はかりが一方に傾か
ぬよう巨額の軍事費と近代科学の成果とを、防ぎようのない兵器の製造のために、互いに投入し合
っているのである。
恐怖の均衡は、単に大国だけが、たがいに恐怖の兵器を競ってつくり合う軍拡競争ばかりでな
く、それら大国を中心とする対抗的な軍事同盟の大きな系列の形成とも、むすびついている。恐怖
の均衡のはかりの上には、恐怖の兵器のほかに、たくさんの軍事同盟が積み重ねられているのであ
る。
… … 恐怖の均衡によって、戦争の発生が防げるであろうか。戦争の発生が抑止できるであろう
か。過去の経験によれば、とめどない軍拡競争の結末は、戦争の発生であった。… …
112
常識で考えても、ピストルを互の胸に押しつけながら、ふたりの人間が、いつまでも無事に暮せ
るものだろうか。そんな暮し方があるものだろうか。ピストルを、まず互の胸先からおろす工夫を
せねばならぬ。おろしたなら、互に口をひらいて話しあわねばならぬ。話をして、意思が通じ合っ
たら、次には、ピストルを手から地上に投げすてねばならない。投げすてたら、その手で肩をだき
合ってふたりは友人にならねばならない… … 。
たとえば、自然科学者は、核兵器のおそろしさを、普通の人たちよりも、はるかに深く知ってい
る。業の世界の現状を、いちばん深く知っている。それだからこそ、世界中の多くの科学者が、核
兵器実験禁止のために、また世界平和のために、あるいは著書で、あるいは講演で、あるいは共同
声明で、くりかえし、くりかえし、無垢の心から発する運動をつづけているのである。日本の科学
者たちもその例外ではない。政治家たちはいう。『ご趣旨はごもっとも、しかし政治は、現実をは
なれてはうまく行きませんのでね』と。
これらの政治家たちは、科学者ほど、現実を、また業の世界の深淵を知らないだけのことで、知
ったら、とてもじっとはしていられないはずなのである。無垢の心を発しないではいられなくなる
はずなのである。…… 相







113
… …政治家たちは、現実を深く知らぬから、つまり無知のゆえに、無垢の心を発し得ないのであ
る。そこで、『現実的でない』といって逃げるのである。ところが、彼等は現実のおそろしさを深
く知らないのである。無知から、無垢の心は生れない。
… … 世界の政治家が無垢の心を発したときに、世界に平和が確立されるのである。
… …無垢の心は、現実を、より深く知ったときに発するのである。なぜかは知らない。しかし、
人間心理の機微はここにある。科学者は科学の示すところにより、素人よりも現実を深くつかむ。
真の芸術家は、芸術的直観によって、素人よりも、深く現実をつかむ、真の宗教家も、また然りで
ある。利害にまどわされないために、現実をみる目にくもりがないからであろう。… …」
以上が朝日ジャーナルからの抜き書でありますが、現実をはっきりとみつめずに、その場その時
おもん
のごまかしで、後にどのような危険な状態が起ろうとも、そこまでの慮ばかりのない政治政策をや
られては一般国民はたまったものではありません。

この論者はその事実を憂いて、現実を深くみつめ、無垢の心、我の無い心でその政策を遂行して
ゆくべきであると強調しているのであります。114
ほとんどの人が利害に振廻わされている
さてこの無垢の心、我の無い、垢のつかない純粋の心になり得ることが、普通では容易でないの
です。そこに宗教の道があり、神への全託の道が絶対に必要になってくるのであります。
大体において、利害に迷わされずにこの世の生活を送っている人がどれほどあるでしょうか。肉
体的自己保存の本能というものは、何事にもまして、強い力をもっているもので、この本能に勝て
ない以上は、相対的世界、つまり相手と自己とを一つの生命の現われと、心から認識することはで
きないのです。自他一体観の一番強いと思われる母と子の間にでも、母と子が全く一つにつながっ
た心の姿で相対することは稀であって、母のやりたいことと、子供のしたいこととが相違している
場A口が多く、それが一つに調和したように見える時は、ほとんどが母の犠牲的譲歩によるようであ
ります。
まして現代のように、自己の権威の見せどころを求めて、政界入りする人々が大部分である代議

士大臣諸公の間柄のしかも、お互いに政権を守りたい取りたいの政党の人々に、無垢の心、我の無
い心などを求めても、これは、とても無駄事ではないかと思われます。相







115
一体に無垢に近い心の人、我欲のすくない人々は、現在のように金の力と自己宣伝とによらねば16
1
当選できぬような政界には、想いのむくはずがないので、静かに野にいて青年教育にでもいそしみ
ながら、孤高を守っていることでありましょう。
これを国際的に観ましても、米ソ中のような三大対立国家が、今のま二で無垢な心になれよう道
理がありません。それは相容れる一線のどこにも見当らぬ政策で、できたとしても自国の我を最後
には通そうとしている瞬間的譲歩しかでき得ぬ心の状態に追いこまれてしまっている三国なのです
から、三国の想念を三百六十度に転回しない限りは、どうにもならないというわけなのです。
個人も国家も、一度はすっぱりと現在の考え方生き方を捨てきらないと、この地球世界に平和は
絶対に生まれてこないのであります。といって、どうしたらそうなるかという問題になりますと、
いかなる道の言葉を米ソ中に伝えたとしても、それはそうだろう、しかし実際としては相手がこち
らと同じ気持にならぬ限りは、こちらだけが無垢の気持で譲歩するわけにはゆかない、そんなこと
をすれば、すぐにも相手はつけ上がって、また一歩欲望を前進させてくるにきまっている、という
ことでありましょう。
国家間ばかりではなく、個人間でも、そんな言訳けが多いのです。ですから今のま二の人生観で
はいかんともなしがたいので、
になってしまうのです。
地球世界の滅亡を、あれよくと手もなくみつめているということ
個人はそのま、世界につながっている
ですから少数の個人くが、清らかな純粋な心でこの世の生活を営んでいることは、その周囲の
人々を幾分づxでも善い方向に自ずと感化してゆくことではありましょうが、それが直接世界人類
の業想念行為を浄め、地球を戦争の災害から防ぐということになりません。
現今ではもう、個人くが清らかになり、純粋な生活をしてゆくというだけでは、この地球世界
の滅亡を防ぐことにはならぬばかりか、そうした善良な清らかな人々をも含めて、大きな災害から
くる肉体的な苦悩を味あわなければならぬ段階に立至っているのです。
今日ではこの地球世界、肉体的世界においては、個人はそのまエ世界につながっているものであ
り、世界人類の運命の波は、個人の運命を醜弄してしまうのであります。それは、いかに巨億の富
を持つ個人であっても、核兵器の爆発によっては、その人の運命は瞬間に変えられてしまう、とい
う例をもってもわかります。117 相







この地球人類の運命は、個人くの想念行為の集積によって定められるのでありますが、その個
人くの想念行為というのは、長い年代のうちに、知らぬ間に地球滅亡の方向に運命をもってきて
しまっているのです。どうしてそうなってしまったかといいますと、お互いが自己をかばい合う、
自己保存の本能から生まれた業想念行為によるのであります。自己をかばおうとする想い、自己に
利害を同じうする人々を守ろうとする想い、こうした想念行為は、お互いが相手に優越しようとす
る働きになり、今日のような文明文化の華を咲かせることになったのでありますが、その一方地球
人類壊減の方向に人類の運命をひきずってきてしまったのです。
ところが人間というものは、そうした深いことは知りませんで、戦争も天変地異もその他もろも
ろの人類の災害を、自己の想念行為とはまるで関係のない出来事のように思っていて、その場その
時の責任者たちだけを悪者や愚者あつかいにしてしまっているのであります。
人類というものは、個人くの集りであって、海をへだてた国々の人々同志の問でも、光の波、
想念の波は伝わり合うのです。それはテレビジ・ソ装置と同じなのであります。この事実が人類を
滅亡にでも平和にでも、人類の運命をはこんでゆく重大な一つの真理であることを人類は悟らなけ
ればならないのです。
118
地球人類を滅亡させてしまったとすれば、その責任は自分にもあるのであり、地球人類が真の平
和を築きあげたとすれば、その栄光を荷う一人と自己もなっているのであります。
自己完成を急がねば人類は亡びる
こうしたところから、人類の平和や個人の安心立命を考えてゆきますと、まず自己完成つまり、
自分自身が自分自身の業想念行為をまず超えねばならないのです。しかし私のいう自己完成は、長
い年月をかけての自己完成をいうのではないのです。長い年月をかけての自己完成の道を世界人類
が進んでいたのでは、今日までに蓄積されてしまっている業想念、闘争や怨恨や恐怖等々の人類を
害するカルマの波の攻撃を防ぎきらぬうちに、地球人類は滅びてしまいます。
今日のように地球人類の運命が最後のドタン場にまで追いこまれてきてしまっては、昔のように
自己完成のために長年月をついやすことはできなくなっているのです。
いつも私が申していますように、日本一国の立場でも、米国を中心とする西欧陣営の一員として
日本は働かねばならぬ、という論と米国は世界平和の敵だ、中ソと結べという論、そのどちらでも
ない中立論、大体この三つの論に分れていて、国論を二分あるいは三分して争っており、この国論相







119
の分裂からでも、国を乱し、人類を乱す業想念が次々と生まれてきているのであって、論争そのも
のが平和世界の誕生を遅らせるものであるのです。
どのような正論であっても、相手をやっつける想念があっては、とても相手を納得させることは
できないし、平和を生む原動力にはなり得ません。これは宗教の根本的思想であって真理です。
このへんのことが、頭でわかっても実行できないむずかしいところなのです。朝日ジャーナルの
論文の無垢の心になって… …というその無垢の心にみんながなれないで人類が乱れているのと同じ
ことなのであります。
頭でわかりながらも、長年月の心の錬磨がないとできないこと、それはいかなる場合にも感情想
念に把われぬ平安な心、個我を超えた心になりきることであります。
それが容易にできるようだと、世界はもっと昔から平和になっているのでしょうが、人類の業が
今日までそうはさせないのでした。そこに神と悪魔を相対させているような説き方が宗教者の間に
も拡まっていたのです。
120
真の光明思想は相手を敵視し悪魔と見ない
 
人間神の子、悪は無い、と説いている光明思想家の中にも、ソ連中国を悪魔として考えている人
々もあるのです。ソ連中国がいかなる悪らつな手段をもって政治を行っているとしても、それを悪
魔の行為のように考えた場合は、その人はすでに光明思想家でもなければ、大調和精神の人でもな
く、神と悪魔を相対的に考えている証左になるのであります。相手を悪魔とみ、敵とみる場合に
は、どうしてもその人の心には対抗意識とか、憎しみの想念が自ずから湧いてくるのです。(スポ
: ツの場合ではありません。)
いかなる正しい立場に自分があっても、相手を自分の外の者、相対者としてみてしまっては、神
の世界であるこの世界に、神以外の存在を自ら許してしまっているようなものです。
と口やペンで申しましても、この私も肉体人間としての立場に自己を置いている限りは、やはり
善と悪、神と悪魔との相対にこの世を分けてしまいかねません。そこで私は、肉体人間的想念があ
る限りは、人間は到底悟れるものでもなく、人類を救う一員になれるものでもないと思い定めたの
でした。
いエ加減な神の子観念、浅い光明思想、深く深く自己の想いをみつめたぎりくのところからで
てきた大調和思想以外の大調和という言葉のむなしさ、私はそうした世界のすべてを捨て去りまし相








21
た。宗教指導者は、自己を甘やかして、中途半端な自己妥協をしてはいけません。
過去の聖者や名僧と呼ばれた人のように、生も死も神やみ仏に全託した境地まで、自己を投げ出
してかからなければなりません。そしてその境地で民衆の中に入ってゆくのでなければ、その人々
の一言一句がかえって民衆の心を迷わして、その人々の魂の進歩を遅らせてしまうかも知れませ
ん。
宗教者がある特定国を敵として教え、神の他に悪魔の如き存在を認めさせることなどは、その}
例であると思います。
122
宗教家の使命
私は私の全託の体験から、神=兀の世界一本筋で私の教えを通すことに定めました。定めたとい
うより、神のみ心が私に白光の教えを説かしめたのであります。全人類の心が、神一元の世界観に
ならなければ、世界平和ができあがるはずがないのです。
現在の肉体人間のほとんどが凡愚であることは、頭でいけないと思いながら、いけないと思うこ
とを想ったり行ったりしていることで知れております。その凡愚の肉体人間を、真実の神の子、無
垢の心の人間に導きあげることができるか、しかも容易に短時日でなさねばならぬということにな
る。それが現今の宗教者の使命であるのです。空になれ、無垢になれと説いても、業生の世界の波
の中に生活している民衆はとてもそうなれるものでもないし、そうした多くの民衆の想念を受けて
中心に立っている為政者たちも、その輿論の中で空にも無垢にもなる心の余裕ができるものでもあ
りません。
まず一般民衆を指導して、為政者をして、空や無垢に近い心になさしめる人々がいなければなり
ません。それが私たち宗教者の役目であります。
そうした事実を考慮されて私に働いておられる神のみ心は、消えてゆく姿と守護霊、守護神への
感謝の想い、それに世界平和の祈りの教えとなって、私に縁ある人々をまず導きはじめたのであり
ます。
人々が真剣に考えてみなければならないことは、この地球人類が救われるためには、そして個人
くが真の救われの道に入るのには、個々人がそして為政者が、空の境地になり、無垢の心になら
なければならぬ、という事実です。そして今日まではその境地には特に秀れた聖者と呼ばれるよう
な上根の素質をもった人々でなければ到達し得ないということなのであります。相







123
この事実をい玉かげんにしていては、個人も人類もついには滅びの道に入ってしまうのです。そ
ういう境地になればよいのだ、そうならなければいけない、というだけはだれにもできるのです
が、そうなる方法、しかも容易にそうなり得る方法を教えることは実にむずかしいことなのです。
134
無垢の心になれる方法
人間が不幸になり、人類が苦悩するのも、個人や人類の想念行為にあることは間違いないのです
から、この想念行為を不幸にならぬような、苦悩の渦に巻きこまれぬようにすればよいのです。そ
の方法はどうすればよいかと申しますと、今日限りそうした想念行為つまり業想念を、自分や人類
から切り離してしまって、人間本来、人類本来の神のみ心、完全円満な自由自在な心の中での生活
を開始すればよいわけなのです。
その方法を昔は坐禅観法や様々な修業方法で長年月かけてやっていたのであります。それを私に
働いておられる神のみ心は、消えてゆく姿と世界平和の祈りによって、きわめて単純に容易になさ
しめているのであります。
自己の環境や人類世界の運命に、いかなる不幸と見え、どのような悪い状態が現われようと、そ
れはすべて個人や人類の過去世から神のみ心を離れていたマイナス面の消えてゆく姿として現われ
ているのであって、決してそのこと自体が個人や人類を滅ぼすものでない。それはあくまで、人間
の本性の仏性神性をこの世の生活に現わすためであり、国家や人類の真実の姿、神から割当てられ
た各国の天命を完うするためのものである。だから、個人も国家も人類も、その想念行為を日常茶
カルマ
飯事においても神のみ心の中に入れて置きさえすればよいのだ。消えてゆく業を把、兄ているのは馬
鹿げた行為であり、滅亡にいたる想念である、と私に働いておられる神のみ心は私の肉体の器を通
して、こう教えられるのであります。そしてその方法として、世界平和の祈りにすべての想念を投
入させ、光明燦然と輝きわたる世界平和の祈りの中から、個人及び人類の再出発をさせようとして
いるのです。いわゆる日々神の子としての新生をやさしく実行させるのであります。
この祈リで光明力発揮
この方法が空を超えて、空の中から神の子仏の子の姿をこの世に現わす、最もやさしい方法なの
であります。この世界平和の祈りをつ黛けていますと、その個人はそのまx守護霊守護神とすっき
りとつながり、その人はそのまx守護霊、守護神の力(光) を発揮できるようになるのです。相







125
また、国家も民族も個人と全く同じでありまして、鷺津襯、麟漸襯と真直ぐにっながって、鷺漸
かみくにつかみ
神、国津神のみ光そのま二の働きができるようになるのであります。簡単に申しますと、国家が神
のみ心をそのま玉顕現でき得るところの大きな力を発揮でき得ることになるのです。
あまつかみ
天津神のみ使としては宇宙人の働きも加わるのであります。相対的な平和論や、力のない中立
論、軍備の強化による自衛論などはいかなる善意から発しようと、地球人類を滅亡に追いやるのみ
ヘノラおく
です。真の世界平和の実現の方法は唯一つ、世界平和の祈りによる、光明力の発揮の他にないので
あります。
光明力それは、地球科学を超越した宇宙子科学の地球界への援助であるのです。その日のために
私たちは日夜世界平和の祈りの中で生活し、世界平和の祈りを実行する同志の強化のために働いて
いるのであります。
世界を平和にするためには、まず日本自体が平和にならなければいけません。日本の平和は日本
人がお互いの理論で分裂しているようではだめであります。どんな正論であろうとも反対の理論が
あるようでは統一はいたしません。そこで私は国論を世界平和の祈りに統一することを推進しよう
としているのです。
126
世界平和の祈りには反論はありません。国論を世界平和の祈りに統一したところから、はじめ
て、平和への正しい行動が国の歩みとしてはじめられるのであります。この真理をみんなでじっく
り考えてみようではありませんか。
127 相対観念を超えよ
128
現実生活を生かす
私は予言というものが嫌いです
先日ある人が、友人から質問されてどう答えてよいかはっきりわからないので、先生から答えて
いただきたい、と次のようなことをいってこられました。それは、地軸が傾くときが近づいてきた
といわれているが、それはいつ頃であるか。地軸が傾いた時、先生にすがっていたり、宇宙人によ
る救われを祈っていたりするものだけは救われるのか、という質問なのでした。
私はこの質問を聞いて、変な予言をする人がいることは困ったものだと思い、宗教信仰というも
のが、ひとりよがりになり、自分たちだけの救われを思ったりしがちになることはやはり業想念な
のに、と思いながら、その人に、こう答えて下さいと私の宗教のあり方を話したのでありました。
そこで、私の宗教観人生観を書きつづることに致します。
私は大体予言者でもなければ、当てものやでもありません。私の宗教者としての目的は、人間の
本心の開発、人類の本性の顕現、つまり神仏のみ心をこの地球界にそのま二現わし得るようになる
ための真人を、一人でも多くつくりあげることにあるのです。
私は大体予言というものが嫌いであります。なぜ嫌いかと申しますと、人心を恐怖させ、迷わせ
ることが多いからです。予言の中でも、その人に希望を持たせるもの、人類に光を与えるものであ
ればよいのですが、そうした予言は滅多にありませんで、予言といえば必ずといってよいほど、恐
怖を起こさせるような要素をもっているものなのです。
地軸は傾くでもそうです。それが科学的であろうと、宗教的であろうと、個人的にはどうにも防
ぎようのない滅亡への予言的言辞は、人心に恐怖を与えるだけであって、なんのプラスにもならな
いものです。例えていえば、何年何月頃どこ地方に大地震がある、という予言にしても、その予言
が、かなりの確実性を予測されるものでない限りは、その予言を聞いた人が、本気で他の地に移転
するだけの決断もつかず、といって、一笑にふすほどの勇気もなく、ただ神様に自分たちの無事を
願うという消極的な行為よりできないで、その期間恐怖におののいているということになるので現







129
す。私のところにはこうした予言に迷わされてその真偽を確めにくる人がずいぶんあります。私は310
即座にその予言を打ち消して、その人々を安心させてきましたが、そのたびに責任もなく困った予
言をする人がいるものだ、とつくづく思うのでした。
これが台風警報のように、ほとんど定まった予報ならば、それはその予報によって、種々の防禦
ができて、被害を最少にすることができるのですが、普通いわれる予言というものは、そうした確
定性のないものが多いのです。そうした予言者たちは、自分の予言がはずれた場合一体どんな顔を
しているのでしょう。自分たちが祈ったから幸に無事で済んだのだ、と恩きせがましい気持でいる
のでしょうか、そのような力があるのなら、なぜ自分だけで祈って済まさず、人心をおびやかすよ
うな予言をするのでしょう。無責任きわまりない人々です。
そうした人々には人間の心というものが、まるでわかっていないのです。この世もあの世も人間
の運命はすべて各人の想念の波によって決定されてゆくものなので、人間の心に恐怖の念を起こさ
せることによって、その人間をそれだけのマイナスにしているのです。人間には常に愛と希望と明
るさと穏やかさという平和な心境が必要なので、そうした心境をもたせるように導いてゆくのが、
真の宗教者の役目なのであることを、その人たちはまるで知ってはいないのです。
神は人間に自由を与えている
人間が地球の滅びる日を知ったとして、一体どうすればよいのでしょう。真の宗教的生活法を知
っている人以外はどうにもならないことです。たとえ、そうした予言が善意でなされたとしても、
おどし文句で人を善行為に導こうというのは、あまり感心したやり方ではありません。それは人間
の自由意志を縛るものであって、神の真意ではないからです。神の真意は人間に自由を与えておら
れます。人間は与えられた自由性の中から、みずからの神の世界、平和な世界を築きあげてゆくべ
きものであって、他の圧迫や強制によって、自分たちの世界をつくってゆくものではないのであり
ます。
もし神が人間の自由性を縛ってまで、神のみ心を現わそうとするならば、一瞬にして悪意ある人
間は消滅し、善意のものだけがこの地上界に残るということになるのですが、さて、神のみ心通り
の善意の持ち主がこの世にどの位存在するでありましょうか、それはそれは僅かな人間しかおらな
いことでしょう。といたしますと、神のみ心を一度に現わそうとする限り、地球世界は常に恐怖に
充たされ、そして常に少数の人間しか存在し得なくなります。しかも味も素っ気もない、無味乾燥
131 現実生活を生かす
な人生になって、この地球界の存在価値が全く失せてしまいます。なぜかといえば、自由意志のな
い世界は、機械の世界と同じであるからです。
こう考えてまいりますと、人間世界は、自由意志をもったまエで、その自由意志を神のみ心であ
る世界の平和、人類の調和というほうに、おのずと向けてゆくというようなことにならぬと、神の
み心に逆くということになるのです。
神様は無限の資本家であり、その資本(生命、智慧、能力) を人間に分かち与えて、さあお前た
ち、お前たちの思うま二よい仕事をしてごらん、と神の世界を地上界に現わすための手段方法は人
間にすべてお任せになっているのであります。人間や各民族は、その資本を各人、各民族の都合の
よいように使い合って、今日の地球界の文明文化ができあがってきたのです。こうして形の世界の
自由さ便利さにおいては、かなり神の自由性に近、ずいてきているのであります。しかし今度は精神
文化のほうに全人類の想念を向け変えぬと、形の世界の自由さ便利さはもう一歩も前進できぬ危険
な状態に立ち至ってきてしまっているのです。このことは神様のみ心では、はじめからはっきりわ
かっておられることなので、そのために、形の世界の外部から、守護の神霊を、肉体人間の援助者
としてつけてあり、この援助者が、今日までも、各人各民族を陰からそれとなく指導援助していた
132
のであります。この援助者、つまり守護の神霊は、あるものは科学者の、あるものは政治家の、あ
るものは宗教者のというように、それぞれの分担で、その人々の仕事を成功に導いていたのであり
ます。
大神様は、一方では人間に自由を与えながら、一方では、その自由性を巧みにコントロールする
ように、守護の神霊の力を加えて、地球界に神のみ心を顕現されようとしておられたのでありま
す。これが今日では物質文明の最窮極のところまで進んでまいりましたので、今度は精神文明を主
とした神性の進展のほうに、守護の神霊団が結集して、救世の大光明として、協力して地球界の完
成を目指し、大援助の働きをしはじめたのであります。
しかしながら、この救世の大光明の働きも、依然として人間の自由性を縛ろうとはしていない
で、人間を業想念、カルマの縛から解き放とうと、その光明を当て二いるわけなのであります。人
間が業想念の把われから解放された時こそ、人間の自由意志は、神のみ心の自由さと全く等しいも
のになって、地球界は神の世界となるのであります。この時こそ地上天国といわれることになるの
です。
133 現実生活を生かす
自分たちだけの救われでよいか
134
さて、話を前に戻しまして、地軸が傾いた時、先生にすがっていたり、宇宙人の救われを祈って
いたりするものだけは救われるのか、という質問に対して、くわしく私の心をお伝えすることにい
たします。
まず第一番に、自分たちだけの救われ、という気持がある以上は、その人の真の救われは達成で
きないことを申し上げておきます。自分たちは先生にすがり宇宙人にすがっているから救われる、
すがっていないものは救われぬ、では、宗教信仰の根本が崩れてしまいます。自分たちが真の宗教
生活に入って、その光明で宗教信仰のない人たちまでも救いの道に導きあげてやる、と気ばらなく
とも、自分たちが真理を体得することによって、おのずからすべてが救われの道に入り得るのだ、
ということ、もっと具体的にいえば、自分も他人もない、一つの生命が分れ分れの形になって現わ
れているものなので、自分が立派になれば、知らぬうちに他の人にもその光明が流れていって他の
人も立派になり得るのだ、ということが、意気ばって思わなくとも、自然とそう納得できるような
心境になることが大事なのであります。
自分たちだけが救われることを喜ぶというのは、宗教心以前のもので、真の宗教心というもの
は、自分自分というように、いちいち自分と他とを分けて考えられるようなものではないのです。
自分とか、自分たちとかいう想いが浮きあがっている時は、これは自我欲望で業想念でありますか
ら、そうした想いは消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中に投入してゆかなければなりませ
ん。
救われるということは
それから、救われるということが、肉体的の生命の救われだけ、と思っていたら、これも宗教的
には誤ちであります。肉体的な救われだけを意識していますと、どうしても相対的になって、人の
救われよりも自分の救われを祈るという形になります。真の救われというものは魂の救われであっ
げだつ
て、業想念から解脱することであります。ですからこうした質問は宗教心以前の質問であるわけで
す。
いつでしたか、どこかの宗教団体で、何月には大地震があるが、○ ○ 地方だけは大丈夫だから、
団体の人たちは○ ○ 地方に移住しなさい、といわれたが、どうしたらよいか、と思いあまって私を135現







尋ねてきた人がいました。私は例によって、一体あなたたちだけの少数が助かってどうしようとい
うのです、助かる時には人類の大多数が助からなければなんにもなりませんよ、と答えたのでした
が、その人も自分もそのように思っていた、と納得して帰ってゆかれたのでした。
いのち
生命を捨てざれば生命を得ず、とはキリストの言葉ですが、全く、自分の肉体生命だけに想いを
把われている人々は、とても真の生命、永遠の生命を自己のものとすることはできません。肉体の
生命は時がくれば必ず消滅し去るものです。幸いにある時は難を遁れて助かっても年老ゆれぽ必ず
他界する生命なのです。人間はその事実をはっきり自分にいいきかせなければいけません。他界し
た後、果して何がその人の運命を支配してゆくのでしょう。それはやはり自分の想念の波なので
す。自己の運命はすべて自己にゆだねられているのです。人間は常に自由なるものなのです。た
だ、その自由性を、神の無限の自由性にむすびつけて生きるか、業想念の限度のある自由性にむす
びつけて生きるかによって、その人の運命の幅や深みが異なってくるのです。
136
他の救われは自分の救われと同じ
人間が自分だけのことを考えて生きている場合、それはその人一人だけの範囲の自由しか受ける
ことができません。それを他の人や社会や人類への奉仕の精神として生きる場合、その人は多くの
人々の心の中に、生活の中にその人の自由性をひろげてゆくことができ、多くの人の喜びを喜ぶこ
とができるのです。
自己の肉体的生命というものを捨てたとき、その人は社会の宝として、人類の光明として、大き
な喜び、大きな幸せの中に生きることができるのです。それはその人が他界した時、実にはっきり
と、その効果を示されるものなのです。肉体的な自己を捨て切った、つまり自我欲望を捨て切った
その度合だけ、その人は真実の人間としての光明を現わしているのであり、神の子としての存在を
確保しているのであります。その人たちにとっては、他の救われ、社会、人類の救われが、自己の
救われと同一のものであるということになるので、神のみ心と等しいものとなってくるのでありま
す。この想念行為こそ、真の宗教心といえるのであります。
蟻の街のマリヤの行いをめぐって
映画やテレビや新聞で、蟻の街のマリヤの話は皆さんもよくご存知のことと思いますが、あの北
原さんの行為は、恐らく何人の心にも愛の輝き、奉仕の精神の美しさを感じせしめたことと思いま現







137
す。あ蕊した女性は、あのように他のための奉仕に生きなければ自己の生甲斐を見出せなかった、
菩薩心の持ち主だったのでしょう。あの人にとっては他に尽すことが自己の幸せであったので、自
分と他とを離して考えることはできなかったのでありましょう。立派な美しい行為であり、神の子
としての真理の行為だったと思います。
さて、ここで問題になってくることは、だれでもが蟻の街のマリヤのような行為ができるかとい
うことであります。自分はやりたいけれど周囲の反対でどうしてもできない、という人もおりまし
ょう。善いことはしたいけれど、まず自分の生活をしっかりしてからでなければ、という人もあり
ましょう。また両親や保護者の立場として、自分の息子や娘が北原さんのように、あ二した貧しい
境界にみずからの身を沈めて、弱い体にむち打って働きつづけるようなことをいい出したら、果し
て快よく聞いてやれるでしょうか。大方の両親や保護者は、あなたはそれほどまでしなくとも、他
にいくらでも人のためにつくせる仕事がありますよ、とまず反対することでありましょう。それは
愛する子供に辛い想いをさせたくない親の愛情でありますから、無理のない反対であります。
こうしたところが、理想を現実化することのむずかしい点なのです。こうした理想と現実との矛
盾に突き当って、良心的な人々は悩みつづけるわけなのであります。
138
理想を現実化するむずかしさ
私が最初に申し上げておりました、自分たちだけの救われだけを思っていてはいけない、という
ことにしましても、利害関係のともなわない時は、他人も自分と同じように救われることを願うも
のですが、他人の救われによって、自分の得になることが少くなるというような場合、もっとも真
の救われとは意味が違いますが、こうした場合に、どうしても自分たちの救われを先にしたい、得
を多くしたい、というのが肉体人間の通念であります。
ですから冷静な時には、善悪のけじめが、はっきりわかっていながら、いざとなると業想念に邪
魔されて、自己本位になってしまうのであります。これはだれでも経験していることで、後になっ
て、自分は駄目だなア、と自己を責め裁いたりすることになるのです。
私は常に宗教の最高の理念をかかげているのですが、その理念、理想が、現実生活から離れては
ならないものであることを考えつづけているのであります。ですからたんなる現世利益的な宗教指
導も感心していませんが、あまりに理想を押しつけがましくする宗教も好ましいと思っておりませ
ん。現







139
大地に立脚した宗教の道
L40
神仏という言葉さえいわねば唯物論者でも無暗に反対できないような宗教の在り方を、私は唱導
しているのであります。人間の自主性、自由性を損わず、しかもおのずから神につながり、神性を
その想念行為に現わせるような人間に、世界人類のすべてがなってゆかれるような宗教の道を、私
は提唱しているのです。それが世界平和の祈りであるのです。
この地球界には、人間の業想念、自我欲望の波がうずまいておりますので、神の理念通りの生き
方をするには、絶大なる意志力と勇気が必要でありますが、一般の人々にはそれほどの意志力も勇
気もあるとは思われません。一般大衆というのは、まず自己や自己の周囲の幸福を願うのがせいい
っぽいでありまして、他の利得に想いをはせるのは、ある種の心の余裕ができてからであります。
そこで、現世利益的宗教が多くの信者を獲得して、大きな殿堂を建て得るようになるのです。それ
はそれでよいでしょうが、それだけでは、この業生の渦の中で、地球世界が平和の姿を現出する道
をひらき得ることにはなりません。といって理想論的な高踏的な宗教では一般大衆がついてゆけ
ません。
そこに私の提唱する世界平和の祈りの運動と消えてゆく姿の教えが生きてくるのであります。こ
の教えは、高い深い、神の理念をその底に持ちながら、表面の姿としては、最も安易に現世利益に
妥協し、すべての想念行為、業想念行為をも、消えてゆく姿という教えの中で赦しきっているので
あります。この教えは、他の現世利益的宗教と同じような、病気や貧乏や家庭問題の相談をうけな
がら、それを世界平和の祈りの中に、守護の神霊、救世の大光明の中に、知らぬうちにひき入れて
しまっている教えなのであります。
人間の不幸や誤った想念行為は、すべて過去世の神を離れていた誤った想念行為が現われて消え
てゆく時に起る姿であって、そうした環境も、そうした想念も、その環境の中で、そうした業想念
の起っているままでよいのだから、ただひたすら、世界平和の祈りをしていなさい。世界平和の祈
りがもつ大光明波動が、あなた方の病気や不幸、誤った想念行為を、その神のみ光によって消し去
ってくれるのです。
という教えは、今まで、自己の想念行為に把われて自己や自己の周囲を責め裁いていた人々の心
を、一瞬にして晴れやかな明るい気分に変貌せしめてしまうのです。人間は今、現在いかなる悪い
環境にあろうとも、誤った想念行為に支配されていようとも、それは現在のその人の真の姿ではな現







141
く、過去世からのものが消えてゆく姿であって、その人自体は、その想念行為から世界平和の祈り
の中にみずからを投入れた時、すでに、その人自体の本体である神の子の姿をそこに現わしている
のであって、現在見えているその人の悪い環境、誤ったと見える想念行為は消えてゆく姿となっ
て、いつの間にか消え去ってしまい、その人の環境に、その人の想念行為に、明るい輝やかな神の
子的生活、神の子的想念行為が入れ替って現われてくるのです。
142
神はだれをもとがめだてはしない
この教えをよくよく味わって下さい。神様がいかにして人間の世界に真実の平和境を築きあげよ
うと、なさっているか、その大慈愛のみ心が実にはっきりわかります。神様はどんな人間をもとが
めだてはしていないのです。その人の自由性を縛ろうともしていないのです。
いつの時代でも真実はそうなのですが、神様が人間に罰を与えたり、人間をおどかしたりなさっ
たことは一度もないのであって、神の罰と受け取れるような事柄は、すべて人間自体、人類自体の
業想念作用が消えてゆく時におのずと起った現象なのであります。あまりに業想念がたまり過ぎる
と、大掃除をしなければ霊魂の光明が曇りすぎて真実の働きにさしつかえる時、霊魂自体の自然的
な働きが、その曇りをはらう作用を起して、不幸とか病気とか、戦争とかいう事態を起すのであり
ます。そして、そのことによって、その霊魂や人類の本質が再び明らかになってくるのでありま
す。しかし、そうした消えてゆく姿を、今日までの人間は消えてゆく姿としてとらず、神の罰とし
て恐れたり、自然の作用として恐怖したりして、消えていった業想念を土台にしてまた改めて恐怖
という業想念をその人や、人類の間に積み重ねていってしまったのであります。そのために、いっ
までたっても、人類世界から不幸や戦いのきざしは消え去らなかったのであります。
ヘヘヘヘヘへ
そこで神様は、今度ははっきり消えてゆく姿ということを表面に出され、世界平和の祈りとい
う、天的に考えれば、救世の大光明の慈愛の光の言葉、地的な横ひろがりの立場としては、人間各
自の人類愛の発露としての、祈り言葉として、消えてゆく姿とうまく組み合わせて、祈りによる世
界平和運動という方法をこの地球界にひろめさせたのであります。
世界平和の祈りは面倒くさくなくすぐできる
いかなる善い教えも、いかなる善い言葉も、その教えの行じ方、その言葉の使い方が、容易にだれ
にでもできるものでなければ、一般大衆の行為にはなりません。一般大衆に実行のできないような現







143
教えは、今日の世界では、あまり効果がありません。今日では、少数の智慧者だけの宗教では、と
ても世界救済の間に合わなくなっているのです。ですから私の提唱しているような、一般大衆が容
易に、しかも嫌なお説教も、面倒な儀式も形式も不用な、最も簡単に実行できる、世界平和の祈り
のような宗教が絶対必要になってきたのであります。
この教えは観念論ではありません。最も現世的な、現実的な、自分が霊肉共の救われを体得でき
ると共に、世界人類をも同時に救ってゆくという、個人人類同時成道の、今日現われなくてはなら
ぬ教えとして現われてきた教えなのであります。
末法の世に現われねばならなくして、必然的に現われてきた教えが、世界平和の祈りであり、消
えてゆく姿の教えでもあるのです。私の提唱以前にも、これに近いことをいっている人たちもあっ
たのですが、その人たちは、こうしたすっきりした教えとしての完成を見ず、他の教えの面に走っ
てしまったのでしたが、今はついに末世における最大の易行道として、この世界平和の祈りが、は
っきり提唱されたのであります。
どうぞ、どなたも、自分を責め裁くことも他を責め裁くことも止めて、すべての業想念行為を一
度は世界平和の祈りの中に投げ入れて、世界平和の祈りのもつ大光明の中でそうした想念行為を浄
144
145現実生活を生かす
化して改めて自己の想念行為として働かせて下さるよう願って止まないものです。
146
人間の生命と体
人間の本質と体の横…造
人間は生かされて生きているのだ、ということは宗教者のだれしもいうことなのですが、科学的
に肉体の内部構造をくわしく調べていきますとそれが実にはっきりわかってまいります。そして今
更ながら、生命の不思議さが心にしみてわかってまいります。脳などは勿論ですが、耳なら耳、眼
なら限の一つの構造とその働きをとりあげてみましても、実に細部にわたって巧妙にできておりま
して、一体だれがこんなに微妙に、巧みに組織化し、構造したのだろうか、とおのずから敬度な心
になります。
唯物論的な自然論などではとても割りきれない、大智慧大能力の実在を考えずにはおられない、
心のゆきわたった智慧の秀れた作り方がなされているのです。ですから医学にたずさわる学者方の
中には、神秘に対する敬虔な信仰者が多くいるのでありまして、一歩一歩神のみ心に近ずこうとし
て、学問研究をしているのであります。そういう人たちはいちように、科学の学問はまだまだ神の
み心のほんの端をつかんだだけである、というような言葉で、謙虚な心で道を歩んでおられるので
あります。
人間というものは不思議な存在でありまして、自己という肉体をもっておりますと、自己を守ろ
う、自己の欲望を充たそう、という気持をだれしもがもっておりますとともに、他との融和をはか
り、全体の中で生きようとする全体との調和、という心をももっております。自分一人だけでよ
い、という人はおりませんで、全体の中の自分として、しかも自分は自分自身の個人としての満足
をも得たい、というのですから、なかなかむずかしいわけです。
おか
他との生命の交流がなければ、生きている張合いも意義もない、といって個人としての自分を侵
されたくはない、いわゆる全体と個人との調和ということが、一番大事な生き方ということになっ
てまいります。これは一つの肉体内の各臓器の上にもいえることでありまして、すべての臓器が調
和している時が健康なのであり、一つの調和が乱れても、体の工合が悪くなるのであります。とこ人






147
うが下手な医師は、一つの臓器を調和させようとして、他の臓器が侵されることを念頭におかずに48
1
処方し、処置するのであります。
自分のために他の利害を考えなかったり、自国の発展のために他国の運命を無視したりするあり
方は、この下手な医者と同じことでありまして、地球人類全体の調和を破って、ついには地球を破
滅させてしまうのであります。
東大教授の時実利彦氏は〃脳・人間・社会〃という講演のなかで「歴史をふりかえってみます
と、とくに人類滅亡の危惧感が身近かに感ぜられるような時には、必ず人類の本質が非常にきびし
く追求されています。現在、人間はなんであるかということを、皆さんがたひとりひとり深く考え
ておられるのも、おそらくは、人類はあるいは滅亡するのではないか、という危惧の念をいだいて
おられるせいではないかと思います」といっておられますが、今、心ある人たちが真剣に地球人類
の運命を考え、世界連邦の運動をしていたり、各種の宗教運動をしていたりするのも、地球の危機
を身近かに感じているからなのです。しかし科学者たちが、なぜもっと調和の科学の道に向って突
き進んでいかないのか、各国家が攻撃や防衛の武器をつくると同等の費用を、調和の科学の研究費
用として投じないのか、不思議でなりません。攻撃よりも防衛よりも、もっと必要なのは、すべて
を調和させる科学なのであります。
ところが人間の脳というものは、相反する要素と働きをするようにできていまして、なかなか理
論的にこうすればよいのに、と客観的に思えることでも、当事者は逆なことをやっているというこ
とが多々あります。国家の政治にたずさわる人々の国際関係に処する態度というのが、どうも客観
的にみていて、歯がゆくて、何をしているのだろう、と思うようなことがあるのも、人間の肉体要
素つまり脳の構造の働きのつくられ方によることが多いのであります。
ここで脳のことについて、前記の時実教授の興味ある文章を引用してみます。
脳の構造とその働き
『脳はみたところたいへん複雑な構造をしておりますが、原則的にはきわめて簡単なのです。脳
のうかん
の軸に棒のような形をした脳幹という場所があります。そして、この脳幹は半球状をした左右の大
脳半球の間にはさまれています。百四十億の脳細胞は、この大脳半球の中に詰まっているんではな
ひしつ
くて、薄い皮のような大脳皮質という層が、大脳半球の表面を包んでいて、その薄い層のなかにぎ
っしり詰めこまれているのです。この層の厚さが三、・・リ位でして、この中で百四十億の脳細胞が複人






149
雑に配線されているのです。(中略) 50
1←,
ところで、この脳幹という場所がいったいどのような働きをしているか。これはかなり下等な動
物、たとえば魚なんかにもちゃんとあります。ここには精神はありませんが、精神の外にあって、
ただ黙々として私たちのからだのいのちを保障してくれております。皆さん方が夜お休みになって
いるときには、二つの大脳皮質の脳細胞はお休みの状態で働いておりません。ただ目覚めて、そう
して私たちのからだの健康を監視してくれているのは、脳幹です。従って、脳幹は、私たちの内臓
の働きや血液の成分や体温などを、うまく調節してくれております。いわゆる生命の座です。です
からここにちょっとでも傷ができますと、それはすぐ私たちの生命に危険を及ぼすようになりま
す。
私たちの精神は、脳幹をとりまく二つの大脳皮質で営まれております。では内側にある「古い皮
質」は、いったいどのような働きをしているのでしょうか。ここには、教わらなくても、自然に私
たちのからだについてくる心が営まれています。その一つは本能(食欲・性欲) という心です。調
べてみますと、その座が「古い皮質」にあることがわかりました。

「古い皮質」には、もっと大切な本能があります。それは集団を作るという本能です。私たち人
間は、家庭という集団を作っております。企業体という集団、学校という集団、あるいは国家、社
会、民族といったように、いろいろな形の集団を作って生活しております。しかも、いがみ合いな
がら、けんかしながら、争いながら、場合によっては殺し合いながら、一つの集団に集まろうとし
ております。これは理屈ではありません。私たちの「古い皮質」のなかに、一人ぽっちはいやだ、
けんかしてもいい、恨み合っても、いがみ合ってもかまわない、場合によっては相手を殺してもい
い、とにかくいっしょになって生活したいという集団欲という本能が備わっているのです。
私たち人間は人間関係を作り、このような社会を構成しておりますが、このように人間関係を作
って社会生活をしているのは、集団欲があればこそできることです。もし私たち人間から集団欲を
なくしますと、ばらばらになってしまいます… … 従って、この集団欲というのは、私たちにとりま
して非常に大切な本能です。最近、動物や人間を使って実験してみて、この集団欲が食欲よりも性
欲よりも、もっともっと大切な本能であることがわかってまいりました。

従って、この三つの本能の中で、いちばん基本的な、どうしてもなくすることのできない本能人






151
は、集団欲という本能だといえます。
このような三つの本能が「古い皮質」で営まれていますが、人が多くなってまいりますと、限ら
れた食糧、限られた異性、限られた相手ということになれば、どうしても奪い合いが起ってまいり
ます。そこで、なんとかしてその奪い合いに勝って、そうして本能を満たさなくてはいけない。よ
くできたもので、「古い皮質」には、おのずとそのような争いをして、そうしてその争いに勝つよ
うな心がちゃんと備わっております。その心を情動と申します。
「古い皮質」のなかには、本能的な欲求が満たされないと不快感を覚え、それが満たされると快
感を覚える。ですから私たちは、不快感を避けて快感を求めている。これは必然的に本能を満たそ
うとしている。そうすると必ず奪い合いが起って相手と対決いたします。その場合に、よわ腰では
どうにもならない。そのときに私たちをして強い身構えをさせ、強く立ち向かわせる、その心が怒
りという心です。「古い皮質」はこの怒りの心を作り出し、それを怒りの行動として爆発させます。
そうして争いが起ってまいります。
ところが「古い皮質」のレベルでは、争いはあっても、けっして最後の最後まで争って、相手を
噛み殺すというようなことはいたしません。… …種族が違えば殺しはございますが、動物の「古い
152
皮質L で操られた行動では、争いはあっても、けっして殺しはございません。逃げるものにはけっ
して追い討ちをかけて息の根を止めるようなことはいたしません。この心があるために、個体と種
族の保全が保たれているのです。もし最後の最後まで争うということであると、とっくの昔にこの
地球上からは、ありとあらゆる猛獣はいなくなっていたはずです。… …
ところが、ホモ・サピエソス(知恵ある人という意味) と名前をつけられた私たち人間は、いっ
たいなんたるあさましいことか。知恵ある人であると名前をいただきながら、人類という同じ種族
の中で殺しをしているではないか。… …
たいへん皮肉なことでございますが、これほどまでりっぱに文明を築き上げたこの私たち人間
が、実は殺しをやっているのです。いったいそれはなぜであるか。先ほど申しましたように、私た
ちの脳の表面にある「新しい皮質」が非常によく発達したために、一方ではこれほどりっぱな文明
を築き上げたのですが、他方ではお互いに殺しもやっているというたいへんな皮肉な存在にさせて
おります。
153 人間の生命と体
人間は矛盾にみちた非合理的存在
工54
「新しい皮質」では、いろいろな高等な人間の働きが営まれておりますが、それがきわめて合理
的に分業の体制で営まれております。… … 前頭葉というのが、ちょうどおでこの奥のほうにありま
す。その前頭葉という場所とそれ以外の後のほうの場所、つまり前と後に分けて考えますと、非常
に分業の状況がはっきりわかります。
後のほうの場所はどのような働きをしているか。これは電子計算機と同じような働きをしており
ます。動物の脳にもこの働きがちゃんとあります。私たちは外界からいろいろな情報を取り入れ、
それを一方では記憶し、また新しく情報が入ってくれば、それと照し合わせて情報に意味づけをす
る、いわゆる情報処理の働きをしているのです。私たちがふつういっております知能の座です。こ
のような情報処理のほかに、運動のパタンを、この場所で作りあげて貯えています。
では動物にはない、人間だけにある働きはどこで営まれているのでしょうか。それは、先ほど申
しました、額の奥にある前頭葉という場所です… …。

前頭葉という場所は、ものを考える場所、ものを作りだす場所、そうして意思決定をする場所、
情操の心の座だということになります… …。
私たち人間はけっして現在の瞬間には生きておりません。いつも未来を考え、将来に計画を立て
ております。未来を考え、将来が設定できるのは、前頭葉あればこそです… … 。
前頭葉は、一方ではこのようなりっぱな文明を築き上げた創造の座として、思考の座として働い
ておりますが、他方では、私たち人間にひとりひとり個性を与えてくれる個の座としての大切な働
きを営んでいます… … 。ちょうど前頭葉が発達する五才ごろになってきますと、いつとはなしに優
こう
越感、自負心、競争意識が身についてきます。それがさらに嵩ずると、征服欲になってまいりま
す。それが爆発して相手を消してしまうという殺し屋の血潮になってまいります。私たちは前頭葉
を鍛えることによって人間になっている。しかしそれは、また相手を消してしまうという殺しの心
を育てているのです。
また一方では、私たちの「古い皮質」では、一人ぼっちはいやだ、いっしょになっていきたいと
いう、限りない集団欲の心がうごめいております。そして人間であるために、前頭葉の働きによっ
て、その集団の中で〃他を消してしまう”殺しの心をもっている。そういう矛盾に満ちた存在が私人






155
たち人間なのです… …。私たちはこの矛盾から逃がれることはできません。もし逃避しますと、そ
れは前頭葉を喪失した人間でして、その逃避した瞬間に私たちは人間でなくなり、動物になりさが
り、昆虫に化してしまいます。たいへん矛盾にみちた非合理的な存在をどう調和し克服していくか
ということが、人類に課せられた非常に大きな試練です… … 。
脳は、人間は以上のようなものの、きわめて矛盾にみちた非合理的な存在であるというコメソト
を与えてくれております。

先ほど申しましたように、私たちの脳の中心の軸に脳幹という場所があります。この場所は精神
のぞとにあって、ただ黙々として私たちのからだのいのちを保障してくれる、いのちの座でありま
す。人種の違い、言葉の違い、皮膚の色の違いをよそにして、ただ私たちのいのちを保障してくれ
ています。私たちは前頭葉の働きによりまして、自分はいつまでも生きたいという、この脳幹に対
し限りない愛借の心を持っております。であるならば、ぜんぜん色のついてない相手の脳幹だけ
は、お互いに文句なしに認めあえるのではないでしょうか。この脳幹を通して、相手のいのちを認
め尊ぶことができるのではないでしょうか。
↓56
従って、私たちの脳の仕組みの中で、私をしてあえていわしていただきますと、脳幹という場所
をお互に認めあうことによってのみ非合理な人間存在を克服し、調和してゆき、秩序ある集団のな
かに自主的に生きることができるのではないかと思います。詮じつめると「生命の尊重」でありま
す。
前国連事務総長ハマーショルドの日記の中に次のような文句がございます。「理解する1 心の
静けさを通じて。行動する1 心の静けさから出発して。かちとるー心の静けさのうちで」この
心の静けさは、前頭葉の調和のとれた働きにおいてのみ、可能なことではないかというように思っ
ております』
調和の道
時実教授の書かれているように、人間の脳の働きの中には、動物と同じような本能と、人間だけ
がもっている、未来のための創造力、文明文化を築きあげる能力が備わっていると同時に、そのみ
ずから進化しようとする意識が、競争意識となり、征服欲となり、動物にはない、同種族間の殺し
合い、というところまでいってしまう。つまり、自己や自国の防衛のためなら、相手や相手国を滅人






157
亡させてもかまわぬ、という意識をもっているのであります。ですから現実的な対立抗争の立場に
あります時には、当事者や為政者は、その立場に把われてしまいまして、客観的な良識を入れるこ
とができずに、時実教授のいう、前頭葉の自負心や競争意識で、対立抗争のほうに向ってしまうの
であります。ここが宗教的立場と政治的立場との相違でありまして、一概に政治家の在り方をのの
しるわけにはいきませんが、人間の脳には、もう一つ脳幹という私たちの体のいのちを保障してく
ヘヘヘへ
れている、いのちの座があるのですから、お互いのいのちの座である脳幹と脳幹との交流によっ
て、お互いのいのちを愛し合う心が生まれてくることができるのです。
ですから、脳幹の働きをより素直に力強くすることが必要なので、その点を宗教的な祈りによっ
てなすことが大事なのであります。
私がつねに思いつづけていたことは、どうしたら人間が幸福になれるか、どうしたら人類が調和
して世界中が平和になることができるだろうか、ということでありました。
宗教の道を人々に知らせるためには、みずからの愛の行為と、説法と祈りによるわけですが、そ
のうちで人類愛の祈りを、人々にわかってもらうことが一番神のみ心を知ってもらうことであり、
人類平和に寄与することである、と啓示があったのです。
158
ごと
そこで生まれでたのが世界平和の祈りという祈り言だったのです。この世もあの世も、この現象
世界の出来事、こまかくいえば、自分の思っていることも行なっていることも、他の人が自分に対
して思うことも、行なってくることも、社会国家の出来事も、みんな過去世から今日にいたるまで
カルマ
の業想念の波動の現われては消えてゆく姿である。その中には善いと思われることも、悪いと思わ
れることも、幸せと思うことも、不幸と感じることも、入りまじっているけれども、善悪、幸不幸
にかかわりなく、想念も行為もあらゆる出来事は、現われては消えてゆくものであるのだから、そ
ういう消えてゆく姿を把えて、善悪を論じ、思想のうんぬんを説き合っていても、ただ、いたずら
に対立抗争が生まれるだけで、神のみ心である真実の世界平和が実現できるものでもないし、個人
の真実の平安が生まれるものでもない。だからすべてを一度は消えてゆく姿として、神様のみ心の
中にはいりきってしまって、神様から新しく真理の道をいただき直しなさい、と私はいうのです。
しかし、神様のみ心といっても、神様の実体をつかむことのできる人は少いのだから、神様のみ
心の端的な現われである、わが子らよ、みんな仲良く助け合って、わが理念を成就せよ、というそ
ういうみ心の中に、すべてを入れきってしまうことにすれば、だれにでもやさしくできることにな
るので、消えてゆく姿で世界平和の祈り、という祈り言ができあがったわけなのです。人






159
人間の肉体構造は常に自己防衛を主体にしてつくられているのですから、自己を捨てて人類のた
めに働くということはなみたいていのことではないのです。そこで私は、自己の幸せなど捨てて、
世界人類のために働け、などといってもなかなかできるものではないので、自分の幸せも、他人の
幸せも、すべて世界平和の祈りの中から生まれる、ということなら、だれにもできるわけだと知っ
たのです。そして
おのさち
己が幸願う想いも朝夕の世界平和の祈り言の中
という歌のように自分の幸せと世界人類の幸せを一つに結んだ祈り言、そういう祈り言こそ、神様
のみ心にかなう素直な祈り言なのであると確信したのです。
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
まつと
私たちの天命が完うされますように
守護霊様、守護神様ありがとうございます
こういう当り前の言葉の、だれにでもわかる、何宗教の人にも唯物論者にもあまり抵抗のない、
ふつうの人にわかる祈り言葉で、日本中の人、否世界中の人の心を一つにする運動をはじめたわけ
160
です。
心を一つにする運動を展開
この世の中が乱れ、世界中がいつの時代でも対立抗争しているのは、いつでも、自分や自国のや
り方を正当化し合っていることで、自分や自国の利害得失によって、相手を悪とみる、いわゆる現
象界の消えてゆく姿だけをつかんで、自己や自国の有利な道を導き出そうとしている対立観でこと
を処しているからなのであります。
こういう対立観をなくすためには、なにかの方法で、世界中の心を一つに結びつけなければなら
ぬのです。私はそれを世界平和の祈りという方法でやっているわけなのですが、これがわかる人に
はわかるのですが、唯物思想を唯一のものと思っている人には、祈りというものが一向にわからな
いのです。わからないというより、わかろうとしないのです。それから、その意味はわかるけれど
も、眼の前の現実に処するにはそんな悠長なことではやっていけない、眼には眼を、歯には歯でや
ってゆくよりしかたがない、向うに侵略の心があれば、こちらではその侵略を防ぐための先手を打
たねばならない、対立抗争していくよりしかたがない、力で力を制するよりしかたがないのだ、と人






161
こういう人々があるわけです。
これは昔からの考え方で、この道を突き進んでいけば、地球はやがて第三次大戦、核戦争で壊滅
してしまうよりしようがない。いわゆる業因縁因果の結末を来たすわけになります。しかし残念な
がら、こういう昔ながらの考えの人が意外と多いのでありまして、戦争は嫌だ、平和が欲しい、と
思いながらも、こんな状態では平和になることはない、と自分のほうで諦めてしまって、なんらな
すところなく日々を過している人たちをまぜて、業因縁のままに運命を運ばれていってしまう人が
大半ということになってしまっています。
そして左翼系統の人の平和論は、やはり対立抗争の消えてゆく姿をつかんだ平和論でありまし
て、自分たちの思想に合わぬ人たちを消し去って、自分たちの政府をつくろうというので、どうし
てもそこには流血革命とか、大きくは戦争とかいう状態が起るので、これも地球滅亡の道なのであ
ります。
こう考えてまいりますと、心を一つに世界平和の祈りの運動のようなやり方が一番よいのであり
ますが、こういう宗教的な在り方だけでは、唯物論者や現実主義者をその道にひき入れることはむ
ずかしいということになります。私は世界平和の祈りの運動をしつづけながらも、この運動にプラ
162
スする道を神に求めつづけておりました。そしてこの祈りの中から、宗教と科学の一致点として、
宇宙子波動生命物理学という学問が神智によって生まれ出たのであります。ここにおいて、宗教と
科学の十字交差によって、はじめて人類は真実の救われに到達するのである、ということがはっき
りわかってまいりました。
宗教と科学の一致点
一方では世界平和の祈りによって、人々の心が愛と平和に充ちるように、神の光明をひびかせ合
い、一方では調和科学の開発によって、脳の構造をより調和なる方向に働かしめるように、研究を
すすめてゆくことによって、地球人類から対立抗争の想念を消滅せしめてゆくことになるのであり
ます。それは現実の実情を認めて、その中から、人間生命の実体をこの地球世界に現わしてゆくこ
とになるのであります。
神霊的に申しますと、人間の体は肉体だけではなく、もっと微妙な体が幾体も備わっているので
ありますが、肉体人間の眼では、お互いの肉体だけしか見えないのです。しかも肉体内部のこと
は、医学にたずさわっている人や、その方面の学問研究をしている人々にしかわかっていないので人






163
すから、もっと微妙な霊体や神体のことがわかるはずもありません。しかしやがて、そういう各種
の体のこともわかってくる時がくるのであります。肉体の脳が相反する作用をもつことも、物質文
化を今日まで発農させるためには、そうなくてはならなかったのです。しかし、今日からは、その
相反する作用を、一つに統一せしめて、地球人類の完全平和のために働かせなければならないので
す。そのためにも皆さんの世界平和の祈りが、大事になってくるのです。
そして、科学者は、この祈り心を根底にして、調和科学の方向に大きく一歩を踏み出してゆくこ
とが大事であり、絶対必要なことなのであります。
164
精神生活と物質生活の調和
なくてならぬものは与えられる
おんけい
この地球世界で生活してゆくのには、どうしても物質の恩恵に浴さなければなりません。どのよ
すぐ
うに精神的に秀れている人でも、物品なしで生活するわけにはゆきません。そこで精神生活と物質
生活の調和について私の体験を通して書いてみたいと思います。
私が市川に住みついた最初は、二階二部屋の間借り生活でした。私は元来、宗教の教えをして金
を貰ってはいけない、という気持を強くもっていましたので、独身の時にはやたらに礼金をこばん
でいたものでしたが、結婚してからは、礼金をこぼんでばかりはいられません。どんなに精神的に
磨いてもこの世の生活では金品の恩恵を受けないでは生活ができなくなるからです。しかし事実は精









調

165
そうでありましても、宗教的な指導をして金を取るのは、どうにも心が恥かしくてやりきれなかっ6
1
たものです。
さつ
それを察してくれたのが、白光真宏会、前理事長の横関さんで、二階階段の上に感謝箱を置い
てくれたのです。それは私にとっては大助りでした。入れる人はいれる、入れない人はいれない
で、私が金のことで気を使わずに済むようになったからです。
私たちは感謝箱に入ったお金を、神様からいただいた尊いお金と思って、それで貧しい生活をし
ていたわけです。ところが面白いことに、その日の指導の終り頃になると、きまったようにだれか
しら、今日、明日のお金に困った人が尋ねてきて相談を持ちかけるのです。とどのつまりは、必要
なだけ感謝箱から持ってゆきなさい、ということになって、その人たちは涙を流して帰ってゆくの
でした。
のが
どうせたいしてある金ではないのですが、どうやらその人たちのその場逃れの役には立ったよう
でした。ですから、終ってみて、感謝箱に一銭も残らぬ日もたまたまあったようでしたが、どうに
か私たちは生活できていたのです。しまいには、市川には箱からつかみ取りで金をくれる人がある
うわさ
そうななどという噂がでたようで、横関さんがまたたまりかねて、先生には一切お金のことのわず
らいはさせまいということになり、今日のように会組織にしてしまったわけです。
その間私も妻も、生活の心配など一度もしたことはありません。すべては神のみ心によってなさ
じゆくち
れている、ということを熟知していたからなのです。私たちになくてならぬものは、神様のほうで
ご承知なのです。私たちに与えられたものも、それが一度私たちの手を通って他に与えられるべき
性質のものであるかも知れないのですから、一切の執着があってはならない、そういうことを、私
たちはよく知っていましたので、人に与えるということは私たちが神の仲立ちとして、神から預っ
たものを人にお渡しすることであると、ひとりでに思っていたのでした。
心の善なる人美しい人が富まなくては

しだいに年月が経ってきますと、いただくことも出すことも、それは感謝だけであって、金品に
しゆうち
対しての差恥心が薄れてまいりました。すべてが自然にふるまわれるようになってきたのです。こ
の世における金品のもつ役割の大きさというものが、はっきりわかってきますと、昔の私と同じよ
けんお
うに金銭を嫌悪する片寄った精神主義者では、真実の仕事はできない、としみじみ思えてきたので
す。精









調

167
いや
あまり金品を嫌がっていますと、どうしてもその人に金品が集りません、といって、金品にあま
りに執着していましては、その人は金品の本質を生かして使うことはできません。
この世における金品の役割は、本来は、この世の生活を豊かにし、美しくし、人々の心を平和に
するにあるのですが、精神的に美しい人々が金品をいやしんで遠ざけようとし、欲望に充ちたよう
そこな
な人々が、金品を近ずけようと運動しますので、金品の本来性が損われてしまい、金品は人間の欲
.望の道具のようになってしまったのであります。
これからは、精神的に美しい人々の手に金品の富を得さしめるような運動がなされねばなりませ
まず
ん。心の善なる人が富み、想い貧しい人が貧しい生活をするのでなければ、この世に真の平和はく
ることはありません。金品の本来の役目が果せないからなのです。
物質は本来、人類の心を富ませるためにあるのです。ところが、物質に富める人が意外と貧しい
想念を持っていたりするのですから、この世に、真に富める者がすくないということになるので
す。
ふうしやおの
心の善なる人、心の美しい人がこの世的にも富者である、ということになれば、自ずから他の人
うる
をも潤おさずにいません。そして他の想い貧しき人々も、その富者にならって、想いを豊かにする
168
かねつか
方向に向ってゆくに違いありません。神と富とに兼仕うのです。神と富とは本来一つのものである
からです。
なぜかと申しますと、神はすべてのすぺてであり、あらゆる物を生み出す根源の力であるからで
かこ
す。私たち人類の持っている富はすべて神が生み出したものであり、人にはその富を、各人の過去
置からの因縁によって、持たせてもらい、使わせていただいているだけなのであります。
そう考えてまいりますと、これは自分の財産だ、これは自分の土地だなどといって、欲深く抱き
しよぎよう
しめただけでいるなどは、全く神のみ心を知らない所業であるのです。こういう人々は、せっかく
の物質的富を与えられながら、一番大事な心を貧しくしている人々なのであります。先祖の財産を
しゆうあく
めぐって争い合っているような親族間の想念の波などは、実に醜悪の限りであって、神はそうした
人々から未来の富を取り上げてしまわれることでありましょう。神が取り上げるというより、そう
した人々の貧しい想いは、自ずから富から遠ざかっていってしまうのであります。
生命が神からきていると同じように物質も神からきているのです。
169 精神生活と物質生活の調和
精神主義者がなぜ金銭をいやしみ物質を軽視するか
けいし
精神主義者が、物質を軽視するのは、物質にまつわっている人間の欲望を蔑視するあまりであり
まして、物質そのものを嫌がっているわけではないのですが、いつの間にか、物質そのもの、金品
そのものを、人間の欲望そのものとみるようになってしまったのです。
精神主義者たちが、物質そのものは神からきたもの、人間の欲望は、神の光を蔽おうとする黒雲
の消えてゆく姿なのだ、とはっきり分けて考えることができさえすれば、物質や金銭から遠ざかる
必要はない筈なのであります。
私共の宇宙子科学では、この間の理論をはっきり解明しているのでありまして、精神波動と物質
そうかんかんけい
波動との相関関係を細かく理解しているのであります。ですから、私などのように、精神にのみ重
いや
点を置いて、金品を賎しめる想いの習慣をもっていたものも、宇宙子科学の理論を知って以来、物
質の真の在り方がわかってまいりましたので、自然に昔の習慣が修正されてきて、精神波動と物質
波動との調和が、自ずと行われるような状態になってきたのであります。
精神と一口に申しますけれども、精神というものが、一体どういうものであるかをはっきり知っ
170
こころじてん
ている人はほとんどないのであります。試みに字典をくってみますと、たましい、霊魂、精霊、精
気、こころ、心意、物事を実行する力、気力、根本の意義というように解釈されています。
ところが、こういうように解釈されるよりも、精神というと、言葉で解釈されぬ前にわかってい
るのです。わかってはいるけれど、はっきりわかっていないだけなのです。言葉の解釈はつくが、
実物がはっきりわかっていないのです。ちょうど、生命というものがわかっていながら、はっきり
わかっていないのと同じようなものなのです。
それをあたかもはっきりわかりきっているように、精神を論じ、精神を語るのであります。生命
のことを論ずるのも同様です。生命とは肉体のみにあるものであって、肉体が滅すれば、生命も消
滅するという通念、精神も肉体頭脳が死滅すれば消えてしまうという一般観念、こうした想いをも
ってしては、生命の本質も精神というものの深い在り方もわかりようがないのです。
精神は霊魂であり、精霊であり、根本の意義である、という字典の解釈としてはわかるが、実際
的にははっきりわからないのであります。精神はこころだというのでも、やはりわかりながらわか
らないのです。
171 精神生活と物質生活の調和
精神面の科学探究いまだ浅し
172
この世の在り方というのは実に面白いもので、理論的には何かはっきりしないままで、すべてを
承認して生きていながら、霊魂とか神とかいうと、迷信あつかいにしてしまい、すべては今に科学
が証明してくれると安易な気持で生きている人々が多いのであります。
ところが、真の科学者は、自分たちの研究は、宇宙の神秘のほんの一部しか知ることができてい
ないといっているのです。現代の科学はいわゆる物質の科学でありまして、精神も肉体の}部の働
きによって生まれていると思っているのですから、精神の本来の深さがわかるはずがありません。
物質の研究の面では、原子、電子、陽子、中間子、中性子、ついには万物波動よりなる、とい
う、波動説まできておりますのに、精神の面では、横の研究はありましても、奥に深く入ってゆく
研究はされておりません。精神科学といわれる分野でも、深く大生命の根源にまで入ってゆく科学
さぐ
ではなく精神の現われの横の面の広がりを探っているに過ぎないのであります。
たんきゆう
精神科学といいますと、如何にも奥深く探究してゆくようにみえますが、潜在意識層のことを説
そう
明 するにしても、それは単に一人一人の人間の想念の世界の種々相を探究してゆくだけのものであ
りまして、精神というものの構成状態を科学的に探究しているものではないのです。
れいばい
また、心霊科学という学問もありますが、これは学問というより、霊媒を使っての実験でありま
して、まだ学問的体系がはっきり整ったものではありませんし、これとても、各人の精神や霊魂の
在り方を探究し、説明してゆくだけでありまして、物質が分子や原子や電子で成り立っている、と
いうようなはっきりした説明はできておりません。
ですから現在の段階で、学問的に一般の人が考える科学の分野にはっきり入っているものは、唯
物的科学の他はないことになります。
げんしよう
現代の科学というものは、現象世界の物質や自然の状態を分析に分析していって、大自然の根源
を探り当てようという学問であります。精神科学といわれるものは、物質科学で、物質は原子、微
粒子、波動としだいに微妙な形になっているという、いわゆる波動説にまでたどりついてきた学問
けんざいせんざい
とはまた別に、精神波動、想念の在り方を、顕在意識、潜在意識というように分析して、原因結果
を探り出して、病気の治療に応用しているわけでありますが、まだ確固とした学問体系になっては
いないのです。
ばなきのう
そこで、精神を肉体というものから一度離して考えて、肉体…機能から生まれてくる精神という唯精









調

173
物科学の観念から離れて、しかも現在の精神科学のように、現象面での実証だけに止まらない、学
問体系のある科学を生み出さなければ、どうしても精神と物質との調和した世界は創りあげられな
いと私は考えるのです。
宇宙子科学の特質
私たちの宇宙子科学では、こうした面をはっきりさせておりまして、物質科学でいう、原子の奥
の素粒子といわれるものの、もっともっと奥の世界から説明をはじめているのであります。
素粒子、つまり、電子、陽子、中性子、各中間子というものからすぐに波動説に飛びこんでゆく
学説に対して、そうした学説と直通させながら、その波動の正体を更にくわしく説いてゆくわけな
のです。
こと
そして一番現在の科学と異なるところは、精神波動は、物質機能から生まれるのではないことを
はっきりさせていることなのであります。物質波動は物質波動、精神波動は精神波動と全く別の鯉
ちゆうあた
疇に置いて、しかも両つの面の波動を調和させてゆくことのできる科学が私たちの宇宙子科学なの
です。
174
精神波動の根源を活動している宇宙子といい、物質波動の生まれてくる根源を静止している宇宙
プラスマイナスプラスマイナス
子といっています。そして、活動している宇宙子の+と一、静止している宇宙子の+と一という、
各種の働きの交流によって、純然たる精神も生まれ、純然たる物質も生まれてくるのであります。
宇宙子科学をやっておりますと、精神といっても、たんに精神と一口にいえるようなものではな
プラスマイナス
い、宇宙子の+、[のまざり工合、角度、場、物質との関係等々にとって、数知れぬ程の異なる精
神状態というか、段階というか、階層というか、各種の相違ができてくるのです。
物質もこれと同じことがいえるのでありまして、動物と人間の相違にしても、人体内の肺と心
臓、胃と腸の違いにしても、宇宙子の数やその働きの角度等々の各種の原理の相違によってその形
や働きが異なってくるのであります。
それも、ある人とある人の腸とでは、同じ腸でも、内部のでき方が異なっているのです。そうい
いや
う細かい原理がわかっていないと、真実に人間の体を癒すことも、精神状態を神の子としての立派
なんぎ
さに磨きあげることも、なかなか難儀なことであります。まして、世界人類の平和達成という大目
的の前には、現在の物質科学だけではとうてい及びもつかぬことのように思われます。
そこで、どうしても私どものやっている宇宙子科学のような、精神と物質とをはっきり別にして精









調

175
説明でき、真の調和を根底とし得る科学が完成して、万全の働きができるようにならなければ駄目76
1
だと思うのです。
精神と物質の調和をはかる
宇宙子科学を研究していますと、精神は勿論のこと、物質というものも、字宙神のみ心のひびき
から生まれでてくることが、実にはっきりわかってまいりますので、思わずあらゆる物質に感謝を
捧げずにはいられなくなり、精神というものも、物質というものも実に尊いものなのだな、有難い
ものだな、私たちの中にそして前に、精神と現われ、物質として現われるまでには、数多くの神々
のなみなみならぬ働きがなされているのだなあ、ということを、しみじみと感じさせられるのであ
ります。
かく
宇宙神のみ心は、宇宙核というものを通して、天地を貫く宇宙心として働きつづけておられるの
つく
だし、神々のお働きは、宇宙子を通し、電子、原子を通して、万物を創り成しておられるのであり
ます。
そして、万物は、すべての精神との調和によって、はじめて、万物の役目を完うでき得ることに
なるのであります。精神と物質との調和こそ、この地球世界に完全平和を築きあげる最も大事なこ
とであるのです。
おお
精神に片寄っていてはだめであり、物質に片寄っていてもだめなのであります。精神主義者の大
かたけいこう
方は、どうしても物質を軽視する傾向にありますし、物質主義者は精神などというものを馬鹿にし
ております。
現代の人々が最も信用しております科学というものの範囲が、精神を物質構造の中から生まれ出
たものというような考えから抜け出ていない以上は、一般の人々の考えも、物質を重点にして考え
まか
るのは無理からぬことであります。そして、精神は宗教者に任せて置けということになってしま
い、科学と宗教とがどうしても融和しないことになってしまいます。
すべての物質は神から与えられたもの
にぎ
唯物論者が物質の面の権力を握り、宗教者が精神面の鍵を握っているというのが、現代までの状
態ですが、唯物論者が物質の実権を握っているようでは、とても世界の平和はできません。なぜか
といいますと、唯物論者の考える物質というものは、お互いが或る限定された数しかないのであり177精









調

ふやうば
まして、自分の富を増そうとすれば、人の富から奪い取らねばなりません。
718
おか
国家間でいいましても同じことでありまして、自分の国土を広めみためには、他の国土を侵さな
ければなりません。自国の富を増すためには、他国の利益を減らすようにして、自国のほうに廻わ
さなければなりません。唯物論者の考えは、すべての数は常に限定されているからなのでありま
す。
ところが唯心論者、宗教者の考えからすれば、物質は限定された数だけあるのではないのです。
物質はすべて神から与えられるものであって、その人、その国、その民族に必要なだけを神は与え
ておられるのです。
すべては神から与えられているのだ、という考えの上に立たなければ、自分で自分の富を限定
し、自国の富を限定してしまいます。そこでお互いに富を奪い合い、権力の座を奪い合うことにな
ってくるのであります。
神のみ心の中から生まれてくる物質は無限なのであります。神のみ心、神の法則をはっきり科学
的に知ることができれば、大気の中にある元素の和合によって、様々な食糧や物質を創りあげるこ
とも可能になり得るのです。
真実の宗教者は、みずからはその原理を科学的には知らないでいて、自ずと科学的原理に沿った
生き方をしているのであります。キリストが僅かなパソを何千という数に増して人々に与えた、と
いう話など、宇宙子科学の原理から考えれば、事実のことであったろうとうなづけるのです。
その道を進まないでいて、そんなことできはしない、と片づけてしまう人々ほど、非科学的な人
はないのです。すべての科学の成功は、でき得ないと思われること、わかり得ないと思っているこ
まいしん
とを、でき得る可能性、わかり得る可能性ありとして、その研究に湛進した結果に他ならないので
あります。
私は精神と物質の大調和並びに、物質波動の無限性を信じることのできる世界を創りあげない限
りは、個人個人の物質への執着や、国家民族の物質的争い、権力争いは絶対になくならないと思う
のです。
そういう想いになるためには、まず神の実在と、すべては神のみ心より生まれ出でているもので
あることを信ずる道に入らなければだめだと思います。
宗教団体に入っている人々が、ただやたらに自分たちの利益だけを願い事にしたり、自分たち集
団の権力欲のとりこになっていたりするのでは、なんともはや情けないことでありますが、現実は精









調

179
そんな事実が多過ぎるのです。
180
調和の法則にのることだ
地球科学でも申しておりますように、エネルギーは不滅であります。エネルギーは様々な精神力
いろいろようそ
となり、種々の物質の要素ともなります。精神力といい物質といい、すべてエネルギーをその根本
要素としております。エネルギーは生命要素といってもいいでしょう。
その生命要素は、種々様々な変化をつづけながら、この大宇宙に充ち充ちているのであります。
この生命の根源、つまり大生命を人間は神と呼んでいるのです。科学的にみても宗教的にみても、
人類は生命をいただいて生きているのであり、物質を与えられて生きているのであることは間違い
ありません。それは大自然と呼ぼうと神と呼ぼうと同じことであります。
この神、大自然の力は、すべて調和を根本にした法則によって動いているのです。電子も原子も
分子も、ありとしあらゆるものが、調和を求め合って活動しているのであります。物質元素がエネ
ルギー変化をするのは、お互いの調和を求めあう活動によって、物質が変化するのであります。す
べての物質は、いつまでも不調和を持続することはできず、調和を求めて変化するのです。物質は
原子からできていることはもう皆さんはよくご存知です。この原子は陽子や電子や中間子によって
構成されていることもご承知です。この電子の数は各原子によって定まっているのですが、この数
が一つでも他に移動する、つまりイオン化しますと、その元素はその不調和を正すために、活動す
ゆうこう
るのです。そこに元素同志の融合が行われ、物質変化となってゆくのです。
原子の調和を求める姿が、物質波動となり、物質と変化して、この宇宙の運行がなされてゆくの
であります。ですから、この宇宙の運行のすべては、宇宙根源の世界、つまり宇宙神のみ心の完全
さを、現象の世界にそのまま現わそうとしてすべての元素が、いいかえると精神要素も物質要素も
活動しつづけているのであります。
この世に平和を導き出すもの
すべての精神波動も物質波動も、調和の法則に乗って活動することによって、宇宙神のみ心がそ
のままこの地球世界にも現わされてゆくのであります。こういう原理を考えますと、形の上でいく
ら神のみ名を呼んだところで、自己の想念波動が不調和な利己心の上に立っていては、真実の平安
はその人の生活にやってくるはずがありませんし、まして、国家や人類の平和を達成する力にはな精









調


81
めいもく
りっこありません。それが正義という看板や、愛国という名目、平和という名をもってしても同じ
ことなのであります。ですから私は、精神と物質の調和こそ、この世の平和を導き出すものである
というのです。そこで、すべての想念は消えてゆく姿として、世界平和の祈り一念の生活をするこ
せんぶじつせん
とを私は宣布実践しているのであります。すべての業想念や不幸災難に把われぬことが大事なので
すが、把われぬということはむずかしいので、消えてゆく姿と想って、人類の完全平和の願いを祈
りにまで高めた、世界平和の祈りの中に入れ切る生活をすすめるのであります。その生活からすで
に、宇宙神のみ心をそのまま受けついだ宇宙天使指導の宇宙子科学が生まれ出で、その完成に向っ
て研究が重ねられているのです。その完成の時こそ、はっきりとした世界平和の道が科学の名によ
って実践せられてゆくのであります。
182
真理の光に照らされた生活
虚栄心と権力欲
虚栄心と権力欲というものが、いかに人間の世界をつまらない、嫌なものにしているかは、だれ
でもよく承知しているのでありますが、自分自身を顧みて、自分には虚栄心や権力欲が少しもな
い、といい切れる人はあまり数多くはいないと思われます。
女性がみずからを美しくみせたいと思い、身なりや化粧にうきみをやつすのは、虚栄心にして
にほえ
も、まあ微笑ましいようなものですけれど、自分の心が立派でもないのに、言葉や態度だけ立派そ
うにみせて、自己反省が少しもなく、偉ぶっている人ほど、哀れな存在はありません。
まして宗教の道を求めていながら、尊大ぶった態度で、いつも偉ぶっている。そして、想いは色真











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欲や金銭欲にひきずり廻わされている、というような人は、俗物以下の人というべきでしょう。
議員諸公、区会から国会に至る数多の議員諸公の中には立派な人で、真実に町や市や国のことを
思って献身的に働いておられる人たちもおられるでしょうが、どうも虚栄、虚色、権力欲に充ち充
ちた雰囲気をそういう人たちの身辺から感じられるのは、一体どうしたことでしょう。
宗教者とか、政治家とか、学校の先生方というのは、一般民衆より、はるかに立派な人格でなけ
ればならないはずです。いやしくも、人々を指導する側にこの人々は立っているからです。
ところが実は反対で、一般民衆の一人として生活していた時は、善良で素直であったような人
が、そういう立場に押し上げられてしまったような場合、いつの間にか、その人の心に虚栄や虚色
や権力欲というものが湧き上がってきて、嫌な人間の一人となってしまうことが多いのです。
人に立てられる地位に昇った時ほど、人間は一層気をつけなければならぬのでして、謙虚に謙虚
に自己反省して、人々に接しなければならぬものなのです。
自己の地位や立場を背景にして、上から人を見下して、優越的な言辞をろうしている人々の心
は、神の目からみれば、哀れな幼い魂としかうつらないものなので、実にこっけいなものでありま
す。
1$4
私たちの団体には、そういう人は割り方すくないのですが、それでも、少し霊能的になって人の
心や運命の方向がわかるようになったりすると、まるで神そのものにでもなったようなつもりで、
高圧的なもののいい方をしたり、そりかえった態度で、自信満々と教えを説いたり、宇宙の万般、
月の裏まで見通しているような大きなことをいっててんとして恥じないような愚かな人も時にはあ
るのです。
神の名を汚すもの、生かすもの
こういう人は、虚栄心の深い人なので、その虚栄心に幽界の生物が働きかけて、俗物以下の言動
をさせてしまうのです。ですから、人間はいかなる時でも、謙虚で反省力が強いことが必要なので
あります。そこに私どもの消えてゆく姿、という反省から空の境地に入ってゆく、段階が必要なの
とら
です。消えてゆく姿で世界平和の祈りという、反省して把われを放つ、放ったところが、大光明波
動の中である、世界平和の祈りの世界であるわけです。
政界や実業界のような、正直でまともではとてもやってゆけないような、そういう世界と違っ
て、宗教の世界というものは、神のみ心そのままの、明るい正直で柔和で素直が、一番通用する世真











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界なのですから、そういう世界にまできて、虚栄や権力欲を振りまわしたりする必要は毛頭ないの
ですから、どこの宗団の人々も、そのつもりになって、お互いがお互いの心を澄みきった清らかで
平和な心にしてゆくよう、つとめる必要があるわけです。
話にきくと、宗団の権力で、実業家の仕事をおびやかしているところもあるということで、宗教
家が権力欲で事をするようになっては、その宗団の末路は知れたものというべきです。
実業家たちが、お互いの仕事を拡張するために権謀術策を用いていることは、利益を主体にした
会社なのですから、いたし方ないといえばいえるでしょうが、宗教団体は精神の浄化が主なる目的
なのですから、権力欲だの、権謀術策を用いたりすることは、神仏の道からの脱落でありまして、
もうその団体は宗教団体というべきではないのです。
事業会社では、その事業が発展してゆくことによって、従業員のこの世における生活が安泰にな
るのであり、ひいては国家のためにもなっているのでありますから、権謀術策を用いるという、マ
イナスも相殺されてゆきますが、宗教団体はいかなる理由がありましょうとも、人々の心を汚す方
向に行動してはいけません。
宗教団体がこの世に必要であるわけは、この世の利害にのみ把われている人間の精神を、洗い浄
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め、神と人間との一体化を人々に自覚させるためなのでありまして、この世の利のために、人力と
金力とにものをいわせて、その権力をほしいままにしようなどというものであってはならないので
す。
宗教団体もそうであるし、個人としての宗教者はすべてそうあるべきなのであります。宗教の堕
落は昔からいい古されていますが、立派な本格的な宗教者もかなり存在していたのであり、現在も
存在しているのです。そうした立派な宗教者というのは、何も宗教団体にばかりいるのではなく、
実業家にも政治家にも科学者の中にも存在しているのでありますが、表面立って、宗教を口にした
りしない人が多くあるわけです。
主よ主よというものばかりが救われるのではない、とイエスがいっているように、自己の利害の
ためだけに神仏のみ名を口にしたところで、それでその人が宗教者というわけではありません。宗
教者というのは、神のみ心を一般人よりも多く現わし得ている人をいうのであります。
神のみ心とは愛であり、調和であり、真理をこの世に現わそうとしておられるわけで、その道に
叶った想念行為の人々が、いわゆる宗教者なのであります。金銭を得るため、この世の権力を得よ
うとするため、宗教に名を借りて行動しているような者は、宗教者の名を恥ずかしめる、愚かなる真











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人というべきです。
神仏の名を呼ぶのも勿論よいが、口に神仏の名を唱えなくとも、その行為に神仏の心を現わして
いる人は、神の国の住人なのであります。偽宗教者の多いこの世において、私は広い範囲から、真
の宗教者を選び出したいと念願しているのです。そのもっとも、自然な運動が世界平和の祈りの運
動なのであります。
この世の生活で、地位が上だの下だのといい、金持だとか貧乏だとかいっていても、永遠の生命
いのち
の分け命である真人からみれば、ほんの一瞬のことであって、生命を汚してまで騒ぎ立てるほどの
ことでもないのですが、自己の虚栄心や権力欲を満足させようとして行動してしまうので、生命本
来の清澄な平和な生き方ができなくなってしまうのです。
しかし、自分の生命が永遠に生きつづけてゆくものである、ということを知らない人々の多いこ
の世界では、そういう真理だけをまともにぶっつけて説教していても仕方がないので、この世にお
ける地位とか環境とかいうものは、過去世からの因縁によるもので、現在のあなたの行為の善悪と
いうことだけではないのだから、とすべてを過去世のこととして一度その人の想いを和らげて、そ
れから改めて、そうした環境や出来事あるいは自己の想念など、すべては現われれば消えてしまう
↓8δ
のだから、と消えてゆく姿の教えを説いているわけです。
先日もあるトップレベルの実業家が、現われればすべて消えてゆくもので、消えた後からは、必
ず善いものが現われてくる、という教えは、私をすっかり勇気づけ、心が明るくなったととても喜
んで、消えてゆく姿の教えを絶讃していました。
素直な心の人は幸せな人で、自分の生活に必要なものはすぐ取り入れて、自分のものとしてゆき
ますが、心の素直でない人は、当然善いこととわかっていることでも、何やかと理屈をつけて、な
かなか実行にうつそうとはいたしません。道に乗った生活はだれが得するよりも自分自身の生命を
生かしてゆくことであって人に強いられてやるようなものではありません。
現代人にマッチした光明生活
いつきゆうぜんじそううん
ちなみに、一休禅師が、宗曇老師の門に入った時の話をしてみましょう。
一休は禅道に命をかけた人でありまして、石山寺に籠って三週間の断食をしたり、観世音菩薩に
断食の願をかけたりしたこともありましたが霊験を得ず、ついに宇治川に投身しようとしたのであ
ります。その時運よく通り合わせた雲水に止められ、その雲水から宗曇老師の襟鍬燃鵜を知り、直189 真











ちに老師の門を叩きましたが、何度願っても入門を拒まれ叩き出されてしまいました。
しゆんきよわき
幾度峻拒されても一休は断念せず、許されるまではと、門側に座りこんでしまいました。老師が
けどう
夕刻随侍の者と化導から帰えってみますと、門側に依然として坐禅をつづけていました。そこで老
師は、随侍に「水をぶっかけてしまえ」と命じました。
勇ましい禅僧の随侍は、大桶を提げてきて、一休の頭から水をぶっかけました。頃は呼吸さえ凍
る厳冬の時でありましたので、濡鼠となった一休の法衣から、つららが下っていました。
その深夜、老師が点検に廻わりますと、門前には、凍って板のようになった衣を着た一休が、厳
然たる坐禅姿の儘で座りつづけていたのです。道を求むるに厳寒も死をも恐れぬ一休の真剣な態度
さすが
に、流石の宗曇老師も遂に入門を許した、ということであります。
昔の禅僧というものは、このように死をかけた求道心で師を求めたのでありますが、現今では、
救いに立つほうが、辞を低くして弟子を求めているような有様です。真実はこれではいけないのだ
と思いますが、地球世界の危急存亡の時が迫っておりますので、一人でも多くの人が真理に目醒め
て、完全平和達成の一員になるように、と神々のほうから低く手を差しのべられているのでありま
す。
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現在では、宗曇老師のような悠長なまねはしていられないわけです。といって、道を求める者に
あまり甘やかした態度をしてはいけないことも事実なのです。
現在道に乗るか乗らぬかは、その人が今後ますますその苦悩を深めてゆくか、永遠の生命に直結
するかの境でありまして、どんな努力をはらっても道に乗るべき時になっているのであります。
むな
虚勢、虚色によって維持されている権力の座というものの空しさは、その人が肉体界を去った
時、実にはっきりと知らされます。本物か本物でないかは、この世の死に近づき、または死後の世
界において、はっきり示されるのであります。
なぜかと申しますと、この世では虚色の着物を着られるのですけれど、あの世ではその人々の想
念の波そのままが、その人の生活環境となって、自他共にはっきりみえてくるのですから、虚色は
虚色として、虚勢は虚勢として、そこにうつし出されるわけであります。あの世は嫌でも悔い改
め、反省せざるを得ない世界なのであります。
えんまちようしようまかがみ
それが地獄、極楽といい、閻魔の庁といい、照魔の鏡という、仏教の話の事態なのであります。
ぎまん
人間には、どのように自己欺購しようと、自分の放っている想念波動がありますので、いつか
いや
は、その想念波動の通りの環境を自己の上に現わしてくるのですから、現在自己の持っている賎し真











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い貧しい想念の世界とはまるで異なる、富んだる豪華なる環境に住んでいようとも、それは過去世
92
1
における積徳が現われてそういう環境を生んでいるのであって、現在の想念波動のためではありま
せん。現在の想念波動の世界は、そうした過去世の善徳が消え去った後に、今度はその姿を如実に
現わしてくるのであります。
これは善悪共にいえることでありまして、いかに貧しい生活にあろうとも、賎しい貧しい想念を
おご
起すものではないし、どのように富んだ恵まれた環境にあろうとも、驕り高ぶった行為や、他をさ
げすむ想念波動を出したりするものではありません。それらの環境や想念はみな過去世からひきつ
づいてきたもので、やがては消え去ってゆき、現在の想念行為の波動が、形となってこの世の生活
に現われてくるのであります。
ですから、どのような地位環境にあっても、常に明るい柔和な調和した想念をもちつづけている
ことが、善き地位環境をそのまま持続するし、悪しき貧しき環境はやがて消え去って、ずっと持ち
つづけている明るい調和した環境がその人の世界にひらけてくるのであります。
そうした善き想念を容易に持続してゆける方法が消えてゆく姿で世界平和の祈りなのですから、
一日も早くこの道を自己のものとして生活してゆくことが、その人にとっても、国家人類にとって
も大事なことになるのです。
日々坐禅観法したり、断食したり、山に籠ったりするならむずかしいが、日常茶飯・事そのまま
で、日常生活そのままで、ただすべてを消えてゆく姿として、世界平和の祈り言の中に想念を投入
してゆくだけなのですから、これを易行道といわざるを得ないのです。
現代の人間というものは、むずかしいこと、面倒なことを、毎日続けてやるという習慣が欠けて
いまして、坐禅がよいといって、毎日坐禅をつづけきれる人はすくないし、ヨガの呼吸法など、ず
っとつづけてやれば効果があるはずなのですが、少しやると止めてしまうし、健康体操などでも、
なかなか長つづきしないようです。それがただ生活のためとか、一つの規律に縛られてやらされる
場合とかは、嫌々ながら、どうにかやりつづけることができるようなので、一般の人々には、生活
費を得るための他は、規則立った修業などはなかなかつづかないのです。
中国を見習って、国家のために自我を抑えなさい、とか安易な生活を止めよ、といっても、現在
自己の身に迫っていない限りは、実感として、それに対処しようとする気構えにはならないので
す。
自己の身に現在ふりかかってくる事柄に対処するとか、それをやれば実際的に金銭的な得や、地真











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位向上のためになることが、はっきりわかっているようなことなら、進んででもやるのですが、未94
1
来にしかも来るか来ないかわからぬ事態に対処するという心構えには、どうしてもなれないようで
す。
個人と国家、国家と人類はつながっている
そこで私は、消えてゆく姿で世界平和の祈りのような、日常生活そのままで安易にできるし、な
んの規則も把われもなくできる方法で、個人の観の転換をはかり、世界人類の業想念波動が知らぬ
うちに浄まってゆく方法を実行しはじめたのであります。
心ある人がみれば、現在の世界情勢というものは、いつ日本が戦火に見まわれるかも知れぬよう
な状態であり、世界大戦が開かれるかもわからぬ情勢にあるのですけれども、一般大衆の心には、
まだそうした情勢は、はっきりとつかめていないので、限前の自己の生活だけに掴まっていて、そ
の他のことに眼をむけるという気持にはなっていないのです。
だれかがどうにかするさ、米国も中国も馬鹿じゃないから本格的な戦争になるわけがないさ、と
いう、なんにも成算のない安易な気持で、そういう面倒くさい、嫌な問題は横にそらしてしまう
か、自分たちがどうしたって仕方がないさ、というように自分たちに関係のないことのように、無
責任に他に転嫁してしまうかしているのです。それでいて、心は常に不安動揺しているわけです。
個人の生活はどうしても国家の安否にかかわってきます。国家の安否は世界情勢に深いつながり
があります。私がいつもいうことなのですが、現在の個人の生活は常に国家や人類の運命と直接つ
ながっているもので、国家や人類を離れた個人の生活は、実はあるようで無い生活なのです。
ですから、国家の歩んでゆく方向は直接個人の運命に関係してくるのです。そこで嫌も応もな
く、個人個人が国家や人類のことを考えなくては、自分の身が立たなくなってしまうことになるの
です。
そこのところが一般大衆にはまだはっきりわからず、眼前の自己の利害に関する国家の動きや、
社会情勢にだけ関心を示すのであります。
例えば、選挙などで、知合だから一票投ずる、義理のある人から頼まれたから投票する、自分の
商売仲間だから入れる、というようなもので、その人の人格とか思想とかを一応問題にしないよう
な場合も随分多いのです。
そんな眼先のことでなく、もっと深く、自己の生命の存続の問題にまで、深く眼をとめて考える
195 真理の光に照らされた生活
習慣をつけなければいけないのであります。
一口にしていえば、新聞などでみるだけでもよいのですが、米国が中国に対する考え方、また中
国が米国に対する考え方、日本が米国や中国に対する在り方などを、じっとみつめていますと、何
か割り切れない、これではいけない、という考えを頭のある人ならだれしも持つと思うのです。北
・ベトナム爆撃の問題だけでもそうであり、南ベトナムの戦乱状態でもそうでありますが、何か安心
していられない危機感というものがあるのです。
そういう感じをごまかさず、しつかりと感じとって、その後の発展と、自己の生活とに結びつけ
て考えてみることが必要なのです。そういう世界情勢が、自己と無縁のものでないことがはっきり
わかってくるのです。
それからが大事なのです。今のままの世界の状態は、やがてはどうしても大きな戦争に発展しな
いではいない、そういう要素をもっていることは確かです。米国の飛行機が原爆を積んで各国の空
を飛び歩いていることは事実です。そういう飛行機がもし誤って共産圏の国土に落ちたらどうする
か、これは空想ではなくて、先頃どこかの海に原水爆を三個だか落して大騒ぎになった事例もある
ことです。そういう危険は各所にあるわけです。
196
飛行士の頭が気圧の関係などでおかしくなることも無いとはいえません。そういう誤ちは、すぐ
にも世界大戦に結びつくのであります。世界が原水爆戦争になれば、これはもう地球壊滅までゆく
よりどうにも仕方がありません。
できる範囲内で世界を平和の方向にむけていこう
0
そういう時代が現代なのです。そこで私は再び申し上げるのです。一般大衆の個人個人が、自己
のできる範囲で、世界情勢を自分たちの真実の幸せの方向に向けてゆく運動をしなければならぬと
いうのです。
真実の自分たちの幸せというのは、自分たちの生命が脅やかされず、この世の生活を送り得る状
態になるということです。宗教的な深い真理はさておいて、そういうことです。それにはどうして
も世界を戦争状態から解放しなければなりません。そんなむずかしいこと自分たちにできるものか
と思うでしょうが、それができるのです。ただ直ぐにできるというものではありません。
一つの習慣をつけて、その習慣が実行されてゆくことによって、日本がまず守られ、しだいに世
界にその影響を及ぼしてゆくのです。世界平和の祈りがそれなのです。真











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世界平和を願わない者は正常の精神をもった人ならほとんどいないわけなので、世界中が願って
いることと思います。そこで、世界中が願っていることを、祈り言葉として、常に心に唱えること
にするのです。
この世は皆さんが気づこうと気づくまいと、想念波動によって運営されています。人間の想いの
さ訟に
波のまにまに世界人類の運命は定まってゆくのです。そういう大事な想念を、皆さんは無意味につ
かっているのです。無意味というより悪い方向に、誤った方向に用いているのです。
それは、想念が運命を創ってゆくということを知らないで、やたらに恐れを抱いたり、貧乏の想
いをもちっ父けたり、自分の力を限定したり、人を憎んだり、嫌悪したり、種々と幸福とは反対の
方向にむけてしまっているのです。
そういう想念の在り方や、誤った想念の持ち方から起った運命を消えてゆく姿として、改めて、
世界の平和を願う、大光明想念に向きを変えてしまうのであります。すべては消えてゆく姿なのだ
と、過去世からの不幸災難や不運やそして様々な想いを、世界平和の祈り言に託して、神様のみ心
の中に入れきってしまうのです。
神様のみ心の中に入れきってしまえば、神のみ心は大調和なのですから、自ずと祈った人の運命
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も大調和化して、幸福が生まれてくるのであり、そうした光明に充ちた想念波動は世界中を経巡っ
て戦争や不調和の波動を浄める役目を果してくれるのであります。そうした祈り言を多くの人々が
自然に行ってゆけば、世界中の誤った想念波動はそれだけよけい浄まって、戦争や災害の危機が減
ってゆくのであります。
私はその真理の易行道を、しきりに説きつづけているのです。男にも女にも、子供にも老人に
も、なんの技巧も工夫も修業もいらずに易しくできる愛国の行為、人類愛の行為がこの消えてゆく
姿で世界平和の祈りであるわけです。
っまらぬ人間の虚栄や虚色に充ちた生活から、真理の光に照らされた世界平和の祈りの生活に、
一人でも多く一日でも早く飛びこんでこられるよう、私は祈りつづけているのです。
(終り)
199 真理の光に照らされた生活


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