祈りのある生活五井昌久著
著者(1916~1980)
私たちの考え1 序にかえてー
私たちは、人間とその生き方については次のように考え、実行しております。
わけみたまごうしょう
『人間は本来、神の分霊であって、業生ではなく、つねに守護霊(祖先の悟った霊で
ある)、守護神によって守られているものである。
この世の中のすべての苦悩は、人間の過去世から現在に至る誤った想念が、その運命
と現われて消えてゆく時に起る姿である。
いかなる苦悩といえど、現われれば必ず消えるものであるから、消え去るのであると
いう強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難の中にあって1
も、自分を赦し、人を赦し、自分を愛し、人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづけ
てゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の祈りを祈りつ
づけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得できるものである』
2
《世界平和の祈り》
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私たちの天命が完うされますように
守護霊様有難うございます
守護神様有難うございます
祈りのある生活
4
目次
,
序にかえて
理想と現実
職業に使命観を
必要悪と平和の祈り
生命について
さわりなく生きる
神は人類に試練を与えるか
73 61463123 7 1
信仰の道と不幸災難
明日のことを思い煩うな
いかに真理を実践すべきか
神の子と無明
先達が後輩を導く道
現実に処する宗教の生き方
人はみな神の光のひとすじ
神々は常に人類の救いに起っている
装傾笹本悦子
175 1621491361241119986
次
5目
理想と現実
現実の立場を無視してはならない
人間と生れて誰しもが、理想を持たない者はありません。人によっては、大宇宙の運行に通ずる、
高い理想もあれば、その日その日の生活に密着した理想もあります。その高低深浅は違っても、そ
の人その人の理想であることには変りはありません。
理想というものは、高くて深いものがいいのに違いありませんが、あまり高過ぎ深過ぎると、そ
の人の生活は理想論だけになってしまって、常に大地から足が離れた、現実的にはみじめな失敗の
くゆり
生活しかできぬことが多いのです。それに比べて、理想というほどでもない現実生活についている
望みは、達成することが楽で、その人は常に一歩一歩自分の生活を安楽にしてゆきます。
7理想と現実
しかし、個人的なそんな低い理想では、理想がいくら多くの人に達成せられても、地球世界の進
そ
化向上にはなりません。地球の進化向上のためには、常に大宇宙の運行に沿ってゆかなければなら
ぬのです。月給が一万円上ることを望み、地位が一つ上になることを理想として、それが達成され
たとしても、単なる個人的な理想の達成であれば、人類の進化に何の影響もありません。ところが
いつ
それと全く反対に、妻子を持ちながらも、家庭生活の向上などはその人の心にはなく、何時でも人
類の進化のことだけを、理想としている人もあるのです。
例えば、肉体波動のままでは地球人類の進化はこれ以上望めない、ということを知って、肉体波
動から霊波動に自己の波動を変えようと思い、会社への勤めも妻子への奉仕も、すべてがおろそか
になってしまっても、一切かまわず、その道という道を探究しあるいている人もあります。肉体を
霊化して、人類の進化のために役立ちたいというその理想は、誠に立派であり、結構なのですが、
あまりにも一挙に理想の中に首をつっ込みすぎて、肉体人間として置かれた現実の立場を、全く無
視しているようでは、理想達成の遥か手前で、家庭生活をこわし、肉体生活の社会人としての立場
が失なわれてしまって、今度はかえって、理想の世界へ一歩も進めなくなるような経済的な貧困や、
社会からの反発をかってしまうことになるのです。ですから、いくら高い立派な理想であっても、
8
それが高くて立派であればある程、現実世界の足場をしっかり固めて、
もって生活をしてゆかなければなりません。
長期にわたって、忍耐力を
迷いの雲を晴らす真理のコトバ
聖書や仏典の中の教えには、高くて深い理想そのもののような教えがありまして、一読心が洗い
浄められるような感激をおぼえるのであります。
なにくらいのちわずらき
「我なんぢらに告ぐ、何を食ひ、何を飲まんと生命のことを思ひ煩ひ、何を著んと体のことを思
いのちかてころもまさまか
ひ煩ふな。生命は糧にまさり、体は衣に勝るならずや。空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収め
しかこれはるすぐ
ず、然るに汝らの天の父は、これを養ひたまふ。汝らは之よりも遥かに優るる者ならずや。汝らの
うちたけころも
中たれか思ひ煩ひて身の長一尺を加へ得んや。又なにゆゑ衣のことを思ひ煩ふや。野の百合は如何
ろうつむさえいがきわ
にして育つかを思へ、労せず、紡がざるなり。然れど我なんぢらに告ぐ、栄華を極めたるソロモン
よそおいしきょうあすう
だに、その服装この花の一つにも及かざりき。今日ありて明日、炉に投げ入れらるる野の草をも、
よそおき
神はかく装ひ給へば、まして汝らをや、あ\信仰うすき者よ。さらば何を食ひ、何を飲み、何を著
これいぽうじんすべ
んとて思ひ煩ふな。是みな異邦人の切に求むる所なり。汝らの天の父は凡てこれらの物の汝らに必
9理想と現実
ただしきさすべ
要なるを知り給ふなり。まつ神の国と神の義とを求めよ、然らば凡てこれらの物は汝らに加へらる
あす
べし。この故に明日のことを思ひ煩ふな、明日は明日みつから思ひ煩はん。一日の苦労は一日にて
足れり。(マタイ伝第六章二五- 三四)
これは、聖書を手にした人ならば、誰でも知っている有名な山上の垂訓です。この言葉を一読し
ただけで、どんなにか心がすっきりすることでしょう。神のみ心そのものが書かれているからです。
実際に赤子として、母親の胎内に宿って以来、すべては神様の生命の働きとして、今日までの自己
が生かされていることは、ちょっと宗教的な人なら誰でもが感じているところです。それでいて自
己の生活は、神からすっかりはなれた社会人の生活として、不安や混迷の生活を送っているのであ
ります。そこで、あらためて聖書のこういう真理の言葉をきくと、迷いの雲が晴れたように、心が
すっきりと晴れくしくなるのです。
10
理想の現実化にあせりは禁物
ところが、そういう真理の言葉に感激して、その真理の言葉の通りに即座に社会生活に実践して
ゆこうと思いますと、家庭のうちからも、社会の人々からもいろいろな反発が起ってくるのであり
ます。何故ならば、聖書の言葉の「空の鳥を見よ。倉に収めず、しかるに汝らの天の父は、これを
つむ
養ひたまふ」とか「野の百合は如何にして育つかを思へ、労せず紡がざるなり、だから汝ら、何を
き
飲み何を食ひ何を著んとて思ひ煩ふな」というような理想のことばに把われてしまいまして、家庭
生活が苦しかったり、社会人として人々と同じように世間との経済的つき合いも出来ぬのに、お金
のことや物のことでなんでそんな心配をする、神様はなくてならぬものを知りたまうのだから、す
べて神様におまかせしておけばいい、といってお金を得るためや、物を得るための働きを努力して
しようとしない人がいます。
そこでますくその人の生活は貧乏になってゆきます。従って、家庭生活はうまくゆかなくなっ
てゆきます。ちょっとみると、その人の精神は実に立派そうにみえます。それは、高い理想の心で
生活しているからです。しかし、一方では、家人や社会の信用を失ってゆきます。どこにその行き
違いがあるのでしょう。
それは、理想がすぐにでも実現するという安易な想いから起ってくるのです。理想というものは、
それが高く立派であればあるほど、なかく実現化しないものです。その人は他の真理の言葉「人
事を尽して天命をまて」という現実世界に処する言葉を知らなかったのです。すべてを神様におま
11理想と現実
かせする、ということは、心臓や肺臓や肉体の諸器官が自分の意識で動かさなくとも自然に動いて
いる、というように自分の意志で動かしているのではないのと同じような、外面的に起ってくる事
件事柄は、すべて神意におまかせしておくより仕方ありません。
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天命を信じて人事を尽せ
しかし、自らの意志で手足を動かしているのですから、生命のことや、外部からの事件事柄は、
神様におまかせしながらも、自己の手足を動かし意志を働かせて、自己の精神や、肉体的生活を向
上させる努力をすることは、神のみ心に照らしても当然なことと言えるのです。
人間の一人一人が、この地球世界に生れていることは、皆それぐの天命を果すためでありまし
て、過去世の因縁を消滅しながら、神のみ心を一人一人の天命としてゆくのであります。ですから
私は「人事を尽して天命をまて」という言葉を「天命を信じて人事を尽せ」と逆に天命のほうに重
点をおいているのであります。
なん
何にしても理想を達成するためには、出来る限りの努力が必要なので、努力もせずに理想を実現
化することはできないのであります。今かかげた聖書の言葉でも、そうなるように日々の精進によっ
ちようせき
て、次第に聖書の言葉の通りの自分になってゆくのでありまして、一朝一夕でそうなれるものでは
ありません。
以前にも書いたことがありますが、車を引いて坂を登るのには、一度頂上のほうをはっきり見定
めて、今度はその頂上のことは念中から去って、一歩一歩大地を踏みしめて登ってゆきますと、ど
んな長い坂でも案外楽に登ってゆけるのであります。それを坂の上のことばかり気にして歩きます
と、足腰に力がはいらず、非常に苦しい思いをしてしまうものです。これは少年の頃、荷車を引い
て常に坂道を登り下りしていた私の経験によるものです。
中庸の道の研究を
ですから、理想をもつのも勿論よいし、その理想も高くて深いほうが、よいにきまっております
が、一たん理想をもったらそれは心の中にしまっておき、日々の瞬々刻々の中で、自己の最大の力
を発揮するようにして、その理想達成の道を進んだらよいのです。
わけいのち
人間は、神の分生命で、世界の人々はすべて生命の上において兄弟姉妹なのでありますが、現実
としては人々の心にはすべてを兄弟姉妹として、扱うような実感が湧いてまいりません。しかし理
13理想と現実
理想は、その真理を実感としてもつように、聖書や仏典を通してすすめています。
インドや中近東諸国で、住民に多くの餓死者がでたり、貧困で困りはてているような状態の住民
が多かったりしても、日本人としては自己の生活を切りつめてまでも、その人達のために金品を送
れんびん
るというところにまで、愛の心がもえあがってまいりません。わずかな憐欄感情で、若干の金品を
送っている現状です。
しかし、その行為を間違った行為ときめつけるわけにはゆきません。日本人自体の生活も一般で
は、有り余ったものではなく、やりくり算段の生活です。ですから、その中から他への送り物をす
るということは、真理を行じようとする理想の心の一端のあらわれなのです。
人類すべての理想としては、お互いの国々が愛の心に徹して、お互いに足らざるものをおぎない
合ってゆくことによって、世界は平均した富と力になるわけですが、富があり物品のある国は、や
たらに他国にその富や物品を、分け与えようとはいたしませんで、その富や物品を背景にして、自
国の権力を世界に示しているのであります。そんなことは、理想に反しているのだと、理想に徹し
て生きようとする人々が声を高くして叫んだとしても、権力をもった国々はそんな言葉に心を動か
すことはありません。先ず自国の権力の確立に力をつくしてゆくのであります。
14
そこが、理想を現実に行じてゆくことのむずかしさなのでありまして、日本がそういう権力国の
立場に立てば、やはりその権力国と同じようなことをするのではないかと思います。そこで個人と
しては、どこまで現実の生活に即しながら、理想の道をすすんでゆけるかを研究しなければなりま
せん。個人をしっかり確立させておかなければ、自国はおろか他国などとても動かせるものではあ
りません。
聖者、賢者の本を読んだり、真理の道をゆく先輩の指導を常に仰ぎながら、生活している人々は、
地球人類進化のための先達であるのですが、真理の道を急いで歩もうとするために、現実生活をそ
こないがちになってしまってはいけない、と先程から私が注意しているわけですが、なかく中庸
の生き方をすることはむずかしいことなのです。
政府の中心に坐る人へ望む
政府の政治への不手際や、野党陣営のえげつない政府攻撃などを見聞きしていると、核爆弾を受
けた唯一の国として、人類大調和の中心国となる天命のもとにおかれている日本の姿としては、あ
せつしやくわん
まりにもお粗末で、高い理想をもった人々の切歯拒腕するのは当然です。といっても今、政府にど
15理想と現実
んな進言をしても、野党に説法しても、あまり効果があると思いません。政府にしても野党にして
も、未来を見通す目にとぼしいので、つい目先のやりとりに終始して、日本の力を充分に発揮する
ことができないのです。
せいれんけつばく
政府の中心に坐る人は、心の広い大きな人でなければいけません。心が清廉潔白であることは勿
論よいことなのですが、自分が清廉潔白であるということで、周囲の人々を皆自分のように清らか
な人間にしようとしても、これは無理なことでありまして、片方で汚れながらも、片方で非常に国
家のために働いている人もあるのです。
過去世からの因縁で、どうしても女性問題から抜け切れない人や、金銭問題でいやしい人がいる
のですが、それでいて他のことでは人にも増して立派な仕事をするのです。大きな長ともなります
と、こういう人達の長所を生かして、知らぬ間に短所を消し去ってゆくような使い方を、それん\
せいだく
の人々にしてゆかねばならないので、いわゆる清濁併せのむ人でなければ、大きな仕事は出来ませ
ん。
こ
過去世の因縁というものは、容易なことで超えるものではないので、高い理想を実現しようとし
あやま
すぎて、過ちだけをとらえておりますと、ほとんど使える人がなくなってしまいます。ということ
16
ちよう
は、裏を返せば理想主義の長の方が、多くの下部の者から追い立てられてしまうことになる可能性
ぷつ
があるのです。政治の面などには特にそれが多く、野にいる時にはかなりの出来物でも、首脳の座
にすわると、何も出来ずに終わってしまうことが多いのです。
一国の首相として、よい仕事をするためには、衆に卓越する胆力と、能力とを持ち合せ、清濁併
せのむ人でなければならぬのですから、首相となるのは大変なことです。
お金を得ることも修行です
とサリ
首相は、まあともかくとして、青年は理想に把われがちです。聖賢の言葉にはともすると、金品
べつし
を蔑視するようにきこえる言葉が随分あります。聖書の中にも、「神と富とに兼仕うことあたわず」
とか、「金持が天国に入るには、ラクダが針の穴を通るよりむずかしい」とかいうように真理を善、
金品を悪と思えるようないい方になっています。そこでどうしても、道を求むる若者は金品をいや
しむ傾向になってきます。しかし、この現実世界は金品が主になって動いています。ですから金品
をいやしむ気持で生活していますと、いつの間にか金品のほうからも嫌われ、終生貧乏でくらすよ
うになりがちです。実際は金品その物は、悪でも善でもありません。それを使う人の心によって悪
17理想と現実
にも善にもなります。
みた
聖書でいう金持とか、富んだ人とかいうのは、そういう人達は自分の生活が富によって充されて
いますので、貧困の人や社会的不遇な人たちのように、神だけを真剣に求める気持が、どうしても
薄れてしまうのです。そういう心の状態をいったのでありまして、金品や富そのものを悪くいった
のではありません。しかし、金品や富がありますと、どうしてもそれに依頼する気持が強くて、捨
て身で神を求める気持になることができにくいのは、確かなことです。だからといって、わざわざ
金品や富をはなれて、貧しい生活になってから神を求めるなどという必要はないのです。
理想は金品や富や地位があって、自由に貧しい人たちにその金品を分け与える愛情があり、しか
もひたすら神のみ国を求めている、という状態の人をいうのですが、そういう人はめったにいるも
のではないのです。そこで、現代の若者は理想をはき違えて考えずに、金品や富をいやしまず、地
位の向上をめざすことをも恥らわず、一心にこの世の生活を歩いてゆくことが大事なのです。そし
て、その心の底から神を慕い敬い、神との一体化を願いながら生活してゆく人になっていることで
す。
18
守護の神霊の援助をたのもう
神を求め、理想を達成するためには、あせる心が一番マイナスになるのでして、過去世からの因
縁で、定められている現在の地位や環境を、それがどんなに自分の心にそわないものであっても、
前生の因縁でそういう立場におかされているのですから、前生の因縁を超えない限りは、どうもが
はんちゅう
こうとそういう範疇をのがれることはできないのです。
そこに守護霊、守護神さんの価値が生きてくるのです。あなた自身の想いや行動では超えられな
い運命も、守護霊、守護神さんの援助によっては超えてゆかれるのですから、いやな地位や環虜に
あるならば、ひたむきに守護霊さん、守護神さんへの感謝をこめて、自己の天命の達成を祈るので
す。
そういたしますと、自分の想いがいつの間にか、守護の神霊と一つになって、自分の望む地位や
環境が生れてくるのです。そこで、金持になったらなったで、富に恵まれるようになったらなった
で、そのことに感謝し、その金品や富を、人のために使っていったらよいのです。その金品や富が
生き、自分も天の倉に宝を積むことになるのです。
19理想と現実
個人の理想も、国家の理想も、人類そのものの理想も、世界が平和になり、すべてが大調和して
ゆくというところで、一つになるわけですが、各国共にその理想に反し、核を中心にその国々を武
装で固めています。お互いがお互いの国を敵視しあっているからです。原水爆の実験など、核を持
たない国々が口をすっぱくして、止めてくれ、といってもそしらぬ顔で、各国共実験を続けていま
す。そんなことをしていれば、地球の組織が次第におかしくなってゆくに決まっているのに、それ
がわからず、わかるというよりわかっていても、現実の自国の軍備増強のほうを重くみているよう
なのです。
各国共にそれなのですから、日本をはじめ弱小国が世界平和の理想を叫びつづけても、ほとんど
その効果はないのです。
20
業想念消滅の力を自分のものに
いつも私が申しますように、人類には過去世があり、過去世や過去の歴史の中で、神の愛と調和
の心をはなれて、自己や自己の集団の肉体生活を守るために、他人や他集団と争い合っていたその
うず
憎悪や、不調和の業想念がこの地球世界に黒雲のようになって渦巻いていますので、その業想念に
押されて、平和の理想も、大調和の理想も打ちくだかれてしまうのです。それが今日までの地球人
類の状態です。
そこで武力のない弱小国が、いくら口々に平和を叫んだところで、その業想念にかなうわけがな
いのです。私はその理を知っていますので、いたずらに叫ぼうとは思いません。先ず一にも二にも
大神様の大光明の力と一つになり、業想念消滅の力を地球人類のものとしてゆくことを実践しはじ
めたのです。
それが世界平和の祈りなのです。世界平和ということは、人類の理想であり、個人そのものの理
かいめつ
想でもあります。戦争や天変地変によって、地球の平和が壊滅してしまうことが、人類にとっても
個人個人にとっても、一番大変なことなのであります。ですから、世界の平和を達成するというこ
とは、地球人類にとって最大の理想となるのであります。
この理想達成のためには、肉体人間だけの力を、いくらふりしぼってみてもできるものではあり
ません。どうしても、この宇宙の運行を司どっている神々の力が必要です。そこで私共は、守護の
神霊をとおして、救世の神々の集りである救世の大光明と一つになり、戦争や天変地変をなくそう
としているのであります。戦争も天変地変もすべて、人類の業の現れでありまして、人類の想念行
21理想と現実
為を今日までのような持ち方でいたのでは、滅亡の方向に向うよりほかに仕方がないのです。
人類は、一度人類を地球に生んで下さった神々のみ心の中に、赤子のようにとびこんで神々のみ
たい
心を帯して、人類の建て直しをしなければならないのです。そのかけ橋が世界平和の祈りなのです。
過去世からの因縁を世界平和の祈りのもつ大光明波動の中で消していただき、大光明波動と等しい
ひびきになって、あらためて、人類の平和運動を始めなければいけないのです。そういたしますと、
個人個人の現実の生活の上に大きな理想が実現されてくるのです。
22
職業に使命観を
まず真剣に取り組め
この世の中には、自分の職業に喜びを感じて働いている人が、意外と少ないのですが、本当はそ
れでは使用者側も当人も面白い結果にはなりません。たとえどんな職業にしても、その職業につい
ている以上、真剣にその職業に取り組んでゆかなければいけないのです。いわれなくともそんなこ
とはわかっている、とその人たちはいうかも知れません。わかっているなら、どんな工夫や訓練を
してでも、真剣に取り組めるような状態に、自分を持ってゆかなければなりません。
もし、その職業が嫌で真剣になれないのなら、即座に辞めてしまって、自分が真剣になれそうな
職業についたらよいのです。それは自分自身で独立してはじめようと、就職しようと自分自身の考
23 職業に使命観を
いや
え一つでよいわけです。ただ嫌だ嫌だで日をくらしているより、いさぎよくすっぱりやめてしまっ
やと
たほうが男らしいというものです。そんな人を雇っておくのは、使用者側にとっても迷惑なわけで
す。
しかし、そこをやめても、他に適する職業がありそうにもない、と尻ごみする人なら、現在の職
業に合わせてゆくよう、自己の心を訓練してゆくより仕方がありません。どんな職業でも、心の持
ち方によっては面白い職業になるものでありまして、心が乗ってゆかないから、そこが面白くない
のであります。
かこせ
私がいつも申しますが、自分の置かれた環境や立場というものは、過去世からの自分自身の心が
た
つくっているのでして、自分の心の持ち方を変えてゆかない限り、いつまでも何度び職を変えても、
やはり同じような嫌な職場にそこがなってくるのです。
野球でもテニスでも間違ったフォームでやっていたなら、いつまでたっても、よい成績は得られ
ないと同じように、自己の職業や運命全般でもその通りで、心の姿勢が間違ったままでいたなら、
よくなる道理がありません。会社が悪いとか、上役が嫌だとか職種が悪いとか、ぶつぶついう人が
多いのですが、それは現在の自分が選んだわけではないようですが、実は過去世から今日までの、
24
自分の心の持ち方によって定まった、会社であり、職種であり、対人関係なのであります。
学歴優秀で大学を出た人が、さまで優れた成績でなかった後輩に追いぬかれたような場合に、
「あいつは上役におべっかをつかいやがって」と、その人が上役の機嫌、気づまを取るのがうまい
ので、いいポストについたのだ、自分はそういうことができぬから、よいポストにつけぬのだ、と
いうように、人々にこぼし話をしたり、学歴のよい人がどんどん上役になってゆくので、自分の学
歴のないのを自嘲して、世をひがんでしまったりする人がいるのですが、ともにお粗末な心の人た
ちだと思います。
その人にはおべっかつかいにみえましょうとも、それは目上に引き立てられる一つの才能でもあ
るので、それだけで軽蔑の目をもってみることはできません。その人が相手よりそういう点の才能
が落ちているのですから、仕方のないことです。そんなことで、とやかくぼやいているより、自身
おの
に備った才能を発揮して、大いに会社の役に立ったら、自ずと重要なポストに据えられるのですか
ら、そんなところで人を悪くいい、自己の存在価値を主張しようとしたところで、かえって逆な結
果になるだけで、上役や同輩に、たいした人間ではないと、軽蔑の目でみられるだけです。
ロつりり
また、学歴のない人が、学歴のある人を羨やんだり、ひがんだりするのも馬鹿なことで、すべて、
25 職業に使命観を
過去世から今日まで自分で積んできた想念行為の結果がそこに現われているのでありまして、誰を
悪く思い、誰を恨む、という筋合のものではありません。すべては女性に生れたことを悲しみ、男
性に生れた自分を悔いたところで仕方がないのと同じように、宿命的なものなのです。いいかえれ
ば、過去世からの因縁因果なのです。ここは一番、はっきり明ら(諦)めて、現在ある自分自身を、
じっくり見直し、すっぱり裸の心になって、そこから改めて自分の運命の道を出発しなおすとよい
のです。
26
自覚をもって仕事にあたる
自分自身の現象の真の姿をはっきり見定めるということは、一番大事なことなのです。自分を甘
やかして、勝手に善い点をつけたり、悪い点をつけたりしないで、あるがままの姿を肯定して、自
分はこれだけの人間なのだ、と自覚して、その自覚の上で職業にぶつかってゆき、置かれた環境を
生かしてゆく真剣な努力をはらってゆくことをしなければなりません。自分を甘やかしたり、自分
をけなしつけたりすることは、決してプラスにはなりません。そういう悪い癖は一日も早くなくす
ように努めなければなりません。それは誰の損というよりも、自分自身が一番大きな損をすること
なのですから。
人間の社会は、個人個人の連帯責任によってでき上がっております。個人個人がなんのルールも
なく勝手な振舞いをしていたら、決してよい社会生活はなり立ちません。封建時代のように、強い
者勝ちの、権力政治になってしまいます。現代の日本の在り方など、悪い悪いといわれながらも、
かなり公正な自由な、権力に傾いていない在り方だと思います。
これがあまり一つの権力を嫌って、上下の位置を近づけ平等にしようとしますと、共産主義に走っ
てしまいまして、かつてのソ連のように、そして現在の中国のように、かえって恐ろしいほどの権
よう
力政治になってきます。人間の世界には中庸ということが必要でありまして、右に傾いても左に傾
いても、社会にひつみができまして、権力の座というものが強く打ち出され、国民一般は、支配さ
れる形になってしまいます。平等な生活というものほどむずかしいものはないので、どうしても上
に立つ者と下にある者とができ、それぞれその生活環境が異なってきます。
共産主義は平等だなどとすぐ思いがちですが、とんでもないことで、権力によって人民を統一し
ていることは、昔の国王や将軍などと等しいほどのものです。日本の現在の在り方などは、権力者
などというものが存在しないと同じような、なんでも自由にいえ、自由に書ける、まことにのどか
27 職業に使命観を
なものです。国民は抑圧されていない立場に置かれています。
会社などもそうでありまして、戦前の会社の在り方と現在の在り方では大きな差異がありまして、
上下の幅が随分とちぢまり、重役と社員や工員の心の交流もかなり自由になってきまして、使用者
へだ
側と労働者側というように分れてはおりますが、昔のそれとはまるで違った距てのないものになっ
ています。確かに昔とはくらぶべくもないほど、働きやすい職場になっています。
こんな働きやすい職場になっていても、職場で真剣になれなかったり、職場が嫌でならなかった
りする人は、どこか自分のほうに欠陥があることは確かなのです。そういう人は自分の心の欠陥に
気づくまで、とことんまで職場を変えてみて、最後にどうにもならなくなり、ああ、私は間違って
こんじょう
いた、と思うまでやってみるとよいのです。そうすれば、今生ではもうそれでおしまいかも知れ
らいしょうまじめ
ませんが、来生(未来の世代) での大きな経験になって、今度は自己をよくみつめる、真面目な真
剣な人間になって生れ変ってくることでしょう。そこまでつきつめて考えてみて、職場をあらため
て見直してみる必要があるのです。
28
職場、環境を生かす努力を
どんな小さな職場でも、つまらなそうな職場でも、自分の生命を真剣に生かすことはできます。
職場がどうの、職業がどうのというより先に、常に自分が真剣である、ということのほうが大事な
ので、一つのことに真剣な人は必ず幸福をつかむ人です。たとえその時の職業や職場が自分に合わ
ぬところであっても、いったん置かれた環境であれば、そこで真剣に自分を生かす道を見出すこと
が大事なのでありまして、そういう真剣な人は、必ず自分に最も適した職場が与えられるにきまっ
ているのです。何故ならば、その人の心境は常に神から分けられた生命を生かしきっているからで
ありまして、学校でいえば、中学や高校や予備校にいる段階をすでに超えていて、本番一本で勝負
のできる心の状態になっているからなのです。
自己にそぐわない環境とか、職場とかいうものは、その人の精神を磨くたあに、守護の神霊が、
きロリ
そういう状態にあてはめているのでありまして、そうした職業や環境を嫌って逃げようとしたり、
怠けたりしていれば、いつまでたっても同じように、心にそまぬ職業や環境があらわれてくるので
あります。
小学校を出なければ中学にゆかれぬ、中学を出なければ高校には入れぬ、と同様なことが、この
社会でも行われているのです。その真理を知ることによって、人間は一段と進歩をしてゆくのであ
29 職業に使命観を
ります。
ですから、もしあなたの職場や環境が自分の心に染まぬものであったら、ああ、これは自分の心
を磨くために神様が私の修行場として与えて下さったところなのだ、と思って、その職場や環境を
生かすように努力する必要があるのです。
いや
そこで私が常に申している、悪いことや嫌なことはすべて消えてゆく姿とみて、その消えてゆく
まつと
姿を、世界人類の平和を願い、自己の天命の完うされることを祈る、世界平和の祈りの中に入れつ
づけてゆくとよいのであります。たゆみない世界平和の祈りの中からは、必ずあなたの天命の完う
される立場が、職場の中からか、または他の場からか、どちらにしてもはっきり現われてくるので
す。ですから、今置かれた職業に使命観をもって、真剣に取り組んでゆくことが大事なのです。目
の先の落し穴に落ちぬように、不平不満の想いはすべて消えてゆく姿として、平和の祈りの中に入
れきってしまいましょう。あなたを日常茶飯事の中でも守りつづけているあなたの守護の神霊が、
こた
必ず祈りに応えてうまくやってくれるにきまっているのであります。
30
必要悪と平和の祈り
簡単に善悪の判断はつけにくい
必要悪という言葉が時折使われることがあります。私はあまりこの言葉を好きではありませんが、
必要悪としてしか説明のできない問題が、世の中には時折おこってくるので、一度この言葉につい
て解釈してみたいと思います。
人間の世界では、人々の行動を善悪二つに分けております。善の行動とは天意にかなった人々の
為になる行為、悪とは天意にそむいた人々の不為になる行為。
天意とは、神仏のみ心のことでありまして、愛と調和のあらわれをいいます。生きとし生けるも
のは、すべて天意によって生かされているのであります。これを神のみ心によって生かされている
31必要悪と平和の祈り
といっても同じことなのであります。
この天意が充分に働かれるように、人間側からつくしてゆくことが善なのであります。ですから、
どんな善のようにみせかけても、その行為やその存在が、天意の愛と調和にかけていたら、それは
にせ
偽のあらわれであるということになります。
一対一とか、小さな集団に対しては、その人の行為が善のようにみえても、大きな集団の立場か
らみれば、その行為は悪である、ということが随分あります。そして、こうした場合よほど根本か
らつきつめて調べてみなければ、いったいその人の行為は善なのか、悪なのかはっきりしない場合
が多いのです。
くし
大臣や代議士諸公が、自分の権力や金力を駆使して郷土のためにつくしているようなことが、マ
スコミにも随分と取ざたされております。郷土の人たちは、その大臣や代議士を神様のように尊敬
しています。郷土の人たちのためには、その先生方は世にも得がたい人たちなのです。ですけれど、
国家という大きな立場からみると、自己の地盤確保のための自分本意の行為であって、国家全体の
運営をそこなった悪行為と思われているのです。
このような場合、どう考えてよいのか、むずかしい問題ですが、やはり一般的にはよい行為とい
32
`
うわけにはゆかないでしょう。しかし、実際問題としては国家の定まりのほうが、誤っていないと
はいえないので、すべてを一般論でかたづけるわけにはゆきません。先見の明のある人の行為は国
家や社会のあり方の先へ先へといっている場合があるので、その時においては国家社会に反する行
為のように思えても、実は先にゆくとその行為によって国家社会が、大いに助かるというようなこ
とも出てくるのです。
国家や社会の定まりも、すべて人間が作っているもので不備な点がたくさんあり、その定まりに
縛られていると、かえって国家社会の進展をはばんでしまうことがあるのです。そこに天意が働き、
大きな人間を使って、その時やその事柄が、国家や社会の定まりを離れているように思えても、平
気である事柄を成しとげていったりすることがあります。その人は、一般国民から一時は悪く思わ
れたりするのですが、やがて時がたつとその事柄が、国家社会のための道標となったりして、その
人の行為が光り輝いてくることもあるのです。ですから簡単にその場、その時の行為だけで人間や
そつ
事柄の善悪を決定づけてしまうのは、軽率なことといわなければなりません。
33必要悪と平和の祈り
34
必要悪の判別
そこで必要悪などという言葉が生れてきたのでしょうが、その必要悪の判別がまた実にむずかし
いことなのであります。人間がまだ一般的に、聖者賢者のような悟った境地になっておりませんの
で、自我欲望に支配されてしまうことが多い今日です。戦中までは国家が認めていた売春行為を現
在では一切認めず、吉原とかその他そういう場所を国家が一切否定してしまいましたが、そういう
行為そのものがなくなったのではなく、陰にかくれて戦前以上に盛んになっているようです。公認
されていた時には、その敷地内に病院があったりして、定期検診を行ったりしていたので、病気の
伝染を大きく防いでいました。しかし、今は陰にかくれて行われていることなので、そういう検査
は一切ないので、病気の伝染は戦前よりはるかにはげしいものになっているようです。
そういたしますと、公娼を廃止したことがなにかその裏付けの方法と一緒でなければ、かえって
まずかったのではないかと、一部の人たちは単純に政府の施策をなじったりしています。
人間の欲望というものは、それはいけない、といわれて「はい」とすぐひっこむようなものでは
なく、表面でおさえられれば、裏にまわって、その欲望をはたすことになるのです。といって公娼
を認めることが必要悪ということにはなりません。なかなかむずかしいものです。それからギャン
ブルの問題です。競馬や競輪はサイコロやカードで勝負する、いわゆるバクチと同じような種類の
もので、一口にギャンブルといっていいのでしょう。しかし、一方は犯罪として国家からその行為
を否定され、一方は公営として堂々と賭け金を集めています。その財源は地方財政としては、ばか
にならぬものです。
そういたしますと、これは実は悪行為であるけれども、国家の財源をうるおす意味においては、
プラス行為となるわけで、これを必要悪と考えている人が多いわけです。しかし、時の東京都知事
はこれを悪と認めて、このギャンブルを廃止しました。そのため都の収入はかなりの減収になって、
その面では痛い目をみていたに違いありません。さて、この二つの方向を是とみるや非とみるや、
見方はいろいろであると思います。勿論、聖賢の目や、真理の世界からみれば、実にはっきり公営
を否定していますが、現在の現実の問題としては、必要悪と言うことになるのでしょうか。何とも
言い切れぬものをもっています。
何としても、人間の心が業想念欲望に支配されがちのこの世界なのですから、理想的なことだけ
を掲げても、人々はそれについてゆけず、陰にまわって自分たちの欲望を達成しようとして、かえっ
35必要悪と平和の祈り
て闇の世界が広がってしまうのです。
かつて、アメリカが禁酒をおこなって失敗したように、悪と思える人間の欲望行為を法律で禁止
いま
することは、考えものです。タバコの害など誰でも知っていながら、未だに国家の手によって売り
出されていることなど、おかしなことなのですが、ここから得る収入も相当なもので、国家として
は、すぐに販売を禁止することなどできないようです。それにタバコをすう人は、成人の大多数で
ありまして、すわない人のほうが不思議に思われています。私などすわない側なので、国家の収入
のことを考えなければ、すぐにでも製造販売を禁止してもらいたいと思っています。しかし、また
よくよく考えてみますと、たとえ国家が製造販売を禁止したとしても、売春や飲酒以上に、闇での
やりとりが大きなものになって、その取締りで役所はてんやわんやしてしまうでしょう。そうする
と、現在国家が専売公社でタバコを販売しているのも、一つの必要悪であるという、言いのがれも
できそうです。
そういうふうに考えてまいりますと、家庭内のことでも会社のことでも、社交界のことでも、国
際間のことでも、必要悪のような事態がたくさんあります。その必要悪にみえる事柄を、悪と断定
してこれを否定し去ろうとしますと、この反発がはげしく、大概の場合は、否定しなかった前の場
36
合より、内容的にはひどい状態になってしまいます。
毛沢東の中国統一
毛沢東が、八億の中国を共産主義政権によって統一したことは、共産主義が無神論であり、独善
的であって宇宙の大調和的運行にそわないという意味で悪である、といえますけれど、中国を米ソ
の戦いから守って、今日にしあげていった毛沢東の功績は偉大なものとして、認めざるをえません。
そうすると、毛沢東が中国を統一するために、共産主義を取り入れたのも大きな意味からすれば、
必要悪であるのかもしれません。
大宇宙を運行していらっしゃる神々のみ心は、肉体人間にははかりしれません。根本的には神々
のみ心には悪がないのですから、神々のみ心がはっきりあらわれれば、この地上界にも悪はなくな
るわけです。必要悪というのは、そういう立場や状態を通らなければ、より大きな善があらわれて
こない、止むに止まれぬ悪行為ということで、いわゆる天意が奥に働いて、消えてゆく姿としてい
るともいえるのです。
37必要悪と平和の祈り
38
太平洋戦争の意味
そういう意味で、太平洋戦争などは、ただ単なる軍部の間違った行為とのみはいえないものがあ
るのです。日本は物的資源のない国なので、常にその問題では頭を悩まし続けています。中国に手
を出して、満洲を日本の自由にしてしまったのも、物的資源がほしかったからです。しかし、いく
ら物的資源がほしいといっても、他国を侵略してよいということはありません。日本の中国に対す
る行為は、あきらかに悪であるといわねばなりません。
しかし、そこだけを切り離して考えますと、悪行為そのものといえますが、その時代の米国やヨー
ロッパの日本に対する経済封鎖的行為は、やがて日本を独立国として立ちゆかせぬような気配を示
していました。ですから日本としては、米国やヨーロッパの恩恵を受けなくとも、独立国としてやっ
てゆける物的資源を、どこかで確保しておかなければならなかったのです。それが中国への侵略行
為となってしまったわけです。
日本の中国への侵略がはじまると、欧米諸国は、ますます日本を経済的に苦しめてまいりました。
日本は次第に経済的に貧困の状態に追いやられてゆき、にっちもさっちもゆかぬ有様になってきま
した。国民の世論は欧米に対する抗議に高まって、政府の弱腰を強く叩きだしたのであります。政
府としては、いくら欧米に抗議しても、依然として経済封鎖的状態を緩和してくる様子はなく、そ
のままでゆけば国の運営が成り立たぬようなところまで追いつめられていったのです。
まつおかようすけ
そこで、国民の世論はますます欧米に対する強い反発となって、時の外務大臣松岡洋右氏の国連
脱退演説を諸手をあげて賛同し、強腰外交を示した松岡外相は、国民から英雄のごとくもてはやさ
れたのであります。
あの頃の日本国民の気持では、欧米のいうことに、いちいち、はいはいと頭を下げてその通りに
動くようなことを政府がしたら、たちまち暴動が起っていたことでしょう。ですから、日本の太平
洋戦争は、軍部だけの責任ではなく、国民全体の責任というべきでありまして、戦争反対の人々が
どんなに国民を説き、政府に抗議しても戦争はおさえきれなかったと思います。もし、戦争をおこ
さなかったとすれば、国民の政府に対する反発は、つぎつぎと国内に暴動をおこし、国の存立を危
くしていたかもしれないのです。そういう意味で、太平洋戦争は地球がやがて平和そのものの場と
なるための日本の業の大きく消えてゆく姿であったのです。
ただあの頃の政府や軍部のあり方を責めて、自分たちだけがいい子であったような顔をしている
39必要悪と平和の祈り
人たちも、よくよくあの頃の状態を思い返してみるとよいのです。
あの太平洋戦争も、大宇宙運行の天意の中で、そうあるべくしてあった、というより他に説明の
しようはないのです。あの戦争で日本が負けたために、日本は大きく成長して今日になっているこ
とは事実なので、戦争という悪の中から、日本の大きな進展が生れでてきたともいえるのです。あ
の戦争を有意義なものとし、必要悪としようとするならば、今日からの日本を真実の平和国家につ
くり上げ、世界の平和の中心として、大きく働かねばならないのです。
40
戦力増強と人類の業の関係
こう
人 類の業というものは仕方のないもので、英仏や米ソ中国が一丸となって、邪魔ものになってき
た日本を武力で叩きつぶしたのですが、日本を負かしてみて、さてと世界を見渡してみますと、米
国にはソ連中国という共産主義国が、かつての日本などとは問題にならぬ核兵器を中心にした武力
をもっていまして、敵のように立ちはだかっていますし、ソ連には米国中国が、中国には米国ソ連
が、やはり核兵器を主力武器として、敵対してきています。
核爆弾の実験でさえ、地球を痛めつづけ、大きな世界のマイナスになっているのですから、核兵
器を実際に使う戦争など、戦争も時には必要悪だなどといっていられない、大悪となって、地球そ
のものを滅ぼしてしまいます。ですから、お互いの大国が核兵器など捨ててしまって、ついでに軍
備を全廃して、丸腰になって、平和の話合いをすれば、忽ち地球世界の平和は軌道に乗ってくるの
ですのに、軍備全廃どころか、ますます核兵器を増そうとさえしているのです。
何処の国でも戦争は悪いのだと思いながらも、自分達を優位の世界にするための戦争は必要悪だ
と思っているのでしょう。各国共に軍備に熱中しているのであります。冷静に考えれば、実に馬鹿
気たことなのですが、国というものを守ろうとすると、その善悪が判らなくなってしまうのでしょう。
米国など、武力をもたぬ戦争放棄の憲法を日本につくらせておきながら、もう一度日本に軍隊を
もたせて、米国の下で、アジアを守らせたいなどと思っている向きもあるのです。日本の国内では
目下、軍備はいらないという組と、軍備をしっかり持たなければいけないという人たちがあります
が、どちらが一体よいのか、これも亦むずかしい問題です。
自衛隊の廃止か軍備か
理想論としては、軍備など当然もたないほうがよいので、現在の自衛隊でさえいらないというこ
41必要悪と平和の祈り
とになるのですが、現在の日本の置かれた立場からして、もう自衛隊を廃止することはおろか、ま
ともの軍備をしなければならぬようなところにきているのです。ミグ25問題でもわかるよう、自国
の非は頬かぶりして、日本に非のあるようなことをいってくる、黒を白といいくるめるソ連一流の
自分勝手さは、第二次大戦以来少しも変つていないのです。ごこで出ていけば大きな得があると思
えば、日本との不可侵条約をも即座に破り、兵を出して満洲の日本軍を撃滅してしまったあの自国
本位のあり方が今でも変りなく続いているわけです。もし、日本にアメリカの武力の後押しがなけ
れば、何をされるかわからないというような脅威を、ソ連という国から感じるのです。
なにしろソ連は、アメリカと同じような武力をもっていますので、日本一国なら、それこそ赤子
の手をひねるようなものです。ところが日本はアメリカと安保条約を結んでいますので、日本に手
を出せばソ連はアメリカと戦わねばならなくなります。左翼系の人達が簡単に安保条約廃止を主張
していますが、そう簡単に安保条約は廃止できないのはそういうわけなのです。
私は、祈りによる世界平和運動をやり続けておりまして、まず日本が憲法そのままに武力を排除
し、やがて世界中の軍備を撤廃させなければならぬと思っているのですが、今日のように、まだ世
界平和の祈りに徹している人達の少ない日本が、私の理想通り武力なしで、日本の国策を遂行して
42
ゆくことは、とても危険でできないことです。私のいう武力なしで、平和の祈り一念で生きてゆく
ということは、日本人の心の波長が平和そのもののひびきを出していて、戦争や謀略の波とは合わ
ないので、日本は戦争になることはない、という真理からきているのですが、今日の日本人の心で
は、とてもその理想から遠く離れていて、武力なく日米安保条約なしでゆけるような心の状態では
ないのです。ですから、一歩退いて最少の軍備ともいうべき現在の自衛隊を承認し、一日も早く自
衛隊も安保条約もいらない、平和の祈り一念の、日本に仕上げてゆきたいと思っているのです。
現在のソ連や中国のように、共産主義政権が政治をとっていると、共産主義一辺倒になってしま
うので、他のどんな主義も意見にも耳をかさず、共産主義のゆき方に反すれば、たちまちその人を
滅ぼしてしまいます。自由主義国のような国民の自由はなく、上から下まですべて定められた規定
の通りに、一歩も誤たずやってゆかねばならず、権力者同士は常に疑惑と猜疑の目でお互いの生活
をうかがい合い、人民はいつでも国の定めを破るまいと、一挙手一投足に神経を使って生活します。
日本のように自由やたらに政府の批判をするなどとんでもないことで、政府の決定には、左様ごもっ
とも、と従ってゆくだけなのであります。従わぬ者は、昨日の友も今日の敵として、たちまち葬り
りんびようこうせい
去られてしまうのです。中国の林彪のことや、今度の江青夫人達のことで、よくその事実が実証さ
43必要悪と平和の祈り
れています。ソ連にもそれ以上のことが随分と行われていたのです。
そういうことで、私たちは日本を自由主義国でおきたいため、どうしても社会、共産主義の政治
体制を善としないのであります。そういう意味で、自衛隊の存在も必要悪といえるのかもしれない
のです。
44
忍耐つよく辛抱つよく光明化運動を
ですから、自由主義信奉の政治家たちが、立派な政治を、立派な行いをして国民の信頼をかちえ、
その先生方が世界情勢や日本の国のあり方を説明すれば、国民は納得してくれて、その先生方に協
力し、自由主義国家の行き方がしっかりとしてくるのであります。一日も早く、そういう政治家た
ちが多く現われてくることを、祈らずにはいられません。
それにしても、ロッキード事件などで、味噌をつけてしまったのは残念なことです。しかし、済
んでしまったことはひとまずおいて、これからは、国民に疑惑をもたれぬような行為を、自由主義
陣営の人たちには、是非してもらいたいものです。国民もあきずに、日本の自由を守ろうとしてい
る自由主義陣営の政治家達に協力してゆくことが必要だと思います。
私は宗教者なので、あくまでも神との一体化の祈りを中心にして働いています。その祈りは、世
界平和の祈りであることは、皆さんすでに承知のことですし、皆さんももう長いこと私と共に祈っ
ていて下さいます。実際に世界平和の祈りを祈っておりますと、私に限らず、昨日から始めた人に
でも、神々の光ははっきりと輝きだされて、辺りを光明化しています。私たちは私たちの世界平和
ひま
の祈りの効力を信じて、瞬々刻々、閑さえあれば世界平和の祈りを祈り続けてゆくのであります。
業の黒雲におおわれている地球世界を大光明のひびきで、洗い浄めない限りは、地球の救れはあ
りません。現在は陰にひそんでいた地獄のような状態が、次第に表面にあらわれてきています。世
界平和の祈りの大光明波動は、つぎつぎとそうした黒雲を洗い浄めておりますが、過去世からの長
い歴史をもった業想念なので、ちょっとやそっとでは全部浄め去ることはできません。忍耐強く、
辛抱強く神の愛を信じて祈りつづけてゆくうち、世界中に多くの同志が生れでて、やがては、地球
世界の黒雲は晴れてゆくのであります。そういう日の来るために、私は文章を書き、しゃべり続け
祈り続けて今日まできたのであります。
どうぞ皆さん、自分達の幸せのため、世界人類のため、世界平和の祈りを祈りつづけていって下
さい。
45必要悪と平和の祈り
46
生命について
唯神的生命観と唯物論的生命観
人類にとっても、あらゆる生物にとっても、一番大事なものであり、根元的なものであるのが生
命であります。
何故かと申しますと、生命が存在しなくては、人類はじめ、すべての生物はこの世に存在しない
ことになるからであります。地球上に、どのようにして生命が誕生したか、宗教的にいっても、科
学的にいっても、この問題を重要視しないわけにはゆかないのです。
あらゆる生物は、生命がなくては、そこに存在しないのですが、人間の肉体や、動物などは、そ
の形を消滅させた時には、生命も同時に消滅してしまうか、その答は二つに分かれます。物質的形
のない世界でも、生命はそのまま生きつづけている、という唯神(心)論と、物質体と共に、その
生命は消滅してしまう、という唯物論の二つです。現代の科学は、唯物論的見地から、生命の探究
にとりくんでおりまして、宗教の神という存在を無視した立場で、学問をくりひろげております。
先日も、生化学の立場から、生命の起源に取り組んでいる、江上不二夫、三菱化成生命科学研究
所のグループのことが、読売新聞(昭和五十二年二月十九日)に書かれていますが、その記事を一
寸書いてみます。
『江上所長らは、海水に有機物を溶かし込んだ特殊な海水(修飾海水)を約百度に加熱すること
で、生命の素材であるアミノ酸やタンパク質に似た高分子、さらには生命誕生前に存在したと考え
られているタンパク質様高分子の構造体「原細胞」を思わせる物質が、合成されることを発見した。
これまでにもコアセルベート(ソ連・オパーリン博士)など種々の原細胞モデルが仮説的に唱えら
れているが、今回、江上所長らが得たものは、生命の故郷と考えられる海水中から合成された点が
画期的である。同所長は「生命以前の原細胞の一つである可能性があると思う」と述べ、この結果
は、四月、京都で開かれる生命の起源国際会議で発表されるが、大きな反響を呼びそうだ。
地球上の生物はバクテリアの類から高等動植物に至るまで、外見は極あてバラエティに富んでい
47生命について
るが、実は”地球型”とでも言うべき、同一タイプの生物。大ざっぱに言えば、いろいろな機能を
持つタンパク質と遺伝情報を担う核酸が有機的にからまった複合体である。
従って生命の誕生するには、原始地球上で、簡単な有機物からアミノ酸などを経て、タンパク質
や核酸が前もって合成され、蓄積されていなければならない(化学進化)。この過程はアメリカの
ミラー博士らが二十年以上前、メタン、アンモニア、水、水素の混合ガス中で放電し、種々のアミ
ノ酸が生成するのを確認して以来、実験的に、ある程度、跡づけられている。しかし、従来行なわ
れてきた化学進化”再現” の実験は、ほとんどが気体中や固体表面での反応。江上所長らは、海水
中という、より自然に近い条件で実験を試みた。
修飾海水は、ナトリウム、カリウム、コバルト、モリブデン、銅、鉄、亜鉛、マンガンなどを蒸
留水に溶かしたもので、海水とほぼ同じ。もちろん微生物などは含まれない。実際の海水と比べ、
ナトリウムなどを減らし、反応触媒として重要と思われるコバルト以下の濃度を千倍以上、濃くし
てある。これに生命に不可欠の炭素源としてホルムアルデヒド、窒素源としてヒドロキシルアミン
を加えてある。この溶液を窒素ガスで満たしたガラス容器内に封入、摂氏百五度で加熱した。
原始海水も現在の海水とあまり変わらなかったと考えられている。コバルト以下の濃度をかえた
48
り、百五度で加熱したりするのは、数億年を要したと思われる化学進化の時間を短縮させる意味を
持つ。
この溶液を約一か月間加熱したところ、グリシン、アラニン、グルタミン酸などを含む約四十種
のアミノ酸や、一部にタンパク質構造を含む高分子化合物が、かなり効率よく合成され、さらに培
養を続けると、一定の形を持つ粒子が出現してきた。この粒子は加熱溶液内に生成したタンパク質
に似た高分子が集まってできたもので、顕微鏡で観ると、中央がくびれ、両端がふっくらしたヒョ
ウタンのような、大きさは約三十ミクロン(マ・・クロンは千分の一ミリ)ぐらいにそろっていた。
外観はバクテリアに似ているが、もちろん、細胞膜もなければ、遺伝物質を含むわけでもない。
しかし、修飾海水中で、アミノ酸やタンパク質様高分子合成された”化学進化” の延長線上に、
こうした構造体が出現した点が重要。こうした構造体が環境の影響を受けながら”進化” し、生命
へと結びついた可能性がある。
江上所長らは今後、この構造体がなぜできたか、また、その物性、構造や物質の透過性、複合体
同士が融合するかなどを調べることにしているが、「われわれが得たのは原始の細胞の一段階前の
原細胞の一つではないか。しかし、コアセルベート説などを否定するわけではない。原始海水中に
49生命にっいて
はいろいろなタイプのものができ、
う」と話している』
それらが相互作用しながら進化して、生命が生まれたのであろ50
唯物生命観では真の生命探究の入口にも到らぬ
こんな風に読売には書かれていましたが、私共のように、宗教者であり、宇宙子科学の研究者で
もある者にとっては、物質体以前には生命は存在しなかったと思いこんでいる生化学者達の研究態
度は、真の生命への探究についての、ほんの入口にもなっていない感じなのです。タンパク質を元
とする生命の動きは、あくまでも物質内になる生命の動きでありまして、タンパク質を作り、アミ
ノ酸を作った生命の働きは、そうした物質要素のできる以前からあったのであります。
私たちのように、肉体人間としての生命の働きのほかに、肉体という物質体を持たずに、生命そ
のものが人間そのものとして、働いていることを体験として、よく知っている者にとっては、タン
パク質ができてから生命が生れた、というような化学の知識は、その専門家達には、はなはだ申し
訳ないことながら、幼ない知識というより仕方がないのです。生命というものは、こうした肉体人
間としての物質体をまとって働いている、何段階もの以前から、物質体では到底はかり知ることが
できない微妙な波動の現れとして、大宇宙の生活を営んでいるのです。今現に私達が、こうして肉
体という物質体に生きている、と同時に微妙な波動の世界にも生き生きと働いているのであります。
こんなことをいうと、全く変なことをいうやつだ、頭がおかしいのではないか、と唯物的な人たち
は思うでしょうが、事実はそうなのですから仕方がありません。この肉体人間は、肉体の五感で外
部との接触をしているのですから、肉体以外に人間の生命が存在するなどということは、なかなか
実感にならぬものです。
ですから、この世の人たちが、唯物論的にもなり、科学者が物質生命だけを生命としてみて、タ
ンパク質が生命を作る元であるような誤った考えになるのも、無理からぬことでもあるのです。
ここで、原子物理学的な面から考えてみましょう。原子物理学的に言えば、すべての物質にこの
原子の働きがあるわけで、原子が存在しなければ、その物質は存在しえません。タンパクや炭素に
しても、電子をはじめ様々な素粒子の働きを含めた原子の存在があって、成り立っているのであり
まして、こうした素粒子の組織や働きがわかっていなければ、とても生命の起源云々することはで
きないわけです。ですから、現代の科学のように生化学の部門と、原子学の部門とが別々に研究さ
れているようでは、その進歩は遅いと思われます。何故ならば、生化学も根本には原子学があるわ
51生命にっいて
けで、原子学は今や電子をはじめ、あらゆる素粒子の面にその研究の鉾先を向けているのです。そ
して、その素粒子というものは、粒子でもあり、波動でもあるといわれているのです。タンパクや
アミノ酸を追求して、生命の起源を探るということは、その先にすでに、素粒子学、波動学があっ
てのことでありまして、そうした物質的立場だけの研究では、同じところをぐるぐる廻りしている
に過ぎなくなります。物質科学的生命の探究では、どうしてもそこまでで、その先は物質的科学で
は無理といわなければなりません。勿論、物質内での生命の様々の変化を研究することは、非常に
有意義なことであり、その苦労や熱意には、頭の下る思いがします。しかし、あくまでもそれは生
命の変化の問題にとどまっていることで、生命の起源の探究には道が違う、といわねばなりません。
52
現代科学は五感に触れぬ世界にも目を向けよ
私たちの研究している宇宙子科学の学問は、精神も物質もすべて波動から成り立っている、そし
て、その波動の根元は、宇宙の心からきている、という学説を根本にして、組み立てられているも
のであります。現代の科学のように、たとえ精妙な電子顕微鏡を使ったとしても、五感で感じない
ものはない、としている学問のあり方では、この大宇宙の五感で感ずる以外の多くの波動圏のこと
は、一切わからないことになってしまいます。
宗教のように生命は、神からきているものであり、生きとし生けるものすべて神のみ心によって
ちよくせつ
生かされている、というように直裁的に生命の存在を肯定してしまえば、この世は全く生き易くな
るのですが、科学的な頭の人には、そういう単純な割り切り方は、できないようで、どうしても目
に見え、手に触れるものを、分析していく傾向をもちます。それでいい場合も随分あるのですが、
生命という名の根元の探究には、その態度は誤っているのであります。
唯物科学者のように、タンパクやアミノ酸の合成によって、そこに生命が生れた、という考え方
では、それ以上の深い生命の本源に到達することはできません。海中において、タンパクやアミノ
酸の中で生命を発見したということは、物質に生命の働きかけが行われたというのに過ぎないので、
生命の本質の起源でないことは明らかなのです。
神霊の世界や、宇宙人の存在が、かなりの真実性をもって伝えられている今日、物質だけにこだ
わっている科学の研究は、既に時代遅れというべきなのです。五感に触れない世界での神霊の働き
や、宇宙人の働きは、生命が肉体人間のいう物質世界以外の働きです。そういう世界の生命の働き
を、私ばかりではなく、かなり多くの人々が知っている今日なのです。もうこの辺で、唯物一辺倒
53生命にっいて
の科学のあり方をよくよく考えてみる必要があるのでしょう。
54
宗教的な観念論ではない宇宙子科学
私たちの研究している宇宙子科学は、宗教的な観念論ではなく、数式や角度の転換として現わさ
れていく根元の場として、宇宙心という言葉を使い、宇宙心から宇宙核、中心核、宇宙子核という
ように生命の働きが伝わってゆき、宇宙子核から宇宙子として、ありとしあらゆる、すべてのすべ
ての分野にその生命エネルギーを活動させてゆくのであります。その中心には、プラスとマイナス
とがあり、プラスの中にもプラスとマイナスがあり、又マイナスの中にもプラスとマイナスとがあ
るのであります。そして、その各自の量とプラス、マイナスの融合のあり方と、角度の転換によっ
て、精神的なものや物質的なものが生れるのであります。
精神的なものの中でも、より多く精神的なもの、物質の中でもより多く物質的なもの、というよ
うに様々な状態が宇宙子生命の働きによって、生み出されてゆくのであります。普通の人間は、精
神と物質とを全く別のものと思っておりますが、宇宙子科学的見地からいたしますと、精神も物質
も共に宇宙子生命の働きによるものでありまして、物質そのものと思われている鉱物の中にも、精
神の働きはあるのであります。最近の地球科学でも、植物に精神があるという実証がなされていま
して、これは生命の探究の一歩前進であると思われます。
人間の生命が、肉体が消滅しても永遠に存在するものである、というより肉体発生以前から、人
間の生命は存在しているのだ、ということは、心霊科学の実験ではかなりはっきり実証されていま
すし、深い宗教的な体験としても、その事実が体得されています。しかし、一般の人々にこういう
真理を頭からふりかざしても、なかなか自己の体験がないので、肯定するまでにはゆきません。そ
こでどうしても、永遠の生命のことも、生物に働く生命のあり方などを、根元的から説明しうる科
学の出現が必要になってくるのです。
こうした科学の出現は、どんな頭の秀れた人でも、全てを唯物的に考える科学的な頭の人では、
できるはずがありません。やはり自分の今日までの知識経験を一度からっぽにして、大宇宙に向かっ
て、自分の心を全託するような宗教的観念から再出発しなければなりません。そうしないと、自己
の視野が大きく、深く拡がることがありません。私たちは、専門の科学者ではありませんが、神と
の一体化の道を進んでいるうちに、五感の世界には住んでいない宇宙天使の指導を得て、宇宙子科
学の探究を始あたのであります。宇宙子科学の学問の中では、地球科学では使われていない数式が
55生命にっいて
つぎつぎと現われてまいりますし、角度の問題でも地球科学では考えられない度数が示されたりし
ています。地球科学では一口に素粒子と呼ばれている存在を、奥の奥まで探っていって、六十六種
類の名称を発見しています。その六十六種類の宇宙子群が、融合、分散して、様々な角度に働き多
くの物質や、精神の働きを生みだしてゆくのであります。
56
深い宗教体験をもった科学者の出現を望む
この本でこの学問を詳しく書くわけにはゆきませんので、ほんの概略を書いたのですが、何にし
ても、生命の起源をはじめ、大宇宙の神秘の解明には深い宗教的体験を内にもった科学者が、多く
現われてくることが望ましいのであります。今日では昔のように地球だけに人類が住んでいる、と
いうような狭い考えでは、とても一.歩も進んでゆかれません。
二月二十七日の読売新聞に英国のサンガー氏によって、遺伝子(DNA) の全構造が初あて解明、
と書かれていてウイルス内の物質から二つの異なったタンパク質がそれぞれ生産できる、というこ
とを発見した、と最も重大なことのように報道されていましたが、真理の目から観れば、それは単
にウイルスという最小の生物のタンパクだけのことであって、生命の本質自体に触れているわけで
はありません。生命の解明には、どうしても物質という観念から、一度離れることが大事でありま
して、物質的生命の観念ですと、今日の科学はもうゆきづまりになっているといえます。
その昔、欧米諸国などの存在を全く知らなかった日本人に、海の向こうには様々な国が有り、多
くの人が生活しているのだ、といくら説いて聞かせても、多くの人々はこれを一笑にふしているだ
けで、耳を傾けようとはしませんでした。それと同じように、肉体人間の他に、微妙な波動体をもっ
た、神霊的人間が存在するのだし、肉体人間の五感にふれなくとも、生命波動は各界層で生き生き
と活動しているのである、ということを科学者も知るように努めなければなりません。私たちは、
そういう事実を体験として知っているので、その真理を人々に知ってもらおうと真剣に活動してい
るのです。宇宙人のことなども、私たちは随分昔からその存在を説いていましたが、近頃では大分
多くの人が、その存在を認めようとしています。
秀れた宇宙人の智恵や知識は、地球人の最も頭の秀れた人であっても、横綱と少年相撲との差よ
りも、もっともっと差のある程その実力に相違があるのであります。私たちは、宇宙子波動生命物
理学、という科学の指導をそうした宇宙人(私たちは宇宙天使と呼んでいます) に受けていますの
で、その事実をよく知っているのです。今に思いも及ばぬ、超越した科学の学問が地球の科学の前
57 生命について
に示されることになるでありましょう。核酸の研究で、ノーベル賞を得た英国のクリック博士は
「最近モリブデンの地球での含量は、性質の似たニッケルや、クロムよりはるかに少ないのに、生
物には、もっぱらモリブデンが使われている。地球生物は、モリブデンが豊富な天体に住む宇宙人
が地球に送り込んだのではないか」と、主張していますが、この人などは正に地球科学者の最先覚
者というべきでしょう。
私たちは、その先達として日夜をわかたず、その道を進んでいるのであります。しかし、宇宙人
の名をかりて、幽界の生物がいたずらをしたりすることがありますから、宇宙人との交流も、深い
宗教信仰のもとにやらなければなりません。ともあれ、現代は人類絶滅の核爆弾を各国が持ってい
る時代なのですから、よほど精神を立派に磨いておかなければ、とても地球の運命を保ってゆくこ
とはできません。
58
宇宙人も本格的救済の面に天降ってくる
宇宙人の問題など、あらゆる面から研究してみる必要があるのです。宇宙人は今、大宇宙の調和
のために、地球の不調和を調整しようとして、地球人に働きかけてきています。私共には科学の面
と波動調整の面とで働かれています。もし、宇宙人が地球を滅ぼそうとするならば、あの秀れた円
盤による攻撃だけでも地球は滅ぼされてしまいます。しかし、幸せなことに、宇宙人は、地球人類
の先輩として、地球を救おうとして、古い昔から地球人類の状態を観察していたのでありますが、
いよいよ今日に至って、本格的な救済の面に天降ってきたのであります。宇宙人と交流して働いて
いるのは、私たちだけではなく、他にも大部あると思いますが、クリック博士のような地球上にお
ける有名な科学者が、宇宙人のことを話されているのは、大きな希望といわなければなりません。
古事記の話のように、地球生命は、神々の末として、天降ってきたのであります。天降ってきた生
命が、地球上の物質に影響して、やがては地球人類という肉体身をもった人間として、誕生したの
でありまして、地球人の生命のふるさとは、天にあるのであります。
ですから、地球人類は、単独で生きてゆくことはできないので、常に天との交流によって生かさ
れているのであります。ここに、宗教の必要が生れてくるのです。天にまします神を敬い、常に身
近かで守って下さる守護の神霊に感謝して、生活してゆくことによって、各自の生命が生き生きと
働くことになるのです。もう今日では、そういう態度で生きなければ、地球人類は自分たちが出し
た業想念によって、自分たちを滅ぼしてしまうのであります。核装備競争などその最もいい例です。
59生命にっいて
世界平和を願うものは、あらためて、生命誕生の起源にかえり、世界人類の完全平和を願いながら、
大生命である神のふところに、とび込んでゆかねばならぬのです。
私は、その方法を祈りによる世界平和運動として、日夜をわかたず、世界平和の祈りを唱え続け、
宣布しつづけているのであります。
60
さわりなく生きる
心霊科学の価値
人間はいつ如何なる時代においても、生(貧)老病死の問題で悩み続けているのであり、その問
題を超えようとして、様々な人々が、種々な角度からこの問題に取り組んでいるのであります。
医学をはじめとして各種の科学者、宗教者、哲学家等々が、各自の専門において、それこそ生死
をかけて研究し、精進しているのですが、いずれもその枝葉の問題のみを把え得るだけで、根本的
な解決の道に至ることが出来なかったのでした。ところが近代に至りまして、心霊科学という学問
の分野が開かれるに至り、この問題が、急速に道を開きはじめたのであります。
今日までの科学では、現象の現れの面を主体にして、常にその面からの研究でありまして、現れ
61さわりなく生きる
ごた
の面つまり機械器具(顕微鏡も含めた) に手応えのあるだけの範囲しか踏みこむことが出来ずにい
たのでありますが、この心霊科学の分野は、機械器具では触れ得ぬ面を、機械器具より、何層倍か
計り知れない精妙な人間という存在者を、機械器具の立場において研究がなされているのです。
このことは実に重大なることでありまして、機械器具にはその物自体、人間によって造られたも
のであって、生命がありませんが、人間は人間以上の能力から生れてきている微妙なる構造をもっ
た生命体であります。この微妙極まる生命体をつかっての科学的研究は、自ずから機械器具では触
れ得ぬ、自然界(神) の生命の動きそのものに触れ得ることが出来る立場に、科学を進出せしめた
ということになるのです。
自然界(神) に触れ得る方法としては、今日までの宗教の分野よりなかったのでありますが、心
霊科学の発展にともなって、科学の面においても、大生命、神のみ心の動きを知り得ることが出来
るようになってきたのであります。
ここにおいて、宗教と科学とが一つに結ばれる機運が、はっきりと示されてきたのです。理論物
理学がついに原子、電子と進んできて、今や物体はすべて波動より生ずる、というところまで突き
進んできて、現れの面からの追求の手が止まってしまった時、心霊科学は現れの面と内面からの動
62
きとを同時に研究出来得る分野を築きあげつつあるのであります。
と科学とをつなげる重大なる掛橋となるものなのです。
それは今日までの宗教の直覚智
生命の働きを妨げるもの
さてここで本題に入ろうと思います。
病気というものが、一体どうして起ってくるのか、といいますと、一般的には肉体機能に障害が
起ったからということになります。そしてそれにつけ加えるように、精神的な悩みや苦しみが肉体
機能に障害をつくったのだ、ということになってきます。
大体、病気の原因というのは、生命の働きと想念行為とがアンバランスになったことが根本なの
で、それが前世からのものと、今生でのものとがあるわけです。健康体というのは、生命の力が想
念行為に邪魔されずに、肉体全体にゆきわたって働いている時の状態でありますが、一度び想念行
為が生命の力の素直な働きを阻止しだすと、阻止しただけが、肉体の働きのマイナス、あるいは、
生活環境のマイナスになってゆくのです。そのマイナスが肉体的であった場合が、病気となって現
われるのであります。
63さわりなく生きる
ですから、病気でも貧乏でも、神から流れてきている生命の働き、霊の働きを想念行為で邪魔し、
阻止した時にその原因が出来、やがて消えてゆく姿として、肉体や運命にその結果を現わしてゆく
のであります。
盟作用の病気
肉体的な過労や精神的苦悩が病気の原因であることは、誰にでもうなづけることなのですが、霊
作用による病気などと申しますと、一般の人々は、ちょっと眉に唾をつけたくなるようです。まし
て知識階級を誇っている人たちにとっては、この一言だけで反感をさえ起しかねないのであります。
それはこの肉体界の他に、五感に触れ得ぬ生物が存在するわけがない、とひとりぎめにしているか
らであります。
このひとりぎめ程、科学精神に反する行為はないのですが、科学を信ずる知性人に、こうしたひ
とりぎめ癖のある人が多いのは困ったことです。
無いとか有るとかいうことは、自分がはっきり確めた上でいうことであって、自分自身が確めも
しないで、無い、といい切ることは全く無智なる人のすることなのであります。
64
有るということは自分が確めたか、あるいは他の自己の信用出来得る人々が確めたかしたのです
から、充分言明出来得ることでありましょうが、無い、ということは、全世界隈なく探し求めて、
はじめて無し、といい切り得るものでありますから、肉体人間の他に眼に見えぬ人間など存在する
筈がない、といい切ることは、極めて無謀なことなのであります。その人は只、自分はその存在を
知らない、とだけいい得るわけなのです。そんな風な答えがいわゆる科学的なのであって、狭い範
だんけん
囲の想像だけで、無い、などといってはいけないことなのです。これを仏教では断見といっている
ようです。
五感にふれ得ぬ存在者の影響
私たちの体験では、五感に触れぬ存在者は、常に数限りなく、私たちを取り巻いているのであっ
て、その存在者たちは、いつでも、私たちに善悪いずれかの影響を与えつづけているのであります。
善なる影響を与えつづけている存在者の代表を、私は守護霊、守護神と呼んでいるのであり、悪
こうそうねんカルマ
なる影響を与えているものを、業想念、業と呼んでいるのであります。これをキリスト教などでは、
サタンと呼んでいるようですが、私はこうした悪なる存在者を、消えてゆく姿と観ていますので、
65さわりなく生きる
真実の存在者としての名をつけてはいないのです。
しようげ
この悪影響を与えて、肉体人間の障擬となっているものの中には、亡くなった祖先や、親類縁者
の業想念波動があります。例えていえば、肺病で亡くなった近親の想念の波動が、そのまま残され
カカ
た妻や子供たちに愚かってきて、そのために愚かられた妻や子供が同じような病気になってしまう
というようなことが、かなり数多くあるのであります。
それから、どんな医者にかかっても、レントゲンにかけても、なんの病気もないのに、本人は日々
苦悩している場合や、精神病などの場合の殆んどが、霊作用とふつう呼ばれている、業想念波動の
さわり
障磯であるのです。
私は大体、障擬というような言葉を書くのは、あまり好きではないのですが、如何なる病気にも
わずらわされずに生きてゆける人間になるためには、皆さんに霊作用のことも一応は知っていても
らわねばならない、と思って書いているのです。
勿論、ふつう一般のように、種々の健康法や運動によって、健康体を維持してゆくこともよいこ
とですが、それだけでは霊作用、障擬の病気から自らを守ることは出来ません。ですから、真実の
健康法は、今日までにやっているような健康法や運動だけでは足りないのです。
66
さわ
霊作用というのは、自分が気づかずにいて、いつの間にか障られている場合が多いので、ふつう
ではそれから自分の身を守ることは出来ないのです。
大体において、人間は、種々様々なる想念の波動の中で生活しているのであって、その人の想い
と類似した波動が、その人に影響してくるのであるということを知らねばなりません。
ですから真実の健康法は、霊作用(業想念波動)から自らを守ることをも含めなければならない
のです。
さわり
障磯から自分を守るには
では霊作用から自分を守るには一体どうしたらよいのでしょうか。
まず第一に、自己の生命の親である大生命(神) の中に、常に自己の想いを投げ入れていること
であります。神の愛を信ずることより他に、霊作用から自己を護ることは出来ません。しかし、た
だ神と申しましても、何か漠然としていてつかみどころがないように思われますので、私は常に守
護霊、守護神に自己の想念を投入していなさい、と申しているのです。
守護霊とは祖先の中の悟った霊魂、守護神とは、人間の本体である直霊(神の人類への根元の光)
67さわりなく生きる
の人類救済のために働いている神の光明であります。この守護霊守護神は肉体人間の睡っている間
でも、常に守りつづけている神の愛の行為そのものでありますから、いつでもその光明身に対して
となさわり
感謝の想いを抱き、心のうちで守護霊さん守護神さんと唱えつづけていると、障硬の業想念はその
か
人に愚かることが出来ないのです。また愚かってきていても、いつしか守護神霊の光明によって浄
わけみたまごうしょう
化されていって、その業想念は消滅してしまうのであります。人間は神の分霊であって、業生では
ないのですから、無病息災なのが真実の姿なのですから、その真実の姿に還えるためにも守護の神
はしご
霊の光明を梯子として、自己の本体(直霊) の世界に肉体身を持ちながら、直結していなければな
りません。自己の心を常に明るい光(神) の中に置くことこそ、自己を幸福にし、あらゆる障磯か
ら守る最大なことなのであります。
68
神への全託精神が最も必要
私などは種々様々な人を知っていますが、そのいずれもが、守護霊、守護神に守られて生活して
いるのです。それを私は肉体の眼でなく直覚の眼で視ているのです。
人間というものは実に不可思議なる構造をもった生物です。それは肉体の眼だけで見ている人々
には到底わかりようもない程、複雑で微妙な存在です。
人間が肉体だけの存在だなどと思っていることの迷信が解ける日もそう遠い将来ではないと思い
ますが、人間の病気も不幸もみんな、過去世からの神を離れた想念行為の消えてゆく姿であること
が、霊的に人々を観ておりますと、実によくわかってきます。
ひびきあら
人間の本体は実に微妙な光の波動なのですが、それが幽体という少しく粗い波動の世界を創り、
あらあら
またもっとく粗い肉体という波動の世界を創ったのですが、肉体という粗い波動の中で生活して
いるうち、自己の本体の微妙なひびき、微妙な働きを忘れ果ててしまい、本体からきている生命の
働きを、肉体内だけの働きと誤り考えるようになり、そうした業想念によって、本体からの光明の
ひびきを、素直に受け入れ難くなってしまい、智慧や能力や体力を本来の人間より非常にマイナス
してしまったのであります。このマイナスの面に不幸が起り、病気が起り、霊作用といわれる、障
硬が起ってきているのが、私の霊覚には実にはっきりわかってきているのです。
ですから、一にも二にも、神への全託精神、感謝精神で生活してゆくことが必要である、と私は
力説するのであります◎
69さわりなく生きる
神我一体の人間をつくること
スポーツの世界で、肉体や精神の錬磨によって、毎年のように記録が伸びてゆきますが、心霊科
学の世界でも、研究、錬磨の結果では、すばらしい成果をあげるようになるのでありまして、その
ゆ
道の達人の中には、平然と物質体である塀や壁を、そのまま通り抜ける人がいるようです。そうい
う人は、肉体をもちながら四次元以上の世界の波動に、いつでもなりうる人なのです。肉体も精神
もすべて波動なのですから、幽界の波動を常に神霊の世界につないでおけば、四次元以上の世界へ
の出入も可能ということになります。
さん
そういうことを、肉体を中心にして、様々な機械器具をあやつって、錬磨、研鑛してゆけば、肉
体人間の思うように、幽界や神霊の世界が、この世に写し出されてくるようになるのです。それに
しても、肉体世界の我欲でそんなことをしたら大変ですから、まず肉体人間の心を、立派にして、
神我一体の人間を多くつくりあげておかなければならないのです。
いくら死後の世界を、否定している人でも、自分の父母や友人がテレビの画面に写し出されるよ
うに、自分の前に現われ、いろいろとあの世のことを話してくれたりしたら、一度に永遠の生命を
70
信じるようになることでしょう。そういう日のくるために、私たちは、一人でも多く、平和の心、
調和に満ちた愛深い心の人間を育てあげてゆかなければならないのです。そのための世界平和の祈
りであるわけです。
流れを変えよう
何でもかでも、ちょっとした不思議なことは、すべて眼に見えぬ世界からの干渉と思ったり、悪
ばつ
いことがあるとすぐに神様の罰であると、身をすくめたりしていた原始時代から、次第に肉体知識
が増大されて、この世におこるいろいろの出来事を、人間自体のものであって、神様や他の世界か
らの干渉などはない、と思うに至ってきた唯物論の世界になった今日、その唯物論の思想のままで、
米ソのような二大武力国家が、まともにわたりあったら、それこそ地球滅亡の核戦争に突入してし
まいます。その危機を必死におさえているのは、唯神論的為政者の調和の心や、信仰深い人々の戦
争反対の運動によるのであります。
しかし、今日からは、もっとく強力な神への信仰と、調和への大活動がなされなければならな
いので、その一つの道として、心霊科学の活動を拡げてゆかなければならないのです。そして、常
71さわりなく生きる
に私たちが実践しております、祈りによる平和運動の拡大が、どうしても必要になってくるのであ
ります。
唯神論が単なる論でなく、科学的動きとなって、実践されてゆく時、初めて今日までのような戦
争を背景にした歴史は、消え失せてゆき、真実の平和の世界が、地球の上に開かれてゆくのであり
ましょう。
72
神は人類に試練を与えるか
の
まず神観の確立を
神は人類に試練を与えるだろうか、どうだろうか、という質問を時々受けますので、今回はその
間に答えて書いてまいりましょう。
大体神ということについても、キリスト教では、絶対者であり大生命である唯一神としてのみ神
を説いておりまして、神々というような場合には天使というように言われております。
しかし神道では、唯一神というより、神々として、その働きによって名前がつけられておりまし
て、唯一神でもあり、多神でもある、といわれております。仏教では神というより、人間自体の悟
くうほとけ
りを開いた人、空になりきった人を仏として説いておりまして、神々という場合は、守護神や、神
73神は人類に試練を与えるか
ほうねんしんらんあみだ
霊的存在に対して使っております。ですから日本における法然親鸞方の説いている阿弥陀仏でも、
真言宗の説いている仏などでも、禅宗の仏などでも、唯一神という言い方よりも、むしろ絶対者大
生命と守護神とを一つに含めて、説かれているのであります。
さいほうごくらくじようど
しかし、浄土門では西方極楽浄土というように、肉体人間の外の世界にみ仏をおいておりますし、
禅宗などでは、人間自身のうちに仏を存在させております。キリスト教と仏教の大きな相違は、キ
リスト教では、すべてを神に託して、人間自身はひたすら神にすがってゆくという立場で生きてお
りますが、仏教の禅宗などでは、人間自体の修練によっては、人間自体がみ仏そのものを現わし得
るというように説いておりまして、自己の修練を主としております。
もつと
尤も浄土門ではキリスト教と同じように、神である阿弥陀仏にひたすらすがって生活してゆくと
いうことで、同じ仏教でも、禅宗とは違った生き方をしております。
りんねてんしよう
仏教が他の宗教に卓越していることは、過去世や生れ変りということ、輪廻転生のことを、巧み
に説いていることでありまして、本仏唯一神と人間との関係を実に深く解説していることでありま
す。
神が試練を与えるか、ということでも、仏教的に解釈しますと、試練というものは神が与えるも
74
のではなく、人間自体、自分自体が自分に与えているもので、
ような形に現われてくるのだ、ということであります。
過去世からの因縁が、試練とみえる
神は試練も罰も与えない
これを私流に解釈致しますと、一般的には神が人間に試練を与えるのではなく、各自の過去世の
因縁因果がすべての運命となって現われてくるので、神は大生命、大自然として人間を充分に生か
す側に存在しているのである、ということであります。ただしかし、宇宙や地球世界のために選ば
れた人々は、神が試練を与えて、働く力を増大させることが、しばしばあるのです。一般的生活を
カルマ
している人々が試練と思えるような出来事は、その人の守護の神霊が、その人の業を浄めるために
することで、特に試練ということではないのです。
試練と同じようなことに、神が罰を与えるか、ということがありますが、これは選ばれた人も一
般の人も変りなく、神は罰を与えない、罰とみえるようなことは、みな自分自身の潜在意識が、自
分を処罰しているのであって、神のなさっていることではない、といえるのです。
75神は人類に試練を与えるか
76
法則の神と救いの神
神という呼び方でも、ただ神というと、キリスト教的な唯一神のみと思われ勝ちですが、神には、
絶対者であり大生命であり、宇宙の法則そのものである神と、人類守護の神霊や、動植物を司って
いる神々が存在しておりますので、このことをはっきり認識していないと、どうも割りきれない、
というようなことになってくるのです。
今迄にも何度びも申しておりますが、神が唯一神であり、宇宙の法則そのもののみであると致し
ますと、人間自体が、宇宙の法則の通りに生きつづけなければ、いくら神に頼んでも、すがっても、
人間自体の運命が変るわけがありません。何故なれば、人間の願いによって、いちいち宇宙の法則
を変えていたら、法則などというものが成り立たず、常に宇宙自然の動きは、その場その時によっ
て変化していって、人間生活の安定などありようがなくなってしまうからです。
法則というものは定まった通り運行されてゆくもので、常に変化あるようなものではありません。
そこで、唯一神の神だけでは、人間自体の救れは、神に願っても成されるものではなく、人間自体
みずか
が、自力で自らを救ってゆくより仕方のないことになります。そのできる力が人間にあればこれに
越したことはないのですが、現実は、生死をはじめとして、様々な事柄において、人間の力は小さ
な弱いものでしかないことは誰もが知っていることです。
ですから、人間の救いに立って下さる神様は、唯一絶対神という形でなく、守護の神霊の形で現
われられるわけで、神は法則の神と守護神との二つに分けられることになるのです。この神観をはっ
きりさせておかないと、神への全託という気持にはなかなか踏みきれないのであります。
守護の神霊の存在を信ずること
神への全託は先ず、守護の神霊の存在を信ずることによってはじめられるということなのです。
人間の背後には常にその人間を助けてくれている守護神、守護霊がいらっしゃるということを信ず
ることは、人間が生きてゆく上において、どれだけ心強いことかはかり知れません。
守護の神霊に常に感謝し、守護の神霊の力によって、自然の法則から外れている自分をかばって
もらっている、という気持は、どれ程、人間の心を明るくするか判りません。仏教は他の宗教より
も、哲学的であり、真理がくわしく教えられていますが、法則の神と守護の神をはっきり分けて説
いているというところがございません。分けてあるところは、み仏の内在する人間と、業生そのも
77神は人類に試練を与えるか
のの輪廻転生のことが、かなりはっきり説かれておるということで、大乗的なほうは、み仏だけを
あとカルマ
真の存在者として、後は業の輪廻転生する姿として、人間の想いをみ仏の中にだけ入れておくこと
を、自力門も他力門でも説いているのであります。
78
釈尊は何故外部の神を強調しなかったか
それが小乗的なほうになりますと、釈尊の説いていることとは別に、釈尊以前からも実行されて
いた、肉体人間以外の他の力にすがってゆくという方法で、釈尊が説いた観音様やお不動様への本
がまたぬききつね
道的信仰ならよいのですが、これが外道的になって、蛇だの墓だの狸だの狐だのという、何か異常
な力をもつとされている幽界の生物・感情霊を崇めて、人間生活の助けにしようとするようになっ
てきたのであります。
これは釈尊の嫌われていることで、釈尊の現われられる以前のバラモン行者たちが、こういう幽
界の生物の力を借りて、人々をひきいていたことを、釈尊の時からきっぱり断ち切ろうとなさって、
外部の神という存在を殆んど口に出さず、もっぱら人間内部のみ仏を現わすことを教えられたので
あります。それでないと、人間の尊厳性というものが次第に失われて、人間は幽界の生物の自由に
あやつれるものになってしまうからです。
わけいのち
人間が神の生命そのものであり、その分生命として、地球界の生活をしてゆくためには、神との
一体化こそ必要であって、幽界の生物の助太刀などは必要はないのであります。そのためには、人
間誕生のはじあから、神の別の力として、守護の神霊が活躍しているわけで、守護の神霊を通して
の大神様、大生命との一体化であって、幽界の生物などの介在する必要はないのです。
真の仏教は、ここのところを実にくわしく説いているのであります。仏教に入った人なら誰でも
しきそくぜくうくうそくぜしきはんにやしんきようカルマ
聞いたことのある、色即是空・空即是色という般若心経のみ教えは、人問が業の波を超える根本を
説かれているのであり、人間がみ仏そのものであり、本仏と一体であることを説いているのであり
ます。
神の導き方
カルマ
ここまできますと、人間はもう業を問題にする必要はなく、ただひたすら内在のみ仏を出す道を
突き進めばよいことになるのです。ですから神が人間に試練を与えるか、ということでも法則であ
る神、仏教的に言えば、本仏が試練を与えたり、罰を与えたりすることはありませんので、守護の
79神は人類に試練を与えるか
神霊がその人の業を消すのにとった方法が人間側からは神の試練と思えたりするのでありましょう。
但し、はじめから菩薩としての天命をもって生れてきた人は、この肉体界の業生にひきずりこまれ
ないために、いろくと事件事柄を越えてゆくように、そして魂の力がますます強くなるように導
く場合がありますので、それが試練と呼ばれるものでありましょう。
私の妻などは、私のところへ来れば、並みの妻のように家庭の中だけをうまく切り盛ってゆけば
よいということではなく、種々様々な問題が持ちこまれてくるということが判っておりますので、
守護神のほうで、いろくと試練を与えて、これでもかこれでもかというように導いて下さったも
のです。妻はその試練を超えて私のところへ来て、もう三十年に近くなっても、はじあと一向に変
らぬ心で私の言うまま、するままについてきています。
まさみ
楽昌美の場合など試練というか何んというか、これは普通人ではとても耐えてはこられなかった
ような神の導き方で、よくも今日のようになったものだと、いつも思っております。そういうよう
に、神様が特別の役に使おうとなさる場合は試練のような形で、その人を導いてゆくことがあるの
あふ
ですが、いつもその試練のうらには温かい愛の心が溢れていて、神は愛であることを知らされます。
※ … 現・白光真宏会、西園寺昌美会長のこと
80
神の愛
しかし普通の場合は、試練ということはないので、何か辛いことや、苦しいことがあったら、そ
れはみな過去世から今日に至る迄の、自己の誤った想念行為、つまり神の法則を外れた想念行為が、
消されてゆき、自己の生き方を宇宙の法則にのせてゆくための、守護の神霊の慈愛の行為である、
と思い、守護の神霊への感謝で生活してゆけばよいのです。
カルマ
このように、業を消しながら、人間の個人個人が、自分の知らぬ間に、神のみ心の一端を行じつ
つ、人生を生きてゆく姿が普通人の在り方ですが、守護の神霊の存在を信じて、常に守護の神霊へ
の感謝で生きているようですと、神の計画への積極的の行為となって、いつの間にか菩薩業をして
いることになります。
世界平和の祈りはそういう祈りなのですから、浄土門の人が南無阿弥陀仏と唱えるように、キリ
スト教の人が、イエス様、マリア様とすがるように、祈りつづけてゆきますと、常に神との一体化
でいられることになり、自分がこの地球界に生れてきた意義が果せるのであります。
81神は人類に試練を与えるか
82
調和ということ
この大宇宙には多くの星があります。地球はその多くの星のうちの一つの世界なので、地球だけ
に神様のみ心が働いているわけではなく、大宇宙の一つの星として、大宇宙の中での調和を計って、
地球の運営がなされているのですから、地球人類は、地球自体の調和の為に働いてゆかねばならぬ
のです。
いくら表面正義のようにみえましょうとも、それが他との不調和になるようでは、それは神のみ
心に叶わぬことになります。強盗殺人の人間を憎んだりするのは、人間の良心の面から必然的にな
されるものですから、当然なことで、強盗であろうと殺人者であろうと、それはみな調和のために
許すなどとは神様はおっしゃっていません。強盗や殺人をするその想いが、不調和そのものなので
すから、その不調和を消すために何らかの方法を取るのは、それが警官が犯人を射殺したような場
合でもそれは当り前のことで、調和な世界から不調和をのぞいた行為と言えるのであります。
調和といいますと、相手にどんなことをされようと、周囲にどんな不調和なことが起ろうと、そ
れらに気をとられないで、平然としていなければいけない、と思う人もありましょうが、そういう
場合にただ平然としていられるような人は少なく、殆んどの人が心に動揺が起ります。
例えば、刀やピストルを突きつけられて、平然としていられる、という人は西郷さんや良寛さん
ならいざ知らず、殆どの人が平然としてはいられないと思います。と致しますと、こういう時の調
和の態度というのは、どういう状態をいうのでありましょう。
ここに守護の神霊の加護が絶対に必要なので、その人自体の現象面の心だけでは調和を保ってい
けないのです。そこで動揺する想いを守護の神霊のみ心の中に感謝の想いで入れきってしまうよう
に、世界平和の祈り言を唱えるのであります。そうしますといつの間にか表面の心も静まってきま
わけいのち
して、次第に調和した気持になってきます。それはその筈です。人間は本来神の分生命であって、
調和そのものであるのですから、神様のみ心の中に入ってしまえば、本来の調和の心に立ちかえる
のは当然です。
どうしても必要な守護の神霊の加護
自分が本来の調和の心にかえれば、その光明は周囲の者たちや、現在悪い不調和な行為をしてい
る者たちへもひびいていって、その行為は消されていってしまうのです。そういう悪い行為をつづ
83神は人類に試練を与えるか
けてゆく気がなくなってきて、手をひいてしまうのです。それは西郷さんや良寛さんのように、本
来のそのままの姿で、相手を本道にひき戻してしまうのと、形の上では同じようになるのです。
ですから、普通人には、守護の神霊の加護がどうしても必要なので、常に守護の神霊への感謝の
想いがなければいけないのです。人間が神の子として生きるためには、守護の神霊の加護がなくて
はできないので、今日からすべての人が守護の神霊への感謝の想いを抱いて生きてゆかなければな
らないことになるのです。
守護の神霊の加護を考えないで生活してゆくのには、余程いろくと能力のある人でも、むずか
カルマ
しいことで、人類全般にわたっている業の波の烈しさに押されて、無駄な力を浪費してしまうこと
が多いのです。
能力も誰がみても高く、すべての点において勝っているようにみえる人が、何か頼りなさそうに
みえる人より世に出られないでいるということがよくありますが、片方は先祖からの守護の神霊へ
のつながりが強く、片方は守護の神霊へのつながりが弱いのでそういうことになるのです。
地球世界の運命は、一人一人の善意にもかかわらず、常に不安定な在り方をしています。いつ戦
争が起るか判らない様相をどこかでみせています。中近東諸国やアラブ、イスラエルなどは安定し84
ていることがありません。
私共日本はその点で幸福な立場に立っておりますので、日本一国からでもよい、真の宗教的生き
方をして、世界中をひっぱってゆくようにならねばなりません。守護の神霊への感謝行、世界平和
の祈りの働きこそ、そういう行為なのであります。
消えてゆく姿で世界平和の祈りの運動こそ、地味なようにみえながら次第に強力になってゆく運
動なのです。皆さん一人でも多くの人々がこの運動を実施してゆきますように、どんな好きな演説
をしているより、平和の祈りの日々のほうが、神様のみ心に叶うものであり、地球人類の救いに大
きな力となるものであるのです。
85神は人類に試練を与えるか
86
信仰の道と不幸災難
信仰とおかげ話
宗教信仰をしていれば、不幸災難が来ない、と単純に思っている人々がありますが、深い宗教信
仰の人でも不幸災難に見舞われる人も随分とあります。勿論神仏の道を歩んでいれば、無信仰の人
こぜつむ
より、過去世の因縁的にあるべき不幸災難も超えている場合も多いのですが、不幸災難絶無という
わけではないし、普通以上に目立った不幸災難に見舞われている人もありますので、どこまで、神
仏のおかげによって不幸災難を逃れているのか、はっきりしたことがわかりません。けなす側にとっ
ては、あんなに信心しているのにあの人には悪いことばかりある、というでしょうし、信仰してい
る人自身も、こんなに真剣に宗教の道を歩んでいるのに、何故悪いことばかり出てくるのだろう、
という疑いが、ちらくと心に浮かんできたりすることもあります。
妙好人因幡の源左の災難
そこで今回は、宗教信仰とおかげ話についてくわしく書いてみたいと思います。
妙好人のことは時折りお話ししますので、皆さん方もよくご存知のことと思いますが、今回も一
寸一人の人にふれてみましょう。昭和の初期まで生きていた人で、通称源左、足利喜三郎という人
がいました。
彼の口ぐせは、「ようこそく有難うございます」ということでしたが、彼の一生は普通の人で
は、ようこそとも、有難うとも、とても言えるようなものではなかったのです。
源左は五人の子供に恵まれていたのでしたが、長男、次男と息子二人が精神異常者になって苦し
みの果てに亡くなってしまったり、火災に二度もあったり、友人の事業の失敗で、田八反歩を手離
すことになったり、更には義兄に偽わられて持山を売られてしまったりして、苦労の連続でありま
した。
め
長男の早死を慰められると「有難うござんす。竹奴は早うお浄土に参らしてもらいまして、ええ
87信仰の道と不幸災難
ことをしましただがやあ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と心から言っていましたし、次男の万蔵
が気がふれた時、小谷ひでという人が「万さんが、あがな身にならはって、いとしげになあ」とい
えば源左は「ああようこそようこそ、このたび万はらくな身にして貰ってのう」というのでした。
普通こんな受け応えをしたら、わざとらしくて周囲が変になってしまいますが、源左が言うと、
そのまま真実にきこえるのです。
長男、次男が引き続いて死んだり、災厄が重なったりしたので、願正寺の住職が「爺さん、仏の
いらず
ご慈悲に不足が起りはせんかいのう」と尋ねると、源左は「有難うござんす、ご院家さん。如来さ
んからのご催促でござんす。これでも往生は出来んか、これでも出来んかと、ご催促でござんすわ
いなあ、ようこそ、ようこそ、なんまんだぶつく」
源左が五十代の頃、火事に会って、丸焼になってしまいました。願正寺の住職が「爺さん、ひど
いめに逢ったのう。こん度はがめた(弱った) ろうなあ」慰められた源左は「ご院家さん、重荷を
おろーめく史-h
卸さして貰いまして、肩が軽うになりましたいな。前世の借銭を戻して貰いましただけ、いっかな
案じてこーなはんすなよ」
と素直にいったといいます。
88
こんなに宗教信仰の深い人に、どうしてこんなに災厄が重なってあったのでしょう。過去世から
の因縁には違いありませんが、神様のほうで、この人の信仰心の深さを認めて、菩薩業に使おうと
思って、次々にこういう災厄に会わせて、この人の生活態度から、真の宗教信仰者の在り方をおし
めしなさったのだと思います。
二人の息子を失った宇賀神さん
うがじん
私たちの会の講師である宇都宮の宇賀神さんの話なども源左に劣らぬ、宗教信仰の深さを物語っ
ております。
宇賀神さんは会の先頭に起って、宇都宮に多くの会員さんをつくって祈りの運動に大活躍してい
る人です。この宇賀神さんにも、過去世の因縁の現れは、過酷のように現われまして、青年期の長
男次男を相次いで不慮の災難で失ってしまったのです。長男さんのほうなどは、人の溺れるのを助
けようとして、自分の生命を失ってしまったので、泣くにも泣けない程の災難でした。
しかし、宇賀神さん夫妻は、この大きな災難にも不平一つ言わず、前にも増して、祈りの活動を
ひろげていったのであります。過去世の因縁の消えてゆく姿と世界平和の祈りの教えが、心の底か
89信仰の道と不幸災難
ら判っていたのでありましょう。この話を知っている人で心を打たれない人は一人もおりませんで、
白光の妙好人と人には称えられているのであります。
こういう人はめったにいるものではありませんが、こういう人の存在が、どれ程神様のみ心を大
きく輝かせてゆくか計り知れません。
私など思い出しては心を打たれているのであります。平和の祈りをして、神様のみ心に通じて目に
見えるようなご利益を得る人もありますので、それはまともに本人たちも喜べるし、周囲の人々の信
仰の力にもなります。しかし源左さんや、宇賀神さんの話をきくと、より更に深い信仰心をひき出
されて、周囲の人々が高いところ、深いところに魂が高められ、深められて、肉体の世界に住もう
が、霊界に住もうが、常に神と一体であるという実観で生きてゆくことができるようになります。
90
祈り心を中心に生活を
人間何人といえど、自分たちの過去世からの因縁因果をはっきり知っている人はおりません。そ
とヒつ
の人にとって十程の悪因縁が、宗教信仰の道を進んでいるおかげで、六程守護神さんに背負って貰っ
たとしましても、まだ四程の不幸災難が残ります。源左さんにしても宇賀神さんにしても、あれだ
けの不幸災難が現われても、心が参ってしまうような人ではないと守護の神霊方が思われて、あれ
だけのものを出されたのでしょうが、そのことが、当人たちの魂を更に強力にし、深い神との結び
つけにすると共に、多くの人々に深い感動を味あわせて、宗教信仰の道の大事を更に強く知らせる
ことにもなった、という大きな菩薩業を行じさせたことになったのであります。
しんせんカルマ
ですから、その人々の心境の深浅によって、その生活への、業の現われ方が相違するのでしょう
カルマ
が、どのような業の現われ方がありましょうと、すべて守護の神霊方のお考えによってなされてい
るのですから、すべてを神々様にお任せする気持で、日々瞬々の想念行為を、正しい愛深いものに
してゆけばよいのです。というより、祈り心を中心にして生活してゆけばよいのです。
五十年百年だけのいのちではない
自分の生命を五十年百年だけの肉体生命と思っておりますと、神様とのつながりも、その五十年
百年に限られてしまいますので、その間のご利益のみを願うことになってしまい、その間に不幸災
難がありますと、神様のおかげがなかったと思ったり、かえって神様を怨んだりする人さえでてく
るのでありますが、源左さんや、宇賀神さんのように、過去世からの深い宗教信仰で生きている人々
91信仰の道と不幸災難
えいこう
にとっては、自分たちの生命が五十年百年のものではない、未来永劫のものであると信じきってお
りますので、肉体生活の中で、どんな不幸災難があっても、それをそのまま喜ぶというわけにもゆ
きませんが、これも過去世の因縁の消えてゆく姿とか、もっとはっきりと、すべては神様のみ心の
現れで、より大きなおかげであるのだ、と想いこむことができるのであります。実にたいした心の
状態だと思います。
しかし、普通の人にはそういう高い心の状態を望むことはむずかしいのですから、やはり、過去
世の因縁の消えてゆく姿、として消えるにしたがって、真実の生命の働きが自由になって、神様の
み心とぴったり一つになってくるものである、と信じることがよいのであります。
肉体人間にとって、一番むずかしいことは、人間の生命は肉体にしかないと思っている習慣の想
念であります。肉体が亡くなってしまえばその生命も亡くなってしまう、という想いでありまして、
面白半分に幽霊物語はしますが、霊魂というものが、実は生命そのものであって、肉体も動かし、
霊界にあっては、霊体も幽体も動かしているのである、ということです。
それも無理もありませんで、肉体人間の五感では肉体のことしか感じられず、肉体外の生命の自
己の働きというものを知ることができないからです。ここのところを一般の人に知らせることが実
92
にむずかしくて、世界各国で心霊の研究をして、心霊現象の実験などをしているのですが、肉体生
活のその日その日の出来事に追われて、じっくりと、永遠の生命に想いをはせていることができな
いのです。
真の自由生活
日本などでも真剣に心霊現象に取り組んで、人間の生命の働きをぐっとひろげて知らせようとし
ている人たちもいるのですが、なかなかひろがってゆきません。いつもひろがってゆくのは肉体生
がまねこへび
活の現象利益を売りものにする宗教信仰で、肉体生活に利益することなら、墓でも猫でも蛇でも何
んでもいいから拝もうという人々が、世界を通して多いのです。
一般の人間というのは、兎に角自分たちの肉体生活が無事で面白いものであればよいので、その
為には戦争もいやだし、あまり働き過ぎるのもいやだ、社会や人に縛られて生活するのもいやだ、
という、自由な生活を望むのです。
しかし、真の自由生活は、そんな浅薄な考えではとても自分たちのものにはできませんで、いつ
でも何やかと恐怖や危険に追われているのであります。この境地をぬけでるのには、やはり真の宗
93信仰の道と不幸災難
教が必要でありますが、仏教やキリスト教を、あまり高度にまともに教えたのでは、新興宗教のご
利益宗教にはとてもかないませんで、人々は新興宗教のほうについていってしまいます。
94
神さまから預かった生命力
あずか
神様と人間との関係は、人間は神様から生命を分けて預っております。大資本家から、各人がお
金を預って、その資金でいろくと仕事をするように、人間も神様から預った生命力という資本で、
神界、霊界、幽界、肉体界というような各階層で、それぞれの仕事をするわけです。しかし、現在
何の誰々と名前がついている肉体人間は、もうすでに過去世において、いろくの階層で働いてき
て、それぞれの仕事をしてきて、生命の働きを充分に使ってきた人と、下手に使ってきた人との差
が大分できております。
こうぜんこうあくこう
それを各人の業というのでして、業というのは善業も悪業もあるのですが、普通、業という場合
には、悪業のことのように思われております。この業が善業の積まれております人は、神のみ心に
近い生命の使い方をしているので、その肉体界の運命にも、菩薩業の為にそうしている以外は、そ
う不幸災難はありませんが、悪業を積んでしまっている人々には、不幸災難が多く現われてきます。
ですから、あまり神信心をしていないようにみえても、不幸災難の少い人と、日夜に分かたず神
信心をしていても絶えず不幸災難に見舞われている人もあるわけなのです。この悪業の深い人は、
常に真剣に神仏をお呼びして、行いも正しくしているのに、過去世の悪業がたまっていて、それが
神仏の光明にふれると更に大きく現われて消え去ってゆこうとしますので、祈りながらも、不幸災
難はなかなか消えてゆかないのです。
しかしその真剣さをつづけてゆけば、やがては悪業は消え去って、神のみ心がまっすぐその人の
生活に現われてくるようになりますので、うまずたゆまず、お祈りをつづけてゆくことがよいので、
そうすれば、守護の神霊方もその人を守り易く、大きく身代りしてあげることもできるのですが、
たいがいの人は信仰の途中で、心がくたびれてしまって、時折り神仏からの想いが離れてしまった
りするのです。
白光に輝く運命の日々
わけいのち
しかし、真の宗教の道を進んでいる人は、守護の神霊と一つになって、神の分生命の天命をまっ
こう
すぐに成し遂げてゆくことができるようになり、その間に起るべき、過去世の業の消えてゆく姿も、
95信仰の道と不幸災難
しっかりと守護の神霊が受けとめて下さり、肉体人間の運命として現われる前に消し去って下さる
のです。
こうして、不幸災難が真の神のみ心の中で消し去って貰えますと、幽界の生物が、肉体人間の借
財的業を一瞬肩がわりして、後に利息づきで返してよこすのとは違って、その人間に再び不幸災難
として返えってくることはなく、白光に輝く運命が日々つづくことになるのです。
人間はその日その日が苦しいと、どんな方法でもよいから、その苦しみから逃がれたいと思うの
で、それも無理はないと思いますが、過去世からの自己の運命の借財をそのままにして、その苦し
さから逃がれようとすると、高利貸から高利で金を借りて、一時逃れをするように、後にはますま
す借財が増えてしまって、どうにもならなくなってしまうのです。
ですから、苦しさは耐えつづけ、守護の神霊に感謝しつずけ、世界平和の祈りのような大乗的な
祈り言を祈りつづけているとよいのです。そう致しますと、いつかは過去世の業が、守護の神霊の
光明によって消されてゆき、僅かの苦しみで、運命が正しく明るくなってゆくのであります。
96
苦しみは必ず消え去る
白光の教義のように、人間の苦しみは必ず消え去るものなのですが、しっかりと守護の神霊につ
かまって、平和の祈りを祈りつづけていれば必ず人間の真の道が見出され、神の実体がはっきり判っ
てくるのです。
そこのところをよくくみきわめて、宗教の道を歩みつづけることです。世界平和の祈りの力は
大きなものなのですから、はじめは口先きだけでもよいから唱えはじめて下さい。やがて必ず心が
開けて、生命が生きいきとしてきます。
あせり心で不幸災難を開こうとすることはいけないことで、すべてを守護の神霊におまかせして、
消していただくようにするのです。幽界の生物に業の借金を背負ってもらうようなことにはならず、
すっきりと、守護の神霊の光明によって、その肉体人間の業の波を消し去ってもらうことができる
のです。
そうすれば、誤った宗教の道のご利益のように、その業が大きくなって、再び帰ってくるような
ことはなく、生命が光明化してゆくのです。
要は、人間はこの肉体人間として生れ出でた時はすでに、その八〇パーセント運命は定まってい
るのですから、守護の神霊にすがって、世界平和の祈りの道に入ったことによって、残された二〇
97信仰の道と不幸災難
パーセントの力が、充分に発揮されて、明るい生きいきした生活がその人のものとなってゆくので
す。
それは個人もそうでありますが、世界人類も同じことでありまして、この世界平和の祈りは、個
人と国家人類同時成道の光明の道となっているのであります。
98
明日のことを思
わずら
い煩うな
マー姉ちゃんのお母さん
NHK の長谷川町子原作の「マー姉ちゃん」という連続テレビ小説に、町子さんたちのお母さん
が主演級で出ていましたが、このお母さんの、精神生活の中心は、聖書の、マタイ伝第六章の山上
の垂訓のうちの聖なる言葉におかれていました。
くらわずら
その言葉は「この故に我なんぢらに告ぐ、何を食ひ、何を飲まんと生命のことを思ひ煩ひ、何を
きわずらかてころもま
著んと体のことを思ひ煩ふな。生命は糧にまさり、体は衣に勝るならずや。空の鳥を見よ、播かず、
しかこれはるすぐ
刈らず、倉に収めず、然るに汝らの天の父はこれを養ひたまふ。汝らは之よりも遥かに優るる者な
うちたけころも
らずや。汝らの中たれか思ひ煩ひて身の長一尺を加へ得んや。又なにゆゑ衣のことを思ひ煩ふや。
99明日のことを思い煩うな
ろうつむさ
野の百合は如何にして育つかを思へ、労せず、紡がざるなり。然れど我なんぢらに告ぐ、栄華を極㎜
りよそおいしあすう
めたるソロモンだに、その服装この花の一つにも及かざりき。今日ありて明日、炉に投げ入れらる
よそおくら
る野の草をも、神はかく装ひ給へば、まして汝らをや、ああ信仰うすき者よ。さらば何を食ひ何を
きこれすべ
飲み、何を著んとて思ひ煩ふな。是みな異邦人の切に求むる所なり。汝らの天の父は凡てこれらの
ただしきさすべ
物の汝らに必要なるを知り給ふなり。まつ神の国と神の義とを求めよ、然らば凡てこれらの物は汝
らに加へらるべし。この故に明日のことを思ひ煩ふな、明日は明日みつから思ひ煩はん。一日の苦
労は一日にて足れり」
という言葉を、明日のことを思い煩うな、という一点に集約して、お母さんはすべての行いをそ
こを中心に行っていたようです。
普通の人なら残して置くような品物でも、惜し気もなく人にやってしまったり、九州から東京へ
移転してゆくので、この先まだどれだけお金がかかるか判らないのに、平気でその頃では二家族が
生活できた百円という大金を教会に寄付してしまい、神父さんがかえって驚いて寄付を断ろうとし
た一幕さえあった程なのです。
聖書の言葉を素直に行じていた人であったわけです。後のことはまだはっきり判りませんが、娘
の町子さんが、サザエさんというあんな明るい作品を書いているような状態では、お母さんの生き
方が成功していたというべきなのでしょう。
ところが、こういう真理を素直に行じられるような人は滅多にありませんで、あの説教はいいが、
実際にはなかなかできない、と真理を行なうにも恐るく行なっているような人々が多いのです。
真理を行ずることのむずかしさ
自分も他人も同じ人間なのであり、神における兄弟姉妹なのだから、困ったときには互いに助け
合わなければならない。と言うことは、聖書を読んでいるような人なら誰でも判っているのですが、
それを実行するとなると、考えさせられることが多くなってしまうのです。
ちゅうちょ
例えば、親しい友人一家が住む家に困っていても、躊躇なく、自分の家にいらっしゃい、と自分
の家の半分を貸してやれるような人はあまりいません。やっと一間位い貸してやれるぐらいでしょ
う。それも家中で考え合い、話し合いあっての末、やっとそうするという程度が、まあよいほうな
のです。
それはお互いに夫なり妻なり、子供たちなりの感情がありますので、今迄気の合う一家だけで自
101明日のことを思い煩うな
由にすんでいた家に、他人の一家が住みこむようになれば、お互に感情の相違などがあって、なか醜
なか仲良くは住みにくいのではないか、という憂いがありますし、事実むずかしい問題なのです。
といって、半分をはっきりわけて友人に貸してしまうのも、自分の財産を失うようで、できにく
いのです。自分だけは踏み切っても、妻や子供たちが反対するにきまっています。そういう風な精
神状態におかれているのが、現今の社会生活です。こんな場合どっちにしても思いわずらわずには
いられません。その友人にはどこまでの親切行為で対するか、家を半分やるわけにはゆかぬでしょ
うから、部屋を貸すようにして迎えることになるでしょう。しかし、こういう状態もお互いに感情
の動物ですから、波風を少しも立てずに協同生活をしてゆくことはむずかしいことなのです。
ですから、どうしても相手の人の家が早く出てくるよう、家を買えるようなお金が出来るように、
と思わずにはいられません。祈りに徹した人々にとっては、この思いわずらいが、祈りの行になっ
て、心を乱すようなことはありませんので、お互いの不和になるようなことはありません。
運命を変える祈り心
どんな状態になっても、深い祈り心がありさえすれば、常に生活の危険を乗り越えてゆけますが、
あんのん
祈りのない生活ではこの世を安穏にくらしてゆくことはできません。一人一人の運命は大きなこと
はもうすべて定まっているのですが、自分たちの力でその運命を変えることができるように人々は
思っております。肉体人間の力では決して運命を変えることはできません。
運命を変えることのできるのは守護の神霊の力によるのであります。肉体人間が、いかに守護の
神霊との交流をスムーズにしているかによって、その人の運命の上昇が行われてゆくのです。
明日のことを思い煩うな、ということはそういうことで、現われてきた現象はすべて消えてゆく
姿として、守護の神霊への感謝行で生活してゆくことが、宗教信仰者の唯一の為すべきことなので
す。この肉体人間が、神の光明と一つになってゆくということで、この地球という物質世界も、神
霊の世界のように光明化して、運命を自由に変えることができるようになるのですが、その事実を
知るのには長い時間がかかると思わねばなりません。
肉体人間のほうで、いくら明日のことを思い煩っても、明日以後の定まった運命が次々と現われ
てくるので、どんな方法をとっても急に変わるわけはないのです。すべては長い年月の上で、神々
が神計りに計り給うてその日その日のその人の運命を現わしておられることなので、すべてをよし
と思って、神々への感謝の生活をしてゆくことが、肉体人間の為すべきことなのです。しかし、な
103明日のことを思い煩うな
かなかそういう想いになれませんので、そこに祈り心というのが必要になり、神への感謝の祈りを脳
捧げつづけることが大事になってくるのです。
明日のことを思い煩うその時間を、すべて神々への感謝の祈りに変えて生活してゆくことによっ
て、肉体人間の生活がいつの間にか、神々の光明化の中に生かされてゆくことになるのであります。
そしてその一番善い方法が世界平和の祈りのような、自分たちのことも祈ると共に世界人類のこと
も祈っている、という個人人類同時成道の祈りの道が、地球人類の生活の道として、素晴らしいも
のになってゆくのです。
地球界に住む人間が明日のことを思い煩うのは過去世からの習慣性なのでして、この想いの多い
人と少い人とがあるわけです。しかし、どちらの人も、世界平和の祈りの道を素直に歩んでゆけば、
自分たちの運命をすっかり神様にゆだねたことになり、自分たちの未来の運命は、光り輝く状態だ
けしか出て来ないことになるのです。
頭の中で、いくら生活の智慧や知識が湧いてきても、祈り心を離して行じていては駄目で、祈り
の生活を根本にして生きてゆきますと、日々の生活の智慧や知識が、神のみ心をそのまま現わすも
のになってゆき、この地球世界の人々が安心立命した生き方になってゆくのです。そうなる為には、
きゆうこう
先にそのことの真理に気づいた人が、率先躬行して、祈りつづけてゆかねばならないのです。
今迄の自分を一度なくすこと
人間の過去世からの習慣の想いや行いはなかなか頑固なものでして、自分はなんて臆病なのだう
た
うな、と思って、一生懸命勇気を出そうとして、いろいろな本を読んだりしますが、いつまで経っ
しようぶん
てもその臆病や気の弱さが直らなかったり、短気な性分を直さなければ、と人の力を借りたりして、
懸命になるのですが、やっぱり、少しぐらいずつは直ってゆきますが、根本的には直らなかったり
するのです。
それはどうしてかと、申しますと、過去世からの同じ道を歩みながら、その道を変えようとして
いるからで、直そうと思うなら、過去世に歩んだ道から離れて、自分の現在欲っする道をつくり出
して歩んでゆかねばならないのです。それにはどうすればよいかといいますと、現在ここで、いろ
いろと考えたり、思いなやんだりしている自分という人間を、一度なくしてしまわなければならな
いのです。自分を無くすということは、自分で考え行っているというこの自分というものを、祈り
心の中に投入してしまって、祈り心一辺倒で生活してゆくことにするのです。
105明日のことを思い煩うな
それはどうするかと言いますと、神様への感謝だけを心の中に住まわせてしまうことです。守護
霊、守護神様ありがとうございます、と日々瞬々思っていることです。そしてそれが、世界平和の
祈りとつながっている、というような生き方をしていますと、今日までの自分というものが、いつ
の間にか、神のみ心の中に生きている自分というものに変っていってしまうのです。過去世から今
日までの臆病だったり、短気だったりした自分というものの歩んできた道が、そこに消え去ってし
まい、神と自分とで新しくつくった平和な安穏な心の道が未来までつづいてゆくことになるのであ
ります。
世界平和の祈りの道というのは、そういう道なのです。ところが過去世からの迷いの波は深いも
のなので、一寸の間で、世界平和一念の心に人間をしてくれはしませんで、いつまで経っても、明
日を思いわずらい、不安混迷の想いで生活しているような世界は消え去らないように思われるので
す。
106
祈りの中で心を備えよ
ですから、
カルマづ
一人でやっていますと、また元の業に取り巻かれたままの自分になってしまって、世
界平和の祈りを祈ることを忘れてしまうのです。そこで、一人より二人、二人より三人というよう
に手を取り合う人を多くしてゆきますと、お互いに励まし合って祈りつづけてゆくようになって、
世界平和の祈りの道が、ずうっとつづいてゆくことになるのです。平和の祈りの会ができたのは、
こういう必然性によって生れてきたので、こういう会が大きくなればなる程、世界平和の祈りの道
をつづけきってゆく人が多くなるわけで、個人人類同時成道の道がひろがってゆくことになるので
あります。
神様というのは、大自然の運行をなさっていると同時に、人間の内部に働いておられまして、人
問そのものとして、この地球界に生れておられるわけで、地球界が物質的であると同じように、そ
こに住む人間を物質的肉体というものでつつんで現わしているのでして、神本来の微妙そのものの
働きが、物質という、遅い波動の中での働きとなりますので、神様の生命そのままがそこに現われ
るのには、長い年月がかかるわけなのです。その為、その間の人間の世界は、お互いが自己の本質
あら
の神の微妙な波動というものにかくされて、粗い遅い波動の世界での人間関係として、交流し合い
ますので、どうしても、微妙な波動の交流のように、スムーズに調和するわけにはゆかず、不調和
な交流が多くなってしまうのです。しかし、世界平和の祈りのような、大調和波動の祈りの中で、
107明日のことを思い煩うな
心を備えておりますと、やがては神様本来の微妙な波動が、この肉体をもったまま、
くのであります。宇宙天使などというのは、これを実現した方々なのであります。
現わされてゆ081
内臓が自然に働いてくれているように
さて、話を前に戻しますが、明日のことを思い煩うな、ということでも、信仰心が深くてそうな
るのは実に結構なことなのですが、深くものを考えるのが面倒な人が、一年で使うべき物資を、先
のことを思わずに、一、ニヵ月で使ってしまったりして、自分は明日のことで心配苦労はしないの
だ、と威張っていても、これははじまりません。
明日のことを思い煩うな、ということは、やはり、人間の智慧能力は、すべて神様のみ心から伝
わってくるのだから、思い迷わなくとも、そのまま生活していればよいのだ、ということなのです
が、ここのところが実にむつかしいので、神様の生命や心というものと、人間の肉体というものが、
どうも離れて思われてしまって、神様は神様、人間は人間というように、別にしてしまう人が多い
わけです。
わけいのち
ところが真実は、人間は神様の分生命でありまして、人間の智慧や能力は、すべて神様のみ心か
ら肉体人間のほうに伝わってくるものなのです。それは、心臓や肺臓のような五臓六腋は、肉体人
間側で、こうしろと命じなくとも、自然と働いて、肉体を保っていてくれます。これは誰でも知っ
ています。そういう事実を知りながら、そこにまだ何かを加えようとするような無駄な考えを、人
間はしきりとするのであります。
肉体の五臓六腋や細胞群の自然の働きによって保たれている、ということを体験していながら、
他のことは自然に任せて置けないで、明日のことも来年のことも、いちいち肉体頭脳を使って思い
わずらう神様への不信の心が、真理をわかっている人にとっては不思議でならないのです。
人間の智慧能力というものは、すべて神様のみ心から流れてくるもので、肉体人間自体がつくり
出すものではありません。肉体人間がつくり出したようにみえても、その元は神様のみ心の中で創
られたものを、肉体側がキャッチして、肉体人間の創ったものとしてこの地球界にひろめてゆくわ
けです。
ですから、肉体人間側で何一つとして思い迷うことはないので、内臓が自然と働いているように、
その生活行動もすべて、自然の動きに任かせて生きてゆけばよいのです。しかし、真理を行じてい
ない人は、神のみ心を離れた肉体頭脳で考え考え事に当るので、神のみ心がすっきり現われたよう
109明日のことを思い煩うな
に、正しいことがそのまま実現してゆかず、あちら、こちらとぶつかりあって生活してゆかねばなm
らぬことになるのです。
なんといっても先ず神様のみ心深く人間の想いを入れきってしまうことが大事なので、その為に
は祈りつづけながら、祈りを根本にして、日常生活を行ってゆくことが必要なのです。
私などはその真理を行じつづけて、自分の肉体行動として行うことは、すべて、神のみ心によっ
てなされている、ということをはっきり知ることができる状態になったので、どんな苦難がきても、
苦しみがきても、心が乱れず生きてゆくことができるようになったのです。祈りが深くなれば必ず、
神のみ心が自然とその人のことばとなり文章となり、行動となって現われますから、そのことを別
にして肉体頭脳でものを考える必要はなくなってくるのです。
明日を思い煩うなといわれなくとも、何もの何事にも思い煩うことのなくなる人間になってゆく
わけです。思い煩うことがなくなったからといって、他人の苦しみや悩みにも平然としてそり返っ
ているというのではなく、他人の苦悩に対しては、心から愛情をむけて、その人を励ましなぐさめ
てやることができるのです。それが神の智慧であり、神の愛であって、人類世界の平和の基となる
心なのであります。
いかに真理を実践すべきか
キリストの言葉の解釈
キリスト教聖書にしても、仏典にしても、ユダヤ教の教えにしても、回教の教えにしても、その
真理がどこにあるのかを知るのがなかなかむずかしいのです。
キリスト教聖書の教え、と教わったとして、そのつもりで読んでおりますと、この世の愛とはま
るで違った、とんでもないことが書かれてあったりします。
成田空港反対の指導者戸村一作という人は、クリスチャンであるといわれていますが、彼の話す
のを聞いてますと、左翼唯物論者と同じように、相手を叩きのめすまで闘う、といったような、闘
争そのものの態度でありました。
111いかに真理を実践すべきか
普通いわれるクリスチャンといえば、個人個人にも愛情が深く、周囲とも調和している、といっ
たような人を考えます。しかし戸村氏にはそういったところは、私の見方によったのか、その片鱗
すらありませんでした。ただ政府の政策を、成田空港のことだけでなく、左翼の人たちと同じよう
な範囲で、憎しみに燃えたような調子で糾弾していました。
クリスチャンともあろう人が、これはいったいどうしたことでしょうか。ところが彼には彼の持
論があるのです。それはキリストは、愛や調和ばかり説いたのではない、相手を殺しても止まぬよ
うな、激しい闘争心をも説いている、といった調子で、キリスト教はいざといえば戦を辞さないの
だといった考えの下に自分の運動をしているのでした。
これは一体聖書のどういうところから出てくるのでしょう。確かに聖書には甘い愛のことはなく、
自己を捨てた愛行為が中心で、その愛行為も、マタイ伝十章にあるように深い愛行為があります。
十章をつぎに書いてみます。
とうきたかえつるぎきた
「われ地に平和を投ぜんために来れりと思うな、平和にあらず、反って剣を投ぜんために来れり。
きたよめしゆうとめあだ
それ我が来れるは人をその父より、娘をその母より、嫁をその姑璋より分たん為なり。人の仇はそ
いえふさわ
の家の者なるべし。我よりも父または母を愛する者は、我に相応しからず。我よりも息子または娘
112
を愛する者は、我に相応しからず。又おのが十字架をとりて我に従わぬ者は、我に相応しからず。
いのち
生命を得る者は、これを失ひ、わがために生命を失ふ者は、これを得べし。
つかわ
汝らを受くる者は、我れを受くるなり。我をうくる者は、我を遣し給ひし者を受くるなり。預言
むくいぎじん
者たる名の故に預言者をうくる者は、預言者の報をうけ、義人たる名のゆゑに義人をうくる者は、
むくいおおよひやや
義人の報を受くべし。凡そわが弟子たる名の故に、この小さき者の一人に冷かなる水一杯にても与
ふる者は、誠に汝らに告ぐ、必ずその報を失はざるべし」(10 ・34 〜42 )
といっているのです。
キリストの真意
ぜにん
こういう言葉を、只すらっと読んでしまうと、聖書はこの世の闘争を是認しているように思われ
ます。平和をつくるために自分は来たのではない、というのは勿論イエスが神の使いとして語って
いるので、イエスの言葉はすべて神のみ心から出ているわけです。
かえ
そのみ言葉が「我れはこの地に平和を投ぜんが為に来れると思うな」といって「反って剣を投ぜ
んためにきた」というのですから、表面上からだけ聞けば、どうしても戦いや闘争を許しているよ
113いかに真理を実践すべきか
うに聞えます。そこのところを戸村一作氏などは取り上げて、成田空港での反対闘争をしているよ
うなのであります。
こういう考え方は、キリスト教を信奉している人々や国々にはありまして、平和を邪魔している
共産主義国は、武力で叩かねばならぬ、と武力を増強しているのです。ですから聖書の教えも、真
理をしっかり知った指導者の教えの下に信じていかないと、宗教があっても、唯物論者の生き方と、
国際的にはあまり違わぬことになってしまいます。
個人くや社会生活の面では、宗教の愛の教えが生かされて、昔にくらべてはるかに人々が生き
やすくなっていますが、こと国際間になりますと、昔と変りない在り方が底にありまして、常に武
力に頼っている状態であります。
米ソの核爆弾を中心にした武力争いは、実戦にこそ至りませんが、危険きわまりない有様です。
中小の国々もみなこれにならえといった工合です。キリスト教も仏教も回教も、この状態を改めさ
せる力が目下のところありません。米国のようなキリスト教国が、共産主義国をはっきり敵として
みておりますし、その武力に対してはこちらも武力で対応するという態度で国威を保っています。
キリスト教にとっては、神の存在を否定するものは、この地での存在を許されないことになって
114
おり、そういうものたちを取りのぞいて真の平和をつくる為の剣を投ぜんと我は来たのである、と
神の代弁者のイエスは言っているのであります。
ですから、現在家庭が平和で、周囲とも調和している穏やかな日々であったとしても、そんな平
和をつくるために我がきたのではない。そんな平和を求めるより先に、人々は神を求めなければい
けない。夫よりも妻よりも、親子よりも先ず神を求めないものは、神にふさわしくない。自分たち
が負うべき犠牲の行為を肯定しない者は、神のみ心にそわない、この地上だけの生命を得ようとす
るものは、それを失い、神の為に生命を失うものは、真の生命を得るのだ。
と現在のままの平和な瞬間などはキリスト教の神様は問題にしていないで、そういう地上界の生
活を剣をもって切り裂くようにしてでもやり直して、真実の平和を築きあげようといっているので
ありますが、聖書を一人で表面的にだけ読んでいたのでは、これだけの解釈もつきません。キリス
ト教では悪を倒す為に戦争してもかまわないのだ、と言っているように思えるし、ちなみにキリス
ト教に接していたマホメットがつくり出した回教では、右手にコーラン、左手に剣といわれている
ように戦うことを許しております。
115いかに真理を実践すべきか
116
永遠の生命を体得した指導者が必要だ
ここでどうしても宗教の真実を知らせる為には、古い聖書の真意にも通じた現代人の指導者が必
要になってくるのであります。
肉体人間にとりましては、永遠の生命の幸福というより、その日その日の生活の安定と喜悦が必
要なのでありまして、後のことは後になって考えよう、という人が多いのです。ですから現在自分
たち家族の幸福で一杯な人にとっては、他の人や社会のために、積極的な働きかけをすることがで
きないので、お互いが自分たちの幸福にしがみついて生活してゆくわけです。
国家となりますと、これがもっとはっきりしていまして、自国の現在の幸福を守るためには、他
国の損失は二の次となってくるのです。それが現在の世界の姿であります。しかしそういう姿はや
がて、地球そのものを滅亡させてしまうことになります。
成田空港反対派の戸村氏などは、自分の言い分が正しいと思いこんでいるようですが、果してそ
の考えが神のみ心であるかないかの決定は、神ご自身以外にはできぬことであります。只常識的に
みて、お互いを傷つけあう行為をもって対決していることは、常に不穏なものを感じさせて、神の
み心をそこには感じさせません。神のみ心が現われていれば、そのもの、そのことがぴたりと、正
しいということを感じさせます。それは、お互いの立場に立てば、お互いに自分たちのほうが正し
く相手が悪いと思えるからです。聖書のはげしい言葉は、人対人のやりとりではなく、神の人間に
対する言葉でありまして、これを混同しますと、戸村氏のような思いあがった考え方をするように
なるのです。
戸村氏自身神のみ心と一つになっているわけでもないのに、自分たちの立場だけが正しく、相手
の立場は間違っていると断定して行為しているところは、全く思い上がっているというより他あり
ません。
聖書のイエスの言葉は、イエスがキリスト(真理) になりきって、神のみ心そのものを人々に告
げているものでありまして、善悪混交の人間の想いで、人に対しているのではありません。この肉
体地球界の人間の浅い想いで、善悪をきめてかかって、自分たちの納得するほうや、利益のあるほ
うを善なりとして、相手を叩きつぶそうとするような人々の行為は、神の深い愛の心に反すること
なのですが、聖書の表面だけを読んでいる人にはそれがわからず、自分たちの都合のよいように解
釈して事に当っているわけです。
117いかに真理を実践すべきか
イエスキリストの言葉は、深い永遠の生命からくる真理の言葉でありまして、地上の人々も、そ肥
の深い真理を実行しなければならないのですが、一挙にそういう状態に心をもってゆくわけにはゆ
きません。それをあたかもすぐにでも実行できるように説く、牧師や先輩たちがいて、良心的な人
は苦しみ、自己本位の人々は、自分たちのやり易いように聖書を解釈してゆくわけです。
そこで、クリスチャンなのに唯物論の左翼の人たちのような行動に出る人々がいたり、実際には
行なえもしないのに自分は行なっているのだ、というような顔をして、聖書を説いている偽善者が
でてくるのであります。
表面だけ読んではいけない
前にも書きましたが、マー姉ちゃんのお母さんのように、聖書の言葉通りに、他人の喜びを主と
して生活してゆこうとしていますと、忽ち、明日のお金にも困ってしまうような、とぼしい財源に
なってしまったりするのです。しかもその上、お金にしようとして売りにもっていった陶器も、あ
まりほめられたので、つい良い気分になって、お金も貰わずにやってきてしまったというのです。
娘への謝礼金も娘に相談せず人にやったり、明日からのお金をどうしようと思って悩んでいる長女
の悩みもよそに、人に喜ばれる気持よさにひたっているこのお母さんのような人は、言葉をかえて
いえば、自己主義の人といわれるかも知れません。もし娘たちが出来の悪い娘であったら、母親を
怨んで家を出ていってしまったかも知れません。このお母さんなども深い信仰のようでいて実は、
聖書の表面だけを読んでいた、というに過ぎないのかも知れません。
はず
聖書の一番中心になるのは愛と調和なのですから、それに外れた行為は、宗教的ではない、神の
み心にそわない、ということになるのであります。戸村氏の考え方も、マー姉ちゃんのお母さんの
行為もまるで反対の出方で、聖書を表面読みした信仰なのでしょうが、両方共にその生き方は、神
のみ心には沿っていない生き方なのです。
ではどうすれば聖書を深く理解することができるか、ということです。聖書でも仏典でもこの肉
体界だけの教えではなく、永遠の生命の道を教えているので、そのうちの一部として肉体界の生き
方もでてくるわけです。一部として出てきているとしても、普通の人間にとっては、肉体だけが自
分の生命として、はっきり現われているもので、この肉体界の生活にどうしても重点が置かれます。
ですから、個人にしても社会国家にしても、人類そのものの生き方にしても、いずれも、肉体生
119いかに真理を実践すべきか
活の幸福のためが主になっていまして、精神的な活動も、すべて肉体生活の幸福に結びついてゆく伽
のであり、僅かな部面として、死後の世界にも結びついている、というようなものです。
かわ
人間は生れ更りをつづけていまして、その想念知識は、肉体生活、物質界の生活にその大半がつ
いやされてしまうような習慣がついてしまっているのです。各自がそういう習慣で、各自の生活を
やっていますので、どうしても、限られた物質界の生活の中では、個人くや国家間の利害得失が
できてしまいまして、そこにお互いが自分や自国を守るという感情で生きてゆくことになってしま
います。自分のことより他人の幸福を先に考えるという人は僅かな限られた人でありまして、国家
などになりますと、そういう国は一国も存在しなくなっております。
聖書や仏典はそういう肉体世界の感情などは問題にせず、人間として神から分れた存在者が、易
しく云えば、神の子が、神の子である永遠の生命を、誤りなく正しく生きぬいてゆかれるように説
いているのでありまして、永遠の生命の生き方を妨げる生き方がありますれば、それを排除してゆ
かねばなりません。そこで、聖書のマタイ伝十章のような言葉になってくるのであります。
真理をまっすぐ現わせるために
しかし、いくら神の言葉として正しい生き方を教えられても、永い間の肉体生命の習慣として多
くの人々が身心についてしまった、肉体人間としての、物質界での優位な生き方を一挙に変えるこ
とはできません。意志で変えようとしても、潜在意識から表面の意識にまでつづいている肉体生活
を守る想いが、知らぬ間に神の教えにそむいてしまったり、いけないくと思いながらも、どうし
ても神の教えの通りの生活ができなかったりしてしまうのです。
まさつ
また無理にそうしようとすると、周囲との摩擦を起こしまして、この世が生きにくくなってしまっ
たりするのです。神様の教えとの道が真っすぐのものであっても、その道の各処に、穴や水たまり
があったりしますと、どうしてもそこをよけて通るより仕方がありません。よけずに通れば、体中
汚れてしまったり、けがをしてしまったりします。そこでたいがいの人が悪いところをよけながら
その道を通ってくるわけです。
成田空港反対の戸村氏の場合などは、神様の天からの声を、あたかも自分たち横の関係の肉体人
間の間のものと浅く考えまして、自分たちの生き方を容れぬものを敵とみて叩いてゆこうとします。
マー姉ちゃんのお母さんのような生き方は、神の深い真理の生き方を、そのまま、まっすぐ、穴だ
らけのでこぼこ道で実行しようとしているわけですが、こんな地上界の道は、神の深いみ心のまま
121いかに真理を実践すべきか
通りぬけるには周囲の抵抗があり過ぎて、無事に通りぬけられないようになっております。21
通りぬけるためには、自分ひとりだけの生活で、生きるも死ぬも苦しむも自分だけの問題である、
という人のできることで、親や妻や子供のある家庭もちには、とてもできにくいことです。何故か
つきあ
と申しますと、その家庭には、それん\ の考え方もあり、それぐの附合い関係がありまして、そ
れぞれの反発があるからです。
それをあたかも、誰にでもできる真理として、聖書や仏典を説いて実行させようとする指導者は、
真理を知っているようで、よく知らないのであります。ですから、クリスチャンには偽善者が多く
いたりするのです。自分が過去世からの善因で、真理をそのまま行じられる心境になっているとし
ても、この世の人の大半は、聖書の真理をそのまま実行できるような心境になっていません。そう
いう心境になるためには、多くの年月を必要とします。
良心的であればあるほど、真理と自己の想念行為との間のへだたりに、心を傷めつづけて生活す
ることになります。そこで私は、この世の出来事や、自他の想念行為の在り方はすべて真理を現わ
すために、過去世の因縁を消し去るたあの、神々のはたらきによるものであって、過去世の因縁が
消えてゆくに従って、神のみ心を真直ぐに現わせるようになるのです。だから、消えてゆく姿と思っ
て、すべてを世界平和の祈りの中へ投げ入れて生きてゆくのがよいのであると、説いているのです。
そうすれば、年月が経つに従って、無理なく真理が行じられてゆくのであります。
123いかに真理を実践すべきか
124
むみよう
神 の子と無明
宗教は知識ではない
日本の宗教は、神道を中心にして、仏教とキリスト教とが、神仏への道を説いていますが、仏教
ぎよう
やキリスト教を、人々は正しい行にして生活していることが甚だ少く、誤って解釈したり、迷信式
むき
に取り入れたりしている向が多いのです。
先にも説きましたが、聖書には聖書をよく理解した導き手が必要であると同じように、仏教を正
しく行に結びつけてくれる師が必要なのであります。仏教にとって一番大事な教えは、肉体人間に
把われなくなり、仏身である生命そのものの人間として生きてゆく行なのであります。日本の宗教
えんぎたいしょうどう
学者の方々は、仏教の中心を、十二縁起と四諦八正道という風に解釈していますが、十二縁起だの
むみよう
八正道だのといいますと、これがむずかしい解釈になります。十二縁起といいましても、無明から
ぎょうしきみようしきろくしよそくじゆあいしゆうしようろうし
はじまって、行、識、名色、六処(六入) 触、受、愛、取、有、生、老死という順序で説かれて
いるのでありますが、これを十二に分けなくとも、無明と行と識、愛、老死ぐらいに分けて解釈し
ても仏教の根本を悟ることにはかわりはないわけで、一般大衆にとっては、仏教を学問的に解釈し
て貰う必要はないわけです。キリスト教聖書が、わり方易しく説かれてあるのに、仏教のほうは、
中国の学問的経験を経てきたためか、実にむずかしい学問的な教えとして日本に入ってきておりま
して、これを又、日本の宗教家たちは、更に学問的に解釈しようとしていたのであります。
そこに法然のような人が現われて、一挙に易行道の仏教を開いて、念仏一念の庶民の宗教とした
のであります。これはその頃の宗教界からみては大変な革命で、法然のように、碩学で鳴らした人
でなければ、とてもできなかったことであろうと思います。
ところで、一方そういう易行道の宗教が開かれているのに、何んでも知識的に解釈したい人たち
は、やはり仏教をむずかしく説きたいとみえて、十二縁起や、四諦八正道だのという学問的な仏教
解釈をいまだにつづけているのであります。しかしこの解釈も定かでありませんで、無明の説明に
ぎよう
しても、四諦や縁起の道理を知らないなどという浅い解釈や、行についての単純な解釈、つまり、
125神の子と無明
無知無明を縁として、誤った身、語、意の三業を生ずる、というように無明を無知と同じようにあ搦
つかっているのです。そして、無明から、愛することも、執することも現われてくるので、八正道
の善い正しい生き方をしてその現れを是正してゆかねばならぬと学者先生方は説くわけであります。
光明から生れた人生を
神道では人間は神の末であって、そのまま神の子の生き方をしていることになり、昇天すれば、
ひこひめ
男は彦(霊子)女性は姫(霊女) というように、神霊の子としての名がつくのであります。
仏教の誤った解釈のように、無明からこの世のすべてがはじまっているように説かれては、すべ
こう
てが神そのものの生命から生れる、智慧能力ではなく、神の光の無い行為、つまり、業から人間の
生活がはじまっていることになり、善悪混交の世界になってしまうのであります。そしてこの無明
から生れた原因結果の中でこの世の生活がなされているので、神道でいう神の子そのままの生活が、
何時の間にどこかに隠れてしまい、悪や不幸や災難に充ちた苦のシャバとなってしまっているので
す。
仏教学者たちは、この無明の世界観をぬけきることができず、昔からの僧たちが行ってきた、物
事事柄すべてに把われぬ為の、空なる修業を人々にすすめるわけなのです。
くう
しかし空になる為には、この世間を離れて、修業しなければならないので、学者先生方には、自
身の人格として、空を超える生活を得ることができないのです。空になる為には、世間との交際が
ありすぎるからです。
ところが真実は、世間との交際もちゃんとしながら、空を超えたと同じような生き方ができなく
てはいけないのです。それにはどうしても、無明からはじまる人生では駄目なのです。神の光の無
い無明の中から、真実の智慧能力が生れるわけがないので、神の光の輝きわたっているところから
生れてきた人生を自己のものとしなければなりません。
そこで、今日の宗教学のように無明から生れた縁起の世界というものを、真実の人間世界とはみ
ず、人間は神の光から生れた神の子である、という神道そのものの生き方に徹底して生きてゆくよ
うな真理をつかまなければいけない、ということになるのであります。
悪や不幸の認識
光明思想家は、無明など神の光のささぬ、はじめから無いものだから、こういうものは相手にせ
127神の子と無明
ず、神の光から生れた神の子としての入間だけを真理として生きてゆこうというのであります。そ
うすれば、人間の世界に、悪や争いや不幸などはなくなってしまう、というのです。本当にごもっ
ともな話であり、私などもこういう側の人間なのでありますが、実は困ったことに、今日の世界は、
こう
あまりにも長い間無明から生れた業をつかみすぎていまして、悪や不幸を強く意識しすぎているの
であります。
ですから、この世には悪や不幸や災難が一杯で、そんなものは無いのだよ、といっても、現象生
活でいろくと苦難にあっています。理論的に頭で光明主義が判っていましても、現実に、自他の
苦難にぶつかりますと、どうしても、そういう苦難をつかまずにはいられなくなってしまうので、
無明は無いのだから無い、といっても無明から現われた不幸や苦難が、自分にも社会にも押し寄せ
ておりますと、無い無い、といったり想ったりしているだけでは、そういう悪い波が無くなること
はないのです。
一般大衆は神の存在を信じながらもこの世の人間は善悪混交の世界に生きるものであり、この世
は争い事や病気や不幸災難がつきることのない地球世界である、と思いこんでいるのであります。
光明思想の持主にしても、余程深い強い信の心がないと、この世の善悪混交の不幸災難を認めざ
128
るを得なくなって、徹底した神の子という観念がゆらぐのでありますじそこで、この世の悪いこと
や不幸なこと、自他に起る不幸災難を、自他の心の間違い、行為の誤り、というように解釈して、
その誤った悪い心を直そうとしたり、直させようとしたりするのです。そこのところから確固たる
こうしよう
光そのものの神の子の人間がぐらついてきまして、悪い心も起こし間違いもする、業生の人間が現
われてくるのであります。
一方では光明そのものの神の子人間であり、一方では悪も不幸も生み出す業生の人間である、と
こう
いうことになり、神の心と業の想いとがいつも闘っているといった形の人間になってしまって、昔
からの生き方がいつの間にか肯定されてしまうのです。
悪や不幸を消滅させる方法
それはどうしてそうなってしまうのかと言いますと、この世の人間界に、悪や不幸が無いと言い
きろうとするところに無理があるのでして、人間は光そのままの神の子であることに違いはありま
せんが、この五感、六感で生活している地球世界に悪も不幸も争いもないなどとはとてもいいきれ
ませんで、人間を神の子である、と想おうとしての無理な想いがそこに働いているわけです。
129神の子と無明
この世には悪や不幸があることは、光明思想からみても認めざるを得ないことです。しかし真の㎜
光明思想では、その悪や不幸を認めはしても、その状態を実在とはみずに、いつの間にか消滅して
しまう方法を知っているのであります。
この現実の世界で現象的に現われております、悪や不幸や災難を悪も不幸も争いも無いのだ、と
いうように実相論の想いの世界だけで否定しようとしても、そこは無理がありますので、心が納得
しません。したがって、悪や不幸や争いが無くなるわけはありません。
ですから私はどうしても一度は認めて、そしてこの悪や不幸は、人閤の本質の神の子である本体
から離れて、物質界に住みつこうとしている、過去世から今日までの誤った生き方自体の消えてゆ
く姿としてあるのだと、この姿は実在ではないので、消えてゆく姿として、神のみ心の中に投げ入
れてしまえばよいのだ、と説いているのです。
本来は光明そのものの神の子である人間が、地球世界という物質界に住みつこうとする為に、そ
の微妙な光明波動を物質に融合する為の粗い波動にしているので、本来の微妙な波動と粗い波動と
の間のギャップが、悪や不幸を生み出してそれが形の世界に現われて消えてゆこうとするのであり
ますから、その原理をしっかり把握して、神と一体になる祈り心を根本にして生活してゆけばよい
のです。
地球と国とをつぶさない為に
先頃東京サミット(先進国首脳会議)が行われましたが、その昔のように、強い者勝ちで、武力
な
の強い国の為すがまま、するがままに世界が動いていた、というような、無知な世界では今日はな
くなっていますので、強い国、文明文化が先に進んでいる国、経済力の秀れた国という、昔なら自
分たちだけ突き進んでしまうような国々が、後進国のカの弱い国々のために力を貸して、世界の和
を計ってゆこうとする、調和した心で会議を運んでいこうとしていました。実に結構なことだと、
人類の進化を喜んでいるのです。
人類は物質文明文化の進歩と同じように、精神的にもやはり進化していまして、昔からくらべま
すと、実に住みよい世界になっているのであります。しかし地球世界そのものの、物質資源が、人
口の増加の前に次第にとぼしくなって、昔のように我れ勝ちの生き方では、すぐにも地球を滅ぼし
てしまいそうになってきております。ですからどうしても世界の国々がよく話合って少い資源を分
け合いながら、科学の力で、他の資源をつくり出してゆかなければならなくなっています。
131神の子と無明
そういう話合いを東京サミットでは、かなり充分にした模様であります。現今では、力の無い後慨
進国のほうが、地下資源にものを言わせて、先進国を抑えにかかっていまして、先進国のほうが、
一歩さがって、話し合いをつけようとしているようです。
とにかく、何んとかして、世界が調和してうまくてやってゆけるようにと、各国が真剣に考え合っ
ているわけです。こういう話合いを土台にして、真実の世界平和をつくりあげてゆくことを望むこ
せつ
と切ですが、その点各国が更に一歩自己主張を下げて国際関係をつづけてゆかねばならぬのです。
現在日本人は一般的に社会に甘えすぎておりまして、これもあれもと国家にいろくの要求はし
ながら、自分たちのほうでは、国家への奉仕を出来るだけ避けようとしています。こんな自分勝手
な生き方では、やがては国をつぶしてしまいますので、国家と国家とでも、譲り合って協調して地
球世界をよくしようとしているのに、一番身近かな国家の為につくすことを避けようとしているよ
うな自己主義の生き方を国民は改めなければいけません。
社会や国家に自分たちのことは世話して貰いたいのに、自分たちは社会や国家からの要求をなる
べく遁れて、物質的にも感情的にも自分たちの負担を軽くしようとするなどということは、神の子
人間から遠く離れた所業なのです。
こうしよう
こうした無いはずの無明から生れた業生の生き方をつづけていれば、地球は早晩滅亡してしまい
ます。こうした業生を知らぬ間にぬけ出てしまう方法が必要なので、それが祈りの生活ということ
になります。
この世で神の完全性を立証する
いのち
繰り返して申上げるようですが、人間の本性は、神の生命そのものが分けられて働いているので
あら
して、微妙そのものの働きをしているわけです。しかし、地球という粗い波動の物質を主とした世
界に住みついて、この世界に神の生命の働きを示して、神の国に仕上げてゆく為には、微妙な生命
の働きだけでは、粗い波動の物質と融合致しませんので、どうしても粗い波動に合わせた働きをし
てゆかねばなりません。本来微妙そのものの働きをしている生命体が、粗い波動に働きを変えてゆ
きますと、どうしてもそこにギャップが出来てしまいます。
例えて言えば、東京から大阪までゆくのに、微妙な波動でゆけば、一瞬でいってしまいますが、
粗い物質波動でゆけば、大変な時間がかかります。この速度の相違そのものが、もう本来の神の働
きとは相違して参りますので、そこですでに生命の働きをマイナスされた世界になってくるわけで
133神の子と無明
す。神の微妙な波動の世界は、光明そのものの世界ですが、物質波動の世界は、まだ光のささない悩
世界なので、そこが無明といわれるところなのです。ところが、物質の地球界は、物質波動が主と
なる世界ですから、この無明から生れでたように一応は思われてしまうわけです。そこに神を離れ
こうしよう
た業生の世界が生れでて、今日の世界につづいているわけなのです。
この世界で光のさしているところは善であり真であり美であるのですが、まだ光のさしこまない
世界は悪や争いの模様となっているので、この世界は玉石混交の世界というわけになるのです。だ
が、本来神の生命の世界からきている人間なのですから、やがては神の完全な姿を、この世界にう
つし出してゆくことになるのです。
ただ大事なのは、物質世界においての生活では、物質を嫌っていたのではどうにもなりません。
神の微妙な生命波動を上手につかっ・て、物質世界を生かしてゆかなければなりません。そこで無明
はないからない式の答では、業生の善悪混交の生活の中で、神の完全性を立証することができませ
ん。完全であるべき神の世界が、この地球世界では不完全に現われているからです。そこでどうし
ても、神の子人間の世界から、無明を消し去ってしまわねばなりません。しかし、一度無明を認め、
無明から善悪混交の業生が現われたことを、何んとはなく肯定してしまったようになっている人間
の心なのですから、神の子人間と認めると同時に、無明も業生も消し去ってしまうことが必要なの
です。
今日までの仏教学者や研究家が、無明から生れた業生と、うちなる仏との相対のようにみえる在
り方を、どうもはっきり説明できなかったのは、一度は肯定し、認識してしまった無明を、うちな
る仏としての人間の完全性を実証しようとして、一挙に無いものとして拒否しても、それだけでは、
神仏の本来の姿が現われてくるわけではありません。
そこで私は、この物質界、肉体界には、無明から生れた業生の姿がうつし出されているけれど、
それは実は、神仏の真実の姿が現われてくるまでの、波動の調整の為のものであって、完全途上の
不完全、不調和な姿なのだから、神仏の姿がはっきり現われてくるにしたがって、やがてはすっか
り消え去って、完全な調和した世界が地球の上にも現われてくるのだ、だから、消えてゆく姿とこ
の世をみて、そこに神仏と一体になる、世界平和の祈りを根本として唱え、消えてゆく姿で世界平
和の祈りとして、生活してゆけば、地球世界にも神の姿そのものが現われてくるのですよ、と説い
ているのであります◎
135神の子と無明
136
先達が後輩を導く道
1 老子の言葉よりー
清らかな風が吹きぬける
仏典にしても、聖書にしても、真理の言葉は誰の心にも沁みて、感動させられるものであります
が、この感動させられる言葉は、この世の生活においては、なかなか実行できにくい、理想的なも
ののように思われて、頭では感動しながら、その人たちの生活は、その善い本を読んだ後も、読ま
ない前もたいして差のないものになっております。
しかし、先達として、人々を導いてゆこうとしているような人は、その感動と同時に、自分の今
後の生活を、神仏のみ心に沿った言動にしてゆこうと思って真剣になって道を突き進んでゆくので
す。ここでちょっと老子道徳経の中の一節を参考にしながら、この話を進めてゆきましょう。
ちようじよくごとたつとごとごといちょうじようじょく
寵辱驚くが若し。大患を貴ぶこと身の若し。何をか寵辱驚くが若しと謂ふや。寵を上と為し、辱
ナごとごとごとい
を下と為す。之を得ては驚くが若く、之を失ひては驚くが若し。是を寵辱驚くが若しと謂ふ。何を
われゆえんわれわれ
か大患を貴ぶこと身の若しと謂ふや。吾の大患有る所以の者は、吾、身を有とする為なり。吾、身
われわずらいたつとなよ
を無とするに及びては、吾に何の患か有らん。故に貴びて身を以て天下と為せば、以て天下を寄す
べなすなわぺ
可し。愛して身を以て天下と為せば、乃ち以て天下を託す可し。老子道徳経第十三章
ちようじよくほ
この文を易しく解釈してゆきますと、寵辱というのは、褒められたり、立てられたり、地位や立
わずらい
場が上がったりすることと、その反対の、さげすまれたり、地位や立場が下落したり、大きな患が
あったりすることをいうのですが、こういう寵辱には、人々は寵を得ては喜悦して心を動かし、辱
ごと
の立場にたっては、悲しみ、苦しみ、心を萎縮させてしまう。この状態を寵辱驚くが若し、という
ごと
のです。大患を貴ぶこと身の若しというのはどういうことかと申しますと、この大患があるという
ことは、自分の身体という想いをもっているからで、身体というものを無しとすれば、自分には何
の患もないということになる。
とロつと
そこで、自分の体を自分のものとせず、天下のものとして貴んで、天下の為に愛そのものの行為
137先達が後輩を導く道
をしてゆけば、その人は個人ではなく、天下そのものとなってゆくのである。318
と、こういう意味になります。宗教の道を求めている先達たちにとっては、一読涙が出るように
胸を打たれて、こういう心境にまで自分も立派になってゆきたい思います。しかし、まだ宗教観念
の浅い人にとっては、実によい言葉であるけれど、自分たちには、とても高くて、昇れっこない、
と心では感動しながらも、そのまま一つの善い言葉として忘れ去ってゆきます。
先達たちは、そういう後進の為に、自分と同じ境地を押しつけようとしてはいけません。人々に
よって、無理なく自然に自分のものとなってゆく境地というものがあるのでして、無理にそう想い
こもうとしても想えるものではありません◎
私のやって来たこと
自分の肉体身から想いを離して、人類世界のことだけに身心を捧げなさい、といっても、或る境
地を出ていない人々には、とてもそういうわけには参りません。まず自分の家庭の幸福の為の神仏
詣でぐらいから、宗教の門に入っている人もたくさんおりますので、自分たちのことは捨てて、天
下人類の為に働く、ということは、及びもつかないことなのです。
まず自分のことの幸福の道をつかんで、その余力で、天下人類の為、小さくは隣人の為につくす、
ということぐらいしかできない境地の人の多いのが、この世なのですし、それはまだく宗教とい
う道に入っているのでよいほうなのです。
老子の言葉を易しく話しながら、いつの間にか、私流の行じ方を説いてしまっていますが、老子
のこういう素晴しい言葉は、私たちには清らかな風が心を吹きぬけてゆくように快く思えるし、実
際に実行しているわけです。私などははじめから、今日の天命がはっきりきまっておりまして、私
うつわば
が努力して真理の道を突き進んだというより、守護神さんのほうで、私を神の器として場として使
い易いように強引にもっていった、というほうが適当ないい方で、小さい時から宗門に入って、身
心を砕いて修業した、という禅宗の坊さんの在り方などとは大分違っていました。
くサつ
私の根本としてさせられたことは、空になること、私流に言えば、想念停止の修業でありまして、
普通人のように、いちくこの肉体の頭で考えて、事を運ぶようなことは一切せず、自然法爾に言
葉も行動も即座に現われてゆく、言葉と想念との間も想念と行為との間にも瞬時もなく、いわゆる
想念が同時に言葉となり行動となる、つまり天(神) のみ心がそのまま私の体を通して行為される、
くうくうそくぜしき
という私になっていたのです。そして、私の教えは、空になる方法、空即是色となって生活する方
139先達が後輩を導く道
法を、消えてゆく姿で世界平和の祈りとして、はじめられたのであります。
しかし、こういうことは滅多にあるものではありませんから、聖者方が実践して説かれた普通人
には現在の生活からはるかに離れた理想の境地として感動しながら、少しずつその境地に近づいて
ゆくより仕方がありません。近づいてゆこうと精進する人は、もう宗教の先達の人たちでして、一
般の神仏詣での人は、神仏を自分たちを遠くはなれたものとして、みているのです。
まず神への感謝を
そこでそのまま一般大衆が現在の生活をしていったのでは、地球世界を蔽っている業の波にやが
ては呑まれていって、地球滅亡の一役を買ってしまうことになるのです。ここのところが大事なと
ころなのです。
人類がこうして地球上の生活をしていられるのは、神のみ心によるものでありまして、人類自身
の力でないことは、誰にでもわかります。私が口をすっぱくなる程申しておりますが、人類が生き
てゆくに必要な太陽も空気も水もそれこそ石油も、人類自身が作ったものでなく、神から与えられ
たものなのです。
140
神といいたくない人は、自然といってもよいけれど、何にしても他から与えられているものに違
いありません。先達の人たちは平凡のようだけれど、後進の人にそこのところを何度でも説くこと
が必要なのです。
宗教信仰の根本は、神への感謝で成りたっているので、先ず神への感謝が大事なのです。先達は
その心を後進にしっかり植えつけなければなりません。ですから、理想そのもののような聖言より
も、お爺さんやお婆さんや小さな子供にでもわかるような、真理の言葉をきかせつづけるとよいの
です。
先輩の心得るべきこと
かり
この世は仮の姿であって、この肉体も実はあるようにみえるけれどないのだ、だから肉体なしで
ある。そこで無い肉体に病気があるわけがないので、病気もないのである、と病気を治している宗
教もあるけれど、これはすごい真理の言葉で、一時その場のくもりがひそんでしまって、病気が治
るようになるのであります。けれども実際に悟って治ったのではなく、一時的なショックで治った
ので、最善の方法というわけにはいかないのです。勿論、邪宗集団のまやかしの治療より数等倍よ
141先達が後輩を導く道
いにきまっています。しかしそういう言葉になれてしまうと、その効果がなくなってくるので、や412
はり地道に自分の心境を高めていくようにしなければなりません。
先達たちは、そういうことをよくわきまえて、後の人の導きをするべきです。正覚は、なにも一
生だけでしなければならないものでないので、一歩一歩登った道からすべり落ちないように、自分
の境地を確かめ進んでゆくことが大切なのです。
自分が上の境地になっていますと、下のほうの境地でいつまでたっても上ってこないような後進
の人には、つい強いことを言ってしまいがちですが、人間は過去世の修業によって、真理に近づく
ことの時間の差をもっていますので、自分の通りに人も進んでくるとはいえないのです。
私の説いている消えてゆく姿にしても、空そのものの説法より易しく説かれているわけで、消え
てゆく姿なのだよ、と聞いた時即座に、ああ、そうなのだ、そうなのだ、と眼の前が開いたように
わかる人もありますが、消えてゆく姿などといったら、何んだか消極的で、神の子人間として堂々
と生きてゆくことができないような気がする、と変な横道的な考え方をしてしまう人もあるのです。
これが青少年の場合は、中年や老年の人のように、この世におけるマイナス面の行為をあまり気
にしていませんので、消えてゆく姿などといわずに、只ひたすら神の子人間として、この世に善い
ことをしてゆきたい、人間が神の子である、という真理を知ったことだけで、勇気が湧いてきまし
.
て、その他のことは必要ない、という気がしている青少年たちもいるのです。
そういう青少年たちにきまりきったように消えてゆく姿を説いてから、世界平和の祈りの実践を
説いたのでは、青少年の心は不満になってしまうのです。そういう青少年には神の子人間と守護の
神霊との協力しての世界平和の祈り、という光明運動なのだ、と説くだけでよいのではないかと思
います。
ピタッと生き方の決まる教え
消えてゆく姿という言葉が、ぴりっとききめのあるのは、この世において幾多のしまった、とい
うような言葉や行為を何度びとなくしてしまっている人たちが、宗教の教えに照らし、自分たちの
かえり
過去の言動を顧みて、自分を責め裁いていたような場合、この消えてゆく姿、という言葉が、光の
ように、自分の心を輝かしまして、自分は救われたと思うのです。
尤もこの消えてゆく姿という言葉と、善人たちが、少しのことや過去になってどうにも仕様のな
いことで、自分を責あているのを、ずばりと赦して下さろうとして、神様が私を通して、世界平和
143先達が後輩を導く道
の祈りと組合わせて説かせて下さったものなのですから、そうなくてはならぬ筈なのです。拠
キリスト教にしても、仏教にしても、新しい宗教にしても、みなどこかで、人の行いを責めてい
るようなところがありまして、宗教の門をくぐると、それ以前の人柄と少しかわってきまして、少
しの過ちをも赦せない、といった頑くなな想いに縛られてしまいまして、自分を責め、人を責める
といった生活になってしまいます。
宗教の根本は神仏のみ心を人に知らせることにあるのですから、人を責め裁こうとしてあるわけ
ではないのですが、教わるほうの人たちが、宗教の真理と自分たちの行為とをひきくらべて、自ず
と自分を責めてしまうのであります。自分を責める想いというものは、他人にも当てはまるので、
知らぬうちに他人の行為をもつい責め裁き勝ちになってしまうのです。
今の行為を責められても、もうその時にはすでに過去になってしまっているので、取り返しがつ
きません。そこで今後はそういう誤った行為をしないように、と心に誓って生活してゆくのですが、
ふ
現在現われてくる行為はすべて、過去世から蓄積され、録音されたものでありまして、縁に触れ、
あやまおかりき
時にあたれば、自然と外に現われてくるもので、今生だけで、過ちは犯さないのだ、と力んでみて
も、思わぬ機会にまた前と同じ過ちを犯してしまったりするのです。そういう繰返しをしながら、
自分を責めつつ今生を過ごしてしまうのであります。これは他人に対しても同じことなのです。
こういう生き方が今日迄の宗教信仰者の在り方なのです。しかし、消えてゆく姿という言葉をこ
カルマ
こにもってゆきますと、過去世からの業は世界平和の祈りの大光明の中で消されてゆき、現在只今
の想念行為だけが、その人々の心の中に蓄積されてゆくことになるのでありますから、いつかは過
去世からの業がすっかり消えて、神の子人間の浄らかな自分だけが世界平和の祈りの中で生活して
ゆくことになるのであります。
この真理がわかりますと、実に気が楽になりまして、にわかに楽天家になってしまいます。真剣
に宗教の道にとりくんでいた人々には、自分を責めている人が意外に多く、この消えてゆく姿の教
えを知って、心から赦された気がして、明るい人柄に生れ変っていった人が随分といるのです。
今起こっていることの原因はすべて過去世にある
人間というものは、どんな植物でも動物でも、一瞬で成育してしまうということはなく、或る時
間経過を経て成育していくのであることを知っていながら、自分たちのことになりますと、今起こっ
うおうさおう
ていることの原因が今あるように思ってしまって、右往左往するのですけれど、今起こっているこ
145先達が後輩を導く道
ふ
とは今何らかの縁に触れて、過去にあった原因が現われてきたことでありまして、その根本は過去
にあるのであります。
磁
ですから、その過去を取りのぞかないでいて、今起こっていることだけに対処しようとしても、
起こっていることは、その原因の消滅するまでは続くのでありまして、対処するのは、その起こっ
かん
ている事件なり、想念なりを、何らかの方法で緩和させているだけなのであります。
そこで、人間が真の幸福を得る為には、過去これは過去世までさかのぼっての原因を、自分たち
の幸福になるようなものにしてしまわねばならぬのですが、過去世のものとなると、もうどうにも
致し方ありません。そこで現在から過去にあった原因は何かの形で現われて消えてゆくのだから、
それは消えるにまかせておくより仕方がありません。しかしといっても済むものではありません。
そこで、これから先の運命を、必ずよいものとするようにしてゆかねばなりません。過去世からの
悪因縁はすべて消えてゆく姿という言葉と共に、世界平和の大光明の中に入れきって生活してゆく
のです。そういたしますと、過去世の悪因縁はそこで全部消されてゆきまして、潜在意識には、世
界平和の祈りという大光明波動だけが、蓄積されてゆくことになるのです。
146
実践的宗教の道
こういう生活を続けて行けば、それまで潜在意識にたまっていた、過去世からの業因縁は、ある
期間を経れば、やがては全部消え去ってしまうのであります。
この方法は、学問や説法を超えた、実践的宗教の道で、誰にでも易しく実行でき、効果も大きい
のであります。法然さんが、すべての生き方を捨てて、念仏一本に人々を導いていったのは、あの
方が深い学問を身につけていた人だけに、実にすばらしい行為であった、と今更のように感嘆する
のであります。あれだけの学問知識を、おしげもなく捨てきって、単純明解なる幼な児のような生
ているい
き方に挺身したことに、類をみない偉さを感じるのです。
真理というものは、複雑な内容をもってはいますが、入口は実に単純にできておりますので、素
直にその単純な入口から入ってくればやがては複雑なる内容と一つになって、すべてがはっきりわ
かってくるのです。それを、中を知ろう中を知ろうとして、複雑に分析したりしていると、いつ迄
たっても、その内容がわからず、その真の入口にたどりつくことができなくなってしまうのです。
人間は神の子である。この世もあの世も、宇宙万般すべて、神のみ心によって動いているもので
147先達が後輩を導く道
ある。という真理をそのまま鵜呑みにして、只々、神仏への感謝の心をもって、自己のこの世の生
活につくしていれば、その人はそのまま宗教活動をしていることになる、神のみ心を実践している
ことになるのであります。
148
現実に処する宗教の生き方
神のみ心に素直な浄土門的生き方
現実の生き方の中で、宗教的に徹した生き方をすることは、なかなかむずかしいことです。
深い愛と誠実な心、そしてその行為を実行する勇気、それに美しい行為、こうならべてきますと、
とてもとてもこの通りに生きることはむずかしいと、思わず溜息がでるほどです。
ですから普通の人は、こういう生き方を目ざして、少しでも立派に生きてゆこうと思うわけです。
しかしそういう生ぬるい生き方では、本心が満足しませんので、人間は常に悩んでいるのでありま
す。
ほうねんほうねんしんらんいつべん
そこに法然さんの教えが現われ、法然、親鸞、一遍などの実行していた浄土念仏門が盛んになり、
149現実に処する宗教の生き方
そうした人間の悩みをなぐさめたのです。なぐさめたというより、この浄土門の念仏行を真剣にやっ励
ていれば、必ずその人は救われてゆくのですから、普通人の宗教の道は浄土門が歩み易いというわ
けです。もっともキリスト教のキリストやマリア様にすがって生きるというのもこの道に似通って
いますが、浄土門の生き方のように、思いきって自分の心身を阿弥陀様に全託してしまう、投げい
れてしまう、というところまでゆきつけるかどうかが疑問です。キリスト教には仏教の浄土門のよ
うな安らぎが少なく、何んとなく悲愴感がただよっています。
はりつけ
もっとも法然や親鸞は八十九十の老齢まで生きていた人ですし、イエスは三十数歳で悲惨な礫に
なった人ですから、その弟子や信者たちには、その影響があるわけです。
それに仏教の浄土門では、自分自身で細かく善いことをしようとか、よくなろうとか思うより先
に、阿弥陀仏に全託する唱名念仏があるのですから、自分の行為に力をいれてする必要はありませ
ん。しかしキリスト教のほうでは、善い行為を積極的にすることによって、キリストに救われると
いう思い方に聖書の教え方から自然になってきてしまっているので、イエス様、マリア様と救いを
呼びながらも、自分自身の想いにも力を入れて、日々の行為をしようとする生き方になっているの
です。
自分だけ正直ぶるな
こんこう
この世は善悪混交の社会生活になっていますので、善行為のみで通ってゆくということは、とて
もむずかしいのです。自分自身としては善行為で通ってゆくことができるのですが、社会の生き方
が、善そのもののまっすぐな生き方ではないので、自分だけ善行為で生きてゆきますと、どこかで
社会生活とぶつかってしまいまして、社会的に生きにくくなってしまいます。
たとえていいますと、自分は或る会社の労働組合の一員だとします。その労働組合が賃上げ闘争
や何かで、ストライキをしなければならない、と組合員の大半が定めてしまった場合、自分は今の
ままの賃金でもよいからストライキなどという闘争をやらないほうがいい、と思っても、組合でき
まったことに従わねばならぬことになります。そしてその闘争の結果、賃金が上がった場合、その
闘争に反対であった自分も、賃金が上がることになります。
しかしここで、自分は賃上げ闘争に反対したのだから、自分は賃金は上げてもらう必要はないと
言い出すわけにもゆきません。もしそんなことを言い出したら、資本家側の手先というように言わ
れて、今後組合がその人を組合員としてはつまはじきにしてしまいます。ですからそこにはいくら
151現実に処する宗教の生き方
かの妥協がいるわけです。自分の主張を通せば、その人はその会社にいられなくなり、どこの労組慨
にもついてゆけなくなります。
また同じようなことで、今度は会社自体のことなのですが、現今の会社には、どこかで、役所や
他の会社や人に知られたくない隠しごとがあります。正直な社員がいて、隠しごとをするなどとい
うことは人間の生きる道としてはいけないことである、として、その事実を話したとします。する
と、その会社は窮地に陥って、会社の運営がやりにくくなってしまいます。
したがって、会社はやがてはつぶれてしまいます。すると何十人か、何百人か、何千人かその会
社の大きさによっては、大変な失業者がそこに生れてくるわけです。
一人の人の自分に正直な行為が、忽ち多くの人の生活を困窮させてしまうということになります。
それは会社が誤った道を歩いていたのだから当然で、正直な社員の罪ではないと言えば言えること
ですが、現実には多くの困窮者がそこに出現してくるわけですから、一言で善は善、悪は悪ときめ
つけるわけにはまいりません。
こういう事実は諸処にあるわけで、よくよく考えないと、この世の中がますます生きにくくなり
ます。これが国家の問題や世界人類の問題になりますと、いよいよむずかしくなります。
ベトナム戦争の場合
ベトナム戦争の場合のように、自分の国でもないベトナムに立ち入って、ベトナム人と戦争して
アメリカ
いた米国は、世界各国から悪い米国として非難をあびていました。しかし今になって深く考えてみ
ますと、ただ単に悪い米国といってすませるようなものではないことがよく判ってきました。
それはどういうことかと申しますと、現在ベトナムがカンボジアに対して兵をむけて侵略行為を
しているからであります。米国がベトナムに兵を入れたのも、ベトナムがカンボジアに兵を入れて
いるのも表面的には同じことですが、米国の場合には、南ベトナムのほうが自由主義国であって、
そのまま捨てておけば、いつかは北ベトナムの共産兵力に屈伏してしまう、という危険性があった
ので、それを防ぐために戦争に介入していったので、米国自体の領土的野心も、物質的欲望もなかっ
たわけです。ただベトナムが赤化すれば、やがては東南アジア全体がいつかは全部赤化してしまい
はしないか、その危険性が多分にある、というのでベトナム戦争に介入したわけだったのですが、
結果は現在のようになって、ベトナムは完全に赤化していまして、今カンボジアをベトナムの想い
通りに動かそうとしているのであります。
153現実に処する宗教の生き方
と致しますと、先日までは米国が悪い米国であり、ベトナムが被害国であったのが、今度はベト
ナムが悪いベトナムとなり、カンボジアが被害国になってきている状態で、米国に領土や物質の野
心がなく、ベトナムがただ自分たちの主義に同調してくれる国であって貰いたかった為の戦争への
介入であったのにくらべて、現在のベトナムは領土的にも物質的にも思想的にも野心がないとはい
いきれないものをもっています。
このままベトナムがソ連の後押しで東南アジアで武力をふるってゆけば、やがては米国が恐れて
いたように、東南アジアはソ連の力の範疇に入って赤化してしまいます。戦争することは勿論悪い
ことですが、米国がただ自国の権力を固持する為だけであの戦争をはじめたわけではないので、米
国だけを悪い国というように思うわけにはゆきません。何処の国にもそれぐ善いところと悪いと
ころがあって、今ベトナムはその悪いところがむき出しに出ているところなのです。
何んにしても、大国も小国も、自国の損失が一番大事なので、その為に武力も使えば、経済力も
使うという工合なのです。大国の代表が米ソであり、それにつづいて中国というようになっている
ようですが、ベトナムあたりがソ連の強力な兵器をつかって戦う気になりますと、中国も本格的に
構えないとやられてしまいますのでベトナムに兵を出しています。どっちがやってもやられても、
154
日本のような平和主義だけをその道としている国は困ってしまうので、どこの国もが、仲良くして
貰いたいと切実に思っているのです。
日本はどうなっているのか
しかし現実はこうした日本の願いとは程遠いものとなっており、右を向いても左を向いても戦争
の危…機をはらんでいるのであります。日本などは現在、米国と安保条約を結んでいるので、日本を
やすやす
狙う国も易々と手を出すわけにはゆきませんが、ソ連のように、日本の所有地であるにきまってい
る、クナシリ、エトロフ、ハボマイ、シコタンというような北方領土を、自国のものであると言い
けんごようさい
張って、一向に返す気もありませんし、近頃は堅固な要塞にしてしまっているようなのです。
日本としては、これをただ黙っていてよいのか、何か抗議したほうがよいのか、政府としては抗
議しようと思っている様子ですが、相手が何しろ世界一二を争う武力の国で、何かいちゃもんをつ
けたら、北海道ぐらいすぐにも取られてしまいそうな気がして弱気になってしまっている人たちも
いるわけです。
世界注視の中で、まさか北海道にまで手を延ばすことはあるまい、と誰もが想うのですが、いや
155現実に処する宗教の生き方
いやそんな気休めはいっていられない、日本もそれに対応する武力をもつようにしなければ危ない、鵬
という人たちもいます。ソ連の侵略を抑えるのにはどれ程の武力がいるか、核爆弾とまでいかなく
とも、相当な軍事費をつかわなければ、ソ連の武力の前には問題にならない力しかもてないだろう
と、本格的軍備を拡張したほうがよいと言う人などもいますが、そんなことをすれば、かえってソ
連の侵略のよい口実になって、本当に戦わなければならなくなる、と恐れる人々もいます。
何にしても現在は米国の武力だけが頼りなので、ソ連となど少しの摩擦も起こしたくない、とい
うのが日本政府の本当の気持であり、国民大半の気持でもあるのですが、一方では自分勝手なソ連
の振舞いに腹をたてているわけです。近頃、ベトナムがカンボジアばかりでなく、中国の国境でも
武力を誇示して騒いでいると同時に、中国のほうからもベトナム領土に兵を繰り出して、他国から
では、どちらが侵略しているのかわかりませんが、宣戦布告をしない戦争になっています。
日本としては中国と現在では友好関係を結んでいますので、中国をひいきにしたいところですが、
どちらの国からでも侵略行為をして貰っては困るので、中国に武力でベトナムにいどまぬようにと、
忠告しています。どこの地方にでも戦争が起っては世界中が困るのです。まして、中国とベトナム
となると、日本など身近な問題で、事を起こして貰いたくはないのです。
ベトナムの後にはソ連がいて、中国が武力を使って侵略を続けるようなら、自分たちも黙っては
いない、と言っていますので、うっかりして大戦争になる恐れもあるわけです。日本など自国自体
が戦争を仕掛けなくとも、他国のとばっちりを受けて、戦争に巻きこまれてしまうということもあ
るわけですから、うかくしてはいられません。
日本の安全とは平和
9
では日本の立場を常にどうもっていればよいのか、ということは国の安全にとっては重要な問題
になります。日本は敗戦以前からもそうなのですが、敗戦以後ははっきりと、世界平和の中心にな
る国であることがわかりました。核兵器という地球世界を数発で滅亡させてしまうような恐ろしい
爆弾を最初に受けた国であって、戦争にはこりごりしている国であります。
核兵器はいけない、戦争は駄目だ、という叫び声を、日本は心底から挙げたのであります。それ
以来、ひたむきに経済力を強力にし、世の中を便利にする科学力を拡める、という生き方で終始し
てきています。武力などといっても、自衛隊という陰の軍備といったところで、これが軍隊です、
と世界にひろげるようなものはもっておりません。
157現実に処する宗教の生き方
ですから日本が現在の武力程度で終始していますれば、その現状を知った国は誰も日本が侵略国旧
になってくるとは思わないでしょう。しかし一方の側で考えてみますると、こんな軍備は恐るるに
も足りませんから、一寸日本が気にさわったことや、自国の不利になることをしたら、早速どこか
らでも日本に攻めてくることができます。これは大国といわなくとも、中国でも朝鮮にでもできる
問題です。
そういう点日本のほうでも気づいておりますので、相手国の気にさわるようなことはなかなかい
いません。ただひたすら米国との安保条約にすがって、米国の武力を頼りにしております。その為
には他の事柄で米国の為になるようなことをしなければならぬと、いろ/〜気をつかっているわけ
で、経済問題などでは、米国の気の済むようにできるかぎりの譲歩をしているわけですが、その方
法がまずいので、日本政府は常にもたくしております。
米国はソ連とは違って、日本が戦争後になにかと助けてきて貰った国で、米国の援助がなければ、
現在の日本がなかったことは事実です。そういう恩恵のある米国なのですから、ソ連に対するよう
な態度をもつわけにはゆきません。しかし実際は、米国には言いたいことをいって、ソ連には殆ん
ど抗議らしい抗議をしたことがないのが、現在までの状態です。
そういう日本の状態をみている右がかりの人々は、日本にちゃんとした軍備がないから言いたい
ことも言えないのだ、できる限り軍備を充実させよ、といっているのです。日本もちゃんとした軍
隊をもって軍人の力で国を守るのだ、という昔ながらの考えにならぬと、日本はやがてソ連や中国
に侵略されてしまう、と、その人たちは思っているのです。
どうすればどうなるかは、双方短所と長所とがありまして、こちらがよくて、あちらが駄目とはっ
きり明言できるものではありません。どちらにしても戦争にもっていってしまうようだと、地球滅
亡に一役かったということになってしまいます。
一般国民が、政府からいったいどうしたら、日本が人類の為に働き得るか、と問われたら、こう
すればよいのだ、と断定的に言いきれる人は少ないと思います。出来得る限りの軍備を増強する、
これには核兵器をもつことまで計算に入れる、などという思いきった案もでてくることでしょうが、
これには国民が最も少ない経済で自分たちの生活をして、でき得る限りの税金を国家に払う、とい
うようにしてでも未だ足りないくらいにお金がいることと思います。それに核兵力に対する国民の
恐怖が、核兵力をもつことに大きく反対してくるでしょうから、この実現は何んともいえません。
核兵器ぬきの、最大限の兵力増強にしても、国民がいざといえば国民一丸となって戦争に立ち向っ
159現実に処する宗教の生き方
てゆく、という強い愛国心がなければ、兵力増強も無駄なことになってしまいます。といって、兵
力は現在のままで、経済力と政治力だけで、日本を侵略しようとする国に対してゆくには、現在最
大の友好国であり、武力も世界一である米国にすがってゆくより仕方がありません。
160
決意を固めよ
米国にすがってゆく場合でも、もし米ソが小国援助のゆき違いで武力を交えてしまった場合、日
本は米国と共に運命を定あてゆくことになってしまいますので、やはり、国民が生命をかけて国を
守るということになります。
武力を増強しようと、日本の武力はそのまま米国にすがって政治を行なってゆこうとしようと、
どちらにしても、日本国民全員が、国の運命に生死をかけてゆく、という決意を定めなければ、地
球人類としての日本が生き残ることはできません。ですから日本人はその事実をはっきり見定めて、
国の為に生命を捧げる気になり、国の為に生命をささげるということは、神様に生命をおかえしす
る、ということと同じことですから、神様の愛に全託して生きてゆくことに一心を決定しなければ
なりません。神様の愛がなければ、地球人類は生きてゆくことはできないのですから、何を考える
より先に神様に生命をささげる世界平和の祈りをしつづけて、その祈りの中から自分たちの生活を
してゆくより他に方法がないのです。そうすることによってはじめて人間本来の智恵も能力も湧き
出でてくるのです。
戦争に生命をかけず、神様に生命をかけて下さい。
161現実に処する宗教の生き方
162
人はみな神の光のひとすじ
光の前に暗はなし
人はみな神の光のひとすぢと知りて生きなば明るきものを
という私の体験を通した歌がありますが、神が光そのものであり、人問は神の光によって生かさ
れていることは確かなことです。その一番端的な現れは、太陽です。
人間からみれば、太陽は光そのものです。そして、太陽の光がなければ、人間をはじめあらゆる
生物が生きてゆくことができません。ですから昔の人たちは、太陽を神様として拝んでいたのです。
昔ばかりでなく、今日でも太陽を神様と思っている人は随分あります。
黒住教の黒住宗忠さんなどは、肺病で明日をも知れぬ状態の時に、太陽を拝んでいて、太陽が自
分の体の中に入ってしまったような気がして、気がしてというより、太陽の光が自己の生命そのも
のの光を表面に引き出してくれて、一瞬にして肺病から脱出してしまったのです。自分の生命が太
陽と等しいものであるということを自覚したので、自分の体が太陽のように光り輝いたのでありま
す。
やみやみ
光の前に暗(病) はなかったのです。そしてその日から黒住さんは太陽の光を内に持った人間と
して、その太陽の光明を光輝かせながら生きていったのであります。
神は光そのものであり、太陽は神の光をはっきり表面に出している存在だったのです。そして人
間は神の生命の光を内にもって生きている存在なのであります。ですから、人間は内なる神の生命
の光を輝かせつづけてゆけば神の子として、神の理念である光明世界をこの地球上に現わすことが
できるのでありますが、現在では、その生命の光を常に曇らせて、この地球上を暗黒にしようとし
ているのであります。それは人間の大半が、自分が光の子であることを知らず、肉体という物質体
であると思っているからなのです。
皆さんは、私を写した写真が、霊光そのものになっているのをご存知でしょう。私がカバンを持っ
て立っているのを、島田重光氏が、普通に写したわけですが、写されたものは私の肉体身は消えて、
163人はみな神の光のひとすじ
本体の霊光だけが写ったわけです。ということは、私という存在の、その本体が、霊光そのもので
あって、仮りに表面に肉体身として現われていたということの証明であった、ということになりま
す。
164
霊光そのものの人間
この霊光写真は、私の知る限り、私を写した写真以外には無いようなのですが、人間が肉体身で
はなく、光そのものである、といういい証拠になります。五感でみる限り、私という存在は、肉体
身であるわけですが、カメラの眼や、霊眼でみれば、光そのものであったということなのです。
ですから、人間は肉体身にばかり把われている必要はないので、常に本体の光の方に想いを向け
ていたらよいのです。光は即ち本体でもあり、神の生命そのものでもあるのですから、自分が光そ
のものである、ということを認識することは、自分が神の子であるということを認識したことにな
るのです。そういう方向に自分の想いをむけてゆくのが、祈りということなので、常に祈り心でい
ることが、人間が神の子である、光そのものであるという真の姿を、やがて、この地球界の表面に
現わしてゆくことになるのであります。
人間はこの世においては、肉体身の眼でものを見、肉体身の耳で物事を聞いているように思われ
ますけれど、肉体身を通してそのようにさせている、何か奥底の能力があることを誰しも薄々は想っ
ているのです。そういう真実を、私のような人がこの世に現われて、実際の姿として人々に知らせ
てゆくことになっているわけで、その一つの現れが、霊光写真というわけです。そして、世界平和
の祈りが生れ出てからは、祈っている人たちの霊感が磨かれてゆきまして、肉体身の背後に、誰に
でも霊光のあることを知ることができるようになってきています。
肉体観から脱皮せよ
太陽にも、物質的にみえる光がありまして、生物はその光によって生かされているようにみえま
すが、実は生物を生かしているのは、物質的光とみえる奥の生命そのものの光が、生物に働きかけ
て生かしているのであります。太陽の奥の光も人間の本体の霊光も一つのものでありまして、宇宙
神の大生命の光の分れであるのです。
宇宙神といっても見えませんので、太陽を神の現れとして、太陽神として世界中で、崇められて
いるわけで、日本でも天照大御神の現れを太陽神としているのであります。人間も一日も早く、自
165人はみな神の光のひとすじ
分の本体が霊光であることを知ることが大事で、自分が霊光そのものであると知ることができれば、
太陽と同じように、他を生かすことができるように数るのです。現に私を写した霊光写真が、病気
の人を癒やしたり、不幸災難を防いだりしておることは、多くの会員の人々が知っております。
人間が肉体身である、という想いから、人間ぽ神の霊光そのものなのだ、と想いを改めて人生観
を変えますと、今まで想いもかけなかったような、超越した能力が現われてくるのです。人間は神
そのものの微妙な波動から、肉体身のような遅鈍な波動の世界というように何体かの体をもってい
ますが、もう今日以降は、肉体波動のままでは、地球界の運命を保っていることはできなくなりま
す。それは、国家や民族間の争いがますます烈しくなることや、天変地変による破壊、物質エネル
ギーの消滅等々、肉体身として生存できにくい状態が年毎にはっきりしてくるので、肉体身として
は、滅亡せざるを得なくなってくるのです。
それは人間の進化の為の一段階でありまして、人間がこれ以上進化しないでいますと、滅びてし
まうということなのです。人間が今以上進化することは、ただ物質文明文化の発展ということでは
なく、肉体身を超越した微妙な波動の体であるということを認識することによる進化なのでありま
す。
166
人間が本来の微妙な霊光波動の世界から、物質界の地球にその働きを延長させてきて、物質世界
に住みつけるような肉体身という、体を纏うようになり、肉体人間としての生活をはじめたことに
より、次第に本来の微妙な波動を忘れてしまい、物質世界に想念が把われつづけてきてしまったの
です。そして、物質世界で各自が対立して生きるようになり、それが集団となって、国家や民族と
なって、更に大きな対立となって、お互いの利害のために戦争状態をつづけて今日に至り、遂には
核戦争の危機にのぞむようになってきてしまったのです。
霊光人間という真実が世界を変える
そう致しますと、このまま進めば、地球滅亡ははっきりしたことで、日時の問題ということになっ
て参りました。そこで本来の神の光のひとすじである人間をここまで復活させなければならなくな
りました。即刻にでも肉体人間という想いを捨てて、霊光人間という真実の姿にかえらなければ、
この地球界を人間自らが滅ぼしてしまうことになるからです。
ところが、現在の人間は、肉体人間であるという想いに把われきっておりまして、肉体人間とし
ての自分たちの生活の利害や、自分たちの国家民族としての利害関係にだけ把われ、他人や他国家
167人はみな神の光のひとすじ
民族の損得を無視してしまい勝ちになっているのです。
これではお互いに争い合うことになってしまって、物質や権益を奪い合うことになってしまいま
す。そこで、はじめにこういうマイナスの生き方に気づいた人たちから、先ず世界は一つであり、
人類は神の生命において、皆兄弟姉妹なのであるということを、世界中に宣伝して、世界の平和を
つくりあげてゆくことを実践しなければならなくなってきたのです。それには人間が本来太陽のよ
うに光り輝く霊光であって、物質に支配されるものではない、ということを知ることが大事になっ
てくるのです。
しかしどうも、人間はあまりにも肉体に把われ過ぎておりますので、頭で自分の本体は神の光と
想おうとするのですけれど、実際の行動はやはり肉体人間としての自分の行為になってしまう、と
いうのが現状です。
そこで、その把われを超越する為に、祈りというものが必要になってくるのであります。自分は
神の子だと、頭で想うだけでなく、祈り心になりきって、神の光の中に想いを入れきってしまうの
です。その為には、日々瞬々の祈り言葉が必要なのです。それを私は世界平和の祈りとして、実践
しているのでありますし、私の言うことを信じて行じている人たちは、いつの間にか、自分が神の
168
子であり霊光であることを、当然のこととして、日常生活をするようになってくるのです。何時も
私が申しておりますように、人間の五臓六肪は、いちく頭で命令して動かしているのではなく、
自然に働いているのであります。想念の方も実は全くそれと同じように、自然法爾に働いているの
でありまして、想念と行為とが全く同時に働けるようになっているのでありますのに、長年の肉体
人間の習慣で、行為と想念を離して働かせてしまっているのです。
想いと行為が別々にならぬために
あれこれと想いわずらっての後に行為にうつす、というのが肉体人間の今日までの在り方であり
ますが、実は、神の子の人間というものは、本心本体の方からのひびき、つまり神のみ心のひびき
が、そのまま瞬間々々の行為となって現われてくるもので、想念と行為とが離れてあるものではな
いのです。想念と行為とが離れてある為に、神のみ心と人間の行為とが別々になってしまったりす
るのです。しかし祈り心で行いをする時は、想念が祈り心そのままになっていますので、神のみ心
がそのまま、その人の行為として生活の中で現われてきます。そして、その場、その時々の利害と
いうものを超えた、未来の幸福の為の神のみ心がそこに現わされてくるのであります。
169人はみな神の光のひとすじ
くロつ
仏教で坐禅観法をして、空の境地になろうとするのは、やはり肉体身を超越して、神のみ心その㎜
ものの仏身を現わそうとしたからでありまして、どんな方法でもよいから、人間が神の光そのもの
であることを、この地上界において現わせばよいわけです。
私の唱えており、実践しております、祈りによる世界平和運動は、自分たちの生活のすべてを、
世界平和の祈りの中から頂き直してゆく生き方で「世界人類が平和でありますように」の唱え言の
中で、いつの間にか、肉体人間の感覚を超え、神の子人間の自己が現われてくるということになる
のであります。
無理なき悟りの道
人間というものはおかしなもので、肉体が悟りの邪魔になる、と肉体をいじめつづけているよう
な昔式の修業では、なかなか真実の悟りに到達致しませんが、肉体身そのままの日常生活の中で、
想念の方を、神の光の中に投げ入れて、神の子であり、霊光であることを、想念そのものが習慣と
して知ってしまったほうが、無理なく自然に悟りの道に到達するのであります。
無理に肉体観念を抑えつけようとしても、それは不自然なことで、なかなか悟りの道に入るもの
ではありません。世界平和の祈りのように、日常茶飯事、無理なく自然に、その意味を納得して唱
え続けてゆけば、自然といつの間にか、世界平和という、神のみ心そのものの中にその想念が入り
きってしまって、自己の頭の中の想いが、神のみ心の現れと同時にその人の行為となって現われて
くるのです。
祈り言で神さまのみ心の中にとびこむ
神のみ心が、愛と調和なのだから、世界平和の祈りをしている人は、いつの間にか、愛と調和の
行為がその人の生活面に現われてきて、周囲の人たちとの調和な生活ができるようになるのです。
人間の生活の中では、無理なく自然に出来るということが大事でありまして、無理じいしたことは
決して成功しないのです。
肉体人間としての物質中心の生活になりきっている現社会で、肉体生活を無視したような修業は、
殆どの人がついてはゆけません。肉体生活を無視しないで、神のみ心をこの世の生活に現わしてゆ
く、という方法がとれればそれが一番よい方法で、その方法を私は世界平和の祈りの生活として実
践してきたのであります。
171人はみな神の光のひとすじ
肉体人間としては、心の中で兎や角想いわずらいつづけて社会生活を送っているわけで、常に心糀
配苦労して生きてきているのでありますが、どうしたら心配苦労せずに生活していったらよいかわ
からずにいるわけです。そこで私は地上生活の心配苦労はそのままでよいから、その心配苦労の想
いのままで、人間本来の心である、神のみ心の中に飛びこんでゆきなさい、というのであります。
神のみ心というのはどこにあるかと申しますと、愛と真と美と調和というように、人間が理想とす
る想念行為の中にあるものです。そこで、その一番端的な表現である、世界人類が平和であります
ように、という、人類愛の心で、神様のみ心の中に飛びこんでゆくことがよい、というわけです。
世界人類の平和は神のみ心の勿論望んでおられることで、同時に人間自体の誰しもが一番望んでい
ることなのであります。
その祈り言を、心配苦労の想いをもったままでよいから、日々瞬々祈りつづけてゆけば、いつの
間にか心の中が世界平和の祈りで一杯になり、潜在意識の中まで、平和という光明波動に充ち充ち
てくるのです。
運命を開く鍵
けんざい
人間には顕在意識と潜在意識とがあることは皆さんご存知のことであります。今その人が一瞬一
瞬に行っていることは、いかにも今想い、今行っているようにみえますけれど、実は過去から潜ん
でいる想いが、顕在意識に呼び出されて行為となって出てきたのでありまして、顕在意識がすぐ行
為となるのではありません。
ですから、今各自の運命と現われ、行為として現われてきたことは、過去世から今日に至る迄の
想念意識が、現われてきたことで、それが善であろうと悪であろうと、幸であろうと不幸であろう
と、今、顕在意識として想ったことがすぐ現われてきているのではありません。
例えば、あの人が自分に親切にしてくれるようにと想っても、すぐにその人が自分に親切にして
くれるのではありません。自分の周囲が平和でありますように、と想っても今の想いが即刻実現す
るわけでもありません。今想い今行っていることは、未来になって、何かの縁にふれて運命と現わ
れてくるのでありまして、その時は潜在意識が現われたことになるのであります。
そこで、今から自分の運命を善くしたい、自分の想念行為を立派なものにしたいと思ったら、今
から過去の潜在意識によって現われた運命や想念とは関係なく、自分のこれから欲っする状態が現
われるように、善いこと、明るいこと、愛に充ち、調和に充ちたような想いを抱き、そうした行為
173人はみな神の光のひとすじ
をつづけてゆけば、やがて過去世からの誤った想念行為が運命と現われて消えていった後で、今度
はその想念行為が運命と現われてくるのです。
そこには力みも理屈もいらないので、只素直に世界平和の祈りのような人類愛の祈りを祈りつづ
け、神の心と自分の想念とが一つになるような生活をつづけてゆけば、肉体生活をいじめたり、特
別むずかしい修業をして日常生活を不便にしたりする必要はなく、自然といつの間にか、人格も運
命もよくなってゆくのであります。これが消えてゆく姿で、世界平和の祈りの日常生活をつづけて
ゆく成果なのであります。
174
た
神々は常に人類の救いに起っている
自分一人超然としていられない
人間の救れというものは、単に個人だけのものではなく、国家や人類というものと、一つのもの
である、と常に私は言うのですが、実際に、個人としては、周囲の一切の事件事柄に超越して、不
動心でいられる、という坊さんなどおられると想いますが、多くの人間の心の中にある、人の為に
ぼさつしん
尽したい、何か善いことがしたい、といういわゆる菩薩心というものは、自分が真の救れを体得し
たい、真の悟りを得たい、というような宗教的に深い心をもっている人程、深く厚いのだと思いま
す。
ひん
ですから、国家や社会や、人類が危機に瀕しているという時に、自分だけが、超然として、そん
175神々は常に人類の救いに起っている
なことに少しも想いを動かさぬ不動心でいて救われている、としていることができるのだろうか、
と疑いをもつものであります。
かりすがた
真実は、この世は仮の相でありまして、神界や仏界が真の姿であるのですから、神仏のみ心の中
で生きていさいすれば、この世のどんなみじめな姿でも、自分とはかかわりがない、と超然として
かり
いればよいわけなのですが、人間にはそうはできない菩薩心というものがありまして、たとえ仮の
すがたすがた
相であるとしても、その相のみじあさや、危険さを、何んとか正しい、危険のないものにして、人々
の心を安んじたい、という想いが心のうちに湧いてくるのであります。
あえ
近くの知人の子供が今にも死にそうな苦しみに喘いでいる時、その親の心配などに少しも想いを
動かされず、自分と何んのかかわりもないように超然としている人は、まあ無いと思います。自分
の心は痛まぬとしても、相手の親の心を力づけようとして、何かと励まし、手助けしようとするこ
かりすがた
とでありましょう。仮の相のこの世界が、やがて神仏のみ心をはっきり現わした、真の世界になる
ことが定まっていますから、真に悟った人というのは、神仏の世界にだけ閉じこもっていて、この
かりすがた
仮の相といわれている現象世界には何んの関心をも示さないというのでしょうか、私は全く違うと
かりすがた
いうのです。真に神仏と一つになった心の人は、神仏の現れと違った仮の相的この世をそのまま捨
176
てておいて、自己だけ神仏の世界に閉じこもってしまうようなことはできないのです。
こも
小聖は山に篭り、大聖は街に出つる、といわれていますが、真に救われた人、真の悟りを得た人
かりすがたかりすがた
は、その自分の姿を通して、神仏の光明を仮の相といわれるこの世界にうつし出して、仮の相を神
仏のみ心が真実に現われた真の世界とする役目をもっているのであります。やさしく申せば、玉石
こんこう
混交、善悪混交のこの世界を、神仏の大光明世界そのものの世界につくりあげる役目を、真に悟っ
た人、真の救われた人々はもっているのであります。
日本とアメリカの結びつき
現在地球世界は米ソニ大武力の対立を主として、様々な国が自国の利益を求めて争いあっていま
す。日本などは直接どこの国とも争ってはいませんが、米ソの力のどちらかにつかずにはいられぬ
状態にあります。日本のように欧米とソ連の中間帯にあって、世界にぬきんでている工業力をもち、
日本を味方につけるか、日本を自国の自由に動かせるようにするか、どちらにしても日本を自国の
陣営にひき入れたほうが、世界制覇に一歩も二歩も近づくことになります。
ですから日本は米ソと同じように武力をもたぬ限りは、独力では中立などとてもできる状態では
177神々は常に人類の救いに起っている
ありません。常に両国の間に立って、一日一瞬として落ちついた生活ができるものではありません。酩
現在の日本は米ソのどちらかの陣営に立たねば国の運命を保ってゆけない状態にあるのです。
そして、戦後から今日までの実績において、米国と結んでいたほうが優利であると、多くの国民
が思って、日米安保条約の下に、ソ連の侵略を防いで現在まできているのであります。日本が敗戦
して、もう他国の思いのままになるより仕方のない立場になってしまい、今日の隆盛など思いも及
ばなかったのですが、米国の在り方が意外な程大らかで愛情的で、なにかと日本の立ち直りを助け
てくれ、今日のような経済大国にまでなれるよう応援してくれたのであります。
堂々と戦って完敗したのですから、日本は米国に対して何一つ要求のできる立場はなかったので
すが、米国は日本の領土など一つも取らず、日本の経済の立ち直りに力をつくしてくれたのです。
れい
敗けたら奴隷になるより仕方ないと思っていた日本国民にとって、意外な程有難いことだったので
す。
もしこれがソ連に占領されていたらどうなっていたでしょう。今日のような自由気ままな国民生
活などできるはずはなく、ソ連の意志のままに動かされていたに違いありませんつそれはどんな条
約でも、自国の都合によっては一方的に破って、日本がもう殆んど力がなくなったと思う頃、やに
かいめつ
わに満州に攻めこみ、日本軍を壊滅させてしまい、中国に対し、自国の力を示したりしましたし、
まだ交渉中である筈の日本の北方領土に対しても、一方的に自国のものときめこんで、もう軍備を
しっかりしてしまったりしているのです。
米国のやり方とは大分違うのです。二大国をくらべてみて、日本にとっては、はっきり米国の自
由陣営のほうが、協力しがいがあるし、危険性が少ないのです。ですから日本の政党はソ連に近い
社会主義政党になっては、米国との協力がしにくくなり、日本の運命がマイナスになる場合が多く
なってきます。
大平さんの急逝と自民党の大勝
今回の自民党の内紛と野党の構成で、自民党の力が非常に弱まってしまうのではないかと思われ
る状態になりました。いわゆる保革逆転といわれる状態です。ところが結果はどうでしょう。思い
もかけぬ大平首相の昇天という重大事が起こりまして、これが日本国民のぐらつきかけている想い
ようご
を、すっきりと自民党擁護にむけてしまったのです。
日本人は大体が弱いものを助けようとする、いわゆる義侠心とでもいうか、そんな心がありまし
179神々は常に人類の救いに起っている
て、大平、三木、福田等々の勢力争いに自民党に対し、すっかり嫌気がさしていましたのを、大平㎜
首相昇天という突発事件で、それまでのいざこざがどこかに消しとんで、自民党にやらせよう、と
いう多くの人の決意となったもので、選挙の結果は衆参共に自民党大勝ということになりました。
大平首相の突然の昇天ということは、保守党側の選挙民に大きな衝撃を与えたと同じように、野
すもう
党側にも衝撃を与えたもので、攻撃目標を失って、角力でいえば踏み越ししてしまったように、あ
れよくといううちに自民党の票を伸ばしてしまったのです。日本の運命にとって実に有難いこと
だったのです。それこそ大平さんが大犠牲になって、日本の運命をマイナスにしなかったというこ
とになります。もし大平さんが生きていたら、自民党の内紛は大きくひろがりながらの選挙という
ことになり、野党の攻撃もますます烈しくなって、史上初の両院同時選挙に、保革逆転が成り立っ
ていたかも知れないのです。
現在の日本の状態で、保守党に力がなくなってしまったら、日本の保守党を力にしている米国や
西欧諸国の、日本に対する信用度は大きく失われ、日本の経済は世界中から追いこまれるようなこ
とになってしまっているのです。カーター大統領が、大平首相に非常に好感をもっていたのも、日
本が保守党そのままの米国への協力を示したからで、大平首相の死を聞いて、カーター大統領の心
もかなり重苦しいものになっていたことでしょう。しかし、日本を守っておられる神々は、大平首
相の大犠牲ということで、日本と米欧諸国との結びつきを更に強固にして、ソ連に対してゆくこと
になったのです。
重大な日本の存在
米ソの二大国の争いも、核兵力が戦争抑止力になっていて、急激に大戦争ということにはなりま
すまいが、小さな国々への侵略から、次第に核戦争にひきずりこまれてしまう、そういう恐れが多
分にあるのです。
ですから日本がふらくしていて、いつソ連に味方するか判らない、というような状態にでもな
れば、世界情勢は混乱して、米国のほうから核戦争を仕掛けて一挙にソ連を抑えてしまおうとする
かも知れないのです。
きゆうきゆう
いくら武力があっても、米ソ共に自国を守ることに汲々としていまして、常に恐怖の想いで相手
方の状態をみつめているのであります。
そこで、日本のような有力な国が、はっきりと自国側である、と思えることは、米国にとっては、
181神々は常に人類の救いに起っている
ソ連への恐怖を少しく弱めることであり、是非そうなって貰わねば困るのです。今回の自民党の大
勝は、日本の心が、異国に対して従来と変りない協力的なものであることが確定したともいえるの
で一安心というところでしょう。日本のほうも勿論同じことがいえるので、ひきつづき米国の武力
の援護やその他諸々の協力によって、ソ連の侵略を容易に許すようなことはなくなったわけです。
うかが
ソ連の艦隊も航空機も、常に日本の状態を窺っていまして、先日は優秀な飛行機二機が日本海に
進入して、一機は新潟沖で墜落しています。この偵察機は、日本の自衛艦の様子を近々と偵察して
いたわけで、いつも日本の領空を犯かしているようなのであります。
もし米国の武力の援護がなければ、日本はどうなってしまうかわかりません。日米安保条約を破
棄せよとか、米国の軍備と一緒の行動をするな、とか、何んの公算もなく言っている人があります。
世界情勢をよくくみてみるべきです。
182
地球人類を滅亡させない力
私たちは祈りによる世界平和運動の実践者です。ですから、世界中の国々が、武器を持たずに交
際してもらうことが、一番の望みです。しかし、現実は、武器を持たぬどころか、ますく武力を
強めて、自国を優位な立場に置こうとしています。武力の弱い国が結集して、その大国たちに軍縮
を呼びかけても、すこしも軍縮の効果はありません。お互いが、自国の武力が相手国より劣ってい
たりしたら、恐怖でじっとしていられない状態なので、次から次へと武力を拡大させて、相手国を
いかく
威嚇し、自国の安心を得ているのであります。
今では、二大国の軍縮などは、夢ごとのようなものです。世界平和運動のむずかしさはそこにあ
るのです。その上両大国共に、戦略的に優位な領土を自国の自由にしようとして、次ぎ次ぎと、小
国への侵略をおこなっているのであります。
各国の指導者は、いずれも衆に秀れた頭脳を持った人々でありましょうから、戦争をすることの
愚かしさは、知り切っているはずです。それなのに、ますます戦争のほうへ一歩一歩と近づいていっ
こう
てしまうのですから、人類の業の深さを思い知らされます。
地球人類を滅亡させないためには、大国たちの武力よりも、優れた大きな力が必要なのです。そ
れははたして何んでしょう。そこに祈りの実践が必要になってくるのです。この世界には祈りとい
うものを馬鹿にする人たちが多いのですが、その人たちは、真実の祈りを知らないのです。
いの
私は毎回口が酸っぱくなる程、祈りのことを説いておりますが、祈りとは、自己に与えられた生
183神々は常に人類の救いに起っている
ち
命をすっかり開いて、神様のみ心にはいってしまうことです。端的にいえば、神様の生命の中に、1
艇
自分の生命を投げ入れてしまうことです。地球を含めた大宇宙には、神様の生命しか存在しないの
で、人間が真の祈りによって、神様の中にはいりきってしまえば、人間はその神の生命と、全く同
じものになってしまいます。
全託の道より生きる方法はない
現在の人類は、この全託の道の他に生きてゆく道はないのです。この地球人類の上に、神々の力
がまともに働けば、いかなる武力もその力を失ってしまうのです。考えてごらんなさい。銀河系宇
ぼうだい
宙のような膨大な星を数知れず、み心のままに動かしている神の力が、地球人類の武力ぐらい動か
すことも消すことも、雑作もないことです。
地球運命の滅亡は、戦争ばかりではなく、天変地変ということにもあるわけで、これを防ぐのも
神様の力以外にはあり得ません。もうこれからの世は、神様の力を考えなくては、生きてゆかれぬ
世なのです。
人間の本質を悟った人にとっては、この地球界に肉体があろうと無かろうと、問題ではありませ
ん。真実の自分は、神霊の世界で生きくと生きているからです。しかし、そういう真理がわから
ない人の多い現在の地球の住人にとって、一挙に大勢の肉体が滅びてしまうことは、悲惨極まりな
いことです。
そこで、真理を悟った人たちが先頭に立って、人類救済の神様のお力を頂き直そうと、真剣に働
いているのであります。肉体の人間に地球世界を救える力があるなどということを、はっきり否定
して、人類をこの世界につかわして下さった神様の力に、すっかりゆだねてしまえば、人類がその
まま神様の力を発揮することができるようになるのですから、皆さんは、真剣に世界平和の祈りを
祈って、神様のみ心の中に常に入りこんでいる状態を作っていることが必要なのです。
神々は祈りに応えたもう
終戦後も、天皇の象徴的存在を日本に許した占領軍の在り方や、今回の大平首相の急逝など、神
のみ心の日本救済の働きであることは、私の霊覚でははっきりとわかることなのです。霊覚でなく
とも、前後の状態をじっくり考えてみれば、そうあった不思議さが奇蹟であったように皆さんは思
うはずです。
185神々は常に人類の救いに起っている
私たちは、米国は勿論、ソ連に対しても、敵視する眼をもってはいませんけれど、私たちの世界鵬
こた
平和の祈りに応えて、神々の力が、大国の武力や、天変地変を超える力を出して頂くまでは、普通
の常識的な在り方として、我が身やわが国の護りの為に智慧をしぼる必要があるのでして、軍備を
も加えた対外政策に真剣な力を尽くしてゆくべきなのです。
国民の中には、自衛隊もいらないと思う人もおりましょうし、自衛隊があっても、今日ぐらいの
力のままでよいのではないか、と思う人もおります。またいわゆるタカ派といわれる軍備拡張論者
もおりまして、どれがいいか真実のところは神様以外にはわからないことです。ですから、私たち
はすべてを世界平和の祈りの中に入れきって、そこから生み出されてくる自他のことや、国家人類
のことを国民の一人一人として、行なってゆくことにしているのです。
神様のおつくりになった世界には、悪や不調和があるはずがないので、現在現われている地球世
界の悪や不調和は、神様の完全な姿がまだはっきり現われない、過渡的現象なので、今悪のように
現われ、不調和のように現われていても、それが固定した悪や不調和ではなく、深い善や大調和に
やがて展開してゆく道順に現われている姿なのです。
前にも書いておりますが、観音様の彫刻をほるにしても、出来上るまでは不恰好な形だったり、
切りくずだらけだったりするものが、やがて出来上って切りくずも片づけますと、美しい、崇高な
お姿の観音様が現われてくるのです。この宇宙万般このようなもので、神様のみ心は大調和なので
すが、その完全なる大調和のみ心が、形の世界にすっかり現われるまで、不調和や善悪混交の姿が、
世界に現われているのです。
ですから人間は、唯ひたすら神の愛を信じて、世界平和の祈りをしながら、自分たちの日常生活
を真剣にしてゆけばよいのです。
187神々は常に人類の救いに起っている
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