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8/19/2022
五井昌久著
永遠の生命
刊行にあたって
ひじりがおか
本書には、昭和三十年代から昭和四十年代にかけて、千葉県市川市にあった聖ヶ丘道場の統一
会(講話と祈りの会) での五井昌久先生の講話(聖ヶ丘講話)を収録しています。
たいていは、参加者の質問に答えられたもので、質問内容もさまざまなら、お話も多岐にわた
っていました。その中から、人間とは何か、死後の世界のこと、永遠の生命に関することなどを
中心に十六編、選んでいます。
しんが
五井先生は、第二次大戦後、宗教活動を始め、想念停止という厳しい霊的修業を通して、神我
いったい
一体を経験されました。
「宗教の道というのは、永遠の生命を自分のものにする道なのです。肉体の人間というのは、
永遠ではなく、五十年八十年の生命です。ところが実際の人間の生命というのは永遠です。永遠1
刊
行
に
あ
た
っ
て
不滅なのです。生き通しの生命なんです。
これは肉体にいるとなかなかわからない。しかし霊覚を得たものにとっては、永遠の生命であ
ることがわかるわけです。私どもはつねに神々の生命と交流し、自分の本体がどこにいるかわか
っています」(第4章の「永遠の生命を生きる」より)
五井先生は肉体をもったまま、神界、霊界、幽界と、各階層を自由に行き来されていました。
第1章では、人間の本体は、神そのもの、光そのもので、肉体は、その場であり、器であるこ
とが述べられています。
そして、神の完全円満性を備えた人間が、どうして不幸や苦悩に陥らなければならなくなった
のか。その理由が、第2章で説き明かされています。
第3章では、正しい死生観、そして、死後の世界のことが述べられています。
第4章では、永遠の生命に直結する生き方が示されています。
第5章では、私たちがより立派な人間になるために、また、この肉体界、地上界に生まれてき
た使命を完うするために、どうすれば一番いいのかが説かれています。また、私たちの背後で、
日夜、運命の修正に尽力してくれている守護霊守護神の存在についても、具体的に述べられてい
ます。
2
五井先生のお話を通じて、人間は本来、神のように完全円満であり、生き通しの生命であるこ
とが本当にわかってくると、この世の地位や名誉や学歴や金銭に振り回されなくなり、永遠の生
命につながる生き方を志すようになります。そうなると、神の無限なる愛や叡智や光が流れ入っ
てきて、次第に、心の広い大きな自分、何事にも動じない強い自分、叡智と才能にあふれる自分、
愛と思いやり深い自分に変わってゆくことでしょう。
二十一世紀は、物質文明から精神文明の時代に移行すると言われています。
本書を通じて、二十一世紀にふさわしい人間観、死生観、そして永遠の生命に通じる生き方を、
自己のものにしていただければ、今は神界で世界平和のために活躍されている五井先生の大いに
よみ
嘉するところとなるでしょう。
二〇〇四年十二月吉日
編集部
3刊行にあたって
永遠の生命目次
刊行にあたって
– … … … … … …・… … … … …: …・… … …・…・… …・: … … … … … …・… … … …: … …・… … … 1
第1章人間の本質
汝自身 を知れ
… … … … … …・… … … … … …・… … … … … …・… … … … … …・… … … … …- …・・… …-
-o
幽人間は光そのもの
-し… … … … …・… … … … … …・… … … … … …・… …・… … … …・… … … … … …・…
29
肉体は器
・… … … … … …・… … … … …- …・…・…・… … … …・…- … … … … …・- … … … … … …・… … … … …
“
・
第2 章すべては完全円満に向かってのプロセス
神が完全円満であるならば
… … …・… … …・・… … … … … …・- … … … … … …・… … … … … …・… …・.-
56
人間は完全なるもの
… … … … … …・… …- … … … …・… … …・… … …・… … … … … …・- … … … … … …・・
6
噛
完全円満な自分になるために
… … … … … …・… … … … … …-・… … … …- … …・… … … … … …・…–
76
完全
を現わ す朝夕の道
… … …- … … …・…- … … … … …・- … … … … … …・… … … … … …・・… … … … …
86
第3 章永遠の生命に通じる死生観
いい生き方
、
いい死に方021
生きる
こと死
ぬこ
の中で
111
死んだらどうなるのだろう? 28 1
第4 章永遠の生命に目覚める
永遠の生命を生きる40 1
消えてゆく姿 と永遠の生命48 1
永遠の生命と本当の信仰61 1
第5 章人間の真実の生き方
人間はいくらでも立派になれる72 1
人間と真実の生き方 86 1
天命を完う するために09
2
\ 、
ブックデザイン・渡辺美知子
第縷章入間の本質
汝自身を知れ
10
● 一番根本的なこと
一番根本的で大事なことは、ソクラテスの時代から”汝自身を知れ”といわれているよ
うに、人間とはいかなるものか、ということを知ることです。
ところが人間というのは、自分自身を知っていない。例えば斉藤なにがし、高橋なにが
しという人がいるとする。その高橋なにがし、斉藤なにがしというのはどういう人かとい
うと、丸い顔で、目が二つあって、鼻があり、口が一つある、そういう顔をしたものがそ
ヘへ
の人だと思っている。ところが実際はそういうものじゃないんです。人間というのはいの
へ
ちそのものなのです。
肉体のこれが五井昌久なら五井昌久というもんだと思っている。ところが、実はこの肉
ヘヘへ
体というものは単なるいのちの一番最先端の現われに過ぎないんです。それを自分自身だ
と思っている。背丈が五尺何寸で、色が白いとか黒いとか、鼻が高いとか低いとか、ホッ
ペタがふくらんでいるとか痩せているとか、そういうものが自分だと思っているわけ。そ
うじゃないですかね。
それですから、この肉体にまつわる運命、この肉体にまつわる幸福というものだけしか、
普通の場合は考えていない。それで死ぬ間際になって、死んだらどうなるんだ、と心があ
わてて、初めてそこで宗教を求めたりしたのが昔の姿だったんですね。
今でも、宗教を求める中で一番その数が多いのはどういう場合かというと、現世の利益、
つまり自分がいかに貧乏にならないか、どうしたら病気にならないか、どうしたらこの世
の不幸を味あわないで済むか。あるいは、今病気だから治してもらいたい、貧乏だから直
してもらいたい、商売がうまくゆくように、ということだけというとおかしいが、そうい
うことを目的にして宗教に入っている人が九〇パーセントだと思うのです。僅か残った数
11汝自身を知れ
パーセントの人たちが、本当に自分・人間というものを求め、追究しているわけです。
うちに来ている人たちでも、初めは現世利益で入った人が多いですね。何かにすがって
な
この世を満足に生きていきたい、という形で入ってくるわけです。それが世界平和の祈り
という高いひびきの祈りをだんだんしていると、いつの間にか、自分の幸福とか、自分の
病気がどうとか貧乏がどうとか、そういうようなことがだんだんなくなって、消えてゆく
姿になって、世界人類のために自分は生きているんだなあ、という気持ちに変わってくる
んですね。
ヘヘへ
初めから、世界人類のために自分のいのちを投げ出して、という人もいます。けれど、
それは少ないわけです。
だからといって、自分はこの肉体にまつわる幸せを願わないでいいか、というとそんな
ことはない。やっぱり幸せを願ったほうがいい。しかし、それはあくまでも世界人類とい
うか、もっと深い深い意味でいえば、いのちそのもの1 大生命がこの地球界に分かれて
ヘヘへ
小生命として現われているいのちーがみな、いのちが穏やかに、いのちそのままに平和
な世界を創り上げる、ということのために働くんだ、そのために生きているんだというこ
12
とにならないといけない。
●lllll自分の主体性はどこにあるのか
われ
そこでもつといいかえますと、今度は、肉体の我というものがある。肉体の自分はどう
してこうやって生きているのか、動いているのか。今しゃべっています。このしゃべる言
葉はどこから出てくるのか。声は声帯を振動させて出てくる。言葉の意味はどこから出て
くるのか。脳のヒダの中に入っていて、それが順ぐりに出てくるのか。そうするとその脳
のヒダを動かしているものは何か。脳を創ったものは何か、神経作用を創ったものは何か、
ということにまずなる。
ハ くも
昨日、本部道場の編集室で窓の外を見たら、蜘蛛が木の間に糸をはっているんです。蜘
蛛の糸というのは縦の線がベタつかず、横の線がベタつくのだそうですね。虫が飛んでき
て巣にかかると、横の線にくっついちゃうわけね。そうすると蜘蛛は縦の糸を伝わってき
ヘヘヘへ
て、くもなく捕まえて食べちゃう(笑) そうだそうですよ。
13汝自身を知れ
蜘蛛がどうして、縦糸がベタベタしないで、横糸がベタベタしたものを作れるのか。巣
も六角形か、八角形かきれいに幾何学的に創っている。芸術品ですよ。どう考えて創った
か。蜘蛛が考えたわけじゃない。そういうふうに自分が生きていけるように蜘蛛に授かっ
ているわけですね。
それと同じように、人間がこうして生きているんでも、人間自身が頭を創り手や足を創
ったわけではなく、また肉体人間が考えたわけじゃない。なのに自然に肺が出来、心臓が
出来、いろんなものが出来ている。
人間の胎児というものは、母親の胎内に入って、一ヵ月とか二ヵ月というのは、生物学
の本で見ますと、魚の子も豚の子もみんな同じような格好をしている。それを見ていると
人間というのは動物だな、一介の生物に過ぎないなと思いますよ。
それがだんだん大きくなって生まれてくると、一ヵ月や二ヵ月の赤ん坊はチンパンジー
より劣ります。ところが二年三年たつとチンパンジーより人間の赤ん坊のほうが利巧にな
ってきます。だんだん人間が猿を離してゆく。
人間が動物に優るものは何かというと、考える力、創造する力、計画性というものです。14
要するに知性ですね。そういう秀れた知恵というものはどこから出てくるか。赤ん坊の時
どうなっているんでしょう。赤ん坊は何もわからないんでしょ。
赤ん坊がお腹へ入るというのも不思議ですね。精子と卵子とが結合して生命が芽生える
わけです。だんだん大きくなって、考える力、素晴らしい創造力をもっている人間になる。
その能力は赤ん坊の時はどこにあるんでしょう。次第に発達してくるけれども、みんな才
能が違って現われてくる。その才能というか、知恵というものはどこから出てくるか、と
いうことになります。そうすると肉体が生まれない以前から、肉体の頭脳・心臓・肺臓が
出来ない以前から、それに優る、それを創り出す力というものが、どこかになければなら
ない。
いのち
それはただ単に神さまというんじゃなくてあるわけです。生命としてあるわけです。父
母が媒体として生命が現われてくる。その生命が現われてきた源の生命というものが大事
であって、この肉体というのは現われてきたものであるわけです。その肉体が毎日生きて
いる。心臓が動き、肺臓が動き、頭(考え)が自由に回転している。晩になって眠ります。
眠っている間は何もわからない。自分の意識が何もない。無いけれど心臓も肺臓も胃腸も
15汝自身を知れ
依然として動いている。面白いですね。
果たして主体性はどこにあるのか。肉体の中にあるのか、肉眼に見えないほうにあるの
か。明らかに主体性は肉体の側には無い。在るのは眼に見えない、もっと深い微妙な波動
の世界にあるわけです。それを一概に霊魂とか、あるいは神とか宗教的にいうわけです。
科学的な証明はまだ無いけれどね。
目に見えない所とはどこか。宗教的には中にある、といいますね。心の奥深くあるとい
つか
うけれど、いのちというものは掴むことは出来ないですね。頭脳の中に在る? 解剖して
みたって何があるか結局わかりはしない。
地球科学でいえば、肉体にはいろいろな細胞組織があり、脳にも脳細胞が一四〇億ある。
その細胞はどうなっているかといえば、結局は原子にまで至り、原子というのは陽子が中
心にあって、そのまわりを電子が回っていて、原子核の中に、中性子や中間子という微粒
子(素粒子)というものが活動している。これが血管を創ったり神経を創ったり動かした
りしている。その微粒子を動かしているものは何かというと、どこからくるのか、わから
ないんです。
16
●ll⊥ ホ教心の第一歩
今度は逆に考えまして、人間が一人生きていくためには何が必要か、といったら、食べ
物が必要だ、空気が必要だ、水が必要だ。そして水は外界から与えられるものです。食べ
物も空気も外界から与えられるもの。そうすると外界に依存しなければ肉体は生きていけ
ないことになる。空気がなくなれば瞬時といえど生きていけないわけです。
だから人間が偉そうに、神も仏もあるか、俺の力だ、俺の力でやっているんだ、といっ
たって、すべて外界から力を借りないと生きていけないし、すべて外界から与えられて生
きているのです。それこそ内なるものと外なるものとが一つになって生かしてくれている
んだなあ、有り難いなあ、ということになるわけなんですね。そこが宗教の根本なのです。
そしてそこから宗教の第一歩が始まるのです。それ以外は宗教とはいえないんです。自分
勝手、ご利益です。
病気になって病気を治してもらいたい、と神さまにすがる。貧乏になって貧乏を直して17汝
自
身
を
知
れ
もらいたいと思って、神さまにすがる。それは宗教に入る道ではあるけれど、本当の宗教
ヘヘへいのち
ではないわけです。宗教の根本は、いのちこのままが有り難い。生命が生きているのが有
ヘヘへ
り難いな、いのちは、一なるものと外界が結びついて、一つになって生かされているんだ
なあということです。そこへ行くと、初めて人間がわかる段階に入るわけです。
ヘヘヘヘへ
人間というものは、あらゆるいのちが自分の中に生きていて、自分に必要なものをいの
ヘヘヘへ
ちが吸収してくれて生かされているんだ、ということになる。自分のいのちというものは
常に外界から与えられ、新陳代謝して生かされているわけです。そうすると肉体というも
のは、自分のものであって自分のものではないのです。
肉体を、これは自分のものだ、というけれど、自分のものじゃなくて、その存在は、空
せいせいせい
気のものであり、水の所為であり、食物の所為であり、すべての所為によるものです。そ
して毎日毎日、瞬々刻々と肉体を創りかえてくれている。だから自分のものというのは一
つもないんですよ。そこに想いを至さないといけない。
“自分のもんじゃないんだな、ああこれは宇宙のものなんだな、大生命の分かれた生命
がここに仮に、ナンノ誰がしという自分という形で現われているんだなあー。ああそうだ
18
自分というものは、大生命の中から生かされているんだな、神さまに生かされているんだ
な、大生命によって生かされている。有り難いなー、大生命さまありがとうございます。
神さまありがとうございます。宇宙万物ありがたいなあー”という感じにならざるを得な
いと思うんですよ。
● 自己を知る実際的方法
私たちは子供の時から、ありがたいなあ、ということで生きてましたけれど、唯物論的
な人はそれが有り難くないんです。「なんで、凡、俺は生まれたくなかったのに、勝手に産み
やがって、オヤジとオフクロがいい加減なことをしやがって」そういって文句をいってい
る奴があったら、死にゃいいんだ、といいたくなる。死んでみたら先はどうなるか、死ん
でみるとわかる。
要するに一番の愛は何かというと、現世的に不幸がないほうがいいとか、苦しまないほ
うがよいとか、という愛情は勿論必要だけれども、それ以上にもつともつと必要なのは、19汝
自
身
を
知
れ
大神からつながっている永遠の生命、本当の自分というものを知らせることなんです。本
当の自分というのはどういうものなのか、知らせることが一番の愛です。
子供に知らせるには親が知らなければならない。人に知らせるには自分が知らなければ
ならない。それには理屈でいってもだめだし、頭の中で知ってもだめだ。心の底から、あ
あ、そうなんだとわからなければいけない。
人間は神の子だ、と聞かされます。ああ、そうかなあと頭で思うけれども、実際には思
わないんだな。行ないと頭とがチグバグになっている。よく宗教学の知識が頭に一杯つま
っていて、何でも知っている人があります。ところが行ないがちっとも出来ない人がある。
要するに、神は大光明であり、完全円満であって光り輝いているもんだ、と頭でわかりま
す。ところが行ないとしては、いつも暗い顔をしている人もある。
では実際に出来る方法は何か、というと、今まで、肉体人間として生きてきた、何生も
かけて生きてきた、そういう習慣の想いをなくすことなんです。人間は肉体なんだ、とい
くへつ
う想いを頭だけじゃなくて全部から無くさなければならない。これを仏教的にいえば”空
むいな
になれ”とか、老子がいえば”無為にして為せ”ということになるわけです。
20
ところが、なかなか空になれませんでしょ。そこで私は消えてゆく姿なんだ、今、現わ
かこせ
れている想いも、すべての行ないも、善いことも悪いことも、すべて過去世の因縁(習慣)
が現われて消えてゆく姿なんだ。善いことが現われてもそれは習慣の現われなんだ、悪い
とら
ことが現われても習慣の現われなんだ。だから、善いことにも悪いことにも、すべて把わ
れないで、一つの形にはまらないで、そのまますべては消えてゆく姿なんだ、といってい
ヘヘへ
るのです。あるものは何かといったら、大神さまのいのちだけなんだ、自分の本心、本体
だけなんです。
へ
本体というのは、宇宙に満ち充ちているいのちなんです。五尺何寸の自分じゃなくて、
太陽と同じように光り輝き、宇宙に遍満し、どこにでも一瞬に行けるという、もの凄いス
ピードのある光体なんです。自分は光なんですよ。それを忘れちゃって、肉体の習慣がつ
いていますから、肉体だーと思いこんでいる。自分というのはこういうものだ、とみな思
っている。私はそんなこと思ってないんです。
21汝自身を知れ
22
● 習慣の想いで動いていてはダメ
私は、皆さんの目で見れば五尺何寸かのこういうものでしょ。ところが、ズーッと奥の
奥の奥の奥の奥のほうの大光明なんです。大光明が便宜上、ここに肉体のような形を現わ
しているということを、私はハッキリ知っているのです。皆さんもそうなんです。大生命
からつながって、ただ単に肉体のような形をして現われているだけなんです。地球界に地
上天国を創ろうと思って仮の姿で現われている。仮の姿なんですよ。お坊さんのように仏
教的に学問的に教わっているんじゃなくて、私は本当に知ってるんだね。
ここに形に現われてないと、この地球界は救えないから、仮に五尺何寸という形で現わ
れているだけで、ここは神さまの光が現われる場所なんです。それなのに、神さまの光を
現わさないで、好きだとか嫌いだとか、こうだとかああだとか、自分でこうしたい、ああ
したいとか、そういう想いの習慣だけが現われて、ぐるぐるぐるぐる回っている。どんな
名案もどんな悪い想いも、それは習慣の想いが消えてゆく姿ですね。
消えてゆく姿をどこへやればいいか、といったら、祈りの中に入れる。「世界人類が平和
まっと
でありますように、そのために私を生かし給え、私どもの天命が完うされますように」
ハだヨ
すると世界平和の大光明が入ってきて、悪い習慣をどんどん消してくれるわけですよ。習
慣の想いで動いているうちはだめです。習慣の想いを、神さまの自分が使わなければ。
神さまの自分が使うとなると、にこやかにする時にはにこやかに、強くする時は強いも
のをサッと現わす。激しい時は激しいものをパッと現わす。その場その場に応じて、自由
こう
自在に想いを使うことが出来るんです。ところが本体から使わず、業の習慣の想いだけで
やっていると、にこやかなのはにこやかだけ。優しいのは優しいだけ。激しければ激しい
だけ。四角ばっていれば四角ばっているだけ。弱い人は弱いだけ。というふうにしか生き
られないんです。業のままに動かされてしまう。
その場その場に応じて、自由自在に心が動けるようにならなければならない。そうなら
げだつぶつぼさつ
ないうちは、本当に解脱したというわけにはいかない。仏菩薩の境地が現われているとい
うわけにはいかない。
オレは固い性質だ、だから曲がったことは嫌いだ、といっても、曲がったことをしない23汝
自
身
を
知
れ
で生きられるか。この世の中で曲がらなければ生きられないでしょう。例えば誰かと付き
合うのに、向こうは曲がった生き方をしている。そういう人と話し合う場合に、その曲が
った中へ入っていくこともあるし、あるいは曲がったのを直してやるために、強く揺り動
かして真っ直ぐにさせなければならない生き方もある。その場その場で生きなければなら
ない。それは自分の業の頭じゃわからないんです。だから本心のほうで心を左右しなけれ
ばならない。
24
●
かえ
すべての想いを一度神に還そう
本心のまま、神のみ心のままに動くにはどうしたらいいかというと、また話は元へ戻っ
てくるけれど、肉体の自分というものが自分だという想い、肉体の想いが自分の考えだと
いう想いを捨てなければだめなのですよ。捨てる方法は何かというと、消えてゆく姿で世
界平和の祈りなんです。
ああ、いい考えが出たけれど、これを神さまの中へ一遍入れましょう、と世界平和の祈
りを通して入れ、そして改めて行動するのです。そうすると、今までいい考えだなあ、と
思っているのが実はそうでもない場合もある。悪い考えだなあと思っているのが、実はそ
うでない場合もある。逆の場合もあるんです。だから常に常に、自分の想いを世界平和の
祈りの中に入れておくんですよ。入れたままで動き出すんです。そうすると、ピーンピー
ンと神さまのみ心そのままが現われてくるんです。それで、これじゃ損をしたかなと思っ
てもいいんです。パーッと叱ってもいいんです。本来優しい人なので叱っちゃいけないか
な、と思っても、後になって、それがその人のためになることもある。
だから、いつもいつも自分の想いを、どんな想いでも、一遍世界平和の祈りの中に入れ
て、それから出直しなさい。それが世界平和の祈りの功徳なんです。
大体人間は、善いことをするにしても損得勘定でいく。例えば世界平和の祈りを祈る人
の数をうんと増やせばいいだろうと思う。多いほうがいいに決まっているからね。しかし
やたらに増やそうとしても、逆になる場合もある。増やそうと思わなくとも自然に人が入
ってくる場合もある。だからどっちがいいかわからないでしょ。そうしたら自然に行なえ
ギ0 、、o
` レレ
25汝自身を知れ
子供に小言を言おうと思っても、感情でもって小言を言ってはききません。感情が出て
も、一遍世界平和の祈りの中に入れて、それでまだ叱りたかったら叱ればいい。叱りたく
なかったら叱らなければいい。というふうに、いつもいつも想いを世界平和の祈りの中に
入れて、出直す。そうすると、肉体人間の想いでなく、本心の想いになっていくわけです。
26
● みんな神の子なのです
本心というのは神そのものです。
何も私だけが神の体であるわけじゃない。みんな神の子、神の体なんだ。ただ私はそれ
を身も心もすべてで体得し、知り切っている。だから「我はキリストなり」と平気で言え
るのです。ところがみんなキリストなんです。キリストとは真理のことです。みんなキリ
ひとつき
ストの時があるのです。一時間キリストか一日キリストか、一月キリストか知れないけれ
ども。ただキリストが続かないんです。続くようにならなきゃだめですね。
それにはいつもいつも祈りを続けることです。神さまから離れて自分の想いが出たら、
祈ることです。
むいなため
老子は”無為にして為せ。為にするな。こうしようああしようと思ってするな。そうし
てやることは枝葉のことで、大したことはないんだ”というんですね。そのままスーッと
やりなさい。それがわからないでしょ。考えなければ何も出来ないじゃないか、と思う。
ところが本当に本心の中に入り、祈りの中に入ってしまうと、何事も自然にいくのです。
一つも無駄がないんです。スーッスーッと動くこと、しゃべることが、ちゃんと世界平和
のためになり、自分の平安のためにもなるような生き方が出来るんです。
一遍この肉体の想いを無くすことが大事なんです。それを昔の宗教家は口を酸っぱくし
て、坐禅をしたり滝行をやったり、山へ籠ったりいろんなことをして教えたわけです。と
ころが難しすぎて出来なかった。
今になってみると、消えてゆく姿、とわかった。”現われてくるいい考えも悪い考えも、
恨み心も愛の心も、すべて消えてゆく姿なんだなあ、在るものは天地を貫いた生命の流れ
なんだなあ、その流れの中に自分の天命があるんだから、そのままいけばいいんだなあ”
ということになる。
27汝自身を知れ
いいかえれば、あらゆる想いが出、明暗が出てきても、一遍世界平和の祈りの中へ入れ
てしまって、そこから生活も何も一歩を踏み出す。そうするとすべてが自然、自然に為す
ことが出来る。それが無為にして為せ、なんです。だから消えてゆく姿で世界平和の祈り
の中から無為にして為せ、という老子の教えがそのまま行じられてくるわけです。
(昭和38年10月)
28
まっと
(注1) 「世界人類が平和でありますように日本が平和でありますように私達の天命が完うされま
しゅごじん
すように守護霊様ありがとうございます守護神様ありがとうございます」という祈り。なお、
守護霊守護神とは、人間の背後にあって常に運命の修正に尽力してくれている各人に専属の神霊。
ひじりがおかびゃっこうしんこうかい
(注2) 千葉県市川市中国分にあった聖ヶ丘道場。白光真宏会の本部が富士聖地に移転したため、一九
九九年三月、閉場となる。
(注3) 世界平和の祈りは、五井先生と神界との約束事で、この祈りをするところに必ず救世の大光明
が輝き、自分が救われるとともに、世界人類の光明化、大調和に絶大なる力が発揮される。
人間は光そのもの
●ー間の本体を証明した霊光写真
わけいのち
人間というものは、本来、神の分生命であって、光そのものです。ちょうど太陽の光の
ようなものであるのです。これはいくら言葉でいっても、実際、肉体がこうでしょ、だか
らこれ(肉体) が光である、と思う人はなかなかいないのです。
そこで、これから私に新しい宗教をはじめさせようというんで、神さまは島田重光君の
守護霊さんと、島田君の体を通して霊光写真を写させたわけなのです。霊光になった写真
というのは滅多にないのですね。インドあたりで仙人というか行者というか、そういう人
29人間は光そのもの
霊光写真
ものを写すわけですが、現在、肉眼で見えていないものがどうして写るか、
真の目というものは非常に微妙なんですね。肉眼はごまかされても、
ない、ということがよくあります。ヴァイブレーションをもつと細かく守護神のほうから
あんばい
塩 梅しますと、本体が写るわけなんです。
それは何故かというと、あらゆる現われているもの、人間も物質も想いもすべて波動な
たちの中で光そのものになる、と
いう話は聞いています。しかし実
際に残っているものは何一つない
んです。世界中にないと思うんで
す。
人間の本体は霊の玉なんだ、霊
光なんだ、ということが島田君の
手を通して初めて明らかにされた
わけなんですね。写真はこの世の
というと、写
写真の目はごまかせ
30
んです。肉体も波が現われているにすぎない。確固たる固体のように見えますけれど、実
は固体ではなくて波動体なんです。だから肉体の波動体の内側に、幽体という波動体もあ
れば霊体という波動体もある。つまり波動の微妙さが違うわけです。
あら
いつもいいますけれど、霊体は微妙な波動、幽体は霊体より少し粗い波動、肉体はもつ
と粗い波動です。ふつうの場合は、五感の目というのは粗い体だけを見る、手でさわる、
舌で味わう、耳で聴く、そういうのを五感といいます。六感というのは、幽界の波動、も
うちょっと微妙なところを感じるもので、犬などそうですね。
たとえば露地の突き当たりの家に犬がいる。その主人が露地を曲がろうとする時にもう
わかって、ワンワン吠えて迎えに出ている。あれは六感ですよね。肉眼で見ているのでは
ない、鼻で匂いをかいでいるんでもないんですね。六感なんです。犬をはじめ動物という
のは非常に六感が発達している。
とら
肉体の人間も昔は六感が発達していたんだけれども、肉体のほうにあまり想いが把われ
すぎたので、肉体の五感の感覚しか残らなくなって、六感が非常に鈍感になってしまった
わけです。しかし六感を感じる能力はあるわけです。それが微妙になってくると霊感にな
31人間は光そのもの
るし、神さまの世界のことを感じられるという形になってゆくわけ。
32
● 想いを本体のほうに向ける
皆さんはこの肉体のことを思いわずらいますね、病気になれば肉体のことを思いわずら
う。けれど本当は思いわずらっても仕方がないわけで、肉体の波動が出ている元、いわゆ
る神さまのみ心、霊光写真の霊光の中に想いを向けていればいいわけなんです。もっとい
いかえますと、自分の本体は神さまなんだ、自分は霊光写真のように霊光なんだ、いつも
光り輝いているんだ、自分は神と一つのものなのだ、というふうにいつもいつも思ってい
ればいいわけ。
何か、自分は五尺何寸の人間で、そこから自分がはなれない、というような想いがあり
とら
ますと、どうしても把われてしまうんです。私はいろんな人の想いを受けているわけです
ね。二十何年かたっています。つらかったら私を思いなさいってやっています。こういう
バカな人はいませんよ。ふつうは神さまを想いなさい、といいます。あるいは観音さまを
想いなさい、キリストさまを想いなさいって、自分とは関係なく、想いを神さまやキリス
トさまのほうにやるわけです。ところが神さまというのはなかなか遠い。本当は近いのだ
けれど遠いんです。
どうして遠いかというと、肉体の波動の中に自分がいるわけです。神さまは幽界・霊界・
神界とズーッと微妙な微妙な光の中でしょ。だから波としては非常に遠いんです。神さ
ま! とただいうんじゃとても遠い。距離がありすぎるわけです。地球から太陽系のもつ
とも遠い星の一番中心を見るようなもので、遠くて手が届かない感じがする。そこでキリ
スト教ではマリアさま、イエスさまを通して、ということになり、仏教や神道では観音さ
まとかお不動さまとか天照大御神さまといって、何々さまを通して、神社仏閣を通して救
われようとするわけです。ところが実際問題として、神社仏閣の神々、仏たちが救ってく
れるかというと、こちらの想いが余程強くないと、なかなかそこまで届かないんです。そ
れで私のような人が現われて、サァ私を想いなさい、五井先生を想いなさいといい出した
わけ。
想いなさいというから皆さん想うわけですよ。想いというのは一度この肉体を通すわけ
33人間は光そのもの
さんがい
です。それから神さまの中ヘスーッと入ってゆくわけです。この肉体は皆さんと同じ三界
の世界、五感の世界にいるわけでしょ。だから近いです。想いはすぐ通ります。イエスさ
んキリストさんといったって、見えないからキリストさんどこだろうって想いがなかなか
達しないんです。自分のお母さんっていえばお母さんがわかっています。身近ですよね。
だから実際この世の中にいる五井昌久という人に会った皆さんは、五井先生っていえばす
ぐ思い浮かびます。想いがすぐ近くへ来るわけです。
34
● 五井先生の側に想いを移す
病気なら病気の想いがある。悩みなら悩みの想いがある。貧乏なら貧乏の想いがある。
そこで五井先生っていうとパッとこちらへ移ってくるわけです。そうしますと皆さんの病
念とか貧乏の念とか不調和の念がこちらへ移って、皆さんのほうは少なくなるわけです。
二つ袋があって、片方の袋の空気が他方に移ると片方の袋はしぼみます。そういうように、
皆さんの中にある病気の想いとか貧乏の想いとか悩みとかいうものが、五井先生1 とい
う場合には、つい身近にあるもんだから、すぐこちらヘスーッと入ってくる。皆さんのほ
うがスーッとしぼんで少なくなる。それだけ皆さんがよくなるわけですよ。こちらへ一遍
もらうわけです。
貰いっ放しだったら私は死んじゃうわけです。肉体は皆さんと同じ立場にいるでしょ、
だから貰いっ放しだったら死んでしまうんだけれども、こちらは幸いに島田君が写したよ
うに霊光です。ですから貰ったとたんに光の中へ入ってしまって、光の中でパーッと浄化
されてしまうんです。しかし二十年も三十年もやっていますと、浄化されながらも少しず
つ残るものがあるんです。光の体だからすぐ消えてしまうけれども、つねに三六五日、い
つでもカラッと晴れた、なんにも病気がないということはないんです。病気というんじゃ
ありませんよ。気が病まないんだから。風邪をひいたり、下痢したり、喘息みたいになっ
たり、何かしらあるんです。皆さんが思わないことはありませんから、ひっきりなしにパー
ッと来る。それが霊光の中でパーッと浄められてゆく。すごい力で浄められてゆく。
私がいつもいいますが、イエス・キリストは一遍に十字架にかかったけれども、私は一
生十字架にかかっているんだ、というのがわかりましょう。その代わり皆さんの想いをこ35人
間
は
光
そ
の
も
の
こで浄化している。「人の道」でいえばお振り替えという形になっているわけですね。けれ
どそれが私の天命だし使命だから、別にどうとも思いませんけれど、たまたま苦しい時も
あるし、痛い時もあり、いろいろあります。ただ私は感情に把われることがないから、皆
なぐ
さんの、短気で、こん畜生、亭主を撲っちゃおう、女房を追い出しちゃおう、なんていう
想いが来ても、別に私にはさわるような感情がありませんから、スーッと消えてゆく。い
こう
ちいちそういう感情でくるのではなく、業の雲として黒雲みたいにかかってくるわけです。
かかるとスーッと光る。また曇る、光る。曇る光る、これを常に繰り返しているわけです。
幸いに私は霊光なんですね。だから参らないんです。これが光でなかったら参ってしま
う。一つところに残るものが溜まって、どうしようもなくなって、要するに行者の野たれ
死にというようになる。行者さんはやっぱり自分が受けちゃうんです。受けても浄化でき
ないから、だめな運命になって死んでしまう、ということが多くあるわけです。だから私
みたいに”私のことを思いなさい”なんていう形をとることは、本当に危険なんです。危
険も危険も大危険なんです。けれどそれが私の天命だから、そういうふうにして出てきた
わけです。
36
● 感謝の中で光に転化
今度はそういうことばかりでなく、世界人類が平和でありますように、という世界平和
の祈りのほうに転化してゆくわけです。だんだん祈り言に高められてきた。初めは五井先
生だけ思っていた、それがだんだん教えの中に転化してきた。それで世界人類が平和であ
りますように、守護霊さん守護神さん有難うございます、という祈りに入ってきた。
世界平和の祈りというのはどういうことかというと、その根源は救世の大光明です。
神々聖霊の光がみんな集まったところなのです。そこヘスーッと直接行ってしまえば、
パーッと消えるわけなのです。だから守護霊さん守護神さん有難うございます。世界人類
が平和でありますように、とスーッと行けばいいですね。感謝の想いというのは光なので
こう
す。助けてください、というのは業の想いですね。苦しいんです五井先生1 助けてくだ
さい守護霊さん、といえば黒雲が五井先生のところ、守護霊さんのところへ行くわけです。
それによって助かるんですよ。だからそれもいいんです。しかしもっといいのは、世界平37人
間
は
光
そ
の
も
の
和の祈りとともに守護霊さん守護神さん有難うございます、五井先生有難うございます、
といつも感謝の想いが加わっていると、感謝した時に業がそのまま消えていくのです。
感謝は光なり。だから、貧乏でも病気でも、いやな事柄でも一番早く消したいなら、感
謝することなんです。ああこの病気に現われているのも、この病気の姿は過去世の因縁が
軽くこれで済んでいくんだ、この病気の症状によって消えていくんだ、有難うございます、
という形ですね。それで守護霊さん守護神さん有難うございます、と感謝し、そのお礼と
して、世界人類の中に自分もあるのですから、自分の幸せもこめ、自分の平和もこめて、
世界人類が平和でありますように、と祈るわけです。そうすると、誰もが苦しまないで、
守護霊さん守護神さんさえも苦しまないで、みんなが平和になってゆくわけです。
一番初歩の段階とすれば、私のような肉体を持った人の所へ想いを集めて、それで消し
てゆく。第二段階としては守護霊守護神の中へ入って消してゆく。第三段階としては、守
護霊守護神に対する感謝、あらゆるものに対する感謝の中で消していただく。そうすると
守護霊守護神の光が余計に入ってくるんです。守護霊守護神さん助けて、も勿論いいんで
すけれど、有難うございます、よろしくお願いします、と感謝する時に感謝は光だから、
38
そこで黒雲の想いがずいぶん消えるわけです。
たとえば不平ダラダラ、守護霊何をボヤボヤしているんだ、オレを助けないか、という
調子。守護霊がついているというのに、何だお前、助け立ちに来ているのに何やっている
んだよ、おれをこんなに苦しめてどうするんだ、という調子では業の黒雲をますます増し
てしまいます。守護霊さんがせっかく光をふりまいても、光が曇っちゃいます。それを過
去世の因縁の消えてゆく姿だ、守護霊さんいつも守ってくださって有難うございます、守
護神さん有難うございます、といえば、一杯に業があったものが、感謝する時にスーッと
消えてゆくわけです。その消えた分だけ、守護霊の光が余計に入るわけです。それですか
らうんとたくさん、そして早く消えるわけです。
だから自分にいかなる不都合なことがあっても、いやなことがあっても即座に感謝でき
れば、一番早く業が消える。即座に出来なくても、ああこれは消えてゆく姿だな、と思っ
て徐々にやっても感謝のほうへ向けていけば、そうすれば守護霊守護神の力も余計に入っ
てくるというわけです。
39人間は光そのもの
40
● 自分たちがやることは何?
本来は、皆さんは霊光写真と同じように光なんだから、本当は自分で浄めることが出来
るわけです。ところが何遍も何遍も生まれ変わり死に変わりして、業がたくさんたまって
いますから、肉体の人間だけがいかに”正しいことをしなさい””おこってはいけないんで
すよ” “悩んではいけないんですよ””臆病心を出してはいけません”といっても、臆病の
想いは出てくる、短気は出てくる、不安は出てきます。これは業だから出るなといっても
出るんですよ。想いというのは録音テープが回っているようなものですから、私は出すな
とはいいません。
出てきた時が一番大事な時で、過去世の因縁が消えてゆくんだなあといって、守護霊守
護神に感謝して平和の祈りの中に入れてしまいなさい、というわけです。そうすると知ら
ない間に消えてしまう。ですから、自分たちがやることは、自分の本体は光である、守護
霊守護神さんも光なんだ、すべて本体は光なんだから、本体の中に、光の中にいつも自分
が入っていれば、自分は常に光につつまれているんだから、自分の潜在意識にある業とい
うものはいつか消えてしまうんだ、という気持ちで”守護霊さん守護神さん有難うござい
ます。世界人類が平和でありますように、皆さん有難うございます。ありとしあらゆるも
のはみな自分のためにあるんであって有難うございます” と感謝することです。そうする
と一番いいですよ。
● 一遍にスーッといい世界が
この世の中はマルキシズムでいけば、唯物的で弁証法の世界です。Aというものが出れ
ば今度Bが反対というふうに現われる。そうしてそれが次には重なって大きくまざった一
せい
つのものが現われる。それがまた分裂してA になり、B になり、また重なってゆく、正・
はんこう
反・合という展開をしてゆくというのを、唯物的弁証法といいます。
さんがいゆいしんしょげんりんねてんしょう
この世界というのは仏教でいえば、三界は唯心の所現という世界で、輪廻転生してグル
グル回っている世界なんです。これではいつでも強いものが弱いものを負かし、また負か
41人間は光そのもの
されたものはまた力をつけて、相手を負かし、年中戦争、争いの絶え間のない世界になる
くしつ
わけです。それではダメだから、お釈迦さまはそうしたものを超えるために「空」の世界
しきそくぜくうくうそくぜしき
に到達したわけです。色即是空、空即是色になっていった。
あくまで、この世界を本当に立派な世界にするためには、この弁証法的な輪廻転生する
三界の世界を、心の世界が先にぬけなければダメです。そのために宗教があるわけなんで
す。しかしそんな面倒くさい理屈をいっていたんではわからないから、私は”消えてゆく
姿で平和の祈り”という簡単なことをいっているのです。
消えてゆく姿というのは、三界のいわゆる弁証法的な世界は消えてゆく姿だから、どん
どん消えてゆく姿にして、それに把われないで、想いを高くして、実在の世界にもってい
ってしまうわけ。そうすると神さまの世界、心の世界に入ってしまう。入ると心の世界の
完全なるものが弁証的に反復して出るんじゃなくて、一遍にスーッといい世界が現われて
くる。誰も彼もが幸せになる世界が出てくるわけです。
レしく
片方が得して、片方が損する世界ではダメですね。損したほうが得したほうを恨みます
から、これは半端で不公平でしょう。そういう不公平な世界がこの世界でしょう。これで
42
は真実の平和、真実の幸福ではありません。真実の幸せにするためには、誰も彼もが幸せ
にならなければダメなんです。
誰も彼もが幸せになるためには、一遍この世界を消えてゆく姿にして、なくしてしまわ
なければいけない。なくすといったって、革命でぶちこわせば、また同じ世界が出てくる
でしょう。だからわれわれは革命ではなくて、この世界を一遍消えてゆく姿にしちゃって、
ぷつこくど
全部が高い次元の世界にいってしまうわけです。それでもって、仏国土、地上天国を創る
わけです。それにはやっぱり平和の祈りがなければダメだ、みんなが幸せでありますよう
に、みんな平和でありますように、という祈りがなければ出来上がらないーそういうこ
とです。(昭和45年1 月)
43人間は光そのもの
うつわ
肉体は器
44
● 誰が生きているのか
人間は本来、神の子なのですが、この世は因縁因果で出来ている世界です。ですから、
こう
人間は神の子だけれども、肉体の世界に現われると、因縁因果の業の波の中で生きるわけ
です。人間の本来性をどうやって業の波の中で輝かしてゆくか、うまくやるかというと、
それは守護霊守護神にまかせ切ることです。守護霊さん守護神さんと一緒になっていれば、
必ず自分は幸せになる、という気持ちを深く深く信念として持たなければなりません。
私がこうなったのも、初めはただの人間です。当たり前の五井昌久で、当たり前の青年
できたわけですよね。ところが三十歳ぐらいの時に、終戦後ですが、すべてを神さまにま
ヘヘへ
かせてしまったわけです。いのちを神さまにお返しします、何卒、世界人類のために使っ
てください、といって投げ出してしまったわけです。そうしたら変わっちゃったわけね。
もう五井昌久という青年はいなくなった。
いなくなったのに生きているんですね。いなくなったのに同じ人間がいて、生きている。
その時から誰が生きているかというと、五井昌久という肉体にいた霊魂が生きているんで
ちょくれい
はなくて、それはもう天に帰ってしまった。直霊の中に帰ってしまって、直霊さんがその
まま入ってきて、天と地をつないでいくようになったわけです。
直霊さんだけが生きているのではなくて、直霊というのは神さまの元の光ですから、直
わけみたま
霊からの分霊になった守護神守護霊、この世を救おうとする救世の大光明の神々が、肉体
を支えて、肉体を使うことになったのです。
なる
この間も、宇宙子科学の勉強をしていますと、宇宙子科学の神々がいらっしゃるわけで
す。その宇宙の神々というのはそれはものすごいものでして、大神さまを中心にした拠点
があります。一番高く一番中心です。そこにいらっしゃるわけです。イエスさんもお釈迦
45肉体は器
さまも、みんなそこから派遣されて肉体に宿り、それで道を説かれたわけですね。だから
イエスさんもお釈迦さんも老子さんも、みんなその一番中心から来た人なのです。その中
あめのみなかぬしのおおかみ
心のまた中心がありまして、それを天之御中主大神さまという。宇宙神ですね。宇宙神が
いろいろな神々に分かれて働いているわけです。
46
●- 中が入れかわる
中心の宇宙神に近いほうが偉い、というとこの世的でおかしいけど、偉いんですね。要
ヘヘヘヘヘへ
するに古いいのちといいますか、老子さんよりお釈迦さまより古いいのちがあるわけです。
へ へ
その古いいのちが宇宙天使の集まりになっているのです。
ヘへ
その宇宙天使の一番古い長老が私に「あなたはもうすでに、とっくの昔にいのちはない
ヘヘへ
人です」といってくるのです。私はそれを知っています。肉体の人間としてのいのちを一
遍すててしまって、肉体の人間としてまた帰ってきたわけでしょ。自分の分霊が返ってき
たのではなく、直霊と一つになって、他の神々が守っているわけなのです。五井昌久とい
〆
こうしょう
う三十歳までの肉体の人間がいましたね。その癖とかいわゆる業生の生き方があるでしょ。
面白かったり、短気だったり、情が深かったりいろいろあるわけです。その想いというの
そば
は傍に置いてあるのです。それで神々が入っては、それを使い、こうやって昔の私のよう
な格好を出すわけね。そうじゃないと親兄弟を忘れてしまいますからね。
「やあ今日は」「誰だ、あなたは?」「俺はお前の兄貴だよ」「知らない」
こうなっちゃうわけ。イエスさんはそれをやりましたね。イエスさんのお母さんマリア
さんが、イエスさんがあまり予言をするからこれは気狂いになったと思って呼びにゆくわ
けです。群衆がイエスさんに「あなたの親兄弟が来た」というと「われその女を知らず」
「わが親兄弟って一体誰か」といっています。道を求める人だけを知っている、道を求め
ている人が親兄弟である、お母さんでも道を求めない人は知らない、というわけです。
ということは、マリアの子供のイエスではなくて、神の使いとしてのイエス・キリスト
がそこにいるわけね。だからマリアを知らないわけです。それと同じように、私が前の想
いというものを使わなければ、兄弟が来たって、先輩が来たって、「われはお前を知らず」
とやるわけです。それではこの世がおかしいでしょう。五井さんとうとう気狂いになった
47肉体は器
と思うからね。そこで今まで使っていた想いを神が使って、ああ、あれは兄貴だな、あれ
は母だったな、あれは妻だった、とこう思う。直霊と一つになったばかりの時は、妻はな
かったけど、恋人だったか、と思い出すわけね。
肉体の人間の器がここにあっても、中味は変わります。中味の魂が入れ変わっても、肉
体の人間の在り方は同じなんですよ。ただ性質とか行ないとかは、まるっきり違いますけ
れど、想いの使い方や癖などは同じに現われるわけです。だから皆さんの中ででも、一遍
前の自分が霊界神界へ行っちゃって、違う人が司ってやっている人があるわけです。
48
●l 11 11 肉体は器
大体、人間というものは三種類あって、一つの魂がそのままま一つの体で生きている人
と、混合霊といって、いろんな魂が三つも四つも集まって、それで一つの肉体で生きてい
る人と、大きな魂が半分に分かれてそれで生きている人とあるわけです。人間は簡単に一
人だ、と思っていると違うのです。霊の光の集まり方が違うんですよ。ですから、肉体は
器ですから、この器を自分一人のものと思ってはいけないんです。それをこの間、宇宙天
使の長老からいわれたんです。
「あなたはよく知っていらつしゃるけれども、もう一遍改めて思ってください」という
わけですね。「あなたは神さまが肉体に来て働いていらつしゃるのを勿論ご存知だけれど
も、肉体の人問としてのあなたを、もう一遍捨てなさい」というのです。
ということは、私は肉体人間としてとても情が深いわけです。だから当たり前の人間の
ように、あの人もかわいそう、この人もかわいそうって、すぐかわいそうになる。近頃は
人に会えませんでしょ。会わないとかわいそうな気が年中しちゃうのです。いちいち肉体
人間として思うんですよ。
ところが私が肉体として会わなくたって、こちらにいる神さまがみんな光を与えている
わけです。五井せんせい1 と思った時、もうこっちから光が行くわけね。手紙なら手紙
を出した時、もう光がその人に行っている。だから肉体に改めて会わなくたって同じなの
です。光が行っているからね。ただ想い方によるんですよ。
近くの人は、ここへ来ようと思えばいつでも来られますから、がいして想い方が弱いの49肉
体
は
器
です。九州や北海道にいる人、海外にいる人は遠くて、会いたくても会えないでしょ。だ
から五井せんせい、と思うと、会ったと同じぐらいの強さでくるわけです。会いたいとい
う想いが深いから、ピュッとくるわけ。ですから来られる人は来られるからいいんだけれ
ども、会えない人でも想いが強ければ会ったと同じになるのです。何故かといいますと、
神は光ですからね。
そういうことをもう一遍認識しろ、といわれちゃったのですよ。なるほどそうですし、
そんなことは知りきっているのだけれど、情のほうが深いものだから、ああ近頃ちっとも
みんなに会わないで悪いなあ、気の毒になあっていつもいつも思うんですよ。そしたら、
会っているではないか、ただ顔を会わせないだけではないか、といわれてしまったわけ。
そういう盲点が私にもあるわけね。
「あなたは肉体でもなければ、この世に生きているのでもない、あなたはとっくに死ん
でしまっているのだ」というわけです。あなたはすでにこの世にいない人なんだ、という
のはどういうことかというと、神々が私の持っていた器を使って、ここに働いていらつし
ゃるんだ、肉体人間の五井昌久なんて、とっくにいないんだ、とまた改めて宇宙天使のほ
50
うからいわれたんですよ。まことに、まことに、と思いましてね。そんなことは知りきっ
ていることだけれども、あんまり肉体人間に慣れすぎますと、やっぱり肉体人間の感じが
してくるんですね。
●1 -l Il 肉体構造が違ってる
何故こんな話をするかというと、世界平和の祈りをしなかった以前の皆さんと、何回も
何回も何年も祈りをつづけている皆さんとは、肉体の構造が違うんですよ。唯物論者の肉
体とあなた方の祈りに徹した肉体とは、その波動が全く違う。皆さんのほうが微妙で、ズー
ッと高い世界に住んでいるんです。それを認識しなければいげません。
私が宇宙天使にいわれたと同じように、あなた方も自分の肉体が、祈りをはじめてから
は、昔の肉体よりはるかに霊妙で、素晴らしいものなんだ、ということを深く思わなけれ
ばいけません。昔の自分と祈りに祈った今の自分とはまるっきり高さが違うんだ、という
ことを深く深く認識してください。そうしますと世界が変わります。51肉
体
は
器
小さな、つまらないことが気にならなくなります。隣の奥さんが何いった、あの人にあ
れだけしてやったのに、私にちっとも礼をいわないとか、私をたてないとか思うでしょう。
夫が”ただいま”もいわなかったとか、なんだかんだと、いろんなつまらないことを思っ
ていますね。そのつまらないことは、過去の自分のものであって、今の高い境地の自分に
は関係ないんだ、自分は相手がどうあろうと、ただ愛を行じて、みんなのために奉仕して、
みんなのために尽くせばいいんだへと思ってください。
高い人ほど尽くすんですよ。高い人ほど犠牲精神が多いんです。低い人ほど犠牲精神が
少ないんです。自分のことばかり考え、自分のことばかり思っている人は低い魂なのです。
高い魂の人は犠牲精神が非常に旺盛なんです。イエスさんなんかそうでしょう。大犠牲で
しょ。私なんかも年中身をさらしてやっています。みんなの想いを引き受けては、それを
浄めているのですからね。
ですから皆さんは、自分は高い魂になって、肉体も微妙になったんだから、人のつまら
ないことは気にしないで、ただ一生懸命、人のために尽くしましょう。世界が平和になる
ように、みんなが仲良くなるように、日本が平和であるように、すべてが立派になるよう
52
に、そういうふうに、一日一日を祈力っづけていこう、という気持ちを深くふかーく持っ
てください。(昭和47年2月)
(注4) 宇宙子波動生命物理学。一九五七年から宇宙天使の指導のもとに始められた調和の科学。
53肉体は器
第
2
章
すべては完全円満に向かってのプロセス
神が完全円満であるならば
56
う質
か問
0
神が完全円満で全智全能ならば、なぜ、人間に悪や苦しみや悲しみがあるのでしょ
● 設計図と建築中のビル
これは宗教をやって、しかも光明思想に入った人が、みんな疑問に思う問題です。全智
わけいのち
全能で完全円満な神さまの分生命として生まれてきた人間ならば、やはり全智全能でなけ
こう
ればならない。どうして業ができたのか、とこう思うわけです。これはいくら言葉で説明
されても、わかるような気がするだけで、本当にわかるのは体験を経てみないとわからな
い。一応説明しましょう。
例えば、一つの絵にしても、彫刻にしても、建築にしても、全部出来上がって初めて、
ああこういうものだったんだなとわかるわけです。中途で柱が四本建っている、床が少し
敷いてあるというぐらいでは、どんな家が建つのかわからない。設計図を見ればそこに出
ているわけだが、実際にはどういう家が建つかわからない。まだ未完成なわけです。だか
ら、これは未完成だ、駄目だとこう見るわけです。ところがある期間を経ると、それが立
派な家になり、立派なホテルになっていくわけです。人間もそれと同じなわけです。
神さまは完全円満な超越した波動、神秘不可思議な微妙な波動で、一瞬にして、例えば
神、光あり、といえばさあーっと光が現われてくる。神がこういえばパッとその通り現わ
れてくる。天地分かれる、といえば天地が分かれる。そういうふうに神さまの想いという
より、神さまの光の動きによってすべてが生まれてくる。そういうふうに一瞬にして出来
いのち
上がる世界がある。それを神界という。そういう世界だけならいいけれども、神の生命は
なら
無限の進歩で、無限の開発だから、神界の次に霊界を創る、幽界、肉体界を創るというふ
57神が完全円満であるならば
うに、粗い波動のほうに向かって進んでいくわけです。
それで現在の地球界は肉体人間の世界なわけです。肉体人間というのは粗い波動だから、
歩みが遅いわけです。他の世界ではもっと超越した、微妙な波動の世界で暮らしている宇
宙人がいるけれど、今の地球ではそうはいかないわけです。例えば大阪行の切符を買った。
すると大阪へ行くことはわかっているわけです。東京駅で汽車に乗れば、その中でいくら
焦っても、のんびりとしていても、駆け出したって、駆け出さなくたって、座っていたっ
て、寝ていたって大阪へ運んでくれます。
それと同じように、完全円満という神さまのみ心の実現は必ずなされるわけです。必ず
完全円満になるわけだけれども、大阪まで行かないと、まだ汽車の中では大阪は見えてこ
ない。それと同じように肉体の人間というものは不完全というか、波動が粗いわけですか
ら、ある完全性にたどりつくまでには非常に時間がかかるわけです。しかし、こうした肉
体に生まれたといっても、やがては、本当は完全円満になる、完全円満が現われることに
なるのです。
これは神さまの世界では初めから完全円満で、例えばAならAという魂がある。これは
58
神の分生命でしょう。そうするとこの分生命の魂はもう完全円満な神さまの中にあるわけ
です。だから完全になんでもできる。ところが粗い波動の形の世界の制約の中に住むと、
そこに不完全な姿ができて、なんてでたらめな、不幸や災難があり、貧乏があり、悪に充
ちた世界だろう、神さまは完全円満なのにどうしてこんな悪い世界があるんだろう、とこ
うなるわけです。ところがどう思おうとこう思おうと、これは完全性につながっているわ
けです。
完全円満というものは初めからできている。ただ肉体世界での現われとしては、肉体界
が粗い、遅い波動の世界なので、なかなかその完全円満が現われてこないだけで、やがて
はいつか完全円満の世界が現われてくるのです。それが説明されてもなかなかわからない。
実際に私たちみたいに神界などがわかっている人は、ああ人間というものはこんなに素晴
らしいんだな、と思うけれど、こちらの五感の肉体の世界だけ見ていると、不完全な争い
に満ちた世界ばかり見えてくる。
今はそう見えているけれど、本質の世界では完全なのだから、どうしても完全さが現わ
れてこないことはないのです。まだ波動の粗い世界には到達していないだけなのです。し
59神が完全円満であるならば
かしいつまでも不完全であるわけじゃあない。完成に向かって進んでいく。要するに今の
人生というのは神のみ心の完全円満性が現われてくる過程なんです。だからそのプロセス
の肉体人間だけを見ていたらいつまで経っても不完全です。
60
● 無限の進化
そこで、不完全でない見方をするために、消えてゆく姿という教えがある。神さまの世
界は完全円満で全智全能で光り輝いた世界なんだけれど、その前を不完全のように見える
とら
粗い波動の波が通り抜けてゆく。だからある期間がくれば、通り抜けてゆく不完全さに把
われつづけていなければ完全がやがて見えてくる。争いごと、悪いこと、貧乏や災難やそ
ればかり追ってゆけば、いつまでも想いがそこに把われているから、ずーっとそれに引き
こういんねん
ずられてゆく。過去世からの業因縁が消えてゆこうとして出てくるんだけれど、いつまで
もそれをつかまえ、追っかけてゆく。例えば芝居の幕が開いていくとする。幕を開けば、
中の舞台では完全円満劇が演ぜられている。今、幕が開いてゆくのに、開いてゆくその幕
を追って、その幕と一緒に走っているのと同じです。こっちに完全円満が出てきているの
に、いつまでもその人は幕と一緒に不完全なほうを見ている。
もう少し話を進めれば、例えば四柱推命学などで、何年何月何時何分に生まれた何の誰
兵衛というのを見ると、細かいことは別としてその人の大体の一生はわかってしまう。こ
の人は有名になっていくとか、これは総理大臣になる器だ、これは実業家だ、これは宗教
家だっていうふうに大体はわかる。一体どうしてそういうことがわかるのか。まだ生まれ
たての赤ん坊や、一歳、二歳という幼児の未来がわかるのか。それは○年○月○時○分に
生まれたということによって、あるいは○○○男という名前がついたことによって、その
波のひびきがもうはっきりと未来をその中に写し出している。
なんの星の影響でいつ生まれたということによって、その人の未来がずーっと出来てい
る。ということは、神さまが、生んだ時にその人のこの現世の生活の未来を写し出してい
るわけです。それをずーっと未来に進んでいくと完全になる。その未来に現われる完全円
満というのは、神霊界だけの経験の完全円満とは違って、肉体界という粗い波動を通り抜
けて、しかも完全円満を創り上げたことになるから、神霊界の完全円満とは値打ちが違う。
61神が完全円満であるならば
神霊界にあって肉体界の経験を経てない神々が完全円満なのは当たり前で、それよりも
肉体界を通り抜けて完全円満になったほうが立派なわけです。例えばお釈迦さまなどは、
しょうがく
肉体界の経験を通して悟りを開いた、正覚を得た。すると守護神、守護霊、天使、そうい
う方々よりもお釈迦さまのほうが上なんです。だから守護の神霊も天使も、みんな”お釈
迦さま。仏さま”って礼拝する。なぜ肉体界にいるお釈迦さまを神々が礼拝するかという
と、神々が経験したことのない、汚い波動の汚い現われの中にいながら、しかも完全円満
性を現わしている仏さまというのは大変な偉さだからです。そういう偉い人たちが今まで
も随分出来上がっているけれど、これからもだんだん出来上がってくるわけです。神さま
の世界、霊界にいて、初めから完全円満な世界の中でやっていたって、これは価値が少な
い。初めから力があって、初めから才能があって、初めから光に満ちていて、それでその
まま進んでいても少しも面白味がない。
ところが肉体という波動の粗い愚鈍な中に入ってきて、しかも無限次元の世界を現わし
ていたとすれば、その人は素晴らしい。そういう人をたくさんつくることが神さまの一つ
の役目なわけです。肉体界という粗い波動の中でも本当の真理がわかる完全円満性が出せ62
る人をつくりたい。
● 不完全の意義
それで今地球の順番になっていて、地球界という粗い波動の中で完全円満性を現わせる
人をつくっているわけです。他の星では、それが出来上がっているところもある。肉体界
の粗い波動を通り抜けて、しかも超越した人々が住んでいる世界が他の星の世界にはある。
だから地球もやがてそうなるわけです。
いいですか。だから人間の本体が悪くて、神の分霊の人間が迷いが多くて、それで肉体
界が悪くなったんじゃない。肉体波動というもの、物質波動というものの中に入って、い
ろんな錬磨をして、苦しみや悩みを通り越して完全円満をそこで現わしてゆく。そういう
ことが人間にとって非常に大事なことで、そうなることを神さまは修錬としてやってくだ
さるわけです。そして、肉体が進化してゆくわけです。そういうために神さまがこの世界
を創っている。63神
が
完
全
円
満
で
あ
る
な
ら
ば
頭の中でわかったような気がするけれど現実としてはわからないかもしれないが、それ
を信じたほうがいい。神さまというのは人間が憎くて苦しみの世界にほっぽり出したわけ
でもなければ、もうどうにもこうにもならない世界だとして、肉体界をつくっているわけ
でもない。肉体界、物質界というものは、神霊の世界から見れば本当に問題にならない低
次元の世界です。しかし大宇宙は無限に進化してゆくので、その進化の一過程として、高
い次元と低い次元のギャップは大きいので、非常に苦しい。だが、その苦しみを味わって、
それを越えてしまうと、高い次元だけに住んでいる神霊よりも、立派な経験を積んだこと
になるのです。そこでこの肉体界で仏さまになった人は、大神さまの一番近くに座がある
ことになるのです。そういう人間がたくさん出来るために、この地球の人類が今錬磨され
ているのです。
もっとわかりやすくいうと、こうですね。今眠っているとする。病人であろうと貧乏で
あろうと、どんな苦しい中にあろうと、ぐっすり眠った時には、その肉体は苦しくない。
二畳の部屋にいようが、三畳の部屋にいようが問題ではない。その時魂はどこにいるかと
いうと、自分の元の世界にいるわけです。元の世界できれいに働いているわけです。だか
64
ら毎晩毎晩元の世界へ帰る。その時に、残っている汚れが、魂の世界で洗われてくる。そ
の洗われている時に、肉体のほうに少し感じたりして、起きてから気持ちが悪かったり、
寝苦しかったりすることがあるわけです。そういうふうに肉体界にいる問にも、いつでも
神霊界に人間は行っていて、それで年中磨いてもらっているわけです。だから肉体の人間
だけが自分で苦労しているんじゃなくて、神霊の世界から応援されて、この難行を終了し
ていくわけです。そのことに意義がある。
だから人間が、何故苦しみや、争いや、病気がこの世にあるのかを自分たちで考えて、
その何故、何故を突破してゆく。争いをなくし病気をなくし不幸をなくしてゆく。そうい
あ
う努力をすることが人間の素晴らしい精進であり進化なわけです。苦しみに遇って、苦し
みを越えていこうとする精進努力というものが人間の価値であり、値打ちとなるのです。
そういうふうに創られ行じられてゆくことは、神さまが全智全能であることを根底にして
その全智全能力を大宇宙にうつし出してゆく一過程であるのです。(昭和4年3月)
(注5) 巻末の第1図参照。
65神が完全円満であるならば
人間は完全なるもの
66
質問何故、神さまは完全な人間をお作りにならなかったのでしょうか。何かお計らいが
あったのでしょうか。
● 神さまは人間を完全に作っている
神さまは、完全な人間を作っているんですよね。その完全な人間はどこにいるかという
と、まだ肉体にそのまま現われていない。
私はよく話すんだけれど、観世音菩薩の像を彫る。彫っていると、観世音菩薩のイメー
くず
ジは中にちゃんとあるわけです。出来ている。ところが像を彫っていると、彫り屑が一杯
こう
出ます。彫り屑が業なんです。だから、業があるように見えて実は無い。消えてゆく姿、
要らないものなんです。だがしかし、それが出ないと、形が出来ないわけです。
神さまは大光明ですね。闇の中で光を照らしている。光がどんどんどんどん進軍してい
るわけです。光で闇が削り取られていく時に、そこに、いわゆる業みたいなものが出てく
けず
る。だから削り屑と思えばいい。一人一人の観世音菩薩を作るための削り屑が業なんです。
削り屑だから必要ないわけです。
だから業のほうに自分の想いが行かなければいいのです。肉体の人間でも、業のほうに
ばかり行かないで、”ああ、観世音菩薩、観世音菩薩”と、神さまのほうへ想いが行きさえ
すればいいわけです。
それを教えるために、聖者が出てきて、お祈りを教えているわけですね。私は消えてゆ
く姿といって、平和の祈りを教えているのです。
何故、初めからもっと立派に人間を作らなかったかと、誰だって思いますね。ところが
立派に作ってあるんだけれども、作ってある世界にまだ皆、行かないんですよ。作ってあ67人
間
は
完
全
な
る
も
の
るんです。こちらは影なんだね。肉体のほうはもう消えてしまった、本当は消えてしまっ
た影なんです。
もつといいかえますと、予言者がいて、霊能者や手相見などがいますね。そうすると、
先の先まで予言するじゃないですか。十歳ならどうなって、二十歳、三十歳ならこうなる
と、予言する人があります。それで随分、当たることがあります。どうして、そういうこ
とが出来るかといいますと、初めから出来ているから。神さまの世界で出来ている。霊界
で出来ている。幽界で出来ている。肉体界で出来ている。もう四重にも五重にも映ってい
るんですね。それが徐々に徐々に現われてくるのです。
68
● 時間がたてば、苦しみも喜びになる
神さまの中には完全なものは出来ているんです。だから悪いものを作ったわけじゃない。
完全なものは出来ているけれども、それが現われて映ってくる時間というものがあるので
す。その映ってくる時間だけ、苦しんでいるように見えるけれども、どんな苦しみをして
も、最後に完全に自分たちが幸せになってしまえば、苦しみは苦しみでなくなります。楽
しみになります。
“ああ、あの頃よくやったなあ。よく苦難に耐えてやってきたなあ
” と、かえって楽し
みになってくるわけね。後になると、苦しみはなくなってしまって、楽しみだけが残るわ
けです。
だから不完全なものとか、苦しみというのは、神さまは作っていない。ただ消えてゆく
姿なのです。わかります?
どんなに苦しんでも、あとで良くなってしまうと、その時の苦しみが、苦しみにならな
いですよ。思い返して、”ああ、苦しかったなあ” って、いうのが嬉しいような気がする。
“ああ、よく苦しみを抜けてきたなあ。私はよくやったなあ
” って、とても喜びが湧いて
くる。苦しみを越えてくるとね。それは、苦しみ味わっている時の苦しみとしては感じな
いんですよ。最後によくなると、みんな喜びに感じてくる。そういうものだから結局、苦
しみとか迷いとかは無いことになる。単なる消えてゆく姿になるわけね。だから神さまは
悪いものは作ってないんです。69人
間
は
完
全
な
る
も
の
た
ただ、その辛抱の時聞が、経つ時間が問題なんです。要するに、時間の問題なんです。
今は、経過、過程、プロセスなんですね。完全なものを自分たちが現わすプロセスなんで
す。
それからもう一つの言い方があるとすれば、もし初めからパーッと完全なものが出来て、
肉体人間がパーッと完全になったとすれば、一体、肉体人間は何をすればいいの。何もや
ることがないじゃない。面白くないもの、死んだほうがましだもの(笑)。
人間は、努力したり何かすることが面白いんです。努力したり、悪いものが見えるのを
りつネエ
良くしていったり、不器用なのが器用になるためにやったり、まずいのが上手くなるよう
に勉強したり、そうすることが人間の楽しみなんです。
そういうふうに考えていきますと、この世界に悪いということ、つまんないということ
がないんですよね。つまんないと思うのは、自分が勝手につまんなくしているんであって、
しんしん
本当はもう興味津々たる大ロマンの世界なんだな、こりゃあ(笑)。そういうことですよ。
つら
私たちの少年の頃は、随分と苦しいこともあったし、いろんな辛いこともあったけれど、
今考えたら辛くも何ともない。”ああ、良かった、よくやった”と、何か楽しくなってしま
70
う。思い出すと、そういうものです。
だから人間の性は善であり、人間の性は完全であり、人間の性は常に喜びに満ちている
んです。ただ喜びに満ちていないように見えるだけ。後になってみたら、”ああ、良かった、
本当に”と、こうなるわけですね。その時間待ちです。そういうことです。
質問世界が全部、完全になるためには、肉体が完全になることだと思いますが、皆が五
井先生のようになれるのでしょうか。
また、金星では肉体を持った人はいないのでしょうか。全部、霊化しなくてはいけない
のでしょうか。
● 地球と金星では波動が違う
金星なら金星といいますと、金星の探査機なんかが出来ていますね。あるいは金星へ降
りたり、火星へ降りたりするかもしれません。その時に果たして肉体の人間がいるかいな71人
間
は
完
全
な
る
も
の
いかという問題ですね。
今の温度や何かからみると、肉体を持った人間みたいな生物は住めないような状態です。
そうすると、波動の違いということがあります。私の説は、万物すべて波動です。精神
も波動だし、物質も波動だし、すべて波動で現われているわけね。それを宇宙子波動とい
う。宇宙子波動で現われているわけです。
宇宙子波動が微妙な波動の場合には、肉眼、肉体の人間の目では見えない。しかし、い
ることはいるんですね。見えないということと、いることとは違うんです。空気だって実
際に見えません。でも、あることは間違いない。
それと同じように、霊波動の生物がたくさんいるのです。金星は、おそらく肉体波動じ
ゃなくって、微妙な霊波動だと思うんですよ。お互い霊波動なら、霊波動同士が会えば、
お互いが見え合うわけです。
だから地球の肉体人間全部がそのままズーッと同じように進化していけば、前の肉体波
動とは全然違うんだけれども、お互いが見え合うわけです。そうすると、見た目には同じ
ことになるわけですよ。わかりますでしょ。
72
もっとたとえ話をすれば、ある人が部屋の中に入って、自分は外にいたとする。部屋の
中は見えませんね。二階でもいいですよ。見えない。そうすると、そこへ入っていくと
“ああ、いた、いた
“と見えるわけです。
それと同じように、肉体人間の波動の目には、宇宙人や金星人は見えないわけです。波
動が微妙だから見えません。向こうからは見えます。こっちがね。
霊界もそうですよ。死んで亡くなった、浄まった人は、こっちがよく見えます。でも、
こっちからは見えませんね。
波動の微妙なほうは、粗いほうが見えるけれども、粗いほうから微妙なほうは見えない
んです。音でも聞こえないでしょ。微妙なほうが聞こえるわけです。
きゅうかく
犬はもう嗅覚が人間の一億倍あるって言いますね。だから犬は人間が見えないものを感
じたりしますね。でも人間には感じない。しかしある。犬は家の中にいても、主人が遠く
のほうから帰ってくるのがわかってしまう。それは敏感なのね。微妙な波動をキャッチす
るものを持っている。肉体の人間というものは、それがないわけです。特殊な人は別とし
てないわけです。
73人間は完全なるもの
さかい
ところが宇宙人は、もっと微妙な波動を持っていますね。その境に住んでいる。だから
お互いが見え合うわけですね。お互いがわかっている。
それと同じように、地球人も立派になって波動が微妙になった時には、お互い全部が微
妙になってくるんだから、お互いが皆見え合う、感じ合うわけです。
仮に、こういう肉体に出ているだけで、仮に、目が二つあり、鼻があり、口があって、
こういう形に見えているだけなんですよ。実体ではないんです。仮に現われているだけで、
映画の映像と同じですよ。テレビでも、画面に現われてくるでしょ。あれが人間じゃあり
ません。みんな奥にいる。放送局にいるわけです。
74
● やがて微妙な波動の世界が現われる
今、皆さんここにいるでしょ。同じところに皆、座っているように見える。しかし住ん
でいるところは、皆違うんですね。ここにいるんじゃない。ここに現われているだけなん
です。映画に出ている人間と同じですよ。本当の世界は、本当の自分は、A さんでもBさ
んでも、みんなここにいるんではなく、もっと微妙な波動の中にいるんです。それを何段
階も通して、神界からだんだんに映ってきている。
向こうでは出来てしまっている。だから素直に平和の祈りをしながら、”ああ、消えてゆ
く姿なんだなあ”といって、平和の祈りをしていると、向こうの本当の姿がね、スーッと
出てくるんですよ。スーッと。そういう人が多くなれば、スーッと世界平和が出来るんで
す。ところがなかなかそこまで行かないけれども、そうなれば、世界平和が出来るに決ま
っているんです。
とにかく神のみ心の中に入っている本体の自分が、そのままスーッと出てくれば、この
世界は平和になるんですよ。平和になるというよりも、もっと微妙な素晴らしい世界にな
るに決まっている。
それをやるために、それを初めにわかった人が、一生懸命、わかるかな、わからないか
なって、話をしたり、浄めたり、本を書いたりしているわけです。(昭和42年1月)
75人間は完全なるもの
完全円満な自分になるために
76
● 私の教え
神さまは完全円満、全智全能、欠けたるところがない。従って神さまの世界には悪いも
のはない。だから自分の世界にもし不幸や病気や貧乏があるとすれば、それは人間の心の
間違いがあるからだーこう説く人があります。
現われをみて、さばいてゆく。ところが人間の想いというものは、生まれてからこの方
だけでも、五十歳の人は五十年の想いが溜まっているわけだし、八十歳生きている人は八
十年の想いが溜まっているのだから、それをいくらさばいていったって、さばき切れるも
のではありません。そこでさばかないで、親である神さまに全部まかせてしまったらいい
じゃないか、と全部の想い、すべての運命を神さまにおまかせしてしまうやり方が、いわ
ゆる浄土門のやり方です。
南無阿弥陀仏一念ですべての生活を、アミダさまの中に入れてしまおう。そしてアミダ
さまの許すかぎり生きていこう、とアミダさまのみ心のままに生きてゆく。キリスト教で
いえば、イエス・キリストを通して、み心のままに生きてゆく、全智全能の神さまの中へ
すべて入れてしまう。そうすると、自分というものがなくなるわけです。自分と神さまが
離れていないわけです。
粗い波動のままで微妙な神のみ心の中へ同化してゆくわけです。そうすると粗い波動の
生活のくせがだんだん抜けてきて、微妙な波動のままに生きられるようになってくる。そ
うすると、霊覚者、神我一体、悟った者ということになります。いろいろな奇蹟なども現
わせる人間になる。そこまできて初めて、神の子人間になってくるわけです。
そこまでいかないと、神は全智全能だと示すわけにはいかない。宗教というのは、そう
いうようになってこなくてはならない、と思っています。
77完全円満な自分になるために
そこで私は”世界人類が平和でありますように”という神さまの大愛のみ心の中に、”世
はしご
界人類が平和でありますように”というコトバの梯子にのって、守護霊守護神への感謝の
想いで入ってゆく方法を提唱した。
いつも世界人類の幸福というものを祈っていますから、自分の不安、恐怖の想い、病気
だ不幸だという小さな想いから、世界人類の幸福を願う大きな想いに、知らない間に変わ
っていって、しかも、自分の粗い波動が微妙な神さまのみ心と一つになってゆくわけです
よ。なりきった時には、すべてがわかってくるし、自分の中に不安もなくなってくる。そ
ういう人が多くなればなるほど、世界の平和が近くなるわけです。
78
●
こう
業というもの
神さまが全智全能で完全円満なのに、なぜ人間の業を作ったのか、という疑問も湧いて
くるだろうけれど、業を作ったのではない。
この肉体が人間のすべてではなく、人間の一部です。この肉体以前の世界、地球界があ
る以前に、いろんな星の世界に生物が住んでいるわけなのです。地球界には金星から来て
いるのです。
金星には、この地球界的にいえば、お釈迦さまとかイエスさまとかというような優れた
方が住んでいる。金星よりもっと上級の世界もあるんですよ。いろんな星があって、いろ
んな高い高い神さまのみ心を現わしている世界があるんです。
その世界も、前には神さまの世界ではなかったのだけれど、神さまが現われて一つの働
きをする場合には、波を粗くしなければ物質に現われないので、一回どうしても迷った人
間のように見えてしまう。しかし進歩してまた神さまの世界に戻るのです。そういう進化
あまくだ
向上の状態がいろいろな星で行なわれていて、地球界には金星から天降ってきたわけです。
この地球界の物質波動に微妙な波動を合わせた。ものすごく速く走れる人も、わざわざ
重い潜水服を着て走れば、どんな速い人でも遅くなります。それと同様に、霊波動の微妙
な波動を持っているものは、粗い波動の衣をまとうと、どうしても物質の世界に左右され
て、本来の力が発揮できない。全智全能であっても、物質界の粗い波の中に入ってくると、
本来の微妙な働きが出来なくなってくる。その差、ギャップが業というのです。これがい
79完全円満な自分になるために
つまでたっても現わせないか、というとそうではない。
期間的に短く区切ってみれば、業という悪いものに見えるけれど、長い目で、地球世界
の完結、完全平和世界が出来るまで見通せば、業というものは悪いようには見えない。
天と地をつなぐトンネルを掘っているうちは、泥をかぶって泥だらけになるけれども、
掘り上がった時には、天の光がそのまま地上に輝くようなトンネルが出来上がる。それと
同じことをやっているわけです。
$0
● 汚れをとる守護の神霊の働き
現在は、汚れがきわまっている。掘り返し掘り返して、汚れが一杯ついている。汚れた
からといって、その人は不完全かというと、そうではない。洗い落とせばきれいになる。
わけみたま
単なる石ころをいくら磨いたって、大理石にはならない。ところが人間は本来神の分霊だ
から、磨けば完全円満なる本体が出てくる。ただ汚れがついているだけなんです。
この汚れを誰がとってくれるか、そこに守護霊守護神が必要になってくる。先に目覚め
た人、守護霊守護神があなたのうしろについていて、肉体を守っているんだ、と私が教え
るわけです。それの一番広い働きが世界平和の祈りの働きなのです。
世界平和の祈りというのは、守護霊守護神が全部集まって、救世の大光明となって、こ
あくた
の世のチリ芥を浄め去ろうとするところの、唱え言ですから、この祈りをしさえすれば、
きれいになるわけです。
じりきまら
昔の宗教は自力で自分の汚れを祓おうとしたから、骨が折れます。人間の体は、洗う時
に手の回らないところもあるわけです。それを洗おうとするのと同じ。自分の力でやるに
は、肉体の生活をしていれば、嘘も言わなければならない、儲けなければならない… … 。
いろんなことがある。まともに行かれない世界の中で、まともにやって行こうとすれば、
かたくへん
少し頑なになり、偏ぱになり、家族のためにも、会社のためにもおかしくなってきます。
そこで、昔の人は、家を捨てた、あるいは結婚などしなかった。お釈迦さまの言うよう
に、皆結婚もせず、道ばかり求めていたら、世界中の人口が無くなってしまう。そういう
やり方は現代では許されるものではない。そういうことを神さまがするわけがない。
現代では、妻帯すれば悟りの邪魔になるような、そういう悟り方というのは無理がある。81完
全
円
満
な
自
分
に
な
る
た
め
に
家庭を持ったりしながら道を求めるため、家族を捨てて自分だけいい気になってやってい
るけれども、妻子は困ります。妻にとってはこの夫はいやな奴ですよ。このお父さんはダ
メです。それこそ神さまのみ心ではない。不完全を連続させていくことでしょう。
ほうねんしんらん
そういうことを、法然、親鸞さんがわかったわけです。法然さんが親鶯に妻帯させたわ
けです。妻帯して悟りの道に入るのには、自力門では出来ない、アミダさまに全部まかせ
るんだ、ナムアミダブツと、アミダさまにすべてをまかせれば、アミダさまが救ってくだ
さるんだ、ということを建て前にして、親鸞は妻帯したわけです。親鸞以後の人は、アミ
ダさまの名を唱えれば救ってくださるんだ、すべてはまかせる、ということを憶えたわけ
です。
たりきかこせ
他力はいいですよ。いいことをしても自分ではないんです。悪いことは過去世の因縁が
消えてゆく姿なんです。私はそれをハッキリ示した。
善いことが現われてくるのは、守護霊守護神さんがみんないいようにしてくださるんだ、
有り難い、有難うございます。もし悪いことが現われてくるならば、今のあなたがやるの
ではなくて、今のあなたは完全円満、神の子なんだから、過去世の、神さまから離れてい
82
た想いが、粗い波動のままで生きていた想いが現われては消えてゆく姿なんだ、あなたが
悪いのではないんですよ、人類の過去世の業が目の前を通ってゆく、本心の前を通りすぎ
てゆくだけなんだから、そのまま行かしめたらいい。
だけど、そのまま放っておけなくて、私が悪いとか、あの人が悪いとか想ったら、想っ
たままでよいから、ナムアミダブツというような想いで、世界人類が平和でありますよう
に、と祈りの中へ入れてしまいなさい、という。
善も悪も全部入れてしまうわけです。入れたところから、のんびりと生活していけばい
い。一遍、世界平和の祈りの中へ入れると、守護霊守護神の集まって大光明になった、そ
の中に、釈迦もキリストもいるし、あらゆる聖者がいる。そういう聖者たちの光が、自分
の身体を通して世界人類に流れてゆくのです。世界人類の中に自分も入っているわけです
から、自分も浄まり、世界人類も浄まってゆくんだから、のんきにお暮らしなさい、と言
うのです。
そういうことになると、自分を責めるわけでもなければ、他人を責めるわけでもない。
悪や不幸をつかむわけでもない。悪いというものを、少しもつかんでいない。つかんだ時、83完
全
円
満
な
自
分
に
な
る
た
め
に
世界平和の祈りで消しちゃうんだから。つかんだ時、離しちゃうんだから、つかんでない
でしょう。そうすると、その人はいつでも完全円満を見つめて生きているわけです。悪い
ものは消えてゆく姿なんだから、神さまだけがあるのです。
84
● 悪いものは消えてゆく姿として認める
神さまに全託しなさい、と他力みたいなことをいっておきながら、それで「あなたの心
が悪い」という。こんなおかしな話はない。神さまは全智全能で完全で、人間に悪いもの
を与えていないとするならば、人間の中にある悪い心はどこから出てくるの?
人間は神の子なんですよ、といっておきながら、お前の心が悪いとは何事か。
それで私は徹頭徹尾、悪い人間とか悪い行ないとかを認めないのです。認めた時には消
えてゆく姿として認める。今悪いのは、消えてゆく姿じゃないの。みんななくなって、あ
なたの本心がどんどん出てくるんだ。邪魔しているものが、一つ一つ消えていって、光が
出てくるんだよ。太陽にも月にも雲がかかるけれども、流れていけばまた光が出てくる。
また雲がかかる、また光が出てくる… … というふうにやっているうちに、光一元の自分に
なるのです。
業は限りあるものなのね。地球界に出てきて、人間となってから積んだものでしょう。
人間というものは、初めから霊として、永遠に昔からあるものなんですよ。
こんじよう
肉体人間は生まれてきてからのものだから、今生だけじゃないけれど、限度がある。こ
れを消えてゆく姿、消えてゆく姿とやっていると、限度があるから、業は消えちゃう。
限度のない、無限のいのちなる霊の光が、そこから現われてくるに決まっているでしょ
う。そうすると、自然に、自分は完全円満な神の子になってくるわけですよ。
(昭和36年3月)
85完全円満な自分になるために
完全を現わす朝夕の道
86
● 初めから完全は現われない
人間というのは大変厄介に出来ております。完全といえば完全だけれど、不完全といえ
ばこれほど不完全なものはない。いつも相反するものが二つあるんです。長所が短所にな
っていると同じように、相反しているものがある。それでこの世の中が出来ているわけで
す。
それはどうしてかというと、初めから完全な微妙な一瞬にして出来るようなものが、わ
ざわざ物質の世界に降りてきて、粗い波動ののろい歩みをしているわけですから、不完全
になるのは、これは当たり前なんです。初めから完全にはなりっこないのです。ジェット
機より速い、目に見えない速さで飛んでいるものが、わざとノロノロ歩いていたら、完全
なスピードじゃないから、完全なスピードになるまでは、不完全なのです。
そこで、一度不完全なところを通りながら、だんだん完成させてゆくのにはどうしたら
いいか、というと、肉体人間がすべてやっているんだ、という考え方を改めなければいけ
ません。今までの人生観、人間観では絶対完全にならないんです。どうしても戦争がある
だろうし、弱肉強食の世界があるわけです。弱いものが強いものに負けてしまう。強いも
のが弱いものを食べてしまう、という世界が続くわけです。しかしやがてはそれもなくな
ります。
どういうふうにしてなくなるかというと”人間は肉体じゃないんだ、肉体は一つの現わ
れなんだ。そしてそれはすべて消えてゆく姿なんだ、みんな神のみ心の中にいるんだ”と
いうことが本当に体得できると、この世界が変わってくるんです。
87完全を現わす朝夕の道
88
● 宇宙の動きに波長を合わせる
宇宙のほうでは、宇宙を運行している神々がどんどん運行し変化してゆきます。肉体の
ほうでは守護神が変化させてゆくわけです。その宇宙の運行の変わり方と肉体人間の変化
てんぺんちい
の状態が一つにならないと、不幸が出てくるわけです。ずれた分だけ天変地異も出てくる
し、戦争も出てくるわけです。そうしてはならないと、宇宙の動きに波長を合わせようと
思って、私たちは一生懸命、世界平和の祈りをしているわけです。
宇宙を運行させている仕方と、人間が変わってゆく変わり方とをピタッと同じようにし
ようと思って、神々が、守護霊守護神が一生懸命働いてくださっているのです。ある時は
病気になるかもしれない、ある時は不幸になるかもしれない。そうやって、バランスのと
れないズレを消して、合わせてゆくのです。今がその状態です。
ピタリと合う状態を、一番早く現わすにはどうしたらいいかというと、世界人類が平和
まつと
でありますように、私どもの天命が完うされますように、という祈り言を唱えつづけるこ
となのです。そういうふうにもう定まっているわけです。だから日常茶飯事のいろいろの
想い、人が悪い自分が悪い、あいつがいいこいつがいい、というすべてのことを、みんな
むい
消えてゆく姿にして、世界平和の中へ入れてしまう。ということはとりもなおさず、無為
なじねんほうに
にして為せ、自然法爾、あるいはみ心のままというのと同じことなんです。
み心のままなんだから、世界平和の祈りは一度や二度、三度や五度、一年や三年や五年
やったからいいかというと、そうじゃない。一生を通して、生命ある限り世界平和の祈り
は続くわけです。この世でもあの世でも続くわけです。世界平和の祈りというのはそうい
ひとつきみつき
うものなのです。それを一月やった、三月やった、一年やった、でもまだ効果がなんにも
ない、などと現象の効果を求めているうちはだめなのです。
世界平和の祈りをやることによって、心が安心立命してくる、本当に神の姿がわかって
くる1 目に見えるというんじゃない1 神の姿が心の中でわかってくる。ああ、自分の
本当の姿はこうだな、とわかってくる。人間の本当の生き方がわかってくる。自然にわか
ってくるわけです。それは法然、親鸞のやり方をうまく現代式にして、しかも法華経と結
びつけたのが、こういう生き方になっているわけです。
89完全を現わす朝夕の道
90
● あらゆることを消えてゆく姿に
皆さんとしては、あらゆるものが消えてゆく姿である、ということを本当にわからない
といけない。あらゆる成功したことも不成功に終わったことも、いやな想いもいい想いも
ーいい想いは喜んでいいけれど、いつまでもそれを喜んでいちゃいけない。喜んだあま
つか
り、ああ、いいことがあった、有り難い有り難いとそれだけに掴まっていると、今度は悪
いことがあった時にペチャンコになっちゃいます。だからいいことも悪いことも消えてゆ
く姿、心配が出ても仕方がない、恐怖が出ても仕方がない、人を憎む想いが出ても仕方が
ない、妬む想いが出ても仕方がない。しかしそれはみんな消えてゆく姿なんだなあ、ああ、
まつと
いけないと思ったら、世界人類が平和でありますように、あの人たちの天命が完うされま
すように、と神さまの中へ入れてしまう。これをズーッとやっていると、いつの間にか老
じねんほうに
子のいう無為、あるいは親鸞のいう自然法爾、あるいはキリストのいうみ心のままに、と
いうような状態に自然になってくる。
ああ、このままでいいんだな、神界の在り方と同じように、いちいち思うんじゃなくて
スッといいことが出来る。想いと同時に行ないが出来てくる。それで間違いのない行ない
が出来てくる、ということになるわけです。拳闘でも相撲でもスポーツはそうですが、日
頃、訓練に訓練を続ける。ここでいえば、消えてゆく姿で世界平和の祈りという訓練をし
ていると、イザという時にはパッと出来るんです。拳闘でも技をきわめていると、どうい
う技でやったかわからないけれど、パッと技が出て、向こうへ打ちこんでゆくということ
が出来るわけです。それを頭を打とう腹を打とう、相撲でいえば上手投げでやろう、下手
投げでやろう、といちいち思っていると、それに把われちゃって出来ない。
私はよく拳闘を見ます。先生が人をなぐりっこする拳闘を見るとはけしからん、といっ
て来た人がありますけれども、なぐり合いが面白いんじゃなくて、あの中に素晴らしい人
生の生き方があるんです。話にはとてもいいんです。たとえば右なら右のストレートがと
ても強い人がいる。それが強いからそればかりやっていると、向こうにそれがわかってよ
けられてしまうんです。想いがそこについているから、向こうに感じられちゃうわけね。
感じられるので向こうがよけられる。ところがこっちが全然練習のことを忘れていて、自
91完全を現わす朝夕の道
然にパッと出すと向こうがわからないから、想いが入っていないから、それが決め手とな
って向こうが倒れるということになります。
想いがこれでやろう、やろうと思っていちゃ、手も伸びないし、当たらないんです。よ
く解説者がいっています。あれは力んでいましたからって。自然にパッと出たものがいい
んです。これは人生万般に通じる。想いがそこに固まらない。自由な体になって自由にや
っていなければだめです。想いが固まると体もカチカチになってしまう。宗教の世界もそ
の通り。
92
● 想いを固めず自由に自由に
こうしなきゃならない、いいことをしなきゃならない、しなきゃならないーこれをや
おっくう
っていると、想いが固まってしまって、いいことをするのがだんだん億劫になるんです。
重荷になってくるんですよ。そこで、自然に消えてゆく姿なんだな、ああ、世界人類が平
和でありますように、というような、自然な、柔かい、まかせた気持ちになるような練習
をするわけです。
想いが固まったら何事につけてもだめです。体が自由になりません。病気を治したい人
がこの病気を治したい、治したいと、想いがいつまでも病気を追っていたら、病気はいつ
までも治りません。病気も何もみんな神さまがいいようにしてくださるんだな、神さまに
おまかせしましょう、ああ、みんな消えてゆく姿なんだな、世界人類が平和でありますよ
うに、とやっていると、いつの間にか忘れてしまう。足の悪い人がいつの間にか足が立っ
ちゃったりする。
どの宗教でも病気は治ると思います。何故治るか。たとえば一生懸命お題目をあげるん
だ、とやっていますと、そこに想いが集中しますでしょ。そうすると題目に想いが集中し
こ
て、足の悪さとか体の悪さを忘れちゃうんです。想いが凝っていたのがだんだんほぐれて、
知らない間に治るんです。これは観の転換といって、何も神さまが治すんでも、仏さまが
治すんでもなんでもない。だけれども、病気は治るけれども真理を知ったわけじゃない。
病気が治ったことは嬉しいけれども、本心が現われたわけじゃないから、今度は違った形
で現われてくる。人にいじめられるとか、やっつけられるとかいう形になって、業が現わ
93完全を現わす朝夕の道
れてくるわけですね。業が変わってくるだけだから。
うちあたりはそういうことはいわない。足の痛みを頭の痛さに変えるとか、頭の痛いの
をお尻の痛みに変えるとかいうんじゃないんです。全部消えてゆく姿にしてなくしてしま
おう、全部悪いものを、業想念をこの体から、幽体からみんななくしてしまおう、それに
はどうすればいいか。神さまの中に全部想いを運んでしまえばいいんです。全部の想いを
神さまの中へ運んで神さまの中に入ってしまえば、これは神さまの生命そのままなんだか
ら、完全円満にならざるを得ない。なるに決まっているんです。
にしょう
それは長い間かかるかもしれない。二生かかるかもしれない。何年かかったって、神さ
まと一体になれば無限億万年の生命を得るんだから、いいわけです。そこで消えてゆく姿
で世界平和の祈りだ、といって祈らせるわけです。すると知らない間に治ってしまう。す
べてが治ってしまう、性質が変わってしまうわけです。
94
● コツは力を入れずふんわり祈る
ただ、南無妙法蓮華経式に、それ世界人類が平和でありますように、世界人類が平和で
こ
ありますように、とやったんじゃ、それは凝り固まっちゃうわけですね。凝り固まるから、
他のものはよくなるかもしれないけれど、やっぱり南無妙法蓮華経式になっちゃうんです。
凝り固まっちゃいけない。ふんわりとやる。私は初めっからふんわりとやるようにいって
います。何かあったら、ああ、世界人類が平和でありますように、スーッとやる。そうい
う練習をしていると、ふんわりと出来るんですよ。がむしゃらに力んで凝り固まってやる
んじゃ、うちの教えとは違うんです。
間違えないでください、声に出してやったっていいですよ。声を出す出さないに関係な
く、力を入れてやりなさんな、力を入れてやればダメなんですよ。くたびれてしまいます。
それで凝っちゃうんです。凝っては思案のほかというんです。だから凝らないで、ものや
わらかく、当たり前に自然に、日常生活をそのままに、ああ、消えてゆく姿だな、世界人
95完全を現わす朝夕の道
類が平和でありますように、と台所仕事しながら、大根を刻みながらでいいです。いつも
いうんですけど、お手洗にいる時はひまです。そこで世界平和の祈りをするのが一番いい
と思います。
ちゃんと仏間に座ってやらなければ世界平和の祈りが出来ない、なんてそんなものじゃ
まい
ないんです。女性で月のものなんかの時、けがれているから神さま詣りしちゃいけないか
ら、なんていって来ない人がいる。何で悪いのか。神さまは瞬時もゆるがせずにこの中に
おそ
あるのに、何かあったから神さまに無礼だとか、畏れ多いとか思うバカなことはない。自
分の中に神さまがいらっしゃるんだから。
それから誰か死んだ。喪中だからって神棚に紙をはり、神さま詣りをしない人もあるん
です。先生の所へも喪中だから行きませんなんて、そんなバカなことはないんです。喪中
だろうがなんだろうが、とにかく神さまは一瞬の休みもなくこの中で働いていらっしゃる
んだから、神さまのところへ行かないなんて、そんなバカなことはありっこないんです。
そういうのは迷信なんです。いちいち手を洗って拝むのもいいですよ。身を浄めて神さま
とら
を敬うという気持ちは結構だけれども、それに把われる必要はありません。そんなことに
96
一切かまわず、神のみ心の中へ入っているということが大事です。
心が、想いが純粋であれば、お手洗の中でもいいんです。そうすれば、想いがたゆまず
瞬時といえども、いつも神さまの中にいるんですから。特定の形をしなければ神さまに会
あ
えないとか、統一できないとかいうことはないんです。それを間違えないでください。
息張ってやるのは信仰ではありません。そのままいつもいつも神さまのふところにいる
ような、いつもいつも神さまが抱いていてくださるんだな、そういうのんびりした気持ち、
やわらかい気持ちが一番欲しいわけです。何故ならば、人間は神の子だから、神さまは親
だからです。親ごさんが子供にいちいち小言をいうにしたって、それは愛しているからい
うんで、ひっぱたいて、いじめようなんて親はありません。神さまは大親さまなんだから、
いつだってふんわりと抱いていてくださるんですね。
たとえ子供が間違ったとしても、この子間違ったな、と思うだけです。こちらは自分で、
ああ、間違った、神さまごめんなさい、といっちまえば、それで済んじゃうわけです。そ
れをいいことにして、野放図ではいけませんよ。それは消えてゆく姿にしたんじゃなく、
消えてゆく姿をつかんでいるんだからね。本当に、ああ、悪かったな、と思ったら、すぐ97完
全
を
現
わ
す
朝
夕
の
道
まっと
謝るつもりで、世界人類が平和でありますように、誰々さんの天命が完うされますように、
とやればいい。そうすれば消えてゆく姿で、自然に観が転換していくわけです。
どこへ転換するかというと、世界人類が平和でありますように、という神のみ心の現わ
れの中に入ってゆくわけですよ。そうするとあらゆるものが完全になってゆく。世界人類
が平和でありますように、の中には、自分の平和もあるし、自分が安心立命することもそ
の中に入っているわけです。だから、世界人類が平和でありますように、でいいんだけれ
ども、それだけじゃ物足りないだろうと思って、私どもの天命が完うされますように、も
ついているわけ。日本が平和でありますように、もついているわけです。要は、世界人類
が平和でありますように、の中へすべて入ってしまえば、自分は世界平和の中の一人です
から、平和にならざるを得ないわけです。自分が平和になることが世界平和になることで
すね。
98
● 昔やった宗教の癖はいりません
こういう教えは本当に大きいんです。人をいじめるわけでもなく、自分をいじめるわけ
でもなく、自然に自分がよくなり、世界がよくなるという形です。ところが、いろんな宗
教を廻ってくると、みんな昔の宗教をやった癖がついている。だから何かやらなきゃなら
ないような気がして、形を整えたり、わざわざいろんな方法を作ってみるわけ。
いろんな方法はいりません。私が教えているのは、気楽にのんびりと、日常茶飯事をそ
のままやりながら、いつもどんなことがあっても、一瞬一瞬が消えてゆく姿なんだなあ、
世界人類が平和でありますように、とやることです。
形に把われたら形がまただめになります。一応形があって統一しますけれども、ふつう
は当たり前で、歩いていてもいい。わざわざ形を整えてやらなくてもいいんです。整える
時は整えていいんです。ここ(道場) にいる時はみんなが整っていれば整えたほうがいい
んです。けれど家の中で、掃除して、はたきをかけていても、掃除機をかけながらでも、99完
全
を
現
わ
す
朝
夕
の
道
,
また物を売りながらでも、ハイ有難うございます、世界人類が平和でありますように、こ
の人の天命が完うされますように、とやればいいでしょう。役所でハンコを押すんでも、
ああ、世界人類が平和でありますように、とやればいいわけです。一つの字を書くんでも、
物を売るんでも、お裁縫するんでも、世界人類が平和でありますように、というのが心の
中にあって、日々の生活をすることが世界平和の祈りの運動なんです。
(昭和39年9月)
100
ぎょう
(注6) 統一とは、自己の想念が自己の本心、神のみ心と一つになること。また、そのために行なう行。
自己の想念が本心と一つになると、おのずから愛と真と美の正しい行為が自己の日常生活の中に
現われてくる。
第3 ㌧章永遠の生命に通じる死生観
い
い’
生
き方
、
いい死に方
102
●ll111本末を転倒するな
宗教に入る、信仰をもつ、という動機にはいろいろあります。病気になって、病気が治
りたいと思って入る人もあれば、貧乏が直りたいと思って入る人もあれば、家庭の不幸が
なくなりますように、と思って入る人もあります。大体がいわゆる現世的な利益を求めて
てんじゅじょうみょう
入るのですが、いくら宗教に入っても、信仰があっても、天寿が来て、定命になりますと、
人は亡くなるわけです。ですから宗教に入って病気が必ず治るというわけではありません。
よく誇大広告、宣伝をする宗教団体や民間治療家などがあります。どんな病気でも治る、
癌は治る、肺病は治る、というような宣伝をする人がありますけれども、それは嘘です。
全部の病気が治るのだったら、九十歳でも百歳でもみんな生きるわけですが、やっぱりい
つかは亡くなる。それはもう肉体人間の定めです。
ですから宗教に入って、病気が治るだけを考えちゃいけません。信仰をもっている人が
亡くなる場合には、安らかに苦しまずに、他の人の模範になって”ああ、いい亡くなり方
をしたな””ああ、天国行きだな”と亡くなった後でも、残った人々を感動させる。残った
まっと
人の魂を浄めながら亡くなるような、そういう状態で天寿を完うする人は本当に幸せだと
思うのです。
そういったことから、宗教の根本というものは、魂が清らかになる、心がどんな場合で
も安らかでいられる、ということです。この根本に立ちまして、病気も治ってゆく、家庭
の不調和もなくなる、不幸もなくなる、ということになるのです。それを本末転倒して、
ただ病気が治るだけ、あるいは家庭の不幸がなくなるだけ、というような形で入りますと、
かえって病気も治らないし、不幸も根絶できないのです。自分の魂が開きますように、心
が明るくなりますように、安心立命が出来ますように、そういう気持ちで神さまにつなが
103いい生き方、いい死に方
りますと、おのずから自分の病気が治っていったり、家庭の調和が築かれていったりする
のです。ですから本末転倒しないように宗教の道に入るといいですね。
104
●! 本当に魂が開く道を行く
な
皆さん方はちゃんとわかっていらつしゃるからいいのですけれど、まだ宗教に慣れない
人が、ただただその場の現世の利益を得たい、というような形で入りますと、どうしても
よこしま
邪な宗教、いわゆる邪教のようなところに入ってしまうのです。
なんでもかんでも、すぐご利益をあげるぞ、すぐ病気を治すそ、なんだって治るぞ、う
ちへ入ればすぐお金が儲かるぞ、というような形の宗教の宣伝があります。その宣伝につ
られて入ってゆきますと、今度はぬきさしならなくなりまして、出るに出られなくなりま
や
す。止めようとすれば罰が当たる、この教団を出れば病気になるぞ、子供が死ぬぞ、火事
おど
になるぞ、とかなんとか脅されたりして、ぬけるにもぬけられない。だんだんだんだん自
分の魂は腐ってゆく、というような形になる場合が多いんですよ。そうなってしまうと、
本当に宗教がアヘンであって、宗教が害毒を流すことになります。
勿論、それは本当の宗教ではありませんけれど、そういうのがたくさんあるわけです。
だけど皆さんは、幸いにしてそういう道ではなくて、本当に魂が開く、本心が開かれてゆ
くと同時に、その祈り方、その歩んでゆく道が、そのまま人類のためになる、社会のため
になるという宗教の道を歩んでいらっしゃるわけです。
皆さんの世界平和の祈りの道というのは、その道をだんだん極め、深い深い祈りになり
ますと、おのずから”世界人類が平和でありますように、ああ、みんなが幸せであります
ように”という愛の心が中から湧き上がってくるようになってきます。そうなってきたら
しめたものですね。
● 我欲がなくなれば霊界でも安心
そのように、自分の幸せを願うと同時に、他人の幸せ、国家人類の幸せを願えるような
人間になると、この現世でもその人は安心立命していくと同時に、霊界へ行っても、いい
105いい生き方、いい死に方
高い地位につくわけです。
皆さんは霊界があることは、頭でわかっていらっしゃるわけですね。この肉体界にいま
まつと
して、肉体界の修行を終えますと、肉体界の天寿を完うしますと、その高い低いにかかわ
らず、霊界へ行くわけです。
霊界に行くにしても、自分の本心をつつんでいる、いわゆる我欲の想いが多ければ多い
程、その魂はこの世的にいえば目方が重いわけで、ずーっと沈んでしまう。沈むというの
は下のほうにゆくわけです。天国というと、よく上のほうをいいますけれど、確かにそう
なんです。この三次元世界の説明でいけば、どうしても上のほうということになるのです。
地獄は下のほうということになります。
魂が高い、業が少ないと、魂が軽くて光が強く、ずーっと高い所へゆきます。本心をお
おっている我欲が多ければ多い程、ずーっと沈んで低い所へ行ってしまう。地獄へ行って
苦しんでしまうわけです。
きょうざつぶつ
ところが自分と本心との問の爽雑物がなくなって”ああ、すべて神さまのみ心のままだ。
みんなお任せなんだよ”って死ぬ間際にいえるような魂になって昇天すれば、その人は高
106
い高い、いい所へ行くわけです。だから全部全託しろ、といってもなかなか出来ませんよ。
みんな神さまにお任せした、といってスッキリしている人はなかなかありません。けれど
出来る限り、なるべくは神さまがすべてをなさっていらっしゃるんだ、守護霊守護神さん
がちゃんと自分の運命を知っていらっしゃるんだから、この世で生きていようと、あの世
へ行こうとも、すべて神さまにお任せしておけばいいんだ、という心にだんだんだんだん
近づいていって、そして生きていきますと、この世の世界でもあまり苦しみがありません。
ふつうの人なら苦しんで苦しんで仕方がないというような苦しみでも、大して苦しまず
にすむわけです。たとえば、病気をしていても、ふつうの人なら、どうなるだろう、どう
なるだろう、死んじゃうかしら、という恐怖の念にさいなまれるわけです。ところが神さ
まにお任せしていますと、生きるも死ぬも神さまのみ心、と思っていますと、心が落ち着
いて、苦しみが少ないわけです。苦悶の状態が少ないわけです。
107いい生き方、いい死に方
108
● 死を常に心にあるをもって本意の第一と…・
人間はどうせいつかは亡くなります。ですから生まれて、ものこころついて(子供の頃
は別として)青年以降になったなら、どういう生き方をして、どういういい死に方をする
か、そういうことが常に心の中になければいけませんね。
昔、武士というのはみんな、いい死に方をしたい、立派な死に方をしたい、という心構
えでおりました。ですから昔の人のほうがわりあい立派な人が多いんです。何故かという
と、よく生きることと、よく死ぬこと、それを常に心がけていたからです。自分だけのこ
とを思って、自分のためだけのことを思って、恥ずかしい生き方をしない。大義のために、
正しい道のために、自分の生命を投げ出す。たとえば大名なら大名のお家のために、お殿
さまのために生命を投げ出す、そういうことはふつう馬鹿らしく見えますけれども、やっ
ぱり大きな大きな生命のために、自分の小さな生命を同化させるということになるわけで
す。
投げ出す相手がたまたま大名であったり、家であったりするからつまらなそうにみえる
けれども、それは今の現代の言葉でいえば、世界人類のために、日本のために、日本の天
命を完うさせるために、自分の生命をそこに同化させていくんだ、世界人類が平和であり
ますように、どうか私どもの天命が完うされますように、という、人類と個人とが全く一
つになるような生き方をしていけば、おのずから自分の魂は広がります。魂の光が強くな
ゆうゆう
ります。そうしますと、自然と、この世で生きていても、悠々と生きられます。あの世へ
行っても高い立場で生きられる、ということになるんです。
おのさちのごと
己が幸願ふ想ひも朝夕の世界平和の祈り言の中
という私の歌がありますが、自分の幸せを願う想いが、そのまま世界人類の幸せを願う
想いと全く一つになった生き方をしますと、個人の五尺何寸の自分が、実は四十億の人類
の自分になっているわけですね。ですから広い広い生き方が出来るわけです。
ねさしょうみょうねんぶつ
それを日々瞬々刻々、寝ても醒めても唱名念仏すべきものなり、という浄土真宗のよう
な生き方で、しかもあせらず、悠々と日々を明るく生きてゆかれるのが、この世界平和の
109 いい生き方、いい死に方
祈りの生き方なのです。ですから、この日常生活の肉体生活にあってもよし、死後のあの
世の生活でもいい、どちらへ行っても安心して生きられるんだ、という確信をお持ちにな
って、日々精進なさるといいと思います。(昭和必年2月)
110
生きること死ぬことの中で
● 死ぬこともおめでたい
人間の一番重要なことは、生まれてくることと死ぬことです。これ以上重要なことはま
あない。それからいかに生きるかというのが問題になりますが、生に始まって死に終わる。
これは人生の重大問題です。
いのち
生まれてくる時は生命を受けたという喜びがありますが、死ぬ時はみんな喜ばない。大
体が泣きます。目に見え手にも触れなくなるわけですから、みんな悲嘆にくれるわけです。
ところが、大きな意味の人生の本性、永遠の生命的な本性からいきますと、生まれてく111生
き
る
こ
と
死
ぬ
こ
と
の
中
で
ることも、あの世へ行くことも本当はおめでたいんです。ただ、おめでたくない生き方も
ある。それはどういう生き方かというと、心の中にいろいろな業想念、例えば迷いの想い、
とら
恨みの想い、肉体に執着する想い、この世に把われている想いがたくさんあり、その想い
のままに生きていると、あの世へ行くことが嬉しいことじゃなくなる。実際にあの世へ行
って苦しみますから。
わけても霊界のあることを信じないで、否定していて、肉体が亡くなればそのままでも
う人生は終わりだ、死んだら生命があるものかという想いのままであの世へ行けば、一番
不幸せです。死後の世界を否定しているのですから、意識が甦えれば肉体の世界に甦えっ
さわ
たと思うわけです。そこで肉親や知人の肉体にまつわってきて障りになったり、あるいは
闇夜のなかを歩いてみたり、生命のないところをうごめいている。それは一番恐ろしいこ
とです。
ところが、皆さんのように、神さまの存在も、霊界のあることも知っていれば、死ぬこ
となんかちっとも恐ろしくない。高校から大学へ行き、大学を卒業して社会人になると同
じように、死はこの世の役目を果たして一段階進歩することであって、ちっとも悲しむご
112
とじゃないんです。
いのち
だから、この世の生命がないとわかっているのに、ただいたずらに注射を打ったり、な
んとかして命をとりとめようとしていることは、余計病人を苦しませているだけであって、
肉体人間の人情としてはわかることですが、本当をいえば、逝くべきものはいかしめなけ
ればいけない。素直に逝かせるのが本当はいいんです。肉体が苦しんで早くいきたいのに、
それをひきとめているというようなことが随分ある。お医者さんにすれば当然のことです
が。
赤ちゃんが生まれようとするのに、もっと遅くなれ遅くなれ、いつまでもお腹に居ろ居
うといって押えている人はありません。たいがい早く無事に生まれますようにといいます。
それと同じように、あの世へ行くのも赤ちゃんがこの世に生まれてくるのと同じような状
態に思わなきゃあいけないんです、本当は。
赤ちゃんが生まれておめでたいと同じようなおめでたさになるためには、この世に生を
うけている間に、永遠の生命と一つになって、神さまのみ心を心として、あの世へいって
も自由自在に働けるようになっておく必要があるわけです。113生
き
る
こ
と
死
ぬ
こ
と
の
中
で
それにはどうしたらいいかというと、常に心の中で、ああ、神さまはいらつしゃるな、
いつも守っていてくださるな、守護霊守護神さんがちゃんと守っていてくださる、こうし
て永遠の生命として自分の中にあるんだ、と頭の中で知っているだけでもいいんです。普
通の場合は神さまを形の上でつかめないから、頭の中で知っていてもあの世で役立ちます
から、そういうことを常に心に描いて生きていれば、亡くなった先でも自由な生活ができ
て、悪いところへは行きません。光明燦然たる世界に行くんです。
皆さんのように、平和の祈りをして守護霊守護神さんに感謝している人は、絶対にあの
世で苦しむことはありません。これは私が保障します。生き生きとした生活が出来るんで
す。
だから、もし友だち、法友のなかで亡くなる人があっても、それをあまり悲しまないで、
どうぞ永遠の生命のなかにつながりますように、どうぞあちらでいい生活が出来ますよう
に、あの世で天命が果たせますように、そういうように祈ってあげて、それでさっぱりし
ていたほうがいいのです。
だけど、”死ぬものは死ねばいい、あれは消えてゆく姿でもう行っちゃったんだ”なんて、
114
人情も愛情もない冷たい態度であっさりしたことをいわれても困るから、人情として泣く
時は泣いてもかまいません。ただ、よくおかわいそうっていうけれど、そうじゃないんで
す。”ああ、あの世で新しい自由自在ないい生活が出来る出発だ、おめでとう”という、永
遠の生命を認識した気持ちで送ってあげるといいと思うんです。
● この世に恩を返す生き方を
ところが、この世の中では、皆さんのような人は少なくて、宗教団体に入っている人で
も、その人が果たして本当の道に入っているかというと、そういう人は少なくて大体が、
病気が治りたい、お金を儲けたい、なんとかこの世の運が開くようにという現世利益的信
仰なのです。宗教に入る時はそれでも結構なんですが、入っていったらだんだん本当の道
がわかって、神さまはこういうふうに生きうとおっしゃっているんだから、こういう生き
方をしなきゃいけない。真の人間の道、つまり、愛と調和の生活に入ってゆかねばいけな
い。宗教団体に入ったら優しい正しい人になって、なんていい人になったんだろうと、人々115生
き
る
こ
と
死
ぬ
こ
と
の
中
で
の手本になれるようになることが、本当の宗教の道に入ったんだということになる。とこ
ろが、今まで入らないうちは優しいおだやかないい人だったのが、宗教団体に入った途端
に目を吊り上げて、自分のことばかり主張し、付き合いにくい嫌な人間になったとするな
らば、それは入ったことがマイナスになるわけです。
こういう人は宗教の道に入ったわけじゃなくて、自分の利害関係のために宗教という名
を借りて、神さまを自分のために利用しているだけであって、本当の宗教精神になったわ
けじゃない。そういう人が何千何万いたって、世の中のためにも、その人のためにもなら
ないわけです。
のごとおのさち
“己が幸願ふ想いも朝夕の世界平和の祈り言の中”という歌のように自分の幸せを想わ
ない人はありません。自分の体が丈夫でありますように、自分の家が幸福で仲良くいきま
すように、お金もないよりはあるほうがいいんだからあるようにと、そういう自分の幸せ
を想うのは当たり前です。それと同時になにかしら人の世のために役に立ちたいという気
持ちがなければ、人間の道を踏んでいるわけではありません。
この肉体の自分というのは、天の恩、地の恩、先祖父母の恩、あらゆる恩恵によって、
116
この一つの生命体として生まれてきたわけです。それをなんにもこの世に恩を返さないで
死んでしまったら、生まれたことがマイナスになる。それなのに、今の若い人たちの中に
は、親が勝手に生んだんだ、とか、俺はもう二十歳になったんだ、自分の命は自分の勝手
にするんだ、ほっといてくれ、ってなことをいって我がまま一杯して、イザ困ると親にす
がってくる、そういう人が大分あります。
● ー1 -lーム叩は自分の勝手に出来るか?
自分の命だから自分の勝手だという。ところが自分の命はなんの代償も払わないでもら
っている。自分の命だって自分で生まれてきたわけではありません。父母の、なかんずく
とつきとおか
母親の十月十日の大変な苦しみがある。私は男だからお腹に赤ちゃん持ったことはありま
せんが、たくさんの女性が赤ちゃんを生む状態を普通の人より何千倍か多くみています。
つわりから始まって、いろんな忍耐をしながら赤ちゃんが生まれてくる。生まれてくるだ
けじゃありません。寝るまも寝ないで育て、それで大きくなると自分の命だ、親の厄介に117生
き
る
こ
と
死
ぬ
こ
と
の
中
で
なるものかという。よくもそんなことがいえたものだと思う。俺の命は俺のものだ、俺は
誰の恩にもなっていないっていう。誰の恩にもならないじゃなくて、お母さんのお腹から
生まれてきて育てられて、如実に恩になっている。こんなに大恩ある親をないがしろにし
て、自分の命は自分の勝手だなんていう人間が、ろくな死に方をするわけがないと私は思
いますね。
現在はそういう人間が多くなった。その責任は誰にあるかというと、この世の教育者、
学校の先生ばかりじゃなくて、人を指導するあらゆる立場の人、先輩、要するに大人が若
い者を甘やかしすぎて、正邪善悪の行為を教えず、味噌もくそも一緒に、なんでもおだて
あげて育ててきた。そういうマイナスが今現われて、全学連騒動やいろんな騒動になって
きている。
昨日もある警察の人が来て、全学連や機動隊に関係ある会員の方ですが、そういう青年
たちは顔色はまっ青だし、まるで精神病者のようで、話し合おうとしても黙秘権を使って
しゃべらなかったり、なにかいうとすぐ突っかかって話にも何もならない。昔の憲兵のよ
ね
うに、これでもかってやれば音をあげるだろうけれど、そういうことは今の警察はしない
118
から手を焼いている、といっていました。人間としての話が通じない、もう人間でなくな
っている、っていうんです。
親が行っても「俺は俺の自由だ。何しようと俺の勝手だ」ってどうにもしょうがない。
親の説得も先輩の説得もなにも受けつけないで、背後からの煽動にのって馬車馬のように、
思考力を失った人間になってしまって、一方だけみてやってしまう。宗教の教祖が間違っ
ているのに、あの先生のいう通りって狂信の徒になるのと同じです。例えば毛沢東主義が
流れてくると、その理論だけいってあとはなにも考えない。そういうような人間に育てあ
げられた。
●ー権威権力に対する反抗
それは誰の罪かというと、親の責任もありましょうが、社会全体の責任なんです。大人
が国家とか社会とかの正しいつながりを知らず、利己的な生き方をしているから子供は知
らないで真似する。大部分の大人がそういう風潮で育てあげてきた。昔のように筋の通っ
119生きること死ぬことの中で
た、国のために働くとか大義のために殉ずるとかいうんじゃなくて、なんか曲がったひね
こびた精神を持っている。
第一番に親に尽くさなきゃいけないと思うのが常識でしょう。それから生まれて育てら
れた郷土に尽くさなきゃならないと思うのが常識。そうしたら郷土の大きいのが国だから、
日本なら日本のために働かなきゃならないと思うのが常識。それから日本を人類のために
役立たせなきゃならないという、そこまでくれば一番上等です。
そういう形になるべきものが、日本どころか親もない、ただ一つの主義という、それは
間違った主義なんだけれど、それを頭の中に叩きこませてそれっきり。まるで催眠術にか
かっている状態になって動いているんです。
それは何かというと、社会に対する反抗ですね。それは政府もいけないと思うけれど。
ずーっと代々の政府が嘘とわかるようなことを平気でいって、行なっているような政治を
とっているから、だから青年は今の既成政治に反感を持っている。親にも社会にも反感を
持っている。だけどそういう社会にあっても、いい青年が随分いるんですから、勿論当人
が悪いに決まっていますが、そういうふうに変になった青年が多くなったわけです。だか
120
らこれは全部の共同責任なんです。
● まず大人が正しい道を歩め
さて、こういうものを直すためにはどうしたらいいか。そのためにはやっぱり正しい道
に自分たちが進んでいかなきゃならない。親であり、兄弟であり、友人であり、先輩であ
る私たちが正しい道を行くことによって、自然にその光のひびきが伝わっていって、青年
が正しい道に導かれていくわけです。
だから、まず己れが正しい道を進まなきゃいけない。正しい道の一番正しい根本はなに
かというと、人間は肉体だけで生きているんじゃないということです。肉体だけで生きて
いるんじゃなくて、神さまおよび祖先の残してくれた生命のひびき、永遠の生命が続いて
自分にあって、それによって生かされているんだ、天がなけりゃ自分は生きられない。地
の愛がなけりゃ生きられない。先祖の愛がなけりゃ生きられない。そういうものの中から
神さまの生命が現われて、天地の恩恵となり、先祖や父母の恩恵となってこういうように
121生きること死ぬことの中で
育っているんだ。それは昔だったら当たり前のことなんです。私どもの育った時代にはそ
んなこといわれなくても親に孝行するのは当たり前なんだけれども、今は当たり前じゃな
くなっちゃった。心が曲がっちゃったからです。
それを再び当たり前にしなけりゃいけません。そのためにわれわれ先輩が、先祖の恩恵
に感謝し、天地に感謝し、あらゆるものに感謝して生きるような、そういう状態を作り出
さなきゃいけません。そういう状態の人が多くなればなるほど若い人たちはそれに従って
いきます。
大体において、両親が調和して、お父さんとお母さんが仲が良いところには、そんなに
変な子は生まれないんです。親を見習いますから。ああ仲が良いことはいいことだと思い、
自分も調和した性格になっていくわけです。悪い子が生まれるということは、両親の中に
ゆが
歪みがあるか、取り巻く中に何かあるわけです。これをなくするためには、まず先輩であ
たが
る自分たちが天地の道に違わないような、天地の恩恵の中で天地の愛をうけて、これを自
分の生活として実行していくような、そういう人間になればいいわけです。
122
●l llll -母親は太陽
そうするためにはどうしたらよいかというと、常に自分の中でグルグル回っている想い、
怒りの想いもありましょうし、妬みの想いも、いろんな欲望もあります。そういう自分で
いけないと思う想いをいつも神さまの中へお返しして、神さまの中できれいに洗い浄めて
もらって、毎日毎日頂き直す。これは浄土真宗の生き方と同じですけども、毎日毎日生活
を神さまから頂き直す、そういう気持ちが大事です。
それを私たちは消えてゆく姿というわけです。悪いことが出てきたら、悪い想いが出て
きたら、ああこれは悪い想いだな、これは消えてゆく姿だ、世界人類が平和でありますよ
うに、っていうように、人類愛である”世界人類が平和でありますように” の中に入れち
ゃう。それを繰り返し繰り返し行なう。自分の周囲に悪いこと嫌なことが出てくる、自分
の感情を害するようなことが出てくる度に、それをすべて消えてゆく姿として世界平和の
祈りの中へ入れてしまって、いつでも空っぽな気持ち、神さまのみ心そのままの気持ちで
123生きること死ぬことの中で
生きていこうという努力を私たちはしているわけです。
これを続けていくことは、そのまま子孫のほうに、後輩のほうに影響していく。だから
皆さんは、こと改めて社会事業をしなければならないとか、こと改めて青年たちに働きか
けなければならない、というんじゃなくて、自分たちの生活がそういう正しい生活になっ
ていくことが必要であるわけです。
そうすると知らない間にみんな、うちの会に入ってきます。うちの会は初めお母さんた
ちが入ってくる。お母さんに連れられてお父さんが入ってくる場合もある。それにつれて
子供が入ってきたりする。うちの会へ来ている青年たちはみな真面目な優しい人が多いで
しょう。それはなぜかというと、親たちの影響で入ってきているわけ。だから親の生活態
度というのはどれだけ影響するかわからないんです。
それを問違った人は、例えば自分が会へ入って平和の祈りをしていると、まだ入らない
子供や夫にこれを押しつけようとするんです。「こういういいところに入らなきゃ駄目だ」
って、子供や親や夫の自由をおさえて押しつける。人間というものは、自由に生き、自由
に動きたい、生命が自由に生きたいんです。その自由をおさえると反発してくる。だから
124
.おさえるんじゃなくて、
ばいいわけです。
同化するように仕向けていけばいい。それには自分が立派になれ
● 口でいわずに態度で示せ
例えば今まで夫のいうことをちっともきかないような奥さんが、平和の祈りをやってい
るうちに、優しくなって「あなた、お帰り遊ばせ。何にいたします」って、こうやってく
れりゃ”あれちょっと変わったな、どうしちゃったんだろう。まあ付け焼刃かな”と思っ
ているうちに、三日たっても五日たっても一月たっても変わらず、だんだんよくなって態
度がやさしくなってきたとすると、五井先生というのは不思議な力があるらしいな、うち
のあのじゃじゃ馬の女房が良くなった、とこうなり「じゃあ、俺も行ってみよう」って、
旦那さんがくるようになる。大がいそうなっています。「今まで方々、宗教だとかなんとか
いって歩いていたけどちっとも良くならない。でも今度行ったところは大分違っているぞ。
優しくなったし、とても思いやりが出てきたし、随分変わった。これは本物かもしれない
125生きること死ぬことの中で
ぞ。それじゃあ俺もたまには行こう」となる。それで私に会うと、みんな安心しちゃって、
この先生ならば女房を預けておいても大丈夫、間違いないって思う。
そうすると、夫婦ともども、子供もくる。一家が全部仲よく平和の祈りをするようにな
る。この会は大体一家で来ています。
私は、こなけりゃあいけない、罰があたるとか、会を抜けりゃ罰をあてるとか、そんな
まか
おどかしは一つもしない。自由に委せてある。皆さんが自由意志で来ていらっしゃる。だ
から皆さんも自由意志を尊重しながら、いやでも応でも夫も子供も妻も、みんなこなけれ
ばいられないような雰囲気を、自分の人格から作り出さなければ駄目です。
そうすれば伸び方は遅くても、広まり方は遅くても、入った人が今度は崩れません。確
固たる信念を持っていくわけです。
そういうように、生命の自由を保障しながら、自由を奪わないようにして、それで同化
させていく。そういうことを平和の祈りの中から学びとらなきゃあいけないと思うのです。
そのためには、人間というものは永遠の生命であって、肉体にいるだけじゃないんだ、
肉体を離れても自由自在に、霊界において働く、そういう場が与えられているんだ。だか126
ら死ぬこともちっとも苦痛じゃないんだ。病気になればそれは消えてゆく姿で、それだけ
魂がきれいになるんだ、とあらゆることをいいほうにいいほうに考えていくような、そう
いう生き方をすればいいわけです。(昭和46年7月)
127生きること死ぬことの中で
死んだらどうなるのだろう?
128
質問霊界のことをお尋ねしたいと思うのですが、肉体がなくなってあちらへ行くという
ことは、何が行くんだろうな、想いが行くんだろうか、幽体をつけたままの本心が行くん
だろうか、と考えるんです。江部という男が赤ん坊から今八十歳というおじいさんになっ
ていますけれども、この私というものが肉体がなくなってもあるのかどうか。そのへんの
ところがよくわからないんですが… … 。
●lllー本心と肉体界
そういう疑問を持つのは当たり前でしょう。ところが本当をいいますと、本心というの
はどこにあるかというと、この肉体のなかにも続いてありますけれど、物質のなかにある
わけではないんです。テレビ放送局のスタジオで踊っていると、それがテレビのブラウン
管に映ってきて、テレビのなかで踊っているように見えますね。
ぼん
本当の人間というのは天にあって、頭の梵の座(これは一番大事なところなのですが) こ
れが天につながっていまして、梵の座に天が映ってきているのです。どういうようになっ
ているかといいますと、形は目に見える肉体の形をしていますけれど、実は波があるので
す。大まかな粗い波動があるのです。本心という奥の最も微妙な神のみ心のなかからひび
いてきて、地上界に肉体として映っている。肉体として映っている前に、幽界に映ってい
るし、その前に霊界に映っているし、それより前に神界があって神界に映っている。もっ
とこまかく何段階もあるんですけれども、一応四つに分けておきます。その四つの世界に
本心のひびきが映ってくるわけです。その四界の向こうに本心があるわけなんです。その
本心の光、ひびき、波が発せられてきて、この肉体界に映っているわけです。それですか
ら、本心の光もこの肉体界の光も同じことなのです。太陽の光がどこにも照っているでし
129死んだらどうなるのだろう?
よ、それと同じ。テレビが東京で放送していても、市川でやっていてもほとんど違わない。
うんと遠くなれば少し違ってきますが。しかし、神界から肉体界へはズーッと同じ光が通
っているわけなのです。神界から霊界・幽界・肉体界を貫いて通っている。そして肉体界
にきて働いているわけです。
130
● 悟った状態
神界にいますね、それは光り輝いています。仏そのままなのです。霊界へきて少し薄れ
るわけです。霊界の波動が少し違うから。幽界にきますと、幽界というのは地球界の想い
がいっぱい溜まっています。前生の想いも記録されています。ですから、幽界にきてそれ
らの想いに邪魔されて光がボケてくる。肉体界へ入ってくると、さらにボケてしまう。け
れど本心の光はこの肉体にきているわけです。そこで、ボケたものを取るために、いつも
消えてゆく、消えてゆく姿とやっているわけですね。自分なんかダメだという想いも、人
が憎いと思う想いも、なんとかかんとか思う想いもみんな消えてゆく姿、と思っています
と、邪魔なものが浄まり離れていくのです。
邪魔なものがはげていって、しかもこちらはいつも神さまを思い、平和の祈りをしてい
ますから、自分で穴をあけて、ズーッと光を通しやすくしているわけです。
悟った状態になるというのは、霊界の光の度合も、神界の光の度合も、肉体界の光の度
ぶつぼさつ
合も同じようになっていることなのです。そうしますと、肉体界にいながら、仏菩薩とい
うことになるわけです。仏菩薩になってしまえば、疑問もなんにもないし、自分の本体の
こともそのままでわかるのです。しかしなかなか仏菩薩にはならない。少しずつ汚れがあ
るわけです。その汚れたものを加えて、今のあなたならあなたという人があるんです。し
かし赤ん坊の時、五歳の時、三十歳の時よりも、今のあなたのほうがズーッときれいにな
っているのです。
赤ん坊はきれいに見えるでしょ。何故赤ん坊はきれいに見えるかというと、本心の光が
こう
少ししか出ていないのですが、その代わり業も少ししか出ていないのです。だんだん成長
すると光がだんだん余計に入ってくる。余計に入ってくると同時に、業も消えてゆく姿と
して余計出てくる。二十歳ぐらいになるとズーッと多くなるわけです。両立するわけです131死
ん
だ
ら
ど
う
な
る
の
だ
ろ
う
?
よ。そこに業をつけ加えたり減らしたりしながら、だんだん年をとって八十になる。江部
さんも七十何歳かで私の教えにふれましたね。いつも消えてゆく姿で世界平和の祈りをし
ている。だから、前の業がどんどん消えていってしまって、あと僅かだけ残っているわけ
です。僅かだけれど、想いとしては今までの過去のことが記憶にあるから、人間はこうだ、
肉体だなとこう思っている。話としては、霊界があり、神界があって、亡くなればあの世
へ行くということもわかっているわけですね。それでいて邪魔するものがまだあるのです。
それが今の江部さんなんです。
132
● 一番いい心境がつづく世界
あなたが肉体を離れるような場合は、守護霊守護神さんを思っていますし、五井先生が
ちゃんと応援していますから、邪魔なものをピーッと一遍にきれいにしてしまうんです。
きれいにしてあの世へゆくのです。そうすると江部さんというものが全然変わってしまう
のです。
そして、あなたがいつも一番いい境地というのがありますでしょ。統一していて一番い
い気持ちになっているとか、愛が深くなっている時もありましょ。そうしたあなたの一番
心のいい状態がそのままずーっと続くんです。それからもう少し霊界に続いていると、そ
の境地がもっとひろがってゆくんです。もっともっと愛も深くなるし、光も強くなってゆ
くし、自分がグーッと拡大してゆくのです。
ぎょくせきこんこう
現在のあなたの心境は玉石混渚で、つまらないなと思うこともあるでしょうし、家内が
子供が… … 何やっているんだと思うこともあるでしょうし、あのヤロウと思うこともある
でしょう。それがあなたが霊界に行く時には、そういうものが全部消えてしまうんですよ。
だから、あなたの一番快い状態、一番いい状態が霊界へ行ったら続く、とこう思いなさい。
霊界というのはそういう所です。おわかりになるでしょ。だから安心していらつしゃい。
●lIIII生を見つめ死を見つめよ
皆さんは安心していればいいのです。人間は最後は死ぬのです。肉体世界では肉体を離133死
ん
だ
ら
ど
う
な
る
の
だ
ろ
う
?
れることが一番最後のことであると同時に、一番大事なことです。ですから肉体を離れる
時に、一番いい心境で離れられるように、若い時から練習しなければいけないです。十歳
や十五歳ではそんなことは思えないでしょうけれど、少なくとも三十過ぎたら、あの世の
ことを考えて、あの世の境涯をよくするために、自分を磨かなければいけません。
はがくれ
武士とは死ぬことと見つけたり、と葉隠武士道ではいっているけれど、やはり大事な言
葉です。死というものがあって、死んだ世界でもって立派になるという心が必要です。
現代の社会が悪くなったのは、死後の世界をあまり考えなくなったからです。昔は死後
の世界を考えていたのです。文明文化がすすみ、知識学問がすすんでくると、唯物学問に
なってしまって、死後の世界を考えなくなったので、人格が地におちたのです。ところが
この頃は、またやはり心霊世界のことを知らなければならないような状態になって、いろ
んな宗教が盛んになってきているんですね。
やはり人間は死後の世界というものを考えないと、本当の立派な人間にはならない。う
ちへきている皆さん方は、死後の世界をかなり知っているほうです。聞いて知った耳学問、
本を読んで知った文字学問であるけれども、実感と同じように信じています。信ずるとい
134
うことは真に知ったことと同じです。汝の信ずる如く汝になれ、ということなのです。
霊界があるな、神界があるな、と思う人は霊界なり神界なりへ行く。ああ五井先生が神
界にいらっしゃるというんだからそうだろう、と信ずる人はそのままその世界に行くので
す。あなたの場合などは、素直にやっているから、間違いなくいい所へ行って、自分のい
い所だけが残るのです。
皆さんも考えてごらんなさい。自分の一番いい性格、自分の一番快い状態、それがその
ままいつまでも続いていたら、こんなにいいことはない。こんな生き甲斐のある、快いこ
とはない。それは消えてゆく姿で世界平和の祈りをやっているから続くんであって、なん
にもなければ続きやしません。少くなくとも祈りをしている人たちは業が消えてゆくわけ
です。
●iIlIl世界平和の祈りは最大の供養
唯物論者は死んだらそれまでだ、霊界なんかあるものか、と否定しています。ないと思
135死んだらどうなるのだろう?
っている人が亡くなりますと、ないと思っていても意識は出てくるんです。意識のほうは
肉体にうつっているだけで、幽体があります。幽体という体、肉体と同じ構造があるので
す。しかし幽体などあると思っていないから、その人に体はありっこない。そうした意識
が戻ってくると、ああ死んだんじゃなかったんだと思うのです。けれど体がない。それで
肉体のほうに戻ってくるわけです。たとえば浅草に住んでいたら浅草の自分の家に戻って
つ
くる。そして妻や子に葱いちゃうのです。その体を自分の体だと思って生活するわけです。
葱かれた人はたまりません。肺病で死んだ人だったら肺病になったり、中気でなくなった
人だったら中気になった形になってくるわけです。あるいは癌になるとか、なってくるの
です。同じ家に同じ病気が続くというのは、そういう想いがくっついてくるからです。
葱かれた人が信仰が深ければ、ああ、すべては消えてゆく姿だな、神さま有難うござい
ます、世界人類が平和でありますように、と祈っていますと、くっついたままでズーッと
神界へ行くわけです。神界の光に照らされて、だんだん迷いがさめてくる。ああ霊界なん
てないと思って死んだけれど、実はあったんだな、神さまはあったんだな、と目覚めます。
そうするとスパッと離れて一人立ちできるようになるんです。ですから皆さんが世界平和
136
の祈りをしていることは、いつも信仰深く生きていることは、自分にまつわる先祖の霊魂
や知人の霊魂が一緒に浄まっていることだ、と思ってください。(昭和43年3月)
137死んだらどうなるのだろう?
永遠の生命に目覚める
永遠の生命を生きる
140
●ー間は生き通しの生命
宗教の道というのは、永遠の生命を自分のものにする道なのです。肉体の人間というの
は、永遠ではなく、五十年八十年の生命です。近頃長生きの人が増えましたけれど、大体
百以下の生命です。ところが実際の人間の生命というのは永遠なのです。永遠不滅なので
す。生き通しの生命なんです。
これは肉体にいるとなかなかわからない。しかし霊覚を得たものにとっては、永遠の生
命であることがわかるわけです。私どもはつねに神々の生命と交流し、自分の本体がどこ
にいるかわかっています。
肉体でこうしてしゃべっている自分がおります。しゃべらせている私もいるわけです。
ズーッとズーッと高い所に、五井先生がおって、白髪であごひげの長い先生がいるんです。
いかんそくたい
衣冠束帯の格好をしている時もあれば、白髪三千丈ではないけれど、眼光けいけいとした
大きな先生もいるわけです。それはやはり私なんです。
なフ ぴゃつこうさんぜん
よく村田さんの『霊界通信』に、霊界へ誰か行くと、白光燦然として光の中から五井先
生が現われます。五井先生って肉体に生きているのに、どうしてあっちにいるのかしら、
にせもの
と思うけれど、あっちにもいるんです。あっちは本物で、こっちは偽物じゃないんだけれ
わけいのち
ども、こっちは分生命なんですね。向こうは神界におりますから、こうこうと輝いて宇宙
世界を照らしているのです。その神界の光はズーッと肉体にきて、肉体界の代表として五
井昌久という人がここにいるわけなのです。
いうなれば、天地をつなぐ光の柱です。天と地をつなぐものの、今この私が中心になっ
ているわけです。皆さんも実は天地をつないでいるのです。
ヘへ
誰でも彼でも、天と地をつないでいるのだけれども、天の自分がわからない。てんでわ
141永遠の生命を生きる
からない(笑)。わかっている人も大分あります。いわゆる消えてゆく姿の肉体生活にあん
かえ
んまり把われないということは、それだけ天の自分に還っているわけです。肉体にいなが
らも、天の自分の中に住んでいる、そういう人が多くなればなるほど、この地球世界は立
派になるわけです。
142
● お粗末な政界の姿
政界をごらんなさい。与党と野党に分かれていますが、野党がダメだダメだとさかんに
突ついています。どうして人のアラばかり突ついて、人の足を引っぱらなきゃいけないん
でしょう。そうしなきゃ自分が偉くならないと思うんでしょうかね。自分の政権がとれな
いと思うんでしょうかね。人間のみじめな低劣な姿を現わしています。足ばかり引っぱら
なくて、自分たちのいい政策をかかげて、これでどうかって出せばいい。人間はもつと立
たた
派になって、お互いにほめ讃えあって、お互いに尊敬し合って生きるべきものなんです。
それが国会を見ているとまるで引っぱりあいです。長々と国会の討議をやっているのをテ
レビでみていますと、時間の浪費だし、国民の税金の浪費だなあと思います。
ああいう姿をだんだん改めるためにも、われわれ一人一人が立派になって、本心の世界
の、神の救う姿をわれわれ自身が現わして見せなければならないわけです。その先達とし
て皆さんがあるんです。
世界平和の祈りの同志というのは、神さまの光の柱の中に入っているわけです。神さま
の光の柱の中に入って、永遠の生命の道にすっかり乗りきった人が、平和の祈りのあなた
方なんですよ。皆さんは他の人より立派で光り輝いています。中には一般大衆の中に立派
な人がいます。けれどお粗末という人も随分あります。
何がお粗末かというと、心が我欲に満ちている。自分のことばかり、自分の肉体生活の
ことばかり、損得勘定ばかりしか考えられない、そういう想いがお粗末というのです。
● 自分で生まれてきた人はいない
神さまから来た生命なんだから、神さまから来た人類なんだから、どうして神さまのこ
143永遠の生命を生きる
とを考えないのか、神さまのみ心に合わせてどうして生きられないのか。肉体人間なんて
いうのは、自分で生まれてきたいって生まれてきた人はないんです。神の大きな力、大自
然の力といってもいい、大生命の力といってもいい、大きな力で生まれてくるんですよ。
人間だけの力で生まれてくる人はいません。一番先に他動的に神さまのカで生まれてき
たんだから、初めからもらった生命なんだから、頂いた生命なんだから、感謝しながら生
きなければならないのに、頂いた生命は自分の生命だと思って、自分勝手なことをしてい
る。自分たちだけのことを思う。やはり永遠の生命の中で、永遠の生命をお互いが自分の
ものにし合うような世界にならなければだめです。
世界人類が平和でありますように、という時には、みんな人類が平和であれ、みんな仲
良くしなさいよ、という神さまのみ心と肉体人間の思想とがピッタリ一つになって、世界
人類が平和でありますように、という光の言葉の流れが宇宙に流れてゆくわけです。
だから皆さんが世界人類が平和でありますように、といって、何気なく日常生活をして
いることは、皆さんはそのまま永遠の生命の道にのっとって生きているのです。あとのこ
とは問題じゃありません。
144
五十年、八十年全部苦しみ通したって、あとの何十億、何百億という年限を光り輝いて
暮らせればこんな幸せなことはありません。
●ー大きな魂に還元して生きる
たとえば戦争末期の特攻隊、二十歳そこそこの青年があたら若い生命を絶ちました。空
もったい
に海に陸に死んでいきました。お国のためといって。まあ勿体ない、ああ二十歳の青春を
散らして勿体ない、と思いますね。しかし実は勿体なくないのです。あの人たちは国のた
めに生命を投げ出した。国というのは大きな集団でしょう。大勢のため、国のために生命
を投げ出した場合には、小さな五尺何寸の身は、日本という国の大きさにひろがっている
わけですよ。大きな大きな魂に還元して、神界に永遠の生命を輝かしているわけなんです。
現在でもそうです。
私に弟がありまして、弟は十九、二十で兵隊にとられてしまいまして、すぐ死んじゃっ
たわけですよ。二十歳ぐらいで勿体ないと思いますね。ところが私の修行中に、ちゃんと145永
遠
の
生
命
を
生
き
る
私の友だちと一緒に私の後ろに来て、私の霊団の中に参加して、私を助けながら大活躍を
してくれたわけです。現在も活躍していますけど。そうすると十九あたりで死んでしまつ
たのに、私の霊団の中で働いているうちに、神界のとても素晴らしい高い地位に住みつい
て、光り輝いているわけです。
肉体で五十歳六十歳まで生きたって、今のような働きが出来っこないですよ。二十歳で
国のために生命を投げ出して、私のいるところに来たもんだから、永遠の生命を自分のも
のにして、光り輝いて大きな働きをしているわけです。
そういう方々が皆さんの親戚の中に、たくさんあるわけです。若くして亡くなったお子
さんもあるでしょうし、お父さんや兄弟方もあると思います。しかしその方々はみんな平
和の祈りの中に入って、光の柱の中で働けば、もう素晴らしい大きな魂として活躍できる
わけです。
もしそういうことで死んだ方があったとすれば、皆さん方は、その人のために、何々さ
まっと
んの天命が完うされますように、世界人類が平和でありますように、と祈ってあげれば、
世界平和の光の中に自然に入ってきまして、立派な生活が出来るわけです。
146
●llIll安心して祈りつづけて生きていく
今後も世界平和の祈り一念で生きてください。夜、世界人類が平和でありますようにっ
て寝ますね。そして朝、ああ世界人類が平和でありますように、有難うございます、と思
って起きる。そういう生活をズーッと続けていれば、皆さん方は自身に悪いこともないし、
こんじょうはら
他に悪いことがない。また今生で払わなければならない業をたくさん過去世に積んでいた
としても、世界平和の祈り一念でずーっと生活していれば、必ずといってよい程、今生で
消えてしまうのです。だから安心して平和の祈りを祈りつづけて生きてくださることを、
私は切にお願いいたします。(昭和49年12月)
(注7) 村田正雄氏(一九〇六年〜一九九五年)。滋賀県生まれ。㈱コロナ電機工業元社長。白光真宏
会元副理事長。著者の提唱した祈りによる世界平和運動に挺身し、多くの悩める人々を救った。
『私の霊界通信』(全五巻)『空飛ぶ円盤と超科学』『宇宙人と地球の未来』『霊界にいった子供達』
などの著書がある。147永
遠
の
生
命
を
生
き
る
消えてゆく姿と永遠の生命
148
● 仮の世と消えてゆく姿
消えてゆく姿と永遠の生命について、の話を致しましょう。
この世は仮の姿といいますが、それは消えてゆく姿と同じことなんで、仮の世が、ドン
ドン消えてゆく姿になって、やがて実在の姿がここに現われてくるわけなんです。
そこでわれわれは今、実在の世界、神のみ心の中に住んでいると同時に、想念波動とし
てこの肉体界に住んでいる。両方に住んでいるわけです。真の人間は一番奥深い実在の世
界に住み、神界、霊界、幽界、肉体界とズーッと光が流れてきて、それで肉体界に住んで
いる。だから肉体界も幽界もみんな仮の姿で、奥深い実在の世界が本当の姿なんです。
その実在の世界に住んでいながら、この肉体界に想念波動という重い波動として、光の
生命エネルギーを使ってこの世に生きている。ですからこの世の悲しいこと、不幸災難、
あるいは幸せなこと、そういうことはみんな想念波動が消えてゆく姿で、あらゆるものが
仮の姿だから消えてゆくんです。
しかし、実在の光明界の姿を映した善いこと、本当のことは消えない。あとからあとか
ら実在界の姿が映ってくるから真・善・美はそのまま映りつづける。悪いこと、不幸なこ
とというのは実在の姿でありません。肉体界が現われて業として現われた永遠性のもので
はないのでやがては消えてしまう。そういうことになるんです。
ですから、例えば病気の人がある、あるいは不幸な人があるとしても、それは永遠に不
幸でもなければ、永遠に病気でもない。やがては消えてゆく姿としてこの世で直るかも知
れない、あるいはあの世へ移行して直るかもしれない。しかしやがて直ってしまう。それ
で残るものは何かというと、神の姿、光そのものの姿がそこに残ってくるわけです。
149消えてゆく姿と永遠の生命
150
● 永遠の生命を生きるには
そこで永遠の生命を生きるということが、宗教界で一番重大な問題で、その永遠の生命
をさぐるために、みんな宗教に入っているわけなんですね。ですから永遠の生命を自分の
ものとするためには、あらゆる自分の想い、この肉体界にまつわっている想念波動を全部
消してしまわないと、永遠の生命がこの世に現われない。
くうむいな
空にならなきゃならない、あるいは全託しなけりゃならない、あるいは無為にして為さ
なけりゃならない、というふうに、この世に現われているあらゆる想いというもの、想念
波動というものを全部なくしてしまわないと、永遠の生命がそのまま現われることはない
んです。
くらつ
しかしそれも一度に空になれっていったって空にならないから、徐々にあらゆる出来事、
事柄を通してそれを消えてゆく姿で世界人類が平和でありますようにと、そうやって日々
瞬々刻々、あらゆる想いを消えてゆく姿にしてゆくうちに、次第次第に永遠の生命がわれ
われの生活に現われてくる。一人が現わし、二人が現わし、十人、百人、千人となります
と、だんだんに永遠の生命を現わしてゆく愛が広くなり、広くなると同時に、世界の平和
は刻々、近づいてくるわけです。
だから世界の平和を創るのには、政府が悪い、アメリカが悪い、あるいは中共が悪いと
いうように他を批判する前に、自分自身が自分の中の業想念を消し去って、自分自身が永
遠の生命をこの世に現わすという立場に立たないと、本当の世界平和は出来ないわけです。
そこでわれわれは消えてゆく姿で世界平和の祈りi 神さま有難うございます、という感
謝の想いを背景にして、消えてゆく姿で世界平和の祈りという、そういう行ないを続けて
いるわけなんですね。
だからわれわれの宗教というのは、この世のあらゆる業想念の善悪混清の世界に生きな
がら、その中で永遠の生命を現わしてゆく、実存の大光明波動をこの世に現わしてゆくわ
けなんですけれど、その方法がやっぱり消えてゆく姿という教えによって行じられてゆく
のです。
151消えてゆく姿と永遠の生命
152
● やらないから難しい
例えば痛い想い、痛い1 あっこれは消えてゆく姿だな、なんだかわかんないけど過去
世のことは消えたんだな。人に悪口いわれる、ああこれが消えてゆく姿なんだな、何か過
去においてあの人に悪くしたのが返ってきたんだな、ああこれは消えてゆく姿だな。そう
まつと
いうふうに簡単に思えばいいんです。思ったと同時に、あの人の天命が完うされますよう
に、世界人類が平和でありますように、というように祈り心に代えてしまえば、そうすり
ゃ消えてゆく姿は成就するわけで、消えてゆく姿は消えてしまって、実在の愛の姿、調和
の姿がそこに現われてくるわけですよ。
だからあんまり難しがることはありません。よく難しい、難しいという人がいるけれど、
やらないから難しいので、やれば難しくありませんですよ。一歩一歩やる。一遍に悟ろう、
一遍に永遠の生命の姿を出そうと思うから難しいんで、一歩一歩やってゆけば、やがて長
い間の体験として本当に消えてゆく姿がわかってくるわけです。一朝一夕ではなかなかわ
かりませんですね。
例えば形あるものはみんなこわれてしまう。変化変滅し、やがては消えてしまうという
ことはわかる。しかしもっと奥深い消えてゆく姿はなかなかわからない。わからないから
難しいかっていうと、難しくない。なぜ難しくないかっていうと、こうやっていてもわか
るんですよ。例えばこの間までいたお爺さんお婆さんがいなくなっちゃった。この世から
消えていっちゃったんですが、それはいなくなったんじゃなくて、幽界なり霊界なり神界
なりにいらっしゃる。しかしこの肉体界からは消えてゆく姿になって、今度は霊界で消え
てゆく姿を行じる。そしてそこで消えてゆく姿を行じ切ると今度は神界へ行く。
神界の深い所へ行くと、もう消えてゆく姿がない。そのまま光り輝いて、永遠の生命が
そこに行じられている。その神界で行じられている永遠の生命の何パーセントだかが、こ
の肉体界に映っているんですね。それで永遠の生命を行じているわけです。
皆さんは消えてゆく姿と同時に、この地球界に神のみ心を現わす永遠の生命の生き方を
している。例えば病気なら病気をする、あるいは人に悪口をいわれるとか、いろいろ消え
てゆく姿をやっているわけですが、そこで、ああ過去世の因縁がみんな消えてゆく姿なん
153消えてゆく姿と永遠の生命
だな、本当のものが、神のみ心が自分の体を通して現われるために、ここにいろんな消え
てゆく姿が現われたんだな、とそれを行じつづけていますと、やがて消えてゆく姿が種切
れになりまして、良いものだけが現われてくる。実在界の姿だけが現われてくるわけです。
それを一人がやり、二人がやり、十人がやり、千人がやり、万人がやってゆくと、もう
理屈をいうんじゃなくて世界が平和になってくるわけです。
154
●1 111ー占示教的考えというもの
ヘへ
宗教に関係のない世界では、有るものがそのままである。茶碗なら茶碗がここにある。
お茶ならお茶がここにある。人間は肉体として五十年、八十年の生命がここにある。それ
だけで、精神といっても、肉体頭脳の働きを精神現象という。そういう考えでしょう。と
ころが宗教的な考えは、そうではなくて、永遠の生命からきている光が、ひびきがこの肉
うつわ
体を動かしている。霊なる本体があって、肉体を器として動かしている。どっちが大事か
ば
というと、霊なる本体のほうが大事なんで、肉体は本体に動かされている器であり、場で
あり、道具なわけですね。肉体の五十年、六十年、八十年がなくなっても、自分はそのま
ま永遠に霊界なり神界なりに生きつづけてゆく。そういう考え方が宗教的な考え方でしょ
・つ。
そうすると、さあ一番大事な時はいつかというと、死ぬ間際ですね。その時になって、
どこも頼る所のない唯物論者は、想いの中に、肉体にしか生命がないと思っていますから、
肉体がなくなったら往き場所がなくなっちゃう。そこで永遠の生命のないところ、光のな
いまっ暗な所にうずくまって、病気の姿のまま、病念を持ったまま何年も何年もズーッと
いるんです。
そこでちゃんと宗教的にわかった人が、お経を読んだり、お祈りしたりして、さんざん
な り
光を投げかけて目を覚まさせるわけ。この間もみたままつりをやりましたでしょう。そう
するとそういう迷界にいる先祖が随分いるわけで、それをこちらから光をやって目を覚ま
まぶ
させる。目を覚まして眩しがっているのをつまみ出して上へ上げると、眩しいって、また
落っこっちゃうんですよ。それを何遍も何遍もつまみ上げる。そういうように宗教的な観
みじ
念がない、肉体だけがこの世の存在だと思っている人は、亡くなる前も亡くなった後も惨
155消えてゆく姿と永遠の生命
めですね。
うつわ
ところが、宗教的に肉体は霊の器であり、神の器であって、生命はそのまま永遠の生命
として神のみ心の中に生きるんだということがわかっている人は、肉体が亡くなった後、
スーッと守護の神霊に守られて、自分の往くべき所へ往く。それで向こうでちゃんと与え
られた場があって、そこでまた修行もありますけど、光り輝いて生きるわけですよ。明る
い明るい生活をする。
どっちがいいでしょうね。誰でも五十になり八十になり、やがて死ぬんですよ。死んだ
先に暗いところでうずくまっている。あるいは金貸しなら金貸しとすると、死んでからも
パッパッと札束を数えてばかりいる。金持ちで自分のことばかり考えていた人はいつも頭
さつ
の中に金のことばかりあるから、窓もない部屋に籠りっきりでお札に囲まれ埋まってそれ
とら
だけで終わっている。そんな惨めな生活はないでしょう。それは物質に執われきりだから
ですね。
ところが、神さまを知っている人は、明るい世界で光の中で、音楽を聞いたり絵を見た
りして暮らす。皆さんは物質というと肉体界だけが物質と思うでしょうが、幽界にも霊界
156
にも神界にも物質があるんですよ。それで統一したら富士山が見えたとか、お社があった
とか、山や谷があったとか、ってよくいいましょ。村田さんも『霊界通信』で書いていま
すしね。物質がないものなら見えるわけないでしょ。ところが、神界にも霊界にも、この
肉体界よりズーッと微妙だけど物質波動があるんです。
● 心の世界を変えるのが先
それで、この世に本当に地上天国が出来る場合にはどういうことになるかというと、今
の肉体人間のように愚鈍じゃない人間になる。大方の人は一を聞いて十を知らない。とに
かくのろいですね。パッとわからない。人の心さえもわからない。なんにもわかんない。
ただ肉体の姿を見て、ああ、あの人鼻が高い、目が大きい、とこう見るだけでしょ。私は
肉体の鼻も見ますよ、あの人の鼻の穴は大きいなって見ることもあるけど、その鼻の穴を
通して奥も見てますよ(笑)。奥も見える。皆さんは鼻の穴、目玉だけ見える。
それはあまり聡明じゃない。肉体の姿を見ると同時に心の中をも見る。ズーッと奥まで
157消えてゆく姿と永遠の生命
見える人間が多く出来なけりゃいけませんでしょ。お互いが心の中まで見え合っていたら、
嘘も隠しもないから、お互いにだまし合うこともありません。お互いにだませないし、だ
ます必要もない世界が出来れば、いやでも応でも平和になります。
形ある世界だけをよくしようと思って、アメリカをやっつけよう、中共をやっつけよう
と、いくらどうあがいても、形の世界だけでやっているうちは、絶対に世界は平和になら
ないんですよ。やっぱり心の世界を変えてゆかなければならない。心の世界を変えるため
こんこう
にはどうしたらいいかというと、各人の持っている潜在意識は善悪混清ですから、それを
浄めなけりゃならない。
浄めるにはどうしたらいいかというと、われわれが祈り、皆さんが祈って、祈りの光、
神の光を自分を通してズーッといろんな人に放射する。そうすると潜在意識がきれいに洗
われてくる。潜在意識がきれいに洗われれば、実在の神の愛の光、平和の光がその人に入
ってくる。そうするとだんだん社会が明るくなり、世界が明るくなってくるんです。
158
● われわれは先達
ま
だからまずわれわれが、集まった人が先達となって世界平和の祈りを世界中にふり撤く
んです。自分を通して世界平和の祈りをふり撒いてゆくと、知らないうちに周りが明るく
なり、日本が明るくなり、世界が明るくなってくる。そうすれば形の世界は自ずから変わ
ってくるわけです。
そういうことを私どもはやっているわけですから、どうぞ皆さんも自信を持って、何か
あったら、ああ消えてゆく姿だな、世界人類が平和でありますように。自分の世界平和の
祈りによって誰かしらが救われてゆくんだ、世界のためになっているんだ。例えば八十の
お爺さんでも、九十のお婆さんでも「世界人類が平和でありますように」ってやっていれ
ば、それは自分を通して光がふり撒かれてゆくんだと、そういうふうに自覚を持ちまして、
それで祈りを続けてください。
そうすると、形の世界で一生懸命に働いているように見える人よりも、世界平和の祈り
159消えてゆく姿と永遠の生命
を本当に真剣にやっている人のほうが、いわゆる功徳としてはずっと多いわけです。勿論
形の世界でやるのも結構ですよ。孤児院を建てる、養老院を建てるって一生懸命やる人も
本当に立派だと思います。しかしそれだけでは駄目で、心の世界の浄化運動、浄めの運動
と形の世界の運動が手を組んでやることによって、初めて世界が平和になるんです。
われわれはまず心の問題を先にして、心の浄めを先にしながら、現象世界では一生懸命
自分の持ち場持ち場を通して、銀行員は銀行の仕事を一生懸命やればいいでしょう。貿易
商は貿易のことを一生懸命やればいいでしょう。お医者さんは一生懸命病人を治せばいい
でしょう。商人は商売を一生懸命やればいいでしょう。学生は勉強を一生懸命やればいい。
そういうふうに、心の世界を主にして、それで形の世界では、その場その場の環境に従っ
てやってゆくことを私どもは提案しているわけであります。(昭和47年10月)
160
(注8) 聖ヶ丘道場で年一回執り行なわれた会員のための特別な先祖供養の行事。
史の浄め祭へと発展した。
のちに富士聖地の歴
永遠の生命と本当の信仰
質問バイブルの中で、キリストを信じた人だけが永遠の生命を得られるんだ、というこ
とをイエスさまがしきりに説いておられますが、そうだと、クリスチャンだけが永遠の生
命を得られるという不公平なことになると思うのですが、この点お教えください。
●lI-l I古胃理がキリスト
キリストを信ずれば永遠の生命が得られる、ということは本当です。ただイエスを信じ
れば、というのとは違うのです。真理を現わす、神のみ心そのままを現わした時、そこに161永
遠
の
生
命
と
本
当
の
信
仰
キリストが現われるわけです。イエスが真理を現わしたからイエス・キリストなのであっ
て、皆さんが真理を現わせば、例えば中村キリスト、斉藤キリストなんて、いろいろ出る
わけです。みんなキリストばかりになればしめたものです。ですからキリストを信ずれば、
永遠の生命が現われるということは間違いないことです。ただイエスという肉体を信ずれ
ば、というように勘違いすると困る。肉体がなくなったら信じようがないです。ですから
キリストー-真理を信じるということです。
わけいのち
真理とは何か、簡単にいうと、人間は神の分生命である、しかし想念の世界において生
まれ変わり死に変わりするけれども、本心は光り輝き自由自在なものなのだ、ということ
カくとく
です。それを信ずれば、信じただけで永遠の生命を覚得したことになるのです。というけ
れど、信じることが難しい。”見ずして信ずる者は幸なり”という言葉がありますが、私は
見ずして信じた方です。
162
● 神を信じるということ
私は大体、二十何歳まで、霊界があるとか幽界があるとか全然思わなかった。霊媒には
随分会いましたが、くだらない感じがするのですね。暗い変な妖しげな顔をした人が多い
のです。私は知性的であり、直感的なのです。両方がうまくまざっているのです。ですか
ら変な霊媒のお婆さんでも馬鹿にしない。人のいうことは素直にきくのです。素直にきく
けれども信じはしないのです。大体妖気のただよったようなお婆さんだったから信じなか
ったのでしょう。やっぱり人格が高潔で立派な人がいえば信じましょ。湯川秀樹がいった
から本当だろう、小泉信三がいったから本当だろう、というようになる。ですから人格と
いうものが大事なのですね。いつも明るく正しいあの人がいうのだから本当だろう、とい
う人間にならなければ信じてもらえないわけです。
少年から青年期にかけて私が会った人たちというのは、あまり上等でなかったのかもし
れないけれど、幽界のことも霊界のことも信じなかった。そんなことに関係なく、神の存
在は子供の頃から信じていた。宇宙大自然の不可思議なる動きは、何か叡智ある存在が動
かしているに決まっている、ということは信ずるとか信じないとかいう言葉ではなく、信
じていた、思いこんでいたのです。ここに人間が生きていることは神さまによって生かさ163永
遠
の
生
命
と
本
当
の
信
仰
れている、と思っていたし、神さまから生命を与えられて生きているということを、何の
不思議も、何の疑間もなく思っていました。そういうように思っている人は随分います。
けれど反面そう思えない人も随分います。
神を信じているというのにも二通りありますね。青年時代の私は、神さまは人類に力を
下さり、生命を下さっている。しかしあとは関係ないんだ、という信じ方。つまり、神は
完全なる理想像であって、神さまから生命が来たことには間違いない、万物は神によって
成っていることも間違いないけれども、この人類を、自分自身を立派にするのは自分の努
力以外にない、と思っていたのです。自分が一生懸命努力し、自分が一生懸命勉強するこ
とによって、神さまのみ心をここに現わすことが出来るのであって、神さま神さまとすが
っていれば神さまが助けてくれる、なんて私は全然思っていなかった。だから自分でなん
でもかんでも一生懸命やらなければ、と思って、実行していました。それだけでは足りな
いのだけど、それが非常によかった。
その考え方に加えて、いざとなれば、神さまは絶対に正しいものの味方をして助けてく
れるんだということが加わり、法則に乗りさえすれば神のみ心そのままを現わすことが出
164
来るんだ、ということも加われば、なおよかったけれど、なかった。だから、若い時は随
分けんかもしました。自分が正しいと信ずることは、上役であろうがなんだろうが、ぶつ
かっていった。くびになるのを覚悟でもって、刺し違いするくらいな気持ちでぶつかって
いった。そういう激しいものがありました。
● 己れの天命を信じて人事を尽くす
それが守護霊守護神の存在がハッキリわかってから、ずっと優しくなった。”なんだ、自
分がやっているのも自分がやっているんじゃなくて、後ろの人(守護霊守護神)がちゃんと
おか
やってくれているんだな”ということがわかったから、自分自身というのがなんだか可笑
しくなった。けれども、ただ神さまにすがって、自分は何も努力しないで、神さま神さま
って神さまだけにすがっているような人間は愚かなもので、意気地がない者だと思うので
す。やはり自分で努力して、要するに人事を尽くすことによって、天命が初めて開く。あ
るいは自分は神の分生命である、だからこの天命を果たさなければこの世を終わるわけに165永
遠
の
生
命
と
本
当
の
信
仰
はいかないんだ、というふうに天命を信じて、そして一生懸命人事を尽くす。とにかく、
人事を尽くさないことには神のみ心は開かないのです。
神秘力が現われる、あるいは奇蹟が現われるというのは、ニッチもサッチもいかない、
一生懸命やってもどうにもこうにもならない、絶体絶命だというところまで一生懸命やっ
た時です。その時に、パーッと開くのです。それを安易に苦労もしないでご利益があると
いうような気持ちだったら、一生ご利益がありません。
何故かというと、この地球の人間として生まれてきている以上は、肉体人間として一生
懸命、自分の全力を尽くしてやることが大事なのです。どんな商売をやってもいいのです。
ヘヘへ
商売をやろうと芸能をやろうと、何やろうと、そこにいのちをかけてやっていることが、
やはり尊いことなのです。”何やろうと”といったって、強盗やスリをやってもいいという
ヘヘへ
ことではありません。普通常識でやっていいことは、いのちをかけてやってゆくというこ
とが大事なのです。
これは当たり前の言葉なのだけれども、宗教をやろうとすると、自分が努力もしないで、
ただ神さま、仏さまとおまいりしたりして、すがってゆく、というようになる。それなら
166
宗教などないほうがよい。そうではなくて、自分は一生懸命やっている、しかし弱くてど
うにも出来ないとか、何か足りないものがあるなあと足りないものを足していただこうと、
入ってゆく形。これは本当の神さまに通じていくのです。
● 神に通じる道
自分で精一杯やっても、みんな足りないのです。肉体人間では何事もなし得ないんだ、
けれど一生懸命やっていることが立派なことなのだな、ということがわかると、そこに初
めて神への道が開けるのです。”ああ肉体人間じゃ何事もなし得ないんだな、神さまがわが
内にあって為さしめ給うのだ”ということなのです。そこまでくると本当の信仰になるの
です。それを私は勧めているわけなのです。
はら
肉体人間として一生懸命やる、ということに肚が決まって努力していて、しかも幽界や
霊界がわかってくればいいでしょう。怠けて頼ろうという気があったならば、幽界を知り
霊界を知ることが、かえって災いになるのです。うまい具合に奇蹟が現われないか、なん167永
遠
の
生
命
と
本
当
の
信
仰
かうまいことがないか、なんてばかり求めていると、ちょっと幽魂の声を聞いた。うまい
ことおだてられて、いい気持ちになって乗っていくうちに、変になってしまう場合がある
のです。何か声が聞えたり、見えたりする必要はないのだ、そんなことをしなくとも、一
生懸命肉体の生活をやりながら、神さまの中に入っていれば、中から直感的に神の知恵が
湧いてくるのです。”ああ神さまと一緒だな” とか”自分の運命は大丈夫だ”ということが
カくとく
自然にわかってくる。永遠の生命というものを自然に覚得していくようになるわけです。
外から何も感じる必要はない。中から感じてくればいいのです。内から湧いてくるとい
うものがある。知恵や力が湧いてくる、という形になってくるのが一番いいのです。
永遠の生命を得る、ということはやはり自分が感じなければ、話でわかるというもので
はない。初めからわかる人は素質です。それからあとは話でわかるというより、素直とい
うことです。素直に人の話を聞いているとわかってくるんです。だから相手にわからせよ
うといくら努力しても、相手にわかる素質がなければわかりません。ですから言葉でわか
ごうそうねん
らせるよりも、祈ることです。わからないということは、真理を業想念が厚く覆っている
からなのですから、業想念を払うための世界平和の祈りをして、その人の天命が完うする
168
ように祈っていると、光が入っていって、自然に業想念がとれます。そうしますと、向こ
うでかえって質問してきたりして、こちらがなんとなく言ったことがすぐわかってくるよ
うになるわけです。
● 言葉より祈りの心を
だから、言葉でわからせるということは二の次として、祈りで光を与える。世界平和の
祈りの大光明を与える、流しこんでやるということが、永遠の生命を悟らせる第一だと思
います。
なかには、わかってもわからないような顔をしたり、言ったりする場合もありますね。
あまのじやく
天邪鬼というやつです。それは親子とか夫婦とかの場合に余計そうです。妻が一生懸命う
ちへ来ている。夫は知らん顔をして、五井先生の五の字もいわない。それでいてわかって
いないかというとそうでなく、いつの間にか本などを読んでいて、妻よりハッキリわかっ
い
たりする場合もあるのです。
169永遠の生命と本当の信仰
親しい友には負けたくない、夫が妻に負けたくない、というのがあるのですよ。それが
わざとわからないような格好をしているけれど、実はわかっている、ということがありま
すから、言葉でおおいかぶせるように、言いきかせるような言葉づかいをすると「何言っ
てやんだい」ということになるんです。言葉でいうよりも、祈りのひびきでもって、光明
を流しこんであげるのが第一です。それから向こうがとけてきて”とけて流れてノーエ”
じゃないけれど(笑)、とけてきたところへ言えばスーッと真理が入っていきます。そうい
うわけです。(昭和40年10月)
170
第誰輩人間の真実の生き方
人間はいくらでも立派になれる
172
● 過去世からの定まりこと
皆さんがここに座っていらっしゃるのは、過去世の縁によるもので、自然に縁の深い人
が集まってくるわけです。今日、初めて来た人もあるでしょうけれども、やっぱり過去世
において縁が深いんです。
隣に座る人が初めて会う人かも知れません。一言も言葉をかわさないかも知れないけれ
ど、霊的にはみな交流し合っていて、過去世の因縁でもって会うわけですね。ズーッとた
どってゆきますと、人間の肉体が生まれてくる時から、本当に地球世界の平和というもの
が出来るまで、みんな神さまの計画にあるわけです。肉体人間に生まれてきて、真実に進
化して、宇宙天使と同じような力をもてる、そこまで決まっているわけなのです。
決まっているけれど、ドラマのように人生も、もう世界はだめになるか、地球はだめに
なるか、という危機もありながら、また天変地異が起こるかな、戦争が起こるかな、とい
ういろいろな危機もあって、やがて本当の世界平和が出来てくるんですよ。必ず来るんで
す。神さまのみ心の中には、地球世界の真実の平和があるからです。しかし一方幽界には、
地球の滅亡の姿が画かれているのです。地球人類が神さまから離れた想いを出しているの
が、幽界にはいっぱい溜まりにたまっているのです。それが天変地異になり、あるいは戦
争になってくるわけです。
幽界の様相がそのまま現われたら、映画や本にも出ているように、地球は滅びることに
なります。予言者といわれる人がいますが、そういう人は幽界のことを見るのです。それ
でもって、地球はだめになると予言したりするわけです。しかし、幽界の上には霊界、神
界があります。神界では完全に平和な世界が出来ているわけですね。その神界の姿がその
まま肉体界に現われれば、地球は平和になるわけです。幽界が先に現われたら、人間は終
173人間はいくらでも立派になれる
わりになってしまいますから、神々がいろいろな聖者、賢者を現わして、
をしたりお祈りをしたりするわけです。
い
ろ
い
う
な
教
え
174
● われわれが神さまから受けた教え
それでわれわれが神さまから受けたのは何かというと”消えてゆく姿で世界平和の祈り”
という教えなのです。それはどういうことかというと、この世界に現われている悪いこと、
かこせこういんねん
不幸や災難は、みんな過去世の業因縁で、つまり過去世に神さまの完全円満なみ心から離
れて、自分勝手な想いを出して、自分勝手に生きたその想いがだんだん重なり合って、あ
る限度溜まってきますと、そうしたものは本来、実在しないものですから、どうしても消
え去らなければならないようになっているのです。その消えてゆこうとするのが、不幸災
難になって現われるわけです。
だから不幸災難が現われた場合には”あーこんな不幸なことがあって、こんな災難があ
とら
って、これは大変だ、どうしようどうしよう”というように、悪いほうに把われないで、
その想いを”過去世の因縁が、いわゆる神さまを離れていた悪い想いが、みんな消えてゆ
く姿として現われてくるんだな、ああ消えるんだな、消えるんだな、どうぞ神さま消して
ください、世界人類が平和でありますように”といって、世界平和の祈りに切りかえてし
まうのです。
世界人類が平和でありますように、と神さまのほうに願うわけでしょう。神さまのほう
では、人類はみんな兄弟姉妹だから、みんな仲よくなるように、平和であるように、とい
うのがみ心です。端的にいえば、世界人類が平和であれ、というひびきです。こちら側の
想いと神さまのひびきが”世界人類が平和でありますように、お願いします”と祈ること
によって、完全に一つになりますね。そうしますと、大光明波動がこの地球界に注がれ天
地がつながるわけです。
● 悪いことは想った時が大事
ところが人間の想いというものはおかしなもので、悪いことばかり想うんですよ。こ、つ175人
間
は
い
く
ら
で
も
立
派
に
な
れ
る
なりゃしないか、ああなりゃしないか、個人についていっても、うちの子供が不良になり
ゃしないか、だめになりゃしないか、病気になりゃしないか、学校に落ちやしまいか、っ
ていろいろ悪いことばかり想う。社会とすれば、天変地異が起こりゃしないか、戦争が起
こりゃしないか、と想う。そういう要素がたくさんありますから、想うのは無理ない。
想うのは無理ないから、想った時が大事なのです。ああ大地震がありゃしないか、昨日
もあった、またありはしないかと想うでしょう。想った時に、ああそれは過去世の因縁の
消えてゆく姿、神さまどうぞこれを軽く消してください、というふうに世界平和の祈りの
中に入れてしまえば、たとえば十出てくるものが三になり二になって、ずーっと小さくな
る。何故かというと、神さまの光が入ってきますから、神さまの大調和の光が入れば、不
調和の波が消えるでしょう。
天変地異が来るのも、戦争が起こるのも、みんな不調和の波が現われてくるからそうな
るのですから、その不調和の波を消して大調和の波動にかえれば、この地球世界が完全に
平和になるんです。その大調和波動をこの地球界に導き出すには、神さまのみ心と一つに
ならなければならない。神さまのみ心と一つになるためには、方法がなければ一つになれ
176
ませんね。その方法は、われわれの場合には、世界人類が平和でありますように、という
祈り心、祈り言葉なんです。
世界人類が平和でありますように、といって祈ると、想いがズーッと神さまのほうへゆ
く。そうしますと、神さまの”大調和であれ” “人類は平和であれ” “兄弟姉妹、平和であ
れ” というひびきとこちらの想いがピタッと一つになるわけです。
だからどんな不幸が来ようと、災難が来ようと、病気になろうと”これは必ずよくなる
前兆なんだ、みんな過去世の因縁が消えてよくなるんだ、世界人類が平和でありますよう
に” と思ってください。
●1 神さまの器になり場になる
ここでちょっと私自身のことをお話しましょう。五井昌久として生まれてきた肉体の想
いというものは、とっても思いやり深いのです。すぐ人のことを思ってしまう。思いすぎ
てノイローゼになる人もあるけれど、ノイローゼにならない神経の強さで、人を思いやる177人
間
は
い
く
ら
で
も
立
派
に
な
れ
る
わけです。ああ、あの人の財布が軽そうだから入れてあげましょう、そこまで昔は思った。
そして財布の軽い人があると入れてやったものなんですよ。今は入れません、多すぎちゃ
って。
昔、ものずきな人があって、先生の星をみてみましょうってね、わざわざ占星術の人に
みてもらった人があるのです。ちゃんと書いたものを持ってきた。それによると思いやり
の星が三つある。帝王の星というのが三つある。だから星占いの人が、この人はふつうの
きぐらい
人だったら大変だ、気位ばかり高くて、貧乏で苦しんでいる、といったそうです。ところ
がふつうの人じゃなかった。
どこが違うかというと、自分というものがないんですよ。神さまに自分の命を全部捧げ
た。神さま、どうか私の命を差し上げますから、人類のためにどうぞ使ってください、と
三十年ぐらい前に投げ出してしまったでしょう。投げ出したその時から、肉体の五井昌久
という人はいないわけなのですよ。神さまのほうから、肉体波動の器を使い、場を自由に
使っているわけなんですよ。ですから、五井昌久としてオギャーと生まれて、三十年ぐら
いして、肉体の五井昌久というものは、本当に器になり場になってしまったのです。
178
それでお釈迦さまが使う時もあるでしょう。孔子さんが使う時もあるでしょうし、老子
えん
さんが使う時もあるでしょう。役の行者が使う時もあるでしょうし、イエスさんが使う時
もあるでしょう。古事記に書かれているような神々もあるでしょう。いろいろな神々、聖
賢がこの場を使って働いているわけです。それはお浄めをする時によくわかります。
皆さんの中でもお釈迦さまの縁で来る人もあれば、イエスさんの縁で来る人もあれば、
老子さんの縁で来る人もあれば、役の行者の縁で来る人もあれば、道元さんの縁で来る人
もあれば、法然さん親鸞さんの縁で来る人もあり、いろいろな人があるわけです。その人
の縁に従って、神々が現われてお浄めするわけなんですよ。それで私は当たり前の顔をし
ているわけです。いちいち顔が変わっちゃ相手が困りますものね。やっぱり五井昌久の顔
でこう出ているわけです。でも見る人が見ると時々変わります。怪人二十面相じゃないけ
ども(笑)たくさんの顔があって、中で働いていらつしゃるんです。
179人間はいくらでも立派になれる
180
●
ひゃくしゃくかんとう
百尺竿頭一歩を出す
五井昌久という個人はないんです。何があるかというと、神の愛の気持ちだけがあるの
です。ですから子供が「サヨナラ」というと「サヨナラ」っていわないではいられないん
です。お話の最中でも「ゴイチェンチェー」と呼ばれれば「ハーイ」と答えずにはいられ
ないんです。答えないと子供がかわいそうでしょう、せっかく呼んでいるのに。子供が失
望しますからね。なるたけ人の心を痛めまい、というのが私の想いなんです。だから、肉
体の五井昌久の思いやりの星の心と、神さまの愛とがピタッと一つになっている。神さま
の愛と私の思いやりとがつながって、この肉体のように見えている器を使って神さまが働
いているわけなんです。
大体、教祖とか創始者というのはみんなそうなんですよ。肉体人間じゃありません。み
んな神さまが天使として使うわけです。器を使うわけです。私のことを偉いとか偉くない
とかいう人がありますが、どこがいいかというと、素直に、神さまにどうぞと全部明け渡
しちゃって、人類のために私を使ってください、といえたということでしょうね。道元の
言葉ではないけれど、百尺竿頭一歩を出た。
さお
百尺竿頭、竿の上を往ったり来たりして、ふつうはみんな飛び降りないのです。だから
悟れない。それを私はパーッと飛び降りちゃった。百尺竿頭一歩を出て、神さまどうぞ、
って捧げちゃった。その意志力というか、勇気というか、もつといえば神さまとの趣毒旗
の縁ですよね。前生の修行の結果です。それがパッと出来たことが、私が皆さんより一歩
先にこうなったことなんですよね。
過去世の修行によって、縁によって、神さまに命を投げ出す、なんていうことはなかな
か出来ないことです。そこまでいかなくともいいから、
“現われてくるのはみんな消えてゆ
くもんだな、すべて悪いものは消えてゆくもんだな、
私は神と一体なんだな、神さまは私を使ってくださるんだな、神さま有難うございます”
といい、そして、
“どうか愛深い私でありますよ
うに、みんなと仲よくできる私でありますように””柔和
な私でありますように” とか自分の願うこと、希望することをいつも神さまに願いながら、181人
間
は
い
く
ら
で
も
立
派
に
な
れ
る
悪いことはみんな消えてゆく姿にしてゆく、そうするといつの間にか変わります。十年も
たったらまるっきり変わった素晴らしい人間が出てくるわけね。
182
● 自分で決めていてはいけない
一番いいことは、例えば、自分は短気だと思いこんでいる人がある。おしゃべりの人は
自分はおしゃべりだと思いこんでいる。あの人しゃべらなけりゃいい人なのに、しゃべっ
てばかりいるから悪い人、というのもありますね。臆病の人もあります。勝手に、みんな
ごう
自分で決めちゃっているんです。決めてはいけません。それは業なんです。ですからみん
な消えてゆく姿なのです。
今までおしゃべりでおしゃべりでしょうがなかった人も、どうか神さま適当なおしゃべ
りにしてください(笑)、みんなに嫌われないような、いいおしゃべりが出来ますように、
といつもいつも思ったら、おしゃべりが出来なくなります。ふつうだったら三時間しゃべ
っちゃうところを、三十分ぐらいくると神さまがパッと止めちゃうかもしれない。言おう
しま
とするとパッと何言っているのかわからなくなって、それでお終い、となる。ところがそ
れがとてもよかった、ということもあります。
親切に教えてくれても、なんでもかんでもあんまり長々としゃべられちゃうと、せっか
く有り難いな、と思って感謝していても、あとの三時間うんざりしちゃって有り難いのが
消えちゃうということがあります。親切もそこまでにしておけばいいのに、そこまで以上
いや
になると、人の心にあまり入りすぎ、人の家庭の中に入りすぎちゃうと厭がられるんです
よ。だからほどほどにしないとね。
親切もほどほど。帰りたくてうずうずしているのに、もう少しお話して、もつと… … な
んていわれて帰るきっかけがなくなってしまう場合もあります。だから、人を引きとめる
のもほどほど。人の家に行ってお話をするのもほどほど。何をするのもほどほどなんです。
やっぱりおしゃべりの人は依然としておしゃべり。短気の人は依然として短気、臆病の人
は依然として臆病のように見えるんですよ。しかし、年月がたつと変わっているんです。
おしゃべりの内容、短気の内容、臆病の内容が変わってくるのです。ただ単に、地震が怖
い、何が怖いという臆病じゃなくて、自分のやることに対して慎重になる臆病というのも
183人間はいくらでも立派になれる
あります。そういうものなら、まあまあいいでしょう。
184
●lIIー楽しみながら精進できる
いいほうに変わってくる。そのためにやっぱり祈らなければだめです。自分でこれがい
いと思ってはだめだし、あるいは自分でだめだと思いこんでもいけません。”自分はこうな
んだ”と決めてはいけません。こうなんだ、という人間などありゃしない。どれだけ偉く
なるかわからないのです。今、肉体をもった人間で偉いような人がいるとします。ところ
が宇宙天使にくらべたら、問題にもなんにもならないのです。地球の中で、偉いとか偉く
ないとかいったって、五十歩百歩、たいして違わないのです。ですから皆さんはどんなに
でも偉くなれるんだから、どこまで偉くなっても誰も文句をいわないです。どんなに立派
になったって、あのヤロー立派になりすぎやがって、なんていう人はないんですよ。です
から、人間というのは有り難いと思うんですよ。
ここで短気が起きるかと思ったら、今日は短気は大丈夫だった。臆病になるかと思った
ら少し勇気が出た。しゃべろうと思ったけれどここで止めた。そういうように毎日、日々
こう
瞬々、悪いもの、業がこれだけ消えたな、これだけ立派になったな、ああ私はこれが出来
たな、というように、心の中で自分が進歩してゆく、成長してゆくのを見ながら、楽しみ
ながら精進していったら、本当にいいと思うんです。
その根本のやり方が、消えてゆく姿で世界平和の祈りです。世界人類が平和であります
ように、どうかみんなが幸せでありますように、愛深い私でありますように、どうか短気
でない柔和な私でありますように、夫に尽くせる私でありますように、妻にやさしく出来
る私でありますように、というように、自分の希望しているものをいろいろ想いながら、
それで平和の祈りをしていれば、その人は必ず立派になるんです。(昭和49年10月)
185人間はいくらでも立派になれる
人間と真実の生き方
186
● 想いの向いている所がその人の世界
人間というものはどういうものか? たとえていえば、想いが向いている所が自分の世
界なんです。双眼鏡で前方を見るとしますと前方しか見えません。天に向ければ天しか見
えない。地面を見れば地面きり見えない。というように、想いの目が向いている所が、そ
の人間の在り場所、存在する所なのです。
自分が本当に立派な、神と一つのような人間になりたいと思うなら、神さまのほうに向
けばいいわけです。自分の想いが向いた所が自分の世界だし、自分が進んでいく道なので
す。前を向きながら、うしろへさがっていく人はない。やっぱり見た方向へいくわけです。
ヘヘへ
そこで、一番幸せなことは何かというと、人間のいのちというものは、神さまからきて
ヘヘへ
いるんだから、いのちの本源である神さまのみ心の中に入っていさえすれば、自分の本当
の生き方が出来るし、神の力がそのまま充分に入ってくるんだ、ということです。これは
私自身経験して知っていますし、古来からの聖者はみなそうやっているわけです。それで
私は神さまのみ心の方向に、自分の想いを向けて、神さまの心と一つになることが一番い
い、というのです。
何故かというと、一番広く人生がみえるからです。
例えば高い山の上に登ってみれば、下界が広く見渡せるし空も見える。ところが裾にい
たのでは、裾しか見えない。見えない所で、これだけだ、と自分を限定している。自己限
定をしていたのでは世界は広くならないから、高い山の上に登ってみなさい、高い山の上
というのは何かというと、神さまのみ心だから、その中に入りなさい、というわけです。
神さまのみ心の中に入るには、自分の想いだけで、サッと入れるかというと、雲があっ
たり、風が吹いたりして、なかなか入れない。想いが向かない。じゃどうすればよいかと
187人間と真実の生き方
いうと、一番自分の身近にいて、
向けることです。
しかも肉体波動に災いされない、守護霊守護神に想いを
鵬
●l lI-1守護霊守護神と宇宙神との関係
ぶんれいこん
守護霊というのは祖先の悟った霊、いいかえれば、分霊魂の親です。魂の親であり、魂
のおじいさんでもあるわけです。その守護霊さんにつながれば、守護霊さんから段階的に
守護神さんにつながって、大神さまのほうに想いがいくから、大神さまのほうから光が流
れてきて、業を消しながら、自分が光一杯になって、知恵も力も充分に入ってくる。だか
ら一番身近な守護霊さんに感謝して、守護霊さん守護神さんをいつも思いなさい、と簡単
に教えているわけです。
ところが、守護霊守護神をいわない宗教では、神は唯一神だ。だからそんな他のものに
頼むことは何もない、創造主であり造物主である神さまだけにお願いしろ、というのだけ
れども、神さまのみ心というのは、微妙な微妙な波動で、奥の奥の奥の深いところにあり
ます。だからなかなか想いがそこまでとどかないのです、邪魔があって。
会社組織でも、大きな会社になればなるほど、新入社員がい、古い社員がい、主任とか
係長とか、課長、部長がいる。長がつく役がたくさんあって、社長がある。ですから、初
めからハンをください、と社長のところへは行けません。いったとしたって、社長はハン
を押しません。主任なり係長が押して、課長が押して、部長が押して、そして社長となる
でしょう。この世の中でもそうです。それと同じように、なかなかすぐ大神さまにつなが
るわけではないのです。そこで身近なものからいくわけです。
守護霊や守護神には、人間の課長や係長と違って、人間感情というかそういう業想念が
ありません。だから、そのまま素直に想いを向ければ、一遍に光がスッとくるのです。ち
はしご
ようど光の梯子が降りているようなもので、あるいはエレベーターが降りているようなも
ので、守護霊さんというエレベーターに乗り、守護神さんというエレベーターに乗れば、
はユ
想いがそのまま大神さまのところへいく。そうすると大神さまにつながるわけです。
神は唯一神なんだ、と自分でがんばって、大神さま、宇宙神さま1 なんていって、自
分の中の神さまを出せばいいとか、意気ばっていても、なかなかそのようにはいかない。
189人間と真実の生き方
いかないからこそ、今まで世界がなかなかよくならなかったのです。理想論になってしま
って、現実にはなかなかみのらない。そこで私は、あらためて、そうやって一遍に行こう
と思っても無理だから、祖先の悟った霊が守っている、祖先のおじいさんおばあさんが守
っているんだから、その守護霊さんに自分の想いを向けていれば、守護霊さんと一つにな
り、守護霊さんがうまくやってくれるんだ。守護霊さんの光が足らなければ、守護神さん
が手伝ってやってくれる。そうして、大神さまの力がズーと通ってきて、間違ったことを
しない。間違ったことをしてもすぐ気がつくようになる、という人になれるんだ、という
わけです。
そうなると、実に頼り甲斐がある。例えば誰にも会わない、一人ぼっちであっても、あ
あ自分は守護霊さんに守られているんだな、祖先の霊が守っているんだな、その上に、守
護神さんがいらっしゃるんだな、それで大神さまにつなげてくださるんだな、ということ
がわかります。感覚的にわかる。それで気持ちが楽になる。
190
●ー1-1ー守護霊は自分専属の助けの神です
大神さま、といっても漠然としていて、感じがピンと来ない。祖先の霊が守ってくれて
いる、というと、亡くなったおじいさんおばあさん、先祖は必ず子孫を守ってくれる、と
いうことは当たり前にわかります。先祖は子孫のために悪くあれ、と思う人はないんだし、
みんな子孫のことを想っているに違いない。ましておじいさんおばあさんというのは、い
つも孫としての自分たちをかわいがってくれたんだから、必ず守っていてくれる、という
ことは理屈でなくて直感的にわかる。
要するに自分専属の神さまです。そして、今まで、悪いことをしても、なんとか少しま
けてくれて、身代わりになって守ってくれる、というようなものがなかったけれど、そう
してくれるのが守護霊さんです。おじいさんおばあさんというのは、孫がいたずらして、
お母さんに叱られた時、私が悪かったんだよ、と身代わりになってあやまってくれる場合
わけみたま
が随分ありますね。そのように、守護霊さんは自分の分霊の肉体人間が間違ったことをし
191人間と真実の生き方
ても、バカモノとぶんなぐらないで、まけてくれるわけ。自分が背負ってくれて、身代わ
りになって、幾分ずつでも自分が払ってゆく、という形にしてくれるわけなのです。
それは、肉体側が思わなくても思っても、守護霊さんではしてくれているのです。だか
ら、こちらから、ああそうやっていつもいつも守ってくださるんだな、守護霊さんありが
とうございます、ご先祖さんありがとうございます、というような思いで守護霊さんに感
謝していれば、守護霊さんのほうで苦労しないで守りよい。
それを、こちら側が守護霊さんのことを思わないで、勝手なことをし、勝手な方向を向
いていると、守護霊の方向に向けさせる努力が大変です。時間もかかる。ところが守護霊
さん守護神さんありがとうございます、と真っ直ぐにつながっていれば、間違いがきても
パッと払えます。だから守護霊守護神さんをいつも思っていなさい、というわけです。そ
うすると守護霊さん守護神さんは楽に守りやすい、苦労をおかけしないですむわけです。
だから”守護霊さんありがとうございます、守護神さんありがとうございます、といつ
も思っていらっしゃい、そうすれば悪いように現われても、それは善いことを早く現わす
ために悪いことが出てくるんで、それは消えてゆく姿、守護霊守護神さんが消してくれる192
んだよ”と教えているわけです。
そういうような気持ちになって、日常茶飯事を生活していれば、守護霊守護神と一体に
なって、それが一つの自分(大我) というものになってしまう。そして神のみ心を現わし
ていくようになるわけです。それを私は簡単に説いているのです。
そして、守護霊守護神に感謝するとともに、自分がこの世に生きていることは、なんら
かの天命があって生きている。しかしそれがどういう天命か自分にはわからない。一番い
いことは、世界が平和になることだから、世界平和の祈りをしましょう。”世界人類が平和
でありますように”という想いを出せば、それは世界人類を愛していることになるから、
おばあさんでもおじいさんでも、家庭の主婦でも、お台所しながらでも、おつかいをしな
がらでも”世界人類が平和でありますように”といつも思って、守護霊守護神に感謝して
いれば、それは人類愛の行ないをしているんだ、というように教えているわけです。
193人聞と真実の生き方
194
● 霊と肉との一致
そういうように毎日毎日生きていれば、自分の生き方が正当な生き方になっていくので
す。それは理屈ばって教えてもなかなか難しいから、簡単に説いているわけです。理論的
にいっても、実際的にいっても、いのちが、肉体波動というものを利用して、肉体を動か
し、この地球界に世界平和を創ろうとしている。地球界に現われたものが、みんな完全に
なるための働きを、この肉体の人間と守護霊守護神とがしているわけです。
肉体というものは何かというと、いのちが使う器であり場所なのです。この場所、器を
上手に使わなければいけない。それには肉体のほうが勝手に動.いたんじや、どうにもやり
にくくてしょうがないから、一度神さまにおまかせしなさい。神さまといっても、何か手
の届かない高いところにあると思うから、先祖である守護霊さんにおまかせしなさい。守
護霊さんは守護神さんにお願いしてくれるから、そうすれば、霊と肉体とが一緒になって、
楽に楽に仕事が出来るんだ、とこういうように説くわけです。
宗教があんまり理論的になってしまうと、理論ばかり追って、難しくなる。といって、
あまり神秘的になってしまうと、神秘的なことばかり追って、現実面がおろそかになって、
何もしない、ということになってしまう。私の教えというのは、神秘的なところもあるし、
理論的なところもあるし、そしてやさしく、誰にでもわかるようなところもある。それを
うまくまぜて教えているわけです。
●lllll宗教本来の役目は大調和
難しい仏教用語をつかったり、神道用語をつかったりしない。神道の何々神、何々神と
いっても、神さまの名前を憶えるだけでも大変ですからね。そうすると、神道じゃそうい
うけれど、キリスト教じゃこういう、仏教じゃこういう、といって、いろいろ面倒なこと、
宗教争いのようなことになります。
ですから、相対的な見解をもって、争うような想いをもつなら、宗教も何もいらないの
です。宗教があって、各宗派があって、それで争いが起こるようだったら、宗教があると195人
間
と
真
実
の
生
き
方
いうことがもうだめなのですね。宗教宗派というものが、相対的に自分の団体だけを護持
するために、相手をけなし、喧嘩して争うようなことになれば、宗教はないほうがよい。
へ
宗教本来の面目というものは、大調和ということです。人間はみんな一つのいのちなん
だ、縦に神と一つなら、横にも人類はみな兄弟同胞なんだ。その一つのものが個々にわか
まっと
れて、個々の天命を完うしながら、一つの使命を完成していく。その一つの使命というの
は何かというと、地球人類が平和になって、大調和していくことが人類の使命なのです。
そして一人一人の人間はその使命を分担して、生きているわけなんです。
一つ一つの分担しているものがお互いに喧嘩しあい、国と国とが争いあって、それで神
さまのみ心を現わそうといったって、無理だと思うのです。
今の世界情勢をみていますと、それぞれが自分の国なら国というもの、自分たちの信ず
る思想なら思想というもの、自分のグループならグループだけを守ろうとして、相対する
グループや思想や国と衝突している。一方が他方を敵とみれば他方は一方を敵とみるに決
まっています。自分を敵とみている相手を、味方だとは思えないでしょう。敵対するから
敵対する。両方ともが悪いんだけれども、そういう世界というものがいつかなくならなけ
196
れば、本当の平和は生まれない。
●ーーlll徹底した平和精神から出発した運動
そこで私どもはどうするかというと、そういう世界はひとまずそのままにしておいて、
というのは、アメリカに何ていったって、中共にどういったって、自分たちのソロバン勘
定でやっているのですから(アメリヵのソロバンなど実に間違っている。中共のソロバンも間
違っている。間違っているけれども、それを本当だと思ってやっている)聞きやしません。で
はどうしたらいいかというと、中共の力でもない、アメリヵの力でもない、全然新しい力
を結集するのです。
新しい力とは何かというと、本当の意味の平和の力、大調和の力なのです。大調和の力
というのは、相対的な目で、あなたと私、アメリカと日本、中共と日本、というような見
方をしたのでは出てこないのです。人類というものは一ついのちによって生かされている。
みんな兄弟姉妹なんです。ですから争うということがあってはいけないんだ、という深い197人
間
と
真
実
の
生
き
方
思想をもった平和論から出発しないと、本当の平和は出来ない。
片方の手で武器をもち、爆撃をしながら、片方の手で、平和にしよう、仲良くしよう、
としている。ぶんなぐっておいて仲良くしよう、といって、またぶんなぐっている馬鹿は
ないでしょう。そういうことを世界中がやっているわけです。アメリカばかりではありま
せん。こういうことではだめだと思うのです。
平和なら平和に徹底しなければいけません。徹底的な平和論でなければだめです。徹底
的に平和の行をしていて、それで滅びるなら滅びてもいい。地球が滅びてもそれは仕方が
ない。地球世界を初めからやり直すのが、神のみ心ならそれでも仕方がない。しかし、神
さまのみ心は平和で大調和なのだから、本当に平和だけを念願しているものを滅ぼすわけ
がない。滅びたら滅びたで、それは神のみ心だから、霊界へ行って使命をまた果たしてい
けばいいんだ。そこまでの決意がないと、本当の平和運動も出来るものではないんです。
ただ、口で平和だ、平和を願うんだ、といったって、何か強大な圧力が加わると、思想
が変わってしまうような平和論ではだめなのです。私の提唱している平和運動というのは、
そうした世界情勢とは別に、自分たちは徹底した世界平和の念願を強くもち、世界平和の
198
祈りをもち、人にもすすめ、そして祈りをもった人たちがたくさん集まって、一つの力に
なれば、日本なら日本全部が世界平和の祈りになれば、他から争いの波が入ってくる隙が
ないのです。光のひびきが、日本の雰囲気として世界を圧倒しますから。ですから、徹底
的な平和論にならなければだめだ、というわけです。
細かい枝葉のことをいったら、どちらがいいかわかりゃしない。軍備を持ったほうがい
いのか、持たないほうがいいのか。中共のほうがいいのか、アメリカのほうがいいのか、
わかりゃしない。お互いがいいようなことをいうのですから。自己の見解でいろんなこと
を主張するわけです。
そういうのをひとまずおいて、私どもは、世界平和の祈りに結集しようと、いうのです。
この世界平和の祈りにはどんな力が応援しているかというと、自分の祖先の守護霊も守護
神も応援しているし、大救世主の大光明が応援しているし、宇宙天使まで応援している。
すべてがこの地球界を平和にしようとして、見えない力は応援しているのだから、それを
信じてやりましょう、ということなんです。
199人間と真実の生き方
200
● どんな強い人でもすがるものを求めている
祈りながら、自分というものは、本当は肉体じゃないんだな、肉体は単なる場所であり、
器なのだから、肉体の生き死になんて、あまり問題にならないんです。生命が生き生きと
生きればいい。いのち生き生きと生かすにはどうしたらいいかというと、いつも守護霊守
護神に守られているんだな、ということを思いつづけていけば、自分の信念が深くなって、
何事があってもあまり驚かなくなる。
守護霊守護神がいつも守っている、ということを信じさえすれば、何があっても大丈夫
だ、という観念になるわけです。だから常に守られているんだ、と思うことです。そうし
ていれば安心する。
つか
人間はどんなに強い人でも、心の中では何かしら掴むものを求めている。どんな強そう
さかい
なことをいっていても、生死の境になれば、何かしら求める。唯物論者でも求める。何を
求めるか? 求めるものがない。ないけれども求めます。おかあさん1 と呼ぶかもしれ
ない。誰かに何か求めているのです。私どもはハッキリと求めるものが決まっているので
す。
守護霊さん守護神さんが守っている、大神さまが守っている、という感じ方、あるいは
平和の祈りをする、五井先生! というように、想いがスーッとそこへ行く。だから心が
動揺しないわけです。心が動揺しないだけでもいいんだけれど、動揺しないと同時に光が
それだけ余計に入っていきます。それが宗教観念なのです。
それが今度は行ないになって、人のためにつくそう、みんなの平和を願おう、というこ
とになって、世界平和の祈りが生まれているのです。
質問世界平和の祈りは、どんな所ででもどんな時でもいいと教わっておりますので、お
祈りをさせていただいておりますが、肝心の対人関係とか、仕事の問題とか、いろいろ社
会的に貢献が出来るような立場にある時にサッパリお祈りの言葉が出てこないのです。ど
うも自分のお祈りというのは、本物じゃないんだな、というふうにいつもいつも反省して
おるんですけれど、自分の精神状態がどんなものであるか、ということをお聞きしたいと
201人間と真実の生き方
思います。
202
● いざという時、祈りの効果を現わす方法は?
そういう方は随分あると思います。例えば心のひまな時には祈れるけれども、仕事をし
ごと
ているとか、交渉事をしている時には祈れない、ということですね。
実際問題として、想いが交渉事なら交渉事の中に入っていますから、無理ないことです。
そういう場合には、入る前に、守護霊さん守護神さんお願いします、有難うございます、
だけでいいと思います。それで仕事に入っていけばいい。
ただ、自分で祈ってないように思っている時でも、実は深い祈りの状態の時があるので
す。これは自分ではわかりません。だから、常の祈り、常に常に祈っている祈りが、そう
いう時に効果を現わすんだ、と思って差し支えありません。
交渉事をしている時は、ああいったらこういわなければならない、なんて考えているか
ら、なかなか祈れませんね。しかし、達人になれば、そんなこと考えなくても、必要な言
葉や態度が自然に出てくるのですが、なかなかそこまではいかないでしょう。だから日頃
の祈りがいつでも役に立っているんだ、と思ってください。
電車に乗っている時、お手洗いなど、一番ひまですよ。一番統一するんじゃないかな。
ひまな時は、どこでもいいから祈ることです。そして仕事をしている時は、精密な仕事を
している時などは、その仕事に統一没入しているから、そこに日頃の祈りが生きてくるわ
けです。そう思ってください。
質問いつかの先生のお話に、バッハの音楽は神界からのひびきと伺ったように思います。
それでジャズなどは業想念的音楽と私は思うのですが、バッハの音楽をきいている時には、
やはり神界のようなところに私どもはいるんでしょうか。もしそうだとすれば、なるたけ
ジャズなんかきかないで、バッハのような音楽をきいたほうがいいように思いますが、い
かがでしょう。
203人間と真実の生き方
204
●llllーデッカイ人間になるために寛容の美徳を養う
そこのところが問題なのです。私は若い頃音楽をやっていたでしょう。クラシックだけ
がいいと思って、ジャズ排撃論者だった。それでそういう論文を書いたこともあります。
ところが、今、ひろく深く考えてみますと、ジャズはジャズでまた必要なんですね。流
行歌は流行歌、何とか節は何とか節で必要なのですよ。
クラシック音楽のベートーベンやバッハなどの音楽をきくほうがいいと、自分で納得す
る場合はそれが一番いいと思うのです。自分はそれでいいのです。ただいろいろ波があっ
て、軽音楽をききたい時もあるし、三味線をききたい場合もあるし、ギターをききたい時
もある。その時々の変化ですね。ですからそう固く思わないで、ききたい時には、なんで
もきいたらいいと思うのですよ。
ただ、子供さんとか他の人に「お前、クラシックをきけ。ジャズなんかきいちゃだめだ。
そんな汚れたもの」なんていうと「おやじ余計なことをいうな。お前だって若い時があっ
たろう」なんて、かえって余計なことをいわれてしまう。
どっちがいいとか悪いとか、ということになれば、クラシック音楽のほうがいいです。
けれども、この世にはジャズの世界もあれば、流行歌の世界もあるのです。だからきいて
いる時は、愉快な楽しいものを、その中からくみとればくみとったほうがいいと思うんで
す。
ビートやロカビリーやッイストなど、見ているのはあまり好きではないですけれど、そ
れは私は嫌いなんであって、好きな人はそれで発散させるからいいと思うんですね。
ものの考え方なんです。そういうものがあるから悪くなるのか、自分の中にあるものが
そういうものに引き出されて、そして消してもらっているのか。どちらかというと、中に
あるものが、消えていって、ひどい野獣的な行為にならないという率も高いわけです。
自分自身はバッハをきいたほうがいいです。しかしこの世の中に現われているものを、
これはいけない、これはいけない、というようにはいえない。自分が良い本を読んでいる
からといって、人が低級な本を読んでいるのをみて「なんだお前は、そんなものを読んで」
というのでは、心が狭いのです。
205人間と真実の生き方
206
●-IIll大きな心に争いは起こらない
善悪をあわせのむ、というような、その人はそれで消えてゆく姿をやっているんだな、
というような、大きな赦しの気持ちというか、大きな気持ちでみてやって”どうかその人
の本心が開きますように”と見てあげればいいと思うんです。
そうすると、心が広くなって、この世の中が、どんなことも悪いようなものも、みんな
生きてきます。
そういう意味で、私は共産主義などのことも思うのです。放っておけば、共産主義は必
ず侵略してしまって、全世界を共産主義化してしまう、というふうにアメリカは恐れてい
る。侵略されるなら、その前に叩いたほうがいい、と爆撃しているわけでしょ。そういう
考え方は非常に心の狭い、大きな国のやることではないと思う。武力に訴えるようなこと
ではなく、もっと大きな気持ちで、武力以上の他の方策をとればいいと思うんです。
子供の場合などならいいですよ。しかし、それを国がやるとなると大変なことになる。
だから、やっぱり、一人一人の人間が大きな広い気持ちになることが国の動き、人類の動
ヘへ
きを平和にする、大きなもとだと思うのです。
自分はこれが正しいんだと思い、実際正しいとします。片方は悪いとします。だけど、
自分は正しいんだ、相手が悪いんだ、とやっていれば、悪いほうも”何いってやんだい、
おれだってしかたがないんだ”と喧嘩になるんです。悪くてもよくても、善と悪とが争う
ことになります。ところが悪はやがては消えてゆく姿なんです。こちらが祈って、本心の
中に入って、向こうに同調しているように見せながら、光を入れていけば、やがては悪も
消えてゆくのです。
アメリカも同調したような格好をして、中共やソ連と話し合って、いろいろと交渉して
いるうちには、向こうも同化されてくる。また、それだけの力がなければ、大国としての
権威はないのです。話し合ったらだめだ、何しちゃだめだ、ただやっつけてしまえ、とい
うのは、小さな小さな、成り上がりの国のやり方であって、アメリカあたりがやるのでは
おかしな話です。
もっと広い心で話し合って、こちらの力を向こうに自然に知らせればいいんですよ。
207人間と真実の生き方
また元へかえるけれども、私どもの世界平和の祈りの運動が大きくなればなるほど、知
らないうちに、武力が使えなくなる時代が来るのです。それには、まず個人としては大き
な気持ちになって、人の悪を責めることなかれ。間違っていることがあったら”一日も早
くあの人の天命が完うされますように、消えてゆく姿が早くなくなりますように”と祈る
ことが必要だと思います。
個人においても、世界人類においても、いけない、いけないだけでは、あいつが悪い、
悪いだけでは、世の中はよくなりませんし、子供も家庭もよくなりません。相手の中に同
調していて、しかも自分の光を相手に与えて、その光に相手を同化させるぐらいの力を持
たなければいけない。それが大きな人物であり、大きな国であります。
個人としては大きな人物になることです。それには、世界平和の祈りをして、みな消え
てゆく姿で”ああ、あの人の天命が完うしますように、世界人類が平和でありますように”
という一筋の道に、自分も相手も自然に入れていくようにすることです。
(昭和40年4月)
(注9) 巻末の第2図を参照。
1:
㌧
天命を古亭つするために
● 地球界に降りてきた時から天命はある
わけいのち
人間というのが生まれて、そして初めて天命が出来たのではなく、神の分生命として地
球界に降りてきた時から、もう天命があるわけです。その天命は何かというと平和な調和
した喜びに満ちた世界を、この地上に創るという使命で、誰も彼もが分け持たされている
わけです。唯物論者の人にもあるのです。気がつかないけれど、この地球世界を完全な調
和に充ちた世界に築き上げるという天命を各人が持っているのです。
にしょうさんじょう
そうした天命を一生で果たせるか、二生、三生生まれ変わり死に変わりして果たせるか、
209天命を完うするために
ということになりますが、この世だけで天命を果たせない人が随分いるわけです。そして
何遍も何遍も生まれ変わり死に変わりして、最後に天命を果たしてゆくということで、誰
も彼も天命を果たすことが出来るわけです。
まつと
それから職業を通して、つまり天職として全うしてゆく人もあるわけです。ところが、
大体は自分の職業が天命である、というようには思えないで生きている人が随分あります。
そういう方はやっぱり天命というものは、この地球世界に完全な平和を築きあげるための
ものであるから、自分もそのために働こう、というふうに決意すれば、その人は天命を全
うする道に入っているわけです。
そういう意味では世界平和の祈りをしているということは、天命を果たしているという
ことになるんです。
210
● 過去の波動がここに現われている
私という肉体は五尺二寸というもので、この肉体というのは皆さんの目に見えています
ね。目に見えているけれど、実はこれは本当にあるんじゃないんです。過去の因縁をたど
って、ここに現わされている。現わされているだけのもので、過去のものなのです。とい
うのは、私ばかりではなくて、あなた方も過去の波動がここに肉体となって現われている
だけなんですよ。
だから今、生活して、今なんか考えている。今、病気なら病気をしたとする。それはみ
んな過去のものが現われて、いわゆる消えてゆく姿なのです。この肉体生活を営んでいる
まつと
ということは、神さまのみ心を全うする、天命を果たそうとすると同時に、過去世の因縁
を果たしている、消えてゆく姿にしているわけです。両方が同時に肉体として現われてい
るんです。
ですから、今、現われている事柄に対して、なんだかんだと心配したって、苦労したっ
て、なんにもならないわけです。それはもう過去のものだから、単に消えてゆくだけなん
ですよ。それをお腹が痛い、どうしようどうしようと、一生懸命おさえている。不幸だ不
幸だといっている。しかしそれはどうしたって、心配したってどうしたって、それはもう
過去にあるもんだから、過去のものが出てきただけだから、どうしようもないわけです。211天
命
を
完
う
す
る
た
め
に
映画の撮影を終わってしまって、フィルムが出来ている。映画館やテレビで上映する、
というところになっているわけです。
じゃあ、なんの打つ手もないのか、というとそうではなくて、ただ一つあるのです。そ
れは何かというと、肉体の自分の力でやるのではなくて、守護霊さん守護神さんお願いし
ます、と守護の神霊のほうにフィルムの修正を頼むーそれだけしかないわけです。だか
ねさ
らわれわれがしなければならないことは、常に寝ても覚めても、守護霊さん守護神さん有
難うございます、神さま有難うございます、といって、神さまの中へ入りこんでしまう、
神さまと一つになってしまう。一つになりながら、一生懸命、日常生活の消えてゆく姿を
やっている。それ以外にないんです。
それをハッキリと観念して、純粋に純朴にそれを信じて、行なってゆくということが悟
りなんですよ。そうすると、今まで感じてなかった世界、神霊の世界もハッキリわかって
くるし、いろんなことがわかってくる。
212
● 神霊のマンションになる
私などこうやっておりますでしょ。肉体はこれ神霊のマンションです。いろんな神々が
ここへ来て、今日は私がこの体を使う、今日は誰って使う。五井昌久という肉体に生まれ
た人が初めにいたわけですね。その人は直霊と一つになっちゃって、神さまになりきって
しまったわけですね。そして、肉体を管理している霊魂がいるわけです。それは五井昌久
によって救われた人たちで管理人です。そのまわりを守護の神霊が取り巻いて守っている。
このマンションは他の者が入ると困るものですから、神々だけしか入れないようにするた
め、守護の神霊がダーッと取り巻いて守っているわけです。それでこのマンションを神さ
まに貸しているんです。守護の神霊、あるいは神々に。だからお釈迦さまも来るでしょう。
イエスさんも来るでしょう。老子さんも来るでしょう。
イエスさんが来て『聖書講義』を書き、老子さんが来て『老子講義』を書くのです。何
も肉体の私が書くのではない。老子が来てこう書け、というわけで書くわけですから、人213天
命
を
完
う
す
る
た
め
に
の心を打つものが書けるわけですね。『小説阿難』(釈迦とその弟子の物語)を書いても、お
釈迦さまが現われることもあれば、阿難が出てくることもある。目蓮が出てきて「私はこ
うだった」というんで、書くわけですよ。
だからこの肉体は、貸し別荘じゃないな、実際に役立っているから、やっぱりマンショ
ンだね。皆さんも、大きなマンションになりなさいよ。小さな家賃一万円ぐらいで入れる
マンションはないけれども、どうせ貸すのなら、一部屋何百万とか何千万のマンションに
しなさい。私は一部屋何千万ですからね。だから会が成り立つわけです。
自分だオレだ、なんていう吹けば飛ぶような小さなものではなく、個人のナンノ誰がし、
ナンノ誰兵衛といったって、そんなものはたかが知れています。日本の総理大臣といった
って何も出来ないでしょ。地球の運命をどうか出来ますか、出来やしないでしょ。自分の
せいぜい
身のまわりだけで精々だ。地球の運命とはあまり関係ないでしょ。アメリカの大統領にな
ほんとう
ると大分あります。それだって真実の運命とは関係ない。
真実の運命は誰が創るか、地球の運命は誰が創るかというと、一人一人の人間の想いが
創ってゆくわけです。
214
アメリカの大統領が創るのではなく、中国首脳が創るのでもなく、人類四十億の想いが
集まって、そのエネルギーに彼らは踊らされて創っているわけです。踊らされるんでも、
戦争になるような踊らせ方をしたんじゃいけないでしょう。そこで神々が心配なさって、
私のような体を使って、光を送っていらっしゃる。
神さまは全智全能ですが、肉体の私はマンションです。間違えないでください。これは
偉くもなんともない。偉いとするなら何が偉いかというと、神さまにまかせきりにして、
自分の体をマンションにしちゃったことでしょう。神さまに、何もかも無条件で差し上げ
ます、どうか神さまのためにお使いください、とお返ししちゃった。まあそれだけが偉い
わけですね。あとはなんにも偉くない。
私はなんにも考えていない。頭の中になんにも考えていないんですよ。それがわからな
いでしょうね。先生は今何を考えているんだろう、私をこう思っているんじゃないかしら、
と思うでしょ。しかし中では光のほうでは思っているのです。私が思っている時は光を当
てる時です。あの人はどうしたかな、と思った時は光がパアッと向こうへ行った時、あの
人が幸せでありますように、というように光が行っている。私が思うことは愛することの
215天命を完うするために
みです。光を与えて、みんなが幸せでありますように、
れだけで生きているわけです。
ってそれだけしかないんです。そ踊
● 永遠に生きる人間たれ
たなあ
皆さんも自分のことはまず棚上げして、世界が平和でありますように、みんなが幸せで
ありますように、
■どうかみんなが仲良く、喧嘩もしないで、お互いに思い合って生きられ
る世の中になりますように、そういうふうに、寝ても覚めても思うんですよ。そしてその
想いの中に、自分も入れてしまうのです。
自分が、自分が… … と思ったって大したことない。そんな人間は五十年百年たったら、
それでおしまいになってしまうでしょう。どうかみんなが幸せでありますように、天命が
完うされますように、世界が平和でありますように、そういうように思う人間は、永遠に
生きるのです。永遠の生命なのです。それを私は見せているわけです。
皆さんにはおわかりにならないけれど、地球にはいろんな嵐が吹きあれている。私は世
界を平和にしよう、地球を救おうと思って旗印をかかげています。この世には平和にして
こう
はならないっていう業がたくさんあるわけです。それがワーッと押し寄せてくるんです。
人間の業が地球にベッタリとこびりついているのです。それがグルグルと回っていて、間
断なく押し寄せてくる。そうすると周りの守護の神霊が防いでくれて、マンションの中へ
入れないようにしてくれる。ところがあんまり強いと時々パッと入ってくるわけです。そ
たんせき
れが疾になったり咳になったりして、この肉体をさいなむわけです。この肉体は苦しいわ
けです。ふつうだったら何遍も死んでいることでしょう。
ところが私はそんなの問題にしないわけです。来たって自分のものじゃない。ただマン
ションを通ってゆくだけですからね。掃除すればいいんだから。はたで見て、祈っている
わけです。業を近づけておいて、みんな浄めているわけです。そうするとそれだけ大きく
浄まるわけ。それをズーッとやっているわけですが、ソロソロその仕事も終わりに近づい
ています。さあ、マンションから管理人も立ち上がって、神々と一緒に大きな仕事に乗り
かかろうと、私もそう思うし、神々のほうでも大きな仕事を与えようと来ています。
217天命を完うするために
zis
● 宇宙の中の地球が単位です
考えてみると、宇宙の中の地球です。宇宙は何百億光年という大きさで、無数の星が輝
いています。月からみても日本とアメリカだって、日本とヨーロッパだって、距離などあ
りません。一瞬です。
宇宙の中の地球の単位だから、ただ単なる日本だけではダメなんです。宇宙の中の地球
の平和をもたらすために、われわれは来ているのです。宇宙天使と協力してわれわれは平
和をつくるのです。宇宙天使はとても心配しているのです。総がかりでわれわれを応援し
てくれています。
宇宙天使というのは偉いのです。皆さんは守護神がいます。その守護神よりも偉いので
くらい
すから。神さまなのです。老子やお釈迦さまやイエスより位が上の人がいるんですから。
ふつうは神さまの両脇にお釈迦さまとイエスさんがいると考えるでしょ。ところがそれよ
り古い霊がいるのです。大神さまは一つです。その宇宙神から分かれた中で一番古い霊が
いるわけですよ。そういう方々が宇宙天使になっているんです。そういう方々が応援して
まさみ り
くれて、このマンションを使っているわけです。昌美は年中交流しているし、私も年中し
ています。それは素晴らしい権威があります。
その神々がまともに降りてきて、いろんなことを私にも教えます。この世的にいえば、
お前を頼りにしているから、一生懸命やってくれ、とそんなところです。釈尊にしても、
イエスにしても、地球においては最大級の聖者だけれども、宇宙からみれば最大級じゃな
いんですよ。
宇宙は広いです。宇宙は高いんです。無限の広さ、無限の高さ、宇宙天使の一番偉いと
いったら、どれほど偉いかわからない。ただその方々は地球では地球の人問を使わなきや
働けない。それで私たちをまず名指ししてきたわけです。私たちを使って宇宙子科学もつ
くるし、それを地上に完成させるようやっていらっしゃるんです。皆さん方もそうした
方々の応援を受けているわけです。宇宙天使および守護の神霊方の大光明を浴びて、みん
ヘへ
な世界平和の祈りをしているのです。ですから、自分の小さなろくでもない肉体でやると
思いなさるな。
219天命を完うするために
220
● 器をダーッと大きくする
ばうつわ
この肉体は本当に場なんです。自分の肉体は神の受け器だ、神さまの働き場所だ、とそ
うつわ
う思いこむと、その器はダーッと大きくなる。俺の感情を害してなんだ、とか、自分が自
分が、と自分を見せようとしていれば、小さくなっちゃう。この私の肉体が素晴らしいと
するならば、それは自分をみせようとしないことです。神さまに捧げて、神さまの仕事を
より多くしよう、とやっているわけ。そうするとみんなが先生、先生って慕ってくれる。
皆さんも自分をなくすことです。自分を世界平和の祈りの中へ入れてしまって、自分を
なくした時、初めて自分が宇宙大に大きくなるんです。それをやらなければ、どんな理屈
をいったって、そんなものは大したことはありません。理屈など何百万遍いったって、そ
んなものはなんにもならない。
百知は一真実行に及ばず1 一つの実行が一番がいい。世界人類が平和でありますよう
に、みんなが幸せでありますように、私の天命が完うされますように、神さま有難うござ
いますーこの実行です。それがあなた方を偉大な人間に仕立てあげるのです。
それを根本にして、日常茶飯事のことをおろそかにしないで働いてくださることを、私
は切望いたします。(昭和47年4月)
(注10) 西園寺昌美白光真宏会現会長。著者の後継者として、祈りによる世界平和運動を国内はもとよ
り広く海外に展開するとともに、各人の神性を開発し、人類に真理の目覚めを促す活動を推進中。
『明日はもっと素晴しい』『我即神也』『次元上昇』『かくて地球は蘇る』『教育の原点』『人生の
目的地』『あなたは世界を変えられる』(共著)などの著書がある。
221天命を完うするために
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