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8/19/2022
五井昌久著
愛・平和・祈り
序文
私が一番深い関心をもつことは愛の問題である。真実の愛行が出来れぽ、その人は自ずから神の
み心に通じた行為の人であることになる。何故ならぽ、神は愛の心そのものであるからである。
そして、愛の行為が社会国家人類というように充ち温れれば、それがそのまま世界の平和を樹立
させることになる。
ところが、この愛の行為というのが、なかなか容易なことではなくて、伯分では愛の行為だと思
ってしていることが、情欲の変形であったり、権威力の現れであったりすることが多いのである。
そうした自己中心の想念を、自己の本心をだましたような形で、愛の行為として現わしている限り
は、その人の平安も、社会人類の平和も到底望めないのである。
1序文
自分自身を素裸にして、前後左右どこからみても、みられても、自我欲望の陰のない、本心から
温れでてくる愛の想念行為にならなければ、この世界の真の平和の達成はむずかしい。
さて、そうした愛を自己のものにするにはどうしたらよいか、これは善い心の人であればある
程、考え悩む問題なのである。そういう愛行為をしたい。しかし、どうしても出来ない。自分を捨
て切った愛の行為は、口ではやさしくいえるが、どうしてなかなか出来るものではない。ところ
が、自分を捨て切る、ということは、実は、真実の自分を生かし切る、ということであることに気
づく人が勘いのは、意外と思う程である。
自分を捨て切るにはどうするか、これはもう祈りより他にない。神のみ心の中に祈り心によって
昇華してしまうより他に、自我欲望を捨て切るということは出来難い。祈りという神への全託行に
よって生れ出でた自己による愛行為こそ、本心から温れでてくる真実の愛の行為となるのである。
私はこうしたことを突きつめて考えて、キリストのいった「生命を捨てざれば生命を得ず」とい
う言葉を、そのまま、神への全託行として実行してみたのである。そして体験として得たものは、
祈りによって愛の心を生み、愛の行為によって、すべての平和が生れる、ということなのであっ
た。
2
私はここに、愛・平和・祈り、と題するこの本を出版して、最もやさしく自分を立派に出来、
類社会の為にもなれる方法を、皆さんに実行して頂きたいと思ったのである。
人
著者
昭和光六年拾二月拾六日
3序文
4
目次
序文
愛と赦しについて(7)
愛すること(24 )
真愛と執愛について(40)
人類愛と愛国心(57)
正しい宗教と誤てる宗教(74)
ー般若心経の新しい解釈ー
人類は何故不幸になったか(95)
平和な環境をつくるには(311)
日本と世界平和運動(031)
個人の幸福と世界人類の平和(841)
何故祈りは必要か(……)
業想念感情を超えよう(381)
真実の祈りの生活(02)
装偵笹本悦子
5目次
人間と真実の生き方
わけみたまごうしようしゆこれいしゆごじん
人間は本来、神の分霊であって、業生ではなく、つねに守護霊、守護神によ
って守られているものである。
かこせ
この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念
が、その運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去るので
あるという強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困
ゆるゆるまニと
難のなかにあっても、自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦
しの言行をなしつづけてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに
想い、世界平和の祈りを祈りつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得出
来るものである。
、
6
愛と赦しについて
愛の心に憎しみはない
愛の問題は、人間世界にとって最も重大なる問題であります。神は愛なりといって、愛の心その
ものが神そのものである、とさえいい切っている人もあるのです。
ところが仏教的にいえば、この愛というものも、業の中にいれてあるのでして、一概に愛と呼ば
れている心の状態も、なかなか複雑になってまいります。
あいあう
愛というのは、合、相という言葉と同じ意味をもっておりまして、自と他とが噌つに合する働き
をする時に起る心の状態であります。ですから、神のみ心は、すべてのすべてを生みなしたみ心な
ので、神の中には自と他という区別が無いわけであります。そこで、神は愛そのものである、とい7
愛
と
赦
し
に
つ
い
て
いのちわけみたま
うことになります。そのような神のみ心は、分生命、分霊である人間のうちにも働いておりまし
て、愛したい愛されたい、愛さずにはおられない、という想念が湧いてくるのです。そしてこの愛
の心が、縦に天にむけられた時、魂の内奥にむけられた時には、神への信仰、神への愛となり、横
の線、つまり人類社会にむけられた時には、人類愛となるのであります。
このような、信仰心と、人類愛の二つの面にはっきりと愛の心が働いていさえすれば、この地球
界には、不幸や誤ちが生れてこないのですが、ともすれば、愛は執着の想いを伴いやすく、愛の心
の流れが、把われの想いで、一つところ、一つ想いに止まってしまうのです。さあ、こうなります
と、愛することが苦しみとなり、愛されることが重荷となってきまして、神のみ心を離れた、神の
み心の中にはない、消えてゆく姿的な業想念波を巻き起して、そこに不幸や悲劇が生れてくるので
あります。愛と憎しみとは裏表だ、愛の強い人は憎しみもそれだけ強いのだ、などという人もいま
すが、それは誤りでありまして、愛と憎しみとは、全然種類の異なった想いで、愛は神のみ心の本
質的な心であり、憎悪は、神の中には無い、いわゆる実在的でない想いであり、やがてはこの地球
界から無くなりきってしまう、消えてゆく姿的な感情想念であります。
ですから、愛の心から憎悪の想いは絶対に生じるわけがないので、愛の心は常に光に充ちている
8
のです。ところがどうも、あんなに愛していたのに裏切った憎い奴、という式に、自分の愛が充た
されぬと、相手を憎んでしまうのが、世の常の人の想念には多いようです。これは愛する、という
ことが、光を他に与えることである、という神のみ心、つまり原則を知らないからなのでありま
す。神様はすべてを与えっぱなしに与えつづけております。神様は与えつづけて、何ものからも、」
その報いを受けようとはなさっていません。
神を愛する心
愛とはそうした神のみ心であって、人間は愛の行為によって、神のみ心と一つになり得るので
す。その愛の行為のうちで、最も高いとされているのが、神を愛する心、信仰心なのであります。
神を愛するというのは、どういうことかと申しますと、神の実在を信じそして仰ぐと共に、神のみ
心を行為にうつして生活してゆくということであります。神のみ心の最大なものは、万物に光を与
える、すべてのものを生かし切るということなのです。そこで、神を愛する人間は、万物に光を与
えるような想いを抱き行為をしなければならないということになるのであります。真の愛に裏表は
ないのです。只、光明一元の心なのです。愛の裏が憎しみだなどとは、全く愛の本質を知らぬ虚言g
愛
と
赦
し
に
つ
い
て
であるのです。
如何程愛して裏切られたとしても、裏切られたことは、自己の過去からの業想念の消えてゆく姿
として起ったことであって、相手を恨む何ものもないのであります。愛が恨みに変化したとした
ら、その愛は、愛と呼ぶべき性質のものではなく、自我欲望の想念行為であったというべきです。
私の詩集「いのり」に”愛することは”という詩があります。あの詩の中で、
かな
愛することが哀しい時があっても
友よ愛しつづけてゆかなければいけない
あなたの愛がたとえ地上に燃える焔であっても
神はあなたの愛が天上界のものであることを知っている
という一節があります。この地球界で真の愛を行ずることは、全くむずかしいことです。この地
球界の愛情には得てして、哀しみがつきまとうものです。妻や夫や恋人や子供たちが、いつでも素
直に自分の愛を受け入れてくれるものではありません。愛されていると知りながら、かえってその
愛を裏切るような行為をしてしまうことがよくあるものです。愛されれば愛される程、どこまで愛
10
ため
してくれるか試してみたい、、などと思う、恋人や子供がよくあるものです。愛しても愛しても、自
分の心を素直に受けてくれない時などは、全く愛することの悲哀を感じるのは誰しものことです。
しかしそれだからといって、愛することを止めてしまったり、相手を憎んでしまったりしたら、折
角の神のみ心が現わせぬことになってしまいます。愛することが哀しい時があっても、やはり愛し
つづけることが大事なのです。愛するというそのことが、神の光なのです。
愛は時には、焔のように燃え盛る情愛となって現われる時もあります。しかしそうした時でも、
常に神のみ心の中に自己の想いを一つにするような祈り心になっていれば、その人の愛は真の愛か
ら離れることはないのです。
「神と人間」という著書にも書いてあるように、愛がもしも愛情という形で流れてゆくような時
があったとしても、愛から全く離れた、冷酷という、光の無い想いよりも、そうした愛情の方が神
の光を現わす機会が多いと思うのです。
正義心に寛容を兼ね備えよ
カルマ
この地球界からあらゆる平和を奪ってゆこうとしているのは、冷酷非情という業想念です。冷酷11愛
と
赦
し
に
つ
い
て
非情というのは、神の光のとどいていない状態です。人間のうちなる神性が、業想念に蔽われつく
して、光を外に出し得ない状態なのです。
いんべい
自我欲望のために、平気で人を殺傷したり、陥れたりできる人は、神性隠蔽の最たる人です。国
家の指導者といわれる人には、意外という程、こういう人々が多いようです。そこで、今日まで、
なかなか真実の平和世界、調和した世界ができなかったのでありましょう。
自己の欲望達成のために、他を踏みにじり、傷つけてゆく、ということは、神のみ心、愛にそむ
く最大の業想念行為ですが、こうした人々や、国々を、恨んだり憎んだりしてしまっては、これま
た、自らも業想念波の中に飛びこんでしまっていることで、折角の正義心が汚れてしまいます。
正義心の強い人は、自己の正義心に照らして、どうしても不正や悪を憎む想いも強いようです。
だが、どういう立場にあろうとも、憎悪の想念をもつことは、自己の神性を汚すことなので、そう
した想念があっては、神のみ心をこの地球界に現わすことを妨げる結果になってしまうのです。
正義心というのはやはり神のみ心の現れで、この世を善いものにするためには、絶対に必要な心
なのですが、正義心の他に真の愛の心の現れの一つである寛容という美徳を兼ねそなえないと、こ
の地球界に完全なる神のみ心を現わすことができないのであります。12
正義心というのは、とかく裁く心を伴いやすいのですが、寛容という心も、ともすると、悪や不
正を見逃しがちになります。そこで、この正義の心と寛容の心とが、うまく調和して現わされなけ
ればならないということになるのであります。
いれ
寛容というのは、一口にいって、広く容る心寛大な心、というわけですが、この心は愛の心の一
つの現れなのです。愛の心は、おもいやりという風にも現われますし、寛容、赦しというようにも
現れます。
思いやりの心は、愛の心が細かい心遣いになって、相手の想いの波に同調しながら光を入れてゆ
く、ということですから、こちらから相手の心の中に入ってゆくわけです。寛容の方は、相手の心
の波、想いの波を、こちら側に受け入れて、自己の心の中で昇華させてしまうことであります。
この二つの心があれば、たいがいの人は、その人に好意を持ち、その人の愛の心を受け入れると
思います。
愛とゆるし
白光の教義に、自分を赦し、人を赦し、自分を愛し、人を愛す。という言葉がありまして、愛と
13愛と赦しについて
赦しというように二つに分けてありますが、赦しというのも、実は愛の心の一つの現れであるので
す。しかし、こう二通りに書き現わさぬと、はっきりわかりませんので、二つに分けたわけです。
そこで、愛(おもいやり)寛容(赦し) この二つの心を、私は人類にとって最も大切な心として
教義に現わしているのです。私は青年の頃は、正義の心が強く、自分の正義心に反する行為をする
人々を、責め裁く想いが強かったのですが、宗教の道に本格的に入ってからは、そうした責め裁く
想いが、まるでなくなってしまって、寛容というような心が、それに入れ代ったようになってしま
ったのです。
ヘヘヘヘへ
ところが、このおもいやりの心とか、寛容の心とかいうものは、生れながらの素質によることが
多いので、そういう心が大事だから、努めてそういう心になりなさい、といっても、言葉や文章で
いわれたぐらいでは、なかなかそういう心にすぐになれるわけではありません。気の弱い人が容易
なことでは、気が強くならぬと同じようなものです。
だが、自己を幸せにし、人類の平和をこの地球界にもたらそうと思うならば、どうしても、正義
心、おもいやり、寛容という、こうした心を根抵にして生活しなければならないことになります。
自分だけが正義ぶって、他を憎んでいるようなかたよった想いでは、とても人類は平和にはなり14
ません。能動的、積極的な人には、よくこういう人をみかけます。正義心だけを唯一なもののよう
に思って行動していますと、自己と他の正義の考え方の相違があったりして、正義と正義がぶつか
り合って、争い合い殺し合う、正義にもとる、神のみ心に反する結果を生み出してしまったりする
ものです。
個人々々の思想的なものにもそれがありますし、国と国乏の考え方にも、自分よがりの正義への
道がありまして、お互いの正義が喰い違ってくるのです。
ですから、正義という旗印だけを先頭に立てての行動は、甚だ危いものなのであります。米国は
米国なりに、ソ連はソ連なりに、自己の行動を正義化しているのをみても、肉体的人間同志がいい
合っている正義の道などというのは、あまり当てになるものではありません。
何んにしても、この世の相対的な考えというものの中には、どうしても、自分よがりの考えが入
りやすく、神の声による行動が出来難いのであります。
人間神の子の生き方と良心的生き方
正義心と同じような心に良心というのがあります。この良心のあるために、人間はどれ程悩むか
15愛と赦しについて
わからないのですが、またこの良心のために、人間はやがて神の子の姿を、この地球世界に完全に
現わすことができるのであります。
この良心という心は、正義心が他を責め裁くという欠点を伴いやすいと同じように、自己を責め
裁きがちになるのです。良心の強い人は、ちょっとした誤ちでも自分を責め裁いて、自己の心を暗
くしますが、良心の光の弱い人は、かなりの悪事をしても、恥じることも反省することもないので
す。
とかくこの世の生活では、こうした良心的でない人の方が、社会的な高い地位をしめていたり、
財産を多くもっていたりするものです。それは、自己の行動に、これは善か悪かなどという、ため
らいがないので、一直線に目的を達することができるからなのです。
良心的な人というのは、どうも、自己の行動に批判的な想いが多く、ああすればあの人に悪い
し、こうすれば、あちらの迷惑になる、などと考えたりしているうちに、他の人に先を越されてし
まったりするので、つい地位や財産が得られなくなってしまうのです。
神のみ心からみれば、良心的な方が良心的でない人よりよいにきまっているのですが、人間神の
子の立場からみると、良心的なあまり、自己の心を責めたり裁いたりすることは、かえって、神の
16
み心を責め裁く、という逆な結果になってくるのです。
人間の本心は神からきているのです。そして良心という心も、本心の現れであるわけです。その
良心が、神からきている自己の心を責め裁いて、暗いものにしてしまうことは、どうも、神のみ心
の光明心、本心に反しているように思われるのです。
人間の本心は光明心なのですから、その光明心を暗くするような想いは、どんな理由があろうと
も、これは本心に反することなのであります。と致しますと、良心に忠実なために、自己を責め裁
くということは、良心に忠実な点だけはプラスであっても、自己を責め裁いて、心を暗くするとい
う点はマイナスになるということになります。
自分を赦し人を赦す
そこで私は、自分を赦し、人を赦す、という教義を表面に出して発表したのであります。自分で
自分を責め裁いている限りは、その人に神の子の真実の姿は現われません。神の子の心というの
は、明るく柔和で、そして自由な姿でなければなりません。神は自由自在心であるのですから、神
の子の人間も、自由自在な把れのない心でなければなりません。自己の行動にいちいち把われてい
17愛と赦しについて
るようでは、神の生命を生き生きと生かし切るわけにはゆきません。私は人間のこの盲点を知りま
したので、すべての業想念的、つまり本心や良心に反する想念は、みな実際にある神のみ心ではな
く、消えてゆく姿なのだ、神の子の心は唯輝きわたっている光明心で、純真な自由な、のびのびと
した明るい柔和な心なのだ、というように、すっぽり割り切って、自己の誤ちに対しても自分自身
を責め裁かぬように教えはじめたのです。
こういう生き方をすることによって、良心的な人も自己を責め裁く、暗い気持を持たず、自己の
もつ良い心の面だけ、光明心だけを認めて生活してゆけるわけになるので、一瞬にして、その人々
の生活は明るく豊かな道に入ってゆくことになるのです。
そして、更に自己の想念を、世界平和の祈り言の中に投入してゆく方法もあるのですから、自己
の想念行為の誤りを認めたら、その想念行為を否定する想いで、これはすべて過去世からの業想念
の消えてゆく姿なのだ、とはっきり割り切って、いつまでもその想念に把われている愚をおかさ
ず、祈り言まで高めあげてゆくことが大事なのです。
善人といわれる人より、悪人といわれる人の方が、すぺての把れが少いのは奇妙なことですが、
把れの少いということは、プラス面なのですから、悪いといわれる人が、悪い行為、誤った行いを18
しているのとは別に、把われぬというプラス面を、良心的な人たちが生かして自己の行為にするこ
とが必要だと思います。
そうした行為が自然に出来てくるのが、世界平和の祈りなのですから、どうぞ速かに実行してみ
て下さい。祈りは毎日かかさずやることが必要です。何故かといいますと、今日までの誤った考え
方、いわゆる業想念が、祈りの大光明の中で、日々刻々消しさられてゆくからです。世界平和の祈
りの世界は、大光明、大調和の世界です。そうした大光明、大調和の世界が、私たちの祈りによっ
て、ますます地上界に近づいてくるので、やがては地球界の業想念波は光明波動に消し去られてゆ
き、世界平和が地球界に樹立されることになってくるのです。
自分を赦し、人を赦しとありますが、実は赦すも赦さぬもない、はじめから大調和しているのが
神の子の実体なのですが、その実体が地球界にはっきり姿を現わすまでには、種々とこの世的な手
段方法が必要なのであります。
この世に在るうちは、どうしてもこの世の方法手段というものがいるのですから、あまり実体論
や、完全論をふりまわして、本質的なことばかりいっていても、この世的な苦しみは救えないので
す。他の宗教の教えで、自己の心の状態をみつめることばかり教えられて、いちいち自己や他の想
19愛と赦しについて
念行為ばかりみつめて、ああでもない、こうでもないと、自己や他を責め裁いていた人が、消えて
ゆく姿で世界平和の祈りという、白光の教えにふれて、急速に心が開け、自由なのびのびとした心
境になった人たちがたくさんあります。
自分を愛するということ
宗教の根本は、人間の生命を、生き生きと伸び伸びと自由な働きをさせることにあるのです。神
より分けられた生命そのままの生き方こそ、この人類に望む最高の生き方なので、そこから調和も
平和も自ずから生れ出でてくるのです。
あまり、こちょこちょと枝葉の問題にひっかかるような教え方をするのは宗教の根本に反するこ
となのです。自分を赦し、人を赦し、自分を愛し、人を愛す、という教義は、何もの何ごとにも把
われたり、ひっかかったりするな、ということを、単的に現わした言葉なのです。
人を愛す、という言葉はわかるけれど、自分を愛す、というのはどういうことか、という問もあ
るので、ちょっとその説明もして置きましょう。愛というのは、前にも申しましたように、合、相
うということでもあります。合うということは、一つになるということです。
zo
恋愛などでも、お互いの生命が流れ合って一つになることであって、肉体だけの合体ではありま
せん。生命が一つに融け合って、そしてお互いのすべてが結ぼれてゆくというのが、恋愛であり、
それに経済や生活面のことが附随してゆくと夫婦生活ということになるのです。
そこで、自分というものはどういうものなのか、というと、自分というものは、本心と想念と呼
ばれる二つの面をもつものであり、自分を愛するということは、表面の想念的な心が本心と合体し
てゆくことをいうのであります。そうしますと、自分は全く本心そのもの、神の子そのものとなっ
て、そこに現われるわけであります。いいかえれぽ、あらゆる想念や立場に把われず、神我一体に
なることが、自分を愛している状態なのです。
ですから、自分を愛するということは、人を愛すると同様に大事なことなのです。ところが今日
までは、自分を愛しなどという言葉を表面にはっきり現わして説いた人が少ないのです。
ともすると、自分には苛酷に当り、人には愛をもってする、というようなことを、宗教者はよく
いっていたものであります。近頃はあまり見かけませんが、明治、大正時代には、人の子には優し
くするが、自分の子には実に厳しい、苛酷な当り方をする父親があったものです。そして、それと
同じように、自己を律するに厳しく、が行き過ぎて、自己を責め裁く形になってきてしまった人々21愛
と
赦
し
に
つ
い
て
が宗教的な人にはかなり多いのです。
私は、これは実に不公平なことだと思うのです。自己も神の子であり、他も神の子であるのです
から、自己にかたよらず、他にもかたよらぬ、愛の行為をしなければ、神のみ心に叶う、というわ
けにはゆきません。
宗教の極意を自然と体得させる祈り
そこで、私は、自分を愛し、人を愛し、というように自分というものを、ここにはっきり出して
愛を説いているのです。そして、この自分を愛するということは、自分の業想念を愛するというこ
カルマ
とではありません。自分を赦し、というのも同じことです。業想念はすべて消えてゆく姿として、
祈りの中に入れきることがなければ、自分を愛することも、自分を赦すことも、とても出来ないこ
とだと思います。
すべての業想念は、人聞の真性が現われるためめ、不要なる波の消えてゆく姿であるとして、そ
の消えてゆく姿を縁にして、いよいよますます深か深かと神のみ心の中に入ってゆくのでなけれ
ぽんのうそくぼだい
ぽ、自分を愛し、自分を赦すことはできません。煩悩即菩提という仏教の言葉を、容易に何気なく
22
実現させるのが、祈りであるのです。そして、その祈りを、個人人類同時成道の祈りにまで高め広
めたのが、世界平和の祈りなのです。
私たちが、世界平和の祈りを根抵にして生活してゆく時、力まず気ばらず、自分を愛し、自分を
赦すことができてくるのです。そして、自分を愛し、自分を赦す、ということが真実にできれば、
それにつれて、ひとりでに、人を愛し、人を赦すということもできてくるのであります。
人間は現在現われているすべての状態を、実際に今起っている状態と思いがちですが、現在現わ
れている状態というのは、過去において、人間の心の波の中にあった状態が、今消えてゆこうとし
て現われてきているので、そうした消えてゆく姿を把えて、どうの、こうのといっていることは、
丁度幻影をつかんで騒いでいるのと同じことなのです。この真理を知ることが宗教の極意でもある
のです。今私たちが想念し行為していることは、未来の世界にその結果が現われてくるのですか
ら、過去の現れである現在の状態はすべて消えてゆく姿と観じて、今、世界平和の祈り一念で生き
てゆくことこそ、唯一無二の賢明なる生き方となるのです。
23愛と赦しについて
24
愛すること
愛することのむずかしさ
私たちは常に愛という言葉を口にしていますが、この愛するということのむずかしさを、私はご
とごとに想い、肉体人間としての自己の想念の、如何に浅薄であるかを思い知って私は私の想念の
すべてを凡なるもの、下根なるものとして捨て切り、神への全託に身心を投げ出したのでありまし
たが、今にしてみても、真実の愛、神愛というものの難さが切実に想われるのです。
聖書ルカ伝十章に教法師とイエスとの次のような問答があるのを皆さんもご存知でしょう。
こころ
1 視よ、或る教法師、立ちてイエスを試みて云ふ『師よ、
とこしえいのちつ
われ永遠の生命を嗣ぐためには何を
おきてしる
なすべきか』イエス云ひたまふ『律法に何と録したるか、汝いかに読むか』答へて云ふ。『なんぢ
心を尽し、精神を尽し、力を尽し、思を尽して、主たる汝の神を愛すべし。また己のごとく汝の隣を
ただしくせん
愛すべし』イエス云ひ給ふ『なんちの答は正し。これを行へ、さらば生くべし』彼おのれを義と
してイエスに云ふ『わが隣とは誰なるか』イエス答へて云ひたまふ。『或人エルサレムよりエリコ
に下るとき、強盗にあひしが、強盗どもその衣を剥ぎ、傷を負わせ、半死半生にして棄て去りぬ。
或る祭司たまたま此の途より下り、之を見てかなたを過ぎ往けり。又レビ人も此処にきたり、之を
あわれ
見て同じく彼方を過ぎ往けり。然るに或るサマリヤ人、旅して其の許にきたり、之を見て欄み、近
ぶどうけものはたごやかいほう
寄りて油と葡萄酒とを注ぎ傷を包みて己が畜にのせ、旅舎に連れゆきて介抱し、あくる日デナリニ
あるじついえつぐの
つを出し、主人に与へて「この人を介抱せよ。費(費用)もし増さぼ我が帰りくる時に償わん」と
云へり。汝いかに思ふか、此の三人のうち、いずれか強盗にあひし者の隣となりしそ』かれ云ふ
『その人に隆を響たる者なり』イエろムひ給う『なんぢも往きて其の如くせよ』1
この問答を読んでいると、私たちは、果して第一、第二の人か、あるいは第三の人になり得る
や、いずれであろうか、と、いつも自分の心をのぞき見ずにはいられません。
25愛すること
人間には誰にでも人を愛する心があり、人の為に尽したい気持があるのですが、一般大衆の心を
平均してみると、自分が不自由してまで隣人の為に尽すとか、自分の名誉や、地位を冒してまで隣
人を救おうとかいう想いはないようです。
第三のサマリヤ人のやったようなことは、して出来ぬことでもなく、自分の生命や地位や名誉に
傷つくことでもないのであって、ただ時間的な犠牲と、金銭的な損失だけで出来る隣人愛であるの
ですが、この程度のことでも、なかなか面倒くさくて、第一、第二の人々のように、知らぬ顔して
行き過ぎてしまうのが殆んどの人であるようです。
何処そこに水害があった、見舞金を、救援品を、というような場合は、先を争ってでも届け出る
ことはするのですが、住むに家ない人が、余った部屋を持っ人のところに、無家賃で泊めてくれ、
といっても、大部分の人が泊まれとはいわぬでしょう。それは、自分の自由を冒されるような気が
して嫌なのです。
要するに、己のごとく隣人を愛する、つまり、自分と他人とを同等に愛することは出来ないのが、
一般の大衆であり、肉体人間であるのです。とすると、一般大衆は、いわゆる普通程度の愛情の持
ち主には、イエスの言の如く、永遠の生命を得ることが出来ない、ということになり、神の国に入
26
ることは到底出来ない、ということになるのであります。そうしますと地球人類は、ほんの秀れた
るわずかな人だけが神の国に入り得て、永遠の生命を得ることが出来るのであって、一般大衆は、
いつまでたっても永遠の救れに入ることは無い、ということになるのであります。
相当に宗教信仰をやっている人々でも、心を尽し、精神を尽し、力を尽し、思を尽して神を愛し、
己のごとく汝の隣人を愛する、ということを為し得る人は少ないのです。自分では神を愛しきって
[
いるように思っていても、その日常の行動が神を離れた、自己の想念による行為になっている場合
が多いのであります。
例えていえば、愛するということはそのものと一体になることなのですから、神を愛していれ
ば、神と一体になっているわけで、その人は、少しの不安も、少しの妬心も、少しの怒りも、少し
の恨みも、少しの悲嘆も、少しの欲心も無いわけなのでありますが、神を想い、神を愛していると
一方で自負しながら、一方でそのような業想念の渦の中にいるということは、二人の主を想い、二
人の主を愛していることになるのであります。
信仰は理屈より行にある
27愛すること
宗教信仰というものは、理論や理屈ではなく、只一筋の行にあるので、如何に理論的に知識とし
て神への道を知っていても、その人の行為に、それが現われなければ、その人は神への道を知って
いるとはいえないのです。
神はすべてのすべてであり、円満完全であり、全智全能であって、人間はその分生命である、と
いうことを頭でいくら知っていても、神の中にあるべき筈でない、人を責め裁く想いや、妬心、憤
怒、悲嘆、不安等々の感情を実の想いとして肯定していたり、この世の不完全な姿を神の姿の現れ
である、と説いたりしていては、その人が、神の真実の姿や、み心を知っているとはいえないので
あります。
神が完全円満であるという信がある故に、神を想い、神を愛して、神と一体となり、神の円満完
全性を、人間生活の中に実現させようとするのであります。それが宗教精神であり宗教信仰なので
あります。完全円満と不完全とは相容れないものです。神を完全円満なる存在者と信ずるならぽ、
この世のすべての不完全(老病貧苦、天災地災戦争等々) は、人間が神の完全円満性を信ぜず、人
間が完全円満なる神の分生命であることを、知らなかった過去世からの誤った想念行為の消え去っ
てゆく姿として見てゆくより他に、考えようがないのであります。何故ならば、神はすべてのすべ
28
てであり、この世も神の姿の顕現であるわけですから、不完全なる姿の全部が、神の姿の真実に現
われ切らぬ為に起っている現象であるということになります。
ですから神の姿が現われるに従って、不完全なる姿がこの世から消え去ってゆくことになるので
す。それなのに、宗教者といわれる人々の中にも、不完全なるものまで神の姿の現れであるとし
て、その不完全な姿に対して感謝せよ、という誤った教えをしている人があるのであります。これ
等は実に馬鹿気きった教えであつて、一般の人にはとても実行出来得ぬものであります。感謝を教
えるのは結構であり、真理でありますが、それは、不完全な姿が今消え去ってゆき、神の姿が今現
われようとしていることに対する感謝を教えるべきで、不完全なる姿、不幸なる姿そのものに対し
ては、実感として感謝の出来るものではありません。
こんなところに、宗教などはアヘンだとか、宗教などやっていると、意気地がなくなって困ると
かいう言葉が出て、宗教には消極的な人間のみが集まるように思われたりしてしまうのであり、ま
た偽善的な人々をつくりあげてしまうのでもあります。
まして一般大衆の中には前にも申しましたように、イエスの教えを実行出来る人は殆んどいない
ヘヘヘヘヘへ
ともいえるのでありますから、私の説いているような、消えてゆく姿という教えが、各宗教の教え
29愛すること
の中に入らないと、一般大衆を救う教えとはなり得ないと思います。一般大衆が救えなければ、地
球人類が救われるわけがないのでありますから、宗教というものは、どうしても、誰にでも判り易
く、行い易いものでなければならないのです。
大衆は、自分が人を冒さず、人も自分を冒さず、お互いの自由を保ち合って、日常生活が出来、
その上、生老病死の苦悩に打ち勝って行きたい、と理想しているのであります。しかしその理想を
実現する為に、不当の努力を払い、大いなる自己犠牲を払わねばならぬ、とでも聞かされると、
「自分たちにはとても出来ぬ」と、すぐにさじを投げてしまうのであります。
そこで、共産主義のように、その党を支援すれば、すぐにでも生活がよくなる、というような宣
伝に乗ってしまったり、後の不幸も判らず、賃上げの煽動に乗って、労働争議をやったりしてしま
うのです。
肉体人間はみな凡夫
宗教者は大衆の心を自分たちと同じ心境と見て臨んではいけないのです。大衆は凡夫なのであり
ます。大衆ばかりではありません。宗教者も指導者も、肉体人間としては皆凡夫なのであります。
30
肉体人間は皆凡夫なのである、というところから宗教を説かなければ、いつまでたってもこの世
は救れの世界になり得ないでしょう。
私は、私の肉体人間の凡夫であることを知るが故に、私の肉体智、肉体能力では何事も為し得な
い、と肉体人間の自分をすべて神に放棄してしまい、その後に、守護霊、守護神の存在を確認し、
今日の教えを説くことになったのであります。
肉体は馨あって、肉体自身には何等の能力も無いのである・ということを・一度はっきり思う
ことが必要なのですが、一般大衆は、こうした言葉さえ、はっきりは判らないと思います。釈尊な
ども、一般大衆にどうしたら御自分の悟りが、充分判るように教えられるものかと、随分苦心され
ヘへ
て、種々と異なる説き方で、道を説かれたのであります。イエスなども様々なひゆを用いて説いて
おります。
自分が判っているから、人も判るだろうと思うととんでもないことで、すぐにも判りそうなこと
を意外な程判ってくれない場合もあるものです。
正当な音楽からみて、あまり上等とは思われない流行歌手が、あれだけの人気を持続しているよ
うに、正当な宗教者からは、低級なと思われる新興宗教程、信者数が多くて、新聞で悪口いわれて
31愛すること
もラジオで叩かれても、なかなか信者の数が減らない、という現象や、何かといえぽ、すぐにもス
トライキによって、自分たちの想いを通そうとする労働組合、違反はいけないいけないといいなが
ら、当選する為には、殆んどが違反をする代議士諸公等々、この世の実際の姿は、神のみ心とは余
程遠い人々の集合であるとしか思われないのであります。
この現象の姿をはっきり認めた上で、かつ救いの道に入れるような教えを説かないと、唯物論の
ような、実際面の利害関係を説く運動に大衆は誘いこまれてしまうのです。だからといって宗教者
が、この世の利益、つまり現象利益のみを説き、そうした運動のみして精神や霊魂の浄化の面に力
を入れぬとすれば、それは宗教運動ではなく、唯物運動ということになるのであります。ところが
大衆は、現世利益のない宗教にはなかなかついてはゆかないので、既成宗教から新興宗教に各信者
が大きく移ってしまったというのが現今の有様であるのです。
愛薄い現代だからこそ真の宗教が必要
繰り返えして申すようですが、人間の想いというものは、誰でもが甚だ自分勝手なものでありま
して、常に九州が台風の被害を受けるのは可哀相だ、とは思っても、その台風の被害をたまには自
32
分の住む都市や地方で代って受けてやりたい、と思う人は殆んどあるまいと思います。本土の何処
かが襲われなければならぬとすれば、自分の土地を避けた地方を襲って貰うことを望むに違いあり
ません。
この想いが、地球人間の普通一般の心なのです。だからこそ真の宗教が必要なのであります。こ
んな愛の薄い、つまらぬ根性の想いが、人間の本心だなどと思っているようであったら、いつまで
しゆら
たっても、人間世界は修羅の巷であり、地獄絵であります。ですから宗教者は、理想は最上のとこ
ろに置きながら、教えは判り易い容易に行じられるどころに置かなければなりません。ルカ伝のイ
エスの教えは真理であり、心のひきしまる想いが致しますが、出来るか、といわれれば出来兼ねる
というのが普通人の正直な答でしょう。それと同じように、真理の言葉であっても、容易に実行出
来ぬような教えを強いられても、大衆はかえってそうした宗教に入ってゆき難いということになる
のです。
まとも
肉体人間の想念を真正面にみつめると、このように実に愛薄い情けないものであるので、こうし
た想念を一度はっきりと認めた時、どうしたら一体この人間たちが神のみ心を現わし得るのか、と
いうことを真剣に考えざるを得なくなります。
33愛すること
いのち
神は愛であり、完全円満であるのに、その分生命である人間がどうしてこのように愛薄く、自分
勝手に生れているのでありましょう。完全円満なるものから、不完全なものがどうして生れてきた
のでしょう、こう考えざるを得なくなります。
神に真実につながるには
神は完全円満であって、すべてのすべてであります。すると不完全な人間というものは、ここに
存在しながらも、実は存在してはいないのである、という妙なことになってくるのです。すべての
すべての存在者を神と呼ぶのですから、その全部の中からはみ出している不完全なる存在者は無い
わけです。ですから、神を認め、神の存在を信ずる以上は、人間の不完全性を全否定しなければな
らなくなります。そこに、釈尊の説かれた般若心経の、色即是空、空即是色という言葉や、すべて
を無と断じ去っている真理があるのであります。
神の存在を信じようとする人、または人間以外の存在者(神仏) の助けを得たい、と思う人々
は、すべて、自分という不完全なるものの智慧才覚や力を、一度全否定しなければ、完全円満であ
り、全能者である神のみ心に、真実につながることは出来ないのであります。
34
不完全である自分の智慧才覚にたよりながら、そして一方で神の力にすがろうというのは、一方
の手で雑草の葉につかまりながら、一方の手で大木に昇ってゆこうとしているようなもので、大木
にすがりつくことさえ出来ません。人間は神という大木の一つの枝なのであつて、雑草ではありま
せん。雑草には人間を支える力はありません。雑草には大木の枝は生えません。
私はむずかしい説教をしようというのではありませんが、ここの理をよくかみ分けることが、救
れに入る一番大事なことだと思うのです。法然、親鸞のような秀れた学問の深い人たちですら、肉
体の自分の凡愚なることを認めて、自分の智慧才覚を捨て切り、阿弥陀仏一本にすがり切っていっ
たのです。
ただ守護霊さんにすがろう
私はこの自己の智慧才覚を捨て切る、ということすら、大衆にはむずかしいことである、と思
い、脳裡に浮んでくる智慧才覚や、様々な想念、そして、止めようもなく出されてくる、誤てる行
為、そうしたものはそうしたものでよいから、只ひたすら神様にすがりつけ、神様といっても、ば
くぜんとして掴みどころがないから、あなたの本心開発の為に、生れぬ前から、あなたを守護し、
35愛すること
さと
あなたのすべての行為を援助している、祖先の覚った霊である守護霊さんが、常に昼夜の休みな
く、あなたを指導し援助し守護しているのだから、肉身の父母を呼ぶような気持で、守護霊さんと
心の中で呼んで、いつも護って貰っていて有難う、と感謝を捧げるのです。そうすると、守護霊さ
んと、あなたとの間がより密接になり、あなたの本心(神仏の心)の現れを邪魔している業想念(不
完全な想い)が、次第に薄れてきて、愛深いあなた、正義に強いあなた、真理の道が直感的に判る
あなたになってゆくのです、と説いているのです。そして、その守護霊さんの上には、守護神とい
って、大神様の、人類救済の面で働いている大光明、つまり観世音菩薩とか、不動明王とか呼ぼれ
ている神々がおられて、守護霊さんの力でも守り切れない業想念の波を消し去ってくれるのであり
ます。もっとくわしくいうと守護霊さんには正守護霊の他に副守護霊といって、仕事や職業の面で
の支援をしていてくれる霊が二人以上は働いていてくれるのです。その守護霊と大光明である守護
神との中間には、幾多の神格をもった守護者が存在して、種々と人間を護ってくれているのです。
私がこのように説いているのは、私自身が体験として、これらの守護の神霊を知っているから、
確信をもって説くのであります。
36
人間は神の分生命で迷(業)は消えてゆく姿
人間が自己の不完全さを、神の分生命でありながらの不完全さ、と思っている以上は、決して神
を知ることが出来ないのです。人間の不完全さは、神の分生命が、真実にこの世において、完全の
働きをしていないところから生れてきているのであって、神の分生命であると人間が自覚してゆく
に従ってその不完全さ、つまり業想念所業は、消え去ってゆくのであります。
人間は、他にも自己にも、常に完全さを望んでいるのでありますが、業想念がその完全さをさま
たげているので、自己の心の中に完全さが現われぬとき、あるいは他の人の中に完全さが現われぬ
とき、不快な嫌な気分になるのであります。その人が良心的であればある程その想いが強いのであ
ります。それは真実な想いではありますが、自分自身を不快に想い人を嫌悪するようでは、その人
は、神の中に無い不完全という現象に把われているのです。
そうした時には、その境地を一歩出て、業想念の世界、不完全な世界を抜け出す為に、そうした
不快な想いも、不完全な姿も、それはすべて、自分の中に、またその相手の中に、神の光が輝き出
ようとして、不完全さが、ほどけて消え去ってゆくところなのだ、というように想い、その想いを37愛
す
る
こ
と
守護の神霊の感謝に融けこませてゆくのです。
38
真実の幸福は神の中にのみある
不完全なものは、すぺて実在ではありません。それはみな神の真実の姿が現われる為に誤ったも
のが消えてゆく時の姿なのです。永遠の生命というもの、真実の幸福というものは不完全なる業想
念所業の中にあるものではないのです。ただ完全円満なるものの中にだけあるのです。完全円満な
るものそれは神の姿にしかないのであります。永遠の生命も、真実の幸福もイエスのいう如く、心
ヘへぬヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘへ
を尽し、精神を尽し、想いを尽して、神を愛することよりないのであります。
神はあなたを心から愛する覚った祖先霊のうちに、守護の神霊のうちに、また、救世の大光明と
して、あなた及び人類のすべてを守護しておられるのであります。
天も神の姿、地も神の姿、山川草木、風火水、すべて神の姿の現れであると共に、あなたもそし
てあなたの父母も、あなたの隣人も、神の現れであるのです。何故なれば、神はすべてのすぺてで
あるからです。
神は生きとし生けるもののうちに、その姿を生かし、その完全性を、次第にうつし出そうとして
けいりん
おられるのであります。その神の経輪の為に、人間として生かされている分生命は、只ひたすら自
己の不完全性への否定をしつづければよいのです。病苦も貧苦も妬心も憤怒も、そして悲哀も、そ
れはすべて神の完全性がこの世に現われきった時に消え去り切るのであります。
おの
うつるもの自づうつりておのづ消ゆ己れは澄みてただひそかなり
の歌のように、
この現象世界のすべての現れにいちいち把われる想いを、神への感謝の想いの中に投入して、自
分自身を光明一元にする行を昼夜の別なく行っていく時に、はじめて、人間の理想が現実世界に現
れてくるのであります。
その一番の近道が私の提唱している世界平和の祈りであるのです。自分が善い、人が悪いもすぺ
て世界平和の祈りに切り替えて、日常生活を送ってゆくことが、あなた方の救れの道であり、人類
を救う、菩薩業でもあることを、確く信じて頂きたいものであります。
39愛すること
40
真愛と執愛について
自他の生命を生かすもの
愛という言葉程、多くの人に使われ、そして魅力のある言葉は少いであろうと思われますが、真
実にその言葉通りの行動が出来ているかというと、これがまた甚だむずかしく、出来難い行為なの
であります。
愛という言葉が、その本来の意味通り、真実に人々の行為に現わされていたならば、この地球世
界は、今の世界とは全然異なった、美しく平和な世界になっていたことでありましょう。
私はあなたを愛している、私は我が児を熱愛している、という場合に、果してその人が相手をど
のような愛し方をしているのか、それが真実の愛なのかどうなのかが、非常な問題となってくるの
であります。
愛という言葉で現わされながら、それが愛とは全く相反する執着である場合が実に多いのであり、
それを愛と自ら誤り思っている人々がほとんどではないかと思われる現実世界なのであり、そのこ
とが一家一族、社会国家、人類というものを知らず知らずのうちに、争いの方に不幸の方に追いや
っているのであります。
それでは真実の愛とは一体どのような心の状態をいうのでありましょう。これはわかっているよ
うで本当はなかなかわかっていないのです。
真実の愛とは、人間に神の心が現われた時の状態をいうのであります。つまり一つには神、大生
命の分れである人間生命が、同じく分生命である、他の人間の心と真すぐ一つになった時の状態で
げ
あり、今一つは、人間生命が、業想念の隙間から、神の心につながり得た時に起る純粋無磯なる心
の状態をいうのであります。
いいかえますならば、人間生命が、他の生命との融合感において起る心の状態なのでありますが、
これは直接縦に神の大生命へのつながりによって起る場合と、横なる小生命(人間、動植物等) と
の融合によって起る場合との二つの場合があるというのであります。
41真愛と執愛について
我欲の満足と愛とのはきちがい
ところが普通、愛と簡単にいわれているものは、ほとんどが、業想念(因縁) と業想念との融合
によって行われるか、業想念の自我欲望の満足を愛と想い違えているかであるのです。つまり執
いのちいのち
着、執愛、自分の生命を縛り、他の生命を自我欲望のために縛りつけてしまっているのでありま
す。
恋愛や、親子の愛の場合には、こうした執愛が非常に多いのです。しかもそれをわからずに行っ
ているものが多く、わかっても、業想念の波に巻きこまれてどうにもならずにいるものが多いので
す。
常に私の説いているように、本心と業想念の区別をはっきりつける訓練をしていないと、真愛と
執愛の区別がつき難いし、消えてゆく姿という真理を知らないと、これは執愛だと思いながらも、
その執愛の想念の波から逃がれることが出来ないのであります。
生命(本心) の自由なる動きと、業因縁、業想念の波動とを、一つにして行動している以上は、
真愛をこの世において行ずることはむずかしいと思われます。
42
生命(本心) とは、神界から霊界幽界を通って、肉体界に来ているものであり、業想念とは、本
ボデイ
源を神界に置く生命が、霊幽肉と、次第に重い粗雑な体をつけて、その本来の自由性を発揮出来得
なくなった、その間隙に生じた波動なのであって、本源を神の世界に置くものではないのでありま
す。
神は自由自在心であり、完全円満なるものであるので、神から分れた生命(心)も本来は自由自
在なのでありますが、一度びその生命が幽体をつけ、肉体界に入ると、幽界肉体界の業想念の波動
に蔽われて、その本来の自由自在性、完全性を発揮出来なくなり、神(大生命) との交流、分生命
(他の人間) との融合が出来難くなって、今日の如く、愛に逆く行為や、自我に執着する誤てる恋
愛や、親子愛や国家愛が起ってきたのであります。
愛とは、自分の生命を生かすと同時に、他の生命をも生かすものでなければなりません。愛する
ことによって、自分の生命が生き生きとし、愛されることによって、その人の生命が生き生きとし
てくるものでなければなりません。
いのち
自他の生命が生き生きとし合うようでなければ、それは真の愛とはいい得ないのであります。と
ころが現実は、愛するという名目の下に、相手を縛り、自己の生命の自由をも縛りつけている恋愛43真
愛
と
執
愛
に
つ
い
て
や、親子愛が、如何に多いことでありましょう。
自己が楽しむために人を愛そうとしても、それは愛ではありません。それは自己主義の業想念で
あります。宗教者や道徳家が、自分が人に説法することが楽しみで、人々に道を説き、道を教えた
としても、そこに自己が楽しもうという想念があっては、その人を愛の人ということは出来ません。
自分というものがその人の想いの中にあることは、もうすでにその人を愛からひき離しているので
あります。愛というものには自他がないのであります。自他の生命が融合して一つになった感情な
のであります。
自分が喜ぼう、楽しもうという気持が先きに立っての行為は、すでにそこに自他の分裂があるの
で、それは真愛の行為とはいえないのです。
そうしなければいられないのでそうする。しかもその行為が、自他の生命を生き生きとさせ、自
由にさせる、というのでなけれぽ、真実の愛とはいえないのです。
44
親と子の愛について
親が子を愛する場合でも、本能的に愛し、しかも愛することを、自己の慰楽の場としているので
あります。いいかえますと、親が子にしがみついていて、子の生命の働きの自由を縛りつけて置い
て、私はお前を愛している、といっているのです。自分の肉体から分れて育ってきたものだけに、
それは自分のもの、という観念が強いのは仕方がない、といえばいえるようなものですが、子供は
自分のものという考えが、子供は自分の自由になるものという考えに変ってくると、子供の生命
(心) の自由を縛る第一歩となってくるのであります。
人間は肉体ではなく、生命(霊) なのであります。肉体は只単に生命の器なのであることを知ら
ぬ限りは、親は子供に対して、絶対なる権限をもったとしても一向に不思議はないのであります。
何故ならば、神が人間生命の親であり、絶対なる権限者であることと等しいからであります。しか
し、人間の親が子供に対して絶対なる権限を持とうとすることが、大なる不幸をまねいている多く
の事実は、どこかに間違いがあるからなのです。それは、神は人間の根本であり、人間そのもので
ある生命(霊) の親であって、永劫に離れ得ぬものであり、人間の親子は、生命の親子ではなく、
生命の器である肉体における親子であって、肉体内における生命の活動が子自身において為し得る
ようになれば、親とは全く別個の肉体人間となり得るのであります。
この相違をよく考えないと、親は常に不幸になるのであります。子は自分のものであると親が思
45真愛と執愛について
っている以上は、子に対して執着が出るのは当然であり、
意志を強いようとする態度に出がちなのであります。
子に対して自分の要望をかぶせ、自己の46
執愛を超える最大の道
この執愛を遁がれる道は、親も子も生命においては兄弟姉妹であって、真実の親は神の他にはな
いのである、という真理を知ることなのであります。と申しましても、理屈はそうだろうが、なか
なかそうはゆきませんよ、といわれる方がたくさんあろうと思います。それならばもう一歩具体的
わけみたま
に、自分の子供も、直霊(神) から生れてきた分霊であり、一つの分霊(分生命) の自分が、祖先
の霊の分霊である、いいかえれぽ、ある祖先の魂の子である生命体を、自分の家に一時あずかって
育てているのであって、それをうまく育てさせているのは、眼には見えぬが、その子の魂の親、あ
る祖先、つまり守護霊様がなさっているのであるので、自分がとやかくいわなくとも、その守護霊
さんにお願いしてさえいれば、子の守護霊さんが、子のためにも自分のためにも万事都合のよいよ
うに導いて下さるのだ、と信ずることなのです。そして、自分の天命と、子供の天命の完うされる
ことを、守護霊、守護神に感謝の想いで祈りつづけてゆけぽよいのです。
よく考えて下さい。子供は欲しいからといって出来るものではなし、欲しくないからといっても
出来ることもあるのです。人間の生命は人間自体ではどうにもならぬものであって、どう考えても
不可知なる者の大いなる力によってこの世に生れてくることには違いありません。この世に生命を
生みなす不可知者は、守護神であり、守護霊であるのです。絶対神は大生命そのものであって、働
きはすべて各守護神によって為されているのであります。この理を知らずに、只神様、といってい
るだけでは、なかなか真理を体得出来ないのです。
親子がお互いの生命を生かし合う愛情の交流が出来るようになったら、どれ程人間世界が救われ
るでありましょう。それはすべての悪を中絶させる力を持つともいえるのであります。
嫁と姑との調和の問題
しゆうとめ
次に嫁と姑とのいさかいのことですが、これ等も、母の息子への執愛からの衝突であり、息子や
嫁が、母の束縛から自由になりたい、という想いから起るいさかいであるのです。
これは理屈でどう説こうと、どうにもならぬ業想念の波であって、真実の宗教心によって生れて
くる真愛の行為にょるより、この業想念を超え得る方法はないのであります。一つの家にいて、お
47真愛と執愛について
互いが、憎み合い、こらえ合って生活している事実は、全く悲惨なものであって、これが日本の家
庭生活の大いなるマイナスとなっていることは否み得ません。
おもい
嫁姑のどちらかでも先きに、自己の業想念を、消えゆく過去世からの誤った想念と知って、憎し
みの想い、不調和の想いを、すべて守護霊、守護神への祈りの中に投げ入れてしまう練習をし、世
界平和の真の祈りに徹底してゆくようにされることを、私は祈らずにはいられません。
真の愛の行ない
相手が悪い、自分は善い、と相手と自分をいちいち比較しているような想いでは、到底真実に相
手を愛することは出来ないもので、相手も自分も、悪いも善いもすべて守護霊、守護神の神愛の中
に投入することの練習が一番よい方法なのです。自分の方が善い、と思ったところで、自分が過去
世からどれ程の間違ったことをしていたかは、現在の自分にはわからないのであって、自分の方が
善い、と思うその想いは、極く最近の出来事によるだけのものであるので、過去世からの、その人
の行為の何兆分の一かもわからないのです。善い悪い等は、いちいち自分で判断して、人を責めた
り、自分を裁いたりするものではないので、自分は瞬間々々を神のみ心に波長を合わせつつ行為し
48
ていればよいのであります。その神のみ心に波長を合わせて行く行為こそ、真愛の行為となってい
るのでありましょう。何故ならば、神は愛であり、神のみ心は完全円満であるので、そのみ心に波
長を合わせていて、愛にもとる行為や、不円満な言葉が出るわけがないのであります。もし出たと
すれば、それは昔からの想念が、今現われて消え去ったところであるので、あなたが今出した悪想
念行為でほないのです。この点が私の教えの一番大事なところであるのですから、よく読みかえし
て下さい。神を想っているのに悪いことが出るとか、こんなに信仰していても、私には私の悪想念
行為が消せない等と嘆いている人もあるようですが、何も肉体のあなたが業想念を消したりするの
ではないので、神さえ想いつづけていれぽ、必ずいつかあなたは完全円満性の人格になるに定まっ
ているのであります。
宗教者の相当有名な人の中にも、口ではしきりに愛を説きながら、愛を説き終って、実際行動に
うつった時に、冷たい眸をして、信者や弟子を叱りつけたり、おまえたちとわしとは別世界の人間
だ、というような冷やかな態度で、人に接していたりするのを、私もよく見掛けましたが、これは
実に誤った宗教者だと思います。また、そうした人が、その反面、時折りに自己の行為に気づき、
ひとり、自己を責め裁いて苦しんでいたりすることがあるようです。
49真愛と執愛について
これは、神の愛というものを本質的に知らぬことから起っているので、この人が如何に神の愛を
説き、愛こそすべてと説いたとしても、その人自身が救われることはなかなかむずかしいと思いま
す。
愛は人を裁かず己も責めぬ
愛には他を責め裁くことも、自己を責め裁くこともないのであって、責め裁く時には、神の愛は
そこから消え去っているのです。これは言葉だけで知っても駄目です。自分自身行わなくてはいけ
ません。
イエス・キリストが、十字架上にはりつけになった時、自分をはりつけ迄に追いやった人のため
に、”神よ、この者たちを赦し給え、彼等は真理を知らざるがためにこの罪を犯したのですから”
という意味の言葉をいっています。何んと深い、偉大なる愛の言葉でありましょう。これこそ真の
愛であり、人間すべてを感動させる聖者の心であったのです。
私はこの言葉を想い出すと、涙が出てならないのです。ああ、何んという高い心境であろう、何
おのずか
んという澄み切った言葉であろう、と自ら心が愛に充ちてくるのです。
50
愛とは単に言葉に現わしていうだけのものではない。自己の生命全体が、相手の生命と融け合っ
て、はじめて生れてくる感情なのであり、自分と相手とが離れた存在ではなく、全く一つの者であ
る、という純粋感情によって行われる行為こそ、愛の行為といえるのであります。
カルマ
自己の心に感ぜられてくる、相手のマイナス面、嫌な言語動作、それはすべて業の消えてゆく姿
であって、相手自身の生命(本心) から発しているのではない、ということが、瞬時に理解出来る
ようになれば、その人は深い真愛の持ち主ということになります。
愛の心とは、人間の業想念行為を把える心でも、相手の誤りを把える心でもなく、また、自分自
身の業想念感情の満足や利点のために、相手と融合し、仲良くすることでもないのであって、只純
粋素朴に、自己の生命が相手の生命と一つになることなのであります。イエス・キリストは全くこ
の愛を行じ得た聖者であったのです。
皆さんはよくこのことを考えられて、自己の想いを検討なさることがよいと思います。
情の中に愛を光らそう
愛という言葉に常につき従って使われているものに情という言葉があります。神界や霊界の高い
51真愛と執愛について
ところでは、この情というこころは全然ないのですが、この地上界では、愛は常に愛情として現わ
されているのです。
愛という心が、金色や白光色としますならば、情は桃色や赤色とでも例えられるのです。いいか
えれば、情とは地上人間界の雰囲気をもったこころであって、純粋なる愛(神) の行為が、直接そ
の光のままに行為される時には、肉体人間にとって、あまりにもその光が強すぎ、峻厳すぎるのを、
適当に薄め弱めてこの地上界の肉体人間に適合するようにしてゆくこころなのであります。
ですから、愛が肉体人間の行為を通して現わされる場合には、ほとんど愛情として現わされるの
であります。ところが、面倒なことには、この地上肉体界は現在では、神の心と業想念の二つが入
り交じって出来上がっている世界なので、情というこころは、愛(神) の面と業想念(執着) の面
との、どちらにも働きかけてゆくのでありまして、うっかりすると、愛情だと思っている行為が、
いつの間にか、業想念という執着の方に流れていっている場合があるのです。”情に樟さしゃ流さ
れる”という漱石の文句になりがちなのであります。
愛そのものが、そのまま行為された場合、その愛の行為を、ひどい行為だ、情け容赦もない行為
だ、冷たい人だ、情のない人だ、というように、かえって反逆的想いで、その行為の人を恨んだり
52
することが多いのです。
例えていえぽ、中江藤樹の母が、藤樹が奉公先からわざわざ母の見舞いのために、遠い道の雪の
中を薬をもって尋ねて行ったのを、家にも入れず、勉学中のおまえが、その途中で何んでこの家に
帰えってきた、といって叱りつけて追いかえした行為。これ等は、藤樹の心を強靱にしようとして
の、母の深い愛であったのでしょうが、現今の青少年にこうした行為をしたら、その青少年は一体
何んというでしょう。その大半はおそらく、冷たい母だ、愛情のない母だ、といって、その母親に
対して反逆心を抱くでありましょう。こうした行為は、余程に偉大な素質をもつ青少年にでなけれ
ぽ、やたらにしてよい行為ではないと思います。また昔の禅宗の修業のようなものも、導師の愛の
心からではありましょうが、あまりにもその修業が烈し過ぎて、脱落するもの病気になるもの、師
を恨んで反逆するものが多数出たようであります。
このように、愛がまともに出すぎますと、太陽があまりまともに当ると、体に悪いように、現在
の肉体人間には、その光が強すぎて、厳しすぎて、かえって効果がないようなことになるのです。
そこで、肉体人間感情である、情というこころが、この愛の光を適当に受けて、愛情として、親
子の間に、兄弟姉妹の間に、友人間に、師弟間に、隣人間に交流し合って、温い柔かい雰囲気をか53真
愛
と
執
愛
に
つ
い
て
もし出させるのであります。
この情的雰囲気を持たない宗教者は、愛と誤解して、冷酷なる言葉や行為を、弟子や信者に与え
て、弟子や信者を恐怖せしめることになったり、言葉ではしきりに愛を説きながら、少しもおもい
やりのこころを人々に示さず、相手の立場を理解せぬ、ひとりよがりの指導を強制したりするよう
になってしまうのであります。
この地上界の人間の大半は、菩薩でも聖者でも達人でもないのです。菩薩や聖者や達人の理解出
来ることを、そのまま理解出来る人は少いのです。嘘でも優しい言葉をかけられ、温い好意を示さ
れることを喜ぶ人々であり、自分の立場になって貰って指導してくれる人を有難がるのでありま
す。
肉体人間を、神の子そのものであると思ったり、菩薩級であると思ったりして、自分が真理であ
ると思っていることを、頭ごなしに理解させようと思ったりしても駄目なものであるのです。私は
長い間の体験で、それをよく知っております。
曜ですから私は、知らぬ間に理解出来、自己さえ気づ
かぬ間に実行出来ているような、真理問題の方法を思案し研究しているうちに、神示によって現在
私の説いている教えが出来上がったのであります。
54
相手の立場になり、相手と一体となること
この地上肉体界の愛の行為は、常に相手の立場になって、説ききかせ、行為してあげること、つ
まり、相手の業想念の中に自分も一度入ってあげて、そして、相手の業想念の波動の種類を知って、
相手がその業想念を抜け出すことの難事であることに同情同感しながら、自己がその業想念の波動
の中から、世界平和の祈りによって、霊界、神界の明るいひびきの中に昇ってゆくようにすること
でなけれぽならぬと思います。
“そんなことをしていたらお前は駄目だぞ、俺のいるところまで昇って来い
“等と上からどなっ
ていても、その人を救うことは出来ません。相手と一体になること、これが愛行為の原理です。こ
れはやはり、相手が業想念の波の中でもだえていることに対する、可哀相な、という情愛の想いが
最初の出発点であり、そして祈りが天界への階段になって、その人を救うことが出来るのでありま
す。可哀相にという感情が、自分自身を哀れむ想いになったりすると、執愛になってしまいますか
ら、気をつけないといけません。常に自分を守護霊、守護神との一体観に置き、そして、相手の業
想念の波動の中に飛びこんでゆき、相手をしっかり抱きかかえて、共に祈りの梯子を昇って、真実55真
愛
と
執
愛
に
つ
い
て
の人間世界、本心の世界に上がってゆくことを、皆さんは私と共に実行して頂きたいのであります。
56
人類愛と愛国心
ハンガリヤへのソ連の暴虐行為
先頃の世界の話題の中で、ソ連とハンガリヤにおいて行なった暴虐行為程、世界の人の心に、嫌
悪の想いを抱かせたことはなかったでしょう。
種々な雑誌が、その事実を掲載し、映画ニュースは、それぞれの角度から、ハソガリヤの悲惨事
を、世界に報せています。そうした報道は、嘘も隠しもなく、ソ連のハソガリヤに加えた暴力を暴
露し、その記事はハソガリヤ人民の、ソ連に対する恐怖と憎悪とに温れています。
文芸春秋昭和三十二年三月号でも、作家の小山いと子氏が、日本ハンガリヤ救援会よりの、慰問
使の一人として、オーストリァ国境において、まざまざと見た、悲惨なハンガリヤ難民の姿を、か57人
類
愛
と
愛
国
心
なり詳細に報告していました。その記事によると、ソ連が弁明しているように、ハンガリヤ人の一
部がハンガリヤ政府に対して、暴動を起したので、ハンガリヤ政府の要請に応えて、ソ連軍を出動
させ、その鎮圧に努めたのだ、という言葉が、如何に明らかなる自己弁護であるかがはっきりわか
り、自己の武力にものをいわせ、弱小国を自国の膝下にして、自国の思い通りに動かそうとしてい
るソ連の姿が、手に取るように感ぜられるのです。
小山氏の記事によれば、オーストリアに脱出してきた難民は、一月二日までに約十五万もあり、
その年の推定は約八万人とされているそうで、いずれも、生命がけで渡河してくるのであり、餓え
や吹雪の恐怖さえも乗り越えて、自国から逃れてきているのであるということなのであります。そ
して、国境監視のハンガリヤ兵は、ソ連兵の隙をみては、難民を救援して、オーストリアに送りこ
んでいる、ということです。
亡命者を収容している、オーストリア国の内務省の役人は、「私たちにとっては、だれがどう宣
伝しても、信ずる信じないの問題ではありません。境を接していますから、いやでもこの目で見、
皮膚で感じます。ハンガリヤの人が家を捨て家財を少しばかりの貴金属に替え、命がけでなぜよそ
の国へ脱出しなければならないか、よくわかるのです」といっているということで、ヨーロッパと
58
いう大渦の中から見ると、日本はまことに時代放れのした桃源境だと、小山氏は書いています。ま
た収容所の亡命者の人々は、だれでもが、早くなつかしい故国に戻りたい、しかしソ連兵のいる間
は帰えりたくない、といい、政治がソ連の手によって行なわれている間は、ハンガリヤに自由がな
い、といっているようです。
なお小山氏は、数名の亡命の若い人たちと話し合ったが、その一人に、「今度の動乱について
ー」といいかけたら、相手はさえぎって、「どうか動乱等という言葉は使わないで下さい。自由
のためのたたかいといって下さい」といって、ソ連から今日まで加えられた、残虐無比な刑につい
て語り、ソ連の約束事の如何にいつわりであるかを語っております。
小山氏はそうした人々に比して、今日の日本は、何んという自由を許されている国であろう、と
書いているのです。
ソ連圏にある諸国は、いずれもこうしたソ連の暴圧下にあるのであり、同雑誌の東大講師、竹山
道雄氏の東ドイッ(ソ連圏) の難民たち、という記事には、西独から東ドイッに逃れる人々は少
く、東独から西独に逃れてくる人々の如何に多いかということを、現地にいて調査して、細々と書
いております。そして最後に、「東独と西欧がならんでいて、理論によると、前者(東独) は解放59人
類
愛
と
愛
国
心
であり、後者(西欧) は植民地である。しかるに、プロレタリアは植民地からの解放へではなく、
あべこべに解放から植民地(西欧) へぞくぞくと逃げこんでいる。これはもともとの理論の方がま
ちがっているのではなかろうか?それとも、こういう事実の方がまちがっているのだろうか? や
はり、理論の方がまちがっていたのであるLといい、それに加えて「日本が東独、ポーランド、チ
ェッコ、ハソガリヤのようになっては大変だ、日本はそのようになった方が幸福だと思っていた人
もたくさんあったが、どうやらそうならずにすみそうで一まず安心である」と書いています。
共産主義化運動とエゴイズム
このように、実際にソ連圏の諸国の実情を見て来た人は、如何にソ連のやり方が非道であり、そ
れらの諸国が不幸であるかを知るのであります。そして、日本のように米軍の支配下に置かれた国
の方が、幾層倍幸福であったかを、しみじみと感ずるのであります。
勿論他国の支配下にない方が、よりよいことには違いありませんが、敗戦下の日本としては、ソ
連に占領されず、米軍の支配下に置かれたということは、敗戦最大の天祐であったことが、今にな
ってはっきりわかってきたのです。
60
日本は現在、その天祐に甘え過ぎて、自由を享楽し過ぎ、自由をもてあそび過ぎ、遂いには、真
の自由を、鉄の鎖の中に、自ら閉じこめてしまおうとしているのであります。
エゴイズム
その一つが、共産主義化運動であり、その一つは極端なる自己主義であります。
共産主義運動が何故いけないのか、それは前にも申しておりますように、現在では、その最高指
揮をソ連より受けているからであり、ソ連を中心にした世界統一運動であるからです。
ソ連の我利欲望の強さは、今日までの各国への態度によって、はっきり示されているところであ
って、そのあらゆる行動は、人類愛の行動とは全く反する、極端なる自国主義、エゴイズムなので
あります。自国の利得のためなら、どのような虚言も平気で吐き、どのような残虐行為をも平然と
やり終わせているのが、共産主義国ソ連なのであります。そこには人類愛のかけらもないのです。
只あるのは、自国の権益拡張ということだけであって、共産主義者が宣伝する、平等世界の確立等
とは、凡そ反対の方向、強者の独裁政治の方向に逸進しているのであります。
日本の社会、共産主義者の人々が、どうして、その事実に眼を蔽おうとしているのか、判断に迷
う程です。
61人類愛と愛国心
誤った愛国心運動は国を亡ぼす
反米運動や、保守系政治の倒壊運動。これは、ソ連と何等の関係なくやっている分には、それは
それだけの理由もあり、うなづけないこともないのですが、その運動の裏には、常にソ連の魔力が
動いているのを知ると、反米、反保守運動も、うかつには行なえぬことになるのです。
自主独立の国家が一番善いのはわかりきっておりますが、事実上の自主独立ということは、簡単
に口でいう程、生やさしいものではありません。現在の日本人の精神状態で、米国とはっきり手を
切って、果して自主独立の国家が成立つかというと、さて甚だ危いことであります。また米国が、
そう簡単に日本を手離すとも思えません。それなら自主独立のために、ソ連の援助を受けたらよい、
ソ連は帝国主義国でないから、自国の権益など思わず、日本の自主独立を応援してくれる、という
人々も多数出てくるわけなのですが、これこそとんでもない後門の狼であって、待ってましたと、
ぱっくり一口でしょう。それは東欧諸国の経験済みのことです。
日本の共産主義や社会主義の人々は、いずれも社会を愛し、国を愛し、人類を愛する心から、自
己の身心を投げ出して、そうした主義運動に入った、と自己も思い、人々も思っているのでしょう
62
し、事実、保守政党の人々よりも無私無欲の人々、愛の深い、いわゆる善い人が多いようなので
す。しかし私はその人たちが、どのように善良な人たちであっても、根本の思想、根本の生き方に
誤りがあるようでは、到底その人たちの運動に賛意を表するわけにはゆかぬと思います。愛国運
動、民族運動、主義運動というものは、その運動そのものに、根本的な誤りがある場合は、運動を
しているその一人一人が、善良な人であればある程、国家にとり、民族にとり、世界にとって、困
った問題となるのです。何故ならぽ、一般民衆は、その個人の思想というより、その日頃の人格や
行為の善さにひかれて、より多くつき従ってゆくのであり、他の有識者が、その運動の誤りを説い
て、つき従う人々にその反省をうながしたとしても、「あのような人格の人がやっている運動だか
ら大丈夫ですよ」と、なかなかきき入れぬ場合が多いからであります。
一例をとれば、常に身を挺して、労働者の愛護に当っている人が、誤った愛国運動、主義運動を
やっている場合には、被護を受けたことのある労働者たちは、大部分その人を信じて、その運動に
協力してゆくことでありましょう。そうしたことが、国家、人類の真の進展のためには、非常な害
になるのであります。
ですから、善良な、誠実な人であればある程、真理を知って行動する必要があるのです。もしそ
63人類愛と愛国心
の人たちの主義主張に、国民として、また人類の一人として、根本的な誤謬があった時には、その
人が、大衆に魅力ある人であればある程、その人の行為は、国家人類の不為となり、自己をも傷つ
け損ずることになるからなのです。
何が誤っているのか
では一体、どのようなことが、根本的に誤った愛国心であり、民族愛であり、人類愛運動なので
ありましょうか。
それは、いずれも、相手方に恨みや、憎悪の感情をもち、相手方を傷つけ痛めるような行動をと
る、ということであります。
いいかえれば、自分たちの反対側の階級や、国や民族に対して、敵視する感情があっては、決し
て、その運動は正しいものではない。真理に沿ったものではない。その国、その民族を平和に為し
得るものでもなく、人類の幸福を創りあげる運動ではない、ということであります。
人類をこの地上界に生み育てた、生命力(神) は、相手を恨み憎み、相手を敵として起ち上がら
なければ、相手を自分の足下にひきずり落さなければ、自分たち仲間の幸福生活が築き上げられぬ64
ような、そんな不調和な、そんな片寄った、分裂した生命体(人間) を創ってはいないのです。
如何なる生命も、大生命(神) からの分れでないものはなく、他の生命とつながりをもたぬもの
はないのであります。ですから、他の生命への害心は、やがては必ず自己に戻ってくるもので、相
手を害し放しに出来るものではありません。またその反対に、相手の幸福を願い、相手の調和を願
う心は、これも必ず自己に戻ってきて、自己の幸福となり、自己の調和となるのであります。
これは動かし難い絶対の生命の法則なのです。自己が、如何に相手から痛めつけられ、踏みつけ
られ、侮蔑されたとしても、自己の心内に怒りを蓄え、復讐の想いを抱く時は、同時に自己の心は
傷つくのであります。このような時、その人が、相手の行為の中で、すべては過去世からの自己の
業因縁の消えてゆく姿として、その痛苦を、自己の心から外へ放ち去ってしまう練習がつんでいれ
ば、その人の業因縁は軽くなり、その人は真の幸福、大調和の世界に一歩前進しているのでありま
す。それがもう一歩進んで、即座に、自己の業因縁を、今相手をして消滅せしめている、守護の神
霊への感謝に想いを飛びこませることの出来得るような境地にあれば、その人の生活は、常に幸福
であり、大調和であるのです。
65人類愛と愛国心
人類は生命において兄弟姉妹
白光誌や私の著書を常に読んでおられる方の中には、こうした境地に直ちに入り得る人がなかな
か多いのでありますが、一般の人々には、ちょっとむずかしいように思えるでありましょう。
しかし、人間は神(大生命) から来ていることは間違いのない事実であり、人類のすべては、生
命において、兄弟姉妹であることも事実なのであります。その兄弟姉妹が、意見の相違によって、
殺し合い、傷つけ合い、地位を奪い合うことを、親である神が、どうして喜ばれるでありましょ
う。また、弟を殺傷し、兄を殺傷した兄弟の本心が、快い気持でその後の生活を営むことの出来よ
う筈もありません。国家間、民族間もその通りであります。只表面の意識として、遠く離れている
ので、その行為に対する悔いの想いが、切実に湧いて来ないだけなのであり、潜在観念には、罪意
識として必ず記録されているのであって、遂いには、自国、自民族自身を傷つけ倒してしまうので
あります。
まして同民族、同国家内の階級闘争などは、如何様な理由があろうとも、真理に反することであ
って、共に傷つき倒れてしまうものなのです。これは生命の法則であって曲げることは出来ませ
66
ん。
私が、ソ連の行為がいけないというのは、常に自国家のために、他国家、他民族を傷つけ痛めて
いることであるからです。そして、その同調者である共産主義者を批判するのは、同民族、同国家
内に自ら敵をつくって、闘争を繰り返えしているからであります。それ等は、すべて、真理を知ら
ず、神の絶対なる存在を無視しているからなのであります。
これは同時に、右翼と称される愛国者にもいえる言葉なのです。右翼と称される愛国者も、自己
に反する団体を敵視し、憎悪の眼をもって、隙あらば実力行為に出かねないのであります。
古代の聖者たちのいう「汝の敵を愛せよ」とか「剣に剣をもってしてはいけない」「恨みには恨
みをもってしてはいけない」とかいう言葉は、真理の言葉であって、お互いの間に敵対行為がある
以上は、その民族、その国家は真の幸福、真の平和には到底成り得ないし、従って、真の平和人類
世界の出来る筈がないのです。
真の愛国者愛国心とは
真の愛国者とは、真に国家を平和にする者でなけれぽなりません。真の民族愛をもつ者は、その
67人類愛と愛国心
民族に天から与えられている能力を、人類の大調和のために、充分に出し得るような活動をする者
でなければなりません。国家や民族が、自国、自民族の発展のみに力を尽していて、その行為が、
人類世界の平和に反するような行為であれば、その国家、その民族は、真の幸福、真の平和を得る
わけにはゆきません。何故ならば、国家、民族と人類世界とは、現在では、全く一つの基盤に立
ち、人類世界の平和につながらない、単一国家だけの幸福、平和というものは、事実上あり得ない
からなのであります。
エゴイズム
現在の世界の動乱のその原因は、すべて各国家民族の自我欲望、利己主義から起っているのであ
って、いずれも、真の愛国心、民族愛の欠除を物語っているのです。このような真理に反した想念
行為のもとに、世界人類の政策が進められてゆけば、地球人類の不幸は遂いに最後の段階、地球人
類滅亡に至ることは必至であります。
指導者こそ常に神を想い祈らなければならぬ
日本も、その誤った世界政策の一員として、現在の政治を行なっております。何故そのようなこ
とをいうかと申しますと、日本の政治の重要部門に存在する人々の中に、誰が一体、自我欲望を超68
えた生き方をしているかということ、誰が一体、神の存在の絶対性を確信し、神のみ心によって政
治にたずさわっているか、ということであります。残念ながら私は、現在の政治家の中に、神のみ
心を心として、政治にたずさわっている人を観ることが出来ないのです。
神はすべてのすべてであり、万物の主であります。人間の生命は神から来ているものであり、人
間の肉体はその器であり、場所であるに過ぎません。そして、人間は、その器を使い場所を使っ
て、神のみ姿をこの地球界に顕現しようとしているものであります。
この真理を、政治家の一体誰が知っているのでしょう。現在著名な政治家は誰人もこの真理を、
深く心にとめようとはしていないのです。本で読んだこと
7もあり、人から聞いたこともあったでし
ょうが、その真理を深く認識し、真に神の膝下にひれ伏して、国家民族の幸福、世界人類の平和の
ために、善き智慧、善き能力を与え給え、と誠心祈りつづけている人を、私は知らないのです。
この地球界は現在、永い過去世からの、業想念(神から離れた誤った思想行為) の波で一杯なの
であります。それが原水爆を呼び、天変地異を引き起こそうとしているのであります。
真の自己愛も、愛国心も、民族愛も、人類愛も、今日では只一点にかかっているのです。それは
地球人類を滅亡させぬ、という一事なのです。その事実を、はっきり認識しない以上は、その人の
69人類愛と愛国心
動きは正しいものとはいえなくなるのであります。
まず神にかえれ
人と人とが相争う想念があって、どうして業想念の世界、滅亡に至る世界を超え得ることが出来
ましょう。人と人とが妬み合い、憎しみ合う想いの中にいて、世界を平和に出来る筈がありませ
ん。今日からの私たち地球人類の生き方は、こうした業想念を超えた生き方にならぬ以上、一歩一
歩地球滅亡の道を歩みつづけてゆくことになるのです。自己のみを守ろうとする業想念の波は、ボ
タン一つ押せば、地球世界が壊滅してしまうという程の、科学兵器の発達となって、人類の前にの
ぞんでいるのであります。この現実に目かくしをしていての平和活動などというものはあり得ませ
ん。この現実を救い得るものは、絶対なる愛、神のみ力による他はありません。今こそすべての感
情をすてて、神のみ手にすがるより方法のない極限にきているのです。
ちから
神は絶対の愛であり、絶対の善であり、絶対の権能力であります。その事実を堅く信ずるので
す。神はあなたの生命であり、あなたの智慧であり、あなたの生甲斐であるのです。
私たちは、まず私たちの心の平和を得るために、私たちの生命が生れ出でた太古の昔に還えっ
70
て、神のみ心の中に、自分のすべてを投入する努力を払わねばなりません。すべてを神に投入し神
に全託したところから、個人の平和も、国家民族、人類の平和も生れてくるのであって、その他に
如何なる方法もないことを人々は知らなければなりません。神のみ心に還えることによって私たち
は地球世界の業想念をぬけ出すことが出来るのであります。
人間同士が、対立抗争しているような業想念の渦の中にいては、如何なる智者といえど、如何な
る愛の持ち主といえど、真実の力を出し得ないものです。ですから私は、すべての想念を一度び神
のみ心に還えして、業想念の波動を浄めて、再出発しなければならぬと叫びつづけているのです。
その再出発こそ、人間の新生であって、神の子としての地上天国の創設者の一人となり得るので
す。
神のみ心に還る方法
その方法が祈りであります。その祈りの具体的方法が、世界平和の祈りなのであります。
あいつは嫌な奴だ、と想った時、その想いを世界平和の祈りに変えるのです。憎悪の感情、妬み
の感情、不安の感情が起った時、ちょっと意志を強めて、世界平和の祈りに想念をむけかえるので
71人類愛と愛国心
す。自己が失敗をしてしまった時、他人が失敗をしてしまった時、自分の心を傷つけ、他人の失敗
をとがめる想いを、世界平和の祈りにむきかえてしまうのです。日常坐臥、あらゆる時間、私たち
は世界平和の祈りの中に、自己の想念を置くのです。私たちの正しい生き方は、世界平和の祈りの
さわひとりで
中から、碍りなく、誤りなく、自然法爾的に日常生活の行動となってゆくのです。
この方法は、ロケットが、高度をあげて、成層圏にまで行けば、その速度が、急速に増加する原
理のようなもので、神という大光明、大智慧の中に自己の想念を投入してしまえぽ、神の大光明、
大智慧の活動が、自己の肉体をパイプとして、自己の生活を光明化すると共に、周囲の環境、大き
くいえば世界を自ずと光明化してゆくのであります。
肉体の自分の想念と、神の理念とが、全く一つになる方法が祈りであり、その最もわかりやすい
方法が、世界平和の祈りなのであることを信じて下さい。
真実の力は肉体自身にあるのではなく、生命(神) の中にあることを、改めて認識して、世界平
和の祈りを、行じつづけてゆきましょう。それが真の愛国運動であり、民族運動であり、人類愛運
動なのであります。
真実に存在するものは神のみであり、その他の如何なる存在も、すべて消えてゆく姿であること
7a
を、深く思いみて下さい。
73人類愛と愛国心
74
正しい宗教と誤てる宗教
正信と迷信
正しい宗教と誤てる宗教、正信と迷信の区別を簡単にいえば、正しい宗教とは、神仏いいかえれ
ば、絶対者、大生命と人間との関係を明らかにし、人間の本体を悟らせ、正しい宇宙観を直覚させ
る教えであります。正信とは、そうした教えを正しく信じ、正しく行じ最も早く、最も正確に安心
立命への道を確保することであります。そして誤てる宗教とは、神と人間との関係を誤らせるよう
な理論や、肉体的五感的現世利益的欲望の充足の道のみを教え、本体を曇らせ、正しい悟りを遅ら
せる教えであり、その誤れる教えを信じることであります。と言葉ではこのように一口でいえます
が、この見分けがなかなかむずかしいのです。今日の宗教界を見まわしてみますと、既成といわれ
けん
るもの、新興といわれるものが乱立して、自己の宗旨を喧伝し合っています。そして一部の人達は、
既成宗教の教え方が正しく、新興宗教はすべて迷信であるようにいっておりますが、これは間違っ
たいい方だと思います。新興にも正しい宗教もあり、既成にも誤てる宗教もあるのであり、一概に
既成が正しく新興が悪い、新興が正しく、既成は駄目だとはいえないのです。一体何処に目安をつ
けたらよいかというと、大体現今の宗教は、仏教、キリスト教、神道、儒教等の流れでありまして、
その根源をもたずに、全く新しい独自の教えというのはないのであります。ですから、釈尊なら釈
尊の真の教えがわかっていたら迷信に陥ることはないのですが、その釈尊の真の教えがまたなかな
かわからない。そこで最も簡単なわかり方を一口でいえぼやはり、真の安心立命への道を教える宗
教が正しい宗教だ、ということになるのです。その安心立命の境地には、正しい宇宙観、正しい人
間観が出来なければ絶対になり得ません。私はここで釈尊は一体どんな教えを説いたかということ
を、その代表的一つの経文によって説明してゆきたいと思うのです。
まかはんにやはらみつたしんぎよう
摩詞般若波羅密多心経の解釈
まかはんにやはらみつたしんぎようはんにやしんぎよう
それは摩詞般若波羅密多心経、これをつづめて、般若心経という経文です。75正
し
い
宗
教
と
誤
て
る
宗
教
かんじざいぼさつじんはんにやはらみたぎよううんかいくうしようけんくやくどしや
「観自在菩薩。深般若波羅密多を行ずる時。五蕩皆空なりと照見し。一切の苦厄を度し給ふ。舎
りししきくうことくうしきことしきくうくうこしきじゆそう
利子よ。色は空に異ならず、空は色に異ならず。色は即ち空にして、空は即ち是れ色となる。受想
ぎようしぎまたこれしやりししよほうこくうすがたしようめつあかきよま
行識亦是の如し。舎利子よ。諸法は是れ空の相にして、生せず滅せず、垢つかず、浄からず。増さ
げんくうしきじゆそうぎようしきげんにびぜつしんいしきしようこうみしよくほうげんかい
ず減ぜず。是の故空中には色無く受想行識無く。眼耳鼻舌身意も無く。色声香味触法も無く。眼界
ないしいしきかいむみようまたむみようつないしろうしまたろうしつ
も無く乃至意識界も無く。無明も無く。亦無明の尽くることも無く乃至老死も無く。亦老死の尽
くじゅうめっどうちまたとくしよとくぱだいさつたはんにや
くることも無く。苦集滅道も無く。智も無く亦得も無し。所得無きを以っての故に菩提薩唾。般若
はらみつたよけいげけいげきようふてんどうむそうおんり
波羅密多に依るが故に心墨磯無し。塁磯無きが故に恐怖有ること無し。一切の顛倒夢想を遠離し
ねはんくぎようはんにやはらみつたよあのくたらさんみやくさんぽだい
て、渥葉を究意す。三世の諸仏も般若波羅密多に依るが故に阿褥多羅三貌三菩提を得給へり。故に
はんにやはらみつたしんじゆめようじゆむじようじゆむとうとうじゅよ
知る般若波羅密多は是れ大神呪。是大明呪なり。是無上呪なり、無等等呪なり。能く一切の苦を除
はんにやまみつたぎやあてもじゆじゆぎやあていきよのたら
き、真実にして虚ならず。故に般若波羅密多の呪を説く。即ち呪を説いて日まわく。謁諦、潟諦、
漉騨耀曜泌慰僑耀讃盛爵醒塗詠。艦都哉響
というのです。さあ、これだけ聞いて、このままでわかったらすでに大智者です。ですから一般
しきそくぜくうくうそくぜしき
には色は即ち空にして、空は即ち是れ色となる、いわゆる色即是空、空即是色、という言葉だけが
伝わっているのです。しかしこの意味も正確にはどういうことかわかってはいないのです。しかし
76
この教えは実に最も深く、最も真実な宇宙観であり、人間観なのです。釈尊は印度の人であり、こ
の経文も漢訳されたものを日本語読みにしてあるだけで、このままでは、只単なる呪文的経文であ
って、一般の人達にわかりようがないのです。そこで種々な人が、各自の悟りの程度によって、こ
の経文の解釈をしているのです。最近も大法輪で或る人が大変やさしく親切にこの解釈をしておら
れました。私も私なりにここでこの解釈をしてみょうと思います。
しやりほつ
これは釈迦牟尼仏が、十大弟子の一人の舎利弗に対して、観世音菩薩が深い最高の統一に入って、
しようかく
正しい覚り、つまり正覚を得た宇宙観、人間観を説いたものであります。観世音菩薩といっても、
これは釈尊自身の正覚を観世音菩薩の覚りとして説いているわけなのです。
色即是空・空即是色とは
じんはんにやはらみつた
深般若波羅密多を行ずる時というのは、深い最高の統一に入って、神と一つの大智慧を獲得した
ヘへくう
時ということで、その境地に入ったら、五感に見え、六感に感ずるすべてのものは皆空であること
げだつしやりほつげだつ
がわかって、一切の苦しみを解脱した、というのです。以下は舎利弗にむかって、正覚し解脱した
時の宇宙観、人間観を説いているのです。この中で一番大事な言葉は、やはり一般に知られている、
77正しい宗教と誤てる宗教
色不異空(色は空に異ならず)、空不異色(空は色に異ならず)色即是空(色は即ち空にして) 空
即是色(空は即ち是れ色となる) という言葉です。これがわかりさえすれば、後の言葉はすべてそ
の説明ということになってくるのです。ところがこの言葉の解釈が非常に誤りがちになっていて、
いわゆる単純な空観に脱する人が多くなっているのです。色即是空と空即是色を、只単に同じこと
ヘへ
をひっくりがえしにいっているのだと思いこんで、色、即ちものはすべて空なのだ、この世に現わ
れているすべてのものは空なのだ無いのだ、という否定の面だけに把われてしまって、この人間の
ヘへ
肉体をはじめ、眼に見、手に触れるすべてのものは、自己の肉体消滅と共にやがて無くなってしま
うもの、仮りの姿、実在でないもの、というように解釈しているのです。それにこの経文のほとん
ど全文が無という言葉に尽きているのですから、このように解釈するのが無理のないことです。し
かし、これだけでは実に困るのです。これでは虚無主義とあまり変りがないし、人間の現象面の進
歩とか前進とかにはまるで役立たぬ思想になってくるのです。どうせ死ねば空に溶けこんでしまう
もの、そのまま無になってしまうもの、個性も何も無くなってしまうもの、というのでは、唯物論
とも変りなくなりますし、かえって唯物論より積極性がないだけ人生を暗く淋しいものにしてしま
います。現在五感で見、聞き、触れながら、これらはすぺて空なのだ、と直覚的に思える人は、こ
78
の世界にそう滅多にはありません。一般はどうしても諸行無常式に、今は有るのだけれどもやがて
爬
無くなるのだから、空だといい、無だというのだろう、ぐらいの思い方より出来ないと思います。
そんな思い方を一般の人達にさせるようでは、只諦め式の思想になって釈尊の高い悟りとはまるで
違ったものになってしまいます。色即是空、空即是色とは、そんな浅い思想ではありません。釈迦
牟尼仏が、最高の統一から神我一体となり、人間の本体を大智慧によって直覚した言葉であって、
色即是空、空即是色と二つ重ねたところに深い意味があるのです。はじめの色というのはこの現象
ヘへ
界、肉体界(五感)幽界(六感) のすべてのものをいうのです。どうして色というかといいますと、
これは後の空即是色の色のところでくわしく述べますが、ものはすべて、色素で出来ているので無
ヘへもの
色というものは一つも無いのです。ものはすべて色分けによっているのです。この色が即ち空であ
る、というのです。この眼で実在と見えている物質はすべて空だというのです。この説明は、現今
ではわりあい知識としてわかりやすくなってきています。それは自然科学の進歩によって、分子、
原子、電子、中間子、原子核、というような微粒子が発見され、その微粒子も波動から成り立って
いる、という実験説が生れてきて、私たちが常日頃物と呼んでいるものは波動の組合せから成り立
っているのだ、というところまで来ているからです。しかしこれは知識としてそこまで来ているだ
79正しい宗教と誤てる宗教
けであって、一般人の実観としては、物質はやはり固まった固形の物に見えるのです。ですから、
五感に見え、聞え、触れるものは、このままで空なのだ、ということはなかなか実観として観じ得
ないのです。そこで或る人々は世俗の中から抜け出て山に入って、肉体放棄的苦行をしてこの空観
に達しようとしたのです。物質が実在と見え、生老病死が有るように見えては、安心立命の境界に
至るこ乏が出来ない、と心ある人々は一様に思ったでしょう。釈尊もその一人であったのですが、
三十数歳の時に、この色即是空、空即是色の正覚に達し得たのです。
肉体の消滅は人間の消滅ではない
さて、自然科学は波動説で止まってしまって、そこから先へはまだ進むことは出来ずにいるよう
ですが、その先は別の科学が、別の方向から空の実体にむかって突き進んでいるのです。それを心
霊科学といいます。この科学は米英やフランスあたりでは非常に盛んであって、自然科学畑の有名
人が、かなり先頭に立って研究しているようです。日本ではまだこの科学をやたらに否定する学者
が多くいて研究がやりにくそうです。自分たちが研究もしないで、只、そんな心霊などというもの
があるものかと、顕微鏡的科学だけを肯定し、その他の研究を否定し去る態度は、科学者の迷信と
80
いわれてもしかたのない非科学的態度というものでしょう。心霊科学は、顕微鏡や機械器具や、モ
ルモットの代りに、生きた人間を機械器具として波動の起ってくる彼方の世界、三次元以上の世界
を追求してゆこうとしているのです。そしてその研究結果として、この肉体の世界の他に人間が生
きていること、五感に見える世界以外にも人間の住む世界、異なる物質のある世界があるというこ
とが確認されたのです。これは直観や直覚でなく、科学的に確認されているのです。いわゆる特異
な人にだけ認められるのではなく、一般の誰にでも確認出来る研究会組織が出来ているのです。
アメリカのディックソソという大霊媒は自分自身もしっかりした意識をもったまま、白昼に幽霊
を物質化して、肉体人間同様に現わすことが出来たそうです。その肉体化した幽霊は、こちら側の
人と、当り前に話し合うことが出来るのです。こうした実験によって眼に見えぬから顕微鏡に見え
ぬから無いのだ、といい切ることが出来なくなり空というものの範囲がぐっとひろがったわけで
す。唯物論的な虚無とはまるで異なる思想が、このような研究の結果から自然に起ってきます。し
かし、釈尊の空というのは、こうした幽界の展開をいうのではないのです。肉体の消滅は人間の消
滅でないことは心霊研究にたずさわれば実にはっきり確認出来ますが、これは人間の世界が肉体
あのくたらさんみやくさんぽだい
界、幽界と拡がったということで、この確認によって、釈尊のいう阿褥多羅三貌三菩提(正覚) を
81正しい宗教と誤てる宗教
得たということにならないのです。正覚とは自由自在身(心)を得ることであって、幽界のよう
に、肉体より微妙な体をまとっているとはいえ、まだ業因縁の想念の中にあって、何かと把われつ
つ生きているような不自由な境地をいうのではないのです。
真実の空とは
すがた
真に空とは、諸法は是れ空の相にして以下の無し、無しという言葉の通りに、すべての現れに絶
対に把われない境地になることをいうので、最後には無明(迷) もなく、無明の尽くるところも無
ヘへ
く、智もなく、得もなく、と普通肉体人間が、あると思うすべてを無し、と捨て切らしているので
す。統一の最高境地には、肉体観念は勿論幽体観念、霊体観念を解脱し得た宇宙即自我、自我即真
理という境地があるのです。この境地は何んにも無いということではなく、空空漠々という境地で
はありません。自己の中に一切が在り、一切の中に自己が在る。即ち実在そのものという境地なの
です。その境地を釈尊は空即是色といっているのです。色即是空で空になって、空になった瞬間に
現象世界の仮相的色(もの) の世界が、すぺて光明燦然たる実在、宇宙に充ち満ちる存在の種々異
なる使命的光(色)として存在してくるのです。ですから色即是空という時の色と空即是色という
82
げん
色とは往相と還相の違いであり、仮相の色(もの)と実相の色(光)との相違なのです。五感六感
ものもの
(肉体幽界) で見えるすべての色を空と切った時に、この色は実在と業因縁との混合物として現れ
ていたので、一度、↓切を空と断ち切る、すなわちこの現象のすべてからの把れを捨て切る、現象
という幕を切りすてると、その瞬間に改めてこの世がそのまま実在の現れ光明燦然たる姿として現
われてくるのです。
空とは単なる空無のことではない。その空の奥に神のみ心がそのまま実在して輝きわたっている
のです。
日常の中で真の空になり切る行じ方
くユフ
只単なる空ということがあるわげがない。しかし空になることは私の体験からしても出来得ると
いい切れます。その真実の空になり切る迄に幽界とか霊界とかを通りぬけることになるので、途中
ヘヘヘへ
の幽界あたりで引っかかって、外道的なま悟りになったり、誤てる霊能になったりすることが多い
のです。そこで釈尊は、すぺてのすべての引っかかりや把れを無、無、無と切って切って切りぬい
て、最高の統一、深般若波羅密多(正覚行) の行をなしとげたのです。これは単なる頭脳的知識で
83正しい宗教と誤てる宗教
いくら思考してみてもわかりょうはないので、行ずるより仕方がないのです。しかしどうして行ず
るかという問題が起ってきます。こんな深い統一を現今のような喧しい世の中の何処でやったらよ
いのか、一体何処で、どんな形でやるべきなのかに誰でもが迷うでしょう。実際現今では釈尊やそ
の弟子達のような工合に行ずるわけにはゆきません。まず最初に知識としてでもよいから、般若心
てんどうむそうおんり
経にあるコ切の顛倒夢想を遠離してL の通りの意味を認識しなければいけません。というのは五
さかさま
感に感ずるものの他は無いと思う顛倒な考え方や、真実は神仏と一体であり、本体は自由自在な神
霊である人間を、肉体や幽体という限定された器的、物質的なものと夢のような想い方、顛倒した
想い方をしている、その想念を遠く離せということになるのです。そこを出発点として、それが出
来なけれぽ、人間はそういうものである、と釈尊が説かれている、ということだけでも認識して、
行的に一歩一歩正覚に近づかなければいけないと思うのです。
そこで私は、この私たちの五感に見るものは、或いは想念として頭脳を去来するものは、そのま
まが真実のものではなく、過去世から誤った想念行為の集積であり、それは常に輪廻しながら消え
去って行くものであるから、その過去世からの想念行為の集積が消えてゆくに従って、真実の人間
の姿、宇宙の姿が自己の前に現われてくるのである。だから、どんなことが現われても、それは過
84
去が今消え去ってゆき、より真実な真善美が現われてくるのであると、ひたむきに思いなさい、と
説いているのです。こう思いつづけるのは大きな強い一つの行なのです。般若心経は真実であり、
真理なのですが、空だ、無だ、と断ち切ってゆくことは非常にむずかしいので、私は一段下にさげ
て悪と現われ、不幸と現われることは、みんな消えてゆく姿なので、実在(神、守護神、守護霊)
にすがりながら、感謝しながら、悪いことはみんな消えてゆき、真実の善であり光である環境だけ
が残ってゆくのだ、と思いつづけることを一本調子に教えているのです。
仮の姿は遂いには消え、真実なる姿(神仏)は永劫に消えぬ姿として現われるのは定まった原理
なのです。この真実なる姿を人間に知らせようとして釈尊は種々の教えを説いたのです。般若心経
は、そのうちで最も深い高い教えなのです。しかしこの教えは他の教えを種々と交ぜ合わせて読ま
ぬと普通ではわかり難く、誤った空観の人達が、かなり出来てしまったのです。経文がたくさんあ
るのもよいのですが、やはり一本に纏まった、一読すれば、やや人間の真実の姿がわかるというよ
うな教えがあってよいと思って、私はなるべく簡単なわかりやすい説き方で直線的に真理を説くこ
とに努めているのです。高い教えをそのまま誰彼に説いたとしても、相手に理解されなけれぽその
効果は現われません。般若心経のような深い高度な教えは、釈尊のお弟子の中でも、舎利弗級の高
85正しい宗教と誤てる宗教
弟にだけ理解出来たので、恐らく大半の弟子には理解出来難かったろうと思います。釈尊は恐らく
舎利弗級の大弟子だけに理解出来ればよいつもりでこの教えを説いたのではないかと私は思うので
す。そしてその他の弟子には、それぞれの弟子の心境の段階によって、それぞれ理解出来、実行出
来るような種々な教えを説いたものと思われます。その時々の教えがたくさんの経文となって今に
残っているわけです。
慈愛がすべてを解決する
釈尊は神通力をもっておられたので、自分に相対する人間のすべてを見抜いて説かれるのですか
ら、その人々に必ず効果ある教えを説かれたに違いありませんが、神通力のない弟子たちや、現今
の宗教家たちが、相手かまわず自己の立場からのみの宗教観を押しつけたのでは、救われる人もあ
りかえって傷つく人も出来てくるのではないかと思われます。ですから幅広い見識をもちながら、
相手の心の状態をよく観察し、どうしたら相手が高められ、深められるかを研究しながら、相手の
立場になり切って教えを説くことを練習しなければ、真の救い手とはなり得ないと思います。それ
には深い思いやり、慈愛がないと出来ないのです。神通力がなくとも深い愛念があれば、その念い
86
が相手にうつって、それだけでも非常な救いの力、浄めの力をもつものです。
一つの定められた戒律を必ず固執するとか、自己の狭い見識だけですべてを割り切った教え方を
したりするようなことでは人は救えません。一度に空を悟りたくとも、今生ではそこ迄行きつけな
い人たちにむかって、般若心経的教えを説きつづけても、その人たちに効果はないかも知れません。
広い教えの範囲を一つの直線に纏めて、高い境地の人にも低い程度の人にも認識出来、実行出来、
知らず知らずに正しい道を歩んでゆけるような教えを説くことを私は神様から使命づけられてきた
のです。霊界幽界のことを識りたい人には、霊界幽界のことを教え、現界のことで判断に迷うよう
な人にはその道を開いてやるようにしているのです。
真の宗教家は霊界幽界を知って人間の本体を悟る
霊界や幽界がある等と教えることは邪教だ、といっている宗教家もありましたが、般若心経的悟
道の人には霊界も幽界も必要ありませんが、また般若心経的悟道に入った人は、その悟道に入る前
に必ず幽界、霊界の体験を経てきているのです。そうした悟道に入った人が霊界も幽界も無いのだ、
と説いたとすれば、その聴聞者の側が、霊界、幽界に関心をもってはかえって悟りに入り難くなる87正
し
い
宗
教
と
誤
て
る
宗
教
という場合、つまり、幽魂の想念を受け、把われやすい人の場合であろうと思われます。そうした
場合は只、色即是空、空即是色的教え一本で進んで行った方が悟りやすいのだろうと思います。説
く方が相手の気根を知って、相手の悟りやすいための幽界否定なので、霊界、幽界を全く知らずに
そんなところは無いのだ、という宗教家とは悟りの段が違うのです。宗教家と呼ばれる人で、今時
幽界、霊界を否定していることは全く変なことなのです。宗教家とは精神面の生き方、眼に見えぬ
世界、神秘な世界を哲学的知識と、直接体験(直感、直覚)によって民衆に認識させ、導いてゆく
人達をいうのですが、その宗教家と呼ぼれる人々の中に、物質的、五感に見える世界から徐々に宇
宙の構造を研究してゆこうとしている科学陣の一部さえ手をつけはじめている霊界、幽界の探究を
怠っているぽかりでなく、否定している人々がいることは実にあきれたことだと思うのです。
神仏は直接眼に見えず手にも触れません。しかし人間の内部にあり、外部にあることも事実で
す。宇宙に充ち満ちていると形容出来ることも事実です。すると神仏を把握し、人間の本体を知ろ
うとするためには、人間内部を深く探ってゆくことが必要であると共に、肉体人間と魂との関係を
探究することも必要になるわけです。宗教家で魂が無いなどという人は一人もおらないと思います
が、ただその魂についての見解が深いか浅いかの違いがあるのだと思います。探究心の浅い宗教家
は、肉体が滅びれぽ、そのまま魂も消滅してしまう、と思っているのです。しかし深い宗教家は、
肉体は一つの器であって、意識は魂に乗って他の世界に転移してゆくことを知っているのです。肉
体が滅びれば、それで一個の人間が消滅したなどと思っているようでは、最早や宗教家として一人
前とはいい得ないのです。
人間とは、本体は直霊として、肉体的意識は勿論、幽界的意識、霊界的意識をも超えた宇宙意識
の本源に存在するもので、宇宙神の一つの働き(肉体的にいえぽ個性或いは天命) の源なのです。
釈尊はこの本体を直覚させるために、般若心経を説かれたので、すべてを無、無といっているので
す。ですから般若心経的にいえぽ、この肉体界が一つの現れであって、実在でないと同じように、
心霊科学的にいう幽界、霊界もやはり一つの現れ現象世界ということになるのですが、これは正覚
の人や菩薩級の人たちに実観としてわかるので、普通人は知識としてだけでもよいからこの真理を
知って、肉体界における日常生活の中に神の心である、愛と真の生き方をしてゆくように研究し実
行してゆくべきである、と思うのです。そうしますと、自己が正しい行いさえしていれば、一度に
本体と合体出来ないとしても、肉体消滅後は幽界の高い場所或いは霊界に往生することが出来るの
ねはん
です。もし本体と合体出来得る般若心経的悟道に入れば、いわゆる浬藥といわれる神界、自由自在89正
し
い
宗
教
と
誤
て
る
宗
教
の境地に入り得るのです。この界に入れば、自己の想いのままに、すべてを現出せしめ、すべてを
消滅せしめ得ることになるのです。ですから、撰縦㌔舞識秘泌慰糠識㌔つまり・明らかにせよ、明
ぽじそわか
らかにせよ、真理を明らかにせよ、さすれば、菩提薩婆詞、人間の本源の世界、神界に昇れるのだ
よ、と般若心経の最後にいいそえてあるのです。
因縁因果の問題
釈尊は般若心経のような深い教えと共に、因縁因果的教えを数多く説いています。有名な三界は
唯心の所現という言葉がありますが、これは欲界、色界、無色界、心霊的な言葉でいえば肉体界、
おもい
幽界、霊界は唯心の現れであるということです。自己の住む環境はすべて唯自己の心(想念) によ
って創られているのであり、創られてゆくのであるというのです。このように或る想念が因(原因)
になり、縁が生れ、果(結果)が成るのだ、というのです。これは行為としても同じです。
それはあなたの因縁が悪いのですよ。因縁とあきらめなさい。等々、大概の新興宗教はこの因縁
因果を主にして説いているのですが、因縁、因縁とやたらにいうものですから、智慧の明らかでな
い人は、この因縁に把われてしまって、一言目には因縁、二言目にも因縁と、因縁因縁で日を暮し
90
てしまっているのです。しかもこの因縁という言葉がほとんど、悪い方面の因縁ばかりを取りあげ
ているので、しまいには、自分たちにどうにもならない強い真黒な深い闇のようなものが行く手に
立ちふさがっているような、妙な恐怖感で一杯になってしまって、何にでもよいから取りすがって、
その強大な敵、因縁をとってもらおうと思って、やたらに神詣りをし、御祈疇をして貰ったりして、
自己喪失のような形になってゆく人がなかなか多いのです。
釈尊のようにご自分が、正覚を得ておられて、般若の大智慧、大自覚をもっておられた人が直接
説かれた場合には、この三界は唯心の所現、因縁因果、新しい言葉で心の法則を説かれても、弟子
に恐怖感を与えたり、自己喪失的な依頼心を与えたりはせず、その環境そのままで、心が一歩も二
歩も前進出来るように、光明的に因縁因果を説かれていたか、一歩でも渥葉の境地に近づけるよう
に説かれていたに違いないと私は思うのです。何故といいますと、般若心経のように、恐怖有るこ
と無し、と説かれている釈尊が弟子たちに恐怖感を与えるような教え方をするわけがないと思うか
らです。ところが近世の宗教家たちの中には釈尊の教えの全般を把握出来ず、その片言、隻句のみ
を自己の宗教観として衆生をひきずってゆこうとしている者が多いのです。その人々が、般若心経
を説いては、虚無的空観となし、因縁因果を説いては、いたずらに恐怖感を与え、人間を本体から
91正しい宗教と誤てる宗教
ひきはなしてしまうのです。誤った宗教観、
世界に与えるような気がするのです。
誤った信仰は、唯物論よりも一層恐ろしい結末を人間92
因縁因果を超える教え
そこで私は、般若心経も、因縁因果の教えも一つに纏めて、
人間の本体は直霊として神の座にいて自由自在に働いているのであって、現在人間がこのように
不幸な不調和な世界を現出させているのは、過去の誤った想念行為(因縁)が現象世界に現われて
消えてゆく姿である。だから、現われて来た不幸や不調和の原因を追究したり、掘じくりかえした
りしないで、単純に素朴に、これは過去世からの業因縁、つまり想念行為の誤りが消え去ってゆく
姿である。この姿が消えれば必ず、本体からくる完全円満的光明の姿が、自己の環境に現われてく
るのだ、と信じるように努め、不安動揺の心を、守護霊、守護神への感謝の祈りに代えてゆきなさ
い、と教えるのです。これが一番無理のない本体(仏) 開発の生き方だと信ずるのです。
どんな悪因縁でも、どんな心の誤りでも、それは過去世から現在に至る誤った想念行為の集積な
ヘへ
のであって、永劫に消え去ることのない実在とは違うのですから、その想念から心を離せぽいつか
は消え去ってゆくにきまっているのです。それを永劫に消えることのないもののように思いこんで
不安恐怖にさいなまれ、悩みつづけているのです。それなのにその不安恐怖に輪をかけるように、
あなたの心が悪い、あなたの行いが悪い、悪い悪い、と責めたてる宗教者が多いのです。神は愛で
あり、仏は大慈悲なのです。それを忘れてしまったら、如何なる宗教に入っていても、その人は救
われよう道理がないのです。
大聖の真意を聖典から汲み取れ
釈尊にしても、キリストにしても、人間世界を救うには一体どうしたらよいだろうか、とどのく
らい思考したかわかりません。私にはその大愛なる心がよくわかるのです。これらの大聖たちが、
はりつけ
全身全霊をあげ、遂いに我が肉の身を礫にして迄、人類救済の悲願による教理を後世に残されたの
です。その大犠牲によって残された聖典が、ただ、表面的な言葉だけの説教となり、死んだ言葉と
なってしまい、その底に温れている大愛の精神、慈悲の心が弟子や聴聞者にひびいてゆかなくなっ
てしまったのです。大聖たちの心は、人類に真理を認識させ、行じさせたいという悲願に燃えてい
たのですから、後世に生れた私たちも、大聖の真意をその聖典から汲みとって、これを伝え、これ
93正しい宗教と誤てる宗教
を生かし行じなければならないのです。
すべての聖典には、人を責めよ、人を裁けよ、とは書いてない筈なのに、指導者は自己の地位立
場を背景にして、因縁の理や、心の法則を誤り解し、人を責め裁いて、己の優位に満足するのです。
神は愛であり、仏は大慈悲である、ということを知っていたら、方便的に人を叱る以外に、人の心
を恐怖させ、萎縮させるような教え方、説き方は出来ない筈なのです。そんな宗教者が多かったら、
仏陀もキリストも大いに哀しまれるに違いありません。
まこと
細かい学理的なことは宗教者にとっては、どちらでもよいのです。純粋なる愛の精神、真の心の
持主であれば、それだけで宗教者としての値打ちは充分にあるのです。その反対に、如何に学理的
に宗教哲理を究明している人でも、愛と真の心に欠けていたら、その立派さは、その欠けている程
度だけマイナスになるのです。
愛が無くとも、慈悲が無くとも、学者にはなれます。技術者にもなれます。しかし宗教者には愛
がすべてのすべてであって、学理を知っているだけでは真の宗教者になり得ないのです。
人のためになりたい、という悲願だけで宗教哲理を直覚的に認識し、それが行為となって現われ
て、聖者となった人たちもたくさんあるのです。
94
人類は何故不幸になったか
世界人類が平和になる為にまず何を考えねばならぬか
本章は人類は何故不幸になったのか、という原因を考えながら、個人の幸福生活への道をお話し
することに致しましょう。
皆さんの中で現在の人類の状態が幸福な状態であるとは、誰一人思う人はありますまい。こうし
た不安混迷の社会人類には、一体誰がしたのでありましょう。人類全体が明日をも知れぬ国家や社
会の運命におびやかされていることは、その国家や社会に生活する個人々々の心をも安定せしめて
いるとはいえないのです。従って、国家や社会が不安混迷の状態にあることは、個人も人類も不幸
であるといえるのであります。
95人類は何故不幸になったか
世界人類が平和になるためには、まず何を第一に考えなければならないのでしょう。この根本を
ほん
考えないで、只いたずらに国家間が軍備に狂奔していたり、様々な政治的策略をほどこしたりして
いても、人類に真実の平和をもたらす日は永遠に来はしないのです。
人類は一体何処にどんなところに誤ちを犯してきたのでしょうか、どこかに誤った生き方、進み
方をしていたからこそ、世界が常に戦に明けくれ、謀略に充ちた、不安混迷の世となっているに違
いないのであります。
その誤ちとは一体何んだったのでしょうか、それは人類の本体が神であることを忘れ果ててしま
ったからなのです。自己の本心も他者の本心も、すべて完全円満なる神と一つものであって、その
働き、その使命の相違によって、各別個の肉体に分れて生活しているもので、すべての人間は兄弟
姉妹であることを、忘れ果ててしまったからなのであります。
神と人間とは違うもの、自分と他人とは別のもの、という、本源の力、本源の光を分裂せしめた
ままで、一体化せしめない考え方こそ、現在のように、地球人類壊滅に至らんとする程の核兵器の
誕生となってしまったのです。
地球人類は自分たちの誤った思想想念によって、ここまで追いつめられながらも、未だに兵器の
96
力による平和を考えているのですから、
ます。
習慣的業想念的思想は、執拗であり恐るべきであると思い
大国の指導者のみに私達の運命をまかせておけぬ
ところが、現在世界の頂点に立っている米国やソ連の政治家や、各国の政治家たちには、この誤
った習慣、つまり力は神からくるのではなく、自分たち肉体人間の智慧や知識によって増減するも
のである、という考え方が根深く積みこまれているのであって、自分たちの考えを、一度、人類の
本体である神におかえしして、神から改めて善き智慧、全き力を与えて頂こうとはしないのであり
ます。
だからといって、それら数多の政治家の何人もが、宗教的精神を持たないというのではないので
す。米国の首脳者をはじめ西欧陣営には、宗教的精神をもった人々が、かなりあるのであります。
それでいて、真実に神の力を信じることも出来ず、人間の真実の姿を全く知らないのでありま
す。その人々は、神の在ることを頭脳では知っていても、実在として心に抱いていないのです。そ
れと共に、神と人間との深いつながりや、神あっての人類であることをも、知ってはいないので
97人類は何故不幸になったか
す。
真の信の心になっていない宗教精神などというものは、唯物論と五十歩百歩であって、この地球
界に、神の姿を顕現すべき、平和世界を創ることなど、到底及びもつかないのであります。
そこで、考えをもう一歩進めますと、現在の世界の指導者たちに一任していたのでは、平和世界
など、いつになっても出来ようもありませんし、各国々民の不安焦燥は、日毎月毎に烈しくなるば
かりだと思います。
こうした不安混迷、明日の生活に自信をもち得ぬ人々の生き方は、刹那享楽的な方向や、斬った
はったの喧嘩沙汰、はては殺人平気、自殺謳歌の青年たちをつくりあげてしまっているのです。各
国共に社会秩序は年毎に乱れているようでありますが、これは皆、国家や社会に信頼をおけないと
潜在意識的にまで思いこんだ、青少年層の人類世界に対する不信感からの、自暴自棄的な生き方の
現れなのであります。
真実の宗教精神をもって起て
新聞の三面記事には、目を蔽いたくなるものが毎日たくさん出ております。しかし、この事実に
98
目を蔽ってはならないのです。この世界に現われてくるものすべてに目を蔽わず、そこから真実の
人間の生くる道、人類の取らねばならぬ生き方を、私共は探り当てねばならないのです。
その探究心の真剣なるものは、必ず、現在の人間の生き方考え方や、人類国家の歩み方に、私同
様、不審を抱き、これではならぬ、こんな生き方をしていれば、個人も人類も等しく滅び去ってし
まうに違いない、ということを悟るでありましょう。
私たちは、現在只今の安定生活に安んじて、将来に起る大悲劇を未然に防ぎ得る手を打たぬとい
う愚を犯かしてはなりません。
私共は、自分たちの日常生活の安定や精神生活の安定を、自分の選んだ道によって得なければな
らぬと同時に、国家社会及び、人類世界全体の平和への方向をも、自分たちでつくりあげてゆかね
ばならぬのです。
みひら
よく眼を瞠き、耳をかざして、新聞にラジオに雑誌に図書に、社会国家人類の動向をごらんにな
ることです。宗教信仰なき良心的有識者は、自己をごまかさない以上は、日本は独立国としては立
ってゆけぬのではないか、と嘆かずにおられぬでしょうし、人類世界の前途にも多大な不安を隠す
ことは出来ないでしょう。
99人類は何故不幸になったか
私は再びここでいいたいのです。私共は世界人類の運命も個々人の運命も、現在の世界の指導者
一
簿鑑騰籔勲齢観議鶴製韓鐸ゼ購繕蝶蝋謳
世界平和への道
さて、それでは一体どうして、個人を平安にし、人類世界に平和を達成しようというのでしょう
か、それは言葉でいえば実にやさしく簡単なことなのです。
それは、人間の想念を、すべて神の世界、神のみ心の中におかえしする、という一言だからなの
です。これが出来れば、その人の生活は、安心立命そのものの生活に決っております。何故なら
ぽ、神は完全円満であり、絶対なる権能者であるからです。その絶対者に、人間の想念のすべてを
おかえしするということは、その人間に、肉体人間としての想念が無くなった、ということであ
くよノ
り、即ち空の心境になったと同じだからであります。そしてその人間の脳裡を想念が走る度びに、
こころ
その精神はその想念を、神のみ心の中に送り入れます。送り入れるということは、神のみ心の中に
自分が入ってゆくということと等しいことなので、その人はその度び毎に、神と一つの心になって
100
いるわけです。さすれば、空になった心には、神がそのままみ心を現わしていることになるのであ
ります。これが空即是色ということであるので、その人は神我一体となり得るのです。
ということはやさしいのですが、これにはそれ相当のやり方があるので、その方法を通さない
と、なかなかむずかしくて、実行出来得ないということになってくるのであります。
私共人間は、最初に申しておりますように、神(大生命) より分られたる生命体であり、分霊で
あるのです。ですから、神がなければ私共の存在はあり得ないのです。それを逆にとって、人間が
認めなければ神は無いのだ、等という人がありますが、人類のすべてが神を認めなくとも、神は生
うち
命として厳然として人間の中に存在しているのであって、人間のすべての機能を動かしているので
あります。人間自身が、自己の心臓や肺臓を自分の想念通りに動かして生きている、ということ等
は聞いたこともありません。
誤った思想的習慣をもった人間程、面妖なものはおりません。
神があっての人間なのです
自分の意志で生れてきたのでもない肉体を、自己の物である、と主張し、自己が何等の智慧も働
101人類は何故不幸になったか
かさないでも働いていてくれる肉体的諸機能を、あたかも自己の智慧で動かしているように思い誤
って、真の動かし手である、神に対して感謝一つしないどころか、神などあるものか、とうそぶい
ているのですから、只々あきれ果てるより仕方がありません。
これは人間世界的に考えてみれば、このような人物は次第に世間から相手にされなくなハ.てしま
う筈なのですが、このような忘恩の徒がかえって、様々な理屈を並べ立てて、世の中から立てられ
たりしているのですから、それだけでも、この世が滅び去らぬのが不思議なくらいです。
まあ、そのような人々のことはひとまず後廻わしにしても真実の世界平和を想い、自己の平安を
願って、神の道に向っている人々の中に、真実の方法を知らないばかりに、かえって自己の心を痛
めたり、いじめたりして、神のみ心から遠ざかろうとしている人々のあるのは実に馬鹿々々しいこ
とであると思うのです。
神があっての人間であることを、その人々はもう一度考えてみて下さい。神があっての人間であ
る、ということは、神がなければ人間もない、ということであって、神がすべてのすべてであっ
て、人間は神の生命の分れである、ということであるのです。
人間は、神の智慧の分れであり、神の光の分れであり、神の働きの分れであるので、神以外の何
102
者からも来ている存在ではないのです。
このところが宗教信仰者の一番大事なところであろうと思います。神の光、神の智慧以外の何ん
すがた
の力も、人間の中には入っていないのです。人間は神の肖そのままに創られているのであって、争
ったり、憎みあったり、だまし合ったりする者ではないのであることを、じっくり考えてみること
であります。ここのところがわからなけれぽ、とても神の真の姿も、人間の本体もわかりようはな
いし、世界の平和などはとても達成することは出来ないのです。
人間同士に敵があったりしていて、敵をやっつけなければ平和は達成されない、というような幼
稚な考え方で、世界平和を達成しよう等というのでは、その想念の中にすでに神の姿はないのです
から、神の姿である人類世界の平和が出来る筈がないのです。
自分の心の中に神だけを住まわせよう
世界の平和を念願し、自己の安心立命を願う者は、自己の想念の中に、神だけを住わせて置い
て、他の何ものをも住わせてはならないのです。
神とは愛として真として、平和として、調和として、善として美として心の中に住んでいるもの
103人類は何故不幸になったか
で、そうした想念が行為として外に現われた時、その人が神を現わした、といえるのであります。
そしてその他の想念、つまり悲哀、憎悪、妬心、闘争等々の自己の心を損い、他を傷つけるような
想念が、脳裡をかすめ心をかすめた時は、神のみ心を過去において離れていたマイナスの想念が、
今現われて消え去ってゆく時である、と想い、その度び毎に神のみ名を呼ぶのです。何故そうした
業想念は消、兄去ってゆくものである、と断定するかと申しますと、この世には神のみ存在するので
あり、人間は神の分霊であって、神のみ心の他の業想念など存在するわけがないからで、在るよう
に見えるのは、その人間が過去において、自分が神の分霊であることを知らなかった無智の所産で
あって、それは自分が実存在と認めなけれぽ、そのまま消え去ってゆく幻影のようなものであるか
らなのです。
こう考・兄てまいりますと、誤ちを誤ちと認めれぽ、その人間が自分を責めさいなむ必要も、他を
責めさいなむ必要もないので、この世に責め裁く必要が一切なくなってしまうのであります。です
から今日迄の宗教のように、各自の心の持ち方の誤ちを指摘して、いちいちとがめ立てするような
ことをする必要はなくなって、完全円満性の神のみ心一元の生き方が次第に出来てゆくのでありま
す。104
先日会の少年部の催しの幻燈会で、ジャンパルジャンをやっていたのを、私も少年たちに交じっ
て観ていたのですが、自ら十九年間も獄につながれていた前科者だ、と名乗るジャソを、何んの恐
るる気色もなく、慈愛の眼をもって家にあげ、ご馳走した上、泊らせたミリエル大僧正、その上、
その恩を裏切って、銀の燭台をうばって逃げた、普通でいえば憎むべき行為のジャソバルジャソを
警官からかばってやったミリエル大僧正の、神そのままの行為には、今更のように深い感動をおぼ
えたのであります。
このユーゴーの小説は、少年の頃から何度びと読んだり、映画で観たりして、その度び毎に心を
洗い浄められていたものですが、これは単なる創作ではなく、神のみ教えだと思われます。
このミリエル大僧正のような心に皆がなれば、忽ち世界平和の実現となるのでしょうが、現実世
界は、これとは全く反対で、世界中隈なく探しても、ミリエル大僧正は一体何人あることでしょう。
ここが、理想と現実との甚だしく遠い距離であり、いうに易く行うに難いところなのでありま
す。いうことは誰でもいえ想うことだけは誰にでも出来るのですが、実行させることや、実行する
ことがむずかしいのであります。
105人類は何故不幸になったか
理想と現実を自然に一致させる世界平和の祈り
ios
そこで私は、最もやさしく自己の想念をかえ、自己の心を安心立命させ、その上世界人類の平和
を築く上にも役立つ方法を、神から教えられて説きつづけているのです。それが世界平和の祈りな
のであります。
真面目な宗教精神をもった人でも、一朝一夕でミリエル僧正のような聖者になれるわけではあり
ません。あれ程の心境になるには、過去世からの善行による、業因縁の消滅がなければなれるもの
ではありません。
ところが、ああした心境を、只単なる理想として仰ぎみているだけでは、いつまでたっても世界
は平和になれるわけがなく、自己の業因縁も急速に消え去る筈がありません。ここに世界を平和に
させたいという想いと、自分や身近の社会を考えてみて、こうした人間たちでは、とても世界は平
和になりっこない、という想いとが入り交じって、はては、地球世界は到底平和になれる筈がな.
い、という、やや投げやりな気持になってゆく人々が多くなっていて、その場、その場の平安を願
い求めるだけの消極的な善人になってしまっているのであります。
私は過去からの種々の体験で、理想だけを高々と掲げて進む方法は、次第に実行精神が疲れてき
て、偽善的になりやすい、ということを知っておりますし、といって、眼前の利益だけで釣ってい
って、やがては高いところに運んでゆこう、というような現世利益主義も好ましいと思いませんの
カルつ
で、その行為をやってさえいれば、現世利益もあると同時に、いつの間にか過去世からの業想念が
消え、周囲を照らす、輝やかな雰囲気をもち、あまつさえ、その行為がそのまま、地球人類を救済
しようと働いておられる大光明団体(大救世主) の働きを容易にせしめるものであるとい5方法を
考えたのであります。考えたのではなく、神から教えられたのであります。それが「世界平和の祈
り」なのであります。
揺がぬ心の平安こそ最大の利益
この祈りは、誰でも彼でも、一度に聖者の心境になれるというのではありませんが、いつの間に
か、自己の脳裡に去来する業想念(恐怖、不安) の想いが薄くなり、憤怒や、悲嘆や妬みの想念が
消え去ってゆくのであります。これ憾現世利益の最大なるものであると思います。私の思っている
現世利益とは、金がもうかるということや、病気が直る、ということだけではないのです。心が平107人
類
は
何
故
不
幸
に
な
っ
た
か
安になることが第一であると思うのです。金はもうかることもあり損をすることもあります。病気
は直ることもあり、また現われることもあります。そうした現象の細かい現れを、いちいち気にし
ての宗教信仰では、真実に現世利益を得たとはいえません。真実の現世利益とは、この現世におけ
る自分や自分の周囲に、如何なる変化が起ろうとも、それは只単なる因縁の変化であって、その因
縁がたとえ今、不幸や病気のように現われていようとも、それは今日以後の未来において、自己の
本心を輝やかすために、過去世の業因縁が消え去ってゆく姿である、この病気、この不幸によって、
過去世からの業の借財払いをしたのだから、これからの生活はよくなってゆくのである、と思える
ようになった方が、ゆるぎのない現世利益を受け得ることになるのであります。
108
大親様なる神は悪や不幸を与えることはない
それにしても、やはり、人間は神の分生命であり、神は人間の大親様なのだから、自分たちに悪
を与えることはない、という信念をもつ練習と、悪や不幸はすべて神のみ心を離れていた人間の想
念のマイナス面の消えてゆく姿である、という真理を思いこむようにすることが必要であります。
常に業想念(悪や不幸や病気を想う心、あるいは憎悪や憤怒や妬みの想い等々) は消えてゆく姿
である、と自らにいいきかせつつ、そうした業想念が現われる度びに、守護霊、守護神の方にその
想念を投げ入れるつもりで、守護の神霊を呼び、感謝の想念をささげながら、世界平和の祈りをす
るとよいのであります。
はじめは、何が何んだか内容がぴんと来ずに、只口先きだけで世界平和をやっていた人々が、日
がたつにつれて、自然に心の中から世界平和を唱えている自分を発見するのであります。
世界平和の祈りの中には、世界人類を救済せんとする神(救世主) の大光明心が輝いているので
ありますから、その祈りを心に想っただけでも、そこには光明が輝やくのです。ですから、あまり
内容が深くもわからずにやっている人々でも、知らず知らずに心の中で世界平和の祈りの深い意味
がわかってくるのであります。それは、世界平和の祈りがもつ光明によって、その人の業因縁の波
動が消されて、内部の光明心、すなわち本心の光が、外に輝き出てくるからなのです。
つまり、世界平和の祈りをするということは、救世主の大光明を、自分の住む世界に呼びよせる
ことと同意語なのであります。それなら何故救世主様、救世主様だけ呼ばないのか、と申すと、只
単に救世主を呼ぶだけでは、自分自らの想いが、還相心、いわゆる衆生救済の菩薩心にならず、横
広がりに周囲や社会、あるいは人類世界に、愛の光を投げかける心になってゆかぬからです。
109人類は何故不幸になったか
世界平和の祈りをする場合には、世界人類が平和でありますように、という広い愛の心つまり菩
薩心が根底になっており、その上、自己の天命を完うせしめ給え、と神からの使命達成の願いもあ
り、最後に守護神、守護霊への感謝行があるのです。この守護の神霊への感謝は、救世主への感謝
と全く同じものなのであります。
人間の想いというものは不思議なもので、言葉のつかい方によっては、いつの間にか、その言葉
につられて、その言葉のような心境になってゆくものなのです。その習性を知っておられる神が、
世界平和の祈りという、広い深い意味の言葉を、そのまま素直に唱えさせる祈りを、私に授けて下
さり、それを皆さんに伝えさせているのです。
世界平和の祈リによる三大効果
この祈りは、他の著書にも度々申しておりますように、一つには、人間の心を去来する業想念を
光明心に振りかえさせるために、業想念は、すべて消えゆくために起るもの、という真理の言葉を
うらづけとして、祈らせ、いつの間にか、個人の安心立命を得させる、という意義であります。こ
の原理は、人間には潜在意識といって、幽体に想ったこと、行ったことが、すべて録音…機のように
110
録音されているので、その録音された業想念が表面意識に現われようとする時、あるいはした時、
それと同時に、光明心、つまり世界平和の祈りを録音してしまう、ということであります。そうし
ますと、悪とか不幸とか失敗とかが表面に現われる度びに、潜在意識は見事に光明心に振りかえ録
音されるわけで、これを何度びかつづけてゆけぽ、潜在意識は光明心で一杯になってしまい、その
ままの心で、特別力む必要もなく、その人は、善事を為してゆくことが出来るようになるのです。
二つには、人間の幽体つまり潜在意識の奥には、神意識、光明そのものの世界があるので、世界
平和の祈りをしていると、その度びに、祈った人の想念が潜在意識をつきぬけ、神意識、救世主の
光明世界の中に飛びこんでゆくことになる。そうしますと、幽体霊体というのは、幽界霊界で一つ
に通じ合っているものですから、一人の人間が肉体界から神界まで祈りの想いでつきぬけた業想念
の割れ目を通して、神の大光明が幽界霊界を縦から横にひびきわたるのです。これによって幽界霊
界が浄められてゆき、肉体界の人間の思想想念が自然と浄化されてゆくのであります。
三つには、世界平和の祈りが強まれば、その純化されたところに、神霊や宇宙人が、地球世界救
済のために、その姿を現実体として現わし、現実的に、業想念で行動している大国を真実の平和の
道に導き入れて下さる、ということにもなっているのであります。
111人類は何故不幸になったか
もはや、地球人類だけの力では、地球人類自らを救済することは出来ません。人類を救う者は誰
か、それは神霊の団体活動であり、宇宙人の援助による他はないのであります。
それを一日も早くなさしめ、その活動を容易になさしめる方法は、世界平和の祈りによるのであ
ることを、改めて申述べて置きます。
112
平和な環境をつくるには
哲学青年の憂うつ
就職して一年程たった知人の息子が、時折り遊びに来るのですが、この息子、学生時代は明るい
さっぱりした性質であったのが、学生生活の終り頃から今日に至るまで、会う毎に沈うつそうな表
情をしていて、ぽつりぽつりと私にむかって、哲学的言論を吐くのです。
その青年のいうところを聞いていると、この人生を明るそうに喜ぽしそうに生活している人は、
余程頭の悪い人であって、少しでも頭脳の秀れた人にとっては、喜ぶにも喜びようのない、明るく
なろうにも明るくなれようもない人生である。それは個々人の生活状態をみても、世界の動きをみ
ても、何処に喜べる要素、明るくなれる要素があるだろうか、というのであります。そういいつつ
113平和な環境をつくるには
彼は終始沈うつな表情を変えないのです。
その青年は両親も相当な人であり、家庭的にも何不自由ない生活の出来る環境をめぐまれた青年
なのです。そして彼はニヒリストでもなく、共産主義者でもないのです。彼は彼自身の環境になん
らの不満ももっているわけではないのですし、何々主義という生き方があるわけではないのです。
彼はただ読書によって得た、片寄った哲学思想を観念的にもてあそんで、自らの頭脳を満足させ
ているだけであることは、私には一眼でわかってしまっているのです。その沈うつそうな表情は、
彼の哲学的内容を表現しようという一つのゼスチャーであるのですが、彼の両親はそうは思わず、
我が子に何かの事情ができて、いつでも沈うつな表情をしているのであろう、と心を傷めて、私に
相談しかけてくるのです。
このような青年はイソテリ層にはかなり多くいるのでありまして、明るい顔をしている人や、す
ぐ嬉しがったり喜んだりする人を、軽蔑の眼でみたりしがちなのです。
彼らは、この人生はそんなに軽々しいものではなく、深刻な想いでみつめつづけなけれぽならな
い、と思っているのですが、それは常に頭脳の中だけでなされているので、実生活にそれを行じよ
うとしているわけではないようです。
114
そうした生き方は、果して、その青年たちにとってプラスする生き方でありましょうか、また、
人類世界に利益をもたらす生き方でありましょうか、というと、これは即座にそのままでは個人も
人類もプラスになるどころか、暗い思想の波をまき散らすので、大いなるマイナスになる、といえ
るのであります。
何故かといいますと、この人類世界は、神のみ心である光の波を現わすべき世界でありますの
で、深刻がった暗い想念思想は、すべて、神のみ心のすみやかなる現れを邪魔することになるので
あります。
神は大光明であり、人類世界の希求するものは、光に充ちた明るい平和なのびのびとして自由な
世界なのであります。前記の青年たちのような、この人生を暗い深刻なものにしてゆこうとする哲
学思想は知識的には興味をひかれるものでしょうが、人類にとっては有害であるのです。
この世は利害相対の世界
ニヒリズム
虚無思想が、人類から光明を消してゆこうとする有害な思想であることや、刹那享楽主義が、人
類の幸福をひらくためにはマイナスの生き方であることは、誰しもうなづけるところなのですが、
115平和な環境をつくるには
人生を暗い深刻なものと観念させ、そうした暗い人生を根抵にしての思想による生き方が知性的で
ある、と思いこませるような、哲学にひきつけられる人々が、イソテリ層にかなり多くあるので
す。
もっともこの世は、表面的にみますと、明るい面より暗い面の方が多いのですから、そうした暗
い思想の生れてくる理由もあることはいなめません。しかし、暗い人生を、誤った人類世界の行動
を、ただ沈うつな気持でみつめていたり、そうした世界を肯定しっぱなしで、その渦の中を突きつ
めてゆくだけでは、いくらたってもぐるぐる廻りしているだけで、違う世界が生れてくるわけがあ
りません。
確かにこの地球人類の大半の人々は、自己主義的な生き方からぬけでていない人々なので、自分
や自分の周囲の利害が第一であって、利害が対立すれば、争いとなるか、強い方が弱い方を抑え
て、弱い方が不満の想いを耐えてじっとがまんする、といった不調和、不明朗の事件が多いので、
正、不正というより、強いか弱いかということが、その人や、その国を優位にするか下位に置くか
を決定してしまっているのです。
こうしたことは、正しい事柄は正しいと見たいし、主張したいと思う、純真な青年層には耐え難
116
い憤りを覚えるのであります。そうした青年たちも、社会に出て家庭を持ったり致しますと、大方
は長いものには巻かれろ式の処世術をいつしか身につけ、社会生活をうまく立ち廻わるようになっ
てしまい、残った何パーセントかの背骨のある人々が、身をかえりみず、社会改革のための何等か
の行動を起したりするのです。またそうした程の勇気ない人々で、社会生活も上手に立ち廻われぬ
人々が、哲学思想を頭脳の中でひとりもてあそんで、自己の精神を慰めているのであります。
この世においては、いかなる苦難があっても、自己の信念のもとに突き進む、ということはむず
かしいことであります。殊にそれが金銭的や地位的の利害関係ぬきの思想的行動になりますと、殊
更にむずかしく、そういう人はあまり数多くはこの世に存在しないのです。
私は唯物論的革命家を否定する立場に立っておりますが、何等の自己的利害関係がなくして、一
つの思想のために身心を投げうって活動するそれらの人々には敬意をはらうことが度々あります。
その心の純真さに打たれるからです。しかし、その心の純真さはたたえても、その行動が、自己の
思想外に生活する人を敵とみるようなことでは、その行く道が誤りであることは明らかであると思
っています。
何故かと申しますと、この世は一なる神のみ心の現わさるべき世界であって、いかなる事情があ
117平和な環境をつくるには
ろうとも、争いの想念のあるべき世界ではないからなのです。
右翼的にしろ左翼的にしろ、対立する思想の下に突き進もうとする運動は、
ための運動としては適当ではないのです。
良心的な生き方をして
この世を平和にする
ところが残念なことに、肉体人間としては、どうしても自己と他人とは全然別の者とみる相対的
想念をもっていますので、自己の思想や、自己の利害に反する者を、快からぬ者とみてしまいがち
けんお
なのであります。とりわけ自己の感情を阻害する人に対しては、嫌悪の想いを抱かずにはいられな
いのが普通の人間なのです。そして、良心的な人たちは、自己の環境や感情を損われる事柄であっ
ても、それが人道的なこと、あるいは愛の行為であると思うと、自己の感情を抑えて、嫌な相手の
世話をしたり、その事柄を処理するために働いたりするのですが、それは決して自己が快いからし
ているのではなく、自己の愛の心にそむくまい、人道的の行為をはずれまいとしているのでありま
す。
例えば、自分はどうやら生活が出来ているが、親類の人たちが貧しい生活をしていると致しま
118
す。そうした親類が、生活が困るからといって毎日のように借金を申しこまれる、気の毒だと思っ
て毎日何がしかの金を渡してやる。たまたま自分の子供たちがテレビが欲しいというし、近所の家
の殆んどにテレビが備わっているので、自分自身もテレビぐらいあってもよいだろうとは思うが、
テレビどころか食べるにも困っている親類のことを思うと、月賦で払うにしても、その金があった
ら、その貧しい親類の生活を少しでも多く助けてやった方がよいのではないか、というジレソマに
陥ってしまう。常にその親類のことが気になって、のびのびとした気持で買物も出来ない。ついに
はその親類があることが、自分の生活を暗いものにしてしまって、全く心がうっとうしい。
というような話を私にきかせてくる人がある。かと思うと、妻が長病いをしていて、何一つ自分
のためにはならない。しかし、自分はその妻をないがしろにして遊ぶ気にもなれず、最善をつくし
て妻の看病をしている。少しでも不貞の心が起きると、なんという自分は愛の薄い男だと自分自身
を叱りつけるが、どうにも毎日が面白くなくてやりきれない。このままこんな生活がつづいたら、
自分自身も病気になってしまいそうな気がするけれど、病気の妻を思うと、自分だけ外で勝手なこ
とをするわけにはゆかない。
という良心的な夫の話もある。良心的でない人には、何を馬鹿な、そんなことでくよくよしてい119平
和
な
環
境
を
つ
く
る
に
は
る人間の気がしれぬ、とあっさり片づけてしまいそうなことでも、このような良心的な人にとって
は、どうにもならぬ苦痛となって、日常生活が暗くなってゆくのであります。
真実良心的な生き方をしようとし、人道的な生活をしようとすると、自分の周囲のすべてが、自
分と同じような生活環境になってくれないことには、常に自己の生活に苦痛がともなってしまう。
宗教の教えのような理想的な生活をしようとすれば、良心的な人であれぽある程苦しくてかなわな
くなってくる。そこで、かえって、この世は不調和な不完全な世界であって、この世には救われは
ないのだ、という、暗い思想になってしまう人々ができたりするのです。
これでは、宗教の教えが、逆に神のみ心から人間をはなしてしまうようなことになって、良心的
な人より、良心の光の薄い人の方が、この世を明るくのびのびと生きてゆかれる、ということにな
ってしまうのです。
自分も救われ人も救われなければ
日本の国内全般を見渡しましても、そうした不調和、不完全な事実がたくさんあります。日米安
保条約改正の問題に致しましても、安保条約自体がすでに、よいのか悪いのかさえ一般の人には見
120
当がつきません。日米安保条約といえぽ、何処かに敵を認めての対策であり、その相手の心を刺激
することは間違いありません。しかし、日本が米国に助けて貰わないで、ソ連や中国から侵略され
ないという保証もありません。
ですから、この肉体の頭脳では、どっちが正当なのか正当でないのか、実際のところ皆目わから
ない、というのが正直な人の考えであろうと思います。それは米ソ間の問題でも同じことであり、
両国の指導者自身も、世界を戦争に持ちこまないで、自国を優位に置こうという虫のよいことを考
えてはいるのですが、その虫のよいことを裏づけするために、盛んに科学兵器をつくりあっている
へもヘヘヘへ
わけです。どうもいたちごっこという形であります。何処の国の首脳部も、一体どうしたらよいの
か、一向にわかっていないので、その場その時の対外的観察国内的情勢で、政治政策を行っている
だけで、いわぽ、業想念の波のまにまに流されているに過ぎないのです。
こういう表面的な動きだけに心を向けていれば、誰でも、まして頭の鋭い人であれぽなおさらに、
この世には救いがない、嫌な世の中だと思うに違いありません。ところが、嫌な世の中だからこそ、
善い世の中にしなければならないのです。嫌だ嫌だこいっていて、それで善い世の中になるわけで
はありません。自分のためにも人類全体のためにも、善い世の中にするような方向に、自分から動121平
和
な
環
境
を
つ
く
る
に
は
きださなければいけないのです。
親類のために苦しんでいる人も、妻が長病みで困っている人も、自分が病気で寝たきりの人も、
一般の人々が誰でも出来る、自分も救われ、人類も救われる、という方法がなければ、このままで
はこの世の中は滅びるだけなのであります。
平和の祈りでのびのびと生きよう
今日までの宗教的理想論では、上根の特殊な人は救われても、一般大衆は救われません。何故か
といえば、行じるのにむずかしすぎるからです。何してはいけない、こうしてはいけない、ああで
なければならぬ、そうせねばならぬ、といちいちその行動を制約されては、その人間がのびのびと
明るくなれるわけがありません。
一言、一行動のたびに、今の自分の言葉は一体悪かったか善かったか、自分の行動は果して神仏
のみ心に適うかしら、どうかしら、とやっていたのでは、神経がすり減ってしまい、線の細い、憂
うつな人間になってしまいかねません。
神のみ心は、光明であり、のびのびと自由なのであります。人間は神の分生命をこの世に生かし
122
ているのであって、明るくのびのびと自由であるのが本質なのです。ですからその本質に反する想
念行為は、本ものではないのです。哲学的青年が、ちょっとのことにでも喜んだり明るくなったり
する人たちをけいべつしたりするのは、神の本質を知らないからなのであります。
ちょっとのことでも喜ぺる方が、少しのことにでも明るくなれる方が、いつも、沈うつな心でい
るよりは数等よいことなのです。ただ、その喜び、その明るさが裏がえると、すぐに悲しみ、すぐ
に暗くなるということであってはいけないのです。すぐ喜び、すぐ明るくなれるひとは、その逆の
ことも多いわけで、単純な心の人であるわけですから、その単純素朴な心をよりよく生かすために
は、私が常に申しております、現われてくる不幸や不利益な想念行為や事柄は、すべて過去世から
わるいこと
の業想念行為の消えてゆく姿であるのだから、そうしたことが起った場合は、これで悪いことが消
えてゆき、善いことが現われてくるのだなア、と思いながら、世界平和の祈りの中に、そうした想
念を投入しなさい、そうしたことをつづけていれば、いつの間にか、あなた方は、明るい積極面、
プラス面だけの人間になってくるのだ、という真理の行為を、なしつづけてゆくことが大事なので
あります。
この肉眼肉耳に見聞きすることは、全く暗い不完全なことが多いようですが、人間の真実の心で123平
和
な
環
境
を
つ
く
る
に
は
みている世界は、全く明るい清らかな完全調和した世界なのです。神々の光で充ち充ちている世界
なのです。私はそれをはっきり知っております。私ばかりではない、世界平和の祈りをしている私
の同志の人々の中には、そうした世界に還元することの出来る人々がかなりおります。
自分は自分の環境の造り主
この世の暗い不調和不完全な姿は、みな現われては消えてゆく姿である、ということは、全く事
実でありまして、どんな苦しみも、どんな悲しみも、いつしか消え去ってゆくのでありますから、
そうした想念を把えつづけていないためにも、世界平和の祈りという大乗的な、人類愛的な祈りの
中に、自己のそうした想念を投げ入れてしまうことがよいのです。
人間の世界は、人間たちの想念の通りに現われてくるものなのですから、自分たちの想い通りの
世界は必ず出来あがってくるのです。今日が暗い世界だから、自分の環境が悪いからといって、そ
の波にばかり把われていては、いつまでたっても明るくも善くもなりません。ますます暗い不幸な
みずか
ものになるばかりです。自分は自分の環境の造り主であり、人類は人類世界の自らが造り主なので
あります。この理を知らぬ限りは、いかなる政治政策も世界を平和にすることは出来ないのです。
124
この肉体世界にいる人類は、すべて神の子であると同時に業生でもあるわけですから、神の子の
住む、完全円満、大平和な世界をつくるためには、自分たち自身が、業生の想念から神の子の想念
に想いを切りかえなければならないのです。
それを古い宗教の型をそのまま踏襲したような、何してはいけない式の自分の心を責め他の心を
裁かねぽいられぬような教えはもう必要はありません。自分の心の悪い想念行為、他の人の悪想念
行為をなくするためには、その想念行為を把えて責め裁いていたとてなんにもなりません。それは
世界の動きに対しても同じことであります。
まず第一番に神はすべての権能であることを信じることです。神の生命なくして、神の智慧なく
して、どうして人間がこの世に生きてゆくことが出来るでしょう。神によって生命を分たれ、神の
愛によって生かされていることは、自然と母体に宿り、赤児と生れ、育まれ、智慧才覚が自ずと備
わってくることによっても、はっきり示されていることです。私たちは、もう一度赤児の昔にかえ
り、神様の中に、すべての想念行為、悪も善も不幸も幸福も、何もかも投げ出してしまいましょ
う。どうせ肉体人間の頭脳では、どうにもならない世界にまで、人類自らがその運命を追いこんで
しまったのですから。
125平和な環境をつくるには
なま
生じっかわかったようなことをいい、わかるような振りをして生きていると、その人、その国そ
の民族は滅亡してしまうにきまっています。それはたとえ頭脳で善悪理非がわかったとしても、実
行となると、業想念波動が厚すぎて、頭脳で考えた善行為を為し得ることが出来ないのが、現今の
社会であり、世界であるからです。
理想論だけでは救われぬ
自己自身、日本国自体が、自己の理想する通りに果して進んでゆけるでしょうか、とても出来っ
こないことは、朝鮮とのやりとりでも米ソとのやりとりにでもよくわかります。
ですから、理想論だけでは、個人も国も救われようはないのです。理想論はひとまず置いて、ま
ず現実の自己自身の環境をしっかりみつめ、国や人類世界の現状をはっきりみつめ、どうにもなら
ぬ現実世界だということを認識するのが、理論的にものを割り切りたがる人々にとっては必要でし
ょう。
そこから今度は赤児のような無力の状態に自分を置いて、お母さま、というように何もかも神様
のみ心の中に投げ入れてしまう練習をしてゆくのです。126
そのお母さまは、人間の母と違って全智全能なのです。そして、人間がそうした神のみ心の中に
入り切った時、人間自体も神のみ心と等しい全能的生き方が出来てくるのであります。
その最もやさしい方法が、いつも申すように世界平和の祈りなのであります。
人間は自己の想念の通りに自分の世界をつくり得るのですが、それは神の子的な想いと自己保存
の業想念的想いとの混交でありますから、どうしても明暗入り交じった環境ができてきます。これ
が今生だけでなく、前生前々生という過去世の想念行為が大きく働きかけてくるわけですから、神
の子的な善なる真なる理想的想念だけを常に起こし、そうした行為をしつづけることは実に困難な
ことであるのです。そこで前記のように、良心的な人々程、自己の想念行為について悩みを抱くの
であります。
まと
世界平和の祈リに心の的を定めよう
こうした悩みを解決するためにも、一つの的を自ら定めて、その的にむかってすべてを投げ出す
ヘヘへ
ことが必要になってくるのです。しかしその的が、ちゃちなものではいけません。明るい広い、高
度な光り輝いたものでなけれぽ、かえって害になります。そこに神のみ愛が働いて、守護の神々の
127平和な環境をつくるには
お働きの大光明波動である世界平和の祈りという、真理の祈り言が生れてきたのであります。
世界平和の祈りを自己の想念の中心とし、生活の根抵として生きてゆく時、その人、その国の生
き方は、どれだけ明るく、どれだけ豊かなものになってゆくことでしょうか、世界平和を祈るとい
うことだけで、その人たちは、業想念波動を超えた、明るい高らかなひびきを、その人たちの生活
の中にひびかせてゆくのであります。
世界平和の祈りは神のみ心です。人類の悲願です。赤旗も白旗もいらない。荒々しい行動も相対
的なやりとりもいらない。日常生活そのままで、業生の自己を超えてゆかれる祈りなのです。
こんなやさしい、こんな入りやすい救われの道があったのか、と今更のように驚かされるのが世
界平和の祈りなのです。個人も人類も、世界平和の祈りを的とし、中心として生活し政策するより
他に、個人を救い世界人類を救う方法はまずないのではないかと私は思うのです。
相対世界があっては、必ず利害関係が生じます。利害打算があっては、それは取引きであって、
調和でも平和でもありません。世界平和の祈りの中から、神のみ心の中で個々人が、国々が一つに
なって、再びこの世で相対する時、はじめて、一つの生命が働きとして二つに分れ四つに分れ、多
くの個々に民族に分れたのだということが、体得されてくるのです。そこからが真実の平和なる政
128
策が生れてくるのであります。
世界各国が世界平和の祈りの中に一度飛びこんで、そこから再出発する日をこそ私たちは待ち望
んでいるのですが、各国とも今日までの業想念政策に邪魔されてなかなかそうなりそうにもありま
せん。そこで、私たち個々人が、まず世界平和の祈りの光明となり、その光明を次第に広くひろげ
てゆくということが、まず第一の歩みとなるのです。
今や神々や宇宙人の応援の姿が、世界平和を祈る多くの人々の肉眼にも見えだしています。世界
平和の真実の道はもはやすでに開かれているのです。個人が救われると同時に世界人類の平和達成
の道である、世界平和の祈りに参加なさることを、教団とか教派とかをぬきにして広くお薦め致し
ます。
129平和な環境をつくるには
130
日本と世界平和運動
世界平和への無関心
何処の国のどんな人でも、世界平和を願わない人はないだろう、と普通の人は思うことでしょう
が、実は意外な程、世界平和に無関心なのが、この地球人類のようです。
というのはどういうわけかというと、世界平和というのは、突然に世界平和になるのでも、一挙
に平和世界ができるわけのものでもなく、個人々々の平和な心境が寄り集って、そこに平和世界が
生れでてくるのだからです。ところがこの大事な自分の心境を平和にしようともせず、只単にアメ
リカがソ連が中国が日本の政府が、といたずらに他の人や他の国のやり方を非難していたのでは、
その心境がもう平和世界をつくり出す心ではなくなってしまいます。
またそれよりも程度の低い人たちは、国のことも人類のこともどちらでもよい。只自分たちだけ
の、肉体人間としての日常生活が乱されなけれぽよい、という心持でいるのです。
そこで、私はこの世の人たちは意外な程、世界平和ということに無関心だというのです。関心が
深ければ深い程、どうしたら世界人類が平和になるだろう、ああいう方法は、ああいう政策は、と
かいうように、種々な主義主張や政策を検討し研究して、自分の生き方を定めてゆくことでしょう
が、そんなに熱心に世界平和樹立への道を検討し研究している人は少いのです。
主義主張を検討してその道を進んでいるように見える人でも、その検討や研究は、全く浅はかな
もので、表面の理論的な、人間の心の状態というものを無視したような唯物的な考え方で納得して
いる傾向が多いのであります。
これも世界平和への関心のあまりに深くないことを示しているのです。
世界人類というのは、一つの物の固りではありません。一人一人の個人が集って社会国家民族と
なり、その国家民族が大きく結合して、世界人類ということになっているのであり、この世界人類
というのは、個人々々の思想想念、各国家民族のさまざまな思想想念が、あらゆる波動となって混
合し交差しているものであります。
131日本と世界平和運動
ですから、一個人の怒りや恨みの想いは、
のまま世界中にひろがってゆくのです。
直ちに、その国家民族に反応し、国家民族の想いはそ麗
精神と肉体
只単に言葉で人間といっていますと、何んだか肉体の固りが人間だというように考えられてしま
いますが、人間とは肉体の固りではありません。肉体を動かしている生命のことをいうのです。そ
してその生命は二つの面即ち、精神と肉体というように一応違ったような働き方をするのでありま
す。精神と一口にいいますが、この精神にも、霊性そのものとして働いている精神と、肉体に付随
して、肉体とは切っても切れないような連関的働きをしている肉体内の精神とがあるのです。
唯物論者が精神といっているものは、この肉体内の精神、肉体に付随して働いている精神をいっ
ているのです。ですから、神や仏を否定している唯物論にも随分精神的に秀れた人もいるのであり
まして、神仏信仰がなくたって、霊など否定したって、あんなに秀れた人々が存在したではない
か、ということがいわれるのです。
しかし、そうした精神的な人たちは、そうした表面的な精神の面だけで、その精神の奥にある、
肉体とか物質とかいう物に惑わされぬ、霊性そのものである精神にまで想いが至らなかったので、
真実の人類平和への道を歩むことはできなかったのであります。
真実の世界平和運動は、この世での霊性開発ということが根本になっていないと、どうしても物
質の生活面での衝突ができてしまって、個人の間にも国家民族間にも、対立抗争が生じてしまうの
です。
人間の想いが、常にこの世の肉体人間の生活の渦の中で、個人や人類の幸福を願っていたとて、
永劫に個人も人類も真の幸福である平和生活をつくり出すことはできないのです。それは何故かと
いうと、人間の本体は霊性でありますので、物質界の遅鈍な動き(波動) の中では、どうにも自己
本来の霊妙敏速な動きを満足させることはできない、本来の自由自在性を発揮することができな
い。そこで、どのようなこの世での充足したような生活でも、真実の平安、大満足の境地になりき
ることはできないのです。
この真理のわからない人には、真実の世界平和運動はでき得ません。それはその運動が、軌道を
それて空廻りしているからなのであります。
133日本と世界平和運動
平和運動に敵があっていいだろうか
近頃平和運動をしている人がかなり出ております。しかしその大半が、人間の霊性を問題外にし
た、物質人間としての平和運動なのであります。霊性を外した運動は、どうしても生命を一つの流
れに融合させることが出来ないのです。
それは、肉体とか物質とかいう種々の障害があって、個人と個人、国家と国家、集団と集団とい
うように、どうしても相対的に、相反する立場に二分し四分してしまうことになるからなのです。
現在世界で起っている平和運動のうち、共産系の平和の運動のように、はっきりと米国や西欧へ
の敵意に充ちている、いわゆる平和ならぬ闘争運動は勿論のこと、MRA のような宗教的な平和運
動でも、反共を宣言しているのであります。共産主義の善悪は別として、あれだけの彪大な共鳴者
を持っている共産主義者を敵としての平和運動というものが果して成り立つものでありましょう
か。自分たちは共産主義者ではないといっている人々の中にも、ソ連中国を根幹とした共産主義陣
営を敵とした平和運動には多大の危惧を抱いている向きがかなりあります。そうしますと、この平
和運動も、世界を二分三分してしまう平和運動ということになってくるのです。
134
現在のソ連中国を主軸とする共産主義の、目的のために手段を選ばぬ式の独善的なやり方には、
非常な危険性を感じます。日本が現在の共産主義に侵略されたら一体どうなることでしょう。現在
の自由さは忽ちのうちに吹き飛んで、不自由きわまりない、戦時中以上の窮屈な生き方をしなけれ
ばならなくなるでしょう。それは目に見えた事実です。
といって、これだけ強大な力を持つ共産勢力を世界の枠外に置いての平和運動など出来るもので
はありません。こちらが枠外に置いても相手は構わず枠内に入ってくるにきまっています。そこで
お互いに敵対行為をしなければならないことに必然的になってきます。
大国の小さな心
米国が国際連合に中華人民共和国を入れない、とがんばっていますが、いざ軍縮の話になれば、
中国を除外した話合など危険で出来っこありません。ですから軍縮の話合だけには中国もいれよう
というのです。向うのいうことは聞きたくないが、こっちのいうことだけは聞かせようというのは、
今日では使用者と労働者の間でも出来ないことになっているのです。
日本としては米国には随分世話になっているし、ソ連に占領されずに米国に占領されたことは、135日
本
と
世
界
平
和
運
動
、
本当に神の大恩恵だと思うのですが、米国が現在のように、大国意識で、金や物資で弱小国にいう
ことを聞かせよう、という取引根性でいたら、弱小国は、ソ連の術策にうまうまと落ちてしまうで
しょう。
米国はあくまで大国のプライドを持って、自国の損得でなく、正義という立場で真直ぐに政治政
策を行ってゆくことが大事なのです。自国の都合の悪そうなことは、うまくごまかしてしまおうと
するような小さな心では、現在の米国の地位を保ってゆくことは出来なくなります。
ヘヘヘヘヘへ
個人でも国家でも、ずるい、こそくなことをしてはいけません。如何なる場合でも、正しい道を
歩いてゆかなければ、その個人も国家も自分の天命を完うすることはできません。
個人の運命も、国家の運命も神からきているのです。その運命を消えてゆく姿的なものにする
か、天命として完うするかは、各人各国の生き方によるのです。天命即ち神の道、神のみ心を働か
すためには、やはり神のみ心に合わせた正しい歩み方をしなければ駄目なのです。ずる賢い、自分
の非をかばうような、そんな生き方をして天命の完うされる筈がありません。個人も国家も充分に
その理を考えなければならないのです。
死ぬことが定めなら死ぬ、滅びることが定めなら滅びる、それはすべて神のみ心にあるのです。
136
そして神のみ心は慈愛なのですから、神のみ心に忠実な生き方をしている個人や国家を無駄死させ
たり、無惨に滅亡させたりする筈は絶対にないのです。それを信ずることが宗教心なのです。
日本のなすべき平和運動
今日の世界状勢を観ていますと、右しても左しても危険きわまりない様相を呈しています。です
から、これなら絶対に世界平和になるという方法は、相対的世界観の上からないのであります。
共産主義陣営は共産主義陣営の都合のよいようなことをいうでしょう。米国や西欧陣営はやはり
自陣営のやり方の正しいことを宣伝することでしょう。絶対に正しいことであっても、反対派とい
うものがあるのがこの世のならわしなのですから、まして、一長一短一利一害ある両陣営の対立
が、根本的に相違する立場にあることを考えると、この対立を超越した何者かの力が働かないこと
には、世界は次第に滅亡の方向に歩みを運んでゆくことになってしまいます。
この相対的な、敵対行為というものを超越させるのが、真実の世界平和運動である筈なのに、現
在までの平和運動は、どうもこの真理を踏みはずしているようであります。
日本で行われた原水協の会議でも、どうにも反米的に傾いてゆきそうで、立教の松下総長などは
137日本と世界平和運動
第二原水協というものをつくって、右にも左にも片寄らぬ平和運動をしてゆこうとしておられま
す。これは実に結構なことだと思うのです。
平和運動が右や左に傾いていたのでは、平らにも和やかにもなりようがありません。世界平和と
いうのは、世界中が、平らかに和やかに真実に心を融合させて生きてゆける世界ということで、対
立をなくすことが第一の仕事なのであります。その第一のことを、もう踏み外してしまっているよ
うな対立感や敵対感をもった平和運動は、そのことだけでもはや、平和運動ではない、といえるの
です。
それでは日本は現実的に、どういう平和運動をしてゆけばよいのか、ということになってくるの
です。
先日も宇宙人関係の米国のウイリアムスン博士の講演で、日本は霊的の中心の国である。日本が
西欧的な物質文明文化の道を進んでゆくか、本来の霊的な道を進んでゆくかは日本の自由である
が、日本が霊的の中心であり指導国であることは、各国の種々な霊能者がいっている言葉である、
というようなことを話されたそうですが、日本人よりかえって、外国の霊能的な人々が、日本の真
実の姿や、使命を知っているようで、日本人としては甚だ恥かしいことであります。
138
忘れられた根源の存在
私がこの小論ではじめから申しておりますように、世界平和に深い関心を持ち、世界平和を深く
願望すれば、どうしても、人間の本質に深く立ち入らねぽおられぬ状態になるのです。人間の本質
がわからないでは、どういう状態が人類の真実の幸せであるかがわかる筈がないと思います。
この世の物質面は、変化変滅してゆきます。人間の肉体も変滅してゆくものの一つです。こうい
う変じ滅してゆくもの自体には、永劫の幸福も平和もある道理はありません。
滅びるということは、決して幸福でも平和でもないからです。滅びても滅びないもの、変化して
も変化しないもの、それを明らかにしない限りは、個人の真の幸福も平和もありません。人類全体
も同じことです。
この変滅しないものの正体を、昔の日本人はよく知っていたのです。神道の話は、その原理をそ
のまま実際面に現わして生活していた人々の実体なのです。霊肉一致、神我一体をそのまま生きた
古代日本人の大らかな和やかな姿が、私の心に浮んできます。
消滅してゆくものを、あくせく追いまわしつづけてゆく肉体人間の哀れさは、本能のおもむくま139日
本
と
世
界
平
和
運
動
まに生きている動物の純真な姿にも劣るものと思われます。
人間は万物の霊長といわれています。確かに万物の霊長なのです。万物を大神に代って治めてゆ
く者が人間なのです。しかし、残念なことに、現在の人間は霊長といわれる霊のことを忘れ果てて
いるのです。
霊とは巷間で幽霊などという、そういうものではありません。霊とは生命と同一のものでもあ
り、生命の発する根源ともいえます。大霊を大生命、分霊を小生命というように、霊とはものを生
みなす根源の光なのであります。
根源の存在を忘れていて、枝葉の幸せだけを願ったところで、枝葉だけの幸せということがある
わけがありません。亭々と空にそびえるあの松の雄姿でも、根がしっかりしていなければ、育つこ
とはありません。根から養分が頂点の枝々にまでゆきわたって、あの美しい雄々しい姿ができ上が
るのです。
根を忘れ果てて、自己の幸福を願うという愚かさはこの一事でもわかる筈なのですが、こんなや
さしい言葉でも、わからぬ人にはなかなかわからないのです。わからせない想いを、業想念、カル
マというのです。
140
馬
世界平和を願望するのには、まず自己の霊性であること、その霊性あるが故に、この世に肉体身
を現わして生きてゆけるのである、ということを知らねぽならぬのです。またそれを知らせること
が、世界平和の成就のためには絶対に必要なことなのです。
日本人がもつ平和への使命
日本人は世界各国に先んじて、この霊性開発を成し遂げる天命を持っているのです。相対的な肉
体人間的思想から、生命は同一なりを実感できる霊性発現の中心地は、大和と称号していた日本の
国であり、日本人なのであります。
日本人は右のもの左のもの、縦のもの横のものという、あらゆる種類の思想や物事を、調和させ
て、成就させる天分をもっています。ですから外国文明も日本に来ると、日本に本来あったものと
うまく調和して、到来したもの以上の立派なものに仕上げることが出来るのです。
日本人は猿まねが上手で、外国のものをすぐに模倣してしまって、同じようなものをつくる、と
いわれていますが、これは猿まねではなくて、外のものを受け入れて、自己のものとなす天分のし
からしむるところなのです。どんな思想や物事でも受け入れ方が早くて、それを自己のものとする
141日本と世界平和運動
ことがうまいのです。いいかえれば、どんな物事でも調和させ得る能力を天命として持っている、
ということになるのです。
この天分が大事なのであり、これを世界平和樹立の方に持ってゆけば、日本の天命が果されるこ
とになってゆくのです。
インドなども非常に霊的な国ですが、あまりにも霊的に片寄りすぎてしまって、物質文明と大き
へだた
な距りをつくってしまったのです。霊肉一致の境地にはゆかずに、物質面をあまりにも嫌悪しすぎ
てしまったのが、今日になっても、文明文化の恩恵に浴せぬ地方がかなり多いということになり、
未だに文字も読めぬという人がたくさんあり、貧富の差が甚だしく多いということになってしまっ
ているのです。
そういう点で日本は、霊肉一致する、天地を調和させる天命を持った国柄なので、物質文明文化
も素直に取入れて、今日の文明文化国家となっているのです。日本の今日の文明開化は、もうすで
にアメリカ西欧並みになっていますので、いよいよ日本本来の霊性を、日常生活の上にも現わして
ゆかねぽならぬことになるので、そうしなければ、それこそ、猿まね日本といわれても仕方のな
い、模倣専門の国家になり果ててしまい、遂いには自国の天命を果し得ずに、地球人類を滅亡させ
142
る一役を買ってしまうことになるのであります。
ですから、日本は霊性の上に立った世界平和ということを、主願目として行動してゆかなけれぽ
ならないので、大国の動きを見ては、その動きにつれて自国の国策をつくり出してゆく、というよ
うな貧弱なことでは仕方がありません。
霊性開発の上にたつ平和運動を
日本こそ、真実の世界平和を生み出す中心国であり、指導国なのであります。戦争のない世界、
反目斗争のない世界、それはどうしたら出来上がるか。これこそ日本がまず世界にさきがけて実行
せねばならぬ大眼目なのです。
霊性開発の上に立つ世界平和運動、これこそ日本が総力を挙げてやらねぽならぬ唯一絶対なる大
仕事なのであります。これが実行出来なけれぽ、日本の天命はないのですから、日本という国の存
在価値はなくなってしまうのです。
全世界の霊能的人々、或いは予言書は、ことごとく、日本の存在に期待しているのです。日本は
れいそく
物質に隷属する国ではありません。肉体生活だけに重きを置く国ではありません。霊性を極度に発
143日本と世界平和運動
揮して、この世界に霊肉一致大調和の世界をつくりあげる中心の働きをなさねばならぬ国なので
す。
そこでまず、人間が霊性であることを認めまいとする誤った想念、つまりカルマ波動を日本人の
心から消し去らねばなりません。日本の平和運動は、あくまで、反共だとか反米だとかいう、狭い
想いの運動であってならないのです。国論を二分三分するようなものであってもなりません。
あらゆる危険を取除く努力は尊い
純粋に神のみ心を顕現する世界平和運動でなければいけません。共産主義の方が勢力があるか
ら、共産主義国に味方する平和運動をしなければとか、米国と組むのが日本の今日までの立場だか
ら、あくまで共産主義国とは一線を劃した平和運動だとかいう、大生命の現われを分断するような
考えはこの際日本人の心から一蹴せねばなりません。
あらゆる主義主張も一切ひっくるめた、大らかなる平和運動こそ、日本が国を挙げて行うべき唯
一の道なのであります。
そんなことをいっていると、うまうまと共産主義国の餌食となって、日本は共産主義に隷属され
144
てしまう、と反論する人もあるかも知れません。そういう人には私からもお尋ねすることにしてい
るのです。
「あなたは共産主義国と対立していて平和世界が出来るというのですか、こちらに対立する想い
があれば、相手はそのことをかえってよいことにして、対立抗争の手段を行じてくるのではありま
せんか」と、相手が先に侵略しそうにしてくるから、こちらも防衛的に対立することになる、とそ
の人はいうかも知れませんが、それでは何度びも戦争を繰り返した昔の考えと全く同じことで、原
水爆戦争の危機にさらされている今日の人のいうことではなくなります。
戦争を防ぎたいと思うなら、戦争になりそうな、あらゆる危険を除く努力をしなけれぽなりませ
ん。相手がやりそうだから、といって自分の方も武器を持って待つ、という心では永劫に戦争の危
機は去りません。否、もう直ぐにこの地球人類は最大の悲劇に直面してしまいます。
日本は今こそ勇気を奮い起こして、あらゆる対立抗争の想いを捨て去った、世界平和の心になっ
て、世界平和を、世界人類に向って絶叫しなければなりません。真実大調和の心になって絶叫した
時こそ、神々の人類への救いが実現されるのです。
145日本と世界平和運動
世界平和悲願の下に総結集しよう
日本が日本人が、世界平和の悲願の下に総結集して行動し出した時の力は、現在のように三分裂
四分裂した世界平和運動とは全く異なった偉大な感銘を世界の隅々までに与え、世界各国から、真
実の世界平和の声が湧き上がってくることになるでしょう。
日本の平和運動は、まず、あらゆる主義主張を含めた、世界平和の祈り的運動になってゆかねぽ
ならないのです。
自分たちが真実に平和の心になっていて、それで滅亡するなら、それは人間としては神のみ心の
ままを素直に行じ、人事をつくしたのですから、いうところはありません。いくら自己防衛をして
みてあがいたところで、かえって平和を乱すだけで、何等のプラスにもなりません。私たち人間は
すべて神から来た者たちです。神はすべてのすべてであり、人類の親でもあるのです。地球人類は
まだ幼いのです。ですから、神のみ心に素直に従って、生きるも死ぬるもすべてお任せしておくこ
とが最上の手段なのです。
神のみ心は世界人類の平和達成を確立しておられます。みんなが仲良く平和であることこそ、神
146
のみ心の現れであります。ですから、そのみ心を忠実に行じた者や国の上に、不幸な状態がくるこ
とは絶対にないのです。
世界が平和になるためには、まず自分の心を平和にしなければなりません。自分の霊性をひらく
ことが、日本の霊性をひらくことであり、日本が平和になることは、世界人類が平和になることで
す。平和になるためには霊性をひらかなければならない。霊性をひらくためには祈ることが第一の
重要事です。そこでこれをすべて一くるめにして、世界平和の祈りをすることが、私たち日本人に
荷せられたる天命であるということになるのであります。日本の世界平和運動は、世界平和の祈り
につきるのであることを私はここに確言するのであります。
147日本と世界平和運動
148
個人の幸福と世界人類の平和
緊密な個人と世界のつながり
時代が次第に進むにつれて、この世のすべての動きがスピーディーになってきています。まし
て、この百数十年来のスピードの変化は実に非常なるものでありまして、駕籠や人力車で歩いた時
代はすでに夢のようなものです。
汽車、自動車から、ジェット機、そして遂いに人工衛星というスピード化は、地球を全く狭いも
のにしてしまいました。ですから、徳川時代に江戸(東京) から大阪へゆくについやした時間があ
れぽ、人工衛星までゆかぬジェット機でも、世界を何周もできることになります。
スピードばかりではありません。すべての科学的進歩は、距離や時間を極度に短縮してしまっ
て、現在米国で行われている事柄が、ほとんど同時間で日本でわかってしまいます。電話やラジオ
やテレビジョソの出現がそれであります。
こう考えてまいりますと、徳川時代の日本一国よりも、世界全体の方が、今日のスピード化から
すれば、狭い範囲になってしまったと同じことになります。実質的にいって、世界中がお互いに近
くなったのです。一つにつながる機会が多くなったのです。一つのものになりつつあるのです。
このように科学文明の進展による国際間の接近も、これが裏がえると、嚇発で相手国を撃滅して
しまう程の核兵器の発達で、地球世界最大の悲劇を生み出してしまいかねない現状となっているの
であります。
地球世界の文明文化の発展は、個人と社会国家との協力によるものでありまして、個人の発意や
発明を社会国家が取りあげて、大きく発展してゆくわけなのですが、この個人の意図というもの
は、或る時は国家の都合によっては、全然個人の意志でない逆の面に利用されることもあるので
す。原子科学の研究なども、個人の意図しない原爆という兵器に国家の都合で転用されてしまった
ものでありましょう。
個人個人集っての国家社会でありますから、個人と国家社会とは切っても切れない関係にあるの
149個人の幸福と世界人類の平和
ですが、個人というものは、どうしても、国家社会の政治政策の面に利用されざるを得ない立場に
あります。いいかえれば国家の政治政策につれて、個人の立場は自ずから変化せしめられてしまう
ことになります。
ところが、この国家の政治政策を行う者は、やはり少数の個人なのですから面白いものです。そ
して、この少数の個人の思想によって、多くの個人が動かされてゆくわけとなるのです。
ソ連のように、少数の狂った指導者の意志一つで、世界の世論の真向うからの反対も、どこ吹く
風という調子で、数十メガトソの水爆実験を行ってしまうのですから、個人の出来、不出来では、
地球世界の運命も大変な変化をするわけです。
ですから、現在の世界では個人個人の優秀であるか劣等であるかによって、地球の運命が定まっ
てゆくということになります。個人と世界とが今日程緊密に結ばれつながっていることを、はっき
り感じさせる時代は、今までの時代にはなかったことなのです。
権力欲が戦争を起す
それにしても、個人個人の権力を得ようとする野望程恐ろしいものはありません。人間の最も恐
150
るべき業想念は、権力への執念ではないかとさえ思われます。昔からの歴史の指し示しているよう
に、あらゆる戦争の災禍はすべての個人個人の権力欲から火を吹きはじめているのです。
それは、金品を持ってしての権力と、権力の座を主目的とした二つの違いはありましょうとも、
いずれも自己の権力の拡張や権力の維持を目的とした、非情、非愛の行為が、いつの時代の歴史を
も醜い汚れたものにしているのです。そして今日では、地球世界への破滅にまで人類をひきずって
ゆこうとしているのであります。
冷静な頭で考えて、戦争を欲っする人は、この世の中に一人もいないのではないかと思います。
それなのに、この世の中は次第に大戦争の危機に巻きこまれてゆこうとしています。これは一体ど
うしたことなのでしょう。世界の大多数が戦争を欲っしていないのに、戦争の方向に人類が進んで
いってしまう。こんなおかしな話はありません。
そして、今度戦争が起れば、必ずといっていい程、核爆弾の戦争になって、地球人類は滅び去っ
てしまわねばなりません。大多数の個人のこの世での意志の自由は、国家指導者の手によって一瞬
にして失われてしまうのです。例え、一個人が如何程の財宝を蓄え、どのような自由なふるまいを
その日までしていたとしても、一発の核爆弾は、国家や人類と共に、その人のこの世での自由を即151個
人
の
幸
福
と
世
界
人
類
の
平
和
座に奪っていってしまうのです。
152
自分達で出来る自分と周囲の者達を守る方法を考えよう
個人の運命は国家人類と共にあり、国家人類の運命はまた個々人の一つ一つの動向にあるのであ
ります。これはどうにもならぬ連鎖反応でありまして、この連鎖反応を善い方向、即ち平和の方向
にむけるか、戦争の方向にむけるかということによって、世界人類の運命が定まってゆくのです。
ここで私たちは、国家や人類の運命を、少数の為政者や指導者に任せて置いてはいけないという
ことを痛切に考えるのであります。国家や人類のことは、自分たちにはどうにもなりはしない、自
分たちは一日一日を面白おかしく暮してゆくより仕方がないんだ、という考え方で、国家や人類と
自分たち個々人とを引き離して考えているようですと、もう今日の状勢では、自分自身の運命は、
他動的にすっかり閉ざされてしまっていることになるのです。
今日の状勢下で、自分自身や自分の周囲の運命を守ろうとするためには、否応なく、国家人類に
自分を結びつけての想念行為をしなければ、自らの運命を自己閉鎖してしまうことになるのです。
この辺の道理がわからないと、今日の世界では、もはや個人個人の自由などというものは、吹け
ば飛ぶような、はかないものになってしまうのです。自分たちは小さな自己の殻の中にはまってい
て、ソ連がどうの米国がどうの、日本の政治がどうの、と文句をいっていても、これは甚だ無責任
な話で、自分の運命に、自分が何んの責任をも持っていないというのと同じ理屈になるのでありま
す。
さあここで、私たちはよくよく考えてみなけれぽなりません。私たちは常に、自分の運命を心配
し、自分の子供や親兄弟のことを心に掛けて生活しています。子供のことになったら、自分はどん
な苦労してもよいから、子供だけは幸福に、という親がどれだけあるかわかりません。
ところが、ソ連の何十メガトンという水爆実験による放射能灰の被害からでも、子供たちを守る
ことは容易なことではありません。これ以上世界各国で競って核実験をされたら、放射能の災禍だ
けでも、これからの子供の将来が思いやられます。
核実験の新聞やテレビでの報道だけで、もうノイローゼになっている人たちがいるということで
す。そこで、どうしたら、自分や自分の周囲の者たちを守ることができるかを考えてみなければな
りません。ただ、あれよあれよと恐れてばかりいたのでは、何にもしないうちに自分も人類も滅び
153個人の幸福と世界人類の平和
てしまいます。
まず私たち個人個人が、自分たちで出来る自分を守り国や人類を守る方法を考え出さなければい
けません。それには、自分というもの、そして人間というものを深く考え、自分の実体や人間の実
体というものを突きとめるようにしないと、何んのよい考えも浮んではこないのです。
人間の実体を突きとめること
自分というものは一体どんな者なのか、こんなことを考えるのは当り前のようなのですが、意外
と考えない人が多いのです。自分は一体どこから来て、どこへ行くのか、こうして生きている自分
というものはどんな原動力で生きているのか、生命力というのは一体何んなのか、自分の想念とい
うものはどこから湧いてきて、どこに隠れてしまうのか、等々種々な疑問が自然と湧いてくる筈な
のですが、そんなことを一度も考えたことがないという人があるのです。それでいて、自分の権利
とか、自分の自由とかいっているのです。自分の権利とか、自分の自由とかいったって、自分自体
が本当にはわかっていないでいうのですから、その権利とか自由とかいうのも、全く浅い浮ついた
ものになってしまっているのです。
154
今までは、まあそれでもいいでしょう。しかし今日では、そんな浅薄な生き方では、とても自分
も自分の周囲をも生かしてゆけない、非常事態になってきているのです。いやでも応でも、自分と
いうものを見きわめなければ生きてゆけない、幸福な平和な生活ができない、最後の土壇場にきて
しまっているのであります。
この世が大戦争になって、核爆弾が落されて、東宝映画の世界大戦争のような工合に地球人類が
全滅してしまう事態が目の前に近づいたら一体どうしますか。全人類は等しく恐れおののくことで
ありましょう。恐れおののくのは当然のことです。しかし、当然のこととはいうものの、恐れおの
のいていてよいというものではありません。個々人のできる限りの力をもってして、その災禍を防
ぐ方法を実行しなければなりません。それにはまずいたずらに恐れおののかない心境に各自がなっ
てしまわねばなりません。それには人間の死というものが、実は生命が他の世界に転移して更に生
き生きと生きつづけることである、という真理を知ることが第一なのです。さあそこで、自分自身
というものが一体どんなものなのかという、自分自身の実体というものを知ることが絶対に必要に
なってくるのです。
自分自身の実体がわからなくては、これからは恐ろしくて生きてゆけないような事態が、世界の155個
人
の
幸
福
と
世
界
人
類
の
平
和
各処で起りかねないのであります。
人間というのは一体肉体身だけのことをいうのでしょうか。肉体身にまつわる精神だけを心とい
こニう
っているのでしょうか。そうではないのです。人間とは肉体身だけではない。精神というのも肉体
身がある時だけあるものではない。人間の実体というのは、霊妙不可思議なる光明身なのだ、とい
うことを、私は体験としてようく知っているのです。
肉体人間より霊性の人に
よく考えてごらんなさい。あなた方は、ぽっくり赤ちゃんとして生れてきて、七十年八十年で死
んでいって、それですっかりおしまい、というので満足でしょうか。どんな悪いことをしようが、
善いことをしようが、死んでしまえば、何んにもわかりはしない、同じことだというのでは、実に
不満足な不完全な生物ではありませんか。考えてみますと、人間の肉体身というのは実によく出来
ております。自分が意識して命令しようがしまいが、五臓六臆はいつでも肉体身の運行の原動力と
なって働いていてくれます。頭脳は頭脳で、ちゃんと物事を憶えてくれ、いろいろと考えてくれま
す。あらゆる機能が、実にお互いに整然と調和して、毎日狂いなく運行しているのであります。こ
156
の運行の狂いが病気となるわけですが、平常は全く驚く程精巧に出来ているのです。考えれば考え
る程驚嘆してしまうのが人間の肉体身です。そしてこの肉体身は、子供、親、祖父母、曾祖父母と
いうように、限りなく先祖があるのでありまして、一番最初この肉体身を造ったのは一体誰なのだ
ろう、どんな素晴しい智能を持った存在者なのだろう、とその存在者を崇め尊ぽなくてはいられな
くなります。そしてその存在者は、こうした人間と、宇宙のあらゆる自然現象とを巧みに調和させ
ているのです。人間の肉体身を造った能力だけでも驚き入っているのに、大宇宙までその存在者の
能力によってなされたとなると、これは全く驚嘆しても驚嘆しても驚嘆しきれぬ程の驚きなのであ
ります。
このように自分自身が肉体身として、この大宇宙の中の地球世界で生活しているということは、
肉体身の人間には何んの権能もなく、驚くべき叡智の存在者、神によってすべてが運行されている
ということになります。そこで、肉体身としての被造物的人間が、いかにあがきもがいてみようと
も、自己の定まった運命を変化せしめることもできないし、まして宇宙の運行を変えることなどで
きる筈もありません。
ところが人間というものは、肉体としては、被造物の側にあるのですが、霊性としては、造物主157個
人
の
幸
福
と
世
界
人
類
の
平
和
の側にあるのです。そして霊性の側の人間というものは、内面的には直霊、分霊、外面的には守護
霊、守護神として、宇宙の運行にもたずさわっているのです。
ですから、人間が、肉体人間としての側から、霊性の人としての立場に自己を置くことによっ
て、如何様にも自己の運命を変化せしめることができるようになるのであります。
人間という者は肉体ではない、肉体というものは一つの器であり、場所であって、真実の人とい
うものは、神霊の体なのである、と知ることが大事なのであります。
人間の実体を覚知する方法
頭脳や五臓六騎の働きも、すべて神霊の体である自己から流れでる生命の働きによってなされて
いるのです。
しかしながら、自己がこの神霊の体であるということは、長い間の肉体身への執着的習慣性で、
なかなかわかるものではないのです。その真理を知ろうとして幾多の先人が、様々な心身を削るよ
うな修行をしてきているのであります。しかし私は、あなた方にむずかしい修行の果に悟れるとい
うような方法をおきかせしようとしているのではありません。
158
この世の肉体というものは、どのような偉い人でも時間がくればこの世から消え果ててしまうの
だ、すべての想いも事柄も消え去ってゆくものなのだ、ということをまず心にしかと確かめて、あ
あそういうものだなという、つまり諸行無常だなあ、という想いになった瞬間に、今そう考えてい
る自己を、神霊のみ心の中に、祈り心をもって投げ入れてしまえ、と説いているのです。消えてゆ
く姿で世界平和の祈りというのはこういう理論からはじまっているのです。
善いも悪いも、右も左も消えてゆく姿、しかし永劫に消え去らぬ神のみ心が厳然として存在す
わざ
る。そしてその神のみ心の中では、真実の自己が、光り輝いて、神のみ業を為しつつあるのだ、と
いうことを無意識のように唱えていても、世界平和の祈りの中からは、いつか、はっきり自覚され
てくるのであります。
各個人も、各国各人種も、すべて、神のみ心の中では、すでに大調和して働きつづけているので
す。そして、その大調和を乱しているのは、神のみ心の中では兄弟姉妹であるべき人々が、お互い
に肉体身の自己中心に、お互いの権益を争っていることになるのです。
、
神の円満完全性や、自己の神性を否定する想念があるだけ、自己の真の幸福が狭められ、世界人
類が神の調和性を離れただけ、世界人類の不安混迷は深まるのです。
159個人の幸福と世界人類の平和
そこで私は、そうした様々な業想念を、次から次へと、救世の大光明からきた祈り言である、世
カル
界平和の祈り言の中に入れてしまうことを、たゆみなくおやりなさい、そうすれば、あなたの業想
マカルマ
念も、人類世界の業も、次第に減少していって、いつの間にか、個人の真性と人類の真性が現われ
てくるのです、と世界平和の祈りをすすめているのであります。
光明波動を流しこむ運動
先程から申しておりますように、今日では、個人の運命と世界人類の運命とは、全く一つにつな
がっているのでありまして、個人と人類というものを離して考えることはできない時代になってい
るのです。
あなた方が、消えてゆく姿という真理を知らずに、自己の誤った想念や行為に把われている限り
は、あなた方はその把れの故に、世界人類の平和を破る側に廻っているのです。
ソ連や米国が原水爆競争に明けくれているのは、今日改めて起った誤りではないのです。過去世
から今日までの、個人や人類の闘争や破壊や、神性否定の不調和な想念行為が、今日一挙に現れ出
でようとしているのであります。
160
カルマののし
そして、そうした業想念を消し去るのは、米国を責め、ソ連を罵ることではないのです。いくら
責められても罵しられても、平気の平左で、自分たちの計画通りに超大型原爆の実験をやろうとし
カルマ
ているソ連の業想念的行為ではっきりわかります。
カルヤ
業の渦の中に入りこんでしまっていると、どんな正しい言葉も、その人たちにはとても受け入れ
られないものなのです。それはどういうわけかといいますと、その人たちの神性が、地球人類の業
想念の分厚い波動で蔽われつくしていますので、とても、言葉も文章もその人たちの神性の光明の
ところまでしみこんでゆかないからなのです。
ですから、そうした業想念波の上からの叱責や抗議よりも、その人たちの内部神性の光明波動
に、こちら側からの光明波動を流しこんでやることが大事なのです。そうすることによって、彼等
の光明波動が強まり、良心の芽が目ざめはじめてくるのです。そうなりますと、彼等の内部の神性
が強まってきまして、自分たちの行為の誤りを認めてくるか、或いは、業想念波動の消えゆくに従
って、この世の地位を砕かれていったり、あの世への旅立ちとなって、この世での神の国創設の妨
害ができなくなってくるのです。
そうした方向に世界をむけるために、世界平和の祈りを、救世の大光明が私に提唱させ、その運161個
人
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幸
福
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世
界
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和
動をなさしめているのであります。
カルマ
まず業想念の渦から脱け出すこと
直接政治にたずさわっていない私たち個人個人が、国家の運命を開き、世界人類の平和を招来し
ようというのには、世界人類を蔽いきっている業想念の中で、いくらどのようにやっても何んの効
果もありません。
自分たちがまず、そうした業想念波の中から抜け出してやらなければ、業想念波の烈しい転回の
中で振り廻されてしまって、自分自身がいつの間にか、形の変った業想念波の中で躍っていること
になりかねません。
右翼運動、左翼運動、片寄った平和運動など、みなそうしたたぐいの運動なのです。世界平和は
神の大み心です。個人の平安も神のみ心の現れです。
恐怖の想いも、怒りの想いも、敵対する想いも、すべては神のみ心に反した平和を破る想念で
す。自分が幸福になりたいと想ったら、そうした業想念の波からぬけでなければなりません。そう
することが、自分の幸福をつくり出すだけではなく、世界人類の平和を築き上げる大きな役目を果
162
していることにもなるのです。
個人の真実の幸福生活は、世界人類の平和と全く一つのものなのです。切っても切れぬ連関性を
もっているのです。そこで、個人が恐怖や怒りや敵対の想念を超越しての生活を実現することが、
取りも直さず、世界平和の実現に寄与することになるのであります。
私たち個人個人が、国家のためにも世界平和のためにもなる唯一の方法は、自分自身が、自分自
身の業想念波をぬけ出しての日常生活をすることにあるのです。その方法は祈りより他にないので
す。祈りとはいつも申しますように、自己の真性の中、つまり神のみ心の中に融けこんで、真性の
自己としての生命の働きを為し遂げる方法なのです。神と一つになる方法なのです。そして、その
祈りが、はっきりとした目的をもった祈り言として現わされたのが世界平和の祈りなのでありま
す。
自分の幸福も世界平和も一つの祈りで
人間は神の分生命であることは、宗教に関心をもつ人なら誰でも知っております。
いるのは体験ではなくて、頭脳知識としてだけ知っているという人々が多いのです。
だが、知って
163個人の幸福と世界人類の平和
そうした頭脳知識を体験として知る方法が祈りなのです。ですから祈りによって、人間は自己の
実体を知ることができるのであり、祈りによって、人類世界の方向を定めることもできるのです。
人類というのは、個々の神の分生命が横の線において一つにつながっている姿です。そのつなが
りが、からまったり、もつれたりすることによって、人類の不幸が生れてくるのです。こうした人
類の不幸を生み出すのは、個人個人間のつながりのもつれが、集積してなされるのです。
神のみ心は、地上に平和をもたらそうとしているのです。世界平和こそ、神のみ心なのです。神
は世界平和の実現のために、天使としての守護の神霊を、この地球界に降し給っているのです。
その天使群、守護の神霊団が全く一つになって働きはじめたのが、救世の大光明なのです。そし
て、その救世の大光明の働きが、世界平和の祈りとして、私たちを働かしめているのです。
世界平和の祈りこそ、天の光明が、私たち肉体身を受け器として、場所として、人類世界という
…横の波動の中に流れ浄めてゆく祈り言なのです。
個人個人が、自己の幸福のための祈りを、世界人類の平和のための祈りと一つにするためには、
やはり、この神のみ心そのものである、世界平和の祈りにまで進展させて、日常生活の根抵として
ゆきさえすれば、米国やソ連や、日本政府のやり方を、眉をつりあげて憤ったりすることなくし
164
て、世界平和と個人の幸福との二つの事柄を、全く一つのものとして完成させてゆくことができる
のです。
私たちの実体は神と一つのものであるのだ、私たちが世界平和の祈りをしていることは、私たち
は勿論、世界人類のすべてに、大光明の浄めがひびきわたっているのだ、私たちは常に神々に守ら
れつづけているのだ、ということを、私たちは信じつづけて、世界平和の祈りの日常生活をつづけ
てゆくことが、唯一絶対の道なのです。個人人類同時成道の光明の歩みは、個人個人の世界平和の
祈りによってなされるのであります。
165個人の幸福と世界人類の平和
166
何故祈りは必要か
生命の実存は否定しようがない
祈りということを、一般の人々は、何か特殊なことのように思っておられるようですが、祈りと
は特別なことではないのです。そこで本章は祈りとはどういうことなのか、何故に祈りが人間にと
って必要なのであろうか、ということについてお話してゆきたいと思います。
祈りとは、度々申しておりますように、生命の力(光)が、そのままはっきり現われることなの
であり、現われた状態をいうのであります。祈りと申しますと、宗教の道に入っているものだけの
専門であるかのように思い違いをしている人が多数にあると思いますが、俺は唯物論者だと自ら思
っている人たちでさえ、自分自身が気づかずに、祈りの生活をしていることがあるのです。
神様、仏様という言葉を何故か非常に嫌っている人々でも、生命という言葉に対しては、嫌うも
嫌わぬもなく、全肯定しております。ところが全くおかしなことに、この生命というものが、神仏
そのものである、ということはなんとか否定してしまおうとするのです。
ところがどう否定しようと、神仏は生命そのものであり、生命の力(光) そのものであるのです
から、実は否定しようもないものなので、この生物界において、神仏を否定し得る何者もないわけ
なのです。ですから唯物論者と称して、神仏を否定しきっているように見える人々であっても、そ
れは表面の意識上だけのことであって、奥底の心では神仏の存在を知っているのであります。
神仏を全否定するためには、生命の起源や、生命そのものの実体をはっきり掴んでからでなけれ
ぽできないことなのです。それは、生命の実体を掴んで、これが生命の実体じゃないか、と人々が
納得できるように見せなければ、神仏の存在を否定することはできないのです。
ソ連のある学者が、生命は炭素から進化してきた、という学説を発表して、共産党の高倉テル氏
だかが、どこかの本に得々とそれを書いておりましたが、何かのはずみで炭素が動いてそこから虫
が生れてきたとしても、その炭素が動き、虫を生み出す、何かの力がなければなりません。その何
かの力を発見して、ほれこれがその力だ、神でも仏でもない、といいきって、人々をうなずかせな167何
故
祈
り
は
必
要
か
ければ、生命存在の不可思議さを解くわけにはまいりません。生命の謎を解明し得ない限りは、神
仏の存在を否定することはできないのです。
ところがこのように私が申しますと、それは今に科学の力で解明されるさ、という人々がいるの
ですが、真実に真摯な科学者は、科学の解明し得た範囲は、宇宙の謎の無限億万分の一でしかな
い、といっているのでありまして、今に解明できるなどという、大それた言葉はいっていないので
す。そのように真実に科学の道に踏み入っている人程、宇宙自然の謎の深さがますますわかってき
て、非科学的な人が、なんでもなさそうに、生命の謎など今に解けるさ、といっているような無責
任な言葉は吐けないものなのです。
私がいつも申すのですが、肯定するということは、自分がそれを見たり感じたりして肯定するの
ですが、否定するということは、全世界隈なく自分が見歩いて全経験をして、無い、と定まった
時、はじめて否定できるので、自らなんの研究も思索も体験もしないで、神仏は無いとか死後の世
界など無いなどというのは、その人の愚かさを現わすのみなのですが、意外な程、このたぐいの人
々が多く存在するのであります。
そこで私は、そうした人々にもなんとか、真実の幸せの道、道理の道に入る機会がないものか、168
と常々思っているのですが、なかなかむずかしいことなのです。そこで私は、祈りなら祈りという
}事においても、この祈りというものが、神仏を信じない人々にも、少しでもわかってもらえるよ
うにと思ってペンをすすめているわけなのです。
自然の姿と人間
そこで神仏という言葉をひとまず使わぬこととして、祈りを説くことに致します。
まず野山に私たちの眼をむけてみましょう。山々に生い茂る大木、野に咲く花々、これは一体誰
が植え育てたのでありましょう。自然に植え、自然に茂ったという他はありますまい。自然の生命
がそのまま、野山に生い茂り、咲き盛った、ということになります。
生命がそのまま、天地の恵みに合一して自らの力を木々として伸び育ち、花々として咲き盛って
いったのであります。この姿が祈りの姿なのです。生命のそのまま、生命の光がそのまま輝いてい
るのが祈りの姿なのであります。そしてその姿は美しくもあり、厳粛荘厳でもあるのです。
しかし、そうした野山に植物が生い茂っているだけでは、人間の住むところがありません。人間
がこの地上界肉体界に住みつくために、こうした天地を貫いていた祈りの姿を、横にひろげる活動
169何故祈りは必要か
をはじめたのであります。そのため、木を切り、花をぬきすて、そこに人間中心の住居をつくりだ
したのであります。
こうして、地上界の横の活動がつづけられ、今日のような文明文化の世界ができあがったのであ
ります。
人間も最初は植物同様、天地を貫いた祈りの姿で生きていたのでありますが、人々の増加につれ
て、どうしても横のつながりのための活動をなさねぽならなくなり、ついに今日の文明文化の社会
になってきたのでありますが、横のつながりが充実し発展してくるに従って、人間本来の天地のつ
ながり、縦のつながりが薄れてきて、肉体人間という人間に自己を限定してしまったのでありま
す。そう致しますと、太古のような天地を貫いて生きていた霊的人間、祈りの姿の人間が次第に光
を薄めてしまって、物質的な人間に成り切ってしまったのであります。
ここが非常に問題なところでありまして、地球文明が発展するためには、どうしても、一度は肉
体人間としての横のひろがりのための活動をしなけれぽならない、横の活動を推進しているうちに
は、いつの間にか縦のつながり、生命の根源とのつながりを忘れてきてしまう、ということが必然
的になされてきてしまったのであります。
170
横ひろがりの活動時代は終った
これは悪とか罪とか、失敗とかいうのではなく、この地球界の物的発達のために必然的な進展と
もいうべきであったのですが、それがそうした必然性を越え去った今日になってまで、過去の流れ
を追っていてはいけないのです。
何故ならば、今日では横ひろがりの活動はもう終止符をうつべき時代となってきているからで
す。それはどういうことかといいますと、お互いがお互いの国家民族の横ひろがり活動をこの上つ
づけますと、地球壊滅の原水爆戦争になりかねない状態に今日ではなってきているからです。
もうここまで横ひろがり活動がきましたら、今度はすべての国家民族が、人間本来の祈りの姿、
天地を貫く、縦とのつながりにその活動を全力推進しなければならなくなってきているのです。
これは好むと好まざるとにかかわらず、そうなるべき時期になってきているのです。唯物論者と
思いこんでいる人々がいかにどのように縦とのつながりを阻止しようとしてあがこうと、それは不
可能なことなのです。
それはあたかも、太陽が朝東からでて、夕西に沈むような宇宙運行と一つのものであるからなの171何
故
祈
り
は
必
要
か
です。
もしその運行に逆えぽ、この地球世界は瞬時にして壊滅してしまうのでありますが、そういうこ
とがないように真の宗教者たちが働いているのであります。
この宇宙は肉体人間の頭脳では到底はかり知られぬ叡智によって運行されているのであって、そ
の運行には一秒の違いもないのであります。あれば宇宙は壊れてしまいます。
このような自然の叡智が、人間生命としてこの地上界に現われているのであって、唯物的な物の
進化による人間などは存在しないのであります。
祈りと国際関係について
さてそこで、話を国際関係について考えてみますと、ソ連と米国がいくら平和についての話合を
してみたところで、そこにはお互いの国家の欲得つくが作用しているので、横ひろがり活動の延長
による話合なのでありますから、お互いが損をしたくないという想いが一杯なのです。お互いが一
から
度空っぽな心になって話合えぽよいのでしょうが、それはできない相談でしょう。
ソ連が近頃軍縮をいいだしておりますが、これだとて本心からのものかどうかわかりません。も
172
し本心なら、まず自分はこうするよと、軍縮の手本を見せたらよいのですが、そうは致しません。
あれはあくまでも政治工作のように見うけられます。お互いが敵対心のままでの軍縮とか話合いと
かいっても、これは所詮なりたちません。中国と日本の場合でもすべての国際間の問題にいわれる
ことであります。
ですから、もう横と横との関係だけでは駄目なのだ、駄目な時節になってきているのだと私が申
すのです。
ソ連と米国が仲良くやっていくためには、ソ連や米国の上に何かを置かなくてはなりません。そ
れは一体なんでしょう。縦とのつながりなのであります。即ち祈りなのであります。
この祈りをソ連に言葉で申してみたところで、唯物国のソ連が納得するわけはありません。米国
に申しても、米国はクリスチャン国なのですから、頭でわかりは致しましょうが、個人的にはでき
ても全面的な実行はできないことと思われます。
祈りの姿、いいかえれば天地を貫いて生命が生き生きと生きる姿、自然そのままの姿、業想念に
わずらわされぬ素直な人間の姿、こうした姿が個人間にも国際間にも現われてこない限りは、この
地球界は滅びてしまうのです。
173何故祈りは必要か
お互いに敵対感情という業想念があって、どうして真実の仲良しになれるでしょうか。なれるわ
けがないのです。敵対感情からは不安恐怖が生まれ、怒りが生まれてきます。ところが今日までの
人間の生き方では、この敵対感情と自己保存の本能というものは消え去らないのです。そうしてそ
うした感情がある限りは個人も世界も救われることができないのです。
生命の光を輝かすには
人間は一体どうしたらよいというのでしょう。私は一言にしていうのです。自己がまず本来の人
間の姿である祈りの姿に還元することだということを、自分が自分の生命を生き生きと生かす道に
入らなくては、世界の姿を真実の姿に還えすことはできません。ソ連や米国にこうすべきだといっ
たところで、声の言葉や文章ではどうにもなりません。
生命の光を輝かすのには、怒りや妬みや不安恐怖があっては駄目です。自己の中に怒りや恐怖が
あって、世界を平和にしようとしたとて駄目なのです。ですから唯物論者のように肉体人間だけを
人間だと思っているようですと、人間からは怒りや不安や様々な欲望は絶対に消すことはできな
い。だから力関係で自己や自己のグループを守り、自己の信ずる道を突き進んでゆき、邪魔な者は
174
倒してゆく、ということになってきて、肉体人間の環境だけをやりやすくしてゆこうとしてしまう
のです。そうすると、倒された方、オミットされた方はまた力を集めてきて、これを倒して自分た
ちの幸福を築こうとしてゆく、これではやはり、どんなよさそうな理論から出発しても、横ひろが
りだけの進み方で、遂いには人類を滅亡させてしまうのです。
私の主張しているのは、そうした業想念を生命の光の進展の邪魔にならぬところに投げだしてし
まおう、ということなのであります。この業想念の捨て場所が世界平和の祈りなのであります。
自己保存の本能と敵対感情からすべての業想念は湧きあがってくるのですから、自己は何かの力
で守られているのだ、という信のない人には、どうしても不安恐怖が去らないのです。個々人も国
家もこの理は同じことです。
ここではじめて神の必要性を説いてもよい段になってくるのです。
生命の輝いている人の生活
人間は生命体です。そして、この生命を生き生きと輝やかせている人程、真の人間といえるので
す。生き生きと輝やかせるとはどういうことかと申しますと、自我欲望、つまり業想念に把われぬ
175何故祈りは必要か
生き方のできている人が、生命を輝かしている人というわけです。生命の輝いている人の生活はど
のようかといいますと、愛と真の行為が日常生活においても行われている人であります。
愛と真の人が、やたらに怒ったり嘆いたりはしないのですが、人類を愛するのあまり、不行跡な
人や誤ちを犯かした人を、烈しく責め裁いてしまう人がありますが、こういう人は、本心と業想念
の区別のついていない人で、本心は大生命(神) からきている真実のものであり、業想念は肉体人
間としての自己保存の本能から起った自我欲望であって、自己の想いが神の方にむいた時には自ず
と消え去ってゆくのであるという真理を知らない人であるのです。
先日もある人が、子供がカトリックの教会で牧師さんに、洗礼を受けぬ者は地獄に落ちて再び上
がり得ないが、洗礼を受けた者だけは天国に行けるという話をきいてきて、お母さんも地獄に落ち
るといけないから是非洗礼を受けろ、とせがんで困ってしまった、という話をきかされたのです
が、一体この牧師さんが洗礼ということの真実の意味を知っているのかどうかなのです。洗礼とは
何もカトリック教会で水をつけることではなく、霊体を浄めるということなのです。霊体を浄める
とはどういうことかといいますと、本心と業想念をひきはなして、業想念を消えてゆく姿として消
し去り、本心(霊) を輝かせることをいうのであります。いいかえれば、業想念所業、悪い想いに
176
把われないようにさせることが、霊の浄め、洗霊であるのです。
と致しますと、何もカトリックでなくとも仏教でも神道でも新興宗教でもなんでも神の方、自己
の本心の方に想いをむけかえさえしたらば洗霊されたことになるので、これは一度やったらよいと
いうのではなく、常に常に日常茶飯事においても、神の方に想いのむいている姿、つまり祈りの姿
にしておくことなのであります。
その真理を知らない牧師さんは、カトリックの洗礼を受けねぽ地獄に落ちるといって、純真な子
供さんに、地獄などという嫌な業的場所を心に植えつけてしまったのです。そういうことを聞かさ
れた子供さんは、洗礼を受けぬ者は皆地獄へ落ちると思って、洗礼を受けぬ親しい人々のことで思
い悩んでしまうではありませんか。このような牧師さんはたくさんいるのでしょうが、真理を知ら
ぬ狂信的な人々の存在は困ったものであります。
誰にも楽々とできる神との交わり
宗教の道というものは、そんな限定された狭いものではありません。どこからでも自由に入れる
広い道なのです。それをいかにも狭い道のように説いてきたのは、誤てるクリスチャンの業想念で177何
故
祈
り
は
必
要
か
あったのです。
そんなに狭い道が神への道なら、人類の大半は永劫に救われることはありません。神様はどこか
らでも手をさしのべていらっしゃいます。神様は人間を苦しめたくもなんともないのに、人間が自
己を肉体身に限定してしまって、勝手に神の光から離れて苦しみ悶えているだけなのであります。
そこで私は、誰にでも自由に楽々とできる、神との交わりの道をひらいたのであります。それが
祈りについての私の解説であり、世界平和の祈りの提唱なのであります。
今日こそ本当に世界平和の祈りが絶対に必要な時であるのです。横ひろがりにひろがって、自己
保存の本能からくる敵対感情が、正に火花を散らしているこの地球世界にあって、一体どうしたら
各自の安心して生きてゆける道がみいだせるのでしょう。
それは世界平和の祈りによるより他に、容易にできる道はありません。世界平和の祈りは縦に神
々とつながると同時に、神々の光明を、自己の肉体身を通して横にひろげてゆく祈りであります。
自己が救われると同時に、人類世界の救いの一助となる祈りなのであります。
私は今日までの宗教の固い殻、多くの戒律、いましめ、そうしたものが、かえって、人間の心を
萎縮させてしまい、宗教本来の生命をのびのびと生かすということの反対現象を起しているのに気
178
ついたのです。
今日までの宗教者の誤りは、業想念を嫌いながら、嫌うのあまり、かえってそうした業想念を自
らも把え信徒にも把えさせてしまったのであります。
おまえの因縁だ、おまえの心が悪い、こうしてはいけない、ああしてはいけない、等々の教え
は、いかにも導きのようにみえて、実は業想念を把えて放たぬ形になってしまっていたのです。
世界平和の祈りは業を消滅させる
私の教えは、そのような業想念はすべて消えてゆく姿だというのであります。消えてゆくと知っ
て放っておいてもよいのですが、なかなかひとりで放って済ましておられる程に心の出来た人も少
いので、世界平和の祈りの中に放りこんでしまいなさい、と教えているのであります。
私は人間は神の子であるの一点張りで、教えを通しているのでこの世の生活で現われてくる様々
な不完全なことや不幸なこと、種々な業想念は、すべて過去世の想いの間違いが、本心の前を通り
すぎて、消え去ってゆくところなのだから、それを把えてとやかくいう想いがでてきたら、その想
いもひっくるめて、世界平和の祈りの中に入れてしまいなさい。世界平和の祈りというものは、地
179何故祈りは必要か
球人類に神の姿の完全性を顕現せしめるために、今日の時期を待っておられた守護の神霊方が一つ
に集って、光り輝いている場所なのだから、人間が世界平和… …と心に想った時その人と守護の神
霊方、つまり救世の大光明とは一つにつながってしまうのだ、だから一度世界平和の祈りを唱えた
ら、もうその人は救世の大光明につながっているのだから、再び自己や他の業想念所業について思
いわずらわなくともよい、その業想念に把われそうになったらすかさず世界平和の祈り言を心の中
で唱えるとよい、と導いているのです。
こうして世界平和の祈りをしておりますと、自然と、業想念が消滅していって、本心の光が外面
に輝きでて、今まで欠点の多かった人が、いつの間にか長所の多い人に変貌してゆくのでありま
す。
人間が横の想いばかり出していて、あの人が、彼の人がと他人の行動と自己の利害とを結びつけ
て考えているうちは、神のみ光は全面的にその人からでてこないのですが、想いを縦に天の方、神
の方にむければ、おのずと自己の本心が開けてくるのは理の当然なのであります。何故ならば、人
間は大生命の分生命であり、神の子であることに間違いないからであります。
誤ったキリスト教のように、イエスだけが神の子で、他の人々は下僕であるというような考え方
180
や、エホバ神のように怒りや妬みがあるというような神の考え方は、業想念と本心とを混合して考
えているということなので、真理を知らぬ者の考え方なのです。
人間はすぺて平等の神の子なのです。しかしその本心を開発した者が上位にあり、本心開発の差
異によって霊界の地位がはっきり定まっているのであります。こうした真の姿がこの地上界に現わ
れた時、人類に平和世界ができあがってくるのです。
日々の祈りで日々神生
そのためにも一度、肉体人間の業想念を、世界平和の祈りの中に投入してしまって、自己の生命
の本源である神から改めて、自己の生活を頂くのであります。これが神生であり、新生であり洗霊
された人間の姿となるのであります。日々新生とは、日々の祈りによってなされるのです。
現在では、肉体人間の波動が、霊的波動にかなり近づいているのであります。無限に微妙な神界
の波動が、守護神守護霊と次第に波を粗くして、肉体人間の波に合わせてきているのですから、肉
体人間の方から、常に守護の神霊への感謝行をつづけていれば、守護の神霊の波動と、肉体人間の
波動とが全く一つになり得るのであります。そうしたことが完成された時、その人の本心は全く開
181何故祈りは必要か
発され、神人といわれ、聖者といわれる、神我一体の人となり得て、神通力を自己のものとするこ魏
とができるようになるのであります。
し
世界平和の祈りは、こうした真人(神人) になる最もなる近道であり、そして世界人類の真の姿
を現わさしめる、最短距離の祈りの方法なのであります。
世界平和の祈りの中には、少しく宗教の道に志した人なら何人でも知っておられる神々や聖者賢
者が、すべて集い輝いているのであります。だからこそ世界平和の祈りなのであり、救世の大光明
と私がいっている由縁でもあるのです。
人の世のすべて安けく生くる日を神こそ願ふひた祈れ子よ
であります。
こうして目醒めた人々の世界平和の祈りが高々とひびきわたる時、ソ連や米国の上に、神々の姿
がはっきり現われて、その指導原理を示されることになるのであります。その日のために、世界平
和の祈り一元の生活を皆さんにして頂くよう願ってやまないものです。
業想念感情を超えよう
興味尽きない人間考察
物事はすべて考えれば考える程興味の湧いてくるものですが、万物に増して興味津々としてつき
ないものは、人間自体についての考察であります。人間程幅広く、底深い複雑なる構成をもってい
るものは、他の何物にもないからであります。
第一に人間は、思考し考察し情感する心をもっているということ、それ自体が、すでに万物に比
肩でき得ぬ複雑なる内容をもっているのです。
ところが不思議なことに、一部の人を除いたいわゆる一般の人々というものは、この興味深々た
る人間というものの構成やその内容性というものを考えてもみようとはせず、その時々刻々の肉体
183業想念感情を超えよう
の生存生活と自己満足の生活だけを追い求めて生きているのであります。
それはどうしてかと申すと、人間には考える力があり、感情があるのだ、そうした心がはじめか
らあるものなのだ、とさっぱりと割り切っていて、その底に割って入ろうとはせず、その割り切っ
たところを根抵にして、生活の第一歩をはじめているからなのです。
これでは人間個々の現象面の生活や、人間社会の現象面の生活だけに興味をもち得るだけで、汲
めどもつきぬと思われる、人間の心の問題、生命の問題という、人間根本の構成原理に考えを及ぼ
すわけがありません。
そこでそうした問題は、哲学者と称する人々や、宗教者と称する一部の人々、近代ではそれに加
えて精神科学者といわれる人たちだけの追究してゆく問題になってきているのであります。
一体自分自体の構成内容がわからず、自分自体の真実の目的がわからずに、どうして自己の幸福
をつかみ、社会人類の幸福生活をつかみ得ることができるでしょう。
人間がこの世界に肉体人間として、思考し知識し、情感する心をもって生れてきた、ということ
に興味を覚えず、そんな探究は一切しないで生きてゆけるということは、その人の心に何等かの雲
がかぶっているというより考えようがないのでありますが、そうした人々の方が人類の大半である
184
のですから、この地球人類の現在の人間というものの程度の低さがはっきりとうかがわれるので
す。しかも、そうした現実面しか考えぬ人々の方が、財的にも地位的にも、そうしたことを考えつ
づけて生きている人々よりも上位にあることが多いのは皮肉でさえもあります。
真実神の世界が展けるまでは、そのような社会生活がつづけられてゆくでありましょうが、今日
からはそうした現実が次第に変化してゆくことになるのであるということをこれから順次述べてゆ
くことに致しましょう。
人間の真実の姿
人間が肉体生活、肉体人間社会の幸福だけを求めて活動しているうちは、その人たちに真実の幸
福は訪れないし、真実の社会人類の平安生活も訪れるわけはありません。そうした生活は常に肉体
的生存の利害関係で成り立っているのであり、個人々々あるいは国家や民族の相対して立つ人間観
であり、世界観であるからです。現在迄の個人及び国家人類の生き方は皆さんすでにご承知のよう
に敵対し合って生きている世界、武力を頂点に置いての国交であり、政策であります。
これはどこに原因があるかと申しますと、私がはじめに述べておりますように、人間が肉体人間
185業想念感情を超えよう
としてこの世に生れてきた時にすでにもっている知識し思考し情感する心を、当然のものとして、
自己や、自己と利害関係を等しくするものの保存のためのみにつかっていて、そうした能力が生れ
てきた根本に深くつき入ってゆかぬから、真実の人間というものをつかむことができず、滅亡の道
に自らを追いやってしまっているのです。
人間は何人も神からきている神の分霊であり、すべての能力は神からきているものであって、神
のみ心をこの地上界に現わすためのみにその能力はつかわれねばならぬ、という真実の理がわかっ
てくれば、個人の幸福も人類の平安もその時から展けてくるのであります。
ところが口では簡単にこう説明しても、人間が永い間もってきている業想念の習慣によって、宗
教者、信仰者といわれる人でさえもが、神と人間とを区別し、神の力の他に肉体人間の力がある如
く思い誤っているのです。
人はみな神の光のひとすぢと知りて生きなば明るきものを
という歌のように、人間はすべての能力を神から与えられているのであって、肉体人間自体の能
力というものを別にもっているものではないということは、人間の誕生というものをちょっとでも
さかのぼって考えれば、直ちにうなずけることなのですが、誕生以前のことについては何等考えよ
iss
うとはせず、その日その日の生活に追われ通して生存してゆくのが、一般の人々であって、その人
たちの求むる神仏というのは、自分の肉体生活が都合よくいきますように、という願いを元にした
神であり仏であるので、神仏と人間との深い関係にまで探求してゆく心のゆとりをもち合わせてい
ないのであります。そして宗教者として大衆に神仏と人間との関係をはっきり知らせなければなら
ぬ立場の人たちの大半は、自分自身が、神仏と自己との関係を、はっきり体覚していないので、そ
うした、大衆を神の世界、仏の世界の住者にすることの導きができず、只いたずらに、先覚者の言
葉を、時代や風俗、習慣のずれを意識せずに、伝えているのであるし、霊能者といわれる人々の大
半は、本心開発にはかえってマイナスになるような現世利益や、低い階層の見えざる生物との交流
による予知能力を開発させたりしていて、神と人間との関係を誤らせているようなのであります。
ですから巷間の宗教をやっていると自称する人々がもっている雰囲気は、神性から発する香り高
い明るさ美しさというものとは全く反対な、妖しい濁ったものであり、ひとりよがりの普通人との
融和のとれぬ言語動作であったりするのです。
人間は誕生以前にさかのぼらなくとも、常に肉体以外の種々なる世界で生活しているのでありま
すが、こうした知識がないために、肉体以外の生活はすべて無いものと断定してしまう唯物的知識187業
想
念
感
情
を
超
え
よ
う
者や、肉体世界以外にある見えざる力や、見えざる存在者を知らされると、直ちにそれが神である
と思いこみ、その見えざる力にひれ伏してしまう宗教信仰者等ができてくるのです。
死んでから幽界霊界に行くのではない
肉体以外の世界を私は、幽、霊、神というように大きく三つに分けていますが、実をいうと、幽
界にも霊界にも神界にも、それは無数といえる程の段階があるのであって、その各段階には、肉体
に住んでいる人たちが、同時にそのどの段階かに住んでいるのであります。
それはどういうことかといいますと、人間は霊としてはすべて神界に住んでいるのであります
こんばく
が、想念(魂魂)として、肉体を加えた各階層に同時に住んでいるのです。ですから、あなた方が
この肉体世界に住んでいて、種々な想いを抱き、様々な行動をしている、その想念や行動は幽界、
霊界、神界のどの界からかその想いを発しているのであって、死んで肉体を離れてはじめて幽界な
り霊界なりに往くということではないのであります。
こんな説明をされるとちょっと戸惑う人々ができてくるでしょうから、この説明をわかりやすく
してゆきましょう。
188
常に何度びも申していますように、人間は神の分霊であって、本住の地は神界にあって光り輝い
て存在しているものなので、生老病死等の苦悩のない、自由自在身なのでありますが、一度び肉体
という不自由な躯をまといますと、本来の自由自在身を意識し行動するためには、余程に肉体意識
というものから霊意識に自己の想念を転回させなければなり得ないのです。それは誰人といえどそ
うなのであります。この意識の転回の方法に古来から二通りの方法があるのです。それが皆さんも
すでにご承知のような、聖道門(自力)浄土門(他力)なのであります。
聖道門(自力) の方は、この想念の転回を自分の力でなし遂げようとして、肉体を無視するため
の難行苦行をするのであり、浄土門の方はすべてを阿弥陀仏(神)に一任して、南無阿弥陀仏の唱
名にすべての運命を融け入らせてゆくのであります。
この二つの方法は方法こそ違え、いずれも自己の本住の地である神界に還元し、本来の自由自在
身に成り得ようという人間の希望達成の道なのであります。人間が肉体の世界に置いてなされる想
念行為は時には神性そのものの現れである、光り輝く愛念であり愛行である場合もあり、餓鬼畜生
ともいわれる低い階層に住む想念行為である場合もあるのです。普通、人間と呼ばれているのは、
霊そのものではなく、常に高くなり低くなって輪廻転生している想念の波をとらえて呼んでいるの189業
想
念
感
情
を
超
え
よ
う
でありますが、その想念の波は、真理に目醒めたる者から見れぽ、現われては消えてゆく、幻影の
ような波の動きに過ぎないので、真の人間、神の子人間がこの地上界にその本性を現わすための、
過程の現れといえるのであります。
誤てる宗教者たちのいうように、人間は肉体が死んだら神の国に往かれるというようなものでは
なく、はじめから神の国に住んでいるものであって、その神の国を地上界にも顕現しようとして、
霊界を通り幽界を通りして肉体界で働いているのであります。皆さんもその一人で、今迷っている
ように見え、今貧苦に悩み、病苦に悶えているのは、あなたが自らの神の国をこの地上界に現わす
ための、一つの過程なのであって、その過程は自己の本心、本体を現わすために、もうすでに余計
な想念行為の波となってしまったものの消えてゆく姿である、と思うことが必要なのであります。
あなたは今そのままで神界に住んでいる、霊界にも住んでいる、そして肉体界にも住んでいる。
そして、肉体界に執する想念が強ければ強い程、あなたの重点は低い階層、神から遠い真の幸福に
近づけぬ環境にあなたを住まわせているわけなので、あなたの真実の姿を見出す日が遠くなるわけ
なのであります。
いいかえますと、低い階層の想念が消えてゆくに従って、高い階層、つまり神(本体) に近い階
190
層に肉体をもちながら住まうことができるのであります。
の統一行をしていたのです。
これをなし得ようとして、仏教者は空観
本心開発を邪魔するものは何か
人間すべてが、肉体をもちながら、高い階層に住むことができるようになれぽ、この世界は忽ち
地上天国となるわけなのですが、なかなかそうはゆかぬので、先覚者たちが様々な教えを説き実行
をすすめて今日まで至ってきたわけなのです。
人間の本心開発、地上天国出現の邪魔をするものは一体何なのでありましょうか。それはいわず
とも知れておりますように、業想念我欲の想いであります。自己の神性(愛の心) よりも自己の肉
体生活を護る方に重点を置いた想念のあるうちは、その人の真実の幸福ぼこの肉体界において達成
できません。地位や物質の面において如何に幸福そうに見えようとも、目醒め得ていぬ魂の持ち主
の生活には、常に不安や恐怖、心の不安定がつきまとうているものであります。
人間は自己の神性(本心)が開発されぬ限り安心立命の生活はでき得ないのです。それは国家人
類も同じことであります。知識で如何に宗教学を自己のものとしたといえど、その人が神との交流
191業想念感情を超えよう
を直接体験認識せぬ限り、その人は真の安心立命はでき得ませんし、霊能の修行によって、予知力
たま
を得、見えざる世界との交通を為し得たとしても、その見えざるものが、光り輝く神のみ霊でない
限りは、その人も真の安心立命の世界に住することはできません。
自己の中に、自己の本心を乱す感情想念をもったままで、自分は悟りを開いた者であると思い上
がっている人々が多数おりますが、感情想念で自己の本心を窮らすような人が、そのままで自己が
悟った者、覚者であると思っているようですと、その人が折角道を求めて或る程度神に近づいてい
ても、それ以上その道を昇り得ることができなくなります。
悟りは感情を超えたところから
私は悟りの道というのは、自己の感情想念を超えることを第一番にせぬといけないと思うので
す。あの人は偉いが短気である、とか、あの人はあんなに宗教知識があるのに、何故柔和でないの
だろう、とかいわれるようでは指導者としては落第であります。日常生活が愛そのものになってい
ないと、真の宗教者とはいい難いのですが、どうしたら、愛そのものの、生活者になり得るのでし
ょうか。それはすべての感情想念を一度超えねばならぬのです。これを聖道門、自力の方法でやる
192
としたら、大変むずかしいものになってしまって、長年月にわたって難行苦行しても、なかなか到
達し得ないと思いますが、私たちの行なっているように、すべての想念行為は本心開発のために消
えてゆく姿なのだ、という教えを行じてゆきさえすれば、短時日で相当の効果をあげ得るのです。
消えてゆく姿を観じながら、世界平和の祈りの中に自己の想念を投入してゆく行は、空観を超え
た、神観なのであります。一度空観の統一をして、空即是色と、真実の光の生活者になるのは、非
常にむずかしいことなので、消えてゆく姿という真理を心にもって、怒りも恐怖も妬心も恨みも、
そうした想念のままでよいから世界平和の祈りの中に飛びこんでゆくと、世界平和の祈り自体がも
っている大光明(神のみ心)が自ずから、その人々の業想念を浄め、感情を純化して下さるので、
世界平和の祈りをつづけていますと、祈り以前の感情とはまるで異なった純化された愛から生れた
感情が自ずからその人に現われてくるのは不思議と思われる程なのです。これは不思議でもなんで
もなく、その人たちの想念が、神の光明に洗われて、人間本来の神性の光となって、その人に還っ
てくるからなのであります。
純化されない自我欲望の感情のままで、いくら世界平和を唱えても、戦争反対を唱えてもそれは
駄目なのです。自己自身が業想念の感情の中にもてあそばれていて、他の人や他の国の非を責めた
193業想念感情を超えよう
とて一体何んになるのでしょう。大体他を責め、他の行いを改めさせようなどという想念が、もう
すでに業想念なのであります。
人間の業想念というものは過去世の過去世から積み重ねられていて、そうたやすく超えられるも
のではないのですから、超えたと思ってはまた迷い、迷ってはまた超えるというような経過をたど
るでしょうが、消えてゆく姿と、世界平和の祈りによる神界との交流は、易行道中の易行道である
のです。
194
愛と信仰
現代の宗教信仰者は、自力にも他力にも徹しきれぬ人々が多く、ここまでは神様に、これからは
自力で、という工合な信仰が多いのですが、宇宙のすべてのすべては神のみ力によらぬものはない
のでありまして、肉体人間の力などが、神のみ力の他にあるなどと思っているような信仰は、真の
信仰ではないのです。神はすべてのすべてであり、すべては神の分れなのです。ですから、神は大
愛そのものであり、神性とは愛行の現われたところに現われるものなのであります。
愛とは相であり、合であって、一つになることであります。神はすぺてのすべてなのですから、
一つになりきっているわけで、その一つが、各種の光に分れて働いているので、元は大神のみ光な
のですから、大神は大愛であるにきまっているのです。ですから、あなたと私とは一つの生命なの
だ、一つの光によって生きているものなのだ、ということが、お互いの心の交流となり、そこに愛
が生まれるのであって、愛の心や行為は、神に還元する心であり行為であるので、愛するところに
神性が顕現するということになるのです。
愛の中に悪があるわけがありません。愛するものが相手の悪いように考えるわけがありません。
まして神は大愛であり全智全能者なのですから、神に自己の運命のすべてを任せ切っていて、その
人の運命が悪くなる筈がありません。それなのにすべてを神に任せきれぬ業想念の習慣を人間はも
っているのですから困ったものなのです。
しかしこの業想念は、その当人が気づこうと気づくまいと、常に背後に在る守護の神霊が消して
いて下さるのですから、人間は何ものにも何事にも恐れず、ただひたすら守護の神霊への感謝と、
世界平和の祈りを根抵にして、そこから日々の生活をしてゆけぽよいと思います。
業想念の感情のままで人に接していては、自分も他人をも傷つけ損ねることが多くて、神のみ心
である愛にもとることが多くなります。一瞬一刻といえども、そうした業想念的感情を純化するた
195業想念感情を超えよう
めに世界平和の祈りをするのです。そして神の愛を常に自己の心のうちに注入しているのです。
れは瞬間瞬間の生れ更わりでもあり、洗霊でもあるのです。
祈リは生命の洗濯である
そ
祈りとはお願いではありません。自己の想念を自己の本体(神) の中に飛びこませて、洗い浄め
てくることなのです。いわゆる生命の洗濯なのです。それを常にやっていれば、いつも自己の生命
(霊魂) は清らかでいられるわけで、自ずから光り輝いてくるのであり、他への善い影響を与えて
ゆくのです。
私の説いている世界平和の祈りは、思念の力でやるのではありません。思念にも何んにも、すべ
て自己に附属するすべての想念を、ただふんわりと、神様のみ光の中に世界平和の唱え言と共に投
げ出してしまう。そこには自己という小我の想念は何もない。何もないというより有る想念はすべ
て神様の中に投入してしまうという、宗教本来の方法、色即是空、空即是色という般若心経の方法
をあっさりとやさしく行じさせているのです。
何度びも申しているように、祈りと念力とは違うのです。祈りとは神そのものに全託して、神の
196
み光をそのままこの肉体世界に天降らせる、器をきれいに神のみ光で浄めて貰って、光の通りやす
いようにして頂く、という方法であります。肉体人間の余計な想念は神のみ心を邪魔するだけで何
んの益もないのであって、そうした想念を全託した時にはじめて、真実光り輝く神のみ智慧として
の想念行為が、その人その国の行為として現われてくるのであります。
ですから私共の世界平和の祈りは、思念の力で神の光を地上に流れ入らせるというようなもので
はなく、本来の神性を邪魔する想念の一切を神様の光の中で消して貰って、本来の神性を素直にこ
の地上界に光らせようというのであります。そうして下さるのはすべて肉体人間の想念や思念の力
ではなく、大神様であり、直霊であり、守護神、守護霊の光によるのであります。
業想念感情を純化しよう
肉体人間にまつわる想念や思念の力を一度すっきりと神界にお還えししないと、今日までの業想
念の習慣で、つい自己欲望達成のための思念の力になってしまって、いつまでたっても真実の神の
子にはなり得ないのです。思念の力というのは、科学者や精神医たちの指導する範囲のものであっ
て、あくまでも三界の業想念でありますから、宗教者と称する人々の説くことであってはなりませ197業
想
念
感
情
を
超
え
よ
う
ん。そうした思念による方法はある程度の運命の開拓はできても、神の国顕現というような大理想
の実現はとてもできないのです。自己の思念の力によって物事を動かすことを覚えますと、その思
念の力をすべてにつかってみたくなり、知らぬ間に自我欲望達成のとりこになってしまうのです。
それは過去における行者や仙人たちが未だに神界に往かれず、或る階層で止まってしまっているこ
とで知れるのです。そんなことは、昔釈尊がすでにくわしく説ききかせているのを、そうした勉強
をした筈の人たちが、こと改めて、釈尊がいましめていたそうした外道的な道を人に説いているの
ですから神々が憂い給うているのも無理はありません。
私に働いておられる守護神や、金星の長老たちは、そうした業想念の思念の力などは少しも説い
てはおりません。今地上人間が一番なさねばならぬことは、今日までの業想念の習慣の波を超える
ことなのであります。習慣を超えるということは、その習慣の中に幾分の善い要素が交じっていよ
うとも、その習慣を一度捨て切らねばなりません。捨て切るということは、目の前にどのような利
益があろうともその利益にとらわれず、本来の光の世界に入らねばならぬということです。それが
思念によらぬ世界平和の祈りであり、力まずにふんわりと神様に一切を一任してしまう、世界平和
の祈りであります。
198
時によっては任せ、時によっては自力をつかうということであっては、真の自己の幸福も、人類
の平和も到底達成でき得ないのであります。
これからは小智才覚で立っている世の中ではなくなります。死ぬか生きるかのどちらかの道が人
きべん
類の前に立っているのです。誰弁やごまかしの教えでは自己も信者も共に苦悩の世界を抜け出すこ
とができなくなるのです。正しい宗教とは自らが神の器になり切ることであります。
迷ひ心迷へるままにまつなさめ世界平和を祈る神言
この歌の心が、業想念感情を超えて人間本来の神性をこの地上界に顕現する最もやさしい方法な
のであります。
1gg業想念感情を超えよう
200
真実の祈りの生活
祈りは願いごとではない
祈りということが、非常に大事な行であることは、宗教者であれば誰でも知っていそうでいて、
意外な程知らずにいる人が多いのであります。
大体祈りということを、お願いや念力だと思い違いしている人がかなりあるのには驚かされてし
まいます。
この祈りの真意がわからないぽっかりに、宗教者の中からも、唯物論者と同じような、相対的な
敵対行為を止むを得ないとして認めて、自己の思想と喰い違う相手を、敵として相手取ってしまう
人々がでてきているのです。
祈りの真意がわからないと、どうしても、祈り心の他の行為が、宗教者にもあるような気がして
いて、祈り心を忘れて行為してしまうことが多いのです。すべては祈りの中から発し、祈り心で行
為されてゆくことが宗教心をもった人々の全生活でなければならないし、そうならなければ、この
世の中から争いや憎み合いがなくなるわけがないし、世界の平和など、とてもできるはずのもので
もないのですが、そこのところをわからぬ人々が多いわけなのです。
病気や貧乏や不幸なことがなくなりますように、と願わない人はいませんけれど、こうした願い
を神仏にしたところで、このお願いの行事が祈りというのではないので、神仏がその願いを聞きと
どけるわけではなく、自分たちの念の力で叶ったり叶わなかったりするわけで、これは宗教心とい
うものではないのです。真実の宗教心というのは祈り心そのものであって、真実の祈り心になって
くると、その祈りに附随して、こうした願望が自ずと成就されてくるのであります。
これをはき違えて、お願いごとが、祈りだとしてしまうと、いつまでたっても、その人々は真実
の宗教の世界、神人合一の境地には入ってゆけないし、神の子の真の人の椰が現わすこともできな
いでしまうのです。
お願いごと、というのと、祈りというものがよく似ておりますので、ともすると誤りやすいので
201真実の祈りの生活
すが、この相違がはっきりわかってこないと、真の救われには入れないのです。02
2 べつし
知識階級の人々が、宗教や祈りを蔑視しがちなのは、自己の力をつくさず、他の力に頼るとい
う、依頼心のような心の状態を、自分の知性が許さぬので、そうした態度に一種の麟都の想いをも
つのでありましょう。この人々は、やはり、祈りと願いごととを一緒に考えて、こうした蔑視の想
いを抱くのだと思われます。
祈りというのは願いごとではありません。自己の生命を、在りのままに、すごやかに、のびのび
と出し切る行であります。神から分れてきている自分の生命の力、本心の力を、何もの何ごとにも
わずらわされず、真直ぐに働かせきるための行なのであります。
生命の力、本心の力が、そのまますごやかにのびのびと出し切れれば、そこには病気も貧乏も不
幸もなくなってしまうのです。何故ならば、神のみ心には、病気も貧も不幸も全くないからであり
ます。神は完全円満なる大生命であり大調和そのものの相であるからです。そして、人間はその分
生命なのですから、人間本来の相をそこに現わせば、人間世界も、平和な大調和した姿になってく
るのは理の当然なのであります。平和な大調和した姿の中には貧も病も不幸もあるわけがないので
す。
しかし、これは真理が現われきった時の話でありまして、現在の地球世界の人間には、まだこの
すがた
真理の相は現われてはいないので、こうした真実の人間を現わすためには、そこに到達する道を見
出さねばなりません。そしてその道を歩みつづけなければ、真理を自己の生活の中に、そのままの
姿で現わしきることはできません。その道が祈りの道であり、その行事が祈りそのものであるので
す。祈りの道の他に、祈り心の他に真理を現わす手段方法があると思うのは誤りなのです。
祈りと真実の信仰生活
さてここで、この真実の祈りというものをどうしたら多くの人々にわかって貰えるか、という問
題が残るのです。
唯物論者に知って貰うことは第二としても、宗教心があると思いながら、間違った道を歩みつづ
けている人たちに真理を知って貰うことでもなかなか容易なことではないのです。それは誰にでも
自我があり、自我欲望が多少にかかわらずあるからなのです。そして、その人その人の習慣性によ
る業想念がありますので、自分が今日まで辿ってきた生活的習慣を捨てきることはなかなかむずか
しいことらしいのです。そして、その習慣性からくる不幸な状態をぬけ出したいともがくのです203真
実
の
祈
り
の
生
活
が、この習慣性をぬけきることは、自分独りではなかなかできにくいことなので、他の力、宗教な04
2
カルマ
どの力を借りるわけなのですが、この宗教団体にまたそれぞれの業想念の波がありまして、その一
つの枠内に閉じこめられて、神仏本来の生命の自由性を縛られてしまい、今までの生活的習慣から
カルマカルマ
きた業が新しく、一つの宗教的習慣の業に変貌して、一般の常識的な眼からみれば、一つの枠の中
おかしさつかく
にはまりこんだ、不自由な面妖な人たちとみえる生活を、あたかも真実の救われに入ったと錯覚し
て生活しているというような状態になっている人々が、宗教をやっているという人々の中には随分
と多いのです。
誤った道に入りながら、そこが真理の道だと思いこもうとしている人々や、団体が大きいから、
信徒がたくさんいるから、自分もその中に入っていれば救われるのだ、という、衆を頼むようなあ
やふやな信仰者が日本にはどのくらい多いかわかりません。この人たちには、真実の祈りなどはわ
かりようがなく、只、自分たちの日々の安穏ということだけが心を一杯に占めているのです。この
人たちの信仰は、その団体の結集力が乱れはじめれば、たちどころに、自己の心に不安が起ってき
て、信仰に入らなかった以前よりも大きく心をゆさぶられて、この世の生活がやりきれなくなって
くることでしょう。
真の宗教信仰とは、どんな環境にあっても、どんな立場になっても、神の慈愛を信じて、生命の
びのびと生活してゆける心を養うことであって、環境や立場の変化で、常に心を動揺させているよ
うな、あやふやな信仰ではないのです。利害損得で信の心を失ったりするような状態では、これは
唯物論者と全く同じであって、宗教信仰者ということはできません。
真の宗教信仰者という者は、如何なる時でも、神の愛を信じきってゆく者で、親様である神様が
子である人間に悪いようにしっこはないのだ、という堅い信念をもつものでなければなりません。
常に願いごとだけをする信仰などでは、この不退転の堅い信仰心には到達致しません。そこで、
やはり、真実の祈りというものが大事になってくるのです。
日常生活の中で、いつでも安心立命した心でいられること、これは、どんな利益よりも大なる利
益です。真実の祈りの生活に入ってしまいますと、この安心立命の境地にいつの間にかなってしま
うのです。
生命の自由性をはばむもの
この真実の祈りの生活に入るのにはどうしたらよいか、これからはその話に入ってゆきましょ
205真実の祈りの生活
う。
先程も申しましたように、誰でも、貧や病や不幸になりたくないし、現在そうであればそうした
境界をぬけ出したい、と思わないものはないのですが、この願望を、ただそのことだけにしてしま
ったのでは、神仏との交流はうまくゆかないのです。そうした願望を元にして、真実の祈りの世界
に入りこんでしまわなければ駄目なのです。そういう指導を私は神様から受け持たされているので
すが、私の指導の根本原理は、神から分けられた生命力を、本来の自由性に還えすことを、祈りの
行としてやっていることなのです。
私たちの生命の自由をおびやかすものは一体何んなのでしょう。それは誰でもない、自分たち自
身の想いに他ならないのです。自分たちの想念が、自分たち自身をおびやかしつづけているので
す。
“そりゃあ想いもそうでしょうけれど、そういう想いを自分たちに起させる生活環境や、社会情
勢が最大の原因じゃないんですか”
と、きっと誰かがいうと思うのです。それはこの現れの世界のことだけを見れば確かにそうなの
です。ところが、これは鶏と卵の例のようなもので、どちらが一体先に生れたのかわからない、とaos
いう状態なのです。
生活環境が悪いから、社会情勢が悪いから、自分たちの想いが不安になるのだ、というのですけ
れども、同じ生活環境にあっても、あまり憂欝にもならず、不安にもならぬ人と、憂欝で不安でな
らぬ人とがあり、同じ社会状態の中にあっても、片方は富んで悠々とした生活をしており、片方は
貧して鈍している人もある。これはどういうわけなのでしょうか。これをその人々の因縁の至すと
ころと仏教などではいうことになるのですが、この因縁というのは、その人々の過去世からの想念
行為の集積がそこに現われていて、そうした環境をつくり出すわけなのです。そうすると、この世
の環境は、環境が先にあったというより、その人の過去世から今日までの想念行為が、その人の今
日の環境をつくり出している、ということになってきます。
富があり地位があれぽ、それだけその人の生命の自由性はひろがるわけだし、貧して鈍していれ
ば、それだけ生命の自由性は失われていることになります。そこで人々は、富を欲し、地位や権力
を欲するのです。これは本来性の、生命の自由進展を願う、願望の現れなのであり、これは人間と
して不自然な願望ではないのです。しかしながら、この願望に執われてきますと、これがまた、生
命の自由性を奪ってしまって、かえってマイナスになってゆくのです。すべて、その人々の想念か
207真実の祈りの生活
ら起る行為によって、その人々の運命が決定してゆくのは、このことによってもよくわかります。
028
こうした人間たちの想念行為によって、人間自体の生命の自由性を縛り、狭ばめ、それが種々な
社会情勢をつくり出し、その社会情勢が人間の自由性をまた縛ってゆくわけなのです。
自由性を伸ばしうる社会にするためには
さて私がいいたいことは、社会情勢や世界情勢のことは、一般の人々が、直接どうこうできる問
題ではなく、政治力に頼るわけですし、その政治力にしても、今日ではもはや、一国だけでどうし
ようという自由性を失ってしまっていて、一つの大きなグループの意見としてなされなければなら
ない状態になってきています。池田首相の訪米などもその一つの例であります。
ですから一人の人が、いくら池田が何んだ、自民党は何をしているのだ、といったところで、一
人の池田や、一つの自民党だけではどうにも動かせぬ政治になってしまっているのですから、強力
な一人の人のいうことでも、単に枝葉の問題を動かし得る程度のものとなってしまうのが今日の状
態です。
そう致しますと、一般人としての立場からは、一体どうしたら、自分たちの生命の自由性をより
広くのびのびと働かせ得るような社会状態にもってゆくことができるのでしょうか、ということが
問題になってきます。
そこでまず考えられることは、どんな悪い環境や立場にあっても、その環境や立場で、出来得る
限り生命をのびのびと生かし切れる状態に、自分の想念を置くことを考えねぽならぬということで
す。
それはどうすればよいか、そのことは実は簡単なことなのです。生命の自由性をはばんでいる、
自分自身をいじめさいなんでいる、自分自身の想念を無くなしてしまえばよいのです。
“先生、冗談じゃありませんよ。想いがそう簡単になくせるものですかμ と人はいうでしょう。
ところが、自分を不幸にしている、いつも自分の環境や立場に縛られて、不平不満をつぶやいてい
るそうした業想念を、徐々に無くしてゆく、いとも簡単にできる方法があるのです。それが、お願
い宗教の道ではなく、真実の祈りによる宗教の道なのです。
自己や家族の幸福を願い、国家や人類の安寧を願う想いは、当然何人の心にもある想いですが、
この願いを祈りにまで高めてゆかないと、人間の神性が発揮されることはできず、只単にその場そ
の場のご都合主義的な生き方になってしまい、人間の業生の世界、自我と自我とがぶつかり合い、
209真実の祈りの生活
利害関係のいきさつによっては他を憎み損い合うような生き方を脱皮することができなくなるので
す。
そこで、そうした利害関係によっては自他が不調和になるような生き方は、神のみ心の完全性、
大調和性から離れたものであると判断し、こうした想念は神の子としての人間本来のものではな
く、業生の消えてゆく姿として、神のみ光の中で消し去って貰い、神の子人間の本質である光明
心、調和心のみをこの世界に現わしてゆこうとするのが、祈りなのです。
ですから、この祈りの世界には、その場その時々の人間の理想的願望も、不幸や不安を消し去ろ
うとする想念も、すべて含められてあるのです。
神と人間との隙間をうめるもの
人間はすべて神から生命力を与えられて生きております。この生命力の中には、肉体を生かして
ゆく力もあれぽ、人間に都合のよいような生活をつくり出してゆく智慧能力もあるのです。そして
また、肉体を破壊し、自分や他人の生活を打ちこわしてしまう力もあるのです。
人間は神から生命力という財産を与えられ、その生命力には、神がもっていると同じような智慧
210
能力が含まれているのですが、地球人類は未だにその智慧能力を神のみ心そのままに現わしてはい
ないのです。しかし徐々に神のみ心の片鱗を現わしつつあるのですが、何んにしても物質界の粗雑
な波動の中では、微妙な神のみ心を急速には現わすことができずに、そのハンデキャップが業想念
行為として現われているのです。そしてそのハンデキャップをカバーする働きとして守護神、守護
霊が存在しているのですが、その真理を一般の人々は知ってはいないのであります。
ですから、肉体人間の力を、神のみ心の通りの完全なる能力として発揮するためには、只単に肉
体人間としての個人として或いは人類として動いていたのでは、到底駄目なのです。何故ならば、
肉体人間だけが人間のすべてであるとしている考え方では、微妙なひびきをもつ本源のひびきであ
る霊波動と、粗雑な物質波動である肉体界との交流ができにくいので、どうしても、その間に起る
へだたカルマ
波動の距りによるハンデキャップ、つまり業想念波動がなくならないのです。
へだたり
そこで、どうしてもその距離をなくすための働きを、肉体人間以外に求めなければならなくなる
のです。そうした中間的働きがなければ、いつまでたっても地球人類は救われに入ることもないし、
平和世界を築きあげることもできないのです。
その働きを、私は守護神霊のひびき、光明波動として、はっきり認めたのであります。こうして
211真実の祈りの生活
守護の神霊の働きを認めますと、認めなくとも、守護の神霊の働きはつづけられているのですけれ
ども、こちら側から認めますと、両者のひびきが通じ合い交流が楽になって、肉体人間としての自
己の力が、急速に拡大され増大され、微妙なひびきを覚知できる自分になってくるのです。
偉大な宗教者や、科学者、実業家などは、すべてこうした波動の交流のでき得た人々なのであり
ます。守護の神霊の加護なくしては絶対に人類の本心開発のための大きな仕事はでき得ないので
す。そこで私などは、守護の神霊への感謝行を常にしてゆくことが大事なことであると、私の体験
からして説いているのです。
212
理想と無理なくマッチする方法
現在の人類は、天につながるレールを踏みはずして夢中で走りつづけているような姿をしており
ます。それは、眼の前の事物事柄のみに気を奪われていて、天の方を眺める心の余裕をもっていな
いからなのです。人間は眼先きばかりに気を取られていては、真理の行為はできません。といっ
て、天にばかり心をむけていては、現実の日常生活がうとましくなってきます。どちらに片寄って
も、この世での上手な生き方はできなくなります。
理想主義はよいけれど、理想主義者というのは、ともすれぽ足元がおろそかになってしまって、
この世の生活ではつまずきがちになってしまい、家族を困らせ、自らも不遇な一生を送ったりして
しまいかねません。理想というものと、現実というものとが、あまりにも距りがあり過ぎるので、
普通人には、理想をそのまま現実生活にもってこられることは困りものなのです。
日本の立場にしても、米国にも組せず、ソ連中国にも組みせぬ生き方が理想だといっても、実際
問題として、そのことが成り立つでありましょうか。現在の日本の国力では、それは不可能であろ
うと思います。何故かと申しますと、日本の経済はまだ米国の力を借りなければとても立ってゆけ
ないし、もし独力で起ってゆこうとするならば、全国民が重大なる決意の下に消費生活を最低限
に、戦時中のように縮少してやってゆかねばならぬことになります。そんなことは現在の日本人の
心ではとても実行でき得ないし、またそのことが出来得たとしても、そんな生き方の中からは、世
界人類のためになる発展性など生れてきようもありません。
また、実際問題として、米国が日本のそうした立場を只黙ってみているわけがないし、ソ連中国
も手をこまねいているわけはありません。共に種々の手段方法で、日本の立場を崩して、自分の方
の味方につけようと、働きかけることでありましょう。日本は何んといっても、東洋の雄たる国な
213真実の祈りの生活
ので、日本を味方につけた方が非常な利益になるからなのです。
こういうように、理想論だけでは、現実の方はとてもついてゆけないので、高い理想をもちなが
ら、しかも現実にマッチする方法が、個人の生活にも国家人類の生活の中にもなければならないと
いうことになってくるのです。
それにはどうしてもまず、個人及び人類がもっている自分たちだけをかばう、自我欲望の業想念
を取り去らなければならないのです。その取り去る方法、それが真実の祈りなのです。世界平和の
祈りなのです。
想念の在リ場所は世界平和の祈りの中
天に心をむけながら、高い理想の世界を心に画きながら、しかも少しも現実生活を崩さず、かえ
って生活が改善され開運してゆく唯一の方法、それが世界平和の祈りなのであります。
自分自身で、自分の想念を消し去ろうということは、余程の聖者でなければできません。意志の
力で、想いを抑えるのは、消滅させたのではなく、うちに(潜在意識層) に抑圧したにすぎないの
ですから、いつ外部にむかって爆発するかも知れませんし、抑圧が過ぎれば、肉体を損ねる病気に
214
なったりしてしまいます。
そこで、こうした業想念を特別な意志力で抑圧するのではなく、消えてゆく姿として、世界平和
の祈り言の中に投げ入れてしまうのです。世界平和の祈りの世界は、守護の神霊の大集団である救
世の大光明の輝きわたっているところなのですから、如何なる業想念波動といえど浄められて、正
しいひびきとなるのです。そのひびきは神のみ心そのままの本心のひびきとなって、自己の生活を
照し、世界人類の大平和のための働きともなってひびきわたってゆくのであります。
人間の生活を不幸にしているのは、人間自身の想念である、とはじめに申してありますが、人間
の生活を幸せにし、平和にしてゆくのも人間自身の想念なのです。ですから、人間の想念、人類の
想念の在り場所の如何によっては、人間個々人も人類も、いくらでも幸福になり、平和になり得る
ものなのです。
その在り場所をいつも世界平和の祈りという、神の大み心の中に置いておけば、必ず世界人類が
平和になることは間違いのないことなのです。
人間の想念の在り方がどれだけ大事であるかは、冷静に考えれば誰にでもわかります。只どうす
れば想いが正しくなり、清らかになり、明るくなるかがわからないのです。そこで私は、すべての215真
実
の
祈
り
の
生
活
想念を、ひとまず世界平和の祈りの中に入れてしまって、そこから時々刻々、日々新しく出発して16
2
ゆくことをすすめているわけなのです。
神様のみ心の中には、完全な調和があるのですから、ひとまず神様のみ心の中に祈り心で入って
しまえぽ、自分の想念も調和したものになってくるのです。どんなに泥に汚れていても、風呂に入
れば泥は取れてしまいます。それと同じ理屈で、常に常に神様のみ心の、明るい大調和した中に入
っていれば、心に汚れのたまる間がなくなるわけです。心の垢がたまらぬように、いつも清らかな
明るい正しい神様と同じような心でいられるように、しかも、極くあたり前に自然にできるように
とこの世界平和の祈りが生れでたのであります。
この世界平和の祈りは、自分の想念行為の誤りを反省し、人類の想念行為を省みて、これではい
けないと思う、しかし、いつまでも自己を責め、人類の在り方を裁いているのではなく、想った瞬
間にそうした想念を、祈り言の中に、消えてゆく姿として投げ入れてしまうのであります。
悔いて、反省して、消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中に入ってしまうのが、私の教えて
いるところなのですが、この悔いと反省と消えてゆく姿という想念とが、瞬間に同時になされて、
只、世界平和の祈り心一本になってしまうようになると、たいしたものなのです。そうなります
ひとりで
と、自然法爾に誤ちのない真善美の行為がでてくるのであります。
皆さんが世界平和の祈りを根本にした日常生活をつづけてゆかれますことを、
おります。
私は心から祈って
217真実の祈りの生活
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