みんな救われている


著者(1916~1980)
講話集刊行にあたって
五井昌久先生は、昭和三十年代から昭和五十年代初めにかけて、千葉県市川市の新田
道場や聖ヶ丘道場(当時)をはじめ、さまざまな場所で講話会を開かれ、人々に生きる勇
気と感銘を与えてこられました。
本書は、そうした五井先生の講話のうち、機関誌や書籍に発表されていなかったもの
を時系列にまとめたもので、これがシリーズ第二集目となります。
お話はたいてい質問に答えてなさったもので、日常の身近な問題から、ひろく世界の
平和や宇宙の問題、霊界や死後の生活のこと、永遠の生命のこと、霊性開発という本質
的な問題、またご自分のことなど、極めて親切に、分かりやすく、また面白く説いてく
ださっています。それらを通して、人間とは何か、いかにして自由無磯の心に至れるか
を知ることが出来ます。
そのような自由無磯の生き方を誰しもが出来る日を、五井先生は天界で待っておられ
るに違いありません。
平成二十二年四月
編集部
刊行にあたって
1
目次
2
刊行にあたって1
祈りと念力は違う
我欲を満足させるだけの祈りは念力
想いをどの神様に返すか?
消えてゆく姿は無理のない教え
2
25 6
世界平和の祈りについて
神様に波長を合わせる祈り
守護霊守護神がお掃除してくれている
39
45
〈問答〉南無阿弥陀仏の意味
50
世界平和の祈りは神のみ心
塚本清子さんの体験記6
本当の霊感とは
人間は完全円満でも
67
世界平和の祈りは救世の大光明
呑気な心境になるといい
7
89
79 力














姿







1
夢でもって守護霊が消してくれる98
現われたものはみな消えてゆく姿09 1
中庸とは右でも左でも真ん中だというんでもない
122
キなワセド
理 想を現実化する鍵
因縁因果宿命論と実相完全円満論
131
3
観の転換をはかりなさい
本心と業想念酩
なんでもかんでも平和の祈り
みんな救われている
信仰がうすいから救われないはない
あなたははじめから救われている
常に祈っていることが大事
決して責めない生き方
138
神様と一つになるために
154
4
1G9
1G2
190

〈問答〉改宗することについて
198
講話集2 みんな救われている
6
祈りと念力は違う
(昭和34年2月)
我欲を満足させるだけの祈りは念力
ふつう一般の宗教家というものは、祈りと念力ということがわかっていない人が
多い。
わけみたま
祈りというのは、いのちを宣言することで、自分に与えられているいのち、分霊

のいのちをこの世に現わす、宣り出してゆくということです。祈りについて、これ
からだんだん詳しく申し上げますけれど、念力というのはどういうものか、という
と、例えば”商売を繁盛せしめたまえ、どうか繁盛しますように” “お金が入りま
すように” “自分の子どもが学校に入りますように” “あの憎らしい奴が死にますよ
うに” てなことをやってしまう。自分の想念の力で、力をこめてする想いを神様や
仏様に結びつける、それが祈りだとご利益宗教の人は思っているけれど、それは祈
りではなく、念力なのです。自分の望みが叶うように、自分の我欲が達成されるよ
うに、という想念の力を、ただ単に神様という名前に結びつけている。それをお祈
りだと思っている。
観音様や成田山へ行って、十円か五円のお奏銭をあげて、私の商売が繁盛します
ように、とやってくるんでしょ。それでお祈りしてきたと思っている。そういうの
が祈りだと言うのだけれど、祈りでもなんでもない。想いを満足させるだけで、念
力です。
あまて
それでは魂の道を開くわけにはいかない。誠の道を悟るわけにはいかない。天照
らすまことの光を地に呼ぶわけにはいかない。
祈りというのはどういうことかというと、いのちを宣言する。いのちを宣り出す、
いのちいっぱいに生きる。自分に与えられているいのちを、そのままいっぱいに生
7祈りと念力は違う
きる。それはどういうことかというと、与えられた環境、与えられた立場というも

のに、不平不満を言わず、その中でまっすぐにいのちを生かすことです。会社の小
づかい
使さんなら小使さんで結構、小使さんの天命をそのまま一生懸命やる。自分のいの
ちを生かす。それが祈りなんですよ。
いのち
神様仏様と言わなくても、自分に与えられた仕事を、生命がけでやったら、それ
は祈りなんです。神社仏閣をおまいりするよりも、いのちを一生懸命生かすほうが
いいんです。ところが、ただいのちを一生懸命生かす、と言って、自分の仕事を一
生懸命やっているだけでは、道は開かない。目的も何もわからないと、いのちを生
かすといいながらも、自我欲望が入っているわけ。
自分が生活しなきゃならない、自分の家を守らなければならない、と自分で思っ
ているわけで、一生懸命やるのはいいけれど、神様の本源の世界に達するわけには
いかない。でもごまかしの宗教よりまだいいです。
ごまかしの宗教観念でやると、その癖がついてしまって、いつまでたっても立派
8
になれない。むしろ唯物論者のほうがまだいい、と私は思う。何故かというと、い
っぺん失敗して、壁にぶつかって、はねかえってくると、今度は本当のものになり
ますからね。一番悪いのはごまかしなのです。祈りのような形をして、念力ばかり
使って、祈りのようにごまかしていること。そういうことをしていると本当の宗教
者にはなれない。本当に魂を開くわけにはいかない。
祈りというのは自我欲望、自分の肉体を守ろうとする想い、家族を守ろうとする
想い、自分の利害関係というすべての想いから発する念力というものが、なくなっ
た時に現われてくる。本当のいのちの姿が現われてくる。
たとえば心臓があり、肺臓があり、胃腸があります。健康な時は、心臓が動いて
ることさえも忘れている。胃腸や肺臓が動いていることさえ忘れている。思い出す
時はどこかが悪い時です。ご飯を食べながらも、胃腸にどのくらい入ったかな、栄
養がどのくらい吸収されているか、そんなこと思っていない。ただ食べている。胃
腸が勝手にこなしている。心臓のことを考えないけれど、心臓はちゃんと動いて、
9 祈りと念力は違う
じんひ
肺は呼吸している。大体、腎臓だの脾臓だの肝臓だのなんだのって考えない。考え
ない時はいい時なんだ。悪くなると考え出す。
さわ
故障がない時は思い出さない。それなんですよ。いのちが障りなく、すみやかに
動いている時、いのちがそのまま生きている時というのは、病気とか健康かではな
く、いのちそのままで動いている。何も考えていない。そのいのちの働きというの
は、要するに肉体を活かすための生活、貧乏とか金持ちとか、地位だとか名誉だと
かいう生活環境もいいんですよ。よくなるんです。
いのちがすみやかに動いていない時代が、生まれてからこの方、過去世から今日
まで、たくさんあったものだから、すみやかにばかり動いていない。そのマイナス
面だけが生活環境の、貧乏になったり、不幸になったり、病気にもなっている。す
ヘヘへ
みやかにいのちが出しきれない時に、マイナス面が現われるんです。それを消すの
が祈りなんですよ。
消すためにどうするかというと、いのちをすみやかに動かさない、邪魔して動か
10
さない想いを、いっぺんいのちの本源である神様、誰でも神から天からいのちが来
ているのに決まっている、唯物論者でもどこからいのちが来たか、自分ではわから
ないけれど、どこからか来ていると思っている。私たち宗教家は、いのちの本源を
神といいます。あるいは仏という。そのいのちの本源である神様に、自分の想いを
すべてまかせてしまう。
心臓が動いているとも思わない、肺臓が動いているとも思わない、という想いと
同じように、自分の生活環境もすべて、神様1 って神様にお返ししてしまう。神
様有難うございますと思う。心臓が動いている、肺臓が動いている、胃腸が動いて
いる、頭も動いている、どうやらこうやら食べられる、喜びもある、そういう生活
環境や状態に感謝をする。
だから自分の想いをすべて、神様1 って神様の中へ返してしまう。神様を呼び
さえすればいいと思うんです。頭の中で出てくる想い、ああじゃない、こうじゃな
い、という想いを神様の中に返して、改めて生きてゆく。そうすると、いのちが生
i1 祈りと念力は違う
きるということなんですよ。
ヘヘへ
それがいのりなんですよ。
12
想いをどの神様に返すか?
体の動き働きのことを考えれば、一番よくわかると思うんですよ。体は何も考え
なくても動いている。内臓も動いている。頭でいちいち考えて動かしているわけじ
ゃないでしょ。それと貧乏とか金持ちとか、成功とか不成功とかというものも同じ
ことなんです。
人間、過去世に何べんも何べんも生まれ変わっておりますから、いろいろな体験
を積んできて、両親の問に生まれてくるわけです。生まれてきた時には、運命は大
体決まっているんです。たとえていうと、丸く決まっているか、四角く決まってい
るか、三角に決まっているか、しているのです。ただその四角が最大限大きい四角
になって生きるか、小さい四角になって生きるか、丸が大きな丸で生きるか、小さ
な丸で生きるかの違いです。
たとえば総理大臣にならないことに決まっている人は、いくら総理大臣になろう、
と思ってもなれない。音楽家になって、名ヴァイオリニストになりたいと思ったっ
て、ならないことに決まっている人はならない。音楽家が大工さんになろうったっ
て、大工さんにならないかもしれない。しかし大工さんになっても、人に使われる
大工さんで終わるか、棟梁といわれ、皆を使って生きるか、それは自分の今日の働
きによるんです。
むげじざい
いのちをすみやかに、障りなく、無磯自在に生かしたか生かさないかの違いは、
そこに現われてくるわけですよ。いのちがすみやかに生きれば、障りなく生かせれ
ば、肉体の人間なんて、こんなチャチじゃないんです。もっと素晴らしい人間なの
だけど、それが過去世のいろんな想いが溜まっていて、業想念になって、いのちが
光り輝いて、中の本心が外へ出て光り輝こうとするものを、幽体に過去世からの業
想念がいっぱいつまっていて、いのちが光り輝くのを邪魔しているんです。
そこで神の子である、光り輝いている本当の姿を現わすために、大元のいのちの
13 祈りと念力は違う
光の中に、いっぺん自分が入らなければならない。幽界の業想念の中に入っている
意識(こうじゃない、ああじゃない、と言っているのは業想念の中に入っている意識な
んですよ)を、神様の中に入れてしまう。
神様の中に入れるんだけれど、神様は人間の中にあるわけ、いのちの中にある。
心臓を動かし肺臓を動かしているのは、神様の力ですからね。その中に入れたいん
だけれど、どうやって自分の中に入れたらいいか、わからないでしょ。自分の中に
ある神様に入れたいんだけれど、入れにくいですよ。「わが本心よ、わが本心よ、
我が本心なる神よ」と言ってもいいんです。だけどピンと来ないでしょ。ふつうの
人にはピンと来ない。
おおがみさま
そこで私が説いていることを説明しますと、大神様は中にあって外にある。神が
なおび
宇宙に充満しているということは、中にもあるということです。中に入ると、直毘
わけみたま
1 分霊というようになるのです。人問の中に入ってくると、なかなか説明が難しい
んだよ。
14
宇宙神がありますね、宇宙神というのは、いろいろな星も作り、地球も創りまし
た。で、人間もつくり、ありとしあらゆるものは宇宙神の力で出来ているわけです。
その宇宙神の力が人間界に働いた時が直霊というのです。『神と人間』に書いてあ
ります。直霊は七つあると私が説いています。人類の大元ですね。七つの直霊はど
わけみたま
ごにあるかというと、直霊の分かれた分霊の中にある。つまり人間の本心の中にあ
る。本心、分霊をズーッと深くさぐってゆくと、直霊のところに到着する。といっ
て肉体をいくら解剖しても出てこない。だから肉体のうちではなくて、人間のうち
にある。
この肉体のうちに、分霊があったり、直霊があったりするわけではない。人間の
うちと言ったって、どこに人間があるかわからないから、ともかく肉体をもって、
この内にあるというわけ。言葉ではなくて、人間のうちにある、人間は肉体ばかり
でなくて、幽体もあり霊体もあり神体もある。そのうちというのは肉体、幽体、霊
あら
体、神体とだんだん中に入ってゆくわけです。別の言い方をすると、波動が粗いほ
15 祈りと念力は違う
ど外なんです。肉体が一番波動が粗く、幽体、霊体、神体とだんだん微妙になって、
言葉で言えば内にある。
そういうわけで、内に分霊があり、直霊があるんだけれど、いちいち言ったって
一般の人にはわからない、面倒くさくて仕方がない。そこでわかりやすく、外の神
といい、そのほうがふつう一般にはわかりやすい。うしろに祖先の悟った守護霊が
いて、守っていてくれる、その上に、直霊の救済の働きの面である守護神さんがい
て、守っていてくださる。こういうように、三段構えに説いています。
直霊というのは、大生命から人類に与えられた生命なのです。分霊というのは、
各人各人に与えられた生命なんですね。そう解釈するといいです。
各人に与えられた生命をフルに働かせてくれるのは誰か、というと守護霊であり
守護神です。その守護霊守護神が応援してくれ、業想念を消してくれて、それで直
霊と合体し、あるいは分霊と合体して、悟りの仏というものが出てくるわけなんで
す。そういうふうに出来ているんです。
1G
だから祈る場合には”わが本心よ” と言っていいのだけれど、神様神様でもいい
のだけれど、本心と言っても、神様と言っても漠然としてしまう。それで私は、守
護霊さん、守護神さん有難うございます。というように、外側に想いをもっていか
せています。
あや
しかし外のようだけれど、実は外も内も変わりはしない。ただ言葉の綾として、
内なる神よ、というよりは、外なるものに預けたほうが何かすがりやすいわけです。
ところが知的なインテリの宗教研究家というのは、守護霊守護神ということをと
ても嫌うんですよ。外なる神というものを嫌うんです。内なる人間性というものば
かり考える。それで仏教哲学を好んでいる人には、インテリが多い。何故仏教に魅
力があるかというと、外に頼らないで、内なる仏、仏性というものを出そうとして、
座禅したり、いろいろ修行をする、というところに魅かれている。それで禅なんか
が欧米で好かれています。
自分の力で中の仏を出す、というのですが、自分の力で、と思った時には、もう
17 祈りと念力は違う
中のものとは離れている。それがわかっていない。自分自分とそうやって力んでい
る自分というのは、どこにあるかというと、それは肉体の自分なんだね、肉体の自
分が力んで、肉体の自分が中なる仏を出そう、神体の仏を出そうという、そういう
想いでは、いつまでたっても仏は出てこない。何故かというと、肉体の自分という
ものよりも、霊体、神体の自分というものがズーッと上なんです。向こうのほうが
百も承知、みんな知っている。神界の守護神が、あるいは霊界の守護霊が協力して、
この肉体人間をつくったんだからね。肉体人間としての自分を産ませたんだからね。
だから向こうさんがよく知っているんです。
向こうさんがちゃんと知っているのに、何も知らない自分のほうから引き出そう、
というような高慢な考え方をしたらば、それは出てこない。何故か。この世には業
想念が多すぎて、自分の想いでは肉体から幽体を通して、霊体を通って、神体まで
にゆく力がない、光が届かない。
たとえばアメリカの大統領にアイゼンハワーがいますね。アイゼンハワーという
18
人は偉い人です。それであの人はクリスチャンです。聖書もよく読んでいると思う
し、教会へも行ってるんでしょうね。
その聖書に何が書いてあるかというと、”汝の下衣を取らんとする者には、上衣
をも取らせよ” “人もし汝の右の頬を打たば、左をもむけよ”と書いてありますね。
人間は一つのいのちであり、本当の愛からゆくと、その通りです。そういう神の教
えを毎日聞かされていても、下衣をとったやつに、サァ上衣も、という人はいない
し、右の頬を打たれて、サァ左をも、という人もあまりいない。
ソビエトがどんな武器をつくろうと、どんなに軍備を増強しようと、核兵器の実
験をしようと、向こうは向こうだ。こっちは調和なんだからそういうことはしない、
というようにいけば、キリスト教精神をそのまま現わしたことになる。けどそうじ
ゃないでしょ。アイゼンハワーだけじゃない、アメリカにはアメリカを守りたいと
いう業想念があるから、その業想念をかぶっちゃって、アイゼンハワーだけじやど
うにもなりやしませんよ。絶対調和の教えを受けていても、いざこの世の立場にな
19 祈りと念力は違う
ればそれは出来ないでしょ。
それと同じように、個人個人に言えば、自分の中に仏があるんだ、自分は肉体で
はなくて神様の子なんだ、といくら思っても、実際場面にぶつかれば、やはり自分
を守ろうとして、恨んだり憎んだりしちゃいます。十人が十人、千人が千人、万人
が万人そうなるでしょう。百万人に一人くらいはいるかもしれない。上衣をとられ
たら下衣をも与える人があるかもしれない。良寛さんみたいな人がいますからね。
百万人に一人か、千万人に一人はそういう人がいるかもしれない。百万人に一人ぐ
らい出来たって、それは金科玉条だ、それでいいんだ、と言ったって、一般の人に
は通用しませんよ。
そこで私は一般の人に通用しない教えはしないことにしている。誰にも出来る教
えをするわけ。
先生、誰でも出来る教えと言うけれど、先生の教えは難しい。念力と祈りは違う
んだと言っても、私たちはどうしたって自分を守りたい、自分の欲望を満足させた
20
いんだ。自分の家を守りたいし、子どもを守りたい。子どもが学校へ上がるように
祈りたいし、家庭円満で、儲かりますように、と祈りたい。
だけど先生は、念力ではダメだ、祈りというのは、想いを全部、神様に上げちゃ
うんだって、それは難しいじゃないですか! という質問が出ることでしょう。
それはごもっとも。しかし神様にすべてを上げるということは、自分の想いをす
べて返してしまうということは、神様からすべて与えられる、ということなのです。
たとえば百万円なら百万円ほしい、と念願かけて、それが自分の手に入ったとし
ても、その百万円だけで終わってしまう。どこどこの学校へ上がりたい、と願って
さが
上がったって、それは上がっただけなのです。また上へ行って下っちゃうかもしれ
ない。職業で失敗するかもしれない。恋愛で失敗するかもしれない。命がなくなる
かもしれない。
みんなその場その場のお願いなんですよ。そういう癖をつけると、いつまでも業
想念の中をぐるぐる廻っていて、神様の中へ入らない、永遠のいのちには到達しな
21 祈りと念力は違う
い。そうすると祈りと念力の間をつなぐものがなくてはならない。そこに守護霊守
護神というものが出てくるんです。
あなた方がどうこう思わなくても、あなた方にこの世においての天命を完うさせ
るために、神様があなた方を産んでいるんだから。そして神様の守護の力が守護霊
となり守護神となって守っているんだから、いつも守護霊さん守護神さん有難うご
ざいます、と言っていれば、何々を与え給え与え給えと小きざみに細かく言わなく
たって、なくてはならないものは皆与えてくれるんだ。神様のほうではみな知って
いるんだから、いつも守護霊さん守護神さん有難うございますと言っていなさい、
と言っているのです。
そこにもう一つ、消えてゆく姿という教えが入ってくる。守護霊さん守護神さん
有難うございますと言っても、妬みの心も出てくれば、念力的な想いも出てくる。
こわいという想いも出てくる。でもそれはみんな現われては消えてゆく姿、みんな
消えてゆく姿、守護霊さん守護神さん有難うございます、と言ってみんな神様(守
22
護霊、守護神) に想いを持っていきなさい、と教えるでしょ。それがもっと拡がっ
てゆくと、世界平和の祈りになってゆくのですよ。
自分の想い、自分の生活などに、恐怖する想い、自分の癖をいやだという想い、
人を嫌がる想い、すべてこの世の悪というもの、不幸というものを認めようとする
さんがい
想い、そういう想いがあったら、やはり念力の世界になってしまうし、三界の業想
念の中から抜けきれないから、そういう想いから自分の心が離れてゆく、自分の想
いが離れてゆくことが必要です。ところが今までは離れるところがないんですよ。
右の頬を打たれたら左の頬も打たせよ、という教えはあるんですよ。肉体はない、
病気はない、という教えもあるんですよ。だけど実際問題として出来ない。なかな
かそこまではいかない。そこで出来る教えというのは”消えてゆく姿” なんです。
あなたが今、貧しい中で苦しんでいる。そういう生活も過去世の神を離れた想い
が、そこに現われて消えてゆく姿なんだ。貧乏だ、不幸だという想いが頭へ出てき
たら、その想いのままでいいから、守護霊さん守護神さん有難うございます。”世
23 祈りと念力は違う
界人類が平和でありますように” … … というふうに、世界平和の祈りの中にその想
いを持ってっちゃう。そうすると貧乏に把われる想いがなくなる。怒りっぽい性質
なら、カーッときたらそのまま”世界人類が平和でありますように” というふうに
思いなさい。そうすると怒りっぽい性質もだんだんなくなる。そういう習慣をつけ
ておきますと、そんなこと出来ない、と言って思っているうちに、やっているうち
に出来るようになってくる。
そうすると怒りの想いが出てきても、それが処理できるようになる。世界平和の
中に転進しちゃうのですよ。怒りの想いを掴まないことになる。恨みの想いが出て
くる。”世界人類が平和でありますように”、と祈りのほうに持っていってしまうと、
祈りは光、本心の光だから、神様の光だから、その中に入って消えてしまう。恐怖
が出てくる。こわいこわい、とどうにもならなくなってくる。そういう時に、”世
界人類が平和でありますように” と、祈りの中に持ってってしまう。こわい時には、
“世界平和
” じゃ間に合わない時がある。そうしたら世界平和の祈りを提唱してい
24
る五井先生がここにいますから、五井先生1
と、短い時間でその恐怖が消えてゆきます。
と思っちゃえばいい。想いつづける
消えてゆく姿は無理のない教え
私の教えているものは、すべてやさしく想いをなくさせるのです。この世を暗く
さえぎ
している想い、自分のいのちの輝きを遮っている想い、あるいは人類に障っている
想い、そういう想いは何かというと、自分を守りたい、人より自分が偉くなりたい、
得をしようという想い、個人の場合も国の場合も同じです。そういう想いを一先ず
神様にお返しして、神様のほうから、自分の天命が完うできるように、日本なら日
本の天命が完うできるように、そうしたい、というのが私の念願です。
そうすると個人の祈りでありながら、日本の祈りであり、世界の祈りになってく
るのですよ。そういうのを祈りという。
家内安全、商売繁盛をやっているのは、ただ単なる個人の我欲でしょ。だからそ
25 祈りと念力は違う
んなものは長く続かない。それで不安がなくならない。観音様や成田山へおまいり
したって、ちょっと自分の意識をごまかすだけで、不安はなくならない。地震がぐ
らぐらと来ればワーッと飛び出したくなっちゃう。大水が来れば逃げ出したくなっ
ちゃう。そういうのは我欲の念力だからね。
神様がいつも守ってくれて、自分は神様の中にいるという想い、いつも世界平和
の祈りをやっている想い、いつも世界平和の祈りをやっていると、光がこっちに入
ってきて、自分の本心が開いているから、それだけ恐怖の想いも消える。
想いは出ることは出ますよ。あるんだから。本心をとりまいている業想念が、過
去世からいっぱい溜まっている。それと人類としての業想念も過去世から溜まって
いるのだから、想いとしては出る。出るというのがいけないのではないのです。
ところが今までの宗教は、出ることがいけない。怒ってはいけない、短気はいけ
ない、恨んではいけない、妬んではいけない、人の悪口を言ってはいけない… …
何々と思ってはいけない、といけないづくめなんだよ。息がきれちゃう。そんなご
2G
とを言ったって、出来やしないんだからね。
私は江戸っ子で浅草っ子なんで、気が短いせいか、出来ない高踏的な哲学的理論
をふりかざしていると、何言ってやんだいと思う。教える人が出来ないようなこと
を言ってもダメです。教えている人も出来るし、一般の誰でも出来ることでなけれ
ば、この末法の世を救うことは出来ない。
怒ってはいけない、と押さえたって、今度ははねかえりが大きくて、バッと爆発
する。押さえたらいけません。いけないいけないと思っていると、よけい出来なく
なっちゃう。行儀よくしなければいけないと思うと、よけい縮こまった変な人間に
なってしまう。だから「いけない」をなくさなければならない。
こと
私は「いけない」なんて一言も言わないですよ。ああ私は短気っぽいです。ああ
それはみんな消えてゆく姿、怒りたければ怒りなさい、ただし怒る時には、ああこ
れは消えてゆく姿と思いなさい。あなたの本当の姿じゃないんだから。あなたの業
想念の姿なんだから、消えてゆく姿と思いなさい。そして世界平和の祈りの中へ、
27 祈りと念力は違う
その怒りを持っていっちゃいなさい。そうすると消えてしまいます。とこうやって
教えてる。だから誰も責めやしない。
夫と妻が仲悪くて、妻が夫の悪口を言ってきます。すると大概の宗教では、あな
たが夫を拝まないから、お前が悪いから夫が悪いんだ、とやられるんです。子ども
が不良になりました、というと、お前の教育が悪いから、とこうやられるんです。
宗教家ほどいやな者はないですよ。自分は出来もしないのに、出来るような顔を
して、人ばかり責める。そんな人が自分の子どもがおかしくなった時には、あたふ
たとして目もあてられない。そういうように相談に来る人を責める。来た人は怒ら
れるからますます縮こまってしまう。夫は縮こまった妻の姿なんか見ていたくない
ですよ。だから縮こまらせてはいけません。
私はどうするかというと、あなたの夫は悪い奴だ、そんなのは別れちゃつたほう
がいい、けれども、別れたんではあなたは食べられなくなるでしょ、背に腹は代え
られないから、ここは一つ何か考えようじゃないか。ということでどうやるかで話
28
をしてゆくわけね。
あなたは悪いんじゃないけれど、といっぺん言っておかないと立つ瀬がないでしょ。
夫がそれは一〇〇パーセント悪い、あなたがご相談に来るということは、あなたの
過去世の中にそういうものがあって、それがお返しとして来ているのだから… … と
だんだん話してゆく。お返しが現われて、あなたが一つ殴られれば、それだけ借金
を消したんだ、二つ殴られればそれだけ消えたんだ、蹴飛ばされたら三つぐらい消
えたんだ。やられるたんびに消えているんだから、何かやられたらやられただけ儲
かったと思いなさい。それで世界平和の祈りへ持ってゆくわけです。
そうすると奥さんは気が楽になる。先生にあなたは悪くない、と認められたんだ
から、優越感を持ちますね。ともかく神様は認めてくれた、私はいいんだと、ちょ
っと明るくなります。明るくなった時につけこんで、こっちはますます明るくさせ
ようと思って、やられるたびに消えてゆくんだ、さあ私がついているよ。私がこつ
ちから祈ってやるからね、夫は必ずよくなるから、とやるでしょ。そうすると縮こ
29 祈りと念力は違う
まった妻が急に明るくなります。明るくなった顔をみると、夫もその明りに照らさ
れて、殴ろうとするのをよしちゃうんです。
こっちが少し優越感を持って、先生が味方についていると思うから、愉快ですか
ら、ちょっと明るくなった顔で夫を迎えられる。夫はブスッとしているだろうと思
ったのが、案に相違してニコニコしているような明るい顔をしています。アレ、こ
れなんだろうと思う。ちょっとおかしい気がする。それが三日四日と続くと、アレ
妻がよくなった、とこう思うのですよ。
誰でも暗い顔は好きではありません。誰でも嫌いです。自分が暗い顔をしながら、
人の暗いのは嫌いなものなんです。全く勝手なものです。自分が暗いことをかくす
ために、よけい暗い顔をして妻をいじめるんですよ。まずい下手な宗教家は、夫が
暗い顔をするのは、あなたが夫の実相を拝まないから、夫が神の子だって拝まない
から… … とあなたが怒られちゃう。
いこじ
そう言われると、人間って依枯地なもので、私がこんなに尽くしているのに、私
30
が悪いわけがない、第一、神の子なんて言ったって、実相たって、酒に酔っぱらっ
て、私を殴る奴のどこに神様があるか、拝めっこないじゃないか、とこう思うんで
すよ。腹の中では反発して思うんです。それでは拝もうたって拝めないでしょ。
私はうまいものだから、奥さんはいい気持ちになる。その分だけ明るい顔になる。
拝みなさいなんて言うよりも、明るい気持ちにさせれば自然に、明るい感じが向こ
うへうつってゆく。そうすると変わったと思う。そして向こうが少し変わってくる。
ああ変わったと奥さんが思って、奥さんが変わってくる。ああ変わったと思って向
こうが変わってくるーしまいに業がだんだん消えてしまう。こうすると無理がな
いでしょ。
どんなものでもいいと思えばいい、なんて教えがあるんだね。自分の想いようで、
いやなものなんかない、好きだと言えば好きになる、いいと言えばよくなる、とこ
う言うんです。たとえば魚を食べるにしたって、好みがあるでしょう。うまい魚と
まずい魚を一緒に並べて、両方うまい、と思ったって味は違います。人間には味覚
31 祈りと念力は違う
でもなんでも、すべて判断する能力があります。そういうものを無視して、なんで
もかんでもいいと見ようとする。そういうことには無理があります。
夫は天で妻は地だ。夫は神の子だと思って、夫の言うことはなんでも聞け、なん
ていう教えもあるんですよ。夫は本当は神の子が現われてない、中にあるけれど現
われてないでしょ。業の子でものを言う場合に、なんでも聞いてごらんなさい。落
語のような話があるんだけれど、夫がこれから泥棒にゆく、と言ったらば、すかさ
ず妻が風呂敷を大きいのにしますか小さいのにしますか、と聞くくらいの素直な心
がなくちゃダメという。そんな話を聞いてどう思いますか。それは馬鹿と言うんで
す。それはどこかにごまかしがある。
間違ったことをしようと言うのに、間違ったことをさせる馬鹿がどこの世界にお
りますか? 間違ったことはお互いに喧嘩しないで止めさせる方法を講じなければ
ならないでしょ。それはやはり消えてゆく姿ですよ。
間違ったことをしようとする、あるいはしてしまった、とすると、間違ったこと
32
を夫がしているけれど、あれは夫の業生が消えてゆく姿なんだ、ああ守護霊さんど
うか一日も早く天命を完うせしめ給え、私の業も一緒に消えてゆくんだ、そして世
界平和の祈りにまで持っていってしまう。そうすると、知らない間に、夫の業が消
えてゆく、妻の業も消えてゆく。お互いの業が消えてゆくんですね。
業を現わしているのに、それはいいことだと思って、妻が一緒にやることは出来
ませんよ、そういうのは宗教の教えでも何でもない。理想論を現実に無理無理にも
ってきている。それは無理です。
そこで私は無理のない教えを説いている。それが消えてゆく姿です。
消える姿というものは、祈りにつながるのです。念力じゃないんです。思う通り
になる世界だから、思えばいいんだ、なんでもいいから思うんだ、欲しいものを念
ずるんだ、そうすれば欲しいものは与えられるんだ、とこう言うんです。与えられ
るかもしれない。しかしそれは神様が与えるんでもなんでもない。業想念の三界の
中で無理無理つかんできたことであって、自分の一生において与えられるものが決
33 祈りと念力は違う
まっているのに、先取りしちゃうわけです。先取りしたら、あとから何も与えられ
ません。
与えられるものは決まっている。その中で神様がうまーく配分してくれるんです
よ。それを目の前が苦しいものだから、無理無理とっちゃう。念力でどこからか引
張り出してきますと、神様からもらったものではないから、今度は減ってしまう。
それこそ一家心中しなければならないような責めに、追いこまれてしまうことがあ
る。無理無理、金を念力で奪いとるような場合は、あとで必ずそのお返しが来て、
奪いとった分のお金を払わなければならなくなるわけなんですよ。だから念力はダ
メなんです。
神様にまかせなければダメ。神様にまかせるのが祈りなんです。守護霊さん守護
みニころ
神さん有難うございます。すべておまかせいたします。という形ね。御心のままに
なさしめ給えとキリスト教では祈りますね。それが祈りなんですよ。世界平和を祈
ることが祈りなんですよ。
34
世界人類のために祈る、世界人類が平和でありますように、自分の天命が完うさ
れますように、守護霊さん守護神さん有難うございますこういうのは無我でし
ょ。何を与え給え、というんじゃない。そして祈りの中へ入ってゆくと、神様のみ
心なんだから、光り輝いているみ心なんだから、そのみ心の中から自分の平和が与
えられるんです。世界平和の中に自分個人の平和があるんです。ですから、個人の
平和が成就されると同時に、世界の平和を成就させるのが世界平和の祈りなんです
よ。
世界平和の祈りの中には神々が光り輝いて働いている。この祈りは救世主がやっ
ているのですから、救世主の大光明なんです。その大光明が世界平和の祈りとして
私に説かしている。他にいろんなことを説かしているでしょうが、私には世界平和
の祈りを説かしている。
その祈りの中に守護神がやがて降りてくるだろう。宇宙人が肉体と同じような形
で降りてきて、宇宙科学をもって暗黒のサタンの武器を押さえるであろう、という
35 祈りと念力は違う
のが私への神示なのですよ。それで私は一生懸命世界平和の祈りをやっている。
私の唱える世界平和の祈りというのは、世界人類の平和とともに、自分の家庭の
平和、大調和にもなる。業想念がみな世界平和の祈りの中に入っちゃって、おのず
と本心が開いてくる。本心が開くということは、自分が光になるのだから、自分の
光が全面的に出るのだから、不幸などありっこない。みんな消えていってしまう。
光が出るに従って、不幸はどんどん消えてゆく。
今、貧乏のドン底にあって苦しい人があるかもしれない。あるいは病気で苦しん
で、死にそうな人があるかもし剃ない。しかし一番悪い時は、業が全部消え去ろう
として、光がパアーッと現われようとしている時なのです。冬が深くなれば春が近
いんだ。冬がはんぱでは春が来ない。秋から春になることはない。四季がそういう
ようになっていると同じように、冬のつらい時があって、そのつらさが深ければ深
いほど、冬が消え去ってゆく時期が近くなっている。本心が開きかかっているとい
うことです。それは個人もそうだし、人類もそうです。
36
あらゆる人類の業想念が地球の表面に浮かび上がって来て、滅亡してしまうだろ
うという瀬戸際に追いこまれているのに、未だに自分だけのご利益を願い、自分の
国だけの利益を願ったら、自分の宗教団体だけの利益を思ったり、自分の会社だけ
の利益をはかったりしているだけの人が集まったら、地球はいっぺんに終わりにな
ります。終わりになったら自分も何もないです。
だから自分ということはさて置いて、まず世界人類を戦火から救わなければなら
ないです。それが世界平和の祈りなんです。この世界平和の祈りというのは、人類
を戦火から救うと同時に、自分自身も救うのです。同時に自分の生活環境も立ち直
ってゆくのですよ。何故かというと、世界平和の祈りの中には、救世主の大光明が
こカつこもつ
焼々として輝いているのだ。
世界平和祈るは神のみ心の
ひゞきにあれば祈るたのしさ
と歌っているように、祈っている人の姿は光り輝いている。わかりますね。それ
37 祈りと念力は違う
は誰が見てもそうなんですよ。家内安全、商売繁盛というのは、祈りのように見え
ても、光っていない、業の中でうずくまっている姿です。どっちがいいかと言った
ら、光り輝いているほうがいいに決まっているんです。
先生、世界平和の祈りだけでは、なんだか自分のことは一つもないような、それ
につけ加えて、家内安全、商売繁盛をやっちゃいけませんでしょうか、と聞いてく
る人がある。
それは結構ですよ。ただし、世界平和の祈りを先におやりなさい。家内安全も商
売繁盛も自分たちの健康も、みんな祈りの中に入っているんだから、いちいちつけ
加えてやらなくたっていいんです。けれどもやりたい人があったら、それは結構。
あとでつけ加えてくださいよ、というわけなんです。
38
世界平和の祈りについて
(昭和34年2月)
神様に波長を合わせる祈り
世界平和の祈りというものは光り輝いている祈りで、これを形、名前、言葉をか
えてやってもいいか、というとそうじゃないのです。
何故、世界人類が平和でありますように、と当たり前の言葉を使っているのか。
私は本来歌人で詩人ですから、詩的な流れるような文章や言葉を書くのが得意なん
です。だけど世界平和の祈りはそうではなく、平凡な言葉でリズム感もないし、詩
的でもない。当たり前の誰にでも出来る言葉をわざわざ使っている。
誰にでも言える言葉というのは、誰も言わないんですね。”世界人類が平和であり
39世界平和の祈りについて
ますように、日本が平和でありますように、私たちの天命が完うされますように”
こんな言葉は誰でも言いそうなものです。ところが私が言い出すまでは誰も言わな
い。面白いもんですね。
言葉の盲点というんですね。あまりやさしいから言わない。難しいような言葉で
みなやっている。キリストの主の祈りなんていうのはいいですよ、けど難しい。
“み心の天の如く、地にも行なわれんことを。われらの日用の糧を今日も与え給え。
おいめ
我らに負債ある者も我らのゆるしたる如く、我らの負債をもゆるしたまえ” これは
やはりピンと来ないです。世界人類が平和でありますように、これはピンと来ます。
口をきけるものなら三才の子でもやっています。それがいいのです。その言葉を通
して想いが入ってくる。世界人類が… … という時は、自分の想いが世界人類の大光
明の中に入ってゆく。
それでこの世界平和の祈りの四行の言葉を、全部言わなければならないものでは
ないのです。”世界人類が平和でありますように”だけでもいい。世界が:… ・と言
40
った時、寝る前に一つお祈りして寝ましょう、といって、”世界人類が… … ” グー
ッと寝ちゃってもいいんです。
何故そう言うかというと、世界人類の平和を祈ろうとする想いが出た時には、す
でに自分の中に世界平和が瀕っているからです。なぜ涯っているかというと、人間
は本当の姿は神の子だから、神様と一つのもので、光り輝いているものであるから
です。だから世界人類が… … と波長を合わせると、ダイヤルをまわすと、パッと神
様の光の中に入っちゃうんです。そういうふうにしてあるんです。そのために私が
いるんですよ。ここに五井先生という肉体がいるんです。
そして皆さんが世界人類が… … と思う時には、ダイヤルが合わさる。こっちは光
の中に導いて入れてゆく。だから世界平和の祈りというのと、五井先生っていうの
と実は同じなんです。世界人類、五井先生1 って言ったっていいんです。それで
パッと波長が合うんですから。そうすると光が天まで届いて、あなた方の肉体を通
って光が横にズーッとひろがってゆく。だから畏れかしこまって膝まついて祈らな
41世界平和の祈りについて
きゃならないものでもない。気楽な気楽な気持ちで祈っていればいい。
そういう時だけでもないんですが、そういう時は自分の想いというものは、業想
念をぬけ出ています。憎らしい、恨めしい、貧乏だ病気だ、なんだかんだという想
いが頭の中にある。その想いが世界人類の中に入ってゆけば、それだけ消えてゆき
ます。消えてゆくと同時に光が入ってくる。煩悩即菩提ということです。煩悩が出
てくると、すぐ菩提心に変わってゆくというのが、世界平和の祈りなんですよ。そ
れをよくよく噛みしめて、世界平和の祈りを祈ってゆくんですね。
世界平和に明けて、世界平和に暮れていればいいんですよ。
言葉で、世界人類が… … と言わなくてもいいですよ。世界平和なんだな、世界平
まことのごと
和の祈りなんだな、でもいい。”天照らす真の光地に呼ぶと我が祈り言は平和の祈
り” という歌がありますね、それでもいい。五井先生五井先生でもいい。なんでも
自分の中が光に合う想いが出ていけばいいんです。そうすると、いつの間にかだん
だん本心が輝いて、今まで怒りっぽい人が怒りっぽくなくなって、妬みっぽい人が
42
妬みっぼくなくなり、愚痴を言ってた人が愚痴を言わなくなってます。おばあさん
方で愚痴ばかり言ってくる人が、いつの間にか愚痴を言わなくなる。有り難がって
ますよ。
知らないうちに、一般の大衆が出来る祈り、それが末法の本当の宗教だと思う。
むずかしいことではダメです。行者さんはいいですよ。滝にあたってもいい、山に
登り、海に入ってもいい、それは結構です。やりたいんだから。やりたくない人は
易しくやりたい。よくありますよ、こういう方法をやれば体が丈夫になります。な
んて教わって、一回か二回かはやる。あとはもうやらない。面倒くさくなる。私も
そうだったけれども、寝る前に足をのばして、腰をグーッと上げる、と胃腸のため
にいいって言うんですね。毎日やるかというと毎日やらない。しまいにやらなくな
っちゃう。
ところが世界平和の祈りのように、口でするものは、逆立ちするわけでもなんで
もないから易しい。思うんだからこれは一番易しい。これ程やさしい方法で世界人
43世界平和の祈りについて
類のために尽くせる方法はないんです。ちっとも難しくない。ところがインテリの
人たちは、そんなやさしい方法で世界がよくなるわけがない、と思っている。思っ
ているのは勝手に思っているだけ。もっと難しい何かこみ入ったことは、呪文か何
か唱えなければダメだね。呪文はいつも私が唱えているんだ。
世界の平和の祈りをしていて、霊覚も何もない、神様のことも何もわからない人
が、ただ世界の平和の祈りをやったって、それはダメなんですよ。ただ単なる言葉
にすぎない。本当に深く思わない。
ところが私の唱えている世界平和の祈りというのは、神様のほうから救世の大光
明のほうから、ここへ通ってきて、この器を通して教えているのです。神様が言う。
神々が世界平和の祈りをしているんだから、神々が世界平和の祈りとして光ってい
るのだから、お前たちは世界人類が平和… … と言った時には、神々を呼んだんだ、
救世主を呼んだんだ、だからお前のところに忽ち大光明がいくんだ、とこういうこ
とになるんです。

実際、大光明がいっている人が随分あるんです。霊能者が見ているんです。皆、
光り輝いているのですよ。世界平和の祈りをしていれば、自分は光り輝いている。
やや
病める人病みたるま・に先ず祈れ
のごと
世界平和の神の祈り言
苦しかったら苦しいままで祈ればいい、悩んだら悩んだままで祈ればいい、その
ままで祈ればいい。歯を磨いて、口をすすいで、きちんときれいにしてから祈らな
ければならないという、今までの祈り方では間に合わない。世の中は面倒くさくて、
手間がかかるとそれだけでやらなくなる。手間がかからないで安直に出来る、しか
も神様の中に入る、というのが末法の世の一番のやり方ですね。
守護霊守護神がお掃除してくれている
皆さん神の子です、と言われても、神様につながっているのですよ、と言われて
も、どうもなかなかそう思えないんですね。神様は愛だから、あなた方を決して不
45世界平和の祈りについて
幸にしないんですよ、と言われても、何か不幸になるような気がするのですね。
それは何故かというと、前の世、過去世において、いろんな恐怖を味わってきて
いる。たとえば火事で焼けて死んだ人がいるとする。生まれ変わってくるととても
火事が恐かったり、地震でつぶされた人であったりすると、生まれ変わってくると、
地震がとてもこわかったりする。恐怖の想いというものは、前の世、前の世から積
まれている。だから、豪傑であっても、馬に蹴とばされて死んだことがあったりす
ると、馬がこわかったりする場合もある。
そういう恐怖の想い、業想念が溜まっていて、神の子である光を邪魔している。
それで神様の子である、ということがなかなか思えないんです。神の子だ、光の子
だと思うと、なんだか自分が悪いような気がしちゃうのね。そういう人は無理無理、
神の子と思わなくてもいい。そういう人は守護霊守護神の中に入っちゃうんですね。
それで守護霊守護神に助けられて生きる。守護霊守護神がいつでも自分を見てくれ
ているんだから、いつも守護霊さん守護神さん有難うございます、と感謝してさえ
4G
いれば、いつでも助けてくださるんだと思うことが大事ですね。
守護霊守護神も目に見えないから思えない、と思う人は”五井先生”と思いなさ
いよ。そうすると五井先生が必ず助けます。現われますよ。夢の中に現われるかも
しれない。目に見えるように現われるかも知れない。どういう形で現われるか、そ
れはその人その人によって違うけれども、呼んでいれば必ず現われます。危ない時、
その人の危急存亡の時には必ず現われますよ。
この間、飯田橋の会の時、熊沢さんが体験談をなさった。熊沢さんは南朝の天皇
こうえい
の後商ですが、お母さんが急に具合が悪くなった。一生懸命、五井先生と呼んだら、
それも一家中で呼んだら、五井先生の霊体がそのまま熊沢さんにうつって、お母さ
んを助けた。一旦死んでしまったお母さんを助けた。しかも”市川の五井が助け
る” と名乗って現われた場合もある。(『新しい朝』〈体験記集1>参照)
そういうふうに現われなくても、夢で現われて助けてくれるかもしれない。バッ
となんだか感じて助けてくれるかもしれない。パッと光が見えて助けてくれるかも
47世界平和の祈りについて
しれない。あるいはハッと思わず立ち止まって、自動車にひかれないということも
ある。そのように呼んでさえいれば必ず助かります。だから守護霊さん守護神さん
と呼べない人は、五井先生って呼んだらいい。世界平和の祈りをなさりたい方は世
界平和の祈りをなさったらいい。
守護霊さん守護神さん有難うございます。それが一番ピーンとくれば、それがい
い。
五井先生1 が一番ピーンとくれば五井先生がいい。
神様! ってただ神様を呼ぶのが一番ピーンとくれば、それでもいい。
どれでも一番ピーンとくる、一番自分の心が納得する想い方をしたらいいですね。
どういうふうに思おうと、いつでも神様は守護霊守護神の姿として、あなた方の
うしろから守っている。そしてあなた方は神様の分霊なんです。その分霊の光を出
そうと思って、守護霊さん守護神さんがうしろから一生懸命、寝ても覚めても業想
念をお掃除してくれているんです。
48
みなさん夢を見ますね、悪い夢を見たとする。すると悪いことがあるんじゃない
かしら、と思う人が多いんですが、そんなことはありません。どんな悪い夢を見て
も、どんないやな夢を見ても、それは過去世からの業想念が運命として表面に現わ
れるものを、守護霊さんが夢の中で消してくれているんです。消してくれているん
だから、悪い夢を見ようと、恐ろしい夢を見ようと、そんなことはちっとも心配す
ることはない。心配で仕方なかったら、私のところに来ればいい。私がポンポンと
はらって、そんなもの消してあげます。そのようにいつでも、安心立命するような
想いで生きてください。
49世界平和の祈りについて
なむあみだぶつ
問南無阿弥陀仏とはどういう意味があるのでしょうか、教えてください。
(昭和34年3月6 日)
きみょう
答南無というのは帰命という意味です。これは日本語じゃありません。です
から南無阿弥陀仏とは、阿弥陀仏に帰命するということです。
帰命というのは、一つになるということです。阿弥陀様の中に入るということで
す。もういっぺんいいます。南無阿弥陀仏というのは、阿弥陀様の中に入るという
こと、神様と一つになるということです。だから一向専念南無阿弥陀仏というのは、
唱名を通して神様の中で、仏様の中に一つにしてしまう、想いを全託することなん
です。
悪い想いがあろうとも、憎しみの想いがあろうとも、妬みの想い、怒りの想いが
あろうと、なんの想いがあろうと、南無阿弥陀仏と仏様の中に入れちゃうんだ。
何故ならば、肉体の人間というものは凡夫で、何にも出来やしない。どんないい
50
考えでも、どんな修行をしても、自分が神様、仏様と一つになることは出来ない。
一つになれない自分を、全部、阿弥陀様という名前で現われている、神様の中に入
れてしまおう、南無阿弥陀仏とこうやったんです。
南無阿弥陀仏の唱名によって、自分がなくなっちゃうわけです。阿弥陀様と一つ
になってしまう。唱えるのは知恵があろうとなかろうと、学問があろうとなかろう
と、誰でも出来るものね。
それは世界平和の祈りと同じ。私は前の世で南無阿弥陀仏を、やりつづけにやっ
ていた人なんです。だから私は南無阿弥陀仏の意味を実によく知っている。
念仏は何も西方極楽浄土でなくたっていい。南方だって東方だって構わない。人
間というのは面白いものでね、一つ所に想いを集中させないと、神様は宇宙に遍満
していると言っても、どこに神様がいるかわからない。遍満するなんて掴みようが
ない。どこか掴みたい。そこで西方極楽浄土というと、あるのかないのかわからな
いけれど、ありそうな気がするでしょう。西だと方角が決まります。そこで西方極
51 問答
楽浄土の阿弥陀様と言ったんです。
南無阿弥陀仏と言えば救ってくださるんだ、と普通の人は皆そう思った。ところ
が法然や親鸞はもっと上に行っている。守護神と阿弥陀様、いわゆる宇宙神とを一
つにしちゃっているんです。それで南無阿弥陀仏と言ったんです。
私の場合は、ここに居ます。そうすると五井先生を通した世界平和の祈りでしょ
う。五井昌久という肉体がいる間は、いつでも誰でも、世界平和を祈る時は知らな
いうちに、五井先生を思う。法然や親鸞がいた時は、人々はああ法然上人ナムア・、、
ダブツとやったに違いない。ああ親鸞上人ナムアミダブツとやったに違いない。法
然のことが思い出され、親鸞のことが思い出されてナムアミダブツとやったわけで
すね。そうすると、親鸞が一つの器になって、親鶯を通してアミダ様にゆく。法然
を通してアミダ様に行ったんです。
じょうごん
それが法然や親鸞がいなくなったあと、よほど上根の人でないと、そこまでいか
なかった。ただ自分のご利益のために、何か悪いことしてはナムアミダブツ。泥棒
52
してはナムア、、、ダブツとやってるのがあるんだ。泥棒しても何にしても、ナムアミ
ダブツと唱えれば助かると思った。弟子たちの教え方がまずかったわけね。
私の場合はそれを世界平和の祈りにした。世界平和の祈りのほうが、アミダ様を
思うよりも広いし、何か意義があるでしょう。ナムアミダブツというのは、自分だ
けが救われそうなんだね。自分だけは助かるけれども、世界のためにはなんでもな
いでしょう。もっとも、法然、親鸞の頃には世界なんてなかったからね。日本だけ
せま
でしょう。だから狭い。だから自分だけ救われる教えでもよかった。
今は自分が救われることと、世界が救われることと同じなんだから。自分だけが
救われたってしょうがないんだね。世界の波が押し寄せてくるからね。それで自分
が救われると同時に、世界人類が救われなればならない。そうすると、世界人類の
平和を願う祈りが一番でしょう。
そうすると世界人類が救われる祈りは、神様のみ心なんです。アミダ様のみ心な
んです。キリストのみ心なんです。大日如来のみ心なんです。お釈迦様のみ心なん
53 問答
です。すべての神様のみ心、つまり大神様のみ心ですよね。
そこで世界平和の祈りという乗り物に乗って、自分が神の子になり、神の子の光
を一瞬にしてこの地球界にふりまくわけです。
世界人類が平和でありますように、という時は、自分が神様の中に飛び込んでい
て、同時に光が自分の体を通して、この地球にまかれているわけ、横に拡がってゆ
くわけなんです。
だからいつも世界平和の祈りをしている時は、世界人類のために自分は働いてい
るんです。社会主義運動をしているよりも、右翼思想の活動をしているよりも、世
界平和の祈りをしている人のほうが、よっぽどこの世界のために働いているんです。
八十のおばあさんでも、九十のおじいさんでも、病人でも子どもでも、みんな世
界平和の祈りをしている時には、世界人類のために働いているんです。光明を地球
界にふりまいているわけです。
恨みの想いが出たら、妬みの想いが出たら、また自分のほうがよくても、自分の
54
心を乱すような想いが出たら、みんな世界平和の祈りの中にお返ししちゃって、世
界平和の大光明で消してもらうんです。そうすれば、自分がこの世に生きているこ
とが、世界人類のためになる。
業想念ばかり出して、それを消さないでいれば、自分は人類のマイナスになって
いるわけです。ああ消えてゆく姿だな、すべては消えてゆく姿だ、世界人類が平和
でありますように、という時には、自分は世界人類のためのプラスの役目をしてい
る、と思ってください。
55 問答
世界平和の祈りは神のみ心
(昭和34年3月26 日)
塚本清子さんの体験記
〈注〉五井先生のお話が始まる前に、塚本清子さんの体験発表があった。録音がお話の途
中からされていたが、充分意味が通じるので、ここにそのまま掲載する。
塚本清子さん談
「個人指導の時、先生が”今日は病気が治る秘訣を教えてあげましょう。三つの
約束が出来ますか? “とおっしゃいましたから”ハイ、先生のおっしゃることなら、
なんでも約束できます”とお答えしました。私は夢であっても、先生のことなら一
〇〇パーセント信じ、一〇〇パーセン上言うことを聞き、大変素直なんです。
SG
“あなたは患部を触って、こんなに大きくなって、一体どこまで大きくなるんだ
ろうか、と心配ばかりしている。だからいけない。明日から絶対に患部に触っては
いけない。それが一つ。
二つ目は私がお浄めで病気の想いを消してあげても、あなたは病気だ病気だ、と
家に帰ると思う。私は病気だからいつ頃死ぬのかな、とカレンダーを見れば、私の
命日はいつかなと思い、先生が消せば、そばから病気だ病気だと思っている。それ
ではいくら消しても限りがない。もう明日から、決して病気だと思っちゃいけない。
三つ目は、あなたはあと一ヵ月で死ぬか、三ヵ月で死ぬか、と思っているけれど、
人のいのちは神よりほかに知らない。丈夫で歩いている人だってあと五分後のいの
ちかもわからない。今夜にも自動車にはねられたり、ガス中毒で死ぬかもわからな
い。そうかと言って、今、寝ている人が十年二十年生きるかもわからない。
だから、もう今日一日のいのちだ、と思って、半年後だの三ヵ月後だのと考える
ことは絶対やめなさい。
57世界平和の祈りは神のみ心
あなたは今日一日、夜までだと思いなさい”
先生に言われて、約束しますと申し上げました。そうしたら翌日から、何か皮が
むけたような気がして、花も星もみなきれい、犬も猫も子どもたちもなんて可愛い
んだろう、と思えるようになりました。何か仕事をするんでも病気なんて思わない
んです。晩までのいのちなんだから、一生懸命やろう、という気になりました。
病気ということを思うな、とおっしゃっても、私は病気の前半をある宗教団体に、
後半を先生のところにご厄介になって、その想い方の教えの違いがあって、それこ
そ病気のことを忘れるひまがないくらいだったのが、先生のお浄めによって、私は
すっかり病気を忘れてしまったのです。
そして世の中がなんて美しいんだろう、と思って、葉書一つ書くにしても、あの
人から来たこれが最後だな、と思って見てくれると思うと、本当にいい加減なこと
は書けない。道ゆく人にただ挨拶するだけでも、あの人昨日会ったのに、もう死ん
じゃったの。昨日はつんつんしてたわねエ、なんて言われたんじゃいやですから、
58
ねんごろに丁寧に心をこめてお辞儀をするんです。子どもたちも叱れないんですね。
タベまでお母さん、あんなにプンプン怒ってたのに、今朝のびちゃって、いい気味
だなんて言われたらしょうがないから(笑)子どもを絶対叱らないんです。
本当に世の中、今日一日だと思ったら、楽しくて嬉しくて、病気どころじゃない
んですね。それで五井先生のお浄めには、体がたまに痛くても、先生のところに一
足でも近くよって死ぬんなら死のう、最後のお浄めをしていただいて死のう、と思
って通っていたんです。
そしたら一昨年四月の初め頃、夢を見ました。気がついたら顔に白い布がかかっ
ているんです。ああこれは死んじゃったのかな、と思って(笑) 白い布の間からち
ょっと見ますと、左右にお医者さん一人と看護婦さん、向こうに看護婦さんが大勢
いらつしゃる。これはどうも手術されるようだ、と思ったんです。手術されたら治
るかも知れないと思っておりましたら、大変いい匂いのものを鼻のところに当てら
れました。それっきりわからなくなってしまい、翌朝目が覚めたわけです。
59世界平和の祈りは神のみ心
六月二十八日頃、頭が痛くて目が廻って、家がぐるぐる廻って寝ておりましたら、
上から下から、吐いたり下したり大変だったのです。四日間ばかり、何も口にしな
いで、苦しくて痛くて寝たきりでおりました。ああそうだ、五井先生にお願いして
みよう、とお腹に手を当ててみた。四日も頂かないのですから、洗面器の底みたい
こぶし
にぺちゃぺちゃなんです。そしたらおにぎりがないんです。こんなに大きな握り拳
より大きな固まりがあったのが、なくなっちゃっているんです。どこをさがしても
ないんです。しばらく呆然としておりました。
これは一番に先生にお礼申し上げなきゃ、と思ったんですけれど、治ったことも
また忘れてしまい、今日まで先生にお礼申し上げるのを忘れてまして、どうも申し
訳ございません(爆笑)。
私は五井先生をよく夢で見ます。夢の先生は大変こわいですけれど、この世の先
生は大変お優しい。夢の先生はいや応なしに来てくださるものですから、逃げるわ
けにはいかないです。コーヒーなら高貴な香りの高い苦い純粋のものであるけれど、
GO
この世の先生は、ミルクをまぜたり、お砂糖をまぜたり飲みよくしてくださるから、
皆さんこんなにたくさんいらっしゃるんです。
夢の中の先生は大きな目玉で、眼鏡をかけていらっしゃらないせいか、とっても
こわいんですね。
そして守護霊さんですが、ポツポツ頭の中にささやいてくださるんです。お風呂
に入ってぼんやりして、世界平和のお祈りなどしてますと『電球を見てごらん。空
気中に電気が充ち満ちていても、電球がなかったら光を現わすことが出来ない。そ
れと同じように、あなたたちの身体がなくては、神様のみ心を現わすことが出来な
い。だから輝く夜のネオンをうらやましがらないで、たとえ2 ワットの電球であろ
うとも、精一杯神様のみ心を現わし、神様のお力をこの世に現わすようにしなさい。
あなたは2 ワットの電球でも、一生懸命光ればいいんだよ』てことをささやいてく
ださるんです。
そうかと思うと、道を歩いていますと、
61世界平和の祈りは神のみ心
『あのクズ屋さんとあなたは同じなんだよ。いっぱいリヤカーに積んでいるよう
に、あなたは背中にたくさん業を背負っている。それが見えたら先生の前なんかと
ても出られないくらい恥ずかしいほどたくさん業を積んでいる。
それを先生がしきりやさんじゃないけれど、ポンポンとお浄めして、その業を光
に替えてくださるんだよ』ということを、声じゃないんですけれど、教えてくださ
るんです。それは確かに守護霊様じゃないかと思います。私はやはり小さい時から、
神様神様とすがりついておりましたから、私を守っていてくださる神様があるんだ
な、と思っていました。
斎藤秀雄さん(元白光真宏会事務局長、副理事長) のおっしゃった全託手帳を、
はんたく
私もいつも頂いているようで、考えてみると時には半託になったり、執着手帳にな
もっぱ
ったりしています。ですから専ら、全託全託、すべて何もかも全部先生におまかせ
してゆくことにしております。
夢の中の先生は叱るばかりではなく、時々面白いことをおっしゃったり、見せて
62
てのひらころほうじゅ
くださいます。この間も、掌の上に玉をころころ転がしていらっしゃるから、宝珠
の玉かと思ってみてましたところ、紫や緑や大変きれいに光って、くるくる廻って
いるんです。そしたら先生ちょっとおひげをはずして、玉を一生懸命磨いていらっ
しゃるんですね。ああ先生のおひげはああいうことに役立つんだ、とよく見ており
ました。その玉は地球なんです。掌にコロコロころがして、地球を磨いていらっしゃ
るんです。ほこりを一生懸命払っている。そしたらポッとおひげをまたつけた。
ちょつと
あれから先生のおひげを一寸ひっぱってみたくなっちゃう(笑)。昔よく子ども
に、どうして先生おひげをつけていらつしゃるの、と聞かれますと、おひげつけて
いらつしゃれば立派でしょう。だって猫だって犬だってひげがあるよ、と言われて
困ったんですけど、先生鼠をとるためのおひげじゃないですけど、やっぱり地球を
磨くために(爆笑)、はじめて先生のおひげのお役の立ち方がわかったのです。
いろいろ私は面白い不思議な有り難い夢を見るんです。この間も、朝ぼらけのよ
うな薄明りの中に、鐘つき堂があり、大きな鐘がある。たくさんの方々が次々と上
63世界平和の祈りは神のみ心
ってきては、つついていってしまう方もあれば、小さな棒を持ってきて、コンコン
しゆもく
叩いていってしまう方もある。そうかと思うと、一生懸命撞木を握っていい音を出
して叩いている方もあるんです。
あれが(鐘が) 五井先生だよ。指先きで一寸突っついて鳴らない、と行ってしま
う人もあるし、いのちがけで鳴らしてゆく人もある。鐘が鳴らないんじゃない。お
前たちが鳴らさないんだよ。自分の鳴らしただけのものが返ってくるんだよ。おか
ふくつら
げがないと膨れっ面しても、それは自分の鳴らし方が悪いんだーというふうに守
護霊様でしょうに、いつも説明者がつくんです。霊界のようなきれいな所へ連れて
行っていただいて、一つ一つ丁寧に説明してくださる。地獄へ行ってもやっぱり説
明してくださる。私はそういうようによく夢を見ます。
私は今まで病気のほうで、息をつくひまもないくらい、厳しいご修行ではござい
ましたけれど、五井先生1 と申し上げると、今でも有り難くて有り難くて涙が出
るほど有り難いんです。

私は霊的でもなんでもない、平々凡々な家庭の主婦で、毎日仕事着を着て働いて
いる人間が、どうしてこんなおかげを頂いたのかと思いますけれど、それはただ一
筋に、もうひたすらひたすら先生を一〇〇パーセント信じたところにあるんじゃな
いかと思うんでございます。
皆様もどうぞ世界平和のお祈りをご熱心にお続けになりながら、たくさんのおか
げを頂いてくださいますように。ご拝聴有難うございました」。
あの人はずるいですよ。あんなにうまくしゃべれるのに、私はダメです、私は無
口ですって、今まで少しもしゃべらなかった。とうとう今日は引っ張り出されてお
話しした。
守護霊さんが塚本さんをしゃべらせている。塚本さんは面白い人で、あたり前の
主婦なんです。ご主人は学校の先生、あたり前の家庭で、霊的なところが一つもな
い普通の人です。
65世界平和の祈りは神のみ心
私がいつも言いますね。あたり前の日常生活をして、少しも常識から外れない。
それでいて霊的な力を持っている、そういう人が一番いいと私は思うんです。はた
に迷惑をかけないし、自分もつらくないし、しかし病気のほうではつらかったです
ね。いろいろと修行しないと、本物にならないけれど、気の優しい、とてもいい人
です。それで感じるんですね。
お父さんはもう亡くなられて、五井先生五井先生で亡くなり、亡くなった時から
天国へ行っている。高い所へ行っている。そのお父さんとそっくりな性質なんです。
塚本さんのお子さんが学校の帰りに、ちょっとエスケープして映画を見に行こう
か、と思った。塚本さんはかまどに火をくべながら、「迎えに行け」、そして「この
道を行け」というように出てくるわけ(声ではない)。それで矢もたてもたまらず、
そこへ行きたくなり、道が二つに別れていたけれど、行けという道を行ったら、パ
タッと子どもと会う。そこでポンと小言を言った。お母さんはこわい、なんでも見
抜いている、なんでも知っている、というふうに子どもさんが思って、それ以来、
66
そういう振舞いは絶対にしなくなった、という霊的体験が無数にある。
夢でもみんな正夢ですね。鐘の話なんか面白いです。あの通りです。言ったこと
全部本当なんです。
実際、話はうまかったね。自然に言うからいい。うまく話そうと思うと話が出来
ないし、すべて守護霊さんにまかせ守護神さんにまかせ、五井先生にまかせてあれ
ば、しゃべっていいことをスースーしゃべる。話をするんでも、仕事をするんでも、
あまり自分があってはいけませんね。自分の想いがあるのは業想念、思慮分別とい
うんです。なんかうまくしゃべろうとか、どうしゃべろうとか、というのはない。
ただ計画はしなければならない。ここからここまでを話そうと計画しておいて、あ
とは出たら出たで、そのまま話せばいい。
本当の霊感とは
皆さんは自分では霊的ではない、自分は何もわからない、と思っている人が随分
67世界平和の祈りは神のみ心
あります。けど、霊的でない人は一人もいないんです。何故いないかというと、み
んな霊魂が肉体という器を使って働いているのですから、霊的でない人はいないわ
けです。
ただ霊的なものが本心から発現するのか、守護霊守護神とつながって発現するの
か、あるいは変な迷いものが愚いて現われてくるのか、と違いがあります。塚本さ
んの場合はおのずから自然に、霊的なものが発現して、ああいう形になったんです
ね。
夢の先生ばかり好かれて、肉体の先生はいらないと言われちゃ困るから、肉体の

先生は優しいから分がいいです。向こうは本当にこわい時がある。というのは直霊
です。まともに言いますからこわいです。お酢も砂糖もバターもつけないで、生の
ままで食わせますからね。お前これ食え、とやられますからね。まあそれくらいで
ないとね。向こうが優しくて、こっちがこわいんでは、こっちは嫌われて、もうい
らないなんてことになったら、私が立つ瀬がない。そこはうまく出来ているんです。
68
神様のやることはなかなかうまいんです。向こうと、器のほうも守っている私と緊
密な関係を常にとっている。みんなもそうなんです。
自分だけここにいると思ったら、間違いなんですよ。肉体にいる自分と、神界霊
界にいる自分があるんです。誰にも彼にもみんなあるんです。だけどそれを発現し
ていないだけ。本当の姿を出してないのですよ。出していないから、自分の本体が
わからない。しかし、守護霊さん守護神さんといって、いつも感謝している人は、
守護霊の力が働いて、行きたくなかったり、何か感じて危ないことを未然に防いだ
りすることは随分あるんです。
私なんかの場合は、全部が全部、神様の中に入っちゃって、直霊とこちらの分霊
とが一つになった。親子が一つになった。こちらが子どもとすれば直霊は親なんで
す。親子の関係です。おじいさんと子どもという感じの縦の関係です。守護霊さん
守護神さん有難うございます。という時、守護霊さんともくっつく、分霊ともくつ
つく、守護神とも直霊ともくっつく。四体全部が一つになってしまう。そうすると
69世界平和の祈りは神のみ心
のんき
本当の霊覚者ということになる。そうすれば呑気なもんですよ。冗談ばかり言って
りゃいいんですからね。
仕事はそのうちちゃんと出来てきて、みな浄まってゆくのでしょう。柏手を叩く
んでも、三拍四拍叩こうなんて思ったことはない。今日は強く叩いて見せようとも
思わないし、今日面倒くさいから止めておこう、と思ったこともないし、なんにも
思いやしない。
天から要するに太陽の光が、パッと光ってくるのと同じなんです。この肉体が仮
にあって、姿が見えず、なんにもないところから、ポンと音が聞こえたら、「お前
は」なんて言われたんでは困るでしょう。やっぱり顔がないといけない。顔見世に
こうやって出ている。
眼鏡を外せばこういう顔なんです(眼鏡を外す)。夢の先生は眼鏡をかけてない。
私も外したり、かけたりする。こういう顔なんです。
イエスさんもこういう顔です。大体似ている顔だちです。お釈迦さんもこういう
70
顔立ち。仏像は完全円満相というものを形どって、円満の丸い顔になっています。
しかし大体、霊覚者の人はこういう顔をしています。仙骨といいますね。おでこ
がこんなに広くなって、イエスさんもお釈迦さんも本当はそんな形なんです。丸く
て肉づきがよい、と言ってもいいけれど、だけども私のような顔が多い。まんまる
に肥った仙人なんていない。霊的な修行を長い間やっていると、どうしてもだんだ
んけずられてゆくんでしょうね。大体、向こうの先生もこういう顔で現われてくる。
肉体界から神界といっても、幽界、霊界、神界と説明してますが、その間にたく
さん層があるんです。月が波にいくつも映っているように、本体がいくつもいくつ
も映っているんです。本体が映っているんだけど、真っ直ぐに映っているのではな
く、いろいろな波で切れぎれに映りますね。月でも太陽でもチリヂリに映って、本
当の形がわからないようなものです。
ところが波がない、要するに業想念がなくて、静かに不動の心でもって澄んでい
る人は、丸いものはそのまま丸く映るんです。そうすると、月というものは丸いも
71世界平和の祈りは神のみ心
のだな、光り輝いているもんだな、ということになる。それを私たちは知っている
わけです。イエスさんもお釈迦さんも知っているわけです。自分の体験でわかる。
本当の霊感というのは、声が聞こえてくるというのもあります。ただ幻聴という
ものではありません。とにかくスッとわかる。自分では声がちゃんと聞こえる形で
みみもと
す。耳許でガチャガチャ騒ぐのではない。中なんです。いろいろな知らせ方があり
まして、声もなんにも聞こえない、姿も見えないでパッとわかる。それからパッと
しゃべらせられるのもある。中で鳴りひびくのもある。
いろいろあるけれど、守護霊さん守護神さん有難うございます、世界人類が平和
じねんほうに
でありますように、とやっていると、自然におのずからわかる。自然法爾にわかる。
それは不思議なものですよ。皆さんも世界平和の祈りをずっと続けてごらんなさい。
五井先生っていつもやっててごらんなさい。もうはっきりわかりますから。しかも
日常生活の邪魔にならない方法でわかります。
日常生活を邪魔する修行はなかなか難しい。よほど夫なら夫、妻や子が理解しな
72
い限り、たとえ後に偉くなるにしても大変ですね。私の修行方法というのが、そう
やってきたから、なるたけ日常生活に邪魔にならないように、あれは狂っているん
ではないか、と言われないように、あたり前のしとやかな奥さんで「お早うござい
ます」「お早うございます」とやっていて、それで知らないうちに霊的になって、
霊覚者になるような、そういう方法をやっているわけなんです。
特殊な人はどうしても一応派手な霊修行をしなければならない人もあります。そ
れは特殊な人で、出来る限りそうさせないつもりでいるのです。ですから皆さん安
心してください。変にはさせませんから。安心して世界平和の祈りをし、五井先
生1 と言っていると、守護霊守護神さんがちゃんと働いて、うまくやってくれま
す。
なんじ
でもこういうこともあります。何時に誰かと会わなければいけない、と会う仕度
をしていたけれど、どうしても行かせないような場合もあるんですよ。お腹が急に
痛くなって行かれない場合もあるでしょう。またはどうしても気が進まないで行か
73世界平和の祈りは神のみ心

れない場合もあるでしょう。そういう場合は、守護霊さんが止めているんです。
会ってはいけない場合は会わせないように、会わなければいけないような場合は
自然に会わせるような、そういうことを守護霊さん守護神さんがすべてやってくれ
たい
るんです。神界、霊界の仕組みというのはそれは大したものですよ。
ここに人間が一人いるでしょう。そうすると守護霊さんがぴっちりと周りをかこ
っています。正守護霊さん副守護霊さん、いろんな祖先の悟った人たちが、その一
人のために取りまいて、本心を発現するように、本心が開発するように、いつもい
つもたゆみなく、眠っている問も守っているんです。ああそれなのにそれなのにわ
からない人が多い。わかってもわからなくても、守護霊さんはあらゆる手段を尽く
して守ってくれますよ。
だからいつも守護霊さん有難うございます、守護神さん有難うございますと思っ
ていれば、いっそう守護霊さんは守りやすい。
74
人間は完全円満でも… …
私の神様は、心が悪い者をつくったおぼえがない、と言うのです。わしはお前た
ちを完全円満につくったんだ、悪いものなんか絶対にない、と言うんですよ。勝手
にお前たちが掴んで離さないだけであって、悪いものはない、みんな消えてゆく姿
である、というわけです。
人間は神の子である、物質はない、とある宗教団体でもそう言います。病気もな
いと言う。ないといっても今度は、お前の心が悪い、と言うんでしょう。どっから
その心が出てくるの? いいと言ったら言い放しにしなきゃダメだね。いいと言つ
たり、悪いと言ったりでは、どっちがいいんだかわからない。だからいいならいい
で、神の子一点ばりでゆきましょう。人間神の子完全円満の一点ばりでゆくんです。
ところが一点ばりでゆくと、この世はあまりにも神の子じゃなさすぎる。亀の子
よりもっとひどいや(笑)。この世は本当に闘争の世界です。
一家でも嫁姑は大体拝み合っちゃいない。やな母さんだ、仕様がないハイ(笑)。
75世界平和の祈りは神のみ心
大概そうですよ。嫁さんをほめている姑さんは、千人に一人ぐらいだ。ちょっとほ
めるかも知れない。お宅の嫁さんいい嫁さんですね。ええまあネ、しかしあの子は
こうで、一寸悪いことを言う。何か一つぐらい言わないと気がすまない。身におぼ
えがあるでしょう(笑)。
心からまるまる嫁さんをほめ、心から姑さんをほめるというのは、よほど縁の深
い良縁で結ばれた人だけです。大体この世は浄めの世界ですから、業を消してゆく
世界だから、こすり合いこすり合いながら消してゆく。そういう世界だから、完全
円満に合う人はいないのです。夫と妻もそうです。完全に一〇〇パーセントという
のはないのです。大概どこかズレてます。ズレるところが味噌なんだ。あんまり仲
が良すぎたら修行にならない。毎日毎日が春のようにポカポカしていてごらんなさ
い。仕事にならないでしょう。風が吹いたり雨が降ったりがあるんで、勇気が出て
きたり、勇猛心が起こったり、働こうという意欲が起こったりするんです。だから
雨が降るのもいいし、風が吹くのもいい。適当にあるほうがいいでしょう。
76
それと同じように、夫婦の生活でも、姑さんと嫁さんの生活でも、適当な波の中
でお互いに修行するんです。ああ姑さんを怒らせちゃった、夫を怒らせちゃった、
どこが悪かったろう、と一通り思いますわね。そして、ああこれは消えてゆく姿だ
った。自分の業も向こうの業も消える姿だった、神様有難うございます、と言って、
世界平和の祈りの中に入ってゆく。そうするとあったものが縁にふれて出て消えて
ゆく、悪いことがマイナスがかえって縁にふれて、パッと神様の中に入ってゆくわ
け。
あんまりいい生活をしていると、神様を思わない。私には何にもお願いすること
ありませんから、ってよく聞くでしょう。うちは皆健康ですし、お金も充分にある
し、なんにも神様に伺うことはありません、てそういうのありますよね。
神様というのは何か悪いことが出たら頼まなきゃなんない、と思っている。そう
いう考え方をみんなしているけど、そうじゃない。神様は良いことがあろうと、な
かろうと、いつも感謝していなければいけない。何故かというと、神様のいのちを
77世界平和の祈りは神のみ心
貰って生きているんだからね。一番の資本家だよ。資本主が金を出してくれた、金
よりもつと大事なもの、金を生み出す原料をくれているんだから、どんな悪いこと
があろうとなかろうと、神様有難うございます、というのは当たり前でしょう。そ
れを悪いことがあって助けてもらった時、はじめて神様有難うございますと思う。
そうじゃなければわからないように出来ているんだね、また。
そうじゃなきゃ宗教家はいらなくなっちゃう。本当は宗教家なんてのは、なくな
ってしまわなきゃだめよ。宗教家なんかなくなった世界が、はじめて本当の世界で
ね、宗教家がいるようじゃ本当の世界ではない。
世界が本当に平和になり、一家が平和になるような、人間の心がいつも神様と一
つになっているような、そういう世界なら私はいらないもの。姿が見えなくたって
いい、向こうで有難う、ああよしよし。向こうで楽でいい。わざわざ電車にのって
歩いてきて、こうやって話さなくたっていい(笑)。しかしこれも役目です。皆さ
んがまだ本当に悟ってくれないから、私がここに生きている存在価値がある。皆さ
78
んに悟られたら帰らなきゃならない。まだ四、五十年悟らないでください(笑)。
人間はここに修行に来ながら、浄めながら、しかも世界を平和にしてゆく、神様
のみ心を現わすことを、同時にするためにここに来ている。十字交叉の真中にいる。
縦の使命は神の使命、横は自分の業生、過去世の業を消すためにここに来ている。
消しているうちに、縦の神様のみ心が現われてくる。その一番いい方法は何かとい
うと、世界平和の祈りなんだ。
世界平和の祈りは救世の大光明
塚本清子さんに代わって私がいいますけれど、あの人がお腹のもの(しこり)が
まだなくならない頃、八幡の葛飾八幡宮の境内を通りかかった。神様にご挨拶しな
ければならないので、神社の前に行って、世界平和の祈りをした。そしたら体がス
ーッと透き通ってしまった。なんともいえない良い気持ちになった。それで、八幡
様、どうぞ五井先生の世界平和の祈りの助太刀をしてください、という祈りをした
79世界平和の祈りは神のみ心
わけです。
そして石段を降りようとした時に、そこに易者のお婆さんがいて「奥さん一寸お
待ちください」と呼び止められた。「どうかあなたの手相を見せてくれ」というわ
け。「今、子どもがいますから」と言って断った。そうしたら「あなたはなんの宗
教をやってますか。あなたのうしろには、なんともいえない光明燦然たる神様がつ
いていらっしゃる」って言うんですって。
塚本さんが「それは守護神さんでしょう。それは誰にでもついていらっしゃるん
ですよ、うちの先生は教えてくださる」と説明した。
「いやそういう単なる守護神さんじゃない。私なんか見たこともない大光明だ」
とこう言うんです。「ああそうですか」そのまま帰ってきちゃったという体験があ
るんです。
霊眼の開いたおばあさんですね。どうしてそうやってみせたか、というと、神様
が塚本さんに自信を与えるために、わざわざうちの信者さんでない人から言わせる
80
んですね。それは本当のことなんです。
世界平和の祈りをした時は、自分はもう大光明なんです。なぜ大光明になるかと
いうと、世界平和の祈りというものが大光明なんです。救世の大光明と私が書きま
すね、なぜ救世主と書かないのか、救世主というと、一つの人間にみえるんですよ。
そういう観念がある。救世の大光明というと、パアッとひろがった光で、誰にでも
ゆく。そこがなかなかうまいところなんだ。智恵者なんだ。
救世主というとおかしいと反感を抱かれます。救世の大光明といえば誰も反感を
抱かないでしょう。わざわざ人に反感を抱かせるようなことをしなくてもいいでし
ょう。救世主が私に働いている、と言ったっていいんですよ。でも、他の宗教の人
が、なんだ自分ばかり救世主救世主って思うでしょう。救世の大光明ならどこへで
も働くんだからね。
どういうところにまず働くかというと、世界平和の祈りをしたところに働く。一
番楽に働けるのは、”世界人類が平和でありますように”、という唱え言です。どう
81世界平和の祈りは神のみ心
して楽に来るかというと、私が世界平和の祈りとつながっているから、救世の大光
明と私がつながっているから。この唱え言をすれば救世の大光明が燦々と輝く、と
いう大神様との約束になっているから、そこへ働いてくるわけです。
塚本さんが世界平和の祈りをしたら、救世の大光明が輝いたのは間違いありませ
ん。塚本さんばかりではありません。あなた方全部がそうなんです。全部が救世の
大光明で輝くのです。だからいつも平和の祈りをしている時は、ああ自分は光に包
まれているんだ、と思っていいんです。本当にそうなんだから。観念論じゃないん
ですよ。自己催眠でもないんです。本当に光り輝くんです。
世界平和の祈りを祈りながら歩いている時は、その人がマイナスになることは絶
対にないんです。たとえば祈りながら財布をすられた場合、もつと大きな損失を、
すられたということで、僅かなことで防いでいるんです。大難を小難ですましてく
れていることなんです。何故かというと、神々が守り給うているんだから。
救世の大光明の中にはお釈迦さんもいれば、キリストさんもいれば、みんないる
82
んです。世界人類を平和にしよう、と思っているんだから。地球が平和になるとい
うことは、ひいては宇宙世界が平和になることなんです。地球が一つ狂って地球が
欠けて飛んでしまったりすれば、やっぱり宇宙の運行が乱れるんです。だから地球
が欠けて飛んじゃったら困ります。そこで私たちがいつも言う宇宙人が助太刀に来
ているんです。その宇宙人も救世の大光明の中に入っている。だから宇宙の大光明
が地球世界を救おうと思って、救世の大光明として働いてきているんです。それで
私のところへ来ている。
救世の大光明と波長を合わせるために、世界平和の祈りをする。寝ても覚めても
唱名念仏すべきものなり、と同じように、南無阿弥陀仏のように世界平和の祈りを
やっていりゃいいんですよ。塚本さんがお話しした鐘と同じです。そんなことで大
丈夫かな、鳴るかな、と指でトントンと叩いたって鳴りゃしません。一寸ぐらい叩
いたって鳴りません。鐘を鳴らす秘訣は、ガーンとやるよりしょうがない。”世界
人類が:::” とやれば、そこへ光明が来る。それは声を大きくしたり、気張って言
83世界平和の祈りは神のみ心
うという意味ではありません。想いを祈りの中に入れることなんです。
この肉体の世界は想いで出来ているんです。幽界も想いで出来ているから、想い
が神様の中に入っていれば、神様がここに現われる。そんなこと当たり前のこと。
電車に乗っている。前のこっちには乞食のような人が座っている。こっちには妙
齢の美人が座っている。こっちにはお婆さんが座っている。自分が見たいほうを見
ればいい。想いの通りにそこに目がいく。乞食の人を見たかったら、見ればいい。
汚いなりしているな、ああ俺のほうがまだましだと満足すりゃあ、それを見ればい
い。美人のほうを見たけりゃ、ああなんて世にも美しい人がいるもんだ、得をした、
と見てればいいでしょう。お婆さんを見たければお婆さんを見ればいい。それは自
分の好き好きよ。人間は自由を許されている。自分の見る自由、思う自由は許され
るんですよ。思うほうを見ればいいですよ。
だから神様が好きで、自分は本当に幸福になりたい。自分が本当に世界平和の役
に立ちたい人は、神様のほうを見ればいいでしょう。世界平和の祈りのほうを見れ
84
ばいいわけですよ。そこに神様がいるに決まっている。
世界を平和にするんだ、地上天国をつくるというのは、神様のみ心だから、神様
のみ心の中に入ればいいでしょう。楽なことですよ。実にやさしいことを教えてく
れたもんです。うちの神様は偉いもんだ。本当に簡単なんだから。
“世界人類が平和でありますように
“、それだけやれば、いつでも神様の中に入っ
ていられるでしょう。滝に当たって修行することもなければ、山に籠って何かする
こともなければ、断食することもなければ、なんにもしなくていいんです。洗濯し
ながらでいいんだから、たくあん刻みながらでいいんだから、子どものおしめを取
り替えながらでもいいんだから。子どもはよくなります、おしめの中に世界平和が
入っちゃう(笑)。
いつでも出来ます。坐ってやらなきゃなんないものでなし、どうやったっていい。
滝に当たるのは家の中では出来ないでしょう。やっぱり滝のところまで行かなくち
ゃならない。山へ登るといったって、遠くへ行かなくっちゃならない。行きたいの
85世界平和の祈りは神のみ心
は山々ですが(笑)。
人間てのは面白いんですよ。修行したくてしょうがない人があるんです。しなく
てもいい、と私が言ってもしたい人がいる。実はどこどこの山へ行きたい、という。
お浄めに行かなくたっていい。世界平和の祈りをしていればいい、と私が言うんで
す。世界平和は神のみ心なんだから、どこへいったって、世界平和の祈りをしてい
れば山へ行くよりいい、と言っても、どうしても行かなきゃ気がすまない。
ひまを使って、金を使って、会社を休んで行くんでしょう。それだけマイナスに
なります。そうでしょう。家の人だってあまりいい気持ちしないでしょう。お詣り
ばっかりしている人がありますよ。家のことをなんにもしない。それは遊びに行く
んだ。物見遊山だ。そんなのは信仰じゃない。自分勝手です。
本当の信仰というのは、寝ても覚めても、神様のみ心の中にいることですよ。
病気で長患いをしているとすれば、寝たまま世界平和の祈りをしていればいい。
そうすれば、体は寝ているけれども、想いは心は神様のみ心の中にいるでしょう。
86
そうしたら神と一体ですよね。だからいつも想いを神様の中に置いておくことですよ。
神様神様神様! 有難うございます、と言ってもいいんですよ。しかしもつと具
とっさ
体的な世界平和の祈りがあるから、その祈りをすればいいのです。それで咄嵯の場
合、苦しい時、先生1 と言えばいいんだからね。そうすると先生が現われます。
いつも言いますけれど、肉体にいるのは子ども。神様直霊の子どもです。五井先
生って皆さんが言っている五井先生は、神様方が集まった大光明の総称なんです。
自由自在なる絶対なる力、無限なる力を持っている。だから地球をおひげで磨ける
のですよ。
この肉体は出張所、本店は向こうにありましてね、本店までみんないけないんだ
から出張所に通ってやる、と向こうから出てくる。まず全託手帳を私に出してくだ
さい。私が向こうにやりますから、五井先生として現われている神様というのは、
やっぱりこうなんだね。
こういう五井先生という別のものがあるわけじゃない。これ個人はないんです。
87世界平和の祈りは神のみ心
個人は三十才ぐらいの時、向こうへやってしまってなくなった。それでここにある
ものは、個人じゃない。大光明の中心の器なんです。これをスーッと通ってゆくだ
け。それだから、五井先生1 と言って思うと、ここを通って神様にゆく。それは
一瞬ですからね。
五井先生! と思う人はこの顔を思い出しますね。ひげを思い出すもんね。皆さ
んだってそうなるんですよ。
皆さんが本当に世界平和の祈りをしている時は、五井先生は皆さんとともにある。
一緒になっています。そうすると五井先生の力がそこに出てくるんです。そういう
もんなんですよ。五井先生という名前で皆さんに現われている神は救世の大光明な
んです。他にまたなんとかという名前で現われている大光明もあるかもしれない。
今のところはっきりわからない。皆さんは世界平和の祈りをしていればいい。一番
楽です。これほど楽な教えは今までないんじゃないかと思います。
それは時期が来たからです。時期が丁度いい時期になったのです。
88
呑気な心境になるといい
ある宗教団体では「病気なし」と言うでしょう。しかし病気なしと思えるような
心境にさせてくれなきゃいけない。自分だけでなれるもんじゃないですよ。たとえ
ば神経痛があるとする。痛い。それを「ないんだないんだ」といくら言われてもあ
ります。ガンの固まりがあるとする。固まりなんかないんだないんだと言っても、
ありますよね。それは自分で消せるわけじゃない。
消してくれる力がなければならない。消してくれる力は、五井先生のここから出
てくる(パンと柏手を打つ) そうすると消えるんです。そうすると、自分でだんだ
ん病気だ、という観念が知らぬ間になくなってくるのです。知らないうちに世界平
和の祈りだけになってしまう。
今の塚本さんの一番いいところは、あの世に行くならば、あの世から霊界通信な
のんき
どして、自動書記の手伝いでもしようか、と呑気なことを言っているでしょう。あ
あいう呑気な心境になるといいんです。
89世界平和の祈りは神のみ心
病気というのは、本当はないんです。ただ想いが現われているにすぎない。家系
にガンをやった人が多いと、自分もまたガンにならなきゃならないような気がして
いる。そう思うでしょう。いつも思うと潜在意識に入ってゆくんです。それが知ら
ないうちに恐怖になってゆく。その想いがガン細胞をつくってゆくわけです。
それを破るためにはどうしたらいいか。それを忘れることです。神様の中に入れ
れば、神様がきれいになくしてくれます。塚本さんの場合は、霊界から医者が来て
治しちゃったわけです。霊界には医者がたくさんいますから、パッと手術してしま
った。そういう人が大分いるんですね。知らないうちになくなっている。
死ぬべきいのちなら、ガンにならなくたって死ぬ。あっという問に死にます。そ
れを誰が知っているかと言ったら、神様しか知らない。肉体というものは何も知ら
ないんですよ。一秒の百分の一の先も知らない。私がこれから何を話すかまだわか
らないでしょう。もう終わりにするかもしれない。ただ私たちのように、霊覚にな
っている者はわかるんです。

90
なぜわかるかというと、神様のみ心の中に入っている。霊のみ心の中に入ってい
る。向こうでは出来ているんだものね。出来上がっているのを見るんだから、楽な
ものですよ。あなたは死なないとわかる。死なないことになっているから。
私はあなたは死ぬ、とは言わないです。最後の最期まで生きる生きると思って、
一生懸命看病するほうがいい。それは愛なんだから。死ぬと思ったらがっかりしち
ゃうもんね。みんな神様にまかせておく。そうすると自分でわかってきます。直感
的に先が見えてきます。
先が見えてくるという時、自分の心が未熟の場合はつらいですよ。私だってつら
い場合があるんですよ。たとえばある人が来る。ああ、あの人は死ぬとわかります。
するとうちの主人どうでしょう、と聞かれる。「そうね一生懸命応援してあげます。
世界平和の祈りをしなさい」とやります。実は死ぬんだね。死ぬことは悪いことで
はないけれど、この人が悲しむのが可哀そうだから、言うに言えない。死ぬ前日ぐ
らいになったら、教えないわけにはいかないから「先生どうでしょう」と言われた
91世界平和の祈りは神のみ心
ら「うむ人間はいつか死ぬ。死んでもあとは私が充分にするから、悪いところにい
かないから」とお浄めをする。
それでその人は高いところへゆく。今も、向こうへ行った人が、私に話してくれ、
と言うんです。「これこれこういう所に今いて、笑ってますよ」とある人に見せて
やった。残念ながらみんなに見えないんだね。私だけに見えた。そういうのもある。
みんな楽々といけるんです。なぜかというと、行くべき位置が決まっているから
です。世界平和の祈りをし、五井先生! と言って生きている場合は、行く場所が
決まっているんですよ。楽なもんです。行く場所が決まっているから、自分がスー
ッとなった時、向こうの様子がみんなわかってくる。わかってくるからこわくない
でしょう。花がきれいに咲いていて、きれいな空で、きれいな人たちが居て、そう
いうのを見ればいい気持ちですね。夢に見たって気持ちいい。だから少しも悪い顔
にならないでしょう。いい顔になる。いい顔になったままでスーッと行っちゃう、
楽々とゆく。生きていても楽々、死んでも楽々、そういう生活は世界平和の祈りよ
92
りない。
私が浄めて、あるいは直接会わなくとも写真で浄めていて亡くなった人は、みん

ないい顔をしています。人が伝えてくるところによると、明るいいい顔をして、笑
みをふくんだ顔で亡くなっています。全部です。私の母親はじめ塚本さんのおじい
さんもそうです。本当にいい顔をしている。ちゃんと行っているところがわかって
いる。
皆さんはね、まだ死ぬのに早いけどさ、いつ死んでも自分は天国に行くんだ、と
思っていてください。五井先生がちゃんと座席を決めてあるんです。特等席とまで
いかなくとも、上等席ぐらいはたいてい行かれるんですよ。席を取っておきますか
ら、安心して、何があっても驚かずに、びくびくしないで世界平和の祈りをしてい
るといいです。本当に世界平和だけです。
世界平和祈るは神のみ心の
ひゞきにあれば祈るたのしさ
93世界平和の祈りは神のみ心
という私の歌の通りです。明るく、呑気にしていてください。暗いことはいいこ
とではありません。今までは宗教をやっている人は暗い顔が多いんです。暗い顔は
いけません。暗い顔は消えてゆく姿です。落ち着いた人がありますよ。あまりしゃ
べらない人もあります。しかし落ち着いているのと、暗いのとは違います。落ち着
いて明るい人もあります。さんざんしゃべって暗い人もあります。明るく素直な気
持ちがいいです。それにはやっぱり信仰が深くないとダメです。
しょうぶん
オレの性分だ1 ってのがよくあります。気の弱いのは私の性分です、短気は私
の性分ですという。性分でもなんでもない、業です。いつもいうけれど、自分の心
の平安を乱す想いは、すべて業想念、神様から離れた想いです。その平安を乱す想
いと取り組んでいてはいけません。自分のほうが一〇〇パーセント理があって、向
こうに全然理がなくて喧嘩をしても、心臓をバクバクさせて怒ったら、やっぱり自
分が損なのです。向こうも損だけどこっちも損です。自分のほうに理屈があるから、
自分のほうが正義だから怒る、というのはウソです。
94
こう思ってはいけない、と頭ではわかっているけれど、怒っちゃいけないと頭じ
ゃよくわかっているけれど、焦っちゃいけないとよくわかっているけれど「しかし」
と言うんだね。「しかし」という時は消えてゆく姿をつけなければいけません。し
かしこれは消えてゆく姿なんですね、と消してしまわないとね。
思ってもいい、思い出してもいい。しかし自分の心を乱す想い、平安を乱す想い、
ヘへ
感情的な想いというものは、みんな消えてゆく姿なんですよ。あるものは神様のみ
心だけでしょう。そうすると、神の子だという自分が、そのまま現われてくる。
神の子なんです。徹頭徹尾、自分は神の子なんだということが、頭にないといけ
ません。他のことはいらないです。少しぐらい隣の奥さんが文句言ったっていいん
だ。向かいのじいさんがガミガミ言ったっていいんだ。ああみんな消えてゆく姿だ
なアーと思えばいい。みんな消し合って消えてゆくんだなア、これでみんな消えて
ゆくと、本当の世界平和が出来るんだな、地上は天国になるんだなアと思う。ソビ
エトが何かやったら、消えてゆくんだな、アメリカがガチャガチャやったら、消え
95世界平和の祈りは神のみ心
てゆくんだ、世界人類が平和でありますように、と平和の祈りをすればいい。救世
の大光明をあまねく地球界に撒き散らせば、それでよくなるんだ、と思うんです。
明けても暮れても世界平和の祈りをするんです。世界平和の祈りというのは、口
で言わなくていいんですよ。目をつぶって祈らなければならない、というもんじゃ
ないんです。歩いていてもいいんです。わざわざ口に出してやる必要はない。わざ
わざ口に出して、人におかしい想いをさせるような、常識外れのようなことをする
ことはない。心の中でやっている。
世界平和の祈りを祈っている時は、その人から光が出ています。霊能者が見たら
わかります。世界平和の祈りをしながら歩いている人と、アノヤロコノヤロと言っ
て歩いている人と、出てくるものが違う。片方は黒雲が出てきている。片方は光り
輝いている。光り輝いているほうがいいに決まっているんだ。神は光なんだから。
だから世界平和の祈りを毎日毎日、朝から晩まで、死ぬまで、死んでから先まで
やるんですよ。他になんにもないです。あと全部消えてゆく姿。子どもが学校に入
96
ろうと、会社がつぶれようと、みな消えてゆく姿なんだ。
神様を思った度合い、神様と自分が一つになった度合い、その度合いがすべてを
決定する。どれだけ自分の中から神様が出ているか。どれだけ世界平和の想いが出
ているか、それだけが自分の運命を決定するし、自分の生活を向上させるものです。
自分の健康を増進させるのもそうです。すべて世界平和の祈りから出ている。
なぜならば世界平和の祈りは、神様のみ心だから。難しいことはない。これほど
易しいことはない。だから楽ですよね。
97世界平和の祈りは神のみ心
りき
力まない生き方の秘訣
消えてゆく姿の教えはすごい
(昭和34年4月9 日)
夢でもって守護霊が消してくれる
人間の体があると、その体というものは五尺何寸と決めてかかっている人があり
ます。十何貫、五尺何寸が人間であって、ほかに人聞というようなものはない、と
いうのが唯物論者の考え方です。
ちょう
ところが実は、八尺も十尺も、五十尺にもひろがっている人もある。何町とひろ
がっている人もある。日本全体にひろがっている人もある。宇宙大にひろがってい
る人もあるわけです。
98
それはどういうことかといいますと、業想念の中で、自分の欲望だけで生きてい
る人は、もう五尺何寸だけしか生きられない。自分のことだけを思っている人は、
いつでもそれだけしか生きられない。ところが子どもなら子どもを思うと、子ども
の分もまざって大きくなる。向かいの人のことを思い、隣の人のことを思えば、そ
れだけ大きくなる。日本なら日本のことを思いつめて、日本だけのことしか思わな
いと、日本国大に大きくなる。世界人類のことを思っていれば、世界人類大に大き
くなるf そういうのが人間なんです。
もっとわかりやすく言うと、肉体の自分に執われている想いが、少ないか多いか
によって、その人の大きさが決まるわけです。いつも世界人類の平和を祈っている
時は、その人の想いが世界人類大に、宇宙大にひろがっているから、その人は五尺
何寸の人間ではない。たとえその人がしわだらけのしなびた五尺ぐらいのお婆ちゃ
んであっても、世界平和の祈りを祈っている時には、世界人類大にひろがっている
のです。
99力まない生き方の秘訣
それが私が唱えている世界平和の祈りの、一番の根本なんですよ。
自分の本体というものは神様なんだから、元は決まっているんです。神様の光で
タテヨコ
あって、縦横に宇宙大にひろがっているものです。それを肉体人間の想いでもって、
小さくしているわけです。五尺何寸大にしてしまっている。
それに、あいつが悪い、こいつが悪い、あいつをやっつけちゃおう、あんな憎ら
しいやつ死んでしまえばいいとか、自分はダメだとか、いろいろ自分をいじめたり、
人をいじめたりする想いがあります。
人間が思うことは、全部録音機に録音されるように、潜在意識に録音されてしま
う。
あのヤロウ憎らしい、と思ったら「憎らしい」が録音されちゃう。あの人はいい
人だと思えば、「いい人」が入っちゃう。自分はダメだ、と思えば、「ダメだ」とい

うのが入っちゃう。想いのままに入ってゆく。幽体にいっぱい詰まるわけですよ。
詰まったものはグルグル廻って必ず出てくる。この録音機が廻っているように、い
100
つでも想いは動いている。それを潜在意識といいますね。
その潜在意識の奥に霊意識があって、その奥に神様の意識があるわけです。つな
がっているわけです。その神様の意識、つまり光が肉体を通して発現しようとして
いるのを、神様なんてあるもんか、とか自分に神の力があるわけがないとか、神様
助けてくれない、とかいろいろ想います。そういう想いが、折角神様の光が入って
きているのに、邪魔をしてしまうので、業想念になってしまうのです。それが幽体
にグルグル廻って入ってゆく。
人を怨み、人を妬み、人をやっつけ、自分を痛め、自分を傷つける。そういう想
いはみんな神様に反する想いです。マイナスの想い。それが録音機の中にズーッと
入って、幽体にたまる。幽体に入ったものは必ず現われることに決まっている。こ
れは法則だからね。
潜在意識から顕在意識に、顕在意識から潜在意識へと、グルグル廻って、現象世
界に出てくるわけです。憎らしい、あいつ殴っちゃいたいと思うと、それが現象世
101力まない生き方の秘訣
界に現われてきて、殴られることになるんです。自分に返ってきますからね。殺し
ちゃいたいと思ったりすると、必ずその想いが現われてくる。
そんなことをしていたら、この世の中めちゃくちゃになっちゃうでしょう。この
世に生まれてから、三十年、五十年と生きています。そういった中で、あいつはい
やな奴だとか、あいつ殴りつけたい、とか思わない人はないんですよ。ああ憎らし
い、と思わない人は、はじめから偉い人だから、もう話を聞かなくていいんだ(笑)。
ところがそうじゃない。そんなこと一つも思わなかった人います? いないでしょ
う。
それでさつき質問のあった夢の話だけれど、夢というものがなかったとすれば、
ちまた
思ったことがそのまま現われて、この世の中は修羅の巷。喧嘩し殺し合わなければ
ならない世界になっちゃう。それではいけないというので、神様が守護神を遣わし、
守護霊を遣わしている。
守護霊が、夢の中で、殴っちゃったような恰好を見せたり、人を殺したりするよ
102
うに見せたり、いろいろありますね。とても悪い夢がありますね、或いは犯してし
まったりした夢をみたりする。それは現実ではなく夢の中なんです。現実の世界に
現われてしまうことを、夢の世界で消してしまうんです。夢の中で人に恥ずかしい
気がすることがあるけれど、現実の世界に現われないで、夢を見せた形で消えてし
まうわけなんです。
夢でもって守護霊が消してくれるということは、大変に大変に助かることなんで
す。
それをつまらない学者たちが、夢の詮索をして、こういう夢を見たらこういうこ
ぎがか
とになるとか、精神分析的にみて、夢というものは性欲が戯画化して出ているんだ、
というようなことを説いている。そんなことじゃ救いにならない。いろいろあるけ
れど、夢で消えてしまって、もうあなた方の潜在意識にないんですよ、とこういう
ふうに教えるのは私。
どんな夢もいわゆる業想念のみな消えてゆく姿、そして消してくれるのは誰かと
103力まない生き方の秘訣
いうと、守護霊なんです。夢を消す専門の守護霊がいるんです。正守護霊がやる場
合もある。副守護霊がやる場合もある。大体、正守護霊が夢にして消してしまう。
想いの波だから、現わせば消えるんです。
たとえばお腹がすいた、と思いますね、腹いっぱい食べてごらんなさい。もう食
べたくないでしょ。何故かというと満足したから、食べたいという想いは消えちゃ
う。
そのように現わさなければ消えないんです。業想念というのを、夢に現わして消
してくれているんです。殴りたい、殺したいほど怨みを持っている想いが、消えて
しまう。夢というのはなんだかトンチンカンでしょう。サッパリわからない夢が多
いんです。あきらかに見せては、その人の心にあとまで残るからね、あからさまに
しないで、まとまりのない話で消してくれるんです。それでこの世の中、まあまあ
平穏なんです。
104
夢の世界も現実の世界もつながっている。幽界霊界は夢の中の世界と同じような
ものです。夢の中では、実際は五分か三分の間にみた夢が、三年も五年も、あるい
は一生ぐらいの長さになっています。
それはどういうことかというと、この世の中というものは、時間も空間もないと
いうことなんです。斎藤秀雄さんなんかは、統一している世界で「これは三年たっ
ていました」とよく言う。十分間も統一していなかったのにね。ところが本当は三
年たっているかもしれない。
この世の肉体の生活の時間なんていうのは、実にいい加減なものですよ。八十の
人がいる。四十の人がいる。三十の人がいる。そして同時に宗教の修行をしたとし
ても、八十の人は四十の人より立派かというと、そうでもない。四十の人は三十の
人より立派かというと、そうじゃない。そういう肉体の人間の時問というものは、
あまりあてになりませんね。
たかだか三十年生きても、四十年生きても、八十年生きた人より、九十年生きた
105力まない生き方の秘訣
人より立派な場合があります。それはどういうことかというと、前の世のこともあ
るけれど、一つのことに真剣にいのちをかけた、いのちを生かした時間が本当の時
間なんですね。だから八十年生きても、九十年生きても、いのちを生かさないで、
ヘヘへ
ただ自分のことだけ、自分の肉体の幸せだけを願っていると、想いもいのちも生き
ていない。五尺何寸これだけの大きさしか生きていない。それだけの世界しか動い
ていない。
ところが、あの人が幸せになりますように、この人も幸せになりますように、世
界が幸せになりますように、といつも思っている人は、それだけ宇宙大にひろがっ
ています。
私なら私が生きているとすると、私は世界人類のことしか思っていないから、い
つでも世界人類大に拡がっています。時間にすれば、ふつうの人の時間の、何十万
倍、何百万倍というように生きているわけです。現象の生活では、四十年としても、
実際には何億万年かわからないくらい生きている。そういうのを時間というのです。
lOG
いのちが生きた、いのちを生かしたということは、少しでも人のためになったか、
ならなかったかということになります。
いのちが時間なんですよ。だからただ長生きしただけではしょうがない。人の世
話になり通しで、人に迷惑ばかりかけて長生きしたって、それは生きたことになら
ないでしょう。
たとえ八十なり九十なりになって、孫の世話になっている。五十から世話になり
通しだという人もあります。それだけじゃ本当はダメなんだ。九十でもいい、八十
でもいい、人に世話になっている病人でも、寝たままでもいい、仕事をしないまま
でもいい。それで世界人類の平和を願い、世界平和の祈りの中に入っちゃうんです
よ。世界平和の祈りの中に飛び込みます。そうすると、飛び込んだ時から、世界平
和のいのちだからね。世界平和の祈りというのは神様のみ心だから、宇宙大の中に
入っちゃうんですよ。
すると、今まで八十年、なんにも生きていない、いのちを生かさない、なんにも
107力まない生き方の秘訣
しなかった人でも、世界平和の祈りの中に飛び込むと、その日から宇宙大に生きる
ことになります。八十から一年生きたとしても、一年間、世界平和の祈りの中に入
っているでしょう。今までがゼロとしても、八十才から人生はうんとひろがる。普
通に働いて、いくらか人のために尽くして死んだ、という人よりも、ズッと大きく
運命もひらいて、いのちが生きてくるわけです。そうすると、あの世に往きまして
も自由に働ける。自由に生きられる。
言い換えますと、この世の中で、いのちをとても生かしていた、フルに生かして
いた人は、あの世に往っても自由自在になれるんですよ。
この世でもって、つまんないことに把われて、ちょっとしたことでクチャクチャ
言っている人があります。そんなこと言わなくたっていいだろうなア、と思うこと
をほじくり返している人があります。自分で型にはめてしまっている。
敷居を踏んだら、親の頭を踏んだと同じとか、私も随分、親に叱られたことがあ
るんだけど、どうして敷居と親の頭と関係あるのか、随分考えたけど未だにわから
108
ない(笑)。そんなの踏んだっていいじゃないですか。自分の型にはめて、これで
なければならない、こうしなればいけない、って決めちゃっているでしょう。だか
ら範囲が狭い、自分で自分を縮めてしまうんです。
ふん
自分で決めた範囲から出られないんですよ。それで他人のことに腹が立って、忽
まん
慈で盆愚でやる方がない。どこに誰が得するでしょう。自分がイライラしたって、
誰も得しない。しかも自分がだんだん小さくなってゆく。こういう型にはめてしま
うことは、いのちが生きていないこと。小さな肉体の自分だけしか生きていない。
そういう生き方をマイナスの生き方、バカな生き方という。形式もいいけれど、形
式に把われないことが大事です。
現われたものはみな消えてゆく姿
宗教の根本は何かというと、形に把われない、型式に執われない。すべてに執わ
れない、ということで、執われを放つということが宗教の極意なんです。
109力まない生き方の秘訣
ところが今までの宗教家は、執われを離すことを教えながら、執われてしまって
まい
います。こういう儀式をしなければならない。お詣りをする時はこうしなければい
けない、という。宗教をやったために、かえってカチカチになって、宗教をやらな
い人からみると、実にバカらしいような生き方をしています。ある宗教では他宗の
人とは結婚してはならないんだしね。人間のいのちが自由に生きないから、かえっ
て執われをつくってしまう。唯物論的な執われから唯心論的な執われに入ってしま
って、本当の神様がどこかへいって、なくなってしまう。
本当の神様はどういうところにあるかというと、いのちのびのびと自由に生きて
いる。この中(自分をさして) に生きている。いのちの中に神様があるんだから、
いのちを縮めるようなこと、しぼめるようなことをするのは、神様に対する反逆な
んです。神に対して不孝なんです。不忠なんですね。それがわからなかったんです。
それで私に働いている神様は、何を教えたかというと、みんな消えてゆく姿なん
だ、と教えている。
110
消えてゆく姿というのを、はじめ自分で説きながら、そんなにすごい、素晴らし
ひとこと
いものじゃないと思った。だんだんやっていると、消えてゆく姿という一言が、大
変なことだということがわかった。
何故、大変なのか。
あなた方は本来、神の分霊であって、神の子であって、光り輝いて生きているも
のなんだ。それを光り輝かせないのは何かというと、あなた方の業想念なんだ。
好きだ嫌いだ、ああじゃないこうじゃない、という業想念を掴まえていなければ、
あなた方のいのちは、神と同じように光り輝いて、自由自在に生きるんだ、という
ことが自分でやってみてわかったんです。
私が全部放して神様の中に入っていったら、業想念がスウーッと切れ、澄み通っ
たようにみんなが見えてきた。山を登る時は一生懸命で、脇目もふらずだからわか
らないけれど、富士山の頂上に登ってみたら、ああなるほど、下界というものはこ
ういうものか、とわかった。それと同じように、みんなわかってきた。
111力まない生き方の秘訣
げだつ
業想念から離れたからね。それを解脱というんですね。解脱してわかったことを、
私は皆さんに、易しくわからせようとした。
昨日失敗したっていいじゃないか。たった今失敗したっていいじゃないか。しま
った1 と思ったら、ああごめんなさい、神様すみません。もう再び致しません、
と言って神様の中に入りなさい、世界平和の祈りの中に入ってしまいなさい。そう
すれば、昨日やったことは消えてゆく。
「あたしは若い時に、こういう失敗しまして、私はもうダメなんです」
「何を言っているんだ。もう若い時のあなたと今のあなたは全然違うんだ。若い
時のあなたなんかいやしないんだ。それはみんな消えてゆく姿」と言っている。
想いというのは波なんです。波が出てきた時に自分で執われていれば、自分にか
えってくる。しまった、という想いを出した時は、それを再びやろうと思っている
わけじゃない。間違った、しまった、悪かった、と思いますね。思った時にはもう
再びやろうとは誰も思わないでしょう。
112
拾った場合はしまったと思わない。しめたというんですよ(笑)。もうやらない、
と言う時に、しまった1 と言うんですよ。
そういう簡単なことがわからない。それでしまったしまったしまったと何度も言
い、閉めている。それで自分の心にしまっちゃうんです。これではいつまでたって
もなくなりゃしませんよ。しまったきり、出さないようにしている。それは消えて
ゆく姿なんです。
あっしまった、しかし過去世の因縁が消えてゆくんだ、中にしまっていた業想念
がそれだけ消えたんだから、神様有難うございます。世界人類が平和でありますよ
うに、と言って、守護霊様守護神様有難うございます、と言って、守護の神霊の中
わざわい
に入っちゃう。神様のみ心の中に入っちゃう。そうすると災転じて福となすで、災
が出たために、応援が神様からよけい深く入るわけです。
だからしまったことが出れば出るほど、神様の中に入ってゆく。そうすれば常に
ふしあわ
常に、神様のみ心の中に入れるでしょう。悪いことが出ることが不幸せではない。
113力まない生き方の秘訣
間違ったことをしてしまったことが、不幸ではない。勿論、悪いことをしないほう
がいいに決まっています。業想念が出た時に、消えてゆく姿で世界平和の祈りに入
って、光になってしまう。それを煩悩即菩提というんですね。
煩悩が出た時は、菩提心が現われている時なんだ。煩悩を出し放しにしちゃダメ
ですよ。しまっただけで、悔い改めがなければしょうがないですよ。宗教心という
のは、常に神というもの、仏というものを思う。それは皆さんよく知っているわけ
です。
自分のやったことを、いちいち悪い悪い、といつまでも思っていてはいけない。
「悪い」と一度思えばいいです。実をいうと、一度思ったって、三度も五度も十度
も思うんだけれど。それをだんだん練習してゆくと、一度でキリがつきます。それ
が早くなればなるほど、そういう人は光がよけい出てきます。
本当につまらないですよ、いろいろ思い煩っていることは。どこにだって思い煩
えなんて教えている宗教などありません。そのくせ、思い煩わせるような教えをす
114
る。
お前の心が悪いというわけよ。私は、お前の心が悪いから、直せ直せというの大
嫌い。直せるくらいなら、お前さんなんかに聞かないよ、って言いたくなる実際
(笑)。
この短気が一人で直せるくらいなら、あんたんとこ来やしません、って言いたく
なるでしょう。直らないからこそ、直してくれるだろうと思って先生のところへ来
るんだ。それが叱られちゃう。行くたんび叱られちゃう。
お前の不幸はお前がつくったんだ、そういう心でいるからダメなんだ。
その心をなんとか先生してください。
それをお前がしろ、と言うんでしょう、そんなら宗教家なんかいりゃしません。
自分でやりゃいいなら、何も聞く必要ないんです。それをうちの神様はよく知って
ました。つくづく考えたら、私がそういう宗教ばかり歩いていた。
私は幸いに自分で出来た。けれど、私より力の弱い、意志の弱い人がたくさんい
115力まない生き方の秘訣
る。その人たちはどうするのかと思ったんです。どうするのかと随分考えた。そう
したら「お前がやるんだ」ということになったんです。
私がやる方法はどういうのかというと、消えてゆく姿と守護霊守護神の教えだっ
た。
現われてくることは、みんな消えてゆく姿なんだ。守護霊守護神が守っているん
だから、お前さんが何も自分一人で思い煩うことはない。思い煩うことがあったら、
守護霊さん守護神さん、神様有難うございますって、その中に入っていけばいい。

入ってゆく中で出てくるのはみな消えてゆく姿です。ただ真っすぐ、守護霊守護神
の中に入ってさえいけば、守護霊に合体し、分霊に合体して、そうして直霊の光が
そのまま出てきて、自由自在になるんであるーと説いているわけです。
116
たけ
自 分でやれることなど何もないんです。身の丈一尺を加えんや、とキリストが言
っているように、一尺はおろか一分だって、自分で伸ばせるものはないですよ。だ
からなんにも出来ない。なんにも出来ないんだから、はじめっからまかせたらいい
でしよう。
いのちがすべてを動かし、生かしているんです。いのちというのは何かというと、
神様の分けいのちなんです。神様から来ているいのちなんです。神様とは何かとい
ったら、大智慧、大能力、絶対なる力を持っているもの、絶対なる権限を持ってい
るものです。絶対なる権限とはなんでも出来るということです。大智慧、大能力も
なんでも出来るということです。なんでも出来るものの中に自分はいるんです。人
間一人一人はなんでも出来る力の中にいるんです。それなのに出来ないと思ってい
こう
る。それを業というんだね。
自分でやれるとか、なんとか思っている頭はろくなもんじゃない、いっぺん「あ
あ自分じゃないんだ、大智慧、大能力の神様がやってくださるんだ」ということが
ハッキリわかると、ハッキリわからなくともよいから、そう思って、「ああ神様の
大智慧、大能力が守護霊守護神となって働いていて、自分の中に分けられたいのち
117力まない生き方の秘訣
をフルに生かしてくださるんだ」ということがわかると、「神様有難うございます、
神様のみ心のままになさしめ給え」となる。神様のいのちが働いているんだから、
神様が充分に働いてくださる、という想いになります。
それが祈りなんです。もつと縮めたら「神様有難うございます」なんです。神様
有難うございます、で生きていれば、現われてくるものは、すべて神様がやってい
るわけですから、どんな悪いことが現われてきても、どんな病気が現われてきても、
みんな神様が、神様のみ心を現わそう、いのちをフルに出そうとして、邪魔ものを
のぞいているわけです。だからどんなことが出てきても、消えてゆく姿なんです。
これ楽でしょう。自分のこころを自分でひねくり廻して、直す必要はない。自分
の頭を自分で直す必要もない。みんな神様に直してもらえばいい。
直してもらうには、神様がこっち向け、というのに、そっぽを向いていたら直ら
ない。光を入れてくれるのに向こうむいていたら、入らないです。折角、守護霊守
護神が一生懸命、大神様から力をもらって、直してあげようと光を入れているのに
118
「私はダメな人間です」って向こうをむいている。「アイツが憎らしい」って違う方
向をむいている。これでは光は入らないですよ。ただ真っ直ぐ、守護霊守護神を通
して、神様のほうに向いていればいいんです。そして世界平和の祈りをして生きて
いればいいんです。そうすると守護霊守護神の光がどんどん入ってくるから、その
まま仕事をして働いていればいい。力む必要も何もないんです。
現われたものはみな消えてゆく姿なんだ。ああ私は神につながっている神のいの
ちなんだ。そのまま光り輝いているんだ。あとはみんな消えてゆく姿なんだ。呑気
ですよ。腹が痛いも消えてゆく姿、頭が痛いというのも消えてゆく姿ですよ。悪い
ものはみんな、いいものが現われるために出てくるんです。いいものも悪いものも
出る。みんな出る。
食べて食べて、六日も二十日も三十日も出さないでいてごらんなさい(笑)。大
変でしょ。出すべきものは出さなければ、人間がダメになっちゃうでしょう。それ
は自然の原則だからね。それと同じように、現象の不幸も幸も、みな出てくるのは
119力まない生き方の秘訣
消えてゆく姿でしょう。溜めていたばかりじゃダメです。出さなきゃ。自然に出せ

ばいい。力んで出したら痔になっちゃう(笑)。素直に出るべきものは出るんです
よ。
神様有難うございます、だけで生きていて、不幸が出てきたら、それは消えてゆ
く姿。病気が出てきたら消えてゆく姿。怒りの想いが出てきても、それは消えてゆ
く姿。妬み心が出てきても消えてゆく姿。なんでもいいからみんな消えてゆく姿に
してしまえば、スッと瞬間は出ますよ、瞬間出ても、消えてゆく姿1 と言ったら、
スーッと消えてゆきます。
誰が消してくれるのか、というと、守護霊守護神がきれいに消してくれるんです
よ。力んじゃいけないんです。
私がいつも柏手をたたきますね。どうしてあんな音が出ます? って聞かれるん
りきちっと
だけど、それは力まないからです。私は一寸も力んでいない、なんの力も入れてな
いんですよ、こうでしょう(柏手を叩かれる)。秘訣は力を入れていない。私はなん
120
にも力を入れてない。この間のお山の統一会(聖ヶ丘統一会のこと) で、あの時打
った柏手なんか、天地が震動するくらい凄い。今は出ません。やる時期ではないか
ら、そんな音出ない。
誰でもあの音の凄いのには驚くといいます。何故凄いのか、というと、力をなん
にも入れてないからなんです。ふつうの肉体界の考えでゆけば、力を入れなければ
大きい音は出ない、とこう思うんですね、ところが力を入れて力んだらダメ。
この世の生き方もそう。よく生きなければならない、と力んだらダメ。くたびれ
ちゃう。力んだら身体が自由に動かない。ボクシングでも見ていて面白いですよ。
力んだほうが負けます。相撲なんかよくわかります。勝とうとか思ったら負けちゃ
う。勝とうも負けようもない、ただ神様の中にまかせて、スースーッと生きる。守
護霊守護神さん有難うございます、世界人類が平和でありますように、とそれだけ
やって動いていると、それが自分のためにもなり、世界人類のためにもなる。自分
のいのちが宇宙大にひろがっていることなんです。こんな易しい教えないでしょう。
121力まない生き方の秘訣
これが他力の極意なんです。柏手を力みなく打っている、
意なんですよ。
打てるというのはもう極
122
中庸とは右でも左でも真ん中だというんでもない
うつるものおのづうつりておのづ消ゆ
己は澄みてただひそかなり
うつるものはみんな、おのずから写って、おのずと消えてゆく。神様のみ心とい
うのはもう現われている。現われているのを現わさないだけなの、人間が。現わさ
もと
な い元は何かというと想いです。
これがいいんだ悪いんだ、と思っている想い、そういう想いをいっぺん捨ててし
まうと、消えてゆく姿にすると、直感的に、いい案がわかる。ピンとわかるんです。
悪いものには会わせない。自然に進歩する方向に進んでゆく。近道が出来るわけで
す。遠道したって同じだけれども、近道したほうがいいんです。近道する一番の近
道は何かというと、消えてゆく姿で守護霊守護神への感謝なんです。もっと近い近
道は世界平和の祈りなんです。これ以上の近道はないんです。そう思って、呑気に
呑気にやらないといけませんね。うちへ来る人はどんどん呑気になります。
ちゅうよう
この間『白光』に中庸というのを書いたけど、中庸というのは、右でもない左で
もない、真ん中だというんでもない、と書きました。
中庸はどこから出てくるかというと、神様にすべてまかせたところから、生まれ
てくる。神様にすべてをまかせない中庸なんていうのはありませんよ。
共産党が憎らしいでもなく、右翼が憎らしいでもない。みんな消えてゆく姿。い
い悪いではなくて、どんなに悪いものを見ても、自分がカーッとしたら、自分の心
よご
が乱れたので、それだけ自分が汚れたんです。悪いものを見て、誰だっていいこと
だと思いやしません。悪いものは悪い、まずいものはまずいんだ。しかしまずいも
のはまずいなりに、悪い結果をみても、ああこれは消えてゆく姿、一日も早く消え
ますように、神様お願いします、世界人類が平和でありますようにと祈ればいい。
123力まない生き方の秘訣
見たものに把われてはいけない。いっぺんは把われますよ、まずいものはまずい。
悪いものは悪いんだからね。誰だって、それはいっぺん掴みます。掴まないのは馬
みそくそ
鹿なんだからね。善悪の判断がつかなかったら、これは馬鹿と同じです。味噌も糞
も一緒じゃない。うまいものはうまい。いいものはいい。美しいものは美しい。ま
ずいものはまずい、これはハッキリしているんです。
あああの国のやり方が悪いとか、政府はあんなことをしちゃダメだ、とか思いま
すね。思ったら思ったで「ああこれも消えてゆく姿なんだ、本当の日本の姿が現わ
れるためにこうなってんだ、どうぞ神様、日本の天命を完うせしめ給え、世界人類
が平和でありますように」とやるんですよ。
それはいっぺん掴まないと出来ません。たったいっぺん掴みます。それからです。
はな
パッと放つ。守護霊さんのほうへやっちゃうわけです。そして世界平和の祈りの中
に入れる。
相手の業を掴む、ああなんて悪い人間だろう、あのヤロウは、とこう思います。
124
そう思った時、コノヤロ、アノヤロとやっては、掴んでいるんだから、自分もアノ
ヤロ、コノヤロにくっついちゃっていることになる。
ああいやな奴だな、しかしこれはその人の天命を完うさせるために、向こうの業
が消えてゆく姿で出てくるんだから、世界人類が平和でありますようにと、世界平
和の祈りの中に入れてしまう。そうすると、向こうの業をそれだけとってやったこ
とになります。
一度は掴んで、掴んだものを世界平和の祈りの中へ入れる。そして朝、昼、晩、
世界平和の祈りの中で暮らす。呑気なもんですよ。そうすると、長生きもするでし
ょうし、いきいきといのちが生きます。そういう生き方をすればいい。
一番いけないことは、責めるということです。どんなに自分が正しいことをして
も、どんなに自分が正しくても、相手を責めて、そして責めたものをいつまでも掴
んでいては、正しいとは言えないのです。
125力まない生き方の秘訣
親鸞の教えに「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」というのがありま
すね、善人でさえ救われるんだから、悪人は救われるのは当たり前だというんです
よ。そんな馬鹿な話はあるか、反対じゃないか、と思うでしょ。悪人でさえ救われ
るんだから、善人が救われるのは当たり前だ、と言いたいところでしょう。
それを反対に、善人でさえ救われるんだから、悪人が救われるのは当たり前だ、
わけ
というのはどういう理由でしょう。
善人というのは、私はいい人間だ、だから間違いない、向こうが悪いんだ、とこ
う思う。
善い人というのは、とかく自分をいじめすぎる。ああこんなことをして悪かった、
いつも悪かった悪かったと自分を責めています。そんなことでは救われにくいので
す。
とが
しかしそういう救われにくい善人でも、自分ばかり答め、いじめているような想
いの人でも救われるというのです。
12G
悪人というのは、大体大胆なのです。悪いことが平気で出来るような人は大胆で、
パッと思いきってやれる人が多いのです。思いきってやれる人は反省するのも早い
んです。
「ああオレはさんざん悪いことをしてきた。ここらでもう良いことをしなけりゃ」
というように思う。大体が自分が悪いと思っている。そうすると、善くなろうとす
る想いも強いんです。
善人というのは、自分が善いと思っているから、善くなろうという想いが少ない
んです。よくありますよ。「私は何も悪いことをしていませんから、神様にお願い
する必要ないんです」と言う。「お金も充分だし、子どもたちもいいし、私は少し
も悪いことをしていませんから、先生にお願いすることは、何んにもございません」
って。
ぼこ
「何言ってんだいコノヤロ、馬鹿言うな1」そういうのを善人誇りという。
「悪いことをしないって、お前、悪いことを一日もしないで生きていられるか?
127力まない生き方の秘訣

おまえが食べているのはなんだ、魚であり、肉であり、野菜であり、米であり、み
んな天から頂いたもの、大地から頂いたもの。それを黙って食べているじゃないか。
空気はどこからくる。空気にお前、金払っているか(笑)空気の中にどれだけ微
少な生物がいるか。それを食べちゃっている。何が悪いことしていないと言えるか」
こう言いたくなります。
人間というのは「今日一日生きているのが有り難いな、神様有難うございます」
ゆる
と言った時に、はじめて罪が赦されるんですね。
ヘヘへ
ああ神様、いのちが生きていて、このいのちを生かしてくださる神様、私を生か
してくださる神様有難うございます、本当に有難うございますーこういう人は本
当の意味の善人です。善人も何も超えた者です。感謝の心そのものです。
そういう想い、心になりやすいのが悪人ですよ。悪いことをしていて、赦されま
す。そうすると有り難い、私はこんな悪いことをしても、いのちがあって有り難い
な、と思います。善人誇りをしているのは、そう思わない。
128
そこで親鸞は、善人でさえ救われるんだ、こんな高慢な奴でさえ救われるんだか
ら、あなたのように、悪いことをハッキリわかっている人は、悔い改めが早いんだ、
とこういったわけなんです。
それを私は、善いことをしようと、悪いことをしようと、そんなことは問題じゃ
ない。それはみんな消えてゆく姿。現われてくるのはみんな神様のみ心が現われて
くるんだから、そのまま神様有難うございます、と思って、みんな消えてゆく姿に
しなさいーというふうに私は説いたんですよ。それを毎日やってください。
人間には、自分は悪い悪いと責める想いがあるから、自分が正しいのに、という
想いがあるから、自分が正しいと思う想いも、自分が悪いと思う想いも、そういう
想いはみんな消えてゆく姿。ただ生きてゆく一番の根本は、世界平和の祈りですよ。
その他何もありません。
世界平和祈るは神のみ心の
ひゞきにあれば祈るたのしさ
129力まない生き方の秘訣
という私の短歌のように、世界平和の祈りは楽しいな、なんて有り難いんだろう
な。そういう気持ちで生きている。それだけしかない。
そうすると、子どもも良くなるし、テストも良くなってくる。
130
キロワ ド
理想を現実化する鍵
(昭和34年6月6 日)
因縁因果宿命論と実相完全円満論
白光の教えの根本は何かと申しますと、三つありまして、一つは守護霊守護神の
存在と働きを打ち出しているところと、二つは消えてゆく姿という教え、三つは世
界平和の祈りということです。
今までの宗教では消えてゆく姿がないんです。因縁因果をとらえて、あなたがそ
ういう運命になっているのは、前生の因縁が悪いんだ、病気や貧乏になるのは因縁
なんだ、と因縁ばかりを言う。かと思うと、祖先が迷っているとか、祖先がたたっ
ているからお前のところはよくならないんだ、というように言うんです。
131理想を現実化する鍵
もう一方、この世の中は悪いものも不幸もないんだ、本当は完全円満で病気もな
い、不幸はない、貧乏はない、あるのは神の姿だけで、その実相は完全円満なんだ、
という言い方です。
片一方は小乗的、因縁因果説で、お前の運命は前生の因縁・前生に借金があるか
ら、こういうようになるんだ。それをよくするには、お前が一生懸命、祖先を拝ん
で菩提をとむらって、お前の心を立派にしなければだめだというんです。
このやり方でゆくと、どういうことになるかと言うと、いつでも自分は一生懸命
やろうと思うのです。けれど因縁がどこまで深いかわからない。前生からあるんだ
から。汗水たらして働いても貧乏だ、オレの祖先はそんなに悪かったのか、それな
らオレがいくら働いて稼げど稼げどだめじゃないか、ということになって、宿命論
的になって、非常に不安な勇気のない生き方になってしまうんです。
片一方の実相は完全円満、病気もない、不幸もない、ということは、因縁因果を
追うよりはよっぽどいいんです。因縁因果ばっかり追うと、消極的になってジメジ
132
メした宿命論になりますから、それよりはいいんです。
あなたは病気をしているけれど、そんな病気はないんだ。あなたが勝手に病気だ
と思っている想いだけが、病気なんだと教えている。なかなかいいですよ。
不幸はないんだ、お前が不幸だ不幸だと思っている想いが不幸なんだ。貧乏はな
いんだ、お前が貧しい心を持っているから、それが貧乏として現われるんであって、
本当は貧乏はないんだ、実相は完全円満なんだ、とこういうんです。因縁因果より
このほうがずっといいですね。
さあこれだけでゆきますと、どういうことになるかというと、やっぱり働いても
働いても生活がよくならない。自分の心の中に不幸もある。妬み心もある。怒りも
ある。そうすると、オレは神の子で実相完全円満なのに、何故どうして自分の中に、
いつまでも怒りがあったり、妬み心があったり、不幸が出てくるのか。オレはダメ
なんだなア。と思っちゃうんですよ。いくら信仰したって、いくらやったって、い
つまでたってもよくならない、だから自分はダメなんだ、神様に見放されているん
133理想を現実化する鍵
だ、とこういうふうになるんですね。
いくら病気がないと言っても病気は現われます。貧乏がないといっても貧乏が現
われます。不幸がないといっても不幸が現われます。この世では、実は完全円満な
んかなりっこないんだから。この肉体の世界には完全円満な世界なんてありません
から、完全円満という理想像をいっぺんに地に降ろしますと、自分とその理想とを
くコリ
比べ、本当の姿はこんなに立派なのに、オレはなんてみじめなんだろう。オレは神
の子で、本当は完全円満で、病気などないわけなのに、どうしてこんなに病気にな
るんだろうと、かえって逆に病気に把われてくる。だからあんまり完全円満論をふ
りまわされると、理想と現実がともなわないから、途中で違いが出てくる。
そういう完全円満論者が病気見舞いに行きますと、寝ている人に向かって、病気
はないんだよ、すぐ床をたたんで起きなさい。なんていうようなことを言うんです
よ。病院に押しかけて、あんた神の子じゃないか、病気はないのに、なんで病院に
入っているんだ、こんなことを言ったりする。何か行きすぎがあるんです。
134
信仰に入る人は割合い素直なんです。先生方の言うことは、まっすぐ信じます。
それでやってみます。ところが実際問題となると、やっぱり病気はある、貧乏もあ
る、不幸もある。だからないというのと、あるという境にぶつかって、ないんだか、
あるんだか、しまいにわけがわからなくなっちゃう。要するにこの世の教えとして
は、少し無理があるわけです。因縁因果の話も、完全円満の話も、両方ともに無理
があるのです。
因縁因果は本当の話です。この世で苦しんでいるのは、前生の因縁因果です。過
去世の借金がここへ来て現われているんです。因縁因果説は無理もない本当のこと
なんです。
また人間の実相は完全円満で、悪も不幸もないんだ、ということも本当のことな
んです。片一方は天から見た本当で、片一方は現象界を見た本当のことなんです。
両方ともウソじゃない。ウソではないけれども、本当のことを本当のままに言った
ら、人間が救われるかというと、そうじゃない。
135理想を現実化する鍵
本当のことを本当のままに言ってごらんなさい。この世の中通らないです。対人
関係にためしたらよくわかる。この世の中を渡る場合には、本当のことを本当のま
まで通るような世の中ならば、もう世界は完全円満なんで、騒ぐことは何もない。
しかしそれでは世の中通らない。だからウソと本当とを教えて、いろいろ混ぜ合わ
せて出すわけです。
それで私の教えはどういうことになるか。
やっぱり因縁因果説もあるんです。しかも完全円満説もあるんです。どういう形
で現われてくるかというと、あなたが病気をしているのも、不幸になっているのも、
貧乏になっているのも、それはないんじゃない。確かにあるんだ。だから一度認め
させるんです。
ああ病気、気の毒にね、貧乏でああ大変ですね、不幸、ああお気の毒に、ってこ
うなります。けれども、今、不幸に見えるけれども、今病気のように、貧乏のよう
に見えるけれども、それは今のあなたが貧乏でもなければ、今のあなたが不幸でも
136
なければ、今のあなたが病気でもないんだ。それは過去世からの業因縁、いわゆる
神様から離れた想い完全円満なる神から生まれた人間に不完全なものはないん
だから、本当は完全円満なのに、完全円満であるということがわからなくて、神様
の姿を見失って、肉体生活をしている。その神様から離れただけの想いが、業想念
になってたまってきて、それがここに現われてきて、病気なり不幸なり貧乏なりに
なって、現われた時にはもう消えてゆく姿なんだから、今のあなたが悪くて病気に
なっているわけでもなければ、不幸になっているわけでもない。それは消えてゆく
姿として、目の前、自分の本心の前を通りすぎてゆくところなんだ、と教えるんで
す。
だから通りすぎてゆく、貧乏なり、不幸なり、病気なりを追いかけちゃだめだ。
なんでこんなに貧乏なんだ、と追いかける必要はない、病気も不幸も、なんでなっ
たんだ、と追いかける必要はない。追いかける想いもそれは消えてゆく姿なんだか
ら、その想いをそのまま世界平和の祈りの中に入れちゃいなさい、と言うのね。
137理想を現実化する鍵
観の転換をはかりなさい
世界平和の祈りの中に入れてしまいなさい、というのは、観の転換なんです。転
換をはかる。
今のあなたが悪いんでもなければ、なんでもない。それは消えてゆく姿なんだ。
だから消えてゆく姿として、ああ痛い、痛いけれど世界平和の祈りの中に入れてし
まおう。ああ痛い、世界人類が… … ああ痛い、世界人類が… … とやっていて、お医
者に行きたかったら行けばいい。それはその人の自由なんです。
だから一旦は認めるんです。この世の中を素直に一旦は認める。私の教えは大体、
正直なんですよ。素直にこの世の中を認めさせる。ああなんて不幸な世の中だな、
なんて不幸が満ち満ちているんだろう。あちらでは争い、こちらで争い。自分たち
を守ろうとして、お互い闘争しあっている。ああなんてこの世の中は嫌な世の中だ
な、っていっぺん認めます。
認めたって認めなくたって、事実そうなんだからしょうがないでしょう。そんな
138
の目をつぶったって、ないとかあるとか言ったって、あるものはあるでしょう。
嫌な人と好きな人がある。本当は好きも嫌いもないんだ、みんな実相完全円満で、
みんないのちにおいては一つなんだ。嫌いという想いは間違いなんだ、ということ
になるんだけれど、苦しくてしょうがない。前生の因縁というのがあるから、因縁
の合う人と合わない人とある。波の合う人と合わない人とある。嫌な人をいっぺん
に好きになれ、ったってそれは出来ません。信仰の結果、好きになるかもしれませ
んけれど、嫌いなものを好きになれ、と言ってもこれは無理でしょう。また逆に好
きなものを嫌いになれ、というのもこれ無理ですね、凡。
バイオリンをハイフェッツのように、きれーいな音で弾いている人がある。そう
かと思うと、習いたてでノコギリの目立てみたいにキイキイやっている。それを聞
いて、バイオリンはバイオリンだ、弓は弓だ、弾いているのは人間だ、みんな同じ
なんだ、どちらも同じに思え、たってそんなバカなことは出来ないでしょう。そん
なことをしたら進歩がありません。進歩することが何もない。
139理想を現実化する鍵
だからこの世の中は平等ではない。能力の差があります。習練の差があります。
年令の差があります。いろんな経験経歴の差があります。差があるから、それだけ
まず
上下があるわけです。ですから上手い、拙い、というのはちゃんと見分けなければ
いけない。正しい目で見なければいけないですね。仏教の極意では正しい目で見な
ければいけない、というのがあるんです。現象世界を正しい目で、一度見なければ
なりません。
現象世界といったって実相世界といったって、ここに住んでいるんだから、正し
ありさま
い目でこの地球世界の有様をとっくりと眺めなきゃならない。とっくりと眺めると、
貧乏している人もあれば、富んでいる人もある。能力の高い人もあれば低い人もあ
る。技術的にうまい人もあれば下手もある。肥った人もあればやせた人もある。い
ろいろ差別がありますね。差別があるのは、あるで見なければダメですよ。
それをない、と見たら、それはウソなんです。欺隔なんです。実際、本当の姿、
本源の姿、実相の姿にはないんだけれど、そんなこと誰もわかりゃしないでしょう。
140
みんなこっちに住んでいるんだから。だから一度は、この世の中の差別を見なけれ
ばならない。
よけい稼ぐ者は稼がない者より、お金が貯まるかもしれません。智慧を働かした
すぐ
者は、智慧を働かさない者よりも勝れているかもしれない。そのようにいろいろ差
別待遇があるし、差別があるんだけれど、その差別がある現われは何かというと、
どんな立派な人も、どんな立派でない人も、どんな金持ちも貧乏の人も、病気の人
も健康な人も、この世としては消えてゆく姿なんですね。
かくし如くこつぜん
今、健康で嬰鎌として働いている人がある。それが忽然と死ぬかもしれない。貧
乏で貧乏でしかたがない人が、明日、突然に富んでくるかもしれない。
この世は変化変滅します。この世は変滅してゆく姿なんだから。一瞬としてじっ
としているものはない。赤ん坊なんか見てごらんなさい。この間、お腹が痛くなっ
て生まれた。ほら名前をつけた。一ヵ月二ヵ月たつ、忽ち二才になり三才になる。
ああ学校か、というようにターッと変わってくる。そういうふうに現われたり消え
141理想を現実化する鍵
たりする。それで最後には、みんな消えてしまう。ここにいる人たちの肉体はみん
な消えます。百年といわず、五十年から八十年たったら、ほとんど消えますね。
みんな消えてゆく姿なんですよ。いいですか。全部消えてゆく。そうすると、こ
の世にある、というようなものも、あるんではなく、ただ現われているにすぎない。
ヘへ
あるものは何かというと、神様の子であるいのち、神のいのちが充満しているだけ
なの。
いのちが現われて、肉体の人間にもなり、牛にもなり馬にもなり、花となって咲
く。いろんな形に現われている。
いろんな形に現われているけれど、花とか動物とか鉱物というものは、神様にそ
のまま使われていて、自由がないわけです。昨日うちに咲いていた花が、隣のうち
に動いて今日咲いていた、なんていうことはない。そういう自由がない。動物にも
自由があるように見えていて、自由がない。自由に動けるけれど、限られた自由で、
自分で食物を創って食べる能力がない。あるのをとってくるだけです。
142
人間は自分で創って食べられる。いろんなものを発明して、神の叡智と同じよう
にいろんなことが出来るわけです。
人間というものは、神様がご自分の智慧、能力をそのまま人間に分け与えて、人
間の自由にさせて創ったものなんですね。だから神の似姿をもって造られたのが人
間だ、とこう言っているし、人身得難し、とこう言っているんです。
植物や動物や鉱物は被造物で、造られたもの。人間は造られたものではなくて、
神から分けられたもの。造られたものと、分けられたものとは違うんです。
人間というものは、神のいのちを分けられているもの。造られているものと、分
けられたというのは違うんですよ。
分けられて神の能力を、そのままフルに持っている、そして使えるのが人間なの
です。ところがこの地球人類というのは、いまだ未発達、完全に発達していないか
ら、神の能力をそのまま全部、一〇〇パーセント出していないんです。五パーセン
トか十パーセント。出しているほうが少ないんです。それで動物性がたくさん出て
143理想を現実化する鍵
いるわけです。造られたものの姿のほうが多く出ていて、分けられたいのちである
人間の姿があまり出ていないんですよ。そこでこの地上界は、動物世界と同じよう
に、自分を守るために争うわけですね。
動物がそうでしょう。強いものが弱いものを食べてしまいます。それで生きてい
ます。人間世界もやっぱり未だ動物性が多いから、造られたものの範囲を出ていな
いから、食い合うわけですよ。強い国が弱い国を攻めて、それで領土にしてしまう。
さくしゆ
強い人間が弱い人問をいじめ搾取してしまう。弱い者が縮こまっている。金のない
ものが縮こまっている。能力のないものが縮こまっている。そういう世界なんです。
それは動物の世界と同じ世界です。
ところが人間というものは、神から分けられたものだ、と知っているわけです、
中で。本心としては神様のいのちだ、ということを知っていますから、自分がしい
たげられたまま、搾取されているまま、使われているままで満足はしていないわけ
です。大きな国にいじめられたままで満足はしていない。それで反抗するわけです。
144
なんとかしてあの大国をしのいで、立派になろう、というようなことで、今までの
歴史は亡くしたり亡くされたり、大きな国が小さくなったり、小さな国が大きくな
ったり、いろいろ興亡を続けてきたわけです。
現在では大国はアメリカとソ連です。あとみんなちっちゃい国です。小さい国は
ひご
アメリカならアメリカの庇護を受け、ソビエトならソビエトの庇護を受けている。
それでやっと生存しているような国になってしまっている。さあそのアメリカとソ
ビエトも、やがて動物性を発揮して、戦いをいどみ合わなければならないようなこ
とになってきています。
そこで今は、因縁だから仕方がない、あきらめなさい、とか言っている時代でも
なければ、完全円満だから悪はない、病気はない、不幸もない、なんていう観念論
に、ただないんだないんだと、実際に出来もしないものを言うような時代でもなく
なった。
あるものはあるままに認めるわけです。認めながら、それは消えてゆく姿として
145理想を現実化する鍵
認めているわけです。アメリカとソビエトは戦争しちゃうんだ、と見ているわけで
はありません。アメリカやソビエトが、原爆や水爆をつくる。実験をする。人工衛
星などを作って、まさに戦争をはじめるような姿に見えるけれども、これは人類の
業想念がそこに結集して、それが消えてゆく姿として現われているんだ。これが消
えた時には、そこに本当の人類の姿、神の姿が現われてくるんだ、という教えにな
らないと、光明思想というわけにいかない、光明の教えというわけにはいかない。
そこで私は、消えてゆく姿だ消えてゆく姿だと教えている。消えてゆく姿の教え
しもべ
を聞いて、クリスチャンの人など随分助かったんですよ。今まで罪の子だ、神の僕
だ、いつ罰があたるかわからない、というような恐怖的な観念論だった。非常に狭
く、縮こまって神を恐れ、おののいて仰いでいた。何かしちゃ神様の罰が当たらな
いか、何かあったら罰が当たらないか、と思っていたわけです。
神様は罰など当てないです。絶対に当てないですよ。ある宗教団体でも初めそう
言っていた。神は罰は与えない、みんな自分の心が自分に罰を与えているんだ、と
14G
教えた。これは大したことなんです。実際そうなんですから。罰を与えないと言っ
たその宗教団体が、何をやったかというと、お前の心の影だよ、と言って罰を与え
てしまったんです。
お前の家庭が不幸なのは、お前の心の影なんだ、みんなお前から出ているんだか
ら、お前が直らなきゃダメだよ、とこう言うんですね。これは本当の言葉なんだけ
れど、さっき言ったように、これはまずい言葉なんです。過去世がないんですよ。
現在のお前の心のやり方が悪いから、そうなっているんだ、というふうに言う。そ
うなると、人間の心を責めてしまうことになって、人間神の子完全円満というもの
がなくなってしまう。そこで責められる悪いものを認めてしまうわけです。
そこで私が言うのは1
不幸な想いも、貧乏な想いも、自分が悪いという想いも、自分で改めたりするの
はなかなか出来やしない。ますますいやになる。妬んじゃいけないと思いながら妬
む。短気じゃいけないと思いながら短気を起こす。恨んじゃいけないと思いながら
147理想を現実化する鍵
憎む。なんて自分はダメな人間なんだろう、ということになるんですね。そこでダ
メな人間だ、と思う時にはすでにその人は本心に入っているんだ、と私は教えるわ
けです。
短気がいやだと思い、妬み心がいやだと思い、気の弱いのがいやだと思う、要す
るにいろんな悪い想いがダメだと思った時には、すでにあなたの心は神様の中に入
っているんだ、と教えるわけです。だから自分がダメと自分を痛める想い、相手は
ダメなんだと相手を痛める想いをもったままで、神様の中に入っちゃいなさい、そ
れが世界平和の祈りだよ。と教えるのです。
148
本心と業想念
それはどういうことかというと、この世の中は想いの世界なんです。神様の光の
世界と、人間に与えられた想念とまざっているわけです。だからこれを分離すれば
い い。
光は神様から来ているものです。人間は光の子なんだ。邦嚇醗鰹として大調和し
ているわけです。素晴らしいひびきをたてている光の波なのです。それだけが現わ
れていれば、この世界は完全円満になって、光明燦然としてみんな神々になってし
まうわけです。
みんな神々なんだけれど、実はそうじゃないでしょう。動物性があっていっぱい
業想念が現われている。そこで業想念と光の子神の子である人間を分けなければな
らない。本心と業想念と分けなければならない。
本心というのは神様から来て、光り輝いている完全円満な姿。業想念というのは、
好きだとか嫌いだとか、あいつは憎らしいとか、私はダメだとかいう想い。思慮分
別の想いです。これをいっぺん分ければいい。どういうふうにして分けるかという
と、消えてゆく姿として分けるわけです。頭の中をグルグル廻っている想い、おな
かの中で煮えくり返っているような想い、そういう想いのすべては、みんな消えて
ゆく姿である。どこで消してしまうかというと、神様の世界の中に消すのです。神
149理想を現実化する鍵
様神様と言って、神様の中に消してもいいし、守護霊さん守護神さん有難うござい
ます。と言って守護の神霊の中に消してもいい。けれど世界平和の祈りの中に消す
のが一番いい。
何故いいかというと、世界平和というのは神様のみ心だからね。神様の本当の姿
が現われた時には、世界が平和なんだから、その理想の完全円満の中に消すのです。
それは神々が光り輝いて働いている大霊団の中なんです。世界平和の祈りというの
は、その大神霊団から出ている光が”世界平和の祈り”の言葉になって現われてい
るわけです。
そこで自分を否定し、人を否定する想いも、悪を認める想いも「世界人類が平和
でありますように」という時には、スイッチが押されて、世界平和の大光明、守護
の神霊団の中にスーッと入ってゆくわけなのです。
自分の業想念が出た時に、業想念を土台にして、そのまま神様の中に入ってしま
うわけです。そうすると、私はダメだとか、相手がどうだこうだという想いが、ス
150
ーッと消える。また出てくる、また消す。また出てくる、また消す。なんべんでも
出てきます。出てくるけれど、だんだんだんだんその想念は薄くなります。これは
有限なものだから。
何故、業想念は有限かというと、人間は神の子で、光り輝いたものが生まれてき
たわけなんで、それで霊界をつくり、肉体界をつくるに及んで、肉体という物質化
した、非常に遅鈍な動きの波の中に入ったために、裸で泳げばうまく泳げるものを、
重い潜水服を着て泳いでいるような形だから、どうしても遅くなります。裸の人と
潜水服着た人とは速さがまるで違うでしょう。そののろいだけの時間の差、ハンデ
イキャップが現われているわけね。
もと
神様の世界、人間の元の世界では完全円満なのです。光り輝いている。しかしこ
の肉体界までその姿が届くまでには、時間がかかるわけです。何故時間がかかるか
というと、向こうは素晴らしい速さ、時間のない速さなんですね、だからいつでも
完全円満。こちらは有限の速さ、波がおそいから時間がかかるわけです。
151理想を現実化する鍵
星の光と同じです。何十年前あるいは何百年前、あるいは二千年前三千年前、あ
るいは百万年前に光ったその光が、今地上界の目に届いている。今、見ている星の
光というのは、今、光っている光が見えているのではなくて、何百年とか何千年、
何百万年とか前に光った光が、今目に見えているんですよ。それと同じように、人
間というものは、私もあなたも皆さんも、神界で光り輝いて働いている。なんの悪
も不幸もなく完全円満で働いているわけなんです。その姿がまだ地上界に写ってい
ないんです。
そこでこの世界にいち早く現わすためにどうしたらいいかというと、自分たちの
想いをいっぺん自分たちの本体に還元して、本心の中に入れてしまうことです。世
界平和の祈りを通して、自分の神界の中へ自分が入ってゆくわけです。
“世界人類が平和でありますように
” といって神界の中に入る。すると、自分本
来の光がパーッと流れてくる。そうすると自分の肉体の波動も速くなるわけです。
肉体はこれは波なんです。実は波が集まってきて、ここに現われているんです。
152
光の波と業想念の波とがまじって現われている。
神界の光の波がパーッと流れてくることによって、業想念の波がどんどんきれい
になってゆく。それを続けてゆけば、ついには人間神の子本来の光の姿になってく
る、というわけです。
153理想を現実化する鍵
154
なんでもかんでも平和の祈り
1神様と一つになるためにー
(昭和34年6月6 日)
むげじざい
把われない、ということが宗教の極意なんですね。無擬自在になれ、無擬という
くヵつ
のは障りなくあれ、空になれ、と宗教は教えるわけです。なんの極意よりも、把わ
しきそくぜくうくうそくぜしき
れない、というのが一番の極意なんです。色即是空、空即是色ということです。把
われないようにするために宗教があります。
ところが今までの宗教は、把われをなくすようにするために、把われてしまった。
把われまい把われまいとして、把われてしまった。
おしょう
何かの本で読んだのだけれど、和尚がいて随分の酒呑みなんです。ある時お弟子
を連れて何かの講義の会に行ったのです。そしたら向こうの和尚も酒呑みで、講義
がはじまるまで飲んでいた。一升か二升を飲んでしまったのね。お付きの坊さんも
少し短気の人だったと見えて、和尚に「私は講義が聞きたいんだ。一刻の猶予もな
らないこの求道心で、講義を聞きたいのに、酒なんか呑むなら、私はここにいない」
と意見をした。
「居たくない者はさっさと出ろ」と言ってその弟子は放り出されてしまった。
その和尚さんが是か、弟子のほうが是か、と言うんですね。どっちも是じゃない。
片方は素直じゃなくて、お師匠さんに楯をついた。和尚は和尚で酒を呑んで、自分
の本命であるべき講義を忘れているバカはないでしょう。
そういう人はたくさんあるんですよ。酒を呑むことにも把われない、何をするに
も把われない、と把われないことに把われて、酒を呑んでしまう。それは”わしは把
われない” と言っている。何言ってやがんだい。神の子は酒なんか呑まない。頭を
麻痺させるようなものは飲むことなどしない。そんなの必要ないんだから。それは
155なんでもかんでも平和の祈り
消えてゆく姿なんだネ。だから私など酒もタバコものまない。欲しくもなんともな
い。と言って皆さん酒を呑む人があるかもしれない。タバコを呑む人もあるかもし
れないけれど、それは消えてゆく姿ね。酒を呑むことやタバコを吸うことはいいこ
とじゃない。商売上、便宜上、商談するためにタバコをのまなくちゃ、なんだか具
いっこんくか
合が悪い場合があったら、タバコをのんでもいいでしょう。お互いに一献酌み交わ
さなければ、商売が成り立たなければ、一献酌み交わしてもいいでしょう。
しかし酒に呑まれちゃいけません。自分の仕事さえ忘れて、呑んでいるような坊
なまぐさ
主があったとすれば、それは生臭坊主に違いない。それを、把われない、という言
葉に胡麻化して把われているわけです。
くりつ
そうかと思うと、空だ空だと言うんだね。オレは空になった、空になったと思う
からから
んですね。空っぽになったと思って、実は空っぽになっていないで、お前の心はな
から
んじゃ、お前のやり方はなんじゃ、と人ばかり責めてるのがある。自分では空っぽ
から
になったつもりでいるのです。ところが空っぽになった人というのは、人など責め
15G
ません。第一、責める心がないのです。神様の中には責める心なんか一つもありま
せん。愛するばっかり、みんなが本心を現わすようにという祈りがあるだけです。
責めるのは消えてゆく姿なんですから。本当の姿ではないんだから。
人を責めた場合には、自分もその人と同じ中に入って、一段下っちゃうんです。
どんなに自分が正しい立場に立っていても、自分が正義であっても、相手が間違っ
ていても、人を責めるという想いが出た場合には、その想いが出ただけが消えてゆ
く姿なのですよ。
いか
おれは正しいから、怒るのが当たり前だ、というのはそれは嘘。怒りで自分が損
するんだから、自分のいのちを傷つけるんだからね。だからいかなる正しい立場に
あろうとも、向こうが不利な立場にあろうと、怒ってはいけません。そりゃ、大き
こごと
な声でどなりつける必要もあります。叱言を言うことも必要かもしれない。しかし
あくまでも、ちゃんとわきまえてやらなければいけない。
いつも言うんだけれど、自分の心臓がバクバクして怒ったんじゃ、そりゃダメで
157なんでもかんでも平和の祈り
すよ。意見にもなんにもならない。自分のいのちを粗末にしているんだからね。心
臓を悪くしてしまいます。冷静な立場で、どなりつけるのはいいですよ。心臓がバ
クバクしないで、感情的にならないで、このバカヤロウ! と言ったっていいんで
すよ。それは把われてないんだから。相手の業を吹っとばすために言うんだからね。
カツいた
喝と同じで、こっちを傷めないんです。いのちも傷まない。強い言葉で言っても愛
の言葉だからです。
愛の言葉か、自分の感情か、というのを計る秤は何かと言うと、心臓を見ればい
ききめ
いです。心臓がバクバクしないで、怒鳴っても、小言を言っても、それは効目があ
るんです。感情ではなく、神のひびき、光がピユーッと飛んでゆくのだから。だか
ら同じ叱る言葉でも、叱る当人自身で判断できますね。親が子どもを叱るのでも同
じです。叱っている方が息が絶えそうになって、子どものほうはケロッとしている。
そういう風景が随分ありますね。
まず自分の心臓がいつも平静であるように、心乱れないようにして叱るなら叱っ
158
たらいいと思います。その練習なんですよ。それが消えてゆく姿なのです。ああ消
えてゆく姿なんだな、と思ってやるなら、なんでもないです。
自分が神様の立場になって、自分の本心の中に入って、そして行ないに出るもの
でなければいけない、ということです。自分が一度、本心の世界、世界平和の祈り
の中に入って、神様と一つになって、それでサーッと出てくるものなら、それは相
手を傷めません。光がパァーッと入ってゆくんだからね。そういうようなことを、
私はいつも思っているんですよ。
そこで一番そういう状態に到達しやすい方法は何かというと、なんでもかんでも、
いつでもどこでも、世界平和の祈りをやる。自分にどんなにつまらないことが起こ
っても、そんな不幸なことが起こっても、貧乏が起こっても、ああ自分はダメだなあ
という想いが起こっても、あいつ嫌な奴だなという想いが起こっても、一生懸命、
世界平和の祈りの中へ入ってゆく。
それで何が出てきても、消えてゆく姿、どんなことが出てきても消えてゆく姿
159なんでもかんでも平和の祈り
1 それをやりつづけていれば、その人は必ず神様と一つになれるのです。神人と
いい、ゴツドマンという神の人になれるのです。
何故なれるかというと、本当ははじめからなっているんだけれど、業想念に災い
されて、曇っているだけなんですから。太陽が照っているけれど、雲が出ているた
めに、太陽が見えないだけなんです。雲が勝手に去ってゆくだけでしょう。雲が勝
手に現われて消えてゆくだけでしょう。
太陽は雲を消そうとも思っていない。ただ光っているだけです。ところが人間は
自分一人では光れないから、世界平和の祈りの中へ入って、守護の神霊と一つにな
って光るわけです。そうすると、雲はどんどんどんどん消えてゆく姿で消えてしま
う。知らない間に、自分の姿が光り輝いて出てきて、だんだん大きくなってゆくわ
けです。
皆さん一人一人がそうなれば、世界平和は忽ち出来るんですよ。それを私がロを
すっぱくして、同じことをいつも言っているわけです。
1GO
これは頭で判ってもダメなんです。心でわからないと十分でない。行なわなけれ
ばダメですよ。だから今日の話を聞いたら、いつも先生から同じことを聞いている
んだけれど、ああ私は今日からやりましょう! 世界平和の祈りをやりましょう1
自分を責める想いが出たら、世界人類が平和でありますように、と唱えましょう。
人を責める想いが出たら、ああこれは消えてゆく姿なんだ、世界人類が平和であり
ますように、と祈りましょう、不安な想いがあったら、ああこれも消えてゆく姿な
んだ、業が消えてゆくんだ、世界人類が平和でありますように、とやりましょう。
というふうに、なんでもかんでも、みんな世界平和の祈りの中へ投げ込んじゃうの
です。
そうすると、世界平和の祈りとして働いている、救世の大光明がみんな引き受け
て、消してくれるのです。きれいに浄めて消してくれます。
161なんでもかんでも平和の祈り
1G2
みんな救われている
(昭和34年7月4 日)
信仰がうすいから救われないはない
業を放て1 という教えはあるんだけれども、今までの宗教は実際上、業を放た
せるようなことをしないのです。こう思わなければ救われないそ、とか、お前の信
仰がうすいから救われない、とかよく言います。けれど、私は言うんです。信仰が
うすいから救われない、ということはないんだ。
あつ
神様は人間すべては神の子で自分の子なんだから、信仰がうすいとか篤いとかは
問題にしちゃいないんだ。だからどんな人でも救うんですよ。あの親鸞の教えに、
みだ
いかなる悪も弥陀の光を消すことは出来ない、阿弥陀様の光を消すほどの悪はない
んだ、だから悪なんかないんだ、というのがあります。それと同じように、どんな
人でも神様は救うわけなんです。
あつ
信仰がうすいという人もあります、篤いという人もあります。しかし信仰がうす
い人が救われないか、というとそうでもない。もう救われているんです。ただ救わ
れていることを自覚してないだけです。信仰がうすくても救われる。どうして救わ
れるかと言うと、人間は本来、神の子なんですから、救われるも救われないもない。
はじめっから救われているのです。ところがそれが判らない。
まだ救われてない救われてない、真理を掴まえよう掴まえようとやっている。上
さんがい
へ上へとゆくのならいいけれど、横にいってしまって、三界の業想念の中でぐるぐ
るぐるぐる廻って、これでなければいけない、あれでなければいけないとやってい
る。
天地をつなぐ光の輪だけがあって、天の光だけがある。それが縦にまわっている。
横の波はみな消えてゆく姿なのです。横の三界の業想念は消えてゆく姿、とやって
163みんな救われている
いると、想いが自然に縦に廻ってゆくんです。その消えてゆく姿がないんで、いく
ら宗教をやっても、求めれば求める程、苦しくなってゆく。だからボヤく人があり
ます。「信仰がなかった時のほうがよかった、宗教に入らなきゃこんなに苦しい想
いに会わなかったのに、宗教やったばかりに… … 」ってね。その先達の人とか先生
方が本当のことを教えてくれないからです。
やたらに自分を責めることばかり教える。だからまだ信仰が浅いというか、私は
まだ信仰が足りないとか、まだこれじゃダメだとか、そういうことばっかり思うの
です。そういうものは自己否定で業想念なんです。否定するなら、全部否定しなけ
れば。肉体人間というものはダメなものだって、私がいつも言うようにね。
肉体の人間は偉いと言ったって、偉くないと言ったって、悟った、悟らないと言
ったって、信仰が篤い、うすいと言ったって、大した違いはないんだ。そんなもの
は大したことではない。人間の肉体は消えてゆく姿であって、やがてなくなってし
ヘへいのち
まう。あるものは何かというと、天地縦横を貫いている生命の光、神様の子である
164
光だけなんです。
問題はどこにあるかというと、上から下に流れている神様の光の中に、自分が入
りさえすればいいわけなの。入ることを教えることです。それにはいっぺん消えて
ゆく姿が出てくるわけです。
こうやって苦しんでいる自分も、信仰がうすいという自分もそういうものは、本
当はないんです。現われては消えてゆく姿、自分の本体は神様の子なんだ、天から
つながっている永遠のいのち、永遠に光り輝いているいのちなんだということが、
消えてゆく姿をやらないとわからないんですよ。どうしても一度、自己否定しない
なまはん
とわからない。ところが大概の宗教では自己否定が生半かなんです。
だから家族を捨てて山にこもったり、家庭のことを省みず、宗教団体のために働
いたりしたって、それは自己否定ではないのです。自分を全部捨てたことにならな
い。自分の財産全部を教団にあげちゃったって、それは自己否定にならない。そん
なものは中途半端。中途半端なことをするなら、やらないほうがいい。ところが中
165みんな救われている
途半端なことをやるような因縁に、やっぱりなっているんだね。
はじめから信仰の深い人はいい、信仰が深いんだから。神様につながっていて私
は救われているんだ、信仰の道に入ったからこれで救われているんだ、とはじめか
ら思える素直な人はいいけれど。そうではなく、これでもダメだ、まだまだダメだ
とやっている人は苦しいですよね。
神様はあるんですよ、神様は完全円満で、あなたはすでに救われているんです。
そんなことはない、私は救われてない。
という人もあります。それは信仰がうすいわけです。しかしそれは因縁なんです
ね。前生の因縁でもって、その人としては仕方がない。五井先生を信じなさい、と
言ったって信じられない人は信じられないで、これは仕方がない。信じられないか
ら悪いとか、良いとかいう問題じゃない。その人の因縁だから仕方がない。
因縁因果の波というのは、いっぺん仕方がない、とあきらめるよりない。仕方が
ないんだから。たとえば身長が五尺しかない人が、五尺一寸になりたいと言ったっ
1GG
て、五尺よりのびなければ仕方がないでしょう。仕方がない、ということはあるん
です。
仕方がないことは仕方がないとあきらめて、そのあきらめの中から出発するんで
す。それを指導者が、自分が甘いものが好きだからといって、なんでもかんでも甘
いものを食べさせようとする。要するに人の因縁因果を知らないから、自分の波の
中に引きこもうとする。人間というものはそういうものなんです。そうすると、い
いことであっても、かえって向こうは余計なことをする、ということになって恨ま
れるんです。
私はそういうことを絶対しないようにしている。向こうのなすがまま、おっしゃ
る通り、やりたい通りにサァおやんなさい、という、病気で大したことがなくても、
医者へ行きたい、ああいってらっしゃい。手術をしたい、ああそうですか、ただ向
こうさんの言う通りにしながら、こっちから黙って光を当てている。向こうのやっ
ていることが間違っていれば、ひっくりかえって正道に戻ります。
167みんな救われている
だからお前さんの信仰がうすいからダメなんだ、とか、お前さんが私を思わない
からダメなんだ、とか言ったことはありません。たまたま、それを言わないと救わ
れない、という場合は言うけれど、ほとんど言わない。私はこんなに思っているの
に、お前は判らないのか、と滅多に言わない。何故言わないかというと、思えない
という因縁が人にあるんだから。それがわからないと、宗教は強制になり、自由が
なくなってダメになってしまうんです。
ところが理論的宗教、知性的宗教には得てしてそういうのが多い。
人間はみ仏の子である。お前さんの中にみ仏がいらっしゃるんだ。お前さんは仏
性なんだ、何んにも把われちゃいけないんだ、という。それでわからなくて質問す
ると、それは把われだ。また何か言うと、それは把われだ1 喝1 て言われちゃ
う。禅の坊さんなんかいいよ。答えが出来なきゃ喝1 ってすましている。そうい
うやり方はずるいと思う。非常に不親切ですよ。喝1 って言っているだけだった
ら、宗教家なんかいらない。
1G8
坐れば判る、坐れ! と言う。坐るのは結構なことですよ。教えるのは形だけ教
え、こうやって坐禅を組め、と言う。そんな坐り方を教えたって、なんにもなりゃ
しない。坐ったって立ったって、そんなことはどうでもよい。
坐るということは、心が神様の位置、仏様の位置に坐ることなのです。それを教
えないで、居眠りすりゃパチッと叩かれる。これじゃいくらやったってダメ。眠い
のを我慢しているだけなんだから。我慢していることは救われにはならない。我慢
したんじゃ絶対ダメ。
あなたははじめから救われている
何もわからないのに、人をめちゃくちゃに宗教に入れる人があります。五人なら
五人入れればお前が救われる、とか人数を増やせばお前の功徳になるとか、言われ
ると、まだその宗教がいいんだか悪いんだかわからないのに、無理むり人を引っ張
ってきて入れちゃう。入れられた人は災難ですよ。もう抜けられない。人数は増え
16gみんな救われている
るけれど、救われている人は一人もいない。何故救われないかというと、人を本当
に救おうと思っているのではなく、自我欲望でもって、自分だけのことを考えて、
人を入れるからです。自分という立場がなくならなければ、宗教の本当の救われに
はならないのです。
いつも自分がある。業の自分がある。業の自分で考えている。救われる、という
人だって業の自分が救われるのではありません。業は救われません。業は消えてゆ
く姿なんだから、救うにも救われるにも消えてしまうんだからね。業そのものが救
われることはないのです。業は消えてゆく姿です。業が消えてゆく姿であるという
のが判りさえすれば救われたんです。
こう苦しむように現われても、こんな情けない心に現われても、どういう貧乏に
現われても、それはみんな消えてゆく姿なんだ、ということは皆さん知ってます。
だからどんなに苦しいように見えても、それは表面の心であって、中の心は苦しん
じゃいません。中では救われているんだ、ということを自覚している。あとは時が
170
流れるに従って、自分の苦しみが減ってゆく。業の波がかかってきてもまた消えて
ゆく。
私が言うとおかしいけども、五井先生! って言ってれば救われるんですよ。た
だ時間の問題です。ところが日本人はことに短気で、一年でも二年でもすぐ直りた
い。直してもらいたいと思うけども、それは無理です。肉体的には知らないだろう
なんじょう
けれど、何生もかけて長い間、それこそ何千年、何万年という前から積んできた業
を、この世で全部払おうというんでしょう。全部浄めてしまおうというのに、一年
や二年や三年でもって全部払おうというのが、大体において虫がよすぎる。死ぬま
でに払えれば上等だ、と思うくらいで、そんなにかかりませんよ。そんなに焦らな
いでください。もうおまかせです。
人間というのは神様の子で、誰も彼も一人も迷っていないんですよ。病気の者も
一人もいないんです。貧乏な人も一人もいないんです、本当は。自分の業想念が貧
乏なんです。業想念行為が貧乏なんであり、苦しみであり、病気なんです。みんな
171みんな救われている
の想いがかかってきますから、私だって年中痛いこともあれば、熱も出ることがあ
れば、いろいろあるんですよ。けれど病気じゃない。病めども病まずです。ちゃー
んと仕事も出来れば、なんでも出来る。なんにも把われないからですよ。
自分の本当の心とはなんの関係もない。病んでいたって、病んでいるものはなん
でもない。迷っていたって迷っているものはなんでもない。悩んでいるものは消え
ヘへ
てゆく姿なんですよ。あるものは神様のみ心だけなの。神様のみ心がそのまま生き
ているんだから、悩もうと悲しもうと、そんなもの知ったことじゃないです。勝手
に悩ましておけばよい。勝手に苦しませておけばいい。自分のほうはね。
ただ人が苦しんでいるのを、業が消えるのよ、勝手にすればいい、ではダメです
よ。自分の場合は、勝手に苦しむものは苦しむ。悩むものは悩む。ああ悩みの姿で
消えてゆくか、苦しみの姿で消えてゆくか、貧乏の姿で消えてゆくんだなア、とや
っていれば掴まないから、自然に消えてゆきます。それで世界平和の祈りをしてい
ればいいんだから、なんでもない。
172
消えてゆく姿というものを、ちゃんと見られたら、平和の祈りも何もありゃしな
い。そのままでもう消えていっちゃうんです。
やっぱり消えてゆく姿というのが根本です。あるもんだと思ったらいけません。
現われたもので、消えないものは一つもない。もう全部消えてゆく姿です。
どうして消えてゆく姿が実効力、効果があるかというと、消してくれる神々がい
るからです。世界平和の祈りの神々なんです。救世の大光明が、消えてゆく姿だと
祈りの中に投げ入れると、ハイ引き受けた、と消してくれるんです。ですからこっ
ちは、守護霊さん守護神さん有難うございます。と言っていればいいんです。世界
人類が平和でありますように、と思っていればいい。あとは勝手に消えてゆくんで
すよ。消してくれるのは守護霊守護神なのです。だからまかせておけばいいのです。
それがおまかせなのね。
ところが今までの宗教というのは、全託というのを教えてますよ、おまかせしな
さい、と言うんだけれども、どこにおまかせするんだかわからないんですよ。
173みんな救われている
神様にまかせる、まかせたところで、やってくれるか、やってくれないかわから
ないでしょう。神様がどこにいるか判らない。まかせるところがないんですよ。本
当を言えば、おまかせほどむずかしいものはない。ところが世界平和の祈りが出来
てからは、おまかせする場所があるのです。世界平和の祈りの中におまかせすりゃ
いい。五井先生におまかせすりゃいいでしょう。だから苦しんでも、五井先生1
と言えば、私がいいですよ、といって保証してくれる。
木仏、金仏がいるとしましょう。これに向かって何か言ってごらんなさい。返事
しないから。おまかせできますか。やってごらんなさい。それではおまかせできな
いんですよ。そのために生きた肉体がいるのですよ。絶対大丈夫ですよ、時間の問
題ですよ、と言われると、ウソかな本当かな、と思ってもですよ、言われないより
はずっと楽ですよ。私たちの言葉は権威がありますからね。あとで文句を言うのは
甘ったれているだけなんですよ。
大丈夫ですよ、と言うのは、こっちはもう大丈夫だということがわかっているか
174
らです。人間は全部救われている。はじめから全部救われているから「救われる」
とアッサリ言えるんです。救われているということを、役目として知らせているだ
けなのです。
人は業があると、業想念が邪魔をして、救われているのに救われていないような
気がするだけなんです。救われていることを知らせるために、業想念を私のほうに
貰ってやるだけなのです。
世界平和の祈りをしなさい、五井先生って言いなさい、と言うと、皆さん言いま
すね。言葉で言わなくたって、頭で思う、心で思う。そうするとその想いが私のほ
うに入ってくる。入ってくると、私がここでもって(肉体をさして) 消してゆくわ
けです。そうすると、言った人はなんだか明るくなってくる。
たとえば商売なら商売で、つぶれるかつぶれないかわからない。苦しくてどうに
もなんない。その時に「先生いかがでしょう」「ハイ大丈夫、あなたはつぶれませ
んよ」と一言言われてごらんなさい。つぶれるまで安心していますよ。本当の話が
175みんな救われている
つぶれるかもしれない。しかしそれはどうでもいいんだ。つぶれるまで安心してい
る。安心しただけの光が、それだけが要するに自分の財産になるわけなんですよ。
同じつぶれるにしても、つぶれるまで、つぶれることにおびえながらつぶれるのと、
ああ大丈夫だ、救われているんだ、と思ってつぶれるのでは、つぶれ方が全然違う。
本当よ、これは。
それは方便だと言えば方便かもしれない。方便でもいいやね、とにかく神様のほ
うでは救おうと思っているんだから、苦しませまい、苦しませまいとしているんだ
から。
実際問題として、ああ先生が大丈夫だ、と言ったから大丈夫だ、と本当に信じた
ら、つぶれませんよ。つぶれなくなっちゃうんですよ。なぜかというと、つぶれる、
という怖れの想いがなくなってしまうからです。つぶれるものごとを持って、神様
の中へ”大丈夫だ” と全託してしまうんだから、これはつぶれっこないですよ。神
様は完全円満なんだから、完全円満の世界へと飛び込んだ者がつぶれるわけがない。
17G
またつぶれたとすれば、
そうなんです。
それはより以上良い結果となって現われてきます。絶対に
私は、信じなさい、とあんまり言わないんです。あなたは信じないから悪いんで
すよ、というと、責めるようになる。責めないために私は言わない。大丈夫だよ、
ってニコニコ笑っている。大丈夫かなと疑うように思うけれど、やっぱり大丈夫と
思うんですよ。人間なんて面自いものです。
よくあるんです。「先生、本当のことを教えてください。うちの息子はもうダメ
でしょうか、助かりませんか」と言うんです。「あなたの息子は助からない」と言
ったら、そのままキュッて逝っちゃいますよ。それなのに聞こうとする。私は「大
丈夫だよ大丈夫」と言いつづける。そうすると「大丈夫なんだな」と言ってまかせ
る。すると、ダメになるものも助かってしまうんですよ。そういうことも私はやっ
ているのね。
177みんな救われている
本当のことを言ってもいいけれど、
ようにしてください。
その時は、そのかわり目を廻わして倒れない
大丈夫なんだ、あなたははじめから救われているんですよ、と言う人がここに居
るんだから、それは肉体の私が言っているわけではなく、神様が言っているんです
よ。
みんな神の子で救われているんだ。神の子が迷っているわけはない。迷っている
のは神様から離れた想いが勝手に迷っているんだよ。
でも先生、現実に苦しいのはどういうわけなんですか?
それは迷っている想いが消えてゆくところなのだ。
消えてゆく消えてゆく消えてゆく姿って言うけれど、いつまでも消えないじゃあ
りませんか?
そういう想いも消えてゆく姿なのだ。
178
そうやっているうちに消えてゆくんです。呑気な商売じゃないんですよ。
宗教には種も仕掛けもない、奥伝もありゃしません。自分の本心は神様から来て
いるもので、光り輝いているもので、完全円満、迷いなんかないんだ、迷っている
想いは、悩んでいる想いは、悲しんでいる想いは、病気や不幸の想いは、それは消
えてゆく姿なんです。人間は救われるも救われないもない。はじめっから救われて
いるものなんだ、とただ構わず思うんですね。思えなかったら、思えない想いまで
それを世界平和の祈りの中に入れる。
迷ひ心迷へるま・に先つなさめ
かみごと
世界平和を祈る神言
迷ったら迷ったままでいいのです。迷い心は迷えるそのままで世界平和の祈りの
中に入っちゃえばいいんですよ。そうすると迷い心はそのまま消えちゃう。
179みんな救われている
常に祈っていることが大事
だからまず第一番にやることは、この世に現われていることは、みんな消えてゆ
く姿であると判って、その理解から入ってゆくことです。そうじゃないと業を掴ん
でしまいます。人間は自分の思っている望んでいることだけを望むわけ。自我欲望
です。自分がしてもらいたいことだけを、先生に望むわけ。ところが先生はもっと
もっと深いことを教えてやりたいのね。もっともっと深い幸福を与えてやりたいと、
神様は思っている。それなのに、ちっぽけな想いだけで望むのです。たったこれだ
け望んで、それにしがみついて、先生どうぞ止めさしてくださいと言う。止めさせ
てくださいと言われなくとも、そんなもの止めさせられるのに決まっている。神様
は深い深いもっと大事なことを教えてやろうと思っているのに、それをいらないっ
ていう。それでも利益があったあったと喜んでいる。
それもいいでしょうけど、百円や千円もらったってしょうがないやね。どんなに
お金をもらったって、健康をもらったって、どんなに家庭の幸福をもらったって、
180
もらわないよりはいい。けれども、それらはやっぱり消えてゆく姿よ。
今、どんなに家庭が幸福であろうと、どんなに財産があろうと、どんなに地位が
あろうと、どんなに健康であろうと、肉体は死にますよ。何がいったい幸福なのか、
本当のいのちを掴まなければならないでしょう。神から来ている永遠の生命を掴ま
なければ幸福になりませんよ。
神から来ている永遠の生命はどこにあるかと言ったら、世界平和の祈りの中にあ
る。何故、世界平和の祈りの中にあるかというと、世界平和の祈りというのは、神
様が人類が平和であることを願っている理念なんです。その中に入っちゃうんだか
ら、永遠の生命につながったことなんだから、何があろうとなかろうと、肉体がな
くなろうとなんだろうと、永遠の生命の中で輝きわたっている。しかも個性があっ
て輝いている。それが一番大事なのです。そんな大事なことを教えているんだけれ
ど、耳に入らない。目の前のことばっかり思う。
私時々面白くなっちゃうの。困っている人を目の前にして面白がったりして悪い
181みんな救われている
けれど、この人今は困ったような顔をしているけれど、今に見てな、一年もすると
喜んじやって、先生有難うございます、おかげ様です、なんて言うだろうと思って、
こっちはニコニコしていることがあるのよ。今困ったような顔をしている人も救わ
れちゃうでしょう。
全部、救われるに決まっている。だって私が救うんじゃなくて、はじめから救わ
れているんだから、私の役目は業想念と本心とを離して、ハイ業想念向こうへ行け、
って離してやるだけなのです。要するに着物を脱がしてやるんだな。あなた裸にな
りなさい。一枚一枚つつ脱がしてやる。裸にしてやると、パアーッと光り輝いてく
るんですよ。

それをみんな裸になりたがらない。夏になりゃ裸になるくせに、業は脱がないん
です。これは消えてゆく姿ですよ、と教えているのに、これだけは離しません、と
掴んでいる。業想念を持っていれば苦しむのに決まっているのに、ちょっと恥ずか
しかったり、体裁が悪かったりすると、押さえているんです。
182
業想念の一番甚だしいものは何かというと、自分だけを守ろうとする想いなんで
す。まず自分だけを守りたい、自分一家を守りたい、自分の都合の悪いことはみな
いやなんです。自分の損になること、金銭的に損になること、地位や名誉に損にな
ること、感情を傷つけられること、これをいやがる。金銭的なことや地位はなんで
もない。自分の感情を傷つけられるのは無茶苦茶にいやだ。邪魔にされたり、侮辱
されたり、無視されたり、これもいやだ。
神様の世界に感情なんてありません。感情沙汰でやっているんじゃありません。
この胸のほうの感情も高いし、ソロバン勘定も高い人がいる。両方で、年中年中、
合わない合わないとやって苦しんでいる人があるけれど、合わないのはそりゃ消え
てゆく姿だ。
人間の本当の姿の中には、感情に把われるものはないんです。感情に把われてい
るうちは、悟りにならない。あいつは気に入らない顔をした、こっちのほうみて挨
拶をしなかった、あいつは私が悪くないのに、こんなことを言った… … みんな感情
183みんな救われている
なんですよ。いっぺん考えてごらんなさい。自分の感情がないものとして考えてみ
るといい。感情がなければなんにも気にさわらないから。
先生、そんなこと言ったって感情がなくなるわけありませんよ、とみんな言うん
もっと
ですよ。それはこ尤も、なくならないですよ。肉体人間ではなくならない。
そこで私は言うんです。
自分の感情を汚されることはいやだ。自分を傷つけられることはいやです。肉体
人間は誰でもそうです。しかしそれではダメで、進歩がない。ではどうすればいい
か。今までの宗教家だったら、お前がそういうことを思うから、お前が悪いんだっ
て、こう言う。お前が喜怒哀楽を出しちゃいけないんだ、短気出しちゃいけないん
だ。お前さんはどんなことをされても、相手を拝みなさい。こうやるんです。相手
は神様だと思って拝みなさい、みんな仏の子だって拝みなさい、とこうやられてい
る。
ところがそれでは感情(勘定) が合わないですね。向こうばっかり悪いことをし
184
ているのに、どうして向こうを拝まなきゃならないのか、誰でもそう思うんですよ。
ご尤もだけど、出来ない。出来ないじゃ救われない。ところが出来ない。
ではどうしたらいいかというと、いつも言うように、肉体の人間はダメなんだ、
ということなのです。肉体の人間は業想念の中では、肉体の人間である自分のこと
ばっかり考えるからね。どうにも肉体の人間というのは救われませんよ。神様とか
ざいあくじん
霊性というものを離れて、肉体の人間だけとしたら、人間は救われません。罪悪深
じゅう
重の凡夫だからね。そういうことを悟ることが第一です。
もっとも私たちのところへ来ている人たちは、自分だけじゃだめだと思って来て
いるに違いない。それは第一歩の救われなのです。そう思える時が現象的に救われ
た時なのです。肉体人間じゃだめだ。自分じゃだめだ、と思って、そのダメなもの
を全部投げ出すんですよ。
といってはじめから全部投げ出せません。そこで迷ったままでいい、喜怒哀楽が
あるままでいい、怒りの心があっても、妬みの心があってもいい。そのままでいい
185みんな救われている
から、なんでもいいから、世界平和の祈りをやってごらんなさい。しぶしぶでも、
おかしくてもやっているうちに、世界平和の光が流れてゆくんです。
ラジオの英語講座をやっているとする。英語が聞こえてくる。聞いてなくても聞
こえてくる。そうすると耳はいつの間にか一語でも二語でも聞くと覚えます。それ
と同じように世界平和の祈りの中へ、怒りの想いがあっても妬みの想いがあっても
いい、パッとスイッチをきりかえて、そのままやっていると、世界平和の祈りの中
ヘズーッと入ってしまうんですよ。こちらでも五井先生が応援してましょう。どん
どん押し上げてゆくわけだからね、知らない間に、自分では大して意気張ってやっ
てもいないし、信仰深くやっているわけでもないけれど、仕方なくやっているみた
いにやっているうちに、本物になってくる。みんなそうなんです。
理屈で教わったんじゃ判らないけれど、知らないうちに判ってくる。消えてゆく
姿というのがだんだん判ってくる。そうすると自分がムラムラと来た時に、ああこ
のムラムラも消えてゆく姿だと思います。自然とムラムラが消えちゃうんです。本
18G
当にむら雲なんだからね。
こしつこらつ
月にむら雲花に風、という言葉があるけれど、月は較々と輝いている。月は曇り
っこないんですよ。曇っているのは月自身じゃなくて、むら雲がかかるだけなんで
す。そのむら雲のほうを自分の心だと思っている。それでむら雲を一生懸命掴まえ
て、私は出来ません、先生そうおっしゃったって無理でしょう、とやっているんで
す。このむら雲を離しさえすれば、スッと消える。自然に消える。消してくれるの
は何かというと、風が吹いて消してくれるんです。この風というものが神様守護霊
守護神の力なんです。
だから迷い心があったままでいいから、世界平和の祈りをやっていると、神様の
力が働いて、迷いを消してくれる。するといつの間にか、だんだん晴れてくる。な
んでもないことにも、救われているということを自覚するようになるのです。
迷い心というのは自分にくっついているもんじゃないのです。ところが感情が出
てくると、自分がぴったりくっついちゃったような気がするんですよ。妬み心がく
187みんな救われている
っついちゃって、自分から離れないような気がする。このままじゃ離れませんよ。
それで五井先生を思うとか、世界平和の祈りをする。怒り心頭に達したら達したま
まで、祈りに持っていってしまう。こんな怒った心で世界平和の祈りが出来ないと
思うけれども、そうじゃない。世界平和の祈りをしようと思う時には、もう世界平
和の中に入っているんです。五井先生を思おう、という時にはもう思っているんで
す。思おうとしている時には、もう想いが出てきているんです。それで世界平和の
祈りの中ヘスーッと入っていってしまうと、祈りの中で怒りが離れてしまうのです。
そして消えてしまう。そうするとパッと目が覚める。
怒りがちょっと出た時、さびしいなアという想いがちょっと出た時、ああ業想念
がかかってきたと、五井先生のほうへやっちゃうんですよ。かかってきた途端、五
井先生のほうにやるんです。そうするとパッパッと消えるんです。だから業想念が
かぶってくる途端にやるのが一番なのですよ。
だから常に祈っていることが大事です。常にやっていれば、かかってきても大丈
188
夫ですよ。短い期間にとれます。やっぱりむら雲だからね。むら雲が年中あるんだ
から、スーッとかかりますよ。どんなに悟ったように見えた人だってかかってくる。
かかってきても、かかった雲のほうにいかないだけなんです。
私のところだってたくさんかかってきますよ。寝る前なんか足がグッグッと動く
ように、想いがいっぱいかかってくるんです。そんなの勝手にさしておくだけです。
自分の本心とは関係ないんだから、業想念が消えてゆく姿だから。自分の本心はた
だ光り輝いて、照らしていればいいのです。そうすれば必ず消えるんです。それを
人は照らさないだけなんです。実は照っていないと思っているんだな。ところが人
間は、年中照って光り輝いているんです。それを霊光写真が現わしている。
みんな自分は霊光写真のような光ではないと思ってるんですね。五井先生はそう
だろうけれど、自分たちはそうじゃない、と思っている。そんなことはない。人間
全部同じなんだから、人間全部神の子なんだから、誰だって光り輝いている。だか
らやっぱり、光り輝いている中に自分が居るんだ。光り輝いているものなんだ、と
189みんな救われている
いう自覚を持つことなんです。その自覚を持つために、平和の祈りをしていると知
たね
らない間に光り輝いてくる。権兵衛が種蒔けば烏がほじくる、というけれど、いく
らほじくられても、続けて蒔いていれば、その種は実になってくるんです。種を蒔
けば必ず生えるのです。どんなにほじくられても、あかずに種を蒔いていると、一
つの種が落ちれば実がなるんです。そういうふうにつねにやることが大事ですね。
救われていることは確かなんだけれど、自覚が足りないだけです。自覚するため
には、自覚を邪魔している業想念を消さなければならないでしょう。ところが自分
では消せないから、肉体ごと全部、神様の中に入れちゃう。世界平和の祈りをすれ
ばいい。世界平和の祈りの中に入ってゆくと、自分が輝くと同時に、世界人類が輝
いてくるんです。きわめて簡単な話です。
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決して責めない生き方
いつも世界平和の祈りの中に入るようにしていると、人を責める想いがなくなり
ます。人がどんなに悪く見えても、ああそれは業想念が消えてゆく姿だな、と自分
を責める想いもなくなります。ああこれは消えてゆく姿だな、ということは瞬間的
に判るんです。そうすると想いが出てきても、直ぐ消えます。
この世に生きている間は、いろんな波があるから波がかかってきます。この世の
中にいるんだから、かかってこない人はいないんです。かかってくるけれども、か
かってくるむら雲にひっかかっちゃうか、把われないで離れるか、という違いがあ
るだけです。
宗教の極意は何ものにも把われない、ということです。何ものにも把われないで
くもつ
空1 といったって何にも思わないという人なんかいない。私はそういう練習をさ
んざんさせられたから、何も思わないけれど、普通の人にそんなことを言ったって
無理でしょう。そしたらどうしたらいいかと言ったら、悪い想いのほうにくっつか
ないで、良い想いのほうにくっついたらいいでしょう。良い想いの最高のものは何
かと言えば、世界平和の祈りです。だから繰り返すけれど、世界平和の祈りの中へ
191みんな救われている
入ったほうがいい。
ああ明日の米をどうしよう、明日のなんとか、と思うよりも、世界平和の祈りの
中へ入っていれば、おのずから自然に動くのです。普通の人は、歩くんでも何をす
るんでも、自分でやっているように思うんですね。実は自分の肉体は勝手に動いて
いるわけじゃないんです。この肉体が動くまでには、心臓を動かしている力が働き、
肺臓を動かしている力が働き、胃腸を動かしている力が働き、足を動かす力が働き、
すべての力が働き、総合の力となって動いているんです。それを自分が動いている、
と思っているんだね。これが大間違いよ。
自分の肉体がどうして勝手に動けますもんですか。動かすものは内部の生命力で
して、いのちの力が動かす。いのちの力というのは、どこから出ているかというと、
神様から出ている。神様から出てくる力が動かしているんだから、たとえば間違っ
たようなことをしても、ああそれは神様が消えてゆく姿としてさせたんだ、という
ことになって、神様に感謝をすれば、二度と再びそういう間違ったことはしなくな
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ります。
すべての行ないが神様から来て、いいことだったら神様がそのまま出たんだし、
悪いことだったらそれは消えてゆく姿なんだし、両方、神様の力にしなきゃダメね。
すべて神のみ心の現われです。
人はみな神の光りのひとすじと
知りて生きなば明るきものを
で、みんなすべて神様から出ているものだ、というように思うことなんです。そ
ういう想いというのは練習だから、数多くやっているうちに、知らないうちに出来
ます。だから練習はよけいやったほうがいい。よけいにやって固くならないことで
す。
この世を生きてゆく最上の方法は、固くならない、いきばらないこと、
と、明るく大らかに、のびのびといのちを生かしてゆくことです。
ふんわり
193みんな救われている
それには、神様がすべてを知っていらっしゃる、神様のいのちが自分に生きて、
自分は神様の光の一筋として生きているんだな、といつも思うことです。
くや
神様がやってくださるんだから、失敗したら失敗したでいい、失敗をくよくよ悔
まないで、これで業想念が消えていったんだな、神様、どうか私の天命を完うせし
め給え、世界人類が平和でありますように、と祈って生きてゆくこと。
また失敗したら失敗したで、ああこれは消えてゆく姿なんだ、神様有難うござい
ます、もう二度と失敗いたしません、世界人類が平和でありますように、と祈りに
きりかえてゆく。そうすると失敗がなくなってくる。把われがなくなってくる。
把われをなくす方法は、いちいち自分の想いを掘りかえし、探って分析しない。
これでいいのかしら悪いかしらと、いちいち自己批判し、思慮分別して把われてい
たら、明るくなりません。大らかになりませんよ、把われがなくなると大らかに、
生き生きして、明るくなるんです。
把われのある宗教者を見てごらんなさい。固まってガチガチだから。世間話も出
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来ない。たとえば「暑いですね」ああ暑いと言っては神様に申し訳ない。「寒いで
すね」ああお天道さまに申し訳ない、こうやられてごらんなさい。苦しくて生きて
ゆけませんわね。不平も言えないや。「毎日雨で困りますなあ」いや困りません。
これも神様のこ慈悲です。こんなふうにいちいちやられたら話が出来ません。それ
が把われなんです。
暑い時には涼しいほうがいい、寒い時には暖かいほうがいい、雨が降って都合の
悪い時は都合が悪いんだ。人間当たり前なんだ。そういう当たり前の心を無視して
はいけません。それはそのまままかせておくんですよ。自然でいいんです。ただ心
の中に不平不満がないこと。それには、神様がすべてやってくださるんだ、という
こと、そして神様の中へ入ってしまう。
コチコチになったらダメですよ。神様は完全円満なんだ、ということになると、
病気をした場合、自分の心が悪い悪いと責めたらばダメですよ。この世の生活はみ
んな自分の想いが現われてくるんだから、自分の間違いが現われてくるんだ、とい
195みんな救われている
うようにやったらば、やっぱり苦しいです。それは真理であっても、人を苦しめる
ことになれば真理でなくなる。ちょっとどうかすると、どこか間違いがあったかし
らと、いちいち面倒くさい。自分も責めるし、人も責める。そういうような面倒く
さい人とは一緒に住みたくないよ。
自分の女房が宗教家になっていて、夫の心をいちいち責めるようなことを言って
ごらんなさい。言わなくても、心で思っていれば目に現われるから、へんな顔にな
るから。それでいちいち言われてごらんなさい。一緒に住みたくなくなるよ。他に
いい人を作ったほうがいいものね。だから宗教を一生懸命やっているような女性の
旦那さんが、案外、家に寄りつかなかったりする場合があるんです。何か自分の欠
点を見つけられそうで、面倒くさいんですよ。そんなことではいけません。
それで私は自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛し、すべての想いは消えてゆ
く姿なんだね。そうやっていると楽です。呑気で、こういう教えなら、みんな責め
られないなと思いますものね。旦那さんだって消えてゆく姿だもの。そうすると自
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然に仲良くなっちゃうんですよ。
すべて悪と現われるものも、迷いと現われるものも、失敗と現われるものも、み
んな消えてゆく姿で、その人がやったんじゃない、あの人でも誰がやってもなくて、
業想念が消えてゆく姿なの。そうすると本当の姿が現われてくるんです。神様の姿、
本当の自分の姿が現われてくる。
人を責めさばき、自分を責めさばいているうちは現われません。自分を責めても
ダメ、人を責めてもダメ、世の中を責めてもダメ、みんな消えてゆく姿です。消え
てゆく姿が成就すると、地上天国が現われてくる。それを判らせるために世界平和
の祈りをしているわけなのです。
197みんな救われている
間先祖が神道をやっていましたら、子どもは仏教を信仰してはまずいんでし
ょうか。また先祖が仏教なのに、子どもがキリスト教に改宗していることは、先祖
がいやがるものでしょうか?
答因縁的にはそうなんですよ。おじいさんが神道をやっていたとします。子
どもがキリスト教に変わるようになると、おじいさんが迷っているうちは、信仰を
変えたことに反感を持つんです。そのような想いが子どもや孫にかかってきて、何
かうまくいかない場合があるんです。だからうかつに、何をやってもいいというわ
けじゃない。それはよくあることです。
しかし世界平和の祈りならありません。神道であろうと、キリスト教であろうと、
仏教であろうと、世界平和の祈りに反対する想いはないから、たとえ迷っている人
であっても、世界平和というのは誰でも思うんだから、それで世界平和の祈りは楽
だというのですよ。たとえば神道でズーッと来た人がある。それで亡くなる場合に
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のりと
は、やっぱり祝詞が聞こえてくる場合があるのです。だから祝詞で結構なのです。
祝詞と世界平和の祈りは同じなのです。キリスト教の主の祈りと世界平和の祈り
とは同じなんです。仏教の法華経と世界平和の祈りとは同じなんです。何故同じか
というと、みんな神様のみ心の中心なんですよ。法華経も中心、神道の祝詞も中心、
世界平和の祈りも中心。言葉が違うだけなのね。それならば一番やさしく判り易い
のがいい。自分も納得し、亡くなった人も納得し、それから世間の人も納得するよ
うな祈りが一番いいですよ。そこで世界平和の祈りがいいと思う。
私はキリスト教なんですけども、主の祈りと一緒に世界平和の祈りをやってよご
ざんしょうか? 「ああ一緒にやって結構です」。お題目と一緒にやってよござんす
か? 「ああ一緒にやって結構です」。南無阿弥陀仏とか一緒にやって…… 「ああ結
構です」。祝詞と「ああ結構ですよ」。何をやったって構わない。世界平和の祈りを
やれば同じことなのです。
ただ世界平和の祈りは、現代の宗教として鳴りひびいているものです。他のもの
199みんな救われている
は、いろんなふうに悪用した場合がたくさんある。南無妙法蓮華経は随分悪用され
て使われている。南無阿弥陀仏も悪用されて、念仏で地獄に落ちた人もたくさんあ
るし、題目で地獄に落ちた人もたくさんある。けれど世界平和の祈りをして、地獄
に落ちている人は一人もいない。要するに垢がついてない。世界平和の祈りはニュ
ーフェイスです。他のは功徳もあったろうけれど、垢もついた。なるべく垢のつか
ないほうがいい。
新しい酒は古い皮袋に入らない、というように、うちは入るけれど、やっぱり新
しい着物を着て、新しい化粧をして現代は生きたほうがいいです。それにわかりや
すい。だから世界平和の祈りをしなさい。と言うのです。何もお題目をやっちゃい
けない。念仏をやっちゃいけない。祝詞をあげちゃいけない、なんて私は言ってい
ない。世界平和の祈り一つをやったほうが楽だろうというのね。
長々とお経を一時間も上げていたんじゃ仕事にならないよ。世界平和の祈りなら
わけはないですものね。世界平和の祈りも順序よく、世界人類が平和でありますよ
Zoo
うに、日本が平和でありますように、私たちの天命が… … とやる必要はないんです
よ。世界平和の祈りという想いになればいいんだから。楽なもんですよ。そうすれ
ばスイッチを入れたと同じで、神様のほうから光を投げかけてくれるんだからね。
それで実際に効果がある。面倒くさかったら、五井先生! と言やあいいんだ。
今、柳生さんのお話、後ろのほうに聞こえましたか? もう一遍、私がいいます
と、柳生さんを法華経に導いた人があって、その人は四十何年もやっている。法華
経というのは法華経以外のことをやると、法を犯すといって、法罰を受けるという
ことになっているんですね。その人はそれを怖れていて、世界平和の祈りがいいと
いうことがわかって、法華経と同じだということがわかっていながら、入れなかっ
た。柳生さんが良いか悪いか、あなたの守護神さんに聞いてごらんなさい、と言っ
てきかせたわけだ。その人は耳に聞こえてくるわけね。そして祈ったんです。そし
たら守護神がそれは法を犯すものじゃない、いいから入んなさい、おやんなさい、
と告げたんですって。それで会に入ってきた人もある、という話なんです。守護神
201みんな救われている
としては当たり前、その人がわかったことは偉いんだね。
罰を当てる宗教なんてあるわけがない。罰を当てるというのは、自分の想いが勝
手に罰を当てる。お題目じゃなければいけない、と思っている想いが、勝手に罰を
当てるんです。お題目じゃなければいけない、なんていうことはない。自分の想い
が神様の中に入りさえすればいいんだから。想いが入っているということは、行な
いも自然に神のみ心になっているんです。想いだけ入って、行ないがなっていない、
なんていうことはない。
なんでもいいから、神様のみ心の中、仏様のみ心の中に自分の想いが、いつも入
って、しかも明るく朗らかに、柔和な気持ちで生きていられれば、その人は素晴ら
しい。言葉でもって念仏や題目や世界平和って、言わなきゃならない、というもん
じゃない。なんでもいいから、想いが神様の中に入っていればいい。ところが神様
の中へ入るために、一番いいのがやっぱり世界平和の祈りなのね。
世界平和と言わなくても、五井先生って言えば入っちゃうんだから楽だよね。私
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が言うとおかしいようだけれど、五井先生というのは神様の名前が集まった名前な
んで、肉体は無で入れ物なんです。だから私がいつも言うでしょう。肉体というの
は、みんな同じですよって。自分は神の子であることを、自覚した人としない人の
差があるだけです。
自覚すれば自覚したものが現われてくる。自覚しないうちは、しないだけが現わ
れてくる、というだけであって、神様の中へ、みんな入れるんです。入れるではな
くて、入っているんです。ただ想いが別途になったものが業想念になっているけれ
ど、それが入りさえすればいい。誰だって神の子なの、誰だって仏の子なの。ただ
仏の子じゃない、って頑張っているだけなの。私なんかダメですよ、神の子の資格
なんかありませんって。誰が資格を与えるのか、神様が与えるんです。自分で勝手
につくっちゃダメですよ。
決めるのは神様であって、自分で勝手にダメだ、いいんだと決めちゃ困るんです
よ。それを大概決めちゃう。そういう想いは消えてゆく姿です。
203みんな救われている

私が教えたいのは、みんな神の子なんだ、ということです。他のことは一切要ら
ないんです。みんな神の子になって、神の子の行ないをこの世に現わしてさえいれ
ば、私は満足で、さよならって帰っちゃうんですよ。
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