五井昌久著
本もの贋もの
白光真宏会出版本部
著一
r
テ者(1916~1980)
序文に代えて
1
2
愛は光なり
うるわ
姿形美しきはよろし
才能豊かなるもまたよろし
しか
然し更によろしきは
深き愛の心なり
報いを求めざる愛は光なり
光は世を照らす
ととの
たとえ姿形整わずとも
才能貧しかるとも
愛の心深き人は
まこと神の子なり
偽善は愛ならず
わざ
自らの光を蔽う業
本心は神のみ心なれば
裸心こそ愛の湧き出ずるところなり
おちい
自己をかばいて闇に陥るな
自我に溺れ権威を誇るものはやがて滅び
愛の光一元なる神の子の世は開くなり
3
4
目次
序文に代えて1
本もの贋もの7
生きている人間死んでいる人間
大人物小人物39
心を偽らぬ生活54
真実に善い人というのは70
病気についての宗教観85
23
愛情の出発点m
l 親と子夫と妻ー
救いは近きにあり描
青年の真実の生き方鶴
愛と正義励
神の大愛を信ぜよ燭
生命と業想念波動について鵬
ヵバー・進藤敏男
5
6
人間と真実の生き方
人間は本来・神の嚢馨あって・菊箸はなく、つねに鵠奮⑫、嚢轡よって
守られているものである。
かこせ
この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念が、
その運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去るのである
という強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難のなか
ゆるゆるまことゆる
にあっても、自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦しの言行をな
しつづけてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の
祈りを祈りつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得出来るものである。
/
本もの贋もの
人間の本ものにせもの
にせ
本ものと贋ものというものは、なんの世界にもあるものですが、なかなかその区別ができず、本
ものが贋ものと思われたり、贋ものを、本ものと思ったりしていることが多々あるものです。
名画の贋もののうちには、本ものよりも、うまいのではないか、と思われるものもあるといわれ
ています。ところが、人間の本ものと贋ものでは、そういうわけにはまいりません。本ものは厳然
として本ものであり、贋ものはどこまでいっても贋ものでありまして、贋ものが、本ものより良い
などということは、絶対にありません。尤も近頃はやりの可愛い子ちゃん歌手などは、贋もののほ
うが本ものより、歌が上手だということはあります。
7本もの贋もの
ところで、人間の本ものと贋ものというのはいったいどういうところで区別し判断するのであり
ましょう。これが一口でこういうところで区別し、これこれのところで判断しなさい、と軽くいえ
るようなものではありませんが、敢えて申しますならば、本ものとは、その人の本心そのものをそ
の想念行為に常に現わしている人であり、贋ものとは常に本心をかくして、想念行為につくりごと
がある人、ということができます。
例えていうならば、口では国家のため、人類のためといいながら、その日常の行為は、常に自己
の利害のためであったりするならば、明らかにこれは贋ものであります。これは政治家、実業家、
宗教家のいずれの世界の人にもいえることであります。
現代の青年層の、革命運動に挺身している人たちの中でも、大半は自己の欲求不満を、革命運動
にかこつけてはらしているのですが、その事実を自分自身さえ知らずにいるのであります。尤もあ
あいう形の革命運動そのものがすでに本ものの世界から現われたものではないのです。
こんな生ぬるいいい方をしないで、もっと卒直に申しますと、本ものにも、大きな本ものと小さ
な本ものがあり、贋ものにも大きな贋ものと小さな贋ものがあるのでして、最大の本ものは、大宇
宙、大自然のみ心と一つになったところから、すべての行為をしている人ということになります。
8
宗教的な言葉でいえば、神仏のみ心と一つになっている人のことで、釈尊やイエスのような大聖
方です。この大聖とは勿論宗教者のみにいうことではありません。要は、大宇宙の運行と一つにな
って、人類を大宇宙の正しい軌道に乗せようとして働いている人々のことを、私は最大級の本もの
というのであります。
大宇宙の運行というものは、あらゆる面で、大調和に向かって進んでいます。大宇宙の運行は、
無限の場の無限時間の運行であります。すべての不調和な状態を、神々のみ働きで、大調和にして
ゆこうという運行です。
大宇宙神はそのみ力を、各神々として分けて、そのパート、パートの場において、大調和活動を
なさっているわけです。そして地球人類も、一つの星の住民として、この大調和運動に参加してい
るわけなのですが、地球人類はその真理に気づいていないのです。気づいている人も中にはいまし
て、宗教運動や、発明発見の道に挺身しているのですが、地球を蔽っている不調和波動のほうが強
くて、なかなか調和の光が、ひろまらないようにみえるのです。
ただ、表面的にそういう真理は知らないけれど、内部の心のもよおしで、どうしても成し遂げな
くてはならぬ、というものをもっている人々がいて、その本心の命ずるまま、周囲の迫害にも屈せ9
本
も
の
贋
も
の
ず、自己の天職を貫き通してゆく人があるのです。いわゆる本ものの人たちです。
神仏のみ心と一つになったことを、自らも知っていて、そのままの行為のできる人を仏教では、
仏、菩薩といいますが、芸術の部門なら芸術の部門、科学の部門なら科学の部門で、自己の本心の
命ずるまま神仏のみ心の一筋一筋を表現しよう、開発しようとしている人々も、本ものといえるわ
けです。
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にせものの部類
なんの世界においても、その本筋に精神を傾けて尽くすよりも、自己の利害関係、これは金銭や
権力だけでなく、自己の感情の喜びのために重点が置かれて行っては、これは本筋を逸脱した行為
なので、贋ものの部類に入ってしまいます。
何事によらず、その分野分野において、本心のままに行為している人は本ものなのでありますが、
本心のおもむくままと思い違いして、業想念のままに動いている人々が、宗教の世界にも、芸術の
世界においてもあるのです。
宗教の世界においては、神のみ心に通じて与えられた神通力だと思い違いして、幽界の生物に自
己の肉体を使われてしまっている、いわゆる贋ものがいるのです。
或るインドの大聖のところに、一人の弟子が、○ ○ という人は、歩いて水の上を渡ることもでき
るし、象を一瞬にして倒すこともできるし、忽ち起き上がらせることもできる、という聖者です、
と話しますと、その大聖は河を渡りたければ、いくらかのお金を出せば船が渡してくれる。また、
象を倒したり起こしたりしたとて、人類になんの益もないことである、そういうことで聖なる人と
いうことはできない、といったという話です。
全く、宗教的な、いわゆる心霊技術だけに秀れていても、その技術が、自己の名声を博するため
につかわれているもので、人類の進化や、個人の魂の浄化に少しも役立たぬものであったら、その
心霊技術者は本ものではないということであります。水の上を渡れる程に秀れた心霊技術でも、そ
の人の日頃の行為によって、その人が聖なる人か、単なる心霊技術者であるかがわかるのです。
近来の日本でも、心霊技術者はかなりおります。俗に霊能者といわれる人々です。霊能者即宗教
者と思っている人がありますが、宗教者というのは、大生命、大自然の奥の奥のつまり、神仏のみ
心を自己のものとし、それを教える人です。またその道に沿って歩んでいる人です。
霊能者というのは、肉体以外の体や世界の力をこの世において現わしている、いわゆる超能力者
11本もの贋もの
ですが、これが神仏の道を歩みつづけて、神仏のみ心を体しながら、霊能力がそなわっているとす
るならば、霊能力者即宗教者ということができますが、霊能力はあるが、神仏の道である、愛と調
和の心に欠けていたら、これは宗教者ということはできぬ、贋宗教者であります。
本ものとにせものを区別する秤
要するに、大宇宙神のみ心である、調和に向かう心に欠けていたら、それは如何なる道の人でも
贋ものということができるのです。ですから、宗教者と霊能力者、心霊技術者とは、一応別のもρ
として考えてよいのでしょう。ソ連では宗教とは全く関係なく、この霊能力老を使い、多大の国費
を使って、新しい科学の道を開いているのです。私どもはどうしてもソ運式のオカルト、つまり、
心霊技術者を唯物的な使い方をしようとは思いません。心霊技術はやはり宗教の道につなげて、神
仏のみ心を心とt て、その技術力を発揮してゆく、という方法を、私どもは選びます。
何故ならば、神仏のみ心である、慈の心、愛の心を離れた、自国の利害にのみ使われ、相手国を
傷つけるための心霊力というものは、相手にとっては恐るべき力となって迫ってくるのでありまし
て、その相手のこうむる損失は非常に大きなもので、それは核爆弾にも劣らぬマイナス面をこの人
12
類に与えるのであります。
いふ
真実の宗教心の無い人が、この心霊力、霊能力を会得して、人々を畏怖させ、人々の上に立とう
としたり、国家が自国の権力維持のために使ったりすることの恐ろしさは、計り知れぬものがある
のです。
ところが、真実の宗教心、つまり調和の心、愛の心に欠けた人が、この霊能力を会得して、宗教
団体を組織したりしますと、その波動圏は神仏の大光明波動の世界から遠く離れた低い階層の低級
霊魂の溜り場となりまして、さわらぬ神にたたりなし式の宗教団体になってゆくのであります。
宗教の根本は、神仏のみ心の愛と調和の心を自己のものとして、世の人々のために発揮できるよ
うになることで、自己の物質的利益や、権力欲の充足のために祈るというようなことは本ものの心
ではないのです。
自分が愛深い自分でありますように、調和した心でありますように、というような祈り心で日常
生活を過してゆける人こそ、本ものの人というべきなのです。
スポーツの世界からみた本もの
13本もの贋もの
すもう
調和調和と先生はおっしゃるけれど、スポーッの世界、角力や、拳闘やレスリソグのような格闘
技は調和に欠けたことだから、ああいう世界には本ものはいない、ということになりますね、と或
る人がいってまいりました。
ところが私は、角力も拳闘も好きです。相手を倒したり、倒されたりするから不調和な行いか、
というとそうではないのです。角力でも拳闘でも、相手を憎んで倒すのではありません。実際は相
手が問題なのではなく、自分自身に備わっているそのスポーッに対する能力が問題なのでありまし
て、自己に備わった能力を、どれだけ発揮できるか、備わった能力をでき得る限り発揮するために、
肉体と精神との調和を計り、肉体と精神いわゆる心技体の練磨を重ねてゆくのでありまして、その
努力の凄じさは、そのプロスポーッにたずさわったものでなければわからないし、誰にでもできる
というものではありません。
ですから、スポーッの格闘技でも、そのスポーッの本質は、各人に備わった能力をでき得る限り
発揮することでありまして、相手を倒すということは、その結果でありますし、倒された相手も、
倒した人を憎むということはありませんで、またより能力発揮の努力をしようと励むのであります。
そこにはお互いの能力の発揮ということだけがあってなんの不調和もないのです。
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角力でも、野球でも、すべてのスポーッには各々のリズムがありまして、そのリズムにうまく乗
ったほうが勝っているようです。リズムに乗るということは、そのリズムと調和するということで
ありまして、リズムと不調和な状態のほうが不利になってゆきます。表面はただ倒しあったり、打
ち合ったりしているようなスポーッでも、それはほんの表面のことで、実は、各自の心技体の調和
と、そのスポーッのもっている一種のリズムに乗るという、やはり調和というべき、動作によって、
人々の心を高揚させているのであります。その間におけるそのスポーッマンの、疲労や恐怖や苦痛
に耐、兄る精神力は、人生の長い年限を、一瞬にちぢめて、そこにまざまざとみせてくれているよう
なもので、拳闘などで、倒されても倒されてもなお起き上がって、闘ってゆく、あの精神力の凄じ
さは、みる者の心を高揚させずにはおきません。
お角力さんは、その角力技の奥義を出して闘い、拳闘家はその持てる実力をフルに出して闘うと
いうところに、その技における本ものが現われてくるので、角力には弱いが近所つき合いがよい、
というお角力さんや、人が好くて子供好きでも、拳闘技には弱いボクサーでは、いずれも本ものを
出しているとはいえないのです。
お角力さんは、角力に強いのが本ものであり、拳闘家は拳闘に強いのが本ものであるのです。そ
15本もの贋もの
の点、音楽家でも、美術家でも、すべてその道において、全力を出しきっている人を本ものという
べきなのでしょう。ところが宗教者というのはそうではなく、日常茶飯事の行為そのものが、神仏
のみ心に叶っていなければならないのです。
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会わなくとも本質がおかり合う
その書いたものや、お説法だけが上手でも、その行為が、神仏の愛と調和にかなっていなければ、
その宗教者は本ものというわけにはまいりません。表からみても、裏からみても、縦からみても、
横からみても、どこからみても、愛と調和の心がにじみ出ているような、そんな本ものがたくさん
この世に現われたら、この世も随分明るくなってくることでしょう。
今は神霊の世界に還られましたが、合気道の植芝盛平翁は、武道の達人でありますが、神人合一
を体得した方で、宗教者としても本ものそのものでありまして、居ながらにして、遠く離れている
人の心を読み取ることのできる人でした。人から私の存在を聞きますと、即座に、その人は祈りの
ご本尊で、高い神の位の人である、といわれ、直ちに私の所に尋ねて見えられました。私も植芝翁
の名を聞いただけで、植芝翁の神人であることがわかっておりましたので、二人は肉体的に会わぬ
うちから、お互いの本質がわかり合った仲であったのです。爾来二十年近くおつき合いして、肉体
身の植芝先生とはお別れしましたが、神霊の植芝先生は、常に私の背後に来ては、何かと援助して
くれています。
そのように、会わずして相手の真の姿がわかり合うようにならなければ、本ものというわけには
まいりません。しかし、そこまでゆかなくとも、本ものに近い人は随分といるのですから、やがて、
本ものがたくさん現われてくる時代がやってくると思います。
会員数の多いことや、殿堂の立派なことで、そこの教会や教祖を聖者とあがめたり、会員の少ない、
殿堂の貧しい宗教団体の教祖を、さげすんだりする人がおりますが、これなど甚だ馬鹿馬鹿しいこ
とで、会員数や教会の建物の立派さなどは、その中心者の品格を計るなんのメドにもなりません。
はかり得るものは、その中心者や会員の日常茶飯事の態度にあります。日常茶飯事の態度が、い
かに愛と調和を現わしているかによって、本ものか、本ものに近いか、贋ものか、ということがわ
かるのです。
尤も接するほうが本ものであれば、どんな贋ものの相手の中からでも、尊い教えを感受すること
ができるのです。煩悩即菩提であり、神はすべてのすべてだからです。日本の政治家の中に、一人
17本もの贋もの
でもよい、大きな本ものがいれば、どれだけ日本の救いになるかわかりません。明治維新の西郷さ
んや勝海舟のことなど、どうしてもしのばれてなりません。
宗教者の中には本ものもいるのですけれど、本もののほうが小さく、贋もののほうが大きいとい
う傾向にありますので、本ものに近い人たちが、精進を重ねて、大きな本ものになるようになるこ
とを祈らずにはいられません。
うつわ
私などは、三十代のはじめに、私の体をすっかり神様にお還しして、神様の器となり、場となっ
て、神のみ心のままに私の生活をしているのでありますから、一生の間に、いったいどんなことを
やらされるのかわかりませんが、現在は、祈りによる平和運動と、宇宙子科学という大調和科学の
道を突き進んでおりますし、一方では地球にまつわる人類の業を一身に受けて、浄化の祈りにつと
めております。
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本ものを現わすために
心を飾り、体を飾ったりして、自己を偉大にみせようとしても、そういう飾り心があるだけ本も
のに遠くなるので、常に裸の心で日常を生きてゆくべきなのです。裸の心で生きていて、自然と人
きよしよく
のためになっている、というような人は、本ものに違いありません。虚飾を捨てましょう。虚飾を
捨て、虚栄の想いを捨てさるにしたがって、本心は現われてきます。次第に本ものになってゆくの
です。
ですから、昔は贋ものであった人が、或る機会で人間の本心が神であることを知って、虚飾を捨
て去り、本心のままに生きてゆくようになることもしばしばあることで、贋ものであった業想念が
消え去れば、その人は本ものになってゆくのであります。
本ものと贋ものの相違は、如何に本心がそのまま現われているか、本心が虚飾や自我欲望で蔽わ
れているかにあるのであります。自分をインドの大聖の生れ変りと想いこんでいる宗教者が、私の
ことを誰かから過去世においてその大聖の高弟であったと聞いて、そんな男は、わしの側近くには
いなかった、弟子の弟子のずっと末輩の中にでもいたのだろう、とうそぶいていたそうです。
その宗教者が本ものであれば、植芝先生のように、一度で私の霊位がわかるのですが、その宗教
者は心が虚飾に蔽われているので、神霊の世界の高い位が心眼にうつってこなかったのでありまし
ょう。
自我欲望というものと、虚栄心というものは、本ものの座からその人を落しこんでしまう恐ろし
19本もの贋もの
い想念です。そこに消えてゆく姿で世界平和の祈りという方法が必要になってくるのであります。
本ものを現わすためには、どうしても一度は消えてゆく姿の洗霊を受けねばなりません。消えて
ゆく姿として、すべての業想念行為を受けとめて、そのまま世界平和の祈り言を通して、救世の大
光明の偉大な純化作用の中に投げ入れてしまうのであります。
救世の大光明の光明波動の中では、いかなる贋ものも消え去ってゆくのです。贋もの即ち業想念
ですから、業想念の消えてゆくにしたがって、本ものの自分が現われてくるのであります。
20
小智才覚を捨てれば
宗教の教えでは、どの教えでも、小智才覚を捨てよ、ということがいわれます。小智才覚とは肉
体頭脳に蓄積されている小さな経験だけから想いめぐらす智慧才覚のことで、神のみ心から流れ出
てくる智慧能力ではないのですから、どうしても、たいした成果を得る智慧とはならないのです。
人間はそういう肉体頭脳に蓄積されただけの智慧才覚というものを、一度捨てきって、常に神の
深い智慧能力を自己のものとしてゆかねば、大きな仕事をすることはできないのです。そういう神
からくる智慧能力でないのに、いかにも神智の如くみせかけて、事をしてゆく人は贋ものであるわ
けです。
宗教の道の初歩の人は、小智才覚を捨てよ、といわれると、肉体頭脳の智慧才覚をつかわないで、
どうして事に当ることができるでしょうか、と疑問をもってきます。しかし、それは祈りや統一を
やったことのない人の言で、祈りや統一行に熟達してきますと、小智才覚を捨てよ、ということが
よくわかってまいります。祈りや統一が深くなってきますと、神のみ心のひびきが、自己の智慧と
して、能力として、深いところから現われてくるのでありまして、それは肉体頭脳にその人の経験
の蓄積された、小智才覚とはまるで、深さや大きさの異なった、智慧能力として現われてくるので
あります。
これは、理屈より先に、祈りをつづけ、統一をつづけてゆくことによってわかってくるのであり
いのちごと
ます。祈りというのは、生命をそのまま大きくひろく働かせることでありまして必ず祈り言がある
わけです。私たちの祈りは、世界人類が平和でありますようにではじまる祈り言です。そして私た
ちの統一は、この世界平和の祈り言のひびきに乗って、業想念が本心に統一してゆくことになるの
です。
統一というのは、本心(神のみ心) に業想念が一つになってゆくことで、業想念が本心と一つに
21本もの贋もの
なることによって、業想念はそのまま神の光明の中で消え去ってしまうのであります。
ですから、真実の統一というのは俗にいわれる精神統一という形とはちょっと違っているわけで、
精神統一の場合によくあらわれる力みというようなものがないのです。世界平和の祈り言と、統一
行によって、人々はいつの間にか、本ものになってゆくのであります。一人でも早く本ものの人間
が増えてゆきますように、と祈ること切であります。
22
生きている人間死んでいる人間
死んでいる人間とは
肉体をもって動いている人を生きているといい、肉体が動かなくなると死んだというこの肉体人
間の世界ですが、果してそうなのでしょうか? 肉体が肉体自身で活動することはできません。肉
体を動かしている生命、というものがなければ、肉体はどうにも活動できません。ただの物体に過
ぎないのです。
ですから、人間が生きている、ということは、生命が生きている、ということになるので、肉体
は単に生命の容器に過ぎません。精巧そのもののテレビジョソ受像機ともいえる分です。
生命の世界は、個人の肉体の世界から、幽界、霊界、神界という微妙な波動の世界にまで大きく
23生きている人間死んでいる人間
深く広がっています。そして、個人個人に定まった波動圏があるのですが、その波動圏はその人そ
の人によって、広かったり狭かったりします。
小さな自己の肉体生活にだけに把われている人は、その生命の働きの波動圏が狭いということに
なり、多くの人々のために働いている人は、その波動圏が広い、ということになるのです。生命と
いうのは、宇宙大生命から、人類の生命、動植物の生命というように、いろいろな在り方で働いて
いるのですが、すべては宇宙大生命のみ心に統一され、その軌道を外れることはないのです。
ところが、地球人類の生命の働きというものは、常に、物質の制約を受けます。先ず第一肉体と
いう容器に、そして食物をはじめ、肉体生活に必要な諸機共に、どうしても把われてゆきます。そ
こで、生命本来の自由自在な動きが不自由な小さな働きに変化してしまうのです。
しんしよく
そういう把われの多い人程、生命の生きいきした働きを阻害して、次第に生命が物質に浸蝕され、
大生命のみ心とは程遠い、闇の世界に没していってしまうのです。
そういう人を肉体はそれなりに活動していながら、死んでいる人というのであります。もっとく
だいてお話ししますと、自分の肉体生活の利害だけ考えて、他の人の幸不幸などまるで考えずに生
活している人。自分の幸せのためなら、他人の損得などまるで無視してしまう人。自分の地位や名
勿
誉や富のためなら、親であろうと恩人であろうと殺しかねない人等々、人の生命の働きを妨げ害す
る行為をする人は、自己の生命を死の世界に置くばかりでなく、他の人の生命をも死の世界に追い
やる人なのであります。
それから、自分は他人や社会のためになんらの働きもしないで、親の財産や、努力もしないで儲
けた金でただぶらぶらと生活をしている人、これも生命の死んだ世界で生活している人間なのであ
ります。
精神の働きが眠っていて、ただいたずらに物質中心の生活をしていたとしたら、生命本来の生き
いきとした輝かしい世界が出来上がることはありません。生命というのは縦にも横にも交流し合い、
輝き合って、お互いの生命の働きを広め、深め、大宇宙神のみ心をこの地球世界につくり上げよう
として、人類となり動植物となり、働きつづけているわけで、この生命の働きを、個人個人の人間
が、自己の肉体生活の利害得失のために不調和にし、不自由なものにしていたら、やがて地球人類
は闇の世界に没してゆくより仕方がなくなるのです。
あなたの想いの在リ場所は?
25生きている人間死んでいる人間
この人類にとって一番大事である生命の働きを充分にするためには、人間の想念の在り方が大切
なのです。個人の幸不幸も、人類の幸不幸も、すべて人間の想念の如何によって定まってゆくので
あります。生命を生かすのも殺すのも、すべて想念の在り方にあるのであります。想念が生命本来
の働きを邪魔してはいけないのです。
生命が肉体で働いている時でも、その人の想念が、自己の肉体生活のことだけに働いていますと、
生命本来の自由性が失われて、他の生命との交流も、天界との交流もできず、生命の新陳代謝もで
きずに、生命は死も同然の形になってしまいます。肉体にあるうちにこのような形でおかれた生命
は、肉体滅後に幽界に往っても、全く自由を失って、生命本然の働きができなくなってしまうので
す。
こういう形が、死んでいる人間というのです。想念が、大生命や他の生命との交流を行わない生
命の末路は哀れという他はありません。わかりやすく申しますと、肉体がなくなってしまった後の
その人の生命は、想念意識だけ甦りますが、肉体はすでに灰になってしまっていますので、活動す
ることが全くできません。肉体という人間しか考えていないのですから、幽体や霊体というものを
考えることができません。したがって意識だけあって体がないということになります。そこでその
L6
人の意識は恐怖と不安のあまり、そこにうずくまって身動きもできなくなってしまうのです。しか
も自分の他の人の生命やその人たちの幸せなど想ったこともないのですから、他の生命と全く交流
のない、光のない闇の世界にただうずくまっているより仕方がないことになってしまうのです。
自分の肉体生活のことしか考えられぬ、愛のとぼしい人は、そのように生命の働けぬ、死の世界
に、自分の過去の生き方の誤りを悟るまでは身動きできずにいるのであります。そのように生命と
いうものは、肉体をもって生きている時から、充分に生きいきと働かせていなければ、死後の世界
で、死そのものの立場に置かれてしまうのです。
いのちが生きているということ
その反対に肉体世界に住んでいる時に、多くの人々の生命を生きいきとさせる働きをしていた人、
人々のために愛の生活をしていた人は、肉体消滅後においても、人々の心に永遠に生きつづけてゆ
くのであります。釈尊でもイエスでも、各宗の祖師や、有名な科学者やこの人生に有意義な業績を
残した人々の生命のひびきは後々までひびきわたってゆき、人々の心に生きつづけるわけです。
ですから、ただ肉体が生きているから生きている、肉体が無いから死んでいる、というようなも27生
き
て
い
る
人
間
死
ん
で
い
る
人
間
のでは、人間はないのです。人間というのは、肉体が主体ではありません。しかしその真理を知っ
ている人のほうが少ないのです。肉体が無くとも、人間の生命は生きているというと、それは迷信
だという人が多いのです。
それなら、人間が赤ちゃんとして生れてきた以前のその人の生命はどこにいたのか、赤ちゃんと
いう肉体になるには生命が先にあって、赤ちゃんを形づくっているのですから、その形をつくって
いる生命は、赤ちゃんの肉体以前にあったことは間違いありません。肉体になるには、肉体になる
諸要素があります。
その諸要素は、すべて原子でできているといわれています。原子、電子、素粒子というような小
さな単位でも形の世界のもので、生命そのものではありません。生命が働きかけて、それぞれの役
目を果しているのであります。
ですから、原子や元素がわかったからといって、生命がわかったわけではありません。生命その
ものは依然として、限にもみえず、手にも触れません。ただ肉体の活動をみて、生命が生きている
なあ、と感じるだけなのです。
元素や原子を、巧みに統一し、それぞれの分野で活動せしめているのは、その肉体以前にある生
28
命そのものでありまして、
ことです。
肉体誕生後に改めてできた、というものでないことは、誰にでもわかる
悲劇的な自己中心主義者
ところが不思議とこんな単純なことがわからない人が随分とあるのです。生命というものは、あ
くまで肉体と一つのものであって、肉体が無くなったら、同時になくなってしまうものだと思おう
としているのです。
無から有は生じないものの道理で、何もないところから、人間という生命体が生れてくる道理は
ありません。生命の親があって、生命の子である人間が生れ出るので、人間には肉体的な両親の他
に、生命の親があるにきまっているのです。そして人類の先祖の先祖の一番最初の先祖に至るまで、
生命の親から生れでているので、この親様を、宗教者は神といい仏とも呼んでいます。
この親様、つまり宇宙大生命は、肉体的に赤ん坊として生みながら、外面的には、その赤児の発
育のための種々の要素を、様々な角度から与えているのです。母乳から各種のミルク、太陽、空気、
水、これは赤児だけでなく全人類、全生物に至るすべてに与えられ、その与えられたるものを、み
29生きている人間死んでいる人間
ずからの体内に吸収する力を、おのずと内面の世界で受け入れてゆくようにつくられているのです。
私共の肉体は、肉体人間としてこの世に現われる以前から、こうした大生命の慈愛によって、分
け命である自己を生かしきるようにつくられているのであります。その生命を自己の肉体だけのも
のとして、その肉体生命保存のために、大生命のみ心の愛と調和にそむき、他の生命の働きを妨げ
そむ
ているような人は、神に逆く者、全人類に逆く者として、みずからその運命を砕いてゆくのです。
先年、NHKテレビで放映された、国盗り物語の織田信長の如く、天才的戦略者でありながら、
自己以外を人間とはみなさず、自己の野望達成のために、家臣をすべて自己の道具と見立て、使う
ざんさっ
だけ使ってその価値がなくなれば、情け容赦なく追放し、惨殺し、自己と敵となったり、自己の感
さつりく
情にさからった者の一族は女子供といえど一切情をかけず、全員むごたらしく殺獄してしまう、と
いう非情さの持主。自己以外の者は、神仏の存在さえ認めない、という、徹底した自己中心者の末
路が、家臣に逆かれて猛火の中で自刃するということになったのは当然なことであります。
あれ程の自己中心者というのは、世界の歴史の十指の中に入る存在と思われます。ネロ皇帝など
は、これを更に上回った自己中心者であったのでしょう。
自己の生命が神から来たということを知る者、或いは信ずる者は、他の生命も神から来たことを
so
想います。したがってお互いが兄弟姉妹であって、助け合ってゆかねばならぬ、と自然に想うので
あります。お互いが神の分け命であると知れば、なんで自己だけの優位に満足していられましょう。
他の者の幸をもおのずと祈る気になってしまうのです。
精神の満足
自己の生命が肉体身だけのものでないと知った人は、つねに精神の満足感を求めます。精神の満
足がなければ、如何に高い地位に恵まれ、物質に恵まれても、それでいいという気にはなれないの
です。
精神の満足こそ、より高い世界、神の世界との交流によるもので、肉体にある自己の生命が、そ
の想念の導きによって、神との一体化に近づいている証左なのであります。その方法が祈りであり、
また、愛他の行為なのです。他の生命のために、自己の労力を費す、ということは、神のみ心の愛
の行いであります。愛というのは、縦に働いては神と人との交流となり、横に働いては人類愛とな
るのですが、今日の世界では、この人類愛がともすれば、自国中心の想念に妨げられて、行われに
くくなっています。
31生きている人間死んでいる人間
アラブ諸国の石油戦争でもそうです。石油資源を力とするアラブ諸国が、資源のない国々にむか
って、自国に優位の政策をしなければ、まともに石油を出さぬ、という工合に出ている在り方など
は、自国中心の想念に人類愛が妨げられている状態という他はありません。
.もっとも現在、どこの
国でも、アラブの立場に立つと、そういう態度に出るかも知れません。上杉謙信が、戦争相手の武
田信玄に塩を送った、というような人類愛の行為はなかなかできにくいのだと思いますが、少しで
も宗教の道に入った者は、自己の損得にばかりかまけずに他の人のために働き、人類社会のために、
幾ばくの自己犠牲の生き方をしてもよいのではないかと思います。人類愛のための自己犠牲は、大
きく天の倉に宝を積むことになるのであります。
きゆうきゆう
五尺の肉体を護り、その生活だけに汲々として、生命を生かさないでいるより、少しでも人の
ためにつくして、生きいきと生命を生かしたほうが、そこに少しの苦労や犠牲的な事柄がでてきて
も、人と生れてきた本懐ではないのでしょうか。
32
愛はいのちを生かす
生命は宇宙に充ち充ちています。人と人との生命は、お互いに交流し合い、愛し合うごとに生き
いきと輝きを増してきます。人と人とが真実に愛し合えないでいて、どうして国と国とが愛し合う
ことができるでしょうか。国と国とを仲良く和合できるようにするためには、先ず自分が、例え一
人の人を真に生かすためにでもよい、自己の犠牲をも顧みず、愛し通してゆきたいものです。愛す
るというと、現今の人は、肉体の接触のことだと思っているようですが、愛とは生命と生命との交
流、心と心とが一つになることで、男女の場合の肉体的接触は、その結果として、自然と行われる
のであります。
はじ
ソロバンを弾かず、人のために尽す、ということが、自己の生命を生かすことであり、他の生命
をも生かすことになるのです。そういう人が多くなれば、この世は温かく住みよい世界におのずと
なってゆきます。
神霊の世界では、生命がそのまま現われている世界なので、生命の清まりの純粋なほど、高い地
位にあります。生命が光明であり、光明のひびきが、そのまま、肉体世界でいう仕事となり、結果
がもう同時にそこに現われてくるのです。
肉体界のように、想いと、行動との間に時間的差がないのが、神霊世界の在り方です。心が活動
した時、自己の全行動がそこにあるわけで、そのまま一つの仕事の完成がなされるのです。
33生きている人間死んでいる人間
肉体世界では、或る星は何万光年たってその光をみせているのだ、ということになりますが、神
霊の世界では、その何万光年も一瞬のうちにあるので、肉体世界の感覚とはまるで異なってきます。
ですから、肉体世界で、自分だ、自分だと思って、五尺何寸かの自分の肉体に想念がしがみついて
いますと、その肉体を離脱する、つまり、肉体的死後における、自分の存在がうやむやになってし
まって、生命の動きが取れなくなってしまうのです。
五尺何寸の自分の肉体以外に、自己の生命がない、という哀れな迷信は、死後、かなりの長年月
の苦しみの後、守護の神霊の大変な御苦労の応援を得て、打ち破られ、「ああ、人間というものは、
肉体だけに生きているのではないのだ。自分の生命というものは、自由自在に宇宙一杯に活動して
いるものなのだ」という真実のことを悟るのであります。
34
頭でわかることと心でわかること
全く困ってしまうのは、眼でみなければ信じない、手で触れなければ納得しない、という、間違
った習慣です。そのくせ科学者の発表ということになれば、眼にも手にも触れないで納得してしま
うのです。
分子や原子や電子の問題、正にその通りなのです。大体、酸素にしろ、水素にしろ、普通の人に
はわからない存在なのですが、そういうものが当然ある、と誰しもが認識しているのであります。
同じ学者でも、物質面の研究の学者のいうことは信ずるが、精神面の研究をしている学者のこと
は信じない、などという面妖な状態もあります。心霊科学のことなどでも、いくら物質的力学の世
界では、全く不可能なことをみせられて、そのほうの面を研究している学者先生の説明があっても、
自分は信じない、という人がかなり多いのです。それは、その事柄が常識化するまでは、何事も信
じない、という、物質世界一辺倒の人たちなので、そういう人たちが随分多いのです。
ところが、頭では、肉体滅後の世界があって、そこで生命が生きいきと生きている、ということ
を知っていても、やはり、肉体生活の自己や自己にまつわる家族の者の幸せだけが心にかかって、
その場その時々の利害得失で動いてしまっている、という人たちもおります。頭でわかることと心
あらわれているこころひそんでいるこころ
がすうっと働くこととは違いますので、やはり顕在意識と潜在意識とを一つ想いにしておくこと
が大事なのです。
顕在意識でそうしなければいけない、ど想っていても、潜在意識が否定していれば、潜在意識の
ほうが力が強いので、顕在意識の通りには行為ができなくなります。そこで頭でわかっていること
35生きている人間死んでいる人間
でも、潜在意識が納得していなければ、それが行為として現われないということになります。
愛他行の行為などでもそうです。人のために自己の物資を分けて与えたいと頭で想っても、潜在
意識がそれを否定していれば、実際行動としては行われないのであります。
ですから、後世のために、死後の世界のために徳が積まれる人を助けるための行為も、潜在意識
層に深く積みこまれてある、自己の肉体生活のために働くのが最大のことであって、他の者のため
に働くのはその後のことである、というような過去世からの想念意識にはばまれて、実行にうつす
ことができなくなるのです。
過去世において、ひどい目にあった人に今生で会うと、現在はなんにもその人が自分に悪行為を
示さなくとも、その人が嫌で仕方がない、憎らしいような気がするということさえあるので、過去
世から今日まで潜在意識層に積みこまれてある想念意識というものは、人間の運命をつくる、大き
な力となっているのであります。
生命は永遠なもの
そこで私は、過去世からの想念意識、
こう
つまり業を消滅するために、この世の運命と現われてきた
36
り、一っ一つの自己や他人の行為が自分に悪いものである場合は、すべては過去世から今日に至る、
神のみ心を離れた、愛と調和にそむいた、誤った想念行為の消えてゆく姿なのだ、と思って、世界
平和の祈りの中に投入してしまいなさい。そして、世界平和の祈りのもつ大光明波動で、過去世か
らのすべての業想念波動を消滅していただいて、改めて、神のみ心を頂き直しなさい、と説いてい
るのであります。
なんの努力もしないで、自己だけの肉体生活の優位たらんことを願っている人は勿論、自己のた
めにも人のためにも尽くそうとして、努力はしているが、どうも自己の想うようにはならぬ、とい
っている人も、一度は先ず、すべてを過去世の因縁の消えてゆく姿として、世界平和の祈りを祈り
つづける生活に日常生活を切りかえてゆく必要があるのです。
人間の生命は肉体にだけあるのではない、とはじめから申しておりますように、生命は永遠のも
のです。その永遠の生命のただほんの一時期の肉体生活のために、永遠の生命を傷つけ、損うよう
な生活をしてゆくことは、人類全体の大損失であり、大生命への反逆でもあるのです。
永遠の生命は個生命としても生きつづけているのです。地球にだけでなく、宇宙の各星々にも生
きつづけているのです。人類の一人一人が、真に自己が永遠の生命の一人であることを自覚して、
37生きている人間死んでいる人間
他の生命と正しく交流し合って、大生命の理念を、この地球界に実現してゆくことこそ、この地球
に生かされている私共の天命なのです。
世界平和の祈りは、大宇宙神の慈愛のみ心を地に受けとめて生れた、個人人類同時成道の祈り言
です。この祈り言が発する大光明波動によって、この地球界を蔽っている、業波動の黒雲を、一日
も早く祓い浄めてゆかねばなりません。
今日も明日も明後日も日常茶飯事、すべて世界平和の祈りのひびきで生活してまいりましょう。
38
大人物小人物
大人物・西郷隆盛
大人物、小人物ということはよくいわれることでありますが、これは勿論、脊丈や体重のことで
はなく、人間の内容のことです。
では、大人物とはどういう内容を持った人間のことをいうのでしょう、これから少しずつお話し
てまいりましょう。
一口にいえば、愛の心と、寛容の心を深く持ち、多くの人の心を自己の心として受け入れること
のできる人のことです。そういう大人物は、大宇宙(神) の心の根源をしっかり自分のものとして
いて、枝葉の小さな事柄には、想いを把われることなく、こだわりを持ちません。そういう大人物
の動きは、宇宙運行にそのまま乗っていて、他の枝葉の事柄にはかかわりあいがないのです。
39大人物小人物
ですから、自分の周囲の人たちにやかましく口小言をいわず、付き合っている人々にも鷹揚な態
度で接し、自分を偉く見せようとか、深く見せようとかいう、虚栄の想いがありません。一見して
偉くないのか、ものがわかっているのか、わかっていないのか、計ることができません。
他人との普通の付き合いでは、あくまで律気で、常識的で、他をおさえて前へ出ようとすること
はありません。
よく私は西郷さんのことを例にとって話しますが、西郷さんが参議のとき、宮中の会議が終わっ
て帰ろうとしましたが、はきものがないのです。しかたがないのでそのままハダシで出てきますと、
門衛が疑っていつまでたっても通してくれません。そこへ岩倉具視右大臣が馬声いさましく馬車で
近づいてきました。門衛は西郷さんを叱りつけて、そこにひかえさせました。西郷さんは文句もい
わず腰をかがめて雨の中にいました。岩倉さんがふと横を見ると西郷さんが門衛のうしろで、雨に
ぬれて立っているではありませんか。岩倉さんがいぶかってわけをきき「この人はほんとうに西郷
参議である… …」と門衛をたしなめ馬車にのせて立ち去りました。門衛はびっくりして立ちつくし
ていたといいます。
現代の大臣や代議士諸公にこのような態度をとれる人が、一人でもいるでしょうか。
40
つぐみち
また或る時、弟の西郷従道の家を訪ねると、従道は不在で、しばらく待っているうち昼食時にな
り、女中が御飯と汁とを出してくれた。西郷さんは喜こんで「うまいく」といって喰べていまし
た。そこへ外出先から従道が帰って来て、自分も同じ昼食を喰べ始めました。喰べているうちに従
道は、女中に向かってこわい顔をして「こんなうすい水のような味の汁が喰べられるか」と叱りつ
けました。すると西郷さんは、従道をなだめるように「まあいいじゃないか、汁のからい甘いなど
は、どうと言うことはない。人を叱るに値するほどの大事ではない。食物というものは、人間の胃
の肪を満たせば足りるものだ」といったといいます。西郷さんは、一生のうちで従僕やお手伝さん
を叱りつけたことは、一度もなかったといわれています。
この二つの話で、西郷の大人物的なところがおわかりになるでしょう。
白隠さんと赤ん坊
次の話も、私がよく例にとる話ですが、白隠さんのことです。
或る時、檀家の娘が、男にだまされて妊娠し、赤ちゃんを産んでしまいました。娘は、父親に叱
られるのがこわさに、白隠さんのような偉いお坊さんの子供であるといえば叱られ方が少ないと思
41大人物小人物
い、実は白隠さんの子であるといったのです。父親は、激怒して、白隠さんにくってかかりました。
白隠さんは、その時少しも顔色を変えず、赤ちゃんを産んだご本人が、そういうなら、私の子でし
ょう、と赤ちゃんを引きとりました。
その話を聞いた村人達が、今まで偉い坊さんだと思って、尊敬していたのに、とんでもないやつ
だ、とお寺をおいだしてしまいました。白隠さんは追われるままに、何の言訳けもせずに、赤ちゃ
えんざい
んをだいて村を出て行きました。後に、娘が真実のことを白状して、白隠さんの冤罪が晴れ、また
再び寺に帰ることになり、白隠さんの名望は更に一段と上がったのであります。
現代のように自分のしたことでも、人のせいにしてしまう人が多いのに、僧侶としては、最も恥
ずべき事柄をおしつけられて、そのままその罪を背負っていたという、白隠禅師の大人物さは、そ
の話をしたり聞いたりするだけで、人々の心を高めます。
どうですか、この三ッの話で、大人物というものが、どういうものか、皆さんにもおわかりにな
ったと思います。お互いに大いに学びたいものです。
42
にせの大人物と小人
ところが、こうした大人物を装った小人物がいるのです。それはどういう人かといいますと、い
かにもその態度は鷹揚で、人の話にもものわかりよく、いかにも事あれば頼みになりそうな態度を
していますが、実は、常に自己の利害虚栄を基にして、相手の金品や、地位権力を利用してゆく人
間なのです。そういう人間は、大きな利益を得るために小さな投資をします。それが或る時は、自
己犠牲の姿にみえたり、無償の愛にみえたりするのです。しかし、少しく長く付き合っていると、
その人の業の本質が現われて、真の大人物と違うことがわかってきます。
ここで小人物というものについても説明しておきましょう。小人物というのは、愛が薄く、自分
勝手で、心の狭い人たちです。ちょっと自分の感情をそこなったといってはおこり、ちょっと損を
したといっては腹を立てる、自分の利害関係だけが常に心に一杯で、人々の幸せを思ってみる心の
余裕がないのです。
大人物の心の反対の人と思えば間違いはないでしょう。
地球を混乱させる小人物の集団
現代の青少年達が、学校教育のせいか、家庭教育の不備のためか、はたまた社会一般の風潮のた
43大人物小人物
めか、小人物的の人間が多くなっているようで、前途のために心配な傾向にあります。戦前は、社
会風潮として国家のために尽す、という心がありましたが、現代では国家と人民とが別々の範疇で
生活しているので、国家の中の人民というしっかりした観念がなくなっています。昔は、日本人と
して日本国家と全く一つの生き方をしていたもので、頭のいい悪いにかかわらず、目的の最後は国
家のためということに自然になっていました。
それが現代では、国家というものはどこといって掴みょうのない感じで、ただ単に自分たちが住
あいまいもこ
んでいる場所とか、集団とかいうはなはだ曖昧模糊とした感じになっているのです。ですから、ど
うしても国家というものを想うより先に、自分たちのことを主にして想ってしまい、自分たちの利
害関係をかえって国家に守らせようとするだけになってしまうのです。
昔のように国家の仲間の一員として、自分の身を置いていると、自然と自分でも国家とか社会と
かというものに、自分の心が働いていって、一人だけの自分ではなく、それだけ大きく心が広がっ
ていくのです。
勿論昔から、自分の利害関係だけしか思わないで、悪いことはみんな他の責任として転嫁してし
まうような小人も、現代と同じようにいたのですが、いざとなると国家という動きの中で、国民の
44
一人として、瞬間的にでも我を忘れて、働くことがあったのです。
現学校教育への危惧
人間が大きく生きるためには、自分一人のことのみに力を尽しているというのではなく、一人で
も二人でも、他の人のために力を尽すということが大事なのです。そのことが社会とか、国家とか
人類という、より大きな働き場の中で、自分の心が働いていることにもなってくるのです。自己欲
望というものを主にした生き方を、自己確立のように学校教育が思わせたら大変なことです。そう
いう人間がたくさんできたら、それこそ、その国家や社会は、統一のないばらくな崩れやすいも
のになってしまいます。
小人閑居して不善をなす、という昔の人の言葉通りになってしまっては困ります。人間は、本質
は神の子であり、大人的要素を中心にもっているのですが、この地球世界の物質的生活が身に沁み
てきますと、神の子である霊性が、いつの間にか物質世界の波に蔽われてしまって、自分自身の肉
体生活を守ることに全力をそそぐようになってしまいました。
そこでどうしても、この世界の物質の有限性に把われて、少しでも自分の周囲に金品をたくわえ
45大人物小人物
ておこうとするようになります。社会国家という大きな立場で働くより、まず物質的自己防衛をは
かり、一方自己の感情想念の満足のゆくような地位や権力を得ようとします。そして心の弱い内向
的な人々は、置かれた立場での物質生活を少しでもおかされまいとして、金品を国家や社会のため
に使うことを何とかして逃れようとします。国家社会よりも、自分たちの生活が何より大事なので
わら
す。こういう人たちの生き方も、あながち曝いとばしてしまうわけにもゆきません。国民の大半の
たぐい
人が、そうした類ではないかと思われます。そして、現代の学校教育はそういう人たちを、ます
く多く作るような方向に向かっているのです。こういう人たちを小人と呼んでしまうのはちょっ
と気が引けますが、確かに大人物に対しての小人物ということができます。
46
大人物に近づく道
このように大人物少なく、ほとんどが小人物で埋っているような現代の地球世界は、なんとかど
うにかしないと、過去世の因縁、つまり人類の歴史の推移によって、自然淘汰されるように地球か
ら亡び去ってしまう運命をもっているのです。ですから今日では、どうしてもそうした小人たちの
心の光明を増大させ、地球からの滅亡を防がなければならないことになります。といっても小人物
が、急に大人物になれるわけがないのですから、大人物に近づく道を知らねばならぬことになりま
す。
しんらん
大人物に近づく第一歩として、親鸞ではないが人間は罪悪深重の凡夫である、自分達は何事もな
しえない、ということを思い定めることです。全くその通りで赤ちゃんとして生れた肉体から、そ
の肉体を養ってくれている空気や水や食物からすべて、天地の慈愛からのいただきものです。
そういう事実に思い当れば、いやでも感謝の想いが湧いてくるはずです。そういう感謝の想いを
基盤にして、そのおかれた立場で素直に生活していけば、いつもいつも自分の生活のことばかりに
汲々としている想いが、天地の慈愛の波で消されてゆき、次第に広い心になってくるのです。積極
的に社会や国家のためにという働きをしなくとも、小さな自分の心を大きく広げてゆくことは、こ
たいじん
の人生にとってやはりプラスになるのです。大人の道への第一歩に違いありません。
神への感謝行から第一歩を
自分の肉体生活がだめになってしまっては大変だ、という恐怖心が人間の心を小さくしぼめさせ
てしまっているのですから、その心を広げるために、いろいろのことを考え実行すべきなのです。
47大人物小人物
ちゆうちよ
神への感謝、天地への感謝は当然なすべきことをなすのであって、今更躊躇すべきことではあり
ません。是非実行すべきです。大人物というのは、生れながらにして天地と自己との一体感をもち、
神の使命達成のために生きているということを当然のこととして知っている人のことなのです。で
すから、小人のように、自己の肉体生活や、社会生活に想いが把われたりしないのです。その理を、
よく噛みしめて一般の人は、神への感謝行から大人の道をのぼってゆけばよいのです。
要は、自己の想念が常にどこにあるかということが、その人の内容の問題となるので、大人のよ
うに常に想いが、天地と一体になっていればいうことはないのです。しかし、常人にはそれができ
ないので、感謝行とか、祈りの行とかによって、そういう道にたどりつくのであります。
過去世からの習慣の想いというものは、なかなか大変なもので、一朝一夕でその習慣を変えるこ
とはできないのです。肉体の自己というものを主にして生きている習慣をもち続けてきた人は、神
様に守られているのだ、神様の子なのだ、といくら聞かされても、肉体の自己というものだけが、
そこにこびりついていて、神の子である霊性の自己のほうは、遠くに離れていってしまっているの
です。神様ごとを聞くほうはまだいいほうで、肉体の自己だけに固執して、神の子も霊性も全く認
めない人さえあります。世にいう唯物論者です。
48
光明思想実践家の活躍
宇宙万般の生命現象は、すべて自分のどうにもできないものであることは、誰にでもわかるのに、
そして、自己の肉体生命というものは、宇宙万般の中の一つの生命であるのに、自己の肉体生命だ
けを宇宙の生命の流れから引き離して考えていることなど、私どもには、とても理解のできないこ
とです。大きな大きな宇宙生命の流れを離れて、ただ単なる五尺何寸の肉体身をのみ後生大事に守
り続け、他の生命の存在や、その生命には大きな働きの場のあることを思ってもみない、こういう
人間は、小人物というより他にいいようがないでしょう。
そういう小人物をも含めて、大人物に近づかせるためには、やはりどうしても、過去世の因縁、
つまり過去世からの習慣の想いを脱却させねばなりません。小人物にしても、宗教心の少しでもあ
る人は、まだ導きやすいので、法然、親鸞の南無阿弥陀仏の方法と同じょうに、ひたむきに世界平
和の祈りを行じさせればよいのです。そうすれば世界平和の祈りの根源である神界の大光明波動の
中で、常に過去世からの習慣の想いが消されてゆくことになり、その人の生命は、業をはなれた力
強いものになってゆくのです。日々の祈りによって、神界からの新しい生命で満たされていくこと
49大人物小人物
になるからです。
唯物論的小人物は、そうした道にはついていけないので、大人物や大人物になろうとして努力し
て生きてきた人たちや祈りの生活を送っている人たちによって、やがてできあがってくる正しい社
会生活によって、自己の愚かさを、悟らせられてゆくことになるのでありましょう。
しゆうわい
先年のロッキード事件ではないけれど、贈収賄の問題で満ちている世界中の政財界、その贈収賄
のすべとして、自分たちの権力や地位を、確保しようとする人々、こういう汚れた社会状勢も、次
第に数を増してゆく光明思想の実践家たちの活躍によって、やがては浄化されてゆくにちがいあり
ません。私どもの世界平和の祈りも、地球人浄化の大きな働きとなっているのです。昨日まで小人
と思われていた人が、いつのまにか、堂々とした人物になっている例がたくさんあります。日々の
祈りによって、生命の働きを邪魔していた業想念が、いつのまにか消されていってしまったのです。
50
心が広くなる祈り
ですから、一方では小さな枝葉なことに把われて、くよくよ生きながら、一方では日々の世界平
和の祈りの波の中に入っている、そういう生活でも、やがては枝葉に把われる業想念のほうが消え
ていってしまい、世界平和の祈りの大光明波動が残ってゆくのであります。それは勿論そのはずで
す。人間の神性は神の子であり、光明そのものでありますから、日々その光明波動である世界平和
の祈りをつづけていれば、当然明るい余裕のある人柄になってくるに決まっています。自分のよう
な者は何をやっても駄目だ、などと思わず、しばらく世界平和の祈りを続けてみて下さい。自分で
も不思議なくらい、心が広くなり、見るものすべてが、美しく見えてまいります。これは世界平和
の祈りを実践した多くの人々のいつわらざる言葉です。
大人物になるのには、それから先の先の話でもよいではありませんか。まず消えてゆく姿で世界
平和の祈りの実践をしてみて下さい。表面に現われている悪をとらえ、それをせめさいなみ、それ
を消そうとしているのが、今日の社会の在り方ですが、それでは真実の立派な人間社会はできあが
りません。前述のロッキード事件でも、政府自民党の弱味につけいって、政府を倒そうとしている
野党群の心の中には、国民のことも、今後の政治政策のことも、まるで忘れ去られて、ただ自分た
ちの勢力拡張、権力増大の自分勝手な欲望が主になって動いているのが、心ある人の目にははっき
り見えまして、人間のいやらしさ、政党のいやらしさなど、今更唾棄すべき想いです。
人間というものは、権力欲や、地位欲に把われると、前後左右がわからなくなり、現在自分のし
51大人物小人物
ている行いが、人間としてどんなにみにくいものであるかが、まるで判断できなくなるのです。民
社党を除いた野党たちの動きは、正にそれであるといわれても、弁明の余地のないものです。ロッ
キード事件の究明と予算審議の国会と同時にやっていて、どうしていけないのか、ロッキード事件
は国家予算となんのかかわりもないものであり、国家予算が、はっきり定まらなければ、折角上向
きかかっている日本経済活動が、そこで足ぶみすることになってしまいます。それは、与党とか野
党とかいう問題ではなく、国全体の問題です。そういう大事なことさえ自分達の都合によっては問
.題にせずに、政府
自民党の弱点を拡げてゆこうとしているのは、本末転倒もはなはだしいものです。
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小人がいつの間にか大人の道へ
こんなゆき方は、どうしても大人のゆき方ではなく、全く典型的小人の在り方です。上杉謙信が、
敵である武田信玄に塩を送った話など、全く大人的生き方であって、現代の野党三党のあり方から
すれば、ようし、相手が塩に困っているな、更にこちらから手を回して、ますます塩を少なくし、
相手を困らせてやろう、ということになります。客観的に与野党の在り方をみている人は、勿論、
与党をほめる気にもなりませんが、野党三党の小人ぶりには、ただただあきれるばかりです。
人をおとし入れて、自分が地位や権力を得ようとするそういう人より、自分には何一つよいこと
をする力がない、何一つ人のためにできないけれど、人を困らせるようなことはしてこなかったと
いう人のほうが、よほどよいのですから、どんな人も一度は個人である自分を捨てる気になり、世
界人類のために、何か一つでもいいプラスになることができないかと、考えてみるとよいのです。
そこには世界平和の祈りという、今までの生活そのままの上で、日々祈れる大きな人類的な仕事が
あったのです。
日々世界平和の祈りをすることは、個人がそのまま人類の光明となって、大きく拡大されてゆく
のです。一人の人間の肉体に把われていた小さな魂が、全人類という大きな生命と一つになってゆ
くのです。ですから、自分は人のために何もできないと思ったままでよいから、日々瞬々世界平和
の祈りを祈り続けていて下さい。
世界平和の祈りは、小人がいつのまにか、大人の道を歩んでいると同じことになり、凡夫が聖者
の光を身に輝かせているということにもなるのです。この地球世界は、一部の政治家にまかせてお
いてよくなるものではありません。私達の一人一人が、救世の大光明と一つになる世界平和の祈り
を祈りつづけ、自分達の身体を光明身にかえてゆくことが必要なのです。
53大人物小人物
54
いつわ
心を偽らぬ生活
信仰の動機
宗教の道に入る人たちには、おおむね二種類あります。一つは通常御利益信仰といわれる、病気
が治りたい、貧乏をぬけ出したい、商売を繁昌させたい、社会的地位が向上したい、というように、
精神を深めたい、というのではなく、いわゆる現世の利益を願っての宗教入りであります。
もう一種類は、精神を向上させ、魂を高めたい、真実神と人間とのつながりを密にしたい、とい
う、本格的な宗教入りです。勿論御利益宗教のほうでも、幾分の精神の向上、魂の浄化を願う想い
もありましょう。本格的な宗教の道を踏む人でも、少しは現世の利益を願うこともありましょう。
二つの道のうちどちらの心がより多いか、少ないかによって、その人たちの未来の運命がきまってゆ
響
くわけです。どちらがよい悪いというのではなく、いずれも過去世からのその人々の善業悪業の因
縁の結果がそこに現われて、その道が定まってゆくのでありますから、現世利益により想いが傾く、
というのも、その人のその時の心境としては仕方のないことなのでありましょう。しかし、その人
のその時の心境では仕方のないような道でも、守護の神霊の加護の如何によっては、その道が自然
に変ってゆくことがあるのです。
それはその人自体としては、思いもつかぬことなのですから、その人の家族や知人友人の立場に
ある人で、守護の神霊のことをわかっている人が、その人に代って、守護の神霊への感謝行をして
やればよいわけなのです。単なる御利益信仰より、神と人間との一体化を求める宗教の道のほうが
上であることは間違いのないことなので、家族や知人友人の心境を現世利益宗教から、本格的な真
理の道を求める神との一体化の道にむけ変えてやることは、人類にとって実に有益なことなのであ
ります。
はじめから、神との一体化を願って、その道を突き進んでゆく人は極く少ない人でありまして、
大方は、現世利益がからんでの宗教入りなのであります。ですから現世利益を神に願ってはいけな
いというのではなく、現世利益を道順として、本格的な宗教の道に突き進んでゆく、というのが、
55心を偽らぬ生活
一般の人の宗教の道であるようです。
それが、いつまでたっても、終始現世利益のみを願っての神詣であり宗教の道であるのでは、折
角のその人に差し出された神の手をしっかり握ったということにはならないのです。宗教の道はや
はり、神と人間との間を明らかにし、神人一如の生活のでき得る人間を多く育てあげる道でなけれ
ばならないのです。
56
自分をごまかしてはいけない
ところで宗教に入っている人の中には、悪い因縁というものを恐れ過ぎたり、自己の所属する宗
教団体の力を過信して、人の心の自由を奪ってまでも、自己の宗教団体に人々を入会させようとし
コ
たりする浅薄な想いの人々ができてきたり、rやたらに合掌したり、感謝の言葉をのべたり、悟った
ような話や態度をしてみせたりする、いわゆる偽善的な行為をする、不自然な生活態度の人がかな
り多く生れてくるので婁
合掌も感謝の言葉も、悟りの話も、心の中から自然と現われてきたものなら、聞く人見る人の心
を自然と同化させ、感激させるのですが、心のともなわぬ形だけのものであったら、不自然なちぐ
はぐな感じを人々はその態度や言葉からうけて、かえってその人との出会いをさけてしまうように
なってきます。
乱暴な言葉や、粗雑な態度もなれてしまいますと、常に誰にでも、そうした言葉態度で接するよ
うになってしまいますが、柔かい態度や、感謝の言葉も、心がともなわず、形でだけで現わすくせ
ぎまん
がついてしまいますと、いつか自分自身をも欺隔してしまいまして、実際は心が優しくなってもい
ず、感謝もしていないのに、形の上で現わしているだけで、心もそれにともなっているものと、自
分で自分の行為を誤解してしまうのであります。これは恐ろしいことでありまして、それでは自己
の心はそれ以上深まらず、真の救れの道には至らなくなるのです。そして、人々からは、なんとな
ほフと
く、疎まれる存在者となってしまうのです。人々はその人の態度にはっきりはしないまでも、偽善
を感じて、快く思わなくなってくるからなのです。
宗教の道に入ったら、神の前で、常に素裸の心を出して、裸の心でいても、人々に恥ずかしくな
い人間になるように心がけるべきなのです。人間には誰しも短所もあり欠点もあるのですから、それ
くら
をかくすことより、自己の長所を積極的に打ち出すように努めて、その長所に比べて、短所や欠点
が取るにも足らぬ、小さなものである、というようにしてゆくべきなのです。
57心を偽らぬ生活
信仰者の盲点その一
58
人間はいい古されている言葉ですが、正直なことがよいことです。人に正直なこともそうですが、
自分に正直である、ということも大事なことです。自分の心の状態や、自分の行為は、よい悪いを
いんねん
はっきり認めて、すべてを過去世からの因縁(原囚結果) の消えてゆく姿として、祈り言の中に入
ごと
れてしまう。私流に言えば、世界平和の祈り言を通して、救世の大光明の中で消していただく、そ
た
し て、救世の大光明の神のみ心をその度び毎に自己の心の中に蓄積してゆく、つまり自分のもって
いる心のテー。フレコーダ! に神のみ心の光明心、愛と真と美という、人類に必要な要素だけを録音
してゆく、そして自己の心がすべて神のみ心になってしまえば、自然と神との一体化が実現し、悟
りを開いた人になってゆくわけなのです。
それを、自分の想念行為を、いつも自分の都合のよいようにごまかして、自分にいいきかせ、人
の眼をくらませるような生活をしていますと、いつまでたっても、悟りの道にも、真の救れの道に
も到達しないのであります。ですから感謝の言葉や、優しい態度を示して、形の世界から精神の世
界に入ってゆくこともよいけれど、そういう表而的につくった形の世界での悟ったような状態に、
自己をならしてしまってはいけない、と私はいうのです。そういう形の世界での表現になれてしま
いますと、心の世界から湧き出てくる、真実の愛の行為や、美の行為が、かえって出来にくくなり、
安易な形の表現だけで一生を終ってしまうことになりがちなのです。
頭や形の世界でわかっていることだけなのに、実際に心の世界でも行っていることであると、つ
い自分で思いこんで、そこから一歩も深く入ってゆかないことがあるのです。それが偽善という形
さまた
で、人々の眼にうつり、しかも自己の進化をも妨げてしまうのであります。
例えば、何事につけても、ありがとうございます、有難うございます、と言葉に現わしていいつ
けている人は、一見非常に良さそうに見えますが、そのありがとうございます、という言葉になれ
てしまいまして、いつの間にか、その言葉が、表面だけのものになって、心からの感動を呼び起さ
なくなる、という傾向がでてくるのです。そこが宗教信仰者の陥り易いところで、よくよく気をつ
けて、更に祈りを深め、神との一体化からくる有難うございます、という素直な、心の中からでて
くる感謝の言葉にしてゆきたいものです。心の問題でも、形の世界から入ってゆくことも随分とあ
るのですから、はじめは形の世界だけでも仕方がありませんが、やがては心からの感謝になってゆ
くよう祈りつづけてゆく必要があるのです。59心
を
偽
ら
ぬ
生
活
信仰者の盲点その二
60
それから宗教をやっている人で、自分が悪い行いをしはしないか、悪因縁を積みはすまいか、と
そればかり恐れている人があります。人間はともすれば欲望に負けて、神仏のみ心からみて誤りで
こう
ある、というようなことをやりかねません。いけない、いけない、と否定しながらも、業の波に流
しんらんざいあ
くじんじゅうにんぷ
され易いのです。親鸞はそうした想いを、罪悪深重の凡夫、といっているのでありまして、そうい
あみだぶつ
う凡夫の自分たちを救って下さるのが、阿弥陀仏である、と念仏を唱えることをすすめたわけで、
肉体の人間には何事もなし得ない、罪悪深重の凡夫なのだと、自己を投げ出した時に、はじめて、
神(阿弥陀仏) の大光明の中に生かされている自分を見出したのであります。
とうてい
肉 体人間の自己として、如何に業想念に負けまいとしても到底駄目なものである。肉体人問の自
己をすっぽり、神のみ心の中に投げ入れた時に、人間の救れは完成されるのだ、そのための唱名
念仏なのだ、という法然親鸞の教えは、今もはっきり生きているのであります。それは私が現在説
いている、消えてゆく姿で世界平和の祈り、の教えなのです。肉体人間の自分たちの想念行為も生
活も、すべて過去世の業因縁から生れ出た生活であるのだから、そういう生活はすべて真実の神仏
のみ心の現れではない、したがってそれは単なる消えてゆく姿なのであります。そういう誤った業
想念世界の生活を消して下さって、改めて神仏のみ心の光明輝く世界を打ち出して下さるのは、い
ったい何なのかといいますと、法然親欝にいわせれば、阿弥陀様であり、南無阿弥陀仏なのであり、
私流の現代版でいえば、救世の大光明であり、世界人類が平和でありますように、という神仏のみ
心の現れである、人類愛の祈り言であるのです。
祈リ心で人生を前進
ですから、人間は肉体人間としては、誰でも業想念行為に負けてしまいがちなのですから、常に
祈り心の中で生活してゆく必要があるのです。悪や業因縁をつかむことを恐れる人たちは、より深
く、平和の祈りをつづけてゆくことが大事なのです。法然さんの百万べんの念仏のように、声に出
す言葉の世界だけでなく、常に平和の祈りがひびきわたっている、光明燦然たる、本心の世界に住
みついていられる自分を現わしてゆくようにすることです。人間は表面的には罪悪深重の凡夫です
が、奥深い世界では、神の子そのものであることを忘れてはなりません。
悪を恐れ、因縁をつかむことを恐れすぎていますと、この人生で前進してゆく勇気が薄れてしま
61心を偽らぬ生活
せば
います。何事も控え目控え目になって、自己の道をいつの間にか狭めていってしまいます。人間は
本来神の子なのですから、常に平和の祈りをしながら、祈りを根底にした勇気をもって生活してゆ
くべきです。
宗教の道というのは、神仏のみ心を人間の生活として行じてゆく道なのですから、ひたすら神仏
まこと
のみ心である、愛と真実と美の行いをしてゆくように励んでゆくのが本筋でありまして、その行為
の中で、現世の利益が自然ともたらされてゆくのであります。
無理無理すすめられて、もし入会しないと、神様の罰があたったりしたらたまらない、という弱
い気持で、宗教団体に入ってゆく人がありますが、こういう形の宗教信仰は間違っておりまして、
自分の自由意志で入会するか、生活のつまずきとか、哲学的探究とかの何かの機会に、自然の形で
入ってゆくものです。人間というものは、表面は善悪混交の業想念に蔽われていますが、奥の心、
つまり本心は神のみ心と一つのものなのですから、自己の本心を開発することによって、神と人間
との一体化ができるのですから、本心開発という重大な根本を忘れて、その場、その時々の開運だ
けを願っての宗教信仰は極く浅い信仰というべきなのです。しかし、実際は現世の利益を願いなが
ら、本心開発一本のように人々にみせかけるのはよくないことで、自分の想いをそのまま現わしな
62
がら、常に高い世界に昇ってゆくよう、精進してゆく必要があるのです。
宇宙の法則にのること
大宇宙の運行は、神の大智慧、大能力によって定められた法則にのっとってなされています。法
則が時によって変化したり、ゆがめられたりしたら、これは大変なことになりますが、法則には変
化もゆがみもありません。法則は常に正しく、大宇宙の運行をのせてゆくのであります。人類の世
界もこの大宇宙の法則に乗って運行されてゆくのでありますから、法則のままに働いている本心に
外れているだけ、人類世界は自ら不幸や災害の種をまいていることになるのです。
現在の地球世界のように、世界政治の中心になるような、大国の大統領が嘘いつわりの生活をし
ていたり、多額の金をばらまかなければ、代議士のはしくれにもなれないような日本の政界のよう
に、嘘で固めた政治の世界が、この地球の運命を握っているのですから、せめて、宗教の世界だけ
でも、正直な真直ぐな生き方をしていなければ、地球人類の運行は、やがて全く大宇宙の法則から
外れて、滅亡し去ってしまわねばなりません。
ですから、少しでも想いが、神仏のほうに向いている人々は、それが現世利益の気持が多分に加
63心を偽らぬ生活
わった信仰でもよいから、順次、本心開発の道、神仏のみ心の愛と真実とに、想いの波を合わせて
ゆくようになって貰いたいと思うのです。
人間の心は、まず自分の幸福を願い、自分の周囲の幸福を願うというように、自分の身近かなも
のや、自分の利益になるものごとのために力を尽すように、肉体人間の立場としてはなっておりま
すので、自己を捨てて人類のためというような、理想論ばかりいっていられません。順次自己が社
会に国に人類にというように拡大されてゆくことになるのです。
64
郷土を愛する心
ちょっと話は違いますが、甲子園での高校野球の時、その学校の郷土の人々は、我がことのよう
つちか
に真剣になって、熱狂的に応援しています。それは金銭つくでもなんでもありませんが、自然に培
われていた郷土愛の現れなのであります。郷土を愛する、ということは、理屈でもなんでもなく、
心の底から湧き上がってくる感情でありまして、とめてとまるようなものではありませんし、みて
いて悪い気持のするものではありません。
この郷土愛はもっと広めますと、祖国を愛する、という気持になるのでありますが、近頃は祖国
愛を失った人々も大分あるようです。しかし、いざという時には、やはり心の底に蓄積されている、
国を愛する気持が必ず湧き上がってくることでしょう。この愛国心という心は非常に大事な心であ
りながら、この地球世界のように、国と国との交流が、常にお互いの利害関係の上に成り立ってい
る世界では、お互いの利害が対立すれば、武力での対決にもなりかねません。そういう憂いがある
ので、各国共に、武力の増強をおさおさ怠らないのであります。そして小国迄も核爆弾を持ちたい
と思っているのであります。
自国が恥ずかしめられて、おめおめ頭を垂れている国民はありません。どこの国の人でも、愛国
心を持つ大半の国民は、武器をもって立とうとするでありましょう。現在の日本のように、平和憲
法をもっている国でも、もし他国が侵略してきた場合、戦争がいけないから、といって、ただ手を
こまねいて侵略されるままにしておくでしょうか? そこがなかなかむずかしいところです。そこ
いつわ
にも心を偽らぬ人間になって、常に自己をみつめ、自国をみつめておく必要があるのです。
地球世界の現状
人類の理想としては、個人々々としては、
おか
自己の自由を侵されない、物品に不自由のない平和な
65心を偽らぬ生活
生活が営めることであり、国家としては、お互いに助け合い協力し合う調和した対立抗争のない世
界が出来上がることでありますが、現実の世界ではなかなかその理想は達成されそうもありません。
地球という面積も形も定まった世界にありまして、しかも様々な面において不平等に分けられて
ある国々の経済生活なのですから、大国は大国なりに、小国は小国なりに、常に種々の事柄に充足
されない不平不満が蓄積されております。各国の為政者も国民も共に、様々な欲望をもっている人
々なので、足りぬは足りぬままで満足する、というようなことはなく、足りぬ分、不満の分を他国
から取り上げようとするのであります。これは個人も国家も同じことで、まだ個人だけの問題です
と、個人の中には自己の環境を常に満足して生きているような人が中にはおりますが、国家となる
とそうはゆきません。また個人の中でも、欲望の多い人と少ない人とがありますように、国家にも
欲望の多い国と少ない国とがあるようです。
こう
こういう罪悪深重的几夫ぞろいの人類なのですから、そういう肉体人問の業というもの、業の流
れというものを、個人も国家もはっきりとみつめた上で、果して自分たち肉体人間だけで、地球世
界の平和を築き上げることができるかどうかということを、真剣に考えてみなければいけないので
す。
66
真剣に考えれば、自分たちだけでは絶対に平和世界は出来上がらないということが、わかる筈な
のです。お互いが自国の利害を先に考え、自国よかれの考え方で、調和しようとしても、それは土
台無理な話です。この地球世界の物品は、形の上においては、どうしても限度があります。その限
られた物品を、力の強い国や有利な土地をもつ国は余計に取り、力の弱い国や資源の少ない国は僅
かしかとれないのが、今日までの地球世界の在り方です。
こういう不平等な在り方で、世界の平和など成り立つわけがありません。眼に見える資源や物品
以外のなんらかの有利な事柄で、足らざる国々がうるおうようになり、大国の欲望に限度ができる
ようにならなければ、地球が平和になるわけがありません。
今こそ真剣に神を呼ぶ時
おぎな
そういう肉体人間の足らざるところを補って、人間の欲望を起さなくとも、自己の自由が確保さ
れ、国家民族の幸福が約束されるような立場が、なんらかの形で示されなければ、今後ともにどう
にもならぬ破目に地球人類はなっていってしまうでしょう。そういう事実を自分たちの心を偽わら
ずに、人類はみきわめてゆかねばならぬので、肉体人間的個人も国家民族も、只それだけの人間性
67心を偽らぬ生活
では、やがて滅びてしまうのだ、ということをはっきり知る必要があるのです。
そのためには、肉体人間以外の何かに想いを向けるということをしなければならぬのです。そこ
からが信仰の世界になるのですが、現代の人々は、神を単なる名称だと思っていたり、飾り物的な
存在だと思ったりしていて、只形式的に祈っているだけなのですが、神は大生命であり、すべての
すべての権能であることは事実なのであって、今も厳然として、神のみ心はこの大宇宙から、地球
の隅々に至るまで働きつづけておられるのであります。
神の大生命から生れてきた小生命である人間なのですから、困った時には、大生命の神様の指示
を仰ぎ、応援を得たとしても、決して恥ずかしいことではないのです。だが各国の現在の為政者は、
真剣に神への祈りを行おうとはしないようです。人間が真剣に祈れば、神は必ず人問の意向をきい
て下さるのです。まして現在では、各人の守護の神霊の他に、救世の大光明という、神々聖賢の集
りである、大なる力が、正面きって、地球人類の救済の力となって働いているのであります。
それが形の上では、世界平和の祈りとして、次第に各国に広がりつつあるのであります。肉体人
間だけでなんでもできるという思い上がった考えを、神と人間との一体観によって、神々聖賢の力
を信りて、地球世界に真の平和世界を打ち立ててゆくという、神人合一の働きをこれから示してゆ
68
くことになるのです。
肉体人間だけではこの地球人類の運命は少しも好転してゆかぬ、ということは、今日までの多く
の事例でわかりきっていることなのです。今こそ、肉体人間の思い上がりを捨てて、各国為政者の
でき得ぬことを、我々民間人が、力を合わせ、協力し合って、やってゆこうではありませんか。神
の力を頭に頂いた世界平和運動の行動の中からこそ、偉大な政治家も、偉大な科学者も生れでてく
るのであります。その日のために私共は日々瞬々世界平和の祈りを唱えつづけてゆくのであります。
69心を偽らぬ生活
70
真実に善い入というのは
善悪の判定
あの人は善い人、この人は悪い人、というように、人間の善し悪しを、簡単にきめてしまう人が
いますが、人間の善悪などというものは、そう簡単にきまるものでもありませんし、A にとって善
い人が、B にとっては悪い人であったり、B にとって善い人が、A にとって悪い人であったりする
ことも随分とあるのです。
人間は大部分の人は、自分本位でありまして、客観的に人間の善悪を判断するより、自分のため
にプラスになる人を善い人、マイナスになる人を悪い人というように思いがちです。
しゆうわい
代議士の人で、収賄などをしていた人は、客観的にみれば悪い人なわけです。ところが、その代
議士の出身地の人たちは、この代議士を悪い人などとは一つも思わない。何故かというと、その村
のためにこの代議士が何やかと尽しているからなのです。そして、その次の選挙には、新聞やテレ
ビでさんざん悪口をいわれながらも、ちゃんと当選しているのであります。
おか
そうすると、この代議士は、客観的にみた人道上の悪を犯しながらも、出身地の村人たちは、善
い人としてこの代議士をみているわけになるです。
こういう例一つとってみても、人間の善悪を見定めるのはむずかしいことなのです。これが大き
く拡大されれば、国際関係の場合にも考えられてきます。その国の政策が自国の国民の利益のため
に、他国の利益を冒かす場合があっても、国民は自分たちの利益がなんに増しても先行するので、
その政策を支持する、というようなことが多々あるのです。その政策が地球人類という大きな立場
からみて、マイナスの政策であることがはっきりしていても、その国の人たちは、それが自国の利
益と信じきると、その政策を遂行する政府を善しとみるわけなのです。
あらゆる国が反対をしているのに、敢えて核実験を実行する国などは、政府の政策に反対も勿論
ありますが、国民の大半が賛成していることによる実験である、と思うより仕方がありません。
核実験によって、地球が更に汚されるということは誰にでも考えられることなのですが、その国
71真実によい人というのは
の国民にとっては、その悪より更に大きな善を、この核実験によって得ることができると思ってい
るに違いありません。それでなければ世界中で反対するのを押し切ってまで、核実験をする必要が
ないはずです。
個人にとっても、集合体にとっても、真実に善を見分け、その道を突き進んでゆくのは大変なこ
となのだと思わされます。どこの国民も自国のために利益になることが善である、と思いがちなの
でありますが、善悪の判断は常にそれが愛の行為であるかないか、天地の調和に基づいているか、
反するか、によってなされなければならないのです。核実験がたとえその国の何らかの利益になっ
たとしても、それは天地の調和を破る行為として、全くの悪の行為であることはいうまでもありま
せん。
個人にしても国家にしても、自己を守ろうとするあまり、真実の善ということから、知らぬうち
に離れてしまって、自己に対し現象の利益をもたらす行為だけを善行為とみてしまう癖が、いつの
間にかついてしまったのであります。
よいことをするのでも
72
ではここで、真実に善い人、真実に善い国とは、どういう人であり、どういう国であるか、とい
うことについて、いろいろと書いてゆきたいと思います。
よく、「この方はとても善い方で」と人を連れて来られます。とても善い方という人を、私がみ
ますと、とても善いどころではない、悪いことをたくさんしているのです。というのは、今生のこ
とより、過去世のことが先に私にみえてしまったからです。なんと悪い人なのだろうという想いは
ひとまず呑みこんで、またみてみますと、成る程、今生では、一生懸命善いことをしようと心がけ、
人のため、人のためと尽しているのです。
くらし
「この方は、人のためばかり尽していて、ご自分はいつも貧乏な生活をし、ご家庭はご不幸なの
です」と紹介者がいうのです。奥さんも子供さんもこの人の生き方に反対で、この人だけ家庭で浮
き上がっているのでした。
この人は、過去世の悪事の数々が魂に沁みついて、なんとかして、今生で善いことをして、過去
世の悪事の埋め合わせをしようと一生懸命なわけで、そのためには、妻や子のことを想いやってや
る心の余裕がないのであります。
心の底から人を愛さずにいられずに、困った人を助け、人々のために尽しているというよりは、
73真実によい人というのは
過去世の業をぬぐい去ろうとして善事を積んでいる、いわゆる自分のために人に尽している、とい
う形なのです。こういう形でも人に尽すということはよいことに違いありませんが、こういう在り
方は、反面どうしても無理がありますので、妻や子にその負担がかかってしまうのです。
善事をなすにも、ここのところが実にむずかしいところで、本心の世界から湧き上がってきて、
自然と善事をしているのと、因縁の世界の借金返済のような善事とでは、同じ善事でも大分違って
くるのです。本心から自ずと行っている善事には無理がなく、調囲に迷惑をかけるということがな
いのですが、業因縁の世界だけの善事には、ともすると善事をする反面、親とか妻とか子供とかい
う近い人々にその負担をかけてしまうことが多いのです。
それは少しも早く、少しでも多く、過去世の什金払いがしたい、という魂の欲求に追い立てられ
るように善いということをしてゆくからです。
こういう善事をする人は、勿論今生では善い人の部類に入りますが、第二級的な善い人というわ
けです。こういう人は、善いことをしつづけて、しかも人にあまり感謝されず、かえってうとまれ
たりする場合がありますが、それにも負けずうまず臆せず善事を為しつづけてゆけば、もう一度生
れ変って来た時に、はじめて真の菩薩的人間になり得るのです。
74
善人と悪人と
ところでここに〃善人もて救わるなお悪人をや〃と親鸞がいっている善人がいます。善人でさえ
救われるんだ、悪人が救われるのは当然じゃないか、というわけですから、これはちょっと聞いた
ら、あべこべの話のようですが、悪人より救われにくい善人というのは一体どんな善人なのでしょ
う。
親鸞上人にいわせれば、人間は大半罪悪深重の凡夫で、真実の善人など滅多にはいないことにな
ります。それなのに、自分は何一つとして悪いことをしない、だから神仏にすがることもないなど
かえり
といって、自己を顧みる反省力のない善人ぼこりの人程、親鸞にとって嫌な人はなかったでしょう。
この言葉にはその気持がよく出ております。
現代にもこういう人はかなりおります。自分は何一つ悪いことをしていない。だから神仏にお願
いしたり、すがったりする必要はない。自分の運命はすべて、自分の力でやってゆく、という形の
人です。法律上や人道上の悪いことをしていないからといって、それがそのまま善人である、とい
うわけにはゆきません。
75真実Y’よい人というのは
真実のことをいえば、人間というものが一体どういうものであるか、どういう目的でこの地球界
で生活しているのかという真理を知らぬことが、そもそも最大の悪の元なので、その無知から、神
仏のみ心に反する想念行為が生れてくるのであります。自分は善人だと思っているその人たちは、
恐らくそういう真理を知ってはいない筈です。真理を知っていれば、自分は善人である、何一つ悪
いことをしていないなどと思えるものではないのです。
そのような善人顔をしている人々より、私は今まで随分悪いことをしてきてしまったとか、私は
悪い人間でと自分を悪い人間だと思いこんでいる人のほうが、お前たちを救って上げる、という神
仏の言葉を聞いたら、喜び勇んで飛びこんでゆくでしょう。救われたい一心があるからです。片一
方の善人ぼこりの人たちは、自分たちは何一つ悪いことをしていないのですから、救われたいとい
う想いがありません。そこで真理を知らない偽善者のままこの世を終ってしまうのであります。し
かし神仏はそういう救われたいという望みをもたぬように見える善人ぼこりの人々さえも救ってく
ださるのだから、自分は悪人だ、こんな悪人を救って下さるとはなんという有難いことだ、と感涙
にむせぶような、救れを念じきっているような人々が救われるのは当然のことなのです。
真理を知った人は、自分は何一つ悪いことをしないというような態度や、善人ぶったりはしませ
76
けいけん
んし、神仏に対する敬虔な気持や、親しみをもっています。すべてに感謝の気持と謙虚さをもって
います。素直な生き方ができる人になっています。
神仏に対する敬虔な気持のない人は、やはり、真実の善い人の部類には入らないようです。私な
ど、善人ぶった人と話していると、この人これでょいと思ってくらしているけれど、どこかで一度
頭打ちして、はじめて何かにすがろうとする気持になるのだなあ、とちょっと哀れな気がしてくる
のです。そういう人には一つも道の話をする気になりません。相手がまるで聞く気がないからです。
現在の自分に満足しきっているのですから仕方がありません。こういう人が案外多いのですから、
人類の進化の道はなかなか大変なのです。
よい人になりきれない人
それからもう一つ、善人であって、真実の善人になれない人がいます。それは卑下慢の人たちで
す。その人たちは、どんな善いことをしても、まだ自分は駄目な人間であると思ったり、人が尊敬
していてくれるのに、自分はとても人に尊敬されるような人間ではないと、いつでも自分の善さを
否定してしまうのです。
77真実によい人というのは
人によいことをしてやって、させてもらってでもよいですが、人が感謝してくれれば、それを私
も少しは人のために尽せたかと、素直に喜んでもよいところを、私はとても人様に感謝されるよう
なことをしていない、とまるで悪いことでもした人のように恐縮がってしまったりするのです。
人に謙虚であり、卑下することもよいことですが、ここまでくると卑下慢といって、卑下するこ
とがかえって慢心していると同じように、相手の心に迷惑をかけてしまうのです。折角の善事を汚
こば
してしまうことになりますし、神の子であるべき本心の顔が出ることを拒んでいる形になってしま
います。本心は善そのものであり、光明そのものですのに、自己の本心の善や光明を否定しようと
する形をみせるというのは、正に誤った行為なのです。
こういう人は、宗教をやっている人に多い形でして、なんて善い人だろう、と一方では思うので
すが、一方では、なんて素直でない面倒くさい人なのだろう、と思うのです。偽善者、悪人よりよ
い人に違いないのですが、この人たちがその想いのままでは、真実の善人とはいえませんし、幸せ
な生活になってゆくとも思えません。やはり過去世からの因縁の波の中での善事であり、自己の善
行為の否定であるのです。
自分の行った善事を、しきりと人々に吹聴したりすることも、折角の善の行為を自ら打ち消して
78
いるようなものですが、人々が賞めてくれる善事を、自ら否定しつづけて、罪悪深重の凡夫の中に
もぐりこんでいるのも、神のみ心に素直でない行為で、あまりほめられたものではありません。
よいことも自然に出来るようになると……
真実に善い人というのは、その人の想念行為が、自然と人々の心を明るくし、人々に勇気をつけ、
人々に人の心の美しさというものを、日常茶飯事の中で示している、という人です。一口にいえば、
神のみ心をそのまま行じている人というわけですが、神のみ心というものを分析してみると、愛の
心、調和の心、明るい心、柔和な心、美しい心、勇気のある心、というような心です。ですからそ
うした心を、巧まず身心につけていて、自然の行為の中にそうした心が温れて出てくる、という人
が、真実に善い人というわけで、同じ善いことをしても、周囲の人々を泣かせて行うような、前生
の悪事の帳消しのためにやっているような、不自然なものであってはならないのです。
ですから私は、善いことも無理をしてやったのでは何にもならないと常にいっているわけで、何
事も、自然に行じられてゆくところに、その善さが現われてくるのです。何かに追われるように善
事をしてゆく、という無理の見える状態では真実の善い人の行いとはいえないのです。
79真実によい人というのは
とく
老子の言葉に「上徳は徳とせず、是を以て徳有り。下徳は徳を失わず。是を以て徳無し」という
のがあります。上徳というのは、徳を積もうと思って徳をするのでもなければ、徳を積んだと自分
で思っているわけでもない。自然と行為に現わした物事事柄が徳になっている、というのでありま
す。徳というのを善い行為と解釈すればよいわけです。そして下徳というのは、その人の行為が、
いつも徳を積みたいとか、徳を残したいとかいう、徳という行為に自分の心が離れずにいて、徳の
行為、つまり善事をしている、という程の徳です。
ひとりで
一口にいうと、上徳というのは、人為をもってするのではなくて、自然法爾に行為しているもの
で、その徳を何かに利用したり、どうしようというような自我の想いがでることがない。下徳は、
徳の行為をしても、その徳を自分のために役立てようとする作為をもつことがある、というのが老
子の言葉です。
ですから真実の善い人というのは、作為をもって、善いことをするというより、自分では何気な
くやっている事柄が、すべて人のためになり、自分の本心を光らせるものでもある、そういう人の
ことをいうのであります。
ところが大半の人は、自然に善いことをしている場合もあれば、気づかずに悪いことをしている
80
場合もあるのですし、また、自分のためにも子孫のためにも徳を積んで置こうとして、善いことを
してゆく、ということもあり、悪いと知りながらも、自己の生活を守るために、良心にそむくこと
をする場合もあるのです。
そこで私はここでも、神仏への全託の必要を認めるのです。神仏への全託がなされた時はじめて、
なくう
無為にして為し、空の気持で生活ができるようになるので、どうしても神仏へ全託のところまで、
人間は精神がゆかねばならぬのだと思うのです。そして、その全託の道に自然になれるのが、祈り
の行為なのであります。
上善は水のごとし
天に向ってそそり立つ大木のように、方円の器に従ってはその器に調和する水のように、天地の
理法に叶った生き方のできる方法は、自我を祈り心の中に入れきった祈り一念の生活なのでありま
す。
上善は水の如し、という老子の言葉がありますが、如何なる場にあっても、その場に応じて千変
万化、少しも己れのない水のような姿こそ、祈りの姿であり、真実の善き人の姿でもあるのです。
81真実によい人というのは
しかしなかなか、こういう祈り一念の姿にはなり得ません。即座にそうなり得る人は、もうすで
に真実の善き人であり、菩薩心の人なのであります。私の知って貰いたいのは、平凡な大方の人々
にも、偽善者でもなく、卑下慢でもない、真実の善き人に、誰もがひとりでになれる方法なので
す。
その方法を私は、消えてゆく姿で、世界平和の祈り、という方法で皆さんにお知らせしているの
であります。余程上根の人でないと、神仏そのままのみ心で、この世を生きてゆくわけにはまいり
ません。どうしても罪悪深重の凡夫の面が顔を出します。ですから私は、罪悪深重の面を、すべて
消えてゆく姿として、表面に顔を出してくる度びに、その姿ごと世界平和の祈りの中に入れてしま
うように説いているのです。
今現われてきたものは、すべて過去世の因縁の消えてゆく姿として、祈りの中に入れきって、世
界平和の祈りの大光明の中で消していただき、その時点から自分の運命は、すべて、神仏から頂き
直してゆく、という方向に心を定めてしまうのです。神仏から頂き直した生活こそ、確かに神仏の
み心を現わした生活に違いないわけですから、その中に新しい悪が生れるわけがありません。もし
誤った姿や、嫌な事態が起って来たら、それはすべて、過去世から今日までの、神仏を離れていた
82
想念行為の集積が、そういう姿になって、祈りの大光明の中で消されてゆくのだ、ということで、
世界平和の祈りはただひたすら、各人から世界人類の平和な心をひき出すことにつとめているので
あります。
善いことをしなければいけない、と追われるような心で善行為をしたり、人に見せかけのための
善行為だったり、」いちいち誇ってみせる善行為だったり、善いことをしながらも、自分の行為を責
めつづけたり、いろいろの形がありますが、そういう業生の世界に住みながらの善行為ではなく、
じねんほうに
人間は神の子である、という本来の姿の中から、そのまま神のみ心を現わしてゆく、自然法爾的な
行為が、すべて自他のためになってゆく、という善行為に、みんながなれたなら、この世は平和に
なり調和した世界になってくるわけです。
しかし、なかなかそういうわけにはゆきませんので、その頂点に昇ってゆくために、世界平和の
祈りのような、高く広く深い、そして誰にでもわかりやすい、祈り言葉が必要なのであり、その祈
り言葉に乗って、人間は浄まった世界の住者となり、次第に真実に善い人になってゆくのです。
無理をして善事をなそうとするのではなく、祈りの日常生活から、自然の行為として、人のため
にも自己のためにもなる、行為がなされてゆく、ということが、真実に善い人になってゆく道筋な
83真実によい人というのは
のであります。要は人間が、常にその想念を神のみ心の中に置いておけばよいので、神のみ心の中
から湧きあがってくる行為を、肉体人間側としては、そのまま行じてゆけばよいのです。無為にし
てなせ、と老子がいっておられるのはそのことなのであります。
自分をいじめず、人を痛めず、常に明るく柔和で、しかも恐怖をもたぬ、もってもすぐ消し得る
人間になるためにも、たゆみなき世界平和の祈りが大切なのであります。そしてそこから真実の善
い人が自然と生れ出てくるのであります。
84
病気についての宗教観
はじめに
人間の生活にとって、一番困るし嫌なことは、貧乏と病気であろうと思います。釈尊もこの生活
のことと、老人になること、そして、病気と死ということについて、種々と見聞きして、悶々と悩
まれ、この四苦を越える道を発見しなければ、人間は救われない、と思い立たれ、王宮を出て、修
業の旅に出られたのであります。
その結果、宗教の道の奥義に達することによって、この四苦を越えることができる、と体得なさ
れ、人々を導かれたのでありますが、私はこの小論では、病気ということを主にして、この病気と
はどうして起るものか、どういう種類があるのか、そして、病気を超越するにはどうしたらよいの
85病気についての宗教観
か、ということについて、書いてゆきたいと思います。
病気はどうして起るのか
人間六十年七十年と生きておりますと、殆んどの人が、なんらかの病気の経験をしているわけな
のですが、その人の過去世の因縁によってか、今生の肉体生活を上手に行っているためか、苦しむ
程の病気をしたことがない、という人も中にはあるのです。
かこぜこんじよう
病気というものは、過去世から今生にかけての想念行為の中から生れてくるもので、病気の症状
として現われてきた時には、その想念行為の悪い状態が今まさに消えようとして現われてくるわけ
なのであります。
人によっては、生れながらに健康そのものの肉体をもって生れてくる人と、病弱そのものの肉体
をもって生れてくる人、或いは不具者として生れてくる人と、種々あるのですが、この生れた時か
らの肉体条件などは、正に過去世の業因縁(想念行為) の相違によることは明らかなことでありま
す。
神の存在というものを信じながら、過去世というものを存在しないものと思うような人があった
86
ら、それは神の在り方を正しくみていない人です。何故ならば、生れながらに、家庭環境が相違し、
肉体や心や才能においても不公平な生れ方をしている人々がある、ということは、神のみ心は不公
平である、ということになってしまい、完全円満であるべき神の在り方を否定してしまうことにな
るからなのです。
ですから、人間は、神の大生命から分けられた小生命であって、その小生命を永遠の生命として、
常に大生命との交流をなしつづけながら、置かれた環境を生かしきってゆく、ということが基本の
問題なのですが、小生命には小生命としての自由がありますので、各自が各自の自由にまかせて、
自己の運命を創ってゆくことになり、同じ小生命でありながら、その生き方によっては、くらぶべ
くもない才能や運命の開きを持つ人々ができてくるのであります。
その各自の差が生れ変り、死に変りしながら、この地球上の肉体界の様々な相違となって現われ
てくるのです。ですから、今生の各自の運命は過去世のその人々の、想念行為の集積の答として現
われてくる、ということになるのであります。病気というものも、そうした過去世の因縁性による
ことが多いのですが、そういう因縁性に加えて今生における精神の持ち方や生活の在り方、肉体の
取り扱い方などによって、病気は起ってくるのです。
87病気についての宗教観
生れながらの不具者などは、当人の過去世の因縁のこともあるし、その人の魂が高級霊魂で、先
みつか
祖の因縁の浄めを自らがかって出、犠牲者としてそうなっている場合もあるのです。いわゆる菩薩
業です。
88
想いをとどこおらせないように
くのビ
因縁因縁というと、馬鹿に仏教臭くなりますが、因縁因果というのは、原因結果のことでありま
して、現代流にいえば、人間の想いと行為から起ってくる、因であり、縁であり、果でありまして、
それは今生だけでなく、過去世からのものである、ということになるのです。
或る宗教によりますと、病気をすることは、その人の心が悪いので、その人の心の持ち方を直せ
ば直る、というのでありますが、良い人でも病弱な人もあるし、悪い人でも強健そのものの人もあ
りますので、病気によって、人の善悪をきめられてはたまりません。
常に人のために尽くし、謙虚で柔和な人でも、病気をしがちの人があります。かと思うといつで
も人の悪口をいい、人を責め裁きつづけているような人でも風邪もひかないという人もあります。
病弱な人と健康な人との相違は過去世の因縁が大いに影響していると同時に、その人の想念が常
に心にとどこおらずに、ということは、想念が、心にたまらぬようなさっぱりした生き方をしてい
るか、いつも、心に想念がたまってしまうような生き方をしているかによっても定まります。
心の良さそうな人に、かえって病弱な人が多いのは、気が弱くて、何につけかににつけ、心に把
ゆが
われが多く、気が循環しないので、気が枯れてしまうのです。気が枯れる、つまり汚れる、と毒素
が発生してきて、肉体の五臓六脇の働きを妨げてしまうのです。それが病気の症状として現われる
わけなのです。
人間は常に想念を明るく正しく持つことが大事で、気を汚さぬように心がけることが必要なので
す。悪事を平気で出来るような人には、気の弱い善人より、大胆不敵で、陽気な性格の人がいて、
健康にも恵まれ、物事も成就してゆくようなことがあるのです。
といって、悪事を平気で出来る人間を良しとするわけではありません。善事を常に行える人で、
陽気で心に把われのない人の多く出ることを望むわけなのです。
ところが、良い人というのに気の弱い人が多くて、一事をなすにつけても、想いが定まらず想い
迷うことが多いのです。善人が大胆不敵になり、陽気で行動的になれば、この世はどんどん明るく
良くなってゆくに違いないのです。
89病気についての宗教観
菩薩業としての病気
90
話はまた病気のことに戻りますが、過去世の囚縁で、弱い体で生れている人がありますが、自己
の生活の不注意で、体を痛めている人も随分多いのです。暴飲暴食、多淫、睡眠不足、労働過重と
いうようなこと以外にも、前に述べましたような、常に想念が思い患って、気を枯らしてしまう生
き方をしていることなど、病気の原囚になります。
そういう自分自身の病気の他に、先祖の因縁や、愚依霊による病気もあります。先祖の因縁を背
負ったり、葱依霊につかれたりしますと、自分の体でありながら、自分の自由にならず、脳だの神
おかみずか
経 だの内臓だのを冒されてしまうのです。これは過去世の因縁的にそうなってしまう人と、自ら菩
薩業をするつもりで、魂が望んでそうなる人とがあるのです。
その他には、国家人類の業を背負って病気になったり、災難にあったりする、菩薩そのものの人
もあるのです。イエスさんが十字架の刑を受けて昇天されたのは、人類の業を身に受けて大犠牲者
となったのであります。聖者賢者で受難の道を歩んだ人は、病気と異なりますが、みな人類や国家
の業を身に受けてそうなった人々だったのです。
宗教の教祖などは、みなこうした大犠牲の道を歩むのでありまして、常に身心の苦しみが、その
人の上に襲いかかってきている筈なのです。宗教の教祖で財力にも権力にも恵まれ、栄養に充ち足
かっぷくにせ
りた恰幅で、今日はキャバレー、明日はゴルフというような人がいたとしたら、その人は偽宗教者
であり、死後の世界の苦しみが想いやられる人であると思います。
私などは、生命をかけて道を求めているうちに、いつの間にか霊覚を身につけ、人々に神の道の
お取り次ぎをし、神の大光明で人々の心身を浄める大役を背負わされてきてしまったのですが、常
にすがってくる人々の業を身に受けて健康そのものという日はありませんでしたが、生来の陽気で
楽天的な性格が、病気などというものを受けつけず、健康そのもののように働きつづけていたわけ
です。
ところが、十年程前ぐらいまでは、一日約六、七百人の人々に面接しお浄めして休む日とてはあ
きこう
りませんでしたし、その上時折りの講演会、色紙や、軸や額の揮毫、それに月々の機関誌の原稿、
その上特別悪い病人を道場に泊めてのお祈り等々、今から考えれば、到底一人の人間でできるもの
ではない程の働きをしていたのであります。
91病気についての宗教観
私の体験
しかしそれでもまだ仕事はこれからだ、とはりきっていたわけです。だが、肉体をもっている人
問にはどうしても限度というものがあります。人々の業の浄めの残さいと、肉体的な疲労とで、体
ぜんそく
内に淡がたまり、喘息のような状態になってまいりました。その様子を見かねた妻や娘や側近の者
なかこくぶんいくしゅうあん
が、私に否応いわせずその頃本部であった新田道場から、中国分の呈修庵のほうに私をうつしてし
なにびと
まい、何人にも面会謝絶というようにしてしまったのです。
そして、一年二年とたつうちに、疾がたまり、咳になる原因がはっきりしてきたのであります。
最初の原因は、勿論働き過ぎの疲労にあるのですが、それまで肉体にまで寄せつけず浄めさってい
た、地球の業や人々の業が、肉体の疲労につれて、肉体のほうにまで押し寄せてきたわけで、それ
が疾のようにたまって内臓を圧迫し、呼吸困難にまでせめたててくるのでありました。そのため、
夜など一睡もせず疾を吐きつづけている日が多く、一日千枚もの紙をつかう日もある程でした。
しかし、私にはこの疾の原因がはっきりわかっておりますので、少しの不安もなく、医者にも薬
にも一切頼らず、神との一体化の祈りに終始していました。幸なことに私は、声楽の腹式呼吸を長
92
年やっておりましたし、祈りに徹して、普通の呼吸でない、奥の呼吸ができるようになっていまし
たので、普通の人なら、虚空をつかんで悶絶してしまうような状態の時でも、平然として、はた眼
では息が全く止まってしまったような状態で暫くいることがしばしばあったわけです。
だが私の息は止まってしまったわけではなく、奥の奥で呼吸をしていたのであります。ここで私
の経験として皆さんに申し上げたいのは、病気にかぎらず、すべての物事の苦境に立った時には、
決して不安な想いを起してはいけないし、あわててはいけないということです。先生そうおっしゃ
るけれど、そんなことできません、という人が多数いらつしゃると思います。
ごもっともだし、無理もないことです。しかし、そこで日頃からの祈り心が必要になってくるの
です。それこそ、神様、と呼びつづけるのです。守護霊様、守護神様ありがとうございます、と感
謝の心で、守護の神霊と一体になる祈りをしつづけることです。そういう時こそ、想念が統一しや
すく、魂の進歩が早まるのです。
肉体の病気に冒されてない本心
病気というものは、地球の業であれ、自分自身のものであれ、兎も角幽体に蓄積された、過去世
93病気についての宗教観
から、今日に至る、業想念波動の消えてゆくために起っている症状なのですから、病気という症状
に現われたら、ああこれで悪いものが消えてゆくのだ、これで良くなるのだ、と想って祈りつづけ
ることが必要なのです。
どこが悪い、ここが悪いということは、お医者さんなり、治療師なりにお任せしておいて、自分
は、消えてゆく姿で世界平和の祈りをしていればよいのであります。要は、自分の想念を曇らせた
り、不安な想いを出したりしては、折角消えてゆこうとしている、業想念を抑えてしまうことにも
なり、また新しい業想念を加えてしまうことにもなるのです。
人間は本来神の分け命であるということは、絶対なる真理でありますし、守護の神霊に守られつ
づけていることも事実なのですから、その事実を信ずることが大事です。病気の症状をいちいち分
析したり、なんの心の現れかなあ、と自己を責めさいなむようなことをすることは愚かしいことで
す。人間は大体正覚を得た人でなければ、いずれも多かれ少かれ、神の正しいみ心から離れた、誤
った想念もあり、行為もしているのですから、自己の想念行為をその度びごとに分析してゆくよう
なことをしたら、小さな小さな人間になってしまって、この世の中で、何事もなし得なくなります。
私なども、この十年来の病気の症状を、自分の業であれ、地球人類の業であれ、どちらでもよい、
94
現われてくる症状はすべて消えてゆく姿として、症状そのものに把われることはしませんでした。
ただひたすら、生命を生かす祈り心の中で生活していたのであります。
ですから、普通なら、立っていることすらもできないような症状の中にあっても、原稿も書けた
し、揮毫もでき、統一会で話もしたし、お浄めもできたのであります。いつも合気道の植芝先生の
いくばく
話を持ち出しますが、植芝先生なども、もうあと余命幾計もない、という苦痛の絶頂時にありまし
ても、市川に私を尋ねてきたいとおっしゃるので、私のほうで驚いてお見舞いに伺いますと、その
鋭く痛む体を起されて、私に演武を見せるのだといわれ、弟子の肩に負われて道場に出られると、
にワリ
忽ち、見違えるような凛々しさで、すっくと道場に立たれ、五段位の弟子を相手に、合気道を実演
してくれました。その時の姿は病気などどこにも見当らぬ堂々たる姿勢態度でありました。
病中はひたすらなる神我一体化を行じよう
病気の症状などというものはそういうものでありまして、想いを神のみ心と一つにしてしまえば、
その時はなんでもなくなってしまうものなのです。ただ、次から次へと襲ってくる業想念ですと、
この世の肉体人間的生活をしている者にとっては、三百六十五日、神との一体化の状態で生活して
95病気についての宗教観
いるわけにはまいらぬので、その隙に病気のような症状で消さねばならぬ時も起ってくるのであり
ます。
ちなみに、あの釈尊でさえ「阿難よ、背が痛む、後にきてもんでくれ」と、背の痛みを阿難に訴
えているところなどもあります。
肉体身をもって、地球人類の業想念波動の黒雲の中で生活している者は、その人が愛が深ければ
深い程、いろいろな地球の業を受けるのであります。ですから一知半解の宗教学で、病気をしてい
るものをさげすんだり、病気をしていることが、その人の悪い想念の現れであるように、きめつけ
たりしてはならないのです。
病気は勿論、過去世の因縁の現れ、ということを除けば、想念行為の誤りからきていることもあ
りますから、常に愛に充ちた柔和な想いで生活してゆくことに、越したことはありませんが、なん
の病気はなんの心の現れ、というように、なんでも心の現れというように、当てはめて考えては、
はず
自他を責めることになり、光明思想には外れてしまうことになるのであります。
病気の症状というものは、神の愛の調和のみ心を外れた想念波動が、幽体から肉体に毒素となっ
て集まり、その毒素が、人間本来の完全性を維持するために働いている、神の力の治癒力によって、
96
表面に表われて消えてゆこうとしている状態のことなので、消えてゆくものを素直に消させてしま
えばよいわけなのです。
その間の苦痛の想いは、ひたすらなる祈りによって、神のみ心の光明波動に同化させてゆけば、
この苦痛も軽減されてゆくのであります。要するに病気になったら、不安の想いを起したり、あわ
てふためいて、ますます不調和な想いを多くしたり、自分や人を責め裁くような想いになったりせ
ずに、医者にかかりたかったら医者、治療師にかかりたかったら治療師に体のことは任せて、ひた
すらなる祈り心で、神との一体化を行じてゆくことが必要なのです。
病気は魂の進歩を早める絶好のチャンス
病気の時程、魂の進歩が急速になされることはありません。健康の時にはみつめもしなかった、
人間の心の奥の世界をみつめる絶好のチャンスが、病気の状態の時なのです。只単に病気を忌みき
らい、病気を恐れることはありません。守護の神霊方が、その人の魂の進化のために今、病気の症
状を現わしたほうがよい、と思われれば、病気の症状が現われてくるでしょうし、貧乏の経験を積
んだほうがよいと思われれば、貧乏の状態が現われてくるでしょう。
97病気についての宗教観
人間は常に、何事が起きても、不安動揺の想いを起さぬよう、日頃から心がけなければいけませ
ん。
私などでも三十はじめに、神にすべてを捧げつくして、自分というものを、すっかり、捨てきっ
た状態になり、霊覚者としてその後の生活がはじまったのですが、その間種々様々なこの世の体験
と霊的体験をつづけてまいりまして、普通の人より、幾分なりとも不安動揺の少ない人間になって
きていると思っていたのです。
しかし、重い病気の症状というものは、成人以来、一度も経験していなかったので、病人に対す
る同情心というものに、いささか欠けていたのではないか、と病後の今にして思うのです。
自分が、普通でいえば、生死の境のような重い病気の症状を長い間つづけていますと、病人に対
する同情心というようなものが、非常に深まって、いたずらに口先きだけで、病気になんか把われ
なさるな、などとはいえないものだ、と思ったのです。といって、私が病気の重い症状の中で、不
安になったり、神に不信を抱いたりしたか、というと、一度も一瞬たりとも、不安の想いも不信の
想いも抱いたことも、湧き上がったこともありません。私の心は健康の時と全く同じように明るく、
屈たくのないユーモアも充分にいえる状態でいたのです。
98
これは重病のような状態になって、改めて自分を確かめさせられたようなもので、更に自分の心
に信頼を置くことができたのです。私の心の状態は、常にどういう風にあるか、と申しますと、如
何なる時にも、肉体に附属する自己というものを、他人と同じように、客観的にみつめているので
あります。その日その時々の想念行為の出来不出来を、実に客観的にみつめているのです。
天の神なる我と、肉体に在る自分と、そしてその中間に天地をみつめている自分という三者がう
まくからみ合って、一人の我になっている感じなのであります。
そういう自分の種々な在り方を、この度びの病気の症状の中で、充分にみつめ、みきわめ得たこ
とは、何にましても有難いことであると、今更のように感謝しているのです。それは病気そのもの
に感謝しているわけではありません。そういう機会を得られた、その事自体について感謝している
のであります。
人は誰も天地を貫いて生きている
人間は誰でも確かに、天地を貫いて生きているのです。天には神そのものの我が厳然として光り
輝いているのです。その光明をどれだけ、まともに素直に受けきって生きてゆくかが、地なる自分
99病気についての宗教観
の勉強なのです。私は今回の病気の症状の中で、宇宙神の偉大さと、我そのものの大光明とを、改010
めて如実にはっきりと自覚させてもらったのです。
天の我と地の自分と全く一つになって働きながら、しかも普通の常識そのものの肉体人間として、
すべての人々に融合して生活し、祈りによる世界平和運動をひろげてゆくことこそ、私の天命であ
るのでしょう。皆さん、今病気の症状の現われている方は勿論、今は健康そのものでいられる方も、
どうぞ私の体験のように、そういう機会をのがさず自己の魂の進化を促進させて下さい。
愛情の出発点
– 親と子、夫と妻1
この世の最大の恩人
私はどうしてこういう親の下に生れてきたのだろう、と思ったり、僕は本当にこういう親をもっ
て幸せだった、と思ったりする人もありますが、大半の人は時折りそんなことをちらっと思うぐら
いの程度で、何気なく成人していってしまいます。親は空気のようなものです。
成人すると、親から異性に対する関心にうつって、次第に親は無くてもがな、になってしまうら
しいのが、今日の青年男女の気持のようです。
親と子の問題は、一番身近かな問題であり、一番むずかしい問題でもあります。そこで今日は霊
的観点も加えた親子、夫婦の問題を、少しく書いてゆきたいと思います。
101愛情の出発点
一人の人關が、この地球界に生れてくるために、どうしても必要なのは、父と母であります。父012
母の無い子というものはどこにもありません。ですから、どんな家庭に誕生しようと、この世の生
を受けた最大の恩人は、やはり父母である、ということになります。
その一生の生活がいかに不幸に充ちていましょうとも、それはそれで、その人の過去世からの因
縁ごとで、その子を生み育てた、父偲の罪ではありません。父母は、この世における生命の親であ
って、その子の幸、不幸は、その子自体がもって生れた業因縁なのであります。たとえ、その両親
ほくしや
がその子の不幸に拍車をかけていたとしても、それは生命の親としての両親そのものではなくて、
不幸な事態として、この世に現われて、過去世の因縁の消えてゆく姿としての、その子の運命を助
長し、ひき出す一役を、その両親がかったに過ぎないのです。
この世における、またあの世における幸不幸というものは、すべて他人の罪でなく、自己が過去
世からもってきている、業因縁の現れであるのです。この理がしっかりわかってこないと、人間の
真実の幸せも、人類の平和も実現することはできないのです。そのことはまた追々話してゆくこと
に致しまして、親子の霊的なつながりについての説明を致します。
親と子のつながリ
人間は何度びとなく、この世に生れ、あの世に還り、というように、生れ変り死に変りするわけ
です。これは仏教で説いている通りです。科学的な言葉でいえば、粗い波動の三次元の世界にまで
下って生命が活動したり、四次元、五次元の世界に昇って、生命が生活したりするのでありまして、
これは、すべて、その人その人の守護神が決定してゆくわけなのです。
要は、一つ一つの生命体そのものが主なのであり、その生命体が、私と呼び、あなたと呼ぶ実体
わけいのち
なのであります。実体というより、実体の分生命なのであります。肉体そのものをその人とみるこ
とは、誤りでありまして、分生命が直霊である実体から流れてくる智慧能力を基に、今日まで積み
重ねてきた経験が、その人自身であります。肉体は、只単に、この三次元の物質世界に合わせて創
うつわ
られた、分生命の器なのです。といって、器である肉体が存在しなければ、この三次元の地球世界
に、人間として姿を現わしていることができません。ですから、この世では、分生命そのものがも
っている精神や智慧能力と、その働きの場であり器である肉体というものとの、巧みな融合によっ
て、地球人間として進化の道を突き進んでゆくことができるのです。
103愛情の出発点
そこで、霊的のみにことを運んでも、肉体的オンリーで事を処しても、片寄ったことになってし
まって、神のみ心をこの世に上手に現わすことができなくなります。天と地、理想と現実を調和さ
せる、縦横十字交叉の真中で事を運ぶことが、この世の人間にとって絶対に必要になってくるので
あります。
各守護神は、そういうことも心に止めて、霊魂の肉体身の親選びをするわけで、生れ変りが決定
した霊魂は、三年の問、生れ変りの諸準備をするための特別な階層に置かれるのです。
その間に守護の神霊方の会議によって、その両親を選定するのであります。その霊魂の進化のた
めに、どういう両親が必要かを、いと細かく調査研究し、こういいますと、人間の世界ではあるま
わら
いし、と膿う人もありましょうが、勿論方法は人間の世界とは全く違った方法ですが、神霊の世界
でも調べたり研究したりすることはあるのです。
104
親えらびと再生
私のところには種々な相談ごとを持ちこんでまいりますが、「私の祖母は三十年前に亡くなって
いますが、今頃どうしていますかしら」というような質問が時折りまいります。或る時そういう祖
母を霊界に探してみましたが、どこにも見当りません。はて、と思って、誕生の待合場をふとみま
すと、そこでその祖母は修業しているのでありました。そこで私は、質問者に、あなたの祖母はま
た二、三年の後に、この世に生れ変ってくる、といっておきましたが、やがて三年程して、親族の
家に生前の祖母によく似た女の子として生れ変ってきました。その後大きくなってくると、祖母の
特徴をかなり持続していることがわかってまいりました。
そういう風に人は生れ変るものなのです。その生れ変りの時の両親の選択は、守護神さんにとっ
ても大変なことなわけです。しかし守護神の選択に失敗がある筈がないので、その子の魂の進化に
とって一番適当な父母を選ぶのです。
選び方に二通りありまして、親子の霊魂の魂のほうが縁の深い、そして波動の似通っている人と、
ばく
魂、つまり肉体要素のほうに縁があり、そして似通っている人との二通りなのです。ですから肉体
的にはあまり似ていない父と子、母と子というのもありますし、肉体的には実によく似ているけれ
ど、精神的なもの、性格的なものが、まるで異なっている、というのもあり、またその中間もある
わけです。
それに魂的にも塊的にも似通っている親子もあるので、四通りということにもなりましょう。そ
105愛情の出発点
れからこれも大事なことなのですが、過去世の囚縁からみて、親の立場になる人のほうが、子に借016
りのある状態の場合とその反対の場合があります。子に過去世の借りのある親を選んだほうが、親
になった人が、その借りをかえさずにはいられないで子のために真剣につくしてくれるので、そう
いう親を選んだほうが、子になる霊魂のためになる筈なのですが、ただそういう安易な選び方を、
守護神はしないのです。永遠の生命に照し、その人の進化のために、一番よい方法を、守護神は選
ぶのです。ですから、表面に現われたその揚その時の一駒一駒だけをみれば、神様何故こんなこと
をするのだろう、と不審に思うことが、信仰者の間にもありますが、神様ごとは、信にはじまって、
信に終わる、といわれる程で、神の愛を信じきって生活してゆくことが信仰者の根本の生き方であ
るわけです。
両親への感謝を
かしかり
話を元に戻しまして、親子の過去世の貸借の問題は、その親子の生活のやりとりをみればすぐわ
かります。昔はよく子供が親のために身売りしたりすることがありましたが、これなど子の魂のほ
うが親に過去世からの借りのあった場合でしょう。
しかし近頃は、親のほうが子供につくす親子の方が大半になって、子供は親につくされっぱなし
で、自分が成長して家庭を持ってからでも、親につくしかえすという人が少なくなってきています。
時代の流れともいうべきでしょうが、その時代の流れをつくり出している底流には、神のみ心を現
わすための妨げとなる、業の波をいろいろ変化させながら消滅してゆこうとする、大智慧の働きが
あるわけなのです。時代々々による生き方の変化というものも、人類進化のために必要なので、物
質文明の極限にくると、にわかに精神文化が輝き出してくる、という工合になるので、現在はそう
いう時代にさしかかっているのであります。
えにし
なんにしても、親子というのは、過去世からの深い縁によって結ばれているのですから、お互い
に相手の生命の働きが充分にできるように思い合って、愛し合って生きてゆくべきなのです。現在
父である人が、過去世においては、自分の孫であったなどということも随分とあるのですから、人
間というのは、生命の兄弟姉妹と考え、その一番深い縁が父であり、母である、と思ったらよいの
でしょう。
今六十一才の今日でも、私は常に神界の母のことを想いますが、なんの理屈なしに、温かい柔和
な雰囲気につつまれます。母という名は不思議な安らぎをもっているのです。107愛
情
の
出
発
点
天と地を、父と母にたとえることがよくありますが、天は光をふりそそぐ、生命の能動的な働き
018
であり、地は天の陽気を受け、ふりそそぐ光明を受けて、生命を養い育てる役目をもっていますの
で、正に天は父であり、地は母であります。私は、瞬々刻々、天地の恩恵に感謝するように、あま
り親しくかえって感謝することを忘れてしまっている父母にも、日々感謝の心で接する必要がある
と思います。感謝は光であり、愛の交流であるからです。
人間は生命が無くては生きてゆけません。その一番大事な生命は、神から分け与えられたもので
つぎ
す。そしてその中継をしてくれたのが父母なわけです。母などは十月十日の間、苦しみに耐えて、
自己の体内でその子を育ててくれていたのでありますので、それだけで充分な恩人なのであります。
まあそういう理論ぬきにして、世界を平和にする愛の最初の出発点として、親子の愛情を私たちは
大事にしてゆかねばなりません。
夫と妻
そして、今度は第二の愛情として、夫と妻という問題が起ってまいります。これは親子と違って、
えにし
切ってしまえば切れてしまう愛情であり縁であります。米国などは非常に離婚が多いようですが、
近来は日本でも離婚が増えているようであります。
そこで、ここでは夫と妻との話を、霊的なことも加味して書いてゆきたいと思います。
人間は神の分生命であることは、再々申しておりますが、蔭鍛げ分れとして、霊嶽瞭となって、
肉体界に誕生してきます人間は、分霊魂となる時に二つになり、四つになりというように、分れ分
れの光として、他のそれぞれの肉体を纒って誕生してまいります。
夫と妻は理想としては、元が一つであった二人の分霊魂が、似通った塊を集めて、地球人として
生れ、成人して、夫となり妻となる、ということであります。これならば、霊魂的にも肉体的にぴ
ったり合いまして、相性一〇〇% という縁になるわけなのですが、なかなかこういう結婚はめった
にあるものではなく、殆んどの縁談が、この世の魂の練磨を含めた結婚なのであります。
ちか
夫となり妻となることは、お互いが心や体が合おうと合うまいと、最も近しい、最も密接な関係
をもった二人ということになりまして、ぬきさしならぬ附合いということになります。
今でこそ、結婚して合わないから、すぐ止めます、と一月足らずで離婚してしまう夫婦がありま
すが、昔はとてもそんなわけにはゆかず、結婚したら、良かろうと悪かろうと、それが最後で、逃
げだすことはできませんでした。今でも国によっては、離婚のできないところもあります。
109愛情の出発点
これはどちらがよいか、一言で申すわけにはゆきませんが、結婚というのはお互いの魂の磨き合
いには、これ程よいところはない、というのは事実です。たまたま会ったりする人ならば、嫌な奴
だと思っても、その場その場は我慢して、よい顔をしていられますが、夫や妻のように、常に一緒
に生活している者は、その場、その時々の我慢などで過してゆくわけにはまいりません。別れてしま
うか、自分が向うのわがままを何らかの方法で消滅させてしまうかしなければ、一生お互いが不幸
になってしまいます。
夫婦の魂の磨き合い、というものは、現実そのものの、切実な事態なのであります。しかしこれ
程、魂の修業になるものも他にありますまい。相手のわがままを消滅させるためには、まず自分を
顧みて、自分のわがままから消滅させてゆかねばならぬことになります。自分のほうがわがままで
いて、相手のわがままを文句いっても、これは無理な話で、まず自分のほうからわがままをなくし
てゆくようにしなければなりません。
110
っくしあいの生活を
大体、夫とか妻とかいいますと、お互いが自分のことをして貰おうと思って、つまり、夫は妻に
自分の身のまわりや、家のことなど一切をして貰いたいのだし、妻は、夫の働きによって、より優
雅な生活がしたいのだし、というように、お互いが相手が自分につくしてくれることを念頭に置い
て結ばれるのです。
ところがお互いが、自分のほうが先に、優位につくして貰いたい、と思いがちで、その想いがぶ
つかって、お互いが、自分のほうばかりつくしていて、相手は自分の想うようにつくしてくれない、
と不平になってくるのであります。
もっとも本当に相性の悪い場合は、どんなにつくしても、つくされても、好きになれない、とい
うことがあるので、こういう場合は、子供の出来ないうちに、一日も早く離婚すべきだと思います。
それでないと、折角の魂磨きが、かえってますます恨み憎しみの業を重ねていってしまうことにな
ります。子供のできた場合は、日本などでは、全力をつくして、夫との調和を計ってゆくべきで、
相性が悪いからといって、簡単に離婚したのでは、子供のためにマイナスを残すことになります。
要は夫婦というものは、お互いの魂を磨き合いながら、世の中の中になんらかの意義ある生き方
つな
を、協力して行ってゆく、一番密接な連がりなので、過去世からのどんな悪い因縁が二人の間にあ
ろうとも、すべてを過去世の因縁の消えてゆく姿として、世界平和の祈りのような、広い立場の祈
111愛情の出発点
りの光明の中で、明るく生活してゆく必要があるのです。
112
離婚について
夫婦といっても、一つの分霊が真二つに分れて、それが再び合体した、というような理想的なも
ぷん
のは甚だ少ないといってよいくらいで、一つに分れた分の一つと一つが結ばれたり、他の端と端と
が結ばれたり、過去世でひどい目にあわせた人と結ばれたり、その反対であったりすることもあっ
て、結婚したら最後離れられないなどという、昔風の在り方は、業を助長してしまうので、あまり
良い習慣とはいえません。そのことは、お互いの良識の自由に任せておくべきで、法律などで定め
ることではないと思います。
一日でも一緒にいるのは死ぬ程辛い、という程の波の合わない人たちもいるのでありまして、こ
れは単なるわがままというより因縁因果の面として、当人でなければわからないところでしょう。
こういう人たちの離婚沙汰を他から止めていますと、遂いに殺傷沙汰を起したり、狂人になったり
してしまう場合もあるのですから、あまり固くばかり想ってもいけないのです。
大体、現今行われています、結婚の方法でも、神のみ心からみて、それでょし、という程のもの
でもないかも知れません。一旦戸籍に入ってしまったから、離婚をするのは大変だ、などと思って、
がまんして夫婦生活をつづけているのなどは馬鹿な話で、愛も情もなくなってしまった夫婦が、世
間ていだけで憎み合いながら一緒に生活しているなどは、現今の結婚の方法にまだゆきとどかない
ところが多分にあるためでもあります。
夫婦の愛情のさめないために
かな
真実神のみ心に適った結婚は、すっきりと心の通い合う男女が一緒になって協力し、社会人類の
ために働いてゆく、というようなもので、二人が結合したため、より大きな力が発揮できるという
ものでなければ、結婚の意義は失われてしまいます。結婚とは只単に子孫を残してゆくためのもの
ではなく、よりよい子孫を残すということの他に、男女二人の協力によってより大きく広く、社会
人類のためになる働きができる、ということがあるのです。ですからその反対な状態が起る場合は、
その結婚はやり直す必要があるのかも知れません。
夫と妻の場合は親子と違って、血のつながりからくる本能的な情愛というものがありません。で
すから自分のためにならない相手に対しては、はじめには愛情があったとしても、次第にさめてき
113愛情の出発点
てしまいます。愛情のさめてしまった夫婦ぐらい味気ないものはありません。しかし、結婚してか
114
らはじめて相手との愛の状態がわかるのですから、人間わざでは、相手の家柄とか、性格とか、学
歴とか、勤先の地位とか、眼にみえる材料で、相手の善し悪しを判定するより仕方がないのです。
あと
その結果が悪縁であったり善縁であったりわかるのですから、悪くても後のまつりということにな
ります。
そうならないためにはどうしたらよいかと申しますと、前にも書きましたが、守護の神霊にむか
って「どうぞ私の天命を完うする助けになる、二人の生命が生ぎいきと働ける妻をお与え下さい」
と男ならこう祈ればよいし、女なら「その人を通して私の天命が完うされ、生命生きいきと働ける、
そういう人を相手にお選び下さい」と祈るとよいのです。
これなら別に欲ばった、自分勝手な祈りではないので、さっぱりと祈れると思います。なんにし
ても、夫婦が一緒に生活するのは、親子よりも長い場合が多いのですから、お互いが相手のことを
想いやりあって、つくしあって生きてゆくことがよいにきまっているのです。もし、そういう状態
を妨げるものがあったら、それこそ業のなせるわざなのですから、消えてゆく姿として、真剣に世
界平和の祈りの中で、守護の神霊に消し去って貰うようにするとよいのです。
家庭の平和は世界平和のひながた
親子の問の仲がうまくゆき、夫婦の間が平和でゆくことは、やはり世界平和の雛型ともいうべき
ことで、大事なことなのであります。
過去世の因縁によって、一生独身で生活してゆく、男女がありますが、その人たちは、兄弟姉妹
や、知人友人などとの調和を計って、最少単位の平和の集いをつくってゆくようにするとよいので
す。世界平和の祈りは、まず自己の業想念を、祈り言によって、救世の大光明の中で消し去ってい
ただくと同時に、光明波動を身心に受けて、神の器である自己を再確認して、神の子としての生活
を切り開いてゆく祈りです。
個人人類同時成道の、世界平和の祈りを、親子の中で、夫婦の中で、兄弟姉妹の中で、知人友人
の中で、あらゆる社会の中で、祈りつづけてゆく運動を私どもはつづけてゆきたいと思っています。
115愛情の出発点
116
救いは近きにあり
想いをいかに処理するか
道は近きにあり、という言葉はよく聞く言葉でありながら、とかく聞き捨てにしてしまいがちで
す。今日はよくこの言葉を噛みしめて味わってみたいと思います。
人間は常に何かに想いが把われていて、青空のように、春の海のように、明るく澄んでいて、心
が平安である、という日は何日もありません。何日どころか、まるっきりそういう時の無い人もあ
ります。いつも何かに追われているようで、一日中あくせくと、じっとしてはいられない想いや、
怠惰にだらんとした、その場まかせの、どうでもいいや、という投げやりな虚無的な想いなど、心
の深い平安を乱す、様々な想念に、常に傷つけられています。
特に逆境の時、つまり、病気の時、不幸災難にあった時、貧乏に喘えいでいる時、また、家庭や
会社や社会に対して、不平不満のある時、人間の本来心の、自由な明るい平安な心を切りきざみ、
ゆり動かしつづける業の想念が黒雲のように渦巻きます。
この人間本来の明るい自由な愛に充ちた心を曇らす、想念波動というものの処置をいかにするか、
ということが、個人と人類との平和に関する最も大きな問題なのであります。人間の生命が神仏か
らきているという事実は、どのような宗教に入っていようと、誰しもが認めるところです。唯物論
者は神仏とはいわないでしょうが、彼らにしてみても人間の生命を、人間自身がつくったのだなど
とは思える筈がありません。彼らは神仏のかわりに、自然の営みの中から生命が生れ、自然と進化
向上して人間生命となってきたのだ、という自然説にしているでしょうが、なんにしても、この肉
体人間以前に、生命が存在していたことは確かであり、そうした生命の働きが眼にみえる形として
単細胞から次第に肉体人間にまで進化向上してきたということは、本来の生命そのものの働きであ
って、肉体人間が進化させ向上させたものでないのも確かです。人間が肉体のこうした存在を意識
した時には、すでに、複雑極まりなき諸機能の持つ生命体として、そこに存在していたのであって、
肉体の自己自身は、なんら創造の側に加わっていたわけではなく、ただ創造される側にいたわけな
のであります。
117救いは近きにあり
と致しますと、人間の生命の複雑な営みは、私共が神と呼び、唯物論者はただ自然と呼ぶ、大き18
1
な叡智ある生命創造者の御心の中にある、ということになります。唯物論者は、ただ単なる物質的
自然のなんらかの作用といいますが、素粒子にしても原子にしても、あらゆる元素にしても、それ
が単なる物質の素としてのものであれば、その中にある、生きいきとした活動変化、あらゆるもの
を調和を目指して働かしめている、その統制力、というものを、彼らは一体どこからくる力だとい
うのでしょう。人間の良心というもの、想像力、思考力というもの、その働きの素も、やはり物質
的自然の産物だというのでしょうか。物質はいくら改造し進歩しても、やはり物質でありまして、
そこに精神要素が加って、はじめて人間というような存在があるわけです。限りなく創造進化して
ゆく自然と、その一員として、自ら進化向上を計りつづけてゆく人間というもの、この両者の中に
相通う、創造力。
主人公は生命
自然は自然としてのその中に、人間は人間としての中に存在する創造力というものは、その源泉
みずか
である、生命自体が自ら持っているものに他ならないのです。精神も物質も縦の働きとして、また
おの
横の働きとして、共に生命の中にあるのであり、生命は大自然の中に自ずと働き、肉体人間を、肉
体人間たらしめているのであります。
こう考えますと、あくまで生命が主人公であり、肉体は生命によって造られたるものであること
になります。生命が肉体における働きを止めれば、肉体はそのまま死体となるのですが、人間生命
は、肉体波動より高次元の波動の世界において、肉体とは異なる波動体を纒って、永遠の生命の一
員として進化しつづけるのです。人間とは生命そのものであり、肉体とは或る一定期間、人間生命
うつわ
の物質界の現れとして、場として、器として存在しているものなのであります。
やがて、波動学の原理が世に広まりますと、この真理がはっきりわかってくるのです。肉体は神
の生命によって創られたるものであり、神の生命は分生命として、そのまま肉体の働きを司どって
いるものでありまして、真実の人間というものは、分生命そのもののほうなのです。そして、この
真実の人間は、自由自在心であり、青空のように、大海のように大らかに明るく、美しく輝いてい
る存在者なのであり、永遠の生命そのものなのであります。この真実の人間がそのまま、外に現わ
れている人を仏子ともいい、神の子ともいうのです。
はどうけん
ですから人間は、常に肉体世界、物質世界の低い波動圏に把われずに、永遠の生命に直通する、
119救いは近きYyあり
高い波動圏に想いを置かねば、真実の幸福を得ることができないのです。それは、神の世界、完全210
すがた
円満な世界は、神の子の相がそこに現われることによって開かれるものだからです。
しんさん
人間がこの地上界において、幾多の苦労辛酸をなめて生きてゆきますが、これは、人類に真実の
神の子の姿が現われきるまでは、止むを得ないものなのです。何故なれば、高次元の存在である、
霊なる生命が、地上界という低次元の物質波動の世界に調和してゆくことによって、中和された地
上界が生れてくるわけで、波動が中和されるまでは、右に左に揺れ動き、様々な不調和なる事態が、
個人にも人類にも現われてくるのであります。
この世だけの考えに致しましても、何事も完成されるまでは、多くの苦労がともなうものです。
それと同じように、地球世界の進化向上のためには、個人も人類も、幾多の辛い経験を経なければ
ならないのです。
そこで、霊なる生命と、物質体(肉体)との中和ということが、人間進化のためには何よりも大
事なことになるのでありまして、中和を忘れて、あまり霊的に片寄りますと、この地球の物質界に
降りてきた意味をなさなくなり、地上界の完成には役立たぬ人間になってしまいます。
宇宙大生命は、無限の創造、無限の進化をつづける活動源でありますし、人間はその分生命とし
て、各種の階層(生命波動の世界) にそれぞれの世界を創りあげてゆくのであります。地球物質界
はその一つの働き場所であり、肉体はその器であり、場である、ということは先程から申している
通りです。そして肉体より高次元の世界を、神霊の世界というのでありまして、神霊そのものや、
霊魂そのものが、神の生命の創造をつづけてゆく世界なのです。
神の生命は、こうして、神霊の世界から肉体の世界まで、一貫して、その創造活動を成しつづけ
ているのですし、神霊としての生命も肉体内部に働いている生命も等しいものでありますが、神霊
には神霊の、肉体には肉体特有の働き方があるので、神霊(高次元の人間)と肉体人間の働き方が
同じであるというわけにはゆかないのです。それは微妙な波動体をそのまま纒っている神霊と、肉
ちどん
体という粗い遅鈍な波動体を纒っている生命とでは、自ずと働きが違うのは当然なことであります。
しかし共に宇宙神の生命の分生命が働いていることには変りないのです。ただその生命が纒ってい
あら
る波動体が、霊的な微妙なものであるか、物質的な粗いものであるかによって、その生命の働きの
力が強く発揮できるか、弱くしか発揮できぬか、ということになるのです。
重大なる守護の神霊の存在
121救いは近きY’あり
なおび
私は私の著書「神と人間」の中で、宇宙神の人類への働きかけの根源を直霊といい、その分霊魂
魂として肉体人間が存在するのである、と説いております。その外面的な守護の働きとして、神界
には守護神、霊界には守護霊(祖先の悟った霊魂)が、肉体人閲の働きを完成させようとしていて、
常に肉体人間の各人に一体以上の守護の神霊が必ず守りつづけているのである、とも説いておりま
す。この守護の神霊の加護によって、肉体人間は、内面の神性を発揮してゆくのでありまして、こ
やす
の守護の神霊が守り易いように、肉体の人間の側からもってゆくことが大事なのであります。そう
することによって、肉体という粗い波動体を纒いながらも、神霊の働きに次第に近づくことができ
るようになるのです。
ところが、こうした自分自身を専属で守って下さっている守護の神霊の存在を知らずに、肉体生
活の現世利益や、興味本位の神霊の探究や霊能への憧れなどの、自己の神性開発とは全く反対の方
向にむかってゆく、肉体界という厳然と定められたる自己の持ち場から、足の浮き上がった生き方
をしている人々が、案外な程多いのであります。
こういう生き方は、前にも申したように、霊なる生命、分霊魂が、肉体人間として、この地球の
物質界に降りてきた天命を果たすためにはかえって逆の結果を生み、人類の進化を遅らせてしまう
122
ことになるのであります。安易な気持で現世利益を得ようとしたり、興味本位な道楽的気分で宗教
の世界に入るのは、実は非常な危険なことなのです。
考えてもみて下さい。この世における一つの事業をはじめるにしても、その一家一門の生活をか
けてはじめるのであります。まして、永遠の生命を自己のものとし、この世においても生命を最大
に生かしきる本心開発の道である、宗教の道が、現世利益本位の道であったり、娯楽に類する興味
心で渡ってゆける道であるはずがありません。本心開発を成し遂げ、永遠の生命を把握する道に入
り易くするために、現世の利益も与えられ、霊能力や直感力も授かるのであります。
わらがま
病気や不幸災難に遭遇して、藁をも掴む気持で、お狐様でもお墓様でもなんでもよい、自分の現
在の願いを叶えてくれる神秘力のあるものになら、後先かまわずつかまえてしまう、そういう気持
もわからぬわけではありませんが、そういう時こそ、過去世の悪因縁が表面に現われ、大きく消え
去ってゆく時なのですから、かえって本心開発の最大の機会なので、消え去ろうとしている業因縁
の現れに把われずに、心を落つける、つまり神道でいう鎮魂をしなければならないのです。私の本
を読んでおられる方なら、こういう時必ず、真剣に自己の守護の神霊に精神籠めて祈りつづけるこ
とでありましょう。そして世界平和の祈りもつづけるでしょう。
123救いは近きにあり
病気や不幸災難に想いが把われてしまうこと程、本心を曇らせ、神の道を遠ざかることはないの24
1
かこせ
ですから、この時程、真剣に過去世の囚縁の消え去ってゆく姿と想って、祈りつづけることが大事
なのです。そうしていれば守護の神霊がなんらかの形で、その人の本心の開発を必ず、促進させて
くれるものなのです。いかなる悪因縁といえど、消え去るのである、という想いを持ちつづけ、守
護の神霊としっかり心を通じて、つまり守護の神霊の加護に感謝をしつづけ、世界平和の祈りとい
う人類愛の祈り言をつづけてゆけば、神の光明は永遠無限のものであり、悪因縁は有限のものであ
りますから、世界平和の祈りのような善念、光明念波で魂が洗われて、いつかは、晴れやかな、明
るい生活を迎、兄ることができるのです。これは守護の神霊の存在と、その働きとを体験として経験
しつづけている私にとっては、はっきりわかっていることなのです。
本心の開発と守護の神霊
そういう、自分自身を絶え間なく守りつづけていて下さる肝腎かなめの守護神さん、守護霊さん
を忘れてしまって、人の心をちょっと見抜く霊能や、自分の用囲の人に霊動を起させたり、異言を
しゃべらせたりする、印度の昔のバラモン行者のような外道者の幻術に迷わされている人をみると、
気の毒になってきます。
人間は誰も彼も、神の子なのであり、誰にも彼にも、専属の守護の神霊の守りがあるのに、何を
好んで、自己の本体から離れた、外道の道に迷いこんでしまうのか、ちょっと不可解に想えますが、
そういう人たちの想いをみますと、自己の心や現在の環境に不平不満の想いが蓄積している人や、
霊能というもの、普通人にない能力というものに、常に憧れている人、絶えず想念の揺れ動いてい
る人が、そういう形で迷いの道に入ってゆくことになっているようです。
あへん
宗教は阿片なり、といった唯物論者の言葉にも一理あるのかも知れません。誤った宗教入りは、
ちょうど、LSDや麻薬のたぐいの常飲者のような、一人では生活してゆけぬ、心の片輪な人間に
なってしまうのです。
人格の高潔さを問題にしない霊能などは、あたかも、犬鼠の敏感さと同じであります。人間に感
じぬ、遠くのひびきを、犬や鼠はいち早く感じますし、その鋭敏さは、人間など及びもつきません。
だからといって、その鋭敏さ敏感さがあるが故に、犬が人間より立派かというとそういうわけには
まいりません。人格高潔で調和した人が、霊能力を備えている、というようなら、これは実に結構
はずえ
なことなのですが、霊能者には得てして、人格の常人より低劣な、常識外れの人が多いので、余程
125救いは近きにあり
気をつけて近づかぬと、霊能者には危険性があるのだ、ということを知らねばなりません。
わけいのち
なんにしても人間は、一人一人がすべて神の子であり、神の分生命であることを知らねばなりま
せん。そして、神が愛であることを信じなければいけません。どんな不幸災難にしても、現在起っ
たようにみえましょうが、それらはすべて、過去世から今日迄のその人の想念所業の集積の現れで
カルマ
ありまして、そうした業の集積が現われて消えてゆくことによって、その人の本心が開き、その人
もう
の神の子の姿が輝き出すのですから、消えてゆく業を抑えようとして、神詣でしても、行者詣りを
しても、それは根本の考えが誤っているので、どうにもなりません。一時は行者や霊能者の力で、
その不幸や病気の症状を抑えてもらえたようにみえましょうとも、それは一時だけのことで、業は
消え去ってしまったのではなく、内にこもっていただけなので、機をみてまた現われてまいります。
ですから、消えてゆく業を他人の力で抑えようなどとはしないで、ひたすら自己の守護の神霊を心
で呼びつづけるのです。そして、守護の神霊の加護によって、自己の本心の光明を表面に導き出し
てもらうのです。本心の開発こそ、この世もあの世をも通して、最も大事な人間のなすべきことな
のです。
X26
あせりは禁物
そういう根本的な生き方をすることによって、過去世の業因縁は、軽く消されてゆくのでありま
す。何故軽く消されてゆくかと申しますと、人間がこの肉体界に誕生した理由は、その人が、この
わざ
地球世界において、どれだけ神のみ業の手助けをしてゆくか、ということと、どれだけ本心を開発
こういんねん
してゆくか、ということの二つにあるのです。そのためには、過去世からの業因縁を消し去りなが
ら、なんらか、人のため、社会国家、人類のための働きをすることと、自己の本心の開発をしてゆ
はか
くことが大事なので、そういう役目のために、神界の計らいによって、各自専属の守護の神霊が配
されているのです。ですから、いくら自己の守護の神霊におすがりしても、これは当然許されるこ
とで、ひたすら守護神の加護を願うことは賢明な生き方なのでありますし、守護の神霊は常にそう
カルマ
した被守護体である人間の業因縁を、自己の身に振りかえて、なんの報いも要求せず、軽く消し去
ってくれているのであります。
つらあせ
ところが、人間の肉体生活にふりかかってきている不幸災難があまりに辛過ぎると人間はつい焦
ってまいりまして、自分には専属の守護の神霊が存在することを知っている人でも、ふいとそうし
127救いは近きにあり
た存在を忘れてしまって、巷間の行者や霊能者に頼っていってしまうのです。これは守護の神霊の218
認可を受けて行ったわけではないので、たとえ一時お蔭があったようにみえても、後で必ず、その
行者や霊能者の背後霊に負い目を受けて、返礼をしなければならなくなります。それは、その行者
ひよういカルマ
や霊能者の背後の愚依霊魂の業を背負わされるとか、金銭的に相当の額のものを取られるとか、な
んにしても、自己が背負っていた業の一時引受料を、必ず取られるのです。それが金銭的な時はま
だしもよいのですが、愚依霊魂の業を背負わされるなどは、とてもたまりません。それなら、自分
がはじめから払わねばならなかった、本来の業因縁を自然に現わして消し去ったほうが余程、自己
の霊魂の修業のためになるのです。
ですから、自己の行動は、常に心の中で、守護の神霊に相談しながらやって下さい。常に守護の
神霊の加護を願いながらやっていれば、何事も最後には善くなってゆくものなのです。どんな苦し
い時でも、決して守護の神霊の存在を忘れてはいけません。もし守護の神霊が他の人の援助を必要
とすれば、周囲との不調和を来たさず、無理なく自然とその人に会わせてくれるのです。
あせ
この世の仕事の面でもそうですが、宗教の道というものにも、焦りは禁物です。焦りの想い、不
平不満の想い、こういう想念をもったままで、事業に成功しようと思ったり、悟りの道に入ろうと
思ったりしても、決してその道を達成することはできません。焦りの想いや不平不満の想いが出て
きた場合は、先ずその想念を消し去ってしまうことを心がけなければならぬのです。
宗教の道というのは、神仏のみ心と一つになるために歩む道です。その神仏のみ心というのは、
完全円満であり、平安であり、愛に充ち充ちたみ心です。そういう神仏のみ心と一つになるために
いら
は、やはり、そのみ心に通う心にこちらがなっていなければなりません。苛立つ想いや、不平不満
の想いは、神のみ心には無い想いです。神のみ心に無い想いをもってして、神のみ心と一つになる
宗教の道を求めて、どうしてその道を見出すことができるでしょう。宗教の道というものはそうい
うものなのです。
平常心是れ道
じようしゆうけつぶつ
昔、趙州禅師という禅宗の傑物が、南泉和尚に「いかなるか是れ道」と問いますと、和尚言下
に「平常心是道」と答えられたことは有名な話です。この答で、趙州禅師は、翻然と悟られまして、
大成するのですが、この趙州が、或る僧に「いかなるか是れ道」という、かつて南泉和尚に自らが
かきね
問うたと同じ句を持ってこられました。趙州禅師はなんと答えられたかというと「堵根の外にある
129救いは近きY’あり
じゃないか」と全く平几な答を出したわけです。すると僧は色を成して「そんな道を問うのではあ
りません」と強くいい放ちました。そこで趨州は「しからばどんな道を問うのか」といいますと、
僧は「大きな道を聞くのです」と、当然なことのようにいったのです。趙州はその僧の言葉の終る
か終わらぬうち、間髪をいれず、「大道なら帝都の長安に通っているぞ」と大嘱一声したのでした。
この僧のように、宗教の道というものが、どこか自己の外にあって、神秘的な形で自分の前に現
われてくるのだ、と思っている人が大分いるのです。
しゆゆあ
ー道は須與にして離るべからず、離るべきは道に非らずー
これは趙州禅師の言葉ですが、この言葉の通り、宗教の道というのは、自分自身の心の中にあり、
自分自身の想念行為そのものにあるのですから、自分自身の本心を開発することによって、その道
は正しく開いてゆくわけです。その道は「平常心是道」ということになるのです。
太陽が毎日出て下さるので、私たちが生きてゆかれる有難い。空気があるので有難い、水がある
ので有難い。電気があるので有難い。というように、私たち人間が生きてゆかれるために有難いも
のがたくさんあります。これを有難いと受け取り感謝出来る心が、平常心で、太陽にも空気にも水
にも、なんにも感謝できない心は、ゆがんだ心、平常心でない心です。天に感謝し地に感謝し、父
130
母に感謝する。こういう風に、当然感謝せずにはいられぬものにも感謝できぬ心は、誤った心です。
こうしたすべてのものに感謝できる心が平常心であり、この心が道そのものである、というのです
から、道というものがいかに身近にあるものであるかが、はっきりわかります。
そういう点で、今日の多くの人々が、いかに道を誤って生きているかがよく見当がつきます。何
事につけても、自己の金銭的利害関係や、感情想念を主としまして、自己の利害や感情に反するこ
とには反対したり、不平不満をぶっつけたりして、道の根本である、大調和精神や大愛の心を踏み
はずしている人が大勢いるのであります。
私は感謝できるものに感謝できるのは当然だと思いますが、感謝できぬものにも感謝できる方法
として、過去世の因縁の消えてゆく姿という言葉をつかっているのです。こちらが好意的に対して
いるのに、かえってこちらを悪く思って、ごとごとに意地悪なことをしてくる時や、恩を仇で返し
てきたりする時など、腹が立つのがあたりまえです。しかしここで腹を立てるようですと、道に立
っている人とはいえないのです。こういう時や、病気や不幸災難にぶつかっている時、それをすべ
て過去世の因縁の消えてゆく姿として、守護の神霊への感謝と共に、人類愛の祈りである、世界平
和の祈りの中に、全想念ごと入りこんでしまうとよいのであります。
131救いは近きにあり
現われてきてしまった不幸災難はどう嘆き悲しんでも、なんとも取り返しようがありません。神312
を怨んでも、人を憎んでも、どうしようもないのです。ですから、一度世界平和の祈りのような、
大きな祈りの中に祈り言葉と共に飛びこんでいって、その悲哀や苦悩を、守護の神霊に消し去って
もらうと同時に、今後の運命を、祈りの力によって,光明化してもらう、積極的な方法を取ること
を私は人々に勧めているのです。
道は全く近きにあるのです。それは不可思議なる神秘力を求めることでも、人に超越せる霊能力
を自己のものにしようとするところにあるのでもないのです。日常茶飯事の、一瞬一瞬を、いかに
神仏のみ心と波長を合わせてゆくか、ということにあるのでありまして、その最も易しい方法が、
当然感謝できるものには、常に感謝しつづけ、感謝できぬ物事事柄には、消えてゆく姿の方法によ
って、自然と感謝できるようにしてゆくことこそ、賢明なる生き方であると思うのです。
宗教の道を求めながら、感謝の心にとぼしい人は、宗教の道の根本はすべてのものごとに感謝す
る、というところにあるのであることを、改めてよくよく認識しなければなりません。神秘力、霊
能力は、そうした円満調和した人柄の人物にこそ必要なのであり、そうした人々に備わった神秘力、
霊能力こそ、多くの人々のため、社会国家、人類のために大いに役立つことになるのであります。
青年の真実の生き方
青年の知らねばならぬこと
青年はいつも未来を目ざして生きています。自己の置かれている立場から飛躍しようとして、常
に心を燃やしているのです。ですから青年は自己の立場が、外からみてどんなによさそうにみえま
しょうとも、自分自身はその立場に満足してはいません。たえず自己の立場や環境を何等かの形で
乗り越えてゆこうとしています。
そこにその人自身の進歩が生れ、社会や国家や人類が進化してゆく道が開かれてゆくのでありま
すが、一歩間違うと自分自身を破滅させると共に、周囲の人や社会国家人類に少なからぬ損失を与
えてしまうのであります。
133青年の真実の生き方
過激派学生の暴動や国家主義者、狂信の徒などの在り方が自己の周囲や社会に与えている悪影響34
1
は自分たちは気づかずにいますが、相当なものなのです。社会国家人類のために青年の働きが無く
てはならぬものであると共に、社会や国家の混乱を来たらすものも亦青年が主体になることが多い
のであります。
はや
明治維新の主体が青年と壮年にあったことはみなさんの知っておられることですが、客気に逸る
青年たち、燃え上がるものに耐えきれぬ青年たちの行動には、指導者たちは何度びとなく心胆を寒
からしめられたものでした。
青年というものは、未来に向う生命エネルギーの燃えたぎる存在です。自分自身気づこうと気づ
くまいと、地球の歴史を新しく書きかえてゆくための主軸なのであります。燃えたぎる生命エネル
ギーにあおられるように、外に向ってほとばしってゆく力を青年はもっているのです。
だがしかし、青年はこの世の経験にとぼしく広い眼をもって周囲を見廻わすことが不得手なので
す。種々様々な体験にとぼしいので、どうしても視野が狭く、一方的にしかものをみられない心の
状態になりがちです。一挙に右か左かをきめたがりますし、その熱情を耐え抑えて、じっくり物事
を見定めることができにくいのです。そのエネルギーを爆発的に発散させてしまい、それをじっと
蓄積させておくことが青年にとっては容易ではないのです。
まして近代のように、寛容とか忍耐とかいう精神修養的なことはまるで教えず、ただいたずらに
自己主張を奨励しているような学校教育では、青年の欠点が助長されるだけで、人間としての完成
に逆行していってしまいます。
青年にとって、天才なりといえど真の指導者が必要なのです。現代ではそれは学校の教授や先生
方によってなされなければならないのですが、教授や先生方の大半は、知識の切り売りであって、
人格完成のための心の教育ということに力をついやしてはいないのです。
精神の持ち方によって、どれだけその人間の働き方が有意義な方向に向けられるか、という、根
本的教育はおざなりにしていて、只単に学問技術のみの教育になってしまっては、人間が単なる学
問技術の機械となり、本能発散の人形と化してしまう恐れがあるのです。恐れというより、今日で
は全国的にそういう傾向に向っているのであります。
うちに燃えている生命エネルギーを精神の深いところからくる、いわゆる人類が人類として万物
の霊長としてある、霊の元なる大智慧からくる、流れの方向にむけて重点的に働かし得るように、
もっと易しく言いかえれば、人類進化のための働きに使い得るように、無駄なエネルギーの使い方
135青年の真実の生き方
をせぬような、そういう精神の在り方を、青年は知らなければならないのです。それを青年に知ら
せるのは、教授や先生方をはじめ、父兄や先輩たちなのであります。
136
忍耐と寛容と謙虚と勇気
情熱の燃え上がるがままに、すべての青年たちが行動していたら、この社会は忽ち混乱に陥って
しまいます。しかし幸なことに、多くの青年は良識をもっていて、耐えるべきは耐え、赦すべきは
赦し、和すべきは和して行動していますので、この社会は事無きを得ています。
いつの時代でも、忍耐と寛容と謙虚さは必要なのであり、そして、事に当って臆せぬ勇気という
ものが大事なのであります。国家や社会の大事でもない枝葉の小さな事柄に熱情を燃やし切ってし
まうようでは、その青年はたいした人物にはなりません。
青年は常に自己を現わしたくて仕方のないものです。人や社会に自己を認めて貰う、これ程生甲
斐を感ずることはないのです。認められたい想いが、認められぬ自分というようにうちにひっこみ
ますと、これがノイローゼになったり、暗い人間になったりしてしまいます。
認められたいと想うことは、別にいやしい心ではありません。認められたいと思うからこそ勉学
の道にも励み、苦労も苦労とならぬのであって、認められたいと思う想いは、その人の進歩を早め
るのです。
しかしこの認められ方が問題なのであって、自己を現わすために、周囲の迷惑を顧みなかったり、
社会に波瀾を巻き起すようなことをするのでは、その自己顕現の方法が誤りなのでありまして、青
年が、忍耐力にとぼしく、謙虚さとか寛容とかいう美点に欠けている証左なのであります。
過激派学生の暴力行為などは、誤った行為の最もなるもので、青年の未熟さというものをはっき
り現わしているのです。こうした青年の未熟さ、生命エネルギーの使い方の欠陥を利して、うまう
まとその術中に乗せ操っている影の人々こそ、人間として恥ずべき人々なのです。
或る人々はいうかも知れません。そういう純真な青年の行為があってこそ、国は改まるのだと。
とんでもないことで、社会の秩序を破壊し、衆の暴力を頼むような行動が、純真なる青年の行為と
は言い難いのです。たとえ、相手が権力者であったとしても、人の心を傷つけ損うような行動を起
カルマ
すことは決して純真な行為とはいえないのです。それは業の波が生命エネルギーをマイナス面にむ
けて無駄使いさせているようなものなのです。
暴力というものは、それが肉体によらぬ精神的なものであっても、いけないことなのです。それ137青
年
の
真
実
の
生
き
方
は神の欲っし給わぬところだからです。そういう暴力行為をよし、とした場合には、この社会は大318
混乱に陥ってしまい、心の優しい善人の生きる立場がなくなってしまいます。
青年の純真さというのは、自己を世に現わしたい願望を耐えても、人を先に立たせるとか、愛す
る者の為に、自己を引き下げても悔いないとか、大きなもののために自己の身を捨てるとかいう、
そういう自己犠牲の精神にあるので、自己を現わしたいために、集団のデモに参加するなどという
浅はかなことではないのです。
真理と正義感
一つの主義のために身を捨てているようにみえても、それがあくまで自己顕現の願望によってな
されているか、すべてを大義のために捨て切っての行動かは、みる人の眼をもってすれば直ぐに判
ることなのです。破壊主義に煽動されて、あたら有為の青年がその道を狭めてゆくのは残念です。
真理というものは、宇宙全般の大調和をめざしているのでありまして、一集団、一国家というも
のだけの利害関係のためにあるのではありません。正義ということでも、国家対国家、集団対集団
というようになりますと、お互いが自己の主義主張を正義としてゆくのでありまして、その正義を
通すために戦いをも辞さぬ、ということになり、小さな正義を貫くために、大宇宙の調和を破って
しまう正しからぬ行為をしてしまうのであります。
ですから正義というのは、限られた範囲からみて定めることではなく、宇宙の法則からみてはじ
めてその正邪が判断できるのであります。宇宙の法則は常に調和を保ってゆくことにあるのは、小
さな原子の世界の動きから、大きな天体の動きの中におきましても、衆知の事実なのでありますの
で、或る破壊行為がより大きな調和をつくり出すものであるならよろしいのですが、いつまでも相
対的な争いの種をまきつづけてゆくようなものであれば、それは正義ということは出来ないのです。
青年の行為も、それが自己顕現のためであっても勿論宜しいのですが、その行為が限りない破壊
につづいてゆくものであったり、一方的な正義感であったりしたら、それは真理に反することなの
です。ですから何々主義というように、他に対するためにできあがった主義運動に生命をかけるよ
うなことは愚かなことであって、対立のない絶対の世界、宇宙の法則にのっとって顕わされている
道のために、その生命エネルギーを燃やしつづけるということこそ大事なのであります。
その道とは、宇宙の調和、地球世界の真の平和を築きあげるための道でなければならないのです。
その道は永遠の生命につづくものであり、自己完成の道でもありまして、ともすれば浪費し勝ちな
139青年の真実の生き方
生命エネルギー(情熱)を内に蓄積させて、大きくその道のために働かせることが必要なのです。
わあーというような喚声を挙げて、如何にも勇ましい勇気のある行動のごとく見えながら、実は
生命エネルギーの無駄使いであり、宇宙の調和に反する、真理にそむく行為である主義運動のよう
まさつ
に、派手に自己を見せるわけにはゆきませんが、地道に自己の心を磨きながら、周囲との摩擦少な
く、大義の中に自己顕現をしてゆくのが、真の平和運動なのであります。
しかし、たまたまその情熱に負けて自己の心に恥ずることがあった場合は、宿業の消えてゆく姿
として、世界平和の祈りの中で、神への赦しを願いなさい、と私は言うのであります。それが消え
てゆく姿で世界平和の祈りなのです。
理想と現実というものは、常に一致点がありませんので、どれだけ理想に近い自分になり得るか、
ということで精進して、その足りない部分、誤ったところは、さっぱりと神に赦して頂くのです。
そういう純真な心を神は喜ばれるのであります。自己の誤ちを悔いるあまり、自己を責めさいなむ
ことはつまらぬことで、誤った行為は、すべて過去世の因縁の消えてゆく姿として、世界平和の祈
りの中で消滅して貰うことが大事なのです。そして更に積極的に世界平和運動に精進してゆくこと
がよいのです。
140
もっと人間性の探究を
人間というものは、何度びとなく生死を繰りかえし、肉体の世界から、幽界或いは霊界へ、霊界、
幽界から肉体界へというように、何生という生涯を経て、自己完成を遂げてゆくのでありますが、
その自己完成の道と、人類の為の働きとが同時になされてゆくものであるのですから、常に自己の
身心を磨いてゆくことが人間にとって必要なことなので、この人生を只快楽のためだけに送るとい
うことは、生命を生かしていない、死の世界の日々、ということになるのです。それは大きな生命
はず
の流れの中から外れた、生命エネルギーの無駄使いということになり、空虚な生活であるからなの
です。
そこで人間は青少年のうちから、常に自己の生命を真実に生かす道をみつけ出す努力をはらい、
大生命の流れに一日も早く合致して生きることを学ばねばなりません。その道を学ぶために修養の
道や、宗教信仰の道があるのです。その大切な宗教信仰の道が、他の世界との融和を欠くようにな
ったりするのでは困るのです。
悪を憎む想いや、誤ちを嫌む想いは誰しもあります。悪行為を責め、卑しい行為者を殴りつける
141青年の真実の生き方
こともあるかも知れません。そういう心は純粋な青年であればある程、烈しいかも知れません。誰
412
がみても悪と思われ、卑しい行為であることに腹を立てることは、その人自身が正しく純粋である
場合と、自己にもそういう想いがある、自己に対する憤りの含まれている場合もあります。
かんじん
どちらにしても、怒っても殴ってもよいから、その後が肝腎なので、こういう想いや行為はすべ
て人類の宿業の消えてゆく姿なのだ、と思って世界平和の祈りの中に入れきってしまうことが必要
なのです。怒りっぱなし、腹を立てっぱなしでは、自己の心の中にも嫌な想いが残って後味の悪い
ものになります。祈り心というものは、こういう時に一層効果があるのです。
この世の中に必要でないものを神が存在させるわけがないので、悪のように現われ、不必要な存
在として現われている物事であっても、それは神のみ心からみれば、何等かの必要があって存在せ
おの
しめられておるので、その存在価値がなくなれば、自ずと消え去ってゆくものなのであります。
相手が悪く、自己が正しく見える揚合でも、今生においては、自己が確かに正しく相手が悪であ
っても、前生、前々生においては、どちらが善であり、悪であったかは判りません。因縁因果論か
らすれば、自己の過去世の悪行為を相手が悪と現われて、消滅させようとしているのかも知れませ
ん。今生だけの判断ではそう易々と善悪をきめることはできないのです。ですから私は、すべては
過去世からのお互いの因縁因果の消えてゆく姿として、悪を責める想いがあったらあったでよいか
ら、それをも含めて、世界平和の祈りの中で救世の大光明によって消滅させて貰いなさい、という
のであります。
世界情勢などもそうでありまして、何処の国が悪で、何処の国が善だ、というように簡単に定め
られるものではありません。只自国の利害得失によって、お互いが結ばれ或いは敵対し合っている
のです。
ですから個人にしても国家にしても、自己の心を顧みて、裸の心になって、相手との交際をしな
ければ、到底今日の争乱の終止符をうつわけには参りません。
青年は多感なものです。私等青年の頃は、常に不正を憤り、卑しき行為に強い反擾を感じて、自
己の正しいと思う方向に突進していったものでした。しかしそれはそれでよいのですが、その底に
は愛と赦しの心がなければいけないのです。相手には悪や不正と知りつつもそういう行為をしなけ
ればならぬ何等かの事惰があったのだろう、という愛の気持があれば、悪を正しながらも、それを
消えてゆく姿とみて、相手の本心開発を祈ってやれる寛容な態度が、自ずととれるわけなのです。
143青年の真実の生き方
青年よ祈リによる平和運動に参加しよう
青年よ大志を抱け、とクラーク博士がいわれましたが、私はその大志が永遠の生命につながる、
真理の世界、完全平和達成のための働きの一員となる、というような深い広い意味の大きな志であ
ることを青年に望みたいのです。
青年には様々な夢があります。恋愛の夢もあり、仕事に対する理想もあります。私はその理想の
根本に、世界のすべての人々が真実に心を開いて、地球世界の完全平和のために手をつなぎ合う、
というそういうドラマチックな、大理想を持って貰いたいと思っているのです。
枝葉のささいなことに把われることなく、祈りによる世界平和運動のために働きつづけようとい
う大志を、青年の皆さんが等しく抱くならば、日本の国運も非常に明るいものになることでありま
しょう。
この平和運動は家庭を捨てろ、父母を捨てうというのでもなければ、他の思想を排撃せよという
のでもありません。悪や不幸や災難や、すべての誤った行為は、みな消えてゆく姿であるというの
です。只真なるもの消えざるものは神のみ心なのである、というのです。神のみ心は即ち人間の本
144
心でもあるのですから、やがては人間の本心だけが残って、人間の業想念、つまり誤った想いや、
悪の行為はいつかは消え去ってしまうのである、というのです。
人間をはじめ万物は神のみ心によって生れ出でたものです。そして、人間は神のみ心をそのまま
受けついで、万物の長となって、この地を治めているのであります。その万物の霊長たる人間が、
真に万物の霊長たる資格は、神のみ心の通りに働くことによってできるのでありまして、神のみ心
はず
に外れた行為をしていては、万物の霊長として、動植物を自己の膝下に置くことは許されません。
その理を忘れ、神のみ心の生命は一にしてすべて兄弟姉妹である、という真理を度外視して、各
自が自分勝手な集団をつくり、各集団がお互いに自己を守ろうとして、敵視し合うように、自己の
利益のために万物をほしいままにして争い合ってきている今日までの状態では、真実の人間が顕わ
はず
れるわけがありません。神のみ心を外れた道、宇宙法則を外れた道を、今日の人類は歩いているの
ですから、何んとしてもこの歩みを神のみ心の中にうつしかえねばなりません。
その道を定めるのが真実の人類の指導者なのであります。そして青年はその道のために、真実の
人類顕現の新しい道のために、その知識と勇気とをもって当ってゆかねばならぬのです。そうしな
ければ、人類はやがては神のみ心をはるかに離れていってしまって、再び神のみ心にかえれず滅び
145青年の真実の生き方
去ってしまわねばなりません。原水爆競争などは、正にその一つの現れなのであります。416
国家を救うものは青年です。人類を救うのも青年なのです。青年が国を愛さなくなったら、その
国は滅びます。青年に人類につくす熱情がなくなったら、人類は滅びます。善き指導者の下に、真
に国を愛し、人類を愛する青年たちが結集したら、日本は救われます。日本が真実にその天命を完
うすることができたら、人類は完全に平和な姿を現わすことができます。
日本を愛するのあまり、外国を敵視してはなりません。民衆を守ると誤解して、指導者階級を憎
んではなりません。排他的な行為や、一方に偏した思想では、決して世界を平和にすることはでき
ないのです。
日本を愛するためには、日本の天命である大和の精神、調和の精神をその行為に現わさなくては
なりません。調和の精神を外にしての愛国心というのは、日本のものではありません。
武器をもって戦う以上に勇気が必要な仕事
青年の熱情やその勇気を、真実に平和をつくり出す行為にしてゆくのです。真実の平和をつくり
出すためには、武器をもって戦う以上の勇気がいるのであります。日本は今その勇気を必要として
いるのです。他の国からどんな眼でみられようと、少しぐらい経済的に困難なことがあっても、日
本の天命である大調和精神の歩調を狂わしてはいけないのです。
青年の生命エネルギーを真の平和運動に集中してゆく時、壮年も老年もそれに和して立ち上がる
のです。武力を持って敵に当るのは、絶体絶命という立場なので、夢中で立ち上がれるし勇しい行
為のようにみえるので、青年にとっては入り易いのですが、一寸見は消極的である平和運動は、左
翼主義者の偽装平和運動とは違い何処にも敵を認めないのですから、力が入らないようなのです。
相手があったり、ぶつかる壁があった方が入り易いものなのですが、実際は絶対に敵を認めない真
実の平和運動程忍耐力もいり、勇気もいる運動は、青年にとってやり甲斐のある生き方なのです。
絶対に敵を認めないということぐらい、むずかしいことはありません。まして若い人の烈しい精
神状態では、調和の状態を保っていくということは、実に大変なことです。そこで私の教えでは、
消えてゆく姿という教えがあるのです。
敵を認める想いになった時、憎しみや怒りの想いがでてきた時、それを過去世からの因縁の消え
てゆく姿として、世界平和の祈りの中に入れてしまう、という、業想念のでてきた時に、祈り心で
平和精神と入れかえてしまうのであります。
147青年の真実の生き方
釈尊やイエスの言葉をそのまま、現実生活に取り入れようとしましても、とてもできるものでは
ありません。上衣を取るものがあれば下着をも与えよ、という言葉でも、そういうことのできる青
年はなかなかあるものではありません。心で姦淫を行うものは姦淫を冒かしたと同じである、とい
われても、正常の肉体をもっている青年にはどうにもなりません。私はそこのところを真理をその
まま押しつけずに、消えてゆく姿という言葉で、世界平和の祈りの中に入れてしまい、世界平和の
祈りという深い広い大光明波動のひびきの中で業を消滅させてしまう教えをしているわけなのです。
ですから、この世もあの世も、あらゆる世界が、すべて神のみ心で成っているものであり、人間
は神の分生命であることを信じさえすれば、この消えてゆく姿の真理が実によく判ってくるのです。
人間が神の分生命でなければこの世界は滅びるより仕方がありません。人間は神の分生命であり、
すべてが神のみ心によって成っていることが真実であることによって、この世はやがて完全平和を
達成することができるのであります。そのためにも、消えてゆく姿という真理と、心からなる世界
平和の祈りが大事なことになってくるのです。
青年たちよ、真に自己を大事な存在と思うならば、生命エネルギーを無駄に使わず、大宇宙の一
員としての地球人類のために、日本の天命を完うさせるために、真実の平和の使徒として、愛と勇
148
.ヤ・N移
気との行動をしつづけてゆこうではありませんか。
149青年の真実の生き方
150
愛と正義
ゆがめられている愛と正義
愛の行いと、正義の行いは、この人類にとって、なくてはならぬ行いです。この愛と正義とが間
違いなく行われていれば、人類の未来は輝かしいものとなるに決っておりますが、今日の地球世界
では、この二つの行為が曲げられ、ゆがめられていて、人類の未来を輝かす方向に働いてはいない
のです。
愛はどういう風にゆがめられているかと申しますと、愛木来の、相手のために尽す、ということ
ではなく、自分の欲望を満足させる、愛欲という方向においていたり、相手のためというように表
面には見えていても、実は、自己の欲や、望みを達成せんがために相手に尽す、親と子の間などで
は知らぬ間にそうなっていることが多いのです。相手の自由を生かし、生命の働きを助けることが
愛であるのに、逆に相手の生命の働きの自由を奪ってしまうような、誤った愛行になってしまって
いることが多いわけです。恋愛などの場合もそういうことが多いのです。
また一方の正義ということでも、神の眼でみての正義ということは甚だ少なく、自己本位の正義
感であったり、自己の所属する集団や、国家にとっては、正義のようにみえながらも、相手側や、
高い立場からみれば、一方的な正義感の行為であったりすることが、しばしばあるのです。
先日テレビで、飛び出せ青春、という高校生向の映画をみていましたら、正義感に充ちた一生徒
が、学内の誤った行為を次々とあばいてゆき、遂いには、学外の不正をもあばこうとして、他校の
中学教師をしている、自分の父親の不正にぶつかり、悩みに悩んだあげくその父親の不正を、発表
してしまう、というスト!リーのものがありました。作者は、それを肯定して書いているのです
が、果して、父親の不正をあばき、その職業を奪ってしまうような行為がよいことなのでしょう
か。その映画では父親も自己の不正を恥じて、子供に発表させることをすすめたりしていますが、
それは映画のストーリーの上でそうなっているので、実際にはこういう場合、父親と子供との間
で、言うに言えない心の葛藤があり、親子の愛情に大きなひびが入ることは必然です。
151愛と正義
そういう親子の愛情を打ちこわしてまで、正義というものを通さなければいけないのか、という
疑問が残ります。それがもっと大きな、国家への反逆とか、人類に直接不為になることをしている
とかいう場合は、全く話は別になります。この映画の場合父親は自己の不正を恥じ、そういう渦か
らぬけ出る決意をはっきりしているのですから、子供がわざわざ父親の不正をあばいたりする必要
がない筈です。
152
青年たちの正義
青年は大体において、中年老年の人たちより、正義感に燃えております。だが、正義感に燃えて
いて、すぐその正義の旗印の下に行動にうつっていた青年たちでも、中年、老年になってきますと、
その正義感が次第に薄れてきます。何故正義感が薄れてくるかと申しますと、社会という大きな仕
組の中で、社会人としての生活を積み重ねてゆくうちに、社会という複雑な人間関係の中で、自分
たちの正義感を通そうとすると、そうした正義を通されてしまっては、自分たちの立場が不利にな
ってしまう人たちが、権力者や先輩たちの中にたくさんいて、自分たちの利害得失のために、その
正義感を通そうとする人を、働き難い立場や、口のきけぬ環境に追いやってしまうことが多いので
す。そう致しますと、いくら正義感に燃えていても、その正義を行為にうつすことができなくな
り、悲憤に燃えながら、なんの行動にうつすこともできず、年をとってしまうことになります。長
い間の社会経験で、そういう人たちをみてきた人々が、長いものにはまかれろ式で、社会の一般的
な動きに同調して生きてゆくようになってしまったのです。そうしてゆかなければ、自分の才能を
生かすこともできなければ、社会生活をエンジ。イすることもできなくなってしまうからです。
また一方では、青年たちの感じている正義感はもっと高度な人類的立場からみれば、片寄った幅
の狭い正義という立場における感情で、もっと高い、幅広い正義という立場は、そうした青年たち
の片寄った正義感を捨てたところからわかってくる、という、社会人類生活の幾多の経験から生れ
てきた、より高度な正義の立場を知って、感情的な動きをせず、社会的な動きに合わせながら、自
己の出来得る範囲で、自己の信ずる正義の道を歩んでいるという人々もあるのです。しかしそうい
う歩み方は青年たちの燃えたぎった正義感に全く不満足にうつるのです。そこで、正義感というの
は、青年たちの専売のようになってしまっているのです。
正義という言葉を簡単に訳せば、正しい行いということになります。ところが、この正しい行い
ということがなかなかわかりにくいことでありまして、右の人には正しいことが、左の人には正し
153愛と正義
くないということや、低い狭い立場から正しくみえても、高い広い立場からは正しくない、
ようなことが、実際上の問題としては、処々にでてくるのであります。
という
154
なぜ正義と正義がぶつかり合うのか
正しい行いといえば、観念的には誰にでもわかることなのですが、いざ事に当って判断してみま
すと、なかなかその正確な判断ができなくなるのです。強盗や詐欺や暴力から人々を守るというこ
とは、誰でも正義だと思います。しかし、これが、社会の問題や国家間の問題となりますと、簡単
に正義、不正義を論じられなくなります。
政府与党と、野党との対立抗争など、その立場立揚によって、正義ともなり、不正義ともなるの
で、絶対こちらが正義なのだ、といえるような問題は甚だ少ないのであります。ところが、お互い
が自己の所属する集団の行為を正義なりとし、相手方の行為を不正とみなすので、これでは正義と
正義との争いとなり、国家間の場合は戦争ということになってしまうのです。
どうしてこうなってしまうかといいますと、お互いの正義ということが、宇宙的な立場から考え
た正しい行為というのではなく、自己の損得の立場や、自己の所属する集団や、お互いの国家の損
得の問題を基底にした正義感なので、この地球世界の限られた物質生活、限られた面積の世界で
は、お互いの損得がぶつかり合うのが当然で、そこにお互いが正義の主張をし合うことになってし
まうのです。
やはり自己や自国の立場を正義視しないと、勇気をもって、相手に立ち向かうわけにはゆかない
ので、何かにつけて、自己や自国の行為のほうを正義である、とみようと、お互いがしてゆくわけ
です。ベトナムならベトナムの戦争にしても、米国は戦争の終った今日でも、自国の行為が正義で
あったと思おうとしているでしょうし、当時の北ベトナムや革命軍の人々も勿論、自己の行為を正
義と確信しているわけです。
どちらが一体正義なのか、どちらも正義とはいえなかったかもしれません。宇宙的な眼からみな
ければ判らないことなのです。ところが、現在の人類の中で、宇宙的な広い大きな視野をもって、
この地球人類の動向をみている人は滅多に存在しないので、この地球界の正義というのは、常に、
自己の置かれた立場で、自己や、自己の集団のためになる行為をそう認めるより仕方がない、とい
うことになります。
155愛と正義
真の正義とは大調和を根底にする
156
米国、ソ連、中国という現在の三大国が、常にお互いの正義を唱えて、武力を増大し自国の権力
を拡張しようとしているのですが、宇宙的な眼でみれば、三大国のいずれの行為も正義というには
ふさわしくないものであることが、はっきりわかります。何故いずれの国も正義でないかと申しま
すと、この三大国の各国共に、自国の権益を守るためには、武力で相手を叩こう、と軍備の拡張
を、常に計っているのでありまして、大宇宙の心である、調和という方向に背をみせた行為をして
いるからであります。
真の正義というのは、大宇宙の心である、大調和ということを根底に置いての行為でなければな
りませんのに、地球世界の国々も、個人も、この大調和の宇宙の心を忘れ、自己や自国の物質的損
得の問題に左右されて、いつも調和を破る行為をしているのです。
如何に正義の行為のようにみえましょうとも、それが宇宙の調和の流れに反するものであったな
らば、それは真の正義とはいえないのです。この宇宙の調和ということでも、時代によってはその
現れが相違してくるでしょうが、現在のように、地球滅亡を自らまねく、核爆弾の開発されている
時代では、少しでも戦争の方向に動く行為や、争いの想いなどは、みな正義に反することといえる
のであります。
今日のように兵器の発達していなかった時代ならば、権力拡張のために、弱い者いじめ式に、次
々と他人の主権や領土を侵していった、いわゆる悪い権力者を向うにまわして、人々の生命や領土
を守りつづけ戦いつづけて相手を倒した、勇気ある人を、正義の人として、人々が崇めたことはあ
るでしょうが、それは今日の強盗殺人者から人々を守る、正義の行いと同等の事柄でありまして、
その勇気ある行動に感激して、心が奮い立つことはありましても、今日の正義ではないのです。
何故かと申しますと、今日のような兵器の発達した時代では、片方の武力に対抗してこちらも武
力を持てば、必ずその戦争はエスカレートして、地球滅亡兵器ともいうべき核爆弾の使用にまで至
ってしまうことになるのです。ですからいかに相手が横車を通してきても、それに対抗してこちら
も武力を用いるということは、大きな広い意味からいって、正義とはいえなくなるのです。こちら
の武力が勝って、悪者と目される相手国を抑えたとしても、それは単に一時のことでありまして、
その悪者である相手国を絶滅させるというところ迄行くためには、地球を大きく傷つけずには済ま
なくなるのが、今日の戦争であるからです。
157愛と正義
今日の大正義
158
真の正義というのは、あく迄、宇宙の調和を保ってゆくための行いでありまして、小さな正義の
ために、地球を傷つけ痛め、宇宙の調和を破るようなことは、今日の正義ではないということにな
るのです。ですから、今日の正義の行いというのは、昔のような勧善懲悪の行いに心躍らせている
だけではいけないのであります。昔流の勧善懲悪の上に、常に、宇宙の調和、地球の調和というも
のがなければならないのです。
小説の上でも、映画の上でも、強い善人が、悪人を片っばしからなぎ倒して、弱者を救ってゆ
く、というシーソや、自分の生命の危機をも恐れず、正しいことを主張しつづける勇者の言行に
は、自ずと勇気づけられますが、今日ではそういう勇気を底に秘め、持続しつづけて、悪者が武力
を使えなくなるような、各国が権力拡張のためや、自国の損得のために他国の権益を侵したりする
ことのできないような、そういう平和な状態をこの地球世界の上に築き上げてゆく行動を起して、
多くの人々に真の正義感を教えてゆくようにしなければならないのです。
各人、各国が、お互いの在り方を正義と思って、譲り合うことなく、歩みを進めていったら必ず
戦争になってしまうのですから、戦争にならぬよう、武力を使わなくとも、お互いの権益を守れ、
お互いの利益になるような、そんな生き方のできるような道をつくり出すことに、真の正義に燃え
る、勇気ある人々が卒先して進んでゆくことが必要なのです。
そうすい
幕末の頃、官軍の総帥西郷南洲と幕府の代表としての勝海舟が、お互いの人格を信じ合い、西郷
は勝の要望するところを承知して、敵であるべき、勝に江戸の治安を一任し、自分はさっさと江戸
を離れてしまい、それがかえって成果をあげて、江戸での戦火を防ぎ、大きな犠牲を出さずに済ん
でしまったことがあります。この時の西郷の度量と、勝の生命を投げ出した態度とは、共に大人物
というべきで、この二人のこの時の功績は非常に大きかったのであります。これは二人共に勇気あ
る正義の士であって、平和の念願だけを心に秘め、他になんらの私心がなかったから、こういう成
果を得たのであります。ですから真の平和を達成するためには、遠い、先の見通しと、心からなる
平和への念願とがなければならないし、それを持続してゆく、忍耐と勇気とが必要になってくるの
です。これからの人類の行く道は、如何に自己や自国のほうが正義であるように思えましょうと
も、武力を持って相手に対峙するようなことではいけません。それでは過去の歴史が繰り返してき
たような、悲劇がそこにくりひろげられるだけです。そういうことを頭では百も知りながら、各国
159愛と正義
の指導者は、業の波に巻きこまれるようにして、
業の深さは計り知れないように思われます。
武力の拡張をしてゆくのであります。地球人類の蜘
神のみ心がまともに働きかけると……
今日からは、こういう過去の歴史とは全く異なった平和の道を進まなければいけないので、それ
が祈りによる世界平和の道なのであります。近頃のオカルトブームでもかなりわかってきたよう
に、人間の念力というものが、非常に強いものであり、人間の想いも、物質も、その念力によって
左右されるという実験が処々で行われていまして、それが事実であることが科学的に確かめられて
きています。ソ連などでは莫大な国費をかけてその研究に取り組んでおり、着々と成果をあげてい
るのであります。
個々の人間の念力でもそうなのでありますから、これが集団になれば大変な力をもつものとなり
ます。今まで人々が気づかずにおりましたが、今日までの人類の争いや戦争などは、みなこの人間
の念力が現われてのものなのです。それを今日では科学的な面で取り上げて、国家の力としようと
しているのが、ソ連であり、その他の国々であるのです。
そのように人間の念力で国の運命と地球の運命も左右されてゆくのですから、人類の生命の基で
あり、あらゆる生命の根幹である、大生命(神) の力がそこに全面的に働いたら一体どうなるでし
ょう。神のみ心はもとより、大調和のみ心です。神のみ心がまともにこの地球世界に働きかけれ
ば、忽ちこの地球界の不調和状態はなくなってしまいます。
不調和状態がなくなる、ということはどういうことになるかと申しますと、不調和の想念の持
主、不調和な状態な国家社会、しいて言えば、地球世界が不調和そのものであれば、地球自体もな
くなってしまうということになります。
ですから、神のみ心がまともにこの地球界に現われるということは、非常に善いことではありま
すが、その力が現われる前に、不調和な状態にしがみついている人類が、その波動の調整に大変な
苦しみを味わうことになります。それがキリスト教でいう最後の審判ということなのであります。
私たちは、この最後の審判の時に、人類の苦しみが最少限度で済むように、消えてゆく姿で、世界
平和の祈りを教えているのであります。
神が人類生命の源であり、人類の念力というものも、その生命エネルギーを利して起されている
ものであることは明らかです。神の生命というものは、あらゆる力の源動力です。その源動力をど
161愛と正義
のように使ってゆくかが人類の智慧なのであります。しかし人類はこの力を、宇宙のためとか、地62
1
球世界そのもののためとか思わず、只自分や自分たち集団、自分たちの国家ということにのみ使お
うとしているのであります。
神の世界から無限に与えられる
みずか
そこに人類の悲劇があるのです。人類は自らは知らないで、争いの念力を起し合い、地球の調和
の波を乱し合っているのです。それはすべて、肉体的な自己を守ろうとする、自己保存の本能をお
互いがもっていての対立抗争となるのであり、それが集団となり国家となりますと、戦争というこ
とになってくるのであります。肉体が人間であり、有限な土地や物質を、お互いが少しでも自国に
有利に使用しようと思いますと、どうしても対立抗争はまぬかれないのです。
ですからこういう物質世界に想いが把われている限り、地球人類の真の平和は実現できないので
あります。何故ならば、物質は有限でありまして、片方に有利なことは片方には不利なように現わ
れてくるからなのです。そこでどうしても、お互いに有利になろうとして、物質の奪い合いをし、
権力の拡張をし合うのであります。ところが神の世界は無限でありまして、片方が有利になったか
ら、片方が不利になる、というようなことがなく、お互いに奪い合ったり、争い合ったりして、生
存しなければならないような、有限な物質はないのであります。ですから、神のみ心の中に人類の
想念が入ってしまえば、有限のようにみえる地球という土地も、あらゆる物質も、無限の生命の働
きとして、各自各国の欲するだけのものが自ずと与えられるようになっているのです。
現在の地球人類の眼では、この地球世界は縦横厚みの三次元の世界としてうつっておりますが、
実は、この三次元の世界が人々の眼にうつってくるその根源には、無限次元の波動の世界が存在す
るのでありまして、その無限の世界から、神々はその人々、その国々に必要なものは常に与えられ
るようになっているのであり、形の上、三次元の世界の上では有限と見える、この地球世界が、実
際は無限の世界から、いくらでも欲するもの、必要なものを与えつづけられる世界なのだ、という
ことが真理なのであります。
しかし、人類が三次元の世界、眼に見える物質世界だけに眼をとめている限りは、この地球世界
は有限の世界として、人類に与えられるものも有限となってくるのであります。そういう真理のほ
んの小さな一つの現れとして、近頃のオカルトブームの、今まで何もなかったところにいろいろな
宝石が現われたり、物品が手もかけぬのに移動したりする、三次元世界では考えられぬ事態が起っ
163愛と正義
ているのであります。
菩薩を誕生せしめる道
こんなことはほんの小さな眼に見えぬ世界の現れでありまして、幽界に住む生物の応援でもでき
ることです。しかし神のみ力がそのまま現われてくるようなことになりますと、三次元の世界に、
一瞬にあらゆる眼にもみえず、耳に聞えなかった存在が出現してくる、無限次元につながる世界が
現われてくるのであります。しかし、そう一瞬に神のみ力がそのまま現われたのでは、先程申し述
べましたように、肉体人間の世界が41心速に浄化して、形の世界が消滅してしまいます。つまり三次
元の世界が無くなって、急速に高次元の世界にうつりかわってしまうということになります。
そこで、高次元世界の波動に合わせて、しかも三次元世界に現われていられる人間が必要になっ
てくるのです。こういう人たちを仏菩薩または天使というのであります。神々や宇宙天使方は、こ
ういう人たちを一人でも多く養成しようとして、今盛んに働いていらっしゃるのです。そういう菩
薩や天使が多くなれば、神のみ心がより多く現われても、その菩薩や天使の犠牲によって、この肉
体人間たちが苦痛少なく、無限次元とのつながりを得ることになり、大きな人類の進化を成し遂げ
164
てゆくことになるのであります。
そういう道を見出し、その道を進んでゆくことこそ、真の正義であり、真の愛の行いということ
になるのでありまして、小さな正義を言い合って、争い合うようなことは、自分たちで地球を滅亡
させてしまう、愚かなことであるのです。
私たちは、菩薩天使を一人でも多く誕生せしめたいと想い、祈りによる世界平和運動の宣布をし
ているのであります。この運動が広まるにつれて、人類の真実の道が次第にはっきりわかってくる
のであります。
165愛と正義
166
神の大愛を信ぜよ
生命の神秘
私は赤ん坊を生み育てた経験のあるお母さんの中に、無神論者のあることが、不思議でたまらな
い気がします。
私のところには母親に抱かれた赤ちゃんがたくさんまいりますが、小さい赤ちゃんのどこをみて
も、大人と同じように人間としての道共だてがちゃんとできております。
眼はちゃんと二つあるし、鼻も口も手も足も人間としての資格がすっかり備わっている。その手
足の小さく可愛らしいこと、小さいは小さいなりに親指は親指の小指は小指の形をしていて、なん
とまあ、見事につくられているのであろう、と思わず感嘆の声を放ってしまう程であります。
大人をみる場合には不思議さをあまり感じない人でも、小さな赤ちゃんの体をみていると、まあ
なんてうまくできているのだろう、赤ん坊がこんなに見事な格好で生れてくるというのは、全く不
思議なことだ、と感に打たれるものです。
ただ見る側でもそういう神秘感に打たれるのですから、まして生みの母親が、赤児が生れ育って
ゆくのを、なんの不思議とも思わずいるとすれば、その人のその感情こそ実に人間離れのした不思
議な感情だということができます。もっとも動物は何事にも神秘性など感じないでしょうから、そ
の方に近い種類の人ということになります。
この世は全く不思議なことだらけですが、女性の体内から、生命が赤児として生れ出でる、とい
うこと程、人類に最も身近かな不思議な出来事はありません。こういう身近かな神秘に、敬虔さを
持たないでいて、自己の幸福や人類の平安を求めたとしても、もう最初の立っている基盤が誤って
いるのですから、真の幸福を得られるわけがありません。
生命の神秘性を礼拝する敬度な気持というものが失われてゆけば、この人類は破滅するしか仕方
がありません。男女が結合したから赤ちゃんが生れた、当り前のことじゃあないか、こういう考え
でいたならば、その人は動物と何等変りのない人で、万物の霊長といわれている人間の資格の甚だ
167神の大愛を信ぜよ
すくない人です。618
赤児程、生命の神秘性を、はっきりとそこに身近かに見せてくれる存在は他にはありません。誰
でも自分が赤児でなかったものはいなかったのだし、赤児になる前の自分の生命というものは、一
体どういう風になっていたのか、知っていた人はありません。
赤ちゃんをみていると、そういう生命の神秘性というものが感じられてくるのですが、そういう
神秘感をすぐに忘れてしまって、現象面の損得や、感情問題の渦の中で、唯物的な生活をつづけて
しまっているのが、現今の一般の人々の生き方のようです。
神秘性つまり神の存在というか、神の力というか、そういう存在に対して、憧憬、畏敬、感謝と
いうように、大きな関心を持つというのは、人間の生命が神によって与えられたもの、或いは神と
のつながりによって得られているもの、という感じからくるのであります。
神秘への不感症
ところが、神秘性も神の存在も全く感じないような生き方をしている、いわゆる唯物的な人がな
かなか多く存在しています。母親の胎内から十ヵ月余りすれば、自然と赤児が生れてくるという、
根本的な神秘な事柄に出会っても、神の存在というものを認めない、神秘に対する不感症ともいう
べき人々と、神が存在するにしては、あまりにもこの世の中は、悪や不幸に充ちている。正しいも
のが苦しんで、悪人が栄えているこの現状、というところから、神の存在を否定しはじめた人々、
それに神や仏の存在を説き、神の道、仏の道を説いている人たちのうちの偽善者にぶつかって、神
仏の道が嫌になり、無神論者になった人等、無神論者にも種々の形があります。
神秘に対して不感症で、物質面での損得と、自分の立場だけを守ろうとする感情で生活している
ような人は、表面的には何等の悪事をしているわけではないが、生命に対する感謝が全く不足して
いるのですから、その生命を善く生かすことができません。
神は大生命であり、人間は小生命であります。小生命は大生命の恩恵なくしては、一日として生
きていることはできないのです。太陽を神とすれば、太陽光線は一人一人の人間です。一つの光線
は、その光源がなければ、その光を放つわけにはゆきません。一人の人間が生きているということ
は、光源から絶え間なく、光の補給が行われて生きているのです。
大生命の流れが一人一人の人間に流れてきていることによって、私共のこの世の生存がなされて
いるわけで、自分たちの肉体活動だけで生きられないことは、はっきりしているのです。しかし多
169神の大愛を信ぜよ
数の人々は、この光源である神のみ心の方には想いをむけようとはせず、自分たちの肉体という限
定された物質波動体の中でだけの生活をしてゆこうとしているのです。これでは肉体波動の中だけ
に蓄積された生命の光の分だけしか生きられず、後は死の生活となるわけです。
肉体を失った後の光明の無い死の生活、それはこの世で受ける如何なる苦悩よりも苦しく恐ろし
いものであることを、無神論、唯物論者は知らずにいるのです。人問が生きているということは、
神の光が流れていることであり、生命の光の交流によって生きているのですが、それが肉体におい
て行われている時は肉体人間としての意識想念があるのです。そしてその実観というのは、意識想
念によって得られているものであります。
ですから肉体を失った死後の世界でも、想念だけはいつまでもあるのでありまして、肉体が無く
なったら自分は無くなってしまうのだという観念と、神即ち、大生命、大光明を否定している想念
とが、死後の世界で残るのであります。そう致しますと、その人の死後の世界はその人の想念の通
り、生命の流れの無い、光明波動の無い、闇黒波動の中ということになり、そうした闇黒世界の中
で、ただ自我欲望の想念だけが漂うように存在している、ということになるのです。
それはその人が、自分の生き方の誤ちを気づいて、神の方に自己の思いを向け変えるまで、そう
170
した状態がつづくのです。そういう事実を、肉体世界にいる唯物論者、無神論者は少しも知らずに、
神の光明を否定し、自分たちだけの楽しみを求めつづけているのであります。哀しむべきことであ
ります。
感謝行によって神のみ心と一つになる
人間とは神、大生命の分生命であって、大生命の法則に乗ってその生活をしてゆかねばならぬよ
うにできているもので、大生命の法則、宇宙法則を外れた生活をした場合は、必ず、それだけの苦
悩を自らが味あわねばならないことになっているのです。それは神が罰を与えるというようなもの
ではなく、外れている背骨を元に戻すための痛みと同じようなもので、すべてが本来あるべきよう
にあらねばならぬ、という原則によるのであります。骨が外れたり、筋肉がどうかしていれば、ま
ともな生活ができる筈がありません。どうしても正常にしなければいられません。それが生命の本
質なのです。
そういう意味で、人間には様々な苦悩があるのでありまして、それを私は消えてゆく姿といって
いるのであります。ですからこの消えてゆく姿を勘なくするためには、常に常に、宇宙法則、生命の
171神の大愛を信ぜよ
法則に乗った生活をするようにしてゆくより仕方がないのでして、自己の生命の本源である神の存721
在を否定するような想いが、そのままで幸福をつくり得るわけがないのは当然のことであります。
宇宙法則、生命の法則に乗ってゆくためには、神への感謝、万物への感謝ということが必然的に
ひびき
必要なのであり、この感謝行によって、神のみ心である、宇宙法則の波、生命の本源の波動と一つ
になり得るのであります。
これを宗教的にいえば、祈りということになり、この感謝行を横に広げてゆくと、世界人類が平
和でありますように、ということになります。世界人類が平和でありますように、という祈り言は
人間一人一人の感謝行でもあり、人類の大願目達成の人類波動の調整ということにもなるのです。
神のみ心に叶った人とは
無神論、唯物論者の中には、神の存在は否定しながらも、真実に人類の平和を願って、人の為、
社会人類の為の献身的な働きをしている人々も存在します。その人たちは口では神ということはい
みずか
わなくとも、自らの行為に神のみ心を税わしているのですから、自我欲望だけで、しかも神を否定
き
しているような人たちとは軌を一にしてはいません。
何故無神論者でいながら、神のみ心を現わしているかと申しますと、神というのは、肉体人間の
ように、一定の形をもっていたり、感情をもっていたりするものではありません。生命の法則その
ものであり、愛、調和そのものであります。ですから、神様、神様と呼びさえすれば、可愛いいや
つじゃとごほうびを下さり、神様などあるものか、といえば、こやつ憎い奴といって、罰を与え
る、というそんな感情の持ち合わせはありません。
神のみ心である、愛の行為、調和の行為、感謝の行為、等の光明波動に波長が合いさえすれば、
その人は、神様と呼ばなくとも、神のみ心に適った人ということになるのです。ですから表面的に
みて、無神論者、唯物論者とみえましょうとも、その心が愛と調和の人であれば、神、神と呼んで
いても、自己の行為が愛と調和に欠けている人よりも、真の意味ではより宗教的ということができ
るのであります。
しかし、無神論、唯物論者の多くは、他の行為はよい人であっても、自己の考えに反する思想の
人を憎んだりするもので、調和に欠けるところがあるようです。ですから、真実に世界平和を達成
しようとするためには、やはり、表面的にも神の存在を信じ、神のみ名においての平和活動でない
と、何人をも、兄弟姉妹と呼び得るまでにはゆかないような気がします。
173神の大愛を信ぜよ
何処かに敵があって、その敵をやっつけなければ平和が来ない、という考え方をしているうち74
1
は、どうしても真の平和は訪れません。やっつけられた敵は、またいつかはやっつけた相手を屈伏
させようと狙いつづけるからです。これは因縁因果の法則で、目には目を、歯には歯を、というわ
けです。
真の正義は戦わない争わない
これはこちらが正義だからよいのだ、というような単純な考えでは駄目なのです。何故ならば、
相手も自分の方が正義なのだ、と思うからです。正義を貫くための少しのマイナスだと思って、相
手を傷つけたり、騙したりすることは仕方が無いと、お互いに思っているのでしょうが、それが相
手を真に生かすためのものであればよいのですけれど、相手を殺して、自分たちが生きようとして
いるのでは、そのことそのものが、もう正義ではなくなるのです。
真の正義というものは、その正義が通れば、何者をも生かす、というのでなければなりません。
おの
悪のような形で現われているすべてのものごとは、真の正義がはっきり現われた時には、自ずと消
おの
え去らなければならぬようになっているのです。それは、光がさせば、闇は自ずから消えるという
のと、同じ原理なのであります。
つらぬ
正義が悪と闘って、勝ったり負けたりする状態は、天地を貫く、真の正義が未だこの世界に現わ
れぬためであって、どちらも過去世の因縁の消えてゆく姿というべきなので、真の正義は戦わず争
わず、すべてを生かしきってゆく、という現われ方をするのであります。
私たちは、その日のための世界平和の祈りをつづけているのでありまして、真の世界平和の達成
は、宗教的な精神と大調和科学との融合によってのみ生れ出ずるのでありまして、破壊の科学やひ
とりよがりの宗教から生れることはありません。
米ソの宇宙開発競争なども、真の目的が宇宙開発そのものであれば、実に結構なことなのです
が、両国が宇宙開発に巨費を投じておりますのは、その心底に宇宙圏を自国の手中に納めて、世界
せ
制覇の実権を握ろうとしていることにあるのでありまして、両国の野望の競り合いということにな
ります。
そんなさもしい魂胆では、両国のいずれの手にも宇宙圏の権益をゆだねるわけにはゆかないと神
々は思われているでありましょう。しかし、そういう両国の魂胆とは別に、科学の研究の結果は、
やがて、人類進化に必要な各種の発見発明の基盤となってゆくことでありましょう。
175神の大愛を信ぜよ
戦争放棄、軍備撤廃
176
神は常に悪と見え、失敗と見えるようなところから、人類進化に役立つ大きな道を切り開いてゆ
かれるのであります。太平洋戦争が日本に最悪の事態をもたらしたと同時に、日本をして真の世界
平和創設の中心国としての立場を与えて下さったようなものです。そういう意味で、日本憲法の第
九条(戦争放棄、軍備撤廃) は神の降し給った大切な箇条だと思います。
今日になって、今こそ一番この第九条が大事なのに、これを改定しようなどという論がしきりに
出ているのは、神の大愛のみ心を知らぬ大愚者です。しかもこの改定論者の中には、この憲法の発
布された時には、これこそ神の降し給った平和憲法である、と今私が言っているそのままの言葉
で、その機関誌にも特筆大書していた宗教者もいて、現在では掌をかえすように、憲法改定論者に
なっており、ベトナム戦争の時米国の北ベトナム爆撃さえも、大いに肯定していたのであります。
こういう人が、光明思想家でしかも多くの信者を持っている、影響力の強い立場にいるのでありま
すから、世の中は大変なものです。
どうして、そういうように自己の持論を時と場合によって、ひょっこりと変えられるのでしょ
う。それが私には不思議でなりません。光明思想家はあくまで敵を認めてはいけないので、従っ
て、武器をもって相手を叩くなどという行為があってよいものではありません。自己の立場と異な
る国々があったら、自分は無力で直接手は出せないが、米国が叩いてくれているから、叩いてくれ
ている米国の後押しの気勢をあげて、それでいて、米国も中共もお互いの我欲で争っているのだ、
自分は少しも敵を認めていない、自分たちはいつも第三者的立場に立って、心霊的力を結集して世
界平和を祈っている、といっているのですが、どう考えてもつじつまの合わぬ言葉です。世界平和
を祈るのには、相手を叩くなどという想いを少しも持っていてはいけません。そういう想いが出た
ら、その想いをはっきり認めて、その想念を否定するために、その想念を消えてゆく姿として、世
界平和の祈りの中に入れてしまうのです。
普通人には誰にでも、この世の長い習慣で自分に都合の悪い人や、自国に不為になりそうな国を
邪魔にする想いが出るにきまっております。それはそれで仕方が無いと思います。しかし、そうい
う想念があるのに、それをごまかして、あたかもそういう想いが少しも無いようなふりをして、よ
いことばかり言っていては偽善者になります。
177神の大愛を信ぜよ
ただこの一点
178
よ
といって、そういう自己本位の想念を善しとしていたのでは、いつまでたっても、真理の世界、
真実の平和世界は生れ出でません。そこで私は、そういう自己本位の想念を、すべて誰方かに消し
て頂いて、神のみ心そのものの想念行為になり得るような方法を考え出したのです。その消して下
さる方は神なのであります。神なのですといっても、神の姿はどこにも見当りません。そこで、神
のみ心を掴もうと思いました。神のみ心は、愛であり調和であります。人類世界の完全平和を願う
み心であります。このみ心を私は掴みました。そしてこのみ心の中に入りこめば、人類のすべての
カルでおの
誤 った想念、業想念は自ずと消えてしまうに違いないことが判りました。私自身が先ずそのみ心の
中に飛びこみました。そう致しますと、見事にそれまでの私の業的想念が消え去りました。そして
私の心に残ったのは、神のみ光だけでした。私の生活は忽ち神のみ心のままに活動する生活に一変
しました。
この世に平和世界を導き出す、という只その一点のみに全力を集中する、そういう生活が私の全
生活となってきました。この生活は光明一念の生活です。自分の都合で敵を認めたり、認めなかっ
たりする生活ではありません。
敵が無いとかあるとかいうのではありません。物質があるとか無いとかいうのでもありません。
この世に現われている、また現われてくる事物事象のすべては、神のみ心が完全にこの世に現われ
るための変化変滅の姿、つまり消えてゆく姿であって、そのまま完全であるなどというものは一つ
として無いのです。
ですから、完全に神のみ心がこの地球界に現われるまでは敵とみえるものも現われることがあり
ましょうし、自己や自国に都合の悪いこともでてくるでしょう。また現在この五感で固形物のよう
に現われている物質、人間の肉体などもそうでありますが、こういう物質も、実はこういう固った
物質ではないということも、宗教的や哲学的にそういうのではなくて、科学的に、科学的にといっ
ても、只実際に原子のことや波動のことを研究している科学者だけが実際に判っている、という、
そういう判り方ではなく、一般大衆の誰にでも、物質もすべて波動の現れなのだな、しかもその波
動も、宇宙の中心の宇宙核というところから生れてくるのだなあ、というように、最後には宇宙神
のみ心というものだけが存在するのだ、ということが判ってくるようになるのであります。
179神の大愛を信ぜよ
神の大愛を信ずる者は幸なり
1SO
しかし、そういう深いところまでゆくためにはやはり、小さな範囲しか判らないこの肉体頭脳と
して現われている波動の場を、もっともっと深く広くひろげるために、肉体の奥の幽体の奥の霊体
のまた奥の神のみ心にまで、常に常に自己の想念を昇華させて置かねばなりません。そうしなけれ
ば、いつまででも規在の肉体人間以上の人間にはなり得ないのです。現在の肉体人間ぐらいの進化
の程度では、やがては必ずこの地球世界を滅亡させてしまうに違いありません。何故といえば、現
在の国々の状態をみれば直ちにそこの理由がはっきりします。各国がお互いに自己本位の働きしか
できていません。現在一番その行為の立派な国はどこの国なのでしょう。何処の国々もそうたいし
た相違はありません。
何処の国がまず自国を犠牲にして、世界人類の平和を達成しようとするでありましょうか、何処
の国もまず自国の繁栄ということが中心なのであります。そして現在の状態では自国の繁栄は他国
の繁栄とどうしてもぶつかり合ってしまうことが多いのです。
それは米国ソ連中共などの在り方が代表しています。こういう人間の在り方、国の在り方では、
神のみ国を地球界に来らすなどということはとてもできるものではありません。このままではどう
しても滅亡の一路のみです。例え米国が中共を滅ぼし、ソ連を壊滅させたとしても、それで世界が
平和に近づくなどということはありません。問題は資本主義がどう共産主義がどうのという、そう
いう問題ではなく、現在の人類の根本的な考え方が、そのまま人類滅亡に向かって進んでいるの
です。私はそれを地球人類に知らせるために来たのでありますし、ただ知らせるためにだけではな
く、地球人類を根本的から変貌させるためにきたのであります。
それが消えてゆく姿で世界平和の祈りという教えで要約されているのです。普通の考えでは、現
在の自己保存の本能で動いている人間、つまり自己の利害関係、自国の損得をまず中心として動い
ている人間の心が、突然に神のような立派な心になるわけがない、と思っているに違いありません。
ところが、やがてはそうなる時が来るのです。それは選ばれた特別の人たちだけがそうなるので
は、やはり人類は神のみ心を現わしきるわけにはゆきません。すべての人々がそうなる時が来るの
であります。
それは釈尊もイエスも知っていました。そう教えてもいます。しかしそれは、只単なる宗教的生
き方や行事だけでなり得るのではありません。共産主義を恐れて軍備を強化することをすすめた
181神の大愛を信ぜよ
り、汚れきった現在の波の中で、政界入りをしたりしているような、そんな程度の宗教観念の人々
が宗教界に大きな比重をしめているような現在の宗教なのですから、宗教だけではとても駄目だと
いうことはよくわかります。
地球人類が急速なる進化を遂げるためには、まず、すべての想念行為を消えてゆく姿として神の
み心の中で、瞬々刻々消滅させて頂いて、改めて神のみ心のひびきを頂き直す。つまり消えてゆく
姿と思って、その想いを世界平和の祈りという、宇宙神のみ心と人類の悲願との一致点の大光明波
動の中で、生れ代わる行事を日々の生活の中で行じつづけてゆくことが、何んにもまして大事であ
るのです。これは何んでもなさそうに見過してしまいがちですが、大変な行事なのです。そして、
その中から生れてくる宇宙子波動生命物理学という科学の完成こそ、救世の大神業として、大救世
わざ
主のみ業として、地球人類を急速に変貌せしめるのです。
182
みずか
神 の大愛を信ずる者こそ幸なり、汝は傷つくこと砂なく、永遠の生命を自らのものとせん。
生命と業想念波動について
生と死と
人間というものは一体何んで生きているか、と問われたら、生命があって生きているさと答える
ことでしょうが、この生命というものは、あるということは誰にでも判っていながら、一体どんな
ものなのか、と問われてはっきりと答え得る人は一人もいないわけなのです。
実に妙々不可思議なのが、この生命といわれる存在なのであります。ここに一人の肉体を持った
人間がいます。この一人の人間は、食事もし、話もし、働きもしています。するとこの人は生きて
いる、ということになります。
この一人の人間が、或る日突然倒れてしまって、心臓も肺臓もすべての肉体的機能が止まってし
183生命と業想念波動について
まって、いつまでもそのまま働き出さないとします。すると、その肉体の状態をみて、この人は死
814
んでしまった、もう生命は終ってしまった、と人々はこういうのであります。
確かに、この人の肉体には、もはや生命は働いていません。この人は肉体的には死んでしまって
いるのです。
この物質的地球界の生死の状態というのはこうした現象をみていわれているわけであります。と
致しますと、肉体における働きを止めてしまった生命というものは、一体どういうことになってし
まうのでありましょう。
どうもなりはしないよ、その人はもう死んでしまったんだから、その人の生命は消滅してしまっ
たのにきまっているよ、と簡単にいう人もかなりいましょうし、そうね、どういうことになるのだ
ろうね、不思議だね、という人もいると思います。
そして僅かな人たちが、生命というものは肉体を離れても、永遠に個性をもって働きつづけ、生
きつづけてゆくものだ、と信じているのです。
私たちの眼(霊眼) からみれば、明らかに肉体の死がその人の生命の終りということにはならぬ
実証が、常にみられるのです。肉体の死ということは、只単に、その人の生命が肉体波動を出さな
くなった、ということであって、その人の生命は霊波動として、肉体より以上のしっかりした存在
を保ちつづけているのであります。
こういうことは、まだ一般常識にはなっておりませんが、やがて近いうちに、常識として認めら
れるようになると思います。常識というものは、人間が進歩してゆけばゆく程、広くもなり高くも
なってきて、今まで不思議とされていたものや、まさか、と一笑にふされていたような現象も、常
識の中に次第に入れられてゆくのであります。
現在の地球科学にしても、根本の目的は、生命の神秘や宇宙の神秘に一歩一歩近づこうとして、
研究が進められているのですが、まだまだ神秘現象を少しつつ常識化してゆくに過ぎないので、神
秘解明には、このままの科学では、非常な年月を要するものと思われます。
生命は光であリ波動である
しかしながら、地球科学の最大の成果は、万物が微粒子から成っており、その微粒子は波動によ
ってなっている、という研究結果なのであります。すべての精神も物質も、波動から起っている、
ということが判ってきたことは、地球科学が、宇宙科学とつながり得る道がついたということで地
185生命と業想念波動について
球人の科学が、一大飛躍を遂げ得る出発点となるのであります。861
ところで、この精神も物質もすべて波動から成り立っているという真理は、生命の神秘、宇宙の
神秘を解く、重大な鍵となってくるのです。今日までのように、精神の働きさえも、肉体の構造内
から起っている、という迷信を超えるためには、肉体というものが、生命波動の一つの働き場所に
しか過ぎないのだ、ということを知ることが必要なのです。
肉体が働かなくなった、つまり肉体的な死という現象によって、その人の生命が同時に滅してし
まったと信じたり、もうその人の精神(心)は消滅してしまったのだ、と思ったりすることの誤り
であることは、波動説からはじまる科学によって、やがては、はっきりと証明されるでありましょ
う。
生命とは不死なる光なのであり、その働きは光の波動としてあるのです。光というと、現在の地
球科学でいわれている、可視光線、不可視光線という物質的な、精神的要素の入っていない光と、
精神要素そのものの光とがあるのでありまして、精神要素そのものの光を、私たちは、霊波と呼ん
でいるのであります。そして、生命と呼ばれる光は、精神要素と物質要素との両面をもっておりま
ニんばく
して、宗教的にいえば、霊魂塊といわれ、思考力をもった肉体人間のような現われ方もするのであ
ります。
生命波動と物質波動ll宇宙子科学の説明i
私たちが現在やっております、宇宙子科学によって説明しますと、宇宙神のみ心は、宇宙心とし
て宇宙を貫いて光り輝いており、そのみ心の一番近くにある光の中心を宇宙核と呼んでおります。
この宇宙核は、精神と物質のすべての中心の働きをしておりまして、ここから、中心核、宇宙子核と
いう、中心的な働きが生れ、宇宙子核という中心から、宇宙子という働きが生れ出でているのです。
これらはすべて、生命光波動の働きでありまして、光そのものなのです。そして、この宇宙子と
いうものが、お互いに種々と交流し合って、十数段階の交流を経て、現在地球科学でいわれている
微粒子、つまり、陽子とか中間子とか電子とかいう、形になってくるのであります。
この宇宙子は各種の波動となって働くのでありますが、根本として、七色の光の交流となってお
り、その七色の光が、各種に交流しながら、分離し集合して、第二段階への働きに変化してゆくの
です。
私たちのやっているこの宇宙子科学は、八十畳一杯ぐらいな大きなグラフ紙に、綿密なる計算の
187生命と業想念波動について
下に、様々な波動の図を画きながら説明されてゆくのでありまして、これは金星の長老と私が呼ん
でいる宇宙人の中心者を囲んで、エンジェラスカラーと呼ばれる宇宙天使が図解説明の中心となっ
て、私たちに判り易く講義してくれるのでありますが、その図面からは、金色燦然とした光明が輝
き出でて、何んとも云えぬ厳粛なる雰囲気が漂ってくるのです。
そして、宇宙天使のいうのには、この光明は宇宙の根源からくる大光明波動のひびきなのだ、皆
さんが生命と呼んでいるひびきと一つのものであって、皆さんは常にこの光によって生かされてい
るのです、とのことなのです。
実際に研究者一同、常日頃霊波動を感じたことのないような人までも、この光明は心身に深く感
じ取って、感謝の気持で一杯になります、という程なのです。
生命波動は確かに光そのものなのです。その生命波動は種々な段階を通って肉体人間ともなり、
動植物ともなり、魚類鳥類鉱物ともなっているわけなのです。
宇宙子と呼ばれる生命波動の中には、精神面の働きをもつものと、物質面へむかってゆく働きを
もつものとがありまして、いずれも七つ七つの組合せとなって働いてゆくのですが、この七つの組
合せの中にも、精神波動一、物質面へ向かってゆく波動六というのもあれば、物質面へむかってゆ
188
く波動一、精神面の波動六というのもあるのです。この組合せ方によって、人間生命として現われ
たり、鉱物生命として現われたりするのであります。
人にょりますと、人間や動物に生命のあることは知っているが、鉱物や植物に生命のあることを
忘却している人もあります。生命というのは宇宙万物、隅なくゆきわたって生きているものです。
私たちのみております物質というものは、単なる固体の物質にみえますが、実はそうではなく、
いかなる物質も生命波動の現れでないものはないのです。ただそこには、精神要素が多いか勘ない
かの相違があるだけなのです。
話が前に戻りますが、人間の肉体というものは、生命波動がそこから離れますと、肉体は死体と
なって、次第に分解してゆきます。そして単なる物質のようになり、やがては、土に帰してしまい
ます。生命の離れた肉体というものは、枯木、枯草と同じ状態になってしまうわけです。
生命と想念
そこで大・事なことは、常に生命が生き生きと働いている状態に、
ばならない、ということなのであります。
すべてのものをしておかなけれ
189生命と業想念波動について
生命が生き生きと生きている状態というのは、肉体をはじめ、すべての事物事柄に想念を把われ
ていない状態をいうのであります。想念が何かに把われていれば、想いがその事物事柄に縛られて
しまって、丁度何かの紐でつながれているように、生命の自由な動きができなくなります。
自己としてある生命の自由性を、先ず最初に縛るのは、肉体の存在であります。肉体が無げれ
ば、生命は想念のままに自由自在に何処にでもゆけるわけです。ところがこの地球界の人間という
ものは、誰しも肉体を纒って生きておりますので、好むと好まざるとにかかわらず、肉体を纒いな
がら、生命の自由を求めなければならなくなります。
肉体が無ければ、生命は想いのままに自由自在になると、今申しましたが、実はもっとくわしく
申しますと、肉体が無くなっただけでは、自由自在の世界に往けるわけではないのです。
肉体が無い上に、幽体にも霊体にも、すべての体というもの、すべての事物事柄というものに執
われる想念が無くならなければ、生命の自由自在性は得られないのです。ですから、肉体を脱いだ
からといって、その人間が他界で自由自在を得るわけではなく、その人の想念の執われの量だけ、
その人の生命は、やはり不自由さをまぬがれないのです。
肉体の死のことを、永遠の眠りについた、などとよくいいますが、肉体の死は永遠の眠りどころ
190
か、永遠の生命の、永劫の働きを知るための、はっきりした目醒めの一段階であるのです。死んで
しまえば、何も判らなくなって苦しみが無くなると思って、自殺などする人をみると、本当に真理
を知らない気の毒な人だとしみじみ思うのです。
この世の死は、他界への出発なのであり、生命が、粗い波動を消して、より微妙な波動の世界に
生活の主点を置いた、ということなのであります。この世もあの世も、永遠の生命の一駒一駒であ
って、大生命の分生命である人間の一つ一つの経験の場であるのです。
この世におけるあらゆる環境も、あの世における環境もすべて、自己の生命の体験の場なのであ
って、貧乏なり病気なり、それぞれの苦しみの中にあることは、その人の生命をより生き生きと生
かすための体験としてあるのです。そして、その体験の必要のない人にとっては、そうした環境に
自己を置く必要がないので、貧苦も病苦も無いことになるのです。
誰でも光明波動を内にひびかせている
先に、宇宙子科学における宇宙核や宇宙子の話を致しましたが、宇宙核や宇宙子というのは大生
命の根源の光明波動でありまして、私たちが知ると知らないとにかかわらず、私たちの生命として
191生命と業想念波動について
働きつづけているのであります。ただこの宇宙子科学のことは、ここで話を致しますには、少しむ
ずかしくて、読む方に判りにくいと思いますので、生命というのは、肉眼では不可視なる光明波動
なのだ、ということを、心の中に入れておいて頂きたいのです。
ですから、人間はすべて大生命の分れの生命であって、どんな人でも、光明波動をうちにひびか
せている存在者なのであります。人間神の子というのは、こういううちなる光明波動をさしていう
のであります。ところが、この世における人類は、なかなか光明波動そのものにはなり切れません
で、闇黒波動を地球界に振りまいているのです。
カルマ
闇黒波動はつまり、私が常にいう業の波動業想念のことであります。争い、妬み、憎み、怒り、
恐れ、疑い、等々の想いであります。こうした想念は、人間本来の姿、神の子の心である、光明波
動を蔽い隠してしまうのであります。
人間一人一人の生命というものは、大生命宇宙神から分けられたものであって、宇宙心の分れの
心をもっているわけなのでありますから、常に大調和しているものであり、愛し合って生き生きと
生きつづけるものであるのですが、この宇宙子の集合である生命が、様々な体を纒って生活してお
りまして、幽体肉体というような、物質界に近い、或いは物質界に住する体を纒った時、その体が
192
もつ物質性の粗い波動に包まれてしまって、本来の光明波動が、外面的に現われにくくなってしま
ったのであります。
宇宙子の集合の、光明そのものの生命の時には、光の精神そのものであったので、他の生命との
交流は、光と光の調和となって、ますます生き生きと輝きを増していったのでありますが、これが
一度び、粗い波動の物質体である肉体を纒った時、その光明波動が粗い波動に蔽われて、次第に光
明を明らかに外面に出し得なくなったのも無理からぬことであると思います。
尤も物質といっても、元は宇宙子のマイナス(+ 【のマイナス)面の働きが多く集合して出来た
ものなのですから、やがては精神的宇宙子である光明生命との融合調和が、この世においても完成
する日が必ずあるのです。ただ、そうした融合調和する時間が必要である、というだけなのであり
ます。
業想念を打破するもの
現在の闇黒的地球世界の様相は、生命波動が、肉体という個体を纒い、国家民族という分離した
状態にあるので、個人と個人とが通い合わぬため、生命波動が不一致の状態を起し、光明波動の通
193生命と業想念波動について
わぬ、遅鈍なる波動層が生じてきて、その流れが業想念、闇黒想念となってしまったのでありま94
1
す。
こうした業想念、闇黒思想を打破するためにはどうしたらよいか、というのが私たち光明思想家
の役目なのであります。
現在の…莱想念波動の渦の中に自己を置きながら、世界はこうなければならぬ、こうした思想が世
界を救う、などといくら叫んでみても行動してみても、その人たちは、この宇宙の在り方を知ら
ず、人間の本性を知らないのですから、到底、光明波動と一致する平和世界を築き上げることはで
きません。
世界を平和にし、個人個人を安心立命の境地に導き入れるためには、個人個人の離れた心や国家
民族の在り方を、宇宙神のみ心の大調和の中で統一させなければならないのです。易しくいえば、
生命というものは、本来一つのものであって、私があなたが、あの国がこの国がというような、離
れた想いのあるものではないのです。この現象面でお互いが離れたように存在しているのは、各人
各国民族が、自己や自国に荷せられた天命を完うするためにこの地球界で働き易いように分散して
いるのであって、お互いが自己の天命を完うする道に入れば、自ずから大調和してゆくのでありま
す。
私たちはこの真理をよく知っております。そこで、先ず、生命は一つという真理や、人間はみな
光明波動なのだ、という真実を、蔽い隠そうとする業想念を、どこかで消し去ってしまわねばなら
ぬと考えたのです。こんなに地球界を蔽いつくしている業想念波動を一体どこで誰に消して貰えば
よいのでしょう。業想念波動の渦の中でくらしている地球人類の誰が、この波動を消滅し得るので
しょう。
大生命に還元すること
今日までに様々な聖者賢者が出現して、尊い教えを人類にもたらしたのでありますが、地球世界
の業想念波動をすっかり消し去るという時期になっていなかったので、底にひそんでいた業想念を
表面に浮かび出させる、というような役目しか果せなかったのであります。
それでも、昔にくらべての今日の安穏は、そうした聖者賢者の尊い努力によるのであります。さ
て今日では、表面に浮かび出てきて、その業想念がぶつかり合えば、地球滅亡という危い瀬戸際に
きてしまっていますので、この危機を救うのには、生半可の説法や方法ではとても及びもつきませ
195生命と業想念汲動について
ん。
生命は本来光明波動そのものでありますから、本来の生命波動がそのまま現われれば、人類は救
われるのでありますから、途中から現われた業想念波動の処理だけを問題にすればよいわけです。
業想念波動は、あくまでも本来性のものではなく、生命が幽体肉体を纒った時から生じているので
あります。そう致しますと、業想念波動を消滅するためには、人類本来の大生命波動の中に、人類
の今日の想念を一度お還えしすればよいということになります。大生命波動の中に入れば、如何な
る業想念波動む、その大光明波動によって、本来の生命波動、光明波動になるにきまっているので
す。
大生命は即ち宇宙神であり、宇宙心であります。ところが、この宇宙神のみ心の中に、どうした
ら入れるのか、その方法を人々は知らないのであります。神様神様といっていても、一体どこに神
様がいらっしゃるのか把えることができません。余程に秀れた人でないと、神様を呼びつづけなが
らも、つい、業想念波動の中に巻きこまれて、この人生を暗いものと思い、救われ難いように思い
勝ちになってしまいます。
私はそうした人間の心を霊覚によってよく知っておりますので、ただ単に神様と呼ぶだけにせ
196
ず、宇宙神のみ心を、題目のように念仏のように唱えることにしたのです。宇宙神のみ心というの
はどういう心であるかというと、宇宙全部が大調和することであり、完全に平和になることであり
ます。何故かと申せば、宇宙神は大生命であり、人類はすべてその子であり、その生命の分れであ
ります。親が子の争いを喜ぶわけがありません。子供たちの不調和な姿を歓迎するわけもありませ
ん。
みんなが平和で、みんながそれぞれの天命を完うして生きてゆくように、というのが、人類のみ
親である、宇宙神のみ心に相違ありません。私の霊なる心は、そのみ心を実によく感じておりま
す。
そこで私は、世界人類が平和でありますように、という祈り言と、私どもの天命が完うされます
ように、という祈り言を一つにした、世界平和の祈りという祈り言を唱え出したのです。
その祈り言を唱え出した時に諸神善霊が私のところに結集して参りまして、賞め讃えて下さり、
世界平和の祈りをするところに、諸神善霊の大光明を輝かす、という約束をして下さったのであり
ます。
その時から私は、単なる個人指導の行者的宗教者ではなくなり、救世の大光明の受け器として、
197生命と業想念波動について
世界平和の祈りの中心者となったのであります。918
今日では、私のところに集る人々の多くの人々が救世の大光明の輝きを、はっきり認めるように
なってきているのです。そして、この日頃は、他の秀れた星の住人である宇宙天使が大挙して私た
ちの世界平和樹立の応援をしてくれているのです。
私たちと宇宙天使との間柄は、もう実に親しい兄弟のような間柄になっておりまして、瞬時も離
れず私たちの活動を観守ってくれていますし、事々に種々と援助してくれているのであります。宇
宙子科学の講義など、まことに有難い極みです。
どのように祈ればいいのか
そこで、いつも申しておりますが、世界平和の祈りは、どのようにすればよいかについて、又改
めて申し上げてみましょう。
世界平和の祈りというのは、どんな宗教宗派に入っていようと、どんな国の人であっても、真に
世界平和を願い、自己の幸福を願う人なら、誰でも反擾なしに唱えられる祈り言でできています。
世界人類が平和でありますように、こうした祈りに反抗を持ち得る人は一人としていないわけで
す。何処でも誰の前でも、堂々と明るく祈れるのが、世界平和の祈りです。
この祈りは、自分の心を美しく磨いてから祈れという祈り言ではありません。業想念の渦巻くま
までもよいから、その想いのままで世界人類が… …とやれば、救世の大光明の中にその人自体が入
り得たことになるのです。
怒りの想いのまま、恨み心のまま、妬み心のまま、欲張り心のままでもよいから、世界人類が平
和でありますようにと唱えれば、神々はその人々の業想念波動をいつの間にか、光明波動に洗いあ
げて下さっているのです。その期間の早い人も遅い人もありますが、只祈りつづけていれば、その
人は必ず安心立命の境界に入り得るのです。業想念波動が、光明に輝く生命波動そのものになっ
て、自分たちの生活が明るく清らかになってくるのです。それと共に、その人の体を通して光明波
動が、世界中に放射されてゆくのです。一人出家すれば九族救われる、という言葉がそのまま実現
されるのです。
世界中が、世界平和の祈りに統一されて、世界が全き平和を実現させる日のために、私たちは、
悪にも善にも把われず、把われたら把われたまま、世界平和の祈りを根本にした日常生活を行じて
ゆきましょう。
199生命と業想念波動について
諸神善霊のそのまま働き給う、世界平和の祈りこそ、大救世主のみ心がそのまま働いている光明
思想そのものなのであります。個人個人の生命をそのまますごやかに生かすと共に人類全部の生命
を生き生きと生かしきる、というむずかしいことが、日常生活の中で、易しくでき得る道を世界平
和の祈り言は、徐々に切りひらいてゆくのであります。
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