武産合気 高橋英雄著

植芝盛平先生口述
…、
産合氣
高橋英雄編著

市川での植芝先生
五井先生のお誕生祝いに市川までおいでになり演武して下さった。
受けは田村6段〈当時〉(昭和35年11月22日午後・市111の白光真宏会聖ヶ丘道
場にて)
岩間の合気神社例大祭にて
参道の上に畳を敷いて奉納演武をなさった。
(昭和35年8月)
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大祭を終えられて参拝者と語られる
植芝先生
植芝先生ご夫妻を囲んで〈本殿前
にて〉前列右端現道主。後列右端
引土先生。後列左から2人目高橋。
旧本部道場にて演武されつつご講話中
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本殿前にてこ神事中の植芝先生
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植芝先生と五井先生(白光真宏会道場にて・昭和35年6月)
白光真宏会の会員と共に
植芝先生左隣は現道主
〈合気神社拝殿前にて〉
植芝先生ハワイに約二ヶ月間滞在。演武される。〈昭和36年4月ご帰国〉
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武産合気目次
推薦のことば
詩神の化身ー植芝盛平翁を稻う
植芝吉祥丸
五井昌久
五井昌久
植芝盛平
4
合気道と宗教
6
武産合気
合気道とは
道歌
一、
二、
三、
四、
自己完成の道
祈りについて
合気道は宇宙万世一系の理道なり
合気道は天授の真理にして武産合気の営みである
合気道は和合の大道であり宇宙経編の道へのご奉公てある…・68
合気道は言霊の妙用宇宙みそぎの大道である85
7
53434028279
武のはじめ
武産合気の根源
私の合気修業方法
合気の錬磨方法
1331251151101049
真の武
武気について
二度目の岩戸開き
神のたてたる道
霊のみそぎ法
祭政一致の本義
神の生宮
天の呼吸
大先生随聞記
地の呼吸
一、神楽舞
高橋英雄
二、宇宙と一つ
三、一剣にすべて吸収
四、植芝先生の横顔
植芝盛平翁の昇天
植芝盛平先生の思い出
あとがき
五井昌久
高橋英雄217206202197195190185185181176172167159155147139
題字・高橋英雄
推薦のことば
植芝吉祥丸
(合気道道主)
この度”武産合気”が装訂を改めて立派に出版されるとのこと、私ども日々合気道を行
じている者にとって誠に喜ばしいことです。
“武産合気
“は、合気道開祖植芝盛平翁生前の道話を、高橋英雄さんが誠に忠実に、し
かも難解な部分をよく演述され集大成されたものです。
盛平翁が指示された道義については、人間の心と体の相関から、最近特に心の問題が世
界的に大きな社会問題として取り挙げられている時、各面の注目を浴び合気道の発展につ
ながっていることは誰しも知る処です。
“武産合気
“は幾多合気道に関する書籍の中でも、盛平翁の心を率直に表現し、根本の
真義を強く訴えている点で常時私どもの座右に置かるべきものです。
しかも、「私の心を知っている人は五井先生をおいて外に無い」と言われた盛平翁と五井
先生との交遊、しかもそのこ門下であられる高橋さんが心血をそそいで、その口述を筆記
されまとめられた”武産合気” であって見れば、この出版は誠に時宜を得たものであり、
貴重な文献として広く各面の人々による一読をも期待し度い書物と言えます。
ご出版、心からお祝い致します。
昭和六十一年十月
6
神の化身
植芝盛平翁を稻う1
其の人は確かに神の化身だ
其の人は肉体そのまま宇宙になりきり
自己に対する相手をもたぬ
五井昌久
宇宙と一体の自分に敵はない
其の人は当然のようにそう言い放つ
五尺の小身
やそじ
八十路に近い肉体
だがその人は宇宙一杯にひろがっている自分をはっきり知っている
如何なる大兵の敵も
どのような多数の相手も

くロつ
そのまま空になりきっている
其の人を倒す事は出来ない
くうあめのみなかぬし
空はそのまま天御中主
あめのみなかぬし
天御中主に融けきったところから
その人は守護神そのままの力を出だす
この人の力はすでにすべての武を超えた
大愛の大気のはたらき
鋭い眼光と慈悲のまなざし
その二つのはたらきが一つに調和し
その人の人格となって人々の胸を打つ
その人は正に神の化身
みつかいびと
大愛絶対者の御使人
私はその人の偉大さを心に沁みて知っている詩集「いのり」より7
合気道と宗教五井昌久
9
神はからいによる植芝翁との対面
先日合気道の創始者、植芝盛平翁が、東京神田の講演会場に、私を尋ねておいでになっ
た。植芝先生には、私も以前から一度お目に掛りたいと思っていたのですが、先日光和堂
から出ている合気道と云う本を見て、この方には是非お会いしたいと、改めて思ったので
す。
ところがこの想いが、数日をいでずして直ちに実現して、神田での対談になったのであ
ります。この対談までの経過は偶然のようでいて、実に微妙なる神はからいによって進め
られていったのです。
それは、私が合気道の本を読んだ明くる日、出版の方の人に、私の著書を植芝盛平先生
に御送りして置いて下さい、植芝先生は神の化身のような立派な人だから、と申して置い
たのです。そうしますと、出版の方で早速送本するつもりで宛名を書いているところへ、
林さんと云う婦人が見えられて、ふとその宛名を見て、”あら植芝先生なら、私の主人が
大変御懇意にしております” と云われたので、そこにいた会の理事の人が、”うちの先生
は植芝先生に一度お目にかかりたい、と申されているのですよ” と軽い気持で云ったのだ
そうです。
すると林夫人は、”そうですか、五井先生と植芝先生がお会い出来たら、私共も大変嬉
しいし、きっと双方に善い事になります。私帰って主人から植芝先生にそう申し伝えまし
ょう” と勇んで帰ってゆかれたのですが、その翌日道場に電話を掛けてよこされ、”主人
が早速植芝先生に五井先生の御心をお伝え致したところ、一ヶ月も前から、自分の会いた
い人から迎えがくる筈だが、いったい誰れが使いしてくるのか、と思っていたところだっ
たが、その使いはあなたでしたか、すぐにでも市川へ伺いましょう、と申されている” と
云う事でした。そこで私は、わざわざ市川へお出向き下さるのも大変だから、神田の会の
日にお出掛け下さるように、とお答えして置いたのであります。そして対談と云う事にな
ったのです。
この経過は偶然にしては、あまりにも、すべて調子がよくゆきすぎております。たまた
ま見える人が、その封筒の宛名を書いているときに行き合わせる等と云うのは、偶然とし
てはあまりにも偶然過ぎますし、私の存在を知らされた植芝先生が、一ヶ月も前から私と
の対面が判っていた、と云うのも、偶然とは云いがたい事であります。
こうした神はかりによって、植芝先生と私が対面したのでありますが、”やあ、いらっ
しゃいませ〃”やあ、今日は” と云わぬ先きから、二つの心は一つに結ばれて、私は植芝
先生と云う人格、否、神格がすっかり判ってしまったし、植芝先生も、私のすべてがお判
りになったようでありました。
あまりお話はなさらないと云う先生が、心から嬉し相に打ちとけて、私の講演が始まる
六時までの二時間を、その時間を超えてもまだお帰りになる気持にはなられなかったろう
と思われる程に親しまれて、〃またちょいちょい伺います” と云われて帰っでゆかれたの
であります。
合気とは我即宇宙たらしめる道である
この日の植芝先生のお話や、合気道についての本から得た私の感じでは、合気道と云う
むデ
武道の一種と見られる道は、空を行ずる事が根幹であり、そこから生まれる自由無凝の動
きであり、大調和、愛気の動きである、と思ったのです。空を行ずると云う言葉を云いか
えれば、自我の想念を無くすると云う事であります。
植芝盛平翁は、この真理を、身をもって悟り、身をもって実際に行じておられるのです
から、私が偉大な人と思い、お会いしたい、と云う気になったのです。
植芝翁の言葉をそのままお伝えすると、
i 合気とは、敵と闘い、敵を破る術ではない。世界を和合させ、人類を一家たらしめ
る道である。合気道の極意は、己を宇宙の動きと調和させ、己を宇宙そのものと一致させ
ることにある。合気道の極意を会得した者は、宇宙がその腹中にあり、「我は即ち宇宙」
なのである。私はこのことを、武を通じて悟った。
いかなる速技で、敵がおそいかかっても、私は敗れない。それは、私の技が、敵の技よ
り速いからではない。これは、速い、おそいの問題ではない。はじめから勝負がついてい
るのだ。
敵が、「宇宙そのものである私」とあらそおうとすることは、宇宙との調和を破ろうと
しているのだ。すなわち、私と争おうという気持をおこした瞬間に、敵はすでに敗れてい
るのだ。そこには、速いとか、おそいとかいう、時の長さが全然存在しないのだ。
合気道は、無抵抗主義である。無抵抗なるが故に、はじめから勝っているのだ。邪気あ
る人間、争う心のある人間は、はじめから負けているのである。
ではいかにしたら、己の邪気をはらい、心を清くして、宇宙森羅万象の活動と調和する
ことができるか?
13
それには、まず神の心を己の心とすることだ。それは上下四方、古往今来、宇宙のすみ
ずみまでにおよぶ、偉大なる「愛」である。「愛は争わない。」「愛には敵がない。」何も
のかを敵とし、何ものかと争う心は、すでに神の心ではないのだ。これと一致しない人間
は、宇宙と調和できない。宇宙と調和できない人間の武は、破壊の武であって、真の武
むす
産(註神道の真理の言葉) ではない。
だから、武技を争って、勝ったり負けたりするのは真の武ではない。真の武はいかなる
場合にも絶対不敗である。即ち絶対不敗とは絶対に何ものとも争わぬことである。勝つと
は己の心の中の「争う心」にうちかつことである。あたえられた自己の使命をなしとげる
ことである。しかし、いかにその理論をむずかしく説いても、それを実行しなければ、そ
の人はただの人間にすぎない。合気道は、これを実行してはじめて偉大な力が加わり、大
自然そのものに一致することができるのである。ー
と云われるのであります。これが神の言葉でなくて何んでありましょう。この言葉は全
く、宗教の道そのものの言葉であります。こうした言葉が理論的な頭や、言葉だけの言葉
になって説教されたら、その言葉に生命がないのでありますし、折角の真理の言葉も、人
の心を打たずに済んでしまうのですが、植芝翁の場合は、この言葉の通りに実行されてい
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るのであり、何者にも敗れた事の無い実績を残しておられるのですから、感動させられる
のです。
私はこの言葉を書きながらも、非常な感動で胸が熱くなってくるのです。
神の化身植芝翁
植芝翁は確に神の化身であります。その神の化身は非常に謙遜であって、肉体身として
は、自分の子供に等しい(翁は明治十六年十一月生、私は大正五年十一月生)無名の宗教
者のところへ、御自分の方からお出掛け下さって、”これからは先生の働き時、私はお手
伝いになりましょう。” と云われるのですから、益々そのお心が輝やくのです。
こうした心は仲々得難いものであります。いたずらに尊大ぶり、唯我独尊を誤り思って
ざんき
他を弱小視したり、常に他教団との勢力争いをしたりしている宗教者は、漸惚すべきで
ありましょう。
宗教者は、まず愛の心が深くなければなりません。調和精神が深くなければなりません。
勢力を争う想いや、建物の立派さ、信徒数の強大さを誇る想いが、少しでもあるようなら
ばその宗教主管者は、本物ではありません。
IS
この世は神の世界であって、業想念の世界でも、自我欲望の世界でもありません。すべ
て神のみ心の如く成っている世界なのであります。神の大経編は、着々として行われてい
るのであります。
自己が自我欲望の中に住みながら、神の使徒である、と思おうとするのは、泥田の中に
いて体を洗っているのと等しいのです。自我欲望とは、愛の心を乱し、大調和の心を乱す
一切の想念行為であります。これはいくら声に出ずる言葉でいっても駄目なのです。実際
に心に想い、行為を行じなければ駄目なのであります。
植芝翁と私の対談中、ある霊能の開けた人が、傍にいたのですが、その人の心には、二
人の姿が、すっかり透明に見えたそうですが、それは、翁にも私にも自己の我と云うもの
が全くないから、想念の波をその霊能者に感じさせずに透明に見えるのです。
翁の姿を私が観ていますと、植芝翁と云う肉体人間の姿はなく、神道に記されて在る、
ある有名な神の姿がそのまま口をきいておられるのです。これは翁に自己の我の想念が全
しようこ
くないと云う事で、神の化身として働いておられる証拠であります。
翁の合気は、一度に何人の相手でも投げ飛ばす事も出来るし、何百貫の重量の物でも、
平気で持ち上げる事が出来ると云う事であります。こうした時には、翁の空になった肉体
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身をこれも神道に記されているある武の神が働かせて為させるのであります。
お目に掛からぬ前から私はそれを知っていましたが、お会いしてみて、その原理を改め
てはっきり知ったのです。
私も自叙伝「天と地をつなぐ者」で書いていますように、守護神によって指導されなが
ら行った、想念停止の練習、つまり空観の練習によって、空体になる事を得たので、神が
そのまま私の体を使い、私の頭を使い、私の口を使い、私の今日迄の学問知識を使い、大
調和世界、神国再現の働きをなさしめておられるのであります。
植芝翁の神我一体観の体験
植芝翁が、神との一体観を体験された事をーたしか大正十四年の春だったと思う。私
が一人で庭を散歩していると、突然天地が動揺して、大地から黄金の気がふきあがり、私
の身体をつつむと共に、私自身も黄金体と化したような感じがした。それと同時に、心身
共に軽くなり、小鳥のささやきの意味もわかりこの宇宙を創造された神の心が、はっきり
理解できるようになった。その瞬間私は、「武道の根源は、神の愛(万有愛護の精神) で
ある」と悟り得て、法悦の涙がとめどなく頬を流れた。
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その時以来、私は、この地球全体が我が家、日月星辰はことごとく我がものと感じるよ
うになり、眼前の地位や、名誉や財宝は勿論強くなろうという執着も一切なくなった。
武道とは、腕力や凶器をふるって相手の人間を倒したり、兵器などで世界を破壊に導く
ことではない。真の武道とは、宇宙の気をととのえ、世界の平和をまもり、森羅万象を正
しく生産し、まもり育てることである。すなわち、武道の鍛錬とは、森羅万象を、正しく
産みまもり、育てる神の愛の力を、わが心身の内で鍛錬することである、と私は悟った。
1$
と申されている。拙著「天と地をつなぐ者」では、私の同じような体験が書いてありま
すから参考の為ここに載せてみます。
私の神我一体観の体験
– 自然はなんて、美しいのだろう、私は自然の美しさの中に半ば融けこみながら、世
の中から病苦を除き、貧苦を除かなければ、この美しさの中に全心を融けこませるわけに
はゆかないのだなあ、と自分の責任ででもあるような痛い声を心のどこかできいていた。
私はその声に応えるように、「神様、どうぞ私のいのちを神様のおしごとにおつかい下
さい」と、いつもの祈りを強くくりかえしながら歩いた。そのまま向岸へ渡る舟着場まで
来て、土手を下りようとした瞬間「お前のいのちは神が貰った、覚悟はよいか」と電撃の
ような声がひびき渡った。その声は頭の中での声でも、心の中の声でもなく、全く天から
きた、意味をもったひびき、即ち天声であったのだ。それは確かに声であり、言葉である。
しかし、後日毎朝毎晩きかされた人声と等しきひびきの霊言ではなかった。私はそのひび
きに一瞬の間隙もなく「はい」と心で応えた。
この時を境に私のすべては神のものとなり、個人の五井昌久、個我の五井昌久は消滅し
去ったのである。しかし事態が表面に現われたのはかなり日時が経ってからであった。
私はひととき、土手の下りぎわで、じいっと眼を閉じたまま何も想えず立ちすくんでい
たが、やがて夢から醒めた人のように眼を開けた。太陽は白光さんさんと輝いている。小
鳥の聴りも耳もとに明るい。私は一時の緊張で堅くなった体を両手で交互にさすりながら、
渡舟に向っていった。「私のいのちはもうすでに天のものになってしまったのだ、この私
の肉体は天地を貫いて此処にいるのだ」私の心は澄み徹っていて、天声に対する何の疑い
も起こさなかった。1
と云う体験から、その間幾多の霊的修業をさせられて、現在の私になる直前、即ち、
19
1 私は例の如く就寝前の瞑想に入った。想念停止の練習により、私は直ちに統一する
事が出来る。その夜統一したと思うと、吸う息がなくなり、吐く息のみがつづいた。する
と眼の前に天迄もつづいているかと思える水晶のように澄みきった太く円い柱が現われ、
私は吐く息にのり、その太柱を伝わって上昇しはじめた。i 中略-
七つ目の金色に輝やく霊界をぬけ出た時は、全くの光明燦然、あらゆる色を綜合して純
化した光明とでも云うような光の中に、金色に輝く椅子に腰掛け、昔の公卿の被っていた
と思われる紫色の冠をかぶった私がいた。”あっ” と思う間もなく、私の意識はその中に
合体してしまった。
合体した私は静かに立ち上がる。確かに其処は神界である。様々な神々が去来するのが
見える。ー中略-
天の私(真我)に地の私が合体して停っているこの現実。霊的神我一体観が遂いに写実
的神我一体として私の自意識が今確認しているのである。
想念停止の練習時にはもう少し上に(註・奥に)もう一段上に自己の本体がある、と直感
しながら今迄合体出来なかったその本体に、その時正しく合体したのである。吾がうちな
る光が、すべての障害を消滅せしめて大なる発光をしたのである。その時以来、私は光そ
20
のものとしての自己を観じ、私の内部の光を放射する事によって、悩める者を救い、病め
る者を癒しているのである。
天とは人間の奥深い内部であり、神我とは内奥の無我の光そのものである事も、はっき
り認識した。1 中略
– 空観とは、空そのものが終局ではなかったのである。空になるとは現象的、この世
くコつ
的すべての想念を一たん消滅し去って、その「空」となった瞬間、真実の世界、真実の
我がこの現象面の世界、現象面の我と合体して、天地一体、神我一体の我が出現してくる
のである。真我の我とは一体何か。神我であり、慈愛であり、大調和であり、自由自在な
心である。1 という体験を経て、最後に
i 瞑想してやや暫くした時、眼の前がにわかにただならぬ光明に輝いてきた。私は想
念を動かさず、ひたすらその光明をみつめている。すると、前方はるか上方より、仏像そ
けつかふざ
のままの釈尊が純白の蓮華台に結迦跣坐されて降って来られ、私の方に両手を出された。
によいほうじゆ
私も思わず、両手を差し出すと、如意宝珠かと思われる金色の珠を私の掌に乗せて下さ
った。
私は思わず押し頂き、霊体の懐に収めた。その後、現象界で云う、おさかきのような葉
を五枚下さって、そのまま、光輝燦然と消えてゆかれた。私は暫く釈尊を御見送りする気
持で瞑想をつづけていると、今度は、やはり光り輝やく中から、金色の十字架を背負った
イエス・キリストが現われたとみるまに、私の体中に真向うから突入して来て消えた。そ
の時、”汝はキリストと同体なり” と云う声が、烈しく耳に残った。私のその朝の瞑想は、
その声を耳底に残したまま終ってしまった。私は深い感動と云うより、痛い程の使命観を
胸底深く感じていた。その事が単なる幻想でない事を、私の魂がはっきり知っていた。
“汝は今日より自由自在なり、天命を完うすべし
” と云う内奥の声を、はっきり聴いてい
たからである。私は直覚的にすべてを知り得る者、霊覚者となっていたのである。
私はその日から表面は全く昔の私、つまり、霊魂問題に夢中にならなかった以前の私に
還元していた。私はすべてを私自身の頭で考え、私自身の言葉で語り、私自身の手足で動
き私自身の微笑で人にむき合った。私の眼はもはや宙をみつめる事もなく、私の表情は柔
和に自由に心の動きを表現した。私はもはや神を呼ぶ事をしなかった。人に押しつけがま
しく信仰の話をしなくなった。父母にも兄夫婦にも弟にも、昔の五井昌久が甦ってみえた。
柔かな、思いやり深い、気楽で明るい息子が冗談を云いながら、老父の脚をさすり、老母
の肩をもみほぐす毎夜がつづいた。1
22
と云う事になったのであります。
真実に神我一体観、宇宙との一体観を体験致しますと、自分と相手とか、自分の敵とか
云う想念は全く無くなるのであります。
植芝先生は、力による武道から、遂に神我一体の境地を経て、宗教道と全く一つである
ゆだ
合気武道を創設されたのであり、私は、はじめから自己の弱少を悟って、すべてを神に任
ね、そこから神我一体の境地に至り、神様の器になり切ったのであります。
修業の道は全く異なった形をとりながら、行きついたところは、全く一つの境地であっ
た事が、植芝先生と私を今日の結ばれにもっていったのでありましょう。
境地が一つであれば、行き方が異っても、必ず一つに結ばれるものであるのですが、現
在の宗教界は仲々一つに結ばれそうもありません。それは、各主宰者が、真実の空の境地、
自由自在の境地になっていないからなのであります。
神が愛である事を固く信じて下さい
私は、自己の肉体の智慧知識や能力が、他の人に秀れている等と思った事もありません。
ですから、老人や幼児に対しても、その人々を、下に見下して話をするような事はしてみ
23
た事もありません。只、教えの言葉、浄めの態度には、厳然としたものがあります。それ
は肉体の私がするのではなく、神がするのであるからです。
私は神の愛を、私の肉体を通して、優しく判り易く、人間世界に伝えようとしている者
であります。神は愛なのです。神は慈愛なのです。だから人間を救おう救おうとなさって
いて、決して罰しよう等とは思っていらっしゃらないのです。それを誤った宗教者が、神
の罰を説いたり、心の欠陥ばかりを責め裁いたりして、宗教を求める善人を、狭い窮屈な、
暗い人間にしてしまい、気の強,い悪人をして、宗教の門、神の門からしめ出してしまって
いるのです。
i4
あなたは神に愛されている神の子なのです
白光表紙裏の、私の教義を何度も何度も読みかえしてみて下さい。神様の愛が、心に沁
みてくる筈です。神様は御自分の子である人間に真実の姿を知らせたがっていらっしゃる
のです。”おまえは私の子なのだよ、光り輝くものなのだよ。おまえが今、生活に苦しみ、
病気に苦しんでいるように見えるけれど、それは決して、おまえの本心が苦しんだり嘆い
たりしているのではないのだよ。そうした苦しみや嘆きは、おまえが私の方を振り向かな
いで、おまえが勝手にその苦しみの中に入りこんでしまっているのだよ。だからわたしは、
くニフ
釈迦をつかわして、この世のすべては無であり、空である、み仏だけの世界なのだと説
かせたり、イエスをつかわして、おまえたちすべての罪悪観念の唄罪者として、おまえた
おもい
ちすべての悪とか、迷いとか云う想念を十字架にかけてみせ、人間には本来罪稼れはない
のだよ、と知らせてやったのだけれど、おまえたちには仲々わからない。そこで今度は、
守護霊、守護神と云うものを、おまえたちの救いとしてはっきり示したのだよ。そしてそ
の力にしっかりすがっていさえすれば、いつの間にか、わたしの子である事が、はっきり
判って来て、おまえたちが勝手につくった罪悪感や、業想念行為の渦から知らぬ間にぬけ
出してしまい、そうしたマイナスの面は消滅してゆき、おまえたちの世界はわたしの姿を
そのまま現わした、大調和世界、愛と真と美の世界になるのだよ。何んでもよいから、想
いのすべてを守護の神霊を通して、わたしの方に向け通していればよいのだ。それを祈り
と云うのだよ。”
と私を通して、みなさんに知らせているのです。自分を罪深い者と思い、駄目な者と思
っていてはいけません。自分は神から来た者であることを、一心こめて知らなければなり
ません。駄目なのは、あなたが肉体身だけを自分だと思っているからで、あなたの本心は
2ラ
神から来ているのですから、駄目なわけはありません。その真理を信じて、自分を赦し、
人を赦し守護の神霊への感謝をつづけ、世界平和の祈りに明けくれるようにしていてごら
んなさい。必ずあなたの夜明けが訪れ、地球世界に平和な日が訪れてくるでしょう。
植芝先生たちや、私たちは、方法こそ違え人類世界の大平和実現の為に、神様から遣わ
されている天の使者なのです。どうぞみんなで手をつないで世界平和の達成の為に働きつ
づけようではありませんか。
i6
けむすあいきた
武産合気植芝盛平
28
合気道とは
(1)
今日はお尋ねにより、合気道とは何か、ということについて申上げてみましょう。
合気道とは、宇宙の万世一系の理であります。
たけむす
合気道とは、天授の真理にして、武産の合気の妙用であります。
てんらじん
合気道とは、天地人、和合の道とこうなるのであります。
また合気道とは、万有の処理の道であります。
ことだま
合気道とは、言霊の妙用であり、宇宙みそぎの大道であります。
しい
こ の道を思惟する人々は、宇宙建国完成の経論に奉仕しなければならないことになって
おります。
人としての使命を遂行し、世界大家族大和合の指標たるものでなければいけません。そ
れについては、よく宇宙の真理真相を悟り、大神さまのみ心に同化して、この大きな宇宙
ヘヘへ
の大神さまのお姿お「振舞いに神習うて、つるぎの行いとなって、経論に奉仕しなければい
けません。
あめのうきはした
合気道は、どうしても「天之浮橋に立たして」の天の浮橋に立たなければなりません。
これは一番のもとの親様、大元霊、大神に帰一するために必要なのであります。
またほかに何がなくとも、浮橋に立たねばならないのです。
大神さまに自己を無にして、自分は鎮魂帰神の行いにかなうように努めることでありま
す。
かむわざつくりぬし
一番の神業は、大神にして創造主たる神に同化、帰一和合すること、つまりその方法
は与えられたつとめを尽すこと、精霊のご神霊にむすんでゆくことである。大宇宙に同化
することになるのであります。
そしてこの霊は霊、体は体でととのえていかなければならない。みな霊、体をととのえ
りゅうじゅうこう
て、気、流、柔、剛とその世界に進んでゆくのである。
Zg
そしてこの気と流、柔、剛との境を正しくととのえて、そして明かに体得してゆくのを
しきしん
識心という。
この宇宙の霊、体に同化し、そして和合の光のこの修行をすることを合気道と今、名づ
けているのであります。
30
たとえば、地に汚れたものがあると、虫がきてこれをきれいに処理してゆく。このよう
に、虫類、魚類、鳥類、獣類等すべてに、その処理方法があります。
人間は、汚れ、けがれを浄め祓い、そしてその人その人の天授の使命を完うさせてゆく
のが、合気道であり、またそのために、あなた方は、五井先生の提唱されている「世界平
和の祈り」を祈っているのです。けれど口先きばかりの祈りではいけない。実際に行じな
ければ、何にもならないのです。

合気道とは、真の武であり、愛のみ働きであります。
この世のすべての生物の、守護の道であります。即ち、この合気道は、すべてを生かす
羅針盤であります。
うたけむす
そして、この今日までの武技を産み出して来た、武産の現れであります。
せいせいかいくのり
そしてその生れてくるところの武は、万有の生成化育の法にふして、万有の生長を守
る法であります。
細かく申し上げると長くなりますので、簡単に申し上げるとー
やまとだましい(註-)うぶや
万有万真の条理を明らかに守る大和魂をねり、大成するところの産屋であります。
まさかつあがつからはやぴ
即ち正勝吾勝勝速日の道に住して、大民主主義、大自由主義たる最も幸福なる祭政一
ことだま
致の本義を明らかにする、言霊の妙用であります。
これ即ち、世界大平和への祈りの案内者として、みそぎの道を示し、すべての気の清ら
かなる完成和合の羅針盤としてご奉公するの道であります。
今や、我々は与えられたる神業を失墜せんように、慈となり、光となって、神のみ子た
うらゆうけんこくわざけんゆうしん
るところの身の本分をつくし、宇宙建国完成、人の完成の業に奉仕し、顕幽神三界にわ
けいりん
たり、世々をあげて和合し、経繍を進むるは、我々の完成の道であり、それは合気の実
行であります。
これを、世界家族の一人として、皆さんに申し上げたいのであります。
31
32
スウア(言霊の発声をなさる)
これからアオウエイが発生します。
はらりき
アオウエイは八力の現れであり、この言霊の働きで宇宙が出来たのであります。
げんれいさんげんはちりきせいけんななそいつつことだま
タカアマハラの六言霊、またアオウエイ、三元八力のご生顕、七十五の言霊のみ心の現
れであります。
きりゅうじゅうぐう
三元とは、気、流、柔、剛のことです。
また褥グムスビ(△) タルムスビ(○) タマツメムスビ(口) であります。
たけむす
これが合気道の武産であります。
たけむす
武産とは引力の練磨であります。
(3)
合気道は天之叢雲クキサムハラ竜王の働きであります。
天ノムラクモとは、宇宙の気、オノコロ島の気、森羅万象の気を貫き息吹く気の働きで
あります。
クキとは、大地の妙精の現れと、天の現れとを一つに貫く、即ち天と地の両刃の剣であ
ります。
サムハラとは、世の最高の徳と功しを称えた言葉であります。
うだい
かくて合気道は、地上天国建設のため、宇内の完成に進むのであります。
合気道とは宇内を悉くみそぎ、森羅万象の罪障、邪気邪念を祓い浄め処理するところの
大道なのであります。
その方法は言霊によってするのであります。
合気の道は愛を守るの道であります。愛なくばこの世の一切は成り立たないのです。故
に合気の真の働きがなければこの世はつぶれると私は信じているのであります。
そのために、顕幽神三界にわたって、この世を守っていかなければなりません。それは
最勝妙如来の現れであります。
合気とは、宇宙の中心に立って、ただよえる世を立直す役目を持っておる処の一つの道
であります。
自己をみそぎ、人を国を宇内をみそぎ、神の名によって進むのであります。
いよいよ合気道の真の働きが始まるのであります。私は合気道より他にこの世を立直す
33
方法は知らないのであります。
我々は武道をもって本門に入り、人類を滅亡から防ぎ、人類を平和ならしめるためのご
奉仕をせねばなりません。この働きは大神様の一部の働きなのであります。
時期が来たのであります。本年からいよいよ活動を開始致します。
34
合気道とは至誠の道であります。誠とは忠孝の道であります。
忠孝とは、宇宙天国建設の完成にむかってのご奉公、地上天国建設精神に対してのご奉
公をいうのであります。
この道を進むには、まず自己を完成しなければなりません。国をよくし国を完成し、人
類をよくし人類を完成し、地球をよくしていかなければなりません。
すいか
合気道はまたアオウエイの五つの声の働きでもあります。これは水火のむすびの二元
たかみむすびかみむすび
に密接な関係があるのであります。神道でいう高御産巣日、神産巣日の二神であります。
この二つの流れの御振舞によって世界が出来るのであります。
この二元は、また一元に即ちス◎ の一元に還るのであります。
二つとは霊魂と物質の根源であります。これは何処から生れたかというと、霊魂と物質
ことだまことだま
はウの言霊より生じるのであります。ではウの言霊はどこより生じたかといいますと、
ス声の生長より生じたのであります。
ス声とウ声の働きは霊魂の源、物質の根源なのであります。宇宙万有の根源なのであり
ます。
ではス声とは何処から生じたか? ス声とは大虚空に一点のポチ忽然とあらわるる、で大
虚空より生れたのであります。
大虚空は何処から生れたか、といいますと一切があって一切がない空(無) からであり
ます(私がいう無とは虚無ではありません。ありてある処、対象のない光一元の世界であ
ります。この世はこの無よりの生長であります) が、聖賢語るを得ず、曰く言い難しとい
う境涯にあるのであります。
では植芝はどうしてそれがわかったか、といいますと、私は日々一切の執着を除く修行
をして、自分の光身を見たりしたこと、即ちある時は大光明火炎を背負った不動明王に、
ある時は観世音菩薩などに見えたりしたのでありますが、植芝は植芝自身にきき、そして
知ったのであります。この私の中に宇宙があるのであります。すべてがあるのであります。
宇宙が自分なのであります。宇宙そのものでありますから、自分もないのであります。ま
35
た自分が宇宙であるから自分一人のみがあるのであります。
今や武門はアオウエイの問題から起って来るのであります。即ち△ ○ 口の形の上に起っ
て来るのであります。
くすみたまあらみたまにぎみたま
△ ○ 口を物質的にいえば、天火水地、精神的にいえば四魂、即ち奇霊、荒霊、和霊、
さらみたま
幸霊であります。これはどこから現われるかというと、二つの元、水火の二元の御振舞
の緩急の度合から生れたのであります。
ことだま
霊も物質も言霊であるし、宇宙の実体も言霊であります。しかしこれは普通の宗教者
にはわからないのであります。これを生かす言霊の妙用が合気道であります。
合気道は宗教にあらずして宗教なのであります。
かくの如く合気道は今迄の武道とは違うのであります。あらゆる真理を悉く身に行じて
ゆくのが合気道なのであります。
皆さんが、精神武道の分野をあわせて攻究せられんことを私は願うのであります。
これから皆さんと共に、身をもって攻究していきましょう。
(昭和三十四年一月十五日鏡開きの日、合気道本部道場におけるお話より)
3 6
㈲その使命
まさかつあがつからはやぴ
△ ○ 口とはイクムスビ、タルムスビ、タマツメムスビのことで、正勝吾勝勝速日のこ
くすみたまあらみたまにぎみたまさらみたまロ
とであります。これを霊的に見ますと、△ 奇霊、荒霊○ 和霊口幸霊であり、こ
てんかすいら
れを物質的に見ますと△ 天・火○ 水口地であります。
天とは理であり理身であります。みいずを徳としたもう。火とは法であり大臣でありま
す。大臣は理をよく融解して即ち宇宙の条理を悉く知り、理法礼道を腹中に体して広く法
をのり伝えることです。すべてのまつり(まつりとは天上と地上との真釣、即ちまつり合
わす意義で、即ち合気、天と地の合気です) の本義を全部融解してのり伝える意義が法な
のです。
水とは礼であり官吏であり和霊であります。和やかに動くのを和霊という、それは即ち
礼をもっての上下のむすび合せであります。これをいやという。それには誠がなければ駄
目です。誠とは愛と愛とが抱合することであります。愛の交流であります。ここに一切の
もろもろは本義を身に体して、これを少しも離さないように身にしめし置くのです。これ
を道といいます。地であり民草であります。
37
こと
道は身に血が巡りみつるように、すべての真理を悉く腹中に胎蔵して言あげせず、身
にしみこませて離さないことです。道は離るべからず、離るべきは道にあらず。この道は
実に厳固として必ずなすべきことであります。
地とは天のみいずの現われ出る処であります。天のみいずは悉く民草の一人一人に輝く
のであります。こうなる時日本は地上に真の姿を現わし得るのです。
こうすべきため、祭政一致の本義と万有万真の条理を明らかにして、人々に指し示めし
ふみ行わしめるようにするのが、合気道の使命であり、役割なのであります。
あめのみなかぬし
人はみな天の浮橋に天之御中主神となって立たなければいけません。阿弥陀仏となって
立たなければいけません。そして自分が光りとなって宇内を浄めていかなければいけませ
ん。
くにとこたらのみこと
大地はすでに完成され、国常立命が表にあらわれてきたのです。まだ人のみが完成
されていない。罪けがれが身にしみこんでいるからです。合気道の技の形は体の節々をと
きほぐすための準備です。これから六根の罪けがれをみそぎ浄めていかねばなりません。
みそぎのために合気道は生れてきたのであります。即ち草薙の神剣の発動です。罪けが
れの雑草を払い、万有万真の条理を明らかにし、処理してゆくことであります。森羅万象
3 8
すべてに、虫けらまでにもその処を得さしめ、そして各々の道を守り、生々化育の大道を
明らかにするのが合気道の道であります。
それにはまず聖者を安心させることです。神に仏に安心させることです。
耳に汚れあれば耳をはらい、口にけがれあれば口を浄め、鼻に汚れあれば鼻をみそぎし
て、六根を全く祓い浄めて、,すべてをみ親の神に打ちまかせ奉り返還せねばなりません。
つくしひむかたらばなおどあはぎおおはらいど
筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原で大祓戸の大神がみそぎたもうた、そのみ振舞よ
り合気道は生れたのであります。それはアオウエイ即ちみそぎの中心であります。かく罪
けがれを襖ぎ祓いつつ、合気道はすべてと和合してゆくのであります。この植芝は武門を
通じて、この世界の修理固成を整然としてゆきたいのであります。
39
道歌
朝日さす心もさえて窓により天かけりゆく天照るの吾れ
しんくうかみ
むらきもの我れ鍛えんと浮き橋にむすぶ真空神のめぐみに
くロつ
真空の空のむすびのなかりせば合気の道は知るよしもなし
にらにらおたけはらだいりきおう
日々に鍛えて磨きまたにごり雄叫びせんと八大力王
はちだいりきおう
天照らすみいず輝くこの中に八大力王の雄叫びやせん

ムるかつはやぴ
世を想い嘆きいさいつまた奮いむら雲の光はわれに勝速日して
世の中を眺めては泣きふがいなさ神の怒りに我は勇みつ
てんかすいろたまおあない
時は今天火水地や玉の緒の筋を正して立つぞ案内に
うつわざくさなぎ
現し世と神や仏の道守る合気の技は草薙ののり
すさのおいあづま
須佐之男の玉のつるぎは世に出でて東の空に光り放てり
41
あめうぶやよみミコトミコト
註1 天の産屋黄泉の国に逝かれたイザナミノ命に会いに行かれたイザナギノ命
は、イザナミノ命の姿をごらんになると、その姿のすさまじさに驚き、逃げ帰られた。イ
ザナミノAoはその姿を見られたことを憤り、軍勢をもって追わせた。イザナギノ命はかつ
うしろで
らを投げ、櫛をなげ、剣を後手にふって懸命に逃げたが、なお追って来て黄泉国と現界
の境に来かかった。その時、イザナギノ命が桃の実を三つとって投げ打たれると、黄泉国
の軍勢は悉く逃げてしまった。
ミコトふさ
二人の命は塞がれた石をへだてて、黄泉国と現界とに各々立った。そして、一日にあ
なたの国の人を千人殺します、とイザナミノ命がいわれると、イザナギノAooは、あなたが
千人殺すなら、私は千五百の産屋をたてよう、とそれに答えていわれた。
よみ
これが産屋である。また黄泉(幽界) の軍勢を追いはらった桃の実が合気道である、と
いうことを植芝先生から私はききました。
註2 △ ○口が四となって、これがまた丸く円になることが、合気道の実行であると、
たまたまこと
私は植芝先生からおききしました。そしてこれは、偶々、五井先生から見せて頂いた言
だま
霊の本に、宇宙の呼吸図として掲載されているのを見つけました。
42
一、合気道は宇宙万世一系の理道なり
(1)
合気道は宇宙万世一系の理道であって、一元の元津御親神即ち宇宙の”す” のみ声生れ
る前、大虚空を作り、その営みより我国の古き神代よりの歴史を生命として、又この歴史
を修業の根元として、まつるぎの意義をあらわし、かつその実行実在の上に、天の運化に
より修業する方法が即ち私の合気道であります。これを真の武術と心得まして、この一元
より出てくる宇宙の営みのみ姿、水火のむすびつまり天の呼吸と地の呼吸とを合し、一つ
の息として産み出してゆくのを武産合気というのであります。
それはどういうことをいうかというと「す」と「う」の働きによって、自分というもの
は、この与えられた魂と肉体との不離一体の交流によって、腹の底から「あ、お、う、え、
43
い」を身体の口より鳴り出さしめるところの形式と、水と火との動き、つまり高御産巣日、
ヘヘヘヘヘへ
神産巣日の二神の、右にらせんして舞い昇りたまい、左にらせんして舞い降りたまう御行
為によって、水精火台の生じる摩擦作用の模様と全く同一形式なのであります。
ヘヘヘへ
自己に与えられた自己そのものたるところのことたまを磨き、きわめ徹底する時は、あ
りとあらゆる物事のむすびを説きつくし、この世の大造化の実相を知り得るのみにあらず、
あめつくりのかんなぎらくらおきおきた
我国の宝典たる古事記と天火水地の天造之神算木にかけ行いて、千座の置座に置足らわし、
つくしつつ、満澗の球をつかいたてまつることを与えられるに至るのであります。
みちひる
この満澗の玉はみな自己の使命の上に、人のつとめの上に与えられております。人も
またこの満澗の玉により生命を保ってゆくのであります。
合気道は真の武道であって、今迄世に出た武術の上に、その本源の神髄たる乙の宇宙の
営みの道、ことに現れの顕著なる火と水の交流に働く、ナギノミコト、ナミノミコトの二
神の島生み神生みに根強く現れている。つまり火と水の交流とその活動は、天之御中主神
のご活動、み心の現れである。即ち一元は二元を出して、それぞれの営みたる複雑微妙な
る天地の交流の営みのみ心み姿即ち宇宙の生命、天地の呼吸である。どんな体でもどんな
に小さくともみ心の現れでないものはなく、宇宙の生命である。

合気道は、今日出来上っている姿を称えて
“うるわしきこの天地のみ姿は
主のつくりし一家なりけり”
と歌いました。
諸神諸仏、山川草木禽獣魚虫類に至るまで悉くこの大宇宙のご全徳は現れている。この
ご全徳を一身に受留めて人としてのつとめをするのが合気道であり、又宗教であれば各宗
教も、この指導の産屋でなければならぬと思う。ご全徳を一つの剣にても天地の呼吸に同
化する。即ち人としてつとめをするにも、息を出す折りには丸く息をはき、ひく折りには
四角になる。そして宇宙の妙精を身中にまるくめぐらし六根を浄め働かすのです。丸くは
くことは丁度水の形をし、四角は火の形を示すのであります。丸は天の呼吸を示し、四角
は地の呼吸を示すのである。つまり天の気によって天の呼吸と地の呼吸を合わせて技を生
み出す。これが人のつとめであり、その上吾人には八百万の神々が悉く道により守護して
くれることになっている。これは五井先生の道において感得せねばならぬ。これが己れの
つとめであります。己れはこのご恩徳を忘れずに使命をつくさなければいけません。
それが祈りの会においては、信仰の徳そのものを天地の呼吸と応じて、諸神諸仏の守護
45
と共にこの世をば和合調和させてゆくことであります。祈りは光であり、熱であり諸神諸
仏と共に、天地の営みの道に沿ってゆかねばならない。これは合気のス声とウ声の働きに
照してみれば明らかになってくる。天の呼吸との交流なくして地動かず、ものを生み出す
のも天地の呼吸によるものである。武も妙精を腹中に胎蔵してことたまの呼吸によって科
学しながら生み出してゆくのであります。
天の呼吸は日月の息であり、天の息と地の息と合わして武技を生むのです。地の呼吸は
潮の満干で、満千は天地の呼吸の交流によって息をするのであります。天の呼吸により地
も呼吸するのであります。
人が生れる折りには潮がみちてひく折りに生れる、というのもこの理によるものであり
ます。人身のことは、私は一剣にすべてを吸収しているから、たっていわぬがよいでしょ
う。
さが
以前、神通千変万化の技を生み出す、ということは真空の気と空の気を、性と技とに
結び合ってくり入れながら、技の上に科学すると申し上げたことがあります。これは皇祖
皇宗のこ遺訓たるところのフトマニ古事記によって、技を生み出していかなければなりま
せん。フトマニ古事記とは神代からの歴史であり宇宙建国の生命線であり、我国はこれを
憲法としている。
絶えず人としては、与えられた使命の上に自己は自己によって修業しなければいけませ
ん。ということは、悉く自分の本守護神を、自己の身心を眺めるならば、自己の日々の織
りなすつとめがわかってくる。同時に祈りの方面からいうと、私は私として、五井先生を
尊敬し、又五井先生から出る道を尊敬している。そして朝夕修する上においては、自分は
常にそうなっていないが、天地のみいずを感謝し祈る折りは自己は全身鏡の如く、言葉で
形容出来ぬ程本当に澄み切ってくる。いながらにしてすべてのことが写って来て、わかっ
てくる。あらゆる執着は消え去り、元津御親の御息の中に住し宇宙万有に光りを送ってい
る。
この境涯に住するのを私は無上の喜びとし宇宙の全徳を称えてやまないのであります。
(2)
祈る折りには、自我はなく、あらゆる執着も去って光となる。成る程昔の聖者は、我は
何々の神といったが、そうも思える。自分も大宇宙のみ光の中に住んでいるように感得す
る。昔の聖者の間違った言葉も、その原因はこういう処にあると思う。今日では、人々に
47
間違いをさせないように、つとめをせねばならない。うかつなことはいえない。自分がこ
うなれるからといって、人に一度にそうなれとは望まない。また私は特別に人よりすぐれ
ているとは思っていない。ただこのような境涯に住めるようになったからには、人々の下
になり、下僕となって奉仕の道を進むことが出来ると思う。
祈りは、本当に祈りがもとになり大橋となる。大橋というのは、天の浮橋のことである。
天の浮橋とは、火と水の十字の姿である。世界十字にひきならして、世を治めるというご
神示がここにある。
教えの言葉に「三千世界一度に開く梅の花」というのがあるが、それは宗教ばかりでは
ない。合気道においても三千世界一度に開く梅の花のご神示こそ、我々に与えられた生け
る道である。
ねん
三千世界とは天の浮橋と同時にこの世が魂のひれぶりとなる。合気道においては、念

彼観音力である。勿論、肉体即ち暁がなければ魂が坐らぬし、人のつとめが出来ない。魂
の緒、魂を表に出すことであります。
我々に与えられている肉体は、造化機関であると同時に祭場であり、魂の緒をみがく家
こん
であり、器官である。又身体も魂の生れる修業によって立派に成人し生長してゆく。こ
の身が生長の家となるのである。
五井先生はそれがよくわかる。むずかしいことはいわなくてよい。みなさんは只黙って
祈っていれば、五井先生が責任をとってくれる。そして五井先生によって、合気道もすぐ
れてくるのである。即ち祈りによって、魂の緒の糸筋が浄まってくるのである。
色身とか八識とかいう言葉があるが、そのようなタワ言もいらない。只魂の緒の糸筋を
磨けばよい。結局今日まで世界は暁の世界であった。合気は晩を排するのではなく土台に
して、魂の世界にふりかえるのである。そして地上天国建設をすることであり、宇宙建国
の目的を達成することである。
(3)
武産合気とは、すべての営みの世を顕幽神三界を守り、和合させ、栄えさす所の役目の
ご奉公であり、経倫の本義を明らかにして、その大道をみそぎ、健全なる大道へのご奉公
に献身するものである、と私は確信してやまない。
それ故、我国の武道はスポーツとはいわない。武道とは自己を作る、自己を完成させる
ところのものである。ことに自己を作った上は、すべてを立派に成功させ、そしてまず第
49
一に人類として森羅万象を守らねばいけない。
我国には、本来西洋のようなスポーツというものはない。日本の武道がスポーツとなっ
て盛んになった、と喜んでいる人がいるが、日本の武道を知らぬも甚しいものである。
はく
スポーツとは、遊技であり遊戯である。魂のぬけた遊技である。暁(肉体) のみの競
いであり、魂の競いではない。つまりざれごとの競争である。
日本の武道とは、すべてを和合させ守護する、そしてこの世を栄えさせる愛の実行の競
争なのである。
世の中を守るところの道は、霊魂を守り、醜の世も守り、魂塊調和のとれたアウンの呼
吸をもって、すべての生成化育の道をば悉く守り、栄えの道を愛育することの競争である。
この競争こそナギナミニ尊をしての大神のご活躍ご活動を実在に、今日の世を創ったこと
と同一なのである。大神のご活動を日々感謝するの方法である。これが祈りとなるのであ
る。祈り程結構なものはない。気分のすぐれぬ時も体の具合の悪い時も祈ると、すっきり
して体もよくなる。私は自分の祈りの上でそれを体得している。天台に立って、東天に向
って礼拝する。地球の中心に立って、天地万有万真と共に、打揃って、そして感謝を捧げ
る祈りである。これが真の合気道であり、武産である。これがごく調和のとれた水火の息
ラo
と息との交流の根元をなしているのである。
(4)
宇宙万世一系ということは、宇宙は一元の御親神のもとに織りなす営みの全徳の現れの
道であって、厳然として中心のもとに綺羅星の如く、威儀整然とし、また四魂の活動によ
いくたまあまてらす
っ て、姿を天火水地の、そして生霊のむすびの意義に至るまで、丁度天照皇大神を中心
に、群神の威儀正しく整然としてみ鏡に写されたると同じ意義である。
結局この世の行いをするのに、アウンの呼吸でなければならない。精神的にいえば四魂
(奇霊、荒霊、和霊、幸霊) の行にして、物質的には、天火水地の四大活動造営なのであ
る。この物質も精神もただ一元の御親のご所有なのである。
合気はある意味で、剣を使う代りに、自分のいきの誠をもって、悪魔を祓い消すのであ
る。つまり暁の世界を魂の世界にふりかえるのである。これが合気道のつとめである。暁
が下になり、魂が上、表になる。それで合気道がこの世に立派な魂の花を咲かせ、魂の実
を結ぶのである。そして経編の主体となって、この世の至善至愛なる至誠にご奉公するこ
となのです。結局祭政一致の本義、忠孝の大本を崩さぬように、天地の正しい道を守り育
SI
てることであり、これにつとめることである。そうすると、諸神諸仏はまねかずとも来て
ヘヘヘへ
守護するのである。それで、聖者の教えに、みかえる立って天下に号令する、とある。三
界は悉くこの大聖者を仰いで、その言に悦服するのである。そのような偉い大聖者をお迎
えするために、吾人は先駆となって与えられたつとめにいそしむのである。
52
二、合気道は天授の真理にして武産合気の営みである
(t)
一元の現れであるこの世界は、やはり霊と体、つまり表があって裏があると同じように、
物の根源と霊の根源で営まれている。つまり造化の三神のように、水と火の息の交流によ
ってこの世は営まれている。
その働きは分派して、一霊四魂という働きを授けている。体については三元八力という
働きがあり、これらのご活動によってこの世は出来上っている。即ち一霊四魂三元八力の
ご活動によってこの世は出来上っているのである。
武産合気は、いかなる複雑微妙なる化育のみ働きがあっても、そのもとは水火の根源、
造化の三神の△法に迄いかねばならぬ。
53
二つの働きは結局一元の神に収まる。そして一元とは、建国大精神の根本より出たもの
である。み働きには、悉く裏表があって働くのである。つまり水火むすんではじめて活動
するのである。
合気は、全神代からの歴史を、その活躍の霊営を悉く身心に吸収し、胎蔵させて頂いて、
営みの世界たる万有万真、森羅万象に至るまでの現れのごみいず、造化の三神のごみいず
の大気を胎蔵して、授けられた本能によって、神代にさかのぼり又天下の造化の歴史を未
ひかり
来に及ぼし、古も未来も一身に胎蔵して、その智によって技を湧出するものである。技
はその造化機関を通して科学化されて湧出してくるものである。これを誤つことなく霊と
体と調和のとれた、フトマニの神意を体得して技を生み出してゆくことである。
昔、数多くの先輩、諸先生は、何流何流と流派をこしらえたが、これも一つの修業方法
として学ばねばならない。しかし武産合気は、神代からの歴史を一身に吸収して、自己一
身のごとくし、又時間空間も腹中に胎蔵してゆかなければならない。これはアウンの科学
によって出てくるのである。
武産合気とは、自己の魂が、身心によって科学されて出てくるものである。だから神代
からの歴史を、自己の想念の内に吸収せねばならない。誠によって吸収して皆の行なえる
54
ように、この世に現わしてゆかなければならないのである。これは至誠のご奉公である。
五井先生の祈りの線に沿って、我々はこれを実行してゆかねばならない。
祈りも又実在のもとに武技となって生れるのである。祈りそのものが悉く武術でなけれ
ばならない。祈りそのものが又、実在にこの世界を浄めねばならない。即ち祈りそのもの
が武の実行と同じである。であるから皆さんのような信仰の持ち主こそ、武を学ぶ必要が
ある。信仰の徳がなければ、武産合気は会得できないからである。なぜなら、万有愛護の
大精神のもとに、愛信真信の根源なる大神様のみ姿に神習うて、即ち信仰の徳によって伊
ずのめ
都能売の働きをするのが、合気の修行であり、実行である。
故に武産合気は、世の最後の仕上げに神のたてたる、神の武である。これは丑寅の金神、
国祖の大神の分身分業の国武の現れであります。
(2)
愛のために愛さねばなりません。信のために信を行なわねばなりません。それには信仰
の熱がなければならず、信仰の光即ち神智を得なければなりませぬ。光と熱の和合した信
いずのめ
仰 でなければ、人のつとめは出来ない。武産合気を学ぶ価値はありません。伊都能売の時
55
代の昔から、この武は現われていなかった。このような今日の時代になって、神示によっ
てはじめて現われたのが武産合気である。
霊界においては、善は太陽と現われ、信は月と現われている。聖者の言にある通り、一
元の神は、この情動にあらゆる姿に顕現するのである。又光も神智によって現われる。即
ち月となって現われる。一方では日ノ若宮は太陽となって現われている。瑞のみたまは月
の世界です。これは身心の光を現わすのです。
つまり熱と光は一体です。神の御名は情動によって姿を変えられるのである。又情動に
よって、宇宙の営みの姿、八百万神も現れている。
日ノ若宮においては、至誠、熱の現れであるから、峻厳であって何者といえど、どんな
偉い聖者の霊体も、その奥に恐らく入れないと私は思う。
月の方は、日に反して本当に慈愛一方で現れている。無論両方とも至善至純の現れであ
る。その流れは正しく窮極において今日人類に及んでいる。だから人も宇宙の営みの道に
逆流しないようにすることである。この世では、お互いが自分で自分を守っていかなけれ
ばならない。教えは結局人の上においていえば、一元が現われれば、忠孝の道ということ
になるのである。忠孝を行うには勇気もいる。勇気を起すには献身的精神がいる。献身的
5 6
精神を生むには愛の信念が必要である。即ち信仰が必要である。
自分の仕事は大神様の仕事、自分の手柄はこの世にあっては天皇陛下のごみいずである。
自分の体もその通りであればよい。
ヘヘヘへ
これをあなないの道という、日本精神の働きであり、武産合気というのです。
(3)
武産合気というものは、丁度、呼吸の出来る中心部に、肉をつけ皮膚をつけ、枝葉をつ
け、大地に根をはって、天に呼吸している一本の大木のようなものである。葉一枚落ちて
もいけない。
武産合気は気の交流を最も尊重する。ナギナミニ尊の二柱の尊いごみいずの気の交流に
よって、その営みの道によって、この世は固ったといわれている。合気はこのナギナミニ
尊の島生み神生みに基礎根源をおいているのであり、これを始めとしているのである。
合気に志す方々は、この神生み島生みをよく学んで頂きたい。私がこういっているのも
直接内流か、間接内流か私にはわからない。ただ神様のみ心におまかせして、自分は島生
み神生みの神の法則によって、技を生み出しているのである。であるから、その技はすべ
57
てみそぎである。
名称をどうつけようと変えようと、人がただそれを変えたりつけたりするだけである。
私の考えからは、合気は大なるみそぎであり、大なる健康法であり、大なる生成化育の道
である。つまり営みの世を守り育てるところの至誠に、世界の一つの流れとしてご奉公す
る道が、武産合気と私は心得ている。
つまり一霊四魂三元八力の、宇宙の生命線たる大活動の道によって進めばよいのです。
造化の三神に△法をとる。次に○ 、次に口をとる。気体と液体と柔体と固体とに分れて
いる。それを一つにして活動していって、精神科学によって、ものを現わしてゆくのであ
くしみたま
る。これを宗教家は、体の世界からは、天火水地といい、その働きを魂的に見れば、奇霊、
あらみたまにぎみたまさらみたま
荒霊、和霊、幸霊といっている。この原則によって宇宙の実体の様相、営みの道がわ
かって来る。祓戸四柱の神も生れて来る。その新陳代謝の恵によって、祓戸四柱の大神の
道もわかって来る。
載簸とは理であり・これみな一元の全徳の現れである・謹譲は地上の最初のみ働き
で法というものが成立ってくる。智量をもって徳となすのである。智量をもって法を正す
にぎみたま
ことである。和霊とは、礼をもって徳とする。即ち和であり和合である。そこにむすび
5 8
ヘへもへさらみたま
といっていくたまともいう(正しい道)。次に幸霊とは、慈愛であって道である。これ
は理の徳より出ているので、みな天地の営みの道より理解して、法は行われるし、又和合
が行われ、礼が行なわれる。すべて経編の道がわかって、愛もあり道もある。道とは身体
に血がみつるのと同じように、離そうとしても離れないものなのである。離れたら道でな
い。
理とは宇宙経編の一元の現れである。このように、この世は営みの生命線が、肉体の斎
場が、この大地が、ちぎの如く、いわさかにならなければいけない。立派なちぎ地場にな
じば
らなければならない。つまり修斎の地場、経編の地場、営みの地場となることである。
高天原ということは、全大宇宙であるが、ことごとく魂のふりかえによって、地上は立
派な営みの斉場にならなければならぬ。
すさのお
合気は須佐之男ノ大神のお使いになったみ剣の名前である。即ち武産合気である。祭政
一致の大なる平和の道、営みの道、神のたてたる栄えの道である。その道に使って頂くと
ころの剣にならなければいけないということである。
合気は生命の動くまま行ってみる。そしてふりかえってみて、その道の通りになってい
れば、まず一元の大神にお礼を申上げねばならない。と同時に、万有万象にもお礼を厚く
59
せねばならない。この世では天皇ご一身に感謝せねばならない。と同時に自分にも感謝せ
ねばならない。これは大神の営みの姿、一霊四魂三元八力である。これも又三つの原則と
なり、イクムスビ・タルムスビ・タマツメムスビの働きとなるのである。こういう名称を
つけて宗教家が世に現わしたのである。これは武産合気によってすべてがわかってくる。
60
(4)
おむすび
世 の中には、緒産霊、緒産霊といっている人がいるが、緒産霊でも信仰の徳によって、
宇宙の魂の緒が浄まって、宇宙の魂線と緒産霊せねばならない。即ち一元の神の道に、魂
の緒の線を悉く糸筋となしてむすび、呼吸してゆかなければならない。この有難い信仰信
念と離れないようにすることが肝要である。言霊も同じように信仰がなければ用はなしま
せん。
言霊なる学問は、信仰のある人は学ぶ必要はありません。しかしその徳によって自然に
わかってくるのである。言霊学は学問であって、ことたまではない。霊学する人は本当の
力をもつことは容易でない。言霊学は古事記一巻を拝読するのには便利だが、これも信仰
の徳によって自然と明らかになってくるのである。学問に又文字にとらわれるとかえって
真の歩みの邪魔になる。
ことたまに、フトマニに占える、ということがあるが、それはウ声のみ働きを現わして
いる。ス声のひびきによってウ声が浄まった。ウ声の働きは霊の根源と物質の根源のもと
の働きである。しかし物質のもとも霊のもともさかのぼれば一元なのである。この調和の
とれた浮橋の根源にさかのぼれば、ヒルコ(不完全) になることはない。元を忘れないこ
やひろどの
とである。ことに地球をして、真の八尋殿にするため、皆の信仰によって進みたい。八尋
殿とは、至誠殿ともいって、気体と気体とが正しく打揃い、浄まっているところをいう。
この地球は、霊と体との歩みの間違いのない清浄なる地場でなければならないのである。
合気の世界は、地球上を立派な我々のちぎたるところの祭場にせねばならない。これは
私がするのではない。私は私の役目をちゃんと知っている。その使命を果すまでである。
私の使命とは、使命のつとめの上に自分を作り、この自分の世界へ、一人でも多く自分の
友達真友を作るのが私の役目である。神の僕となり、又いわさか、ひもろぎとなり、両刃
さるたひこ
の剣となり、おぬさとなって浄める役である。つまり猿多毘古ノ大神となって、天之浮橋
に立つ。みそぎの道そのものである。
いよいよ神が表に現われた世界となった。真の神代となった。魂暁調和のとれたふりか
6z
えの世界への世界家族のつとめを致さねばならない。各々の精神と物理と呼吸して、魂の
ひれぶりに変えるのである。即ち自分に与えられた呼吸、与えられた精神の宿、(肉体)
を地場としてその上に精神を鍛えることである。そして立派に神に通じて本守護神となっ
て活躍することである。
又いかなる正守護神といっても、悉く肉体の上において修業をするのである。であるか
ら肉体暁も浄めねばならない。そして精神の働きによって正守護神が本守護神に変わるの
である。
各々の正守護神なるものは、天人の種のようなものであるσ
人は、天地経繍の主宰者、天人の養成所なのである。又この世界も天国天人の養成所な
のである。それ故、合気により、天界と不離一体となる修業をすることが必要なのである。
天界をはなれて人類の存在はなく、人類は宇宙の妙精を吸収して、高天原の運化の流れ
とその完成に、天界と相和合して、連絡を断絶してはなりません。
62
(5)
合気を修したならば、悪いことをしようと思っても悪いことは出来ない。というより悪
い想念が消えてしまう。欲望がなくなるのである。只修業しようとする大欲はなければな
らないけれど、すべて天の使命を想い、悪い執着も去って忘れてしまう。それは私の体験
で明らかである。
私は今どんなに人に悪くされても、その人を拝してなんとも思わぬ。悪くされたことも
かえって修業の一つとして感謝しているから、自然と天の運化にさからうことがない。た
だ善のために善をなし、信のために信じ、愛のために愛を行じることを、身に感得してい
るから、熱と光を案配して、一つの技を生み出して一つの剣をもつ。その剣とは宇宙の営
みに至るマツルギの道である。使命の上の健康法である。即ちこの地上において政治家で
あれば政治の意義を悟り、宗教家は祭りの意義を知ることなのである。つまり一元のみ働
きを忘れぬことである。
(6)
大体武とは祭政一致の本義であって、人を殺す機関ではない。祭政一致の本義に立って
剣をもてば、剣の徳によって悪気邪霊は消滅させられるのである。その剣の徳により武産
合気の身心の活動によって、悉く悪魔は消滅して大地は浄まるのである。63
以前にもお話し致しましたように、この道は万有万神の道筋を明らかにせねばならない。酔
それには与えられた使命を果せばよいのです。私の使命はみそぎの技より他にない。
深呼吸をして血行をよくし、血液のかすをとる、これもみそぎである。祈りの言葉も又
祈りによって気のかすが取れるからみそぎである。
朝、東天を拝し、宇宙の妙精を呼吸によって吸収し、祈り言を唱えれば、身心は爽快に
なって邪気は晴れる。胸の固りも消え、お腹もスーとして来て、肉体のすみずみまで爽や
かに朗らかになる。食欲も出てくる。常食を頂いても感謝しながら頂ける。みなさんも試
しにやってごらんなさい。私はこの行事を一日でも怠ると、なんだかその日一日が面白く
ない。この祈り、みそぎによって、鎮魂帰神も成り立つのである。これをただ型だけ真似
してやっても何もならない。型だけでは用はなさない。
鎮魂というのは、遊離の魂を自己の丹田(たには) に集めることである。遊魂を集める
ことです。遊魂とは想い(魂) が邪霊(業想念) にとらわれ、魅かれて正守護霊からはな
れて遊びにいっている状態で、これを自己の丹田に収めることを鎮魂というのです。つま
たまお
り魂の緒の糸筋を浄めることです。これもみな信仰の徳によるのです。
要するに、宇宙とは何か、自分とは何かを悟ることです。そして何よりもまず自己を悟
らなければなりません。自分を知るということは宇宙を知ることになるのです。
いつよななよ
合気はことに、五代七代の神々のみ働きが根源となり、そこより生み出てくるのです。
天地の連絡を切らぬように、神は人を造ったのです。人の内分は霊、即ち天との連絡機
関であり、外分(体) はこの世との連絡機関です。しかし外は内分によってものつくりし
ていかなければなりません。内分のタカアマハラを現さなければなりません。しかるに人
々は内分の連絡を忘れて、外の横の自然界のみの連絡を固くしてしまったのです。そこで
神様は、人々に天地の連絡、タカアマハラとの連絡をさせるように、予言者、聖者をこの
世につかわされたのです。五井先生はそのようなお方です。
即ち人類に与えられた、神のみもとに至るための万界にかけられた大橋です。これが五
井先生のお役目です。それは天界と人間の和合の橋であり、天地にかけられた大橋なので
す。皆この橋を渡って神のみもとに至るのです。それも信仰の徳がなければ渡れません。
合気はこの道の案内者なのです。私は行なってふりかえってよければ、大神様よりおか
げは頂きます。人から何も頂くものではありません。人は人で大神様からおかげを頂くの
です。私は人のお役に立たせて頂いて有難い、というところにおかげを頂いています。こ
れが合気道であり、又真の信仰です。
65
66
(7)
とにかく信仰の徳は有難いものです。信仰の徳は大神様が下さるのです。それも自分の
行いの上に下さるのです。
徳はその情動によって、天界での立派な花園ともなるのです。百花瀾漫たる栄えの花園
です。金砂銀砂に映える青松、樹木には、花が咲き、桃畑のようなものが一面につづいて
いる。これは桃の実の養成を現しているのでしょう。桃の実とは魂の養成です。
天界の桃畑は何千年に一度、花を咲かせ実を結ぶといわれていますが、その花は常に咲
き、実を結んでいるということが、信仰の徳の現れなのです。
例えば真の信仰をされて、徳をつまれた方は、霊界にゆくと(この現界にも天国を作ら
ねばなりませんが)財産がなくても、富者となれるのです。信仰の徳の多少によって、富
いそ
者 と貧者が出来るのです。道のために尽した人、愛行に勤しんだ人は、まばゆいばかり
の宝石をちりばめた、七宝に輝く城壁の御殿を眺めることが出来るでしょう。
私が今こうして話しているのは、私が合気に住したので、合気の神様がいわれているこ
とです。私にはわからぬが、その目標に進むことを許されているのです。
又すべて我々の想念の世界は、智慧正覚によって、常に神の御前に住坐するのです。こ
れも信仰の徳によって支えられたものです。それ故神の愛の徳によって、常に魂の花園は
眼前に展開して、魂の花を咲かせ魂の実を結び、楽しく嬉しく暮し得るのであります。
猿多毘古ノ大神の神示にも”三千世界一度に開く梅の花” とあります。梅の花は智慧と
正覚とに相応する状態のことであります。楽園は唯神よりする愛善の徳にいるもの、及び
自然界の光と、その偽りによって自己の胸中にある所の天界の光を亡ぼさなかったものに
限っております。
この世は悉く天之浮橋なのです。ですから各人が、信仰の徳によって魂のひれぶりが出
来るのです。表に魂が現れ、暁は裏になる。今迄は塊が表に現れていたが、内的神の働き
が体を造化器官として、その上にみそぎを行うのです。これが三千世界一度に開く梅の花
こん
ということです。これを合気では暁のひれぶりといい、又法華経の念彼観音力です。
うぶや
私はその最初の産屋となって立つのです。
67
68
三、合気道は和合の大道であり宇宙経編の道へのご奉公である
(1)
合気道は世界家族としての和合であります。即ち地上天国完成のご奉公であります。宗
教家のいうタカアマハラの経編明示の立法であります。
世界の和合を望む者は、国の和合であり経繍の完成をせねばなりません。国の経繍は一
国一家の和合完成であります。宇内即ちタカアマハラ(宇宙の経編) の一分身分業として
の各人に与えられたる経論たる使命の上の完成でなければなりません。即ち人々の完成に
先だって、自己の完成が出来なければ、この大神様のみ心のご奉公は出来ないのでありま
す。取りもなおさず、自己の完成は宇宙の完成へのご奉公になるのであります。これが即
ち忠孝の道であります。
この忠孝の完成を急いでいるのであります。宇内万有万類禽獣魚虫類にいたる迄、処を
得さしめ、安心させるのが人のつとめであります。これは厳然として生成化育の大道の上
に明らかに示されてあることは、宇内の経論によって明らかであります。
この経繍の理をよくお互に究めて、天を尊び敬し、神を敬し、人を各人を敬し、また自
分も敬愛して完成を急がねばなりません。これ合気道の精神文化の実在を示すものであり
ます。
まず自分からその模範を示し、至孝至忠の道を、至悲至慈至善の道を身をもって行なっ
てゆくことが肝心であります。私は日々これを念願としています。
私は日々、自己の執着を一々のぞくことのために、今日迄過ごして来ました。
今迄の武道の完成はこの精神なのであります。即ち至誠忠孝の道であります。今迄私共
は口ばかりで、実際には、知らず知らずの内にお互に殺し争い合う侵略主義を行っていた
のです。
真の武道には敵はありません。真の武道とは愛の働きであります。殺す争うことではな
く、すべてを生かし育てる、生成化育の働きであります。愛とはすべての守り本尊であり
ます。愛なくばすべては成り立ちません。合気の道こそ愛の現れなのであります。69
今迄の武道は、長い年期を入れないと自分になれなかったのですが、私はすぐにも了解
し得る道を開いたのであります。それだけ今迄の武道と合気道とは違うのであります。
気の流れこみ、むすび立つ引力の主体たる人は、権威と力がなければなりません。それ
が合気道なのです。目標も定まり、一日一日絶えず完成から完成へと向上しているのであ
ります。
宇宙は広大です。その真理も広大無辺であります。人問の生命も始めなく終りなく、過
いき
現未を一貫して生通しているのであります。
生通しの生命を腹中に胎蔵し、宇宙も悉く腹中に胎蔵して、自分が宇宙となるのであり
ます。自分が宇宙と一体となるのであります。それはとりもなおさず高天原と一体です。
宇宙と一体となった自分の振舞いが、宇宙に輝やかに鳴りひびいてゆくのであります。
こういう見地で合気同人は進んでゆかなければなりません。
合気道とは、人の完成の道であり、神の道であり、宇宙の道であらねばなりません。
合気道とは、一霊四魂三元八力の姿であります。宇宙の実体、大神のみ振舞いの姿であ
ります。人も一つの境涯にあるのであります。宇宙の真相を人身に悉くつけ、しみこませ
るのが、人たるの所以であります。
70
いきみや
神とは生宮を通して、初めてこの世に現われるのであります。
生宮とは、肉体人間のことであります。人間の造った木のお社にさえ、神々が集まるの
ですから、神の子たる人間の生宮に、神々の集まらないわけがありません。
人は顕幽神三界の理を悉く胎蔵し、これを調和する主体にならねば、何時迄たっても、
大神様の大み心、大み心は既に地上に現われているのにかかわらず、掴むことが出来ませ
ん。
今、顕界を思えば、明るい天照るの世界の上に、明るい天照るの人となるのであります。
また仏の世界も眺めつつ行なうことが出来、神の世界もその通りであります。人は思うま
まに三界を日々織りなし、心の持ちよう一つで、宇内を開くことが与えられているのであ
ります。
つねもり
早く皆様と共に活眼を開いて、合気の僕たる常盛(植芝先生のこと) と共に、スの大
神さまのみ子たる処のつとめを、三界の楽園に遊びつつ楽しみつつつとめましょう。常に
心の持ちようで愉快になります。その方法を私に尋ねたい人は、誌上でではなく、直接に
会って質問して下さい。私は行の人でありますから、直接行ってお教え致しましょう。
私には道場はいりません。私は名誉も地位も金もいりません。樹下石上においても法を
71
説きます。大地の上に、天の浮橋に立ってどんな処にても、私は乞われれば喜んで法を説
きましょう。どうぞお尋ね下さい。

何事も”天の浮橋に立たして” から始まるのであります。古来より日本でも今迄だれも
これを修するものはありません。

天の浮橋に立った折りには、自分の想念を天にも偏せず、地にも執かず、天と地との真
中に立って大神様のみ心にむすぶ信念むすびによって進まなければなりません。そうしま
せんと天と地との緒結び、自分と宇宙との緒結びは出来ないのです。
天の浮橋に立つ時、魂に宇宙の妙精を悉く吸収するのです。天之御中主神となって立つ
のですよ。
一つ礼拝するのにも宇宙に礼拝するのです。そして天の中心に同化してゆくのです。
天をさがしても地をさがしてもタカアマハラはどこにもありません。ではどこにあるの
か、大宇宙がタカアマハラであります。宇宙経繍の行われる根本であり生命なのでありま
す。祭政一致の本義であります。
72
武にしましても誰にもわからないものが私にどうしてわかったのか、どこから尋ねあて
たのか? 私はあらゆる流儀を尋ねあたりましたが、人間の作った流儀のどこにもそれは
見当りませんでした。ではどこにあったのか、すべては自分にあったのです。自分の開眼
にあったのです。では自分を開眼させる為にはどうしたらよいか、それは天の浮橋に立た
なければならないのです。そうして生として生けるものすべて生命あるものは、開眼して
いかなければなりません。そして人間の開眼をまずして人類を救っていかなければなりま
せん。何故なら、人間は天地の経編の主体であるからです。
いきみや
この世は神の世であり、人間は神の子なのであります。そしてこの肉体は神の生宮な

のです。ですから低級なる狐霊や自然霊に懸依されて、飛びはねたり喚めいたりすること
はおかしいのです。人間は人間としての与えられた使命を果していけばよいのです。
今日、人間の完成の時が来ているのです。
草木、虫、魚、獣類の各々にその処を得さしめて、楽土を建設してゆくのです。それに
は自分が宇宙の大神さまのひもろぎになる。その心がけで進んでゆかなければなりません。
今迄物質科学のみが発達し、魂の問題がなおざりにされていました。今日では精神科学
73
即ち日本という精神文明と、物質科学とを平行にすべき時代なのです。そうしなければ世
界の和合は出来ません。
合気道は、精神(霊)科学であります。精神科学は、天の浮橋に立って、まず島うみ神
ことだま
うみから始まるのです。これは言霊の妙用によってなすのです。故に合気道とは、人間
の造った武道ではなく、宇宙の出来ぬ最初から出来上っていたのであります。
74
私は人間を相手にしていないのです。では誰れを相手にしているのか、強いていえば神
さまを相手にしているのです。人間を相手にしてつまらぬことをしたり言ったりするから、
この世はうまく行かないのです。
いい者も悪い者も世界和合の家族です。すべての執着をたち、善悪という相対的なもの
を問題にせず、宇宙建国完成へのご奉公に皆はぐくみ育ててゆく生成化育の道を守ってい
くのが合気道なのであります。
ヘヘへ
神さまを神社やほこらという小さな中に入れてしまっては、神さまは窮屈じゃといって
よろこびません。
やおよろず
こ の宇宙全体が神の姿であります。木で造ったお社の中ではなく、八百万の神さまに人
間の生き宮の中に入ってもらうのです。そして速やかに小さな殻を破って、腹中に悉く十
里四方(宇宙、神のみ命) を鎮めることです。さすれば千古の昔にも今日があり、今日に
は千古の昔がある。そして未来にも今日があり、今日に未来がある、ということがわかる
のです。
過現未は宇宙経繍の働きです。即ち経編の働きとは日本の歴史であり、この歴史が我ら
合気道の骨子であり、宇宙科学の原理であります。日々我々も又、科学されまた科学を大
神のみ心のままに行っているのです。(「合気の集い」より)

世界中の人々が平和を望み、平和を願っているのに、この世は依然として争いあい憎み
あっています。
それは物質科学と精神科学(霊科学) とが調和していないからであります。
今や物質科学はその頂点に達した観があります。ところが精神科学はなおざりにされて
いたのであります。
よくこんばく
今迄は暁(肉体的)物質の世界でありましたが、これから魂(精神的) と暁とが一つ
7ラ
にならなければなりません。物質と精神との世界に長短があってはなりません。
人間は霊ばかりでは駄目で、肉体がなければ働けません。また肉体ばかりでは本当に働
けません。肉と霊が両々相まって働く時、真実の働きが出るのであります。
精神が明るい世界を眺め、明るい世界と相接する為に、肉体を頂き、そして肉体は生成
化育のものを生み出す地場なのであります。
故に霊は肉体を育てあげねばなりません。
体はまた精神に従って、すべて精神によって動き、精神にまかせてゆかねばなりません。
精神を守るだけの肉体となってはじめて道が成立つのです。道とは、血と肉をうけしめ、
喰いしめておりますから、離そうにも離せないのです。
その血は常に体中に働いていますが、この世界の眺、この世界に接する六根の働きを常
に浄め磨いておかねばなりません。ここに魂の花は開き、魂の実はむすぶのです。そして
顕幽神三界の花を開き実を結び、この大なる徳性の弥栄の成長こそ一元の親神のみ姿、み
心であり御徳であり、徳の動き徳の目的であり用の土地であります。
物質科学と精神科学が一つになった時、物質科学は今よりもっと立派になるのです。そ
して世界は平和になるのです。
7 6
天と地は完成し、美しい天照るの世界であります。ただわれら人類の魂の開眼のみが待
たれるのであります。人が立直らなければ万有は悲しむのです。
世に一元の神のみを拝めばよいと云う人がいますが、それでは本当のことは判りません。
八百万の神々とは、大神様の働きの歴史であります。この歴史を知らなければ大神様は判
りません。神代からの歴史がなければ合気は行なえないのです。
自分一人でも開眼すれば、宇宙の気はみな悉く自分一人に、自然に吸収されて来るので
す。そして悟るべきものはすべて悟るのであります。
タカアマハラも自分にあるのであります。天や地をさがしてもタカアマハラはありませ
ん。それが自己のうちにあることを悟ることであります。
タカアマハラは造化機関であり、人もまた同じ素質、同じめぐり、動きをもっている造
化機関なのであります。タカアマハラを天や地に尋ね求めるより、まず自己に尋ね求める
ことです。
宇宙のいとなみが自己のうちにあるのを観得するのが真の武道なのであります。
タカアマハラとは全大宇宙のことであります。宇宙の動きは、高御産巣日神、神産巣日
神の右に舞い昇り左に舞い降りるみ振舞の摩擦作用の行為により日月星辰の現れがここに
77
また存し、宇宙全部の生命は整って来る。そしてすべての緩急が現れているのです。
ウ声はみ魂を両分して、一つは霊の根源を生み一つは物質の根源を生んでいる。これは
水精火体の妙用なのであります。タカアマハラのラの一言霊が六言霊を悉くふくめて天底
から地底へ、地底から天底へ、らせんを描いて常に生命をたどっているのです。
一元の大み親がこの世界を創るについて、霊魂のもと物質のもとの二元を創って、この
複雑微妙の生命のすべてのもと体のすべてのもとを作って、修理固成の為最初にアオウエ
イの親音とタカアマハラの六言霊を生んだのです。新陳代謝の機能もこれから生れ、そし
て四季の変遷もこれによって生れるのです。
その生命たることだまの動きはすべての仕組みを作り、その仕組を作るについては奇し
きなる部分は奇霊の働きとなり、荒き部分は荒霊となり、柔和なるものは和霊となる。そ
して固体にだんだん動かなくなり、冷結し大地になって動かなくなる、いねるが如くのろ
くなる、これを幸霊というのです。
四つの霊によって八の力が出て来ます。八つの引力がますます濃厚に生み出され、全大
宇宙の生命を明示しているのです。その動きによって祓戸四柱の神も生れる。
そして複雑微妙の魂の緒の糸筋は照り輝き人も磨かれる。これを識心といいます。
7 8
心の数のある限りは言語があり、言語の変化のあるだけは心識があります。この心の糸
たましい
を玉の緒といい、あるいは魂線といいます。宇宙は即ち魂線が複雑に実相経編されてい
る処なのであります。
かなぎ
魂線を声の活用と見るのが言霊学で、魂線を糸筋と見て詮索し奉るのが、天津神算木の
運用であると教えられました。
また球の緒の照り徹る所を識というのであります。けだし智量はその全体であります。
純情であります。識は世の形象が人の五官に機当りあう活用である。この活用が六・七・
八・九識となって、事明細に心の形象を顕し示すのです。
右は聖書にも入門手引として示されております。
宇内のすべての生命の動きは、悉く天津かなぎの運営によって判って来るのです。しか
しかなぎ学として別にありますが、追い追い説明させて貰います。
ヘヘヘへ
結局は、人各々がすべてを持っている、ことだま或いはすべての哲理も胎蔵しているの
です。人の動きはすべてことだまの妙用によって動いているのです。自分が実際に自己を
眺めれば音感のひびきで判ります。
ことに合気道は音感のひびきの中に生れて来る。つまり音のひびきによって技は湧出し
79
くロつ
て来る。絶えず地におって天に、空にかえさねばなりません。そしてひびきにつれて行
かねばなりません。ひびきも何もかも悉く自分にあるのです。
それには神代よりの歴史を知る必要があります。一元の大神の生みなして来た処のみ姿
み振舞が神々の現れであり、これは大きな科学であります。
人生のいとなみはすべてこの科学により、そして我々は完全な地上天国建設をせねばな
りません。地上天国建設にはこの科学を知り行なうことが必要なのであります。
ヘヘヘへ
合気道は合気道のことだまで地上天国建設の上にご奉公するのです。
魂の緒をとぎすまし、そして大祓祝詞を奏上すると、その道々より神々がお招きせぬと
も、相参じ相集いて、八百万の神々がその人その人を守り、導いて下さるのです。
山川草木、禽獣魚虫類にまで、その処を得さしめ、共に楽しむのが合気道であります。
万有愛護の大精神がなかったら、合気道を行なう価値はありません。
80
(4)
結局複雑微妙な生命の働きも一元の神より起き、その働きは人間にあるのです。俗にい
う天之御中主、高御産巣日、神産巣日の造化の三神にあるのです。これは一元です。そこ
に元が全部あるのです。物と心の二元の働きが今日の働きを作っているのです。
さて先にも、人は開眼せねばならぬと話しましたが、開眼開眼と只云っても判らないで
しょう。宗教家が心の眼が沢山あるように書いていますが、結局は一元の大親神の営みを、
その人達は云っているのでしょう。
結局は一元の神の大み心をこの世に現わせばよいのです。ということは神を表に出せ、
ということです。表に出すとは、ものを押込むのではなく、ものの中に精神がありものは
精神の現われだから、精神が表になった楽土を建設すればよいのです。
人類は合気道より見れば剣一本により自己の魂磨きが出来るのです。一剣によって左右
し得るのです。
今日は物質、暁の世界であります。しかし魂の花が咲き、魂の実をむすべば世界は変り
ます。今や精神が上に現われようとしています。精神が表に立たねばこの世は駄目です。
物質の花は開きそめたかも知れないが、魂の花、魂の実をむすべばもっとよい世界が生れ
るのです。
なんとなれば、私は日々体験しているからです。最初はこれを私の錯覚かと思った。
自己のうちに天台をつくり、自分が天地と宇宙と常に交流するように心がけていた。そ
81
れでものをおこそうとする時、目の前に白い光りものの玉が現われ、その中に今一人の私
が立っている。そして私が扇子をもつと、相手の私も持つ、私が突いてゆくと、相手に突
かれる。慢心など出来なかった。それは錯覚ではなくて私の修業であり、これによって私
は常に進歩出来ると思ったのです。
それは丁度、体の方では潮の干潮のようなもので、波が来る即ちうって来ると波のはな
が散るように陽になって音を生じる。息を吸いこむ折りには只ひくのではなく、全部己れ
の腹中に吸収する。そして一元の神の気をはくのです。それが社会の上なれば、自分の宇
宙にすべて吸収してまた社会を神の気で浄めるということになります。
霊の相手が突いて来る。突いて来る光にのって、光を捕えて、即ち突いて来る光に同化
する。それを光のかけ橋として、今度はそれに向って自分が進む。このような体験に私は
日々あった。だから日月の気と天の呼吸と地の呼吸、潮の干満とこの四つの宝を理解せね
ばだめなのです。
もう一つ、澄み切った玉が必要です。この五つのものが世界を浄め、和合させると思っ
ている。植芝一人ばかりではありません。どなたでも、これに賛成する人は、同志として
光明を天から与えられ、それを観得される筈です。
82
こうして魂の花を咲かせ、魂の実を結び、顕幽神三界を守るところの人であり立派な人
格者でなければなりません。そのような人があったら、その人についてお手伝をしたいと
絶えず考えているのです。
多宝仏塔は各々自分の中に建てなさい。聖地、お寺に建てるのではなく、各々の中に建
みかえる
てることです。その日の来るのを私は待っています。そして身変、即ちどんな形にも身
を変えて衆生を済度する観世音菩薩、最勝妙如来のように、各々がなって頂きたい。と同
時に日本国全体、国土が多宝仏塔としてあるべきです。
そういう境地に少しでも近づけば、合気道とは何の為にやっているか判ってもらえる筈
です。
今日は暁(物質的) の上からもテレビのようなものが出来、遠隔の地のものごとが見え
そして判るようになりました。それがもう一歩前進すると、精神の花が咲き、精神の実が
結ばれた折りには、全部の人は互に個々の想いが絵のように己れに映って来て、すべてが
わかるようになる。その日のあることを確信しているのです。
合気道は相手が向わない前に、こちらでその心を自己の自由にする、自己の中に吸収し
てしまう。つまり精神の引力の働きが進むのです。そしてこの世界を一目に見るのです。
83
今日ではまだ殆んどの人が出来ていません。私も出来ていません。84
宗教者がよく鎮魂帰神と云うが、その言葉に自分を縛ってはだめです。そして真の自分
のものを生み出す場処である体を大事に扱い、範を大事に扱うことを忘れてはいけません。
四、合気道は言霊の妙用宇宙みそぎの大道である
ことだま
コ言霊は声とは違う。言霊とは腹中に赤い血のたぎる姿をいう」
植芝先生はこのように教えて下さいました。
五井先生は、言霊とは、文字や音声にいずる想念以前のひびき、即ち光そのもののひ
びき、神である、音声や文字に出た時はすでに言霊の役目、働きが果たされあとのもの
である、と説明して下さいました。
またこうも説明して下さいました。
植芝先生が”アオウエイ” “カコクケキ” と言霊をとなえていらっしゃる時、アのひ

びきをもった神、オの働きをする神、エの神、イの働きをする神々が、植芝先生に招ば
つど
れて、神つどいに集われるのであると。
げんれい
コ霊四魂三元八力の大元霊が、一つなる大神のみ姿である。85
いやさか
大神は一つであり、宇宙に満ちみちて生ける無限大の弥栄の姿である。即ち天なく地
なく宇宙もなく、大虚空宇宙である。
その大虚空に、ある時ポチ一つ忽然として現わる。このポチこそ宇宙万有の根源なので
ある。そこで始め、ゆげ、けむり、きりよりも微細なる神明の気を放射して、円形の圏を

描き、ポチを包みて、始めて◎ の言霊が生まれた。
これが宇宙の最初、霊界の初めであります。
そこで宇大は、自然と呼吸を始めた。神典には、数百億万の昔とあります。
すみきり
そして常在すみきらいつつ、即ち一杯に呼吸しつつ生長してゆく。生長してゆくにし
ことだま
たがって、声が出たのである。言霊が始まったのである。
ことだまス
キリストが「はじめに言葉ありき」といったその言霊が◎ であります。これが言霊の
始まりである。
このス声は、西洋にはこれに当てはめる字はなく、日本のみにある声である。
これが生長してススス即ち上下左右のス声となり、丸く円形に大きく結ばれていっ
て、呼吸を始めるのである。
ス声が生長して、スーウとウ声に変って、ウ声が生れる。絶え間ないスの働きによって、
86
ウの言霊が生じるのである。
ウは霊魂のもと、物質のもとであります。言霊が二つに分れて働きかける。みたまは両
方をそなえている。一つは上に巡ってア声が生れ、下に大地に降って、オの言霊が生れる
のである。
上にア声、下にオ声と対照で気をむすび、そこに引力が発生するのである。これにはい
ろいろの神の名がありますが、後ほどにゆずります。
たかあまはら
高天原というのは、宇宙の姿である。宇大の生きた経編の姿、神つまります経繍の姿な
のである。
一家族も一個人も、それぞれ高天原であり、そして呼吸して生き生きと生きているので
ある。
かいびやく
高天原とは一口にいえば、全く至大天球成就おわるということになる。これ造化開闘
の極元なり。
高天原の意をより理解して、神の分身分業をなしてゆくところに、合気道が出てくるの
である。
87
オノコロシマ
宇宙の気、於能碁呂島の気、森羅万象の気、すべての霊素の道をつづめて、そして呼8
吸を合せて、その線を法則のようにして、万有の天の使命を果させるのである。
そしてその道それぞれについて行うところの大道を合気道という。
合気道とは、いいかえれば、万有万真の条理を明示するところの神示であらねばならな
いのである。
かげんみ
過現未は宇宙生命の変化の道筋で、すべて自己の体内にある。これらをすみ清めつつ、
けんゆうしん
顕、幽、神三界と和合して守り、行ってゆくものが合気道であります。
きぞく
宇大の活動の根源として七十五がある。その一つ一つには三つの帰属がある。
あらみたま
イクムスビ(△ ) タルムスビ(○ ) タマツメムスビ(口) である。イクムスビ荒御霊、
にぎみたまさちみたま
タルムスビ和御霊、タマツメムスビ幸御霊。
くにとこたちのみこと
八力がアオウエイの姿であり、国祖国常立之命のみ心の現れである。
とよくもぬ
豊雲野大神との交流により、五つの神の働きが現れるのである。
かくて八大引力が対照交流し動くとき、軽く澄めるものは天に昇り、にごれるもの、よ
ごれものは下へ地へと降った。
ものか
天と地が交流するたびに、物化して下降、交流しては下降し、だんだん大地化して来
た。
これがタマツメムスビの大神の神業である。
タマツメムスビ、タルムスビ、イクムスビの三元がととのうと、宇宙全体の姿が出来上
るのである。
一霊四魂三元八力は神さまの大御心の現れである。その分身が人なのである。そして主
体となって、神の経繍するように創られたのである。
この羅針盤が合気道の実行である。
では次に言霊にうつりましょう。
ことだま
「塩こをろこをうに… … 」とあるのは、オの言霊をあらわします。
あわじのほのさわけ
スーウウウウユーム淡道之穂之狭別の行という。
以下の言霊は実際に行にて示しましょう。
合気とは言霊の妙用であります。言霊の妙用は一霊四魂三元八力の分業分身であります。
たけむす
武産の合気道であります。わが神典による武産とは、絶倫の日本の武である。しかれ89
ば、神変自在、神通千変万化のわざを生み出すのである。
くりつ
真空の気と空の気を、さがと技とに結び合いて、くり入れながら、技の上に科学しな
がら練磨するのが、武産の合気道である。
この合気道は、世界和合のため、宇宙家族の一人として、その指導に羅針盤となって、
国土よりみそぎ、宇大の浄めのためにとり行われることである。
こくそくにとこたらのおおかみヘヘへ
これは国祖国常立之大神のみいずによって、八力のご完成と引力の鍛錬を神習うて、
とはしら
十柱の神をおぎまつり、道をすすむのである。
この浄めの業を行ってゆけば、天火水地のこ経編の道は、自然に明らかになってくるの
である。
くしみたまあらみたま
これはみな、一霊四魂の四つの働きとして、奇御霊即ち天であります。荒御霊即ち火
にぎみたまさちみたま
であります。和御霊、水であります。幸御霊- 地であります。それぞれの働きがありま
す。
かんなら
この天火水地の各々の道は、自然に、ご経編の活動をよく知ることになる。神習うて
ゆくことになるのである。これを地上でいうなれば、神ご一念のご経編の姿である。また
建国の大精神の完成への動きである。
90
これにより七十五の言霊も動き、また七十五の道が完成されます。合気道にとって最も
必要なことなのである。
日本の真の武道とは、万有愛護、和合の精神でなければならない。
くさ
和合とは、各々の天命を完成させてあげること、そして完成することである。即ち草
なぎ
薙之神剣の発揮であります。
三種の神器は、神の経繍の姿であって、今や剣は民にわたされた。そしていよいよ浄め
の働きをするのであります。
おおみこころ
道というのは、ちょうど体内に血がめぐっているように、神の大御心と全く一つにな
って離れず、大御心を実際に行じてゆくことをいうのである。
神の大御心から少しでも離れたら、それは道にはならない」
註植芝先生の合気道演武は、邪気邪霊を祓うお浄めである。技をふるわれる時、その
突く瞬間、ひく瞬間、邪気邪霊をはらい、そして一つ突けばたくさんの魔性がふきとび、
一つ引けば無数の悪魔が浄められる、と五井先生より教えられました。
91
92
タカァマハラ
高 天原の妙生
全大宇宙を高天原と称す。
けだし高天原の本義は、タカアマハラの六声を完全に発表するなり。
たいしよう
タ声とは即ち対照力の義にして、東は西に対し、南は北に対し、陰は陽に対し、動は
けんゆう
静に対し、明は暗に対し、顕は幽に対し、生は死に対す。
たかみむすびのかみかみむすびのかみ
タの一音あるが故に、高御産巣日神、神産巣日神の二神が成り立つ。
註1 りくぜんはつかくはつこうしだいこうこう
そして六全八角八荒にみな悉くこの対照力起りて、至大浩々恒々たる至大気海を全く
張りつめる時、ここにはじめて球の形顕るるなり。
けだし球という。
たま
二声の霊は、対照力が全く張りつめて鳴りはじめたるなり。
かく全く張りつめたる億兆劫々の数限りの対照力は、みな悉く両々相対して、その中間
さぬき
を極微なる点の連球糸にて、掛け貫き保ちおるなり。
けんしよう
この義を声にあらわし、タとは対照力、力声は掛け貫く力、アとは神霊顕彰、
くはりつむるなり。
マとは全く張りつめて、玉となることをいう。
さぬき
またこの極微点の連珠糸となす。
かつきりんりん
神霊元子が活気臨々として活動している気を称して、一言にハという。
とさき
これは活気臨々、至大煕々というなり。
またその造化機が運行循環しつついる気を称して、ラという。
即ち循環運動のことである。
ラハマアカタ
(対照力)
(掛け貫く力)
(神霊顕彰、而して宇宙為)
(全く張りつめたる玉)
(神霊活気臨々、至大煕々)
(循環運行)
宇宙全
93
おわ
かくして全く至大天球成就畢るというなり。
かいびやく
これ造化開閣の極元なり。
いざなぎいざなみ
高天原の内実を修理固成せんの目的にて、お姿を伊邪那岐、伊邪那美の神、御導霊神に
しようしよう
変じまし、秩序顕々として万有を生み現わしたもう。
二神は、至大天球一切をあまねく修理固成し、争断の系統を大成したまい、万有の概
みなもと
(源) となるべきものを悉く産み出し給うなり。
うだい
霊系(天系) と体系(地系) とのむすびの複雑なるみ振舞いによりて、この宇内の一
切成就しけるなり。
あめのみなかぬしのかみみおやのかみ
宇内の経営とは即ち、天御中主神、祖親神、霊とこ霊体を現わしたもう意義をいう。
なら
私はそれを習うて来たのです。
〈アオウエイの発生〉
口一杯に開きて、喉の奥底より、呼気をふき出すべし。
この時、アーと一杯になり出すべし。
とこたら
ア声とはいかなすとも常立にして変化なし。
くにとこたらのおおかみいざなぎいざなみのかみ
故にア声を称して国常立大神と申す。(伊邪那伎、伊邪那美神はこの声を受け持つ)
ア声を出しながら、漸次、口をつぼめて唇のまさに合わんとする時、なりひびくはオー
ーオ声なり。
気息をその内に淀めて口まさに、くもとなす時に出ずる声なり。
とよくものおおかみくにさづらのかみ
これを豊雲大神と申す。またの名を国狭土神と申す。
ロつ
オ声を出しながら、口を全くふさぎ切る時、自然に鳴り渡る声は、ウ声。故にウ声は宇
ひじにのかみ
比地魎神と申す。
いもがみ
ウ声を強くよんで、極に達せしめれば、ウースとス声となる。故にス声はウ声の妹神、
すひじにのかみ
須比地遡神と申す。
またウ声をよびながら下顎へつき、代の如く食い入れしめれば、ふさぎきった目が裏
に開く。自然に工声となるべし。
工声を強くよんでその極に達すれば、舌が転じて上顎につく。
つぬぐいのかみいもいくぐいのかみ
それでレ声となるべし。故に工声を称して角代神と申し、レ声を妹活代神と申す。
工声をよびつつ口中の気息を廻してあつしぐ時、レイと自然になる。
おお
イ声を強くその極に達せしめれるとギとなる。これ声の大なる止まり。父母にして意富
95
とのじのかみおおとのべのかみ
斗能地神、大斗能弁神と申す。
かくしてアオウエイの五つの五声即ち、
これを命という。
母音が成就する。
9 6
筆記者の言ー以上のことは、皇祖皇霊のご遺訓で、神書に記してあることで、植芝が
改っていうまでもない、という意味のことを私におっしゃいましたが、この理の実行が合
気道であり、言霊の妙用の理の根源と考えますので、あえて掲載した次第であります。
註1 六全八角八荒上下四方八方のはて、転じて全世界。
註2 神眼が開くという意味。
自己完成の道
神は目に見えず、手で掴めません。なぜなら神は霊の霊であり、仏は物の霊なのです。
即ち暁の中に神が入り、暁を育て暁は魂を守るのです。他に神があるのではなく、生まれ
ながらに天から授かっているのです。暁をもったことは天からの使命を持たされたことな
のです。塊を育てあげるだけの能力を持たされているのです。これが祭政一致の本義なの
です。宮をこしらえ祭壇を作り、これをきれいにして、祝詞を奏上すると招かずして神々
が鎮まるのです。
顕幽の貫通のため人には六魂を持たされ、体は造化器官であります。たえず宇宙の営み
と同化するには、自分の体をもって霊は体を通して同化するのです。この世はものの現わ
れた世界ですから。
つまり天真地真物真は一元の大神の全徳の現われで、すべてのものは、大宇宙の造化器
97
官の進化に沿って、共に動かねばならないようになっているのです。そして人は神をまつ
り宮を造って礼拝し、その目標に想いを定めることによって自己を造り自己を導くのです。
ところが五井先生のようになるとその必要はありません。自分の身体が全大宇宙の魂線
と結ばれているのです。六魂は浄めの理、また、細糸なすところの魂線照り輝き、自己と
緒結びされているのです。その言行は一つ一つ大宇宙にひびくのです。大地においての動
きは、大宇宙にひびいてゆくのです。
そして一度び自分が呼吸するとすべての妙精が腹中に胎蔵される。しかしこの体(もの)
があるから、この世ではものを通さなければならぬ。ものの上に、五井先生のように、魂
の花を咲かせ、魂の実を結ばせねばならない。宇宙と一ツにならねばならぬと云うことに
なる。五井先生はそうなったお方であります。
タカアマハラはまた自己であり、みな共に手を取合って、五井先生のように偉い人にな
らねばいけません。
植芝はまだこれから修業です。いつ迄修業するかは、それは決っているものの、修業は
人としての当然の努力であります。だが、特に植芝は常に天の浮橋に立っておらんと、人
々の前に範を示すことが出来ません。私は教えるのではなく、行うのです。行いを見て和
98
合し、祭政一致の本義を知ってほしいのです。
五井先生が上にいらっしゃるので、油断している感じがする。しかし自分も懸命の修業
をしなければいけません。
ヘヘへ
武産合気は、悉く神代からのみそぎの技を集めたものです。全大宇宙の生命線たる営み
の道を即ち、一元の親神の営みをば悉く我等の上に営んで、人たるところの努めを完うす
るため、羅針盤となるところの合気なのであります。
だからいつも云うように至誠の心をもって行い、天真地真物真の顕現、この理を知って
守らなければなりません。それを知るためには、行いによって悟ってもらいたい。悟って
それを行い、そして反省する。反省して悟り、それを行う。また反省する。悟って行って
反省する。これを繰返してゆくことです。絶えず油断せぬことです。
しかし五井先生の信者さんは油断してもいいでしょう、五井先生がいるから。信者さん
は心配はありません。しかしそれをあてにしてはいけません。自分に与えられた努めを果
すことです。
丁度神のみ子たる我々は神の生き宮です。ここに祭政一致の本義があります。人は神よ
りはなれてはなりません。我々の言うこと行うことが祭政一致となることです。この世に
99
おいて、目に見えざる火水が体内に通って、肉に喰い入り血肉の血行となっている。これ
を魂という。くい入りくいこみ、くい止まっているから離れることがない。これが道であ
り、人の姿である。神は人の中にあるのです。
この今の世は複雑微妙、乱れたやり方をしています。我々がこの世の罪をつぐなわなけ
れば、この世は浄まりません。
のり
罪とは、この世の法(道) を乱すこと、それが罪の根本です。乱れるのは一元の大神、
全大宇宙の営み、スの一元の大み親を忘れるからであります。
お互いに気をつけあっていきましょう。また合気はその営みの道、足がかりですから、
取ったり投げたりの今日迄のような武道をする必要はないのです。
信者の皆さんは、各々の、世界人類の営みの道に、一大家族となって万有万象を、常に
かえ
大み神の営みの道に還らし、ますますこの世をば輝やかせ、各々の使命の上に、魂の花
を咲かせ、魂の実をむすばして下さい。どうぞこれを心得て下さい。
この使命に当った私は幸福者だと感謝している。合気の武門を通して、みそぎが出来る
ようになったことを日々嬉しく思っている。これ以外に私の用事はない。
そして年寄も娘も子供も大力無双の者でも、気のついた人はこぞって、例え三日でも五
日でも合気を習って、自分の健康に、またみそぎとして、自己の使命の上に参考として、
宇宙の営みの道を神習うて、自己の完成をしてもらいたい。私はこれを申上げたいと思っ
ているのです。即ち正しい気体と気体との調和のとれた正体こそ合気です。
五井先生のような方の有難い言葉をきいても、行なわなければ何にもならない。行なっ
てはじめて各々が光を放つのです。そして共に大きな大霊光となり、またこの世の光とな
って、この世をば建直すご神業に、各自のつとめを果すことが出来るのです。
もう合気の方では、八月七日の植芝神社の祭典を契機として、合気の祭典を行ないまし
た。これは植芝個人の祭典でもなく、一つの神の祭典でもなく、全大宇宙の祭でした。
その式場でも報告したのですが、私の門人が、ボルネオの中心都市でそこの大酋長の婿
となりもう十五になる息子もいるのです。戦後帰国し、合気の神言を背負って再びボルネ
オへ行きました。途中シンガポールに寄りましたら待っていたように支部が出来、研究者
が集まりました。数ももはや一ヶ月足らずなのに何百人の多数に昇り、日に日に栄えてい
ます。近い内に幾万を数えるようになるでしょう。マレーにも待っています。ボルネオの
支配者たる中央部には神を祭って祭政一致をたてるのです。彼らもみな我々の同朋であり
ます。彼国も家族と思っています。今はジャングルの地で、普通の人の入れぬ秘密境です。
IOI
広さは日本の四倍もあります。彼は向うの国の人となり、彼の国の為に働きに行ったので
す。相手の国を生かすご奉公こそ日本の行き方です。植芝の門人にはいろいろな人がいま
すが、彼は今度の戦争の時、マレーの虎といわれた男です。ボルネオの中心に他に二人喜
んで行っております。この人達のつとめが完うされるよう、皆さんもお祈りしてあげて下
さい。
この成功は世界平和実現の成功と思って祈ってやって下さい。私共はこれからも、合気
の人間をこのように開けぬ処にどんどんやるつもりです。
祭政一致の本義を知らせ、天の浮橋に立つことを教えるのであります。みなさんもその
方法を悟りたかったら私の行うのを見て習って下さい。
そして天の浮橋にたたされたならば、全大宇宙と自分というものは別のものでなく、一
つになっている。一元の親神の営みの道が悉く身にハッキリわかるようになるのです。
私がのりとを奏上して神々を拝むと、天地一つになり、日月星辰が悉く自分を中心に、
その妙精がまわり集って来る。天は高い処にあるように思ったが、実は天も地も一であり
ます。そして日月星辰の呼吸と潮の干満の呼吸とは自由に自己の使命営みの上に現わせる
のです。私は、日月星辰と共に日々楽しんで、その恵みに感涙にむせんでいる。
IO2
そのみいず、この世の極真、極徳極智極みいずが本当に自分と共に光輝く尊い中に、自
己と一つになっていることを観得する筈です。それは言葉で表現出来ない。真善美という
のでは言葉に尽せない。絶妙なる人間としての極真極徳の栄えをこの地上において、人間
界において、人位において味うことが出来るのである。万有と共にそのよろこびを分かち
感謝せずにはおられんようになるのを、日々観得出来ます。
io3
io4
祈りについて
祈りとか信仰とかについて、今朝とくに感じたことを申上げましょう。
五井先生のような聖者は、只人の知らぬ神の守護だけではない。天之御中主神即ち宇宙
やおよろず
の主の神のみいずに満たされ、そしてまた八百萬の神々のこ経繍の進化のみ代み代の仕
組みが、一身の中につどい集り、守護しているのである。
それは一つの呼吸によって、八百萬の神の動いている姿である。そしてその息を貫き息
吹きして、その仕組みを守っているのである。
それ故世の真実の道は、祈りと共に行なわねば何にもならない。そこから聖者が出発し、
ますます大道に向って、日々大神の営みの中に立ち、その営みを腹中に胎蔵して行なって
いってこそ、真の平和も来るのである。私はそれを祈っている。
自分がいつも自分を鍛え、自分を養うについても、やはり目標があってよいと思ってい
た。いつもこの天地の真中に立って、そして合掌した折りに、はじめて一つの大きな目標
が現れて来る。本当に自分の美しい姿が眺められる。
同じように祭壇を建てて顕祭を行なう時、(顕祭とは御宮をこしらえて、祭の意義を顕
わすこと) お灯明を祭壇にあげ物を供え、そして大神の営みの道の八百萬神に感謝してご
挨拶をする。
即ち祭壇を椿えることは、正しく調和のとれた気体と気体とが美しく打揃った営みの大
やひろどの
道を示す「う」のみ働きご活動である。俗にいう八尋殿もそういうことになる。「う」の
働きを示す一つの清浄である。その上に綺麗に澄んだ気体の美しく揃った営みの有様で、
自分の心を綺麗に澄ませ、ますます美しくなって、六根を清浄にするのである。
為に顕幽神三界の和合を守り、自分を浄くし、自分を作り日々修業している処に、大道
の道に即してゆくのである。
ふとまに
気体と気体と正しく打揃って美しい様を布斗麻魎という。
ヘヘヘへ
布斗麻遍とは気の動きでいうと「う」ということだまの御働きによる。だから「う」の
ヘヘヘへ
ことだまの御働きを神習わなければいけない。一元のスの現れが物と霊魂との元の二つに
分れて、御霊を両分した。その「す」と「う」声の働きに神習い、大神様のみいずを頂く
io5
のです。そして世の中を明らかにしていくことです。
私が神前にお灯明をあげると、お灯明が一つの光となり、その光が変って自分の本体と
なる。それを真に把えることが出来るのである。その時、自分の周囲に白光の中に光とな
って神々が綺羅星の如く、ズーツと一つの輪を描いて集い輝きその法座に下って来るので
ある。厳然として神そのままの側に居給うのである。本当に美しい和合の光景が展開され
る。それは自分がみすまるの珠となる姿であり、又祭政一致の自己に与えられた姿である。
よく大本教で教える鎮魂帰神、世間でいう神想観と、理は一つであるが、ムラキモの心
をねり鍛え、本当の美しいみ魂になるためには、幽斎の修業として、鎮魂帰神も神想観、
瞑目静座といずれでの方法でも結構だが、精神、気体の修業をする人達は、各宗教でそれ
ぞれのやり方があるでしょうが、各々の建前をもって進んでいると私は考えている。
五井先生のような聖者になれば、光の中に住し、光となっているわけである。普通の人
は遮ぎるものがあるから、光が見えない。それは執着である。
例えば死後の世界のことで、第三の天に昇った人は、第一第二の天界は、御光ばかりで
何ものも見えない。第二天界の人には上が光に遮ぎられて見えない。しかし第二天の人に
やちまた
は第三天のことはよく見える。まして八衡に住する処の霊は、みそぎの修業をせぬと第
io6
三天に昇れない。立派な霊身を眺められない。それは身心の気組の根元を現界で修業して
ないからその結果となる。ただ有難いことには、人々のけがれには重量があるから天界に
ひびかない。その間に一つの層があって、それが倉のようになって汚れはそこで止まって
しまうのである。
しかし地上の聖者の足ぶみは、天に悉くひびいている。合気はそうなっている。その道
案内者となっている。それがために植芝が立っているのである。しかし誰れも見てくれる
人もなければ友人もない。
しかし私には、おいおい本当の友が出来てきている感じがする。友に五井先生のような
方が、いくらでも出て来ることを願い、そうなることをよろこんでいる。
おいおい合気道のことを説明してゆきますが、合気の説明は、目の開いた人でなければ
わからぬし、出来ない。説明というものは、まず黙って実行して、後に説明をするもので
ある。只行ないである、これがみそぎの技となって来る。
よみ
みそぎをしなければものは生れて来ない。伊邪那岐ノ命が黄泉国に行かれ、そして帰っ
つくしひむかたらばなおどあはきはらヘヘへ
て来られた折りに、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原にてみそぎ給いてみそぎの神々
しま
を生まれた。大八洲を作り修理固成の霊と体のもとの万有万真の必要なすべての上に一元
Yo7
の働きが完成されたのである。伊邪那美命はその為に一つのけがれがあってみまかられた
のである。又帰って来るにはみそぎが必要。
よみ
那岐命が黄泉国から帰って来られた折に、比良坂に千引ノ岩を引塞えて、その岩を中に
置いて言問いたもうという一段が古事記にもあるが、千引ノ岩とは五井先生のひきいる団
うぶやうぶや
体、聖なる団体である、それを名づけて産屋という。合気はその聖なる団体、産屋に入
うぶや
って産屋をよくしてゆくよう所作で行なってゆくのである。
うぶや
最初は産屋として茨城県岩間に道場をつくりました。小さいが世界にひびく道場であ
る。これは神示によって建てられたのである。小さな社しか建てられなかったが、みそぎ
の神のこ神示によって天降ったのである。その社には五柱の神を奉祭してある。猿多毘古
大神のご指示によって創ったのであって、私の作ったものでない。私を通してはいるが、
私は、大神のままに動いているだけである。
今度は小さいが拝殿を作った。小さいがやはり世界にひびいてゆく。
すべては緒についた、八月よりすでに急速に進歩をもって、日々進んでいる。
これは祈りの会の先駆であり、自分に授けられた努めとして尽していかねばならない。
真の努めにやっと入れたと感じてうれしく思っている。
IO8
真の合気を樹立すれば、それで私の役目は終るのである。私は宗教者ではないが、何か
宇宙の妙精たるみいずを一身に吸収して、自分を整え、絶えず一元のみ心を現わさねばな
けんゆうしん
らない。そして宗教というものは顕幽神三界にわたって和合し、その三界を正しく整え、
守ってゆく処の集団であり、道でなければいかん。又合気道も然りである。
私は「う」のみ働きを力説したい。
私がのりとを奏上する折に、のりとの;月; 円が姿となって出て来る、お招きせずとも、
その道々より神々が集って来られる光の有様がちゃんと判ってくる。私は今ハッキリ判っ
ている。そして宇宙科学に同化して、すべてお互いに光を放っているのを見分けるのであ
る。(十月九日東京道場にて)
io9
IIO
武のはじめ
いつもいうことですが、天の運行(移りかわり) によって、因縁のこの世の泥沼より、
神の息吹きによって武産合気の使命が、浄らかな蓮の花の咲くように、不思議なる恵みに
準じて、魂の花を開き、使命の実を結ぶ時が来たのです。
からはやび
これが世界の経論へのご奉公のため、武にみいずは勝速日の如く下ったのです。この
まさかつあかつからはやぴあめのおしほみみのみζと
合気は正勝吾勝勝速日であります。正勝吾勝勝速日とは天之忍穂耳命のみ代を称えたこ
とばで、これに準じてこの神様に関係して、世界へのご奉公をさせんがために出てきたの
が、合気なのであります。
合気は全部みそぎになっているのです。大中小のみそぎ、いのりの行いであります。だ
から祈りを行いの姿でご奉公するのです。
なぎなみ
那岐、那美二尊の島生み神生みに準じて、このありとあらゆるすべての霊の元、体の元
を生みなして、完成されるところのみ心、み振舞に基いて、武産合気は生れたのです。日
本武道のはじめはここに基いています。
それを知らずして、ただ強ければよい、負けなければよい、と力と力とで争い、弱いも
の小さいものをあなどり、それを乗り取ろうとする侵略主義になろうとしている、その魔
を切り払い、地上天国建設精神にご奉公をするのが、合気の根本の目的なのであります。
古から立派なものは出ていなかったのであります。
現代になって、世界はますます薇れ汚れてきたので、これを払いみそぐために武産合気
が、神の命によって生れてきたのであります。この合気とは、この世の条理を明らかにす
ることなのです。
この世には、正しく真理を説く聖者の教を民衆の前にくらますようにする六師外道のよ
うな、権力者が沢山います。彼らは自分の権力で世を乱そうとする、自分に都合のよいよ
うに法をつくり、世を治めようとします。このように正しい条理は覆いかくされています。
まさしく末法の時代です。いよいよ時がきたのです。キリスト教的にいえば最後の審判
の時がきているのです。
だからこそ、いよいよこの世の条理を明らかにし、祭政一致の本義を成立させ、日本を
III
正しい気体と気体と、すべての気体が正しく揃って、調和生長した処の立派な日本になら
しめなければなりません。
世界は一つであります。国の大小を問わず日本の国につどい寄ってこなければならなく
なっているのです。それには条理がキチンと整わなければいけません。人類は地球の一番
中心の中津国を忘れています。最初の中心の国は日本なのです。
これは皇祖皇宗のご遺訓に出ていることでみなさんもよく知っていることです。
本当は自分こそ中津国なのです。我々はそれを体得し現すために生れてきているのです。
うだい
そしてこの宇大を守りすべてを守り仲よく一軒の同じ家族として暮してゆくことです。
合気とは捨身活躍をもって、世の中にご奉公せねばならぬ道であります。
我々は大神の分身分業であり、宇宙経編の分身分業であり、そして世界家族の一員とな
り、ますます地球をして栄えしめ、宇大を浄め、清い清い世界の楽土建設のため、宇宙建
国精神へご奉公する道が合気道なのであります。合気道はこの使命の実を結んでいかなけ
ればなりません。
合気道は(ス) の大神の営みのご全徳を頂く世界に現れ又その全徳のもとに諸々の神が
現れたのです。又大神の極徳極みいずによって大御神は現れたのであります。そして八百
II2
万の神々がご守護してくれているのです。何故なら、神生み島生みから始っているからで
あります。だから今迄の武道とは全然違うのです。
たけはやすさのお
天之叢雲九鬼さむはら大神が下って、建速須佐之男大神のみ働きにご一体となられた。
この神は合気の道にくい入りくいこみくい止って、血脈の如く合気をなす人の体に結びつ
いておられるのであります。
おのころ
天之叢雲とは、全大宇宙の気、大地の気、於能碁呂島の気、森羅万象のアウンの気を貫
きて万有万象の上にたえず大神の御息を息吹きなし、世の中を守ってゆく世のみそぎであ
よもつ
ります。ことに伊邪那岐ノ命が黄泉国より逃れられて来て、日向の橘の小門の阿波岐原に
みそぎはらわれたことに深い関係があるのです。
九鬼とは、大地の妙精の現れと、天の現れとを一つに貫く、即ち天と地の両刃の剣であ
ります。
さむはらとは、世の最高の徳といさおしの現れを称えた動きで、合気の技の意義があ
るのです。
合気の人は、各々の使命を尽し果して、天界に帰りごとを申さねばならぬことになって
いるのです。そこに無限大の弥栄えと真実がふくまれており、ことに一つの実体の働きは
113
一霊四魂三元八力の働きとなって、すべてのみそぎをしているのです。
註天之叢雲九鬼さむはら竜王とは、一言にしていえばいかなる業をも、
てしまう神様です。
一瞬にして浄め
iz4
武産合気の根源
合気について前段でもって説きましたが、合気はすべてこの宇宙建国の経編の営みの道
にはじまっている。
ことに日本古典の島生み神生みに武産合気は根源をなしている。それ以前は霊界のこと
ヘヘヘへ
であって、説明に困る。これを説明することとなると、ことだまに入って来て、ことだま
とは何か、ということになって来る。そのためには、創造の初めにさかのぼらなければな
らない。
けれど宇宙建国の大精神には霊界のみの折りから、すでに今日の世界が全部含まれてい
る。だからそれを知れば今日生れて来たのが判るはずなのです。
今日の科学者でもおぼろげながら判って来たようである。月へのロケットとか、だんだ
ん進んで、知識を啓発して、与えられた使Aoの上に、人類に幸福をもたらそうと一生懸命
115
やっている。それは結構だが、我々は精神の化学・天の運化から始っているのです。
即ち精神(魂) はどうして生れたか? 物はどうして生れたのか? を解明するのです。
即ち精神と物の根源つまりこの世の一元から二つのもの、つまりすべての元素元子が生れ
た。
一元の(ス) は生長してウ声と充し、ウ声は遂いにみたまを両分して物のもとと、霊の
もとが生れた。これは前段で一寸のべた。これが科学のはじまりなのです。
キリストがはじめにコトバあり、コトバは神なりき、といっているが、私はもう一歩進
んで、はじめに大元霊の現われる霊気が生れその生れる動きの中に霊が存在する、という
のです。つまり霊の姿のない、体なのです。
大元霊のもとが動かなければ声は生れない。動きが生れるとことだまから言葉が出るの
です。
霊の成長と開発につれて、霊によって、対象の世界が作られてゆく。そこに霊と体との
器管を作らねばならなくなってくる。
宇宙の妙精を水火の根源の有様と私は考えている。もう一度説明するとー
天もなく地もなく宇宙もない。何もない、無の極になると、自然にはりつめた大虚空宇
116
宙が現われ、無の極が現われる。そして大虚空宇宙は自然に中央に中央にと動き集って来
て、太古の大虚空をつくり、大虚空が地場となって一元の動きが生れて来た。そしてポチ
一つが現われたのである。
そしてはじめて宇宙の動きが出て、動きはみなぎり張りきり、みちあふれ、霊の根元の
動きの器官というか、タカアマハラのもとの世界の形がついて来たのである。
結局そこで自然と上下左右のめぐりが生れ丸く呼吸して来る。そのうちにすべてのもの
の一元の芽生えが出てくる、その動きが張りきって極点に達して、一つのポチが生れるの
である。
そして煙ともゆげともわからぬ神明の気、宇宙の妙精がポチより生じ又まわりを抱擁し
円形が生じ、その円型からまた煙ともゆげともわからぬ微細なる神明の気が生じ、妙精が
ヘヘへも
ポチを丸く大きく外から包んだ。と同時に妙精があふれ出て動き、そこにことだまの生れ
るにつれて、タカアマハラを作られた。そして天のみ柱たる五つのことだまが生れ、タカ
アマハラは五層の天界に作られた。つまり霊の動きのはじまりが生れて来たのである。
そこに自然とすじが出て来て、動きが出る。動きそのものが今日人々がいう音感となり、
これが昔からいうスメラミクニの根源・日本のもと、すべてのもとであるということに一
117
致する。
今日の人として説明すれば、スがはり切って、一ケ処に自然と集って来て、あふれ出よ
うとする勢が丸くなり、ウ声が出る。ウ声はみ魂を両分して、一つは宇宙の水霊、一つは
火霊である。
この二元のみ振舞いを、各々本能的に観察観得出来るだけの霊能を持たされているので
す。その霊能を持って観察せねばなりませぬ。
霊と体、ス声とウ声との運行によってタカアマハラの六言霊が現われて来る。これが科
学のはじまりである。
それでタカアマハラのラの一声が六声をすべてふくめて生命の動きとなり、らせん状態
となり、めぐりめぐり際限なくひろがり、整頓し、その中に器管が出来たのです。すべて
のものを生み出す営みの現れが出来たのです。
即ち霊の家、霊の器が出来たのです。普通の家でも屋根とかタル木とか柱とかで出来て
いるように、大きく丸い霊の組織体が出来た。
その中央に勢い大神様の一元の大み心が収まる。これは自然の現れであって、この神の
おおくにとこたち
み働きを御名として大国常立A。o、天之御中主ノ神とかあるが、その国その宗派によって
118
この御名を阿弥陀仏、あるいはゴッドとか太極とか天帝とか名をつけている。
ここは霊ばかりの世界である。
かくて宇宙建国を目標に霊を生む基礎工事が出来たのです。
つまり霊の体が出来たのです。正しい気体と気体が交流して、外へめぐるもの、内に固
めるものと生れ、霊の霊の光と霊の体のものとが生れて来たのです。
その折には宇宙は光り輝いていて、美しい五色の霊界が出来た。つまり霊界の家が出来
たのです。そして神の働きは人の世界になってから神の御名で知らせたのです。
それぞれの神の御名についての説明をしたいが、今迄の聖者達の説明と多少の違いがあ
るから、皆さん方は五井先生にお聞きすればわかるでしょう。
五井先生にばかり責任をもたせず、我らも修業をして、修業と共に皆さんに説明したい
と思っている。そして人が母胎を出てこの世界に生れて、人としての修業を終えたら、充
分に自然界の営みに努め、そして、自分に営みを吸収して、動きの営みによって修業する
ことです。これが終ったら、更に進んでもう一段上の世界に生れ、そこでこの世界の営み
の気に同化し、同化し終えたら更にもう一歩進んだ世界に入り、その気の世界の努めを果
して、更に進んで次の世界に生れ、その世界の気に同化しその修業が終えると、次の世界
119
に同化しそれが終えて又もう一つ進んでゆく。
私の見ている処は何階層もあるように見ている。しかし宇宙の根源たる大神の中には同
化しても、中に入って霊住することは出来ないように自分は考えている。
一歩一歩進んでゆくのは祈りなのです。祈りが世界を作るのです。自分に与えられた使
命の上に世界を作り、祈りによって世界の関門を生きながらにしてこの身このままにして、
観得出来る霊能をもたされている。不思議な霊能を思い、その光の中に浸り、私はよろこ
びにひたっている。余談に渡ったが。
かくてタカアマハラのタの対象が生れる。カで内部の光が輝いて来る。アとは神霊顕彰
宇宙全くはりつめるのです。マとは全く張りつめて玉となることをいう。またこの極微点
の連珠糸となす。次に神霊元子が活気臨々として活動している気を称して、ハというので
す。ハは活気臨々、至大煕々というのです。またその造化器が運行循環しつついる気を称
してラという。即ち循環運動のことである。
つまりタカアマハラは造化器官で、すべてのものを生み出す家なのです。その線に沿っ
て同時にアオウエイの親音も現われ、親音をもととして七十五の声が生み出されてきたの
です。これは言葉ではなく、音動である。
120
人の世が出来てはじめて言葉が出来たのです。
五男三女神からを人類の端緒としている。それ迄は今迄のような言葉ではなく、音感だ
った。またそれ以前は動きだけだった。
その頃は合気の起りも大きな音響であったと思う。
それが数百億万年たって形の宇宙が出来た。気と気との交流するたびに重量が出来てさ
がっていった。そしてそれぞれが時代時代をなしていったのである。結局国祖ノ大神の生
むすびたるむすびつめむすび
産霊、足産霊、玉留産霊のご神業である。世のはじまりから天之御中主神造化三神の時代
まで数百億万年もたっていると、聖者達もいっている。
天之御中主命のみ代になっても聖者がいう五十六億七千万年たっている。完成までの長
い年月の間です。
つまり更になりひびいていた霊の世界が、言葉で通じるような世界になったのはごく最
近のことで、五男神三女神の時代からと思われる。
言葉は天にも地にもない、人生の自然界にだけ言葉があり、人によってのみ言葉が生れ
るのです。
まさかつあかつからはやひあめのおしほみみのみこと
合気は正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命のみ代から明らかになっているのです。そこに合
121
気の道がたったのだが、それを知るまでには長い年月があった。容易なことではなかった。伽
今迄の武は真の武にかえる順序に与えられた自然鍛練にあったが、お互の魂と体とのこ
の世の錬磨で武道はつづいて来た。その錬磨の中には武人としての魂の錬成、体の錬成が
あり、霊と魂との二つの道が現われた。しかし世の規範に反対するものは、終いには敗北
してしまう、と教えられて来たのだが、この世の完成の上に、天地は完成しているが、人
間の完成のみが出来ていないようである。
修理固成するのに、すべてきれいに営みの道を調整してゆけば、今迄のことは役立たな
いことはない。これによって悟っていかなければならなくなっているように真の武道が出
来ている。
さるたひこすめのこと
猿多毘古大神が皇大御神のみ言をもち、私に武産合気が下ったのです。
今迄の武道のことを排除してしまうのではなく、今迄のことを地場として、昔の元たる
気の流れをのせ即ちふとまにに占えるということで、ウのみ働き、であります。宇宙と同
じく正しく動きを作りあげてゆく大きな道なのです。
大神より頂くごみいずのお取次ぎのようなものです。
武産とは絶倫の日本の武である。しかれば神変自在、千変万化のわざを生みだすのであ
る。
さが
真空の気と、空の気を性と技とに結び合いて錬磨し、技の上に科学しながら、神変万
化の技を生み出すのであります。そして錬磨するのが武産の合気であります。と同時に、
皆さんのこの世の自己に与えられた使命は悉くこの方法によってとげられることになって
いるのです。
つまりアウンの気、天地、ものの気が全部自分の腹中に胎蔵され、自分がその気によっ
て、ものをなしてゆくのである。
呼吸し、息吹きして真空の気を吸い、大地の気、森羅万象の気を性と技とにむすびつけ
はらいど
て錬磨し、技を生み出して錬磨して出て来る技が、天地の理に沿うみそぎとなって、祓戸
ノ四柱の大神の如く、妙なる荒きみそぎとなって、丁度四季の変遷のみそぎの如くなって
いるのです。
四大四季の呼吸をすべて腹中に胎蔵して、順序に従ってみそぎをするのです。これは神
書にはみな書いてある。
我国の兵法は風雨雷震を叱陀し従えるものといわれています。
ra3
合気は綿津見ノ神のこ神行なのです。
この世のみそぎには、赤玉、白玉、青玉(真澄の玉) の三つの神宝が必要なのです。
神宝とは大神の日嗣ノ御子のごみいずであります。
それを頂いて、ご神行にご奉公するのが合気の努めです。
即ちことたまの妙用、日月の呼吸と潮の満干の呼吸。人はこれらの呼吸を頂いている。
この呼吸に同化し生まれたる人々は大神の呼吸に同化することなのであります。
みつのたまひるのたま
赤玉とは塩盈珠、白玉とは塩乾珠である。合気は、神生み島生みから来るのです。
世の中のすべてのものを育成する大道にご奉公するの道であり、世の中の至誠を守る道で
あります。
即ち伊邪那岐の命が黄泉国より逃れて来た一条のくだりによって悟り行わねばいかん、
これが合気の産屋となるのです。天地宇宙は五行の武産によるなり。
X24
私の合気修業方法
宇宙と人体とは同じものである。これを知らねば合気はわからない。なぜなら合気は宇
宙のすべての動きより出てきているからであります。
私の合気の修業方法を申上げましょう。
初め、昭和十五年十二月十四日からでした。この日は旧暦の十一月十六日、奇しくも私
の誕生日にあたっていました。
その当時は、私の体には力が充実し、融通無硬、神変自在の技が自然に生み出てきて、
数えれば何万種の技を自由自在に行っていた。剣をもてば剣もその道の人達に自在に教え
ることが出来た。どうしてこんなに力が出て技が湧いてくるのだろうと不思議に思ってい
た。しかしこのままで済ましてはいけないという気分になったのです。
そして前に申上げた昭和十五年十二月十四日の午前二時頃、一時間の水行をしたのです。
X25
そしてはじめて自分の守護神守護霊の活動、大変な働きが開始されるようになったのでし
た。
即ち大猿多毘古神が降臨されたのです。またアメノムラクモクキサムハラ竜王大神(又
はやたけむす
の名を速武産大神という)が降臨され「我は植芝の血脈にくい入りくいこんでいるぞ」
といわれたのです。そして合気道の守護神であるといわれたのです。また「世の初めの一
元の大御親神のみ働きたる処の二元の大神のみ心のみ働きによって、即ち天祖国祖のみ働
いずのめ
きによって大地、宇宙のすべてが出来上ったが、今度いよいよ汝が立って、伊都能売の道
いずのめ
によって伊都能売となって、この世をみそぎせよ」といわれたのです。
アメノムラクモクキサムハラ竜王大神とは武産の根源の現れなのです。やさしくいいま
すと、どんな魔も邪悪も一瞬にして浄めはらう大神様です。その神様が血脈の如く私にく
い入り食いこんでおられるというのです。これはすごいことになった。私などにそんな大
きなことが、と思った。そう思って本当にしなかったら病気になってしまった。死ぬ程の
大病で一年程わずらったが、その病気最中に私は悟ったのです。
病気をしたといっても私は何もしなかったわけではない。以前より陸海軍に奉仕せねば
ならなかったし、ことに兵務局や大臣の頼みで陸軍省に奉公もしました。そして高貴な方
i26
々にもご奉公申上げたし、あちこちの大学の顧問をも拝命していました。また近衛内閣か
ら東条内閣のはじめに審議委員を任命されておりました。その他いたる所の顧問をさせら
れていました。
まくヘへ
しかし陸海軍の稽古は、主に暁を主体においていました。つまりものを主体にして、
百事戦争が目的でした。そして一刀一殺とただ名誉に向って進もうとしていた。遺憾なが
らいささか真の誠忠ということに欠けていたし、軍にも理解出来ていない人々が多かった
ようである。勿論偉い軍人もいました。忠勇の軍人は涙が出る程よく戦ってくれました。
しかし合気道は人を殺すのが目標ではない。戦い争うことが目的ではない。合気道は暁で
はなく、魂のひれぶりである。一元の大神の全徳をこの世にたたえ、この宇宙の根源をす
べて表に出すことである。そして万有のすべてのものを愛育する責任をもって大道にご奉
公する、いいかえれば全大宇宙の一元の営みの現れを、誰れにも頼まれなくともすべてお
守りする処の役目が合気道なのです。
つまり自己に与えられた天命を行うことであります。自分の使命を行なっているという
ことが、国のためになっていれば結構なことだと思う。自分の使命の遂行よりない。国の
ため世のためと言葉に出した折りには汚れる。自分のつとめを完うすればよいのです。つ
X27
とめが神になっていれば、これは幸いである。
一国を侵略して一人を殺すことではなく、みなそれぞれに処を得させて生かし、世界大
家族としての集いとなって、一元の営みの分身分業として働けるようにするのが、合気道
の目標であり、宇宙建国の大精神であります。これが明治御大帝の大み心であったと、今
日なお仰いでおります。
絶えずこの祈りによって争いをさせんようにする。だから合気道は試合を厳禁している。
がその実は大なる愛の攻撃精神、和合、平和への精神である。
それがために自己の愛の念力(念彼観音力) をもって相手を全部からみむすぶ。愛があ
るから相手を浄めることが出来るのです。
ばく
合気は自由を束縛するのではない。すべての悪い心を祓い浄めて、すべての縛つまり
因縁の縛、自分の行いの上よりきた縛、すべての精神よりきた縛を悉く解くのです。即ち
自己の使命をつとめ上げることです。これは五井先生のみ心にそって祈りの実を結ぶ事で
す。
今迄の私の武の奥意は一剣に生殺与奪の力を集め、相手を自己の想うままにして、栄え
の道と喜びの道の案内をすることであった。合気道には時間も空間もない。日本の神代か
12$
らの歴史は悉く自己一身のつとめの中にあるのです。
又この世は国の各機関の命令によって行っていました。もとはいつか斬ることを教えて
はく
自己の攻防のみとなり、攻が主となってしまった。これは暁が主であったからであり、
時の勢いでもあり、人類に与えられた大きな修業の道でもあった。
戦争が終って、人々に平和への望みが満ちてきた。原子力も平和産業に利用されるよう
になり、そして合気道も、政府上司の命令で”進め” ということになった。それは私が愛
を常に説明していたから、それを記した私の手帳も方々に落ちていただろうから、調べた
のでしょう。だから”今度は愛の競争に立った” と笑ったことがある。
時が前後したが、大東亜戦争もようやく激しく、敗色がこくなってきた。この戦争を止
めさすべく、私に神示があった。
ついでにここで申上げておきます。
「世界の同胞はみな困っている。若い者は次々に死んでゆく。この戦争を止めさせるのは
只一つある。つまり国土の因縁罪障の処理が出来ず今日に及んでいる。その時に神は汝に
神つけるから、汝の一身によって果し、戦争を止めるように進め」と神示が現れた。しか
しそんな大きなことは出来ないと信じなかった。
X29
丁度広島長崎に原爆の危険があることをすでに神様からきいて前知していた。しかしそ
んなことをみなにいったとてしょうがない。自分の身を亡ぼすもとであるので、ただ黙っ
て行いだけをしようと思った。
すみ
猿多毘古大神は「速やかに宮と武産合気の道場(三十六畳の浄めの道場) を建てよ」
といってこられた。そのご教示によって自分の疎開した土地(茨城県岩間町) にほんの小
屋であったが建てた。
こういう目に見えないことであるので人には話せない。今もその心で進んでいる。只猿
すめみこと
多毘古大神に建てさせられたのである。その折には猿多毘古大神は「皇大御神の命もち
て」と神示にいわれました。
私は誰れに語らず私の胸の内に秘めて、ただ神様にいわれたことだけをやろうと思った。
それをやれば、戦が止るということだったからである。それで黙って建てた。そしたら大
東亜戦争は止めということになった。
それから修業がはじまったのです。
夜一時二時頃、庭に降り立ち、自分は剣をもって立った。ところが不思議に、一人の幽
体(実はもう一人の自分)白いものがパッと現れた。白いものも剣をもって私に向い立つ。
i30
こうして剣の修業がはじまったのです。
そしてターツと打ってゆこうとすると、その瞬間にパッと相手が入ってくる。相手の剣
が自分の腹に胸先にパッと入ってくる。少しも油断は出来ない。はじめは私の動作はおそ
かったが、修業しているうちに、幽体の相手が入ってくる瞬間に、相手の木剣を下へ切り
落した。すると白い相手は消えてしまった。
なお三日間ぐらい続行しているうちに、相手をぐっとにらむと剣が消えてしまった。
その時自分を眺めると姿がない。ただ霊身だろうと思うが一つの光の姿がある。あたり
は光の雲でいっぱいである。といって自分の意識はあるのです。木剣を持っている気持も
ある、が木剣はない。ただ一つの呼吸のみがあるのです。これが二週間つづいた。
新たに、日をおいて立つと、木剣も自分も光の雲もなく、宇宙一杯に自分が残っている
ように感じた。その時は白光の気もなく、自分の呼吸によって、すべて宇宙の極が支配さ
れ、宇宙が腹中へ入っていた。
これが宗教の奥儀であると知り、武道の奥儀も宗教と一つなのであると知って法悦の涙
にむせんで泣いた。
山川草木、禽獣虫魚類にいたるまで、すべて大宇宙の一元の営みの現れである、と大神
131
に敬虚な感謝が心からわいて、泣けてきてしまったのです。
その頃合気の稽古はやめました。ただその時体得した、松竹梅の剣法が残ったのです。
うだい
この合気は宇内のみそぎの行事であり、人としての道のつとめであります。
よロも
大きくは世界家族、小さくは日本家族、すべて一つの家族の一員となり、”四方の海み
はらから
な同胞と思う世に… … ” という明治御大帝の大み心を奉仕してゆくことです。そして私
は全行いをみなさんと共になしてゆきたいと思っている。
i3a
合気の錬磨方法
いき
息と息とが組合わさって言葉が出る。天と地の気が組み合わされて万物が生れる。
このすべ.ての五十連の息を火と水とを組み開いて、陰陽、軽重、清濁を明らかにするの
です。
人の息と天地の息は同一である。つまり天の呼吸、地の呼吸を受け止めたのが人なので
す。
ことに国の政治をとるには、この理を知らねば治めることは出来ない。政治ばかりでは
ない、何事をなすにあたってもこの理を知らねば行えない。
この世は一元の営みの現れであって、これが即ち天ノ浮橋になるのである。これによっ
て人の御魂に現わして、宇宙建国の大精神を目標に進むことになっている。祈りも天ノ浮
橋である。これをもって行うのが合気道であります。この合気の技の生み出しは、悉く天
133
ノ浮橋がもとになっている。
なぎなみ
天ノ浮橋とは火と水の交流である。即ち造化の三神であると同時に、那岐那美二尊のみ
心の現れである。それが天祖国祖の合体で、吾人の使命の営みを、よく自分で魂の緒の糸
たけむす
筋をみがき浄めて、輝やかせることです。これが武産合気武技の道であります。
たま
そこで空気と魂の緒の緒結びによって来たるところの念力の大橋(火と水のむすび、
十字にして天の浮橋) によって全大宇宙の真の妙精とむすび合うて、わが身心にくいこみ、
くいとめて、人のつとめを果すのです。
これが私共の神のつとめです。
ヘへ
それから天剣でもって、宇宙の妙精と結び生殺与奪のけんを与えられるという、昔より
の神示であります。
それで天の呼吸、地の呼吸(潮の満干)を腹中に胎蔵する。自分で八大力の引力の修業

をして、陰陽を適度に現し、魂の霊れぶりによって錬磨し、この世を浄めるのです。はく
息は⑭ である。ひく息は図である。腹中に図を収め、自己の呼吸によって⑭ を図の上に収
めるのです。
理の呼吸につれて、呼吸をつくり、技の姿もかくの如く出てくるのです。
134
はくひ
暁に堕せんように魂の霊れぶりが大事である。これが合気の錬磨方法である。
またこれは尊い最高最貴のご紋章にも愚考される。というのはすべてはこれによって生
息し、これによってものは栄えている。この息は一元より来たる処の、自然界における有
様である。これによって武術は励んでゆく。全身がその姿になっているのである。しかし
こういうことは文字や言葉だけではわからないでしょうから、知りたい人は一度私に会っ
て修業されればよいでしょう。
おのころ
宇宙の気、於能碁呂島の気を組み合わせて森羅万象の気に与えるようになっている。そ
のような理に神習うて、人のつとめをせねばいけません。
とにかく宇宙の営みの霊波のひゴきをよく感得することです。技はそのひゴきの中に生
れるのです。だからして、道歌の一節に、
日地月合気になりし橋の上大海原は山彦の道

天地は汝れは合気とひゴけども何も知らずに神の手枕
武とはいえ声もすがたも影もなし神に聞かれて答うすべなし
と歌った。
極意とは自分を知り、理を究めて、合気をもってみそぎの技とするのです。
135
天地の呼吸は、赤玉も白玉も日月の合気によって、生命を現わすのです。日月の呼吸と
潮の満干の交流で、生命を造るのです。赤玉は潮満珠、白玉は潮干珠、青玉は真澄玉であ
ヘヘヘへ
る。これはことだまの妙用にして、合気の働く大道であります。
これによって、誰れに頼まれなくとも自己のつとめの上に、世界の何ものよりも先に立
って、みそぎのご奉公をするのであります。
くさなぎのつるぎ
これが地においては祭政一致の本義たる草薙剣の奉仕であって、その大道に身をも
ってご奉公する。これが世界のすべての定理を明らかにすることです。それには自己の六
根を磨き上げて自己の魂を光らせることです。
私が今日まで、神前にお灯明をあげて礼拝する際に、二つの灯明が一つとなり白い光、
御光となる。その光が自分となっていることを知った。その光によって自己の神体のもと
自己の骨組までも、明かに浮き出て、自分の体内のすべてがわかってくる。祈りの言葉一
つ一つが、実在と明らかになって自己を造っていることがわかる。これが平素の道の修業
です。
大祓祝詞を奉上する折にも、一声一声が光となり、神となり、道々より招かずとも神々
が集ってきて下さる。そして自分の白光の周囲に神の法座を設け、神々は光りとなって集
X36
って下さる。実にその状態を目をあけて拝み実在と眺めることが常にある。
またみそぎをして東天を拝し、太陽を拝む時もその通りである。天は高きにあらず、自
分のそばにきている。その折りにも私は光体となっている。
最初黄金体となり、白光体となる。太陽も白い焔と見える。そしてその内面をそばで眺
めることが出来、すべてがわかるような感じがしてくる。実に信仰ほど有難いものはない。
宇宙に万才して動く信仰であり、その信念に生き使命をつとめている。
このみいず輝く万才を三唱していつもたのしんでいる。
武道から入ってこの合気はおつとめしてゆけばよいのです。つまり世界家族が出来れば
よいのです。それが合気の役目ですから、国のためとか何々のためとか、ためにするもの
ではない。大神の営みの方の分身分業たる自己の使命を果たすことです。
しかしあくまで一元の大神様そしてこの世を治める最高高貴の方の分身分業として、自
分は努めさせて頂こうと考えている。最後のご奉公である。幸い道に沿っていたら有難い
と思っている。
分身分業のお努めをする人は一人だけでは出来ない。世界の使命をもっている大宇宙の
組織の道々の神々様、またすべての万有万象が悉く和して各々のつとめにいそしめばよい
137
のです。
天の星が一つおちてもだめである。大神の営みの力が減る。
みんなのおかげによって、みんなの呼吸によって、日月星辰はおろか、すべての働きは
存在し、そして常にその働きによって生かされているのである。これは感謝の他はない。
合気は感謝のつとめであります。
138
真の武
気のわざやたまのしずめやみそぎわざ
とも
みちびきたまへ天地の神-植芝先生の歌1
ある人は軍備徹廃を叫んでいる。そして合気道も軍備ではないかといった人がいる。し
かしそれは間違っている。
合気は、軍備の心を起さずに和合の道に進ませるのである。
真の武とは、宇宙の完成に向って導くものである。宇宙の魂の緒の糸筋を浄めて、気の
世界・気・流体・柔体・固体の世界というように、各層をすべて浄めるみそぎのわざであ
る。そこではじめて、美しいみ姿、ミロクノ大神のみ姿を仰ぎ見ることが出来るのである。
これ宇宙の活動の生ける動きの姿だからである。これを宗教家の方でもいう。真の宗教
も武道も同じですが、一霊四魂三元八力の活動の実体である。
139
みそぎの技として、合気は最後の愛行のために生れたものなのである。
真の道をねり上げそして開く、これを武と申すのです。武とは愛であり、人を斬る殺す
の道ではない。
争いもない、戦争もない、美しいよろこびの世界を作るのが合気道である。
合気は宇宙の生ける活動の姿であり、万有の使命の上にへ息吹きするのである。空気と
なり、光となり塩となり、皆の前にご奉仕するのが合気道の合気たる由縁で、決して争い
の道ではない。万有愛護の使命の達成をのぞいて、合気の使命は他にありません。
140
うしとら”三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になったそよ
” という大本教のお筆先
は、私の心の奥深く動きました。神が表にあらわれて善と悪とをたてわける、ということ
もありました。これが武でいうと、天ノ浮橋に立たされるということです。丁度十字の姿、
火と水の調和のとれた世界、つまり魂の世界になった、神代の世界になったということで
す。
日本が神代にならなかったら滅亡してしまう、又日本人としての価値がないのです。
人をつくるということが宗教の眼目だと思いますが、真の人というものは、武でいうな
ら天ノ浮橋に立たされる、ということです。
今迄の世界は暁(物) の世界であったのが、今では魂本当の精神の世界にふりかえられ
て、いいかえれば道の現れとして申上げれば、地が天になり、天が地になっていたのを、
本様に帰って、日本精神に復帰する世の中になったということです。その案内者に出て来
たのが合気です。これが天ノ浮橋に立たされることであり、善と悪とをふりわけるという
ことです。最後の審判の時であるということです。
しかし、悪をお前はダメだとこらしめるのではなくて、神は普遍なる愛であるから、悪
もよろこばして改心させる世界にする。よろこばして改心させる、ということはどういう
ことかというと、日本の武は偉大なる光明に神習って来ているのですが、光明というのは
天国及び天人そのものです。その天国の素晴しさ、天人の立派な行いを眺めさせて、「あ
㌧なんて素晴しいもの、有難いもの」と悪を改心させるということなのです。今そのふり
かえの時機が来ているのです。
武においては、悉くこの世も天ノ浮橋であります。浮橋を自分で悟って先頭に立ったの
が合気なのです。即ち光明界の分神分業であります。これをイヅノメの働きという。それ
141
故合気は人を斬るわざではないのです。
それは、私が笏板を持ち、神前に天津祝詞を奏すると、笏板は一本の光の棒になり、透
き通ってしまう。そしてすべてのことが明らかに眺められる境涯になるのです。剣をもて
ば相手のすべてがわかる。悪いところだけがそのままの姿を現わしている。そこをスーと
すきなく浄めればよいのです。ということでわかると思います。
私はこの世の中は光明世界だと思っています。しかし信仰がなければダメです。祈りも
本気になってうちこむと、祈りの言葉が光となって、又祈りの言葉の中に真実の姿を認め
る如く、技も又祈りの中に現われてます。そうすれば、各々が天人の団体の一員となって
いることが明らかです。それを私には常に肉眼で見られるのです。しかし私はこれからい
ろいろ修業であります。五井先生について、これからもう一つそういう境涯を修業しよう
と思っている。
かむ
天地万有万神は大神より出たもの、それ故ある時は師匠になり、自分の行いを直す神
かむ
うみ神ろぎの道であると思っている。ご遺訓たる古典を奉戴して、自分を怠らず修業し
たいと存じております。
武では自分の使命以外のことに心を把われると、必ず打たれます。
142
その営みはみそぎの境地である。
ナギノ尊がよもつ国から帰えられ、みそぎされた折り、いろいろな神をお産みになって
いる。このご神行を神習うてゆくのが武道です。
武からいって祓戸四柱ノ大神は、宇宙の営みの道、武の営みの道であって、それによっ
て技がみがかれ完成されるのです。この折りに人々の批評どころではない。複雑微妙なる
宇宙の営みが、悉く自分に与えられた使命の上に神習うて、神の守りを頂いて達成するの
です。使命以外において、人のよしあしを論ずるひまはない。善し悪しを論ずると隙が出
来る、その隙に邪霊が入って打たれるのです。人を試そうとする時、人と争おうとする時、
心に隙が出て来ます。
合気の本尊である植芝常盛は、他に心が動いたりしてはいけない。人を非難したりした
ら、自己の合気の神格がなくなっているのです。その隙により雑音が入って、自分の身は
そして精神は切られ、敗者となってしまう。それは油断である。いつもゆったりと落着い
た気持で、営みの世に只一人という気持で、喜びの世に浸っているようでなければだめで
す。
かつて空海が、
X43
心の内に咲く花は弥陀より他に知るよしもなし
と歌っているが、私にはこれではもの足りない。自分の姿の上に、魂の花を咲かせ、魂
の実を結ぶ、それは自分自身が一番よく知っていることです。この世の中に魂の花を咲か
せる。つまり身体が魂の花となり、桃の花となり、実を結ぶことなのです。
花は咲き乱れ、実は沢山むすばれている。この実在の姿を神前に眺めることがしばしば
あります。そして常にその境地に私は浸っています。これは嬉しいもので、そういう時は
時のたつのも忘れ、人と話をする機会もなくなってくる。常に感謝する気持でいると、い
つも見える。それが自分そのものになっているのです。実に不可思議なる合気です。私は
ますますよろこんで勇んでこの道に精進している。
今は人間として老境ながら、相手がないから一人たのしむより他にない。
.
たまに高橋さんが尋ねてくるので、よろこんで迎えている。この気持は祈りのご本尊の
五井先生にも話していたゴきたい。
五井先生とは、遠隔地におって、しじゅう、霊的に尊いお姿にはお会いしているし凡て
わかっている。
144
合気修業の方法について

気体・流体・柔体・固体と四つに分ける。四つの全身各機関に対して、四つの気魂のひ
ヘヘへ
れぶりが必要である。
この気体の気でも、大神のみ姿に神習うて人一人の姿の各部の気の稽古をして、表裏の
ない魂の実在のひれぶり、その霊のひびきを明らかにし、速やかに実在のもとに現わして
ゆくまで、気の稽古をすべきである。気の稽古は至誠の信仰であり祈りであります。
気を浄める、即ち肉体の血行が霊肉共に清浄に浄められ、血行を悉く宇宙に同化するウ
ヘヘへ
声のみ働きを神習い、自分自身がひるこになって、神やらいにやられぬよう、真面目に人
生の本能を磨き、イヅノメの働きとならねばなりません。このイヅノメこそ合気道のこと
なのです。
魂線の糸筋の浄まった立派な姿になるよう、これを武の道になしとげてゆかねばならな
い。
魂と血流が浄まると、肉体が立派な生きたすき通った光の肉体となる。.これを創りあげ
なければならない。
145
次に固体であるが、つまり骨も髄まで立派な土台として創りあげてゆかねばならない。
天の呼吸即ち日月の呼吸、地の呼吸即ち潮の満干、と四つに分けている。この天と地の
呼吸の交流を受けて、立派な人となることを目標に(十字つまり合気である)合気は鍛錬
してゆく。
一人でも二人でもよい。一人でも多く、立派な人を作りあげれば、ロケットをあげて月
の世界にわざわざいかなくとも、いながらにして、月のすべてのこともわかる。日月星辰
は我が身に集ってくるのであるから、騒ぐ必要はないのである。又科学者は、この精神を
生かして、日本式大宇宙式の精神的に実在する大科学を観得して、ますます明るい世界を
作って頂きたい。
今の世は、大いなる迷信に陥って、自分を忘れている。嘆かわしいことです。人々はす
べからく合気の道に修業すべきです。そうすれば、忘れていた自己を知ることが出来ます。
これが神須佐ノ男命の草薙剣の神剣発動、即ち武産合気であり、大なる自由主義、民主
々義であります。
r46
武気について
のり上げる祈りの中に我すみて
国のみたてと神のさむはら1植芝先生の歌1
とど
武は、よく世の中では鉾を止めるということになっている。真にその通りである。鉾
を止めるという意義は、全心身の中にすべての武気が喰い入りくいとまっているというこ
とである。離そうとしても離れないのは、血肉相むすんでいる結果である。これが天之叢
雲九鬼さむはらの道であって、叢雲の剣の精神の神気の動きである。これが合気道なので
ある。つまり天之叢雲ということは、前章においても説明しておりますが、宇宙の気・オ
ノコロ島の気.森羅万象万有の気・アウンの気を貫ぬきて、各万有の使命の上に息吹きす
ることなのである。これが日本の一番古い武の起源である。
この広大なる世のはじめより、霊界だけだった昔より歴史地理の科学の営みたる世界即
147
ち、大宇宙の大科学は宇宙建国のすべての方面に、それらの営みを悉く感得して、物と霊
との成立のはじめよりの妙精の霊界における歴史地理、又現世に至るまでの、幽の幽、幽
の体、幽の霊、幽の顕、顕の幽、顕の顕への現世を営まれるすべての様相は、武の行いに
よって全部みそがれて、造化器官たる上に、新陳代謝の生命の機能をもって、建国にむか
い進んでゆくのである。これが歴史であり、科学であり生命である。
人は自己の使命を自己に求めて占い、よく自分を知りつくして、実行に現わすべく、結
局、建国は、一元の元津御親の親神の情動の活動なれば、よく宇宙の真理実相を神習うこ
とである。
148
武がなければ国は亡びる
即ち武は愛を守る生命だからであり、科学の活動の根源である。
霊の働きも、すべての一元の大神の情動も武ならざるはない。一元が二元を出だし、造
化三神の活動、火と水の交流によって起る気流・柔・剛の水火を生み、交流する宇宙新陳
代謝のみそぎの生命、又その交流の摩擦による遅速の現れは、みそぎたる祓戸大神・大祓
戸神の現れによって、宇宙すべての調和をとり、又この一霊四魂三元八力の真の大宇宙の
生命のみ心み姿は、遂いに一元の大御親のご全徳を明らかにし、その上に魂を表に、調和
のとれたウのみ働きを神習わなければならない。真の日本の武道合気とはなりません。
この世界は大神の情動される科学の存在である。一霊四魂三元八力のすべての宇宙存立
の実体であり、生命であり、科学であり、又合気である。この間の動きは、すべて武なら
ざるはない。自分の体の新陳代謝、四季の変遷あるいはすべての界のうつりかわりは、す
べて武である。
一霊には四つの働きが与えられている。奇霊荒霊和霊幸霊と分れる。また、気・△ ○ ロ
いくむすびたるむすびたまつめむすび
の動きになっている。気体、液体、柔体、固体、又、生産霊、足産霊、魂留産霊というよ
うに人々でも説明している。しかし説明出来ても行いが出来なければ何にもならない。自
己を知らずしては何も出来ない。自己の魂線を磨きあげて、宇宙の魂線とむすばねば、す
べて生きた技は出て来ません。合気も行わなかったならば武でもなんでもない。自己の務
めを果して(その務めこそ世の功となり) 徳を出してこそ真の合気である。はじめて神が
表に現われるということになる。神が表に現われて調和のとれた世界が来る。
気の世界には気の武がついてまわっている。タカアマハラの動きについても、六言霊の
ラの一言がすべてタカアマハラの生命を維持する武となって、生命の機能を動かしている。
149
汚れたものは祓い浄める。それが武である。そして絶え間なく清潔に保ち、健康を維持し
ている。
液体の世界には液体の世界の武があり、障害があればこれを除く。これは現界自然界で
いえば新陳代謝の機能による。人体でいえば血液の血行、その糸筋に一つの障害が出たな
らばそれを取りのぞく。すると血液はきれいになり健康になる。障害、汚濁を取りのぞく
ことが、祭政一致の本義たる武の動きである。
肉体の柔体の上にも、柔体の世界の武があって、三元の働きによってみそぐので、血行
に例えても同じである。固体にも固体の武があって絶えず薇れがあればこれを浄めて剛体
素をつくり大地が出来上るようなものである。わが地球こそは、元のスの凝結したもので
ある。すべての引力のもととなって、大地地球には、すべての武がくい入りくいこんで、
くい止っている。今の世界の人類は、大地の御徳の一部をとって武器(原爆水爆など) を
作っている。武は大地にあって動かすべきでない。それを明らかにするのが合気の使命で
ある。
武気を現代の言葉でいうと、智・勇・親・愛となる。つまり魂の動きになってくる。こ
れを形の上でいうと、天火水地となる。これらは地上経繍の姿、一元の神の情動の姿であ
1ラo
って、宇宙の営みの実体である。
あまてらす
この一元の極智、極みいず、極徳、極善の精神の動き、これを天照皇大神と称えまつ
るのである。
古事記にスサノオノ大神が天上界を追放されたことが書いてあるが、宇宙経編のため営
みの世界を果すためには汚れが出ることは当然のことで、汚れが出てヤマタノオロチの姿
も現われて来たのである。
スサノオノ大神とは、その体はすべての気の神であり気の動きそのものである。暴風雨
天変地変もスサノオノ命の気の現れである。ヤマタノオロチは全世界の汚れより生れた有
様で、つまり世界のことである。
そこで汚れが満ちて来たので、スサノオノ命はオロチの腹をたちわって、中から神剣を
とり出し、浄めて、天照大御神にさしあげたのです。剣とは天照大御神のみ魂ものである。
誰れの魂の中にも与えられているのである。
ヘへ
ものというものが主になると、気が停滞する。そうするとどう動きようもなくなる。そ
れでスサノオノ大神は神やらいにやられざるを得なくなった。それは世の様を示したもの
である。スサノオノ大神も大掃除にかかったのである。即ち剣を取り出し、そして天照大
ISI
御神にお返した。この剣こそ祭政一致の根源であって、武の現れである。合気の根源であ
る。
前にもいったが、武とは鉾を止めるとよくいわれるが、よく味わうべき言葉である。そ
れは魂の中に鉾を止めるのである。その魂が汚れれば浄めなければならぬ。汚れた体をた
ちわって剣を出したということは、スサノオノA。oご自身の体をご自身が浄められたという
ことにもなる。つまり世界のことを意味し、我々のことでもある。我々はスサノオノ大神
のこ誠忠に神習い、自己をふりかえって自己を浄めることである。暁を魂にふりかえる最
後の審判である。
ヤマタノオロチというものが、はじめからあったわけではない。皆の邪気、諸神諸仏の
けがれが現われて、オロチと化したのである。人類の汚れから生れたのがオロチなのであ
る。
建設より来る邪気がこり固って現われている。星の旗とか赤旗とか、いろいろの思想で
乱れている。けれどこれは誰れの責任でもない。皆の責任なのである。
天孫降臨の際、猿多毘古大神が天之浮橋に立たれ、自分を浄められて、天も地もご自分
の光で光り照らし、宇内六合の邪気邪霊を追い払って、きれいなところの降臨の道をつく
X52
られた。この誠忠の大神こそ合気の導き、みそぎの神として大神に神習い、天之浮橋に立
たされることである。浮橋に立つものは、まず自己を修し自己の心身を無垢にし、六根を
ヘヘヘヘヘヘヘへ
浄めて、その上に真のひもろぎとなり、体はいわさか、地砥となり、地場となり、天人天
国の養成所となり、そこに真の剣を示す。これを武産合気という。これこそ暁を魂にふり
かえる、神を表に出す、二度目の岩戸開きであり、二度目の天孫降臨なのである。武産合
気は私が造ったのではない。宇宙の営みの移りかわってくるに従って、遂いに現われて来
たのである。
大地には大地の武がある。大地にくい入りくいとまって、大地をおさめている。天の気
地の気、人の武気によって、全世界の武気がつくりあげられている。これは言霊の妙用の
現れであり、祭政一致の本義ともなる。しかし行なわずして、説教のみは、かえって邪気
を生む。
人生にも武気がある。そしてすべての新陳代謝が滞りなく行なわれる。滞れば少しでも
機れてくさってくる。くさらぬようにするのが武の動きである。
朝東天を拝すると、宇宙の三元のこ神徳により、三界に和合し、三界を守る処の神気が嚇
身にくいこんでくるのを憶える。
気は自分の衣服であると感得する。自然に空気に自分の身が接触して、天地自然の衣服
を与えられている理を感じられる。
三界の和合していることはハッキリとし、三界が修業の自分であり、自分が守護してい
るということを知るのである。幽界に入った折りには幽の衣を着、悉く気体にかかわる。
気体は光りであるから、自己の心身の着物は光りになっているのは当然である。そこを現
世で観得出来る筈である。毎朝その境地に遊びひたって、奇しびなる信仰の妙境を味わっ
ている。
本当に気持よく宇宙と合気している。信仰を忘れてはいけない.。本を忘れず、行なうこ
とです。
常に天之浮橋に立たされる折りには、世の奇しびなる合気をば、悉く自己の武産合気と
心得て、その妙境の合気に帰納する。これが大霊に常に帰納出来ることである。帰納出来
てはじめて、合気の真の妙諦に進むことが出来る。
1ラ4
二度目の岩戸開き
すべて真の信と愛の信の力は、実在の姿である。梅の花のこ神示の如く、又二度目の岩
戸開きのお示しの如く、魂を表に範を裏にふりかえる世界を作ることである。今迄の武は、
他のことはともかくも、暁の技が表になっていた。
今は丁度二度目の岩戸開きの時、魂の使命の実をむすぶ時である。智慧正覚の錬磨をす
べき秋である。
即ち暁を土台となし、地場・地砥・いわさかとし、その上に人はひもろぎとなって、そ
の使命を行うことである。そして引力の錬磨に進んでゆかねばならない。そして真空の気
と空の気は、合気によく性と技とにむすんで、技の上に科学しながら武産の神より与えら
れた力を得なければならない。そして表裏なく、魂を上にしなければいけない。
天之浮橋は、丁度魂暁の正しく整った上に立った姿です。これが十字の姿です。これを
155
霊の世界と実在の世界の両方面にも一つにならなければいけない。
ゐき
図で示すと、田・となる。
私は本当に愚物なる故に、何十年もやっている。本様にかえって歩んでいる。合気は二
度目の岩戸開きで、自分の岩戸開き、ふりかえ、そしてまず自分自身をつくること、そし
いずのめいずのめいき
てその行いは伊都能売のみ働きである。即ち合気は伊都能売の現れである。⑭ 菌をととの
え、気体と気体を正しく美しく絶えず治めて道に立たねばならぬ。その上に武産合気の技
が行われる。自己のふりかえった姿である。そしてこの息の中には宇宙の実体が入ってい
る。畏れ多いが、日の丸の姿であり、菊のご紋章と、伺い得ることが出来る。自然界万有
の生命の呼吸である。合気は本当に有難いみ教えと思っている。
大神様の大御心の分神分業として、あくまでご奉公せねばならない。それが合気の使命
であると考えている。
いずのめ
これが武産合気、伊都能売の働きを生んでいる。これによって艮、坤の大御神の命ずる
乾巽の仕組み、丁度桃の花園、坤の御親神の西王母の御恵、又最勝妙如来の営みのことや、
顕し国のみたまみがきに奉仕することが、神のみ子たる武産合気の本能を開くことになり、
又最後の審判のふりかえになるのである。
i56
そして真の人となって、本当の宇宙人となり、祭政一致の本義たるご経編の剣を頂いて
のご奉公となり、三界一家和合の光明界の大威光に浴し、そして合気は大猿多毘古となり、
その御徳の中において、案内者の資格を得て、徳をつみ徳によりイキをうけ、イキを育て
る武夫は愛を、生命と魂をみがくことである。
ひびきと神体と声は実在する。行いも技も声もその中に我は実在する。
朝早く起き、天地の大なるイキを呼吸して宇宙と気結びして立つ折りに、イキのひびき
と共に、その中に自分は実在するものである。実在のもとに自己を修するものである。
すべて空の気のひびきにも神が住んでいる。この信念の行を進んでゆくと、超越という
言葉がなくなってしまう。超越というものは、濁れる世界の言葉である。超越の言葉をな
くしてこそ真の人となる。
自分を作り上げると同時に友をこしらえることである。すると友は人として合気の人と
いずのめ
なる。人とは天之浮橋に立って暁を魂にふりかえて、愛と真との合気、伊都能売の働き即
ち、一元の大神に帰納同化した方でないと、人とは申されない。
合気は信仰信念の上の行であります。即ちみそぎであり、生命であります。ただ人々の
1ラ7
形の上の真似をして、霊学という学問に堕してはいけない。神様のことをいちいち説いて
ばかりゆくと、しまいに信仰が薄らいでゆきます。
信仰の徳によって、理を明らかにし、理を行うことが肝心です。忠孝の道を進んでゆく
には、信仰信念が七分学問は二一二分で結構です。その比率でないと、真の理は体得出来な
い。
今の世は物質科学によって進もうとしている。物理によって進むのもよいが、それのみ
にかたよると、本当の精神の方がおろそかになる。物理と精神との調和のとれた十字の姿
になるのには、やはり信仰の徳が最も必要だと思います。
158
神のたてたる道
合気は神のたてる神の道であって、人間の作ったものではない。
神は、人を本様に作る目的、真の人をこしらえ上げる目的をもって、合気を下し、そし
てそのみ言葉を合気道をもって伝達させるのである。
人をつくるには、まず神と人との間に立つ伝達者の精神のふりかえをすること、伝達者
をまず本様につくりなおすことである。
本様とは、神を表にした、霊魂の修行である。体が上になって、霊が下になってはまず
い。体を宿とし、土台として、その上に霊、魂を働かすのである。霊の思うままに体が動
くことである。
合気の見地からいうと、これがウの言霊の妙用となる。
159
最初スより霊と体の根源を造って、そしてこの宇宙建国に大きな道たらしめ、生命線た蜘
らしめた。それは一元の大神さまを大巨人と見てもわかる。
あらゆる情動の動きによって、すべての営みの世界、全大宇宙を悉く経繍なさっている。
情動の動きとは何かというと、各々の司、つかさをこしらえて、道をこしらえ、その道
々に神々を生み、諸神諸仏があらわれた。諸神諸仏とは、この世界からいってその役役に
おける運営の有様である。合気でいうと、悉く歴史と地理とになり、合気の生命となって
いる。
これが一元の大神様の経論即ち科学の現れである。みな科学でないものはない。つまり
結局、全大宇宙とは複雑微妙で、人智でははかり知れない、大きな妙精の動きなのである。
神とは火と水のことで、みな悉く御息の動きによらなければ、その営みはつくられない。
だから一元から二元の神の摩擦また交流によって、すべてのものが現われたのである。せ
んじつめると、造化の三神がみ働きの元となるのである。
前章でも申上げたように、一霊が四つの働きをもっている。即ち奇霊荒霊和霊幸霊があ
って、この四魂の動き即ち交通によって経繍が生れる。この四魂の経論はすべてのものに
附与されているのである。また宇宙間のすべてのものは、一霊四魂ないし五魂六魂を備え
ている。この働きにより三元八力が出て来る。
いくむすびたるむすびたまつめむすび
三元とは剛柔流で、その働きは又三つの働きとなる。即ち生霊足霊玉留霊の働きで
ある。
気を起して流体素、あらゆる動物の本性である。柔とは柔体素で、植物の本性又肉体の
ように柔かいものである。剛とは、剛体素大地や岩石のような固い物、鉱物の本性である。
これらの上にあって、気によって活動している。
気にも悉く剛柔流の働きがある。そして動いている。このように組織体がなり立ってい
る。丁度祓戸四柱の大神といったら、すべて四魂の仕組、遅速の関係において成り立って
ゆくわけである。
これを合気でいったら△ ○ ロの動きである。
この三元八力が固体の世界を造り、人類社会もそれによって完成されてゆくのである。
武道によってみれば、宇内のすべての運化にもとついて稽古を続行しなければならない。
なぎなみ
これがみそぎの真意義である。火水の交流たる那岐那美二尊の奇しびなる御振舞いに神習
ってゆくみそぎの本筋であって、武産合気してゆく。
161
はじめに空の気と真空の気を、技と性とに結びあって自分においてこれを技の上に科学
化して生み出してゆくのが、武産合気の合気たるゆえんである。
そしてまず人の案内をするために、自分の岩戸を開いて、霊と体とを平行にしてゆかな
ければならない。物理と精神が相平行せねばこの世はよくならない。
i6z
固体の世界には固体の武がいる。それは喰い合い争いの世界であるから、どっちにして
も、すべての武器がいるわけである。物理と精神の平行せぬ、今日のような世界には、だ
から軍備の撤廃をするわけにはいかぬのである。
本当に美しい地上天国実現のために、今度精神にそって立つ武には、殺生の技はない。
つまり、自然の摂理によって、魂暁あわせた引力によって、いかなるものも自己の腹中に
吸収され、自己の思うままになるために大きなみそぎの本義がいる。これが合気です。
だから霊と体を平行し、魂が暁を使うようにならなければならない。まず明るい霊の世
界をつくることである。
かつて大本教で頂いた”三千世界一度に開く梅の花” ということ”神が表にあらわれて”
ということも自分の精神の岩戸開きで、精神をもととし、自己の本様にふりかえった姿で
ある。かくなる時、ものをいっても精神でものをいうことになる。
って、その姿を自分でわかるようになるのである。
言葉には言葉の姿があ
合気道は、自分が天之浮橋に立つ折は、天之御中主神になることである。自分がスを出
し、二元の交流をして、自分にすべての技を思う通りに生み出してゆくのである。体と精
神と共に、技を生み出してゆく。その技の中に魂のひれぶりがあればよい。
一元が七十五の言葉を生む。その頃の言葉は今の声に出る言葉ではなく、それ以前のひ
びきである。雑音ではなく、火と水との動きである。これが霊界をつくり、霊界のすべて
を作った。
大御親七十五のみ声もて森羅万象をつくりたもう
とあるがこれをよく神習いその真理によって、いろいろの技を生み出してゆくことである。
至誠をもって実在し至誠をもって実行せよ。
誠とは愛と愛とが抱合した働きで、そのみ働きに合気は神習って自己をみがき、守護し
てゆくのである。向
合気は大神様のみ心み姿に同化していかなければいかぬ。武とは合気でいえば宇宙との函
合体により、一つ一つを科学して生み出してゆくことである。
合気は武の大道である。むろん大道の案内者であるけれど、全大宇宙の営みの弥栄をは
じめ悉くみそぎであることを知るべきである。霊の糸筋に障害があれば障害をとりのぞく。
でなければ暁の動きにおちる。生命の動きの中にケガレがあれば、はらわなければならな
い。そのはらう働きも、自然界にうつせば、台風となってみそぎをしている。これをスサ
ブといっている。なおかつ人々のみそぎとなるには、赤玉白玉に神習うことである。
天の息と地の息によって、陰陽をつくって陰陽の交流によって万物を生み出す如く、人
も又大神様のごみいずの動きによって生れて来た。宇宙の妙精悉くを受けとめている引力
の持ち主が、人なのである。人は大地の呼吸と潮の満干を血行にうけとめているのである。
大地の呼吸と共に、天の呼吸を受け、その息を悉く自分の息にして息と息とに同化し魂暁
を正しく整えるのが人である。即ち人は全大宇宙を受けとめる一ケの経繍の主体となって
いる。だから人のつとめとして、この世を守り、天の運化に逆らわず、物理と精神とを平
行し、気体と気体とを正しく打揃った体にするみ柱とならなければならぬ。それを悉く合
気は、その道々に拝している。だから我々は合気によって感得し、実際に行ってゆくこと
です。
自分の心は自分の心ではらい、御剣を通して本様に自分の心から立直す。これが大神様
に神習う心魂のみそぎです。世界の大橋となる二度目の岩戸開きである。又神習いては自
分の二度目の岩戸開きである。暁の世界を魂のひれぶりに直すことである。ものを悉く魂
を上にして現わすことである。
ヘへ
今迄はもの一方だった。あの人は馳力が強いとかいった。今日はなりゆきで暁力の世界
である。だから世の中の争いは絶えない。
スポーツも籠である。スポーツでは日本は充分ではない。醜力だからである。暁力でや
ってゆく国は、最後はうまくゆかない。阿吠の呼吸でやってゆくこと、あくまで魂を表に
出すことである。魂の力をもって、自分を整え、日本を整え、神を表に出して神代を整え
祭政一致の本義に則ることである。
合気はみそぎであり、神のなさる世直しの姿である。
晩力が強いということは(世の剣聖といわれる人も晩力は強かったが) それでは戦争が、
いつまでたってもなくならないということである。争いよりぬけるよう、大神様のみ心に
復帰すべきである。そうして顕幽神三界を和合し、三界を守っていかねばならない。窃
みかえる立って世に号令する、という言葉があるが、ご奉公の「端に合気道は武を通し
て進み、「みかえる」の号令を待っております。
武とはすべての生成化育を守る愛である。でなければ合気道は真の武にならぬ。合気道
は勝ち負けをあらそう武とは違う。
合気道の修行に志す人々は、心の眼を開いて、合気によって神の至誠をきき、実際に行
なうことである。
この大なる合気のみそぎを感得して、実行して、大宇宙にとどこうりなく動き、よろこ
んで魂の鍛磨にかからなければならぬ。
心ある人々は、よって合気の声をきいて頂きたい。人をなおすことではない。自分の心
を直すことである。これが合気なのである。又合気の使命であり、又自分自分の使命であ
らねばならない。
z66
霊のみそぎ法
いき生命めぐり栄ゆる世の仕組
魂の合気は天之浮橋
みちたりし玉の栄えの大宇宙
二度の岩戸は天之浮橋-植芝先生の歌ー
生命維持の上に要する緒力も、悉く五つの魂の緒の緒力たるを忘れてはいけない。それ
を一身にハッキリと授けられている。これを合気の上においては、気剛柔流、そして気△
○ロという。これを根本として気によって技を生んでゆくのを武産合気という。
これは国祖の大神のごみいずを、更に須佐男大神のごみいずに神習い、猿田毘古大神の
みそぎの導きによって、合気に生れてくるのである。
これは植芝自身が信仰によって、自己の腹中より織りなしてゆく処の霊のみそぎ法であ
X67
る。実際に実行せねば、合気もまたやはり神やらいにやられ、ヒルコとなり流されても仕
方がない。少しも油断は出来ない。いつも信仰から信仰へ、祈りから祈りへと、祈りまた
信仰し、その光の中に一つ一つ姿が現われて、神が真中におられるのを見るようになるの
である。
自分のことを一つ一つするにも、合気は絶えず宇宙の妙精を吸収し、もの悉く同化し大
霊に帰納する、技は動作の上に気に錬り気によって生れる。その気が全身にめぐり各器官
たる全六根を浄め、天授の使命を完うする。又魂をその中におこし、磨き妙なる技を出し、
又光を出し光となって、その光を地場として、魂は大霊に帰納し、技は妙なる技を出し、
その道筋は七代の神のごみいずのもとに八大力の気のみ働きを起して、大なるみそぎ道と
なる。これが昔より我が国において数百億年前、無の極よりの過現未の歴史地理の大科学
の気の成長を生命として錬磨するのである。
私が今迄やっておったことは、中には足利時代から今日に至る一般の忠孝という言葉の
もとにゆられて来た武道は、その言葉は実に結構だが、私においては諸々方々で自分の武
術を教える順序を習うために、各地を遍歴して大抵何流彼流を一ヶ月ないしは二ヶ月習い
ました。長いので三ヶ月と習わなかった。それは、今人に教える順序が立派になったに過
X68
ぎない。又導いてくれた恩師の方々の中には、私を慕って下さり私の家においで下さった
り、ご家族共に八ケ月間もおられたこともあります。遍歴した先生の中に私を慕ってくれ
た方も多々あるのを私は感謝している。今私が行って来たことをふりかえってみると、そ
れらは暁の御用であって、やったことは百事誠であったが、戦闘目的の教えでありました
ので、自分としての天の使命の上からいったら岩戸閉めでした。今度こそ魂の岩戸開けの

本当の合気道の歩み立ちをしたいと存じております。十一月七日頃から歩み出して岩戸開
けのお取次ぎを致します。これは皆この五井先生の祈りを悉く技の上に現わしたい、祈り
を一つ一つ技にして皆様の中に、五井先生を父と仰いで家族の一員としてご奉公するつも
りです。ますます祈りの道を修したいと思う。これは大なるみそぎであります。
もと
合気は本を忘れ本をはなれてゆこうとする人を悲しむ。本を忘れるということは罪を
構成するの始りである。
その本とは、スの大神様である。この世の一霊四魂三元八力を出された、その八力のも
とに立たされた大御親たる、一番根源の大親神である。
合気はその御親神の情動の動きであって、国祖の国常立大神、豊雲野大神つまり一元か
いつよななよ
ら二元を出し、二元のみいずの現れによって、それが五代七代の神様よりこのみ働きご
169
みいずを受けもって、ご化神として立たされた那岐那美二尊の島生み神生みの本を忘れて
はいけません。神のもとを忘れて行えば岩戸閉めとなり、この世に喧嘩争いを導くことに
なります。この歴史地理を神習うて、絶えずこれを心に描いて、全大宇宙は一家族である
と同時に我々の家庭であると思って、それをみなよろこび勇んで三界を守り、みな楽しい
処の道を行う、楽しく各々に与えられた天の使命に適進することをおすすめ申すのが、こ
れを二度目の岩戸開きという。即ち神が表にあらわれることです。
つまり何事も暁を魂にたてかえる。その為にはものによる動作の上において、又各人が
悉く自分の使命の上において、各々の自分をよく知り自分の心魂に胎蔵して、間違った点
ひれぷ
があれば自分で立てかえてゆくことである。範の上に魂の比礼振りであります。
だが古よりの各流派の武道を捨てよというのではないが、それを土台にして、そしてそ
れをあとかたもなく忘れて新しく合気は生れ出たもので、みな気の巡りに従っております。
だから植芝は、自分についてくる門人にいうことであるが、今迄のやり方を捨てうという
いくたま
のではなく、それを魂の比礼振りにふりかえて、生魂の働きを働くことである。自身の
立てかえ立てなおしこそ、二度目の天の岩戸開きという。即ち精神が物質たる肉体をよろ
こび使って、真の天国天人の苗代であり養成所であり、いわさかであり地紙であり地場の
i70
上にひもろぎとなってこれは進まなければならない。この気は正勝であり吾勝であり、勝
速日ということを体得感得しなければならない。これによって大和魂を錬成せねばならぬ。
本当に顕幽神三界を守ることです。
そして至純至愛たる普遍愛に神習い、自分も普遍愛を行ぜねばなりません。これが合気
道のつとめである。これが私のいう二度目の岩戸開きであります。
これを神習って我々は自己の真人たる本様にたてかえたて直して、合気道をもって、合
なおひ
気のみたまの大道の中に浸って、自分から進んで自分のたて直しをして、よく直毘に審
判をしてもらいたい。自己の生命たる天の使命を全からしめる道に、合気して日本の家族
の一員として神の生宮となり、世界平和のもとと固めてもらいたい、と希望しています。
皆様、世界大和、大平和の祈りと共に、地上天国建設を成就し、世界大家族として光を
放とうとする神の子として、この道にご奉公するゆえんであります。お頼みします。これ
を合気といいます。有難う存じます。
171
X72
祭政一致の本義
武産合気は宇宙お営みのこ神意に神習い、万有万真の定理を明らかにする祭政一致の本
義であります。宇内の営みの世界を守り育てることに、大きな使命をもって、その道にご
奉公してゆくことである。即ち武産合気道は人を作るの道である。又自分を作る道です。
自分を作らなければ人の指標とはなれません。自分を作るとは、この世は初めものを出し
た、即ち醜を出し暁は土台となっている。.魂をその土台の上に表に出すことであります。
魂を表に、暁たる土台をその裏に、その土台の中から魂の光を出さなければなりません。
なんで最初にものを出したかというと、ものが土台となってそれを人体にいえば、肉体は
霊の地場でありひもろぎであり、いわさか、地祇であり、生き宮であります。霊の宿であ
り、霊を生長さすところの道場であり、土台です。その土台を作るためにまずこの世にも
のを出したのである。(つまり暁の世界です)武の道からいえば、古より今日迄の武道は
範の武道であって、いいかえれば真の武道の土台である。だが土台は固体の世界であり武
は固体の武である。故にそのまま行けば百事戦争を目的とせねばならなくなる。今日の世
界はやはり食い合いの世界である。いつまでも戦い争いはまぬがれないものとなってしま
います。結局だから武器を作らなければ押しまくられてしまうのである。
そこで神は二度の天の岩戸開きとして、その土台を作り、その上に、魂を表に暁を裏に
して、魂の世界を作るのである。土台は六根である。大地即ち六根である。そこで六根を
清浄にすることです。土台を光に浄め、みそぎ上げ、そして精神、魂を表に晩を土台にし
て現わしてゆかねばなりません。
今や世界の有様は大国やその他の国々によって、立派な人類における科学の世界を作り
上げておりますが、今の日本の姿はどうだろう。あんまりさみしい。我々はすべての西欧
諸国の科学を土台として、すべての物質の上に、物質を土台として、日本を表に出すため
に、なんとでも和合して、一家族の如くなり物質の上に日本を現わさなければだめです。
日本の光を出さねばだめです。かたわら西欧諸国もみなみそぎ、その上に真の日本を据え
る、即ち日本を表に出して、世界人類一家族の如く進むこと、それを奮励して一日も早く
神行の完成にむかって進む、これを武産合気というのです。これが真の武道です。
173
故に今日の世界を立かえ立直しをするというのは魂の世界に立直すことです。これは神
が表に現われる、三千世界を守る、和合さすということです。勇んで暮す世を作るという
ことです。それについては天の使命をうける合気道は、合気を修するものは、自己を立て
直すことです。世の立てかえ立て直しを叫ぶものは、自己の立てかえ立て直しが大事です。
合気を修するものは各々自分自身が合気によって合気道を観得してもらい、日本人一人一
人が、ふりかえ立て直って、大和魂に復帰し和合して、美しい楽土の建設をせねばならな
い。
五井先生はご苦労様で、有難うございます。
世界平和の祈りは、みな光となり、光の炎となっている。その光の炎の中に我々は住し、
天之浮橋に立たされて、勇んで三界を和合し、三界を守って、そして自分自身をみがきあ
げてゆくのであります。又一人一人が本当に光になって、光輝き、その上に立派な自分を
育てあげてゆく。魂を上に暁を土台として進むのです。武産合気においていえば、天の浮
橋に立たされてゆく。天の浮橋と申すのは、火と水であります。火と水の相交流すること、
むすぶこと、むすびあうことつまり一元が二元を出し、その二元がむすぶことであります。
対照力によって各々二元の働きが出来る。対照力の起りである。しかし二元の根源は一つ
174
であり、火も水も元は一つ。対照力によって天之浮橋が現われ、対照力により建国精神は
起きた。
高天原に神つまります、というが高天原には神様がつまっている。つまり神が活動して
いる姿で、火と水が和合して活動する姿、火と水の相和している姿を、天之浮橋ともいう
のである。
火水というのは体であり、イキとは用であります。この理をよく知るには、すべて根源
にさかのぼって攻究することである。
皆さんは日々世界平和の祈りをしている。祈りというものは、自己のみそぎで又全部五
井先生のご神徳のおかげで、自分をつくる道であり、大いなる健康法でもあり、その上自
己は天の使命を完成出来るし、健康法で長寿の祈りであることを忘れてはいけません。
祈りの中に、日々おりなしてつくり、その光に自分が神の姿となるということを、自分
で知ることであります。
175
X76
いきみや
神 の生宮
合気道はいつもいう通り、世の立直しにご奉公することです。立直しとは、濁った世界
を清い清い平和の世界にすることであります。それをするには、自分の立てかえ立直しか
らはじめなければなりません。それがためには人類は殊にこの世の経編の主体である、神
の生宮となって、正しく清い調和のとれた世界を創る事であります。即ち一元の大神、大
親神宇宙建国の大精神の元を人類は忘れないで、すべてが帰納して、この元のみ心み姿、
すべてのみ振舞たる神代よりの歴史地理に神習って進むことであります。
一口に神ということは、合気ということになる。何故合気になるかというと、火と水で
カミになるからです。このカミつまり火と水の根源は、元の一元に帰るが、一元から霊魂
の源、物質の根源が生れたのです。この火と水をもって、この世界を造っている。だから
この世界は火と水によって形成されている。何故かといいますと、火と水の中心には天ノ
御柱といって一元の大神が中心に収っている。絶えず一元のみ心のもとに、火と水は動い
ている。この火と水を名づけて合気というのです。だから全大宇宙というものは全部火と
水にて一杯つまっている。これを合気と名づけている。
まず形でいうと、この火と水の交流によって、気というものが出来る。人が呼吸してい
るのも、火と水の交流による。火と水が一杯つまっているから世界は動き、ものは活動す
る。人間でも、魂と肉体があるから言葉をいう。そのように目に見えざる魂の根源と物質
の根源の交流によって、目に見えざる世界をつくったのです。その時分には明るい世界で
霊界であった。そして五層の天界をつくっていた。
一つ大虚空をつくるのに、神典には数百億万年かかると書いてある。そのように長い間
かかっているのです。五層の天界というのは、霊をもって霊界の家をつくるようなもので、
無論今日の家の棟あり梁もある。土台もつくられているしすべてつくられている。つまり
光の根源と熱の根源を現わして、つまり真の信(光) 愛の信(熱) 目に見えざる二つのも
のは一つである。一つの大御心が動かしそして大宇宙は呼吸しているのであります。だか
ら目に見えざる世界から五層の天界が出来ている。
それはしび圏層と名づける。(これは大本教の出口王仁三郎聖師がいっておられた)次
177
に蒼明圏層、次に照明圏層、水明圏層、生生圏層という五層をつくったのです。霊界のひ
びきによって構成されているのです。一つひびき呼吸があらわれ、二つの交流によって一
つのものが出来て、層をなすごとに大きくなり、やがて五層となって天界を創られた。つ
まり霊界の家をこしらえたのです。
みな魂のもと、魂の糸筋をもって光で出来ている。その明るさは、今の太陽の七倍とい
われているが、何百倍の明るさであったと私は思う。それは自分の腹中の魂の動きを見て
考慮することが出来る。だから神がかりにならなくともわかることである。
多々の年月をへて、だんだん宇宙は膨大し、ついに天之御中主の代が出現した。ことこ
こに霊力体が生れた。一般の聖典に三百億年かかったとある。まず姿があらわれ、それが
だんだん濃くなって来たのが五十億年かかっている。お釈迦様は五十六億年で出来たとい
っている。つまり五十六億七千万年たって、大宇宙の真の営みがあらわれて来た。これを
一口に私は合気と申し上げています。
この営みをするにしても、この最後の天之御中の代の高御産巣日、神産巣日の神様があ
らわれる。即ち火のもと水のもとの神が濃厚にあらわれた。高御産巣日は霊魂の根源の神、
神産巣日は霊の体の根源となってつくられて、祖神とあらわれた。その代の神は人間の姿
x78
ではなくみな気のもとである。
一の動きから二つの動きが出た。それが高御産巣日命神産巣日命である。その動きがつ
いに霊力体を現わして、そして一霊の中心に対して霊魂を作り、その霊に又四つの働きを
もたしている。各々四つはまた四つの働きをもっている。それを一霊四魂といっている。
そして一方の体系の方では、目に見えぬ気流柔剛、この働きは、ただ勝手に動くのでは
ない。一元のみ心によって一霊四魂の動き営みによって出来ている。剛柔流気には、生産
霊、足産霊、玉積産霊の三つのむすびの作用の力が起っている。それらの力も八力によっ
て完成される。これを三元八力といっているのであります。
この三元八力の引力によって、大地を全部固めしめて、一つの大きな全大宇宙という活
動機関が出来上った。人体もその通りに出来上っている。その働きは全大宇宙も人体も同
じである。
その一つの流れを頂いて、武産合気として一元の創造主に同化して、この大きな家族の
流れとして、自分は合気道の上に、浄めの技をもってご奉公することを武産合気と申上げ
るのであります。
大きな仕組みの宇宙の営みの解釈は、私としての理解出来る範囲は、複雑にして、今こ
179
こで申上げていると容易ではない。それは海外から帰ってからにします。
180
天の呼吸地の呼吸
合気はいつもいう通り、地の呼吸と天の呼吸を頂いてこのイキによって、つまり陰陽を
こしらえ、陰陽と陰陽とを組んで、すべて万物が生れ、又人は陰陽と陰陽とを組んでもの
をいい、技を生み出してゆく。
さが
合気は練習についても、空の気と真空の気を技と性とに結び合って、これを技の上に
おいて科学しながら、この世の歴史地理を土台にして、又すべての妙義を生み出して武産
合気の生命の動きとなる。万有愛護の精神の上に立脚し、天地の普遍愛に神習い、世界家
族の一つの流れとして、分神分業としてご奉公なし、自己のつとめを完うさせることであ
ります。故に今度のご奉公はこの世の暁の世界を土台にして、魂の花を咲かし、魂を表に
晩を土台にする立直しである。故にその昔、七代の神の代のみ心に神習い、その土台の上
に魂の花を咲かし、天の使命の実を結ぶことであります。これによって、喧嘩争いのない
181
戦いのない平和の美しい楽土の建設に、この大きなみそぎの大道をもって現わさなければ
ならぬ。これが合気道のゆくべき道であります。
大宇宙の今日迄の仕組みにおいて沢山な汚れが出来ている。これは当然な成り行きであ
ります。この汚れを合気のつとめにおいて、顕、幽、神三界の万有万神の定理を明らかに
なして、この世界の動きと共に相和して、この世の汚れをはらってゆくことが、この武産
合気の本義であります。
このイキは綿津見ノ大神のみ業のイキであります。赤珠白珠であります。赤珠白珠とは
豊玉姫命、玉依姫命で竜宮城における妙精の現われにして、ことだまの妙用です。
嘗ては役ノ行者の如く印形をもって、処理し法を修したけれど、すべての罪障を浄める
のにつとめられてご苦労様だけれど、吾人は進んで今日の世界の浄めを、和合の合気道に
よってご奉公させて頂くのであります。
国祖の大神様は大地をほぼ完成の域に進ませられ、この地上にただよう邪気邪霊を処理
して、みろくのご神政たるところの美しい楽土の建設のため、大地の妙精と共に地上にあ
らわれて、すべて三界の魂も暁もすべてのものの浄めをして、宇宙建国の大精神をここに
全たからしめるために、神のみ子たる神の生宮たる人を地上では主体中心として、この天
182
国浄土の建設の営みをなさることになっているのです。
これを二度目の岩戸開きといいます。暁の上に今迄のものを、行為を、ご苦労様とお礼
しつつ、今迄の武道もこれを捨てるのではなく、天之浮橋に立たされて、更に今迄の武道
を光り輝かせしめて、和合の道に、一人一人を岩戸開きして、魂を表に暁を裏に土台とし
て、暁を育ててその新しい暁の上に自分自身を育て、一人一人を真人に作りあげて、人と
してつとめの実を結ばせる御神行を名づけて、武産合気と申すのであります。
昔の聖者もいっています。神は万有普遍の霊にして、人はその経繍の主体であると。神
人が和合して、この世界の主体となって、無限の力と実力を整えてご奉公の道に進んでゆ
かなければいけません。
人の身の内には、神代の神示一切が宿されている。一人といえど万古万生の神が宿らぬ
ものはなく、それは人の生Ao一巻にひめられているのであります。
音声の中に神は宿っています。天地万有もイキをもっています。霊の糸筋を悉く受けと
めているのを人というのです。自分のイキの動きは悉く天地万有につながっている。それ
で自分がみそぎのため、音声を言葉を、つまり自分の心のひゴき、五音五感五行五元五臓
X83
五体の順序に、自己の魂の緒の動きは悉く宇宙にひゴきつらぬき、又天地、オノコロ島
(地球) にひズき、すべての国々、すべての万有万神にも自分の魂より発する処の言語も
又、その魂の糸筋のむすびによって、悉く人の思う通りに世界に通じることになる。その
根元は明らかである。この明らかな根源をもって、自分のイキ自分の魂の動きによって、
この世の汚れを払い、そして万有万神、顕幽神三界の神も仏もみな集って、自分の魂に集
って共に和合し、この世の清い営みにいついつまでもご奉公することが合気道の道順にな
っています。
天地のあらゆる音声は七十五声に収まり、七十五声はアオウエイの五声に収まり、五声
はスの;円に収まる。
この理がわからなければ宇宙万有を一として解することは出来ないでしょう。
生命、その上に用する魂の緒力も五伴緒の緒力たることも、これらがすべてわかるには
信仰の力が必要です。信仰があれば何事も解決します。
184
大先生随聞記高橋英雄
一、神楽舞
昭和三十三年四月、合気道創始者、植芝盛平先生が、五井先生のご法話会の会場にお見
えになり、私たちに合気道の道義とその使命を教えて下さり、また神楽舞を見せて下さい
ました◎
相憎く、会場がせまかったため、神楽舞をそのまま舞って下さるわけにはゆきませんで
したが、神楽舞の型を見せて下さり、説明して下さいました。
「仏の世界は去って、神代そのままの姿、神の時代が表面に現われて来た。即ち一霊四魂
ASS
三元八力の完成する時代が来た、と明治の時にいわれていたその時代が、今や来たのであ
ります。
かた
地も冷えてかたまり、大地の固めも出来てきたのであります。地獄はなくなりました。
おもて
神が表にあらわれ、太古の神代がめぐり来て、いよいよ真実のものになったのでありま
ヘヘへ
す。即ち地上にさわけの世界が移されたのであります。
地上においてタマツメムスビの神のご神業が完成されることになり、いま、行われつつ
あるのであります。
今日、我々の国土に、その処理の方法として、迷っている人々の間に立って、五井先生
の家族の皆さん方は、真実の平和の家族として、世の模範となって、地上天国の建設のた
めの羅針盤となることが任務であり、浄めであります。
おおさるたひこみそぎ
この植芝の合気は、大猿田毘古となって、これから進む道案内であります。地上の喫、
はら
祓いです。そして私のうしろから偉い方々が進んでくるのです。これには天照大御神と
の間に、何か黙約があるのです。今日、こうしてあるために何かあるのです。
私はまず武門をながめた姿から入り、神様に『汝、その役をつとめて進んでゆけ』と命
ぜられたのであります。このお役目を果せば、私は天に昇るのであります。
X86
これから道案内をします。
合気道とは和合の道であります。
即ち一霊四魂三元八力の生ける姿、宇宙経編の姿、即ち高天原の姿であります。宇宙経
論の生命であります。

今日はこれを詳細に説きませんが、挙げたこの手の中にもその経編は含まれています。
もんり
皆さんの身心にも、一家族の中にも、高天原が含まれているのです。その文理が胎蔵さ
れているのです。
けんゆうしん
私たちは顕、幽、神の三界にわたって、これを守り、行じてゆく責任があります。
あめうきはし
神楽舞の始めは『天の浮橋に立たして』という。水火のむすびであります。五井先生
のようなお方は、立てばそこが即ち天の浮橋であり、天の浮橋に立つことになる。しかし、
ご修行の足らん人は、導かねばならないので、そのお導きのために形を一寸お見せします。
私は今日、五井先生の家族の一員として来ました。もし足りないところがあったら、こ
うせいといって下さい。
私は絶えず神さまにお伺いします。すると『汝は人にきく必要はない、神にきく必要は
Ig7
ない。汝が思った通りにやればよい』と神さまはいいます。
これが祭政一致の原理であります」
白髪の美しい植芝先生は、たんたんとした口調でお話をつづけてゆかれます。時々、先
生の眼がきらりと強く光ります。
厳粛な雰囲気の中にも、いい知れぬ親しさ、あたたかさが会場に満ちていました。
私たちはともすれば、外の都会の騒音に消されそうになるお声をききのがすまい、と一
生懸命、耳を傾けていました。
神の化身が語る神の言葉です。たとえその言葉の意味がわからなくとも、植芝、五井両
神人と一堂にあるというだけで、私たちの魂は大満足、喜悦しておりました。
ことだま
オームオーと引きのばされた言霊がひびき、杖をささげもった植芝先生のお体が二
回、三回とまわります。いよいよ神楽舞が始まりました。
神楽舞といっても、神社などでとり行われるたぐいの舞ではなく、杖の動き、お体の動
きはそのまま合気のわざとなっています。
アメノウキハシことだまことだま
「これが天浮橋です。オの言霊とウの言霊です。これは日本では誰もやっていません。
私はいつもやっています。これは物のはじまりであります」
Ig8
ことだま
植芝先生は説明を加えられながら、言霊とともに神楽舞の一つ一つの形を舞われてい
かれました。
この日の最後に、植芝先生は次のような意味のことをおっしゃいました。
「釈迦やキリストや孔子にはまかせておけない。もう予言の時代は過ぎた。今はそれを実
行にうつすだけです。
アメノミナカヌシノカミ
各々が天之御中主神(空即実相V にならなければならない。私たちは一柱の神ではな
ヤオヨロヅ
く、八百万の神々に守護されているのです。これからは各々の天命を完うするように進
んでゆくのです。皆さんお願いしますよ」
かみがか
註「私は神懸りとは違う。神そのものなのです」となにかの折に、ふともらされた
植芝先生のお言葉、なんという素晴しさでしょう。このお言葉を五井先生にご紹介したら
「そうなのです。背後の神がかかるというのではない、神そのものなのです。植芝先生は

神の化身なのですよ。我が一つもないから、神そのままになれるのです」と五井先生は強
くうなつかれつつ教えて下さいました。
189
IgO
二、宇宙と一つ
昭和三十三年九月二十一日新宿若松町の合気本部道場にて、合気の集いが開かれた。
植芝盛平先生は木剣をもって、内弟子の若い人と相対されながら、道場の真中に立たれ
る。これから行われる実技を見んものと、道場の壁に背をつけ息をつめて目を光らせてい
る私達に、植芝先生は気軽く話される。
「相手の目を見てはいけない。目に心を吸収されてしまうからです。相手の剣を見てはい
けない。剣に気が把われてしまうからです。相手を見てはいけない。相手の気を吸収して
しまうからです。真の武とは相手の全貌を吸収してしまう引力の錬磨です。だから、わた
しはこのまま立っとればいいんじゃ。」皆が思わずその言葉に笑う。
そっぽをむいた先生の、「さあ、かかって来い、」というお言葉の終らぬうちに木剣がさ
っと振り下される、と思う間に、先生の剣尖は既にお弟子の喉について、お弟子は驚いて、
頭をのけぞらせるのが精一杯である。
今度はもっと早く打ち込む。と先生の剣は下からお弟子の両腕をすくい上げて瞬間、後
から頸を打たれる。それが一瞬間のうちに行われるので、どこをどう打たれるのか、最後
の動作だけが判るのみである。構える相手の気が動いたと思えた瞬間、剣尖が伸びて喉へ
行くのか、お弟子自身の方が、剣尖に吸収されて行くのかわからない。とも角、お弟子は
目の前にいつの間にか伸びて来ている剣尖を見てびっくりしている。先生は一体何をされ
たのだろう。相手の剣先をよけたとも、あるいは一歩足をふみ込んだとも思われない。一
寸した動きをゆったりとされたらしいのである。それだけで、竹刀ならば、道場の真中に、
お弟子は突き飛ばされていたのであろうと思われるのである。
「私はうしろむきに立っていればいいのです。相手が打ってくれば、打とうという自分の
想いで、自分自身を打ってしまい傷つけてしまうのです。私は宇宙と一つなのです。私に
は何物もない、立てば相手は吸収されてしまうのです。植芝の合気道には時間もない空間
かつはやび
もない、宇宙そのままがあるだけなのです。これを勝速日といいます。」
植芝先生とお弟子は、目に見るところは同じ畳の上に立っているが、実は境界を異にし
ているのである。植芝先生の立っている処は澄みきった空の境界である。それは、相対の
191
業の世界に闘争の感情を燃やしている肉体人間の誰れ人の刀もとどき得ぬ境界なのである。
それ故、何十人が一度におそいかかっても植芝先生は傷つかれないだろうし、何十人の襲
撃者は自つからの想念ではねとばされているであろう。
植芝先生は、じゅんじゅんと私達に合気の原理を説明して下さる。
「植芝の合気道には敵がないのです。相手があり敵があって、それより強くなりそれを倒
すのが武道であると思ったら違います。
真の武道には相手もない、敵もない。真の武道とは、宇宙そのものと一つになることな
のです。宇宙の中心に帰一することなのです。合気道においては、強くなろう、相手を倒
してやろうと錬磨するのではなく、世界人類の平和のため、少しでもお役に立とうと、自
己を宇宙の中心に帰一しようとする心が必要なのです。合気道とは、各人に与えられた天
命を完成させてあげる羅針盤であり、和合の道であり愛の道なのです」
「私の武産の合気は、宗教から出て来たのかというとそうではない。真の武産から宗教を
照らすのです。未完の宗教を完成へと導く案内であります。
私は皇祖皇霊のこ遺訓を頂いていて、宗教のことはよく知っています。ただ私は武道と
して出発したから今の形をとっているだけで宗教のことはようく知っている。
iga
皇祖皇霊のご遺訓には、人間は神の分身分霊として、こうするのです、こうしなさい、
といわれているのですが、今の宗教家には、その実際の方法がわからない人が多いのです。
植芝の合気道は、ご遺訓を体して実践しつつご遺訓に帰一してゆくのです。
神はすでに表にあらわれているのです。タマツメムスビノ神のご神業によって、地獄は
すでになくなり地上にあらわれて来たのです。いよいよ完成の時が来たのです。
今地上にあらわれている悪は、地上完成の過程として仕様のないものなのです。
地の引力によって天の気が下って来て、即ち明るい天のみいずが地に降りて来て、大地
完成、地球人類の平和完成のお手伝いをする時代が来たのです。世界の完成期、人の完成
期が来たのです。しかしそれで終りではありません。完成が更により全き完成にむかって
一つの生命となって進むのであります。
そのために、大地のけがれ、地球上における今迄の誤った武によってなされた戦争のけ
がれ、また戦争によって亡くなった人々の想念を浄めて、大地の浄め、人類の浄め、宇内
の浄めを、慰霊のために、神の意を体してこの植芝は合気道をもってするのです。他の方
法でそれをする人々もいるでありましょう。
193
共産主義も自然の理によって消滅します。殊更に互に相手取るから相争うようになるの
です。しかしその争いもやがて浄められて、世界大家族の家族として、和合して、全人類
したてるひめ
は進んでゆくのです。下照比売の世界(現今のような乱れた世のこと) にアジスキタカ
ピコネノ神が現われた時代が来たのです。
合気道は、世界和合を目標として、皆さんと共に進んで行きたいと思っているのです。」
道場の真中にぴたりと坐わられ、ご旅行帰りの疲れも嫌われず植芝先生は話をつづけら
れるのであった。
記者の心の未熟さ、修業の足りなさを嘆じながらも一生懸命耳を傾けて聴聞したのであ
る。
Ig4
三、一剣にすべて吸収
昨今は、剣道にしろ柔道にしろみなスポーツ化してきている。それがいいことか苦々し
たけむす
いことか私には判らないが、次の植芝先生のお言葉で、それらと武産合気との相違、そ
たけむす
して武産合気の使命の片鱗にもふれ得るのではないかと思う。
植芝先生は、私達に判りよいようにと木刀を取ってお話された。
「植芝の武産合気は、この木刀一振にも宇宙の妙精を悉く吸収するのです。この一剣に過
去も現在も未来もすべて吸収されてしまうのです。宇宙も吸収されているのです。時間空
間がないのです。億万劫の昔より発生した生命が、この一剣に生々と生きているのです。
古代に生きていた私も生きていれば、現在の私もいる。永遠の生命が脈々と躍動している
のです。
合気道は至忠至孝の道であり、この世の経編の業であります。即ち地上天国に向い、建
195
国完成への大御神ご神業の主体たる、人としての分身分業のつとめであります。
相手はなくともその時々に世界の経編の為、必要なる自然界の気招ぎ吸収して宇内の清
めをなし、合気使命たる祭政一致の本義を明示実行する事であります。」
i96
「私は何時如何なる時、どんなことをしかけられてきても平気です。生き死にの執着が全
くない。このまま神さまにおまかせなのです。剣を持って立つ時ばかりでなく、常に生き
る死ぬるの執着を断ち、神さまにおまかせの心でなければならない」
生と死の恐怖を超えて大安心を得る修業、それは道場に立つ時だけの修練ではなく、常
日頃の生活の場においての修練が、いざという時に本当に物をいうのではないか、と強く
思った。
「頭でいくら判っていても、実際に行なえなくては何にもならない」と植芝先生はおっし
ゃっている。先生は言葉と同時にそれを実際に行なっていらっしゃるのである。「そこが
素晴しいところなのだ、よく見習わなければいけない」と私は五井先生に教えられている。
四、植芝先生の横顔
(1)
北海道のひぐまはどう猛で、馬を殺したり、人を殺したりするそうである。
そのひぐまと仲良くなり、三晩ともにねていた、というお話がある。
北海道にいらっしゃる頃だから、まだお若い時のことだ。
連れ一人とともに測量のため、原始林の深い山奥を踏みわけていった。
日も暮れて来たので、川のほとりに小屋をたて、そこにねることにした。
おそ
そ の土地は熊が出ることで有名なところだったので、連れは恐ろしがって、先生にぴ
たりとくっついて寝た。
すると真夜中、ガザリガサリと草をわけてくる物音がしたので、外を見ると大きな熊で
197
ある。
「ヒヤー出た」とぶるく震える連れを
「大丈夫、大丈夫」と安心させ、やってくる熊をじっと見つめた。
熊は小屋のまわりの食べくずを食べると、ゴロリと横になってしまった。
害意なしとみた先生も、また横になり、朝まで眠ってしまった。
次の晩もきた。
今度は先生が魚肉を熊に与えてあげた。
その晩もまた熊と添寝である。
害意のない、平和の心でいる先生に熊のほうがかえって安心したのだろう。
暁け方、朝日がさすと熊は帰っていった。
その熊が一頭でなく二、三頭いたらしい。
先生がその土地にいる問、熊のほうから毎晩泊りに来たそうである。
そして山に帰ってゆく時は、ちゃんと先生にお辞儀をしていったそうである。
Ig8
(2)
先生は無欲悟淡で、物質に対する執着はさらさらにない。
こういうことがあった。
先生の手許に時価にして何百万円という、国宝級の刀剣があったが、お弟子さんだか、
知人だかに、無造作にあげてしまったということである。
またご郷里の紀州には山持ちの富豪がいて、その人が、百万円差上げましょう、とポン
と出したそうである。
すると先生は、いらないよ、と返してしまわれたそうだ。そこでその富豪はしょうがな
いので、家をたて、先生が郷里にお帰りになる時、使って頂こうと寄附したそうである。
(3)
先生が四、五十才頃のこと。
武道の会の関係で、静岡の久能山にいかれた。
もさ
先生は、武徳会の剣道教士、柔道五段、六段などという猛者たちと、畑の中の道を歩い
ておられた。
こえ
そ れをみたお百姓が、手に肥ひしゃくをもって、この一団のところにかけつけて来た。
199
「なんだ、お前たち、ひとの地所の中にへえって、どうしてくれるんだ!」蜘
この辺のお百姓は評判の強欲者で、少しでも自分の地所に入ったというと、ゴタゴタと
いや
うるさく文句をいって嫌がらせをするのだった。
「何! 生意気な、文句あるのか! 」-
相手が血気盛んの、それも事あれかしと待ちかねている若い連中だったから、たまらな
い。
面白いじゃないか、やっちまえ、ということになりかかった時、一団の先頭を歩いてお
もさ
られた植芝先生は引返えし、猛者連をなだめ、お百姓の前に出た。
「お前様が大将か? 大将なら話がわかるだろう。一体、人の地所内にふみ入るとは何事
だ」
「お話はよくわかった、我々が悪かった、どうか勘弁して下さい」
と物柔らかに頭を下げられた。
こえ
何かしかけようとしたら、手にもった肥ひしゃくで糞尿を頭からふりまいてやろう、
と気負っていたお百姓も、それに拍子ぬけしたのか、それとも事を荒立てたら、かえって
自分がどうなるかわからない、といって今は引くにも引けず、というところを救ってもら
って安心したのか、引下っていった。
「先生! あんな生意気な百姓やっちまえばいいですのに」
ヘヘへ
「馬鹿いいなさんな、頭からこやしをかけられたら、くさくてたまらんよ、ハハハハ」
植芝先生はそう笑って、そこを去っていかれた。
よく事情をきくと、お百姓のほうが悪かったのであるが
「悪を悪として切らず、悪を祓いて浄めて、和合してゆくのが合気道じゃからのう」
植芝先生はそうあとで教えて下さった。
201
202
植芝盛平翁の昇天
五井昌久
合気道創始者植芝盛平翁が、去る四月二十六日昇天された。翁は私とは非常に親しい仲
で、肉体的にはそう度々お会いすることはできなかったが、霊的には常に交流しあってい
て、私の会の人たちが伺うと、心から懐かしがられ、私と一緒に写した写真をみせては、
「五井先生はいつも私と一緒にいらっしゃる」と例の鋭い眼が、にこやかな柔和そのもの
の眼になってしまわれる、という話であった。
昇天の日が近づかれた頃は、体のご不自由なのもいとわず「五井先生のところへ案内し
てくれ、今から市川へ伺う」と会の人の顔をみると、子供のようにせがまれたそうである。
植芝先生は、武道修業の極致から、霊覚を得られた方で、天地の理法をはっきり知って
おられ、人の心を見透すことは勿論、その人の霊位までも見極められる方であって、私と
の初対面から「五井先生は祈りの御本尊であり、中心の神の現われである」といわれ、私
みずか
が植芝先生を上座に据えるのを、自ら下座に坐わられ、若輩の私に上座をすすめられた
ものであった。真理に徹しておられぬとなかなかそういうことができるものではない。
植芝先生の肉体というのは、普通人の肉体ではなく、神霊そのものの体であって、宇宙
の根源に統一できる体であった。だから、八方から槍で囲んで、同時に打ってかかっても、
打ってかかったほうが、まるでわざと倒れるような格好で、一度に倒れてしまい、当の植
芝先生は、小ゆるぎもみえぬそのままの状態で立っておられる。その状態はもう技という
のではなくて、翁の肉体が透明になり切り、宇宙大に拡がってしまっている状態なのであ
る。
そういう真の姿を知っているのは私だけかも知れない。翁はいつも、「私のことを真実
に知っているのは五井先生だけだ」と高橋君などによく話されていたという。私が神人植
芝盛平翁を稻うという詩を、大きな額にしてお贈りしたら、それが嬉しくてたまらぬらし
く、来る人ごとに私の話をしてきかせていたようである。
昇天一ヶ月位前に、昌美と一緒にお見舞に伺ったら、ちょうど病院から帰って来られた
直後で、昌美が掌を背中に当ててお祈りすると、「魂の立派なお嬢様だ、光がよ1 通る。
203
よ1通る」と大変喜ばれ、大分体の痛みが和らいだようであったが、天寿はいたし方なく、
神界に昇ってゆかれてしまった。昇天された日に新聞の写真を通して、私の体にうつって
 
あめのむらくもくき
来られたが、その姿は、猿田彦命そのままでもあり、天叢雲九鬼さむはら竜王と常に翁が
いわれていた竜王の姿でもあったが、神楽舞を舞われつつ、私の印の中に融けこんでゆか
れた。その時、「祈りによる平和運動に全面的に参加する」というひびきを伝えてゆかれた
のであったが、今この原稿を書いている私の体の中で、にこやかな笑顔をむけられている
のである。
この世に再び現われるとも思われぬ、不世出の武人霊覚者は、この世とあの世の人々を、
宇宙法則のひびきに乗せるため、救世の大光明波動の中で、大いなる働きをつづけてゆか
れるのである。
ほこ
翁が開かれた合気の道は、全く平和の道であって、真の武とは、丈を止めるという文
字の示す通り、戦争や争いを止める道なのである。植芝先生こそ、正に世界において、は
じめて武の奥義に達した人というべく、昇天して私と共に平和運動に働かれることも、す
でに神界において定められた道であったのだろう。植芝盛平先生の神界における今後の活
躍に期待すること大なるものがある。
ao4
大いなる合気の神の加はりて平和の祈り光いや増す
(「白光」昭和四十四年六月号より)
zo5
206
植芝盛平先生の思い出
高橋英雄
(1)
たけむす
先 生についての思い出は、いろいろとあってつきることがない。先生の武産合気の精
神道話を、白光誌に何年間にわたって連載したこともある。市川と茨城の岩間との間を、
月に一度は必ず往復したことも、なつかしい思い出である。
植芝先生は、私にとって「なつかしいお人」である。それは先生が昇天されたからでは
ない。ご在世中から、その気持があったのである。きっと、前生からの深い因縁があった
からだと思う。自分で言うのもどうかと思うが、私は植芝先生に愛されていた、と思って
いる。幾度か、内弟子になって、一緒に修行していこう、どこそこへ行かないか、と誘っ
ていただいたものである。
茨城県岩間町の合気修練道場に、昭和三十五年の春、五井先生はじめ会員有志百名余が
お訪ねしたことがある。大勢の訪問者を迎えて、大ニコニコだった植芝先生のおヒゲのお
顔を思い出す。
(2)
私が植芝先生のすばらしさを初めてきいたのは、五井先生のお口からだった。小説新潮
に火野葦平が書いた「王者の座」という小説の中に、植芝先生のことが出ていたのである。
相撲の天竜が主人公であったが、大兵の天竜が、坐っている植芝先生をいくら押しても動
かない、しまいにまりのように、天井高く何回も放り投げられた。ということや、蒙古遍
歴中、モーゼル拳銃を賊にむけられたが、相手の引金をひく前に、一瞬早く相手の手許に
とびこみ投げとばしていた、ということ。それが本当かどうか軍人たちの間で話題になり、
試めしてみようと将校たちにピストルをかまえさせた。いざ発射という時、十メートルぐ
らいの間隔があるのに、いつの間にか植芝先生が手許にとびこんでいて、アッという間に
数人の将校が倒れていたという話。引金をひこうとする前に、相手の想念(気) の動きが
Zo7
小さな玉になって自分にぶつかったと意識して、一瞬早く相手の手許にとびこんだのだ、
という植芝先生の述懐ものっていた小説だった。これを読まれて、植芝先生にお会いした
いと五井先生は思われたのだった。
更に五井先生は、合気道(光和堂刊) という本もごらんになり、その中にあった植芝先
生の悟りをお読みになって、そのお気持が一入つよくなった。
先生みずからお会いしたい、と思われる人物は滅多にない。私の知る範囲では、今迄に
植芝先生だけだったと思う。すると不思議に会員の中から植芝先生と親しい林夫人が現わ
れて、両先生は神田神保町区民館で対面されたのであった。
植芝先生はその時二時間ぐらい歓談されていたが、五井先生に「私は先生と会う日を待
っていたのです。私のあとを完成してくれる人が必ずいる筈だ、とさがしていたのです。
私は神の道をひらく役目で、その後は先生にやっていただくのですから、よろしく頼みま
す」とおっしゃっていた。これは斉藤秀雄さん、金子一子さんもきいたことである。
これから植芝先生と私たちとは縁が結ばれて、五井先生が植芝先生を「神の化身」とご
講話に、著書にしばしば称揚されたので、会員一同は、武道家とみるより、神の化身、霊
覚者と、植芝先生を慕っていたのである。
208
(3)
いつも私がおたずねすると、植芝先生は「わしの正体を見破ったのは、五井先生お一人
じゃ」と武道家的表現方法を使ったり、「わしをほんとうにわかってくれたのは五井先生
だけじゃ」と、うれしそうに話して下さるのだった。「そうですよ、五井先生はいつも植
芝先生の素晴しさをみんなに話しておられます」とお答えするとまた、子供のように喜ん
で下さるのだった。そして、いつも何かお土産をさしあげたいんじゃ、何もなくての、と
申訳けなさそうにおっしゃるのだった。
(4)
昭和四十二年の十二月だった。植芝先生をお訪ねした。合気道本部道場完成お祝いに、
五井先生が植芝先生を稻えた詩”神の化身” を額に書き、表装してお贈りする、というこ
とをお知らせするためだった。
植芝先生は事務所にふとんをしいてお休みになっておられたが、私を中に招じ入れて下
さった・籾
「五井先生はお元気ですか」最初に先生に挨拶をされてしまい、また先手をとられたと思
った。
「ハイお元気です。くれぐれもよろしくとのことでした」と申上げると「高橋さん。子供
さんは三人になったかいな? 」といきなりきかれた。「いいえ二人目です」「お二人か、も
う一人いてもいいの、三人ぐらいはの」といわれる。
こんどは私が先生のお体の工合をおききすると、先頃まで工合が悪かったとおっしゃる。
新道場完成のお祝いをのべ、額のことをお話すると「それは有難う」と喜んでおられた。
詩はこれです、と持参した詩集「いのり」をお見せした。活字が小さいので、眉をしかめ
てごらんなっていた。
「五井先生は一つも自分のことを考えないで、よいと思った人に誠を尽される方だ。こう
いう方はなかなかいませんよ。わしは今、どこの宗教にも属していないが、ほうぼうから
いってくる。けれどみなわしを中へ入れようとする… … 五井先生はそうされない。五井先
生は本当によいお人じゃ、有難いことです」とおっしゃって、詩集「いのり」を見ながら、
「いのりが一番です。信仰にはいのりがなかったらダメじゃ。これはいいご本だ、他の者
にも見せてあげよう」と押しいただくようにして、しまわれた。
210
「ちょっとおしっこにいきます」とことわられて、道場の端にある便所にいかれた。お帰
りがおそく、道場で先生のお声がするので窓こしにヒョッとみると、先生は若い者に「こ
れはこうやるんじゃ」と座技の指導を熱心にしていらっしゃる。つい今しがた、工合が悪
いといっておられた先生とは、まるで違ったお姿である。
「先日の、住友軽金属の田中季雄さんが見えての、五井先生のことをほめておったので、
わしも大変うれしかったよ」とおっしゃる。そして「わしもいろいろの人を五井先生の所
へ紹介しているよ」ともおっしゃっていた。
「高橋さん、また遊びにいらっしゃい。また新しいことをお話しましょう。雑誌のはしに
でものせなされ」
「ハイ有難うございます。よせていただきます。植芝先生は私にとってなつかしい人なん
です」
先生はニコニコしてきいておられた。
「わしは今も稽古するんでえ」
何事も永久に修行というからと思っておききしてみると、
「合気道の稽古をな」とおっしゃる。「稽古をすることが一番楽しいし、らくなんじゃ。
211
ごぜんを食べなさい、といわれ食べることのほうがつらい。今は食べたくないからの」
というお言葉にグッと胸を打たれ、なんの言葉も返すことができなかった。涙が出そう
212
.こつこ。
ナナ

植芝先生が尋ねてくる人に「わしはいつも五井先生と一緒じゃよ」と見せておられた写
真というのは、昨年六月、合気会本部道場にお見舞いにいかれた五井先生と、稽古着をつ
けて道場にお二人で立っていらっしゃるものであろうと推察している。
この時、植芝先生はお体の調子が悪く、ご自分でもう神様のお召しかと思った、とおっ
しゃったほどだった。
植芝先生は、なんのおもてなしもできないから、合気の演武をごらんにいれよう、とお
っしゃった。五井先生がお見えになるまで、ふとんにねていらっしゃったのに、そうおっ
しゃる。
五井先生が「マアマア」といってお止めになるかと思っていたら「そうですか、折角で
すからお願いします」とおっしゃった。どういうことだろうと思ったが、それは後程のご
説明でわかった。袴をおつけになるのに、ヨロヨロっとされて、なかなか足が入らない。
お弟子さんに支えられて、やっと道場に出られたというご様子だった。
道場に立って、合気道についてお話なさっておられるけれど、声が弱々しく、それにか
すれていてききとりにくかった。が、いざ演武となると、まるで違った。若い者はコロコ
ロころがる。指一本に押えられて動かない。坐っている植芝先生をいくら押しても動かな
い。首を一ふりされて、バタバタと倒れてしまうしまつ。全く素晴しい。息をハアハアは
ずませては勿論いない。
あとで五井先生は「演武することが、植芝先生の体にかえっていいと思ったから、して
いただいたんだよ。道場にたつと、道場一杯の光になってしまわれる。だから誰が何をし
てもダメなんだよ。宇宙一杯にひろがっている光体の植芝先生を、けし粒ほどの肉体人間
がどうして動かせるかね。すばらしいね」とおっしゃった。それで私の先程の疑問もとけ
たのである。
稽古をつけてもらった内弟子の人に「植芝先生と合気をけいこされて、どう感じますか」
ときいたみた。
「大先生に何か力を吸いとられてしまうようで、力がなくなっちゃうのです。それに何か
Zia
すごく大きくて、どうしようもありませんね」と答えていた。、4
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四十四年三月十六日、植芝先生のお体の工合が悪い、という知らせを受け、五井先生ご
名代として急拠お見舞いに東京若松町の道場に伺った。植芝先生はお喜びになって、
「昨日は少したまっていた書を書いての。少しつかれた。わしは二時間ねればいいんじゃ。
きのうはちょっと痛んで、一時間ぐらいしかねむれなかった。それではじめて稽古を休ん
だよ」
とおっしゃった。ご病気なのに、昨日まで稽古をされていた、とおききしてびっくりし
てしまった。
「体が痛いといってもな、わしはなんともないんじゃ、ちょつと想いをそこからはなせば
いいんじゃからな… … 五井先生は立派な方じゃ、お礼に伺わなければ… … 有難うございま
すと、くれぐれもお伝えして下さいよ」
植芝先生をしたって、合気道こそ武の極致、植芝先生こそわが目標という人がいます、
とお話したら、ニコニコ笑っておられた。そのお顔、目はいつものお元気の頃の先生にか
わりはない。私はだまってお顔をみつめていた。いかに体は病んでいても、心は病んでな
い境地をあらわしていらっしゃる。
「まだまだ、これからが修行じゃよ、これからが本当の合気道じゃよ」
とおっしゃっていた。あまり長居をして、お体にさわるといけないと思い、先生のいや
さかを祈って退出した。それから十日程たって、慶応病院に入院された植芝先生を、五井
先生は昌美お嬢さんを伴って、お見舞いされたのである。
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「まだまだこ修行が足らん」
私を評しての植芝先生のお言葉もなつかしく、有難い。
今、植芝先生は神界におわす。五井先生とともにおわす。いや五井先生の中にいらっし
ゃる。この表現方法は、霊のことを知らない人にはわからないかもしれないが… … だから
五井先生とお会いする時、私は植芝先生にもお会いしているつもりでいる。神そのものと
なられて、現に、五井先生のお体をかりて、私をご指導下さっている。
「汝、胆あれど気短かし、気を長くして胆をねれ」と。笏
たかだか八十年ぐらいであろう肉体の私の生涯において、私は不世出の、それも二人の
霊覚者にご縁を深く与えられたことは、全く幸せ者だと思っている。前生の因縁によって
えにし
与えられたこの尊い縁を今後も大切にしたいと思っている。
紙数の関係もあって、書きたいことはまだまだあるが、思い出の記はこれ位にしよう。
(「白光」昭和四十四年六月号より)
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あとがき
高橋英雄
「武産合気」は植芝盛平先生が口述されたものを、私が筆記したもので、白光誌(白光真
宏会機関誌) 昭和三十三年六月号より昭和三十六年三月号まで、三十二回にわたって連載
させて頂いた。
先生はテー。フ録音をお嫌いになったので、その当時の私には聞きなれない神道の専門用
語にとまどいつつ、一生懸命筆記したものである。
茨城県岩間の道場、東京新宿若松町の本部道場に、そのたびごとに足を運んだ。岩間の
道場で、夏の暑い日はぶどう酒を水で割り、お砂糖を少し入れて「これは暑い時にはいい
んでエ」とおっしゃりつつ、私に振舞って下さったこともある。また開襟シャツで気軽に
出かけた時「暑くともチャンと背広を着てくることが礼儀じゃ」とさとされ、恐縮して、
早速それもはじめての夏のスーツを買った。そのスーツは今も着用している。
老奥様が背中を丸めて、お茶やお菓子などを出して下さったのも、なつかしい思い出で
ある。
私が岩間へ月一回の割で通っている間に、昭和三十五年合気神社の拝殿が完成され、十
一月、五井先生と百名余の会員さんと共にお祝いに岩間へ出かけたこともあった。また植
芝先生が白光の聖ヶ丘道場へお出かけ下さることもあった。
武産合気とは、合気道のよって来たる根源の世界、精神の深奥を説かれたもので、合気
神学というか、植芝神学というものであると思う。しかし、ここでおっしゃっていること
は、植芝先生のお手許にあったノートからみれば、ごくごくわずかなものである。聞くと
ころによると、植芝先生のお書きになったノートは、先生が神界に帰られたあと、どこへ
いったかわからないという。勿体ないことである。
この本によって、合気の神、植芝盛平先生の精神の一端にでもふれられれば、それで我
々は幸いとすべきであろう。
なおこの「武産合気」は昭和五十一年四月、白光青年合気道同好会によって出版された
ものであるが、今回、光栄なことに、合気道道主、植芝吉祥丸先生のご推薦のこ文章も頂
いて、翁先生のお話を編集し直し、お写真も加え、装丁も変えて世に出すことになった。
昭和六十一年十月


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