ー1
五井昌久著
一
非常識
・常識
・
超常識
白光真宏会出版本部
著者
序文
近来は、非常識な考え、非常識な行動を起す人々が非常に多くなってきています
が、これは実に困ったことであります。常識というのは、本来は、神のみ心の一番
深いところの意識ということですが、現在では、一般人の平均した意識ということ
で、一般人の誰でも納得し得る想念行為ということになってきています。
ところが、常識で判断したり、行動したりしたのでは、自分たちの想いが不自由
で自分の想うように運命を開くことも、社会の改善もできない、ということが多分
にあるので、その常識を破って、自分たちの想いを満足させようとする人々がでて
いた
くるのであります。そういう在り方をすると必ず誰かに損害をかけたり、傷めたり
1
するのです。それを非常識な行為というのです。
ところで、常識というのも、本来の常の心にならぬ限りは、その時代くによっ
て、いろくと変ってきますし、変化してゆかねば、この人類の進歩もないのです
から、変ってゆく必要はあるのですが、これが、人や社会が傷つく非常識になって
は困ります。
この本は、常識にあきたらぬ人を非常識に走らせないで、超常識の生き方にもっ
てゆこうとして、その生き方を人々にわかりやすいように書いてあるのです。頁を
くってゆくごとに読者の心のわだかまりが、次第に明るく融けてゆくであろうこと
を、私は信じて皆様にこの本をお送り致します。
昭和四十八年十一月著者識
2
序文
目次
菩薩心と世界平和の祈り
非常識・常識・超常識
因縁性と仏性
非常識と超常識
禅定と祈り
真の念仏と世界平和の祈り
93 75 58 41 24 7 1
4
現代人の求道生活!自己完成の統一行ー
現代の菩薩行
悟りということ
祈りの原理
生活の中の宗教
ー釈尊とイエスとの対比においてー
神々や天使は生きている
宗教信仰の姿勢を正しく
人類の本質を離れてはならない
装偵進藤敏男
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5
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人間と真実の生き方靹
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わけみたまごうしようしゆこれいしゆごじん
人間は本来、神の分霊であって、業生ではなく、つねに守護霊、守護神によって守
られているものである。
かこせ
この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念が、そ
の運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去るのであると
いう強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難のなかにあ
ゆるゆるまことゆる
っても、自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづ
けてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の祈りを祈
りつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得出来るものである。
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菩薩心と世界平和の祈り
キリスト教には主の祈りという、世界平和の祈りと同じような祈りがありますが、
しぐせいがんぽさつ
も、四弘誓願といって、菩薩たるものの起す四種の誓願があります。
仏教において
四弘誓願
ー菩薩たるものの起す四種の偉大なる誓願1
しゆじようむへんせいがんど
衆生無辺誓願度衆生は無辺なれども誓って度せんことを願う
ぽんのうむじんせいがんだん
煩悩無尽誓願断煩悩は無尽なれども誓って断ぜんことを願う
ほうもんむりようせいがんがく
法門無量誓願学法門は無量なれども誓って学ばんことを願う
ぶつどうむじようせいがんじよう
仏道無上誓願成仏道は無上なれども誓って成ぜんことを願う
これが四弘誓願です。仏道の世界平和の祈りともいうべきものです。そこで私の提唱する世界平
7菩薩心と世界平和の祈り
和の祈りとはどういうものなのかを改めて説いてゆくことにいたします。その前にこの四弘誓願を
やさしく説きあかしておきましょう。
しゆじよう
第一は、衆生というのは、この場合大衆とか人々とかいうより、真実の人間というものがわから
ず迷っている人々という意味で、こういう人々は数限りがないけれど、菩薩というものは、この人
々に人間の真の在り方を知らせて仏子として救いとらなければいけない、そうすることを誓う、と
いうのであります。
第二は、煩悩、つまり人生の悩み苦しみ喜怒哀楽に把われる欲望は、尽きることが無いけれども
誓ってこの煩悩を人生から消し去ってしまおうという願い。
第三は、法門、つまり神仏のみ心に至る門は深く高く量り知れないけれど、誓って学びつづける
ことを願う、というのであり、
じようどう
第四の誓願は、仏道は限りなく高く広く深いけれど、誓ってこの道と一体となる、成道すること
を願う、というのであります。
四弘誓願といってこう四つに分けてありますけれど、これは一つの誓願を細かく分けただけのよ
うでありますが、世界平和の祈りが、実は、世界人類が平和でありますように、という一言ですべ
8
てをいいつくしているのに、日本が平和でありますように、私たちの天命が完うされますように、
というように細かい祈り言を加えているのと同じであります。
菩薩心と世界平和の祈り
成道して、仏のみ心と一体になれば、仏は大慈悲心でありますので、衆生を救わずにはおかない
のですから、みずから成道することが人類救済の働きと一つになることなのです。しかし悟りを得
しせい
るために市井を離れ、民衆から超然として、自己のみが安心立命の境地にいる、というような小聖
では、真実の菩薩業はできないので、やはり、こういうように細かくわけて祈ったほうが、はっき
り自覚できることになるのです。
昔から仏門に入る人は、家族や地位を捨てて山に籠る、といった形が多かったのですが、それで
は自分の気持の満足だけで、家族や周囲の人々の救いにはなりません。救いにならぬだけではな
く、生活の重荷を残った家族に負わせることになり、家族の恨みを買うことにもなります。そうい
う生き方に私は感心することはできないのです。
しせい
小聖は山に隠れ、大聖は市井に在る、という言葉がありますが、これからの宗教者は、市井にあ
9菩薩心と世界平和の祈り
って、衆生のために働き、衆生に神仏の道を知らせるものでなければなりません。菩薩とはそうい
う者なのです。
と
衆生は無辺なれども誓って度せんことを願う。この気持が菩薩心なのです。私たちの唱えてい
る、世界人類が平和でありますように、という祈り言は、そのまx菩薩心なのであり、人類愛のひ
ゴきなのであります。
私の願っておりますことは、個人が救われると同時に人類そのものも救われる、という個人人類
同時成道ということなのでありまして、この世界人類が平和でありますように、というのは、個人
が自己の安心立命を含めて、世界人類の平和を願う、祈り言であり、誓願でもあるのです。
10
世界の動きが家庭の生活に直結
いっも申しますように、現代の世界というものは、個人も密接なつながりを持っておりまして、
ベトナムで起ったことはすぐ日本にも影響があり、アメリカの経済の動きは、そのまΣ日本の経済
に影響する、というように、日本は単に口本一国が世界と離れて生活するわけにはゆかないのです
そと
し、また個人個人は日本という国の動きを外にして自己の生活をすることはできないのです。
太平洋の波が米国から日本へ、日本から米国へとつながっているように、日本の国の動きという
ものは、直接個人個人の生活にひびいてくるのですし、個人個人の生き方は、そのまま日本の政治
に影響してくるのです。たとえていえば国会議員の選挙にしても、個人の一票一票で自民党が多数
になることもあれば、社会党や共産党が多数になることもできます。もし、次の選挙で、社会党や共
産党を選ぶ個人が多くできれば、政府は社会党や共産党の手に握ぎられ、日本の様相は一変してしま
うわけです。日本の様相が一変すれば、これに対する世界の動きも、その瞬間に変ってまいります。
米国は日本の政府をはっきり敵とみてくるでしょう。ソ連や中国は、日本を味方とみて、双方で
自国の思うままにしようとして、競い合い、日本は共産圏の中の新参国となって、日本本来の生き
方ができなくなり、幾多の辛酸をなめつくすことになってきます。そして米国は中ソのやり取りを
指をくわえてみていることは決してしません。再び日本を自己陣営に入れようとして、自民党系の
人々や、反共主義の人たちと交流して、共産政府をくつがえそうと計るでしょう。ベトナムと同じ
ように内乱は必至であり、世界大戦の大きな導火線は日本から起る、ということになり、大調和日
本の天命は全く果されなくなってしまいます。米国にとって日本の立場はベトナムとは比べようも
なく重大なのですから、これを黙って共産圏の手にゆだねることは絶対にないのです。共産主義楽
11菩薩心と世界平和の祈り
うまくに
土の夢に酔って、あたら美し国日本を破滅させ、世界大戦、地球滅亡の発火点に日本をしてはいけ
ないのです。それこそ日本に対する大罪であり、世界人類の敵となるのです。
こういう事態も、個人個人の何気なく投じた一票によるのでありますから、個人個人の動きはそ
のまま国を動かし、世界の運命に直結していることになるのであります。その点では、再軍備派に
応援して、日本に核装備をされる雰囲気をつくらせるのも、個人個人の動きによるのでありまし
て、ただ単に政府が悪い、自民党はけしからん、といって、他の責任にしていることはできないの
です。火の粉はみんな個人の自分たちにふりかかってくるのです。
12
世界人類の平和
こういうふうに、個人と世界人類とは直接つながっている現代なのですから、個人の安心立命
は、世界人類の平和達成という一点にかかっているのです。その他の細かい幸福などは、瞬間にし
て消え去ってしまうのです。そこで私は、世界平和の祈りを提唱するのであり、その最初に、世界
人類が平和でありますように、という、個人人類同時成道の祈り言を置いたのであります。
人間の想いでは、右にしてよいか、左にしてよいか、実際のところはっきりわからないのです。
今述べましたように、社会、共産両党のいうような共産主義政権がはっきりと、その国のものとな
るためには、ソ連にしろ中国にしろ大変な大犠牲があったのであり、反対派の大量虐殺が行われて
きたのであります。まして、日本のように、敗戦後に米国に恩恵をこうむって、米国の子分のよう
な弟分のような待遇を受けてきた国が、ソ連や中国のような共産圏に入りようがないのです。社
会、共産両党やシソバの学者たちがいっていることは、それこそ夢物語であり、甘い考えなのであ
ります。
といって、自民党の一部のいっている核装備をしてでも共産圏からの攻撃に備えるか、というこ
とも、日本人の国民感情からいっても、日本の天命の大調和の心からいっても、日本を大きく二分
裂させてしまい、かえって共産主義への同調者を多くつくり出してしまうようなことになる恐れが
多分にあるのです。
そこで極端な左右ということの危険さは皆さんもおわかりのことと思います。といって、どうし
たらよいか、という考えは、一般大衆の頭には浮んできようもありません。考えてもわかりようが
ないのだから、もういっそ利巧そうな顔はやめてしまって、運を天に任かせてしまい、今一番個人
にとっても人類にとっても大事なことは何かを、もう一度考え直してみることなのです。それはい
13菩薩心と世界平和の祈り
わずもがな、世界人類の平和と、個人の安心立命なのです。14
それなら、他のことはひとまずおいて、そのことだけに心をついやしたらよいと思うのです。馬
鹿になったつもりで、あまりあてにしないでもよいから、世界平和の祈りを唱える生活をはじめた
らよいのです。
世界人類が平和でありますように、世界人類が平和でありますように、と口ぐせのように唱えて
いてごらんなさい。小さな自分のことのこたくや、枝葉末節な考えなどはどこかに消え去って、た
黛大らかな、人類の平和を願う本来心、神仏のみ心が、自分の心の底から湧きあがってまいりま
す。知らない間に自分の心が広々としてきて、いつの間にか、愛深い自分になっているのに気がつ
くことでしょう。
ことば
言は即ち神なりき、世界人類の平和を願う言葉が、なんの価値もない言葉であろうはずがありま
せん。これは観念的な言葉でも、つくり言葉でもありません。神のみ心そのものの言葉であり、人
なま
類の悲願がそのまま生で現わされた言葉です。これが上手な言葉にしてこの意味を伝えようとした
り、詩的な言葉にしようとしたりしたら、観念になってしまいます。生きた言葉、そのままの言葉
ごと
それが、世界人類が平和でありますように、という祈り言なのです。
ごと
この祈り言には右も左もありません。敵もありません。再軍備も非軍備もありません。ただひた
すらなる人類平和の誓願があるだけなのです。
ろうし
老子のいうように素朴なる天のひ父きです。地の希求です。人類の大悲願です。人間は自分たち
を利巧ぶりすぎるのです。肉体人間などは、神のみ心からみれば、単なる器に過ぎないのです。大
智慧大能力は神のみ心にあるのであり、人問の本心たる霊なる生命そのものにあるのです。
日本(祖国) の平和
世界平和の祈りには第二の祈り言として1
日本が平和でありますように、となっております。日本とは私たちの祖国です。祖国であるとと
もに、霊なる生命の中心の場であるとも思っているのです。かっての日本思想のように、武力をも
は
って世界に覇を唱える、というようなことではありません。地球人類大調和の中心が日本という場
であり、私たちという場なのです。
そういう日本がまず平和でありますようにと祈るのであります。どんな人でもこの祈りに抵抗を
感じることはありますまい。米国人は米国の平和であり、ベトナム人はベトナムの平和を祈るのは
15菩薩心と世界平和の祈り
自然の心の状態です。自分が生まれた土地というものは、過去世からのいろいろのつながりのあ
る、深い縁のあるところです。私たちはこの日本に生まれて、日本の国土には計り知れない恩恵を
受けているのです。その日本のためになんらかの恩返えしをしないではいられないものを持つのは
必然です。恩返えしと考えなくとも、自分の祖国を愛するのは自然の理です。自分の祖国より他国
ごまれ
を先に愛するなどという人があったら、それは極く稀でありまして、大半の日本人は日本を愛して
いるのです。ただどうしたら日本のためになるかわからずにいるのです。そこで、私は日本が平和
でありますようにと祈って、日本を愛する人々の心を、この祈り言に代表させて結集させたいと思
うのです。
日本には日本を護りつづけておられる神々があり、祖先の守りもあります。私たちが日本が平和
でありますようにと祈る時、その神々祖霊方は、私たちの光明に交流して、輝やかな光を流し入れ
まがとと
てくれるのです。日本が光明燦然としてくるのです。すべての争いや不幸や禍事は、光明のない闇
カルマ
の波動のなかで生じるのです。つねに心が光明化しておれば、業の波は消滅してしまうのでありま
す。ですから、つねに世界人類の平和を祈り、日本の平和を祈っていれば、おのずと争いの波や不
幸の波は消え去ってゆくのです。これはつねにつねに祈りつ黛けて、瞬時も自己を曇らさず、日本16
の国土を光明化させていることが必要なのです。
そこでたゆみなき世界平和の祈りを多くの人々が行じていることが大事なことになるのです。祈
りとは自己の本心、仏性を開くことであり、光明波動を神霊の世界(本心)から肉体世界に導入す
ることなのであります。キリスト教の主の祈りの、み心の天のごとく地にも行われんことを、とい
う祈り言が、世界人類が平和でありますように、であり、日本が平和でありますように、なのであ
ります。
祖国の平和は世界の平和に通じるのであり、世界の平和は祖国の平和そのものであるのです。で
すから、日本を真に愛するならば、日本国の働きが、世界に真実の平和をつくり出すためのもので
あるように、働きかけなければならないのです。平和を口にしながら、他国に武力を用いたり、多
くの人々を殺傷したりするのは、神のみ心でないことは明らかです。私たちはただ一筋に世界平和
の祈りの生活老を一人でも多くふやして、やがて日本中が世界平和の祈りに充ち充ちて、世界中の
平和の見本の国になるようにしてゆかなけばならないと思っているのです。
武力と武力と対峠していて、どうして真の平和が生まれ出るでしょう。各国の為政者は、なぜ目
先にばかり気を取られていて、先の見通しをつけないのでしょう。攻めるにしろ、守るにしろ、武
】7菩薩心と世界平和の祈り
力と武力では戦争になるより仕方のないのは、理の当然です。米国がまたしても、五メガトンの核
爆発実験を地下において行ないました。実験しても実験しても、まだくやり足りないで、地下か
ら放射能が漏れる心配のあるほど、核実験をつづけなければならぬ米国やソ連は、つねに外国の核
ま
爆撃におびえつづけているのであって、憐れというべきでしょうが、これもみずから播いた種をみ
ずからが刈らねばならぬ因果の法則というべきでしょう。
武力をいかに増大したからといって、その国の不安の解消にはならぬという証拠を米国もソ連も
はっきりと示しているのですが、日本は果してどの道を行くでありましょうか。私たちはただひた
すら世界平和の祈りの同志をふやして、日本が真に心の底から平和を欲っしているのだ、というこ
とを世界中に知らせる役目を荷っているのであります。
18
私たちの天命の完う
世界平和の祈りの第三はー
まつと
私たちの天命が完うされますように、という祈りであります。私たちは多くは自己の天命のなん
たるかを知らずに過しております。私は天命には二通りあると思っているのです。一つは、過去世
から生まれ変り死に変って達成しようとしている、人類共通の天命。これは、み心の天の如く地に
も行われんことを、または仏道は無上なれども誓って成ぜん、であります、いわゆる、この地球世
界に神仏の光明燦然たる大調和世界をつくりあげること、つまり、世界人類が完全なる平和世界を
実在世界と同じように写しだすこと、であります。このための働きを一人一人の人間がする、とい
うことが、個人人類共通の天命であります。私はこのために、この天命達成のために、私たちの天
命が完うされますように、と世界平和の祈り言のなかに、全想念を入れてあるわけですが、この祈
りを根本にいたしておりますと、個人の普通いわれる天命、天職といいかえてもよいのですが、こ
の天命も自然と完うされてゆくことが多いのです。音楽家は音楽がよくできるように、美術家はそ
の道が深くなり、舞踊家はその道の奥義を極めてゆける、科学者はその道の発見をしてゆく、とい
うように私たちの同志の人々は自然とこの世の天職が完うされていっているのであります。
このように、この世における天命が天職そのものになっている人たちは、そのままで二つの天命
が完うされているわけですが、全然自分の心にそわぬ職業を家族の生活のために、仕方がないから
やっている、という人々も多くあるわけなのです。その人たちはどうしたらよいのでしょうか。そ
の人たちは一度、人類共通の天命、つまり、世界人類平和のための一駒となるだけで満足するよう
19菩薩心と世界平和の祈り
たまみが
にして、後の職業のことは、ひとまず、過去世の因縁の消滅のため、魂磨きのためとして、割り切
ってしまったほうがよいのです。
そういたしますと、意外なところから、自分の気にそまった仕事が現われたり、子供たちのほう
が天職に恵まれたりしてくるのであります。なんにしても、この世の仕事は、すべて修業につなが
っているのでありまして、自己の人格完成のための一場面であるのです。ただ、人間がなさなけれ
ばならないのは、他を愛するということでありまして、それを大きく広げ深めてゆきますと、世界
人類を愛する、世界の平和を願う、世界平和の祈りというところまできてしまうのです。
人間が単に自己のためだけを想って、この世の生活をしつづけておりますと、晩年にいたって必
ず、孤独な悲哀の終りをとげるようなことになります。それは周囲にいかに多くの人がいたとして
も、魂が淋しさに耐えられぬような、そういう境地になってくるのです。なぜかと申しますと、晩
年になってまいりますと、死後の世界の未来の自己の環境が雰囲気となってうつってくるのであり
ます。それは夢でみせられることもあります。自分ではもちろんはっきりわかるわけがありません
が、なんとはなく淋しくやりきれない気持になってくるのです。
それは富がいくらあろうと、地位がいかに高かろうと問題ではありません。魂のほうからその淋
20
しさ悲しさが浮き上がってくるのです。死の前にはそれがかなりはっきりしてまいります。ですか
ら、生きているうちに、できるかぎりの愛他行をしておくことがよいのであります。愛他行の最大
のものが、世界人類の幸福を祈りつづける、世界平和の祈りなのであります。世界平和の祈りの同
志の死の直前直後の姿は美しくも立派であることは、幾多の例をもって示すことができます。そう
いう報告が時折り私のところにもまいりますし、私の霊覚をもってみましても、彼岸の善い世界に
往生していることがわかります。
神への感謝
さて、最後の、守護の神霊への感謝でありますが、これは世界平和の祈りならずとも、つねにし
まとも
なければいけないことで、守護の神霊の加護なくしては、人間は真正面に生きることもできなけれ
ば、生まれてくることさえできないのです。人間の誕生はすべて守護の神霊のみ心によってなされ
るのであり、何人も自己の力で生まれでられるものはないのです。そういう意味でも守護神への感
謝はなされなくてはならないのです。
守護神を頂点として、祖先の悟った霊魂である正守護霊、それに副守護霊方と、一人の肉体人閥
21菩薩心と世界平和の祈り
は、多くの神霊によって守られつづけて生きているのでありますが、その真理を知っているものは
カルマりよう
はなはだ少いのです。そのためにこの世に悪や不幸ということが多くなり、業の波の跳梁に任かせ
ているという格好になり、地球人類滅亡の方向に向わんとしつつあるのです。人間はなんにもまし
て、守護の神霊への感謝をなしつ父けなければいけません。そのくわしいことは拙著「神と人間」
に書かれています。
神と一口にいいますけれど、神とは、神道で申すように、一即多神でありまして、宇宙神として
やおよろず
は一神でありますが、働きとしては八百万というように多くの神々となっております。ですから、
なんでも神様といえば、一神だというようにこだわっていますと、つい排他的になって、他の宗教
をけなしてしまったりするのです。
のり
私は宇宙神を大生命でありすべてのすべてであり、法則の神としておりますし、その慈愛の働き
救済の働きとしては守護神というように説いています。大宇宙は厳然たる法則の下に運行されてお
りまして、何者の願いであろうともその法則を変えることはありません。老子のいう道でありま
す。ですから、つねに人間の祈りを聞き、願いによって、それを叶えてやるのは守護神のほうなの
であります。宇宙神は一方では大生命であり、法則であって、一方では多くの守護神となって、人
22
類を守っているのであります。
私どもが神様といって、祈りをささげる神とは、つねに守護神であって、宇宙神そのものは、人
間みずからが、その法則に乗ることによってのみ、交流でき得る、いわゆる自力修行による道なの
です。ですから宇宙神のほうから救うのではなくて、みずから正しい運行に沿うようにすることな
のです。その自力修行の道でさえ、つねに影にそうように、守護の神霊の援助がなされているので
あります。
天のみ心を地に現わすために、私ども肉体人間のいたらないところを埋め合わせて、宇宙神の大
生命の法則に乗せて下さるのが、守護の神霊であるのですから、世界平和の祈りには必ず、守護の
神霊への感謝をかかさないようにしていただきたいのであります。
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私たちの天命が完うされますように
守護霊様守護神様有難うございます
23菩薩心と世界平和の祈り
24
因縁性と仏性
命がそこに働いているから肉体が存在し得る
人間はどんな人でも、因縁性と仏(神) 性というものを同時にもっております。私はこの因縁性
のほうを消えてゆく姿といっているのであり、仏(神) 性のほうを、永遠の生命につながる本心と
いっているのであります。
この肉体の世界というものは、なかなか面倒なもので、ともすれば、肉体という形そのものを人
間と思い違いしてしまうことが多いのでして、この肉体というものに把われてしまいますと、人間
本来の命というものの働きを阻害してしまいます。
命がそこに働いているから、肉体がそこに存在し得ているのであって、命が離れれば、その肉体
は朽ち果てていってしまうのです。これは誰でも知っている現象です。
この命というものは、肉体の人間がつくったものではなく、大宇宙、大自然の中の一つの働きと
いうか、大生命の泉から支流として流れてきたものというか、とにかく神秘なる大能力の分れてき
たものでありまして、ある一時期を肉体という場所をっくり器をつくって、そこで、この地球世界
という物質世界に合わせた働き手となり、大宇宙の一つの理念を完成しようとしているわけであり
ます。
ですから個人くの肉体というものは、大生命から分れた小生命というものが自己の使命達成の
ための一つの現われ方としてあるのであって、人間の本質というものは、生命そのもののほうであ
り、ある時期には幽体として、ある時には霊体そのものとして、宇宙神のみ心を現わすための働き
をしているのであります。
人類はすべて命において兄弟姉妹であるから、争ったり恨み合ったりするものではなく、お互い
に助け合ってこの地球界に神のみ心を現わしてゆくべきなのである、というすべての宗祖の教えは
この真理を根幹としているのです。
ところが、肉体という器のほうを人間の本体と思いこんでしまう習性をつけてしまった人間は、
25囚縁性と仏性
自己が生命体であり、神性であることを忘れることが多くなってしまったのであります。そこで肉
体を守ろうとする想いが自己保存の本能と化して、闘争の世界を繰りひろげて今日にまでいたって
しまったのです。
ですから、肉体というものがこの世に現われた時から、因縁性というものが生まれ出たのであっ
て、これをアダムとイヴの原罪というのであります。因縁とは、普通の言葉でいえば原因結果とい
うようなもので、肉体身が生まれたということによって、肉体身を主として守ろうとする想念が生
まれてくる、そうするとそれが行動に現われる。こういう繰り返しが、習性となって、肉体身だけ
を人間だと思うような、そういう人々が多くなってきたわけです。いわゆる因縁性の人間になって
きたということになります。
ところが、いくら習性的に肉体身だけを人間だと思いこもうとしても、本来は大宇宙生命の流れ
であり、神の分け命である人間なのですから、肉体身だけの力ではどうにもできなくなると、自然
と、自己の親様である神の助けを呼ぶ想いになってくるのです。
神様、仏様といって呼ばぬにしても、自己の肉体の力以外の何かの助けを借りようとするので
す。それは偶発的なチャンスというようなものであるかもしれません。しかし、それも自己の肉体
26
身以外の力を頼っての願いであることには間違いないのです。それを運命の力といおうとどういお
うと同じことです。
人間は自己の肉体身だけで生きてゆけぬことは確かなことです。あらゆることに大自然の助けが
いるのだし、人々の助けもいるわけです。それは殊更に、空気はどうだ、水はどうだ、植物はどう
だ、というようにいわなくともわかることでありましょう。
本来因果と業因縁性の区別
このように、肉体身にまつわる(もっと深くいえば幽体や霊体にまつわる部分も入るのですが、
ここでは肉体身としておきます。)肉体身の生存生活に関係してくるあらゆる事態は因縁性によっ
てなされているわけで、この因縁性を無視しては、人間は肉体身として生きてゆくことはできませ
ん。だからといって、この因縁性にしがみついて生きようとしている限り、人間は永遠の生命を得
ることはできないのです。
因縁性というのは、肉体としてはじめて生まれてきた過去世より、なんたびかの輪廻転生をつづ
けてきて今日の肉体身として生存している、この期間に変化変滅しつつ、ある時はプラスとなり、
27因縁性と仏性
ある時はマイナスとなって肉体的生存の縁となっているのでありますが、人間本来の生命とは直接
関係のないものなのです。生命そのものとの直接の関係は大生命そのものであり、宇宙神そのもの
であって、変化変滅したり消え去ってゆく因縁性とは異なる本来因果といって、ありのまま、その
のウ
ままの働き、つまり、法則そのままの働きということになります。
この働きは、常住生きいきと働きつづけていて、汚れたり把われたりすることのない、光明その
ものであります。いわゆる永遠の生命につながる働きなのです。
こうしよう
そこで私は、人間は本来業生(因縁性)ではなく、神の分け命である、と教義にもいってあるわ
けです。
この本来因果の働きというものは、大宇宙のたゆみない完全調和にむかって働いているわけであ
りまして、今日では、この地球世界の完成に大きな力がそそがれているのであります。
人間の苦悩は肉体身あるが故のものでありますが、またこの肉体身がなければ地球の物質波動の
世界に神のみ心を現わすことができないのでありますから、肉体身がありながら、肉体身を超越し
た生命そのものの自己というものを自覚してゆくことが大事なのであります。そこで消えてゆく姿
という教えが必要になってくるのです。28
いろいろの宗教をやった人の陥り易い欠陥は、肉体は因縁性のほうに置いてありながら、知識や
想念だけが、真理のほうに向いているという状態でありまして、いうことや想うことだけは真理の
ようでありながら、実際行動は、因縁性の波の中でもてあそばれている、という人がかなり多いの
であります。
人間は神の子であり仏子である、と知識ではわかっているし、自分で一生懸命に想念を神のほう
に向けている。それまではそれでいいのですが、それを他のほうにむける時、相手の因縁性を無視
してしまって、相手の立場ではとてもできそうもない真理の行ないを強いてみたり、それ以上耐え
ていたら魂が凍えてしまいそうな立場のものの、自由を縛るような教えをしてみたりするのであり
ます。
人間各自因縁性が相違していまして、自分なら楽にできることが、相手には死ぬほど苦しいとい
うようなことが、ずいぶんとあるもので、人を見て法を説け、といわれているところなのですが、
宗教的に凝り固ってしまっていると、人をみて法を説くことがなかなかできないようなのです。
ヨーロッパ人にはそんなでもないことが、アジア人には大変なことだったり、アジア人には考え
るまでもないことが、ヨーロッパ人には大変な決意が
.いったりすることもあるもので、各自の因縁
29因縁性と仏性
性、習性による相違を無視しての平和運動などは、とても成り立たぬものなのです。
各人はすべて、神の分け命であり、仏性をもったものなので、誰でもが、心の底では世界平和を
願っているのですが、その因縁性や、習慣性によって、世界の平和より、自己の生活の富を計った
りする人々もあり、平和になったら自己の生活が成り立たなくなると思って戦争気分をあおり立て
ているような人々もあります。世界平和運動そのものにしても、神のみ心を現わした真実の平和運
動ではなく、自分たちグループの勝利のための平和運動というものもあるのです。現に米中ソの国
策がそういったところです。
30
真の光明思想は因縁性を甘くみない
このように真理が真理のままで通せることは少ないので、老子が、和光同塵といっているよう
に、そういう因縁性の中の自分たちも一員となって、しかも自分は神の子としての光明波動そのも
のとして、知らぬうちに、人々の心に仏性を発顕させてゆくことが必要なのであります。
肉体人間として働いている以上は、いかに神性そのものの人であっても、肉体人間社会の一員と
して、その因縁性の中で、その光明波動を輝やかせてゆくよりしかたがないのです。
ただ、私がいつも申しておりますように、人間世界の因縁性(業生)を善因縁のみに変えてしま
うために、私どもの背後には、守護の神霊の絶大なる援助が瞬時も休みなくなされているのであり
ます。ですから私たちは、守護の神霊の援助に感謝しながら、すべての事柄を消えてゆく姿とし
て、世界平和達成の祈りをなしつづければよいのであります。
肉体人間の力では、人間の業生、因縁性を改めることはとてもできないことなので、肉体波動の
外に在る守護の神霊の高次元波動によって、因縁因果の波動の汚れを浄めてもらうことが大事なの
です。そして、守護の神霊の働きを容易にならしめるためには、つねに守護の神霊への感謝と世界
平和の祈りが必要なのである、と私は説いているのであります。
人類の因縁因果の波というのは、ぐるぐる輪のように回転しているものであって、顕在意識から
ひそ
潜在意識に、現われている世界から潜んでいる世界に、またその反対に、潜在世界から顕在世界へ
と廻りつづけているのでありまして、私どもはつねにテープレコーダーを持っていて、瞬々刻々、
自己の想念行為を吹きこみ、そして同時に聞いているという形になっているのです。
のが
肉体人間は、なんといっても因縁性から逃れることはできないので、なんとかして、この因縁性
を、本来因果である、神のみ心と一つにしてしまって、光明燦然たるものにしてしまえばよいわけ
31因縁性と仏性
なので、そのための世界平和の祈りが必要なわけです。
因縁因果などというと、仏教的な古くさい言葉に聞えますが、簡単にいえば、原因結果と習性と
いうようなものですが、これが今生だけの原因結果や習性ではなくて、過去の過去の世において人
間がこの世に肉体に生まれてきた時からの原因結果でありますから、そうやすやすと因縁性を変え
るというわけにはゆきません。酒飲みが酒を止めたり、煙草吸いが煙草を止めたりするような、そ
ういうやさしいことでも、なかなか実行できない人がいる世の中です。
ですから、この因縁性というものを甘くみた光明主義などは、うっかりすると、偽善者を多くつ
くってしまったりするのです。親鸞のように、肉体人間は罪悪深重の凡夫なのだ、というように、
一度肉体人間を駄目なものと思いこみ、そういう駄目なものでさえも、救い取って下さる阿弥陀仏
という大慈愛者がいらっしゃるのだから、駄目な人間がいくらもがき苦しんだところで、とても自
力では救われることはないのだから、救って下さるとおっしゃっていられる阿弥陀様に何もかもお
まかせしてしまおう、南無阿弥陀仏、というように、阿弥陀様に全託して、そこから改めて自分た
ちの人生をいただきなおそうとしたわけなのであります。
私も全く親鸞と同じ考えでありまして、肉体人間としてだけの自分たちには、とてもこの人類の
32
因縁因果の悪循環の波を乗り越えることはできない、だから、肉体人間の自己というものの想念行
為を、すべて、神のみ心の中にお還ししてしまおう、そして改めて神のみ心の中から自分の人生を
やり直してゆこうというように思ったわけです。
そして、すべてを神のみ心の中に投入しきってしまった時から、自分の人生が新しい運命を築き
はじめてきたのであります。いろいろな運命的な予言を乗り越えて、私の人生は全く新しいものに
なりきってしまったのです。
これは業生の因縁因果の波が、神のみ心の中で、一応すっかり消え去ってしまって、新しく本来
因果的な、地球界の大平和創設の使命を達成する天命に切り替えられてしまったわけなのでありま
す。
一度過去の習性を捨て切るために
自己の想念が、過去の習性によって動いているようでは、新しい輝やかしい人生ははじまりませ
ん。個人もそうですけれども、国家人類もその通りであります。自分の都合の悪い人間や集団を敵
とみなして、その敵を叩きつぶすことによって、自分たちの上に平和がくるというような昔からの
33因縁性と仏性
考えで事を運んでゆくならば、やはり昔と同じように、地球世界は争いに充ちているでしょうし、
大きな戦争になってしまいかねません。因縁の悪循環です。
ですからどうしても、一度は、過去からの考えや習性を捨て切ってしまわねば、過去の歴史では
なし得なかった、世界完全平和ということは達成できるはずはありません。相手が武力をもったら
こちら側もそれ以上の武力をもとう、相手がこちらを敵視するから、こちらも相手を敵とみる。こ
ういう想念は、いくら口先では平和くと叫んでいても、真実は相手を敵視し合っているのですか
ら、過去の歴史をそのまま繰り返し、しかも昔より破壊力の秀れた核兵器などができているのです
から、地球世界の運命ははなはだ危いことになります。全く罪悪深重の凡夫の行いが、そこに如実
に現われてくるわけです。
お互いに自国を守ろうとして、自国を傷つけ損ってしまうのであります。危いかな地球人類とい
わねばなりません。人類の因縁性の中にあって、その因縁性のままの動き方をしていたのでは、人
類は破滅するしかありません。すべてが消えてゆく姿になってしまうからです。
ところが幸なことに、人間は本来神性であり仏性であるのです。最後の段階になれば、この本来
性が必ず大きくその姿を現わしてくるのであります。過去幾世代における聖者賢者の出現は、最後
34
の段階における、人類の本来性をひき出すための働きをなしていたわけなのであります。
人類の本来性である仏性神性が、この世の業生の因縁性を消滅せしめて、本来因果である大調和
性に変貌させきってしまうことによってのみ、この地球世界の完全平和は達成されるのであります。
仏教は哲学という学問のためのものでも、あの世の幸せというだけのものでもありません。この
身このまま即身成仏の姿を現わすためのものであります。そのためには、どうしても消えてゆく姿
的の業生世界の因縁因果と、神のみ心そのものである本来因果とをはっきり区別して、消えてゆく
べきものをすべて、神仏のみ心の中で、害少なきうちに消し去ってもらわなければなりません。業
生と神のみ心とがはっきり区別つかないものはそのままでもよいから、世界平和の祈りの中に入り
こんでゆけばよいのです。
人間世界のこうした想いでは、とても世界平和などできっこない、せめて自分がこの世にあるう
ちだけは、天変地変も大戦争もありませんように、という、業生世界だけを強く認めている人々も
困りますが、神は大愛なのだから、絶対人類を滅ぼすことはない、大丈夫、平和は来るにきまって
いる、我々が騒ぐことはないのだ、とあんまり呑気にかまえているのも困ります。
やはり自分たちが、業生の因縁性を高次元の神のみ心の中で光明化してしまう運動を率先してや
35囚縁性と仏性
っていなければいけません。神の大愛を信じて行なうことが第一ですが、この地球界はあくまで、
この肉体人間が主体なのですから、肉体人間の側からつねに神のみ心の中に入りきってしまう習慣
をつけておくことと、それをこの世でどのように現わしてゆくかということの研究をつづけなけれ
ばなりません。
36
原因結果を無視しない宗教活動
この世ではどうしても業生の因縁性があるのですから、そうした原因結果を無視しての宗教活動
というのはむずかしいことです。例えば、日本はあくまで平和の精神一本でなんの武力もいらぬの
だ、ということでも、現在すでに自衛隊というものがあって、国内自衛の任に当っているのですか
ら、やにわに自衛隊不要論を唱えたところで、実際問題としてはそんなことができるものではあり
ません。
また日米安保条約の問題にしても、簡単に安保条約破棄という方向に動くことも、現在の日米の
すべての関係においてでき得ることではありません。そこが内閣をやっている人たちの苦しいとこ
ろでありましょう。
そういうふうに政府のやり方を責める前に、国民の多数が、真実に陸界の平和を欲っし、戦争状
態になることを極度に拒否しているのであることを、身をもって国内にも国外にも示すことが大事
なのであります。
この運動は、相手をやっつけてしまうのだ、という気持や、政府をつぶしてしまうのだというよ
うな、主義の色のついたものではいけません。純粋な無色の平和運動でなければなりません。世界
平和の祈りの運動はそういう無色透明な素直な平和運動なのです。衆生の因縁因果の波の世界で、
神の光明波動を何気なくひろげてゆく運動なのであります。
自分がその立場に立ったら、果してできるかできぬかわからぬようなことを、自分がその場に立
てないばっかりに、立っている人を馬鹿か狂人呼ばわりしている人たちがいますが、私はそういう
態度をあまり上等な態度とは思いません。野にいればなんでもなさそうなことが、その立場に立つ
ととてもできないということがよくあるものです。それはあらゆる立場においてそういうことがあ
るのです。
やたらに人のしていることをけなす人々はやはり小人といわなければならぬようです。ここのと
ころはよいかもしれないが、ここのところはこうしなければいけないのではないか、というような
37因縁性と仏性
批判なら、これは相手も素直に聞くでしょうが、ただ、けなしっぱなしというのはあまり効果はあ
りません。国際関係でもそうなのです。
自由主義陣営の人々が、ただやたらに共産主義の悪口をいい、一方的な侵略者のようにいってい
ますが、こういういい方は、共産主義は総体的には嫌だが、いいところも少しは認めている人々、
というのが案外と多いのですから、そういう人たちの心に、それほど全面的に悪いわけではないの
に、というように、かえって共産主義をかばうような心持を持たせることになってしまいます。
人間というものは、吐き棄てるような悪口雑言というものは、あまり好きではないのです。です
から、良いところは良いと認める寛容さをもって、悪いところを批判していったらいかがなのでし
ょうか。共産主義陣営にもやはり同じことがいえるのであります。
38
憎み合いの世界を愛の世界にする運動
自由主義側になるのも因縁、共産主義側になるのも因縁でありまして、こうした因縁の対立では
世界を滅ぼすより仕方がありません。こうした因縁性を、神のみ心の高次元波動の愛の心にまで高
めあげないことにはどうにもなりません。
憎み合いの世界を大調和の世界にするために私たちは世界平和の祈りの運動を展開しているわけ
で、因縁性を本来因果の神の大光明につなげることだけが、真実に世界を救う唯一の方法であると
思います。
私たちは神のみ心一筋に生きるものでありまして、米国色も中国色もソ連色もあっていいもので
はありません。純粋に神のみ心を体した日本本来の和の精神に徹した、日本の天命全うの働きをし
つづけなければいけません。
それはまず、政治政策を形に出そうとしてのものではだめなのです。政治政策が形に出れば、必
ずといってよいほど、どちらか陣営の色がつきます。形に出す前に、まず日本人全員の精神の統一
が大事なのであります。
今日では天皇陛下の御為にといって国民の精神を統一するわけにはまいりません。全人民の等し
く望むところの、戦争防止、天変地変防止という、世界平和達成の道を、一つの方法をもって形づ
くってゆかねばなりません。そのまず手はじめが
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
39因縁性と仏性
私たちの天命が完うされますように
守護神様守護霊様あ似がとうございます
という、世界平和の祈りなのであります。
これには政治色もなければ、何々宗教宗団色もありません。ただ純粋なる、日本を守り世界を守
り、地球平和、宇宙平和の念願の他に他意はないのであります。
この世界平和の祈りの中から、今後さまざまなる賢者や、達人や発明者や政治家や事業家や、世
界平和に役立つ人々が生まれ出てくることでありましょう。
今日ではもはや自分だけの幸福はありません。自分たちの幸福はそのまま国家の幸福になり人類
の幸福になる、ということでありますし、人類の平和なくして個人の幸福もないということになる
のです。
地球人類の壊滅を防ぐために
日本の天命を達成するために
心をそろえて世界平和の祈りの日常生活をつづけてゆこうではありませんか。祈りは必ず達成さ
れるのです。
40
非常識・常識・超常識
まるでわかっていない〃自分〃
人間の世界におきましては、意識想念というものが非常に大事なものなのでありますが、この想
念意識というものを、あまり問題にせず、その日その日の自己の都合次第の感情や利害得失で事に
処する人々が多いのです。
人間の本質というものと、想念意識というものが、どういうふうな関係があるものなのか、いっ
たい人間の本質というものはどういうもので、想念意識というものはどんなものなのか、などとい
うことは一切おかまいなしに、それでいて、想念意識に支配されて自分たちの運命を動かされてい
るのが、大半の人間の姿であります。
41ヲド?旨1識・常’認幾・超労を孟喪
人間というものはおかしなもので、自分というものが、ここにちゃんと存在していながら、自分
で自分というものがわかっているような気がしていながら、実は、自分というものの本質がまるで
わかっていないのです。第一に自分を生かしている、というより全く自分自身である命ということ
が、いったいどのようなものなのかわかっていません。自分の命なのか、命によってある自分なの
か、とにかく、命と自分、自分と命というものは、切っても切っても切れないもので、命が無けれ
ば自分は無い、ということになります。
次に、考えたり想ったりする、意識し思考し感情が起る、そういう能力、というものは、いった
いどこから生まれてきて、どんな仕組になって流れており動いているのか、現在の科学者に解明さ
れている神経系統や、脳髄の説明は、ただ単に表面に現われている活動状態そのものを説明してい
るにすぎなくて、その神経や脳髄や内臓の生まれてきた根本には、少しもふれていません。触れて
いないのではなく、触れることができません。
ですから自分というものが、肉体人間としてここにあるということは確かにわかりますが、人間
自体、自分自体がわかっているのではないのです。その判然としない自分自身を、あたかもわかり
きったようにして生活しているのが、一般の人々であるわけです。
42
常識と非常識と超常識
現在いわれている常識というのは、そういう一般の人々で納得し得る事柄をさしていっているわ
けで、一般の人々の納得でき得ないことは、なんでもかでも、常識外れ、というようにいわれてい
ます。
病気になったら医者にかかれ、これは常識です。女性は結婚が最も大事なこと、これも常識です。
人間は肉体をもって、思考し創造し、すべてが愛し合って、家庭生活を善くし社会生活を善いもの
にしてゆき、祖国のためにつくしてゆくものである、等々、誰が考えても当然であり、妥当である
生き方を常識といっているのです。この常識は時代の進むにつれて次第に広がってゆきまして、昔
であったら夢のようなことをいうな、といわれる、飛行機が空を飛ぶ、外国のことがテレビでわか
る、というような文明文化の発展は、現代の常識を一挙に広げてゆきまして、昔と現代との常識の
幅の大きな相違を示しております。
うつわ
私たちが、人間は肉体ではなく、肉体は単なる器であり場所であって、人間には神体霊体幽体と
いうように幾つもの体があるのだ、人間の肉体が滅しても、人間そのものが滅したのではなくて、
43非常識・常識・超常識
外とうをぬいだようなもので、肉体よりもっともっと自由で堅固な体を纒って人間は生きつづける
のである。などという説は、現在の常識者からみると、常識外れな話であり、夢のような馬鹿げた
話ということになります。まして宇宙人の話などになれば、これは更に常識外れの事柄である、と
いうことになるのでありましょう。
しかしこれは全く真実の話であって、空飛ぶ飛行機やテレビの存在が常識であるのと同じように
やがては常識の範疇に入ってくるのであります。それもそう遠い将来ではありません。現在の常識
は勿論外れないようにしてゆかなければなりませんが、現在の常識だけを至上のものとしています
と、人類の進化は現在以上には進まなくなり、やがて人類は減亡してしまいます。すべて進化の止
まったものは、過去のものとなり、滅びの世界に近づいていってしまうものなのですから。
常識を更に広げ高めてゆく道を、私は、超常識の道と呼んでおります。そして、常識を破壊し、
人心を傷つけ損い、人類の進化を後退させるような在り方を非常識と私はいっております。非常識
の生き方には、超常識と似て非なる生き方がありますので、超常識の世界を目指しながら、非常識
の行いに入ってしまっている人々がかなり多くあるのです。
宗教の世界には、超常識に似た非常識の行為が、あたかも真理のごとく思われて行われているこ
興
とがありまして、これはその範疇に入っている人々にはなかなかに気がつかないのであります。
非常識と超常識の違い
常識に把われすぎる人々が、人類の進化を遅らせていることも事実ですが、非常識なる行いの
人々は人類を退化させ、滅亡させるための一役を買っているのですから、更に困るのであります。
例えていえば、先祖伝来の仏壇や位牌を焼いてしまって、その宗団の祈りだけをさせたり、集団
で仏罰を口実におどかして歩いたりする、大調和精神を破る非常識。人間は神の子で神の子には病
気が無いのだから、今すぐ寝床をたたんで立ち上がれ、とまだ悟りもなにも開けていない人を叩き
起こしたりする非常識。
その人が悟って、みずからの想いでするなら超常識として生きることなのですが、自分は薬も欲
しい、医者に頼りたいと思っている病人に、薬は毒だから、一切の薬を飲んではいけない、薬を飲
んだり医者にかかったりしたら、神様はその人を救わない、というような教え方をする人々。やた
らに神の罪を口にして、自己の宗教に人々を吸収しようとする宗団、等々。
本質的に宗教でもなんでもないのに、神仏の名を背景にして、勢力拡張をはかる団体や、本質は
45非常識・常識・超常識
完全な宗教であり、教えの根本はすばらしいのに、教え方がどこかで曲りゆがめられて、宗教の本
質の調和精神を破ったり、人の心の自由を縛ってしまったり、ついおどかしのほうに走ってしまう
非常識。それも非常識と自分でわかっていれば、改めることもあるでしょうが、それが宗教の本質
と思い違いしているような人々は、全く困りものなのです。
超常識というのは、現在の常識を足場として、その常識を更に更に高め広げてゆくものでありま
して、それが宗教的であれば、人類の進化に大いに役立つ道なのであります。
病気は医者、という常識に加えて、自己の精神の調和や安定が病気を癒す、という教えが入った
こ
とすれば、これは常識をいささか超え、広げたものといえます。それを更に、病気に把われている
意識想念を、自己の肉体から離して、神のみ心の中に昇華させて、神のみ心の完全円満な大光明波
動の中で浄めていただく、ということを教え、病気というものは、過去世から今に至るまでの、想
念波動の汚れが、毒素となりガスとなって、肉体の器官を冒かしているものなのだから、その想念
波動の汚れを過去世の因縁の消えてゆく姿として、神のみ心の現れである大調和精神、世界平和を
祈る光明波動の中に入れきってしまいなさい。つまり消えてゆく姿で世界平和の祈り、ということ
を教えたり、守護の神霊の存在を教えて、神霊の加護による治病ということもあるのだ、自分は守46
られているのだという気持を強めてやることなども、今日までの常識にはない、超常識の生き方で
あるわけです。
ニ
宗教というのは、だいたい常識を超えた、超常識の道なのでありますが、とかく常識の世界と衝
突することがありがちです。その衝突をさけるためには、常識を足場にして行うことが大事なので
あります。病気は医者という常識があったら、やたらに医薬を否定しないで、その常識を足場とし
て、超常識に入ってゆけばよいのです。それは、このお医者様も、このお薬もすべて神様の慈愛の
み心が光っているのだ、というように、神の愛のみ心の現れというほうにすべてを持っていって、
その基盤で、消えてゆく姿で世界平和の祈りの生活をしてゆくのです。
これですと、調和を破るところは一つもありませんし、非常識なところが少しもありません。自
然に神のみ心の超常識が、常識の生活の中で生きてくるのであります。こういう在り方は家庭の人
々の愛の心をも生かしているわけで、宗教精神がそのまま生きていくわけです。
不幸や災難という運命環境の上に現われてきた出来事でも、この超常識の気持で対処してゆけ
ば、自分をも周囲をも人をも痛めず、その環境を生かしてゆくことができます。そういう場合には
神への感謝がすぐに出てこない時がかなりあると思います。その時大事なのが、消えてゆく姿とい
47非常識・常識・超常識
う教えなのです。この不幸も災難もこの環境も、すべて過去世から今日に至る自分の想念行為の、
真理(神) のみ心に外れていたものが消えてゆく姿として現われてきたのだな、過去世の借金返し
なのだ、という想いが必要になってくるのです。そう想いますと、不平や不満や憤りの想いが一応
和らいできまして、祈り心がでてくるものなのであります。
48
想いを大切に
人間の想いというものは、神の愛を肯定している信仰者の場合でも、自分にあまりにひどい運命
が現われてぎますと、つい神の愛を忘れてしまうことがあるものです。そこで一度は、自分の因縁
によってこういう運命が現われてきたのだ、ということを認める想いになることが必要なのです。
すべては自分の罪なのである、という因縁因果説がないと、神様は愛なのに、なぜ自分をこんな目
に会わせるのだ、というような恨みがましい気持が起ってきます。
もと
そこで自分の運命の基を過去世まで持っていって、事実、過去世の因縁が現状に現われてくるの
ですから、過去世からの自己の想念行為の不徳のいたすところで、この運命が現われたのだ、とい
う自己の業の肯定をしないと、それからの祈りが真剣にならないのです。すべてを過去世の因縁の
消えてゆく姿、としたところから、神との一体化をより望む、真の祈り心が生まれてくるのであり
ます。それが横への人類愛の唱え言であり、縦への神との交流でもある世界平和の祈りを、より真
剣に祈り得る境地を生み出してゆき、不幸や災難に会いながらも神に感謝し得る、という超常識の
尊い行為となってゆくのです。
宗教の世界は、常識だけではとうてい入ってはゆけません。といって非常識の行いは宗教の匿界
から更に離れてしまいます。超常識とは自分を深く生かし、他をも深め高め得る意識想念の道であ
り、大光明波動の道であるのです。自己の本心を蔽い、他人を損い傷つけ、周囲を不調和にするこ
とは、すべて非常識といってよいでしょう。
はじめに申しましたが、意識想念というのは人間にとって大事なものでありまして、この想念意
識が、神のみ心とつねに交流しているようなものであれば、その想念意識はそのまま光明波動であ
るのです。それは行いとしては自然の愛の行為となり、思いやりとなり、勇気ともなってゆくので
あります。ですから人間はつねに、自己の意識想念を大事にして明るい柔和な愛深い自分になるよ
う祈ることが必要です。
49引誓舌謬幾。↑旨諒珪●超常謬糞
50
観念的唯神論の無力
よく、観念論的に、人間は本来神であり、神の子であるから、今更世界平和の祈りも、人類を救
おうなどという想いも必要ないのだ、ただ自己が神であることを知ればよいのだ、などといってい
る人もありますが、人間が神と一つのものであるということを心身で知ることはなみたいていのこ
とではないので、頭脳知識で観念的に人間は神の子だ、本来神なのだ、などと思っていても、少し
自己の運命に危機が迫ったら、そんな観念論はいっぺんにふっとんでしまいます。
人間は神の子だということが心でも体でもはっきりわかりきるまでは、絶対に祈りは必要であっ
て、祈らずして神の子の行為を現わし得る人は滅多にいるものではないのです。まして、神の子の
本体を自覚した人は、この動乱の現世を、ただ平気な顔でみんな神の子だ、このままでよいのだ、
などとうそぶいてはいられないものが心のうちから湧き上がってくるのです。それが人類愛の想い
であって、何かしら自分でできることをしないではいられなくなるのです。それが実際に神の子を
体覚した人の菩薩心なのであります。
私たちはうまずたゆまず、日々世界平和の祈りのリーフレットやパンフレットを無料でまきつづ
けております。今日までに何千万枚配布したかわかりません。私どもの人類愛の想いが、そうせず
にはいられないのです。そして感謝の投書や、激励や同感の葉書がきたりしますと、みんなは活気
づいて更にリーフレットまきに走り廻るのです。
悟ったような顔をしている人に限って、そんなことしてなんになるなどと投書してきて、自分は
とく
世の中のためになんにもしないで、人のやることの批判だけして、得々としているのです。そうい
うのを生悟りといい、観念論者というのであります。
常識的にいっても、人や社会や国家が困っている時に、人間はみな神の子だから、悪いことはな
いのだ、すべてが善くなるにきまっているのだ、と自分はなんにも積極的な善事をしないで、神の
子人聞とただうそぶいているだけでは、その人を立派な人とも、愛の人ともいわないのです。
じねん
神の愛というのは、自然と人の苦しみや、社会の悩みをみていられなくなるもので、人のために
尽す行為をしてゆくものなのです。理論や口先だけの人間神性論などは、神のみ心にそったもので
はありません。ただ単なる自己満足にすぎぬもので、そんな人は利己主義者というべきなのでしょ
う。
唯物論者がこの世に多く存在するのは、そうした観念論的な唯心論者の無力を、あざ笑いたい気
51ヲド’常孟喪・学言轟識・1超常Eck
持から、反動的に唯物的になってゆくという向きもずいぶんとあるのです。私なども体験的に観念
的唯神論の無力を知っておりますので、単なる自己満足の観念宗教を嫌うのであります。
これはかつて「天と地をつなぐ者」という自叙伝に書いたこともありますが、私が昔労働問題を
あつかっている雑誌の編集をしていまして、社会共産の党員や同調者に取りまかれて生活していた
体験として、唯物論者のこの世の改革やこの世の生活に対する積極さをみていますので、観念論的
宗教者のこの世における無力さをいやというほど知っております。今に神様がなんとかしてくれま
すよ、という慰め言葉より、たとえ一合の米でもその場にもってきてくれる人のほうが、貧しい人
にとっては神の使なのであります。神様がなんとかしてくれますよ、という場合には、温かい愛の
心で祈りながら、真実にその人の辛い立場に涙しながらいうか、あるいは予言能力をもって、いつ
頃その運命が開くか、ということまで教えるほどでなければ、空虚な実のない言葉となってしまっ
て、相手の心にただ反擾感を感じさせるだけなのです。
52
観念論を脱皮する生き方
みずからが神の子の自覚にあるならば、相手の神の子が苦悩の波に取りまかれているのを、ただ
観念的に神の救いを説いて、それで是としてはいられません。この世に超然としているようにみせ
ながら、実は愛の欠乏による、他への無関心という人が、案外、高い宗教の教えを求める人の中に
あるものなのです。
くうむいじねんにうに
空とか無為とか、自然法爾とかそのままの生活とか、神の子とかいう宗教の極意ともいうべき境
地は、ちょっとやそっとのなみたいていの修業(過去世を含めた) ではなり得ないので、いかにも
自分がその境地にあるようにみせても、その人の行為が愛に欠けていたり、他人にたいする無関心
さにあったとしたら、唯物論者でも積極的に愛の行為を生活に行じている人にとても及びもつかぬ
低い境地であるというべきなのです。
そこで私は、消えてゆく姿という教えをしているのであります。空や無為や全託になり得ぬ人間
こうしよう
の、業生(不完全) の波動の現れの想念行為や、生活環境を、そのまま善し、とみているようでは
これはその人が本物でないことを示しているのであり、人間だから仕方がないさ、というような想
い方は、常識的な想い方です。喜怒哀楽に把われ、肉体人間としての生活環境に把われる不完全な
想いを、これではいけないのだ、という自己反省の想いとして、この想念行為を神様のみ光で消滅
していただいて、空や無為や全託の境地になり得る人間にしていただこう、というのが、消えてゆ
53ヲi三?彗亨孟喪・マ旨言哉●走nfj言哉
く姿であります。これは神のみ心へ昇華する段階としての想い方なのであります。すべては過去世
から今日にいたるまでの、神のみ心を外れた、本心を外れた想念行為の消えてゆく姿である、とい
う想い方からそのまま、神のみ心である大調和精神、つまり世界平和の祈り心の中に入りきってし
まうというのが、消えてゆく姿で世界平和の祈りの真意であります。
世界平和の祈りの世界は、そのまま神のみ心の中であり、神の子の世界であります。消えてゆく
姿という想いをエレベータ:として、本心の世界、神の子の世界に入っていった自己は、今までの
業生の人間、神と離れていた人間ではなく、神と一体となった、神と交流している人間となってい
るので、その方法をつづけているうちに、宗教の極意の空や無為や全託の境地に、いつの間にかな
ってしまうのです。
こういう方法でやっていますと、何も神の子だとか、空になっているとかいう意気張った格好をし
なくとも、自然とその行為が神愛の行為を現わすようになり、人のためや社会国家、人類のために
なってゆく生き方となっているのであります。
いかにも悟ったような形を示したり、裸であるようにみせたり、全託であるようにみせたりする
より、つねに消えてゆく姿で世界平和の祈りというように、祈り心を根底にして、日々をあたりま
54
えに生きていることがよいのです。私はすべての人々が、すっきりと澄みきった人間になることを
望んでいるのですが、宗教に真剣のあまり、宗教に把われきっている姿は、かえって家庭生活や社
会生活と融合でき得ないで、この常識の世界から浮き上がってしまうもので、宗教の道に入って、
宗教に把われぬ、ということが、求道者には必要なのであることをしみじみ思うのです。
超常識世界の開発
私が最初から申しておりますように、常識世界に立っていながら、常識に融合しながらその常識
を広げ高めてゆくことが大事なのです。常識の常ということは、本来は奥の奥の心ということで、
本心の現れをいうのであります。本心の現れを認識することが、常識の真実の意味なのですから、
現在の常識が私が超常識と呼ぶ状態と等しくなってゆくことは時間の問題だと思います。
人間は神の分け命であり神霊と一つのものであって、この世は神の国であるべきなのですが、過
去世からの業因縁に蔽われていて、その事実を認めようとはしないで、肉体人間本位の生活をつづ
けているわけなのです。しかし、次第にこの肉体人間本位の生き方が誤りである証明が、天変地
異、公害、戦争という地球滅亡寸前という事態に立ちいたって、はっきりとしてくるのです。
55ヲド’舌1~斎喪・肴郵識。ノ超?舌言鹸
肉体だけが人間だと思っている誤った人間観が常識である世界は、やがて改まります。この根本
的な誤りが是正されない限りは、個人間の交際にしても、国家の権益争いにしても、現在以上に改
まるとは思われません。もし改まったとしても、それは枝葉的な在り方においてであって、根本的
に人間は神の命において一つのものである、ということが、実際の国際関係に現われることはむず
かしいのです。
なぜならば、お互いが国益ということや、権力ということに、重大なる関心をもっているのであ
って、神のみ心ということは、いつの間にかどこかへ飛んでいってしまっているのであります。米
国と中国、中国とソ連、ソ連と米国、とのやりとりにしても、ベトナム問題にしても、イスラエル
とアラブ連合にしても、お互いが、自国の権益が最大のことであって、神のみ心の大調和精神など
は、心の片隅に押しやられてしまっているのです。
インドとパキスタンにしても、どこにしても見渡す限り、どこの国も、平和という名にかくれて
自国の権益に必死になっているのであります。
これはその根本が、肉体人間主義にあるからでありまして、個人個人が全く別の存在であり、国
と国ともまた別個である、と思っているのですから、自分本位になり、自国本位になるのは当然な
56
のです。自己も自国も自分たちが守らなくていったい誰が守ってくれるか、ということになるから
です。現在の常識からいったら、どうしてもそういうことになってきます。
そこで私は、超常識世界の開発のために全力をそそいでいるのです。霊肉一体の人間という真実
の生き方を、少しでも早く多くの人々に知らせたいと思っているのです。その一つの方法が、消え
てゆく姿で世界平和の祈りであり、私の教義でもあるのです。もう一つは、宗教と科学の一体化で
あって、現在私たちは真剣にその研究をつづけているのであります。
57ゴド膚亨孟我・マ舌孟喪・超学哲言;喪
58
非常識と超常識
天才といわれる人々
青年の頃は誰でも天才に憧れるものですが、私はその頃、天才という者が非常に嫌いでありまし
た。なぜ天才を嫌ったかと申しますと、それはすべて書物から得たもので、実際に天才にめぐりあ
ききよう
ったわけではなかったのですが、天才といわれる人々のほとんどが、非常に奇矯な行いの人であ
り、他人の迷惑をいっこうに顧みない言動行為を平気でしていた、ということに、私の天才嫌いの
原因があったのでした。
私は音楽が好きでありましたので、べートーベソの曲なども真剣になって聴いていたもので、ど
の曲にも大変心ひかれていたのでしたが、ベートーベンその人の人柄には非常に悪い感じをもちつ
づけていました。それは彼が、自分の気分のおもむくままの行動をして、その行動によって他人が
こおむ
いかに迷惑を被るか、などということには一顧だにもしなかった、という自分勝手に見える奇矯な
行為に対する嫌悪であったのです。
ところが、芸術的天才をはじめ、天才といわれる人々には、多かれ少なかれ、このような行為が
平然と行われているようであります。そして天才は一様に大変に苦痛に充ちた生活をつづけていま
した。
そうした天才たちのことを書物に見るたび、私は凡才でよかった、私はひたすら常識にそった道
まとも
を、少しでも人のためになる行為をして、真正面に生きてゆきさえすればよい、何も後世に残るよ
うな大きな足跡を印さなくとも、天から与えられた命を、素直にのびのびと生かしてゆこう、とい
って、自分の命を伸ばすために人を押しのけたり、人の立場を無視したりすることはできない、と
いうような、全く常識的、平凡な考えを私はもっていたのでありました。
そうした私が、一歩宗教の門に足を踏み入れ、心霊研究の分野に心を傾けはじめた頃から、常識
家であった自分が、次第に常識を無視して、自己の好む道を一筋に進むというような人間に変化し
だしていたのでした。
59){=’常属食とノ超亨舌叢嚢
ホのとも
そして一般常識である、人間は肉体であり、肉体の人間生活をただ真正面に生きてゆきさえすれ
ばよい、どうせ肉体が死んでしまえば、それで人間は最後になるのだから、せめてもそうした短か
い期間を立派に生きてゆこう、というような考えからは全くはずれた霊魂の世界に、私の心は住み
ついてしまったのであります。そうして昼夜の分かちなく、死後の世界の人々(霊魂)や、四次
元、五次元といった、不可知といわれる世界の生物との交渉をつづける生活を送るようになってし
まったのでした。
そうした生活をするようになった時、はじめて、ベートーベンやその他の天才と呼ばれた人々の
自分勝手の行為や、奇矯な行為を理解できるようになったのであります。どうして理解できるよう
になったかと申しますと、彼らが友人と対談中、突然立ち上って外へ出てゆき、そのまま帰ってこ
なかった、という常識はずれの行いや、平気で約束を無視したり、金銭関係に無茶苦茶であったり、
会社の仕事中に、仕事の帳面に急に楽符を書き出したりした行為は、すべて、この肉体世界ならぬ
他界から、いわゆる不可知とされていた世界からの指導によって、その場、その時でなければ、他
界とその肉体所有者(天才) との交流にょる合作の作品が生まれそこなってしまう、という理由に
ょって、他のすべての状態を無視し去って行為されたものであったことがわかってきたのです。60
そうした作品はなかなかできがたいものであるので、肉体生活の他のいかなる環境や状態を無視
してでも、他にいかなるマイナスをつくってでもなし遂げるだけの価値のあるものである、と他界
の指導者(神霊あるいは高級霊)が認めて、天才と呼ばれる肉体所有者にその仕事をなさしめたの
であります。
そこで、天才と呼ばれた人々の大半が、肉体世界の環境は不遇で終りながら、人生に意義ある仕
事を残していったというわけなのです。天才とは、他界(神界・霊界)から選ばれて使われた人々
なので、肉体的な自分の想念のいかんにかかわらず、他界の命ずるままの生き方をしなければなら
なかったわけなのであって、肉体人間としてみれば天才の大半の人々は悲惨な人生であったという
ことになります。しかし、霊的、精神的に考えます時は、その天才として選ばれた人の潜在意識の
中、つまり前生からの想念の中に、そうした他界の神霊たちとの協力によって、この地上界に神の
世の真実の姿を現わしたい、という願いがあったということになるので、その当人の霊的な心、精
神的な面では、非常に満足をしているわけであり、死後の世界での地位(霊位) は、いずれも相当
に善いものであるのです。
私は私の霊修業の間に、そうした天才たちの裏面の真実がわかってきて、そうした天才たちの行
61夢ド勝㌻議喪と超常読喪
為を是認し、かつその人々に感謝の意を表したのでありました。
62
私の修業時代の生活
私の霊修業の間の生活は、それまでの常識家の私とは全く異なる、非常識生活の連続であって、
狂人的行為と親類縁者や世間の人々から思われるようなものでありました。(拙著〃天と地をつな
ぐ者〃参照)それもそのはずで、その頃の私の一挙手一投足、一言一句、すべて他界の人々(霊人
と神霊) の指示によってなされていたからであって、肉体の私の意志も想念も、すべて私の言語動
作に現わすことができなかった状態であったのです。
これは全く苦しい状態であります。私がはじめから非常識な人間であるならまだしも、非常識な
行為を極度に嫌っていた部類の人間であったのですから、ともすれば常識をはずれがちな他界の力
による自己の行為を、どうにもでき得ない辛さは、本当の狂人になりかねない苦しさでした。
しかし、私のこうした霊修業のはじめに、神霊の問にたいして「私の命は神に捧げます」と答え
てあるのですから、今更そんな行為を私にさせるなら、私は前言を取り消す、ともいえません。ま
して、相手は肉体には見えぬ、不可知なる存在なのですから、相手が悪いのです。
こうした私の霊修業は、肉体生活老にとっては全く非常識極まるもので、再びできるものではあ
りませんし、やりたくもありません。そうした霊修業によって私は、神界、霊界、幽界のあらゆる
層の生物たちの、肉体界への働きかけの状態を教えられたのであります。こういうやり方はどの程
度の霊魂の働きかけか、これこれこういうやり方は動物霊の働きかけだ、というように、私みずか
らを実験台にして、他界の生物の様々な肉体界への働きかけを、実験させられたのでありました。
今にしてみれば、こうした修業が、人を救うのにどれだけの力になっているかが、はっきりわかる
のです。だからといって、現在の私が、霊修業時代の私のような常識はずれの言語動作をしている
人に出会えば、その在り方を肯定することはせず、その行為は誤りである、と注意するに違いあり
ません。
常識の範囲を広げよう
常識というものは、一般の人間がもっている知識、思慮、理解力、判断力などであって、真理と
いうわけではなく、ごくありふれた、あたりまえの言動行為のことでありますから、常識をはずれ
たような事柄がかえって真理に適っている場合が、なかなか多いのです。常識というものは、その
63非常識と超常識
時代その時代によってかなりの変化をしているもので、地球は平面のものであって、不動のもので
ある、というのがその昔の常識であったのが、地球は球体で太陽の周囲を廻っているというのが、
現今の常識になっているというようなものです。
ですから、常識ばかりを振り回しているようですと、この地球人類は一向に進化していきませ
ん。しかしながら、やたらに常識はずれの言動行為を大勢の人にやられては、この世界が治まって
いきません。
私のように常識論者から、徹底的な非常識行為をやってのけさせられたものは、常識的な生き方
と、非常識な生き方との両面を知っているわけで、単なる常識的生き方では、その人間の進歩も、
この世界の進歩もあり得ないし、ふつう一般から見ての非常識なる生き方では、この世界の秩序や
平和をぶちこわしてしまうということもわかったわけです。
そこで私は、常日頃は常識世界の生活の中に、常識人と同じような生活をしながら、いざという
こ
時には常識を超えて、つまり超常識の生き方をすることが、一番賢明なのではないかと思い、自分
もそうした道を進むとともに、人々にもそうした道を歩んでゆくようにすすめているのであります。
ここで私は、非常識行為と超常識行為をはっきり分けているのです。例えて申しますと、自分が64
どのような宗教を信仰しようと、その人の自由でありますが、自己がその宗教を信じているからと
いって、他人の家の夕飯の仕度時や、夜分遅くなって押しかけ、相手の迷惑もかえりみず、その宗
教への入信を強要するが如きは、たとえその宗教がどのようによいものであろうとも、その態度は
その宗教をかえって汚すほどの非常識であります。
また自分に神がかりがしたからといって、相手が望みもしないのに、やたらにその相手を恐怖さ
せるような言葉を吐いたりするならば、その非常識もはなはだしいものである、といわなければな
りません。
あるいは霊魂の存在、死後における生存の事実を知った人が、好んで聞きたがる人に話すならよ
いのですが、相手かまわず、場所かまわず、朝から晩まで霊魂の話をしていたとするならば、これ
らも非常識ということになります。
人間には、その時々の気分というものがありまして、どんな立派な話でも、聞きたい時と聞きた
くない時があるので、聞きたくもない時に聞かされた話には、かえって反発を感じて、次の聴聞の
機会をその人から奪ってしまうような結果になりがちなのであります。
常識の範囲を極度に広げるようにしなければ、この地球世界は進歩しないのですから、その常識
65非常識と超常識
の範囲を広げようとして、焦りたくなるのも無理はありません。焦って行為すると、それが自己が
気づかずにいて、非常識行為になっていて、相手から嫌われ、世間からつまはじきにされて、相手
に知らせようとした超常識の事実を、その人やその周囲に知らせることを遅らせてしまったりする
ものです。
神がいきいきとこの世で働き、人間一人一人の中で働きつづけている、ということや、死後の世
界があって、私どもの祖先や知人が、その世界に住んでいることや、その世界は数多くの段階に分
れていて、この肉体世界と同じような生活をしていることや、光の波のように自由自在に自己の身
を現わし、人間一人一人に真実の人間の生き方を知らせようと働いている神霊の存在などのことは
いまだ常識世界のことではないのですが、一般の人間が、そうした事実を常識として知るようにな
らない限りは、地球世界の人間は、自分たちの業想念、自我欲望の餌食になって滅び去ってしまわ
なければなりません。
真実をどう知らせたらよいか
ですから、そうした事実を非常識といわれる行為にせず、人々に知らせなければならないわけな
66
のです。非常識なる行為は、一般人の誰しもが好まない行為であるからです。
それではいったい、どうしたらそういう事実、つまり、この世は神の生み給うた世界であって、
いのち
私ども人間は神の分け命であり、人間はその分け命である霊魂によって、この肉体生活を営まれて
いるのであり、その霊魂が去れば、この肉体は倒れてしまうのである。しかし、人間は肉体ではな
くして霊魂そのものであるから、その霊魂がしっかりした意識をもっていて、他界において、また
活動をつづけてゆくのである。霊魂が肉体に入っていて、肉体人間と呼ばれている期間には、その
霊魂の祖先、またはなんらかのつながりのある、自由自在になった、つまり悟った霊魂が二、三体
以上、守護霊としてその肉体人間の本心開発のための援助、あるいは守護しているものである。と
いう、そうした事実を、常識の範囲に入れることができるか、ということになるのであります。
これがなかなかむずかしいことなのであります。霊魂というと、一般人はすぐに幽霊というふう
に思いがちであり、ちょっと行者間や信仰めぐりをした人々は、祖先というと、すぐに迷っている
さわ
とか、障っているとか、恐怖心のほうにもってゆきたがります。
霊というのは神のことをいうのであり、知慧ある光のことなのであります。いいかえれば、いろ
いろと物事を創案できる知慧をもつ太陽のようなものなのです。それが自己の想う通りに形をつ
67非常識と超常識
くり、肉体人間のような形をもつくったのです。魂とはそうした知慧ある光の波であるのです。
ですからそうした霊魂が、その親にあたる霊魂や.もっと基になる神霊の援助によって、肉体要
素をつくりあげ、その中に住みこんで肉体人間となっているというわけなのです。
そして、この作業に協力した親にあたる霊魂や、その神霊や霊魂に頼まれた霊界人が、その肉体
の使命を無事に達成せしめようと、日夜を分たず働いているのであります。
ところが、肉体世界という物質の世界の波動は、霊魂の光の波を自由に働かせず、かえって汚し
てしまう、ちょうど穴を掘るのに、掘る人が泥まみれになってしまうようなもので、すっかりその
仕事が完成するまでは、光そのものにはなれないのです。そしてその汚れている期間、汚れていな
いところと汚れているところとが交ぜ合わさった常識ができあがり、それが完成されてゆくに従っ
て、その仕事の仕上りの姿がわかってきて、常識がずっと広がってゆくということになるのであり
ます。その汚れを、しきりに背後からぬぐってくれて、その人の本体の光を出させようと働いてい
てくれるのが守護霊であり、守護神であるのです。
こう書いてまいりましても、これだけではやはり、今の常識に固った人々には納得ゆかないこと
と思われます。そんな説は非常識だとまでは思わないでしょうが、納得できない、ということでし68
よう。
非常識行為とは、人に迷惑をかけたり、人に嫌がられたりする言動行為や、奇矯に過ぎる行為を
いうのですから、私の説などは、人に迷惑もかけず、嫌がられるわけのものではないので、非常識
ということはできません。
ですから真理を人々に知らせるためには、その人があくまでも常識の基盤に立った日常生活をし
ていることが第一なのであります。あのような常識のある人がいうのだから一理あるに違いない、
というようにならないと、常識が広がってゆかないのです。自分たちの死後になってわかってでも
いい、というには、あまりにも今日は地球世界の危機が迫り過ぎているので、私どもがこの世にあ
る間、というより、もっと最短時間で、神と人間との関係、真実の人間の生き方を多くの人々に知
らせなければ、間に合わない時代になってきているのです。
超常識と非常識の相違
大病人が医者にもかからず、宗教一本で直そうとしている、ということを常識人が聞いた時には、
かわいそうに、あれは迷信にこって、とその無知をわらうことでしょう。その大病人が、真に生死
69非常識と超常識
を神に・任せている場合は、その態度がのびのびとしていて、病みながらも、見舞の人々をおのずか
ら浄めることでしょうが、死んでは大変だ、というような、死を恐怖する想念でいっぱいでありな
がら、その宗教者のいうがままに、医者にもかからずにいるようですと、これはやはり非常識の部
に入るのですが、この大病人が、医者にかかるかからないにかかわりなく、いかなる病気も業の消
えてゆく姿である、と生死を神に任せ、守護の神霊への感謝行のうちに病床にあり、そして病が癒
えた場合などは、これは身は病んでも心が病まない状態であるから、超常識の人といえるのです。
また、いかなる貧乏生活の中にあっても、それも過去世の業因縁の消えてゆく姿、やがて本心が
現われるに違いないと、ひたすら守護の神霊への感謝行をつづけ、悠然として自己の仕事に励んで
いる人があったら、これも超常識といわなければなりません。なぜならば、常識とは、貧乏になれ
ばあわてふためき、おずおずと人生を生きてゆく感情だからで、それを貧苦といいます。しかし前
者には貧しいながら苦がありません。
こういう生き方は、おのずから周囲の人々に道を知らせ、周囲の人々を力づけ浄める作用となる
のであって、神のみ心に適う真理の生き方というべきであります。
超常識というのは、常識をはずれることではなく、常識生活の中にいて、常識を超えて生きるこ
70
とです。非常識の行為は他に悪い影響を与えたり、嫌悪の想いを抱かせたり迷惑をかけたりするこ
とでありますが、超常識行為とは、そうしたマイナス面を他に及ぼさず、しかも、常識にわずらわ
されない言動行為です。
金がなくなっては、病気になっては、とつねに働きながらも、何かと生活の心配をしているのが
常識人の生き方であり、金がなくなろうと、体が弱かろうと一切おかまいなしで遊び暮している、
あるいは働きもしないで、神詣りばかりしていて家人の反対も聞かず、財産財物を献じているよう
なのは、非常識な生き方であり、金のことも病気のことも、すべて神のみ心にお任せして安心し、
ただひたすら守護の神霊への感謝と天地万物への感謝行を根底にして、日常の仕事に打ちこんでい
る人は、超常識の生き方をしている人といえるのであります。
昔から聖者とか賢者とか、達人とかいわれた人々は、みな超常識の生き方のできた人々でありま
す。超常識の生き方ができるようになれば、その人は勿論本望であり、他の人へも好影響して、こ
の世のためになるのであります。しかし、一般の常識人から超常識人になるためには、昔からなみ
なみならない修業生活をしなければならないので、なかなかその境地に到達できず、生半かの人
やこぜん
は、かえって非常識者になってしまったりするのです。禅門の生悟りといわれる人々、野狐禅とい
71非常識と超常識
われる人々には超常識と非常識を取り違えている人がかなりあり、得々として奇矯な振舞をして、
他の人より超えていると思い上がっていたりするのです。
現今の新興宗教の信者たちにも、非常識を超常識と思い誤り、自己を損じ、他を困らせ、世を毒
している者が、馬鹿にならないほど多いのであります。
またこれとは反対に、超常識の行為をしている者の実態を見もせず、これを非常識呼ばわりして
いる常識者もありますが、これらは虚心にその超常識の生活者の生活状態を見ていれば、なるほど
そのように生きれば、安心立命できるわい、と必ず思うことでありましょう。
日常生活の不安のうちに一生を送る人々と、安心立命の境地において一生を送る人とでは、後者
の境地になることを誰しもが望むことは間違いのないことです。
72
あなたにも,てきる超常識の生き方
ところが、その超常識の生き方がでぎるまでには、命がけの修業がいる、といわれては、今度は
誰もが尻ごみをするでしょうし、また実際その修業をはじめても、長つづきはしないでしょう。そ
こで私は、日常生活をそのままにしていて、山にも籠らず、滝にもあたらず、あれこれと節食もせ
つい
ず、修業に特別の時間を費やさず、金もたいしていらずして、時間さえたてば、おのずから超常識
生活が少しつつできて、やがては大変に修業をした宗教者のような境地にまで心が高まってくる、
という生き方を神さまから教わって、現在みなさんに実施してもらっているのであります。
それはつねに私が説いていることなのです。この教えを信じて実施さえしていれば、時間的な差
異はありましょうが、誰でもが、安心立命の道に入って行けることは確実なのであります。そうし
た体験者は数多くあるのです。すでに昇天しました私の実母などもその一人であるのです。
人間には誰にでも祖先はあります。これを否定する者は一人もありますまい。この祖先(父母を
含めて)が、子孫の幸福を願っているということも、容易にうなずくことができるでしょう。
私の教えはこのところが、かなりの重要部門になっているのです。私たちの命は父母と何かの大
いな
きな力(神) にょって生まれてきていることも否めません。その父母は祖父母と、不可知(神) の
力によって生まれてきています。このようにさかのぼってゆくと、私どもの命は祖先プラス謎の力
によって生かされているということになります。
祖先なくては私どもはなく、謎の力なくては祖先はなかったのであります。そこで私は、私ども
の加護の力を、大生命である神の人間の面への守護の力、つまり守護神と、祖先の子孫を護り通し
73夢ド斜謡哉と超,鷺言哉
たいという守護の想い、つまり守護霊と二つに分け、守護霊様、守護神様とその存在への感謝を捧
げさせる行をしているのであります。そうしますと、肉体の人間と守護霊、守護神との障害のない
真直ぐなつながりができて、肉体内の霊魂(神の分け命)と、外面的な力(神)大生命との一体観
が次第にできてきて、安心立命の生活を地上界においても、霊界においてもできるようになるので
あります。
その上に、人類愛の自然的発露である、世界平和の祈りを形はどうでもよいから、つづけていれ
ば、いつの間にか、自己が大きな世界、大生命の働きの世界の存在者に変化してゆくのでありま
す。この方法にはなんらの形式もないのですから、実にやさしい安心立命の方法であると思うので
す。ですから自己の環境に現われてくることは、すべて過去世からの業因縁の消えてゆく姿という
ことの実行と、守護の神霊への感謝行とで、日常生活をしてゆくことこそ、易行道の第一の生き方
であると確信しているのであります。
74
禅定と祈り
唯物論者と唯心論者
肉体人間というものには、実に複雑な種類のあるもので、一口に人間と呼んではいますが、一方
には神そのままの愛と真の美しい生き方をしている者があるかと思うと、一方では鬼奮にも劣る残
虐無頼な生き方の者もおり、また蚊や蚤の如く、他人の血を吸い取って生きているような生き方の
者もいて、形だけは大同小異でありながら、その実は似て非なる心の姿をしているのであります。
ですから自分の想いに照らして他人を見ても、その相手が自分と同じことを同じように考える、
と早計には思えないもので、自分の想いはあくまで自分の想いであり、他人の想いはあくまで他人
の想いなのであります。ただ、自分に似通った想念の波の人と、全く異なる波の人とがあって、似
75禅定と祈り
通った想念の波をもった人たちが、同じ宗教や、同じ団体に入ったりしていて、親しいつき合いを
してゆくわけであります。
ところで、ここでこの人間の善悪ということを一応別にして、二つに分けてみますと、神仏の存
在を絶対に信じない、いわゆる唯物論者と、神仏の存在を信ずる唯心(神)論者との二つに分ける
ことができます。
そして唯物論者の中には、初めから神仏の存在など信ぜず、ただ五感に触れるものを、全存在と
して生きている人たちと、一度は神仏の存在を信じたが、その存在に疑問を抱いて、かえって堅い
唯物論者になってしまった人々とがあります。
また一方の唯心(神)論老の中には、神仏と人間とのつながり、神仏と本心の関係を自覚しよう
としている、つまり悟りの道に入りたいと一心になっている人と、自分や自分の周囲の病気や貧乏
や災難などの、不幸な環境を逃れたいと思って神仏にすがっている、いわゆるご利益本位の人々と
がいるわけでありますが、どちらの人々をも含めて、一般的には宗教信仰者と呼んでいるわけで
す。
76
現世利益から悟リの道へ
日本の宗教というものは、神道を中心にして、仏教とキリスト教とが両翼の形になって一般に普
及されており、ことに仏教は日本民族の心に根深く沁みこんでいるようでありまして、この世から
あの世への橋渡しには、仏式が一番多いような状態になっております。しかしこれは仏の教えが一
般国民に沁みわたっていて、仏の教えを一般国民が承知しているのかというと、そうではなく、形
の上でだけのことなのであります。
この仏教の中には、それぞれ異なる教え方をする各派があるわけですが、近代の一般人はいわゆ
る既成といわれる、そうした宗派にはあまり関心をもたず、新興宗教と称される現世利益本位の宗
教に魅力を感じているのであって、仏の教えをみずから深く探究しょうとはしていないのでありま
す。ですから、仏教哲学的なむずかしい理論からくる宗教には入りにくいし、浄土真宗のように、
西方にある極楽浄土というような、あの世における安心立命では(親鸞はあの世だけの救いを説い
たのではないのだが) この世の生活の中での安心立命を求めているご利益的宗教心を満足させ得な
いので、真剣にその中に飛びこんではいかないのです。77禅
定
と
祈
り
現代は目先の生活変化が激しすぎて、ちょっと油断していると、すぐ日常生活が苦しくなってく
るので、じっくりと神仏と人間との関係や悟りへの道を思索するような心のゆとりがもてないもの
で、つい安易に神仏への関係をつけてくれて、すぐにも現世の利益がありそうな、新興と称される
宗教に飛びこんでしまうのであります。
では、こうした現世利益を追っている信者たちには、現世利益はあっても、悟りへの道は開かれ
ていないのか、と申しますと、そうではないのです。たとえその目先の目的が現世利益のみにみえ
ましょうとも、それはその人々の表面の想い(意識) だけでありまして、その奥の意識つまり、守
護霊守護神の心、および本心は、つねにその人を悟りの道へ導こうとしていて、その一段階と
ーし
て、その人々を一時そうした低い現世利益宗教の中に入れておくだけなのであります。ですから、
その人々はそうした宗教生活の中から、いつ知らず真実の宗教への道、悟りへの道を少しずつでも
体覚してゆき、そうした低い現象利益宗教にあきたらなくなってくるのです。
最初は誤っていても、低い想念であっても、神とか仏とかいう言葉を聞きつづけておりますと、
その言葉自体のもつ光がその人たちの潜在意識に入りこんでゆき、時がたつと、いくらかつつでも
表面に本心の光、真実の心の光が輝き出てくるのであります。そこで初めて、現世利益だけを追っ78
ていてはだめなのだ、という想念が湧きあがってきて、また一段上の宗教信仰に入ってゆくので
す。こうした人々を私は多く知っております。そして、こうした人々が宗教信仰をしているという
人の大半なのであります。
私は一般大衆の大半がそういう人々であることを知って、生活相談、人生相談、現世利益を含ん
だ宗教の道揚を開いているのです。
見性すること
まとも
既成宗教のうちで、最も本心開発、悟りへの道のみを真正面に求めているのは禅宗だと思われま
す。禅宗の生き方には現世利益などは一かけらも見受けられません。ただひたすら仏心である自己
の本心開発を目指しているので、昔から禅宗の修業は苛烈であったようで、現今でも禅僧になるに
は、入門当初より実に厳しい忍耐が荷せられているようであります。
本心、仏心というものは、これこれこういうものだ、というように口で教えられるものではない
し、悟りへの道も、その人その人の心の在り方に従って、異なる方法によって教えなければならな
いので、文字や言葉ではどうにもならず、導師たちはそれぞれの機にのぞんで、その場その場の問
79禅定と祈り
を発して、悟りへの機縁をつくらせようとしているのです。
この問答が禅問答と一口にいわれるぐらいに、むずかしいわかりにくい問答で、相当修業をつん
だ禅僧でも、師の問になかなか答えることはできず、一般大衆にはどうにもならないようなもの
です。ところが知的な頭脳的なことを好む近代の知性者たちは、そうした知的とも思われる禅の在
り方に興味を抱き、そうした問答にぶつかっていったり、坐禅という瞑想方法を行じてみたりする
のですが、一年や二年や三年ぐらいそんなことをしてみても、まして職業の合間合間での修業など
あいまみまみ
では、禅の本質である生命の本源、仏に相見えることはとてもできないのであります。仏に見え
る、つまり見性するまでの坐禅観法というものは、肉体の生命を投げ出してかかる意気がなくては
とうてい成功しないのです。
くう
坐禅観法の目的は空の境地になることであり、空の境地になった時、自性つまり本心、仏心が輝
き出すのでありますから、そこまでゆかなければ、坐禅観法する意義が成り立ちません。大体、禅
の教えというものは、自力から出発しているもので、自分の内部に意識を深めて、自己のうちなる
仏を見出し、自己のうちなる仏と一つになる、という教えであって、自己の他の何ものにも依存し
てはならないような教え方をしているようであります。
80
ダルマの見性論
ちなみに鈴木大拙氏の著書の中から、禅宗の高僧ダルマ大師の見性論という文の一節をぬき書き
してみます。
『仏を見ようとするならば兎に角見性しなくてはならぬ。これはこの性が即ち仏であるからだ。
もし自己の性を徹見することがなければ仏を念じたり、お経を読んだり、断食をしたり戒を守って
も、何の役にも立たぬのだ。仏を念ずればその功徳があるでもあろう。お経を読めば智的に得する
こともあろう。戒律を守ればその報として天に生れもしよう、布施を行ずればその報も随って大い
なることであろう。しかしながら、いくらそういうことをやっても、それで仏にお目にかかるとい
うことを望むならば大きな間違いである。自性に徹底しない限りは、いくら功徳を積んでも駄目な
んであるから、それをするには先ず賢き師匠をたのんで、そうして生命の命根を断ずることにしな
くてはならない。そうしてこの見性をしなかったならば、賢き師匠というわけにはいかないのであ
る』
また次に
81禅定と祈り
『この見性ということが出来なかったならば生死の輪廻を離れることが出来ない。十二分経を如
何によく暗説しても、それでは生死脱却は出来ぬのである。三界輸廻の苦を離れるには見性をしな
くてはならぬ。昔、善星比丘というのがあった。この人は十二分経を悉く諦読することが出来たと
まめが
いうが、しかし見性の体験がなかったので、輪廻を免るることが出来なかったという話だ。善星の
ような学者でもそうであったとしたならば、今日僅かにお経を読んで、僅かに論部に眼を曝し得た
というだけで、それで仏教の体得者というわけにはいくまい。そう思うならば、如何にも愚かな人
だといわなくてはならぬ。心性を了解しなかったならば、お経を読んだり、お経を論議するという
ようなことも、何の役にも立たぬ。仏を求めるというならば、先ず自分の性を見なくてはならぬ。
自性即ち仏である。仏は自由人である。それは何等の作為をせぬという意味である。自分の自性を
見ようとすることをしないで、ただ外物を追うて仏をそのうちに見ようとするならば、仏は決して
手に入るはずはない』
その他に、
『仏は汝の心そのものである。外のものに向って礼拝するというようなことをしてはならぬ』と
か、
82
『心が即ち仏で、仏が道で、この道が即ち禅である』とかいっております。
ですから、禅を知性的な宗教とのみ思って、知性的満足のために問答したり、坐禅観法している
ような知性者は、よくよく考えなければいけません。
禅の在り方は一途に見性すること、悟ることにあるのですが、これがすべて自分自身でしなけれ
ばならないので、大変なことなのであります。ですから善き師匠について、その師匠の点火によっ
てうまく自己の心の火を燃やしつけ、本心開発をしていかなければならないわけで、手を取るよう
に指導してくれるわけではなく、つねに体験を通して、直感的、直覚的に悟りの道に入らなければ
ならないわけなのです。
私なども昔はこうした禅の道に憧れて、山に入って坐禅観法をしてみたこともあったのですが、
雑念ばかり出てきてどうにもならず、自分はこうした修業方法は不向きな下根の人間であると悟
り、全託の方向にむかっていったのでありました。
大衆に開かれた解脱への道
常住坐臥、坐禅ということも禅宗ではいっておりますが、坐禅といわれても禅定といわれても、
83禅定と祈り
やはり型通り坐わらなければならないような気が、誰しもするようで、一般の人々には禅の真実の
境地にはとても踏みこめそうもありません。
ところが私は、禅と同じ境地に入り得る方法を神様から教わったのであります。それはどんな方
法かと申しますと、「消えてゆく姿」という方法なのであります。
先程の見性論にもあったように『仏は汝の心そのものである』とか、『心が即ち仏で、仏が道で、
この道が即ち禅である』とかいわれていて、その心、その本性を見性しなければ、いくら何をして
もだめだといっております。これは仏を神という言葉に置きかえると、神は本心そのものであると
いうことであって、真の人間は神そのものであり、仏そのものである、ということになります。そ
して前に引用した見性論の
『自性即ち仏である。仏は自由人である。それは何等の作為をせぬという意味である。自分の自
性を見ようとすることをしないで、ただ外部を追うて仏をそのうちに見ようとするならば、仏は決
して手に入る筈はない』
との一文の中の、この仏は自由人である、それはなんらの作為をせぬということである、という
ところをみると、現在の肉体人間は誰一人としてこれに当てはまる人は存在しないようでありま
84
す。ここが私の一番問題とするところなのです。それは、現在の肉体人間が、いかなる修業をしよ
うと、真実の人間、つまり仏心の人間、神の子人間は現われてはこないと思われます。
私は現在の肉体人間というものを一度すっかり捨て切ってしまう、投げ出してしまわない限り
は、世俗の職のかたわらの坐禅観法や禅問答などで、決して見性などできるものではないと思いま
す。私は私を加えた一般大衆を凡夫と見て、一度この自分たち人間や、人間生活に起ってくる様々
な感情想念や思慮分別、種々なる事態を、すべて消えてゆく姿、本ものではないと投げ出してしま
う。投げ出すというと、どこへ投げ出してしまうか、という問が出るだろう。禅宗のやり方だと、
自分の他に外は無いのだから、投げ出すところがない。もっとも道元禅師などは、南無帰依法、南
無帰依仏、南無帰依僧、と三宝に帰依させる唱法を教えているのですが、その伝でいけば、三宝の
中にすべてを投げ出してしまう方法をとればよいのですが、私は外部の神霊を認めているのですか
ら、守護の神霊の中に、あるいは一歩進めて世界平和の祈りの中に投げ出してしまえ、と教えてい
るのです。
さんがい
こういうやり方をしないと、いつまでも、不自由な自分、業想念世界、三界の自分がうごめいて
いて、自由人の自分(仏、本心)作為せぬ人間(仏、本心)がいつまでたっても現われてこないの
85禅定と祈り
であります。
肉体人間が、心の世界で一度生まれかわらなければ、決して神の子人間、仏の心、本心がはっき
りこの世に姿を現わすことができないので、肉体人間の自力でそれをできるが如く説く人があった
ら、その人自身がどれだけ仏の姿を現わしているか、自らの姿で世に示さなければならないと思い
ます。
私の説いているのは、そうした肉体人間の自己を、一たび凡愚と捨てきる想いで、神のふところ
に飛びこんでゆく、その方法をくわしくいうと、人間は神の命の分れであって、業生ではない。業
生の人間や、業想念行為、この世における不幸や災難はすべて真実の人間(仏)が現われるために
消えてゆく姿なのである。だから人間は、ひたすら世界平和の祈りさえしていれば、肉体人間側か
ら作為せずとも、神もよおし、神はからいの智慧や能力がおのずと生まれてきて、この世を神の世
界、仏の世界にしてゆくのである。という説になるのです。こうした方法こそ、一般大衆の神仏へ
すみ
の信のある人なら、何人にも速やかに行い得る悟りへの道、解脱への道であるのです。
86
悟リへの道を邪魔するもの
すのじ
悟りへの道、解脱への道を一番邪魔するものは、思慮分別も交えた業想念であります。ですから
この業想念を相手にしているうちは、いつまでたっても解脱することはできません。
禅門では、本来の面目なら本来の面目という題を出して、その課題を解くことによって悟らせる
まと
というような方法をとっているようですが、この方法も人間の業想念を一つの的の中に投げ出させ
てしまおうという方法ではないかと思われます。坐禅観法をするのも、自己の心から業想念を放つ
くうかん
ためのものですが、想念を集中させる、想いを統一させる的がなくての空観というのは、実にむず
かしいものなので、空観することにおのずと想念が把われてしまいます。把われてしまえば、もう
それは空の境地ではないので、空観は成功しないことになります。坐って坐って坐りぬいた老年に
なって、どうやら空の境地に近いものになれた、という老僧はおられるでしょうが、一般人のよう
に、職業の合間合間の坐禅観法で、こうした老僧の境地にはなかくなれるものではありません。
それが、寝ても起きても、食べていても歩いていても、常住禅定の境地でいるのがよいのだ、と
禅僧はよくいわれるのですが、この常住坐臥の禅定というのが、またこれ実に至難のわざなのであ
ります。
坐れば坐る程、坐らぬ人よりはよいにきまっておりますし、常住禅定の境地になるように心がけ
87禅定と祈り
ている人は、心がけていない人よりはましになりましょう。しかし、それだけではどうにもなりま
せん。ただ個人的な修養という程度のことでしかありません。時によると自己の理想している境地
いら
になかなか行きつけないので、かえって焦立ったり、自己を痛めたり、またはその逆に、野狐禅と
きもざよう
いわれるような、常識をはずれた奇矯な行いをする人になったりすることも多いのです。
88
魔境と賢い師匠
坐禅をする場合は、やはり賢い善き師匠のもとでしなければ危いと思います。坐って統一する場
合には、魔境といわれる境地がありまして、いろいろな幻影が見えたり、霊聴があったりすること
があるのです。この場合、ほとんどの師匠は必ずそんなものに心を把われてはいかぬ、といって、
そうした幻影や霊聴を全面的に否定させているようであります。ところが修業者の中には、そうし
た霊能力がはじめから備わっている人がいて、どんなに否定しても否定しても、他界からの連絡が
ある場合があります。こうした時に、その修業者は、いくら師匠に厳しくいわれても、どうにも他
界の声や姿による連絡を拒否しきることができなくて、両方の板ばさみになって、困却の極に至る
ことがあるのです。
そうした場合その修業者は結局師匠と争うようになり、その師から離れてしまうことが多いよう
です。そうした他界からの干渉を極力否定することはよいのですが、否定しきれないものまでも否
定する態度は、やはりこれは本道を誤るものだと、私は私の体験から思うのです。師匠というもの
は、あまり型にはまった指導をするようではいけません。自由自在、その場、その時によって円滑
自由な指導ができるようでないと、真実の師となることはできません。
師と呼ばれることは実に大変なことでありまして、自己の我の想念をすべて捨てきっていない
と、弟子の行く道を誤たしてしまう恐れがあり、自己の霊魂の進化を汚してしまうのであります。
先生などと呼ばれていい気になっていたら、とんだことになってしまいます。
私は私の肉体人間的存在を、一度直霊である私の神の本体に返上してしまって、そこから新生し
た霊的自己としてこの世に還ってきて、宗教指導者とならされたのでありますから、個人我の私と
いうものはすでに消滅してしまっているのです。ですから私は、自分の想念所業はすべて神仏のみ
心の現れとして、この世の生活をしているので、その一番根本的な生き方が、教義く人間と真実の
よ
生き方Vと世界平和の祈りの指導なのであります。私に働いている守護神の眼は、私に俺ってくる
人々の運命をすべて見通していて、その人の最善の生き方のできるように教え導いているのであ
89禅定と祈り
り、一般的には世界平和の祈りによる、業想念所業の消滅をはかっているのです。
坐禅観法は賢い師による場合は、それ相応の効果をその人に得さしめるでしょうが、下根の師に
ついた場合は大きなマイナス面になることもあるのです。ダルマ大師の仰せの如く、すべて賢い師
を選ばなくてはいけません。いかに自力による修業であっても、賢い師のない修業は非常に危険で
あります。賢い師とはその弟子を見性せしめ得るほどの人でなければいけない、とダルマ大師はい
われています。
一般の人々には命がけの修業などはとてもでき得ないのですから、自力行はとうてい貫き通せな
いと思います。そこで私は徹底的な他力行を私の体験によって提唱しているのです。それが、行じ
ているうちに、自然と業想念が消滅してゆき、本心が開発されてゆく、世界平和の祈りなのであり
ます。
90
禅定と常住坐臥の祈リ
常住坐臥、禅定の境地におのずからなり得るやさしい方法が、世界平和の祈りなのであります。世
界平和を祈るとなぜ本心が開発されてくるかと申しますと、世界平和、人類の大調和ということは、
そのまま神仏のみ心であるので、世界平和を祈るということは、神仏のみ心の中に知らぬ間に自己
の想念を投入していることになるのです。
日常生活の中で、絶え間なく浮び上ってくる憤怒や妬みや、焦りや恐れや執着等々の業想念は、
神のみ心である本心から湧き上ってくるのではありません。それは本心が神のみ心であることを忘
れ果てた、肉体人間の想念が、神という完全円満、大智慧、大能力の光から離れてゆくに従って、
その間隙の光のマイナス面にでき上ったものであります。そうした真理を知らない肉体人間が、そ
うした業想念の中で、平和だ幸福だと叫んでいるのですから、神のみ心の現れようがないのです。
そこで神のみ心は守護神団となって地球人類に近づき、世界平和の祈りをなす人々の上に輝かな光
を放ち、おのずと業想念が消滅し去るように仕組まれたのであります。世界平和の祈りを心に思い
浮べた時、瞬時にして守護神団の光明はその人々を照らし、今日までに数多き奇蹟が現われている
のです。そして、いつ知らず、その人々は安心立命の境地になってきているのです。
日常生活そのままで、世界平和の祈りさえしていれば、禅定で鍛えた心と等しい境地になり得、
その上世界平和のために役立つ生き方ができているのが、世界平和の祈りの力なのであります。ど
うぞそのつもりで、世界平和の祈りを心にしみこませるようにして下さい。
91禅定と祈り
守護の神霊の外面的な働きと人間の内なる本心とが一つに結ばれる時、個人も人類も大調和の姿
をそこに現出するのであります。
92
真の念仏と世界平和の祈り
深いものの単純化
ほうねんしんらん
法然親鸞の偉さは、深い学問知識をもちながら、その学問知識をさらりとすてきって、念仏一念
になりきったところにあります。学問知識が深いと、どうしてもその学問知識がかえって邪魔に
なりまして、表面、非常に単純そうに見える念仏行一筋というような生き方はできにくいものなの
ほうねんしんらん
です。ところが法然や親鸞はその単純化をなし得たのです。
ほうねん
もっとも法然の場合は、その宗教学の深さが、その行からきた霊覚と相まって、法然自体の心を
ほうねん
み仏の世界に昇華せしめていたのであります。いいかえますと、法然の本心がすっかり開発されて、
法然がみ仏の心と一つになっていた、ということができるのです。そこで、法然にとって、南無阿
93真の念仏と世界平和の祈り
弥陀仏の唱名は、表面は単純な六字の唱名でありながら、そこにみ仏の姿そのものが、はっきり現
われているのであります。学問と行によって法然は真理を把握し、自己が把握した真理を在家の無
学の人にも、宗教の行をしたことのない人にも、老若男女の差別なく、真理がやさしくその人のも
のにできるように、真の救いを体得できるようにと、念仏行の普及をはじめたのです。
はて
法然は深い宗教学の果に、いったい何を発見したのでありましょう。それはいかに深い学問知識
を得たとしても、肉体人間の自己を真の自己とみていての知識では、それはみ仏の智慧にとうてい
こうしよう
いたらない、それは業生の世界の知恵知識であって、真実人間を救うわけにゆかない、真実人間を
救い、真理を体得できるのは、肉体人間が自己であり、眼に見え、手に触れるこの五感の世界が、
げだつ
真実の人間の世界である、という誤った想念から解脱することによってなされるのである、という
ことを法然は知ったのであります。しかしここまでなら、法然以前の先覚者にもわかっていたわけ
で、そのために止観とか仏教の各種の統一行を行い、肉体世界からの解脱をはかっていたのです
が、法然の傑出していることは、ただ単に六字の唱名法によって、肉体世界を解脱できる、という
ことにあるのです。いわゆる誰にでもやさしく、何気なくできる悟りへの道であるわけです。在家
そのままで、無学のままで、老若男女の誰にでもできる解脱の方法1 ここに到達した法然みずか94
せきがくしやもん
らは、深い学問知識を積み重ねた碩学であったのです。法然が学識経験の深い沙門であったからこ
そ、この一向専念の念仏行の普及が生きていたのです。あの学問知識の深い、偉いお坊さまのおっ
しゃることだから真理に違いない、救われるに違いない、と誰しもが思ったのであります。
法然自体にとっては、唱名念仏をしようとしまいと、すでに解脱し得ているのですから問題はな
いのですが、出家として、衆生のために尽せる道を発見することが、法然にとっては必要だったの
とう
です。法然には法然以前の道に、衆生を救う道を見出すことはできなかったのです。そこに唐の善
導の観経疏という書の霊的導きがあり、今日までに心の中にあった浄土三部経の唱名の方法が、は
っきり浮ぴあがってきたのです。法然はここで他の方法をすっきりと切り捨てて、聖道門とはっき
り区別し、唱名念仏一点に教えをしぼり、易行道としてその教えを単純化したのです。宗教ばかり
ではなく、政治の世界でも科学の世界でも、芸術の世界でも、深い内容を単純に現わす方法が必要
なのです。深い内容の単純化こそ、大衆を進化させる大事な方法であるのです。法然こそ、日本宗
教界の大恩人であり、世界の宗教界に特筆大書できる聖者なのです。
親鸞はこの法然の人格に傾倒し、法然と一つの道にみずからを投げ出したのであり、法然の道を
みずからが妻帯し、衆生の中に一歩踏みこんで、道をひろめたのでありまして、私は浄土門の道の
95真の念仏と世界平和の祈り
最初の発展を、法然、親鸞と一
㌧
つにして考えているのです。
96
閏遍上人の念仏心
浄土門には偉い人がかなり出ていますが、ここに、忘れてはならない人を一人あげますと、それ
いつぺんちしん
は、法然の孫弟子ぐらいにあたる一遍智真でありましょう。明朗豪快な、自力の行者型にみえる人
柄でいて、他力念仏行に徹した人であり、深く心に残る人であります。
げんこうえき
一遍は日蓮と同時代の人でありますので、元憲の役の頃に道を説いていたわけですが、日蓮が国
きた
難来るを叫んで、各処で獅子吼していたのにくらべて、そういう現象的なことにあまり把われなく、
ただ、ひたすら、念仏行の宣布にあたっていたのであります。
しんほんしつり
「心品のさばくり(沙汰)あるべからず、この心はよき時もあしき時も迷なるが故に出離の要と
はならず。南無阿弥陀仏が往生するなり」
よあ
と説いたりしているのをみましても、現れの姿の善し悪しや、うつりかわりにいちいち想いをわ
げん
ずらわすような方向に、人の心を向けぬようにしていたので、元の襲来そのもの、国難そのものと
いう現象面の問題より、もっとそうした現象が現われてくる、その奥の姿、そしてまたその奥の奥
の姿に、人々の心をむけさせようとしていたのであります。
一遍の念仏の行者の心としての言葉を次にとってみます。( ) は筆者註
「… …念仏の行者は智慧をも愚痴をも捨て、地獄をおそるる心をも捨て、極楽を願ふ心をも捨
て、又諸宗の悟をも捨て、一切の事を捨てて申す念仏こそ、弥陀超世の本願(すべての人が救われ
なければ、自分は仏にならぬ、といって法蔵菩薩が阿弥陀仏となられたその本願のこと) には、か
このうちとかく
なひ候へ。かやうに打ち上げ打ち上げ、唱ふれば、仏もなく、我もなく、まして此内に兎角の道理
もなし。善悪の境界皆浄土なり、外に求むべからず。ようつ生ぎとし生けるもの、山河草木、吹く
風、立つ浪の音までも念仏ならずといふことなし。人ばかり超世の願に預るにあらず(色即是空、
空即是色、大宇宙生命の運行のままという意……)
… …念仏は安心して申すも、安心せずして申すも(念仏は本心そのものから出てくるのだから、
業生の想いの差はないという意) 他力超世の本願にたがふ事なし。弥陀の本願には欠けたる事もな
く、余れる事もなし。此外にさのみ何事をか用心して申すべき。ただ愚なる者の心に立ちかへりて
念仏し給ふべし、南無阿弥陀仏。一遍」
この全託の言葉には、全く恐れ入ったという他はありません。仏心一如の境地、神我一体の境界
97真の念仏と世界平和の祈り
に、この念仏ならなり得るわけです。やはり他力の人々はここまで全託しなければいけないのだと
思いますので、この境界を目ざして念仏行をしてゆくべきです。ここまでゆけば、絶対力の働く境
地でありまして、聖道門の聖者の行きっいたところと同じところにいたるわけです。他力門にして
も聖道門にしても、この境界に来れば何もいうことはないのであります。
98
宗教のめざすところ
他力門にしても聖道門にしても、要は、自己の本心開発にあるおけで、生命の本源と自己の想念
とが全く一っになればよいわけなのです。いのちそのままの境地、神我一体の境地になること、本
心そのままで生きてゆかれるようになることが、宗教の目ざすところなのです。
人間というものは、本来は神のみ心の中に住んでいるものであり、阿弥陀如来のみ心の中にすっ
ぽり入りこんでいるものなのでありますが、肉体という物質波動の中に、いつの間にか本来心がか
くれてしまって、肉体に附随した想念波動というものが、本心と別のような形で働きはじめてしま
ったのです。この本心を離れた想念波動、つまり業想念意識というものを、なんとかしてなくし
て、本心のままに生きたい、すべての人々にも本心の世界で生きてもらいたい、という願望で仏教
がはじめられ、釈尊はみずからが仏の本体を現わされたのでありますし、釈尊以後の聖者たちも、
本心そのままの自由自在心(身) を得るために、いろいろの修業をされたのであります。
そして、今日までに自力で道を開いてゆこうという聖道門と、他力本願の浄土門との大別すると
二つの道が開かれてきたのであります。勿論、細かく分けますれば、自力と他力と入り交じったよ
うな生き方もあるのですから、幾種類もの修業方法があったわけで、一逓上人のようにかように
「……打ち上げ打ち上げ唱うれば、仏もなく、我もなく、まして此の内に兎角の道理もなし。善悪
の境界皆浄土なり… …」というような、悟りの奥義に達した念仏ともなると、難行苦行の末に悟り
を開いた聖道門の聖者もその境界におのずと微笑をたたえて肯づき得たと思うのです。
要は、南無阿弥陀仏でも、南無釈迦牟尼仏でもよいのでありまして、自己の業想念波動を神仏の
み心の中に投入しきれればよいのであります。人間の本心は神仏のみ心そのものであり、円満具
足、調和そのものの心なのですから、その本来性を乱す、想念意識がなくなりさえすれば、この世
界は忽ち神仏の世界となってくるのですが、本心を蔽いかくす業想念意識が非常に強くて、この世
を乱しに乱してしまっているわけです。
そこで仏教では、想念を空にするための坐禅観法を主にした行法がすxめられ、沙門たちは必死
99真の念仏と世界平和の祈り
くう
になってその道を突き進んでいったのであります。ところが、空になるということはなかなかむず
しヤもんくう
かしいことで、幾多沙門の中で、空になり得た人は、僅かな人々でしかなかったのです。法然など
は、空になり得た人の一人であったのですが、みずからはそれでょいけれども、大衆の救いにはと
うていこの方法ではだめだと悟り、易行道の他力本願の念仏行を開いたのであります。これで親鸞
や一遍ほどの聖者が今日までずっと続いて現われていれば、念仏行の成果はもっともっと拡大さ
れ、日本人の精神生活ははるかに高度なものになっていたでありましょうが、そういうわけにはゆ
かずに、今日では、宗教宗派の数は増大しながら、真の救いの道は細く狭くしか開いていないので
あります。
100
今日の救いの道
今日における救いの道は、やはり易行道でなければならぬと思います。なぜならば、今日のよう
に食生活のための働きに多くの時間を費やさなければならない社会にあって、しかも友人知人と
の交際などにも時間をかけなければならない時代において、道のための修業時間を大幅にとるとい
うことは、並み大抵のことではありません。山に籠ったり、寺にこもったりしての坐禅観法などは
たまたまはやれるでありましょうが、ひきつづけてたゆみなく行うということは容易なことではあ
りません。またヨガの行法などは非常にょいのでありますが、これも奥義に達するには大変な時間
と努力をかけても、上根の人でない限り、とても達し得ないのでありまして、多くの人を救うわけ
にはまいりません。
なんにしても、真の悟りに達し、永遠の生命を把握しようというのですから、どんな道をゆくに
しても、その道に徹しなければ、どうにもなりません。自力の聖道門に徹するか、他力易行道に徹
するか、人それぞれみずからが各自の道を選んでゆくのですが、私も自分で難行苦行の末、今日、
人々に道を説かせていただくようになったのですが、後からくる人に再び私のたどってきたような
道は踏ませたくない、もっと易しく悟りに達せられる道でなくては、と念願して生まれたのが、消
えてゆく姿で世界平和の祈り、という道でありまして、これは全く、法然親鸞の念仏行と一つのも
のであったのです。ただ、法然親鸞の場合、この世の救われというより、あの世における救われ、
もと
いわゆる西方極楽浄土において、阿弥陀様のみ下に救いとられる、ということに信徒たちは重点を
おいていたようで、弥陀浄土行き念願の自殺者が多く出たといわれています。
あの頃の時代は、今日と違いまして、百姓や民衆は、武家の勢力争いの戦乱つづきの世の下で、
101真の念仏と世界平和の祈り
不自由きわまりない、しいたげられた生活をしていた者が大半で、どうあがいても、この世におけ
あんのん
る良い生活はできようもなかったのですから、後世の安穏を願うことが主になってもしかたがなか
ったのです。
ところが今日の社会は、自分の働き方によっては、どうにでも社会的地位の向上も計れるし、物
質も豊かになり得る時代なのですから、この世における安穏を主にして、宗教の道に入る人も多い
のです。いわゆる現世利益型の人々です。法然親鸞時代のように、現世利益など願っても、とても
叶いそうもない定められた狭い範囲の生活とは違う現今なのですから、現世の利益を願うのも当然
の人心といえますが、宗教の道は、やはり神仏のみ心と一つになるための、本心開発の道です。そ
ういう道を一本中心に立てて、そこから現世の利益が自然と与えられる、という生き方にしてゆか
ないと、唯物主義となんら変ることのない生き方になってしまいます。
この世をもあの世をも通して、平安な生活のできる世界をつくりあげることが、今日の宗教とい
うことになります。久遠の実在、永遠の生命の中に生きている生命そのものである人間には、あの
世もこの世も、生も死も本来はあるわけがないのですが、肉体という物質波動体を通してみると、
あの世もこの世も、生も死もあるようにみえるのです。そして、私どもが肉体人間として生きてい
102
る限りは、物質波動の世界の中で、永遠の生命、つまり神のみ心を現わしてゆかなければならない
ので、そこで、肉体生活をしているこの世の中に、いかにしたら、平安な、安心立命でき得る世界
をつくりあげることができるか、神仏のみ心の奥義を、神霊の世界のような大調和した姿のまま、
この世に現わすことができるか、ということを、現在の宗教者である私どもは考えておるのであり
ます。
新しい唱え言
法然、親鸞、一遍のように真の念仏に徹した聖者には、なんにもいうことはないのですが、真の
念仏にいたらない人々は、念仏というものが、ただ自己の後世のためのものとだけ思っていたり、
あの世の人のためのものと思っていたりするのですが、それでは今日の宗教としては不充分なので
す。本来の念仏は、法然親鸞や一遍のように、この世をもあの世をも動かし得るほどのものなので
すが、それほどの力を現在の念仏はもっておりません。長い年限の間に、念仏を蔽う肉体人間側の
こう
業というものが、念仏の本来性をゆがめて今日にいたらしめているからなのです。
私など法然さんを想うと、懐かしく慕わしく、涙ぐましくなりますし、念仏を唱えれば心が洗わ
103真の念仏と世界平和の祈り
れるようになりますが、法然さんが聖道門と易行道とを、はっきり分けて、易行道念仏}本に道を
定めた気持を体して、私も念仏の心はそのままで、一般大衆にもわかりやすく、他宗との対立の少
しもない、新しい唱え言をはじめたわけです。それが世界平和の祈りです。
世界人類が平和でありますように、という誰でもが当然のように思える、こうした平几な、しか
し現世界にとって、最も大事な言葉、念仏と同じように、朝に夕に、三度の食事時に、仕事の合間
に、時間のゆるす限り唱えつづけて、潜在意識にこの祈り言がいっぱいになるように、他の不調和
の想いが潜在意識にたまっている余地のないまでに、祈りつづける、ということをはじめたのであ
ります。
一人の祈りが十人に広がり、百人に千人に万人に、今ではかなりの人々が、たゆみなくこの世界
平和の祈りを祈りつづけております。この世の人もあの世の人も、他の宇宙の星々の人も、すべて
が平和でありますように、大調和して生きてゆかれますように、というのが、この祈り言の心で
す。この心は、人類の悲願でもあり、神そのものの人類に願う心でもあります。
神のみ心は、この祈り言そのものの中にはっきり現われているのであります。阿弥陀仏に帰命す
る、阿弥陀仏と一つになる、という意味の念仏と、この世界平和の祈りとは、その心においては全
104
く噸つなのであります。しかし、この祈り言は、言葉としての意味が一読して、誰の心にでもすう
ーつと入ってゆくあたりまえの言葉なのです。そこに多くの人々の共感を呼ぶのでありますし、世
なにぴと
界の何人でも、この言葉の意味を心で思わない人は、よほど心のねじれた人のほかはないのです。
現代の世界中の最大の関心事は、世界を平和にするということでありますし、戦争をするのでさ
えも、平和のための戦争である、というのであります。平和のための戦争ということは、過去の歴
史の繰り返しにすぎませんので、過去の歴史になかった、完全平和を達成するためには、いかなる
ことにおいても戦争はしない、という世界各国の心構えが必要なのです。けれどもなかなかどうし
て、自国の平和のための戦争という考えを各国が捨てようとはしていないのです。
一遍のように、各国の人々がみ仏への全託という心になりさえすれば、世界の平和はすぐに達成
されるのですが、これは現在では夢物語です。ですから、各国の人々がこの境地になる入口にいた
る方法をまず第一に考えなければいけないわけです。世界平和の祈りというのは、その入口の教え
であり、どこまでも深く奥へ奥へと進んでゆける道なのです。
光が結ぶ天と地
105真の念仏と世界平和の祈り
人類すべての希求している世界の平和、その世界平和への念願を、つねにたゆみなく心に願い、061
言葉に出して表現する、これは大事なことなのです。コトバは即ち神なりき、でありまして、言葉
は実現する可能性をもっているのです。この世界平和の念願を祈りにまで高めあげて、瞬々刻々唱
えつづけてゆく時、その人の周囲は平和のひびきに充ちてきます。
なぜかと申しますと、世界平和とは大調和のことであり、円満具足の姿であります。それはその
まま神のみ心であり、姿であります。そうしたひびきの中に、人間側がたゆみなく祈り言葉ととも
に、その全想念を投入してゆくのですから、人間の本心を邪魔している業想念は、次第に潜在意識
から顕在意識に現われ出で、神のみ心の中で消滅してゆきます。そして、潜在意識にはいつの間に
か、神のみ心の光明波動が充満してまいります。
人間の身心は録音器のようなものですから、過去から今日までに吹きこんでいた、本心を汚す想
念行為が時間をへて、自己の運命を損う言葉や行為となって、自分に現われてきているのです。そ
こでたゆみなく、世界平和の祈りのような光明波動を吹きこむことによって、前に吹きこんであっ
た業想念波動はいつの間にか消されて、本心そのままの光明波動に変ってくるのであります。これ
は科学的な論理なのでありますが、宗教的にいえば、世界平和の祈りは、念仏と同じように、神仏
のみ心の中に入りきってしまう祈りなのです。
この世界平和の祈りは、別にむずかしいことを考えることはないので、ただほんとうに世界が平
和になればよいなあ、という想いを少しつつ強めて、祈り言として瞬々刻々たゆみなく祈りつづけ
てゆく、ということでよいのです。どう考えようとしないでも、祈り言葉そのものが、はっきり意
味のわかった言葉なので、そのまま心が納得して祈れるわけなのです。
ここが、念仏を一歩前進させているところで、個人の幸せと人類の幸せとを同時に現わし得る祈
り言になっているのも特長です。実際に今日の世界では、世界が真実に平和にならなければ、個人
だけの幸福などというものは、それは瞬間的なもので、確たるものにはなり得ません。といって、
この世の幸せは望まず、あの世における平安だけを望むという、鎌倉時代の人のような心には、今
の人はなれません。現代の人は、この肉体生活の中の幸福を求めているのです。
ところが、世界中が今のように、戦争か天変地変かでいつ崩れるかも知れない状態では、個人の
安心した生活は成り立ちません。そこで、どうしても個人と人類とが同時に救われる道が必要にな
ってくるのです。それには世界の多くの人が、一つ想いに統一されなくてはなりません。武力で統
一することは現在ではとうてい無理です。米ソや中国などは、まだその武力統一の魅力にひかれて
107真の念仏と世界平和の祈り
いるようですが、武力による世界統一などは良識ある今日ではとてもできないと思います。敢えて
それを強行すれば第三次大戦となって、多くの予言者の言のごとく、人類の大半が死滅してしまう
ことになり、地球は滅亡にむかっていってしまいます。良識者たちは、その日の来らぬように、い
ろいろと考えぬいているのです。
108
世界平和で宗教者の心の統一を
今日は昔の日本のように、日本一国のことだけを考えれば、こと足りる時代ではありません。個
人も国家もそのまま人類という全体の運命と関連して動いているのであります。ですから宗教の面
でも、仏教だ、キリスト教だ、回教だ、ヒンズー教だ、というように各自の宗教が別個の道を進ん
でいったのでは、いつまでたっても、世界平和をつくり出すことはできません。各宗教宗派が、世
界平和ということにおいては、一つに統一して、各国の為政者たちの誤りを正す強力なる力をもた
なければだめなのです。
各宗教とも、いずれも長い間の儀式の相違や教義の相違などがありましょうけれど、神仏を敬い
尊ぶ心は同じであると思います。世界の平和を願う心も等しいと思います。そういう根本的なこと
では、どの宗教も心を一つにすることができると思うのです。そこに経済的な損得の問題や、権威
に関する問題がでてくると、これまた面倒になってきますので、純粋に素直に、世界を平和にしよ
うというところで、各宗教宗派が手を結ぶことはでぎるのです。
先般の京都での宗教者世界平和会議でも申しましたことなのですが、宗教者が神仏と一つになる
ためには、どこの宗教宗派でも祈りがあるわけです。そして、いずれの宗教も、その祈り言葉は美
しく立派で、真理の言葉でありました。しかし一たび論議に入りますと、神も祈りもどこかにかく
れてしまって、現象的な経済援助や反戦の問題に終ってしまったのです。宗教者にとって何より一
番大切なことは、真剣な祈りでありまして、すべてがその祈りを根本にして運ばれていかなければ
カルマ
なりません。祈りによって、人類の業を浄めておかなくては、いかに現象の経済問題や、反戦を叫
んだところで、ほんのその場限りのことで、また同じような状態がこの世に起ってまいります。
あくまで宗教者の運動は祈りを根本にしての現象問題への働きかけでなければなりません。各宗
教宗派の祈り言に加えて、私が宗教老会議で提案した、すべてが一つ心になり得る、簡単明瞭な祈
り言葉「世界人類が平和でありますように」を宗教者の合言葉的祈り言として、あらゆる機会に、
あらゆる瞬間に祈ることによって、いつの間にか、世界の宗教老の心が一つに結ばれてゆき、世界
109真の念仏と世界平和の祈り
の政治の誤ちを正す、大きな力となってゆくことを信じているのです。
つねに神仏への感謝をこめた、世界平和の祈り、この大光明波動が、
ゆくように、私たちは祈りつづけ、働きつづけているのであります。
いつか全世界にひろがって
110
現代の菩薩行
菩薩とは何か
ぼさつポデイサツトぽんご
菩薩というのは、どういう意味かと申しますと、菩提薩垣という梵語の略語であります。菩提の
さとり
菩と薩唾の薩を合わせて菩薩というわけです。菩提とは仏の智慧、正覚のことをいうのであり、覚
うじよう
の道ということです。薩唾とは、有情または衆ということで、丈夫とか士とも訳されていまして、
菩提薩唾、略して菩薩で、仏の智慧を修めた丈夫ということであります。
さとりとんごぜんじぜんご
この菩薩の中には、一躍覚を開いた頓悟というのがあり、また漸次悟道に入っていった漸悟菩薩
さとり
というのがあります。しかし、一躍覚を開いたふうにみえる菩薩でも、実は表面に現われていない
過去世からの修業がある機に臨んでばっと迷いの雲が破れ、光明燦然たる実相心(身) を現わすの111現
代
の
菩
薩
行
でありまして、どちらも過去世からのたゆみない修業の賜であります。五十一位三祇百劫の修業を
経て仏果を証す、と仏典には書かれてあります。この世の数字では現わせないほどの長い年限の後
に菩薩になっているわけです。
あらかん
釈尊在世時代には、菩薩とは、出家して大悟した人を阿羅漢というのに対して、在家のまX修道
したい
して四諦のさとり、つまり、大悟した人をこう呼んでいたようであります。出家した人、声聞比丘
は、異性と交わらぬ不婬清浄の戒律を絶対に守らなければいけないのですが、菩薩は妻子もあり、
ふせ
家族を養う職業ももっているわけです。しかし、在俗のまxであっても、菩提心を起して、布施、
じかいにんにく
持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六度行を実修している人をいうのであります。
こう書いただけではびんとこないと思いますが、比丘出家の者はそれのみ専門に宗教の道を修め
ろくはらみつた
るのでありますが、菩薩はふつう社会人同様の職業につきながら、六波羅蜜多行、先ほど申し上げ
ております、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧を修めるわけです。最初の布施ということだけ
でも、実は大変なことでありまして、現在通常いわれていますようなちょっとした施しなどとは違
いまして、自分とか自分の物とかいう執着心をすっかり取りはらった清浄な心で教えを施し、物を
施すわけで、これだけ寄附したからご利益かあるだろうなどという、そういう自己の小我に附着し
112
た想いがあるような布施ではないのです。持戒というのでも、五つありまして、
楡盗戒、㈲不邪婬戒、働不妄語戒、㈲不飲酒戒というのであります。
ω 不殺生戒、② 不
菩薩になるための条件
このω の不殺生戒一つを取り上げてみましても、すべての生物を殺さない、というのですから、
とてもむずかしいことです。すべての生物の中には小さな虫もいるわけですから、どういうふうに
して不殺生戒を守るかということが問題になります。このことは後でまた述べることにいたしまし
ょう。この他働㈹叫㈲ともにしてはいけないと堅く戒しめられているのですし、菩薩は絶対にこれ
あらかん
を守らなければいけないのです。もっとも菩薩は出家比丘の阿羅漢と違いまして、妻子を持ち、社
会的職業についているのですから、ふつうでいえば、はじめから不淫ではないということになりま
ゆいまきつ
すので、淫したふうでいて淫しない。淫して淫さず、飲んで飲まず、という維摩詰のような心境に
なっていることが、自然とできないとだめなわけです。
これは出家している専門の宗教者よりよほど五戒を保つことがむずかしい立場に置かれているの
でありまして、菩薩と呼ばれる心境になるには、出家より以上にみ仏(神) のみ心と一体になって
113現代の菩薩行
いないといけないのです。もっとも釈尊滅後の仏教では、出家も在家も別なく、菩薩と呼ばれてい
たようですが、私はここでは在家において菩薩になり得る方法、菩薩道を行じてゆく方法を説いて
ゆきたいと思います。しかし、額面通りに五戒を保ち、菩薩道を行じつづけるということは、常人
にはとてもでき得ないことで、こういう形でやらなければならないとなりますと、人類のほんの僅
かしか菩薩にはなり得ないことになります。
現代においては、食生活を維持するために多くの時間を費すことになるので、自身の心の修練を
釈尊時代のような方法でなしつづけることが、非常に困難になっています。菩薩になるための基本
である菩提心についても、釈尊時代のような方法で菩提心をつきつめてゆく、ということになると
どうしても家庭生活を顧みぬ、ということになって家庭を破壊してしまいます。宗教の道を極めよ
うとして、家庭を破り、しかも宗教の奥義に達せず宙に迷っているような人がかなり現代にもある
のです。それではなんのための宗教の道かわからなくなってしまいます。釈尊は大悟徹底するため
に未来の王位を捨て妻を捨てて出家したわけで、仏陀となられた後でも、自己の親族縁者を弟子に
するのにすべての俗縁を切らせ、出家させたのですから、すべての俗縁を断ち切らなければ大悟で
きぬと思われていたのでしょう。そこで、女性の弟子は一切とらぬことにしていました。男女を近
114
あかん
づけることによって、本心開発の道が妨げられると釈尊が思われたからなのです。もし阿難の嘆願
がなければ、比丘尼(女性の出家) は一人もなかったということになり、女性は一切釈尊とのつな
がりができなかったことになるのです。
こうして釈尊は自分の弟子たちには家庭をつくらせませんでしたが、在家の人だけは、在家の人
たちとして教え導いておられたのです。そして在家の人たちの中から、宗教専一に励んで、阿羅漢
果を得た弟子たちと同じような境地になり得た菩薩も生まれたわけなのですが、この菩薩たちは、
釈尊直弟子たちよりも天性の素質が上でなければ、家庭や職業を持って大悟徹底できるわけがなか
ったのですから、大変すばらしい霊性をもった人々だったのでしょう。そういう素質のすばらしい
人たちが今日でも存在しないわけではないのでしょうが、今日のように唯物文化が進み複雑化した
社会においては、その頃の菩薩より以上の素質がないと、とても大悟徹底できないと思われます。
釈尊時代の社会とは問題にならぬほど、業想念の波動の烈しい、複雑な社会構成になっておるのが
現代の姿だからです。
菩提心について115現
代
の
菩
薩
行
そこで、どうしても現代は現代にふさわしい容易にできる菩薩道がなければなりません。私はそ116
ういう意味で、現代における容易にできる菩薩業というものを説いてゆきたいと思うのです。そこ
でまず最初に先ほども申しました、菩提心についてちょっと説明しておきたいと思います。菩提心
は仏説によりますと、三つに分けられておりまして、一つは蹴衆生実相心といい、二つ目は、磁報
かん
恩慈悲心、三つは観究意解脱心というので、読んで字のごとしというところなのですが、少しくこ
の意味を説いてゆくことにいたしましょう。
観衆生実相心というのは、一切衆生、つまり、すべての人々の中に本心そのまま、神仏のみ心
み
を観よ、ということなのであります。私がつねに申しておりますように、人間の本心は神のみ心そ
すがた
のものである。人間の実の相は神と一つのものである。今ここに悪と現われ、醜と現われ、不幸災
難と現われ、不調和不完全の姿として現われているのは、人間の想念意識が、神と一つである人間
の本心から外れてゆき、本来の光明が届かなくなり、闇によって汚れてきた、その汚れの消えてゆ
く姿として現われているものであって、本来の人間の心ではない、ということなのです。この大宇
宙は神のみ心によってたゆみなき創造活動が行われているのであります。そして創造の完成されて
いる部分は光明燦然としているのであり、まだ創造活動のとどいていない部分は闇となっているの
であります。なぜかと申しますと、神は光明そのものであり、神のみ心のとどいているところは光
明そのものであり、まだとどいていないところは光のないところ、闇となっているのであります。
よく人々は、神様がいらっしゃるなら、なぜこんな不幸な世の中や不幸な人間をつくった、といっ
ていますが、神様が不幸な世の中を創っておられるわけではないので、まだ神の光明のとどいてい
ないところが、不幸とか不完全とか不調和とかいう姿になって現われているのであります。
神様の創造活動がもう終っているのではなく、たゆみなき創造活動がつづけられているというこ
とを、皆さんはよく考えてごらんにならなければいけません。創造活動の過程にあるところが完全
であるわけがありません。この地球世界は、まだ神の創造活動の過程にあるわけで、無限の進化を
つづけてゆく途中なのですから、不完全なのは当然なのです。その創造活動の一役を荷っているの
が、この肉体をもった人類なのでありまして、肉体の内というか奥というかにある完全性をもった、
ずがた
神と一つになっている人間の実の相が、肉体のほうに働きかけて、地球世界完成のために働きつづ
けているのであります。
ですから、いかなる悪人にしても凡夫にしても、その肉体人間の奥には完全円満な霊性である実
117現代の菩薩行
の人間が厳然として働いているのでありまして、悪人のようにみえ、凡夫のようにみえる肉の人間118
は、光明心そのものである人間が、未開発の闇の中を通ってゆく時に背負った闇に附着した汚れ、
科学的にいえば粗雑な波動が微妙な波動の光明体との交流によって調和してゆく一瞬の摩擦の状
態、つまり私のいう不調和な姿の消えてゆく時に起っている現象が、悪と見え、不幸と見え、争い
と見える状態になっているので、この現象は神霊の世界からみれば一瞬であり、肉の世界からみれ
ばある年限がたって、調和完成の姿を現わしてゆくものなのであります。
こういう真理を知るための心を菩提心というのであり、観衆生実相心というのは、そのうちの一
すがたみ
つである衆生すべての中に、光明燦然たる神の子人間、仏子である人間の実の相を観よ、というこ
となのであります。私はこの肉の身の人間と光明燦然たる実相人間との間に、守護の神霊という神
の救済の力を置いて、守護の神霊の加護によって、この地球世界に人間本来の姿、完全円満な世界
が開かれてゆくのである、といっているのであります。
しかし、あくまでこの地球世界は肉体人間が主になって、この世界の完成を目指してゆくのです
から、自己の不幸災難にいつまでも泣きごとをいっていないで、つねに積極的に守護の神霊の加護
を願い、自己の完全円満なる実相心を引き出してゆくことによって、人類の進化がなされてゆくこ
とを信じ行なわなければいけません。人間の一人一人にその責任が課せられてあるので、地球世界
の幸不幸は一人一人の人間の肩にかかっているともいえるのです。
二つ目の観報恩慈悲心というのは、人間がこの世において満足に生きてゆかれるのは、大宇宙
(神) の慈悲の心によって生かされている故に生きてゆかれるのだ、空気にしても、水にしても、
太陽にしても、この大地にしても、何一つとして肉体人間のつくったものはない。すべて肉体人間
をこの世界に生かそうとして、大いなる力、神仏の力がそうして下さっているのである。人間界を
見渡しても、自分をこの地に生みなして下さった父母の恩、師や先輩や友人知己の恩と、森羅万象、
衆生一切の数えきれぬほどの恩恵によって生かされていることを、深く観じなければならぬ。この
ようにすべてが神仏の慈悲心によって運行されているのだから、この神仏の慈悲心に報いて、自己
も慈悲心そのものにならなければいけない、というのであります。
三つ目の観究意解脱心というのは、人間はすべてが、やがては、この物質界、肉体界を解脱しな
ければ、真実にこの現象世界に、神仏の姿が現われきるわけにはゆかない。人類がこの物質界、肉
119現代の菩薩行
体界に把われていて、この物質波動の圏内での生命の循環のみを主としていたのでは、とてもこれ
以上の人類の進化はあり得ないし、かえって、地球世界を滅亡させてしまう、ということになる。
だから人類すべてに先がけて、自分が、全身全霊を挙げ、あらゆる研究練磨をして、物質界、肉体
界から解脱して、あらゆる束縛から解き放たれた自由身にならなけばいけない、というのでありま
して、まずそういう志をたて、やがて、解脱しきった自由自在心になってゆき、大宇宙の調和のた
め、衆生一切の救済のための働きをする、ということが、この三つの菩提心ということになるので
す。
120
菩薩道の主要点と戒律
菩薩とはまず菩提心を起し、五戒を保ち、六度行を実修し、十善戒である菩薩戒を守らなければ
なりません。十善戒とは身体が守らなければならない、不殺生戒、不倫盗戒、不邪婬。口が守らな
こころ
けばならない、不妄語戒、不悪口戒、不両舌戒、不綺語戒。意が守らねばならない不負戒、不瞑志
戒、不邪見戒という十の戒律であります。こう戒律を並べられますと、これはとてもわれわれ社会
生活をしているものではどうにもならぬ、とはじめから諦めてしまう人と、行ってみようと行いは
じめても、長くは続かぬ人々がほとんどであろうと思います。私も実は昔この戒律を守ってみょう
と思って行ってみたのですが、どうしてもできなかったのです。しかし、三十歳位の時から、自意
識をすべて停止する想念停止の修業を、守護神側から無理にやらされて、自意識ではとうてい行え
なかった超人的な行為が、修業が進むにつれて自然とできるようになり、今日にいたっているので
ありますが、この仏教の教えの通りの菩薩道というものは、この地球世界のしかも文明文化の進ん
だ国においての在り方としては、額面通りにはとても行いつづけられるものではないと私は思った
のです。
私はそこで、この菩薩道を、仏教のように、あまり正面に戒律をかかげて、その戒律を守ること
が菩薩道の主要点であるような、そういう在り方をしないで、菩薩道という道が主要目的を何にも
っているか、ということをまずはっきり把握することにしたのです。そういたしますと、菩薩道と
は神仏のみ心と一体化することであり、神仏のみ心をこの地球界に現わすための道である、という
ことが中心目的であるとはっきりしてまいりました。
そういたしますと、すべての戒律も、修業もこの中心目的達成のためのものであって、その戒律
てんとう
に把われるあまり、神仏の本来性である、自由自在心からかえって遠ざかっていっては、本末顛倒
121現代の菩薩行
したことになります。だいたい人間がこの現象世界に肉体をもって現われておりますのは、神霊の
体である本質を、地球という物質界に働かせるための器として場として、物質世界に合わせて、こ
うした肉体に現われたのでありまして、霊質の智慧能力を、肉体の形の上に現わして、地球世界に
神の光明を顕現し、神の理念を実現してゆくためのものなのであります。
ですから神霊人間と肉体人間との一体化によって地球界が完成されてゆくわけで、どちらに比重
が傾いても、地球界は完成されないことになります。そこで菩薩的な人々が天の理と地の現象とを
上手に一致統合させて、この地球界完成の先達とならなければならないようになっているのです。
122
開かれた菩薩への道
そこで、あまり誰にもでき得ないような方法では菩薩業のできる人はなくなってしまいます。私
のいいたいのはここのところで、現在地球界に住んでいる肉体をもった人間の、霊性の程度という
ものを考慮に入れて、社会生活を崩さずに、自然に菩薩道に踏み入ってゆける方法を、神様は私に
考、兄させたのであります。それが私がつねに申しております、消えてゆく姿で世界平和の祈りとい
う、個人人類同時成道の在り方なのです。
自分自身の修業と、人類救済の方法とがまるで別であったり、自分自身の修業が完成してからは
じめて、人類社会のために働く、というようなことでは、とてもこの地球界の完成はできません。
私のいうのは、個人個人の修業がそのまま人類社会の進化に役立っている、という方法なのです。
一度に菩薩になり、菩薩業をする、というのではなく、自分個人のための修業が即ち菩薩業とな
り、菩薩としての道に踏み入っている、ということなのです。
人間は本来神の子であり、仏子でありまして、やがてはその本来性が、この地球界に現われるこ
とは必定なのですが、この世界に苦悩少く、災害少く、悲情の状態をでき得る限り僅少にとどめて、
地球界の進化をはかるためには、肉体側から、つねに神霊側に想いをむけ、神霊側の光明、智慧能
力をより多く受けて生きてゆかなければなりません。
ですから肉体人間側の一番最初から最後にいたるまでやり通してゆかなければならないことは、
休みなき神霊との交流ということなのです。それは一瞬一瞬でも、神様ありがとうございます、と
いう想いでいることだけでもよいのです。菩提心の説明でもいたしておきましたように、神のみ心
の現れ、大慈大悲の現れである、森羅万象、すべてのものごとに対する感謝行。これがたゆみなく
なされておりますれば、これは五戒十戒を守り通したと同じような成果を得ることになるのであり
123現代の菩薩行
まして、その行為がそのまま菩薩道ということにもなってくるのです。
なぜかと申しますと、すべての物事事柄に感謝いたしますことは、神のなさっている宇宙運行に
対しての感謝になるのでありまして、神すべてを善しと見給う、と聖書にありますように、神様の
完全円満性を、そのまま認めて感謝するわけですから、そこに神と人間との一体化がなんのわだか
まりも、なんの方法もなく、実現されてゆくわけなのです。すべてに感謝することは、その人自身
の心が生きるとともに、神様の大光明もさわりなく輝やき、感謝を受けた人々や、すべての物事事
柄がそこに生きいきと輝き出すのです。すべてが光明化するのであり、すべてが調和するのであり
ます。
じようふぎよう
自分に石を投げつけてくる人にでも、あなたは菩薩様です、とすべてを拝み通した、常不軽菩薩
のような人がたくさんできることによって、菩薩道は広がってゆくのであります。
つねに神のほうに想いを向けておくということを祈りというのでありますが、すべての感謝行は
の
やはりそのまま祈り、ということになります。祈りとは命を宣り出す、命を生きいきさせるという
ことでありまして、神に向って、あるいは神の現れである、すべての人々や森羅万象に対して感謝
をするということは、そのまま神我一体の姿であり、大調和の姿であって、光明燦然とした、光の
124
進軍でもあるのです。
私はそれにつけ加・兄て、感謝ということも、自分の感惰や生活に都合の悪い人物や物事事柄に対
しては、容易にできるものではないだろうから、そこにこだわる想いや、憎しみや怒りや恨み心が
あったら、その時すぐにできなくてもよいから、時を経て心が落ちついたら、必ず、今の自分の想
いは間違いであった、あれは、過去世からの因縁の消えてゆく姿として起った出来事であり、感情
の流れであったのだから、すべては現われて消えてしまったのだ、と今度は改めて神様(守護の神
霊) への感謝をするのであります。私はそれをまた一歩進めて、消えてゆく姿と思った想いを、人
類すべての平和を願う想いに昇華させてしまって、世界人類が平和でありますように、という祈り
ごと
言にしてしまったのであります。世界人類の平和を祈る想いは、そのまま菩薩の祈り言になるので
あります。
その次に祖国の平和を祈願して、日本が平和でありますように、と祈るのであります。そして、
自分たちの運命進展のために、私たちの天命が完うされますように、と祈るのです。次に神様への
感謝を改めてするのです。守護霊様、守護神様ありがとうございます、というのがそれなのであり
ます。
125現代の菩薩行
すべての嫌な想いや事柄を、消えてゆく姿と一度想いの中でまとめて、この世界平和の祈りの中
に昇華させてゆく時に、凡夫の人間が、そのまま菩薩に変ってゆくのです。これを日常茶飯事、寝
る前にも、起きた直後にも、三食の前にも、歩いていても、仕事の合間にも、つねに唱えている
時、その人はいつの間にか、自分でも気づかぬうちに、小さな凡夫の自分から、つねに世界人類全
体に光明を投げかけている、大きな人物になりかわっているのであります。
126
現代における菩薩業はこれだ!
この世はすべて波動の世であり、固い物質として現われているものでも、元は原子であり電子で
あり、そして波動であるのと同じように、人間の想いも波動でありまして、自己の出した想いの波
は大宇宙を経巡っているのであり、自己の出した波は必ず自己に戻ってくるのであります。この原
理を知って、世界平和の祈りを改めて思ってみる時、この世界平和の祈りというものが、いかに偉
大な祈りであるかがわかってくるのです。
世界平和の祈りこそ、現代の菩薩道なのであります。世界人類という広い面に向って、自己の想
念波動を広げてゆくのです。しかもその想念は、世界人類が平和でありますように、という、世界
人類の平和を願っての祈りなのです。小さな個人我の願い言ではないのです。神のみ心と全く等し
い願いを、私たち肉体人間側から、日常茶飯事、瞬時休みなく光明波動として発するのですから、
これは全く神と人間との一本化ということになり、神のみ心がこの地球界に、はっきり現われるた
めの一番通り易い道となるのであります。
皆さんは、この理をよく噛みしめられて、現代における菩薩業とはこの世界平和の祈りをするこ
となんだ、と心に堅く定められ、多くの人々に伝えていただきたいのであります。この祈りをしつ
づけていますと、実際小さな暗い心であった人が、見事に広い大きな心の明るい人物に変貌してゆ
くのです。それはもっとも当然なことなのです。なぜかと申せば、つねに祈りによって神との一体
化がなされているのであり、この言葉本来が持つ高いひびきに唱えている人自身が、いつの間にか
同化しているからなのであります。
くま
この世界平和の祈りが、日本中隈なくひびきわたり、そしてアジア一帯に、欧米】帯にひびきわ
たった時、はじめて、人類の業生が、はっきり消え去ってゆき、戦争も天変地変もいつの間にか現
実化せずに消え去ってゆくことでありましょう。その日のくることを待ち望むや切です。そのため
にも、私たち一人一人の世界平和を実現させるという熱意が大事なことになってくるのであります。
127現代の菩薩行
128
現代人の求道生活
ー自己完成の統一行1
一番大切なこと
人間の世界において最も大事なことは、自分自身の統一ということであり、世界人類そのものの
統一ということであります。自己が分裂し、世界が分裂していて統一が行われていない状態という
ものは、自己にあっては常に自己の心内に戦いがつづけられ、悩み、苦しみ、憂い、悲しみが繰り
返されて起っている状態であり、世界人類としては、国家間民族間が互いに相疑い、責め合い、陥
れ合って、いつでも戦争の状態が絶えない状態なのであります。
現代の佃人個人が自己の心を凝視してみて、果して自己が統一している状態であると思えるでし
ょうか。自己の生活状態に満足し、自己の心の状態にすっかり満足しきっている人がこの世の中に
どれほどあることでしょうか。真実統一しきっている人は、こうした満足感よりも更に深い高い心
境にあるのですが、単なる生活の満足、精神状態の満足でも、これが長くつづいていればたいした
ものです。しかし単なる満足感と真実の統一感とは全く異なるのであります。
ぽう
冒頭から統一統一と申してまいりましたが、それでは統一とはいったいどういうことなのであり
ましょうか。その説明からしてゆくことにいたしましょう。
読書に精神が集中している、ゲームに熱中している、商売に真剣になっている、対話に夢中にな
っている、という状態を統一という人があるかと思いますが、これは単なる精神集中でありまして、
宗教的にいう統一とは違うのです。宗教的な統一というのはどういう状態かと申しますと、自己の
本心、本体と肉体人間としての想念が一つになる、本心本体に想念行為が合体して、神の光明波動
そのものになることなのであります。人類全体としてもその意味は同じでありまして、神のみ心に
統一するということなのです。
存在価値を考える
個人も人類もすべて神のみ心の中から生まれていますので、神の大生命の分け命としてのみその
129現代人の求道生活
存在価値があるのでして、神を離れた分裂した状態の人類というものも個人というものも、その存
在価値がないのであります。
人類も個人も、縦に神の分け命として存在し、個人個人は神の命における兄弟姉妹として存在し
ているのでありまして、個人個人として分裂したままでいたり、各国家各民族が、自国家自民族の
利害関係のみの政治政策を行いつづけて、神という統一の中心を忘れてしまっているようですと、
この地球人類は分裂状態のままで存在価値がなくなり、消滅し去ってしまうのです。なぜならば、
そういう状態は神の統一状態の外にあって、大宇宙の調和の本質に合致しなくなるから、神の大調
みずか
和波動を外れて、自らを減ぽしてしまうのであります。
地球人類の存在価値は、神のみ心のままに、大宇宙の運行に地球世界を調和させてゆくことにあ
るのでありまして、地球人類単独の運命などというものはないのであります。従って個人の場合で
も、地球人類を大調和させるための個人が存在を許されているので、その反対の道を行くものは、
いずれは滅び去るのです。
そのために個人も人類も、みずからの本質である神のみ心に統一することが大事だと私はいうの
であります。現在の地球世界の各国の状態をみていて、いつまでも地球は安泰だ、と思える人があ
130
りましょうか。恐らくはいつ大戦争が起るか、いつ天変地変が来るか、という不安定の想いや恐怖
の想いが、何人の心のうちにもあるでありましょう。
なぜそのような不安定の想い、恐怖の想いが、人々の心に起るかといいますと、世界が統一され
ていないで、幾つにも分裂しているからです。個人の心にしても、人類全体にしても分裂していて
統一がないということは、個人の心にも人類の心にも安定したものがない、不安心、不安定の状態
であるということになるのであります。
そこで私ども個人は、国家や人類の分裂云々をいうより以前に、まず一番実行しやすい、自己の
心の統一をしてゆくことが大事になってくるのであります。仏教では、何よりもまず自己完成を主
にしていまして、自己内面の仏(本心)を顕現すること、いいかえれば、神との一体化を行ずる方
ゆいまきつえん
法を主にしていたのです。その方法が坐禅観法といわれる方法なのであります。維摩詰はこれを宴
ざ
坐といっております。
維摩詰に学ぶ真実の統一
ここで少し維摩詰のことを例にとって、自己完成の統一ということや、この世における悟った人
131現代人の求道生活
の生き方というものを述べてゆきたいと思います。
維摩詰という人が実際に存在したかしないかは別といたしまして、維摩経というお経はたいした
ものでありまして、大乗仏教として日本に伝わってきた経典の最古のものの一つです。よほど大悟
徹底した人が書いたものであるのは確かです。聖徳太子もこの維摩経を深く研究いたしまして、自
己の生き方に非常に得るところがあられたようです。
悟った人というと、酒色を断ち、遊芸や遊び事一切から離れ、世俗を超絶した人をいうように思
われがちですが、この維摩詰は釈尊と同時代の人で、釈尊が出家した大聖であるのと比較して、在
こじ
野の居士としての大聖である、といわれています。維摩詰の生活というのは、ふつうの社会人と少
しも変らぬ自由な生活でありまして、清浄な場所でも汚れた場所にでも自由闊達に出入していた清
濁併せ呑む人物であったようです。この維摩詰の生き方は現代人にとって実に参考になるものがあ
ります。真実の統一というものがどういうものであり、この世における神のみ心に叶った生き方が
どのようなものであるかがよくわかります。ちなみに維摩経の弟子品第三を抜粋してみましょう。
X32
維摩経弟子品第三
ゆいまぎっおもやまいとこいむしあわれみ
その時、長者維摩詰自ら念えらく、疾に林に寝ねたり。世尊の大慈寧ろ懸を垂れ
ざらんやと。
しやりほつ
仏、その意を知うしめして即ち舎利弗に告げたまわく、汝、維摩詰に行詣して疾
もうもうかしこやまい
を問えと。舎利弗、仏に白して言さく、世尊、われ彼に詣って疾を問うにたえず。
ゆえいかんわれむかしえんざ
所以は何となれば、憶念するに、我昔曾て林中に於て、樹下に宴坐せり。
いわ
時に維摩詰来って、我に謂って言く、ただ舎利弗よ、必ずしもこれ坐するを宴坐
しんに
となさざれ。それ宴坐とは三界に於て身意を現ぜざる、これを宴坐となす。滅定を
た
起たずして、而も諸の威儀を現わす、これを宴坐となす。道法を捨てずして、凡夫
の事を現わす、これを宴坐となす。
心内に住せず、また外に在らざる、これを宴坐となす。諸見に於て動ぜずして、
どうほんねはん
而も三十七道品を修行する、これを宴坐となす。煩悩を断ぜずして浬薬に入る、こ
いんか
れを宴坐となす。もし能くかくの如く坐する者は、仏の印可し給う所なり。
時にわれ、世尊、この語を聞いて黙然として止み、報を加うること能わざりき。
133現代人の求道生活
た
故にわれ彼に詣って疾を問うに任えず。
134
これは釈尊の弟子の長老の一人、智意第一といわれた舎利弗が維摩詰に一本取られたところで
す。こうして次々と釈尊の高弟が一本づっ取られてゆくのですが、舎利弗がどこで一本取られてい
るかと申しますと、その頃の舎利弗の心の中に統一というものは、一定の坐法をもってしなければ
いけない、という観念があったのです。その心を維摩詰にみられまして、舎利弗よ、必ずしもこれ
坐するを宴坐となさざれ、とまず一本斬りこまれてしまったわけです。こうしてこの世における真
じゆんじゆん
の統一を諄諄として維摩詰が舎利弗に説ききかせるわけです。
「それ宴坐とは三界において身意を現ぜざる」
というのは、私流に申せば、肉体界、幽界、霊界の低い層である三界においては、自分の体とい
おもい
う もの、自分の意というものを現わさずに本心そのまま、仏のみ心そのままを行じていることが、
宴坐統一ということで、山に籠り、坐って統一しようなどという想いは、自己と統一そのものであ
るみ仏とが離れた状態である、これは樹下に身意を現わしている状態で、本心と想念とが自己分裂
している心の状態である、これは分別心といって、真の統一ではない、というのであります。以下
全部そうした舎利弗の想念を指摘した説法なのですが、紙面の許す限り説明をしてゆきましょう。
「道法を捨てずして、凡夫の事を現わす、これを宴坐となす。」
このことなど全く同感でありまして、小聖は山に隠れ、大聖は市井に住す、と同じ心でありま
す。この世にみ仏の心を現わそうとすれば、一般大衆と同じ環境、生活の中に住していなければ、
その人たちを同化することはできません。一般大衆と同じ波長の中にいながら、みずからは道その
ものになり切っている。法そのものになり切っている。こういう大悟というものが大事なのです。
それには神のみ心と全く一つになっていなければならない。神と離れた分別心というものがあって
はならない。そういう心の状態でいられることが真の統一状態というのである、と維摩詰はいうの
です。
「心内に住せず、また外に在らざる、これを宴坐となす。」
これは私の書いた「釈迦とその弟子」という小説の中にもでてくるのですが、自己の想念波動と
いうものが全く無い状態、み仏のみ心そのものの状態になっていること、これが真の統一である、
というのであります。
どうほん
「諸見に於て動ぜずして、而も三十七道品を修行する。これを宴坐となす。」
135現代人の求道生活
むずかしいといえば、これほどむずかしいことはありません。しかし、真の統一というもの、大
聖の統一というものはこういうものですから、大聖たらんためにはこの道を進まなければならない
どうほん
のです。三十七道品というのは、四念処、四正動、四神足、五根、五力、七覚支、八正道などとい
うあらゆる修行を総括した呼び名ですが、これは現代人にはとても、このままの在り方ではできよ
うはずもありません。さすがの舎利弗さえまいってしまったのですから。
ぽんのうだんねはん
「煩悩を断ぜずして浬葉に入る、これを宴坐となす。」
浬樂とは人間の最高の境地のことです。この境地に煩悩を断ぜずに入る、というのですから、ど
ういうことかちょっとわかりません。しかし、これが大乗仏教の大乗たるところでして、煩悩など
というものは、断ずるも断ぜないもない。はじめから実際にあるものではない。ただ本心の前を通
り過ぎてゆく影にすぎない。人間が真実、実際に自己としてあるのは、本心、み仏の心があるだけ
なのだ。そういうところがわからぬ統一では、分別心の統一であって、真実のものではない。と維
摩詰はいうわけです。全く恐れ入った大悟徹底ぶりです。
一口に人間とか人類とか申しますが、この肉体の世界だけではなく、いろいろの階層があり、さ
まざまな波動の世界があることは、常々私が申しておりますが、維摩詰などは、その真理をよく知
136
っておりまして、人間の実体を知り、宇宙の在り方を知るためには、肉体人間のほうの智慧才覚で
やっていたのではとうていわかりようがない。命の本源(神) と肉体人間とを分けて考えているそ
えんぎ
ういう分別智をまず捨て切ることが宴坐の入口であって、その奥はどこまでも深く、大生命の根源
と一つになってゆくのである。こういう坐り方を真の統一というのだ。といっているのですが、当
の維摩詰は病気のような状態をみせていることもあれば、凡夫と全く変らぬ態度で、笑い興じてい
る時もある。道を求めるとか、これが道だとかいう堅い態度は少しもなく、自由自在な生活をして
いるのであります。
地道に積重ねを
「道法を捨てずして、凡夫の事を現わす」というわけですが、しかし、この境地に至ることはな
かなかむずかしいことなのです。そこで、道を求める人々は、はじめから維摩詰の境地に入ること
はできないのですから、やはり、先覚者の教え導いて来られたような、己れの行いをつつしみ、神
のみ心である愛と真との道を誤りなく踏み行ってゆくことをしてゆかなければならないことになり
やこぜん
ます。禅宗の言葉に野狐禅というのがありまして、自分は大悟徹底している人間である、というこ
137現代人の求道生活
あさ
とを自己にも人にもみせようとして、わざと酒を飲み、女色を漁って、その自由自在で何者何事に
把われぬところを示そうとするのであります。
自分の修行が深いわけでもないのに、一番最高の境地の人の真似を、すぐさま行えるものと思っ
て、一段から急に何万段階も上に飛び上がろうとするわけです。そのようなことはどんな世界でも
通用するわけがないのですが、自己反省のない人々はこの理がわからず、いい気持になって、維摩
詰の真似をし、禅宗の大聖の真似をしたりするのです。こんな野狐禅になってしまっては困ります
から、想念はつねに神のみ心の中に投入しながら、一歩一歩修行を積み重ねてゆくことが大事なの
であります。ろくに修行もしないで、効果だけを得る方法などはどこを探してもあるわけがないの
ですから、そういう一足飛びの考えを捨てて、地道に求道してゆくことが必要です。その人の求道
の仕方によっては、その熱意を神仏が認められて、一足飛びにその人の霊的階層を上げて下さるこ
ともあるのです。ただし、その人がつねに無心に求道している時に限るのです。求道生活には、つ
ねに無心で神仏の懐に抱かれてゆく、ということが大切なのです。
あ
これは求道生活ばかりではなく、社会のあらゆる生活にも当てはまることで、自己に与えられた
仕事に向って、一心に真剣に立ち向い、研究、研錐してゆき、出世のこととか、上役に認められよ
138
うとしてのおべっかなどは、考える必要はありません。ただひたすら会社やその事業所の発展のた
めに力を尽してゆくことが、求道生活と等しいことになってくるのでありまして、そういう態度が
上役の認めるところになるのであります。
きまじめ
ところが求道生活にしても、社会生活にしても、あまりに生真面目すぎて、先人の行った道や型
にはまった仕事形態をそのまま踏襲してゆかなければ心が落つかぬ、少しでも型を崩したらその日
一日中が不安心で不安定でたまらない、という人がおります。こういう型の人は、大きく飛び上が
るつもりで、維摩詰や禅僧の自由自在性を真似した生き方を自己の生き方に加えてゆくとよいので
あります。
こういう生真面目型の人は、自分が生真面目であるために、他人が型を崩した生活をしているこ
とまで気になったりして、人の行いを責める気持が強くなってきます。こういう人の家族は「うち
のお父さんは善い人なのだが、どうも心が狭くて陰気で困る」とぼやいていることが多いのです。
修行の型とか、会社の型とか、どこにでも、一つの型はあるのですが、その型を基本にしてゆけ
ば、少しぐらい右にゆこうと、左にゆこうと、自分のやりよい方法でやってもよいわけで、そうい
うように心を自由にしてやっていると、かえってよい道が開けてくることもあるのです。求道生活
139現代人の求道生活
でも社会生活でもそう窮屈に考えずに、天に頭をつけているぐらいの大きな気持で生活していった
ほうがよいのです。型を崩さずその型を超えてゆく、それが道法を捨てず凡夫の型を現わす、とい
うことと同じ理なのです。
140
現代人の善い生き方
ついや
現代人というのは、食生活を保つために費す時間のほうが、本心開発に使う時間よりはるかに多
いのです。ですから本心開発つまり求道のためにむずかしい修行方法をとることができにくいので
あります。ですからつねに山に籠って坐禅をするとか、断食行をしたり、滝行したりする昔からの
修行方法は、特にそういう暇のとれる人以外はできないのですし、そういう暇が得られてそうした
修行のできる人でも、たまたまの修行ではそう成果を得られるものではありません。専門の僧侶の
人たちでも、六十才、七十才になるまで、専門的修行をつづけているはずなのですが、なかなか大
悟徹底するまでにはいたっていません。それが月に一回はおろか、年に何回もできないような修行
方法では、とうてい悟りの道に入ることは叶いません。
現代人の求道修行は、食生活のルールを破らずにしかも悟りへの道に至る修行方法でなければな
ねはんきつゆいま
りません。維摩詰のいう「煩悩を断ぜずして浬桀に入る」をもっと程度を引き下げて考えてみて、
日常生活そのままで神のみ心と一つになってゆく求道方法が、現代人にはぜひとも必要になってく
るのです。自分だけが悟りの道に入ったつもりで、会社や役所の先輩同僚たちとの世俗の付き合い
ができないようでは、道に片寄った生き方というべきで、商人の場合など、商売が発展する道理が
ありません。世俗に融け入り、女の話でも遊びの話にでも合つちを打ちながら、それでいて自分の
心はっねに神のみ心に融けこんでいる、というそういう心の状態になっていることが、現代人の善
き生き方というのでありましょう。いい古された言葉ですが、清濁併せ呑む、そしてみずからは汚
れない、そういう人物になってゆくことが現代人には特に要望されるのであります。
ねはんそくぼだい
維摩詰の「煩悩を断ぜずして浬繋に入る」ということや、煩悩即菩提という言葉を現代人はよく
噛みしめて、善き生活に自分も人も導き入れてゆくべきです。そこで問題になってくるのは、統一
のことなのです。自己の心が、神のみ心と一つになっている、ということが、この世界を立派にす
る最も根本のことなのですから、なんにしても、自己分裂の想念意識を、つねに私流にいう、消え
てゆく姿として、自己の心の中から消滅させてしまわなければなりません。煩悩つまり、欲しい、惜
しい、口惜しい、清けない、悲しい、恨めしい、妬ましい等々の神のみ心にない、本心にはない想
141現代人の求道生活
念波動を悟りへの道案内として、こういう煩悩を消滅せしめるためにますます神のみ心(本心) に
統一しなければならない、煩悩という自己分裂の姿を消滅し去ることによって、自己の本心がその
まま現われてくるのだ、ということがわかってくるのです。本心(神のみ心)がいつかは現われな
ければ、人間は苦しくてやり切れなくなるようにできているのです。それが早くくるか、遅くなる
こんじようらいしよう
かの相違だけなので、今生でやらなければ来生で、というようになるのであります。
すがたいく
それは人間は本来神の分け命で、完全円満な相をとっているのでありますので、幾つかの階層での
へ
様々な経験を経た後には、それらのあらゆる階層で本来の完全円満性を現わし得るように大神様の
み心の中では成っているのです。これは好むと好まざるとにかかわらず、そうなるように創られて
いるので、今日までのような不完全な個人も人類も、いつかはその不完全な部分が取り除かれて、
完全性だけが残るようになるのであります。
そこで現代人の思想の面においても、科学の面においても政治の面においても、正しいものは勿
論そのままで、誤ったものは誤ったなりに、更に大なる正しさを現わすための消えてゆく姿として
煩悩即菩提の姿として、この世を進化させてゆくのです。正しさは単なる正しさでなく、誤ちは単
なる誤ちでなく、すべては神のみ心顕現、人類の本心開発のための一駒一駒であるのです。
142
万人の求道方法
こう考えてまいりますと、現代の人々は、求道というものを、実生活と離れたものとする必要は
いささかもないのですから、食生活そのまま、家庭そのままの中で、自己の想念を分裂させずに本
ねはん
心に統一してゆく方法を取ればよいのです。煩悩を断ぜずして浬繋に入る、という道を通ってゆけ
ばよいのであります。
もっともこの言葉の真の意味は非常に深いものですが、これを軽く浅く受け取ってゆくことによ
って、現代人が自己の日常生活を破らないで、悟りの道に入ってゆくことができることになるので
す。道を求めることと、社会生活、食生活とがまるで離れているようでは、現代人が悟りの道に入
れるわけがありません。そのような在り方では、宗教の形式と、形式に把われた動きの取れない、
不自由な人間がたくさんできてしまうのです。
現代人はどうしても、社会生活、家庭生活をこわさずに求道でき得る道を選ぶことが腎明なる在
り方なのであります。私はこの道を消えてゆく姿で世界平和の祈り、という方法にして宣布してい
るわけです。本心を離れている喜怒哀楽、欲望想念をそのままにして置いて、悟りの道に入ろうと
143現代人の求道生活
いうのは無理なことですが、またこうした業想念をすべてなくし切ってから宗教の道に入るなどと
いうことも無理なので、消えてゆく姿、という言葉によって、一度これらの業想念を取り上げ、今
度は改めて、守護の神霊への感謝の想いとともに、世界人類の平和を念願する、人類愛の想いであ
り、神のみ心そのままの現れである、世界平和の祈りの中に、これらの業想念、喜怒哀楽やあらゆ
る欲望や把われの想いを、投入してしまいなさい、と私は教えているわけです。
こういうふうな日常生活を送っておりますと、日常生活そのままで、求道の歩み方ができ、しか
も人、類のためにも尽せるという一石二鳥の生き方になります。日常生活を捨て切って、山に籠るよ
うな、家庭人として社会人としての責任を逃がれてゆく生き方は、私の好むところではありません
ゆいまきつ
し、維摩詰などの好むところでもないでしょう。
大聖は街に住む、というのですが、大聖になろうと想う必要もなく、ただひたすら、欲望想念や
様々の把われの想いを、消えてゆく姿、消えてゆく姿と心に想いながら、この想いを、世界平和の
祈りの中で消滅し去ってゆくのですから、特別力みも気張りもいらないのです。伸びのびと悠々と
生きていればよいのであります。
しる
地球人類が月に一歩を印したこの時代にあって、個人が個人だけの生活を守っているだけでは困
144
りものです。個人はそのまま人類と深いつながりがある、切っても切れぬつながりがあるものだと
いうことを、この際に人々は深く考えなければなりません。日々の生活の中で自己反省をし、世界
人類の平和を祈るという行事は、何よりもやさしくできる、個人と人類とのつながりを肯定する在
り方です。
自己の幸せと、人類の平和とを同時に成就しようという世界平和の祈りこそ、何人にもすすめ得
る真の求道であるのです。
145現代人の求道生活
146
悟りということ
釈尊とイエスとの対比においてー
悟リとは
宗教の道を歩む人、特に仏教系統の人には、悟りという言葉に、心をひかれる人がずいぶんと多
いのであります。悟りということが、宗教の道を歩む目的である、とこの人たちは思っているので
ありましょう。広義の意味においては確かにそうに違いありません。
ところが、悟りという境地が、どういう心の状態であり、悟ったという人が、日常生活におい
て、どのような行為をしておるか、ということをはっきり知ることがなかなかできにくいのであり
ます。
また悟りというものが、一つの定まった心の状態なのか、その行為も一定の基準によってなされ
ているものなのか、などということも問題になってきます。
大体、悟りという文字は、心(本心) と吾れとが一つになっている文字で、心と想念とが分裂し
ていない状態を示した文字です。人間が吾れと思っている意識は、神から分け与えられた生命エネ
ルギーを根源の力として発生した想念波動でありまして、本心のほうは奥底にあって、神のみ心と
一つになっています。
そして、肉体人間としてこの世で生活している自己というものは、つねにこの想念意識で世を渡
っているわけで、本心そのものが表面に出ているわけではありません。そこで、神のみ心と一つに
なっている本心と、肉体頭脳を駈け巡っている想念波動とが分離し、別々になっていることが多い
のであります。
なぜかと申しますと、本心は神のみ心の微妙なひびきの中で働いていますので、肉体波動、物質
あらちどん
波動の、粗い、遅鈍な生活の中で生まれた想念波動にとって、この本心と、粗雑な自己の波動とを
一つにして生活する、ということが非常にむずかしいことになるのです。そのため、本心と想念波
動とが分離していることが多くなり、神のみ心の大調和の姿を、この世において現わすことができ
にくくなってしまっているのです。その姿が悟りから遠い人間の姿となっているわけです。
147`1吾りということ
ですから、悟りということは、一口にいって、本心の姿をこの世において顕現するということに
なるのであります。ただ、神のみ心、本心の姿を、どれほど深く現わしているかによって、その悟
りの段階が違ってくるのでありまして、一口に悟りといいますけれども、種々の悟りの段階がある
のだ、ということになります。釈尊のような、み仏としての正覚を得るということは容易なことで
はないのですけれど、正しい道を歩み進んでいれば、人によって何生かかるか知りませんが、次第
に正覚の境地にたどりつき得るのであります。
148
悟リの段階
では悟りについての、種々の段階を書いてみましょう。
近頃は仏教の人たちでも、外側に積極的な救済の活動を開始しておりますが、本来は、内面的な
仏性(本心)開発の修業を重ねてきております。キリスト教系統の人は、本来の働きが外面的に人
類救済の方向にむかっているわけで、内面的な本心開発は、外面的行為につれて自然に開かれてゆ
く、というようになっております。
ひこひめ
神道では男は彦(霊児)女は姫(霊女)というくらいで、神霊の分け命であることが本来の在
ヘヘヘへ
り方ですから、殊更何やかと分析したりせぬ、つまりことあげせぬ、そのまま神の子の姿として働
ヘヘへ
く、ということになっていて、そこでのりとをあげてつねにみずからをはらい浄めて生活してゆく
ということになります。
様々な宗教宗派をひっくるめてみても、やはり、宗教の本道は、神(仏) と肉体人間として現わ
れている自己との一体化に向ってゆくことですから、その道を発見し、その道を突き進むことによ
って、悟りの段階が上昇してゆくことになるわけです。
悟りの道の第一段階は、人間の本質は肉体ではない、とわかることからはじまります。肉体人間
のみが人間であって、神と霊とかいうものの力によって生きているのではない、という、いわゆる
唯物思想には、悟りの道はありません。
人間にはつねに神仏の力が働いている、ということを信ずることは、一つの悟りなのでありま
す。そして神仏の慈愛によって生かされていると信ずることは、更に一歩深く入った悟りなので
す。これは考えることではなくて信ずることなのです。考えるだけで信ずる想いがなければ、悟り
というわけにはまいりません。考えてから信に入る人もありましょう。ずばりそのまま信に入る人
もありましょう。どちらもその人の資質によるので、どちらがよい悪いではなく、どちらも結構な
149’悟りということ
ので、考えるだけで信に入らない人とはくらべものにならないのです。
宗教的理論も、哲学的理論も、そうした頭で考えることのまるで不得手な、百姓の老人でも、そ
の心が神仏のみ心と一筋につながっていて、その行為が愛と調和に適っていたら、その人は悟って
いる人なのです。悟りとはそういうものです。
人間の本質が肉体でないとわかってきて、肉体未生の世界も、死後の世界もあるのだ、とわかっ
てくることは、やはり悟りへの道なのですが、そういうことがわかっただけで、自己の本心の開発
に役立たなければ、悟うたということにはなりません。
肉体以外の世界があるということがわかり、幽界、霊界、神界が存在するのだということを信じ
たとして、そう信ずることは、やはり一つの悟りですけれども、そういう肉体以外の世界に興味本
位に把われてしまいますと、せっかくの悟りへの道が、かえって、本心を汚す苦悩の道に変ってし
まうのであります。
やこぜん
野狐禅といわれる境地がありまして、自分では正覚に入ったようなつもりで、仏菩薩のような態
度をとっていますが、実は低い幽界あたりに想いが把われていて、幽界の生物の操るままに、仏菩
薩のごとくふるまっている人もあるのです。
150
この人たちは、自分では結構その境地で満足しているのですが、肉体離脱後(死後) は、真実の
へめ
自己の境界がわかって苦悩の時を送ることになります。要は本心(神心)と肉体や幽体を経巡ぐる
想念波動が深いところで一つになっているか、浅いところで結ばれているか、あるいは本心と想念
波動とがまるっきり反対の立場で動いているか、ということで、悟りの段階や、迷いの深浅がわか
るのであります。
お釈迦さまの悟り
想念波動が本心と全く一つになっていれば、おのずと神のみ心が、その人の想念意識となり、そ
の意識はつねに行為そのものとなって現われるのです。この悟りは正覚であり、仏菩薩の境地で
す。釈尊という仏様を例にとって説明してみますと、釈尊という仏様の肉体は、釈迦族の王子とし
て生まれてきたのでありまして、正覚を得るまでは、肉体という限定された範躊で、肉体頭脳の知
識想念で、各種の肉体世界の経験を経てきたのであります。
釈尊は王子様ですから、その頃のインドの一般人民とはくらぶべくもない、贅沢なくらしをして
いたわけで、若くしてご馳走にも美人にもたんのうしつくして、人生を深く考えるようになり、生
151,i吾りということ
老病死の苦悩から解放にいたる道を生命をかけて探求し、ついに肉体意識を解脱して、み仏の境地
おうこう
になりきってしまわれたわけです。そして釈尊は、肉体という限定された意識の中で、いかに王侯
ぞくぜい
貴族の贅を極めた生活をしたところで、人間の真の幸せも、真の安心立命もない。真の安心立命は
生老病死を超えた境地、肉体という限定された想念意識を超越した、生命の本源に、本心そのもの
となった自己を見出し、その我と一つになって生きる、という、境地になった時に、はじめて安心
立命もでき、他の人にも永遠の生命のひびきを伝えることができるのだ、ということを実践された
のであります。
実際に意識が肉体世界だけに限定されているということは、実に不自由なことで、自由自在心に
なった悟りの世界とは、まるで違ったものです。釈尊の現象的な立場からいえば、王子の生活から
王様の位になって、多くの家臣を自由自在に使い、栄耀栄華のできる生活のほうが、乞食をしなが
らの貧しい食物、貧しい衣服、肉体的に苦労な坐禅観法などの沙門の生活より、よほど恵まれてい
るようですが、実はこれが全く反対で、いくら対外的に恵まれたようにみえましょうと、それが肉
体身にまつわった恵まれである限りは、そこに生老病死の苦悩がつねにあるわけで、心は不自由極
まりない立場に立たされているのです。152
しやり
しかし、肉体生活を捨離し、神霊の世界に自己の想念を置いて、神霊の世界のひびきによって自
己の生活が組立てられている、悟りの境地は、肉体や幽界という限定された場に、自己の想念意識
が把われていないので、自由自在に活動ができるのであります。釈尊は外見は自由自在にみ、兄る王
てんどうむそう
侯の生活から、真実の自由自在の世界に、自己の想念の場を置き換えたのです。釈尊は〃顛倒夢想
しているが故に、この世は不幸なのである〃といっておられるので、この世での逆立ちの生活を、
真実の正しい歩み方に転換しない限りは、この世は救われないのです。私もこの逆立ち生活のこの
世を、正しい形の正しい歩み方の生活に立ち直そうとして、消えてゆく姿で世界平和の祈りの教え
を根源にして、祈りによる平和運動をしているわけなのです。
守護の神霊の援助なくして悟れない
ところで釈尊の場合は、過去世からなんたびとなく、菩薩として、この世の生活を送っておりま
して、修業に修業を積み重ねておりますので、正覚を得られたのですが、一般の人はこうはまいり
ません。ですから釈尊のみ教えを基本にして、自分たちの修業の糧とすればよいわけで、その人の
精進によって精進だけの成果が得られるのです。私はその精進のうちに、守護の神霊へのたゆみな
153悟りということ
き感謝の祈りを入れているわけで、守護の神霊に援助していただいて、悟りの段階を高めていただ
くことを、私の体験を通して、皆さんに教えているのであります。
肉体に把われきっている人間の生活から、釈尊の正覚までには、幾段階という悟りの段階があり
ますが、要は本心開発を根本として行じてゆけばよいのです。本心とは神の心であり、愛(慈悲)
の心であり、真理を行ずる心であり、大調和している心です。
その本心の行為の浅い深いが悟りの段階なのでありますので、勿論、過去世における、修業の深
浅、徳不徳の集積の相違によって、速かに深い悟りのでき得る人と、浅い悟りにまでもなかなか行
きつかない人といろいろあります。しかし、守護の神霊の加護を信じさえすれば、各自の守護の神
霊にすがりきって、過去世からの業想念を浄めさっていただき、本心の開発の段階を突き進んでゆ
くことは、そうむずかしいことではないのです。
そのためにそうした道を行じている先輩とよく交わり、自然と信の深まるような、日常生活をし
てゆくことが必要なのであります。釈尊にも守護の神霊が働いておりましたし、イエスにもガブリ
エルやミカエル等の天使(守護神)がおりました。どんな人でも、神霊の加護なくして、覚者にな
り得た人はないのです。まして、一般の人々が、守護の神霊の加護を頼まず、悟りの道に入ろうと
154
するのは、過去世からの業因縁の妨げがあって、とてもむずかしいことなのです。
二つのパターン
釈尊などは、何者の力も借りず、正覚を得たように思う方があるかも知れませんが、釈尊の霊位
の高かったこととは別に、やはり背後から強力な守護の神霊の援助がなされていたのです。イエス
の場合は天使方(守護の神霊)との交流が、はっきり聖書に書かれていますので、疑う余地はあり
ません。イエスの場合は、釈尊の悟りのような悟り方ではなく、生まれるはじめから、神々の計ら
いによって一生が貫ぬかれていたことがよくわかりますので、特にある時悟ってというより、内な
る神の導きによって、自然と自己の天命達成の道を歩ませられていた、というほうが適当な言葉か
も知れません。
世界の聖者の中には、釈尊型の悟りと、イエス型の悟りと大きく分けて二つの型があるようで
す。禅宗の聖者たちでも法然でも親鸞でも、仏教の人たちはおおむね釈尊型ですし、キリスト教の
聖者はどうしてもイエス型になります。というのは、内なる仏性顕現という心で、肉体に苦痛を与
えて、肉体から自己の想念を離すことによって、内なる仏性を現わそうという、苦行によって悟り
155悟りということ
が生まれる、という考え方は聖道門の仏教の人や行者型の人々です。これは釈尊のはじめの頃の生
き方でしたが、後に、苦行は悟りの因にあらず、という正覚によって、苦行を離れました。
釈尊の正覚というのは、どういうものかと申しますと、人間ははじめから仏子なのであるのに、
さんがい
三界を経巡っている自己の想念波動が、肉体生活に執着してその仏性を蔽ってしまっているだけな
ので、肉体をいくら苦行に追いやっても、その想念波動は、依然として仏性を蔽いつづけてゆくの
だから、むしろ、その想念波動を三界を超えた世界、つまり本来からある仏性のほうに入れてしま
って、仏性の光明波動で消し去ってしまうのがよいのだ、ということで、自己の仏そのものの霊位
を正覚なさった釈尊は、みずからが、光明波動となって、坐禅観法の道を人々に実践させたわけな
のです。
法然や親鸞の念仏一辺倒になってからの状態は、そうした生き方を如実にしていったものです。
ただ自己の想念行為を投げ入れる目標が阿弥陀仏であったわけです。釈尊は仏のほうから、人間の
仏性顕現の方法としてそのことを教えたのであり、親鸞は、罪悪深重の凡夫として業想念波動のほ
うの自己として、念仏一念の道を教導したのであります。
キリスト教の人々は、内観的な悟りの道というより、イエスキリストのみ名により人々に愛行の156
働きかけをしながら、その愛行の中で、おのずと悟りの道を開いていったので、イエスキリストの
み名の道を歩むことによって、悟りを開いていったのであります。その点、仏教の浄土門の在り方
とよく似ております。
自己の内に働きかけて、次第に自己の仏性が、外に向って慈悲の働きをしてゆく悟りの道か、は
じめから外に向って愛の働きをつづけながら、知らない間に、自己が悟りを開いてゆく、という道
か、どちらでも真剣に行じた人々は、やがて正覚を得てゆくのであります。
正覚への道はきびしい
悟りにみえて、実は神仏の道をゆがめて、生きてゆく人々が、意外と多いのが、宗教を求める道
でありまして、自己の業想念を喜ばせる興味本位の求道態度でおりますと、いつ知らずゆがんだ道
に入ってしまいまして、本道に出るのに、非常な年月がかかり、当人も苦労な道を歩くことになり
ます。
宗教の道はあくまで、本心の中で業想念を消してしまう道で、本心と業想念の吾れとが一つにな
はず
り、天地が合体する、神我一体の道でなければなりません。そこで、この道に自己の歩みが外れて
157悟りということ
いたら、自分は間違っていたと想って、改めて正しい道を踏みしめるようにしなければならないの
です。
それは仏教の道をゆこうと、キリスト教の道をゆこうと、神道の道をゆこうと同じことでありま
す。U、二の例を申し上げますと、坐禅観法やお祈りをしていて、次第に霊的感覚が増してくる
と、霊眼が開いたり、霊耳になったりします。しかしこれはあくまで、本心開発のためになされるの
でありますのに、この霊眼霊耳のいわゆる霊能のほうに気を奪われてしまいまして、何が見えた、
何が聞えた、今度はこんな予言が出た、というふうに、本心開発とはまるで関係のない、幽界や霊
界からの指図を受けたりするようになります。
各自の本心開発に関係のない事柄に、たとえそれがどんな霊示であろうと、一度はその霊示を消
えてゆく姿として、祈りの中で消してしまわねばなりません。
そういう霊示を受ける癖がつきますと、自分の行為を自分ですることができなくなったり、自己が
分裂したようになったりして、後に大変困ることになります。またそうならなくても、正覚にいた
る道と違うので、ある一定段階から進まなくなってしまいます。釈尊はそういうことを嫌われて、
内なる仏を教えても、外なる神という教え方にはしなかったのです。158
うじんつう
ですから六神通といわれる神通力の中でも漏尽通といって、何もの何事にも把われない澄み清ま
った心境を最上の神通力だといわれておるのであります。人の心が読みとれる他心通や、過去世の
ことがわかる宿命通もよいのですけれど、すべて自分の本心や他の人々の本心開発のためであり、
いわゆる正覚への道であることが大事なのであります。
一つの通力を得たことでも、一つの悟りではありますが、これはあくまで、一つの悟りに過ぎな
いので、神人一如の悟りに入ったというわけにはまいりません。
釈迦とイエスの在り方
ここでよく考えてみなければならないことは、各人すべて生まれた立場や智慧能力が異なってお
るということです。釈尊とイエスさんの二聖者を比較しますと、一方は王子様に生まれ、一方は貧
乏大工の息子に生まれたわけで、はじめから生活環境がまるで反対であったわけです。そして、悟
り方も布教の仕方も、弟子の在り方も、この世の肉体在世期間も、ことごとく相違しておりました。
二聖者ともに、過去世において、すでに菩薩位や天使の位の方ですから、自己の業生消滅のため
にこの世に現われられたのではなく、人類救済のためにこの世に生を受けられた方たちです。大神159悟
り
と
い
う
こ
と
様のみ心、神々の神謀いによって、二聖者はこの世に救世の大天使となって現われられたので、そ
の生まれ方、生活環境などは、すべて神々の謀いによってそうなされたわけで、片方を王者の家に
誕生させ、片方を貧乏大工の息子に生まれさせて、およそ反対の生活環境の中から悟らせて、お互
いに異なる在り方で人類救済の働きをさせたのであります。
それは後々生まれてくる聖なる人々の霊魂の素質や、その資質によって、極端に相違した二聖者
のどちらかの面での働きが適するか、二聖者の在り方の半々のところがよいのか、というように、
その誕生や環境を神々によって定められたのであります。(勿論二聖者だけが、その見本ではあり
ませんが)
ぜい
釈尊は王族の贅を尽した生活にあき果てて、ある年令に達して、本心開発の道、人類が進まなけ
ればならない進化の道を極める気持になり、後に正覚を得るわけですが、イエスのほうは幼い頃か
ら、天から選ばれたという直感があり、つねに守護の天使との交流がなされていたので、肉体の自
己というものが、はじめから希薄で、いわゆる霊的な子であったのです。そして、天使方の指図に
従って、いろいろの修業をさせられたのでありまして、釈尊のように、修業中のある時、忽然と正
覚を得た、というのではありません。
160
大きな悟りといえば、洗霊のヨハネに会って、「あなたがキリストだ」といわれて、はっきり確
信がついた、あの時の境地が正覚といわれる境地ではないかと思われます。しかしあくまで、釈尊
とイエスでは悟り方の状態が違うので、一つにしてしまうわけにはゆきません。
イエスの場合、天において神々の定めた通りにイエスの肉体は動かされていた、というべきで、
うつわ
イエスという肉体人間の自我というものは、ほとんどなかったと思います。全く、神の器であり、
神の働きの場が、イエスの肉体であったのです。
その点イエスは終始悲劇の主人公のように思われますし、大犠牲という感じが、はっきりいたし
ますが、釈尊のほうは八十才余の寿命を全うし、各王様をはじめ、貧富の入り交じった多くの弟子
や信徒たちに、尊敬されながら道を説いていたのでありますから、イエスのような悲劇感はありま
せん。あるのは、人間を超越した、仏様という崇敬の念だけです。
だからといって、釈尊がイエスキリストより霊位が上であったかというと、そうではなく、全く
同格の霊位にあることが、私にはわかります。神々はいろいろな聖賢をこの地上界に天降らして、
地球人類の救済をなさろうとしておられるので、釈尊やイエスのような聖者が後にも先にも出なか
ったのか、出現しないのか、というと、そんなことはありません。釈尊やイエス以前にも、いろい
161悟りということ
うとそのクラスの聖者は出ておりますし、以後現代までにおいても出現しているのです。
ただ、いつでも同じような形で出てくるかというとそうではありませんで、現われ方は、その時
代々々によって異なっているのは、当然なことです。釈尊やイエスの積んできた宗教を土台にし
て、その上に更に、地球人類が救われ易い道をつくりあげてこそ、釈尊やイエスの、真実の生き方
が、そこに現わされるわけで、その道をわれわれはつくり出し、古来からの各聖者の功績を不朽の
ものとしなければならないのです。
162
初歩の悟りから正覚までの一筋道
私どもが現在やっており、今後つづけてゆくことは、釈尊やイエスが行ってきた、人類進化の道
を、誰にでも理想ではなく、現実にでき得るものにしてゆく、ということでありまして、理想と現
実が遠くに離れているような道を人々に歩ませようとは思っておりません。
真実、天と地をつなぐ道、それが、私の説いている、消えてゆく姿で、世界人類が平和でありま
すように、という教えの道でありまして、このことは口がすっばくなるほど長い間、説き去り、説
ききたっているのであります。
すべてを過去世の因縁の消えてゆく姿と思って、自己の本心の中、世界平和の祈りの中に、すべ
てを投げ入れて生きてゆく、という初歩の悟りから正覚までを、一筋道につなぎ合わせてある、祈
りの道を、私はあくなく皆さんにすすめているわけなのであります。
頭の中にいくら知識をつめこんでも、それで自己が救われるわけでも、悟れるわけでもありませ
ん。要は人間が神の分け命である、という実観を、生活の実践の中で体得してゆくことが必要なの
であり、大事なのであります。釈尊やイエスや古代からの各聖者の道を、ただひたすら世界平和の
祈りの光明波動の中に入れきって、生活してゆく時、各聖者とともに私どもは、はっきりその神性
を現わしきることができるようになるのです。
なにしろ、日常生活そのままにしていて悟れるのでなければ、一般大衆は永劫に悟ることはでき
ません。消えてゆく姿で世界平和の祈りの道は、日常生活そのままで、ただ世界平和の祈りを祈っ
てゆく、ということだけで、おのずと悟ってゆけるのですから、特別人と違った奇異な行動をとる
必要はありません。
163」悟りということ
164
祈りの原理
人類は滅亡の危機にある
フラソスが南太平洋において、日本や濠州、ニュージーランドその他全世界が実験禁止を訴えた
のにもかかわらず、核実験を実施しました。また再度行なおうとしています。中国も自国内で核実
験を行い、その放射能の雨が日本に降ったとニュースは伝えております。
日本は世界で最初の原爆の被害国であり、最初の水爆放射能禍を被った国であります。ですから
原水爆問題、放射能禍については、世界のどこの国よりも深い関心を持ち、深い憂いを持って、そ
の被害の研究調査に当っているのであります。こうした日本の声に刺激されて、各国でも科学老た
ちが、急速に放射能禍の研究を深めております。イギリスの原子科学者協会では、爆発力二十メガ
トソ水爆一個の実験で、世界中に二万人の骨髄障害者が出るであろう、と放射能禍についての警告
を発しております。
このように、直接原水爆がその地に落ちなくとも、各国が競って行う原水爆実験は、何年かの後
には、世界人類を不具者で埋め、健全な人類の発達を阻止してしまうのであり、ひいては人類を自
然滅亡に追いやってしまうのであります。
こうした人類の危機を考えますと、人間の一人一人が真実に自己の在り方を考え、人類の在り方
を考えなければ、人類は滅びの道に至るより仕方がないのだ、と思わざるを得なくなるのです。今
日までのように、外国のことは外国まかせ、政府のことは政治家まかせ、宗教のことは坊主や神主
まかせ、というような生き方では、自己も世界も同時に失ってしまうのであります。
原水爆実験禁止運動でも、使用禁止運動でも、世界の人々が真実一丸となってやらなければ、と
てもその効果は得られないと思うからです。幸いに実験禁止運動が成功したとしても(これさえな
かなか容易に成功するとは思えませんが)まして使用禁止運動となると、これは、原水爆を持って
いる当事国の主脳部の人々にも、どうにもはっきり言明できないに相違ありません。それに表面的
に使用禁止を約束したとしても、その時の外交政策の変化では、どうなるものかはかりしれません。
165祈りの原理
ですから、世界のどこの国のいかなる人であろうと、その人々が、自己を肉体人間としての意識
下においている以上は、世界の争いの業想念を左右する力を持つことはできない、といえるのであ
ります。
いつも繰り返して申しておりますように、現今の人間は、個人は個人でありながら、個人の動き
はすべて人類全体につながり、人類世界の動きは、そのまま個人の生活運命を左右しているのであ
ります。それはいかなる地位の人、大人も子供も老人も同じなのであります。このことに早く気づ
かないと、あっという間に、個人の現象的幸福がけしとんでしまうかもしれないのです。
今日のように、個人と世界とが、密接な関係をもち、急速に影響し合うことは、今までの歴史に
はかつてなかったことと思います。
166
ほんとの宗教者
そこで今度はどうしたら、個人が、人間の一人一人が、世界人類の運命に善い影響を与えられる
かを考えてみなければなりません。それは、真実の宗教生活を、あなた方の一人一人が行じてゆく
ことなのであります。
個々人の現世利益だけの宗教などは、もはや宗教という名を冠するに価いしないものでありま
す。また既成仏教のように、自己だけの悟りに重点をおいて、その悟りのために一生をついやす修
業の連続というような生き方も、今日ではすでに手遅れなのでありますし、実際問題として、実行
しがたいのであります。
から
宗教家はいったい何をしているのだ、空念仏や空祈りばかり唱えていないで、世界人類を滅亡の
道から救え! という声が諸処で叫ばれています。私ももっともな声だと思っておりますが、そう
叫んでいる人たちが、宗教にどのような要望をしているのでありましょうか。宗教家に形の世界の
働きを強いて、何々運動、何々主義というような先頭に立たせたがったり、現在の政界で大きな働
きを強いても、それは無理なことであると思います。
宗教とは、あくまで心の世界、神仏の世界のことを、この地上界の人間に知らせる教えであり、
人間の本体を知らせ、神仏と人間の関係を知らせることであり、宗教者とはその智慧の光を、祈りと
まこと
愛と真の行いによって放射し、地上世界の汚れを浄め去る人をいうのであります。いいかえれば、
さわ
宗教者とは神仏から与えられた生命を、そのままなんの障りもなく生かしきる人をいうのでありま
す。
167祈りの原理
黒住教の教祖が、ある時、講演会にゆく途中、丸木橋を渡ろうとして、ひょいと川の流れを見た
瞬間、足元がぐらぐらとして、思わずアッと胆を冷したというのです。だが幸いそのまま無事に渡
ぎんき
りきりました。無事に渡ったは渡ったものの、黒住宗忠の胸は、臓塊の想いで打ち震えていたので
あります。彼は講演会場につくやいなや、会場の聴衆に向って
「私は実に申訳けないことをいたしてまいりました。天照大神のみ心を汚してまいりました」
と丸木橋を渡った時の心の動揺を語り、今日までの多年の修業を、一時に砕いてしまったこと
を、涙ながらに、天照大神にわび、聴衆に訴えた、ということであります。
私はこうした宗忠の純真無垢、至誠に徹した心に打たれるのです。天照大神(神) は自己の本心
である、本心を少しでも驚かし、汚したということは、なんとも神に対し、本心に対して申訳けな
い、と宗忠の胸は打ち震えたのでありましょう。自分の本心をも人の本心をも汚さぬ、ということ
が宗忠の深い信仰であったのです。本心を汚すことは、神を汚すことになるからなのです。
このように自己の本心、命をさわりなく、汚れなく生かしきってゆく人こそ、真の宗教者といえ
るのでありますが、このようになり得る人は、あまり多いとはいえないのです。しかし、そうした
心が真の宗教心であることは間違いのないことであります。
168
人類よ神に還えれ
私は一般の人々が、そうした心境に、最短の時間でなり得るにはどうしたらよいか、と修業し、
思索していたのですが、その結果、そうした心境になり得る道をたどりながら、その方法が、世界
人類の平和達成の道にも好影響を及ぼし得ると確信し得たのが、守護の神霊への感謝と、消えてゆ
く姿の教え、それに世界平和の祈りであったのです。
人間が、神と人間との関係を知り、その関係を真直ぐこの地上世界に現わすことをしないなら
ば、いかなる形の上の政策も、言葉の上の話合いも、地上人類の滅亡を防ぐことはできません。
神を離れた人間の考えというのが別にあって、その考えのもとに人生を歩いてゆく、あるいは国
策を行う、というのであれば、お互いの国の国策が衝突し合うのは当り前であります。神という一
つの根源から分れた智慧による政策であれば、その基が等しいのですから、突当ることは絶対にな
いのですが、現在のように、もうお互いの国が、相対的に自己の主張を突っぽり合っていて、もう
お互いの考えが北と南ほど相違しているのですから、こうした国々の考えを、一度白紙にかえして
出直さない限りは、平和になりっこはありません。
169祈りの原理
宇宙世界のすべては、神自身であり、神のみ手に握られているものであることを、人類も個々
人も、ほとんど知らない、という情けない状態の地球界にあっては、真の宗教心をもって働くのに
も、急速調で、神の絶対性を知らせる運動をしなければならないし、神の他の人間自身などは存在
しないのだから、神の他に人間があるなどと思っていたら、そうした人間は滅びるより仕方がない
のだ、ということをなんらかの方法で、身にしみるように知らせなければなりません。
国際問題でも、すべてを白紙にかえすことなどは、今のままの思想ではできっこないのですか
ら、誰か米ソのような大国以上の力の持主が現われないことには、地球世界は滅びるという結論に
なってしまうのです。
じかい
とにかく人類の大半が、業想念の波の中で、その自潰によって起る、地球世界の大惨事を眼前に
して、なんらなす術なく、あれよあれよと叫んでいるだけなのであります。
ソ連は非道な国だ、アメリヵは何々だ、などといくら口先で責め裁いても、実力のない国やその
人民に決定的な裁定ができるものではありません。この地球世界は、今日のところ、武力財力が、
国の地位を決定づけているのであり、世界を抑えているのであります。その二大国がソ連と米国と
いうことになっているので、現在の日本や日本人のように、力の裏づけのない者が、肉体人間とし
170
てどんな口をきいたところで、世界の大勢をどう変えようもないのは明らかです。
たびたび申しますように、もはや肉体人間では、どうにも地球世界の業想念の激しい渦巻きを乗
こ
り超えることはできない時になっているのであります。
祈リなくして世界に平和はこない
ひのもと
そこで方法はただ一つ、私たち日本人が、本来の日本人に還えること、日本という名の示すよう
に、太陽(霊) 神の本に還元することだけなのであります。
その方法が、世界平和の祈りなのであります。この祈りなくしては、世界人類の救われる日は永
劫にこないと私は信じているのです。まず皆さんは、祈りということを、はっきり知らなければな
りません。祈りとは、ただお願いすることではありません。想いを強めるということでもありませ
ん。肉体にある自分が、想いに乗って、神のふところに還えることであります。そして神と一つに
さわ
なって、その生命の光を、障りなく放射することであります。
神の光がそのまま個人に現われ、世界人類に現われれば、必ずその個人は平和になり、世界人類
は平和になるにきまっております。なぜならば、神の光は愛であり、調和であり、平安であるから
171祈りの原理
です。
人間の想念、人類の想念が、神のふところに還えっていってそこから新しく出発しさえすれば、
この世界の業想念からきている不調和な状態は、いつしか消滅し去ってしまい、神の世が、この地
上世界に現われることは、定まった原理なのであります。
人間が、人類が、肉体的に死なずにいて、新生しなければならない時が今なのです。その新生、
新しく生まれるということは、現在までの業想念からきている世界人類の状態を、そのまま流れる
にまかせておいて、いいかえますと、現象世界の不安動揺の状態に把われることなく、個人、人類
の想念のすべてを、いったん神のみ心の中に昇華させてしまうことなのであります。それが祈りな
のであります。あxしなければ、こうしなければ、という不安動揺の想いの中には神は存在しませ
ん。ああしなければも、こうしなければもない、ただ一念に神に想念を集中することが祈りなので
あります。
ただ、神様ありがとうございます、仏様ありがとうございます、だけでもよいのですが、それだ
けでは、なかなか人間の想いが納得しません。人間というものは、何かちょっとでも理論づけがな
いと、心から納得することができないものなのです。
172
そこで、私に働いております神々は、肉体の私との相談つくで、世界平和の祈りを打ち出したの
ヘヘヘへ
であります。それは本書に出てまいります祈りの言葉なのであります。あの祈りの言葉のほうに皆
さんの想いが向けば、その時即座に、救世の大光明集団の光明がその人の想念を神々の中に引きあ
げてくれるのです。そうした神界と私との約束であり、その事実が次々と現われているのであり
ます。
そういたしますと、他の統一法のように、その人の想いが雑念に把われることが少く、数多くや
っている人はほとんど雑念がなく、神との一体観に入ることができてきて、心から不安動揺が除か
れてゆくのです。そのような姿を霊眼の人が見ると、光明燦然として見えるのであります。
こうした世界平和の祈りをつづけていますと、いつしかその人々の周囲のつながりある人々の業
因縁も次第に浄められてゆくのです。それが、病気が直ったり、不幸が未然に防げたりする実証と
なって現われてくるのであります。しかしそれよりも、もっともっと偉大なることは、神の救世の
光明が、その人々の肉体を通して、社会、国家、人類世界へというように、その光明をくりひろげ
てゆくことであります。この神の光明が、ついには、世界人類をつつむ、地球潰滅寸前の業因縁、
業想念を順次、祓い浄めてゆくのであります。
173祈りの原理
そうした真理を、もし、一笑にふす人があるとすれば、その人々はみずから滅びの道に入ってゆ
く人であるのです。まして宗教の道に入っている人、あるいは入ろうとしている人で、祈りの重要
性を認識しない人、あるいは祈りの力を否定する人は、それは宗教者でもなく、宗教の門を叩こう
としている人でもないのであります。
174
宗教と修養の相違
おさ
宗教と修養とは異なります。修養とは、現象の心身を修め養うことであります。つまり短気であ
ってはいけない、怠惰であってはならない、怒気を発してはならない、等々、一段一段と自身の心
を高めてゆこうとすることであります。ところが宗教信仰とは、そうしたことも含まれてはおりま
すが、最も重要とするところ、主要点は、一段一段と現象の自分自身を高めてゆくということでは
あらわれ
なく、この現象の自分は、真実の自分(人間) ではなくして、真実の自分は、神と一つのものであ
り、現象の自分の様々の欲望想念や、悪癖は、真実の自分を知らなかった以前からの誤りの想念が
消え去ろうとして出てきている姿なのである、ということを認識することにあるのです。
このことを間違えますと、いつまでたっても、なかなか神との一体観になり得ず、「私は永年宗
教をやっておりますが、どうしても私の心の悪い癖が直らないのです。とても悟れそうにもありま
せんね」などという言葉になってくるのであります。
肉体人間にまつわる想念で、悪癖を直そうとしたり、幸福になろうとしたり、悟りに入ろうとし
ても、とうてい望みの達せられるものではありません。なぜかと申しますと、肉体人間にまつわる
想念は業想念でありまして、いくら悪癖を直そうとしても、悟ろうとしても、そう想うそばから、
悪癖の想念や、不幸感の想念が覆いかぶさってくるからであります。
修養と宗教の違うのは、そこのところなのです。修養とは、肉体人間自身だけを自己として、そ
の中の心を磨こうとして心身を修め養うのでありますが、宗教では、人間は本来神仏そのものであ
り、神仏と等しい光明心である、ということが根本原理になって説かれてあるものですから、肉体
人間の想念で悪癖を直そう、悟りを開こうなどと力む方法はとらないのであります。ではどうする
かといいますと、悪い癖も、悟ろうとする想いも、それはすべて時を経て消えてゆく姿であって、
本来の人間は神仏とつながった完全性の存在者なのだから、そのままつねに神仏のみ名を心に唱え
つづけていさえすれば、この想念が根底になって、おのずから、悟りの姿がその人自身の行い、生
まこと
活に現われ出でて、本来の神仏の姿、つまり、愛と真と美の生き方が、この世においてもできてく
175祈りの原理
るのである、というのです。
今更改めて打ち消すような悪癖も不幸も、真実の人間の中にはないのであるから、放っておいて
も、そうしたマイナス面の想念所業は消え去ってゆくのである。その消え去ってゆく姿を追わない
ために、その想念を、神仏の中に日常坐臥、投入しておくことがよいのだ、それが祈りである、と
いうのであります。
この真理がわからないと、宗教の道に入ったように見えても、なかなか安心立命の生活に入るこ
とはできないのです。
宗教心は肉体人間の無力を悟るところから
宗教というのは、人間が肉体であるということを一度否定し去ることからはじまる、といっても
過言ではないのであります。人間とは肉体ではなく、霊であり、光である、神仏と一つのものであ
る、ということなのであります。しかし真向うからこのようにいわれても、一般の人々にはわから
ないでありましょう。そこで、肉体人間の無力をはっきり肯定するところから、神仏に救いを求め
そこに宗教心が呼び起されるともいうのです。
176
実際に、肉体人間の力を過信している以上は、神仏に近よることはできません。またその人自身
が近よろうとはしないでしょう。誰に頼らなくとも、自分で何事もできると思っているからには、
神仏さえ頼みにしようとはしないでしょう。そういう人は、いつまでも業想念の波の中、老病貧苦
の苦界を泳ぎ回っているより仕方がないでしょう。
現在の地球世界がそうなのであります。世界の指導者たちが、心の底から肉体人間の無力を悟ら
ない限り、真実、神にすがり、神の叡智によって、地上天国を創り上げようという想いにはならな
いと思います。
肉体人類の争いの波の中から抜け出すためには、肉体人間以外のところに、自己の想念をおかな
ければなりません。そこは一体どこでしょう。それは神仏の世界の他にないではありませんか。こ
の世はすべて波動の世界なのであります。それはあたかも海のように、一波が万波となって伝わる
世界であります。
一人一人の争いの想い、不幸の想い、一国一国の自我欲望の想念、それがこの地球世界の真実の
姿である神の大調和、大光明の姿を覆いつつんで、地球世界破減寸前にまで、その暗黒の波動を充
満させてしまっているのです。
177祈りの原理
その暗黒の想念波動は、少しぐらいの肉体人間の、善意の運動では、いささかの隙間さえつくれ
ないのであります。そうした肉体人間から、肉体人間に伝える想念所業では、業想念、暗黒波動の
量が多すぎて、もはやどうにもならなくなってきているのです。
178
楽な気分で平和の祈りを
ですから、肉体人間の一人一人が、人類の一人一人が、もう自分たちの力ではどうにもならない
のだ、と真実に自分たちの無力を悟り、すべての運命を、神のみ心の中に投入してしまう気になる
ことが、世界人類を救う第一歩となるのであります。
キリスト教の祈りのように〃み心の天の如く地にも成らせ給え” と心の底から祈るべきなので
す。ただこのキリスト教の祈りは、今日までの習慣で、何か哀願的なひびきが感じられますし、イ
エス様だけを通さなければ救われないような感じがしまして、一般の人、何宗の人も、同時に祈る
には、どうも片寄った感じがするのです。
そこで私の提唱している世界平和の祈りのように、誰にでもわかりやすく、なんでもなくいえる
唱え言のほうが効果的であると思えるのであります。
まして、この世界平和の祈りは、こちら側つまり肉体人間の側から想いを強めてするのではな
く、あちら側、天界(神界) から提案してきた祈り言であって、この祈りは、祈ろうという想いを
肉体側が出せば、それは即座に、神界側への通路の扉がひらき、神界の光明が直ちにその人の肉体
に伝わってくる、という神界と私との約束になっているのですから、皆さんが力みかえってやるこ
とはなく、楽な気分で、その光明に波長を合わせるつもり、光明の扉のスイッチをひねるつもり
で〃世界人類が平和でありますように〃とはじめてもらえばよいのです。それは歩いていても、寝
床の中でも、病床にあってもよいのであって、この祈りをしているだけで、病気の治った人も次々
と出てきているのであることを、更に附記しておきます。
179祈りの原理
180
神々や天使は生きている
ご利益信心と本心開発の信仰心
宗教信仰の根本問題は、神に全託し得るか、し得ないか、ということにあるのですが、全託まで
にいたらない信仰心というのが、世の人の大半の信仰心のようです。
信仰心と一様にはいいますが、この信仰心の深浅というものには、非常に大きな幅がありまし
て、一様にいえるようなものではありません。仮りにこの信仰心を大きく二つに分けてみますと、
現世利益を主にした信仰心と、本心開発を主にした信仰心との二つに分けることができます。
しかしこれとても、はっきりと区分けできるものではなく、仮りにこう二つに分類してみたわけ
です。この二つの分類のうち、本心開発を主にした信仰心というのが、本筋の宗教信仰であること
は、今更いうまでもないことですが、なかなか本心開発だけを主にした信仰心には現代の人々は徹
底できないいろいろな要素をもっております。
その一番の根本は、肉体保存の日常生活にあります。自己や家族の肉体生活を、より良くすごし
てゆきたい、という願望は、ふつう一般の人の誰しもの望みでありまして、自己の本心を開発した
い、と願いながらも、つい肉体生活の上に想いを把われがちになるのであります。
そこで、現世利益の信仰という形のほうにも、知らず知らず心をうつしてゆくということにもな
るのです。日本で昔から盛んである観音信仰や加持祈薦の類は、勿論、現世利益的な想いが多少に
かかわらずあるでありましょうし、現世利益的信仰心の中にも、本心開発を願う想いが存在するの
であります。
人間の心理というものは、実に複雑なものでありまして、本心開発を目指すことだけが真の宗教
心であって、現世利益など願うのは邪道である、と簡単に一喝してしまえばよいようなものではあ
りません。
私などは、法話の中では決してといってよいくらい、現世利益の話をいたしません。ただただ本
心開発への道と、世界人類の平和への道とをたゆみなく説きつづけておるのですが、個人的な指導
181神hや天使は生きている
の場合には、どんな階級の人の、どんなつまらない現世利益の相談にも、少しも嫌な顔をせずにの812
ってきています。本心開発の面からみれば、どちらでもよいようなご利益の相談なのですから、相
談に応じる時間だけ無駄なようなものですが、そうしたつまらない相談も、本心開発の次の段階へ
の足がかりになると思えば、やはりおろそかにならないと思うのが、神様のみ心なのでありましょ
う。
ところがある時には、そうした相談には一顧も与えず、そんなつまらないことはどうでもよい、
ただ世界平和の祈りだけをしていなさい、と一喝してしまう場合もあるのです。
神性開発の重大な要素
現世利益の信仰心でも、やがては必ず本心開発、仏性開顕の本筋につながると思えば、つまらな
い相談事にも、身が入りますが、いついかなる時でも、現世利益の他は顧みようとしない種類の人
の相談には、私は耳を傾けようとはせず、ただただ、こちらの光を与えることだけをしておりま
す。目の前のその人のご利益があろうとなかろうと、そんなことはその人の本心にとっては、なん
のかかわりあいもないことだからです。
神様のみ心は、つねにその人の本心開発だけを願っているので、その人の枝葉の利益は、その枝
葉の利益が本心開発の道筋につながるためのものであることを前提にして利益を与えるわけなので
す。
そうした現世利益が、かえって本心開発を遅らせるようなものであれば、それこそその生き方は
よこしま
宗教信仰とは全く反対の、邪な道ということになるのであります。そうした道も、大きな意味から
いえば、その人のためになる道かもしれませんが、私はそうした邪道をも善し、と肯定する気には
なれません。そういう意味あいから、私は巷間の業想念(自我欲望)を強めるような現世利益の信
仰の在り方には、全面的に反対なのであります。
尽すべき自己の力も尽さず、努力もはらわず、ただ怠惰な心を神仏という名にかりて、現世利益
をはかろうとするいやしい想いこそ、神の最も嫌むべき想いなのであることを、私は改めてここに
申述べておきます。
宇宙の神々との交流C、今更のように思い知らされるのは、高慢な想いと怠惰な想いこそ、神の
み心に遠い想いであるということです。心の貧しきものは幸なり、とイエスもいっていますよう
に、これでもまだ足りぬ、これでもまだ足りぬ、というほどの深い信の心と、神のみ心により一歩
183神々や天使は生きている
でも近づこうとする努力、そうした謙虚な心が神性開発にとっての重大な要素なのです。
目前の現世利益など、いくら崩れても一向に動じないような、これこそ過去世の業の消えてゆく
姿なのだ、と一瞬にして思えるような、光明心こそ大事なことなのです。こうした光明心はいった
いどこから出てくるのでしょう。神の大愛を信ずる心から出てくるのです。
184
神の大愛を信ずる心
神の大愛を信ずる心が深くなりますと、そこから全託の境地が開けてくるのです。神という存在
者を、真実に知ることは、なかなか容易なことではありませんが、自分が神の生命を分けられてこ
の世に生きているということは、宗教信仰心のある人なら、誰でも肯けるところでありましょう。
ですから素直に神というものは、自分の命の親なのだ、神の大生命がたゆみなく自分に流れ入って
きて、自己のあらゆる働きができているのだ、というように考えて、日常生活をしていったらよい
と思うのです。
神こそ我が命、神はすべてのすべて、こうした想いの中に自己を入れきっていますと、自己に現
われ出てくる、あらゆる運命は、すべて神の親心によって現わされているものであるというように
考えられてきます。神とつながっていない思慮分別などは、それこそ消えてゆく姿であって神の分
れである自己の命は、そこには働いていないことになるのです。
人間というものは、どんな人でも、神の大生命の中で生かされているのですから、神と離れた自
分というものは真実の存在ではなく、消えてゆく姿なのであります。このことがわかると、この世
で生活するにも、あの世で生きてゆくのにも、実に楽なのであります。
つねにつねに神と自己とを離さずに、いつも神のみ心の中で生きつづけてゆく、という想念の練
習をすることを、私は誰にでもすすめているのですが、実際、神とぴったり一つになって生きてゆ
きますと、なんの不安も恐怖も一切起らない、安心立命した生活ができてくるのです。そうした生
活態度ができてくるのです。そうした生活態度を、祈り一念の生活というのです。
人間のほうでどのように思おうと、神のみ心はどのような人間の上にも働きかけているのです
が、その働きかけは、ただ単に、その人々の肉体生活の安穏のためにだけ働きかけているのではあり
ません。その人その人の命すごやかなる生活のための働きかけをなさっておられるので、その人の
命を汚すような想念行為は、極力消滅させるような働きをしているのです。それは大神様自体のみ
心がそのまま現われるためには、命の働きを汚すような誤った想念行為は、消えてゆく姿として、
185神々や天使は生きている
自然に消滅してしまう方向に動いてゆくわけなのです。
それが、個人的には病気とか不幸とか災難とかになってゆくのであり、国家や人類の上には、天
変地変とか戦争とかになって現われてくるのです。なぜかと申しますと、神のみ心は光り輝いてい
るものなので、神の光明心を離れた、暗い想いや争いのような闇の想いは、光明心が働きかけれ
ば、どうしても消えてゆく姿が、病気や不幸災難、天変地変や戦争という形で一時現われるわけな
のです。
186
宗教趣味では自他共に救われない
そこで、この宇宙神の光明心を、人間世界に不幸や災難とならないように、人間側に先に気づか
せて、いち早く救済しようとして働きかけているのが、守護神や守護霊という、天使的な働きかけ
なのであります。そして、この守護の神霊の集団的な働きかけが、救世の大光明の人類救済運動と
なってきているのです。
今日では、宗教理論を頭でもてあそんで、ひとり楽しんでいる、というような態度では、自他と
もに救われようのない、せっばつまった時代になっているのであります。
ところが、実際の面では、各新聞の宗教欄にしても、知性向きの綜合雑誌でも、すべてといって
よいほど、実際面で活用できるような教えを掲載しないで、ただ、頭で、なるほどなるほどと納得
して、その場限りで心の隅に忘れ去ってしまうような、単なる昔ながらの宗教常識を掲載している
だけなのです。
これでは、一般大衆のためにはなんの足しにもなりません。世界人類が救われるということは、
ただ単に特殊な人々だけの働きでよいというものではないのです。一般人の誰も彼も心から納得し
て、容易にでき得るような宗教の道が示されなければなりません。
個人の救われが、同時に世界人類の救済になるような、そうした宗教の道が示されなければ、今
の時代は乗りきってはゆけません。いつ天変地変が起るか計ることのできない今日の時代に、高遠
な宗教理論など聞いて、ただ単に頭を楽しませていたとて、なんにもなりません。宗教の道という
ものは、なんにしても、その道の実行をしなければ、百の説法屍一つ、という、俗な言葉の通り、
死んだ宗教ということになってしまうのです。
大神様の大愛が、せっかく、守護神となって、各聖者に道を説かせ、民衆を指導させてきた意義
が失われてしまいます。私はキリスト教信者だ、仏教者だといいながら、いたずらに聖書や仏典を
187神々や天使は生きている
読みあさっているだけで、その教えを実行してみせもしない、趣味的宗教者は、自他ともに真の救81
われに入ることも導き入れることもできないでしょう。
私は、趣味で宗教の道に入っているような人を多く知っていますが、こういう人たちは、理論だ
けはいっぱしにいいますが、扉のまわりをぐるぐる回りしているようで、一向に門の中に入ってこ
ようとはしないのです。率直に神仏のみ心に飛びこんでこないで、神仏の教えをいじくり回してい
るのでは、神仏のほうでじれったくなることでしょう。
理論は実践のためにある
私などは理論を超えて、神の中に命を投げ出してしまい、救世の大光賜の光明心となって、現在
の世界平和の祈りの教えを実行させられた者ですが、あ二でもない、こうでもない、と理論をもて
あそんでいる時間があれば、その瞬間を素直に神のみ心に入るように努力すれば、相当神のみ心深
く入りこんでいられ、実際面で神の子仏子としての働きをすることができます。
すべての理論というのは、実際面に応用できるためのものであって、実際面を離れた理論などあ
ってよいものではありません。宗教の道など、なおそうなのです。
私が宇宙人、宇宙の神々の話をはっきり表面に出しましたら、宇宙人といっただけで、もう私が
どうかしたのではないか、頭が少し… … というように思ったりする人がいました。宇宙人というか
らおかしく思うのですが、大天使といえば、宗教的にはおかしくないのでしょう。しかし、大天使
といっても、その大天使たちが、私たちの肉眼で見えるように現われて、私たちと心を一つにして
地球人類救済のために働くのだ、というと、また眉をひそめて、やはり頭がおかしいのでは::・.と
いうような顔をするのです。
理論的な人というのは、仏典や聖書には、はっきりと、天使や菩薩の出現が書かれてあり、多く
の奇蹟が示されているのですのに、そうした面は頭から問題にせずに、哲学理論だけをもてあそぼ
うとしているのです。
宗教の道には、絶対に奇蹟が伴なうのです。奇蹟のない宗教などというものはありません。奇瞳
を認めないのなら、キリスト教でも仏教でも今日まではつづいてはいますまい。私は今までに、人
の心を奇蹟に執着させないために、奇蹟のことをあまり喧伝しませんでしたが、地球人類が今日の
ように、常識的な歩みのままではどうにも救われようのない時になってきては、嫌でも奇蹟が地球
人類を救うのだ、といい切らなければいられなくなってきました。
189神々や天使は生きている
真実の世界からみれば、肉体人間世界の奇蹟と称するものも、当然なことなのでありますが、ふ901
つうの人たちにとって、大天使の出現などは大きな奇蹟といえるのです。
私など、神に命を捧げてから、奇蹟といわれることの連続の日々でありますから、奇蹟だからと
いって、別に心を動かすこともありません。救敗の大光明のすばらしさは、口にも文にもなりませ
んが、これは口や文にして示すことより、実際的に人々を救済してゆくことで、結果がはっきり示
されてゆきます。
神の大愛は今、世界平和の祈りとなって、生かされてきているのです。しかしまだあまり、この
世界平和の祈りは、世界に喧伝されておりませんが、神の大愛が、はっきり地球世界に生かされる
方法が現われたのですから、どんな障害があろうとも、必ず世界中に広まるに決まっているので
す。
考えてみて下さい。世界平和の祈りなのです。世界中でいったい誰が、世界人類の平和を願わぬ
でしょうか。正常心の人なら誰でも、世界平和を念願しているのです。その世界平和だけを一念に
した祈りなのです。しかもこの祈りは、大神様から、この祈りをするところ忽ち光明化して、その
人の体から光明を発する、というお示しがあって、私が自然と、その事柄ずばりの世界平和の祈り
言を提唱しだしたのです。
そうした私というのは、すでに肉体身の五井昌久ではなく、神の器としての五井先生なのです。
くう
空そのものになった私というものは、私という個人ではもうなくなっていたのです。神の器として
の肉体身が、五井先生とみんなに呼ばれている存在者なのです。この五井先生の心の中にはいった
い何があるのでしょうか、ただただ、世界人類の平和を祈る想いだけが鳴りひびいているのです。
私は二十数年前に、個人の想念はすっかり神のみ心の中に還しきっていたのです。ですから私の
体は神のみ心がそのまま働いている体になりきっているのです。そうした私の体を通して、神の大
愛が世界平和の祈りとなって、地球人類救済の大きな働きをはじめたのであります。ですから、世
界平和を祈るところには救世の大光明、つまり歴史的なあらゆる聖者や守護の神霊たちが、結集し
た人類救済の愛念が働きかけるのであります。
諸神善霊が守リつづけている
諸神善霊という言葉が、言葉そのものとしてはずいぶん使われていますが、実際に諸神善霊が人
類を守りつづけている、ということを体験している人は少いのです。しかし、事実諸神善霊は人類
191神々や天使は生きている
を守りつづけているのです。私はその事実を如実に知っている一人なのです。仏典に出てくる諸天912
人諸菩薩、キリスト教の天使たち、神道の神々、これらは、私たち人類をはっきりと守りつづけて
いて下さるのであります。
あのような話は、各聖典の装飾的な話だぐらいに思っている人が知識的な人には多いようです
が、装飾でも粉飾でもなく、その存在は実在的なものなのです。私などはつねにそうした諸神善霊
と交流しておりますので、肉体人間同志こうして日々会っているような、いや、それ以上の深さ確
かさで、交わりつづけているのです。
人間は霊的な存在なのであり、肉体は一つの器であり、霊的なひびきを粗い波動にして現わして
あるものであって、実在ではない、と私がいつも申しておりますが、このことは、釈尊がはっきり
経典で説かれております。
まぼろし
この世は夢幻のようなものであって、単なる変化の現れにすぎないのです。それを私は、消えて
ゆく姿、といっているのです。そんな夢幻のような肉休界の現世利益ばかりを追っていたとて、何
一つとして命そのもの、実在そのもの、真の自己のためになるものはない。真の人間、本体、本心
のための働きは、神の大愛への感謝行と、世界人類の平和の祈りしかないのだ、と私は叫びつづけ
ているのです。
この世の幸せをあの世までも、永遠の生命のひびきとして持ちつづけ得るものは、個人だけの幸
せを願う想いではなく、個人と人類が同時に安心立命でき得る、完全なる平和を築きあげ得るため
の働きだけなのであります。
個人だけが救われれば善しとするような宗教観は、もう今日の宗教観ではありません。あくまで
も、個人人類同時成道でなければなりません。神の大愛を生かす道は、個人の救われと、人類の完
全平和が同時になされる世界平和の祈りよりない、ということが、これではっきりするのです。
守護の神霊への感謝行と平和の祈リ
神は大生命として宇宙に充ちみち、神々は結集して、今や地球人類救済のための、大きな働きを
しているのですから、私たちはよく、この神の大愛を信じて、みずからが置かれてある環境の中で、
世界人類の平和を念願する、世界平和の祈りの中に、あらゆる不幸災難や、不平不満の想念を投げ
入れて、日常生活を光明一元の生活に切り替えてゆかなければなりません。
いかに良心的に善い行為をしつづけようと思っても、守護の神霊の加護がなければ、そうした良
193神々や天使は生きている
心的な生き方は、なかなかつづけきれるものではありません。肉体人間が肉体人間としての意識だ
けでは、現在の烈しい業想念波動の中を、良心に恥じずに生きつづけてはゆかれないのです。
人間はどうしても、守護の神霊との一体観のもとに、この地球世界を平和なものにしてゆくより
道はないのであります。
人間とは、いつも私が申しておりますように、光のひびきと、業想念波動との混合したものなの
ですが、光のひびきをそのままこの肉体界にひびかせて生きている人ほど、立派で明るい生活がで
きるのです。なぜならば、光は即ち神だからなのです。
一にも二にも神の大愛を信じ、神々の守護を信じて生きつづけてゆかれることこそ、その人の幸
せというべきなので、肉体頭脳の小御才覚などは、かえって自己の本心を開発するための邪魔をし
ているだけなのであります。
神々は、肉体身がここにはっきり存在していると人々が思っている以上に、はっきりと存在し働
きつづけておられるのです。もしこの肉体界に守護の神霊の働きかけがなされなくなれば、この地
球界は忽ち破滅し去ってしまうのです。現在の地球人類の運命を支えつづけていて下さるのは、ひ
とえに、守護の神霊方のなみなみならないご加護によるのであります。この事実を私は実によく知194
っているのです。ですから皆さんも、現在どのような不況の生活におかれていたとしても、そうし
たマイナス面の生活は、すべて消えてゆく姿として、守護の神霊への感謝行の中に投げ入れている
ことが大事なことであるのです。
守護の神霊への感謝行と、世界人類の平和を祈る想い、この行為こそ、自己をも世界人類をも救
う、唯一無二のことであるのです。神の光り輝くみ姿の一日も早く皆さんの肉眼にも見える日を、
私は祈っているのですが、たとえ肉眼に見えなくとも、神々は皆さんの背後で、あるいは上方で、
一瞬もかかさず、皆さんを守りつづけておられることを、深く深く認識して下さい。
今こそ守護の神霊への感謝行で明け暮れなければならない時なのです。肉体の力などが、現在の
地球人類を救うためのいくばくのプラスになるでしょうか? 守護の神霊の救済の力が、まっすぐ
に百パーセント私たちの地球世界のために働けるように、私たちは、光明一元の想念の中で日常生
活をつづけてゆくべきなのです。
私はこの小論の中では、皆さんに、神々や天使たちは、生きいきと働きつづけておられる実在者
なのであることを、深く認識してもらいたいと、そのことのみを書きつづけているのです。
大天使たちは、あるいは宇宙人という名で出現するかもしれません。宇宙人と私たちが呼んでい
195神々や天使は生きている
る存在者は、大天使そのものなのです。どうぞ神々天使の働きかけが、最も容易にでき得ますよう
に、と私たちの世界平和の祈りがあるのです。世界平和の祈りの日常生活の中で、私たちは心を安
らかに、業想念波動にまきこまれないように、まきこまれそうになったら、すかさず平和の祈りに
切替えるように、たゆみなく訓練をつづけてまいりましょう。
地球人類世界の完全平和のために、まず私たちの想念を安心立命した、明るい安らかなものにし
てゆきましょう。それが神々への感謝行ともなるのであります。
196
生活の中の宗教
二つの道
ぶつ
宗教を求める人にはいろいろな形の人がいますが、大きく二つに分けますと、真実本心開発、仏
しようかいげん
性開顕のために求めつづける人と、現象利益のために求める、という二つであります。
現象利益のために宗教の道に入った人は、本来この肉体生活の利益を重大に思って、その利益増
進のために神仏にすがるのですから、自分の生活をなおざりにして、道を求めるというようなこと
はありませんので、現世の生活と、その人たちが想っている宗教の道とが相反するということが少
いのです。
しんせいけんげん
しかし、本心開発、仏性開顕、神性顕現というように、神仏と自己との一体化を求めてゆく人に
197生活の中の宗教
とっては、どうもこの世の社会生活というものが、道を求めるための妨げとなってくるのでありま
す。
一日の大半の時間を食生活のために使いつくし、道を求める時間というのは少ししかないのが、
普通人の生活です。ですから、道一筋に何時間もついやすということは、その日常生活にどうして
もマイナス面をつくってゆくということになります。
例えば毎日何時間かの坐禅観法をしなければならぬ、という専門的な道の求め方は、この社会で
普通の生活をしている人には、とてもできないことです。専門の宗教者が、道一筋に歩みつづけて
も、真の悟りに入れるか、自己の仏性を開顕でき得るかどうか、というほど、宗教の道というもの
は、むずかしいものです。
それを、社会における食生活に大半の時間をついやしていて、専門に宗教の道を求めている人と
同じような悟りに到達するはずがないということになります。
それは仏教の道ばかりではなく、神道でも山嶽宗教といわれる山伏の修業でも、同じことであり
ます。
宗教の道は、この世の地位や物質やその他精神の純化を邪魔するすべての物事事柄を超越した高
198
度な世界にその道の本源がありますので、どうしても地位や物質に把われる低い想念は、道を進ん
でゆく上の妨げとなるのです。
そこで、真に宗教の本質を求める人々は、自己をこの社会生活から切り放したくなってくるので
あります。地位や富を捨てて、天理教に入った、一燈園に飛びこんだ、というような話をよく聞い
たものですが、そうした道を求むるに真剣な人々の、思いきった行動なのであります。
こういう行動は、一方では美しい立派な行為だ、と思いながらも、社会の地位や富の生活に未練
のあったであろう、妻や子供たちのやりきれない気持を思うと、そのままその行為こそ良し、と素
直にその行為を是認する気にはなれません。
どこかに不調和な、不自然な感じがするからなのです。宗教の道を求めるために、いちいち自己
の地位や物質を捨てていたら、この社会生活は成り立たなくなります。宗教の道というものと、こ
の社会生活というものが、離ればなれのものであったら、社会生活を捨て切れぬ人のほうが数が多
いのですから、宗教の道というものは、次第に消えていってしまいます。
生活をはなれた宗教はない
199生活の中の宗教
現代においては特に、宗教の道が、社会生活とマッチするものでなければなりません。現代の社02
会生活の中では、生活を離れたところに自己の想いを置いていたのでは、すぐに生活が成り立たぬ
立場に追いこまれていってしまうからです。
その点で現象利益で宗教入りしている人々は真剣に道を求めている人々ほどの苦労はないのです
が、これがまた、宗教入りとは名ばかりで、神でも仏でもなんでもいいから、自分たちの現象の利
益になりさえすれば、何様でも拝むのであり、少しぐらい面倒くさい行でもするのであります。そ
の人たちの立場は、いつでも、肉体という自己の立場からなされているのであり、自己の肉体生活
の利害の立場が根本になっての宗教の道なのです。
その人たちの人生の観念は、現象利益という立揚に固執しておりまして、その立場を離れての神
も仏もないわけなのです。ですから本心が開発されることも、神人合一の境地になることも、その
立場に固執している限りはできっこないのです。ですから、その人たちの宗教入りは、本心開発に
向かってはいかないが、社会生活をこわしてしまうという恐れもないはずなのであります。
ところがこれがまた、神仏とは異なる、幽界の生物や、不良霊魂がその人たちの低い想念波動に
結びついてきて、何やかやとその人たちの社会生活をおびやかしてくることになるのです。表面上
は少しも社会生活に変化のないようにみえながら、内部面には、自己の力でもない、神仏のカでも
ない、迷いの世界の力によってその運命を支配されてきているのであります。
こう考えてまいりますと、現象利益を主にした宗教入りもよいが、それは最初の頃はしかたがな
いとしても、次第に本格的な宗教の道に突き進んでゆくようにしないと、宗教に入ったために、か
えって運命を悪くしてしまうようなことになりかねません。
真剣に道を求める人々が、次第に社会生活を離れてしまうのと反対に、現象利益の人々は現象利
益を追うのあまり、知らぬ間に、幽界の不良霊魂から借金をしてしまっているという状態になっ
て、それによって現象利益を支えている、という始末になってゆくのであります。
しかし、実際の面では、こういう両極端ではなしに、その中間にある宗教信仰者が多いのであり
まして、新しい宗教団体も多くなっているのでありますが、宗教に入りながら、神仏というものの
実体を知らない人が意外と多いのには驚かされます。
善悪混交の現象世界が、現在の姿としてあるのも事実なら、神霊世界の光明燦然たる姿があるの
も事実です。ただ、神霊の世界は永遠の生命そのものであり、実在世界そのものでありますが、こ
の肉体人間として存在する現象世界は、神霊世界の正しい光明の現われた部分と不調和不完全の闇
201生活の中の宗教
の消えてゆく姿の現れである誤った部分とが入り交じって現われているので、人類は昇華してゆく022
ことも、下落してゆくこともできるのであります。
真剣に宗教に取り組んでいる人、本心開発を目ざしている人は、ともすれば、前者の神霊の世界
のみに重点を置いて、善悪混交の現象世界を捨てて、そこからぬけ出したいと思ってしまうのです。
しかし、善悪混交とはいえ、この今日の現象世界も神のみ心が、すっかり現われきる過程の、未完
成の世界として存在するのですから、こういう世界を通りぬけずに、完全円満な現象世界に到達す
るということはあり得ないのですから、誰しもこの世界の生活の中で、神仏のみ心を現わしてゆか
なければならないのです。
人間はみな神の分け命であり、仏性をもった存在です。しかし、いくら神の分け命であり、仏性
をもった存在であっても、実際の生活の中で、その光明を現わさなけれぽ、なんにもなりません。
この世は汚いといって、この世の生活を逃避してもいけないし、この世の汚れを浄めようともしな
いで、汚れを積み重ねてゆくような生活をしてもいけないのです。
両者共に、神のみ心に叶わぬわけです。神様は、この世の生活の中で、置かれた立場に即して、
神のみ心を現わしてゆく、ということを願っておられるのですから、やはり、宗教信仰も、生活即
宗教でなければならないのです。
法然上人の偉大さをしのぶ
その点、鎌倉仏教以来の、念仏の唱名方法は実に生活に即した、宗教を生活の中に生かした宗教
ほうねんしんらんばっ
だと思います。法然、親鸞というのはやはり偉い人です。特に法然の偉さは抜群であります。
今日では、古代からの宗教や哲学理論を突き進めて、神というのは、創造主であり、すべてのす
べてであり、天地に遍満している大智慧大能力であり、すべての生命の源である。大生命でもある。
そして、人間各自の内部にも存在している。というような哲学的な理解もできるのですが、法然時
代の大衆というのは、こんな理解力などとても望めない、学問知識の貧しい人たちの集団です。
ですから、法然上人は、その頃の宗教学の奥義を極めるほどの大学者なのですが、いかにして、
ぎきん教
戦争や飢鐘に悩みつづけている大衆を救うことができるか、と苦悩していたのであります。宗
の
大衆はむずかしい学理などではとても救うことはできません。やさしく入り得て、実行しやすい艸
教えでなければなりません・法然さんは日夜大衆の救済を念願しながら・その道を懸命に見出そう蠕
としていたのです。03
2
真理を見出そうとして、比叡山に登ってくる学僧の大半は、学識は得ても、心の満足は得ず、じ04
2
っと辛棒して、地位を得て満足するか、満足し得ずに下山してしまうか、偽善的な生活に甘んじて
しまうかしていたのであります。
にん
法然さんは、ある時、阿弥陀経、無量寿経をみていて、練然として悟ったのであります。南無阿
弥陀仏の唱名にすべてを投入する、という易行の道をです。それまで頭脳に積み上げてきた彪大な
宗教学を、すべて捨て切って、ただ単純素朴に、南無阿弥陀仏という、六字の名号に統一しつづけ
て生活してゆく、という道を率先して実行していったのであります。百万べんの念仏と法然さんは
いっております。
苦心惨胆して勉学してきた学問のすべてを捨てきって、素朴そのものの唱名生活だけに生きる、
ということは、ふつうの学者では、とてもできることではないのですが、法然さんは平然としてや
りとげたのであります。
法然上人ほどの偉い学者さんが、この道が救われの道だ、とすべての道を捨ててご自分から率先
してやられるのだから、間違いあるわけがない、と人々は想ったのです。法然さんのそれまでの学
問知識が学問知識としてではなく、人格そのものとして人々のためになったわけです。
ですから、やはり学問知識を充分につけておくということも、必要なことなのです。たとえその
学問そのものが役立たなかったとしても、学問をしてきたという、その気持が、その人の人格の一
部を形成することにもなるのであります。近頃の青年は、学問をすることが主ではなく、学歴をつ
けるということを主にしています。良い学歴をつけて、良い就職をして、という、形の世界ばかり
に気を取られているようですが、学歴をもたなくとも、実際に学問をしている人はやはりその学問
をしたことがその人の人格形成に大いに役立つということになっています。
したがって、その人は社会的にも自然に良い地位をしめるようになります。田中首相などそのよ
い例です。作家などには、学歴はないが学問はある、という人がずいぶんおります。現代の青年は
そのことを充分認識することが必要です。
法然さんにつづいて親鸞さんの真剣な念仏行があります。親鶯も法然につづく学者僧です。親鶯
さんなどは正に法然上人の人格にひきつけられ、善き師の仰せなれば、たとえ地獄に落ちても可な
り、というように法然上人の人格の高さを畏敬して念仏一念の生活に入っていたのです。
せき
学識豊かな碩学の人が唱名による救われという、易行道に専心していったのは、日常生活そのま
までの救われ、という宗教の道が、自分たちの今日までやってきた、社会生活を離れた宗教の道で
205生活の中の宗教
はなし得ない、大衆救済の道であることを、体験として知ったからなのであります。
206
唱名唱題のカ
法然、親鸞につづいて、今度は唱題の道による宗教の在り方を行じはじめたのが、日蓮でありま
す。日蓮のは法然、親鸞の念仏のように、罪悪深重の几夫が、西方極楽浄土に住む、阿弥陀仏の慈
悲によって救われる、という内容の唱名と違い、われわれは薙華のように花闇いて、神(妙) の法
則(法)を行じている者である、神仏と一つの者である、という内容をもった南無妙法蓮華経であ
りますので、その唱題のリズムは高揚したものになっております。
念仏のリズムと題目のリズムとはおのずとその内容を現わしているのですから、リズムというも
のも不思議なものです。
しかし、唱名も唱題もともに短い言葉で、唱えやすいことには変りありません。正に大衆の入り
やすく、統一しやすい、易行の宗教形式であります。こうした方法こそ、生活に即した宗教という
べきなのでしょう。
短い言葉を唱えて統一する方法は、確かに種々の雑念をはらって、唱えごとの中に入ってゆきま
す。坐禅のように、一定の場所や一定の時間を必要としませんし、むずかしい技術といったものの
必要もありません。念仏などは静かな唱名なので、どこにいてもできます。これがいつの間にか、
葬式念仏になってしまったのは困ったものですが、今でも老人や、浄土門に縁の深いところの人た
ちは、なんにつけて念仏の唱名はしています。しかし家が浄土門の人であっても、若い人たちは、
恥ずかしがって、めったに念仏を唱えることはしていません。念仏は口に出さなくとも、心の中で
かかさず唱えていることがよいのであります。なぜかと申しますと、潜在意識に阿弥陀仏との一体
観を植えつけてゆくとともに、つまらない業想念の転回が次第に薄くなってゆくからです。
人間の心というものは、表面に浮び上がっている想念意識だけでなく、底にひそんでいる潜在意
識というものが大事なのでありまして、この潜在意識を、神のみ心と一つの光明波動にしておけば、
表面の意識はおのずから、明るい幸福をつくる意識になってゆきまして、その行為もつねに幸福を
教
つくる方向にと向って行くのです。要は表璽、識の幸福をつくる想念と、潜在意識とが一つになっ媒
ていれば、人間は誰でも運命がよくなるのですから、潜在意識に幸福になる、運命をよくする種を卿
活
植えつけておかねばならないのです。生
そういう意味で、阿弥陀仏と一体になる、念仏はつねにつねに唱えつづけているのがよいのだと”
いうわけです。キリスト教などでも、イエス様やマリャ様の名をつねに呼んでいるようです。キリ082
ストにつながっていることが、自分たちの幸福になると想っているからなのです。そしてキリスト
教では、仏教のように内面的な修業というのではなく、人のために、社会人類のために少しでも善
いことをしてゆこう、という善行為の実践に重きを置いているのであります。
おちいりやすい偽善のわな
ところが、なかなか自分の生活を守ってゆくだけで大変な世の中ですから、他人のためにしてや
りたい、社会のためにつくしたい、と想いながら、つい自分たちの家族のことが先になって、他へ
の善事ができず、自分を責めたり、他にいいわけしたり、善事をしているような顔をして世間に対
したりして、心のすっきりしない日々を過している人々もかなり多いのです。善い人たちなのだが、
自己を他への犠牲にはできない、という一般型の人たちなのです。ただこういう人たちが困るのは、
だまだま
偽善ということです。できなければできないでよいのに、自分の心を騙し、人を騙してしまう。自
分が善人であり宗教信者である、ということを、なんとかして、自分に納得させ、人々にもそう想
わせようとする。そういう態度が、一番悟りから自己を離してしまう態度なのです。いいかえれば、
一番宗教的でない態度なのです。
これはキリスト教ばかりでなく、宗教をやっているという人に多い状態で、心でやっていないの
に態度だけは善いことをしているようにみせかける。こんな癖がつくと、霊界へ行ったときに、ほ
んとうに困ってしまうのです。
いつまでたっても、明るい実在の世界にゆかれない心の状態になってしまうからです。善いは善
い、悪いは悪い、できなければできない、とはっきり自他に知らせて、それで悪ければ善い方向に
向う努力精進をし、できなければ、できるだけのことに全力をつくすか、できるように精進してゆ
くかして、つねに正直に自分にも他人にも、自分の真実の値打ちを知らせて生きてゆく、というこ
と、いわゆる裸の心になっておくことが、肉体離脱後の世界では大事になってくるのであります。
自分で、私はこれだけのものでしかありません、といっても他人がそれを真実にしないで、買い
かぶってくるのは、これは自分の罪ではないので、しかたがありません。それをも悩む必要はあり
ません。
唱名と唱題のリズム
2Q9 生活の中の宗教
というわけで、念仏や、お題目や、キリスト教などの在り方は、生活に即した宗教なのですが、10
2
なお一歩、生活の中の宗教というものの歩みをすすめますと、現代に即した宗教ということが必要
になってきます。
宗教が社会生活をはなれてあることは、感心したことではありませんから、唱名方法のような生
活の中の宗教がよいことになります。といっても、人の資質によって、辛いことやむずかしいこと
を踏みこえてゆくことによって、精神が向上する、という人もありますが、これはやはりその人個
人のことであって、家族の人にとっては、家族を困らせるような宗教信仰では、あまり感心して賛
同することはできない、ということになります。
そこで易行道の唱名方法ですが、これは昔からの宗教で、葬式念仏のようになってしまっている
ので、若い人が今日の宗教として受け入れにくくなっています。法然を慕い、親鸞を尊敬する気持
は充分にあっても、唱名念仏ということの、日々実践となると、二の足を踏む、というのが、いつ
わらざる実情であろうと思います。私など母がつねに念仏を唱えていましたし、もう老年の組に入
れられそうな年輩になっていますので、なんの抵抗もなく唱名念仏ができますけれど、今の若い人
はそうはいかないと思います。お題目となりますと、これは心の中で唱えるというには、あまりリ
ズムが高揚しておりまして、どうしても声高々と唱えずにはいられないようなひびきをもっていま
す。
それもそのはず、自分は仏である、という意味の唱題なのですから、そうなるはずです。しかし
この唱題は、日蓮上人が、時の政府を相手にして命がけで立ち向ったいわゆる闘志満々で唱えたも
のなので、そのひびきが今日までも伝わっておりまして、お題目を唱えると、非常に勇気が湧き上
がってくると同時に、何かに対する敵対感情のような、闘争心のような想いが湧きでてくるのです。
そこで、宗教本来の大調和のひびきというものが、どこかに消されていってしまう恐れがあるの
です。ですから昔から武士の間や軍人などの間にこの題目がはやったのであります。軍人などには
もってこいのリズムをこの題目はもっているのであります。
阿弥陀仏に救っていただくという念仏と、自分は仏である、というお題目とではこんなリズムに
教
相違がありますが、仏になってもいないものが、自分は仏である、というような唱えごとをするの宗
の
ですから、私はお題目を唱えるときには必ず、守護の神霊の加護を願いながら唱題しなさい、とい帥
活
うのです。そうでないと、迷っている霊魂や生物が、仏様が救ってやるといっているから、みんな生
あのリズムの中に入ろう、というように、お題目を唱える人のところによってきます。そこでお題鋤
目を唱える人たちが霊がかりになりやすかったり、平和な穏やかな心で生活をすることができなく122
なったりするのです。お題目を両匁の剣ともいえると思います。
現代の唱名唱題
そこで私は、現代には現代の唱名方法があると思ったのです。それが世界平和の祈りの生まれた
一つの原因でもあるのです。
世界平和の祈りは、毎度申しますように、誰でもが当然のように思わずにいられない、「世界人類
が平和でありますように」という言葉を祈り言葉として、日常茶飯事、寝ても醒めても、唱えつづ
けている、ということにしたのです。世界平和ということは、大神様のみ心そのものであります。
人類をこの地に生みなした大神様が、人類の平和を願うのは理の当然であります。その大神様のみ
心に合わせて、こちら側から人類が、平和でありますようにと祈るわけですから、おのずと、神我
一体の祈りになってゆくわけです。
この世界平和の祈りを、唱名念仏のように私どもは唱えつづけることをはじめたのです。この祈
ごと
り言は、老人でも若者でも子供でも一読意味のわかる、なんの抵抗も感じない言葉です。この祈り
は日常茶飯事、そのままでよいのですし、なんの形式もありません。ただつねにつねに心の中で想
いつづけることが大事なのです。
なぜかと申しますと、つねにつねに祈りつづけることによって、潜在意識に神のみ心である平和
の光明のひびきを積み重ねてまいりますので、ついには、潜在意識の一番奥底にある神のみ心と、
表面意識から入っていった平和の祈りのひびきとが、全く一つになって、祈っている人は、いつの
間にか、神我一体の人となってゆくのであります。
これはなんの苦行も、なんの修業もいらず、ただ、たゆみない平和の祈りによって、自然とそう
なってゆくのでありまして、全く生活の中の宗教ということができるのです。人間は本来、神の分
け命なのですから、完全円満でなければならないのに、なぜ完全円満でないかといいますと、物質
体である肉体波動というものと、神の分け命である霊波動というものの、ひびきの差はあまりにヘ
カルマ
だたりがありすぎて、そのゆがみが、業となって、不調和不完全の姿を現わしているのです。です
からつねに、この人間の不完全、不調和の波動を、神のみ心の中で是正してもらっておけば、本来
の完全性がこの世の生活に現われてくるのです。その方法が祈りなのです。要は本来性の神のみ心
を、肉体身のほうに現わせばよいので、そのための様々の宗教方式があるのです。私はその方法を
213生活の中の宗教
易行道の唱名と同じように、唱えごとを通して、神のみ心をこの世に現わしてゆこうとしているの
です。
世界人類が平和でありますように、こんなわかりやすい祈り言葉がどこにありましょうか。あん
まりわかりやすく、当然でありすぎるために、誰もこんな切実な言葉を祈り言葉に高めあげてゆく
ことに気づかなかったのです。
ここに気づかれた方々は、ぜひとも、この世界平和の祈りを行じて下さい。唱名念仏やお題目と
一緒におやりになっても結構です。
214
宗教信仰の姿勢を正しく
信仰者の欠点
個人個人が宗教の道を誤ちなく進むにはどうしたらよいか、ということについてお話ししてゆき
たいと思います。
宗教の道に入っているというのをききますと、〃ああいいことをしていらっしゃる。その人はよ
い人にきまっている” と思うような人々と、〃宗教やってるって、どうせ知性のない人にきまって
いる。つき合いたくもない〃という人々とがあるものです。
宗教の道に入っている人の多い反面、宗教を嫌う人というものもずいぶんとありまして、宗教と
いうだけで、もう嫌な顔をして、首を振る人がおります。どうしてこう宗教というものを極端に嫌
215宗教信仰の姿勢を正しく
う人がいるか不思議に思うことさえあります。それは、いったいその人たちが間違っているのか、126
宗教そのもの、または宗教をやっている人々のどこかに人に嫌われるものがあるのでしょうか。こ
んなところからひとつ、宗教信仰の在り方というものを考えていってみましょう。
宗教信仰者の一番の欠点というものは、自己の信ずる宗団宗派というものに凝り固まってしまっ
て、独善的であり、他の生き方を少しも受けつけようとしない、というところにあります。これは
勿論全部がそうであるというのではなく、そういう人がかなり多いということです。
万教帰一といったり、和顔愛語ということをモットーとしていたりしましても、それは単に表面
上だけのことで、内心では、自分たちのほうをずっと上位に置いて、他に対する、といった、自分
たちは真理がわかっているけれど、あなた方はわかっていないのだ、という、そういう精神的高慢
さにおいて、他と話をしている、という場合が多いのです。
宗教に入っている人同士が話し合っている時には、お互いに自己の宗教宗派の話を聞かせようと
しているだけで、相手の話を聞こうとする気持は非常に少いわけです。ちょうどおしゃべりの奥さ
ん同士が、先手を取り合って、しゃべりまくっているのと同じような工合です。
それが相手が無信仰の人である場合には、興味もないお道の話を長々としゃべりまくられてはた
まりません。二度とその人には会いたくなくなります。
あなた方より私のほうが精神的に秀れているのだ、というような雰囲気を感じさせられると、そ
れだけでもう相手は反発感を抱きます。
宗教の道というものは、教えを頭で知ったからといって、その道に達したわけではなく、教えを
行為にうつした時に、道に乗ったというわけなので、特別に宗教の道というものをきかなくとも、
その人の行為が神のみ心である、愛と調和に叶っていたら、その人は立派な人というわけなのです。
それが、口だけでは偉そうにいいながら、その行為がなっていなかったら、その人は偉そうにし
ゃべっただけその人格はマイナスされてしまいます。
要するに、その人が神のみ心に叶っているか、人格が立派であるかということは、その人の日々
の行為によって計られることであって、話がうまいとかまずいとかいうことではないのです。
宗教信仰はなんのために必要か
宗教信仰がなんのために必要かというと、自己の人格が神のみ心にまっすぐにつながり得るよう
になるためが第一のことなので、病気が直るとか貧乏から脱し得るなどということは第二のことな
217宗教信仰の姿勢を正しく
のでありますが、この世の人間の弱さで、病気や貧乏や諸々の災難から一家一族を逃れさせ給え、18
2
という気持で宗教信仰入りすることが多いわけですが、これはこれでよいのであります。
しかし宗教信仰に入ってからの心構えというものが大事なのです。
それは、神のみ心にまっすぐにつながり得ることによって本心が開発され、病気や不幸災難から
脱却することができるのである。ということなのでありまして、自己の本心開発を後廻しにして、
現世利益だけを得ようとする、そういう信仰態度では、唯物論者と少しも変わらず、かえって他へ
の依存心があるので、精神的進歩が遅くなる恐れもあるのです。
何も真実のことがわからず、神様だ仏様だといって、神社仏閣に詣ったり、宗教団体に入ったり
している人がずいぶんとありますが、いったい神様というのは、どういう実体なのであり、仏様と
はどういう存在なのであろうか、ということを深く考えることをしないのは不思議な心の状態です。
自己がすがっている本体が、どういう状態の存在者なのかがわからずに、ただいたずらに現世利
わら
益があるからといってお詣りしているなどは、知性的な唯物論者にとっては、ほんとうに鼻で畷いた
くなるようなものでしょう。このへんが、宗教嫌いの人々を生み出している一つの原因でもある
のです。まして、独善的宗教論を、学問知識のない人々が、口角泡を飛ばしてわめき立てたりして
いたら、知性的な人々は、ますます宗教嫌いになってゆくことでしょう。
神の実体と仏
ここで私どもが説いている神の実体と仏ということについてお話してみましょう。
神というのは、ふつう、一なる宇宙神のことをさしていっているわけですが、この宇宙神という
のはどういうことかと申しますと、大宇宙全般を統一し動かしていられる大生命の原理であり、大
自然の実体であるわけです。生きとし生けるあらゆるもの、この世もあの世もあらゆる世界に存在
するすべてのものは、みなこの原理の中、実体の中から生まれ出でているのであります。
ですから万物神によりてならざるはなし、ということになります。人間はその大生命から分れた鼠
正
小生命であるわけですか巨人間にとって宇宙神を人格的にみれば、大懇という.」とになります。幾
ところで、この一なる宇宙神、大親様にすぐつながりを持てるほど、地球人類というものは、進吸
歩したものではないので宇宙神から人類に至る・その中間に直姫奄あれば守護神群あり、守護霊、儲
教
つまり天使とか菩薩とかいう神霊の存在があるのでありまして、こういう神霊の力が人類に働きか宗
けてくることによって、宇宙神、つまり大生命原理とのつながりがまっすぐになり、近くもなるの㎜
であります。20
2
すえ
ですから、神というのは一神でもあり、多神でもあるのです。そしてその神々の末が人間である
わけです。こういうふうに考えてまいりますと、宗教信仰者が、何々の神といって、各自祈りのご
本尊が異なっていてもよいことになりますが、そこのところがはなはだ面倒でむずかしいのです。
なぜむずかしいかといいますと、そこのところから宗団宗派の対立抗争が生まれてくるからなの
です。これを仏教的にいってもキリスト教的にいっても同じことでありまして、宇宙神- 釈尊と
こうきても、釈尊から後の宗祖になってきますと、これがまた宗派争いになってくる。もう今日で
は同じ日蓮宗でも各宗派があって、相競い、相争っているような状態であります。
キリスト教的にいえば、イエスを通さなければ救われることがないというような教え方をしてい
る。これでは他宗のものが承知するわけがありません。
ですから神様といういい方も、基本的なしっかりした宗教観念がないと、オマンダラやお札や唱
え言の相違で、せっかく神仏においては、一つにつながっている人間たちが、宗教宗派があるため
に、かえって相容れない垣をつくってしまっている、ということになります。
どの宗祖でも、いずれも真如の月を指差しているのですから、それが左手であろうと右手であろ
うと、人差指でも親指でもよいのですのに、右手ではいけない、左手ではいけないというように、
肝心の真如の月、つまり神仏のみ心のほうにむかないで、枝葉のほうにばかり想いをむけている。
それでは宗教をやっていることがなんにもならなくなってしまうばかりでなく、自己の心の自由自
在をかえって縛ってしまう結果になってしまいます。
一神か多神か
そこで、神は宇宙神という、一神による宗教のほうがよいかと申しますと、一神観では、神の人
類救済という面をとりますと、宇宙の法則ということがなり立たなくなりますし、神は宇宙の法則
ま
である、というほうをとりますと、法則を曲げることはできませんので、個人個人の救済とか神の
赦しとかいうことは成り立たなくなります。
もっとやさしくいいますと、神が宇宙の法則そのものであるといたしますと、個人個人の願いに
よって、その法則を曲げてその個人の願いを聞きとどけてやる、というわけにはゆきません。そん
なことをしていたら、宇宙の法則というものが成り立ちません。
ですから太平洋戦争の時のように、米英側も日本側もともに神に必勝祈願をしたわけですので、
221宗教信仰の姿勢を正しく
神は日本の願いを聞きいれず、米英側の祈りをききとどけられて米英側に勝利をもたらしたのか、2
というと、そんな不公平なことを神がなさるわけがありません。
神の法則は法則としてそのまま動いていたのであり、富とか物質とかいう、この世を支配する力
が、その勝敗を決したわけであります。
神の法則というのは、大調和の法則でありまして、つねに調和にむかって進んでいるのでありま
して、調和を損い、調和を乱す想いはつねに消し去ってゆくように働いているのです。
太平洋戦争なども、各国の宇宙調和を乱していた想いの波が、戦争という形になって崩れ去って
いったわけなので、物量の少なかった日本が形の上では敗けてしまったことになったのです。それ
だけ日本の業想念波動は浄められたということになります。
ですから自国を勝たしめ給え、相手を滅ぼし給えなどという祈りを、神がきいてくださるわけが
ないので、宇宙世界の調和を破ったり、自分勝手な望みを託したりする祈りを、宇宙神がきいて下
さらないことは当然なことなのです。
ただ、宇宙神が願いをききとどけられたという形になるためには、その人やその国の願いが、宇
宙法則の大調和波動と一つひびきをたてた時に、はじめてききとどけられた形になるのであって、
宇宙法則を曲げて、個人や国家の願い言をききとどけて下さることは、宇宙神としては絶対にない
のであります。
ところが個人にしても国家にしても、なかなか宇宙法則の大調和波動に乗ってゆく祈りができな
もとつみたま
い。そこで宇宙神の救済の光明として、人類の元霊である直霊の光明を分け各守護神として、人
類世界の救済にあたらせたわけであります。
助けて下さるのは守護の神霊
ですから、人々が私を助けて下さい、救って下さい、とお願いしている神々は守護神なのであり
まして、守護神なくしては、人類の救済は成り立たないわけなのです。そこで、いかなる立派な人
格の人がいても、それが無神論者、唯物論者である場合には、その人たちに、国家や人類の運命を
任せて置くわけにはゆかない、ということになります。なぜならぽ、その人たちは守護神の救済
波動など欲っしていないから、守護神がその人たちを通してでは、人類救済の光明波動を送ること
ができないので、いつかはその人々を第一線から遠ざけてしまうことになります。
また、守護神の中には、個人個人の救済を主として働く守護神もあればそうした守護神によって
223宗教信仰の姿勢を正しく
昇華されて守護霊となった神霊もありますし、国家を護り、人類を護るのを主としている守護神群242
もおります。
私どもが救世の大光明と呼んでおりますのは、人類を護る守護神群のことであり、個人個人が、
世界平和の祈りをすることによって、その個人の守護の神霊も、救世の大光明の仲間入りをして、
人類救済の仲間入りをして働くことになるのであります。
そういたしますと、それまで、単独で個人救済にあたっていた守護神、守護霊が、人類救済の大
光明の大きな光明力と一つになって、ことにあたれば、いつでも、救世の大光明の大きな救いの力
を流し入れてもらえるということになり、個人も得をし、人類全体としても、一人でも多くの人の
協力を得られたことになり一挙両得というか、個人人類同時成道ということになってくるのです。
こういうようにして、一神即多神の原理が成り立つのであり、実際上の役にも立ってくるわけで
あります。
ですから、各自が何々の神、何々様というように、わけもわからず、神社仏閣を詣でたり、何々
教団に入るよりも、まず自己を専属で守って下さっている守護の神霊への感謝で日々を送り、自己
の本心の開発を助けていただくよう、つねに守護の神霊と想念波長を合わせていればよいので、こ
れは先祖への感謝とか、祖父や祖母が守っていてくれる、というような親近感で想いつづけていて
よいのです。
そういう日常生活をつづけて、自然に動く方向に自己の運命を向けていれば、各自の守護の神霊
に、必ずその人々を本心開発の道に導き入れてくれるに決っているのです。それが、その守護の神
霊の役目であるからなのです。
人間はつねに一人で生きているのではありません。瞬時の隙なく守護の神霊に守られつづけて生
きているのです。それをしっかり心に入れて、いつも明るく勇気に充ちて生きてゆくべきなのです。
こういうことが、真実にわかって生活していますと、他宗を排するとか、何々主義にこだわるこ
ともなく、人それぞれ各自の生き方によって生かされているのだなあ、という大きな広い気持にな
ってきます。みんな守護神さんがよいようにやって下さっているのだなあ、という楽な気持で、自
己の生活に全力が挙げられるようになるのです。
私の宗教というのは、楽に自然に宇宙神との一体観を会得させようというのであり、その仲立と
して、直接指導老として、守護神、守護霊の援助を願うわけなのであります。すべての運命を守護
の神霊への感謝行の中に入れきって生きるわけです。守護の神霊は肉体人間よりはるかに、その人
225宗教信仰の姿勢を正しく
ま
の善く生きられる道を知っておりますので、任かせるほうがよいにきまっているのです。任かせき26
2
って、その場、その環境で、充分に自己の能力を発揮するよう努力すればよいのであります。
きまはず
お任かせだ、お任かせだといって、少しも自分の努力をしないようなのは、もうすでに常識を外
はずこ
れているのですから、私のつねに教えている常識を外れず常識を超えてゆくというのと違ってくる
ので、うまくゆかないことになります。
何事にも真剣に努力するということが、人間の最初の生きてゆく条件でありまして、なまけてい
て成果を得ようなどというのは、宗教の道以前の想念であります。
世界平和の祈りがご本尊
私たちの宗教の御本尊は、人類の大目的である世界平和を成就するための、世界平和の祈りなの
です。自分は気づかずともつねに守護の神霊に助けられている感謝の想いを、祈りにまで高めあげ
て、今度は人類愛の想いという広い範囲にひろげて、世界人類が平和でありますように、という祈
り言にしていったわけなのです。
世界人類が平和でありますように、この言葉は、宗教をやるもやらぬもなく、世界中の人々が、
なんの抵抗も感じずに世界の合言葉にできるものです。この祈り言には宗教争いをする何ものもあ
りません。
こういう合言葉ができて、はじめて多神が一神になり、世界が一つの目的にむかって進んでゆけ
るようになるのです。相対する側の善悪は問いませんが、一方が他方を攻め滅ぼしたとしても、そ
の思想が根絶されるわけではなく、恨みの想念波動が倍加されて強まってゆきます。やがてまたな
カルマ
んらかの形で盛り返して、攻められたほうが復讐をすることになります。これは業の法則で、眼に
は眼を、歯には歯をというわけです。
こんな勝利はほんの一時の勝利で、真実の平和への道でないことは明らかです。滅ぼした側は必
ずいつか滅びます。誰がどのように抗辮しようと、自然の法則には勝てません。たかだかわずか一賦
正あんのん
時の安穏を得るために、多大の犠牲をはらい、殺りくをおかして得た成果は、より大なる恐怖となを
勢
って勝った側にのしかかってくるのです。暎
真実の平和は、真実、平和一念の人々の手になるのであって、戦いをもって平和をつくろうとす訓鞠
る人々の手になることはありません。世界人類が平和でありますように、この合言葉のゆくところ、宗
敵を認める想いも、戦いの想いもありません。世界中の想念波動を、平和という光明波動一念にし卿
てゆくのであります。
228
心の重荷をおろす
さて、私の教えの中には、この世界平和の祈りという大眼目とともに、消えてゆく姿というのが
ゆる
あります。この消えてゆく姿というのは、赦しの言葉そのものでありまして、他の宗教の教えで自
他を責めつづけていた人々が、からりと救われて心の重荷を降してしまうのです。
それはなぜかと申しますと、宗教の教えではどうしても、どういう想いが悪い、どういう行いが
悪い、というように、自己の心の中を探り出して、悪をえぐり出します。そして改まって想念行為
にしてゆこうといたします。
この想いが悪い、この行いが悪いというように指摘して、善い行いに変えてゆこうとするわけで
す。ところが、長い習慣の想いや行いは、直そうと思ってもちょっとやそっとでは直ってゆかない
のです。そこで、いつも自分は悪い自分は駄目だというように、宗教の教えをきいたばかりに、自
己を責め裁きつづけて生きているような、いわゆる善い人々がおります。
こういう人たちに、あなたの悪いような想いも行いも、他の人の嫌な態度も、すべて、過去世の
因縁の消えてゆく姿であって、今のあなたが悪いためではない。すべての想いも行いも病気も不幸
も災難も、過去世の因縁の消えるに従って、明るくなり善くなってゆくのだから、その消える姿を、
祈り心で世界人類が平和でありますように、私どもの天命が全うされますように、という世界平和
の祈りの中に入れきって生きてゆきなさい、というようにその人々を責め裁くことを一切しないの
です。
そういたしますと、その善い人たちは、自己が悪い悪いと思っていたそういう把われから解放さ
れまして、一挙に明るい性格になってゆくのであります。だいたい人間は神の子であって明るく陽
気であるはずなのです。それを宗教をやったばっかりに、暗くなり、心が狭くなり、不自由な心の
状態になってしまったのでは宗教などやらなかったほうがよかったくらいです。宗教をやったため
に自他を責め裁く想いが強くなったり、偽善的になったりしたのでは困りものです。
そういう心の状態が、この消えてゆく姿という教えで自然と解放され、命が生き生きとしてくる
のです。信仰が人の命を自由に生き生きとさせたわけです。宗教というのはあらゆる把われから自
げだつ
由な心に解脱させるためのものでありますので、宗教をやって把わ治が多くなったり、心が狭くな
ったりするのは、どこかその人のやり方が間違っているのです。
229宗教信仰の姿勢を正しく
野狐禅におちいるな
230
ところが、この消えてゆく姿の教えにしても、自分の都合のよいように解釈してしまいますと、
これが消えてゆかないことになり、本心開発のためのものとはならなくなってしまうのです。これ
やこぜん
は禅宗の野狐禅といわれる状態と同じように、把われさえしなければ何をしてもよい、酒を飲もう
が、女と遊ぼうが、どんなことをしてもよい、というようになり、日常茶飯事の行いも粗雑になり、
てん
つねに大言壮語して歩き、それで、悟として恥じず、反省するということが一つもなくなってしま
うのです。
らい
こういう態度の反面だけみていますと、豪放石扇落にみえて頼りある大人物に見えたりします。と
カル ヤ
こ ろが、これが非常に危険な状態でありまして、それこそ業波動のよいオモチャになってしまうの
です。
その状態が、うっかりすると消えてゆく姿の中でも現われてきたりするのです。なんでもかでも
消えてゆくんだという自分の都合のよいようなやり方をしていますと、いつの間にか反省というこ
とをすっかり忘れ果ててしまうのです。
消えてゆく姿というのは、いつも申しますように、今まで自分のしていたことを悪いことだ、間
違っていたのだ、また他の人のこともそれは悪いことだ、誤りだという悔い改め、反省があって、
はじめて消えてゆく姿になるのであって、そういう悪や誤りを消えてゆく姿だからよいのだと、是
認していたのでは、その想念行為は、その人の心にとどまってしまって消えてゆく姿とはならない
のです。消えてゆく姿には、つねに、再びそういう想いは出すまい、そういう行いはすまい、とい
う決意があって、自己否定があって、はじめて祈りの中で消え去るのです。それを間違えますと、
こ
野狐禅と同じ状態になってしまうわけです。なんにしても永遠の生命を得ようとする道が、どんな
易行道にありましても、自己の心を深くみつめる修行をしないで、自分の好き勝手なことをして、
ふわふわと生きていて、達せられるものはありません。そんな宗教の道はどこにもあるものではあ
く
りません。もしあったとすれば、それは低級な現世利益の道でありまして、後には大きな悔いを残
すことになるのです。
私どもは真剣に消えてゆく姿をみつめ、世界平和の祈り一念で、本心開発をもとめ、真実の自由
自在心を得てゆきたいものであります。
231宗教信仰の姿勢を正しく
232
人類の本質を離れてはならない
命における兄弟姉妹
人類は神の分け命である、ということは、今更改めていうまでもないことなのでありますが、こ
の事実を認めない人や、この事実から心を離そうという人の多いのは、不思議な現象というべきで
す。
神という言葉の嫌な人は、大宇宙と呼んでも、大自然と呼んでも、大生命と呼んでもいつこう差
し支えありませんが、人類がもっている知恵能力は、ただ単に物質的に見える宇宙とか、自然とか
いうだけでのものから生まれてきたというのでは、割り切れない疑問が起ります。
人類のような、思考力、創造力のある生物が、単なる物質的要素しかもたない宇宙とか自然とか
いう、その中から生まれてきた、ということで納得できるものではありません。
宇宙自然の要素を科学的な言葉が、各種の宇宙線と呼ぼうと、原子、電子、微粒子、素粒子と呼
ぼうと、蛋白質や炭素、水素、窒素その他種々の元素の集合したものからできたものだといおうと、
その奥底に働いているものに大智慧大能力なくしては、この大宇宙が秩序整然として運行をしてい
たり、小宇宙ともいうべき人類が、今日のような文明文化を開発してきた智慧能力ある存在として
あるわけがありません。
こういう智慧能力をもった生命エネルギーの根源の存在を、私たちは大生命とも呼び、神とも呼
い
んでいるのであります。ですから人間は神を否定しようとしても、その人自体は神の大生命によっな
ら
て生かされ存在しているのであって、神からの生命要素の配分がなければ、一瞬たりとも、人間と臆
いう.」うした存薯として生きているわけにはゆかないので究歓
ゆぬ
もっとはっきり申せば、人間の本体そのものは、神の大生命のみ心の中に存在しているのであり、腋
璽筋の器光線とでも馨窪のであ-寄です食い轟を否定してみたところ論
それは単に一つの場所として、朧どして存在している肉体の中の想念が、無いとか、迷信だとかい購
っているだけであって、その人自体の本体本心は、厳然として神の大生命、大光明の中で、神のみ㎜
心の中で働きつづけているのです。342
神というと、すぐに人間の肉体の形に結びつけて、個体化して考えようとしますが、そういう形
で現われられることも勿論ありますが、神とは大宇宙にみなぎり、ひろがっている大智慧、大能力
そのものである生命(創造) エネルギーといってもよいし、小は電子、微粒子そのものから、大は
宇宙くまなくひろがっている生命の原理ともいえるものであって、その奥深い微妙な生命の根源か
ら、ずっと波動の粗雑になっている肉体という場にいたるまで、幾つかの体をもって私ども人間は
存在しているのであります。
そして、いまだ進化していない地球の多くの人々は、人間とは肉体としての存在だけだと思って
いるのです。ところが私どものように、いろいろの方法にょり、肉体人間観を離れた修業によって
大生命の本源にまで昇ってゆき、真実の自我、自己の本体というものと、肉体意識としてあった自
己というものとの合体を成し遂げたものにとっては、この肉体というものが真の自我の一つの働き
揚として、器としての存在であることが、はっきりわかっているのです。
こういう境地になりますと、今までは頭の中で、単に宗教的な言葉として、人類はみな生命にお
ける兄弟姉妹である、と観念的にだけ想っていたことが、真実であり、ゆるがすことのできない事
実であって、こういう観念が絶対に必要であることが切実にわかるのであります。
肉体は地球開発のために存在する
人間というものが、肉体的に個々にバラバラに存在しているもの、ある集団と集団、国家と国家
おか
というものが、個々別々の利害関係にょって成り立っていて、自己や自国のためには他の生命を冒
しても差し支えない、という想念のあるうちは、人類の進化はここで行き止ってしまって、これ以
上の進化はなく、かって大西洋の底に沈んでしまったアトランチス大陸のような結果を、再び起こ
す破目になってしまうものであることが、当然に予想されるのです。
神の眼というより、人類の本体本心からみれば、肉体という存在は、物質的地球の開発のための
一つの器であり、場であり、道具にすぎないものなので、その場や道具や器が汚れてしまったら、
その道具や器を・取りかえるか、その場の浄めを行わなければなりません。
大神様は生命の法則であり、原理であって、別に人間自体に罰をあたえたり、こらしめのための
痛い目にあわせたりすることはありませんが、その人間自体が、自己の生命の働きをすみやかにす
るために、自己の肉体や幽体についた汚れを浄め去ろうとするのです。それが病気となり、貧乏の
235人類の本質を離れてはならない
状態や不幸、困難の状態を現出させることとなり、人間の本体のほうからみて、もう肉体という道326
具や器が、これ以上使いものにならないと思えば、それを消滅させてしまうのであります。いいか
えれば、本体から肉体への生命の補給を止めてしまうのであります。それが死という状態となるの
であり、人類全般としては、大天変地変という形になったりして、地球の大掃除をするという形に
なってくるのです。この時には大神様の生命の法則をとどこうりなく運行するために働いておられ
る、守護の神霊や天使たちが大きく働かれるわけなのです。
肉体人間がどんなに自己のもっている知恵能力をもって、この地球世界をうまくやってゆこうと
思っても、その知恵能力が、肉体や肉体に附属している幽体の中に蓄積されているものだけでやっ
ていたのでは、その知恵能力はいつかは澗れ果て、小我で汚れきってしまって、大宇宙という大き
な立場の運行とは大分ずれてきてしまうのです。
人間はつねに大宇雷大生命の無限の智慧能力の源から、たゆみなく正しい智慧能力を補給しても
らっていないと、大宇宙の運行の進化に追いついてゆけなくなってしまうのです。そこで人間の本
体や、個人を守る祖先霊や守護の神霊および国家や人類を守る守護の神霊が協力して、この地球人
類の進化を援ける大活動をしているのであります。
その活動によって、幾多の聖者賢者が生まれてきて、人類の進化に役立ってきているのです。現
在はなおさらに、個人人類同時に、肉体人間という観念を捨て去って、人類とは神の分け命であり、
人間はすべて生命における兄弟姉妹なのである、ということを心に銘じて知らなければならない時
期になっているのです。
個人の利害関係が、社会の利害と相反していたり、国家の利益が人類全体の利益に反しているよ
うな行為は、大宇宙の運行から外れている行為であって、嫌でも応でも、その行為は是正されなけ
ればならないのです。人類の肉体を傷つけること少く是正するために、人類守護の神霊方はいろい
ろと考えられているのであります。
そうした守護の神霊の援助に応えるためには、私たちのほうから、大生命の法則である真実の生
き方、愛と美と真の生き方に、多くの人々を向けてゆかなければ申訳けないことになるのです。
神と人間との関係
大宇宙にはさまざまな星があって、地球人類よりはるかに進化している人類が生活していること
は、近来かなり多くの人々に、そういうこともあるだろうな、というような肯定の仕方がなされて
237人類の本質を離れてはならない
おります。私どもの霊覚でははっきりその存在が確認されているのであり、その科学力の進歩は驚382
嘆すべきものであることもわかっております。
常識的に考えても、私がつねに申すのですが、この彪大な大宇宙の中の、銀河系宇宙の太陽系の
中のたかが地球という、小さな場にだけしか人類が生存していなくて、あとの無限の数の星座や星
々が、この小っぼけな地球人類のためにだけ輝いていたり、存在価値を持っている、というような
ばかげたことを、大智慧大能力の神様がなさるわけがないと考えられるのです。
太陽も月も星々も、ただ地球人類のためにだけ存在している、というような思い上がった考えを、
思い上がってはいないかもしれないが、当然のこととしていたということは、地球人類の考えが幼
稚であった、という他はありません。地球人類は大宇宙生命の一環を担う生物であって、大宇宙人
類を離れた、単なる地球人類というのは、その存在価値を持たないのであります。
そういう大きな視野に立って考えてみますと、地球上において、お互いに争い合う国家や民族が
あるというのは、実におかしな、つまらぬことになるのです。自国の権威がどうのこうの、自民族
のプライドが汚される、とかいって争ったり、たいして違いもしない思想の相違を、いかにも大げ
さに、思想的な相違で友好関係は結べない、というような政治論争から、武力闘争にまでなりかね
ない、ということは、大宇宙の真理を知らないところから起ってくるのです。
もっとも思想の闘いというのは表看板で、実は自国や自民族の勢力拡張や、権力の保持という、
利害得失の争いが行われているのですが、どちらにしても、神の広大無辺のみ心のほんのひとひら
さえも汲み取っていない、現在の地球人類の生き方は、地球守護の神霊方の心を悩ませつづけてい
るのであります。
一人の人間がこの地球界に生きている、ということは、ただ単に個人として生かされているので
はなく、人類全体の一つの使命を果すための一つの場として、神の分け命がそこに働いているので
して、肉体自体は生命の働きの場であり、器であることは先程から申述べてきた通りであります。
この一人の人間は、宇宙大生命、いいかえれば創造エネルギーの、人類への根源である直霊から
分れた分け命として、神界という微妙な波動の世界から、肉体という粗い物質波動の世界にまで、
その光明波動をひびかせつづけているのであります。
これをくわしく説明いたしますと、神の創造エネルギーが本源世界から、五つの直霊に分れ、更
に多くの分霊に分れて、真実の地球世界創造のために、各自の使命を遂行するにいたり、その生命
の創造エネルギーを思い思いに活動させて、各自の世界を創りはじめさせたのでありますが、何分
239人類の本質を離れてはならない
にも、微妙な生命の根源世界と地球界という粗雑な物質波動世界との距りがはなはだしくて、なか
なか敏速に大生命のみ心をそのまま現わし得るような世界を、各自の生命体(人間)がつくり得な
いでいるうちに、かえって物質波動の粗雑な波動にまきこまれ、自己の本源性、霊性をくらまして
しまうような事態になってきてしまったのです。
そうなることは神のみ心の中では、勿論わかっておりますので、その時のための応援として、五
つの直霊はみずからの光明をそのまま各自の分け命(分霊魂) の守護神として働かされていたので
あります。
各守護神は、みずからの守っている人間の働きぶりや、その肉体上の経験のさまをみて、これ以
上肉体界において働かせることは、マイナスになると見られると、肉体からその分け命をひきあげ
りんねてんしよう
させてしまうのです。そして順次、霊肉の両界を通してさまざまな経験(輪廻転生)をなめさせ、
次第に霊波動と物質波動との両面の和の成就できる地球人間を仕上げてゆき、宇宙神のみ心を一日
も早くこの地球界に現わし得る多くの地球人を創りあげようとなさっているのです。その間、古い
分霊魂を守護霊として任じて働かさせてもいるのです。
こうした各人別の守護の神霊の他に、一種類の直霊は、地球人類の危急の際には、その大光明で
240
その危急を防ぐための地球人類全体の守護神として働かれておるのであり、また他の一種類の直霊
は、他の天体の完成された人類として、宇宙天使としての役目を持って、大宇宙の一環の存在であ
る地球人類完成のための応援として働きはじめているのであります。この光明を私たちは宇宙の神
々と呼んでおります。私どもの宇宙子波動生命物理学は、私どもの守護神とこの宇宙の神々との話
合いの結果、私どもの天命全うの仕事として応援指導して下さることになったのであります。
このように地球人類は、なんたびも自己完成のため、真実の人類顕現のための輪廻転生(生まれ
かわり)をなしつづけ、やがて真の人類として、地球大平和のための働きをすることになるのです。
やがて時がたてば、人類というのは地球人類だけではなく、各天体にさまざまな人類が生存して
いることも、人間とは肉体人間ばかりでなく、五感にふれない各種の世界があって、それぞれの波
動世界に、人間は住んでいるのであることも、大宇宙の種々さまざまな自然現象も、実は各々自然
現象の鍵を握っている神霊が存在していてなされていることも、すべての真実がわかってまいるで
しょう。
これは宗教的にわかるということだけではなく、科学的な現実としてもわかってくるのでありま
す。しかし現在では、ほとんどの人々が、この真実の片鱗さえも知っていないのです。
241人類の本質を離れてはならない
242
人間は殺し合い恨み合い欺し合ってはいけない
ですから、現在の在り方としては、人間は命において兄弟姉妹なのである、だまし合い、傷つけ
合い、殺し合い、恨み合ってはいけない。ということを心の底から知らせてゆくような運動を通し
て、世界の平和を念願する人々を一人でも多くつくり、その人々の想念を結集して、光明波動とし
てゆくことから動き出さなければならないのです。
アメリカに生存していたエドガー・ケーシーという人は、仏教的にいえば宿命通とでもいうので
しょうか、人々の過去世における出来事や、輪廻転生の事実を、その霊能によって知らせ、病気の
原因や不幸の原因をさとしていましたが、この人のことを書いた本を読むと、私が常日頃から説い
ていることと同じようで、今生の運、不運、幸、不幸は、ほとんど過去世の自己の想念行為の因縁
によって現われてくるものであることがよくわります。過去世の因縁が今生で現われるということ
は、今の自己の想念行為は、今日以後からあの世まで、あの世から来生再来生までもの未来におい
て、必ず廻り廻って、いわゆる輪廻して、自己の運命となって現われてくるものであることは確実
なのであります。
人をだまして、うまくやったと思ってほくそ笑んでいる人は、やがて今生のうちか、幽界におい
てか、来生、再来生においてか、その想念行為は必ず自己に還えってくるのです。恨みも妬みも怒
りも、非道な想念行為も、殺傷沙汰も、すべていつか必ず自己の運命として還ってくるのです。
ですから私は、強盗殺人罪を犯した人でも、死刑にしてはいけない、という生半かの人情論には
反対なのです。犯した罪はこの世において早くぬぐっておいたほうが、幽界へ行っての苦しみにく
らべたら、どれだけ得であるかわからないからなのです。幽界で苦しみ、来生でまた苦しむ、そん
な無駄な苦しみを重ねるより、今生で良心に目ざめ、悔い改めて、罪のつぐないをしていったほう
が、その当人にとって、どれだけ幸せであるかわからないのです。
かいしゆん
その罪人が悔い改めたから、改俊の情が濃いからといっても、その人の良心は必ず自己を処罰せ
ずにはいられないものを内に持っているのです。その真理を知らない死刑廃止論などは、かえって
その人たちを苦しめつづける結果となってしまうのです。
人間は誰一人として、自己が神の分け命でない者はありません。そして自分自身の肉体の想念や
意識としては気づかずにいても、うちに働いている生命の本然の流れは、つねに神と一体の人間と
なろうとしているのであります。
243人類の本質を離れてはならない
どんな悪人のようにみえる人間でも、自己の蔽っている業想念の着物をすっかり脱ぎすてて、神424
すがたカルマ
の分け命の本然の相に還らずにはいられない働きをうちにもっているのです。ただ蔽っている業の
すがた
波の厚いか薄いかによって、神の分け命、神の子の相の現われる時間が違ってくるのであります。
すべては神々のみ力によってなされていることなので、肉体の人間はただその器であり、場にす
ぎないのですが、現在ではまだその事実に気づかない人が多いのです。人間とは神の命そのもので
あり、肉体は単に働きの場なのである、という真実を、私は何度でも叫ばずにはいられません。
私は人間の業による輪廻転生を止めるために、そして神の子の人間として、自由自在に創造の活
動ができる日のために、人間と真実の生き方という、私の教義をより多くの人々に読んでいただき
たいのであります。
人間が神の分け命であって業生ではなく、過去世から今日にいたるまでの、神のみ心を外れた想
念行為から生まれた因縁の消えてゆく時に、人間の現在の想念行為やその環境に、嫌なことや不幸
災難となって現われてくるのですが、それはあくまで人間自体の本体本心を現わすがために、邪魔
になる業生を取り去ってしまう状態なのであります。
その真理を知りませんと、そこに現われた不幸災難や環境の悪さを、しっかりつかんでしまいま
して、せっかく消してしまおうと思って、守護の神霊が表面に浮び上がらせたものを、またつかん
で離さないことになり、二重の因縁として業生の層を厚くしてしまうのです。
真実の存在は、太陽のごとく輝く神の子である人間だけであって、業生は現われては消え去る一
片一片の雲にすぎないのです。この真理を知ることは永遠の幸福をつかんだことと同じことになる
のです。
本心開発をおくらせるもの
カルマ
人間の業の中で、自己の本心をくらますということと、自己の想念波動をごまかそうとする二つ
の意識があります。この意識はその人間の本心の開発を邪魔する意識であります。例をとって説明
しますと、隣人愛を実行することのよいことは、本心としてよくわかっておりながら、自己の環境
をよくするほうに金銭を使いたいので、何かと言訳けをして、隣人愛を実行しないような場合もあ
ります。
また悪い人との対決の時に、自分の想念は肉体的な恐怖心のためなのに、調和のためだから、言
い争わない、無抵抗主義だから相手が向ってきてもこちらは手を出さない、というような自己辮護
245人類の本質を離れてはならない
をしてしまう場合があります。462
こういうように、自己の本心のひびきを蔽いかくそうとしたり、自己の臆病な想念を自分自身に
ごまかしてきかせたりすることは、神の子本来の裸の心をかくすことであって、こういう習慣がつ
きますと、その人はある段階以上の進歩がなくなって、いつまでたっても本心開発からくる安心立
命の道には入れません。
隣人愛ができない立場なら立場でよいから、それをはっきり心の表面に出して、自分の心や環境
では今はできないけれど、なんとか自分と隣人とを同じように愛せる人間になりたい、という願望
を起すことが必要なのです。
そしてできない本心への気まり悪さは、消えてゆく姿で平和の祈りの赦しの祈りの中に入ってい
って、神様におわびすることがよいのです。そうしていればいつか、それは今生のうちか、来生か
は別として、やがて、隣人愛の自然にできる環境や心になって、そういうことで悩まなくなってく
るのです。
また、臆病をかくすための無抵抗調和論は、やはり正直に自分の想念を認めて、神様に世界平和
の祈りを祈りながら、自己の不甲斐なさをわびて、勇気のある人間になるように祈る必要があるの
です。すべての想念行為は過去世の習慣や環境のせいなので、そのことだけでその人を責めること
はできません。ただ当人は、自己の想念行為をはっきり認めて、消えてゆく姿として、世界平和の
祈りの中に投入してゆくことが必要なのです。自己の想念行為は自己をだますことなく、はっきり
と表面に浮び上がらせ、守護の神霊の光明によって消し去ってしまうことが大事なのです。
できもしないのにできるような顔をしたり、しもしないことをしたような顔をするのは、大変い
けないことなのです。
ですから人が私に、先生は調和論者なのだから、定めし無抵抗主義者でしょうね、と聞いたら、
私は即座に、大調和主義者ですが無抵抗主義ではありません、すべては世界平和の祈りの中から行
動してゆくことで、ある時は悪老と現われてきた者に対して、ただ黙って祈ってだけいない時があ
るかも知れません、その時その場その相手によって、神のみ心はどう動いてゆくかわかりません、
と答えるでしょう。
やいば
ですから、まだ神に命を捧げつくしていないような人が、匁の前で無抵抗で座ろうなどという考
えを起す必要はありません。随時随所、時に応じて、神(守護の神霊) のみ心のまま、自由に動き
得る人間になっておく必要があるのです。
247人類の本質を離れてはならない
何々主義であると自分勝手に自分の行動を定めてはなりません。神のみ心はその人その人の進化48
2
のために一番よい経験をさせ、一番よい道を選んで下さるのです。
私どものやらなければならないことは、ただひたすらなる世界平和の祈りであって、守護の神霊
への感謝はかかしてはなりません。人間に必要なのは本心開発、人類の完全平和達成のための、勇
気と調和精神とによる行動なのであります。調和精神というのはただ妥協していればよいというの
ではありません。心内の業と外部の業とをともに浄め去る深い信と、その深い信から湧き上がる勇
気と、人類愛の心からあふれてくる慈愛とをかねそなえる心であります。そういう人間になるため
にも、世界平和実現のためにも、私どもは日々瞬々、世界平和の祈りを行じつづけ、すべての業因
縁を消えてゆく姿として、祈りによる大光明波動の中に消えせしめなければならないのです。
人類の本質は神の子であり、愛であり、調和であるのですから、やがて人類すべてがその本質を
現わす時がやってくるに違いないのであります。
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