日本の天命
五井昌久著
白光真宏会出版局
日本人よ今こそ起て
– 序文に代えてー
た
日本よ日本人よ今こそ起たねばならぬ
今日起たねばいつ起つ時があるのか
日本よ日本人よ今こそ起たねばならぬ
だが日本は剣を持って起つのではない
一億の心を一つに
.平和の祈りをもって起つのだ
日本は核爆弾の洗礼を受けた唯一の国
五井昌久
1日本人よ今こそ起て
真実平和を絶叫できる唯一の国だ
何者だ今頃になって武器を持とうと言うのは
剣をもって防ぎ得るのは一時のこと
永遠の平和は剣を持つ手に来ることはない
だいわこころ
日本の天命は大和の精神を海外に示すにあるのだ
日本は今こそ世界平和の祈りによってのみ起ち得る
世界平和の祈りは
大救世主の光り輝く言葉だ
救世の大光明は日本国の平和の祈りに結ばれて
地球の隅々にまでその光明を顕現するのだ
2
サラリーマンの家庭から
農家の主婦の心から
機械に躍る職場から
世界平和の祈りは光りとなって
世界中にひろがってゆくのだ
〈詩集〃いのり” よりV
3日本人よ今こそ起て
●
目次
日本人よ今こそ起てー序文
日本人の心を先ず一つにしよう
個人完成と世界平和への道
日本の使命と愛国心
変換期に来た日本
日本の天命達成のために
私の愛国心
日本の運命を善くする為には…
今日からの愛国心
に代えて
1
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4
人類の業を超える方法
日本の行方
世界情勢と私どもの行く道
165 152139
装画片岡球子
〈芸術院会員〉
5目次
6
人間と真実の生き方
わけみたまごうしようしゆこれいしゆごじん
人間は本来、神の分霊であって、業生ではなく、つねに守護霊、守護神によって
守られているものである。
かこせ
この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念が、
その運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去るのである
という強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難のなか
ゆるゆるまこと
にあっても、自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦しの言行をな
しつづけてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の
祈りを祈りつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得出来るものである。
日本人の心を先ず一つにしよう
昭和三十六年七月〈白光〉発表
軍備全廃に抗議する労働者
五月七日(昭和36年)付の中外日報の編集手帳に、次のようなことが書いてありました。それは、
◇ 人類愛善会が行っている軍備全廃を求める署名運動で、きわめて現実的な経験をしたこと
を五日付の本紙記事で読み、大いに興味をもった。同会の東京本苑ではさる一日のメーデ!
には参加者から多くの署名をえられるものと期待して、明治神宮外苑に出かけ群集に呼びか
けた。ところが署名は予想以下の三千名で、なかにはこの”軍備全廃” に抗議する労働者も
少なくなかった。その抗議の声の一、二が記事となっているが「日本が軍備を全廃したなら
われわれの社会はどうなる。日本に軍備があり、また他の国から発注されるから、われわれ
7日本人の心を先ず一つにしよう
の会社は成り立っており、われわれも給料をもらって生活できるのだ」という生活に直結し
た署名反対意見や「憲法第九条を改正し正式な軍隊をおくべきだ」と真向からの再軍備論に
出会している。云々◇
といったもので、それに対して編集手帳氏が自分の意見を述べているものでありました。
普通常識的な考えからゆけば、メーデーに参加している労働者なら、誰しも軍備反対に同調する
だろう、と思えますし、人類愛善会の人たちも、そう思いこんで署名運動をしにいったわけなので
しょうが、結果はそうではなかったということになります。
戦争するのは誰でも嫌でしょうが、自己の利益を守るためなら、戦争も敢えて辞さない、という
気持が、一般の人々の心の中には根深く巣喰っているようです。それが、前記の労働者の声となっ
て、端的に証明されたともいえるのです。
自己を守りたい、という本能、それも、霊的な自己ではなく、肉体的自己を守りたいという本能
カルて
が、この地球世界の人類の深い業となって、どうにも抜き難い霊的人類進化の障害となっているの
でありますが、一方このために物質世界の進化は達せられたともいえるのです。
これは一労働者、一大臣とかいう問題ではなく、世界人類すべての人々に当てはまることなので
8
す。
戦争そのものが悪いことであることは、誰でも知っていながら、戦争に役立たせるための機械を
つくり、器具を備え、科学力を増進させている、ということは、実に矛盾したことであり馬鹿気た
ことであるわけなのですが、これは先程の労働者の卒直な言葉のように、自己の生活のためであり、
自国の権益を守るためであって、そうした業の循環の中では、どうにも超え得ようもない現実の姿
なのであります。
ですから、単に軍備全廃を叫んだとて、平和だ平和だといってみたところで、これは一陣の涼風
にもならぬ程のものなのです。要は現実に直結する、現実の利益を失しない平和論であり、改革論
でなければ、為政者は取り上げないし、一般大衆は反抗的に出てくるわけです。
この世の人間、尤もあの世の人間でも、迷っている人間というものは、どっちにしてもむずかし
いもので、自己や自国の現実的の利害が最大の関心事であって、遠い先の光明などというものは、
その理はわかっていても、後廻しになってしまうし、関心の外になってしまうのです。
軍備全廃などは、理としては実に結構なことで、私も賛成なのですが、さてこの実行となったら、
これはとても、現在の日本の情勢や世界情勢ではできようもないし、日本だけが仮りにできたとし9
日
本
人
の
心
を
先
ず
一
つ
に
し
よ
う
ても、今の日本人の分裂混迷した、思い思いの生活状態の中では、とても、外国の思想武力両面の
侵略に対処することはでき得ようもありません。
敗戦以前の日本人が、しっかりしていたのは、天皇という中心に統一されていたからで、全国民
の想念が結集されて働いていたからです。どんな強い力でも個人個人がばらぼらで働いていたので
は効力はとぼしいし、小さな力でも結集統一されて働き出せば大きい力となるものです。
統一体をはなれた個人
現在の日本人というのは、統一された力の下で働くべき本質を、敗戦の反動で、まるで逆な形に
置き、統一から離れて、各自個々の力を増大させて働こうという、分裂形態になってしまっている
のです。
国家を代表していた天皇という目標を失ってしまった国民は、統一体から解き放たれて、はじめ
て自分個人が、ぽつんとそこに存在することを感じはじめたのです。
統一体を離れた自分個人は、改めて自己の目標をどこかにか見出さなければならなくなったわけ
です。そして、その或る者は、共産主義の中に自分の目標を見出し、或る人は、やはり依然として
io
天皇というものにつながっている自分を再発見し、或る人々は、現実の利害関係だけを目標のすべ
てにし、或る者は刹那享楽の中で生きる、ということになってしまった、という種々な生き方が現
われてきたわけなのです。
昔はどんな生き方の相違はあっても、いざという時には、否応なしに天皇という名の意志のまま
に統一されていた日本人なのですが、今日のように、何処からも至上命令のない統一する場のない、
立場に置かされると、自分個人というものが、実にそこにはっきり浮び上がってきて、自分の運命
は自分で定めなければならない、ということが、如実に示されるようになってしまったのです。
これは喜んでいいような、喜べぬような一種特別な立場なのです。この生き方が現在までもずっ
と尾を引いていまして、統一体から分裂したままの自分として、各種の思想に分れ分れになったま
ま、今日の変則的日本人の生活がつづいているのであります。
しかし、権力に弱い個人としての日本人の性癖は、何かの権力に依存したいものを常に胸の中に
もっておりまして、それが種々な形で、各種団体に結びついているのです。それが、新興宗教の権
力に結びついてゆく形にもなっているので、創価学会などの入会者は殆んどそういった想いをうち
に秘めた人々であるといえるのです。
al日本人の心を先ず一つにしょう
日本人は一人でものを考えることに馴れてない
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日本人の一般大衆は大体、一人一人でものを考えようとすることに馴れていないので、何か自分
の考えを述べなければならぬということになると、ついかえって、オーバーに云い過ぎてしまった
り、或る識者や思想家の言葉を自分から出た思想と思いこもうとして、無理してしゃべったりして
いるうちに、いつの間にか、自己をも欺購するようになってしまい、深いところから湧き出てくる
かど
言葉でもないのに、一廉の知識のように人を説き伏せたりすることにもなってしまうのです。
これは実につまらないことで、自分の本心を損ねるばかりでなく、日本人全体の本質をゆがめて
ゆくことにもなるのです。
ヘヘヘへ
日本人は昔から、やたらにことあげせぬ民族なので、やたらにしゃべるより、そのまま実行して
ゆくことを本質としているのです。そこが、日本人の大事なところなのですが、もう今日では大分
この大事なところをゆがめられてしまっています。
すべては神のみ心の現われるためのものであり、地球人類の進歩のためにあるのですから、どの
ような流れがあろうと、どのように思想的変化があろうと、それは必ず完成の為の一つの変化に過
ぎないのですが、今日の日本の姿は、昔から明治大正時代までの、いわゆる封建的に抑圧された感
情が、盛んに吹き出している状態で、今日までいえなかったり、出来なかったことを、一挙に吐き
カルマ
出してしまおうとしているような、いわゆる業の消えてゆく姿的な状態なので、この抑圧されてい
た感情の吹き出し場所を上手にもってゆくことが必要なのです。
根本的な想いの在り方に重点をおこう
ですから私などは、あれがいけない、あれがいい、というように、一つ一つの事柄についてはあ
まり触れないで、深い根本的な想念の在り方について書いたりしゃべったりすることにしているの
です。
軍備の問題にしても、この世界の現実問題と照し合わせなければならないのですから、なかなか
むずかしいのです。只やたらに軍備撤廃を叫んだりしていると、これは或る国々のためにのみ有益
であって、或る方面には不利益である、ということになり、軍備撤廃という平和のためには当然で
あるべき筈の叫びも、かえって、日本のためにも、世界のためにも不利益をもたらす結果になりか
ねないのであります。と申しても、私が、そうした叫びに反対であるわけもないのです。ただうか13日
本
人
の
心
を
先
ず
一
つ
に
し
よ
う
つに叫んでいるわけにはゆかぬというのです。私はそうした叫びよりも、もっと先に、もっと根本
的な、人類の想念の業の波の悪循環を、どうにかする、という問題の方に大きな重点を置いている
のであります。
この人類の業想念波が世界をめぐっている限りは、どんな方策もすべて対立抗争の具となるもの
で、どんな真理の言葉でさえも、悪循環の方に利用されてしまうのです。
これは個人個人の日常生活から観察しても明らかなもので、誰しも妻子を叱りたい人もいないの
に、何となく怒ってしまったり、小言をいってしまったりすることがあるものです。酒や煙草を止
めたいと思いながらも、なかなか止まらない、心を平安にしようと思いながらも、ついいらいらし
てしまったりする、というように、自分の想いさえ、なかなか自分の心のままにはならないものな
カルマおもい
のです。これを私は業の想念、または業想念というのです。実際、理に適ったことを、文章や言葉
ではいっていながら、そのすぐ後で、理に適わぬ行為をしてしまうことがあるのを、皆さんは、自
分にも人にも見出すことでありましょう。それが業の消えてゆく姿なのです。といってこれをとが
めだてするわけにはゆきません。とがめたところで、それは何のプラスにもならぬからです。
おおよそ、自分をとがめたり、人を責めたりすることは、プラスにならぬことで、反省したり反
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省させたりすることだけが必要なのです。反省した後がまた大事なので、反省しつづけ、悔いつづ
けているようでは、これはマイナスになってしまいます。そこで私の説いている消えてゆく姿で世
界平和の祈り、ということが、大きなプラスへの道となってくるのです。
真理と現実生活が分裂してはいけない
私が重点として説いておりますことは、どんなに真理でも、真実のことでも、今日の現実生活に
適合できぬことは、そのまま説いても、実行を強いても、無理なことであり、かえって反動的なマ
イナス面さえもつくり出してしまうということになるので、無理せず自然に現実生活が、真理の生
活に近づいてゆくような説き方や実行の仕方を教えることが大事ということなのです。
一人の個人が真理を実行しようとするために、妻や子や周囲の人々が、現実的な損失をまねくよ
うでは、その真理の実行方法はあまり上手な方法とはいえません。
例えば、如何なる人々も神の生命において兄弟姉妹なのだという真理に忠実である人は、自己の
富を貧しき人々に平等にくぼらなくてはいられません。ところが、その妻子なり周囲の人々がその
考えに同調してくれるでしょうか。同調してくれれぽ勿論問題はありませんが、折角自分たちで努15日
本
人
の
心
を
先
ず
一
つ
に
し
よ
う
力して得た富を、血を分けた兄弟姉妹でもない人々に、平等に分けられるでありましょうか。余程
の義人でないとこれはでき得ません。一家のうちの一人ぐらいはでき得る境地の人がいても、他の
人々が反対する率が多いように思われます。
そうして、でき得る人が家人や周囲の反対を押しきってその真理を実行したとしたら、一家の平
安を保つことができるでしょうか。その日から一家の平安は崩れ去ると思います。どうしてそうな
るか、それは真理を実行するために周囲との調和を破るという無理をしているからです。
それは個人でも社会でも国家でも同じであろうと思います。如何なる真理の実行でも、周囲との
調和を破る無理があっては、その真理は実を結ぶわけにはゆかないのです。私はまず調和というこ
とを大事にしているのです。分裂している各人各国、各民族を統一に導く、そういう役目が私たち
宗教者の役口である、と思い定めているのであります。ですから、如何にその事柄が真理であろう
と、真実であろうと、人々を分裂させ、国々を分裂させるような時機や場処においては、その説を
反対の立揚の人々に強調すべきではないと想っているのです。
自己の心が分裂しているようでは、とてもよい仕事はできないし、国論が分裂したままで政策を
行っても、まともな政策は行えるものではありません。
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ですから、先ず自己が一つ心に統一し、国の生き方を統一させる手助けとならなければ、どのよ
うな名論卓説も効果をあげることはできなくなります。
今こそ世界中が一つ心に統一すべき重大な時なのです。そこで先ず私たち日本人は、日本自体の
統一を何よりも先に計らなければならないのです。それにはどうしても、反対論のあるような主張
を強く押し出してはまずい、ということになります。
東洋的考え方と西欧的考え方の調和を
仏教系統の悟った僧たちは、この現象界の出来事には一切眼をくれず、只、ひたすら本心開発、
仏性開顕のための教えに終始している人々が多いのです。それはどうしてかと申しますと、この世
の姿は、すべて夢幻のように、うつり変り、変滅してゆくもので、その変滅し、うつり変わるよう
な姿を把えていても、決して真理をつかむことはできない、ということを悟っていたからなので
す。
大体今日まで、既成仏教の人たちからは、キリスト教のようにこの世の社会事業的な面に常に働
きかけ、この世における人々の生活の向上に貢献している様子はあまり見かけません。
17日本人の心を先ず一つにしよう
これは仏教の本質が、個人個人の悟りという面に重点がかけられていて、現象面への関心がキリ
スト教にくらべて非常に薄いからなのでありましょう。
仏教が東洋的であり、キリスト教が西欧においてひろめられた、というのは、東洋と西欧との本
質的な天命の相違を現わしていて興味あることだと思います。
今日までは東洋が祖先を大事にし、家柄を尊ぶ、といったように、縦につながる生き方をしてき
ていますし、西欧では、社会というものを重点にした、つまり横のつながりを大事にして生きてき
ております。
しかし、今日の日本の青少年の中では、こうした縦のつながりを次第に忘却し、西欧精神を誤り
考えた、自分勝手な生き方、つまり、西欧精神の美点の人類愛社会愛でもなく、父祖を尊ぶ、敬神
各
崇祖の精神でもない、目標を失った業想念的生き方に溺れてゆこうとしている人々が多くなってき
ているのです。これは実に困ったことなのでありますが、この反面、いささか西欧的に傾きかけな
がらも、日本の本質の縦の面をも忘れず、この両面を調和させて生きようとしている、青少年もか
なりいるのです。
東洋と西洋、縦と横とが大調和されようとしている一時期のゆがみは、種々の形や姿で現われ出
18
ましょうけれども、やがては自然と、大調和されてゆくことになるのであります。何故ならば、神
すがた
界においてはすでにこの大調和の相はそのまま存在するのであり、その相がこの世の時間的経過に
従って現われてくることになっているのです。
この世に様々な宗教が生れ、種々の科学が育ってき、そのために浮き上がってきた業の消えてゆ
く姿が、各種の形で出てきたりしていますが、このあらゆる出来事は、やはりすべて、神のみ心が
この地上界に、大調和された姿で顕現されてゆくためのものであるのです。
平和な心が平和を創る
世界平和の祈りは、こうした大調和の相を一日も早くこの地球界に出現させるための、大事な大
事な祈りなのであります。世界平和の祈りの中には、他を排撃したり抑圧したりする業想念は少し
もないのです。そうした業想念があったとしても、祈り言の中に入れば忽ち、救世の大光明のひび
きによって消し去られてしまうのです。
人によりますと、世界平和などは、誰でも思っている、あなたたちが殊更云うのはおかしい、な
どと云っている人もあるのですが、世界平和など誰でも思う、と云いますけれど、朝から晩まで、
19日本人の心を先ず一つにしよう
すべて世界平和の祈りの心で生活している人が、そう滅多にいるものではありません。時たま世界
平和になればよい、ぐらいの想い方では、世界平和ができあがるものではありません。そんなこと
なら、誰も苦労しないし、生命がけで求めたりはしないのです。
また、口では世界平和を云いながら、自分の心の中では、常に相手をやっつける想いを抱いたり、
不調和な想いをそのままにしていたりするのでは、とてもその人が真底から世界平和を望んでいる
とは云えません。自分の心を平和にしようとしていない人が、どうして世界平和を真底から望んで
いると云えるでしょう。世界平和を口にすることが、自分や自分たちの集団のために必要であるか
ら云う、というだけに過ぎません。
世界平和というのは、世界人類の心も生活も、すべて平らかに和やかになるということです。他
の集団や国家をそしったり傷つけたりするような想念行為をする人々は、その業想念行為を消し去
らなくては、そして、自ら深く反省しなければ、世界平和云々をする資格はないのです。しかし、
世界人類の平和を達成するためには、如何なる人々も世界平和を唱える資格をもたねぽなりませ
ん。
そこに私の提唱している世界平和の祈りの必要性が生れ出たのであります。
20
私達の運動は大調和精神から出発する
わけいのち
私は人間は本来神の分生命であり、完全円満性のものである、という立場をとっております。そ
して、現在の地球世界の悪や不幸や不完全は、神のみ心の現われるための、業の消えてゆく姿であ
るとして、その業想念行為のすべてを、神の救世のみ光である、救世の大光明の中に入れきってし
まうことを教えているのであります。
ですから、あれが悪い、こちらが善い、というような相対的な説き方はしていません。善いも悪
いも不幸も幸福も、すぺて世界平和の祈りの中に入れてしまって、世界平和の祈りを根本にした生
活の中から、すべての想念行為をしてゆく、ということにしているのです。
徹頭徹尾、世界平和の祈り一念というのが私の提唱している主旨なので、ただ、世界が平和にな
ればよい、というばくぜんたる想いで、しかも世界平和の根本である、大調和精神から離れた日常
生活をしている向きとは根底が相違するのです。,
私たちの運動は、一度び肉体人間の想念行為というものを、神のみ心の中にお還ししてしまって
から始まっているのです。肉体人間としての想念行為を神に返上してしまえば、もうすでに肉体人
21日本人の心を先ず一つにしよう
間としての自分は無くなってしまって、そこには神の子としての霊の光明が、肉体を器として、場
所として、そこに働いているということになるのです。
ですから、肉体人間の想念行為をそのまま否定しないで、そうした業想念の世界から、世界平和
を想うのとは光明の度合が違うのです。
世界平和祈るは神のみ心のひびきにあれば祈るたのしさ
という境地から私たちは世界平和を祈っているのであって、平和になるかしら、ならぬのではな
いかなどという暗い、弱い心でやっているのではないのです。
22
世界平和のためにまず日本人の心を一つにしよう
救世主の慈愛の大光明、守護の神霊の集団的大光明が、地球界に今こそ強力に働きかけているの
です。その天地をつなぐ光のエレベーターが世界平和の祈りなのです。
世界人類が平和でありますように、
という個人個人の人類愛と、世界平和を理念とする神のみ心が一つになって輝きわたる世界平和
の祈りは、実に縦のつながりと横のつながりを同時に成就する、大調和の祈り言なのです。
軍備撤廃とか、軍備強化とかいう、そういう問題は、世界平和の祈りの立場からいえば、論じ合
っているような問題ではなく、祈りの世界、神のみ心の中から、自ずと定まってくる問題なので
す。
今日の最大の問題は、はじめから述べておりますように、人類の心を一つに統一することにある
のです。そのはじめに先ず日本人の心を一つに統一してゆくことが必要なのです。
どんな議論でも主張でも、必ず反対があるのです。反対のない主張、それは世界平和の主張だけ
なのです。
何々の神という神の名にこだわらず、何宗という宗派にとらわれず、何主義という主義にかかわ
りなく、その神名はそのままでよく、その宗派はもとのままでよく、何主義も、何派もすぺてその
ままの在り方でいて、すべてが統一した想いになる方法、それは世界平和という想いなのです。
そして、その想念を、あらゆる業想念波の中から、清らかな光明波動に純化してしまうのが、消
えてゆく姿で、世界平和の祈り、という、私たちの提唱する、世界平和の祈りの運動なのです。
どうぞ一人でも多く、この世界平和の祈りの運動にご参加下さい。個人の生活が救われると同時
に人類すべての救いを実現する、世界平和の祈りは、大神様のみ心そのものなのであります。
23日本人の心を先ず一つにしよう
24
個人完成と世界平和への道
ー日本の天命を完うさせようー
昭和四十年六月〈白光〉発表
現代の危機の根本的解決
現代という時代は、世界中いたるところ、底にひそんでいた、善いもの悪いものが、一挙に表面
に吹き出してきて、地球世界の総決算をつけてしまおうというような、なんともいえぬ騒然たる感
じが致しております。
否でも応でも、地球が宇宙法則の働きの一環であることを知らねばならぬ、そういう新しい世界
ヘヘヘヘヘヘへ
を開顕するために古くからよどみくすんでいる、地球人類の業想念波が、すっかり浄め去られる時
がいよいよ到来してきた感じです。
今日までのように、地球の中に多くの国々が分れ住んでいて、お互いの国の利益のために争い合
っている、というような愚かなる生き方は、やがてははっきりと改めさせられることになるであり
ましょう。
カルマ
その最後ともいうべき業想念のあがきが、米中ソの三大国を頂点とする、第三次世界大戦の危機
という形になって、現在大きく現われているのであります。
この危機は地球人類の考えが根本的に改められない限りは、何度びでも現われてきて、やがては
地球滅亡という、大悲劇となってしまうのです。
その根本的な解決ということは、一体どんなことなのでしょう。一口にいえばそれは、地球人類
が宇宙法則に乗った生活に切り替えてゆくことが唯一無二のことだということです。電車や汽車
はず
が、レールを外れたまま走っていて、走りきれるものではありません。電車はまず軌道に乗って走
ることが第一であると同じように、地球人類の運命も、まず宇宙法則の軌道に乗ることを第一とす
ることは当然なことなのであります。
そういう真理を知らせようと、イエスや釈尊やその他の聖者賢者たちが、自分の肉体を投げうっ
て道の指導に当っていたのです。しかし、人類全般の想念は、聖者賢者たちの指導の方向にはなか
なか動こうとはしなかったため、とうとう今日までの生き方では、どうにも動きのとれぬ状態に、
25個人完成と世界平和への道
みずか
地球人類自ら落ちこんできてしまったのです。
このままの歩みを歩一歩二歩と突き進んだならば、地球人類という列車は、宇宙法則のレールを
すっかり外れきってしまって、転覆してしまうにきまっております。
しかし、夜の闇が深ければ、暁の訪れが近くにきていると同じように、迷いの闇がはっきり表面
に現われ出た時には、真理の夜明けが近くに訪れているのであります。
守護の神霊の存在にふりむこう
人類は本来神の分生命であります。人類の本心は、宇宙法則そのものである宇宙神のみ心としっ
かりつながっている光明心であります。そして宇宙神の分れである人類守護の神霊方は、常に地球
人類を宇宙法則に乗せきろうとして、業想念消滅のために働きつづけておられるのです。
業想念(迷い心) が心の奥深くにあったのでは、守護の神霊にとっても、その消滅が容易ではな
く、無理に消滅させようとすれば、人類の苦悩は強くなります。ですから、徐々に徐々に奥から表
面に浮き出させて、表面に出切ったところで、一挙にその消滅を計ろうとして、守護の神霊は種々
と手段を講じておるのであります。
26
古来からの聖者賢者の出現も、みな人類を守護する神霊方の働きによるのでありまして、キリス
ト教的にいう、ミカエル、ガブリエル等の大天使たちも、みな人類守護の神霊なのであります。
個人の病気や不幸災難なども、個人個人の守護の神霊が、その人たちの本心開発のために、過去
世からの業想念波動を光明波動に変えてゆくためになされているものであって、消えてゆくに従っ
て、その人の心も体も立派になってゆくのです。しかしその理を知らぬ人々は、いたずらに病気や
災難を恐れつづけますが、その人の本心を蔽う邪魔な想念を浄め去って貰うのであって、何も恐れ
るには当らないのです。恐れる想いのかわりに、これで自分にまつわる誤った想いが消えてゆくの
である、と守護の神霊に感謝の祈りを捧げる時、その病気や不幸は、意外な程楽に消え去ってゆく
のであります。
はず
この理は、人類全般にも当てはまるのでありまして、汚れた想いのまま、軌道を外れた生き方の
ままでは、地球人類の平和は絶対に達成できないのですから、一日も早く、人類の心の汚れが浄ま
り、宇宙法則にしっかり乗って真実の生き方のできるように守護の神霊の加護を願わねばならない
のです。それが、消えてゆく姿で、世界平和の祈り、という私共の生き方なのです。
27個人完成と世界平和への道
生命エネルギーの浪費は寛容の心の欠除
28
今日の個人も人類も、神のみ心と一つである本心を忘れ果てているのです。そして、本心から湧
きでてくる考える能力、働く力等々の生命エネルギーを、枝葉として分れ分れになっている、個人
個人、大きくいえば、自国家自民族を繁栄させるためだけに使ってしまっていて、自分や自国、自
けんお
民族の不為になる物事に対しては、争いの想い、嫌悪の想いを起して、その波の中に生命エネルギ
ーを浪費してしまうのであります。
生命エネルギーは個々別々に分れて活動しておりますが.本来は神のみ心、大生命の働きの一つ
一つの流れとして活動しておりますので、枝葉枝葉としての活動はしておりましても、それは常に、
神の大調和の世界をつくるための枝葉枝葉の天命を完うするようになっているのです。
ところが、個人も国家民族も、その大調和の原則を破って、個々別々の利害関係に自己の能力を
使っているわけであります。人間の働ぎは本来、上下左右に働くものであって、上下の縦の働きに
よって、神のみ心、生命エネルギーを補給し、横の働きによって、神のみ心である天命を完うして
ゆくのであります。図にすれぽ円形の十字交叉のような形で働くのであります。
しかし実際は、縦の循環をしないで、つまり神のみ心のほうには想いを向けないでいて、横の働
きにだけ想いを向けている。そうしますと、生命エネルギーは、神のみ心の新しい力を補給しない
で、自己に蓄積されているだけのエネルギーを循環させていることになり、そのエネルギーは古く
汚れてくるのです。さすれば当然、その能力は、新鮮さを失い、本来の使命観を忘れ去り、蓄積さ
れたものを失うまいとする欲望に変ってくるのであります。すべての能力は神からくることを忘れ
てしまいますと、その人やその国からは広い豊かな心は失われてゆき、いわゆる寛容の美徳がなく
なってくるのです。自分たちを守るためには、どのような手段でも講じるというような、現在の米
中ソのようになってしまうのであります。
私共の研究しております宇宙子波動科学によりますと、素粒子の一番微妙な一番根本的な働きの
存在を宇宙子と呼んでおりまして、この宇宙子は神のみ心の中心である宇宙核というところから生
れ出で流れ出でてくるのであり、この宇宙子には、精神を生み出す要素と物質を生み出す要素とが
ありまして、そのプラス、マイナスの離合集散により、或いは角度や場の転換によって、種々様々
な変化を遂げるのです。
,この宇宙子を常に新鮮なものにしておかなければ、その人間は完全な働きができなくなるのであ29個
人
完
成
と
世
界
平
和
へ
の
道
りまして、精神面の宇宙子が汚れてしまえば、精神面の欠陥となり、物質面が汚れてくれば、肉体
面の欠陥となってくるのであります。
一ロに地球上でエネルギーと呼んでいる力の中にはこの宇宙子の働きがあるわけで、この宇宙子
の働きをいつでも新鮮に、循環をよくしておくことが、精神面にも物質面にも一番大事であるとい
うことになるのです。
現在の地球科学では、精神作用は物質的脳髄から生れ出ているような解釈をしておりますが、こ
こが重大な誤りでありまして、精神作用も物質作用も.肉体の生れぬ前の、宇宙の法則の中の流れ
の中において、その要素は同時にできておるのでありまして、物質ができて、そこから精神作用が
生れでるのではありません。
私共の宇宙子波動科学では、はっきりと、精神と物質との生れ出でる経過を分けておりまして、
この交流の調和によって、人間が完成されてゆくことを、生命学的に物理学的に研究しているので
あります。
しかしまだ研究途上でありますので、現在では、宗教的な方法で、その道を知らせるより仕方が
ありません。そこで私は、私の通ってきた道、私の日々の体験等を通して、こうしてゆけば、個人
30
も人類も同時に完成の道に入ってゆき、
ことをお話しているのであります。
世界平和到達への道を進んでゆくことになるのだ、という
肉体は人間生命の働きの場
それはどういうことかと申しますと、人間は自分で気づこうと気づくまいと、常に守護の神霊に
守られて生活しているのだから、いつも守護の神霊への感謝を怠ってはいけないということと、人
間とはこの肉体のことをいうのではなく、生命体そのものをいうのであって、肉体は一つの器であ
り働きの場なのであるから、肉体生活ばかりに執着していて、肉体生活の満足感ばかりを追ってい
てはいけない、神の生命の分れである、永遠の生命としての自己をはっきりと認識できるように努
めるぺきである、ということを常に説いているわけですが、その方法として、消えてゆく姿で平和
の祈りという教えを説くわけなのです。
人間というものは、習慣の想念に縛られているものでありまして、なかなかその習慣をぬけ出す
ことができません。習慣のうちでも一番ぬけ難いものが、肉体が人間なんだ、という観念でありま
す。
31個人完成と世界平和への道
それは無理もないのでありまして、生れて想いが出てくる時から、肉体の他の自分というものは、
眼にも手にも触れることはできないのでありますし、岡囲の人たちがみな、肉体人聞だけが人間だ、
と思っている中で育ってきたわけなのでありますから、ここがむずかしいところなのです。
しかしむずかしかろうとどうであろうとも、肉体人間は生れてきたら、必ず死ななければなりま
せんし、形あるものは変化変滅してゆきます。これはどうにもならぬ宇宙のきまりごとです。
私はいつも思うのですが、肉体人間の一番はじまりの生れ出てきたことと、最後の死んでしまっ
た後ということを、人間は昔から何故もっと追究し研究しなかったのだろうな、ということであり
ます。個人的には随分追究し研究した人もあるのでしょうが、国家的な大きな力としての追究はあ
まりなされていないようです。
肉体の生存している期間の、いわゆる五感に触れる世界のやりくりで手が一杯だったのでありま
しょう。しかし、それでは永遠の平和をつかむことはできません。自分たち人間が肉体として地球
界に生れてきた意義も目的も知らないで、ただその場その時々の自分たち周囲の繁栄だけを働き取
ったとしても、それは時がくればやがて滅びてしまいます。
変化変滅しない、根本の世界に根ざした人闘というものを、宗教的な観念論ではなく、実際には
32
っきりと人類全般が把握しないことには、地球世界の人類の真の繁栄はあり得ません。釈尊はじめ
古聖たちは、その根本の生き方、根本に根ざした能力というものを自分たちが示してみせたのであ
りますが、その根本が判った人たちだけは救われたのですが、一般の大衆はその根本の生き方も根
源に根ざした能力も判らずじまいで、今日まできてしまったようです。
私はいつもそれではいけないと思いつづけていました。そして遂いに、一般大衆にもはっきり判
る科学の道を、宗教的祈りの中から示されたのであります。それが現在やっております、宇宙子波
動科学、はっきり申しますと、宇宙子波動による生命物理学なのであります。
これは先程も申しあげましたように、未だ研究中なのでありますが、根源の世界や、他の進歩し
た星の世界では、はっきりこの学理をそのまま実生活に応用した生き方をしているのでありまして、
この科学がやがては地球世界で応用されることは実にはっきりしているのであります。
この科学が応用されますと、病気も災難も争いもすべての不調和が無くなって、調和そのものの
世界が実現するのであります。まるで夢のような話なのですが、宇宙天使からこの科学の説明を聴
聞しておりますと、この学理ならそうなるべきだなあ、と肯定することができるのです。私たちが
この学問を、真実に学問として取組んでから三年余になりますが、日一日着々とその学理は進んで
33個人完成と世界平和への道
おります。これは今日までの如何なる宗教者も学理として説き明かすことのできなかったものであ
り、地球科学の領域では研究の達しなかった学理であります。
私たちはこの科学を背景にして、世界平和の祈りの運動をしているのです。私たちの祈りは、た
だ、こうして祈っていれば、やがては平和になるのだよ、というような、ただあちらまかせの安易
なものではありません。
祈りの波動の素晴しさを科学的に知った上で、祈りによる大調和科学がやがては生れ出でて、世
界平和を達成するのだ、という科学的な裏づけによる強い信念をもって、この世界平和の祈りを推
進しているのであります。
祈りを政治運動にもってゆくな
ただ祈りが祈りの行事だけで足れりとするのではありません。といって、他の宗教団体のように、
祈りを政治運動にもってゆこうとするのでもありません。
一つの祈り方を政治運動にもっていったとしても、それは他の宗派の敵対行動を買うだけで、宗
教本来の大調和精神に反する、相対運動にしかなりません。お互いが俺の宗教が俺達の祈りがとい
34
って、他の宗派を相対的にみている限りは、その宗教運動は、神のみ心を真実に現わしたものでは
ありません。
そういう宗教活動は昔から嫌という程みせられております。ベトナムにおける仏教とカトリック
の争い、中近東の回教とキリスト教、インドにおける回教徒とヒソズー教徒の争い、宗教が一つの
殻にはまってしまっては、それは宗教本来の自由自在性が失われてしまって、把われた宗教活動に
なってしまい、かえって戦争を生み出してしまったりします。
そういう宗教活動には私は全く反対であります。宗教の根本的な生き方は調和であります。調和
の精神を欠くことは宗教者や宗教団体の一番のマイナスです。
調和といったところで、なんでも他の意見をご無理、ごもっともと聞いていることではありませ
ん。誤った教えをそのままごもっともといって聞いていることは、怠惰な臆病な生き方であります。
誤った教えや誤った生き方をそこにみたら、即座にその人の天命の完うされることを祈ってやり、
世界平和の祈りの中でその人の業想念波が消滅せられるよう祈ってやるべきなのです。それが調和
の生き方であります。
世界平和の祈りは、大救世主を中心にした、人類救済の神霊方の集合の場から流れてくる大光明
35個人完成と世界平和への道
圏にはっきりつながる祈りです。ですからこの祈りをすることによって、必ずその人やその事態は
良き方向に向いてゆくに定まっているのです。
世界人類の誰も彼もが、すぺてこの大光明圏につながれて、一日も早く地球世界の闇の姿が消え
去ってゆくよう、私たちは祈りつづけているのです。
米国陣営の人たちも、共産圏の人たちも、本心においては、すぺて一つにつながっているのです
が、この現れの世界においては、その自己を守ろうとする本能からくる、業想念でお互いが敵対し
合っているのであります。そこで私たちのやるべきことは、祈りの光明波動によって、それらの国
々の本心の開発を促進させることにあるのです。
物質的電波でも、その受け場さえあれば、世界中を経巡ります。まして心霊的祈りの波動が伝わ
らぬ道理がありません。すべては波動なのです。形と形が合わなくとも、心の波を送ることによっ
て、必ず相手にその影響を与えることは事実なのです。
世界平和の祈りは、世界人類すぺての本心開発のために、大救世主霊団の大光明波動が輝きわた
っている祈りです。一人でも多くの人がこの祈りをすることによって、世界人類は傷つくこと少な
く、世界平和を達成することができるのです。その間、大調和科学の完成による大なる働きのある
36
ことは論をまちません。
不信感が敵意を生む
現在の世界の混乱は、思想の対立によって起っております。米国は共産陣営の人たちを敵と見、
共産陣営は米国を敵とみております。米国にとっては、共産陣営の一挙手一投足がすべて謀略であ
り、共産陣営にとっては、米国政府のやることすべてが侵略行為なのであります。
この不信感は対人的なものではなく、思想的なものなのでありまして、この思想対立のある限り、
両陣営の調和はあり得ないのです。ただ大戦争にならぬための仲立ちを他の国々がするだけなので
す。しかしこうした仲介さえもなかなかにむずかしいことでありまして、日本などもその機会を見
ているのでありましょうが、手を出そうとしては引っこめている感じです。
それはあにベトナム問題ばかりでなく、諸々の小国に対する、両陣営の働きかけが、常に戦争の
危機をはらんでいるのでありまして、たとえベトナム問題が無事に済んだとしても、また他の事柄
で両陣営は相争うことでありましょう。
この思想の対立は、世界平和のためには実に困ったことでありまして、どうしたら解決できるの37個
人
完
成
と
世
界
平
和
へ
の
道
か、肉体人間智では考え及ばないことなのです。
ソ連や中国等の共産陣営は、貧富の差の烈しい小国群に働きかけ、その国々の貧しい人々の共感
を得ております。小国群というのは大体貧しい人々の多いところでありまして、常に富める者に対
する反感をひそめております。自分たちの生活が少しでもよくなれぽ、どんな思想でもかまわぬか
ら、その方にゆこうとしている人々が多くおります上に、かつて欧米諸国の属国であった新興独立
国は、かつての支配者に対する、潜在的な敵意をもっております。その敵意に油をかけるように共
産陣営の宣伝が行われます。そして革命に対する援助資金や武器などをひそかに送りこんでおりま
す。
こうして共産陣営の働きかけは、徐々に着々とその成果を納めておりまして、いつの間にか、反
米、反欧の小国が多くなってゆくのであります。
38
今こそ日本の天命を完うすべきとき
こういう状態に対しまして、米国は非常に激怒して、遂いには武力を振って、こうした運動を阻
止しようとするわけなので、そのはっきりした現れが、ベトナムやドミニカ問題なのであります。
こうした米国の気持もよく判りますが、判るからといって、相手が武力を振ってきてもいないのに、
米国だけが、やっきになって爆撃しているというようなことは、もうそれだけで思想戦における米
国の敗北を意味しています。
米国は武力を使うことによって、自国民に犠牲者を出すというマイナスと、世界の国々から見放
されるという両面のマイナスになっているのですが、米国自体はそれに気づきながらも、泥沼に入
って動きの取れぬような状態になって、心の自由を失ってしまっているのです。
米国は何故思想戦によって、共産陣営に打ち勝とうとはしないのでしょう。思想戦に勝つ自信の
ないということは、米国の生き方のどこかに大きな欠陥があるということです。
日本もその通りでありまして、共産主義を恐れるのあまり、米国の武力に加担するような行動は
厳につつしまなければなりません。日本には古来からのはっきりした生き方があります。それは大
和、即ち平和そのものの生き方であります。日本は世界平和を樹立する中心としての天命がありま
す。その天命こそ日本人のすべてが守りつづけ実行しつづけてゆかねばならぬものです。天命は神
からきたものです。天命完うの道を進んでさえいたら、如何なる思想にも武力にも敗れることはあ
りません。私はその思想を、はっきり世界平和の祈り、として打ち出しているのであります。私た
39個人完成と世界平和への道
ちは日本の天命を堅く信じて、如何なる事態になっても平和の心一念で、世界中に日本の生き方を
はっきり示してゆくぺきなのです。
如
日本の使命と愛国心
昭和四十一年十二月〈白光〉発表
発表された〃期待される人間像”
期待される人間像の最終報告内容が、各新聞で発表されまして、新聞やテレビで賛否両論、各種
の意見が出されていましたが、私のように人間の本心開発のための実践運動をしているものにとっ
なさ
ては、何か生ぬるい、深みのとぼしい、言葉が浮きあがっているような感じで、善い詩や、善い句
を読んで、一読胸がすきっとするような、思わず涙ぐましくなるような、感激で心が震えるような、
そういう迫ってくる力を感じさせるものがないのです。
ただ、善い言葉、善い内容が並べたてられてあるという感じで、どうしたらそのような人間にな
れるのかという道筋もなければ、そういう人間になりたい、と読む人に思わせるような文章でも文41日
本
の
使
命
と
愛
国
心
体でもないのです。
もっともこれは一般大衆に直接説いているのではなく、教育者や人間形成の任にたずさわる人々
に、こういう根本理念で、人々を教育してくれ、ということであるらしいのですが、新聞に発表さ
けいもう
れたことは、そのまま一般大衆への啓蒙になるわけなのですから、もっと何か魅力のあるところが、
その文章や文体になければなりません。
様々な人々の意見を聴いて、それをまぜ合わせて発表してある程度では、どうも人の心をひきつ
けることにならぬのは道理です。こういう文章や文体なら、まだ明治からの教育勅語のような、権
威のあるがっちりした教育書の方が余程よかったでしょう。
発表された内容のことだけなら、一寸頭のよい人なら誰しも知っていることなので、今更改めて
言われなくとも判っているという程度のもので、ああなんという有難い根本原理を発表していただ
いて、と感激するような人は教育者の中ではあまり見当らないぼかりか、かえって、政府のやるこ
とはこのくらいのことさ、なんにもできやしないんだ、ぐらいに悪宣伝に使ったりしがちです。
この世の人たちは、抽象的な教育論ぐらいではどうにもなりはしない心の状態にあります。ごも
っともな御説でというだけのことで、それだからどうする、という気持にはならないのです。
42
一つの例をとってみますと、第四章の国民として、というところで、
〈正しい愛国心を持つことV 今日の世界では、国家を構成せず、国家に所属しないいかなる個人
も民族もない。国家は世界でもっとも有機的であり、強力な集団である。個人の幸福、安全も、国
家によるところがきわめて多い。国家を正しく愛することが、国家にたいする忠誠である。正しい
愛国心は、人類愛に通ずる。
真の愛国心とは、自国の価値をいっそう高めようとする心がけであり、その努力である。自国の
存在に無関心であり、その価値の向上に努めず、ましてその価値を無視しようとするものは、自国
を憎むものである。われわれは正しい愛国心を持たねばならない。
と書いてあります。
実にもっともなことが書いてあり、当然そうなければならないことが書かれてあります。ところ
が一番肝心なことが書かれてないのです。それはどういうことかと申しますと、国家を愛し、国家
に忠誠であれ、ということは当然のことですが、正しい愛国心は人類愛に通ずる、と書かれながら、
正しい愛国心とはどういうものか、という一番大事なことを教えていないのです。
ほとけたましい
これでは仏つくって魂入れずというのと同じで、書かれた方々は、自国の価値をいっそう高め43日
本
の
使
命
と
愛
国
心
ようとする心がけであり、その努力である、と記してあるではないか、というかも知れませんが、
自国の価値を高める、というのは具体的にいってどういうことなのか、というのが実に問題になっ
てくるのです。
ここのところがはっきりしていなければ、国民の道標としての教えにはなりません。抽象的も甚
だしいもので、心に沁みてくる何ものもありません。
日本の使命とは何か
ここで、前に戻ってみますと、これと同じような抽象的なところが、第一部の似今日の国際情勢
と第二の要請というところにもあります。
「戦後の日本人の目は、世界に開かれたという。しかし、そのみるところは、とかく一方に片寄り
がちである。日本は西と東、北と南の対立の間にあり、日本人は世界に通用する日本人となるべき
である。日本の使命を自覚した世界人であることが、たいせつだ。
ここから、世界に開かれた日本人であるという第二の要請が現われる。同時に、日本は強くたく
ましくなければならず、それにより日本ははじめて平和国家になり得る。もとより、ここでいう強
必
さ、たくましさは、人間の精神的、道徳的な強さやたくましさで、日本の自主独立に必要なすぺて
の力であるL
この章も判ったようで判らない。といいますのは、日本の使命を自覚した世界人であることがた
いせつだ、といってありながら、一番必要であるべき、日本の使命ということが書かれていないの
です。
日本の使命というのは一体何なのか、その使命観をはっきりさせないでいて、日本の使命を自覚
した世界人になれ、といったところで、どういう方向に動いていいか、さっぱり判りようがないの
で、私はどこかの章にそれが書かれているかと、再び三度び、全章を見直してみたのですが、自己
をたいせつにすること、強い意志を持つこと、尊敬の念を持つことなどという個人としての心構え
と、家庭人としてという章の家庭をいこいの場とすること、教育の場とすること、開かれた家庭と
すること、第三章の社会人としてでは、仕事に打ちこむこと、社会福祉に寄与すること、社会規範
を重んずること、創造的であること等、種々と書かれてあり、それぞれもっともなことではありま
すが、やはりどこにも日本の使命とか、日本人としての自覚とかいう大事な根本的なことが書かれ
てはありません。45日
本
の
使
命
と
愛
国
心
総体的にみて、期待される人間像の発表は、出されぬよりよいことは勿論ですが、期待した程の
ものでない、という結論になります。何故そう思われるのかと申しますと、結局はオキレイゴトと
でもいいましょうか、善い言葉や事柄を浅くまとめて発表してある程度のものであって、偉人や聖
者の伝記を読んだり、善い詩を一篇読んだ後の感激のような、私も立派になるんだ、こんな美しい
心になるんだ、というような実行させる道に向ける力にとぼしいのが、この期待される人間像の文
章なのです。
46
日本人の生き方
そこで私は、この中の愛国心だけを取り上げて、私の常日頃から説いている日本人の生き方を説
いてゆきたいと思います。
日本という国は一体どういう国で、どういう使命があるのでしょう。日本の使命や目的がはっき
りしないで、愛国心を説いたところで、昔流の愛国心になって、国家の不為になる国は攻め滅ぼし
てしまえ式のものになりかねません。
現在日本は、期待される人間像にもかかれてありますように、西と東、北と南の対立の間にあり
ます。はっきり抗争対立している米中をはじめとして、米ソを頭に、自由主義と共産陣営との対立、
中近東、アラブアフリカ各国対立に対する心構え、好むと好まざるとにかかわりなく、日本は正に
相反する勢力の中間体として存在しております。
大体世界人類を色分けにしてみますと、白人、黒人、黄色人と大きく三つに分けられますが、実
は白人の中にも、青色人、赤色人との色分けがあり、本来は五色に分れているのであります。
この五色人種の中間の色、つまりこれを交ぜ合わせた色が黄色に近い色なのでありまして、日本
人は肉体の色からして中和された色をもっているのであります。
とうと
聖徳太子の大和の精神で代表されているように、日本は和をもって貴しとする、という原則のま
まに行動してゆくべき国柄なのです。これを現代的にいえば、東西南北すべての国家民族の抗争対
立を、日本が中間に立って、中和させてゆく、つまり、世界平和樹立のための中心的働きをするの
が、日本の古来からの使命であり、天命であるのです。
ここのところが確固たるものになってないと、愛国心が宙に浮いてしまいます。この地球世界に、
神のみ心の大調和をつくりなしてゆく、というのが日本の使命であります。人間の体にも、頭の部
分も脚の部分も手の部分もあるように、世界各国民族にも各種の役目があるのです。
47日本の使命と愛国心
日本の役目は、各国から入ってくる物質的なものも精神的なものも、みな一度日本的に融けこま
せて、それを改良して出してゆく、ですから、日本は発明発見してゆくより、発明発見されたもの
をより善いものにして発表してゆく、そういう立場に自然になってしまう。日本人が猿まねをする
と、よくいわれますが、はじめはまねをしているのですが、しまいには、発明国よりも優良なもの
にして逆に外国に輸出してゆく、というケースが多いのです。
今日まではそれが物質的なものが多かったのですが、今日からはいよいよ精神的影響力を外国に
与えてゆくという時代になってきているのであります。そこでますます日本の使命というものを国
民の一人一人に、はっきり自覚させるような教育が必要になってくるのです。
徳川時代の鎖国から明治にうつって、僅かの年限で忽ち西欧諸国に並ぶ文明文化の国となり、ま
た敗戦という悲惨事で、一挙に無一物に近い状態に落されながらも、いつの間にか戦前をはるかに
越える隆昌に国家を仕立上げてゆくという、日本人の活動力というか、日本国自体がもっている旺
盛なる活力というものは、他国の真似のできぬ特殊なものであります。
この旺盛なる活力を、今こそ日本本来の使命である世界平和実現のために、総結集することが、
何よりも先ず必要なることであるのです。
弼
世界平和樹立の中心国、日本
日本の天命は、世界に完全平和をつくりあげる中心の働きにあることは、もはや動かし難いこと
であります。何故かと考えるまでもありません。日本は米国と中共の間にあります。米国とソ連の
にら
間にもなります。現在の大国である、米国もソ連も中共も、いずれも日本を間にして睨み合ってい
る形です。
日本を自国の味方につけた側が有利になることは論をまちません。日本は現在敗戦以来特に米国
と特殊な関係にあることは確かなことですが、それは経済的な関係だけに限られていて、軍事的な
ものではありません。
日本は軍事的な関係においては、何処の国の味方でも敵でもありません。地球世界を滅亡に導く
ものは、最後的には軍事力であることは誰にも判ります。思想的な戦いはその間のものです。
さいわいさいわい
日本は幸に、幸にというより、天命成就のために神がなさしめ給うたと考えられる敗戦に伴う平
和憲法の樹立。この平和憲法が定まりまして、日本は本格的に聖徳太子の大和の精神中心に活動し
得る立場に、はっきり立たされたのであります。
49日本の使命と愛国心
それもあいまいな敗戦ではなく、世界を一挙に滅亡に導き得る、原爆によって、完全なる敗戦を
味わったのです。戦うことの愚かさを心の底から噛みしめたのは、被爆地に当った広島長崎の人々
だけではありますまい。
原爆を再び何処の国にも落させまい。この想いは、多かれ少なかれ、日本人の誰もの心に沁みこ
んでいるのであります。
地球世界滅亡の武器原水爆を恐れ嫌む想いの強いのは日本人が一番であると思います。原水爆を
恐れる想いは、そのまま戦争恐怖の想いにつながります。日本を戦争に巻きこますまい。この想い
は、ベトナム戦争反対という想いにつながってゆきます。
ベトナム戦争反対の運動が、左翼の運動につながっていることを承知しながらも、その運動に賛
成する人々が、日本にはどれだけいるでしょうか。青年婦女子の大半は如何なる戦争にも反対とい
う気持でいるのです。
アメリカが北爆をつづけなければ、南ベトナムは合併されてしまう。さすれぽ共産主義がアジア
全部に侵入して、日本も危ない、と一部の人々はいうでしょうが、共産主義撲滅のためだからとい
って、戦争してよいものではない、という感情が日本人一般の心の中に沁みこんでいるのです。
50
戦争してでも日本を護りぬくのが愛国心なのか、日本は世界平和の中心国なのだ、という自覚に
立って、如何なる困難にも耐えて、平和堅持の態度を持ちつづけてゆくのが愛国心なのか、どちら
が一体この地球人類のためになるものなのか、人民の一人一人が真実に真剣に考える必要があるの
ですし、真剣に考えさせるように政府がしむけてゆかねばならないのです。
その場合、やはりその考えの根抵になるものは、日本の使命は何なのか、ということに帰着しま
す。日本の使命観が確立していなければ、考えはいつまでもふらふらしてそれこそ日本も世界も滅
びてしまいます。
日本の天命は世界平和樹立の中心国となることだ、これは日本が必然的に世界唯一の平和憲法を
つくらされたことによって、天から定められたことなのである、と政府が真っ先に思い定めなけれ
ばならないのであります。
政府の方針がふらふらしていて、国民に愛国心を説いてきかせようとしても、土台無理なことで
して、そんな説法に力があるわけがありません。
誰がどんな理窟をつけようと、戦争は罪悪なのであり、日本をはじめ世界中がその悲惨事を嫌と
いう程味わっているのです。それなのに自国の権威を守ろうとして、再び戦争を起こそうとしてい51日
本
の
使
命
と
愛
国
心
るのですから、人類の業因縁というものは恐しいものです。
まして、敗戦という、しかも原爆の世界唯一の被爆国として、平和憲法を生みなした日本である
のに、何故、徹底した平和国としての日本の立場を、内外に宣布出来ないのでしょう。
平和国として徹底したなら、すべてをその方針にもとついて行ってゆくべきなのに、他国の心を
うかがっては、日本の行き方を定めてゆく、というような弱い心で、どうして世界平和の中心国と
なり得るでしょう。
真実の愛国心とは、日本をして、世界平和樹立の中心国としての不動の地位を確保させるための
働きをすることだ、そのためには家族の間にも、友人知人の間にも調和の精神を発揮して、お互い
の平和を計る生き方をすることだ、利益や権力で争い合ったり、感情のもつれで喧嘩したりするこ
とは、そのことそのものが、もう愛国心を傷つけることになるのだ、というように、積極的に愛国
心の在り方を指導してゆくべきなのです。
自分をゆるし人をゆるし、自分を愛し人を愛し
私はその方法を、白光誌という雑誌に、毎月やさしく書いているのであります。私は教義の中で、
52
ゆる
自分を赦し、人を赦し、自分を愛し、人を愛し、というように、自他を共に赦し愛してゆく方法を
教えています。
自分を真実に赦せないものは、人を真実に赦せるものではありませんし、自分を真実に愛せない
ものが、人を真実に愛せるものではありません。真実平和に徹しようとするならば、先ず自分を赦・
おか
し、自分を愛さなけれぽなりません。自分の冒してきた罪誤りを、私は過去世の因縁の消えてゆく
姿として、悔い改め、反省と同時に、世界人類の平和を願う、人類愛的の祈り言である世界平和の
祈りの中に入れきってしまい、改めて自分の本心を現わして生きてゆく、ということの繰り返しの
生活をつづけてゆくうちに、赦すとか赦さぬとか、愛すとか愛さぬとかいう、そういう言葉にしな
くとも、自然に自己の生命を神からのあずかりものとしての自覚になってきて、自他の生命を共に
大事に生かしてゆくようになってくるのです、と教えています。
自分を赦し、自分を愛し、ということは、そのまま、自国を赦し、自国を愛すということになり、
真実に自国を赦せ、自国を愛せれば、他国をも赦し、愛せるところにきてしまうのです。平和その
ものの心境になってくるのです。
自分を赦し、自国を赦しということは、赦すという言葉によって、過去世からの因縁、国家でい53日
本
の
使
命
と
愛
国
心
えぽ、歴史的な誤った生き方が、そのまま消え去って、その時、新しい自己となり自国となって、
カルマ
生命が生き生きと輝き出すのであります。自分を縛り自国を縛っていた業因縁の鎖を、赦すという
言葉で解き放ってしまうのです。そう致しますと、自己や自国がもっている本来の力が、そのまま
輝いて出てくるのです。
個人にしても、国にしても、その本心本体を蔽っている黒雲を取りのぞいてしまうことが大事な
のであります。そういう心の状態がそのまま、自分を愛し、人を愛す、という状態になってまいり
まして、他人や他国の誤りや悪しきことのみをみつめないようになってきます。みつめるとかみつ
めないとかより、光が交流し易くなって、相手方も自然にこちらに対して本心で話合ってくるよう
になるのです。
わけいのちこうしよう
これは人間は本来神の分生命であって業生ではない、という光明思想がそのまま真実であるとい
う証左になってきます。
かんひめひこみこといのち
日本を神ながらの国といったり、女性を姫(霊女)男性を彦(霊子) とか命(命そのもの)とい
ったりしたのは、日本人が昔は、自己が神そのものであったことを知っていたからなのです。
54
政府も国民も真剣に考えよう
日本が現在なすべきことは、この地球世界に完全平和を樹立させるための働きのみであります。
うま
そのための方策を種々とたてるべきでありまして、何とかして、自国だけが上手く立ち廻って、他
国と他国が戦争していても、自国はそれにかかわり合わないで、他国の戦争で上手に利益が得られ
れば、それもよい、といったような安易な考えでいたのでは、とても駄目でありますし、そんな政
府の下に日本人の愛国心などが、すくすくと伸びてゆくわけがありません。
政府はもっと裸になって、国民に自分たちの政策をはっきりぶちまけてみる必要があります。こ
そこそした陰日向ある行動で、自分たちの延命策を講じたところで、その人たちも国民も共にマイ
ナスを重ねてゆくだけで、一つも日本国の得にはなりません。
国民の方は国民の方で、期待される人間像の中に書かれていたように、人類に所属しない国家は
ないし、国家に所属しない個人はないのであるし、個人の幸福や安全も確かに国家によって保たれ
ているのですから、その点をはっきり心に銘じて、自分の一挙手一投足は国家の運命に影響するの
だし、国家の運命は自分の運命に大きく関係してくるのだ、ということを、真剣に考えてみなけれ
55日本の使命と愛国心
ばいけません。
人類というものを主にして考える人々の中には、国家などはどうでもよい、国家などというもの
があるから、国家の権力争いになるので、そこに戦争の恐れがでてくるのだ、という人があります
が、一理あることであり、未来においては、現在の国家というような形はなくなってしまうのは必
然ですが、そこまでに至るのには、まだまだ先のことでありまして、人間の心がすべてイエスや釈
尊のようになってからのことであります。
現在はやはり、自分の生れ育った国家は、自分と等しい、自分の大きな体のようなもので、切っ
ても切れない関係をもったものです。R木の国土に育ちながら、日本のことを少しも考えずに、他
へん
国の思想に共鳴して、他国のためだけに働くような人があったら、その人は偏ぱな心の持ち主であ
るといえましょう。
どんな親でも親は親で、親をないがしろにするわけにはゆきません。しかも日本というのは、重
要な天命を受け持っている国家です。その国家のために働かないで、ただ、人類のため人類のため
といっていても、それは土台の無い家をたてるようなもので、決して立派に建ち上がることはでき
ません。
56
‘
ものの道理というものは、そのようなものです。ものにはすべて道理と順序というものがあるも
ばずうま
ので、その道を外しては、何事も上手くゆく筈がないのであります。
り
何もわざわざ愛国心といわなくとも、自己を生み育ててくれたものへの感謝の気持があれば、自
ずから愛国心に通じてゆくもので、先ず周囲のものへの感謝から人生の一歩一歩ははじめられてゆ
くのです。
私の提唱している、祈りによる世界平和運動は、祈りという宗教的要素が入っておりますけれど、
自然に観の転換が行われる方法でもありますので、殊更に宗教をやっていない人にでもできる行為
であります。
人間は肉体界に住んでいる限りは、本心を完全に出し切っている人は少ないのでありまして、ど
こかに迷いの想いや、自己の本心にそわない想念行為があるものです。ですから私は現在までのぞ
かこせ
うした迷いや誤りの想念行為は、過去世の因縁の消えゆく姿として、世界平和の祈りという人類愛
ごと
の祈り言の中で、救世の大光明によって消して頂くわけで、いつまでも過去の誤った想念行為に把
われることなく、人の過ちや行為をつかんでいることなく、すぺてを瞬々刻々平和の祈りの中に消
し去ってゆく、というところに、自然とその人の心が光明化してゆく道がひらけてくるのです。過57日
本
の
使
命
と
愛
国
心
去のこと、過去の歴史に把われることなく、未来の平和世界をつくりあげる日々の行は、今の一瞬
を世界平和の祈りの中から生み出してゆく生活にしてゆくことが大事なのであります。個人の平和
に徹した行為が大調和の中心国、日本を愛する愛国心となるのであることを、どうぞ、しっかり心
に沁みこませて下さい。日本はこの地球世界にとって大事な大事な国なのです。
58
変換期に来た日本
昭和四十三年一月〈白光〉発表
侵略者に対する戦い
米国にしても日本にしても、中共にしても、ソ連にしても、今日程、世界中が五里霧中で、動き
のとれぬ時代はありません。国家にしても世界にしても、今日までにも、どうにもならぬような時
代が随分とあったには違いありませんが、今日のように、一国の動きが忽ち地球人類そのものの滅
亡というような、こういう大きな動きになる時代は他の時代にはなかったのです。
こう
もっとも、仏教的にいう一劫二劫というような、彪大な年限となれぽ、話はまた別ですが、そう
いう言い方でいうと、六劫の終りから七劫のはじまり、という現在の地球人類の知識の中において
は、今日の世界は地球人類の運命を決する、最も重大な時期といわねばなりません。
59変換期に来た日本
現在の地球世界には、表面上に現われている二つの思想の対立があります。それは今更申す迄も
なく、米国をリーダーとする自由主義諸国と、ソ連、中共を中心とする共産主義勢力であります。
ソ連と中共は現在敵対視してはおりますが、元来は一つの共産主義勢力でありますので、一くるめ
にして、中ソを中心にする、と申し上げておきます。
この二つの思想の対立は、いつ果てるとも思われません。ベトナム戦争にしても、米国が単にベ
トコンや、北ベトナムを相手にして戦っているのではなく、真実の相手は共産主義勢力そのもので
あります。今のところ、米ソが種々と話し合ったりしてはおりますが、お互いの肚の底では、お互・
いの権力の拡張を計ることで一杯なので、そのための話合いや、妥協でありまして、真実の調和と
は程遠いものがあります。
お互いが自己中心の、自我の拡大を計っての話合いなどで、真実の調和など計る道理がありませ
んので、人工衛星まで使っての、武力での威嚇を両国共に計っているわけであります。
ですから米国にとっては、中共だけが敵ではなく、ソ連こそ最も恐るべき敵なのであり、共産主
義勢力そのものが敵なのであります。そして、共産主義勢力にとっては、米国をはじめ、米国を頼
りにしているすべての国々が、敵とみえるのです。中共の米国を敵視する憎悪の感情などすさまじ
6Q
いものがありまして、米国に少しでも味方するような素振りをすれば、忽ちその国を仇敵として憎
むのであります。
これは中共ばかりではありませんで、米国側の韓国にしても、共産主義国とは、共に天を頂かず、
という調子で、共産主義に対する憎しみの感情は物凄いものがあるとは、韓国にいる人の便りです。
それは私共日本人には計り得ない程の憎悪なのです。恐らくこの感情は、米国に対す北ベトナム、
北朝鮮にも同じ程度にあると思います。
ぎやくさつ
それはお互いが、多くの同胞を虐殺されたり、爆殺されたりしているので、当然の感情でもある
のです。私たち日本人が客観的にみているようなものではなく、恨み骨髄に達しているという程の
ものなのです。その感情は共産主義思想を憎む自由主義を憎む、などというものではなく、自国を
冒かした敵そのものに対する憎悪の感情であるのです。
底に流れている民族感情
表面に現われている対立要素は、共産主義と自由主義との対立でありますが、各国の底に流れて
いるものは、一体どんな感情なのでありましょうか。米国が、共産主義の侵略を恐れ、自国に近づ61変
換
期
に
来
た
日
本
けず、自国にもっとも遠いアジアの地域において、共産主義の浸透を防こうとして、ベトナムへ多
くの人員や軍費を使って戦っているのは、あに共産主義の侵略を防ぐためだからなのでしょうか。
それがナチズムであっても、民族主義的権力拡大のための侵略であっても、それは現在と同じ態度
で出ているのではないでしょうか。米国が現在武力を行使しているのは、表面は主義の戦いのよう
にみ、兄ましょうとも、それは主義そのものではなく、侵略者に対する戦いなのであります。それも
アジアを侵略することに対する怒りではなく、アジアを侵略されることによって、やがて自国が侵
略される危機になる、という、自国防衛の延長に他ならないので、アジアの人員や地形が少しぐら
い損われようと、自国防衛のためにはそんなことはかまっていられない、という心の状態なのです。
それにくらべると北ベトナムの方は、実に深刻な立場にあります。米国と違って、直接自国が爆
撃されることによって、人的にも資源的にも、大きな損害を受けているのですから、これは憎悪の
感情も深いし、真剣の度合が違います。自国の滅亡が現在にかかっているのです。そして、中共の
立場はその次の段階にありまして、常に自国の膝元を襲われている、眼の前に侵略国が来ていると
いう感じで、何事を投げ出しても、米国の侵略を受けて立つ武力と精神を養っておかなくてはなら
ない状態に置かれているのであります。
62
個人個人の幸福というのは先ず二の次三の次で、侵略国を撃退する態勢に自国の勢力を統一して
おかねばならぬ、ぎりぎりに追いつめられた立場にあるのです。そこで、その統一を焦って、紅衛
兵騒動が捲き起され、中心勢力にそむくか、同意せぬ勢力を虐殺したり圧迫したりして、大きな騒
動になり、世界中の不評をかったのです。その状態は、共産主義のためというより、民族の権力を
守るという、そういう心の状態が底に流れている感情でありまして、それを共産主義という表面上
の思想に結びつけているに過ぎない感じなのです。
イスラエルとアラブ連合との争いなどは、民族感情と宗教感情とのとりまざったものの対立で、
いずれも自国、自民族の権益を守ろうという感情によるものなのですが、何処の国の対立も、底を
割れば、思想云々というより、自国や自民族、自集団の自我の拡張、権力の浸透ということの対立
によって、争いが起り、戦争になってゆくわけなのです。
りんね
輪廻のくさりを断て
カルマ
侵略は侵略を生み、憎悪は憎悪を呼んで、仏教的にいうと業の波の輪廻転生で、いつ果てるとい
うより、地球世界滅亡というところまで突き進んでゆかざるを得ない状態になっているのでありま63変
換
期
に
来
た
日
本
す。
ですから、共産主義社会になれぽ、地球が救えるものでもなければ、共産主義を滅亡させて、自
由主義の世界になれぽ、人類は完全平和が実現できる、というものでもないのです。そんな主義や
カルマ
その勢力を、いくら何度び武力によって滅ぼし去ったとしても、人間の業想念が無くならなければ、
争いというものはこの地球世界から無くなるわけがないのです。
そのように、何度びでも繰り返さねばならず、それでいて少しも人類の真の幸福を生む道にもな
らず、かえって、地球を滅亡の方向に進めてしまうのです。そのような武力による戦いによって自
国の権益を守ろうとする、そんな昔風なつまらぬことは、何処かの国が先ず先がけてすっぱり止め
て世界の範とならねばならぬと思うのです。
何処かの国ではなく、平和憲法をもっているこの日本が、先ず先がけて、武力によらぬ平和運動
を実践してみたらよいのです。これは何も、米国にむけ、中共にむけ、韓国にむけて、説教するこ
とではないのでありまして、自国民が、先ず一つ心になって、平和の方向に想いをむければよいの
です。
現在の韓国政府に、平和の祈りをすすめても、反共一本に固まっている国民には、何を甘いこと
64
をいっているか、共産主義の侵略は、そんな甘いものではない、その恐怖を味わったものでなけれ
ば、共産主義の悪が判るか、と反問してくるにきまっております。
韓国にとって、韓国の考えが正義なのであり、北朝鮮にとっては、自国の考えが正義なのであり
ます。米国は勿論、自国の在り方が平和をつくる最大の正義なのであり、中共もソ連も、どこの国
でも、自国の在り方を正義という旗印にして信念を強めてゆくわけであります。
日本の天命と平和憲法
そして、何処の国も、他国の説教を聞いたり、他国のお節介が好きではないのです。ですから日
本は、他国に説法したり、お節介をしたりしないで、自国が先ず、平和の模範国になることが必要
なのです。日本は米国に恩恵があり、台湾政府にも恩をこうむっておりますので、あちらさんの言
うことを、無下に退けることはできないでしょうが、何しろ、平和憲法という、全く日本の天命完
うのためにうってつけの憲法が自然に与えられているのですから、これを金科玉条として、その線
を絶対にくずさず、他のことで、米国に協力してゆけばよいのであります。
こんなことをいうと、何という国際関係の事情を知らぬ人だろう、という人もあるでしょうが、
65変換期に来た日本
私共のように、広い範囲で宇宙の運行と地球運行の在り方を、霊的に本質的に観じておりますもの
にとっては、小さな狭い範囲の政治力などはかえって邪魔なものに思えます。周囲の眼ばかり気に
しておりまして、米国がどう、台湾がどう、中共が、ソ連がというように、横のつながりの方にば
かり眼がむいておりますと、一番大事な、天との交流、生命の本源との交流がおろそかになってし
まいまして、地球人類の宇宙の中にあっての立場とか、日本の天命とかいうものが、どこかに霞ん
てんとう
でしまって、本末転倒した政治を行ってしまうのです。
政治家は先ず、口本の天命をしっかと見極めなければなりません。米国には米国の、中国には中
国の天命がそれぞれあるのでありまして、日本が他国にひきずられて、自国の天命を忘れてしまう
ようでは、とても地球の運命を保つわけには参りません。
戦争に負けるも勝つも、結果的にみれば、その国々の総体的な運命によるのでありまして、その
結果からまた改めて自国の運命をつくり出してゆかなければなりません。それを過去のことばかり
思って、あの政治家のやり方が悪かった、あの外交がまずかった、日本は悪くなかったのに、米英
が日本を圧迫して、戦争までに追いこんでしまったのだ、等々、種々と弁解したりしますが、すべ
てはもうすんでしまったことで、善も悪も過去の在り方の結果として現われてきているのですから、
66
過去のことなど、くよくよ思いかえしていないで、現在の立場に立って、未来の国家や世界人類の
運命を考え、未来に運命が開けてゆくように智慧を働かせ努力してゆかなければならないのです。
日本が敗戦の落し子として得たもので、一番大きなものは何かと申しますと、平和憲法の誕生だ
と思うのです。この平和憲法に対しては、現在賛否両論がありまして、種々と論議されております
が、日本敗戦の結果生れたことはゆるがせぬ事実なのであります。宗教的に申しますれば、過去の
カルマカルマ
日本の歴史における業が敗戦と現われて大きく消え去ってゆき、業の消え去ったところに生れ出で
た憲法なのでありまして、これは米国がつくったものでも、日本の内閣がつくったものでもなく、
生れ出でなければならぬ必然性によってつくられたものなのです。細かくいえぽ改善したいところ
も種々とあるではありましょうが、根本を貫いている精神は一貫した平和論調なのであります。欲
をいえば、明治憲法の精神とこの平和憲法の精神の日本や世界のためになる部分を、・・ックスしてつ
くればなおよいことでしょうが、そういう欲はひとまずひっこめて、何処の国にも無い徹底した平
和精神に輝く憲法であることは間違いありません。
私は政治家ではありませんので、政治のことに兎や角いいたくはありませんが、宇宙の運行と地
球運行の関係、宇宙の法則と人類の運命との関係や、人間の心の問題は、私の霊覚によって、よく
67変換期に来た日本
存じておるつもりであります。
68
人間の獣性と神性
こういう地球人類の運命にとって、最も大事であるべき、宇宙法則や人間の心の問題を度外視し
て、世界の政治が行われていて、人類の運命が改善される筈がありません。現在の地球世界は、憎
カルマ
悪と妬心と権力欲と、怠惰と個人的利己主義、国家民族的利己主義等々の業想念波動で蔽われてい
ます。
日本も日本人もそういうカルマの外にいるわけではありません。個人々々の業想念はまだたいし
たことはありませんが、それが国家とか民族とかいう集団に結びつくと、これが正義という形に変
ってきて、ますます人間の本質である神の子の姿が失われてきてしまうのであります。そこに戦争
が生れ、戦争によって、いよいよ人間性が失われてゆくのです。それは、ベトナム戦争に参加して
いる兵隊の沖縄や他基地での暴虐ぶりや、戦場における鬼畜のような行いの数々によっても知れま
すし、かつての太平洋戦争中の日本兵たちの占領地区における動物性の暴露でも知らされておりま
す。
国家のためとはいえ、平気で人間を殺りくできるという神経は、もう万物の霊長としての人間の
しわざ
姿ではなく、キリスト教でいうサタンの仕業というより他はありません。人間は悟りきらない限り
は、神性と獣性との混合体でありまして、常に神性と獣性との戦いをつづけているわけであります
が、自国を護るという正義観によって、獣性があらわに表面に出てくるのでありまして、人員の殺
かいさい
傷の数が多い程快哉を叫ぶのであります。人殺しをすればする程、その人間が崇められるというこ
との中のどこに、真の人間性、神性があるのでしょうか、それも相手は極悪人でも、強盗でもあり
ません。相手も自国のための正義感に燃えている人間であります。
神の意志を無視するも甚だしい行為という他はありません。その行為が、動物に近かった未開人
の場合は仕方がないでしょうが、共に文明人同志の間において、この殺傷沙汰が起っているのです。
そして共に、正義を口にし、平和を口にしているのです。神を冒演するもこれに過ぎるものはあり
ません。地球人類はまだまだ神の理念に遠い距離を歩む、未開人なのでありましょうか。ところが、
個人個人の間において、社会道徳の立場に立っては、お互に愛し合い、助け合い、苦労を共に分け
合ったり、社会施設や、貧困者救済のための物資を出し合ったりする、神の子の心をよく現わした
行為も多くあるのです。これこそ文明文化人の特徴であり、神の子としての現れでもあります。
69変換期に来た日本
このように、人間を獣性の現れとしたり、神の子の現れとしたりするのは、一体何処に原因があ
るのでしょうか。それは自己を守り、自国を守ろうとする、自己保存の本能によって、その獣性が
現われるのであり、すべての中に調和を求めようとして、神の子の姿が現れるのであります。動物
と同じように、自己保存の本能を主体として生きるか、大宇宙の大調和の法則を、自己の中に生か
すことを目的として生きるかによって、地球人類の未来の運命が定まってゆくのです。
大宇宙の星々は、互いに自己を律し、自己に与えられた活動範囲を守って、宇宙の調和を保って
いるのですが、地球人類は常にあくなく自己の勢力拡張を計ろうとするのであります。これは自己
保存の本能にひきずられている行為なのです。私がいつも申すのですが、人間の肉体諸器官は頭脳
で兎や角想ったり、計ったりする以前に、定められた働きを順調に行っているのでありまして、心
臓に早く動くように命じたり、腎臓や肝臓の働きをゆるめたりする命令を下す人はないのですし、
内臓に想念がかかったりするとかえって、内臓の働きを妨げることになって病体になったりしてし
まいます。自分を守ろうとして計ることが、肉体諸器官にとってはかえって迷惑なのであります。
平和精神で強い結束を
70
‘
それと同じように、自己保存の獣的本能に躍らされて、種々と画策することは、自己の本心を乱
すことになり、他の調和をも破ることになるのです。それは個人にも国家にもいえることでありま
す。人類が動物に近い原始人であったり、未開の分野の多い時代なら、これは動物に近いのですか
ら、自己保存の本能で突然に人に噛みついたりすることでしょうが、現代は、文明文化は極度に開
かれていて、動物とは遥かに距った精神的に高度な立場にある筈です。そういう筈の人類が、何故
いつまでも獣性に躍らされて、自己や自国の権力拡張を計り、或いは自己防衛に汲々としなければ
ならないのでしょうか。或る人々はいうでありましょう。何を理想論的な甘いことをいっているの
だ、世界中が自国の権力を守るために、軍備を拡充して、折りがあらば、身近な国を侵略しようと
しているのだ、日本だけが理想論的なことをいって、軍備も何もしなければ、そういう国々の想う
壺だ、そういう理想論は赤い侵略者の味方のようなものだ、こんな風なことをいうでしょう。
表面の現象的な動きだけをみれば、もっともなことなのであります。確かにソ連も中共も北鮮も
うかが
日本の様子を虎視眈々と窺っているのです。北鮮のスパイ事件ではありませんが、常に日本侵略の
機会を窺い、日本の革命を外部から援助しようとしていることも事実なのです。
だからこそ尚更に日本は平和一念の精神になって、国民の心を世界平和一本に纒めあげてゆかな
71変換期に来た日本
ければいけないというのです。何故ならば、相手国には侵略の心はありますが、日本には他国を侵
略する気持は毛頭ありません。侵略をしようと狙っている国と、侵略の心の少しもない国と、一体
どちらに心の隙がありましょうか。こちらから攻めてゆこうと思っていない国より、隙があったら
侵略しようと思っている国の方が、隙を見出すのが上手なことはいうまでもありません。
日本が例え核兵器まで持った軍備を致しましょうとも、米国の守りを受けていましょうとも、ソ
連、中共、北鮮と身近な国が虎視眈々と狙っていて、本国の遠い米国が、しかも何処の国より、自
国の可愛い米国の守りが、どれ程日本を傷つけずに置いてくれるでしょう。戦争がはじまれば、日
本はひとたまりもありません。中共もソ連もそれは傷つくことでありましょうが、領土の小さな日
本が一番痛手を多く受けることは、国の広さのパーセンテージでみてもすぐ判ります。
戦争になってしまえばそうだが、戦争にならぬために、相手の侵略の野望を砕くために、軍備の
拡張が必要だし、軍隊も必要なのだ、こちらが強ければ、あちらは攻めてこないのだ、とまた人は
いうでしょう。しかし、よく、考えてみて下さい。日本は現在スパイが自由に活動できる国ですし、
日本国民の戦闘意識のないことは、相手方にすっかり見ぬかれています。戦争の脅威をあおる謀略
宣伝を大々的にやられたら国民の多くは、右往左往して、戦争反対の大暴動が起ることは火を見る
η
より明らかで、日本人は心の底から戦争を恐怖しているのです。そんな国民を一朝一夕で戦争も恐
れず国家を守る国民に仕立上げるのは容易なことではありませんし、それこそ宇宙の運行に反する
馬鹿気たことです。
結束力は謀略を受けつけない
私は現在出来ている自衛隊のことについては既成事実として認めています。それはそれでもう出
来ていることであり、これを元に戻すことはとてもできないことだからです。それに自衛隊の存在
価値は立派にあるからです。自衛隊のことはそれまでにして、それではどうすればよいか、私は日
本人が、一つの目的に総結集している意志強固な民族である、ということをすべての外国に知らせ
ることが現在一番大事なことである、と思っているのです。一つの目的、それはいうまでもありま
せん。世界の完全平和達成ということです。宇宙の運行は先程から申しておりますように、大調和
を目ざしております。大宇宙においては不用になったものは、自然淘汰されてゆきます。不調和な
状態は自然に消滅してゆきます。一つの星が他の星を叩き落すのでもなく、自らが燃えきってゆく
のです。73変
換
期
に
来
た
日
本
地球の場合でも、これと全く同じでありまして、不必要になった生物は自然淘汰されてゆくか、
他の秀れたものに従属してゆくかしてしまうのです。人類の立場も同じなのでありまして、こちら
が滅ぼさなくては、滅びないというものではなく、地球進化のために不必要なものは、やはりなん
らかの形で消滅してゆくか、或いは他の高い立場のものに吸収されてゆくかしてしまうのでありま
す。
ですから人類は、各自の置かれた立場で真剣に生命を生かしきってゆけばよいものなので、自我
で権力を拡張しようとか、自己を守ろうとかするより先に、自己や自国の天命を完うすることを、
いと高き者、神に祈ることが大事なのです。私は日本人が心を一つにして世界平和への想いを祈り
にまで高めあげることが、何にもまして先行されなけれぽならぬことであり、何にもまして大事な
行為であると思うのです。
日本中のテレビからまたラジオから、時を一つにして世界平和の祈りがなされた時、その祈りの
ひびきは世界中にひびき渡り、日本人が真に欲していることが、心を一つにしてひたむきに願って
いることが、世界人類の平和である事実が地球中に判ってくるのです。
日本人が真実心を一つにして世界の平和を祈る時、その光明のひびきは神のみ心をそのまま地球
74
世界に働かせることになり、ソ連の中共の北鮮のあらゆる国々の心を打たずには置かないです。そ
して闇の暴力である、侵略心を消滅させてしまうのです。国家を挙げて世界の平和を祈っている国
の一体化した隙のない結束を一体誰が侵略できるというのです。世界平和の祈りは犬光明です。光
は闇を消し去るものなのです。もしそういう国に兵をむけるものがあったら、それは世界中の国民
の総彊か受けることは間違いありません。それよりももっと根本的に、神の大愛がこの純真なる祈
りの使徒たちを守らずにはおかないのです。
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私たちの天命が完うされますように
神々様ありがとうございます。
こういう純粋なまざり気のない、神の子の祈りこそ、日本の天命を完うせしめ、世界中を戦火か
ら救い、天変地異から救う行為でなくてなんでありましょう。
75変換期に来た日本
7s
日本の天命達成のために
昭和四十三年三月〈白光〉発表
誰も戦争を欲していない
私たちの運動は、祈りによる世界平和運動でありまして、その根本は「人間と真実の生き方」に
書いてあるような心になって日々行じてゆくことにあるわけですが、一貫していえることは、個人
も国家、人類も大調和の方向にむかってゆかねばならぬ、ということです。
個人は個人同志の調和もさることながら、地球人類という全体との調和が必要でありますし、地
球人類は大宇宙の運行に調和してゆくことが絶対に必要なわけです。調和ということは、大宇宙
(神) の意志でありますし、生命そのものの目的でもあるからです。個人の肉体にいたしましても、
どこかの機関の調和が欠けていることによって、痛みや不快感が起り、肉体の動きが不自由になる
のでありますし、精神の調和が欠けますと、精神の不快感、衰弱感を感じるのであり、精神活動が
自由にならなくなるのであります。
社会にしましても、国家人類にしましても、不調和な状態が、不安感になり、不信感になり、正
常でない感じを人びとに抱かせるのであります。それはすべてを大調和の状態にしておくことが、
宇宙生命の意志であるのですから、そうなるのは当然なことなのです。不調和の状態にあることに
満足しているような人があるならば、それは異常な精神の人であって、正常人のなかには入り得な
さつりく
い人なのです。殺獄を好み、人びとの不幸を喜ぶ人々はみな精神異常者であり、精神に狂いが出て
いる人であるわけです。
ところがこんにちまでの歴史におきましては、そうした精神異常的な人が国家の主権を握ったり、
世界に覇を唱えたりしていたことが多々ありまして、国家や世界が乱れ、こんにちまでそうした乱
れた想いの波がひきつがれてきていたりするのです。
誰もが戦争をしたいわけではないのに、現在にいたるまで、どこかで戦争の行なわれていない時
はないというのは、大調和に反する異常精神の波に世界がひきずりまわされている証拠なのであり
カルぜ
ます。それを人類の業というのでしょうが、このままで過ぎていっては、地球人類は単に動物の延
77日本の天命達成のために
長にすぎない哀れな存在となり、ついには完全なる進化をとげずに滅び去ってしまわねばならなく
なります。
こんにちになりましては、人類が大生命の原則である大調和精神の波に同調する方向に動きださ
なければ、もういかんともなし得ないのです。宇宙の法則は神なる一つの意志によって貫かれてい
ます。宇宙の法則の調和の波に乗ることによってのみ、地球人類の存在はゆるされるのであって、
はず
調和の法則を外れたままで進んでゆきますと、大生命の光のとどかぬ暗黒の世界、破滅の世界に入
りこんでゆくよりしかたがないのです。すなわち地球人類は滅亡してしまうのであります。
国家も個人も宇宙意志にそった生き方を
こう考、兄てまいりますと、個人も国家も、眼前の利害得失よりも先に、その想念や行為が宇宙の
法則、大生命の原理である大調和ということに外れているかいないか、ということを考えなければ
ならないのです。古代からの聖者賢老は、みなその重要性を説いているのであり、そのために小智
才覚を捨てよとか、み心のままに、とか、無為にしてなせ、とか、本心の声に従えとか、種々と、
宇宙法則に乗りきる道を教えているのであります。
78
現在はもう宇宙時代に入ってきているのでありまして、単に地球人類というだけの考えでは時代
遅れの時になっております。まして、国家本位の考え方など非常な時代遅れなので、国家の運命を
考える場合には、つねに地球人類総体の和ということを念頭において考えるべきなのでありまして、
こ
その場その時の利害得失を超えた、地球人類全体の幸福に自国がいかに役立つ行為をしているかを
考慮すべきなのです。それでなければ、その国家は次第に縮少してしまうか、この地球界において
用のない国家になってしまうのです。それが自然の推移なのです。
私はつねに永遠の生命について考え行動いたしておりますから、永遠の生命の動きを損ね妨げる
行為を、すべて生命をマイナスする行為とみております。個人においても国家人類においても同じ
ことであります。永遠の生命だけが個人においても人類全般においても実在しているものであって、
現れの世界の損得も権威も地位も幸福も不幸もその時々に現われては消えてゆく想念波動の現れに
過ぎないのです。ですから、永遠の生命を自己のものとした人だけが、真実生命を生かしつづけ得
る人であり、安心立命を得る人であり、滅びることのない生命の成果をしるし得る人なのでありま
す。国家も全く同じなのです。
幕末の頃までの日本において、武士というものの存在が消え去ろうなどとは、一部の先覚者だけ79同
本
の
天
命
達
成
の
た
め
に
の察知していたことであって、一般人の思いも及ばなかったことであります。しかし、確固たる存
在であると思っていた武士階級が消滅して、こんにちのような階級別のない社会が当然のこととし
てある時代になってきました。日本社会にとっては一大変異であります。しかしこのくらいの変り
方はなんでもないことで、後には私がつねに申しておりますような、宇宙時代、宇宙時代といって
も、人工衛星で月や金星を往来できて、月や金星を地球のものにする、というような、そういう自
分勝手なことではなく、宇宙の星々に住むあらゆる生命と地球人類との交流が自然と行なわれ、地
球が文字通り、大宇宙の一環としての働きをしてゆくということなのであります。
地球のなかで鎖国状態にあった日本が、突然米国や英国やオラソダ等の外国というものを間近か
に感じて驚きあわてたというより、もっと広く深い、現在の文明程度では計り知れない超越した科
学と、深い宗教精神のもとに結ばれた、宇宙世界の一員に地球人類がなる時が迫ってきているので
す。その事実を私たちは知っているのです。そしてその時代のための用意を宗教的にも科学的にも
しているわけなのです。
しかし、こういうことは、未知の外国との交流を叫んで、狂人あつかいや異端者あつかいをされ
た先覚者同様、現在の人びとには不可解な言動に聞えることでしょう。だがこれは夢物語ではない
80
めです。時がたてば誰にでもわかってくる事実なのです。その時のためにも私たちは、日本を宇宙
はず
法則の歩みから外してはならないと思うのです。宗教の道も、古代からの聖賢の言葉も、その時の
ために重要な教えなのであります。
そういうことをひとまずおきましても、世界を大調和の道に乗せる活動を、日本が主体となって
やる必要はあるのです。国家が自国の自己防衛のためだけに他国と争い合っているようならば、国
家の存在などは有害無益なもので、存在する必要はないのです。お互いが自国の天命を完うするこ
とによって、地球の進化が促進されるということで分れて存在する価値が認められるのでありまし
て、現在のような国家の在り方では、国家の存在価値はないのです。
一つの大きな意志、大宇宙意識というか、大生命の意志というか、神のみ心というか、一なる意
志によって生みなされた小生命群、これが個人となり、集って社会国家となったのですから、各自
の天命を完うすることによって、大生命の意志がこの地球界に実現されるので、なんとしても、こ
の地球界を滅亡させる方向に進んでいってはいけないのです。これは個人的に考えても、国家的に
考えても当然のことであります。
81日本の天命達成のために
国民は日本の立場を知りたがっている
ところが世界の雲行きは、その当然のことが実行されていないで、次第に宇宙意志に反する方向
に進んできてしまっています。自己保存の本能に躍らされて、そういう方向にむかってしまってい
るのですが、これをなんとかして、大調和の方向に進みかえさせなくてはいけないのです。心ある
はず
人は誰でもそう思うのですが、昔からの習慣性の想念の流れで、思いきって、外れた軌道を、大調
和の軌道に乗せることができないのです。
米国などは国の体が大き過ぎて、いったん走り出した方向を変えることが、自力ではできなくな
ってしまっています。中共も同じような状態です。ソ連は権力欲がそうさせるのか、共産主義思想
というものがそうさせるのか、米国がベトナム戦で軍費や軍人の大きな浪費をするのを、心の中で
は喜んでいる状態で、米国や中共の力の弱まるのを待っているような形です。
欧州の国々は、ベトナム戦争より、欧州のどこかで戦いの起ることのないようにすることで手一
杯です。残る力のかなりある国というと日本だけなのです。その日本がアジアの調和をつくりあげ、
世界の大調和をつくりあげる重大な役目を果すことをしなければ、地球はどうにもならぬ運命にな
82
ってしまいます。
現在もつづいて行なわれている米国の北ベトナム爆撃は、いつ果てるとも今のところ見当がつい
ておりませんし、その上ソゥルでの北朝鮮の武装スパイ問題、米艦プエブロ号連行事件などで、米
国韓国対北朝鮮及び共産圏諸国との対立が表面化してまいりまして、世界戦争の危機は、ますます
増大しております。
朝鮮が第二のベトナムにでもなれぽ、隣国である日本の立場は実に微妙な、且つ重要な立場に立
たざるを得なくなります。現在の政府の政策のような、その場その場を糊塗していて、一歩踏みこ
んで、日本の立場を明確に国民に知らせるとか、国民とともに考えるとかしないで、時を送ってい
たのでは、自国の意志でもない方向に、米国の流れに巻きこまれていってしまいそうです。
国民の総意とまでゆかなくとも、国民大半の気持で定まった方向に国家が進んでいって、それで
たとえ失敗したとしても、それはそれで、国民もなんとか割り切ってゆくことができるでしょうが、
国民の大半が好みもしない方向に、いつの間にか進んでしまっていて、はっとした時には、もうど
うにもこうにもしかたがなかったでは、死んでも死にきれぬ感情を国民はもつでしょう。
太平洋戦争の時には、戦争反対の人は勿論あったでありましょうが、米英の経済的な圧迫に耐え
83日本の天命達成のために
かねて、現在の中共や北鮮のように、国民がほとんど一丸となって、戦争の方向にむかってしまっ
たので、どうにもやらねばこのままでは気がすまぬ、というところまで追いこまれていたような形
でした。
ですから敗戦して、実にみじめな生活を国民全部が味わったわけですが、そのわりには、やるだ
けやって敗けたのだ、という、さっぱりとした気持がどこかにあったようです。政府や軍部に戦争
させられてしまった、という気持の隅に、自分たちもやらずにはいられなかった、という気持がか
なりあったことはいつわらぬ国民感情だったのです。
真の平和運動は左翼陣営では出来ない
ところが現在の国民感情は、もう戦争はコリゴリだ、絶対に戦争はやりたくない、という気持が
大半をしめております。なにがなんでも戦争の方向に国家がむかってゆくのを防ぎたいという気持
です。その気持が政府にもわかっているので、平和憲法にのっとってとか、日本は平和のためにと
か、核装備は絶対にしないとか、国民に向ってはいっているのであります。
ところが、その言葉を額面通り受け取っていると、どうも時折りおかしな言動を、国際関係の会
84
議や、与党内の会議で口走ったりしているので、国民はおやっというふうに眼を光らせるのです9
こんどの空母エンタープライズ号の入港にしても、日米安保条約があるので、米国の軍艦が入港す
ることなど当然なことなのでありましょうが、この入港する米国の意図するところが問題なので、
けんせい
米国の意図するところを充分に承知しながら、米国へのなんの牽制もしないで、むこうさまの行な
う通りに入港させているのですし、国民には入港の真実を知らせようとはしていないのです。
そこで左翼勢力ばかりでなく、真面目に平和を考え、運動している人々までが、どうもこんどの
空母の入港はおかしい。日本国民の核装備を恐れる心を、次第にまひさせるために、次々と軍艦を
入港させ、ついには原子力潜水艦やはては原子力による空母まで入港させてきたのではないか。勿
論空母には原子爆弾が積んであるであろうが、それが積んでないとしても、いつでも原爆基地にな
り得る空母などを入港させつければ、日本の港はいつの間にか、原爆基地同様のものになってしま
うと疑う気持になってくるのです。
そこのところをぼかしてしまって、日米安保条約がある以上、米艦の入港は当然である、という
のでは、国民の心は不安でいたたまれない気持になってしまいます。全学連の暴力で反対運動は困
りものだが、学生たちが反対運動する気持もわかる、というように一般国民は思っているのであり蜀
日
本
の
天
命
達
成
の
た
め
に
ます。
日本の政府はこういう国家や人類の運命の大事な時に、なぜもっと国際関係の真意を、一般国民
に知らせないのでしょうか、ほんの一部の人たちの賛成を得ているからといって、国民の大半が政
府の真意を知らないでいたのでは、左翼陣営の論調に耳を傾けたくなるのはあたりまえなのです。
国民大半の知らないうちに、戦闘準備の方向に向っていたのでは、それこそかえって左翼陣営の思
う壷です。
政府の政治が国民に疑惑の眼をもってみられるようでは、国論の統一がはかれるはずがありませ
ん。国にとって一番いけないことは、国民の心がいくつにも分裂してしまうことです。国民の心の
統一がなければ、外国に対してその国家の力が充分に発揮できません。なによりもまず、国民の心
の統一をはかることが、政治にとっては大事なことなのです。
日本の主義主張は何か
米国ははっきり共産主義陣営の撲滅のために戦っている、といっておりまして、共産主義陣営を
撲滅することによって、平和世界ができると思っているのです。そのイニシアチーブを米国がとっ
$6
ているのだから、平和を欲する各国よ我れにつづけ、というわけなのです。
はたして、共産主義陣営が壊滅すれば、世界が平和になるのでしょうか。共産主義の他に、米国
に敵対し、自由主義陣営に敵対する主義はないのでしょうか。私はいつもそれを疑問に思っている
のです。一体、この地球世界を乱しているものは、何々主義と呼ばれている主義主張なのでしょう
か。それとも、人間自体の生き方に根本的な誤りがあるためなのでしょうか。一つの主義主張をつ
ぶしても、必ずまた新たな主義主張が生れます。そしていつになっても、イデオロギーの対立抗争
が起り、戦争が起ります。宗教戦争なども主義主張の対立によって起ったものです。
日本には現在、はっきりとした主義主張がありません。ただ、反共産主義という在り方が、政府
内部や、右翼団体のなかにあるだけで、自分たちはどういう生き方をすることが一番よいのか、国
家の生き方はこうなければならないのだ、人類はこうあるべきだ、という確固たる生き方をほとん
どの人が持ち合わせていないようなのです。
ところが、世界情勢は日本の生き方をはっきり一つの方向に定めなければならぬように、他動的
に持ってきています。ベトナム戦争がそうであり、こんど、米国と北朝鮮とのやりとりがそうです。
今起るとは思いませんが、また再び朝鮮戦争が起り、米国が朝鮮を第二のベトナムとした時、隣国
$7日本の天命達成のために
日本は一体どう処したらよいのでしょう。ベトナムの時のように、高見の見物はできません。はっ
ばつ
きりと米国や韓国側について、米韓側を援助する体勢を取るか、身を挺してこの戦争の勃発を防ぐ
か、この二つのうちどちらかを取らねばなりません。今のところでは、軍事力援助は別としても、
なにやかと米韓側の援助にあたらねぽならなくなることでしょう。北朝鮮には中共やソ連が同調す
ることは必至です。米韓側を援助するとなれば、日本も世界戦争覚悟で、本格的軍備をしてかから
ねばなりません。
政府が米国との行きがかり上、ずるずると争いの渦中に巻きこまれてゆくようだととんでもない
ことになります。こんどは前の朝鮮戦争の時のように、対岸の火事でおおもうけというわけにはま
いりません。国運をかけてというか、人類の運命をかけて、ということになりかねないのが、朝鮮
問題なのです。
ベトナムにしろ朝鮮にしろ、米国がアジアにおいて、争いを起してゆくところには、どうしても
アジアの中心国である日本が関係しないではいられないのですから、米国がアジアで争いを起さぬ
前、または、起しても大事にならぬ前に、日本が仲立ちして、双方の争いを止めねばならぬ立場に
あるのです。それでなければついには日本も戦争の渦中に入りこんでしまわねばなりません。
日本の平和精神を世界に宣明しよう
問題はここなのです。日本の国民の大半は絶対に戦争はしたくない気持です。なかには、たとえ
共産主義圏の支配下になっても、戦争をするよりはよい、という人さえいます。実際に共産主義下
の圧制政治を味わったことのない人は、実際に体験した戦争の恐怖にくらぶべきもないのでしょう。
たとえ共産主義の政治が悪魔のような圧制政治であっても、恐怖と死とが同時におしよせてくる
戦争の恐ろしさよりも増しだ、と思うのも無理のないことです。日本人は心の底から戦争を恐怖し
ているのですから。日本ばかりではない世界中が、日本流にいえば、八方ふさがりの状態で、その
場その場の成り行きに合わせて生きているという状態なのです。
にず
そうしているうちに、世界はいつの間にか大宇宙の運行軌道を外れきって、滅亡の彼方に進んで
いってしまうかもしれないのです。日本はここで、一大勇猛心を起して、世界のどこの国でも行な
っていない、一億総力を挙げての平和の祈りをつづけていったらどうかと思うのです。日本には他
になんの想いもない、ただひたすら地球世界の平和を願うだけなのだ、ということを、終戦時の一
億総ざんげではないが、そういう方向に国民の心を結集させてゆくのです。
$9日本の天命達成のために
これは民問側と政府側と、異なった角度でもよいから、日本人全員は、世界の平和だけを願って
いるのだ、ということを、諸外国に徹底させて知らせることが大事なのです。日々瞬々刻々、つね
に世界平和のこころが国中に世界中にひびきわたっている、ということが必要なのです。悪いこと
ばかりを描き出し、対立抗争のニュースばかりを流さないで、新聞やラジオやテレビや週刊誌やす
べてのマスコミの活動が世界平和ということを中心にして報道するのです。
日本中を平和のひびきで包んでしまうのです。これはやればできないことではありません。自民
党が悪い、社会党が悪い、中共が悪い北鮮が悪い、という悪い悪いという抗争精神はひとまず隅に
おいて、日本の平和精神を外国がなにをいおうとおかまいなしに、徹底させてゆくのです。
政府与党としても、なにも戦争の方向に国を進ませようと思っているわけではなく、米国との国
交上や、共産主義国の侵略防止のための自衛手段を取りたいだけなのですから、徹底した反共策を
取っているわけではないのです。このへんからはあまり対立抗争のほうに進まないで、国内の平和
運動のほうに重点をむけてゆく必要があるはずです。平和運動というのは左翼主義者の看板である、
みずか
という印象をスッキリとぬぐい去って、真の平和運動を、政府自らが打ち出していって、どこが悪
いというのでしょう。こんにちまでなにゆえにはっきりとした平和運動をしなかったのでしょう。
90
口先ぼかりで平和を守るとか、憲法は改正しないとかいったって、国民も共産主義国側も納得する
わけがありません。
米国や韓国とはその点ではっきり一線を劃して、日本独特の生き方をすることが、かえって世界
の信用を得ることになるのです。なんでもかでも外国とのつり合いによって行なうというような、
まつと
自主性のない生き方では、日本の天命は完うされません。
日本独特の平和運動をするためには、心の底から地球世界を滅亡させてはいけないのだ、という
ことを思わなければなりません。少しぐらい日本の利得が失われても、地球を滅ぼしてしまう方向
に向うよりはよいのだ、とはっきりと政府も国民も割りきってかかることが必要なのです。
その日その日が無事にすめぽ、後のことはまた後でどうにかなる、などという自主性のない、頼
りのない生き方では、現在の世界の荒波に処してはいけません。日本人が一丸となって、世界の救
世主になって、平和世界を現出させなければ、他のどの国にもそれはでき得ぬことなのです。なぜ
かと申せば、いつも申しておりますように、日本の天命が大和世界をつくることにあるのですから、
日本が世界平和のイニシアチ!ブを取るのは当然なのです。そのためにこそ、日本が最初に原爆の
洗礼を受け、身をもって戦争の悲惨、しかもこれからの戦争の大惨事を体得させられたのです。91日
本
の
天
命
達
成
の
た
め
に
これもすべて神はかりにはかりたもうてなされていることで、地球世界は必ず最後には、平和そ
のものになるのです。そのためには、各自各国が自己や自国の天命完うのために働かなくてはなら
ないのです。米国はすでに物質経済のため、世界の物質文明のために大きな働きをしてきているの
です。それが米国の天命ともいえるのです。こんどは日本が自国の天命を完うする番になっている
ので、世界を戦争の災禍から救うための大きな働きを、国民挙げて達成してゆかねばならぬのです。
共産主義国を滅亡させれば世界が平和になるなどという、米国式の愚かな考えを捨て去って、あら
ゆる国々を包含した、真の世界平和達成のために、私どもは神々の加護を願いつつ、日々の生活を.
送らねばならぬのです。一日も早く、日本中が、世界平和の祈りを、日々の行として生活してゆけ
ますよう祈らずにはおられません。
92
私の愛国
、
‘い
昭和四十六年三月〈白光〉発表
三島事件以後の風潮
三島氏割腹事件以来、憲法改正、再軍備の問題が、表面にはっきり浮び上がってきて、外国でも
日本の軍国主義化を警戒の眼でみはじめている。四次防防衛費の急速なる増大予算は、保守的な人
々の心にも、左傾の人々の心にも、本格的軍隊の姿を感じさせてきた。
三島氏を愛国者とみる人々は、愛国ということと天皇中心ということ、それに軍備増強というこ
とが結びついて離れないようである。天皇を元首として表面に出す、ということと軍隊ということ
を、どうして結びつけて出さねばいけないのか。私にとっても不思議でならないし、天皇ご自身に
とっても甚だ迷惑なことではないのか、と思うのである。93私
の
愛
国
心
天皇をはっきり日本の元首と打ち出すことに私はなんの異論もない。しかし、天皇元首というこ
とも軍隊ということも、すべて憲法改正に結びつく。そこで、天皇元首ということと軍隊というこ
とが憲法改正というところで一つに結びついてしまう。かえって結びつけて考えようとしている人
々も随分とある。
自衛隊をすっきり軍隊として取扱うための憲法改正、これはまた別の話として、それと同時に天
皇元首説が出てくるので、天皇が主権を握れば、また再び軍隊が生れ、軍国主義に日本がなってゆ
く、というように連想されてゆくのは、口本にとって実に不幸なことといわねばならない。天皇は
あく迄、平和の天皇であって、軍国主義の天皇ではないのだから、こんな想い違いを多くの日本人
や諸外国にさせてしまっては、大変なことになる。
それから愛国ということでもそうである。愛国ということは、軍隊をもって敵に対処するという
ことではない。いかに人類完全平和達成のために、日本の力を発揮させ得るか、日本の本来の天命
である、和の世界創設のために日本の実力を発揮させるようにむけてゆく、そのための働きを私は
愛国の働きといいたいのである。国を愛するということは、大宇宙の原則である大調和の道に、日
本を乗せきってゆくために働くことであって、敵とみえる諸外国をも敵でなくしてゆく方法をみん
94
なで考え実行してゆかねばならぬのである。
敵とみえる国々をそのまま敵とみなしきっての軍備増強というのでは、昔の歴史そのままの踏襲
こうりんね
であって、業の輪廻にすぎない。向うがこうやってくるから、こっちもこうやってやるんだ、とい
こうしよう
う式の業生の在り方では、地球人類の未来は闇である。そういうやり方を数知れぬ程繰り返してき
て、人類は地球世界を核戦争の危機にまで追いこんできてしまったのである。この上またその繰り
返しをやろうというのだったら、敵でないものまで敵にしてしまった、米国と同じような道を日本
も踏むことになり、もう人類の運命は神のみ心から離れ去っていってしまったという他はない。
幽丸となって平和に徹せよ
しかし、ここでよく考えなければならないことは、敵とみえている諸外国を敵でなくするという
ことは、容易なことではないということである。それこそ国民一丸となって、平和精神に徹するこ
とが必要なのである。ただ戦争が嫌だから軍備はいらないなどという浅い考えではなく、平和に徹
する以外に、地球人類を戦火から救うことはできないのだ、他になんらの方法もないのだ、という
ことを、そしてそれは私たち国民の一人一人の肩にかかっているのだ、ということをしっかり知っ
95私の愛国心
、
でもらわねばならぬのである。
ただ戦争が嫌だから、といって反軍備を叫んでいたとて、日本が救われるわけではない、かえっ
て、日本が分裂して、共産主義国の思う壷になって、ベトナムやカンボジアの如く、内戦をひき起
こさないとは限らない。日本にはもうすでに強力なる自衛隊があるのであり、米国の軍事力も後押
しをしているのである。日本の国内で共産圏の破壊活動が行われ、それに同調する人々と、自衛隊
や米軍の対立が本格的に行われたら、各処で市街戦が行われることは必至であり、日本の都市は滅
茶滅茶になってしまい、一大混乱を引き起こすのである。
左傾の人々の無防備平和論の底には、日本の資本家群や米国に対する敵意が存しているのであっ
おちい
て、真の平和の精神ではない。明らかに日本国内は分裂闘争に陥ってしまうのである。私の主張す
る平和論は、そうした左にも右にも片寄らぬ、純然たる平和精神で、日本を守り、人類に平和を築
きあげようというので、非常に地味に見えながら、実は神のみ心をそのままこの世に現わすための、
一大平和運動なのである。
宗教者のうちにも武器をもって共産圏を叩け、と主張している人もある。日本は自由主義陣営で
あり、共産圏は敵なのである、とこの人ははっきり割りきっている。
ys
日本が共産主義国に侵されたら大変だ、という気持は私にもよくわかるが、だからといって、神
の大愛を信ずる宗教者が、軍事力で世界に対そうということが不思議である。私は自然の成り行き
を、それが表面的にプラスと現われようと、マイナスと現われようと、その底にはすべて神のみ心
が働いている、と思っている。ちなみに、日本の戦争責任者であった天皇が、そのまま無事に今日
まで天皇として存在しておられることなど、神のみ心が自ずと働かれていた、ということに他なら
ない。その神のみ心を現わし得たのは、天皇の国民をかばって自己を投げ出しきった大犠牲の愛の
精神があってのことである。すぺての業を消滅しようとして働く場合もあるので、神のみ心が働い
ているからといって、表面的によいことばかりあるわけではない。私のいう過去世の因縁の消えて
ゆく姿として、不幸や災難という形で現われることもある。
だから、現象的の現れに左右されて、神のみ心の本質を忘れてしまい、相手の業と同じような業
想念で立ち向っていたのでは、とても神の世界がこの地上界に現われることはない。真実にこの世
界に平和を欲するならば、徹頭徹尾平和精神でゆくぺきであり、日本にどうしても軍隊が必要であ
ると思うなら、自分の子供や孫や親族の者を自衛隊に入れたり、防衛大学に入れて率先して範を示
さなければいけない。自分たちは常に安全圏にいて、他人の子供たちを軍隊に送りこむ奨励をして
97私の愛国心
ヘへ
いて、てんとして、恥じないような人ではとても本物とはいえない。
私など、とても虫一匹殺すのも容易でないのに、軍人になって人殺しをするなど、とてもできそ
うもないので、環境が自然にそうなるならその環境で全力を尽くすが、自らすすんでそういう環境
を作ろうとは思わないし、人にもその道をすすめる気はしない。そこで私は徹底した平和論のほう
に自分の進む道をおいている。世界平和達成のためにすでに神に生命を捧げている身である。とい
っても、もうすでに出来上がっている、自衛隊に文句をつける気など毛頭ないし、そうなったのも
自然の成り行きとみている。人間には種々の考えがあるのだから、それぞれの道を進むのは致し方
しざよ フ
がない。ただ偽善的な卑怯な生き方をすることだけは止めないと、その人の後生が苦しいものにな
ってしまう。
そこで結論ということになるのだが、私は日本が平和を欲しているのは当然なのだから、政府は
政府としての平和運動を何故大々的にやらないのか、といつも思うのである。
政府としての平和運動を
成り行きで、自衛隊が次第に拡大されてゆく傾向にあるが、その方向に外国の眼がむけられるの
98
を、そのままにしておかないで、平和運動の庶うに大きく眼をむけさせるような、本格的な平和運
動をしなければいけない。日本が平和を欲しているのだ、ということを諸外国に徹底して知らせて
おかないと、いつの間にか、日本は軍国主義の国という焼印をおされてしまう。先日も世界宗教者
平和会議に集まった世界の宗教者たちは、すでに日本が軍国化していると思いこんでいて、日本の
軍備撤廃の平和憲法を守る応援をしたい、といっているのである。今からでも遅くはないのだから、
あらゆる宣伝機関を利して、大々的平和運動をすべきである。私は、国民の心が一つの合言葉で、
平和の方向に一致してゆくように、
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
というような言葉をみんなで唱えつづけるようにしてゆき、これが全国的運動になれば、諸外国
にも知れわたり、日本軍国主義の汚名をはらすことになるのである、と思っている。そのために私
共は民間人として、政府に大きく協力してゆくつもりである。これが私の現在の愛国心である。青
年に愛国心を振い立たせるのは結構だが、愛国には武力が必要だと思わせるような方向にむけさせ
るのは困りものである。現在日本人の大半は、たとえいかなる強力な軍事力をもとうとも、戦争を
99私の愛国心
する気は全く無い。前にも書いたことがあるが、敵の爆撃が少しでも日本の都市に加えられたら、0
1
国民は大変な恐れを抱いて、とても敵を迎え撃つ軍隊の協力をするとは思えない。そんな日本国民
の気持は、外国のスパイ網ははっきりつかんでいるはずである。
日本を守るのは、軍隊そのものではなく、あく迄、日本国民全体の愛国心以外にはない。その愛
こぶ
国心を鼓舞することが、すぐ憲法改正、再軍備と結びついてしまうのでは、また再び太平洋戦争以
し
前の日本に還ってしまう。青少年の心はいかようにも染みやすいので、指導者の持ってゆき方で、
割腹もしかねないし、昔の浅沼書記長襲撃の青年のように、社会主義者を国を売る者として、憎悪
するようなことにもなってくる。恐ろしいことなのである。
真の愛国心とは、あくまで、日本をして、世界人類のための、平和世界をつくりだす大きな働き
のできるようにもってゆく精神である。いいかえれば、日本を大宇宙の大調和の法則つまり、敵の
げんわく
無い愛し合う原理に乗せきるために働く心である。その原則を離れて現象世界の動きに幻惑されて
しんとう
いては、日本は二分五裂してしまうのである。共産主義の滲透を恐れるのあまり、米国はベトナム
に出兵し、ベトナムに地獄絵を画きつづけた。もし米国がベトナムに手を出さなければ、あんなに
ひど
長く、あんなに非道い戦争はつづかなかったことは事実であるが、そのかわり、全ベトナムがはっ
きり共産主義圏に入ってしまっていたことでもあろう。
戦争の悲惨さから考えたら、米国はとんでもない手出しをしてくれた、ということになり、共産
主義の侵略を一応防いでいる、という側からみれば、米国の働きは非常な重要性をもっているとも
いえる。日本の識者の中もこの両面に分れた眼をもって米国をみているのである。例え戦争をして
も共産主義の侵略から国を守る、という考え方と、たとえ共産主義になっても、絶対戦争は嫌だ、
という考え方、共産主義側と一体になって、米国を中心とする資本主義陣営を倒そうとする考え方、
この人々は勿論戦争をも辞せずである。
原則をどこにおくか
こういう三者の考え方があるのだが、共産主義も嫌だし、戦争もごめんだ、という、つまりなん
にも考えないで、自分の家庭だけを守ってゆこう、どんなことでもいざこざはごめん、という、社
会や国家に対する無責任な生き方の人が意外と多いのである。国家の運命が自分たちの運命を定め
てゆくのだし、自分たちの生き方が、社会や国家の運命を左右しているのだ、ということなど、こ
の人たちには考えられもしないのであろう。
101私の愛国心
国を治める政治家というものは、こういう種類の人たちや、食えさえすれば共産主義だってなん02
1
たぐい
だってかまわねえ、という類の人たちにまで、国家と個人との密接なつながりをわからせるように
しなければならないのだし、国家がこうなれば、皆さんはこんな風になるのだということを、わか
りやすく知らせなければいけないのである。共産主義になればこうこう、軍国主義になればこうな
る、ということを、歴史的事例をもって、一般人に知ってもらっておき、だからどうすればよいか
を、国民に考えさせる方向に持ってゆかねばいけない。そういう風な働きかけを国家がしないから、
国民はいたずらに政府のやり方を疑い、左翼の論説にひっばられたり、右翼の在り方に心を寄せた
りしてしまうのである。
まだ世界連邦ができていないので、国民は好むと好まざるとにかかわらず、国家を自分たちの家
として守ってゆかねばならぬのだ。愛国心とはつまり、自分の大きな家を守る、ということなのだ。
先程の三つの考え方は、その人たちにとっては、いずれも根拠のあることなのだろうけれど、いず
れも非常に危険性を含んでいる。
日本人が日本自体を守ることは、これは当然なことなので、日本を守るにはどうしたらよいかと
いうことを種々と考えるわけで、私などは日本の天命である和ということをあくまで原則として、
その原則にしたがって行動することが日本を生かす道だと信じ、祈りによる世界平和運動を打ち出
もと
しているのである。政府も枝葉のことにとらわれず、日本の原則的生き方である調和に本を置いて、
すべての行動をしていただきたいと願って止まないのである。
103私の愛国心
104
日本の運命を善くする為には
昭和五十年四月〈白光〉発表
日本の自殺ー文芸春秋の記事1
日本の国民の中で、今一番問題視されているのは、公害問題のようです。様々の公害は日本を非
常に毒するもので、みんなが問題視するのは当然のことです。しかしそれはそれとして、もっと根
本的なことは、国民全体の日本という国に対する考え方なのであります。
文芸春秋昭和五十年二月号に、日本の自殺、と題して、興味深い記事が掲載されていますが、内
容は、この六千年の歳月の中での二十一の文明世界の没落、消滅の原因について、ギリシャ、ロー
マをその代表とし、プラトソとトインビーの言葉を引用して、現代日本社会の中に観察される没落
の諸徴候と思われるものと比較しています。
それは次のようなものです。
『例えば、プラトンによれば、ギリシャの没落の原因は、欲望の肥大化と悪平等主義とエゴイズ
ムの氾濫にある。道徳的自制を欠いた野放図な「自由」の主張と大衆迎合主義とが、無責任と放坪
とを通じて社会秩序を崩壊させていったというのである。プラトンが五十歳から六十歳の間の、あ
る時期に書いたと推定されている有名な「国家」は、崩壊前夜のアテネの状況を目撃しつつ次のよ
うに書いていた。
「支配者たちが… …自由をふんだんに与えてくれないと、市民たちはそうした支配者たちを、も
ののわからぬ奴、寡頭制的な奴と非難するようになる。… … 他方、市民は、支配者たちに従順な者
を、自ら好んで奴隷になる奴と非難する反面、被治者に似た支配者たちや、支配者然と振舞う被治
者たちを、私的にも公的に賞めたたえる。… …父は子に似たものとなり、また自分が自由であるこ
とのためなら、両親に恥じる気持も怖れも抱かぬならわしとなる。… …教師は生徒を怖れて生徒に
へつらい、生徒の方は教師を軽蔑する。男に対する女の、また女に対する男の関係でも、どれほど
の平等や自由が生じることか」』
105日本の運命を善くする為には
ローマ滅亡の五つの原因
次に、いかにしてロ: マは滅亡したかについては、
『第一に、巨大な富を集中し繁栄を謳歌したロ:マ市民は、次第にその欲望を肥大化させ、労働
を忘れて消費と娯楽レジャーに明け暮れるようになり、節度を失って放縦と堕落への衰弱の道を歩
みはじめた。それはまさに繁栄の代償、豊かさの代償とでも呼ぶべきものであった。
第二に、ローマ帝国各地から繁栄を求めて流入する人口によってローマ市の人口は適正規模を越
えて膨脹に膨脹を続け、遂にあの強固な結束をもつ小さくまとまった市民団のコミュニティを崩壊
させてしまったのである。… … こうして、マンフォードの言う「巨大都市象皮病」にかかったロー
マは、故郷喪失者たちの大群からなる、無秩序な大衆の集積地と化し、この巨大な大衆を統合する
新しい組織原理、人間関係の原理を見出すことができないままに凝集力を喪失していったのであ
る。
策三に、これらローマ市民の一部は、一世紀以上にわたるポエニ戦争その他の理由で土地を失い
経済的に没落し、事実上無産者と化して、市民権の名において救済と保障を、つまりは「シビル・
106
ミニマムL を要求するようになった。
よく知られている「パソとサーカス」の要求である。かれらは大土地所有者や政治家の門前に群
がって「パン」を求め、大土地所有者や政治家もまたこれら市民大衆の支持と人気を得るためにひ
とりひとりに「パソ」を与えたのである。このように働かずして無料の「パン」を保障されたかれ
ら市民大衆は、時間を持て余さざるを得ない。どうしても退屈しのぎのためのマス。レジャー対策
が必要となる。かくしてここに「サーカス」が登場することとなるのである… … 。
ローマの市民大衆が働かずして無償の「パンとサ:カス」を「権利」として手に入れることがで
きるようになり、繁栄と福祉の絶頂に達したと錯覚していたときに、ローマ社会の芯は腐り始め、
ローマ人の魂は衰弱し、ローマの没落が確実に始まっていたのである。
第四に、市民大衆が際限なく無償の「パンとサーカス」を要求し続けるとき、経済はイソフレー
シ・ンからスタグフレーションへと進んでいくほかはない。過去の諸文明が、その挫折と解体の過
程でいずれもインフレーショソに悩まされていることは誠に興味深い歴史的事実である。..::しか
も、社会の衰弱過程で次第に生産性が低下し、富の獲得が思うように行かなくなって不況が発生し、
にもかかわらず大衆がこの事実に目をつぶって身勝手な要求貫徹を主張し続ける限り、イソフレと107日
本
の
運
命
を
善
く
す
る
為
に
は
不況は相携えてスタグフレーショソという形をとるほかはないのである。
第五に、文明の没落過程では必ずといってよいほどにエゴの氾濫と悪平等主義の流行が起る。こ
うして民主主義はその活力を失って、一方で放縦に走り、無秩序と解体をもたらし、他方で悪平等
主義に走って画一化と全体主義の泥沼のなかに腐敗していく。こうして疑似民主主義は没落のイデ
オロギーとなり、指導者と大衆を衆愚政治の腐敗のなかにひきずりこんでいく。… … エリ!トは大
衆迎合主義のなかに自信と責任を失って崩壊していき、大衆の思考力、判断力は目にみえて衰弱し、
低下して、社会はその「自己決定能力」を喪失していくのである』
『諸文明の没落の原因を探り求めて、われわれの到達した結論は、あらゆる文明が外からの攻撃
によってでなく、内部からの社会的崩壊によって破減するという基本的命題であった。トインビー
によれぽ、諸文明の没落は宿命的、決定論的なものでもなければ、天災や外敵の侵入などの災害に
よるものでもない。それは根本的には「魂の分裂」と「社会の崩壊」による「自己決定能力の喪
失」にこそある』
108
五つの教訓
とつづいて来て、執筆者は最後に次のようにまとめています。
『われわれはあらゆる症候からして日本社会内部に強力な自壊作用のメカニズムが働いているこ
と、そしてこのメカニズムを除去しえない限り、日本は自殺してしまうかも知れないということを、
時間の遠近法に照らして論じてきた。だが、一体どうすればわれわれはこの自殺への危険な衝動を
阻止することができるのか。そのためには、過去の諸文明の没落の歴史から、若干の教訓を引き出
して整理しておくことが必要であろう。
第一の教訓国民が狭い利己的な欲求の追求に没頭して、みずからのエゴを自制することを忘
れるとき、経済社会は自壊していく以外にないということである。消費者にせよ、勤労者にせよ、
あるいは政治家にせよ、経営者にせよ、利己的な衝動に押し流されることなく、自己抑制しつつ、
どこかに調和点を見出そうとすることを学ばない限り、際限のないエゴは放縦と堕落に至るほかは
ない。
第二の教訓国際的にせよ、国内的にせよ、国民がみずからのことはみずからの力で解決する
という自立の精神と気慨を失うとき、その国家社会は滅亡するほかはないということである。福祉
の代償の恐ろしさはまさにこの点にある。109日
本
の
運
命
を
善
く
す
る
為
に
は
第三の教訓エリートが貴族主義を失って大衆迎合主義に走るとき、その国は滅ぶということ10
1
である。政治家であれ、学者であれ、産業人であれ、あるいは労働運動のリ:ダーであれ、およそ
指導者は指導者たることの誇りと責任とをもって言うべきことを言い、なすべきことをなさねばな
らない。たとえそれがいかに大衆にとって耳の痛いこと、気に入らないことであったとしても、ま
たその発言と行為ゆえに孤立することがあったとしても、エリートは勇気と自信をもって主張すべ
きことを主張せねばならない。
第四の教訓年上の世代は、いたずらに年下の世代にこびへつらってはならないということで
ある。若い世代は、古い世代とのきびしいたたかいと切磋琢磨のなかにはじめてたくましく成長し
ていくものである。古い世代がやたらに物わかりよくなり過ぎ、若者にその厚い胸を貸して鍛えて
やることを忘れるとき、若者はひよわな精神的「もやしっ子」になるほかはない。
第五の教訓人間の幸福や不幸というものが、決して賃金の額や、年金の多い少ないや、物量
の豊富さなどによって計れるものではないという極く当り前のことである。人間を物欲を満たす動
物と考える限り、欲望は際限なく広がり、とどまる所を知らないであろう。いかなる欲望充足の努
力も、永遠にこの肥大化する欲91訟に追いつくことはできず、満足することがない。それは砂漠の
“逃げ水
” のように、追っても追ってもつかまえることはできない。そしてこの欲望の肥大化のサ
イクルから解放されて自由にならない限り、人間はつねに不平不満の塊りとなり、欲求不満にさい
なまれ続け、心の安らぎを得ることがないであろう』
個人の運命と国家の運命は密接不離
この記事をみていまして、私も全く同感しました。アテネやローマの没落過程をみていますと、
記事に書かれている、第一から第五までの教訓によくまとめられています。そして、その教訓は正
に現代の日本人に実によくあてはまる教訓なのです。私も常に申していますように、現代の個人は、
国家の運命を離れて存在し得ないものであり、国家は人類そのものの運命を離れてあるものではな
い。個人、国家、人類というものは全く一つにつながって存在していることが、今日程はっきりし
ている時はないのであります。
個人が国家の運命と関係なく、自己主義だけで動いていたり、国家が人類全体の運命と関係なく、
自国家だけの利害で動いているようでしたら、地球の滅亡は火をみるより明らかです。
ですからまず個人が、国家社会というものの運命と自己の運命とをよく照らし合わせて、自己の111日
本
の
運
命
を
善
く
す
る
為
に
は
利益のために、国家社会の利益を損わせるようなことをしたら、その人は国家のため、ひいては人
類のためのマイナスの生活をしている、ということになり、やがては自己の滅亡へとつながってい
る生き方をしている、ということになるのです。
国家に対しては、あらゆる面での福祉を要求しながら、税金をはじめ、すべての自己負担は負い
たくない。いいかえれば、国家にはいろいろな負担になることを要求しておいて、自分は一円でも
出したくない、自己の出すものは最も少ない額にしたい、自分はなんの負担も負いたくない、とい
う人が多くいたら、国家が立ちゆかなくなるのは理の当然です。しかし、それ程極端でなくとも、
これに類するやり方を現代の日本人はしているのではないでしょうか。自己の欲求は極度に出しな
がら、国家の要望は、それが少しでも自己負担になると、国家の要望に反対する側の勢力に組して
ゆく、という人が意外な程多いのであります。
際限のない欲望という名の怪物
文芸春秋の記事でもいっているように、誰もが自分たちの自我欲望を自制してゆかない限りは、
人間の自我欲望は際限なく広がって、かえって自己を滅ぼし、国家を滅ぼしてしまう、ということ
112
で、アテネやローマの没落がそのよい見本なのでありますのに、日本人もその同じ軌を踏んでゆこ
うとしているのです。
どうも個人が国家や政府を相対的なものと考えていて、政府にいいように牛耳られて、自分たち
が損したらかなわない、というような風潮が現今の社会風潮となっているようですが、これはとん
でもないことで、国家は自分たちのものなのであり、自分たちの責任において、立派にしてゆかね
ばならぬものです。
ですから、自分たち個人の生き方が、常に国家のためになっている、国家に協力している、とい
うものでなければ、国家は立ちゆかなくなるし、国家が立ちゆかなければ、個人は実にみじめにな
ってしまいます。
例えば現在のように、保守陣営が政権をとっていますと、野党の政治家達が、事ごとに政府の政
策に反対し、けちをつけます。それが、言葉たくみにいいますし、なんとなく人民大衆の得になる
ような言葉が多いのです。すると、人民大衆は、少しでも自分たちの利益になるようにと、野党の
側に力をいれたくなります。
ところが幸に、日本の野党は、あまりに見えすいた反対のための反対をするので、心ある民衆は、
113日本の運命を善くする為には
野党のあり方に疑惑をもち、いちがいに野党の言葉を丸のみにはいたしません。
奉仕精神のない集りは国を滅ぼす
政治というものは、なんでもかでも、国民の思うように、いくわけではありません。国民から、
とるものを少なくし、政府の出すものを多くしたら、国家経済が成り立ちません。しかし、国民は
個人個人の狭い視野で、ものごとをみておりますので、大所高所から全体をみつめて政治をとって
いる大臣諸公とは、その差が大分はなれてくるわけです。
大臣諸公は、右にも左にも、よかれと思って、政治を行ないます。だが国民は、自分たちの範疇
の考えで、政府に要求しますので、いろいろの分野の利害が相反し、お互いが自分たちの利益のた
めに政府にせまります。こんな時、政治家は、いちいち右左の声に動かされてはいけません。自分
たちの広い視野と専門的見解に自信をもって政治をとらなければ、なんのために、自分が大臣にな
っているのかわかりません。もし自分の政治政策に自信がなければ、大臣になることはおろか、代
議士になることもいけないのです。それは自分をいつわることであり、国民をだましていることに
もなるからです。
114
国民は、国民のほうで、もし、自分が政治家になっていたとすれば、どうであろうかと、逆の立
場から現在の自分たちの要求を見なおしてみるとよいのです。とるものを極端に少なくし、出すも
のばかり出していては、国家経済が成り立たないのは、はっきりわかることです。ですから、国を
立派にしていこうと思ったら、国民の一人一人が少しずつでもよいから自己犠牲の心をもって、国
家に奉仕したらよいと思います。奉仕の精神のない国民の集りでは、その国の前途は、アテネやロ
ーマのごとく滅亡してゆくのです。個人の運命と国家の運命とは全く一つのものなのだということ
を、この際改めてはっきり認識して下さい。中国の人民などは、はじめは強制的なものであったの
ですが、現在の青少年は心から、国に殉ずる気持で、粗衣粗食に甘んじ、というより、むしろそれ
を誇りにして、すべてを国家の運命の進展にかけているのです。日本国民の国家に甘えきった態度
は、寒心に耐えないことなのです。自己の責任をすべて、国家や社会の責任にすりかえようとする
生き方では、到底立派な個人も、立派な国家もできるはずはありません。
私は、粗衣粗食に甘んじ、すべて国家の運命のために戦時中のような耐乏生活を送るべきだ、な
どという考えはありません。戦時中のような大変なことになっては困るから、そうならぬうち、少
しずつでも自己犠牲の心を出して、国家の進展のためにつくすべきだというのです。
115日本の運命を善くする為には
愛する心を湧き出させる
その一番易しい方法が、祈りなのです。世界平和の祈りなのです。「世界人類が平和であります
ように、日本が平和でありますように… …」という、世界平和の祈りを根底にして生活してゆきま
すと、いつの間にか、国に対する不平や不満が消え去り、国家を愛する気持、世界人類すべてを愛
する気持になってゆくのです。
こう
世界平和の祈りの根源は大神様の大光明なので、どんな業の想いも、祈りの中で消し去られてゆ
くのです。国家や社会に常に不平不満をもっていたり、自己の責任を国家や社会におっかぶせよう
としていた自我欲望の想いも、暫らく世界平和の祈りをしていれば、次第に少なくなり、果ては欲
望は愛念に変ってゆくのです。これは少し実行してみれば実によくわかってまいります。
現在はなんといっても、保守系の政治家が政治政策を行っております。自分は革新系の政治に興
味をもっている、という人であっても、勿論正しいと想う批判や提言をすることは一向かまいませ
んが、自分たちの利害だけで、やたらに政治政策の足をひっぱっていったら、何一つ政治は行えま
せん。国家の世論が二つにわれて、国家の力が微弱になってしまいます。
116
神の智慧をいただこう
ここで深く考えなければならぬことは、人間はみな神の分け命であって、本来は神智の持ち主で
ある、ということです。それが物質世界の波動に蔽われて、神智から肉体人間の小智になってしま
っているのです。ですから、本来の神智が現われぬ限り、保守系が政治をとろうと、革新系が政治
をとろうと、国家と国民が満足出来るような政治をとれるわけがありません。なぜならば、この地
球世界は、神のみ心をそのまま現わすものですから、神智でおこなわない政治が、神のみ心に叶う
わけがありません。それは国民の個人個人にもいえることなのです。国民の一人一人が、自己をか
ばう欲望だけで、国家のことも社会のことも思わなけれぽ、そこに神のみ心が現われないのですか
ら、国民も国家もやがては消滅してゆくにきまっています。
そこで国民も指導者達も、まず神のみ心を自分の中に生かすことを考えなけれぽいけません。そ
れが祈りの行為からはじめるということになるのです。そこで前に説いている、世界平和の祈りが
必要になってくるのです。自己の生活にたいする欲望も、国家や社会にたいする要求も、ひとまず、
世界平和の祈りの中にとけこませて、そこから生活のすぺてをしていきますと、いつのまにか個人
耳7日本の運命を善くする為には
も為政者も、立派な行為の出来る人になっていくのです。そういう事例は世界平和の祈りをしてい
る多くの人の中からたくさんでているのです。
肉体人間の小智で、未来のことの何がいったいわかるというのでしょう。わかっているのは、今
の一瞬のことだけです。それでいて、いかにも未来のことがわかってでもいるように、政治に口だ
ししたり、目の前の利害だけを、追いまわしているのです。笑止の極みです。
まず神智である神のみ心を自分の中に住まわせましょう。それが何よりも先になすべきことなの
です。その神智が各自の心の中で働き始めるのが、世界平和の祈りなのです。世界平和の祈りとい
うひびきの中には個人も国家も人類もまったく一つにとけこんでいます。
まず無心に世界平和の祈りをおはじめ下さい。また古くから祈りつづけておられる、先達の諸氏
は、あとからくる者のためにやさしく、道を開いてやって下さい。そして、個人の一人一人に必ず
守護の神霊がついていて、常に加護していて下さることを、教えてやって下さい。何にしても、国
家を救い、人類を救うことを、自分の運命への関心と同じように考えるべきなのです。
118
今日からの愛国
、
♂L・
昭和五十一年十一月〈白光〉発表
愛国心の受取り方
今ここで愛国心についてなどといわれると、なんだか戦争中や、戦前の様相が浮かんできそうな
いまどき
気がします。今時はどうも愛国心という言葉が、ぴったりと落ち着かない感じに聞えます。愛国心
というのは、読んで字の通り、国を愛する心のことですから、言葉としては別にむずかしい言葉で
はありません。
しかし、これが戦前戦中に聞いた時には、言葉は文字としてではなく、その行為そのものとして、
心に沁みてきたものです。今はそういうわけにはいきません。言葉や文字がいったん心を離れて、
言葉そのもの、文字そのものとして感じられてくるのです。愛国心という言葉や文字が心のひびき
U9今日からの愛国心
ではなく、ある事柄として言葉や文字になっているという状態です。
それではどうして、戦前戦中と現在とで、そんなに愛国心の受けとり方が人々に違って感じられ
るのでしょう。外国のことはひとまずおいて、日本人のことについて書いてまいりましょう。
日本では戦前と戦後の国という観念がまるで違っているからです。どういうふうに違っているか、
ということはなかなか説明しにくいところでしょう。違っている第一のこととして、日本には中心
者がありました。その中心者は国そのものでもあり、日本人そのものの中心者でもありました。そ
して、その中心者は一人の人でありました。ところが現在の国というものには、そういう一人の中
心者はありません。国民すべてが、国の中心者ということになっております。そして、その代表と
して代議士や大臣が選ばれているわけなのであります。
国民はそういう中心者を自分で選んでおきながら、戦前の天皇のように、神のごとく尊敬すると
いう気持は全くもっておりません。どうしてそうなっているのかと申しますと、天皇という中心者
は、歴史を積み重ねた、古くからの中心者であり、各界の指導者の教育によって、古くから国民の
潜在意識に日本の中心者として、きざみこまれておりまして、天皇側からみれば、天皇と国家とは
一つのものであり、国民は天皇の子供分のような状態になっていました。いわゆる三者一体、天皇
120
と国と国民とが全く一つのつながりをもっていました。
ところが、現代の総理大臣を中心とした議会政治は、政府と国と国民とが各自別個になっていて、
ばらばらの存在になっておりますし、国民にとって現代の国家は、たんに自分達の住んでいる場で
あり、外国とはっきり区別され独立した、地域連合組織という形をとっておりますが、確固たる実
体を把握できぬまま今日に至っている状態の国家なのです。
現代の国民にとっては、戦前の人たちがもっていた国に対する感慨や、国家と溶け合っている一
体感が非常に薄れております。それは政府というものと、国というものとを分けて考えているから
であります。政府に対するいろいろの要求が、国の進歩をおくらせ、存立を危くさせるような事態
を招くことがしばしばあるのです。戦前戦中では、国のために働かなければ、国民が存在できなく
なってしまうということが、実にはっきりしていました。国民が自分たちのためということだけを
先にして事を運んでいたら、国はすみやかに亡んでしまい、国民の存在もなくなっていたでしょう
し、今日のような戦後の繁栄は勿論なかったわけです。
政府と国民との愛情交換を
X21今目からの愛国心
しかし現代の国民は、国家として政府が指し示す要望には、それが現在の自分たちの利益をマイ
ナスするものであれば、ただちにその要望を拒否し、自分たちの要望は遠慮なく政府につきつける
のであります。これは、自分たちの選んだ政府でありながら、その政府に愛情をもっていないこと
を表わしているのです。
戦中戦前に天皇を尊敬し、愛していたように、現在の政府をも愛するようにならなければ、国民
の心に愛国心が湧きあがってくることはむずかしいことです。そういう意味で議会政治というもの
を、国民はもっと深く考えてみなければなりませんし、政治指導者は議会政治の在り方を国民に徹
底してわからせるようにしなければ、折角国家が民主主義になり、国民みんなの力で善い政治を作
り上げてゆくという進歩の道がだめになってしまいます。
政治が一部の権力や、軍部の圧力によって左右されていた戦前戦中の政治は、天皇という中心者
の名目がかえって権力者に逆用されてしまったことがあったように、国民の身勝手な想いが、政府
の政治政策を自由にさせなくして、自らの首を絞めてしまっていたり、自分たちで作った政府と仇
のように対立し、国の発展がそこなわれる方向に進んでいってしまったりしているのです。
現在はあくまで、国民が主になっている国家であり、その国家の政治政策であります。議会制度
X22
ができ、首相や各大臣が存在するようになったのも、国民が主体になってやったことで、首相や各
大臣も、国民の一人一人にすぎないのです。ただ国民の代表として国家の政治政策を立案し、実行
してゆく機関なのであります。ですから国民は政府代表者を、自分たちの兄のように思って、慕い
親しみ、深い愛情の交換を示さなけれぽならないのです。政府と国民とは共に手をたずさえて、自
分たちの国の進展をはかってゆくべきなのです。その根幹にあるものは、やはり愛の心です。
国民は一心に政府要人を愛するように心掛け、政府要人は国民を自分の家族と同じように、いと
おしみ、慈しむように努めなければならないのです。それでなければ戦前戦中の天皇と国民とが一
つに融合されたような、国家というものはでき上りません。政府と国民との心がはなれぽなれにな
っていて、どうして国の進展がありえましょうか。
戦前戦中の政府のように、天皇の名を背景にむやみやたらにその権力を行使し、国民の心身の自
由を縛っていた時と、現在の政府の在り方を比べれば、現在のように国民が心身共に政府に自由を
ゆるされているのはまるで夢のようなことです。現在の人たちは、天皇や政府に対して、一言の批
判をしても罪せられていた戦前戦中のことを思って、自分たちの作った現代の政府に対して、協力
をおしんではならないと思います。X23今
日
か
ら
の
愛
国
心
国家をなくして一つの世界を、は成立せぬ
X24
現代の国家というものは、国民一人一人の行為の中で進歩もすれば退歩もしてゆくものです。現
代の人々の中には、国家などというものがあるから、お互いがその国家を守ろうとして戦争などを
起すのだから、国家をなくして一つの世界にしてしまえばいい、という論を吐く人があります。全
く世界が一つなら戦争も起らないでしょう。ところが、世界を一つにしようということが実は大変
なのです。考えてもみて下さい。アメリカにいくつも州があって、各州ごとにうまくまとまってい
てアメリカという国家ができています。果してこの州の一州でもが州の存在を辞退して、州なしの
かぶん
ア メリカ一国にしたいと申し込んだことがあるでしょうか。私は寡聞にしてそういう話を聞いたこ
とはありません。一つの集団がなくなるということは、なかなか大変なことです。ですから理想と
しては、世界が一つの統治になれぽ一番善いのですが、それが実現するには長い時間と様々な苦労
があるでしょう。
何にしても現代は、お互いに国家をもち、お互いの国家を守って、生活しているのであります。
好むと好まざるとにかかわらず、地球人は現在の生活は一つ一つの国家の上に成り立っているので
あります。そこでどうしても国民の一人一人は、国家のために働かねば自分の生活も成り立ってゆ
かぬことになります。
その点で日本人は、終戦以後、アメリカの庇護にたよりすぎて、自主独立の精神を失いかけてい
ました。そのくせ自分たち自身で独立をかち取ったような気分になっていて、やたらとアメリカに
反抗する態度をみせたりする人々が多くなっているのです。そういう考えは自分勝手もはなはだし
いもので、もしアメリカの軍事的援助や経済的援助がなかったら、日本が今日のような安穏なる経
済生活を送っているわけにはゆかなかったのです。安穏どころか、すべての物資に乏しい日本は餓
死者で一杯になっていたか、どこかの国の属国になっていたか、するより仕方がなかったはずです。
アメリカとしても勿論自国の利益が主になって、すべての政治政策を行っているのですから、自国
のためになることがなくて、日本を助けたというわけではありませんが、アメリカの日本に対する
政治政策は、日本に今日の繁栄をもたらしたことは事実です。口本国民はそうしたアメリカの援助
のもとに、真剣に働きつづけてきたわけです。
今日からは、日本人は持前の頭のよさと、勤勉さをより一層発揮して、真実の独立国家として、
国を繁栄させてゆかねぽならぬのです。国を守り、国を繁栄させることは、国民が一致して国家を125今
日
か
ら
の
愛
国
心
世界の有益な国として仕立上げてゆくことにあるのです。これからの国家は、地球世界のためにな26
1
る働きをしなければ、その国家そのものも栄えることはできなくなっています。世界の利害をはな
れた国家というものは、存立してゆけなくなるのです。
今日からの愛国心とは
ですから今日からの愛国心というのは、地球世界のために自国に有益な働きをさせることにある
のです。地球世界の不為になるような利害関係は、その国を滅亡させていってしまいます。今日ま
での愛国心は、敵と戦って、敵を亡ぼすとか、他の国の利害関係を無祝して自国の利益をはかった
りした、地球世界という大きな立場からはなれた小さな自国主義でありましたが、今日からの愛国
心は只今も申しましたように、地球人類の利益のために働く方向に自国をもってゆき、地球人類の
進化のために国家をつくさせる、ということにならなければいけないのであります。
今口までの愛国心というのは、世界の利害をはなれた白国だけの利害を考えたりすることが多く、
それが戦争のような形になって現われていたのでありますし、自国の武力をより強大にせしめ、他
国よりも常に自国を有利な立場においておこうとして、そのために働くことを愛国心と国民は思っ
ていたりしたのです。ですから現在の日本のように、武力で他国を抑えたり、力で他国に対抗した
りするようなことのない立場になっておりますと、今日までの愛国心というような形がくずれてし
まいまして、愛国心のあらわし方にとまどってしまい、自分たちだけの幸を願う利己主義な人間が
多くなってしまったのです。
元来日本人は中心帰一型の民族でして、天降り的に目的を示されると、それに向って一心に力を
尽します。しかしお互いが自分たちで目的を出、6え出して、そこに一心を傾注させることは不得手な
国民性をもっています。それは過去からの長い間の習慣によって培われたものであるのかもしれま
せん。
戦争に負けて、その戦争の最高責任者とどこの国の人たちにも思われている日本の天皇が、何の
罪科も負わされず、あり方こそ違え、そのまま日本の天皇として、国民が今日でも慕い敬っている
日本の在り方は、今でも天降り式の中心者を望んでいる国民の潜在意識の現れなのであります。そ
こには勿論、神々のみ心が大きく働いていたのでありますが、何にしても今日までの世界の敗戦の
歴史の中では、珍しい在り方であります。しかし、現在では天皇に政治の実権がないのですから、
天皇と政府と国家とが、一つであった戦中戦前の日本とは、まるで違っているわけです。127今
日
か
ら
の
愛
国
心
今日ではどうしても、戦前の天皇のあった場所に政府首脳が国民に慕われ、敬われて存在しなけ
ればならないのです。
ところが、どうでしょう。現在までの政府首脳は、国民が天皇に示す愛情や尊敬の想いのそれこ
そ何万分の一も示されていないのです。それはいったい国民が悪いのでしょうか、政府首脳が悪い
のでしょうか。こうなってからの歴史の浅さが、そうさせるのでしょうか、いずれも、・・ックスされ
て今日の状態になっているのです。しかし、こういう状態ではいけないのです。日本国家の進展は、
やはり国民と政府との密接な愛情と信頼感によらなければならないのです。
128
どちらが調和した歩みをしているか
現在の我が国では、保守系と社会、共産の団体とが政治争いをしているわけですが、共に自分た
ちの小さなゆき方に把われてしまって、大きな宇宙観に立って、国家や人類の運命を定めることが
できなくなっています。地球は今や、宇宙の中の一つの星にすぎません。そして、今後の地球は宇
宙の各星辰との交流調和によって進んでゆかねばなりませんし、現在でも実は、地球人が知らない
だけでそうなっているのであります。
宇宙の運行はすべて大調和に向って進んでいます。それなのに地球の人たちは、自由主義だ社会
主義だ共産主義だといい合って、お互いをあざけり唆い、陥れようとして、不調和な状態を世界中
にまき散らしています。その主義主張はさておいて、宇宙の運行が大調和に向って進んでいるのに、
地球がそんな不調和な状態で過していたら、いつのまにか、宇宙の運行からはずれ、滅亡してしま
わなければならなくなります。日本に天皇があって、国民との一体観によって、国の運営がなされ
ていたことは、宇宙の大調和の方向にその歩みを自然と合わせていたことになります。そこで、現
在の政府もまず、宇宙の大調和に合わせる国政を考えだして、その道を第一として進まねばならぬ
のです。国民は協力して政府にその道を進ませてゆかねばなりません。そのためには、保守系と社
会、共産陣営とのどちらが調和した歩みをしているかを、考えねぽなりません。
今日のように、保守陣営、革新陣営が共に内部争いをしているのをみていると、国民は議会政治
そのものがいやになってきます。といって、今の場合他の在り方ができないので、どうしても今日
の在り方を踏襲していかねばなりません。そうしますと、対内的にも対外的にも不調和の少ないほ
うの陣営を、我々は選ばねばなりません。その点では、社会、共産の陣営がアメリカに向けている
不調和な想いより、アメリカとも調和し、ソ連や中共とも調和してゆきたいと、なかなかできない129今
日
か
ら
の
愛
国
心
ながらもその方向に進もうとしている保守陣営のほうが、国民が愛国心を発露するのには、しやす30
1
いものと思われます。保守陣営が、ソ連や中共といろいろ話し合いをしているのは、お互いに道理
の上にたって、交際したいからでありまして、社会や共産陣営が、アメリカに何かと攻撃の鉾を向
けているのとは、わけが違います。どこが違うかといいますと、保守陣営はどこの国とでも調和し
たいと願っているのであり、社会、共産陣営は、資本主義国を倒したいという不調和の想いで、そ
の行動をしているからです。国民が神のみ心に沿ってゆくためには、少しでも調和の方向に進まね
ばなりません。ですから、自分の国を愛するならば、その国を世界の大調和のために役立つ働きを
する国に仕立上げてゆかねばなりません。
そのための第一歩として、私は国民の想念を祈りにまで高め上げて、世界平和の祈りの日常生活
を、日本国民がしつづけてゆくことを提案し、実践しているのであります。これこそ、今日におけ
る愛国心の発露なのであります。社会、共産陣営のように、アメリカに鉾を向けている想いでいて
は、この世界の調和をつくるプラスの行いとはなりえないのです。日本国民は、そういう点をよく
よく見極めて、政党を選び、選んだ政府を愛し、その首脳を尊敬するようにしなければなりません。
もし、尊敬できないような行為を政府がとった場合には、その非を国民多数の力で、正してゆく必
要があるのです。それは、あくまで愛国心のための鞭でなければなりません。
日本が世界のためになすべきこと
ここで日本が世界のためになさねばならぬことを、二、三申し述べてみましょう。日本はご存知
のように原爆被害の唯一の国で、その悲惨な状態をまざまざとみせつけられた国です。ですから、
当然世界に先がけて原爆反対の運動を強力に押し進め、それにともなう戦争反対の運動を展開して
ゆく立場に立っているのは勿論当然のことです。そこで、そういう日本の立場のために国民が尽し
てゆくことは、愛国心なのであります。
ただここでむずかしいことは、平和利用に使っている核の力をも恐れて、その反対を唱えたり、
戦争反対、平和一本で日本は進まなければならないのだからといって、真実自分たちの心の中に闘
争心や、恐怖心がなくなってもいないのに、周囲がすべて武力で固めている国々に囲まれながら、
一切の兵力はいらないのだ、と叫んでいたりするのは、間違っているのです。
人間の想いというものは、自分の持っているものは、いつか自分の上に現われるもので、闘争心
でも恐怖心でも、心の中にあれば何時かは、何らかの形で自分の運命として現われてくるのです。
131今日からの愛国心
ですから、私は、自分の運命と現われるものは、すべて神のみ心を離れていた、過去世から今日に32
1
至るまでの想念行為の消えてゆく姿であるのだから、その消えてゆく姿を世界平和の祈りの中で、
神々の大光明によって消していただきなさい、と説いているのであります。そういう平和の祈りの
できる人たちばかりなら、全く一切の武力を持たなくとも、自分たちも国家も傷つくことはないの
でありますが、残念ながら、まだ今日の人間の行き方では、とてもそういう理想の形は現われては
まいりません。
そこで、アメリカとの安保条約も必要になり、自衛隊のように、最少限度の守りの兵力も必要に
なってくるのです。この世のことは、ただ理想主義だけではやってゆけないので、理想と現実とを
巧みにまぜ合せて、生きてゆかねぽならないのです。
日本国民の日々なすべきこと
今口日本国民の日々なさねばならぬことは、自分の心の中にある平和に反する想い、つまり、魔
まん
慈や、妬みや、恐怖などの感情を超えて、真実、平和世界に住める自分となっているような修錬を
なしつづけてゆくことです。それが自分を幸せにし、世界の平和を作りだす愛国心となるのです。
その方法が、私が提唱している、消えてゆく姿で世界平和の祈りなのです。
しんらん
肉体人間というものは、親鸞の言葉ではないけれど、罪悪深重の凡夫でありまして、ちょっとし
た悪い癖でも、なかなかなおすことはできません。まして、過去世から深く刻み込まれている悪癖
などは、容易にとれるものではありません。どうしてもそれは人間の力ではなく、神々の力によっ
て、浄め去ってもらうより仕方がありません。自分自身のことでさえもそうなのですから、国家や
人類のことになると、まるで、手がつかないのが実情です。
そこで私は、肉体人間の自分というものを、法然、親鸞のように、神々の中に投げ入れてしまっ
て、その中で世界平和の祈りを祈り続けたのであります。そういたしますと、神々の大光明が、私
の唱える世界平和の祈りのひびきにのって、私の身体を通して、宇宙にひびき渡ってゆくようにな
ったのであります。そして、私のその言葉を信じて、世界平和の祈りを祈りつづけるようになった
人々は、次々と肉体人間には出来ない超越した心境になり、さまざまな奇跡を現わすようになった
りしたのです。今では、日本ばかりではなく、外国においても、この世界平和の祈りを日々の行事
として、唱えつづけている人々もあります。どうぞ、この本を初めて読む人も、自分と国家と人類
とが同時に救われてゆく、世界平和の祈りを一日も早く祈り始めるようにして下さい。
133今日からの愛国心
134
カルマ
人 類の業を超える方法
昭和四十五年八月〈白光〉発表
真の幸福のありかは
人類の歴史は苦悩に充ちている、という人が多いし、実際にこの現れの世界は、人間の喜びと苦
悩の入り混じった世界で、ともすれぽ、喜びは苦悩の中に消されてしまいそうな…様相をみせている
のであります。
戦争や天変地変、個人個人の不幸災難、個人も国家も人類も、この現れの世界を実在とみている
カルマ
限り、とても安心立命の生活を送るわけにはまいりません。仏教的にいえば、因縁因果律の業生の
世界を、人間億経巡っているのでありまして、この業生の世界、この現れの世界に想念が把われて
いる生き方の中には、真実の平和も、真実の幸福もないのであります。
この現れの世界は、常に変化変滅していまして、永続的な幸福感に生きている人は滅多におりま
せん。生別死別、愛情の執着、富や地位や権力に対する欲望、貧苦、病苦等に、苦悩の原因は尽く
ることがありません。
かりに個人的には幸福の連続であったとしても、社会国家の運命の変化につれて、個人の幸福感
は揺れ動きますし、人類全般の運命の変化に出会ったら、いかなる個人の幸福も、それが現象的な
ものであれば、必ず揺れ動いてしまいます。釈尊はそうした現象世界の不安定な様相を、いかにし
たら超えることができるか、と大衆救済の道を発見するため、何不自由ない王子の身分を捨て、難
行苦行の末に仏陀となられ、苦行は悟りの因にあらず、人間の本心本体を発顕し、本心のままに生
きられるようになることが、悟りなのだ、という真理を教えられたのでありました。
揺ぎない幸福、揺れ動かざる平安、これは個人にとっても、国家や人類全体にとっても、絶対に
必要な事実でありまして、今日迄のような不安混迷の世の中は、誰にとっても迷惑この上ないこと
なのです。しかしながら、この世に真実の道を現わし得るのは、やはり個人個人の悟りがその根底
となるのでありまして、個人個人が業生の因縁因果律の中にあぐらをかいていて、政治家が今に善
い世界をつくってくれるだろう、などと、万事人任かせという気持では、到底個人も人類も救われ
135人類の業を超える方法
ることはありません。
カルマ
個人が救われるのも、国家が救われるのも、人類が完全平和を達成するのも、すべて、業生の因
縁因果の波動圏を脱け出してしまうこと以外にないのです。いいかえれぽ、すべての人が仏陀、キ
リストの道につながりきらなければ、世界の平和は成立しない、ということなのです。
対立うむ相対的世界観
ベトナム及びインドシナの戦乱も、イスラエルとアラブの戦いも、東独と西独、韓国と北朝鮮、
大きくは、米国と中共、ソ連。中共とソ連とのたゆみなき争いの想念。これら表面に現われている
地獄絵、そして想いの中にある地獄絵。こういう世界を一体、どんな思想が極楽に変化せしめ得る
でしょう。いかなる政治が、天国化せしめ得るでしょう。人々はじっと心を鎮めて、このことを考
えてみなければなりません。
佃人も国家も人類も、現れの世界だけを根底にしている限りは、どうしても、個人と個人の対
立、国家と国家との対立、民族間の利害打算などによって、今日のような、対立抗争の世の中にな
ってしまいます。どのような政治的手腕をもった指導者が現われようと、いかなる強力なる軍人指
136
揮者が現われようと、それが、対立抗争を生み出す、相対的世界観に根ざして生まれたものであれ
ば、世界の平和を実現するどころか、その国家の平安をつくり出すことすらできません。
なぜならば、お互いが、お互いの利益本位に動いているので、権力においても物質においても、
常に相反する立場に立たざるを得なくなるからです。それは、世界の現状をみれば、事実であるこ
いと
とがすぐにわかります。個人にしても国家にしても、自己が一番愛おしいのであり、自国が一番大
事なのであります。これは正に当然のことです。だが、自己を一番愛し、自国、自民族を一番大事
に想うということは、各人、各国各民族共に同様であることを考えなければいけません。
自分を真実に愛するとは
ふ
人々は真実に自己を愛することを知らずに誤った自己愛に耽けっているのです。国の場合も、民
族の場合も同じことです。真実に自己を愛することができれば、その人は救われ、その人の周囲の
人々はすぺて救われるのです。
真実に自己を愛し、自国自民族を愛することを、みんなが知ることによって、世界は平和になる
ことができるのであります。137人
類
の
業
を
超
え
る
方
法
釈尊は「想いがすべてのほうにむけられていても、自分を愛する以上に愛せるものを見出すこと
はできない。そのように他の人々にとっても自分が一番愛おしいのだ。だから、自己を愛する人は
他人を傷つけてはいけない」
といっておられます。自己を真実に愛する人は、他を傷つけようとはしないのです。自国を真実
に愛する人は、他国を傷つけ損うようなことはしないものなのです。ですから、現在の国家の為政
カルマ
者も国民も、真実に自分を愛し、自国を愛してはいずに、自己や自国の業生に踊らされているに過
ぎないのです。
自分がされたくないことは、人にしてはいけないのですし、自国民も殺傷されることが嫌であれ
ば、他国民も殺傷されることが嫌なのです。他国民を殺傷すればする程、自国が優利になる、とい
う考え方の中に、一体世界が平和になる要素があるでしょうか。他国民を殺傷すれば、やがてその
数だけ自国民が殺傷されるときがくるのです。これは動かしがたい因果の法則です。共産圏の人々
が自分たちの思想に反するものは、無暗に圧迫し殺傷して悔いないのは、真実の愛に逆くもので、
カルマ
全く業に踊らされた行為ですが、世界平和のために、侵略者を殺すのだ、というのも、相手方から
みれば、こちらを侵略者とみるわけです。お互いが業生の自国を愛し、カルマの波の中で、自己の
138
正義を主張し合っているのでありまして、神仏の眼からみれば、
るので真に自国を愛しているのではないのです。
双方共に滅びの道を突き進んでい
人類の進化は調和から
人類は常に戦争の歴史を綴っておりまして、世界中が平和であったということは、今日に至るま
で皆無ではなかったかと思います。そして、戦争の副産物として、各種の発明発見がなされ、今日
の文明文化が開かれております。これは好むと好まざるとにかかわらず、今日までの事実でありま
して、人類進化の一端として戦争というマイナスの行為が、一転人類のプラスになってきました。
そして今日では戦争の武器として、核爆弾という、何発かで、地球全部が滅びてしまうという、恐
ろしい装備が、大国の間になされております。
これからの戦争は、いつかは核爆弾を使用する、地球絶滅戦争に向ってしまうかも知れぬ戦争で、
なんのプラスにも転じ得ない時期に立ち至ってきたのです。
このことを常に頭に入れてかからぬと、正義のためと振りかぶった剣によって、善悪共に滅亡し
てしまうという、実に馬鹿馬鹿しい結末に至ってしまうのであります。これからの人類の進化は戦139人
類
の
業
を
超
え
る
方
法
争によってもたらされるのではなく、真の調和、
ることが、明らかになってまいりました。
神との一体化によってのみもたらされるものであ蜘
現実の偏瞼図
肉体人間の頭脳や感情では、憎むべき侵略者に対しては、断乎叩きつぶすべし、という答か、泣
く泣く侵略者に従う、という二つの答しかでてこないのであります。アメリカは、自国への直接の
侵略者でない、庇護下の国のために、太平洋を越えて、莫大な犠牲をはらって、前者の道を選んだ
のです。そして二十年余を経過し、いまだにその侵略者はその鉾を納めてはおりません。しかし、
このアメリカの行為を共産主義者から世界を守るための善なる勇気ある行為である、として賞讃す
る人々もありますし、共産主義者のやり方は憎むべきであるが、ベトナム戦争やカソボジア侵入は、
少しいき過ぎではないか、そういう行為は世界戦争を起こさせる原因になる、とアメリカと協力す
ることが日本のためによいことであると思いながらも、アメリカの戦争行為には反対する人々もお
ります。共産主義に味方する人々は勿論アメリカを軍国主義者であり、侵略者であるといいきって、
反米運動をしているわけであります。
一方の泣く泣く共産主義者の侵略に従う、という勇気のないことも困りものですが、だからとい
って、単独で共産主義国の侵略と戦えば、いたずらに多くの人員や物質の犠牲をはらうだけで、つ
いにはやはり侵略を許す結果になってしまう。残るところは、アメリカの庇護の下に共産主義国と
戦うという、ベトナム戦争のような状態になってしまうわけです。
現在アメリカの庇護無しに、共産主義国との戦いに勝てる国はないようですから、自由主義陣営
の国家は、必然的にアメリカの庇護を受ける結果になります。日米安保条約は継続されることにな
りましたが、日米安保条約なども、対等の安保条約ではなくて、アメリカの庇護が主となる安保条
約です。対等の安保条約ということになれば、アメリカの働きを助けるための軍隊の海外出兵とい
うことも行わなければならなくなります。平和憲法下の日本では到底それはでき得ません。それ
くみ
でなくとも、共産主義国や、それに与する左派の人々は日本の軍国主義復活を喧伝しているので
す。
しかし、アメリカの軍備がアジアのほうは手薄になり、どうしても日本の軍の手を借りねばなら
なくなった時、日本政府は、平和憲法を楯にどこまでアメリカの要求を拒否できるでしょうか。こ
れも甚だ疑問です。大きく経済成長を遂げた日本が、一方的にアメリカの庇護だけ受けているとい141人
類
の
業
を
超
え
る
方
法
うことは、恥かしいことなので、経済力でアメリカの働きの援助をしようと、現在はそういう動き
を日本はしているのですが、このような手助けだけではどうにもならぬような状態になりそうな気
配を、これからの日米安保条約はもっております。
日本人の半ば以上が、日米安保条約を肯定しながらも、アメリカの軍事力の庇護下にあることに
よって、かえって日本が他国の戦争に巻きこまれはしないか、という不安感をもっているのです。
日本人の大半は極度に戦争を恐れているのですから、安保条約のもってゆき方も、政府は余程気を
つけた態度でいないと、大衆は左派の煽動に乗って、反米的になりかねないのです。
また一方では、徹底的な共産主義嫌いの人々による、共産主義絶滅運動もありまして、共産主義
絶滅のためなら、アメリカと手を組んで軍事力を使ってもよい。ひどいのは、中共など核兵器で絶
滅してしまえ、という馬鹿気た意見さえ耳にすることがあります。
142
平和をつくる要素
なんにしても、現在の日本人の心は鎮魂帰神の生き方ではなく、現象の変化変滅の状態の中で、
自分たちの地位や立場や環境を崩したくない、という人々と、なんでもよいから、一度この世をひ
っくりかえしてみたいという無茶な人々がいまして、いずれも日本人の天からさずかった使命とい
うものも、真の人間のなんたるかも、まるで知りもせず、知ろうともしないのであります。こうい
う人々が、いつまでも多くいるようでは、とても日本の真価は発揮できませんし、日本が世界平和
のために大きい働きもすることもできません。
現在の生活が安定していれば、その安定を崩したくないのは、誰しも同じことですが、なんらか
他の道を通らなければ、今のままの世界の動きでは、人類は戦争か天変地変かによって、滅びさっ
てしまうにきまっています。なぜかと申せば、人間の内臓が毒素で一杯になって、動きがとれなく
なってしまっているのと同じような状態で、地球世界の調和した動きが、人間の汚れきった想念波
動で、不調和そのものになり、このままでは、もう、地球は順調に動かなくなり、対人的には大戦
争、自然的には天変地変によって、地球の汚れをはらい落さなくてはならなくなってしまっている
のです。
ここのところがわからないで、ただたんに戦争は嫌だと戦争反対を叫び、共産主義は敵だ、米国
は敵だ、と反共運動、反米闘争をしたり、国家と国家、民族と民族が、憎悪し合い、争い合って、
自己のほうが主導権を握ろうとしたりして、世界中に闘争や戦争の渦をまき散らしていますが、人143人
類
の
業
を
超
え
る
方
法
間というものも、地球というものも、形として現われたものだけではないのですから、形の上や、
物質的状態だけでの勝ち負けで、喜んだり悲しんだりしていることは、天の眼からみれぽ全く愚か
なことなのであります。例え戦争で片方が勝って勝利の栄冠に酔いしれている時でも、突如天変地
変が起って、そのまま壊滅してしまうかも知れないのです。地球上の出来事での恐ろしさは、あに
戦争だけではなく、天変地変というものもあるのです。これはみんな、人間の想念波動の誤りによ
って起こるのでありまして、戦争だけ防げば、人類は救われるというものでもなければ、共産主義
を倒したり、米国を倒したりすれば、それで一安心というものでもないのです。
そういう、相手を倒してしまおう、叩き伏せてしまおうという、憎しみの想い、不調和の想念行
為は、そのまま、地球滅亡につながっているのであります。その真理を知ることが、世界平和をつ
くる、大事な要素なのです。個人にしても人類にしても、スポーッの世界は別にして、相手を倒
し、相手を叩き伏せ、殺傷するということは、誰がみても、どこの国からみても、当然な行為であ
る、という純然たる正当防衛以外は、これは神のみ心とは認められませんし、善の行為とも認めら
れません。
なぜならば、個人的に相手の心に怨みの想いが残り、国家的には相手国の人々の烈しい憎悪の念
144
が、この地球圏に残ってしまうからであります。怨みの想いや憎悪の想いは、地球人類の調和を乱
し、世界平和の道を妨げつづけることになるのです。ですから、形の世界でいくら勝利を得ても、
それが世界平和につながるわけではなく、真実の世界平和の道は、人間の想念の世界の不調和が消
え、調和した想念が地球上に充満することによってのみ、開けていくのであります。
怨みに報ゆるに徳を以てする
ですから仏陀釈尊は「実にこの世において怨みに報ゆるに怨みを以てせば、ついに怨みのやむこ
となし。怨みをすててこそやむ。これは永遠不変の真理である」といっていますし、キリストは汝
の敵をも愛せよ、といっているのです。
これは個人にとっても、国家人類にとっても同じ真理なのです。人類はこの真理に一歩ずつでも
近づいてゆかなければ、到底救われの道に入ることはできません。しかし、宇宙の大経論からみれ
ぽ、地球に大調和世界が実現する順番になっておりますので、どんなにむずかしそうにみえましょ
うとも、やがて、地球人類は、この真理を行じられるようになるのだ、と私共は思っておるので
・す。
145人類の業を超える方法
ですから、たとえ一歩ずつでもよいから、地球人類がこの真理に近づいてゆけるように、私共宗
教者はこの世界平和への道を宣布し、日本国中に、そして世界中に祈りによる世界平和運動をひろ
めてゆく働きをつづけているのであります。
要は、キリスト教会とか、宗教団体とかの神様仏様ではなくて、人類生命の根源である大生命エ
ネルギーとの調和を、まず人類はなさねばならないのです。大生命との調和がなされねば、やがて
小生命である人類は枯れ果ててしまいます。横のつながりの権力や物質力の争いに明け暮れている
はず
うちに、肝腎かなめの縦のつながりである大生命、即ち宇宙の法則から外れた生き方になって、生
命の根源の流れを受けることができなくなり、地球自体のエネルギーも人類の生命エネルギーも、
ついには無になり滅び去ってしまうということになるのです。
ですから、こちらが善だ、あちらが悪だ、こちらが正義であちらが侵略だ、といがみ合い戦いつ
づけていて、少しでも大生命の法則であり、宇宙の法則である、調和ということをないがしろにし
ていると、形の上では大戦争や天変地変ということで、地球人類は滅亡しさってしまうのです。
アメリヵが正義だといっても、どこまでが一体正義なのか、計り知ることはできません。日本と
の繊維問題にしても、自国の経済的なご都合によっては、無理な貿易制限をしようとしたりして、
146
日本の利害おかまいなしで、自国の利益を計ろうとします。この考えをひろげてゆけば、軍事問題
にしても、自国の都合次第では、他国の犠牲を敢えて強いる結果になることも予想されます。日本
でもアメリカの立場に立てばそうするかも知れませんが、どこの国にしても、現れの世界の自国本
位の生き方をしていれば、自国の利害がまず先で、他国の利害は後廻しということになります。こ
れはソ連でも中共でも英仏でも、みな同じことです。
私のいいたいのは、こういう世界観では、いずれは地球人類滅亡の日来るということになってし
まいます。そういう日の来らぬためにと、神々は、仏陀やキリストや様々の聖者賢者をこの世に遣
わして、種々と教えさとしていたのであります。今日に至っては、もう目先の損得勘定をさらりと
捨てて、地球世界永遠の平和のために、どこかの国が、先頭に立って、真実の平和運動を展開しな
ければならない絶体絶命の決意をしなければならないのです。
天意の平和憲法
私たちの日本は、そうした大調和運動、平和運動には、最も適した国であり、絶対無条件降伏の
中で、天下り式に平和憲法をつくらされた国でもあるのです。この憲法はいかにもアメリカによっ
147人類の業を超える方法
てつくらされたようにみえましょうが、日本が無条件降伏の、無の境地にあった時につくられた憲48
1
法なので、枝葉のところで修正したいところもありましょうが、根本的には、やはり、天が日本の
天命成就のために、下し給った憲法である、と思うより仕方がありません。
が
日本人の我でこうしてつくろうと想ってつくったのではなく、絶体絶命の無の境地の中でつくら
はから
された、ということが、神計いであると私はいいたいのです。常識では到底そうなり得べき筈もな
はから
い、天皇制の存続なども神計いというべきで、来るべき世界平和達成のための大きな二つの神計い
である、と私は信じているのです。
そのためにも、日本はあくまでも、真の世界平和達成ということを大眼目として、国政を行い、
いかなる状態の中にあっても、争いの渦に巻きこまれぬようにすることが第一であるのです。
アメリカ、ソ連、中共という武力を中心に世界に睨みをきかせている国家とは全く異なる立場に、
口本は起たねばなりません。なぜならぽ、日本は原爆を受けた唯一の国であり、戦争を心底から嫌
っている国民であり、大調和をこの地球世界につくり出す天命を天よりさずかっている国であるか
らです。日本が武力によらずに、この世界に平和を成就させる天命を持つ国であるということは、
ひもと
日本(霊の本) という国名にも、大和という名にも、はっきり示されていることであり、太平洋戦
争の敗北による、平和憲法、戦争放棄の世界への宣言によっても、実にはっきりしているのです。
ただ偶然に、どこの国にもかつてなかった平和憲法ができる筈はありません。天意という他にいい
ようはないのです。
日本の生き方は
ですからあくまで日本はこの平和憲法の意にそった生き方をしなければならぬので、いちいち他
国の顔色をみては、平和憲法を各国並みの憲法に改めようなどという気持を起こさぬことが大事な
のです。日本はあく迄軍国主義には反対なのだ、平和憲法を護りぬくのだ、という根本精神を堅持
して、各国にもその真意を了解させる運動をつづけることが必要なのです。自衛隊があることなど、
いちいち言訳けする必要はありません。核兵器を持つ国が五つもある今日、自衛隊が少しぐらい拡
張されたとしても、軍事国という程の力をもつわけでもなく、他国を攻撃するという程の力がある
わけでもありません。真実に自衛のための軍隊であることには違いありません。
ただ日本の立場としては、武力によって国を護るということより、世界平和を成就するための大
いなる働きを日本はしなけれぽならないのだ、そのためには国を挙げて、平和精神の結集を計り精
149人類の業を超える方法
神波動、生命エネルギーの強力なるパワーによる、真実の平和運動を展開しなければならぬ、とい50
1←・
うことを政府と国民が一体になってやらねばならぬのです。反米だ、反共だというような、常にど
こかを敵とみての平和運動などは、神の眼からみれぽ実におかしなことなのです。
真の平和運動に敵がある筈がありません。現在敵とみえる国でも、真実平和な精神に徹し、その
道を歩みつづけていれば、必ず敵ではなくなってきます。そのためには神と一体になる祈りの心が
カルマカルマ
必要なのです。個人の業も国家人類の業も、祈りに徹する心によって超え得ることができるのです。
その最も適切なる祈り言葉が、
世界人類が平和でありますように
からはじまる世界平和の祈りなのです。なにそんな甘いこと、とおっしゃる方には、一体他にど
んなよい方法で世界を平和にしようというのかをおききしたいものです。アメリカ侵略者をやっつ
けることですか。それとも共産主義侵略者を叩きつぶすことですか。そんな敵をつくり、敵を叩き
つぶすことで平和をつくろうなどという、そういう昔ながらの因果律の中での行き方こそ、甘っち
ょろいといわねばなりません。真の世界平和運動は、いざという時には生死をかけていささかも悔
いない、不惜身命の心と、いかなる挑発にも乗ってゆかぬ深い忍耐力、そして絶大なる勇気をもっ
て、着々と歩を進めてゆく運動なのです。
私共日本人は、個人人類同時成道の、神との一体化を目指す、世界平和の祈りの中で、絶大なる
生命エネルギーの力を養い光明心をもって生きつづけてゆくことです。そしてアメリカにヨーロッ
パにそして、ソ連に中共に、真実の国の生き方を示してゆくのであります。
その場その時の目先の変化に気を取られ、すぐに武力の構えをし、闘争に入ってゆくという時代
はもう原爆誕生以前の人問のやり方なのです。人間は今こそ、神のみ心の中に想いをむけて、徹頭
徹尾の神のみ心の愛の心に従って、生きてゆかねばならぬのです。その生き方のみが、個人を国家
を人類を平安にし得る唯一の生き方なのであります。すべての善き生き方はそこから生れ出でるの
です。
X51人類の業を超える方法
152
日本の行方
昭和五十三年五月〈白光〉発表
まず国を立派にすること
世界の運命は、なかなか定まりそうにもありませんが、日本一国の運命もまことに定かではあり
ません。日本は今武器をもって戦っているわけではありませんが、米国や欧州を向うにまわしての
経済戦は、さながら戦争そのもののようで、そういう点でうっかりすると、昔のように孤立してし
まって、にっちもさっちもゆかなくなってしまいます。現在の口本の政治家さんたちも、並大抵の
苦労ではないと思います。そういう点を少しは国民の側でも察してやって、あまり自分たちの身の
まわりのことなどで政府に文句をつけてばかりいないで、少しは協力態勢をとってやってもよいの
ではないでしょうか。日本という国は何も政治家さんたちや役人さんたちのものではなく、国民一
人一人のものなのですから、自分たちの身のまわりの文句ばかり言っていて、国際関係を悪くして
しまったら、それこそ、自分たちで国をつぶしてしまうことになります。
それは私たちからみても、政府や役人たちのいたらないところは方々に見えて、これでは困りも
のだと思うことも随分とあります。しかし、国をつぶさないことが、先ず第一なのですから、国を
立派に成長させてゆくという方向に、国民全体の力を結集してゆくことを、何よりも先にしなけれ
ばならない筈です。
進歩派と称する人々は、口を開けば、政府が悪い、大企業が悪いと言いますが、政府にも大企業
にも良いところも悪いところもあるのでして、大企業が無くては、今口までの日本の経済の隆盛は
あり得ませんでしたし、小企業の大企業への協力がなければ、大企業が大きく動くことができなか
ったわけで、すべての協力関係で、日本の経済が今日までの繁栄をもたらしてきたのであります。
個人くの小さな我欲で、国家の運命を損うような方向に政治をもってゆかせてはなりません。
中小企業の運営がむずかしくなり、倒産がしきりに行われておりますし、失業者の数も百万を超え
ているわけで、一時期にくらべると実にくらしにくくなってきていますが、だからといって、これ
を全部政治の責任のように言って、政府を責め立てて、それでことたりるとしていては困ります。153日
本
の
行
方
政府としても、世界中の不況の波を食って、こΣ まで追いこまれてきてしまったので、勿論もっ54
ー
ぽうぎよ
とよい防御方法もあったでしょうが、とに角今日のように経済的に国民が追い立てられるような事
態になってきたわけなのです。ですからもう政府の失政ばかり責めていないで、国民みんなでよい
智慧をしぼって、政府の政治がうまくゆくように応援してやることが必要なのではないでしょうか。
文句を言うのでも、個人的な文句ではなく、国家の運命が開いてゆく政治の在り方へのアドバイ
スでなければ、政府も国民も共倒れになってしまいます。私は何も国民が政府に文句を言ってはい
けないというのではありません。いくら文句をつけてもよいけれど、それが只単なる個人的利害に
もとつくものではなく、政治の方向のよくなるような、国民全部のためになるようなものであって
欲しいというのです。
現在のように、自分たちの気に入らぬことには、すぐに集団を組んでの反対運動というようなこ
とをしていたら、国の政治が乱れなくともよいのに乱されて、国際関係にもマイナスになることが
多くなってきます。
農民と消費者との関係でもよくわかりますように、片方は高いほうがよい、片方は安いほうがよ
い、と両方が言いつのっていて、常に争いの気分でいます。個人というものはそういうもので、自
分たちの利益一辺倒なのです。そこに政治の必要性があるので、政治家はこの他人の利害や感情を
上手に処理して調和させてゆかねばならないのです。現在のように、国民が自分たちの言いたいほ
うだいのことを言っていられる時代には、余程政治家のほうが利巧に立ち廻らないと、政治が動か
なくなってしまいます。
保守系の利点、革新系の欠点
日本のように、国土も狭く、資源にもとぼしい国が、経済的に今日までに栄えているのは、全く
奇蹟のようなもので、革新陣営の人たちがいろくと政府の欠点を並べ立てますが、革新陣営の政
治だったらとても、こう栄えることはできなかったと思います。
何故かと言いますと、米国への対抗意識があり過ぎて、先ず米国の援助を得ることができません。
したがって、米国に右へならえする欧州やその他の国の協力を得ることもできません。それでは、
とても独立して立ってゆけるものではありません。保守系の政治がうまいわけではありませんが、
と
兎にも角にも、米国との親交をこわさずにきたことは、やはり日本のために大きなプラスになって
いるわけです。155日
本
の
行
方
革新陣営にはソ連や中共が応援してくれる、と思う人もありましょうが、中共はともかくとして、
ソ連が第二次大戦で、日本とは不可侵条約を結んでいながら日本がすっかり弱りきったとみると、
一寸手を出してきて、忽ち戦勝国になってしまい、北方領土を占領して、米国がすっきりと沖縄を
返した今日でも、北方領土は昔からの自分の領土だと、根もないことを言い立て」、返そうとは致
しません。こんな不誠実な国がどうして自国の利益を度外視して日本のためにつくしてくれるでし
ょうか。ソ連は米国とはまるで違うのです。米国でも勿論自国の利害を優先させるにきまっていま
すが、それと共に自国と共に歩もうとする国の手助けも真剣にやってくれます。それは今日までの
日本への在り方で実証されています。
そうなると、保守系にいろくの欠点があるにしても、国民はその欠点を指摘したり批判したり、
協力したりして、国を挙げて、日本の運命をよくしてゆく方向に進んでゆかなければなりません。
現在日本は自衛隊こそありますが、とてもこれは軍備などという程度のものではなく、無防備と
同じようなものです。ですから、国としても不安なので、米国と安保条約を結んで、米国の武力で
日本を守ってもらっています。現にソ連の潜水艦は日本海を我がもの顔に横行しておりまして、い
なんどき
つ何時日本にその武力をしかけてくるか知れない雰囲気をもっています。北海道などは常に狙われ
156
ているのも事実なのです。
ソ連は領土こそ広いのですが、北方の厳寒のところが多く、少しでも南の土地が欲しいのです。
日本の北方領土を返さないのもそんな気持によるのでしょうが、まだく南へ南へと領土を拡張し
たいのです。その点日本などよだれの出る程欲しい土地です。日本が油断も隙もできないのは、そ
ういうソ連の気持を知っているからです。
祈りによる平和運動が、世界中に浸透して、日本は平和そのものの国だ、というように世界に評
きば
価されるようになれば、いくらソ連が侵略の牙をむこうと、世界の手前、日本を侵すことはできな
くなります。しかし現在はまだく祈りによる平和運動は序の口です。とても世界中から、日本は
平和そのものの国だ、と思われるようなわけにはいきません。とすると、やはり何らかの方法で国
を守らなければなりません。それが日米安保条約となり、米国の武力に頼っての日本の守りという
ことになっているのであります。
ところが、今度の韓国と米国との一体となった大演習では、日本の米軍基地が使われることにな
りました。こうなると、もし韓国で戦争が起れば、日本もそのまN韓国側として戦争に参加したよ
うに、相手国に思われるに違いありません。そこで、米国機阻止のため、日本の基地への攻撃とい
157日本の行方
うことになるかも知れないのです。日米安保条約が実はこういう危険もはらんでいるわけで、革新
518
陣営や平和論者が、日米安保条約反対、と叫ぶゆえんがあるのも一理あるわけなのです。
それでは日米安保条約は、日本を戦争に巻きこむ恐れがあるから、解消したほうがよい、日本は
無防備中立でゆくのがよいのだ、という論に賛成したほうがよいことになるのでしょうか。そうは
簡単に考えられないむずかしさが、現在の世界情勢の中にはあるのです。
もし米国が日本を武力で守ってくれない、と定まってしまった時に、一番喜ぶのは一体誰なので
しょう。それはソ連です。米国がしっかりと日本を見守っている現在でも、日本海を我が物顔にし
ている多くの潜水艦が、それこそもうこわいものなしで、日本の周辺に顔を出してきて、自分たち
の言いたいほうだいのことを言い出して、自分の思い通りにしてくるでしょう。それこそ日本はい
つ侵略されるかわからない状態になってしまいます。そんなことソ連がするわけがない、とおっし
ゃる人は、よくく第二次大戦の満洲でのソ連のやり方を想いかえしてみるとよいのです。
弱いと思えば、すぐにそこにつけこんでくるのが、日本ばかりではなく欧州の他の国においても、
ソ連のやり口で、ソ連に対しては決して弱味をみせてはいけないのです。一たんソ連に侵略された
ら、改めて米国の援助を頼んでも、もう日本国内での戦争になって、これこそ第二次大戦以上の悲
惨な目を日本はみなければならなくなります。平和平和と思って、
こんな風に戦争に巻きこまれてしまうのであります。
無防備中立にしたら、かえって
観念的な平和論は日本を乱す
ですから今のところは、よく米国と話合って、日本も何らか米国の力になりながら、日本を米国
の武力で守って貰っていなければならないのです。観念的な平和論ではかえって、日本を乱してし
まいます。平和論も実際地に足のついたものでなければならないので、現在の世界情勢をみつめな
がら、徐々にやってゆかねばなりません。私共はその点、常識的に現実の世界情勢を認識しながら、
祈りによる世界平和運動をす二めているのであります。
究極は世界中が武力を捨て去る本格的な平和を目指しているのですが、その過程では、その場、
その時の国家や世界の歩みに歩調を合わせながら、次第に神のみ心を祈りによって、世界中に浸透
させてゆこうとしているのであります。
現在も戦争というものは、核戦争ばかりではありません。核をつかわぬ昔ながらの兵器での戦争
でも、日本など国土を攻撃されれば、国民の殆んどが戦争を恐れきっていますので、すぐにも手を
159日本の行方
やすやす
挙げてしまいそうです。といって、無防備中立では、易々と侵略されてしまう恐れがあります。少60
1
しぐらいの武器をもっても、国民が今のように戦争を恐れきっていたら、そんな武器はなんにもな
りませんし、核武装でもすれば、今度は相手方から核攻撃を受ける危険性が出てくるでしょう。
にら
だから米国と安保条約をつづけて、米国の強大な武力で四方に睨みをきかせて、侵略を防いでい
て貰うことが、一番よいことになりそうですが、これとて確固たるものではありません。無防備に
しようが、兵力を持とうが、米国に防いでいて貰おうが、危険をともなわない方法は一つもないの
です。こっちのほうがよいのにきまっている、と責任をもって言える人はあまりないと思います。
ですから、只、戦争は嫌だ、平和がい玉のだ、といっているだけではどうにもならないので、実
際に世界が平和になる方向に、自分たちが歩んでゆかねばならないのです。それには、只戦争を恐
れたり、政府のやり方ばかりを非難していたり、自分たちの生活の安定だけに憂き身をやつしてい
るようでは駄目なのです。
自分たちの一人一人が、何らかの方法で、国や人類のためになる方向にむかってゆかなければ、
国も人類もやがては滅亡してしまいます。再軍備論も、無防備もそれはそれみ\ の考え方でよいで
しょうが、いつも戦争や侵略におびえながら、浮足立つようにそう叫んでいても仕方がありません。
と
先ず、自分たちの心を安定させて、滅亡することのない、大生命、宇宙神のみ心に融けこんで、地
球の在り方を定めなければなりません。それにはとても一度や二度の決意でできるものではありま
せんから、たゆみない、世界平和の祈りによって、神との一体化を充分にするようにしてゆけば、
神の大光明のひびきが世界中にひびきわたるようになり、戦争に向う想いも、他国を侵略しようと
する想いも、自然と浄められてゆくのであります。
肉体人間の力では歯が立たぬ
なんにしても、肉体人間の智慧能力では、現在の地球世界の不調和を是正することはできません。
個人にしても国々にしても、いずれも自分や自国の利益が主でありまして、自己や自国の利益のた
めには、他人や他国が損をしようと、傷つこうと、その道を押し進もうとします。これは神のみ心
こうそうねん
の大調和の精神が、物質世界の業想念にわざわいされて、隠れてしまっていますので、どうしても
自我欲望の争いになってしまうのです。そこで強いほうが勝ち、弱いほうが負ける、という動物的
生き方が、人間世界にも現出してくるのであります。
これは正義の心で防こうとしても、現在ぐらいの人類愛の心で調和に導こうとしても、とても歯161日
本
の
行
方
が立たないのです。これは世界の現状をみてみれぽよくわかります。ですから、ひとりよがりの正612
義感で世を渡ろうとしても、ひとり取り残されてしまったりするのです。
正義感というものは勿論大事な心ですが、自分たちの都合では、常に自分たちのやることのほう
を正義だと思おうとするのが人間なので、単に正義だといってもこれは対立抗争を生むだけになっ
てしまいます。正義というのはあくまで、神のみ心を基にした行為である、としっかり定めておか
ないと、自分の都合で今まで不正義であったものが、急に正義になってしまったりするものです。
これからの人間には、絶対に神が必要なのです。神のみ心と一つになってこそ、勇気のある確固
たる正義の道を踏みしめてゆくことができるのです。日本を守ることにしても、口本自身だけでど
うしようと、自由になるような世界ではなくなっています。米勢力に協力してゆくか、ソ連や共産
圏と一つになってゆくか、のふた通りで、中立というような状態は、日本のような、米国とソ連中
共の中間に位置する国では、とても実行できることではありません。それは日本を味方にした側が
非常に有利な状態になることがはっきりしているので、お互いが日本を自己の陣営にひき入れよう
としているわけです。
しかし、現在迄の日本は米国との協力で、今日までの繁栄をきたしてまいりましたので、今更こ
の状態を改めて、新しい危険な状態に国の運命を置くことはありません。右にしても左にしても、
危険は存在しますので、その危険を防いで下さるのは、やはり、人間を地上界に誕生させた神々の
力の他はありません。
神々ははじめからそのつもり
一体誰がこの世で、日本はこうすれば絶対大丈夫だ、と神のみ力を度外視して言いきれる人がい
とコも
るでしょうか。再軍備にしろ、無防備にしろ、日米安保条約にしろ、危険の伴なわない状態は一つ
もないのであります。そこでどうしても、この危険を防いで頂き、世界平和を実現させて貰うため
には、人間生命の原点に返って、生命の親である神の力にすがってゆくより他に仕方がないのです。
神々のほうでは、はじめからそのつもりで、人類を守護の神霊で守っているのであります。そのこ
とを私は昔から口をすっばくして説きつづけているのであります。
守護の神霊への感謝と世界平和の祈りを、たゆみなく行ってゆくことこそ、人間と神々との一体
はた
化を果してゆくことになり、神々の力が人類に大きく働きかけて、人類を滅亡させようとしている
業想念波動(戦争や天変地変や公害等々の原因) を浄めさって下さるのであります。
163日本の行方
どうぞ改めて世界情勢を見直し、
のです。
日本の運命をみつめて、深い信仰心に目ざめて頂きたいと想う團
世界情勢と私どもの行く道
昭和五十五年六月〈白光〉発表
明日がわからぬ世界情勢
白光誌は本来魂の書であり、精神向上のために書かれている本なのですが、近頃のように、世界
情勢が、常に大きな戦争の危機に臨んでいるような時機なので、世界情勢は誰かさんに任かせてお
いて、私たちは只消えてゆく姿で世界平和の祈りの説法に明けくれ、行動に終始していればよいの
だ、だけでは皆さんの心が強い信念で生きてゆけないような気がして、私もやはり世界情勢をなる
ぺくくわしく皆さんに知らせて、その上で私どもの生き方がどうあるべきかと説いたほうがよい、
と思い、時折り世界情勢を書いているわけです。
霊覚でみていることとは別に、一般人と同じような立場で、種々な人々の話を聞き、様々な出版
165世界情勢と私どもの行く道
物で、世界情勢をみていますと、どうしても、このままでは世界は救われようがない、という結論
が出てくるのです。アフガニスタンのソ連兵進出、イランのアメリカ大使館員人質問題、ベトナム
をはじめ東南アジア諸国の常時になっている国際不安、米ソの勢力争いに躍って小国群は、自分た
ちの生き方をまるで忘れ果てて、お互いに身もだえしながら、地球滅亡の方向に自分たちの運命を
押しやってゆこうとしています。
どこの小国も一国の勢力が二つ三つと分れて、米国組、ソ連組、宗教団体組等々、連日相争って
いるわけで、何かのきっかけでは、明日はもう原爆がどこかへ落っこちるかも知れない、というよ
うな物凄さです。
イランなど、米国とまともに争ったとて勝てもしないのに、学生と回教徒との集団が、元国王問
題で、米国に楯をついて、大きな人質問題のようなことを起こして、米国も今更ひっこみがつかな
くなり、先ず経済封鎖から進めはじめ、それでも云うことをきかなければ止むを得ぬから、爆撃と
いうところまで政府の気持がきまってきています。ところがそういう状態につけいって、ソ連は早
速武器や経済の援助を積極的にイランにしており、イランに忽ちソ連の勢力が拡大されようとして
おります。
166
こうした米ソのやりとりは、世界中の小国間の調和を乱して、どうにも世界の立ち直りができそ
うになくなっています。そこで、欧州のしっかりした国々や日本が懸命になって、この二大勢力の
争いの間に入って、本格的な戦争にならぬようにと働いているわけなのです。
ソ連の小国侵略は実に巧妙で、アメリカへの小国の不信につけ入って、何かと蔭から面倒をみて、
自国の陣営に引き入れてしまうのであります。アフガニスタンの問題などは、ソ連としては、兵力
を使った思い切った表面的な行動で、よほど急速にその土地を利用したかったに違いありません。
現代は、そうしたソ連の小国武力侵略に対して、アメリカをはじめEC (欧州共同体)諸国や、
日本が、さかんに抗議しておりまして、モスクワオリンピック開催も危うくなっております。
ソ連共産化の勢力
米ソニ大勢力の対立は、今日までどちらが優位ともつかず続けられておりまして、お互いに友好
国を増大させようとして、諸国に働きかけています。日本は、勿論米国側として日米安保条約のも
とに、つくしつくされています。ヨーロッパの英仏独勢力、カナダ、オーストラリァ等々の、国家
がしっかり確立された国々は、アメリカに協力して、ソ連の侵略を防いでいます。
167世界情勢と私どもの行く道
ところが、国力のとぼしい政治政策の不確かな小国たちは、ソ連の蔭からの援助やおどしに一喜
一憂し、いつソ連の餌食になるかわからない状態になっています。
日本のように中産階級の多い国では、やたらに外国から物資を貰ったり、外国の物資に動かされ
て、それに隷属するようなことはありませんで、米国との現在の在り方のように、対等なやりとり
によって、その友好関係をつづけてゆくわけで、共産主義の温床にはきわめてなりにくい国柄です。
しかし、東南アジアにしても、西南アジアの中東諸国にしてもアフリカ諸国にしても、貧富の差
の激しい国であり、一般教育の低い状態の人々の集りでもありまして、物事をしっかり考えて行動
する国民が非常に少なく、物質の誘惑や、国の立場を優位にしてくれるような外国の動きについひ
きずりこまれてゆく、という危険性を常にもっております。
イランにしても、現在はまだ回教徒の学生たちが、強い勢力でホメイニ師をたてながら、国の大
勢を引きずってゆこうとしていますが、米国の圧迫が次第に強くなってきて、経済封鎖にまで追い
込まれてしまうと、よし、こちらから何でも応援してやる、と積極的に応援してくるソ連の力を頼
りにして、共産化に足を一歩ふみ入れてしまっています。
168
日本の重要な立場
日本やEC諸国たちのように、アメリカの立場を理解して、交際をつづけていける国の外は、い
つソ連の権力下になってしまったか、とあっけにとられる程世界平和の道には頼りない小国の集り
です。そこで、どうしても日本やEC諸国や中国が、しっかりと手を握って、米国のはやる心をお
さえつつ、ソ連との武力衝突を防がなければなりません。
米ソニ大国とて、戦争したいなどとは思ってもおりませんでしょうが、お互いが小国に手を出し
ているうちに、つい手を出し過ぎて大国同士が、直接武力を交えざるを得なくなったりします。そ
んなことになっては一大事です。EC諸国や日本が、真剣になって、米ソ両国の心をうかがい、両
けんせい
大国の小国への手だしを牽制しつづけているのもそのためです。
日本やEC諸国は、米ソ両国間のレフリーみたいのもので、強い勢力をもたなければならないの
ですが、よほど懸命に国力を増さなければ、米ソ両国をおさえる力をもちつづけられません。米ソ
のどちらが悪いというより、兎に角、両大国が武力を交えたら、大変なのですから、双方の善悪は
その後に考えることにして、先ず両大国の争いを防がなければなりません。169世
界
情
勢
と
私
ど
も
の
行
く
道
そういう点で、イラソにしても、アフガニスタンにしても、いったいどうしてやったらよいので
しょう。ここで問題になるのは、日本の立場です。日本は過去の実績として、敗戦後小国以下の立
場から、米国の援助のもとに立ち上り、たちまち対等に米国と手を握り、E C諸国と同じ立場で話
し合いができる程の実力を備えてしまいました。国民の頭がいいというか、勤勉というか、東南ア
ジアや中近東、アラブ、アフリカ、などの小国より確かにどこかぬきんでて秀れたものが、あった
に違いありません。
せんさく
ひとまずそういう詮索を後にして、今の立場として、どうしたら世界平和に貢献できるか、地球の
運命を正しくしてゆくことができるか、ということに全国力を挙げて働いていかねばならぬのです。
日本は米国との協力を
日本の力というものは、米国からみても、ソ連からみても、自国の味方としてほしいにきまって
いるのですが、日本は常に、米国に助けられてきて今日になっているのですから、米国と共に協力
してソ連の力を抑えてゆく立場に立つのが当然で、どんなにソ連に脅しをかけられても、甘い言葉
をかけられても、心をゆるがしてはいけないわけです。
170
ところが、日本の知識階級の新しがりやの人々は、何かというと、すぐに反米的態度をとって、
ソ連の働きかけに有利のように動いてゆきます。よくよく考えてみて下さい。日本の国は、戦後ど
れだけ米国に世話になったか判りませんが、ソ連の恩恵を受けたことは多くの人が殆んど記憶にあ
りません。そういう立場の日本が、米国の不利に働いてソ連の有利を導く手助けをする道理がどう
してあるのでしょう。こういう小学生でも判るようなやさしい道理をインテリと称する人のほうが
かえって判らなくなっているのですから、人間は一度はどうしても素直な心になって自分の人生を
考え直してみる必要があるのです。
ですから、米国の悪いところや、行き過ぎは、EC諸国と話合って、素直に意見をし、ソ連と武
力を交じえるような一大事にならぬようにすることが、神様のみ心に叶った生き方となるわけです。
こうして米国のやり方は、EC諸国や日本によって、抑えてゆくことができるのですが、ソ連の行
き方は直接抑えることはできないのです。
ソ連のやり方というのは、いつの間にか、小国の政治の中に喰いこんでいて、あっというまに、
その小国がソ連の自由に動くようになっている、という始末で、アフガニスタンなども危うくなっ
ているのです。そういうソ連の肩を日本の知識層がもっているとしたら、とんでもないことで、そ171世
界
情
勢
と
私
ど
も
の
行
く
道
の人たちは地球滅亡の片棒をかついでいることになります。
カルマの波を消滅させよう
小国にしても、大国にしても、絶対に武力を使わせない、というようにE C諸国と日本と中国を
加えて、大きく働かなければなりません。イラソのような小国が、大国米国に対して、まともに喧
嘩をふっかけていて、人道上にもそむく、大量人質のような思い切ったことをしているのは、一体
カルマ
どうしたことなのでしょう。まさに、地球を滅亡させようとする業の働きに違いありません。そう
いう業に米国の業が巻き込まれていったら、そこにソ連の業が同調して、どうにもならなくなって
しまいます。
今日ほどこうした業の波を消滅させる神の光明波動の必要な時はありません。今こそ日本は、光
明波動の中心に立って、世界平和の祈りを根底に、多くの国々を引っばってゆかなけれぽならない
のです。
米国では、大統領選挙を間近にして、カーター大統領が自己の人気の上昇を狙っての国際政治を
しているので、国民にはどうしても外国に強気の政策が受けますから、その波に乗って、今度のイ
172
ラン人質救出作戦のような無理な手段をやって失敗に終ってしまいました。こうした米国の失敗は、
ソ連側にとっては思う壷であり、イラン国民の士気を鼓舞してしまいまして、事態をますます困難
にしてしまいました。
米国だけでは、もう真っ向から兵力を振って、イラソを抑えつけるより方法のないような事態に
追いこまれてきてしまいました。危険この上もありません。
戦いになったら、米ソだけの問題ではなく、EC諸国も日本も戦禍に巻きこまれて、地球滅亡と
いうところまでゆきついてしまうわけですから、ここは国力を振りしぼって、米国の武力を抑え、
米ソ衝突を防がなければなりません。現在の日本は、何事においても、この大仕事に全力をつくし
て、世界の波を静めなければなりません。
ごんげ
平和の権化としての生き方
今こそ、日本とEC諸国とが全く一つの心になって、米ソの武力をおさえることに全国力を挙げ
るべきです。もうこの際は、国の面子も損得もありません。米ソの武力衝突を防ぐため、小国の無
謀なゆき方をあらゆる手段をもって、反省させなければなりません。そのために、日本ではまず全173世
界
情
勢
と
私
ど
も
の
行
く
道
国民が平和だけを欲しているのだという大決意を、EC諸国にも小国たちにも、はっきり示してゆ
かなければなりません。
世界人類が平和でありますように、という祈り言を日本全国民が世界に向けて、高々と祈り続け
ながら、米ソの武力をEC諸国と共に、おさえつづけてゆく以外に、もう世界を平和にする方法は
ありません。
何にしても、我々は世界平和の祈りを祈りつづけるのです。そして、日本にこの祈り声を響かせ
つづけるのです。そして、神の大光明波動を米国にもソ連にも、小国たちにも強く響かせつづける
のです。
今日程日本人が、自分たちの立場の重要さを認識しなければならない時はありません。世界平和
ごんげ
の権化として、世界平和の祈りを国民全体の生き方として、米国にソ連に大きな影響を及ぼしてゆ
かねぽならないのです。米国やソ連の武力の前に、世界中が武力をもって立っても致し方がありま
せん。米国もソ連も共に武力の使えなくなるよう、日本と西欧諸国が平和の力そのもので立ちふさ
がる、その力の中心は、やはり、日本の世界平和の祈りなのです。
原爆で、広島、長崎を一瞬にして壊滅させられた日本の、核兵器に対する感情こそ、どこの国の
174
戦争恐怖の想いよりも強いもので、今度の戦争が地球滅亡に直接つながっているという、強い認識
をもっているのです。
祈り心による神との一体化、日本はそれが出来る国民であり、世界の平和の中心に立ってゆける
国民です。神を考えずにもう一歩も生きてゆけぬ地球人類なのですから、まともに神の恩恵を頂く
ため、祈りにつぐ祈りで、人類の生活をつづけてゆく、今はそういう時機になっているのです。
神さまを呼びつづけよう
幸いに口本は天皇が国の中心になっています。全国民暗黙のうちに、天皇はやはり、日本人の中
心であります。そして、平和の象徴であります。どこの国からみても、日本の戦争は、天皇の一声
ではじめられ、天皇そのものに戦争の責任がある、と思えたような今回の戦争も、なんら天皇を罰
することはできませんでした。
それは、天皇が日本人全部の罰を背負っての大犠牲の捨身の行為にマッカーサ1の魂が打たれた
結果とはいえ、天皇が世界平和のためになくてはならぬ存在として、神のみ心が、天皇をすっかり
み心の中でかばって下さったから、天皇になんの傷もつかなかったのであります。天皇の肉体身は、175世
界
情
勢
と
私
ど
も
の
行
く
道
正に神のみ心のままに動き得る肉体身であり、み仏であり、キリストであられたわけです。
日本はそういう天皇を中心にした平和国家なのです。祈りにはじまって、祈りに終わる、神との
一体化をこの地球世界に現わして、世界の平和を実現するその最大の行為が祈りなのです。
肉体身としてのみ重要視していた人間を、霊身として、神と一つのものとして、先ず日本人が世界
の先頭に立って、祈り一念の人間として起ってゆくのです。個人の幸せも、国の幸せも、すぺて祈り
一念の生活からはじまるのであります。神様、神様、神様、人類は今こそ、神の御名を呼びつづけ、平
和のひびきそのものになって、生きてゆくことより、地球は進化をつづけてゆく方法はないのです。
世界人類が平和でありますように
この一語の祈りこそ、地球世界を真実に平和に導き出す、光明燦然たる言葉なのです。米ソがな
んといおうと、小国が何を叫ぼうと、日本はひたむきに、世界平和の祈りを唱えつづけながら、こ
れを世界の中央に押し出してゆくのです。
神と人類との一体化、日本の天命はこれを果すことによって、世界各国の天命をも果させること
ができるのです。今こそ一日一瞬もゆるがせにできません。祈りにつぐ祈りの生活を日本中が実践
してまいりましょう。
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