天命を信じて人事を尽くせ

聖ヶ丘講話
天命を信じて人事を尽くせ
五井昌久


者(1916~1980)

聖ケ丘講話シリーズ刊行のことば
ひじりがおか
聖ヶ丘講話とは、市川市中国分にある聖ケ丘道場統一会でなさった五井昌久先生のお話である。
お話のあと、先生ご指導のもと世界平和の祈りを全員でするのだが、祈り言葉を単純に心の中で唱
えつづけることによって、想いを世界平和の祈りに統一する実修をした。
お話はたいがいは質問に応えてなさったもので、これから続々と刊行される聖ケ丘講話には、質
疑応答で終始する本も当然出てくる。質問もさまざまなら、お話の内容も多岐にわたっていて、ご
く身近の問題から、ひろく世界の平和や宇宙の問題、霊界や死後の生活のこと、永遠の生命の覚醒、
霊性開発という本質的な問題、またご自分のことなど、きわめて親切に、わかりやすくまた面白く
答えて下さり、人間とは何か、いかにして解脱して自由の心にいたれるかを、うまずたゆまず説い
て下さっている。なお、聖ヶ丘道場での講話以外のお話も聖ケ丘講話として収録した。
平成三年一月
1
L

人の人間がすべ

O ・● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ■ ● ● ● ● O ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ■ O ● ● ● ● ● ● O ● . ・● ・● ・● . ● ● O ・● . ・O ● .
135
愛をほどこす● … ● ● ● ● ● ● ・・● ・● . ● ● ● ● ● ● ● ● ● ■ O ● ● ● ■ ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● O ● ● ■ ● ● ● ● ● O ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● O ● ● ● ● ・● ● ・● . O ● O O ● ◎ O ● ● ・・
109
守護霊さん

こと祈りのことO ● . ● ● ■ ● ● ● ■ ● ● O ● O ● ● ● ● ● ● ● ● ■ ● ● ● ● ● ● ● ● O ■ ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● . ● O ・● ・. ● . ● ● ● ● ● ●
87
宇宙人の出現● ● ● ● ● O ● ● ● O ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ■ ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● O ● ● ● ● O ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● O ● ● ■ ● ● ● ● ● O ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● O ● ● ● ● ● O ● ● ・O ・・● ● O
69
神さまが保証する● ● ● ● 0 ● ● ● ● ● ● ● ● O ● ● ● ● ● ● O ■ O ■ ● ● ● ■ ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ■ ● ■ ● ● ● ● , ● ● ● ● ■ ● ● ● ● ● ● ● ● ● ・・● ● ・. ・・● O ・● ・. ・● ●
28
呼べ

こたえて救

てくれる● ● O ● ● ● ● ● O ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ■ ● ● ● ● ● ● ● O ● ● ● ● ● ● ○ ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ■ ● ・・● ● ・・● ・● … ● ・. O ●
7


2
霊光写真と真実の人間
天命を信じて人事を尽くせ
172 159
装偵笹本悦子
3
私たちの考え4
私たちは、人間と真実の生き方について次のように考え、実行してお
ります。
にんげんほんらいかみわけみたまごうしようしゆこれいしゆ
『人間は本来、神の分霊であって、業生ではなく、つねに守護霊、守
ごじんまも
護神によって守られているものである。
よくのうにんげんかこげんざいせあやま
この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤て
そうねんうんめいあらきときおこすがた
る想念が、その運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
くのうあらかならききさ
いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去
つよしんねんぜんねんおこ
るのであるという強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起
こんなんじぷんゆしひとゆるじぷんあいひと
し、どんな困難のなかにあっても、自分を赦し人を赦し、自分を愛し人
あいあいまことゆるげんこうしゆこれいしゆ
を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづけてゆくとともに、守護霊、守
ごじんかんしやこころおもせかいへいわいのいの
護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の祈りを祈りつづけてゆけば、
こじんじんるいしんすくたいとくでき
個人も人類も真の救いを体得出来るものである。』
せかいへいわいの
世界平和の祈り
せかいじんるいへいわ
世界人類が平和でありますように
につぼんへいわ
日本が平和でありますように
わたくしたちてんめいまつと
私達の天命が完うされますように
しゆこれいさましゆごじんさま
守護霊様、守護神様ありがとうございます
こいせんせいしんかいやくそくごといのいの
この祈りは五井先生と神界との約束事で、この祈りをするところに
かならきゆうせだいこうみようかがやじぶんすくせかいじんるいこう
必ず救世の大光明が輝き、自分が救われるとともに、世界人類の光
みようかだいちようわぜつだいちからはつき
明化、大調和に絶大なる力を発揮するのです。
5
呼べばこたえて救ってくれる
昭和3年5月2日
うつわ
肉体は器
肉体の五井昌久というのがここにおりますね。おりますけれど、この肉体の五井昌久は器なんで
す。場所なんですね。テレビジョンのボックスなんです。この中に働いている心臓とか肺臓とか胃
腸とかいうものは、いわばブラウン管なんです。みんなもそうなんですよ。
ふつうの信仰のない人はどうなっているかというと、放送局は、つまり神さまのほうからは天命
劇というものを年中うつして来ているんだけれど、自分の頭で考えて勝手にブラウン管のガラスに
落書きして、ああこれではいけない、おれの運命は… … と書いたり消したりしているのです。けれ
どなかなかうまく消えない。いろんなものを塗っちゃうから天命劇がちゃんとわからない。なんだ
呼べばこたえて救ってくれる
7
L
か向こうでやっているらしいな、何だか神さまってあるらしい気がするな、ぐらいのところです。
ひどいのになると、自分から塗りつぶしちゃって、全然神さまのほうが見えない。自分の力でやっ
ているんだって、塗っちゃっている。唯物論者のように、物ばかりに頼っている、肉体の世界だけ
に頼っている人はそうなのです。自分が器としてあっても、器の役をなさないんですよ。本当は神
さまの姿を現わすためにこの世界が出来ているんですよ。それで各自がテレビジョンの受像器のよ
ちよくれい
うに、器として、場所として肉体が出来ているんです。各自の直霊、分霊が、神さまの光が肉体を
通して、この地上世界を天国にしようと思っているんですよ。それなのに自分の頭でもって、自分
の運命を塗りつぶしちゃっている。それを業想念というんです。
業想念でもって、ああじゃないこうじゃない、自分がいい自分が悪い、あいつが善い彼奴が悪い、
憎らしい、恋しい、いたわしい、などといろんなことを思って塗りつぶしている。だから折角神さ
まのほうから一所懸命やってもわからないんです。そこで守護霊さんという祖先の悟った人がいて、

塗ったあとを拭いてくれる。塗ったあとをまた拭いてくれるんです。それでどうやらこうやら殺人
強盗ばかり出ないで、こうやって生きているんです。
ぬぐ
業想念が勝手に塗ったのを、守護霊さんがいちいち拭って、夢に出して消してくれたり、なんと
8
か危ない運命を助けてくれたりして、一所懸命消してくれているのです。その上の力を貸して下さ
るのは守護神さんなんですよ。そうやって守護霊守護神が人間のテレビジョンがよく映るように、
一所懸命やっているんです。ところがいくらやってもやっても、人間のほうは一向にわからないで
塗りつぶしているんです。守護霊がいくら拭いても、塗りつぶすほうが速すぎて、光って来ないん
たどん
です。そういう人はこの世では救われない人で、炭団と私はいうんです。
少なくとも皆さんは、神さまを信じようとしている。大体、何度も何度も話を聞いている人は神
さまがわかって来ています。守護霊守護神がわかって来ています。肉体というものは神さまの器で
あって、この器の中の業想念をチラチラさせなければ、神さまの光がそのまま動いてゆくのだとわ
かっていますね。
*註1
谷梅安さんは世界平和の祈りをして、人の病気を治そう治そうって一所懸命。だからとても効き
目がいいんですよ。一所懸命人を治そうとする心と世界平和の祈りがピタッと一つになって、業想
念が消えて来たから、神さまの光に通じたんですね。業想念というのは神さまの光を邪魔している
かす
わけです、光が通って来ない。通って来ても微かしか通らない。谷さんは世界人類が平和でありま
すようにくとやっているから、自分が守護霊と一つになって来ちゃった。守護霊と一つなら守護
呼べばこたえて救ってくれる
9

神と一つになりますよ。守護神と一つなら五井先生と一つなんですよね。だから私の光を見た。私
が話している時ここに霊光が輝いて見える。はじめ錯覚と思ったがそうでなかった。白光に輝くの
を見るわけです。
五井先生という神さまになった
.
谷さんの業がきれいになって来て、直接に光が通じ合ったんです。それは世界平和の祈りをやっ
ていたからですよ。世界平和の祈りというのは、五井先生といって働いている直霊さんの救世の大
光明の光なんです。光がそのまま世界平和の祈りになって、ひびきわたっているんです。だから世
界平和の祈りをやっている時は、五井先生って要するに肉体のことをいうんじゃないんですよ。い
いですか。肉体は世界平和の祈りの提唱者で、世界平和の祈りの地上界の代表です。
肉体で説明しましょうね。いつも説明しようと思って、むずかしいからどうしたらいいかと思っ
て考えているんだけども。
五井昌久という人がいたんです。肉体として生まれてきたんだからいましたよ。その人は三十に
ならないうちに、向こうへいっちゃったんです。死んじゃって、天界の一番高い神界の一番上のと
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ころへ往っちゃったんです。ということは自分の直霊と一つになっちゃったんです。この人は全く
豊っぽなんです。なんにもない、なんにも思わないんです。五井先生という神さまになっちゃって、
自由自在に動ける。先生って呼ばれればどこへでもパッと行ける。
三十歳の頃、パッと向こうへ往っちゃって、抜けちゃった。抜けちゃったら倒れちゃうわけでしょ。
ところが倒れなかった。何が倒さないかというと、ここに私の祖先たちが、亡くなった私の弟だと
か友達がいて倒さなかった。私が肉体にいる時に、いっぱい浄めておいたものが、順次交替で、こ
の肉体をちゃんと維持しているのね。いろんな人がここにたくさんいましてネ、それで肉体が動け
るようにちゃんと肉体を守ってくれている。だから肉体を残したままで私は昇天しちゃったわけな
んですよ。
いっぺん神界へ往っちゃって、そのまま肉体はここに働いていた。守護霊や守護神や亡くなった
人達に肉体はそのまま委せて、空っぽにして向こうへいっちゃった。だから肉体自身としての想念
は全然ないんです。だから五井先生はどこへでも行けるんですよ。ただみな見えないだけなんです
よ。先生1″と呼べば必ずそこで守っている。太陽と同じになっちゃっているんですからネ、太陽よ
りもっと強力な光なんです。だからサーッとどこへでも同時に行ける。ふつう人間だったら、一力
11 呼べばこたえて救ってくれる
ノ、
所しか行けないですよね。東西南北で呼ばれたら困っちゃいますよ。
五井先生というのは即ち私なんです。ところがこの肉体はかつて五井先生が働いていた場所なん
ぱん
です。この肉体には地上界に近い魂から種々な人が番をしているんです。足を動かすのはオレがや
る。手を動かすのはあなたがやれ、頭は… …なんてそれほどでもないけど、みんなが守って動かし
ている。それを統一しているのは誰かというと五井先生。というのは天へ往っちゃった五井先生が
統一して、指示している。これは(ご自分をさして)統一体なんです。
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神様になって動かされている自分
ところがふつうの場合、人間というのは肉体一つだと思っている。一つで自分で勝手に動いてい
るように見えちゃう。実はそうじゃないんです。自分一人で動いているんじゃないのです。自分の
うしろ
想念と後にいる守護霊の想いと守護神の想いと、そういうものによって動いているのです。
実は業想念だけで動いている人というのは無いんです。いつでも守護霊がどんなことをしても力
をつけている。唯物論者でも守護霊が守っている。守っているから、悪いことをしながらも、なん
とか助かっているんです。自分で働いているわけじゃない。動かされている。それを知らないだけ
なんです。それを鮮やかに知っているのは私なんです。霊能者の人も知っていますよ。霊能的な人
は自分が動かされていることを知っています。へんな迷った霊魂に動かされていることも知ってい
る。私は首を振りたくないんだけど首が振れちゃう、なんていって振っている人もあるんですよ。
精神病院へいってごらんなさい。私、人を殴りたくないんだけど、ゴツンなんてね。(笑)
自分が書きたくなくても、書きたくなってサッサと書いたりする。書かされるんです。いわされ
る。霊能者でなくても、普通の人でも実はいわされる。いいたくもないことをいっちゃうことがあ
るでしょう。”あっしまった、先生実はいいたくなかったんだ、いっちゃいましたよ、私は” いっ
ちゃってからではあとの祭りよ。(笑) それはいわされる。何にいわされるかというと、自分の業
想念にいわされる。
この肉体は器なんだから、自分が出した、或いはこの世の中にあるいろんな波の業想念がひっか
かって、うっかりしてピューッとしゃべるんですよ。みんな自分で偉そうにしゃべっている気がし
ているけれど、実はしゃべっていない、しゃべらされている。神さまの方の守護霊守護神にしゃべ
から
らされているか、業想念にしゃべらされているかの違いであって、この体は空っぽなんですよ。器
なんですよ。それがわかってくると大したものです。
13 呼べばこたえて救ってくれる
みんな自分でやっていると思ったら間違いなんです。過去世において自分が積んで来た業想念が
潜在意識、幽体に記録されていて、それがグルグル回って来てプッと出てくる。手に出るか、足に
出るか、身体に出るか、口から出るか、とにかく溜まっているものが出てくるだけです。それを知
らないで、自分がしゃべっていると思う。
自分って一体何かっていうんです。人間とは果たして何か、という一番の問題がありますね。人
間とは果たしてなんであるか、誰も今までわかっていないんですよ。宗教者の偉い人はわかってい
るけれど、一般の人は誰もわかりゃしない。わかるようなことを教えた人がいないんだもの。ソク
ラテスが”汝自身を知れ” ったって、どうして知るんだか教え方がないでしょう。
西田哲学でも、見るものと見られるもの、無目的、有目的なんて、あんまりむずかしいからわか
らないんですよ。そんなにむずかしいことをいわなくていい。何故むずかしいことをいうかという
と、自分は向こうへ往ったことがないから。いっぺん肉体というものを離れて、向こうから眺めて
くればよくわかるんだよ。向こうへ往かないで、地上にグルッとまるく書いた円の中で、円の中か
ら出られない。人間は円を一つ書いた中に入っちゃって、出られないんですよ。それでもって人間
はなんだろう、とやっているんです。

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自分の業想念で書いた円の中に入っちゃって、三界という枠の中に入っちゃって身動きがとれな
い。それで業想念の中で、人間とは果たして何か、と哲学的に考えているんですね。むずかしくむ
ずかしく考える。ところがむずかしく考えることは、なんにもありゃしないんです。
いのちは神さまから来ている
人間は神さまの子なんだーこんなにハッキリしたことはないんですよ。それを哲学者などは神
さまというのはいいたくないものだから、困っているんです。ハッキリ「神さま」っていえばいい
ものをいえないんです。神さまでなければ大生命がっていえばいい。いのちというのがわからない
いのち
人はないんですね。誰も生命という言葉で漠然とわかっています。生命というのはここに生かして
いるもの、というのがわかっているでしょう。生かしてくれているものの一番の親は大生命にきまっ
ている。それがわからないのは、どうかしちゃっているんだ、頭が。
いのちは一体どこから来たか、そこから考えればいいんですね。親から来た。親のいのちは親の
親でしょう。その先は親親親で、おやおやおやとずっといっちゃう。(笑)おやっていっているう
ちに、大生命に来ちゃうのですよ。生命の親だから大生命、大親さまでしょう。大親さま即ち神さ
15 呼べばこたえて救ってくれる

ま、絶対者。わかりますよね。大生命がなくて小生命が生まれるわけがない。親がなくては子は生
まれないでしょう。どこかに大きな親がいなければならないですよ。ポツンと生まれて来て、こん
な知恵のあるものが生まれてくるわけがない。
アミーバーから進化して、魚になって、鳥になって、チンパンジーになって、それで人間になっ
たといいます。そうやってだんだん進化させるものは何か。どっちから考えたってX YZ ですよ。
わかりゃしない。一番大事な生命ということがわからないで、わかったような顔をしている。初め
に自然があったというんだね。では自然とは何か? 言葉というのは便利です。自然といえば何か
わかったような気がしているんです。何もわからない。
ひとりでに出来たという。ひとりでに出来たということはありっこないでしょう。もしひとりで
に出来たんだとすれば、知恵もなんにもないんだから、人間の価値など全然ないですよ。人間に考
える力があったり、いえる力があったり、愛があったり、いろいろあるでしょう。それもひとりで
に出来たのか。そんなバカなことを考える人がある。それを学者といっています。
なんにも知らない人のほうが、かえっていいと思う。神さま有難うございます、仏さま有難うご
ざいます。素直ですよ。お天道さま(太陽)有難うございます、と感謝しています。お天道さまだっ16
て知らないうちに出来たでしょう。学説がなんのかんのといったって、学説なんかあとから作った
んです。お天道さまのほうが先に出来た。(笑)今生きている如何なる学者よりも、お天道さまが
先に生まれたんです。先に生まれたお天道さまのことを、後から生まれた人間がわかるわけがない
じゃないですか。
創られたものは創ったものがわからない
星がたくさんありますね、地球は太陽系宇宙に属していますし、この太陽系宇宙は銀河系宇宙に
属している。この銀河系宇宙が他に十二あるというんだね。十二集まって出来た宇宙がまた十二あっ
て、いくつもある。膨大なものです。この頭で考えたってだめなんです。それをいかにも考えられ
るように考えている。おかしいんですよ、頭というのは。太陽がズーッと先に出来ているのに、い
かにも自分が太陽を創ったような顔をして、(笑) “わしの研究するところによると、太陽はありゃ
ガス体だよ、君” なんて。(笑) 何をいってんだ、ガス体は自分のほうじゃないか。(笑) わからな
いことをわかるような顔をするから、わからないんです。
つつ
わかりません、といった人が一番先です。わかりませんといって、慎ましく考える。何故わから
17 呼べばこたえて救ってくれる
ないかというと、創ってくれたものより自分があとで出来ている。あとで出来ているのに、あとに
出来た立場から、創った先を考えようとするからわからないのです。だからいっぺんあとに出来た
自分というものを捨てちゃって、自分というものを考えず、一番初めに創ってくれたものと一つに
なればわかるでしょう。創ってくれたものの中に入ってゆけばいい。親さまに聞けばいいんですよ。
親の生まれた時の状態が子供にわかるわけがないでしょう。うちの親父はこうやって生まれたん
です。(笑)私は見てた、なんて奴はいないでしょう。お袋は生意気なことをいうけど、おばあちゃ
んのなかから生まれたんだよ。(笑) こんな状態で生まれた… … そんなことをわかった奴はいやし
ない。聞いただけの話なんだ。私の生まれは何年何月何日何時何分です。丁度夕方でして、(笑)
嘘をいって、見てやしないんだ。親に聞いたのが頭に入っていて、そのまま出てくるんです。人間
の考え方なんですよ。
親に聞いたことを素直にいうのは、まだ親が本当のことをいっているからで、ところが人間の親
は時々間違ったことをいうかもしれない。しかし人間を創った大生命という神さま、大親さまは間
違ったことはいわないんです。だからまず親に聞くことでしょう。親に聞く心でもって、守護霊さ
んが守護神さんから聞いてくれ、守護神さんがまた大親さまから聞いてくれて、この世界のことが
18
わかってくるのです。そのためには、業想念を無くさなければならない。そんなことあるもんか、
あるもんかと、遮っている雲を吹き飛ばさなけりゃならない。その吹きとばす方法が今まで無いん
ですよね。
自分の想いを神さまに返すこと
くうくうくう
今まで坐禅観法をした。空空空くとやった。ところがちっとも頭の中は空にならない。生臭く
なって俗界に帰っちゃったりするのがたくさんある。この忙しい世の中になって、山の中に入って
くうくうくう
空空空とやったってダメですよ。今の世の中では、ちゃんとした仕事をしながら、当たり前の生活
をしながら、そして神さまがわかり、人間の本体がわからなければダメですよ。
仕事をしながらわかる方法はどうしたらいいかといったら、自分の想いをいっぺん神さまへ返し
から
ちゃうことです。神さまへ返しちゃうと空っぽと同じでしょ。しかし神さまに返す方法がわからな
い。どうしたらいいかというと、自分の頭から出てくる想いを、業想念といって一度切っちゃうん
です。いい想いも悪い想いも、すべて想いは消えてゆく姿なんだ、と思うんですよ。そして世界平
和の祈りに入れるんです。
19 呼べばこたえて救ってくれる
全部消えていってしまうと、なかから本当のお光が出て来て素晴らしい知恵者になるんです。神
さまのことがわかってくる。本当の自分の姿がわかってくる。あ\自分は前の世で何年何月に生ま
しゆくめいつう
れて、その前にお釈迦さまと一緒にやっていて、その前は… … とズーッとわかってくる。宿命通に
から
なっちゃう。業想念というものが全部なくなって来て、空っぽになってくると、本来の神さまの光
がズーッと流れ入って来るんです。神さまの光でみれば、神さまが全部創ったんだから、みんなわ
かりますよね。そういうようになってくる。
20
本当は人間はみな神さま
本当の五井先生は何かというと大光明なんです。いつもいうんだけども、五井先生という人が先
になっただけであって、皆さんもみんななれる。なれるということはどういうことかというと、本
当はみんな神さまだからです。それを行ずることが神道なんですよ。
神道というものは、みんな神さまなんだ、或る人はアのひびきを持った神さまの子なんだ、或る
人はイのひびきを持った神の子なんだ、或る人はウのひびきを持った神の働きなんだーそういう
ことを教えているんです。五十音というものは人間一人一人の働きのひびきなんです。光のひびき
なんです。誰も彼も全部もっているんですけれども、みんな業想念があるもんですから、スがズに
なっちゃうんです。(笑) ハがバになっちゃってね。(笑)そういうふうになっちゃって働いている。
スーッとスッキリしてない。
それで宗教家が澄みきりの心になる、とよくいいますよね。澄むにはどうしたらいいかというと、
業想念をなくすことなんです。業想念をなくすにはどうしたらいいかといったらば、神さまの中へ
入れてしまうこと。神さまの中へ入れちゃうのにはどうしたらいいかといったら、世界平和の祈り
をすることなんです。すると神さまの中へ業想念が入っちゃうでしょう。神さまそのものになるん
ですよ。だから世界平和の祈りをずっとつづけてやっていてごらんなさい。必ず神さまが見えます
よ。
やしろ
今日、テレビを見ていましたら、代議士さんがどこかの古びた社に参拝しているところが映って
いました。溺れる者は藁をもつかむという気持ちで、お神酒かなんかあげて祈っている。なんにも
のんき
知らないって暢気なもんだね。その社には幽界の生物が一杯住んでいる。拝んでいるものは人間よ
りズーッと低いものに向かって、一所懸命頼んでいる。あんなものにきいてもらってごらんなさい。
あとがひどいから、なんでもかまわないから一票もらいたいと思っているんだけれど、やっている
21 呼べばこたえて救ってくれる
ことは上等とはいえません。神さまに頼んでいるんじゃないんだもの。
神社があれば何かご利益があると思って祈る人がある。私たちの目からみればバカなことだと思
いますよ。空っぽでなんにもいない社を拝んだり、誠心誠意じゃないから何もない。欲張っている
のだから欲張ったものが感応しているだけです。自分が想いを出すでしょう。するとこの世の中に
は種々雑多の想いが、いっぱい波になっているんです。
たとえば金が欲しいなんて想いを出すでしょう。そうすると向こうから金が欲しいという想いが
くるんですよ。金が欲しい欲しいと思ってちゃ金は出来ないんです。お金が欲しいの忘れちゃって、
欲しがらずに一所懸命やりましょうってやっているうちに、一所懸命一所懸命という想いが来て、
一所懸命が感応して、これがお金を引っぱってくるんです。そうなんですよ。
火を手でつかむことが出来ないでしょ、火箸がなけりゃね。火をつかむなら、火箸を先に持たな
けりゃだあでしょ。火があっても火箸を持たなけりゃ、火がつかめないでしょ。火箸が”一所懸命
働く” ということになる。だからまず働くほうが先なんです。働きさえすりゃ金が来るということ
になるんですよ。それの最もよい方法は神さまにつながっちゃうこと。そうすると神さまから、本
来自分がもらうべきものが、正当に神さまから入ってくる。
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それを神さまじゃなくて、小さな低いヘンなものに頼んで、もらおうとするんですよ。世界の中
にご利益をすぐくれる宗教がはやっています。しかしご利益を得たあと、お返しを持っていかない
と、あとで病気したりして、なんでもかんでも思い出させます。病気になった、おれに上げないか
らだくと耳もとで囁かれます。あっあのお稲荷さんに頼んだけど、お返しをしてなかったな、と
気がついてまた行ってお返ししたりする。そうすると、また縁がつながるもんだから、向こうでま
たやって来ますよ。私たちが行って浄めないとなかなか切れないですよ。向こうじゃお得意逃しちゃ
たまんないもの。(笑)油揚げなくなっちゃうもん。(笑)
誰も上げてくれなくちゃ困るでしょう。いっぺんつかんだお得意は逃がさないですよ、絶対向こ
うは。いっぺん頼んだ、利益が与えられた、離れようとすると向こうはやってくるんです。それで
たた
病気をさせたり、また少し来ないとやって来て、またわるさをしたりする。だからさわらぬ神に崇
りなし、というんですよ。神さまに頼んでご利益はあったけれども、あとの崇りが恐ろしいという
のがそうなんですよ。そういう信仰をしている人が無数にあるんです。
23 呼べばこたえて救ってくれる

ひたすらに世界平和を祈っていればいい
今の谷さんのように、純粋に人を治したい、どうか自分の天命が完うされますように、というふ
うに、世界平和の祈りを一所懸命やっていると、真実の光が見えてくる。もうああなると後へ退り
ません。今までの誠心誠意が、本当に人を救いたい、人の病気を治したいという想いが実になって
来た、稔って来た。そうすると治療も非常に効果が上がります。谷さんは病気を治す天命があるん
です。奥さんも一所懸命です。
なんでも、ひたすらに世界平和を祈ればいいんですよ。誰でも立派になるんです。どんな人でも
光が見えるんです。遅かれ早かれみんななりますよ。あの人たしか先生のところへ私より後に行っ
たのに、なんで先になりやがった。(笑) そういう心があったらダメなんです。先に来たから必ず
なるもんじゃないんですよ。斎藤さんより先に来ている人はたくさんあるんだものね。だけど人は
ならない。何故ならないかというと、まだ時期じゃないんですね。一番なりやすい時になるんです。
それは信仰の浅い深いということとは別にあるんですよ、ああこの人はこの時でなくて、もう少し
先になったほうがいい、というのがあるんです。それで皆さんは一人残らず、世界平和の祈りを本
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当にやっていれば、神さまをじかに感じますよ。ちゃんと中にいることを感じます。これは私、保
証します。みんながそうやって感じてくれて、みんなが人を救わなけりゃ遅いという時期が来てい
るんです。みんな一人一人が神さまの使いになって、みんな一人一人が菩薩にならなけりゃならな
い時期が、もう近いんです。
選挙に想う
今日の選挙は大体終わったんでしょう。さあ蓋をあけてどっちが勝つか。まあわかってますけど
ね。しかし社会党はダメだ、自民党はダメだ、という人がたくさんあるでしょう。社会党はいやだ
けど自民党がいやだから社会党へ入れる。自民党はいやだけど社会党へ入れたら、共産党になって
困るから自民党へ入れようって、それで投票したんですね。本当にこの人は立派なんだ、この人に
入れようって入れた人ありますか? ほとんどない。立派な人だから、どんなことがあっても一
票を入れなけりゃといって、入れた人は少ないと思うんですよ、また実際の話がわかりゃしないん
だ。
一人の人間がいくら頑張ったって、十なら十で多数決できまっちゃえばダメでしょう。十の利益
25 呼べばこたえて救ってくれる

なんだからね。だから私のところへ来て、いろいろ政策を聞いたって、また教えたってなんにもな
らないと思うんです。やろうと思っても出来ないんだから。私などもしやろうとすれば、もう奇想
天外のことをやります。今の政治家が考えていることなんかと、全然違ったことをやりますよ。だ
から出来ないと思うんですよ。
大体、国民に内緒でやるようなことばっかりやっているでしょう。政治というのは、まことの政
治じゃないんです。何故まことの政治にならないかというと、神さまとちっともつながってないん
です。岸信介さんじゃないけれど、ともかく票を得たければ、創価学会でもなんでも行くんじゃな
いですか。創価学会がいいと思って行くのなら結構だよ。ああこんないい教えはない、これを信仰
しよう、それで行くなら結構です。これは信者なんだから。そうじゃないんだよね。もし藤になっ
て反対されたら大変だ、自民党がひっくり返っちゃう、だから票をとるために創価学会でもなんで
も行く、というわけでしょう。
なんでもいいから、人数のあるやつと手をつなごう、でしょう。だから今の代議士の人はみな大
きな団体と手をつなごうと思っています。宗教団体をみんな狙っています。私なんかまだ幸い、そ
んなに大きくなっていないからね。まじめにやっているから、なかなかそうそう簡単にふえないで
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すよ。(笑) まじめすぎちゃって面白くない。雑誌にも出ません。新聞にも新聞記者が来ても出さ
ないですよ。世界平和の祈り一本でしょう。新聞にものりませんよ。従ってそういう人たちにそう
ひびいていない。だから手を握ってくる人は少ない。少ないのは幸いです。ただ利益だけで来られ
ちゃ困るんです。
これからの世界というのは、そういうもんじゃ絶対ダメなんです。神さまがじかに出て来て、神
がやる政治なんですよ。神さまの声が聞こえて、神の意味がわかって、神さまのみ心がわかった人
たちが輪になってやる政治が出来るんですよ、必ず日本は日本で出来ます。アメリカはアメリカで
出来ます。イギリスはイギリスで出来ます。そして輪と輪が結ばれて大きな輪になってやる、地球
政治が出来るんですよ。
*註1 谷梅安(たにうめやす)、故人。治療師で本会講師だった。
27 呼べばこたえて救ってくれる

28
神さまが保証する
昭和3年6月7日
宗教は実証でなければならない
宗教というものはただ単なるお説教というんじゃなくて、実証でなければならないんですね。例
えば私なら私が浄めた人は、必ず亡くなる場合でも楽に霊界へ、いい顔して逝かれる、ということ
を私が言明したとしますね。そうするとその言明が実際に現われなければ、なんにもならないんで
すね。ところが、私が今まで浄めた人で、或いは写真だけで浄めた人でも、苦しんで死んだ人は一
人もないんですよ。亡くなる場合でも、皆楽に、顔が本当に笑みこぼれるような「いい顔」して亡
くなるんです。
私の家内の姉が原爆病だったんですね。原爆が落ちたあとすぐ広島に帰って、水道の水を飲んだ
んですよ。ずっとわからなかったけれど、四、五年ぐらい前から少しお腹が痛み出して、だんだん
お腹がはれて来たんです。肝硬変という病名をつけられたんですが、私が観た場合にはもう原爆病
なんですね。それで私と一緒に住んだほうがいいと思って、私のところによんで一緒に住んだわけ
ひとつき
なんです。お医者さんはもう一月とは持たない、もうじき亡くなる、もう二、三日だというんです。
ところが二、三日二、三日で四年延びちゃった。ちゃんと起きてご飯食べたり、わりと痛みがなく
て、お腹だけはふくらみますので、水をぬく。またお腹がふくらむ、また水をぬくというようにし
ていたんだけれども、そんなに苦しまなくて四年ぐらい生きたわけです。
つい二、三日前に亡くなって、今日お葬式だったんです。けれど私はこういう会がありますから
出るわけにはいかない、それで横関さんに代わって午前中やってもらった、ソーッとやったんです。
それで済ましたんだけれども、このお姉さんという人は信仰家じゃないんです。神さまって一つも
たぐ
思っているわけじゃない。神さまにすがるのは恥ずかしいような類いの人です。よくあるんですよ。
神さまを否定しているわけではないけれども、唯物論者じゃないけれども、神さまに病気を治して
もらうことを願ったり、何かお願いしたりすることは恥ずかしくて、神さまなんて呼べない人があ
るんですよ。そういう類いの人なんです。人間はとてもいい、誠実な人なんだけれども、神さまに
29 神さまが保証する
すがって奇蹟があることを知らないんです。奇蹟というものを絶対信じない人なんです。
誠実さは買われるけれども、神さまを全然知らないんだから、ふつうではそんなに楽な往生をす
るわけがないんですよ。ところが私の所にいまして、それで亡くなったんだけれども、死顔がとっ
ぺに
ても安らかで、お化粧しないのに紅をさしたように顔がとってもいい、ニコッとしたような顔で、
本当はやせちゃったんですから、ガリガリの顔をして死ななきゃならないんだけど、もういい顔を
して亡くなっているんです。それで私が観ますとね、その霊魂は霊界のかなりいいところへ行って
いるんです。肉体界の他に地獄があります、幽界があります、それから霊界神界とあるんだけれど
も、唯物論に近い人だから、ふつうでいけば幽界の下のほうより上へはいかないわけなんです。そ
れが霊界の相当いい所へ行ったんですよ。それが形に現われて、顔がニコッとしたような、本当に
きれいな顔で亡くなってるんです。
そういうふうに浄めてありますと、現象の心で自分が信じようと信じまいと、ゆくべき所へちゃ
んとゆく、いい所へゆくという証拠になった。私は本当は心配していたんです。亡くなってから迷っ
ちゃしようがない。迷わないだけはしてあげよう、寿命がないのは十年前からわかってました。一
番初めにその姉に会った時に、四十八才までもたないそこの人は、と家内に話したことがある。向30
こうは別に病気じゃない、ピンピンしているんですよ。それを私は忘れていたんですよね。そうし
たら家内が近頃になって「姉さんは危ない、もうダメかしら。あなたが今でも憶えているけれども、
この人は四十八才までもたないそ、四十八才が止まりだよ、ってそういったけれども本当かしら? 」
「さてそんなこといったかな」というわけでしたが、ところが本当に四十八才で死んじゃった。し
かしその時観たその人の霊魂の高さと、私と一緒になって亡くなった高さとでは、まるっきり違う。
雲泥万里の相違なのですよ。それで私はそんな高い所へ行かないかな、と思って心配していたんで
す。生き死にのことなんてどうでもいいと思ったんです。ただいい所へやってやりたい、どうかい
い所へいきますように、と祈っていたんです。それでちょこちょこ浄めていたんです。そうしまし
たら、雲泥万里の差の所ヘニコニコ笑っていった。さっき横関さんがお葬式から帰って来たら、一
緒について来て、ニッコリ笑って有難うとお礼をいっているんですね。今になってやっと本当の私
がわかったわけ。それで喜んでるんです。
そういうふうに浄めてあるということは、非常に素晴らしいことなんです。
31 神さまが保証する
西洋医学と東洋医学
32
浄化している人間の業想念が毒素になって体にたまります。それが現われて消えようとするのが
病気なんです。病気の症状なんです。それを西洋医学では、注射を打ったり、薬をのましたりして、
おさ
毒素をいっぺん抑えるんです。そして出さないようにする。だから痛みも止まります。それで一時
よくなる。けれどもそれは根本的に治ったんじゃなくて、現われた症状を抑えただけなんです。奥
へひっこめるわけです。
たとえば宗教でいえば、怒っちゃいけない、お前は怒るからいけないんだ、というわけで抑えま
す。怒るまいくと忍耐して怒らないーそれも一つのいいことであるんですよ。しかしたまりた
ま ると、今度は爆発するでしょう。それと同じように西洋医学というのは注射、薬で抑えます。そ
れも愛で抑えるんだから悪いっていうんじゃないですよ。一つの方法なんだからね。私は悪いと思
うわけじゃないんです。
東洋医学というのは、食物を調節したり、いろんな方法を教えるのですが、それは抑えるんじゃ
なくて、なんていいますか、足りないものを補って調和させたりする。中のバランスをとる方法な
んですよ。身体の機構のバランスをとる、働きのバランスをとるようにして、調和をとるようにし
て、薬も飲ませれば、食物療法もするわけです。西洋医学の場合はバランスもとるけれども、大体
が抑える形でやるわけなんです。それが西洋医学と東洋医学の違いなんです。どっちも特長がある、
要するに長所もあれば短所もあるわけです。
大体、霊治療をする人たちは、医者は絶対いかん、薬毒だっていう。観音教じゃないけど、お医
者にかかるとまるで医者を敵のようにして、医者にかかるならみてやらん、てなことをいって脅す
んですね。薬をのむからお前の病気は治らなかった、薬をのんでるから毒素がますますふえてお前
は悪くなった、こういうわけなんだけどね。一端としてはそういうこともいえることはいえるんで
すよ。けれど苦しんでいて、ガンならガンで苦しんで、あ、痛い痛いといってる時に、痛みを止め
てやりたいのはやっぱり人間の愛ですね。そういう場合、モルヒネなんかを打って痛みを止めてや
るということも一つの愛でしょうね。ウァー痛い、といっているのに、自分の子供や妻や良人がやっ
ているのに、あ\痛みは消えてゆくんだ、放っておけば消える、消える姿く、(笑) なんていえ
ないでしょう。
消える姿ならまだいいですよ。生長の家式に、病気はない、肉体はない、無い無いくなんていっ
33 神さまが保証する
ちゃいられませんよね。そういう時には、応急手当として注射を打って痛みを止めたりするのが愛
情でしょうね。ところが観音教なんかでは、それではいけない、というんです。薬毒がふえて、ま
すます体が悪くなる、というんです。全然でたらめではない、一理あるけれども、そういういい方
は病人をいじめることになるんです。痛い時には痛みを止めてやりたい、これが愛情です。人間の
愛の心のいろいろな形が、西洋医学にもなり東洋医学にもなり、宗教の治療にもなり、いろいろな
形で現われているんだから、やたらにお医者さんをけなしたりすることはいけないんです。
それで医者にかかっていいでしょうか、ときかれる時は、あなたがかかりたいならかかりなさい、
かかりたくないのならお止めなさい、といってます。実は手術したいんですが、という時は、私は
手術というのはあまり好まないんです。何故かというと、あるものを切りさばいて取ってしまうこ
とは、本当のことじゃないから。しかし時と場合によっちゃ、いいでしょう、というんです。盲腸
の場合なんかそうです。本来からいえば、肉体が皮かぶってちゃんとしているんですから、中にあ
るものは必要だからある。どんなものでもいらなくなればなくなるものなんだから、あるものを皮
をさいて、切りとってという形は進歩的なやり方じゃなくて、退歩的なやり方だと私は思うんです
よね。思うんだけれども、盲腸で痛いく、どうにもこうにも我慢がならない場合、それでも我慢
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しておけ、というわけにはゆきませんよね。
人間の自由意思を尊重する
だから一概に、これはいけない、あれはいけない、と医者や薬を否定することはいけないと思う
んです。それで私は幹事心得に”医薬をみだりにけなさぬこと”と書いてあるんです。けなしがち
なんです。何故かというと、自分が宗教的になってる人は、お医者さんにかからなくとも治ります
わね。神さま! といってお祈りしておりますと、治るんですよ。その為に、人にも自分と同じ心
境でない人にまで、やっぱりそれを強いるんです。それは強制ということになって、神さまのみ心
にかなわないんですよ。神さまは強いることを好まない。人間の生きるまま、己れの生きる道をそ
のまま生かしながら、知らないうちに業を消して行こう、こういうのが神さまのいき方なんです。
その為に守護霊や守護神をつかわして、うしろからうまく調節しているんですね。そういう生き方
を神さまはさせているわけなんです。
私の会には西洋医学の方もみえれば、東洋医学の方もみえれば、治療師の人もいらっしゃれば、
宗教家もたくさんいらっしゃるんですね。そういう方々が各々その道をやりながら、その道がもっ
35 神さまが保証する
とも効果あるようにやっていきたい、と私は思うんです。それでうしろから、じっとその人達の成
功を祈っているわけなんです。ところが今まではそうじゃなくて、自分がやっていること以外はけ
なすんですよ。自分のところへ入らなければ罰が当たるでしょう。入って出りゃなお罰が当たる。
そのうち罰が会長に当たっちゃって会長が死んじゃったりして。あのように人に強制し、人を強引
に自分に従わせようとすることは、神のみ心にかなわない。
もし神さまが強制的にやって皆を従わせていいものなら、悪人と思われるやつはみな殺しちゃい
ますよね。神さまは絶対の力、無限の力なんだから、強制していいもんなら、エイッと気合いをか
けたら、悪人はバッとみななくなって、善人だけ残る。そういうことになるでしょう。ところがそ
ういうようにはしませんね。何故しないかというと、人間の自由意志というものを尊重しているん
です。ですから立派な宗教になればなる程、人の意志を尊重して、人に強制したり、強引にすすあ
たりしないんです。一

どんないい教えでも、どんないいことでも、強制をして、無理強いにやらせるようなことは私は
好まない。何故好まないかというと、人間の意志は自由なんだからね。それを家庭にも持っていか
ないといけませんね。良人が妻の自由を縛ったり、すべての自由を縛ってはいけない。但し、自由
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を縛るのと、業をそのまま野放しにしておくこととは違うのですよ。業があって、たとえば子供が、
そこに川があるのを知らないで、どんどん歩いていって、川のふちに行っちゃって、今にも落ちそ
うになったら、バッとぶんなぐっても引っ張り戻して助けなきゃならない場合もありますね。身投
げをしようとするのに、あ、自由にまかせて、(笑)あっとびこんだア(笑)なんて、ただ見てい
るわけにいかないでしょう。それは人間の愛だからね。自由を縛ることと、向こうの業をうまく消
してやることとはまた別なんです。わかりますね。
私のやり方は、すべて向こうの自由意志を縛るんじゃなくて、自由意志をそのままにさせながら、
業だけをきれいに消してゆく方法をとっているんです。だから私は一人一人に説教なんかあまりし
ません。個人面接した場合に「あなたの心はこうだから、こう直しなさい」とか「あなたはこうだ
からこ〜なさい」なんていわないんで喬故いわないかとい重、そうい書萎圏ダメ
なんです。なぜダメかというと、業がグルグルく廻っているんだから、録音機にふきこんだ声の
ように、グルグル廻っていって、いやでも応でも廻るんです。あっ、しまった/ と思ったっていっ
ちゃいます。今、いった言葉がみなテープレコーダーの中に入ってますよ。録音されているんです
からね。私はそんなことをいったおぼえはない、といったって「先生、これです」って聞かされた
37 神さまが保証する
らしようがないでしょう。
38
業が消えて光明が録音される生き方
おさ
それと同じように、録音がグルグル廻っていて出てくるんだから、これを抑えていわせまい、と
したって無理なんです。やらせまいとしたって無理なんです。それは消えてゆく姿として現われる
んだからね。ただ現われた場合に、悪いことはそのまままた悪になって現われると思うかーたと
えば”しまった/ ” と思いますね、あいつ恨んじゃった、しまった! とこう思う。その時、しまっ
た、ばかりをつづけていって、それで消えてゆく姿を知らなければ、それは録音機にまたふきこま
れるんです。いけないという想いがふきこまれて、折角出て来たのにまた違う形になって悪がふき
こまれるわけなんです。
わけみたま
私の場合はそうじゃなくて、人間というものは神さまの分霊であって、神の子なんだから、本来
悪があるわけがない。本来不幸のあるわけがない。本来病のあるわけがないんだ。それが病が現わ
れているのは、不幸が現われているのは、自分の悪い想念が現われるのは、神さまである人間とい
うものを忘れてしまった、過去世の想いが業になって現われて病気になったり、不幸になったり、
かんしやく
痴癩になったり、妬みになったり、恨みになったりして、それで現われて消えてゆくんだーとい
うんですよ。
あ\消えてゆくんだって、見ていられればいい。平気な顔して鼻唄で消えてゆく姿を見られれば
いいんです、本当は。ところがそうはいかないでしょう。把われますわね。そこでその把われそう
になる想い、いやになる想い、あ、悪い自分だ、なんて悪い自分だろう。あるいは、あいつは悪い
奴だと想う。そういう想いを思った時に、神さまのほうに持っていっちゃう。あ、守護霊さん守護
神さん有難うございます、とか”世界人類が平和でありますように”というように、善のほうに、
光明のほうに持っていっちゃうんですね。禍を転じて福となすんです。だから消えてゆく姿という
のがなければ、この世の中はもう暗黒です。
グルグル〈録音が廻っていて、廻りっぱなしでこの世の中はいつまでもよくならないんですね。
立派にならない。ところが消えてゆく姿といって、あ\ これは消えてゆくんだというと、スーッと
向こうのほうへ流れていってしまう。呼び戻さないからスッと流れて行っちゃう。それで神さまの
ほうへ持ってゆく。世界平和の祈りのほうへ持ってゆくから、そのままどんどん業は消えてゆく。
片一方では神さまの光が入って来て光明が録音される。だから善悪が反対になっちゃうわけですね。
39 神さまが保証する
禍い転じて福となる。転禍為福で、パッパッとひっくり返ってゆく。40
悪いものが出た時、悪い想いが出た時、不幸が出た時、もうそれはすでにいいものが入っていて、
本当の姿が現われてくる。光が出てくる。いいかえれば悪といい、不幸といい、病気といい、妬み
といい、恨みといい、怒りといい、そういう業想念は神さまの光が追い出しているわけなんですよ。
追い出されて外へ外へ潜在意識から先へ追い出されて、表面意識へ現われ、行為となって現われて
ゆくわけ。現わすものは何かというと、神さまの光なんですよ。神さまの光がグングン追い出しちゃ
うわけ。追い出されて消えてゆくんです。
それをまたつかんで、こっちへ引き戻そうとするのが普通の人間のやり方なんです。昔の修養と
いうのはそういうんです。みんないちいち反省する。反省は結構で、反省がなくちゃ困る。悔改め
をする、それも結構だ。省みることは結構なんだけれども、かえりみすぎちゃって、知らないうち
に業の中へ入っちゃうんですよ。自分は悪いものだ悪いものだに入ってゆく。人間というものはダ
メなものだ、ダメなものだに入ってゆく。それは本心というものと業想念というものとの区別がつ
いてないからですよ。
わけみたま
本心は神の子である、神の分霊であって、光明燦然としているものである、ということがわから
こんこう
ないんです。わからない為に、それは善悪混清していますよ。人間はこの世界があまりよくありま
せんから、堕落する人が多いし、自分勝手なことばかりする人が多いから、人間は悪いものだとい
う性悪説が生まれたんですね。それで人間はダメだくと思う。ダメだくといっているうちはダ
メなんです。ダメなものは何かというと、それは神さまを離れた人間の想いなんですね。神さまを
離れている想いはダメなんです。神さまにくっついている想いは、神さまと一つになっている想い
は”愛” なんですよ。何故なれば神は唯一神なんです。一つなんです。それで守護神とし守護霊と
わけみたま
して、あるいは分霊としては何十億に分れているわけです。
人間、元をただせば一つ
元をただせば一つの神さまの中にあるわけですよ。人間というものは分かれているけれども、実
は元は一つなんです。日本人もそうだ、アメリカ人もそうだ、イギリス人もそうだ、ロシヤ人もそ
うだ、みんな元は一つなんですよ。現われとしては二十何億に現われているんです。肉体だけでも
二十何億に現われている、幽界にも何十億ある、霊界にも何十億ある。そのように神さまの光が分
かれている。神さまの光が分かれているのがわからないで、地上の肉体の世界ばかりみている人達
41 神さまが保証する
が、神さまを離れてしまい、神さまである人間を忘れてしまって、業想念をつくったんですよ。そ
れで今の姿になって、分かれ分かれになって、あなたと私は別なんだ、向こうとこっちは別なんだ
というふうに、全然別個に考えた。いわゆる相対的に物を考えた。
相対的というのは現われの世界だけであって、霊の世界、魂の世界においては相対ではなくて、
絶対なんです。絶対のところから出ている光なのです。太陽から光線が出てますね。太陽から出て
いる光線をみて、あ\光線は別々だとは思わないです。その光線が人間なのです。人間は神の子の
人間なのです。それを神というものを忘れて、人間という言葉になってしまった。ふつうでいうの
は肉体人間のことをいうんですね、それで私は白光誌に書いているのも、いちいち肉体人間と書い
ています。わざわざ人間と書かないで肉体人間肉体人間と書いているんです。何故、肉体人間と書
いているかというと、肉体人間というのと霊の人間は違うからですよ。
肉体人間というのは物質なんです。霊の人間というのは霊妙不可思議な、物質を超えたひびきな
んです。光なんです。要するに光体といって、光の体なんですね。それがわからないと、いつまで
たっても人間はよくならない。

皆さんがこのようにいらっしゃって、年中私と話をしたり、それから浄められたりしてますね。
42
そうしますと、いつの間にか体が肉体から霊体に化してゆくんです。
柏手のすごさ
*註2
本当をいうと、頭が馬鹿でない限り、この柏手を聞いてこれをただの音と思う人はどうかしてい
るんですよ。物理科学的に考えて、私が打つ柏手が物の音であるか、霊的なひびきであるか、もう
はっきりわかる。わからないということは、業が深いという意味なんですね。この柏手のこういう
音(パンパンパンと柏手を打たれる) が、物の音か霊から来る音かははっきりわかります。何故か
といったら、両手をひろげる幅がこれくらいでしょう(十センチくらい)。物理的に力学的に考え
て、このぐらいの幅で、これだけの手で、これだけの力が出るわけがない。力の入れようがないで
しょう。このぐらいでもってあれだけの力が出るということは、手自体が動いて力を入れてるとい
う意味じゃないんです。
ちっとも力が入ってない、まるでだらりとしているんです。手もつっぱってないんです。(パン
パンパンパンと打たれる) ホラなんでもない。こないだも浅草橋でやったんです。この音を出して
ごらんなさいっていったら、船戸さん一所懸命やったら、ペシャペシャ、(笑) 見本をみせてくれ
43 神さまが保証する
たですね。誰でも真似してやってごらんなさい。神さまが働かない以上はこういう音は出ないんで
りき
す。力んでいない。私なんにもしてない。力なんかまるっきり入れてない。力を入れているとした
ら、一日に三百人も朝から晩までこれやってたら、手がちぎれちゃいますよ。
これはどこから来るかというと、いわゆる光体から、太陽のような元の光から流れて入ってくる。
私は年中、統一しているんですが、統一すると光が流れて来て、入って来て自然に手が動くのです。
それでエイッとやると光が向こうへ流れてゆく。光が通って行く瞬間にこちらが動くだけだ。だか
ら息ばる必要なんか何もない。自然に私の体を通ってゆくだけですからね。
皆さんの体からも光が出ているんです。何故光が出ているかというと、皆さんの本体も光体なん
です。光の体、頭の光っている人は随分あるけれど、あれはとくとう、(笑)特別だからね、あれ
は。(笑)光の体があって、そこから流れて来る。いいかえれば、細かい微妙なる波、光の速度よ
りもっとはやい速度で流れているものが、肉体界の粗い波の中に入って行くんです。そしてスッと
向こうへ入ってゆく。何故、そのままじかに光から光へ伝わらないかというと、肉体がないと向こ
きき
うの肉体へ通すことが出来ないんです。出来るけれど効めが少ないんです。そこで肉体の粗い波を
いっぺん通って、それで向こうの中へ入ってゆくんです。この肉体はパイプのようなものです。光44
がパイプを通って、向こうのパイプへ入って行くわけです。パイプで皆つながっているからね。そ
ういう為に私のこの肉体があるんです。
ところが肉体に見えるけれども、これは本当は肉体じゃないんです。霊体なんです。霊能者が見
れば私が見えやしない。ひびきがここにない。ひびきをなくそうとしたらなくなっちゃう。なんに
もない。皆さんもそうですよ。統一という行がありますね。統一というのは、自分の肉体というも
のをなくしちゃうことなんですよ。統一すると肉体がなくなるんです。どうしてなくなるかという
と、肉体が出している波動が消えちゃうんです。霊波動に還元しちゃって細かいひびきになっちゃ
うんですよ。肉体そのままで細かいひびきになってしまうと、姿が消えちゃうんです。
十時と三時に集団の祈りをやってます。本部道場ではその時、私は二階にいまして柏手を打つん

です。その時の柏手の音というのはものすごいんです。ふだんの数十倍のすごいひびきなんです。す

これを長くやってますと、体が消えてなくなりそうなんです。それであんまり長くやらないんです。カ

私ネ、なくなると思えば十時三時にやるような柏手をパンパン叩いているうちに、消えちゃうかも越

しれないです。そのくらいに光の波というものはすごいです。
45

46
物質も想いもすべて波動
肉体的人間というものより、霊的人間のほうが非常に感受性が強くなる。運命の危険などもさけ
ることが出来るようになる。守護霊守護神の注意がすみやかにわかるんです。自然にパッとさけら
れるように、危機というものを避ける力が強くなる。たとえば放射能があります。放射能の波とい
うのはやはり物質の波ですから、そういう放射能を受けても、あまり感じなくなるとかね。要する
に住んでいる次元が違って来るわけです。三界の肉体世界にいながらも、自分の住んでいる世界は
霊界になっちゃうわけです。そういう人がたくさん出れば、不幸がそれだけなくなるんです。
人間は物質である、と思っている想いは消えませんね。皆誰でも人間というものは肉体だと思っ
ているんですよ。いくら私の話を聞いても、相当長い期間つめこんで聞かされないと、肉体は物質
だと思ってます。人間は物質だと思ってます。そういう観念はなかなか消えるもんじゃないですよ。
お腹が痛い、なんかなりゃしないか、瞬間的にそう思うんですよ。頭が痛い、あ、病気と思います。
ところが私どもの世界では、頭が痛くたって、お腹が痛くたって、別に病気だと思うことはないで
す。波がかかって来て消える姿だと思っているんです。

私はみんな波だと思ってるんですよ。現われはすべて波だと思っている。波動説ですよ。科学で
も今は波動説でしょう。汚れた波とか光の波とかある。光の波の中に入っていれば、汚れた波に感
染しないから、自分は病気にもならない。たとえ病気になったとしても、すぐ消えてしまう。すぐ
治ってしまう、そういうことになるわけですね。私が朝からお浄めをして、これだけの労働です。

「先生、大変ですね、お疲れになりますでしょう」と皆聞きます。ふつうだったら疲れ果てます。
けれど大して疲れてはいませんね。若干は疲れます。しかし大して疲れちゃいません。三百人やろ
うが五百人やろうが、一万人やろうが同じです。ただ時間がないから出来ないだけですよ。そんな

に疲れはしません。疲れるというのは物質の波動なんです。その波を超えていましょう。だからい
くら物質の波がぶつかって来ても、スッと光の波の中に入る。降りちゃ上り、降りちゃ上りしてい
るわけです。
ということは、物質の波、肉体の波の中にいながら、いつでも光の波の中にいるわけです。だか
ら皆さんも「人間というものは光なんだ、太陽と同じような光なんだ」ということをいつも頭の中
に思わなければいけない。「太陽のような光なんだ、それは神さまなんだ」光が小さいか大きいか
は別ですよ、それは別として、自分は光の体なんだ、だからお腹が痛もうと、頭が痛もうと、どこ
47 神さまが保証する

が痛もうと、痛んだということは、
分の本体はいつも光なんですよ。
病気ということは、過去世の因縁が消えてゆく姿なんです。自48
今つくったのではないから責めなさんな
さっきもある人が「自分の心がまだ足りないから、こうなるあ\なる」とおっしゃるから「それ
は違う」というのね。自分が悪いからこうなった、あ、なったじゃないんです。ところがふつうの
宗教では”あなたが悪いからこうなった” “お母さんが悪いから子供がこうなった” “良人が悪いか
ら妻がこうなった”というんだけれども、それは嘘なんです。悪いものは皆消えてゆく姿、今のそ
の人が悪いわけじゃないんですよね。今現われてる不幸というものは、今現われてる悪い想いの要
するに感情がありますね、怒りの想いでも不安の想いでも、それは今つくったんじゃないです。間
違えちゃいけないですね。
たとえば米を食べている。そのお米は去年作った米ですよね、それを食べているわけ。今作って
今食べるわけじゃないですね。人間の口に入る時には、自分の目の前に現われる時には、もう過去
のものが現われる。それと同じように、人間の想いというものは、今現われてる想い、今現われて
る環境というものは、今つくったもんじゃなくて、過去世の因縁が現われて、過去世の想いの波が
今ここに現われてその人の環境になっているんです。だから今現われている環境を、とやかくいっ
たってはじまらないでしょう。食べちゃったものを、お前こんなもの食べちゃって、といったって
あとは出るだけの話ですよ。食べたものは出る。これは原則なんです。やったことは必ず自分に帰っ

てくる。これは原則です。だから今の喜びとか今の悲しみとか、今の想いとかいうものは、今ある
ように見えるけれども、それは消えてゆく姿としてこの世に現われただけであって、今つくったん
じゃないんです。いいですか、それをよく頭にしみこませて下さい。
今つくったのであれば、その人を責めることが出来ます。お前が悪いんだって。ところが今つくっ
たんじゃなくって、過去において行なった想いが、お互いの想いがそこでぶつかって喧嘩になり、
争いになるんです。だから争った場合、或いはいじめられた場合、こっちは全然悪くなくても、い
じめられたり何か悪口をいわれたりします。しかしそれは今、この人が悪口をいったように見える
けれども、それはこちらの悪口をいわれているほうが、過去世においていじめた波が今帰っ藻て、

向こうから移って来て自分に帰って来ているところなんです。それでいじめられるんですよ。だか
ら今のその人が悪いわけじゃなく、今のこのいじめられている人が悪いわけでもない。それは神さ
49 神さまが保証する

まを離れたお互いの想いが、そこでぶつかって消えてゆく姿なんですよ。わかりますね。そういう
のが本当の宗教というんですよ。
人間は神の子なんです。みんな神さまなんです。神代から始まっているんだから、その神代のこ
とを説くのが日本神道です。人間は神だ、神の子なんだ、というのは初めっから日本ではそういっ
ているわけなんです。それが今改めてハッキリ説かれているんです。だから私の話していることな
どは、神道らしく話さないけれど、神道なのです。法華経をこえて神道なんです。それをやさしく
説いているんです。
人間は神の子なんだ、光明燦然としているもんだ、悪は無いんだ、なんていったらば、お前の心
は悪い、心の影だよ、なんて心の法則は一切いらないんです。それがあったら人間は神の子でなく
なって、悪魔の子に下がってゆくのですよ。生長の家ばかりではありません、どの宗教もそうです。
お前は神の子なんだ、光明燦然としているんだ、と教えていながら、お前が悪い、というんです。
お前が悪いというのは一切いらないんです。お前が悪く見えるのも、私が悪く見えるのも、すべて
みかた
みんな過去世の因縁が現われ、消えてゆく姿で、その人その人は悪くないんだ、という観方をしま
せんと、本当の人間世界は幸福になりません。
50
私たちの生き方
悪をみつめて、悪をいつまでも把えているような、消えてゆく姿と思わないで把えているように
なれば、アメリカが悪い、ソビエトが悪いでしょう。日本も悪けりゃ中国も悪い、悪いもんだらけ
ですよ、この世の中は。この世の中でいいものはありません。
この間もある宗教家大教祖が、軍備がないから竹島なんかとられて、韓国に馬鹿にされるんだ、
軍備というものは国を守る権威であって、軍備がそのまま戦争と直結することはない、というよう
な説をといているんですね。私はそれはおかしいと思うんだ。もし韓国が日本にせめて来て竹島を
とったり、文句をいった時に、こちらに軍備があったら、戦争になるだろうと思う。日本はおそら
く黙ってはいないだろう。こん畜生何お/ パンパンとやる。向こうも負けちゃいない。飛行機がと
んで来て爆撃したりして、それこそ大戦争の口火になるかもしれない。だから軍備云々ということ
はわからないことでしょう、どっちがどっちだか。それを自分だけの考え方をして、軍備があった
らば、もっと強かったらば、韓国に馬鹿にされないんだという言い方は、非常に危険だと思うので
す。その反対の場合があるかもしれないじゃないですかね。
51 神さまが保証する
ノ㌧
日本人は短気なんだから、自分のほうが強いと思えば、こん畜生って攻めて行きますよ。そうなっ
たらば、日本は原子爆弾にやられて無一物になって、折角平和憲法が出来て、本当の日本、平和日
本が出来るという、世界の中心になる日本が出来るという、その瀬戸際になって、またまた再び軍
備をして、韓国と戦争してですよ、それで世界戦争の危機を、きれいになった日本から発生させる
必要はないでしょう。
言葉というものは、この世の言葉はいくらでも反対がいえるんです。社会党なら社会党の言い分
がありましょう。自民党は自民党で言い分がありましょう。そういう相対的な考え方、悪を認めて
いる考えは、どうにでも言葉が出るんです。やってみなきゃわからないんだからね。やってみて原
爆が落っこちて、みんなやられたらそれでおしまいでしょう。
ソビエトは原爆や水爆を持っています。ミサイルを持っています。日本などいっぺんにつぶせる
ような力を持っています。日本が再軍備すれば面倒だといって、日本をつぶすかもしれない。いざ
戦争となって、アメリカの片腕である日本をいっぺんつぶして、それから行くかもしれない。そう
いう考え方もあるでしょ。それとは逆に、軍備がないから馬鹿にされて、無血上陸しちゃってソビ
エトがどんどん入って来て、日本を共産革命にさせるかもしれないということもある。どっちも無
52
いといえません。
このように相対的な肉体的な考え方、この世的な考え方をしておりますと、どっちにしていいか
わからないんですよ。実際、軍備をしたほうがいいんだか、しないほうがいいんだか、どっちがどっ
ちだかさっぱりわからない。それは相対的な考え方なんです。
それで私どもはどうすればいいかというと、どうすれば日本を一番よくするか、また自分達の幸
福をつくれるかというと、相対的な見方、アメリカは味方でソビエトは敵だ、どこどこが味方でど
こどこが敵だという考え方じゃなくって、そういう敵なんてないんです。敵なんて思う想いも消え
ため
てゆく姿、敵のように現われているのも消えてゆく姿。アメリカがもし日本の不為なら、不為なと
ころは消えてゆく姿、ソビエトが世界の不為であるなれば、その不為なところは消えてゆく姿、中
国が不為であるなら不為なところは消えてゆく姿。みんな神さまの必要があって出来ているんです
よ。神さまの必要が全然なくて出来ているなんてことは無いんだから。みんな神さまが創ったんだ
からね。それでなかったら神さまと悪魔が対立して、いつまでたっても人間の世界はよくならない
んですよね。
ところが実際は、地上天国が出来る、という大予言があるんですね。出来るんではなく、私ども
53 神さまが保証する
の目では出来ている。出来ているのをこの地上界に現わすのは、肉体人間の役目なんです。ところ
が肉体にいるこの人間たちが、アメリカはいい、ソビエトは悪い、日本の政府は悪い、共産党は悪
い、社会党は悪いといって悪い悪いづくめで、ただ息まいているだけじゃダメなんです。軍備をし
なかったから韓国に馬鹿にされたんだ、という考え方もあることはあるんですよ。軍備をしようと
するからソビエトや中国がねらうんだ、という考えもある。どうにでも考えられる。やってみなきゃ
ちよう
わからないことを、いかにも自分の説がいいように喋々としていうのはおかしい。まして宗教家が
軍備を持てく、なんていうのは実におかしい、けしからん。同じ人が、戦争に負け平和憲法が出
来た時には、これは神さまがアメリカをして作らしめた憲法であって、これこそ神の作られた平和
憲法だ、といった。それが今度はひっくりがえって、今頃になると、あれはアメリカによって作ら
れた間違った憲法である、だから憲法を改正しなければならない、というようにいうんですね。そ
ういうことはいいたい放題、責任ないやね、一寸も。
54
神さまのみ心の中に入る
そういう現象的な憲法がどうだの、軍備がどうだの、そんなことは私の知ったことじゃない。皆
さんのやっていることはそういうことじゃないんですね。そんなことをいってもどうにもならない。
たいせい
実際には、どういおうとこういおうと、大勢でずっと動いているんです。大勢で動いていることを、
これはいけないとか、あれはいけないというのは、たとえば、怒りが出て来た時に、お前は怒っちゃ
いけない、妬みが出た時にお前妬んじゃいけない、恨みが出た時に恨んじゃいけない、というのと
同じ。そんなことはわかっている。恨んじゃいけないことはわかっている。妬んでいけないことは
わかっている、怒っていけないことはわかっている。わかっているけれども、どうにもしようのな
いものが業というんです。
どうにもしようがなくて動いている、要するに録音機が廻っているように動いている。これをい
けないとか、いいとかいうのはもう遅い。そんな時代じゃないんですね。いけないも、’いいもない
んだ。出たら消えてゆく姿、あ、それは消えてゆく、本当の神の姿じゃないんだから、人間は神の
まこと
子なんだから、神のみ心から離れたもの、愛から離れたもの、真から離れたもの、善から離れたも
の、美から離れたものーそういう想いは全部消えてゆく姿、徹頭徹尾消えてゆく姿、あるものは
何かというと、神さまのみ心だけなんです。
神さまのみ心はどういうふうに現われているかというと、世界人類が平和でありますように、本
55 神さまが保証する

当の日本の姿が現われますように、一人一人の人間の天命が完うされますように、ということです。
そのみ心をこちらが受ける時には、あ、守護霊さん有難うございます、守護神さん有難うございま
す、神さま有難うございます、という御礼とともに、世界平和の祈りに入ってゆくんですね、そう
すると自分の想いが業想念の中から抜け出して、神さまのみ心の中に入っているわけ。
軍備がどうの何がどうの、そんなことじゃないですよ。そういうことは末梢的なこと、いっても
いわなくても同じこと。何故同じことかというと、業というのはグルグルく廻っているんで、軍
備をするならするようになっているし、それは動いて押えようがないんですよ。日本がいくらなん
だかんだって叫んだって、日本は今アメリカの力に押されてる。自衛隊をつくるまいつくるまいと
いったって、アメリカがつくれといえばどうしてもつくらなきゃならない立場に置かれている。ミ
サイル基地がいらないといったって、いるといったってアメリカのほうでつくれ、といえばつくら
なきゃならない立場に置かれている。日本は一人で今立っていけはしないんです。外国の力を借り
なければ、日本は独立出来ていないんです。そういう日本人の立場というものは、現象的に見れば
実に哀れなものなんですよ。その哀れな立場でいつまでも哀れな顔をして、ただアメリカはダメだ、
ソビエトはダメだなんて、犬の遠吠えのように吠えていたって、そんなものはなんにもならない。
56
救世主は断言している
そういうものは業の日本の姿であって、本当の霊の国、日本の姿じゃないんです。霊の国、日本
の姿というのはどういうことかというと、徹頭徹尾平和の祈りですよ。ただ一つ、平和の祈りです。
平和の祈りをしながら、もし亡びるものならば、神も仏もないんだから亡びたらいいんですよ。生
きているだけ無駄です。悪魔の世界なんだから、それは。平和を祈りながら、心から平和を念じな
がら、それで亡びるということは絶対無いんです。何故無いかというと、平和の祈りをしろ、と教
えているのは大神さまなんです。大神さまの働きとしての救世主が、
「平和の祈りをしろ、それだけしかないんだ。お前たち人間の想い、業想念の想いから平和の祈

り一本に持って行け。職業も日常生活もすべて、世界平和の祈りの中から始めよ、そうすれば日本す

が世界の平和の真の中心になれるんだ。それが日本に課せられたる使命である。そうしていさえす媒

れば、お前たちの地上界の肉体の力だけでは足りないから、守護の神霊を現わして援助する。宇宙越
神人を現わして援助
させる」
とはっきりいって来ているんですよ。それは間違いのないことなんです。それがもし間違いであ57

るならば、他に方法はなんにも無いんです。ただ亡びる日が遅いか早いかだけの違いなんです。い
つか亡びるんですよ。平和の祈りがかなえられないならば、あとは亡びるより仕方ない。だから亡
びるか生きるかなんです。それで私どもは亡びないことを信じているんです。私なんて肉体がなく
なったって、なんでもないですよ。ちゃんと向こうに場所があるんだからね。わざわざこちらへ来
ているんだから、なんでもないけども。
ここでは世界平和の祈りによって、地上界、肉体界の幸福もはかり、これを亡ぼさずしかも霊界
の姿、幽界の姿も幸福にするという、すべての世界に神さまの世界がそのまま現われてくるという、
そういう最後の末期状態なんです。ということは神さまが現われてくるということ。亡びるか生き
るか二つに一つしかないんです。それで生きるということは確証されているんです。それを私が大
言壮語している。
「世界は平和になるんだ、地上天国は出来るんだ。出来るためにはどうしたらいいかというと、
世界平和の祈りの中にすべての想いを持ってゆきなさい賦怒りの想いも結構、悲しみの想いも結構、
すべての想いを世界平和の祈りの中に投入しなさい。何があっても、世界人類が平和でありますよ
うに、今から死ぬまで、肉体がなくなるまで、世界人類が平和でありますように、とやりなさい。
58
そうすればあなたは必ず救われる。それを私が保証する」
神さまが私を通してこういうのです。他に無いんですよ。そう教わってから私も随分反対の理論
を考えた。どうしたらいいんだろう? アメリカと提携してソビエトと喧嘩するのがいいのか、ソビ
エトと提携してアメリカと喧嘩するのがいいのか、それともソビエトと手をつなぎ、アメリカと手
をつなぐ方法があるかしら? ありゃしないです。ありっこないんです。何故ありっこないかとい
うと、アメリカのいき方とソビエトのいき方は全然違うんです。お互いがオンリー・ワンで、一番
上になりたいんですね。自分が下座について”さア日本さんお立ちなさい、私があなたの靴の紐を
結びましょう” なんてアメリカがいやしない。ソビエトが”さアアメリカさん、どうぞあなたが先
に立って私が従いましょう” なんていやしない。みんな自分が親分になりたい、みんな社長になり
たい、大臣になりたい、上になりたい。それは業なんですよ。
アメリカはアメリカで世界で一番偉くなりたい、一番実権を握りたい。ソビエトはソビエトで一
番実権を握りたい。今、アジアの国で中国を除いて、日本だのインドなどは実権を握るわけがない
でしょう。今世界で一番になれっこないことはわかっているから、世界一になろうと思わないんだ
けれども、もう少し実力が出来てくれば、また世界一になりたいと思うんですよ。それは人間の欲
59 神さまが保証する

望だからね。業想念の中に生きている人間の常なんです。だからそういう業想念に向かって、いく
ら話しかけをしたところで、それは同じこと五十歩百歩なんです。
もし話しかけをするならば、どう話しかけたらいいかというと、それは地上界の肉体人間には及
びもつかない力、アメリカも及ばない、ソビエトも及ばない、そういう絶対力を持って「ソビエト
どうですか、やりませんか手をつなぎませんか」「アメリカさん手をつなぎませんか、サァ私が仲
に立って手をつながせるから、サァつなぎなさい」といわなきゃならない。そういうためには、地
球界の力よりもっと素晴らしい力が働きかけなきゃ出来ません。その素晴らしい力は何かといった
ら、地球以外の星の力ですよ。宇宙人の力を借りない限りは、或いは守護神がそのまま現われてや
らない限りは亡びるんです。
ところがこの白光会の使命として、私どもの使命として宇宙人と提携して、日本を真の日本にせ
しめ、地球界を本当の地上天国にせしめるという約束が出来ているんです。その約束を果たそうと
思って私どもは一所懸命統一したり、祈ったりしているわけです。それがだんだん実現してくるこ
とになっているんです。その応援のためにも、皆さんが世界平和の祈りをひたむきにやることです。
ねても覚めても称名念仏すべきものなり、というように、世界人類が平和でありますように、どん60
ないい方でもいいですよ、日本が先になったって、世界が先になったって、どうでもかまいません。
世界人類が平和でありますように、だけでもいいです。なんでもいいから、そういうような想いに
いつでもしているわけなんですね。
迷いの想い汚れた想いのまま神さまの中にとびこめ
いつも心の中で、例えば自分の子供がいい成績になりますように、と思うなら、その想いを抱い
たままで、世界人類の平和を祈ればいい。自分の病気が治りたいと思うなら、治りたいという想い
を持ったままでいい、世界人類の平和を祈ればいい。あなた方がちっぽけな自分と見るとするなら
ば、見えることそのことが消えてゆく姿なんです。自分の心が悪く見えるならば、悪く見えるそれ
が消えてゆく姿なんです。本来の自分というものは、神さまの中にいるんです。これは私は口を酸っ
ぱくしていうんです。何故いうのかというと、私自身体得したからね。
私はこの肉体にいるけれども、肉体にいながら肉体にいるんじゃないんです。神さまの世界の中
にいるんです。だからこんな偉そうなことをいうんですよ。神さまも何も知らないで、こんな偉そ
うなことをいったら、誇大妄想狂というんで気違い病院行きですよ。しかし正気なんです。地獄の
61 神さまが保証する
沙汰も金次第というけれど、これは正気の沙汰なんです。正気でいっているんです。何故かという
と、いわなきゃいられない。いわなきゃいられないっていうことは、出来るということなんです。
いいですか、私のいうことが実現しなければ、世界は亡びるんですよ。他に方法なんか絶対にありゃ
しないんだから。
唱え言はどんなことでもいいですよ。いいけれども、それが心の底から世界平和を祈っている想
いで、要するに業想念を離れた想いで、業想念をつけたままで業想念が離れてゆく想いでなければ
ダメ。自分の心が浄くなってから、自分の心に不安がなくなってから、自分の心がもっと偉くなっ
てから世界平和の祈りをしましょう、なんてのはとんでもない間違いですよ。そんな想いはいつま
でたってもよくならない。自分の想いが迷いに満ちたままでいい、否定の心のままでいい、病気の
想いのままでいいから、そのままで世界人類の平和を祈るんですよ。これが私が教えている一番の
根本なんですよ。
普通はそうじゃないんですよ。例えば神棚を拝むのでも、口をすすぎ手を洗い、きれいな格好を
してやるんでしょ。誰かが死んだら、神さまがけがれるからって神棚に紙をはるでしょう。そんな
バカなことってありますか。それは迷信です。神さまが人間の汚れでけがれるようなもんじゃない。62
人間の悪い想いそんなもので、神さまが汚れてたまるものか。そんな神さまならいらないんだ。た
だ不遜な心を起こしてはいけないというんで、そのようにやるのだけれど、事実は、どんな汚れの
想いをもっていたって、神さまが汚れることはないんです。
どんな悲しみの想いを持っていたって、神さまは泣きはしない。神さまというのは絶対力なんで
しんらん
す。親鸞がいったように、いかなる悪をもってしても、どんな悪であっても、アミダ仏をけがすこ
とは出来ない。神さまが汚れることはないんです。どんな悪をもっていっても、どんな迷いをもっ
ていっても、どんな悩みをもっていっても、どんな相談をもちかけても、神さまが困ったりするこ
となどないんです。だからどんな迷いの想いでもいい、どんな汚れた想いでもいいから、そのまま
で神さま/ って神さまの中へ入ってゆくんですよ。それと同時に、世界人類が平和でありますよう
に、こういうように入ってゆく。そうすると、汚れたままできれいになってゆく。汚れた心がだん
だんなくなってゆく。それは何故かというと、光の中へ入ってゆくからです。それが親鸞や法然
の教えた教えなんですよ。それを私がもっと具体的に、法華経にまで高め、神道の教えにまで高め
て教えているんです。わかりますね。
ですから、私が悪いからダメです、私の心は小さいから、私の心は醜いから、なんていっている
63 神さまが保証する
ことはないんですよ。いいですか、醜い心そのままで結構、どうせ肉体人間がそう立派なわけがな
い。それは相対的に生きているからね。一つも悪い心を起こさない、なんて人いませんよ、どこに
も。すっかり浄まったら、心に何もなくなったら、それから神さま! そんなバカなことはない。
そんなら祈らなくたって、はじめからいいんだからね。汚れているからこそ神さまの中へ入ってゆ
く。自分がダメだからこそ、神さまにすがるんです。ダメでない人間がすがってどうするの?すが
らなくたっていいんだから。
私は神さま! なんていわないんですよ。神さまもへったくれもいわないんです。何故かってい
うと、何も無いんだものこっちに。神さまが働いている。神さまに貸しているだけなんだからこれ
(肉体)を。だから私は世界平和も何もいわない。神さまもいわない。ただ話をし、ただ柏手を打
ち、ただ端座している。何もない。ただ光っているだけ。何も持ってない。神さまがそのまま働い
ているからね。皆さんの場合にはそれがまだ出来ないわね。想念をなくすことが出来ない。だから
持ったままで世界平和の中へとびこめば、私と同じになってしまうのです。何もないと同じなんで
す。神さまだけがあるんです。
この世の中は、神さまだけしかないんです。神さまのみ心だけしかないのだけれども、み心だけ
64
しかないことを知らないで、他に悪だの不幸だの悪魔だのがあると思ってね、悪いもののほうに自
分が入ってゆくから、入っただけ自分が汚れているんです。
いいですか、どんなに自分に悪い心が出ようとも、どんな病気がでようとも、どんな不幸がでよ
うとも、そのままで神さまの祈りの中へ入っちゃうんですよ。そうすると神さまのほうで消してく
れるんです。それが南無阿弥陀仏なんですよ。神さまを汚す悪はないんだから、自分は悪のままで
いいから、神さまの中へとびこむんです。そうやっているうちに、だんだん神さまが消してくれる
んです。そうすると知らないうちに、きれいな心になって、きれいな心境になってゆくんです。そ
れを私が教えているんです。
常不軽菩薩の生き方
神さま神さまっていう以外に何もないんです。人間をみていて、みんな人間が神さまに見えてき
じようふぎようぽさつ
たら、それは常不軽菩薩といって法華経にありますね。この菩薩さまは、あなたは仏さまだ、菩薩
さまだって拝んで歩いたお坊さん。そうすると悪い人たちが”なにオレが菩薩であるもんか、この
ヤロウ” って石をぶつけるんです。ぶつけられると逃げながら”あなたは仏さまですく” って本
65 神さまが保証する
当の人間の姿を拝んだ。お釈迦さまの前生だということになっているんですね。そのように人間そ
のまま、神さま! って拝めるようにならなきゃいけないんですよね。ところがなかなか神さまな
んて拝めない。顔をまともに見ちゃ、神さまだと思えやしないやね、それは消えてゆく姿を見てい
るんです。消えてゆく姿のほうを見ていて、いつまでたっても神さまを見ない。
そこで私は相手を見る場合、人間を見る場合にどういうふうにさせるかというと、その人の肉体
を見ない、肉体のうしろにある守護霊さん守護神さん有難うございます、どうかこの人の天命を完
うせしめ給え、とやるんですね。息子なら息子がいる。不良でしようがないとすれば、神さまと拝
めやしませんよね。そしたら息子のうしろの守護霊さん有難うございます。息子の天命を完うせし
め給え、とやる。良人が道楽者だとする。そしたら良人の守護霊さん、あ\ご苦労さまですね、こ
ういう業の固りをよく守って下さいます、有難うございます、とやるんです。そうすると、知らな
いうちに相手の守護霊と自分の守護霊とが一つになります。そうすると守護霊の力がその良人なり、
子供なりの中に働いて業を消してゆくんですね。だから良人がやらないとするならば、子供がやら
ないとするならば、妻がやらないとするならば、自分だけでいいから世界平和の祈りをするんです
よ。その世界平和の祈りをする時に、迷っている良人、迷っている子供の名を呼んで、そのうしろ
66
の守護霊さんに頼むんです。そうしますと、いつの間にか立派になります。これは必ず立派になり
ますよ。
そういうやり方をするんです。だから私のは易行道なんですね。「先生、そういうけどむつかし
いんです」という人がいます。むつかしいといやあなんだってむつかしいです。
人間、悟ろうとすることはなかなかむつかしいですね。むつかしいけれど一番易しいんです。だっ
て悩みをとってから拝あ、というのじゃないんですものね。悲しみをとってから拝め、というので
はない、汚れを浄めてから拝めっていうのじゃないんです。よごれたままでいいんだ、病んでいる
ままでいいんだ。病んだら、病気が治りますようにとそう祈りながらでいいんだ。いいですか、心
が汚れたらよごれたままでいいんだ。そのままで世界平和の祈りの中へとびこあば、世界平和の光
明がそんなもの問題にしなくて、消してくれるんだ。だからそれを信じてやんなさい。そう教えて
いるんです。
これが出来なかったら、そんなもの… … とはいえないんです。情けないけどね。私は情けない立
そむ
場でしてね、いくら背かれても、いくらどうされても、それを救わなければならないんですよね。
その人にどうしても真理を知らさなけりゃならない役目を持っているからね。いくら先生の悪口を
67 神さまが保証する
いったって、あのヤロウ、バカヤローだと放っぽり出すわけにはゆかないのです。どこにいても、
どこへ離れようと、どんなにしようと、いっぺん私に会ったならばそれを救わなきゃならないです
よ。ところがみんな会うことになるんです。これはなかなか大変な役目なんです。というのは神さ
まが大変なのです。
しかし神さまの子で人間なのだから、それは神さまが絶対に救わなきゃいけない。全部救うたあ
に、守護霊を遣わし、守護神を遣わしているんだから、救うのは当たり前なんです。救われるのは
当たり前です。ただ消えてゆく姿ということを本当にわかれば、みんな救われちゃうのです。
68
*註2 柏手については、五井昌久著『聖なる世界へ』ー-霊光写真について時二一二頁を参照下さい。
宇宙人の出現
昭和3年6月7日
UF Oは幻想ではない
空飛ぶ円盤にはいろいろな形があるのです。たとえば電灯の笠のような形、鈴のような形、細長
い形とあるわけです。
村田正雄さんの円盤同乗記がありますが、村田さんばかりでなく、他にも空飛ぶ円盤に乗った人
があります。ただまだ実証的に皆さんの目に見えるように、写真に写したりすることは出来ていな
いのです。いわば霊眼というか、霊眼よりちょっと深いもので見ている霊的現象なのです。しかし
それは本当のことで、私もちゃんと知っています。
見えるということは在るということなのです。それは幻想といえば幻想でしょう。ところがそれ
69 宇宙人の出現
が実現します。実現しないうちにあまり言うものではないけれど、今日は言っていいことになって
います。
ということは、私が話している時に、この中に(ご自分を指して)金星の長老が来ているんです。
霊眼のぞなわっている人は見えるでしょう。その金星の長老が「現われる」というんです。向こう
が現われるよ、といっているのに、それは違います、とはいえない。それなら勝手にせよ、といっ
ていなくなったら困るでしょう。
現われたほうが救いになるんだから、良いことを思ったほうがいいですから、信じたほうがいい。
亡びるぞ、といわれて亡びるほうを信ずるより、救われるよっていうほうを信じたほうが、人間は
嬉しいでしょう。騙されてもいいから、救われるほうを信じたほうがいいです。実際に明るくなる
し、いいでしょう。
円盤は完全に在ります。宇宙人は素晴らしい知能を持った、絶対力に近い力を持った素晴らしい
人たちです。金星の長老という人は、キリストや仏陀よりも、もっと力のあるような、もっと高い
ような、もっと神に近いような人なのです。顔も形もはっきりわかるのですよ。それは私ばかりで
なく、斎藤さん(故人) にも勝山さん(故人) にも見えるのです。長老の他に、きれいな女の姿を
70
した宇宙人も来ているのです。いつも私のまわりに来ています。それでいろいろな連絡をして下さ
るのです。そして斎藤さんにも連絡する、勝山さんにも連絡する、村田さんにも連絡する。その連
絡が一つにぴったりと合った時に現われるのです。
から
ということは、皆が心が空っぽになって、期待さえもしない、無念無想という心境になって統一
した時に、スッと現われるのです。段階としては、こういうものがあるんだ、ということで種々見
くロつ
せられ、いろんな体験をさせられる。その後で、全部の心が一つになって、全く空になった時に、
本当のものが現われるという順序なのです。それを援助するのが皆さんの世界平和の祈りなのです。
宇宙人の約束
霊的な人が集まってやっているのでは足りないんです。アダムスキー以来、はやって来まして、
あっちでもこっちでも宇宙人研究の人たちがたくさん出て来ました。けれども、私どもの会のよう
に、こんなに大勢の人が一つになって世界平和の祈りをしながら、宇宙人を待っているようなとこ
ろはありません。
心から真実の平和を願いながら、他の我欲もなくて、宇宙人の出現を待っている団体は一つもな
71 宇宙人の出現
いのです。それで私どもは、宇宙人たちをよーく知っているのです。知っているもいないもない、
話している当人なのです。
うつわ
おかしな話だな、と思うでしょうから、説明すると、私の体は神々の働く器なのです。
宇宙人の話をしていたのは誰かというと、この肉体が話しているわけではないのです。金星の長
老なのです。今にそれがわかります。といって話をしている人は誰かというと、向こう(天) の人
なんです。皆さんにこれはわからないから、私おかしくなるんです、私ね、たまたま一人でニコニ
コニヤニヤ笑っていることがあるのです。ということは、私にだけわかっていることが随分あるの
です。それで話してはいけないこともあるし、話したってしようがないこともあるから、黙ってい
るけれども、こうやって話をしている時に、私の言葉の調子が時々変わるのです。ゆっくり”そう
なんですよ”なんていっているかと思うと、ペラペラと話したりする。声の調子も変わったりする
時もある。それは弁士交替という時なのです。
かわ
うしろの弁士が交替ると、言葉つきが変わったり、声の調子が変わったり、顔が変わったりする
んです。それで私も誰が話したりしているか知っているのです。そういう場合、霊能者の人が見れ
ば”先生また変わった、また変わった”とわかるのです。そのように話をしている人たちが写真に
72
写れば、ああこの間の先生にはこういう人が話していた、とわかるわけです。そういう霊写真がだ
んだん撮れると思うのです。それとお山(聖ケ丘) の統一が実って、宇宙人が肉体の人間と同じよ
うに現われて来て、手を握る。或いは円盤が到着するということになるのです。
これはなるのです。”なるのです”とこう言っているのは、向こうの人が言っているのです。な
るんだ、と言うんだからしようがない。肉体の私のほうが、なるんだと思います、なんて言おうと
すると、思いますを消されて、なるんです、とこう言うのです。”なるんです”と断言するのです。
“やります、出来ます、現われます
“というのです。私のほうで消しても消しても出てくるのです。
私は修行の初まりから、予言などは全部否定しているのです⑩ “お前はこういうことをするんだ”
とさんざん予言されたことがあるのです。そういうものを全部否定して来たんです。否定して否定
して来て、私は予言者のような形をとらなかった。ところが否定しても否定しても、実際に現われ
てくるのです。今まで否定したことが全部現われたのです。それで最後の予言が今、実行されつつ
あるのです。その予言を重ねて重ねて向こうから言ってくる。中の私だけに言っていたのではしよ
うがないものだから、この肉体を通してパッとしゃべるのです。
はず
私などは常識を外れないほうなんです。非常に神経が細かくて、常識的な素質を持っているので
73 宇宙人の出現
とつび
す。だから奇異なこと、突飛なことをあまり好まないのですよ。奇異なること突飛なることを否定
しよう否定しよう、としているのです。否定しようとする私の想念を打ち破って”そうなんだ
” と
約束してしまうのです。
もう約束してますと、約束が果たせない時は私が赤い顔をしなければならないでしょう。だから
嫌だから、なるたけ約束しまいと思うのですよ。しまいと思うのはこっちの勝手で、向こうさんの
ほうは約束するのです。もし出来なかったら、いい災難なのはこの肉体のほうですよ。ざまあみろ、
こわ
なんて言われるかもしれないけれど、そんなことを恐がっている時代ではない。向こうから言うの
だから、そのまま素通しで通しているのです。だから間違いないのです。
74
現実に救うもの
これを信じない信じるは、どちらでもいいです。必ず現われますからね、現われることを促進さ
せるのは何かというと、皆さん方の世界平和の祈りなのです。世界平和の祈りをする努力だけをは
らっていれば、自分が救われると同時に、日本を救い、世界を戦争の残虐、或いは天変地異の残虐
から救うことが出来るのです。
このようにハッキリ言明しているところはどこにもないのです。みんなうやむやにしているので
すね。今に救世主が現れれるとなんとか… …。ごまかしているのです。今まで具体的に日本を救う、
世界を救うなんていうことはないのです。ただ言葉だけでいっているだけでは、何もならない。今
はそんな時期ではなくて、現実に救わなければならないのです。
現実に救うのは何かというと、守護の神霊が本当に現われて、肉体人間をアッと言わせなければ
ダメでしょう。宇宙人が現われて、地上界を守るんだ、正しい平和の祈りを持った、平和な心の人
たちを守るんだ、という言明がなければ、誰も信用もしないし、ついてきゃしません。だから今ま
でのように、観念論の宗教はもういらないのですよ。観念論で、いくら仏陀がこういった、キリス
トがいった、といっても、なんにもなりません。それを知っていたのが合気道の植芝先生。”釈迦
やキリストにはまかせちゃおけん”といっているでょう。本当に神さまが現われなければダメ。神
の化身が本当に現われない限りは、この世界は救われないです。
本当の力を持ったものが肉体にいて、それで”やるよ” といって方向を示してくれ、自分が実践
しなければダメですよ。その実践が世界平和の祈りの運動なのです。だから単なる平和運動とは違
い、ただ単に世界平和を祈っているものとは違って、超々超々、いくら超を足しても足りないくら
75 宇宙人の出現
いに現実を超えた真実が現われない限り救われない。
昔だったら夢だったかもしれない。けれど夢ではない。お釈迦さまが法華経を説いている時に、
地から菩薩が湧き上がり、天より菩薩が降ってきて、仏菩薩、要するに神霊が現われたのです。物
質化現象があったのです。お釈迦さまの時に物質化現象があって、もっと進んで来た現代において、
仏菩薩、神霊の物質化現象が現われない、というわけはない。現われるんです。現われるために私
たちが来ているのです。私の役目などは本当にその役目なんですよ。その役割のために来ているの
です。私と同じようなことを言う人があるかもしれませんが、それはどこで現われたって結構なん
です。
しかし私たちの平和の祈りは本当に世界平和の祈りなんだから、それはきれいな平和な波をこの
地上界にふりまいている。光をふりまいている。皆さん方が世界平和の祈りを祈ることは、光を放
射している、光の波を出していることなのです。それをやらなければならない。
76
/
人事は尽くさなければ
それにはやはり努力が必要なのです。よくお委せといいますが、怠惰と間違えて、ただまかせて
いればいいんだ、神さまがなんとかしてくれる、と何もしない。そんなのはおまかせではなくて怠
惰というのです。
村田さんの話で面白いことがあるんですよ。村田さん達は多摩川の上流のほうに、統一の場所が
あるだろうと思って、地図を買って探した。場所をさんざん探した挙句、いよいよ多摩川まで行か
なければならない、それでゆく用意までした。そこまで努力した時に、忽然としてお膝元の市川に、
統一の場所が現われるんですよ。そこまで努力しないと、神さまというのは出してくれない。最後
に切羽詰まって、もうダメかなと思うようじゃないと、本当に姿を現わさないです。さんざんやっ
て、雨でもなんでも行こう、奥多摩でもどこでも行こうと決心して、身も捨てたような決意をする
と、パッと市川の地図が現われて、歩いて見たらあった。市川に山みたいなところがあると思えな
いでしょう。ところがあるんです。
あんまり高いところじゃないんです。丘なんです。丘なんですけれど、行ってみると、深山幽谷
のような感じがするんです。なんとなく深い山のような気がするんです。低い丘なんですけれど、
山のような感じがする。ちょっと不可思議な所なんです。それが市川にある。あるということはと
おおごと
てもいいことなんです。近いですからね。これがいちいち私が奥多摩まで行くんだったら大事でしょ
77 宇宙人の出現
う。一日も二日も休まなきゃならない。そういうことはやっぱり出来ませんわね。だから時間をか
けないで、力を非常に集中できるような場所にあるわけです。
それで私もはじめから市川に住んでいる。ちゃーんと、もう初めから仕組んである。
78
私に会ったら救われるに決まっている
皆さんが集まって、世界平和の祈りの仲間になって、世界平和を祈って人類の真の平和のために
尽くすということも、過去の過去の何億年前から定まっているのです。ですから皆さんは、こうい
うところに集まったということで、自信をもったらいい。「私どもは救われているんだ」という大
確信を持っていいです。救われるんです。
私に会った場合には、救われるに決まっている。断固として思ったらよい。救われているんです。
どんなに悪いようなことが現われて来ようとも、それは救われにいたる過程にすぎない。プロセス
なのです。みんな救われるのです。大きな意味でいえば、世界人類が救われるんです。必ず救われ
る、ということに確信を持ちながら、世界平和の祈りをするのです。
だからちょっとしたことで、いちいち自分をいじめなさんな。あ\私は悪い心を出しちゃった、
9
などと情けないことをいわないで、そういうことはどうでもいいんだ。小さな小さな細かい想いの
誤りなど、どうでもよい。そんな想いの誤りをほじくり返すことをしないで、私はダメだくなん
て思いなさんな。少しは失敗したっていい、少しぐらい病気になってもかまわない、少しぐらい不
幸が来たってかまわない。そんなものはみんな消えてゆく姿であって、人間の本体ではないんです。
それを知らせようと思って、私は声を枯らしてお話しているのです。
ほんとう
神々は、どうしたら人間に真実のことを知らせられるか、と考えて、随分苦心していろいろなこ
とをして、いろいろな宗教家を出し、賢者を出しているのです。生長の家も神さまが出した宗教で
すよ。メシヤ教も神さまが出した宗教です。神さまが出さない宗教は本当はないのです。たとえ低
級の宗教であっても、邪教のように見えても、それはやっぱり神さまの力が働いているのです。た
だそういう場合、こういう宗教ではダメだよ、と教えているのかもしれない。善いのと悪いのを比
べるために知らせているわけですね。悪いものがなければ、良いのがわからない。背の低い人がい
るから、高い低いがわかる。みんなそういうわけで、わざわざ相対的に出しているのです。
79 宇宙人の出現
魂をひらくのが私の宗教
80
比べあって、だんだん観察力というものが鋭くなってくる。直観力が増してきて、だんだん本当
の道に入ってゆくわけです。それで皆さんはこの道に入ったのです。本当の道に入っているんです
よ。私の説いている中で、間違ったことはないんです。何故ないかというと、初めから世界平和の
祈りですものね。
お前の病気を治してやるから来なさい、いくら寄こせば… …なんていうのではないでしょう。お
前の不幸を治してやるから来なさいーそういうのではないです。迷ったままでいいから、神さま
の中に入りなさい、祈りの中に入りなさいーいい教えですよ。病気なんかそのままでいいんだ、
神 さまの中へ入れば、消えるものは消えるんだ、死ぬものは死ぬんです。
私と一緒に暮していたって、死ぬ人は死ぬのです。いいですか。肉体の生き死にじゃない。本当
にいのちを生かす、本当に魂をひらく、そういうのが私の宗教なのです。
どんな病人もいらっしゃい、全部治ります、なんて私は言いません。そういう宗教があるんです
よ。どんな病人でも、どんな不幸でもなおす、というけれども、そんなことは出来はしない。どん
な病人でも治せるものなら、治してごらんなさい。九十です。百です。百でも百三十でも生きられ
てごらんなさいよ。それでなくても人口が多くて困っているのにサ。軒並み百五十歳の人がいてご
らんなさい、あとが詰まっちゃうわね。それこそ不幸ですよ。今の世の中で、長生きばかりして、
百五十歳だ、百六十歳だというおじいさん、おばあさんばかり生きて、あとは産児制限してごらん
なさい。日本の国中、八十歳以上ばかりだ。
長生きするだけがいいのではありません。どういうのがいいかというと、いい生き方をすること。
ゆうゆう
心を明るくして、心を平和にして、悠々と生き、人の心を明るくしながら、人のためになりながら
生きる、という生き方が一番いいことでしょう。その一番易しくて、一番大きい生き方は世界平和
の祈りなんですよ。
私はなんとかしてわからせたい、自分がわかったこと、自分が体得したことをどうしたらみんな
にわからせられるか、わからせよう、わからせようとしているのですよ。それでみんなわかってく
れるのです・初めは蹴綴灘綴です・先生の話面白いや・落語をきくよりいいから、おまけに無粋だ
し、なんて来るわけですけど、話をだんだん聴いていると、落語どころじゃないです。神さまのこ
とばをそのまま言っているのです。手を替え品を替えではなく、口を替え言葉を替えてはわからせ
81 宇宙人の出現
るためにお話している。それでだんだんわかってくる。
私の声の言葉が皆さんの耳に聞こえますね。ところが声の言葉でない、奥の言葉がみんなの耳に
聞こえているのです。魂に光が流れ入ってゆく、皆さんの耳には声の言葉が聞こえてゆく。両方で
やっている。
話の種がなくなるだろうと思うと、なくならないのです。同じことが一つのことではない、違う
のです。同じ言葉で話をしても、その人の聞く時の境地が違えば、違ってくるのです。私はなるべ
く同じような言葉が重ならないように話をしているけれど、言いたいことは一つなんです。だから
同じ言葉になるけれど、やっぱり同じ言葉を何遍聞いても、これはいいのです。いい言葉はいい言
葉。
歌舞伎でも同じことをやるのですね。あそこでこういう振りをし、あそこでこういうセリフを言
うなんて、よくわかっていて見にゆくわけです。落語でもそうです。先ずあそこで笑わせるよ、あ
そこでといって、それが出てくればワハハハと笑うんだ。わかっているのだから、つまらないよう
なものですね。ところがわかっていながら、笑おうと思って待っているのですよ。
そういうものでしょう。だから、今度録音しておこうと思っている。
82
「みんな救われますよ。みんな神の子です。みんな消えてゆく姿です」
そればかり録音しておいて流そうと思う。けれどそれではやっぱり困るのね、バラエティに富ん
で、不協和音があったり、協和音があったりして聞こえてくるわけね。私が何遍話してもいいのだ
から、何遍も聞いて下さいね。それで行ないましょう。
これは覚えてもらいたい
行なうことの一番根本は、繰り返えしますけれどーこれは覚えてもらいたいのです1 迷い心
は迷ったままでいい、自分がいらないと思ったら、いらないままでいい、病気なら病気のままでい
い、偉くなってからと思わなくていい、貧乏なら貧乏のままでいい、どんなままでもいいから、そ
のままの想いで、神さまの中へ飛びこみなさいーこういう教えなんですよ。
神さまといっただけでは、なんだか自分が働いてないような気がするでしょう。それで、神さま
のみ心の働きである世界平和の祈りの中へ飛びこみなさい。そうすると、そのままで自分も救われ
ると同時に、世界人類が救われるんですよ、というのです。
先生の祈りも皆さんの祈りも一つなんです。何故一つかというと、元は一つだからです。元をた
83 宇宙人の出現

なおびちとくれい
だせば、みんな直日であり直霊であり、神さまそのものなのです。ただ知っているほうがなおいい
ですね。私は体験者なのだから、体験者の言ったことをそのまま信じて、やればいいのです。
お金が儲かるとか儲からないとかというよりも、幾世をかけても大事なことなのです。だから何
遍も話を聞いてもいいですね。先生のところが遠くて、なんていうのは未だ足らない。遠かろうが
近かろうが、来たくて来たくてしようがない。もう何があっても来るようにならないとね。来たく
ない、という想いがあれば、それはそれだけ業なのです。もう行かなければいられない、という気
持ちになってくるものです。そういう熱心な人はやっぱり救われ方が早いです。それはやっぱり努
力なのです。努力も何もしないで、救われようというのは、それはずうずうしいですよ。
ゆかた一つ縫うのでも、一年か二年習わなければ縫えないのでしょ。なんの練習もしないで、}
度にパッとやったら出来てしまった、なんていうことはないでしょう。どんな些細なことでも、練
習しなければ出来上がらないんです。
それを一番大事な、いのちをそのまま現わすという、真実の人間を現わすという一番大事なこと
を、すぐ出来るような気がして、すぐやりたいと思うのですね。しかも幾世をかけてやって、まだ
出来ないようなことを、すぐにでも成就するような気がするんです。「先生のところに来ているけ
84
れど、まだおかげがないんです。私は依然として貧乏なんです」というようなことをいう人もある。
汝は今日救われたり
そんなこと言いなさんな、というのです。そりゃ情けないやね。私の話をきいて、潜在意識に入
れただけでも、大変なご利益なんです。
私に会った以上は、あなた方は救われているのだ、救われるに決まっている、と保証しているの
ですから。私に会わなくても救われているのです。だけれど救われている、というのがわからない
ので”救われているんですよ、救われるんですよ”と、言葉にハッキリ出して、私が保証するので
はん
す。判を押してあげますよ。
“汝は今日ただ今救われたり
” と書いて、いくらでも判を押しますよ、誰一人として救われない
人はいないのです。救われるに決まっている。ただ自分で勝手に、業想念が救われないんじゃない
か、と思っているだけなのです。それは消えてゆく姿なのです。
神さまの子である自分を否定する想いは、なんでも全部業想念なのです。自分はダメなんだろう
と思う想いは業想念。あいつは嫌な奴だと思うのは業想念。あ㌧自分はチャチだというように、自
85 宇宙人の出現


分をいじめるのも業想念。子供が悪い、親が悪いと思う、その想いも業想念。
「先生、そういうけれど、それでは反省がなくなるでしょう」という人は、反省していない人な
うわ
のです。反省している人はそんなことをいわない。切実に反省している人は、今のような浮ついた
ような質問は出来ないのです。浮ついたような言葉が出ないのです。やっていない人がかえってよ
くいうのです。
たとえば、私は市川にいますね、すると「市川なんかにいるより、東京がいい、東京に出ればど
んどん人が集まりますから東京に出なさい」というだけ言って、けしかけておいて、千円の金も出
やす
しゃしない。そういう人は言うだけ。おだてていうことは易いんだけれど、それに乗ってごらんな
さい、こっちは家がなくなってしまう。口でいうことは案外やらないものなのです。本当にやる人
は黙ってやります。それでいよいよ自分がやろうとする手前で、いいますよ。
まんじ
それで私も、今まで宇宙人の出現とか、物質化現象とかいわなかった。いわないで、満を持して
待って、サア、といいはじめたのです。
86
守護霊さんのこと祈りのこと
昭和3 年6月15 日
(茂木正男さんの体験談があって、お話にうつられた)
茂木さんご剛家のこと
茂木正男さんは歯医者さんですが、ご自分も非常に霊的な方でして、お父さんは心霊の研究家で
さにわ
した。この人は非常に霊的というより審霊的な方で、正男さんを小さい時から、霊能者或いは霊覚

者にしようと思って試みられました。けども子供のほうがあまり強いられたものだから、いやになっ
ちゃった。それで歯医者さんになってしまったわけです。しかし心霊には関心があった。
茂木さんのお母さんがやはり霊的でありまして、中西リカさんでしたか有名な霊媒の人がいまし
て、その人と年中会ったりしていた。ですから、私の話を聞きましてもすぐわかりまして、すぐ納
87 守護霊さんのこと祈りのこと
得出来たわけです。それでつながっておりまして、毎日のように私のところに通って来ていました。
心臓が悪うございまして、心筋梗塞のようになるのです。それで私のところへ来て、祈って安心し
て帰ってゆく、ということを繰り返していまして、だんだん浄まり、すっかり浄まってあの世へ往
かれたわけです。
このおばあさんの話で面白い話があるんです。孫娘(茂木正男さんの姪御さん) がおりまして、
その人はお嫁さんにいけない立場なのだけれども、お嫁さんに行きたがっていたわけです。その人
に相手が出て来た。私はどうか、と相談されたので、これは絶対ダメだと答えました。私がいけな
いということはどういうことかというと、その娘さんの守護霊さん、お母さんの守護霊さん、みん
なが反対するわけなのです。不幸になるからダメだというんだけれど、肉体人間はバカみたいなも
のですから、いくらいわれてもわからないのです。それで五井先生お願いします、と私のところに

つれて来る。私がみても不幸になるし、守護霊さんにも頼まれるし「これはいけないから止めなさ
い」と私はいうんですよ。
ところが業因縁というものは、なかなか強いものでして「ハイそうですか」と、すぐ止めるよう
なものじゃないのです。私がダメだ、といってもやっぱり止めないのですよ。その頃はもう亡くなっ
88
ていたおばあさんも、私に現われて「先生、どうかして止めさせて下さい」というわけです。それ
でも止めない。おばあさんはもうたまりかねて、息子さんの茂木さんの枕元にいったのですよ。茂
かや
木さんは夢だと思っているか、本当だと思っているかわかりませんけれどね。おばあさんが蚊帳の
外から手を引っ張って「正男や正男や、どうかあの結婚を止めさせてくれ」と頼んだわけです。と
ころがおじさんで親じゃないですから、止めなさいという決定権はありません。しかし頼まれたか
ら、なんとか止めさせたい気持ちもあるわけです。
そのうち神さまのほうで、これは病気にさせたほうがいいというので、お母さんを病気にさせて
しまった。それで結婚を解消させてしまったわけ。だから霊界から働きかけますと、あっさり病気
にさせられたり、怪我をさせられたりすることがあるのですよ。たとえば旅行をするとします。そ
の汽車にのればいのちがなくなってしまうような場合がある、或いは飛行機にのれば落ちていのち
がなくなっちゃう、という場合がある。その当人は業因縁で、どうしてもそこへ行きたかったり、
または矢も盾もたまらず行きたいような気がする。そうすると、守護霊さんが仕方がないから、自
転車でころばしたり、病気にさせちゃったりして止め、それで助ける場合が随分あります。
89 守護霊さんのこと祈りのこと
守護霊の働き
90
病気にもならない、怪我もしないで助かりたいと思うならば、守護霊さんのいうことをハッキリ
聞いてしまったほうがいいのですよ。わかるようにならなけりゃいけない。守護霊さんの言葉がわ
かるようになるには、どうしたらいいかというと、素直に守護霊さま有難うございます、守護神さ
ま有難うございます、をやること。或いは世界平和の祈りをやっていますと、頭で声が聞えなくて
も、なんだか行きたくなくなるとか、気がすすまなくなったりして、どうしても止めなければなら
ないような事情になってくる。或いは来客があって行かれなくなったりするとかね、そういうよう
に、自分がわざわざ病気にさせられなくても、怪我をさせられなくても、ちゃんど紳髄を完うするよ
うに守護霊は導いてくれるんです。だから常に守護霊守護神に結びついていることが一番大事なの
ですね。
そこで茂木さんのおばあさんは仕方がないから、娘を一時ちょっと犠牲にして、それで孫の運命
を修正したわけです。そしてその後に、いいお婿さんが来まして、うまい具合にスイートホームを
つくっているわけです。守護霊さんはそういうふうに守っているわけなのです。この姪御さんの場
合には、おばあさんも守護霊のアシスタント(助手)になって、一所懸命やったわけなのです。それ
でおばあさんはうまくいきますと、そのまま安心していい所へ往きましたよ。亡くなったお父さんと
かお母さん、おじいさんとかおばあさんとかいう先祖は、常に子孫を心配して守護しているんです。
それが執着だけでくっついているような場合には、あべこべに子孫の負担になって、子孫が病気
になったりするわけなのです。執着ではなくて、運命を直してあげたいという愛の想いを持ってい
る先祖というのは、正守護霊にはならないけれども、アシスタント(助手)として子孫の運命を守っ
てゆくわけなのです。
今お話した茂木さんは、見えないからわからないのだけれど、私が観ていますと、茂木さんのお
うしろ
母さんが来ていまして、茂木さんの後に立って一所懸命話させているのです。ここに来ていたんで
す。そして話していたわけですよ。このように話している場合には、そこに必ず来ているんです。
それでうまく話が出来るようにと思って、話させているわけです。
ところで今、茂木さんの家では面白い話がありまして、奥さんの姪がいるんですが、この子は今、
霊能の修行をしているのです。修行というよりも運命的に霊能者になる運命をもっていまして、人
並みはずれたふつうでは出来ないことをやった子なのです。この子の家の中は先祖の因縁があるた
91 守護霊さんのこと祈りのこと

めに、ごたごたしていましてなかなかうまくいかないわけなのです。それで一番敏感であるこの子
が背負って、体も調子がよくない。その他諸々のことがありまして、叔母さんである茂木さんの家
に逃げこんで来たのです。今は、その子のお父さんお母さんはすっかり悟ってR会よりぬけて、と
ても明るい顔をして、きれいになって、ここに来ておりますけれども、その当時はわからない時だっ
た。R会では娘がほかへ行っていることはいけないことだ、家に連れ戻せ、というわけで、家へひっ
ぱり戻したわけです。私は止めましたけれど、人の子ですから無理に止めるわけにはいかない。命
は助けようとこちらは思っていますから、それで帰したわけです。
帰ったところが、夏ですから、パラソルをさしたままドブの中に入ってしまった。パラソルだけ
がドブの上に浮いていたというんですね。そこを偶然みたいに幼な友達が通りかかった。「あれ、
ドブの中にパラソルが浮いているぞ、どうしたのだろう」というんで、パラソルの先を持ちあげた
ら、そのまま人間が、花もうるわしい乙女じゃなくて、泥だらけの乙女があがって来た。あげたほ
うはびっくりしたでしょうね。それで助かったわけなのね。ドブの中に入って、入ったのを誰も見
ていなくて、救いあげられるには五分や十分はたっているわけです。だから五分も十分も息をしな
いで、ドブの中にいたということになるのです。それで苦しくもないということは、普通では考え
92
られないことなのですね。
その時はどういうことになっていたかというと、守護霊さんが代わっているのです。代わって霊
界から霊要素を送って、呼吸の代わりをしていた、そのために生きていたわけです。そして助か
ったのですが、それからはもうたまりかねて、茂木さんの家にズーッと住んでしまって、毎日、本
から
部に通って来ているのです。この子は非常に霊的ですから、自分というものがなくなって、空っぽ
になってしまって、守護霊がみている、守護神がみている、私がうしろからみている1 丁度、無
線で操縦するロボット人間のような形で、私の霊団が守っているんです。
霊能者としては非常にいい素質がありまして、使うにはとてもいいのです。何故いいかというと、
汚れがないのです。もろもろの汚れ、自我がないのです。しかし、私たちが悟ったみたいに、いろ
いろ修行をして、人類を救わなければならない、人類のために働きたい、どうか神さま、人類のた
めに、いのちを使って下さい、と体を投げ出した形で始まったわけじゃないでしょう。ですからい
ろんなものが来る。幽霊も来ます。十何人いっぺんについた、といってやって来ます。ポンポンと
やると、きれいになってみんな浄まってゆく。毎晩のように幽霊というのはおかしいけれど、業想
念につかれていた。それがだんだんきれいになって、少しぐらい来ても大丈夫になって来たのです。
93 守護霊さんのこと祈りのこと
今は、五井先生という霊団の中にいつも入っている。いつも天女が中に入って、時々舞うんですよ。
それでいろんなことを感じたりするわけです。それで私は目を光らせて見ているんです。
茂木さんが預かったために、いのちをなくさないで、きれいに立派になって、かえって人類のた
めになる子に、いっぺんに変貌してしまったわけです。茂木さんの家は面白い家で、親類縁者がそ
こへ来ちゃ救われてゆくのです。茂木さんのところは救われの場所の中継所みたい、支店みたいに
なって、みな救われてゆくのです。それは何故かというと、お父さんが心霊研究をしていたから。
お父さんが心霊研究をしたということは、先祖の中で、非常に心霊に興味をもって死んだ人がある
わけなのですね、それで代々そうなって来ているわけなのです。
94
みな波動
この肉体の人間をみてみますと、肉体が一つあって、眼が二つあって、耳が二つあって… … とい
う形ですね。ところが本当の人間というものは、目が二つじゃないのですよ。もっと奥に、いくつ
もいくつもあるのです。二つの上にまた二つあり、その二つの上にまた二つ… … ズーッとつづいて
奥の奥の目もあるわけなのです。それを鍛騰ともいいます。しまいに鶴職というのですね。
みんな五尺何寸、六尺そこそこで生きていますね。本当は五尺何寸で生きているんじゃない。光
の波と地球界の物質の波とがまざって、波動が、バイブレーションがここに映っているだけなので
す。これを分解してみると、本当はみなバイブレーション、波動なのです。波だけで生きている。
この波の中には神さまの光があるわけですよ。いのち、大知恵そのものが光になって入っている。
それを覆っているのが肉体の想念、物質界の想い、業想念といいます。だから光と物質界の想いが
まざってこの肉体界に生きている。これが神さまそのままの、全然よごれない光だけですと、物質
は出来ないのです。肉体が出来ていないなら肉体界には生きられない。
私がこうやって肉体界に生きていますね。この頃は午前十時と午後三時に集団のお祈りをするの
ですが、ふつう一人一人を浄める柏手も相当なひびきをもっていますけれども、十時と三時の柏手
はものすごいのです。こーんなでっかい手で、ビューンと打っているような、そういう感じのひび
きなのです。打っている私の体が消えるんですよ。ものすごい光の波が入って来ますから、全世界
に光が走ってゆく。光というものは縦に入って、肉体を通して横にパーッとひろがってゆくものな
のです。肉体がないと働きかけが出来ないのですね。肉体を媒体として天の光が入って来て、横に
パーッとひろがっていくんです。それで十字交差になるのです。そのようにして、私の肉体を通し
95 守護霊さんのこと祈りのこと
て、大神さまの光がピューピュー流れてゆく。それが十時、三時の浄めの時はすごい。
私は二階で手を叩いている。下でみんな統一しているんです。二階で打っているひびきがものす
ごい。それこそ屋鳴り震動するようです。ところが長い間それをやっていられない。長い間叩いて
いますと、私とけて消えちゃうのですよ。だんだんかすかになってきましてね、まるでほとんどな
くなっちゃうようなのです。それで消える手前で止めるのです。あまり霊化しすぎちゃうと、肉体
に現われて働くことは出来ない。といって物質化しすぎちゃ霊能がないでしょう。だから霊的な要
素と物質的な要素が非常にうまく調和している人が、一番いいわけなのですね。
私のような働きをするものは、殆ど霊体なのです。バイブレーションが細かくて、肉体はあるけ
れど、九九・九%ぐらい霊体なのです。あとわずかのほんのちょっぴり肉体要素があるのです。そ
れがないとここに現われていませんからね。
ところがふつう一般の場合には、肉体要素がなくなっちゃって、九九%も霊体になってしまうと、
家へ帰って奥さんの役もつとまらないし、会社へいっても会社の役もつとまらない。
私が昔、中央労働学園で働いていた時『天と地をつなぐ者』にも書いてありますけれども、自動
書記現象が始まったんですね。雑誌の校正をしていますと、自動書記現象が始まってくるのですね。
96
体を使われるわけです。いくら頑張って校正していても、ちょろちょろと他のことを書いちゃう
のです。まあ実に困った。もう一心こめて意志を強めて、霊界の働きかけを防いで、やっとこさ校
正しました。しまいに一頁開くと、とたんに間違ったところがみんなわかっちゃって、タッタッと
一分もかからないで、一頁を校正してしまう。だから校正が速いこと。普通の人より十倍も速いの
です。そういう時がありました。
人間というものは、肉体的要素と霊的要素とがちょうど中和して、五〇%五〇% になっていると
丁度いいのです。ところがそういうわけにはいかなくて、霊的な要素が八〇%の人もあれば、物質
的な要素が八〇% の人もあるわけです。五〇%五〇% になると、あの世でもいいし、この世でもい
いわけです。この世の生活をしながらも、しかも霊的に非常に働きやすい体1 そうすると、霊能
力である霊眼が開いて見えるという形でもなければ、耳に聞える形でもないのだけれども、それで
も間違わずに生活がやっていけるようになるわけです。それを自然法爾の形というのです。
世界平和の祈りは自分のためでもある
守護霊さんのこと祈りのこと
守護霊さん有難うございます、守護神さん有難うございます、世界人類が平和でありますように、97
とやっていると、自分の行ないがそのまま神さまの御心にかなっていくように、知らないうちに、
うまく動いてゆくようになるのです。そういうようにならなければいけないわけですよね。そうな
るために修行しているわけなのです。だから世界平和の祈りは、自分が霊的にもなり、しかもこの
社会の生活も不完全でないようになるための祈りでもあるわけなのです。
世界平和の祈りというのは自分のためでもあるのです。世界平和というと、何か遠い世界の、自
分と離れた世界のことをやっているように思うけれども、実は自分と離れた世界の祈りじゃなくて、
自分の霊性の進歩、人間としての完成を意味する祈りでもあるわけなのです。ところが霊的なこと
ばかり欲しまして、肉体要素というものを全然無視する人がよくあるんです。たとえば山にこもっ
て滝に当たったり、難行苦行して昔のようなやり方を、今でもしている人が随分あるのです。肉体
を酷使するということは、やっぱり神さまの御心にかなわないのです。
肉体というのは、やっぱり霊の容れものであって、肉体要素もないとこの世ではうまく働けない
のです。だからこの世でうまく働くためには、どうしても肉体要素もなければならない。ふつうの
人は、あまり食べ物を食べなかったり、精神統一ばかりしていたのでは生きていけないですね。
そこで私が教えている祈りというのは、年中、精神統一しているというんじゃなくて、いつでも
98
世界平和の祈りが中にある、心の中でいつも唱えている、世界平和の祈りを唱えつづけている、と
いうような、そういう祈りを教えているわけです。世界平和の祈りが心の中で鳴りひびいている、
そういう祈りを教えているわけなのです。だから特別に、一定時間、一時間も二時間も祈る、或い
は夜中に坐って統一しろ、ということを教えているわけじゃなく、やりたい人はやって結構なので
す。けれども、わざわざそうしなきゃいけないというんじゃない。
そのままいつも世界平和の祈りが鳴っている、自分が世界平和の中にいるんだという、世界平和
の祈りというのは、どういうのかというと、神さまの言葉なのです。神さまのみ心なのですよ。神
さまのみ心はいつでも世界平和の祈りよりないのです。もっといえば宇宙平和です。
私が世界平和の祈りを始めたので、負けてはならじと、宇宙平和の祈りというのをやっている人
がいるのですよね。世界より宇宙のほうが広かろうというのでね。聞いている人は笑いますよ、地
球はまだ自分のことは何も出来ていないのです。銀河系宇宙があります。いろんな星があります。
たとえば太陽系宇宙の中にも、いろんな星があります。その星の中で、地球が一番未開なのです。
一番遅れているのですよ。それなのに宇宙平和なんていわなくたっていいですね、地球世界が本当
に平和になれば、宇宙の星の一員になれるのです。宇宙の本当の活動体の一員になれるわけです。
99 守護霊さんのこと祈りのこと
ところが今は、地球は宇宙の星の邪魔者なのですよ。うっかりすれば、原水爆の実験をドカンと
やって他の星にも迷惑をかけている。地球世界が迷惑するだけじゃなくて、他の星には大変な迷惑
なのです。たとえば隣りの家が花火工場で、年中パーンパーンと鳴らしたら、こっちは寝られやし
ませんね。それと同じように、他の星に実害が伴うのです。他の星ではそれじゃ困るというので、
金星などが筆頭になって、火星や土星なんかと一緒になって、宇宙船、空飛ぶ円盤にのっていろい
ろと調べているわけなのですよ。
かくせい
調べている時代がもうすぎて、いよいよ本当に地球を覚醒させて、地球人の頭をポーンと叩いて、
少し目を醒まさして、地球人を宇宙の一員として、一緒に手を握ってやりたい、ということが叫ば
れているわけなのです。そこで各所で空飛ぶ円盤の話や、宇宙人の話が随分出ております。日本で
も今頃大分盛んになりまして、宇宙人なんていう本を出している人もあります。一どこかの週刊誌に
“おれは宇宙人だ
“というのが出ていましたね。その宇宙人だという人から、私に、自分は神さま
から宇宙を統一する使命を授かった、だから是非五井先生も協力してもらいたいという手紙が来た
んですよ。それで星島統一と名乗っているのですよ。本当の名前ではありません。星の島を統一す
るんだよね。星島統一だとこういうんです。
100
横浜の佐藤晋さんが「この人本当でしょうか?」というから、そういうことをいうのは本当じゃ
ないと答えました。本当の人は名前をわざわざ、自分は地球の統一者であるような星島統一なんて
自分で勝手に変えちゃうようなことはしない。本当の世界の指導者とか働ける人は、生まれた時か
らの名前が、そのままそういう役目の名前になっているんだ、と私は教えたのです。偉そうな名前
に変えたって、名前だけ変えてもダメなのです。生まれた時から、世界の中心になるとか、指導者
の一員になるとか決まっている。
姓名をみればそれに意味があるんです。姓名や生年月日にも意味がありまして、それで決まって
いるんです。だから五井昌久という名前を変えません。これは本名です。五井昌久ってやさしい名
前ですよ。子供でも書けるようなね、しかも意味がある。
五井昌久というのは、普通の姓名学じゃなく、言霊的なものを調べてゆくと、非常に意味が深い
姓名である。まず五と亀いうんですから、五つの井戸でしょ、昌というのは日が二つ重なっている。
そして久となる。みなさん研究するとわかります。そういうふうに決まっているのです。ところが
わざわざ星島統一だなんて、名前を変えて、自分は大神さまから統一を命ぜられたと世間に発表す
る、ということは神さまのやらないことなのです。
101守護霊さんのこと祈りのこと
神さまのやり方はどういうやり方かというと、いちいち発表しないんです。われこそはと名乗ら
ないんです。遠からん者は音にも聞け、というのは戦国時代であって、神さまは黙って、知らない
うちに行ないとして、成果として現わすだけなのです。ただ自分はこういうことをやっているとい
う、仕事は鮮明にするかもしれませんけど、黙ってやっているわけなのです。
102
自分の中から神さまが外へ出てゆく
私どもは世界平和を祈ります。祈るということは神のみ心をここに現わすんです。世界平和の祈
りはキリスト教の主の祈りと似ています。主の祈りはキリスト教だけしか祈れません。主の祈りは
それにちょっと覚えるにもむずかしいです。ふつうの人は知らない人がたくさんありますね。”天
の如く地にも行なわれんことを… …” というのですが、世界平和の祈りなら聞いただけですぐわかっ
ちゃいますよ。世界人類の平和っていうのは子供でもわかります。
ところがあの言葉に把われてしまって、
「今日、先生ね間違えちゃった、私たちの天命というのを先にやっちゃいまして申し訳ありませ
ん」と謝ってくる人があるんです。「そんなことはどうでもいいよ」というの。「世界人類が平和で……
が後にいったって、そんなことはどうでもいいんだ。そういう言葉でなくて、世界人類の平和を祈
るという心を自分の心にしなさい」ということを教えているんですよ。
世界人類が平和でありますように、日本が平和で… …というふうに順序よくいわなければいけな
いものじゃないですよ。逆様にいったって、どこから始まっても、自分がいいたいようにいえばい
い。或いは、世界人類が平和でありますように、そればっかりいっていてもいい。そういう言葉で
はなくて、声に出た鴇或いは文字に表わした言葉をいうんじゃなくて、心の中で、世界平和の祈り
というものを自分が覚えちゃえばいい、心が。それは練習していると自然に覚える。だから言葉で
声でもって、いちいち世界人類が… …といわなくてもいいですよ。ふつう心の中で、世界人類が、
ちぢ
こう思うだけで、もう世界平和やっているんです。それをもっと縮め”五井先生”と呼んでしまえ
ば、それでもいいのですよ。そういうものなのですよ。
よく祈りというと、その言葉通りそのままいわないと、間違えたように思うのです。それで私は
南無阿弥陀仏なんかうまいと思うんですね。短いから間違いません。しかしナンマイダとやってい
るでしょう。紙数えているみたいね。聞いていると南無阿弥陀仏なんていっていませんね。南無妙
法蓮華経だって、何いっているかわからないですよ。お経を聞いていますと一時間ぐらいかかりま
103守護霊さんのこと祈りのこと
すね。朝の仕度も忙しいのに、やらなけりゃならないでしょう。ですから大急行でやっていますよ。014
何だかさっぱりわからない。それでもやらないと気がすまないからね。なるたけ短く縮めようと思っ
て、猛烈に速くやって”今日は十分でやったよ、俺は”なんていっている人がいる。
そんなもの何になるの? それはやらなければいけないという、自分の想いで自分を慰めてやっ
ているだけなのです。お経というのはそういうものじゃないのです。心の底からやらなけりゃなら
ない。心の底からやるにはどうしたらよいかというと、その意味をよく理解することです。南無妙
法蓮華経を唱えていて、南無妙法蓮華経の本当の意味を知っている人は少ないんですよ。南無阿弥
陀仏だって、本当の意味をわかっていないんですね。それで唱えている。お経の意味でも本当にわ
かっていないけれども唱えている。有難いお経だよ、あ\そうですか、とやっている。
昔、おまじないのうまいお婆さんがあって、観音経かなんかの一節だったかな、唱えると病気が
治ってくる。どんどんね。ところが或る時お坊さんに、それは間違っている、本当はこういうんだ、
といわれて、唱え直したら、その言葉にひっかかって、病気が治らなくなっちゃった、そういうこ
とがあるんですよ。それはどういうことかというと、そのお経が治すんじゃなくて、そのお婆さん
の、自分は神さまにつながっているんだ、自分が唱えている言葉によって治るんだ、という信念が
相手にうつって治るんですよね。
だから意味のわからないことでも、本当に信念があれば病気ぐらい治るんです。病気ぐらいは治
るけれども、その人は救われるわけじゃないのですよ。人の病気を治すのがうまい人がありまして、
いくらでも治しているけれども、その人の生活というのはとても悪いというのがあるのです。人格
が低くて、家へ帰っちゃ嫁さんをいじめ、隣近所に悪かったりという人が随分あるんです。人の病
気なんか治さなくてもいいから、自分の生活が、家庭の生活が立派であれば、その人は立派なので
す。夫婦が相和し、子供とも仲良くしているのが平和なのです。そういう家庭をつくるための世界
平和の祈りでもあるのです。
世界平和の祈りというのは、心の中で祈りを唱えている時には「神さまが自分の中にいるんだ、
自分の中の神さまが外へ出ていくんだ」というように想わなければいけないですね。そう想うよう
に練習するのです。
祈っている人は輝いている
“世界人類が平和でありますように
“という時には、あ\神さまが私の中から出てゆくな”日本
105守護霊さんのこと祈りのこと
が平和でありますように”あ\神さまが出てゆくな”私たちの天命が完うされますように”あ㌧私
の光が輝いているなーそういう想い方なのです。何故そういうかというと、人間というものは本
来神の分霊でしょう、だから光り輝いているものなのですね。光り輝いているものなのだけれども、
まと
この物質界へ入ってきて、肉体というものを纒って、粗雑な波の中に入ったために、本来の姿がそ
のまま出ていかなくなっちゃった。だから勝手に自己限定といって、自分の能力を限定してしまっ
て、限ってしまって、自分はこれだけの能力しかないものだ、と思いはじめた。それがつもりつもっ
て業というものになった。
いのち
業というのは、神さまの全能力、あるいは自分の能力というもの、生命の力というものを否定し
た想いをいうのです。業想念と私はいっています。だから人をいじめたり、人のものをとったり、
人を憎んだりするだけが業想念ではなくて、自分というものをいじめる想い、自分はダメなのだと
いう想いも業想念なのですよ。自分はダメだと思う人があるのですよ。或る人がたとえば「五井先
生のところに行きなさい、救われます」というと、「いやダメですよ、私のような悪いものはどこ
へ行ったって救われません。私は地獄です。生きながらの地獄です」なんていう人がいるんです。
自分で勝手に地獄にしちゃっているんです。
106
地獄も極楽も自分の心の中にあるもの。それを勝手に自分が地獄におちてゆく。たとえば「世界
平和の祈りを祈れば、あなたは光明燦然としているのですよ」と私が教えます。すると皮肉な人は
「へーそうかね、私はそんなこと思いませんよ、思えませんよ」という。思えなければ勝手にしな
さい、と私はいうんです。思えない人は思えないままで、そのままの生活をすればいいのですよね。
たとえば「この世の中は暗黒だ、何祈ったってダメなのだ、この世界なんか救われるものか」と思
う人があって、いくらこちらからいってもわからなければ、その人は勝手に暗黒の世界に住んでい
るだけなのです。自分で勝手に電気をつけないんだからね。ここに電気がありますよ、ひねりなさ
い、というのに、勝手につけないで”おー闇だ” といっているのと同じですね。そういう人はいつ
までたっても闇ですよ。
人間は素直ということが大事ですね、一番大事です。だからいいことをいわれた時には、それが
嘘であろうと思っても、いいことなんだから、やってみるんですね。人に会ったらニコニコとしな
さい、といわれたら、ニコニコしたって損はないから、なるたけニコニコしていればいいですよね。
ニタニタとかニヤニヤはダメですよ。あの人なんだろうニヤニヤして向こうから来るけど、いやな
男だ、とこうやられる。ニヤニヤではないニコニコして、なんとなく嬉しそう、なんとなく明るい
107守護霊さんのこと祈りのこと
ようなーそういうことは練習すれば出来ますよ。
朝、鏡をみてニコニコ、晩にニコニコ、自分の顔に挨拶して出かければいいですよ。いいと思う
ことは「こうなさい」といわれたら「あ、そうですか」って素直にやってみればいいのに、やらな
い。世界人類の平和を祈りなさい、ということはいいでしょう。いいとわかっていながら、わざと
じやく
反対する、天の邪鬼というんですね。そんなことやったって、良くなりませんよ。素直な人がまず
第一番に救われるのです。
すなお
素直というのはどういうことかというと、字の通りに、素といって「もと」に直いというんだか
ら、もとに正しい、もとに直接くっついている、ということです。従って、神さまのみ心をそのま
ま行ずることは素直なのですね。
神さまのみ心の一番現われている行ないは、愛なのです。私はいつも、慈愛、慈愛と書いて、本
部にも”慈愛” の額がかかっていますね。慈愛というのは、いつくしみ愛することでしょう。慈悲
というのとはちょっと意味が違うんだけれども、慈愛のほうがわかりやすい。慈愛というのは神さ
まのみ心なのです。だから愛から始まった行ないでなければ、本当に世界を救うわけにはいかない
のです。愛というのは損得でやるんじゃないですよ。108
愛をほどこす
自分が救われると同時に人を救う唱え言
昭和3 年6 月15 日
愛とは平和な心
愛というのは、相手のためを想い、自然に向こうのことをしてやりたくなる、向こうの幸せを祈
る、ということです。ところが具体的には他人にどうしてやっていいかわからないでしょ。そこで
一番わかりやすくて、一番効果があって、一番ひまのかからなくていいのは、世界平和の祈りなん
です。
世界人類が平和でありますように、という時には、世界人類の平和を祈っているんだ。日本が平
和でありますように、という時は日本全部の平和を祈るわけですよ。私たちの天命が完うされます
ように、というのは私ばかりでなく、みんなすべての天命が完うされますようにでしょ。それで守
109 愛をほどこす
護霊さん守護神さん有難うございますー簡単でしかもとても効果がある。というのは、何でもな
かいめつ
くて愛を施していることになるんですよ。そうでしょう。世界人類が一日も早く潰滅しますように、
といったらそれは悪魔の想いでしょ。
ところが実はそういう祈りをしている人が随分あるんです。自分では気がつかないだけなのです。
あ、どうせこの世はダメさ、よくなりっこないサ、今に戦争になって全滅だよ、なんて思ってい
る人がある。自分の生活がちょっと悪いと、どうせオレは悪いんだ、みんな火事になって焼けちま
え、とか、あ\天変地変でもくりゃいいんだーそんなことをいう人が随分あるんです。いわなく
ても心で思っている人があるんです。それは世界人類が早く潰滅しますように、と祈っていると同
じなんです。
自分をいつもいつもいじめて、あ、どうせ人類はダメだ、人間というものはダメなもんだ、人間
はどうせ救われないんだ、永遠に救われやしないんだ、といつもいつも思っている人は、これは世
界人類が早く亡びますように、と祈っていることと同じなんです。
人間ていうものは想いがすべてを決定する。光はいのち、光は神です。でも神の力を利用して、
自分で業想念を出して、それで自分を包んでしまい、神の光を包んでしまい、人類の光を包んでし
110
まっているのが、神さまの完全円満というものを否定する想い、人類はダメだ、自分はダメだく
という業想念であって、神さまの光を消してゆく想いなんです。ところがそういうことをみんなやっ
ているんですよ。ただ知らないだけ。
私が説くところは、この人間というものは肉体人間がほんものであって、あとは神も仏もない、
と思うような想い、肉体人間だけに依存しているような想いでは、絶対、人類はよくならない、と
いっぺん否定するのです。今までの人間の考え方じゃダメなんだ、肉体の人間だけに依存していた
んでは、この世は亡びてしまうんだ、どんな政治家が出てもダメだ、神と本当に一つになっていな
きゃダメなんだ。
だから岸内閣が出ようが、どの内閣が出ようがダメだと私はいうんだ。それはまずつぶさないよ
うに守って行くだけですよ。積極的にどうにもなりゃしません。アイゼンハワーがやろうが、フル
シチョフがやろうがそれはダメです。ただその場その場を守っているだけで、まあ或る人よりは戦
争の起こるのを先に長く延ばせる、というんで本当の平和になるわけじゃない。神さまのみ心の地
上天国になるための政治家はまだ誰も出ていない。
地上天国をつくる政治家はどういう人かというと、今までのように肉体の頭に依存して、肉体の
111愛をほどこす
人間が少しでも偉いと思っているーそういう考えじゃダメなんです。
肉体の人間では何も出来ない
肉体の人間ていうのは一つも偉くないんですよ。肉体の人間というのは肉体だけでは何も出来な
いんですよ。何故出来ないかというといのちは神から来ているんだから、いのちがなくなったら心
臓が止まっちゃうんだからね。頭も動かなくなっちゃうでしょ。いのちは神から来ている、だから
神から来ているいのちが働かない以上は、あしたポックリ死ぬかも知れない。ものすごく優秀な頭
だとしても、あしたポックリ死んじゃうかも知れないんですよ。
人間の力じゃ一分先も一秒先もわからない。わからないのに自分の力に依存しているんですよ。
そういう政治家がいくら政治をとってもダメです。自分がいつ死ぬか、いつどうなるかわからない
ような人がやったってダメでしょう。
これからの本当の地上天国が出来る時の政治家というのは、神と直結して、神さまのみ心がその
ままわかる人でなきゃダメですね。神のみ心のわかる人が日本にも現われ、アメリカにも現われ、
イギリスにも現われ、どこにも現われて、それでみんなが輪になって手をつなげば、光の輪になり112
ます。そういう政治が出来れば、世界は必ず良くなるに決まっているでしょ。
そういう政治をつくるために、自分たちの肉体の想念ではダメだ、という自己否定がなければダ
メです。自己否定してどうしたらいいのかというと、神さまにつながらなければいけない。神さま〃”
どうかみ心の如くならしめたまえ、とか、み心をわが内に働かしめ給え、そんな言葉ですね。けれ
どそれは面倒くさいから「世界人類が平和でありますように、日本が平和でありますように、私た
ちの天命が完うされますように、守護霊様守護神様ありがとうございます」といえば、それはその
まま神さまにつながっているわけです。
神さまのみ心の中に想いが入っちゃって、そういう想いを根底にして動き出せば、日常生活もよ
くなる、家庭もよくなります。実際うまくいっている人がたくさんあるんです。世界平和の祈りを
やっていて、うまく行っているということは、科学的実証なんです。
世界平和の祈りを根底にしなければ、これからの世界はよくならないということなんです。どい
うことは、世界平和の祈りをしていれば、本当に神に直結して、いい政治家も出れば、いい発明家
も出れば、そういうものがみんな輪になって、真実の世界をつくるんだ、ということになるんです。
もう一つには、この地球界だけでなくて、宇宙人が本当に働きかけて、地球の力ではまだ割りき
113愛をほどこす

れない力、地球の知恵では足りない知恵を、向こうから貸してくれます。それで宇宙人の優れた知
恵を借りた場合には、その知恵を借りた国というものが中心になります。地球人にない知恵、地球
科学にはない科学、そういうものを貰った人は、一番力があるわけです。いわゆる神さまがそのま
ま現われた人は力があるに決まってます。そういう人たちが多く日本に現われれば、日本は一番中
心になるに決まっているでしょ。
宇宙人はどういうことを考えているかというと、宇宙の平和を考えているんです。みんな兄弟姉
妹である、みんなが手をとりあって、神さまのみ心を現わすんだ、ということが、宇宙人の念願だ
し、実際にやってるわけですよ。金星なら金星、火星なら火星ではそうやってるわけです。ところ
が地球の世界ではそうじゃない、反対でしょ。自分を偉くしたいく自分がくって、個人もそう
だけども、国と国ともそうなんですよ。だから自分がくという人たちばかりであったらば、地球
からくう
人と宇宙人は手はつなげないわけですよね。宇宙人は「自分が」という我のない人、空っぽで空に
くうそくぜしき
なった人、空即是色で、神さまと直結しているような人を探して歩いているんですよね。向こうか
ら偵察に来ちゃ探している。向こうで見ていて、あ\五井先生がやっているな、手をつなごうかな
というふうに考えるわけね。一所懸命探して、探しあてた。こっちは探しあてられたんだね。とい
114
うことは前からの過去世からの約束事みたいになっているんだけれど。
この祈りはわかりやすく力がある
世界平和の祈りでこの地上界に業想念がなくなってゆく。世界平和の祈りをこれだけの人がやれ
ば、この中の業想念がなくなるんですよ。それでその光はズーッと宇宙いっぱいにひろがってゆく
んです。光が流れて行くんです。
今まで聖者がたくさん出ました。出ましたけれど、その聖者たちは縦に光を貰っているけれども、
横にパーッとひろげる方法を知らなかったんですね。南無阿弥陀仏をやっていても、それは自分だ
けが救われるっていう考えなんです。自分は死んでも極楽よ、浄土へ行かれるとかね。極楽浄土へ
行かれるっていうふうに思うだけ。それは個人的な願いであって、小さなものなんです。その人だ
けなんですね。
ところが私のやっているのは、世界人類の平和を祈る祈りなんです。自分が救われると同時に人
を救う祈りなんですね。世界平和の祈りをしていれば自分が光ってきます。神さまのみ心の中に想
いが入っちゃうんだからね。業想念はみんな消えちゃって、光がズーッと入ってくる。その光が向
115愛をほどこす
こうに伝わってゆくわけですね。
それをいっぺんくらいやってネ、「先生、わたしまだ自分の心が納得しないんです」という。「あ
ひとつきひとふた
なた、うちにきて何年になるの」「まだ一月にならないんです」一月や二月で世界平和の祈りを体
得しようというのは無理ですね。前の世でさんざんやった人なら別だけどねエ。この世で初めてやっ
たような人が一月や二月で世界平和の祈りの真の意味をわかろうっていうのが無理ですよね。本当
の意味をわかるためには、白光の教義をよく読んで、お話をよく聞くことです。
救世の大光明が世界平和の祈りによって現われてくる。それを地上界でやっているのは、私が中
心になってやっているんです。これは間違いもないことですね。世界平和の祈りとほかのいろんな
祈りと、常識で考えて比べてごらんなさい。いろんな祈りをみなしていますよ。どこかむずかしい
とか、憶えにくいとか、なんだかやっていて実感がわからないとか、どこの祈りもね。ところが世
界人類の平和を祈るというのは、楽々とわかりやすいんです。誰にでもわかって力があるんです。
祈るなら誰にでもわかって力があるほうがいいでしょ。世界人類が平和… …といえば子供でもわ
かりますよ。言葉がそのまま本当だからね。これがどうして前の人が考えられなかったかって思う
んですね。私の前の人が誰もやっていないんです。前からやっているというのは嘘です。ただ世界
116
が平和であるほうがいい、それだけですよね。平和を祈る会といって、世界人類の平和を祈ろう、
と全部に世界平和ばかり教えているというのはないんですね、大概は病気が治るからいらっしゃい、
運命がよくなるからいらっしゃい、ただそれだけ。それで自分の教義だけを押しつけてへこうしな
ければダメだ、というんですね。
お釈迦さまの時代でもそうなんです。お釈迦さまの説教というのは、やっぱりこうしちゃいけな
い、こうしちゃいけない、という戒律がずいぶんあり、それを教えたわけですね。お釈迦さまが生
きていた時代には、お釈迦さまに力がありましたから、なんだか悪いことが出来なくなるような想
いになってくる。自然に向こうが変わってくる。私と会っているように変わってくるんですね。そ
ういう力がお釈迦さまにあったから、まだ戒律があってもよかったんですね。ところがお釈迦さま
が亡くなったら戒律ばかりが残ったわけです。こうしちゃいけない、あ、しちゃいけない、こうい
う心は悪いこころだ、そんなことばっかりいって、因縁因果ばかりを説くようになってちゃった。
肝腎な「人間本来仏性なり」「人間は仏なんだ、仏の性分を持っているんだ」ということはだんだ
ん忘れてしまって、因縁因果だけを説いたんですね。
そうすると、宗教をやればやる程、人間の本当の尊厳さ、神の実体というものを忘れてしまって、
117愛をほどこす
業ばかりつかむようになった。しまいには、浄土真宗なんかは、坊主でも仏なんかあると思ってい
ないんですよ。この世の肉体以外にはないと思っちゃっている。肉体以外の世界があると思ってな
いんですよ。坊主の中でそういう人があるんです。「それじゃお前さん、何を拝ませるのか」「いや
お経は良いことが書いてあるから読んでいる。読んでいる本人が心が浄まるだろう」それだけじゃ
ない、読まれている向こうも浄まるんでしょ。ところがこちらが浄まってなきゃ向こうは浄まらな
い。
118
自分が救われると同時に人を救う
世界平和の祈りのようなものは、浄まろうと浄まるまいと、祈りとしてやっている時には、世界
人類が頭の中にあるんだから、世界人類の平和を思いますよ。どうやったって、ちょっぴりでも思
います。いいですか、”世界人類が… …” と思いますね、そういう時にはちょっと縁を出せば、ちょっ
と出せば、世界平和を祈っている神々がいるんですから、神の光明がヒューッと吸いとっていっちゃ
うんですよ。世界平和って思う時にはネ、救世の大光明がその人の想いをビューッて持っていって
くれるんです。だからそれをつづけていれば、知らないうちに業想念ごと、業想念のまま、恨めし
いとか、情けないとか、自分はダメだとか、なんとか、かんとか思ったまま、そのまま神さまのみ
心の中に入ってゆく。そういう教えは今まで一つもないんです。
ほうねんしんらん
業想念を持ったままで、神さまのふところの中に入ってゆくというのは、法然親鸞の教えきりな
いんです。南無阿弥陀仏といえば、弥陀のふところに入る、浄土へ行く、一向専念南無阿弥陀仏と
いった教えは、片方は同じなのです。真宗の教えはそれだけなのです。それからもっと進んで、世
界平和の祈りをやっていれば、自分の業想念、自分の悪い運命を持ったままで、神さまの中に入れ
る、入ってゆく。自分の心が知らないうちにきれいになってゆくと同時に、その自分の体を通って、
おうそうげんそう
神さまの大光明が今度は人類世界にひろがってゆく。だから二つのことをやっちゃう。往相と還相、
自分が救われると同時に人を救うことが出来るのが、世界平和の祈りなんですよ。
これは本当によく憶えて下さい。何遍もいいますけれども、これはよく憶えておかなければなら

ない。自分が救われると同時に人を救う唱え言というのは、世界平和の祈りよりないんですよ。他と

に竺つもないです。しかもやさしくて誰にも出来て、蕃現代的であるという整はないんです磁
愛よ。何故今までやらなかったかというと、やれなかったんですよ。それは私がやることになってい
るから。そういう役目が私にあるもんだから、私にとっておきに置いといたんですね。それで私は㎜
世界平和の祈りをやる。
私にむずかしい理論や法戦のような言論をたたかわせようとして来ても、私はもうハイハイハイ
八イと聞いているだけです。向こうの人はしゃべるだけ。「あ、そうですか/\ 、お偉いですね、
世界平和つてこっちはやっています」何もさからいもしない。向こうはしゃべるだけしゃべれば帰
りますからね。こっちは世界人類が平和でありますように、と光をあげるだけです。それだけでい
いでしょう。
たとえ家庭であっても、妻なら妻がごねても、良人が文句をいっても、文句をいわれた時には
「あ\良人の業が消えてゆく、世界人類が平和でありますように」とやってごらんなさい。向こう
が、このヤロウっていっている時、目をつぶって、世界人類が平和でありますように、とやってご
らんなさい。おこれませんから。ためしに今日でもやってごらんなさい。それをお互いにやってい
るうちにはもう喧嘩になりませんよ。あ、うちの家内にいってもダメだ、拝まれちゃうから、とい
うことになります。
120
簡単な原理で救われる
消えてゆく姿と世界平和の祈りを、うまくまぜ合わせてあるのは、とても素晴らしい教えなんで
す。どうしてこんなに簡単で、こんなに素晴らしい教えが出たかというと、これは神さまが説かせ
ているからね。人間にはとってもこんなのは考えられないです。あんまり易しすぎて考えられない
んですね。
人間というものは少し勉強すると、頭が複雑になって来まして、簡単なことで人が救えると思わ
ないんです。ところが発明でも発見でも簡単なところに原理がある。蒸気機関の原理を発見した時
というのは、ヤカンの水が煮たって、蒸気でボコボコとブタを浮き上がらせていた、というんでし
ょ。それを見た時、あ\これだと思って蒸気機関を発明した。簡単なことですね。それと同じよう
に、宗教の教えというのもやっぱり簡単でなければいけない。簡単な原理で救われる。むずかしく
なければ救われない、というんだったら、この人類は救われっこないですよ。
大体、人間なんて面倒くさがり屋なんだから。面倒くさいことなんか出来やしない。たとえばヨ
ガで呼吸法というのがあります。いくつ息を吸って、いくつ息をとめて、いくつ息を吐く方法、そ
121 愛をほどこす

ひとつきふたつき
の他呼吸法があるでしょう。それをやっても、一日や二日はつづきます。一月や二月はつづきます。
でもくたびれちゃう。それ程効果はないからね。そのうちにいやになってやらない。面倒くさいこ
とはとても出来ないんですよ。健康法に手の指を片方の手でもってグルグルまわすのがあります。
これくらいならできますね、簡単な楽なことだから、「そうですなア」って話しながらでも出来る。
要するに簡単な方法でないと人間はやらないし、つづかない。
どんないい方法でも、むずかしい方法はつづくもんじゃないですよ。しかも一般の全人類がやるっ
ていうためには、少なくとも、日本人だけが全部やるっていう方法はむずかしくちゃ出来ません。
ところが世界人類の平和を祈ることは簡単これ極まりない。しかも悪い運命、悪い性質、悪い想い
はみんな消えてゆく姿ですよ、っていうんでしょ。
世界平和の祈りさえやっていればいいんだ、現われてくる業はみんな消えてゆく姿。お父さんが
怒った想いは消えてゆくんだ。自分が嘆く、その嘆く想いは消えてゆくんだからね。悪い成績を子
供がとったら、その悪い成績はそのまま消えていって、いい成績が今度は現われるんだ。現わす方
法はどういうことかというと、世界平和の祈りをやればいいんでしょう。こんなに簡単でわかり易
くて、効果のあるものはありませんね。
122
新兵いじめと同じ脅迫的宗教
簡単でしかもわかりやすい教えでなければ、末法の世には容れられないんです。業想念の浮き立っ
おど
ている時には、あんまりむずかしいことをいってもダメなんですね。そうでなけりゃ脅かすか他に
しようがないでしょ。○ ○ ○ 会など、入らなきゃ罰が当たる。話をきいて入らなきゃ罰が当たる。
入ってぬけりゃまた罰が当たるっていうんでしょ。(笑) 罰ばっかり当てているでしょ。みんなそ
こわちぢ
んな脅かしに怖がって、小さく縮まりながら入ってゆくでしょ。入ると今度は自分がさんざんいじ
めるようになるんですからね。軍隊と同じ。
軍隊に新兵が入って来ますね、そうすると新兵の時さんざんいじめられた一等兵が、今度はがん
がん殴るでしょう。その新兵が二等兵になり一等兵になると、入って来た二等兵をがんがん殴る。
折角、天皇陛下の大御心はみんなをいじめないで、みんな平和になるように、みんな調和しながら
やるように、っていう心なのにサ、その心がどこかへ行っちゃって、いじあられたから仕返そうと
思う自分の業でもって、がんがんいじめちゃうんですね。業想念が廻り廻ってゆく軍隊、それだか
ら敗けちゃったんだね。
123愛をほどこす

私は日立製作所の亀有工場にいまして、音楽を教えていたんです。兵隊にも教えていたんですよ。
そうすると兵隊が並んでいると、私が台の上にのぼるんです。私は軍隊の教育なんか受けてないも
んだから、どうしていいかわからない。戦闘帽みたいのをかぶって台の上に立ったら、上等兵が
かしら
「五井先生に、頭アなかア」とやった。わたしはどうしていいかわからないんだ。そしたら一等兵
か二等兵か知らんけど笑っちゃったの。そうしたらネ、その上等兵がそれをバーンと蹴飛して張り
倒したの。私は心優しいでしょ。あ、私のためにぶたれちゃって、ごめんくと思ったよね。こっ
ちは、人の心も知らないでと思った。困らせようと思ったんじゃなくて、楽しませようと思って、
歌を教えようとしているのにねえ。こっちの心も知らないで撲りとばしちゃう。あ\軍隊は情けな
いな、私は軍隊に入らなくてよかった、と思ったその時。それと同じようなことを、宗教団体が今
やっているわけです。
先に入った者は、おい罰が当るぞくと違う人を入れてくる。後輩をどんどんふやす。また入れ
られた新兵がほかへ行って罰が当るくで入れてくる。そういうふうなことをして、いくら人数を
集めたってそれはダメですよ。調和から入っているんじゃない。平和から入っているんじゃないん
だものね。自分が怖いから入る。それで入ったら自分の権力を示したくなって、自分が威張りたい124
ものだから新兵をいじめる。それで入れるというんだから、業の固まりです。業想念の固まりがつ
まっているだけです。それは宗教でもなんでもない。軍隊の悪いところだけをとっている。新興宗
教は脅迫的宗教なんですよね。
私はそういうことは絶対出来ない。私の心が出来ないし、神さまのみ心はそうじゃないからね。
みんな悪いものはないんですよ、みんな業が消えてゆく姿だというんでしょう。
神さまは救いたくってしようがない
あなたが悪いと思っているけれども、それは今のあなたが悪いんじゃなくて、過去世において神
さまから離れていたあなたの想いが、業想念になって今現われて、今の不幸になり、あなたの短気
ねた
になり、あなたの恨み心になり、妬み心になって現われているんだから、妬み心が現われた場合に
は、恨み心が現われた場合には、偽りの心が現われた場合には、それは消えてゆく姿なんですよ、
まか
とこういうでしょう。だから、そんなことは消えてゆく姿に任せておいて、あなたは世界平和の祈
りを祈りなさい、といっている。これは実に楽ですよ。わかりやすい。責めないんだから。
人間というものは、威張りたい心と卑下したい心と両方あるんですね。なんだか威張りたくてし
125愛をほどこす
/
ようがない心、権力をみせたい心。それからなんだか自分もみじめにくみる心とあるんです。権
力をみせたい心のあるものは業の姿でしょ。たとえほめられても、けなされても消えてゆく姿。自
分の中に、どんなに自分を否定する想いが出ても、それは消えてゆく姿。
「私はネ、平和の祈りを祈ろうと思うんですけれど、わたしの家はゴタゴタしてまして、うちが
まるで平和じゃないんですよ、だから世界平和なんか祈る気持ちになんかならないんです」と思う
想いがあったらば、それは消えてゆく姿。たとえば、今あなたの家が争っているとするならば、争っ
ている想いは消えてゆく姿ですね。だから争ったら争ったで結構だから、あ」それは消えてゆく姿
なんだなア、世界人類が平和でありますように、と祈る。あ、こんな想いが出て、こんな争ってい
る想いでもって世界平和… … とやってもなんの効果もないだろう、と思う想いは業の想いで、消え
てゆく姿なんだから、あ㌧消えてゆく姿と思って、世界人類が平和でありますように、と祈る。な
んべんでも、自分の神性を否定する想い、自分の完全性、自分の完全円満性を否定する想いは、全
部消えてゆく姿にして、世界平和の祈り一本に入ってゆくんですよ。そうすれば、やがて自分の心
が光り輝いてきて、自然に勇気が出て、なんだか明るくなってくる。そうすると家の中がよくなっ
てゆくんですよ。126

このように簡単でもって、しかもみんな赦してゆくように教えた神さまってのは、大したもので
すよ。本当に神さまってのは大したものだと思います。
神さまは救いたくってくしようがないんだ。なんとかして人間をいじめないで救ってやりたい、
みじちぢ
こんなに惨めに縮まっている人間なんだから、なんとかして人間の心をひろくして、神さまのみ心
をわかるようにしてやりたい、そうして働いているのが救世主なんですよ。
昔・瀦馨薩が・わたしの名を呼んでみんなが救われなければ、わたしは益襲をとらない、自分
ぶつあみだ
は仏にならない、と宣言したでしょう。そして阿弥陀仏になられた。阿弥陀仏の大慈悲というもの
は消えてゆく姿の教えなんです。本当の意味の阿弥陀さまの教えです。
あなたが悪いんじゃない、その人が悪いんじゃない、向こうが悪いんじゃない、みんなそれは過
去世の業が消えてゆく姿であって、今のあなたは世界平和の中にいるんだよ、神さまのみ心の中に
いるんだよ、あなたが悪いんじゃないんですよ、とこういうんですよ。いい教えでしょう。
お前が先祖を拝まないから先祖が崇っている、お前の拝みが足りないからと責めているのと、あ、
お前が悪いんじゃないんだよ、過去世の因縁が消えてゆく姿なんだよ、今の妻が悪いんじゃないん
だ、お前の息子が悪いんじゃないんだ、みんな過去世の因縁因果が消えてゆく姿なんだから、ひた
127愛をほどこす

すら世界平和の祈りを祈りなさい1 比べてみて下さい。どこも責めてないでしょう。神さまが人
を責めるわけがないんですよ。神さまが罰を当てるわけが絶対にない。何故無いかというと、自分
の子なんだからね。
自分の子を憎むわけがないでしょう。自分がつくった子供を憎んでいるのはおかしい。自分がつ
くったその子に、もし業があるなら、自分の責任でしょう。大神さまが人間を創ったことに決まっ
わけいのち
ているんだ。そうして、自分の分生命が悪いことをするならば、これは自分つまり親の責任ですよ
ふびん
ね。子供が悪いことをしたら親の責任でしょう。それと同じように、神さまは人間が不欄でならな
いのです。
人間が悩んでいる。地球世界で悩み悩んで、今にも一番苦しい生活になっちゃうという地獄のよ
つか
うな苦しみは、見ているに忍びない。だから守護霊や守護神を遣わして、一所懸命救わせようとし
ているんです。それをまとめた光、大光明を救世の大光明というんですよ。その働きがここに現わ
れてきて、世界平和の祈りを説いているんです。
世界平和の祈りをおやりなさい。片方では消えてゆく姿とおやりなさい。消えてゆく姿、世界平
和の祈りなんだよ。神さまはお前たちに罰を当てるなんて絶対ない。お前たちを苦しめようとはし
128
てないんだ。だからそれを信じなさい。神は愛なり、で神の愛を信じて、ひたすら世界平和の祈り
をしなさい。あとはみんな消えてゆく姿だ。どんなにお前さんが苦しそうで、貧乏であろうとも、
いさか
どんなに謬いをしている世界であろうとも、それはみんな消えてゆく姿なんだよ。個人も国も世界
も同じなんだ、世界平和の祈りをやんなさい。こればっかり神さまは説いている。それをふかーく
肝に銘じなさいよ。
祈りの同志は尊敬し合っている
今、先達みたいになっている、いわゆる霊能力のある人たちは、自分の体全部を、いのちを世界
平和の祈りの中に投げ打って宇宙人と手をつないでやろうと思ってますが、その人たちがお山といっ
ている所が市川にありまして(今の聖ヶ丘)、そこにいって一所懸命統一しています。そのまわり
には、午前十時に祈ったり午後三時に祈ったりしている人が、集団で祈っています。またその外部
にいる方々が家にいて祈っていますね。そういう祈りに助られて、中心になって働いている人たち
が光り輝いてくるんですよ。そこへ宇宙人が勿然かすっきりかわかりません、どういう姿で現われ
るか知らないけれど現われて、いろいろと打ち合わせて、地球を宇宙の一員にしてくれるわけなん
129 愛をほどこす
ですね。そういう運動を世界平和の祈りを根底にして、今やっている。
今働いている人たちはみんないのちを投げ出しています。肉体なんか全然問題にしていません。
それでいてその人たちが家の仕事が出来ないかっていうとそうじゃない。家の仕事もちゃんと出来
る。みんな立派な家庭女性であって、男性であって、みんないいおとっつあんであって、あたり前
の人なの。みんな明るくて、ニコニコしています。まるで幼な児のように。お前が悪いってことを
いっている人は一人もいません。お前の心が悪いなんていっている人もありません。斎藤さんと村
田さんにしろ、斎藤さんは「村田さんのような正直な誠実な、あんないい霊能者はいない」という。
そうすると村田さんのほうでは「斎藤さんみたいな、あんな立派な人はいない」こういっている。
わざとほめているんじゃないですよ。心からお互いにほめ合ってやってるんですね。そういう団
体というのは少ないですよ。どこの団体へ行っても陰じゃ、あの野郎なまいきな、なんだかんだいっ
てやってるでしょう。大概そうですよ。教団なんか行って内部を見るとゴチャゴチャやっている。
面と向かえば、ハァそうですな、なんてやって、ニコニコしているようにみせて、ちょっと離れる
と、自分の部下などいると”なんだい… …”とやっている。私には聞えてきます。みんなそういう
のが多いんです。そうでなきゃ、自分の教団だけの財源をふやし、うんと大きな建物をたてて、形130
の上で権威を見せようとする。そういうことは馬鹿げたこと。
形の世界で権威を見せて何になるか。たとえ一万坪の家を建てたって、五万坪の家を建てたって、
宇宙の人間が全部入れやしないでしょう。百万坪の家を建てたって、日本人全部は入れやしないん
ですよ。日本人全部入れることが出来る建物なんかなくたって、いくらだって自分の教えを伝える
ことは出来ます。世界平和の祈りなんかそうですよ。もうちょっとたってごらんなさい。バーッと
ひろがっちゃいますから。
お山の真ん中にビニールハウスがあります。お山というのは統一の場所なんです。金田さんと市
川是清さんが骨組みを出して造ってくれた。金子さんがお金を出してくれて、大きな声じゃいえな
いけれども、五万とはかからないですよ。そういう八畳敷きぐらいの家が建っているんです。「お
山に家が建ったく」っていうから、さぞかし堂々たる建築で家が建ったと思うと、さにあらず。
ビニールハウスといいまして、今までは野菜や草木のおうちなんですよ。その家を人間が初めて住
んでみたんです。(笑) 住めるか住めないか試してみよう、一番安いのがいいだろうってね。(笑)
そこへこの間も四十人ばかり入ってお祈りしたんです。五万円に足らないお金で出来た家に住ん
で、毎日お祈りしているんです。便所と物置きは村田さんと島田さんが一所懸命大工さんになって、
131愛をほどこす
カチンコく夜中までやって、それで造ったのが出来ている。その中でお祈りしているんですよ。32
1
一番重要な世界を救う祈りをしている。ろくでもないお金ばっかり集めて、ちっとも人を救いも何
もしないで、威張っている連中が、でかい何万坪かの建物を建てて、弟子が頭を下げても、会見も
しない。そういう逆な現象が今はある。
そういう人たちはいかにも地位が高そうに、偉そうに見えるけれど、神のみ心の世界では逆です。
一番貧しい中にいて、一番みじめなようなところにいて、それでいのちを投げ出して世界平和の祈
りをしているということは、これはもって瞑すべしですよ。こういうのを愛というのです。真の行
という。これにいのちを投げ出してゆく人がますますふえますよ。そういうふうにいのちを投げ出
した時には、その命は生きるんです。
殻をやぶる
いのちを捨てざれば命を得ず、というキリストの言葉があるんですね。いっぺんいのちを世界平
和の中に投げ出してしまわなければ、本当のいのちを得ない、永遠のいのちを得るわけにはいかな
いですね。だから、病気が治りますように、お金がもうかりますように、ご利益だくなんて、そ
んなチッボケな考えは世界平和の祈りの中に投げ出しちゃうと、お金ももうかるし、病気も治っちゃ
う。
チッボケなくな殻に入ったんじゃダメですよ。それはいつまでたってもチッボケですよ。チッ
ボケな殻のままでいいから、想いのままでいいから、世界平和の祈りの中へ入ってゆくと、だんだ
んくチッボケでなくなって、だんだんく大きくなる。金もいらなきゃ名もいらぬってなことに
なります。本当のいのちが生きます。自分の天命が完うされますように、というただ一つの想いに
なってしまう。そうなりますと、日本が救われ、世界が救われるんです。

形の世界ではありません。形を超えた世界の中で、本当に生きなければいけません。ところが心
の影というのがあるんですね。心で思う通りに形に現われる、というのは本当でもあるし、嘘でも
あるんだね。
肉体が私のように細い、また斎藤さんのように細い人は、心がせまくて細いんだということにな
ります。ところが実際の問題として、体が大きかろうと小さかろうと、そんなことは問題じゃない。
無心になって、無我になって、世界平和の中にとびこんでゆくと、その人は一番立派なんです、わ
かりますね。体のでかさだけをいったんじゃ、山下清さんが一番えらい。彼は自分が一番尊敬する
133 愛をほどこす
のは目方の多い人だというんだ。あれと同じになっちゃいますよ。目方が多いから偉いんじゃない。
背が高いから偉いんじゃない。また背が低いから偉いんでもないんですよ。
小さい大きいなんて形の世界はどうでもいい。それと同じように建物が大きかろうと、せまかろ
うと、そんなことは問題じゃない。その中で働いている心というものが、神さまとしっかりと手を
握って、神さまのみ心をそのまま現わしているという人が一番偉い。お説教だけしているから偉い
んじゃないんですよ。
私がいくらお説教をしたって、自分がそれをやっていなければ、三文の値打ちもないんです。私
自身がやらなかったら私は地獄なの。ところが私はやっていること以外はいわないんです。世の説
法家というのは、やれないことを、やらないことを人にいうんです。自分がやっているかというと、
やれやしない。自分がやれないことを人にいってもダメだから、自分のやれることをいう。やれる
ことというのは世界平和の祈りぐらいは出来るね。だから世界平和の祈りをみんなにやらせればい
いわけですよね。
そういうわけなんですよ。
134

一人の人間がすべて
昭和3年6月26日
(この日、まず坂井義秀さんが体験を話した。それを受けて、五井先生のお話が始まった)
くりつ
消えてゆく姿と空
坂井さんは今生はどこの宗教もやらなかった人なんです。前の世では私と一緒にさんざんやった
人なんです。八年ぐらい前に私に会って、それから明けても暮れても”消えてゆく姿” を行じて、
それが本物になった。はじめは力んでやっていましたが、そのうち当たり前になってきました。
くコつ
消えてゆく姿を行ずるということは、空になることなんです。空の一歩手前から入っていくんで
からはんにゃしん
すが、それが消えてゆく姿なんです。心を空っぽにすることが一番いいことなんですね。般若心
きょうしきそくぜくうくうそくぜしきからざぜんかんぽう
経では色即是空、空即是色といっています。ふつう空っぽにならなきゃならないから、坐禅観法し
135一人の人間がすべて
たり、山へ籠ったり、滝に当たったりしますが、なかなかなれない。,
たとえば生長の家で、病気は無いのですよ、不幸は無いのですよ、肉体は無いのですよといいま
す。これは本当です。本当なんだけど、無いんですよ、といったってそこまでなかなかいかれない。
病気は無いのですよといった手前、病気になると無いものが出てきて、悪いような気がするから、
人にお病気ですか、といわれると”いや1私は病気は無いんです”とこういう。実はあるんだ、病
念というのが中にはあります。病念が心にありながら、表面で病気が無いっていったって、病気は
たね
治らない。貧乏の種が心の中にありながら”無い無い無い”といったって、貧乏は貧乏。
人が病気でねていると「病気は無いじゃありませんか、無い病気だから起きなさい」ということ
になっちゃう。それで肺病の人に山登りさせて殺しちゃうようなことにもなる。それは無い無いつ
くりつ
くしですから、空ということは非常にむずかしいことであって、達人がやらなきゃ空にならないん
ですね。達人がやってはじめて空になる。達人がやらなければ空にならないことも、消えてゆく姿
から行じていけば空になるんです。
坂井さんは長い間の裁判沙汰がありましてね、向こうは大きい会社、こちらは小さい会社、ふつ
うだったら自殺かなんかして肉体までなくなっちゃうところなんです。ところが消えてゆく姿だけ
136
あって、三年延びようと五年延びようと消えてゆく姿です。向こうも消え、こっちも消えて、消え
てゆきさえすれば真実のものが現われる、という真理がありますからね。とうとう六年目か七年目
になって裁判に勝った。こっちは全然相手を相手にしない、相手があると思っていない、みんな消
えてゆく姿、ただあるものは五井先生、というわけだった。坂井さんの五井先生は神さまです。守
護霊守護神があるだけ、あとはみんな消えてゆく姿、悪いものはすべて消えてゆく姿、争うものは
消えてゆく姿、嘘をつく姿は消えてゆく姿でしょ。全然悪を認めていないんですよね。認める瞬間
はないんです。あ\あのヤロウ消えてゆく姿でしょ。なんでもかんでもみな消えてゆく姿だから、
悪というものはそこに無いんですね。何があるかというと、唯一の神があるわけです。それにそこ
から分かれた直霊、直霊から分かれた分霊があるわけです。神さまと神さまの子だけが残る。坂井て

さんは消えてゆく姿をやっているうちに、とうとう神さまの中へ入りきっちゃったんです。だからサ

禦出て来ても消えてゆく姿。燗
消えてゆく姿というのは何かというと、悪いものを否定してゆく姿です。悪いものはすべて無いゆ

のだ。あるものは神さまと神さまの子である人間である。だから悪いものはない、というわけです。
無いといってもあるんだからね。現象の世界には悪いものが充満してみえますから、無いというこ塒
とは出来ないんです。無いとはいえない、無いと観えない。ところが消えてゆく姿なら、あっても
つか
消えてゆく姿でしょ。だからいっぺん悪いものを掴んで、そして捨てる。ちょっと掴んで向こうへ
やっちゃじそういう想いに徹底していますか・り、子供が目の中に火箸を突き刺したって、消えて
ゆく姿です。そうしたら刺してしまったのに、なんともなっていない。傷一つない。それは何故か
というと、消えてゆく姿だから、それが実際に現われたわけですね。
それはどういうことかというと、この世の中には、神さまのみ心だけがあって、愛のみ心だけが
あって、あとは悪いものは無いということなんですね。悪いものは消えてゆく姿、だから怪我も何
もしなかった。何も心配にならない。そうすると安心立命の姿でしょう。お坊さんなどが、山にこ
もって、滝に当たったり、何曇がけて修行しても、なかなか安心立命できなかった。瀦轍さんのよ
せきがくしんらん
うに偉い碩学の人でも、親鸞のような偉い学僧でも、いくらやっても安心立命出来なかった。法然
まか
さんは南無阿弥陀仏に入っちゃって、阿弥陀さまに全部お任せした。何がこの世に現われてきても、
それには一切とらわれない、とらわれたら把われた想いをそのままもって、南無阿弥陀仏に入った
のが法然。その法然に弟子入りした親鸞が、法然御房のおっしゃることなら間違いない、私も南無
阿弥陀仏やろうというわけで、すべての学問知識を全部捨てちゃって、南無阿弥陀仏ってやったで
138
しょう。そして南無阿弥陀仏の中に入ってしまった。阿弥陀さまの中へすべての想いを入れてしまっ
た。みんなすべて消えてゆく姿にしたわけですね。そしたら安心立命したんです。
現象的には親鸞はいろんなことがありました。娘さんが遊女になったり、息子とは義絶したり、
悲しいことがあったんだけれども、すべての業生を阿弥陀さまの中へ入れてしまったから、安心立
かく
命していた。それでいまだに法然、親鸞といえばその名声は赫たるものがあります。それと同じこ
とを坂井さんはやったんです。五井先生の仰せならば間違いないんだ、消えてゆく姿くって世界
平和の祈りだけやったんです。そしたら、本当に、業生の想い、悪を認める想い、不幸を認める想
い、人を悪く思う想い、そういうものが全部なくなっちゃったんですね。
みんな神界にいることを忘れている
肉体というのは業生なんですよ。しかしこの業生の想いの器がないと、神さまが使えないわけで
す。それでいっぺん器を作っておいて、神さまは器を通して肉体界に働きかけている。坂井さんが
話をしていますと、誰が話しているかというと、五井先生が話している。というとなんだか謎みた
ひげ
いですねエー。五井先生って肉体でいるじゃないか、髭をはやした人がいるじゃないか、その五井
139 一人の人間がすべて
先生が坂井さんの中に入って話しているっていうのがわからないでしょ。
五井先生/ て呼べば、五百人呼ぼうと千人呼ぼうと、二十八億人呼ぼうと五井先生はそこにいる。
禅問答みたいでわからないけども、それは体験した人はみなわかる。何故わかるかというと、皆さ
んの信仰の対象としての五井先生というのは、神さまなんですね。肉体の五井先生という人が現わ
れて、世界平和を説いています。説いているといって肉体が説いているんじゃありません。大神さ
まが救世主として現われて、私に世界平和を説かしている。他の人には別に説かしているかもしれ
ない。私には世界平和を説かしている。その私というのは何かというと五井先生でしょ。
五井先生という人は肉体にもいるんです。しかも神界にそのままいるんです。それで皆さんの中
にも入っている。ちょうど太陽のようなもので、太陽が一つあると、すべて光線で太陽の光を等分
に浴びていますね。それと同じことです。だから神さま! って大神さまを呼べば、救世主といって
呼べれば、呼んで救世主の中に全部入れば、五井先生っていわなくたって、神さまっていったって、
なんていったっていいんだけれども、皆さんは縁があって五井先生という人に会っている。縁があ
るということは前の世前の世前の世からふかーい関係があるんです。すると五井先生というのはやっ
ぱり懐しいです。それで五井先生という光の柱を通して、神界に入ってゆく。
140
自分は本当は、直霊として神界にいるんです。みんな神界にいるんですよ。神さまの世界にみん
ないるんです。それを忘れてしまっているんです。それを想い出させようと思っている。けれど”あ
んた神さまの世界にいるんですよ” “あなたはそのまま神さまなんです” っていったってなかなか
わかりませんね。そこで南無阿弥陀仏という代わりに、五井先生! っていうわけです。そうすると
五井先生という肉体の器を通して、その器は天と地をつなぐ梯子でもあり、エスカレーターでもあ
りエレベーターでもあるから、そのまま神さまの中へ入ってゆく。
いやな人はやらなくていいですよ。やってみればわかるからね、先生/ っていえばいい。そうす
れば世界平和の祈りと同じことなんです。世界平和をいいなさい、守護霊守護神さんといいなさい、
まつこうみじん
といって、五井先生と呼びなさい、というのを今まであまりいわなかった。この頃は直向微塵にいっ
ているんです。何故いっているか。いわないともう間に合わないから。地獄がこの地上界に出て来
たんだから、もう間に合わない。それで短くて、一番速いものは何か。”先生” っていうのが一番
速い。南無阿弥陀仏より速い。
ブツ
南無阿弥陀仏が効果があったということは何かというと短い。ナムアミダ仏六字でしょ。ナンマ
ンダブく速いですね。痛みがある時ナムナムくていうと、痛みがなくなるかもしれない。いわ
141一人の人間がすべて
ゆる想いが神さまの中へ入っていきゃいい。想いが痛みから遠のけば痛みはなくなるでしょ。貧乏412
なら貧乏の想いで苦しんでますね。貧乏な想いがどこかへ行けば貧乏な想いがなくなるでしょ。だ
から想いが痛み、想いが苦しむんです。想いがこの世の中はダメなんだと思う。うちの子はダメな
んだ、うちの奥さんはダメ、うちの旦那はダメ、みんなダメだダメだと思うのは想いでしょ。
いい時は喜び、悪い時は嘆いて、そういう想いがあったら、いつまでたっても地上天国は出来ま
せんね。それでその想いを一旦神さまにお返ししてしまう。ただ神さまといったんでは、神さまが
どこにいるかわからないからお返しが出来ない。そこで神さまヘパッと持っていけるものがなけれ
ばならない。それで神さまは五井昌久という姿で一度生んでおいて、そして向こうへやっちゃって
から
空っぽにして、さあどうぞご自由にお使いなさい、って。五井先生! というと神さまの中に入って
いっちゃう。それをやったのが坂井さんです。
大宇宙でもあり小宇宙でもある
それで坂井さんに話をさせているのは五井先生。五井先生って肉体の五井先生が入るわけないで
しょ。肉体の五井先生に働いている直霊が坂井さんに移っただけですよ。こっちは空っぽでヘラへ
ラ笑っているんです。(笑) 一人二役でも三役でも五役でも、なんでも出来る。それは何かという
と、神さまというのは光明でしょう。光が太陽の光線のようにほうぼうへ行くんです。だから二十
八億が呼んだって、五井先生はどこへでも行くんです。
五井先生を知らない人は呼ばないだろう。イエスさんと呼ぶでしょう。そうするとイエスさんは
どこへでも行きます。お釈迦さま! って呼べば、お釈迦さまはどこへでも行くでしょう。だけどこ
の世ではお釈迦さまに会った人はないんですよ。前の世では会った人があります。イエスさんにこ
の世で会った人はいない。会った人のほうが呼びやすいですね。そうすると、会った人で縁のある
五井先生/ って呼べばいいんですね。五井先生を呼べば、五井先生という肉体に働いている神さま
が飛んでゆく。どこへでも、三十億、五十億の人がいくら呼んだって、無限億みんなが呼んでも飛
んでゆくし、ここにちゃんといる。何故ならば、あなた方の中に働いている生命なんだからね。あ
なた方の中に働いている分霊であり、直霊であり、守護霊であり守護神なんです。すべては一つな
んです。
人間というのは、縮めてみると一つがすべてなんです。一人の人間はすべてなんですよ。一人の
人間は大宇宙でもあり、小宇宙でもある。分霊でもある。たどれば一つなんですよ。
143 一人の人間がすべて
この肉体は今、世界に二十八億いますね。その先祖がいますね。お父さんお母さんが必ずいるに414
違いない。そのお父さんお母さんにお父さんお母さんがいるに違いない。そのまたお父さんお母さ
んにお父さんお母さんがいるんですよ。ズーッとさかのぼってゆくと、どれだけあるかわからない。
また反対にいえば、一が分かれ分かれて来たんですよ。一人になっちゃう。それは何かというと大
神さまでしょ。ところが大神さまというのは、一つだけでは働けないので、陰陽に分かれて、陰陽
がまた陰陽に分かれ、いろいろに分かれて、それで働いているわけなんです。
働いているものの中の一番古い魂というか、霊というか、それが今、一番先頭に立って働いてい
るんです。世界平和をやっている。世界が平和にならなきゃならないんだ、ということは神さまの
み心です。み心だから古い魂の人たちがみんな今生まれ変わって、菩薩になって、世界人類を救お
うと思っているんです。
ワしサつりしロつ
六却の終わり、七却の初めで、新しい世界が出来るんです。その一番の幕をきっているのが世界
平和の祈りなんです。だから消えてゆく姿で世界平和の祈りをやっていればいい。そうすればあな
た方の役目は終わるんです。天命が完うされるんです。
神さまのもとに帰る
本当に霊界というものがあるんだな、霊魂というものもあるんだな、この肉体の世界の他にいろ
んな世界があるんだなって、知ることも一つの方便なんです。しかしそれも消えてゆく姿なんです。
幽界が見えようと、光が見えようと、何が見えようと、やっぱりそれは消えてゆく姿。どんないい
ものが見えようと、どんな悪いものが見えようと、どんな悪いことが出ようと、どんないいことが
ヘヘヘへ
出ようと、それはすべて消えてゆく姿なんですね。あるものは何かというと、光一元の神さまです。
大神さまっきり無いんです。大神さまが分かれているんです。大神さまの子である、光り輝いた神
の子だけしかないんです。だから神のもとに帰ってくるわけです。
神のもとに帰るにはどうすればいいか。いっぺん現象を否定するのです。この現われているもの
をすべて否定する。現われている姿というのは、この肉体界だけじゃなくて、幽界も霊界もみなそ
う。実在の世界、本心の世界というのは、神界っきりないんです。あとはみんな現われた世界。そ
の現われの世界のことで観音さまが見えようと、お釈迦さまが見えようと、イエスさんが見えよう
と、みんな消えてゆく姿、全部消えてゆく。
145一人の人間がすべて
それが本当に出来ると、自分がそのまま神さまになります。神さまになった状態とはどういうの46
1
かといいますと、何もない。何もなくて何もある。私なんかどういう状態にいるかというと、なん
から
にもない。それでなんでもある。空っぽというのはそういうものなんです。それは体験しないとわ
からないですね。
なんにもなくてなんでもある。それはどうして出来るかというと、想いがあるうちはダメなんで
すよ。こうしたらいいんじゃないか、あ\したらいいんじゃないか、明日は天気じゃないか、雨じゃ
いけない。いろいろ思うでしょ。思う想いがあるうちはダメなんです。想いがあると想いにとらわ
れます。どんな名人でも想いがあったら把われる。
合気道の植芝盛平先生は、いくらかかって来ても相手はいっぺんに吹っ飛んじゃう。想いが何も
ないんですよ。想いが何もないということは、そこに先生がいないということです。先生は神界に
いるんだから、空っぽのところを打っているんだから、いくら打っても打てやしない。
それと同じように、想いが何もなくなると、その人を害することが出来なくなるんです。いくら
害そうと思っても害することが出来なくなる。だから皆さんでも、想いをいつでも神さまの中へ入
れてゆく。世界平和の祈りの中に入れてゆく。平和の想いだけになる。平和の想いだけになると、
それは光一元になって光だけになっちゃう。
光を消す波はないんですよ。光り輝いているところ闇がないでしょ。電気がついていたら、その
電気の明りだけでも消す闇がないでしょ。太陽が輝いていたら、太陽を消す闇はないですね。それ
と同じように想いを全部神さまの中に、世界平和の祈りの中に入れてしまうと、その人を害するこ
とは出来ませんよね。そういう世界が地上天国なんです。
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私たちの天命が完うされますように
守護霊様守護神様有難うございます
五井先生ありがとうございますって、先にいったっていい。やらなくたっていい。とにかく世界
平和の祈りの中に入ってしまえばいい。いいかえれば神さまの中に全部想いを返しちゃうんです。
いい想いも悪い想いもね。ところがいい想いは返せるかもしれない。けれど悪い想いはなかなか返
せない。いい人になればなるほど、自分が悪い自分が悪いと想うんですよ。これは悪い癖でしてね。
私が至らないとか、私は悪い人間だとか、私が悪いから子供が悪くなって、私のやり方が悪いから
147一人の人間がすべて
ーそれはダメなんです。それは業想念を認めている姿なんですね。
148
これが業想念
私っていうものはありはしないんですよ。私わたしっていっている私は、それは業想念なんです。
業想念がなくなると、私もあなたもみんな一つなんですね。それがわかってくるといいんですね。
すべて個人的に、別々に与えて、相対的に与えるものはすべて業想念なんです。だからアメリカ
だソビエトだとやっているのは業想念でしょ。アメリカはソビエトが悪い、ソビエトはアメリカが
悪いと互いにいっている。その尾について、日本がアメリカにつこうか、ソビエトにつこうか、そ
ればかりやっている。どっちについたって業想念を本当に越えないと、世界の平和は出来ない。
業想念を一番越えやすい民族はどこかというと、日本民族なんです。天孫降臨民族、大和民族で
す。一番先に神さまが天降ったのが日本なんだからね。それで皆さん方はそこの民族なんですよ。
きいつ
業想念を一番越えやすいということは、いいかえれば神さまに帰一出来るということなんです。神
さまが一番中心的に働いているのが日本なんです。日本の他に中心に当たるところがないんです。
今にはっきりわかりますよ。
それで皆さんはどうしていったらいいかというと、今ある自分の生活、日常の生活は過去の想い
が現われて消えてゆくんです。過去のことなんです。いわゆる映画の撮影しちゃったフィルムになっ
てしまった。演技をしちゃったフィルムが今、映っているだけ。スクリーンに今映しているだけな
んですよ。それはやっちゃった、取りかえしがつかない、消えていくだけなんです。今やっている
ことは何かっていうと、世界平和の祈りだけ実際にやっている。光だけが実際に今これからの未来
を照らしてくる。未来を照らしてくるのは、光の想いだけなんです。
光の想いっていうのは平和を祈る想いっきりないんですね。神さまを思う想いだけが、今、実在
としてあるんです。肉体の生活としてある。いいだの悪いだのっていうのは、みんなもう無いんで
す。消えてゆくんです。それを生長の家では無いといったんです。無いじゃなくて、・消えてゆくん
です。みんな消えてゆく姿、あるのは神さまだけ。
こういう話をいつもいつも繰り返しているんだけれども、繰り返していることに価値があるんで
すよ。潜在意識というものはなかなかなもの。本心があって業が覆いかぶさっている。だからなん
べん聞いても、なんべん聞いても、あ、そうだな、と思っても、油断していると忘れちゃうんです。
きき
「先生、こんどは効きが悪くてね、二日でどうもいけません。この間なんか一週間効いたんですが
149一人の人間がすべて
ねエー」てね、特効薬のようなことをいうけど、(笑)実際そうなんですよ。だからなんべんでも、
なんべんでも聞かなきゃならない。聞いて聞いてもう腹の中に、潜在意識の中に録音しきってしま
うんですよ。
よく考えてごらんなさい。肉体は消えてゆく姿でしょ。どんなに偉い人でも、どんなに名声を博
した人でも、大臣でも金持ちでも、誰でも肉体は消えてゆきますね。八十年九十年で消えちゃう。
あとに何が残るか? 幽体にその想いが残る。或いは幽体に想いが残る。ところがそれもまた消え
てゆくんです。全部消えた時に何が残るかというと、生命の元である神さまだけしか残らない。
150
色即是空、空即是色
初め神さまだけあって、最後に神さまだけある。あとのものは消えてゆく姿で、みんな消えてゆ
く姿。だからみなさんはしまいに、神さまの中に入ってしまう。それでいて、個性があるんです。
大神さまと一つになっていてね。それで個性というのは天命があるんです。いつまでいっても天命
いのち
がある。死んだら生命がない、なんていうのは昔の迷信なんです。死でも生命はあるんです。その
生命が一番よく生きるたあにはどうしたらいいかといったら、世界平和の祈りをするか、消えてゆ

く姿をやるか、神さまに本当に自分を投げ出しちゃうか、どっちでも同じことです。そうすると、
その生命がいっぺんに神界にいっちゃいます。神さまと本当に一つになる。
消えてゆく姿を本当にやれた人は、亡くなると、肉体から離れたとしますと、どこへ行くかとい
うと、全部ないんだから、肉体世界も消えてゆく姿、幽界も消えてゆく姿、霊界も消えてゆく姿と
やっているでしょう。そしたら行くところは神界しかないでしょ。そういうものなんですよ。想い
くロつ
を全部無くした時には、それは神さまなんです。それを空というんです。
ものしきふいくうしきそくぜくうそくぜくロつしき
空即是色というでしょう。その前に色即是空という文があります。色は即ち空である。色不異空
むな
色は空にことならず、あるものはみんな空だっていうんです。それだけじゃ虚しくなりましょう。
あ\形のあるものはみんな滅するんだ、あ\諸行は無常なんだ、あ\みんな死ぬんだ、働いたって
しようがない、死んじまえ。こんな苦しむんなら、どうせ苦しむんなら死んだほうが楽だって死ん
くのつ
じゃいますねめ空になったほうが楽だと思って。ところが空になんかなれやしませんよ。どうせ死
んじまえと死んだような者は、空どころか、食うに食えない地獄へいくんです。それで苦しみに苦
しむ。ところが色即是空の次が空即是色となっている。
それはどういうことかというと、空になると、その中から本当の光が出てくるんです。実在が空
151 0人の人間がすべて
O
になった時から出てくる。それが般若心経ですよ。それを色即是空も空即是色もみんな同じに説い
ている。だから、お坊さんの中には、死んだら人は無いんだ、というように思っている人がたくさ
んある。ところが死んだ世界もある。それも段階がうんとある。段階の一番上は神界でしょ。神界
になるには想いを全部消さなきゃならない。みんな空にならなきゃならない。それは消えてゆく姿
消えてゆく姿とやっていると、本当の神さまにみんななっちゃうんだ、ということなんです。それ
を一番先にやって、一番楽にやれるのは、世界平和の祈りより他にないんだ、という話をしている
わけなんです。
さあ、ここで質問があったらして下さい。
質問「ハイ、あの大変愚問だと思うんですが、小説を読むとします。そうしますと、坂井さんの
ように、あ㌧消えてゆく姿だって読んでいる最中にやってしまうと、面白くないし読めないんじゃ
ないか。一事が万事、何かやろうとすると、やらないうちに消えてゆく姿だ、とやってしまったら、
それ以上進まなくなっちゃうと思うんですが… … 」
答いい質問ですよ。小説を読んで、せっかく面白いのに、読もうとしても消えてゆく姿をやっちゃ
読めないだろうというんでしょ。読みたい想いがあれば読みますよ、読んでいいんです。読んで消
152
えてゆく姿というのは、心の中なんです。この間もいったんですが、おせんべ屋さんが、おせんべ
を数えながら消えてゆく姿をやっちゃったら、おせんべの枚数を数えられない、何枚数えて消えちゃっ
た。(笑) ソロバンをはじいていて、「今日の収入はいくら」とやりながら消えてゆく姿と思ってい
ると、いくらソロバンをはじいていても合わないでしょう。ということになるけれど、それは理屈
なんですよ。本当は、消えてゆく姿をやろうと思っても、やるまいと思っても、やることそのもの
がもう消えてゆく姿なんです。もういっぺん言いかえますと、小説が面白くて読む人は読むんです。
読んでいてもいいんです。あとは消えてゆく姿なんです。わかりますか。
質問「たとえば小説を読み出して、三時間なり五時間なったとします。その五時間後に、あ\こ
れは消えたんだ、といえばいいわけですか? 」
答それでもいいです。いきばってやる必要はなんにもないんです。頑張るっていうんじゃないん
ですよ。だんだんやっていくうちに、自然に消えてゆく姿が出来てくる。本当につまらないことは
やりたくなくなっちゃう。
ちょっと帰りに一杯飲んで”このおでんはうまいから飲んでいかないか” てなことをいって一杯
飲んでいるでしょう。先に消えてゆく姿を思わないで飲んじゃうんですよ。そして酔っぱらって帰っ
153一人の人間がすべて
て奥さんに叱られてサ、「あ\成る程、これは消えてゆく姿だ」そこではじめて消えてゆく姿がわ
かってくる。だんだんわかってくる。坂井さんのように、一本調子に消えてゆく姿へ入れる人は幸
せなんです。はじめから消えてゆく姿に入れる人は幸せです。坂井さんだってそこまで行きつくま
では、儲けたかったり、いっぺんに金が入ってくるなんていうと「先生、いい話がありまして」な
んて相談に来たんだから。(笑)
いっぺんに消えてゆく姿になったわけじゃない。やっているうちに、だんだん消えてゆく姿が本
物になって、もう何があっても、儲けようとも思わない、損しようとも思わない。それで別に生活
に困っちゃいない。楽々とやっていますね。消えてゆく姿ばかりやっていると、金がなくなって消
えちゃうだろうーそんなふうではない。ちゃんと生活しています。そういうもんなんですよ。
だから本を読みたい時には読みなさいよ、遊びに行きたかったら行きなさい。消えてゆく姿とい
うのは声に出す言葉じゃない。声に出す言葉だの、わざわざ思うんじゃないんですよ。思わなけれ
ばいられないようなものが出てくる。わかりますね。
わけみたま
消えてゆく姿の裏付けとして、一番大事なのは、自分は神さまの分霊である、神の子であること
です。これが根本なのです。神の子であるという原理がなければ、消えてゆく姿はおかしいのです。
154
神の子である自分が現われてくるために、邪魔なものである業は消えてゆく姿です。だから邪魔に
ならなかったらいいですよ。小説を五時間読むことが、仕事の邪魔にならなかったらやってごらん
なさい。
麻雀を徹夜でやることが仕事の邪魔にならなかったら、やってごらんなさい。私の話をきいてい
るうちに、麻雀を徹夜でやることがバカバカしくなってくる。つまらない小説を読むことがバカ
はかな
バカしくなってくる。みんな夢いものになってくるのです。自然になってきます。だから消えてゆ
く姿から入ってもいいし、守護霊さま守護神さま有難うございます、といいながら小説を読んでも
いいし、どちらからやってもよござんす。根本は、この世にある業想念の想いが、いつの間にか消
えてしまって、神さま一元の姿になる、というのが一番問題なんです。
質問「もう少し質問します。いわゆる坂井さんとか斎藤さんのような達人になられると、消える
べき業というやつがないんですか? 」
答そりゃ出ますよ。斎藤さんなんかこの間、達人になったばかりなんですよ。(笑)
質問「じゃ、たとえば、仮に達人になったところで、この肉体を持つ人間としてですね、男性の
機能をはじめとして、すべては今のままであるわけなんですか?」
155一人の人間がすべて
答その通り。
質問「完全になくなって、男ではなくなって、(笑)… …」
答男はやっぱり男です。(笑)しかし想いの中では男女を超越します。女でもなければ男でもな
いんです。観世音菩薩というのは女性でもなければ男性でもない。そういう姿になってしまうんで
す。形がないわけじゃないですよ。
質問「業としては完全に男であり女であるわけなんですね」
答それは業というよりは役目です。男性が消えてゆく姿をやっていると、何かなくなっちゃって
女になったりしたんじゃ困るでしょ、それは。(笑)容れものはそのままです。器はそのままで中
身が変わっちゃう。要するに神さまの光がそのまま器の中に素直入っているのが、悟った人の姿な
んです。神さまの光が分霊として入っているのに業が多くて、光を百%外へ出せない、生活へ出し
ていけない。それが普通の人なんです。
いくら悟ったからといって、器としては同じです。男は男、女は女、男はより男らしく、女はよ
り女らしくなるんですよ。だから平常心是道というんです。当たり前の姿で当たり前の行ないをす
るんです。156
私の教えは、やりたいことを我慢して、抑えて中ヘグーッと押しこんでしまう、というものでは
ないんです。今までの教えはすべて詰めこみ主義なんです。やっちゃいけないやっちゃいけない、
遊びたいのも我慢し、食べたいのも我慢し、飲みたいのも我慢し、怒りたいのも我慢し、なんでも
我慢して押しつめてしまう。だから押しつめて我慢しただけだから、いざとなるとバーンと破裂し
ちゃうんです。業想念がなくなったんではなく、押しつめられただけだから、つまったものは溜ま
ると、反発して爆発破裂するんです。
それで私はそういうことをいわないんです。やる時は縁がどうしてもやってしまうんだから、やっ
たら消えてゆく姿と思いなさい、しまった/と思ったら、あ、もう再びそういうことはやるまい、
と思いなさい。またやったら、また消えてゆく姿と思い、またやったら消えてゆく姿、そのうちに
やる手前で、あ、消えてゆく姿というんで、もうやらなくなっちゃうんです。それが本物です。
どんなに偉そうな顔をしていたって、初めから悪いことを思わないという人はないんです。どん
な聖者であっても、お釈迦さまであろうとそうです。お釈迦さまも王子時代にさんざん遊んだので
す。そうやっているうちに、こういうことはつまらない。何故こんなことをして年をとってしまう
んだろう、と思った。やりたいことをやっているうちにわかってくる。お釈迦さまの場合、業の消
157-一人の人間がすべて
えてゆく姿でやったんではなくて、みんなと同じ想いをしたんです。経験してみないとわからない518
でしょ。
貧乏の苦労をしたことのない人は、貧乏人の百円のお金、十円のお金に困るということがわから
ないんですよ。病気の本当の苦しみをしたことのない人は、病気の苦しみはわからないんです。そ
んな病気をしたって大したことないんだろうと思う。私は貧乏もした。病気もさんざん子供の時か
らやった。だから病気の苦しみもわかれば、貧乏の苦しみもよくわかります。だから貧乏の人をバ
カにしようとも思わなければ、病気の人に”なんだ、それも消えてゆく姿だ”といっぺんにやろう
とも思わない。”あ\大変だね、苦しいだろうね、私もさんざんやったけど”と思います。
そういう想いをするために、お釈迦さまもいろいろな経験をしたわけです。あなた(質問者のこ
と)もそういう成長をしているんですよ。あなたがもう少し大きくなって、それで人を教える立場
になると、私もそうだったんだよ、ということになるでしょ。あなたが悩んでいることはないよ、
オレだってやったんだよ、そんなことで悩むな、今からでも遅くはないから、神さまにつながりな
さい、と言えるようになる、すると聞いた方は気が楽になるんです。
霊光写真と真実の人間
昭和3年6月26日
(島田重光氏の体験談を受けてお話を始める)
光体が写った写真
あだな
今の島田さんに私は「象さん」って仇名をつけているんです。のっそりとして確実に活動する人
なのです。化学者なのです。それで、霊的な人が幻覚をみても幻聴をきいても、なんでもかんでも
神さまだアーと思うようなそういう想い方をするのではなくて、科学的に綿密に検討して、それで
これはどうだとか、こうだとかいう型の人なんです。
ですから霊光写真を写しながらも、他の者はこれは光が写っている、霊体が写っている、といいま
しても、「いやそれは違う」といってわざわざ反証をあげて、反論する。ちょうど検事のような役
159霊光写真と真実の人間
割の頭の人なんです。神さまはそういう人にかえって逆に霊光写真を写させようとするんです。60
1
昭和25年の夏だったと思います。午後三時か四時頃、ぶらりと島田さんの家にいった。その頃、
私はぶらりぶらりと気の向くまま、今日市川にいたかと思うと、明日はもう横浜。朝、亀有にいた
かと思うと、夕方深川のほうに行っている。どこへいくかわからない。私を探すのに一日がかりで
追っかけないとわからないような行動をしていた。
島田さんのところにも夜の十二時頃ぶらっと行っちゃ、泊まるそってなことをいって泊まったり
なんかしていた。そういう家だった。それで三時か四時頃行きました。Y シャツでネクタイをしめ
ていました。門の前で写真を二枚写したのです。それを私の所に持って来ました。それには私のう
しろの真ん中に、観世音菩薩が立っているんです。はじのほうに冠をかぶった古代の人みたいなの
が立っているんです。顔だけ見えてね。その他に霊がいっぱい写っていた。
まま
その頃、真間の或る人の二階の八畳と四畳を借りていましたが、下の奥さんがその写真を見て
「先生、この写真大変です」と二階に上がってきて「見てごらんなさいく」というわけ。私は私
を写した写真と思って、別にそんなことを考えていませんでした。そう言われてよく見ると霊が一
杯写っている。あ、成る程成る程、そうするともう一枚たしか写したわけなんだけれど、あれはど
うなったんだと島田君のところへ問い合わせたんです。そしたら実は捨てちゃったというんです。
そりゃすまないが探してくれ、というんで探してもらったらありまして、それで現像しましたら、
霊光写真だった。
霊光写真というのはどういうことかというと、肉体が全く消えてしまって、光体が写ったという
ことです。誰でも本当は霊光写真のように、光の体なんです。光なんです。太陽と同じことなので
す。同じことなんだけれど、皆がそう思っていないんです。太陽と同じだなんて自覚のある人は、
世界中にあまりいないんですよ。
みな肉体だと思っている。私がさんざん話をして、相当肉体観念がなくなっている人でも、やっ
ぱり肉体だ、という観念がなかなか消えないんですね。肉体じゃないくといわれても、肉体だと
思う。本当は肉体だというものは、波なのです。想いの波なのです。
中心に光の波がありまして、それは光体です。その周囲に光のうすい幽体というものをかぶって
うわ
いる。その一番上っかわに肉体。上っかわとはつまり天からみるから、真ん中が霊体でその外に幽
体、一番外側が肉体なんです。肉体側からすると、肉体のまわりに幽体があり、その外側に霊体が
ある、ということになるんですね。
161霊光写真と真実の人間
三つの体がある。その中で肉体の波が一番粗い。物質というのは粗雑なんです。だから肉体とい
うものはいちいち、一歩二歩と歩かなければ目的地に着けない。距離がありますね。ところが幽体
になり霊体になり神体になりますと、距離がなくなってしまう。何故なくなってしまうかというと、
波が非常に速いからです。光の速度ははやいですね。パッと思う間に行って返ってくる。ところが
肉体というものは、ここから駅へ行くんでも、速く歩いても何分かはかかります。時間がかかるわ
けです。ところが光体は一瞬にしてパッと行ってパッと返ってくる。そういうふうに速度がはやい
わけですね。だから遅いほうの粗い波が、光によっては消されてしまうわけです。光の度合が強い
と、粗いほうの波が消えてしまう。いいかえれば、肉体観念がないと、神さまの中に自分のものが
全部入っている。そういう人は肉体が無いんです、本当は。肉体が見えるけれども、それは赤ん坊
から生まれてきて物心ついた、そういう過去の神さまが本当にわからなかった頃の想いが、肉体だ
という想いがありますよね、その想いが、今、映って肉体に思われているだけであって、本当はそ
ういう人は肉体がないんです。
だから私なんかここにいますがネ、肉体があります。いとも貧弱なる肉体です、これは。非常に
痩せた五尺二寸ぐらいで十一貫そこそこの体なんですが、ありさえすればいいんです、見えさえす
162
ればいいんです。肥ってはいなくてもいいですから、ある。そうすると、体というのは、今ここに
あるかというと、今あるんじゃないんです。
今現われているのは過去の波
今あるんじゃなくて、過去の想いがあるだけであって、肉体に育って、学校へ行ったり、勉強し
とど
たり、働いたりしたそういう想いがここにあるだけであって、波を止めているだけです。現在の私
の想いというのは肉体にはないんです。どこにあるかというと、神さまの中に全部入っているので
す。
そういう人は写真を写す時、向こうの守護霊の波とパッと合うと、フィルムに本当の自分の姿が
映ってくるわけです。皆さんでも本当の皆さんというのは、この肉体にいて、目が二つあって、鼻
があって、というものじゃなくて、それは過去の波なんです。ここがわかってくると、宗教の奥が
わかるんですよ。
過去の波がそこに現われているだけであって、今のあなたじゃない。今のあなたはどういうあな
あなた
たかというと、はるか彼方にあるあなたなんです。それは天の彼方にある、太陽のような、星のよ
163霊光写真と真実の人間
うなものなんです。ただ自分の想いがそこにある、と思っている鑑だけが肉体にある。ですから本
当の自分がわかりさえすれば、病気が治ったりなどするのは楽なことなのです。
それはどういうことかというと、今、病気していることは、或いは貧乏や不幸になっているのは、
今のあなたが貧乏でも病気でもなくて、過去あなたが、肉体だと思っていたあなたが、神さまを知
らなかった時代のあなたの想いが、今現われて来ている。そこで私の教えが出てくるのです。今、
現われて消えてゆく姿なんだ、ということを私が教えているでしょ。
どうしてあ㌧いう教えが出来たかというと、人間というものは、今そこに肉体として現われてい
るんだけれども、ただ現われているだけであって、今あなたが肉体としてここにいるんじゃないん
だ、従って、あなたというものは、あなたの病気というものは、今病んでいるんじゃないんだ、今
貧乏しているんじゃないんだ、これは過去(過去世も含む) の波が現われているだけなんであって、
ほんとう
真実のあなたはどこにいるかというと、神界にいるんです、というように教えています。これは神
道の教え方ですね。

神代というのはそう思っていた、そのように確信していた時代だった。みんな神々だったんです。
神々ですから自由自在です。そういう昔があったんです。そういう昔が再び肉体界に現われてきて、
164
肉体世界をいっぺん通りぬけて、また神代の昔に戻るという運動が今なされいるわけです。
今、肉体世界としては、物質世界としては最後の末期になっています。末法といいます。最後に
なってくると、今後はどうしてもふり出しの神代の昔に帰らなければならないように、必然的に動
いてきているわけです。だから再び神代が現われ為というのが今なんです。
業因縁は消えてゆく
今までは、お釈迦さまもいらっしゃった、イエスさまもいらっしゃった、いろんな方がこういう
もんだくと、教えを説かれたんだけれども、時代が最後まで来ないと、みんなが本当にわからな
いんです。だんだん時代が進んで来て、原子物理学とか電子学とかが出来た。或いは波動説が出て、
人間の肉体というものは、原子で出来ている。原子というのは最後には波なんだ、波はどこから出
ているか、その元はわからない。そこまでが今の科学なんです。恐らくは、その科学を押し進めて
いっても波動説までだと思うんです。あとは何があるかというと、心霊科学というものがあって、
波動の先を捉える。幽質になるわけです。もっと細かくなってきて霊質になるわけです。それを実
験するために、肉体人間を使い、そのエクトプラズムを土台にして幽体を出す、或いは霊体を出す、
165霊光写真と真実の人間
という科学が出て来たわけです。この自然科学と心霊科学との間に精神科学というのがあります。
その根本にあるものが宗教観念というんです。
だから宗教というものは、単に病気を治すのでもなければ、貧乏を直すものでもないんです。病
気や貧乏は自ずからなおるんですね。自ずからなおる。何故なおるのかというと、それは消えてゆ
く姿だから。病気なんて放っておけば治るんですよ、本当は。何故かというと、祈っておきさえす
れば(実際問題は出来やしないけれど)、業をつかまえないで祈っておけば、業は消えてしまうん
です。そうするとこの肉体から離れて治るか(肉体から離れて治るというのは死ぬということです)
そのまま肉体あるがまま治るか、どちらかに決まっているんですよね。ところが肉体人間は死んで
は大変と思うものだから、この肉体の世界で治したいものだから、お医者さんにすがったり、いろ
んなことをやるわけです。
ところが病気を治すということだけでは、自分の心の本当の姿が現われないんですね。病気を治
すんじゃなくて、病気は本当は消えてゆく姿で、自分の本当の姿じゃない。貧乏な姿だとか不幸な
姿とかいうのは、人間の本当の姿じゃないんだ、それは本当の姿を現わすために、邪魔な業想念が
消えてゆく。そのあと本当の姿が現われてくるんですよ。
166
だからたとえ今、いかに病気であろうと、いかに貧乏であろうとも、恐れること、悩むこともな
いんです。ただ苦しいだけです。人間は苦しいのは見てられませんよね。だから注射を打って一時
止めるとか、薬をのんで止ある。それも結構だけれど、それは一つの手段にすぎないんです。真実
のことは、人間は神の分霊である、神から来ているものだ、ということがわからなければ、その人
は真実の幸せをつかむことは出来ないですね。それを私は一所懸命説いているんです。
信じない人には実証を
皆さんのように、聞いて成る程、消えてゆく姿をやろう、世界平和の祈りをやろう、と思う人は
いいんだけれど、なかなか思わない。なかなか思わないで、何を思っているかというと、ふつうの
人は、神なんかあるのかなア?霊なんか本当にあるのかしら?というように思っているのが九〇%
です。九〇% の間違った考え方、業想念を直すためには、どうしても実証しなければならないです
ね。サァ霊魂はここにあるぞ、神さまはあるんだぞ、というのを見せなければならないです。見せ
る運動を今私たちがやっているわけです。
そのためにも霊写真をたくさん写さないといけない。誰がみても否定出来ないものをね。今、い
167霊光写真と真実の人間
うんなものが写るんですよ。しかし客観的にみて否定されてしまうような要素が、少しでもあれば
それは実証にならないですよ。社会に公表するわけにはいかない。ところが霊光写真の場合は、ど
う反論をたてても、あのようには写るわけがないという結論が出ている。島田君は科学者ですから、
いろいろ実験して調べたんです。しかし調べても”先生わかりません、どういう技術を使ってもあ\
いうふうには写りません”というんです。(霊光写真の体験記集参照)
太陽を写したのとも違います。霊光写真というのは、光が真ん中にあって、まわりが二重になっ
ている。がよく見ると五重になっているんですね。あ、いうのはどうやっても写らない。肉体が全
然なくて、光が一杯に写っている。ということは肉体よりも光体がはるかに大きいということなん
ですね。はるかにく光体のほうが大きいんです。そういうことがわかるわけです。
私もうかつに信用するもんじゃないんですよ。手前味噌というのがあって、自分で勝手にそうだ
そうだといって、あとで科学的に批判されて恥かくことがありますからね。私は恥をかきたくあり
ませんから、検討に検討を重ねているわけです。それで反対派がどうやって反対しても、反対出来
ないのがあの霊光写真ただ一枚です。
他に光が写っている写真もあります。けれど反対する人がいれば反論出来るようなものです。だ
168
からそれらは霊光写真として公表するわけにはいかない。ところが未来に、霊光の中に、私の顔が
真ん中で、仏陀とキリストが並んで写るようなことがある、と向こうで言うんです。守護神団がそ
ういうのを写しましょう、と言っているんです。そういう写真が出来たら文句なしでしょう。そう
いったことが出来るんです。そう写ると、唯物論者がなんていったって、写した人が証明すればそ
れは本当であることは間違いない。描いたものと本当に写ったものとは違います。いかにうまく写っ
ても、描いたものは描いたものと見えます。
そういうことを神さま方がやろうとなさっている。それがもっともっと進んできますと、こんど
は写真ではなくて、皆さんの目の前にお釈迦さまやキリストがパーッと現われたり、神霊が現われ
たりすることがあるわけなのです。
ディクソン大霊媒も参加している
この間、聖ケ丘で四、五人で統一していましたら、同じ人物を霊視した。それは誰かというと、
ディクソンというアメリカ人の大霊媒で、聖者なんです。この人は他の霊媒のように真っくらなキャ
ビネットの中に入り、椅子にしばられて意識不明になって霊を出すのではなく、そのままパッと霊
169霊光写真と真実の人間
体が出て、ディクソンと話をする、或いは旦那さんなら旦那さんが電話をとると、電話にハローハ
ローと亡くなった奥さんが出て来て話をするんです。白昼、太陽が輝いているもとで、天使のよう
な霊人を現わしたりすることが出来る人なんです。日本へ来ることになっていたのですが、来られ
ないでこの間八十才ぐらいで亡くなったんです。そういう人が、霊的にわれわれのグループの中に
現われて、三、四人の人に姿を同時に見せ、同時に話しかけている。三、四人も同じことを見たと
すれば、それは幻覚ではなく、本当とみなければならないですね。勿論、私のところにも現われて
いたけれど、私が言ったんじゃこれはなんにもならない。他の人が言わなければ証になりません。
それで三、四人にディクソン師が姿を見せているんです。ということは、われわれのグループにディ
クソンという人が働いているということです。ディクソンは霊人を物質化させることの名人なわけ
です。その人がわれわれの味方になって応援するということです。われわれのグループを使って、
いよいよ物質化させようという動きが緊迫しまして、もう時間の問題だというふうに迫っています。
そういう時代になってきているんですね。
から
われわれは聖ケ丘で統一して、みんなの心が一つになり、空っぽの心になって、そこへ天上界の
使者、天使を天降らせよう、天降らせて人間のように姿を現わさせようという運動が毎日つづいて
170
いるわけです。それで皆さんは、世界平和の祈りでわれわれを応援してくれているわけです。あな
た方の祈りが強ければ強いほど、そういう時期が早く来るわけです。
171霊光写真と真実の人間
172
天命を信じて人事を尽くせ
昭和3年1 月9 日
神さまは魂の進化のために働いている
その場その場のご利益というものは、有難いことは有難い。しかしそれは浅い有難さであって、
本当の有難さ、本当の救われというものは、どんな不幸な立場にあっても、どんな不況にあっても、
いわゆるどんな環境に追いこまれても、平然として、その環境を消える姿として、のりこえてゆけ
るということがわかることで、それが宗教の極意なんです。仏陀でもキリストでも、それを教えて
いたわけなんです。
お釈迦さまが、お坊さん金儲けさせてやるからいらっしゃい、なんていう話はきいたことがない。
キリストは時々やりましたね。漁師のペテロに、ここに網を打て、と教えている。魚が捕れるよう
にした。キリストのほうは少し儲けさせたけれど、(笑)お釈迦さまは儲かることは言わなかった。
ところが現代の宗教になりますと、はじめから、いのちの問題、魂の問題をいい出しますと、つ
いて来ない、誰も入って来ませんね。そこで方便的に病気を治したり、或いは貧乏をよくしてあげ
たり、事業がよくなったりする手伝いをするわけですね。しかしそれはあくまで方便であって、法
華経の中に、子供におもちゃを与えて火事から出させる、そういう教えがありますが、あのように
子供にアメをやるように、ハイ病気が治りました、ホレ病気が治ったろう、儲かったろう、とアメ
をなめさせるわけです。ところがアメだけなめて、火の中から、火宅といって火が燃えている家の
中から出て来なけりゃ、煩悩の火の中から出て来なけりゃ、アメがなんにもならないですね。アメ
だけ食べて甘かったかもしれないけれど、焼け死んでしまいます。
それと同じように、私の場合も貧乏の時は貧乏が一時逃れていったりする。或いは「大丈夫だよ
大丈夫だよ」といって言葉でもって引っ張られて、苦しみながらも越えさせる、或いは病気が治っ
たりする。E君なんか肺病だった。それがレントゲンをとったけれど、影がなくなってしまった。
しかもねていたのではなく、働きすぎぐらいに働いていてなくなってしまった。
何故なくなってしまうか、というと、神さまのみ心の中には、病気もなければ不幸もなければ、
173天命を信じて人事を尽くせ
`
こうしょう
事業失敗などというものもないからです。なんにもないんだけれど、この業生の世界には、そう
したものが現われてくる。それは神さまがつくったんじゃなくて、人間の想いが、自分だけを守ろ
うとする、自分の肉体を守ろうとする、自分と他人とは違うというような想い、得をしようとする
想い自我欲望の想いが溜まっていて、それが現われて消えてゆく姿なんですね。はっきりと消えて
ゆく姿と割り切ると、そこから新しい運命が始まるのです。
手形の振り出しというものがあります。それは銀行の預金から支払われるのですが、銀行に預金
がなければ不渡りになってしまう。銀行は期日を延長して待ってくれない。待ったなしです。午後
3時だか4時だかにすでに入金がなければ、廻って来た手形というのはそのまま不渡りになる。不
渡りになれば銀行取引が出来なくなる。信用がなくなってその手形を振り出した会社はつぶれてし
まうわけです。ところが行員が間違えたり、或いは振り込まないでいるのに相手がそのまま忘れちゃっ
て、三日も四日も延びてしまって、その間に金が出来たりする、ということがある。E君の場合な
どはまさにそれでした。
手形を持っている向こうの守護霊さんに、こちらの守護霊さんが頼んだ。少し二、三日延ばして
くれ、そのうちに金が出来るからそれまで待ってくれ、というふうに霊界で話し合いがついて、守174
/
護霊さんがハイ承知しました、というと、手形を持っていたのをスーッと忘れちゃったりする。
お金を絶対貸してくれるような人でないのに、借りにゆくと貸してくれる場合があります。それ
はこちらの守護霊さんが向こうの守護霊さんに頼むのです。それには前の世の因縁がなければダメ
なんですよ。前の世の因縁のある人のとこへ頼みにゆく。ところが現在では、こちらにお金を貸す
ような立場じゃなくて、貸す必要もないわけですが、頼みにゆくと貸してくれるというのは、A の
守護霊さんがBの守護霊さんに”どうか一つ助けてくれ” と頼むのです。よし、となるとBはなん
だか知らないけれど、貸す必要もないんだけれどふっと貸してしまう形になるんです。
お金が借りたかったら、守護霊さんによく頼んでいると借りられるわけなんです。しかし、その
お金は借りたほうがいい場合だけ借りられるのです。その場合は守護霊さんが向こうへ頼んで貸し
てくれるんです。ところがそのお金を借りたが因果で、かえってその人の運命を損なってしまう、
その人の魂をいためてしまうような場合は、守護霊さんが向こうに頼まない。
守護霊とか守護神とか、いわゆる神さまというものは、その人の進歩のたあ、魂の進化のために
ごう
働いていらっしゃるのです。霊魂を汚したり、魂を下落させるような業をふやすために働いている
んではありませんからね。だから業の増えるような儲け方をさせたり、業の増えるような病気の治
175天命を信じて人事を尽くせ
し方をしたりしないんです。
病気なら病気が治ると同時に、業が減ってゆく、
上させ、体も健康にさせるわけなのです。
というようなやり方をして、だんだん生活も向
176
肉体の生活もおろそかにしない
それを間違えちゃうと大変なんです。
昔の仏教、キリスト教というものは、いわゆる魂の面だけをとりあげ、肉体のことをあんまり問
題にしない。お釈迦さまなどは肉体なんかてんで問題にしていませんね。お釈迦さまは自分の親類
縁者のいい若者をみんな引っ張り出して、自分の弟子にしちゃったでしょう。釈迦族の優秀な者は
みんな引っこ抜かれて坊主にされちゃったんです。そうするとその国が衰微してしまいますね。だ
から釈迦族は滅びます。お釈迦さまはこの地上界のことをあまり問題にしなかった。魂の進化とい
うものばかり問題にしてやったわけです。
そうした傾向はいまだにインドには残ってますね。インドは宗教的です。だから精神的魂的なこ
とばかり思っている。それで肉体的な社会生活というのは欧米諸国に追いぬかれ、欧米諸国の奴隷、
要するにイギリスの植民地にされちゃったわけです。今は独立していますが、西洋諸国に抑えられ
てしまった。
おういつ
大体、東洋というのは宗教精神が横溢していますから、魂の面ばかり考えて肉体の面をなおざり
にしていますから、西洋諸国のように肉体の文明文化というものを盛んにしようとして、この世の
生活の幸福というものを求めている生き方のほうが優位に立ってしまうんですね。その結果、今や
アメリカやイギリスやソ連などが伸びていて、東洋諸国がまるで奴隷ですね。今、アジアの世界で
アメリカやソビエトに対抗している国は一つもないです。わずかに中華人民共和国が唯物論的に伸
びてきたでしょう。
まともにこの生活に取り組んで、この地上世界を物質的なものを主にして、精神的なものをそこ
に付随させて伸びてゆこうとする生き方が、今日までは栄えているわけです。それに取り残されて
いたのがインドだとか東南アジアの諸国です。宗教宗教といって、あまりに精神的なもの霊的なも
のにばかり把われていて、肉体の生活をおろそかにしたから、置いてゆかれてしまった。
日本はどうかというと、半分半分になっているわけです。両方が混じり合わないで、しっかりと
自分のものになっていない。宙ぶらりんで一番悪いように見える。現今はお釈迦さまがいったよう
177天命を信じて人事を尽くせ
に、霊魂のことばかりいっていたのではダメ。肉体生活を問題にしないような仏教の在り方ではダ7ー
8
メなわけです。それで新興宗教がたくさん出て来たんです。
新興宗教はどういうことをいうかというと、霊魂や精神のことは問題にしないで、ただ現象の利
益、現世利益と、この現在の生活が利益すればいい、病気が治ればいい、貧乏がなおればいい、金
持になればいいんだというんで、とうとう創価学会のように利を説いたんですね。魂の面を全部置
き去りにして、なんにもわかっていない、そういう新興宗教がたくさん出た。九九%が現世利益を
説いているんです。現世が幸せになることばかり説いている。これは唯物論と同じです。
霊魂とか説くけれど、それは霊魂の進化というものを説いているのではなく、現世利益の不随物
的に、おどかしのために、いわゆるさわっている、先祖がたたっているぞ、というような説き方を
しているわけです。おどかしては自分のほうに引っ張りこんで、お前が入らなければ病気になっちゃ
うそ、とか貧乏になっちゃうそっておどかしているわけ。そして無理矢理に入れているんです。そ
ういう宗教が多くなってきた。
それじゃいけないというので、神さまが私みたいなのを出して、現世利益もポチポチ与えながら、
それで引っ張って引っ張って引っ張っているうちに、私に会っているうちに、魂がだんだん浄あら
4
れてしまう。柏手を打たれるうちに浄められてゆく。するとおのずから魂が開いてゆくから、善い
ものと悪いものがわかってくる。本当の幸福というものはどういうものか、ということがわかって
くる。
この世に現われてくるものは、みんな過去世においてつくった業因縁なのだから、どんな貧乏が
現われようと、どんな苦労が現われようと、現われた時が消えてゆく姿なんだ。しかも五井先生に
ついていれば、自分が耐えられないような、自分の魂が耐えられないような苦労は出て来ないんだ
ーとわかってくる。
A ならAという人はこれぐらいずつ業を出してやれば丁度いいな、Bは、このぐらいずつ業を出
してやっても大丈夫だ、というふうに、百なら百の業があるとすると、五井先生に働いている霊団
が、この者は百万円いっぺんに払えと言ったんでは大変だから、よし一万円ずつにしてやろう、と
いうんで、本当は一ヵ月に三万円お金が入るところを、わざと二万円の生活をさせといて、一万円
だけの分をいつも苦しい思いをさせながら、しまいに借金をすべて払ってしまう、というようなや
り方をするのです。或いはいっぺんに百万円すっかり払えるか、よし払わせちゃえ、と手伝ってあ
げて払わせちゃう、というように守護霊守護神が背後から、その人に一番いいように業を払わして
179天命を信じて人事を尽くせ
くれるわけね、いいですか。だから、先生に会えば、会ったとたんに病気が治っちゃう、不幸がな810
くなっちゃって、悠々と休んでいてもいいような、そんな安易な気になったら大変だね。そういう
ことはありません。
まず天命を信ずる
私の教えには”天命を信じて人事を尽くせ” ということがある。普通は人事を尽くして天命をま
て、というのですが、これは唯物論者でもみな同じことです。私がいうのは、まず天命を信じるの
です。
「自分が生まれて来たことは、神さまがこの世に必要あって生んで下さったんだから、私には必
ず天命があるに違いない。天命のない者が生まれてくるわけはない。神さまが無駄なことをするわ
けがない」という信仰です。神を信ずる、自分が生まれて来た天命を信ずる。
そうすると、どんなことが出て来ても”あ、自分は天命を必ず完うするんだから、自分はこんな
ところで死ぬわけがない。こんなところで参ってしまうわけはない”という固い信仰が出てくるわ
けです。それで人事を尽くすんですよ。天命を信じて、神さまにつながったから、もう人事を尽く
さなくともいい、鍵をかけなくとも、どうせ私は信仰しているから大丈夫、ガスはつけっ放しでい
い、ということではありません。人事を尽くしていませんね。自分は信仰しているんだから、切符
なんか買わないで乗ったっていい、なんていったって、改札口は通れません。そういうのは常識外
れというんですね。
だから天命を信じて人事を尽くす、神を信じながら、出来ることは自分でやらなきゃ。一所懸命、
計画もすればいいでしょう。家計簿をつけてもいいでしょう。鍵をチャンとかけたらいいでしょう。
夜は早く寝たらいいでしょう。とにかく、出来るふつうの生き方をすればいい。
e智れをふつうの人はオロオロする。出かけるにも泥棒が入らないか、火事になりゃしないか、心
配して考える。天命があるということは、何が来ようと天命は完う出来るんです。だからそんなこ
とはどうでもかまわない。みんな神さまにまかせて、守護霊守護神が守ってくれるのだから、業を
うまく消してくれるんだから、自分が困って、くたびれて倒れてしまうような、そういう業の出し
方は決してしないのだから、安心して、神さまにまかせて、あとは自分の力を尽くすんですよ。
同じ鍵をかけるんでも、泥棒が入っちゃ大変だって、鍵をかけるんじゃなくて、世界人類が平和
でありますように、と鍵をかければいいでしょう。外へ出かけるんでも、五井先生お願いします、
181天命を信じて人事を尽くせ
有難うございますって出かければいいでしょう。
それを大概の場合、泥棒が入りゃしないか、火事になりゃしないか、不幸が来やしないか、とい
うように心配する。それは今までの常識であって、要するに唯物思想、無信仰のやり方なんです。
信仰心が深まっているのはどういうことかというと、もう大丈夫だ、という信が胸の中にある。自
分は神さまにつながっている、守護霊守護神に感謝している、世界平和の祈りをしている、だから、
自分が再び立ち上がれないような、ひどい痛み方はしないんだ、というように断固として思うので
す。
それは私が保証しますよ。再び立ち上がれないような、そういうひどい目には神さまは会わせな
い。神さま! って思っていない人は別ですよ。だけど神さまを本当に思って、世界平和の祈りをし
ている人は、もし不幸があった場合は、たとえば事業がつぶれたとしても、同時に、もっと素晴ら
しく発展するような新しい事業が出てくる。そういうものなんです。
天命を信じて人事を尽くせ、守護霊守護神さんは必ず自分たちの悪いようにはしないんだ、必ず
守ってくれるに違いない、ということに確信を持っていると、一番初めに恐怖がなくなりますね。
恐れることがなくなる。自分の生活に対する、自分の体に対する恐れがなくなって来ます。たとえ
182
ば胃が痛いとする。”あ、隣の奥さんが胃癌で死んだけれど、私も胃が痛い、癌じゃないかしら、
新聞をみたら、癌症状はこういうふうに書いてあった。私は癌じゃないかしら” と思います
ね。思うのは仕方がない。業が思うんだからね。ただ思った時”あ\ この想いは消えてゆく姿なん
だな”自分が再び立てないような不幸になることはないんだ、有難うございます。世界人類が平和
でありますように、五井先生/ と神さまのほうに不安の想いを投げ出しちゃうんです。入れてしま
う。そうすると、心の中にひそんでいた不安の想いがそのまま消えてゆくのです。それを何遍も何
遍もやっていると、しまいに、なんとも思わなくなってしまう。

みんなプラスになってゆく駅

業は現われれ繕えてゆくものなのです・消えてゆけば再び同じ業は帰って来ないんですね・着棉

えてゆく姿だな、守護霊さん有難うございます、守護神さん有難うございます、五井先生有難うご部
譲翫簾葬耀弱岡嫁鐘纂鑓難鱒難砺鴫
いものはないんです。マイナスと思えるようなものはみんなプラスにひっくり返ってゆく。マイナ鵬
スとして現われてくる病気も、貧乏もみんな”あ、消えてゆく姿だ、神さま有難うございます”と84
1
やると、ひっくり返って今度はプラスになって現われる。これが宗教の極意なんですよ。
何故、プラスになって現われてくるかというと、人間は本来神さまだから、神の子だからです。
いつもいうように、この肉体にこうやっていなさるけれども、実は神さまの世界にそのままいるん
です。神さまの世界に自分の本当の姿があるんですよ。その姿がそのまま百%現われていれば神さ
まで仏さまになっちゃう。ところが百%現われないで、その間に今まで積んできた業想念がありま
す。自分は神さまと思っていない業想念がありますね、それが邪魔をしてしまって、百%現われる
ところが十%或いは五%、或いは三%しか出ていないだけの話であって、出ていないからといって、
神さまであることに変わりはないんですよ。それを内にある神というんです。
神は内にあるんだ、人間すべての内に神はあるんだ、みんな仏さまなんだ、仏さまを宿している
んだ、という言い方をしていますね。自分の中に神さまがある、自分は本当は神さまなんだ、とい
うことを知ることが一番なんです。
この世に現われてくる悪いもの、自分に気に入らないもの、心を不安動揺させるもの、いやーな
想い、自分を痛あるような想い、人を痛めるような想いは、みんな現われては消えてゆくものです。
消えてゆくと、中の神さまがツーッーッーと現われてくる。全部現われきると仏さまになる。そう.
すると自由自在で、居ながらにしてどこもわかってしまう。居ながらにして人の病気も治せれば、
居ながらにしてどこへでも飛んでゆかれる。誰の心もわかってしまうような、そういうものになっ
てしまう。ですから私どものところに来ている人たちが、いつの間にか菩薩みたいな形になってし
まう。知らないうちに菩薩のような心境になってきて、みんな人を恨む心もなくなってくる。人を
妬む心もなくなってくる。高慢な心もなくなってくる。そういう要らない想いが全部なくなっちゃ
う。
何故なくなっちゃうかというと、消えてゆく姿だからね。、みんな不幸や病気があるくと思ってく

んだけど・ところがそんなもんありゃしない・それは消毛ゆく姿でありゃしない。あることと現齪

われてくることとは違うんです。人

+五夜のお月さまに雲がかか.ているけれども、やがて雲が晴れてゆくと同じように、本当は青胤
空なのです。髄
〃ひたすらに神を想ひて合はす掌のそれさへ消えてたゞに青空
” 天
という私の歌のように、青空だけしかない。光り輝いているだけしかない。それが雲で邪魔され燭
ている。その状態を人間は”あ\病気だ困っちゃう、あ、会社がつぶれたら困っちゃう、不幸になっ86
1
おさ
たら困っちゃう”と雲を抑えているんです。雲を抑えてそれで自分の心を曇らしているんですね。
くもった話だって。(笑)その抑えているものを放してゆけばいい。
私なんかにはいろんな想いが来ます。救ってくださいっていっぱい来ています。一人や二人の想
いが来てもたいてい病気になるんだから、何千何万の想いが来て病気にならないのはどういうわけ
かというと、そんなのに全然把われていないから。消えてゆく姿だって、消えてゆく姿さえも想い
はしない。私は何も想っていやしない。ただ光っているだけだね。そうするとみんな通り過ぎちゃ
います。掴まない。だけど痛いことは痛いんですよ。それはすぐ消えてしまいます。波が来ては消
えてゆく。だからこの体が、朝から晩まで、どこも何もない、ということはないんです。肩が痛かっ
たりして、どこかしら痛い。痛いけれども、それは消えてゆく姿で、実体のあるものじゃないでしょ。
波がさわってくるだけだからね。だからそのまま放っておくからなんでもない。
みんなそうなんです。皆さん病気になったって、そんなものなんでもない。現われては消えてゆ
く姿。貧乏になったってそんなもの或る期間だけで、神さまの中へ入っていさえすれば、それは消
えてゆくんです。それが一番大事なの。そればかり繰り返し繰り返し言ったっていいですよ。
いのち
消えてゆく姿というのは生命の中に入ること
聖ケ丘で祈っています。お山といっていますが、森があってお山のように見えるからね。私は始
終祈っているんだから、特別こうやって祈ることはしてもいいし、しなくてもいいのです。が、行っ
まる
て祈りますと、私どもの目で、天が光り輝いた光で円いんです。大地も円いんですね。天と地がつ
ながってまーるい円光なんです。太陽が輝いているように円光なのです。その中に自分たちのいの
ちが一緒にいるんです。一緒に溶けこんでいるんですよ。
十何人の人が一つのいのちになって、円光の中でクルクル廻っている。光り輝いている。一つの
円です。天地も一体、人間も一体。人間のいのちも天地のいのちも一体なんですよ。全然別のもの
じゃないんです。私たちが動いていることは天地が動いていることなんだね。天地が動いているこ
とは私たちが動いていることなのです。肉体が動いていることじゃないんですよ。いのちが動いて
いる。だから人間のいのちというのは、天地のいのちが一つになって、神さまのみ心を現わしてい
るんです。そういう素晴らしいものなんだけれど、みんなはわからないんですね。わからなくて、
明日の米をどうしよう、と考えているんです。それは消えてゆく姿です。
187天命を信じて人事を尽くせ
あんまり消えてゆく姿ばかりやっていると、どうせ食べても消えちゃうんだから、食べないでお
こう、なんてなると困るから、やっぱり愛情の交換で、愛というものは消えるものじゃないんです
よ。愛の交換で、ご馳走になったり、ご馳走したりするわけですね。
この間もある所でお酒を飲む話が出てね、私はお酒を一滴も飲まないでしょう、だからお酒の話
を聞いたって仕方がないけれど、でも折角お酒の話をするんだから聞きました。その時、いやな気
持ちで聞いているわけじゃないですよ。向こうが嬉しそうに、楽しそうに、愉快そうな気持ちでお
話をする。だから私も一緒に楽しんでいる。そうすると向こうは喜んでね。
宗教を少しやってくると、消えてゆく姿でもそうなんですよ。少しやってくると、今度はそれが
固まっちゃうんだ。頭の中でね。消えてゆく姿っきりなくなっちゃうんです。誰かが訴えますね
「うちの嫁がもう少し優しくしてくれるといいんですけれど」「あ\それは消えてゆく姿です」「う
ちの姑が本当になんとかしてくれるといいですけれど。どうしましょう」「あ㌧それは消えてゆく
姿ですよ」
そうやられると取りつく島がないのですよ。話しているほうの想いが消えやしない。かえって中
に入っちゃう。消えてゆく姿という言葉が、その人の中にかえって悪いものを押しこんでしまう。
188
それは消えてゆかないですよ。
消えてゆく姿というのは、どういうことかというと、いのちの中に自分が入ることです。業想念
が出てくる、自分の業想念が消えてゆくんだなア、病気なら病気、貧乏なら貧乏が出てくる。あ、
消えてゆくんだなア、という時には自分は神さまの心の中に入って、光の中に入ってゆく時なので
すね。あ\消えてゆくんだなア、守護霊さん守護神さん有難うございます。世界人類が平和であり
ますように、というと、光と業想念が交換されてゆくわけです。そうすると消えちゃうんです。そ
れはどういうことなのかというと、自分の魂が光っている。そのかたわらを、消えてゆく姿が、病
気や不幸がすれ違ってゆくわけです。
これが人の病気だとしますね。そうすると”あ\病気、そんなもの消えてゆく姿よ” って、愛も
何もなくて消えてゆく姿よ、というのは、業のほうへくっつけちゃうことですよ。何故かというと、
自分に愛がないんだから。自分の姿が業の姿で、業の心で愛も何もない、神さまの心を離れた言葉
だけで”消えてゆく姿よ” とやる時は、業のほうにくっついているんですよ。向こうの心を業にくっ
つけさせちゃうわけですよ。
“何言ってんのよ、いやな人ね、知ったかぶって、あんな奴、だから宗教なんか嫌いよ
“とこう
189天命を信じて人事を尽くせ
なっちゃうんです。だから治りゃしませんよね。自分の業でもそうです。病気になって、あ㌧これ
は消えてゆく姿なんだ、と本当に思う時には、神さま有難うございます、というのが中に入ってく
る。”あ\ これは何か知らないけれども、大きな業が小さく消えてゆくんだから、有難うございま
す、神さまがうまくやってくださる、有難いなア” という時には、業とすれ違うのじゃなくて、業
から本心の中に入って、仏さま神さまのほうへ入っちゃって、業はそのまま離れて行っちゃう。大
きなく距離が出来ます。それをつづけてやっていると、業が出て来ても、業とは大きな距離では
なれています。
それを、恐れながら、感謝も何もなくて”消えてゆく姿だ”と言葉だけで空転している場合があ
るのです。ただ消えてゆく姿を教わったから、消えてゆく姿を思わなければいけないんだと思って
“あ、また病気になった、私はなんだってこうなるんだろう。あ、腹が痛い、消えてゆく姿なんだ、
消えてゆく姿なんだ”と泣きながら消えてゆく姿をやっていては、だんだんく自分の光のほうが
消えてしまいます。そうじゃないんですよ。消えてゆく姿というのは、神さま有難うございます、
と思う時に消えてゆく姿になるんですよ。”これは何か出てくるものが出て来たんだろう、しかし
軽く消えてゆくんだ、有難いなア、神さま有難うございます、これで私の本心は輝くんだ” そうい
190
う神さまへの感謝の想いで入ってゆけば、神と業とがズーッと離れちゃって、業は消えてゆく。し
まいにはいくら業が出て来ても、大したことはありません。
あなたに光一念の世界がくる
消えてゆく姿なんて思いもしないで、神さま有難うございます、でバーンと神さまの中に入っちゃ
うんですよ。そうすると、消えてゆくも消えてゆかないも、ありゃしないんです。もうないんです。
だから私たちの世界というのは白光の中に入っています。いくら業が来たって、何が来たって、先
生助けて下さい、お腹が痛い、なんていったって、そんなのこちらの光が厚いから、ポンと当たっ
ちゃピョッと消えてゆく。まるで問題にならないんです。
常に神さまのみ心の中、世界平和の中に入って感謝してゆくという形になると、業がいくら来て
も、どんな不幸が来てもなんでもないんです。この間、我妻哲夫さんがお話しましたが、川があふ
れて、水が床上まで浸水して来た、ふつうならあわてふためいて、私は信仰しているのにどうして
こんな目に会ったのか、先生は守ってくれないのか、とこう恨みぼく思うところです。ところが我
妻さんは、五井先生有難うございます、世界人類が平和でありますように、とやっていた。水が上
191天命を信じて人事を尽くせ
がってきたので戸棚の中でねながらも祈り感謝していた。これは大きな業が小さく消えたんだ、有
難いなア、と思ったんですね。それで五井先生が必ず守ってくれると思うから、自分たちのいのち
に障りない、怪我もしないと思っているから、呑気な顔をして、水がピシャピシャと上がって来て
いるのに、戸棚の上でねていたんでしょう。ふつうだったらいい気持ちではないですよ。それがい
い気持ち悪い気持ちを越して、祈りの中に入ってしまっている。そうしたら五井先生の光がサッと
見えたんですね。飾ってあった私の写真の中に、ピューッと光が入っていったのを見ているんです。
そしたらその時から水がスーッと引いていった、というお話でした。不幸のように見える、災難
を受けたように見えるけれども、魂はちっとも災難を受けていない、信仰の深さがますます深まっ
て、ますます神さまの中に入っていったのですね。そのように業が現われている時、不幸や病気や
災蒙出て来た時に、本当に神さまの中に入れる人は幸せですね.その人曾いきます。
この世を去る時、この世でいえば、一番不幸と思われるような死の間際でも「五井先生有難うご
ざいます、世界人類が平和でありますように」と祈って、肉体を離れた魂というものは、素晴らし
い高い所へ行くのです。感謝でもって死んだ人は、神さまをつかんで亡くなってゆく人は、うんと
高いところへゆく。192
何故かというと、人間の運命というものは、自分の想いの中にある。想いがどれだけ純化されて
いるか、自分の想いがどれだけ神さまの中に入っているか、ということによってその人の運命の地
位が違ってくるんです。だから今、神さま神さまと思いながら、世界平和の祈りをしながらも、病
気が現われたり、不幸になったり、災難が現われてくるということは、それは過去世の因縁の消え
てゆく姿であって、不幸が出てくると同時に、あたりはますます輝いてゆく。やがては不幸も災難
もなくなって、光り輝いてゆく。光一念になる。そういう世界になるのです。それを私は一所懸命
教えている。
人間は真実は神さまの世界にいる
そういう原理を悟って生活しておりますと、やがて貧乏もなくなってしまう。病気もなくなって
しまう、不幸もなくなってしまう、一切の苦悩、生老病死の苦がなくなってしまう。お釈迦さまが
さんざん苦労して教えた、万巻の書になったものが、ただ消えてゆく姿ですよ、世界平和の祈りの
中に飛びこみなさい、というだけで解決してしまう。
こんど創作阿難(釈迦とその弟子) が出ますけれど、あの一冊を繰返し繰返し読んだらいいです
193天命を信じて人事を尽くせ
よ。あの中には、仏教の教えが最もわかりやすく現代調で書いてあるわけです。それを読んで実行94
1
すれば、必ずよくなる。実行出来ないようなむずかしいことは、なんにも書いてないんです。
昔の人は坐禅観法して山にこもったり、いろいろな苦行をしたわけです。そしてやっと悟りを開
いたか開かないかして死んでゆくんです。死ぬ間際でなければ悟りを開けない。或いは悟りを開か
ないで、生まれ変わっている人が随分あるわけです。本当はそういうもんじゃない。
人間は本当は神さまの子であり仏さまの子であって、本体が神さまの世界にいるんだ。それをい
つも覚えて下さい。自分たちは肉体の世界にこうやって生きているけれども、実は神さまの世界に
いるんです。神さまの世界、みんな同じ所にいるんです。そして想いがどこまで上がっているか、
自分の本体のそばまで行っているか、本体から離れているか、幽界だけの想いか、別の表現をする
と、霊界まで行っているか、霊界の上層部へ行っているか、神界まで行っているか、神界の一番上
へ行っているか、これだけの違いなんですよ。わかりますね。
自分の想いのある所が自分の境地、世界です。境遇です。死んだ時、自分の想いのあるところが
自分の位置なんですよ。だから昨日見たならば片方のAはこんなに高くて、片方のBはこんなに低
くても、今の私の話を聞いて「あ、そういうものか、あ、自分の本体は神さまだったのか、それじゃ
あ、神さまのいのちの中に入ってゆこう、神さま有難うございます」というふうに思うと、明日、
Bさんはぐっと高くなります。それが更に徹底的に思えば、何が出て来てもみんな消えてゆく姿、
神さまは有難いなアと本当に思えて昇っていって、そしてAさんがそれで止まっちゃったとすると、
ひとつき
B さんはAさんをぐっと追い越してしまうこともある。一月前は大きく離れていたのが、逆転しちゃ
うかもしれない。だから常に常に神さまの中に入っている人が一番なのです。
神さまの中への入り方
その神さまの中への入り方はどういうことかというと、何ものにも把われない、ということなの
です。善にも把われちゃいけませんよ。よく善に把われすぎている人がいます。人が不幸になって
いますと、あ、あの人もあんな災難にあっている、貧乏な人がこんなにある、それなのに、自分は
金を持っていて、裕福に暮して楽な生活をしている。自分だけがこんな楽な生活をしていて、あん
な困った人がたくさんあるのに、私はどうしたらいいのだろう、この世の中は嫌な世界だ、といっ
て、折角自分が前生の因縁によっていい地位に生まれ、それで裕福な生活をしているのに、かわい
そうな、という想いだけに把われちゃって、この世の中は嫌な世界だという想いになっちゃうでしょ
195天命を信じて人事を尽くせ
う。そうすると神さまのみ心から離れてしまうんです。折角の愛情が業の中に引きこまれてしまっ
て、なんにもならないのです。
業の中に引きこまれて、なんて悪い世の中だろう、神さまはどうしてこんな世の中をつくったん
だろう、と自分がいい地位にいて悩んでいる人がいるならば、自分の地位もダメになる、自分の幸
福もダメになる、しかも向こうのためにはなんにもならないんです。いいですか。かわいそうだ、
かわいそうだといったって、言っただけではなんにもならないのですよ。いい人の中には随分そう
いう人がいます。それは悟りが足りない。愛情は深いんだけれども、悟りが足りないからダメです。
それなら蟻の町のマリヤじゃないけれど、飛びこんだほうがいい。あの人は自分は大学教授の娘
でなんの不幸もないけれど、献身といって、蟻の町の貧しい人々の間に飛びこんじゃったでしょう。
それで二十代の若さで死んでしまいます。無理をしたから死んじゃったのですよ。けれどこのマリ
ヤさんのほうがずっといいですね。見ていられなかったら飛びこめばいい。飛びこむ勇気もなく、
ただ哀れだくという感情だけあったんじゃ、これが一番不幸ですね。
哀れだと思ったら、出来る限りのことをしてあげたらいい。蟻の町のマリヤみたいに飛びこんで
いったらいいでしょう。あの人は飛びこんでいって自分は幸せだったですね。それから世の中の役
196
にも立ったでしょう。しかし親に対しては大変な不孝ですね。親はどのくらい苦しんだかわからな
いと思います。どっちがいいかということはなかなかむずかしい。蟻の町のマリヤという人はいい
人です。立派な魂です。じゃなきゃあんなこと出来やしない。しかしもっといい生き方、日常生活
を生かしながら、しかも人の為に尽くせるという生き方はどういうものかというと、与えられてい
る自分の生活の中で、生活に感謝しながら”あ\ これは有難いな、私はいい因縁に生まれて、こうい
う優しい心に生まれてあ\有難いなア” と思いながら、しかも世界平和の祈りを祈ればいいのです。
世界平和の祈りは人類の業を消す
一人や二人にお金をやって助けたって、どうにもならないですよ。勿論、助けたほうがいいです
よ。しかしそれだけじゃ足りない。どうにもならない。しかし世界平和の祈りをして、自分が神さ
まの光の中に入ってしまえば、光が横に流れてゆくから、一人や二人や三人じゃない、世界人類の
中に流れていって人類の業想念を浄めるのです。そうすると一人や二人の人にお金を恵んだことよ
りも、人類の業想念を楽に浄めてくれたほうが、よほど人類の為になるんです。
可哀そうくと思う心があるならば、世界平和の祈りをやることが、人類の為に尽していること
197天命を信じて人事を尽くせ
になるのです。要するに人類の業想念を消していることになるのです。だから自分だけが救われる
のではなくて、自分が救われると同時に、人をも救うということが世界平和の祈りなんです。
何故、世界平和の祈りがいいかというと、世界平和の祈りというものは、宇宙神が守護神を集め
て、要するに救世主の大光明にして打ち出している言葉だからです。救世主というのは一人ではあ
りません。守護神がみんな結集した大光明となって、世界平和の祈り言葉に集まって、人間のほう
にダーッと流れ入ってくる。いいかえるなら、自分たちが神さまの中に入ってしまう。だから余計
な、あ\不幸になっちゃいやしないか、貧乏になっちゃいやしないか、戦争になっちゃいやしない
か、大地震が来やしないか、という不安な想いなどは邪魔なのです。ところが人類にはそういう不
安恐怖の想いが一杯あるんです。その不安恐怖の想いをはじめ、すべての想いを世界平和の祈りで、
神さまの中へ持っていってしまう。すると神さまの中で光に化して消えてしまうのですよ。そうす
ると光がそのまま真っ直ぐに人類に降りてくるんです。それが世界平和の祈りなんですよ。
今までは、祈りということを知らないですよ、大体が。宗教家の殆どが祈りを知っていない。生
長の家では世界平和思念連盟というのをつくって、世界平和を祈るのだというのですが、生長の家
の機関誌に書いてあることは、思念の力、想いの力を利用して世界平和を祈るんだと書いてある。
198
想いの力思念の力というのは力むことですよ。世界人類が平和、世界人類がって力むんですね。力
んだことは届かないのです。その人の力より出ないのです。その人の想いの力というのには限度が
ある。いくらも上がっていかない。人間が平和を望む想いより、悪魔の想い、業想念のほうが強い
です。何故強いか、考えてごらんなさい。
たとえば、お腹をこわしても食べたかったり、一杯飲む人などはいやでも応でも飲みたくてしよ
うがない。止めようという心より飲みたい心のほうが強いんだからね。人を恨むまい恨むまいと思
いながら、恨む心が出て来ちゃうでしょう。妬むまいと思っても妬む心が出て来る。
この間もお話したけれど、大水になって、向こう岸が切れればこっちが助かり、こっちが切れれ
ば向こうが助かるという場合、誰もこっちの岸が切れて向こうが助かりますように、なんていう人
はいない。向こうの土手が切れますように、そうすればオレは助かるんだと、こう思いますよ。実
際、人間の心はそう動く。そういう想いのほうが強い。業想念のほうが強い。向こうが助かります
ように、という想いは少ない。こっちが助かってから、あ、向こうは気の毒だったとこうなるのね。
本当の話そうですよ。そういう想いのほうが強いのです。そこへもって来て、思念の力で世界平和
が、世界平和がといいながら三十分か五十分はやるかもしれない。ところがあとの時間は全部自分
199天命を信じて人事を尽くせ
のことだけを考えている。自分が幸福であることが潜在意識に一杯ある。、
誰かが山に登りに行った。自分の子が友達と一緒に行った。遭難したという記事が出たとすると、
まず第一に自分の子供を探して、出てないと”あ\よかった”それから今度は友だちはあ、可哀そ
うに… … でしょう。私もそうだと思うんですよ。どこかに事故があった。あれ、うちの知った人は
いないな、あ\よかったとこう思うものね。実際、嘘もかくしもない。人間にはそういう想いが強
いんだ。自然に流れてくる。自己保存の本能といって、自己を守る本能が強いんだからね。そうい
う自己保存の本能の想いで、世界平和、世界平和と想いの力を一所懸命こらしたとしても、そんな
のは神さまに届きません。それは思念の力といって、間違いなのです。思念の力では世界平和に絶
対にならない。戦争をして金儲けをしようとする人はたくさんあるんだから。戦争したらいいと思っ
ている人はたくさんいる。-
現に、この間もテレビで、新東宝社長の大倉という人がいますが、あの社長の話しているのを聞
いて、私はげっそりしました。「戦争がどっかにありゃ俺は儲るんだ。戦争がありゃ儲かるんだが
なア」とハッキリいっていた。事業家という奴は、戦争があったら儲かるんだね、朝鮮戦争の時は
随分儲かりうるおった。それで戦争はよかったと思っている。他人のふんどしで儲かったというこ
200
となんですよ。株などもすぐ上がるからね。「先生、戦争長くなりましょうか、短いでしょうか、
長くなるならこれを買っておきます。短いなら止めます」実際の話そういう人があるんですよ。そ
れは自己保存の本能、自己を守る本能が誰にでもあるんです。あってはいけないというんではない
ですよ。いけないも、いいもあるんだから仕方がない。だからそういう想いで世界平和祈ったって
ダメでしょう。
思念を強めて祈るのではない
そこで私がどういうことを言うかというと、そういう想いも消えてゆく姿なんだ、自分を守る想
いも、いけないくという想いも、欲望も、みんな消えてゆく姿として神さまの中へ入れてゆくの
です。神さまのみ心の中に入ってゆくのです。神さまに一任しちゃう、五井先生に一任しちゃうん
だね。そうすると業想念で力んで、世界人類が平和で世界人類が平和で… … とやるんじゃないんで
すよ。ふんわりと世界人類の平和の中に、自分の業想念を持っていってしまう。そうするとピューッ
と消えて光になってしまう。光の中に入って溶けちゃうんだからね。
闇というものは光に照らせば消えてしまうでしょ。闇の想いがそのまま光に入っていって、その
201天命を信じて人事を尽くせ
まま消えてしまうのです。そうすると光がサァとこの中に流れてくる。そういう祈りを祈る人が多
ければ多い程、世界は本当に平和になるでしょう。業の想いでいくら世界人類の平和なんていったっ
てダメなのですよ。やらないよりはいいかもしれないけれど、大したことはない。五十歩百歩だ。
私の教えというのはそんなのじゃない。息ばれ/というんじゃないです。息ばって世界人類が平
和で… … 消えてゆくくなんてそんなのじゃないですよ。消えてゆく、なんて頑張るんじゃないで
す。それを間違えている人があるけどね。消えてゆくのは勝手に消えてゆくんですよ。こっちが”消
えてゆく、消えてゆく”なんていわなくたって消えてゆくの。消してくれるのは何かというと、守
護霊守護神が消してくれているんですよ。消えてゆくに決まっているんだから、だから守護霊さん
守護神さん有難うございます、世界人類が平和でありますように、といって、自分の想いをただ光
の中に、神さまの中に投げ入れれば、自然に消えてゆくんですよ。殊更に消えてゆく消えてゆく、

消してしまわなければ消えちゃわなきゃーというのはダメです。我ですよ。よく間違えるんです
よ。
お腹が痛いとする。消えてゆくと強く想ったって消えやしない。それはお腹の痛いのと格闘して
るんだから、それは消えてゆく姿じゃないんですよ。消えてゆくものを掴んでいるんだもの。痛み
202
なら痛みが出て来たら、「あ\消えてゆくんだな、何かの業がここに集まって毒素になって痛みに
なって、消えてゆくんだな、だからそれはそのままに放っておいて、神さま有難うございます、守
護霊守護神さん有難うございます」痛いな、守護霊さん有難うございます、痛い守護神さん、とやっ
ていればいい。それで有難い有難いと感謝しているうちに、消えてゆくというのは心の中にあるか
ら、自然に守護神さんが消してくれる。ダーッとお尻から滝のように出しちゃう。お粗末な話だけ
どね。
いきばるんじゃない
息ばるんじゃない、へんな話だけど、便所で意気ばってごらん、痔になっちゃうから。息ばれば
息ばるほど出ないから。意気ばらないでのんびりすると、出るものは出ますよ、試しにやってごら
んなさい。(笑)何でも息ばったらダメですよ。私たちは消えてゆく姿ということを知って、守護
霊さん守護神さんの中に入ってゆきゃいいんですよ。楽でしょう。それを教えているんです。
息ばるんじゃない。統一修業会に出ている人が随分ありますが、そういう人達は誰も息ばっちゃ
いない。ちゃんと坐ってそうすれば、スーッと統一しちゃいます。誰が統一させてくれるのかとい
203天命を信じて人事を尽くせ

うと、そこに働いている大光明が、守護霊守護神が集まった救世主の光が統一させてくれる。もの
を考えようとしたって、スーッと持っていっちゃうから、業想念をヒュッと持ってちゃう。その他
私はいろいろな印を結んだりしますけれども、それによってスースー取ってっちゃうんですよ。だ
から自分は委せておけばいい。
自分は神さまの中に住んでいる。神さまの大海の中に住んでいるんです。神づまりにつまってい
うしろ
るところに自分は住んでいるんですから、後を見ても前を見ても、左を見ても右を見ても、上を見
ても下を見ても、みんな神さまばかりなのです。その中に住んでいる。それでもって、神さまは要
らないものを取って下さる。それなのに、みんな追いかけてんだ。お金が要らない時はお金を取っ
てくれます。あとは要るものだけが残るんです。初めから取られないうちから、こっちから神さま
に全部あげてしまえば、とられないままです。あ\これはもう悟っているから、これをくっつけと
いても大丈夫だと思って、少しぐらいお金をつけといてくれますよ。つけといても大丈夫だとつけ
といてくれるようになりゃ、シメたものですね。必要なもんだけつけてくれる。そういうことをよ
く覚えておいたほうがいいですね。
だから息ばることはなんにもない。世界平和の中へ、ふわっと入っていればいい。ふわーといき
204
ながらなんにもしないんじゃない。要するに、天命を信じて人事を尽くす。神さまの中に入ってい
て「自分の天命は決まっているんだ、前も後も横も縦も上も下もみんな神さまが光り輝いて、じっ
と自分を守っていてくれる。だから自分はなんにも不安心配もいらないで、どんどん自分に与えら
れた仕事をしていればいいんだ、そうすれば必ずよくなるに決まっている、自分の天命が完うされ
るに決まっている、あ\天命が完うされますように、有難うございます」というように進んでいけ
ばいいんです。そうすれば必ず天命が完うされるんですよ。
そうしたら誰かが「私は苦しむ天命ですから」っていうんですよ。苦しむ天命というのはないん
ヘヘヘヘヘへ
ですよ。悲しむ天命なんてないですよ。私は妬む天命がありましょうか? そんなのてんめい勝手で
(笑)知ったこっちゃないですね。そういうんじゃない。それは消えてゆく姿だね。
天命というのは、いつも安らかに、自然に自然法爾に出来ることなのです。自然に現われてくる。
ただ自然に現われてくることを現わすために、やっぱり努力をしなければならない。それは日常茶
飯事を一所懸命やる。これは常識。当たり前のことをやればいい。
自分は神さまに守られているんだ、世界平和の中に生きているんだ、自分の天命は必ず完うされ
るに決まっている、と信じて、それで当たり前の常識の線にそって働けばいいですよ。それを何も
205天命を信じて人事を尽くせ

しなくても、こうやって祈っていれば奇蹟が起きて、なんでもかんでも出てくるようなことを説く06
2
人もいるけれども、そんなことは嘘なの。やはり人事を尽くさなければいけない。やるべきことは
やらなければならない。天命を信じたから、といって、米を炊くにも、ガスに火をつけないで祈っ
ていれば、今に神さまが来て、守護霊が来て、ガスに火をつけて、御飯が出来るだろうーそんな
の馬鹿らしいでしょ。ところがそれと同じようなことをやるんですよ。
信仰というのを間違えちゃってね、それで出来ないと、なんだ先生、あんなこと言っているのに
ちっとも出来やしない。先生はインチキだ、嘘だ、なんてそういうんですよ。それは間違っていま
す。やるべきことはやらなければならないですね。そういうことなんです。
なんでもない楽なことなんです。・


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