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8/20/2022
五井昌久著
天と地をつなぐ者
自序
人間は小宇宙であると、少年の頃誰れかに聞いたことをおぼえているが、今に
してなるほどと私をうなずかせる。人間一人一人の歩んでいるその道に宇宙の影
がそれぞれ宿っていることは間違いない事実である。しかし、その人間の歩みが、
宇宙の心をそのまま写しているか、似て非なる写り方をしているかは、その人間
の歩調の正誤により、美醜によるのである。その歩みが肉体だけの歩みであるか、
魂の歩みであるかによる美醜は、この人生の大きな問題点になっているのである。
私はこの書で私の魂の遍歴を書きつづっているのであるが、私が肉体に重点を
じねん
おく人間でなく、魂に重点をおかずには生きられぬ人間であったことを自然に書
序
自
1
きつづっている。
うつわ
私は自分の体験として、肉体は人間の一つの器であることをはっきり知った。
こんばく
人間という者は霊そのものであり、魂醜として肉体に働いているものであること
も知った。
人間の本体である霊というものは、そのまま神であり、宇宙神の生命の動きの
とおりに働きつづけているものであることも知った。そして、人間の一分一秒の
歩みでさえも、この大宇宙に影響があり、いかに大事であるかも知った。
人間が肉体のみを人間の全存在として生きるか、肉体を霊の器、神の器として
生きるかによって、この人間世界が、そのまま天国ともなり、地獄ともなるもの
であること、真といい、善といい、美というもすべて肉体にあるのではなく、そ
の魂が、より神に近く、より人類愛的である時に具現されるものであることも知
った。
私は、私のとおってきた道そのままを余人にもとおるようすすめはしない。人
2
間各自に、すべてそれぞれの道がある。個人個人が己れにかなった道を、誤また
ず生きつづけられるよう、神である自己の本体に祈りながら堂々と生活していっ
てもらいたい。なお、天と地をつなぐ者という題名は天(本体)と地(肉体的人
間)とを合体させた私の霊的体験によるもので、人間はすべて、そうしたもので
あることをこの書によって少しでも多くの人に認識していただけたら、と切望し
ているものである。
うつるものおのづうつりておのづ消ゆ己れは澄みてただひそかなり
うつしよあともあめつち
現世に我が身は在れど釈迦牟尼と倶なるいのち天地に照る
昭和三十年六月
著者識
序
自
3
4
目次
自序
少年期e
⇔
青年期
神を求めて
36 20 12 7 1
神の計画
脱皮しつつ
幽界・霊界との交流
現実世界への離別
苦難の霊的修業
自由身への前進
天と地ついに合体す
装偵多旺栄二
(太平洋画会)
166 15813612511095 65
5目次
人間と真実の生き方
人間は本来、神の分霊であって、業懲ではなく、つねに守護霊、守護神によって守
られているものである。
この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念が、そ
の運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去るのであると
いう強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難のなかにあ
っても、自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづ
けてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の祈りを祈
りつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得出来るものである。
少年期
e
私は大正五年十一月二十二日午後五時から六時の間に、東京の浅草で生まれた。
父は越後長岡藩の武士の息子で、つねに士族五井満二郎とわざわざ士族の肩書をつけた表札を出
していた。
東京で一旗あげようと、十五六才で故郷を飛び出してきたものの、生まれながらの病弱と子沢山
に、一生を心に染まぬ勤めに朽ちてしまった。そのせあての誇りが士族出身であるという身分証明
にあったらしい◎
母きくは東京生まれの商人の娘で、男勝りの豪気さに病弱の夫をささえながら、九児を産み、そ
のうち二人の娘と六人の男児を育て上げてきたもので、家で髪結いをやったり、駄菓子屋をやった
りしていたのを、私は子供心によくおぼえている。
少年期
7
「決して人にお金を借りてはいけないよ。どんなことがあっても自分の力でやりぬくのだよ」
と、母は口ぐせのように私たちにいいきかせていたが、その言葉通り、どんなに生活に困っても、
一銭の借財もしなかったことが母の最もなる誇りであった。しかしそのため長兄だけが親の金で学
校にゆき、あとの子供たちはみな苦学で学校を出たのであるが、子供たちは誰れも親をうとんじは
しなかった。眠る時間さえもさいて働きつづけていた母の労苦を眼のあたりみて生活してきたから
である。
私は幼少から父ゆずりの病身で、はたして成人することができるかとしばしば医師に首をひねら
れながら育ってきた少年であった。
学校での体格検査にはつねに腺病質の見本のように医師や先生方が私の体を指さし眺めながら、
この子が肺病にならなければ医学の不思議であるというようなつぶやきをかわしていたのを、恐ろ
しいとも苦しいともいいようのない気持で黙って聞いていたものであった。そのためか、私は人前
で裸になるのを極端に嫌い風呂屋へゆくのを非常に嫌がったとともに、私は大人になるかならぬう
ちに肺病か胃腸病になって死ぬに違いないと自分の体に諦めを抱きはじめ、いつしか死ということ
に重大な関心を持ちだした。それが私の哲学心、宗教心への第一歩であったと思われる。
8
そうした肉体への不信感にありながら、私の心の底には体と反対に陽気なものがひそんでいて母
ひようきん
や兄弟たちの前で、よく劉軽な踊りを踊ったりした。自分が馬鹿にされても、親兄弟が陽気になっ
てくれることが楽しかったのである。
私の少年時代からの興味は、小説を読むことと、歌をうたうことであった。学校でも作文と唱歌
は得意な科目で、読本の朗読なども校長にまでよくほめられたものである。
私がひところ音楽家になったのもその頃からのつながりであったのであろう。
私は蒼白い細い顔と肩のとがった扁平胸の、背丈の低い子であったが、人には陰気な感じを与え
なかった。それは私が人なつこく、つねに明るい微笑をたたえていたからである。私は入に悪い感
じを与えることが非常に嫌いであった。人の気持を傷つけたり、不快にしたりすることのないよう
ならいせい
に極度に神経をつかっていたようであるが、それが遂に習性となって自然と人の心を察し、巧まず
して人の心を傷つけぬ態度や、言葉づかいができるようになっていった。
人を傷めて自分が得をするなら人を傷めず自分が損をしたほうがよい、と理屈ではなく自然にそ
う思っていた。
関東大震災の後で、一物も残さず焼け出された私たち一家は、着たっきりの姿で急造のバラック
少年期
9
に住んでいた。ある日学校で各地からの罹災者への見舞品が配給された。見舞品の中では衣類が「
番大切なものであった。しかし、衣類は全部の生徒に配りきるだけの量はなかった。そこで先生
は、「今着ているものの他に着る衣類のない者は手をあげよ」といった。ほとんど全部が手を上げ
たが、私と二、三のものは手を上げなかった。私はその時着ていたシャツの他に、一枚田舎からも
らった着物があるのを知っていたから手を上げなかったのであった。私はもらえぬのがあたり前と
思って家に帰ってきた。その日は各学校で配給があったらしく、兄たちはみな、衣類をもらってき
ていた。
母は私が手ぶらで帰ったのをみて、
「お前のところでは着物の配給なかったの」と聞く。
「あったけれども、僕は家に一枚あるからもらってこなかった」と配給の様子を話すと、母は、
「あきれたねえこの子は、折角もらえたものを、惜しいことを、本当に馬鹿だね」と本当にあき
れ顔をして私をみつめた。
そういわれると私は急に自分が馬鹿なように思われてきた。手を上げたものは全部配給をもらっ
て帰ったのを知っている。その中に随分金持の息子もまじっていたのに1 私はすっかりやるせな10
い気持になって、母の前で首うなだれてしまった。重ねて母にいわれたら、泣き出してしまうとこ
ろだった。しかし幸い母は二度とは責め言葉をいわなかった。母にすれば、着物はただ一枚きりな
かったのだから、折角無料でもらえるものを、平気でもらわずにきた子供が愚鈍にみえて情けなか
ったのであろう。
そのことは私の子供心にいつまでも、消え去らない問題となっていた。正直か馬鹿正直か、私に
はしかしああするより仕方がなかった、と自分で断を下して、やっと心が晴れたのはしばらくたっ
てからであった。私は体が弱かっただけでなく、小学校一年の頃から、左のまぶたが悪く、赤くふ
くれあがり、ただれたようになっていた。そのたあつねにいろいろな薬をまぶたにつけて眼帯をし
ていた。それが卑弱な容貌に拍車をかけて弱々しくみせた。その眼病はどんな医者に診てもらって
もなおらなかった。今にして思えばその眼病も病弱も、祖先の迷いの想念の浄あのためのものだっ
たようだ。そうした肉体的諸悪状態が私の本来性である明るい積極性を極度におさえてしまい、外
に向かって働きかけず、内向的に魂に働きかけるような生き方に自然に向かわせていった。
11少年期
12
口
私は家が貧しかったせいか、三才の頃から、生活というものを考えていたし、どういう生き方を
するのが、一番自分に適しているのか、ということなどを考えたりしていたことをおぼえている。
よそのおばさんが「ぼっちゃん」などと呼ぶと、僕はぼっちゃんなんかじゃあない、と一人で胸
の中で思っていたものである。ぼっちゃんなどというものは、金持の子供の名称で、自分のような
貧乏人の子供が呼ばれるべきものではないと思っていたのだ。そう思う心の中では、早く独り立ち
して生活をしなければならない、というような想いが、漠然としてあったのである。だからといっ
て、人生をひがんでみているわけでも、金持に反感を持っていたのでもない。ただ自然とそういう
気持になっていたようである。
小学校一年の頃から、帽子から服から、カバンも本も、すべて兄のお古で、本の中にちゃんと答
などが書いてあって、勉強に非常に便利だったことをおぼえている。
大正十二年九月一日に起った、かの関東大震災は、私の運命を変えた最初の出来事であったよう
えちこ
だ。何故かというと、大震災で焼け出されたために越後(新潟) から見舞にきた伯父(父の姉の
夫) に連れられて、はじめて故郷入りをしたからである。
私の故郷越後での生活は、確かに私の心身に強い力を与えてくれた。祖先の霊との交わりが、深
のち
く行われていたことが、後になってよくわかったからである。私は故郷の自然との交流の中で、小
学校二年の過程をへたが、毎年のように夏休みに越後入りして、父祖の地の自然に親しんでいた。
新潟県古志郡上組村字横枕というところが伯母の家のあるところで、今の長岡市十日町というと
ころに叔父の家があり、伯母の家に九、叔父の家に一の割り合いで世話になっていたのである。
子供の頃は毎日、朝早くから、裏山へ登って遊んだり、叔母の手伝いで、柴刈りをしたりして、
背中に柴を背負って山を下ってくるのにフウフウいっていたのが、今でも眼に浮ぶようだ。叔母は
いとこ
自分に男の子が二人もいるのに私のことを実の子のように可愛がり、私も従兄たちを実兄のように
慕ってよく遊ばせてもらったものである。
東京にいれば、上に三人の兄がおり、下に二人の弟がいて、自分の自由になることが少なかった
が、越後では、みんながいいなりほうだいになってくれて、心のびのびとくらしていたものであ
るQ
13少年期
私はどういうわけか、今から思えば当然なことなのであるが、お寺が好きで、定正院という裏山
の寺へいっては、お経を聴いたり、木魚の音を快くきいたりしていたもので、後にはこの寺の庭で
一人で坐禅を組んで、統一行に励むようになったのだが、いずれも、祖先霊の導きによるものであ
ったのだ。こういうわけで、私は生れたところの浅草より、越後のほうが、故郷の感じが深くして
いるのである。
東京にいると、いつでも生活というものが目の前にある感じで、生命がそのまま生きているとい
う感じではないので、いつも、早く自分自身の生活をしっかり立てなければならない、という感じ
に心が追われていた。父母にとっても、兄弟の一人一人が、自分自分の生活を一日も早く立ててく
れることを望んでいるので、世間でいう出世などということは望んでもいなかった。したがって私
にとっては、父母を養うという心の重荷はなかったので、心は自由になんでも望むことができた。
私は小学校の頃から、俳句や短歌を詠んでいたし、作文も級中で一、二番を下らなかった。そし
て、唱歌もうまかったので、作家か音楽家か、学校の教師になろうと思っていた。しかしいずれも
学問がなくてはなれないものである。その頃、佐藤紅緑の少年小説がはやっていて、私は子供のく
せに、日本文学全集とか、世界文学全集のようなものを、わかりはしなかったのだろうが読みあさ14
っていたが、やはり、そのものずばりの、善き少年、立派な人間になる生き方の手本のような佐藤
紅緑の小説に魅せられて、その主人公のように勇気をもって社会戦線に飛び出し、苦学立行の士に
なる決意をしたのだった。
高等小学校一年を終ると、自分の心身を社会の中で鍛えながら勉学したいと常々思っていたの
で、待ちかねたように、新聞広告で少店員を募集していた、小さな織物問屋T商店の店員になっ
た。高等小学校ぐらいでただけでは、どうにも世の中にでてゆけない。どうしても、学力をつけて
世の中のためになる人間になろう、というのがその時の堅い決意だった。学校で一番目方の軽い小
さな十三才の少年の心は、佐藤紅緑の小説の主人公のように、未来の希望に胸をふくらませていた
のである。
T商店の少店員、つまり小僧さんは、朝は女中と同じように早く起きて、手分けで家中の掃除を
するのである。そして通い番頭のくるまでに、きちんと店の整理をしておくのである。夏の頃はよ
いのだけれど、冬の間中は、なんとも水使いが冷くてやりきれなかった。しかし、私には商人にな
る気持は全然ないので、なんとか大いに働いて健康になり、勉学をつづけて立派な人間になろう、
という堅い決意があるのだから、他の人と同じことをしているわけにはゆかない。そこで、朝は他
15少年期
の人に先がけて四時頃に起き、荷車や表の掃除をしてしまい、皆の起きるまでに、少しでも勉強を
しておくことを心がけた。
辛いことにぶつかっていって、自分の心身の練磨をしてゆくことが、何か清々しく、生甲斐のよ
うなものを私に感じさせていた。荷車を引いて、日本橋から練馬あたりまで行くのは、はじめのう
ちは並大抵の辛さではなかった。山の手の坂を登るのや、夏の暑さで柔かくなったアスファルト道
路を歩くのなどは、車のわだちが道にくっついてしまって、渾身の力でひっぱらなくては、とても
前にも後にも動かなくなってしまう。何しろ、織物のつまった横五十センチぐらい、縦一メートル
強ぐらいの箱を、三箱も四箱も積んだ荷車なのだから、人一倍体の小さな十三四才の子供の力では
なかなか大変な労働なのである。
この頃、人生は重き荷を背負いて遠き道をゆくがごとし、といった徳川家康の気持を如実に味わ
っていた。車で坂を登るには、最初に上に目をやったとしても、後は一歩一歩、自分の足元だけを
みて歩いてゆくことがよいので、チラッとでも上のほうに気を取られると、坂をすべり落ちてしま
う。人生もそういうもので、理想は高きに置きながら、日常生活は一歩一歩を真面目に歩みつづけ
てゆくことが大事なのである。理想ばかり追っている人は、得てしてこの世の生活につまずいて、16
家族をみじあな生活に追いこんでしまうものである。
こご
手も足も凍えて痛ししかれどもゆかねばならぬ道つづきおり
という歌もその頃のものである。
朝四時起き、日のあるうち荷車引き、夜は学校、読書などで、十二時頃就寝という日課は、時折
り狂いがくる。仕事の都合で夜の時間のとれない場合がずいぶんとある。止むを得ず休学して、そ
の穴うめは荷車を引きながらの勉強ということになる。
荷車を引くことになれてきた身には、車を引きながら英語のリーダーを読むことも、さして困難
なことではなくなってくる。今日のように、自動車などめったにとおらない頃なので、歩くのに神
経を使う必要がない。晴れた日など、車によりかかって、車引きもなれてくると、よりかかってい
ても、自然に車が前に進んでくれるようになる。本の活字を追ってゆくと、知識の満足感という
か、充実して生きている自分を感じて楽しい心になってくる。
やがて自転車で一人で商売に行けるようになってきて、今度は自由に時間が使えるようになって
17少年期
きたので、柔道の朝稽古などもできるようになった。この頃は心身ともに実に健康になってきてい
た。この心身の健康は労働から得たものとともに、十三才ぐらいから、なんでおぼえたか忘れた
が、ヨガ式呼吸法を加味したような静座法を就寝時にずうっとつづけてやってきたことにもよるの
であったろう。
何しろ時間のやりくりがつくようになったので、本を読む時間が多くつくれたのが、何よりの幸
せであった。文学書、哲学書の他に聖書や仏典なども、古本屋をあさっては読んだものである。
記憶する学問でなく、心の内奥にひびいてくる言葉や行為、そうしたものを書物から求め、音楽
から得ていたのである。それは理論的行為でなく、何かの力が自然にひきずっていったものであっ
た。
十八才か十九才のはじめか、T商店を退めて、独立して、問屋とも小売屋ともつかぬ商売の仕方
で、五井商店を開業した。主人兼小僧である。この頃から正式に音楽の勉強をはじめたのである
が、音楽をやりながらも、学校の先生か、作家になるのが、自分に一番ふさわしい道であるような
気がしていた。何か人のためになる仕事がしたい、そういう念願がますます深く強くなってゆくの
であった。18
歌人の仲間入りをし、
頃からであったろう。
詩人の人たちと交際がはじまり、小説を書こうとしたりしていたのもこの
19少年期
20
青年期
私は苦学で音楽の勉強を終えて、しばらくは後進の指導などをしていたが、昭和十五年九月に、
三兄の紹介で、日立製作所の亀有工場に入社することになった。兄の利男は電気の技術者で久しく
前から日立に勤務していたが、ある日労務課福利主任の八木邦夫氏と話し合っているうち私の話が
出て、
「ちょうどこれから大いに文化運動をやりたいと思っている。特に合唱の指導者をさがしていた
ところだからぜひ弟さんを連れてきてもらいたい」
という話になってきた。私は兄から八木さんの話を聞いて、これはよい仕事だ、と直感した。私
は音楽が好きでたまらなくてその道に入っていったのだが、他の仕事をしながらの勉強では余程の
天才でない限り、一流の音楽家になり得ないことは、かなりはっきりとした事実である。まして私
は指が短くて、ピアニスト向きでなく、一番望んでいた作曲の仕事も、楽器が不得意では大きな曲
の生まれようはずがない。仕方なく私の選んだのは残された声楽であった。幸い声はかなり綺麗で、
ステ ジ
ハイバリトンとして教師にもしばしば期待の言葉をかけられたものであったが、華やかな舞台で歌
う気にはどうしてもならなかった。ステージ歌手としてたってゆける自信が、ついに私の心から湧
いてこなかったのである。それは私の勉強の不足からくる自己の力への不信もあったが、歌手とい
う者を、作曲家や、楽器演奏者よりも一段低くみていたその頃の私の想いも、強く働いていたよう
である。
結局私の音楽勉強は、その面への教養を深めた程度で、実際の役にはたたぬがごとくみえてい
た。ちょうどその時、八木さんからの話が天から降ってきたように私に持ちこまれたので、”これ
だ”と私は手を打ったのであった。翌日私は利男兄に連れられて、亀有工場に八木邦夫氏を尋ね
た。八木氏は事務服のままにこやかに現われた。日本人離れのした美男子でシャルル・ボワイエそ
のままの風貌をしていた。年の頃は三十三、四才であったろう。八木氏に私を紹介すると利男兄は
自分の工場へ去っていった。私は応接間に八木氏と向いあって腰をおろした。窓の外は庭になって
いて、花園のように造られた区画がいくつかあり、芙蓉の花が、今を盛りと咲き競っているのが、
21青年期
私の眼前にはなにか異様に美しいものに思われた。工場という私の概念が、汚れた騒々しい雰囲気
を予想していたのに、まるで違った天国的美しさを私の眼前に繰りひろげていたからである。それ
にその日は空の色も青く澄んで美しかった。
「ずいぶん綺麗な庭ですねえ」と私は思わずいった。
「いや、なに、たいした庭じゃありませんよ、これからいろいろと文化施設をしたいと思ってい
ます」
という言葉を皮切りに、彼は旧知の人を相手にしているような気やすさで、私につぎつぎと自分
の抱負を語り聞かせた。語るにつれて彼の瞳は強い光を発してきて、彼の工場厚生文化運動への熱
意の並々ならぬものであるのを感じさせた。
私は彼の話を聞きながら、すでに自分もこの工場の人のような気がし、この人と一緒に大いに働
いているような錯覚に襲われていた。
その日、八木さんに二曲ほど歌を聞いてもらい、これが入社試験のような形になって、二三日後
に工場勤務の生活が始まっていた。
入所してみると、応接間附近の花園で感じたような美観も、八木さんから聞かされた工場文化へ22
の抱負も、ほんのわずかその片鱗がほのみえるだけで、ぼう大な面積をもつ工場敷地は、油浸みた
感じの各種の建物と、機械の騒音にみち、私の概念どおりの荒びた言葉使い、野卑な態度の工員た
ちの集団が、ただ生活の糧のみを求めて働いていた。
工場は生産をあげればよいのである。工員は稼ぎ高の多いことが第一なのである。そこには高度
の人間性とか、深い知性とかは全く必要を認められていなかった。
私は一応音楽を教えるということが中心になって労務課へ勤務したのだが、それは八木さんの胸
の中だけのことで上役の人たちには、ただ単に労務課の一事務員として入社したことになっていた
のである。
私の工場文化運動の第一日は工場慰安映画会の看板書き助手としてスタートした。
この工場の厚生事業は物資の配給面へ重点がおかれ、精神面への働きかけは、時折りの慰安映画
会だけであった。
看板書き、配給品の名簿つくり、運動部員の世話係等々、しだいに工場の空気になれてきた頃、
やっと、女子事務員寮生の合唱指導を始めることになった。それを糸口として、青年学校女子生
徒、女子工員と次々に私の本来の仕事に入っていった。そして昼の休憩時間には働く人たちの疲労
23青年期
を慰やす意味と、心の糧になるようにとの意味とを含めて、放送室から拡声機で、軽音楽や、やさ
しい古典音楽のレコードを、解説をまぜて聞かせたり、今でいうのど自慢放送を面白く企画してや
ったりした。また終業後にはレコードコンサートを催し、やがては仕事を文芸方面にひろげ、短歌
の会、俳句の会、文章の会、次いで演劇の会など、と発展させていった。その間に工場新聞の発行
などもあって、にわかに工場の中に精神的な暖かい流れがまわりはじめていった。
こうした文化的な動きは、外部の文化団体や、詩人、歌人たちとの交際を生じ、高村光太郎氏や
竹内てるよさんその他の人々に種々と教えを受けたりした。中でも高村先生の素朴純真な人柄とそ
の高い詩精神、竹内さんのにじみ出るような青少年への愛情は、私の心に深い感動を与えたもので
あった。
あの孤高の詩人高村氏に、「言葉は少ないですねえ」といわれたことが、いつまでも頭にのこっ
ていた。あの素晴らしい詩人ですら詩に出す言葉の少なさを嘆じられたのだ、と若い私は驚いたも
のであった。そして生きた言葉を、内容のこもった一言、一言を、短歌や詩の世界以外にもつかわ
なければならないと、その時以来思うようになっていった。私は真剣に働きつづけ、働く人たちの
心のなごみは工場の生産にしだいに好影響を与えていった。24
私の働き場所はここだ、という最初の直感は正しかった。私はこの工場にいて、働く人々の心
と、働かせる立場の人たちの心の両方面の動きを、深く、細かく、認識させられたのである。
私は全精神を傾けて、工場の人たちの人間的向上に役立とうと誓い、そして活動した。
そのうちに日支事変は大東亜戦争に拡大され、日本は全く一致団結してこの国難にあたることに
なり、工場は生産増強にますます拍車を掛けねばならなくなった。
大国米英を相手にしての必死の戦いである。しかし私の心には必勝のみがあって、敗けるという
考えは少しも浮ばない。大東亜戦争を聖戦、神のみ戦と信じ切っていたからである。その時、二十
五才の私は、いまだ霊能者でも霊覚者でもないただの人間としての幸せにあった。その時、もし私
に現在のように予言能力、予知能力があったとしたら、私の苦悶ははなはだしかったに違いない。
私は人一倍国を愛し信じ、日本人全体をいとおしく思っていたからである。
神は戦争に私を必要とせず、戦後混迷の世に働かせるべく、私をはぐくみととのえていたのであ
ろう。
大東亜戦争突入とともに、働く人をなだめいこわせる音楽は終り、鼓舞激励する軍歌調一色にな
ってゆき、文芸運動も、軍国文芸に変貌していった。
25青年期
私は毎朝六時には出勤して、従業員を迎える行進曲調のレコード音楽を放送室から聞かせ、軍国
調詩人の詩の朗読などを放送し昼も夜も、従業員の士気を鼓舞することに全力をあげていた。
工場幹部も士気を鼓舞することに非常に関心を抱き、私を重要視はじめた。私は従業員に軍歌を
教えながら、その人たちの心の中から仔情の消え去るのを恐れたが、その時は、すでに仔情云々よ
ボ うごサつ
り士気向上のみに重点をおくことが絶対必要であった。轟々たる機械の音は今は騒音ではなく、必
勝への交響楽であり、熔鉱炉にいどむ裸人の工員は救世主である。全従業員三万すべて、必勝街道
への勇者でなければならなかった。
勝報に感涙し、戦死者のみ魂に感謝し、少年少女工員の真剣な働きに涙しながら、私はひたすら
国の勝ちを祈り、勝ちを信じていた。
なか
この頃、私を入社させた八木さんは、工場文化運動の抱負を半ば戦争にとけこませて他の工場の
勤労課長に変っていった。そのため私の仕事は非常に広範囲になっていたが、私は疲れることを知
らなかった。
少年の頃の病弱さはその頃の私にはすでに無くなっていた。五井の金喰息子といわれた少年時の
私の病弱さは、医者を捨て切った時から消えていったのである。26
医者を捨て切ったのは十六才位からで、暑中休暇には毎年のように父の故郷である越後の山ろく
を訪れ、山の中腹の寺の堂で一日に何時間かの静座を組んだ。それは悟ろうというような宗教心か
らではなく、病身を脱却しようという心からなのであったが、しだいに年とともに宗教的な坐禅に
変ってゆき、いつか空、無というようなものを目指していたのである。その間聖書を読み、大蔵経
の拾い読みなどをしていた。私は最初の頃、武者小路氏の著書に私淑し、トルストイに憧れ、そし
て宗教的になっていった。私が私なりの宗教観を持ったのは二十三、四才になってからで、この頃
の宗教観も戦後にはすっかり変貌してしまったのである。二十才がらみの私の坐禅観法は、悟りへ
は目立つほど、役立たなかったが、病弱を一変する大効果があった。それは医者への依頼心を捨て
去ったことが第一、第二に声楽の呼吸法が坐っているうちに自然と宗教的呼吸法(ヨガのある呼吸
法) に合致したらしく、まず肉体が健康になっていったのである。とともに、故郷の山の祖先霊の
応援も大分あったように思われる。
日立に入った頃の私の神観は、神というものは自然や人間を創造しただけで、創造された人間は
自分自身の持って生れた力を全部出し切ってゆくより仕方がなく、神が外から人間を助けてくれる
というようなことは考えられなかった。まして死後の霊魂の存在などは頭から考えてもみなかっ
27 青年期
た。従って神を想う場合は絶対清純である神を自分の心を清めるための対象として想い、自分の勇
気を鼓舞するために、絶対なる力の神を想ったので、外から救ってもらおうとも、もらえるとも思
わなかった。ただ信ずるのは自己の正しさだけであり、その正義観に少しでも曇りが出ると、非常
に心が弱ってくるのである。正義観がなければ一歩も動けない私であり、正義観を鼓舞するたあに
ひたすら神を想う私であった。それだけに直情であり、人の不正をも許せなかった。
正義とは国を愛することであり人を愛することである。私はそう信じて、工場生活に飛び込み、
いしずえ
工場の文化運動に挺身し、国家の勝利の礎である生産増強促進のため、士気を鼓舞する役目に全精
神を打ち込んでいたのである。
戦が激しくなるにつれて、工場からも続々戦地に応召され、人員減少をきたし工場の労働時間は
延長され、しだいに全員が労働過重になり、疲れ出してきた。この頃生産陣応援のため工場には各
府県から小学校出たての少年少女がつぎつぎ入所してきた。あどけないつぶらな瞳をしたおかっぱ
髪の少女たちが懸命に鋳物の型を造ったり、研磨作業をやったりしている姿はいじらしかった。
長野から、福島から、九州から、全国的に徴用されてきた少年少女たちのために、私は少年少女工
保護委員というような役目を工場長に頼んで、つくらせてもらい、こうした少年少女の心が、荒々28
しい工員たちの間にあって、傷つき痛まぬようにとつねに気を配り、保護して歩いた。この仕事
は、はじあは各工場の役員たちに余計なことをやるやつだ、というように爪はじきされていたが、
集団的に故郷へ帰りたがってのデモンストレーションに手を焼くことがしばしば起り、私に説得を
頼みにくるようになって、私の役目が著しく目立つようになった。相手が十四、五の子供では、力
で抑えるわけにもゆかず、しかも集団的に騒がれては、工員さん上りの役員たちの手には負えなく
なるのである。こうした場合に役立ったただ一つの方法は、心からあふれ出る愛情の光だけで、言
葉の説得や、頭ごなしのおどかし文句では余計に反抗をそそるだけで効果はなかった。その人間が
持っている魂的愛情の雰囲気のみが、そうした思いつめた感情をとかすに役立つのである。その人
間の中から母であり、父であり、兄弟姉妹のようななつかしい香りを感じさせなければその子供た
ちの帰心をとどめることはできないのであった。私は父となり、母となり、時には兄となり、友と
なって、彼らの心を慰め祖国防衛の生産面から退かせることをとどめた。
こうして工場は全生産力を動員して増産につぐ増産に努あていたが、戦況はしだいに日本に暗い
影をもたらしはじめてきた。そしてついにあの恐るべき空襲につぐ空襲の大事態に当面していった
のである。29青
年
期
私は第一回空襲以来、工場防護団の本部員として、工場長とともにいて、工場指令、防護団指令
を本部の放送室から放送する役目を担当していた。私の声は声楽の勉強でととのえられていて、他
の本部員の誰れよりも、はっきりと伝言がわかる放送ができたし、工場長の命令が終るか終らぬう
ちに私はその言葉をそのまま放送機から放送している。といったスピィディな放送ができたので、
非常に珍重された。それは、ラジオの戦況、空襲放送等もそのとおりで、ラジオでしゃべっている
アナウンサーの言葉の先き先きが直感的にわかってきて、ラジオの終るのを待ちかねて、その放送
を工場全体に再放送していた。今から思えばすでにそれは、霊能の一種であったのだろうが、その
時は霊能なぞ思いもかけなかったので、ただ単に自分の頭の働きの早さだとだけ思っていた。
十代の終り頃から二十代の初期に、私は霊媒の女性に二一二人出会っていたが、霊能とか、死後の
霊魂の生存などは、まるで問題にせず、その人たちの陰にこもった話や、それを真面目に聞いてい
る人たちが馬鹿馬鹿しくてならなかった。それは、その霊媒たちが、あまりに低い雰囲気をもって
いたためであったろうが、私の心が絶対者としての神のみを形なき存在として信じ、形なき生物な
どあるわけがないと堅く思いこんでいたのである。従って他界からくる霊能などは、絶対にあり得
ないと勝手にきめてかかっていた。トルストイのいっていた永遠の生命ということも、思想や仕事30
が子孫に伝わってゆくことによっての自己の永遠性というように解釈し、死後の個性の存続という
ふうに結びつけて考えることはできなかった。死が終結であればこそ、日常悔いのない良い生き方
をしなければならぬのだ。日常悔いのないほどに自分の生命を生かしきった人が、死を恐れぬ境地
になり得るのであろう、という結論に考えをもっていっていた。
工場での私の正確なスピ!ド放送は、働く人たちに非常な安心感を与えていた。ラジオの放送と
工場防護団の命令事項を取りまぜての工場放送は、しだいに昼夜を分たぬ忙しさに追いこまれてい
った。サイパンが陥ち、硫黄島がとられ、沖縄に敵が迫ってきても、国民の大半はまだ日本の敗戦
を思わない。今に神風、今に神風が、と元冠の役の勝利におもいをはせていたがついに沖縄が陥落
して、空襲は最高潮に達してきた。私たちは、工場に泊りきりになって働きつづけた。いつくるか
わからぬ空襲に眠るひまはほとんどなかった。まして私の仕事は、交代があるようでなかった。交
代者があっても、放送の適確さと速度が、私とあまりにも違いすぎて、工場の士気に影響をきたす
ので工場全体が不安動揺してしまうのである。私は皆に要望されるままに、二十四時間勤務の形
で、放送室にとじこもった。私は終日マイクをみつめながら、不思議と疲れもせず、いつも明るい
気持が崩れなかった。いつ爆撃されて死んでも本望である。自分は全力をあげて国のために働いて
31青年期
いるのだ、という気持が私の心の明るさになっていたようだった。人事をつくしている。後は天命
をまつのみである。しかし戦局はますます不利になり、連続空襲のため、工場の生産はしだいに低
下していった。もう最後の段階、一億総玉砕だ、と私たちの心の中では、すでに本土決戦という、
悲愴な覚悟ができかかっていたのだが、日本が敗れるという具体的な悲愴さには、天皇放送の最後
の日までなり切れなかったのであった。私の祖国日本は、私にとって絶対なる存在であり、天皇は
あらひとあらひとどうこく
現人神であったのである。その現人神天皇の降伏放送、終戦の大詔は私の心を働巽させた。昭和二
十年八月十五日、私は天皇放送を終ります、と工場放送のスイッチを切るなり、工場長と相擁して
泣きつづけた。
32
かしこ
畏くもあな畏くも
大詔のらせ給へる
うれ
玉 音の愁ひ帯びさせ
一億の民の心に
ひしとひしひと
迫りくるかなしき神意
鳴咽して号泣して
底もなき悲しき声の
あまつち
天地をさかむと云へど
敗れたる事実の前に
我がかげの隠るすべなし
一瞬に崩れさりゅく
三千年の歴史を遠く
すめらぎの神のみ心
かしこ
思ふだに畏ききわみ
おそ
民草の催れおののき
すべすべ
ひれふせど術も術なし
33青年期
おご
いつしらず傲りたる民の
よそくにさが
外国をあなどる性と
はらから
同盟をうとんずたつきに
すめらぎをなやませ給ひ
遂ひにして国敗れたり
34
ああここにして何をか云はん
詔勅のみ教のまま
一億総臓悔して
新しき祖国に生きむ
私は泣くだけ泣いてしまうと、意外なほど心の底から新しい力が湧きあがってくるのを感じてい
た。その晩こんな詩を書いて敗れるべくして敗れたのだ、と強く敗戦を肯定し、今後もたらされる
であろう国の大変化をじっと見つめる気持になっていた。
たまさや
勝ち敗けにかかはりなくて我が魂は清けくあらむ人の世のため
古き殼今こそぬがめ新しき祖国を建てむ苦は背負ひつつ
こんな気持でもあった。
35青年期
36
神を求めて
日本有史初めての敗戦に国民の心は混乱しきっていた。米軍が次々各地に進駐しはじめると、恐
怖の心が種々なデマを乱れ飛ばした。女子のすべては犯され、男性はことごとく米軍に捕えられ奴
隷のごとくこき使われるという噂もその一つであった。
生産を停止した工場の中では、連日の空襲から解放された安心感と、今後の不安とが交叉した妙
な雰囲気に、従業員はやたらにおしゃべりになっていた。しゃべってでもいないと自分というもの
が、どこにもやりどころのない存在に思えていたからなのであろう。
もはや
私は工場をやめようとすぐ決意した。この工場における私の仕事は、最早終った、と直感的に思
っていた。私の運命は思わぬ方に急転換する、としきりに思えるのである。これからが真実の人生
めど
だ、となんの目途もないのに心の底から力が湧きあがってくるのである。
工場では英語のできるものを呼び集めた。工場長は私にも通訳をやってくれ、といわれた。
私は、「駄目ですよ、英語は不得手です」と断って後始末が終了しだい工場をやめたいと申し出
た。後始末の一番大事なことは、各地から集った少年少女工をそれぞれの故郷へ帰えすことにあっ
た。本来は人事課の仕事であったが、保護委員である私が黙って任かせておくわけにはゆかない。
というより、私の愛情が一刻も早く、この子たちを親兄弟のもとに帰えしてやりたかったのであ
る。
私は人事課の人たちをせきたて、私も奔走して各地への汽車の切符を入手した。この時は、まと
まった旅券はなかなか手に入らなかったのであったが、一同の真剣な努力で、意外に早く帰郷の運
びになっていった。
各県に一人つつの附添いがついて行くことに定まって、私は自分の希望で宮崎県組についてゆく
ことにした。
つねつね子供たちのお国自慢を聞かされていたが、天孫降臨の地といわれる日向のある宮崎県の
話が一番私の心を把えていて、戦争が終ったら、勿論その頃の戦争の終りとは勝利の日のことで、
その日がきたら一度この子たちと一緒に日向に行ってみたい、と思っていた。日向は武者小路実篤
37神を求めて
氏の新しき村のあった所で、新しき村にあこがれていた私は、なんとかして行きたい、とつねつね
思っていたのであった。
しかし運命は、私の魂の錬磨を敗戦後の東京においてなさしめんがためか、出発の前日から私の
日向行きを拒みはじめたのである。
じんわずら
私は終戦半年前位に腎臓を病ったことがあったが、国家存亡の危機であり、工場防衛の重大な時
期に一身の都合で休みをとろうなどとは心のすみにも思わなかった。工場医はそのまま一週間も働
いていたら糖尿病になってしまい、取りかえしのつかぬことになる、と再三休養をとれと勧告して
きた。私はその勧告はありがたく聞きながらも、一日の休養もとらなかった。働きつづけて死んで
もよいのだ、と思いこんでいたからである。しかしその間、工場の勤労課に働いていた幸田さんと
メソヤ
いう事務員の女性から、今の世界救世教、その頃、日本浄化療法といっていた岡田茂吉氏の明日へ
の医術というような題名の著書を借りて読み、その療法を、幸田さんのお母さんである幸田操さん
にやってもらった。岡田茂吉氏の理論は、人間の病気はすべて毒素排泄作用によって起るのであ
る、という。毒素の中には先天的、即ち先祖からの罪よごれ、過去世の業の現われ、と薬毒による
ものとがあって、その毒素が熱によって溶解されてゆく姿が病気である。その溶解させる熱は、人38
間自体のもっている自然療能的治癒力がなすので、熱を発して体が苦しんだとしても、それは毒素
の浄化であって決して悪い状態ではない、人間の体が浄まってゆく作用である。それをわざわざ薬
を用いて、自然療能的熱を抑え、毒素を再び固めてしまい、更に薬のもつ毒素を加えてしまう。だ
から、薬の種類が増すごとに、ますます人間の体に毒素がふえ、病気が浄化しにくくなり、種々の
重病が起ってくる。すべて自然に逆らうからいけないので、自然に逆らわず自然療能にまかせてお
くほうがよい、といい、人間の掌からは霊線といって神からくる光が出ているのだから、その掌を
人間の浄化の中心である腎臓を主にして、それぞれの個所にあててやれば、浄化を促進させ、病気
がすみやかに痛みすくなく全治する、というのであった。
私はその理論にすっかり共感した。それは私の病弱を克服してきた過去の体験が、医者と薬を捨
て、自己の治癒力にゆだねきったことにあったからである。まして薬毒が病気の原因であって、熱
はその薬毒を溶解させるたあに起る、という理論は、今まで熱がでるからいけない。と熱を敵とみ
なしていた常識をこっぱみじんに打ち砕いてしまった。その断乎とした書きぶりが心地良かった。
これは偉い人だなあ、と私はこの人に非常な興味を感じた。しかし霊線のことは否定する気はな
く、そんなこともあるだろうな、と思っただけで、幸田さんの親切な指圧治療を二三日うけたので
39神を求めて
あった。そうこうするうち私の腎臓病はいつとはなくなおっていた。なおったことにたいして私は
特別気にもとめていなかった。そうしたことを深く気にとめているには私の体はあまりにも忙しか
ったのである。そのうちにいつか終戦になってしまったのであった。
その腎臓の痛みが、忘れた頃、しかも日向行きの前日、突然に襲ってきたのである。なんと意地
を張っても両脚がだるくて動かなくなってしまい、やっと工場にはでたものの、誰れの眼からも長
途の旅のできる体には見えないほど疲れきった姿になっていた。私の宮崎行きはついに断念しなけ
ればならなかった。子供たちの残念そうな別れの言葉を工場でうけたまま私はその日から病床の人
となってしまった。
医者にかからないので病名はわからないが、四十度近い高熱が幾日もつづき、息づかいが激し
く頭の天っぺんから足の先まで痛まぬところはないという状態で、ただ単に腎臓炎だけでないこと
は、勿論周囲の母や兄夫婦にもわかるらしく、しきりに医者を呼ぼうとするのを、私はとぎれとぎ
れのけわしい言葉でさえぎった。母や兄たちのそうした愛情や心配はわかるけれど、自分自身の生
命力でいやされることを確信していた私には、病気に対する恐怖がまるでなかったのである。高熱
のために飲料水の他は何物もとれず一週間近くも寝込んでいながら死という連想が全然浮んでこな40
いで、なおるのは時間の問題だという安心感が、どこか心の深いところから湧きあがってくるので
あった。
戦争中の緊張がすっかりほぐれて、無理に無理を重ねた肉体の疲労がこうした、脳炎と肺炎と腎
臓炎とを併発したような病状となって、一時に表面に現われたのであったろう。疲れがとれれば治
癒するのだ。私は苦しい息づかいの中で、これから新生する自分をみつめているような気がしてな
らなかった。
十日ほどして病気は全快した。あれほどの高熱をつづけた肉体が、起きあがった日から、どこも
痛まず、さのみ衰えもみせていなかった。恐怖なき心が、肉体の衰亡を防いだに違いない、と私は
思った。”恐怖こそすべての敵であり、明るい心こそ勝利者なのである”という誰れかの言葉を思
い出しながら、敗戦日本を生かす道はただ心の指導にあるのではないか、ときらめくように思った
のであった。
私はそれから間もなく日立をやめた。仲間を集めて音楽グループをつくり、混迷している日本人
の心に明るい希望をもたせよう、と思いたった。しかしそれは見事に失敗した。私の意図した純粋
な音楽演奏は、いつの間にか、ジャズ楽団に変貌していったからである。ジャズアメリカの進駐
41神を求めて
は、日本から一時純粋なクラシック音楽を奪ってしまったのであった。クラシック楽団では、到底
自立してはゆけなくなってゆき、私の良心はそうした楽団で働くことを激しく拒否した。良心さえ
殺せば、収入にもなり、ごちそうも食べられる世界であったのだから、その頃の不安定な収入源と
物資不足にあえいでいる世間をみている母などは、その心はぜいたくだ、と思っていたようであっ
たが、私があまり断乎として仕事を投げ出してきたので、思いとどまらせようともしなかった。私
の心がつねに一直線的に真直ぐなのを母は熟知していたからである。
その日からしばらくは売り食い生活が始められた。母と復員間もない弟との三人の生活である。
兄夫婦の家に一緒に生活していたのであるが、堅い気質の母は、兄夫婦の生活を私たちのために侵
したくないと思って別世帯をつづけていたのであった。
楽器がなくなり、蓄音器が消え、レコードの全部が売り払われ、家の道具がしだいに減ってゆく
うちに、私は新しい私の世界を探し求めていた。
そのうちの一つとして岡田茂吉氏の霊線療法への探求があった。幸田さんの話によると、氏はこ
の療法を霊科学といっていて、宗教であるとはいっていなかったが、私には何か、宗教的なにおい
をはっきり感じさせられていた。岡田氏はすでに教主的立場で、所々に第一級の弟子を配し、その42
弟子がまたそれぞれの弟子を持ち、その弟子がまたーという具合になっていて、その勢力はすで
に相当なものであったようだ。私は幸田さんに伴われて、Y氏という第一級に位する弟子の治療所
を訪れた。
Y氏はみるからに温厚そうな善い人柄の人で、治療をしながら、いろいろと話をしてくれた。話
は岡田氏の著書と同じ内容の話が多かったが、その話の中に時折り霊界の話が出てきた。そして、
「この本がわかれば他の理屈はどうでもよいですよ」といって、そばにあった二〇〇頁位と思われ
る単行本を一冊私によこした。その本はやはり岡田茂吉氏著のもので、死者との対談や、愚依霊作
用の話が…幾つとなく掲載されていた。私は一通りその本を読んでみたが、何か低俗な創作を読んだ
うしろ
後のように、後めたいような、くすぐったいような、なんともまともでない非芸術的な気持がして、
前に読んだ、明日への医術から受けた感銘とは程遠い無関心さで、何故こんな著書をY氏はいかに
も重大な著書のように私にみせたのだろうかと、少しく不審な感じがしたのであった。明日への医
術の中に書いてあること、掌から霊線と呼ばれる強い光が放射されその力が人間に作用するという
ことはあり得るに違いないと一度でうなずけるし、また人間の病気はすべて毒素のためであるとい
うこと、固結した毒素を溶かして排泄するために発熱する、ということも実によくわかった。自然
43神を求めて
療能のことは、過去の自分の体験ではっきり知っていることで、医者に頼り過ぎ、薬に頼り過ぎて
は自己に本来からある治癒能力を弱めてしまうことを改めて確信させられた感じで、それをはっき
りいい切っている岡田氏の信念に魅力を感じたものであったが、この本からはそんな魅力も共感も
湧いてこなかった。
読み終って、あまり感じ入った顔をしていない私をみて、Y氏は「そうすぐにはわかりません
が、だんだんわかってきますよ」とにこにご顔でいわれる。氏はまったく温かそうな好い人だ、と
本のことよりY氏の人柄に親しみを感じたのであった。
その日以来、時折りY氏を尋ねて、岡田氏の思想や生き方を聞いたり、霊線療法の講習を受けた
りした。
またそれと同じ頃、音楽家の友人M君の家で、ふと眼について借りてきた、ホルムスという英人
の書いたものを谷口雅春という人が訳した百事如意という本を読んだ。この本は非常に私の興味を
ひいて、一気に読んでしまい、何か眼の前が一度に開けたような深い感銘を受けた。谷口雅春とい
う人のことはなんとなく前から知っていて、甘露の法雨というお経のような本を十何年も前に誰れ
からかみせられたことがあったが、深くも読まなかった記憶があった。44
百事如意を読み終ると、この人の書いた別の本を読んでみたい、としきりに思った。
そう思いながら私はY氏から受けた霊線療法を、幸田さんの家で実施していた。
人生のために、人間の世界のために何か役立つ仕事をしないではいられない、と心の底から思い
こんでいる私だったので、人助けが出来るのなら、なんでもやってみたかった。理論をもてあそん
で楽しんだり、慰めたりしている気持は私には毛頭なかった。実践だけが私の生き方であったのだ
った。
その頃の短歌に
わざ
み心にかなはば敗戦日本を救ふみ業にわがいのち召せ
天と地をつなぐ糸目のひとすじとならむ願ひに生命燃やしつ
といったようなものがあった。この歌のように私の心はただただ、日本のため、人類のために自
分の生命を燃やしつづけたい、捧げつくしたいと思いこんでいた。どんな仕事、という願いはな
まつと
い。ただ人の世のために自分の天命を完うしたいと強く思いつめていたのであった。
私は幸田さんの家を根拠にして、つぎつぎと病気なおしに歩いていた。病人に掌をかざして、振
45 神を求めて
動させたり、指圧のように指で押したりしているうち、かなりの治病効果があった。なおった人た
ちは喜んで何分かのお金を包んでよこしたが、私はいつもそれを押しかえして逃げるように帰って
きた。私はこの仕事を神よりの使命と思いこみはじめていたので、神の仕事をするのに金をもらっ
たりしてはいけない、と強く思いこんでいた。絶対なる無料奉仕こそ尊い生き方である。私は頑固
に、その考の枠内で治療しつづけた。病人がよくなる度に私の喜びは天にも昇るほどであり、感謝
されるだけで私の心は大満足であった。しかし、私の満足に反比例して母親のふところは不満足の
色を濃くしていった。
「無理にくれといったり、お礼をきめたりしたら悪いけれど、向う様が感謝して下さるものをも
らうのが、どうして悪いのだろうねえ」
と母親は私の精神的な生き方に反対はしないのだが、あまりに金を敵のようにしている息子の
かたくな
頑な態度には、少しあきたらない様子をみせ、しばしばこういった。ましてしだいに売食いの金
くぜつ
策がつきてくると、母親の攻勢は本格的になってきた。私はその母親の口説をまるで人事のように
聞き流しながら、同じような歩みをつづけていたが、野菜や、魚などをくれると素直にもらって帰
えるようになっていった。46
私は治療をつづけながら、いろいろの宗教書や哲学書を読みあさりしていた。その中にAという
友人から借りた谷口雅春氏の生命の実相があった。全篇二十巻をまたたくまに読み終って、私の知
らない別世界が如実に存在していること、私たちの肉体は人間の一つの現われでしかないことを、
はっきり認識したのであった。読書から得た知識なのだから、体験ではなく観念的に知ったわけな
のであるが、私は、はっきり認識した感じ、経験した感じがしたのであった。
岡田茂吉、谷口雅春という二人の偉大な人間が、敗戦日本の国土に新生しようとしていた私の前
に同時に出現したのである。
岡田茂吉という自己の主張に絶対なる確信をもった、しかしリズミカルでない文章を書く人と、
せんさいれいち
繊細怜緻、素晴らしい筆力で読者を魅了しつくす文章を書く人、この対照的な二人の超人(私はこ
の時そう思ったのである) はともに霊界の存在を書き、魂の個性的存続を実証しようとしているの
である。
私はこの二人の実証によってといっても書物の上のことなのにころりと霊魂存続論者に一変して
なおび
いた。素直というか、先天的素質というか、私はその頃を機として、霊界幽界の研究と人間の直毘
(神)を求める必死永生の第一歩を進めたのである。
47神を求めて
晩春の或る日、私はY氏に伴われて熱海の岡田茂吉氏を訪問した。
岡田氏は、誰れにでも面会されるのではなく、第一級先生方が講習を受けた人たちを連れてくる
ごとに面会されるのである。
だらだら坂を登りきったところにある大きな邸で、私たちが行った頃は、もう大分人が集まって
いた。
受付に各自用意してきたお布施? を出していた。私もくる前に幸田さんにいわれていたので、
乏しい懐中から若干の金を包んで受付氏の前の三方に乗せた。
待合場所が幾つもあって、各グループが弁当を食べたりしてしばらくはいろいろ話し合ったりし
ていた。その人たちの話すのを聞くともなく聞いていると、実にこの世の話とは受けとれぬ珍妙な
感じを受ける話が多かった。ちょうど二十代の頃出会った女霊媒たちの語っていたような幽霊話
で、狐霊蛇霊や、天狗はさておき、聞いたことも見たこともないような怪物の出現などあり、それ
が、お光(霊線療法)で浄化されて退治され、病人がなおっていったというような手柄話で、昔会っ
た霊媒たちのような陰うつさがないのが、せめてもであった。しかし、私はその話が事実であるな
しにかかわらず、その人たちと同席するのが妙にこそばゆい、うら恥かしいような気がして、とも
48
に語り合おうとかいう気がさらさら起らなかった。
私の求めている道はその人たちとはるかに隔たった世界にあるような気がしていた。Y氏は眼を
閉じて頬をさすったり、顎をなでたりしていた。この人の態度は実におおらかで、ゆうゆうとして
みえる。この人には何か他の人たちと異なった自分自身の世界があるように見られた。
やがて岡田氏ご面接時間となった。
よ
ぞろぞろと広間に集合してゆくと、岡田氏は正面の机に碕って何かの仏像に開眼しているところ
であった。みんなが集まって座が静かになると、だれかが命令したかのように、一斉に最敬礼をし
た。みんなにならっておじぎをした私は一番始めに頭を上げて驚いた。誰れもまだ頭を上げていな
い。仕方がないのでそのまま岡田氏のほうをみていると、さっき受付にいた人が、三方にいろいろ
の供物をのせたまま岡田氏の前にうやうやしく差し出した。氏はちょいちょい供物に手をふれた
り、裏がえしてみたりして、”ふん、ふん”というように軽くうなずいている。小柄で半白の頭髪
の氏の片眼が少しく小さく見えた。宗教家とか人生指導者というより職人の棟梁のように私にはみ
えた。キリストや仏陀の面影を求めてきた私には全く意外な感じがした。
一瞬ぼんやりしていた私の周囲がざわめき出した。みんなすでに頭を上げていて、これから各自
49神を求めて
の治病報告、教化拡張報告をするのだそうである。
ひれき
つぎつぎと自己の成績を披渥してゆく。治病報告の中には、先程待合場で聞かされたような話が
かなり多かった。
こんな会合が初めての私にはなかなか興味があり、面白くもあったが、崇高とか、敬度とかいう
雰囲気を少しも感じなかった。
ついで岡田氏の講話があり、氏と弟子たちの質疑応答があったが、私の魂を把えるほどの宗教的
法悦はなかった。岡田氏という人はその著書からも感じられたが、学問の人でも話術の人でもな
く、直感的実行家とでもいう型の人であるらしい。しかしその考えている事柄は実に膨大な構想で
あり、世界的な大きな理想を確信をもって、淡々と語っている姿は私の心を非常にひきつけたので
あった。
ひへい
それは、敗戦直後の疲弊しきった国民の自己卑下、自国侮蔑的な言行に強い反発を抱いていた私
の心に余計に大きく共感を呼んだのであったろう。
岡田氏は宗教家というより、一種の政治家、実業家、企業家といった人物で、ただ霊感的に行動
している面が、宗教的に人には見えるのではなかろうか、と一回だけの対面で私はそうひとりぎめ50
をしたものであった。
結局、私の岡田茂吉氏訪問の成果は、敗戦直後の日本の中に、救世主的確信をもって、堂々と自
己の主張を実行にうつしている一大企業家が存在する。勝者米英を恐れず、ソ連を物の数ともせぬ
大確信の一人物が存在する。という認識をしたことによって、日本人全体に対する希望を抱かされ
メシヤ
たことであった。しかし私の求める本筋の救世主は夢のままで消えて行ったもののようであった。
岡田茂吉氏訪問の根本目的は果されなかったが、岡田式霊線療法が、真実に病者をなおすという
いろいろの体験話を聞かされてきたのは、私にも病者をなおし得る、という自信を、私自身の体験
に加えて強固なものにしていたのであった。私はその後いよいよ本格的に病者の治療に歩き出して
いた。岡田氏門下ではすべて岡田先生筆の光明という文字をお守りのようにして肌につけて歩いて
いた。そのお守りをとおして神様のお光が病者をなおすのである、と思っていた。私は岡田氏に面
接して以来、以前のように氏を聖者として崇める気が薄らいでいたので、お守りに対する信仰もあ
やふやなものになっていたのだが、私の力でも病者が癒える、という気持はかえって強くなってい
た。ただ、病者をなおす最高の秘訣は、無私の愛、無慾純真の愛にある、と確信的に思えていた。
そのため、物質的報酬をますます受け入れ難い状態に自己を押しこんでいった。
51 神を求めて
謝礼に、と金を出されると恥らいで真赤になりながら逃げ出したくなるのであった。
しかしそんなふうにしながらも、電車賃位の金が、母にとどけられたり、幸田さんから渡された
りした。
私は日々貧しくなりながら、心は明るく澄んでいた。いつも吸われるように天を仰ぎながら、
「神様、神様」と心にとなえごとのように神様を呼びつづけ、「どうぞ私のいのちを神様のご用
におつかい下さい、どうぞ、私の天命を一日も早くはっきり現わしめ給え」と祈りつづけた。
私は天が好きだった、好きで好きでならなかった。青空は勿論たまらなく好きであったが、曇り
の日でも、雨の日でも、天を仰いでいることは無上に快かった。私はかって天に住んでいたに違い
こがらし
ない、と子供の頃から思っていた。以前作った凧という詩の中にも、
かつては天の子であった自分
とか、
もう一働きしたら
あの月の中でゆっくり休むのだ
とか、いうような言葉が随所に出てきた。52
雨という詩にも
天の慈悲を地上にまき散らそうときた私だったが
とかいうふうな言葉があり、つねに天と地について考え、天にひかれる心でくらしていたものだ
った。浅草のような、地上狭しと小さな家が建ちならび、店屋や、人通りで、こったがえす所に住
んでいても、一度び天界に心がひかれると、何もかも忘れて、空の美しさに融けこんでゆくのであ
そら
った。何がどうというのではない。ただ無性に天が好きである私であったのだ。
葛飾の中川土手も千葉県よりにS という農家があり、その家の次男で二十才位になる青年が、腹
膜を病っていて、もう膀からしきりに膿が出ているほどの重態で、すでに医者にも見放されてい
た。せっばつまった家人が誰れからか聞いて私に一度診てもらいたいと頼みにきた。その日までほ
とんどの病人が不思議となおっていたので、私は病状を聞いてもあまり驚かずに軽くひきうけて病
家を訪れた。
私は亀有の家を出て病家に着くまで、病人のことも病状のことも考えず、ただ神様、神様と神の
ことだけを想いながら歩いていた。大きく胸を張って、夏の青空を仰ぎかげんにして歩いていた。
ひ
中川土手の桜若葉は陽に映えて美しく、川面のさざ波も光り輝いてみえる。
53神を求めて
草の葉のそよぎも、水溜りのきらめきも、自然のすべてが美しく見えるのである。
自然はなんて、美しいのだろう、私は自然の美しさの中に半ば融けこみながら、世の中から病苦
を除き、貧苦を除かなければこの美しさの中に全心を融けこませるわけにはゆかないのだなあーと
自分の責任でもあるような痛い声を心のどこかできいていた。
私はその声に応えるように、「神様、どうぞ私のいのちを神様のおしごとにおつかい下さい」
と、いつもの祈りを強くくりかえしながら歩いた。そのまま向う岸へ渡る舟着場まできて土手を降
りようとした瞬間「お前のいのちは神がもらった、覚悟はよいか」と電撃のような声がひびき渡っ
た。その声は頭の中での声でも、心の中の声でもなく、全く天からきた、意味をもったひびき、即
ち天声であったのだ。それは確かに声であり、言葉である。しかし、後日毎朝毎晩きかされた人声
と等しきひびき、霊言ではなかった。私はそのひびきに一瞬の間隙もなく「はい」と心で答えた。
この時を境に私のすべては神のものとなり、個人の五井昌久、個我の五井昌久は消滅し去ったの
である。しかし事態が表面に現われ始めたのはかなり時日がたってからであった。
私はひととき土手の下りぎわで、じいと眼を閉じたまま何も想えず立ちすくんでいたが、やが
びやつこう
て、夢から醒めた人のように眼を明けた。太陽は白光さんさんと輝いている。小鳥のさえずりも耳54
もとに明るい。私は一時の緊張で堅くなった体を両手で交互にさすりながら渡し舟に向っていっ
た。
「私のいのちはもうすでに天のものになってしまったのだ、この私の肉体は天地を貫いてここに
いるのだ」私の心は澄みとおっていて、天声に対するなんの疑いも起こさなかった。
病家につくと、家人が待ちかまえていたように迎えてくれた。病青年の枕元に坐ると、母親が悲
しそうな顔をしながら病状の説明を始めた。病人はやせた蒼白い顔をちらとこちらにむけたがすぐ
眼を閉じた。
「これ、このとおりなので」と母親は割箸を手にもって贋の上にかぶせてある綿を、おそるおそ
ヘへ
るつまんだ。脾からは病人の呼吸につれて青いうみが濃くなったり淡くなったりしてみえた。こん
なになっては医者も手のつけようがないのだろう。私は早速治療にとりかかったが病人は黙って眼
を閉じたままでいる。”どうせ何をやったって直らないんだ”といっているような顔である。すで
にあきらめきっているような顔なのである。
ヘへ
私が手をかざすと、うみが吹きあげるように贋から出てきた。毒素が出てゆくのだ、すっかり毒
素が出てしまえばなおるのだ、と私は岡田氏の説のとおり信じていた。
55神を求めて
が
、何度
び
か、
綿
で
そ
9
つ
み
を
ぬ
ぐ
つ
て
は
、
治
療
し
2
つ
け
た
0
治療が終ると、手洗水をもってきた56
「いや、いいんですよ、病気などうつりゃしませんよ」
と私は手など洗おうとはしなかった。私の手には綿をもれたうみがかなりついていたが、私は平
気な顔をしていた。常識どおり手を洗ってもよいのだが、いかにも病気の伝染を恐れるような家人
たちの物腰が私の気にさわっていたので、わざとそうしたのである。勿論医者に注意されてのこと
なのだろうが、真剣に治したいと思うなら伝染など恐れる気持は出てこないのじゃないのか、とそ
の時の私は思ったのである。
ちょうど昼時になっていたので、白米のむすびに香のもので昼食を出してくれた。私は喜んで、
うみのついた指でむすびをつまみ、香をつまんでは食べた。家人たちは私のその様子を驚いたよう
にみつめていた。結核病は恐ろしい病気で、病人と向い合っていただけでも伝染する、ましてその
うみなどが手についたら余程消毒しなければ大変だ、と医者にきかされていたのだとは、後で母親
に聞いたのであるが、家人のその場の態度は、正に結核病恐怖の姿であった。無理もないといえば
いえるのであるが病人に与える心的影響はあんまりかんばしいものでない。
その時、「先生、先生ありがとうございます、ありがとうございます」と先程まで黙って眼を閉
じていた病青年が、涙声で、本当に感激したようにそう口を切ったが、後はぼろぼろと涙をこぼし
つづけた。
伝染病患者として医者からも家人からも一つ幕をへだててみていられたのに、今日は全く意外に
も、いかにもなんでもなさそうにちょっとした病人に対するように相手してくれた私の態度に非常
な喜びを感じたのであった。私は青年の掛布団に手を置いて、
「病気などはね、良くなりはじめたら、たちまち良くなるものなんで、気力が第一の問題なの
だ。君の体の中にある毒素が全部出てしまえば、昔の君以上に元気になれるんだよ。君の中にだっ
て神様からきているなおす力があるのに、君たちはちっともそれを知らないんだ、僕なんかはそれ
を知っているから、その力を利用して、君の中の治す力をひき出してやろうと思っているのだよ。
これからは、君と僕と協同してこの病気を退散させてしまおうじゃあないか」
とこんなふうに話かけた。私の話をききながら青年は幾度もうなずいていたが、やがて嬉しそう
に笑って、
「先生、僕も勇気を出します。お願いします」といった。
57神を求めて
母親は、
「この子が笑ったのは近頃になって今日が始めてです」
といって、さすがに嬉しそうに顔をほころばせた。
その日から毎日のように、その家に通った。病人の元気はしだいに良くなっていった。うみも一
たんほとんど止まったようになった。調子のよい時は床に起き上がって半日も読書するようにまで
なっていった。
そうした病者訪問生活のうちにいよいよ家計は窮乏のどん底に陥ってきた。仕方なく復員後未だ
体の恢復に間のある弟が、知人にすすめられて、露店商の手伝いを始めた。
その収入がわずかに私たちの家計をささえた。私は弟にすまない気がしながらも、私の天命への
道にひたむきに進んだ。弟は私の使命をよく理解していて、
「金のほうは俺がなんとかしているから、兄貴は早く立派な仕事をしてみせてくれ」
と私に金の苦労をさせまいとしていた。その頃私は治療の仕事とともに谷口雅春氏の生長の家と
いう月刊雑誌を毎月とったり、いろいろな霊媒を尋ねて、霊魂の存在を確めたり、心霊問題を取扱
った図書を探し歩いたりして、人間の真実の姿の探求に真剣になっていた。そのうち近辺の生長の58
家の信者たちが、つぎつぎと私を尋ねてきた。私は生命の実相に感嘆していたし、生長の家誌にも
多大の興味を覚えていた矢先きなので、一度生長の家教祖を尋ねてみたいとしだいに深く思いはじ
めた。この人こそ、キリストの再来、メシアであるかも知れない。しかもこの人は偶然か必然か、
私と同月同日の生れで、時間にしてちょうど十二時間位違い、氏は明け方、私が夕方に生れている
のである。私は深い何かの結びつきを感じた。
ある日曜日、私は兄と弟を誘って、赤坂乃木神社前の生長の家本部を訪れた。二階の講演会場に
上がってゆくと、ちょうど谷口雅春先生の講話が始まるところであった。三尺ばかり高くなってい
る座席に坐って「さて、今日は一体何の話をしましょうね」と微笑しながら、信徒たちの方を見廻
わしておられる。あの生命の実相のような素晴しい書物を書かれる先生とはーと古代の聖者のそ
れぞれの面影を心に画きながら先生をみつめた私は、ふいっと心淋しさを感じた。なぜそう感じた
かわからない。聖者という私の概念が、完全な形象的美しさを、知らず知らずのうちに聖者の面輪
と心にきめてしまっていたからではなかろうか。一見、谷口先生からその美しさを観取できなかっ
た私の勝手きわまる淋しさであったのだろう。
しかしその淋しさはしばらくするとあとかたもなく消え去っていた。それは谷口雅春先生の講話
59神を求めて
の内容の素晴らしさと、その話術の巧みさが、私の魂をしっかりと把えていったからである。
聡明そのもののような広い額、鋭い眼差し、徹した思想からくる豊かな言葉、それは岡田茂吉氏
とは全く反対な学問的態度であり、哲人的雰囲気であった。
生命の実相や戦時中の生長の家誌には、日本必勝、米英必ず敗る、といった言葉が多かったが、
私はそんな現象的なことは問題にせず、生命の実相の根底を流れている、人間神の子、実相円満完
全、人間の本来性には悪もなく悩みも病苦もないのだ、と喝破しているその思想に深く打たれたの
であった。
先生のその日の講話の中でも、現象のご利益話より、根本の人間本来完全円満、の話のほうに強
く心をひかれていたのである。
生命の実相には縦の思想と横の思想ということがあった。縦の思想として、私を感激させた人間
の実相は完全円満であり、老病貧苦などという、そんなものはないのだ、ここに存在しているよう
に見える肉体などはないのである。従って病苦や貧苦などはあるはずがない。あると思う心は迷い
の心なのである。肉体はない、物質はないのである。あると思う心のその影として存在するように
見えるのであって、あるのはただ神のみであるという思想であり、横の思想とは仏教の三界は唯心60
の所現や、メンタル・サイエンスの想念の波動の説などをとって、心はすべての創造者であり、人
間の想念するとおりに、事物はでき上がるのである。人間が現在苦しんでいるのは人間の想念が悪
かったのであり、誤っていたのである。悪を想えば悪が現われ、善を想えば善が現われる。あなた
が今病んでいるとするならば、それはあなたの心の中に、行いの中に病む原因があるのである。す
べてはあなた自身の責任なのである。あなたの心の影なのである。
という思想なのである。こうした二つの説き方をいろいろ取りまぜ、さまざまな実証をあげて、
説きつづってあるのである。それは仏教、キリスト教、メンタル・サイエンス、天理教、黒住教、
心霊研究等々あらゆる宗派から、その例証をひいて書かれてある万教帰一の宗教書なのであった。
私が後に霊覚者になるまで、私はこれ以上の教えは今後現われまいし、この思想を打ち破り得る
人は絶対にあるまい、もしこの思想を悪くいう人があったら、必ずその人のほうが誤っているので
ある、これこそ正に正法である、と堅く思いこんでいたのである。
整い過ぎた理論はかえって実践でき難い場合があるものである。
整い過ぎた、ということそのものが、致命的な欠陥になる場合がある。生命の実相の縦横の真理
が、信者のそれぞれに適当に摂取されれば、非常な効果をあげ得るが、それが不適当に摂取された
61神を求めて
時には、著者の思いもかけぬ不調和な、恐ろしい傷痕が、信者の心の中に刻みこまれてゆくのであ
る。ということは、私が生長の家講師になってから、そろそろ知りはじめ、霊覚者になってから、
はっきりと知ったことなのである。
それはずっと後のことであり、この日は感涙のうちに、最後の神想観という祈りの行事を終って
帰宅したのであったが、兄も弟も、かなり批判的で、私ほどの感激を示さなかった。私には、それ
がやや不満であった。
その日から、私の生長の家運動が始あられた。日曜ごとの谷口先生の話は勿論、毎日のように本
部に出掛けて、いろいろな講師先生の話を聞いたりした。どの先生方も皆、私には偉大な存在に思
えた。それとともに近辺の誌友に呼び掛けて支部結成に奔走し、葛飾信徒会をつくり、先輩を会長
にして、私は副会長になり、生長の家光明思想普及に一身を捧げつくそうと、熱烈な意気で同志獲
得に乗り出していた。
谷口雅春の草履取りになろう、というのがその時の気持であった。
谷口先生は釈迦、キリストと同格の人物であり、生長の家の思想こそ日本を復興させ、世界人類
を救う唯一無二の教えであると堅く信じていた。岡田茂吉氏以来、偉いと人の噂に出る人物には、62
費用の許す限りは、飛ぶようにして面会に行っていたが、それぞれ一様の偉さはあっても、全面的
に私を把えるような人にはめぐり会わなかった。谷口雅春氏との対面は、生命の実相の著者との対
面であり、谷口雅春という一人物との対面ではなかったのを私は気づかなかった。谷口雅春すなわ
ち生命の実相という著書であり、生命の実相を離れた谷口雅春という人には、私が生長の家の信者
としている間中に、時折りその片鱗を伺い知っただけで、まともな対面を一度もしなかったことを
後になって気付いたのであった。生命の実相に書かれてある思想をとおしての谷口先生は素晴らし
かったし、その思想は実に高度のものであった。しかし、その生命の実相の掲げる理念と、谷口雅
春という一人格の行動とに大きな開きがあるように、生長の家の教えにふれれば、いかにもやすや
すと生命の実相が顕現すると説く教えと、実際上の信者諸氏の悟道への歩みとには、より以上大き
な隔たりがあったことを、私は後に至って、改めてはっきり知ったのであった。そこに私が生長の
家を自然に離れて、今日のように生長の家では実際上つぎつぎと生じる悟道をはばむ障害「過ぎた
じようぜつ
る饒舌」「いらざる多辮」への是正とともに、新しい宗教の在り方を広める役目を、神から受け持
たされる順序が生れてきていたのであろう。
同月同日の明け方氏が生れ、夕方私が生れた、という定まりは、この辺の真意を物語る神の秘め
63神を求めて
ごとではなかろうか。
64
神の計画
この現実世界にあって、物質の持つ力は、絶対に近いほど強力なものである。いかに精神的に秀
れていても、物質の厄介にならずにはこの世の生活は成り立たない。この肉体生活を持続させるた
めには、大なり小なりに、物質を得るための精神または肉体の活動をしないわけにはゆかなくな
る。自己の仕事のみに精進していれば自ずから収入が得られるような境界に始めから置かれている
人は、至極稀なる存在であって、現在はそのような境界にある人の大半も、過去においては、物質
を得るための働きをした経験をもっているのである。
私のひたむきな求道生活、精神生活も、収入の道を自ずから拒むようなゆき方をしている限り、
物質生活の道はしだいに閉ざされてゆくにきまっていた。
私の仕事は人の病気をなおすことである。私が拒みさえしなければ、その仕事から収入はあるわ
65 神の計画
けである。しかし私はその収入源を拒みつづけている。その理由は何かというと、聖なるみ業、神
の仕事から金を得てはいけない、という気持からであった。とすれば一体どこから収入を得るの
か。自己としての収入源は治病業の他にはない。ないというより探す気持にもなれず、探したこと
もない。母と自分の生活は、弟の収入によってできている。しかも弟の収入源は、弟としてもあま
り好ましい職業から得ているものではない。その職業に養われながら、母の心労も外にただ天業で
あるの自己満足だけで、無料奉仕の生活をつづけていることは、果して是であるのか非なのである
か、この問題はある日の激しい母の一言によって、解決の道に向わされることになった。
八月のある朝、治療に出かけようとする、私を呼び止めた母が、
「昌久、おまえいつまで今のようなことをしているつもり」
という言葉から始まって、
「おまえのやっていることは人のためになることで、いいことだと思うし、日頃からの、おまえ
の行いの正しさもよくわかる。だけれど、人を助けているおまえが、弟に生活をみてもらわなけれ
ばやってゆけない、というのはとてもおかしい気がするね、このままの生活では、いつまでたって
も弟の厄介になっているだけで、おまえがひとりだちしてゆくことはできないよ。人を助けること66
を本式にやろうとするなら、まず自分が助かっていなけりゃあ駄目じゃあないの。自分が人の厄介
になっていて、人を助けてる。ちょっとおかしくないかい。わたしはおかしいと思うね。だからそ
の道でゆきたいならやっぱり正当のお礼をもらってやらなけりゃ、永くつづかないよ。それとも、
どこかへ勤めて、その余暇にやるなり、どちらかにしなけりゃあ、駄目ね。今までじっとみていた
けれど、もうはっきりきめなけりゃあね」
というのである。そして結着は、九月の五日までにそのことがきまらなければ、この家を出てゆ
く、というようなことになった。
母としては、このままでは弟にも悪いし、私のためにもならない、と思ったのであろう。無理も
ないことであり、道理である。
私はその日から職探しに廻わることにした。病気治しで金をもらう気にはどうしてもならなかっ
たのだ。ひとまず天業は勤めの余暇にやることに決意したのである。
決意したといっても、特別に心が緊張したり、変化したりしたのではない。心をちょっと就職、
という方向にむけただけで、根本的には何の変化も動揺もしていない。去る日の天の声以来、私の
すべてを神に捧げつくしている気持なのだから、神様が私を使って下さるのだ、とのびのびしたら
67 神の計画
で思いこんでいたのであった。それは実におおらかに思っていたのである。
私は新聞広告をみて出かけたり、それぞれの知人を尋ねたりしはじめた。
私は戦災者ではないのだが、満足な服も新しいY シャツも持っていなかった。それらはすべて過
去において生活費になって消えていた。洗ってはあるが克明につぎの当ったシャツに大きな尻当の
あたったズボン、今にも口のあきそうな古靴をはき、甘藷の入った弁当箱のつつみを抱えて、気は
のんびりとゆうゆうと就職運動をはじめたのである。
終戦後一年、目先のきく人や商魂たくましい人々は、もうすでに新しい勤めや事業に腰をすえて
いたし、慎重で真面目な人は、以前からの会社に、じっと辛棒していて、やっとこのままでゆけ
る、ということが、はっきりしてきた頃である。古い事業会社ではあまり人はいらぬし、新しい会
社や、事業場では、技術者や、営業経験者を求めてはいたが、私のような文化指導者などはほとん
ど必要としていなかった。なんでもやる。とこちらでいっても、雇主の方で、あなたのような経歴
の人は、と取りつくしまもない断わられようである。
私は毎日断わられつづけながら、毎日各所を歩き廻った。
“神様は一体、私をどんなところで働かせるつもりかなあ
” というのが、私の心一杯にしめてい
68
て、断わられても断わられても、人間に断わられている気は、少しもしないで、のんびりと、神様
がおいて下さる働き場所を探し歩き、家に帰えれば、生長の家信徒獲得運動と病者訪問をつづけて
いた。そのうち、九月に入り、家を出る約束の五日の朝になってしまった。母親は何もいわなかっ
たが、私はさすがにその日は緊張していた。それは私が、約束したことは、神様の約束だ、という
ように思いこむともなく思いこんでいたからであった。
“今日はきっときまる
” 心のどこかで、そんな声がするようなのである。”さて一体どこへ行こ
う” 私は毎日するように静座して合掌した。一時間位合掌しているうち、”芝
” という文字が脳裡
に浮ぴあがってきた。”芝、誰れだろう? ” ふいっとM という友人の名が脳裡をかすめた。
私は「お母さん、今日は約束の日だね」とにこにこしながら母にそういって、出かける仕度を始
めた。母は黙って私の顔をみつめている。母にしてみれば、毎日出かけて、今日も駄目だった、今
日もまた、といいながらも明るい屈托のなさそうな顔をしている息子をみていると、不思議な気が
するのであろう。それが今朝は一層上機嫌で、自信あり気にそのまま取消してもよいと思っていた
約束の日を、自分のほうからいい出したりしているのを、なんとも判断しかねて、黙っているより
仕方がなかったのであろう。
69 神の計画
私はそのまま、祈りの中で脳裡に浮かんだM氏の勤先きである芝のK会館に向った。
浜松町で国電を降りて、真直ぐ増上寺のほうに向ってゆき、朱塗りの大門をくぐってから右に曲
ったところに、尋ねるK会館はあった。
空をみながら、ゆっくり大股で歩く癖のある私は、青空の中に急に朱塗の山門が現われたように
思えた。青空と朱塗の門とのコントラストが、神とか天国とかばかりを心に画いていた私の眼に、
“竜宮城
“とふいっとその奥に竜宮城がずっと拡がって見えるような気がした。確かにその大門の
突き当りには増上寺の門が竜宮城のようにそびえていた。
この月から二年半近い年月を毎日この竜宮城の門をくぐって出勤しようとは、その時は思って
もみなかったのである。
K会館の三階にM氏を尋ねると、M氏は喜んで迎えてくれたが、詩人であるM氏と、その仲間で
あった私との対談はもっぱら詩の話や文学の話で、結局そのまま就職のことは何もいいだせずに
「じゃあ、また、家にも遊びにきて下さい」というような挨拶を残して別れてきてしまった。
会館の階段を降りながら、私は思わず苦笑しながら、”はてな? 神様は一体どうしようという
のかなあ、ここでないとすると、今朝のインスピレ!ションはどういうことになるかな、いよい
70
よ、家出ということになりそうだ、しかし、まあ、いいさ”と階段を降りきって、外に一歩足を踏
み出したけれど、これからどこへの足の行き場がわからなくなっていた。しばらく入口に立ってい
たが、仕方がないので、ともかく国電のほうへと思って、二一二歩歩み出した時、
「やあ、五井さんしばらくです」
と私と同じ位の背格好の男が顔をのぞくようにして声を掛けてきた。
「やあ、T さん、本当にしばらく、ご無事でいましたねえ」
私も瞬間、就職のことなどすっかり忘れて、こういった。彼は私が日立に在勤時代、勤労者向き
の月刊雑誌の編集長をしていた人で、この雑誌には、私も毎月のように論文だの、小説だのを執筆
じつこん
していた関係で、泥懇だった。
「今どちらにいるんです?」という私の問に、
「そこですよ」
と指さすところはなんと、今出てきたK会館である。
「まあ、私の部屋へいっていろいろお話しましょう」
と誘ってくれるTさんに従って、またK会館に逆戻りしてみると、これまた不思議、M氏の雑誌
71 神の計画
社と同じ三階で、M氏の部屋の前をとおって右に曲がったところにTさんの部屋があった。
「今日はどこへきたのです?」と椅子へ腰をかけるなりTさんが聞く。
「この向こうのMさんを尋ねてきたんですが、あなたにおあいするとは思わなかったですよ」
と私はなんだか馬鹿に愉快な気になりながら、”Tさんのところで働かせるな、神様は”と直感
的に思った。
Tさんの話によると、この会館は労働問題や経済問題の研究所として古い歴史をもっている会館
で、今度はC会館と名を改あて、労働者の教育、労働問題の調査を新しい立場から始あるのだとい
う。Tさんの係は出版部でTさんは第二編集長の役で月刊雑誌を何部か出すことになっているのだ
そうである。
「ところで、あなたがもし遊んでいられるのなら、手伝っていただけると好都合なのですが」
と私の直感どおりに話は運んできた。
私に否応は勿論なかった。これで母親を安心させることができる。とさすがにほっと一息ついた
形であった。しかし、この就職はこのままスムースに運んだわけではなかった。その原因は私の相
手かまわぬ宗教的多辮であったのである。72
Tさんに履歴書を渡すと、出版部長が会いたい、というので部長室にゆき、次長の1氏に面接し
たが、1氏との面接はことなくすみ、1氏が、理事長のところへ私の履歴書を持って行った。
「五井さん、今日から働いてくれますか? 」
Tさんは、もうすっかり雇用契約のすんだ人に対するようにこういう。もっともT さんにすれ
ば、自分のところに使うのだから、自分が良いと思う人なら上役もいけないとはいわないと思いこ
んでいるのである。
私は先頃から、相手の話が終ると、すぐ生長の家の話をし、また相手の他の話が終ると宗教の話
に話をもっていった。霊線療法の話や、霊界の話、生長の家理論の病気や不幸のない話等々、おと
なしいTさんは、「そうですか、ほう、そんなもんですか」とうなついて聞いているが、病気や不
幸のない話になると、いささか抵抗をしめして「そういうことは理論としてはあるけれど、実際と
しては思い得ないし、あり得ないですよ」と反掻してきた。それに対し真剣になって、また同じよ
うな理論を繰り返えす。そのいい方は、まるでおっかぶせるようないい方に自然となっていった。
「どうもねえ、どうもそういうことはねえ」
何度も生長の家理論の病気は無い、肉体は無い、すべては心の影だ、と説きつづけても、Tさん
73 神の計画
の心にはその言葉の一言もしみこまぬらしく、
「五井さん、その話はまたにして、早速仕事の相談にかかりましょう」
と話をそらせて、
「1 さん遅いですね、理事長と何を話しているんだろう」
とちょっと首をひねって私の顔をみた。私は思わず苦笑いして、”そうそう私は今就職にきてい
るのだ” と改めて自分の立場を顧みていた。そのうち1次長が、「やあ、お待たせしました」とい
いながら入ってきた。そして、
「五井さん、ちょっと理事長室まで行って下さい、理事長がお会いしたいそうですから」
という。
「はい」と答えて私は理事長室に向った。
理事長は、中太りの人で、その丸顔をにこにこさせながら、
「五井さん、といいましたね。さあお掛けなさい」
と軽い調子で椅子をすすめる。
後は型どおり、T さんとの関係や、以前の仕事のことなどを断片的に質問し、断片的に答えてい74
るうちに、ふとしたきっかけで理事長の知人の病気の話が出た。私はつられるように、「病気など
なんでもないですよ」といってしまった。そして、その言葉にひき出されるように、掌療法の話や
肉体無しの話をしだいに熱して話しつづけた。理事長は「ふん、ふん」といいながら、ある程度私
の話をきくと、
「そりゃね、君、人間の体から電気が出るということなんで、科学でも、もうちゃんと実験済み
のことなんですよ。神霊とかなんとかいうものの力じゃあないんだよ。それから君、肉体がないと
か、病気がないとかいうのはね、観念論でね。実際的には人が迷うだけだね、まあ、とにかく、ご
苦労様でした。あなたは体が弱そうだから、お大事になさいよ。じゃあ… … 」
私は”こりゃあいかんぞ”と思いながら丁寧に挨拶して部屋を出た。T さんのところへ帰ると、
「どうしたんです。随分遅かったんですね、まさかあなた、理事長のところで宗教談をしてたん
じゃあ、ないでしょうねえ」
Tさんはいささか顔を曇らせて私をみつめた。
「どうも失敗したらしいですよ」と私は顔をしかめてみせた。その時理事長室からTさんを呼ぶ
電話がかかってきた。T さんは、あたふたと四階に上っていった。しばらくして帰えってくると、
75 神の計画
「五井さん、困まっちゃったよ。あんたが変なことをしゃべり過ぎたもんで、理事長はあんたを
採用したがらないんだ、ここはねえ、経済問題や、労働問題の研究や教育をするところなんで、ほ
とんど唯物論なんですよ。さっきあなたに一言注意しとけばよかったんだが、とにかく弱っちゃっ
た」
本当に弱りきったようにTさんはいう。私はTさんに申訳けないことをしてしまった、と思うと
同時に折角のチャンスを逃がした自分をちょっと恥じるような気がした。
「しかしね、五井さん、理事長はあなたの思想が駄目だなんてはっきりいわないですよ。あの人
は体が弱そうだからつづかないだろう、というんです。だから、体が丈夫だ、耐久力は充分にある
という証明さえ得られれば、後は僕のがんばりであなたを採用できると思うんです」
とTさんは今度は少し顔を柔らげていって、
「日立へ行って調査してきますよ、大丈夫ですね」
と私が大丈夫だと、確言するのを待つようにいう。
「そりゃ大丈夫ですよ。日立の出勤率は平均点よりずっと良かったんですから」
と私は自信たっぷりでいった。76
T さんとすれば、私の日立時代の能力も気心も知っているので、なんとかして自分の片腕にした
いと思っているのであろう。
「必ず良い報せを出しますから待っていて下さい」
というT さんの言葉を後に、私はK 会館を辞し去った。
その日定まるべき職を未定のままにしてしまったのは、明らかに余計なおしゃべりにあったので
あるが、その時の私は、一向にそこには気づかず、”もしK会館に勤められぬとしたら、それも神
様のみ心なのだ” とあっさりとした気持であった。しかし帰宅した時、母になんといおうか、とそ
れだけがちょっと気がかりである。駄目ときまったわけではないのだから、約束どおり家を出ると
いう腹にもならない。まあ、その時のこと、と思って、家の格子を開けると、
「昌久かい」と母の声がして、「お前どこからか就職試験の通知がきているよ」という。
「ほう」といいながら家にあがって、状さしにあった、一通の葉書をとった。明朝の十時までこ
いというG 出版社の試験通知である。
「どうしたい今日は」
と母は何かこちらをいたわるような調子でいう。今朝の出がけに”今日は約束の日ですねえ” な
77 神の計画
どと自分からいい出していた息子のことだから、もし今日駄目だとしても、正直に家を出てゆきか
ねない。就職があって出てゆくのならまだしも、就職がないから出てゆく、というのでは、息子の
この先きが余計に心配である。何月何日と日をきったのも、息子に収入の道を開かせ、生活の安定
をさせたいばっかりの親の愛情なのだから、一生懸命職探がしをやっている今日、ここで就職が十
日や二十日遅れたとても、家を出てゆくには及ばない。というのがその時の母の気持であったらし
く、その心が自然といたわりの表情になって示されたのであろう。
私は今日の様子を母に話してきかせながら、
「神様のお示しでは、あそこに勤あられるわけなのですが、どうなりますかね。まあ、二三日す
ればわかりますがね、明日は今の葉書のところへいってみますよ」
といった。
その晩もいつものように生長の家の信者の家を二、三軒廻わって、その信仰心を鼓舞し励まして
きた。
生長の家では、沈黙は金なり、雄辮は銀なりの反対の教がある。それは不言実行ならぬ、有言実
行、ということなのである。しゃべればしゃべるだけの効果は必ずある。折りにふれ、時にふれて78
真理の言葉を人に伝えよ、というのである。伝えるごとに、伝えた人の信仰は深まるという。
その頃の私は、生長の家の真理の言葉、生命の実相に書かれてあるさまざまな説明をくまなくと
いうほど覚えていた。頭の中では、生長の家が説く真理をすっかり知っていて、人に説いて歩きな
がらも、”なんという素晴らしい教えであろう” と聞く人の心持などあまり計らず、説く自分自身
がつねに感激に浸っていたのであった。どうしてこんな立派な良い教えがわからないのだろう、と
何度説いてもわかってくれぬ人たちが、すっかり愚かしくみえてくるのである。
私にとって世界はすべて美しいのである。病気も、貧乏も、闘争も、すべては迷いの影であっ
て、実際はないのであった。こうして生きている、ということだけで、ありがたくてありがたくて
仕方がないのである。
“神様、ありがとうございます。ありがとうございます
” こうした感謝に明け暮れしている私だ
ったのであったから、いつも明るい昂揚した様子をしていた。そして、人に会いさえすれば、相手
かまわず生長の家の話を聞かせた。生長の家以外の教えは、いかなる教えも、真に人間を救うわけ
にはゆかない、と思いこんでいた。そして有言実行を実践していた。
その翌日は通知のあったG出版社へ受験にいった。民主主義について、という論文と、国文関係79 神
の
計
画
の試験があった。国文関係の試験はやさしかったし、論文もたいした時間もかからず楽々と書いた
のだったが、その論文の内容は今思えば、およそ宗教くさいものであったようだ。私は気持よく試
験を終り、明るい顔をして出版社を出た。しかしこの社に採用される、という感じは少しもしな
い。通知があったから素直にきて、素直に試験を受けた、というだけの気持であった。今朝から
は、もうすでに就職は決まっている、と心のどこかで思えていて、何かいつもとはまた違った安定
感を抱いていたのである。
“明日は一日宗教活動に専念しよう
“と帰りの電車の中で、生長の家の本を読みながら、そう思
った。
しかしその明くる日、母を喜ばす電報が、午前中に届けられた。Tさんからの合格通知である。
私は急いで仕度をして家を出た。
Tさんは非常に喜んで私を迎えてくれた。私は三ケ月間は嘱託として勤務し、成績しだいで本雇
になるという約束で入所することになった。
理事長はあまり雇いたくなかったのだが、Tさんの調査した私の過去の勤務成績が、理事長の反
対理由を封じてしまったのだ、とTさんが嬉しそうに話してくれた。80
その日から私は、C労働学園出版部員として勤務することになった。
仕事は、C労働時報の編集である。この時報は旬報で、労働統計、労働争議、労資会議、労働
省、全国の労働組合、外国の労働情報等々労働に関する種々相を調査報告する雑誌であった。
このC会館には中央労働委員会があって、資本家側、労働者側、第三者の各委員が、つねに集ま
って、労働争議の調停斡旋の会議をつづけていた。しばしば赤旗を振りかざした労働者の集団が、
会館の前で、労働歌を高唱して、労働者側委員に気勢をそそいでいたりした。
この労働委員会と私たちの仕事は密接な関係があったので、経済学や労働問題の知識は是非必要
であった。経済学の経の字も知らなかった私が、急にマルクス、エンゲルスの本を読み始め、マル
サスだのロバート・オーエンだのを勉強させられる立場に立たされてしまった。
今まで、情操教育的文化関係の仕事にのみたずさわっていた私にとって、周囲の事情は一変した
わけである。
神様は唯物論世界の勉強に、私をここに勤めさせたに違いない、と入所間もなく気付いたが、後
になって”ああ、そうだったのか”と、思わず神の計画の何気なく見えて、密なるに一驚した事柄
が、他に実現したのであった。
81 神の計画
それは全く思いもかけぬことであり、私の後半生の重大なるキイ・ポイントともなるべき事柄が
待っていたのである。
この学園は財団法人で、その組織は調査部を主体として、出版部、事業部、総務部、渉外部の五
部に分れていた。(後に学校ができ、通信部ができた)私の入所した頃は四十名位の人たちが働い
ていたが、後にしだいに人員が増していった。
私の入所した日の前日、私の住んでいた亀有という町からMという女性が、渉外部勤務として入
所した、とある日T さんから聞かされた。”ああ、そうですか”と私は気にもとめず聞き流した。
私は新しい勉強と生長の家運動で、心も体も忙しかったし、どこからだれがこようと、どの人がど
んな性格だろうと、ほとんど気にならなかったからである。そのくせ、ちょっと気やすくなった人
には、必ず、生長の家の話をしかけ、パンフレットを渡していた。
相手がいかなる人でもよいのである。ただ、生長の家に関心を持たせ、生長の家の信者にしさえ
すれば、日本はしだいに救われてゆくと思いこんでいたのである。なんでもよい、一人でも多く生
長の家の真理を知らせさえすれば、私の天命にかなうのである、と信じていた。学園の仕事は忠実
に、生長の家運動は熱狂的に実践していた。
82
そのうち、学園勤務の女性たちが、私に合唱指導をしてもらいたい、と申しこんできた。私は快
くひきうけた。ひきうけた瞬間でさえも、”この人たちに生長の家思想を普及しよう
“と、打算的
のように思うのであった。昼の休みの一時間、講堂を借りて合唱の練習を始めた。十人ばかりの女
性が集まったが、T という人とMという人を除くと、声も音程もまだ、危っかしい人たちばかりで
あった。練習が終った後、私はT嬢とM嬢に向って、
「あなた方は声も音程も実にしっかりしているんですが、学校時代随分唱ったのでしょうねえ」
と聞いた。
T嬢は、はっきりした調子で、
「ええ、姉が声楽家ですから」という。
いろいろ話し合ってみると、T嬢は有名なソプラノ歌手の妹だった。私とT嬢の話している間
中、M嬢は、ただ黙って軽い笑みを浮かべているだけで、一言も口をはさまない。静かな、どこか
淋しそうな面輪である。その時私はふと、ああ、この人が亀有からくる人だなあ、とTさんの言葉
を思い出した。確か彼もその人をMといっていた。
「Mさん、貴女は亀有からくるんですってねえ」
83神の計画
と私は急にT嬢との話をやめて、そう尋ねた。
「ええ、そうです、どうしてご存知ですか」
と、彼女は不思議そうに私の顔をみつめた。
「Tさんに聞いたのですよ、私も亀有なものでね」
「ああ、そうですか」と深くうなずいたが、彼女はそのまますぐ黙ってしまう。彼女が無口なの
で、私も話のつぎほを失って、
「じゃあ、また明日練習しましょう」といい残して、私は自分の部屋へひきあげて、仕事につい
た。
時報の編集はさほどむずかしいものではないが、内容が労働問題に限っており、それも各種の労
働争議の形態を主にとり扱っていて、闘争、闘争の文字が実に多かった。
大調和世界を理想にして、生長の家運動に専念していた私の神から与えられた職場は、戦後の労
働運動の全国的雰囲気を、真向から受けつけ、唯物的社会風潮を、ぎりぎり結着の形で否応なく見
せつけられる場所であった。
徳田や志賀や伊井弥四郎等々の氏名が毎号眼にふれ、時には実物にも接した。84
つ
一つの目的貫徹に愚かれた人々の、すさまじき闘魂と、その指導に躍る勤労大衆、資本階級への
憎悪者と生存の権利を守ろうと必死の人々との合体、食わねばならぬ、生きねばならぬ、だから闘
わねばならぬ。
せいそう
そうした凄愴な雰囲気が、労働時報の紙面を貫き、労働委員会の空気を通して、私の胸にしだい
に激しく突きささってきた。
「人間の実相には争いはない。貧乏はない。苦しみはない。そうしたことがある、と思う心がそ
の苦しみを創っているのだ、みんな人間の想念の影なのだ」
と私は、仕事の合間合間に人々に説いて歩いていたが、学園の唯物論の人々はまるで相手にもし
なかった。たまたま相手になってくる者とは、大論争になって、
「では明日の米がない人間が君のところへ泣きこんでも、君は神様に祈っていれば、米が天から
降ってくる、と説教してすましていられるのか」と突っこまれる。
「ああ、絶対に降ってくるね、ただし人間の手を通してね」
と私は確信をもって答えた。そしてまた心の法則の説教をしはじめる。しかし相手はますます怒
るばかりで、私の言葉などはロマンチストの夢のように馬鹿にしきってしまう。聞いている第三者
85神の計画
のほとんどは、私の人間の善良さはわかっても、私の説には一人としてうなずかない。理事者側と
の賃上闘争で、ストライキ反対を私がさけぶと、
「神様はひっこんでいろ、いくら祈ったって理事長は賃金を上げやあしないんだ、ただ実力闘争
だけが我々に勝利をもたらすのだ」
と頭から馬鹿にしてくるか、怒号してくるかする。ストライキをしたくない連中も、私のいうよ
うな理論は、実現性とぼしきことと、あまり賛意は現わさない。
私は外部、内部のそうした雰囲気の中で、一向にふえない仲間にむかって、うまず、たゆまず説
教して歩いた。音楽部の女性たちが四、五人生長の家の月刊雑誌を、私への義理で取り始めたの
が、せめてもの運動効果であった。その頃は、音楽部のM嬢と毎朝一緒に出勤してくるようになっ
ていた。同じ駅から、同じ場所に、同じ時間に出勤するのだから、一緒にならざるを得ない。
最初は音楽の話や文学の話をしながら混み合う電車の中に向い合っていたが、いつの間にか私の
話は生長の家の真理の話になっていった。彼女は広島のあるミッションスクールの英文科を出てい
て、その時は渉外部の仕事をしていた。練訳と通訳とが彼女の仕事であった。
ミッションの出だけに、彼女は聖書の話は良く知っていた。しかし、自分はクリスチャンではな86
いといっていた。
ほんとうのすがたおもい
私が、例のごとく、人間の実相は完全な神の子なのだが、人間が迷って種々な悪い想念を出
して、ひとりで悩んでいるんですよ、の話をすると、おとなしい彼女が敢然反対を表明して、
「それはおかしいと思います。完全な神の子なら、なぜ迷ったり、悪い想念をおこしたりしたの
でしょう。完全なものに迷いがおこりようがないではありませんか? 」というのである。
私は時々この間を人々から受けるのだったが、いつも明解に返事ができないでいた。そして、
「完全だから迷いがないのです。そのない迷いをあると思って、その迷いを突きとめようとして
また迷う。だからますます迷いが深くなって、想念がこんがらがり、しだいに神の心から離れて、
迷いで画いた世界に住みついてしまったのですよ」
とこんなふうにわかったような、わからないような返事をしていた。M嬢にもこの式の返事をし
た。M嬢は「やっぱりわかりませんわ」という。
「つまり、この世界、私たちが五感でみている世界は、実在していない、ということなのです
よ。実在しているのは光明さん然たる神様の世界だけなんですよ。だから、一度この現象の世界か
ら心を離して実相の世界、神様の世界のほうに心をふりむけてしまうんですね、そうすると、しだ
87神の計画
いに自分の真実の姿がわかってくるのです」
「そうですか、でもやっぱりわかりません。この世界の人たちは一日一日があんまり苦しすぎま
すから、今の苦しさに敗けてしまうんじゃあ、ありません。完全な自分の姿なんかに思いもおよば
ないのじゃあないんでしょうか? 」と彼女は暗い淋しい顔になっていった。
これはいけない、と私は思った。私としては、彼女が、どこか淋しそうで、弱々しそうなので、
明るく元気にしたい、と思って余計に明るい話にもっていったつもりだったのだが、反対現象にな
りそうである。
「私、神様が、どうしてこんな不完全な人間世界を創ったのかわからないのです。神様は愛なの
だから、こんなに人間を苦しめて、これから先きも、どれだけ苦しむかわからないんです。どうし
て初めから良いことだけしかできない人間、調和した人間、不幸なんか生みださない人間を創って
は下さらなかったのでしょう」
私は、ちょっとつまって何もいえなかった。混み合った電車の乗客は、みなその日その日の生活
のために、その日の糧を得るために、こうして毎日通勤している。たくさんの家族を一人の収入で
ささえている人もあるだろう。病人や老人をかかえて働きつづけている人もあるだろう。この人た88
ちには理論なんかどうでもいい。完全円満なんかどうでもいい。安定した収入を得ることが、目下
の急務なのである。
私の脳裡を時報に載っていた労働争議の種々相が、そして赤旗の群衆が、ちらりとかすめた。
私たちはその後は黙ったまま会館に着いてしまった。
私は周囲の人たちのすべてが反対しても、私の信ずる道が誤っているとは思わなかった。またM
嬢がなんといおうと、M嬢の考えが誤りであって、私の思っていることが正しいのだ、と信じてい
た。ただ、しだいに変ってきたことは、生長の家理念をみなにわからせるには、何か特別な力か、
方法を考えなければいけないと思うようになってきたことである。
くる朝もくる朝も、私とM嬢の話はつづいた、といっても主に私が語り手で、繰り返えし繰り返
えし、生長の家の話であった。M嬢はしだいにそのことについて反嬢しなくなってきた。それは私
のいうことに同意しはじめて反嬢しなくなったのではなく、私に反機しても、私がその思想を変え
るわけではない、と根気敗けがしてのことであった。その心が私にもよくわかったが、私は相手に
かまわず、相手の潜在意識にしみこませるつもりで、話していた。
この人に真実の世界を知らせたい、という愛念が、私を余計にしゃべらせるのである。
89 神の計画
私の心の中には生長の家しかないのであった。生長の家理念を多くの人に知らせることだけが私
の天命であり、その他のことはすべてどうでも良いことに思われていた。しかし私は、自己の責任
である仕事には熱心で、時報を少しでも立派に編集しようとしていたが、いかんせん内容が規定さ
れているのでどうにもならなかった。ただ忠実に発行日限を遅らせぬたあに努力していた。
そのうち、労働組合の方から、メーデーに歌う、労働歌の指導を頼まれた。それは赤旗の歌や革
命の歌である。それに二曲ばかり、明るい新労働歌などもあった。私はこれは困ったことだと思っ
た。生長の家では言葉の力というものを重視していて、谷口先生は、”海征かばのように死を念願
しているような歌を歌ったから日本は戦争に敗けたのだ
” といっていた位なのだから、赤旗の歌
や、革命歌などを教えなければならぬ、ということは私にとっては重大なことなのである。しかし
私はやむを得ないと思った。私が教えなくとも、みなは歌うにきまっている。だから私は逆に、そ
の歌を浄めるような気持で教えようと決意した。
メーデーではついに私は、宮城広場への行進の先頭に立たされ、合唱の指揮をしながら歩かねば
ならぬ破目に立ちいたらされた。
赤旗の乱舞と革命歌の暴唱、革命アジテーターの指揮のままに、宮城広場へ宮城広場へと労働大90
衆は暴動一歩前の行進をつづけていた。
人間の本体を知らず、勤労の意義を物質のみに求める大衆は、炭であり薪である。火のつけよう
では家のためになり、国のためになる。しかし、火のつけ方が悪ければ、家を焼き、国を焼き、人
類をも焼きつくしてしまう。
この大衆が、もし人間の本体を知ったならば、馬鹿げた火つけ人をそばにも寄せつけまいし、火
つけ人がかえって感化されてしまうだろう。
そういう日をこそ私は待ち望む。否待ち望むものではない。私たちが、そういう日を一日も早く
作らなければならない。
私は行進の中で、民衆の力というものを、恐ろしいまでに感じていた。
民衆が動かなければ駄目だ。民衆を動かす教えでなければ駄目だ。民衆の心と、民衆の生活とを
同時に高めるような教えであり、行いでなければ駄目だ。生長の家の教えだけを説きつづけてい
て、はたしてこの民衆が一体どの程度ついてくるのであろう。
私の頭を初めて、生長の家に対する、こんな不審が、かすめ過ぎた。しかし、私はすぐにその不
審を打ち消して、”大神様は谷口先生を通して、思いもかけぬ素晴らしい方法で民衆のすべてを教
91 神の計画
化するだろう” と思いかえした。
私はその日こんな詩を作った。
92
延々と続く行進と
コ ラス
革 命歌の合唱の中で
私の中の天使が叫ぶ
人間の価値を又もひき下げやうとするのは誰だ
爆弾と大砲に代って
民衆の魂をうばってゆくのは誰だ
天上を地界の下に据ゑ
光を闇に屈伏せしめやうと言ふ
みずか
その理不尽さを自らも識らず
いのちを削るこんな行進に
尊い時間をついやす君たちのおろかさ
闘争の中に正義はなく
憎しみの中に平和はない
これ程易しい論理さへ
君たちには判らない
青天の光の中で
コユラス
私は合唱隊の先頭を歩く
私は革命歌の渦巻く中に
神よ、天使よと歌って歩く
革命歌のメロデーに乗せて
私の讃美歌を歌って歩く
93 神の計画
私のその夜からの祈りが少し変った。
“神様、どうぞ私に大いなる力を与え給え
!
“
“民衆の中に神のみ智恵を輝かせ給え
!
” と。
94
脱皮しつつ
私は光明思想主義、調和主義で、争いが嫌いである。その調和主義で、争い嫌いの人間が、毎日
闘争という文字、争議という活字と取り組んで、その争議状態、闘争状態を報道している。
何県ではどのような争議が何件あり、何市では労働側が使用者側をおさえて、経営管理をしてい
る。何炭鉱では争議が長びき過ぎて廃坑状態におちいった。等々、暗い暗い社会面、死と生ぎりぎ
りの生活面を嫌というほどみせつけられて生活していた。
食生活を離れた精神運動等は食い込む余地のないせっばつまった日常生活が展開されている。
戦時中は、国家のためという目標が、誰れの心にもはっきり定められていたが、この頃は、個人
個人の生活に、全目標がおかれていて、一般大衆はその他に心を向ける余裕のない生活をしてい
た。彼らには個人生活の物質的向上がただ一つの目標であった。
95脱皮しっつ
国のためだから耐乏する、という考えは敗戦とともに消え去った感があり、一部の良識者が、国
家再建のための耐乏を叫んでも、それは左翼主義者たちの”働く者の生活を闘い取れ” のアジに一
蹴されてしまった。
何一つ国家目的がたっていない現状では、自分たちで守る以外に、国に期待することはできな
い。良識者をのぞいては、国のために一体どうして良いかもわからない。わからないづくめの世の
中にあって、ただ誰れにでもわかることは、自分の生活は自分以外にたよることはできない、とい
うことである。
自分たちの食生活を少しでも楽にさせてくれるなら、共産党でも、外人でもよい、なんでもよ
い、日々を心配させずに食わせてくれ、というのが、いつわらぬ一般大衆の心であった。
こうした空気の中にありながら、休日ごとには生長の家道場にかよい、家に帰えっては、布教の
ために諸々をかけめぐり、私の光明心はますますさかんになっていた。しかし、私のさかんな熱情
のようには、人々の心は光明化してこなかった。光明思想の説教は、病人にはかなり効果があった
が、食生活の向上や、貧乏からの脱却のみを目ざしている一般大衆にはほとんど効果がなかった。
「貧乏は無いのですよ、貧乏はあなたの心の影なのですよ、神様は人間に貧乏など与えていない96
のですから、現象の苦しみはないのだ、ないのだ、という想念をつづけていれば、必ず良くなって
くるのですよ」などと生長の家式実相円満完全論を説いても「ああ、そうですか。なるほどそのよ
うに思えれば幸せですね。だがわれわれ凡人はなかなかそう思えないんですよ。生活があんまり苦
しすぎるんですね… … 」と答える方はかなり上等な方で、ほとんどは、ただ苦笑して聞き流してい
るようであったし、かえって「あなた方のような独り者はそんな甘っちょろいことをいっていられ
るんで、こちらのように家族持ちにはそんなお説教をかみくだいているひまはありませんよ」
と食ってかかる人たちもあった。結局私の生長の家普及はあまり効果的ではなかったのである。
人間の心というものは変なもので、一つの思想のわくの中に入ってしまうと、その思想以外のこ
とはまるでわからなくなってしまって、誰れでもあたりまえに思える事柄が変に思えたり、普通人
がおかしなことを、と思う言動をあたりまえと思ったりするものである。
その最なるものが、共産主義者の言動であり、宗教狂信者の言動である。私は確かに後者の部類
に入っているようであった。
生長の家思想が唯一最高のものであり、この思想だけが、人類を救済し得る思想であると思いこ
んでいた私の心は、その思想だけでは、実際現実面を打開することの実に遅々たるものであること
97脱皮しつつ
や、説き方によっては、かえって人間の心を高慢にさせたり、あるいは痛めつけたりすることの害
を、幾多の生長の家信者の言動の中に見出しながらも、身びいきの心で、そうした欠点をみのがし
つづけていた。
どこの宗教でもそうであるが、自分の属する宗教のお陰話は誇大に報告するが、その教えの受け
とり方、行じ方による失敗や、宝呈母の面を公正に報告することはほとんどない。私もその一人であ
ったが、この宗教によって人類を救うより他に仕方がない、というほど布教に熱がこもりだしてく
ると、反動的に、布教効果のすくないことに疑念を抱きはじめた。私の説き方のどこかに欠点があ
るのだろう、とまずはじめにこう思って、もっぱら生長の家の雑誌を、縁にふれる人々につぎつぎ
配ることにした。
すると、何度かそうしているうちに配った一%が月刊誌を取るようになった。私にとっては一%
でも半% でも生長の家の雑誌を、自分から購読してくれる人のできてきたことを非常に喜んで、自
分が個々に病人をなおしに歩くこと以上に良いことをしている、という満足感を得た。
ところが、三月、半年とたつに従い、その購読者が一人二人と脱落して、新しい人と入れ更って
ゆく。少し古くなった人の中でも、ただ惰性的に取っている人と、理論が頭でわかるだけで、実際98
上には少しも行じられないという人の二種類ができてくる。生長の家一般を見回してみると、や
はりこの傾向があり、また一方では、頭脳にたたみこんだ巧緻な理論を自己の知識として人に発表
したくてたまらなくなって、非常な饒舌家になりだしてくる。他に学問のない中年老年の女性は、
急に自分が智恵者にでもなったかのように、同等の人たちをつかまえ、さも自己自身で体得したよ
うな思いあがった話しぶりで、時間かまわず心の法則や、肉体なし、病気なしの話を始める。また
先輩も有識者もものかわ、得々と生長の家的博識を披渥する謙譲の美徳を失った青年や、”みんな
私の心の影なので、みんな私が悪いのです”といかにも口では殊勝らしくいいながら、夫や嫁や、
すべて自己に相対する人間の心の間違いを、精神分析的心の法則論で、しきりに責めたてている妻
や姑がしだいに多くなってゆくのを、私は生長の家思想を讃美しながらも、いつかは心の中に認め
ないわけにはゆかなくなっていった。
一方で人間は円満完全な神の子である、罪もけがれもないのだ、と実相論を説きつつ、一方で人
間の弱点に切り込む責め道具、心の法則という精神分析を教えこむ生長の家思想が、なんとなく私
の心の中でゆらぎだそうとしていた。
精神分析などという人の古傷をわざわざえぐりだす仕事は、宗教を求めた人間のすることではな
99 脱皮しっっ
く、医学者という、科学部門の人にまかせておけばよいことで、誰れ彼かまわず修得できるよう㎜
な書物に発表したり、講演で説明したりすることは、それが、人間は完全円満な神と等しき実相を
もっている、というような素晴らしい講演や、書物とまぜ合わせて発表されるのだから余計危険性
をもつのである。なぜならばあんな立派な素晴らしい話をなさる先生のおっしゃることだから、と
尊敬の心でなんの構えもなく水を飲みこむように潜在意識にその精神分析の方法をたたみこんでゆ
くからである。例えば眼というものは女性を現わす、と教えられる。その眼が悪いということは、
何か女性に関することで間違ったことをしているのである、と説かれる。この話を聞いた女性は、
わずら
夫が眼を病うたびに、”もしやうちの夫が女関係があるのではなかろうか? ” とそんな理論を知ら
なければなんでもなくすむことを、聞いたが因果で、毎日思いなやむ。そうした例がたくさんある
のである。一度覚えこんだことで、しかもやさしく判断できるこうした精神分析、心の法則の解釈
は、その応用で一度や二度病気や運命がなおったとしても、そうした法則の原理が、自己に対して
も、他人に対しても、つねにつねに自然的監視の状態に自分の心をおいてしまう。
“あの人は左の脚にほうたいしているから、きっと夫を踏みつけにしたか、たてるべきものをた
てなかったんだろう”
“うちの嫁は痔が悪いといつも痛がっているが、この家に落ちつきたくない気持があるからだ
“
とこういう具合に、現われてくるすべての肉体の傷手を、その人の心の欠陥か、不満かに結びつ
けてしまう。馬鹿馬鹿し” というより恐ろしい地獄の心である。こう精神分析的にみえるようにな
っては、あっさりすませることもすませなくなり、赦しの心、愛の心に非常な雲がかかってしま
ヘヘヘへ
う。こんな教を宗教家がするのだから困るのである。宗教家が科学の道におもねるようになったら
もうおしまいである。科学者は現われの世界をえぐりえぐりしてその本体を知ろうとする役目をも
ち、宗教者は、真直ぐに本体を把握して逆に現われの世界に戻ってくるのである。両者の道は反対
の方向から出発してやがて一つにつながるものである。宗教者が、うっかり科学者の道に心を乗り
入れると、宗教者本来の直感的本体(神)把握がゆるむ恐れがある。
私が現在、説いている「病気として現われている姿も、貧乏として現われている姿も、みんな過
去世からの業が現われて消えてゆく姿なので、なんの心の現われかなどと、心の悪を掘じくりかえ
さず、みんな消えてゆく姿なのだ、必ず消えるのだ、消えた後には人間本来の神の光が現われて真
実良い世界があなたの環境に現われるのだから、ただ一心にすべて消えてゆく姿だと思い、守護霊、
守護神に感謝の祈りをしていなさい、きっと守護霊さんがうまくやって下さるのだ」という教えは
101脱皮しっっ
神への全託の教えであり、現在の人間の中に一点の悪をも認めぬ愛と赦しの教えなのである。
人間の性善説、実相完全論を説くなら、徹底してそれのみを説くべきであり、横の心理として心
の法則があるなどと、人の悪や欠点をあばくような教えをしては、折角人間を天国につれてゆきな
がら、その同じ宗教がしばらくすると、地獄にたたき落してしまうことになる。恐るべきは、『い
らざる饒舌』である。
こんなふうにはっきり生長の家を批判したのは、まだまだ先きのことであり、その頃は、なんと
なく、こうした批判内容を含んできた自分の心を故意に否定しつづけていたので、谷口雅春先生に
対する尊敬の念はいささかも弱まることはなく、私の話でわからず、生長の家誌でわからぬ人たち
でも、谷口先生に会わせさえすれば必ず心が開けるに違いない、と思いこみ、なかば強要的に生長
の家道場にそうした人々を連れていった。
M嬢もその一人であった。私は何故かM嬢に対しては、他の人以上に生長の家思想を知らせるこ
とに熱心だった。どうかして、なんとかしてこの女性に真理を知らせたい、本来は広島と東京で会
うすべもないはずのものが、こうして朝の出勤から夕の帰宅までほとんど一緒にくらしているよう
な環境におかれているのは、あながち偶然ではない。いや生長の家式ではすべては必然なのだから
102
きっと何か、深い因縁的つながりがあるに違いない。この女性のもっている淋しさには人生否定的
な暗い影がある。やさしい傷つきやすい彼女の心には、敗戦といい、敗戦後のさまざまな社会苦の
波といい、すべてが、自分自らの苦しみに感じられるのであろう。「神が完全なら、どうしてこん
なに人間を苦しませるのでしょう?」という彼女の私への質問は、人間社会を現在の苦悩から救い
たい心の現われであり、救うにすべなき、自己の力弱さを嘆いての言葉に他ならないのであろう。
私はこうした彼女の苦しみは、生長の家で必ず救えると思っていたし、必ず救わなければならな
い、と思いこんでいた。
私は「近きより遠きにおよぼせ」というイエスの言葉を思いだしていた。
いちようもみじ
公孫樹の葉のすっかり黄葉した頃のある日曜日、帰りには映画でも見よう、という約束で、あま
り気のりせぬ彼女をひっぱるようにして赤坂の生長の家道場へ連れていった。
私にとってかけがえのない恩師谷口先生であり、M嬢にとっては路傍の一宗教家谷口雅春である。
先生の話が始まると、私は彼女の聴講態度ばかりが気になって、彼女が真剣さをみせたり、にっ
こりしたりすると、安堵して私も真剣に先生の話に耳を傾ける、という状態で、話を聞き終った。
最後の三十分もの神想観に足のしびれをさすりながら、満員の聴講者の後から連れだって道場を出
103脱皮しつつ
た。青山一丁目地下鉄乗場のほうに向いながら、今の感想を彼女に聞いてみると、
「とても良い話だし、話術もとてもお上手です。それにとても学識のある方だってことも良くわ
かります。でも私、あなたから毎日のようにお話伺っているし、お借りした本もみんな読んでいる
ので、特別これといって感銘することもありませんでした。あなたがあんなに一生懸命きかせて下
さっているんですもの、頭ではすっかり覚えちゃってます。だけど、ああいうお話だけで実際に人
間社会を救えるものなのでしょうか? 個人個人としてはきっと救われる人があるに違いない、と
思いますけれど、一般の人がはたしてああいうお話を感心して聞いている余裕があるのでしょう
か? 」
私は彼女の話をきいているうちに、非常に腹立たしくなってきた。”生意気な” とまず思ったの
である。”谷口先生のあんないい話を、なぜもっと素直な気持で聞けないのだろう。素直に聞いて
素直に実行すれば、自分が得をするのだ、自分がまず救われるのだ、自分がやってみて、それから
ひと
少しつつでもよい、縁にふれる人々に自分の体験を語ってきかせればよい。それなのにこの女は、
はじめから教えに入ってこない。こんなこんな立派な教えにー”と私の心は腹立たしさから情け
なさに変っていった。私はなんともいいようのない嫌な気持で黙って歩いていた。104
彼女は私のそんな様子をみて、
「お気を悪くなさいましたか? 私、生長の家の教えが悪いなんて生意気なことをいうんじゃあ
ないのです。ただそれだけじゃあ高遭すぎて、なんだかとてもこんな苦しい人生が良くなってゆく
ように思えないんです。ごめんなさい。せっかく連れてきていただいて」
私はなんだか返事をする気にもならず、いぜんとむっつりしたまま歩いていた。”どうして自分
ひと
はこの女の言葉にこだわっているのだろう。他の人からはもっとひどい反掻をうけることが度々あ
るのだが、今日のように心を乱されたり、情けなくなったりはしないのに” と思ったとたん、はっ
と心が赤くなる思いがした。”私はこの人が好きなんだなあ” とふと思いあたったが、あわてて打
ち消すように、”とんでもない人類救済に捧げたこの身が、恋愛などしちゃあいられない。馬鹿
な” と胸をそらすようにして否定した。
「ちょっと神宮のほうにまいりません? 」と彼女は私が怒ってしまったのではないかと思って、
機嫌をとるような調子でこういった。
「そうですねえ、行きましょう。帰りは映画と思ったが、あなたの成績が悪いんで、映画をみる
気にもなれなくなりましたよ」私はやっと持ち前の明るさにかえって、笑顔でいった。
105脱皮しっつ
二人はいつか神宮外苑を歩いていた。
いちよう
青空に金色の波を打たせて公孫樹並木がつづいていて日曜日の散策か、家族連れが行き交い、二
人連れがそぞろ歩く。自然の美しさと人間のなごやぎ。しかし、私には晴れきらぬ屈托がある。な
ごみきれぬ哀しみがある。それは一体どこからくるのか、社会苦悩が私を追ってここまできている
のか、それもある。だが突然のように生れてきた別の感情のほうが、より多く私をなごませぬので
はなかろうか。
二人は芝生に腰をおろして黙って青空をみつめていた。”私の心は今あの青空の中にはいない
“
と私は思った。芝生の中にいくつかの鶏頭が真赤に燃えている。
106
みそじべに
三十路坂のぼる我れなれ鶏頭の紅には燃えず人恋ふるかも
ふとこんな歌が頭に浮かんだ。こんな歌ができたのが神さまに対して恥つかしい気がして、体が
堅くなり、心の底からの恥じらいで気力がいちじるしく落ちていった。
私は過去において結婚問題で失敗した経験があり、宗教活動のためにも恋愛や結婚はしないつも
りでいたので、すべての女性に対して人類愛的愛情のみで接してゆく心の訓練をしていたのであ
る。そうした私の心が、いつか知らぬうちに、みじめにほころびていることに気づいた。この時の
私は、昨日までのように張切った神の使徒ではなくなっていた。
私はしばらく心を鎮めるため、眼を閉じて神に祈った。”神様、神様、どうぞ私の心が神様の心
と一つでありますように、どうぞ私の心の乱れをとりのぞいて下さいますようにi “汚れを振り
すてるような真剣な祈りをつづける。息も言葉もとだえるかと思うほどになった時、閉じた眼のう
らに光がきらめき、やがて心の中までその光明がひろがってきた。そのうち”よいのだ、それでよ
いのだ、その人はおまえの妻だ” というきらあくような言葉が感じられた。人間の言葉のように聞
えたのではなく、感じたのである。中川河畔のあの天声と同じように、動かしがたい厳とした力を
その言葉はもっていた。それと同時に先程までの心のもやが、ぱっと晴れてしまった。私の心は急
に明るんだ。本来の明るさが急速に戻ってきた。私は眼を明けると、M嬢のほうをみた。彼女は黙
って空を眺めている。
「あなたは無口な人ですねえ」私は彼女が根気よく黙っているのになかばあきれてこういった。
「自然の風光の中でこんなふうにじっとしているのが、私一番好きなのです。詩人をとても羨や
107脱皮しっっ
ましいと思います。よい詩をみると、神の心を感じます。私なんか駄目な人間なのですねえーな018
んにもできないのですものー」と彼女は嘆声のようにいう。その彼女の言葉をきっかけに、話
は、文学だの音楽の話になっていった。
文学や音楽の話になると、彼女は見違えるように生き生きとしてくる。英文科の出だから、私の
ように謙訳物だけを読んでいるわけではないので、外国文学の話になると、どうしても私のほうが
聴き手になる。そうした話をしあっていると、私の中の神様や生長の家はしばらくひっそりとしず
まりかえっていて、私が昔もっていた拝情が、再び心の表面に顔を出してくるのであった。
私は元来がロマンチストである。美しきものに憧がれて音楽をやり文学をやった。その美を求め
る心が、いつしか、人間真理、人類の根源を求める心にかわってゆき、いつか宗教一本槍、人類救
済一筋道にと方向が定まってしまって、朝起きれば生長の家、夜となれば神想観と、信仰一本の生
活になりきっていたのである。
「私、芸術の話をしている時のあなたは本当に温かくて柔かくて、親しみ深くて、懐かしい気が
かたく
するんですが、生長の家の話をなさる時は、まるで押しつけがましくて頑なで、偏屈で、はっきり
いうと、逃げ出したいような気がしてくるんです。悪口いってごめんなさい。でも、これは本当の
私の感じなんです。あなたは生長の家というものに把われ過ぎて、ご自分の真実の良さを心の奥の
す
ほうにおしこめてしまっている、という感じがするのです。学園の人たちもみんな、五井さんは素
のままのほうが良いのに、といっているんですよ」と彼女は話し合っているうちに、急に私に対す
る感想を、はっきりとこういった。
優しそうで、柔かそうで、無口にみえる彼女の中に、実にかっちりと根底をもった人間観がある
のに私は一驚した。こんなことを私に面と向ってはっきりといい切ってくれたのは後にも先にも彼
女ひとりである。
私は先き程のきらあくような無声のひびきの内容を改めて思いなおしてみて、あの声は正しく神
ようん
示に違いない、と断定するように思った。私はこうした世論の代表が必要なのである、妻であり批
判者である人間が必要なのである、と再び強く思った。
109脱皮しつつ
110
幽界・霊界との交流
M嬢に対する神示、M嬢の私に対する忠告のあった後の私は少しつつ変りつつあった。生長の家
す
思想を丸飲みにした説教でなく、私の素の心にプラスした生長の家知識でなければいけない、と思
うようになっていたからである。そのうち生長の家地方講師を任ぜられ、生長の家本部との接触が
しだいに繁くなってくると、本部の講師も地方講師の人たちも、生長の家の縦の思想の実相完全円
満論と、横の心の法則論との間にはさまって、理論と実際とが非常なちぐはぐ状態にあることがわ
かってきた。
人間の実相は完全円満なのだから、すべての人間を拝んでその悪を認めるな、ということは、実
際問題としては実に至難なことであって、正直にそれを実行しようと思う人は、払っても払っても
眼前に悪のように現われる対人関係を、むりやりに善であり完全円満であると思おうとする。思お
うとするけれど思えない。思えないのを無理に抑えつける。そして表面には、他人の悪のみえない
実相完全円満を体得した人のようにみせかける。そうしなければ仲間に対して恥ずかしい気がする
のである。・
そうしているうちに、そのようなタイプが身についてくる。しかし真底は悪が見えない心境にな
ったわけでもなく、拝み切れる人間になったわけでもないから、時折りその本性がちらりちらり顔
をだす。そのことがまた自分自身の心を痛めつける。いわば偽善的な素裸な心になれない人間にい
つの間にかなってしまう。それは人間の実相は完全円満で悪はない、と最初にそうした素晴らしい
かつ
言葉があるから、その言葉がある時は『喝』になって、ぱっと眼が覚めたように悟れることもある
が、逆に行くと、自己の今生の力量以上に自分をみせかけた偽善者になってしまう。だから常時に
悪はないのだ、と思える人以外は、悪はあるのだが、消えてゆく姿なのだ、とそう意気ばらずに軽
かつ
くいったほうが『喝』にはならないが、求道者を苦しあたり、偽善的にならせなくて済むのだがな
ーと、私は少しつつ思うようになっていった。横の心の法則論では、過去の想念の誤ち、すなわ
ち悪を認めさせて、現象の不幸を消そうというのであるから、余程頭が良いか、悟っているかしな
いと実相論と現象論がごたごたになってくる。私はほとんどはじめから心の法則論をかえりみず、
111幽界・霊界との交流
実相論だけで進んできていたが、今でも時折り「この病気はなんの心の影」という心の法則原理
が、ちらりと頭をかすめる。普通はその原理で人の傷をえぐってゆくわけになるのである。
実相の人間、現象の人間と二つに分けてあって、実相だけがあって、現象は無いのだ、というの
であるけれど、実相の神と一体の人間というものはなかなかわかりにくいので、わかりやすくしか
も興味のある心の法則という現象のほうの教えに、知らぬ問に重点をおいてしまう。そしてあなた
の心がこんなだから、肉体の世界、運命の世界でこんな不幸が現われたのだ、という式に、つい人
を裁き自己を裁いてしまうことになる。そして、完全円満の実相人間というものが、いつの間にか
姿をかくしてしまうのである。結局、人間は善なのか、悪なのかわからなくなってしまう。
生長の家の教えというのは、一般大衆というものを、すべて菩薩位の人、心をくるりくるりと善
の方向に転回できる人ばかりであるように錯覚しているのではなかろうか、とはっきりした疑いを
もてなかったその頃の私を、今さらのように思い起している現在の私なのである。
そうした明け暮れのうちに、昭和二十三年の年に入ってゆき、一月も半ばを過ぎた頃、私は幸田
さんからY氏のところでC会という神霊現象の会が行われることを聞き、その会員となった。C会
は、心霊科学協会から分れた会で、且霊媒とS博士を中心に発足したばかりの会であった。112
私は以前から、心霊科学協会の物理現象実験会に出席していて、メガホンが飛んだり、机が動き
だしたり、時折り霊魂の声を聞かされたりしていたが、それだけの実験では何度みても、霊界幽界
があり、あの世で人間は生きつづける、という認識を得るだけで、神の実体にふれることはできな
い。もっと高度な神霊の出現するところを知りたい、と思っていた。生長の家では、予言能力、予
知能力がない。ただ、一般的教理を体験談にまぜて説き、その場、その時の質問に答えるだけで、
その時々の現象的相談に応ずる確たる指導はできない。一般論をその相談に適合させてゆくより指
導方法をもっていないのである。したがって、ながながと説教をするより仕方がなくなってくる。
後はただ問題解決のために祈ってやるだけである。だがそれだけではどこか物足りぬ、満足し得な
いものが、相談する側の心に残る。だから相談する人は、またどこかの行者や霊媒の人々に改めて
相談にゆき、良きにつけ悪しきにつけ、確たる返事を聞いてくる。生長の家だけでは、現実問題が
解決し得ないで、そうした行者層をまわっているうち、低い宗教団体に転落してゆく人がかなり多
いのである。
人間は現実面の問題となると抽象的宗教理論をいくら聞かされても、納得できないものである。
「明日の生活の金がないのです。どうしたらよいでしょう」こんな必死の相談にこられた場合、
113幽界・霊界との交流
悠長に宗教理論を聞かせているより、「どんな知人がいます。うん、そのAさんのところへゆきな114
さい。なんとかしてくれますよ」というふうに、旦ハ体的に金の出場所を教えてくれたほうが、その
人にとってはありがたい。
私はつねつねこうした具体的相談を持ちこまれては、生長の家理論だけでは自己自身も納得でき
ぬ辛さ、切なさを感じさせられていた。
その頃の私は、神想観という祈りを毎朝、毎晩、やっていたが、しだいにその祈りの時間が長く
なり、深くなってきて、つむった眼の前に種々の霊魂の去来するのがみえ出していた。合掌してい
る両手が霊動することもあり、祈りの中でインスピレーションを得たりすることもあったが、まだ
ほんのわずかな霊感であった。
人を救うために超人的力がほしい。とメーデー以来強く思っていた私の心に、”お前は力のでる
人間だ”というような思いがふいっと浮き上がってくることがあって、私の精神統一に拍車をかけ
るのである。
C会は、心霊科学協会のように、科学的に霊魂を研究する会ではなく、宗教的と政治的意義をも
った神界、霊界、人間界の協力団体で、会員は同志的結合の下に、日本再興、世界救世の大祈願を
掲げていた。
会員の中には生長の家関係の人たちが、かなり顔をみせていた。いずれも理論だけの宗教にあき
たらぬものをもって集まってきたのではなかろうか。
私はまだ生長の家には絶対忠誠であり、真をつくしていたが現実面打開に対する力弱さ、という
か、非積極的な行き方に対して、他のどこからか、それにプラスする力を得たい、と切望する気持
になっていた。
自分だけが救われて、それでよいなら、その頃の私の心境でも救われていた感じである。いわゆ
おうそう
る仏教でいう往相の悟りになっていたのではなかろうか。なぜならば、私自身としては、すべてに
対して、なんの不足も不満もなく、天地宇宙に対して、ただただ感謝感謝の日々であったからであ
る。神にまかせきった自由な心境であったのだ、自己のための自己はもうすでにない気やすさは、
げんそうまとも
そのまま還相として、人類世界の苦難、小さくは日本の苦悩を真正面に受けて立つ環境に自らをお
かずにはいられない。日本の苦しみは自分の苦しみであり、人類の悩みは、やはり自己につづいて
いるのを、はっきり感じるのである。
自己はない。ない自己のおかれた立場は、日本であり、人類世界である。
115幽界・霊界との交流
“神様、どうぞ日本のために人類のために私のいのちを有効におつかい下さい。そのための強い
16
1
力を私にお与え下さい” これがその頃の私のたえまない祈りであった。
フ チ
Y氏邸におけるC会交霊会は、二十畳敷位の日本間で行われた。交霊会の始まる前に、扶糺を受
フ チ
ける人々の申し込みがあり、申し込み順から定められた人員だけが、扶糺を受けることになった。
フ チ
扶糺とは神霊から各自にふさわしい言葉を文字に書いてもらうのである。
一本の竹の一端をH霊媒が持ち、片方を受ける人が持つと、ひとりでに竹が動きだし、竹の真中
に垂直に結びつけられてある筆によって、おかれてある紙面に文字が書かれてゆくのである。
フ チ
私のもらった扶糺には
百知不及一真実行(百知は一真実行に及ばず)
誠実真行勝万理識(誠実真行万理を識るに勝る)
と書かれてあった。この言葉は私にとって非常に有益なものであったことを今にしてはっきり思
うのである。
フ チ
扶糺が終るといよいよ交霊会が行われる。
霊現象を援けるため、最初に全員でいろは歌と竹の歌というのをうたい、つづいて和楽のレコー
ドにつれて、H霊媒が黒い布でつくられたキャビネットの中でトランス状態になると、牧師のH氏
の司会で、交霊現象が始められた。はじめは心霊科学協会の実験会のように、真暗な中で燐光を塗
ったメガホンや人形や、テーブルが飛んだり跳ねたりする物理現象が行われたが、やがて、メガホ
ンからK霊の説明がはじめられた。K霊とはH霊媒の友人で若くして亡くなっている人であるとい
う。そのK霊の説明の後で、一千五百年位以前に生存していたといわれるO仙人の道の教えがあっ
しげせん
た。0仙人は屍化仙といって、屍を残さずこの世から消え去っていったといわれる修業をつんだ行
者なのである。
このO仙人の指導に従って、会の運営が行われ、すべての行事が進められてゆくのである。
この0仙人は神界にあるS太子を中心にいただいて活動しているといわれ、天皇中心主義の、人
類救済運動であり、神界霊界には、そうした同志が多数、この肉体界運営のために働いているとい
うのであった。
仙人はメガホンからばかりでなく、空中からも話しかけてきた。太いちょっとわかりにくい古代
調の言葉である。
H霊媒のエクトプラズム(註幽質でもあり物質でもある或る要素)をつかって発声しているの
117幽界・霊界との交流
であった。181
H牧師や、S博士が種々と質問すると、それに対して即座に簡単な答をする。
その日はC会の片鱗、O仙人の使命をわずかに知っただけであったが、この会に対する疑いなど
少しも起らず、司会者や霊人のいうことをそのまま素直に信じ、この辺からまた何か一段と私の使
命が開けてゆくような気がしだしていた。
一月の夜寒の厳しさも、帰路の、私の心にかえって清々しかった。
帰宅したその夜、いつものように寝る前の神想観をはじめると、統一が非常に早く、閉じた眼の
前を例のように、霊魂が行ったり来たりする。霊魂といっても、幽霊のように見えるのではなく、
人魂のように、ふわりふわりと眼の前に浮かぶのである。それは主に青い色をしたのが多かった。
それをみつめるともなくみつめていると、今度は合掌した掌が霊動し、そのまま霊動させておく
と、しだいに大きく振動しだし、合掌のまま高く手をあげたり、横にふったり、水を切るように斜
にふったりする。私はその時ふと、この霊動を利して、種々霊界と交流してみよう、と思いたっ
た。
今から思うと、馬鹿なことをしたものだと思うが、その夜をきっかけに、あの言語に絶する苦し
い修業の道に追いやられてしまったのである。それも今日あるための修業の道であったのだろう
が、私は自分のあの頃の苦しみを思うにつけ、後進の人たちには、もっと楽な、もっとやさしく悟
れ、そして人のためにつくせる道を進ませたい、と思わずにはいられない。そしてその想いが現在
の私の教えとなり指導方針となってきているのである。
私はその頃までに種々の行者や霊媒にも会い、さまざまな霊現象をみたり、生長の家の本や、外
国の翻訳本によって、心霊に関する知識はかなりもっているつもりでいたが、実際に自分の体をつ
かって心霊の研究をするのは、はじめてである。
私の両腕は合掌したまま大きく霊動している。ちょうど大蛇か竜が顔をもちあげたり、尻尾で水
を跳ねたりする格好なのである。
現在の私が、そういう行をしている人を見た引、即座に”およしなさい。危険ですよ。あなたの
体をすっかり愚依霊の自由にされてしまいますよ” と注意して止めさせてしまうであろう。しかし
その時の私は身の危険を少しも感じず、心の中で霊界との談話をはじあたのである。
「私はこれからあなた方と話したいと思います。私がお尋ねすることにイエスなら上下に手を振
って下さい。ノーなら左右にふって下さい」
119幽界・霊界との交流
と心の中で私がいうや、ただちにその答として、合掌した両手は上下に霊動した。イエスであ20
1
る。
「では、あなたは人間ですか? 」と問う。愚霊はイエスと答える。
「人間だけですか? 」「ノー」とでる。
「狐霊ですか? 」「ノー」である。
「竜神ですか? 」「イエス」
こんな調子で、霊界との問答が、夜中の三時頃までつづけられて、結局真偽は別としてつぎのよ
うなことがわかった。
私の合掌中に眼の前を去来するいくつかの青色の人魂は高級な霊魂である。私の背後には、守護
霊としてつねに五人の霊人が守っている。そのうちの一人は竜神である。竜神とは人間と一つのも
のであって、人間の運命の流れを援けているのである、という。そして私は大神業のさきがけとし
て大いに働くことになっている、という。
なんにしても、こちらの問をイエスとノーだけで答えるのであるから、くわしい的確なことはわ
からない。それに問う私の潜在意識によって、イエス、ノーの霊動をするのかも知れない。答の真
偽はなんともいえないが、私の背後に確かに霊界の誰れかがいる、ということは、動かそうと意識
せぬのに自然に体が霊動するのだから疑うわけにはゆかない。
翌晩もそのつぎの晩も、私の交霊会はつづけられた。そのうち学園勤務中でも統一しそうになっ
たり霊動しそうになってきた。時折り出版部の後輩たちに霊動現象をみせたり、霊動予言をしてみ
はず
せたりしたが、その予言はすべて外れた。学園の人たちは”五井さんはとうとう頭が狂ってきはじ
めた”と思うようになってきた。
私は予言の外れたことをかえってよい現象と解釈した。”低級人霊や動物霊なら肉体世界の雰囲
気に近い幽界に住んでいるのだから、日常茶飯事のつまらぬことでも予言的にあてるが、あたらぬ
ところをみると、やはり高級霊なのだ、高級霊だからこそ、そんなつまらぬ予言をしようとする私
の心をたしなめるたあ、故意に外すのであろう” と思った。
そうした個人的交霊会とともに、C会の交霊会にはどこへでも出かけていった。
そのうち、ふと自動書記ができそうな気がしてきた。ひまをみては鉛筆と紙をもって、自然に手
の動くのを待っていた。腕が霊動のように動き出しはするが、なかなかまとまった文字は書けな
い。たまに書けてもそれは私の潜在意識にあることで、霊界通信ではないことがはっきりわかるの
121幽界・霊界との交流
である。
ところがある夜急に筆で書いてみたくなって机の上に半紙をおいて筆を持った。しばらく筆を持
って統一していると、やがて、私の右手が静かに動き出して、硯の上で墨をしめしはじめ、半紙の
ヘヘヘへ
上に最初に楷書の見事な筆蹟で、渡辺貞男という氏名を書いた。
私は思わず、筆を持ったまま、
「ああ渡辺が出た、貞男君が出た」と、母や弟たちに大声で叫びかけた。そばにいた母と弟が何
か気味悪そうに私の机の上をみた。隣の部屋にいた兄もそばによってきた。
家中のものすべてが見覚えのある文字であり、筆蹟なのである。
「ああ、本当に渡辺さんの字だ」
「ああ、本当だ」
兄と弟が同じように驚きの声をあげた。
それは確かに私の少年時代からの友人であり、戦争半ば頃まで親しくつき合った無二の親友の氏
名なのである。
彼は書画が非常にうまく、その筆蹟は私の家中でよく見覚えているのである。122
私はまた筆を持ちなおした。今度は行書で再び渡辺貞男と書かれ、ついで、五井利男、五井昌久
とつづけて書いた。五井利男とは私のそばにいる兄の氏名である。以前この渡辺君に兄の表札を書
いてもらったことがあったが、その表札そっくりの文字なのである。
「間違いなくこれは渡辺君の筆蹟だねえ」
と兄も感動したようにつぶやく。
「霊界通信かねえ?」弟もはじめてみる自動書記に眼をみはる。
「とすると渡辺君死んでるわけかい? 」と兄がきく、
「まあ、そういうことになるかねえ」
私はたまらなく懐かしい感情になって、自分の右肩に左手をあててみた。渡辺君がここにいる。
うしろ
私の背後にいる。そして私の体を使っている。なんともいいようのない変な気持である。右手がま
た文字を書くそ、とさいそくするように小きざみに動く。私はまた筆を持ちなおす。
今度は絵ができあがる。似顔絵である。
のぞきこんでいた兄と弟が同時に、
「五郎だ、五郎ちゃんだ」と叫んだ。
123幽界・霊界との交流
「五郎によく似ているねえ」と母も後からのぞきこむ。
『お母さん、五郎です。お達者で結構です。僕も元気で働いています』似顔絵のわきに、これも
確かに五郎らしい字でこう書く。五郎とは私のすぐ下の弟でニューギニヤで戦死したことになって
いたのである。
私はちょっとくたびれて筆をおいた。
二人の死者が生きている。しかも実に元気そうに生きている。私の背後に生きている。背後の世
界に生きている。
眼にみえぬ世界が、急にみえ出してきたように、私の前に霊界からの文字と絵が、墨色もあざや
かに浮かんでいた。
124
現実世界への離別
れいじ
その夜以来、自動書記現象がつづき、霊魂の声が人間の声そのままに聞える霊耳にもなっていっ
た。
自動書記では、いよいよ大神業遂行の時期が近づいている。この大神業は神界、霊界、肉体界の
大同団結によって遂行されるもので、霊界からは誰々誰々が参加している。肉体界の同志もちくじ
発表される。といったふうな通信が主で、歴史的に有名な故人の氏名が、ずらりと並べられた。
私は、それらの自動書記の内容はほとんど本気にしてはいなかった。なぜかというと、通信の事
柄のすべてが私の想念の中にある事柄であり、人名であったし、別にその事柄や氏名を知っても、
私がどういうふうに自分で動けるというわけでもない。そんな必要でもないことを通信してくるこ
とは、この通信が、内容自体に大きな意味があるのではなく、私の肉体と霊側との交流をしやすく
125現実世界への離別
するための練習であろう、と推察したからである。しかしこの自動書記に対して不審や不安の感じ
は少しも持たなかった。霊界通信の最初の出現者が、親友の渡辺であり、弟の五郎であったし、通
信のすべての文字が、種々と異ったようにみせかけてはあるけれど、渡辺一人の文字のように私に
見えたからである。
私は、渡辺君や五郎に、”僕の体を頼むよ”というような気持で、霊側にすべてを任せて、あち
らのよいように使わせることにした。
家にいても、学園にいてもひまさえあれば、筆をもって字を書いたり絵を画いたりしていて、つ
いには普通に自意識で文字を書くことがいちじるしく困難になり、校正をするのも、本を読むの
も、非常な意志力をもってしなければでき難くなっていった。
出版部の人たちや、M嬢などは、
「五井さん、もう危いからそんなことおやめなさい。狂人になってしまいますよ」
と真剣になって注意してくれた。とりわけM嬢の心配は深かったらしく、
コ度書いた絵や字を持って谷口先生のところへいらっしゃって、ご相談なさったらどうです
か? 」126
と愁いげな面持ちでいうのである。
M嬢にはすでに結婚を申しこんだが、親たちの反対でその問題は立ち消えになったままでいて、
ひと
お互いが以前どおりの平行線の交際をしていた。しかし、私としては、どうしてもこの女性をもら
わなければいけない、と心深く思いながら、時期を待っていたのであるが、こうした霊的現象が起
っては、そうしたことは後廻わしにして、霊界側の出方に全力を傾注していなければならなかっ
た。
M嬢としては、私が普通人として文化方面の生活をすることを望んでいたので、霊魂とか霊界と
かいう、彼女にとって全然無知な方面に突き進んでゆく私の姿が、たまらなく不安であり、悲しい
ものであったようで、私が霊界交流のことを事細かく話すのを、つねに沈んだ様子で聞いていたも
のである。
止めて止まる人ではない、ということは、私との交際が深くなるにつれて熟知してきていたの
で、私のやっていることを殊更に止めだてはしなかったが、親たちの反対理由が、あまりに常識は
ずれの言動の人であり、将来性が未知数というより、貧困におちいる危険性を多分に含んでいる、
というところにあったので、その反対理由を幾分でも封じるためにも、常識の線にそった言動に戻
127現実世界への離別
したいと、[口頃から思いつめていたのであった。ところが、いよいよ狂態に近い常識はずれの行動
218
を毎日眼のあたりにみては、たまりかねて注意の言葉を発したのである。
私はM嬢たちの注意の言葉を”大丈夫、大丈夫”と軽く受け流しながらもう勤めのできる体でな
くなったことを、はっきり感じていた。
その頃は毎晩のようにY氏のところへゆき、C会の会場に自宅を提供しつつ、岡田茂吉氏から分
れて独立しようと考えていたY氏に霊能による助言をしたりしていて、Y氏も、
「もう勤めをやめて、本格的に霊能の修業をしなさい。よかったら私の家へ住み込んでやりなさ
い」
といってくれていた。C会のO仙人も自動書記を大いにやれ、と空中談話で私に霊能家になるこ
とをすすめていた。
私はいよいよ本格的に霊能者としての修業をしなければならぬ破目に追いこまれていった。
その頃から霊的な不思議が続出しはじめた。
二、三例をあげると、ある夜、生長の家信徒会がK町で開かれた。ある講師に誘われ、オブザ!
バーの形で私も出席した。
その夜は共産党の人たちと生長の家との討論会のように主催者側が意図していて、担当講師の他
に私のような霊能的講師を助勢に頼んだものであった。
共産党側の唯物論的現実論と、生長の家式抽象論の激論が交わされたが、まるっきりの反対論な
ので両方が納得するわけがない。そのうち、共産党側から、
「神とか霊魂とかいったって、そんなものはみえもしなけりゃあ、掴めもしない。その神様の奇
蹟というものを議論じゃあなくて、実際にここにみせてもらいたいものですねえ」
という難問をふっかけてきた。
担当講師や信徒側の人たちは一瞬黙って、私の顔をみつめる。私になんとかこの場を切りぬける
奇蹟を現わしてもらいたいのである。
私はこれは困ったことだと思った。神を試みる輩のために奇蹟をみせるなどということは邪法で
ある。宗教者としてそんな軽卒なことはやりたくない、と思ったのである。ところが私の右手が、
他の人に見えないように私の膝を軽く叩くようにして自動書記をはじめた。
「会場の真中に出てやんなさい。私たちが彼等の度胆をぬいてやります」
というのである。霊側でそういうのならひとつやってみよう。私は共産党側に向って、
129現実世界への離別
「じゃあ、やってみましょう」301
と平然とした態度で会場の真中に出て座布団を敷いて端座した。
共産党側は勿論、生長の家信者側も、私が一体どんな奇蹟を行おうとするのであろうか? と眼
をみひらいている。
会場は日本間で、正面に向って坐っていた人たちは左右に開いて私を迎える。私は端坐のままし
ばらく瞑目した。真中に出てきたものの、これから一体何をやるのか私自身皆目わからないのであ
る。すべてはあちらまかせなのだから瞑目でもして霊側の指図を待つより仕方がない。一二分瞑目
していると、
「ではやるから眼を開いて手を膝においたままで、にこにこ笑っていてくれ」
という声が頭の中で聞えた。とその瞬間、私の体が座布団をつけたまま軽く二三尺跳び上がり、
あちらへびょこりぴょこり、こちらへびょこり、と跳びまわる。
驚いた聴衆はほとんど浮き腰になって私のほうをみつめる。
端坐したまま跳び上がるさえ奇妙なのに、座布団が脚にすいついたまま二一二尺も跳び廻わるので
あるから、共産党側もすっかり驚いて、その夜の対決はそのままうやむやになってしまった。
私はこんな奇妙なことが宗教の本質と思われてはかなわないので、
「今、私がやったようなことは、宗教とは全く関係のないことで、ただ眼に見えない世界にも力
があるのだ、ということを、私に働きかけている霊魂にやってみせてもらっただけなので、これが
直接神様の働きというわけではないことを、はっきり申し上げておきます。こんなことは低級な霊
魂にでもできることだし、かえって低級な霊魂のほうが、こんな奇蹟じみたことをして人を驚かせ
たりするものなのですから、くれぐれも勘違いしないようにして下さい。私はこんな奇妙なことを
皆様にお目にかけて恥かしいと思っているのですから、こんなことにはあまり関心を持たずに、内
部神性を一日も早く開発なさるような信仰生活に全力をあげて下さるようお願いします」
と弁明しておいたが、これが後に生長の家本部の私への非難材料につかわれるとは、その時の私
は少しも思わなかった。
またある時、友人と連れだって知人を訪問したが、その知人が留守なのか、くぐり戸に鍵がかか
っていた。どうしても友人はその日のうちにその知人にあいたいというので、しばらく待つことに
した。あまり玄関前にいてもおかしいので、二人は横の塀の前あたりにたたつんで何かと話してい
た。その時また私の自動書記が、
131現実世界への離別
「こんなところで退屈だから、ちょっとこの人を驚かしてやろう。霊界の人間にはこんなことも321
できるのだ、というあなたの経験にもなるからー。じっとよく耳をすましていてごらんなさい。
くぐり戸の開く音がするから」
と連絡があったかと思うと、”がらがら” という明らかにくぐり戸の開く音が聞えた。
「ああ、H さんが帰ってきた」
友人は急いで玄関のほうに歩いていったが、
「おかしいな、今確かに戸が開いたんだが、ねえ、五井さん」
「そうね、確かに僕も聞きましたよ」
私はおかしさをこらえて、真面目な顔をして答えた。そんな音を三回ほど聞かされて、友人は少
し気味悪くなり、また改あて訪ねよう、といい出した時、今度は本当にその家の主人が帰ってき
た。霊界の擬音というべきか。
もう一例は、所用で銀座へ出た時のことで、散歩がてら、G H Q のある建物のそばにきていた。
その建物の入口にはG I と日本人の守衛が三人ほどたっている。そこまでくると、私の頭の中では
っきりした人声のような霊言が、
「この中へ入ってみよう。あなたの姿はけっしてこの人たちに認められはしないから」
というのである。その頃の私はすべて霊側のいうとおり行なってみようと決意していたので、な
んの遅疑もなく守衛たちの前を臆面なしに通って門内に入っていった。守衛たちは確かに私のほ
うをみていたはずだったが、なんらとがめだてもしないで私をとおしたのである。
私は門内を少しく廻わり歩いてまた同じところへ出てきた。
「今度はあなたの姿を認めるよ」
と霊の声、そのいうとおり、出口で、
「あれあれ、あなたどこから入ったんです? 」
びっくりしたように守衛の一人がいう。私は思わず吹き出しそうになるのをこらえて、
「あなたたちの眼の前をとおっていったんですよ」
「ええ、なんですって、ねえ君、確かにさっきから誰れもとおらなかったなあ」
守衛はもう一人の守衛にあわてたようないい方で尋ねると、相手の守衛もけげんそうに首をひね
りながら、自分も見かけなかったという。
とどのつまりは、知らぬ人間に黙って中へ入られたということが、自分たちの首に関係するの
133現実世界への離別
で、私のことはまるで調べもせずに、中へ入らなかったことにしてくれと、懇願するような調子で34
1
いうのを、私は軽く承知してその場を離れた。
こんなつまらぬいたずらじみたことをなぜするのかと、歩きながら私が尋ねると、霊側は、
「あなたの経験のためにですよ。いざという場合にはいくらでも奇蹟とみえることが実現すると
いう実証のためにね」
と答えた。
こんな日々を送っているうちにしだいに自己の自由意志をうばわれてゆき、ふと、”もし自分に
働きかけている霊魂が、神の使命を帯びた者たちでなかったら一体どうしよう”
と懐然とした。また、”親友や弟が巧みなにせものだったらどうしよう”という不安が起って
くる。自己の自由意志をうばわれては、今後どんな事態が起ろうと、自己意識ではどうにもならな
くなる。不安が不安を呼んだ最後に、自己の心を深く観察してみると、すでに過去において神に捧
げつくした生命であることと、私の心の全般をしめていたのは、入類の平和のために働きたい、と
いう深い念願であったことが想い起されてくる。”こんな純粋な想いで生きてきた私を神様が邪道
におとすことは絶対にあるまい” ついには捨身の覚悟でその不安をふりきってしまう。一度ふりき
ってしまうと、生来が楽天家の私だから、すぐに明るい心に戻ってしまう。しかし二月も終りに近
くなった頃、どうにも事務がとれなくなり、学園を退めて、Y氏の家でその道専門に進むことを決
意した。
学園の退職願いは自動書記で書いたものであり、出版部の若い人たちへのお別れに書いた中にも
一枚非常にふるった絵があった。
それはOという青年にやったもので、おさげ髪の少女が少し横向きになっている絵で、
「お別れのしるしに君の愛している彼女のプロフィルを贈ろう」
といって0青年に渡したのである。後で知ったことだが、その絵の少女は、真実0青年が恋愛し
ていた少女の面輪そっくりだったということである。神の使徒たちの邪気のないいたずらであっ
た。
135現実世界への離別
136
苦難の霊的修業
私はY氏と新しい宗教を始める前に、一度谷口先生にお会いしておこうと思った。私は生長の家
講師だったし、生長の家に異心をもっていたわけではない。ただ生長の家に霊能という面をプラス
したら、実に完壁な宗教教団になるに違いないと思って、その方面の研究に真剣になっていたので
もし私の霊能が完全になったら、私たちがつくる宗教団体は勿論、他のあらゆる宗教団体に働きか
けて、生長の家一本にまとめるために全力をあげようと思いこんでいた。だから、その相談のため
にも、一度谷口先生とゆっくり話し合わなければならない、と思いたったのである。そう思いたっ
きよだく
ても霊側の許諾がなければ私の体は動けない状態にあった。しかし幸いというか、霊側ではそれを
許諾し、訪問の日時を定めてくれた。谷口先生は多忙のため、自宅では本部の重要な講師以外には
なかなか人に会われないし、道場でお会いしたのでは細かい話はできない。どうしても自宅へお
伺いしてお会いするより仕方がない。その一番都合のよい日は肉体の頭ではわからない。そこで私
はすべて霊側の指図どおりに動くことにした。
霊側の定めた日時に訪問すると、ちょうどその日は白鳩会(婦人部) 幹部の集合日で、話も終り
かかっていた時刻であった。
案内をこうと、女中さんはなんの疑いもなく私を座敷にとおしてくれた。お待ちしていると、奥
の部屋から懐しい恩師が不思議そうな顔をして出てこられた。
「女中がよく君をとおしたねえ」
と第一声。
「誰れにも会わないことになっているのだから… … 、一体なんの用」
と立ったままでいわれる。私は懸命に私の心境をのべたり、持ってきていた自動書記の書類をみ
せたりして、
「私、霊能が完全になるまで講師を辞退させていただかなくてはいけないでしょうか? 」
と尋ねた。
「そりゃ君、両方やってもいいじゃあないか、講師はそのままつづけなさい」
137苦難の霊的修業
といわれると、私の帰えりをうながすようにされる。私も永くお邪魔しては、と思い、そそくさ
とおいとました。
帰路の電車の中で、立ったまま瞑想していると、心臓のあたりから、太い重々しい、悟り済まし
た高僧を思わせる念仏の唱名が聞えてきた。
ヘへ
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏1 、渋いさびのあるその声は、確かに現界にある
時には、何々上人として崇められていた高僧のように思われる。
そうした唱名を自己の胸の中で聞きながらついに家まで着いてしまった。その唱名は私だけには
っきり聞え、他の何人にも聞えぬものなのであった。
私の家人は弟を除いては、霊魂の存在について半信半疑であったし、私の態度がしだいに常軌を
逸してきだしたので、困惑の表情をみせはじめていた。嘘か真かは別として、眼に見えぬ世界の指
けつ
図ですべての行動をしている私の姿は物の怪に懸かれた人そのままであったし、折角勤めている良
い職業を惜し気もなく退めてきたりして、一体これはどうしたというのであろう? この世の生活
だけに真面目一点ばりの母や兄夫婦にとって、私の行動は突飛で危っかしく見えて仕方がなかった
ようだった。138
私は学園を退めて数日間は、自宅からY氏の家に通って治療を手伝ったり統一行をしたりしてい
たが、帰路は必ずM嬢を尋ねて学園へ行ったり、杉並の自宅へ行ったりした。(M嬢は前年の冬に
杉並方面に移転していた)
私の背後霊が改めて神示として、M嬢との結婚を遂行せよ、と命令してきていたので、なんとか
して自分の使命や、今の状態をM嬢に知ってもらおうとしていたのである。つねに自動書記をやっ
ヘへ
ている私の右手は、もう一種のくせのように、話しながらでも歩きながらでも、膝のあたりをしき
りに叩くようにして何か書いていた。
M嬢は、たえまなく動く私の指先きや、時折り空中からくる声に耳を傾けるような格好をしたり
ひと
する姿をみながら、泣いてばかりいた。私はその様子をみながら、”この女性も浄まっているのだ、
浄まってゆくのだ”という自動書記の言葉にひとりうなついていた。
私の語る言葉はすべてあの世的なものであり、出てくる人物もすべてあの世の人たちである。あ
の世に関心をもたず、この世だけに、真善美を求あている彼女の心には、私の言動のほとんどが狂
れんみん
者の言動としか思えない。彼女はしだいに狂ってゆく愛人の姿に、たまらない憐患を感じ、深い悲
しみを感じていたに違いなかった。
139苦難の霊的修業
やがて私はY氏の家に同居することになったが、その前夜、弟の五郎が出現するからという背後4ー
0
ヘヘヘへ
霊の言葉に、苦笑する母を誘ってC会の交霊会に出席した。O霊の天変地変の予言的おさとしが主
で、五郎は交霊会の声にも姿にも現われなかった。母は予期した事実のようにあまり落胆もしなか
ったが、私の運命をしきりに気づかっていた。しかし、Y氏に、
「あなたは良いお子さんを持たれて幸せですよ。あなたのお子さんは選ばれた一人なんですよ」
と元気づけられていた。”なぜ五郎が出現しなかったのか”と胸の中で尋ねると、頭の中に、た
おもい
だにこにこ笑っている霊魂の念が浮かんでくるだけであった。
その翌日からY氏宅の生活がはじまった。信者の一人一人を私が先きに浄め、仕上げをY氏がや
るのである。私は浄めの前に必ず、大声で”オーム”と長くひっぱってむすぶ降神というか、ある
いは完全を現わす気合か、自然にそんな唱え方をした。私の声は声楽家の声なので、音量もひびき
へ
も普通の人と違って、いわゆる、いい声であった。そのオームだけで病人が治ってしまうことが度
々あった。それに霊能的な予知力、予言力が出てきていたので、信者は私に種々尋ねることが多く
なった。はじめは私を歓待したY氏もしだいに私を警戒しはじめた。
Y氏は人格温厚で円満型の人であり、相当度胸もある人であったが、長年かかってきずきあげた
自己の地盤を人に取られてはたまらない、と思ったに違いない。それに私の言葉の中に生長の家式
な説教がたくさんあったのを、
「五井さん、なるべく生長の家はやあて下さい。あれはあまり感心しませんから」
といっていた。それに対して私の背後の声は、”ちょっとの辛棒だ、じきに別れるのだ”と問題
にしていない。私はY氏が私を警戒するのをもっともだと思っていた。
Y氏宅にいる間も種々と奇妙な現象が起っていた。
掌をかざすと、床の間の掛図が大きくゆれ動いたり、病人が治ると、それを祝福するように香料
の良い匂いがしてきたり、観音像の顔が急に仙人や、坊さんの姿になったり、色彩がついてみえて
きたりした。それは私だけに見えるのではなく、周囲の人たちにもみえたのである。
またある日は、信者の一人が急に狂人になってしまって、五井先生に会いたい会いたいといって
いるから来てもらいたい、というので、Y氏に連れられて、埼玉の田舎のほうに夜の十時頃につい
たんぼ
た。一度も行ったことのない夜の田圃道なのに、Y氏の先頭になって、曲りくねる道をひとりでに
目的の家についていた。
こんなふうに種々と経験していたが、ある日、床の間に六体ほどおかれてあった仏像の中から青141苦
難
の
霊
的
修
業
銅の観音像を、
よあけ
「これは狼明観音といって、私の守護神であるから、この像を私に下さい」
とY氏にむかって突然いい出した。Y氏はつられるように、
「よいでしょう、持っていって下さい」
という。
私は早速その観音像をいただいて、
「ちょっと家にいってきます、移動証明をとってきますから」
といってY氏宅を出ていったが、そのまま再びその家に帰ってはゆかなかった。
自宅へ帰った夜、もらってきた観音像を床の間においた。その六畳の座敷には床の間は東向き
に、仏壇が南向きにおかれていて、就寝前には母は仏壇にむかって念仏を唱え、私は黙って瞑想す
るならわしになっていた。その夜も私は瞑想に入り、母は仏壇に線香を焚いて念仏をはじめた。し
ばらくすると母が急に念仏をやめて、
「不思議だよ昌久、お線香の煙が光ってまっすぐ観音様につながってしまったよ」
と驚いたようにいう。私も眼をあけて観音像のほうをみると、なるほど母のいうとおり、高い仏142
壇の位置から線香の青い煙が、光り輝いて低い床の間におかれた観音像に一尺位の幅をもった直線
になって、つながっているのである。確かに不思議なことである。
しかし私はもう不思議にはなれているので驚きもせず、ああして人の所有物を突然もらってしま
よあけ
ったのだから、何か私にゆかりある仏像に違いない。猿明観音といって私の守護神ということだっ
たが、と心の中でそのわけを聞いてみると、
よあけ
「この観音像は腋明観音というあなたの役目を象徴してつくられた像で、あなたの祖先ゆかりの
けもの
ものであるから、Y氏からもらってきたのである。夜に狡へんがつくのは、現在はけだもののよう
な暗黒の世界だという意味で、そうした夜を一日も早く明るくしようという夜明の役目をする観世
音菩薩の働きが、今にあなたにも現われるのだ。線香が光り輝いて観音像につながったのは、祖先
の喜びの心が線香の煙にのって現われたのだ」
という説明があった。
霊現象について経験のないものには、実に変な話に聞えるが、こういうような事実はかなりある
のである。
その夜はそのまま寝てしまったが、その翌日からが、私にとって生と死と、真と狂との実に苦し
143苦難の霊的修業
い試練の何ヶ月かに入ってゆくのである。
私の体はすでに私のものではなくなっているが、私の体をつかっている霊団の正体はいまだには
っきりつかめていない。中川河畔や神宮外苑での天声は、声なき声であって、私の心が、魂が、そ
おのず
のひびきの内容を直感的に自から悟る、といった確として疑いようのない真実の言葉であったが、
こわね
この頃の霊耳は、人声と同じような声音、調子で聞えてくる。側で人が話しているのを眼を閉じて
聞いているようなもので、時には頭の中にひびき、時には胸の中で聞える。神を感じるより生きた
人間を感じ、霊魂を感じる。その言葉の真偽を一応たしかめたくなる性質をもっている。神に生命
を捧げた私ではあるが、人間感情をもっているような霊魂や霊団に、私の体を任せきってよいもの
であろうか、時折りこんな疑問が湧き上がってくる。すると、霊団側からすぐ、
いろいろ
「すでにあなたの体は我々にゆだねられている。あなたはこれから種々の試練を経て神人になっ
てゆくのである。疑いをはさむならもとの体にかえしてもよい。しかしあなたは大神業の列を離れ
て平凡なる一市民となるぞ」
といったようなことをいってくる。日本のため人類のための働きだけを念願にして生きてきた私
が、そして凡なる人間智ではどうにもならないと思いこんでいる私が、今さら超現実力から見放さ144
れてはたまらない。現在自分を使っている霊魂や霊団が神の使徒でないならそれでもよい。自分は
あくまで人類平和の念願だけを根本にして生きぬいてゆこう。もし相手が悪霊なら私は彼等の念力
と闘いぬいてゆくまでである。と最後の覚悟をきめて、霊側の今後の出方を心を鎮めて見守ってい
た。
自宅を根城に、背後霊の指示に従って、私の修業が本格的にはじめられた。第一の指示は、私の
頭脳を去来する日々の想念のすべてを停止せよ、ということなのである。
すべての想念を止める。とんでもない難題である。一つの仕事に専念している時なら、他の想念
おもい
くロつは浮かばないが、一日中、想念を浮かばせないでいられるわけはない。古来の名僧でさえこの空の
心境になり得ないで苦しんでいたのである。それも坐禅時だけでないのだからなおさらむずかし
い。そのむずかしいというより絶対至難と思われることを背後霊は強いてくる。その指示は親友や
弟の心から出ているのでは勿論ない。誰れか背後霊団の中心者の命令であるようだ。その指示の口
調には甘さや妥協は少しも感じられぬ、あの神示に近い厳然さがあった。どうやるかは知らぬがや
るより仕方がない絶体絶命の私の立場である。私は旧約聖書のエレミヤ哀歌を思い出した。私はエ
レミヤになるのかと思った。エホバ神の命令のままに一生を苦悩と悲しみの中に終ったエレミヤ、
145苦難の霊的修業
私はその第一歩を踏み出そうとしているのか? 蝿
背後霊は、
「今から始める、まず家を出かけよう」
いつちようら
という。私は古びた一帳羅の背広を着て家を出た。どこへ行くのか、何をするのか皆目わからな
い。わからないことを聞くことは勿論、聞こうと思うことがもうすでにいけない。ふと思うと、す
ぐ後にひきかえせという。そのとおりにひきかえすと、また前へ進めという。前へ進めばすぐ突き
当りになって右か左かに曲らなければならない。”右か左かどちらに曲るだろう” と思うのが当り
まえだが思うとまた再びもとへひきかえせという。今度無事に右に曲がって道を左に折れる。”駅
かなあ” もういけない。また後戻り、何度もやり直してやっと駅につく。駅への距離は約十丁、た
どりつくのになんと二時間余、この二時間余さえ後でわかったことで、その時は、一切の想念を停
止してしまおうと、眼を中空にむけたまま、湧きあがる想念をもてあましながら歩いていたのであ
る。
風も和らぐ四月の季節、道行く人の心は、何はなくとも花見の気分に明るく軽い。その明るい人
くヒつ
の流れの中を、私は必死の面持ちで歩く。”空、空、空、空” 私の足下に大地はなく、私の周囲に
街はない。あるものは想念停止の目的だけ、行っては帰り、帰っては行く。哀しみもなく憂いもな
い。ないのではない、哀しむ隙も憂うる隙も今はない。”空、空、空、空、空”ととらえる一瞬も
ない。
駅へついたが、さて切符を買うのか買わぬのか、こう思うのも、もういけない。二度び三度び四
度び五度び、何度びか失敗したあげく、咄瑳に”金町”という言葉が口をついて出た。これは私自
身の言葉ではない。背後霊の誰れかが私の発声器管をつかっていったのである。私は一体どこにい
から
る。その瞬間私の自我は完全にどこにもいない。私の体は完全に空っぽで、背後霊団の思いのまま
である。
金町行きの電車に乗るとそのまま金町を乗り越して松戸終点、電車が止まって乗客全部が降りて
も私はそのまま車中の人。電車は新しい乗客を乗せて上野行きにかわって発車する。亀有が過ぎ千
住が過ぎても私は腰掛けたままなんにも見ない眼を開いて、ともすれば浮かび上る想念と闘ってい
た。
松戸ー上野間往復数回、霊側は執拗に私の想念を監視する。何も想えない辛さ苦しさは語るに
すべ
術もない。夕方ようやく電車から解放してもらい、疲れた腰をさすりながら帰宅したが、自分の言
147苦難の霊的修業
葉で語ることはできない。なぜならば、自己の想念を出さずにどうして語ることができようか。そ418
の日は昼と夕の食事はせず、夜は長い瞑想をして僅かねむった。
その翌日もそのつぎの口も、毎日想念停止の練習がつづき、絶食の日がつづいた。
背後霊の指導のまま東京中、東西南北を飛びまわり、横浜までも何度びか行った。行った先々の
おもい
家々を、人に知られぬように浄めて歩いた。道を歩いていると、左右の家々から種々な想の波が私
を呼びとめ、私は右に左によろめきながら歩いてゆくような格好になったりした。また面白いこと
には、国電の一区問の切符で、京成も東武も、玉電も地下鉄も乗り歩いていたのであった。なんに
しても想念のなくなった私の体は、この世のものではなかったわけである。
またある日、K町のある家で、そこの家人の開運の祈りを頼まれて祈っているうち、その家の職
やこ
業上の因縁関係による感情霊魂(普通野狐霊という) の大群が私に襲いかかってきた。瞬間はちょ
っと驚いたが、幸いに想念停止の練習をしている私は、すぐ自己の想念を停止する統一にすぐ戻っ
て、神のみに想いを集中していった。霊魂群は後から後から私を攻めてくる。うっかりすると、体
が前後左右に揺れ動きそうになってくる。しかし、想いをゆらさずじっと神を想いつづけていると、
めまい
激しい眩量を感じてきた。つむった両眼の奥から脳髄全体がぐたぐたに崩れそうな感じがしてく
る。
“これは倒れるかなあ
” とふと思ったが、すぐ”自己の想念を出すな”という背後霊団の言葉が
“ちらり
” と頭をかすめる。心気をしずめてまた神を想いつづける。苦闘約一時間、私の心気が澄
み切った、と思われた時、感情霊魂の大群は私の周囲からすべて消滅していった。すっかり浄まっ
ていったのである。
想念停止の功徳が如実に示された一例であるが、この時の感じは、まさに真剣勝負といった感じ
で、あの時恐怖の念を私が抱きはじめたなら、私はそこに倒れたか、あるいは本ものの狂人になっ
ていたかのいずれかであったろう。眼に見えぬ世界の生物を相手にしての、最大の力は、神を想い
つづける信念と、恐怖を離れる修業にあることを、この時はっきり体得させられたのである。
ある時などは、風雨の中を眼を宙にしてゆっくり歩いてゆく。大粒の雨は頭髪にしたたり、服を
びしょぬれにする。胸にも背にもしだいに雨水はしみこみ、すでに幾ヶ所か口のあいている革靴は
水をすい切って重たい。しかし私は急げない。急いで歩こうとも思わない。私の頭には雨もない風
もない。もうすでに体そのものも感じない。私の意識で私が歩いているのではない。しかし夢遊病
くロつ
者のそれではない。自己喪失のそれでもない。空の一点に魂意識が不動の姿勢で存在する。”空、
149苦難の霊的修業
くロつ
空、空、空”確かに空の彼方に自己の本体が厳然として存在する。存在することがはっきりと確認501
できながら、そこに達するに未だしの自分、私の意識はもはや肉体の中にはない。だがまだ本体に
とどかない。あらゆる想念を消しながら、肉体と本体の中間に存在する自己意識、その自己意識と
同等の位置に背後霊団の、肉体に働きかけている幾人かの霊魂意識が感じられる。
ここ
私はすでに風雨を超えている。風雨を超えた霊魂の世界を、肉体は風雨に打たせながらひたむき
に上昇している。
私の想念停止の練習は、現象我と実相我との一体化のために、私の守護神が、背後霊団に命じて
やらせていたものであったことはあとになって知らされた。
こころ
こうした修業と平行して、霊側と私との宗教問答や幾多の試みが行われた。試みについて幾つか
例をあげてみる。
一例は恐怖との闘いである。
ある夜、例のように街中を浄め歩いていたが、突然頭の中で、
「おまえはこの三十分の間に昇天する。おまえの今までの修業成績ではこのままこの地上世界で
菩薩行をすることはできない。さあ昇天の覚悟、昇天だ、昇天だー」
と暗示のように同じ言葉を何回も繰り返えし繰り返えしいう。と同時に恐怖の感情を私の心の中
に流しこんできた。それは前に出会った感情霊団の襲来などとはくらぶべくもない恐怖の感情であ
った。私は一時その恐怖感に追いつめられ、街中に立ちすくんでしまった。冷汗が体中ににじみで
てきた。
「昇天だ、昇天だ、もう時間がない、もうじき昇天だ」
霊言はますます私を圧迫してくる。私は絶望感の一歩手前まで追いつめられて、つと神に心をむ
けた。”神様! 神様! 神様!”必死の絶叫である。幸い統一しなれている私の意識は、たちま
ち神に統一してゆく。すると恐怖感の幕の一部が薄れてきた。その時誰れかが、頭の中で”無声の
気合” とかすかにいう。私は、はっと気づいて、”オーム” と渾心の無声の気合を掛けた。すると
俄然、恐怖感が、ぱっと消えて、光明が私の心にひろがっていった。
こころ
私はこの試みをしばらくの間は、悪魔の試みだと思っていたが、やはり背後霊団のテストである
ことが後にわかった。無声の気合を教えたのは、あまりに苦しそうな私の姿に、たまりかねた霊界
とつさ
の弟の、咄嵯の助言だったようだ。
ある日はこんなこともあった。
151苦難の霊的修業
霊言が私に、
「あなたも金がなくて困るだろうから、金を与える。これから浜松町駅で降りてその降りた右側
に四十位の女性が宝くじを売っているから、その人から× × × ×番のくじを買いなさい」
という。嘘か真実かわからないが、私には日々の電車賃がやっとであり、家に入れる金は一銭も
ない。それでいて諸所を浄めて歩き、生長の家道場へもいっている。私は母に苦労をかけまいと思
って、絶食を決意した。食事をしなければそれだけ私のかかりがかからない。そのうちには神様が
なんとかしてくれるにきまっている、と思っていた矢先きにこの霊言である。しかし私は想念停止
の修業をかなりやっていた頃なので、うっかりそうした言葉にひっかかりはしない。私は例になっ
ている”空、空” という言葉を心に唱えながら、浜松町駅に向った。何もかも霊言のいうとおりで
こころ
あった。しかし、ここで、”これは宝くじが当る” とでも思うとこの試みは不合格点になってしま
うのだが、私はやはり何も思わない。百知は一真実行に及ばず、この言葉が私の心に生きていて、
おも
すべては行ずるだけでよいと念いこんでいた。当る、当らぬはその時になればわかるのだ。私は霊
言のとおりの女性から霊言に教えられた番号の宝くじを買った。(これはやはり試みでくじは当ら
なかった)背後霊が私の心の動きをじっと監視しているのが感じられる。私は静かな心で次の霊言152
を待った。霊言はなく私の足は自然に田町の方に向っていった。足の向くままに体を運ばせてゆく
と、いつの間にか、私は三の橋にあるC大学のそばに出ていた。この大学には最近M嬢が転職して
きていた。私は自己の想念でものを考えぬことに馴れていたので、大学の門の前に立つと、じっと
背後霊の指図を待った。背後霊はなんの指図もせずに受付に足を運ばせる。その時ちょうど呼び出
されたようにM嬢が出てきた。M嬢は突然の私の来訪に驚いたように、
「どうなさったの突然」
「ちょっとそこまできたのでね」
「じゃあちょっとお待ちになって、ちょうど土曜日で今帰ろうと思っていたところなのです。仕
度してきますから」
と彼女は中へ入っていったが、五分ばかりして急いだようにして出てきた。
二人は連れ立って外へ出た。たそがれにまだ大分間のある六月の街中は、輝くように明るい。よ
れよれの夏服にぱっくり口の開いた靴をひきずりながら歩いている私の姿は、その明るさの中には
っきり画き出されていた。
「しばらくお会いしない間に随分おやせになりましたねえ、まるで病人のように、本当にどうし
153苦難の霊的修業
てそんなにおやせになったのでしょう」54
1
「ええ、修業してるんでねえ、それに絶食してるんです」
「お体を大事になさらなければー」
M嬢はそういいながら、みじめに痩せほうけうらぶれ果てた私の姿を、みつめていられぬように
眼をそらす。私とM嬢は文通だけでこの二ヶ月位会っていなかったので、急激な私の変りように驚
いたのは無理もない。近所の人や友人たちが、私の歩いている姿を見かけては、
「五井さんの昌久さんは、気が変になってしまったらしい、あんな良い人がかわいそうに」と、
わざわざ私の母に見舞やら注意やらをいいにきたりして、母もしだいに不安がつのり、幾度びか私
に注意したり、くどいたりしたが、物も食べず、めったに口もきかず、口をきけば必ず突飛なこと
しかしゃべらぬが、それといって別に人に迷惑もかけず、普通いう狂人じみたこともしないし、か
なか
えって病人などをなおしたりしている息子なのだから、どうにも見当がつかない。もう半ばなき者
とあきらめて、私のするにまかせていたのであるが、その心配はなみなみでなかったろう。
M嬢もそうした母と似かよう感情の波に心が苦しく悲しかったに違いない。
二人はどちらがいうともなく明治神宮へ行ってみようということになり、代々木駅まで電車に乗
った。
神宮の境内に入ってゆくと、私は突然、
「ああ、明治陛下だ、明治陛下だ、あの青空の中に明治陛下がいらっしゃる、M さん頭を下げ
て、頭を下げて」
と自分も急いで最敬礼の姿勢をした。M嬢も私の気勢におされて、おもわず深く頭を下げた。道
行く人が不思議そうにこの様子を眺あて行き過ぎる。何もみえない空中に幻想を画く私の姿にM
嬢は蓋恥と悲しみの入りまじった感情で、顔中真赤にほてらしながら”とうとう狂ってしまった。
本当の狂人になってしまった”とこみあげてくる涙をこらえかねていたのであった。
「さあ、行きましょう」
私はM嬢の様子にほとんど気づかず、くせのように眼を宙にして、歩き出した。M嬢は悲しみ
で、もう語る言葉もなくなったらしく、すすり泣きしつつ私の後をとぼとぼついてきた。神宮参拝
が終わる頃、彼女はやっと泣きやんで、我れと我が気をひきたてるように、
「私、この頃フランス語習っているのよ」
と話しかけてきた。
155苦難の霊的修業
「フランス語、ああフランス語ね」56
1
そういうと、私の口から急にペラペラと外国語めいた言葉が、際限なく流れ出てきた。彼女はび
っくりしたように私の口元をみつめる。
「どう、このフランス語」
「あら、そんなフランス語、私まだ習ったことありません」
そういうなり彼女はまた泣きつづけた。
後にわかったことだが、この日の二つの事柄はM嬢の愛情の深さをはかるため、背後霊団がここ
ろみたものであった。
M 嬢は余程悲しかったとみえて、別れ際まで泣きつづけていたが、別れ際に、千円ほどのお札を
私のポケットに入れてくれた。それまでは背後霊団に肉体行動のすべてをまかせていた私も、思わ
ず、自分自身の言葉で、
「ありがとう。M さんありがとう」
といって、今さらのように現在自己のおかれた立場に思い至った。
天使群か悪魔の集団か、いまだにはっきりわからない背後霊団に肉体行動のすべてをゆだねて四
月余り、自己の内部神性および、霊界の親友と弟五郎が背後にあることを信じて、日々の苦行に耐
えてきた私も、この時ばかりは、真実の我れ、昔の我れに還えりたいと切望した。自分の意志で、
自分の想念で、自由自在に自己の信ずる道に遭進できる普通人をうらやむ心が激しく起ってきた。
その時、私のその心を察したようにM嬢が、
「あなたが今後どんなふうになっても、私はあなたについてゆきます。あなたがもし狂人になっ
たとしても、私はあなたを離れることはしません。あなたが一銭の収入がなくても、私が働いてゆ
きます。心配なさらないで時期を待ちましょう。きっと神さまが、私たちの純真な祈りを聞き入れ
て下さることと信じています」
とはっきりこういった。この時彼女の気持は決然と定まったのであった。私は胸もとの熱くなっ
てくるのをじっとこらえていた。
157苦難の霊的修業
158
自由身への前進
こうした試練は次々とつづけられ、今度は霊側から頭脳の中で、
た。
「人間とは何か?」
わけみたま
「神の分霊です」
「神とは何か? 」
「宇宙に遍満する大生命であり、生命原理でもあります」
「大生命とは一体何か? 」
「在りて在るもの、すべてのすべてです」
「在りて在るものとは何か? 」
さまざまな問答をしかけてき
矢つぎばやの質問である。私の答がつまると、頭をぎゅっとしめつけられる。頭が、がんがん鳴
ってきて、顔がみるみる充血してくる。耐えかねて、
「わかりません」と答える。
「わからないのじゃあない。人間の言葉でいえないだけだ。おまえにはすでにわかっている」
そういえば、私の心の奥ではわかっているような気がする。いえないということと、わからない
ということとは違うのだ、と思った。
「ではつぎ、人間はなんのためにこの肉体として生まれているのか? 」
「神様の創造原理をこの地上界に実現するためです」
「よし、では、おまえは今のような答をどこから考え出して答えているのか?」
この問答は、答える側に少しの時間も与えない。即座に答えなければ、頭をぐいぐいしめつけら
れる。ひびきに応ずるように答えなければ肉体に苦痛が与えられる。
「私の本体からです」
ヘヘへ
私はちょっとつまって、頭が、ぐいっとしめつけられたとたんにこう答えた。
「本体とは宇宙神か? 」
159自由身への前進
「宇宙神でもあり、私の真我でもあります」
「では、おまえの真我が宇宙神か?」
「宇宙神の一つの生命原理であり、創造原理であります」
「おまえの肉体は一体何か?」
うつわ
「真我の器であります」
「おまえの個我はどこにある?」
「幽体と肉体にあります」
「個我とは神か?」
いんねんしよう
「神をうちに含んだ因縁生です」
「するとおまえは因縁生か?」
わけみたま
「因縁生をやや離れかかっている神の分霊です」
「釈迦牟尼仏はどういう人だった? 」
「因縁生から解脱して神我一体となった覚者です」
「おまえも釈迦牟尼仏のようになれると思うか? 」160
「私の本体が知っています」
「釈迦牟尼仏も、おまえのように、こうして頭の中で指図されたり、教わったりしたのか? 」
「覚者になってからはそのようなことはなかったと思います。神であるご自分が肉体そのままで
すべてをなさったのだと思います」
「イエスキリストはどうなのだ? 」
「やはり同じだと思います」
はりつけ
「そんな偉大な人が、どうして礫などになったのだ」
「キリストは礫にはなりません。礫になったのは単にキリストの器である肉体だけです」
この私の答には、霊側でも感心したらしく、その想いが、私のほうに伝わってきた。私の心はも
うすっかり澄みきっていて、脳髄に個我の想念は少しも溜っていないのが、はっきりわかった。何
か、天の私と地の私とが一直線につながっているように観じられた。どんな問題を出されても答え
られる感じがしていた。
霊側の問はまだつづけられた。
「人間世界の苦しみを救うにはどうすればよいのか? 」
161自由身への前進
「人間の本体を知らせ、神の理念を知らせることです」
「どうして知らせるのか? 」
「それで私も苦しんでいるのですが、真理の書物をできるだけ早く、できるだけ広く、普及させ
ることだと思います」
「本を読んだだけでみんなが悟れるかな? 」
「それが一番問題です。現在の私の心境ではまだはっきりわかりません」
「おまえの答は本体からくるはずだったが、本体にもそれがわからないのか?」
「本体にはわかっているのですが、私の答えとして言葉に出すにはまだ私の肉体が未熟なので
す。時間の問題です」
「書物の他にはなんで知らせるのか?」
カルマ
「祈りです。神我一体の祈りで人類世界の業を浄めつくすことです」
「こんな深い業生の波がそうたやすく浄まるかな? 」
「たやすく浄まるとは思いませんが、私は祈りに勝る方法を知りません」
わら
「唯物論者はそんなことをいうと喘うだろうな」162
わら
「はじめはみんな啖うでしょう。唄うその心が業の波なのですから、まずそれを浄めてゆくので
す」
「おまえの祈りは一体どうやるのだ? 」
「私は今日までの修業でかなり自我に把われなくなりましたから、すぐ神様にお任かせできる気
がしています。人類世界の運命をそのまま背負った気で、神である私の本体に全部お任かせします
という祈りです」
「他の人にはどう教えるのだ? 」
「人間の本体が実際は肉体にあるのではなく、神としてこの宇宙で自由自在に働いているのだか
カルマ
ら、自己の肉体的な業の想いでお願いするような卑屈な気持でなく、自分の本体から宣言するよう
な心で、世界人類の平和を祈りなさいと教えます。不安や恐怖の心は祈りを邪魔しますから」
「なかなかむずかしいね。そんなにむずかしいとおまえについてくる人は少ないそ。共産主義者
のように現実的な問題を提出して答えを出してゆくほうに大衆はついてゆくそ」
「私も昔はそう思いました。そう思って現実世界をたちどころに良くしてゆけるような神秘力を
欲しました。そうして今日ではあなた方霊界人や神霊のご指導で超現実力を現わしてもらえるよう
163自由身への前進
になりました。これがもし釈尊のように自分自身でこのような神秘力を発揮できるようになったと64
1
しても、直ちにこの現実世界を良くできるとは思いません。どうしてもある定まった時間が必要だ
と思います。ですから、私たちが、真の祈りに多くの人をひっぱってゆくため手間取っているうち
に、たとえ共産主義者の現実社会平等化の呼び声によって、日本や世界が、ソ連の自由になったと
しても、そのようなことではこの地球世界の麺が浄まらぬのですから、いつまでもその思想に人類
が抑えられてゆくことはありません。また他にどんな思想や現実手段がとられても、魂の浄化がな
く、神と自我が一体にならない以上は、真の平和世界はできっこないのですから、私たちの祈りが
必要でなくなることはありません」
「そんなことをしているうちに、戦争や天変地変でこの地球が滅びてしまったら一体どうする?」
「地球が滅びたとしても私たちのように本体の神性を知っている者や、知ろうとしている者にと
っては、たいした問題ではありません。しかし、神は大愛なのですから、多くの人類にそのような
強い恐怖を与えることなく、お救い下さることを私は信じております。それでなければ、一人の私
のためにあなた方のような霊人や神霊がこのようにご指導して下さるわけがありません。私は今に
ほんとう
なって真実にイエスキリストのいった”み心のままになさしめ給えi ” という言葉がはっきり体
得できました」
「それではこれで問答は止めるが、明日の晩には何か変ったことが起るだろうー」
霊側からの質問はこれで終った。霊側の言葉はすべて人声と同じひびきで私に聞えていたのであ
る。しかしこの日を最後に、こうした人声も自動書記も、すべての精神分裂的霊界側の指図は再び
私の肉体に干渉してはこなくなった。
くロつ
私の想念停止(空観) はついに成功したのであった。私はものを想わなくなった。しかし必要が
あれば語り、用に応じて手足を動かし体を働かせることもできた。私という肉体的個人はもはやこ
か
の世には存在しなくなっていた。私の過去世からの想念のすべてを天に還えしてしまったのであ
る。天と地の間にただすっきり澄み徹った私がいた。
久しく停止していた私の個我がすでに天の本体と合体していることを直感した。その直感はその
翌晩はっきりと私に示されたのである。
165自由身への前進
166
天と地ついに合体す
私は例のごとく就寝前の瞑想に入った。想念停止の練習により私は直ちに統一することができ
る。その夜統一したと思うと、吸う息がなくなり、吐く息のみがつづいた。すると眼の前に天まで
もつづいているかと思える水晶のように澄みきった太く円い柱が現われ、私は吐く息にのり、その
太柱を伝わって上昇しはじめた。上昇してゆくと上に少し黄ばんだ灰色の雲の層がちょうどある霊
界の境界線のように下の界と一線を画している。私はなんの障りもなくその境界線をとおりぬける
と、今度は真白な雲の層に出た。これもなんでもなくすぎ、青雲、緑、青紫、赤紫、と各光雲の層
さんぜん
をとおりすぎて、七つ目の金色に輝く霊界をぬけ出た時、全くの光明燦然、あらゆる色を綜合して
くげ
純化した光明とでもいうような光の中に、金色に輝く椅子に腰かけ、昔の公卿のかぶっていたと思
われる紫色の冠をかぶった私がいる。”あっ”と思う間もなく私の意識はその中に合体してしまっ
た。
合体した私は静かにたち上がる。確かにそこは神界である。さまざまな神々が去来するのがみえ
る。富士山のような山もあり、満々と水をたたえている河もある。それこそ竜宮城のような建物も
ある。上から下へ、右から左へ、左から右へと、しきりにあらゆる光の波が流れている。不思議な
ことに一個所にとどまっていながら、そうした情景が次々にみえてくるのである。天の私(真我)
に地の私が合体してとどまっているこの現実、霊的神我一体観がついに写実的神我一体として私の
自意識が今確認しているのである。
想念停止の練習時にはもう少し上に、もう一段上に自己の本体がある、と直感しながら今まで合
体できなかったその本体に、その時正しく合体したのである。わがうちなる光が、すべての障害を
消滅せしめて大なる発光をしたのである。その時以来、私は光そのものとしての自己を観じ、私の
内部の光を放射することによって、悩める者、悲しむ者を救い、病める者を治しているのである。
天とは人間の奥深い内部であり、神我とは内奥の無我の光そのものであることも、その時はっき
り認識した。一真実行がついに百知を超えて、自己の本体を直接把握し得たのである。天に昇った
ということは自己の内奥深く入っていった、ということと同一なのである。空間的にみれば天の本
167天と地っいに合体す
へ
体に合体したのであり、直覚的にはうちなる神とA旦したのである。その間現象的時間にして約三618
十分であった。
くロつくサつ
想念停止(空観) とは、空そのものが終局ではなかったのである。空になるとは、現象的、この
くうわれ
世的すべての想念を一たん消滅し去って、その「空」となった瞬間、真実の世界、真実の我がこの
現象面の世界、現象面の我と合体して、天地一体、神我一体の我が出現してくるのである。
真我の我とは一体何か。神我であり、慈愛であり、調和であり、自由自在な心である。それを完
全に表現し得たのが釈迦牟尼仏であったのだ。
釈尊は完全なる理論をもち、完全なる慈愛をもち、そして完成された霊力、神秘力をもってい
た。
理論がいかに完全であっても、理論だけでは大聖ではない。霊力、神秘力がいかに秀れていて
も、それだけでは大聖ではない。たとえこの二つをあわせもっていたとしても、それを仏というこ
とはできない。完全なる慈愛を根抵にして、完成された理論と、完全なる霊力、神秘力をもってい
なければ自由自在にこの世界の業を消滅させ、地上世界を救う中心者とはいい得ない。私は今更に
して釈尊の偉大さをしのぶのである。
こつ
私がこのように唯一の尊者として畏敬する釈迦牟尼世尊がその明くる朝の瞑想時に、忽然として
わが前に現われ給うたのである。
瞑想してややしばらくした時、眼の前がにわかにただならぬ光明に輝いてきた。私は想念を動か
さず、ひたすらその光明をみつめている。すると、前方はるか上方より、仏像そのままの釈尊が純
けつかふざ
白の蓮華台に結跡跣坐されて降りてこられ、私のほうに両手を出された。私も思わず、両手を差し
によいほうじゆ
出すと、如意宝珠かと思われる金色の珠を、私の掌に乗せて下さった。
私は何も想わず、押しいただき、霊体の懐におさめた。すると釈尊はまた一つのそれより少し小
さいやはり金色に輝く珠を、私に下さる。私はこれをまた押しいただいて、同じように懐に入れ
ヘヘヘへ
た。その後、現象界でいう、おさかきのような葉を五枚下さって、そのまま、光輝燦然と消えてゆ
かれた。私はしばらく釈尊をお見送りする気持で瞑想をつづけていると、今度は、やはり光り輝く
中から金色の十字架を背負ったイエスキリストが現われたとみるまに、私の体中に真向うから突入
してきて消えた。その時、”汝はキリストと同体なり”という声が、激しく耳に残った。私のその
朝の瞑想は、その声を耳底に残したまま終ってしまった。私は深い感動というより、痛いほどの使
命観を胸底深く感じていた。そのことが単なる幻想でないことを私の魂が、はっきり知っていた。
169天と地っいに合体す
“汝は今日より自由自在なり、天命を完うすべし”という内奥の声を、はっきり聞いていたからで
ある。私は直覚的にすべてを知り得る者、霊覚者となっていたのである。
私はその日から表面は全く昔の私、つまり、霊魂問題に夢中にならなかった以前の私に還元して
いた。私はすべてを私自身の頭で考え、私自身の言葉で語り、私自身の手足で動き、私自身の微笑
で人にむき合った。私の眼はもはや宙をみつめることはなく、私の表情は柔和に自由に心の動きを
表現した。私はもはや神を呼ぶことをしなかった。人に押しつけがましく信仰の話をしなくなっ
た。父母にも兄夫婦にも弟にも、昔の五井昌久がよみがえってみえた。柔かな、思いやり深い、気
楽で明るい息子が、冗談をいいながら、父の脚をさすり、老母の肩をもみほぐす毎夜がつづいた。
「五郎は一体どうしたろうねえー」
私に肩をもませながら、母は時折り死んだわが子のことを私に話しかけた。
うしろ
「五郎は私の背後で一生懸命働いていますよ」
私は何気ない調子でこう答える。母は先日までの私の狂人状態を思い出して、
「おまえもよく治ったねえ、ひどかったよこの間うちは、よく治ったねえ。近所じゃあ、いろい
ろ私にいうし、私も、どうなることかと思ったけれど、おまえのように人のことばかり思って、良170
いことばかりしようと思って、神様にすがっていた子がまさか気違いになりきることはあるまい、
とは信じていたよ、それに利男や進(弟)だって、おまえの人の良さを信じていたからねえー」
私はにこにこしながら肩をもみつづける。痩せこけて骨ばった猫背の老婆は、私の肉体界におけ
まじめ
る最大の恩人なのである。真面目に正直に、一瞬の骨身も惜しまず、子供たちのたあに働きつづけ
てきたこの母親。九貫たらずの肉体をささえて、子を想う愛情だけが烈々として彼女を働かせつづ
けたのであろう。
ろうおく
私が真実の私を発現して以来、私の随屋を尋ねてくる人が多くなって、私は人事相談に治病に忙
しくなってきだし、人が出すものは素直に受けもするようになっていたので、母親にとってはすべ
てに蘇生の想いがしているのである。
もう一人の恩人である老父は、病弱のため、早くから隠居的な生活をしていたが、晩年は私を非
常に精神的力にしていて、なにかと私の話をききたがり、私のいうとおり素直に観音像を拝んでい
たのに幾度びか涙ぐまされた。そのため、昭和二十九年の一月他界の時には、私の光につつまれな
がら、やすやすと霊界に昇天し、今では私の背後にいて、私の仕事の助手をしながら、嬉しそうに
いきいきとして働いている。
171天と地っいに合体す
私が現在まで様々な宗教をとおってきて、最後に守護神の指導による霊的直接体験の後、自由自712
在な心、光り輝く本体として、地上界の使命達成の本格的第一歩を踏み出したわけであるが、あの
苦しい霊的修業をよくも耐え得た、と今更ながら思うのである。耐え得た力の原動力は、親友と弟
が背後にいる、という安心感と、私の心の中には、人を愛し、国を愛し、人類の大調和を願う想い
よりなかった、という、強い信念、の二つであったようだ。狂人の一歩手前、悶死の一歩手前に追
いつめられたことが幾度びもあったが、結局その境界から私を救ったのは、私の自己を信ずる力で
あり、神の愛を信ずる確信であった。しかしもし私の中に、自己慾望で霊力、神秘力を望む想いが
あったとしたら私は現在の私になり得なかったに違いない。死を一歩前にみつめた時には必ず、自
己の過去における想念や行為が走馬燈のように脳裡をかけめぐるものなのである。もし自己慾望に
よって霊能を望んだとしたら、その人は、けっして真の霊覚者にはなり得ない。なぜならば、自己
慾望という低い想念の波をつけたままでは、到底高い霊界、神界までは昇り得ないからである。こ
の世界には厳然たる法則があるのであり、確然とした段階があるのであって、自己慾望の放棄いか
んが、その順位に非常な関係があるのである。従って、ある種の霊力をもって、人に優越してみた
い、とか、偉くみせたい、あるいは地位を持ちたい、金を儲けたい、とかいう自己慾望で、霊能を
ひよう
得る修業をしたとするならば、それと同種類の慾望をもった幽界の生物たちが、神をよそおって愚
依してくるのである。そうした幽界の生物たちは、人間本来の神性も、神の理念も目的も、何もわ
からずに、その場その場のあてもの的予言や治療をするのである。ひとたびそうした幽魂たちに応
援を頼んだ肉体人間は、肉体人間自体に備わっている能力を使用しなくとも、常人にはできぬ予言
や治療ができるので、得意然として思いあがり、人間世界の尊厳を維持している、勤勉、真面目、
意志の自由を失ってゆき、また他人の意志の自由をも奪ってゆき、ついには唯物論者、無神論にも
劣らぬ人類世界破滅への一役を買ってゆくのである。なんでもなくみえて非常に恐るべき、憂うべ
き宗教的無智なのである。
私は私の体験をとおして、この危険を熟知しているので、いたずらに霊能を欲することをいまし
め、
「あなた方の背後には祖先の悟った人たちが守護霊として、または守護神として守っているのだ
から、常に守護霊、守護神の加護を念じながら、すべてのことを運んでゆきなさい」と教えている
のである。つねに守護霊、守護神を念じていれば、霊能の必要な人には正しい霊能が授かり、危険
なことがあれば、なんらかの方法で必然的に救われるようにして下さる、と教えるのである。これ
173天と地っいに合体す
は私の背後に誕生以前より、私を守護し指導していた守護神、守護霊が厳然として控えていたこと
を、すべての修行のすんだ直後に、はっきり知ったからである。
私がはじめから現在私が教えているようなことを知っていたらもっと早く、もっと苦しみなく今
日になり得たかも知れないのだが、そうしたことを私が自ら体得して、世に発表し、指導するのが、
私に受け持たされた天命の一つであるのだから、私以後の人たちのためにーということになるの
は仕方がない。もっとも、守護神とか、守護霊とかいう言葉は昔からいわれていたのであるが、今
日私が説いているように、真理の言葉の裏づけとして、わかりやすく行じやすく説かれたことはま
だ一度もなかったのである。守護霊、守護神なくしては、この地上世界に宇宙神の理念は絶対に実
現しないことを私は、実にはっきり知っているのである。
宇宙神の一つの現われは法則としての神である。無念、無相、無情、ただ大生命として無限なる
流れである。その流れの一つ一つとして人間の小生命がある。その小生命となった時、はじめて、
幽質ができ、普通物質と呼ばれる肉体ができたのである。そして、その小生命が幽魂となり、肉体
として個々に分れた時、分れたという意識によって、自己を守る本能が生じ、慾望が生じ、業生の
世界になってきたのである。このままで法則のまま放置しておけば、この世界は業生の渦の中につ174
いには消滅し去ることは必然なのである。それは、この世界を、まともにみつめ得る人の誰れもが
思い至るところなのである。法則である神は、無念であり、無相であり、無情である。法則に情が
あれば法則でなくなる。無念であり、無情であるものが人類を救おうと思うわけがない。まいた種
はまいた種そのままの実がなる。それが法則である。恨みは恨みとなってかえり、怒りは怒りと
なってかえり、悲しみは悲しみとなってかえる。これが法則である。この法則だけで人類が救える
わけがない。ここに無神論の生れてくる理論がなり立つ。こんな法則の神だけでなり立っていたの
では、人類世界は唯物論の世界となり、力と力が勝負をきめ、地球の破滅は時間の問題となってく
る。『神は愛である』という神は法則の神ではなく、守護神としての神である。宇宙に満ちみちて
いる生命という神ではなく、人間と等しき愛念をもつ神である。
この二つの神の現われを一つと誤解しだしたところに理論的宗教がもつ現実的矛盾ができてくる
のである。
法則としての神にいくら頼みごとをしても聞き入れてくれるはずはない。法則は絶対に曲らぬか
らである。法則のとおりに自分の心を自分で乗せてゆかなければ、けっして救われることはない。
ところが、ひとたび法則をはずれた歩みに入った人が、自分だけでまたもとの法則の上に自分を還
175天と地っいに合体す
えすことはほとんどでき得ないと思われるほどの難事である。これでは神の必要もなければ、宗教76
1
の必要もなくなってくる。そこにつけ入ってくるのが、低級なる現世利益のみの宗教である。そう
した宗教では、その人の真の利益、魂の浄まりは、まるで無視して、ただ単なる眼先の現実利益だ
けを得させる。それによって後にその人の魂がどのように苦しみ損ずるかは問題の外なのである。
しかしすがってゆく人間にとってはその場の苦しみだけを問題にしているのだから、その場がとに
かくすごせれば、ありがたいご利益となるわけである。これが邪教のはんらんとなってゆく。この
原因は、正しいと称される宗教が、前にいったような誤りを意識せぬ理論的宗教論になっているか
らで、いかにその理論が正しそうに見えていても、その底に神の愛情を感じさせぬような法則論の
宗教では、たとえ邪宗教であっても現世利益の多いほうに民衆はついてゆく。私は二つの宗教の流
れを今日の宗教界にみていたので、正しい宗教理論の上に守護神という愛なる神の人類救済的指導
力をおいたのである。(拙著『神と人間』参照)
私はすべて守護神、守護霊という救いの力を中心にして、業因縁はすべて消えてゆく過去として
とりあつかってしまったのである。
実相として完全円満を宣言しても、現象として心の法則をもってくれば、せっかくの完全円満が
消えてしまうのである。
ヘへ
また、神様、神様と祈っても、眼にもみえず、手にも触れない実観としてぴんとこない神様で
は、絶対的にたよりきるにはつかみどころがない。そこで、イエスとかマリヤとかいう一度肉体に
現われたことのある、いわゆる実在したことのある人物の神格化をとおして救われようとねがうの
である。仏教的には教義の面だけでは一般民衆にはわかりにくいので、仏像という形をつくり、そ
の仏像をとおして救いの力を得ようとするのである。お経でもそうである。中の意味が理解できる
できないということと全く別に、ただありがたい功徳のある経文だという概念だけで調経する人が
ヘヘヘヘヘヘヘヘへ
大半なのである。何かつかみどころがあれば民衆はそれをつかんで自己の心を勇気づけ慰めとする
のである。こうした人間一般の心を無視した宗教理論だけでは、邪教と思われるご利益宗教にかな
うわけがない。民衆は現実面でただちに救われたいのである。永遠の救われということはひとまず
おいて、その場、その場をうまく切りぬけてゆくための神様が欲しいのである。
守護霊、守護神とただいっただけではやはり実観としてぴんとこない。この守護霊や守護神が、
自分たちと同じように人間的愛情をもった、しかも自分とつながり深い、親の親1 つまり祖先の
悟った力のある人、あるいは生れる前から自分につききりで観ていてくれる愛情をもった神、でな
177天と地っいに合体す
ければならないのである。何があっても、自分をまっさきに救ってくれる肉親的愛情の所有者であ
る神が必要なのである。
私はこうした神を、守護神として改めて民衆に発表した。そしてその下に真実肉親として系図を
みればわかるような祖先を守護霊としてはっきり認識させるように教えている。今までなんとなく
ヘヘへ
漠然としていた守護神、守護霊を、各自が、自分のものとして暖かい想いでつかみ得るように示し
たのである。
「守護霊さん、守護神さんにつねに感謝してお任せしておれば、あなたの汚れを浄めながら、あ
なたの危険をいつも防いでいて下さるのですよ」
と教えられれば、神への全託が非常になしやすくなるのである。事実、霊界、神界において、こ
れら、守護霊、守護神が、人間一人一人のため、あるいは人類すべてのため、どれだけ偉大な働き
をして下さっているか計り知れないのである。それは現在私が、そうした神霊たちの浄めの場所と
して、私の肉体を提供しているので、はっきり明言できる立場にいるのである。
人間に、不安や恐怖をもたせたままで、ただ単に、心や行いを直させるような教えをしても、そ
カルマ
れはその場限りの我慢になってしまって、本当にその人の習慣の心(業)を消し去ったことにはな
178
らない。どんな高遽な理論も、頭ではかなり認識しても、感情として行いとして、実行するとなる
とできがたい。できがたいばかりでなく、かえってその知識が、自己の心を責める材料になって、
いわゆる小さな狭い善人となり、面白からぬ生活を送ってゆくことになる。人間を救うには、まず
日々の不安や恐怖を除くことを先決にしなければならない。大丈夫でもないことを、ただ慰めるた
あに、大丈夫だ、というようなことではいけない。言葉だけで安心を与えようとしても、それは駄
目である。できないことを、さもできるようにいっても駄目である。感情的にもでき、行いとして
もできる安心立命への道でなければならない。それにはやはり、自分はつねに神によって守られて
いるのだということを信念づけることが第一である。とともに、人間としての正しい道、神に通ず
まこと
る道、すなわち愛と真の道がことさらに意識せずして踏み行われてゆくようにならなければいけな
いのである。そこで、私は、宗教で普通用いられる因縁という言葉や、生長の家の横の真理といわ
れる心の法則を、逆に救いのほうにむけかえ、
おもい
「悪と現われ、不幸と現われてきた環境はすべて過去世の誤った想念や行いが今現われて消えて
ゆく姿なので、何も恐るることはない。消えれば必ず、それだけ魂が浄まって、運命が開いてくる
のだから、今までの自分たちの想念や行為を責めることなく、ああこれで過去世からの私たちの悪
179天と地っいに合体す
おもい
い想念や行為(悪業)が消えてゆき、私たちの魂の光が発現していよいよ真実の幸福がはじまるの810
だ」
おもいおもい
と強く思わせ、その想念を同時に守護霊、守護神への祈りの想念として、
「守護霊さん、守護神さん、どうぞ一日も早く私たちの業因縁をお消し下さって、天命を完うせ
しあ給え」とわざわいとみえ不幸とみえる事態をとらえて、かえって明るい心、希望の心に一転さ
せるように教え導いているのである。その裏付けとして、心の法則の”明るい心は明るい運命を呼
び、愛の心は愛の世界を自己の身辺に呼びよせる”というような原理を、それも明るい意味の言葉
だけを心の底に植えつけるように教えるのである。そしてその根抵として、私が直接体験して把握
した、
「自己の本体という者は、神として神界にいて、自由自在に宇宙人類のために働いているのだか
ら、肉体にいる分霊的自分はその働きを妨げるような、否定的な想念、つまり、自分は駄目だと
おもい
か、人類は駄目だとかいう暗い想念を出さず、出てきたら、それも業因縁が想念として消えてゆく
姿なのだと否定しつづけて、ひたすら自己の善なる運命を肯定し、人類大調和の実現を肯定し、祈
りつづけてゆけば、いつかは、肉体的自我と自由自在の本体(真我) とが一つになってゆき、正覚
を得ることになってゆくのだ、またそうならせるために、守護霊、守護神が、あなた方の業因縁の
おもい
想念を消して下さっているのだー」と説いているのである。
人間は全く大神の個別的現われなのである。輝きわたる一つ一つの星のような存在なのである。
大神の光明、大神の創造力が、個別個別の光明となり創造力となって大神の理念を本質的にはすで
に実現せしめているのであるが、その投影が、この地上界に時間的経過を経て、写し出されてゆく
のである。そしてその投影が完全な姿を地上界に写し出した時が、天地一体であり、地上天国の実
相なのである。地上界に写し出されている人間たちが、写し出されているそのままの姿で、自己の
任務に一心を集中していれば、人類は苦しみも悩みもなく、地上天国の実現をみることができるの
であるが、写し出された投影である肉体人間が、天にある本体の神である自己を忘れ果てて、肉体
あま
的自己の想念の渦に巻きこまれて、自他の利害を区別し、天かくる光(内奥から発光する光)を遮
断し、おおってしまいつつあるのである。私はその渦巻く想念の波から、瞬時のぞかれた天の光明
くロつ
を、しっかり把え、守護霊、守護神の加護により、空観(想念停止) に成功して、喜怒哀楽的想念
は消えてゆく業因縁の波にすぎないことを悟った。その時から私は、業生的投影の私ではなくな
り、本体すなわち真我としての私となって菩薩行をはじあたのである。現在の私は天地が合体した
181天と地っいに合体す
姿としてこの地上界に肉体をつかって、働いているわけである。
人間という者が、日常自己だと思っている肉体的自己は、実はしっかりした本体をもたない泡沫
のような、想念の波であり諸行無常的、砂上の楼閣的存在なのである。こんな瞬間瞬間に消えてゆ
くような想念の波だけをつかんでいて、人間の幸福だとか世界平和だとかいっていても、到底真の
幸福も世界平和も実現しないのは、実にはっきりしていることなのである。一度過去の想念をすっ
かり消してしまって、人間内奥に輝く本体の光、天に輝く真我(直霊) の光を直接地上に輝かせな
ければ地上天国はできあがらない。そこで私は本体の光を輝かせながら、五感にみえる業因縁的存
在はすべて消えてゆく姿なのですよ、と説きつづけているのである。
うつわ
一日も早く肉体が業因縁的想念の器でなく、光の器、真我(神) の器となることが、自己も救わ
れ、人類も救われるということを、はっきり一般の人に認識させることが私の天命なのである。
ひと
新しく誕生した私は、肉体的脳髄で考えることはしない。想念をためておくこともしない。自然
りでじねんほうに
法爾に言葉を語り、手足を動かす。真理の話も、世間話も、冗談もすべて自然法爾なのである。だ
からといって、背後霊団につかわれていた時のように、奇矯な行動や、非常識な言葉は吐かない。
むしろ常識すぎるくらい、常識的な立居振舞いの人間になっている。平常心是道そのままの生活を182
している。昔からの知人がみれば、昔のままの五井昌久である。私は確かに私自身が平常心でその
まま道を進んでいるのである。ただし、そういう私は、普通いう肉体そのものが人間だと思ってい
ちゆう
る人たちとは、まるで範疇を異にしている存在になっている。やさしくいえば、肉体以外の世界
から肉体を動かし、肉体的言葉を発しているのである。肉体以外の世界をいいかえれば、三界(慾
こくロつ
界、色界、無色界)を超えた世界、空のあちら側の世界で、この空のあちら側の世界は神界ともい
い、人間の内奥ともいうのである。そうした世界にいる真我の私が、肉体を器とし、場所として、
過去の肉体的私の想念を適時適所につかい、人に相対し、真我(神) の知恵をもって相手の相談相
手になり、真我の光によって相手を浄めているのである。
げんそう
私は今、還相として地上界にいるのである。往相から還相に、私は相手の悩みを私の悩みとし、
相手の哀しみを己れの哀しみとし、相手の立場を自己の立場として霊覚による指導をしているので
ある。自己がある悟りを得たからといって、その悟りの立場から相談にくる相手に対したのでは、
相手との一体観にはなり得ない。どうしても自然に相手を見下す態度が出てくるものである。私に
は相手の心がそのまま写ってくるので、巧まずして相手と同一の立場になり得る。子供には子供
の、老人には老人の、妻には妻、夫には夫の心になり得るのである。ひとたび相手の立場になりき
183天と地っいに合体す
ってから、順次に高い立場に導いてゆくのが、私の今日とっている指導方法なのである。そのため
には方便的な嘘やかけひきも出てくるが、すべてはその人たちを救うために出てくる言葉である。
私が種々な人を指導しながらいつも涙ぐましくなるのは、その人たちの守護霊(祖先) の働きで
ある。過去からの業因縁的想念にひきづられて、しだいに真理の道から離れてゆこうとする子孫を
守るため、それらの守護霊がどれだけ苦心しているか、である。五感にふれない蔭の働きなのだか
ら、誰れに感謝されるのではない全く縁の下の力持ち的働きなのである。それが全霊、全力をあげ
苦難を自己の身にひきうけて子孫救済のために働きつづけているのである。肉体人間が、自分だけ
の力で現在の生活がなりたっていると思ったら、祖先に対して実に申しわけないことである、と私
はつくづく思うのである。こちらが守護霊に感謝すれば、どれだけ守護霊の働きを楽にするかわか
らない。それだけ自己の運命が早く改善されるのである。信仰の最初は、まず守護霊への感謝から
はじめるべきである。
昭和二十五年の七月、その頃は、親の家をほとんど離れ、出張先々を泊り歩いていた私のもと
に、家人をついに説き伏せた妻が、身のまわり品だけを手にさげて嫁いできた。その夜は市川にお
ける講話の日で、場所はちょうど今道場になっている松雲閣であった。184
ヘヘヘヘヘへ
今話の始まろうとする前に尋ねてきた妻は、私のそばにうつむいてかしこまっている。私が聴講
者一同にむかって、
「今日から私の妻になる人です。どうぞよろしく」
と挨拶をした。妻もだまって頭を下げた。それが私たちの結婚式であった。仲介は私の守護神で
ある。だが、その夜から私たちの住まう家はまだ定まっていない。私は少しの不安ももたぬが、妻
ぽうぼく
の心はどうであったろう。かっては狂人じみた行いの人であり、いまだ将来の予測もつかぬ 漠た
ねぐら
る人物、そして新婚の夜の塒さえ定まらぬ人を、この日から夫と呼び、一生を捧げつくそうとする
のである。その面輪はさすがに淋しそうであった。しかし、なくてならぬものはその人に与えらる
る、という真理の言葉は、講話後の個人相談の最後の時にたちまち事実となって現われたのであ
る。現在○ 万円の金が必要だから二階を貸したいという人が、是非一日も早く私の願いが成就いた
しますように、という相談をかけてきた。私は一銭も金を持っていなかったが、妻がちょうどその
要求と同額の金を持ってきていたのである。「必要なものは必要な時に神が与え給うのである」私
の生活はすべてその原理に基いて行われているのであったが、これなどはそのよき一例であろう。
時刻は午後十一時三十分頃、その夜の最後の時迫る間際であった。
185天と地っいに合体す
私が霊覚になって以来、私に祈ってもらっていると、体が天上に昇ってゆくような気がすると
か、眼を閉じていると、竜神に乗った観音様のまた上に先生のお姿が見えるとか、種々の神秘的な
話を信者さんが私にきかせてくれた。結婚後間もない頃、市川市平田の島田さんという家に寄っ
た時、その家の長男の重光君が、写真を撮らせてくれ、というので、家の中で二枚、帰えり際、門
の前で一枚撮ってもらった。その二枚は静坐して印を結んでいる写真で、一枚の方の背後には観世
音菩薩と、冠をかぶった古代人の霊顔が写り、一枚の写真には、蓮の台に坐った釈尊が小さく写っ
ていたが、門の前で撮った写真には、私の肉体は写らず、私の霊体である、円光が写っていた。こ
れはヨガの秀れた行者などにたまたまそうした現象があることを後で知ったが、人間の本体は、肉
体でなく光である、という説明には得難い実証であると、信者さんたちはお守札のようにしてこの
写真の焼増したものを肌身につけている。この写真には災難を除ける特別な力があって、この写真
を身につけている人で、あざやかに災難を逃れた人がたくさんでてきているのである。
この人生には五感で割り切れぬことがたくさんあるので、頭脳知識だけで生きぬいてゆくことは
でき難い。不可思議なる力、神秘なる謎の扉は、素直に神を信じ、愛を行じてゆく人の前にまず開
かれるであろうことを、私は確言したい。186
人間は神からきているのである。宇宙のすべては神のみ手にゆだねられているのである。人間が
真に幸福な生活を望むならば、まず神の存在を信じ、自己が想念の固まりである肉体ではなく、永
遠不滅なる神と一つの者であることを知らねばならぬ。
幸いなるかな素直に神の愛を信ずる者、
幸いなるかな愛と真との行いに生くる者、
幸いなるかなすべての人の背後に善なる真なる守護の神霊の存在を信ずる者、
幸いなるかな守護の霊と守護の神とにつねに感謝し得る者、
天国は汝らの住居とならん。
187天と地っいに合体す
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