直言・提言・進言五井昌久著
著者(1916~1980)
世界平和を祈ろう
宇宙と云うのは不思議な存在
数多の星々を輝かせて
何んと云うこの静けさだろう
生命波動を生々とひびかせながら
それでいてこの深い深い静けさ
そんな深い静寂の中から
この地球世界にひびいてくるいのちの躍動
天空の彼方から大地の底から
生きのいのちの輝かなことばが1
すべての存在を生かしきろうとしている2
だがまだまだ駄目なのだろうか
地球世界は幼なすぎるのか
権力と金力が生むあらゆる欲望の渦の中で
人と人とが国と国とが争い合う
生命の本源を忘れ果てた
地球世界の権力者たち
業想念波動に踊らされる肉体人間の群れ
そんな人々の吐き出す黒雲に蔽われて
地球世界の悲劇はどこまでも発展してゆこうとする
こんな時
目醒めた人々は一体どうすればよいのか
地球世界の大悲劇を未然に防ぐ為の手段を御存知なのか
それはロバ一つしかないのだ
世界中の人々が想いを一つにすることだけだ
人と人が分れていても
国と国とが対立していても
本源の世界ではみんな一つの生命で結ばれていると云うことを
一人一人が知らねばならない
私とあなたが一つになり
あなたとあなたが一つになり
国と国とが一つになり
みんな平和を欲っしているんだと叫ぶことだ
世界人類が平和でありますように3
私のこの祈りはその心から生れた
本源世界の大調和波動と全く一つになるひびきは
世界平和一念の生き方の中にすべての想いを投入しきることだ
私は世界平和の祈りを唱えつづける
君もあなたも唱えつづける
一人一人の唱え言が
やがて世界中の唱え言に必ずなる
私は宇宙神のみ心の中にすっぽり入りこんで
あしたあさつてロ
昨日も今日も明日も明後日も
世界人類が平和でありますようにと唱えつづける
地球世界の大調和実現のその日まで
私の平和の祈りはつづくのだ
4
目次
〈詩〉世界平和を祈ろう1
世界平和への目標7
{示教界への提言14
日本政府と国民への進言34
アメリカへの直言58
政治家への提言78
書かずにはいられないこと9
知識人の陥りやすい迷信118
個人人類同時成道ということについて
新しい道521
143
装槙・笹本悦子5
世界平和への目標
(この原稿は昭和四十五年十月十六日より二十一日まで京都で開かれた
世界宗教者平和会議事務当局の要望により提出したものです。)
心をそろえよう
世界宗教者平和会議に臨みまして、私が一言申し上げたいことは、私どもが宗教者とし
て、世界平和実現に対する働きかけを、どのようにしてゆくかということであります。こ標
れ
はいかに高い理想を掲げたとしても、現在の人類の心境に合わぬようなものでは、現実の
的に実践することができま荒現実的にもでき得灸世界平和実現に近; 沫そう恥
いう方法が示されなければ、机上の空論になってしまいまして、宗教では個人は救えても、堺
世界人類という大きな立場では手も足も出ないということになっています。7
現実の世界の状勢は、もう根本的に宇宙観を変えてゆくより他に、救いようのない状態
になっていることは、宗教者の皆様はすでにご存知のことでございます。現在のように、
物質界を主にして、精神界を従にしているような世界観では、やがて原水爆の戦争が起こ
るか、化学細菌戦という恐るべき状態が世界に繰りひろげられるか、そこまでゆかなくと
も、永劫に国と国との利権争いは絶えることはありません。その間に大きな天変地変など
ということも含まれてまいります。
こういう危険きわまる人類世界の状態を、どのようにしてきりぬけ、どのようにして世
界完全平和までもってゆくか、これは人類すべての問題でありまして、そのさきがけとし
て働かなくてはならぬのが、私ども宗教者なのであります。
ここにおいて、私ども宗教者は、宗団宗派や国の相違などの問題に把われてはいられぬ
重大な時期に立ち至っているのです・♂ 宗教宗派が・自りの整や自りの教団の拡張にの
8
み専念するあまり、他宗教宗派との連けいを全く無視したり、ひどい宗団になると他の宗
派をすべて邪教視したりしている向きもあります。そのようなひとりよがりの態度を、す
べての宗教宗団が超越して、世界平和達成という、人類すべての悲願に向かって、足並み
を揃えてゆかねばなりません。宗教者が心を揃えて、世界平和達成という目標に向かって
進むことこそ、全世界の人々の平和への熱望に大きな力を与えることになります。
われわれに敵はない筈
問題は世界平和への目標を、一体どのようにして示してゆくか、ということになります。
反戦ということにもってゆくか、反土ハということにもってゆくか、いずれもそこには反対
者というものを、はっきり意識してかからねばなりません。世界人類の平和という目標を
かかげながら、世界の思想を分裂させるような方向に向かってゆくことは、私たちの好む標
ところではありません。の
酔
私たち宗教者には敵があってはなりません。敵をもった平和論には、必ずといっていい覇
界
ほど武力が必要であり、武器というものを使わねばならなくなります。私たちの平和への世
道は、あくまで武力闘争を必要とする平和行進であってはならないのです。釈尊やキリス9
トの申しておるように、私どもは人間を殺傷する道を徹底的にさけねばなりません。
ぜんたく
その道は唯一つしかありません。それは神仏にすべての人類の運命を全託することであ
りますが、全託といってもこれはなかなかできることではありませんし、神仏といっても、
形の上ではつかむことはできません。そこで私は神仏の形ではなく、神仏のみ心と一つに
なることを実行しようと思いました。神仏のみ心と一つになるには、神仏のみ心がどのよ
うなものであるかを知らねばなりません。
私は神仏のみ心を慈悲であり、愛であると認識しました。そして、その愛のみ心は、人
類にどのように現わされているかを考えました。それは大生命として、宇宙全体の大調和
の働きとして現わされていることを、宇宙運行の状態や、原子や素粒子の世界の働きの中
に認めることができました。
その神仏の慈愛のみ心、大調和のみ心は、人類を罰しようとしたり、争わせようなどと
してはおりません。ただ人類に向かって、すべてが平和であるように、すべてが調和に向
かって進んでゆくように、と呼びかけているのであります。人類世界の生みの親である神10
仏のみ心が、人類世界は平和であれ、
だと思います。
と世界平和を指ししめしているのは理の当然なこと
神のみ心に合わせる祈り
そこで私は、そういう神のみ心に合わせて、素朴に素直に「世界人類が平和であります
ように」と人類の悲願そのままの言葉を、祈り言にまで高めて、人類のすべてが、日々瞬々
そこ
刻々あらゆるところで、あらゆる時間に、自分を痛め傷つけ、他人や他国を傷つけ損なう
想いに自己が支配される隙のないほど「世界人類が平和でありますように」と祈りつづけ
ることにより、神との一体化が完成されることを知ったのです。世界人類の平和達成とい
うところで、神仏と人間の心の交流が、はっきりとなされるからであります。
この方法を、はじめから世界人類すべてに実行させることは不可能ですので、まず、神
仏のみ心の愛であることを信ずる宗教者の方々から実行してゆくことをお願いしたいので
あります。まず世界の宗教者の、世界平和達成の第一段階の目標として「世界人類が平和
11世界平和への目標
でありますように」「ζ ㊤図b①曽o①胃①<9出o昌①胃けE という誰にでも納得できる素朴な言
葉を定め、この言葉を、宗教者全員の祈り言として、実践していったらどうかと思うので
す。
実際に全世界の人々は、心の中でこの言葉を想いつづけているわけですが、誰もが表面
的な祈り言葉として、瞬々刻々の生活の中で活用させようとはしていないのです。言葉は
即ち神なりき、でありまして、こういう単刀直入な、幼児でも意味のわかる言葉こそ、全
ごと
世界の人々が、抵抗の意識なく祈れる容易な祈り言だと思うのです。
日本の全土から、そして世界人類の隅々まで「世界人類が平和でありますように」とい
う祈り声で満ち充ちた時、どんなにか世界の気が澄み浄まってゆくことでしょう。世界各
国の為政者も、この祈り声を世界の世論として取り上げざるを得なくなることでしょう。
宗教的、霊的にみれば、こういう祈り言は、人類愛的祈り言であり、そのまま光明波動と
なって、宇宙に広まってゆくので、多くの人々が、心を合わせて祈る時、その平和への効
果は絶大であると思います。
12
この祈り言を、各宗派の祈り言や唱え言は勿論そのままでよいのですから、その根本と
して、素朴な心に立ちかえって、心を揃えてやってゆく時、枝葉での考えの相違は種々あ
りましょうが、世界平和を祈るというところにおいては、全員一致するわけで、この祈り
言の中で、お互いの心が融け合い、大光明波動となって、各界をリードしてゆくことにな
ります。
後のことは祈り言を根本にして、次々と神智が湧いてくることでしょう。どうぞ、この
たびの世界宗教者平和会議を意義あらしめるために、この世界平和の祈りを、取り上げて
下さい。全員の目標を一つにするために是非是非お願い致します。
13世界平和への目標
14
宗教界への提言
白光誌昭和四十六年十一月号発表
宗教者は真実の祈りを
私は近頃、幾つかの宗教者大会に出席して、一番痛切に感じたことは、宗教者に真実の祈
りが非常に薄れている、ということでありました。もっとも私の出席した会が、世界宗教
者平和会議であったり、世界の今後の問題を取りあげる会議であったりしたせいもありま
すが、いずれも世界や日本の代表的宗教者の集まりであったのですが、宗教者の集まりなの
か、政治家や経済関係の人たちの集まりなのか、いささか困惑するような会の在り方でした。
宗教者の天命というものは、神仏と人間とを一つにまっすぐにつないでゆくことにあり
ます。神仏のみ心をあの世にもこの世にも現わしきることにあります。この現象世界の現
われに把われて、あれこれ騒ぐ以前に、心の世界で神仏にしっかりつながって、少しでも
神仏のみ心を自己の生活に現わしてゆけるようにすることが第一なのです。
それはいったいどうすればできるか、人間の本心を開発すること以外にありません。個
人個人の本心の開発はもちろんですが、国家民族や、人類全体の本心を開発しなければ、
カルマ
神仏のみ心をこの世に現わすことはできません。業に蔽われたままの心で、個人の幸福は、
るてんりんね
とか、人類の平和は、とかいったところで、業の流転であり輪廻であって、神仏のみ心が、
この世にまっすぐ現われるわけではありません。
近ごろの宗教界は、ここのところがはっきりしていないようです。こんなことは宗教入
りする最初の出発でもあり、そして終始その道を進みつづけることにもなるので、宗教者賭
の
は誰でもこの真理は心でわかっているはずなのです。その根本理念をどこかへ置き忘れて、恥
籍の鑑に終始している・この現象界の物事・事がらを主にして動きつづけているようで隷
は、とても、神仏のみ心にかなうわけがありません。
15
しやくそんがいりんねこ
釈尊は、三界の輪廻を超えたところに、実在の自分がいるのだ、ということをつねつね
くおんくおんじつじよう
説いておられたわけで、三界の輪廻の中で、久遠の平和を達成しろとも、久遠実成の世界
が開かれるともいっておられないのです。イエスでも同じことで、「我はこの世に平和を
もたらしにきたのではない、剣を投じにきたのだ」といっております。これは釈尊のいわ
こうそうねん
れることと同じで、こんな業想念欲望の世界になんで平和がくるか、自我欲望を捨てきれ
ぬままのこの世になんで平和がくるか、自我欲望を捨てきれぬままのこの世になんで私が
平和をつくれるものか、むしろ私は、そんなみせかけの平和や、みせかけの幸福などは、
一度断ちきってしまうための剣をもってきたのだ、といっているのであります。
16
砂上の楼閣
じこほぞん
イエスのいうように確かに現在までの世界は、個人も世界人類も、みな肉体的自己保存
の欲望であがいている世界です。そういう想念のままで、どうして大調和した愛の世界が
できるでしょう。どうして神仏のみ心そのままの世界ができるでしょう。現在までの世界
は砂上の楼閣のようなものです。いくら平和の塔を建てても、すぐに崩れてしまいます。
土台ができていないからなのです。イエスはその土台をしっかりつくるためには、今まで
の家庭も建物も、すべてこわしてもよい、まず土台をしっかりつくって、新しくすべてを
建て直すのだ、というのです。
こんな利己主義の自我の砂の上の土台で、自由主義になろうと、社会主義、共産主義に
なろうと、とうてい真の平和な幸福な世界はできない、というのがイエスの持論でもあり、
釈尊の悟りでもあります。まず土台をしっかりしろ、そのためには、人間の本心を開発し
ざぜんかんぼう
なければいけない、自己の本体を知らなければいけない。それには座禅観法して、自己の
本心を祈り出せ、と釈尊はいい、イエスは神のみを想え、うちなる神を想え、といずれも
祈りを強調しているのであります。据
ざぜんかんぽうくうの
ばかをいえ、座禅観法は、空になる方法であって、祈りなどではない、というお人があ恥
るかも知れません。祈りというと、神仏へのお願いごとと思い違いしているかも知れませ講
んが、もちろん本心開発という大きな願いごとはありますが、祈りとは、いのちを宣べる、17
もとくサつ
生命をいきいきと発現する方法なのです。人間の生命の元は神仏であります。空になるの
はなんのためになるかというと、三界の世界、この世もあの世をも通して、肉体や幽体の
からくう
自己から発する、すべての想念行為を空っぽにして、神仏の大生命と一体になるための空
かん
観であります。空になることを、無意識になり、なんにも無くなり、無目的になることと
間違えてはいけません。空という場を通ったとたんに、その人は神仏の大光明波動、大生
命のひびきと全く一つになるのであります。本心が開発されたのであり、仏となり、神我
一体となったのであります。
神我一体になり、仏となる道を邪魔する、肉体や幽体の想念を取り去ってしまうことが、
空になるということなので、空になろうとするその境地そのものが、祈りそのものであり、
自己を大生命に投入し、本心そのものになる行為なのであります。
釈尊は内面的にそれを行ない、イエスは外と内との両面において、祈りをなしつづけた
かんじん
のであります。その土台づくりに一番肝腎な祈りや念仏の形式的なこととして、ただいた
ほんまつてんとう
ずらに現象面の悪や誤りを正してゆこうとしても、それは本末転倒していることで、宗教
18
者の在り方ではないのです。
現象面の悪や過ちを正すことは、もちろん必要なことでありまして、私どももそのため
に働くことは全く同意であります。しかし、そういう働きをするにしても、根本に祈り心
があり、日々瞬々の祈りを土台に、神仏との一体化を計りながら、神智を受けつつ、その
道を進まなければならぬ、と私はいうのであります。そういう在り方こそ宗教者の在り方
で、政治家や実業家にも、その真理を教えるべき立場にあるのです。
人類の姿勢を正す
現在のような、個人も国家民族も、自己や自国の利害のみを主にしての動きでは、とう
ちくじ
てい世界平和は達成できぬのみか、地球滅亡の方向に逐次進まねばならなくなります。そ
ういう地球滅亡の方向から、世界平和達成への方向に人類の姿勢をかえさせるのは、今日
までと同じような根底に立っていたのではいけません。今日までの在り方は、あくまで現
象の利害関係が主でありまして、お互いが自己を守ることに汲々としていて、本心の場に
19宗教界への提言
立って、神仏の子としての兄弟姉妹の立場でものを考え行なったことは数少ないのであり
ます。
くおん
宗教者はここのところを是正し、この肉体世界の現象の利害関係を超えた、久遠生命の
理というもの、神の愛というものを、あくまで説きつづけ、明かしつづけなければなりま
せん。各国・各民族ともに、現在は自国自民族の現在の利害関係にだけ把われていて、地
球全体の平和というものが、ついなおざりになっています。気づいている人々もあるので
すが、自国・自民族の現在の利害や、感情想念による動きが大勢をしめているので、なん
ともなしがたいのです。国家と国家の政治の力は、いずれも現在の自国の有利のみを思っ
て働きます。国民や民族の世論というのもそうであります。
アメリカをみても中国やソ連をみても、わが日本においても、いずれの国家も民族も、
つねに、自国自民族の現象の利害のみを踏みしめての政治を行なっているので、神仏のみ
心による政治などは行なわれていないのです。そこに宗教界の働きかけが必要なのです。
宗教者は口で真理を説くだけで何も行動に現わさぬ、という抗議に対抗するように、唯物
20
思想家と同じような基盤に立って、世界の問題に乗り出してはいけないのです。宗教界は
あくまで、唯物思想家や行動家のように、あちらが悪いから、こちらを助けて、あちらを
叩け、というような、対立抗争の渦の中で働いてはいけません。ここに絶対必要なのが、
祈りであり、祈り心なのです。宗教者が祈りを忘れ、祈り心を無くして、唯物論者のよう
に、現象の世界の是正に立とうとしたら、もう宗教者としての存在を失ってしまいます。
宗教者の行動とは
ふ
眼に触れ、耳に聞く、世界各国の弱者や敗者の窮状を、愛ある人は見るに忍びません。
そこで心ある人々は立ち上がります。唯物的な人の愛は、現在の現象の上にのみそそがれ
ます。そして、彼らを助けるためには、ヤツラを倒せ、ということになってゆくのです。
みずか
宗教者は、どんなことがあっても、そのようなことではいけません。宗教者はまず自らが
神仏と一体となる祈りをしつづけるのです。祈りつつ念仏しつつ、その行動を起こすので
す。宗教者の働きは、つねに、神仏のみ心を基盤としてあるのであり、神仏のみ心を自己
21宗教界への提言
の行動として起こすのでなければならぬのです。
宗教者はすべて祈りによって人々とつながり、人々の心を開くのです。人々の心を開か
ないで、なんで世界の平和などありますか。窮乏者が、ただその場だけを救われたとして
カルマ
も、彼らの心の中の業想念が去らなければ、またもとの窮乏をつづけることになります。
カルマ
宗教者の天命は、世界人類の本心を蔽う業想念を浄め、悪の種、不幸災難の種である、
自己や自国の誤った生き方を悟らせることにあります。それは神仏との一体化による祈り
の行動より他にありません。祈りつつ物を分かち、智慧を分かつのでなければ、とても世
界は立ち直れません。
ただいたずらに政府をひぼうし、大国に抗議したとて、それはなんの効果ももたらさな
いことなのです。日本国内においても、世界の随所においても、生き方、在り方を是正さ
せる動きをする必要があることは充分に認めますが、それと同時に、宗教界そのものが、
もっと心の底から一つになって、地球人類の光明化のために働く、強い基盤をもたねばな
らないのです。22
表面的に幾つかの会をもっても、それはただ単なる表面的な集まりであって、心の底か
ら一同のひびきが一つになっている、という感じを、私はまだ受けておりません。それは
ごと
宗教界に全く基盤を一つにする祈りがないからなのであります。一つの祈り言で心が通じ
合うという、そういう祈り言がないからなのです。
一体、神仏が今人類に何を望んでいるか、そして未来においても何を希望しているのか、
あいあい
そのことを心を静めて考える必要があります。人類が相愛することであり、絶対なる平和
であることは、いなむことはできません。何故ならば、人類はすべて神の子であり、兄弟
姉妹であるからです。兄弟姉妹の争いを神が好むわけがありません。人類の今日までの争
むみようカルマ
いは、神仏のみ心を離れていたことによって生じた無明の子、つまり業が神の光明によっ
て、消されてゆく姿であるとともに、人類が平和というものがいかに大切であるかを、身
し
心に沁みて悟り得る大きな経験であったのですが、もう核兵器による戦争を目前にして、
また大天変地異が予測される今日に至っては、その実現を急がねば地球壊滅という、運命
の瀬戸際に人類は立たされているわけです。
23宗教界への提言
24
宗教界は心を一つに
そこで、平和、調和ということが何をおいても一番大事な人類の目標になってきていま
す。それは神のみ心も人類の心も全く一つのものであります。ここにおいて宗教界が心を
一つにして働かなければ、いつ真実の働きができるというのでしょう。宗教界の働きは先
ほどから申しているように、神仏のみ心と人類の心とを全く一つに結ぶことにあります。
神仏と人類の心を結ぶ唯一の行ないが、祈りを根底にした行ないです。その祈りを、しか
も宗教界はいうに及ぼず、いかなる人々も心から行なえる祈りをすることが必要です。私
はそれを心を一つに世界平和の祈りである、というのです。個々の宗教宗派の祈りは勿論
そのままで結構なのですから、その根底に、あるいはその上に宗教界全体のひびきを一つ
にする
「世界人類が平和でありますように!」
ごと
という、単純にして卒直な願いの言葉を祈り言として、宗教界全体が、日々瞬々刻々、
唱えつづけたらよいと思うのです。その人類愛の祈り言、神仏と一つ心の祈り言は、宇宙
ことま
全体に大光明としてひびきわたることは確かなのです。コ=貼は即ち神なりき」という聖書
の通りなのです。こういう基本的なことを宗教界はなおざりにして、一体何ができると思
うのでしょう。政治のことは政治家が、実業のことは実業家が受け持っているのです。宗
教界はあくまで、神仏のみ心を心として働かないで、どこに自己の存在があるというので
しょうo
おの
こういう祈りを繰り返しているうちに、自ずと宗教界の心が一つひびきになってゆくの
です。そこからはじめて、神仏の平和への道が開けてゆくのです。こんな大事なことをお
ろそかにして、いくら宗教者世界平和大会をやっても、平和への道は開かれてはゆかない
のです。私はそのことを明言致します。このことは日本の仏教者の一部や、新宗教者の一
部の人々は知っているのですが、西欧諸国の誤ったキリスト教者や、その影響を受けてい
る東洋のキリスト教者は、よくこの真理を知っていないようなのです。
永遠の生命に立っての宗教運動でこそ、世界平和を実現できるのであって、永遠の生命
25宗教界への提言
と現象の世界とを断ち切って考え、行動している人々は、それが人類愛から出ている行な
はず
いであったとしても、神のみ心を外れていってしまうのです。永遠の生命とは、神仏のみ
心そのものであるとともに、人類そのもののものでもあります。この現象の肉体人間とし
ての人類の生命は、単にある瞬間の出現でしかありません。
永遠の生命というものが、神仏そのものでもあり、人類のものであり、そして個々の人
間のものでもあって、肉体人間としての生命は、単なるある時間的経過の現われでありま
とも
す。真実の人間は神と倶に、個性をもって永遠に生きつづけてゆくものである、という真
理の場に立って、この現象界においての宗教運動でなければ、唯物論となんら変わるとこ
ろのない働きになってしまいます。
26
対立抗争を越えた在り方を
世界の平和を欲っする人が、他民族や、主義主張の相違によって、その相手を抹殺しよ
うとする行為に出てよいものではありません。米国の一部のキリスト教牧師は、共産主義
国を悪魔の如く思い、ベトナム戦争の継続を主張し、中土ハとの対立強化を叫んでいます。
「汝の敵をも愛せよ」といったのはキリストです。その弟子である牧師が、いかに自国や
自己の思想に対立する、不利益な相手とはいえ、戦争によるぼく滅を叫ぶのは、一体どう
いうことなのでしょう◎
たぐい
日本にもこういう類の宗教者がおります。神に対するにサタンという思想がそもそも誤
りでありまして、この大宇宙はすべて神そのものの生命の現われでありまして、神の他に
サタンなどあるはずのものではありません。神はすべてであり、人類はすべて神の子なの
であります。ただ、神の子なるを知らぬ、肉体人間としての生活に新しい魂の人間が、唯
物主義になっていて、神のみ心の愛から逸脱し、サタンの如き行為をしているのでありま
すが、これは神の子として、目覚めたる人々の祈りの行ないによって、いつかは魂の生長
を見、神のみ心の軌道に乗ってくるのです。
サタン
神と悪魔、味方と敵としての対立抗争によって、これまでの歴史は戦争につづく戦争を
つづけてきたのです。この思想の対立がつづけば、やがては核戦争により、あるいは天変
27宗教界への提言
地異による地球絶滅の日がやってくるのです。今日までの共産主義国の在り方は、つねに
非情であり、残虐であります。安心して手を組めぬ相手であることは確かです。しかし、
自由主義国、社会共産主義国と二つに分けて考えて、このまま対立抗争をつづけてゆけば、
必ず大きな衝突を起こすことは間違いないところです。
共産主義者も、自由主義者と同じように、多くの人員があるのです。こちらがあちらを
敵視すれば、あちらもこちらを敵視します。こちらで自らを正義と思えば、あちらも自ら
を正義と思うのです。思想の対立というものはそういうものです。それに利害関係がとも
なうのですから、一日も早くこの対立感情を改めねば、どんな政策も戦争を阻止すること
はできません。
共産主義者を敵として憎み、その撲滅を計り、自由主義を誤りとみて、その消滅を計る、
それがつねに暴力や、武力を伴うのですから困るのです。現状はつねにこの状態です。真
の宗教者は、一体どちらに立ってたらよいのでしょう。真の宗教者は、こういう対立抗争
の場に立ってはいけないのです。対立抗争を超えた、神仏のみ心の中に立っていなければ
28
いけないのです。その在り方が祈り心であり、たゆみなき平和の祈りなのです。
いな
ですから、日本人否世界中の宗教者が、世界平和の祈りによって、心を一つにして立つ
時、神のみ力はこの地上に溢れ、世界の人々の心から憎しみや、対立の想いが消えさって
ゆくのです。何故ならば、神は愛であり、神のみ心と一つの祈りに生きる者たちの上に、
その大きな力をそそぎかけて下さるからなのです。
宗教者としての天命を生かそう
ただ、観念的に神仏の存在は認めているが、実際行動においては、少しも神仏の力を認
めていない、宗教者を私はしばしばみかけるのですが、宗教者は、この世の人々に、神の
存在を知らせ、神の智慧、愛、全能力を知らせる天命をもたされているのであることを忘
れてはなりません。
祈りによって生きながら、それで世界が滅びるなら、それこそ、それも神のみ心であり
ましょう。イエスのいうごとく、すべての力をつくして神を求め、そしてその答が、肉体
29宗教界への提言
ゆうかいれいかいしん
の死であり、地球世界の滅亡であったら、その人は、この地球人は、みな幽界、霊界、神
かい
界という、肉体と違った世界に生きることになるのでしょう。あるいは異なる星に生まれ
変わるかも知れないのです。
「真理(神のみ心) をそこなうものがあれば、それが眼なら、眼をえぐれ、腕なら、腕
を斬れ、それでも地獄に落ちるよりましだ」とイエスはいっています。神のみ心の愛と調
げどう
和にそむいて、この世の建て直しをしようなどとすれば、それは神のみ心を外れた外道の
行為で、地獄に落ちるより仕方のない行為なのです。宗教者は心焦ることなく、神仏だけ
を求めつづけ、神仏のみ心を帯して、この世の行為としなければなりません。私はいつも
その真理をかみしめかみしめて、世界平和の祈り一念に生きているのです。
30
神と人との一体化を
私は先年、ハワイ・米国大陸からヨーロッパを世界平和の祈りをつづけながら廻ってき
ました。楽園といわれたハワイにも近頃は悪い人がちょいちょい出るといいます。世界中
のどこでも、悪や不幸が表面にたくさん現われています。これは今つくられたものが今現
かこせあくいんねん
われたのではなく、古い歴史的なもの、仏教流でいえば、過去世からの悪因縁の現われた
もの、私流にいえば、過去世から、神仏のみ心を外れていた想念行為の消えてゆく姿とし
て、表面に現われてきたものであるのです。ですから、現在の悪や不幸や災難を、過去か
のぞ
らのつながりとしてとらないで、現在だけでこれを取り除こうとしても駄目なのです。こ
の悪や不幸や災難が現われてきた原因にさかのぼって考え、こういう悪や不幸や災難の再
び現われてこぬ道を、人類が踏み出してゆくように指導してゆくのが、宗教者の天命なの
であります。
米国の現在のあらゆる面での混乱状態も、中近東諸国の問題も南ア、インドや東南アジ
アの問題も、すべて、現象に現われたことだけに取組んで働いても、到底根本的な幸せを
つかみ出すことはできません。人類は人類だけの力では何事も為し得ないのだ、という謙
虚な気持になって、そこから、人類発生のつまり、生命の生みの親である、神とのつなが
りを真剣に考え、神の力によってのみ人類の真実の栄えはあるのだ、というところに突き
31宗教界への提言
当らねばなりません。
ここではじめて神との一体化ということが如実な問題となり、神の力と人類の力とが一
つになって、人類のより以上の進化がなされるのであり、世界の平和が成り立つのです。
ぎよう
この根本の行が祈りなのであります。宗教界が力を合わせて、もっと真剣に世界平和の祈
りをなしつづけなければ、とてもこの地球世界は存立してはゆきますまい。人類の力で、
どうにか、世界大戦は防いでゆけたとしても、天変地異は一体どうして防ぐのでしょう。
誰も天変地異を防ぐことはできません。ところが、天変地異も人類の過去世からの業の消
えてゆく姿であって、これを人類の力で防ぐことができるのです。キリストがいっていま
まこと
す。「人間に真の信あらば、山に海に入れといえば、山も動かん」ということです。人類
が真実に神への一体化の祈りをなし、調和した心境を保つようにして、日々瞬々の行ない
をしていれば、神の力が地球に働いて、天変地異も防ぎうるのです。
わら
宗教者にしてこの言を啖うものは、神仏を知らざるものであり、宗教者として資格なき
ものです。神は、神々はつねにいきいきとして働きつづけているのであります。この真理
32
を世界に知らせるものが、真の宗教者なのです。この危急存亡の時、宗教界は、いたずら
ありゆう
に政治界や経済界の亜流のような働き方をしないで、宗教界でなければできない、神と人
類との一体化運動、世界平和の祈りをこそ、心を合わせて行なうべきなのです。後のこと
はその根本の行に合わせて随時、随処において、神のみ力をいただいて行なってゆけばよ
いのであります。
とも
神はつねに我らと倶にあります。神の実在を堅く信じ、神の愛を信じきってゆくところ
に、宗教界の天命が生きるのであり、世界人類の救われがあるのです。そのさきがけをま
ず我々日本の宗教界が為すべきなのです。私は声高々と世界平和の祈りの実践を宗教界に
むかって叫びつづけます。
世界人類が平和でありますように……
33宗教界への提言
34
日本政府と国民への進言
白光誌昭和四十四年六月号発表
日本の現状
沖縄復帰問題と、七〇年安保問題は、日本国内を騒然とゆさぶりつづけているのですが、
のんき
一般国民は意外と思う程、呑気に構えていて、自分たちの生活だけを唯一のものとして、
国事にはあまり関心を持たず、ただその時々の事態において、政府をそしり、全学連の行
動に眉をしかめている、というだけなのであります。
全く、国と個人とが離ればなれになっている状態で、自分たちの国家を、自分たちで護
りつづけていこうという意志が一体あるのだろうか、と思われる程個人主義的であり、利
おか
己主義的であるのです。要は自分たちの生活が何もの何事にも侵されず、無事に過ごして
ゆかれればよい、という願いがあるだけなのです。また保守的な人は、国を憂うる心はあ
りますが、積極的に国家護持の行動を起こす人が少ないのであります。
それにひきかえ、反政府的な革命的な人々は、米国一遍倒の日本政府の転覆を計って、
あらゆる面で、そのことだけにすべてをかけた活動をしているのであります。その中に、
親ソ派の人々も、親中国派の人々も、全学連を手先に使っている革命一本槍の国家破壊主
義者もあるわけで、保守派の人々や一般国民の消極的な態度や、個人主義、利己主義的な
在り方ではとても太刀打ちできぬ烈しい活動力をもっているのです。言
進
日本は現在、世界の中でどんな立場にあるかと申しますと、米国を中心とした自由主義吻
陣営の一員であります。しかも、その工業力においても経済力においても、また国民の知舐
と
能程度においても、アジア堕でありまして、米国が目取も頼みにでき得る国であるのです。鵡
その重要性はベトナムどころの騒ぎではありません。躰
ですから、米国にとって自由主義陣営にとって、日本が自由主義陣営を離れ、共産主義
35
陣営にでも走ったら、それこそ大変な脅威になってしまいます。そこで米国は、日本のた
めに今日まで何やかと経済的にも軍事的にも、日本を護りつづけてきているのであります。
敗戦以来二十余年、日本が米国から受けた恩恵は並々ならぬものがあると思います。それ
が、米国自体を護る一つの手段としての援助であったとしても、今日の日本の工業力や経
済力の発展は、米国に負うところが多大であったことを否定することはできません。
もし仮りに日本の占領がソ連によってなされていたとしたら、一体どのようになってい
ほんぼう
たことでありましょう。今日のように自由気ままな、それこそ奔放なまでな自由な生活が
できていたであσ ましょうか。ソ連に占領されていた国々や、共産主義国の実態をみれば、
この差異がよくわかります。国民は軍隊に徴集され、言論は抑圧され、日本の全学連運動
ひつじよう
のような運動をすれば、それこそ、即座に極刑に処せられることは必定です。軍隊は嫌だ
も、自由を縛られたくないもありません。国家権力のおもむくままに、国民は動かねばな
りません。
36
共産圏の実体
米帝国主義者とか、日本帝国主義者などといって、日本を左翼化しようとしている人々
は、そういう共産圏の実態を知っているのでしょうか。いちいち国家の権力に反抗する傾
向の人々こそ、真先に血祭りにしてしまうのが、共産主義国のやり方であることを、この
人々は知っているのでありましょうか。かつてのソ連において、共に革命運動を遂行した
同志たちを、実権を握った人々が、次々と処分していったことや、現在の中国が、これも
同じように、昔の友を今日の敵として追い落してしまった事実は、国家権力を護るために
は、いかなる非情も辞さない、という冷酷無比なる在り方でありまして、これが共産主義
を遂行するためには、どうしても通過せねばならぬ関門となるのであります。こうして追
い落される中に、日本の左翼陣営の人々が入らないと、誰が保証できるでしょう。処分さ
れ得る側に入り得る可能性のほうが多いことは、ソ連内部の今日までの在り方、チェコや
その他の社会主義国に対するソ連の身勝手な態度や、中国の今日の造反運動などで、かな
37日本政府と国民への進言
りはっきりわかるのです。
要するに彼らには、自分たちの国家権力に反逆するような傾向を持つ者は、一人もいら
ないのです。したがって、日本なら日本の国家権力に反逆してきた左翼主義者たちが、真
実自分たちの仲間として、一つの政治形態に入ってきた場合は、その人たちの、自己の意
志に反する事柄には、あくまで反抗するという、心の傾向に対して、非常な警戒心をもつ
わけで、自国のため、利するだけ利したら、もうそういう面倒な仲間は不要とされるので
あります。その末はいわずともがなわかりきった結末をたどることになるのです。
ですから、日本に革命を起こして成功した場合、ソ連なり中国なりの指導者は、日本の
革命成功を起点として、日本革命の成功者である左翼主義者は、もう自分たちの味方では
なく、自分たちへの反逆者となる傾向をもつ者たちとして、敵視することになるのであり
ます。
日本の戦国時代の武将たちが、敵方に利益で誘って裏切者をつくり、その裏切者を使っ
て自分たちに有利に事を運ばせ、後にはその裏切者を上手に処分してしまう、という事実
38
が多くありました。そういう点に共産主義国のやり方も似通っているのです。
もっとも宗教的な因縁因果、輪廻の法則からいっても、国家を売った者は、やがて自分
も滅びることになるのは当然なことなのですが、国家を売るとは自分では気づかずに、国
家を売っている人々の多いのには、全くやりきれぬ気がするのです。それはあに、共産圏
にのみではなく、米国に対してでも同じことでありまして、叡智の働かぬ在り方は、とも
みずか
するとそういう事態に自らを追いこんでしまうことになるのであります。
日本の一般国民が、もし左翼主義者の煽動に乗って、米国と日本とを引き離すような運
動をしたら、一体どういうことになるでありましょうか。例えていえば、安保条約を破棄言
進
して、自衛隊だけで日本を護るようにした場合。これを、一番喜ぶのは、ソ連中国北鮮と吻
いう、日本周囲の土ハ産主義諸国です。何故かといえば、彼らにとって目の上のこぶは、米鴎
と
国の軍事力なので、その軍事力がなくなったとなれば、それこそ自由自在です。彼ら共産瑚
主義国にとって、日本の国土は、それこそ礁の出る程欲しい国です。日本の工業力を使い、躰
勤勉なる日本人を使ったならば、どれ程生産が増強され、国力が増大されるでしょうか。39
その上韓国をはじめアジア諸国の上に、強大な圧力をかけることができます。どんな手段
をとってでも日本を自分のものにする、という想いはソ連中国北鮮共に非常に強いもので
あるのです。ちなみに「月刊ペン」より次の文章をかりてみましょう。
40
元禄気分に浮かれている日本
「月刊ペン」昭和四十四年五月号より
私たちは、ほとんど何も知らずに毎日の生活を送っている。関心事といえば、自分の行
動範囲内のことに限られている。一部の人たちは、日本が今どうなっているかを考え、不
安や緊張や落胆や希望を表明するが、社会の中枢を占める中間層をゆり動かすまでには至っ
ていない。大部分の人は、国防論議よりも税金論議のほうが身近かであるし、繁栄の中で
の安泰な生活を強く望んでいる。
だが、もしひとたび侵略を目的とした他国の軍隊が、この元禄気分に浮かれている日本
に押寄せたらどうなるだろうか。そんな無法はありうべからぬことだと断言できるだろう
か。
共産主義国の目的は明白である。彼らは他の何物よりも「領土」をドン欲にほしがる。
歴史をひもとくまでもない。近くは第二次大戦末期に不可侵条約を一方的に破棄してわが
国の北方領土を持っていってしまった事実がそれである。
あるいは現在紛争中のウスリi川における中ソの、まったく異常としか思えない領土執
着ぶりがそれである。東ベルリンはいうまでもない。彼らは「自分の土地」にするために
は、ほとんど手段を選ばないことが歴史で実証されているのである。彼らの「領土拡張絶
対主義」を認識せずに、国防論というのは成り立たないのである。
わが国には自衛隊がある。その戦力は世界のランキングで五位とも七位ともいわれるが、
しかし、肉眼で見ることができるほど近くに存在する国の戦力には遠く及ばない。もし自
衛隊だけの戦力で立ち向ったとしても、
「荒っぽい推理だが、二十四時間ももたずに木ッ葉みじんだろう。これは核なしミサイ
ルで戦った場合の話で、核が登場すれば三十分以内に日本人は全滅してしまう」(軍事評
41日本政府と国民への進言
論家)
国家予算の八パーセント程度の国防費の実態がこれである。つまり相手がその気になれ
ば、一瞬で踏みつぶされてしまうのである。これでは砂上のマイホーム主義ではないか。
安泰な生活というのは、自らの手で、その安泰を守らなければ維持することはできない。
全世界に対して完全中立を宣言したスイスですら、国家予算の三十三パーセントを国防費
にあて、中立を守らんがために自国を防衛しているのである。
42
ずるい日本人
「ずるい日本人」という評論が、このところアメリカやヨーロッパのマスコミに登場し
ている。三月十四日の読売新聞でも獅子文六氏がそれを書いている。これは中国料理店
「留園」の主人公盛さんが他誌に表わしたものを引用し、硬骨の獅子文六氏が痛く恥じて
いるものだが、その主旨は「富国他兵」である。
『日本が軍備はアメリカにおんぶして、金もうけに余念がないのは、第三国人からみて
もみっともない。民族の気骨がむしばまれるというのである。こんな言は日本人の口から
出るのが当然だが、誰も言わない。なぜかタブーになってるらしい』
つまり現在の日本は、他国の兵によって安全を守ってもらいながら、ひたすら金もうけ
に走りまわっているのである。他国から見たら、ずるい日本人という批判をしたくなるの
も無理はない。しかもその上、国防論を語るのをタブーにしている。祖国愛のない民族は
存在しないという定義はあるが、この定義も日本人に関しては怪しくなりつつある。
*
反体制の人間は、ここを先途と安保破棄を叫ぶが、それでは、もし安保がなくなって日
本が丸裸になったとき、現在私たちが得ている繁栄と平和が少しも変わることなく続くと
いう保証を、その人たちはどこで得ているのだろうか。
いまアメリカ国内でも、日米安保のあまりにアメリカ一方的な義務負担に非難の声が起
こっている。なぜアメリカは、そこまで日本に気を使う必要があるのかという社説も登場
している。またアジア諸国、とりわけ準戦時態勢の韓国、国府などは、公式に発言すると
43日本政府と国民への進言
内政干渉になるので慎重だが、七〇年安保を予想以上に重要視している。それらの国々に
とってみれば、日本が丸裸になってしまうことは、アジア集団防衛計画の大きな前提を失っ
てしまう結果になるからである。
この辺でタブーからのがれ、私たちは大きな目で日本の現実と未来を見きわめ、自分た
ちの国は自分たちで守るという鉄則について語り合うべきではないのか。左翼、右翼の判
別をしてよろこんでいる「思想アレルギー時代」から一歩前に出て、私たちの安住の地を
いかにして素晴らしい国に造りあげるかを真剣に考えるときが来ていると思う。
*
「安保が存続しているあいだに、早いところ日本は自衛するのかしないのか決めるべき
だろう。ずるい日本人といわれたついでに、もうしばらく在日米軍に国を守ってもらい、
その間に儲けるだけ儲けてやろうなんていう量見の日本人がいたとしたら、もう終りだ。
日本は守る価値があるからいうのだ。こんなに素晴らしい国はない。だから皆で守るべき
なのだ」(防衛庁記者E氏) 引用終り
44
地球を平和にするための責任がある
どうでした。こういう論を読んでみると、日本が現在大変な立場にあることが、おわか
りになると思います。現在の自衛隊だけなら、共産主義国から、着々と彪大な武器をつぎ
こんで、ゲリラ部隊をつくり、国内からと国外からと同時に戦いをはじめたら、日本は一
日にして共産主義国に占領されてしまうでしょう。その時に当って米国軍隊を頼んでも後
の祭で、ベトナム戦争の二の舞がそこに起こり、第三次大戦は日本からはじまってしまう
ことになります。
安保を破棄して、こういうような事態になることは、現在の日本人の保守的な性格から
ほとんどないと思いますが、一般国民があまりに自分たちの生活や遊びにだけ心を奪われ
ていますと、いつの間にか、左翼主義者の実行力の前に膝まついてしまう、ということに
もなりかねます。だからといって、私が再軍備論者というのではありません。私はあくま
で「祈りによる世界平和運動」の提唱者であり、実行者であるのですが、私の申し上げた
45日本政府と国民への進言
いことは、やはり自分たちの国家は自分たちで護らなければならない、ということと、地
球人類の一人一人である私たちは、あくまで、この地球を平和にするための責任をもち、
そのための精進努力をはらわなくてはいけない、ということなのであります。
日本が共産主義国に占領されれば、これは忽ちに米国と共産国との戦争となり、第三次
大戦となるのであって、日本は勿論、地球全体の滅亡は時の問題となるのです。日本はベ
トナムどころではない、韓国どころではない、その重要性において、その在り方いかんに
よって、正に地球世界に完全平和達成のメッカとなるか、地球滅亡の拠点となるか、この
二つの道の一つを取らねばならないのです。これは二つの道のどちらかを取るというので
はなく、絶対に一つの道、世界完全平和達成の道に向かって日本は進まなければならない
のです。
これは何人といえど否定するものはありますまい。米国との安保条約を破棄して、現在
の自衛隊一本でゆけば、前記のようなことになりかねないのですが、また、安保条約を破
棄するかわりに、自衛隊を正式の軍隊にしたらどうか、自分の国は自分たちの力で護る、
46
ということに決意して、再軍備に踏みきったらどうか、ということになります。本格的な
軍備となれば、核装備をしないでいても、それは彪大な費用をかけねば、日本周囲の共産
主義国から攻撃意欲を削いでしまう程に強力なものにはなりません。現在でも税金が高い
悪税だとか、賃金が安い、とごとごとに争議をしているような日本国民が、賃金はそう上
がらずに、現在の何倍の税金を払ってまで、再軍備に踏み切れるだろうか、と私は頭をか
しげざるを得ません。真の平和国家になるには軍備はいらぬ、という論とは別に、軍備を
しようにも、国民の心がこう自分勝手な利己主義ぞろいでは、とても強い軍隊はつくれな
い、と私は思うのです。国民の心が、真実に自分たちで国を護るのだ、という気持一つに
結ばれていれば、枝葉の問題でそれぞれの異見はあっても、そういう団結した心は外国に
対する大きな防衛力となるのでありまして、国民の心が自分たちの利害問題を主にして動
いていて、国家を護るという気概が無くては、平和憲法でも、再軍備でも、どちらもただ
単なる空念仏に終わってしまいます。要は国民一般の気構えと、国民の国を護る気骨を持
たせてゆくような政府の政治の在り方が大事なのです。
47日本政府と国民への進言
48
自衛隊とソ連、中国、北朝鮮の軍備
ちなみに、日本の自衛隊と、共産圏三国の軍備をここに示して比べてみましょう。
極東のソ連軍の配備は、約二一二万人一七個師団(陸上部隊だけ)海軍は約九百隻、六〇
万トン。このうち潜水艦は九〇隻前後。航空機は約二八〇〇機、このうち五〇〇機が爆撃
機。
このような数字のものが樺太から千島、沿海州、バイカル湖付近までの間に展開してい
ますが、このソ連内には当然中距離弾道弾の基地もあります。
少なくとも極東ソ連領内に日本、中国等をその射程内におさめる地対地ミサイルがある
ことは間違いなく、この日本がソ連の核弾頭つきのミサイルの射程内にあることを、認識
すべきであります。
北鮮は、陸軍の勢力として一八〜九個師団と六個師団とがあり、兵力約三五万五〇〇〇
人。このほかに保安隊が約十万人。海軍は約一四〇隻。潜水艦二隻。航空機は五〇〇機。
中国は、陸軍が一二〇個師団、総兵力約二二〇万人、このほか公安軍として三〇万人。
海軍は八四〇隻。駆逐艦二〇隻前後。潜水艦三四隻。この中にはミサイル発射潜水艦も含
まれています。航空機は五〇〇機、海兵隊二万八〇〇〇人。空軍は第一線機として約二〇
〇〇機、このほか軽爆があります。
日本は、陸上自衛隊が十三師団一五万六〇〇〇人。海上自衛隊は五〇〇隻。潜水艦八隻。言
進
航空自衛隊二〇〇機(戦闘機五三〇、輸送機五〇、練習機三九〇、ヘリ三〇、ナイキ七吻
○)娼・7月現在鴎
紐
政
こんな工合です。日本のほうでは、共産主義諸国に対して、なんの野心もありませんし、躰
敵対感情もありませんが、相手側は野心も充分にあり、敵対感情もあります。とすると、49
日本の今の自衛力など問題でなく日本は相手方三国に同時に対せる程の軍備がなければな
りません。それこそ、今のような甘っちょろい国民感情では、とても現在の自衛隊に毛の
生えたような軍備しかできますまい。国民生活を昔の戦時中のようなうんと切り下げたも
のにでもしない限りは、共産圏三国に対抗し得る程の彪大な軍事費が出るわけがありませ
ん。
現在では、どう考えようと、米国と手を組んでの防衛でなければ、日本を護り切ってゆ
くことはできない状態であることが、こういう風に共産圏の軍備とくらべてみるとよくわ
かります。ソ連や中国に日本を攻めてくることはないなどという考えは、それこそ甘い考
えであって、今日の日本人の心の状態では、どこからでも敵は攻めこんでまいります。何
故ならば現在の日本人の心には、真剣に生命がけでの平和運動がないからです。自分たち
の心の中に常に不平不満や争いの想いを持ち、国のことより先ず自分のことだけを考え、
自分の生活を護ることに汲々としていて、国の運命のことなど、めったに考えない。とい
う人々や、国の運命や人類の行く先を考えて、心細くなるけれど、どうしたら、自分が国
50
家や人類の平和のために役立つことができるか、ということを考えようともしないし、そ
のために働こうともしない、という怠惰な態度の人々では、とても心の世界でも、敵をよ
せつけないという状態ではありません。
まず自分の心の平和から始めよう
私が常に考え、実行していることは、先ず自己の心の中から、戦争になる原因の争いの
想いを無くすこと、すべてのものごとに対する不平不満を無くすことです。国家や世界の
在り方に対して種々の意見をもつということは、個人の不平不満とは違いますから、そう
いう意見や案は大いに持って結構ですが、常に心の中を世界人類の完全平和達成の想いで
一杯にしておくことが必要なのです。人間の想念や願いは、いつかは達成されるので、常
に多くの人々が、世界人類の完全平和を心で想っていれば、やがてはその想いが達成され
るのです。それを最も強く高めあげたのが世界人類が平和でありますようにからはじまる、
世界平和の祈りなのであります。
51日本政府と国民への進言
ただ、祈っていればそれでよいというのではなく、祈りを根抵にしての日常生活は、い
つの間にか、人々のためにも国家社会のためにもなる行為として動き出しているし、自分
の心が、いつの間にか、不平不満や争いの想いを超えた明るい気持になっている、という
工合に、自己の行動として外に現われてくるのです。祖国愛の気持も、人類愛の気持も、
世界平和の祈りをしているといつの間にか強くなってきて、ただ自己の日常生活だけに追
われている人とは全く違った、高い人格的雰囲気を持つようになってくるのです。
そういう、神との一体化の道こそ、安保問題や再軍備よりも、もっと根抵になければな
らぬ、日本人の心構えであって、いたずらに現象界の社会的動きに、心を惑わせていては
いけないのであります。
世界が平和でなければいけない、ということは頭では誰でもわかっているのですが、こ
れを理論としてではなく、実際につくり出してゆくのは、やはり完全平和の本質である、
神のみ心と一体になる道に、自分自らが入ってゆくことが第一です。そして、自分と国家
と人類とを一つに結びつけてゆくことが必要なのです。国家や人類を離れた、自分という
52
個人がこの世に存在しているのではありません。自己は、人類の一員としての個人であり、
日本という国家の一員であって、たった一人の個人としては、生くるすべはないのです。
そういうように、この地球界の人間はできているのです。国家も人類も、一人一人の連帯
責任において存在しているのであって、国家の運命は政府の責任だけのものではないので
す。
そこで国家の運命は、国民一人一人の心構えにかかっているのでありますから、国民の
みずか
一人一人は、自らの責任において、国家の行く道をきめるべきなので、いたずらに右に走
り左に走るということは、厳にいましむべきなのであります。
政府首脳部への進言
現在の国際情勢では、どちらを向いても危険性のないことはありません。どちらを向い
ても危険性はあるのです。絶対に危険性のないことは、神のみ心の中に入りこんでしまう
ことだけです。神のみ心に世界平和の祈りによって入りこみながら、現実世界の動きに対
53日本政府と国民への進言
処してゆく、ということこそ、日本人一般国民のなすべきことであって、一部煽動家の煽
動に乗って、国内を二分三分せぬよう気をつけることです。外国にあなどられ、さげすま
れないためには、自己の立場をきちんと定めておいて、私共なら、祈りによる世界平和運
動という立場で、あくまで戦争やすべての争いを排除し、世界中を平和の祈り一本にする、
という立場を堅持してゆくことが大事なのです。
そういう立場が定まっていないと、常に想いが揺れ動いて、安心立命の生活ができ得ま
せん。ところが肝腎の政府首脳部は、この日本の確固たる立場を表面に出して発表したこ
とがありません。その時々の米国の動きに合わせて、それに同調する政策を取ったり、国
民輿論に上手に合わせて弁明したりするような、肚のすわらぬ政策ではなく、米国に対し
てもソ連中国に対しても、日本の立場はこれなんだ、と常に主張できる立場を、はっきり
持つことが急務だと思うのです。
自己弁明ではなく、真実に国民を納得させる心というものを、政府首脳部は、一日も早
くはっきりさせて置くことです。安保の問題しかり、沖縄問題しかり、ただいたずらに、
54
その場限りの口当りのよいことをいうのは、ますます国民にあなどりを受けることになる
とあた
ことを知らねばなりません。常に生命を賭し、職を賭して政治に当れぬようでは、共産諸
国の指導者の冷笑を買うだけです。
平和憲法を変えぬなら変えぬように、日本は平和憲法を持つ唯一の国であることを、何
事にかけても表面に出して、米国とでもソ連とでも中国とでも話合って、その点にかけて
は一歩も退かぬ、という気位を持たねば、後の交渉全部がなめられてしまうことになりま
す。また平和憲法に変える個所があるなら、その変える個所をはっきり国民に明示して、
国民の輿論に問うてみたらいかがなのです。
何事も正邪善悪をはっきりさせて、枝葉の政治的な技術の面では、はっきりさせ得ぬこ
ともありましょうが、根本的なことははっきりさせ、信賞必罰の確固たる態度でゆくこと
によって、国民は政府を信頼するのであって、そこが不明朗ですと、左翼の煽動に乗りや
すくなってしまうのです。
自己の信念とすることが国民の反対に合ったら、いさぎよく首脳部の席を下りて、他の
55日本政府と国民への進言
ゆず
保守派の人に政権の座を譲ればよいのです。そういう首脳部の態度がつづけば、国民は保
守政権に対して大きな信頼をかけることになってくるのです。保守党の評判が極端に悪く
なって、国民が左翼化してゆくことが、日本にとっても世界にとっても、一番の悲劇であ
るのです。その点をよくよく考えられて、根本をしっかり、はっきりと政府首脳部は定め
てゆかれることが大事なのであります。
国民だとて馬鹿ではないのですから、どちらを取るかという瀬戸際になれば、保守派の
政策を取る人が多いと思います。ただその保守派の政策が、あまりにも米国の子分的であっ
たり、その場主義のものであったりすることがつづけば、次第に国民は保守政権から離れ
ていってしまうのです。ですからあまりにひとりよがりにならずに、常に真剣に神に祈り
を捧げ、世界の平和と、日本の平和と、自己の天命の達成されることを、毎日ひたすら願
いつつ政務を行なうように、首相はじめ大臣長官諸公が率先して、なられるよう祈らずに
はいられないのです。
世界人類が平和でありますように
56
日本が平和でありますように
私たち(人々)の天命が完うされますように
守護霊様、守護神様(天津神、国津神)
ありがとうございます
合掌
57日本政府と国民への進言
58
アメリカへの直言
白光誌昭和四十五年七月号発表
アメリ力自体のことだけを考えるな
今度アメリカを巡ってきて、つくづく感じたことは、アメリカは土地の広さについても、
富においても、全く彪大な国だ、ということであります。オンタリオ湖、ミシガン湖など
五大湖の広さだけでも、大海に匹敵する程でありますし、日本など、カリフォルニア一州
の中に、すっぽり入ってしまう程なのですから、驚くべき広さです。この彪大な土地と、
彪大な富とを持つアメリカが、世界の運命を握っているのも当然なことです。そして、ア
メリカの一挙手一投足はそのまま各国に影響を及ぼすことになるのですから、アメリカは
何をするにもアメリカ自体だけのことを考えて軽々しく動いてはいけないと思うのです。
常に地球人類全般の運命を考えに入れて動かなければならないのです。
みずか
ところが、現在のアメリカの政治政策をみていますと、世界平和の担い手である、と自
らが自負するような、そうした大義のために動いている、という感じが非常に薄いのです。
何をするのにも、アメリカ自体の面目とか、アメリカ自体の経済関係で動いているように
諸外国にはみえるのです。アメリカ自体の経済関係というより、或る一部の軍需産業者の
利益のために動かされているように外国からみえるのです。その一つの例は、カンボジア
にアメリカが出兵したことによって、ニューヨークの株価が急落したことです。これは経
済界全般も国民も、戦争の拡大に対して恐れを抱いており、好意をもっていないというこ
との証拠です。この事実はアメリカばかりでなく世界的な事実です。
一部の軍需産業によって利益を得ている、いわゆる戦争屋と呼ばれる人々のみが、常に
世界が戦争状態にあることを喜んでいるだけで、世界の大半の人々は、戦争状態の無くな
ることをひたすら望んでいるのであります。これが世界の人々の常識です。
59アメリカへの直言
60
ベトナム戦争について
ところが、アメリカはベトナムからもはっきりした撤兵をしていないし、かえってカン
ボジアにまで兵を出しております。アメリカより先に北ベトナムが、カンボジアに侵入し
ていて、そこに南ベトナム攻撃の拠点をつくっているのだ、だからその拠点を叩いたのだ、
とアメリカ軍部はいうでしょうが、それは北ベトナムのほうからも同じようなことをいう
ので、世界各国の眼は、どちらを正しいともいいかねるのです。
ただはっきりいえることは、北ベトナムにとっては、南ベトナムは勿論のこと、インド
シナ諸国は、自国の隣国であって、隣国の動きは、そのまま自国の死活問題に直ちになっ
てくる、ということであります。これは国を挙げて常に真剣に対処していなければならぬ
ことです。ところが、アメリカにとっては、インドシナ諸国とは、経済的なつながりはあっ
ても、直接アメリカの死活問題になるようなことはないのです。
アメリカのいい分としては、世界中を共産主義にしないためには、インドシナで共産主
義を滅亡させておかなくてはならぬ、もしインドシナ全体が土ハ産主義陣営になってしまっ
ては、やがてはアジア全域が共産主義の勢力下になってしまい、アメリカ自体をはじめ自
由主義国の存立が危うくなる、という理論になってきます。
私たち日本人も充分共産主義の脅威も知っておりますし、日本が共産主義国になったら、
大変なことだ、ということも知っております。しかし、主義というものは、いくら主義を
遵法している人間や国家を武力で叩き多くの人々を殺傷しても、その主義がそのまま消え
てなくなってしまうようなものではなく、次代の人々や国家にまたうつり変わって存続し
てゆくものなのです。その例はキリスト教を例にとってみるとよくわかります。あれだけ
迫害しつづけられながら、多くの人々が十字架にかかり、極刑に処せられながらも、キリ言
スト教は遂にヨーロッパに根をはり、今日では、世界中にその教えを拡めております。宗頒
へ
教思想や、主義というものはそういうように力で抑えつければ無くなってしまうようなも肋
メ
のではなくかえって強い力になってくるのです。ア
61
62
武力で共産主義の浸透を止められるか
ですから、アメリカが多くの犠牲を払って、ベトナム戦争をつづけていても、たとえ、
武力によって一時北ベトナムの勢力を抑え得たとしても、それはほんの一時期のことであ
りまして、やがてはまた旧に倍して大きな力となって、アメリカに立ち向ってくるでしょ
う。これは仏教的にいう因果の法則であり、キリスト教でいう、歯には歯をということで
あります。アメリカはもっと永遠に向ける眼をもって、眼先のことばかりに気を取られぬ
政治政策を行なわなければ、世界中がアンチアメリカになってしまいます。アメリカに好
意をもっている私たち日本人でも、アメリカのベトナム戦争には大半の人々が反対なので
すから。
共産主義国は勿論アメリカを敵視していますが、共産主義者でない人々も、武力で土ハ産
主義を叩きつぶそうとすることに、多大の脅威を感じております。何故ならば、アメリカ
の武力がやがては第三次世界大戦を引き起こしはしないだろうか、と思うからです。
アメリカとソ連という二大国が、常に武力を使わぬように心がけていれば、世界戦争は
起こりようがないからです。しかし、共産主義の陰の活躍が旺勢になって、小さい国々は
すべて共産主義になってしまいはすまいか、という懸念を一部の人々が持つことは事実で
すし、その恐れのために、アメリカは武力で北ベトナムを叩いているわけなのですが、武
力で叩いても叩かなくとも、時間の差だけの問題で、世界中に共産主義の広がる要素があ
れば、どうしても共産主義勢力は拡大してゆくでしょう。要は、武力で叩くということで
なくして、共産主義思想の広まる原因を無くしていくことが第一なのであります。その点
にアメリカはあまり重点をおかず、いたずらに武力に頼りすぎております。
アメリカの青少年たちは、外国人の私たちに向かっても、ベトナム戦争に対する自国の
在り方の過ちを訴えてきましたし、L S D を飲んでいた十七才の一少女は「アメリカには
真の自由はない、私たちはどこに自由を求むべきか、ニクソン大統領は、平和のための戦
争である、というけれど、平和をつくるのに何故戦争が必要なのか、その言葉はおかしい。
アメリカはすべてがおかしい、だから何か真実の道を求めようと思って、友だちにすすめ
63アメリカへの直言
られてL S Dを飲んだ。しかし、L SD の中には、やはり真実の自由も安心もない」とい
うようなことをいっていて、私と共に祈って、やっと平静に戻って、にこやかに微笑した
のでありましたが、多くの青少年が政府の政策の過ちを認めているようですと、青少年を
ますます麻薬の世界に追いこむことになり、自由主義を標榜しているアメリカにいること
によって、青少年は自由を縛られる、ということにもなるというおかしな事態になってき
ます。
64
ベトナムからまず撤兵を
日本人の私たちからみても、アメリカは全く最大の危機に起っていると思われます。第
一にベトナム戦争の問題、第二に青少年の麻薬の問題、第三に黒人問題、これは私がアメ
リカに行かぬ以前から心配していたことだったのですが、アメリカに行ってみて、その心
配が事実であることがわかりました。
そして、アメリカが直ちに実行し得ることは、ベトナム戦争から手を引くということだ
けなのです。第二、第三の問題はなかなか時日を要する問題でもあり、第二の問題などは、
ベトナム問題と関連があるので、ベトナム問題が片づかぬ限り、麻薬の取締りをきびしく
するということだけで、青少年自体には、手のつけようもないことなのです。
ベトナム戦争からアメリカが手を引くということは、共産主義に同調していない国々の
人でも、大半が喜びの声を挙げることであり、アメリカの青少年や婦人たちに、大きな安
心感を与えることにもなり、それだけで、アメリカの国内が明るくなる気がします。アメ
リカの面目の問題とか、戦争屋のご機嫌とりなどは、勇気をもって打ち払い、一挙にベト
ナムから手を引いたら、ニクソン大統領の名声は急速に高まると思います。ニクソン大統
領にそのことを実行する真の勇気が必要なのです。それこそ生命をかけて、アメリカを救
うという、大犠牲精神、いわゆるキリスト精神が必要なのです。
真のキリスト精神をもっている人でなければ、現在のアメリカ大統領の椅子は無理なの
です。ニクソンさんが、キリスト精神を発揮できるかできないかによって、アメリカの運
命が明るくなるか暗くなるか定まってしまうことでしょう。現在のアメリカの世界政策は
65アメリカへの直言
キリストの精神を全然生かしていないのです。キリスト精神が生きていれば、人間の生命
を一人でも多く奪うことが、平和につながってゆくのだ、というようなベトナム戦争を行
ないつづけてゆく必要もないし、より多くの人間を殺傷しなければならぬカンボジア出兵
などする筈がないからです。戦争というものは相手国の人員をいかに多く殺傷するかによっ
て、勝利を得るのでありまして、そこに核爆弾も生まれたわけなのです。このように武力
に頼る国家の在り方が果してキリスト精神を生かしているでしょうか。キリスト精神に反
することは実にはっきりしています。
66
武力を使わないで共産主義の拡大を止めよ
北ベトナムは唯物論の共産主義国です。そして小国です。その北ベトナムと同じ方法で、
武力をもって対抗してゆき大きな殺傷沙汰を行なうということは、キリスト教国であり、
大国でもあるアメリカの行為としては、実に残念なことです。そこで、アメリカ国内でも
反戦活動が盛んに行なわれているのであります。唯物論である共産主義者と同等の立場に
なって共産主義を倒そうとすれば、どうしても対抗的に出なければならないので、その立
場からでは武力によるより仕方がなくなってくるのです。こと対立観というものは、相手
を倒すか倒されるか、ということに結果的にはなってしまうので、戦争ということになっ
てしまいます。
この大事な時に、アメリカが現在の政治政策のままに進んでゆきますと、アメリカへの
憎しみがますます増大し反アメリカ勢力が強まるばかりですし、世界の不安感は消えるこ
とがありません。どこの国の人々にも、小国に対する同情感というものがあるのでして、
戦争の表面に出ている北ベトナムに同情を寄せ、大国アメリカをうとんじる傾向が次第に
強くなってゆくのを否むことはできません。それは共産主義に反対している日本人の立場
の中でも、多くの北ベトナムへの同情者が出てきているのです。
こういう人間の心の在り方というものを、アメリカはよくよく考えてみなければいけま
せん。日本はアメリカから受けた恩を深く感じておりますし、大半の人は出来る限り、ア
メリカと同調した協力的行動をしてゆきたいと思っています。しかし、アメリカの誤りは
67アメリカへの直言
誤りとして正してゆかなければ、真実の協力をしてゆくわけにはゆきません。日本の国内
にも反米勢力が少なくなるような、どこの国からみても、アメリカの行動は正しいのだと
いう、大義名分の立った行動をアメリカにとってもらいたいのです。
共産主義国の人々にでも、これは正しい行動だ、という行為をアメリカにとってもらい
たいのです。武力で威圧するような態度は、同調する反共の国が多少あったとしても、そ
れはやはり真理に反する行為なのであります。
アメリカの青年たちにとっても、自国が直接攻撃を受けているわけでもないのに、遠い
アジアの国のために生命を投げ出すのは、理論的にも感情的にも納得できなくて、真剣な
反戦行為に出ているわけで、これは誰しも肯定できることです。アメリカ青年の直接自己
の生命に関することからくらべれば、日本の全学連運動など革命遊びに過ぎません。
アメリカの絶大な武力は、どこの国でも知っております。そこで、この武力は最後の最
後の決あ手として使わずにいて、いかにしたら、武力を使わずに共産主義勢力を滅亡させ
るか、ということに国力をそそいでもらいたいのです。アメリカが真に世界平和を願うな
68
らば、その線にそって行動してもらうことが一番よいことだと思うのです。
アメリカに必要な無償の愛
世界中に土ハ産主義が浸透していることは、どこの国々も貧富の差があり過ぎるというこ
とが最大の原因だと思います。貧しい人が多ければ多い程、政府に対する反抗心が多くな
ります。そしてそれに同調する中産階級や、インテリ層が、資本主義に反対する社会共産
主義に組してゆくわけです。富の平等ということはなかなか魅力的なテーマでありますし、
ヒューマニスティックな正義観を満足させるようなものを社会共産主義はもっているので
すが、人間の自由性や感情、欲望等が極端に制圧された政治にならざるを得ないものを、
実際に社会共産主義を行なっている共産主義国の政治の面にみるのです。世論のない指導
層の独裁政治ということになっています。
すく
土ハ産主義者の狙う、貧しい人々、貧しい国々を少しずつでも少なくしてゆくことこそ、
共産主義に同調する人々を減少させてゆくことになるのですから、アメリカはその点に重
69アメリカへの直言
点をそそいで、その経済力を生かしてゆくことが大事だと思うのです。彪大な軍事費を少
しでもよいから削減して、貧富の差を少なくしてゆく運動を率先して、展開してもらいた
いのです。そのようなことは今更いわれなくとも、以前から後進国の経済援助はしている、
とアメリカ政府はいうでしょう。しかし、今日迄のアメリカの経済援助は、キリストの行
なった純粋な人類愛の心ではなかったのです。その援助は心の底には、自己の陣営のため
に役立たせようという、計算がどうしても加わっていたのです。
世界の国々から貧しい人々を無くそう、そのためには経済面でも、技術面でも、アメリ
カと協力する国々と話し合って、恩を売る気持などを全く捨て去った、キリスト精神の人
類愛の想いだけで、その道をすすめてゆくことにすれば、そういうアメリカの純粋なる愛
おのと
の精神は、反米で固った国の人々の心をも自ずと融かしてゆくに違いないのです。キリス
トは「汝の敵を愛せよ」といわれました。世界最大の強国であるアメリカが、このキリス
トの愛を実践することによってのみ、世界平和の真実の道が開かれるのです。お前たちを
援助するから、といって決してその代価を求めてはいけないのです。無償の愛を行なうの
70
です。
いにしえ
そういう愛の行為ができてこそ、真の大国なのであります。中国の古の聖者老子は、大
国は小国の下位につけ、といっています。実力のある大国が小国に奉仕することによって、
小国が立派になってゆくので、小国の下位につくことも奉仕することも、大国にとって立
派な行為でこそあれ、少しも恥ずかしいことではないのです。今こそアメリカがそのよう
な立派な大国になるべきなので、今日までの在り方では、アメリカともども地球世界は滅
びてしまうに違いありません。
アメリカよ、真理の上にたて
今日までのアメリカは共産主義を恐るるのあまり、これでもか、これでもかと核爆弾の
強化を計り、非情極まりなき毒ガスまで、沖縄に貯蔵しておいて、これを引き取ることに
なって、アメリカの各州から毒ガス引取りを断わられて困りきっている状態です。アメリ
カ人が嫌なことは、日本人も嫌なので、毒ガスなどどこの国でも嫌うのは当然なのです。
71アメリカへの直言
アメリカはこの際、一切非人道的な行為を改めて、人道的立場から、世界の指導国とし
て立つことが絶対に必要であり、アメリカが人道的立場に立って、すべてのことを運べば、
世界も自ずと平和になってゆくのです。何事をするにも、こうしなければ、共産主義が浸
透してくる、といちいち共産主義を恐れて、非人道的なことをしてまでも、その浸透を防
こうとするのは、かえって、共産主義国が、アメリカの行為を世界中に悪宣伝する好材料
となるのです。
アメリカは万難を排し、絶大なる勇気を奮って、真理の上に立たなければいけません。
目先の不利を有利にしようとして、真理を離れてはいけないのです。真理とは神のみ心で
ある愛であります。汝の敵を愛せよ、というイエス・キリストの心であります。人類すべ
てを愛する心こそ、今アメリカが、大国として、どうしても持ちつづけなければならぬひ
なのです。
共産主義者だから、どんな方法をとっても殺傷してしまえ、という、ベトナム戦争のよ
うなカンボジア侵入のような、あ\ いう手段をとってはいけないと思います。北ベトナム
72
の拠点が、カンボジアにあるから、作戦上そこを叩く、という、そういう考えは、いつか
は中国ともソ連とも戦う、というところまで拡大されてゆく考えなので、当然第三次大戦
に発展してゆく道となるのです。何故ならば、共産主義の本拠は、ソ連であり、中国であ
るからです。最後はどうしても、そこまで武力でいってしまうことになります。
日本人はそんなお手伝いをすることは、ごめんこうむりたいのです。日本人がアメリカ
と共に手を取ってやりたいことは、真の世界平和を達成することでありまして、そこには、
いささかの武力の介入も必要としないのです。神のみ心の愛を根底とした、すべての人類
を兄弟姉妹とした、そういう心で世界のために働きたいのが、日本人の心です。
アメリカだってそうしたいにきまっているが、共産主義国が、常に他国を侵略してくる
ので、アメリカとしてはそんな悠長なことをいっていられない、世界の平和のためにこそ
アメリカは彼らと戦うのだ、とアメリカはいうでありましょう。一応尤なことに思えます
が、この考え方が、世界から戦争が絶えない根本的な誤った考えなのです。昔の歴史はす
べてこのような考え方で運行されてきました。そして、国内的にも国際的にも、絶え間な
73アメリカへの直言
い戦争の歴史を綴ってきたわけです。74
しかし、今日のように何発かで世界中が灰儘に帰するような核兵器のできている時に、
今までのような考えで進んでいったら一体どうなるでしょう。いつかは核戦争にまで発展
することは必定です。負けたり勝ったりの小さな戦争は、お互いに勝とうとして、エスカ
レートしてゆくことは火を見るより明らかです。世界大戦からみれば、小さな戦争である
ベトナム戦争でも、米軍の戦死者は、第二次大戦以上になっているということです。ベト
ナム戦争はインドシナ戦争に、もうそうなりかけております。そして、インドシナ戦争は、
米中か、米ソか、兎に角大きく拡大されてゆくことは、時間の問題です。時折り話合いに
よる融和のような形はあるにせよ、これはその場、その時々の問題によるもので、根本的
には全く対立している三大国なのですから、世界中がこの三大国の一挙手一投足を、恐怖
の想いでみつめているのは当然のことです。
この根本的な問題が解決しなければ、地球人類の運命は、ヨハネ黙示録に示されたよう
になってしまいます。
日本とアメリカ
この根本的問題というのは、三大国というよりすべての国々が、あまりにも自国本位に
すべてを考えすぎる、というところにあるのでして、先ず大国側、いわゆる三大国が、こ
の点を改める必要があるのです。三大国といっても、二大国は唯物論的立場に立っていま
すので、先ず最初に改めるのは、キリスト教国であるアメリカということに、どうしても
なってきます。天にまします父も、アメリカが先ず真理を現わすことを望んでいるのであ
り、アメリカにはそういう天命があるのであります。
そこで、アメリカが、小国北ベトナムにさきがけて、兵力を納め、ベトナム戦争の終結
を計ることが大事なのです。そのことは、何もアメリカの面目を失うことではなく、かえっ
てアメリカの大国たる貫禄を示すことになるのです。私たち日本人は、アメリカと協力す
ることに骨惜しみは致しません。共産主義勢力が、いくら陰に廻って小国を戦争にかり立
てたとしても、アメリカが純粋な心で、小国の力になってやり、小国同士の調停をしてや
75アメリカへの直言
れば、いつかはその人類愛の心は、小国側に通じると思います。どんな唯物論者も神の生
命を宿している、神の子なのですから、真実の愛の心がわからぬ筈がないのです。
私たちは、常に世界の平和を祈りつづけております。朝の目覚あに、三度の食事時に、
就寝の時間に、そしてすべての仕事の合間に、世界人類が平和でありますように、と祈り
つづけております。キリスト教国であるアメリカこそ、祈りにはじまって、祈りに終わる
生活を送るべきなのです。いかなる行動にも先んじて祈り心が必要であります。祈り心か
らはじまる行動こそ、神の喜び給うところであり、真の世界平和をつくりあげる行動とな
るのです。それはソ連にも中国にも現在ではできない方法です。何故ならば彼らは唯物論
で彼らには神がないからです。しかし、アメリカには、アメリカ人の心には神があるので
す。宗教心があるのです。その神の愛を信じきることが必要なのです。神は人類に神の愛
を知らせようとして、イエス・キリストをこの世に遣わされたのですから、やがては神の
愛がこの世に実を結び、世界に真実の平和が実現するのです。私たちはその神のみ心を信
じて、世界平和の祈りをつづけているのです。
76
アメリカと日本が真に手をつないで、世界平和の祈りを根底にして、世界諸国の文化の
開発発展のために力をつくしてゆくことが大事です。武力は逐次縮少して、世界中に祈り
による世界平和運動を展開してゆくのです。いかに共産主義国が暗躍しても、アメリカは
徹頭徹尾、調和精神で国を治め、各国のアドバイサーとなってゆくことです。そのために
は絶大な忍耐力が必要ですが、アメリカの現在の武力の前には、共産主義国も無暗に侵略
行為はできません。私たちはアメリカに武力を捨ててしまえとはいいません。アメリカは
最後まで武力を使わず、世界に真の平和をつくるための忍耐力をもって、ただひたすら発
展途上国の貧困撲滅のために働きつづけてゆくのです。このようにしてゆけば、最後の勝
利は必ず、アメリカ側にあがります。何故ならば、神は大調和法則である、愛そのもので
あるからです。
77アメリカへの直言
78
政治家への提言
白光誌昭和四十六年九月号発表
自分を守るための嘘は止めよう
来年五月ニクソンが中国を訪問するということが決定して、台湾、韓国は勿論のこと、
日本政府も各政党もそれぞれの角度で、色めきだち、ざわめき立っています。日本の政府
あわ
が今更周章てることも、色めき立つこともありません。私など以前から、アメリカが今日
のような態度に出ることがわかりきっていたので、再三斯界の人たちに忠言していたので
あります。
大体他国の顔色をみながら、その顔色に合わせて諸々の外交をする、というような、そ
んな確信のない政治政策というものがあってよいものなのでしょうか。今日迄の中国政策
をみていると、常に米国と台湾政府との顔色によって動いていたといえます。
あんなことでは、左翼陣営の人ならぬ一般大衆も、政府に対して信頼を置くことはでき
なくなります。なんとなく頼りない、危なっかしい政治というものを、大衆はその肌で感
じているので、表面上いくらうまい言い訳をいっても、大衆は信じようとはしないのです。
沖縄問題にしても政府のやり方は、やはり国民に疑惑をもたせるものを多分にもっていま
す。
どこの国の政治でも、秘密にしておかねばかえって国民のためにならぬような問題もあ
ることで、こういう秘密は国民が不幸にならぬための秘密で仕方がありませんが、沖縄の
核の問題に対する政府答弁は、常に奥歯にもののはさまったような、米国に気がねしなが
ら物をいっている感じで、左翼陣営や野党側の攻撃材料にはもってこいのものであり、国
民が野党側や共産陣営の言葉に、つい乗ってゆきたくなる要素を含んでおります。
いつの政府でも時の政府が、国民によくいわれたことはありませんが、佐藤政府に対す
79政治家への提言
る国民の不信感は時と共に高まっています。一体国民というものは、政府に望むことが多
く、自己の犠牲を最小限にしたいと思っている向きが大半なので、いつの時代の政治でも、
国民の要求通りの政治というものが行なえるものではないのですが、それにしても、佐藤
政府の評判の悪さは、共産党の勢力を強める大きな一因となっております。
その最大の原因は、自己の立場を守るための虚言にあるといえます。嘘いつわりの多い
政府という印象を、国民にもたせてしまったことは、佐藤政府の致命傷ともいえるのです。
つきあい
個人の付合においても、一度嘘をつかれると次の時も嘘ではないかと、つい疑ってしま
います。政治の場合でも全くこれと同様で、日本人がソ連に対して、常に警戒心をもって
接しているのは、ソ連が太平洋戦争の時、自国の有利とみれば、日本との不可侵条約を、
こともなげに破って、満州に攻め入り、ほんの僅かの労力で、千島、樺太等の島々を自国
のものとしてしまった、ああした約束を守らぬ、不道義の行為を忘れ去ることができぬか
らです。ソ連という国は、自国の損得勘定では、嘘も平気、約束破棄も当然といった、不
信義の国である、と戦争経験者である日本人の殆んどがそう思っているのです。
80
一度だけついた嘘でも、一度だけ破った国際信義でも、嘘をつき、信義を破れば、相手
のほうでは、その人、その国を常に疑惑の眼でみるようになるものです。日本も知らぬ間
に、そんな風に外国に想われていないか、と思うと、思わず襟を正さずにはいられなくな
ります。
人を助け、国を救う嘘なら、これはついて悪かろう筈がありませんが、自己の立場を守
るため、自国の利益のための嘘というのは、人間の道として、外道という他はありません。
このことを重大問題として考えないでは、国家の政治を行なう資格はないのであります。
政治家が嘘をつく、その根本の心理は、自己の権益を守る、というところにあります。
首相なら首相にしても、自己の総理大臣という椅子を守らんがために、虚言を吐き、自己
の立場を有利にしようとするのです。宗教精神の根本である、自己を捨てよ、が全くでき
ていないのです。「生命を捨てざれば生命を得ず」というキリストの言葉にまでゆかなく
と
とも、国の政治を執るものが、国のために自己を捨てる、という、そのくらいの心になっ
ていないでは、どうにも仕方がありません。
81政治家への提言
明治維新の頃の、西郷隆盛にしても、勝海舟にしても、山岡鉄舟にしても、坂本竜馬に
しても、吉田松陰にしても、はたまた高杉晋作にしても、いずれも強烈な自我の所有者で
ありながら、その自我が大我と一つになって働いていたのであります。自己の椅子とか、
自己の政党とかいう、そんな小っぼけなことではなく、国のため、社会のために、どのよ
うな生き方をすればよいのか、というところで、この人たちは、すっぱり、と小さな自己
を捨て切っているのです。そこから湧きでてくる止むに止まれぬ、内なる催しに動かされ
て行動していたのであり、日本を守る諸神霊と肉体人間の一体化によって事がなされてい
たのでもあったのです。
現在の政治家に、果たして西郷ありや、坂本ありや、高杉ありや、といいたいのです。
現在こそ、明治維新の英傑以上の人材を必要としているのであります。しかしながら、現
在名の知れている政治家を見渡してみて、一、二を除いては甚だ悲観せざるを得ないので
す。明治維新の英雄たちにくらべて一体何が、現在の政治家に足りないのでしょう。
82
小さな自己がありすぎる
一言でいって、小さな自己があり過ぎる、ということです。それは、大臣になる以前、
けつ
代議士という肩がきをつける時点において、もうすでに、維新の英傑の比ではなくなって
いるのです。まず彼等が、一番重要な目的として、何を目指して、代議士たらんとするか、
ということにはじまるのです。
彼等の大半は、自己の名を現わしたい、権力の座に臨みたい、という自我欲望の発露が
目標であって、その政策とか愛国心とかいうものは、自我欲望の飾りとしてあるのであり
ます。日本の行くべき道は、かくあらねばならぬ、という確たる信念で、その政策をかか
げ、自己の名声や地位などになんの執着もない、という明治維新の、西郷や高杉などの心
意気は、あまり見かけられないのです。
人間は誰しも神のみ心が内部にあり、日本人としての愛国心も当然誰もが持っているの
です。しかし、それが、自我欲望の想念の波に埋まっているので、自己の望みを遂げるた
83政治家への提言
めの手段として、時折り取り出して人々にみせる程度になってしまっているのですが、そ
だま
して、そういう行為をつづけているうちに、自分で自分を騙してしまって、自分はあたか
も自我を捨て切った愛国者のように思いこんでしまったりするのです。だが、真の愛国者
と異なるのは、常に彼等は自己の立場を固執したり、地位や権力に想いをひかれたりする
ことなのであります。自己の思想や、抱負を実行するために、その地位を欲っする、とい
うのはまだよろしいのですが、根本が自我欲望を現わすことにあり、すべてはその手段で
ある、というのでは政治家としては困りものです。
それこそ、止むに止まれぬ政治的抱負を実行するために、政治家としての正式ルートで
ある代議士を志願する、という人もありましょうが、それとて、自己の名声や権力欲が心
にあるようだったら、この人も偉大な政治家にはなれません。宗教家が、自己の一切を神
仏のみ心に投入しきって、慈悲の道をひろあてゆく、のと同じように、政治家も、政治家
わざわ
にとって一番の禍いとなる名声欲や権力欲を、国家社会の幸福をつくる、という大きな願
望の中に投入しきって、その政治政策を行なわなくてはいけないのです。
84
そういう心構えを、代議士となる第一歩からつちかってゆかねば、決して立派な大臣や
総理にはなれぬものです。宗教家にとって色欲や金銭欲が最もなる禍いであるように、政
治家にとっては、名声欲、権力欲が最大の禍いとなるのですから、こうした欲望を離れる
ことこそ、政治家の第一歩というべきなのです。
民間人として赦さるべきことも、宗教家や政治家としては赦されぬことが随分とあるの
ですが、民間人よりも卑しい手段をもって、代議士になり、大臣や総理の椅子をつづけて
いるとしたら、これは国家を汚し、天地を乱す、恐るべき罪というべきなのです。
政治家たちは、よくよくこの理を悟らねばなりません。そういわれるけれど、この政治
の世界はそう甘いものではありません、とおっしゃる人もあることでしょう。そういう政
ひ
界とみるならば、その人はその政界を直ちに退くべきなのです。政界の浄化は、自らの姿
勢を正しくすることからはじまるのでありまして、人がそうだから、皆がそうしているか
らこの悪も仕方がないのだ、というような真理をくらます弱い心では、とても真の政治家
とはなり得ません。
85政治家への提言
86
国家を支える柱たる自覚を
政治家というのは国家を支える柱です。肝腎の柱が、ゆがんだり、曲がったりしていた
のでは、とてもその国家を支えることはできません。そんなわかりきったことさえ考えら
ぎよう
れず、ただいたずらに自己の名を売るための代議士大臣業など、とんでもないことで、自
己の人間性の喪失ともいうべきことです。
はかな
五十年か百年の停い虚名を、なんで自己の永遠の生命につながる真性を喪失してまで得
ようとし、保とうとするのでしょうか。真理に立っている者からすれば、実にむなしい、
愚かしいことなのであります。
佐藤さんなどでも、個人としては善い人のようですが、一国の総理としては、あまりに
も自己の立場をかばいすぎます。どうして、もっと勇気をもって、日本の世界の中での立
場をはっきり述べ、自分は確信をもってこう思うのだ、こういう政策をとるのだ、といい
切れないのでしょう。真実国のためを思ってやることなら、周囲がどう思おうと、国民が
どう思おうと、自分はこう思い、こういう政策をとってゆくのだ、それで駄目なら、自分
や
はいさぎよく辞めるのだ、と何故はっきりした男らしい態度に出られないのでしょう。
中国問題にしろ、なんの問題にしろ、人間の考えには種々あって、万人が同じように考
えるわけではありませんから、佐藤さんと国民の考えが違うかも知れません。しかし、そ
れはそれでよいのです。国民大半の意見が佐藤さんと違えば、佐藤さんは首相の椅子を降
うこさべん
りればよいので、何も右顧左晒する必要はないのです。
佐藤さんの考えが、常に自分の椅子の問題や、周囲の者の地位の問題などに把われず、
真に日本国の将来の発展のため、という根本精神に立っての考えであればそれでよいので
す。中国より台湾が主である、と思うなら、それを理論をしっかり立てて説明すればよい
ので、米国大統領が中国にゆこうとゆくまいと、そんなことにわずらわされることはない
でしょう。しかし、佐藤さんの中国政策は非常に浅薄であることは確かです。中国の原則
が、台湾は中国の領土であって二つの中国などとんでもない、というところにあるのです
から、台湾をとるか、中国をとるかの二つに一つしかないのです。台湾とどんな深い関係
87政治家への提言
にあろうと、中国にとってはそんなことは問題にならぬので、台湾を国あつかいするなら、8
それは内政干渉になる、そんな日本とは付合えない、というわけで、これは素人の常識的
考えでは、元来中国領土であった台湾なのですから、この二千万足らずの台湾は、八億か
らの国民を治めている現在の中国の支配下に入るのが当然である、と、共産主義嫌いな人
でも思うわけです。
ですから、佐藤さんが、台湾とはこれこれこんな恩義を受けている、こんな深い関係だ
といっても、これは日本自体の問題であって、中国にとっては不快でこそあれ、なんの言
い訳にもなりません。そこのところをまず理解して、台湾への考えを変えて進まなければ、
とても中国との国交正常化は望めないことになります。こういう考えは一般大衆が常識と
して感じていることですから、それに対して、それは間違った考え方だ、と思うなら、そ
のように、ここはこう考えるべきだ、そのほうが日本のためだ、ならそのように、専門家
である首相が素人である国民にわかり易いように説明してくれなければいけません。
そういう国民の納得のいく説明は一切されずに、ただ、中国の出方によるとか、台湾は
離せない、とかいっているだけでは、世界中から日本は信用されぬことになってしまいま
す。首相に日本の立場、日本の天命というものに対して、国民を説得させるだけの知恵と
いうか心というかが足りぬように思われるのです。ですから国民の胸はいつもつかえてい
てすっきりせず、つい、はっきりと持論を述べつづける左翼陣営の言葉についていってし
まうのです。
佐藤首相が台湾を離すなら、中国と付合えぬ、という考えなら、それでよいのですから、
はっきり態度を表明して下さい。その諾否は、国民及び自民党の輿論がきめるでしょう。
首相は何事においても、自らの立場をはっきりさせぬと、かえって国民を迷わして、つい
あらぬ方に迷いこんでゆき、革命ということにもなりかねないのです。国民が心を許して
ついてゆけぬ政府というのが、一番の困りもので、革命の因となってしまうのです。
日本の赤化を恐れ、革命をいみ嫌う国民は、保守系でいて、何か強力な指導力を持つ、
力ある政府を切望しているのです。佐藤さんがそういう国民の声に応えられぬのなら、早々
退陣して、後の人に道を開いてやるべきで、自分は何もしない、後の人にもやらせないで
89政治家への提言
は、日本の流れはとどこうってしまいます。そこです、自我で自分の椅子を守ろうとして
はいけないということは。国民の誰がみても、今日までの中国政策は変えるべき時期であ
り、今日までの日本政府の在り方も変えてゆくべきなのです。ですから一日も早く新しい
人に首相をやらせるべきなのです。
保守系政府の国民への不信は、そのはねっかえりとして、左翼陣営、共産陣営への支援
となってくるので、野球でいえば、味方のエラーが、やらずにいい点を相手に与えてしま
うようなものです。それはどのへんからそうなってゆくかと申しますと、佐藤首相を頂点
にして政府のいうことやることには嘘が多い、と思われつづけていることであり、そうし
た点を巧みに左翼陣営や野党の人々が把えて、国民をひきつってゆこうとしているのです。
90
日本の役目
要するに、政府首脳が、常に嘘いつわりのない言動で、国民に接することが、なんにし
ても大事なのです。それには自己の椅子に恋々とする想いを捨て去り、国の開運の道一筋
の心にならねばなりません。台湾への信義に把われて、日本の今後の運命に支障を来たす
ようなことがあったら大変です。八億の中国と二千万の台湾が張合っているような愚かな
ことをせずに、中国の元首脳者たちも反共の人々も、一度中国本土に融合して、中国本土
いんにんじちよう
において、自らの勢力を次第に拡張させるようにしたらよいのです。その間勿論隠忍自重
の年月はあるでしょうが、中国を追われて台湾にうつった人たちなのですから、それは当
然なことです。そうした中国政府と台湾政府との融合調和を計ってやることこそ、日本の
役目ではないかと思います。これはもう数年も前にやらねばならぬことで、もうすでに米
国あたりで手を打っているかも知れません。
日本はいたずらに台湾政府の顔色を覗っていずに、積極的に台湾政府を中国政府のうち
に融けこませる働きをしてやることこそ、台湾政府への信義に報いる処置と思うのです。
今やアメリカも国策上、台湾から兵力をひこうとしています。この時こそ天の利日本にあ
りです。この機をはずさず、世界平和を願う確固たる信念をもって、台湾政府に中国との
対立抗争の愚をさとし、中国に向かっては、台湾政府要人の中国復帰に対して、寛大な処
91政治家への提言
置をもって迎えてくれるよう、説き諭してこそ、日本の立場も生きるのです。それこそ政
治なのであり、外交なのです。この役目は日本でなければできない役目です。そういう積
極的な働きもしないで、ただ台湾政府に信義があるから離せないの一言で、前へも後へも
動けない佐藤政府というものの無外交的愚かさは日本の評価を下落させる一方です。
すべての政策において、自己保存の在り方であって、身命を投げ打って邦家のためとい
う、政治家本来の姿を、今の政府はなんら現わしてはいないで、常に米国の動きに影のご
とくそって動き、ベトナム戦争でも日本は米国に手を貸していることになっています。こ
こで、自己の政策をはっきり国民に披渥して、自己の評価を計ってもらい、それでいけな
ければ、いさぎよく退陣して後の者に椅子を譲ってやるいさぎよさが必要です。後の政府
が、反対の政策をとって国民に迎合したとして、その政策が失敗であれば、国民は再び、
前の政策を迎えようとするでしょうし、成功であれば、国家にとってこの上もないところ
です。その正否は国民にまかせる、ということによって、政治家は国民の信頼の上に立っ
た充分なる政治政策がとれることになります。
92
何もしないで長く政権を維持するより、短くともよいから、はっきり日本のため世界の
ためになったと思われる政治を行なう心掛けが、政治家には必要なのです。佐藤政府は全
く前者であるわけです。
それから政治家は、右のものも左のものも、縦のものも横のものも、すべてに一応耳を
傾ける広い心がなければなりません。そしてその中から、自己の選ぶ道を取る、というこ
とで、他を聞きもせず、他を見もせずに、自己の考えの範囲内だけで政治を行なおうとし
たら、とても一国の運命を開くことにはなりません。
といって、或る時は他のすべてを捨てて、自己の信念による道を真っすぐ進む時もある
わけで、その信念が常に国家の永遠の平安というところに合致していなければならぬので
す。現在の政治家に望むことは、自己のすべてを国家の進化のために捨て切る、というこ
とです。それができ得ぬ人は、政治家になっても、たいした成果は挙げられず、いたずら
に自己の名を汚すだけであります。
いつの日もいつの時も、自己の心にかかってくる、権力欲、金銭欲、名誉欲等々のカル
93政治家への提言
マの波をはらいのけ、はらいのけして政務にたずさわらなければなりません。
政治家の一挙手一投足は、国家という大きな活物を生かしも殺しもするのです。その国
家が如何に世界人類の進化のために役立つ在り方をしているか、というその運転、運用は、
政治家の腕にかかっているのです。
共産主義を嫌う人はたくさんありますが、中国のように、八億の民を掌握して、大国米
ソに対して、いささかもたじろかず、かえって米国のほうから歩み寄りの働きをしてくる
ところまで来させている、あの確信に充ちた首脳陣の態度は、日本の首脳者も大いに学ば
ねばならぬところと思います。日本の首脳者は、どうして外国に対して、あのようにぺこ
ぺこしているようにみえるのでしょう。中国首脳者のように、何故堂々たる態度で接する
ことができぬのでしょう。
94
肚の坐った政治を
明治維新頃の西郷でも高杉でも、未開文化の小さな日本という立場にいながらも、外国
高官に対して一歩も退けをみせぬ、堂々たる態度で終始していて、かえって外国人の称賛
をあびているのです。それにひきかえ幕府の役人は、ぺこぺこおどおどで外国人に蔑視の
眼を向けられていたのです。現在の日本政府の高官たちが、幕府の役人たちのような態度
に、外国から受け取られていなければ幸せだ、と思わずにはいられません。
どこに両者の相違があるのでしょう。日本の存在価値を確固として信じた人々と、日本
の存在というものに、なんらの価値も成算ももたなかった人々との相違なのであります。
それにしても、日本の現在の立場は、幕末の日本の立場よりはるかに確固たるものであり、
高度な立場にあるのですから、もっと堂々たる態度で、日本の立場を強く主張してもよい
のではないか、と現政府に対して、私は思うのです。
中国首脳の堂々たる態度は、中国の立場というものを、確固として信じているものであ
り、国民の力を一手に把握しているという自信からも来ているのです。日本政府にはそれ
がとぼしいのです。
日本が地球の大調和の中心となってゆく国である、という確信が為政者の間にないため
95政治家への提言
に、米国や他の諸国から、ゆさぶりをかけられると、すぐに、もっと軍備を強化しなけれ
ばとか、或る時は核軍備も仕方がない、と心のどこかでちらちら思ったりしているのです。
そういういつもふらふらした、右に動き左にゆれる心をもつ為政者であっては、国民が中
国のように一つになって外敵に当たろう、というような気概をもつわけがありません。
日本は中国のように、為政者に少しでもそむく態度があれば、昔の仲間でも即座に罰す
る、という警察国家ではないので、生命の危機観から、一つにまとまって、政府のいう通
り動く、という支配し易さはありませんから、中国のようなああいうまとまり方で外に当
たるわけにはゆきませんが、それにしても、中国首脳の生死を超えてきた実践活動で鍛え
られた心は、肚が坐った感じで、頼もしさを国民に感じさせるでしょう。
現在の日本の在り方は、権力をもって、国民を支配するという中国のような政治ではあ
りません。自由主義も自由主義、まるで、どんなに政府の悪口をいってもなんの罰もない、
書きたいこと、いいたいこと自由自在という、共産圏の国民からみたら、体も心もゆるみ
きってしまうような、国の在り方です。
96
こんなゆるみきった状態で、国民生活をつづけさせていることは、やはり政治の貧困と
もいえるのです。内にも外にも確たる政治が行なわれていない、ということなのです。
共産主義国の権力主義、罰則主義で、国民を統一しているのも、やがては崩壊する時期
がくることでしょうが、日本のようにゆるみきった国民生活をそのまま放って置く政治も
いけません。もっと日本の国の在り方を、きちっと定めて、その決定の下に国民生活を築
きあげてゆく、ということが大事なのです。その日本の国の在り方を定めるのが、政府の
最も急を要することなのです。その根本精神にのっとって、内外すべての政策を行なうべ
きなので、その場、その時々の行きあたり、ばったりの政策では、つい外国の後手後手と
廻ってゆくことになります。中国政策また然りです。
その日本の根本精神は、聖徳太子の昔から大和、大調和ということに定まっています。
今更心を迷わせて、右見左見することはないのです。今流にいえば、世界平和をつくりな
す中心の働きを日本がするのだ、日本はそういう天命を持っているのだ、ということを、
政府首脳がはっきり認識して、政治の腰を据えなければいけません。日本が世界唯一の原
97政治家への提言
爆被爆国になったのも、天が日本の使命をはっきり認識させるための処置であったのです。98
日本が世界平和樹立の中心の国である、という覚悟がきまれば、政府の政治政策は自ず
からその道によって定まります。そういう一貫した筋道があってこそ、国民の統一も自然
となされるのです。それこそ権力によらず、政府と国民が一つになって進みうる道が開け
てゆくのです。日本は世界の平和のみを欲する、という根本精神で諸事万端に当たればよ
いのです。そうした日本の生き方に生命を賭けてこそ、日本の政治家といえるのであって、
他国の誘いかけの軍備拡張や、仮想敵国に対する心構えなど少しも必要ないのであります。
日本の天命を全うする道を進んでいて、何を恐れることがありましょう。日本のこの道を
信ずることこそ、世界平和をつくりあげる第一歩なのです。
書かずにはいられないこと
白光誌昭和四十一年二月号発表
個人と世界との幸福は[つ
と
近頃の白光誌には、只単なる個人の救われの道や、慰めの言葉だけが書けなくなってい巳
る現在の私のペン先なので、どうして蔑米国の在り方や中国やソ連や世界の動きなどに、欄
つい文章が走.てい.てしまいま実脳
私籟.て.しられる人々にと.て嫉世界の動きなどはひとまず置いて、現在の自分の蝋
病気とか貧乏とか不幸災難を遁れ出る道を教えて貰いたいのであり、私もその人たちの気勘
持を充分に判ってはいながら、個人的な応待においては、相手の納得のゆくように、相手9
の現在の苦境を越え得るように、その道を教えてもいるし、真剣に祈りの光を与えるよう
にもしているのですが、ペンを持ったり、演壇に立ったりすると、心の中から温れてくる
ものが、個人と世界とを結びつけた、個人と世界との幸福は一つのものである、という意
味を根本にした、真実の平和生活の道の話しかできなくなってしまって、現世利益の話な
どは一語も話せなくなってしまうのであります。
個人個人のその場その時々の幸福感などは、世界人類の混乱争乱の中にあっては、それ
こそはかない一瞬の幸福感でしかないことが、私にはよく判っていますので一人一人の人々
が一日も早くどんな混乱や争乱の中にあっても、心が揺れ動くことの勘ない、真実神のみ
心につながりきっている人間になるように、と眼前の幸不幸を超越した光に充ちた心境に
まで持ってゆくよう祈りつづけているわけなのであります。
それと同時に、個々の一人一人の人間の生き方が結集して、世界人類の完全平和をつく
りあげてゆくものであって、棚からぼた餅式に、各国指導者たちだけが、それをつくりあ
げてくれるのではない。各国の政治責任者たちには、かえってその立場が邪魔になって、
100
思うように完全平和な道に国政を進ませることができないのである、とも説いているので
あります。
世界が平和になるということに対しては、個人的にはみな同じ立場に立っておりますが、
各国の政治指導者となってきますと、その国家の今日までの歩み方というものがありまし
て、その歩み方というものを土台にしてでないと、その政治政策を進めるわけにはゆかな
いのです。
米国が急に共産主義政策をすすめるわけにはゆかないし、中国やソ連が、にわかに資本
主義政策になれるものでもない。そういうところが非常にむずかしいのでありまして、国々
の歩み方の違いや政治形態の相違によって、世界が同一歩調をとって、平和のために歩み
出すということができなくなってしまうのであります。
むずかしい日本の立場
日本の立場をとってみますと、米国と中国ソ連の政策の善悪を一応別にして考えてみま
101書かずにはいられないこと
しても、日本は終戦以来、米国の占領政策を通して、米国の支援の下に、今日の経済復興
がなされてきたのでありまして、一にも二にも米国というように、米政策の一環の動きを
取ってきたのでありますし、それが今日の日本の繁栄を来してきたことも疑えない事実で
あります。
こういう既成事実をぬきにして、日本の政治政策を行なうことは、如何なる政治家が出
てきても不可能なことなのです。どうして不可能かと申しますと、日本の経済というもの
は、米国との深いつながりによって保たれていることは、現在でも同じなのでありまして、
これを急に、米国との経済のつながりを断ち切って、中国やソ連との経済のつながりに切
り替えるとしたら、今日まで保ってきた経済の安定は忽ち崩れ、どうにも収拾つかない大
混乱が起こってしまいますし、第一米国が黙ってそれを見過ごしているわけがありません。
それこそ共産主義の日本への侵略とみなして、武力をもってでも、そういう変革を阻止し
ようとするにきまっております。
ベトナムにおいてでもそうなのですから、日本のようにアジアにおける米国の最大拠点
102
である国家の裏切り行為を許すわけがありません。あらゆる手段をつかって、自国陣営に
ひき戻そうとするのは明らかなことです。ベトナム戦争と同様のことが日本にうつってく
ることは当然なことです。
ですから、日本の為政者は、うかつに中国とのつき合いもできかねて、前にゆくように
みえては、また後戻りしたりしているのであります。先日の新聞でも、「”日米間の友情
と相互利益は強いが、両国間の結びつきが強いからといって、日本がとるべき道は、疑問
をもたずに米国の見解を受け入れることだという米国の態度に対して、日本には不満があ
る。日本国民の利害と感情に対してもっと配慮すべきだと思う” と佐藤首相が、米週刊誌
ニューズウィークのトルイット東京支局長に語った言葉に対して、同記者は、この発言は、
敗戦以来の日本の首相の発言のうちで、最も強い批判だろうといい、いままで沈黙して
(決定的に後輩的) なパートナーである日本人に慣れてきたアメリカにはショックだろう
とも書いている」
と書かれていましたが、こんな当然すぎる程当然な佐藤首相の言葉でさえ、今日までの
103書かずにはいられないこと
首相たちが米国に遠慮して言えなかった程なのであり、米国のショックとなる程の言葉と
きこえるのですから、日本が米国に決定的な反旗をひるがえしでもしたら、米国の自尊心
が崩されて、どんなことをするかは前述した通りです。それは、ベトナム戦争に対して米
国のいっている言葉をきけば、はっきり判ることなのです。
104
まず国民の心を一つにする運動を
ですから、社会党や共産主義者たちのいうように、反米政策を取ることは、日本をかえっ
て戦火に巻きこませることになるのであります。いたずらに米国を非難して溜飲を下げて
いても、結果的にはあまりよいことにはなりません。それより国民が心を一つにして、日
本は心の底から戦争を拒否しているのだし、真実の平和を願っているのだということを、
米国や世界中に知らせることが必要なのであります。
それが私たちの”世界人類が平和でありますように” という合言葉の下に日本中を結集
させよう、想いを一つにしよう、という運動なのです。米国や日本政府の一つ一つの政策
を非難しているよりは、日本人はすべてが心を一つにして、世界の完全平和を願っている
のだ、どんな小さな戦争をもなくして、地球世界を平和なものにしよう、という大悲願を、
そのまま世界中にぶっつけてゆく純粋素朴な運動を展開することが必要だというのです。
そういう国民の心を一つにした運動は、政府が対外政策を打ち出す為にも、大きな背後
の力となって、思いきった平和政策が打ち出させるようになるのだし、米国や中国に対し
ても、国民の総意として力強い意見がはけるようになるのであります。
国民の心がまるで自分勝手で、日本のことも世界のことにも無関心でいたり、その思想
が三つにも四つにも分れているようでは、今日の呆の置かれた立場を明るいものにして既
ゆ- ・」とはできません。米側につこうと、中国ソ連側につこうと、どちらにしても、呆欄
を破滅させてしま身向にしか動〜しとができない立壕政府を追い・」んでい・てし∴
います。に
ザ
ちなみに、米国一辺倒に立って、反中国、反共政策で日本の政治が進んでいった時のこ諦
とも考えてみましょう。米国の言うままに日本の政策を進めてゆくとするならば、日本は鵬
何等かの方法で、完全軍備に向かってゆくに違いありません。
106
もし日本がこうなったらば… …
米国にとって日本がはっきりした軍備をもつことは、強力な味方を得たことになり、米
国戦略上大きなプラスになるのであります。日本自体が核兵器をつくることをこぼんだと
しても、米国は自国の核装備を日本軍に与えてそれを使わせようとするでしょう。米国に
とっては、共産主義の侵略が最大の脅威であるので、どのようなことをしても、共産主義
国を叩きつぶしたいのであります。
それには、中国が核爆弾を使えないうちにその力を抑えつけてしまおうとしているわけ
かなめ
で、それには中国の隣国である日本に一肌ぬがせて、中国の侵略を阻止する要の役を果た
して貰わねばならないのであり、日本を最前線基地として、中国と対峙することになるわ
けです。
大きな核戦争にならないうちに、小さな戦争で中国の力を失わせてしまおうと、米国は
計っているのであり、その一例がベトナム戦争になっているのであります。
さてそうなりますと、日本は完全に中国の敵として中国の前に立ちはだかることになる
ので、中国はどうしても、この日本を叩きつぶさねばならぬことになります。米国防省長
官が六七年、つまりニケ年以内に中国は核兵器の貯蔵を開始するに十分な核爆発物質を生
産できる能力を現在すでにもっている、と先頃言明しているように、中国の力は次第に強
力になってゆきます。
そうした中国に対抗して戦うだけの気力が現在の日本人にあるでありましょうか。中国
と
は国を挙げて心を一つにして、米国とそれに同調する国々との戦を決意しています。個人肥
の欲望を捨てて、国家目的に警きっておりま究撫
そんなに徹底した国家主養現在の日本人杢体なれるでありましょ泉.・、の二+ 腸
年来の利己主義的生き方が、自己を国家目的舞げるという気持を、殆んどの呆人から蝋
カ
失わせてしまっているのです。それに加えて深い戦争恐怖の想いを人々は持っております。書
例え軍備において中国に勝っておりましょうとも、こんな気構えの日本人に一体国を挙斯
げての戦争行為などできるでありましょうか、戦争をする前にすでに中国には負けている
形です。
中国に勝る軍備をしておれば、中国軍は日本に攻めてくることはないのだ、ということ
を言う人がいるかも知れません。しかし、そんな保証を与えることは誰にもできることで
はありません。
軍備をするからには、攻めてきたら戦うという気構えが、軍人ばかりでなく、国民全体
になければ駄目なのです。北ベトナムでも、アメリカ軍がいくら兵力を増し、空軍の力に
ものをいわせても、少しも恐れず攻めかえしてくるではありませんか。日本がいくら軍備
を増強したとしても、中国が米国と一戦を交えれば忽ち日本に空襲をかけてくることは明
らかなことであります。
そこまで深く考えないで、米国一辺倒反共主義という生き方というのは非常な危険を伴
うわけですし、国民の団結心というものが第一であるわけです。ですから、日本人が米国
の北ベトナム爆撃を支援するような言動を吐くことは感心したことではありません。
108
大きい戦争を防ぐ小さい戦争などあり得ない
テレビの記録映画で、ベトナム戦争をうつしておりましたが、アメリカ兵にも多数の戦
死者や負傷者が出ておりまして、ベトコンとアメリカ兵との死体が重なり合うようにして
倒れているのです。そして、米軍の隊長は、この戦は勝利だった、といっていますが、兵
隊たちは、悲しそうなうかない顔で、それぞれが戦の恐怖を語り、まるで地獄に飛びこん
でゆくようだった、といっては、友だちの戦死を悲しんでおりました。
あんな映画をみますと、戦争の残虐さがまざまざと思われます。人が殺し合ってよいこ
とはないのが判りきっておりましても、他国人同士の戦争となると、平気で北爆をやるこ
とによって、共産主義の侵略が防げるのだ、と平気な顔で云っていられるのですが、あの
戦死者の中に自分の兄弟や子供たちの顔があったとしたら、その人はどんな態度をするで
ありましょうか、人間というものは、常に自分の身にひきくらべて、人のことを思わなけ
たかみ
ればならないものなので、高処の見物式に米国やベトナムや中国のことを思っていたので
109書かずにはいられないこと
はいけないのです。
あれが米国もまだ本格的な空襲はしていないし、北ベトナムも全力を南ベトナムにつぎ
こんでいるわけではないので、あの程度なのですが、もっと本格的な戦争になったら、一
体どんなことになるでしょう。そして中国やソ連もその戦争に参加していったら、日本は
勿論無事で済むわけはありません。米国陣営の一環として、本格的戦争の場に巻きこまれ
ることは必至であります。原水爆をつかわぬ戦争でさえ大変ですが、もし核戦争にでもなっ
たら、もうどうにもしようのない事態になってしまいます。
大きな戦争を防ぐ為には、小さな戦争は仕方がないという考えの人がいますが、その小
さな戦争から大きな戦争になる可能性も多分にあるのであります。原水爆戦争だけが大き
な戦争というのではなく、原水爆をつかわなくとも大きな戦争にはなり得るのです。です
から、中国が原水爆を使えぬうちに、やっつけてしまえといっても、中国が只おあおめと
やっつけられている筈がありません。必ず報復戦争をしてくるに違いありません。原水爆
がなければ、米国本土はたいしたことはないかも知れませんが、日本のような小さな島国
110
でしかも中国の隣国は、太平洋戦争と同じような、否それ以上の痛手を蒙るかも知れない
のです。
ですから、日本が米国と同じような考えで、中国が核兵器を使えぬうちに米国にやっつ
けて貰った方がよいとか、共産主義の侵略を防ぐのは一にも二にも武力だなどと思ってい
たらとんでもないことになるのであります。
そこで、米国との関係も、ただ米国の言いなり次第になっていたり、米国の軍事力だけ
を頼っていたり、日本も軍備で米国の期待に応えようとしていたりしたら、中国はじめ共
えんさ
産圏の怨嵯の的になって、かえって憎悪の感情を集中させる結果になってしまいます。
日本の現在の立場は何んとむずかしいことでありましょうか、ただ頭の先で考えていた
ら、右してよいのか左してよいのか、戸惑うばかりです。
日本の進むべき道
佐藤首相が「米国は日本の利害と感情に対してもっと配慮すべきだと思う」と言ったの
111書かずにはいられないこと
は立派だと思います。やっぱり日本人は日本の立場をはっきり説明して、日本としてでき
得る協力をしてゆくのがよいのであって、米国の誤ったアジア政策を、ただすこともしな
いいだくだく
いで、唯々諾々として受け入れてゆくことは、米国の為にも悪いし、日本の為にも悪い、
ひいては世界全体の為にも悪いことになるのであります。
政府の政策に反対するために、わざと反米的言辞をろうするのもいけないが、進歩的知
識人といわれる人々の中国礼讃が気にくわぬからといって、日本ははっきり米国陣営であ
ることを証明して、反中国の旗印をあげよという言い方もどうかと思います。
日本の天命は右よりでも左よりでもないのであります。中庸というのが日本の生きてゆ
あめうきはし
く道でありまして、神道的にいえば天の浮橋に立つということであり、キリスト教的にい
えば、十字架の中心に立つということ、つまり縦横十字交叉の真中に立つということであ
ります。
ひひ
米国寄りでもいけないし、中国ソ連寄りでもいけない。日本は日(霊) の本であり、大
和の国であります。日(霊) は光り輝くものであり、その本源は大調和なところでありま
112
やまと
す。大和というのも文字の通りです。そういう国名を持つということは、やはりその天命
がその国名に現われているのであって、国名を汚すような動き方をしてはいけないのです。
日本には敵があってはなりません。向うで敵視してきても、それを打ち消す程の光明波動
を発揮しなければなりません。小戦争にも大戦争にも、そういう戦争に向かってゆくよう
な想念波動の中に自分たちを置いてはいけません。人が殺し合うことは、しかも国の名に
おいて殺人行為を許すことは、あの太平洋戦争だけで沢山です。
世界平和をつくるための必要悪として、小さな戦争は仕方がない、という人があったら、
その人自身が、蕃最初に志願して戦場に出てみるつもりにな.て下さい。自分が戦場で魅
兵隊になることも実感として味わって、それから仕方がないといって下さい。私自身は死撫
後の世界の・、とを知.ていますk 肉体を去.てからの自分の行裏き場所も知.ていま鵬
すので、死ぬ.」とを一般の人々程恐れる想いはありません。しかし、果たして自分が人を瞭
殺せるかと思うと、とても自分には人が殺せないと思うのです。人を殺す為に自分の方か割
ら突き進んでゆくことはできないのではないかと思います。鵬
戦争というのは、自分が死ぬことだけではなく、人を殺さなければならないのです。大
変なことです。その事実をはっきりと認めてからでないと、うかつに小さな戦争とか必要
悪などという責任のないことはいえないものなのです。
私土ハはどういう立場に立ってものをいっているかと申しますと、一般国民の立場に立っ
ていっているのでありまして、政府としてはどうしても、米国よりの政策を推進してゆく
より仕方のない、今日までのいきさつになっていますが、一般国民の立場としては、米国
とも中国とも仲良くできるのでありますので、本来の日本国の天命をそのまま生かしてゆ
く、中庸の道、つまり世界平和樹立の道を突き進んでゆくことができるのです。
米国と協調し、しかも中国とも和してゆく、そういうことができるのは、やはり国民運
動なのです。私共はそういう運動を、祈りによる世界平和運動として推進しているのであ
ります。
114
祈りによる世界平和運動の拡大を
世界人類が平和でありますように、という祈り言葉に先ず日本人の心を結集させ、それ
を世界中に拡大してゆこうというのが、私共の世界平和の祈りの在り方なのです。
日本人全員がすべて世界平和一念で生活しているのだ、他には何の他意もないのだ、と
いうことを米国にも中国にも、世界中に知らせることが大切なのであります。
政府だけに頼っていたのでは、どんな首相がでてきてもこの日本の難関を乗り切ること
はできません。必ず一方の色がつくにきまっております。米国色も中国色もソ連色もつか
ない、純粋な日の丸の気持で、日本国民はすべての生活をしてゆかなければいけないので
す。
その中心思想が、大調和精神であり、世界平和の祈りの精神なのであります。日本中の
隅々まで”世界人類が平和でありますように”という世界中の大願目である祈り言が唱え
こころよ
られ、ひろめられていたら、どんなに快いことでありましょう。日本に来訪する外人客た
ちが、その平和を願望する熱意に打たれないではいられないでしょう。
一日も早くそんな日を来らしたいものです。日本は平和を熱望する中心国として、世界
115書かずにはいられないこと
の人々の心をひきつけ得るようにならなければ、日本の運命は再び戦火におびえるものと
ならねばなりません。日本が国を挙げて真実平和を熱望していることがはっきり致します
れば、日本政府もその政策が実にやり易くなりますし、わざわざ中国や共産圏を敵として
立つというようなつまらない真似をしなくとも済むようになります。
さすれば、中国もソ連も北鮮も次第に日本を敵視しなくなるのです。これは想念の法則
でありまして、敵を認めなければ、必ず敵は無くなるのであります。
そんなこと夢物語りだ、という人がありますれば、それならあなたは、この他の一体ど
んな方法で世界を平和にしてゆこうというのですか、と私は問い正します。私共の生き方
の他には、どうしても米国につくか、中国やソ連につくかの二つしか道はないのです。そ
うした二つの道は、必ずどちらからいっても、どちらをとっても戦争に日本を導き入れて
しまう道なのです。
神のみ心は大調和です。私共はみな神の子でないものはありません。私共が大調和の道、
つまり世界平和の祈りの道を突き進んでいて、それで、日本が滅びるなら、もはやこの地
116
球界には日本の天命が無かったことになります。それならそれで、他の天体で日本の天命
の為に働くことに致しましょう。戦争をしなければ、人が殺し合わなければ生きてゆけな
いような世界なら、そんな世界はこちらがごめん蒙りたいものです。
ところが、神のみことばは、私の心の中でこの地球界を滅亡させないこと、日本の天命
がこの地球界で果されることを約束なさっているのです。私はそのみ言葉を信じて、日々
祈りによる世界平和運動を推進しつづけているのであります。
その他に、いつもこの誌上で申しておりますように、世界平和の祈りから生まれ出た、
と
大調和科学である、宇宙子波動生命物理学という、新しい科学の道が開かれてきているのこ
い
であり、この科学が完成した暁には、一切武器弾薬の通用しない、武器の使えない時代の櫨
到来となるのであります・喝
講
その科学の研究の為にも私共は一心こめて働いているのであります。ですから私共は、劉
か
いたずらに理想論を唱えているわけでも、空理空論を唱えているわけでもなく、宗教の道と書
科学の道との両面からの、世界平和樹立の道を説き明かし説きつづけているのであります。m
おちい
知識人の陥りやすい迷信
人生道場への返信
118
白光誌昭和三十二年九月号発表
霊魂否定と死後個性意識存続の否定は正しいか
はんちゆう
世にいう迷信と申しますと、知識のない者、無学の者がより多く、そうした範疇に入る
ように思われておりますが、知識人と称される人々にも、なかなか抜け難い迷信的所業が
多いのであります。私はこの度は、知識人の陥り易い迷信について述べてみたいと思いま
す。
先日ある人が、伊福部隆彦氏主宰の人生道場という小冊子を持って見えました。私は以
前から東京タイムスなどでこの人の思想を知っていましたが、この小冊子を見て、非常に
立派な宗教的見解を持っているこの筆者の、頑固とまで思われる霊魂否定説、死後の個生
命意識の否定説を、この人のためにも、一般の知識人といわれる人々のためにも訂正して
置かなければいけない、と感じて、この人の説の誤った箇所を指摘してゆくことにしたの
です。
人生道場六月号に心霊へのわが所見と認識という標題の中の、否定さるべき心霊観とい
う文章の中で、伊福部氏は次のようにいっております。
ー先づ私の否定するところの世に謂ふ霊魂なるものを明らかにします。
世に謂ふ霊魂なるものは、このわれらの肉体の中に宿つてゐるもので、われらの肉体が
死するとき、その霊魂は藻脱けてこの地上界に肉眼に見えないけれども生存してゐる。そ
して肉体の中にゐた時と同じに思考したり、喜悲哀楽して感情生活をもつてゐるといふの
であります。そしてこの霊魂なるものは死する時がないといふのであります。又中には、
この霊魂は地上から天上、霊の国に行つてそこで生活することもあり、又地上に来て、他
の生れ出る肉体に宿つて新しい地上生活をすることもあるやうであります。
119知識人の陥りやすい迷信
そこで、これらの霊魂は、子孫がこれを祀つて呉れないと子孫に崇ることもあり、又祀
つて貰ふことによつて子孫を栄えさせる能力もあるやうであります。ですから人々は、自
分の祖先の霊を祀らねばならないというのであります。
又このやうに存在する霊であるから、特別に霊能力のある人物は、その眼に見えぬ霊を
呼び出し霊媒的人物をとほしてその霊を霊媒者の肉体にしばらく入らせて、その霊にもの
を言はせたりすることが出来るといふのであります。
又その霊をして、物体を動かさしたりすることも出来るし、又霊は遠隔の地にあること
を千里眼的に知つたりして、その霊媒をとほして言はせることも出来る、又遠い過去の誰
も知らないやうなことも知つてこれをわれらに霊媒を通して伝へる、未来のこともこれを
予見するといふのであります。
このやうなのが世に謂ふところの霊魂でありますが、私はこのやうな霊魂なるものは、
決してあるものではないというのであります。
特に霊媒をとほして実験するところの心霊研究に至つては今日までのところ殆んど悉く
120
詐術であることが証明されて居ります。後略ー(以上原文のま\)
伊福部氏はこのようにいって、前記のような霊魂論は、迷える人々の妄想的所見に過ぎ
ない、と死後の個性意識の存続や、生まれかわり、過去の所業の輪廻というものを否定し
去っております。
そして氏は、別頁で、この世界は物質だけではなく、その半分は無の世界であって、も
のをうみ出すはたらきをもつものとしての存在であり、有の世界(物質世界) はものを死
滅させるはたらきをもち、この無有二つのはたらきによって、この世界が生滅の相をあら
わして永遠に生きつゞけている、と老子の思想をこう説明し、この無有によってあらわれ
ている宇宙を霊体と観、甚深微妙の大霊が、宇宙と体現していると説き、個人と現われて
いる人間は大霊の分霊であるが、何々と名をもつ肉体が死滅すれば大霊に還元してしまっ
て、個生命意識はなくなり、只、何某と現われていたその者のはたらきや思想が、それを
知る人の心の中に生きるというのです。
121知識人の陥りやすい迷信
社会人類をよくしようと思ったりすることは迷いか
氏は老子の無為ということを根抵にして道を説いているのでありますが、この現象界な
るものは、無の世界のはたらき、つまり無為によって生み出され、生成、発展という形を
かえ
とり、やがてそれは再び無へ復るはたらきをしているので、この無為(道) の意志に触れ、
一体となった時を見神したという、というようなことを説いております。そしてこの無為
ききん
のはたらきは、この世界このま\ で完全無欠であるのだから、暴風も晴天も、飢饅も洪水
も地震も敗戦も、すべてこの完全無欠な無為(神) の無限の変化である、だから、そのあ
らわれのすべてに自己を体一して生きることが正しい行為なのであり、見真大悟したこと
になる、というようなことを同誌七月号でいっております。原文はもっとくわしく立派な
文章で説いてあるのですが、私は誌面の都合上要点だけを纒めてみたのです。しかし、氏
のいわんとすることは、結論としては、そうした完全無欠なる大霊の無為のはたらきで出
来ているこの世界に生きているものが、社会をよくしようと思ったり、人々をよくしよう
122
と思ったりすることは迷いである。われらは只、無為の道のあらわれるま\ に生きて死ぬ
ことである、というのであります。といっても、完全無欠なる無為にまかせていればすべ
てよいようになるというのではなく、蕾み花開き落ち散るというその全部をもって花とし
ての本来の使命を喜ぶように、真の道者は、吉凶禍福に左右されないで、それが道自体の
あらわれとして、吉凶禍福を生きていくのであって、社会をどのように改造しようとか、
地上に天国を築こうなどとは考えないものである、ともいっております。
こうした説をきいておりますと、宗教的な精神をもつ知識人の多くは、非常に高度な、
迷信のない説のように感じて、ある種の精神的清潔さを感じとるのです。それは一つには
死後における霊魂の存在などという、古くさい如何にも知性に反する、原子力時代に逆行
する非科学的な考え方に対する厳しい否定への快感。二つには、自分以外の存在に対する
依存観への反発、つまり神や霊を求めることによって、自己が利益を得ようとする気恥ず
かしさ、いいかえれば、他に依存して人間としての自主性を失いたくないという、知性人
の潔癖感を満足させてくれる数々の説、例をあげれば、前記の、完全無欠なる無為にまか
123知識人の陥りやすい迷信
せていればよいようになるというのではなく、吉凶禍福を生きていくのであったのような、伽
内容の奇麗な言葉や、死ねばそのま\大霊に還って、生前のその人の名やその思想行為が、
その人を知る人の心に生きつゴけていく、というような思想(註私の取り上げている文
章は誌面の都合で伊福部氏の原文そのま、ではありませんが内容は同じです) などであり
ます。知性人は兎角、宗教に救いをもとめたり、神や仏を求めることによって、自己に現
世利益がある、というようなことを、極度に気恥ずかしく思うものなので、これらの人々
は仏教の哲学的な理論的な点に心をひかれ、現象利益的な呪術的な新興宗教を軽蔑する傾
向にあるのです。(尤も知識人ならずとも、多くの新興宗教の在り方には反発を感ずるこ
とでしょう。)
亀井勝一郎氏なども、宗教に救いを求めたり、宗教によって救われると思ったりするこ
とは間違いである、というようなことをある本で書いていました。
こうした考え方、説き方は確かに宗教的な知性人の心をとらえるのです。私の青年の頃
は丁度そうした思想であり、霊魂意識などをいう人が馬鹿に見えて仕方がなかったもので
した。私は一面そうした心も尤もなところもあると思いながら、そんな心ではその人も、
この世界もいつまで経ってもどうにもならない、と私の宗教的体験で思っているのです。
さてここで、私が伊福部氏やそうした同じような考えをもった人々に、一つ一つ反論し
ていこうと思います。
死んだら[度に大璽に還れるか
第一の反論は、死後における個生命の存在がなく、死んだらそのま\ 生前の意識が滅し
てしまい、大霊(神) に還ってしまうものなら、この世におけるどのような悪所業も、そ
のま\ その人から消えてしまって、どんな悪いことをした人でも、死後は神と一体になっ
てしまうということになるわけですから、悪い所業をしつゴけている人にとって、こんな
に有難い説はありません。さんざん悪いことをして、人を困らせて、もうこの辺で生きて
いるのが面倒だと思った時分に、海にでも飛びこんで自殺してしまえば、自分の意識はそ
のま\ なくなって、自分の中にある分霊はそのま\大霊(神) に帰してしまう、というこ
125知識人の陥りやすい迷信
とになる。善い所業の人も悪い所業の人も、死んでしまえば、その人自身としては、それ
で自意識がなくなってしまうのですし、もう再び個人として、その人の想念行為が、来生
に生まれかわってくることもないのですから、すべて今生でやりっぱなしでよいわけで、
善行為をした人が次の世で善い報いを受けるわけでも、悪い行為の人が悪い報いを受ける
わけでもないので、至極気楽なことであるわけです。
氏にいわせれば、悪人と現われて行為している人も神(無為) の現われで、悪人そのま\
でよいのであって、その人を善くしようなどと思うのは迷いである、すべては完全無欠な
る無為のはたらきである、それを只悪人と観るような人にとっては、この世は正に地獄と
も見えるのである、というような説法になってくると思います。
私の説も、神は完全円満、全知全能であって大愛者なのだし、この世界は神そのものの
現われなのだから、悪や不幸は本来あるべきものではない、という説なのですが、後の説
明が伊福部氏などとはまるで異なっているのです。これは後で述べることに致します。
126
生まれながらの生活と才能の不平等がどうしてあるか
第二の反論は、氏の説のように、生まれかわりなどというものはない、前生や過去世など
こう
はない、過去世の業によって、今生の運命が左右されるなどということは、釈尊以前の印
度人のように無智なる者の迷信である、というならば、この世界の二十数億の人間の生ま
れながらの才能や体力などのすべての素質の高低や、生まれながらの環境の差異がどうし
てこうも不平等に出来ているのか、無為(神)のはたらきが、完全無欠なら、すべてを何故、
何等かの平等的配分にして生みなさなかったのか、つまり、生まれながら才能に恵まれた信
魅
ものは富に恵まれぬ、地位や富に恵まれて生まれたものは、才能が劣るなどという工合に、引
きちんと定まっていなければならない。ところがこの世には、富も才能も兼ねそなえて生卿
陥
まれ出る者もあれば、貧家に生まれて才能の低い者もある、非常に不均衡、不平等に出来ゆ
ております・購
これに対して氏は何んというでしょう。祖先から子孫に至る歴史を見れば、何代目何代囲
目かで、その高低が反比例してゆき、一系を通して平均してゆく、とでもいうでしょうか、
もしそうであっても、今生に生まれた何某という不遇な人は、氏の説によれば、死後の個
性意識も、生まれかわりもないのですから、その人の子孫がどのように栄えようと、素質
が優秀であろうと、その人自身には何んの感応もないわけで、どうでもよいということに
なるわけです。それとも劣等に生まれてきたのは偶然の割り当てでその人の責任ではない
から仕方がない、だから無為に徹して生きる必要がある、とでもいうでしょうか。それな
ら無為に徹せられる人は、優秀であって、劣等どころではないのを、氏は知らないのであ
ろうか、ということになります。ですから、個々人の意識は、肉体が死ねばそのま\ 個々
人としての意識が消滅して大霊意識に還元してしまう、というような、肉体人間と神の二
面しか説かれていず、しかも、肉体の業想念所業を認めぬ思想ではとても神と人間との深
い甚深微妙な真理が判りっこないのであります。
128
不幸も完全無欠な神(無為)から来るという矛盾
こんな不平等不均衡な人間世界を創り、飢饅や洪水や暴風雨や地震に人間をおびえさせ
る無為なる大霊(神)を、完全無欠だなどという人は、伊福部氏のように超人間的な人だ
けではないかと思います。普通の人間感情のある人は、飢饅や洪水や暴風雨や地震や、病
気や貧乏や死別や、そうした俗にいう嫌なことを、喜ぶわけにもゆかず、完全無欠なるも
のの行為と思うわけにはゆかぬのです。完全無欠な神様がそんな嫌なことを次々と発生さ
せる、ということになると、神様は人間の味方なのか敵なのか全く判らなくなってしまい
ます。
愛する子供に死なれた時に、一体何人が、本気で喜べるでしょう。あ\これも無為(神
様)の完全無欠なるはたらきのあらわれである、有難うございます、などと真実にいい切
れる人が一人でもあるのでしょうか。いつの東京タイムスだか忘れましたが、伊福部氏は、
誰かの問に答えて、子供が死ぬのも神のはたらきで喜ぶべきだ、というようなことをいっ
ていたようですが、私たちにはとてもそのようなことはいい切れません。氏の無為になる
カルマ
ものは私のいう業のことであって、神ではありません。
129知識人の陥りやすい迷信
不幸は過去世からの業の消えてゆく姿と私は説く
私の説は、この世における天変地異も戦争も、個々人の病気や不幸も、すべて人類や、
個々人の永い過去世から今生にかけての神のみ心から離れていた生活から生じた誤った想
念行為が、今消え去ってゆくために、そうした現象となって現われたものであって、神そ
のものが、そうした不幸や不完全な姿を現出させるのではない、というのであって、人類
の不幸も、個々人の不幸も、不幸と現われた時に、その不幸を嘆く想いを、過去世からの
人類のあるいは自分の業因縁が消え去っていったのだ、これで自分の本心が開けてゆくの
だという想いにかえるか、只ひたすら守護霊、守護神にその想いを訴え、自然にその悲哀
を守護霊への感謝に変えてゆくようにするかの方法を教えているのであります。
この方法でさえも、なかなか不幸からくる悲哀の感情を消し去ることに時間がかかるの
に、不幸も神から来る、というような教え方では、神に反発を感じるだけで、決してその
人の心を安らげるわけにはゆきません。まして伊福部氏のように、個人の死後の世界はな
130
いのですから、慰められようもありません。
盤魂は絶対に無いと簡単に言い切れるだろうか
話を少し変えて、氏が個性意識をもつ霊魂の世界などは決して無い、と断定を下してい
ることについて反論してみます。
決して無い、といい切ることは、実にこれは危険この上無いことでもあり、非常に無謀
なことでもあり、非科学的なことでもあるのです。氏は何回となく心霊研究の実験を見た
結果、無いと断定したようなことをいっておりますが、氏は何十回、何百回、心霊研究の
実験に立会ったのでしょうか、そして、その心霊研究は日本の他に何処どこの国の実験に
立会っているのでしょうか。おそらく、心霊の実験会は氏の見た数の何十倍、何百倍と行
なわれているのであり、日本の他には、英米仏をはじめ、様々な国で行なわれているよう
であります。氏の見た実験は、その中の何十分の一、否何千分の一にも及ばないのではな
いでしょうか。その僅かな経験より持たぬ氏が、決して無い、と断じているのは、少し面
131知識人の陥りやすい迷信
妖とは思えないでしょうか。有る、ということは、その人自身が見たことであるから、こ
れを他の人が無い、と思ってもそれを否定することは出来ませんが、無い、といい切るた
めには、世界隈なく見歩いての上で、無い、といい切ることが出来るのであって、僅かな
経験で、しかも自己の思想上の立て前から、無い、ということを望む潜在意識をもちなが
ら、その実験会に立会って、今迄自分の見たものはすべて詐術であった、だから決して無
い、と断定しているのは、恰も英語を知らぬ小学生が中学生の英語をきいて、そんな言葉
は言葉でない、何故なら、私は今までの経験で、そんな言葉をきいたことが無いから、と
いうのと等しい断見甚だしいものであるのです。
私のように、朝から夜中まで、死後の世界の人たちと接触したり、守護霊、守護神とい
おかし
う、個性をもつ霊や、神格者と交流しているものは、伊福部氏の霊魂否定説などは可笑く
ておかしくて、子供のようなことをいう人だ、と思うのであります。もし氏が肉体を離れ
た時、すぐさま大霊に復せるなどと思って死んでいったら、行く先不明で大あわてにあわ
てることであろう、と思います。氏の今の心境や思想では、とても大神様のみ下に行きつ
132
くことなど思いもよらぬからです。死んだらそのま\個意識が永遠に無くなってしまう、
などと思う想いを一日も早く改めないと、本当に死後の行き場所が無くなります。この事
実は氏が死んだ時に実によく判るのです。
人間は死んだら一度に大霊に還元してしまえるようだと真実に幸福なのでしょうが、そ
んな観念論的な生易しいものではありません。
釈尊でも世にいう聖者高僧たちでも、個意識ある霊魂世界を別に否定していたわけでは
なく、この肉体世界の人間と同じように、神仏そのものではない、実在ではない、真の人
間ではない、(真の人間とは神仏そのもの) といっているだけで、現象としては認めてい
じん
るのです。それが経文では神とかその他種々の名称で現わされているのです。只、人によっ
て、あまり肉体以外の他界のことをいうと、その方に気を取られて、肉体生活における真
剣さが欠けたり、神仏の本質追究を忘れて、霊魂との交通に興味を奪われたりしがちなの
で、坐禅中に見える様々な幽界、霊界の生物や、霊魂を、すべて無し、と否定させ、本心
開発一本槍で行じさせたのであります。このことを知らず、現代のように各国で心霊科学
133知識人の陥りやすい迷信
が盛んになった時代になっても、霊魂や死後の存在者を否定していることは、唯物論とあ
まり変わりない意識といわねばなりません。
老子の時代、釈尊の時代、道元の時代と現代とでは、およそ、その世界が違ってきてい
るのです。昔の聖者の教えを、只観念論的、知識的にだけ吸収して道を説いたりしていて
は、その人も読者も、いつまでたっても知識の遊戯、観念的頭脳意識の満足だけで、何ん
の役にも立たぬ人間で終わらせてしまうのではないでしょうか。もっとも伊福部氏流にい
えば、悟ろうと思う想いもなければ、人を善くしようと想うこともない、まして社会や人
類を善くしようとすることなど、とんでもない迷いだ、ということになるのでしょうが、
それがいわゆる観念論なのであります。
134
人間の善意をふみにじる観念の遊戯
この世の善意の人間は、すべて自己が善くなろう自己を善くしよう、人を善くしよう、
社会国家を善くしよう、人類を善くしよう、と思っているのであって、そうした善意の上
に、着々とこの世が善くなってゆくのであります。
ちなみに戦国時代と呼ばれた時代と、現代では一体どちらが住みよいのでしょう。乗物
もなく電気もない、いわゆる科学から生まれた文明のなかった頃の世界と、今日の便利な
世界とでは日常の生活にどれ程の違いがあるでしょう。
不便な生活より、便利な今日の生活の方が、特別の変人以外は有難いと思えるのです。
この有難さは、すべて、人間の社会生活を善くしたい、という善意から生まれ出ているの
です。
社会を善くしようなどというのは迷いだ、などとうそぶいていては、決してこの世界は
善くなりようはありません。そんな想いは観念的宗教観なので、神仏の喜び給うところで
はありません。善くなりたい、善くしたい、と想いつめたところから、真実の宗教が判っ
てくるのであり、世に益する科学が発達してゆくのであって、はじめから超然として、こ
の世界は完全無欠なる無為(神) のはたらきである、天変地異もよし、不幸もよいのだ、
では唯物論、無神論者をますます反宗教的にするだけです。
135知識人の陥りやすい迷信
本心と業想念を区別する
136
私はそんな冷淡な心にはなれないので、神様は完全円満であって、この人間世界に不幸
や不調和な様相をおつくりになってはいない、人間の心も、本来は神のみ心の分れたもの
なのだから、完全円満で、自由自在で、病気や不幸になるような心ではない、と前記のよ
うに説き、人間は肉体という粗雑な波動の物質体をまとって以来、その霊性のはたらきが、
その物質体(肉体) の粗雑な固定した波動に邪魔されて、本来の自由自在性を発揮出来な
くなり、今日の世界のように不自由、不調和、不幸な世界になってしまったのだ。つまり、
さわ
神 のみ心を、物質的な碍りによって、次第に離れてしまった時に業想念が生じ、業所業が
生じ、その業想念所業が消えてゆく姿として、戦争や天変地変や、様々な不幸が起こって
いるので、こうした不幸、不調和と見える姿は神のあらわれの姿では決してない、人間が
神から離れた、そのマイナス面の消えてゆく姿なのだ、と説いているのです。
しかし、本来性(神) でないこの業想念は、実在世界(神の創った世界) には無いのだ
けれど、肉体界のような三界の世界にははっきり現われている。ですから、人間を神性仏
性として見る眼からは、そんな業想念などはない、といい得るのですが、大多数の人類の
眼には、あるにきまっていると見えるのです。そこで私はその中庸をとって、現象として
はあるけれど、それは本来性、実在でないのだから、しまいには消えてしまう、消えてし
まうのだけれど、後から後から同じようなマイナスの想念を出してはきりがない、だから、
人類の不調和や、個人の不幸を肯定するような誤った想念は、すべて神への祈りにふりか
えてしまいなさい、そうした祈りは業想念の中にいる自分自身では、その業想念(憤怒や
恐怖や、妬心や悲哀の感情) につい把われてしまって出来難いから、あなたの祖先の悟っ
た霊、つまり守護霊と、直霊(神) の分れの守護神が常にあなた方の業想念を消滅せしめ
ようとしてはたらいているのだから、その守護の神霊の援助を得て、速やかに本心の開発
をした方がよい、それには世界平和の祈りをなさい、というのです。伊福部氏は大霊の他
に守護神などは無い、といっていますが、それは氏の断見的無知によるのであって、守護
神も守護霊も厳然として我等の身辺で活躍していることを確く申し添えて置きます。
137知識人の陥りやすい迷信
伊福部氏の誤りは、本体も本心も業想念も業想念世界も、すべてひっくるめて無為(神)
のはたらきと思っていることと、死後の個性世界の否定という知識人的迷信にあるのです。
氏が後年必ず自己の説の観念論的誤りであったことを知る時があるでしょう。私はそれを
気長に待つことに致しましょう。
138
理論と行ないの食違い
氏のように頑固に自己の信ずる宗教観念に閉じ籠ってしまっていると、自己の宗教観念
以外の説き方をすると、直ちにそれを深く見極あようともせず、インチキなり、邪宗教な
りと片づけようとしがちです。現に私の説に同感して私の会に入って活躍している某氏が、
愛念で送った白光誌を、巻頭言だけ見て、五井という人はインチキ極まりない、と憤怒の
顔のそこに浮かび出るような文句で、昔の氏の弟子であった某氏に鋭い返信を寄越してい
ました。愛念をもって白光誌を寄贈した某氏のその愛念を、自己のような神我一体になっ
た偉い先生を袖にして、想いを感じたり、霊魂だの守護の神霊だのという低級宗教者に乗
りかえたということへの妬心を根底にした烈しい怒りをぶっつけてきた伊福部氏なる人の
悟りの程度が、一体氏のいう無為(神のみ心) の道に適っているかどうか、果して安心立
命の道に立っているかどうかを、私はじっとみつめているのです。口や筆で無為の道に変
げ
化自在に任せよ、などといっていても、この任せる、つまり自由無擬の境地になるのには、
氏のような観念論的宗教で到達出来る人が、この世に一体幾人とあるでしょう。そういう
実際的なことを考えないで宗教の道を説いているから、氏が邪教と称する現世利益宗教に、
民衆の多くがひっぱりこまれてしまっているのです。
人間は理論では如何なる名論卓説もいえるでしょうが、実際問題に当った時、如何なる
名論卓説の人も、一度にその正体を現わしてしまうものなのです。その一例が某氏に対す
しゆうしようろうばい
る妬心による憤怒であり、もう一例をひくと、氏が子供の大病にあった時の周章狼狽ぶり
であります。これは氏が人生道場という氏の機関誌に自ら書いていたのですから間違いあ
りません。そうした氏が前記のように、他人の相談に応ずれば、子供の死ぬのも無為(神)
のみ心であるから喜ぶべきだ、というような(言葉は一寸違っているかも知れぬが) こと
139知識人の陥りやすい迷信
を氏の理論の立前から平気でいえるのであります。
ですから、人間は宗教哲学理論そのものが如何に立派であろうとも、それをそのま\鵜
呑みにしたような説教では、一般大衆のためには一向に力を持たないものなのです。
140
大地に根ざした守護神宗教
私は生命がけの宗教体験で、そうした人間の心情というものをよく知っているのです。
どんなに立派な説教でも、それが真理であってさえも、民衆のせっばつまった生活から浮
き上がっていたならば、その教えには人を救う力も、神を知らせる力もないのだ、という
ことを、心に沁みて知ったのです。そこに私の守護神宗教と、消えてゆく姿という、自己
をも人をも責め裁かぬ教えが生まれたのであります。
現世の人間の苦しみを見るに忍びない私の性情が、観念論的実相論あるいは無為論の中
ヘヘヘヘヘへ
に入りこんで、ひとりよがりの道を説いてはいられなかったのです。その心が神に適って、
守護霊の存在、守護神の存在、直霊(人類生命の本源) の実在を確認させられ、今日の道
を説かされているのです。
私は自分で道を悟ったとも、自分で本心を開発したとも思っていません。私の全生活は
守護の神霊(神のみ心)によって援けられ指導せられて今日に至っているのですから、私
の宗教観は、神が大霊としてだけ働いているだけではなく(大霊は全生命として働いてい
る)、守護の神霊として人間の身近く働いているのだ、ということを強調しているのです。
それは私の日々が、守護の神霊とのいささかの間隙もない接触によって保たれている体験
によるものなので、誰が何んと申そうと絶対なる事実なのであります。
氏のような人や唯物的科学者の人々は、自分たちの感覚以外の世界の話をする人、例え
ば、人の想いを感ずるとか、霊魂と問答出来たりする人たちを、例外なく精神病的とか、
異常神経とかといって馬鹿にする傾向にあるのですが、そうした病的と氏らにいわれる人々
の方が、いう人々より人間の悩みや悲しみを救い、安心立命の道に入らせることが上手で
あったら、民衆はその人々の方にひかれてゆくのは当然なのであります。
知識人の陥る迷信も、無学の者の陥る迷信も、共に迷信に変わりなく、神の姿を現わす
141知識人の陥りやすい迷信
時を遅らせるものでありましょう。
伊福部氏の説は頭だけであって、体はなく、ふらふらな足が地上に立っているようなも
のです。それは、大霊と肉体人間を認めながら、その間にある無数の段階(幽界、霊界)
を認めない説をいうのです。人間には氏の知らない無数の進歩の段階が、厳然としてあっ
て、一直線に大霊(神) の元に還れるものでないことを、繰り返し、申し述べて置きます。
一口に無為のまにく任せてなどといいますが、一体どんな災難を出してくるかも知れ
ぬ無為に任せることが、どれ程むずかしいものであるかを、氏が正直な人なら知らぬ筈が
ありません。私は自分が背後の守護神にことごとくに援けられて、自分の本心を開発せし
められたので、人々にもそうした各自の守護の神霊に任せて神我一体になる道を教えてい
るのであります。
142
じようどう
個人人類同時成道ということについて
白光誌昭和五十二年発表
地球世界の存続を考える
どうじじようどう
白光の、消えてゆく姿で世界平和の祈りの教えの中で、個人人類同時成道という言葉が
時折り出て来ます。その個人人類同時成道という意味を、詳しく説明してもらいたい、と
いう要望がありますので、今日はそのことについて書いてゆきたいと思います。
宗教の教えは、現世利益だけを説いている集団は別としましても、目差すところは個人
の救われであり、人類の救われであります。
仏教ではまず個人に重点において、個人の救われの行を積み重ねてゆきます。そして個
143個人人類同時成道ということについて
人が悟りの道に入りますと、その個人の体得した光明が社会人類に影響して、社会人類の
ためになってゆく、というようなゆき方が自然に行なわれていますし、キリスト教では社
会の救われの中に自分たちの救われもある、として愛と真心をもって、社会人類のために
尽くすことを道としております。
たしかに力弱い個人や、悪い個人が社会人類のために尽くせるわけも、尽くすわけもな
く、また汚れ乱れた社会の中では、良心的な人であればあるほど、その社会の波を受けて、
しんじん
苦悩が多いものです。ですから、個人が悟りの境地に入って、神人としての力を発揮する
ような状態にならなければいけないし、社会人類のために尽くして、一日も早くよい社会
を作らねば、良い人たちの安心して働ける場が出来上りません。どちらからにしても、個
人も救われ、社会人類も救われていかなければ、この地球世界の存続は不可能になってし
まいます。
ここで個人の救われが先か、社会人類の救われが先か、と思ってしまう人がかなりある
と思います。個人が神の道と一つになり、社会人類が神の道にのりきるという、いわゆる
144
個人、
じようどう
人類成道の道は、どうしても同時成道でなければならないのです。
地球の汚れを浄める世界平和の祈り
そこで、消えてゆく姿で世界平和の祈りという教えが生きてくるのです。世界平和の祈
りというものは、個人のためのものでもあり、そのまま人類のためのものでもあります。
なむあみだぶつ
個人が悟らなければ祈れない、というようなものではなく、南無阿弥陀仏という念仏と同
ごと
じように、神仏のみ心にとびこんで、神仏と一つになる祈り言です。ですから、個人が悟っ
となとなごと
てから唱えるというのではなく、悟りを得るための唱え言であると同時に、人類社会に神
のみ心である平和世界を現わしてゆこう、という人類愛の唱え言でもあるのです。
しんらん
人間各自の性質や、環境はみなそれぞれ異なっておりまして、いずれも親鸞のいうよう
ざいあくじんちゆう
に、罪悪深重の凡夫の面を、幾分なりとも持っております。ですから、そのままの人たち
が集まって、神仏の力をかりず、この地球世界を調和した完全な平和世界にしようとして
も、とても無理なことは、世界を見渡してみてよくわかることです。肉体人間の力だけで
145個人人類同時成道ということにっいて
まつせ
は、どうにもならない、末世であることが、いろいろな世界状況で誰にでもわかっている
ことです。今こそ真実の宗教が、どうしても必要になってくるのです。
神仏というものは、観念的なものではなく、実際に地球人類救済に働きかけてくる、と
いうことでなければ、今日の宗教の道は生きてきません。私の提唱している世界平和の祈
りは、肉体人間の一人一人の背後において、瞬時もたゆまず守っていて下さる祖先の悟っ
た霊や、守護の神霊の加護の力をはっきり体得したところから生まれたもので、守護の神
霊は宇宙神のみ心の中から、個々の人間の救いにたっておられるので、肉体人間の側は常
にぴったりと、守護の神霊にすがりついておれば、宇宙神の正しい歩みと一つの歩みが出
来るようになるのです。そのたあの世界平和の祈りなのです。と同時に、その個人個人の
世界平和の祈りが、地球人類の汚れを浄める救世の大光明の力を、働かせうる唱え言になっ
ているのであります。
146
業想念を消し去る力
これは善いことであり、これは悪いことである、とわかっていても、自分たちの肉体生
活の利害損得によっては、悪いと知りながらもやってしまう、善いと知りながらも行なえ
カルマ
ない、という弱さを人間はもっています。良心が業に負けてしまうのです。法律にはふれ
ないが、人類のために悪いとわかっていることをやってしまう人たちが、どれだけ多いか、
はかりしれないものがあります。
その集結したものが国家と国家の戦争であり、その戦争の要因となる武力の増強であり
ます。本当に大国がそろって武器を捨ててしまえば、そのままで平和の方向に進んでゆく
にきまっているのですが、どこの国も武器を捨てようとしていません。
それは、自分たちが神の子であり、お互いが生命の世界において兄弟姉妹である、とい
うことを忘れているからなのです。神を愛する心も、人類を愛する心も、お互いが自分た
ちだけの肉体生活を守ろうとするあまり、忘れはててしまったのです。自分たちが殺され
るのがいやなのに、人を殺す武器を作って、多くの人を殺そうとする。そういう想いが一
体どこから出てくるのか、神の子の立場として考えてみれば不思議でなりません。そうい
147個人人類同時成道ということにっいて
こうそうねん
う想いを業想念というのでしょう。そして、その業想念を地球界から消し去らなければ、
地球の平和は永遠に来ないのです。
しかし、国家という大きな広い集まりになりますと、どうしても業想念の厚みが強くて、
個人個人の働きかけではとてもその業想念を消し去ることは出来ません。ですから、どん
な平和運動も、抗議の運動も、それらの国々の今日までのやり方を変えることは出来ませ
カルマ
ん。こういう大きな業想念に対しては、大神様の大光明を中心にした働きかけでなければ
これを消し去ることは出来ません。
そこでまず、個人個人の救われを先に考えて、自分たちを守りつづけていて下さる守護
の神霊の中に、自分の想いを感謝と共に、常に密着させていたらよいのです。そういたし
きゆうせだいこうみよう
ますと、守護の神霊のほうで、世界平和の祈りのような宇宙神を中心とした救世の大光明
のお祈りを実行させてくれるようになるのです。この世界平和の祈りは、このお祈りを祈
る時には、救世の大光明の光明波動が、祈っているその人の身体を通して、世界中に放射
されているのであるから、個人が救われると同時に、その祈りが地球人類すべての人々の
148
上に、大光明となって降りそそがれ、業想念消滅の力となるのであります。
本来、この世界は神のみ心だけで出来ているのですから、ここに悪の行為や、間違った
想いがあれば、それは真実のものではないことは明らかです。真実でないものは、そこに
ほんとう
真実に現われれば消え去るより仕方ありません。光がさせば闇がなくなるのと同じことな
のです。
人類そのものが道に乗る
ですから、神様の大光明をまっすぐにこの世に現わすことさえできれば、この世は救わ
れることになるのですが、それがなかなか出来ない現状なのであります。しかし、どうし
てもそれを実現しなければ、地球は滅亡してしまうのですから、その実現を計らなければ
なりません。
そのためには、個人が救いの道に入るのと、人類そのものが道に乗るのとが同時になさ
れなければ、その間に隙間が出て来て、再び業の波にかきまわされることになるのです。
149個人人類同時成道ということについて
個人が救われてから人類に及ぼすということでは、もう遅い時代になってきています。私励
どもの提唱しております世界平和の祈りは、そこが一番大事なところになっていまして、
自分自身が救われる身でありながら、世界人類の平和を祈る人類愛の祈りを祈ることによっ
て、自分も人類もともに神様の大光明の中で救われてゆくということになるのであります。
ごと
それはどうしてそうなるかと申しますと、この祈り言は、肉体身の私が、神体の私と一つ
やくそくごと
になった時、大神様との約束事として生まれた祈りだからなのであります。
ごと
すべて宗教の祈り言は、神様との約束事でなければ、その効果がないのです。あらゆる
じゆもんとなごと
呪文や唱え言は、そういうところに効果があるのです。私の世界平和の祈りは、誰にでも
わかりやすい言葉で、誰にでも行じてもらうために生まれた唱え言なので、真実性が溢れ
ているのであります。
子供でも老人でも、世界人類が平和でありますように、という意味のわからない人はあ
りません。そして、今日でなければ役に立たない祈り言だったのです。何故かと申せば、
日本の戦国時代にこの祈り言を提唱したところで、そんなこと、この弱肉強食の強いもの
勝ちの時代に馬鹿くしいということになりまして、てんで話にもなりません。またずうっ
と現代に近い明治の時代にしても、世界中にまだ核爆弾のような、眼にみえて一発で地球
の運命が決まってしまうような、物凄い爆弾は出来ておりませんでしたので、まだこの世
界平和の祈りを、人々が取り上げるような状態ではありませんでした。
今こそ、世界平和の祈りが世界中で取り上げられる時期でありまして、今、この運動を
拡大させなければ、地球は滅亡するほかに方法はないのです。そこで神界では、すべての
カルマ
神々が集まられて、救世の大光明という、いかなる業をも消滅させる力を、地球人類にさ
し向けていて下さるのです。その上、他の先輩星の天使たちが、様々の方法で地球救済を
応援していて下さるのです。
私たちは、世界平和の祈りを根幹にして、個人人類同時成道の道を突き進んでゆくので
あります。
151個人人類同時成道ということについて
152
新し
い
道
白光誌昭和四十五年五月号発表
新左翼の革命ごっこ
暫く学生ゲバ事件が治まっていたかと思うと、赤軍派と称する連中が、日航機乗っ取り
事件という、思い切り派手な行動に出て、世界中の話題を賑わせています。従来の社会共
産主義の人々と他に、こうした思い切った狂人行為をやっている新左翼の青年たちの革命
ごっこは、人々の平安の夢を破ります。
何事にも経験のとぼしい青年たちの、狭い心に叩きこまれた革命概念は、一途に国家の
転覆を計ろうと、極端な行動に出ておりますが、正常派の共産主義者たちの、計画的行為
をかえって邪魔してしまう結果を生んでいます。緻密な長い期間をかけた革命計画を持つ、
正常派の共産主義者と、それを歯がゆしとして、即戦即決式の行動に出る新左翼の青年た
ちの無謀な行為は、相入れないものなのでありますし、自民党政府にとっては、新左翼の
やから
ような、すぐに表面的行動に出てくる輩は、根無し草のようで、苅り取り易いものであり、
それにつれて、左翼全体の動きを抑える、法律的手つづきも、強固なものに出来る可能性
が生まれてきますので、考えようによっては、新左翼は自民党政府の片棒をかついでいる
ような結果を生んでいることになります。
なんにしても、青年というものは、常に刺激を欲っしていますし、衝動的でもあります
ので、善いにつけ、悪しきにつけて、長期計画には耐えられずに、ぱっと燃え上がるよう
な自己顕現をしたがるのです。新左翼の連中など正にその通りです。
しかし、国の建て直しや、世界の建て直しなどが、そう短期間に簡単にゆくわけがない
のでありまして、その場その場の浅い計画で行動して、自分たちのヒロイズムを満足させ
ていられたのでは、世の中のマイナスになるだけです。今度の日航機乗っ取り事件につい
153 新しい道
ても、北鮮とキューバに世界革命の根拠地を置く、といっていますが、北鮮のほうでは、
なんの交渉も受けていないし、北鮮乗り入れにしても、事前の話合は皆無という、子供の
思いつきのような一方的なひとりよがりの考え方なのです。これでは思想的にしっかりと
した正当派土ハ産主義者から爪はじきされているのも無理からぬことです。
なんにしても、日本を含めて世界中が、安定した国家、平和な世界を求めながら、様々
な政治政策、主義主張、そしてそれにともなう繁雑な行動で、右往左往していて常に世界
中が揺れ動いています。国家や世界を安定させようとしての政治政策や主義主張が、ます
ます国家や世界を混乱させてゆくのですから、どうにも困りものです。
154
アメリカがかかえる三つの問題
現在世界の中心的な存在である米国にしても、米国に押しよせてくる共産主義の脅威を
アジアで食い止めようとして、ベトナムで戦火を開いたわけですが、北ベトナムやベトコ
ンの人達にとっては、退くにも退けない自国の運命そのものに対しているので、前進する
より他に生きる道のない必死の状態なのです。ところが、米国のほうは、直接自国が敵に
攻められているわけではないし、手をひけば、手をひけないことはないベトナム戦争です。
ですから、国内の意見はタカ派とハト派の両面に分れて、なかなか統一致しません。ライ
オンのような強い力を持つ米国が、針鼠のような北ベトナムを相手に苦戦をしているのも、
こういう国民意力の相違によることが多大です。
ところが、次第に共産攻勢は、ラオス、カンボジア、タイという風にインドシナ全体に
及ぼしてきています。米国がベトナムから手をひけば、これらの国々は遠からず、共産主
義勢力下に入ってしまうであろう、と推測されています。だから米国はベトナムから手を
ひいてはいけないのだ、とタカ派はいうのであります。
このように米国は、共産主義に対処する苦労と黒人問題、青少年の麻薬問題という三つ
の難問題をかかえて、非常な危機に立っているわけです。日本のように一民族一国家とい値
い
う国柄では、とても黒人問題の深刻さはわかりませんが、米国をゆるがす大きな問題の一新
つであることは間違いありません。それに青少年の麻薬問題もゆるがせにできぬ重大問題痂
です。小学生のうちからの麻薬常飲者が、かなりいるということを聞いては、思わず、ぞっ
とせざるを得ません。マリファナもLS D も幸いに日本の取締りが厳しいので、我が国で
はまだ被害は僅少ですが、米国では、青少年のかなりの数が麻薬に冒されているといわれ
ます。実に恐るべきことです。
すっかり知性がマヒしてしまって、幻覚のままに行動するような人間が多くなったら、
一体その国はどうなってしまうでしょう。有名なシャロンテイト殺しのヒッピーたちも、
麻薬常飲者でした。人間から知性(理性) をなくしてしまったら、一体何が後に残るでしょ
う。動物的本能と感覚だけがそこに残ります。麻薬常飲者の行為が、いかに危険なもので
あるかはこれでわかります。
この青少年の麻薬問題は米国の政治のどこかに欠陥があったに違いありません。政府指
導者の側にあったのか、教育者の側にあったのか、とにかく米国そのものの在り方に、三
いな
つの大問題の苦悩が生じる因があったことは否むことはできません。
黒人問題は、政治以前の、白人の本能的な黒人蔑視の態度に大きな原因があるのでしょ
156
うが、青少年の麻薬問題は、純然たる政治教育の欠陥の現われでありまして、自由主義の
行き過ぎで、自己本位の人間をつくり過ぎたことと、ベトナム戦争に対する反感、それに
米国社会の物質文明からの逃避、という、富める国の悲哀とでもいうことが、その原因の
ようです。
ベトナム問題は、異常なまでの米国の土ハ産主義への恐怖ということから起こったことで、
何故もっと自分たちの政治力を信ずることができないのか、と思わずにいられません。も
し米国がベトナムに兵を出さなければ、当然すべての被害は問題にならぬ程少なかったこ
とでしょう。しかしそれと共に南ベトナムは共産主義政権になっていたかも知れません。
或は共産主義とまでゆかぬ民族独自の政治体制になっていたかもしれません。ともあれ、
米国式自由主義国家ではなくなっていたことは事実でしょう。
しかし、現在多大の犠牲を払ってきた南ベトナムが、一体戦争前とどのような変化を起
こしているでしょうか。数において減ったかも知れませんが、ベトコンは依然として、北
ベトナムの応援下に戦をいどんでおります。ところが今度はラオスで北ベトナムの侵入が
157 新しい道
行なわれ、その地の共産軍が勢力を増してきました。米国はこの事態にどう対処するでしょ
う。米国がここにまた手を出せば、米国国内は勿論、他国の烈しい批難を受ける立場にな
り、インドシナ全体の戦争に発展してしまいます。手を出さずに時を経れば、やがてここ
もまた共産主義政権の国となってしまうでしょうし、手を出せばインドシナ全体否世界戦
争にまで発展することを覚悟してかからねばなりません。
米国は人類愛をもった国ではあるのですが、何かと思うようにゆかず、本当に苦しい立
場に立たされています。世界の指導国として自負する者の絶体絶命ともいえる立場に立っ
ているわけです。世界一の大国米国には常にこうした苦しみがあるのです。米国は果して
どういう方向にむかってゆくことでしょう。
158
ソ連の手ロ
あか
米国に相対する大国ソ連、この国は米国のように内部のことを明らさまにしない、いわ
ゆる鉄のカーテンで蔽われている社会主義国です。米国がどこかに人の善さを感じさせま
かしこ
すが、ソ連からは陰のあるずる賢さを感じるのは日本人の感じ方なのでしょうか。米国が
沖縄を還そうとしている今日でも、米国や中国が、日本相手に必死の戦いをいどんで、正
に戦いが終わらんという寸前に満州でちょっと手を出して、日本の北方をさらっていって
しまい、未だに還そうともしない、あの汚い手口は、チェコでもはっきり示されておりま
して、なんとも油断のできない国です。この国からは人類愛というものを感ずることはで
きません。自国の権力拡張ということだけがぷんぷんと匂っています。
毛沢東について
中国はどうでしょう。毛沢東は偉大な人物だと思います。もし中国に毛沢東が現われな
かったら、中国での利権を争って、米国とソ連との一大決戦が行なわれていたと思われま
す。その毛沢東中心の中国の現在の在り方は、自国を守ろうとするのあまり、他国を敵視
しすぎております。偉大な毛沢東とはまるでうってかわった小さな人物のように、狭量な
方法で、かつての同志を滅ぼし、米国をソ連を日本を敵視します。毛沢東の人が変わって
159 新しい道
しまったのか、その采配は他の人物がふるっているのか、とにかく現在の中国は、七億の
人口をもつ大国としては似合わしからぬ小さな幅の狭い政治政策をとっています。
その他イスラエルとアラブ諸国との結末のつきそうにない争い。世界中での自由主義諸
国と共産主義諸国の陰に陽にわたる闘争。どれをとってみても、世界各国がこのままの政
治政策で進んでいったのでは、とても世界の平和は成り立つどころではなく、世界中の噴
火口が火を吐きつづけてゆく状態という他はありません。
160
日本人の行く道は?
この噴火口を鎮めて、平安な世界をつくるためには、我々は一体どうしたらよいのでしょ
う。私たち日本人の行く道はどこにあるのでしょう。今までのように、米国一辺倒で、米
国の歩む方向に、しかも自国が傷つかぬように歩いてゆけばよいのでしょうか。それとも、
少しぐらい米国の機嫌を損ねても、隣国中国と手を結ぶ方向に動いてゆくことがよいので
しょうか。それにしても軍備のことはどうすればよいのか、核を持たぬ本格的軍隊、これ
は政府の考えていることです。自分の国は自分で守らなくてはならない。しかし、日本人
は核にたいして非常な恐怖をもっているから、自らは核を持たぬが最強の軍隊をつくる、
その上核の力は米国に依存する、というところが、政府首脳の考え方です。
こうして、しっかり日本の防衛状態を固めて、他国のあなどりを受けぬようにして、広
く他国と交易をしてゆく、こういう考えが、保守系の人々の大半の考えのようです。軍隊
を持たぬというところから、いつの間にかここまできてしまったわけです。これは世界的
の時の流れというものでしょう。無防備で世界に対するというには、人類の在り方があま
りにも未開に過ぎるのです。国家対国家というものが、人類は皆兄弟姉妹である、という
真理には、あまりにも遠い心境にあるというわけです。
思想の対立、宗教の対立、そして国家権力を守ろうとしての対立。こういう対立感情に
根ざした国家や民族の集まりの地球世界において、一体どういう方法が完全平和をもたら
す方法となるのでしょう。日本は真実はどういう立場をとればよいのでしょう。そして私
たち国民の在り方は?
161新しい道
162
世界を混乱させている根本原因
米国はなってない、中国は駄目だ、日本の政府は何をしているのだ、と他国や為政者を
ののしることは易いことです。しかし、果して自分がその立場に立ったら、一体どうした
らよいのか、世界を善くする公算がその人にはあるのか、ということです。自分がそうい
う立場に立てるわけでもなく、こうすれば絶対日本も世界も善くなるという公算もなくて、
ただ口だけで偉そうなことをいっていても、なんの役にも立ちません。やっぱり、自分自
身でできる範囲の世界平和の道を、私たちはこつこつとやってゆくより仕方がないのであ
ります。
この地球世界を混乱させている根本の問題は、人間が自分自身を知らない、というとこ
わけいのち
うにあるわけです。自分自身が神の分生命であって、すべては生命における兄弟姉妹であ
る、ということが真実にわかっていたら、争いや殺し合いなどあるわけがないのです。
神は完全円満なる実在なのですから、その分生命の人間に不完全さがあるわけはない。
もし不完全さがあったら、それは神からの生命の力を充分に受け取っていないからなので
すから、充分に神のみ心に入りこんでしまえば、その足らぬ分は自ずと充足されてくるに
きまっています。
この真理を知ることが、なんにも増して大事なのです。それは自分自身にだけではなく、
兄弟姉妹である他人にも他国の人にも、その真理を知らせてやることが必要なのです。身
近にいない他人や他国人に、口づてに知らせることはできません。そこで祈りが必要になっ
てくるのです。自分と神とを一つにつなぐ祈りは、自分と人とをつなぐ方法でもあるので
す。「神さまありがとうございます。あの人に真理を知らせ、あの人の天命が全うされま
すように」こういう祈りは、そのまま、神の生命の波動となって、相手の生命にひびいて
ゆきます。その祈りをつづけてゆくことによって、いつの間にか、相手の人も、祈り心が
目ざめてくるのであります。樋
私の提唱している世界平和の祈りは・こういうところから生まれているので究縮
鵬
164
投げたゴムまりの行方
こうしよう
人間が神の分生命なのか、それとも業生なのか、これをはっきりさせることは、個人に
とっても人類にとっても重大なことなので、人間が業生であって、善悪混交のものだ、と
思いこんでいるようですと、この世界はとても救われようがありません。やがて地球世界
こうしよう
滅亡ということになります。現在の個人の大半も、各国各民族も殆んどこの業生説なので
たび
あり、実際にこの現象界は昔からその道を進んで、戦争をつづけ、何度となく悲劇をくり
かえし、善悪混交の業生の世界に成り終わせてしまっています。
米国が共産主義思想を敵視し、中国やソ連が、米国を敵視しているのも、みなこの人間
じや
は業生のものであって、自分の都合次第で、鬼にも蛇にもなる、と思いこんでいるからな
のであります。だって、事実はそうじゃあないか、とすぐ反論がくると思います。そうで
す。そう想っている以上は、そういう業生の世界がいつまでも繰りひろげられてゆきます。
そこがとても大事なところでありまして、悪や不幸や戦争など欲っしていない人間が多く
住んでいる世界で、どうして、こうも悪や不幸災難に充ち、いつも戦争の脅威にさらされ
ているのでしょう?
自分自身が、そうした悪や不幸災難の世界を少しもぬけ出ようとはしていないで、人々
はただ、そういう世界は嫌だ、戦争は嫌だ、と叫んでいるだけなのです。まりにゴムひも
をつけて投げているようなもので、まりはいつも自分にかえってきます。そういう世界が
嫌だったら、そこにゴムひもをつけてはいけません。投げっ放しにしなくてはいけません。
すべての悪も不幸も、災難もそれは過去世から今日に至るまでの、神の分生命の自己を忘
れて、業生の自己だと思いこんでいた、その想念行為の結果の消えてゆく姿なので、これ
で消えてゆくんだと思いつづけて、神のみ心の中に入りこんでしまっていればよい。神の
み心というのはどこにあるかというと、愛の行為の中にある。愛の行為の一番易しい普遍
ごと
的なものが、世界人類の平和を願う想いだ、だから、その想いを祈り言にまで高めて、世
界人類が平和でありますように、と祈ることが大事だ、世界人類の平和は、神のみ心その
ものでもあるので、その祈りの中で、人間の想いと神のみ心とが一つになり、完全に神の
165 新しい道
分生命の完全な人間が現わされる。
これは真理でありまして、なんのむずかしいこともなく、業生の人間から神の分生命で
あり、神の子である人間に、想念の転換が行なわれるのである、と私は説くのであります。
こういうやり方を、常にやりつづけてゆけば、いつの間にか、人間は神の分生命である、
ということが、自然とわかってくるのです。これは多くの人の体験なのです。そして自分
からすべての悩みが消え去ってしまうのです。
166
人間は神の生命の現われ
人間は神の生命波動そのものでありまして、この肉体も実はその生命波動の現われなの
でありますから、こうした固まった物質体としての肉体を考えるより、生命波動、光のひ
びきの現われとして、自己の肉体を考えるようにするとよいのです。私の肉体を写した写
真が、円い光体に変わってしまっていたのも、そのよい実証です。
人間の眼では固定した肉体として見えるものは、実は神の生命の波動なのです。ですか
ら、人間は神の分生命というのです。神というのは外部的に探し求めるものではなく、自
いな
己の内部に、否、自己自身としてここにあるのであります。この世には神以外の存在は実
は無いのです。あるように見えているのは、過去世から今日まで、多くの人々が、神のみ
心を離れて創り出した、仮象に過ぎないのです。釈尊はその真理を知らせるために、般若
くロつ
心経を説いておられますし、空になるための坐禅などをすすめたのです。
こうした人間観になることが、個人と人類とを同時に救う道になるのであります。自分
自身が真実に平和な心境になれないで、どうして世界を平和にすることができましょうか、
てんとう
世界各国の指導者の誤りは、この本末顛倒した人間観にあるのです。敵視する想いがあり、
相手を倒そうとする身構えをしていて、どうして、平和な世界をつくることができるので
しょうか。
心の中から神を消してしまい、敵国をみつめていて、どうして心から相手と手をつなぐ値
い
ことができるでしょう。真実の正義とは、自己の心を神と一つの愛にしてしまうことです。新
神と一つの人類愛の行為こそ、この世界を救う唯一の行為なのです。餅
今日迄の人間業生の人間観を根底から捨て去り、神と人間の一体観をその人生観とする
ことが、世界の指導者の何よりも先になすべきことです。何事もなそうと思わなければで
きません。このままの人生観、世界観で突き進んでゆけば、必ず地球滅亡という悲劇に突
き当ってしまうでしょう。必ず地球を救う、という方法が神愛をぬきにして他にあるでしょ
うか、権力欲と権力欲とのぶつかり合い、思想と思想とのぶつかり合い、宗教観念のぶつ
かり合い、などで乱れ切っている世界を一体どうして救おうというのでしょう。
168
自己の中に神を見出せ
いくらお互いに軍備を拡張したとしても、抑圧しあうにも限度があります。いつかはお
互いの抑圧ははねのけられます。それが人間の業生の宿命です。そういう悲惨な状態を、
すっかり消し去ってしまうのは、唯一の方法しかありません。全人類の中に神を見出すこ
とです。そのために先ず自己が、自己の中に神を見出すのです。私は神の分生命であった
そら
のだ、空も海も山川草木も、行き交う人々も、みな神の生命そのものだったのだ、という、
神のみの世界を自己の心に見出すのです。
神の生命なくして、どうして人間が現在ここに生きているのでしょう。吐く息、吸う息
に、あらゆる食物に、内臓器官のすべての働きに、私たちは神をみつめずにはいられませ
ん。私は生きている。そう想う時、私は神としてそこに生きているのです。そして、あな
たも、君も、みんな神の子として、そこに生きているのです。
神のみ実在する
神だけが実在なのです、悪や不幸や災難などというものは、自己の中に神が現われ出な
かった時の、消えてゆく姿にすぎないのです。それを大きく広げてゆけば、現在誤った生
き方をしている国家や民族も、やがては、その誤った生き方は、消えてゆく姿として、消
え去ってゆき、神の生命の現われとしての、国家や民族が現われてくるに違いないのです。磁
い
そのために、この真理に共鳴する人々が、先達となって、祈りによる世界平和運動を、日新
本の地において先ず行なったのであります。物質波動に汚れ、権力欲の犠牲となるより、619
人間神の子の旗印に、真実の人間観を押しすすめて、世界人類が平和でありますように、
と一歩一歩、歩をすすめているのです。
米国やソ連や中国に、物申す、ということは普通の個人ではできません。しかし、世界
人類が平和でありますように、という人類愛の想いを祈り言にして、お互いに手を取り合っ
て、国家のため、世界のために働きつづけることは誰にでもできます。
i70
自己の内なる神の力を発揮させる方法
私たちは現在、只黙って、世界が戦乱の渦に巻きこまれてゆくのをみているのに忍びま
せん。といって、世界が共産主義政治の犠牲になって、人間の自由を奪われてゆくのは、
たまりません。反戦、反共というように、反の字をつかわずに、すべての調和を成し遂げ
てゆくのは、私たちにとって、やはり神の全能に帰するより方法がありません。それには
自分たち一人一人が、神の子の生命力を充分に発揮して、一人でも多くの同志をつのり、
日本中を、世界人類が平和でありますように、の祈り言で充満させ、やがては全世界に、
神と人間との一体化の光明波動がひびきわたるようにしていかねばならぬのです。
ただ、戦争は嫌だ、共産主義は嫌だでは駄目です。また、神様、仏様といって、外の神
仏にお願いしていてもいけません。自分たち自身が、自分たちの内にある神の力を、充分
に発揮しなければいけないのです。それが、世界平和の祈りなのです。
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私たちの天命が完うされますように
守護霊さま、守護神さまありがとうございます
大神さまありがとうございます
この祈り言に明けくれて、私たちは一日も早く世界中に真の平和がくるための働きの一
助を成し遂げてゆくのです。これが真実の新しい道なのです。
171 新しい道
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