続々如是我聞
一一五井先生の言葉一
白光真宏会出版局
序文
さいおんじまさみ
西園寺昌美
ことば
聖書の一節に”はじめに言あり、言は即ち神なりき” というくだりがあります。
まさしくその通りで、言葉は生きています。一言発したその言葉は、素晴しいエネ
ルギーとなり、永遠にその力を失うことなく、世界をかけめぐります。
善きにつけ悪しきにつけ、言葉の威力は偉大なものです。ですから私たちは心の
中に、常に光の言葉を植えつづけていかなければならないのです。一言発するにし
ても、善き言葉、素晴しき言葉、光明をふりまく言葉を慎重に吟味し、選んでこの
世に放たねばならないのです。
一
二
さなか
そうすれば、その言葉を受けた人は、励まされ、たとえ不幸の最中にあったとし
ても、その言葉を受けて明るさを取り戻し、光り輝く人生を開いてゆけるのです。
人間は、本来、神の子でありますので、神の言葉を発していかなければなりませ
ん。神の言葉を自然に発するためには、この五井先生のお言葉を自分のものにして
ゆくのが一番だと思います。先生のこの「如是我聞」に収められている一言一言
は、実に人生の真理を説かれ、かつ浄めの働きを致しております。
私たちが何故貧乏になったり、病気や不幸になったりするのでしょうか。誰一人
そんなことを望んでもいないのに、知らないうちに暗い運命をたどる人が、どれほ
ど多くこの世にいることか。それは、知らないうちに私たちが、暗黒思想の、人を
さげすむ言葉、傷つけ痛めつけ、突きさす言葉、人をだまし、人を陥れる言葉を、
無意識に使っているからです。
それら自分から発した言葉の数々は、めぐりめぐって、必ず自分のところに帰え
ってまいります。ですから、私たちは自分の生命の本性を知れば、今すぐにでも幸
福になれるのであります。私たちは幸福を探すのではなくて、幸福の言葉をこの世
に投げかけるのです。その投げかけた言葉は、空を舞う蝶のように、人々の心の中
に幸福をふりまいてゆくのです。
さて、この「如是我聞」の編者である高橋さんですが、実に真面目で、心の優し
い素晴しい方です。
時折り、五井先生を囲んで、高橋さんと私とお話をすることがございます。彼は
先生のお話にじっと聞き入ったり、何気ない一言をメモしたりしております。その
時、私は大して重要な意味と解していないのですが、「如是我聞」として白光誌に
発表されると、ああこのお言葉はあの時先生がおっしゃったお言葉だ、とわかるの
三
四
ですが、彼の手を通して、一行か二行ばかりの簡単明瞭なる言葉にくまれると、本
当に光を放ち、生きてくるのです。同じ時に、同じ場所に居合わせ、同じ先生のお
話を聞いているこの私が、高橋さんのような才能を発揮することが出来ないので
す。これこそ彼でなければ出来ない仕事だと思います。
このご本は、五井先生の素晴しいお言葉を自分一人のものとせず、一人でも大勢
の人に五井先生のみ心をお伝えしたい、という熱意で生れたものです。先生がこの
世に存在される限り「如是我聞」は次から次へと輝かしい言葉を私たちに与えてく
れることでしょう。
(五井先生ご息女「明日はもっと素晴しい」著者)
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一
隔人間と真実の生き方}
一
わけみたまごうし考しゆこれいしゆごじん一
人間は本来、神の分霊であって、業生ではなく、つねに守護霊、守護神にょって一
一
守られているものである。口
、一
鴨一
一
一
一
一
カこせ
その運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
いかなる苦悩といえど現われれぽ必ず消えるものであるから、消え去るのである
という強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難のなか
ゆるゆるまことゆる
にあっても、自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦しの言行をな
しつづけてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の
祈りを祈りつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得出来るものである。
一
口
1
㎜ 昭和四十九年より五十五年四月迄
ト五井先生より拝聴したお話
1
正真正銘の自分を見きわめること。そうすれば人にほめられて有頂天になること
もなければ、人にけなされてくさることもない。そんなことは自分とは一切関係な
くなる。
2
この体がすっかり神さまになりきらなければいけない。しかもはたから見て、平
々凡々に見えなければいけない。神がかり的なものが少しでもあってはいけないん
だ。
3
宗教を職業としている人と、宗教を技術としている人とがある。技術とは霊能力
ということである。
九
一〇
技術としてやっている人は、よほど気をつけないと、己れを外道におとしこんで
しまうものだ。だから、自分の心を立派にすることをつねに心がけて精進しなけれ
ばいけない。
4
己れの宗教教団をはなれると、呪ったり、あるいは呪わなくとも何かの力で縛ら
れ、不幸になってしまう、という不安感を与える宗教というものは、唯物論より悪
い。神も仏も認めないが、一生懸命自分の力で生きてゆこうとする唯物論、無神論
者のほうがずっと立派だ。
5
神秘的なことを求めるならば、生命をすててかからねばならない。
6
「どんな暗いこと、嫌なことが現われて来ても、それに負けずに明るく明るく生
きなさい。そうするとあなたも、あなたの周囲も明るくなります」
ある人からの手紙の返事に書かれた言葉。
7
神さまはどんな人間がお好きですか、という女学生の質問に
「明るくて、やさしくて、勇気のある人を神さまは好きですよ」
と答えられた。
8
「壇の上にのぼって、みなさんの顔をみると、みな自分の子供のような気がして
ねエ、愛情で胸が一杯になるよ」
と聖ケ丘統一会が終了したあと、おっしゃっていた。
一一
= 一
9
目の前の小さなソロバソをはじくな。大きな永遠の目でもってはじけ。
10
これからの世界は超人でなければ処理してゆけない。言葉でもって、いちいち説
得するというより、雰囲気で相手を圧するような、猛烈な迫力をもった人、西郷さ
んのような人が出なければ… … 。
1
こいつ嫌な奴だな、という人でも、その人が一旦世界平和の祈りをすると、その
嫌な奴というのは消えて、そこに本心が光り輝いているのです。だから、嫌な奴と
いうのは消えてゆく姿なんですよ。本当はいないんです。
12
ある人の写真をお浄めされながら、五井先生は、
「今、この手を自分で動かしていると思うかい? 」とおっしやった。私は返事の
しようがないので黙っていると、
「自分で動かそうなんて一つも想っていない。合気道の極意と同じだよ。みんな
も自分の想いで手や足や体を動かさなくなるといいねえ」
とおっしゃった。肉体の自分の想い、力をすっかりぬいた、神の力、神のみ心の
ままに動けばいいわけである。
13
人間、自分を正しく客観的に評価出来るようになったら幸せである。
14
人の言葉に動かされてはいけない。サラサラサラサラと生きてゆくことが大切。
一三
一四
15
これから結婚生活に入る男女に対していう私の言葉は、ほめ言葉ではない。男性
に対しては「お嫁さんはこういう性格の人、こういう欠点を持っている」といい、
女性に対しては「お婿さんはこういう性格で、こういう欠点をもっている」と二人
の前でいう。ちょっときくと光明思想家にあるまじきことをいう、と思うだろう。
何故そういうかというと、結婚してからお互いに何かある時、例えば悪いところが
目についた時、ハッと私の言葉を思い出し、ああこれが先生のおっしゃったこの人
の欠点なのか、これなのか、消えてゆく姿だな、と責めたりしないで、ゆるし合え
るからだ。
16
自分は一つも悪いことはしていない、しかし人に叱られたり、何かいわれたら、
前生に何か悪いこと、間違ったことをしたんだろう、私が悪かった、とサバサバと
あやまることだ。何かいわれたら、悪いのは私なんだ、と思ってあやまってしまう
ことだよ。そうすれば喧嘩になりません。
自分は悪くない、正しい、なんて思っているとお互いにぶつかりあって、喧嘩、
争いということになる。夫と妻との間でも同じだ。
17
夫と妻というものは、趣味は同傾向であっても、性格がまるっきり反対というほ
うがうまくゆくものだよ。同じものだとぶつかり合ってしまって、結局傷ついてし
まう。
まるっきり反対だと私と性格が反対なのだから、とお互いに認め合い、自然にゆ
るし合っているから、傷つけ合わないんだ。
一五
一六
18
けんしよう
「禅宗では見性することを目的としておりますが、私たちの場合ですと、何を目
的としたらよろしいのですか」
「見性といってもいろいろ段階があって、光をちょっとみたとか、ちょっと悟っ
たというぐらいで見性したといっているのが多いんじゃないかな、見性というのは
くベノ
全く空になる、自己がなくなることです。
だから白光のみなさんの目的は、自分がなくなること、自分をなくすことです
ね。
おれがやったとか、やらなかったとか、自分の領分を犯したとか、奪ったとかい
うのではなく、自分のことを人がやって下さっても有難い、人がいいことをしても
有難い、自分がした場合も人がした場合も、自分がやらされた場合も、神のみ心の
まま、と有難く思うという状態。しかも自分が行なうときには迫力をもって行動し、
話す、ということですね」
19
「私はこう坐る、するともうここにいないよ」と五井先生はいわれる。『どう私
の肉体が見える? 」ときかれた。その子供ぽいしぐさに思わず笑ってしまって「見
えます」と私たちは答えてしまった。
「そう、見える。けれどこの肉体にいないんだよ」
「ということは先生、意識が肉体にないということですか?」
「いやそうじゃない。肉体の波を出さないんだ。肉体の波がなくなっちゃうんだ。
だから肉体が苦しい時、肉体の波をヒョッとなくして、奥の奥の奥の自分に入りこ
んでいる。そうしなければ私はとっくに死んでいるよ。
一七
一八
だからね、霊能者が私をみると、先生は肉体にいない、高い高い処にいらっしゃ
る、ということになるんだ。みんなもね、ヒョッと統一したら、この肉体にいない、
肉体が消せるということにならなければいけない。そういうトレーニソグをしなけ
ればいけない」と宇宙子波動生命物理学研究メンバーにおっしゃった。
20
うつわ
神々はみんなの体を光の器として要求している。その器を通して光を地球に送る
から、みんなは自分のことや、その他もろもろの一切のことは捨てて、ひたすら無
心に世界平和の祈りを祈って下さい、といっている。今、神々は光の器を求めてお
られるのだ。
21
五井先生はその日にあったことを全部奥さまにお話しになる。勿論、個人相談の
秘密はおっしゃらないがーつつみかくさずお話合いになる。
きようだい
「うちはネ、夫婦というより兄妹みたいなもんだね」とある時おっしゃった。先
生はうちのおばちゃんと奥さまのことをおっしゃる。「この間うちのおばちゃんが
ネ、うちの先生はやさしくて強い人っていってたよ」とうれしそうにニコニコして
おっしゃった。
2
マイホーム型の男性は家庭を大切にするが、大きな仕事や大きな働きをする人
は、どうしても家庭をかえりみないことが多い。しかし、どんな型の人であっても、
家庭において、家の人から尊敬され、愛される人とならなければいけない。
23
やさしい人が本当は強い人なのです。
一九
二〇
24
「やさしくても、それがきわまりますと、真につよくなりますか」
「なりますよ、自分自身に満足しなかったらば、祈りに祈って、自分の本心の中
に入ることです。すると本当に強くなります」
25
人物を評価するのに、よく器量がよいとか器量が大きい、小さいという表現をし
ます。
「いったいなんで器量の大小、よし悪しをはかるのでしょう?」とお尋ねすると、
「まず人を容れる、寛容の心からその基準ははじまるでしょうね」とおっしゃっ
た。
26
ある大学生が春休みに宗教の修行をしたいといって来た。
「宗教とか修行とかいうことにあまり把われてはいけない。それよりも、ひろく
社会一般の勉強をなさったほうがよろしい。たとえばいろいろな小説を読むとか」
こう五井先生はご指導なさった。
ある青年が、小説を読むなんて時間の浪費だ、といったことを聞かれて
「とんでもない。小説の中にはいろいろな人生が描かれている。だから勉強にな
る。くだらないことが描かれていても、ああくだらない、こんな生き方は止めよう、
とわかるじゃないですか。私など雑学で、いろいろな本を読みました。だからいろ
いろなことを知っていますよ。恋愛小説もよし時代小説もよし冒険小説もよし、ど
んな小説でもよい、はばひろいものを得られますよ」
と先生はお話し下さった。
二一
二二
27
何事も有難うございます、と思える人は幸せな人である。
28
霊能に目覚め、それを成育して純化し、洗練して霊覚にまで高めることはなかな
かむずかしいものだ。近頃、五井先生のところへくる手紙をみて、それを痛切に感
じる。
初めは、自分の霊言霊聴は正しいものか判断していただきたい、といいながら、
次便では、霊示とか神示とかいって、教えを垂れるような手紙をよこす。唯一絶対
の大神さまがこういったというわけである。
そういうことを書いてくると、その人の霊力というものは、まだ高いものとは私
は思わないのである。
五井先生は1 言葉でどんなよいことをいっても、自分自身がそれを行なってい
なかったら何にもならない。神示とか霊修行というより、自分がまず愛深く、暖い
行為をすることであるーとおっしゃっている。
「修行時代、五井先生が途中でひっかからず、それを突破して霊修行を完成する
ことが出来た原因は、なんですか? 」
「私は自分の行ないがよくなければ何もならないと思った。だから自分の行ない
をつねに神のみ心に照らして、全く恥かしくないものにしていた。だから私は絶対
に悪いことはしていない、と思っていた。そして神さまに自分の命をささげちゃっ
てたからね、ささげた命を神さまは絶対に悪くしっこないと思っていたからね。そ
れに前生のせいもあるしね」
「いろいろと”われは何々の神” とか、何々菩薩とか、何々如来なり、と出て来
二三
二四
たと思いますが… … 」
「私はそれを全部否定した。そんなことはどうでもよいと思った。自分が神のみ
心にかなっておればよい、神のみ心を行なえるものであれば、それでよいと思って
いた。
それと私が文学青年であったことも幸いしているね。客観的に自分をみるし、自
分をつねに裸にして、自分をごまかして見ないでしょう。どちらかというと悪いと
ころまでさらけ出してみせたいでしょう。自分をごまかせなかったからね。いいこ
とはいい、悪ければすぐあやまる。そして責任は受けようと思っていた。
霊能があるより何より、まず自分の心がスーッとすき通っていること、青空のよ
うにいつも澄んでいること、これが大切ですよ。
悪いもの不調和のもの、不完全なものは、すぐ祈りにきりかえて、消えてゆく姿
にして祈りの大光明の中で浄めてもらうこと。そして心にチリ一つもとどめぬぐら
い、きれいサッパリとしておくことですよ」
29
「村田さんの霊界通信を読んでいますと、霊界で統一していると現界におけるい
ろいろなことが出てくる。そのたびごとにパッと想いが把われると、とたんにその
想いの処におちてしまう。それを守護神がみていて、
『今の姿をお前どう思うか? 』ときく。
『消えてゆく姿です』と答えます。
『だけどお前のやっていることは消えてゆく姿じゃないじゃないか。お前は出て
くるものにいちいち真赤になって恥かしがっていたり、しきりに謝っていたりす
る。その姿は消えてゆく姿じゃない』と教えておられるんですが、それはどういう
二五
二六
ことでしょうか」とお尋ねしたことがある。
「霊界では、恥かしがる隙もないんだ。向うは一瞬だから、恥かしがっていれば
恥かしがっている所へ一瞬に行ってしまう。だから恥かしがっている隙も、悪いと
いう隙も何もない。要するにパッと空になるんだ。想いがなくなるということが大
事なのですよ。といっても肉体界では無理だから、そうなるように空の練習をする
わけです。そこで”消えてゆく姿” が出てくるわけです。
あああんなことをして恥かしかったと思い出したら、ああ恥かしかった、消えて
ゆく姿だ、もう再びしまい。神さまごめんなさい。とやれば、それが消えてゆく姿
になってゆく。肉体界ではそれでいいのです。それが霊界のパッとなくすのと同じ
になる。
“ああ恥かしいことをした。私はなんて悪いことを、悪いことを
” と繰り返し
ていたらだめ。同じことをクドクドといわなくていいのです。悪いことをしてすみ
ません、ごめんなさい、とご破算にして、また新しく神さまの中に入りなおせばい
い。年中年中神さまの中に入って、やり直している。それが消えてゆく姿で世界平
和の祈りだ、と簡単に私はいっているわけです。
ああしまった、世界人類が平和でありますように、もう再びしません、神さまご
めんなさい。それで消えてゆくのです。想いをかえればいい。これをつづけている
うちに消えてゆくのです。潜在意識に入っていかないからいいのです。
善にしても悪にしても、把われたらだめ。ニセものはだめだというのです。裸で
ないといけない。何か隠しごとがあって、虚栄をはって恥ずかしいからやらないと
か、いっていますと、肉体界じゃわかりませんが、向うでは裸なんだから、そのま
まそこに現われてくる。そこで出来る限りすべてを感謝のほうに向けてゆく。何事
二七
二八
も感謝する、という簡単なことになってしまうのです。それをやるために個人とし
ては生れているのです。それが同時に人類のためになることなのです。それを私は
消えてゆく姿で世界平和の祈りといっているわけ」
「向うの世界は一瞬、ということはどういうことですか、例えば… … 」
「例えば肉体の世界では、あいつ憎らしいな、殺してやりたいと思っても、すぐ
殺しにいかない。時間があるわけね、だからその間に消せるわけです。ところが向
うの世界ではあのヤロウという時にはもうなぐってしまっている。想いと行動が同
時なのです。そこで肉体に生れたことは有難いというのです。消してゆくべきもの
はどんどん消していけば、向うへ行った時楽です。楽で楽でしょうがない。それを
私はいうわけ」
30
自分にいちいち言訳けをしない生き方をせよ。
31
人間、いい年令になったならぽ、地位や名誉や財産や名声などにまつわる、もろ
もろの汚れをとり去ることである。地位も名誉もない、一介の老婆のほうが、地位
もあり名誉もある人より魂のレベルとして、上位の場合がある。
32
生死の境にいて、心はればれとしていられれば一人前。
3
この世に生きていることが、不幸で、苦しくてしょうがないという人がいるが、
そういう人は、この世の喜び楽しみを一度すべて捨てること。そしてあの世へ行っ
て、いい世界に住めるようにお祈りしなさい。
二九
三Q
そう覚悟をきめると、この世の中は案外、楽にわたれるようになるものだ。
34
自分のことをごまかしてはいけない。このくらいでいいだろう、なんてごまかし
ては魂の進歩は止る。
35
不惜身命の勇気が必要だ。
神がすべてをやって下さるのだ、と、神さまの中に投げ入れる練習をしている
と、その勇気が出る。
36
人間一人一人に神さまのオールマイティ(全智全能) が分けられているのであ
る。たった一人にのみ与えられているのではない。一人一人に分け与えられた神の
力を、一人一人が協力して出しあって、オールマイティの力をこの世に現わすので
ある。
37
病気になっても、不幸になっても、心が澄んでいて、晴ればれとしていられれば
大したもの。
38
念力や幽界波動に対処するには、正しい心、祈りしかない。
39
本ものとは、自分の言うことと行なうことがぴたりと一つになっている人をいう。
40
ある人の写真を先生にお浄めしていただいた時、
一三
三二
「この人に引導をわたしたと同じだね」とおっしゃった。
「それは幸せなことですね。いいところへ行けますね? 」
「ウーム、この人は面倒な性質があってね、すぐいいところへはいけない。いろ
いろ修行して行くんだよ。素直な人はスーツといい所へ行ってしまう。こういうの
を見ていると、面倒でないほうがいいね。面倒なものを削るために、いろいろな修
行をしなければならない。素直で単純な性質の人はいいね」
41
本ものは天地に光の柱が立っている人である。西郷さんは群をぬいた太い光の柱
である。法然上人はまんまるな光で、仏さまそのものである。
42
「誇りを持つということはいいことだよ。けれど、自分よがりではいけないね。
実力を持たなきゃ。魂の実力をね」
「ハイ、先生、魂の実力をつけるにはどうしたらいいですか? 」
「神との一体観を深めることですよ。神との一体観が深まらなければつきません」
43
不安、恐怖の気持にまどわされないためには、守護霊守護神さまに守られている
んだ、という想いを、潜在意識にたたきこむことである。
4
「明るく明るくつねに明るく。
どんなに暗い波がかかって来ても、それらはすべて消えてゆく姿。だから、明る
さを持続して下さい」ある人におっしゃった言葉。
45
三三
三四
「最近ノイローゼの若者からの手紙がチョクチョクあるのですが基本的にどうい
ってあげたらいいでしょうか?」
「言葉でいってもダメだと思うけれどね… … 」とおっしやって、次のように教え
て下さった。「苦しい時ほど魂の浄まる時です。だからそのまま世界平和の祈りを
祈りつづけていれば、必ず治ります。頭に想いをやらず、膀下丹田に想いをおろし
て祈りなさい」
46
幼な児のような心で、スッキリしていればいいんだ。
47
人間この世に生きるのは、どれだけ無私になれるか、どれだけスヅキリしている
くう
か、つまり空になる練習にある。自分がないということが一番尊いことだし、一番
楽だ。
48
つ
ある人が講師の個人指導を受け、体の不自由と痛みを訴えたところ、愚きもので
すといわれ、お浄めを頂くと、今迄の痛みが治ってしまった。そして質問してきた
ことが
「愚きものとはどういう時、どういう関係でその人につくのか、その辺のところ
を教えて下さい」ということだった。
五井先生にお尋ねすると
「慧きものつきものと思わず、ひたすら神さまの中に入ることです。慧きものと
思うと、またその波をひき寄せてしまう。悪いことは思うな、思いかえしてはいけ
ません。それは消えてゆく姿なんですよ」とおっしゃった。
三五
三六
「浄めに当る場合、どうしたらよろしいのでしょうか?」
つ
「無心で祈ること。慧きものなんて思わなければいい。かまえて相対さないこと。
光というものは小知才覚をなくした時に出るものだ。だから無心の祈りが一番」
49
悪いことはすべて引受けよう、という心でいれば楽なものだ。逃げよう逃げよう
とするから、苦しんだり悩んだりする。
50
人間はその場その場ですましておけば、こんがらからなくてすむものを、その場
でしない。だから私はその場その時でサッパリサッパリと処理してゆく。
51
一に健康
二に性質
三に才能
四に容貌
「先生、女性は三に容貌じゃないんですか」
「女性といえど、やっぱり三に才能だね」
52
仕事をしようとしまいと、心が澄みきりに澄みきっていること。
53
私の世界では、死んだ人も死んでいない。生きている。
54
人間には直感型の人と記憶型の人とある。直感力と記憶力とがそろえばいいなア。
三七
三八
5
直感力にすぐれるには統一行をすることです。スポーツでも芸事でも、習い事す
べて統一修行です。何事にもスーッと統一する練習をしましょう。
56
純粋に魂の子になって、神さまの中に無邪気に入ってゆく、それが統一です。
57
人間の生命というのは生き通しの生命なのだ、永遠の生命だと知ると、のん気に
なる。
58
若い人ほど自分一人で生きているんではなくて、守護霊守護神につねに守られて
いるんだと思うことが大事です。
59
愛情にも把われない、仕事をしなければと仕事にも把われない。あらゆることに
把われないで、スーッと青空そのままに澄みきらなければいけない。
60
なんにもいわなくても、自分の体から光が出ているような人になればいい。
61
ものごとが出来るのも出来ないのも、神のみ心のまま。それで一生懸命人事を尽
す。それが全託です。
62
私はすべてを天のみ心にまかせる全託の修行ばかりして来た。だから自分で全託
の名人だと思っている。
三九
四〇
63
私は人にしてもらおうと思ったことがない。ただ人に尽してあげる、誠心誠意を
尽す、それだけで生きて来た。私はこれからもそう生きるだろう。
64
すべてのことはみな消えてゆく。実在するものは御仏のいのち、神さまのいのち
のみ。そのいのちが自分の中で働いているのだ、そうしっかり思うことが大切です。
65
私には「しなければいけない」も「してはいけない」もない。すべて神さまのみ
心のままになさしめ給えです。1 いってみれば大馬鹿者になっているんだね。
6
人間には勇気が必要です。自分の運命に自信を持つことが必要です。そのために
は、いつも神さまに守られているんだ、守護霊守護神さまにピッタリ守られている
自分なんだ、といつもしっかり思う練習をするといいです。
67
まず何よりも第一番になさなければいけないことは、怒りの想いにも把われず、
恐怖の想いにも把われず、妬みの想いにも把われず、いかなることがあっても動じ
ない、スーッと澄んでいる心に自分がなることである。
それだけ出来れば天下一品です。
68
この世の中は”あるがまま、なるがまま” である。しかし、自分の想いがどこに
あるか、それが問題である。
自分の想いが業想念の中にいては、業のままになってしまう。自分の想いをつね
四一
四二
に神のみ心の中におく、想いが神さまの中にあっての”あるがまま、なるがまま”
になることだ。
69
体をなくしなさい、肉体感があるとそれにひっかかる。
70
それがたと、兄本当のことであっても、人の痛いところにふれてはいけないよ。ふ
れられると納得するどころか、かえって反発してくる、痛いところは優しくつつん
であげることだね。愛の想いでとかしてあげることだ。
71
私は七難八苦を来らせ給え、と想ったことはない。ただ、くるものはなんでもい
らっしゃい、受けましょう、と思っている。神さまにすべてを捧げつくしてしまっ
た私にあるのは、その大決定と感謝のみである。
72
「これからの宗教家というものは、宗教を職業とするようなものではなくなって
ゆくでしょう。一般的な仕事に従事しつつ、その中で宗教精神を生かすという姿に
なってゆくでしょう。汚れた世の中の真只中で、立派に生きることこそ宗教心、菩
薩心の現われでなくてなんでありましょう」と、青年からの手紙に、五井先生はお
書きになっていた。
73
体の諸所が悪い女性へのご指導1
「体から心をぬくような練習をしなさい。肉体で生きているんじゃないんだ、も
う私の体はないんだ、と体を一遍ないようにして、心だけで生きていると思いなさ
四三
四四
い。そして明るいもの明るいことのみを思い、見ていきなさい」
74
いいことをしてはいいことに把われ
悪いことをしては悪いことに把われる
いちいち善悪に把われるな
悠久無限なる宇宙の流れからみれば、そんなことは大したことはないのだ。
75
自分自身を客観的にみて、私には何もない。私には念力は皆無だよ。空っぽだ。
自分をかばうものもない、ごまかそうなんてものはみじんもない。だからどこへ行
こうとそこは神の世界というわけだ。
76
私は肉体の自分がやっているなどと一つも思っていない。神さまがすべてなさっ
ているのだと思っているから、ひとつの焦りもない。ああやらなきゃ、こうやらな
きゃという力みもない。のんびりとしている。
神さまがいろいろな人を使うわけだから、弟子を使う場合もあるし、他の人を使
ってなさる場合もある。私には私にしか出来ないことを神さまはなさるわけだ。肉
体の人間一人で何もかも出来るなどと思っていない。
7
お互いに裸の心になって、疑いの想いも不信の想いもないつきあいをしよう。
78
なんで威張るんだろうね。みな人間は同じじゃないか。そりゃ仕事をしている時
には差はあると思うよ。しかしそれ以外、肉体の人間はみな同じよ。どこに威張ら
四五
四六
なけりゃならないところがあるんだろうか? 威張るというんでなく、権威とか魂
の実力というものは自然に中から出てくるものだからね。
79
宗教というのは、人間は永遠の生命であると悟らせ、神我一体に導くものである。
それが行為に現われると、愛と真と美と勇気となるのである。
80
少なくとも、人の犠牲で自分が助かろうと思わないこと、そういう訓練をしてお
くことだ。
81
とっさに良いことが出来ることが偉い。みんな大体とっさに自分のことを考えて
しまう。
82
霊界というのはごまかしがきかない。だから肉体界に生きているうちに、裸の心
になるよう訓練し、自分の心をごまかさないようにしておかなければいけない。
83
魂がサーっと澄み浄まっていることぐらい気持のよいものはない。
84
不平不満の想いなどサラサラない、白紙のような、きれいな澄みきった心。たと
え親しい人でも、へんなお世辞はいやだし、遠い自分の教えとは反対のような人で
も、正しいことをいっていれば、正しいと認める、そういった心境が私の心境です。
85
執着と虚栄心、自分をかえりみてこの二つの想いがないように、つねに訓練する
四七
四八
ことである。権力欲も虚栄心の変形である。
この二つの想いがなければ、その人はそのまま天界の人である。
86
宗教の極意は執着と虚栄心をすてることである。この二つが出来れば上等である。
87
人にたてられた時こそ注意せよ。先生、先生などといわれていい気になっている
と、業がよって来てさらわれるぞ。だから人にたてられた時こそ心をひきしめ、謙
遜になって、ますます磨かなければいけない。
8
非凡になろうとするからいけない
平凡に極まればいいのだ。
89
「今は魂の力を養うことが大事だね」
「魂の力というのはどんな力ですか?」
「魂の力とは神の力です」
「その力を養うにはどうしたらよろしいのでしょうか?」
「それには肉体と肉体生活にまつわる執着をすてること。心を内にむけているこ
とです。といって心をひっこめて暗くなっちゃだめだ。己れの心の奥深くに想いを
つねに鎮めておくことですよ」
90
「柔軟なこころ、寛容のこころ」
「柔軟な心になるにはどうしたらよいでしょうか? 」
四九
五〇
「みんな神さまがやって下さるんだ。気にいらぬことは消えてゆく姿だと簡単に
考えること、気に入ったことは神さま有難うございますと感謝すること。
こうでなければならぬ、と考えたらいけない。こうでなければならぬというもの
はない。
失敗すれば失敗するでいいのです。その失敗をすることによって、その人の心と
か魂は大きくなるからね」
「そうですね、あとになってみて、私たちはあれもよかったなア、と思うんです
が… … 」
「神さまは一つも無駄なことはなさらないからね」
91
神秘とか不思議なことばかり求めている人は、寸時も心の飢が満たされることは
ない。注意すべきことである。
92
自分自分と自分がありすぎる。自分を全部消えてゆく姿にして、神さまだけを自
分の心に住まわせよ。
93
人間はさっぱりしなければいけない。執着をすてよう。
94
四つの病いが重なり、精神的に焦りと恐怖心がわいて来て抑えきれない、という
方へのご返事。
「人間は体でものをするのではありません。精神でするのです。その精神の中に
神さまが生きているのです。
五一
五二
ですから神さま有難うございます、と感謝しましょう。体でやろう、体で生きよ
うと思いなさるな」
95
人生はいつも今から新しくつくるのです。いい人生をつくりたいと思ったら、明
るい想いをつねに出し、真実のことをつねに思い、おおよそよいということばかり
想って、人の為につくしなさい。それに祈りをプラスすればなおいい。
96
霊的なささやきと自分の意志、言葉と別々であっては本物ではない。霊的なささ
やきを消して消して徹底的に消えてゆく姿にしてゆくことである。
そしやく
ささやき、また中から出てくる言葉を咀囑しないで、そのまま相手に伝えてしま
うことは止めなければいけない。その言葉、霊示なるものも、一度消えてゆく姿に
して、調和ということ、愛ということを考える余裕をもつことである。そうしない
と人を生かすことにならない。
神界では、言葉と想いと行動が一つなのである。
97
今ある立場を生かして、世界平和の祈りをして下さい。今ある立場を生かすとい
うことは、お金を得る仕事をすることが大事であるということでもあります。お金
を得る仕事をするということは、大きな修行です。ばかにしてはいけません。
お金を得る仕事をする。それが第一で、その生活の根本に世界平和の祈りをして、
人のために尽して下さい。1 ある青年へのお手紙よりー
98
いついかなる時でも無心で、神さまだけを住まわせよ。
五三
五四
9
指導者の第一条件はひろい心である。すべてを入れるゆるしの心である。
㎜
人生指導のポイソトは、相手の長所、いい点を出してあげることです。
血
「霊能というのは、前生からの修行によって、出る人と出ない人とがあるように
思いますが? 」
「そうね。大事なことは、霊能力をみがくことではなく、素直に神さまのみ心を
行じてゆくことなのです。素直に世界平和の祈りをしていけばいいんです。一番い
い霊能というのは何かというと、何気なくいったその言葉が人を生かし、人のため
になったり、会うべき人にはスーッと会えるということだね」
「それじゃ霊能力などといわず、執着と虚栄心が少なくなればなるほどいいとい
うことですね」
「そう、そうなれば必要とあれば力が出てくる。霊的なささやきなどということ
ほどあてにならないものはない。わかるということはスーッとわかることです。こ
の目で茶碗なら茶碗が机の上にある、と見えると同じように、スーッとすべてはっ
きりとわかることなのです。ささやきなどにいい気になっていると、精神分裂にな
りかねない。
霊的修行の道というのはきびしいものだよ。生半かの心では完成出来ない。不惜
身命の覚悟がないとね。だから家庭をすでに持っている人は絶対やるべきでないと
思う。それより、心がスッキリと澄みきっているということのほうが大事で、その
心が宗教の道の第一だね」
五五
五六
皿
道というものは、道そのものを行なわなければならない。それが弟子のまず心得
るべきことである。であるから、肉体人間の師匠にこだわることはない。説かれて
いる道、法がよいと思ったらば、行なえばいいのだ。
1 ある師匠に疑問を持ち始め、疑問を持ったまま話をきくことは耐え難いことです、と
いう青年へのご返事-
鵬
人は仕事をしても、しなくても立派になれる。仕事というものは神さまがさせて
くれるもの。自分は自分が立派にしていかなければいけない。つまり自分がどれだ
け無くなっているかということである。
姻
メンツ
自分の立場がおかされようと、自分の面子をまるつぶれにされようと、自分をか
ばうために、そして自分の感情が通らないために、私は人を責めたことなどない。
鵬
人が失敗した時、それを責めてはいけない。泥棒に追銭ということはそういうこ
とだ。責めても何もならない。
宇宙の運行からみれば、失敗したことなどたいしたことではない。失敗したら
「また新しく出直そうよ」とサラッといって励ましてあげよう。
鵬
肉体人間が救うのではない。神さまが救済をして下さるのである。だから肉体側
は守護霊守護神の使いやすい器であるように、いつもしておくことが大事なのであ
る。
五七
五八
僻
人間いい人だけではいけない。肚が出来ていなければいけない。
肚をつくるには、守護霊守護神に守られているのである、と思い定め、守護霊守
護神さま有難うございます、と想いつ、、つけることである。
鵬
うちの会の人には特別の才能などはいらない。妙好人のような、素朴な純真な生
き方をする人がいればいいのです。
畑
「神さまがすべてをやって下さっているのだ、気に入らぬことがあったら消えて
ゆく姿と思い、気に入ったことは有難うございます、と簡単に思って生きなさい」
ちょっと神経症になりかかっている青年へのお言葉だった。
m
かつ
“病気なし
” というのは肉体を持った人間には無理なことで、一度は喝になって
よいだろうが、あとは〃肉体なし病気なし” と一生懸命そうありたい、という念力
で自分を支えているのである。念力は限りあるものだから、念力で支えているもの
は崩れ去ってしまうのである。
m
みたままつりに、神風特攻隊で散華したある学徒出陣兵の写真が送られて来た。
「ああいい世界にいるよ。今、他の星へゆく準備をしているよ。星の世界に生れ
かわるのです」と五井先生はその写真を見ておっしゃった。
「星の世界の霊界とか神界とか?」
「そう。最近はそういう星の世界との交流もはげしくなって来たんだね」
五九
六〇
「星の世界へゆくのは、悪い星ですか、よい星ですか?」
「ふつうよい星へゆきます。悪い星へゆくのは菩薩的使命をもった魂です」
「他の星へゆくと、もう地球へは帰えれないのですか? 」
「ふつうはもう帰えれないね。ちょっと行ってちょっと帰えるということは出来
ない。私はしょっ中やっているけれどね」
とおっしゃって改まった口調になり、
「私の世界は広いし、大きいからね。日本とか地球だけではないのです。だから
日本を守るために再軍備とか核装備とかいうことは、私にとってどうでもよい小さ
なこと。表面的な現象はみな消えてゆく姿。神のみ心のみ実在なんだ」
m
霊覚への道はきびしい。病気を治したり、霊言があった、予言があたった、とい
うことぐらいだけでは霊覚とはいえない。
心が何があっても動揺しない、何があっても愛の心が乱れない、ということにな
らないと、霊覚とはいえない。
m
肉体の自分でやろうと思ったことが一つもない私にとって、やらなきゃ、やらな
きゃという想いも焦りも全くない。すべて神のみ心のまま、とやっているからのん
きだよ。
m
現代は哲学理論をもてあそんでいる時ではない。いかなる名論卓説といえど、実
際に役に立たなければ何にもならない。すべてはその行ないにある。
鵬
六一
六二
政治家が人気ばかり気にしていたら、真の政治をとることは出来ない。
鵬
消えてゆく姿、という言葉に、すでに神のゆるしがあるのです。ですからこの言
葉だけでゆるされた、と思う人があるのは当然のことです。
田
私は自分を暴露することをいったりすることがあっても、自分を偉くみせて、い
ばるようなこと、大きなことはいったことはありません。
朋
昨年(昭和五十年) のみたままつりの前日であった。五井先生のお体に救いを求
めてよってくるものが相当数あるという。それが後頭部と天頂部についているとい
われた。人類の業というのは、中からやってくる。それに比べると軽いもので、ぺ
タヅとくっついているに過ぎない、とおっしゃっていた。
「子供の本に幽霊と化け物の相違というのが出ていました。幽霊というのは足が
なく、迷い、恨み、病念というもので一ケ処にとどまり、人体について悪影響を与
えるもの。化け物というのは足があって、人間にいたずらをしたり、悪さをして喜
ぶもの。たとえばカッパなどのようなもの、という区別でした」
「化け物というのは、本当にいたずらをして喜ぶんだよ。ところがいたずらされ
ているほうはわからない。
みたままつりでくるものは幽霊のほうで、人類の業というのは、化け物と幽霊と
半々なんだ。化け物は人々を踊らせては戦争や悪事をさせ、そして喜んでいる。神
様というものに化けて、人に崇めさせては、人間はバヵだバヵだと嬉しがっている
やから」
六三
六四
「四国の人の体験談で、黒い姿のものが襲って来たので、一生懸命世界平和の祈
りをしたら、黒い姿のものが世界平和の祈りを真似して唱えたというんです。それ
でこれはいかん、と五井先生! ッてよんだら、五井先生が来て下さって、黒い姿の
ものを連れていって下さった、というんですね。化け物も甲羅をへますといろいろ
なことを知ってますから、生半かではだめなんですね」
「世界平和の祈りをそのまま祈りつづけていけば、どんな化け物も変ってしまい
ます。化け物が出て来た時、決して恐れてはいけない。その時は勇を鼓して、グッ
と前に出ることだ。そうするとパッと消える。
ちみもうりヒう
それにしても魑魅魍魎を語らずで、あまりいわないほうがいい。面白半分、興味
本位で話していると寄って来ます。
それよりも自分の心から、あらゆる執着と虚栄心を捨てて、スーッと澄みきって
うじんつう
いる、という方向につねに心をむけておくようにすることだ。漏尽通を目ざすこと
ね」
さにわ
「”白光への道” の中で、審神には深い洞察力が必要だ、と書かれていますね。
深い洞察力というのは、今おっしゃったように執着心虚栄心を出来る限りなくして
ゆく、消えてゆく姿に徹してゆくことで養われるんですね」
「そう、消えてゆく姿にしてゆく、ほめられても驕らず、けなされても気落ちせ
ず、いつも心をスーッと澄ませておくことです」
加
愛は与えるだけである。
伽
執念は祈りでもなく、悟りでもない。
六五
六六
皿
妻が夫との調和ある生活を望むならば、夫に尽すことである。尽せば尽すほど不
調和の因縁は早く消える。
魏
「頭の中で作り上げている宗教をすてて、社会に出、自分でお金をかせいで食べ
てゆくことを考えなさい。
精神的にも経済的にも独立することが大事であるが、まず経済的に独立すること
をしなければ、精神的に独立は出来ない。だからお金を自分の手でかせいで、自分
の生計をたてることが第一である。これがとりもなおさず宗教の極意なのである」
ー働かないで、創造神がどう、神の心、宇宙の摂理がどうこう、という質問をよせて来
た青年へのお言葉1
鵬
「嫌な勉強はいくらやっても身につかない。それより就職しなさい。手に職をつ
けることを考えなさい。まず自分一人で食べてゆくということが大切です。それか
ら貴君の人生が始まります」
1 勉強に対して無気力でどうしてもやる気が起らないという予備校生へ1
捌
周恩来が死んだ。それを知らせるテレビ放送をみていた先生は胸が一杯になり、
涙があふれ出て来てしようがなかった。何も悲しかったわけではない。
「中国民衆の大きな悲しみがテレビを伝わって流れてくるのだよ、だから涙が出
て出てね」とおっしゃりながら「感じやすいというのは良いようで悪いようで…
… 」と洩らしておられた。
六七
六八
伽
霊的に見えたって聞えたって感じたって、そんなの何にもならない。それより何
事何ものにも把われなくなる、ということにいつもいつもしておくことです。
鰯
気が強く、しっかりしていることはこの世での運命開拓の鍵であると同時に、死
後の世界においても魂の進歩に大いに役立つものである。
捌
この十年間の出来事は随分勉強になった。空の境地がますます深まって、一切の
感情にまどわされず、万物の真の姿、正しい姿が公平に見える。今も自分の心を取
り出して客観的にみれば何もない。あるものは愛ばかりであることがわかる。
鵬
神には本来名前はない。神の働きを受けた人が、何々の神と名をつけるのであ
る。
これからいろいろな神さまが出て来るであろうが、神さまの名前にこだわっては
いけない。こだわるとかえって迷ってしまう。働きにつけた名称であって、大元は
みな一つなのである。
鵬
神さまは成功、失敗を問題にするのではない、その器がいかに一生懸命やるかや
らないかを問われるのである。
㎜
みややしろ
私の体はお宮さんよ。本当に神々が生きて働いていらっしゃるお社だと思ってい
るよ。
六九
七〇
m
道は切羽つまって、どうしようもなくなった時に、パッと開かれるのである。安
易に道は開かれない。
麗
さにわ
霊的問題については審神が必要である。しかし私はその場その場でバサバサと断
ちぎるやり方をしない。私はいいことはいいと認め、間違いは間違いとハッキリと
認めた上で、間違いもその人にとっては、魂の成長の一駒になるよう導いてゆくや
り方をとる。
瑠
悟ったとか、大悟徹底したとかいうが、本人としては特別な感じ方などないんだ
よ。ただ後世の人が悟った人とかなんとかいうんだ。
翅
凡人が天才の形だけを真似しようとすることは、愚かである。そうする人を小人
という。
燭
自分がほめられよう、自分をよくみせようと思うな。ただ人のことのみを思え。
燭
どうしたらつまらぬことに神経を使わなくてすむようになるか。それには大空を
いつも仰ぐことである。そうすれば心がひろく、明るくなる。
餅
どうして心の焦りと恐怖をしずめたらよいか。
守護霊さま守護神さまお守り下さい、とまずお願いすることである。つねに守護
七一
七二
霊さまのお守りに心を運んでいれば、感謝していれば、守護霊さんが必ず守ってく
れるので、心のあせりもなくなるし、恐怖心もなくなってくる。
粥
人の悪癖を治してあげようと小言をいうのは愛。自分の感情でいうと人を責める
ことになる。
囎
「”平和を呼ぶ声” の中に、自己保存の本能について書いてあるところがありま
す。
“自己を護ろうとする本能は、善の行為となり、悪の行為ともなって今日までき
た” とこう書かれています。
今、国会のロッキード事件の尋ねる方も尋ねられる方も、共に自己を護ろうとす
る本能の世界をこえることなく、自己保存の本能でその行為が善の行為ともなり、
あるいは悪の行為ともなっていると思うんです。
今日までの人間観では、自己を護ろうとする本能を超えられない、とも書いてあ
りますけれど、今もし、海の中で、遭難して、一人がつかまれば浮くけれど、二人
つかまれば沈んでしまう、という浮木が目の前にあって、それを自分がとらず、ど
うぞと人にゆずって、自分はブクブクと沈んでしまう、というような人になれば、
自己保存の本能を超えた人でしょうね」
「それはその時になってみなければわからないよ。人を押しのけて自分だけがつ
かまるかもしれない」
「そうですね。そうかもしれませんね… … もしですね、人を押しのけて、自分が
つかまって助かったとしても、神さまは赦して下さるでしょうか? 」
七三
七四
「ああ赦して下さるよ」
ころ
「遠藤周作が新聞に転びバテレソのフィレエラのことを書いていましたけれど、
拷問され、逆さにつるされて、ついに信仰を捨てて転ぶわけですけれど、彼も赦さ
れているでしょうか?」
「赦して下さるよ。肉体は弱いもので、そうなったら、信仰も捨てるでしょ。子
供や妻があって、信仰を捨てなければ子を殺すそ、妻を殺すそ、とおどかされたら
信仰を捨てるよ。仕方がないよ。拷問されたら耐えられないものね。ゆるして下さ
るよ」
ぐとく
「私、最近、法然さんや親鸞さんが、愚とか愚禿とかいわれたのがわかって来た
ように思います。
世界平和の祈りをするのでも、利巧ぶって聖人ぶって、偉ぶって祈るんじゃなく、
愚なるものの如く祈るんですね。そうなってはじめて安心して祈れるようになりま
した」
「神さま、助けて下さい! ゆるして下さいって祈るんだよ。
肉体人間だけでは何事も出来ないからね。息をすることだって出来ない。親鸞さ
んはそういうところを何辺も何辺もくぐって来たんだね」
14
理想を追いかけまわして、家庭をかえりみない人より、コツコツと働いて、家庭
生活をちゃんとしている父親たちのほうを、私は尊敬するね。休みに子供たちを野
球に連れてゆく父親たちの姿を見ていると、いいなアと思いますよ。
m
私には焦り心もいけない、恐れもいけない、疑う心もいけない。しかし、私の中
七五
七六
にはなんの想いも出て来ない。だから大馬鹿になったんじゃないかと思うよ。
瑚
私は三十年来、中のものにすべてをまかせて、中のままに生きて来た。今更、他
に頼るなんて気持は一つもない。
瑚
海老原喜之助、林武の画集をみておられての感想-
「(一九三二年の作品をみて)ああいいねえ、夢があって」頁をめくるごとに現
在になる。「だんだんおかしくなっているねえ」… …
「正統派のあたりまえの画をかいているとあきたらなくなって、おかしな画をか
きたくなるんだねえ。宗教でも平凡なあたりまえのことをしているだけではあき足
らなくなって、間違った道に走ってしまう人がいる」
拠
世界平和の祈りを日々することは、平凡と思われるかもしれませんが、本当に力
あることですから、一心につづけて下さい。
輔
世界人類の中の一人である、という認識が深くならないと、本当に立派な人間に
なりません。
蜘
「神さまの中に入っていて、神さまが守っていてくれるんだ、神さまと一体、神
さまと一体」と唱え言みたいに思うことです。
ー恐怖症が増すばかりというご婦人へのアドバイス
班
七七
七八
誰にもみな守護霊守護神がついているから、肉体人間と話をすると思わないで、
守護霊守護神さんと話をするつもりでいなさい。そうしていれば治ります。
ー対人恐怖症の人へのアドバイス
幽
私が深くみなさんに知ってもらいたいことは、人間は神の光の一筋であって個人
という形をとっているけれど、本当は個人というのは存在せず、大神さまのみ心を
この地球界に現わすために、個々の存在のように生活しながら、その天命を完うし
てゆくのである、ということです。
蜘
くうあおそら
空とは青空のようなものである。
励
この世には実にさまざまな人が生きている。一人一人みな違う。それはそれぞれ
くらい
の想いとか性格が違うということではなく、霊の位が違うということである。
m
人の目からみて運が悪い状態になっても、ああ自分はなんて運が悪いんだろう、
と思わないこと。必ずこれは何かいい方向に向わせるためなのだ、神さまが導いて
下さっているのだから、悪くなりっこない、と思いなさい。
運が悪いのだ、だめだと思ったら、運が悪くなるし、だめになってしまう。そう
思わないようにしよう。
慨
五井先生の言葉の使いわけで面白いことがある。
「いい人です」という場合と「悪くない人です」という表現とある。どう違うの
七九
八〇
ですかとお尋ねしたら、
「いい人というのは積極的にいいことをする人のことですよ」とおっしゃった。
悪くない人というのは、平均的善人ということで、悪いこともしないけど、積極的
にいいこともしない、という人のことだろうか?
塒
汚れた人が千人集っても一人の浄まった人の救済力にかなわない。
捌
今生は過去世のつづきです。過去世は大事です。
前生さん有難うございます、と思えることは幸せなことです。
慨
肉体が拷問にかけられて自白したり、友や信仰を捨てるということになるのは無
理もないことだ。それは友や神を裏切ったことにはならない。火を顔のそばにつけ
られたり、焼かれたり、重い石をだかされたりしたら、みなまいってしまうよ。拷
問する人のいう通りになってしまう。犯してもいない罪も認めてしまうだろう。無
理もないと思うよ。
鰯
私の心の中に、この人がやると危いな、一寸した挫折があるな、とわかっても、
その人の要請のままにさせる時がある。流れのままにさせることが、その人やまわ
りの人のためにいいのである。
最初からだめだ、とか、いけない、と排除してしまうより、その間なしつづける
努力や時をはかるということに意義があるのである。失敗成功は問題ではない。
齪、「,
八輔
八二
人間味があふれていて、最も当り前の人間が一番偉い人だ。あたり前でないとこ
ろが少しでも現われていたらだめだね。
囑
受けるべきものは受けよう、という心になればのんきなものだよ。
靭
素直な人がいい。つくった人間は気持が悪い。
蜘
私はいきばったり、気取ったりしたことはありません。いいことは誰がやっても
いいんだから、のんきです。
m
私は神と一つだ、神さまに守られているから、こわいものはないんだ、と自分に
いいきかせ、そして祈りなさい。1 ある人への助言よりー
魏
人間はみんな神の子、みんな愛し合っているのだ、と唱えるようにして思いなさ
い。1 人の目が気になる人ヘー
㈹
肉体人間以外のささやきや声が聞えて来ても、まともに受取って耳を傾けてはい
けません。一切雑念と否定しなさい。そして守護霊さんに”どうか消して下さい”
と祈りなさい。
脳
神様は手の届かぬ遠い高い処にいるのではなく、最も身近かに手の届くところに
いるのです。
八三
、
八四
痂
私は出来ないことはいわない。その代りいったことは必ず行なう。
燭
誰でもみんな神の子なのだから、やりたい、といって来たら、神のみ心が働いて
いるのだと思ってやってもらえばいい。私は光を与える立場ですから、光をどんど
ん出す。なんでもかんでも自分でやろうなんて思わない。みなそれぞれの立場を生
かしてやっていけばいいんだ。
餅
神さまは初めから苦しんでいる人間を救ったらよさそうなものだけれど、そうし
ないのは、過去世のその人の借金を、ある程度返えさないと、その人に力がつかな
いし、その人の運命はよくならないからなのです。
まず、現在の運命は過去世の原因結果のせいであることを知るか、肉体人間は罪
悪深重の凡夫であるという諦念(明らかにみること、思うこと) をもつことから出
発することが大事だ。
湖
現在のいい地位、いい才能、いい性格、いい環境というものは、前の世の徳の結
果である。
鵬
「平均的人間というのは、お釈迦さまのいう十界でいったら、どの辺に属するの
ですか?」
「真ん中といったところだろうね。宗教者は多くは声聞、縁覚というところだね。
けれど」と言葉を改められて先生はおっしゃった。「あなた方は菩薩だよ、世界平
八五
、
八六
和を祈る人は菩薩だよ」
「知らない間に菩薩行をさせて頂いているんですね。しかし、本当に菩薩行とい
うのは大変なものですね。己れがなく、神さまの大愛を信じきって、愛のあふれて
いる人でなければ出来ませんね。
神さま、み心のままにどうぞお使い下さい、といって咄嵯に投げ出せるかどう
か。よしでは使ってやるぞ、といわれて、すぐにハイといえるかどうか、わかりま
せん。大変なことだと思います」
「そうだろう。だから私は自分に出来ないことは人にはすすめていないんだ。理
想としてはもっともだけれど、人にすすめても無理な場合はいわない。だから平凡
なようだけれど、消えてゆく姿という教えと世界平和の祈りということになるわけ
よ」
「若い頃は情熱にかられて出来ると思いましたが、今の年令になってみて、大変
なことだと痛感しています」
「私はね、サッと投げ出せた。結婚もしていなかったし、親をみるわけでもなか
ったからね。けど今でもいつでも神様に投げ出したまんまよ」
珊
「先生、頭だけでも肉体界にある自分の他に、幽界にも霊界にも神界にも自分が
いるんだ、ということがわかりますと、死ということが大分こわくなくなります
ね。でも、それにしても、どうして人間は死がこわいんでしょう? 」
「こわくなければ困るからさ。こわくなければみんな自殺しちゃう」
「そういえば、昔、法然上人のこ法話をきいて、西方極楽浄土へいきたい、とす
ぐ海中に飛びこんだ人や、がけから身を投じた人がいますね」
八七
八八
「そうなっちゃ困るからね」
「なるほど」
「アハハハハi 。しかしそう信じこめて死ぬなら、それもまたいいだろう」
皿
ノイローゼの人が自分で治りたい、と心の底から思えば治ります。しかしなかな
か治らないのは、自分が治りたいと思わないからです。現実生活から逃げたいため
に、そういう生活にかえるのが嫌なので、治りたいと思わないのです。自分が心か
ら治りたいと思うようになる迄はたの人が一生懸命、その人の天命が完うされます
ように、と祈って愛の光を投げかけてあげることです。
切
私は今まで、神さまに不信の想いなど全く持ったことがない。神さましかこの世
界にはないんだからね。. f . 、
たとえ神さまがおっしゃることが判りにくいことでも、それは何か意味があるこ
とに相違ないと思っていたよ。
瑠
私にとって、神さまの存在はここに自分がいるのと同じように、全くあたりま
え、当然としてハヅキリわかるんだ。
悩
お金をいくらためるということを楽しみにする人もあるが、私はどれだけ自分が
立派になれるか、それを楽しみにしている。,煽
珊
私は特別にお説教などしない。自分さえ立派になればそれでよいと思っている。
八九
九〇
それで自然にまわりの人を感化してゆくのだね。
珊
人間は考えなくてもいいことばかり考えている。
堺
私には神さま以外何もない。
瑠
苦を苦とせず、瞬間によろこびに変えられるようになることだよ。
珊
私は切替えが早いんだ。パッパッと瞬間に切りかえることができるのだ。
拗
人間は構えてはだめだ。何かあるとすぐ身構えてしまう。構えてしまうだけマイ
ナスになる。
捌
どうして肩肘はって生きるんだろう。まじめはいいけれど、肩をはって生きては
いけない。自然でいいんだ。
醜
神さまの世界には「何故」「どうして」というものはない。
鵬
「人間というものはなかなか我をなくせませんが、そういう時はどうしたらよろ
しいですか? 」
「お祈りにすべてを投げこんでしまうようにすることだよ」
「我は一体どこから起るのでしょうか? 」
九一
九二
「自己保存の本能からだよ」
「しかし自己保存の本能がなければ、肉体人間は生きていけないんじゃないでし
ょうか」
「生きていけるよ… … 神さまがすべてやって下さるから」
この問答をしていて、ああ五井先生は全くそのお言葉の通りの日常生活だなア、
と感じ入ったわけである。ある日、五井先生の奥さまがこうおっしゃっていた。
「五井先生はおなかと口が全く一つ。口でおっしゃつたことはおなかでも同じよ
うに思っていることね。だから”いい” ということは本当にいいんだし”だめ” と
いうことは本当にだめなのね」
何も言葉のうらとか、はらをさぐる必要など全くないのである。もし身近かな者
にいわなければならないことがあるとすると、遠廻しに人伝てにおっしゃることが
あっても、一方で、必ずその人に面とむかっておっしゃる。そのおっしゃり方も、
まずほめて、そしてあとはやんわりと一言か二言の核心をつくお言葉を出される。
だから叱られても、先生は決して私たちを悪く思っていらっしゃらない、と喜ぶの
である。
捌
自分に文句があっては全託ではない。生きるも死ぬるもすべておまかせするのが
全託で、生き死には肉体側の知ったことではない。
獅
念力というのは使いようによってはいいんだけれども、しかし、使いようによっ
ては善くも悪くもなるというんでは、神のみ心を現わすわけにはいかない。
鰯
九三
九四
私にはなんにも無い。只あるのは真実のみ。
餅
私は人を恨み憎んだことなど一つもない。素直で、人のことばかり考えて来た。
自分ながらいい性質だと思う。またそう思える自分が有難い。
鵬
何事にも把われないこと、把われたらその分だけ不自由になる。
鵬
肉体が痛いのに「痛くない痛くないと思えば痛くないのだ」というのは間違い
で、肉体を持つ普通の人間には出来ないことだ。痛みも苦しさも祈りにきりかえる
ことによって、そこを超えることが出来るようになるのだ。
蜘
生活をはなれた宗教などはない。
皿
すみか
宇宙はわが住処である。
醜
私には地獄はない。地獄にゆけば地獄が極楽になる。
鵬
人間はゆうゆうと、あせらず生きることがよい。あせっても何も出来ない。ただ
自分の力が常にコソスタントに出てゆけばよいのだ。
脳
ふつう性質といわれる性癖は一朝一夕で直るものではない。しかし祈りに真剣に
から
入れば必ず直る。祈りの中に入っていれば、性癖は性癖で勝手に空まわりして消え
九五
九六
てゆく。
鵬
すべてみ心のまま、と思えれば最高。それを自分の都合の悪いものが出てくると
逃げてしまう。それでは”み心のまま” ではない。
鵬
自分をごまかしてはいけない。自分をごまかすのが一番いけないこと。
餅
一番大事なことは、心が純真で無邪気であるということです。
甥
うちの人たちは幸せです。一つのことにすっきりと天地をつらぬいているものが
ある。それが世界人類が平和でありますように、という祈りの生活です。
鵬
いいことをするのでも想いつめてやってはいけません。救わなきゃならない、救
わなきゃ、とやっていると体が動かなくなる。救うのは神さまで、肉体がよけいな
ことを思わなければいいのです。想いを神さまの中に入れて、肉体はそのままスラ
ッと動いていればいいのです。
㎜
想いばかりが強いうちはだめです。ある点では一念岩をも通す、というわけで念
願を果すことが出来るかもしれないけれど、真実のことは達成出来ない。念力には
限度がある。念力をすてて神さまにまかせることだ。世界平和の祈り言を心にひめ
て、その祈り言にのって行動していれば、自然と神のみ心にかなった行ないが出来
るようになる。
九七
九八
蹴
いつばし
どんなことがあっても、人を悪く思わなくなれば一端です。
蹴
ある青年が組織の中で祈りの実践をしようと、勇躍社会に出ていった。しかしそ
こで彼は挫折した。そして助けを五井先生に求めて来た。
「今の世は忍耐力が必要です。忍耐の強いものが勝つのです。あせってはいけま
せん。くじけるようなむずかしいことが出て来たら、これは忍耐力を養うための修
行なんだ、と受けなさい。私も忍耐しつづけて今日になって来たのです。… … 」と
教えていらっしゃった。
鵬
霊修行をしている青年がいる。彼はここ二、三日断食しているという。目をきら
きら輝かせながら、地球の滅亡を憂いている。その挙動、言葉を見ながら、霊修行
者というのは世間から理解はしてもらえない、孤独な存在だと思った。彼は五井先
生と常に交流しているかどうか心配で尋ねて来た。先生におききしたら、交流云々
には一言もふれずにこうおっしゃった。
「少しでも恐怖感があったら止めなさい。霊修行というのは死ぬつもりでやらな
ければダメだ。気狂いになるかも知れないのだ。捨身の覚悟がなければするべきこ
とではない」
そしてあとで
「いずれはみんなが脱皮して、肉体をもったまま霊人になる段階になるんです
から、急ぐことはないんです。みんななれるんだから」とつけ加えておっしゃつ
た。
九九
一〇〇
謝
善いことしようと思っても出来ない人がいる。善いことをする勇気がないのであ
る。
篇
サッパリサッパリと生きよう。
蹴
自分を飾らないで、嘘いつわりのない自分をいつも出していれば楽なものだよ。
勿論自分を出していて相手に不快感を与えるようではダメだけれどね。私はウラか
らみても表から見てもかわらない、裸の人間よ。
脚
人間は誰でも天命をもって生きているのだから、天命の中にすべてを投げこんで
おけばいいのだ。
㎜
信仰深い親を持っていることは有難いことです。向うへゆくとちゃんと親が迎・兄
に出て来てくれ、案内してくれます。
㎜
一番上等なことはー
そのまま生きていることが有難いという感じになること。
心がいつもおだやかで、心がいつも暖かくて、心がいつも澄んでいる、そういう
ような感じになること。
珈
宗教に興味本位(神秘的な) だけで入った人は悟れない。
一〇一
一〇二
皿
非行少年少女を持った親ごさんへのアドバイスとして、次のようなことをおっし
やった。
ほ
① ちょっとしたいいことでも賞めてあげること。
② しかし叱るべき時、いうべき時はきつくパッという。長くだらだらといわず短
かくいうこと。時にはぶんなぐってもいいんだ。
③ いい友だち、いい先輩をもたせること。
肥
いい想いでも悪い想いでも、一度祈りの中へ入れてしまう練習をしておけばい
い。いい想いでも引っかかる場合がある。要するに何ものにも想いがとらわれない、
ということが宗教の極意なのです。
鵬
肉体の自分など何も出来やしない。天の自分がやっているんだから、こちらが余
計なことをしなければいいんだ。自分をなくすことよ。
四
試験管ベピー、冷凍ベビーについて、五井先生はどうお考えになるか、という質
問があった。
「こうした一連の実験に反対です。神のみ心に反します。原子エネルギーが開発
されたことはいいけれど、他方原子爆弾というものを作ってしまったように、これ
は科学のいきすぎです」
獅
政治家でも思想家でも、私の考えなら世界人類は完全平和になるなどと言いきれ
一〇三
一〇四
る人は一人もいない。誰がやっても出来ないことである。まず肉体人間では何事も
出来ない、と認識することが大事なので、無力なり、と神さまに全託して、全託し
たところから一生懸命研究する。そうすると肉体人間の力ではなく、神さまが全面
的に働きかける人間の力となるのである。
鵬
よく宗教をやる人に、あれは悟っていないからああなった、業が深いからこうな
った、という人があるけれど、それは間違ってもいうべきではない。守護神がその
魂を一遍に昇華させるために、わざわざ災害の中に置くかもしれない、あるいは菩
薩業のために他の者と引きかえに災難の中に置くかもしれない。守護霊守護神が、
肉体の七十年八十年のことだけでなく、永遠の生命から割り出してやっているのだ
から、悪そうに見えることが、本当はその人にとって良い場合もある。現象の在り
方だけをみてとやかくいえることではないのだ。だがそう思ったら、その想いを消
えてゆく姿にして、みんなの天命が完うしますように、と祈ることである。
脚
“一つの神を信じ拝し、何十年もたちましたが、その教団の在り方に自分の心が
どうしても染まっていかないのです。そして白光に魅力を感じるのです。そうした
私の心の動きは、神さまに対して不実なるものでしょうか? ” というお便りが来
た。五井先生は次のように答えて下さった。
「神さまは伽藍とか教団の中にいるのではありません。要するに自分の中の神、
本心を顕現するということが大事なのであって、神のみ心たる愛と真と美と調和が
自分になっているかどうかを問題にすべきなのです。神のみ心に適った生き方をし
てゆくことが大事なのです。
一〇五
一〇六
神とか仏とかいわないでも、神社仏閣に詣らなくても、宗教団体に入っていなく
ても、その人の心が神の心にかなっていれば、その人は天国への道にあるというこ
となのです。要は人間がその生活の中で、どれほど本心を現わして生きているかに
よって、天国が近いか遠いかが定まるのです」
鎚
また東京から遠くはなれたある教団に勤めている人へ、次のようにおっしゃって
いる。
「想いがどれだけ神のみ心の中に入っているかどうか、それが問題であって、空
間的遠距離にあるとか、信仰が異なるとかは問題ではありません。ますますご精進
下さい」
胸
子供たちに世界平和の祈り、という運動を青年たちが始めることになった。そこ
で或る日、五井先生に次のようなことをお尋ねしてみた。
「子供たちにどうやって世界平和の祈りをさせたらよいですか? 」
「親や大人が”一緒にお祈りしよう” といって一緒にお祈りすることね」
「時間はどのくらい? 」
「強制的に時間をかけてやることはよくないよ。短かくね」
「子供に統一実修というのはどうでしょう?」
「無理にやる必要はないね。お祈りをサラッとやるだけでいい」
「光がみえて来たり、いわゆる霊現象が子供たちに出て来ましたらば? 」
「すぐ止めなさい。そういうことがあると、世間なみの勉強が出来なくなるから
ね」
一〇七
一〇八
刎
私は明るいんだ、私は明るいんだ、神さまと一つなんだ、と明るさを自分に強調
しなさい。
ー体の不調で不安でたまらないというご婦人へのご返事i
蹴
どんな現れであっても、みんな大難を小難ですまして頂いているのです。
躍
自分の中に神さまを住まわせなさい。そうすれば心が平らかになる。
脇
明るく、楽天家になれ。
捌
人の心を明るく楽しませ、勇気づける生き方をしよう。
獅
一つに片よったらだめ。いいことでも悪いことでも、把われたらだめ。もっと自
由になること。自由になれ、といっても今迄の自分では出来ないから、世界平和の
祈り言にすべてをのせて、救世の大光明で浄めてもらい、洗い流してもらうので
す。だから法然、親鸞のやり方は正しいよ。
鰯
人前に出ると上がってしまって真赤になり、何もしゃべれない、という人への助
言。
「息を細く、長くゆっくりと吐くこと。これを数回くりかえすと落着きます。世
界平和の祈りもゆっくりと唱えることです」
一〇九
一一〇
脚
みんな神さまに生かされているんだ、みんな神さまがなさっていらっしゃるん
だ、と感謝しながら、一生懸命、その場その場をやっていればいいんです。
㎜
人間、生きられるだけは生きられるのだ、と神さまに感謝しながら生きなさい。
神さまに感謝しながら生きれば何も心配はないのだ。
脚
「先祖たちの位牌の類は、いわゆる他界後、何年くらい仏壇にまつればよいので
しょうか? 」という質問に、
「大体、三年まつればよろしいです。しかし差支えなければ、ずうっとまつって
もいいのではありませんか」とお答えになった。
獅
「霊光写真を地中に埋めた場合、その土地の浄まる範囲はどのくらいですか? ま
た平和塔を建てた場合の浄まる範囲は? 」と質問した人がいた。
「そういうことを考える必要はありません。すべてを神さまにまかせることで
す。光というものは世界中をまわるのです」とお答えになった。
劉
私には心というものがハッキリわかるのだよ。善いということと悪いということ
が。だからその善悪に引きずられないわけ。たとえばお世辞をいわれたとしても、
自分でそうではないと思えば、いくら良いことをいわれても、そうではないとハッ
キリ見ていたわけ。だから間違いがなかったのだよ。
鋭
一=
一= 一
神さまはこの世においても、霊界においても、生命すごやかに、生きいきと生き
る方向にいつも持っていらっしゃるのだ。
脇
今の私の体の苦しみはふつうの人だったら耐えられなくて、参っちゃうだろう
ね。よくもっているよ、私には恐怖の想いが一つもないからね。やっぱり先の世界
のことをよく知っているからでしょうね。
謝
ゆ
自分の想い通りの世界へ人間は逝くんですよ。暗い想いなら暗い世界へゆく。明
るい想いの人は明るいところへゆく。おシャレの人はおシセレの世界へゆく。あの
世ばかりでなく、この世も同じなんです。ただすぐ現われて来ないだけ。あの世は
すぐ想ったことはサッと現われる。だからいつも世界平和の祈りの中に、自分のあ
らゆる想いを入れておく練習をしておくこと。
獅
守護霊さん守護神さんに願っていれば、危いところは必ず逃れられます。わざわ
ざこうなさい、というような導きでなく、自然に危険をさけられるのです。また思
いもかけぬ、こんな智恵が自分にあったか、というような言葉が出て来ます。
猫
深い祈りは睡眠と同じ効果がある。
蹴
交通事故にあって、身体不自由になった人から、私の天命はなんでしょう、と尋
ねて来た。
「人間の生命は永遠である。その永遠の生命が、肉体界において働くためにあな
一=二
一一四
たの肉体をほんの仮りの宿として使っているのである。あなたの使命は、本体たる
永遠の生命から見れば、肉体の生活はホンの一瞬のもの、覚めれば夢のようなもの
だ、と知ることである」
五井先生はこう答えられた。そのあと、
「私の体の上につづいている痛みも苦しさも、ホソの一瞬のことなのさ」とポツ
リとおっしゃった。
珊
姑のことが気になってしようがないお嫁さんへのアドバイス。
「それこそ自分の修行だと思いなさい。そして、少しでも姑さんのことが気にな
らなくなった自分を見つけたら、ああ私はこれだけ進歩したんだ、と喜びなさい。
どんな小さな進歩でもよろこんでいるうちに、気にならなくなって来ます」
鵬
運命には大まかにいえば三年のサイルクがある。いい時が三年、悪い時が三年と
いうように。しかし、よい時に余力をためておけば、悪い時にその余力が出てくる
からなんでもない。だからいつも安泰であるためには、人間はつねに余力つまり陰
徳をつんでおくことである。
脚
今の原因はたどるとみな前生にある。
盟
大体、人間は自分たちがすべてやっていると思っているけれど、うしろのものが
やらせているのです。自分の過去世の因縁と守護霊守護神の力ですね。私は全部神
さまにまかせています。だから体の上にどんな状態が出て来てもなんの心配もしな
= 五
一一六
い。
麗
抵抗があるところに敵が出来る。人間個人個人の生き方として無抵抗がいい。
脇
現在、本当の宗教家が必要。業を浄め神さまの大掃除の手伝いをする宗教家が
ね。要するにおふり代えの出来る人たちです。今、おふりかえなどやらない。信者
だけを増やして、大きい殿堂を建てているわけでしょ。あんなのはダメ。キリスト
みたいに身をもってやらないとね。そういう宗教家がたくさん出てくることを望み
ます。
脳
われわれの役目はまず業を浄めることです。人間の心を浄めてからでなくては何
も出来ない。
脇
今は心の本質の世界に入る時代です。物が先でなく、心が先だという時代です。
心によって物が決るという時代に突入しつつある。その先がけを日本人がやらなけ
ればいけない。
脇
東京大田区の芹沢さん宅での座談会に出むいた時、秋山貢栄子さんが、五井先生
に差上げてほしいと息子にたのまれまして、と一枚のレコードを私に託された。息
子さんというのはナーケストラの指揮者で国内は勿論海外で大活躍している、秋山
和慶氏である。レコードは昨年録音されたもので、パソクーバー交響楽団を指揮し
て、レスピーギのローマの松とローマの祭を演奏したものであった。
一一七
一一八
翌日、早速五井先生にお届けした。そして聴いて頂いた。先生は別にプレーヤー
にかけなくとも、レコードを持てばその演奏がきける特別な技(?) をお持ちであ
ることを、私は先刻承知であったので、プレヤーなど持参せず、そのままお持ちし
た。
手にとって先生はおっしゃった。
「いい出来です。明るいところは明るく、静かなところは静かに、巧みに演奏さ
れています。秋山さんの指揮が非常にうまくなり、立派になった。大したものだ。
ただこのレコード演奏の中で、録音はいつ? 去年? 第一バイオリソをひく人の
中にマイナスの人がいる。我が強く、自分の感情を出したいのでしょう。ひっかか
る音がありました。ともかく上手になられたのに驚く。立派なものだ。ますます先
が楽しみです」
このお言葉はそのままお母さんを通して、秋山さんに届くようにお願いしたけれ
ど、秋山さんの反応はどうか、私は楽しみにしている。因みにこのレコードは、去
年(昭和五十三年) カナダのレコード大賞を獲得しているそうである。まだ日本に
輸入されていない。,
脚
人に立てられることはむずかしい。先生先生と立てられると、いつの間にかそこ
に虚栄心が出てくる。その虚栄心を満足させるようにならぬよう注意すること。
立てられないと腹が立つというようになる。自然に威張るようになる。なんでも
なかった時は出なかったのに、講師先生になると金銭欲も出てくるし、色欲も出て
くる。欲望が増してくるからくれぐれも注意することだ。
脇
= 九
= 一〇
私の行き方の特長の一つは、常識をはずれず常識を超えるということ。もう一つ
は天命を信じて人事を尽すということ。人事を尽さなければだめですよ。
脚
或る青年が手紙でこう書いて来た。
「私は波動が変ったせいか、クラシック音楽がとても好きになり、もうロックソ
ロールなんて仕事も出来なく聞けなくなりました」
すると五井先生はこうおっしゃった。
「仕事は仕事として割り切ってしまいなさい。他の人がやればつまらない波だけ
れど、君がやればつまらないロックの波の中に、いい波が入ってゆく。そういうつ
もりで仕事をしなさい」
捌
講師や先輩は相談にくる会員さんをきめつけたり、責めてはいけない。相手を責
こごと
める叱言っぽい云い方はだめだ。私は叱言などいいたくもないのにねえ。自分はわ
かるんだ、ということを見せようとするんだねえ。
劉
「単純になることがいい、単純におやりなさい」
ー思索に行きづまった人へのアドバイスー
魏
高一の女の子が万引をするようになった。母親の嘆き悲しみはひどかった。
「娘の本心が現われますように、と祈るより他にない、祈りは効力があるので
す」
漏
一一=
一二二
知人に、あなた方は天中殺の時結婚したから、離婚するか、あるいは子供に不幸
を背負わせることになる、といわれ、大ショックを受けた若い母親がいた。
「そんなことは絶対にありません」と五井先生は明るく笑い飛ばされた。
「守護霊守護神に守られているのだし、世界平和の祈りをしていれば問題なし」
脳
世界平和の祈り方について質問が来た。
「或る人は”観無量寿経” 的観想の祈り方もあり”大無量寿経の第十八願
” 的無
心の祈りがあるようです。これはいずれを非、いずれを是ということはございませ
んか」
五井先生のお答えはこうだった。
「自分に合う方法で祈ればよいのですよ。要するに自分を神さまに全部あずけて
しまえぽいいのです」
漏
どんな業も消える。ことある毎に守護霊守護神に感謝すること。業も自分で消す
のではない。守護霊守護神が消してくれるのです。
漏
“自分の祈り方が頭脳的想念の祈りではないかと思うのです。頭脳的感謝でな
く、頭脳的想念の祈りでなく、心からの感謝であり、心からの祈りが出来るにはど
うしたらよいものでしょうか” という青年からの質問に対する五井先生のお答え。
「みなそう思うのね。やはり年限が必要なんですよ。今、あなたは心からの感謝
が出来っつあるから、そのままつづけなさい。五年前とはまるっきり違っているん
ですよ」そのあとこうつけ加えられた。
一二一二
一二四
「みんな大ていこの頭で祈ろうとする。そうではない。頭をすてればいいので
す。今更改めて祈るのではなくて、初めから人間は祈っているのです。その祈って
いる自分を発見すればよいのです。そうすれば五井先生のように呑気になる」
蹴
私たちは年中、死の向うの世界と交流しているでしょ。だから死なんてなんでも
ない。隣りに移るのと同じです。だから別にどうってことはない。
鵬
今の境地だったらどの辺へゆくだろうと時たま考えてみるのもよいことだ。
鵬
ながす
九州の西原猛様から自著「長洲の神様、松下松蔵」が五井先生に贈られて来た。
五井先生にそのご本をお渡ししながら、
「長洲の神さまは五井先生のところにいつも来ていますか? 」とお尋ねした。
先生と長洲の神さまとの霊的出会いは、発祥会員の一人有富ミサヲさん宅におい
てであった。神人松下松蔵翁が生前使っておられた幣束を通して、五井先生と合体
されたのである。昭和二十四年の終りか翌年の初め頃のことである。
「あれ以来、救世の大光明の中、私の中にいるから、降りてくるも来ないもない
よ」
「ハハア、五井先生の血肉となってくいこんでいる、というわけですか」
長洲の神さまのことについては、この頁ではくわしくお伝え出来ないので、いず
れ白光誌上で、救世の大光明の中で活躍する神霊方としてご紹介をしたいと思って
いる。既に五井先生のご本の中で明かされている以外の聖老方の小伝をである。
脚
一二五
一二六
元旦の朝、ご挨拶に伺った理事全員にこうおっしゃった。
「のんびりとゆきましょう」
矧
あせ
私の心の中をいくら公正厳密に点検しても、全く恐怖の想い、焦りの想いという
ものはないね。
皿
262^315
昭和三十八年十月より四十三年十二月迄
五井先生より拝聴したお話
蹴
或る時、愛する弟子の一人が、ひどい病気のような状態で倒れ、苦しんでいた。
先生は全く心配されて、その弟子の体をさすり、お祈りをなさった。その日は一日
中、その弟子の体のことを気づかわれ、黙っていらっしゃる時間が長かった。
「ご心配ですね」とお尋ねすると、
「心配だよ。かわいそうにね、あんなに苦しんで… … けれど私は本当は心配して
いないんだよ。本当に心配するけれど、本当は何も心配しない。只光明を放ってい
るだけなんだよ。はたから見ると、オロオロしているように見えるくらい、真剣に
心配しているだろう。確かに心配している。しかし心配していない。わかるかな?
わからないだろうね」
「ええわかりません」
一二九
=二〇
「五井昌久という個人の肉体がここに見えるから、肉体の私がいるかというと、
いないんだよ。こうやって私自身、肉体の想いがあるかな、我の想いがあるかな、
とじっと見つめてみても、一つもその影も出て来ない。無いんだよ。
只三十何才までの、いわば悟らない前の性格というものがあるでしょ。それを時
に応じ、処に応じ、人に応じて、その過去の中の想いをヒヨッと出して来て、それ
を使っているんですよ。
みんなは心配するといっても、シンパーイとその心配そのものの中に入りこん
で、ズーツと流れていってしまう。だから体がくたびれてしまう。私はそうじゃな
い。シソパイそれでもうおしまい。流れない。中にはまりこまないんですよ。それ
を知っているということは、把われていない、我がないということですよ。
肉体の私と神界の私とが全く一つになってしまっているんです。そして五井先生
となって、ここをじっと見つめて、過去の愛情の想いをヒヨッと取り出しては使っ
て、心配を現わし、冗談をいう想いを取り出しては冗談をいっているんですよ、真
実を明かせばね。といって芝居ではない。本当のことなのです。
想いを自由自在に使えるんだな」
「先生、その肉体は無いんだ、ということですが、この体というものは神の器な
んだ、神の体なんだ、と思えた時は、肉体は無いということなんですか」
「そうだよ。そう思えた時、ああ神様に使って頂いているんだ、生かされている
んだ、と思えた時、肉体は無いんだ。それをズーッと続けられる人を覚者というわ
け。一分間出来たら一分キリスト、一時間出来たら一時間キリスト、一日出来たら
一日キリストというわけだ。その時間を長くつづけてゆけるようにすればいいわけ
だね。
=三
二二二
世界人類が平和でありますように、と祈った時はみなキリストなんですよ」
㎜
「先生、或る青年達が来て、五井先生より偉い人が現われる、というんです。私
くやしくってくやしくって… … 」
とポロポロ涙をこぼしながら、お嬢さんが先生に訴えました。
「いいよ、いいよ、そんなにくやしがりなさんな。私より偉い人が出たら、その
人にやってもらおうじゃないか。その方が私は楽だよ」
五井先生はお笑いになりながら、ただめていらっしゃった。
「私は私一人が偉いなんて一つも思っていませんよ。私は私より立派な素晴しい
人が出ることを本当に望んでいますよ。立派な人が沢山出れば、平和にするのもそ
れだけ楽だものねえ。1 世界人類というのは、その青年達のいうように簡単に救
えるもんじゃない。腕を振り上げ気張ったって救えるもんじゃない。威張りたいと
か、名前を出したいとか、中心者になろうなんて思って、世界人類を救えるものじ
ゃありませんよ。
私は何も威張りたいとも思わないし、中心者になろうなんて思ったこともない。
只、世界人類の平和のためにお使い下さい、と生命を投げ出しただけですよ。そし
たら神様が”ういやつじゃ” ってんで使われたんですよ。
世界人類を救うということは、並み大抵のことではない。一人の人間を救うんだ
って大変なんだからね。本当に私より偉い人が出て来たら、楽だねえ」
脳
義理と人情に弱いのは江戸ッ子の性質ですが、先生も浅草生れの江戸ッ子。多分
にその気持ありです。義理と人情にもいろいろありますが、こんなことがありまし
二二一二
一三四
た。
テレビで山岡鉄太郎が徳川慶喜に体をはって、大政奉還をすすめている劇の場面
が出て来ました。フッと先生を見ると、目をまっかにしていらっしゃいます。
「私は弱いよ、正義大義のために生命を投げ出している人を見ると、すぐ涙が出
ちゃう」
私の秘密というテレビ番組がありましたが、そこに王将で有名な坂田三吉の女
房、お春の娘であるという人が出て来ました。先生はそれだけでホロリ。
「ああ、お春さんは苦労したねえ、大変だったろうねえ… … 」
猫
ある日曜の朝、Y WC A の会長、植村環女史(故人) がキリストのお話をしてい
るのを、偶然スイッチをひねって、先生はおききになった。
「私たちは顔を見ただけで、その人の全部がわかるけれど、植村環という人はい
い人だねえ。神の愛を信じ、長い間苦労して苦労して、愛行をつづけて来た人だね
え。私はそれだけで胸にジーソと来てしまうよ」
蹴
「白隠さん、良寛さんは偉かったねえ」と五井先生はよくおっしゃる、そして道
元禅師の偉さも称えられて、
「きびしすぎるほど厳しいけれど偉い人だ。神界そのままのひびきを伝え、現わ
そうとしたから、弟子たちに厳しかったんだね。しかしその方法が弟子たちの本心
開発にほんとうによかったわけだ」
五井先生はご自分のことを平気で人前で「五井先生も偉くなったもんだ」とおっ
しゃるけれど、また、弟子の前でも平気で「まだまだ駄目なところがあるよ」とお
=二五
=二六
っしゃる。
先生はつねに心を開け放たれている。全く正直だからだと思うのである。
そして先生は「神秘力ということなどぬきにして、肉体側がつねに一〇〇% 完全
であることを目指しているんだよ。或る点では一〇〇% だが、或る点では一〇〇%
じゃないところがあるんだ。それは〈峻厳なる愛〉という点においてね。けれど五
十になった私は、それも一〇〇% になるよ、見ていてごらん」
五井先生の淡々としたお話をききながら、私は先生の底知れぬ深さ、計り知れぬ
までに仲びる高さを思って、何か涙するのであった。
(註)昭和五十五年六月現在、先生は六十三才
脚
対人関係のどんな小さな心の動きにも、凡人のように気をもまれ、生き死にに関
する時、あるいは天下の大事とか、それが大きければ大きいほど、心落ちついて、
鼻歌も出るほど心に余裕があるのが五井先生。
「ということは、要するに神さまを信じることが、全く深いということだな」と
は先生の自評。
㎜
大分前のことだが、道場に年とった腕に入墨をしたヤクザ風の男がやって来た。
千葉の奥から東京へ仕事さがしに行くのだそうだが、金がなくて、のまず食わず
で千葉から歩いて来たのだそうだ。ひょっと見ると、白光真宏会という看板が出て
いたので、ふらふらと道場に入って来てしまったというのである。
五井先生はどう思われたのか、このヤクザな男に、「これでごはんをたべ、電車
で東京へ行きなさい」と千円程手渡された。
一三七
=二八
男はヤクザ風に両手をついて、
「ありがとうござんす。今までこんな親切な扱いを受けたことはございません。
私はこれからどんな仕事でもやって、この御恩はお返えしします。実は私は、泥棒
か強盗でもしようなんて思っていたんです。申訳けありません。これからまじめに
働きますから、どうかごかんべんなすって下さい」
男はきたない手拭で顔をふいていた。
「まじめに働きなさいよ。またいらっしゃい」
男はよろこんで帰っていった。男が一人犯罪を犯さないで済んだ。例えお貸し候
えでも、そのお金のおかげで、誰かが恐い想いや不幸な目にあわなくて済んだし、
又男が罪を重ねずに済んだわけである。
お金は使う人によって、方法によって、人間を殺しもし、生かしもする。常に人
を生かす為に、自分を生かす為にお金は使いたいものだ。
その後その男は二度ぐらい来たが、それからどうなったか、流れ者の様子だった
から、きっと、どこかで酒を飲みながらも、働いていることだろう。あるいはもう
昇天してしまったか。
いずれにしろ、彼の心に差しこんだ五井先生のお光は、彼の心の中に永遠に輝
き、彼が暗闇の中に落ちこんだとしても、彼を必ず光明の中に引きあげてくれるだ
ろう。
脚
「先生、イソドとパキスタソのヒソズー教徒と回教徒との憎しみというのは、根
深くてひどいものらしいですね。宗教が違うからといって殺しちゃうんですからね
え」
二二九
一四〇
「狂信というのはひどいものだね。幸い日本じゃそんなことはないけれどね。宗
教家である私がいうのはおかしいようだけれど、宗教が一番いけないね。オレがオ
レがの宗教がこの世界に争いの種をつくっているようなものだよ。金星の長老が、
今迄の宗教を一掃しなければ、地球人類は救われない、といってたけれど、私も同
感だよ。
いったい自分の宗教で人類が救えると思っているのかね。実際にどうやるんだ、
と私はききたい。どうやって救うのか、その方法をお目にかけてくれ、といいた
いね。
アメリカとソビエトが多少の歩み寄りを見せたといったって、アメリカはアメリ
カの利益のため、ソビエトはソビエトの利益のためにのみ動いているんだからね。
小さい国は小さい国で、自分の国の国威をあげようと、コチョコチョ物ほしそうに
動いている。今のままでは人類は救われない、と有識者は思っているんじゃない
の。それで、自分たちじゃどうしようもないから、せめて生きている間だけでもど
うにかしよう、とぐらい思っているんじゃないかな。こういう時代に、ただ教えを
説くだけで、ただ祈るだけで、いったいどうなるのか、これは一般人の等しい疑問
なんだ。その疑問にはっきり答え得る道が現われなければ、現在の宗教は佃々人は
救い得ても、人類そのものを救うわけにはいかない。人類すべてを救う方法が出な
ければ、この世において、個人の実際の救われもないことになる。ところがうちで
は宇宙子科学という答があるんだからね」
「そうした指導者層の一部の人たちの考えと、一般大衆との間のへだたりという
ものは、随分大きいんじゃないんでしょうか。大衆は人類の将来なんて、そんなに
深刻に考えていませんし、目の前の自分たちの生活とか幸福とかいったものでいっ
一四一
一四二
ぱいで、一時的に思ってもすぐ忘れちゃいますからね」
「その大きな差をうめるためには、リーフレットをどんどん配って、世界平和の
祈りを知らせ、世界平和ということに、つねに関心を持たせることがまず必要なん
だよ。
だから、これからの運動は、私に会わせるとか入会するとか、という形じゃなく
て、世界平和の祈りを人々に知らせる、祈りの言葉に人々の想いを結集させる方向
に持ってゆく運動を強くすすめることだ。会に入るとか入らないとかじゃない。会
なんていう小っぼけなものは問題じゃないんだよ。世界平和を祈る運動という、人
類的運動に参加するようにすすめてゆくことだ」
脚
「この世界に、本当に神様を信じている、という人が一体何人いるでしょう? 」
と私は或る時先生にお尋ねした。つまらない質問だと自分ながら思った。
「ほんのわずかだね」
と先生はお答えになった。
私は心に何かわだかまっている時があったり、不信の想いが出ると、五井先生に
こんな質問をしたりして、心のモヤモヤを先生にぶつける時がある。その時、五井
先生は決していやな顔をされたり、バヵだなあ、しようがないな、出来てないなと
いうような顔をなさらない。或る時はニコニコお笑いになりながら、或る時はまじ
めになってお答え下さる。そのお答えの言葉は、たった一言の場合もあるし、懇切
に教えて下さる時もある。そのお答えは、実にその場その時に適切なのである。そ
の場でわからなくともあとで、ああ本当にそうだなあ、としみじみわかるお答えな
のである。
一四三
一四四
さて、質問したあと、私はなおごたごたといっていた時、先生が
「想いをつくし、心をつくし、誠をつくし、すべてをつくして汝の神を愛すべ
し。… … あとは誠実あるのみだよ」
とおっしゃった。このお言葉はいつまでも私の心にひびいていて消えなかった。
盟
老子講義を書いていると、スーッとする。老子道徳経として漢文でかかれてある
言葉が、本当に老子が言ったことかどうかわからないものもあるし、そういわなか
った、と思うのもあるけど、とにかく、講義を書いていると、その原文の文字の奥
にある老子の心が流れて来て、なんともいえずいい気持だねえ。心が洗われるよ。
糀
故池田首相の秘書官だった伊藤昌哉氏が
「今まで私はいろいろな宗教者に接し、本も読んだけれど、神さまのみ心をその
まま現わしているという人にお目にかかったことはなかった。それが五井先生の老
子講義を読み、阿難(釈迦とその弟子) を読み、白光誌を読んで、ああ素晴しい
な、五井先生という方は神さまの深い深い、ずっと奥の心から、しかもやさしくわ
かりやすくお説きになっている。素晴しいですね」とおっしゃった。
伊藤氏は金光教の熱心な信徒だそうだ。
鵬
お浄めをしていただいて、ありがとうございます、とお礼を申上げて、ひょっと
顔をあげると、先生は目をつぶり、私に合掌なさっていた。あわてて、また頭をさ
げて、部屋を出るとき、さようなら、とごあいさつすると、先生は先程のように、
敬塵に合掌された。なんだか、私はジーソとするものをそのとき感じた。
一四五
一四六
それから気をつけてみていると、どんなに忙しくいらっしゃっても、先生は必ず
合掌で答礼されていた。それは両手を合わす合掌もあったし、如来印を組むような
合掌もあったし、仏像のように手をあげての合掌もあったし、両手をうやうやしく
ささげるような印もなさっていた。またある時はていねいに頭をさげられているこ
ともある。
それが子供にであろうと、青年にであろうと、老婆にであろうと、みな同じなの
である。
相手を拝め、などと一言も先生はおっしゃったことがないのに、先生は私たちを
敬凄に拝んで下さるのである。
胴
「ものごとを頼むとき、こばめないような人に、ものごとを頼んではいけない」
とよくおっしゃる。だから先生は人に頼む場合、それが公けのものであれ、個人
的なものであれ、目下の者に対しても”申訳けないね” と全く辞をひくくしてお頼
みになる。
先生といわれたりすると、平気で人に命令するように頼む入がいるけれど、心す
べきことである。
漏
「用心はするにこしたことはない」
飲みおきの茶碗がテーブルの端にあると、手を動かすときに、万が一ふれてお茶
をこぼすといけないから、といって、先生は茶碗をテーブルの真中に必ずおかれ
る。
刃物がむきだしであれば、ちゃんとサヤにおさめ、危険でないところにおかれる。
一四七
一四八
雨が降りそうなお天気だと、必ず傘をお持ちになる。
「傘を持ち、ゴム靴をはいて出ていれば、雨がふったとき、家の人がよけいな心
配をしなくてすむだろう、それにぬれなくていいものね」
とある日、先生はにこにこしながらお話し下さったことがある。
胴
五井先生は個人指導のお浄めの時、統一実修会の時、気合をおかけになる。気合
について或る時こういわれた。
「気合というものは、天から流れてくるものなのです。気合をかけてやろう、な
んていったって、かけられない。流れてくるのです。こちらは何も構えていないん
ですよ。ただ私は本体と肉体の動きが一つだから、光の流れが必要に応じて、或る
いんかしわで
時は口笛となり、或る時は印になり、或る時は柏手となり、気合となるんです。
どういう時に気合が出るかというと、業の厚い層があるとき、柔かい口笛では通
かなづち
らない。そこで強い集中された光を入れるのです。氷を金槌で叩いて穴をあけるの
と同じ。その厚い一ケ所を破り、柏手より光が深く入ります。だからどんな悪い人
きし
も気合をかけられれば何も出来ない。気死してしまうでしょうね」
脚
昭和三十九年八月、新道場が完成した。新道場に「白光」と書いた幅六尺、長さ
九尺の軸がかけられているが、これをお書きになった時のこと。書き終えられ署名
されてから、
「高橋君、書き直そうか」
とおっしゃった。『光』という字がおかしくないか、とおっしゃるのだが、私に
は実に強く素晴しい『光』だと見えたので、
一四九
一五〇
「いいえ、そんなことありません。すごいです。いい字ですよ」
ふだん先生は光をもう少しひげのところを流れるようにスマートに書かれるのだ
が、それを気になさったのだろうか。私にはかえって『白』という字のほうがよく
は見えないのに先生は『光』をしきりに気にしておられ、一緒にいた村田正雄さん
に「どう? いいかね」とおっしゃつている。
「先生、大丈夫です。このくらい太くなければ広い道場には不釣合いです」「い
いですよ、素晴しいですよ」私たちは強調した。
私たちと一緒に墨のまだ乾かない御自身の書をごらんになりながら、
「私も若いね、形のことをやっぱり気にするんだね」とひとりごとのように先生
はおっしゃった。
詔
同年八月二十四日、聖ケ丘統一実修会の朝、新道場に入ると、軸がかかってい
た。一目見て実にさわやかな、清々しく、そして力強い感じがした。
その前に先生と一緒に坐って、しばらく黙って見上げていた。
「先生、いいですねえ」と申上げると、
「やっぱり、新道場に合うように書けているね。光はこれでよかったね」とおっ
しゃる。
そばに佐久間筆八さんが来られた。
「いいですね」と佐久間さんも隣りに坐りこまれた。我妻さんや勝山さんや斎藤
さんも口々に「いいですね、素晴しいです」と見上げている。先生を囲んで、何ん
だかみんなうれしそうだった。
脚
一五一
一五二
私は書家じゃないから、変な字を書こうとチャソとした字を書こうとどっちだっ
ていいんだ。只、無心に書いている。こう書こうッて、筆をどっちに曲げようなん
て思ったって駄目。自然に筆が動いたままがいいんだね。あとで見て字が生きてい
る。
変な字を書いたな、と思う時もある。ところが変じゃないんだな。調和している
んだね。それに変な字をみんながほめてくれる。だから変な宇でも、まともに書い
ても、どっちでも同じだと思っている。自然法爾に書くだけだよ。
そんなものですよ。人にほめられようとか、なんとかしようと、コチョコチョし
ないことだ。そうするとろくな生き方しか出来ない。ありのまま、裸がいい。
脚
先生は「私は子供の時、実に字は下手だったんだよ」とよくいわれる。
「『筆力雄大なれども形整わず』という評をよくお習字をしていた若い頃、貰っ
たものだ。学校じゃ書き方で甲をもらったことがなかった。乙か丙。それが今は、
書道の大家から素晴しい字だとか、立派な書で私たちもこういう書を書きたいので
すが、なかなか書けない、なんてほめられるようになった。
はじめは、うまいんだか下手なんだかわからない。自信なんてまるでなかったけ
れど、是非と頼まれて書いていた。うまく書こう、形をととのえようなんて思わな
いで、流れるまま、生命あふれるまま書いているうちに、みんながいい字だいい字
だ、とほめてくれるようになり、書の大家にもほめられて、そうかなあ、とやっと
自信がついて来たんだよ。
書の大家には、うまく書こうと思わないで、自由無凝に書いているところが『い
い』と感じるんだろうね。私もやっとこの頃、字を無心で書けるようになった」
一五三
一五四
捌
「高橋君、もし君の原稿を同僚に直されたら、その時嫌だなと思うかい?」
「ハイ思います」
「嫌だな、と思うようじゃいけないんだよ。そこを超えていかなければね」
そこで私は先生のあるお言葉を思い出した。
「自分が正しい、何も悪いことをしていない、と思っているのに叱られた場合、
例え自分が正しかろうと、叱られるからには何か自分に悪いことがあったんだな、
と思いなさい。そう受けなさい」
蹴
或る人が手紙に「無事消光しております」と書いて来た。これをごらんになった
先生は「私は”消光” という言葉は大嫌いだよ。光を消すなんて、とんでもないこ
コトバ
とです。言葉は神なりき、言葉のひびきをよく注意して、否定的な言葉や文字を使
わないようにしなさい」とおっしゃった。
鵬
庭の紅葉が音をたてて落ちていった。
「秋というのはさびしいね」と先生がおっしゃった。
「光明思想家がそんなことをいうとおかしいと思うかね。私は詩人だよ、人一倍
もののあわれ、不幸悲しみを感じる。しかしその底に常に光明をしっかりと見出し
ているんだよ」
捌
霊人というのは、言葉を用いずとも思った瞬間に全部わかってしまうのです。
「今日は」といった時、相手の心がパッとわかる。「こんにちは」と顔と顔を見合
一五五
一五六
せなくたって、相手がそこにいなくたってわかってしまうのです。
五井先生の場合もそうです。
例えば、先生の前に母親が来て坐ります。そして”うちの息子が… …” といった
時、その息子のことは、彼自身わからないことまで、先生には全部わかってしまう
のです。
夢の中のこともわかってしまいます。父親の夢をみました、というと、先生には
父親の顔までわかって”ニコニコ笑っていたでしょう。悟っていい処にいますよ”
とおっしゃいます。
何故わかるのでしょう。見た夢の波がそこにあるからだと先生はおっしゃいま
す。アメリカにいるB さんが… … というだけで、そのB さんがどういう人だかすぐ
わかってしまうのです。B さんの波がそこに来ているからなのだそうです。
“先生、こういう音楽家の演奏をききにゆくのですが
” と先生にお話すると”あ
あきれいなひびきを出しているヴァイオリニストだね。うまいよこの人は。私はも
う聞いちゃったよ” と先生はいわれます。先生はその演奏者の平均した音楽をきか
れるのだそうです。それがよいひびきであれば、その人の最高はもっと素晴しいひ
びきも出すわけであり、素晴しい音楽家だ、ということを私共もおぼろげながら知
るわけです。
ピアニストなら、タッチがしっかりしているとか、教授型の演奏だね、とか全部
わかってしまわれるらしいのです。
「本当の人間というのは、そういうものなのです。肉体が愚鈍だからわからない
だけなのですよ。ですから宇宙人は地球人類を”幼い兄弟たち” といっているでし
ょう。肉体人間はその通りなのです」とおっしゃる先生のお言葉は痛烈に私には聞
一五七
一五八
えた。
獅
五井先生は思いやりの深い人。自分はどうなってもいいから、相手の心を少しで
も傷つけまい、と常にこまかいところまで人知れず気を使われている。よそ目に見
るとまるで凡夫のように見えることもある。凡夫かと思って近づくと、凡夫ならざ
る光明をその行動に、言葉のはしはしにお現わしになる。
葺はそれを和光同塵と表現し・玄同の心境といい・「得て讐すべからず・得
いや
て賎しくすべからず。故に天下の貴となる」(老子道徳経五十六章)、といっている。
五井先生はまさにそんなお人だ。
鰯
「先生、どうしてボク勉強が出来ないんだろう? 」
「勉強が出来ないんじゃなくて、試験の点が悪いということだろう。君は一生懸
命勉強している。頭も悪くない。力があるんだよ。
ただ試験の時緊張しちゃうからいけない。答案用紙がくばられて、はじめ、とい
うときまで、おなかに手をおき、ゆっくりと世界平和の祈りを唱えなさい。試験を
おそれないで勇気をもってやりなさい」
ポンと少年の肩を先生は叩かれた。
「一つのことが本当に理解出来、解答出来るまで、先に進まないこと。数学の場
合などはとくにそうだよ。そうすると、次の問題もよくわかってくる」
これは別な少年にお話なさっていた言葉。
餅
とても強情できつい姑がいた。嫁さんはとてもつらくて、長い間泣いていた。或
一五九
一六〇
る時高血圧で、姑はパヅタリと倒れてしまった。
嫁さんは「ヤレヤレ」とホッとした。が一日たつと、嫁さんの期待に反して、姑
は元気になった。そこで、嫁さんは今度ガッカリしてしまった。
その嫁さんが五井先生の前に出て、
「これこれで、私は実のところ姑が元気になったとき、ガッカリしたのです」と
正直に訴えた。
「ガッカリしたろうね」と先生はおっしゃった。何かお説教でもされるか、と思
った嫁さんは、先生に全く心底から同情されて、その時何かハッと悟るところがあ
ったという。
それから、姑に対する態度、想い方が自然と以前とは違って来たのであった。
このことを話してくれた或る講師さんは、「五井先生は本当に、相手の人の心に
成りきってしまわれるのですね。私共だったらば初めは、そうだろうね、とか方便
的に相槌を打っといて『しかし… … 』といいたいところですよね。けれど先生はそ
うじゃなかった。本当にガッカリしたろうね、とおっしゃった。そうとしか思えな
いひびきだったそうです。
講師とか、人をお導きするような立場にある者は、本当に見習わなきゃいけな
い、としみじみ思いました」と語ってくれた。
脚
娘さんにピアノを習わせたいが、練習しなさい、と口やかましくいうのに、いう
通りにしません、とある母親が訴えると、
「地上の最高の、これ以上はいないという人と、守護霊さんの一番チャチな人と
くらべてみても、雲泥の差。くらべものにならないほど守護霊さんは素晴しいので
一六一
=ハニ
す。だから、口でいわないで、娘さんの守護霊さんに娘さんのことはまかせなさ
い」と先生は教えられていた。
脚
嫁との折合いが悪く、私はもうこの世に用はない人間だ、私さえいなければ、息
子たち夫婦が幸せになるのだ、と考えてしまった老婆は死を決意した。
しかし、その前にまずお世話になったお礼を五井先生に申して、お別れをしたい
と思って、なけなしのふところをはたいて、お菓子を買って道場へ行った。そして
先生の前に出た。
「これはどういうつもりだい? 」
お菓子をさし出した老婆の顔をじっと先生は見つめた。老婆はギクリとした。
「私にたべてほしいから買って来たいのかい?」心の奥まで見通すような目だっ
た。
「ハイそうでございます」
と老婆が答えると、先生は、
「そうかい、じゃ喜んでいただくよ」
と受け取られた。
道場を出た老婆の、走る列車から飛びおりて、自殺しようと思っていた心は変ら
なかった。
電車でもいけるところを、電車では扉を手で開けることが出来ないので、汽車に
わざわざのった。ところが飛び降りょうとすると、汽車はノロノロ走っているの
で、飛びおりても死ねそうもなかったり線路工夫の人がいたりで、とうとう飛び降
りることも出来ず、切符をかった目的地まで着いてしまった。
一六三
一六四
着いてしまってから、ああ五井先生がお見通しになって、私を自殺させないよう
にさせて下さるんだな、と老婆は思った。そして、
「先生、早く向うへやらせて下さい」とよく先生に自分はお願いしたが、
「今は死ねないよ、死んだらかえって向うへ行ってとても苦しむ。業があるうち
は向うへやらないよ。この肉体世界にいる問に、全くきれいに魂をきよめておくこ
とだ」
といつもおっしゃっていた先生のお言葉を思い出し、老婆は五井先生の慈愛に感
謝したのであった。老婆が自殺を思い止まったことは勿論である。
獅
その娘さんは霊波動そのもののような人だった。肉体的には弱かった。その人が
結婚した。土台、結婚生活が送れることが不思議だった。無理な体だった。
結婚して二年たっただろうか。先生が「子供はまだ? 」ときかれた。子供なんて
とんでもない、とその婿の母親は思った。先生は何をおっしゃるのだろうと思っ
た。それから二、三ケ月たって、また「子供はまだ?」と先生はおききになられた。
「ハイまだです」とご返事差上げると、「ではこのこに子供をさずけましょう」と
先生は、そのお嫁さんの写真の上に丸を二三回かいて、気合をかけられた。
そして三日後、お嫁さんは妊娠したのであった。これにはあらためて母親は驚い
た。
そればかりではなかった。子供が出来たといっても、医者に産めるような体では
ないといわれたのであった。それが写真を通してお浄めをして頂いているうちに、
これなら正常にお産出来ます、と医者にタイコ判を押されるぐらい丈夫になり、そ
して玉のような女の子をお産したのだった。
一六五
=ハ六
蹴
シュワイツアi 博士が昇天された朝、道場への道すがら先生はおっしゃった。
「実際に行なえるということは立派なことだよ、それだけ徹底していることだか
らね。
蚊一匹も殺さなかった博士だから、ベトナムの北爆を反対しただろうね。どんな
理由があるにせよ、人間の生命を奪うこと自体がいけないことなのだよ。アメリカ
を憎むから共産主義を憎むからというのではない。真理に反するからだ。
それなのに生命尊重を説き、生命礼拝を実践させている宗教家が、北爆を賛成す
るようなことを書いたりすることは納得出来ない。シュワイッアーは天使だった
ね」
蹴
昭和四十年九月五日茨城県岩間町の合気道の奥ノ院合気神社の大祭に私は参列し
た。植芝盛平先生はご高齢で、最近どうも体の調子がよくならない、とおっしゃり、
長いこときちんと座っていらっしゃるのがお苦しそうだった。がいざ合気を行なわ
れる時になると、別人のようだった。
四、五段の若い猛者連がかかっていっても簡単に押えられてしまう。小指一本で
相手は動けないのである。「相手が弱いんじゃないよ、私が強いからでもない、宇
宙が強いんじゃよ。智慧も力もすべて宇宙に豊満している。なぜ宇宙を自分のもの
にしないのかの」といわれる。
帰って来て、五井先生にご報告すると、
「さすがだねえ、植芝先生の体がもう合気道そのままなんだよ。あのような方は
もう二度と現われないだろう。大事な方だ。だから体にお気をつけられて、長生き
一六七
=ハ八
をして頂きたいんだよ。
アメノムラクモクキ
なぜ若い者が指一本でも動けないのかというと、植芝先生が天叢雲九鬼さむはら
竜王という大きな神さまになってしまっているからだよ。ちっぽけな肉体人間には
どうしようもないわけだ。
私の柏手も気合も口笛もそうした原理と同じことなんだ。だから私には植芝先生
のことがよくわかるんだよ。私が一番わかっているんじゃないかな」
鵬
インドとパキスタソの戦争がはじまった。宇宙子科学研究会の始まる前のひとと
き、メンバーの方と先生は話し合っておられた。
「決局、国と国とが分かれている以上、お互いの国の利害得失が生じるから、ど
うしても争いが生じる。国と国との争いになると、人を殺すことなど平気になって
くる。業だ。国というものをなくし、一つの州のようになって、それぞれの州から
代表として神智をもった覚者が出て、そして神智、神愛を持った神権政治を行なっ
ていくようにならなければこの世界はだめだね。
軍備があれば、どうしても戦争になる。日本にもしインドや韓国のような軍備が
あれば、もっと以前に、竹島問題などで、韓国と戦火を交じえたかもしれない。日
本は今のような自衛隊でいいですよ。日本は軍備をしてはいけない」
「今の若い人の中には、戦争はカッコいいなんていっているのがいますが、先
生あれは困りますね。戦争の悲しさを本当に知らない」
「そうだね、兵隊の行進を児たり、堂々たる軍艦の艦隊をみたりすると、何か勇
ましいような、力があるような気持になるでしょ。それがくせものなんだよ。そう
いう気持が軍備増強になり、戦争を肯定をするような方向に国を持っていってしま
一六九
一七〇
うんだ」
「インドの武器もパキスタソの武器もアメリカやソ連などの武器なんですね」
「アメリカは北ベトナムや中共がベトコンに武器を送っている、と非難している
けれど、インドやパキスタンじゃアメリカ自身が武器を送っているんだからね。勝
手なものだよ」
「戦争中、あれだけ日本人は一つのことに結集しましたけれど… … 」
「戦争に結集するんじゃなく、平和に結集するんですよ。それを日本がやるべき
なんです。一億の国民が平和に結集してごらんなさい。すごい力になります。真の
平和国家として世界を平和に導くことが出来るのです。しかし、日本でも再軍備を
強調する人もいるし、戦争を肯定するような人もいる。だからせめて宗教家、神、
仏を信ずる者だけでも平和のもとに一つにならなければいけない」
謝
故シュワイツァー博士のおそばにいた高橋博士と夫人が、帰朝して、テレビのイ
ソタービューにこう答えられていた。
「博士はとてもユーモアーのある方でした。そして大の写真嫌いの方でした。側
近のものが写真をとろうとすると、お前はまだ私の顔をおぼえられないのか。写真
をとっていくらお金をくれるのか、とおっしゃるのですよ。それからお写真をとる
時、直立不動でコチコチの姿勢になっておしまいになるんです… … 」
このお話を五井先生にしたら、
「それは面白いね。そういう人間臭さというか、間のぬけたようなところもなか
ったら、その人は本当に偉い人とはいえないよ。人間ぬけたようなところ、面白い
ところがなければダメなのじゃないかな」とおっしゃった。
一七一
一七二
獅
新聞の印刷が悪かった、不鮮明だった場合、それは印刷屋が悪いんだ、オレには
責任がないと思うだろうが、そういう考え方は改めたほうがいい。たとえ印刷屋さ
んのミスであろうと、読むほうはそんなことは考えない。鮮明でいい新聞がほしい
のだ。だから私はいつも、出来上った以上誰の責任でもない、作ったもの売る者の
側、つまりこちら側の責任なのだ、というように考えている。
脇
或る人が怪我をしたけれど、幸い大した傷でなくすんだ、という話からー
「守護霊、守護神に素直に感謝していれば必ず危いところはさけさせてくれる
よ。私なども自然に足を一歩左によせたら、とたんに車がうしろからものすごいス
ピードで走りすぎていったからね。もしスッと何んとなく寄らなかったら、はねら
れていたでしょ」
「守護霊さんの声がきこえて、こうしろといわれたほうがたしかじゃないか… …
と思う人がいると思うのですが… … 」
「いや、守護霊の声が耳にきこえるということは、いいように思うけれど、どう
してどうして大変なんだよ。かえって把われたり束縛されるようになるからね、余
程の勇気をもった人でないとむずかしい。
それよりも、素直に守護霊さん守護神さんありがとうございます、と思っている
ほうがよいのです。そうすると自然にスースーと危いところをよけてくれるし、大
難を小難にすませてくれる。たとえ交通事故に会って死んだとしても、大難が小難
ですんだんだよ。目に見えない霊界での苦行がそれで代行されて、楽に霊界で働け
る、ということもあるのだ。だから、どんな場合にあっても、大難を小難ですませ
一七三
一七四
てくれている守護霊さん守護神さんから想いをはなしてはいけません」
蹴
「或る朝ね、体が痛かったんで、そこに手をあてよう、と肉体の頭でためしに思
ってみたんだ。そうしたら一つも手が動かない。そんな想いをツと消したら、いつ
の間にか手が動いて、痛いところに手が行っているんだ。また或る朝、どうなるか
な、と試しにこの頭で起きようと思ったんだよ。そしたら体が動かない。そういう
想いを消したら、体がサッサと動いて起きたよ。人間はこの頭で考え、この体を動
かしていると思っているけれど、そうじゃないということの証拠だね」
「ヘエー、先生の体って面白いんですね」
鵬
五井先生が天候のことで文句をいわれたのをきいたことは一度もない。晴れたら
晴れたで有難い。曇ったら曇ったで有難い、雨がふったらふったで有難いである。
先生は普通でいえばどんな嫌なことが来ても「何も思わない」とおっしゃる。「有
難いとも思わないけれど、来るものは来るとさえも思わない。来たものはみんな受
けている。逃げようなんか一つも思わない」これが「宗教の極意なんだよ」と教え
て下さった。
鵬
或る日お婆さんが小学生の男の子を連れて来て、先生にこう訴えた。
「先生、うちの孫は勉強がきらいで困るのです」
すると少年は目をクリクリさせながら、
「ねえ、誰だって勉強きらいだよね」
と来た。これには先生も一寸困った。
一七五
一七六
「うん、それは先生も小学生の頃は勉強は好きではなかったよ。だからボクの気
持はよくわかる。けれど、きらいなところをのりこえてゆく、ということが大事な
んだよ。勉強しなきゃ大人になって損をしちゃうもんな。ボク、立派になろう。だ
から勉強しようよ」
「うん、先生、じゃ勉強するよ」
五井先生個人指導の或る日の一こまである。
㎜
或る人の所へ夜中の二時頃、突然「息子が家出しようとしています。どうしたら
いいでしょう」と電話がかかってきた。本部道場と間違えて電話したらしい。よほ
どあわてていたらしい。人のことは考えられなかったのだろう。オロオロ声だった
という。
それから二、三日たって、或る人と五井先生との間に次のような会話が交わされ
た。
「あなたのところに夜中の二時に電話があったそうですねえ。びっくりしたでし
ょう」
「ええもう、先生、それから私どもはねむれませんでした」
「そりゃアあなたも大変でしたねえ。しかし、午前二時に電話をかけてくるなん
て、その人にとっては、一大事で、必死だったんでしょうねえ… … 」
この先生の言葉をきいた或る人は感心してしまった。何故かというと、その或る
人は以前よその宗教に入っていたのだが、その教祖といわれる人は、そんな夜中の
電話のようなことがあると、信者でもなんでもボロクソに悪口をいって怒るのだそ
うだ。ところが五井先生は怒るどころか、両方の心情をくんで、両方に同情して下
一七七
一七八
さった、やっぱり五井先生は違うなア、というわけであった。
鋤
「個人指導をしていて、相手の状態によって、神のみ心をじかにその人に伝える
ことができないことがある。そのままに放置しておいては、その人と神のみ心との
間に隙間ができてしまうから、その隙間を私が代って埋めているのですよ。私には
現在ばかりでなく、未来永遠にかけて責任があるのです。私はそう感じている」
と五井先生がおっしゃったことがある。全く先生は自分のいわれたこと、行なわ
れたことに全責任を感じておられる。かんたんそうに「大丈夫だよ」と、先生はお
っしゃっているようだけれど、そのお言葉の裏には、今いったような大きな愛が光
っているのである。重さがあるのである。
蹴
竜王文庫の月刊誌「至上我の光」に故三浦関造師の筆になる”黎明の聖女” と題
した天理教教祖の伝記が連載されていた。その中の「念仏」という項を読んでいら
っしゃった五井先生が、ふとおっしゃった。
「天理教教祖も真宗だったんだね、私も子供の頃から母親の念仏をきかされてい
ましたよ。青年の頃になって、私も一緒に統一していましたが、ナムアミダブツ、
あなかしこ、あなかしこ、をききながら育てられたようなものです。
念仏の生き方は、素直に善い人間を多く作っていますね。中山みきさんは仏壇の
奥にひかれたらしいけれど、私は青空の中にいつもひかれていた。広く澄みきった
青空をいつでもみていた」
鵬
「守護霊さんの名前をどうしていわないのか、ということの理由の一つに、この
一七九
一八〇
間先生はその日その時によって守護霊さんが違っているのだ、いつもAならAとい
う名の守護霊さんばかりが指導するのではなく、Bという名の霊人やC という名の
霊人があらわれて指導するからだとおっしゃってましたが、その場合の守護霊さん
というのは副守護霊のことでしょうか?」
「そう副守護霊のことです。正守護霊は変ることはありません。副守護霊さんは
最低二人はいるのです。そして守護神の指令のもとに、交互に仕事のことについて
いつも導いてくれたり、救ってくれたりしているのです。副守護霊はふえることが
ありますよ。私があなたによいことがありますよ、とか新しい仕事が出て来ます
よ、という場合、副守護霊さんが新しく加わったことを見ている場合もあるので
す。
守護霊守護神の苦心たるやそれは筆舌につくせません。私は霊覚になってわかっ
たのです。それでまず一番はじめに守護霊守護神さんに感謝しなさい、と教えたの
です」
「誰にでも副守護霊さんが最低二人はついていらっしゃるということは、誰にで
も才能があるということがいえますね」
「そうだよ、誰にでもある、業でかくしてしまっているから、無いと思っている
だけなのです」
「才能といいますと、すぐ芸術的な才能とか仕事の面での才能とかいうようにと
られがちですが、思いやりがある、優しい心がある、というのも才能ですね」
「そうだとも、素直という才能もあるし、明朗という才能もある。みんなそれぞ
れ神さまから与えられているのです。それを発揮するには、守護霊さん守護神さん
ありがとうございます、天命が完うされますように、と一心に祈ること。そうする
一八一
一八二
と、かくれたものがいつの間にか現われてくるのです」
謝
「キリスト教では聖霊を汚す罪の他はみなゆるされる、というのですが、赦され
ない罪というのがあるのでしょうか」
或る日五井先生に質問すると、
※ せんだい
「ゆるされない罪というのはありません。仏教でも一關提というのがありますけ
れど、ただゆるされるのに時間が長くかかるということですよ。すべての罪はゆる
されます。ただ想いの中で一番とれにくいのは恨みの想いです」
とお答えになった。※到底成仏する望みのない者
「恨むということだけで、その人は苦界におちているのでしょうけれど、その人
はその恨むということがいけない、自分が損するということがわからないのでしょ
うカ?.」
「恨むほうは恨むだけの正当と思える理由があるのですよ、だから自分は正しい
ひどう
のに、あいつはなんて非道なことをしたのだ、と恨み骨髄に達しているから、気づ
いちず
かない。とにかく一途に恨んでいるんですよ。だからね、どんなことがあっても人
の
を決して恨んではいけません。恨まれるようなことをされたとしたら、それは過去
世の因縁がぶつかって消えていったのだ、と思って祈りにきりかえることです。
恨みの想いは自分を長い間地獄にしばりつけると同時に、人をも苦界におとして
非常に苦しめます」
鋤
宇宙子波動生命物理学研究会でのこと。研究メソバーがこまかい数字で図面に数
式を書き入れている。先生はメンバーの書きぶりを監督するように見廻っておられ
一八三
一八四
た。
「皆さんは気づかないかもしれないけれど光が一杯うずまいている」とおっしゃ
りながら、手をお浄めなさる時のようにいろいろと動かされていた。とあるメンパ
ーの前に立たれ、ヒユッと指を降された。「ここは間違っているよ」とおっしゃる。
「えッ」とよく見るとたしかに間違っている。近眼の先生が細かく書き並べられた
数式のその一部のあやまりが、パッとどうしてわかるのか。「波動がそこだけ乱れ
ているのですよ。だから肉の眼を用いなくともすぐわかるわけだ」とおっしゃつ
た。研究会ではよくこんなことがある。
謝
或る若き実業家が先生を訪ねて、こう質問した。
「只今、私の事業はピソチにあります。こういう時、私はどう心がければよい
か、お教え下さい」
「自分の運命を信じることです。自分の事業は天命なのだ、自分の天命が完うさ
れるまでは絶対に神さまはつぶすことはない、大丈夫だ、と思うことです」
と五井先生はお答えになった。
あとでその実業家は「ああよかった。私は先生のお言葉で勇気が出ましたよ」と
私に語って下さった。
「実は私も、あなたにおっしゃったようなことを先生にいわれました。私が病気
で生か死かという時でした。『人間は天命がある以上は絶対に死なない。君は、わ
が天命が完うされますように、と祈りなさい』っていわれたのです」と私の体験談
をチョッピリした。
「ウーム高橋さんも。… … ああ今日はよかった、うれしかった」と若き実業家は
一八五
一八六
心からそういって帰えっていかれた。
蹴
或る若い実業家が先生に質問した。
「どうしてもお金を借りにいかなければならない時、どういう心で行ったらいい
でしょうか? 」
「これから借りにいく人の天命が完うされますように、と祈りながら、真裸にな
ってその人にぶつかってゆくことです」
先生はそうお答えになっておられた。
調
作家であり、断食の研究家である青木春三氏が、五井先生のところに、断食のこ
とについて取材に来られた時の話。
「私のはふつうの断食とは違うと思いますよ。守護神にさせられたという形です
から
から。本体は天の方に行ってしまっていて、肉体は空っぽだったのです。だからそ
の間ひもじいとも何とも思わない。雨が降ったらぬれたまま、風が吹いたら吹かれ
たまま。そして病気治しやお話をしに歩いていたのです。その間どの位の期間だっ
たか、いつ頃から始まっていつ頃終ったのか、月日のことはわかりません。まだ結
婚しない前、家内からおまんじゅうを一つもらって食べたのがきっかけで、ふつう
にもどったと記憶しています。その間、守護神たちがきれいに肉体を浄めて掃除し
たのですね」と五井先生は語っておられた。
青木さんが帰えられてから、
「想念停止の修業もその断食の期間中でしたか? 」とおききすると「そうだよ」
と答えられた。
一八七
一八八
「奥様からおまんじゅうを頂いてたべた、大体、その頃に先生の霊修業は終った
のですね」
「マアそういえるかもしれないネ。ともかくハヅキリしないよ。何年何月から何
月までなんてわからない。そんなことはどうでもよかったんだ」
「断食をされるようになったのは、中央労働学園を止められて、先生としては収
入の道かなくなったので、働かざる者は食うべからず、というようなお心からも始
まったのですか」
「そう思ったこともあったかもしれないけれど、天の方で、これは好都合とばか
り、たべさせないようにしたのだろうね」
「短期間のうちにいろんな霊修業を一ぺんになさったのですねえ」
「そういうことになるねえ。ハタから見ると気違いだと思われるようなこともあ
ったろうよ。家内は結婚してからも、少しおかしかったわよ、なんていっていたか
らね」
「もしですよ、そのような状態の人がいて、その人と結婚したいのだけれども、
という相談をお受けになったら、先生はどうなさいます? 」
「私は”よしなさい” と反対するね。そしてその人にそんな修行はするナ、と止
めさせるでしょう。どうしてかというと、みな途中でおかしくなってしまうからで
すよ。つづかない。だから私は霊修業することを人にすすめないのです。私の場合
はそういう天命があったからやり通せたのだし、また、はじめから純粋に、世界人
類のため、人々のために私をお使い下さい、と投げ出していたし、それだけの心だ
ったからね。だから今日まで来られたのですよ」
鵬
一八九
一九〇
N夫人からおききした話1
「十何年か前、まだこんなに五井先生がお忙しくならない時、先生が私共の家に
おいでになって下さるというので、嬉しくて皆さんにも声をかけて、何人か集まっ
て頂きました。
その時先生は、
『私は人間を改造しにこの世に来たんですよ。今に人の心が黙っていてもわかり
あい、通じあう世の中になるんです』とおっしゃるので、
『私、困っちゃいました。そうなると私みたいな者は、恥かしくてこの世にいら
れなくなっちゃいます』と申上げましたら、
『そんなことはない。徐々に徐々にみんなの心を変えていくのだから。誰か一人
が立派になって、というのでなく、みんなが揃ってそうなるんだから』とおっしゃ
いました。でも今から考えますと、大変な思い上りでしたが、人間改造とおっしゃ
っても、私はそんな必要はないんじゃないかしら、正直だし、人のことは真っ先に
して自分のことは一番後廻しにして、私は自分でもいい人だと思っているしと… …
でもいつの間にかご飯を頂く時、どんな時でも有難うございます、と感謝して頂
いている自分に気づきました。教えられて努力したというのでなしに。
そして『N さん、愛というのは与えっ放しなんですよ。少しでも報酬を求める
のは愛ではない』とまた先生はおっしゃいました。一生懸命つくしたら少しは反響
があっていい、と思っていなければ淋しかった私の想いを、大きくえぐり取って下
さり、それから余韻として少しつつ出て来ることはありましたが、だんだんすべて
に感謝している自分にさせて頂いております。気がつくと、いつの間にか変らして
頂いている。ああこれが五井先生のおっしゃる人間改造なのだ、とわかりました」
一九一
一九二
鋤
「ずっと以前に、五井先生のお供をして音楽会にまいりましたが、帰途
『先生、申訳けないんですが、私にはお祈りをした時よりも、いい音楽を聞いた
時のほうが勇気が湧いてきます。ああ明日からまた仕事しよう、と力がつくのです
が:::』
と申し上げましたら、先生は、
『神とか、祈りとかいうと、みんなシーソと静かなものだと思うけど、そうでは
ない、祈りというものは、祈っているうちに勇気が湧き出てきて、何かしなくては
いられないような気になるものです。祈りも、いい音楽も天のひびきを伝えるもの
ですからね』
とおっしゃいました。たゆみない平和の祈りをしていることによって、いつも勇
はかど
気と力が授って、短時間でたくさんの仕事が捗って、さして疲れも感じなくなるの
は、こんなところからくるのでしょうね」とN 夫人は話された。
鋤
先日、久し振りに合気道創始者、植芝盛平先生をお訪ねした。新築された二階の
たた
教室に、タテ一・六メートル、ヨコニメートル余の植芝盛平先生を称えた「神の化
身」と題する五井先生自筆の詩の額が掲げられている。その前で、
「私の真の姿を認めてくれたのは、五井先生と出口王仁三郎聖師だけだ」と植芝
先生はおっしゃり、次のように五井先生を讃美された。
「五井先生のお仕事は、実に立派なすばらしいお仕事で、地球の修理固成ばかり
でなく宇宙の修理固成をなさるお浄めです。あの人は、いや人ではない、神の化身
ですよ。五井先生は世にもまれな聖者です。世間にはお偉い方がたくさんいるけれ
一九三
一九四
ど、その方たちは人間です。いくら霊能があっても人間じゃ」
うきはし
そして「天の浮橋にたたなければ何事もなし得ない」ともいわれた。帰って来
て、五井先生に、天の浮橋に立つとはどういう意味かお尋ねすると「タテ、ヨコ十
字交差の真中に立つ、ということですよ」とおっしゃったが、よくわからないでい
ると「この言葉はピッタリあてはまらないのだけれど、無限次元の中心というとこ
ろかな」とつけ加えられた。
その五井先生のお言葉で、神人合一というもんじゃない、つまりもっと奥深いも
のだ、と植芝先生がおっしゃっていたのを思い出した。自己のなかで、天と地とが
ピッタリと一つになり、天ばかりに片寄らず、地にもとらわれず、その真中に立命
しなければ… … ということか、と思ったが… …
「植芝先生はそれを合気道において現わし、私は日常生活のなかで現わしている
わけです」
くよノ
と五井先生は解説して下さった。拝聴しながら、人間は空になって初めて、人と
しての第一歩を歩みはじめるのだ、という五井先生のお言葉を改めて思い出してい
た。
調
講師の会合の席で、一人の青年が先生に質問した。すると先生は
「あの子をみると私は涙が出るよ、あの子はいい子だねえーあの子のおじいさ
んかな、背後でこの子をよろしくお願いします、一所懸命やりますから、と私に頼
んでいるのですよ」
とおっしゃって、眼鏡をはずし、じっと目をつむって、泣かれていた。いくらか
紅潮したお顔を真白いハンカチで拭われて、やがて「私がいつまでも泣いていたん
一九五
一九六
じゃしようがないね、だけどあの子を見ると私は涙が出てくる」
青年は坐して前かがみのまま、大粒の涙をポトポト落しながら抑えきれずむせび
泣いていた。
若い弟子を愛する真情が先生の体中にあふれていて、感動せずにはいられなかっ
た。
「あなた方の守護霊が背後から、うちの子をお願いします、といつも私に頼んで
いる。その愛念にうたれて、私は泣いてしまう」と五井先生はおっしゃっていた。
一旦、神の座につかれた時の先生は、近寄り難い峻厳さも感じるけれど、ふだん
の先生からは、春風がいつも吹いてくる。
誰よりも頭が低く、ユーモアがあり、ジョークをいつもとばし、やさしく思いや
り深く細かいことに気をつかわれる。そしてつねに青空のようにスカッと明るく、
水の流れのようにサラサラサラと把われがない。先生のいらっしゃるところに、い
つも笑い声が絶えない。
五井先生にお目にかかった人は一様に魅了される。どこがどんなで好きなのか、
といわれても、サテそれをいい現わすことができない。先生がいらっしゃるだけで
みな十分満足なのである。五井先生の言葉も、行為もすべて愛が根底になっている
からだろう。
けれんみ、見せかけなど更にない。ザックバラソでいつも裸の心で、体ごと心ご
と、全部をぶつけていられる。
政界、財界、その他その道に秀いでた人に会われても別にお説教はなさらない。
相手の話をよくきかれる。そして、その人に一番必要なことだけをピタリと言葉す
くなくおっしゃる。それが相手の方の胸にしみていくのだろう。
一九七
一九八
ある人がこういうことをいっていた。「五井先生はお説教をしないで世間話など
なさっているけれど、私たちは自然に、いつの間にかその暖かみに包みこまれてい
る」
鵬
「五井昌久という個人はいない。ただ天命のみがここに存在するんですよ」とあ
る時おっしゃった。
謝
ほうぼくししげせん
抱朴子という、今から一五〇〇年ぐらい前に屍化仙(肉体を地上に残さず昇天し
た聖者) となって天に帰った中国の神仙がいる。
或る日「こういう本があります」と荘子と抱朴子の本をお見せすると、本を開け
られないうちに、五井先生は抱朴子をさして「ああすばらしい人だね、老子級の神
霊ですよ。いい感じ。魂の芳香がただよってくるね。香、ときくと香のかおりがし
てくると同じように抱朴子という名をきいただけで、魂のいい香りがしてくる。偉
い人がいるものだね。抱朴子は大聖、それにくらべると荘子は神でなく人間という
感じ。これはこの抱朴子という本を読むことは楽しみだ」とおっしゃった。
先生がああ偉い人、と掛値なしにほめる人は、人間ではなく、神そのものの人の
場合と、理屈はしらないけれど、神のみ心、仏のみ心を日常生活自然に現わしてい
る、妙好人のような人の場合だけである。私たちも、名前をきいただけで、ああい
い人だ、いいひびきが伝わってくる、という人になりたいものだ。
鋤
錬成会の席上で、私の父はどうなっていましょうか、ときいた人がいた。
「あなたのお父さんはやさしい人、迷っていません。けれど近いうちにあなたの
一九九
二〇〇
親類に女の子として生れかわりますよ」と五井先生は即座に答えられた。
すると他の人が「私には何かついていますか」とまじめになってきいてきた。
「何も迷っている人はついていません。一段階上りたいためにきている魂はいま
す。三十才ぐらいの色の白い、暖い心の女性がいますよ」
「アッ、それは私の女房です。今から三十年前に亡くなりました。ああそうです
か、ありがとうございます」
「私の亡くなった夫はどうでしょうか」
「いい人ですねえ。大変よろこんでいますよ。やはり一段階上にのぼるためにき
ていました」
五井先生は即答されてゆく。こうしたことは誰もききたいものであるのか、同じ
ような質問がつづく。
「私の父はどうでしょうか」
「あなたのお父さんはきれいな魂の人で、この地球にはいませんね。別の世界に
います、といって迷っているのではありませんよ、ご安心なさい」
五井先生はことさら瞑目したり、統一したりはされない。ふだんのまま、そのま
ま霊界のことをあたり前のことのように話されてゆく。その一言一言に安心したり
喜んだりしている人たち。五井先生を囲んで一家のような和やかさであった。
二〇一
二〇二
あとがき
によぜがもん
「如是我聞」もこれで三冊目となった。1 と五に分けたのは、どうしても年月を感じさ
せるものがあったからである。しかし内容は既刊のものと同じように、五井先生より私が
お聞きしたものである。どちらかというと、既刊本には語録的なものを収録し、このたび
の本には、今迄収録し得なかった対話を多く収めた。
人生の達人の言葉は、当り前なことをいったとしても、そこにその人の全人格の裏打ち
があるから、聞く者の耳には全く違ってひびいてくる。ちようど同じピアノ曲でも、一流
のピアニストの演奏と素人のそれとの違いを聞くようなものである。
当り前のことが当り前に出来て、はじめてその人は本ものとなる。私たちはまだそれが
出来ないので、なるべく近く、なるべく時間多く本もの人間のぞぽにいたいと思うのであ
る。強力なる磁石と共に置いておけば、曲ったピンであろうと、錆びた釘であろうと、み
な磁石になる。
そういうこともあって、宗教といわず、道を求める者は、まずよき師匠をさがすのを第
一番にしている。よき師匠とは、真の勇気をつけてくれる人、永遠なる平安を与えてくれ
る人、真実の愛と光明心を育てあげてくれる人である。
この「如是我聞」を読み返えすたびに、私は浄福感に満たされ、心の高なりをおぼえる
のである。それはよき師匠にめぐりあえたよろこびであり、素晴しい教えにふれて、日々
行じられる感謝である。
五井先生についてもっとくわしくお知りになりたい方は、自叙伝「天と地をつなぐ者」
と「神と人間」を読まれるようおすすめする。お読みになれば、今、私が述べたことが真
実であることがおわかりになる筈である。
ともかく、この本を通してよりよく生きて下さるよう希望してやまない。そしてこの本
が皆さんのよき友となり、よき指針となる本であると信じて疑わない。
二〇三
二〇四
昭和五十五年六月
高橋英雄
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