いのち
生命光り輝け
五井昌久講話集1
白光真宏会出版局
内き炉黛~
蓼
著者(昭和44年頃)
ぜ磐手和霧9
豪璽噸有董λ
日本グ桑勲デ言9身ようら
窪ア永璽書め憂鳥
々遷。密夢り.召きぎΩ三「
ぐ穫諭篇ガ・響気》、ρ苓
髪6嫁翫
刊行のことば
宗教信仰においては聞くということは大事なことである。録音テープにおさ
めた二十数年前の五井先生のお話を聞き直して、お話が今でもいきいきとして
心にせまってきて、魂の高まるのをおぼえる。ただ録音技術未熟のために、テ
ープとして再生し、皆さんにご紹介することは不可能である。そこで、テープ
より文字におこし、文章として、それもなるべく話し言葉に忠実に再録して、
ご紹介することにしたのが、この講話集である。
このお話によって、読者の皆さんが安心立命し、明るく把われない心で、こ
の人生を生きいきと生きて頂けるよう切望して止まない。
目次
本当の幸福5
真の救いを体得する23
人間は業生ではない41
神界のお浄めと人間界53
日本の使命69
生命よ光り輝け75
2
目次
不幸は乗り越えられる85
真の芸術精神は宗教精神と一つである
日本を世界の光にしよう鵬
くミノ
今を生きるが空なりm
誰でも仏になれる協
般若心経の根本塀
質疑応答旧
あとがき慨
104
装偵有沢豆由
3
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人間と真実の生き方
わけみたまごうしようしゆこれいしゆごじん
人間は本来、神の分霊であって、業生ではなく、つねに守護霊、守護神によって
守られているものである。
かこせ
この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念が、
その運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去るのである
という強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難のなか
ゆるゆるまことゆる
にあっても、自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦しの言行をな
しつづけてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の
祈りを祈りつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得出来るものである。
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本当の幸福
昭和29年1月14日市川五丁目会館
仏教の特長、キリスト教の特長
本当の幸福
仏教というのは、すべての人間のうちに仏がある、ということを自覚させるために、個人個
入が己れの心の内面深く突き入り、自分のうちにある仏を出して天につながってゆくという教
えであります。
自分が本当に仏になるならば、すべてはよくなる、というように教えているので、自己の完
さと
成を目的とし、自己の本体を覚らせることが主眼点となっています。5
それ故、自然に現象面の社会機構の動きとか、国家の動きへの働きかけが後廻わしになって
きています。そういった面の問題解決にあまり応えていません。かえってそれらから深く大き
かくりがらん
く隔離してしまい、伽藍にとじこもるようになってしまいました。そして形式的な修行、儀式
にとおちいって、仏教の無力化といわれるようになっています。
一方、キリスト教のほうは、自己の完成というよりも、横のつながり、社会というものに重
点をおいています。自分を犠牲にしても、社会、世界人類のために働くことが神の御為である
と、大きなるものに溶けこみ、すべてを兄弟姉妹とみて、隣人愛、大きくひろがって社会愛、
人類愛というように、横の線に能動的に働きかけていくわけです。そしてその隣人愛精神、行
動が自己を神につなぐし、神さまにもたたえられるというわけです。
そうした精神が現象面の社会施設をたくさんつくってゆき、その勢力を非常に強めているわ
けです。けれど横に行動的に走りすぎて、自己完成の面でおくれてくるのです。その自己の不
完全さが、横のつながりを次第に偽善的なものにしてゆき、形式的な教会主義になり、排他的
6
本当の幸福
宗教になってゆこうとしているわけです。個人の未完成があっては、結局世界の完全平和はも
たらされません。
今のような仏教のままではいけないし、キリスト教のみでも世界の完全平和はもたらされま
せん。それならどうすればよいのか。仏教の内部の仏を出して天につながる縦の線と、キリス
ト教の社会に働きかける隣人愛の横の線が、十字交叉するような行き方、これが本当なのです。
縦にも横にも、どちらか一方に片寄っているのは本当の行き方ではありません。
日本は元来、祖先- 子孫というように縦につながる国であり、国民です。その線が敗戦と
いう大きな事件によって揺ぎ、西洋思想の横の線がどっと流れこんで、この流れに少し流され
しんあんもく
て、日本の真面目を失いつつあるようです。しかしこれも、客観的立場からみるならば、縦と
横とを調和させようとするための過程に、今、日本はあるといえましょう。
ですから、西欧の個人から社会という横の線と、祖先とか家という、縦に貫いている線とを
調和させる、縦横の調和をまず日本人が完成させるように、勉強し努力しなければならないと7
いうのです。日本が、どちらか一方に片寄ることなき縦と横との十字交叉、十字架(完全を意
味する) の雛形にまずならなければならないのです。そうなるために、日本人は自己の完成と
共に、社会人類の平和のために生命を挺してゆくことが必要なのです。
真の平和世論をよびおこせ
アメリカの自由民主主義というのは、世論に重点をおきます。しかし完成されない個人の意
見など鳥合の衆であります。つねに揺れ動き、一貫したものがありません。
一方、ソ連は国民の世論などに耳をかさず、上からの権力をもって圧力をかける政治を行い
ますので、民衆との問が離れてしまっています。
さて日本は、といえば、今、吉田茂さんが世論がどうあろうとおかまいなしに、自分の思う
ところを行っています。日本が本当によくなるためにはどうすればよいか。それは世論と権力
とを調和させてゆく政治をとることです。
8
世論といっても、現今のものは、現象の自己の安全、利益だけを要求し、小さなことに把わ
れて、永遠を見通す眼、つまり大きな目というものを忘れています。反対を叫ぶばかりで非建
設的なものです。これでは本当によくなりません。世界人類の平和と永遠なる平和を基とした
世論が国民の間に湧いてこなければ、真の政治も行えません。永遠なる平和世論がどうすれば
湧くか、それにはどうすればよいか、というなら、やはり、人間の本体を知ることによらなけ
ればならないのです。
人間とは何か
本当の幸福
人間とは何か、人間の本体とはなんだろうか。
人間は肉体だけではない。その内部に太陽の如き光明燦然たる自由自在な生命がある。それ
ちよくれい
を私は直霊とよぶのですが、その生命を自由自在に肉体界、現象の世界に顕現し、生かしてゆ
くのが人間なのです。それを実践し得た人を覚者、ほとけというわけです。9
この自由自在な光明燦然たる生命、霊はすべての人にあります。ただあるということを知ら
ないだけなのです。それがわかるためには、まず頭脳をめぐる想念から離れるか、想念を消す
かしなければなりません。あってもなくてもよいような、よけいな想いをめぐらせないことで
す。人は今あって明日ない想念を実在と思いこみ、それに把われて、揺ぎない本体を忘れてし
まう。迷いの想念を人間だと思ってしまっています。だからぐるくまわる業(想念) を人間
だと思う時には、すでにその渦にまきこまれて出られない。輪廻する業に閉ざされて、本来の
光が出ない。見失ったようになる。ですから業はまわるならまわるままにし、人間は光そのも
の、光明燦然たる生命なのだ! とつねに想い、内なる神を呼ぶのです。
私の神さまでもよいし、禅のある坊さんのように「主人公、主人公」と呼んでもよい。とも
かく内なる神さまを想い、現われた業はこれで消えてゆくのだ、現われれば必ず消えるのだ、
と消し、自分は光明燦然たる光そのものなのだ、と念じつづけることです。まわる業想念を、
こんなものは自分ではない、消えてゆくものなのだ、と否定すること。これが宗教の根本なの10
です。
しんらんざいあくじんちゆうだんお
親贈上人はこの身は罪悪深重の凡夫、情けないものだから、と一度否定し、消しつづけ、そ
して否定し得ないもの、消えないもの、即ち内に居たもう仏さま神さまだけだと肯定する。そ
して内なる仏さまにすべてをまかせてしまう、帰命してしまう。そうすれば肉体にある自分と
仏さまと一つのものになってゆく。そこまでくると行いも自然に仏さまのようになってゆく。
ということになるわけです。これが一向専心南無阿弥陀仏なのである、といっているのです。
キリスト教は、神は汝の内にあり! と教え、自分の内の正しさ、良心を求めてゆく、そし
て日々をイエス・キリストにすがりつつ善い行い、愛行をしてゆくわけです。
自分を責めない神に真直ぐにつながる道
本当の幸福
生長の家のように、最初に人間の実相は完全円満である、肉体なし、物質なし、業なし、悪
なし、といいきっておいて、現象としては心の法則といって、あなたの心が悪いからこのよう11
な病気や不幸が出来たのだ、とその人の行いを責める。これは非常な矛盾です。業も、肉体も、
ヘヘヘへ
物質もたしかにある。やがて消えてゆくものだがある。これをなしとし、ただ神のみとすると
はんもん
現世の生活において、ギャップが生じ、結局煩悶し、自分を責めるようになってしまいます。
実相完全円満、というのは素晴しい教えなのだから、それならそれで、心の法則などのよう
に、善も悪も心のままに現われるなどと教えてはいけません。凡夫はともすれば人を責めたい
ものなのだから、やさしい心の法則のほうをとって、自分を責め、人を責める道具にしてしま
う。危いことです。自分を責め、人を責めては結局、いつまでたっても誰も救えません。
私の教えは、湧いてくる業をこらえさせたり、我慢させたりはしないのです。こらえたり、
我慢させたりしてしまいますと、かえって業を積み重ねて、はねかえす力を大きくしてしまい
りんね
ます。それより輪廻する業はそのまま現わせしめて消すことです。業は現われれば必ず消える
のです。”出て来た業は消えてゆく、これで業が消えて浄まったのだ”と思って、守護霊、守
りんね
護神さまにつながり感謝することです。輪廻する業が自分ではないのです。すべて消えてゆく12
ものなのです。消えてゆく消えてゆくと思えるものが、ほんとうの自分なのです。
こうますみ
いかに業が荒れ狂い、気持がゆれつづけようが、つねに内に静かなる、ひそかなる真澄なる
ものがあるのです。それがほんとうの人間なのであり、神なのです。光明燦然として天地を縦
横に動き得るもの、それがほんとうの自分なのです。
霊光団の守り
本当の幸福
アメリカがいくらキリスト教国のようにいっても、ソ連が攻めてきやしないか、といつも恐
れて、原水爆や大陸間弾道弾を造ったりして武備を固めています。アメリカが武備を固めれば、
きようきよう
ソ連も同様に戦々就々として、アメリカ以上の武器を造る。するとまたアメリカがそれ以上
のを造る。またソ連が… …といたちの追駈けごっこで恐怖心はますますつのり、軍備を重ねて
ゆきます。その軍備が一応は戦争を抑えてはいますが、果していつまで抑えてゆけるものか。
力がゆるんだら、すぐやられるという不安にさいなまれつづけて、一日として国民の心の安ま
13
る日はないのであります。
そんなやり方では、永久に彼らに平和は訪れることはあり得ないでしょう。これがキリスト
教の国ですから、キリストは泣きたくなることでしょう。このような安定しない想念が、国や
佃人のうちにある限り、世界に平和のくるわけはありません。
四六時中、神を想い、守護霊、守護神につながって守られているのだ、と固く信じているな
ら、いくら相手が敵意をもって攻めて来ても、神の光がそれをはねつけてしまいます。水爆だ
って、国民全部でなくとも、少くとも十分の一の人々が神につながったら、霊光団が全国を覆
きようじん
って寄せつけませんよ。霊光の波動は非常に微妙で強靱です。それに守られ、またなり切って
いる人は、粗い、にぶい波動の災害をはねつけてしまいます。
密度の細かい霊の光を鉄に例えるなら、密度の薄く、動きのにぶい害意、災害の波は綿のよ
うなもので、綿がいくら鉄にぶつかったとしても、鉄はびくともしません。
私のところにくる人でも、こういう体験例があります。全速力で走ってきた自動車にはねら
14
本当の幸福
れそうになった瞬間、その人は”五井先生!”と思ったというんです。私を通じて光がその人
うしろ
に行ったのですね。当然ひかれる筈がほんの一寸前で、自動車が後に押返えされたように見え
て止まって助かったとか、自衛隊の人で、戦車の下敷きになって、みんながもうだめだ、と思
った人がカスリ傷も負わずに助かったという話もあります。神さまの光がその瞬間パーッと覆
って、災害をとばしてしまうわけです。
結局、この肉体は想いの波動で形成されているもの、想念の集合であり、煙のようにはかな
いものなのです。しかし、自分の内なる神は光明燦然として、何ものにも犯されることのない
実在なのです。永遠に消滅することなき光そのものなのです。ですから現われ出た業はどんな
ものであろうとすべて消えてゆく、消えてゆくと思い、ただひたすらに光明燦然たる神、直霊
を見つめること、想うことです。これが根本です。
正法に奇異なし
15
奇蹟を追う心は高い心ではありません。奇蹟など欲せずとも、自分が真実、神を求め、良心
にもとらぬ行いをしていれば、神が必要と思われる時に、自然に現われてくるものなのです。
霊能とか何か特別な力を欲してはいけません。予言がいかに的中しようと、そんなものは何
にもならない。出てくるものは出てくるし、出て来ないものは出て来ないのです。現われてく
る、自分に都合の悪い事柄に対しても、つねに揺ぎない心、恐れない心を作らせることが、本
当の宗教なのです。
奇異を求めず、素直に神に導かれることを欲するなら、まず自分の本体を出すことに懸命に
努力することです。自分の本心を現わすことと、世界人類の平和を想う、この二つの祈りをつ
ねにすることです。この二つの祈りの他に祈りはありません。そして一日、一日の行動が道に
かなうよう、自然に、平凡に、スムースに神が導いて下さるのです。
予言が当った、病気を治した、商売を繁昌させるようにした、といったって、それが偉いの
ではありません。偉いのは、気張ることもなく、いくらへりくだっても、自然にその人格、魂16
本当の幸福
から輝き出る光が人をひきつけ、人に慕われる、といった生き方にあるのです。
守謹霊さんの力
いかに妄念がおそってこようと、さわりが来ようと、また病気になろうと、守護霊さんにほ
んとうにつながっていれば、瞬間的にフッと消せるのです。ただその時、恐れてはいけない。
これで業が消えてゆくんだな、浄まってゆくんだな、と守護霊さんに感謝していることです。
病気になるのも、災害の現われるのも、これで業が消えてゆく、消えてゆくのだ、これだけ
自分が浄まったのだ、浄まるために業が出てくるのだ、どんな苦しみも、どんなつらさも、す
べて消えてゆくのだ、と思って、ひたすら守護霊さんにすがっていることです。
カルマげんしよう
悪想念の集合、業は守護霊につながることにより大分減少します。守護霊が背負って消して
くれるのです。
神さまの世界は、守護霊、守護天使の働きがなければ成立せず、現象の人間界もすでに滅亡
17
しています。そのお働きをよくよく想い、感謝することです。日本の平和を想い、人類の平和、
世界の平和を想う祈りは、守護神霊団に真直ぐつながり、それが光となって日本、世界人類を
覆い、水爆も戦争もとめるのです。そして必ず世界を平和にさせるのです。
つねに我は神と二人である、と想うことです。どんな荒涼たる原野を歩いていようと、漠々
と も
たる砂漠を旅しようとも、自分は一人ではない、神さま守護霊さんと二人である。神さまと借
にあるのだ、と想うことです。神さまにつねに守られ、生かされている自分をじっとみつめる
こと、想うことです。
りんね
輪廻し、煙のように消える業想念をつかむことなく、ただ光明のみを掴む、神さまの光のみ
を見つめつづけることです。これが光明思想であり、自分を救い、世界人類を救うことになる
のです。
18
自分を偽わることを止めよう
本当の幸福
いつわまはだか
一番の悪は自分を偽ることです。自分が五なら五の老であると、真裸の自分を現わし、そし
て更に、それですから八あるいは十になろうと思って努力していますと、ハッキリさせること
です。
親鸞上人が、善人もて救わる、まして悪人をや、といわれました。ちょっと聞くと逆のよう
ですが、この意味は、自分は善人だ善人だと思う人には反省がない、それ故、自分の本当の正
しさを掴めない。自分が悪人、罪深い者だと思っている人は、自分の悪を認識する故、一つの
教えによって飛躍的に救われるのです。
これが親鸞上人のいうところです。すなわち、自分の罪業を見きわめきって、自分の本体を
見ることに努力することが、救われるということになるのです。ことさらに自分をよくみせよ
うとか、過去のよかった自分の追想にふける者は、自分の罪業を隠して本体を掴み得ません。
またことさらに自分を悪くしたり、卑下するものは、やはり自分の本体を見失うことになり、
悪のカーテンでかくしてしまうことになります。結局どちらも偽善者偽悪者であって救われま
19
せん。それより、そんな仮面をぬぐことだ。真裸な自分を神さまの前にさらけ出すことです。
人間は生きても死んでも、目立って表に働かなくとも、自分自身が光になっていれば、自分
は知らなくても、大きな働きをしているのです。周囲の人を自然に浄めているから、人類的に
もずいぶん役立っているものです。
ことさら表立って動き出さずとも、自分がまず光になることが、人類の平和に本当に貢献す
るのです。つねに”わが天命を完うさせ給え”という祈りをしていれば、天よりの働きが自然
に出てくるのです。出てきた仕事を素直に受けて、仕事をしてゆく、そうすることが大切なの
です。
パンのみにて生くるにあらず
人間は食べられなくとも生きられるだろうか? 生きられます。人はパソのみにては生くる
にあらず、人は空気を吸うと同時に、神の霊気を食しているのです。統一が深ければ深いほど
20
本当の幸福
霊気を多く食しているのです。
人は一日食べなくても生きています。しかし、空気を三分間以上も吸わなければ、人間は死
んでしまいます。食物には感謝するけれど、毎秒毎分生きるのに不可欠な空気に感謝する人は
いません。明日、食べられなくなるのではないか、と思い煩う人は多いのに、明日、空気がな
くなってしまうのではないか、と心配する人はいない。おかしなことです。
私は水だけ飲んでニケ月食べなかった。それでふつうの生活をし、多くの人々を救っていま
したが、痩せもしなければ病気にもならず、無論死ななかった。
こうしなければ生きられない、というような自己限定的な想いと恐怖をすべて捨てることで
す。そして自分の内なる霊と外なる自然に生かされているのだ、と生かされている自分を知る
ことです。食べられなかったらそれでもよい。それで死ぬのならこの世での天命が終ったのだ
みこころ
ろうから、それでもよい、この身このまま、生きても死んでも、あなた様まかせ、どうぞ御意
のままになさしめたまえ、と思える人はすでに天国の人です。21
救い救いといいながら、本当の救いを知らない人が多い。その日その日が幸せであると幸せ
であるといい、明日に不幸がくれば不幸を歎く。今日の幸福、明日の不幸と、波のような幸福
感は救いではありません。救われていません。本当の救いは永遠なる、変らない幸福なのです。
日々が不幸のような状態に人にみえようとも、幸せのようにみえようとも、心が揺がないで、
そのまま生かされている生活が、本当の救いであり、幸福なのです。
病気、不幸、すべて悪い事態が起っても、すべてはよいほうに進んでいるのだ、と絶対に想
えるようにならなければなりません。不動の精神、不動の心を得させるのが本当の宗教なので
す。現世利益をも得させつつ、本当のものを知らせ、体得させるようにするのが本当の教えな
のです。
22
■
真の救いを体得する
昭和29年12月12日市川五丁目会館
人間の本源を悟らせるもの
真の救いを体得する
宗教とは人間の本源を教え悟らせるもの、即ち真実の人間とは何か、神と人間との関係はど
うなっているものなのかを教えるものなのです。
この世の肉体の現世利益ばかりを説くことは宗教ではなく、唯物論と同じようなものです。
結局自分がどこから生れて来たのか、そしてどこへ行くかが根本問題となってくるのです。
お釈迦様は、人間は本来仏性なのだ、山川草木悉皆成仏だといわれ、又、一方に業生の流転
23
するその渦が肉体人間を造っているのだ、肉体人間は無明から出たのであると説き、二つを明
白に区別されているんですね。そして無明から生じた小我を消してゆけば、本来性の仏が現わ
れるのだと教えられたのです。
では、本来仏性である人間がどうして迷いを作り、業を生じさせ、それに巻き込まれてしま
ったのでしょう。どうしたら本来の仏性に還えれるのかということは、私の著書「神と人間」
に書かれてあり、毎回、そのことを中心に話しているわけなのですし、人間の大半はそうした
境地になりたいと、意識的無意識的の差はあれ思っているのです。
その境地になる一番簡単なご言は、神に素直になれ、己れを生かしているいのちに素直にな
れ、生かされており、生きている生命のその場その場で素直に生かされているいのちの力を出
し切れ、ということなのです。
業に素直になれというのではありませんよ。神に素直になれというのです。言いかえれば、
生命の本源に素直になれというのです。その見分け方を探究し、体験してゆくのを宗教精神、
24
信仰精神というわけです。
神の生命が生きるのです
真の救いを体得する
例えば子供のことについてですが、両親は子供が育つだろうか、病気になって死にはしない
だろうか、といろいろ心配します。ところが、赤ん坊が生れてくるには、時間も場所も性別も、
両親の思う通りになるわけではないのですから、両親の意志で産み出された子はないわけです。
自然に誕生してき、裸で生れ、ただで生れて、ただで死ぬものなのです。それなのに、その子
供の将来を憂い、これがうまく育つかしら、とか、あることないこと余計なことを思い煩う。
自然に産み出されてきたのですから、そのまま思い煩わずとも、自然に生長し、育ち、大きく
なってゆくのです。そして死ぬ時には自然に死ぬのです。
顕微鏡を使わなければ目に視えない微少な卵子と精子から、この赤ん坊の肉体にまで生長さ
せる力。いや、その卵子以前の無から有を生み出す力、赤ん坊の肉体を日々刻々と生長させて
25
ゆく力。その力は偉大なものですよ。それを一体誰がやるのか。両親がするのでもなければ、
赤ん坊の肉体自身がやるのでもないのですね。赤ん坊の内に宿る隠れたる不思議な、比類なき
生命の力、それがさせるのです。それは内在する神でもありますが、その偉大な生命力にまか
ゆくすえ
せておけば、生かし、生長させてくれるのですから、行末など心配する必要はないわけなので
す。
ましか
キリストが”空の鳥を見よ。播かず刈らず、倉に収めず、然るに汝らの天の父はこれを養い
給う。ましてお前達人間は、遥かにこれに優るものではないか”と教えたのも、それを言って
いるわけです。神が生ませ、成長させているのですよ。それがある年令に達すると、自分が学
問から得た知識と、人類の想念の流れに影響されて、俺がこの腕で生きているのだ、肉体だけ
で生きているのだと思い上ってしまうのですね。そして病気、貧乏その他の不幸に突きあたる
と、何も出来ず思い迷ってしまうのです。
自然に生れ、何か使命をもって生れてきたのですから、使命を達するまで、必ず生きるので26
真の救いを体得する
す。その成長と、それに伴う生活を心配することなく、天命が完うされますように、という祈
りをかかさず続けて生活することです。すべて心配は無用なのです。与えられたものを受けて
真剣にそれをして、生命を生かして行けば、自然に正しく天命を生きるのに違いないのです。
ところが肉体に閉じ籠り、自分一人で生きているという不自由さ、恐れから、自由、安心を
得たいと肉体同志で奪い合い、憎しみ合い、殺し合いが起り、迷いが迷いを呼んでますます業
を深め、それから抜け切れなくなってしまったのです。それならどうしたらよいか。理論だけ
でなしに実際に行うにはどうすればよいのか。そこに宗教、信仰の必要があるのです。
報身の仏と法身の仏
この間、ある宗教教祖と真宗教団との阿弥陀仏論争で、前者が阿弥陀仏とは宇宙に充満する如
ほつしんほうじん
来の法身であるというのに対し、後者の教団代表はそれは誤りだ、真宗の本尊は「報身の阿弥
ほうそうびくほつしんしゆぎようえんぶだいぐてい
陀仏」で法蔵比丘が発心修行の報いとして、閻浮提(地球)を去る百千倶豚西方の極楽浄土に
27
在って仏となり、自分を称名する者を救うのだから、宇宙に充満しているような掴みどころの
ない、たよりないものではないというのです。
するとそれに前者が反擾して、そんな馬鹿な、小学生でさえ、地球の西に極楽浄土などとい
うところがあるなんて思いはしない。そんなことは科学の発達しない時代の説明で、現代的に
じんじつぽう
考えれば西方極楽浄土は実際にはないのだから、それを強いて有るというなら尽十方に満ちみ
ほつしん
ちている如来の法身と重なり合ってあるより仕方がない。そう考えれば、西方浄土は至る処に
あるので、人間の内にもあるのだ、とこういっているのです。
この勝負は明らかに前者に分がありますが、しかし、分があるだけで、相手を納得させ、相
手になるほどそうだったのかと思わせる程、説明が行きとどいてはいないのです。なぜかとい
いますと、宇宙に充満しているといういい方は掴みいいようで、つかむ焦点が実にはっきりし
ないのです。人間というものは何か一つの中心とか、焦点とかがなければ、それに頼ってゆき
にくい心をもっているのです。また、人間の誰の内にもあるのだということも、相当な深い信28
仰の人でないとはっきりと心につかめぬことで、なんでこんな自分のようなものの中に仏があ
る筈がないとか、自分が駄目だからこそ神仏にすがるので、自分の中に仏があるのなら、誰に
もすがりはしない。しかし、それをすがらずにはいられないのだ、と、やっぱり、自分の中の
仏というものの存在を信ずることが出来難いのです。
私の阿弥陀仏観
真の救いを体得する
そこで私ならどういうかというと、前者の法身説はそのままいただいて、西方極楽浄土の報
身仏を守護神と考え、眼には見えない、手には触れないけれど、常に南無阿弥陀仏と真剣に唱
おうじよう
える者は必ず極楽浄土に往生させる力をもっているのである、と説明します。そうすれば、宇
宙神としての阿弥陀仏、守護神として一定の場所に在わす阿弥陀仏、そして自己の内にある直
霊としての阿弥陀仏の三つになるわけで、その三つを一つずつ唱えて、一回目は宇宙神の阿弥
陀仏、二回目は守護神の阿弥陀仏、三回目には自己自身即ち直霊の阿弥陀仏を称名し、それを
29
こんぜん
何べんでも真剣に繰り返していれば、いつしか、三者が渾然と一つの阿弥陀仏になってしまう
のじゃありませんか。そして本当に有難く拝めてくるのじゃありませんか。
昔、法然上人、親鸞上人の出た時代には、特に明日の生命、それよりも今日の生命が危い戦
乱時代であり、人心も荒廃を極めていましたから、西方極楽浄土に阿弥陀様がいて、南無阿弥
陀仏と唱えれば、必ず救って下さるのだ、と民衆に教えたことは、明日死んでも、今日死んで
も、阿弥陀様にすがっていさえすれば、阿弥陀様が行くべき処へちゃんと連れて行って下さる
のだ、と、死の恐怖から民衆を超えさせたのです。いつ、戦争で殺されるか、飢えで死ぬか、
死んだほうがましな、お先真暗な不安の世にあって、希望をもたせ、心に光明を灯させ、そし
て心を動揺させることなく、安心立命が出来た救いだったわけです。
現代においては、西方極楽浄土はオトギ話の国、仮空の世界と解釈されています。現代思想
は感覚に映じないものはないのだというのですから、それを信じられようもないのです。です
から現代人には、その教えは不適当になってくるわけです。そこで私は今いったような説明を30
するわけです。
素直に拝めるようになるには
真の救いを体得する
問題は、この阿弥陀様を拝めるような心になるか、ならないか、にあるわけです。現代、こ
れを拝める人は少く、拝めない人のほうが遥かに多いのです。ですから、どうすれば素直に拝
めるようになれるか、というなら、三位一体の宇宙神、内なる直霊を拝むよりも、現代自分の
祖先の内で悟った人が守護霊となって四六時中、自分を守っていて下さるのだ、ありがとうご
ざいます、と感謝して拝んだほうがよいと私は説くのです。自分の魂のお父さん、あるいはお
母さんである守護霊さんが、自分と常に一緒にいて下さり、守り導いて下さっているのだと知
れば、観念的な冷さでなく、感情的な暖かさで、自然に、ありがとうございますと感謝もでき、
そのまま天(神) につながることが出来るのです。
宇宙神、報身仏(守護神)、直霊だけを拝むより、ずっと容易に神とつながるのです。このよ
31
うに守護霊さんに感謝して、救われてゆくならば、何も三つのものを分離させて、こうでなけ
ればいけない、こう拝むのが本当だという必要はないのです。感情的に拝めもしないのに、無
理にそれを拝もうとすることは誤りです。それよりもっと自然に、心底からありがたいと、素
直に拝めるような心を持たせるようにしなければなりません。いくら人間は本来仏性、神の子
なのだ、霊なのだといっても、痛いのは痛いのであり、悪いものは悪いのですよ。それはその
ままでいいのであって、そのまま受けて、それがどこから出たものか想い起し、即ちこれで過
去の業が消えたのだ、もう再びこの業はつくるまい、と堅く思いこむのです。そうすると自己
を痛めずに、自然に行いや運命がいつの間にかなおってゆくわけです。
善と悪をはっきり区別せよ
人間は神の子である。物質はない、悪はない、業はないのです。といっても現在の世の中に
は泥棒もいるし、強盗、殺人犯もいます。悪人がいるのですよ。その悪をも拝む必要はない。悪32
真の救いを体得する
は悪なのです。一夫を拝め、妻を拝め、拝み合いをしろ、といっても心の底から溢れて来た感謝
で、自然に拝み合うのではなく、押しつけられた無理矢理の仕方がないからの拝み合いでは、
どちらも進歩せず、何にもならないのです。
例えば子供が作文を書いてきたとします。これを、ただうまいとだけほめては、その子供の
作文は上達しないし、子供がいい気になるかも知れません。ここがうまい、けれどここは悪い
からこう直したほうがよい《といってやればああそうかと了解して、その子供の作文は上達し
ます。
善、悪をはっきり区別させることは大切なことなのです。悪いことは、よいのではないので
す。この業生の激しく渦巻く現世に生きている以上、人を疑う気持が起るのは当然なことです。
過去世の過去世から続いてきた誤った悪い想いがあります。罪業もあるでしょう。それらが積
み重なって現われてくる現在、私は神の子である、円満完全である、と独力で想っても、その
想いは、業に妨げられて神に通ぜず、現実に次々と悪いことが出てくるのです。悪人も出てく
33
、
るのです。
それも本当に心底から、悪人も善人も等しく拝めるならば、その人には宗教はいりませんね。
既に悟って仏であり、神人であるからです。ところが、そのような人はいないのですよ。宗教
に入り、信仰をして神につながらなければ生きてゆく勇気も出ない人間が、すぐ神の子、円満
完全と拝もうとしても無理な話なのです。それは頭だけでわかった観念の智識の遊戯であり、
言葉の羅列に過ぎず、救いにもならないのです。かえって危険極まりのないものです。そんな
実際に出来ないことをできると思い上るのを宗教高慢というわけです。
常識をはずさないで常識を超える
34
物の価値判断をちゃんとつけることは大事なことです。それをうやむやにごまかすことは信
おちいやナ
仰 する人の一番陥り易く、一番危険な盲点であり、死点なのです。理性、常識をもなくし麻痺
させてしまうので”宗教ば阿片な炉”とかいわれてしまうわけです。ですから物の価値はちゃ
真の救いを体得する
んとつけて下さいよ。とかく信仰する人というのは、それが永ければ永い程、何か偏屈な、常
識をはずれた嫌な感じを人に与えるものです。当り前のことを当り前に見られる。当り前に判
断できるような人になることが大切です。
神様にすがっておまかせしていますから、泥棒なんか入らないと、鍵をかけないでおいたら、
泥棒はしめたとばかり入って来て、みな盗んで行ってしまいますよ。火の不始末をしておいて、
神様が守っていて下さるから大丈夫だと、何もしないでいたら、火事になって家は綺麗に焼け
まか
てしまいますよ。それはおまかせではなく、怠惰というものです。お委せと怠惰との違いを、
はっきりと知らなければいけません。神にすがりつつ、取るべき手段は取ることです。常識を
はずさないで常識を超えてゆくことが本当の信仰なのです。常識の生活内にあって、神につな
みとこる
がり、神の懐に溶け込んでゅくことです。信仰をしているからといって、他人の迷惑を顧み
ず、常識をはずれた行いをすることは、自分さえ救われればよい、他人なんてどうでもよいと
いう、小さな我欲であって、それは本当の信仰ではない。勿論救われもしないのです。非常識
35
な行動を強いる宗教は宗教ではなく、常識の中にあって超常識であることが本当の宗教なので
す。
拝み合うということは生命がけのこと
人間は神の子円満完全であると拝み合いをするなら、中途半端な拝み合いでなく、底の底か
ら、自分の生命をすべて投げ出して、拝み合うことです。徹頭徹尾拝むことです。どんな現れ
が出てこようとも、これで業が消えてゆく、消えたのだ、有難うございます、と拝むことです
よ。そうなるには練習が必要なのです。毎日毎時毎分神を想い、感謝することです。ひたすら
守護霊、守護神を想うことです。たった一回想っただけでそうなるなんていうものではないの
です。一朝一夕で出来るものでなく、毎日かかさず守護霊に感謝をしていれば、必ず現われて
きたものが、業からきたものか、神よりきたものか、区別することができるようになり、本当
に拝めるようになって、感謝できるようになるのです。36
真の救いを体得する
拝むということは、生命がけのことなのです。ですから拝むなら生命がけの拝み合いをする
ことです。頭の中で観念で知っても実行されてはいないのなら、拝み合いなどとんでもないこ
とで、それこそ観念の遊びです。まず守護霊、守護神に感謝しつつ天につながることです。つ
ながれば上から光が入ってきて、本来人間の清浄さを蔽っていた業の汚れが消えてゆきます。
ただ単なる私は神の子なのである、という想い方とか、南無阿弥陀仏と唱えるだけでは、本当
に救われないのです。霊の清浄さを汚す業を祓うことができないのです。
“禍を転じて福となす
” には
今、悪い想いを出したから悪いことが現われたと大体人は思いますね。しかし今現われてい
る病気も不幸も、今できたのではなく、昔あった間違った想いが、今消えてゆく姿として現わ
ヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘへ
れたのです。消えてゆくのであって、できたのではないのです。もし消えないとすれば、業が
積み重なって、自分はとうに下敷きになってつぶされています。ですから、今の不幸の現れの訂
原因は現在の不幸にあるわけではないのです。
今日の御飯は今日口の中に入れるのだけれども、その間、春の種播き、夏の生長、秋の実り
と長い月日を経て、自分の口に御飯となって入ってくるわけです。星の輝きも、今輝いて光っ
ているのではないんです。何千年前あるいは何万年前に放った光が今、目に見えているわけな
のです。今現われた悪いことも、過去のずっと昔の悪い想いが縁を得て、消えるために出てき
たのです。ですからその消えてゆく悪いものを掴んでひきとめる必要はないわけなのです。消
えてゆくのだ、これで消えたのだという想いは後ですぐ、これからよくなるのだ、これで浄ま
ったのだ、ありがたい、という善い想いになるんですよ。
悪い想いが出たら、その想念を転換させて善い想いにすることです。悪い想い、悪い状態が
出てきたとき、自分の悪さを掘じくりかえして、自分を責めてはいけません。それではまた業
を重ねてしまうのです。これで消えた、消えた、と想えば善念に自然に転換できるのです。そ
して自分を責め、また人を責めることもなくなるのです。これが私のいう”禍を転じて福とな38
真の救いを体得する
す”なのです。よいことのみを想い続ければ、絶対に善のみが現われます。悪いことが現われ
ても、それは消えてゆく姿なのです。消えてゆく姿だけなのです。迷いも罪も、あらゆる因縁
は必ず消えるのです。ただ消えてゆくのみの姿なのです。
すべては消えて神のみ在す
地位も名誉も富もはかないもので、すべて残ることなく消えてしまうものです。昨日の総理
や
大臣も退めれば、その明くる日からその人の名は消え去ってゆき、忘れ去られてゆきます。権
力の座にしがみつく人の行いより、母親が子供を立派な人格者に育てあげる、その方が余程残
る行いなのです。
現われた善因さえも消えてゆく、まして悪因は消えてゆくのです。すべては消えてゆく、た
だ残るのは光明燦然たる光、神様だけなのです。ですから有難うございますと感謝してゆくこ
とですね。そうしてゆけば、善にも悪にも捉われることなく、業生より救われてゆきます。
39
神様は、
ませんよ。
常に神様に感謝して、必死にぶらさがっているものを無下に捨てることは絶対にし40
こうしよう
人間は業生ではない
昭和29年12月12日市川五丁目会館
人間は業生ではない
業の起因
ほんらいいんが
業には二つの種類があります。本来因果と、自分の作った妄想、妄念の悪因果とがあります。
本来因果はそのままでよいのですから悪果の生じた原因を説明しましょう。
第一の原因は恐れる、即ち恐怖観念、これが業の始まりなのです。食べられなければ生きら
れないとか、人間はこのまま生きてゆけるのかしらとかいう恐れ、人間は肉体であるという誤
れる想念からくる肉体滅亡、死の恐怖が根抵をなすものなのです。
41
鉱物も植物も動物も、神の想念によってその順序に造られた創造物であって、神に従属する
ものです。そこで次に神御自身が分れて、光明が放射されて念ができた。その念がだんだん物
質化して幽界、肉体界ができたのです。そのとき、本来動きの速いそして精妙なる波動が急に
粗雑なところへ来たために、そこに隙間ができたわけです。それが積り積って、輪廻する業と
なったのです。
天地に充満せる一なるものは活動しようにも、活動できません。その一つのものが二つに分
れ、四つに分れて始めて活動ができるわけです。一つのものが二つに別れれば、当然そこに隙
間が出来るわけです。隙間がないとするなら、もとのままの一つなのです。その隙間が業とな
ったのです。本来の光は密度も緻密で精妙であり、動きも速いのです。その光が本来の速度で
走ったのではあまり早くて見えません。それが密度の粗い、そして動きの鈍い中に入ってきた
ので抵抗が生れ、動きがだんだんと遅くなってきたわけです。遅くなってくると、はっきり目
に見えてくるようになる。想いといい、波動というのも、それは響です。あまり高い音即ちこ42
まかい振幅の音波は耳に聞えず、ある程度までその波の振幅が大まかになってくると耳に聞え
出し、それ以下の低い音即ち非常に振幅が大きくなるとまた耳に聞えなくなりますね。その響
の如くに幽界、肉体界と造って行ったわけなのです。
人間は本来業生ではない
人間は業生ではない
守護神、守護霊を通して精妙なる神の光は人間の内に入っているのです。森羅万象すべて、
神の現れでないものはないのですが、一旦物質の牢固たる世界に入ると、人間の分霊は抜け出
すことができなくなってしまったのです。それで神様(直霊)が新たに光を放射したのですね、
がら
これが守護神なのですが、その守護神の光ががんじ搦めの業の鎖を解き放って、最初に幽界肉
体界を創って行った分霊を救ったのです。その分霊が守護霊となり、子孫の人間を今度は救っ
てゆくように神さまはなさったわけです。
43
業生を超えるには
現在、文明の極致にありながら、精神は少しも救われていません。昔のままの不安に脅えて
いますね。神さまは業生の殻の厚い現在、肉体を持たしたまま人間を救おうとなされて、守護
霊を一人一人の背後につけ人間の業を消してゆくように、さかんに働かせていらっしゃるわけ
なのです。どんな業といえど、だから消えてゆくのです。業が消えれば守護霊を通して本来の
光が出てくるのです。幕があけば、すでに名優達が舞台に待っているのです。だから業を消す
ために、本来の光を輝き出すために、守護霊にただすがりなさい、自分の本体(神)が現われ
ますように、天命が完うされますようにと、一生懸命お祈りなさいというのです。
業に閉ざされ抜け出せず、もがく自縄自縛の現代の人間が、自分一人の力で悟ろうなんてい
うことは、身の程知らずになりがちです。一人ではなかなかに悟れません。迷い心で迷いの念
を解くことはできないのです。迷いの想いを出した本人がどうして迷いを解くことができまし
44
よう。守護霊、守護神にすがって助けて頂いて、やっと救われるのであって、自分は神の子だ
から、自分の内に神が居給うのだから、それだけを拝み出してゆけばよい、ということは立派
そうな言葉でありますが、余程の高い人格でないとむずかしいのです。自分の内にいる神とは
自分である。それならその自分を有難うございますと拝むだけでよいわけですが、自分の本体
が神であると覚り、行動できる人が一体何人いますか。あんまりいないのではありませんか。
ですからそれだけでは救われにくいのです。
終りまで堅い信仰をもつ者は救われる
人間は業生ではない
癖は想念の習慣がでるものなのです。今の性格は昔の癖が現われているわけです。人格のよ
うな顔をして現われていますが、それは過去の想念なのであって、消えてゆくものなのです。
癖は自分を責めることなしに否定し、否定してゆけば消えてゆくものなのです。
悪かった、しまった、と思った時はもうその悪を二度と再びしまいと思った時なのです。そ
45
こで、これで悪は消えたのだ、業は消えたのだと、今度は本当の姿をつかんでゅくことです。
悪業はすべて消えて光明燦然たる光のみが残るのです。病気が出た、しめたこれで業が消え
た。不幸が来た、よしこれで業が消えて浄まるのだ、有難い、と思える勇気が必要ですね。
善念を持ちつづけ、善をなしつづけてきたが、その結果が出ない。善果どころか悪果がどん
どん出てくる。最後の瀬戸際まできてしまった。しかし最後の土壇場へきても、これで本来の
光、本来の姿が現われるのだ、と堅く信じて下さい。そうなったら信ずるより他にありませ
ん。唯信ずるのみです。そのように明るい善念を持ちつづけたら、必ず悪はすべて消えて、本
来の光が現われて来ます。最後の最後まで信仰を堅持するものは必ず救われるのです。明るい
善い想いを堅く持ちつづけることです。いかなる悪魔といえども、そのような人を犯すことは
できないのです。目の前にまで悪魔が迫ってきても、不動の心、不動の信仰を持っていれば、
目の先にまできて消えてしまうものです。必ず消えてしまうのですよ。それは私の体験から話
すのですから確実なのです。46
]向専心神様ありがとうございます
人間は業生ではない
神に全生命をまかせて、これで死んでもよいのだと思って、最後まで善念を堅持するなら、
いかなる悪念といえども必ず消えるのです。人生は業生ではありません。業生のように見える
けれど、すべて消えてゆく姿なのです。最後に残るのは光明燦然たる光のみなのです。
どんな姿勢であろうと、いかなる時間であろうとそれは構わないのです。寝たままでもよい
し、歩いている時でも、洗濯や掃除をしながらでもよいのです。型などどうでもよいのです。
常に、四六時中、守護霊を想い守護神を想い、感謝をしていればよいのです。これをつづけて
ゆくと、山川草木すべてに光が温れているように見えてきて、自然に心の底から感謝が滲み出
てきます。ありがたくて、ありがたくて、たまらないときがくるでしょう。そのような状態を
三ケ月と続けたら大したものです。何でもかでも現われた悪いことは守護霊さんにまかせてし
まうことです。まかせ切って感謝してゆく、その気持が一向専心南無阿弥陀仏なのです。卿
娼
守護霊のお導きは絶対に善なのです
第一直感に現われた想念が、目先のことに不利益に見えても、それは守護霊の指導で絶対に
よいのですから従うことです。頭にはっきりわかるのと、行動にそれが自然に現われるものと
二つあります。その導きに従って悪いことが出てきたとて、例え失敗したとて、それは守護霊
の導きであって、善なのです。必ず善くなるのです。現象の失敗に捉われず、魂のプラスを考
えることです。
親鸞上人の師、法然上人に対する”御坊に従って例え地獄へ堕ちたとてかまわない” という
信仰を守護霊にすることです。それほどまで信じて、例え死んだとて、その人は死を超え、業
を超えて、神に生命を委せ切っているのですから、神界行きです。しかし、そのような信仰を
もった人を神さまは死なせはしませんよ。守護霊の導きに従って悪いことが現われた時、動揺
してはいけません。これで業が消えてゆく、必ずよくなると、その信仰をあくまで堅持するこ
とです。これが天とつながる道なのです。失敗しようが人に悪口をいわれようが、唯々守護霊
を信じきることです。信ずることより他にはないのです。
人を赦し自分をも赦す
人間は業生ではない
人を責め、自分を責めることは神の御心に適わぬことです。なぜなら神の世界には悪はない
からです。現われた悪は、人類の過去世からの業が現われて消えてゆくものなのです。新興宗
おどか
教の中には罰をあてると嚇すものがありますが、そんな神さまはないのです。罰など無論あり
ませんよ。人を救って幸福にしてやろう、という愛である神がどうして罰をあてますか。その
おび
ようにいう宗教は間違っています。びくびくとそのようなことに脅えることなく、それより自
分がまず安心立命をし、自分が守護霊、守護神につながって光となることです。そうなれば周
囲が自然に浄まってゆきます。一人でも自分の本体の光を現わしたなら、それこそ光を掲げた
人であり、そのような人が多く出れば出るほど、完全平和は容易に地上にも建設できるわけな
49
のです。
すべての人は神さまの器なのです。神さまの用い給う場所であるのです。そうなるためにも
ひたすら守護霊につながり、感謝していきましょう。そうなることを神さまは地上天国建設の
ために待ち望んでいらっしゃいます。
50
人事をつくして天命を完うせよ
私は天命を信じて人事を尽せといいますが、天命を知って人事をつくすことがむずかしくて
できなければ、人事をつくして天命を完うすることです。人事をつくすとは、現われるものが
善であろうと、悪、不利益、不幸であろうと、その与えられた場所、仕事に己の生命を生かし
てゆくことです。そうすると善業も、悪業も消えて、天命が現われてくるのです。人事を完う
しないで、天命は完うできませんよ。その場、その時を一生懸命に生き切ることです。
人間は業生ではない
真の愛について
真に人を救いたいという愛念が強ければ、善いと思ったことは、他人の口がどうあろうと、
おもわく
断固として成しとげられるのです。他人の思惑を気にするような愛念、八方美人的な愛は見せ
かけの愛念であり、善事をなすことはできません。真の人類愛に燃えているなら、神さまは間
違ったことなどさせておかないです。周囲の人々を自然とひきつけて、周囲とは自然と調和し
てゆきます。真の愛とは、救いのために生命を投げだすこと、無我です。生命を投げだした無
我の愛こそ真の愛なのです。
夢と守護霊の働き
夢とは潜在意識にレコードされた悪想念が、そのまま現象界にあらわれるとまずいので、あ
いつは憎い、殺したい等の想念を夢の中に巧みに戯画化して、意味を曖昧にして、守護霊さん
がその想いを消すのです。
51
思った通りのものが現われるというのは心の法則ですが、その通りに人類の業がこの世に現
われたとするなら、戦争、天災等で人類はとうの昔に滅亡しています。その業を守護霊が肉体
の頭脳が働きを止めて、空っぽになった睡眠時に、即ち守護霊の働き易いときに夢にして消し
てくれるのです。その守護霊の働きは偉大なものです。守護霊がいなければ、人問は到底悟る
ことなど出来ません。常に業を消して、守り導いて下さっていることをよくよく考えて、守護
霊に感謝してゆくことが大事です。
神さまを考える時に、守護霊、守護神を抜きにして考えることは不可能です。守護霊の活躍
がなければ、今の世界は成りたたず、今の人間の生存もむずかしいのです。
完全円満の現われるのにも、段階があるように、宇宙神の現れにも守護霊、守護神、直霊と
段階があるのです。それを知って守護霊につながってゆくなら、守護神、直霊と一直線になる
から悟り易いというわけです。私のいうことはむずかしくないでしょう。日常の生活の中で、
今すぐできることですよね。誰にでも行える救いなのです。
52
神界のお浄めと人間界
昭和30年1月9日市川五丁目会館
神界のお浄めと人間界
一神にして多神
今日は神界の働きと、これからの人間世界についてお話をしましょう。
一体、神さまは一つなのか、たくさんあるのか、ということが初めに問題になります。キリ
スト教では天父といって、ただ一つの神をいい、仏教では仏といって神とはいわず、神道では
八百萬神が在すといっています。一神なのか、多神なのか。一寸迷いますね。しかしこの宇宙
の神は、宇宙神(創造力の根元)としては一つで、それが守護神としてたくさんの働きに分れ53
ているのです。地球を司る神さまも、宇宙神から分れていて、地球上には今二十四億の未開発
の神さまが生活しているわけです。
宇宙神は在りて在るもの、始めからあるもの。すべての創造力、根元としてあるもので、現
れとしては守護神、観世音菩薩なのです。その現れがずうっと下れば、皆さん方人間でもある
のです。一つなるもの、充満しているものは、そのままでは働きとしては現われることができ
ない。即ち生きとし生けるものの源なのです。それが分れて働き出したのが守護神なのです。
ですから、一つであって多であるわけです。宇宙神を例えれば、太陽のようなもので、太陽の
働きである光線の一つ一つが守護神といえるわけです。
“空飛ぶ円盤実見記
“を読みましたが、円盤がジェット機に追跡されて空中に”ふっ”と消
えてしまったのですね。その空を眺めていると、背後からとても美しい声で話しかけてきたも
のがあったそうです。話しかけられたといっても、言語の通じる同志が話すように口に出した
こころ
言葉でするのではなく、想念と表情で、意を交換したのですね。”私は金星人だ” と言ったそ54
神界のお浄めと人間界
うですが、とてもきれいな青年だったそうです。いろいろと話をして、最後にちゃんと”空飛
ぶ円盤”に帰って行ったのだそうです。このように、地球以外の天体にも人間のような姿、形
をした生物がいるのです。これらの各星に住む生物にも力を与え、生命を与えている根源、ま
た、それら全部を司っているものが、宇宙神なのです。それが地球を司る神、各星を司る神と、
種々の神々に分れたのです。この地球を司る神さまも一神ではなく多くいるのです。
そして地球の運行、人類の将来などについて相談しあって、コソトロールしているのです。
人類をこうしようではないか、善くしてやろうではないか、という守護神たちの愛念が釈迦、
キリストその他の聖者を地球上に降し、人間の本体を識らせようとしているのです。神が支配
し易い肉体を使って、そのような人々が現われ、光を地球上にふりまいたのですね。普通の人
間は、自分自身が発した間違った想念に、自分が縛られ、閉じこめられて、本来の光を受け取
ることが容易にできなくなってしまったわけです。そのような人間に神そのままの光を放射す
ると、人間を取巻いた間違った想いの厚い殻は燃え切ってしまうのですが、それと同時に、地55
球上に生きる肉体までを消滅させてしまいます。そこで神の強い光を受けても、平気な肉体を
もった人聞に神は光を放射し、それらの人々を通して光を輝かせたのです。このようにして神
は光をいろいろに放ち、宗教、政治、芸術等、各界に活躍して、地球上の人類を鍛錬させつつ、
よくしてゆこうとなさっているのです。日も夜も分たず、一分一秒も休むことなく活躍してい
ます。人間があとからあとから余計な想いを作り、発しているのですから、それを消すために
力をつくして働いておられるのです。
5G
人間は天地をつなぐ者
天上にあっては、宇宙神のいろいろの働きである神々が世界の各国を見守っているわけなの
ですが、その神々が相談し合い、地球人類を調和させてゆこうとしているわけです。色に例え
れば、赤と青とが調和して紫と輝くように、それらの調和が地上の政治、経済、宗教、芸術等
に現われて、世界が調和し合ってゆくようになるのです。
神界のお浄めと人間界
しかしこの地上の人間界にあっては、大きくは国、民族、人類の我がぶつかり合い、欺し合
いしてまいた種(因)が、縁を得て芽を出し、果を結び、また種(因)を出して果を結んでゅ
くように、はてしなくぐるぐると業が廻っています。このように光と業の二つの世界があるの
ですね。しかし業は消えるものですから、どんどん廻りながらも消えてゆくのです。光の世界
というのは始めなく、終りもなく、ひたすら太陽の如くにそのまま光っています。業はいつか
は消えてゆくのですが、その業の世界に変らず光を与え、光を放射して、暗い業を消し、追い
払っているのが、守護神の働きなのです。この二つの世界にまたがって人間がおり、悪い想念
を消しつつ、善い想念を出して、地上、天上を愛一元、光一元にしようとしているのです。
武力も圧制的思想も世界を平和にしない
今は将にその悪想念の姿形が、大きく、はっきり現われて崩壊してゆこうとしている時なの
です。なぜなら、水爆、原爆という、人類と地球を一瞬にして破滅させてしまう恐しい悪魔の
5?
手段さえ考え出し、製造し、実験しているのですからね。
そうしたことの影響による天変地異も考えられることです。
大国が、それぞれ絶対指導権を握り得る統一を考えている以上は、世界人類が真に救われる
平和世界はできっこありません。それが直接武力によろうと、圧制的思想の普及によろうと、
同じことです。今世界は圧制的非人間的思想による統一と、それを退けようとする武力による
統一の二つの行き方があり、日本はこの二つの流れのいずれを取るべきかに識者たちが辮論を
闘わせ、あるいは直接行動にその行き方を示そうとしています。その他中間派的に、米ソの両
方のこ気嫌を取りつつ、生きてゆくより仕方がない、という行き方の人たちもあります。
日本はどうすればよいか
現在の段階として、日本人はこの二つの世界の間にあってどうすればよいか。本当の平和を
地球上に実現させるにはどういう生き方をしなければならないかを、真剣に考えなければなり
58
神界のお浄めと人間界
ません。私たちは、あくまで宗教的な生き方を主にしてゆきたい、と思うのです。行動として、
こうした問題にタッチできるのは選挙によることだけで、他に具体的な行動はできません。で
すから、私たちは、神さまに一度この問題を返上してしまって、改めて神さまの智慧でこの大
問題を解決してもらうようにすることが、一番賢い方法だと思うのです。それはどうするかと
いうと、私がいつもいっているように、私たちの背後には、守護霊、守護神があり、私たちの
うちには直霊がいて、常に私たちの天命を完うさせるように光を放っているのですから、私た
ちの肉体頭脳の種々の想念や考えをひとまず捨てて、それらの神霊に日本の平和、世界人類の
平和を全託してしまうのです。
常に守護霊さん、守護神さん、と祈るような気持で、どうぞ日本が平和でありますように、
とひたむきに祈るのです。その時は、不安の想念が減少しています。人類の不安、恐怖、疑惑
等の小我(業)が常に、神々が人類救済のために放射している光を妨げているのですから、祈
りによって、それだけそれらの業が減少している人類世界への光の放射(救いの波)が有効に
59
なってくるのです。
60
祈らねば平和はこない
このように、皆さんの祈りは天に受けられ、地上に今度は光となってかえってくるのです。
この祈りを常に真剣にしている人々は、自然に光に充満され、光を内に蓄積して、光を地上界
に放射してゆくことになるのです。光の放射能、すべてを生かし、輝かせる放射能をふりまき、
ふりまきするわけなのです。ですから皆さん方は愛なる神さまの光を受けて、光を外に輝かし
てゆくものとなればよいわけです。
この世界平和の祈りは、どんな人にだってできることなのですよ。七十、八十の老人でも、
小学生でもできるのです。祈りなんか、と馬鹿にしてはいけません。この祈りは、神さまの祈
りなのです。人類を救い、世界を救う重大な力なのです。この祈りがなければ世界は絶対に平
和になりません。この光の放射が人類の思想を変えてゆくのです。地球や、宇宙全体の運行を
神界のお浄めと人間界
も変えてゆくのです。この世界大平和の真蟄な祈りだけが、力の平和と思想戦の二つに打ち勝
つ唯一の方法なのです。口に出して言わなくとも、心の中で”世界が平和でありますように”
と守護霊守護神につながって強く、大きく叫ぶのです。
いくら個人の平和、個人の利益、自由のみを願っても、世界の平和、人類の平和なくしては、
それら一切の平和は成立ちません。原爆が一発頭上に落ちれば、自己の平和など一瞬にして消
滅してしまうものです。はかない消えてしまうような、そんな自分だけの平和は本当の平和で
はないのです。ですからまず第一に世界の平和、人類の平和を祈らなければなりません。世界
の人々の真の平和の祈願は光となって、世界各国の指導者の脳裡に感応して、戦争や地球人類
の破壊を何べんも防いでいるのです。
共産主義者たちの叫び唱える平和は、自分たちの主義、主張に賛成する人のだけのものであ
って、資本家はいらない、あんな奴等はやっつけろ、と彼らに反対する者は倒してしまえとい
うのです。相手をやっつける平和、人を倒す平和は本当の平和ではないのです。それは業であ
61
って、神、光ではないのです。
62
貴方の祈りこそ世界を救う
自分一人で祈ったって、力がない私なんかが祈ったって仕様がない、と思うことはないので
す。真の世界平和を願っている人たち、団体は他にたくさんいます。世界平和を祈っているの
は一人ではないのですよ。多くの人々が、そのために生命を燃やしているのです。その祈りが
光となり、神さまの働きとなって平和を妨げるあらゆる力を消しているのです。
力のない自分なんか、と思ってはいけません。自分が祈るのではないのです。守護霊、守護
神が祈られるのです。これは世界を創り、世界を司る神さまの大悲願なのです。ですから神界
に通じて、世界を光で満たすのです。どんな人でもできる大きな仕事なのです。平和を実現さ
せる大きな力です。平和にならないのはアイッが悪いのだ、こいつが悪いのだ、こうだから、
ああだから駄目なのだ、と非難しているだけでは何にもならない。平和に一つも貢献しません。
神界のお浄めと人間界
平和の祈りか、武力か
武器を持ってよいか、武器を捨てたほうがよいか、わからないのが現在日本の人々の状態で
しょう。わからないけれど、どうにかなるだろうということではどうにもならないのです。ど
うにか思わねば、どうにかなるわけがありません。一人一人が世界の平和、人類の平和、日本
の平和を思わねばどうにかならないのです。どうにかするにはこの祈りより他にないのです。
日本、人類、世界の平和に必ず役立つもので、大平和を実覗させるのにはこの大悲願より他に
ありません。
日本人八千万人全部がこの祈りをするならば、日本全体が光に輝き、光に囲まれて、武器を
持たずとも日本の平和はゆるぎなく守られ、保持できるのです。この祈りは一方では外敵を防
ぎ、一方では光を引出してゆくわけなのです。そうなるためには、皆さん方一人一人が神さま
とつながり、神の子の自分を出すことに努めなければなりません。
63
げんこう
元憲の時には神風が吹いて蒙古を撃退させることができました。しかし第二次大戦には神風
は吹かなかった。これはどういうわけでしょう。第二次大戦の時には日本は世界を征服しよう
という野心があったし、アメリカにも同じような野心があったのです。その野心と野心とがぶ
つかりあって世界大戦となったのです。業と業との戦いであったわけです。何か戦争をしなけ
れば気がおさまらなかった。そんな気持で始めた業の戦いであったものですから、神さまは神
風を吹かせなかったのです。
元憲の時は、蒙古が日本を躁踊し、征服しようという野心をもって攻めてきたのです。しか
し、日本はそんな野心はさらさらなく、ただ攻めてきたので、止むを得ず戦って守るより他に
なかったわけです。戦うより他にない絶体絶命の状態になって、国民挙って神仏に祈りつつ戦
いました。だから神風が吹いたのです。第二次大戦は両方の業のぶつかり合いでしたので、神
さまは日本にたまった業を浄めるに丁度よい時機と思われて、神風を吹かせず、敗戦というこ
とで日本を浄められたのです。64
内なる神性の祈り
神界のお浄めと人間界
一遍上人は、南無阿弥陀仏と唱えることの他は何もいらない、ひたすら南無阿弥陀仏と唱え
よ、と教えました。それは我が唱えるのではなしに、肉体の中に在す阿弥陀様が宇宙に充満し
ている神さま(阿弥陀様) に向って南無阿弥陀仏と唱えるのだと説いています。そのように守
護霊、守護神に世界が平和でありますように、人類が平和でありますようにと祈るのです。祈
る自分は勿論小我の自分ではなく、内なる神性なのです。自分の内に在る神性が宇宙に充満す
る神のいのちに感応して、世界は創られてゆくのですから、肉体の私がするのではなく、自分
の内の神さまが世界平和、人類平和を祈っているわけです。ですから祈りは強いのです。
観念を神に捧げよ
宇宙というのはいいか、兄れば、それは自分の住む家なのです。宇宿の中に生き、住んでいる65
のですからね。その自分の家である宇宙が平和でありますようにという祈りをすることは、と
ても大きな祈りなのです。そして、これが一番大事な祈りなのです。世界人類が平和でありま
すように、日本が平和でありますように、自分に与えられた天命がどうか完うされますように、
とこの三つの祈りを常につづけてすることが、日本人にとって第一にすべきことなのです。
光をつねに充満させて、光になっている人は上よりの光を受け易いのです。その人たちは、
今生においてだけではなく、前生から修業を積んできているのですが、そのような人たちには
神さまの高い想い、強い光が働きかけるのです。結局、常に光を想い、神を想っている人は強
い神の光を放射されても、平気なわけです。太陽のような光そのものが、直接目の前、心の中
に入ってきても大丈夫なわけなのです。が、そうでない人は光のために業が急速に消えてゆく
ので大病をしたり、あるいは死んだりしてしまうこともあるのです。業のあつい人は業の消滅
すると同時に、魂も共に焼けてしまうような型となって消えてしまうこともあるのです。その
神の高い強い光を受けた人が、直接光を受けられなかった人々に、適した光だけ放射して浄め66
神界のお浄めと人問界
るわけなのです。
錬磨された肉体即ち天のこと、神のことを常に想って光になれている人々は、神さまが使い
みこころ
易いのです。神の大聖旨を地上に実現するためにも、多くの人々がこのように高い強い光を掲
げる人になることが必要なのであり、常に神に想いをはせ、神と交流している肉体をもつ人間
が多くなることを、神さまは待ち望んでおられるのです。
奇異を求めるな
それと反対に何か力を得たい、霊感を得たいと欲することは、我欲ですから、そのような想
いは光ではなく、迷いがひっかかってきて気狂いになったり、常識をはずれた陰欝な雰囲気を
持った人になったりするものです。奇蹟ばかりを想い、追い求めている者には、常識的に考え
て少しおかしなことも普通のように思えてくるのです。迷った幽魂がついたり、いたずらな感
情魂が災いしたりして、肉体をめちゃくちゃにされてしまうのです。ですから奇異ばかりを欲67
っし想わないで、ひたすら守護神、守護霊のことを想うようにすることです。
人類を救い、世界を救う菩薩心、大悲願でなく、金をもうけたいとか、特別な力を得たいと
かいう想いは、地獄に落ちる迷いなのです。そんな人々がたくさんいるんですよ。神にほど遠
い、馬鹿々々しいものです。
68
日本の使命
昭和30年1月9日市川五丁目会館
日本は世界の雛形
日本の使命
私は右翼ではありませんが、誰よりも日本を愛しているものです。
日本という国は世界の雛形で、神の宇宙の意志の表現され、完成されるものの姿であり型で
あるのです。一番よいものも、又一番悪いものも世界で最初に受けるのです。ですから一番最
初に原爆の投下、水爆の被害を受けました。地図を見たって、世界を集めたものと日本を比較
して見ると似ているのです。日本は世界が凝縮したものといえるのです。真の世界平和がまず69
第一に現われる模型なのです。日本人は十二才だとか、四等国だとかいう人たちがあるけれど、
これ程下らないものはない。自分をけなし、自分を悪くいって、それで気持がよいのですか。
日本は神の国、霊の国、光の国、大切な使命をもった国なのです。これくらいの自負と誇りを
持たなければいけません。日本人が日本に生れた誇りとよろこびをもつのが当然です。
70
幽界を浄めねば人類は浄まらぬ
今は末世といって一劫の終りの時にあたります。即ち業が大きくくずれてゆく時に当るわけ
なのです。それと同時に神の光がまさに完全に現われ輝やこうとしている時でもあるのです。
現在の人類はといえば、丁度、谷が先きにある坂をとめどなくすべっている氷の上に乗ってい
るようなもので、もう絶壁にまできているのです。このまま放っておけば、そのまま人類は氷
と共に谷に落ち、全滅してしまうのですが、そこを天からの光がそのすべりを止めているので
す。
日本の使命
最近は霊界幽界と肉体界との間が非常に近くなってきているのですよ。そこで幽界の迷った
もの、言いかえれば悪魔なるものがはびこってくると共に、天上界からの天使の動きも目立っ
て強くなってきているのですよ。
道元、法然、親鸞その他聖者が守護神として肉体人間以上の力をもって業消滅のため働いて
おられるのです。ということは天使の働き易い肉体をもった人間が多くなった、ということな
のです。
私は空っぽで、場所ですから、私にそれらの守護神、天使が働きかけ、私の肉体を使って浄
めているわけなのです。私が浄めるのは肉体ではなく、主として幽界、霊界を浄めているので
す。幽界から迷いが業がどんどん流れ出ているのですから、現われ出る場の肉体をいくら浄め
ても、出てくるわけなのです。そこで業の流れ出る根源を私は浄めるわけなのです。幽界の迷
える魂等を浄めているわけなのですよ。
日本を含めて、世界の業が今浮き上ってきているので、正気では全然考えられぬようなこと71
が、国家的にも、個人的にもたくさん現われているのです。
これらを大きな目から見れば、業を出し完全なる浄めをなす過程にあるのですが、過程にあ
るからといってそれがよいのではなく、業は業で悪いのです。業はそれ自身でぐるぐる廻って
消えてしまうものですが、光をその上に強く放つ必要があるのです。
神の子のカを祈り出せ
一人一人の力が大きなものでなく弱くとも十人百人あつまれば十人、百人の結集した強い力
を発揮することができるのです。業でさえ結集すれば国を滅ぼし、世界を破滅させる力をもつ
ものですから、まして善いこと、光のことを団結して強く強く思えば、光の集団となってすべ
てを輝かすことになるのです。今の状態は光が闇の中を進軍してゆく姿なのです。ですから光
を想って、光を結集させて強くするのです。闇をつらぬいて進軍するのです。そして闇を消し
てしまうのです。多くの人々が祈る高い光の祈り、平和の祈りは結集して、世界の指導者連の72
日本の使命
頭にひらめき、魔を消して、世界を平和にさせるのです。ですから一人でも多く大平和の祈願
に燃えることが、業を一日も早く消して、真の平和を完成させることになるのです。
光を欠かさず常に想えと、いったからと、坐ったままで何もしなくていいというのではあり
ません。どんな些細なものでも与えられた仕事には全力をあげる、全生命をかけてするという
ことが光になっていることなのです。しかしいつでも全力をあげているということはないわけ
ですから、暇があった時は欠かさず、世界平和、人類平和と自分の天命の完成されることを祈
れ、というのです。仕事をするにも、神さまを常に想っている祈りを根本にしてすることがよ
いというのです。そうしてゆく内に神と一体となり、不動の心、不動の精神をもつことができ
るのです。
人間の本体を神と知れば無限力が出る
人類というものを離して、神さまはあり得ないのです。こういうと唯物論者のようですが、73
そうではないのです。光線のある以上、その光源がないということはなく、光源がある以上光
線はあるのです。切っても切れないものなのです。人類のうち一人でも欠ければ、それだけ一
本、大神さまからの光線が光らなくなるわけなのです。そこで大神さまは一本かけても完全な
る神さまの働きをすることがでぎないわけなのです。ですから人間は、本当は自分は神さまと
一体である、私の本体は神そのものである、と少しでも悟りさえすれば、その悟った程度に従
って、無限の力を発揮できるのです。
74
生命よ光り輝け
昭和30年1月20日市川五丁目会館
内から光が出る
生命よ光り輝け
神を信じ、神を一生懸命想って愛行していても、悪いことが現われてくることがあります。
憎んではいけない、と思っても、憎しみ恨みの心がフウッと出てくる時がおありでしょう。そ
んな時、ああどうして私はこうなのだろう、私はダメだ、私は悪い人間だ、と思いますね。と
ころが、憎む心、恨む想いが出て来た時は、その悪い想いが出て来た分だけ業が消えていって
いるのです。だからその時、自分を責めず、昔の業が消えてゆくんだ、と一生懸命思えば、必75
ず消えて自分は浄まるのです。
ダメだという想い、憎いという想い、暗い想いはすべて過去の業が出て、消えてゆく姿なの
です。消えるのです。
ああなんて私はダメなんだろう。悪いんだろう、と自分を責め、抑えてしまうと、折角消え
るために出て来た業をまた内に押しこんで、ますます業をふやしてしまうことになります。悔
いだけでは救われません。それはただ想いを抑えつけるだけで、かえって反発力が強く大きく
なって、業がいっぺんに激しく現われてしまうのです。抑えるのではなく消さなければ、善い
ことを思おうとしても、業がいつまでも残っては結局よくならないのです。悔いだけでなく、
悔い改めなければよくならないのです。
人を憎み恨んでしまった。その時ああ悪かった、いけなかった、と宗教をやっている人なら
誰でも思います。その次が大事なのです。そこで、ああこれで過去の業は消えた、消えたのだ、
これでよくなった、これから再びしまい、と思うのです。また悪いことをしてしまったら、ま76
た一つ業が消えた。これでよくなるのだ、二度と再びしまいと思うのです。何回でも繰り返し
て消し、そして善い想いを起し、善い行為をしてゆくんです。これを悔い改めといいます。
げ
どんな悪いことが現われようと、現われたら、それは消えてゆく姿に絶対に相違ないのです。
現われたものはすべて消えた、消えたと消して、これで善くなるのだ、と断固として思いつづけ
てゆくと、内から光明燦然と光が現われるのです。
魂をきたえる
生命よ光り輝け
どんなものでも、時間がたてば必ず消えます。消えた後には光が現われてくるのです。業は
そのまま消えてゆくのです。それに加えて守護霊さんが一分一秒のひまもなく、魂を浄めてい
て下さるのですから、守護霊さん有難うございます、といつも感謝していれば、本来清浄なる
ものをかくしていた汚れ、業が早く消えると同時に、光が早く現われてくるのです。
人間は本来光であり、あいつが憎い、恨めしい、悲しいなどという想いは業で、自分ではな7?
いのです。,.
光は業より強いのですよ。けれど人間はそうは思わず、業のほうが強いものだ、と思ってい
る。それは間違いです。この誤った考えを正すには、内なる光、守護霊守護神のことをひたす
ら思うことです。これを続けて行じていれば、業は自然に消えて、安心立命の境地を得られま
す。
どんな災難や病気や磯りがこようと・自分の魂を守護霊さんが強くしようと訓練されている
さわ
のだ、と思い定めることです。そのように思えれば、どんな苦しみも、災難も碍りも、すべて
自分を強くする修行になり、結局自分は強くなるわけです。おれはダメだ、ああ切ない、限め
しいと想うだけならば、それは業になってしまうのです。
神さまは悟らせるために人間の魂を鍛えます。何もしないで、努力なしで楽をして悟りを開
こうと思うのは誤りです。どんな仕事であろうと、二十年、三十年の月日を努力し苦労して、
初めて完成の緒をつかみ得るのです。完成への最短距離は、守護霊さんにすがってしまうこと78
なのです。そして現われて来た悪いことは、過去世の因縁が現われて消えてゆくのだ、これで
消えるのだ、と想い、これで善くなるのだ、必ずよくなるのだと一生懸命想うことです。
いくら想っても想っても、もうしようがないと思う最後の瀬戸際が大事なのです。苦しみの
極みの、その次の瞬間に光への門が開かれるのです。陰きわまる時は陽となる時なのです。苦
しい時は過去の業が大きく消えてゆく時なのです。苦しみが大きければ大きいほど、業が大き
く消えてゆくのですよ。
本当の自分は天界にいる
生f命・よ)亡り)k軍け
本来、人間は直霊として神界にあるのです。想いが「自分はここにいる」と思っているので
あって、ある時は霊界に、ある時は幽界にとあっちへ行ったり、こっちへ行ったりしている。
それを自分だと思っているわけです。しかし、私はここにいる、というのは想念がそこにいる
のであって、本体は神界にあるのです。
)
79
想念というものだけが、ぐるぐると幽界や肉体界を廻っているのです。ですからその想念を
天界につねにあげておくことがいいわけです。守護霊さん守護神さん有難うございます、と想
った時、想いは守護霊、守護神の位置にゅくと同時に、在るのです。想念には距離はないので
すから、神の国を想えば想いは神の国にいるのであり、あなたは神の国にいるのです。つねに
光を想い、出て来た業はひたすら消えてゆく姿と想い、守護霊、守護神さま神さまに感謝をし
ていれば、自然に、そして早く本体に合体出来るわけです。
苦しい時にも、貧しい時にも守護霊さんが必ずよくして下さるのだ、と想っていれば、この
想いは天よりの想念、光ですから、米櫃に明日食べる米もなく、買うお金がなくとも、平安な
天国にあるわけなのです。ですから心も明るく、一つも恐れ不安がないのです。
現在のいかなる悪い状態も、それは過去の業の現われて消えてゆく姿である、と断固として
想い、そして明るい豊かな安心した想いを出していることです。
本当の自分は天にいるのだ、守護霊、守護神さまが守っていてくれるのだから大丈夫という80
想いで、守護霊、守護神にすべてをまかせて、その場その場を暢気に、明るく、生命を充実さ
せて生きることです。
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
どうか私の天命が完うされますように
という大乗的な祈りを守護霊、守護神を通してしていると、生命が本当に生きて来ます。こ
れが一番豊かな明るい大らかな天の想いです。
生命を生かしきれ
生命よ光り輝け
闇米を食うのは悪いことであるに違いないのですけれど、食わなければ生きられないのが現
状です。法規を破ってまでも生きなければならないのは、今の政治のどこかに悪いところがあ
るのです。そんな小さなことで、与えられた大切な人身を殺してしまうのは馬鹿らしい。あま81
りにも小さすぎる良心というのでしょう。
これをしてはだめ、あれもしてはいけない、とあまり小さな良心に執着してはいけないので
す。それはいうならば心の臆病です。それよりまずどうしたら自分に与えられた生命を生かし
ぎることが出来るか、を策一に考えるべきです。一〇〇パーセソト生かし切ることが、この世
に生きる人間のすべきことなのですよ。
もっと大きな心で、もっと大きな目で、もっと大きな愛をもって生きることが大事です。
自分の利益だけで働いている、というのは生命を殺していることになります。人のためにも
なんにもならない、迷惑ばかりかけている、これも生命を殺していることになります。じゃ人
に厄介になり、人のためにもならず、迷惑がられる老人や病人は生命を殺しているのか、とい
うと、病人なら病人が苦しい痛い辛い、と思い煩っているだけでは、生命は死んでいます。と
ころが、ねたきりであってもクどうか私たちの天命が完うされますように、子供や孫たちの天
命が完うされますように、守護霊さん守護神さんお願いします。世界人類が平和でありますよ82
うに” と祈っていれば、その想いは守護霊、
ら、生命は立派に生きているのです。
守護神につながって、光と合体しているのですか
生命を生かし切るためには
生角ぴよう旨り)直翼け
第一に神がいますことを信じること。
第二に自分の生命が神より来たものであることを信じること。
第三に、守護霊、守護神さんを通して神さまを想うことです。
小さなことはさておいて、まず神さまにつながり、神のみを自分の心に住まわしめて、一向
専心、守護霊さん守護神さん有難うございます、と祈っていれば、生命を生かしていることに
なり、やがて天命を完う出来るのです。
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように83
私の天命が完うされますように
という祈りならば、病人にだって、老人にだって、子供にだって出来るやさしい祈りであり、
しかも世界人類のため、日本のために非常に役立つ、高い愛の祈りであるのです。この祈りを
している生命は光り輝いて、完全な生き方をしているのです。日々のあたり前の勤めを果しつ
う、この大きな祈りをしてゆくことは尊いことなのですよ。
人間本来の生命は、神より来たる聖霊なのであり、光なのです。清浄そのものなのです。
84
不幸は乗り越えられる
昭和30年2月13日市川五丁目会館
不幸は乗り越えられる
人間の本体は永遠不滅の生命である
人間は普通、五十年から七、八十年しか生きられないものと思っています。ところがこれは
大間違いで、人間は本当は、生きつづけに生きる生命なのです。肉体の人間は五十年多くとも
せいぜい百年しか生きられないのですが、真実の人間は何億万年も生きつづけているのです。
話の初めからこんなことをいうと、随分おかしなことをいう、と思う人があるでしょうが、
人間という者はこの肉限では見えなくなって、つまり肉体は死んでしまっても、永久に生きつ
8蚤
いのち
づけている生命そのものなのです。肉体がなくなったらいのちがなくなった、と思うのは五感
のみで見るからなんであって、肉体が消滅した後も、人間のいのちは、ちゃんと活動をつづけ
わけいのち
ているんです。それを普通は霊というのです。人間は大生命の分生命、大霊の分霊なのです。
人閲は肉体が消滅した後、幽界或いは霊界という肉眼では見えない世界で、肉体界と同じよう
に神性の理念、み心実現のために働きつづけるのです。
肉体界というのは、大神の理念の一つの表現場所なのです。そして肉体人間の一人一人はそ
うつわ
の器、入れ物なのです。その器であり、入れ物である肉体人間が、その中味の神様を知らず、
或いは知っていながらも忘れ果て、場所であるべき国々が、おのおの勝手な行動をしはじめた
ことによって、人類の不幸が起ってきたのです。
だから人間の本体がいかなるものであるかを知れば、不幸は起らず、また起ってきても少し
も恐れずそれを乗り越えていけるし、その不幸を消すことも出来るんです。そういうことを教
えるために、お釈迦さまやキリストがこの肉体界に生れ、86
不幸は乗り越えられる
「人間は肉体だけじゃないんだよ。この五感で見える世界だけじゃないんだよ。五感に見え
るすべてを無いのだ、無いのだ、と打ち消し、空の境地になりさえすれば、真実の人間の姿が
はっきりわかるんだ。その真実の人間は神様の子であって、そのすべてが力を合わせれば、神
様そのものの姿が、この地上世界にもはっきり現われてくるんだよ」
と教えたのです。しかしそれから二千年、三千年たっている今日になっても、まだ人間は自
分の木体がわからないんです。それで現代に私のような人が現われて、
「あなたが不幸だ不幸だ、と思っているその想念はあやまりですよ。不幸のように見えるけ
れど、それはみんな過去の誤った想念が、現われて消えてゆく姿なんですよ。人間の本体は神
の子です。すべての悪い事態を消しつづけてゆけば、必ず善のみの姿が環境に現われてくるの
ですよ」と教えるのです。
87
88
不幸は過去世の業の消えてゆく姿
人が貧乏や病気など、いわゆる不幸で苦しんでいるのは、大きな高い目から見れば、本当は
かわいそうではないのです。かわいそうだな、と思うのは、肉体そのものが、人間そのもので
あると思う感情から来るものなのです。
人間がこの世に生れて来たのは、過去世からの悪業(間違った想いと行い) を消しながら、
大神の光一つに生き通しに生きている生命、つまり天命を生かすためなのです。
今、不幸と現われている姿は、本当は天命を現わすために不幸を消しながら、光明界へ光明
界へと前進している姿なのです。もし子供が病気などになっても”あ玉これで悪いものが出て、
浄まってよくなるのだ”と思って、お医者さんに診せていれば、病気は消えてゆくのです。
幼児などの病気は、両親や兄姉親戚などの「これで業が消えて必ずよくなるのだ、この子の
真実の姿が現われるのだ」という深い祈りがあれば、知らぬ間に治ってしまうものです。そう
不幸は乗り越えられる
した祈りをつづけていて、たとえ死んだとしても、周囲の暖い高い祈りにつつまれて、霊界の
高い位置をしめることが出来るのです。
現われ出た不幸をそのまま不幸である、と思って苦しみ、悩むのは、人間の本体を知らない
からです。人間の真実の姿、生命の根源を教え悟らせるのが、宗教の根本なのです。
冬来りなば春遠からじ
貧乏な人に金をやっても、それは一時の救れであって、本当に幸福になったかどうかわから
ないでしょう。金をくれた人に感謝はするけれど、その人が人間の本体を悟らない限りは、真
実の救われ方はしないのです。一番せっぽ詰った時が、幸福への門を開きかけている時なので
す。不幸と見える姿は、幸福に転回する姿なのです。冬来たりなば春遠からじ、なのです。
その原理を知るか知らぬかによって、その人間の運命に大きな差異が出てくるわけです。で
すから今迄の心の間違いは仕方ない、それが消えるために、一時は不幸と現われるかも知れな
89
い。しかし真理を知りさえすれば、どんな不幸も、ついには消えて、善なる環境だけがその人
の世界に現われてくるんです。
真理とは何か、というと、いつもいっているように、人間には肉体の他にそれを生かし働か
せている肉体以外の自分がある、ということを信じることなのです。直霊、守護神、守護霊、
分霊、それが真実の自分であることを知ることです。
肉体を動かしているものは、肉体以外の自分であるとわからなければ、不幸は絶えません。
肉体以外の世界、神の国を想わなければ、この世界に真の平和は来ないし、個人個人がそう求
めなかったならば、肉体界には幸福は来ないのです。
人間よ勇気を持て
本当をいえば、不幸というものは、
分が創ったものなんです。
自分が創ったもので、運命というのも、やはりもとは自
qq
不幸は乗り越}られる
或る宗教家に、先祖のさわりで、あなたたちが不幸になっているといわれた人が「先祖のさ
わりで子孫の自分が不幸になり、苦しむなんて不都合ではないか」と私に質問して来たんです
が、先祖というのは、結局、自分の過去世であるわけで、その時の誤った想いや行動が、現在
の自分に帰って来ているんであり、先祖のさわりというのも、実は自分が創ったものなんですQ
ですから、その運命から逃がれようとせず、出て来るものはいさぎよく受けよう、という一
大勇気と、出てくるものは必ず消えるんだ、消えてゆくために出て来たんだ、これでよくなる
んだ、守護霊さんや守護神さんが加護して、必ず消して下さる、有難うございます、と強い信
念を持つことが大切なんです。
人間よ、勇気を持て、です。
どうしようもない能力の差はどこからくるか
人間は生れてくる時から差別があります。能力の違いというのは当然あるわけで、全部が同91
じ象件で、同じ環境から出発したとしても、次第に各自の環境や生活状態は異なってゆくにき
まっています。それは各自の能力の差異によることが多いわけです。
三十才、四十才で再び条件や環境を同じにして出発させても、また必ず地位、財産、知識な
ど、各自の環境に善悪、高低が出来てくるに違いありません。どうしても不平等の結果に終る
のです。
能力の差があり、運命に違いのある以上は、その環境が平等になることはありません。この
能力の差はどこから生れて来たもんでしょう? 前世があるからなのです。前世で生命を生か
したか、生かしていなかったか。真剣だったか、怠惰だったか、の差がそうなるのです。
生れたばかりの赤ん坊にも手相があって、その子の運命がどういうものだかわかってしまう9
どうしてかといえば、前世の想念行為が手相にあらわれているんです。手相、人相、易学など
るいせき
は科学的累積による推測から、これはこうだ、というわけです。何々という姓名で、何月何日
何時何分に生れたということにより、その人の運命がわかるということも、やはり過去世から92
の想念行為(業)が生年月日や姓名にあらわれているということなのです。
どんな運命も必ずよくなる
不幸は乗り越えられる
観相学、手相学、姓名学などでは、この人はこんな運命だな、と一応わかるんですが、困っ
たことには、将来の悪い事態が見えるので、ついその悪い予見をその人に知らせる結果になっ
てくるわけです。
たとえば、何才になれば肺病になるとか、何才の時には破産の運命がある、とかいってしま
うのです。こういわれていい気持がするわけがない。それが自然に潜在意識に入ってゆき、そ
の年に肺病になったり、破産したりしてしまうわけです。
運命は過去世の因縁で一応出来上っているんですが、その過去世の因縁を消しきってゆけば、
現実の運命としては現われずに済むことがたくさんあるんです。
しかしおまえの運命はこうなのだ、と悪い運命を思いこませてしまっては、なかなか消しに
93
くくなってしまうのです。
不幸を認識しては、守護霊、守護神の運命修正の光が入りにくいんです。それは心が不幸の
ぽうに、暗いほうに向ってしまって、明るい光の方向、天の方向に向かないんで、光を注入し
にくくなるのです。ですから、どんな不幸も否定して否定して、消しぬいて、明るい心、光明
心に導いてゆかなければならないのです。
「どんな運命も必ず変るんだ。運命はつくりなおすことが出来るんだ、と守護霊、守護神の
力を信じて、一心に感謝をささげつづけてゆけば、あなたの運命は必ずよくなるんです。運命
の悪さをすべて否定してしまいなさい」
このように、その人の不幸を恐れる心を否定して消してしまい、安心を与えれば、不幸なん
て出て来ないんです。出て来ても、少しの不幸ですんでしまうわけです。
不幸と現われるものをそのまま不幸と見てはいけません。それは消えてゆくのです。消えて、
これから必ずよくなるんです。人間の心の中から、すべての恐れ、私の運命は悪いんだ、とい94
不幸は乗り越えられる
う悪い想念をすべて消してしまうんです。消えたと思う時、それは消えてゆくのですから、追
撃するように消えてゆく、消えてゆくと、強く想うことです。そうしてゆけば、あなたの運命
はよくなってゆくのです。消さなければ幸福になりません。
「守護霊、守護神を想えば、悪や不幸は消えてゆく姿になるんですよ。だから大丈夫です。
悪や不幸は消えてゆくのですよ」といわれれば、不幸というものに把われずに、心を放してみ
ることが出来るから、結局、運命は開けてゆくのです。
ひたすら守護霊にすがれ
不幸なんていうのは本当はないんです。それは現われ出て消えるか、現われないで消えるか
して、なくなってしまうものなんです。不幸はぐるぐる廻っている業想念ですから、それから
外へ出てしまえば、業はネジのほどけたぜんまいのように、とけてなくなってしまうものなの
です。現われなくとも消えるというのは、夢で守護霊が消してくれることなんです。現実に、95
不幸災難と現われないうちに、夢にして消してくれるのですから、大変大きな助けなのです。
感謝すべきことです。
現われ出てくるすべてのものに対して恐れず、これは過去の業の消えてゆく姿、これでよく
なるんだ、と断然想えば、いかなる現れでも消えるんです。またそう想うことによって、魂は
ずっと浄まり高まり、本来の光、神の子が現われてくるのです。
私は不幸に生れたのだから、不幸になるに違いない、と不幸な想いをいつも出しているから、
類が類を呼んで、不幸をますます創ってしまい、業の渦中に溺れてしまうのです。この業から
心を放すということは、想いを神様の中に入れてしまうことなのです。魂の親であり、祖先で
ある守護霊、守護神を想うことです。
想いは一時にただ一つしか出せないんですから、業のほうはそのままにしておいて、神様の
綱をしっかり握るんです。そしてその太綱につかまって、神様の世界に自己の想念を昇華させ
てしまうことです。そのうちに、業は空廻りして消えてしまいます。肉体の生活をする以上、96
不幸は乗り越えられる
不幸のことを想ってしまうのはしようがないことです。しかしその時、それは心の底に潜在し
ていた想念が、表面の想いとなって現われ出て消えてゆくんだと想い、守護霊、守護神にすが
ってしまうことが大切です。
神の光に心をひたすら寄せていれば、闇である業は自然と消えてしまうのです。
自分も人も責めては救われない
不幸になったのは、あなたの心の影ですよ、あなたが弱いから、あなたに愛情がないから不
幸になったりするんです、というような心の法則では、不幸を根本からなくすことが出来ませ
ん。宗教に入ってくる人は、自分が弱いから何か大きな力にすがってくるんです。そうでなく
とも弱い人間に向って、あなたが悪いからと責めたり、自分をいじめさせたりすることは、本
当の救いにはならないのです。
短気の人に向って、短気の心を起さなければいい、捨てればよい、といったって、そう簡単
97
には出来ません。短気の心を起してはいけない、いけないと我慢するんでは、短気はなおりま
せん。短気をおさえよ、怒ってはいけない、といっても、過去からめぐりめぐって来た想念が
押し出されてくるのですから、どうしても怒ってしまうのです。それに、これではいけないと
押えつけてしまうことは、業を圧縮してしまうことであって、消すことにはならず、たまりに
たまると、ついには堤防が切れて大洪水となり、自分が溺れてしまうことになるわけです。
短気はいけない、何々してはいけない、と業をまた中へ押しこんでしまって、不幸を蓄積し
てはいけません。怒ってしまったら、しかたがないから、すぐあやまる練習をすることです。
すべては業が消えてゆく姿なのですから、”ごめんなさい、もうしません” と素直にあやまっ
てしまうのです。また怒ってしまったら”ああ消えたんだ、もうしません、ごめんなさい” と
消してしまうのです。何べんでもよいから消してしまう。徹頭徹尾消すことです。そうすれば、
業は有限なものですから、消えてしまうのです。そして生命は永遠なるものですから、光明燦
然と光り輝いて、怒りの業を消しきってくれるのです。
98
不幸は乗り越えられる
“消えてゆくんだ
“と想う心は光の心、真実の心なのです。直霊(神) に分霊魂の心が”ご
めんなさい”とあやまるような感じで、業を消してゆくわけです。
宗教をやろうとする人は、向上したい、よくなりたい、と思っている人ですから、心の法則
で責めたり、きめつけたりしては救われません。冷酷な言葉は人を救いはしません。
“私はなんて駄目なんだろう、私は悪いんだ
“という自己否定の想いは、何度もつづけて想
うもんではありません。一度そう思ったら、そういう想念もすべて神様に返上する気で、守護
霊、守護神にまかせてしまうのです。
神様は悪い人間を創ったことはありませんよ。ですからダメな人間だとか、悪い私などと想
えた時は、やはり過去のあなたの業が消えてゆく時なので、それだけあなたが光ったことにな
るんです。業を消して消しぬいて、本来の人間の光、神の光が出てくるんです。
99
肉体は神の器である
肉体というものは、神ではありません。神ではないけれど、神の光を受ける器であり、神の
光をこの地上に輝かす場所です。
自分だけの利益のみに働いている肉体は、神の器でなく、業想念(自我欲望) の道具です。
人類のためとか、社会のためとか、広く広く働いていると、神の器になるのです。神がこれを
用い給うわけです。自己向上のために、人のために生命を生かしている肉体は神の器です。あ
くまで肉体は器であって、それを動かし、その内に働いている力が光明燦然たる力、神の生命
なのです。
みこころ
キリストは”吾は神の子なり” といって、肉体は器であることを知っていました。御意なら
ば、と神にまかせて、彼の肉体は十字架の上にはりつけになり、消えましたが、キリストの生
命は光り輝いていて、今も神界で働いておられるのです。
100
不幸は乗り越えられる
或る小学生が、キリスト教説教大会の看板を見て、急に教会にゅきたくなり、お母さんにせ
がんで連れていってもらった。外人の牧師さんが説教していると、背後で光り輝いたイエス様
が手を振りながら一生懸命話しているのが、その子に見えたんですね。そのイエス様を見てい
あ
たので倦きなかったけれど、日本人の牧師さんの時は真暗で光もなかったので、つまらないと
いうのです。そこでその子のお母さんが「五井先生はどうだい?」ときいたら「五井先生は神
界の五井先生が光っているんだもん、五井先生は五井先生よ」と答えたそうです。ということは
どういうことかというと、私は直霊と直結しているということで、肉体は器、本体は神界にあ
る、とよく知っているんです。私という肉体の個人はなくて、この肉体は神に場所として提供
してしまってあるのです。ですから、いってみれば神の広場になっているわけです。こうして
肉体の私が話しているように見えるけれど、実は、神界の直霊の五井先生が来て話しているわ
けですから、五井先生は五井先生なんだというわけなのですね。
101
真の救いは神我一体の光から
102
こんばく
人閻はみな、神界に直霊がいて、肉体には分霊が霊魂塊として働いているんですが、それを
知らないと、深い智慧が出て来ないのです。
「たいていの宗教家は、直霊と分霊との一体化で力が出ているのではな
く、背後に神霊あるい
は霊人などがついて、その宗教家をコントロールして、その人を使うのです。ですから使命が
なくなってしまえば、背後でその人間を支配し、使っていた神霊、霊人は離れてしまい、もと
のその人個人になってしまうわけです。自分一個、あるいは教団の利益のみにとらわれ、特に
金銭的によごれて来たら、神霊、霊人は容赦なく、これはもうだめだ、と離れ去ってしまって、
低級霊団の働き場所になってしまうので菖
私 の場合は、あくまで神界に在る私の直霊が主であって、他の神霊や霊人はその直霊の了解
の下に、私の肉体を通していろいろな働きをするわけです。皆さんの守護神、守護霊も私の直
不幸は乗り越えられる
霊の了解を得て、私の肉体の背後にいるんです。そしてあなた方に私を通していろいろな指導
や光を与えているんです。
自分自身が直霊と一つになって神となり、自分自身の智慧が神智とならなければ本当ではな
いわけです。ある時は高い心境になり、ある時は曇って低いのでは、ほんものではありません。
宗教指導者は常に変らない光で、一点の曇りもない、ということにならないと、真の救いは
出来ないのです。宗教的狂信者は、その人の宗教以外はわからなくなり、善悪の判断もつかな
い盲目になってしまって、その人の宗教以外を排斥するんですが、これでは困ったものです。
しっかりと相手の本体を見つめる眼を持つことが大切です。本心からの言葉だろうか、それ
とも業生の頭脳からの言葉だろうか、よく見極めてゆくことが大事です。本心からの言葉は、
魂の奥底から出た真の言葉であり、魂をつらぬき、魂にしみこんでゆく言葉です。
103
104
真の芸術精神は宗教精神と一つである
昭和30年2月13日市川五丁目会館
自然を通して神を求めよ
人聞とか、自然とかの本当の姿を見極めてゆくことが、宗教精神であり、芸術なのです。
バッハ、べートーヴエソとかミヶランジェロやロダソという素晴しい芸術家等は、皆肉体の
頭で作曲したり、彫刻したりしたのでなく、直感に感じて作ったのです。
べートーヴエンは耳がきこえなくなってきた時にょりよい作曲をしました。ということは、
天来の声をそのまま作曲して、音楽に表現したのです。それが素晴しかったのです。即ち直覚
真の芸術精神は宗教精神と一つである
であらわしたわけです。
彼は前生においても相当音楽を勉強したし、天与の才能を磨いていたので、すべての自然の
動きや天来の声をきくことに慣れていたのです。それに彼はヨガなどの、印度哲学、神秘宗教
を研究していて、宗教精神も養っていたのです。彼もまた霊覚者だったのですね。
本当の芸術精神は宗教精神と一つなのです。神様、神様とただ手を合わせているだけでなく、
目に見る、耳できく、自然を通して神の姿を見出すことの訓練も必要です。
道ばたの雑草を見ても、ふとけとばした石ころを見ても、或いはどんな花を見ても、ああこ
こに天地の生命が、その一点に集中してこの石となり、草となり、花となっているのだなあ、
と想うことができるような目や心を養うことですね。
よい詩、短歌などをなるべく多く読み、或いはよい音楽とか絵を数多く聴き、見て、心を鍛
錬していると、奥の本体を把握してゆくことが自然にできるようになるものです。
105
106
くさみのない人間になろう
宗教的方面から、その本体を見るか、芸術的方面から見るかは、各人それぞれ違ってくるで
ヘヘへ
しょうが、一体に宗教をやる人というのは、変にいやなくさみがあるのです。私は皆さんが、
くさみのない人になって頂きたいと思うのです。
宗教的くさみをとるためには、本当の美を探求して、芸術の目を養うことです。そうすれば
くさみもなくなり、凝り固りも消えてきます。
宗教心というものは、表面にあるわけでなく、内にもあるもので、内に内にと入ってゆくも
のです。これ以上は、という絶体絶命になって、たまらなく溢れ出るものなのです。自然に滲
み出てくるものであって、すうっと相手の魂にしみこんで、光を与えるものなのです。そうな
めめ
るため、仕事のひまには、常に花を愛で、草を愛で、あらゆる自然を賞する心を修錬する必要
があるのです。そうすれば神様がたくまずわかってきます。
真の芸称r精神は宗教精神と一つである
言葉で神様、神様といってばかりいては、宗教の一つに固まってしまい、いかにも、私は宗
教をやっています、というくさみが出てくるのです。言葉にはいくらでもいえるし、現わせる
でしょうが、しかし神様を日常生活の行動に現わしてゆくことが、望ましいし本当なのです。
真の芸術とは神と一致したひびき
いつすい
宮沢賢治や吉田一穂や北原白秋などの詩はその言葉がどういう意味なのか、一つ一つの意味
はわからないものがあるけれど、読んでいると音楽のようにひびいてくるのです。言葉の解釈
はできないけれど、流れてくる素晴しい生命を感じるのですね。
流行歌などは、言葉はわかるのですが、聴いていても、一つも感動をうけず、ただ五官の感
うわつつら
覚を軽くくすぐるだけです。そんな上面を流れてゆくだけのものでは、芸術とはいえないので
ニ
す。芸術というのは、胸の中にしみこんでくる、五感を超えたその奥にひびいているものなの
です。lA7
ひそう
チャイコフスキーの「悲愴」なども、非常に悲しいものですけれども、聴いている内に悲し
みが極限にきてしまって、胸にしみ、何か心がきれいに洗われてよろこびを感じてくるのです
よ。
芸術というものは、心の底の底までしみこまなければならないものであって、心が知らずに
浄化されてくるものなのです。
ベートーヴエンの第六交響曲「田園」や、「第九」交響曲にしても聴きなれない人はうるさ
いと思うでしょうけれど、じっと聴き澄ましていれば、単なる音でなく、神と一致したひびき
が心に入ってきて、何ともいえない気持に澄み切ってくるのです。ですから心を澄まして、じ
っと見たり、聴いたりする心を持たねばなりません。この心を養わなければ、人生は浄くなら
ないのです。
文学にしても、残念ながら日本文学は、トルストイやドストエフスキーやユーゴーなどのよ
うな、高いひびきを感じさせるものがありません。胸にしみて入ってくるものは殆んどといっ↓
Q8
真の芸術精神は宗教精神と一つである
ていいほどありません。私小説など、つまらない巷の何もならない生活が書かれてあるのみで、
一つも心を打たれるものがありません。うらぶれた長屋の庶民の暗い生活など書いてもわるく
はありませんが、その文脈の中に、にじみ出るような愛があって、読者の胸に光が自然に入っ
てくるものでなければ、価値はないのです。きたないものを書いても、その底にきれいな光、
暖い流れを感じるものを書けばいいんですけれどね。
林芙美子などは、貧乏な苦しい生活のことを書いているけれど、なんとなくよいですね。そ
れが小さいものだけれど、愛の光をちらりちらり感じさせるものがあるのですね。
情操教育には天来の美しい作品を
お父さん、お母さん方は、子供たちに魂に喰い入ってくるような美しいもの、また魂を鼓舞
させる、心を明るくさせるようなよい本を読ませることです。それにはまず、親が読んでよい、
と思った本を読ませることです。肉欲文学などは読ませることなく、生命が光っているものを㎜
読ませることです。10
1
文学の価値は文章の上手、下手にあるのではなく、内にあるひびきの高低にあるものです。
高い心のひびきを持つものは、高い文学といってよいでしょう。文章が上手なら、勿論それは
よいですが、内なるものの価値が大切なのです。
「何故、この子はこんなよい宗教の本を読まないのだろう」と押しつけることはいけません。
宗教などに片寄らずとも、芸術の広い世界から宗教精神を感じさせることができるのです。そ
うすることが大切です。
美しい音楽、ひびきの高い文学でも、よい絵でも、始めは慣れないでつまらないかも知れな
い。だけれども、じっと心を静め澄ませていれば、天来の素晴しい音、ひびきを感じられるよ
うになります。親たちはこの素晴しいひびき、色の美しさ、澄み透る流れを憶えて、子に伝え
る、、へきです。
地位の獲得や出世や金儲けなどに大概懸命になるけれど、これらは皆消えてゆくものです。
真の芸術精神は宗教精神と一つである
儲けよう、名前を売ろうとの欲だけで、世に出るのでは駄目です。何か人のためになることを
やろう。世のため或いは国のために何かしよう。というような心を持つように、子供たちを導
くことですね。それには、偉人の伝記などもよいでしょう。偉大な一人の人間が通ってきた道
は、必ず心を高め、深めてくれるに違いありません。下手な説教よりはずうっと為になるので
す。
芸術的雰囲気のある宗教を
芸術と宗教をうまくとり合わせてゆくと、その人に潤いが出てきます。理屈ではなく、直感
的ひらめきが出てくるようになるでしょう。ともすれば、一定の理論にかたまり易い宗教者の
日常生活に、潤いを出すことが大切です。私は芸術的雰囲気のある宗教、そんな宗教であって
よいと思うのです。
感情を高めなければ、人間はよくなりませんし、情操ある人間、高い感情をもつ人間にさせ
111
るのが、宗教の役目でもあるからです。112
一番大事なのは感情です。立派な感情をもった人は人類を高めます。哲学思想だけで、それ
が行為として現われぬ以上は、頭脳の遊びになってしまいます。
偉大な音楽家の偉大な音楽は、習いおぼえたお説教や哲学思想より、直接、素直に、高いひ
びき、神のみ心を胸の内奥にひびかせるのです。この素晴しい音楽をかなでることによって、
世界がどれ程潤っているか、それは考えもつかないくらい偉大なことなのです。
最後の一分間までも高い理想に生きよう
何回もいうようですが、よい音楽を数多く聴くことです。音楽にまさるものはありません。
ショパン、シューベルト、モーッアルトなどは三十代の若さで肉体を去りましたが、彼らの作
曲した音楽は、今もなお私たちの心を浄め、暖めてくれています。彼らの生命は永遠に音楽と
して生きているわけです。べートーヴエンなどは、霊界においては、高い霊団として働き、地
真の芸術精神は宗教精神と一つである
上界にあっては、ひびき高い音楽として働いているのです。
ヘヘヘヘへ
いかに現象世界において、明日喰べる米がなくとも、生きる時は生きるのです。生命のある
ヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘへ
限りは、米は必ず与えられます。これが原則です。ですから明日の米のことを思い煩う必要は、
本当はないのです。出来る限り今日の人事を尽して、そしてよい音楽を聴き、よい絵画を見る
余裕のある心をもつことです。そんなことはできない、生きるために、食うためにそんな暇な
どない、という人は、明日の米があってもよい音楽を聴こうとはしないでしょう。自分の肉体
を生かすことに追い廻わされてしまうのです。
人間は最後の一分間まで、高い高い理念で生き、心を神の座に据えておきたいものです。儲
かった、損したと金銭のソロバン勘定に一喜一憂しているだけでは、その人の人生は一体なに
になるでしょう。淋しい、生命の枯れたつまらないものになってしまうのではないでしょうか。
113
生活の中にこそ美の創造を
114
ある人はこんな歌を作っています。
美しきものにひかるる眼をもちてわが淋しさのはつることなし
こんな美しいものにひかれ、こんなに美を求めているのに、私の心からいつまでも淋しさは
消えない、という意味なのですが、それはまだ真実の美を知らないから淋しいのです。それな
ら美を求めるのではなく、一段上へ昇って美を創ってゆくことです。日常の生活の中に美しい
ものを創造して、美しいものを溢れさせることです。自分自身の内面生活を、常に神の座に上
げておくことです。眼にふれるすべてから、神のいのちを感じるような修錬をしてゆくことで
す。そうすればいつかは何を見ても美しいと思うようになってきます。
枯木の中にも美はあるし、地をはう根にも美はあります。自然から与えられた場所で、その
ままの生命を、素直に生かし切ったものには美があるのです。人間も天命をそのまま素直に喜
んで生きてゆかれるようになれば、その人の生活は美しいのです。
素直に自然を見、素直に人生を見てゆく人は、必ず神を見出し、美を見出します。素直な愛
念を心の内に充満させ、美しさがあふれて人に暖い、柔かな感じを与えてゆくものになりたい
ものです。
真の芸術精神は宗教精神と一つである
真の芸術は魂にふれ心を高める
真の極致、善の極致、愛の極致は美であります。女性の肉体の美しさを画いても、その画家
が肉体の奥にある本然の美、女性の本質を画かなければ、私たちはそれを美しいとは言わない
のです。それは五官のみの美しさ、消えてゆくはかない美しさであり、天に通じる美にはなり
得ないのです。
武者小路実篤氏の文学は、表現がとても幼稚なようですが、内には素晴らしい美があり、真
があります。本当のものを得た人、生命を立派に生かす人、美しい人、愛のある人になりたい、115
という思想が底を流れていて、この人の高い人格があふれています。聡
人の心を高める美しさ、浄める美しさ、勇気を与えるものは本当の美であり善です。そして
芸術作品なのです。人間の心を、感情を堕落させてしまうもの、天から離してしまうもの、こ
れは真の芸術ではありません。
高い音楽、高い文学は宗教とぴたり一つです。音楽は楽器を通して、人の感情に直接しみこ
んで光を与えているのです。聴いていて「いいなあ」と感じるのは、その調べの中に神を感じ
ているのです。
まことの芸術というものは、魂にふれてくるもの、五感の感覚ではない、何か魂が澄み清ま
るものです。何べん聴いても、見ても、読んでも、倦きず、その度に新しい生命を感じ、高い
ひびき(神)を感ずるものなのです。
人間は何故この世に生れてきたのでしょうか? キリスト教では、神の栄光を現わすためで
あるといいます。では神の栄光とは何であるか。それは神の美しさ、高い調べなのです。それ
真の芸術精神は宗教精神と一つである
を地に現わすために、人間は生れてきたのです。今はその過程にあるわけで、周囲はよごれて
いますが、いまに澄んできれいになります。目に見えない完全なものが、形ある完全なものに
ならんとしているわけです。その途中をつかんでしまって、きたない、苦しいと迷っているの
です。これではいつまでも真の美しさをあらわすことはできません。
病気で寝ていようと、貧乏であろうと、最後の一分でもよいから、心が真、善、美にみちて
いて、外に現わせたら、それで神の栄光をあらわしたことになるのです。いくら地位があり、
金があったとしても、真でも善でもない生活をすれば、その人の人生はゼロです。一分一秒を
惜しんで心の中に高い光を輝かせ、光のある生活をすることが大切です。
すべてから美しさを見出すカを養おう
人はいつも美を求めそして神を求めなければなりません。あらゆるものから美しさを見出す
力。これは神を求める力であり美を探求する芸術精神なのです。これがなければ人生はゼロで脚
す。181
愛の心の現れはすべて美です。愛のあらわれていないものは、形はいかに美しくとも醜悪で
す。愛のないところに美はなく、美があるところに愛があるのです。五官の美は仮の美であり、
愛のあらわれた美は真であり、善であります。永遠に生きる美なのです。これをあらわす人を
美の人、神の栄光をあらわす人というのです。
真善美は愛であり、神です。自分の魂の進歩は人生に美を与えているか、いないか、喜びを
与えているか、いないか、にかかるのです。今はできないけれど、いまに人によろこばれ、愛
のあふるる人になろうという心は美しいものであり、生命のまことの叫びです。祈りなのです。
一生懸命、真を探求することは美を外へあらわすことです。宗教の探求も毎日毎日すること
です。愛が現われているだろうか、真があっただろうか、と自分の心をじっと見ることです。
自分の心の中に真、善、美を芽生えさせ、実際の日常生活の行いの中にあらわしてゆくことが
肝要です。
日本を世界の光にしよう
昭和30年3月13日市川五丁目会館
日本を世界の光にしよう
音楽にも国境はあった
ソ連の名バイオリニスト、D ・オイストラップの音楽会に行って、非常に感じたことがあり
ました。音楽というものは、国家、イデオロギ!を超えたもの、人類の声なき声、言葉なき言
葉である、と解釈する考えが、彼の音楽を聴いて変ったのです。音楽にもその国の思想があり、
イデオロギーがある、としみじみ感じたのです。
彼の音楽は素晴しいんです。技術は完壁だし、音量も素晴しい。しかし、その音楽は私が今u9
迄聴いた欧米のどの音楽家とも、まるで異なる表現をしているんです。その後聴いた各曲を通30
ー
じて感じたことは、甘さが無いということなのです。センチメンタルの甘さは勿論、ロマンチ
シズムさえ私には感じられなかったのです。峻厳で厳粛で、荘重で、少しの遊びもむさぼりも
許さない、現実生活にしっかり根を下した美的表現なのです。春の美ではなく、厳寒の美なの
です。
たとえてみれば、実もあり葉もある、けれども花がない。というような表現に私は感じられ
たのです。ハイフェッツとかメニューインとかエルマンとかは、音楽の甘さ、大衆をうっとり
と陶酔させるようなものがあるのです。特にバイナリンという楽器には、甘い、悲しみをその
楽器そのものの音色にもっているのですが、その。ハイナリソという楽器を使いながら、その音
楽が少しも甘くないのですから、聴いてびっくりしたのです。
大衆をうっとりとさせるのではなく、厳粛にさせてしまうんです。こうした音楽を奏すると・
こんてい
いうことは、日頃から、夢想的な甘さの無い、現実世界にしっかり根抵をおいた国情の、そう
したイデオロギーの中で、その国家の枠内ギリギリに育てられていた者でなければ、表現し得
ないのではないか、と私には思われたのです。さすがにソ連の音楽家だなアと思ったのです。
彼の音楽を聴いただけで、ソ連の思想、国情が私にはわかったのです。
音楽にまで現われたイデオロギー
日本を世界の光にしよう
ショスタコヴィッチというソ連一流の作曲家がいますが、彼はかつて、ソ連最高委員会から
追放されそうになった、ということを新聞で読んだことがあります。彼の音楽はソ連共産党イ
デオロギーに反したものである、という理由でそうなったんですが、それを聞いた時、私は、
音楽を聴いて、それがその国のイデオロギーに合うとか合わないとかどうしてわかるのか、歌
詞がついていればその言葉の意味でわかるけれど、一体どういうのかと不思議に思ったことが
ありましたが、その疑問がオイストラップを聴いて解けました。
その夜のシェーマンの曲などは、ロマンチックで幻想的なものであり、それをバイオリソと↓
躰
いう甘い哀しみのある楽器でひけば、甘い哀しみに大衆をさそうにきまっているのに、ナイス塒
トラップが演奏すると、シューマンの甘い哀しみや、幻想味が消えて、全然異なった音楽にな
ってくるんです。地上的な現実の世界を感じさせるのですから不思議です。
同じ譜で弾きながら、何故こうも欧米のバイオリニストと表現が異なるんでしょう。それは
彼が純然たるソ連的イデオロギーの所有者であるからなのです。ソ連がいかにそのイデオロギ
ーを、あらゆる面において現わして行こうとしているかが、よくわかったのです。
とにかく、甘ったるいものは微塵もないのです。それがソ連だ、ということが、音楽の中に
も感じられたのです。激情を内におさえ抑えている民族の叫びというものが、楽器から流れて
くるのです。現実的な理念的なものがひびいてくるんです。現実の地のひびきで、天のひびき
ではないんです。素晴しい圧力を感じさせるけれど、心を陶酔させないのです。それほどソ連
は甘さをぬいて、現実の大地に根をしっかり下して、何事も現実的にとゆくのです。
日本を世界の光にしよう
日本人よ誇りと信念をもて
日本はどうでしょうか。日本人の国民性には、甘ちょろく、セソチメソタルなものが多分に
はんらん
あります。一方ではセンチメソタルの氾濫。一方ではニヒリズムの氾濫。一方では実際に役立
たぬ理想主義の氾濫です。根をしっかり張り、天へ伸びよう、大地をふみしめて天に昇ろう、
という歩みが非常に少くなっているのです。
理想主義を唱えても、実のない真似事が多く、またお涙頂戴のセンチメンタル、只単に表面
だけを見て、かわいそうにとすぐ涙を流す人たち。一方では日本なんてダメだ、日本人に何が
ひぎやく
出来る、という自己被虐的思想に流され、ふわふわと目先の利益、瞬間の快楽にあちらへ流さ
れ、こちらへ流されて、確固たる信念目標をもっていないのです。ソ連にくらべたら格段の相
違があります。
五力年計画、何力年計画と、現実をふみしめたその主義、その武力。政府の計画に相反する毒23
ものは、容赦なく全部切り捨てる、という苛酷な体制があります。そこには日本人のもっていユ
怨
るような甘さや妥協はありません。コミュニズムという絶対なる筋金が一本中心に通っていて、
だんがい
それに忠誠でない者はすべて弾劾してしまう。うっかりすればすぐ生命が飛んでしまう。それ
が厳粛なる事実だから、民衆は緊張しないでは生きられないわけです。ところが日本はそのよ
うな緊張は少しもありません。
ヒロポソの密造密売、収賄、強盗、殺人が毎日のようにある。政治は全く腐敗しきっていて、
何年計画というはっきりした目標をもった計画は一つもない。罪を犯しても罰はまるっきり軽
い。悪いことをしても、たいした罪にならないから、少しぐらいの罪を犯しても、悪いことを
して儲けたほうが差引き得だ、という考え方が自然にはびこってきて、正直者は馬鹿をみる社
会になってきているのです。
政府から民衆にいたるまで、今の日本人は非常に甘いんです。行きあたりばったりといった.
感じがするんです。信賞必罰ということがないのでは困ったことです。
罪をかばうことは愛ではない
日本を世界の光にしよう
宇宙の法則として、犯した悪は悪として必ず自分にかえってくるのです。それを人間の甘い
感情でその悪をかばってしまおうとする癖が日本人にはあるのです。
悪事をされたその当座は非常に憎むが、しばらく時がたってしまうと、その人間を、あれは
その時の出来心なのだから、重い罪にしては可哀相だ、とその人間の罰を軽くしたがるのです。
そしてそれが世論になったりして、法律家もその世論につい引きこまれたりして、罰を軽くし
てしまうのです。それは実に誤ったことなのです。犯した罪はすみやかにつぐなったほうが、
その人のためにもなり、社会秩序を乱さないためにもよく、国家の尊厳を維持するためにもよ
いのです。
いん
現実的に法律としては罪を犯していなくても、道徳的、宗教的に悪をしていれば、それを隠
ぺい
蔽すればするだけ、霊的にはその罪が重くなってゆき、死後の世界で地獄に堕ち、その数十倍
125
の罰を受けることになるのです。ですから悪をかばったり、許したりすることは愛にはならな
いのです。
誤ったことはすべて現われて、そして消えなければきれいになりはしません。ごまかして、
隠していては、霊的に枯れてしまうのです。日本人は一体に自分の悪をかくすと共に、人の悪
をも隠してしまう性質があります。それを善事と誤り思っているんです。
真の赦しと悔い改め
赦しというのは悪を赦すのではなく、その犯した人が悔い改めの心を起した時に、その人は
もうすでに良心の光にめざめた人なので、その悪は消えてゆく姿となるんです。そこで「あな
たの罪はもうないんですよ。あなたが悔い改めの心を起した時に、あなたの過去の悪は消えて
いったのですよ」と悪そのものを赦すのではなく、悔い改めた、新しく生れ変ったその人を赦
すのです。126
悔い改めとは自己を裸にしたことですから、罪はもうないんです。ですから常に、真裸の自
分をさらけ出し、出てくる悪はすべて消して、清い善いものをどんどんつぎこむことです。一
ぺんに浄くはなれないものですから、そうなるには、数多くの練習が必要になってくるのです。
罪の念をつけたままの人を赦すのと、すでにうちの光(良心) を出して罪を消している人を
赦すのとでは、まるっきり正反対になるのです。
日本を世界の光に
日本を世界の光にしよら
自由主義というものが入って来て、それが誤って考えられ、自分勝手というものにしてしま
いました。自分さえよければ、自分たちさえ楽になれば、自分たちだけが食べられればよい、
自分たちの範囲さえよければよい、という思想が国民の中にひろがっています。しかし国民全
部がそんな考えを捨てなければ、日本は立派に起つことが出来ません。そんな小さな、その日
暮しの考え方では、原爆、水爆を抑えることは出来ませんし、地球に真の平和は永久に来ない
12?
でしょう。世界平和、人類平和の祈りがなければ、原水爆を防ぎ、なくすことは出来ません。
一人一人の人間は人類につながっているものです。一人の人間なくして、人類はあり得ませ
ん。一人一人が人類のことを考え、人類の将来の幸福を思うならば、人間たるもの、世界人類
の平和を欲して祈らないものはない筈です。私たちは日本の国土にこうして生活しているので
すから、まず日本人は互いにいたわり合い、勇気づけ合い、一つに結集して、日本をしっかり
建設しなければなりません。
128
今を生きるが空なり
今を生きるが空なり
昭和30年3月13日市川五丁目会館
今とは何か
今とは何か。私の言おうする今とは、現在の時間的今ではなく、天地縦横、永遠につながっ
ている今なのです。
過去世も現在も未来もすべてを含んでいる今なのです。
今を開けば永遠がその中にあるのです。
そうした今を私たちは生かしてゆくことが大切だと思うのです。
129
私は現在満三十八才と何ヵ月かの肉体生命をもって皆さんにこうしてお話するような立場に
なっているけれども、突然にこうした立場になったわけではなく、前生の前生からの長い間の
魂磨きの修練がここにあらわれて現在の今になっているわけで、この現在の私の中に永遠の今
が息吹いているのです。
今と永遠というものは異ったものではないのです。今は確かに過去を含み、未来を内蔵する
永遠と同じものなのです。ですから今を真剣に生きるということは、過去を生かし未来を生か
していることになるのです。過去世を生かして、永遠の生命を全うすることになるのです。
くうくう
今を真剣に生き切れば、それは空になり、空の中にはやはり永遠の生命が生き切っているの
です。私たちの生命のひびきは空からひびいてくるのであり、永遠の生命からひびいてくるも
のなのであります。
永遠の今とは何時何分の今ではなく、一瞬一瞬の消えさるものではありません。宇宙のすべ
みなもと
てを含んだ、源の源なる大生命の流れにつながる今なのです。神と一体の今なのです。それは130
今を生きるが空なり
業因縁の現れの時間や場所を必要とする現在なのではなく、
た今なのです。
今を真剣に生かそう
その底にある、或いはそれを超え
今に真剣であるということは、過去世を現在に生かし、現在を未来に生かし、神の永遠の生
命を輝かすことになるのです。
今が永遠につらなっているものと信じて自己の想念、行動を今の一瞬、一瞬に生かしてゆく
ものは、輝く神性の具現者であり、栄えある神我一体の完全な人間像を築きあげ得るのです。
例えいかに悪しき過去世をもつものであろうと、今を生きることに真剣であれば、過去世の悪
業は善業に転回されて、生かされてゆくのです。ですから、今の一分一秒はゆるがせにできな
いのです。今を無駄に消費することは、生命を殺し、死なせていることになるのです。
一時一分一秒、生命をみがいている人、自己を向上させようと真剣に思い、行じている人は、131
いたずらに遊惰にかまけ、時間を空費している人とは格段の相違ができてくるのです。このこ
とに気づいた人は、早速、今を生かすようにつとめることが大事です。
心の栄養になること、魂にプラスすることを真剣に考え、今を生かしてゆかねばなりません。
人間の生命など刹那的なものだ。過去なんて、未来なんてない。人間は刹那、刹那生きるも
のだ。だからその刹那の生命をなるべく楽しむことだ。といって、五官の快楽にふけってしま
っては、それは空虚なものです。その刹那は永遠の今ではないのです。そうした行為は生命を
けつる悪業です。
神を宿す今と、業の今との見分けが大切です。前者の今を生かし切れば、遂には仏となり、
後者は空虚であるから、永遠に悟れず、己れの魂を枯死させてゆくのです。
今を生かす方法
では今を生かすにはどうしたらよいか。
132
今を生きるが空なり
まず肉体だけの自分でないことを信じなければなりません。永遠なる者、神から来ている者
わけみたき
であり、分霊であることを信じなければいけません。永遠の生命を信じなければいけません。
自分の本体は神として直霊として天にあるのだ、と信じることです。
自分が今こうして生きているのは、天の自分(直霊) からきている生命がここにこうして肉
体の自分として生きているのだ、と識ることです。
肉体の人間が睡っている時でも、天の本体(直霊) は休みなく働いています。そして肉体界、
幽界、霊界におけるその人間(分霊) の汚れを常に浄めている守護霊、守護神も休みなく働い
ているのです。
もし、肉体界の貴方が、すべてを天の本体(直霊)もしくは守護霊、守護神に任せきった空
の状態にあれば、貴方の直霊、守護神、守護霊は、もてるすべての力を世界人類救済の浄めの
ために出すことができるのですが、肉体界の人間は、常に肉体界という限界の中に思い悩み、
憂い悲しみ恐れて、天の本体との間をたえまなく業の波でへだててしまっているのです。その塒
ため守護霊、守護神はその浄めのために力をさかれ、大きな浄め、世界人類救済のほうに全力
を出し得ない状態に置かれているのです。ですから、肉体界の我々人間は、肉体界という限界
を突破して、天にある自己の本体(直霊) にいつでもつながる祈りをすることが大切なのです。
今、今の一瞬一瞬を、守護霊、守護神のほうに肉体の自己のほうから昇っていって、というの
は、自分の想念を守護霊、守護神とぴったり一つにするようにしきりに想うことです。そうし
ますと、守護霊、守護神のほうから、こちらに降ってくる必要はなく、こちらの肉体側から守
護霊、守護神のほうに昇ってゆくことになり、浄めに非常な力がはぶけ、余裕ができるのです。
その余裕力が世界人類という広い、大きな浄めのほうに廻わせるわけなのです。
134
世界人類の平和を祈ることです
そこでもう一つ突き進んで、肉体側のこちらからも、世界人類の平和の祈りを致しますと、
その祈りは、天の本体(直霊)や守護神、守護霊と等しき祈りになりますので、その瞬間は肉
今を生きるが空なり
体をつつむ業(汚れ) は一挙に突破されて神我一体となるのです。今の一時、一時をこうした
大乗的祈りにしてゆくことこそ、真に今を生かし、神の生命を生かしきっているということに
なり、真の世界平和の到来を促進させることになるのであります。
肉体は力弱くとも本体は光明燦然として、天で働いているのです。この肉体は自分の魂をき
よめ、磨きつつ地上界に天の意志、神の創造を実現しようとしているのです。
私たちは駄目だ、の自己否定は肉体智だけの己れを見ているからなので、そうした考えでは
本体は充分に働くことができません。
全運命を守護霊、守護神にお任せの心境で日々の仕事をしていれば、本体は地上の働きより、
何万倍かの働きをすることができるのです。
よい世界をつくるには、すべての想いを守護霊、守護神につなぎ、そしておまかせして、直
霊本体の働きよいようにすればよいのです。だから素直であることは大切です。素直に神様に
まかせきっておれば、神様がそれだけ働きやすくなるのです。135
常に自分の本体は自由自在に働いている。本体は神と等しいものである。と信じつつ、与え
られた仕事を誠実にやっていれば、真実なよい世界が早く、すみやかに実現してくるわけです。
安心してあせらず、楽天的に明るく、今を生かすことに一生懸命になっていれば、世界はそ
のまま光になってくるのです。
真の祈りは神自身がするのです。想いをすべて神様の中に溶けこませている、ということは、
肉体のほうが不動心であるから、神の光が天からそのまま入ってくるわけです。ですから素晴
しい力が出てくるのです。
136
真の祈りは生命の宣言である
いのちのいのち
祈 りということは、自分の生命を宣り出すこと、生命の宣言ということなのです。「私の生
命は神と一つである。神の生命なのである」という宣言が祈りなのです。
自分の肉体頭脳が祈るのではなく、宇宙神にむかって、直霊分霊が「私はあなたと一つで
今を生きるが空なり
す」と宣言するのが祈りなのです。
私なんか祈ったって、ということは聖霊をけがすことで、一見、謙遜そうに見えるけれど、
ひげ
それは卑下慢心でかえって困ったものなのです。
肉体を動かしている生命と、宇宙に充満している生命との合体が祈りなのです。ですから、
人類の平和を欲し、世界の平和を人間は欲するのです。お願いするのではなく、平和であるの
だ、と宣言するのです。平和の祈りが宇宙神と一体となり、地球を覆う迷いを光で消すのです。
生命と生命がむすびつき、宇宙神と直霊ー分霊とがむすびつくわけです。そして、神の力が
そのまま流れ出てくるのです。ですから、本当の祈りは強いんです。
世界平和の祈り
小さな願い事は頼まないでもきかれているんです。救って下さい、と願わなくとも、
救われているのです。ですからそんな小さな願い事は次のことにして、
すでに
137
世界人類が平和でありますように塒
日本が平和でありますように
と大乗的に祈ることが、人間にとって、今節一にすべき大切なことです。
守護霊、守護神を通して、世界平和、日本の平和を祈っていれば、自分は宇宙に拡大してい
くうそくじつそうくう
るんですから、神と一体となっているのです。これが空即実相で、本当に空になっているんで
す。
神様! と思う時、想念は神様に入ってしまっているのですから、空になって、実相に輝く
のです。すると素晴しい力が自然に出てくるのです。
助けて下さい、とすがりつくのではないんですよ。それが宗教心と思うのは誤りです。あな
た方はもう救われているのです。人間の本体は光明燦然たる神様なのです。それがあなた方の
本体なんです。肉体はその道具なんです。その真理を知って、人類を救い世界を救いたい、と
おこ
いう大菩薩心を興して、神様がよく働けるように、守護霊、守護神につながり、世界と日本の
今を生きるが空なり
平和をひたすら祈ることです。
そうすれば不安はなくなり、不動の心になって来ます。それで、どんな苦しみが出て来ても、
この大乗の祈りをしている人は、していない人よりも、心の底は安心しているのですから、心
に余裕があって、苦しくとも気が楽であり、苦しみが終われば、魂は素晴しく飛躍するわけで
す。
あなた方の祈リが天変地変を防ぐ
ふつうの予言的宗教は、すべて天変地変があるぞ、といっています。しかし、私は天変地変
はない、と断言します。
何故ないのか、それは人間の本体を知った人々による人類平和の祈りがあるからです。
人間の本体を知った人々、及び真の平和を希求する人々による世界大平和の祈念によるので
す。いいかえれば、あなた方が世界平和の大悲願の祈りをして、天変地変を消すようになって139
いるのです。ここにいる人たちは天変地変をふせぐ重大な力をもつ人間なのです。みなさん一
人一人が防がなければならないんです。もし異変が起ったら、病人も貧乏人も、金持も権力者
も、すべてが一様になくなってしまいます。だから天変地変をふせぐ世界平和の祈りをするこ
とは、大きな仕事であり、力なのです。
商売繁昌、病気の平癒、その他のこまごまとしたことを願うのもよいでしょう。しかしもっ
と根本を考えることです。
私たちが平和な幸福な生活を営めるには、まず日本が平和でなければなりません。日本一国
が平和であっても、他国が争って原水爆を二、三発日本に落せば、日本は全滅です。ですから
世界が平和でなければなりません。世界のどこかに戦争があれば、日本は平和とはいえないで
しょう。世界が平和でなければ、あなた方の生活も平和ではありません。幸福ではないでしょ
う。ですから何よりもまず、平和な世界、地上天国を築くことに努力することです。安心立命
して、調和して生きていられる生活が出来る国を建てることです。あなた方はその地上天国を
140
今を生きるが空なり
築くところの当事者なのです。早速今から働けるわけです。
守護霊、守護神につながり、世界平和の祈りをしていることは、地上天国建設のために重大
な仕事をしていることなのです。多くの人たちが、こう思って祈れば地上天国は早く出来るで
しょう。
地球を救うのはあなたです。
「私が平和の祈りをしながら生きているのは、人類平和のために立派な働きをしているん
だ」と堅く信じることです。そのことを真実に理解出来れば、どんなにうれしく生甲斐がある
人生になるかわかりません。
法華経と日本の平和
法華経には、人間とはいかなるものであるか、宇宙とはいかなるものか、真の世界とはどん
なものであるか、ということを説きあかしてあるのですが、衆生業火に焼かれるとも、法華経
141
行者は焼けず、滅亡しない、という言葉があります。421
法華経行者というのは、ドソブクドンブク太鼓をならし、近所迷惑もかえり見ず、やかまし
く南無妙法蓮華経をとなえている人たちをいうのではないのです。人間は神の子であり、仏で
あり、永遠不滅に光り輝く生命であると知って実行して、真に神と一つとなっている人たちを
いうのです。
神と一つとなる国は、他国がいかに戦争でやぶれ、滅亡しようとも、びくともしないという
ことなのです。
みなさんは明けても暮れても、神と一つなのだ、と祈りつつ、口常の仕事、家業を一生懸命
にする、神一元の生活にしなければなりません。これは日本の平和のための力、また人類を救
う力になるわけです。
誰でも仏になれる
1 仏性開顕1
昭和32年5月12日市川五丁目会館
神様の心は雄大です
誰でも仏になれる
よく世の中の人は、ちょっと金持になっている人や、ちょっと地位が高くなった人をみると
「あのヤロゥずるい奴で、悪いことばかりして偉くなった」というけれども、ただ悪いことだ
けして偉くなれるわけはない。悪いことをするだろうけれど、度胸がある。思いきってやる。
それで人がついてくる。人がついてくるということは、子分なら子分に与える力がある。魅力
があるということです。それは何かというと、一つのことに一生懸命、真剣にやれるのです。
143
金もうけなら金もうけに真剣なのです。金もうけに真剣ということは悪そうに聞えるけれども、
しかし一つのものに真剣になるということは、パッとひっくりかえれば、人のためにも真剣に
やれるということです。
大悪人が一ぺん回心すると、ほんとうに素晴しい善人になれるのです。聖者になったりする
のです。それは何故かというと、思いきってものがやれるからです。
いちいち重箱のすみをほじくりかえすような、小さいことばかり考えて、こちょこちょ生き
ている善人が多いでしょう。そういうのは命が生きていない。命が死んでいる。宗教などをし
ている人に、業の渦の中で、小さいゴミばかり探している人が随分多いんです。自分の心のゴ
ミを探す他に、人のゴミも年中探している。あの人は宗教をやっていて、あんなことをしてい
る、と人の悪いことばかり目をつけている。そんなけつめどの小さいことじゃ、神さまのみ心
にかなわないです。
神さまの心というのは雄大なものです。ドラマチックなのです。無限の広さでしょう。それ
144
誰でも仏になれる
を神の子供である人間が、いちいち人の悪いところばかり探して歩くようじゃだめ。それはみ
んな消えてゆく姿。自分の心を無限に広げなければダメです。無限に広げるということは、把
おれがなくなるということです。
把われをなくすには、やはりすべては消えてゆく姿とすることです。そして更に、守護霊さ
ん守護神さん有難うございます。これで私の本心が開くのだ、本心が開いて、神さまそのまま
の光が自分の中に出てくるんだ、と思うことです。
誰でも神さまになれる
誰でも彼でも成仏するんです。この世に生れてきた人で、仏にならない人はないのです。全
部仏になれるのです。なぜなれるかというと、仏が中に在るんだから、自分の生命の根本は仏
なのです。自分の中に仏さまがいるんです。仏さまがいるのに、仏さまはいないと思って、自
分は凡夫だ、駄目な人間だと思って、自分の仏さまをかくしてしまう。それで神も仏もあるも幽
のかとやっている。自分の中に、神さま仏さまを認めない人は、いつまでたっても神さま仏さ46
1
まになれません。自分の中に神も仏も認めた者は、やがては神仏になります。それを私は自分
で体験しました。
青年の頃、私は人間が神、仏になれるとは思いもしなかったし、そういうことを知らなかっ
た。大体霊魂のあることも知らなかった。しかしいつの間にか人間というものは霊なんだ、と
いうことがわかってきたのです。そして修行をして、それがますますよくわかった。守護霊が
人間のうしろで働いているのもわかりました。
生命を捨てざれば生命を得ず
なぜわかってきたかというと、自分の肉体のいのちを神さまに捧げたからです。「どうぞさ
し上げます。いいようになさって下さい」そしたら「よし引受けた」と神さまがおっしゃって、
今になったのです。キリストの言葉に「生命を捨てざれば生命を得ず」というのがありますが、
いい言葉です。
はじめの生命というのは何かというと肉体の生命のことです。肉体の我欲や、肉体を生かそ
ヘヘへ
うとか思う想いを捨てれば、ほんとうのいのちが現われてくるんだ、ということです。という
ことは、私のいうように、どんな不幸や悪が現われてきても、それは消えてゆく姿と思ってい
きさえすれば、ほんとうの命が出てきます、というのと同じです。
「生命を捨てざれば生命を得ず」というと、なんですか身投げでもしなければ悟れないのか
と思うでしょう。そうではない。キリストは消えてゆく姿といわなかったけれど、生命を捨て
るということは”消えてゆく姿”ということです。
誰でも仏になれる
安心の境地を得るコツ
今現われている想いは、どんな悪い想いがここに出てきても、それは消えてゆく姿なのです。
「私は修業しているのに、どうしてこんなに人を恨むんだろう」「私は修業しているのにどう蜘
してこういう妬み心が多いのだろうL 「私は修業しているのに、どうしてこんなに不平の心が48
1
多いのだろう」とそう思いますネ。人間はいい人であればなおさらそう思います。そう思う想
いも消えてゆく姿。
たいがいそこにひっかかるのですよ。二生懸命、先生のところに通って来ているのに、ど
うしていつまで不平の心が消えないのだろう、不安の心が消えないのだろうL そう思う人もあ
るでしょう。そう思った時に消えてゆくんです。わかりますか。それがわかっていると、すべ
て安心してしまうんです。一番大事なところなのです。
悪いことが出て来ても、その事柄として出てきた時に、消えてゆく姿と思うけれども、想い
として出てきた時に「あのヤロゥ憎いなア」という想いが出てきた時、その想いも消えてゆく
姿。「うちの夫は仕方がないなア」と思う想いも消えてゆく姿。「うちの子供はなんて悪いの
だろう」と思う想いも消えてゆく姿。不安な心が出てきても消えてゆく姿。
ノイローゼの人は、なんだかわからないけれど苦しいんです。どうしたらよいかわからない。
誰でも仏になれる
自分はダメなような気がしたり、不安になる。しかし、それも消えてゆく姿なのです。やがて
よくなる。それをあせって、
“ぼく大丈夫でしょうか、ダメでしょうか?
“
“ああ大丈夫だよ
“と私がいうんです。
大丈夫に決まっている。寿命がある人は治るに決まっている。寿命がない人は知りませんよ。
生れてから死ぬまで病気しつづけているということは、おかしいんです。病気なんてそんなに
長くしているものじゃないんです。必ずある時間で消えるんです。肉体も消えます。やがて他
の世界へ移るのです。引越しするわけです。引越しの場合は仕方がないけれども、そうでない
場合には、必ず治るんです。
消えてゆく姿に徹底する
それを治らない、と自分で思っているんです。自分は駄目だと思っている。自分がダメだと掬
思ったら、ああダメだ、と思う想いも消えてゆく姿と思う。消えてゆく姿と思ってもダメじゃ501
ないかと思う想いも、消えてゆく姿。また思ったらまた消えてゆく姿と思う。そういうように
思わなければいけないのです。般若心経でも、無、無、無、無といっているんです。迷いもな
い、迷いがないと思う想いもない。そのないと思う想いもまた無い、というわけです。それと
同じように、ダメだと思う想いも消えてゆく姿、どういう想いも消えてゆく姿、みんな消えて
ゆく姿。あるものは何かというと、神さまの命である人間だけしかない。神さまの命である人
間だけしかこの世にないのです。それを認めないと、唯物論と同じになります。
唯物論というのは、この世の現象の生活、物の世界だけで考えているわけです。肉体だけで
考えている。宗教家の中でも唯物論と少しも変らない考えを持っている人がたくさんいます。
それでしかも、神とか仏とかいっているのです。唯物論の考えでは、消えてゆく姿といおれて
は困ってしまう。お金をためても消えてゆくんじゃ困ってしまう。
ところがお金をためても消えてゆく姿、地位があっても消えてゆく姿、どんな立場も消えて
ゆく姿ということが、一ぺんわかると、今度は把われがなくなるから、ほんとの姿がさわりな
く出てくる。そして真実の自分の世界が出来る。自分自分がほんとうに天命を完うすれば、日
本はよくなるし、世界はよくなるに決まっています。自分が満足に物を思えないで、世界をよ
くしようと思ったってダメですよ。政治の不平をいってもダメです。
舞台の幕をあけろ
誰でも仏Y’なれる
物の世界をそのまま認めている限り、肉体の世界をそのまま認めている限りは、どんなに神
さま仏さまといおうと、それは唯物論です。
物の姿は消えてゆくんだ、物はみんな消えてゆくんだ、この世の想いはみんな消えてゆくん
だ、すべての想いはみんな消えてゆくんだ、というように、徹頭徹尾思わない限りは真実の世
界は出来ないのです。
幕をおろしておいて、舞台でいくらお芝居をしたって、客席からは何も見えない。神々が舞15↓
台で芝居をしている、一生懸命働いている。しかし幕を閉じているから、現われて来ない。だ
から、消えてゆく姿として、自分の魂、自分の本心をおおっている幕を開けば、舞台が見える
のです。舞台は神々の世界です。このことがわからなければいけない。わかってもらうために、
毎回毎回、私は同じことをしゃべっている。
これだけ知ってもらえればいいんです。いくら例え話をしてうまく話をしても、ああ面白か
った、だけで終ってしまう。消えてゆく姿がほんとうにわかれば、みんな消えてゆきます。ど
んな病気もたちどころに消える。なぜかというと悪いものは実在ではない、病気も不幸も貧乏
も実在ではないからです。それは消えてゆく姿です。消える期間が一年かかるか、三年かかる
か、十年かかるか、それは知りません。貧乏など一生かかるかもしれない。
153
この世界は想う通りになる
一生かかってもいいじゃないですか。消えてゆく姿で心が安心しているもの。”消えてゆく、
誰でも仏になれる
本心が出る。消えてゆく姿だ、これで本心が現われるんだ”と思いつづけて、五十になり六十
になり七十才になった。”先生はああいったけれども、貧乏のままで死ぬ。けれど来生で必ず
よくなる〃と思うのです。それでもいいじゃない論じ
だまされてもいいじゃないか。ところが欺しではないのです。ほんとうになるのです。なぜ
ならば、それこそ想う通りになる世界ですから、自分の想いの通りになるんです。だけれども、
それは過去世から今生にかけての想いの結果でなるのです。今、悪いことが現われていても、
あなたの心に悪が存在していても、それはあなたの悪ではなくて、過去世の悪が消えてゆく姿
として現われてくる。人にいじわるしても「あッしまった」と思ったならば、今あなたがいじ
わるしたんじゃなくて、前の世のあなたの想いがたまっていて、それがいじわるとなって現わ
れて消えてゆく。向うもいじわるされる因縁があって、こちらの因縁とぶつかって、お互いの
因縁が消えてゆく。
いじわるしたり、されることによって、あるいは喧嘩したことによって、消えてゆく。それ↓う
3
がうまくなると、いじわるをしなくなっちゃいます。喧嘩しなくなっちゃう。しようとすると、5←4
とたんに消えますから、そうなればしめたものです。いおうと思っても、ああこれは馬鹿らし
い、と消えちゃう。喧嘩する先に、消えるものをやったってしようがない、バカらしいと思っ
ちゃう。そうするとあせらなくなります。たとえお金がなくても、またあっても別にどうって
ことはありません。あればあるでいいでしょう。なくたっていいです。神さまは愛なのだか
ら、その人を食べさせないではおきません。ちゃんと食べさせてくれます。だから驚くことは
ない。
何か質問があったらして下さい。
問九月六日に大地震があるというのですけれど… …
そういう予言が実現するんじゃ困る。そこで世界平和の祈りがあるんです。
誰でも仏になれる
世界平和の祈りというものは戦争や、天変地変や、すべての不幸を消す光明の想いなのです。
世界平和の祈りをすると、神々の光が1 神々といいましたが、みなさんの元は神なのですよ、
だから世界平和の祈りをすると、あなた方は神さまの世界へ上っていくのです。そうするとそ
の光がスーッと流れて入ってくる。そして地にひろがってゆく。そうすると天変地変の想いが
消えてしまうんです。消えてしまえば地震も起らない。ですから九月六日に地震はありません。
もしあったら向うへ行きましょう。私が連れていってあげます。その覚悟は出来ていなければ
だめです。
人間はやがて死ぬんだから、死んだら大変だ、死んだら大変だ、と思っていたらダメですよ。
死んでもいいんだ。ただ行き場がなくては困るから、守護霊さん守護神さんありがとうござい
ます、と守護霊、守護神につながっていて、クどうか私の天命を完うせしめたまえ、私をよき
私であらしめ給え”と思っていれば、ちゃんと守護霊の世界へ行きます。守護霊の世界は霊界
だから、明るい明るいところです。塒
いつ死んでもいいんだ、という覚悟が根本にないと、ちょっとした何かにびっくりしてしま516
う。びっくりしない気持を養わないといけない。それが大事なことなのです。
般若心経の根本
昭和32年5月12日市川五丁目会館
本心と業想念を区別する
般若心経の根本
祈りというのは、神さまと一つになること。神さまの世界に自分の想いが一つになることで
す。
祈るということは、命が宣言されるといって、命が出ていくこと、いいかえれば、神さまに
つながることなのです。
念力というのは、あいつをひとつ眠らせてやろう、こっちの想い通りにしてやろう、ヤァー157
ッとやる呪術ですね。「あれから借金したいから、あいつをこっちへ向けさせてやろう、お金
518
が借りられる、借りられる… …」なんて想いをかける。それでお金は借りられるかもしれませ
ん。けれど、それは神さまのみ心ではない。念力です。
念力と祈りとをハッキリと区別しなければならない。本心と業想念との区別を私は教えてい
ます。本心というのは神さまの心、愛の心、真の心。業想念というものは神さまの心と迷いの
心とが半分半分入っている。あるいは六分四分、または八分二分に入っているかもしれない。
人間はつねに業想念世界の中で、神さまである自分が生きているんだから、業想念の世界を抜
け出していないと、その人の運命は開かない。
業想念の世界を抜け出すためには、どうしたらいいかといったら、やっぱり消えてゆく姿と
祈りによる他はない。ほんとうに祈りに徹すれば、消えてゆく姿もなんにもないんです。そこ
しぎそくぜくうくうそくぜしき
までゅくと、色即是空、空即是色ということになる。
しき
色は空にことならず色というのは物です。物は空であるというのです。空は色にことな
らず1 空は物であり、空から物が生れる、というわけです。
これはどういうことかというと、この世というものは、あるように見えるけれども、みんな
空なのだ、消えて、なくなっちゃうものなのだ。そして空だ、と思った時に、ほんとうの神さ
まの光が現われてくるんだ、ということで、般若心経の一番の根本です。
最後の一分間が勝負
般若心経の根本
すべてのものを、みな無し無し無しとしていけば、ほんとうの世界が開けてくるんだ、ほん
とうのあなたが現われるんだ、仏が現われるんだ、と話しているんです。仏教の根本はそこだ
けなのです。
法華経でもそうです。人間は本来仏であるんだ、ただあなた方が迷っているのは、想いが勝
手に迷っているだけであって、ほんとうの人間は迷うものではない、水にも溺れなければ、火
にも焼けないんだ、といっているんです。それを私が現代語で、やさしく消えてゆく姿なのだ塒
よ、と説いている。本心と業想念は別ですよ、と説いている。
本心と業の想いを一緒にしたら絶対にわかりません。救われません。本心は光り輝いて永遠
の存在なのです。無始無終です。始めもなければ終りもない。業想念というのは、始めもある
し、終りもある。だから消えてゆく姿とやっていれば、いつかは消え去ってしまって、本心だ
けが残るんです。ですから、最後の最後まで頑張らなければいけません。
どんなに悪いことが現われても、どんなに苦労の最中にいても、最後の五分間まで、最後の
一分間まで、ジーッと守護霊守護神にすがっていなければいけません。たいがい運命が開ける
ときは、最後の五分間、最後の一分間です。どうにもこうにもならないような、最後の土壇場
にならないと救われない。冬が一番寒くならないと、春が来ない。
真実の利益を得て下さい
それをあせってあせって、あせりぬいて、先生ご利益まだですか、まだご利益が来ないんで160
般若心経の根本
すが、といっている。ご利益ご利益といっている間はダメなのです。すぐ、楽々とご利益を与
えるような信仰があります。商売屋の人が入ったら、すぐお客がどんく増えたりすることも
あるんです。しかしやがて、あとでお返しがくる。なぜお返しがくるかというと、自分の心が
きれいになっていないのに、他からの応援だけで儲かったというのは、他からの応援というの
がそれだけ借金になるのです。善因がまだ出ていない、悪因がまだある。その悪因を消した上
でなく、あるその上に重ねてお金や物をもらったって、それは借金になるだけです。ご利益に
ならないのです。
ご利益というものは、自分の心が開いて、そしてはじめて出てくるのがほんとうなのです。
それは永遠に消えません。自分が借金がある上に、また借金をするようなそういう信仰の仕方
をしたらダメですよ。あそこへ行ったらピタッと当ててくれた、あそこへ行ったらご利益があ
った、というようなことをよく聞くけれども、危い危い。新興宗教の大きな宗団というのはみ
なそれでいく。ところがだんくやっていくと、ご利益の面は少くて、脅迫の面が多くなって
161
くる。年中脅迫されて安心立命が出来なくなっている。信仰しながらつねに心が乱れている。
ご利益がほんとうに欲しいと思ったならば、いっぺんご利益がほしいという想いを捨ててし
まって、神さまに全部まかせなければいけない。神さまは愛なのだから、絶対、自分を不幸に
はしない、という想いに変えなければならないです。一旦、自分の運命というものを、すべて
神さまの中へ投げ出してしまうと、ほんとうの運命が開けてくる。
162
質疑応答
昭和29年1月18日市川松雲閣
質疑応答
問先生の世界未来像の一端をお聞かせ下さい。
答世界は今二つの陣営に分れて、敵対しながら互いに世界平和を唱えあっていますが、米
ソの二大国が自分の都合のいい世界を作ろうとして、平和平和といっているので、同じ陣営の
中でも、小国の立場が全然ないようでは、世界の平和もあったものではありません。
今のように、力で自分の仲間にしよう、というような無理な統一でなく、もっと自然の形で
寄り合ってゆかなければならないと思います。あまり大国があせりすぎていますね。やはり自
然な形で、いったんは東と西に分れ、それぞれ小国も含めた、大アジア主義と大ヨーロッパ主
163
義の地域的な合体圏が出来、やがてこの二つを一つに合した世界の統一体が出来るんじゃない
でしょうか。
やれアメリカだ、やれソ連だ、中国だ、と大国目あての依頼心を捨てて、独自の新しい保革
連携内閣をたてて、日本が一つの思想にまとまることが必要です。一つの思想とは、いってみ
れば中心帰一的社会主義とでも名づける形のものでしょう。
中心とは選挙の度に変るようなものではなく、常に不動で、人間の野心や人為のほどこしよ
うがない自然のものを指します。このような中心を持つ国が世界に、東と西に一つづつあるの
です。
神界が宇笛神を中心としてピラミッド型にひろがっている形を映して、世界も東西二つのビ
ラ、、、ツド型が作られ、やがてそれが一つのピラミッドに合した姿をとった時、安定した平和が
自然に実現します。
人間も個人の中心である天につながった動き、いつも「人類社会がよくなりますように」と
164
いう想いを出していると、社会がそのような形に動きやすいのです。
質疑応答
問大安心の悟りは、生命を離脱できればその処置が簡単につくと思いますが、日常生活の
いのち
中で生命を捨て、この境地に達するにはどうすればよいでしょうか?
いのち
答生命を捨てる、とは我を捨てて生命を生かすことです。生命にも、肉体的生命、即想念
と無限につらなる生命とあります。
人間の心は一つではなく、肉体界、幽界の心と霊界神界の心とで出来ていて、前者を想念と
いのち
いい、後者を生命または光といいます。肉体界幽界の想いが業で、ここにあなたがいる、とい
うのは想いがいるのです。その想いからぬけきれないから人間が悩むわけです。しかし本当の
想いの源は神霊界にあって、肉体界、幽界にその波が来ているのです。だから自分の想いを神
霊界に持っていけば、過去の恐い、悲しい、辛い、憎いの想いの波はグルグル廻って消え去っ
て、やがて神霊界の想いだけが出てくるのです。165
また幽体離脱といって、自分の霊界の想いを少し粗くして眼の前に肉体と平行に出すのがあ616
げだつ
りますが、私のは離脱でなく解脱といって、霊界を縦に突きぬけて、神界の直霊の想いまで達
する。直霊のところまでいって、そして肉体界幽界の想いの中で、ぐるく廻りながら、痛い
辛いといっているのを、自身痛まず、上のほうから眺めて「アア今によくなるな」と見ている。
すると生命を投げ出さずとも業想念というものを”消えてゆく”とフッと消せる。消えるとい
うことは、守護霊守護神、直霊と一体となることです。全部消しきって、直霊と一体となるま
では苦悩がなくならないけれど、なくなるまでは、つねに上から、想いの自分を客観的に見て、
消えてゆくのだと思えば、業にわずらわされているのが馬鹿らしくなります。
問そのように直霊と一本になるのは想念でするのですか?
答そうです。誰でも想っている処へ行く。守護霊を思っている間は守護霊のところにいる
のです。揺れ動かない不動心が神さまだから、神さまを思えば不動心のところにいます。昨日、
‘
質疑応答
ほんとう
悪をしても今日神を真実に想えれば、悪は消えて、神さまのところにいけるのです。だから常
に想いを天、神さまに走らせて、…横に走らせない。想いを天、神さまにのぼらせていて、目の
前に現われてくる想いなどは、消えてゆくのだ、消えるんだ、と想えばいいのです。神という
と遠い所に感じるから、身近かにいる祖先の悟った霊、自分の魂の親である守護霊さんを想う
のです。そうすれば守護霊さんが自分の天の座に引きあげてくれるのです。
業というのは、録音盤に録音されているのと同じようなものですから、それが縁にふれて過
去世からの想念をいろいろな音にして出すのだから、何か悪いことがあった時、失敗した時は、
過去の録音の一幕が終って消えたんだ、と思うことです。病気になった時は過去の何かの想い
が消えたのです。それを病気だ大変だ大変だ、とあわてて、また新しく病念、恐怖の想念を吹
きこんでいるわけです。ああこれで過去世の業が消えたのだ、これでよくなるのだ、と録音盤
に吹きこめばいいのです。だから、悪いものが出て来たら、本当はシメタもので、これでよく
なると想い、そして守護霊守護神さんに感謝して、直霊と一体にならせたまえと祈ることです。167
このようにすれば、過去の業は残りません。悔改め、回心をしたことになるのです。ふつう68
1
は悔い改めではなく、悔いてばかりいる。消えてゆく姿と思って、つねに改めて天、神さまに
心をふりむけることですね。
問善因と悪因の旋回する速度は同じですか? 一分間にどれくらいですか?
答想いですから三次元的な数値では現わせません。しかし強い想念は速く、弱い想念は遅
い。大体、人間は悪いことを恐れる想いのほうが深いもので、よくなるに決まっている、と思
うのはよほどの信仰がいります。悪因旋回のほうが強いのです。そこで守護霊さんが加勢して
下さって、悪業を消して下さるわけです。だから守護霊さんを考えないで、守護霊さんの助力
を考えないで、神を想え、ということは人間と神との関係、業想念ということをよく知らない
ヘヤコむ
としうことでづ
本心に統一しようとしても、悪業に妨げられて、なかく統一出来ない。それを守護霊さん
を想いますと、守護霊さんが自然に本心神さまにつなげてくれます。守護霊につながれば神さ
まにつながり、そして業を消して下さるのです。
また神さまが地に働きかけるにも、厳然たる順序、道順として、必ず守護神1← 守護霊を通
してくるのです。そうしないとこちらに届かないのです。そういうものです。
質疑応答
問恋愛と結婚について教えて下さい。
答恋愛、結婚というのには、二つ種類があります。一つは業の心でするものと、もう一つ
は守護霊と守護霊が一つに合して結ばれてゆくものとあるのです。
業の心でするものは、業因縁と業因縁との結びつきですから、始めはよくとも不成功に終る
ものなのです。ともするとこういう場合は、居ても立ってもいられず、仕事も放り出して会い
たくなったり、二人のこと以外は何もわからなくなり、ものを見る目がどこかへ行ってしまう
ような状態の恋愛なのですね。あの人が、と思われるような常識をはずれたことをするのがあ塒
ります。ものを見る目がなくなってしまうのは危いことです。
守護霊同士の結ばれですと、心がすっきりとして、ぴたっと結合している。だから離れてい
ても、あの人は私から離れない、と安心している気持がするのです。常識はずれなこともせず、
居ても立ってもいられない、会いたいという気持になるけれど、何か冷静な安心感があるもの
なのです。離れていても、お互いの幸福を祈り合うような清浄な恋愛になるんですよ。そうさ
せるのは守護霊さんがさせてくれるのです。ですから、この二つのものをハッキリと区別して
ゆく眼を持つことが必要です。
アバタもエクボに見えてしまうのはあたりまえのことですが、そこを冷静に判断出来るよう
になることです。
自分のしている恋愛が正しいものかどうか、恋愛感情がたかぶってわからない時には、先輩
や両親の意見に耳を傾けるべきです。またそういう時にはそんな忠告など耳に入らないでしょ
うね。はたであまり騒がず、自分たちの責任において一遍やり通させてみることです。そこで170
質疑応答
失敗するものなら失敗して実際のよい経験になるし、かえって自分が気がつくというものです。
結局、守護霊同士が過去世で夫婦であった人たちが、恋愛結婚することが一番よいのです『
それには守護霊さんよろしくお願いします、とすがりきってしまうことですね。
恋愛で不成功や失敗に終っても、相手を傷つけず、自分も傷つかないようにして下さい。そ
う祈っていればああこの人だ、とぴんと来ますよ。正しい直感力を持つようになれるのです。
そしてよき半身を授けられ、正しい結婚が出来るのです。
ある有名人は、これからの青年男女はお互いに数多くの異性と交際し、性的にも知識的には
しばられぬ自由な立場で生きてゆくことがよく、従来の結婚などは馬鹿らしいものだといって
いますが、そんなことをいっている人は頭が狂っているのです。その人のいうことは悪です。
若い世代の人々を迷わすもので、悪魔的な、迎合的なへつらった、卑しい心の現れです。
結婚は性欲の対象ではありません。子孫を絶やさないことと、お互いの欠点を修正し合い、
お互いの霊性を高めあってゆくためのものなのです。171
問想念は一時に一つしか出せないものでしょうか。721
答光は一時にたくさん出せますが、想念は一つしか出せません。だから守護霊を常に想っ
ていれば、外の悪念は出ません。もし出たとしたら、それは過去世の想念が消えたのだ、と強
く想って、これでよくなる、明るくなる、とよい想いを出してゆくことです。あなたのよい想
いがあなたの運命をよくするのです。
問天の自分の坐に想いを送ると、光となって帰ってくるのですか?
れんみんかん
答天にだけ想いを送れば、天から光となって帰って来ます。他人が可哀そうと想う憐慈感
もいいが、そう思っただけで、その人がよくなるわけでないし、またただお金を恵んだほうが
よいのかどうかも疑問ですね。そうすることによって、本人の魂の進歩を遅らせる場合もあり
ます。その場合の天の想いというのは「この人は今、一生懸命業を消している。どうか一日も
早く業が消えて、本体の光が現われますように」とその人の守護霊さんに祈ることです。しか
し、人間の心というのは弱いものだから、その人を勇気づけることは必要です。
質疑応答
問自由自在心になるにはどうしたらいいでしょうか?
むげ
答自由自在心というのは不動の心です。恐れない、無磯の心、さわりや把われのない心で
す。人間の恐れの究極は死にあります。その人の生死は霊界の守護霊、守護神さまが知ってい
て、相談で定めます。守護霊は魂の親、守護神はおじいさんおばあさんですから、自分の子を
悪いようにする筈はありません。だから守護霊に委せ切る練習をすればいいのです。そうしな
いで、人間が勝手に、こんな悪い自分は救われない、と考えたり、不幸におびえるからいけな
いのです。
問子供の教育について教えて下さい。
答子供は神さまから一時預かって、或る年令が来たら社会にお返しするものです。母親は瑠
子供を年中心配しているのが愛だ、と思っていますが、これは情で執着なのです。執着の想い
で子供をしばってはいけません。「子供には子供の守護霊さんがついているから大丈夫」と守
護霊さんにお任かせして心配しないのが、執着にならないわけです。
さと
子供を叱るのにも、業が業のまま悪に見えて子供を叱るのと、消えてゆく姿として訓すのと
は天地の違いです。これは教育の根本です。叱るのと責めるのとは違います。人間は自分も他
人も責めている限りは救われない。自分の業と本心とを離して考えることです。これでお互い
の業が消えたのだ、と責めないことです。悪いものが悪いままに見えたのでは宗教精神とはい
えません。悪いものが善への転化、消えてゆく姿と見えなければ宗教ではありませんし、真の
教育でもありませんね。
174
問守護霊さんに高い低いがありますか?
答守護霊さんは皆悟った自由自在の人ですが、守護霊の力に差はあります。役目の別もあ
質疑応答
こうさわ
ります。また、当人の業が障りとなって、守護霊さんの働きがまるまる出来ないということは
あります。
、
しかし、守られている人間は、高い低いなどと思う必要はありません。守護霊さんのお力を
フルに発揮して頂くためには、つねに守護霊さん守護神さんに想いを向け、感謝をささげてい
ることです。そうすると守護霊さんも守りやすくなるのです。
人間の世界をこの肉の身の一生だけ、と思っているから焦せるのです。五生も六生もあるの
だから、楽天的に、のん気にするほうがいいのです。そうしないと、今生で出来ることまで出
来なくなってしまいます。Aという霊魂のする仕事は何千年、何万年かかって完成するという
仕事もあるわけです。やがて守護霊さんになって分霊を守護する、ということになってこれが
Aの生命の働きの一周期ということもあるのですよ。
問先生のところに降りて来られる神々は…… 175
答一人ではなくてたくさんいらっしゃるのです。同じ今日のお話でも、数人の神々が交代76
1
でお話になっていらっしゃるんですよ。五井昌久という私は天界にいっていて、ここには別人
が話にくる。法然も親鸞も弘法も役ノ行者も、キリストもお釈迦さまも天から降りて来てお話
をなさるのです。私は天にいて司会者をやっているわけですよ。私の体は神々の場、過去の聖
者が平和のために光を投げかけている場所なのです。空独尊五井昌久というのです。他にも私
のような人は何人かいるのです。
また皆さんをお浄めする時、皆さんの守護神さんが私の所に来ます。ですから皆さんは私に
会うとなつかしい想いがするんです。魂のおじいさんに会うのだから当然ですね。そして私の
所で守護神さん守護霊さんが、その人の運命の導き方を私と相談したりするんです。
皆さんの体も守護霊、守護神さんが働く場所であり、神の光の線、星の光線の宿る場所です。
みんな目分なんていうものは無いんです。
質疑応答
問東洋と西洋との文化と霊との関係はどうなっておりますか?
答アジヤは霊的な地域であるけれども、文化としては西洋は立派なものを持っています。
この文化と霊との関係はどんなものなのだろうか、微妙な問題ですね。
それは現れ方が東洋と西洋とでは違うのです。西洋はその現れ方が音楽にしろ、絵にしろ、
派手でドラマチックで、外へ外へと現われるものです。東洋はそうではなく、内に内にと深く
入ってゆくものなのです。それで東洋は文化的に低いのではないか、と思われて来たわけです。
現在は、それが内にも深く、外にも明るく表現されようとしているのです。
音楽については、西洋が遥かに優っていることは、どうしても認めざるを得ません。しかし
絵になると同等、それ以上ですね。日本画、東洋の絵画は簡単な線で描かれ、ちょっと見過し
てしまうようなものですが、真の観察心をもって観賞するならば、深い深い味わいがあるもの
です。深い奥行きがあると申しましょうか。
西洋文化は横に幅をもっているのですが、歌舞伎とオペラとどちらが高いか、といわれても、瑠
どちらがどうとハッキリいいきれない。西洋は文化が高いから霊的に高いというわけでもなく、718
横にひろがる役目を持ったものであり、東洋は文化が劣っているから低い、というわけでもな
いのです。それぞれの役目、使命が違うということですね。
問古事記というのはどんな本でしょうか。
答古事記は予言の書なのです。世界の未来を予言していると共に、また古い古い過去の世
界にあった出来事が書きしるされているのです。ですから現実的にその記事を解釈しては、全
くそのいわんとしている真の意味がわからず、お伽話となってしまうのです。事実あったこと
でありながら、神話といわれてしまうわけです。
旧約聖書も新約聖書に書かれてあることも事実あったことであり、今後のことを予言してい
るのです。世界各国に、古い国、民族にはそのような予言書神話があるわけなのです。
古事記の岩戸開きの話も本当にあったことであり、また現在のことを予言しているわけなの
質疑応答
です。今はちょうど、その天の岩戸が開かれ、光が現われようとしている時なのです。
天照大神というのは字の如く、天を照らす光源の神、即ち光という意味ですね。宇宙の中心
の神、本当の神なのです。人間として別の名をもって生れて来たこともあります。一部の歴史
みこ
学者は天照大神を、古代に生れた巫女であるとしか解釈しません。しかし天照大神とはその人
は名乗らなかったけれど、その肉体をかりて、天照大神は現われていたのです。天照大神は実
際におられる神さまなのですよ。
旧約聖書のノアの箱舟の記事なども、実際に過去にあったことであり、また今後将来に起る
ものを予言しているわけなのです。
ナツシソグ
ノは、業、現象を無、ノウと否定して、否定した後に、ア、A、五十音、アルファベット
くうそくぜしき
の最初の文字つまり、本当のものが現われてくる、という意味をもっているのです。空即是色
という意味を名として現わしてあるわけです。そのように解釈してゆくと、一つ一つの文字に
は深い深い意味があるとわかります。またこのように解していかなければ、真の意味はつかめ179
ないということです。
180
問感謝をすれば業が消える、ということはどういうことですか。
とさつ
答 或る日、屠殺を仕事としている人が私のところに来て「先日、牛を殺したところ、倒れ
た牛が目をあけて、二、三歩私のほうへ這い寄ってから死にました。どうも気分が悪いから、
先生お浄めして下さい」というのです。私がみると、そのような仕事の人にはよく迷った魂が
ついているのに、その人には何もついていない。不思議に思って聞いてみると、その人はいつ
も南無阿弥陀仏を唱えて生きものを殺している、というのです。
同じ動物を殺すにしても、或る人にはそれが業として残り、或る人には残らない、というの
はどういうわけかというと、それはすべてその人によるのです。たとえば豚なら豚を殺して食
べれば、ふつうならそれだけ少しつつ殺したという業が分けられて、食べた報いがくるわけで
すが、「この豚肉が私の栄養となりまして、人類のために働けますように、豚さん有難うござ
質疑応答
いますLと感謝して食べるようにしますと、死んだ豚が生きて来ます。そうすると業にはなら
ないのです。
なんでも、ものが生かされるか、犠牲になるかは、その人が感謝するかしないかによって左
とさつ
右されるので、屠殺を仕事とする人は「南無阿弥陀仏、世界人類が平和でありますように」と・
祈って殺せばよく、肉屋さんは「どうかこの肉が人類のお役に立ちますように、世界人類が平
和でありますように」と祈りながら売ればよく、また肉を食べる人は「この肉が栄養となって
人類のために生きますように、豚さん有難う、世界人類が平和でありますように」と感謝を捧
げて食べればよいのです。
なんでも感謝の心をもってやれば業は消えてゆきます。すべてを生かしていくのが人間の使
命ですから、私たちは日常茶飯事に、すべてに感謝の祈りを捧げていかなければなりませんね。
捌
182
あとがき
本書は五井先生の講話集第一巻である。
講話集と銘打ったけれど、言葉から受けるほどいかめしく、固苦しいものではない。私たち
は五井先生のお話といつもいつもいっている。
先生は一九一六年(大正五年)十一月二十二日東京・浅草の生れで、ヒとシの区別がつかな
い江戸ッ子である。声楽できたえた声は澄んだ明るいテノール。息つぎの区間が長く、その上、
早口なので短かい時間に量一杯のお話をなさる。一時間、二時間と途切れることがない。
歯切れのよい江戸ッ子弁はまた面白く、言葉のシャレがお上手で、聞く者をあきさせない。
それでいて、自然にいつの間にか心を開かせ、高い高い神のひびきの世界に魂を引きあげ、魂
あとがき
を浄めている。そして勇気をふるい起させて下さる。
そうしたお話の内、昭和二十九年十一月頃からのものを再録したのが本書である。その頃は
テープレコーダーも買えなかったので、耳でききながら書きなぐったものを、あとで清書、五
井先生に目を通して頂いたものである。
昭和32年になると、テープレコーダーも購入されて、テープからの書き写しである。そこで
言葉づかいの若干の違いがあるわけである。
末筆ながら、松浦秀夫さん、伊藤顕さん、小園幸子さんのご協力に厚く感謝申上げる次第で
ある。
高橋英雄
‡$3
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