神と人間

神と人間
安心立命への道しるべ
五井昌久著

ンデ

噸,
慮、

絢、

ロのヰ
,こ飾jl海


ド”

著者(1916~1980)

ヒの写真は私の家の前で、立っておられる五井先生を私が写したも
ので、肉体はなく、光体だけが写っている。
この光体は霊、幽、肉の三体が三つの輪に見える。中央の光が霊体
である。ここから光波が出て幽体、肉体が出来るのであると、先生は
いわれる。見る人によると、1月光の中に先生の姿が見えたり、観i比音
菩薩の姿が見えたりするそうである。
Tl∫川市平田島日」重光
序文
いとめいのちも
天と地をつなぐ綜目のひとすぢとならむ願ひに生命燃やしつ
ほうえつ
天の理想を地の現実に、天国浄土をこの地上界に、完全平和、完全法悦世界を実現
ひとやく
せしめる、その一役なりともやらせていただきたい。
こうした願いが祈りとなり、行動となって、生命を燃やしつづけていた私が、
おもて
ひたすらに神を想ひて合はす掌のそれさへ消えてただに青空
ぜんたく
と歌えるように、ひたむきな神への全託へと心が深まり、静まり、やがて、
あめつちうみなひ
天地のひびきひとつに海鳴りとなりしところゆ陽は出でにけり
くうそくじつそう
と天地一体、神我一体、空即実相の調和せる心境に到達し、すべてを捨て、すべて序

1
かくとくこういんこうえん
を獲得し得る自己に生まれ変わっている時、この地上世界の業因は烈しい業縁にふれ、
ぼつばつ
第二次大戦勃発、そして終結、日本の敗戦、第三次大戦への冷戦様相と、しだいに人
類破滅へと押し流されようとしている。
せいしよしんばん
はたしてこの世界はいかになりゆくのであろう。聖書の予言の如く、最後の審判の
せま
日が近づいたのであろうか、人類の大半が死滅する時が迫りつつあるのであろうか。
いんねんこうか
社会、国家、人類世界を、押しまくり、吹きまくる因縁業火の前に、個々人の調和
への願い、大平和への理念は、甲斐なき力なのであろうか、天なる神ははたして人類
を救い給うであろうか。
おび
現在人類のすべては、これらの不安に怯え、明日への希望を抱き得ず、迷いに迷っ
てゆくところを知らぬ有様である。
この時にあたり、私は、人間が自己の本体をしり、神とつながり得たならば、入類
こんめいいきしん
はかかる不安昏迷の域を脱し、真の安心立命の境地に達することができ、やがては世
かみれいこう
界平和を樹立し得ることを信じ、神、霊、人間、業、因縁などについて、最もわかり
2
したた
やすく説き明かさんと思い立って、この書を認めたしだいである。
私という人を知っている方は勿論、私を全然知らない方にもわかっていただけるも
のと確信する。
昭和二十八年三月著者識
序文
3
4
目次
九八七六五四三ニー序
¥¥¥¥¥

はしがき
1
神と人間との関係
実在界、霊界、
守護神、
幽界、
守護霊について
因縁因果を超える法
肉体界
正しい宗教と誤れる宗教
問む私

答す祈

篇び法
105998560372718117
(16)(15)(14)(13)(12》(ll)(1〔))(9)(8>(7)(6)(5)(4)(3)(2)(1)
人間の誕生について鵬
産児制限について鵬
人の一生は先天的か後天的かm
再生する人と再生せぬ人との違い聡
異性に生まれ変わることがあるかm
人間の能力の差はいかなるところより生ずるかm
諦経は霊をなぐさめるかU6
無限供給を得るにはどうしたらよいか囎
動物霊がつくということがあるか囎
何故各国各人種に分れているか伽
神事仏事の好き嫌いについて捌
幽体はどういう役をしているか囲
造物主を認めるキリスト教と認めぬ仏教の違い搦
愛と感謝で生活しているのに何故不幸がつづくか鵬
すべてのお札や位牌、神棚を廃せよという宗教があるがいかに………麗
医学が手に余している病気はどこに原因があるか捌
5
(22」(21) (20) (19)(18)(17)
改名、
平常の心構えについて
方除けは効果があるか
キリストの、色情を起こす者はすでに姦淫せりということ
について
名前だけ聞いて性格がわかったり、生死がわかったりする
のはどういうわけか
失せ物や犯人を教える行者は正しいか
霊媒は本当にあの世の人の声をきかせるのか
(附)世界平和の祈り
風韻あるお人
吾が師を鎭仰す
安岡正篤先生(全国師友協会会長)
横関實156156153145 142 141136 166 163
6
一、はしがき
いくせいそうききゆう
古代より幾星霜、人類は常に完全なる平和を夢み、希求し、熱望しつづけてきた。
ゆえつひんべつり
争いなく、恐怖なく、悲しみなき愉悦そのものの世界、貧なく、病なく、別離なき世
界。
しやか
こうした願望は、釈迦、キリスト、マホメットを始め、世代、世代に幾多の聖者を
育て、芸術家の名を残さしあ、思想家、政治家、学者、発明家と、縦に横に大きな広
はな
がりをみせつつ現代にいたった。現代こそ文明文化の華開き、あらゆる思想も泉を枯
らしたと思われるほどの世界である。
さて、こうした文明文化の世にいたったのに、この現代世界の人びとは依然として、7




ひんく
完全平和から遠く、闘争あり、恐怖あり、悲哀あり、老病貧苦あり、別離ある、不安
定の生活状態に息づいているのである。これはいったいどうしたということなのであ
さい
ろう。形の世界における古代と現代との状態は、天と地ほどの差異があることは考え
べん
る余地のないほど明らかで、文明開化は生活様式の便を極度に利益したのである。そ
の便利さだけをみれば現代に生活する人びとは、天国浄土に生活する幸福を感じなけ
ればならぬはずである。しかし現実はどうであろう。生活状態の進化は確かに肉体的
あんらく
活動を容易ならしめ、安楽感を与えてはいる。だがそのような安楽感では、人類世界
のもっている不安定を消しとめる力とはなり得ない。形こそ違え、いつくずれるかも
知れぬ精神の不安を日々味わいつづけていることにかけては、非文明の時代と少し
も変わりがないのである。ガス、電気、水道、汽車、自動車、飛行機、欲するものは
よつきゆう
ほとんど金力をもって手に入れることができ、欲求を充たすことができるこの現代の
生活が、どうして非文明時代と同じように、不安定な精神状態に人間を置くのであろ
う。
8
それは、現代の生活も古代と等しく、確固たる基盤を持たぬ生活であり、明日にも
一瞬に破壊される生命の危機にさらされる生活であることである。戦争、天災、病苦、
そして生活の不平等、それに最も根本的な、肉体滅亡への恐怖、これらの問題を解決
しなければ、いかに表面的な生活状態の改善がなされても、一向に人類の幸福はもた
らされぬのである。とはいえ、戦争、天災、病苦、死苦、それらの諸苦を消滅しうる
ことがはたして可能であろうか、可能であると私は答える。先哲、釈迦、キリストは
それらの諸苦を超越し、みずからの体験をもって弟子を教え導いたのであり、弟子た
ちはその教えをいい伝え書き伝え、それが仏典となり、聖書となって、現代に至るま
での精神界の光明となり道標となってきたのである。仏典といい、聖書といい、とも
に人類救済の原理が書かれているのであって、その説かれたる通りの行いを人類のす
べてが行ずれば、必ず地上天国が実現するのであるが、不幸にして、人類はこれらの
教典を単に精神の糧としたのみで、行いにまで及ぼすに至らなかった。いいかえれば
人類のほとんどが、二聖者の真意を解し得なかったのである。しかしこれら聖者の及は



9
おろ
ぼした影響は、人類の心の底に深い根を下し、しだいに強い光となって現われようと
しているのである。
こういんじかいさんぜん
人類の業因は、今まさに大きく自壊し、真理の光が燦然と輝き出でようとしている
のである。真理(神) につらなる者は残り、しからざる者は滅びるという聖者の言葉
こんばく
の実現を前に、私は神と人間との関係、霊、魂碗、生前、死後などにつき、でき得る
くわ
かぎり詳しく述べ、人間生活の在り方、幸福生活への真の導きを書きつづることとす
る。
10
二、神と人間との関係
人間とはいったい、いかなる者であろうか。
まれ
この問にたいして、はっきりかくかくの者であると答え得る人ははなはだ稀なので
はあるまいか。一見なんとなく考えすごしてしまうこの間が、人間世界の幸福を創り
こんてい
だす最も根抵になる問題であり、最もむずかしい答なのである。人間とはいかなる者
か、我とはいったい何か、これがわかった時、その人は永遠に救われ、多くの人間が
この間に答え得る時、人類は救われ、地上天国の実現が見られるものである。
今迄に幾多の哲人、宗教家がこの問題に立ち向かい、あるいは百パーセントその間
かくしやなか
題を解明し得て覚者となり、あるいは半ば知り得て学者となり、あるいは誤り解して11神







みずからの肉体生命を断ち、あるいは唯物思想家、唯物行動家となって、世界をます
きんしよう
ます混乱せしめた。かくて人間の本性を識り得た人が時代別にすると僅少であったた
め、現代にいたるまで人類は混迷をつづけてきたのである。
私はここで、ひとまず、私の信ずる、救われに入る人間観を、簡単に述べて、しだ
いに本題に入ってゆきたい。
人間は肉体のみにあらず、肉体のうちに、生命となって活動している何かがある、
と認識して、そうした方向に生きている人。それは天国への階段を一歩踏み出した人
である。
人間は霊が主であり、肉体が従である、という思いに入った人。これは同じ階段を
二歩三歩昇った人びとである。
つくしもべ
人間は神によって創られた者であって、あくまで神の下僕である、と、ごとごとに
さばきつつ
神の審判を恐れつつ、しかし行いを謹しんで神にすがっている人びと。この人びとは、
真の人間観からいまだ遠いが、他人を傷つけぬ場合は、天国の階段を昇り得る。
12
ひぞうしや
人間は神によって創られた被造者であるが、神は愛であるから、愛の行いを積極的
・にしていれば、決して自己に不幸はこないのである、と確信している人。この人も天
国の階段を昇っている。
神のことも、霊のことも、特別に考えぬが、ただ、ひたすら、素直な明るい気持ち
たぎよう
で、愛他行をしている人。この人も天国に昇り得る。
肉体界以外のことは知らないが、素直な明るい気持ちで、愛他行ができ、しかも、
神仏の存在を信じ、あわせて、この地上世界が必ず善くなることを信じて生活してい
る人。この人は天国の住者である。
人間は霊であり、肉体はその一つの現れであって、人間そのものではない。人間と
あやつ
は神の生命の法則を、自由に操って、この現象の世界に、形の上の創造を成し遂げて
しかくしや
ゆくものである、と識って、それを実行している人。この人は覚者であって、自由自
在心である。即ち、個の肉体を持ちながら、みずからが、霊そのものであることを自
覚し、その霊とは神そのものの生命であることを識り、神我一体観、自他一体観を行13神







動として表現してゆく人、例えば、仏陀、キリストの如き人びとである。
真の人間を知るということは、神を知るということと一つである。いかに神、神と
まこころ
神を追い廻しても、その人の行いが愛と真心にかけていては、その人は真の人間をし
らぬのであるから、救われるわけがない。
すぐ
人間の尊いのは肉体が偉大だからでもなく、肉体の知識が秀れているからでもない。
ほんしよう
肉体の知識が多いのはよいが、あくまで、それも人間の本性、霊的智慧、いわゆる神
おとしい
智を元にしていなければ、かえって人類を不幸に陥れる。唯物論者の行動が非常に理
こうち
論的に巧緻でありながら、それを行動にうつすと、社会を不穏にし、世界状勢を不安
動揺せしめてゆくのは、神智によらないからである。即ち人間はいったいいかなる者
かを知らないからである。
昔の私がそうであったように、世界の人びとの大半が、人間とは肉体そのものであ
り、精神とは肉体の中に存在する、ある機能の働きである、と思っている。
人間とは五十年、六十年、この社会に生存していて、後は灰になり無になってしま
14
うものと思っている。死んでしまえばそれまでのもの、と思いこんでいる。
しゅうしふそくざ
はたして人間は肉体の滅亡をもって、最後の終止符になるであろうか。私は即座に、
いな
否と答える。
ぐうぜん
なんとなく偶然にこの世に生まれ出て、食べたり飲んだりして肉体を維持し、ただ
いとな
なんとなく、社会生活を営んで、妻をめとり、夫に嫁し、子を生み育て、そして死ん
でゆく。人類の大半はこのような生活を繰り返し、繰り返して、今日にいたっている
のであるが、それでは済まない、何か漠然とした不安の想いが、その大小にかかわら
きよらい
ず、人びとの胸の中に去来しているのではなかろうか。このような生き方ではあまり
にも無意義であり、無目的でありすぎる。このような生き方の他に、何かある。何が
あるかわからない。わからないが、またわかろうと積極的に思わない。こうした想い
が一般人の心であって、その中の少数の人たちが、そのままで済まされずに、社会改
革に乗り出し、思想活動に加わり、また一方の少数人は自分自身の心の内面に立ち入っ
げんきよう
て、深く突きつめ、神を知り、霊を知るにいたる。ともに現況における心の苦しみを15神







突き破ろうとしての動きなのである。
こうしようはげ
大衆は流れているのである。時間の動きとともに、人類業生の烈しい渦の中を右に
左に流されてゆくのである。
きどあいらく
その場、その時々の喜怒哀楽、渦をつかんでいったい何になろう。それが、こよな
かんき
き歓喜のように見えたとしても、渦は、はかなく消えてゆくものである。
形あるもの、それは形なきものの影である。形あるものが、形あるそのままで見え
るようでは、その人は救われない。形あるものの形のみを変えて、社会改革を実現し

たとしても人類は救われない。形、型、組織、制度、と形の世界、物の世界のみに固
ちやく
着した眼をもった思想は人類を滅ぼしこそすれ、救うことにはなり得ない。
へんまん
人間とは肉体だけではないのである。神、すなわち宇宙に遍満せる生命が、その創
造せんとする力が、個々の人格に分けられたもので、しかも横においてつながり合い、
むげはつき
協力し合って、その与えられた力を、縦横に、自由無擬に発揮し、形ある世界に、完
えか
全なる神の姿を画き出そうとしている者である。
16
神とは宇宙に遍満する生命の原理、創造の原理であり、人間とは神の生命を形ある
世界に活動せしめんとする神の子なのである。
このような、神と人間との関係を知り得たならば、この現象世界のいかなる変動の
中にあっても、動揺せぬ生き方ができるようになるのである。
くわ
そこで各章にわたって、でき得るかぎり詳しくこの関係を書き綴るつもりである。
17神と人間との関係
18
三、実在界・霊界・幽界・肉体界
そうかつちゆうしよう
さて前章においては、総括的にやや抽象的に人間の説明をしておいたが、この章で
は、もっと具体的に突き進んで、人間とはいかなる者かを述べてゆきたい。
こうしよういんが
ある一部の宗教家は、人間業生説、因縁説を説き、人間は常に因縁因果の世界から
こうしよう
抜けきれぬとしているが、私はここではっきりと、人間は本来業生ではないといい切
りんねてんしようこんこう
りたい。業生である以上、人間はいつ迄も輪廻転生しなければならぬし、苦楽混合、
いな
否苦多く、楽少なき生活をつづけなければならぬことになり、一向に救われぬことに
なってしまう。これでは人間としてこの世に生まれてきたことがまことに不幸であり、
あらわれ
神とか仏とかの存在価値がなくなってしまう。現象の世界は確かに因縁因果で動いて
あごがしぼ
いるようだが、その底を流れている強い神への憧れ、仏への思慕を思うとき、人間の
本性の中に明るい光明をみないわけにはいかない。私は人間の霊性を深く追求して、
人間と神との一体を観じ得た。即ち人間は神の子であり、神そのものでさえあるとい
うことである。私が霊覚で悟り得た人間の発生について説いてみたいと思う。
人間は本来、神からきた光である。光は即ち心である。神は、すべてのすべてであ
り、無限の智慧、無限の愛、無限の生命であるけれども、神そのものが、神そのまま
の姿で動いたとしたら、形の世界には何ものも現われてはこない。無限がそのまま動
いたとしても、無限はいつまでも無限であって、有限にはならない。一つがいくら動
いてもやはり一なのである。無限が幾つかの有限になり、一が自己分裂して二になり、
四にならなければ、形の世界は創造されない。
この光そのものである神がある時、突然その統一していた光を各種、各様相に異なっ
た光として放射した。この時から神の創造活動が始められたのである。神まず天地に
うみだまやまだまこだま
分れ、そして、その一部の光は、海霊、山霊、木霊と呼ばれ自然界を創造し、活動せ19実












しめ、その一部は動物界を創造し、後の
ここにおいて神は、一であり、多
であることとなり、一即多神となる
のである。
ちよくれい
さて、人間の直霊、即ち神の一部
の光こそ、私が前章より書きつづけ
ている人間そのものなのであって、
この時にはいまだ業因は生じていな
いのである。
この直霊が動き出でて各種の光の
波を出だし、霊界を創り、各分霊と
なり、各分霊が直霊より分けられた
くし
る光(心)
ちよくれい
一部の光は直霊とよばれて人間界を創造した。
(第一図参照)
第一図
動物を
創造する
爵並
木霊
直霊
直霊
直霊
直霊
直霊
により創造力を駆使して幽界を創り、肉体界を創造して、ある時は幽体とい
20
う衣だけ着て幽界に生活し、ある時は幽体をつけたうえに、肉体という衣をつけて肉
体界の創造活動を営んだ。霊体が中味とすれば幽体はシャツであり、肉体は上衣であ
る。この三つの体はいずれも光の波動でできているのであるが、肉体はその光の波が
あらせいみよう
非常に粗く、流れる速度も遅く、その波は重い。分霊は、精妙な光であり、本来自由
自在に動きうる波動をもっているのであるが、肉体界に出入りするうち、いつとはな
にぶ
く肉体の鈍い動きに同化されてきて、しだいにその精妙さが失われてきた。始め、肉
体界をつくり、そこに神の創造を形づけようとして活動をつづけていた各分霊は、さ
さなぎ
ながら繭をつくって、その中に閉じこめられた蠣の如き状態に陥り、しだいにその光
にご
波が濁っていったのである。それはちょうど、流れの早い川は澄み、流れの遅い川は
濁っている、のと同じ原理である。やがて、各分霊は自分たちの親である直霊にむけ
うとん
る念を疎じ出し、それまでに幽体と肉体に蓄積されていた光の波(念)だけに重点を
置いて、楽な創造を営もうとしはじめたのである。ここにおいて人間は、肉体界の生
活を主とした自己限定をするようになっていったのである。分霊の創造の始めにおい21実












ておこされた想い(光の波動)は神より来たる本来因果(真善)
宇宙神
界/
,念幽本
直霊(実相) 分霊一体魂魂
、造

!神霊\ 幽、肉\
襲 逡懸欝\
であったが、肉体界
に自己限定を
始めた頃より
生じた想いが
業因となって、
人類の悲劇が
第二図
始められたの
である。
即ち、自己
限定した各分
霊は、お互い
の不自由性を
解放しようと
22
して、縦である直霊にむかわず、横につながる兄弟姉妹である分霊魂から、その自由
を得ようとし始あた。即ち縦取りをしないで横取りをしはじめたのである。そして、
幽体及び肉体に蓄積された想い(知識)並びに腕力を使い合って、闘争の歴史を繰り
ひろげていったのである。しかし時折り、みずから閉じ込め、今は閉じ込められた肉

体の隙間から、神の顔をその光明をちらりと観ては、蓄積された想念の中から、かつ

ての自分の光を見出し、直霊にむかって救いを求める祈りの絶叫を挙げるのである。
これが信仰心の始まりであった。これまでの状態を図解して説明しよう。(第二図参照)
第二図の如く、各分霊は霊界に所属しながら、その心(念)をもって各幽体を創造
しここに幽界ができた。この幽体は各々の念が記録される場所となる。即ち業因縁の
蓄積所である。ここに蓄積された記録や記憶が肉体の頭脳にキャッチされ、考えとな
り行動となってゆく。この蓄積された記憶を潜在意識といい、頭脳にキャッチされた
ものを顕在意識という。怒ろうとせぬのに怒ってしまい、不幸になろうとせぬのに、
不幸になってしまう等々、すべて潜在意識(幽体、幽界)からの意識の流れによるの23実












である。この波が常に転回し、不幸の念の蓄積は不幸を呼び、喜びの念の蓄積は喜び
を呼ぶという風に、輪のように転回してゆくので、これが業の因縁、因果と呼ばれて
いる。このことは後の章において述べることにして、また分霊の説明にうつる。
分霊が最初に幽体、肉体を創造したのは、神が天地、山、海、草木を創造し、動物
の創造を司る神霊が動物を創造した、その創造過程が、霊、幽、物質としだいにその
光波を物質化した。いいかえると、エーテル、微粒子、原子(電子、電磁波) として
いったと同じ原理で、直霊が各分霊に自己の光を分け与えて、肉体人間の創造を山霊、
海霊、木霊、動物を司る霊等と協力して、なさしめたといえるのである。従って人間
はんちゆう
(霊) が光波ででき、肉体が原子からできていることと、自然界の法則とは範疇の異
なった、等しい原理によるといえよう。ただ大いに異なることは、山海草木も動物も
創造されたるものであって、自己意識、我(知性) を持たぬが、人間は、創造者であ
る分霊そのものが、肉体にあって、たゆまざる自己創造をつづけていることである。
じんしんえがたまこと
これは重大なることであって、釈尊かの言葉に”人身得難し” とあるのは真である。
24
れいそく
動物は神に隷属されたる物、人間は神そのものの分霊であること、本来自由自在なる
者であることを、よくよく考えて感謝しなければならない。
ばくさんがいこん
さて霊・魂・醜として三界に活動している分霊はしだいに肉体人そのものになって
きて、肉体外の六官(直感)直覚(神智)の衰えを見せ、すべてを五官の感覚にのみ
頼ることが習慣つけられ、五官に触れぬものは無いものと思うようになり、人間とは
肉体であり、心(精神)とは、肉体の機関が生み出した働きであるとして、分霊の活
動は分霊そのものとしては感じられぬようになっていった。しかし、分霊と分霊とが
本来は神において一つの者であったことが幽体に記録され、記憶されているのが意識

を超えて思われ、肉体においては、はっきり個々に分れていながらも、お互いが、お
互いのことを思いあう感情、愛は消えることはなかった。この愛の狭い範囲の働きは、
親子、夫婦、兄弟の間に、ひろくは、人類、社会の範囲に及ぼされている。愛こそ神
へつながる道であり、光であり、本来の自己を見出すただ一つの感情、行為であった。
分霊は物質の世界、形の世界において、己れ自身の本来身、光(神) を忘れかけな25実












がらも、心の底から湧きあがってくる、人間本来一つの光の理念が、
行為となって、わずかにその光を保っているのであった。
しゆうちやく
神の心を愛と呼び、業因の働きを執着、と呼び、この二つの心が、
幸と不幸とに分けていこうとしているのである。
愛の思いとなり26
人間の生活を、
四、
守L
護ご
神L”fv

鶴護

曇れ
並い
につ


前章において人間本来神性であることを説明したが、現実として一番問題になるの
りんね
は、人間ははたして業の輪廻を越え得るか、越えるためにいったいどうしたらよいの
か、ということなのである。
ひとたびこういんいん
本来性でないといっても一度生まれた業因は、縁となり果となり、また因を創り
縁と結び果となって、はてしなく転回して、この現象は業生の世界と成り終わせてい
たしと
るように見える。確かに分霊が肉体の因縁の中に閉じこめられた現在、各分霊だけの
力でこの因縁を越えることはなかなか容易なことではない、というより不可能に近い
おもいかえ
ことを思わせる。何故ならば、一度発した念は必ず、その出発点に還る法則となって27守










かえいんが
いて、この発した念即ち業因は還って果となり、因果の波は時を経るにつれてしだい
ろうこ
にその層を厚くし、分霊の肉体我を牢固としてぬくべからざるものにしていったから
あら
である。肉体我は粗い波動の波が起こしている自我であり、肉体という物質によって、
自己と他とを区別しているものであって、まず各自が己れを守ろうとする意識を起こ
すため、どうしてもお互いの利に反することが起こると、その利を守るために争わざ
るを得なくなる。ましてこの分霊が陰陽に分裂して男女となり、肉体人口が増えるに
つれて、肉体我は自己と自己の一族のみを守ろうとし、いよいよ業因を深めてゆき、
この業因の隙間から神の光が差しこまぬ以上、人間は本来の神性に目覚め得ぬような
状態になっていった。
この時、神(直霊) はこれを知って、分霊の救いのために新たなる光を放射した。
これを守護神と呼ぶ。この守護神の光によって、最初に幽界、肉体界を創った分霊は
救われ、各子孫の守護の任についた。これを守護霊(支配霊・コントロールともいう)
と呼んだ。この守護霊の中には正守護霊と副守護霊とが定められた。
28
守護神は常に多くの守護霊の上にあって、守護霊に力を添えていた。各正守護霊は
しだいに一人の肉体人間に専属し、その主運を指導してゆくようになり、副守護霊は、
おおむね、仕事についての指導を受け持つようになっていった。直感とか、インスピ
ねん
レーションとかいうのは、これら守護霊からくる指導の念である。これは普通は自然
的行動のように行われ、何気なくある家を尋ねたら、よいことがあった、とか、ふと
のが
左に歩を運んだとたんに車がすれ違って、危うく難を除れた、とか、というように日
常茶飯事の何気ない行為として守護している場合が多い。
このような組織状態が現代までつづいているのである。人間とは一般の人びとが
思っているような肉体だけのものではなく、このように複雑な組織をもつ者なのであ
る。ここで私は肉体の生死について述べてみたいと思う。
“人は死んだらどうなる?
” “生まれる前にはいったいどこにいたのか? “
この二問題は今まで述べてきたことによって、大体わかっていただけるとは思うが、
さらにくわしく具体的に述べたほうが、因縁因果を越えて、神性を顕現する道に近づ29守










きやすいと思うので述べることにする。
現代人の大半は、死んでしまえばそれまでである、と肉体消滅によって人間の生活
いんぺい
は終了する、と思いこんでいる。この考えほど、人間の神性を隠蔽するものはないの
である。
肉体が死ねば確かに肉体は人間の原形をとどめず、灰になってしまう。肉体という
形は消滅し去る。肉体人間の眼の前から、その人の姿は永遠に消え去ってしまう。し
かし、はたしてその人は再びこの肉体界に現われることはないのであろうか。
肉体が消滅した、ということは、肉体細胞の分離をいうのである。肉体は何兆とい
う細胞が種々の要素を仲介として組織体となっているもので、いいかえれば、分霊の
放射した光波(念) が、宇宙の物質要素と結合して、創りあげたもので、分霊の光波
(念) がそれらの物質要素に働きかけなくなれば、自然にこの組織体は解体してしま
うのである。
もっと端的にいえば、分霊が上衣である肉体をぬぎ捨てたのであり、着手のなくな
30
った上衣は、もう必要がなくなって焼かれてしまった、といえるのである。
上衣が破れたからといって、着手が滅びてしまった、という人はいない。ただ着手
であり中味である分霊が、下着である幽体を着けたまま、別の界層に移転した、とい
うことなのである。いいかえると、真の人間は死滅したのではなく、肉体界を離れた、
はく
のみである。私はこの肉体要素を晩とよんでいる。
肉体を離れた分霊は、ある期間、幽界において生活する。ここの生活は、肉体界の
波動より細やかな波動の世界で、大体肉体界と同じような生活を営む。ただしこの世
界は想うことがすぐ現われる世界であって、肉体界のように、念じたことが、なかな
か現われぬ世界とは違う。想うことが直ぐ現われるということは、ありがたいようで
ととの
なかなかありがたくなく、よほど心が整い、浄まっていないと、非常に苦労するので
ある。何故ならば、肉体界においては、相手を憎んでいても、顔に現わさねば、なか
なかわからないし、ちょっとだましても、すぐにはわからない。一生わからないこと
もある。しかし幽界においては、喜怒哀楽ともに、すぐにその結果が起こり、憎む人31守










はすぐ憎みかえされ、だます人は、すぐだましかえされる。憎み、悲しみ、恐れ、不
正直、こうした想念は、すべて直ちに苦しみの種となり実となる。

こうした体験を経て、肉体界から持ち越して来た悪想念、悪行為の習慣(業因縁)、
これはすべて幽体に記憶されてあり、記録されてある。これらを浄めるべく努力する
ことにより、その昔より、高い人格となり、よい因縁となって、肉体界に再生する。
今度は以前より立派な生活が肉体界において、営まれるのである。かくして何度か再
きようせい
生し、悪想念、悪習慣を矯正して、やがて直霊と一つになってゆくのである。この幽
こんばく
界における分霊を霊魂といい、肉体界にいる期間を、魂晩という。いいかえれば、霊
こんばく
とは神であり、神性であり、魂碗を因縁性とよぶのである。従って、分霊は、霊界に
くだ
本住する神でありながら、因縁世界に降っては魂碗であるといえるのである。
人間は本性としては、霊(神) であるので完全円満であり、生き通しであるが、分
りんねてんしよう
霊の念波から生じた業生は、業因縁となり、幽界、肉体界を輪廻転生して生まれ変わ
り死に変わりするのである。仏教でいわれる、人間本来仏性なり、とは、どんなに業
32
ヘヘへ
因縁の迷路にいる人間でも、その中味はすべて仏のいのちである。私流にいえば、分
霊の光であり、直霊の光であり、宇宙神そのものの光(いのち) である、というので
ある。
人間の性は善なるや、悪なるや、と今までに多くの人びとが、性善説、あるいは性
悪説を唱え、論じあってきたが、人間の本来性には善も悪もない。人間はただ無限の
光(神)の創造性を行動に移し、神の姿を客観的に現わそうとしている者であって、
悪といい善というも、全面的に神が現象界に現われるまでに織りなす光と影の交叉で
あり、悪(影)と現われている姿、行動も、より大いなる善(光)を現わさんとする
一瞬であり、善と現われている姿、行動すらも、より偉大なるすべてを含めた善(光)
を現わさんとする過程の一瞬である。
あや
初めに分霊が、宇宙神の創造を顕現するため、その創造性を光の線と彩なして、幽
界肉体界を創造してゆく過程において、みずから発した念波の業因の中に、しだいに
自己の本性を見失っていったことは、前章においてすでに説明したのであるが、これ33守










は一見、無限の智慧の持主である神の行為の失策の如く見え、この点を疑問に思う人
びとが多数あると思うので、この点についてちょっと説明してみよう。
これは、さきに述べた光と影、善がそのまま善ならず、悪がそのまま悪ならずの説
ひとたび
明と同じ原理である。即ち、分霊は、一度は、肉体の業因縁の中にもてあそばれ、自
己の本性を見失ったかのように見えるが、これは、直霊が分霊に命じて、宇宙神の創
造を現象界に写し出そうとしている過程にすぎないものである。
しかし、かかる過程にあって苦悩している分霊を救い、肉体界を浄め、宇宙神の意
志そのものの世界とすることが、直霊の最初からの計画であった。そこで、各直霊は
自己の光を分けて、分霊たちの守護神となし、守護神は、最初に肉体界の創造にあたっ
た分霊たちを、業因縁の波から救いあげた。この分霊たちは、守護霊となり、守護神
に従って、ひきつづき肉体界に働く後輩の分霊たち、いわゆる、子孫の守護にあたる
ことになった。そして分霊の経験の古いものから、順次に守護霊となり、ついには各
人に、必ず一人以上の守護霊がつくまでになって、今日に及んでいる。(第三図参照)
34
宇宙神
\界∵ノ\界ノ\ 業因縁の世界ノ
蒙響鐘廿幽界肉体界
1.神、, ,霊、、



従って、原始時代より、闘いにつづく戦い、苦悩につづく苦悩の歴史が、繰り返さ
れ繰り返されて、現代にいたってもまだ、戦争への恐怖、老病貧苦の地獄絵の時代は
あまた
つづかんとしているが、この間、種々と人類に貢献せる聖者、偉人が数多あったこと
は、分霊である人間が、守護神、守護霊の働きを悟り、これらと協力して、活躍した35守










ことを物語るものである。この力は、精神文化、物質文明の発展に寄与することが大
いちじる
きく、守護神、守護霊と、分霊の交流が、更に著しくなってくれば、この世界が真の
発展に進むことになるのである。しかし、現在はまだあくまで過程であって、この段
階をすぎた未来において、肉体人間の世界が、神の計画通りの、完全調和せる光明世
界になることは必至である。それ故、現在の状態が、いかに破滅に瀕せんとする如く
見えようとも、決して悲観することも、絶望することもないのであって、各人はひた
まつと
すら自己の本分を全うしていさえすれば、必ず、自己も救われ、世界も救われる日が
来るのである。私は、その日の近いことを確信してやまない。
36
五、

因縁因果を超える法
げだつ
次にはいかにしたら一日も早く、業因縁の波を解脱し得るかを説くこととする。
げだつぐどうしや
解脱するためにあらゆる難行苦行をした昔の求道者は、その意志において偉大なる
ものがあったが、私は現代の人にそれを求めようとは思わない。また、山に入り、滝
にあたり、断食をする等の行は、今日の人びとには生活環境からいってなかなかむず
かしいことであって、ほとんど大半の人びとが実行し得ないことである。
みこびゆう
業因縁、即ち、物質(肉体を含む)を実在と観ている誤謬からくる、物欲、色欲、
執着欲、これら種々の欲望を消滅し去ろうとして肉体に与えた苦行も、方法が誤って

いれば、効果が少ない。私は肉体に敢えて特別の苦行を与えず、与えられた生活環境37因








をそのまま生活として行じてゆく普通人にでき得る解脱の道を説きたいのである。そ
の道は私自身を現在に成し得た道なのであるから。
“悟ろうとすればまず欲を捨てよ
” とか、”あなたは短気だから、その短気をなく
せばよい” とか、”その執着を断つのですよ” 等と簡単にいう人があるが、この人は
人間の業因縁というものが、いかに根深いものであるかを知らぬ人であって、指導者
にはなり得ない。
また、人間の世界は思う通りになる世界である、という念の法則を、現在だけの肉
体界の念と解釈して、
“相手を拝まないから、相手が悪く現われるのですよ。あくまで相手を拝みつづけ
るのですよ。” とか、
“夫がなんといおうと、あなたはあくまで、素直に夫に従うのですよ。ぶたれても、
叩かれても素直に従うのですよ。みんなあなたの心の影なのです。” とか、
病気で苦しんでいる人に向かって、
38
“あなたの心の中に休みたい心、楽をしたい心があるから病気になったんですよ。
真剣に働く心になればなおりますよ。” とか、
はれもの
“ぶつぶついうからおでき(腫物) ができるのですよ。

“刺すような心があるから神経痛になるのですよ。

等々、すべての想念は、その想念のごとき形を現わす。悪を想えば悪を生じ、善を
さば
想えば善を生ず、という心の法則を、人を責め、審くことにのみ使っている人びとが、
宗教や修養をやっている人たちに非常に多数ある。
私は、これは実に困ったことだ、と思うのである。
幽界や霊界においては、その想念は直ちに現われ、その念は、すぐに自分自身にか
えってくるので、どういう念が、どういう風に自分にかえるかが体験としてわかるの
であるが、それでさえも、なかなか、その業因縁の念を消すことができがたいのであ
あらからだ
る。まして非常に粗い波の体をもつ肉体世界の人間の、しかも、その人間と相手の間
にある業因縁の種類さえも知らず、ただたんに一般論の心の法則だけを利用して、指39因








さまた
導しようとすることは実に危険なことであって、かえって相手の進化を妨げ、浄化を
みだ
乱すことになるのである。
さばなか
“人を審く勿れ”
“愛はすべてを癒やす

“神は愛なり

私はキリストのこれらの言葉をその人びとに与えたい。
へん
自己の功名心の満足や、知識に偏した愛薄き人びとによる人間指導ほど逆効果なも
のはないのである。
愛深き人のみ、人間心理の指導者たり得るのである、と私は強くいいたい。
かこせ
業因縁は過去世の過去世から流れつづいている波の連続である。この五十年、六十
年の肉体にのみあるものではない。まして、各人の肉体的環境(病気や幸、不幸)が
おもい
その間の二年や三年に起こした念の現れとして、できあがったり現われたりしたもの
ではない。誰が見ても立派な心の人が不幸になっており、どこから見ても悪いように
40
まいきよ
見える人が、人も羨む幸福を得ている例は枚挙にいとまがない。
さば
だから、簡単に人を責めたり、審いたりすることはできないのである。
人間はそれぞれ、各種各様の因縁の心を持っていて、A の善なる生き方を、B が必
ずしも真似られるものではなく、B が何気なくできる善行為をA がその通りにできる
ものでもない。一字、一線においてさえ百人百様、千人千様なのである。ただ、非常
に似通った心の人とはなはだ異なる心を持つ人とがある。
るいじ
これを想念の類似、あるいは因縁が合う、合わぬ、ということになるので、こんな
すす
ためになる本をあの人は何故読まぬか、といって、その人が、自分の薦める本を読ま
ぬ、という理由で、その人を低級視する人があるが、それは低級視するほうが間違っ
ている。
バッハや、ベートーベンの曲は素晴しい音楽である、と思う人が、それらの音楽に
無関心で、流行歌謡に熱中している人を、ただそれだけのことで軽蔑したら、これも
誤りである。41因








宗教に入って現在熱心な人であっても、その熱心さが利己心から発している人もあ
れば、今、宗教に無関心のように見えている人の心が純粋な愛に燃えている場合もあ
る。現在、形の世界に現われている言動のみでその人の真価をはかることはできない。
それ故私は、その人、その人に最も適切なる指導をしているものであるが、その指
導は次に説明するような原理、法則を元としているのである。
ひそんでいるこころあらわれているこころ
この現界は潜在意識、と顕在意識とがぐるぐる廻っているので、顕在意識(普通
いう心) に想ったことは、すべてそのまま潜在意識(幽体に属する心) に記録され、
その記録された想いが、表面の心、顕在意識に記憶として浮かびあがり、ある時は、
直接行動として、言動に現われる。そして、その現われた言動がまた再び潜在意識に
録音される。こうした、ぐるぐる廻りが、その人、その人の運命となって現われてい
るので、その理をまず知った上、幽界、肉体界を通して各人の運命を修正している守
護霊の働きを観じなければ、運命を善くすることはできない。
人間が普通、心は一つよりないと思っているようだが、心は、宇宙神の心から始まっ
42
て直霊(人間界における神) の心、分霊の心、幽体界の心、肉体界の心の他に、直霊
と位を同じくする守護神の心、それに各個人個人に常に附き添っている守護霊の心と
の七つの心があるのである。この守護霊に素直である人が、神に素直であることにな
り、その人の進歩を非常に促進させるのである。が、今までにこのことを知っている
人はまことに少ない。人の進歩は、ただ精神分析や、心の法則の活用だけではなかな
かむずかしい。
まして、精神分析や心の法則はおろか、神も仏も何もなく、ただ肉体の自我だけで
生活している人が多い世の中で、真に素直な自分になることにはかなりの努力がいる。
誰でも幸福になりたくて働き努力するのだが、なかなか幸福にならない。幸福にな
ひけつ
る秘訣は素直になることである。素直とは肉体の人間に素直になれというのではない。
真理に素直になれというのである。いいかえれば、神に素直になれというのである。
神というと何か遠い気がするし、つかみにくい気がするだろうから、守護霊に素直に
なれというのである。43因








おじいおはあ
守護霊とはおおむね祖先の霊である。祖父さん、祖母さんが、自分の背後にいて、
霊の眼で、霊の耳で、子孫である自分の運命を予見し、悪い運命への道から、善い運
命の道へ、導いて下さるのである。
それはちょうど、父母が小さな子供の手を取って、あちらだ、こちらだと、引き廻
してくれるのと同じことなのである。しかし、肉体の父母にはその子の将来の運命は
一分後のこともわからない。が、守護霊はその子孫の将来に起こる出来事をよく知っ
ていて、その子孫の運命を幸福へ、幸福へと導こうとしているのである。
おもいおもい
個人の運命とはまず幽体に各自の想念が記録され、その記録された想念を現界に実
現さすべき、各種の材料(環境)が自然に整い、幽界に一応原形ができあがり、やが
へおもい
て時を経て、肉体界の想念が縁となって、この幽界の運命がその人の現実の環境に浮
おもい
かび出てくるのであって、守護霊の修正がなければ、その想念の誤りは、誤りのまま
に現界の運命として現われる。守護霊を一応考慮の外において考えれば、その人の
おもいおもいきよ
想念のままの環境が現象に現われるので浄まった想念の人は浄まった環境、汚れた
44
おもいみおもい
想念の人は汚れた環境、憎しみに充ちた想念の人は憎しみに充ちた世界を、盗み心の
おもいおもい
想念は盗み盗まれる世界を、淋しい想念の人は淋しい環境を、それぞれその人の運命
こうしよう
として現わしてゆくのである。これは業生の法則なのである。しかし、これは一回の
おもい
肉体世界即ち、五十年や六十年だけの想念をいうのではなく、三回、五回、十回と生
おもいえんか
まれ変わった数百年、数千年、数万年間の想念の蓄積が順次縁となり、果となり、ま
いんあら
た因となり縁を生じ果となって現われているので、この現在の肉体の三十年、五十年
おもいおもい
の心の想念だけを自己の想念と思って、
“私はそんな悪いことを思わないのに、こんなに悪いことばかりある
” という人が
ある。
とつ
また、”私はお嫁に行きたい、といつも思っているのに、いつまでたっても嫁がれな
おもい
い、だから自分の想念のままになるなどという法則は嘘である”等々、現在の肉体界
おもいヘヘヘへ
だけの想念で判断すれば、なかなかうなずけない。しかしこの法則は、自然の法則の、
物は上から下へ落ちる、ということや、電流の法則と同じように、絶対なる法則なの45因








である。
おも
想うことは必ず現われる。この法則を知っただけでも、知らぬ人よりは進歩が早く
運命改善ができやすいが、これを逆に応用し、反対に考えると、かえってその人自身
や人を傷つけ、痛めてしまう。
想ったことは必ず現われる。この言葉を真剣に考えている人で、自分は恐怖心が非
おそじたい
常に強い。自分のように恐れる心の多い者は、この心の法則の通り、必ず恐れる事態
が起こるに違いない。恐れることはみな来るのだ、と、その法則を知ったことがかえっ
あだ
て仇となって日夜恐れつづけている人がある。
またある人は、他人のために常に真剣になって心配苦労し、そのためいつも貧乏し
ている人に向かって、”あなたは貧乏したい心があるからいつも貧乏しているのです
そば
よ。富む心を起こしなさい。あなたが貧しい心があるから、貧しい人ばかり側によっ
てくるのですよ” と説教した。
ぜんじ
このため、この人は善事をなすことに対して、大きな疑いを抱き、それ以来、愛行
46
が乱れていった。
いんねん
これらの例に見られるように、心の法則(因縁) だけ思ったり、説いたりすると、
実に間違った逆効果になりやすい。
“あの人は、あんな心をもっていたから、あんなになったんだ
” 式に、なんでも悪
ヘヘヘへ
く現われている場合は、その人の心にその悪い原因があるんだと、きめつけられたり
ヘヘヘへ
きめつけたりしていたら、まことに愛も情もない人生になってしまう。法則を知った
たあに、人を傷つけたり、自分を痛めたりするのは神の本性を知らない、無知から起
こるのである。
神は愛である。愛であるから、守護神を我らにつかわし、守護霊を任じて、人間世
界の悪因縁を消滅し去ろうとしているのである。
おも
守護霊を信じ、守護神を想い、神に感謝しなければ、いくら因縁の転回や、心の法
則を知ったところで、人間は永久に救われない。
こちらが知っても知らなくとも、守護霊はただ、黙って人間を守っていてくれる。47因








けんちよ
夢などはその顕著なるものである。
夢は何故見るか、この問題は世界の学者が種々と研究をつ。つけているのだが、いま
だに、はっきりとわかっていない。
こういんねん
夢とは人間の業因縁の消滅する姿である、と私はいう。
おもいおも
想念は必ず現われる。この法則は動かしがたい法則である。この法則のままに、想
うことがそのままこの肉体界に現われたら、この人生は、もっともっと以前に滅びて
いたに違いない。
かいぽう
何故ならば、肉体の人間の心を奥底まで解剖すれば、愛は情に流れて執着となり、
うらたこ

恨みは恨みを重ね、悲しみは悲しみを追い、闘争心は常に戦火を絶やさず、情慾の業
かふ
火は至る所に燃えひろがり、殺傷事件は眼に触れるあらゆる箇所に展開されているこ
あき
とは明らかである。
この業念の感情を、肉体脳髄の念の休止している間に、巧みに夢として肉体世界と
えが
離して、画き出してしまうのが守護霊の偉大なる一つの仕事なのである。現われれば
48
おもいおもい
消えるのが想念の性格であるので、夢として画き出されてしまえば、その想念は消え
てしまう。肉体世界に現われた場合は、その現れが、また頭脳にキャッチされて、再
おもい
び同じ想念を幽体に記録してしまうが(それでも現われれば幾分ずつか、消えてゆく
おもいぎがかおもい
のである。) 夢の場合はその想念が巧みに戯画化されていて、いったいなんの想念で
あるか判然としないので、醒めた後で、いくら肉体頭脳で思ってみても、その夢に現
おもい
われた想念は再び幽体に記録されることはない。
おもい
その想念は夢によって一度断ち切られるので、業因縁がそれだけ消えたことになる。
たまたまはっきり憶えている夢もあるが、守護霊が予知的に、その人に示す夢(霊夢)
おもい
以外は、その夢の画が、やはり、その想念の内容を察知できぬように描いてあって、
判然としない。
フロイトという精神分析学者は、この夢をすべて性慾(リビド!) の現れと解釈し
ていて、夢に現われる物質、風景、氏名等によって、それぞれの内容を解剖している
こと
が、私の述べていることとはまるで異なる解釈で、人間の救いには、あまり役立たぬ49因








ものと思う。
判然としない夢は、そのまま判然とさせる必要はないので、ただ、簡単に、自分の
あくそうねん
悪想念が肉体の悪い運命となって現われるのを、守護霊がその夢と現わして消して下
さったのだ、と感謝すればよいのである。
このことを知ることは大きな救いになると思う。
この守護霊の働きは真に感謝しなければならぬものである。
さんがい
守護霊は霊界、幽界、肉体界と三界を通して働ける者なので、幽界において、でき
つつある運命、あるいはすでにできあがって、時間の経過につれて自然に肉体界(現
あくそうねん
界) の運命として現われようとする悪想念の結果(因果) を、あらゆる手段をもって、
その人間の運命として現われぬように修正してゆく。
この守護霊の働きを、知っている人、感じている人は実に少なくて、肉体人間の大
半が、この蔭の働きを知らないのである。守護霊はその肉体人間が、守護霊の守護の

力を知ろうと知るまいと、それは問わず、ただひたすら、運命の修正に全力を挙げて
50
いるのである。いわゆる菩薩行なのである。
いったいどういう風に守護霊が運命を修正してゆくかというと、種々の方法がある。
てんぷく
例えば、転覆した汽車に乗るべきを、忘れ物をして乗り遅れたため、生命の危機を
逃れた。
ヘヘヘヘヘヘヘへ
という場合、物を忘れた、この忘れ物に守護霊の働きがあるので、守護霊の念が、
そし
その人の肉体頭脳に働きかけ、その人の頭の回転を瞬間的に阻止して物を忘れさせる
のである。
また他の人を使って、自分の守護する人間を助ける場合もある。
たず
例えば、ある人が、何か急に友人Aを尋ねたくなり、別段に用事もないのに、急用
でもあるような気持で、その友人を尋ねる。と、友人A 一家は、事業に失敗して、今
ひとはだ
まさに一家心中の手前であった。驚いたある人は早速この友人A のために一肌脱いで
やることになった。
おもい
この場合、A の守護霊は、Aを助けるため、Aと波長の合う友人のある人に、念を51因








送り、A の家へ引き寄せたのである。この友人なら、A を救ってくれる、ということ
を、守護霊は、はっきり知っているのである。

この二つの例のようなことが、常に人間世界の生活の上に起こっているのである。
守護霊はその被守護体の睡っている時から醒めて働いている時、休んでいる時、い
まも
ついかなる時間にも、この人間を守りつづけているのである。そして、この人間の発
する悪想念の蓄積を浄めるために、たゆまざる努力をつづけているのである。もっと
も、肉体界(現界) の救いとしては、この人間にでき得るかぎりの努力、経験をさせ
つつ、いざという時に助けるのである。
ここで、大いに考えなければならぬことは、守護霊にとって、一番働きやすい、肉
体人間の状態は、常に守護霊のほうに心を向けていてくれることである。
守護霊の存在のいかに重大であるかを知って、常に守護霊に感謝を捧げている子孫
せいぜん
ほど、守りやすい肉体はないのである。もっとも守護霊の生前の氏名など知る必要は
ない。守護霊が懸命に、浄めの念を肉体に送っても、その肉体の心が、全然他をむい
52
いつこう
ていて、一向に守護霊のほうに心を向けなければ、守りにくくて仕方がない。
やっと睡りの世界に肉体が入った時、無心になった肉体脳髄から、悪想念の蓄積
(その時々の因縁)を夢として消すことより仕方がない。
そうねん
そこでこうした人を守るためには、先程の二例のように、他の人に送念して、他の
すけだち
人から注意や、助太刀をしてもらうことにする。この時の相手は、必ず過去世におい
て、守護霊同志、または、肉体人間同志が、因縁浅からぬ者でなければ駄目なのであ
る。
しかし時には、その被守護体の人間が、あまりにも業因縁が深く、迷(無明)で分
霊の光をほとんど覆ってしまっている場合には、いかに守護霊が全力を挙げて浄めた
ほんそう
り、奔走したりしても、通じない。仕方がないので、守護霊は、守護神に救援を願う
のである。
すると守護神はこの願いを聞き入れて、大いなる神の光を、その肉体人間に放射す
とお
る。この光は業因縁を通して、分霊に通じ、分霊の光の力が増してくる。この時、な53因








んとなくこの肉体人間の心(脳髄) に宗教への関心が湧いてくる。この場合、たんに
ご利益信心的な心であるかも知れない。それでもよいのである。この人間にとっては、
その気持の起こったことが、一歩も二歩もの進歩なのである。
その時、守護霊は、その機会を逃がさず、その人間に適当する宗教に、その人間を
導くのである。
いつきよ
また、ある場合は、守護神の光によって、一挙に幽界に転出してしまうことがある。
いいかえれば、急死してしまうことがある。それは、そのほうが、この人間の進歩に
つこう
都合が良いからである。
ぜんどう
以上のように守護霊は肉体人間と一つになって、人間を善導しているのである。
人間が、自己の運命を改善し、幸福になりたいとするならば、ただ、守護霊に自己
まかヘヘヘヘヘヘヘへ ヘヘヘヘへ
の運命を委せればよい。守護霊さん、ありがとうございます、守護神さん、ありがと
ヘヘヘへ ヘヘヘヘヘヘヘへ ヘへ
うございます、神様、ありがとうございます、と常に感謝していればよい。この心が
神への全託なのであり、守護霊の活躍を充分にさせる一番よい方法なのである。
54
この心でいれば、その人の行動はおのずから、調和した整ったものになり、生活は
たのコリく
楽しく楽になるに決まっているのである。何故ならば、守護霊、守護神、と真っすぐ
こうしよううずまき
につながり、そのつながりによって、その光によって、業生の因縁因果の渦巻からい
りだつ
つの間にか離脱でき、分霊本来の光が直霊(神)につながり、肉体をもったままで、
しん
人間神の子の実観を、真に体得できるのである。
ざぜん
守護霊を知らず、守護神を知らず、ただいたずらに、精神統一法をしたり、座禅を
くうこんばく
組んだりした場合、その精神統一で、やや空になった肉体に、幽界の魂醜が感応して
ひとりで
くる場合がある。こうした場合、守護霊により、自然法爾に整った、生活態度、いわ
ふんいきふかい
ゆる明るい楽しい雰囲気とは違って、何か、非常識な、他人に不快を感じさせるよう
あらた
な雰囲気を持つ人間になる。(このことについては次章で改めて述べることとする)
くうと
私は、座禅したり、静座したりして、心を空にする行法を採らない。空観する場合
どうし
は、善き導師がいなければ危険である。
わざ
私は、ただ、素直に、守護霊、守護神に感謝してその人、その人の生活の業に励ん55因








だほうが楽に、自然に、神につながり、悟れる、と信じている。
いかなる困難な事態がその人の前に起ころうとも、守護霊の守りを信じ得る人は、
必ず、その事態は光明に転ずるのである。
せいぜん
この場合、守護霊はいったいいかなる人か、などとその人の生前の戸籍調査などし
どなた
なくともよいので、ただ、誰方か知らぬが、自分に関係の深い祖先の一人が、神様に
すなお
つながる強い力で、守っていて下さるのだと、素直に思っていればよいのである。
まよさいだん
もし迷う事柄があったら、心の中で守護霊さんを呼びながら、その裁断を願えば、
必ず、なんらかの形で、その答をしてくれる。それは前に述べたように他の人に逢っ
て、その人の口から聞かされるかも知れぬ。あるいは、びん、と直感的にひらめくか
も知れぬ。ただ、この場合、前者なら、最初に逢った人であり、後者なら、最初の直
つこう
感、第一直感が、その答である。その答がいかに、現在の自分に都合が悪いように思
ちが
えても、それは後によくなる方法に違いないのである。それを信じなければならぬ。
こういんねんこういん
第二直感で出てくることは業因縁の答であるから、よくよく注意せねばならぬ。業因
56
ねん
縁の答は常に甘い。都合のよさそうな答が多いので、つい、この答にひきずられるこ
おも
とが多いものである。だから、常日頃、守護霊を信じ、感謝の想いを抱いていなけれ
ばいけない。
こうぼうだいしどうぎようににん
弘法大師が、同行二人、といったのは、この人間生活は自分一人で生きているので
ついつしよ
はなく、守護霊と二人連れなのだ、神様と一緒に生きているんだ、ということで、キ
とも
リストの、神常に汝と倶にあり、という言葉と同じである。ただ、一般の人たちに、
神、という風に、あまり大きな、高い感じのものより、守護霊という、自分自身と直
接つながりを持つ、祖先のしかも力ある霊が背後で常に守ってくれている、と思うほ
うが非常な親近感で、念じやすく、かえって神に統一する環境になりやすい。
また、現象に現われた、病気や、不幸を、これはいかなる過去の心の現れか、と精
神分析して反省するよりは、現われた悪い事態は、すべて、過去の業因縁が、形に現
すよ
われて、消えてゆく姿なのだから、この苦しみが済めば、必ず、一段善い環境になる
と信じ、それと同時に、守護霊さんが守っていて下さるのだから、必ず善いほうに、57因








善いほうに向かっているに違いないと信じることである。過去の因縁を分析すると、
くロり
自分を痛めやすいし、気持が暗くなって、神から離れがちになってしまう。
神は光なのだから、常に明るい心の人を喜ぶ。
つね
神は愛なのだ、光なのだ、私は常にその愛と光の中に生きているんだ、しかも
守護霊さんに守られながら生きているんだ、過去はない。過去は消えてゆく。どんな
あやまほじく
苦しみも必ず消えてゆくんだと、過去の心の誤りなぞ、穿り返さずに、ただた
だ、光明のほうに、心を向けていることが、自分を救い、人を救う、一番大切なこと
なのである。
ゆるしつく
愛と許の世界をみんなで創ることが大切だ。
自分を愛し、人を愛し、
ゆる
自分を赦し、人を赦す、
カルマこ
これが業を越える最大の道
はげ
みんな、いたわり合い、励まし合い、
58
たちえ
足りない智慧や力は、守護霊さんにおまかせしよう。
守護霊さんが、きっとうまくやってくれるに違いない。
59因縁因果を超える法
60
六、正しい宗教と誤れる宗教
宗教とはいったい何か、ということが最初に問題になる。
ぜつたいしや
宗教とは、神仏(絶対者) と人間との関係を説き教え、明らかにする道であると、
私は解釈する。
そくぶん
この原理に沿って、正しい宗教と、誤れる宗教とを区分し考えてみることにする。
ちえ
神とは、人間理念の根本であり、智慧(創造力)、愛、生命の根源である。従って、
しようちよう
完全にして、円満、調和せる象徴である。
うずまき
この完全円満なる力を内にもちながら、業因縁の渦巻の中で、その渦巻、そのもの
こにんのが
が自己であると誤認し、悩み、苦しみ、もだえながら、その渦を脱しよう、逃れよう
としているのが肉体人間の姿である。
げだつしや
そして、その業因縁の渦を脱して、内なる神性を完全に輝やかせた人を、解脱者、
ぷつだしやか
仏陀といった。釈迦はそうであり、イエス・キリストもそうである。他にもそのよう
かくしや
な完全神性を現わした覚者がいたわけである。
最初にそうした人たちが、神と人間との関係を説き、人間は完全円満な神性である
ああんしんりつめい
ことを明かし、行じて、人びとを安心立命の境地に導いていった。自己が完全円満な
さとこうしよう
る神性であることを悟ったら、この人間は業生を越えて救われたことに間違いない。
どうししと
この導師は、神の使徒たちであって、真の宗教家である。

しかし、この覚者たちが、肉体生命を終えた後、この覚者たちの教えを、種々な弟

子たちが、それぞれ独自な形で伝え始め、これが、何宗、何派、何教会、等々、世界
ひろさか
全土に拡まっていった。日本では、仏教が最も盛んで、各宗派に分れ、しだいに教え
こんぽんかくとくきようほん
の根本を忘れて、激烈なる宗派争いをしながら信者獲得に狂奔した。その他、神道、
じゆきよう
儒教があり、現代に至って、キリスト教が非常に盛んになってきた。61正










このように宗教が、各種の組織をもって、世界各国に拡まっていったのであるが、
人類の宗教心はその組織の拡大と正比例して深まってきている、とはいえないのであ
る。古代の人類は、宗教を学理的に知るよりは、行為で理解し、直接体験で、神を知
ぎよう
ろうとしていたが、中世、現代としだいに、宗教を行から哲学に移してゆき、学理究
ぎよううす
明が先になり、行からくる直接体験は薄らぎ、本来の宗教心から、知らず知らず遠の
いていった。
きゆうめいとうしゆうしや
やがて宗教は、学理的究明者と、教団、教派の形式の踏襲者並びに、真に神仏と人
ぎよう
間との関係を直接体験として知らんとする行の人、の三つの流れに分れてきた。
宗教は、学理的に究明しただけでは肉体脳髄に知識として残るだけで、先覚者の志
つか
を継ぐものではなく、形式を踏襲したのでは、神仏のいのちが枯れてしまって生きて
来ない。
神仏は生きとし生けるものであり、人間も生きとし生ける者である。生きとし生き
かたち
て自由自在に形の世界を造ってゆくものが神であり、人間である。
62
こちやくとら
学理に固着し、形式に捉われた世界には、いくら求めても神はいない。
ぎよう
宗教とは哲学ではない。哲学を越えた行の世界が宗教である。
がらん
また、宗教とは教団や教会や、伽藍ではなく組織でもない。人間が神仏にそのまま
ぎよう
つながっている生命であることを、自覚させる行であり、教えである。
真に宗教が世界に拡まり、世界人類が、真の宗教心、信仰心に生きたならば、この
みみ
世は愛に満ち充ちた天国となるのは明らかである。
愛とは、神そのものであり、神と人間をつなぎ、人間と人間を調和させ、人間とあ
きんわ
らゆる生物を琴和させる最大の働きをもつ心である。

宗教に入って、愛の心が湧きあがらぬようならば、その人は真の宗教人ではなく、
あんしんりつめいあやま
神に祈りながら安心立命の道に入ってゆかぬならば、その人の神観は誤りであり、そ
の祈りは正しいものではない。
こうしたところから、正しい宗教と、誤れる宗教、正しい信仰心と、誤てる信仰心
とを判断すべきである。63正










きせき
人間は古代から奇蹟を求め、新しい世界を求めつづけた。人間の力以上のもの、知
あらわ
識以上の出来事、こうしたことを待ち望む心は、本来の神性、自由自在性の顕れの一
ぞう
部であり、常に新世界を求める人類の心の底には、神の国が蔵されていたのである。
ききゆうめふ
この求むる心、希求する心が、一方では科学精神となり、眼に触れ、手に触れる物
質から物質へと探究してゆき、ついには現代のように物質波動説にまで進展し、一方
ちようえつ
では求むる心をそのまま五感の世界を超越して、波動の世界にいたり、さらに超越し
とつにゆう
てあらゆる波動を発する本源の世界に突入した覚者を生んだのである。そして、この
じゆりつめざ
二つの方法が必然性をもって近代の文化を開き、理想世界樹立を目指してゆきつつあ
るのである。
しやくそんたつ
先覚者釈尊は、自己の肉体を超越して本源の光に達した時、自己そのものが、光明
くし
身そのものであることを悟ったのであり、それ以来、自由自在に神の力を駆使して、
あまたじんつうりき
数多の奇蹟を行い、その弟子たちも、霊界の守護神の力を借りて、それぞれの神通力
はつき
を発揮した。
64
仏教学者は釈尊の偉大さを、その哲学的な説教におき、その奇蹟の面は、釈尊の偉
たた
大さを称えるための一つの物語的に解釈している向きが多いが、あの奇蹟があったれ
ひろ
ばこそ、仏教哲理が現在のように拡がったのであり、この点、キリストの奇蹟も真実
めいげん
のものであることを私は明言する。
みりよく
奇蹟なき宗教は、あまりに広まらないし、人間を魅力しない。といって奇蹟のみを
けんでんよこ
喧伝する宗教には邪しまなものが多い。
けいがい
説教のみの宗教は、宗教の形骸に流れやすく、奇蹟のみの宗教は、かえって、人間
どうよう
を不安動揺せしめる。
きせいみりよく
近代における既成宗教の大半は形式を教うるのみで魅力なく、新興宗教の大半は、
りやくこんてい
奇蹟的現世利益を説くが、人間の不安動揺の心を根抵から救ってはくれない。
その場、その場の現世利益があったからといって、そのことだけで正しい宗教とは
いえないが、宗教とは現世の利益など、どうでも良く、死後や未来がよければよい、
というのも片寄っている。また、宗教に現世利益を求めることは間違いで、人間の本65正










しきそくぜくうくうそくぜしきくうくう
体を仏であると観ずること、色即是空、空即是色(ものは即ち空であり、空の中にす
さにご
べてのものがある) である悟りに入ることのみが宗教なのだ、という人びともある。
しゆうちやく
これは真に正しい教えなのであるが、現世のように、肉体生活への執着の非常に深い
かそうじつそうむし
時に、ただ、肉体は仮相であって、実相ではない、と、全然、肉体生活の利害を無視
したように見られては、一般大衆との距離があまりにも遠く、これによって真に救わ
きんしよう
れる人は僅少の僅少のほんのわずかであると思う。
私は、肉体生活がある限り、肉体生活の利害を全然思わぬ、というような教え方は
りがい
無理であると思うので、肉体生活の利害も認め、その利益もあり、幽体の存在を認め
かんじん
幽界を知らせ、幽界における死後の生活の方法を教え、さらに一番大事で、肝腎な、
人間は神そのものである、ということを悟らせる方法が、前者の各方法よりさらによ
いのではないかと思う。

私はここで、第三章で書き漏らした、死後の世界、即ち、幽界について、述べてお
あやま
きたい。死後の世界をここで説明しておかぬと、誤れる宗教について述べる時に読者
66
にわかりにくいことが多いと思うからである。
こんていきようふ
人間世界におけるすべての不安の根抵は死の恐怖にある。
いかなる種類の苦しみに直面したとしても、死への恐怖を超越した人にとって、そ
の苦しみは、心の痛みにはならない。
死ほど、人間の関心をそそる出来事は他にあるまい。
なぞ
死は人間にとっての終りなのか、転移なのか、この謎が解けることによって、人間
しんぼはや
の進歩は一段と早まるに違いあるまい。

人間は肉体消滅によって失くなってしまうものではない。これは先章から私が説い
ていることなのである。
てんしゆつ
死とは幽界(以後は霊界をも含めて) への転出なのである。肉体の死とは幽界への
たんじよう
誕生なのである。
おうじよう
死ぬことを往生といったのはこのことを昔の人は知っていたからなのである。
肉体が死ぬ、ということは、その中の神につながる分霊が(後にはただ霊という) 67正










じようたい
幽体をつけたまま、肉体を抜け出た後の状態をいうのである。
ちようふく
先の章と重複するが、人間とは肉体ではなく、霊そのものをいうのである。肉体と
もこうどう
は霊の容れ物であって、霊の心のままに行動するものなので、ちょうど自動車が運転
しゆじゆ
手によって走っているように、霊の運転によって種々の行動をなすのが肉体なのであ
る。
つく
ただ先の章で述べたように、直霊(神) から分かれた分霊が、まず幽体を創り、そ
したぎつうわぎ
の幽体を下着やシャツのように着け、その下着をつけた上に、肉体という上衣を着け
しようめつ
た姿を、普通は人間と呼んでいたので、その肉体の消滅を、人間の消滅、と残された
おも
肉体界の人びとは思いこんでしまっていたのである。
こまはちよう
これを物理学的にいうと、霊体は非常に細かい周波数をもつ波長の体であり、肉体
しゆうはすうあら
は粗い周波数をもつ波長の体であり、幽体はその中間の周波数をもつ波長の体である、
じこ
ということになり、分霊はその三つの体を自己の体としているのであるが、肉体に入
うつ
るには必ず幽体をつけてゆかねばならぬのである。それは霊体から肉体に移るには波
68
長の周波数があまりに違い過ぎて合わぬからである。
のうずい
幽体は霊と肉体を結ぶ役目をもっているのであり、霊の念と肉体人間としての脳髄
ろくおんねんたい
の想いとを、その体に録音しておく役目をもつのである。(この場合幽体を念体とも
いう)
肉体人間の死によって人間(霊) は幽体をつけたまま幽界において生活する。この
ひと
幽界にも肉体界(現界)と等しく、種々な生活があり段階がある。その生活は幽体に
ちくせき
蓄積されている想念の通りに実現されてゆく。この人の想念が憎しみに充ちていれば、
憎しみに取りまかれた生活をする。愛深き想念ならば、愛深き想念の人々とともな
しゆじゆそう
る生活をする、というようになるのである。従ってその蓄積された想念の種々相であ
こま
るように、幽界の段階は細かくいえばかぎり無いほどに分れているが、大別して、天
てんかい
界、人界、地界というように三段階に分けられる。この段階の上位は天界で、愛深き

人、物質慾少なき人、執着少なき人、等々、神の心に近い人びとが住み、この界にお
いてもさらに細かい段階がある。人界とは、この肉体界における普通人であり、平均
69正しい宗教と誤れる宗教
けんそむ
点の人びとの圏であるといえよう。地界は、愛に背くもの、物質慾深きもの、執着強
たいだ
きもの、自我心強きもの、怠惰なるもの、等々、神の心、すなわち本源の心に遠いも
こういんねんす
のが、その業因縁を消滅せられるために住む世界である。
人界、地界(註…この世界はお互いに幽体が見え合うのであって、その点肉体界と同じである。ただ
肉体界よりすべてにおいて速度が早く、善悪とも、思うことがすぐ実現する)においては、業因縁の
きゆうそく
渦から脱しようと努力しながらも、肉体界以上に業因縁の渦は急速に回転するので
こまわ
(それは、念波の周波数が肉体界より細かいから) なかなか、その輪をぬけ出ること
おもいていし
はできない。その渦の輪を抜け出すたあには、一度、想念を停止すること、絶対の精
神統一に入ること、すなわち、神にのみ心を集中して、いかに業因縁の念が自己の周
囲を回転しても、見むきもしないことであって、その精神統一の深さに従って、蓄積
しかたすけん
された想念の消滅の仕方が違い、その度合によって、自己の住む圏(世界) が高くな
るのである。
つらつこう
いいかえれば、いかなる辛さや、苦しみや自己に都合の悪いことが出て来ても、そ
70
かこごういんねんみ
れは今、自己を取り囲む業因縁が消え去ってゆく姿である、と観て、ただひたすら、
ひた
神との統一観に浸れ、ということで、これは肉体界における場合と同様であるが、肉
かんまんきゆうげき
体界のように、その業因縁が緩慢に現われる世界と違い、烈しく、急激に現われるの

で、なかなかその苦しさに耐え得られないのである。このことを考える時、この肉体
界に生活する期間中に、できる限り、自己の業因縁を消し去っておくほうが、幽界に
おいて同じ業因縁を消し去るよりは、どれだけ楽であるかわからないのである。
たとしやくきん
例えていえば、百万円の借金(業因縁)をした人が、肉体界においては、五万円ず
しはら
つの月払いで済むとすれば、幽界では、一度に百万円を仕払わねば、さらに百万円の
利息がつく、というわけである。
じんかいちかいこどう
幽界(人界、地界)においては精神統一が最大の悟道の法であるが、もう一方法、
すなおたす
守護神の指導に素直になることである。肉体界において、守護霊、守護神の援けがあ
えんじよみちび
るように幽界においても、守護霊、守護神(主に守護神の援助) の導きがあるので、
この導きに素直に従ってゆくことが、自己を救う、よい方法なのである。この場合も、
71正しい宗教と誤れる宗教
がんぜんこ
自己の眼前の利益を超えて導かれる場合が多いので、守護神の導きが、例え、自己に
ふりすなお
不利のように見えても素直に従うべきである。
かんしや
この場合でも、肉体界において、常に守護霊、守護神に感謝していた人は非常に益
することが多いのである。
じようか
かくて、幽界において、ある程度浄化されると、また肉体界に誕生し、また異なる
みたびく
生活の経験を得て、再び、三度、両界における体験を繰りかえし、しだいに、高度
てんかいじゅう
の生活に導かれ、ついには、天界にいたり、神格を得て、神界に住し、あるいは、覚
者(仏) となって、肉体界、幽界の指導者となるのである。

結局、人間はその人自体が、すでに蓄積した悪想念をいかに巧みに消し去ってゆく
どあい
かによって、その人の運命の度合が高度になってゆくのである。
おけおすいく
桶が汚水で一杯になっていたら、人は必ず、その水をこぼして、新しい水に汲みか
えるであろう。しかし人間は、自分の運命の汚水(悪想念) をそのまま流さずにおき
きたな
たがるものなのである。何故ならば、その汚水(悪想念) がこぼれると、その場が汚
72
くなる(その人の生活に起こる不幸や病気をいう) からである。といって、次から次
きようふうらおけ
へと汚水(不幸や病気への恐怖、恨み、怒り等の悪想念) を出しつづけたら、その桶
からは常に汚水がこぼれつづけ、その場は、汚水でいたたまれなくなるであろう。こ
けおけよ
の汚水を消すには、まず清い水をその桶にそそぎこむ(善い想念、愛と感謝)ことが
そうじ
第一であり、それと同時に、その場のふき掃除をすればよいのである。
にんたいりよく
人間はその忍耐力と勇気が必要である。
あくえいきよう
さて話を幽界にもどして、幽界において肉体界に悪影響を及ぼす、生物の話をして
みよう。
はな
幽界には、肉体界を離れながら、いまだに肉体界に生活しているものと思いこんで
しようめつ
いる人間たちがいる。この人たちは、肉体の死が人間の消滅である、と思いこんでい
しゆうちやくしようがい
る人たちで、肉体への執着が非常に強く、病気あるいは傷害で、肉体的に死にながら、
ゆめしゆうい
われわれが通常夢みているような工合に、自分の肉体界当時の周囲の人びと、近親や、
はいごみつちやく
子孫の人びとを想念し、その人びとの肉体の背後に密着する。それは、自分自身の肉73正










つつ
体が、すでに無いのに有る、と思いこんでいるので、幽体だけが想念を包んで、肉体
ヘヘヘへ
界をさまようのである。
ゆうこんはいびようおも
この幽魂が肺病で死んだ人ならば、肺病の念いを、そのまま持ちつづけているので
わざわい
その幽魂に密着された人は、しだいに、その肺病の念に禍され、その人もついに肺病
ちすじ
になってゆくのである。それは親しい人や血筋ほど禍されやすいのである。その他の
しようがい
病気や傷害も同じである。
うらなん
生前の恨みを晴らそうとする場合も、恨まれた人は難を受けやすい。
てんいきようみれいこん
また、幽界に転移しながらも、肉体界に異常な興味を寄せている霊魂と、幽界のみ
りんりかん
に生存する感情霊、あるいは動物霊という、人間のような倫理観や道義など持ち合わ
さとそくじ
せぬ生物がいる。これらの霊魂や生物は悟りから程遠いのであるから、俗事に非常に
さわ
興味があり、自己の神性を探究することよりも、何か、事件を起こして、騒ぎたかっ
あがよくほうたつせい
たり、崇められたかったりする心が強いので、肉体人間が、あまりに自己の慾望達成
のための神頼みや、奇蹟に頼ったりしているのを見て(ある程度の幽界人は、肉体界
74
ちやめつけれいばいそしつことがら
の事柄がよくわかるのである)茶目気を出し、ある種の霊媒素質のある(これは肉体
でい
の下衣である幽体の大きい人、霊魂が出入りしやすい人)人たちに送念して、あるい
は肉体を借りて口をきき”我れは何々の神であるぞ”式に現われ、種々と肉体世界の
出来事の予言をするので、これはなかなか当たるのである。
ひくあやま
低い宗教、誤れる宗教にはこの種類が非常に多い。
この種の宗教の教祖はおおむね、女性や、学問的知識のすくない人が多い。何故な
ひはんまなこ
らば、知性のある人びとは、相当素直な人でも、その言葉や態度に批判の眼をむけず

にはいないので、肉体を使おうとして愚く霊魂にとって、自由に使いにくいからであ
る。
そんだいげび
この種の教祖や宗教家は、非常に尊大ぶった態度を取ったり、下卑た口をきく。ま
ふせ
たは知ったらかえって不安動揺するような予言をする。予言されて、その通り防げば、
ていなんみらい
防げる態の事件の予言ならよいが、その難を絶対除かれようもない未来の予言をする
かな
ようなことは神の心に適うはずはない。75正










れいこん
これらの霊魂は幽界の生物であって、神から来る守護神、守護霊ではないので、た
いけいとくとく
だたんに面白半分に、肉体人間を驚かし、畏敬させて得々としているのである。肉体
人間でいえば、不良青年のようなものである。
みぬ
ただ、予言が当たったり、人の心を見抜いたりするだけの奇蹟で、その人間を神が
使っている、とか、神様だとか、思ったりしてはいけない。たとえ、その霊魂(宗教
家) の言葉で事業や、商売がよくなった、としても、そのことだけで、その人が救わ
れの道に入ったのではない。現世和盈だけの目的で神にすがりつこうとするその嬉た
(心) は、神の道をかえって見失ってしまう恐れがある。生命を魯かさず、心の漉れ
いや
たままで、神に救ってもらおうとする人間たちの、卑しい心を助長するような働きを
ほか
する宗教は、誤れる宗教という他はない。
みらいきようふ
それから、未来の予言をして、人を恐怖させ、それを入信の手段としているような
あやま
宗教もまた誤れるものである。
ほんい
宗教とは人間を安心立命させることが本意なのであるから、その日常生活が、宗教
76
がい
に入ったために、かえって不安になったり、乱れたりしては、宗教が人間に害を及ぼ
すことになる。
こうしょうこさみちび
真の宗教とは、業生を超えて神仏に直通する道を指し示し、導き上げてくるもので
たか
あり、真の信仰とは愛と真をますます深め高め、人類大調和創造のために、偉大なる
わあ
勇気を湧き上げさせるようなものでなければならない。
ふあんどうよう
宗教に入って、不安動揺するならば、その宗教が間違いか、その人の信仰が間違い
かのどちらかである。
ただきようち
いかなる正しい宗教に入っても、直ちに安心立命の境地に入れるわけのものではな
しんこうたんしゆく
いが、それは、その人、その人の信仰の深さ、信行の真剣さによって、時間の短縮は
いくらでもできるのである◎
かたむ
真の宗教家を求めるならば、まず自己の守護霊、守護神に心を傾けて熱心に頼むべ
きである。守護霊、守護神は、必ず、その人を一番適当な宗教家や指導者のもとに送
りこんでくれるのである。77正










なつうれ
その時は、何か、安心に似た感じか、懐かしい、嬉しい感じがするものである。
さそねん
いかに高い教えを説く宗教に誘われても、守護霊、守護神に念じてみて、行きたく
なかったり、行っても心が不安であったりしたら、その時は、その宗教に無理に入る
しんきよう
必要はないのである。その時は、その人の心境に、その教えが適さないのであるから
である。
じこ
なんでもまず、自己の心の指導者、行動の守護者である、守護霊に念じてみること
よあいて
である。必ず現界における、善き指導者、善き相手をその人の前に現わしてくれるの
である。

自己の内に神があるのだから、他の誰の教えを受けなくとも良いのだ、と思いこん
むひと
でいる人が、友人たちに向かって、”君たちは、君たちの内部に神性があって、自然
りで
法爾に君たちを善きように導き給うているのだから、どこの誰にも教えを受けたり、
きよ
浄めてもらったりする必要はないよ” と忠告しているのを時々耳にする。これは真理
の言葉のようで、非常に誤っているのである。内部の神性は、常に人間や事柄をもっ
78
て、その人を導いているのであって、ある指導者に逢ったことが、内部神性の導きで
ある場合がたくさんあるのである。
すなお
人間は真理に素直であることが、実に大事なことであり、その素直さは、常に内部
いのこんてい
神性(守護霊を含めた) の導きに心を傾けている真剣な祈りの念に根抵を置くべきで
ある。
ふく
内部の神性とは、常に守護霊、守護神を含めたものであることを忘れてはならない。

宗教教団そのものが立派で正しくあっても、その教えを説く人が正しくない場合が
かんよう
たくさんあるので、その点も注意が肝要なのである。
また、その教えが、実に立派で、教えそのものとしては、それ以上の高さには誰に

も説き得ないほどのものであっても、その教えのままをこの肉体世界に実現せしめ得
なま
ぬようでは、その教えが生である、といい得よう。
かたちほとけ
例えば、人間は本来形なく、姿なきものであり、神、仏と一つのものであって、光
むげしん
明そのものである、実相身、無硬身であるから、幽界があるとか、死後の霊魂が生き79正










おくねん
ているとか、いうことは全然必要ないことである。ただ、ひたすら仏を憶念すればよ
しん
い。といわれた場合、その理は真であって、返す言葉はないが、ただ、ひたすら仏を
きようかい
憶念するだけで、安心の境界に入り得る人がいったい何人あるであろうか。また、ひ
たすら仏だけを憶念できる人があるであろうか、という実際問題になるのである。現
むげしん
代のように唯物知識の盛んな時代に、ただ、人間は仏性であり無擬心である、という
ことや、そのような実相論、本体論だけで、近代人を救いに導くことはほとんど不可
能である。
本体論、実在論、実相完全論を説きつつ、入間因縁論をも同時に説き、肉体界、幽
界、霊界、神界(仏界) を知識として認識させ、本体はこうなのだが、因縁としては、
へめぐ
こうこう、このように種々な界を経巡っているのであるから、本体を実際に確認し、
実相界にて仏となるにはいかにしたらよいか、ということを、教え導くようにするの
が、宗教家であり、指導者でなければならない。
れいばいしや
その意味では、心霊学者や、心霊研究家の仕事も、大事であり、善い意味の霊媒者
80
きゆうらいとら
も必要である。また旧来の仏教や道教、キリスト教も役立っているが、その一つに捉
さとはい
われてしまうようだと、到底悟りに入ることはできないし、現象の生活環境すら真実

の善さを現わしては来ない。
であるから、各自、自己の因縁(性格を含めた)を知ることに努め、長所(善因縁)

を見出して、それを伸ばして行くことに真剣になることで、悪因縁(短所)はそれを
とらはなちよう
知った上で、それに捉われずに放してゆくことである。宗教家や指導者はその人の長
しよたんしよ
所、短所を認識し、その認識の上に立って、長所が伸びてゆくように導き、短所は何
気なく打ち消し、打ち消し、してやって、消し去るように指導してやるべきである。
いんねん
因縁を説いて、その因縁を消し去ることを教えぬ宗教は人を救えない。それは因縁馬
おもとらうしな
因縁と因縁を想う念に捉われさせて、人間の本来の自由自在性を失わせてゆき、安心
立命どころか、不安心の生活にその人間を追いこんでしまうからである。
因縁を説いたら、必ず、その因縁の消え去る方法を教え、その本体の神仏であると
ころまで説かねばならぬ。81正










これは、因縁を、想念(心) の法則と説いても同じである。
かげしてきたぐい
この不幸は、この病気は、みんなあなたの心の影ですよ、と指摘する類である。
形の世界の運命は、みんな心の影であるのは真理であるが、現在そこに現われた、
病気や不幸が、その人にとって記憶のある悪想念の現れであることは少なく、大半は、
記憶に出て来ぬ過去世からのものも含めた潜在意識にあったものであり、あるいは祖
かんのう
先や縁者の悪想念に感応している場合も多いのである。この理を考えずに、ただ、あ
あデいた
カじ
なたの心の影だと説くことは、その人を救うより傷つけ痛めることが多いのを私はよ
ちえ
く知っている。これは愛の不足ということで、知識が智慧と離れた状態である。心の
あたたかきず
温い人、愛の深い人はどうしても相手の心の傷や痛手に、ぐさっと突きささるような
ふこう
言葉は吐けないもので、まずその不幸にたいして、同情せずにはいられなくなるもの
ではないかと思う。

いかに真理の言葉であっても、聴く人の心が、その真理の言葉に遠い境界にあった
くうふくあえこうえん
り、空腹に喘いでいる人に、高遠な理想を説いても、ほとんど効果はあるまい。
82
めだま
真理の眼玉よ降りて来い
おまえがあんまり高すぎるから
くのり
世の中は暗いのだ
しじんむし
と歌った詩人がいるが、これこそ、肉体人間一般の叫び声であろう。この声を無視
じんるい
した教えでは人類を救うことはできまい。
いんえんけ
一の因には一の縁をもって、この因を消し、二の因には二の縁をもって、この因を
消すべきで、一の因に十の縁をもってきてもこの因は消えずにかえって深くなるであ
ろう。(註… 一を低い念いとし、+を高い理念とする)
えいよう
牛肉(真理の言葉)が栄養があるから、といって、毎食牛肉ばかり食べさせられて
くじロリ
はやりきれないし、鯨が食べたい(真理が知りたい) といったから、といって、鯨を
そのまま眼の前に置かれても、どうにもしようがあるまい。
ふこう
指導者は常に愛と智慧とに導かれていなければ、かえって人類を不幸にしてしまう。
あやまき
以上で大体正しい宗教と、誤れる宗教の区別がついたと思うので、次には、私の祈83正










ねんほう
念法を書いてみることとする。
84
七、
きねんほう
私の祈念法
ねいじつつか
私は現在、毎日多数の人びとの相談に応じて寧日ない有様であるが、ほとんど疲れ
たいざしゆんかん
が残ることはない。業因の深い人と対座する瞬間、相手の業因が、電波の如く、私の
かんのうつか
肉体身に感応してくるのだが、それもほんの瞬間に消えて、疲れがそのまま肉体に残っ
ているようなことはすくない。
ずのうくう
私の肉体の頭脳は常に空なのである。私は肉体の頭脳でものを考え出すことはない。
ちえ
必要に応じて必要を充たす智慧が、私の本体から自然と肉体に伝わってくるのである。
れいばい
私は霊媒ではないから、霊動したり、霊言したりはしない。普通の肉体人間となん
ら変わらぬ平々凡々たる人間に見えるし、常識を一歩も越えぬ生活をし、行動をして85私




いる。しかし、根本的にはまるで違っている。
それは私の本体が光であることを体験として知っていることであり、私の言動が、
にんしき
すべて神(本体) から直接に支配されていることをはっきり認識しているからである。
かめぐ
普通、人間は、常になんらかの想念が頭脳を駈け巡っているのだが、私の肉体脳髄
そうねん
を駈け巡る想念は何もない。
だんぜつきようせいてき
私はかつて、一切の想念を断絶する練習を私の守護神から強制的にやらされたので
ある。
ざぜんたぐいれんしゆう
それは、普通の座禅や、精神統一の類ではなく、二十四時間ぶっつづけの練習なの
じじよでん
である。(このことについては、自叙伝”天と地をつなぐ者” を参照されたい)苦しい
おもていし
といえば、これほど苦しいことはない。ものを想わぬこと、念を停止すること、即ち、
くうほこう
空になる練習なのである。寝ても起きても、歩行していても、全時間、すべてこの練
めつきやく
習なのである。この期間約三ヶ月、自我を全部滅却して、神我に変えたのである。
ゆだ
霊媒ならば、肉体を、その支配霊に他動的に委ねて、自己の我は睡っていればよい
86
じこいし
のだが、私の場合は、自己意志で、自己の我を消滅し去ろうとするのである。いいか
いんねんこ
えれば、因縁の流動を超えて、自由自在になるための練習なのである。
はてりんね
原因結果、原因結果と果しなく輪廻する業因を超えるためには、その業因をつかん
こういんねんかか
でしまってはいけない。いかなる業因縁が果として現われようとも、果として現われ

れば、その因縁はそのまま消えるのだから、消えてゆくという念と、これで善くなる、
ぜんいんこん
という善念だけ出せば、運命はその時、新しい善因を記録する。そうした方法を根よ
せんざいいしき
くつづけて行けば、その人の潜在意識は、しだいに善因縁に変化してゆき、顕在意識
おもいこうりゆうこうてん
の善なる想念と正しく交流して、その人の運命は好転する。
おもい
私は人びとに、そのような方法を教え、練習させながら、私自体は、私の想念をすっ
もくそう
かり停止して、相手の業因縁を、私自体の生命(心)の中に吸い込んでゆく黙想をす
くうそくじつそう
る。これは苦しい想念停止の練習によって、到達し得た空即実相の黙想なのである。
あすわ
相手と私は向かい合って座る。私の心には相手の分霊の光と、その分霊が過去から
はちようかん
放ちつづけている想念の波が種々なる波長をもって、幽体を流れているのが観じられ87私




こうたい
る。即ち、因縁の波を観じるのである。私は、すでに光体になっている私の中に相手

の因縁の波が吸いこまれて、しだいに浄まってゆくのを感じる。ちょうど吸い取り紙
のようなもので、吸い取り紙は吸い取ったインキを消すことができぬが、私は、その
たいざよご
人との対座を止めると、ほとんど同時に、その人の因縁の汚れを消滅できる。私に来
しようめつ
ている本源の光が汚れを消滅するのである。
すがすがいくどう
私と対座した人は、なんだかわからぬが、体が軽くなり、清々しくなる、と異口同
おん
音にいう。これはその人たちの業因縁が浄められたことによるもので、いかなる言葉
の説教よりも、はるかに早くその人たちを救いの道に導くことになるのである。
さいぼうそしき
人間の肉体は細胞組織でできていて、その細胞は陽子、電子の寄り集ったもので、
ぶんせきびりゆうし
それをさらに細かく分析すれば微粒子となり、その微粒子は光の粒だという。その粒
こんぼん
も、もっと根本にゆけば、光の波動である、と科学者がいっているが、人間が真の精
むげんこうじ
神統一に入ると、自分自身が、無限拡の光であることがわかる。私の想念停止は、自
がだつきやくぞんざい
我を脱却したということなので、そこに肉体という物質体が存在していようとも、そ
88
ばいかいたい
れはただ光の媒介体であるので、私と対座した人の業生の因縁体(幽体、肉体)に、
きよ
本源の光が流れこむことになり、分霊にまつわる業因縁が浄まってゆき、分霊の体が
たびかさ
軽く清らかになってゆくので、度重ねて私と対座すると、知らず知らずに安心立命の
きようち
境地に近づいてゆくのである。
かしわで
この黙想と同時または前後に、柏手を打つことが多い。これは、相手の因縁の波が
しコリ
多種多様であるので、種々なリズムで、その因縁の波の調べに合せて叩くのである。
かしわでとお
この柏手を打つことによって、光の波が、相手の業因の波のうねりの通りにうねって
浄めてゆくのである。
いいかえれば、神の光波が、私の柏手のリズムを通して、私と対座している人の業
あら
因縁の波を洗い浄めてゆくのである。
いんとういつ
その他に種々の印を結ぶ。これは、相手を統一させるためと、こちらの光の波長を
相手の波長に合わせるたあである。やさしくいえば、テレビのダイヤルを種々に切り
かえるのと同じである。89私




うしろむ
この祈りは相手と向き合ってやったり、相手を後向きにさせて、祈ったりする。
かこせ
前向きの時は、その人そのものの、過去世からの業因縁を浄めるのであり、後向き
えんじや
の場合は、その人にまつわる祖先や縁者の想念の浄めなのである。
また、私は人の運命の方向を指示し、好転せしめるように祈念する。
えきしやあ
大侮私は易者ではないので、人の運命の過去を当てたり、先を予見したり、性格を
してきほんがん
指摘したりすることを本願としてはいない。
こしよう
私の本願は、すべての人間に神の存在を知らせ、人間は業生でなく、光の子、神の
子なのであることを知らせたいのだ。
めいもうさま
どこまで悩んでも、いかに苦しんでも、救われぬのが人間である、という迷妄を覚
させるために、私は働いているのである。であるから、ただたんに”おまえの運命は
してき
かくかくしかじかだから” と、その人の運命の悪さを指摘したり、”おまえの心が悪
いから、おまえの病気や不幸はなおらない” というような指導のしかたはしないので
ある。
90
あいねん
ただひたすら、その人の運命の好転を祈る愛念だけで、人に対しているのである。
人の名前を聞いても、その人と対座しても、私の心には、その人の性格や運命が、
かがみうつおもい
鏡のように写ってくる。何故写ってくるかというと、私の心に私自身の想念がないか
くロつ
ら(私自身が空だから)相手の運命(潜在意識に録音されてある)がそのまま私の空

の心に入ってくるのである。しかし、私は、その事柄をそのまま、その人に告げるこ
きず
とはしない。そのまま告げても、その人の心を傷つけず、かえって勇気づける場合は
別であるが、大体は勇気づけるような内容だけを話して、少しずつその人の誤れる習
くせ
慣の心、いわゆる、悪想念の癖を善い想念に変えるように指導してゆく。その間勿論
私の祈念法をもって、祈念してやることは、いう迄もない。
べんうす
いかに達者な辮で真理の道を説いていても、心に愛の薄い人は、その姿に光が薄い
だま
し、何も説けずに、ただ黙ってその不幸な人の開運を祈っていても、愛の深い人の姿
は、光り輝いて見えるのである。
ひかり
愛は光であり、光は即ち神である。91私




まこともくそうみ
真の行いは神の行いである。愛の黙想は光そのものである。愛に充ちた真理の言葉
ことば
は神の言葉である。
あの人を善くしてあげたい、と思ったら、まず自分が光にならなければならない。
光になるとは、愛そのものになることである。それは自分の立場がよくなるから、と
ふじゆん
か、自分の力を示したい、とか、人に感謝されたい、とかいう不純な心があってはい
じゆんすい
けない。真に善くしたい、という、純粋な愛の心でなければならぬ。その場合、純粋
そうねんていし
な愛は自己の想念停止(無我) と同じであるから、本源の光がその人を通して、相手
に流れ入るのである。愛の純粋さの程度に従って、光の強さが違ってくる。病気など
りきみ
の場合、なおしてやるんだ、という力や、不安動揺の心は、光を乱し、弱める。
れいちりようかれいかくしや
よく、霊治療家や、霊覚者になりたい、といって、修行する人があるが、私はそれ
に反対する。そうした特別な力を得たい、と思う心は、神の心に遠いからである。何
さず
故ならば、神はすでに、その人、その人に対して、天命を授けているのであって、正
れいのうしや
しい霊能者や、霊覚者になる者は、自然に、そうなるような方向に、守護神が導いて
92
ゆき、その人に必要な修行を現象の心の否応なしにさせられてしまうのである。
私は音楽家で世に立とうと思って、音楽を勉強した者であるが、いつの間にか、種々
と哲学や宗教や、心霊学の道にひき入れられてしまい、ついに種々な修行をさせられ
て、現在のような人生指導者になってしまったのである。

その間、私は友人の誰よりもよけいに勉強したわけでもなく、特別な能力が欲しい
と願ったこともない。ただ、常に、常に、神に祈っていたことは確かである。
その祈りはー
さず
“神様、どうぞ、社会人類のために、私のいのちをおつかい下さい。私に授けられ
しめい
た私の使命を一日も早くなさしめ給え”
という意味のもので、この祈りは常に、私の心を離れることはなかった。
カロカ
霊能を得たい、ということは我である。特別な力を得たい、という心も我である。
ひくかんのう
そうした我の祈りや願いは、低い霊魂に感応しやすい。その祈りが通って、霊能者

になったとしても、その人が、そうした我の心を捨てない以上は、その人の運命は最93私




づま
後に行き詰ってくるであろうし、その人の力では、真に救われる人は出てこない、と
私は思っている。
しんしむじやきらくてん
真摯な愛の祈りと、無邪気な明るさ、運命を信ずる楽天、こうした要素が、神に通
じやきおも
ずる心であり、いかに祈っても、邪気ある心、暗い心、不安の念いなどがあっては、

神の心に触れることはできない。
く り
不安の心多き人、暗い心の人たちは、常に天を仰ぐことを実行するがよい。天から

はいつも、陽気が降ってくる。たとえ雨や曇の日であっても、天に心をむけることが
大事である。天に心をむけると、いつの間にか、心が軽く明るくなるものである。そ
して次のように祈るとよい。
じゆうじつ
“神様、どうぞ私の心に愛を充実せしめ給え、どうぞ、私を愛深い私にならしめ給
え” と。
その祈りを毎日かかさずつづけていることは、細かい種々な願いごとをする神詣、
みちび
仏参りより、はるかに、はるかに、その人を高い境地に導いてくれるものである。
94
立っていても、坐っていても、歩いていても、寝ていても、そんな形のことはどう
でもよい。ただ、ひたすら、愛深い自分になることを祈りつづければよいのである。
いつときおもい
定まった一時刻の祈りよりも、常に常に心に抱いた想念のほうがよほど効果がある
りつロリ
のである。だから、いつも泣きごとや、ひがみごとや、恨みごとや、病気の不安など
を想いつづけていたら、その想念の作用で、その人の運命は、いつも暗く不幸なもの
になってしまうのである。想念は、運命に大きな作用を及ぼすことを忘れてはいけな
い。
“愛はすべてを癒やすのである

だかいこんてい
すべての不幸を打開するのは、愛の心が根抵にある行動である。
ちえ
私の祈りは、愛の祈りである。智慧は愛のうちに含まれていると私は思っている。
じよう
ただし、愛とは情ではないことを申し添えて置きたい。
情は愛から生まれたもので、愛情と一つに呼ばれているように、愛とは切っても切
れぬ関係がある。そのため、仏教では、愛さえも業と呼んでいて、迷いの本体である、95私




と説いている。そして神の愛を慈悲と呼んでいる。私が今まで愛と書いてきたのは、
しゆうちやくチヤリテイ 
情(執着) でなくて、英語でいう○び鋤葺図(慈悲心) のことである。しかし、愛は善
で、情は悪である、と簡単に割り切ってもらっては困る。この現世では光に影が伴う
きの
ように、愛には情がつきまとうのである。切りがたい情を涙を呑んで断ち切ってゆく
ところに、人間の美しさがあり、愛の輝きがいやますのである。
れいこくせいとら
情を簡単に切れることが、その人の冷酷性の現れであったりしたら、情に捉われや
すい人よりなお悪いことになる。
おほ
愛深い人が情に溺れぬように自重してゆく姿には、美があるもので、そうした人の
動きの中に、神のこの現象界における生き方が示されているものと思われる。
いだ
私の祈りは、自分が相手と一体になって、相手を抱いたまま、神の世界に昇ってゆ
こうとする祈りである。
から
祈りとは、まず自分の心を空っぽにすることである。それまでの自分をひとまず捨
てて、神だけを自分の心に住まわせることである。
96
あと
願いごとは、すべて後まわしにすることである。神だけを自己に住まわせれば、そ
かな
の人に必要な願いごとは、すべて叶うのである。
しようがとく
小我の祈りは、その人をますます小さくするだけで、なんの得にもなりはしない。
ぎよう
ただ、神だけを想うことである。愛だけを行ずることである。
しゆんげんれいこく
愛は、時に峻厳を極める場合がある。しかし冷酷とは全然異なるものである。
愛は全体を生かすとともに、そのもの、そのことをも、真に生かすために、峻厳さ
れいこく
を示すものであり、冷酷とは、自己や自己の周囲の利益のために、すべてを殺すもの
である。
きびかえり
愛の峻厳であるか、冷酷性からくる厳しさであるか、自己を省み、他を参考にして
みちしるべ
よく自己の道標としなければならぬ。
よそおまここ
愛の峻厳を装った冷酷、愛とも擬う情意(執着)、この二つの心を超えるためにこ
そ、人は神に祈り、神と一体にならねばならぬ。
私はそうした人間の深い問題を、根抵から知らせる役目を神から受け持たされてい97 私




るものと信じて、
のである。
毎日、
くうそくじつそう
空即実相の祈りを、多くの人びととともに祈りつづけている98
八、むすび
以上各章にわたって述べて来たことは、宗教哲学者や、宗教の専門家からみれば、
いうん
種々異論があると思うが、私は学問としてこの本を書いたわけではなく、安心立命へ
したた
の一つの道標として認あているわけで、この書を読まれて、人間とは、なるほどこの
ような者か、神様とはそうしたものか、とまずうなづけて、私のいうことを、そのま
すなお
ま素直に実行して下されば、その人が幸福になることは間違いない。その点、私は、
すおこな
むずかしい行を少しも説かず、直ぐその場で実行にうつせる祈りや行いを書いている
のである。この書で私の一番知ってもらいたいことは、人間一人}人には必ず守護霊
みちび
が守っていて、祈れば必ずなんらかの方法でその人の問に答え、あるいは導いてくれ99む


すなおまつと
るので、その守護霊の注意や指導に素直にしていれば、必ずその人は人間の道を全う
するということなのである。
あゆ
それを信ずることは、神を真実に知る第一歩なのであり、人生を歩む非常な勇気づ
けになるのである。
ともどうぎようににんとうたつ
“我れ神と倶にあり
” “同行二人” という確信に到達するのである。
 ごロリ
神は形なく姿なきもの、とのみ思っているのは、いまだ捉われである。神は本来形
じんかくしん
なく、姿なき生命の原理ではあるが、その働きは、時に人格神ともなり、形ある人間
しゆごじん
としてわれわれの前に出現することもあるので、その点、守護霊、守護神の存在を堅
かんしや
く信じて常に守護霊、守護神に感謝していれば、その場その時に応じて、神の愛は、
えんじよ
種々の人間や事物に託してその人を援助せしめるものである。
とロリ
信仰は一つのものや、形に捉われたら執着になる。悟ろう悟ろうとして、肉体を傷
じやまあつか
つけ苦しませて邪魔扱いにしている人びとがあるが、私は、それはかえって肉体に捉
われているものであると思う。肉体もやはり神の生命が必要あって存在せしめている
100
すていちよう
ものである。肉体の世界に住む以上、肉体も大事に丁重に扱うべきである。肉体生活
を損ぜず、傷つけず、肉体生活の喜びを味わいながら、心が乱れぬ人間にならなけれ
べつし
ば、肉体世界における宗教の意義は非常に薄れる。肉体世界を蔑視する宗教や信仰は、
げんかい
この現界を救うことはできない。
しんぜんび
肉体生活をそのままに、心が安心立命してゆくためには、自己が真、善、美の想念
と行動をしながら、守護霊、守護神への祈りを、毎日かかさぬようにしてもらいたい
と望んでいる。
しんが
それが神我一体の境地に入る一番の早道であると思う。
指導的立場の人や、国家や、人類のために直接働いている人びとには、個人の守護
くにとこのたまかん
霊や守護神の他に、国を守る国常魂や、人類の正しい発展を観じている神々が常に指
導しているのである。
にんしきぜんいん
このことを認識せぬ指導者は、せっかく、前生の善因によって高い地位を与えられ
がいがよくてんらくあえ
ながら我意我欲に流れて、自他ともに転落し、国家や、人類を苦難の底に喘がせるこ101む


ついきゆうおも
とになるのであるから、指導者こそ、常に生命の原理を追求し、神を想い、祈らなけ
じんるいはんえい
ればならぬものである。しかもこの祈りは、必ず、人類平和、人類繁栄のために、自
はつき
国が、自国の本質を発揮して、立派な働きができるように、という祈りであって、自
あますおもい
国だけが甘い汁が吸えるようにというような、想念であったら、自国の滅亡を祈って
いるのと、同じことになることを注意せねばならぬ。
まちえい
相手を負かすために、神の智慧があるのではない。自分を生かし、相手を生かすた
はたら
めに神の智慧が人間に働いているのである。
ちよくれいわか
世界に多数の国があり、多数の民族があるが、これは神が各直霊に分れ、直霊が各
どくじせい
分霊に分れたと同じように、各国、各民族個有の独自性をもち、各々がその独自な智
いしそうそう
慧や、力を出し合って、神の意志を地上世界に創造しようとしているものなのである
が、不幸にしていまだ、世界は神の意志にそわず、各国、各民族が、各自、その智慧
がまもえいえい
や力を分散して、我で築きあげた国家を護り堅めるために営々としているのである。
ぶびきずきずい
疑っては武備し、武備しては戦い、戦っては傷つき、傷癒えぬ間に、また戦う。敗者
102
しようしや
は悲しく、勝者また喜べぬ現世界である。
ぷんさん
この人間世界が、分れ分れの智慧や力を、分散して現わしていたところで、相対的
ちようわ
な勝ち負けになるだけで、一向に真実の神の世界、調和の世界はできて来ない。
おさ
その根抵がわからず、お互いが相手の力を抑えようと研究し合っている姿は、神に
とってはなはだ情けないことではなかろうか。
たが
お互いの生命は一つの大生命(神) につながるものであり、お互いの智慧や力が、
こんげん
一つの根源から出ているもので、お互いの智慧や力を集積すれば、たちまち、神の世
界が地上に実現するのである。これは頭でわかっても、なかなか実行できぬことであ
えいえん
ろうが、この理を最初に実行にうつした国や民族は永遠に滅びぬ神へのつながりを、
かくやく
確約したのと同じである。
この行為を実現するためには、非常なる勇気が必要である。そのためにこそ、国民
の一人一人、民族の一人一人が真の信仰に入らなければならぬし、神の真意を知る偉
大なる指導者が、多く生まれなければならない。
103 むすび
その日はいつか、それはそう遠い将来ではないと、私は信じている。
104
問答篇
この問答は各所の会合において出された問題のうち、
適当なるものを抜葦したものである
たんじよう
問人間の誕生についてお教え下さい。
かこゆうかい
答人間は死後、その人の過去の想念や行動によって、その霊魂の幽界における
きひあい
生活が決まり、その霊魂が種々の苦難や悲哀、あるいは喜びを味わいつつ、進化に役
けいけん
立つ行をするのであるが、これ以上は幽界における経験よりは、肉体界における経験
そくしん
のほうが、よりその霊魂の進化を促進させるに役立つと、その霊魂の教育に当たって
まちあいじよう
いる先輩霊(高級霊)あるいは守護神が思った場合、肉体界誕生の待合場へその霊魂
は移され、そこで肉体界誕生の日を待つのである。この場合、よほど高級な霊魂以外
ねむはどう
は意識を睡らされているのである。意識があっては、幽界の微妙な波動の世界から、
105 問答篇
あらくつう
肉体界の粗い波動の世界に転移することが、非常に苦痛であって、普通の霊魂は耐
え得られぬからである。もっとも高級な霊魂の中には、意識したまま、この苦痛を耐
あかご
え忍び、母体にある程度住して、あるいは、赤児と誕生して直ちに、再び霊界に還っ
げだつ
て、自己の業因縁を、すっかり解脱してしまうものもある。
クラスうつそうしつ
普通級の霊魂は、待合場に移されて以来、幽界の記憶を喪失したまま、誕生し、ま
いくたび
た再び肉体の死まで、過去の記憶を失ったままでいるのである。そうして幾度か、死
から誕生、誕生から死へを繰りかえしつつ、業因縁を解脱してゆくのである。
かこせ
この誕生する霊魂は、過去世において、その父母の、どちらかに深い因縁(関係)
けつえんしゆうはすうるいじ
を持つ霊魂で、血縁が多く、その想念の周波数が、類似している。そのために、子は
親にその姿形がよく似ているのである。
おもい
しかし時には血縁でない場合もあるが、これとて、その想念の周波数が類似してい
る霊魂であることには違いない。
るいじ
周波数が類似していても、その霊魂の光の大きさや、浄まり方の違い、過去世から
106
いことである。
先生の念願は、神の念願である。必ずや国家が必要とする時に、
者から出つるであろう事を熱望しつつ欄筆する。
昭和二十八年春
この人達が、この団体関係
182
然り、愛なる神は五井先生の如き、超人を用意し給いて、神癒のあることを知れ、人間の尊厳
さを知れ、神の無限力吾等に宿れるを知れ、そして人間は幸福であり、健康であることを知
れ、と絶叫されつつ我等の自覚を促し給うのである。
現代社会の常識人の中には、何でも奇蹟的のものを見たり聞いたりすると、迷信だと片付け
て物識り振りたがる人々がある。徳川時代未開の頃、平賀源内が蘭書で知った電気の学問を応
用して、電気仕掛の玩具や道具を作ったら、切支丹バテレンだと言うて大変怖がられたと謂
う。今にしてみれば実に滑稽な咄であるが、文化の発達目覚しき現代でも、この様なナンセン
スが決して無いとは云えぬ。自分達の学問で割切れぬものは、何でも迷信なりと片付ける。未
発見の世界に神秘を探り、神の悲願なる絶対愛を享受し、之れを愛行に移して他に及ぼす事
は、我等に課せられたる一大使命である。
五井先生鐙仰会は、五井先生の御指導により、之等を解決し、病無く、なやみない、幸福一
元の生活を、吾等日常生活に実現させる研究団体である。
五井先生の常に念願されて居らるる事は、天才的な政治家、天才的な発明家、事業家、医術
家、掘り出しである。そしてその人達に協力して上げて、人類の平和と発達に貢献して貰い度
181吾が師を鑓仰す

未然に防せぐこと等については、相当の域まで達して居るが、絶対に病気に罹らぬというとこ
ろまでは進んで居ない。まして酒癖が悪いとか、不良児であるとか、手癖が悪いとかいうもの
は、注射や手術では、まだ治すことは出来ない。運を変える事など、とても夢想だに出来な
い。
それは精神が根本であって、肉体は枝葉である。即ち霊主体従であるから、すべては根本の
霊界を是正することに依り、現象界すべてのことが解決されるという事に、早く気がついて研
究して呉れる様になって貰い度いと、五井先生は、常々希望して居られるのであって、特に、
愚念作用に原因する難病の解決等については、迷信などと偏狭な見解を超越して、大に研究し、
人類に貢献する事の一日も早からん事を希望して居られ、且又近き将来に於てこの法則が、必
ず科学づけられるであろう事を知って、それが実現を期待して居られるのである。
この三月十六日の読売新聞の宗教欄に、早大教授仁戸田六三郎氏は「科学の発達をよそ眼
に、愚きもの的現象が跡をたたない事は、私はもっと深い謎が人間性にあるのでは無いかと思
う」と述べられ、同時に作家里見氏は「人間以上の力を求めて居るのは、そうゆうものを自然
から享けて来たのが人間である」と何れも現代科学を超えた世界を、肯定して居るのである。
180
テリ層に特に多いのは、歎かわしき次第である。
人命に一番関係深い医学にしても、成る程大変進歩して、外科手術の如きは、長足の発達を
遂げ、目覚ましきものあるは力強い事であるが、矢張り肉体を対象としての研究が多く、精神
方面に関しては、やや遅れて居るやの憾がある。米国では最近、精神肉体医術が擾頭して来
て、相当の成績をおさめて居ると報じ、日本でも追々研究されて居ると聞くが、大体精神分析
に根擦を持って居るので、病気の原因を掴むのに、大変多い日数を要するとの事である。
夫等の現状である為め、或る新興宗教では、自分の宗教に依り、病気が治るとて、知らず識
らず現代医学に不足を感じ、その根本に誤謬ありとして、真向から挑戦し、果ては其の著書の
一部に、「結核は医学が作るものであると言ったら、何人も驚倒して了うであろう、事実それ
程医学を信じ切って居るのが現在の社会である」等と医学でなければ病気は癒らぬと思い込ん
で居る医学常識者に対してまで、警告を与え、且つ「見よ政府も専門家も年々巨額の国幣を費
し、施設万端出来る限りの手段を孟しつつあるに拘わらず、年々増加の傾向にさえあるのであ
る」と、多いに憂慮して居る。
要するに現代の科学の未発見、未解決の点が、まだまだあるのであって、現代医学が病気を
179吾が師を鑛仰す
われるかも知れないが、之れが現実だから本当にありがたいのである。
五井先生鎖仰会へ「こちらに能くあたる先生がおいでになるそうですが? 」と、聞伝えて来
る人が沢山あるが、私は「先生は占者ではありませんよ、運直しをして下さる先生ですよ」と
説明して上げるのである。成る程、一寸類の無い程当る、人に依っては気味を悪がる程あた
る。然し悪い事があたったとて、当りっぱなしでは困るのである。先生は悪い事は知って居ら
れても、何も仰有やらず、だまって浄めて、運を直して下さるのである。夫れを知らない人
は、よくある行者とか、霊媒者と間違える人がある。成る程数ある宗教家とか行者とか称する
者の中には、神佛の罰があたって居るとか、祖先や死者の霊がたたって居るとか、果ては動物
霊が愚いて居るとか言うて、恐怖観念を与え、余計な費用をかけて、お祭りをさせる者とか、
姓名が悪いとて改名させ、方位方角が悪いとて、方除けさせる等、とかく人に恐怖観念を抱か
せる者があるが、こういうのを信じるのが迷信であって、五井先生の場合の様な本当の信仰に
依る、神と救い、と混同してはならないのである。
然るに現代の科学は、主として物質本位の学問に根本を置いて居る関係上、唯物思想に多く
傾ける観があり、前述の如き事を聞いた時、実情も見ないで、迷信だと片付ける人が所謂イン
178
愛が判れば、本当の感謝が湧く、そして愛行せずに居られなくなる、その結果として安心立命
を得られるのだ、と教えられる。即ち、信仰、感謝、愛行、この三つが調いて、この世にては
地上天国に住み、あの世に往きては、極楽浄土に安住する事が出来ると、仰せられる。ただひ
たむきに愛行(即ち人の喜ぶ事)をせよ、愛なき庭に神はましまさず、とロバ管愛を説かれるの
である。
五井先生鎭仰会へ来る人は、大抵最初何かなやみがあって、救われたのが縁となり、嬉しく
なって何とか人に知らせて、助けて上げ度いと、会へ来られぬ重病人とか、悪癖のある人と
か、無信仰の人などの写真を持って来たり、人を連れて来る中に、先生の教えにふれ、不知不
識愛行をする中に、殆んどが時間の差こそあれ、先づ順序として… …心配が無くなる。取越苦
労をしなくなる。知らない中に慢性病が治る。病気に罹らない。悪い癖が出なくなる。元気が
出て朗かになる。若くなる。人助けがしたくなる。必要に応じて必要なものが出て来る。物資
が潤沢になる。… …という風に、現実的に万事調って来て、知らず識らずのうちに、安心立命
が得られるのである。
こんなことを言うと、実情を見ない人達は何だか夢の様な、理想をならべ立てて居る様に思
177吾が師を鎖仰す
今迄述べた事は筆者が先生の傍に侍して、見聞した二、三の実例を挙げたに過ぎない。即ち
事業には繁栄の方針を与え、家庭には光明生活、結婚には幸福の相手を、各人に適業を、病め
る人には健康をという風に、転禍為福の実例は枚挙に逞がない。
すべてを一貫して、先生の教えは、神より来たれる、愛とゆるしである教義を伝えると同時
に、身を以て行じ、実地に範を吾等に示し給うのである。愛とゆるしであるから、精神分析
で、自己を責めたり、他を批判する様なことは、先生の最も好まないところである。聖者振っ
た自己反省などは、お嫌いである。故に他の宗教の様に、自覚の出来ない者にまで、自覚で病
気を治せ、とは言われない。精神病の人や、霊の幼稚な人に自覚せよと言うても無理である。
五井先生はそんな場合、御説教はぬきにして、だまって祈って自覚の出来るところまで連れて
行って下さるのである。例えば、大抵の人は自分の乗って居る汽車が、レールから外れて居る
のを知らないで汽車がちっとも進行しないと歎いて居るのであるが、五井先生はこれを知って
居られて、だまって汽車をレールに乗せて下さる役目をして居らるるのである。先生に御指導
を受けた人が、その通り実行さえして居れば、皆救われるのである。
常々先生は私等に、むつかしい理屈はいらない、ただ素直に、神の愛を信ぜよ、本当に神の
176
た、大変な手落ちをした、何とか支払って呉れという事になったが、今日すぐ払える筈も無
し、交渉の結果、銀行が一時貸越しの計算にして、六ケ月間に解決をつけた。何という奇蹟で
あろう。先生にこういうのはどういう繹でしょうと御伺いしたら「人間がよくよく行詰った
時、善意で生命を投げ出して、神様委せにすれば、神様は必ず救って下さるのですよ」と神の
愛を教えて下さった。
又こういう例もある。其方はある事業家だが、平素はおとなしいのに、大変酒癖が悪くて一
旦酒を飲むと人が変って仕舞い、家人を打つ蹴る、果ては奥さんの髪の毛を持って引きつり廻
わす。親類縁者も匙を投げ、近所では附合う人も無くなった。奥さんはもう死ぬより仕様が無
いという時に、縁あって先生のところへ救いを求めに来られた。勿論本人は来る筈も無かった
が、先生がその家へ訪問されたり、夫人を通じて主人の霊を浄めて居る中に、段々酒を飲まな
くなった。家人はホッとする、此の分では倒産するかと思われた事業も順調になって来たが、
その中にお附合だとてお酒を飲んだら、課わからぬ大病となり、医師では治らぬので先生にお
願いして漸く回復した。それと同時に今度こそ飲酒が嫌いになった。これなどは病気を契機と
して、神の愛が現われたのだと先生は教えて下さった。
175吾が師を鐙仰す
こんな事もあった。或る日古い信者さんが友人だというて、一人の憔埣した人を連れて来
た。先生は冒頭に「あなた死んではいけませんよ」と仰有った。その人はサッと顔面が蒼白に
なった。連れて来た友人はビックリした。一体どうしたのだと聞いて見ると、事業の失敗でや
り繰りがつかなくなり、然かも明日は、大恩を受けて居る店へ支払いのため渡してある手形
が、銀行へ って居るのに、どうにも支払う見込みが無く、義理合上死んで清算するより方法
は無いと、覚悟して居た庭へ友人が生神様の様な先生を紹介してやろうと言われたので、フラ
フラと来る気になって、連れて来られたとの述懐である。先生は断定的に、必ず明日うまく解
決がつく、と安心を与えた。明日いよいよ銀行の交換時間が来た。先生からああは言われたも
のの、先生とは一回御目に懸った丈けで、先生の御指導の真価をまだ本当に知るよしもないか
ら、半信半疑で、不安な気持は如何ともしがたく、殆かも断頭塁に立つものの様に、今不渡り
の通知が来るか、今銀行から入金の催促が来るかと催れて居た。が何の音沙汰も無い。そんな
筈は無いと思いながら、怖いもの見たさでそれとなく先方の店へ探りを入れると、ちゃんと手
形が入金になって居るという。こちらは勿論支払った覚えは無い。狐につままれた様で、ただ
ただ不思議がって居ると、銀行の係員が狼狽しながら飛んで来て、間違って銀行が代払いをし
174
な古い事を覚えて居られるものでは無い。それにも拘わらずちゃんと前の続きの御返事が出て
来る。人間業では出来ないことである。
病気の場合など医者の見たてがどうあろうと、これは治ると先生が請合えば必ず癒る。大丈
夫らしく見えて居ても、永い寿命でない患者に対しては、死後幽界で救わるる様にお祈りする
と共に、家人に知らせた方がよいとお思いになれば、本人には内分で家族に教えて用意をさせ
て下さる。
結婚問題にしても、名前を聞いた丈けで即座に相手の性格、実力、異性との関係の有無、合
性のよしあし等を適当に指導される。但し人の迷惑になる様な事は、知って居られても言われ
ぬ。
発明家に対して足らぬところを教えたり、鉱業家に鉱脈の有無を知らせたり、技術家に技術
を、医学者に医術を説く等、超人的の御指導を断定的に平然としてされることは、神業という
より外ないのである。
入学試験を受ける前の日に、ここを能く覚えて置きなさいと言われた学生さんが、当日そこ
が出たとて驚いて居た。173吾






愛である。愛そのものである。よくある宗教家の様に厳しくて近寄り難いかと想像する人もあ
ろうが、無邪気で、明るくて時々下手な洒落などで皆んなを笑わせる事など度々ある。殊に謙
遜な事は特別で、尊大振ったところは更に無く、普通の人より町重である。
この方のどこに、人類の将来をトし、世界の状勢を通観し、東洋民族の結集を念願し、日本
民族の為めに、世界人類の為めに、神そのままの大慈悲を出現さすべく、身命を賭して、愛を
行じて居る人と見られ様か。神命天にあり、かくの如き人格の人なればこそ、神が御使用にな
るのだと思われるのである。然り神はかくの如き人を必要として用意し給い現界に下して奉仕
し給うのである。
この事は、先生の御指導振りを見ると、成程とうなづけるのである。
よくある例だが、或る人が事業不振の打開策を相談に来たとする。先生は、あなたは今がど
ん底であるが、辛棒して時期を待てば一年後には大変有力な協力者が出て来ることになって居.
るから、その時亦相談にいらっしゃい、という様な風に指導する。果して一年後位に、その通
り実現するので又御指導を受けに来る。この人一人丈の事ならば、記憶して居る事が出来様
が、現在のところ毎日百人内外の人に会って、一々祈ったり指導して居られるのだから、そん
172
て、これを機会に会員組織にして、先生に金銭関係の御配慮をかけぬ様にして「一人でも多く
の人を救い度い」という御思召を、多勢の人々に伝えて、人助けを仕様という事になり、先生
の御快諾を得て、五井先生鎖仰会が十一月一日発足した。
五井先生も奥様も、実に金銭に悟淡な方で側から見て、もう少々位慾があってもよさそうな
ものだと思われる位で、或る場合余りに馬鹿々々しくさえ考えられる程である。少し余裕が出
来たかなと思うと誰かに貸してしまう。勿論そう返えす人は滅多に無いから、お貸し下されに
なる繹である。酒も煙草も生れつき嫌い、別に好いお召物を着たいとは思わぬらしい。食物も
余り沢山召上がらない。普通の人より少量で、まあ肉禮を維持するに必要な丈けというとこ
ろ。折角招待されても宴会が一番つらいと仰有る。ただ折角だから相手の愛念を受けるという
課である。一番お好きなものは? と御伺いすると、人ですよ、私は独りでは漣も居られません
と仰有やる。
松雲閣で私達家族と起居される様になってすでに一年半近くなった。大凡の人は一緒に住ん
で三四ケ月も経つと、何か欠点が見えて来て、たまには密かに愚痴の一つも出るものである
が、先生御夫婦は一緒に居れば居る程、好さが増して来る。五井先生の性格を一口で言うと、171吾






がらお手伝いして、内助の功を無意識の中にたてて居られ、この方が最近まで、高等学校に英
語の教鞭を執って居られたなどの御様子は、微塵も見えない。
その中に先生が「ここも二年位でしょうよ」と仰有って居られた通り、家の持主が他へこの
家を売る事になったので、御移転の気運となった。
東京には家を提供して、こちらへ来て頂き度いという信者さんが数名あり、中には此際宗教
法人にして、教祖になられ御発展なさっては、とすすめる人もある。市川の信者達はもう今で
は、市川の先生だから何としてでも市川に止まって頂き度いとお願いする。私は何とかして私
の家(松雲閣) へと心願して居たが、商売が商売だからと遠慮して外を探したりした。ところ
が先生は逆に、商売が料理屋だから、とかく変に堅苦しく思われ勝ちな神様ごとをやる先生が
居て、万一商売の邪魔になっては気の毒だと思って居て下さったと、後で判った時、こんなさ
さいな事にも先生は、気を遣って下さったのか、何というありがたい事だろうと、先生の愛情
の深さに、ただもう感激して胸がつまった。
松雲閣へとは私ばかりでなく、市川の信者さん達も念願して居た事なので、神様もあわれと
思召したか、最後の五分間に今の松雲閣へ御移転が定まった。そこでよりより信者達も相談し
170
よ」と、気を揉む私等を却って気の毒がって居られたが、成程いよいよ当日になったら、思い
もよらぬところから、是非使って貰い度いという部屋が出て来て、権利金も丁度先生の御手許
にあった金額で一ぱいという、私等が見ると実に不思議な決り方で新居が定まった。
「必要に応じて必要なものが与えられる」という事は、安心立命の最も大切な要素である
が、この様に五井先生は何かにつけて、身を以て現実的に見せて下さるのである。
信者は大喜び、何かというと先生の所へかけつける。又先生の事を聞き傳え、先生のお宅へ
来ては御指導を受け、救われる人々が日増に多くなって来た。その当時は午前中丈けというの
に、午後四時五時頃迄帰らぬ人もあった。其の間先生は乞わるる儘に夕刻から講話やらお祈り
やらに方々へ出張された。その中には、大会社の運命を左右する様な御相談やら、方針指導も
あった…様である。
先生もまだ三十三歳、奥様も二十九歳、本来なれば新婚の夢園にして云々という、楽しい、
嬉しい、二人きりの生活を楽しむところなれど、朝早くから夜遅くまで、人の出入は絶えな
い。普通だと随分つまらない課だけれど神様から頂いた奥様だから、実に似たもの夫婦の本領
を発揮して、夫唱婦随の素直さ、日本女性の美徳の権化の様なお方で、ただ先生の愛行を蔭な169吾






いお祈りをしましょう」と仰有ってお祈りをして下さった。何か変った事があるのだなあと思
って後でまさ子に聞いたら「今日お医者さんへ行ったら、胎児が逆さ子になって居るから一週
間後に注射して見ましょう」と言われたとの事であった。一週間後に医師のところへ行ったら
「正常になって居りますから大丈夫です」との診断で、今更ながら、皆先生のお力に驚ろいた
り喜んだりした。
幸い私の家は相当の収容力があるのと、地の理がよいためか、先生の講話の場所に使って頂
く度数が多くなったので、先生の教義が段々わかるにつれ、今迄生長の家の教えでよく判らな
かった真理が、よくわかる様になって来た。
次の年二十五年六月には、先生が奥様をお迎えになる事になったので、お二人きりの新居を
構える必要が生じて来た。市川の信者は何とかして市川へ住んで頂き度いと熱望し、どうか私
の家へ、どうか私の家へ、私の家の部屋へと申出る人が沢山あったが、信者さんではお金を取っ
て呉れないから、いやだと仰有る。そうなるとそう中々急に部屋は無い。奥様がお輿入れする
という適当な部屋は見付からない。信者達は気が気でないのに、ご当人は平気なお顔をして居
られる「ナー二神様は人間に必要なものは御存知ですから、ちゃんと用意して居て下さいます
168
か真理が解ったと思い上りかけて居た私は、多分霊媒か何かで、豫言でもするのだろう位に
思って、まあ其の中に一遍お逢いして見様位に片付けて居た。
それは其年の十一月二十二日、谷口先生の誕生日の記念講話があった時だったと思う。谷口
先生の講話の済んだ後で、演芸会があるので、其舞台装置に骨を折って居る、若い元気な、芸
術家の様な人柄の良い先生が、五井先生だと聞かされ注意して見ると、数多い少年や少女がな
ついて居てつき纏っている。良寛さんを若くして、現代に連れて来て、洋服を着せたらこんな
かなあ、と思った途端に、何だか急に懐かしさが込み上げて来て、まるで旧知に遇った様に
「五井先生ッ」と聲をかけたら、先生は振向いてニッコリされた。私は「ご苦労様でございま
す、ありがとうございます」と御あいさつして、あ、嬉しかったと、少年の様に胸をときめか
した。それが五井先生にお目にかかった最初であったが、恐らく先生は大勢の中だから、そん
な事覚えて居られ様筈もなかったと思う。
早速市川誌友の方に頼んで、私の家で講演をして頂き、四十人位の人々ともども先生の御話
を熱心に聴いた。お祈りもして頂いた。
其の日の御帰りがけに、フト私の長女の妊娠して居る、まさ子を見て「一寸ここへいらっしゃ167吾






166
吾が師を鐙仰す
五井先生のことども
横関實
五井先生が初めて、市川市へ来られたのは、昭和二十四年秋だったと思う。
生長の家の講師ではあるが、外の講師方とは大分違った先生で、奇蹟的なことをやり、先生
に祈って貰うと、病気が治ったり、運勢が好くなるというので、市川の生長の家の信徒達が、
順番に、自分の家で講話をして頂き度い、私の家へ来てお祈りをして貰い度いと、先生の来市
を熱望して、引張凧との評判であり、その当時熱心な生長の家の信者であった私にも、是非お
目に懸ったらと市川誌友の幹部さん達から奨められた。
其の当時私の物好きで、日蓮主義の祈祷や、現在のメシヤ教の前身である日本浄化療法や、
その他何やかやで、研究して得た、生命磁気放射や、自然運動療法で、病人を癒す事を覚えた
り、少しばかり生長の家の本を読み、谷口教祖の講習を受け、熱心に神想観などして、いささ
「私はネ、五井先生を一目見て、いい人だなあと思ったんですよ。女性だったら恋愛という
ところかな。あの御仁を一目見て、立派な人だなあと思わない人は、自分自身にまだ素直でな
いものがあるんじゃないか、と私は思ってますよ」
165風韻あるお人
五井先生は本来情の人である。そこが人をひきつけるのだと思う。
164
五井先生にはリズムがある。音楽的である。例えば完全な機械というものは動いている時も
静かである。そしてリズムがある。人間そのものが音楽的になってくるのを風韻などと称す
る。五井先生には風韻がある。
五井先生は自然である。宗教家にありがちな臭みがない。尊大ぶったところがない。巧んだ
り構えたりするところがない。実に自然である。だからお話をしていてもとても気持がいい。
五井先生は清らかで、明るい人である。人間には清らかさと明るさとがなければならぬ。ど
んなに賢こそうであっても、どこか陰のある人は本物ではない。明るくなくてはいけない。五
井先生は陰のない、明るい人である。本物です。
五井先生を一目見て気持のよい方だなとわからない人は本物ではない、と私は考える。
それ以外に、才能や力があろうがなかろうが、私にとっては問題外のことである。」
風韻あるお人
五井先生の印象安岡正篤先生
(全国師友協会会長)
「人間の精神には知.情.意がある。その中心は情緒であると思う。それらが渾然一体統一
されていれば、その人格は円満であるが分裂している人が多い。感情に偏して理性が乏しかっ
たり、理屈ばかりでひねくれたり、がさがさしている。意志とて軌道からはずれやすい。しか
し情緒というものは人柄の反映で、心の全体的発動、流露である。
五井先生は情緒の人である。情緒とは別の言葉でいえば潤い、豊かさということである。
知を頭の論理とすれば、情は心腹の論理である。万物と共に生ぎよう、物と一体となってそ
の生を育もうとする徳を仁という。仁愛は人々への慈悲となる。この慈悲仁愛の情は人格の最
も尊い要素である。人は智の人でなくもよい。才の人でなくもよい。しかし、どこまでも清の
入でなければならない。
163風韻あるお人
他的な気持が薄れて、世界人類の幸福を願う、人類愛の気持が湧きあがってきて、い
つとはなく、その個人の人格も完成してゆき、世界平和への個人の最大の行為である、
個人生活での調和なしらべが奏でられてゆくのです。
個人の生活が平和になると共に、人類世界の平和達成に大きな役割を果す、世界平
和の祈りこそ、現在世界中において最も必要なる善事であろうと思います。
162
いかなる苦悩といえど、現われれば必ず消えるものであるから、消え去るのである
という強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起こし、どんな困難の中に
あっても、自分を赦し、人を赦し、自分を愛し、人を愛す、愛と真と赦しの言行をな
しつ。つけてゆくと共に、守護霊、守護神への感謝の心を常に想い、世界平和の祈りを
つづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得できるものである
とこのように想っているのです。
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私たちの天命が完うされますように
守護霊さん、
守護神さん、有難うございます
こうしたやさしい唱え言の中に、自分たちのあらゆる想念を投げ入れて、その祈り
の中から改めて、自分たちの生活をつづけてゆきますと、いつの間にか、個人的な排161世






ならないのです。人間誰しも世界平和を願わないものはないのですが、いったいどう
したら世界平和が実現するかは、この混迷した世界状勢の中での一般大衆にはわかり
ようがありません。そこで、なんらの苦労を伴わずにやさしく入れる世界平和への道
が、絶対に必要になってくるのであります。
人間の心が、労せず巧まずして一つになる方法、自他の利害を区別せず、自然に自
他一体観が確立できる方法、その方法が必要なのです。それには、各人の利害得失を
想う想念を、一度どこかに投げ出させてしまわねばなりません。それが世界平和の祈
りなのです。
私は人間とその生き方については、次のように思っており、実行しております。
こうしょうわけみたま
1 人間の真実の姿は、業生ではなく、神の分生命(分霊) であって、常に祖先の
悟った霊である守護霊と、守護神(天使)によって守られているものである。
この世の中のすべての苦悩は、人間の過去世から現在に至る誤った想念が、その運
命と現われて消えてゆく時に起こる姿である。
160
ち立てられません。
この地球人類を不幸にしている最大の原因は、自分たちが、一なる神(大生命) か
ら分れてきている兄弟姉妹であることを忘れ果てて、自分と他人とは別のもの、とい
う、神のいのちをひきさくような、人類愛にもとった生活をしはじめたことなのです。
カルマ
そうした生活が今日では、習性となって、自他の差別観がぬきさしならぬ業の波動
となり、人類全体を蔽ってしまって、自我欲望の想念となり、自分や自国の利益に反
する他人や他国を敵視してしまうことになってしまったのです。
ですから、今日の社会生活、国際関係の中で、五人や十人の偉人が出て、真理にそっ
カルマ
た政治をしようとしても、業想念の波動が烈しすぎて、その真理を実行できずに終っ
てしまうのです。
どうしてかと申しますと、今日の世界は、もはや、少数の人びとの動きではどうに
もならぬ時代となって来ているので、どうしても、多くの大衆の力が必要になってく
るのです。大衆の力を総動員できる容易なる世界平和実現の道がどうしてもなければ159世






みて、そういう観点から一切の行動をしていったらどうであろう、と私はこう考えた
のです。
そこから、私の提唱している世界平和の祈りが生まれでたのです。
世界人類が平和であること、それは取りもなおさず、個人個人が平和な環境におら
れることであり、個人個人が平和な環境に生活できることは、世界人類の平和が成り
立っているからであるということになります。
ところが現在は全くこの反対で、真実の平和は個人の心にも、世界人類の中にもま
だ生まれでてはいないのです。この事実は、皆さんがこの世の姿や自分の心をみつめ
てみればすぐにわかることです。
個人も世界も、常に不安動揺しています。現在の個人の幸福は、それは一瞬一瞬の
起伏の一駒であって、永遠の生命につながる安定した幸福ではありません。
真実の幸福は、これから私達が協力してつくりあげてゆかねばならないのです。
永遠の生命に立脚しない、虚偽の幸福感などでは、この地球世界に真実の平和は打
158
や人類の動向に必然的に影響されてゆくのです。
ですから、今日の個人には単に個人としての生活はなく、個人の生活の浮き沈みは、
国家や人類の動きに左右されざるを得ないのです。いかに有能な個人がただ単独でど
のような働きをしたとしても、それで国家や人類が幸福になるということはできない
ので、国家や人類全体が、争いの想念や不調和、不完全の環境からぬけ出さないこと
には、個人個人の真実の幸福はあり得ない、ということになってきます。
今日の世界状勢は、どの国家間の状態を見ても、大戦争へのきざしを含んだ、不調
和な無気味な雰囲気をもっています。ただ、いまだその雰囲気に火がつけられていな
い、というにすぎません。
いつ戦争が起こるかわからない。いつ天変地異があるかわからない。そういう地球
世界の雰囲気の中で、真実の幸福生活をつかんでゆく、ということは、なかなか大変
なことです。この世における個人の幸福は、どうしても世界人類の幸福と結びつかな
ければ生まれ出ないものなら、いっそこの際、個人と人類というものを一つに考えて157世






156
世界平和の祈り
地球世界の人類は、今いったい幸福なのでしょうか不幸なのでしょうか。こういう
問を出された大半の人は、地球世界は今不幸な状態です、と答えられることでしょう。
何故地球人類は不幸なのでしょう。それはこの世が争いの想いに充ち、不調和、不
完全な状態にあるからです。
地球は今では全く狭くなって、米ソ、西欧諸国の政治政策はすぐさまアジア、アフ
リカ諸国にその影響を及ぼし、アジア、アフリカ諸国の出来事は、直ちに西欧や米ソ
に反響を与えます。
今日の個人生活は、それがどうしても個人だけに止まっていることができず、国家
救うものは、あくまで愛と真心と、愛を実践する勇気であることを忘れてはいけない。
その他のことは、そうした心を養うための修練に過ぎぬのである。

愛と真心の道を進んで、もしや苦難に遇い、その道が誤りのように見え出した場合
みちひら
でも、神は決して、この人たちを見放しはしない。いつか必ず、道展く日が訪れるで
あろうことを確信することが、この人生を正しく生きてゆく上に、最も大事なことで
ある。
155問答篇
もちろん
答勿論ある。あるけれども、それは、霊媒者、その者の程度とか、その時の状

態とか、または、呼ばれている霊魂が、肉体界に全然興味がない時などは、愚かって
来ない時もあり、懸かったように見せかけても、実はにせ者であったりすることがあ
る。どうして、にせ者等が愚かってくるかというと、その霊媒者に恥をかかせぬため、
コントロ ル
その霊媒者を、その背後から、コントロールしている支配霊が、相手(依頼者) の心
ぬまね
の中を読み抜いて、B なら、B という死者の生前のくせを、真似て口をきくのである。
その本者、にせ者は、とにかくとして、交霊の実際を一度や二度は見ておくことも、
その人のためによい勉強になる、と思う。あまりに肉体迷信に捉われている現代にお
いて、肉体以外の世界があって、死者が生きて生活している、ということを識ること
は、その人の肉体生活を緊張させ、心を清くせねばならぬことを、悟らせる契機にな
いぎ
るに違いあるまい。そうした意味で、心霊研究は意義あるものと思う。ただし、これ
とロり
にも注意が肝要である。識ったら、いつまでも捉われぬことである。霊能者に逢って、
自分も、そうした霊能が欲しいなどと絶対に思わぬことである。自己を高め、自己を
154
て、神(守護霊、守護神) に祈るべきである。そうすれば、出るほうが、その人のた
めによければ、出てくるし、出ぬほうがその人のたあになるなら、出て来ぬものなの
うおうさおう
である。物が失くなることより、右往左往して心を乱すほうが、よほど大きな損失で
ある。その人に必要であるものは必ず返ってくるものである。私が、そうしたことを
尋ねられたら、私はまず黙って祈ってやり、返るものなら、返る、返らぬ物なら、返
らぬ、とはっきり答えるだけで、犯人のことなどには一言も触れぬことにしている。
その盗られた、という因縁がなんであるかはわからなくとも、何かの因縁に違いない

のだから、その因縁のため、人騒がせしたことを詫びながら、因縁の消え去ってゆく
わざわい
ことを念じれば、大体盗られた物は返ってくるものである。禍を縁として、常に福に
転じられるように心掛け、修練することが、人間にとって必要なことである。
なくか
問亡なった親兄弟や知人の霊が、霊媒者に愚かって、身振りをしたり、
いたりすることがあるものでしょうか。
口をき
153問答篇
で、単なる当て物やになったら、まして人を傷つけるために役立つようになったら、
神の心から、まるで離れた存在になってしまう。この意味をまず知ってもらって、問
の答にうつろう。
その犯人は、何歳位の、こうした顔立ち等と、答える場合、本当にその人の場合も
あや
あれば、あるいは、聞く人の潜在意識をみて、聞く人が、あの人が怪しい、と思って
なざ
いるような人を名指したり、指摘したりすることが多いのである。その場合、その行

者(霊能者) は、その答えが、聞く人が怪しい、と思っているから、とそれに合わせ

ていうわけではなく、その答えが神のお告げである、と信じていう場合が多いから困
りものなのである。
そのような問に答えて、犯人を指摘するような行者は、低い階層の人なので、真の
神示も幽界の霊魂の念をも見分けができず、口から出る言葉は、すべて神のお告げだ
と信じているものである。だから、盗難など、そうした行者などに尋ねたりするもの
ではなく、自己の心を省みて、何か心の間違いがあったらお許し下さいと、一人座し
152
その人間の活躍を私は、霊界(放送局の舞台) からも、その途中の幽界からも、肉
体(受像機) からでも、どちらからでも、見ていられる立場にいるのである。
問盗難や、失せ物などを聞くと、それは何歳位の、こうした顔の人が盗った、
などと教えてくれる行者さんがよくありますが、これは本当に正確なものでしょうか。
答その答えが、正確である、正確でない、というより以前に、そうした霊能で
犯人や罪人を指摘したりすること自体が、神の意志にそうことではなかろう、と私は
思う。
霊能は、神から来るものでなければならぬ。たとえ、それが、神霊直接でなく、もっ
ちようもんしや
と低い霊界からの指導であってもよいが、その指導は、常に、弟子あるいは聴聞者の
魂の進歩に役立つものでなければならぬ。ただ、たんに犯人を指摘して、罪人を造る
さば
手伝いをすること、つまり人を裁くことを、一人の人間や、一つの家のためにやった
りすることは、霊能者の本来性から外れている。霊能者は本来宗教者であるべきなの151問


ある。
テレビジョンは、霊界(幽界を含む) 、肉体界の関係を実によく現わしている。
テレビジョン放送局で、種々の劇をやっているが、スイッチを入れて、受像機のブ
ラウン管に写し出さなければ、ブラウン管になんの画面も出ていないことになるが、
一度スイッチが入り、電流(光波、音波) が流れてくると、放送局でやっている劇や
人物がその波に乗って、ブラウン管に現われて、活躍することになる。
人間の肉体は、ちょうど、テレビジョン受像機に相当し、霊界は、テレビジョン放
送局に相当する。そして、その放送局から、受像機までの空間に幽界があり、肉体の
運命と現われる業因、業縁が行き交うている、ということになる。肉体(受像機) の
側からいえば、肉体(受像機) がないことは、そこに何もないことになり、人間はい
いぜん
ない、即ち死であることになる。しかし、放送局(霊界) では、依然として劇はつづ
いており、その波動はひびいているので、人間は受像機(肉体) に写らぬだけで、活
躍しているのである。
150
一番である。
私は、愛の深い、善良な人の名前を聞くと、その瞬間、実に深い愛の心が私に写っ
てきて、実に良い気持ちになる。素晴しい芸術家の名前を聞いた場合でも、実に素晴
しい良い気持ちがする。先日も、シゲティの若い時代の写真を新聞で見た時、なんと
もいえぬ、良い気持ちになった。素晴しい音楽が、その写真から聞えてくる(観じら
れてくること) のである。愛の心と、善き芸術とは等しい美しさをもっているのであ
る。私は常に人間の肉体を観ているのではなく、その想念を観ているのである。何故
ほんじゆう
ならば、私の本住の地は、この肉体の世界ではないからである。
次に生死の見分け方は、分霊からくる光の波が、肉体界に流れてきていないか、肉
休界まで流れてきているか、によってわかる。もうすでに霊の光波が、肉体界への流
れを止めていても、幽体が肉体を離れず、肉体に送るべき光波が、その幽体に蓄電池
式に残っている場合は、死期は近いながら、いまだ肉体界の生活を営んでいるのであ
る。しかし、蓄積された光波(生命) が消えてしまえば、その時、肉体は倒れるので
149問答篇
と思っている。その点、こうした人たちの結婚後の争いの仲裁を依頼されると、子供
すす
の特別多い場合の他は、離婚を薦める場合が少なくないのである。こうした人たちを、
とうてい
そのまま拝み合わせるように仕向けても、結局は、この現世では到底拝み合えぬ深い

業因の結ばれであることが多いのである。その理を識らぬ宗教家たちが、ただ、やた
らに調和調和と拝み合わせようとしたところで、時間がたてば、時間がたつほど、切
り得ぬ縁になって、はては殺傷事件すら起こってしまうのである。結婚したら、絶対
きせば
に別れられない、と決めてしまっては、こんな場合があるので、人間の救いが狭めら
れてしまうであろう。
真の調和は、在るべきところに、在るべき人を置くことになり、合うべき男性に、
合うべき女性を配すべきである。こうしたことの指導のできる人の多くなることを私
のぞ
は望んでいる。
ただ、常に守護霊、守護神に感謝し、加護を願っている人たちは、必ず、良き配偶
者を与えられる、と私は信じている。とにかく明るい想念をいつも発していることが、
148

なんのつながりもない人は、口の端にも、その名前が出ないことになるのである。私
ばいかい
は、その僅かなことを媒介として、そのA を探すことができるのである。

私はA のことについて識り得ると、識り得たすべてを問う人に告げるのではなく、
問う人にとって、真実必要なことだけを教えるのである。
結婚の場合などは、男の性格と女の性格との相性と、その男女の過去世における因
縁の善悪を、よく見定めて、良否を決定するのである。過去世において、相敵対視し
 つコリ
ていた男女が、恨み恨まれたままの想念で、この現世に生まれて来た場合など、表面
あらわれのこころ
的に顕在意識で、好き合って結婚しても、結婚後、過去世の想念が、潜在意識から、
自然転回の業の法則にのって、表面(顕在意識) に現われ始め、しだいに争い始め、
ついに大きな悲劇にまで発展してゆくのである。
私は、こうした人たちの結婚の相談を受けると、どんなに表面的に心が合っている
だんご
ように、当人や周囲の人たちが思おうとも、断乎として、この結婚に反対してしまう
うらぜひ
のである。そのため一時は、その男女に恨まれたりする場合もあるが、是非もない、
147問答篇
互い持ちながら、因縁相合して、交流し合っているのである。
おもいえが
その想念の波の世界を、幽界というので、その幽界、個人では幽体に画かれている、
想念の波、行動の波を、その瞬間、私の心は観じてくるのである。どうして観じられ
おもい
るかというと、私は、私という想念を、その瞬間、無にすることができるので、私の
えが
心は空になっていて、その空の中に、A なる人の幽体に画かれている性格や運命が、
なぜ
浮かび出てくるのである。何故ならば、空とは、宇宙大に拡大したことと等しいこと
になるので、宇宙の中の小宇宙である、A という人は、その間、私、すなわち宇宙大
に拡がった、心の中に生活していることになるので、A という人のことが、そのまま

私にわかるのである。この場合、A という人と、そのA について問う人が、一面識も
なくとも、同じである。
同じという原理は、問う人にとって、A が、一面識もない、ということは、この肉
体界においてのことであって、その人が、私にA のことを問うほどの状態は、過去世
においての、なんらかの、因縁のつながりを持っていることを示すので、過去世から
146
できない。
問先生は、名前を聞いただけで、その性格や行動が、はっきりおわかりになり
ますが、どうしてそれがわかるのですか。それに、その人の生死さえもわかるという
のは、どういうわけなのでしょう。
答これはなかなか説明しにくいのであるが、わかりやすく説明しよう。
私にとって、その人の氏名などは、どちらでもよいので、問う人が、その人の氏名
を私に伝えよう、とする時、もうすでに、私の心は、その人の心に通じているのであ
おもい
る。それはどういうことであるかというと、この世界はすべて、光の波、想念の波で、
できているので、各人が、その想念の波につつまれて生活しているのである。例えば
A という人は、A という人が、過去世から発している想念の波の中で、その想念の因
あるいは縁に触れる人たちや事物と交流して、その生活を営んでいるのであって、そ
の人には、その人独特の世界があるのである。そして各人は、各人の独特の世界をお145問


が、またむずかしいのである。そこで私は、そうした場合は、色情の起こるにまかせ
ておくほうがよい、というのである。その想いに迷うことは、かえって湧きあがって
くる想いを、消し去るのに時間がかかるのである。底にひそんでいるものが出てくる
のだから、出るだけ出れば、必ず消えるのである。止めれば、止まるような弱い湧き
あがり方ではないことを男性は、みな経験しているのである。
湧きあがっている時が悪いのではないのである。男性としては不可抗力ともいえる

この力は、肉体人間の善悪を超えた力である。そうした想いの力が、女性を見て起こ
おもいけ
るだけで、悪である、と、とがめられたりしたら、たまらない。その想念を消し去る
時の心構えや、方法によって、これが、未来の悪因になるか、ならぬかがきまるので
おもい
ある。とにかく、想念も、行為も、すべて、過去の因縁の消えてゆく姿であることを
しかな
識って、あまり自己の心を痛めるような思い方をしないほうが、神の心に適うのであ
る。人間は、まして男性は、心をいじいじさせずに、堂々と生きるほうが好ましい。
自己の行為をつつしむばかりで、善に対する積極性のない人は、大きな有益な仕事は
144
たい。
なや
答私は青年時代、そのことで非常に悩んだものである。心で思うだけでもいけ
つら
ない、ということは、どんなに辛いことかわからない。しかも思春期の青年が清い心
の持ち主であればあるほど、苦しいのである。
かこく
私は色情の心について、キリストのように苛酷ではない。ああした言葉は、薬にも
なるけれど、非常に善良な人間の心を痛める。あの言葉だけ、ぽつんと一つ聞かされ
ると、イエスは、たいした人間ではない、と思わされる。しかし、あの頃の時代を考

えると、あのくらいの、極端な言葉を吐かなければ、とても効果がないほど、乱れた
男女の交りが多かったからで、時代の開きを考慮に入れなければいけない。
おもい
私は、常に、心に起こる悪想念は、その想念が起こった時、過去の悪想念が、その
起こった想念だけ消えんとしている時だ、と説明している。心に色情が起こった場合、
いけない、と思えば、思うほど、よけいに起こってくるものであって、とめようとす
るより、他に心を転じるほうが、消しやすいのであるが、その、他に心を転じること
143問答篇
答人間は、自己一人だけが、生活したり、自分一家だけが生活したりしている
のではないことを、まずはっきり認識して、自己や自分一家の行動が対社会に及ぼす
影響ということを考えの根本において、生活することが大事である。自分一家だけの
幸福という考え方は、往々、隣りと衝突したり、対社会性を失ったりする場合が多い
きず
のである。であるから、常に相手のためになるように、相手を傷つけぬように、とと
もに自己をも傷つけぬように、の心掛けを習慣づけることである。すべてを生かす、
という精神こそ、誰にとっても一番大事な心掛けである。国家の場合も同じである。
誰でもが、このような心掛けになったならば、むずかしい理論も何も要らずに、社
会も国も、世界もよくなるに違いない。相手も自分も生かす法、すなわち愛。
142
しきじようかんいん
問 キリストは、女を見て色情を起こす者は、すでに姦淫したる者なり、という
意味のことをいっておりますが、そうしたことが真実としますと、青年以上で姦淫せ
ぬ男性はほとんどないということになりますが、この点について先生のご意見を伺い
ほうよけ
て、権威づけられているもので、否定し得るものではない。従って方除したら、自己
の運命を改善できる、と信じたらやればよいのであるが、私は、そうした学問や教え
おくびよう
によって、人間が、自己の行動に臆病になり、いちいち、そうしたことによって自由
を縛られて行動するようになることを恐れる。偉大な仕事をした人たちが、いちいち
じこ
方位方角を調べて、仕事をしていたか、というと、そうではなさそうである。自己が
つひら
自己の信念のもとに、全力を書して突き進む時、おのずから、自己の運命を展き得る
ような、方位方角に、神(守護神、守護霊) が自己を導いて下さるのである。自己を
かご
信ずることのできぬ人は、毎日数多く、守護霊、守護神の加護を心に念じて、行動し
とも
ていれば、自然に自己の運命に信念がついてくるものである。神常に我と倶にあり、
という信念を自己の心に植えつけることのほうが、姓名学や、方位学よりも、先にな
らなければ、その人は救われの道に入り得まい。
問私たちは、平常、どういう心構えで生活していることが大事なのでしょう。141問


上昇して、今日にいたっているのであって、孤独とはおよそ反対な、賑やかな日常生
活である。
これは姓名学が誤りであるのか、私が、姓名学的因縁の境界を超越し得たのか、ど
ちらかであるに違いない。とすれば、もし悪い姓名であっても、心さえ変えれば、そ
の運命は変えられる、ということになる。ともあれ、人間は、自己の運命に暗い影を
投ずるような教えや、暗示を離れ、ひたすら、明るい、希望ある生活に飛びこめるよ
うな団体や、教えに導かれるようにすべきである。
なんじ
汝の運命を、汝のうちにある神に一任すべし、と私はいいたい。人事を書した時、
ひらおそ
神はその人の運命を展いてくれるにきまっているので¥ いろいろ恐れおののいて、自
のぞか
己の運命を覗いて見たりしてはいけない。自己に荷せられたる運命なら、いさぎよく
ひら
受けよう、という勇気こそ、その人の運命を切り展く、最大の力なのである。人間よ
勇気を持て、である。
次に、方位方角のことであるが、それはやはり、種々の研究の結果、学問体系をもっ
140
から、まずまず姓名学は、出産児の名前をつける時ぐらいにしておいたほうがよいの
であろう。名前など変えなくとも、自己が、自己の長所、短所をよく識って、その長
所を伸ばすことに真剣になることによって、運命は変わってゆくのである。まして、
はんちゆう
真の信仰に入った人などは、そうした姓名学の範疇から超越してしまうのである。
こいまさひさそうかく
私の姓名五井昌久は、どの姓名学で観ても、総格十九格または二十格(熊崎式) の
から
空っぽ数といって、非常な悪い運命をもっている。他、井と昌と合わせた主運数とい
きよう
うのが、十二格で、これまた悪く、それに陰陽の配列も凶であって、善いところは、
昌久という名前だけである。これを綜合的に説明すれば、青年期までは非常に恵まれ
ざせつ
るが、後半年以下は、何をやっても、途中挫折し、悲運に悲運がつづくということに
なっているそうである。それに、両親、兄弟の縁薄く、常に孤独である、という、お
まけもつくのである。ところが、私の運命は、まるで、この説とは反対で、青年期ま
ではほとんど常識的にいう、恵まれた、という環境ではなかったが、幸いに、いまだ
けいていしまい
に両親とも健在で兄弟姉妹、五人が無事でいる。その上、私の運命は、青年期から急139問


それは、あくまで、過去世の因縁の現れから推理を下しているに過ぎないので、その
人が、過去世の因縁として現わしている名前そのものを変えたとしても、その人の過
去世からの悪因縁、つまり、性格の短所、生き方の欠点を修正してゆかなければ、到
底、姓名学だけで、運命を良くすることはできないのである。
けつかん
私が姓名判断に、一番不満を感じるところは、大体の姓名判断者は、運命の欠陥を

まず突くことなのである。
この姓名では、何年何月頃大病する、とか、結婚運が悪いとか、はては短命だとか
いい切る人が多いのである。それは、お前の因縁は、こうなんだから、名前を変えな
ロつち
ければ、その悪因縁の通りになるのだ、と、その人の心の中に、その人の悪因縁(悪
しば
い運命) を深く認識させてしまうようなもので、その人の運命を、過去世の因縁に縛
りつけてしまうことになるのである。それは一種の強迫観念を植えつけることになる
ので真の救済からは、ほど遠い方法なのである。まして、よほどの達人でないかぎり、
過去世の因縁から姓名のひびきを通して、真の未来を予見することは困難なのである
138
なになにがし
その姓名のひびきだけが、その人の運命を造ってゆくのではない。何の何某とつけら
れた姓名の、そのつけられる前、即ち生まれる前に、すでに今生の運命を現わしてゆ
もとのいんもとのいん
く素因があるので、その素因が、何がしという姓をもつ家に、何某という名をつけら
れるように生まれてくるのである。その名が、運命を造ってゆくのではなく、その名
が、その人の過去世からの因縁、即ち、過去世においていかなることをし、いかなる
想念をもって生きていた人間であったか、ということを示しているのである。
であるから、その過去世の、その人の因縁、つまり、行為の習慣、性格の傾向等々
すいさつもロこ
を素にして、今生の運命を推察してゆくことができるのである。それが姓名学なので
ある。しかし、それは、あくまで推理であって、できあがっている運命を見るのでは
ない。確定しているものをいうのではないので、当たることもあろうが、当たらぬこ
とも多い。姓名学は、その姓名と、生まれ年月日を加えて観なければならぬことになっ
うんぬん
ているので、生まれ年月日さえも聞かず、姓名だけで、人の運命を云々するようなこ
たつじん
とは、非常に悪いことである。生まれ年月日を加えて、その道の達人が観た場合でも、137問


肉体機能の一部としての精神作用からのみ起こると思っているようでは、病人の数は

総体的に減ってゆくことはないであろう。
とロリ
医学が、今までのような方法にのみ捉われず、病気とは、肉体外の世界の不調和に
めん
よることもあるのだ、という面への研究もしてゆくことにより、肉体、精神、心霊の
こうかんヘヘヘヘヘへ
三医学の完成を見、巷間の、いかがわしい迷信治療を抑えてゆくことができるのでは
なかろうか。病気治療は医者の専門である、と国家がいう以上は、その位の研究を医
すす
学界に薦める義務があると思う。
136
ほうよ
問姓名を変えることにより運命が変わったり、方位学の方除けによって幸福に
なったりすることがあるものでしょうか。
答姓名をただ変えただけで運命が良くなる、ということはない。
いんねん
姓は祖先の歴史(因縁)を現わし、名は、その人の過去世の因縁を現わしているの

で 、姓名を観て、その人の性格や、過去の運命を当てたりすることはできる。しかし、
なお
になっては、肉体が不自由になるのは当然である。であるから、この病気を治すには、
横からさえぎる、汚れの念波を、浄めるか、そらすかの二つの道よりないのである。
科学で、この方法をとれば、それで癒えるわけだが、現代ではいまだ、そこまで医術
が進歩していないように見える。そのため、宗教家が、迷える霊魂に、祈りによって

強力な、光波を当てて、その霊魂の迷いを醒ます方法をとっているのである。
精神病の場合などは、医者は電気療法をやって、そのショックにより、脳神経の調
整をはかっているようだが、これらは、私のいう精神波長の修正なのである。しかし、
ひようい
愚依している想念の波(迷える霊魂) には種々の種類があるのだから、誰にでも、同
じような波長の電気療法をやっても、効果は少ないのである。それよりも先に、精神
けんいん
病の原因というものは、その人の精神状態の不調和に牽引されて、外部(幽界)から
おもい
迷える霊魂、いわゆる同じような不調和な想念が感応してくることによっての病状で
しよくあつおもい
あることを識らねばならぬ。その原因を知って、その人の抑圧された想念をまず解き
ほぐしてやることから始めなければならぬ。病気というものが、なんでも肉体及び、135問


てんかん
問精神病、小児麻痺、癩痛等々、医学ではほとんど、手にあましているような
病気はいったいどこに原因があるのでしょう。
ひようねんひよう
答それらの病気はほとんど愚念の作用である。愚念即ち、普通いわれている葱
いれい
依霊のための病気といえる。
人間の肉体が完全な形で活動(病気なく悪行為のない働き)しているのは、神界か
らの生命の光が、途中、さわりなく、肉体界に投影している状態なのであるが、普通
いう病気や、不幸、悪行為の現れは、神からの光が、まず、幽界において、その人の
けがよご
悪想念(悪因縁) の集積に汚され、その汚れた波が、その悪想念の形に従って、肉体
の病気の種類、不幸、悪行為の形に定まって現われるのである。しかし、問のような
病気の場合は、その人の悪想念というより、その人の祖先や、因縁のある霊魂のうち、
いまだ迷界(迷っている霊魂のいるところ) にいる霊魂の、迷いの念の波が、神から
来る光をさえぎって、その人間の肉体を、不自由な状態にしてしまうのである。生命
しよつこう
の光が百燭光あれば完全に生きられるのを、十燭光も、ともらぬような、光波の流れ
134
れば、断然その宗教入りを拒否すればよい。要は安心立命のためのものであることを
じゆう
忘れてはいけない。ここで知っておかねばならぬことは、霊魂は幽界に住して生きて
しゆうし
おり、その霊魂が肉体を離れた時に関係していた宗旨、あるいは祖先からの宗旨とい
うものが、仏壇に置かれてある、戒名に縁を結んであるもので、その戒名を通したほ
くよう
うが、現界の人の供養がよく通じるということである。そうしたことも、供養する側
が超越できる心境にある場合、即ち、神は自己のうちにあるので、ひたすら自己のう
くよう
ちの神をひき出して祈れば、相手の神性もひき出され、立派な供養になるのだ、とはっ
きり識っている人は別として、普通の心境の人は、あまりそうした、常識をはずした
宗教には入らぬほうがよいと思う。
そのようなことで迷う人は、まず自己の運命にたいしての勇気をもつことが、第一

なのであるから、真の勇気をつけることのできる師を選ぶのが、第一である。
勇気は愛とともに人類の進化の最も大事な心である。
133問答篇
心境になれば、現象の不幸は忽然と消え去って、再び現われなくなるものである。そ
りんねこ
して、その人は業因縁の輪廻を超えた神の世界に入り得るのである。
132
問或る宗教では、その宗教に入ると、神棚、仏壇、すべてのお札などを廃して、
まんだらおが
お曼陀羅だけ掛けて拝め、というのですが、こんなことをしてよいのでしょうか。
答宗教の本質は、人間を仏(神) のみ心に帰一させ、安心立命の境地に入らせ
ずいはん
ることにあり、随伴的に現象のご利益があるわけだから、その本質をまず認識してか
ら宗教を択ばなければいけない。
こしゆうしば
宗教が、一つの型に固執する時は、すでに真理の自由自在性を縛ることになるので、
そうしてはいけない、こうしてはいけない、と、形のことばかりに注文を出すような

教え方を、私は採らない。
まんだら
そ の宗教では、曼陀羅の中に、本尊、即ちすべてがある、という意味で、その他の
ものは不用だ、というのであろうが、それが肯定できれば、それでもよし、できなけ

かた
と堅く信じなければならない。神は善事をなしている者に、決して不幸を与えるわけ
がないのである。絶対にないことを私は明言する。従って、その人は、自己の想念や、
ないせいおもい
行為を、よく内省して、どう考えても自己の想念、行為に間違いなし、と信じられた
だんこ
ら、そのまま、業の消えてゆく姿である、これから必ず良くなる、と断乎として思う
べきである。その勇気こそ、その人を救い、その人の周囲を救う祈りなのである。
といって、今生で、あまり不幸に会わぬ人は、幽界で必ず苦しむか、というと、そ
ぜんこう
うではない。過去世に善行をたくさん積んであった人は、今の現世で、あまり不幸に
会わぬことになる。たいして才能もなさそうな人が、意外な金力に恵まれ、名実とも
に幸福な生涯を終る場合もある。これらは、過去世の善因縁の結果であるから、幽界
おもい
に行って苦しむ、とは限らない。現象の人間は、過去世の因縁、プラス、現在の想念、
さだ
行為がその人の運命を定めるのであるが、これが、また未来の運命とも深い関係をも
とロリ
つことになるのである。ただ、人間の真の姿は霊であって、業因縁に捉われるような
かん
者でなく、自由自在であると観じ、いかなる業因縁の動きにも、超然としていられる131問


よう。
130
答善事をしつづけながらも、なかなか不幸な出来事が消えぬような人もたくさ
うれ
ん ある。しかし、これは憂うべき事態ではなく、その人自身や、一家一族の進歩して
ゆく姿なのである。それは、過去世から蓄積されてある、その人または、祖先の悪因
縁が、その人の時になって、表面にはっきり現われ、次々と消え去ってゆく姿だから
である。人間には、肉体の世界以外に、幽界、霊界の世界があるのだから、一番苦し
みの軽い肉体界で、過去世の蓄積された業因縁をでき得るかぎり消滅し去っておいた
ほうが、その人や、その人の祖先、または子孫のためにも幸福である。従って、善事
をなせばなすほど、不幸な出来事が、より多く現われる場合もある。しかし、それは
真の不幸ではなく、潜在していた不幸が、いち早く現われたに過ぎず、その不幸が、
より長く潜在していて現われぬと、その人自体が現在味わっている不幸の何層倍かの
不幸になって、やがて現われてくるのである。であるから、どんな不幸が現われよう
と、この現れによって、自分及び、祖先の業因縁が完全に消え去ってゆくのである、
じんえが
ることと、神という言葉で、様々の霊のことや霊界のことを画いていることである。
たきためん
その点、仏教のほうが、多岐多面に、仏(神) と人間の世界を説いていることになる。
ひとたびひぞうぶつ
キリスト教では、一度は神に造られたる人間と、肉体人間を被造物の立場に置き、し
かし、造られた肉体人間のうちには、厳然として創造主の神が住んでおられる。だか
ら、内部の神の声に従って生きなければ、人間は救われない。肉体人間の、神を忘れ
た智恵や力では、ますます、罪(業) を重ねてしまう。そこで、イエスが全人類の罪
を背負い、十字架に掛かったのだから、イエス・キリストにすがりついて、過去の罪
を忘れ、愛の行い、素直な心で生活してゆけ、と説いているので、造物主説でも、
カルマ
業生説でも後の内容をよく理解すれば同じなので、各人が考え良いほうに思えばよい。
あわ
(私の考えは本文によく書いてあるから、聖書や、仏典と併せ読んでもらいたい)
すご
問私は努めて愛の行いに励み、感謝の気持で日々を過しているつもりですが、
次から次へと病気や不幸が絶えませんが、この場合、いったいどうしたらよいのでし129問


さいほうごくらくじようどいま
即ち、西方極楽浄土に在す、阿弥陀仏にひたすらおすがりする南無阿弥陀仏と唱名し
ていれば、死んでから必ず極楽往生ができる、という教えと一致している。
前者は、イエス・キリストであり、後者は、阿弥陀仏である、の違いだけである。
キリスト教の我は神に造られたる者である、と肉体人間、そのものまで、宇宙神に
創造された、という考え方だけでは、人間が、神に従属したものになり、人間は外な
る力にすべてを左右される不自由身になってしまう。
しかし、聖書は一面、そうした造物主を説きながら、他面、神は我がうちに在り、
ないざい
と内在の神を説いている。そうして、神は愛であるから、愛の行いをした者、真理
(神) に素直な者が神の国に入れることをしきりに説いている。これは、仏教の自己
こくうから
の業因縁が自己の運命を創り、この業因縁を超えるためには、空(心を空っぽ) にし
て、内部の仏性を悟らなければならぬ。といっているのと、表が裏になり、裏が表に

なっているだけで、違いはないのであるが、大いに違いのあるところは、仏教が、華
ごんそうごん
厳経その他で、実相界、仏の世界の荘厳さ、美しさ、素晴しさを、しきりに示してい
128
むみよう
教のように、この世界は、すべて、無明より生じた、と十二因縁を説いているのもそ
の裏に、すべてのものに仏性あり、と説いていることと合わせて、実に素晴しい説き
方であると思う。
無明から、十二因縁説だけでは、真の仏教は生きて来ないし、すべてのものに仏性
あり、とすましていただけでは、やはり、釈尊の偉大さは出て来ない。
ないざい
しかし、キリスト教でも、仏教と同じように、内在する神(仏) を説き、みずから
まか
播いた種は、みずから刈らねばならぬ、と仏教の因縁説と等しい原理を説いている。
ただし、キリスト教の説き方からすると、形ある世界を、宇宙神そのものが、みず
カルマ
から創造したように思われ、仏教では、この人間の世界(幽界も含めて) は、業が創
造したと説いている。であるから、キリスト教のほうが単純にわかりやすく、神様と、
素直に神に従属的についてゆく形になりやすい。まして、イエスという、神への媒介
者がいるのであるから、イエスを通して、神に自己の罪を許してもらい、天国に導い
てもらうということになる。これはちょうど、仏教の真宗系統の、一向専心念仏行、127問


なるほど、汚れが多いということになる。紫や青系統の色をもった幽体などは、高級
な人格であるといえるのである。普通会っていて、その雰囲気が澄み切ったように感
じられる人は、大体高級な人格者であると思って間違いあるまい。
おこな
とにかく、常に、善なる想念、愛の行いをすることを心掛けていれば、ついには特
すなお
別に心掛けなくとも、自然な素直な形で、愛行のできる人間になってゆくのである。
うしろ
人間は肉体生活が、すべてでなく、幽界の生活、霊界の生活が、肉体生活の後に待っ
おもい
ていることを、よくよく考えて、肉体生活のうちに、自己の想念を浄め、行いを直し
ておかなくてはいけない。
126
ぞうぶつしゆ
問 キリスト教では、造物主を認め、仏教では、造物主を認めていないように思
われますが、この点いかがなものでしょう。
答これはなかなかむずかしい問題である。キリスト教では、生きとし生けるも
の、すべてが神に造られたものとしているのも、勿論誤りではないが、といって、仏
ているのでしょう。
おもい
答幽体とは、人間の想念や、行為の記録体とでもいうべき体で、肉体に重なり
合って、肉体のような形をもったガス体である。このガス体の大きさや、色によって、
その人の霊性の高低や、性格、運命がよくわかるのである。よく魂を見たというが、
それは、霊を見たのではなく、この幽体(念体を含めた) を見たので、魂とは、幽体
に分霊が乗っている状態、いわゆる、分霊が幽界にいる状態をいうのである。
幽体はその人、その人によって、大きさや色(想念、行為の集積が色になる) が違
おも
うので、幽体の大きな人が、主に宗教に熱心になったり、やたらに神詣りしたりする
のである。人の想念を受けやすかったり、幽界からの念波に感応しやすい人は、おお
よごおも
むね幽体の大きな人で、その幽体に蓄積されている想念の汚れている人は、低級な想

いに愚かれやすく、幽体が浄まっている人は、高級な霊の感応を受けることができる。
すきよこんじき
幽体の色は軽い色ほど、澄み浄まっていることになるので、金色に輝いている時は、
すでに幽体はなく、神の光、そのものが、輝いていることになる。そして、重い色に125問



問生まれながら、神事、仏事の好きな人と、嫌いな人とがいますが、どういう
わけでしょう。
かみまい
答それは、すべて過去世の因縁によるもので、神詣りが好きだから、その人が
立派であるとか、宗教団体に入っているからその人は清いとか、簡単にはいえない。
宗教団体に入らなくとも、神詣りしなくとも、立派な人はたくさんいる。立派とい
われる人は、すべて自己の良心に忠実であり、愛の心深い人である。自己利益だけの
つく
宗教入りや、神詣りより、そうしたことをしなくとも、愛の心で、他人のために尽し
かな
ている人が、よほど、神の心に適うのである。
神とは愛の心であり、良心であるから、愛の心にとぼしく、良心にそむいているま
まの心で、神詣りしたとて、なんにもならない。愛の心深く、良心に忠実で、しかも

神を識るための宗教に入っている人が一番立派であり、自己の幸福にもなるのである。
124

ほか
人間には、肉体の他に幽体があるといわれますが、幽体はどのような役をし

れに、人類はしだいに押し流されてしまうのである。しかし、あくまで、この人類世
しゆ
界は、肉体人間が主であって、神人、霊人は、常に背後の応援者であることを忘れて
はいけない。
カカカ
個人の我、国の我、民族の我から出た智恵や力では、決して神の意志達成の道を切
ひら
り開くことはできない。個人も、国も、民族も、すべてが、すべての個人のため、す
べての国家のため、すべての民族のたあ、強い、深い、高い愛の心から再出発しなけ
とうてい
れば、到底、世界国家も、世界平和も望み得ないのである。
いちげん
神は、神人、霊人の多くを使って、肉体人間のすべての行動を愛一元になすべく、
大きな働きを現在なしつつあることを、世界各国の指導者は、まず悟らなければいけ
ない。
すなおそうばん
素直に、神に祈る心を持たぬ指導者は、早晩滅びてしまうに違いない。何故ならば、
もと
そうした指導者の下では、決して、世界平和の、神の国はこの地上界に実現しないか
らである。123問


うなれば、葱依霊の心配は勿論ないのである。

問神は一つであるのに、何故、各国、各人種に人間を分けたのでしょう。
答神の自己顕現の過程において、各国、各人種に分れ、各別個の生活を営んで
つく
いるのは、神が、各直霊となり、各分霊と分れて、この人類世界を創ったのと同じ経
過なのである。(本文参照) 各国、各人類、民族、それぞれの個性、特徴をもってい

てそれをお互いが、極度に発揮しながら、お互いの力を交流し合い、利し合い、多で
ありながら、一つに調和してゆき、神の意志を、人類世界に顕現してゆくのが、この
現界の人間なのである。しかしこの人間だけでは、この仕事は、なかなか困難なので、
ひか
神は、守護神、守護霊を、各国、各民族の背後に控えさせ、神界、霊界から、神の意
きいつ
志の達成、即ち、帰一、大調和の人類世界創造のための一大応援運動がなされている
のである。肉体の人間のみが働いて、世界平和を実現しようとし、できると思ってい
るとしたら、大変な大間違いで、神界、霊界の一大応援がなければ、人間の業生の流
122
感謝と、愛と真心の行動をしていればよいので、いたずらに奇を好み、霊力を欲する
げんいまし
ような態度は、厳に戒むべきである。
けんめい
懸命に信仰をしているように、自分も思い、人にも思われていながら、不幸が絶え
ぬ人や、信仰していることが、かえって家庭の調和を乱している人や、信仰している
ききよう
その信仰のしかたや、日常の行動が、奇矯に流れているようでは、その信仰のしかた
のどこかに誤りがあるので、そうした人の家庭には愚依霊作用が多いのである。
まわりやくあぶ
興味本位の神廻りや、ご利益本位の信仰は、実に危ない気がするのである。
かえり
まず、よく自己の本心を顧みて、一生はおろか、神と真に一体になるまで、導いて
くれる良い師に出会うよう、守護霊、守護神に祈るべきである。守護霊は、自己と全
ねん
く一つの者であるともいえるので、心の中で、常に守護霊、守護神を念じていれば、
じやどう
必ず、その人を邪道から引き出してくれるのである。
そうした心で、入った信仰や、集まりなら、たとえ、その入会の動…機が、ご利益か
まこと
らであっても、ついには、真の浄まりにまで、その人を高めてくれるに違いない。そ121問


ではないのである。従って、人間の本体(本性) とは、まるで違った生物なのである。
おも
いいかえれば、人間にとって一番大事な心、愛と知性を取り除いた、その他の念いで
できているものである、といっても間違いではない。
人間の中にも、愛も知性もなく、利害や、感情のみで、敵になったり、味方になっ
ほやから
たり、やたら褒めたり、けなしたりする徒輩があるが、こうした人たちは、人間とい
うよりは、動物霊に近いというべきで、こうした念の人が、幽界に行くと、今度は、
ひくひようい
これらの動物霊と、一つになって、迷信家や、低い念の行者に愚依して、肉体の人間
を面白半分に迷わせるのである。形の世界は、すべて、想いが写ってできているので、
へび
狐のような想いは、そのような形に、蛇のような想いは、蛇のような形に霊眼に見え
てんぐ
たりするのである。(心霊家や、研究家の一部では、天狗、狐、狸などを、自然霊と
呼んでいるが、私はただたんに感情霊と呼んでおく。何故ならば、私の説明は自然霊
と呼ぶ広範囲の説明ではないからである)
こうした感情霊の愚依をうけぬためには、私の最も主張する、守護霊、守護神への
120
とが、その業因縁を超える最大のなすべきことであり、その態度こそ、無限供給を得

る第一の行なのである。無限供給とは、家に積みあまるほど物質があるということで
はなく、必要に従って、必要な智慧や人や物や立場が出てくることである。
きつねたぬきつ
問俗に、狐とか、狸が愚くといわれているが事実あることでしょうか。
こり
答狐、狸といっても、動物の狐狸のことをいうのではないので、幽界に住む、
感情霊、動物霊ともいう、霊魂のことなのである。
ぎようじやひようい
医学でいう精神病や、行者の一部には、こうした感情霊に葱依されている場合がた
かみまい
くさんある。神詣りばかりしている人が、突然、種々の予言をするようになったりす
ることがあるが、この場合にも、この感情霊の作用が多い。
こん
この感情霊は、霊と普通にいわれているが、実は魂(因縁の波の集まり) つまり、
迷いの念の波の中に生まれたもので、迷いの念の一つの現れともいえる。すべて、興
れいこん
味本意、感情本意に行動していて、人間のように、愛(神) を内部に持っている霊魂119問


問生長の家では、神は無限の供給である、と教えておりますが、それは、天国
ぎよう
とか、極楽だけのことでしょうか。現象界にも、実現可能とすれば、どういう風に行
じたらよいのでしょう。
まこと
答真に神は無限の供給そのものである。まず、生命が、神から来た最初のもの
であり、その生命こそ、神の無限供給の実現者である。従って、生命を真剣に生かそ
うとしている人は、その生命の働きにつれて、その生命を生かしてゆくのに必要な物
質、その他の供給が絶えず行なわれているのである。
生命を生かすとは、どういうことか、というと、何事にも真剣になる、ということ
で、なまけていて、無限の供給を得よう、という心ほど、神から離れる心はないので
かな
ある。その環境や、置かれた立場にあって、全力を尽すことが、神の心に適うので、
無限供給につらなるのである。
現在の立場に素直になることである。置かれた立場というのは、各人の業因縁によっ
つく
て、現われた環境であって、その環境の中で、その人が、自己の全力を尽してゆくこ
118
その言葉には人を悟りの道につかせる高い光が宿っているが、お経をあげるその人の
心の持ち方が、お経の効果を高めもし、低めもするのである。

お経のもつ高い光は、勿論あるのだから、そのひびきは、業因縁を超えて、幽界に
よよ
とどくわけなのだが、調む人の心に、愛もなく、信もなく、ただ習慣的に調んだり、
周囲の関係で、しかたなく諦んだりしたのでは、その人の心の波と、お経のもつ高い
がつち
波とが、合致せず、そのひびきは、幽界の霊魂にとどかぬので、効果がないというこ
とになるのである。
お経を諦む時は、やはり、その経文に心を集中してあげることが第一で、そうすれ
くロつくりつ
ば心が空に近くなるので、その空に、お経の光が充満し、その人と因縁のある霊魂に
ひびいてゆき、霊魂の因縁を浄あることになる。
ずきようせしや
僧侶に請経してもらう時は、その僧侶の人格の高さ、悟りの程度と、施者の愛念の
くどくヘヘへひと
深さによって、そのお経の功徳の現われ方が違うのである。のりともこれと等しい。
117問答篇
ふきんこうニヒリストせつなきようらくしゆぎしや
等、不均衡、不公平な世界はないので、虚無主義者や、刹那享楽主義者や、階級闘争
主義者が出てくるのも無理はないのである。
しかし、その人たちは、神の意志や、業の法則から見た場合、実に不幸な人びとと
いわなければならない。人間は一時一分一秒も、ゆるがせにせず、自己を高め深める
ほか
経験、勉強をなすべきである。その他に、自己を救う道はないので、青年が、真の人
間のなんたるかを識らずに、また、識ろうともせず、ただ、いたずらに、主義、主義
あわ
と叫んで業因縁の渦に巻きこまれてゆくことは、実に哀れな気がするのである。
社会、国家、人類を、真に愛し、思うならば、まず、自己を高める勉強に全身を打
ちこみ、真の人間のなんたるかを、うすうすでもよいから知って、それから活動した
ゆうきゆう
としても、決して遅くはない。人生は悠久なのである。
116
きよコつ
問お経をあげることは真に霊をなぐさめ、浄めることになるか。
ずきよう
答 諦経は霊魂をなぐさめ、浄めることになる。しかし経文は仏の言葉であり、
こんじよう
答今生の能力は、すべて過去世の経験、勉強が土台になっているので、過去世
ひい
において、数学なら数学をよく勉強した人は、今の世で、数学に秀で、音楽をよく学
てんさいきわ
んだ者は、音楽に秀でる。天才といわれる人は、皆、過去世において、その道を極あ
せんもんかはだし
た人で、六歳でピアノの天才、とか、八歳で、専門家跣の画を描くなど、ということ
はみな過去世において、真剣に、その道を学んだ人たちなのである。
かんそうかてそうみ
観相家や、手相観等が、この児は、何々が適職ですよ、などというのは、人相や手
相に、その児の、過去世の経験が現われているからである。私はそれを、霊覚で、直
覚的に教え、指導するのである。
しき
今生には、過去世の経験が非常に大事であるので、今、正に死期にある人が死ぬま
らいしよう
で、勉強や研究をしている姿は尊く、また来生のために非常に役立つものなのである。
いかなる道の成功も、一朝一夕でできるものではなく、過去世の過去世からの、努
力、研究、経験が、土台となって、ものをいうのであることを、私どもは忘れてはな
みま
らぬのである。過去世を考えずに、この人間世界を見廻わした場合、これほど、不平115問


問男性が、女性に生まれたり、女性が男性に生まれ変わったりすることが、あ
るものでしょうか、お教え下さい。
ぜんしよう
答そういうことは随分多い。それは、前生において、女性としての苦しみを味
わいつくし、男に生まれてくればよかった、と固く思いこんだ人、または、その反対
の場合、あるいは、因縁解脱への経験を積みやすくするために、守護神が、性別を変
さいせい
えて再生させる。
男性でいて女性らしい人や、女性でいて男性の性格をもっている人などはほとんど、
こんじよう
前生と今生との性別が変わっている人たちである。
こんばく
霊そのものには男女の別はないので、男女の別のあるのは、魂暁の世界だけである。
かんぜおんほさつ
観世音菩薩は男か女か、とよく問われるが、観世音菩薩、すなわち神の化身は、男
いんようがつたい
女を綜合した現れで、陰陽合体の絶対身である。
114

のうりよく
人間の能力の差は、いかなるところより生ずるか、お伺いしたい。
べつご
努力とは別個に、運命修正の力となる。
まこと
その理を知らなくとも、人間は、愛と真の行いをして、

をも止めれば、運命は善くなってゆくのである。
人を救い、
さば
自己を裁くこと
ちが
問生まれ変わる人と、生まれ変わらぬ人とは、どこが違うのですか。
答もう肉体界に生まれ変わらなくとも済む人は、人間は神と一体なんだ、と自
ちよくれい
覚し、行いも、そのようになり得た人、この人は、直霊そのものと一体なのであるか

ら、肉体界にいて、因縁を超える経験を積む必要がなくなるから、肉体界に出て来な
ぽさつ
い。ただし自己が肉体界を救いたい、と望んで生まれてくる、仏、菩薩はその限りで
ない。
げだつれいかい
また、いまだ、肉体解脱の境地にまで行かないけれど、霊界にいても、残りの経験

は積めて、因縁の世界を抜け得る、と神より思われた者も生まれ変わらない。
その他は、生まれ変わって、真の人間を知るたあの経験を積んでゆくのである。113問


んなことといってしまう人はそれまでで、素直に感謝していれば、それは直接神への

感謝になるので、自分の過去世から犯して来た、悪行為、悪想念などから割り出され
ひとたび
て一度定まっているその人の悪い運命も(善い行為、善想念による善い運命は、その

まま喜べることで、別にいうことはない) 悪縁に触れず、その果の出ぬように、出て
も、不幸が軽く済むように、導いてくれるので、そのまま、運命は修正されてゆくの
である。これは、神に素直である人の救われの道である。
こんてい
意志力の強い場合、これも真理に素直であることが根抵にないと、意志力だけでは、
おわ
定まった運命のままに、一生を終ってしまう。
よてつてい
善いといわれ、自分も善いと信じたことを、その意志力にものをいわせ、徹底して
やってゆけば、運命は変わってゆく。
そせん
祖先や父母が人を救っていた場合は、この救われた人びとの感謝の想念が、自然に、
その子孫の因縁の現れを弱めてくれる。また、その救われた人が霊魂である場合は、
霊界から直接応援して、守護霊のように、その人を導いてくれる。これは、その人の
112

その制限によって、その家庭を、より幸福のほうに切り開いてゆくことを切望してい
るものである。また、もう一つ上の望みは、産児制限などせずとも、自分の家庭は、
そだ
ちょうど自分に必要な子供だけでき、立派に育ってゆくものだ、ということを確信で

きるような、精神的悟道に入ってもらいたい、と世の人びとに望んで止まぬものであ
る◎
せんてんてきこうてんてき
問人の一生は先天的に決定されているものであるか、後天的に変わり得るもの
かお教え下さい。
かこせき
答人の一生は過去世の因縁によって、大体定まっているものであるが、その人
すなお
が、守護霊、守護神に素直である場合、または善なる意志力の強い場合、祖先や父母
が人を救っている場合、等の場合は、後天的に運命が修正される。
私が常に人びとにいうのは、守護霊、守護神に、いつも感謝し、祈っていなさい、
ということなのである。守護霊、守護神といっても眼に見えるわけではないから、そ
111問答篇
そがいもと
のために制限をするなどということは、その精霊の進化を阻害し、神の意志に惇るも
のである、といったところで、現実に、少ない収入で七人も八人もの子供がある上、
にんしんけつとうてき
また妊娠しては大変だと、恐れる夫婦や、血統的に悪い子供が生まれるであろうこと
さか
を予想される妊娠に対して、前記のような言葉で、自然に逆らわぬことを教えたとし
まよしま
たら、その人たちを判断に迷わせ、恐れさせるだけで、人間の自由性を縛ることにな
もと
り、かえって神の真意に惇ることになるのである。
ロつ
夫婦間の性行為は、ただたんに子供を生む、というだけの目的ではなく、夫婦間の
愛の交流であり、想念の交流であって、お互いの長所短所が、この行為によって、よ

り良く交ぜ合わさり、お互いを調和せしめ、高め合う行為なのである。子を生む、と
いうことは、その一部の目的なのである。
よくじよロつ
子を生むことだけが目的ならば、定期、定期に欲情をもよおすように、人間も創ら
れていなければならぬはずである。
私は、妊娠以前の産児制限を、悪行為であるとは、決して思っていない。ただし、
110
生まれ変わり、と簡単にいっているので、
うつしよ
いのである。ただし、この現界を、現世、
いみ
る、という意味の言葉であるのだ。
なつとく
そうした説明だけで、納得されていてもよ
うつしよ
というのは写世、霊界から写し出されてい
さんじせいげん
問生まれ変わりに関係があると思うのですが、現在奨励されている産児制限に
ついてのお考えをお教え下さい。
答産児制限の問題は、宗教的な大問題として、現今まではほとんどの宗教家が
とな
絶対反対の立場を採っており、近来一部の宗教家が、賛成を唱え初めているが、全体
たちぱ
を通じて、まだまだ反対の立場を採る宗教家が多いのは、やはり、霊魂の進化を妨げ、
もと
神の意志に惇るものとしての、反対なのである。
ところで私は、この産児制限については、他の宗教家のように、特別神経質になっ
なぜ
てはいない。何故ならば、この肉体世界の人間のほとんどが、いまだ神の真の意志や、
人間の本体を、知っていない今日、いくら、子供は神から来るので、自分たちの都合
109問答篇
おもい
この誕生については、夫婦それぞれの過去世からの因縁や、性交時の想念などを、
こやど
守護神が、観じて、その児を宿らせるのである。
きんらい
また、生まれ変わりの年限は、その霊魂の因縁によって違うが、近来、非常にその
たんしゆく
年限が短縮されて、死後二、三年や、七、八年で生まれ変わる人がたくさんできてい
こん
る。しかし、霊そのものが生まれ変わるのではなく、魂(幽界に蓄積された想念、普
はくよあつ
通霊魂と呼ばれている)が醜(すなわち肉体となる原子)を、寄せ集めて、肉体界に
たまもと
生まれ変わってくるのである。そのすべての原動力は、その人のみ霊元、いわゆる直
霊から来て、守護神が、その誕生を、指揮するのである。であるから、A という人間
にくたいかいぜんしよう
が、肉体界に生まれ変わりとして生活していながら、前生からつづいているAという
にじゆううつ
霊魂の想念は、幽界にも生活しているのである。いわゆる二重写しのようになってい
さんがいつらぬ
るのである。もっといいかえると、想念は霊、幽、肉の三界を貫いて活動している、
もと
ということになり、その想念活動の力は、分霊から発しており、その元は直霊にある
のである。しかし、こうした説明は実にむずかしく、ややこしいので、普通は霊魂の
108
うんでいばんり
の経験の違いによって、親子でありながら、親とは雲泥万里の差のある大人物も生ま
れ、小人物もできあがるのである。
たいきよう
もっとも胎教や、誕生後の教育の相違も、親子の差を違える力になっている。
ゆうかい
ここで大事なことは、幽界の待合場には、多くの霊魂が、その誕生を待たされてい
ふうふ
るのであり、その中にはA 夫婦なら、A夫婦の関係霊魂も幾人かいるわけであって、
こうてい
肉体界のA夫婦の性交時の心の波動の高低や、想念の種類によって、その中の、その
てきこうやど
時のA夫婦の想念に一番適合する霊魂が、宿ってくるのである。
きよせいこういとな
例えば、A夫婦が、高い浄らかな気持で、性交を営んでいる場合は、高い浄らかな
おもいやど
る霊魂が宿り、争いの想念を持ちながらの営みの場合は、荒々しい霊魂が宿るのであ
る。
だから、夫婦関係というものは非常に大事なもので、善良な立派な子供を欲するな
らば、胎教や、生後の教育よりも、性交時の夫婦の心の持ち方が、さらに一層大事な
のである。107問



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