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8/20/2022
五井昌久著
心貧しき者は幸いなり
序にかえて
ひじりがおかごいまさひさ
この本は、千葉県市川市にある聖ヶ丘道場での、五井昌久先生の講話を集めたものであ
る。聴衆からの質問に答えながら、お話をすすめてゆくのが、五井先生のお話の会の特長
であった。
先生は著書に『聖書講義』があるが、聖書研究者あるいは、聖書学者ではない。あくま
でもイエスを通して啓示された真理の実践者として、世界平和の祈りの提唱者リーダーと
して、また覚者として、いろいろな質問に答えつつ、神の心を聴衆にわかりやすく説かれ
た。
1
その目指すところは、平たく言えば人々の安心立命、魂の永遠なる救われであり、人類
が目覚めた上での地球人類の完全平和、であった。
とら
イエスキリストとの神霊的な交流によって、キリスト教の教義に把われることなく、字
義の解釈に拘泥せず、神のみ心を赦しと愛と調和の心を通して、たゆみなく繰り返し説か
れている。従って伝統的クリスチャンには理解しがたい反発するところがあるかもしれな
い。そうしたことは重々承知の上で、お話をなさっている。
かたくち
五井先生の語り口は、歯切れのいい江戸っ子下町弁である。声楽できたえたハイバリト
ンのひびきは、聴く者の心を心地よくさせ、冗談を言って人を笑わせ、人の心を自然に開
しんせいけんげん
かせて、根気よく聴衆を神性顕現の道に導き入れていた。
時にはおかし難い権威をもち、時には冬の太陽のような暖かさをもって人を包み、人々
を指導されたものである。
2
説法が出来て、原稿が書けて、超能力がある。そういう三つの条件が揃っている人はな
かなかいない。五井先生はその三条件をやすやすとこなしておられた方だった。
平成九年十月吉日
高橋英雄
3
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一序
に
か
え
て
貧しき者は幸いなり
高橋英雄
十九八七六五四三二
洗礼のヨハネ
十字架と奇蹟
真理は汝を自由にならしめん
エホバはねたみの神・怒りの神か?
心豊かな生活と心貧しき者
汝の信仰汝を癒せり
汝の信ずるごとく汝になれ
永遠のいのち
人類の変換する時
ioq.9i 82 7664 56 51 42 33 IO 1
十一質疑応答
正しい信仰とは? 4
1
“偽善者に心せよ
” について16 ー
キリストの再臨の意味は? 20
ー
イエスは神、それとも人間か? 25
1
主の祈りについて31
ー
アダムとイブの原罪について3 6
ー
キリストと同じ奇蹟を行なうには… …… 39 ー
キリストはなぜ十字架にかかったのか?
人類の罪まで謝罪すべきか? 嘱
–
人類六千年の業と言うが50 工
最後の審判で救われない人間は出るのか?
142
isz
114
生
五つのパンで何千人の人の飢えをしのいだという話は本当か? 嚇
最後の審判とは? ゆ
使徒行伝中の出来事についてゆ
真理のための闘争や神の苦悩はあるのか?
イエスキリストとはどんな人? 向
聖書の予言通りに本当になるのか? 吻
水の洗礼、火と聖霊の洗礼について切
酌
装丁- 小山忠男
醗鋪瀬[漸
一、貧しき者は幸いなり
貧しき者は幸いなりの真意
まずさいわ
“貧しき者は幸いなり
” ということは、物質が貧しい、乏しいのが幸いである、という
意味ではありません。心が謙虚な人、へりくだった人、そういう人は幸せである、という
意味なのです。
キリスト教の人などは、それをうっかりすると、”富と神とは兼ね仕うることあたわず”
かた
という言葉、”富める者はらくだの針の穴を通るように難し”、というイエスの言葉があり
ますので、富に対する抵抗のようなものが感じられることが、多々あります。
物質が豊かであったり、地位が高かったり、いわゆる富んでいますと、どうしても謙虚
な心がなくなってしまうのです。富というのは、あらゆるものを自由に出来る立場にあり
ます。お金を持っていると、人を自由に使えるし、物も使える。主人、ということでいつ
も威張っておりますから、おごりが出て、謙虚な心がなくなってしまう。
神を求めるにも、自分が富んでいて物質が豊かであると、何も願うことはないから、神
を思う必要はない、と思ってしまう。自分の生活は、お金はあるし、地位もあるから困ら
ないので、何も神さまなんか思わなくていい、というように、神を思う心も少なくなるわ
けです。
そこで神と富とに兼ね仕えることは出来ない、というような言葉になるのですが、そう
した一連の言葉から”貧しき者は幸いなり”というのは、貧しい貧乏のほうが幸いなんだ
というように聞えてきます。
ところが本当の意味は、心からへりくだっている者が幸いなんだ、それは地位があろう
と、富があろうと貧乏であろうと関係ない。そういう物質的なことではなくて、精神的に
II貧しき者は幸いなり
謙虚な心の者は幸せである、ということなのです。
何故、謙虚であると幸いかと言うと、いつも謙虚に世の中を渡っていますと、常に向上
心があるわけです。「俺は富もある。地位もある。もうこれでいいんだ。何も精神的なむ
ずかしいものは必要はない。そのまま伸びていけばいい」というのではなくて、常にへり
くだって、自分はまだだめなんだ。神さまにくらべたら、なんて小さな人間なんだろう、
ああキリストは偉かったな、お釈迦さまは偉かったな、あの人も偉かった、この人も偉か
った、私もどうか立派な人物になれますように、と思っていますと、高い所をめざす向上
心がある。いつも反省し、悔い改めて進んでゆくわけです。そういう心の者は、一生のう
ちにどれだけ得をするかわからない。どれだけ立派になってゆくかわからない。だから第
一に、へりくだった者、心の謙虚な者は幸いである、というように、イエスは言っている
のです。
この世の地位というものは、いくら高くなっても上があります。また、お金にしてもい
くら持っても上があります。きりがないものです。だから、地位とか物質とかを追求して
あ
ゆく分には、貧欲というか、飽くなき欲望、どこまでいってもつきない欲望があります。
その欲望でもって、この世の中の文明文化が開いて来た反面がありますが、個人的に考え
れば、そういう飽くなき欲望というものは自分に害があることが多いのです。益になる場
合もあります。それによって勉強したり、知識を得たりする場合もあります。けれど究極、
結末にいきますと、それが自分のいのち取りになって、自分の不為になる。為にならない
ことになる。
だから、お金があろうと、地位があろうと、常にへりくだって、人のために尽くし、自
分の精神を向上させるように心がけなければならない。そういう人は幸いです。そうイエ
スは言っているわけです。
悔い改めるということ
イエスさんの言葉には、いい言葉ばかり多いです。しかし聖書だけでいいならば、他の
宗教はいらないのですが、やはり解釈の仕方が違ったり、それだけでは足りない、という
13貧しき者は幸いなり
ようなわけで、いろんな宗教が出るわけです。
くあらた
キリスト教には「悔い改めよ」というのが随分多い。これは洗礼のヨハネからして、言
っていることですが、悔い改めよ、悔い改めよということが多いです。
悔い改めるというのは、謙虚な精神とイコールになるのです。しかし、悔い改めてばか
りいますと、いつもいつも自分の心を責めることになる。自分はだめな人間だ。自分は心
の貧しい人間だ。どうして自分は立派にならないんだろう。いつまでやっても自分はだめ
なんだ、と自分を責めてしまって、そこに喜びが湧いてこない。そういう弊害がキリスト
教的な生き方にはあるのです。
貧しき者は幸いなりはいいんだけれども、あまり悔い改めばかりやって、あまり反省ば
かりしていると、常に自分を痛めてしまってまずい。
人間というものはおかしなもので、右と言えば右に行きすぎ、左だと言えば左に行きす
ぎ、上だと言えば上に行きすぎ、下だと言えば下に行きすぎて、常に行きすぎてしまう。
中庸のところで止まっていない。十字交差の真ん中で止まっているということは、なかな
r4
か出来ないんですよ。
そこでいろんな宗教が出て、いろんな教えをするわけです。こっちを言ってみたり、あ
っちを言ってみたり、いろいろ合わせて中庸を得るわけです。そこで聖書の教えだけでは
解釈が足りなかったり、解釈の仕方が間違うような言葉で出来ている場合が多いですよね。
日本語で言ったわけではありませんし、イエスさんの言った通りでないかもしれないし、
翻訳したりしていろいろ変わって来ている。そこで日本人には日本語で教わったほうが、
本当はいいのです。ちゃんとわかりやすいように教わったほうがいいんですよ。そこで現
代には、いろいろな宗教が出ているわけです。
私の教えはどういうのかと言うと、あんまりいい人が、自分が悪い自分が悪いと言って、
悔い改める習慣がついてますから、自分ばかり責めている。そこで「人も責めてはいけな
いけど、自分を責めてはいけない。自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛し」とわざわ
ざ自分というものを使っているんです。こんな宗教はありません。自分を愛し人を愛しな
んていう宗教はどこにもないんです。ハッキリ書いて、説いたのはうちだけです。他には、
1ラ貧しき者は幸いなり
自分を赦し自分を愛し、なんて書いてありません。法話の中では言うかもしれませんけれ
ど、表看板として、自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛し、なんてありません。
それは私が宗教遍歴をして来ましてわかったことなのです。
どこの宗教へ行きましても、宗教へ入るような人は、大体、いい人が多いんです。自分
を反省するような人が、宗教に入るわけです。自分の力が足りない。どうか神さまの力を
自分の中に入れて、神さまの力を借りて、自分が立派になろうとか、地位や富でもいいか
ら、神さまに救ってもらおうという、謙虚な形があるわけです。そういう人は反省力が強
いし、悔い改めの心が強いわけです。
ところが入った宗教では、大抵、聖書の教えと同じように、自分を責め裁くような、お
前の心が悪いんだ。だから夫が悪くなる、妻が悪くなる、子供たちが悪くなる、と言うの
です。一つ病気をすると、お前の心が悪いから、と言われてしまう。それはそうに違いあ
りません。この世に現われてくる幸せも、不幸も、みんな自分の想念波動から出てくるわ
けです。過去世からの想念行為から出ている。ただ過去世というものは切ってしまって取r6
り扱わない所が多い。それで、お前の心が悪いんだ。お前のやり方が悪いんだ。だから子
供が悪いんだ、とこうくるわけです。
たね
お前が病気をするのは、お前の中に病気になる悪い種があって病気になるんだから、お
前の心を改めなければ… … 、とこうくるんです。反省力の強い人が、神さまにどうか自分
の罪を許してもらおう、助け立ちをしてもらおう、と思って折角入ってくるのに、あらゆ
る宗教がお前の心が悪いからだ、と責めるわけです。宗教に入った人は大体気の弱いよう
な人が多いのです。気の強い人は唯物論になって、自分でやるとなっている。ところが救
ってもらおうとしている立場の人が来ているのに、救うのではなくて、責められてしまう
わけです。ですからますます自分の心が細くなって、小さな小さな人間が出来る。小さな
善人、ちっぼくさい人間ばかりが出来るわけです。
そこで私のような人が現われて、説かされたことは何かと言うと「自分を赦し人を赦し、
自分を愛し人を愛し」ということです。
何故そうするのか、と言うと、自分は本来神の分け命だから、人間は神さまの分けられ
17貧しき者は幸いなり
たいのちなんで、本来は一つも悪いことはないのです。何故、悪いことがこの世に現われ
たかと言うと、神さまから現われたいのちをそのまま素直に生かしきらないで、自分の想
いというものを、自分で作ってしまい、自分の想いでもって神さまから来ているいのちの、
よご
素直な光を消してしまったのだ。これはいけない、それはいけない、と汚してしまったん
で、いのちが自由に動かなくなって、それで不自由な生活になってしまったんだ。だから
いっぺん、すべての想いを神さまにお返しして、神さまから改めて頂き直そう、と言うの
です。
初めからみんな救われている
じん
これは浄土真宗なんかも説いています。浄土門はそうです。人間というものは、罪悪深
じゆうあみだ
重の凡夫で、自分の力では何事もなし得ないんだ。だから阿弥陀さまという方が、かつて
法蔵菩薩と名乗った前の世で、願を立てて、みんなが本当に救われる形になるまでは、自
まとナ
分は仏にならない、という宣言をしたわけです。その法蔵菩薩が阿弥陀仏になったわけでIg
す。
阿弥陀さまというのは宇宙に遍満する大神さまです。その中に法蔵菩薩が一体となって、
そのまま阿弥陀さまになったわけです。みんなが救われなければ自分は仏にならないと言
った菩薩さまが、仏という名前で現われているわけですから、みんなは救われるのに決ま
っているんです。と言うことは、初めから、人間は罪の子ではなくて、神の子だ、みんな
救われているんだ、という証明なんです。これは浄土門系の教えです。
そうすると、救われているはずの者が、完全円満のはずの者が、完全円満でないという
ことは、自分が勝手に不完全にしているんだ。自分がこうだ人がこうだと、勝手に思って、
自分で自分を縛る。自縄自縛して、不完全にしているのが、ズーッと長い間来ているわけ
です。
かこせこんじょう
そこで私は過去世の因縁ー1今生とは言わないんです。今生のあなたが悪いなんて言わ
ないー過去世の因縁によって、過去世に悪いことをしたから、悪いものが出ているので
ある。しかし、それが悪い状態、つまり、いじ悪な気持ち、短気になって現われる。ある
・g貧しき者は幸いなり
いは貧乏になって現われる。病気になって現われる。そういう現われ方をするのは、すべ
て過去世の因縁がそこに現われては消えてゆくんだ、と言うのです。
今の自分が悪いんではない。過去世の溜っていた自分の想いが消えてゆくのであって、
今の自分が悪いのでも、いいのでもなく、今、今から出発するわけです。だから過去世の
とら
因縁のいい悪いに把われていては、また過去世の因縁の波の中に入ってしまって、ぐるぐ
る回って輪廻転生してしまうから、今現われて来たいいこと、悪いこと、人から責められ
ること、人からいじめられることもありましょう。自分が人をいじめる想いもありましょ
う。恐れる想いを出すこともありましょう。現われてくる想いも行為も、環境も、すべて
が過去世の因縁がそこへ現われて、消えていこうとして、出て来ているんだから、それは
それで消えてゆくんだ。だからそのままにして置きなさいと、その原理を知って、自分は
神さまと一つなんだ、自分は神の分け命で悪いものはないんだ、ということを自覚して、
神さまの中へ入って行きなさい
そう言っているわけです。これを一つにまとめると、消えてゆく姿で神さま有難うござ
います、となるわけ。
ただ神さま有難うございます、だけだと、なんだか自分だけのことを願っているようで、
心ある人は祈りにくいというんで、神さまのみ心であり、原理である地球人類の平和、と
いうことを念願するわけです。
神さまと一つになる祈り言
神さまのみ心の波の中に入ってゆくためには、神さまと同じ波長を出さなければならな
い。神さまの波長と合わすために、みんなが平和でありますように、人類が平和でありま
すように、という想いを出せば、神さまとピタリと一つになるわけです。そこで”世界人
類が平和でありますように”という祈り言が出たわけです。簡単な楽な祈り言が出たわけ
です。
そうしますと、世界人類が平和でありますように、と祈り言を出した時に、神さまのみ
心とピタリと一つになるわけです。神さまと一つになるわけです。
21貧しき者は幸いなり
世界人類が平和でありますように、と言った時には、過去世の因縁の消えてゆく姿がこ
こに現われていながら、それと一緒に神さまのみ心の中に入ってしまうわけ。神さまのみ
心は完全円満なんだから、悪いものも不幸なものも、間違ったものもあるわけがない。世
界人類が平和でありますように、と言うと、自分は過去世の業を背負って神さまの中に入
ってゆく。そうすると、過去世の因縁が神さまのみ心の中で消されてゆくのです。それで
消えてゆく姿で世界平和の祈り、というように私は教えているわけです。
ざんげ
そこには晦い改めも、繊悔も、反省もみな入ってしまって、それでスッキリと晴れ渡っ
てしまっています。悔い改めというのが別にあって、反省というのが別にあって、いちい
ちああしなきゃいけない、こうしなきゃいけない、そんなことを思って自分をいじめなが
ら、もう一方では、自分は立派にならなければいけない、いけないと、二つに分裂してい
るのではなくて、ああ自分はだめな人間だな。いつまでやってもなかなか悟れない人間な
んだ、というだめな人間、悟れない人間はひとまず横に置いて、世界平和の祈りを祈るわ
けです。そうすると、横に置いたと思ったものは、世界平和の祈りの中に背負われていっ
て、同時に光の中へ入ってゆくのです。
だから素直に、ああこれはみんな消えてゆく姿なんだ、世界人類が平和でありますよう
に、とやれば、そのまま消える率が早いわけです。世界平和なんて言うけれど、そんなこ
とで消えるかな、なんて思いながらやっていても、これは消えるんです。しかし、素直に
スッと入ったほうが、消え方は早い。いちいちそこで批判するほうが消え方は遅い。
けれど、批判する心というものも、こんなもの大丈夫かなと思う心も、その人の癖なん
で、過去世の因縁なんで、それでもかまわず一緒に祈りの中に入ってゆくのです。素直に
入ってゆく人と、行かない人とは消え方の度合が違うけれど、どちらにしても消えてしま
うわけです。早かろうが遅かろうが、やがては消えてしまう。
このように人を責めるわけでもなければ、自分を責めるわけでもなく、みな過去世の因
縁の消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中に入れてしまいなさい、と教えたわけです。
それは自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛すということになるのです。簡単明瞭にそ
うしているわけです。
23貧しき者は幸いなり
総まとめの教えの出現
心が謙虚なことは幸いだとは、謙虚な心をもって、しかも自分を責めさばかないという
こと。だから消えてゆく姿で世界平和の祈りということになれば、謙虚な心がそのまま生
きて来て、謙虚がそのまま光になってゆくわけですね。へりくだっていることが、そのま
ま力になってくる。
心の貧しい者は幸いである、ということはあくまで真理なんだから、それは心の中にお
いて、それで消えてゆく姿でもって世界平和の祈りに入ってしまえば、謙虚な心でいて人
に好かれながら、しかも自分をいじめないで、立派な人間になってゆくーこういうこと
なんですよ。そのように出来ているのが、この会の教えなのです。
神さまはなかなかうまいことをしているんです。お釈迦さまを出したり、ソクラテスを
出したり、イエスさんを出したり、マホメットを出したり、いろんな聖者を出しています
ね。それで総まとめにする教えもあるわけです。
叫
私がおかしいと思うのは、昔の聖者は偉い、とばかり思っていること。老子が出て、お
釈迦さまが出て、イエスさんが出て、いろんな聖者が出ていますが、それなのに、世界が
だんだん危くなっていて、やがては滅亡するというような原子爆弾の時代にもって来てし
まったのは、どういうことなのか。
それは、お釈迦さまだけでは、老子さんだけでは、イエスさんだけでは、つまり今迄の
聖者一人だけでは力が足りないんだ。もっと総まとめにしたような教えとか、そういう生
き方が出来なければ、この世界はよくならないんだ、ということなのです。だから昔の人
より今の人のほうが偉くならなくてはならないわけですよ。偉くなるように出来ているん
です。
昔の人が何べんも生まれ変わり、いろいろ経験を積んでここに出て来ているんだから、
昔のほうが今より偉いなんてことはおかしいのです。昔より今のほうが偉くなくちゃなら
さんたん
ない、本当は。何故ならば、昔の人が苦心惨憺して、いろんなことを作り、いろんな発明
をして、その土台の上に今の人が生まれているんだから。昔の教えプラス新しい教えがな
25貧しき者は幸いなり
ければならない。昔の発明プラス今の発明があるわけですね。科学は昔の土台の上に乗っ
かり、どんどん進んでおります。ところが宗教の世界だけは不思議なことに、昔の、老子
さんが偉くて、お釈迦さんが偉くて、イエスさんが偉くて、法然親鸞が偉くて、今の人は
だめだと思っている。
そういうばかなことを神さまがなさるわけはない。昔の人に加算して、だんだん科学が
発達すると同じように、宗教の世界においても、精神界においても、昔の宗教より今の宗
教のほうがいいのは当たり前なのです。実際によくなっている。よく考えてごらんなさい。
へしたぎ
たとえばイエスが言ったように「人もし右の頬を打たば、左の頬をも打たせよ」「下衣
うわぎ
を取るものがあったら、上衣も取らせよ」と言われたって、実際問題としては出来ません
ですね。出来る人がどれくらいいるか、どれくらいの人がそれが出来るか。世界何十億と
いう中で、十人や三十人出来たってしようがないでしょ。いい教えには間違いないけれど、
現実の、現代の文明文化の進んでいるこの世界においては通用しないわけですよ。
あるいは「すべて生きものを殺してはいけない。虫も殺してはいけない」という教えが
26
仏教にあります。ところが実際問題としては、虫一匹も殺さないで生きている人はありま
せん。虫はおろか、牛でも豚でも鳥でも食べてしまう。そういう世界になっている。そう
いう世界になっていながら、虫一匹も殺さない、ということは、嘘があります。正直な人
は、虫を殺すたびに、ああ悪かった悪かった、ああ私はだめだ。魚一匹食べるたびに、あ
あ私は悪かったーと自分を責めるようになってしまいます。だから出来ないようなこと
を言っているわけですよ。
お釈迦さまは出来た。イエスさんは出来たでしょう。当たり前のふつうの人には出来な
いことを、理想論と言う。理想通りに出来る人もありますけれど、ほとんどが出来ない。
こんなんだ、と天の目標を示したのはお釈迦さんでイエスさん。けれどもどうしたらそう
なれるか、ということを示した人はないのです。
聖道門と浄土門
教えたことに二通りあるわけです。
くうしょうどうもん
つは空になるという練習で聖道門。坐禅観法し
27貧しき者は幸いなり
たり、あるいは山にこもり滝にあたったりする。禅宗や修験道にもあります。もう一つは
浄土門と言って、南無阿弥陀仏と唱えて、みんなおまかせして阿弥陀さまの中に入ってし
まう。
空になる坐禅観法や修験道のほうは、なかなか出来ないんです。忙しい社会生活をして
いかなければならない。食べていかなければならない世界では、なかなかそうは出来ない。
チョコチョコと一週間やりました、十日間やりました。そんな十日や一週間坐って何が出
来ますか、と言うの。それが証拠には、大僧正というお坊さんたちが悟ってはいない。悟
っている人は滅多にいません。坐禅観法しても、よほどの達人でない限りは悟れないんで
す。何故か? 無理があるから。この世の現代の波長というものと坐禅観法とのバランス
がとれないんです。
たとえばお寺を維持するにしても、何もお布施をくれくれと言わないでも、壇家のほう
でどんどん出してくれるお坊さんは、教えさえ説いていれば、ちゃんと生活が出来てゆく。
ところが現代では、お寺にお金などなかなか納めないです。くれくれと言われて、仕様が
z8
ない、おれたちは壇家だからと、いやいや出す、ということになっている。だからお寺は
維持されていかないわけです。それで大僧正なり管長なんかが、何か稼がなくてはならな
い。お寺を維持するために稼ぐという気持ちがあるわけです。そうすると、汚れてしまう
わけです。維持するためにはそうしなければならない。そのために誰かにおもねったりし
なければならない。そうすると心が汚れるでしょ。
現代では、坐禅観法で坐っただけではいられないという時代になって来た。俗世界の波
に勝てない。だから悟りにいかないわけです。そこに無理がある。
もう一つの南無阿弥陀仏と唱えるほうは、救われやすいのです。一般の大衆は、真剣に
やれば救われやすいのです。救われます。自分が罪悪深重の凡夫で、自分では何事もなし
得ないんだから。ああ阿弥陀さまに救って頂くんだ、ああ有難うございます、お願いしま
すーとそのまま入っていけば、やさしいんですよ。イエスさまマリアさまって、イエス
さまマリアさまにすべて捧げてしまうのと同じです。仏教の浄土門的な行き方が、キリス
ト教の中にあるんです。
2g貧しき者は幸いなり
そうやって他力的に救われてゆくそのほうが楽ですね。だけどそれさえも、現代の
科学的な社会になりますと、南無阿弥陀仏と言って救われるかそういう疑問が起こっ
てくるわけ。昔の人は自然にやっていたけれど、今の人は南無阿弥陀仏と言って救われる、
と思っている人は少ないわけです。そうしますと現代は現代の言葉を以って、日本は日本
の言葉を以って、新しいやり方が生まれなければならないわけです。それが、今の消えて
ゆく姿で世界平和の祈りとなったわけです。
現代の究極的救われ
やり方はほとんど浄土門と同じことです。ああ罪悪深重の凡夫で、自分は何事もなし得
ヘヘへ
ないんだ。出来ないから、阿弥陀さまの中に入って、阿弥陀さまから一日一日のいのちを
頂き直そう、そういう考えなんです。だからやり方は同じなんです。同じだけれど、世界
人類が平和でありますように、というやり方は南無阿弥陀仏よりも現代の人に意味がすっ
かりわかる。そのまま意味がわかります。本当に、世界が平和でなけりゃなんない。これ
30
は同感するに決まっています。これに反対を唱えることは出来ない。祈りぐらいで平和が
出来るか、と思う人はあるかもしれないけれど、反対は唱えられない。ただ南無阿弥陀仏
じゃわからない。消えてゆく姿で南無阿弥陀仏でいいんだけれども、現代の人が、世界中
の人がやり得るのは”世界人類が平和でありますように” ですね。これは英語に直したっ
て、フランス語に直したって、世界人類が平和でありますように、はありますからね。
世界人類が平和でありますように、というのは阿弥陀さまと同じ救世の大光明の中に入
っていってしまう。そしてその中できれいに洗い流してもらう。そのためには、肉体の自
分では何事もなし得ないんだ、という謙虚な気持ちは浄土門と同じです。自分の肉体では
何事もなし得ないんだ、みんな神さまにやって頂くんだという形がなければ、宗教は成り
立たないんです。そういう気持ちで平和の祈りの中に入ってゆくわけね。
私の教えというのは、浄土門の教えであり、キリスト教の教えでもあり、法華経の教え
でもあり、そういうものが一体になって、しかもやさしく、消えてゆく姿で世界平和の祈
りというふうに出来て来たわけです。悔い改めも、謙虚も、反省もいつの間にか知らない
31貧しき者は幸いなり
うちにそれがなされていって、しかも自分を責め人を責めるものもない。自然な教えなん
です。自然なやり方なんです。
現在、いまだ惑っている人もあるかもしれない。しかしやがてはそれが惑わなくなる。
現在はやりながらも、なんだか不安な心もあるかもしれない。しかしそれはやがてはな
くなる。やがてなくなる時が決まっている。(昭和41年10月24日)
32
二、洗礼のヨハネ
洗礼のヨハネの偉さ
洗礼のヨハネ、と言われている人は偉い人です。どんなことがあっても弱音を吐いたこ
とがない。(笑) 勇気凛々とした、使命感に燃えた人です。純潔無比、神のみ心そのもの
はりつけ
の人です。歴史的にはイエスはいい立場にあります。自身はいやな立場ですよ。礫になっ
たんだから。けれど歴史的にはイエスの名が残っています。ヨハネのほうは陰にひそんで
いる。しかし偉さとしたら、どっちが偉いということは言えません。
ヨハネという人は偉い。あんなに偉い人はない。考えてみて、自分が凄い力を持ってい
33洗礼のヨハネ
る。凄い霊力を持っているんだから。それで弟子もたくさんある。救世主じゃないかと、
民衆はみな思っている。
そこへ若いと言っても同年配なんだけど、修行者としては後輩です。片方のヨハネは有
名なんですから。無名のイエスが洗礼を受けにくる。それを見て「この人は、私よりも大
なる人で、私はこの人の靴の紐をとくにも至らない者だ。みんなこの人について行きなさ
い」と言った。
有名な、凄い力を持った人が、後から来た者に「あれは偉いんだからついて行きなさい」
と弟子に言って、自分がへりくだることが出来るかしら。それだけでも大変なことです。
今の宗教家でもこんな素晴らしい人は少ないでしょう。自分が大したことがなければいい、
大したことがあるんだから。凄い力を持っているんだから。エリヤの再来と言われるよう
な凄い力の人です。それが使命に徹して、イエスに対して仰いでいるんだからね。しかも
淡としてやるんです。その一事をもってしても、どんなに偉いかがわかる。なかなか出来
るもんじゃない。
34
ヘロデ王の所へ行って首を斬られちゃうわけでしょ。どんな権威の前でもビクともしな
い。首斬られる時でもビクともしない。全然心が恐怖していないんだから。あの偉さとい
へいざ
うのには感歎している。どんなに向こうが地位が高かろうと、平気の平左で言うことは言
う。だから向こうは恐れますね。いのちなんか全然問題にしていない。肉体のいのちはち
っとも惜しくないんだから。首斬られる時でも平気で首斬られる。少しも肉体に把われて
いない、肉体に想いがとどまっていないんです。
ああいうのを聖者と言わなくて、誰を聖者と言うのか。その点では、イエスさんが礫に
なって「神よ神よ、なんで我を見捨て給うか… … 」と言ったと言うでしょう。あんなの嘘
なんですよ。本当はそんなことを言いやしないんですけれど、そういうふうに聖書に書い
てある。役目の違いでしょうね。
ヨーロッパのほうでは、人間らしくみせる、そのためにあんなふうにした。イエスが「神
よ神よ、なんで我を見捨て給うや」と言うようでは大したことはない。イエスがもしそう
いう弱音を吐いたとすれば、それはヨハネのほうがずっと偉いです。だけど私はそんなご
35洗礼のヨハネ
と嘘だと思っています。
宇宙神の深さ、高さ、広さ
ヨハネは、私はイエスの唯一の師だと思っています。ヨハネの「あなたが救世主だ」と
いう一言がどれだけイエスを鼓舞し、勇気づけたか。今日キリスト教が広まって救われた
人が随分あります。救われた人は、イエス並びにヨハネに対して感謝しなければいけない。
法然がいなかったら親鸞がいなかったと同じように、ヨハネがいなければイエスはありま
せん。そう私は固く信じています。それでヨハネのことをたくさん『聖書講義』に書いて
います。ヨハネはここに来ています。
ロつ
ヨハネは偉いです。けれど「女の産みたる者のうち、バプテスマのヨハネより大なる者
は起こらざりき。されど天国にて小さき者も彼より大なり」と聖書に言っているように、
ヨハネでさえ、天の神にくらべたらずっと小さなものだ、というのは本当なのですよ。
宇宙人との交流というのをいたします。宇宙人なんていうのはものすごく偉いんです。
3 6
宇宙人というのは言い換えれば、神々なんだ。その中の一人がイエスキリストとして、ま
たお釈迦さまとして来ているんです。老子もそうです。
イエスやお釈迦さまにしても、向こうへ行けば最上、最高ではないんですよ。向こうに
はもっと凄いのもいる。
おさな
この肉体界、地球界というものは、まだまだ稚い幼い子供で、地球界の中の聖者、イエ
スにしてもお釈迦さまにしても、老子にしても、神のみ心の真ん中からみれば「いまだ小
さき者よ」なんです。上には上があり、どこまで行っても上があり、凄いもんですよ。だ
から肉体の人間の皆さん、小さなことなど思いなさんな。まだまだ人間として人類として
始まったばかり。地球界なんか子供の子供、まだまだ幼い子供です。地球界の中で、偉い
とか偉くないとか言ったって、知れている。たかが知れている。向こうからみるとたかが
知れているんです。それを聖書などにも書いてあるのです。ヨハネのような人でも、いと
小さき者だって言う。それくらい宇宙は膨大だし、宇宙神の深さというか高さというか、
広さというか凄いんです。
37 洗礼のヨハネ
地球の神さまというのは地球霊王と言います。守護神もいます。その奥の奥の奥のほう
に宇宙神がいるんです。ただ現われる場合に、宇宙神として現われますが、本当の宇宙神
というのは、奥の奥のどこだかわからない。わけがわからない、高さ深さなんですよ。
神のみ心の真ん中と言っても、真ん中には違いない。宇宙神のみ心をそのまま体得して
やれば、宇宙神の真ん中の行ないだけども、その真ん中も奥が深いんです。深いし、同じ
真ん中にしても深い真ん中と、浅い真ん中とがあるんだ。むずかしいですよ。それほどに
宇宙というのは膨大だし、神のみ心というのは深くて高くて、もうたとえようもない。絶
讃しても限りもないような深さです。常に私たちは思う。
だからああいと小さき者よ、と思うんですよ。地球界で一生懸命、たとえば私が中心に
なってやったとしても、向こうからみれば「いと小さき者よ」。だから、五人や十人、百
人や千人救っても、いと小さき者よ。まして人のために悪いことをしているような者は、
本当にどうしようもない者なのね。
3 8
目的は高く持つ
だけどもやがて地球が発達してゆく。宇宙人の応援と、守護神が結集してやってくると、
はが
みんなの業が剥れます。そうすると今に、ヨハネぐらいの人がたくさん出てくる。そうす
れば人類がよくなります。やがてみなさんもそうなります。
きゃつかしょうこ
目的は高く持って、それで脚下照顧、自分の足許を一生懸命一歩一歩やってゆく。する
と上げるのは向こうです。守護神のほうからサーッと上げてくれます。自分は一生懸命や
らなきゃいけない。奇蹟だけを夢みたり、霊力だけを夢みたのではだめです。目的は高く
持って、宇宙は膨大で、宇宙神のみ心は深いんだなあと知りながら、一歩一歩やっていけ
ばいい。するとエレベーターのように、サッと上ってゆく時があります。
一歩一歩と言っても、一段一段上ってゆくんじゃありません。こちらとしては坂を上る
ように、一歩一歩やってゆくんだけども、神々のほうでは一歩一歩ではないんです。いっ
ぺんにパッと上げます。
39洗礼のヨハネ
私などの経験ではそうです。一歩一歩、車を引いて坂を上るようにやったんです。その
日その日、その場その場を大切にしながらやったんです。ところが上る時には、サーッと
上ったんです。そこで平らかになり、またピーッと上って平らかになる。私は五十になる
と(この年の十一月になると満五十歳になる)、またピィーッと上ります。皆さんだって
上っているんですよ。知らないだけです。一歩一歩上っていたんじゃキリがないです。地
球が亡びちまう。
肉体の人間のほうは一歩一歩進むんです。自分のすぐ前をみつめ、自分の足許をみつめ
てゆくんだけれども、神々のほうでは、一歩一歩ではなくて、スーッと上げます。そうい
うことを意識して、期待をもって、希望をもってやりましょう。(昭和41年9月26日)
40
注ーエリヤ旧約聖書に出てくるユダヤの代表的予言者。そして最高の霊能者であった。
洗礼のヨハネの如く、権威をおそれず、国王を面責してはばからなかった。
旱魑の時、川の畔で三ヵ年間、烏に養われたという話、異教の祭司と術くらべをし、火
をふらして勝ったり、最後は、火の車に乗って昇天した話など有名である。
イエスが丘で祈っていて、光り輝いて変貌した時、エリヤはモーセとともに出現したと、
新約聖書に記されている。
41 洗礼のヨハネ
42
三、十字架と奇蹟
わけ
キリスト教が広まった理由
はりつけ
肉体人間、人類に代わって、十字架にかかって、礫になって死んだということが、ヨー
ロッパの人々の肝銘を呼んだ。それが教えが広まった最大の原因だと思うのです。
唯物論的言い方をすれば、あんなに素晴らしく病気を癒し、荒れた海もしずめ、海の上
も歩いた、そんな霊力のある神の子が、どうして傑などにかからず逃げなかったのか?
礫にかからないですんだのではないか。礫にかかるようじゃイエスも大したことないなあ
とこう思う、となります。
礫にかかった時に、群集が、神の子なら、本当のキリストなら、ここで奇蹟を現わせ、
そうしたらばみんなは本当に信じる、と言ったけれど、イエスはやっぱり礫になってしま
った。ということで、あの時は信仰が下火になり、なくなってしまった。だから本当は、
イエスさんが在世中は、イエスさんを大してみんなが問題にしていなかったわけです。ユ
ダヤ全部がね。
よみがえ
ところがその後、甦りがあったということから、素晴らしく広まっていった。それもユ
はから
ダヤでは広まらないで、ヨーロッパに広まってゆくわけですね。それは神さまの計いごと
なんです。
人間の目からみれば、その時に奇蹟があればいいだろうと思うだろうけど、その時奇蹟
がなかったことがかえって、キリスト教を広めたことになるわけです。だから神さまのみ
心というのは、本当はどこにあるのか、肉体人間智ではわからない。
あつ
今、篤い重病人の病気を治せば、その人が信じて、その人が信仰深くなるだろうと思う
と、そうでない場合もある。病気が治らなかったために、かえって信仰深くなる場合もあ
43十字架と奇蹟
るのです。
それは神のみぞ知るーで人間にはわからないんですよ。病気が治って、癌なんか消え
きんきじゃくやく
てなくなった人もあるのですが、ではその人が欣喜雀躍して、先生先生、とくるかと思う
と、さにあらず、治ったら治ったでもう来やしません。
そうかと思うと、治らないでも、一生懸命私のところへやってくる人があるんです。子
供が死んでしまって、親はもうこないかな、と思うと、一生懸命、親がくる人もあるわけ
です。かえってその親の信仰が深くなる場合もあるんです。どこに、どういうふうに心根
があるのか、それは神のみぞ知るです。
イエスさんがあそこで礫になることは、理屈で言えば、間尺にあいませんよ。神の子で
あるイエスが、救世主である人が、礫にかけられて、殺されてしまうなんて、そんな馬鹿
なことって、あっていいものではない。捕まえにごようが、何にごようが、パーッと霊力
を発揮して、みんなひっくり返ってしまって、ウヘェーッとなっているようだったらいい
ようでしょう。それこそ本当の救世主で素晴らしいと思うけれど、そうではない。イエス
鱈
さんはむざむざと捕まり、礫にかかったでしょう。あれはいかに神さまのみ心はどのよう
に働いているか、表面的に奇蹟だけをみせるのが神のみ心なのか、イエスの礫によってよ
くわかります。
十字架の真の意味
目の前の奇蹟だけが奇蹟ではなく、大きな奇蹟が絶え間なく起こっているのです。目に
みえなくても、また自分たちにわからなくても、大きな奇蹟がズーッと現われているので
す。それが、神さまの計った、法則のように決められた時に、スパッーと現われるのです。
それまで奇蹟が蓄積されて溜まるのです。その時がやがてくるのです。宇宙子科学など一
つのいい例です。
ところがイエスさんの時には、イエスさんの役目ではなかったわサね。イエスキリスト
は、人類の肉体観念を抹殺すること。人間というものはみんな罪深いもんだ、とみんな肉
体の罪、俺たちは罪人だと恐れていたわけ。そこで、私がみんなの身代わりになって、そ
45十字架と奇蹟
こう
の罪を消したんだから、あなた方は私に従えば、いわゆる肉体人間の業というものはなく
なるんだ、と教えたわけです。
教えたけれど、みんなはっきりわかってないわけね。
十字架にかかるということは、どういうことかと言うと、調和するという意味なのです。
十字架の縦の流れは神さまからくる光です。横は人類です。縦と横、神のみ心と人類の調
和ということが、一つになる。それで大調和するということ。みんなが手をつないで、神
た
の光がそのまま真っ直ぐに来て、人類が縦横十字交差の真ん中に起つんだ。縦横十字の真
ん中に起てば、大調和したことになるんです。そうすればみんな救われるんだということ
あめのみなかぬしのおおかみいざなぎのみこといざなみのみこと
です。別の言葉で言えば、いわゆる天御中主大神から分かれて、伊弊諾尊、伊弊再尊の二
柱が生まれた。伊弊諾尊が陽、伊弊再尊が陰です。この陰陽合体がうまくきれいに十字交
差して調和すれば、肉体も精神もみんなよくなるんだ、ということを説いているんです。
イエスはそれを身をもって示したわけです。その役目だったけれど、自分自身が世界を
平定するわけでもなんでもなかった。
φ
そこでいろんな聖者が出てくるわけです。お釈迦さま初め、いろんな人がいろんな役目
を果たしてゆくわけです。
で、私の番になって来た。.何をするかと言うと、祈りによる世界平和運動というものを
神さまからさせられているわけです。この運動は大きくなるに決まっている。そういうも
いやおう
のをさせられている。否でも応でも、とにかくさせられている形なんです。肉体のほうは、
そのために置かれている。大正五年に生まれていますね。この肉体のほうでは気がつきま
せん。肉体のほうじゃわかりません。神々が生むわけです。五井昌久という個人ではなく
て、場所を創ったわけですよ。この場所を動かして、神々が働いているんです。神々が私
に世界平和の祈りというものを、宣布させようとしているわけですね。
あ
私がここにいます。私のエネルギーが宇宙人(宇宙天使) に通じて、昌美のような人が
出て来て、この世に置かれて、宇宙子波動生命物理学というものが、ここに出来てきたわ
けです。
47十字架と奇蹟
みんな神さまの働き場所
私にしても、昌美にしても、皆さんにしても、神さまの働き場所として、みんな置かれ
ているわけなんですよ。神さまの働き場所と本当にわかれば、自分というものが本当に生
きるんです。それが働き場所じゃないと思って、要するに、自分というものが神さまから
離れてしまって、神さまから離れた自分というものが別にあって、それで自分で生きられ
ると思うものだから、法則から離れてゆくわけです。どう騒こうと、どうしようと、肉体
のほうは神さまの働き場所なのです。心のほうは神さまと一つなのです。そこへ業想念の
ほうがチラチラくるけど、そんなもの問題じゃない。
心は神さまの光です。働き場所を通して働くわけです。ところが光が一杯くる人と自分
だけのものがくる人とがある。それで人のために働く役目になっていると、神さまの多く
の光が集まってくるのです。
だからキリストの光もくる。お釈迦さまの光もくる。老子の光もくるというわけです。
聯
昌美などは宇宙天使の光が来ているわけです。それでその場所を使って働くわけです。
皆さんもそういう場所なんですから。世界平和の祈りの場所なんです。世界は三十何億
人。その三十何億に広げるための世界平和の祈りの場所が、皆さん一人一人なんです。そ
れをよく認識するといいんです。そうすると、自分というものが、いかに有意義な存在で
あるか、ということがわかります。
自分は、個人のただ食べて、飲んで、遊んで、儲けて、それで生きていればいい、とい
みわざと
うものではなくて、神さまの御業をなし遂げるために、みんな一人一人が分かれた場所を
持って、生まれて来ているのです。
皆さんの場合は、たとえばこの世的になんにもしない老人であっても「世界人類が平和
でありますように」と祈っている時には、世界平和のひびき、神のみ心のひびきを世界中
に広める場所になっている。大きな場所、広い場所になっているわけです。だから有り難
いんですよね。(昭和40年12月27日)
4g十字架と奇蹟
さいおんじまさみ
注2 西園寺昌美先生東京に生まる。学習院短大卒業後、祈りによる世界平和運動に身を投じ、
五井先生の後継者となる。一九七四年西園寺裕夫氏と結婚、三児をもうける。現在、ワー
ルドピースプレヤーソサエティ代表、白光真宏会会長として、政治や宗教を超えた精
神平和運動を世界中で展開中。著書に『我即神也』『かくて地球は蘇る』『明日はもっと素
晴しい』『天命に生きる』(白光出版) 『無限なる幸せ』(河出書房新社) 『↓9 0⊆α9 囚塁8
二p。署ヨΦωω』(閏U一ΦヨΦ口けOσOO評ω)等多数。
50
四、真理は汝を自由にならしめん
i 或るカトリック信者の質問に答えてー
互いに相愛すべし
カトリックでは教会というか、信徒の戒律、規則がやかましくて、人間を縛ってしまう
のです。ところがイエスは”真理は汝を自由にならしめん” と言っているわけで、規則で
縛るなんていうことは言っていないんです。だからそれはイエスさんの教えとは違う。
人間の自由を縛るとしたら、イエスさんの教えはそういう縛り方のところには現われて
いない、ということです。なんの中に現われているかと言うと、”汝ら互いに相愛すべし
“
というところ、みんなが仲よくしなさい、というところに現われている。みんな一つのい
51真理は汝を自由にならしめん
のちから生まれて来ているんだから、みんな相愛すべし、仲よくしなさい、というのがイ
エスさんの教えで、一番の根本は大調和なのです。
仲よくなることが一番大事なんだから、みんなが心安らかに、仲よく出来る方向に向か
っていけば、カトリックも何教も何宗も、なんにもいらないんですよ、実は。私だって会
そのものなんかどっちだっていいと思っている。ただ一つの集まり場所だと思っている。
会という名前がないと集まれませんからね。自然とみんなが集まって、会がこうなって、
自然になっているんだからね。
カトリックだってそういう意味なのに、教会というものを守ろうとするため、信者を増
やそうとするために、わざわざ規則を作って、会員をがんじがらめにするわけです。
今は知らないけれど、昔はカトリックの人は、カトリックの人同士でなくては結婚して
はいけない、とかあったんですね。そういう人間の自由を縛ることはすべていけません。
もし自由を縛って、みんなを善人にすると言うならば、大神さまが光を送れば、悪人はみ
んな死んでしまって、善人だけが僅かに残ると思うのです。ところが大神さまはそうしな
52
いで、善人にも自由を与え、悪人にも自由を与えておられる。悪をする自由を与えている
わけです。自分の運命は自分が選ぶわけです。そして最後に滅びるのは当たり前なんだ。
悪をして自分が苦しむのは当然なのです。
しかし、悪の自由を許されたとしても、悪を出来ない人が随分あります。人を殺しても
いいよ、と言われても、この世の中で人殺しを出来る人はいませんよね。それと同じよう
に「いけない」「いいよ」と言っても、やる人はやる。
こうしょう
そこで私は現われてくるものは、みんな消えてゆく姿と言って、いわゆる業生の世界、
三界の想いというものを消えてゆく姿にするわけ。そうすると、後に残ってくるものは何
かと言うと、神の子である自分の本心の光だけが残るわけです。そして最後に自由自在に
なるわけです。
汝を自由に
ですから、人間を真に自由自在にするのは、教会がするのでもなく、戒律がするわけで
53真理は汝を自由にならしめん
もなく、自分自身が自分の心を自由にするのだし、自分自身が神さまにつながるわけです。
それで仲立ちする人が要るわけで、それがイエスとかマリアとかお釈迦さまとかになるわ
しや
けです。私も仲立ち者です。
この道を通って行けば、早くあなた方は自由になりますよ。私がそうやってなったんだ
から「いらっしゃい」と言ってやるわけです。私が通って来た道は何かと言うと、「神さ
ま有難うございます」だけだったのです。
何があっても「有難うございます」。何をされても「有難うございます」一点張りで通
って、今日になったわけです。だからむずかしいことは何もな少。哲学者が言うように、
じゃくめつ
茶碗が寂滅か、寂滅が茶碗か、なんて言うこともない。ただ「有難うございます」一点張
りでこうなって、「すべて神さまから頂いたものですから、神さまにお返しします。どう
ぞお使い下さい」と全部投げ出した。それから今日の自分が出来ているわけですじ
私はそういう道を通って来た。それを理論で説明すると”消えてゆく姿で世界平和の祈
り” という生き方になるわけです。だから、皆さんは私を信じているならば”消えてゆく
54
姿で世界平和の祈り” をすればいいわけなのです。
カトリック教会へ行っていればそれでいいけれど、それは自分の自由だから、行きたい
時に行けばいいし、行きたくなかったら行かなくてもいい。何も規則に縛られることはあ
りません。規則は神さまの作ったものではありませんよ。カトリックにしろ、どこの宗教
にしろ、規則は神さまの作ったものではありません。神さまにはそんな人の心の自由を縛
る規則はありません。
神さまの規則、神の定めは何かと言うと、それは、互いに相愛すべし、人類はみな一つ
なのだから、みんな仲良くしなさい、平和な心になりなさい、調和しなさい、ということ
で、その方法をいろいろな宗教に分かれて教えているわけです。
真理の教えというのは、その教会に行かなくても、いくらでもあります。聖書を読めば
聖書に書いてあります。私の話を聴けば私の話の中にもあります。汝を自由にしたほうが
いいですよ。(昭和40年12月27日)
55真理は汝を自由にならしめん
、
5 6
五、エホバはねたみの神・怒りの神か?
神さまは罰しない
旧約聖書には、エホバという神さまは”我はねたみの神である、怒りの神である” とい
うように書かれているのですが、神さまはねたんだり、怒ったりすることがあるのか、と
いう質問があります。
旧約聖書では、光明の神さまも業もひっくるめて神と言っているんです。
エホバの神は、愛の神でもあれば、怒りの神でもあれば、ねたみの神でもあるというよ
うに表現していますけれど、神さまにはねたみも怒りもありません。ねたみや怒りのよう
に現われて来た場合には、自分の心が自分の心を傷つけている。自分が自分を傷つける時
に、ねたみになったり、怒りになったり、いろいろな形になって神の罰のように現われて
くるわけです。だから天罰というのは、天が罰するのではなくて、自分の良心が罰するわ
そこなはら
けです。自分の完全円満なる生き方が損われた時に、それは邪魔だから、それを祓うため
に罰のような形に現われて来て、自分が怪我したり、災害を受けたり、病気したりなどす
るわけです。
旧約聖書というのは随分昔のものですから、昔の人には今言ったことがわからないので、
ねたみの神とか怒りの神とか言って、神さまにかこつけてしまったわけです。エホバ神に
一任しちゃったのです。
ですからエホバ神ばかりでなく、昔の宗教というのは、神さまが天罰を与えたりします
ね。ところが神さまは罰することはありません。罰するのは自分が自分を罰している。自
分の良心が本心を開いてゆくのに、業があったら邪魔だから、本心が進んでゆくと業が崩
れてゆく。それが病気になったり、災難になったりする。自分で自分を罰しているのです。
57エホバはねたみの神・怒りの神か?
自分が不幸になりたくなかったら、自分の邪魔な業想念を、一日も早く消して、神さま
の中で消してもらうことがいいわけです。そこで私は消えてゆく姿だ、と言うんですよ。
消えてゆくものをどこに消すのかと言うと、世界平和の祈りの神さまのみ心の中へ消し
てしまいなさい、と言ってます。「世界人類が平和でありますように」ということは、み
んな仲よくなりますように、みんなが幸せにいくように、と神さまは願っているわけです
から、神さまの大み心と人間の願い、人類愛とが一つになっているのです。だからその中
に、消えてゆく姿の痛みも辛さも苦しみも自分の悪い想いも、「世界人類が平和でありま
すように、神さま有難うございます」と言ってみんな神さまの中に入れてしまえば、神さ
まの光がそのまま体の中に入って来て、自分も光り輝いて、本心と表面の心とが一つにな
かくしや
ってゆくんだ、それは覚者になったということです。
本心と業想念とを分ける
本心と業想念とを、ハッキリわけているのが、私の宗教なのです。昔の宗教というのは、
5 8
本心も業想念もこちゃまぜにして、ねたみの神、怒りの神だのと言ったのです。旧約聖書
というのに、表面的には間違ったことがたくさんあります。新約聖書でも間違ったところ
がある。それは聞き伝えや、霊能者が感じたことを書くのですから、間違いがあるわけで
す。
自分で自分の心を痛めてしまうのが、一番いけない。昔の修養とか宗教のように、自分
は悪いんだ、自分は悪い人間だ、悪い人間だって、自分の心を責めることは、完全円満な
る神さまを責めていることになる。人間は神のいのちがそのまま入って来た神の分け命で
すから、こんな悪い人間を創って、お前は失敗したじゃないか、と神さまを責めているこ
とになるのです。神を汚すことになる。
自分の心をあまり責めてはいけませんよ。そうするとノイローゼになってしまいます。
いい人にはよくあるのです。私がみんな悪いんです、悪いんです、と責めてノイローゼに
なってしまった。これは神さまを冒濱することになるんです。だから、悪いなあと思った
ら(これは自分でいいか悪いかわかるんだから)、ああこれはみんな神さまに消して頂き
59エホバはねたみの神・怒りの神か?
ましょう。自分では消せないから「神さまどうか私の悪いものは消して下さいませ。どう
か悪いところがあったら消して下さい。世界人類が平和でありますように、有難うござい
ます」というように簡単にやるのです。
神さまが創った人間だから、全部神さまに責任があるんですよ。悪いことをするような
人間がいたら、それは神さまの責任。神さまの全部責任だから、神さまに全部まかせちゃ
ったらいい。「神さま、どうかこの悪い心を消して下さい」って神さまに投げ出せばいい。
そうすれば神さまのほうで消してくれるのです。中途半端だからいけない。
世界人類が平和でありますように、と言うのも、世界中の悪いものを全部とって下さい、
みんなきれいにして下さい、神さま! と言うのも同じです。世界人類が平和であります
ように、私たちの天命が完うされますように、と祈って、みんな悪いものも全部神さまの
ヘヘへ
中へ入れて、神さまから毎日一瞬一瞬、新しいいのちを頂き直し、一瞬一瞬、新しく生ま
れているんですよ。それが世界平和の祈りというものです。神さまと自分とがスッキリと
つながってしまうよう、年中お祈りをするわけね。それが世界平和の祈りです。
人間は貰いっぱなし
神さまというのは大親様、親の親です。だから自分の創った者が仲悪くするのを望むわ
けがない。神さまが生命エネルギーを人間に分けてくれた。そして年中、神さまのほうか
ら、生命エネルギーが来ている。その中に、智恵もあり、力もあって、いろいろな力を出
してゆくわけです。ただ神さまはいちいちご自分がするのではなく、生命エネルギーを与
えただけ。無償の愛で神さまが与えてくれた生命エネルギーの力を、人間が駆使して、智
恵を出したり、力を出したりして、自分の世界を作ってゆくわけです。人間は貰いっぱな
しなのです。いつも貰いっぱなしでやっている。
ズーッと貰いっぱなしなら貰いっぱなしでいいのに、神さまから貰っていることを忘れ
てしまって、肉体の自分の中にあるんだと思ってしまって、俺の力だ㍉俺の才能だとやる
わけです。俺の才能だ、俺の力だとやった時には、神さまと切れてしまうのです。自分と
神さまと離れてしまう。そうすると自分の与えられて持っている力というものでしかなく
61エホバはねたみの神・怒りの神か?
なってしまうのです。力をいっぺん使うと、貯金したものを使い果たすのと同じで、だん
だん力がなくなってゆくわけです。それでしまいにどうにもならなくなってしまうわけ。
ところが年中「ああ私は神さまから頂いているいのちを働かして頂いている。神さまか
らこの力を頂いているんだ。有り難いなあ、神さま有難うございます」と思っている人は、
年中神さまから、力がエネルギーが流れて来ている。そうすると力がつきないのです。永
遠につきない力を持っている。常に神さま有難うございます、という感謝の想いがあると、
神さまとつながっているから、神さまとのパイプがつまっていないで、スーッと流れてく
るわけです。それが信仰なのです。
私はそれをもっと広げて、自分だけが有り難い有り難いと言うのではなくて、世界人類
すべてが、自分のように有り難くなるように、世界人類が平和でありますように、という
広い人類愛の心にまで広げているのです。
神さま有難うございますが、自分だけが有り難いのではなく、世界中が有難うございま
すになるように、
62
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
まっと
私たちの天命が完うされますように
というように広げているわけです。そこで、自分個人も救われると同時に、人類全体が
救われてゆく教えだと言うのです。
年中、自分はだめだ、人が悪い、というように、ゴタゴタしたつまらない想いをいつも
毎日毎日、一瞬一瞬、神さまに返していって、世界人類が平和でありますように、という
大光明の心、想いと取り替えている。年中、闇と光とを取り替えているのです。それが消
えてゆく姿で世界平和の祈りなんですね。(昭和39年7月9日)
63エホバはねたみの神・怒りの神か?
64
六、心豊かな生活と心貧しき者
すべてに感謝の生活を
新約聖書にあります”心貧しき者は幸いなり” というのと”心豊かな生活”というのは
反しているのではないか、説明してほしい、という質問です。
“幸いなるかな、心貧しき者
“というキリストの言葉の、心貧しいというのは謙虚とい
うことです。心が謙虚である。どんな才能があっても、どんなに地位があっても、自分は
へりくだっていて、すべては神さまのみ心により、神さまの力によって、自分がさせて頂
いているんだ、という想い方、心というものが、心貧しきものというものなのです。
ふつう心貧しいと言うと、物が欲しかったり、お金が欲しかったり、地位が欲しかった
りする状態が、心貧しいと思いますよね。けれどそういうことではなくて「へりくだり」
のことを言うのです。
心豊かな者というのは、現実的にどんな貧しい生活をしていても、あるいは地位が低く
ても、いつも豊かな心で、神の御恵みを心の中にいっぱい受けて、
すべてが有り難いなあ!
なんといういい空だろう!
なんといいこの大地だろう!
なんて美しい花だろう。風も気持ちがいい。水の流れも快し!
小鳥たちが嘩っている。ああなんといいんだろうな!
というような、どんなに生活環境が貧しくても、心が大らかに、美しく、感謝に満ちて
いれば、心豊かな者なのです。従ってどんな環境にも負けずに、環境に把われずに、いつ
も感謝の心がいっぱい心の中に満ち満ちている人は、謙虚であって、しかも心が豊かであ
65心豊かな生活と心貧しき者
る、ということになるわけです。
宗教の根本は、環境に把われないで、いかなる環境においても、心が常に曲豆かであり、
ちぢ
明るく、美しく生きる。そういうことで、これが一番大事なことです。心が縮こまって、
環境に負けて、病気なら病気という環境に負けて、心も命も縮こまる。貧乏なら貧乏とい
う環境、あるいは不調和という環境に災いされて、それで心もせかせかしている。あるい
はみじめになっている、縮こまっているというものでは、宗教精神ではありませんで、そ
ういうものから脱却するために、宗教精神が現われたのです。
生老病死の苦しみを解脱する道
お釈迦さまは、悟る前にどうしたかと言うと、生老病死、つまり、この世で人間はだん
だん年をとり、老人になって汚くなってくる。今まで美しい人がみな汚くなってゆくとい
うことを”老”と言った。病気におかされて、苦しんでいる人がある。貧乏によって苦し
げだつ
んでいる人がある。そういう状態をみて、生老病死という苦しみを解脱するために、どう
したらいいのか、ということを考えて考えて瞑想したわけです。そして、生老病死という
四苦を解脱する道を悟って、それが仏教になっていったわけですね。
どのように悟ったかと言うと、悟ったからすぐ環境が直るというのではないのです。悟
ったと言って、すぐに病気が治り、貧乏が直せ、すぐ地位が上がるということではないの
です。いかに病身病体であろうと、いかに貧しい環境にあろうとも、いかに追いつめられ
とら
た環境にあろうとも、地位が低かろうとも、そういうことに心が執われないで、いわゆる
げかいがいかい
下界と言うか、外界の想念波動を超越して、心がいつも豊かで明るく、美しく生きられる
方法をお釈迦さまは考えられたわけです。
煎じつめれば何かと言うと、喜怒哀楽、五感六感に感じる苦しみというもの、痛みとい
うものを超えて、本当のいのち、本当の世界からくる喜び、本心からくる明るさ、美しさ、
調和1 そういうものを、肉体の中に現わそう、ということなのです。それをもっと現象
的に言いますと、心が真実、豊かになり、解脱して、美しく、明るくなれば、貧乏であっ
ても貧乏でなくなってくるし、病気は治るでしょうし、地位も上がるでしょうし、いうん
67心豊かな生活と心貧しき者
ひつじょう
なことが現象的にも効果が現われてくるのは、これは必定なのです。
何故かと言うと、本当の世界から現われて来ているんですから。本当の世界は完全円満
で、貧乏ではないし、明るく美しく調和して、しかも富んでいる。自分の思うことはなん
でも成るような世界、それが本当の世界なんです。
ところがこの世の中では、自分の思うことは、なんにも成らない。本当は思う通りにな
るんですけれど、思うようになっていないで、逆に現われている。金持ちになりたいなり
たい、と一生懸命稼いでも、働いても、金が集まらない。病気を治したい治したい、と思
っても病気で苦しんでいる。仲よくしたいと思っても喧嘩している。そんなことで思う通
りになっていない。ところが本当の世界は思う通りにならなければならないわけです。
神さまの思う通りというのは何か。その前に神さまの世界というのは調和している。み
んな仲よくしている。心が平和である。あらゆるものに把われがない。自由自在に動ける、
という世界です。そういう世界に行くためには、肉体のあらゆる五感六感の想念波動を超
えていかなければならない、という方法をお釈迦さまは言葉で教えたし、体でいわゆる統
硲
一して坐禅観法して教えられた。イエスなどもそうです。
“汝らの内なる神の国を観よ
“、自分の内に神の国がある、
れを観なければだめだ、と言って教えているわけです。
心の中にあるんだから、そ
一人一人の想いが人類の運命に影響する
宗教というものは、どういう教え方をしようと、人間の本体を悟らせようとしている。
“神と人間
“との関係をハッキリさせて、自分の本心をどこの世界にいても、本心がその
まま現われてくるような、そういう人間に仕立て上げようとして、宗教の先達はみんな苦
労して来ているわけです。
ところがこの世では、なかなかそれが出来ない。出来た人もあります。イエスやお釈迦
さまが出たから、まあなんとかかんとか、この世の中は持っているわけです。あらゆる聖
者賢者が出て、その教えがひびいて、この人類の崩壊というのを防いでいるわけです。し
かも現実には、常に苦悩に満ちている。争いに満ちている。不調和に満ちているわけです。
6g心豊かな生活と心貧しき者
個人のA ならA という人がいる。BならB という人がいる。A ・B ・C ・D とたくさん
の人がいるけれど、一人一人が完全円満ではないわけです。みんな何か悩みはあるし、苦
しみはある。不平もあるし不満もある。悲しみもある。宗教信仰を相当やっていても、悲
しみもあるし、何か割り切れないものがある。特別な人を除いては皆そうです。
それが一人の場合であればそれですむのです。それが五人十人、千人万人、百万千万人
こう
と寄ってくると、国なら国というような形になってくると、国の業として出てくるわけで
す。どういう形になってくるかと言うと、自分の国を守りたい、という想いになり、自分
の国と他の国との利害が反すると、戦争とかいろいろな争いになって来ます。インドとパ
キスタンではないけれど、仲よく出来ない。
日本は幸いに、まわりが海だから、海をへだてて、国際的な国境の接触がないから、わ
り合い無事にすんでいるけれど、他の国というのは、大概、ほとんど国境が接していて、
境界線の争いをする。そのように常に、自分の利益のために相手国を敵とみるわけです。
個人と個人ではそう激しくないのだけれども、国家となると随分と激しくなってくる。一70
人や二人の業では大したことはないのに、百人なら百倍、一億なら一億倍して大きなもの
になって現われてくる。他民族、他国への憎しみとなってくるのです。
煎じつめれば、一人一人の人間が業想念に煩わされないで、業想念を解脱して、人間の
本当の姿、本心を顕していさえすれば、国というもの同士の戦争などなりっこないんだし、
人類は平和になるわけです。ですから国家を平和にし、人類を平和にするためには、やは
り一人一人の人間の心が大事なのです。どんな老人、どんな子供、どんな人であろうとも、
一人一人の想いというものが、人類の運命に影響するわけなのです。そこで私どものして
いる”消えてゆく姿で世界平和の祈り” が大事なんです。
現象界の現われてくるものは、すべて消えてゆく姿なんだ。どんな喜怒哀楽も、どんな
哀しみも苦しみもみんな消えてゆく姿なんだ、と消えてゆく姿と思って、それを世界平和
の祈りの中に入れていけば、元々本来の、神の大愛、大調和のみ心がそのまま光となって
来ているのを、今まで、欲望とか把われで邪魔していた、その欲望や把われが消えてゆく
姿として現われてくるのと引き換えに、本心の姿、本心の光がこっちに入ってくる。業と
71心豊かな生活と心貧しき者
光とを入れ替えているのが、消えてゆく姿で世界平和の祈りなんです。
そのように業を光に変えてゆけば、一人一人が全部いつの間にか、きれいな想いになっ
てゆく。たとえば千の汚れがあったものが五百になり、三百になり百になり、しまいには
一になり、ゼロになってなくなる、という形になります。
常に常に祈る
世界平和の祈りというのは、一人一人がちゃんと浄まってゆくと同時に、その祈りのひ
びきが大光明波動になって、世界中にふりまかれる。そうすると世界中が少しずつきれい
になってゆくーそういうことを皆さん方がやっているんだ、と私は教えているわけです。
実際に、世界平和の祈りをやっていけば、ふつうならば越えられないような苦しみ、た
とえば子供に死なれるとか、最愛の夫に死なれるとか、あるいは親に死なれるとか、そう
いう時にペチャンコになってしまうのが、「ああこれは何かの過去世の因縁の消えてゆく
姿だなあ」というふうに思える。そう思ったものを、また世界平和の祈りの中に入れてゆ
72
く。心が支えられているわけですね。支えるものがなければ、なかなか立ち直れない。
ふつうの宗教のない人の苦しみを百とするならば、同じ苦しみであったとしても、祈り
のある人たちの苦しみは十ですむ、という形になるわけです。喜びは倍加してゆく。あら
ゆることをいいほうに、いいほうに考えてゆく。悪いものはみんな消えていって、本心が
開けてくるんだ、いいものが出てくるんだ、と言ってそれを観じつづけている。そうする
らいしょう
と、今生でズーッと良くなる人もあれば、今生でよくならなくても来生で良くなる、霊界
で良くなるとかなる。
こん
常に良いことばかりを、わざわざ心の中で思うのではないけれど、この世の中は玉石混
こ つ
清の世界ですから、悪いものがどんどん消えて、残るのは良いものばかりに決まっている。
あとに残るのは本当に良いものだけが残ってゆく。元々在る光だけが残ってゆく。本当の
姿だけが現われてくる。
こう
業を幕とすると、消えてゆく消えてゆくと幕を引いているのと同じで、どんどん引きき
ってしまえば、本心が出てくるに決まっています。絶対にそうなんですよ。そういうこと
73心豊かな生活と心貧しき者
がわかっていますから、同じ苦しみがあっても、ズーッと楽だ、それで心は平安である。
ふつう宗教をやらない人よりもズーッと平安なわけです。とすると、その平安なひびきが
ズーッと人類に影響してゆく。
一人だと大したことではない、と思うけれど、一人ではないから大きい。たとえば国家
の運営は、一人一人の国民の税金によってまかなわれています。一人一人が大して出さな
いとしても、それが集まればすごい金額になる。一人一人が幾らも出さないから大したこ
とないと税金を納めなければ、国家は支えられていかない。それと同じように、皆さん一
人一人の光が国家人類を支えてゆく、国家人類の業を浄めてゆく、ということになるので
す。だから一人一人の世界平和の祈りは大事なんだ、と言うのです。
な
そういうわけですから、つねに心はへりくだりながら「ああ神のみ心が私に成りますよ
うに、なさしめ給え。神さまがここにいて、私を生かしていて下さるのだ! あああとは
みんな消えてゆく姿、悪いものは消えてゆく姿。神さまは愛なんだから悪いことをなさる
ことはない。もし悪いことが現われたら、過去世の因縁で、自分の過去において間違って
74
いたものが消えてゆく姿として現われているんだ! ああ有難うございます。一日も早く
悪いものがみんな消えますように。本心が開きますように。有難うございます。世界人類
が平和でありますように」そういうふうに常に常に祈るわけね。
そうすると、自分は頑張ることなく、自分の魂は向上してゆくわけなのです。それで心
豊かに、明るく、美しく生きられる、とこういうことになるのですよね。
(昭和40年10月17日)
75心豊かな生活と心貧しき者
76
いや
七、汝の信仰汝を癒せり
神さまを思えば救われる
聖書に、”汝の信仰汝を癒せり” とイエスが言ったと書いてあります。実際に自分が信
じなければ、どうにもしようがない。
太陽は悪人にも善人にも光を与えます。これは間違いありません。と言って、窓の一つ
もない倉庫の中に入ってしまって、私はこの倉庫が好きだ、とやっていれば、光を当てよ
うにも当てようがないでしょう。いくら太陽が照っていても、自分がそういうところへ入
ってしまっているんだから、どうしようもないですね。だから汝の信仰、汝を救えりなの
です。
“求めよ、さらば与えられん
“という言葉もありますね。求めなければ与えられない。
聖書の中で一番有名な言葉です。神さまを信じて、ここへ出れば光に当たるんだな。自分
は幸せになるんだな、温かいんだな、と自分がわかれば、そこへ出てゆく。そうすれば光
の中にへ出てゆくわけです。
神さまを思えば救われるんだな、という想いが信仰ですね。それで神さまを仰ぐ、とい
うわけで、神さまへ想いを向ければ、それがもう救われの第一歩です。救われていること
になっている。
神なんかあるものか。そんなもの迷信だ。何言ってやんだい、俺の力しかないんだ、と
言っている人は、それまででどうしようもないわけです。
いや
ところが私はそこからもう一つ出ているんです。汝の信仰、汝を癒せり、汝を救えりだ
けでは1 表面的な信仰では1 困るんです。この世には唯物論者のほうが多いのです。
もう神さまなんかあるもんか、自分の勝手だ、と言う人が多い。そうしますと、世界はい
7フ汝の信仰汝を癒せり
つまでたっても救われない。
たとえば一人のいい人があって、影響を十人に及ぼすか。あるいは一人の悪人があって
十人に影響を及ぼすか。どちらかと言うと、悪人のほうが影響を及ぼすことが多い。みん
な欲望がありますから、唯物論者の神も仏もないという人が世界の大部分です。そういう
人はどうして救うのか?
私は若い時から、それを考えたんです。自分自身は神さまを初めから生まれながらに信
じています。けれど、信じない人はどうするのか。
私は中央労働委員会と言って、東京の芝にありますが、労働問題をつねに取り扱い、共
産党が年中いて、労働組合がストライキの赤旗をかけたりしているところです。そこで二
年半ぐらい労働問題の研究をしたことがあるのです。共産党の連中が随分いまして、彼ら
とも議論しています。しかし「何、神さまもへったくれもありゃしない。貧乏人には米を
与えなければいけない。米をくれたほうが貧乏人には有り難いんだ。神さまがどうのこう
のと言ったって、米がなければしようがないじゃないか」、すべてこういう調子です。お
7 8
米というのはどこから出来たか、ということもわからない。米は神さまの光がなければ出
来ないんだけれども、そんなこと考えない。だから物がなければだめなんだ、と言うわけ
です。人をつくるのも物だと言う。そういう人たちに向かって言っても、神さまというの
は少しも通じないんです。
のれんに腕押しではなくて、鉄板にぶつかってゆくみたいに、はねかえってくる。表面
的にね。中は別ですよ。中は誰だって神さまを知らない人はないんです。しかし表面的に
は厚い業の壁があって、神さまを否定しているわけです。そういう人たちにはどうしたら
いいか、と言うのですよ。
宗教と科学と世界平和の祈り
汝の信仰、汝を癒せり、は、やがて宗教に入った人の誰でも彼でもそうなります。しか
し徹底した唯物論の人はとてもだめなんです。そこで私は宗教と同時に、科学がなければ
ならない、調和の科学がなければ唯物論者を納得させることが出来ない、と思いこんだわ
79汝の信仰汝を癒せり
けです。そこで宇宙子波動生命物理学というものが生まれたわけです。これはやがて完成
します。そういう大調和科学が出来て、たとえば唯物論者に波動を当てれば、頭の中がク
ルッと変わって、今まで悪いことばかり考えていたのが、神さまを受け入れる頭になるか
もしれない。そういう…機械がなければだめだと思いますね。
片ほうの宗教をやっている人は、そんなことをやる必要はない。ただ神さまのお祈りで
もって、みんな満足していって、立派になるわけです。唯物論者の場合には、やっぱり…機
械でもって、内臓の病気を治すと同じように、頭の病気(無神論というのは一つの病気で
す) を治す必要があります。
毒素がたまって、胃腸や肝臓が悪いのと同じように、考える智恵の頭のある箇所に、業
が一杯たまって神さまがわからない。神の光をはねかえしてわからないんでいるんですか
ら、そこへ光の波動を当てれば、苦しむかもしれない。けれど業はとれてしまいます。そ
うすると神さまはわかってくる。そうしたら今度は信仰の話がわかってくるわけです。
そういう宗教と科学の一致した救いがなければだめだ、と私は思って、そういう方向へ
進んでいるわけです。
宗教と科学と言ったけれど、その中間帯にみなさんの世界平和の祈りがある。祈りは光
の波動ですから、頑固に神なんかあるものか、と思っている人の中に、光が入ってゆきま
すから。そうすると、知らないうちに、何となく病気したりして、神さまを求めたり、不
幸になって何かにすがるような気持ちになって、神さまを求めたりすることも、随分多い
わけです。この三つが合体して、世界を救ってゆくわけです。それを私たちの会はやって
いるわけです。
81汝の信仰汝を癒せり
8z
八、汝の信ずるごとく汝になれ
大きな運命、大きな天命
信仰というのは”汝の信ずるごとく汝になれ” とイエスが言っていますように、自分の
ほうから神様に入っていって、お陰があるという形が一番いいわけです。ところが、自分
のほうから入らなくて、信じなくても、仏縁が深かったり、神縁が深い人は、信じないう
ちにお陰を先に貰うことがあるんです。そしてお陰があったから、今度は入ってくる、と
いう二つの形があります。
そういうわけで、深く信じなくても、ゆっくりゆっくりのびのびとやっていても、急速
に心が開かれる人と、次第次第に開かれる人と二つあるのですが、どちらにしても、やっ
ていさえすれば自分の本心は開いてくるのです。だからあんまり焦る必要はありません。
のびのびと自然と世界平和の祈りをしている、そういう立場でいいわけです。
ところがのびのびとやりなさい、と言ってものびのびとやれないで、一生懸命、熱を入
れてやる人もあります。また真剣にやろうと思っても、なかなか真剣にやれないで、まあ
やってみようか、というくらいでいる人もあるのです。効果というのは、真剣にやればや
るほど上がるものなのですが、お互いの前生の因縁と言いますか、過去世の仏縁、神縁と
言いますか、やり方が違うんですよ。だからお互いが自分のやり方でやっていればいいわ
けです。
人間の大きな運命というものは、決まっているわけです。この世で男性に生まれた、女
じようつ
性に生まれた、才能があって生まれた… … いろいろ生まれ状というのがありますね。それ
は過去世の因縁によって決まっております。その決まっているものが、魂が肉体に入って
来て、生まれ変わり死に変わりして、最後に生まれ変わりがなくなって、神さまの仕事を
83汝の信ずるごとく汝になれ
する。いわゆる神さま、天使になってしまうまで、天命というものがあり、その天命を果
たすために業を浄めながら、生まれ変わり死に変わりをしているわけで、大きな運命とし
ては決まっているわけです。
大きな運命というのは、この一生のことだけではありません。生まれ変わり死に変わり
して、肉体幽体を解脱して、本当に神さまと一つになっていくまでの大きな運命のことを
言うのですよ。それが本当の大きい天命なんです。それとこの世の、肉体だけの天命とい
うこともあるんです。それは或る時は職業となって天職となって現われる場合もあります
し、職業は職業、天命は天命と別の場合もあります。会社に勤めている人もありますし、
商売をしている人もありますし、家庭の主婦をしている人もあります。女の方は大体、家
庭の主婦ですね。それで皆さんが世界平和の祈りの会に入って、ひたすら世界平和の祈り
をしているということは、この地球界に地上天国を創るための天命を持って生まれてきて
いる証拠なのです。
84
菩薩行としての生まれ変わり
自分の病気が治りたい、自分の不幸を直したい。そういうつもりで世界平和の祈りをや
っていらつしゃる人も、随分ありますけれど、それは単なる現われでありまして、魂の世
界からしますと、みんな天命を果たすために、世界平和の祈りをしているわけです。もっ
と言い換えますと、人間がこの世に生まれ変わり死に変わりして生きてゆくということは、
神さまのみ心をこの地球界に現わすためなんです。神さまのみ心というのは、大調和して
いる。完全に調和したみ心なんです。
今も言いましたように、地上天国にするために、生まれ変わり死に変わりしながら、人
間がここに生まれています。その間に不幸なこともありますし、幸せなこともあります。
大体通算してみますと、不幸なようなことが多いわけです。
えどしゃば
この世の中は稼土と言ったり、娑婆と言ったりしまして、汚れている世界だから、魂が
きれいであればある程、不幸になったりする場合があります。この世界は汚れているから、
$5汝の信ずるごとく汝になれ
自分も汚れていればうまくいく場合が、自分がきれいなばっかりに、世間と相いれないで、
不幸な目にあっている場合もありますね。きれいであるのに、あんなにいい人であるのに、
不幸なことがある、というような人が随分あります。あんなに悪い人なのに、栄耀栄華を
誇ってやっている、という人もあるわけです。
それはどこから出てくるかと言うと、すべては過去世の因縁、あるいは自分の魂を立派
にして、本心を開くために、神さまが修行の場としてそういう環境を与えているーこの
二つがある。修行の場として苦しみのある環境を与えるのと、過去世の因縁を果たすため
に、と二つあるわけです。
讐えて言うならば、身体や精神に障害のある子が出来たり、悪い子が出来たりする場合
があります。その場合、大概、その子をみますと魂がいい子なんです。「実はうちの子が
これこれで亡くなりまして… … 」なんて来るんですね。「ああいい子だね。天人みたいな
子だね。いくつで亡くなった?」「三つでございます」とか、「ああいい子だね」と言うと
「身体障害者、不自由者でして」というのがあります。大概、魂がいいんです。魂のいい
子が、最後に肉体をすべて解脱して、神さまと一つになるために、最後の苦労として、そ
の家の先祖代々の因縁を背負って、菩薩行をして、魂をきれいにして、天上界に上ってゆ
くというのがある。
人の因縁を背負って犠牲的になって、苦しむことは、魂が非常に進歩するのです。たと
えば天界を三段階に分けたとしまして、ふつうだったら一番下の段階に行くとします。そ
の魂が先祖の業因縁を全部背負って、不自由な身に生まれたりします。そうすると、亡く
なった場合、一段階も二段階も三段階もパアーッと上にゆきます。そういう子供たちなん
です。
永遠に生きつづける生命
皆さん方でも、人の災難とか、人の不幸とか、人のいやなことを自分の身にうけてやる
場合がありますね。そういう場合には、魂が非常に浄化されて、上がるのです。だから、
もし人のいやなことを自分がさせられた場合に、人の払わなければならない借金を自分が
87汝の信ずるごとく汝になれ
払わせられたり、そういう場合には「こん畜生、私ばかり損をして… 」と考えないで、「あ
あこのことによって、自分が天に宝を積むんだな。自分の魂にプラスしているんだな」と
いうように考えたらいい。
自分がいやなことを背負った場合、いやだと思う想いは誰でもありますよ。自分が払わ
なくてもいい借金を払わせられたら、誰でもいやですよね。自分が叱られなくてもいいこ
とを、叱られたらいやですよね。ところがそのようにして、人が償わなければならないも
のを、自分が償った場合には、急速に魂が上がるのです。わざわざ向こうから負わされる
場合よりも、こっちが進んで人の災難や、人の犠牲になった場合には、余計に魂は上がる
んです。
ですから、戦争中、国のために命を捧げた牧攻隊の人などは、一躍、神界へ上っていま
す。いやいややった入は別ですよ。いやだいやだと仕方なしになった人は別として、自分
から進んで国のために犠牲になったような人は、スーッと高い所へ上るのです。そういう
ものなんです。
人間はこの世だけで生きていると思うと、人の犠牲になったり、苦しんだりするのは馬
鹿馬鹿しいことです。自分だけ幸せであればいい、自分一家だけが幸せであればいい、と
思います。この世だけならばそれでいいわけです。ところが、この世からあの世、あの世
からこの世と、ズーッと永遠にいのちが生きつづけている、ということは事実なんです。
私はよくそれを知っています。そういう水遠の生命というのを考えますと、この世の五十
年百年、全部まるまる損をしても、人の犠牲になったようにみえても:… ・。
たとえば、この世を百年とします。永遠を区切ってみて、仮に何億何兆年としますと、
何兆万年の間の百年だけを、全部自らをなくしたならば、何兆万年の幸せを得られるとす
れば、百年犠牲にしても誰でも何兆万年の幸せのほうを取るでしょう。
もう少し讐えて言うならば、百歳まで生きるとする。それが一年なら一年うんと苦しん
だら、あとの九十九年は全部幸せだ、とわかるならば、一年どんなに苦しんでもそれをや
りますね。
8g汝の信ずるごとく汝になれ
90
あきらめるということ
それと同じように、この世で全部不幸であったとしても、人のために働いた場合には、
それは素晴らしく光が大きくなるわけですよ。すべて魂のプラスになって、永遠のいのち
を得るわけなのです。この世で一生不幸に終わったような人が、案外、魂的にみると立派
な生活をしている。一方、栄耀栄華を誇って、この世で言うことなし、で死んでいった人
が、あちらでは地獄の世界で苦しんでいたりする、ということもあるわけです。
だから、皆さんの中で、不幸な境涯の中に生まれ、不幸な生活を送っている人があると
すれば「ああそれは、永遠の魂のためにこうなっているんだな。これは過去世の因縁の消
えてゆく姿であって、自分の魂の修行なんだな」とあきらめないといけませんね。あきら
めるということは大事です。
あきらめるとは、明らかにする、自分のいのちを明らかにする、ということです。あき
らめるというのは断念して投げ出すことではない。体も心も縮めることではないのです。
自分の永遠の生命を明らかに見定める、ということが、あきらめることです。
それを、もしあんなことをしなかったら、この結婚をしなかったら、私は不幸にならな
かったとか、子供がこうでなかったら私は不幸でなかった、とか、あの人がこうしなけれ
ば私が不幸にならなかった、とか、なんでもかんでも人のせいにして、それで自分をかば
おうとする想いがあったら、その人は幸せになりません。
そのために、消えてゆく姿という見方に徹底することです。
91汝の信ずるごとく汝になれ
92
九、永遠のいのち
ももつ
人、全世界を儲くるも、己が命を損せば
えき
なんの益あらんマタイ伝十六章
永遠のいのちを失ってはならない
ある牧師さんが会の集会に見えて「全世界が原爆戦争で滅びても、自分だけ生きていれ
ばいいんだ」と言ったそうです。「全日空のこの間の事故はどうお考えですか? 」と聞く
と、「私は乗っていなかったからそれでいいんだ」「どうしてそういうことをおっしゃるん
ですか? 」「マタイ伝の十六章に”人、全世界をもうくるも、おのれが命を失わば何の益
あらん” と書いてあるからそれでいいんだ」という答えが返って来たというのですね。
よくそんな回答をして、そんな浅い聖書の読み方をして、牧師になっていられると思い
ます。
マタイ伝十六章に書いてあることは、そんなことではありません。
おの
己が命を失わば(損せば)、というのは、本心を失わば、という意味です。肉体のいの
ちではなくて、永遠のいのちを失うならばそれは大変なことです。永遠のいのちさえ失わ
なければ、世界が滅びてもなんでもそれはいいんだ、ということなのです。
聖書でも訳し方がいろいろあります。イエスが聖書に書いてある通りにそう言ったかど
うか、私は知りませんよ。私だったらもっとうまく言います。しかし、それは永遠のいの
ちを失ってはならない、ということです。
永遠のいのちを失わない人は、人が滅びるのを平気でいる気持ちにはならないんです。
人が怪我しても、人が死んでも平気でいられる。俺だけ助かったらいい、というように思
える人は、永遠のいのちがない人です。現象の肉体の自分だけしか思えない人なんです。
ヘヘヘヘへ
いのちを失わなかったら、というそのいのちは永遠の生命のことであって、肉体のいの
93永遠のいのち
へ
ちではありません。そういうことについてお話ししましょう。
ヘヘへ
人間にとって一番大事なことは何かと言うと、いのちなんです。そのいのちというもの
は何かと言うと、肉体ではないのですよ。永遠に不滅な、無始無終、いつまでも続く永遠
に続くいのちなのです。その永遠の生命の一筋が、一つの光が自分になっているわけです。
大生命の一筋の光が、自分になり、あなたになり、皆になって分かれています。太陽を
永遠の大生命とすれば、宇宙大生命とすれば、その光線が人間なのです。その光線が影を
つく
造ったりして物体を造っているわけです。
永遠の生命から分かれた一つの光線が自分になって、自分の肉体を構成している。だか
ら肉体は単なる現われにすぎない。あるいは器にすぎない。場所にすぎない。永遠の生命
が必要があれば、その場所を離れて、他の世界へゆく。要するに魂と言ってもいい。霊と
言ってもいい。霊魂と言ってもいいけれど、生命の柱、いのちの光が肉体を離れれば、こ
なきがら
の肉体は亡骸になって、使いものにならなくなってしまう。だからこの肉体は場所であり、
器であり、ある時間になれば使えなくなるもの。しかし本当の人間のいのちというものは、
94
肉体を離れても、幽界に働き、霊界に働き、神界に働いて、永遠に働いているものなので
す。永遠に生き通しなのです。
すこさわ
その生命が大事なのであって、その生命が健やかに、爽やかに働けないような行ないを
けが
することは、永遠の生命を汚す、いのちを稼すことになる。いのちを殺すことになる。だ
からそうした生き方をしてはいけない、と言うのです。
枝葉の想いを取る
イエスは、真理を妨げるもの、永遠の生命の働きを妨げるようなものがあったら、それ
えぐ
が手だったら、手を切ってしまえ。足だったら足を斬ってしまえ。目を挟っても、そんな
ことは大したことはない。それよりも永遠の生命を汚すことのほうがいけないのだ、と説
かば
いています。私も全く同感です。肉体の生命、肉体の場所を庇うために、永遠の生命を汚
すようなことがあったらば、その人は大変な損失をするわけです。
だから一にも二にも一番大事なのは、永遠の生命を汚さないこと。生命の働きを邪魔し
95永遠のいのち
ないこと。生命の働きを邪魔するのは何かと言うと、小さい枝葉の想い、欲望につながる
想いです。いわゆるこの世の権力を得たいとか、この世の肉欲を楽しみたいとか、この世
の金銭欲を楽しみたいとか、自分を偉くみせたいとかいう虚栄心i そういうものが永遠
の生命の働きを邪魔する。自分の本当の生命の働きを邪魔するのです。そういう邪魔する
ものを取るために、宗教があるわけです。
くうむい
そこで空になれ、無為にして為せ、となる。ということはどういうことかと言うと、損
だ得だといちいち頭で考えて、頭の中でガチャガチャと思って、あいつが悪い、こいつが
善いなんていうことを、いちいち思っていると、生命の働くのを邪魔するから、その想い
をなくしてしまえ、空にしちゃえ、というのが釈尊の教えだし、無為にして為せというの
が、老子の教えです。こうしろああしろと思うんじゃない、とこういうわけでしょう。
若い人からこういう質問があったんですよ。「先生は、無為にして為せ、と言って、頭
でコチョコチョ思うな、とおっしゃるけれど、どうしたらそうなりますか。頭で思わない
ということは、どういうことですか?」
φ
「学問をしたり、あらゆる計画を立てたりすることはいい。これは永遠の生命を助ける
ことだからいいんだ。だけど、いちいちあいつが悪い、こいつが悪い。こうしたら損だ得
だ、とゴチャゴチャ思うこと、迷うこと、想い惑ったりすること、それがいけないんだ。
それは生命の働きを邪魔するから、そういう想いを空にしろ、そういう想いを捨てろ、と
言うんだよ」
と答えました。それを間違えて考え、無為にし為せ、空だから、何も考えなくていいん
だ、となると、何も考えなくてふつうは動けないでしょう。1 私は何も考えないで動い
たけれどねーところが何も考えないで動こうとして、自分の中の欲望や執着や虚栄心を
そのままにしておくと、何も考えないつもりで、自分では空になった、無為になったつも
りだけれども、潜在意識に溜まっている欲望が、いかにも神さまの声のような感じで、出
たり湧き上がってくるような感じで、ポコンポコンと出てくることがあるのです。自分が
無為にして為した、何も思わないで出て来た行ないだ、というように思うけれども、それ
が実は間違った行ないの時が随分あるんです。
g7永遠のいのち
消えてゆく姿で世界平和の祈りがいい
無為にして為す、空になる、ということは達人でなければ出来ることではないので、私
は消えてゆく姿という言葉を使ったのです。消えてゆく姿の中には何があるか、と言うと、
悔い改めて、反省して、それでしかも、自分では消せないのだから、自分はどうしようも
ないんだから、神さまに消してもらうために、守護霊さん守護神さん有難うございます、
と言って、守護霊、守護神の中に投げ出す。それと同時に、世界人類の悲願である世界平
和の祈りをして、その大光明の中で消してもらう。そうするとだんだん空になり、無為に
なるんですよ、と私は教えるわけです。
私は初めから、空になれ無為になれ、と教えていません。老子講義を書いても、無為に
なることはむずかしいから、無為になるには余程、達人でないと出来ないし、かえって間
違ってしまう場合がある。無為に把われ空に把われますからね。だからあらゆるものを消
えてゆく姿としなさい、それで世界平和の祈りの中に全部入れてしまいなさい、と教えて
いるわけです。
皆さんは頭を使ってどうとかこうとか思う必要はないから、頭を使ったら使ったでいい
から、「ああこれも消えてゆく姿だな」というふうに世界平和の祈りの中へ入れてしまっ
て、今度は世界平和の祈りの中から、すべてをやればいいのです。日常茶飯事、常識的に
考えることは考え、やることはやり、学問するなら学問する。本を読むなら本を読んで、
すべてやることをやって、それでどんどんどんどん消えてゆく姿にして、いらないものは
どんどん取り除いてゆくわけです。世界平和の祈りをしていると、いらないものは自然に
取り除かれてゆくのです。
それをうっかり間違えて、頭なんかいらないんだ、というような形になると、知識人か
らみればおかしいし、実際どうしていいかわからなくなる。昔の禅宗のお坊さんや仏教の
人たちで偉い人が随分いるけれど、案外、世の中のためになっていないんです。何故かと
言うと、何を言っているんだかわからないからです。西田哲学というのがありました、茶
碗が寂滅か、寂滅が茶碗かなんて面倒くさいです。何百語をついやしてクチャクチャ言っ
gg永遠のいのち
ているけれど、聞いているほうもわからない。頭としては知識が出たような気がして、い
い気持ちだけれども、実際に行ないとしては、なかなか行なえないんです。現代では、わ
かりやすく説かなければならない。
一番いい方法は何かと言うと、消えてゆく姿で世界平和の祈りが一番いい、と私は教え
ているわけです。そうすると頭を使うも使わないもないんです。使ったら使ったで、それ
は消えてゆく姿になる。使わなければ使わないで、それも消えてゆく姿になる。
消えてゆく姿だけではだめなんですよ。どこか消してもらうところがなければならない。
それで世界平和の祈りという祈り言が必要なわけで、祈りに明けて祈りに暮れるという、
祈りの中にすべてを消えてゆく姿にして入れてゆくわけです。それをうっかりして、祈り
がなくていい気がして、消えてゆくんだから何やったっていいんだ。出てくるものは過去
世の因縁で出てくるんだ。止めようたって止まるもんじゃない、やるだけやれ、というの
ではだめなんです。
本当に世界平和の祈りをする気持ち、消えてゆく姿というものがわかった人は、悪いこ
とは出来ない。間違って悪いことをしてしまった、あるいは想いが出て来た、とします。
そしたら、これは悪かったな、再びしまい、と言って世界平和の祈りの中に入れるわけで
すよ。それで消えてゆく姿になるわけです。
祈りがなかったらば、反省も悔い改めもなくて、消えてゆく姿なども危くて使えません。
消えてゆく姿という言葉の中には、悔い改めて、反省があって、しかも祈りの中で消して
もらうわけです。自分で消すんではない。神さまに消していただくわけ。だから有難うご
ざいます、なのです。そういう謙虚な気持ちがなかったら、進歩がありません。
反省があって把われなくなる
宗教の極意というのは、把われないということ。把われないということは、悪いことを
して把われないという意味ではない。悪いことをしたら、しまった! これは消えてゆく
姿です。もう再びしまい、という反省があって、それで把われなくなってゆくわけです。
初めから把われがない、というようなことは出来やしない。悪なら悪でみえます。欠点な
IOI永遠のいのち
ら欠点でみえます。善いものと悪いものとハッキリわかるわけです。
ハッキリわかっていて、それに把われなくなるにはどうしたらいいかと言うと、悪いこ
とはもう再びしまい、と言って消えてゆく姿にする。いいものはそれでいいわけです。そ
れで世界平和の祈りをする。
想いをきれいにするために、悪い想いが出て来たら、これはいけない、と思って消えて
ゆく姿で世界平和の祈りの大光明で消してもらうんですよ。そうして初めてきれいになっ
てゆくわけです。そうすると、持って生まれた生命が、永遠の生命がフルに働く。フルに
働くと、光が四方八方に放射されて、人々を救うわけです。
最初に話した牧師は、永遠の生命を知らないんです。いのちの本質を知らない。肉体だ
けにいのちがあると思っているんです。そうではありません。この肉体はやがて滅びます。
どんな偉い人だって、やがては倒れます。肉体にばかりいつまでも依存したってしようが
ない。と言って、この世に生きていくためには、肉体が絶対必要なんだから、肉体を大事
にしなければいけない。肉体は、生命の一番生かしやすい場所として、今あるわけだから、
IO2
いのちがよりよく生きるような肉体にしなければならない。そのためには病気も治さなけ
ればならない。頭もよくしなければならない。学問もしなければならない。
こういう当たり前のことになるわけです。(昭和41年2月20日)
Io3永遠のいのち
十、人類の変換する時
io4
1 最後の審判とはー
新しい人類の誕生
キリスト教では、最後の審判ということをよく言います。これはキリスト教ばかりでな
く、地球の最期ということは、他の宗教でも言っております。それはどういうことかと申
こぢつ
しますと、地球には一つの周期がありまして、それを仏教では劫と言っています。一劫が
何千年か何万年か、あるいは何十万年かという時間がある。その一つの劫の終わりにかけ
て、地球が大変貌する、人類が変わってしまうという時期があるわけです。それをキリス
ト教では最後の審判と言っているわけです。
地球人類が全部変わってしまう時には、どのようになるのかと言うと、今までの地球人
類の考え方、生き方ではどうにもならなくなってしまう、という状態になるのです。そし
てそういう時期が今、来ているのです。最後の審判というのは今なんです。もっとも一つ
の劫の終わりというのは、お釈迦さまが現われた頃、イエスさんが現われた頃からズーッ
と続いているんです。それでいわゆる最後の審判が来て、そのあとに、新しい人類が誕生
するわけです。新しい人類と言ったからって、何も皆さんが全部死んでしまって、全然、
形の変わったのが出るというのではなくて、今の地球人類の考え方、宇宙観、人生観、人
間観というものが、まるっきり変わってしまうということです。もっと言い換えれば、肉
体波動がまるっきり変わって、霊妙なる波動に変わる、というそういう時代がくるのです。
それは必ずくるのです。
そういう時代がくる前に、どうしても人類は一つの関門を通らなければならない。今ま
での古い体から脱皮しなければならない。今までの生き方を変えなければ生きられない。
そういう時期が今だというわけです。ですから最後の審判というのは、キリスト教の人た
iog人類の変換する時
ちが解釈しているような、あるいは或る宗教の解釈のように、地球人類が全部亡びるとか、
三分の二滅びて、残ったものだけが立派な人類になるとか、または半分だけ残って半分が
滅びるか、というようになるかどうかは、これからの人間の生き方によって決まるわけで
す。最後の関門というものを、大過なく、災い少なく、損害少なく乗り切ってゆくために、
あまくだ
大神さまは、いろんな人を地上に天下らしているわけです。お釈迦さまもそうなんだし、
イエスもそうだし、いろいろな聖者がそのために出ています。
最後の審判を乗り越えるために
私には世界平和の祈り、消えてゆく姿で世界平和の祈りという祈りの方法と、宇宙子波
動生命物理学という科学を、神さまが授けてくれたわけです。その運動とその研究を続け
ていくことによって、それを完成することによって、地球人類が損傷少なく、被害少なく、
苦しみ少なく、最後の審判を乗り越えて、新しい人類として生まれ変わってゆく。新しい
人類に生長してゆく。生まれ変わってゆくと言ってもいいし、生長してゆくと言ってもい
106
い。新しい波動の世界に住みなれてゆく、ということになるわけだし、そうさせなければ
ならない、と思っているわけですよ。ですから、私どもの提唱している、消えてゆく姿で
世界平和の祈りという、祈りによる世界平和運動というものは、最後の審判を願わくば無
傷で、誰も苦しまないで越えていきたい、越えていかせなければならない、という運動な
のです。
そうした意味で、皆さん一人一人の使命、天命というものは、大変に重要なわけです。
ところがなかなか重要というようには考えられないのです。日常生活のごたごたしたこと、
目の前に迫っているいろんなことがありますから、そういうものが大事なような気がして、
すぐ
永遠の生命を獲得する、いわゆる新しい優れた人類に生まれ変わるということは、あまり
頭にないわけです。
それよりも、この世の中の、今、現われている出来事をうまく処理できればいい、とい
う考えで宗教に入る。あるいはこの世界平和運動に入る、というくらいなのです。だんだ
んわかって来た人や、あるいは熱心な人が、本当に身を挺して祈りによる世界平和運動を
Io7人類の変換する時
やっている、という形なんです。
私はそれでもいいと思うのです。一般の人が、家庭生活をそのまま営んでいて、現われ
てくる細かい出来事、つまり日常茶飯事のことをうまく処理するために、祈りをしている
ということでも、いいと思うんです。祈りの筋は同じですから。やはり、世界人類が平和
でありますように、と言う時には、救世の大光明の道に入ったことになりますから、どう
いう祈り方をしても、どういう想いで祈ってもいいけれど、やがては、本当のことがわか
ってくると、「ああ自分はこの世にとって大事なものなんだな。自分はつまらなさそうな
人間にみえるけれども、実はつまらない人間ではなくて、世界を本当に平和にするための
天使の一人なんだ、菩薩の一人だったんだ」ということが自覚されてくるわけなのです。
肉体人間としての自分が菩薩でないかもしれない。だけれども、世界平和の祈りをする
ことによって、当たり前の凡夫が、一般大衆が菩薩に変わってゆく、天使に変貌してゆく
わけです。言い換えれば、天使や菩薩と合体して、この地球人類を救う大きな役目を、自
にな
分が荷っている、ということになるのです。
IOg
だから皆さんが何気なく
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私どもの天命が完うされますように
神さま有難うございます
と言っている祈り言は、知らないうちに、自分を高い高い波動の世界に運びこんでいる
のです。皆さんが気がつかなくてもそうなんですよ。
一番大事なこと
ですから一番大事なことは、常に常に祈りをする。常に生活が祈りに始まって祈りに終
わる。日常茶飯事が全部、世界平和の祈りを根底にしてやってゆく。その中で悪い感情が
出たり、人を憎む想いが出たり、自分をだめだと思う想いが出たり、間違ったことをして
しまったりしたら、「ああこれはいけないことだな。こんなことではいけない。これは消
Iog人類の変換する時
えてゆきますように、どうか神さま一日も早くこういう悪いものを消して下さい。もう私
は再びいたしませんから、どうぞお願いいたします」と言って、その想いもこめて、その
想いを消えてゆく姿として、世界人類が平和でありますように、という、大光明の中に常
に入れていると、もうたゆみなく入れていますと、知らない間に、自分の体が光明燦然た
る肉体身になるわけです。肉体身がそのまま霊体のように、光明燦然と光を放つ体になる
のです。
錬成会で手帳に「あなたの世界平和の祈りは、近頃だんだん光を体内から発するように
なって来た」というように書かれる人があります。そのように、世界平和の祈りが本当に
軌道に乗ってくると、自分の体から光がパーッと出てゆくわけです。自分の本心の光も出
てゆくわけですよ。救世の大光明と合体して、本心の光が出てゆく。そのようになってく
るわけです。
そうすると、自分が言葉でとやかくお説教するんではなくても、自分が気がつかなくて
相手が浄化されてゆく、相手が立派になってゆく、ということになるんです。声の言葉で
IIO
相手を立派にするというよりも、人格そのものが、その人がそこにいることによって、ま
わりが浄まってゆく。知らない問に、柔和ないい人に変わってくるそういう人間に皆
さん一人一人がなることが、一番大事なんです。
声の言葉というのは、つまり説教というのはいやがる人も随分ある。唯物論者や宗教の
ない人は、宗教の説教なんかいやがります。しかし柔和な、温かい、親切な人柄に接する
と、その人柄から発する光によって、言葉を使わなくても、口をきかなくても、ああなん
て善い人だろうな、とか、何か好意を持つ場合がたくさんあります。それには唯物論者と
か信仰とか関係ありません。人間と人間、いのちといのちがふれあってゆく、そういう関
係になってくるわけです。
想念が光になる
だから宗教を説かなければだめだ、というものではないのです。宗教の説教がわからな
いから、あいつはだめだ、ということもないんです。言葉以前のことば、想念が光になっ
II1人類の変換する時
ている。言葉以前の自分の人格というものが、光り輝いているようになれば、好意で「あ
んた、こうしなければだめですよ」なんて言わなくても、光が向こうへ伝わっていって、
向こうは同化されてゆく。
そういう人間に一人一人がなることが一番大事だと思うのです。そのためには、たゆみ
なく消えてゆく姿で世界平和の祈りをすることです。消えてゆく姿というのは、反省のこ
とです。ああこれはいけないな、と反省して、それを世界平和の祈りの中に入れてしまう。
これを日常茶飯事に続けていれば、いつの間にか、自分でなんとも思わないうちに、知ら
ない間に、自分の魂は立派になっているし、自分の行ないは立派になってゆくのです。
ですから消えてゆく姿で世界平和の祈りをしていて、その行ないが立派にならないとす
れば、その人のやり方がどこか違っているんです。反省がないとか、自分は思い上がって
しまったとか、そういうことであって、常に謙虚な気持ちで、消えてゆく姿で世界平和の
祈りをやることですね。どんなに年数が古くなっても、これをやっていかなければいけま
せんね。
112
最後の審判を何も恐れることはないのです。自分が消えてゆく姿で世界平和の祈りを続
けていれば、その人にとって怖れることはない。その周囲の者にとっても怖れることはな
い。そういう人が多くなればなるほど、この地球人類は怪我少なく、損害が少なく、新し
つく
い波動に合わせて、新しい世界、地球人類の天国を創造っていけるわけなのです。
(昭和41年2月20日)
II3人類の変換する時
114
十一、質疑応答
「圃私の友人で、クリスチャンで信仰の厚い人、仏教徒で信仰の深い人がいるのですが、
聖書や仏典にある奇蹟のようなものを否定しないまでも、それらを一切、偶然であるとか
迷信であるとか言って、除外して、全く考えに入れないで信仰心を持っている人が何人も
いるのですが、これも一つの正しい信仰態度なのでしょうか?
圏信仰者の中には、奇蹟など全然考尺ない人が随分います。と言うのは、お陰をこう
むって、現世利益を頂こう、という考えがなく、ただ自分の魂が立派になるように、心が
立派になるように、と言って信仰しているからです。
私の場合も、若い時はそうでした。神を否定しない。神さまのいらっしゃることはわか
りきっている。神さまはいのちを下さったんで、そのいのちを神さまのみ心に合わせて、
一生懸命生きればいい。ご加護を貰うということは考えなかった。そういうものと同じだ
と思います。それは十代二十代の時ですからね。若い時はいいけれど、ある年令になった
ら、それでは困るんです。やはり、奇蹟もあれば、神は全智全能なんだから、どんなこと
でも神さまは出来るんだ。だから神さまのみ心に波長を合わせれば、どんな奇蹟でも生ま
れる、ということは確かなんです。
神の奇蹟などなんにも考えないで、ただひたすら自分の魂が立派になるように、自分の
行ないがよくなるように、と祈っていることは正しいことではあるが、足りない。だから
と言って非難することは出来ません。それはそれで或る時期になるとわかるでしょうから
こんじょう
ね。その人たちは今生ではわからないかもしれません。それはそれでいいんです。
信仰態度でも、本当は間違いではないけれども、足りないというもどかしさを感じるや
り方がある。しかしそれはいくら言ってもだめなんです。守護神さんが必要ある場合には、
ああ奇蹟があるんだということをみせて、それで奇蹟を信じさせる方向に持ってゆくかも
115質疑応答
はた
しれませんからね。だから側から、悪いとか間違いだとかは言えないわけです。神さま仏
さま! とただご利益だけにすがって、魂も心も磨かない人よりは立派だと思います。
信仰というのはいろいろあります。だからどれがよく、どれが悪い、こっちが高くてこ
いちがい
っちが低い、と一概には言えません。ただご利益だけにむしゃぶりついて、ご利益さえ得
ればそれでいいという形よりは、理論的でもいいから、霊魂を認めなくとも、死後の世界
を認めなくとも、自分の心を立派にして、自分の行ないを立派にしよう、というように思
っているほうが立派な場合もあるわけです。
けれど、自分の魂を磨き、精神を磨いて行ないをよくしていくことを主にしてもいいか
ら、その上に、やはり神さまの全智全能というものを考え、本来の平和のイメージ、希望
を持つということも必要だと思います。そうしないと半端になってしまいます。
116
圖”偽善者に心せよ”と聖書の言葉がありますが、教会では、人を見分ける時の注意
と してお説教されますが、先生はそれには全然おふれにならないのは、どういうわけです
か?
圏偽善者のことなど怖がることないのです。偽の宗教家とか偽善者とかがくるわけで
すが、こちらの心がいつも消えてゆく姿で世界平和の祈りになって、いつも神さまのみ心
だまだま
に入っていれば、騙そうとしても騙せないかもしれない。また騙されるかもしれない。騙
されたらそれは過去世の因縁が消えてゆく姿だから、それもいいじゃないか、という気持
ちです。あんまり問題にしていないんですよ。
自分の想いが正しい道に入っていれば、偽善者など問題ではありません。それで軽くし
か説いていないのです。
一番大事なのは何かと言うと、現世のただ病気を治してあげますよ、ただ貧乏を直して
あげますよ、というそれだけの宗教は大したものではないということ。病気が治ると同時
に、その人の魂も立派になってゆく。貧乏が直ると同時に、魂も立派になってゆく、とい
う道が本当の宗教である。病気を治すのはお医者さんの領分です。治療家の領分です。
貧乏を直すのは、自分の想いを立派にして、貧乏にならないような想いを出せばいい。
II7質疑応答
何故、貧乏するかと言うと、過去世の因縁が流れて来てそうなるのですが、その過去世の
因縁でどういう因縁が貧乏になるかと言うと、物惜しみしていた想い、金があっても人に
やらない。そういうような想いが今生になれば、貧乏になる想い、人に愛をふりまいてい
なかった、物をふりまいていなかったものが、貧乏の種なんだから、今生になったら、あ
まりケチケチしない。貧乏であればある程、ケチケチしないほうがいい。貧乏だとケチケ
チして、いちいち財布の中を勘定して、払うのも払わない。払うものもいちいち惜しんで
いるようなら、それは貧乏するわけです。それは神さまのみ心にそわない。
神さまはなくてならないものを、みんなに与えているわけです。智恵でも能力でも物質
でも、なくてならないものを与えているのに、自分が勝手に「無いんだろう」と思うわけ
ね。私はこれくらいしかない。もし困ったらどうしよう。病気になったらどうしよう。貧
乏になったらどうしよう。死んだらどうしよう。そればっかりを思っている。それらはみ
んな、神さまのほうで、ちゃんと神計りに計り給うてやってあるわけです。だからそうい
う考えをする必要はないのです。
118
そこで何を考えたらいいかと言うと、平和の祈りです。みんなが平和でありますように、
私の天命が完うしますように、と祈る。天命が完うするということは、食うや食わずで天
命が完うされるということはないんだから、ちゃんと食べることも出来、ちゃんと社会的
地位も出来、働けなきゃあ、天命は完う出来ませんですよね。だから天命が完うされます
ように、という祈りは、自分が完全になることなのです。
世界人類の平和を祈り、日本の平和を祈り、天命の完うを祈って、守護霊守護神さんに
感謝している想いの中に入っていれば、偽善者も悪い宗教家も、そんなもの問題ではない
のです。
道に乗っているということが大事です。自分が開かれる道に乗っていることが。世界人
類が平和でありますように、という人類愛の想いを持っていて、悪いことがあるわけがな
い。みんなが幸せでありますように、という想いは大きな愛の心だから、そういう大きな
愛を持っていて、しかも悪いことが出て来たりするならば、それは過去世の因縁の消えて
ゆく姿で、消えてゆくに従って、自分の運命は必ず開くに決まっているんですよ。悪いも
Ilg質疑応答
のを出していないんだから。
現在、悪い想いを出さないのが一番なんです。もし悪い想いが出たら、神さまの中へ入
れてしまえばいい。悪い想いを溜めなければいいんですよ。明るい想いを一杯溜めておく
ことが大事です。だから、世界平和の祈りをうんと溜めておきなさい。そうすると、光が
充満して、知らないうちに立派になります。
さざ
そういう道に入っていれば、偽善者も怖くなければ、詐欺師も怖くなければ、なんにも
怖くない。みんな光の前に消えてゆくんです。そういうわけで、わざわざあんまり書かな
いのです。
120
固キリストの再臨についてご説明下さい。
圏再臨というのは、イエスが再び生まれ変わることだと言われています。本当はイエ
スという個人が生まれ変わるのではなくて、イエスが説いている真理がキリストなるもの
が、全人類の心の中でよみがえるということなんです。
人間というものは、みな神の分け命です。神さまから分かれないものはないわけです。
神さまから分かれて来た自分は神の子である、ということを全人類が認識する時が、再臨
であり復活なんですよ。イエスが生まれ変わるんじゃないんです。誰だって生まれ変わっ
ています。一人の人間がそんなに働いたってしようがないから、みんなで助けて働いたほ
うがいいからね。イエスが生まれ変わるというのではなく、全人類の中にキリストのいの
ちが、要するに、真理に目覚めて、今まで神の子であった、ということを自覚する。それ
が復活、再臨なんです。
私は本当の意味では、キリスト教なんです。イエスは二千年前に、ユダヤに生まれたん
ですが、その人ばかり頼っていて、どうするの一体! お釈迦さまもいる。マホメットも
いる。老子もいる。孔子もいるでしょ。弘法大師や法然も道元もいるでしょ。世界中に、
聖者というのはどれくらいいるか判りません。それが私の先祖の信じているのが一番偉い。
いやうちの師匠のほうが一番偉いんだ、とやっていたら、それこそ聖者争いになってしま
うでしょ。そんなことを言うのではない。いわゆる真理であるキリスト、仏が大事なんで
121質疑応答
す。
お釈迦さまが悟りを開いて仏になったということは、仏性というものが誰の中にも内在
するということです。霊体として神体として仏なんです。仏が内在している。カルマ(業
想念) が現われてくるのを邪魔しているわけで、お釈迦さまのようにカルマがなくなって、
くサつ
空になった時に仏がそのまま現われてくる。それと同じことで、イエスの場合にはキリス
トとして現われて来た。名前が違うだけで、仏もキリストも同じです。
そんなことごまかしだ、とキリスト教の人は言うかもしれないけれど、仏というのは真
理です。神のいのちそのままが仏です。神のいのちそのままに働くのがキリストです。だ
からイエスが生まれ変わったって結構だけど、生まれ変わらなくたって結構。肉体の人間
なんていうのはその時だけですから。この一生なら一生だけですよ。永遠に残るものは大
生命から分かれた生命です。いのちの流れが永遠につながっているんであって、肉体の誰々
というのは、そのままこの一代で終わるわけです。その想いというものが残っていて、そ
れがまた生まれ変わったりする。
122
生まれ変わりをしている場合は、まだ業があって生まれ変わっているわけです。その業
を果たして真理を悟りきるまで、生まれ変わっている。ある一部は、菩薩として、人類を
救おうとして生まれ変わる場合もある。そういう意味で、イエスさんが菩薩として生まれ
変わるのも結構です。それではお釈迦さまのほうはどうする?
イエスさんを知ってお釈迦さまを知らない人もないし、お釈迦さんを知ってイエスを知
らない人もない。だからどっちかの肩を持つというわけにはいかないです。イエスさんが
偉いんだ。お釈迦さまが偉いんだ。いやイエスさんだ、なんてやっていたら、イエスさん
だってお釈迦さまだって笑ってしまいます。そんなことを二人とも教えてはいません。イ
エスでも釈迦でも、そんなことはどうでもいい。ただ、求めるものは真理なんだ。真理と
いうのは何かと言うと、人間は神の分け命であって、みんな一つのいのちだから、みんな
が手を取り合って、地球界に神のみ心を現わすんだ、ということです。それがハッキリ解
った人は、みなキリストなんです。神性に目覚めた人、自分が神の子であることに目覚め
た人、それをキリストと言うんです。
iz3質疑応答
だからいつも神の心そのままで生きている人は、本当のキリスト。一瞬間、素晴らしい
愛に目覚めた人は一瞬間キリスト。一時間目覚めていれば一時間キリスト。一日目覚めて
いれば一日キリスト。皆さんがキリストである時が随分あるのです。それがズーッと続い
ていればいいけれど、この地球世界の業想念というのは、そう続けられないわけです。続
けられなくても、キリストに一回でも目覚めた人は、いつかキリストがそのまま現われて
来ます。それこそ宇宙子科学が出来上がって、すっかり地球がきれいになった場合には、
みんながキリストになって、みんながそのまま心を照らし合わせて、会う人会う人が笑い
合える。わざわざでなく自然に助け合うという形になって、地球界に神の国が出来るわけ
です。天の如く地にも行なわれんことを、が行なわれるのです。
それはいつかわかりませんですよ。皆さんの努力によって、皆さんの信仰の深さによっ
て、早くもなれば遅くもなる。時間を決めていることは一つもありません。何年何月何日
にこうなる、なんて、予言者は誰も言わない。馬鹿なのが勝手に言うかもしれません。ち
いちじく
やんとした聖者はそんなことは言わない。いつの日かわからないけれど、無花果の実のな
12q
るを以って知れ、とか、何かわけのわからないことを抽象的に言っている。何年何月何日
というのは言わない。それは人間の心によって、いくらでも早くもなれば、遅くもなると
いうことです。それは全部人間にまかされているのです。
肉体人間のほうで、神さまのみ心の中にピタッと入ってゆく人が多ければ多いほど、災
害が少なくて、早く平和がくる、ということです。それなのに、宗教争いなどして、愚か
なことをやっていたら、それこそ大変なことだと思いますよ。
固キリスト教では、イエスは神であるという説と、神でありまた人間であるという説
があります。私は、イエスはやっぱり人間であるとしか思われないのですが… … 。
「圏イエスさんは肉体を持っていました。肉体を持っている者はやっぱり肉体人間です。
宇宙からこようと、どこからこようと、守護神がそのまま入ってこようと、肉体を持った
ものは肉体人間です。だからイエスさんも肉体人間であった。しかし、その霊なるもの、
心というか精神というものは、神のみ心の中にすっかり入っていて、そのまま神の使いと
iz5質疑応答
して、肉体を場として使っていたのです。
肉体界に生まれて、肉体人間だけれども、自分の想いというものは、神の真ん中に入っ
ていた。だから神の使いであることは間違いない。天使です。天使であるけれども、肉体
を持った肉体人間でもある。
昔、今の質問のような論争がキリスト教内に起こったことがある。イエスは神そのもの
であったか、人間でもあり神でもあったか、それで争ったことがあるんですね。そこヘマ
ホメット教がその隙に乗じて、と言うとおかしいけれど、相当広がったことがあるんです。
そんなことで論争したなんていうことは、馬鹿馬鹿しいことなんです。実際は、神その
ものであったと思ってもいいんだし、神であり人間である、と思ったっていいんだけれど
も、私の見解としては、肉体のイエスはやっぱり肉体人間です。働きは神そのものです。
神のみ心をそのままこの地上界に現わしてゆく。そして肉体のイエスとしては、みんなと
同調して生きてゆくわけです。私などもやはりそうですよ。神のみ心をそのまま現わして
いる。法話をする時、ものを書く時、すべてをみる時、すべて神のみ心を現わしている。
126
しかし家族やみんなと話したりする時には、ふつうの人間の五井昌久として会って、話し
ています。
だから子供と会えば子供と遊んだり、おばあさんにはおばあさんになった感じで話した
り、踊りをする時には踊っているし、当たり前の肉体人間です。ただ想いがどこにあるか
と言うと、想いがいつも神さまの中にあるんです。神のみ心の中にあって、神のみ心を行
じる。神のみ心を現わす。神さまの計画を現わす。それ一念しかないんです。その面から
みると、神そのものである。だけど肉体のほうからみれば、肉体人間と同じことをしてい
るから、肉体人間なんです。
ですから、イエスさんも神であり、しかも神の子であり、そして肉体人間であった、と
いう解釈が一番正しいと思います。それでなければ、わざわざ礫にかかってみせたり、十
字架を背負わされて歩いてみたり、人が死ねば泣いてみたり、痛い時にはやっぱり痛かっ
たりするわけですよ。神そのものであって、肉体人間でなければ痛くもかゆくもないです。
そんなもの問題にならないです。波動が違うんだから。
127質疑応答
しかし肉体というのは、あくまで物質波動なんです。物質波動は痛いんです。催眠術で
もかけられて、自分がなくなっていれば別だけれども、それ以外は痛いわけです。昔の坊
さんや修験者、行者というのは、修練に修練をつんで、痛くない肉体にしていった。と言
うのは、肉体の波動のほうから霊波動の中に入ってゆくとか、あるいは他の霊魂、背後霊
がその痛みを止めてしまう、とかして痛みがなくなるわけです。
しかし、イエスさんもやっぱり痛かったことは痛かった。お釈迦さんでも痛かった。私
も痛い。やっぱり肉体を持っている以上は、肉体の苦痛を感じないと人の痛みがわかりま
せんよね。自分がなぐられたって痛くもない。食べなくたってひもじくもない。寒くても
ひと
寒くもない。暑くても暑くもない、と言うんでは、そういう人でしたら他人のことがわか
りませんもの。「何寒い? 何が寒い、寒くない」「何暑い? 暑くない」「ひもじい?
何が? 食べなくたってひもじくない」とやります。お金を自分で一銭も使ったことがな
い。たとえば部下が全部やってくれて、お金を握ったこともないというんでは、お金がど
んなに大切かもわからないし、どんな値打ちがあるかもわかりませんですよ。自分でわか
12g
らなければ、人を救うことは出来ないのです。
そこで神さまは、肉体の波動の中に、聖霊を入れて、天の使いとして、神の子を肉体人
間として現わし、それで人を救うわけです。だからお釈迦さまでもイエスさんでも、みん
な肉体に現われている。それがこの地球界を救う大事な秘訣なんです。肉体人間がいらな
ければ、目にみえない所から、すべてをやってしまえばわけないことなのだから。嵐を起
こすことだって、海をしずめることだって、海を二つにわることだって、何するんだって、
神さまからすれば簡単。悪いものだけをシラミつぶしにするのはわけない。神さまが心臓
を止めようと思えば簡単に止められます。選り分けて、いいのだけ残して、悪いのをみん
なやっつけちゃうなんていうことはわけないことです。
いのち
それでは人形と同じ、ロボットと同じです。人間は人形ではないのです。神の分け命な
のです。そして神さまからいのちの自由を与えられているのです。だからいいことをする
のも、悪いことをするのも、みんな人間の自由なのです。しかし、あんまり悪いことをす
るのも自由と言っても、それが重なって亡びてしまったのでは、神さまとすれば自分の子
12g質疑応答
供ですから、困るんです。そこで神さまは適当に自由を与えているけれども、最後に危な
い時には、やっぱり守護霊、守護神が天降って来て、悪を止めたり、悪を亡ぼしたりする
わけですね。それで最後の審判というのがあることになっているわけです。
最後の審判の時には、人類の三分の二は死んでしまうとか、ハルマゲドンの戦いなどと
言って、なんべんもなんべんも戦って、みんな死んでしまうようになることが、ヨハネ黙
示録に書いてあります。しかし実際にそうなるかどうかは別問題。大勢の人が苦しまない
ように、そのためにいろんな聖者が出ているんです。私は何を役目づけられているかと言
うと、世界平和の祈りによって、最少限度に人類の苦しみを救おう、という天命を神さま
から受け持たされている。そして皆さんもその同志として、そういう役目を持たされてい
るのです。自分で気づこうと気がつくまいと、自分は自分だけ救われればいい、と思って
ここに来ていらつしゃるかもしれないけれど、それでも知らないうちに、神さまの使いと
して、世界平和を成就するため人類の苦しみを最少限度にして人類を救おうとして、神さ
おろ
まから降されている菩薩さんなのです。r30
仏菩薩が現われてこの世を救うわけです。皆さんはその一人であることは間違いない。
ただ肉体のほうが知らないだけ。それで自然に守護霊守護神に使われてやっているわけで
す。私のような者は肉体の人間でも知っているわけ。神さまがどうなってどうなって、っ
て直通して知っている。皆さんはそれをただ知らないだけなのです。知らないでも知って
いても、守護神が皆さんを使って、世界の平和をつくろうとして活躍していらっしゃるこ
とは間違いない。ですから、私にしても皆さんにしても、イエスさんにしても、みんな同
じ神さまの使いでもあるし、肉体人間でもある、とこういうわけです。
ただ神さまのみ心を一〇〇の中の一〇〇現わしているか、九〇現わしているか、あるい
は三〇しか現わしていないか、それだけの違いなんです。みんな神の子であり、肉体人間
であるということは間違いない。
おいめゆる
百凹主の祈りというのがあります。”我らに負債ある者も我らの免したる如く、我らの
負債をも免し給え”という言葉がありますが、我らが負債を免したるが如く、と言うのは
131質疑応答
おかしいのではないでしょうか? 初めっからそんなことを言わないで「神さま、どうか
お免し下さい」と言うほうがいいんではないか、と思いました。五井先生のご意見をお聞
かせ下さい。
圓二あの翻訳はあまり上等ではありませんね。私は聖書を読んでいますが、おかしいと
思います。と言うよりちょっとひっかかりますね。大体、みんなあんまり深く考えていな
いんじゃありませんか?
自分が人の悪いことをゆるしたように、自分の悪いことをゆるして下さい、と言うのは
逆だと思いますね。
主の祈りはいい祈りだけれど、長すぎます。そしてあまり言葉がきれいすぎます。祈り
言葉があまりきれいだと流れてしまいます。私の体験ではあまりきれいな言葉というのは
流れます。心に入ってこないんです。そこで私は、世界人類が平和でありますように、と
当たり前の変哲もない、詩的でない言葉を使ったのです。神さまのほうで考えて、当たり
前の当然の言葉を使わせたわけです。X32
文語体の聖書はとてもいいです。その流れがとてもきれいでいいです。それはいいけれ
ど、その調子が祈り言葉になってくると、あまり調子がよすぎて、心にしみてこないんで
す。あの主の祈りも、天の如く地にも行なわれんことを、ぐらいの言葉ならいいんですけ
れど、でもピンとこないでしょう。それよりも「世界人類が平和でありますように」は、
中身がピチッとわかります。頭でどういう意味だろう、などと考える人もない。私たちの
天命が完うされますように、という一行を考えるぐらいで、あとは殆ど考えなくてそのま
まわかる。
そのままわかるということが、一番大事なんですよ。人間は潜在意識が納得しないとや
らないのです。表面の想いと潜在意識がピタッと一つになることによって、物事は成就し
てゆくのです。潜在意識が邪魔していると、なかなか成就できない。ところが、世界平和
の祈りのように、年中祈っていますと、潜在意識がどんなに邪魔しようと、奥まで通って
いってしまうのです。知らないうちに積み重なってゆくから、世界平和の祈りの大光明が
潜在意識になってしまうわけ。だから思わぬ時に、スッと出てくる。自然に出てくるよう
133質疑応答
になるのです。
だから常に常に、世界平和の祈りのようなもの、明るい言葉でもいい、いつも明るいこ
とを潜在意識に入れておかなければだめです。一番明るい言葉は「世界人類が平和であり
ますように」です。むずかしくないからいいのです。とにかく、心の中にスーッと入って
こなければだめなんです。
私は予言者ではありません。私は実際家であり、実現者なのです。イエスは予言者。予
言を成就した。洗礼のヨハネも予言者です。私はこの地上界の実現者です。イエスは霊的
な世界の実現者であったかもしれないけれど、肉体界では礫で、自分はみじめな想いをし
たわけです。ヨハネも首を斬られてしまった。それでなんにも実際には出来てなかったで
しょう。私はイエスをけなしているのではありませんよ。イエスさんは立派な魂だし、神
の子ですからね。だけども実現しなかった。
ところが私は予言者ではない。実際にここに世界平和を実現しようと思っているんです。
天のみ心を地に行なうのだ。地に実現するというのが私どもの団体なのです。実現するた134
めには、あまりむずかしくては実現できない。理論的だけではだめだし、実際に出来ない
といけません。小さい子にも年寄りにでも、実際に出来ることでなければ、納得して出来
ることでなければいけない。
となごと
そう考えて来ますと、世界人類が平和でありますように、という称え言は、楽々と誰に
でもわかって、実行できます。簡単に言えて、簡単にわかる、というのが一番いいんです。
何かむずかしいほうが、偉そうにみえるかもしれないけれど、私は偉くみてもらわなくて
も結構だから、やさしく実現する方法を選んだわけです。やさしいから大したことがない
んではないか、と思うと、さにあらず。入り方はやさしいのに、奥は深くて深くて深1 い
のです。それが私たちの教えなんです。
私どもは理屈を言っているんではなく、あくまでも実際に実現できる、実際に現わし得
る平和運動なのです。ですから、私どもは予言者ではありません。私どもは実現者です。
ここに現わす人々なんです。私どもの生きている間に、必ず平和の道がきまります。全部
が平和になるとは申しません。さあーこれが平和の道、この道を行きさえすれば、世界は
135質疑応答
平和になるんだ、という役目を私はするのです。
r36
固アダムとイブの原罪について、キリスト教では非常にいまわしい、のろわしい事実
のように説かれていますけれど、本当のところはどうなんでしょうか?
圏アダムは男性、イブは女性ですね。エデンの楽園で、裸の生活をしていた。それが
蛇 にそそのかされて、智恵の木の実を食べてしまった。それから裸でいることが恥ずかし
くなって、木の葉で前を隠すことを覚えたと言うんですね。それから肉体の子供が出来る
わけですね。
肉体を隠したというのではないのです。いわゆる天真燗漫な神のみ心がそのまま現われ
ていたものを、自分の智恵で、ああだこうだと考えて、神の生命エネルギーを智恵を使っ
て、神さまの意図しないことを自分が作ったということなのです。神の意図しないことを
作ったわけだけれど、事実は、神さまの中にはそうしたものもちゃんとすでに含まれてい
るのです。
肉体人間の肉体波動となれば、神さまの完全円満なる微妙なる波動のように、一瞬にし
てすべてが現われる、というものではないのです。ところが肉体人間の波動になると、速
度が違うので、完全円満になるためには、道順があり、経過があるのです。
神さまは初めなく終わりないんだから、一瞬なんです。初めも終わりも全部、中に含ま
れている。肉体波動のほうは、初めがあって終わりがある。時間経過がある。その時間経
過の中では、どうしても完全ではないでしょう。わかりますね。映画で讐えれば、ストー
リーがあって、善い人が最初負けていても、最後には善人が勝って、悪人は負けてゆく。
トンネルを掘っていても、掘っている間は暗いです。光があったとしても、カンテラか街
灯かをほそぼそとつけながら工事をしている。僅か灯りのまわりは明るいけれど、全体は
むみょう
暗いわけです。無明です。
その無明の中で、光ある人が少しずつ作業を続けている。自分たちはまっ黒になって、
よご
泥やほこりで汚れてきたなくなっている。その姿は汚れてきたない姿です。なんてきたな
い人間だろうと、やっている。だんだんトンネル掘りがすすんで、掘り上がると、光がパー
137質疑応答
ッと入って来て、明るくなる。悔
7■車でも自動車でもなんでも通れるようになってゆく。そ
うして明るい所に出て来たトンネル掘りの工事人は泥とほこりをきれいに洗って、きれい
な人間になるでしょう。
それと同じように、神さまの中でも、もうトンネルは掘れているのです。神さまの中は
無明ではなくて光だから、そのままでいい。しかし肉体人間の波動の粗いところに現わす
ためには、いっぺんには出来ない。時間のずれがある。そのずれがいわゆる業なわけです。
しかし神さまのほうではそうなることを知っていらっしゃったのです。ですから本当は神
さまからみれば、それは悪ではないわけです。完成にいたるまでの過程だから仕方がない。
その過程の中にいれば、悪になり不幸になってみえるわけです。だから悪とみれば悪に
みえるし、不幸とみれば不幸にみえるけれども、神さま的な目からみれば、真理の世界か
らみれば、悪も不幸もない、消えてゆく姿なんです。消えてゆく姿というのは、実に
うまい言葉です。みんな消えてゆく姿なんです。”悪
” がそのまま悪ではない。不幸がそ
まこと
のまま不幸ではない。すべて完全なものが現われる、本当の姿、善なる真なる世界が現わ
X38
れるその過程として、不幸のように現われ、悪のように現われ、誤りのように現われてい
るけれども、それは消えてゆく姿なんだということ。そして最後にはきれいに神さまのみ
心が現われてくるわけで、平和に、完全になるわけです。
ということで、アダムとイブのことも、要するにいやらしいことをした、とかなんとか
いうのではないのです。自然の作用でそうなっている。
消えてゆく姿という言葉を使わないと、この世の中の業は少しも説明にならない。神さ
まが不完全なことをしたように思われてしまう。悪は無いから無いのです、では説明にな
っていない。わからない。やはり消えてゆく姿を使うことによって、初めて神さまは完全
円満で、実は悪はないんだ、ということがわかる。
岡凹キリストが到達した悟りの境地と同じところに至れば、キリストと同じ奇蹟を行な
うことが出来ますでしょうか?
圏出来ます。キリストと同じ心境になれば。ところがなかなかなれないんです。
イエスとキリストとは違うのですよ。イエス即キリストではなくて、イエスがキリスト
139 質疑応答
を現わしたわけです。キリストというのは真理です。神そのものです。肉体に生きている
間のイエスはイエスです。時々キリストを現わしたけれど、本当にキリストになりきった
のは、十字架にかかった時からです。
イエスばかりがキリストではないのです。本当に真理を現わした時はキリストと言うわ
けですから、お釈迦さまもキリストです。日本の天皇も終戦の時に、自分の身を投げ出し
て国民を救おうとした。その時はキリストです。
イエスさんは三十三歳で亡くなりましたね。ですから非常にやり方が若いのです。完全
な大入のやり方をしていません。たとえば、神殿に商人が店をならべて商売していた。店
あきな
をならべている所を、杖で打ってぶち壊して歩くでしょ。神の前に商いをするのは何ごと
だ! と言って。あんなことは一寸出来た人はやりません。真理を広める深い智恵があれ
ば、ああいうバカなことはしませんよ。もっとやり方がいくらでもあります。何も叩いて
店を壊さなくてもいいですよ。話したっていい。それをわざわざ反感を買って、みんな敵
にまわしちゃうわけですね。
i40
と言うのは、肉体人間としては若いです。ああいうやり方をさんざんしたから、みんな
の恨みを買って、余計礫になったりしちゃうのね。ところが、もともと礫になるように、
神さまのほうでは出来ていたわけ。それは役目なんです。けれども、それを肉体人間から
みれば、若いなあと思う。
あんなことをしなくて、もっとおだやかなやり方をすれば、もっと長生きして、もっと
いいことが出来たと思います。ところが礫になって、悲劇の主人公になったため、キリス
ト教が栄えたとも言えるわけで、神さまのみ心の中では、ちゃんと計画が立っていた。け
れど、肉体のほうからみれば、ああ若いなあ、と思う。だからイエスという人の肉体は、
まだ完全ではありませんね。お釈迦さまは八十まで生きたから、お釈迦さまのほうが完全
ですよ。地上界でいろんな経験をしていますから。
だけれどもそれは役目なんです。イエスさんは傑になって、大犠牲者になって、初めて
本当のキリスト、永遠のキリストを現わしたわけです。キリストとすっかり合体して、自
分の肉体はなくなってしまった。
141質疑応答
いろんな宗教家がいろんなやり方をするわけで、時代時代に応じて、いろんな現われ方
をする。法然、親鸞は法然、親鸞の現われ方をするし、マホメットはマホメットの現われ
方をする。いろんな現われ方をして、いろいろなふうに導き方を変えていって、やがては
世界が平和になるということです。
その第七劫目が始まっている。だんだん肉体が進化していって、微妙な体になって霊界
と同じ体になってゆくわけです。そして、今度は地球よりまだ未熟な星の人たちを助ける
ような形をとるわけです。みんなが一つになって宇宙の一員になって、今度は、まだ幼い
他の星の人達を助ける、という側にまわるわけです。
142
間」キリストが十字架にかかったのは、人類の罪を背負って死んだのでしょうか? そ
れとも人の憎しみをかって十字架にかかったのでしょうか?
それから、キリストは行者の修行をしたためにああいう奇蹟を現わしたんでしょうか?
圏 イエスが十字架にかかったのは大犠牲です。やっぱり人類の罪を背負っていったん
ですよ。それだけ人類の業が浄まっているのです。それがなかったら、人類はもっとひど
い状態でしょう。肉体的にみれば大犠牲者。神さまのみ心からみれば、そういう立場に置
いたわけです。偉いですよ。肉体としては若いから、年をとった、いろんな経験を経た人
とは違ったやり方をしたわけね。
明治維新の頃、もっとうまくすれば、自分の身が死ななくてすむのに、どんどん犠牲に
なって死んでいきましたね。それによって、維新が成就して明治政府が出来たわけです。
それと同じようなものですね。イエスさんは人類の業を背負っていった立派な聖者です。
それから行者と言いましたが、いろいろな霊的な修行をした人はみんな行者です。ただ
行者だけでいないで、行者から聖者になるんです。行をする人をみんな行者と言うんです
から。行をしているけれども、行だけにとどまらないで、本当の悟りになって、本当の菩
薩行をしてゆく。仏陀みたいになってゆく。悟ってゆくことによって行者という名前とは
違ってきます。聖者になります。
イエスさんは、だから行者ではありません。聖者です。間違えないで下さい。
143質疑応答
「問」或る教会で自由の祈りというので、めいめいが祈って、号泣しているので、何を祈
っているのか聞いてみました。人類六千年の罪が神のみ心に反して申し訳けない、と言っ
て泣いておりました。自分の罪だけでも大変なのに、そんな人類のおかした罪まで謝罪し
なければいけないのかなあ、と思ったのですが… … 。
圏神さまはそんな間抜けじゃないと思いますよ。大神さまというのは、初めっからち
ゃんと計画してやっているのであって、人間の罪とかなんとか言うけれど、それじゃ罪の
ない人間を初めから創ったらいいじゃないか、ということになる。神さまの世界では、初
めから全部決まってなさっていらつしゃるんで、それをゴタゴタゴタゴタ言う必要はない
のです。そこで無為にして為せ、という老子の言葉が出てくるんですよ。何を食い何を飲
ほから
もうと思い煩うや、野の鳥を見よ! とイエスも言っているでしょ。何も自らの計いごと
まか
をする必要がない。計いごとをしないで、委せていけば、そのままでいいわけです。
けれど委せていけない、という人間が出来ていることを、神さまはご承知なのです。こ
144
の肉体界が出来たために、業想念が出来たことも、ちゃんと神さまは承知していらっしゃ
るのです。だからウダウダ言うことはない。自分が世界の業を一人で背負ったみたいに、
ああ人類の業が申し訳なかった、申し訳なかったとか、自分たちの罪だの業だのといつも
言っていることが、間違ったキリスト教の悪さなんです。
もし神さまが創ったものを、自分たちに壊してゆく力があったら、神さまより自分たち
の業のほうが偉いことになってしまう。そんなことはない。仏教では、たとえば法然や親
鶯はどう取り上げていたか。法蔵菩薩という人がいて、全部の人が救われない限りは、自
分は仏にならない、と四十八の願をたてて誓った。そう誓った人が阿弥陀仏になってしま
った。ということはどういうことかと言うと、全部救われるに決まっている、ということ
なんです。阿弥陀さまに全部委せて、一向専念、南無阿弥陀仏と唱えれば、救われるに決
まっているということなんです。ということは初めから救われているんです。
初めから救われているということは、どういうことかと言うと、この世でいくらでも悪
いことが現われて来て、罪悪深重の凡夫というような者が一杯いる。動物と混合のような
145質疑応答
者もいるわけです。しかし、それは或る過程であって、プロセスであって、やがては本当
の姿が現われるということが決まっているのだということなのです。
だからこちら側としては、人類の罪が申し訳ない申し訳ない、と言うのもいいですよ。
しかしそれに把われて、いかにも自分達が世界の業を一人で背負ったような恰好をしちゃ
おこ
って、申し訳ない申し訳ない、と言うのは一つの驕りだと思います。背負うなんていうこ
とは、余程の偉い人でないと出来ないのです。
泣き叫んで、人類は神さまに申し訳ない、なんて言うことはないんです。神さまから人
類が生まれたんだから。もし業などが申し訳ないんだったら、神さまが一番愚劣なんだな。
神の力が足りなかった、ということになるでしょ。つまらない、救われない人間を創った
とすれば、神さまの力が足りなかったということです。そういう神さまは大したことはな
い。そんな神さまは信じません。そんな変な神さまは神さまでもなんでもない。それで悪
かったら、罰でもなんでも当てるなら当ててみろ。私は神さまを恐れていませんよ。
神さまは大愛にして、全智全能で、無限の力を持っていて、初めから人間を救うようにX46
出来ているんだということです。
神さまは大愛なんだから、人間などの考えと全然違って大愛なのです。形の上でも、救
われるに決まっている。そのようになっている。だから、人間のほうで、ガタガタ騒がな
いで、無為にして為すのです。ところが無為にして為せでは出来ないから、消えてゆく姿
で世界平和の祈りをしなさい、と教えてくれる人が現われることも決まっている。
イエスが現われることも、お釈迦さまが現われることも、法然や親鸞が現われるのも、
道元が現われるのも、日蓮が現われるのも、五井先生が現われるのも、みんな決まってい
るのです。ここで世界平和の祈りの道が現われたから、消えてゆく姿で世界平和の祈りを
やっていれば、必ず救われるに決まっているのです。
それをいかにも自分だけが悪いようにやっていると、何か趣味みたいになっちゃって、
自分が悪い悪いと言っている人がある。そんなことを言ったってしようがないんですよ。
その悪いものをみんな消えてゆく姿として、神さまにお返しして、神さまの光を身に浴び
ればいい。消えてゆく姿がないと、この世の中は救われないのです。ところが、消えてゆ
147質疑応答
く姿も現われ、平和の祈りも現われて救われるようになっているんだから、大丈夫なんだ、
と説いてやることです。もし聞かれたらね。
人間が神から離れて悪いとかいいとか言っているのは、本当は枝葉のことなんです。し
かしそういう教えもなければ困る。肉体の人間は罪悪深重の凡夫だから、人間の力ではだ
めなんだ、というところへくるわけ。自分の力では救われないから、神さまお願いします、
と言って、祈り心で神さまの中に入ってゆく。それによって、神さまの光が十分に入って
来て、救われてゆくわけです。その間をつなげてくれるのは何かと言うと、守護霊さんで
あり、守護神さんである。守護霊さんや守護神さんが、肉体の身代わりをして、原罪をか
ぶって下さって、救ってくれるわけです。だから守護霊さん守護神さん有難うございます、
守っていて下さって有難うございます、というふうに祈るべきなんですね。それが他には
ないのです。だから神さま神さまと言いながら、いつも肉体人間がなんとかかんとかと言
って、肉体人間肉体人間となっている。神さまにお委せしなければいけないと言いながら、
私が悪いとかなんとか言っているわけね。r48
私がいいも悪いも、すべて自分の力ではどうすることも出来ないんだから「神さま有難
うございます。守護霊さん守護神さん有難うございます。世界人類が平和でありますよう
に」、と神さまの中に入ってゆく教えが生まれて来たわけです。この教えはとてもいい教
えです。消えてゆく姿ということだけで素晴らしい。そこへもって来て、世界平和の祈り
がある。いつも守護霊さん守護神さんがついている。これは簡単のようだけれど、実に素
晴らしい。私は自分で説いていて、年々歳々、ああいい教えだなあと思うのです。
私が説くわけではない。肉体が説くわけではないのです。神さまのほうから肉体を通し
て説かして下さっている。だから五井先生って素晴らしいな、と自分で思うんです。皆さ
んだってそうなんですよ。肉体としてAさんB さんに分かれている。実はその中に、輝い
た自分の直霊があるわけです。ああ直霊さんは素晴らしいなあ。自分の本心さんは素晴ら
しいなあ、有り難いなあ、と本当に気取りなく拝めるようになったら、その人は本物。
素晴らしいな、俺は偉いんだーではだめです。素晴らしいな、有り難いな、とこう出
てくればいい。私などはいつもそう思っています。五井先生というのは素晴らしいな、有
149質疑応答
り難いな、と自分で思っている。
守護霊さん守護神さんが守りに守りきっているわけですよ。だから人間の足りないとこ
ろ、間違ったところは、守護霊さん守護神さんに穴埋めして頂いて、完全円満なものにし
て頂く。守護霊守護神を考えなければ、絶対にこの世は平和になりません。この世は完全
になりません。分霊と守護霊守護神と加えて、初めて完全な人間が出来上がるわけです。
それを私が切々と説いているのです。
i50
岡凹人類六千年の業と言いますが……。
圏六千年ばかりではありません。六千年と決めているのですか? そんな片寄ったも
の ではないのです。この世はもつと伸び伸びと自由なんですよ。自分もいじめず、人もい
じめず、伸び伸びと自由自在にやればいいんです。だけど、そのように出来ないように出
来ているんですよね。なかなか複雑。だから守護霊守護神さんが加勢をして、救われる形
がここに現われてくる。
だから本当は救われているわけです。迷っている人もないんです。ズーッと光り輝いて
いるのです。この間、鈴木大拙さんが新聞で、外国人と対談していました。
「あなたも仏なんですよ。私も仏です」
と大拙さんが言うと、外国人が
「とんでもない。私はそんな思い上がりは出来ません」と言っているのです。
大拙さんは大したもので、やっぱりわかっている。みんな仏で、迷っている人はいない
んですよ。みんな仏で、救われているという、私は確信を持っている。それでなければ、
私はこんな仕事をしていません。
ただ迷った人がない、皆救われる、というところにくるまでには、非常に忍耐がいる。
この世は消えてゆく姿と忍耐力です。耐え忍んで耐え忍んで、そういう過程がすんで、本
当の世界が出来るまで、耐え忍ばなければならない。そう思うんですよ。そうすると必ず
本当の世界が出来ます。そう遠い将来ではありません。だから、人が悪い、私が悪い、な
んだかんだ、と言っていることを、みんな祈り心で神さまの中に入れてしまったほうがい
巧1質疑応答
い、とこう思うわけですね。そういうお説法と、なんだかんだと言うお説法と両方あるん
です。しかし両方とも消えてゆく姿。本当はそのまま救われているんですよ。
152
「間」六千年というのは、創世記の中に書いてある年代を足すと、そうなるのだそうです。
キリスト教の中でもいろいろ宗派がございますけれども、ファンダメンタリストと言われ
る宗派の人々は、聖書の言葉を文字通り信じているのですが、もしそれが違ったとすれば、
聖書の解釈が違うか、キリスト教が違っているのか、ということになるのですが… … 。
キリスト教では、最後の審判というところで、白い羊黒い羊と分けられるとか、悪人の
ほうはゲヘナの火の中に放りこまれて、火で焼かれるとか、という話があります。そうす
ると救われない人間というのが出てくるのですが… … 。
圏私どもの解釈としては、神さまは大愛であるから、差別をして片ほうは救われ・片
ほ うは救われない、というのはあり得ない、と思います。あるとすれば、それは神さまで
はない、と判定するわけです。
すべての人が救われる。誰も彼もがみな救われる。ただ、救われ方の年代の相違はある
かもしれないけれど、救われる。ということは、初めから救われているということです。
過去亡くなった人も、自分の業生がとれないで、地獄のような所で苦しんでいる人がた
くさんあります。しかし、それは自分がそうやっているんであって、神さまがするのでは
ないのです。
神さまが救うために、光を強く与えると、中にある業生が現われてきて、苦しむことが
せんだい
あるけれども、神さまが救わない、ということはないです。仏教でも一閲提と言いまして、
救われないというのが、たまたまあるんですけれど、それさえも救われると思うのです。
提婆達多(仏陀に反逆して地獄におちたと言われる) も最後に救われて仏になっています。
法華経的解釈からいけば、すべてが救われる。神道的な解釈からいっても、すべて神の子
だと言うのですから、すべては救われている。間違ったキリスト教で、いい人が救われ、
悪い人は救われない、と言うのでは、神というのは大愛ではなくなる。
一番問題なのは、キリスト教では神があって、悪魔があると分けていることで、このこ
巧3質疑応答
とが最大の間違いだと思うのです。悪魔というのがあるわけがない。悪魔のようにみえる
ヘへ
想いのかげなんです。想いの波が悪魔のような形に現われることがあっても、悪魔そのも
のが実在するわけではありません。みんな消えてゆく姿です。いわゆる消えてゆく姿とい
うものは、実在ではないのです。足跡のようなもので、現われては消えてゆくものです。
ところが消えないものがある。それは何かと言うと、神のみ心、神の大光明だけは永劫
に消えないのです。大光明の一つ一つの光線が人間になっている。それはあるけれども、
あとの現われというものは、善も悪もみんな消えてゆく姿ーというように私どもは解釈
しています。
自分の頭で考えて、自分流に解釈したものだから間違いが出てくる。私なら私の言うこ
とでも、弟子の中では自分流に解釈して説くこともありますでしょう。生きている間でも
そうだから、亡くなった後で書いたものは、間違いが多いでしょう。
聖書がみんな本物とは思いません。大体十字架にかかって、イエスが「神よ、なんぞ我
を見捨て給うや」と言ったと聖書に書いてありますが、これにもいろいろな解釈があるわ
154
けですね。
ともかく真実のことは、神さまは大愛であって、あらゆるものが、すべて救われている
んだ。救われているけれど、みんな自覚していないから、救われの自覚をハッキリ現わす
時がくるんだということ。最後の審判というのは、いずれ消えてゆく姿、悪いものは全部
消えていってしまって、本心が現われてくるということそれが最後の審判なのです。
その代わり、本心が現われてくる時は苦しみが多いでしょう。骨が折れたのを直すために
は、元に戻すのに痛い、というのと同じように、ちゃんと道に乗せる苦しみはあるけれど、
最後はすっかり救われの世界が形に現われてくる、ということです。
[問] イエスキリストが五つのパンをさいて何千人の人の飢えを満たした、という話があ
りますが、どういうことなのでしょうか。本当に満腹になったのでしょうか? 霊的に満
たされたのでしょうか?
圏私はパンがふえたという意味ではないと思うのです。霊的にはこの空中には人間の
155質疑応答
食料となるようなものが、元素として一杯あるんですよ。それが口から入らなくとも、波
動ですから、スーッと入ってくる。そうすると満腹するのです。霊的要素としてみんなの
体の中に入ったと思うんです。宇宙子科学的に祈ったら、空中からパンが出て来て、それ
を食べさせたと私は思います。
ひと月も食べなくとも、ちゃんと働いていたり、学校へ通ったりした子供もあったりす
るんだから、霊的に霊要素を入れれば、食べなくたって生きられます。私たちは宇宙子科
学で実際に、空中からパンを出そうと思っているんです。地球科学でも相当なところまで
いったんですよ。元素は空中にあるんだから、元素を集めれば出来ますよ。
X56
圃五井先生は、キリスト教の言う最後の審判をどのように考えていらつしゃいます
か?
圏最後の審判というのは、来世に大混乱が起こって、神に従う者には栄光が輝く。そ
して地上と天国が出来る、というのだそうですが、やはり今は、人類が大きな進化をとげ
た時で、今までは神の子と動物性とが交ざっている人間が、本当に神の子人間の世界にす
るためには、一つの大きな障害を越えなければならない。それには、今までのやり方、思
こうη
い方、いわゆる業を一掃しなければならない。その業が一掃される時が最後の審判なので
す。
そしてキリストが降りてくる。キリストが降りてくるというのは、何もイエスキリスト
が降りてくるというわけではなく、真理が開いて、という意味です。ですから、みんなが
しんせいこう
真理がわかって、みんなの神性が開いて、業がいっぺんにとれるというわけです。
業がはがれてゆく。それが形の上に現われてくれば、大戦争になるかもしれない。ある
いは天変地変になるかもしれない。地球人類の三分の二は死んでしまうかもしれない。
そういう様相は幽界にあるわけです。それを地球界に第三次大戦と現われないように、
天変地変がないように、少しずつでもよいから浄めて、最も軽く、人類に怪我を少なくす
るというために、われわれの世界平和の祈りが生まれているんです。
ですから皆さんが祈りを広め、そして祈りを各自が深めることによって、戦争も防がれ、
1ラ7質疑応答
天変地異も防がれるのです。
最後の審判はないのではなくて、あるようになっている。あるようになっているけれど
も、世界平和の祈りで防げるようになっている。
ですから一生懸命世界平和の祈りをするということは、自分のためにもなっているし、
世界のためにもなっている。地球が亡びたら自分もなくなってしまうんですから。
そういう意味でも、世界平和の祈りは素晴らしい菩薩行なのです。そこで一人でも多く
の人に広めたい、と切実に思うわけです。
X58
固新約聖書の使徒行伝に「五旬節の日にみんなが集まっていると、突然激しい風が吹
いて来たような音が天から起こってきて、【同が坐っていた家一杯にひびき渡った。また
舌のようなものが、炎のように分かれて現われ、一人「人の上にとどまった。すると、一
たま
同 は聖霊に満たされ、み霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。エル
サレムには天下のあらゆる国々から信仰深いユダヤ人たちが来て、住んでいたが、この物
音に多勢の人が集まって来て、彼らの生まれ故郷の国語で人々が話しているのを、誰も彼
も聞いてあっけにとられた」とあります。更に「神が終わりの時には、私の霊をすべての
人に注こう。そしてあなた方の息子、娘には予言をして、若者たちは幻をみ、老人達は夢
しもべ
をみるであろう。その時には私の男女の僕たちにも私の霊を注こう。そして彼らにも予言
をするであろう」という旧約の言葉を引用しております。
ペテロが「悔い改めなさい。あなた方一人一人が罪の赦しを得るため、イエスキリスト
の名によってバプテスマを受けなさい。そうすればあなた方は聖霊の賜物を受けるであろ
う。この約束は我らの主なる神のお召しにあずかるすべてのもの、即ちあなた方とあなた
方の子等と遠くの者一同とに与えられているものである」と言ったように書いてあります
が、ここではどういうことになったのでしょうか?
圏それは霊的な現象です。イエスさんの弟子の中には、イエスの昇天後、相当霊的な
人が出て来まして、守護神のひびきを聞いたり、天使の声を聞いたりして、聖霊が悦びに
満ちているのです。聖霊というのは、真心、私が言う分霊の元です。今、読んだ使徒行伝
15g質疑応答
のその現象は、天使などとの交流を書いています。
自分の霊を注こうというのは、自分が神さまから光をもらって、聖霊の光が強くなって
います。それを世界平和の祈りのひびきをみんなに伝えましょう、と私が言っているのと
同じように、霊の光をみんなに与えましょう、という意味です。
すべて霊的な現象で、そういうこともあるのです。現在でも、この会にでもあります。
ただあまりそれに把われると、新しいキリスト教の中でも、変なことをやってばっかりい
る所もありまして、やたらに異言というのをしゃべってみたりします。それでは困るので
す。やっぱり常識の世界でちゃんとぴたり当てはまった直観、インスピレーションでない
といけない。
160
「圃真理のための闘争とか、神の側の救済のための苦悩というのがある、と言われて
いますが、先生のお考えをお聞かせ下さい。
圏 闘争というのは、闘い争うということですから、真理のための闘争なんていうこ
とはありません。真理のために闘い争うということはないのです。そういう形にみえたと
しても、それは浄めの作用です。だから真理のための闘争という言葉は間違いです。
真理を現わすためには闘争があってはならない。それを是認してはなりません。たまた
ま因縁因果的にそれこそ闘争になる場合もあるかもしれない。しかしそれは、あくまでも
消えてゆく姿であって、是認すべきもの、容認すべきものではありません。それがいいと
いうことはないのです。それ故、私は真理のための闘争なんていう言葉は使いたくない。
それから神の苦悩と言うけれど、神は苦悩はしないのです。人や人類を救おうと思って、
いくら尽力しても、なかなか言うことを聞かなくても、神さまは苦悩しません。
宇宙神というのは、苦悩もへったくれもありやしない。宇宙神はいのちそのもの、法則
そのものとして動いているんだから、いのちの根源だから、これは別ものです。
ふつう神というのは、守護神のことを言うのです。宇宙神のみ心を体して、各神に分か
れて働いている神々のことを、ふつうの人は神と言うんです。
よく考えて下さいよ。地球人類というのは地球だけにいるわけですよ。神さまが地球だ
161質疑応答
けに働くわけはないでしょ。地球を守っている神さまがあるように、宇宙にあらゆる星々
が存在している。何億、無限億あるわけですね。無限億の星々に、みんな神さまがいるわ
けですよ。それを統轄しているものが宇宙神でしょ。ですから宇宙神というのはものすご
い、把えようのないものです。力の根源であり、命の根源であり、智恵の根源であり、言
い換えれば、法則そのものであるのです。
だから私どもがふつう神さま、と言っているものは、神々という、宇宙神のみ心を体し
て働いている神々ということです。太陽の神々もあるでしょう。あるいは他の星の神々も
あるでしょう。そういう形になるわけです。そういうことをまず説明しておいて、言いま
すと、守護神というのは苦悩しないのです。
私はよく守護神を知っています。年中一緒ですからね。どんなに人類が苦しんでいても、
苦悩はしません。どんなに自分の思う通りにならなくても、苦悩はしません。人間側から
考えたら、苦悩と考えるけれども、苦悩ではありません。明るいです。
私などもこうやって人を救う立場になっております。どうにもならないような人が随分X62
います。だけど苦悩はしません。ああこれじゃいけないな。なんとかしなくちゃ。もっと
しなくちゃ、と言うけれども、苦悩という形ではありません。努力する形はあります。真
剣に力を注ぐということもあります。しかし苦しむ悩むという形は、神さま、神の使いに
はありません。言葉のあやのようなものだけれど、神さまは苦悩しません。苦悩ではない
のです。
なかなか人が救われない。なかなか人類がよくなりませんね。一生懸命やっても、個人
の場合でもなかなかよくならない場合がある。しかし、救いの側に立っている神々という
ものは苦悩しません。いつも明るい心です。それは先がわかっているからです。いかなる
時に救われるかということを、神さまはよく知っていますから、苦悩はしない。明るく光
に充ちてやっています。やっていられるわけです。
ただ神々のことを書いたりする場合、人間のほうから、こうじゃなかろうか、と推測す
るわけです。たとえばイエスのことを、イエスの弟子たちが語り伝えて聖書に残して来た
わけです。イエスが礫にかかります。
163質疑応答
にが
「神よ神よ、なんぞ我を見捨て給うや」とか「み心ならばこの苦い杯を去らせて下さい」
というようなことを、イエスが言ったと書いてあるのです。「なんで私をこんな目にあわ
すのですか」と言ったと書いてある。
あのイエスほどの素晴らしい人が、初めから十字架にかかることはわかっているのに、
いざ十字架にかかる時に、神さまなんで私をこんな目にあわせますか、なんて泣き言を言
うことは絶対にないです。弟子たちが、人間的な考えでみるから、そうやって泣き言を言
うことになるんでしょ。本当に、イエスが泣き言を言ったとすれば、日本の法然や親鸞に
かいせん
でも、日蓮にでも、「火もまた涼し」と言って、火の中で悠々と焼かれて死んでゆく快川
和尚たちに、とてもかないませんよ。
法然だって、島に流されることになり、念仏を唱えたら首を斬るぞ、と言われたって、
平気で南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と平気の平左で悠々と念仏を唱えて、流されてゆくで
しょう。すごいですよ。親鸞だって流されても平気です。日蓮だって、首を斬られる土壇
場になったって平気でしょ。一寸も怖がりはしない。肉体が死ぬことなど少しも怖がりま
X64
せん。それもイエスほどの大聖が「神よ神よ、なんぞ我を見捨て給うや」なんて、そんな
貧弱な寝言を言うわけがない。けれど人間の側からそう言ったように書くわけです。
だから聖書でも、イエスの本当のみ心じゃない記事が、言葉が随分あるんですよ。イエ
スが思ってもみないようなことを、書いてあることが随分あります。
私は聖書講義を書いているけれど、だんだん本当のことを書いていこうと思います。
神さまのみ心を、肉体のほうから間違って解説して書いてある場合が、非常に多い。
質問の言葉なども、言葉のあやですけれど、そのまま鵜のみにしたらいけないと思いま
す。神は苦悩しない、真理は闘争しない、ということです。
圃イエスキリストという人は一言で言いますと、どういうお方だったのでしょうか?
から
圏神のみ心を伝える空っぽの人、天使ですよ。お釈迦さまは難行苦行して悟った人で
す。イエスさんは悟った悟らないというのではなく、初めから地球を救うために派遣され
た人です。初めから神さまの使いなのです。そこでイエスの言った言葉は、神さまの言葉
X65質疑応答
なんです。
あの頃、ユダヤの地において、新興宗教の最たるものです。ユダヤ教に固まった人々に
言うんですから、よほど激しい言葉で言わないと通じない。「あなたそうしてはいけませ
んよ」では通じないんですよ。それで激しい言葉で神さまは言わせた。
三十そこそこで礫になってしまう運命だから、たくさん激しく言ったほうがいいんです。
そういう役目なんでね。エレミヤという旧約の預言者がいます。”エレミヤ哀歌” という
ことで旧約聖書に書かれている人ですが、エレミヤは自分は嫌だというのに、神さまが使
うのです。最後は殺されてしまうのですね。エレミヤなど可哀相ですよ。自分としては言
いたくないのに、どうしても言わされてしまう。
私は誰もそういうようにしたくはありません。みんな自由意志でもってやらせたいと思
うのです。自由意志ということなんだけれども、自分の表面の意志では望んでいないよう
にみえても、中ではとても望んでいることがあるんです。そうすると、中のものが出てく
るのです。神さまは中の意志の通りに使うわけです。そういうこともある。だから、自分166
の表面の心と中の心とが一致しないといけませんよね。中では思っている。しかし表面は
違うという時は、表面の心は消えてゆく姿。
いちいち表面の心はどうだ、中の心はどうだとやったんでは面倒くさいから、表面の心
も、中の心も、いいも悪いも、すべて世界平和の祈りの中に入れ、世界平和の祈りを祈り
ながら、自然に行なうことを”よし” とする。たとえそれが失敗であっても”よし”とす
る。「ああ失敗した。しかしこれは消えてゆく姿。どうしてもこれをやらなきゃならなか
ったんだな。これは再びもうしない」というふうにやってゆく。失敗する場合でも、なる
べく人に迷惑をかけないような失敗のほうがいいでしょ。そういう失敗にだんだん変えて
ゆくわけですね。
固カトリックの青年が来まして「いいお話があるから聞きに来てくれ」というので「ど
ういう話ですか」と聞くと、「ベトナムの今の戦争も聖書の予言の中に書いてある。その
結果も書いてある。そういう話をするから聞きにいらっしゃい」と言うのです。すべてが
167質疑応答
決められていて、
:: 😮
人間の側でどうにもならないとしたならば、救いがないと思いますが燗
圏私の知っていることは、人間の運命というものは、いっぺんは決まっている。けれ
こう
ど決まっているのは、業、つまり想念の世界で決まっていて、それが徐々に現象の世界に
現われてくるわけです。ところが決まったことがそのまま現われてくるんだったら、宗教
も何もない。何も一生懸命やる気もなくなるし、神も仏もないわけです。
神さまの世界は実に円満なのですから、戦争も、争いも、不調和なものは何もないので
す。では争いがどこに現われているかと言うと、幽界という肉体世界に近い想念の世界に
現われているわけです。それがやがて現われてくる。現われてくると、予言としては、何
度も何度も戦争があって、しまいには人類の三分の二は滅びてしまう。しかも大変な苦し
みをするということになっています。
神さまがその予言のように、そのまま放っておくとすれば、愛でもなんでもありゃしな
い。ところが神さまは愛だから、キリスト教で言えば天使、私たちは守護神と言っていま
すが、守護の神霊をつかわして、この幽界にある大変な業想念を一生懸命、光で浄めてい
る。援助しているわけです。そして、幽界に積まれている業想念をどんどん消し去って、
最少限度の災いで、最少限度の苦しみで、平和を築き上げようとして、神々が働いていら
っしゃる。それを救世の大光明と言うのです。キリスト教で言う大天使、ガブリエルもい
るでしょうし、ミカエルもいるでしょう。世界中と言ったって、地球だけではなく、宇宙
の星からも応援に来て、守護の神霊が地球界の業想念を浄め去ろうとして、一生懸命働い
ていらっしゃる。その救世の大光明にすがってゆく祈り、その救世の大光明の波長に合わ
さる祈り、それが”世界人類が平和でありますように”という祈りなのです。
救世の大光明に波長が合うと、光明がその人を通して周囲にふりまかれる。多勢の人が
やれば、どんどん世界中に広まってゆくわけです。早く広まれば広まるほど、幽界につも
っている業想念が早く消えてゆく。そうすれば災害が少なくてすむわけです。
そのために宗教があるのです。そういう祈りをする宗教がたくさんあれば結構ですね。
災害があるから、恐ろしいから悔い改めよ。なんて言うことではなくて、積極的に世界
・6g質疑応答
を平和にしよう、という大きな愛の心が動いて、それで働くのではなくては、人間として
生きてゆく値打ちがない。
しゃば
業想念としては、この世界というのは昔の娑婆だし、罪悪深重の人たちがそろっている
社会です。しかし本質的には、人間は神の分け命なのだから、神の分け命の本質を余計出
すようにすれば、早く業は消えてしまうわけです。自分だけでは神の分け命を出しきれな
いので、守護霊守護神にすがったり、世界平和の祈りをして、祈り心の中に入っていって、
神さまにつながって、業想念を消してゆくわけです。それを皆さん一人一人が世界平和の
祈りをやりながらやっているわけです。
こうむ
それによって、世界は災害をあまり蒙らず平和になってゆくのです。だから予言の通り
はず
災害を蒙ったんではしようがない。予言は随分外れているんです。ピラミッドの予言も聖
書の予言も随分外れています。どんどん外れていきます。外さなきゃ困る。
それで最後に本当に当たっていいのは、神権統治で、神々が中心に立って統治するとい
う形です。そうなるよう私たちが働いているわけですよ。170
固新約聖書によりますと、ヨハネは水で、イエスは火と聖霊でバプテスマを授けるで
あろう、とあります。水の流れ、火と聖霊の洗礼についてお話し下さい。
圏新約聖書にヨハネとイエスの出会いが書いてあります。大体あの辺では同じ名前の
人がたくさんおりまして、マリアもヨハネという名前もそうです。マルコにしてもマタイ
にしてもそうですから、誰が本当に聖書を書き残したのか、ハッキリしません。それでも
聖書というのは、神さまの言葉として、あるいは足跡として残っています。
さて、ヨハネにも、一番有名なのは、イエスの先生格の洗礼のヨハネというのがいます。
それから十二人の弟子の中で、一人だけ天寿を無事完うして、九十歳ぐらいまで生きたヨ
ハネがいる。他の弟子はみんな礫になったりして死んでいるんですが、弟子のヨハネは天
寿を完うした。
今の話は洗礼のヨハネのことです。
くつ
「我よりも力ある者、わが後に来たる。我はかがみて、その靴の紐をとくにも足らず。
たた
後からくる者が立派なんだ。キリストなんだ」と言って、イエスを称えたヨハネです。
171質疑応答
実際その頃の状態を、私の霊覚でみますと、イエスはヨハネを師とみたのです。それま
でイエスという人は、自覚がそう強くなかった。やはり若い頃から山にこもったりして、
非常に修行していましたが、さて自分が本当に立派になったのか、ならないのか、自分の
霊覚というものは本当かどうか、まだ自分では確かでなかったわけです。
誰か「お前は立派なんだ」「お前の霊覚は確かなんだ」ということを、ちゃんと認めて
たく
くれる人が欲しかった。そこに洗礼のヨハネが現われた。ヨハネはすごく迫力のある、逞
おぞ
ましい人です。予言者で、みんなに大変畏れられ、慕われ、弟子も相当いました。イエス
さんは洗礼をほどこすヨハネという人の名を耳にして、心の立派そうな人だな、この人に
会ってみょう、というのでヨルダン川のほとりに出て来ます。
ヨハネがそのイエスを見つけて
「あの若者はすごいのだ。自分は水でこうして洗礼をしている。けれどもイエスは火に
よって、いわゆる霊によってバプテスマをほどこすのだ」ということをまわりの人々に話
すわけです。
i7z
イエスの後には大きな光輪が輝いている。聖者というのは皆そうなのです。その人の体
はいこうここう
のまわりに光、オーラが出ています。背光とも言います。後光がさしているわけなんです。
イエスさんも守護神の力が強いから光が強いわけです。それでイエスに向かって、「あな
たはキリストだ」と言うわけです。
そうヨハネに言われた時に、イエスは初めて「ああ自分はやっぱり、自分がなんとなく
思っていた通り、霊覚者だったんだ」ということがわかるわけです。それから非常に力が
つ.いたのです。
イエスはヨハネに会うまでは、どこにでもいる霊能者と同じような立場にいたわけです。
ところがヨハネに「あなたは私よりずっと偉いんだ。あなたの靴の紐を結ぶくらいの役目
しか私は出来ない。あなたはキリストなんだ」と言われまして、翻然と自覚するわけです。
人間というのは、誰か認めてくれる偉い人がいないとだめなんです。大体、立派な人と
いうのは、自分を現わすまいとする。謙虚で、自分は誰よりも偉いんだ、とやりたくない。
だから高慢になりはしまいか、これは思いすぎではないか、といつもいつも謙虚に謙虚に、
173質疑応答
内輪にみるわけです。イエスもそうだったわけです。ヨハネによって”汝はキリストだ”
と言われて、パッと自覚して、それから素晴らしい力になるわけです。
それは私たちでもそうです。合気道の植芝盛平先生がいます。植芝先生は武道では世界
一です。あれ以上強い人はいません。ところが誰もあの方の強さは認めるけれど、魂の高
さというものを認める人はいないのです。私がそれをちゃんと認めて「植芝先生は神人で
ある。神の化身である」そういう詩を書いて、植芝先生にお上げしたわけです。すると、
「私を認めてくれたのは五井先生が初めてだ。誰も私のことをわからなかったのを、五井
先生は認めて下さった」と植芝先生はとても喜ばれたのです。子供のように喜んで、私の
写真を持っていらっしゃったりしている。
それでお互いに思っているわけでしょう。植芝先生は「五井先生は祈りのご本尊である」
と言って、私のところへいらっしゃった時でも、私は植芝先生が長老だし、年上だし、先
輩でしょう。だから上座にすえて「どうぞ植芝先生、こちらへお坐り下さい」と言って、
私はその次に坐った。ところが植芝先生は「とんでもない、先生は上座です」と言って私174
をわざわざ上座にすえて、自分がお客に来ていて、下に坐ったんです。そして「先生は光
のご本尊である。私は先生の会に入ります」というふうに言って下さったわけです。それ
で認めてくれたわけです。
植芝先生も霊覚者ですから、お互いがお互いの立派さを認め合うわけです。そうすると、
同格の人に認められたことによって、お互いに非常に確信がつくのです。低い人に認めら
れたってしょうがないですよ。それから弟子や信者さんがそう言う分には、買いかぶりが
ありますから、同じ誉められても大して感じないわけです。弟子のほうが先生より下なの
はた
は当たり前、先生は偉いに決まっている。ところが傍の対等の人が認めてくれますと、そ
れで初めて世間的な立場に立つわけです。
植芝先生もご自分の神格というものに、非常に確信を持った。私も改めて確信を持った。
お互いに持ったわけです。
そのように、自分で偉いんだ偉いんだ、と言うのではなくて、傍から、この方は偉いん
だとか、光が強いとか、聖者だとか言われると、やはり力はつきます。それと同じように
1乃質疑応答
イエスさんもヨハネに言われて、非常に確信がついたわけです。
さて、水の洗礼、火の洗礼ということですが、水というのは横に流れるものであるし、
流れを清くするもの、流れを司るものであるわけですゆ火というのは縦に燃えて、天地を
つなぐものなのです。
それで自分は横に、みんなをつないでゆく役目だと言って、ヨハネは水で浄めた。塩と
か水というのは浄めの役目を果たすわけで、イスラエル地方では塩や水をとても大切にし
ました。これで魂は浄まった、というんで水で浄めた。それも洗礼と言ったわけです。
ひ
ところがイエスは火で浄める。火というのは”火
” でもあるし”霊” のことでもあるの
です。それでヨハネはイエスに向かって、「あなたは霊で浄める人だ」と言ったわけです。
ひや
イエスさんの浄めというのは、祈って浄めるわけです。私が浄めるんだって、水で頭を冷
したりなどしないでしょう。それなのに「私はキリスト教で洗礼を受けてもようございま
かしわで
しょうか」と私のところに来ていながら聞く人がある。柏手で年中浄められて、光で霊で
浄められているのに、わざわざ水をつけに行かなくたっていい。カッパじゃないんだから。
X76
ヒ鳶陵ま罫領蹉”{ 、
水でやっても何にもなりはしない。浄める人の高さが、ひびきが、霊の光が強いことに
よって浄まるんであって、水をつけても浄まるわけではない。それならお風呂に入って、
石鹸で洗ったほうがよっぽど浄まる。
大体、水を使うというのは、一つの儀式なのです。ヨハネは儀式にそって、まだ水でや
っていたのですが、イエスキリストというものは水でする必要はない。霊の光で、そのま
まキリストの光によって、みんな浄まってゆくんだ、ということをヨハネは言ったという
ことです。
洗礼というのは、本当は、水をつけることではない。そんなものは形の世界であって、
本当の洗礼というのは、魂が洗われる、霊魂が浄まるということなのです。光を強く自分
に吸収すること、それが洗礼です。
それから聖霊というのは、いわゆる魂の光、霊の光ですから、霊光のことです。聖霊に
よる洗礼というのも同じことです。聖霊というのは要するに、魂の光のことを言うわけで
す。
177質疑応答
霊というと、幽霊などと、言いますが、本当は霊というのは、神そのものなのです。で
すから、聖霊というと、神の子という意味です。神のいのちの光という意味です。その光
を受けて浄められると、そのバプテスマを受けた、ということになるわけです。
霊の光というのは、霊能的な人にはみえますけれど、ふつうはみえないでしょう。そこ
で形の世界で、いろいろの儀式があるわけです。日本でもいろんな行事や儀式があります。
けれどもその根本としては魂が、本当に魂が浄まる、霊魂が浄まる、ということが洗礼で
す。
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