霊性の開発


五井昌久著
霊性の開発
白光真宏会出版局

序文

さちのごと
己が幸願ふ想ひも朝夕の世界平和の祈り言の中
しあわ
私が常日頃から思いつづけていたことは、自己の幸せということと、人類すべての幸せというこ
とが、全く一つになれる道ということでありました。
自分だけが幸福な状態になつたとしても、他に多くの不幸な人があつたら、自分だけの幸せを心
から喜びきることは、愛深い人々にはできることではないのです。といつて、自己のすべてを犠牲
にして人類世界の幸福達成のために働く、ということは、余程に人格の秀れた人でなければできる
ことではありません。
今日まで真実に宗教の道を求めてきた人々にとつて、自己の完成ということは勿論のことながら、
社会人類の平和ということも、同時に頭を離れぬ問題であつたと思われます。自己完成ということ
が、人類愛から離れた時には、それは真実の自己完成ではなく、只単なる自己愛に過ぎなくなりま
すから、どうしても真理の道を求めている老は、自己完成即ち菩薩業ということになつてまいりま
す。
1
ところが実際社会における日常生活の中では、自己完成はおろか、自己の食生活を守るための働
きだけでも、手一杯になりかねません。こうした日常生活の中から自己完成の道を求めて精進しつ
づけることは、なかなか容易なことではありません。まして、その上に社会人類のために働くとい
うことはなおなおむずかしいことなのであります。そこで良心的な人々は、ますます心を痛め、悩
みを深くしてゆくのです。
この法話集は、こうした良心的な人たちのためのものでもあり、またこの地球世界に住む、大半
の人々の、現世利益を願う心をも満足せしめる、容易に入り得て、最も高度なる道を、種々な角度
から説いているものであります。
如何に容易に入り得ても、その教えが高度なひびきをもつていなければ、心ある人々の知性を満
足させることができません。私は終始神のみ心を自分の心として、しかも、地球人類の現実生活に
離反しない、宗教の導きりひらいたつもりでいるのです・それが蜘平和の祈りとして・個人人
類同時成道の易行道として、多くの共鳴者を得ることになつたので魂し
この書をお読みになつた方は、きつとこの序文の冒頭の歌の心の深い意味が、おのずからおわか
りになつてくることと思います。自分が救われることがそのまま人類世界の真の幸福に結びついて
いるという真理が、神の言葉として、はつきり皆さんの心を打つことを、私は信じきつて、この書
を皆様にお送り致します。
昭和三十六年一月著者
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一・一目
序文
自由自在心について
ひびき
本心の律動と業想念の波動
悟りということについて
潜在意識と本心の開発
世界平和の祈り
自力行と他力行
霊性開発について
にんのうそくぼだい
煩悩即菩提について
九八六五三一
四一七三三九五一
全託への道
愛行について
運命の修正と守護の神霊
安心立命について
宗教の本質と日本の在り方
へへね0  
七六五三二〇
七ミ三(⊃ 六二八
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翼〜,も」〜♂〜」監2ζΣク㌧ノ》》》、、》」貿、㌧」、」、{ 4,}7》「, `, 【腫♂》`3 》㌦ノヘノ、鬼」、》豊ヲ》し3》、『う〜ダ》、』,⊃.,,



人間と真実の生き方
わけみたまごうしようしゆこれいしゆごじん
人間は本来、神の分霊であって、業生ではなく、つねに守護霊、守護神によって守
られているものである。
かこせ
この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念が、そ
の運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去るのであると
いう強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難のなかにあ
ゆるゆるまことゆる
っても、自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづ
けてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の祈りを祈
りつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得出来るものである。
、、、、、’
b


自由自在へ
、L U
‘ について
自己の欲から来る自由と真の自由
人間はいつの世でも、自己の自由を欲し、自己の想うままにこの世の生活を送つてゆきたいと望
んでいます。
それは外面的の束縛からの自由と、内面的執着心からの自由の二つであるのですが、普通の人は、
自由ということを、外面的の束縛がなく、自己の欲求の通りに事物を動かし得るごとにのみ置い
て、内面的の自由ということには想いを致さないのです。
このような考え方が、昔からずつと続いてきていて、この自由が充たぬと、諦めの心境に自己を
追いこんでいたものであり、終戦後の日本では、自由主義という言葉に勢を得た人達が、自己の欲
望からくる外面的自由を得る為に、他人の自由や、人間の内面的尊厳性を打ち破つてしまい、
.自己
の想念を、自我的欲望にますます執着させ、助長させる結果をひき起して、社会秩序を乱し、人間自








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の神性(真の自由性)を地下にひきずり落してしまうことになつたのです。
これこそ自由というものの本質や真実を知らぬ無智なる行為なのであり、人類にとつて、恐るべ
こびゆう
き誤謬なのであります。
たとえ、外面的に何等自己を制圧する束縛がなくなりましようとも、それで自己が自由を得たと
いうことも、自由自在である、ということも出来得ないのであり、いい得ないのであります。
ですから、現在の資本主義制度が悪く、社会主義制度や、共産主義制度こそ、人間を自由にし得
るものだ、とどのような人が叫び、どのような国が宣伝しようとも、そうした人間の外面的制度の
変革だけで、人間が真の自由を得、真実の幸福生活に入れるなどとは、とても想うことは出来ませ
ん。
どのような主義制度も、それが外面的な動きの中でのみの自由観であり、幸福観であるならば、
それは真の自由を人間に与えることは永久に出来得ないのです。何故ならば、それは常に形の世界
からもたらされる自由観であり、幸福観であつて、内面の心、本心から湧き出でてくる自由でもな
ければ、幸福でもないからです。
外面の世界から与えられたるもの、それは常に変化し、流動してゆくものなのです。外面の世界
の指揮を取つている者が、肉体的欲望をもち、五感的喜怒哀楽の中に生活している者であり、その
周囲の者、また下部組織の者達のいずれもが、やはり、そうした感情生活の中で息吹いている者た
ちである限り、その人たちの日常の感情の動きが、その社会政策、政治政策に必ず変化として現わ
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霊性の開発

れ、その変化にともなつて、その変化を蒙る範囲の人たちは、その自由性を、外部から動かされる
ことになるのです。それはその当人たちの否応なしに行なわれるに決つているのです。いちいちそ
の当人たちの意見を訊いていては、如何なる政策の遂行も出来なくなるからです。
結局、政策を指揮し実行し得る少数の幹部だけが、外面的な自由を得るわけで、他の人民大衆は、
その人たちの為に常に自由を抑圧されつづけてゆかなければならないのです。そして、その幹部た
ちの自由さえも、いつ迄続くか、いつ破れるかも知れぬ、危い外面的自由であり、その自由を保持
おもい
する為に、その人たちの内面の想念は、本心の明るさ、光明を蔽い隠した画策、謀略であつて、一
日として、心の休まるいとまとてもないものなのです。
これは、この人たちも、それに連らなる人民大衆も、自己の欲望たとえそれが国家的、人類的で
あつても、そうした外面的、現象的な形の世界から得る自由や幸福のみに重点を置いているのであ
カルマ
り、常にうつり変わる業的想念の流れを把えていての政策であり、行為なのですから、安定し得る
ことは絶対にないのです。
こう考えてまいりますと、真の自由とか、幸福とかいうものは、どのような外面的政策からも得
られぬものであつて、自己の内部の本心からのみ湧出してくるものであり、獲得出来得るものであ
る、ということになつてくるのです。
自由自在心について
“人間とは何か
“を解決すること7
ここ迄来ますと、私がいつも話しているように、人間とは何か、自己とは一体何なのか、の問題
をまず解決しなけれぽならなくなつてくるのです。それを知らなければ、到底真の自由を得ること
は出来ないし、自由自在に自己の心を動かし得ることは出来ないのです。
おもい
いつも申しますように、人間とは肉体でもなけれぽ、想念でもありません。肉体とは人間の器で
カルマ
あり場所でありますし、想念とは人閲の発した光波の流れであり、もう一方では業の波の流れでも
あるわけです。
カルマ
この肉体的執着欲望、業的想念の波動が、本心を蔽つている以上は、人間が、真の人間、神性を
開発して自由自在な心境になることは出来ないのです。
ヘへ 
人間は瞬時といえど、絶対者神と一緒でない時はないのです。唯一絶対なるもの、神、大生命、
その光明の流れにつながつていない人間という者は一人もいないのです。
ヘへ
その大生命の中に、智慧も富も力も、すべてがあるのです。その智慧に力に富につながつていな
がら、それを知らず、あるいは頭脳で知つていても信仰せず、信行せず、他の世界から、智恵を富
を力を得ようとして狂奔しているのが現在の人間世界の姿なのです。
宇宙絶対者(神)の世界以外に他の世界が、一体どこに在るというのでしよう。神の世界から離
カルマ
れた想念を迷いといい無明といい、業というのです。そうした業的想念は、肉体界に人間が天降つ
てきて(天降つてという意味は、真実に天降つたということ、つまり地球以外の他の天体から霊体
が、天降つてきて、その波動を緩慢にして幽体を造り、肉体を造つて地球界に住みついたものなので
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霊性の開発
す)そうして、肉体界に住みなれ、自己の本住の地である天界を次第に忘れ去るに従つて生じ、肉体界
だけの力で、自分たちの智慧や富や力を獲得しようとしはじめたのです。
このような想念が、現代迄つづいていて、現代では、人間世界は肉体以外にはないのだ、という
ことが常識のようになつてしまつたのです。
そして、そうした考えを根抵にして、すべての政治政策を行ない、社会生活をやつているのです
から、いつ迄たつても真の平和も、幸福な世界も出来上りつこはないのです。
自分も他人も本心では一体
業生の想念の中で、いくらどのような智恵を働かせようと、外的生活だけ整つて、至極便利にな
つては来ても、真実の幸福生活、真の調和の世界へは手がとどきそうもないのです。
業生の想念は、どのような時も肉体生活に自己を限定していて、その生活の幸福だけを求めてい
るのですから、お互いが、お互いの肉体生活の幸福の為に、他から自己を護り、自己の為に他を抑
えるような結果になつてしまつて、自他一体の幸福生活にはなり得ないのです。相対的な考え方は、
いつ迄たつても一体にはならないのです。
一体になる為には、一度肉体的自己という想念を捨てて、生命としての自分、大生命につながつ
ている自分という者に考えを致さなければならないのです。
自分と他とが別々であつて、自分と他人の利害が相反していて、一体になりようもなく、共に喜
自由自在心について
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びを分けあえよう道理もありません。
個人的にいつても国家関係からいつても、同じことなのです。そうした業生的観念をぬけ切らぬ
うちは、文明がどこ迄進んでゆきましても、真の平和、真の調和は望めないと私は思つているので
す。
一つの家庭を例にとつても、親と子、夫と妻、兄弟姉妹、これらの関係も、肉体的に別々に分れ
ていて、別人であります。この人達が調和し相援けて生活している場合は、同じ血を分けあつてい
るとか、同じ家に住んで共通の利害をもつとかいう理由が、殊更それといい合わなくとも通じ合つ
ている時であり、逆に争い憎み合う場合は、肉体的個別感情の利害によつて、その争いや憎悪が生
じてくるのです。私達は一つなのであるという感情から、私達は別々なのだ、個人個人なのだ、と
いう感情に変化した時に、この家庭の調和が破れ、お互いがお互いの利益の中に、感情の中に相手
をひきこもうとして口論し、相手が、自己の利益の中に、あるいは感情の中に入つて来ない、同化
して来ないと、相手を憎んだり、恨んだりするのであります。
このような、相手と自分とが別個のものであるという、誤つた個人主義、いわゆる利己主義が、
人間の心の中にある以上は、人間生活は常に波立ち騒ぎつづけなければなりません。
こうした感情は、真実の人間を知らず、神の愛を知らぬところから起つてくるので、このような
人たちにとつては、自由自在心などは現われようがないのです。
自由自在心とは、真に人間の本体を知り、自己の想念を常に本心(神) の側に置いて、業生的想
霊性の開発lQ
念の幸、不幸、利害得失を、過去からの誤まてる想念の影、無明の消えゆく姿として、その波の流
れに把われず、掴んでも、直ちに放して本心と一つになれる想念の所有者によつてはじめて発現さ
れ得るのです。
宗教と科学の使命
人間が固定し、限定された肉体である、ということや、物質が一定に固つている物体そのもので
あるという考えは、もうすでに過去の古い考えであります。近代は原子力が実際のカとして使われ
はじめている時代なのであつて、人間の肉体は勿論、すべての物体は、肉眼では見えぬ極く微小な
原子の寄り集つたものであり、その原子も、原子核を中心にして(原子核の中には陽子がある)そ
の周囲を幾つかの電子が回転しており、その他中性子だとか、中間子だとか、まだ発見されぬ微粒
子がたくさんあつて、それらの働きによつて成り立つているといわれているのです。しかもその微
粒子が何故こうして働いているか、なんの力によつて動いているのか、ということはまだわかつて
いないのです。理博の湯川秀樹氏は、〃そのほかにわれわれにとつて正体のわからないものがたく
さん見つかつている。われわれが生きているこの世界の正体、本質については、まだほとんどわれ
われは知らないのだ。何もかもわかつたものとして片づけていこうというのは安易な態度だ〃と読
売新聞の座談会でいつております。真実の科学者という者は、実に正当な考えを述べるものです。
わからぬものはわからぬとして、そのわからぬところからまた先へ先へと理論実験を進めてゆくの
11 自由自在心について
です。これが立派な科学者の態度であります。
ところが不真面目な学者や、一部のインテリゲソチヤーは、科学科学と口ではいいながら、その
態度は、まるで科学性をもたず、自己の知識経験の範囲を超えた事柄を、すべて、そんなものはな
い、とか、それは迷信さ、とかいつて嘲笑しさる悪癖をもつているのです。
科学というのは、現われた世界を学問の力と機械器具の力とで追究してゆき人間世界の根本、宇
宙構造の根源を探りあてようとしてゆくもので、大なり小なり、その目的への歩みなのであり、あ
くう
く迄形の世界から無といわれ空といわれる世界の秘密を神秘化せずに探究してゆくのであります。
ですから科学は幾多の学問体系の積み重ねによつて、突き進んでゆくのであります。
科学は人類の文明文化の進歩にとつて重大なる鍵を握るものであるのです。しかし、それは今日
のところでは、まだ外観の世界、物質といわれているところの世界だけの進化にとどまつていて、
人間内部の世界、心の世界の進化とか開発にはあまり役立つてはいないのです。そこで、その方の
開発進化の役目を宗教者が受け持つていて、一に心、二に心と、心の安定、心の探究に努めている
わけなのです。
宗教者は、科学者が、形の世界を機械器具の力を借りて探究してゆくのとは反対に、肉眼に見え
ず、手に触れぬ心というものに直接的にぶつかつてゆく研究をしてゆくもので、形の世界、肉体の
世界を一度思考の外にして、自己の想念を本心、つまり神仏、いのちの本源に集中させてゆく方法
を取つているのです。12 霊




いいかえれば、はじめから神秘力、絶対力、宇宙を動かす叡智というものの存在を信じてかかつ
て、その神秘力、絶対力、叡智にむかつて、自己の想念を集中し、その叡智絶対力、神仏と一つに
なろうと修業するわけなのです。
叡智絶対力、つまり神仏と一体になれば、宇宙の不思議、人類の神秘がはつきりわかつてくるの
は必然となるのです。何故ならば、宇宙の創造主、絶対者は、すべての生みの親なのでありますか
ら、すべての生みの子の状態がわからぬ筈がないからです。
釈尊やキリストはこの状態に一番近づいた人たちであつたと思われます。この状態を自由自在心
というわけです。
我欲を去れば本心は輝く
人間が、自己欲の想念から離れ去れば、自然と本心が表面の生活状態、言語動作に現われてくる
のであります。本心は神の座にある、神の光明であるのですから、その人の生活状態、言語動作は
こと
光り輝いてくるのです。しかしこの光といい、光明といつても、物質的光や光明と範疇を異にして
いるのですから、一般の人たちに、ああまぶしい、とか、輝やかしい、とかはつきりわかるわけで
はありませんが、なんとはなく、明るく柔かく、温かい状態が感じられることと思うのです。
そうした状態に近づくに従つて、その人の人格的雰囲気から、澄みきつたもの、清らかなもの、
明るいもの、快いものを会う人たちに感じさせるようになるのです。
13 自由自在心について
自己欲望の想念を離れるということを逆にいえば、他の為を想い、他の為に働く、国家社会の為
を想い、国家社会の為に働く、人類の為を想い、人類の為に働く、短くいえば、愛一元に働く、と
いうことになるのです。本心が表面に現われているということは、神がその場に現われているとい
うことになります。神はすべてのすべてであり、愛でありますから、神の心が動けば、その人が愛
の想念、愛の行為で働いているということになるのです。
その人が、自己欲望の想念からより多く離れているだけ、その人は把われ少く、自由自在心を現
わしているということになるのです。
そうした人を霊眼で観れぽ、光り輝いて観えるのであります。
霊眼者とか霊能者とかいうのは、どういうことかといいますと、科学者が機械器具で原子を探り
あてたと同じように、自己の特異な体質を元に、肉体波動より微妙な霊波動をキヤッチ出来る人を
いうのです。元来人間の想念というものは肉眼には見えませんが、各種の波状を画いて、その人の
周囲から流れ出ているもので、その人の長い間(過去世からの) の想念の集積が、その人の雰囲気
となつて他に伝わり、あるいは様々な環境や運命を創り出しているものなのです。
そうした雰囲気が霊眼者には、光と観えたり、黒雲のように観えたりするのです。
不幸災難は過去世からの業の消えてゆく姿
ですからそうした想念の波動を観れば、その人がどの程度の魂的高さをもつているか常にどのよ
霊性の開発14
うな行為をしているかがわかるのです。常日頃から愛念で生きている人の魂は光を放つています。
あかし
愛が深いということは本心が顕われている証拠であり、神の心の働いている証であるのです。人格
の高さ低さ、立派であるか立派でないかは、その人の想念の波を観れば判然とするのですが、いま
だにそれを見分ける機械は出来ていませんので、霊能的一部の人にしかそれがわからないのです。
しかし、他人の想念のことはひとまず置いて、自分たちが立派な人格になり正しい運命を創り出す
ことに最大の重点を置かなければなりません。それには、一にも二にも自己の想念を神の世界、光
の側、愛の世界、おもいやりの側に置かなけれぽなりません。人を陥れ、人を憎み、人を傷つける
想いを出し、その想いを実行して、一時は自己の立場が優位に立つたように見えたり、気晴しした
ように思えたりしましようとも、それらの想念は神を離れた想念、光を離れた想念なのですから、
自己の周囲に黒雲を呼び起し、暗い波動で、自己の内部の魂の光を包んでしまいます。内部の光が
それだけ蔽われて、真実の幸福、真実の自由からそれだけ遠ざかつたことになるのですQそしてそ
うした黒雲がその人の周囲を一杯に蔽うと、自然にその黒雲(悪想念の波動)が壊われて、その人
の運命が急激に悪化し、不幸災難が巻き起されるのです。その時その人は悶え苦しんで、意識的無
意識的にかかわらず、今迄の行為を反省するのです。これは今生だけの想念行為でなく、過去の世
からの想念行為によるのですから、現在は自分が悪い想いや行為をしていないとしても、不幸災難
は現われることがあるのです。いいかえれば、不幸災難が現われた場合は、必ずその人の過去から
カルマ
の想念行為の誤りがそうした出来事に現われて消え去つてゆく時なのです。そして、その業(悪想
15 自由自在心について
念行為)が消えてゆく時こそ一番大事な運命開発の時なのです。それを知らないと、
に、天を恨み、人をそしり、自己の不運を嘆き悲しんで、勇気を失つてゆくのです。
善にも悪にも執着してはいけません
そうした時
人間が常に善き運命の下に、明るく勇気強く生きる為には、
神の存在を信じ、神の愛なることを信ずると共に、不幸災難は過去の借財返済であることを確く
信じ、それが消え去れば必ず、神の愛、神の力が自己に顕われてくることを信ずることなのです。
自分が悪かつた、と思つたら、瞬間的に思うだけでよいので、いつ迄も自分が悪かつた、悪かつ
たとくどくど思う必要はありません。悪かつたから出て消えたので、もう誤つていた自己の想念行
カルマ
為(業) は消え去つているのです。そこで想念を立直らせて、神様(守護の神霊) にしつかりつか
まり、どうぞ自己の天命を完うせしめ給え、と祈りつつ真直ぐに生活をつづけてゆけぽ必ずその人
には善い運命が開かれるのです。
あまり自分を悪がつていると、勇気が消滅してしまい、折角輝き出そうとしている光明をじめじ
めと蔽つてしまうことになり、把われの想念になつてしまうのです。善にも悪にも執着してはいけ
ません。本来は、自己は無いのです。悪いも善いも、それは、神の真実の姿を、この地上世界に現
わそうとする光と影の交差であつて、善と把われ、悪と把われるその想念が、生命の流れを阻止し、
カルマ
ためらわせて業となり、神の世界創設を遅れさせてしまうのです。
霊i生の開発16
相対的なこの世界、形の上のこの世界の善悪共にやがては消え去つてゆく姿であり、その消え去
づた後に、善悪相対を超えた、お互いに善意だけに生きる光の世界、神の世界が現われてくるので
す。
そこで私は、極力把われを放つことを人々に教えているのです。
はじめ人間は皆神の中にあつた
はじめことばことばはじめ
太初に言(道)ありき、言はすなわち神なりき、と聖書にあるように、太初はみんな神様の中に
あつたのです。それが、肉体世界が出来て以来、神様の世界と肉体の世界とを全く別のものとして
観たり、神様の世界というものを全然考えず、肉体世界だけを実在と誤つて考えてしまつた無智無
明の想念が、今日の人類の不幸となつてしまつたことを、人間はもつと落ついて考えて見なけれぽ
なりません。
くロブ
釈尊はそれを悟られたので、この世界はすべて空なのだと、一度この現象世界、現れの世界を否
定してしまつて、それに附属している各種の想念、欲望をも一切断ち切ることを教えたのです。
人間が今迄、自分だと思つていたのは、習慣的想念なのです。自分が生命だと思つていたものは、
うつわ
肉体という器内に限定していたものであつて、生命の本体ではないのです。
海は波そのものではないのです。波だけをみて、これが海だといつたらおかしなものです。波は
想念であり、海は生命なのです。
17 自由自在心について
人間の生命を肉体だけに限定して考える誤り、想念を把えて心である、とする誤り、この誤謬を
一日も早く改めなけれぽ、人間世界を真実の世界にすることは出来ません。人間よ、想念を静めて
本心をみつめよ、ひたすら神(守護霊、守護神)を呼びつづけ、本心開発の加護を願え、さすれぽ、
その人は自由自在心を得ん、と私はいいたいのです。
守護霊は貴方の頭の上に、守護神はそのまた上に、貴方の本心開発の為に、真剣になつて過去世
からの貴方の誤つた想念行為の波動を、光の波で浄めつづけているのです。
守護霊守護神に感謝しつづけていれば、必ずその神霊の存在が、貴方に感得出来るようになるで
しようo
霊性の開発18
ひびき
本心の律動と業想念の波動
人間は日々不可思議さに生かされている
人間の中には日々人智では計り知れない不可思議さの中に生活していながら、その不可思議さに
なれきつて、その不可思議さを不可思議とも、神秘とも感じずに生活しているものがたくさんおり
ます。
生れてくる不思議さ、育つてゆくことの不思議さ、考えることの出来る不思議さ、水といい、空
気といい、食物といい、人間を生かすに必要なすべてが自然に備わつている不思議さ。
こう並べれぽきりのない程の、数々の不可思議の中で生活しながら、その神秘さに敬炭なる気持
を抱かぬぼかりか、かえつてあらゆる神秘性を否定しきつて、自分自身の力で生き、人間自身だけ
の力で、人類を幸福にすることが出来ると思つている、愚かしきまでの不思議なる頭脳をもつ人々
のことを時折り私は思つてみることがあります。
 へ
自分たちを生かしている周囲のすべてのものに敬虜な感謝の気持の湧き起らぬような人間に、ど
19 本心の律動と業想念の波動
うして真実の幸福をつかみ得ることが出来ましょう。
この肉体人間は、すべての力を内外から与えられて生かされているのだ、と知らねば、真実への
道の第一歩を踏み出したことにはなりません。
神秘なる力に対して、感謝をもち得ぬ人間は、真理をしることの到底出来得ぬ人間なのでありま
す。
宇宙のあらゆるものを動かし、人間個々の生命と呼ばれ、生き生きと肉体内で働いている神秘な
る力の源泉、これを素直に神と呼ぶことを、どうして躊躇し、否定する人々がいるのでしよう。
私はそれが不思議でならないのです。
人間内部のあらゆる機能を動かして、肉体人間を活躍せしめている、生命と名づけられている神
秘なる力は、如何なる科学者でありましようとも、その神秘性をはつきり解明し得る迄は、そのま
ま神秘なる力として、敬炭にその問題を取りあつかわなけれぽならないし、肉体外の力が、その神
秘性の根本になつていることを否定することは出来ないのです。
何故ならぽ、死という現象によつて、生命と呼ぽれる神秘なる力は、肉体内からその力を消滅せ
しめてしまうからです。肉体はそのまま現存しながら、一度び生命が去つてしまえぽ、その肉体は
すべての機能を失つて、一介の物休となつてしまうのであります。一体生命と呼ばれるその力は、
死という現象の後は、何処にその力をひそめてしまつたのでありましよう。その生命の行方をはつ
きりつきとめ得ぬ限りは、生命はいつ迄も神秘として取りあつかうより仕方がなくなるのでありま
霊性の開発20
す。
生命は何処から来て、何処にゆくのか、そうした深い問題をなおざりにふして、神秘という言葉
や、神という言葉を一笑にふそうとしている人々の頭脳は、非常に独断的な幼稚な頭脳であるとし
か思われないのであります。
そん
そのような、神を否定し、神秘を否定し去ろうとする不遜な態度の人たちや、そうした思想の持
主たちが、国の中心となつたり、世界の中心となつたとしたなら、この地球世界は一体どのような
ことになりましよう。
親の恩恵を忘れた放蕩息子
唯物論者、無神論者という者は、眼に見、手に触れる、いわゆる五感に触れるものだけが存在す
るというのであつて、智恵とか、感情とかいうものも、肉体に附随しているもので、肉体が生れる
と同時に、ある種の構造によつて、自然に備わり、肉体の発育と同じように自然に発達してゆくも
のであるのだから、肉体が人間のすべてのすべてである、といいきつているわけです。
そして、肉体にそなわつている智恵や知識を磨いて、天体や地球の中から、人間に必要なものを
探究してゆき、人間世界を出来るだけ住みよい世界にしてゆこう、というのであつて、天体や地球
じねん
が、自然と人間が生存出来得るような立場を創造していてくれることや、陰陽が結合すれぽ胎児が
出来、赤児として生れ育つてゆく神秘さ等には、すつかり眼を蔽つていて、そうした恩恵を人類に
本心の律動と業想念の波動

与えている大きな力、いわゆる無限の智慧、無限の富、無限の力(神)を無視し去ろうとしている
のです。
現実的な醤でいうと、会社の建物も、得意先も、売買する品物もすべて資本家に出費して貰つ
て、事業をはじめた経営者が、その事業を経営してゆくうちに、資本家の存在も、資本を出して貰つ
たことも、種々と世話になつたことをも忘れ果てて、その資本家に利益を配当するどころか、その
資本家の存在さえも否定し去つて、自分たち直接事業にたずさわつている者たちだけの働きで、会
社は経営が成り立つているのだ、という錯覚に陥つているのと、同じ状態でいるのが、唯物論者、
神仏否定論者の態度なのです。
 へ
ですからこの人々にとつては、生命もものの一つであつて、一人一人の肉体人間の中に全然別個
に存在するものであり、肉体という形を動かす動力であるだけで、人間同志の間に、あるいは動植
物との間における生命の交流などということは考えてもみぬことなのであります。何故ならば、眼
に見えず機械ではかれぬものの力は否定し去るのが彼等の定石でなければならぬからです。
神を否定しての平和はあリ得ない
生命というものが、眼に見えぬ世界、すなわち天界(神) から個々人に分け与えられ、個々人と.
個々人との間に交流し合うものである、という私たちにとつては歴然とした事実を、考えてみよう
とはしないのですから、彼等にとつては、生命も一つの形の中だけに閉じこめられ、その形(肉体∀
22,
霊性の開発
が消滅し去れば、生命も消滅し去るという実に優い生命観になつてしまうのです。
肉体未生以前の世界を想わず、肉体死滅以後の世界の存在を認めず、肉体未生以前より、肉体死
滅以後迄も一貫して、人間内部(幽体、霊体、神体をも含む) に働きつづける神(生命) の存在を
認識せぬ人達の人間観からいたしますと、どうしても、自他の生命に対する敬虜なる惟い、生命へ
の尊敬、生命礼拝の感情が、非常に薄弱なものになつてくることは仕方のないことになるのであつ
て、自己の肉体生存の為、自己の団体や組織の為に、他の生命を損うことなどは、なんら心の痛ま
ぬことになつてくるのです。
自分たち人間が、永遠の生命である神の分け生命であることを認識しておらぬ唯物論者の哀しさ
は、神に対する感謝、万物に対する感謝がないのと同様に、自他の生命への感謝もないわけであり
ますから、感謝から湧き出でる真実の喜悦を味わうこともなく、不平不満の消え去ることもないの
であります。それと共に、人間の生きている理由も、人類の真実の目的ということも、勿論わかつ
ている道理がないのですから、自分たちで、自分たちグループの都合のよいような理由をつくりあ
げて、相手や、相手グループの立場などは全く考えず神から離れた業想念(自我欲望)だけで、自
己や自己たちの勝手に定めた目的の為に、手段を選ばず突き進んでゆくのです。
人間の発生の古代のことも、人間内部の神秘なる構造も解明し得ずに、神や神秘性を否定し去る
ような愚かしい人間たちの、世界統一だの平和論などは、神の眼から見たならば、実に人類をます
ます苦難の底に追いやる浅薄な思想であり行動であるのです。
23 本心の律動と業想念の波動
わけみたま
人間は神の分霊であり、神の姿をこの地上界に顕現する為に働いている者である、という事実を、
私は身をもつて知つているのであり、霊界、幽界の存在もはつきり体験として知つているのですか
ら、神を否定し、肉体以外の人間界を否定する人たちが、如何に巧みなる言葉や方法で、世界の平
和や、人類の幸福を説こうとも、それはすべて、正しいものではないと断定するのです。
神を否定する想いには生命を礼拝する精神も、自他を一体とみる愛の交流もあり得ないのであり
ます。真実の愛の心とは、神がそこに現われている姿であつて、神といい大生命という神秘なる存
在者が、人間の内部に分れて働いていて、その分神(霊)が、一つに融け合う時に起るひびきだか
らなのであります。
.人間とは一時一瞬といえど、神のみ光を受けていなければ生きていることの出来ないものなので
あつて、唯物論者、神仏否定論者といえど、この恩恵を受けずにはいられないのです。
どうして神を否定したりするのか
そうした神の恩恵を受けながら、どうして神を否定したり、万物への感謝を失つたりするような
人間が存在するのでしよう。
それは、人類が、長い長い過去世から積み重ねて来た自我欲望の想念の波によつて、月光が黒雲
に蔽われてしまつたように神の分霊(光)が、すつかり蔽われてしまつたことによるのです。神の
光は人間内部で輝きわたつてはいるのですが、業想念の波が、深く濃く、、その光を蔽つてしまつて
霊悔の開亮24
いて、外部への想いや行動に、その光の働きが現われないのです。そのような人には、神の働きが
少しも感じられないで、神を否定し、肉体生存の為の自己欲望の業想念の波の中を、そうした同種
類の人たちと共に泳ぎ廻つていて、死後は、通常地獄と呼ばれる幽界に陥落して、その業想念、つ
まりその人の想念の通りの神のない世界、光のない世界、愛のない世界、救いのない世界で、自己
が神から分られた生命を生かされていたのだ、という敬炭な気持になる迄、あらゆる苦しみを味わ
うのです。
神は大御親であり、自分自身の本心の在りどころなのですから、神を想わず生きているというこ
とが、如何に無智であり、無謀であるかがわかるのです。私たちは常に神(本心) と想念との結合
を願い行じなければならないのです。
はじめから、神とか仏とか想えぬ人たちは、まず、自己を生かしてくれている四囲の万物に感謝
することです。空気、水、食物、大地、太陽、両親、兄弟姉妹、先生、友人、すべてが自分を生か
はぐ
し、育くみ、力づけてくれているのですから、こうした周囲の万物に感謝するということは、実に
あたりまえのことなのです。そうした感謝の中に、神仏への御恩報じが自然と行われているのです。
そこで、神様と改めて呼ばなくともよいのですが、もう一歩段を上げて、生命の本源(神)と自己
との関係をよくよく考えてみることが必要なのです。そうしなければ、いつ迄たつても、真実の人
間の姿がわかつて来ないからです。
真実の人間がわからなくては、安心して、確信をもつて、この人生を生きてゆくことが出来ない
25 本心の律動と業想念の波動
のです。
26
人間は神から来た光そのもの
私の体験としては、肉体界の他に幽界があつて、そこにも自己の想念があつたということが第一
にわかり、第二に幽界よりもつと微妙な高度な界として霊界があり、そこにも自分自身が存在し、
最後の神界には、神としての自己自身が厳然として存在している、ということが、はつきりわかつ
たのです。(これは私の著書天と地をつなぐ者にくわしく書いてあります)そこで、私は、人間と
いう者は、肉体人間としてこうして生存していながらも、幽界にも霊界にも神界にも同時に存在し
ているということ、いいかえますと、肉体という器の中に幽魂も霊魂も、神体も同時に存在してい
るのであることを、体験したのです。これは体験したというより、私の肉体未生以前から、私の守
護をしていた守護神の力で、体験させられたという方が真実なのでありましょう。
その体験の直後、私は肉体人間であると同時に神の座にもいる自分である確信の下に、宗教指導
者として本格的に一本立ちしたわけであります◎
そうした私の体験から、人間は真実に神から来た者であり、光そのものなのだ、神の座において
は、すべてが一つの光であり、働きとして別個の光線として分れているだけなのであつて、それが、
個々の肉体という器を使つているのである。だから、肉体だけを人間の全存在として生きているよ
うでは駄目だ、肉体は一つの盟的存在であつて、人間の生命、真実の人間の働き場所でもあるのだ
霊性の開発
おもい
から、肉体にまつわる、種々様々な欲望的想念を、常に浄めて消し去つておかねばならぬ、真実の
人間、すなわち神霊(または霊魂)が、光そのものの波となつて肉体界で働こうとするのに、自己.
を肉体だけに限定し、その存在だけを、唯一のものと想つているような、誤つた想念、神を離れた
欲望的想念が、その働きをさまたげてしまうようでは、いつ迄たつても、その人たちの運命は善く
ならないし、従つて、人類世界の幸福も訪れては来ない、ともつばら説いているのです。
ひたすら本心を想い続けよ
私は、本心というものと、業想念、つまり、喜怒哀楽、情欲、嫉妬等々の感情とをはつきり分け
て、本心は神のみ心で、光そのものであつて、永遠不滅のものであり、業想念は、現われては消え
ゆくものである。であるから、常に常に自己の心の中で、本心(神) を呼びつづけ、自分に都合の
悪いことが現われたら、過去世からの業想念が今消えてゆくところである、と、その悪に把われず
に、神様の方に心を向けてしまうことを教えているのです。そして、瞬時といえども自分の運命を
善導していて下さる祖先の先覚者である守護霊と、その上位にある守護神への感謝を怠るな、と説
いているのです。
せめて人類の一割が、自己の想念を本心の座に引き上げて、本心の光で、自己の仕事に専念して
いたなら、この世界は、たちまち悪想念の波動が浄められ、憎しみなく、闘争なき、平和世界とし
て、光明化してゆくことは疑いもない事実なのです。
27 本心の律動と業想念の波動
ですから、自己の誤ちも、他の悪をも、いたずらに責めさいなむことを止めて、いずれも過去世
からの誤つた業想念の消え去りゆく姿であることを認識し合うようにしてゆくことであり、その裏
づけとして、自他の守護霊、守護神にいちはやく、その業想念の消え去ることを感謝の想いと共に
思うようにしてゆくことが、第一であると思うのです。
自分の誤ちや他人の悪想念を、いつ迄も追いかけ廻わしているようでは、けつして、幸福な世界
が来るわけがありません。それは、業想念の波動の中に、自他共に巻きこまれていることであつ
て、本心の存在を忘れた姿であるからです。
カルマ
どのような姿で、どのように業が現われようと、それは、そのまま想いを動かさずにいれば消え
カルマ
去つてゆくのですから、その業に対抗的になつたり、無理に消し去ろうとすることはありません。
黙つて、守護霊、守護神の加護を念じつづけているだけでよいのです。
どんな悪も不幸も、必ず消え去ることは、絶対なる事実なのです。それを信ずることです。
第一に神の愛を信じ、第二に自己が神の分れであることを信じ、第三に、業想念は、必ず時間的
に消え去るものであることを信じつづけて生きてゆくことを、私は説きつづけているのです。
o悪は消え去るもの、不幸は消え去るもの、いかなる欲望的想念も、神を想いつづければ必ず消え
去るもの、これは私が体験から得た車実なのであります。
業は肉体幽体そして人類世界を急転回している
28.
霊性の開発
業想念というもの(波動) は、個々人の肉体、幽体を急転回していると共に、人類世界(肉体界
幽体界)をも、急激に転回しているものでありますから、肉体界の自己自身の力だけでは、なかな
かその転回(輪廻) の中から抜け出ることがむずかしいのです。
業想念波動の転回は、幽体(潜在意識) から肉体(顕在意識) へ、肉体から、幽体へと烈しく廻
おもい
つているので、幽体(潜在意識) にひそんでいた想念が、他の人や事件の同じような想念にふれる
と、ひよこつと肉体意識に顔を出して、怒りの感情がこみあげてきたり、悲しくなつたり、妬まし
くなつたり、高慢になつたり、各種の欲望となつたり、意地悪い感情が現われたりするのです。そ
なまなか
して、こうした感情は止めようとしても、生半の意志力では跳ねかえされてしまう程、烈しい勢い
をもつていて、肉体の言語動作に現われてしまうものなのです。たまたまこの感情を意志力で抑え
きることが出来ても、それはその感情が消え去つたのではなくて、中(潜在意識) に抑圧されただ
けであつて、後から後から突きあげてくる想念の為に、いつかはその数倍する力で肉体の言語動作
に現われたり、またそれをも抑圧していると、その業想念は、運命の不幸、病気や、事業の失敗と
して現われてくるのです。
意志力で業の想念(感情) を抑えることは、なかなか立派なことであり、必要でもあるのですが、
それだけでは、その人の運命は真実には善くならないし、魂が浄まり、業想念が減じたということ
にはならないのであります。本











29
本心と業想念をはつきリ区別せよ
そこで、私は、いつでも、本心と業想念とをはつきり区別することを教えているのであつて、如
何なる感情の現れも、自己を痛め、他を痛めるようなものであつたら、それはすべて一応業想念
(過ち)と観て、その感情を一時意志力で抑えるか、抑えられなければ、抑えられないでよいから、
表面に出てしまつたら、その直後その感情の沈静と共に(感情が激している時に出来れば勿論これ
に越したことはありませんが) この感情は、過去からの業想念の消え去る姿である、とその想念に
しがみついていたり、把われていないで、突き放してしまい、守護霊、守護神への感謝に想いをか
えることにするのです。これはたゆみない想いの訓練が必要ですが、他の如何なる宗教的教えより
も、早く、楽に業想念の渦から抜け出でることが出来、本心(神の心) の中に、いつでも自己の想
念を一つにしていることが出来るようになるのです。
どのようなことでも、練習も訓練もしないで、いわゆる実行をしないで、上手になることは出来
ないのですから、二度や三度その業想念に敗けたとしても、うまずたゆまず、守護の神霊への感謝
をしつづけ、現われてくる業想念を消えてゆく姿と観じ、それに把われぬようにしてゆくことです。
いかに根深かそうな感情でも、暗い暗い環境でも、この方法をつづけてゆく限り、必ず消え去り、
この肉体生活において、本心(神の心)と一つに成り得るのです。
霊性の開発30
あなたの内も外も神の生命で充たされている
神様は、大祖親なのですから、肉体人間の親以上に、人間の幸福を願つていられるのです。人間
に罰を与えて苦しめたり、弱い肉体人間をいじめたりすることは絶対にないのです。
神様に敬虜な気持になることは必要にきまつていますが、神様を恐れたり、神様は自分を遠く離
れたものであると思つたりする必要は毛頭ありません。そうした神様の愛が守護神となり、守護霊
となつて、より身近にいて肉体人間が幸福な世界を創りあげるようにと、加護し、力づけていて下
さるのです。
今、あなたの生活が不幸であるとするならば、それは、神様が罰をあてているわけではなく、あ
なたが過去から現在に至るまで、真実の神を知らずして、神を離れた生活をしていたからに他なら
ないのです。
いかに神社を詣で、仏閣に参じたとしても、それだけでは、神を信じているとも、仏を信じてい
るともいえないのです。真に神仏を信じ礼する者は、まず神の愛を信じ、自己が神の分霊として、
この世界におけるなんらかの天命をもつて生れて来ている者であることを信じなければなりません。
自己が神から離れて存在するものではないのであり、自己の内部も外部も、すべて神の生命で充
たされ蔽われているのですから、ただひたすら神への感謝、万物への感謝で、生活してゆくことが
賢明なる生き方であるのです。それは、いたずらなる神仏詣で、宗教教団参拝より、数等倍神仏に
31 本心の律動と業想念の波動
近づいている生き方なのです。
いちいち他人を嫌悪し、妬み、そしるような心境で、御利益だけを神仏から得ようとするなどは、
実に愚かなる哀しむべき業想念というべきであります。
神は愛であり、人間は生命において兄弟姉妹であります。(生命においてとつけ加えたのは、業
想念、業因縁における兄弟姉妹ではない、という意味です) 一日も早く肉体人類の天命を完う出来
るように、世界人類の平和の祈りを致しましよう。
霊性の開発32
悟りということについて
悟リとは心と吾が一体になること
〃真実の悟りとはどういう状態をいうのですか∬ と、私は時折り人に問われることがあります。
悟りとか悟道とか、覚るとかいう言葉は、道を求めている人の誰しもが、心にとめないわけにはゆ
かない言葉です。
悟ろう、悟りたい。そう思う心が、師を求め、道を求めて、各修養団体や、宗教団体を尋ね歩き、
修業して歩くことになるのです。しかし、悟ろうとも悟りたいとも悟つたとも思わずに、悟つた行
ないをしている人も、たまたま存在しています。
われ
悟りということを文字によつて解せぽ、† (心) という字と、吾という字が一つになつていま
す。心と吾が一つになる、吾が心と一つになる。そうした意味を現わしています。
この意味をもつと具体的に申しますと、普通人は、心と吾とを常に別々に考えています。自分の
33 悟りということについて
心とか、吾れの心とかいつて、自分と心とを別にして考え、自分の中に心があるように考えていま
す。ところが、これは実におかしな話であつて、心を離して、一体自分という者の存在を誰が肯定
するのでしよう。人間という者は、心が先きにあつて、自分という者を肯定するのですから、心の
外側である自分とか、心の外皮である自分とか、いわなければならなくなるわけです。
ですから、実際としては、心というものが、自分自身でなければならないということになるので
す。と致しますと、心でいけないいけないと思いながらお酒を飲んでしまつたり、間違つたことを
してしまつたり、怒つたり、妬んだりしてしまつたりすることが、しばしばあるのはどういうこと
になるのでしよう。
ヘヘへ ヘヘへ 
片方の心では、いけないいけないといい、片方の心では、そのいけない、ということを行なつてい
る、ということは、どうも全く面妖なことであります。この二つの心はどちらが真実の自分なので
ありましよう。
霊性の開発34
心は肉体が生れる前にすでにあつた
さて、その前に、この心というものは、この肉体が出来たと同時に存在するようになつたもの
か、それとも、肉体発生以前に、すでに存在したものか、ということを考えてみなければなりませ
ん。
肉体発生と同時に心が出来たと致しますと、その肉体を、母親の胎内に宿したり、その胎内で発
育させ、この世に誕生させた、大きな智慧を有する、何か、創造主的存在者を認めないわけにはゆ
  
かなくなります。我々のように、このように素晴しい智慧をもつ人間を生み出したものが、単なる
物であったり、波動であつたりするわけがないからです。人間が全智能をしぼつて偉大なる機械を
造つたとしても、その…機械が、人間を生み出すことは出来ません。機械はあくまで人間に造られた
ものであり、被造物であると同じように、肉体の人間は、肉体人間以前の存在者、大智慧者の被造
物であることは確実なことであります。
そして、機械を造つた人間が、その機械を、自分たちの目的の為に自由に使用しようと思うのと
同じように、肉体人間を創つた、存在者は、その人間を、自己の目的の為に働かせようと思うこと
は必定であります。
さて、このように考えてまいりますと、肉体人間は、肉体人間自身だけの、自由や、幸福感だけ
を追究してゆく生き方が、いつ、どこで、どのような場合に、創造主の目的意志に相違してくるか
がわからなくなり、いつの間にか、肉体人類の運命全体が、絶対なる大智慧者(神) の人類創造に
反した生き方をしてゆかないとは限らないことになつてゆきます。
ですから、悟る、ということが大事になつてくるのです。
◎ タつの受はつきり申蓬; 喚神の心とつながつている本心・つ竃神から分れた生命
そのものとなり、神の目的達成の為に、この人類世界を動かしてゆこうとする肉体発生以前からの
心。35 悟






V’つ


カルマ
一つは、立日心識、想念、仏教でいう、識、業、ということになるのであります地レ
さわ
本心は、肉体内の生命を、自由に碍りなく、神のみ業達成の為に働かそうとしているのですが、
肉体が発生してから、肉体人間の意識、感情として、人類全体の前進というより、自己自身の安楽、
カルマ
富貴を願う業的想念が、本心を蔽つてしまつて、真実の人間の心のごとき顔をして、私が人間なの
だ、私が人間の本心なのだ、というように、人類社会に宣言して歩き、唯物論的社会が構成されて
いつたのです。
こうした想念行為が、人類を次第に神から遠ざけ、肉体人間発生以前の心を忘れ果て、肉体発生
によつてはじめて心というものが出来た、というように誤解しはじめたのであります。
この考えから、人類のすべての不幸、つまり天変地異、戦争、社会、個々人の争いが生じ、世界
も、個々人も、真の幸福生活を築きあげかねてしまつているのです。
そして、今こそ、いよいよ劫末の様相を呈してきて、人類が、等しく、人間の真相を悟らぬ限り
は、地球世界に大きな不幸が、襲いかかつてきようとしているのです。
ここ迄説明してまいりますれぽ、悟り、ということが、どのような状態をさすのであるかは、お
わかりになつたことと思いますが、なお詳しく述べることと致しましょう。
怒り妬み恐れ悲しむ想いは自分ではない
悟りとは、本心と自分とが、全く一つになるということなのであります。
霊性の開発36
迷つたり、怒つたり、恨んだり、妬んだり、哀しんだり、恐れたり執着したりする想念というも
のを、はつきり、自分ではないと、思い定めることなのです。
自分とは、神と一つである本心そのものであり、諸々の想念は、過去における自分の迷いの足跡
が、今現われて消えてゆく姿である、と思い定めることなのであります。
自分が、自分の創造主であることを知ること、つまり、自分が神の使命達成の一員として、神の
世界(天)から天降つて、この地上界に神の生命を華咲かせつつある者であることを知ることなの
です。
さわ
悟り、とは、自己の本心を光り輝せること。生命を凝りなく、生かしきれる状態をいうのです。
悟りといつても、種々と段階のあることで瞬間的に、自己の本心を現わしたり、生命を生かし切
つたりすることも、悟りでありますが、常に変りなく、本心そのままで生きぬいている人があると
すれば、その人は釈尊と同じような正覚を得た人というべきでありましよう。
本心そのままで生きている人の状態は、どのようかと申しますと、
慈悲(愛) 深く、喜怒哀楽に迷わされず、すべての恐怖なく、他人の本心と想念をも、はつきり
区別してわかり、おのずと人々の想念を浄めている、といつたような人になるわけです。
覚る、という文字は、眼ざめる、ということ、心の中を見る、ということでもありますから、正
しく心の中を見る、正しく眼ざめる、ということは、本心そのまま、ということでもあるわけです。
本心は、神の心であります。そして神は光であるので、本心そのまま生きぬいている人は、光り
37 悟りということについて
輝いている人であります。その光は霊眼の人には見えますが、他の人には雰囲気としてわかるだけ
でしよう。しかし、そうした人、あるいはそれに近づいている人は、その人自身が言葉でとやかく
いわなくても、その日頃の行為の中に、その光が、現われずにはいないと思います。
心は神の心口つのみ
さきに私は二つの心と申しましたが、実は心は、本心、つまり神の心一つしかないのでありまし
おもい
て、私達が通常心と呼んでいるものは、想念にすぎないのであります。想念は、すべて業でありま
して、因縁因果によつて、生じるのであります。因縁因果とは、簡単にいえば原因結果ということ
で、過去のこうした原因により、こうした縁にふれ、このような結果になつたということでありま
す。
おもい
人間はこの想念の波を、いつしか心と呼びはじめて、生命の本然の働きをゆがめていつたのです。
生命は神から来たものであり、本心は、生命を、神から来たそのまま素直に、この人生に生かし
きろうとして働いているのであつて、本心(神の心)そのままに各自が、自己の生命を生かし得る
カルマ
ことが出来れぽ、直ちに大調和した人類世界が出現するのでありますが、業である人間の想念が、
ひびき
各人各様に勝手な動き方をして、生命の正しき律動を阻害しているのが現在の世界なのでありま
す。
世界を平和にする為には、幸福にする為には、神の心のままに各自が、この人生を生きぬいてゆ
霊性の開発38
かねばなりません。
神の心とは、愛であり、光(光明) であり、調和であります。そうした心が、人間の本心なので
あります。
おもいカルマ
ですから、こうした心に離れた想念は、すべて神を離れたもので、迷いであり、業であるといい
得るのです。
怒りの想い、争いの想い、恐怖の想い、妬心、悲しみ、等の想念は、みずからの血を汚し、血液の
循環を乱す、と、医学者もいつておりますが、血を汚し、血液の循環を乱すということは、自己の
生命の運行を損つていることになります。しかも、そればかりではなく、そうした想念は、そのま
ま波動となつて、他の人々、社会、人類に伝つて、それぞれに悪影響を与えてゆくのです。人間一
人の想念は、自己に影響することは勿論、このように他にも影響を及ぼしてゆくものなのです。
法然と親轡…の場合
この原理は、逆に、自己が、本心を開発し、光明化して生活していれば、社会人類を、知らぬう
ちに浄め、向上させてゆくということになるわけです。
昔から、悟ろうとして、山に入つたり、荒行をしたりした人がたくさんありましたが、その人た
ちの中で、正覚に近い悟りに入つた人は実に数少いのです。
D 潔土門の開祖法然上人は、その頃の修業者の大多数が通つて来た聖道門(自力) の修業をしつく
39 悟りということについて
せきがく
し、学問知識は、当代で並ぶ者もない程の碩学でありましたが、それだけでは、どうしても上人の
心は和みもしなければ、安心しきることも出来ず、悶々とした末、悟りへの道は、学問知識をいく
ら積んでも、如何なる荒行をしても到達出来るものではない。悟ろうとする想念と、悟りという境
地が、二つに離れていては、いつまでたつても、悟れるわけがない。悟ろうなどという気持を、す
つかり捨て切つて、すべてを阿弥陀仏(本心) に任せきつてしまわなければ駄目なのだ、と自己の
脳裡に去来する想念を、阿弥陀仏(神、本心)と一つにする為、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と一
瞬の想いの隙もない程に、阿弥陀仏を呼びつづけたのでありました。
このことは、実に偉大なことなのであります。何故かと申しますと、法然ほどの深い学問知識が
あり、修業も積んだ坊さんが、その学問知識も、今迄の修業方法も、すべて捨て切つて、まだ誰も
見たこともない、行つたこともない、阿弥陀仏の存在を信じ、西方極楽浄土の存在を信じきつたこ
となのであります。
これは出来そうで、なかなか出来るものではありません。これが無学文盲であつた
り、貧乏であ
つたり、重病であつたりする場合ならば、案外なんでもなく飛びこめることでしようが、法然のよ
うな立場では、実に思いきつたこと、という他はありません。
釈尊の教典の中の大無量寿経に、法蔵菩薩の誓願(弥陀の本願)という教えがあつて、法蔵菩薩
が、正覚を得たら、西方極楽浄土に在つて阿弥陀仏となり、自分の名を称える者は・必ず救うと誓
願した、と書いてあるのですが、釈尊は、その頃実在していた人でもなく・仏典は釈尊自身が書い
霊性の開発4Q
たものでもないので、そのことが事実であるかどうかはわからないのです。これが理論的な、哲学
的な経文ならば、これこれ、しかじかで成る程と肯定出来るのでしようが、この教文は、只単なる
話なのですから、信用する根拠はないのです。ですから信ずるだけということになるのです。
法然上人のように学問的な頭の、いわゆる碩学が、どうして、深い学問の末に、この教えに全生
涯をかけたのでしよう。
今、私が法然上人の心を推しはかつてみると、その時の上人の気持がよくわかるのです。それは、
その当時の僧侶の中にあつて、自分の学問知識が、かなり上位にあつたこと(他からみれば傑出し
ていた) は、法然自身でも知つていたでありましよう。その自分でさえ、悟つた安心した気持で生
きてゆかれないのに、自分より知識の低い、身分の貧しい、大多数の庶民たちが、どうして安心立命
して、この世の中を生き通してゆけるであろう。こんなことでは、とても人を救うことは出来ない。
あげく
どうしたらよいのであろう、と思いつめた挙句、大無量寿経に書いてあつた弥陀の本願を、ある著
書を読んでいるうち思い出したのであります。
その時、霊感的に、これだ、と思つたのです。そうだ、一般庶民を救うには、この弥陀の本願を
教えるより他に方法はない、と思いが定まつたのです。
この気持になつたのも、求めて求めて求めぬいた、最後の決着であつたからなのです。仏典とい
う仏典を学びつくして、もう日本では学ぶものがない、という最後に、弥陀の本願を想い出したの
です。最後の決着ですから、もう、右にも左にも想いが動かないのです。ぴたりと弥陀の本願、つ
41 悟りということについて
まり南無阿弥陀仏に想いが集中したのです。その時から、法然の全身全霊は、南無阿弥陀仏になり
切つてしまつたのです。現代の言葉でいえば、神と我れとは一体である、我れは神の中にある、と
思いが定まつたわけですじ
学問だ、知識だ、修業だと、業的想念で、追い廻わしていた仏というものが、学問知識だ、修業
だと、すべての想念を、ぐるぐる廻わりさせないで、阿弥陀仏に集中させてしまい、融合させてし
まつた時に、はつきり、知覚出来たのです。知覚などというより、もつと仏と一つになることが出
来たのです。
0 「これが親鸞にな
りますと、もう一歩、自己の想念を捨て去り、業想念の方で何を思おうと、何を
しょうと、一切お構いなしに、阿弥陀仏(神) に、すべてを任せきつてしまつたのです。他力にな
りきつてしまつたのです。法然の方は、自己が初めて、他力の南無阿弥陀仏を称え出したのですか
ら、それを称える為の努力が必要でありましたが、弟子の親鸞の場合は、尊敬する師が現実に存在
するのですから、その教えそのままを実行する信だけあればよいのです。ですから、最初に信じた
そのままに、南無阿弥陀仏の中に生命を投入してしまつたのです。全く、少しの自力もない絶対他
力であつたわけですり
親鸞が、この師に出会うまでには、師同様自力の修業をやりつくして来たから、その師と同じ想
いで南無阿弥陀仏に飛びこんでゆけたのです。親鸞は、自己の想念、(心ではありません) は、悪
いことばかり考え、迷つてばかりいてどうにもならないものだ、この想念が、自分から離れ去らな
霊性の開発42
いうちは、到底悟道に入ることは出来ない、と思つて、自分は罪悪深重の凡夫である、と、それま
まみ
での自分という者、悟ろうとする想念を、駄目なものなり、と捨離してしまい、師に見えたその日
から南無阿弥陀仏一本に飛びこんでいつたわけなのです。
おもい
ざ「それからの親鸞の宗教には、力みもなければ、研鑑もありません。悟ろうという想念も、悟らな
おもい
けれぽいけない、という想念もありませ逃
只、阿弥陀仏を念じ、その称名のままに生きてゆく生活だけしかなかつたのです。したがつて、
自分の修業で、自分が救われるのでもなく、自分の力で人を救うのでもなく、阿弥陀仏への道へ、
人を導き入れてやれば、その人の称名に応えて、阿弥陀仏が救つて下さるのだ、と信じ切つたので
す。
こうした信仰の根本には、肉体の自己が、どのような境遇になろうとも、それはすぺて阿弥陀仏
カルマ
の大慈悲なのである、と、肉体生活の幸、不幸は、阿弥陀仏によつて過去世の業が消え去つてゆく
姿なのであると、本心の自己と、業想念の自己とを、はつきり分けて考えていたに違いありませ
ん。これは法然にも同じことがいえると思います。
キリスト教の、〃神よみ心のままになさしめ給え〃の全託の祈りと、同じ境地であろうと思われ
ます。
感情のあリ方をよく知つていた法然親鸞
43 悟りということについて
法然、親欝の頃は、今のように、自由平等などと叫ばれている時代ではなく、一般庶民は、権力者
と権力者の間にはさまつて、安定した経済生活も、平安な落ついた生活もなく、常に明日知れぬ生
活におびえ、生命の危機にあえいでいた時代なのですから、この世でどのように懸命に働いても、
正直につとめても、心の安心は得られなかつたのです。そこに、あの世での救い、浄土宗教が説か
れだしたのは、民衆にとつてどれだけの心の安らぎであつたかは、想像に難くありません。
学問のない、知識の少い民衆に、むずかしい仏教哲理がわかるわけがありません。むずかしい天
台学などは、上つ方、公卿や、武士階級ぐらいまでが、それも、至極頭脳のよい人々でも、理論的
かた
に理解出来た程度で、実際の心の救いや、悟りにまで突き進むことは、なかなか難かつたと思いま
す。もつとも、それ専門の僧侶たちの中からでも、安心立命の境地に到達した人は、稀れなる上根
の人たちだけであつたようです。
人間という者は、欲望を失くせ、といわれても、なかなか失くせるものでなく、恐怖するな、怒
るな、哀しむな、執着するなといわれても、その性情が容易なことでなおせるものでもありません。
法然、親鸞は、そうした性情をなおせなどとは少しもいいません。私たちも、貴君方もそうした
肉体人間の想念感情においては、同じことなのだ、そのような想念はどうでもよい、怒つたら怒つ
たまま、泣いたら泣いたまま、ロハひたすらに南無阿弥陀仏と称名なさい、称名さえすれば、貴君が
たは、極楽浄土に救われてゆくのだ、と教えているのです。
これは、法然、親鸞が、肉体想念(業生) と、本心(仏心) とをはつきり区別して知つていたこ
霊性の開発44
とを現わしています。
肉体想念というものは、余程上根の者でない限り、自己の力で消し去り得るものではない。それ
より一度、そうした肉体想念をすべて離して、輪廻する想念はそのままめぐらして置いて、本心を
そのまま阿弥陀仏と一つにしてしまう為の、称名を、ひたすらつづけることを実行したわけです。
こう致しますと、輪廻する業想念を少しも追いかけず、いつも阿弥陀仏の世界に、自己の本心が
一つになつているのですから、自然と、過去世からの宿縁的、業想念が消え去つてゆき、本心の光、
阿弥陀仏の光明が、自分の生活の光となつてゆき、安心立命してあの世に旅立つことが出来るよう
になるのです。
死んでも、阿弥陀様に救つて貰つて、光明燦然たる極楽浄土に生れ更れるのだ、という想いは、
悪事的な行為をしてまで、肉体世界の、富貴栄達を求めるよりは、貧しくとも心正しく生きぬいて
ゆく方が、より阿弥陀様に救われる率が多いように、おのずから思われてくるし、自己の輪廻する
業想念に対して、我れと我れを責めさいなむ想いが非常に少くなつていつたことと思われます。
自力で悟ろうと思わず、自然に本心が自己の生活に現われてくる。これが浄土門南無阿弥陀仏の
真の教えであつたのです。
真実に法然、親鸞の心をくんで、称名念仏した人は、必ずその生活に本心の光、仏の光が現われ
ていたことでしようが、これに少しでも自力の想いが入つてくると、他人の行ないを見て、その行
ないを非難し、自己の行ないに対しても、己れを裁く地獄の生活にひきこまれてゆきます。これで
45 悟りということについて
は折角の浄土門他力信仰が、こわれてしまい、お互い信徒同志で相争う様相を呈するようになるの
です。
ひたすらなる弥陀への全託のみ
自力が入ると、どうしても、人を責め裁く想いに把われやすいのです。肉体の自分が悟ろう、と
思うのでは、折角の阿弥陀仏の救いが、その効果を非常に薄くしてしまいます。自己の想念という
ものを把えている以上、自己以外の阿弥陀仏に飛びこんでゆけるわけがありません。そういう自己
を、彼方に突き放したところから称名念仏が生きてくるのです。
おもいおもい
片方の想念で、自分は駄目だとか、俺は悟れたとか思つていて、片方の想念で、南無阿弥陀仏と
いつても、それは真実の称名にはなりません。真実の称名念仏は、駄目だも悟れたもありません。
只ひたすら弥陀への全託の称名があるだけなのです。
法然や親鸞のように、自力の道を、生命がけで通つて来た者には、この道理が実にはつきりわか
つていたのですが、弟子の人たちや、信徒の中には、この道理がよくわからず、自力と他力を交ぜ
合わせて悟ろう救われようと思つた人が、かなりあつたようです。
真に弥陀への全託の称名をなし得た人ならば、信から行へ、真実の道、仏の道を、過ちなく踏み
行なつていつたに違いありません。
何故ならば、心をそのまま仏に合せつづけているときには、仏の完全円満性が、必ずその人の心
霊性の開発46
に流れ入つてきて、その人の想念で思うのではなく、おのずから、自然法爾に、仏に近い生き方が、
その人の生活に現われるに決つているからです。
月光に眼をむけている時には、月光が眼の中に入つてきます。月をみつめているのに、星の光が、
月の光以上に眼に入つてくることはないのと同じです。月をみつめながら、彼方の星は美しいなど
と思う人はありません。そのように、阿弥陀仏だけに心をむけていれぽ、阿弥陀仏の光以外の黒雲
が、その人を動かすわけがありません。もし、そうした黒雲的悪の如き状態が現われたとするなら
ぽ、それは過去の業想念の消えゆく姿であつて、新たに起つた業想念でないことは確かです。
日蓮の出現と念仏者の堕落
ところが、法然や親鸞が他界した後の浄土門の人たちの中で、称名念仏を誤り考えた人が、かな
り多く出て、口では念仏を称えながら、業想念を新たに生み出す行為をしている人や、本心と業想
念の区別が、はつきりわからず、業想念の富貴栄達の為の念仏を称名するようになつた人々が出て
きて、一心決定の念仏の姿が少くなつていつたのです。
その頃、日蓮上人が現われていて、念仏を称えるだけで救われるなどとはとんでもない、そんな
ものは無間地獄へ落ちるにきまつている、といいきつたのです。
日蓮のいい分は、この世で仏というのは釈迦牟尼仏の他にはいないのに、阿弥陀仏などという仏
があつて、人を救うなどというのは、でたらめである。人を救い、この国を救うのは、釈迦牟尼仏
47 悟りということについて
の最後に説かれた法華経以外にはない。それ以前の教えは、全部最後に法華経を説く為の、前座で
あつて、そんなものはみな方便の為に説いたのだ、と釈迦牟尼仏もいつておられる。だから、方便
の経文で人が救えると思つている人聞は、全部地獄へ落ちるのだ、そんな教えをみんなが信じてい
れば、日本国も滅びてしまう、今こそ、その重大危機なのだ、と絶叫しているのです。
これも一理あるのですが、法華経のように深い真理を、はたして一般大衆が理解出来たでしよう
か、もつとも、日蓮の心は、日本の国を救おうという念願で一杯だつたのですから、一般大衆より、
要路の為政者や権力者たちに、その教えをまず知らせたかつたのでしよう。
自分自身が救われるより、まず国を救え、という叫びなのです。それが〃我れは日本の柱なり”
という豪語になつているのです。
霊性の開発48
弥陀と西方極楽浄土
法然、親鸞は、個人の救いを目的にし、日蓮は、国の救いを目的としたのですから、その生き方
が、おのずから違うのは仕方がないのです。
日蓮のいうように、法然の教えでは、地獄に落ちるかというと、これは日蓮の一人合点で、そん
なことはありません。地獄に落ちるような教えを、いくら方便でも釈尊のような偉大な聖者が説く
わけがありません。人間にはそれぞれ機根というものがあつて、その…機根に応じて、教えは説かれ
なけれぽなりません。
法然が、西方極楽浄土にお在す阿弥陀仏といい、その阿弥陀仏を称名すれば救われる、と説いた
のは、法然にとつて、本当は西方極楽浄土の阿弥陀仏であつてもなくてもよかつたので、人間の観
念を、ある一ケ所の完全円満な、浄まりきつた場所と、完全円満なる、人間の願望をすべて満ち足
らしてくれる人格的存在である仏(神)とに統一させる為に、幸い大無量寿経にあつた、弥陀の本
願を、もつてきたのであろうと思われます。どうしてそんなことをしたかというと、人間の頭脳に
去来する業想念(迷い) に把われず、それを自己の心から離してゆくことは普通の方法ではきわめ
てむずかしいので、そうした業想念はそのまま廻わらせて置いて、完全円満な弥陀のお在す極楽浄
土へ、人間の想いをもつていつてしまつたわけです。一定の個所にしたり、阿弥陀仏と限定したの
は、一定の個所にし、一人格のようにしないで、我がうちの仏とか、釈迦牟尼世尊とかしたのでは、
一定の個所に観念が集中しないで、観念がとまどい、業想念の渦に巻きこまれてしまつて、なかな
か仏と一つの心にならないからなのです。
法然程の人ですから、仏とは人間各自のうちにも存在し、宇宙に充満している、完全なる生きる
力、すべてのすべてであることを知つていたに違いありません。しかし頭で知つていることと、そ
の力をそのまま硬りなく、とどこうりなくその生活に現わしてゆくことは、どうしても違つてくる
のです。それは、本心(仏心) の周囲を過去世からの業想念(宿因縁の波)が転回していて、本心
の現われるのを妨げるのです。そこで、念仏の一点に観念を統一して、業想念の輪廻から本心を離
す、つまり、本心を阿弥陀仏に統合させて、業想念が、いくら輪廻しても、本心の現れを妨げる
49 悟りということについて
ことの出来ぬ程、高い次元に観念をもつていつたので、法然の日常生活は、いかなる業想念(宿縁)
の現れに遭遇しても、少しも乱れることもなく、再び業想念(迷い心)を積み重ねてゆくことがな
くなつてしまつたのです。
法然は、そうした自己の体験によつて、この教えに絶対確信をもち、人々を念仏一元の世界に導
いていつたわけなのです。
念仏一元になつてからの法然は、完全な悟道に入つていて、今でいえぽ神我一体の境地になつて
いて、人々の心の中まで、鏡にうつすように見通していたようです。
禅のようないい方でいえば、空の境地になりきつて、実相(仏)と一体になつた境地になつてい
たのでしよう。
坐禅観法で、空の境地になる為には、幾多の魔の境界を乗りきつてゆかねばならず、ともすれば、
魔境に把われてしまいかねません。それは、空を最終目的のようにしていますから、どの辺が空の
境地であるか、常に自力で目測していなければなりませんから、余程上根(出来のよい)人で、強
い意志力がなければ、なかなか悟りの境地に到達出来得ないのですが、浄土門では、最初に完全円
満なる弥陀の浄土を認め、それにむかつて一心集中してゆく称名をするのですから、自力的、意志
力を要しませんので、下根(そう出来のよくない) の人でも安心立命の境地に入りやすいのです。
けん
浄土門易行道は、弥陀にすがつてゆく他力ですから、意気軒昂といつた様子はなく、静かに平穏
に悟りの道に入つてゆくのですが、日蓮の教えは、法華経、簡単に一口でいえば、人間は、本来皆
霊性の開発50
仏であつて、迷つたり嘆いたり、哀しんだり、恐れたりするものではないのだ、迷つているような
すがたすがた
相、恐れ哀しんでいるような相は、迷夢迷妄に過ぎない。自分たちは、火にも焼けず、水にも溺れ
ぬ、自由自在なる仏である。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経というわけです。ですから、意気高
らかで、実に高揚したひびきをもつているのです。
この教えは、自分が救つて貰えるとか、これから悟りの道に入るなど、という下から上へ昇つて
ゆくような、他の力にすがつてゆくようなものではなく、はじめから、自己を仏として、実相(完
全な)の世界から、南無妙法華経と堅るものなのです。(楠誘轟罐脇耀
自分に納得出来る道を進め
こう考えてまいりますと、どの教えも、正しく踏み行なつてゆく分には地獄に落ちるものではな
いのでありますが、誤つて考え行なえば、いずれも地獄へでもどこへでも、落ちてゆくに違いあり
ません。
求道者は、どの道を通つても一向差し支えないので、自己にぴたりと納得出来る道を進んでゆけ
ぽよいのですが、私は自分が上根とは思えなかつたので、すべてを神様、仏様にお任せする生き
方、他力的浄土門的、キリスト教的、生き方をして今目になつてきたのです。
これも、今になつてみれば、一挙手一投足、守護の神霊によつて指導されていたのでした。
これからも、守護の神霊が、直霊を囲んで、何かと、世の為、人の為に私の肉体を働かせて下さ
51 悟りということについて
ることと信じています。
これを法華経的にいえば、仏(本心、直霊)である私が、人類守護の神霊を働かせて、地球世界
カルマ
の妄想念へ業)を祓い浄めてゆくのである、ということになるのです。
どちらから想つても同じことですが、自己の実観が、ぴつたりする想い方で行じて行つたらよい
と思います。
しかし結局は、悟ろうとも、悟りたいとも思わず悟つている境地、業想念と本心とを、はつきり
区別して、業想念(諸々の感情的想念行為) は、すべて消え去つてゆくものであり、やがては本心
が、光り輝きわたる世界が自然と開けてくるのである、と信じ、本心(仏、守護の神霊) に感謝し
て生きてゆくことが、よいのであります。
霊性の開発52
潜在意識と本心の開発
潜在意識とは
潜在意識という言葉は、近来随分普通に使われていますが、本当の意味を知つて使つている場合
は少く、何気ない言葉、そう深い意味をもたぬ言葉として使つているようです。
精神科学の面では、この意識作用を非常に重大視しているのであり、私も宗教者として、この潜
在意識の作用を重大に考えているものなのです。
精神科学者の場合は、この潜在意識を、この世に生れて以来のものプラス両親や周囲の人々の影
響によるものとしか考えておりませんが、私ら宗教者は、この世に肉体として生れる以前のもの、
つまり、前生、前々生、そのまた前の世というように、過去世の想念行為プラスこの世に誕生して
からの想念行為の集積を、潜在意識と解釈しているのです。
あらわれのおもい
人間の意識想念というものは、今意識している顕在意識と、過去における想念行為のひそんでい
う3 潜在意識と本心の開発
る潜在意識、それに加えて、霊魂意識(守護の神霊を含む)神意識、つまり本心の律動、という複
雑な内容をもつているのであります。
精神問題に無関心の人々は、人間の心というものを、単純に考えていて、このように複雑な意識
作用をもつものとは考えてもみないものなのです。そこに人生の様々な悲劇が生れてきているので
す。
また一方、精神問題に非常な関心をもちながら、人間の心(想念意識)の作用というものへの知識
が薄い為に、只いたずらに、理想的精神状態を目標として、自己の想念行為を抑圧し、他の人々の
想念行為をも圧えつけて、みずからが目標とする理想的精神状態に、自己をも据えつけ、他をも据
えつけようとする人々もあるのです。
これは善人らしく見えて、実は、愚かしき人々である、ということになります。何故ならぽ、山
の頂上だけは、知識として知りながら、その登り方の知識も、登る道順も知らず、只、やたらに頂
上だけを目指して進んでゆくものですから、その登り方に非常な無理が出来、途中で疲れきつて落
伍したり、また麓に下りて、登り直さなければならなくなつてしまう、というようなものだからで
す。
では、
あらわれのこころ
顕在意識だけで想念することは出来ない
ひそんでいるこころ
潜在意識とは一体どのような作用をもつものでありましようか。
54,
霊性の開発
人間の想念というものは実に不思議なものでありまして、今浮んできた想いが、次の瞬間には、
どこかへ隠れてしまつて、また次の想いが浮んでくる。昨日の想念の大部分は、今日の想念の陰に
隠れてしまつている。昨年、一昨年の意識想念は、時折り、そのある部分が何かの拍子に、ひよつ
こり浮び上がつてくるだけで、そのほとんどの想念は、何処かにひそんでしまつているのであります9
あらわれているこニろ
顕在意識、つまり今意識し、想念するということは、どういう理由で、意識し、想念するのか、
というと、その対象物、柿なら柿を、今迄に見たことも聞いたこともなくては、柿と意識すること
は出来ない。柿を見ながら、それが柿とわかるのは、過去において、一度以上柿を見たか、その色
や形を誰かに聞いて知つているからに違いありません。
そう致しますと、過去に記憶されていた柿というものの、色や形が、今見た瞬間に、心の表面に
浮び上がつてきて、柿、とわかるわけです。
こう考えてきますと、今、意識し想念することは、過去の意識想念、潜在意識と普通呼ばれてい
る、ひそんでいる意識想念が、ある対象物や、事柄にひき出されて、表面に浮び上がつてきて、改
あらわれのこころ
めて、顕在意識想念となつてその対象物を意識し、事柄を想念するということになるのであつて、
あらわれのこころ
顕在意識だけで、独立して、ものを意識し、想念することは出来ないということになります。
現在三十歳の人なら、この世に誕生して三十年間の間の想念行為による体験が、表面の意識や想
念の奥にひそんでいて、自分の出番を待つているわけです。もつと深くいえば、三十年プラス過去
世の体験が、顕在意識の奥に積み重なつてひそんでいるわけです。
55 潜在意識と本心の開発
ヘヘへ
そして、表面に顕われているこころは、ほんの僅かであつて、ひそんでいるこころは、その何億
倍も、何兆倍も、いや、どれだけの積み重ねであるかわからぬ程に、積み重なつて、ひそんでいる
のです。
潜在意識が運命を決定する
ヘヘへ
ですから、、人間にとつて、この潜在意識、ひそんでいるこころは、実に重大な問題になつてくる
のです。どうして重大かというと、潜在意識にある想念が人間の運命を決定する。とまで、極言出
来るからです。
現在、如何に自己の心を善くし運命をよくしようとして、思考し活動したとしても、潜在意識に、
おもい
自己を不幸に導いてゆくような、暗い想念、反逆の想念、もつとくわしくいえば、物に執する想い、
不幸を肯定する想い、憤怒や、妬心や、傷心や、怠惰な想いがあつたとするならば、そうした想念
の積み重なりだけの不幸や、欠陥が必ず、この世の生活に現われてきて、なかなか幸運をつかめな
かつたり、自己の欠陥を直すことが出来なかつたりするのです。
ひそんでいるこころ
潜在意識は、奥から表面へ、動力の車輪が廻わるように、自然的に回転していて、表面の心、顕
在意識や行為に現われると、その想念行為が、また再び、奥へ入つてゆき新しく潜在意識となつて
ゆくのであります。
今の心では、怒つてはいけない、と怒りを否定しながら、相手にひきずられて怒つたりするのはヤ
性の開発56
その人が、今隅現在怒りを発したのではなく、相手の想念の波に潜在意識の、怒りの想いが引き出
されて、今の怒りとして爆発するわけなのであつて、潜在意識に怒りの想いのない人、あるいは少
い人は、相手の怒りを誘発する想念の波に引き出される怒りの想念がないか、あるいは少いので、L
表面の想念行為に怒りが現われないということになるのです。
くうくう
人間という者は、ある最短限の一瞬は、確かに空、または空に近い状態にあるのですが、次の瞬,
間には、外界の対象物、あるいは、内面の想いの動きで、空が破れて、何かを見、聞き、感じ、思・
考している者なのであつて、その感じたこと、想念したこと、思考したことが、その人の潜在意識
にそのまま入つて、その人の未来の想念行為の一つとなつて、運命をつくつてゆくのです。
一人の人間の晩年における運命は、壮年時代、青年時代、少年時代、幼年時代、そして赤児以前
の過去世の想念行為を寄せ合わせた、答えが、そこに出ているわけなのであります。
今、不幸のまま死んでゆく一人の老人は、自己の過去の(過去世も加えた)想念行為の答をそこ
に現わしてこの世を去つてゆくのであつて、その理を知つて逝くか、知らずに逝くかでは、その人
の幽界における進化に大きな開きが出来てくるのです。
悔い改めの真理を知れば救われる
もしその老人が、最後にでもよい、人間というものは、肉体ではなくて、神の生命そのものであ
り、神の一つの使命を果す為に肉体界に誕生したものであつて、肉体界の使命が終われば、また次
57 潜在意liHと本心の開発
の界において様々な修業しながら、その界における使命を果してゆくもので、最後には、神と全く
一つの座に席を置くことの出来るものである、という真理を知つて〃ああ、私は、今過去世からの
因縁(想念行為の集積)を肉体と共に消し去つて、神霊の守護の下に、他の世界において、新しい
神の使命に入つてゆかれるのだ、有難いことである〃というような感謝の想いで、息を引き取つた
とするならば、潜在意識は浄化されて、その老人にとつては、それまでのこの世の辛酸労苦が、す
べて生かされて、他界または来世で神の栄光を如実に現わすことの出来る立場に、自己を置くこと
が出来るようになるのですが、普通一般のそうした老人は、この世の不幸のみを歎き哀しんで、死
んでゆくようですが、それでは、次の世もまた真理(神) に遠い生活に自己を置かねばならなくな
ります。潜在意識とは、肉体機能にひそんでいるのではなく、幽体機能にあるのですから、肉体を
去つたからといつて、その意識も共に去つてゆくのではありません。死後の幽界において、その意
識が、幽界におけるその人の運命となつてゆくのでありますし、そのままで真理を悟らなけれぽ、
再び肉体に再生して、様々の労苦を積み重ねつつ修業をしてゆかなけれぽなりません。それは、自
己が潜在意識に積み重ねた想念行為の自然的の回転によるからであつて、神仏をも、人をも恨むわ
けにはゆきません。恨めば、その恨みの想いが、自己の運命に擾ね返つてくるからです。これを因
縁因果の法則というのであつて、善事をすれば善事が返えり、悪事には悪の報いがくる、というの
であります。
ほんぜん
そうしますと、昨日までさんざん悪事をして来た人が、今日翻然として目醒め、その日から愛の
霊性の開発58
行ない、真善の行ないをしたとしても、それまでの悪の想念行為が潜在意識に積み重なつているか
ら、この世でこの人はとても救われつこはないか、というと、これは、そうではないのです。
今、悔い改めれば、もうその時、その人は救われたのです。何故ならば、その人は、それ以後は、
潜在意識に悪を積み重ねないことになるからで、ある一定期間さえ耐え忍べぽ、善のみの世界、平
安の環境を現わすことが出来るのです。
潜在意識の回転する軌道をさけよう
さきに申しました、精神問題に関心が深い、善人といわれるような人で、理想的精神状態に、自
己をも他をも早く置くようにしたいと、その理想に反することを、何もかも抑圧してゆこうとして
いる、といつた人々についてここで一寸触れて置きたいと思います。
この人々は、真実の宗教というもの、真実の人間というもの、そして潜在意識の作用を知らない
為に、大変な誤りを犯しているのです。
今、肉体頭脳に浮んでいる、悪の想い、つまり憤怒や、妬みや、恐怖や、不幸の想い等々は、今、
この肉体内に製造されたのではなく、動力回転車のように自然と潜在意識から押し上げられてくる
ものであつて、止めようにも抑えようにも、どうにもならぬ程の力をもつているものであつて、抑
えれば抑える程、その抵抗力が強まつてくるようなものなのです。ですから無理にその想念を抑え
ようとすると、一時は抑え得たように見えても、その想いは単に圧縮されたに過ぎないので、ある
59 溝在意識と本心の開発
機会には必ず、前の倍以上の力で、表面意識として浮び上がり、爆発してしまうものなのです。
それはあたかも、後から後からひき続いて、動力で走つてくる車を前から抑えようとするのと同
じことで、一台や二台は抑えられたとしても、ひつきりなしに後から後から押し寄せてくるもの
を、どうして抑えきることが出来るでしよう。遂いには必ず擾ね飛ばされて、数台が一かたまりに
なり、非常な力となつてくることは必定です。
こんな馬鹿なことをすれば、少しですむ怪我を、重傷にしてしまいます。
そんな時は、車の走る軌道をさけているか、それが出来なければ、車の来る度びにその軌道をさ
げればよいのです。
では、人間の場合、不幸を含む潜在意識の浮び出てきた時に一体どうすればよいのか、といいま
すと、やはり前の例のように、潜在意識の回転する軌道をさけることなのです。それにはどうすれ
ぽよいか、ここからが宗教なのです。
軌道外に出るには神への全託
潜在意識、顕在意識として転回している想念行為は、肉体界、幽界、霊界の低い層、つまり三界
りんね
を輪廻しているのであつて、三界を超えた世界は、その軌道外になるのです。
その軌道外にいち早く出る練習をすることが必要なのです。私は、どういう風にこの波から遁れ
させるかといいますと、皆さんが、もうすでに充分ご存知のように、三界の軌道外にある、守護の
霊性の開発sg
神霊の力を借りることにしているのです。
人間には、一人一人を祖先の悟つた人(死後に霊界で修業して霊位の高くなつた人)が見守つて
いる、すなわち守護霊と、自分の生命の根源、大生命の人間界への働きかけの根源である直霊から
分れた守護神とが守つていて、常に人間の一人一人の運命を善導しようとしているのですから、そ
の守護の神霊の中に自己の想いを、すべて投げかけてしまう練習をまず最初にするのです。
祖先が、子孫を案じ、その運命の善かれかし、と祈つていることは、当然のことなので、こちら
で、どう思おうと、守りつづけているのですが、こちらからも、その守護に対する感謝をつづけて
いれば、よけいに、想いが一つになつて、守りやすいし、守護し甲斐もあるというものです。
人間の世界は、神界(直霊の世界、守護神の世界) から、霊界、幽界(守護霊はこの両界を往来
し、肉体人間の潜在意識を、その光明によつて浄めている) 肉体界と大別されてあるもので、肉体
界の人間の想念は、幽界でも霊界へでも、神界へでも自由に行き通い出来るものであるのを、普通
は、肉体界のことだけ、物質界のことだけを想念していて、物質界に自己の想念を固着させてしま
うているのです。
私は、これを、常に、霊界、神界に向けさせようと思つているのですが、只、神様を想いなさい、
というだけでは、何か漠然としていて、想いが集中してゆきません。
人間は、真実は、直霊であつて、神そのもの仏そのものなのですから、この世的想念意識、つま
くう
り我欲をなくした、空になり得れば神そのまま、仏そのままの行為が、この肉体をもつたままでも
61 潜在意識と本心の開発
出来るわけなのですが、なかなかそのようになれる人はありません。それを法華経の理念通りに、
自分は久遠実成の仏であると、信念しようとすると、その信念する想いが邪魔になつて、仏の姿が
現実に現われてはまいりません。真実は、人間はすべて久遠実成の仏であるのですが、その仏を顕
現しようとして、かえつて気張つてしまつて、常識はずれの変な人間が出来上がることも時折りあ
るのです。
霊性の開発62
仏とは生命をそのまま顕わせる人
仏、とは、そのままが仏なのであつて、そのままが崩れたら、もう仏ではありません。
その、そのままが、また実にむずかしいのであつて、惜しい欲しい、嬉しい哀しい、という想い
へ   
の、そのままが、仏であるわけがなく、人間の本源のそのまま、つまり生命そのもの、私のいう直
    
霊そのものが、そのままでの姿であり、仏の姿なのであります。
げだつ
ですから、仏というものは、この世のすべての我欲、喜怒哀楽、執着を解脱して、想念が、神界
に常住している人間のことであつて、この姿は、いくら理論で、どうのこうのといつてみても、潜
在意識を探り求めても、どうにもならぬことであり、その人、そのものが、潜在意識をもつとさか
のぼった、いわゆる古代我、真我にまで、想念行為を高め上げない限りは、その真実の姿がわかる
ものではないのであります。
善人は把われが多過ぎる
そこで、私は、いきなり空になれとか、我欲を捨て去れとか、または、精神科学者のように、精
神分析的に馨離に現われている自己を損う感情・怒りや・妬心等々の迷いの想念を・.馨農醜
にまで掘り下げて、自分や他人の過去の誤まてる想念行為として責めたてたり、原因を追求したり
する方法をとらないで、現われた想念も行為も、すべて、過去の因縁の消えてゆく姿であるから、
その想いや事柄に、いつまでも把われていないで、神様の方に想いをむけかえてしまいなさい、そ
うすれぽ潜在意識に神の光が充満してきて、潜在意識が浄化されてゆき、運命がひらけるのです、
と教えているのです。
人間は、正しい人であればある程、自分の想いや、行為の誤ちに把われやすいものであり、その
誤ちを、いつ迄も追究してゆきがちなものなのです。自分はこんなに道を求めながら、何故いつま
でも、このようなよからぬ想い(怒りや妬心や欲心等々)が出てくるのであろう、自分は駄目な人
けんお
間なんだ、と遂いには自己卑下の心になり、自己嫌悪の心になつてしまい、次第に勇気をなくして
いつてしまいます。
このような生き方をしていれぽ、余程勇気のある意志の強い善人でない限り、みなが、その日そ
の日の想念行為に臆病になつてしまつて、本心の命ずるままの、生々とした生き方が出来なくなつ
て、小さな観念の殻に閉じこめられてゆき、大事を為す人物には成り得ません。従つて、悪人とい
63 潜在意識と本心の開発
われるような、いわゆる良心の声に耳の遠い、図太い人間たちの行動力に圧倒されて、いつまでた
つても、良い行ないに生きようとしている人たちが、下積みの生活に甘んじ、小さく小さくなつて、
この世を送らなければならないことになつてしまいます。
善人が堂々と、勇気をもつて、本心のままに、この世の生活を行じてゆけぬということは、人類
にとつて、非常な損失であるわけです。私はこのことを憂いているのであります。人間は善にも悪
にも把われてはいけない。把われの多い程、その人の心の自由は失われてゆき、立派な仕事が出来
にくくなるのであります。
現今までには、種々様々な、宗教的指導者や、修養についての先達が現われておりますが、この
人生が、いつまでたつても善人が安心して生活出来ぬ状態がつづいているのは、善人という人々が、
善悪に把われ過ぎて、その行動力に敏速果敢な、図太い行動面が損われていたからなのです。
宗教や、修養が、社会的の面に生かされていなかつた、ということになるのであります。
霊性の開発64
守護の神霊に感謝せよ、心の平和はそこから生れる
ここで繰り返えして申しますが、人間の本心、本体は神(直霊) であるのです。今、ここに現わ
カルマ
れている肉体の人間は、神と、過去世からの想念行為の集積である業生との合体であります。
本来は、お互いが、自由に交流出来得る神霊そのものである人間たちが、地上界に神の姿を画き
出そうとし、個々の肉体人間として天降つてきたのでありますが、地球という物質界に住みつくた
めに、やはり物質的な肉体という形をとらざるを得なかつたのです。地上に降つた神霊たちは、不
自由な肉体という殻をまとつているので、本来身のように、自由に早急に本心の思うような神の国
を創りあげることが出来なかつたのであります。
カルマ
このギヤツプが業として、肉体(顕在意識)幽体(潜在意識) に積み重ねられ、現在のような不
完全な人間界という、創造過程を通つてきたのであります。しかし、この不完全さも、物質的創造
としては、科学的(化学的) に、かなり完成されているのでありまして、その形に、かなり遅れた
姿で、精神面の動きがひきずられるように神の世完成の道をたどつていこうとしているのですが、
カルマ
肉体界に住みついた分霊たちだけでは、どうしても、物質界の業的想念にさまたげられて、本心の
ままの働きが出来ないので、その援助として、守護霊(祖先の悟つた霊)守護神(直霊の分れで神
界に住する自然霊)が、肉体人間の背後に控えて、地上神国完成のための協力をしているのです。
しかし、一般の人々は、この理をあまり知らないので、守護霊や守護神の助けを呼ぼうともせず、
感謝をもせず、人生とはこんなものさ式に、誤つた諦観に陥つたり、唯物論的に、我欲の力で、物
質界を支配しようとしたりしています。(拙著「神と人間」参照)
そのようなことでは、繰り返えされた過去の歴史のように、闘争の醜くさから遁れることは出来
ないぼかりか、原水爆のような武器で、地上世界が壊滅してしまいます。
今こそ、全人類が、自己の本心、生命の本源である神にすべての想念を一度び返上して、神のみ
心を、地上界に天降らせなければならない時なのであります。そして私たち一人一人は、自分たち65 潜









の守護霊、守護神の加護を念じ、感謝をし、世界の平和を祈りつづけながら、現われきたるすべて
の想念行為を、過去世からの誤まてるものの消えてゆく姿と観じて、その想念行為に把われぬよう
に、突き放ち、その想いを直ちに神の方にむきかえなければなりません。
自己の想いを、常に悪や不幸の中に置かず、神の座に上げて置くことこそ、あなたを救い、人類
を救う最もよい方法なのであります。
霊性の開発66
世界平和の祈り
地球は十年後に滅びるか
五月の週刊東京という週刊雑誌に、〃あなたの生命はあと十年”という大見出しで、原水爆の被
害によつて、地球は十年後には、壊滅し去つてしまうであろう、という、ある易者と、霊能者の予
言を発表しておりました。そして、その予言を、今の状態で行けば、そういう状態は実現しないと
はいえぬ、といつている科学者と、そんなことはない、と軽く否定している科学者とがありました。
実際、米英ソの原水爆実験競争を見せつけられていると、どこの国の人たちでも、一応原水爆ノ
イローゼにならざるを得ないと思われます。
現在、地球界における大国の指導層である肉体人間の白痴的頭脳には、自己を守る為には、相手
を武力で圧迫するか、精神的圧力で、相手を抑圧するかの二つの方法しか考えられていないのです
から、小国側から、いくら原水爆の実験を止めて下さい、と頼んでみても、訴えてみても、けつし
6? 世界平和の祈り
てそれを止めようとは致しません。そうした実験が、どれ程人類の心身を痛め傷つけ損うことであ
り、真実の平和には、なんら役立つことでないことは、客観的冷静さをもつ人々には、実に明瞭に
判断出来るのでありますが、対立闘争の渦中にある大国の指導層の頭脳には、その理が、はつきり
わからないばかりか、それより他に、平和を維持する方法がない、と思いこんでいるのであります。
こうして原水爆を次々と製造してゆけば、必ず、それを使わずにはいられなくなるのが、人間の
カルマ
心理なのであり業なのでありまして、ちよつとした導火線によつては、地球界はたちまち週刊東京
の予言のようにならざるを得ないのです。
米国とすれば、ソ連が、甘言と威嚇を巧みに折りまぜて、着々と小国を自己の味方に引き入れて
ゆき、共産圏を拡げてゆこうとしているのを黙つてみているわけにはゆかない。といつて、自分た
ちの平和攻勢(変な言葉ですが)がソ連に劣るので、どうしても、武力的威嚇で、ソ連の進出を抑
え、あわせて、味方の小国に、米国はこの武力で、ソ連を抑え得るから、おまえたちは心配せず、
自分の味方になつておれ、という意味をも加えて、原水爆の製造に拍車を加え、威嚇的実験をやつ
ているのであります。
ところが一方ソ連は、そうした米国のやり口を巧みに逆用して、自国も原水爆を次々製造しなが
ら、米国は好戦的で、世界の平和を乱す最大の敵である、ということを宣伝し、自国はなんの野心
もなく、世界平和の為に、どの国とも手をつなぎたいのだ、というような、平和攻勢で、自国の力
を背景に、自国に有利な条件で、小国間と交渉をもち、徐々に小国を、自国の思うままに動かして
霊性の開発68
ゆこうとしているのです。
小国は、どちらを向いても、真の平和には程遠い状態に置かれているのが現在なのであります。
ソ連の世界制覇の野望をなくすことが先きか、米国の原水爆禁止が先きか、どちらも、その国自
身の心の問題であつて、他国が、どのように勧告しようと、どちらも、そのような勧告で、その根
本精神を変えようとは思われません。
結局、現在の肉体人間の力だけでは、地球世界の滅亡ということから、人類を救うことは出来そ
うにもないのであります。
ですから、真に人類の運命を思い、日本の運命を案じている有識者の人々は、いても立つてもい
られない不安と焦燥で、東奔西走して日本を守り、人類を平和にしようとして、働きつづけている
のです。
こうした人々は、世界の状況や日本の置かれている立場が、はつきりわかつているだけに、日本
の滅亡が心配であり、世界の混乱が案じられてならないのです。
はつきりと、どうしたら国が救え、世界が救えるか、ということは、この人たちにもわかりませ
ん。ただ、不安な情報だけが、日々に手元に入つてくるのです。世界の真実がわかるだけによけい
に心が痛むのです。といつて、決定的な救世の手段はない。仕方がないので、自分たちで出来る方
法で、各自が、真剣に同志を獲得し、ひとまず、日本人の精神を一つの目的に結集させようと思つ
ているのです。世






69
その人々の中には、善い意味の右翼思想の人もおりましよう。社会主義、共産主義の人もおりま
しよう。精神主義者もおりましよう。中庸主義の人もまた宗教者もいるのでありましよう。
その人々が、血の出るような想いで、寝食を忘れ国を案じ、人類を案じているのでありますが、
一方、人類のことも、国家のことも、一向に心になく、自分のしたいほうだいのことをして、遊び
暮している人々もあるのです。また一方、人類はおろか、国も社会も、そんなことを想う余裕もな
い困窮の生活にあえいでいる人々も、なかなか多いのです。
こうした肉体人間像の様々な動きを乗せて、地球は今、昔となんら根本的に変りない回転をつづ
けているように見えるのであります。
地球の運命は果して、古来からの予言者の言のごとく、また週刊東京誌の予言の如く、近き将来
に滅び去つてゆくものなのでしようか。そして人類は一体どのような結末をもつのでしようか。
この事柄について、私は私の霊覚による考えを述べてゆくことに致します。
大愛のみが人類を救う
どこの国の人々でも、人類の平和、世界の平和を願わない者はないと思われますのに、どうして
世界は常に戦争の恐怖にさらされつづけているのでしよう。
それは、どこの国の人々もが同じような想いで、自分と自分の国というものの、現象的な利益、
眼前の利害得失のみを、先に考えることからひき起されてきているのです。
霊性の開発7D
自他の利害、自国と他国との利害が、全く一つのものとして考えられるようにならぬ限り、人類
の平和は絶対に来ることはありません。
例えぽ、米国が、自国のみの利害を考えずに、物資の足りない小国に、なんらの交換条件も出さ
ずにどしどし物資を供給するようにしたならぽ、小国は米国の恩恵を心から感謝して、ソ連側に色
眼を使うようなことをしなくなることは必定ですが、現在は、そうした大愛の気持からではなく、
なんらかの交換条件を加えた援助をしているのでありますから、貰う側の小国は、その交換条件に
心を縛ばられ、自由を把えられて、素直に、純心にその援助を喜べずにいるのであつて、その反動
的想いが、ソ連のやり方は、どう出てくるか、米国よりも有利な条件で、自国を援助してくれはし
まいか、とソ連にも色眼を使つているのであります。
こうした米国のやり方は一応非難はしても、日本がもし米国のような立場に立つても、やはり同
じような条件つきの援助をするのではないかと思われますので、言葉でそのようなことを抗議する
ことは出来ません。現在の肉体人間の心では、何国人でも、大差のないやり方で、私のいうような
大愛的な小国援助は、単なる理想的な国際愛ということになつてしまいます。
地球は絶対に滅びない
このように考えてまいりますと、地上界の国際関係は、現象的な利害得失の関係であつて、武力
の強い国、富有な国が、有利な地位を占めていて、武力のない国、貧しい国は、いつでも、下座に71 世






ついていなければならない、常に他国の威嚇におびえつづけていなければならない、ということに
なつて、人類の理想である地上天国などは、いつになつても実現しそうにもありません。
さしづめ日本などは、このままでゆけば、米ソのどちらかの従属関係に立つて、国を維持してゆ
くより他に仕方がないということになります。いたずらに肩ひじ張つて、我が日本は、などと昔の
ことをいつていても、現実の姿は、富も武力もとぼしい小さな日本の姿があるだけで、口先きや、
小手先きだけでは、日本を世界の中心にするなんらの方法もないのであります。そこに愛国者の深
い歎きと苦悩があるのです。
結局、現在の人類世界は、富と、武力による指導力が、圧倒的に弱小国を抑えつづけているので
あつて、愛と真の力は、いまだ何国人の面からも、その真価を発揮してはいないのであります。と
すると、この世界は、予言者たちの予言の如く、両大国の決戦ということになつて、地球は原水爆
の洗礼の中に壊滅し去ることになるより仕方がありません。これは必然の理なのであります。
ところが私の霊覚では、地球も人類も絶対に滅びることはない、とはつきりと言明するのです。

私たち一人一人の祈りが人類を救うのだ
現今の正しき宗教者と、その宗教の真行者は、地球の壊滅防止と人類救済の為に、神から特派さ
れた天使たちであり、菩薩群なのであります。それは、特定された、一つの宗教教団とか、宗教教
祖とか、いうのではなく、正しい宗教観を、その生活に行じている者、という意味であります。
霊性の開発72
他国に依存し、他人に依頼して、今になんとかなるであろう式の生き方では、自己も人類も滅び
去ることは、今迄の説明でおわかりであろうと思います。自分が自分自身を救い、自分が、世界人
類を危機から救う一人であるのだ、という自覚を、まず貴方がもつことが第一なのです。
世界を救う、という自覚を、日本人の一人一人が自分の肚にもつこと、それが、自分を救い、日
本を救う第一のことなのです。
急にそんなことを聞かされても、一体なんのことかわかりはしない。自分のことさえ、自分の子
供のことさえ、どうしてよいかわからぬのに、世界のことなど持ち出されても、どうにもならない、
という人がたくさんありましょう。
ところが、私の説いている人類救済の方法は、実に簡易にして、効果的な方法なのであります。
あまりやさしくて、簡単な方法なので、そんなことで効果があるものか、と思われる人は、他にどの
ような素晴しい方法があるのか、私に聞かせて頂きたいのであります。
誰にでも出来る人類救済法、自己救済法は一体どのような方法なのでありましよう。
それはたゆまざる〃祈り”なのであります。世界平和の祈りなのであります。
なんだ祈りなのか、という人があつたら、その人は宗教を全く知らない人というべきなのでしよ
うo
宗教者で祈りを説かぬ人は、まず皆無ではないかと思いますが、真実の祈りを教えている人がど
れ程あるかは非常な疑問なのであります。
73 世界平和の祈り
まず真実の祈りを根本にして生活を行じてゆかぬ限り、その人も、その国も、世界も遂いには滅
びてしまうのです。真実の祈りは、人類を救う唯一の鍵なのであります。
日々に教会に詣で、聖書を読みながら、原爆を投下し、また更に水爆を次ぎ次ぎと製造している
ようでは、その人々の宗教が本物でないことは明らかです。
また、祈りながら戦々競々としているようでは、これも本物ではありません。

祈りとは、以前にも申したように、生命を宣り出す、生命を宣言する、生命そのものになる、と
いうことで、神と一体になることであります。
神と一体になること以外に、この世を救う道が他にあるでしようか。私は絶対にないと断言する
のです。
霊性の開発74
人間は神の生命において一つである
この世が現今のような危機に追いつめられたのは、人間の心が神から離れたことから起つている
のです。神から離れれば離れる程、人間と人間の間の心の通い合いが出来難くなり、人間相互の不
信感が強くなつてくるのです。何故ならば、神は生命の根源であり、心の本源であります。そして、
人間は神の生命において、神の心において一つなのであります。
ですから人間は神を離れて、真に一つになることは出来ないのです。もし、神(大愛)を離れた
想いで一つになつたとしても、それは、お互いが、利害打算か我欲の想いで一つになつているので、
その利が損われ、我欲が充たされなくなれば、いつか離れてしまうものであります。それは個人個
人も国家民族間でも同じことであります。
そうした利害の打算や我欲を根抵にした統一とか、協調とかいうことは、幾度び繰りかえしても、
無駄に等しいのです。そのようにして時間だけを延ばしていても、神(大生命、大愛)から離れた
カルマ
想念のからくりから生れる業、妄念は、刻々その層を厚くして、ますます神から離れ、遂いには妄
念の力と力の対決となつて、個人を滅ぼし、人類を滅ぼしてしまうのです。
人類が神から生れていることを忘れていて、どうして、人類の大調和、人類の統一が出来ましよう。
神(大生命) のみ名においてはじめて、人類の大調和、人類の統一が出来るのです。現今の世界
は、現今の人間は、これを忘却して、業想念、妄念で人類世界を統一しようとしているのです。そ
れではどうしても、武力によるか、謀略によるかするより他はありません。それが末法といわれる
現在の世界の姿なのであります。
人類を大調和せしめ、真の統一せしめる為には、まず人間の一人一人が、自己の業想念を神に返
上して、改めて、神の生命として、この世に生れ更わらなければ、その目的を達成し得ません。即
ち、真の祈りをなさなけれぽ、世界は救われることが出来ないのです。
私が、何事をも超えて、祈りを強調しているのは、人類の犠牲を、世界の惨事を、より少く済ま
せたいからなのです。
真の祈りなくしては、この人類はかつてない最大の惨事を味あわされるのは明らかなのです。
75 世界平和の祈り
世界平和の祈リを捧げよう
では、真の祈りとは如何なる方法でやれぽよいのでしよう。
それは、私が提唱している〃世界平和の祈り”なのであります。
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様、守護神様ありがとうございます
という称え言です。
この称え言は、世界人類を救済しようと働いておられる、マイトレーヤ仏(これは、釈尊が予言
みろく
された、最後の救世主弥勒仏なのであります) を中心にした守護神たちと、私共の祖先の悟つた霊
魂たちとの協力団体即ち、人類救世の大光明に私共肉体人間が直結する祈りなのであります。これ
は神霊側と約束されたことなのであります。
このことは、私の霊覚で、はつきり確認していることであり、私の背後には、常にこの大霊団が
働いているのです。もつとも、他にも、こうした大光明と、提携して働いている霊能者たちが、各
所にあるのであります。
肉体人間が、いよいよその神性を顕わす時が来ているのです。神霊と肉体人間とが、全く一つに
霊性の開発76
なつてこの世界を救わねばならぬ時が来ているのです。
むずかしい宗教理論も、現世利益の宗教も、もはや今の急場には無用になりつつあります。
現世利益即悟りであり、悟り即人類救済でなけれぽ、急迫したこの世になんの役にも立ちません。
私は、こうした末法の世に役立つ為に、この世に存在しているのです。
私が、今こうして書いている文意も、常に話している言葉も、肉体の五井昌久が、個人として書
いているのでも、話しているのでもありません。私は、常に神の器として文章を書き、法話をして
いるのであります。
神は人類を救おうとしている
神は人類を救済しようと、あらゆる手段で肉体人間に働きかけているのです。あの人を使い、こ
の人を使い、ああもやりこうもやり、一瞬の休みなく働きつづけておられるのです。
大生命としての神、守護神としての神、神は二つの働きに分れて、この人類に、神の真の姿を顕
現しようとしておられるのです。
カルマ
人間に不幸が来るのは、決して神がさせているのではなく、人間の業が、人類の誤まつた想念行
為の集積が、崩れ去つてゆく時に起る姿なのであります。
戦争も天災地変も、すぺて悪と現われる姿は業想念の消えてゆく姿なのです。
もし私たちが、こうした恐怖から遁れたいとするならば、こうした業想念を空廻わりさせてしま
?7 世界平和の祈り
うより仕方がないのです。
それは、私が提唱する世界平和の祈りを真剣に称えることなのです。
家内安全、商売繁昌、そんな小さな願い事は、その後廻わしに致しましよう。
〃よき時に我れは生れし”と、かつて高村光太郎氏が、詩に書いていましたが、今こそ、その言
葉が、ぴたり、とくる時なのです。
〃よき時に我れは生れし∬確かに今こそ、人間として最大の働きが出来る時なのです。
一人一人が、人類の為の働きが出来る時が来たのです。真実の自分を生かし切ることの出来る時
が来ているのです。
あなたは、今、肉体人間としてだけでこの世に存在していると思つているのでしようが、実は、
真実のあなたは、直霊として、神界にも住んでいるのです。不幸の影の皆無のところに、この地上
界のように住んでいるのです。
そうした真実を知る為にも、世界平和の祈りを致しましよう。
霊性の開発78
個人の救いも世界救済も一つの祈リで
あなたの想念を、いつも世界平和の祈りの中に置き、いつも、守護の神霊への感謝の中に置き、
それを常住坐臥、寝ても起きても、その中に想いを置く練習をするのです。そうすることが、あな
まこと
た自身をして、この業生の、悪や不幸の三界の世を、いつしか超えさせ、愛と真の心が、知らぬ間
に深くなつてくるのです。そしてまた同時に、世界人類を平和にする、光明の波を、この世の中に
放送していることにもなるのです。
嘘だと思つたら、おやりになつてごらんなさい。私のいう通りにやつている人の中には、もうか
なりの悟道といわれる境地に入つている人がなかなか多いのです。
現われてくる悪や不幸に把われなくなつてくる。
怒りや妬みや、焦りの想いがへつてくる。
自分自身の存在価値を、いつの間にか、強く認識している。
自分自身の生活が悪くなりつこない、という確信がついてくる。
本心と業想念の区別がはつきりついてくる。
最後の、本心と業想念の区別がはつきりついてくる、ということが、個人としてのこの祈りでの
最大の効果なのです。
本心は、常に生命そのもの、神仏そのものでゆるぎないもの、業想念は、常にゆれ動き諸行無常
的なもので、現われては消え去つてゆくもの、こうしたことが、はつきりわかつてくると、生老病
死、つまり、生きる苦しみ、老ゆる苦しみ、病む苦しみ、死の苦しみ、この四苦が、いつの間にか
超越出来る迄に心境が澄んでくるのです。
どんな不幸も苦しみも、現われれば消え去るもの、そして本心(神) は永劫に光り輝いているも
の、と思い定めている心境になり切れるように、知らぬ間になれてくるのです。
79 世界平和の祈り
また、人類的には、世界平和の祈りによつて、その人々の迷いの想念が、守護の神霊の光明に近
づいて、いちはやく消え去るので、神霊の光波がその想念の波を伝わつて、地上界の浄めがしやす
くなり、天界から地上界に、光明波動が、多量に放射出来るようになるので、人類世界の業想念の
波を、その光明によつて、天変地異や、戦争の災害に致らさずに、消し去ることが出来るようにな
る。つまり、神愛が、地上界に、広範囲にとどきやすくなる、ということになるのであります。
世界平和の祈りこそ、世界人類を救うと共に、個人個人をも救う、偉大なる祈りの方法なのであ
ります。
見ていてごらんなさい。今にその効果が、はつきり地上界に現われてきますから……
その効果を一日も早く現わす為にも、あなた方一人一人が、世界平和の祈りを実行して下さるご
とが急務なのであります。-
霊性の開発80
自力行と他力行
自力門も他力門も神に到る道
自力か他力かということは、宗教に自己の進路を求める者の、まず最初に選ばねばならぬ道であ
るのですが、現今では、この道が、まるではつきりせず〃私のやつている宗教は絶対力ですよ”な
どと平然としていつている新宗教の信者がいたりします。絶対力とは、自力にしても他力にしても、
その道の奥義に到達した者のみがいい得る言葉であつて、そうやすやすといえる言葉ではありませ
ん。何故かといいますと、絶対力とは、神仏そのものから、そのまま出ている行であり能力である
のですから、私のやつている宗教は絶対力です、といい得る人は、仏そのもの、神そのものに成り
きつた人でなければならないわけです。
宗教はいずれも、絶対力(神仏の力そのもの) を自己の言行に現わすことに窮極の目的をもつて
いるのでありますが、その絶対力に到達する方法として、自力で行く者、他力で行ずる者の二者が81 自






あるのです。そして、この自力門の最たるものが禅宗であり、他力門の代表が浄土宗なのでありま
す。キリスト教は勿論他力門であります。しかしこれはあくまで、自己と神仏とが一体になる、つ
まり本心の開発の為の方法の相違、道程の相違であつて、最深奥に行きつけば同じ答が出てくるの
であります。だからといつて、どちらから行つたつてよいのではないか、ということはいえないの
です。どうしてそういうことが出来ぬかといいますと、その人の機根、その人の素質によつて、片
方の道は通つても無駄である場合が多いからであります。その片方の道自力行の門に入つて奥義に
達した人は、実に立派な聖者であつて、その人々の言行を書物で読み、その人々の通つて来た修業
過程を聞かされると、全く敬服して、只々頭の下がるぼかりでありますが、そうした聖者と同じよ
うな修業をしなけれぽ、自己の本心が開発されぬ、仏と一つになれぬといわれると、私などとても
駄目です、と尻ごみする人がこの世の中の大半であろうと思います。
霊性の開発82
厳格きわまりない自力の修業
臨済禅中興の祖といわれた白隠禅師などは、良師を求めて、山から山、谷から谷へと渡り歩き、
実に烈しい修業をつづけたのでありますが、遂いにはひどい肺病になつて、如何なる名医も手のほ
どこしようもない程になつたのですが、その頃の半悟りの心境では死ぬにも死ねず、意を決して病
床から立ち上がり、心内の動揺と病体を同時に癒すべき教導者を尋ねて、今でいえば三期のしかも
あんぎや
死期に近づいた病体で、また再び険わしい山や谷を超えて真理を求める行脚に出たのですが、どこ
の導師も、彼の病体を元に復する方法を知らず、彼の心の不安を消し止めることも出来なかつたの
ですが、最後に白河の山中において、白幽真人という仙人に会つて、内観の要訣を教わつて、それ
を実施し、三年の後には不治といわれた禅病(肺患)を癒すことが出来たのでありました。しかし

白河の山中に至るのには、峻巌を掌じ、木の根、草の蔓をつかみ、氷雪を踏んで行つた、というの
ですから、超人的な大気力が必要だつたわけです。
こんな生命がけの修業の後に悟り得た白隠ですから、弟子を教うるにも、峻厳そのものであつて、
弟子たちの中から禅病(肺病)が続出したということであります。睡眠も僅かしかとれぬ上に、粗
いと
末きわまりない食事をして、暑さ寒さを嫌わぬ烈しい修業をさせられるのですから、病者が続出す
るのは当然であつたでしよう。
きりんすいおうモく
白隠門下の麟麟児といわれた遂翁は、一則の公案と取り組んでいたが容易に徹底出来なかつた。
それを見た白隠は〃もし七日にして徹底しないようなら、海に投じて死んだ方がよいそ〃と一喝
した。ところが七日たつても、遂翁はその公案に徹することが出来ず、死を決して冬海の怒濤めが
まみ
けてざんぶとばかり飛び込んだが、その瞬間、彼は大悟することが出来て、再び白隠に見えること
が出来た、という話もあるのです。
このように臨済禅においては、日常坐臥、生命を捨て、身を粉砕せんとする気力がなくては、大
悟徹底することが出来ぬばかりか、かえつて俗人以下の偽善者になりかねないのであります。
また曹洞宗の開祖道元禅師も実に峻厳な人でありました。ある時、禅師の徳を慕つていた北条時
83 自力行と他力行
頼から、禅師の弟子玄明に託して、寺領の寄進状を永平寺に在る道元禅師に送つてきたのです。そ
の時玄明は時頼程の高官が、か程に師に敬服しているということと、自分がそうした人の弟子であ
るということの誇りとで、得意然として、師の元にその寄進状を持ち帰えりました。しかし道元は
その寄進状を喜ぼうともせず火中に投じ、玄明に対しては〃ものを貰つて喜ぶなどというその心事
が卑しいグといつて、永平寺から追放の極刑に処したのであります。そして、その上玄明の坐つて
いた僧堂の床を切り取り、更にその床下三尺の土まで堀り出して捨ててしまつた、ということであ
ります。
その教えに対する清浄さの為とはいえ、実に厳然たるその態度は、到底余人の真似るべきもあり
ません。
霊性の開発84
大衆は坐禅行だけで悟れるか?
禅の教えというものは、これ程にまで峻厳な態度を示して、弟子に対さねば悟り得る弟子が出な
い程のものなのです。それというのは、あくまで、自己の力で、内部の仏を発現させようというの
であり、寸豪も他に依存することを許さぬからであります。白隠などもその点は峻厳であつて、念
仏禅をいたく排撃して、禅の教えは、称名念仏などという他の事柄に依存しつつ坐禅するようなも
のではない。あくまで、自己の内から真実の自己を引出すのである、というようにいつております。
要するに禅宗とは、不立文字、教外別伝の教理でありまして、すべては自己自身の坐禅行にょっ
て悟る、というところに主点が置かれているのでありますが、坐禅をして悟る、ということが、ζ
れがなかなかたやすいことではありません。容易でないからこそ、道元や白隠のような傑僧でも、
あれだけの修業をしなければ悟ることが出来なかつたのです。まして、現今の一般大衆が坐禅行だ
けで悟ることが出来得るでしようか、出来得ないと私は思うのです。
もつとも道元禅師は〃仏になりたいとか、悟りを開きたい、見性しようなどという気持で坐禅し
ているようでは駄目だ、坐禅とはそのまま坐仏であつて、何も想わず坐わつている、その坐禅そのま
まが仏なのだがといつておりますが、全くその通りでありまして、道元は実に偉いのであります。
あしりようていむそう
しかし、この何も想わぬ、いわゆる無相(想)あるいは不思量底を思量する、無想の底を思量する、
ということは、並み大抵の坐り方では出来る筈がないのであります。
坐われば坐わる程、種々様々な想念が去来して来て、不思量底を思量するどころか、不思量底に
さえゆかず、無想、ものを想わぬ、という想いにひつかかつて苦量してしまうのが、一般の人々の
実態でありましよう。
信ずる者は救われる他力門
ところが浄土門では、うちなる仏を引き出そうというような坐禅観法をするのではなく、人間と
いう者を、自分の力だけではどうにも救われようのないもの、どのようにしようと大悟出来得ぬも
の、と一度び人間を自力では救われ難きものときめてかかり、そうした人間を救つて下さるのは、
昼5 自力行と他力行
西方極楽浄土にお在します阿弥陀仏だけであるから、南無阿弥陀仏と一念籠めて称名すれば、その
人は弥陀の浄土に引き取つて下さる、というのであります。この称名する場合は、自分が今までど
のように悪いことをしたものであつてもかまわぬ、今迄のその人の想念行為の如何ようなるも問題
ではなく、一念籠めて、南無阿弥陀仏と称えれば、どのような悪人でも阿弥陀様は救つて下さるの
だ、というのであつて、禅宗の自己の行によるのとは全く反対に、自己の行は救われにはなんら関
係のないものであり、只ひたすら真剣に称名念仏さえすれぽ必ず救われる、救われる、という強い
信仰さえあれぽよいのだ、というのです。
キリスト教の、イエスのみ名によつて、マリアのみ名によつて救われる、というのとよく似通つ
ているのでありますが、キリスト教では様々な行ないへの指導があり、信と行との融合によつて救
われることになつているところが、浄土門の絶対他力と方法が相違しているのです。
禅宗を行の宗教とすれぽ、浄土門は信の宗教であり、キリスト教はまず信を先に立て、それにと
もなうに行をもつてする宗教であります。
禅宗が自力修業の苛烈峻厳さに、多数の落伍者を出したと同じように、浄土門においても、法然、
親鸞級の聖者の存命中は、畏敬する聖者が、その一挙手一投足に、悟れる生活内容を、眼前におい
て示しているので、信者も聖人たちの人格に見ならい、行ないも自然に改まり安心して称名念仏を
していたようでありますから、なかなか成果を挙げていたのであります。しかし先達の人々に人格
未完の者の現われた場合には、称名念仏という易行であることが欠点となつて、日常生活の汚れを
霊{隼の開発8写
なんら改めることなく、称名念仏だけしていれぽ救われるのだ、というような自分勝手な信仰にな
つてしまつたようでありまして、法然、親鸞等祖師の教えを汚し去つたようでありました。
そこに日蓮上人が出現し、禅天魔、念仏無間地獄の絶叫をあげ、法華経一辺倒の教えを説きはじ
めたのであります。
それでは、法華経は自力か他力かといいますと、法華経そのものは絶対力であります。み仏その
ものが、み仏そのものの姿で出現している様を示したのが法華経であります。
〃我が身は、火にも焼かれず、水にも溺れぬ実相身である”というのが、法華経の真髄であるか
らです。人間の真実の姿は、火にも焼かれず、水にも溺れぬ自由自在なる実相の中にある、という
ことは、絶対力であります。しかし、この地球上の肉体生活を営んでいる肉体人間が、なんの修業
もせずに、その絶対力をその身に現わすことは勿論、絶対力である実相を覚得出来るものでもあり
ません。天台門の諸僧にしても、禅宗の諸僧にしても、その実相(仏)絶対力と統一する為の生身
を削る修業をしていたのであります。しかしそれらの諸僧は、それを学問哲理の中から得ようとし、
あるいは坐禅観法によつて得ようとしていたのであります。いわゆる自力で得ようとしてたのです。
そこで日蓮はどうしたかといいますと、南無妙法蓮華経という、七字の題目、あるいは南無を除
いた五字の題目、つまり五字、七字の題目によつて、法華経の力、絶対力を、この世に発現せしめ
ようとしたのであります。ですから、絶対力を題目を称えるという他力によつて、この世に現わそ
うとした、ということになるのです。題目を称えれば絶対力(仏力)がこの世に発現されて、邪し
δ7 自力行と他力行
まなすべてを一掃出来得る、と日蓮は確信して、身心を投げ打ち、その道を高々と唱道したのであ
つたのです。このように日蓮はこの世に仏の利益を現わそうとした、つまり現世利益を説いていま
すが、浄土門は西方極楽浄土いいかえれば、あの世での救われを説き、死後の救われである、弥陀
の願船に乗つたという安心感から来る、この世での安心立命の想いを信徒に与えたのであります。
この二つの教えは、形や方法こそ違え、他力成仏の道であることに間違いはありません。只、日蓮は、
題目の称名によつて、国家社会を救うことを、主目的とし、それに附随して、自己も救われるとい
うような傾向でありますが、浄土門は、自己の救われをまず根抵にした念仏を称名することからは
じまり、それが自然に他の者をも共に弥陀の願船に乗せて、極楽浄土に救い出して貰おうとする念
仏になつていつたようであります。
の開発8$
道元三宝を称名することを教う
また禅宗は、絶対自力のように見えてはおりますが、道元禅師の「正法眼蔵」の〃道心の巻”に
は「… …寝ても醒めても三宝の功徳を想ひ奉るべし、寝ても醒めても三宝を唱へ奉るべし、この世
を捨てて、未だ後の世に生れざらんその中間に中有と云ふことあり… … … かからんときも、心をは
げまして、三宝を唱へ奉り、南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧と、唱へ奉らんことを忘れず、
すで
ひまなく唱へ奉るべし… … … この生の終るときは、二つの眼、忽ち暗くなるべし、この時を已に生
の終りと知りて、励みて、南無帰依仏と唱へ奉るべし。… … 眼の前に闇の来らんより後は、たゆま
ず、はげみて、三帰依を唱へ奉ること、中有までも、後生までも怠るべからず、かくの如く、生々
世々をも尽くして、唱へ奉るべし」といつておりまして、浄土門の法然、親鸞と同じような、称名
をしているのですから、この点は全く他力成仏を願っていたと受け取るより仕方がありません。
自力行の最先達と思われている道元ですら、自力によつて、うちなる仏の姿を顕現する坐禅観法
と共に、このような他力の称名をしていたのですから、純粋なる自力ということは、宗教の世界で
はない、ということになります。只禅宗では、本心(仏心)開発の為に、坐禅という一定の形を取
り、その坐禅の中で、肉体人間のもつている種々様々なる煩悩、慾望つまり三界の世界を超、κてゆ
くように努力させ、また一方では、日常茶飯事の行動の中でも、こうした煩悩、慾望に把われさせ
ないように、先達たちが細かく、やかましく指導しているのであります。
しかしこれらの方法は、すべて自分自身が、自分自身の研鑛錬磨によつて、仏(本心、本体)を
開顕させる方法なのであります。ところが、こうした方法は、昔のように、衣食住にそれ程心を煩
わさぬ時代にあつても凡人、下根の者には、耐え難い苦難の修道であり、この方法によつて大覚し、
あるいは安心立命に至る者は非常に数少かつたのであります。
まして現今のように、衣食住の道、日常生活に大半の力を費やさねばならぬ時代に一般大衆が、
こうした厳しい戒律のある禅の道に入つて、安心立命し、大覚することは、ほとんど不可能に近い
と思われます。そこで現今では、他力門が絶対多数の信者を獲得して、隆盛になつてきたのであり
ます。
δ9 自力行と他力行
神仏と人間は光一筋のもの
浄土宗、浄土真宗は既成的他力門であり、日蓮宗各派は、既成、新興の両面にまたがつて発展し、
大本教系、天理教系の各新興宗教信者の数は強大であり、世界的宗教としてのキリスト教の信者数
は、これまた、彪大であります。これらの宗教は、いずれも、自己以外の他の力によつて、自己が
救われる、あるいは、絶対老を想定して、絶対者(神) の力によつて、自己のうちなる真理(仏心)
をひき出して貰う、というような行き方であつて、その方法として、念仏や題目、はては様々な呪
文や祈念をするのであります。
ところが、こうした各他力門的宗教が、現今の宗教の大半を占めているように見えながら、この
他力門と見える宗教が、実は昔の法然、親鸞時代のような純粋なる他力門、絶対他力の教えではな
く、人間は絶対者(神仏) から分れてきた生命体であり、神仏によつて生かされているものである、
あるいは、法華経的に、人間は仏そのものであつて、この世に現われている悪と見え、不幸と見え
る姿は実在ではない妄念の所業である、等々と教えとしては説いていながら、神仏と人間とを、光

一筋のものとは観ずに、遠く離してみているのであります。
神仏と人間とが、光一筋のもの、一体の者であることが根本理念としてなければ、絶対的な救わ
れはあり得ませんし、神仏に自己の全部をおまかせする、絶対他力には成り得ません。
こう
いいかえますと、悪業といい、悪因縁というものが、人間の心から発生して、神仏と対抗して、
霊性の開発9Q
人間世界に厳然として在るもの、という観念でいる限りは、自分で一生懸命、その業因縁の想念所
業を、抑えつけながら、神仏に祈念しなければ、神仏に救いとつて貰うわけにはゆかない、という
ことになつてきます。
もう一度いいかえますと、人間が、自分や他人の想念行為の中に、自分そのもの、その人そのも
のの想念行為としての悪を認め、不幸を認めているようですと、法華経の絶対の世界、自由自在、
真善美の世界には、永遠に到達出来ないのであります。
法然、親鸞の教えも、そのところに重点が置かれてあつたのであつて、肉体人間の一切の想念行
為に関係なく、一念の念仏によつて、弥陀の浄土に往かれるのだ、といつているのでありまして、お
前は今迄あのような行ないをしていたから、その行為を改めぬ限り、いくら念仏をいつても、阿弥
陀様は救つてくれぬ、などとはいつておりません。それは、人間は本来仏そのものであるのだ、と
いうことを浄土門の祖師たちは知つておられて、本来は仏なのだが、仏であるということを知らな
かつた以前の妄念によつて、みずからを知らず知らずに仏から引き離していたものなのだから、そ
うした過去の想いにひきつづいた想念の世界で、いくら仏を探して歩いても、過去の妄念の波が後
から後から押し寄せてきて、とても仏と一体になることは出来ない。だから、一度過去の自分と絶
縁して、念仏一念で押し通してしまえば、過去の波の中に、自分の想いを引き戻すことがないから、
仏と一体になれて、救われの自分、自由自在な自分、本来の人間の姿に還えれるのだ、ということ
が、その教えの根抵にあつたのであります。
91′ 自力行と他力行
それでなければ、過去で如何ような悪人であつても、
けがないのであります。
念仏一念で救われるなどと、いいきれるわ
92
純粋他力行を通して絶対力に

それが、現今の宗教家の大多数の人が、神仏に全託せよの教えをしながら、悪い心をしきりに指
摘しています。強いていえば、責め裁きつづけて、教えを行じさせようとしているのであります。
なんという徹しきれない教えなのでしよう。自力なら自力で、道元の如く、白隠の如く、徹底的に
坐禅し思索し、苦行してでも本心を開発するか、それでなければ、法然、親鸞の如く、絶対他力の
道をゆくかにしなければ、人間は永劫に救われないし、人類世界に地上天国浄土を現わすことは出
来ないと思います。
今日のような、地球世界の運命が、最後の瀬戸際に迫つている時、生半の宗教観念では、どうに
もなりません。そこで私は絶対自力の道は私も出来得ないし、一般の人々にも出来得ないと思つて、
絶対他力の行を突き進んでいるのであります。
それが、白光真宏会の教義であり、それに附則した世界平和の祈りでもあるのです。
神は絶対の愛であり、人間は本住の地を神仏の中に置いていることも真実のことであります。只、
神仏の光が、肉体人間の世界に直通して流れてくることを、過去世からの誤った業想念が・澱ぎつ
ているだけなのであります。ところが、その業想念を払う役目として、守護神、守護霊が、絶対神
憐の開発
の分れ、あるいは祖先の悟つた霊の守護の光明として、私たち肉体人間を間断なく守護しているの
であります。これは日常の私の体験としてはつきり知つていることでありますから、私は確信して
いいきります。
しかし、こうした守護を受けながらも、肉体人間は、依然として誤ちを繰り返えしているのです。
それは、守ろうとする守護の力は、五感に触れぬ力であり、業想念は、五感に触れてくる力である
めで、どうしても、五感に触れる力の方に、肉体人間の想いがひきつけられて、守護の神霊の光か
ら遠ざかりがちになるので折角の守護の神霊の力も、非常にその効果を薄くされているのです。
そこで私は、常に守護の神霊と、人間の想念とを近づけて置こうと思い、守護の神霊への感謝を、
うまずたゆまず、常に心の中で、唱えつづけているように薦め、また一方では、人間の業想念から
生れた悪や不幸(病気等の)は、すべて本来実在するものでないから、消え去つてゆくものである。
如何なる悪や不幸や、誤つた想念が現われても、その想念に把われぬように、把われそうになる想
いを、守護の神霊への感謝にむけかえるように教えているのであります。そしてその想いを、自分
だけの救われから一歩進めて、世界平和の祈りまでに高め上げているのです。
悪い自分も、悪い他人も、それはすべて消えてゆく姿、自分は只、世界平和の祈りの中に全想念
を傾けて、日常生活はそのままつづけてゆくのであります。これが他力行から入つた絶対力になつ
でこの地上界に天国浄土を顕現する、現今における最も善い宗教的方法であると、神は私を通して
宣言し教導しているのであります。
93 自力行と他力行
94
霊性開発について
霊性の開発
世界平和は霊性開発から
今日は霊性の開発についてお話致しましよう。
人間が真実に救われる為には、どうしても自己の霊性というものを開発しなければなりません。
霊性が開発されていない人々が、どのように世界平和を唱えても、統一世界の創設を叫んでも、そ
れは決して真実の世界平和をもたらすものでも、統一世界の誕生を近づけるものでもありません。
何故かと申しますと、人間の本性は霊性であつて、物質体(肉体) ではないので、霊性の開発さ
れていない、人間は肉体として存在しているだけの者である、という考え方の人々の生き方では、
真実の道を歩いて行くことはとても出来ないのであります。
レイ
それでは人間の本性は何故霊性であつて、肉体ではないのか、といいますと、霊とは0 であつて、
一として表面に現われる前の姿であります。一、二、三として表面に現われた姿を、この現象の世
界、つまり人間の肉体を含めた物質の姿と致しますれば、そうした眼に見え耳に聞える、五感に感
レイ
ぜられるもの以外を霊(0) として考えて頂いてよいのではないかと思います。
と致しますと、生命というものは一体どちらの部類に入ることになるでしようか。生命は生命そ
れ自体としては、五感に触れ得るものではなく、その働きとしてだけ五感でつかみ得べきものであ
ります。
心臓も肺臓も胃腸も、肉体内で生命が活動している時は、その働きをつづけていますが、ひとた
び生命がその肉体から消え去つてゆくと、たちまちその働きを停止してしまいます。しかし、心臓
そのもの肺臓そのもの胃腸そのものは肉体内にそのまま存在し、肉体も働かぬ体としてその場に存
在しております。
ですから、眼に手に触れる肉体や内臓等々は、眼に見えず、手にも触れ得ぬ、生命というものを
除外しては、その存在が全く無意味な死体、死物となつてしまうわけです。
こう考えてまいりますと、私共の五感に感ぜられている、いわゆる眼に見え手に触れることの出
来る物体というものは、その場その時々の道具的器物的存在であつて、五感に触れ得ぬ生命という
ものこそ、人間の本質であるということになつてくるわけであります。
これは何人といえど、否ということの出来得ない事実なのでありますが、現代における人類の大
半の人々が、五感に触れ得る物体的人間のみを問題にしていて、その肉体を左右している生命それ
自体を、肉体の内部的存在としてのみ考え、肉体そのものを主として考えてきたのであります。こ
95 霊性開発について
れこそ人類最大の誤りであつて、この考えに根抵を置く以上は、永劫に人類は真理を顕現すること
は出来ないのであります。
この生命というものを根抵にして、この世界、この社会を考えてゆかぬ限りは、この人類は常に
その場、その時々のお互いの自分勝手な生き方より出来なくなり、永遠につながる人類の発展とい
う、人類の理想が実現出来ぬばかりでなく、一歩一歩滅亡の淵に近寄つてゆくことになつてしまう
めであります。
霊性の開発9S
生命の永遠性
人間の生命が一個一個の肉体内にだけあるという考え方からすれば、一個一個の肉体が減する度
びに、その人間は永遠に滅び去つてしまうということになるので、その人間の意志というものは、
その時に断絶してしまつて、その人そのままの生き方や考え方は、そのまま消え去つてしまうわけ
になるのですが、事実はそうではなく、その人間の意志を誰かがひきついで、その人の仕事を完成
させてゆこうとするのです。
この場合、肉体を離れていつた人の理想や仕事が、個人的である場合よりも、より社会的であり
人類的である場合において、多くその意志がひきつがれてゆくのは、誰しも知つておられること
と思います。それはどういうことを意味するかといいますと、人間の肉体を働かせている生命とい
うものの本質が、他の生命のために役立つことを望んでいる、つまり、生命というものが、一個一
個の肉体の中にあるように見えながら、実は他の生命と一つのつながりを持つて働いているもので
ある、ということになるのであります。
ですから、あまりにも個人的な生き方をした人の意志は、他にひきつがれることが少く、より社
会的、より人類的である意志からくる、理想や仕事が、多くの人にひきつがれてゆく自然の成り行
きになつてゆくのです。
そう致しますと、生命というものは、個々の肉体において働きながら、多くの生命とつながりあ
つているということになり、そのすべての生命の総称を大生命と呼んでも差し支えないことになつ
てきます。
そしてその大生命は、個々の肉体のうちにあつては小生命として、みずからその姿を見せずして、
肉体の諸機能を働かし、考える力の源動力となつてもいるわけであります。この生命の力というも
のが、物質のように智慧や知覚のないものでありましようか、即座に否ということが出来ます。何
故なれば、人間そのものが生命にょつて働きつづけていて、その働きは常に智慧や知覚を元にして
いるからでありますから、生命そのものに智慧や知覚がある、と断定せざるを得ないのです。
そして、その生命は働きとしては、肉体の諸機能を通してはつきりわかりますが、その実体は五
感に触れない、つまり姿無きもの、霊であるのです。そうした小生命の総合である大生命はしたが
つて大霊と呼ぶことになつてきます。
わけみたま
これを順序だつて説明してゆけば、すべての生命の根源は大霊より発し、その分霊によつて、こ
97 霊性開発について
の世における直接活動をしているということになり、人間は大霊より発した分霊の一つ一つである
ということになります。
人間のすべての能力が、大霊よりきたるものである、ということは、この理によつて、実にはつ
きりするのでありますが、このような簡単なる真理が、肉体だけが人間であると思いこんでいる人
々の頭には、なかなかわからないのであります。
カルマ
業は必ず消え去るもの
むみよう
この真理をわからせない存在が、業想念、つまりガルマまたは無明というのであります。人間
カルマ
が霊性を離れるに従つて、このカルマ、無明の闇がひろがつてゆくのでありますが、この業想念所
業、無明は本来性のものではないので、ある限度たまつてきますと、どうしても消え去らなければ
ならないようになつているので、他のカルマとぶつかり合つて崩れ去つてゆくのであります。それ
が闘争となり戦争となり、傷病となり、失敗となり、天変地異となり、さまざまな不幸をそこに現
出してゆくのであります。
この理を知らぬ人類は、こうした不幸な姿をそこに現わして消え去ろうとするカルマを、不平不
満や、恐怖や憤怒や妬みや恨みの業想念をもつて、再び自己のところにひき戻そうとするのであり
ます。不平不満や恐怖や憤怒の想いが、何故消え去ろうとするカルマをひき戻すことになるかとい
いますと、この崩れ去る側、消え去るべき側と同じ想念が、不平不満や恐怖等々であるからなので
霊性の開発98
す。そうした想念は、ヵルマの波の中にみずから溺れこんでゆくようなもので、消え去るヵルマの
波長と相等しい波をもつて結び合つてしまうのであります。ですから、先のカルマは一度びは崩れ
カルマ
ながらも、消え果てるわけにはゆかなくなり、後から起した業想念の波の中に同居してしまうこと
になるのです。
大霊(神) はすべての力の根源であつて、すべてを一つに結ぶ調和そのものでありますのに、そ
の大調和の姿がそこに現われようとして、業想念の壊滅をひき起こしているのに、そうした神の理
カルぞ
念の現われの方に想いをむけずに業の方に想いをむけるから、不平不満や、恐怖や恨みが起るので
す。不平不満の想念の人には不平不満の事柄がかえつてき、恨みをもつ人には、恨みの想いがかえ
カルマ
つてくる、自分が出したものはすべて自分にかえつてくる、というのが、業の法則なのです。この
カルマ
業というものは、神がなくて現われたものではなく、間接的にはやはり、神の力によつて動かされ
ているのでありますから、神がその必要を認めない時には、崩れ去るのであります。
神と業の動きとの関係
カルマ
さて、ここが実に重大なところであるのです。業の動きが、神となんら関係なく活動していると
カルヤカルマ
すれば、神と業とが相対的になつてしまつて、神と業が対立して相闘うというようなことになつて
しまうのであります。昔の宗教者は、神と悪魔(業) の二本にしていて、悪魔(業)を動かしがた
い存在のように説いておりました。もつともこの世の姿をそのまま見ますと、どうしてもそのよう
99 霊性開発について
な考え方になりがちであります。しかしそれでは、この世の闘争は永劫につづかねばなりませんし、
どうしても旗色のよい方につき従いたくなりまして、神が絶対者である、とはいいきれなくなりま
す。
カルマ
如何なる業も、神の意志一つで自由に消し去り得るということになりませんと、神の絶対性、無
限者、全能者という原理が成り立ちませんし、人間が神の子である、という安心感も得られません。
人間は神の子であり、霊性である、だからその霊性を明らかに発顕して、生命そのままに生きて
カルマ
ゆけぽ、神一元の生活がそこに打ち開かれていつて、無明(業)はいつか消え去つてゆくのである、
ということが真理でなければ、宗教というものの生命は失われてしまいます。
業の生れた原因
カルマ
それでは、神の力が間接的に作用して業想念が動いているということは、一体どのようなことに
なるかをお話しなければなりますまい。大体カルマそのものは、神の生命が肉体人間として地球界
に働きかけた時に、はじめて生れ出たものであつて、地球界に肉体人間の生れる以前には、この地
球界には存在しなかつたのであります。
光一元の世界には闇がないと同様に、闇一元の世界で光の存在がない場合には、闇はそれ自身、
闇であることを自覚することはありませんが、ひとたび、光がそこに放射されはじめますと、光と
闇の区別がはつきりついてまいります。そして、光が前へ進むにつれて、闇は自身の姿をそれだけ
霊性の開発100
つつ削り取られてゆく形になつてきます。
光を神と致しますと、神の光が地球界に、人間生命として働きかけてきた時から、地球界の闇、
つまり未開発が、それだけつつ開発されてゆくことになつてきたわけですが、神がその光線を地球
界に働きかける場合には、どうしても地球界と同じような物質体を必要とするわけで、それが個々
の肉体人間として存在することになつたのであります。ところが、この肉体身というのは、地上界
に属する物質なので、地上界的な性質をそれ自体がもつておりますので、神の光が地球界の闇を進
んでゆくにつれて、未開発が開発されてゆく経過において種々様々な動揺や変化が起つてまいりま
す。それを肉体人間が反対的に考え、かえつて自身を闇の側に置いてしまい、閻の崩れてゆく姿を、
自身の崩れてゆく姿と同一視してしまつたのであります。この不安恐怖、つまり、神の光、霊性を
カルマ
離れた考え方が、無明であるわけで、それが業想念の生れた原因なのであります。
これがキリスト教的にいえば、アダムとイブの原罪といわれているところなのであります。
このように、人類自身が、神の光そのものであることを忘れ、闇の産物である、肉体人間である
と誤り考えてしまつたことが、罪といわれるものの最大の原因なのであります。
生命同一観の真義
人間は肉体であると考える以上は、自分と他の人間とは、全く別なる存在であつて、それが神の
生命の理念をこの地球界に顕現するための一つなる者の別個の現われ方であるなどとは考えられな
101 霊性開発について
いのは当然なのです。
人間が生命において同一である、ということば、神の存在を信ずる者のみにいえる言葉であつて、
唯物論者、肉体人間論者にいえる言葉ではないのであります。
そこ
人間は生命において同一である、と知る者がどうして、他の人間を傷つけ損ねてまで、自己や自
己の所属する団体のみの幸福を願つたり、他者の上位に位しようと思つたり出来るでしようか。こ
の世における、個々人及び世界各国の生き方を眺める時、真実生命の同一観をもつて生きている人
が、あまりにも少いのに驚かざるを得ないのです。
それはこの世の人類が、自己の霊性を、はつきり開発していないことから起つていることは間違
いのない事実なのです。
自他の霊性なるを知り、自他の肉体が霊の器であり、霊性の働き場所であることを知るならば、
その肉体を守るために、他を退けたり、肉体の病や不幸に打ちひしがれたりするわけはないのであ
ります。
人間とは肉体ではなく、霊性であり、神の理念の顕現者である、ということを知ろうとしない限
ウんねてんしよう
り、人類は業生の中を輪廻転生しつづけて、永劫に救われることはないのです。
大霊であり大生命である神と、分霊であり小生命である神の子人間とのつながりを知らない為政
者や指導者層に世界の実権を握らせている現在の姿が、どうしても一度は大転回して、神のみ心を
はつきり知つた人々による世界の運行がはじまらなけれぽ、如何なる妥協策も・魔嚇策も・平和論
霊性の開発toe
も、世界人類を救うわけにはゆかないのです。
霊性開発の方法
さてそれでは霊性を開発するにはどうしたらよいというのでしよう。
一口にいえば、神様以外のことを想わないことが最大の秘訣である、ということなのです。今日
までの宗教者が、神仏のことを説きながら、その言葉のうらから、信徒らの行為についてのいまし
めを口にし、自己の力で業想念を超えることをすすめているのですが、私はそうした方法をとらず、
はじめから終りまで、徹頭徹尾、神のみを想うことをすすめているのであります。
そして、自己の想念として表面に現われてくる、自己を傷つけ、他を損ねる様々な想いを、消え
てゆく姿として放ちやつて、ただひたすら神のみ名のみを心のうちで呼ばしめる方法を取つている
ほんまつてんとう
のです。現われてくる業想念行為に、いちいち把われるような教え方をしていては、本末転倒して、
自己や他者の業想念行為にのみ、想いが把われてしまつて、神性開発をいちじるしく遅らせてしま
うのであります。
神様だけがすべてであると知るなら、宗教指導者は、何故みずからの信者に神様だけを想わせず
カルマ
に、業想念である肉体人間の誤ちを呼び醒ますようなことを教えるのでしよう。
おまえの心は、ここが悪い、あそこが悪いといういい方や、人間は罪の子である、といういい方
は、いかにも宗教の教えのようでありますが、実は真実の宗教とは全く違うのであります。
XO3 霊性開発について
真実の宗教は、人間が神から来ている者であつて、光そのものであり、真善美そのものである、
ということを悟らせることであります。
罪の子という教えは、肉体人間にまつわるものであつて、本来性の霊性とは関係ないものなので
ありますから、肉体人間というものは駄目なものであることをはつきりさせるためにいう言葉であ
つて、ひたすら神にすがろうとする人々に対していう言葉ではないのです。
そこで人間を真実の救いの道に導くためには、霊性の開発ということが、最大のこととなるので
あります。
この霊性開発のために、昔は僧侶になつたり、修験者になつたりして、山に篭つたり滝行をした
りしたのですが、そうした行を徹底してやるためには、どうしても妻や家族をもち、その生活の責
任を身に負つているようでは行じつづけることが出来ません。と致しますと、現今の修行の方法と
してはそうした行為は、一般大衆にはできよう筈もありません。
そのことに最初に気づいたのが、鎌倉時代の仏法者である、法然、親鸞等の浄土門念仏者であつ
たのです。一心に念仏をすることは、一心に仏を億念しつづけること、つまり神のみを憶うことで
あつて、神仏に自己の想念行為のすべてを投げ出しつくすことであつたのです。
この方法は、日常生活のその身そのままで霊性を開発し、神仏の世界とのつながりをしつかりと
結びつける易行道であつたわけです。
この霊性の開発ということを誤り考えている人々の中には、肉体以外のつまり五感で感じる以外
霊性の開発104
の事物や事柄を知り得る観を得ることであるとのみ考えている人々があるようですが、これははな
はだ危険な考えであります。霊性の開発された状態というのは、その人の想念行為が、神のみ心で
ある、愛と真と善と美とを常に現わし得る状態をいうのであつて、普通人のわからぬことをわかり
得るというだけのことではないのです。
これは霊性開発についての大事なことなのであります。霊性の開発ということを、自己の眼前の
利益のためになそうとして、人に見えないものが見え、人に聞えないものが聞え、人に感じられぬ
事柄を感じ得、人に出来得ぬことが出来るということに満足し、優越感を抱いているようであつた
ら、その人は、その心柄そのものが、霊性の開発とは全く異なつた道を歩いているということにな
るのであります。
何故かと申しますと、人に対する優越感を抱いたり、自己の現世利益のための修業であつたりす
ることそのものは、人間は神の生命において同一である、という原理をすでに踏みはずしているか
らです。
ところが実際問題として、こうした自己本位の考え方は、なかなか抜け難いものであつて、一般
大衆のほとんど大半が、こうした部類に入つているのでありますが、それであるからこそまた、霊
性開発の道が殊更に必要になつてくるのであります。
世界平和の祈リで楽に霊性開発霊







XO5
そして、今日こそいよいよ大衆のすべてが真実に霊性を開発して、神の子人間の真の姿をこの地
球界に現わさなくてはならぬ時代となつてきているのです。
ですから現在では、ただ単に宗教の教理だけを説く宗教者も、現世利益だけを与える宗教者も、
必要ではなくなつてきているのであります。
それではどのような宗教者が必要であるかと申しますと、真実の霊性の開発を、誰にでもやさし
く出来得るように説き教える宗教者と、国家や人類の真実の姿を顕現出来得る道を説き教える覚者
たちとが必要なのであります。
そうした覚者たちの中には、宗教人も科学者も政治家もいるでしようが、そのいずれの人々の働
きも、まず一般大衆の霊性の開発を基盤にしない以上は、どうにも働きようがないと思われます。
そこで私は、まず一般大衆の霊性開発の面を神様から受け持たされて、法然親鸞以来の易行道を、
 ヘヘへ ヘへ
現代の言葉に説きかえて、世界平和の祈りとして皆さんに知らせているのであります。
霊性の開発というと、宗教の道を少しでも知つておられる人々は、すぐにも坐禅観法や滝修業や
断食行等の修業を思われるでしようが、そうした修業は霊性開発の一つの道ではありますが、すで
に今日の修業方法ではないということを知らねばなりません。
今日の修業方法は、さきにもすでに述べておりますように、法然、親鸞の二大聖者によつて、開
かれている道であり、イエス・キリストの教えにも開かれている道でなければなりません。
今日のように食生活、社会生活の複雑な時代においては、むずかしい修業方法は、特定の人以外
霊性の開発106
には到底やり遂げるわけにはゆかないからです。
神様、仏様は、人間自身の中で、常に働きつづけていて下さるのだ、ということの真実にわかつ
た人は、すでに霊性を開発した人なのでありますが、それをもう一歩進めて、神様仏様の世界は、
完全円満な、光明燦然とした世界であつて、悪や不幸や病のような不調和な世界ではない、今自分
の環境に現われている不調和な状態は、過去世から現在に至るまでの神仏から離れていた自分の想
念行為の誤りの消えてゆく姿なのである。何んという有難いことであろう、有難うございます、有
難うございます、というように全感謝の想念に自分の想いをむけかえてゆけ得るようになれば、そ
の人はもう完全に霊性(本心) を開発している神の子人間となつているわけであります。そしてそ
うした人の動きは、その人の周囲の人々を知らず知らずのうちに光明化し、自然に多くの人々の霊
性開発に役立つ行為が出来得る人となつているのであります。
ヘへ
そうした人に日常生活そのままで、なんの修業もなんの気ぽりもいらずになり得る方法が、世界
 ヘヘへ 
平和の祈りであるのです。
世界の人類の平和は、神の姿の現われであり、神の理念の現われであるのですから、世界人類の
平和を祈る想いは、そのまま自己の霊性開発の道であります。そして、自己の霊性開発のこの祈り
は、またそのまま人類社会の為の祈りでもあるところに、この祈りが現代の祈りとしての大きな価
値をもつのであります。霊







lA7
煩寛
悩2
即ぞ・
ぽだい
菩提について
霊性の開発10$
正直と勇気
ぽんのう
この世に生きている人で、煩悩、つまり想いなやみのない、あるいはなかつた、という人は、お
そらく一人も存在しないのではないかと思います。
現在は全く煩悩から解脱し得ている人々も少数はありますが、その少数の人々も、その昔はやは
り煩悩をもつて生きていたのであります。
こうした煩悩をもちつづけて生きている人間たちを、何故、釈尊は仏子といい、キリストは神の
子といつているのでありましようか。個人的にも社会的にも、国家や人類的にも、悪と見え、不幸
と見える姿が、はつきりと現われているこの人類世界をつくりあげている人間たちが、何故神の子
とか仏の子とかいえるのでありましよう。
これをいいかえますと、神が人間を創つたものなら、あるいは人間の本源が神であるなら、何故
人間はこんなに煩悩があつたり、恨み心や妬み心や、怒りの心があつて、人類世界がこんなに常に
戦争の恐怖にさらされていなければならないのか、という疑問になつてくるのであります。
ちよつと理論的に頭の進んでいるある種の人々は、一度は信仰生活に入つてみても、絶対者であ
り、全智全能老である神が、なんの為にこのように人間を苦しめ痛めるのであろう、もし実際に神
が存在し、神が愛であるならば、自分たちがこのように祈つているのに依然として、この世を善く
しようとも、人間たちの苦痛を救つてもくれぬ、…… … といつて、かえつて唯物論的現実活動に挺
身してしまつたりしているのです。
煩悩即菩提という意・味、想い悩むことや、不幸や病気になつたりすることが、そのまま悟りの道
(ぼ把い菩提) に直通しているのだ、神の子の本体を開顕することなのだ、という事実を知らない限りは、
個人も人類も、真実の救われには入り得ないし、神のみ心をはつきり知ることはできないのであり
ます。
この真理を知る第一の心は、自分自身の心に正直である、つまり自分の心をごまかさない、とい
う平凡といえることにあるのです。あくまで自分自身を正直にみつめつづける、ということは、他
の人の行動をも、社会国家人類の動向をも正直にみつめつづける、ということと一つのことなので
あります。
この正直という平凡な言葉を無視しているようでは、個人もこの人類世界も永劫に救われに入る
ことはできないのです。
109 煩悩即菩提について
この正直につづいて、この正直な心を自己の行動に現わし得る勇気ということが大事になつてく
るのであります。真の勇気がありませんと、自己自身の心の動きや行動を、ごまかさずにはつきり
みつめつづけることはできないのです。
消えてゆく姿という真理
ところでこの二つの心の在り方は一応誰でもが説いていることであつて、なんだそんなことか、
と一蹴されそうなのでありますが、その次に私は、煩悩がそのまま悟りへの道であり、神の子人間
の本心開発の道であるという、、煩悩即菩提の一番大事な心のあつかい方を皆さんに知らせようとし
ているのであります。
ヘヘヘヘヘへ
それが、常に説いている、消えてゆく姿ということなのであります。
悩みわずらい、迷い痛むという、神の子の心とは全く反対な想念が、何故そのまま神への道であ
り、悟りへの道なのでありましようか、この真理は、今日までに種々様々な人々が説いてはいるの
ですが、ばつと人の心を明るくし、真実の勇気を人の心に湧きあがらせるような教えを、私の狭い
読書体験の為か、今までに味わつていないのであります。
煩悩即菩提の一般的な解釈は、煩悩がそのまま悟りへの道である。病気をし、貧乏をし、不幸を
味わっているところから、悟りへの道が開けてくる。神仏への道がわかつてくる。という説明ぐら
いでありますし、ちよつと深く説いている人々は、病気や貧乏やこの世の様々な不幸や想いわずら
霊性の開発110
いは、そのまま神仏の慈悲であつて、そうしたことによつて、人生の深い体験を人間に味あわせて
下さつているのだ、人間は多くの変つた体験を積むことによつて、その心がますます深く高くなつ
てゆくのだから、その想い煩らうこと、即ち煩悩はそのまま悟りへの道に直結しているのだ、子供
の時から甘やかされてくらし、あまり苦労も悩みもなくこの一生を過ごした人はかえつて、人間と
しての多くの体験を積むことができず従つて深刻な苦悩を味あわないので、真実の人間としての完
成、つまり悟りへの道、神仏への道に進むことができないものなのだ、というように説いています。
また、もつとも知識的に説く人は、人間が高まれば高まる程、深まれぽ深まる程、その人間は自
己の煩悩に対する苦痛が深刻になつてくる、それは内部の神の心(良心) の働きが強くなつている
ので、神の心の発現を邪魔する煩悩に対して苦痛を感ずるものなのだ、その苦痛が強けれぽ強い程、
その人は神への道を深く昇つている人なのだ、そうしたことが煩悩即菩提といえるのである、とい
うような説き方をし、因縁論的に説く人は、煩悩が起ることは、皆すべて過去世の因縁である。だ
からその煩悩の因になる様々な本能的な動きや、様々な不幸は、すべて過去世の因縁の借りを払つ
ているようなものだから、煩悩の起るたび、不幸の起るたびに、過去世の因縁の借りをお払いした
のだ、と思つて感謝しなさい。そうした感謝の心が菩提心であり、悟りへの道である、というよう
に説いています。
いずれも、もつともな言葉であり、結構な言葉であるのですが、まだ何かすつきりとしないもの
が残ります。
111 煩悩即菩提について
それはどこにあるか、といいますと、今までの説き方が、いずれも、煩悩も菩提も同じ線におい
て説いているからであります。同じ線という言葉はあまりうまくありませんが、煩悩、つまり様々
な欲望や苦痛に悩み悶える想いも、菩提、つまり本心の在り場所、悟りの心神仏の座も、一つにし
て、実際にあるものとして説いていますが、私の説では、薔提や菩提心は実際にある心で、消え去
ることのない青空のようなものであり、本心(神仏)の心であるが、煩悩というものは、現われて
は消え去つてゆく雲のようなものであつて、青空のように、如何に雲によつて隠れている時があつ
ても常に実在しているものとは違うのである、という理を根本にして説いているのであります。
霊性の開発112
人間は本来神の子で業生ではない
人間は神の子として霊体をもつてこの地上界に天降つてきたものであつたのですが、この地上界
を創設しているうちに、この地上界の様々な波動に同化しなければこの地上界が創設できぬので、
肉体という物質体をつくつてその中に入り、この地上界の生活をしているうち、いつの間にか、そ
の物質体(肉体) に把われてしまい、自己の本体が神の子であり霊身であることを忘れ果てていっ
たところから、業想念的因縁が生じたものであるということは、何度も説いておりますが、そうし
た業想念が、自己の神の子であり自由自在身であることを否定し、そこに不自由な人間をつくりあ
げてしまつたのであります。自己の神の子であることを否定し、人間の自由自在性も否定する想念
がなければ、この人間は、この肉の身のままで、神の子そのままの自由自在な世界をこの地上界に
づくりあげることができるのですが、自己の本体(神の子) を否定しつづけているばつかりに、い
うまでも人類は幸福にならないのであります。釈尊やキリストをはじめ、その神性を発揮して、超
.越的働きをした人は、今日までに相当数存在しているのですが、現代の人間は、そうした超越者の
超越ぶりにはあまり心をとめようとはせず、いたずらに、頭の中の業想念的知識で、人間や人類世
界をいじくりまわしているのですから、しまつが悪いのです。
人間の本性は太陽のようなものであり、月のようなものなのでありますが、今日の人間は全く肉
体人間、物質人間になり果ててしまつて、光体である真実の姿を忘れ果てているのです。それはあ
たかも、大空というものは雲の集まりであつて、太陽などというものは一体あるものなのか、ない
ものなのか、というのと同じ程の愚かさなのであります。
人間は太陽や星のように、常に光り輝いているものであることは、私を写した写真が、私の肉体
をかき消してしまつて、太陽のような光体そのものとして写つている事実が証明しているのです。
(註・:この写真は次々と奇蹟を現わし、現在はお守りとして同志の人々が身につけています)
体験というものは非常に有難いもので、人間は神の子である、人間の本体は太陽のような光の体
であり、光明燦然としたものである、という事実を高々といい切れるのは、自己の如実なる体験が
あるからなのであります。
神性を現わすには煩








113
さてそこで、その人間の真性を自己に現わすのには、一体どのようにしたらよいのか、という問
題になつてくるのです。それが、煩悩即菩提という言葉によつて解決してゆくのであります。
ヵルて
すべての煩悩が現われた時、それはその人の過去世の因縁の業が、今消え去つてゆく時なのであ
ります。その煩悩は、本能的な欲望に対するものもありましよう。貧乏や病気についてのものもあ
りましよう。また種々様々な不幸感の悩みでもありましよう。そうして苦悩が如何なるものであり
ましようとも、その苦悩が想いとして現われた時、それは即ち、その原因(因縁)が、その時その
心から消え去つてゆこうとしているのであります。それがわからないと、煩悩即菩提の意味もわか
らなければ、救われに入るわけにもゆかないのです。
すぺての苦悩は、現われた時、即ち消え去つてゆくのであつて、その苦悩を把えようとして、心
め手をその方に伸ばさぬ限りは、その業因縁は再びその人に戻つてくることはないのであります。
これは絶対なる真理なのです。何故かといいますと、人間は本来神の子であつて、完全円満性のも
のであり、自己が把えているだけの苦悩の中に、その人が住んでいるのが事実であるからなので
す。ですから、苦悩そのものは、実際にその人にあるのではなく、その人の想念の中にあるのであ
ります。想念の中にある、ということは、その想念がなくなれぽ、なくなつてしまうということで
・あつて、永劫に消え去らぬ実在とは違うのであります。
こうした業想念をいつまでも掴んでいる以上は、その人は救われの道に入ることはできません。
業想念はすべて消え去つてゆくもの、という真理があつて、はじめて、その人は菩提、つまり添心
霊性の開発114
め開発ができてくるのです。
雲に蔽われていては月は見えませんが、どのように濃い雲であつても、月は輝やきつづけてさえ
いれば、やがて雲の方で消え去つて、月光は輝やかに大空にその姿を現わすのであります。人間も
全くそれと同じことなのであつて、自己の本心を輝やかしていさえすればよいのであります。本心
を輝やかしている、ということはどのようなことであるかといいますと、神仏のみ心をその想念行
動に現わしていることなのであります。神仏のみ心はどのような心であるかと申しますと、愛と真
実の心、美しい心であります。愛の心、真実の心、美しい心とは、それは自己の良心を喜ばし、人
の心を喜ばし明るくし、お互いが生きていることを喜び合えるような心であります。素直な生々と
した心であります。
暗いじめじめした心、恨みや妬みや虚栄にみちた心などは、業想念の心であつて、消えてゆく方
の心であります。
永劫に消え去ることのない神仏のみ心は、常に神仏を憶念する想いからおのずと生れてくるもの
おも
ですから、むずかしく考えずに常に神仏を憶いつづけてゆくことが大事なのであります。ところ
が、人間の心は、その神仏の愛を否定したり、疑つたり、人間の真実の幸福生活達成の道を否定し
たりする想いが強いのです。そこで、そうした神の道を妨げる想念を、すべて消えてゆく姿として
ぼたいぼんのう
その想念を突き放ち、菩提の方、神仏のみ心の方に心をむけかえてしまうのです。その時の煩悩が
強ければ強い程、その人の業想念がたくさん消え去つてゆくのですから、その人の本心の輝やき
115 煩悩即菩提について
は、それだけ増すことになるのであります。
苦悩の深い人、不幸感の深い人、そうした人が救われる唯一の道は、如何なる業因縁、業想念も、
すべてはやがて消え去つてゆくものである、という一事を知ることであります。この消え去つてゆ
く、という言葉の奥には、人間はすべて神の子であつて、完全円満性のものである、という私の体
験による真理があるのであります。
人間は本来神の子であるのだから、救われるも救われぬもない。初めから救われているものであ
り、立派な存在者なのであります。
ここで問題になつてくるのは、人間とは肉体ではない、という事実なのです。人間が肉体そのも
のであつて、肉体の他に存在する人間などあり得る筈がない、という迷信がある以上は、入間は個
人的にも人類的にも絶対に救われることはできないのです。
人間が肉体だけの存在であるとするならば、人間というものは、実にはかなくも哀れなものであ
ります。個人の生命をかけて完成させた仕事も、その個人が肉体的の死を遂げた揚合には、その個
人の感覚というものは、折角完成させたその仕事からすつかり離れ去らなけれぽならない。個人は
意識することも感覚することもない無に帰してしまつて、そのまま永久に睡つてしまう、という唯
物論的な現今の思想が消え去らぬ限りは、人間は神と人間との真実のつながりを知ることはできな
い。人間の本体、真実の人間というものを永劫に知ることができずに、苦悩にみちた、哀れにし
て、はかないこの世界を繰りかえし、繰りかえし渡つてゆかなければならないのです。
霊性の開発116
人間というものは永劫に死なないものである。肉体は死んだとしても、それは真実死ぬのではな
くして、他の界に誕生してゆくのであつて、移りかわり移りかわりして生きつづけてゆくものであ’
るという事実を知ることが、まず一般の人々にとつても大事なのであります。
この世に小、中、高、大というように各段階別の学校があると同じように、真実の人間の世界も、
そうした段階を進んでゆくのであつて、肉体の世界は、そのうちの小学校に相当するのであります。
それを、肉体世界の他に世界がありよう筈がない、と思いこんでいるようでは、学校というものが
小学校だけしかないと思つていると等しい愚かしいことなのであります。
煩悩の想いをそのまま世界平和の祈リへ
しかし、今日までは、そうした事実を身をもつて教える人が少なかつたし、そうした機関があつ
ても、まだ時が来なかつたので、人々をしつかりひきずつてゆくことができなかつたのであります。
わけみたま
人間は神の分霊であつて本来自由自在身なのであり、完全性のものである、だから、神のみ心の現
われ、愛と真と善と美とを損うような想念思想行為は、すぺて消えてゆく姿である、そうした業想
念を消して下さる役目が守護霊、守護神なのであるから、常に守護霊、守護神に感謝しつづけてお
れば、業想念の波にかこまれて、外部に光を発し得ないでいた分霊魂の力が、守護霊、守護神とお
のずからつながつてゆき、直霊(神)本来の輝やかな姿をその人の上に発現し得るようになるので
あり、そうすることによつてこそ、世界人類が真実の平和を現わすことができるのである、そうな
117 煩悩即菩)ITLついて
る一番の近道は、業想念の想い、つまり妬みや恨みや悲哀や怒りや恐怖の想念のままでもよいか
ら、そうした想いが強ければ強い程、世界平和の祈りの中に、その想念をもつていつてしまいなさ
い。そうすれば、知らぬ間に自分も救われ、世界人類をも救う働きをいつの間にかしていることに
なつているのです。これが煩悩即菩提の働きである。
私は一方ではこのように説き、また一方では、その世界平和の祈りという神のみ心を地上界にひ
びきわたらせることによつて、今までは肉眼に見えなかつた、他の世界の存在者の姿を、この地上
界の人々の前に現わそうという、運動をしているのであり、その運動が着々と進展してきているの
であります。
人間は、本性が神でありながら、働きとしては肉体身であり、幽身であり、霊身をもつているの
であります。ですから、現在煩悩があるということが悪いというのではないのであります。
霊性の開発11$
物質文化より霊文化へ
神のみ光を、各自が各自の天命のままに、霊身となり、幽身となり、肉体身となつて縦横に働か
せつづけ、やがて、この地上界にも神の世界を顕現することになるのであります。そして、この世
が神の世界そのままに現われるためには、肉体的な個人として、物質的地上界の建設をしなけれぽ
かんまん
ならぬので、物質的波動に歩調を合わせる為、霊本来のひびきを緩慢にしていつたのであります。
そのひびきの速度の差が次第にひろがつていつて、いつの間にか業生という形になつてきて、神ζ
人間とが一応は別の存在のようになつてきてしまつたのです。しかし.」れはすでに大神のみ心の中
にはわかつていることであつて、地上界に物質文化の華が開ききつた時には、この業生(業想念行
為) を消し去つて、神本来、霊本来のひびきをもつて、今度はこの地上界に精神文化、霊文化の華
を咲かせようとしておられるのであります。
このような経過をたどらなければ、この地上界(地球界) に神のみ心を現わすことはできなかつ
たので、唯物論といわれる考え、個人主義といわれる考え、物質的なものの考え方も、過去におい
ては神の経論の一過程としては致し方ないことであつたのでしよう。しかし現代はもはや物質文化
が開けきつてしまつたのですから、霊文化の道に進んでゆくより方法がなくなつてきているのです。
その証拠には、科学の領域はすでに物質を超え、電子学、波動学にまで突きいつてきてしまつて
いるのであります。電子や波動を研究することは、物質の追求ではありません。霊科学、霊文化の
道に非常に近づいてきているのです。ですから、今の時代にあつては、ただ単に眼に見えぬ、手に
触れぬ、というだけで、それは無い、などということは、非科学きわまることとなるのであります。
ごまかさず自己を見つめよう
ここで、私がこの小論の最初の頃に申しておいた、正直であることが非常に大事なことである、
という言葉を今一度思いかえして頂きたいのです。
自然の智慧の働き、神のみ心は、今や、その中心の働きをこの世に現わそうとしているのでありX19 煩








ますから、中心の働き、真の働きを離れた唯物論的業想念はもはや不必要になつているのであつて、
これはただ消えてゆく姿として、現われては消え去るのみなのであります。
この肉体世界に生きている人間としては、霊性と物質性の両面をもつてこの世に生活しているの
でありますから、霊のみを強調して肉体を全然無視するようなことは、特殊の人以外には到底でき
得ぬことであり、そうしようとすれぽ、この世の生活のバランスがこわれてしまつて、その人やそ
の人の家族はこの世的には不幸になつてゆきます。
霊的なことにひかれる心をもつ人々は、この点が非常にむずかしいのでありまして、ともすれば、
この世の敗残者のごとく、あるいは一般人との交友関係をもてぬ不調和者となつていたりするので
あります。
私はそうした生き方は神のみ心に適うことではないと思います。霊性に生きるということはすべ
ての人々の霊性と調和できうる心になることであつて、自己一人が、世間から離れて生きてゆくζ
とではないと思います。
ヘヘヘヘヘへ
そこに私の説く消えてゆく姿、の大きな効用が生じてくるのであります。如何なる業想念も現わ
れればすべて消え去つてゆくもの、ということは、その底に光り輝いている人間の本性(神の光)
りな
を力まずして発現せしめ得る最もやさしく、誰にでもでき得る方法なのであります。
正直に自己の想念行為をみつづけ、社会国家人類の現在の姿をみつめ、それでよいのか悪いのか、
自分個人で、果して自分自身や家族たちを真実の幸福になし得るか、を真剣に考えなければいけな・
霊性の開発1露Q
いと思うのです。
自分の想念行為をいいかげんにごまかしていては、自己の本心(神性)と業想念との区別がつか
ず、いつまでも神のみ心につながることができません。
自分自身が肉体の頭脳でいくら考えつづけても、自己の本体も、神の存在も、真実の幸福生活も、
わかるわけがないのであります。自己の肉体智(業想念) を一度空つぼにして、自己の生命の本源
(神) にすべてを一任する気にならぬ限りは、超越的難行苦行でもしなけれぽ、自己の本体も真実.
の幸福生活もわかり得る筈がないのです。その事実を正直な心ではつきりみつめること、それが大
事なことなのであります。そこではじめて、消えてゆく姿の教えの力も、守護霊、守護神の働きも、
神の大愛もわかつてくるのであります。
煩悩即菩提の真実の意味はこの白光の教えを実行している人々には、心の底からわかつて頂ける
ものと私は信じているのであります。
121 煩悩即菩提について
122
全託への道
霊悔の開弗
みずから墓穴を堀る肉体人間
先日十戒という映画を観て、改めてしみじみと感じたのでありますが、人間というものは昔から
現代に至るまで、どうして神の絶対性、神の完全性の中に、自己を投げ出せぬものなのか、何故神
の愛、神の力を全心で信ずることが出来ぬものか、ということであります。
映画十戒の中で、モーゼは数々の神の力を示してイスラエル民衆をエジプトから救い出します
が、イスラェル民衆の大半は、紅海の水を二つにさき、自分たちを海底を渡らしめてエジプト軍の
攻撃から救つてくれた程の神の愛、神の力による大奇蹟をはつきり見せられてさえも、モーゼがシ
ナイ山上で神に祈つていて、暫らく姿を見せぬと、もうすぐ自分たちをこれまで救いつづけてくれ
た神への恩も神の力も、忘れ果てたように神やモーゼへの不信を叫び、自分たちで勝手な振舞いを・
するのであります。
それまでに様々な大奇蹟で生命を救われていながら、ちよつと前途が危うくなると、たちまち恩
人であるモーゼを疑い、神への不信を態度に示すこの人々を見ていると、人間というものがつくづ
く嫌になつてしまう程に、卑しい醜いものに思われてくるのです。
ところが、そうした想念は、モーゼの昔のイスラエル民衆だけのものではなく、現代の人類の大
半の想念傾向であるのですから、肉体人間というものは全く救いがたいものである、と嘆いた、先
人先覚者の嘆息に同感せざるを得なくなります。
肉体人間は実に、みずからがみずからの墓穴を堀つているものである、と断じたくなるのは、あ
に私のみではないでありましよう。
カルマ
肉体人間の大半は、神の光をうちにもちながら、業想念の厚い殻でそのまわりを覆いつくされて
いて、内部の神の光が容易なことでは外部に光り出でないものなのであります。
モーゼのように、あのような大奇蹟を現出させても、かつまだ神の力に全託しきれない人間の愚
かさは、奇蹟だけでは人間を救うにはまだ足りない、ということでありましよう。奇蹟をみせられ、
一時救われたとしても、その次の瞬間から暫らくの間、他の奇蹟が現われず再び、自己の生命や生
活が危機に瀕してくると、その人はまたしても神の愛や神の力を疑い出すのであります。何故でし
ようか、それは神そのものが、その人の五感に触れることのない存在だから、悪い運命の力に対す
る恐怖心によつて、以前に示された奇蹟に対してさえも疑いをはさみ、あれは偶然の出来事ではな
かつたか、等と思つたりしてしまうからなのであります。
123 傘託への道
病気が癒されても、不幸が癒されても、それが、単に相手の力によつての治癒や運命の好転であ
る場合は、それがどのような奇蹟的な回復であつても、その人がまた同じように病気となり、同じ
ような不幸な状態になると、またしても不安や恐怖におそわれて、治療家であり運命指導者である、
相手に対して、万々の信頼をよせることはなかなか出来難いのであります。
全託することのむずかしさ
露{隼の開発124
こうした想念が、一般大衆の心であるのです。ですから、眼に見えぬ神に全託せよ、ということ
が、なんでもなさそうな言葉でいて、とてもむずかしい行ないになつてくるのであります。
眼に見える人間である治療家がそこにいてさえ信ぜられぬ人間が、五感に触れ得ぬ存在者に自己
の運命を全託するということは、肉体人間にとつて、なかなかむずかしいことであるのです。
全託という教えのむずかしさは、知識階級になるとなおさらに痛切なものになつてまいります。
それは自己の現在迄の様々な知識がかえつて全託のさまたげとなるのです。すべての知識体験を捨

て るか超えるかしない限りは、全託の心境にはなり得ないのであります。
奇蹟に伴うに、人々を納得せしめ得る理論がそこにないと、肉体人間を全託の境地にひきずつて
ゆくことは出来ないのです。その理論も、実行すればすぐにでも結果が出てくるような理論でない
といけないのであります。
神への全託は、そのままその人が空の境地であり、安心立命の境地でありますから、様々な奇瞬
や生活の好転回が、おのずから現出してくるのであります。何故ならぽ、神はすべてのすべてであ
り、全智全能であり、完全円満なる絶対者であるのですから、そのお方に自己の運命をすべてお任
せする、つまり全託したことは、神とそのまま一つになつたことであり、完全に統一したことにな
るのであります。
ところがこの全託の境地になかなかなり得ないのが肉体人間の弱いところであり、救いがたい、
救われがたいところなのであります。
この神への全託にまで人々の想念をもつてゆくことこそ、宗教者に荷せられたる任務であるわけ
です。
神への全託の道を突き進むよリ他にない
しかしながら、この神への全託にまで人々を導くことが、これまた実にむずかしいことでありま
して、これをなし得ている宗教者はまことに数少いのであります。
全託の反対である自力聖道門の道は、心身共なる難行であつて、現代の食生活に忙しい人々の到
底出来がたい道であるのですから、一般大衆は、どうしても神への全託の道を進むより他には、
自己も人類も救われようがないのです。
神への全託の道を離れれば離れる程、個人も人類も、救われから遠ざかつてゆくわけでありまし
て、現在の世界の指導者は、ほとんどの人々が、この道から離れて政治をとつているのであります。
125 全託への道
その証拠には、神は愛であり、人間は神から分れた生命であるのだから、そのお互いの生命を傷
づけ合うような政治であつてはいけない筈なのに、そうした神の意志を無視してお互いの国が、お
しつか,互いの国を敵視しあつて、相手を自己の膝下に組みしこうとする武器の製造に競い合つているでは
・ありませんか。
これは人類がみずから墓穴を掘つている最大の誤つた行為であるのです。何故このようなことを
お互いの国がやつているのか、それは簡単な一言につきるのです。その人々が神の絶対性、神の全
能性を信じていないからである、という;員であるのです。
こう考えてまいりますと、個人を救い世界を救う者は、神の絶対性、神の全能性、神の大愛を全
・く信じ、神への全託の道を突き進んでいる宗教者でなければならないと思うのであります。この宗
教者という意味は、なにも宗教専門家という意味ではなく、神への全託の道を往く者のすべてを含
んでいるのです。
この理を肯定するか否定するかにょつて、その人の運命も、その国家の運命も、ひいては世界人
類の運命も、はつきり定まつてしまうのであります。
神の大愛と救世の大光明
人間は神によつて生かされているのである。人類は神の理念をこの地球世界において現わそうと
.働いているのである。ということと、神の全智全能のうちに人間の智慧も能力も存在するのであつ
霊性の開発126
,て、神を離れて人間の智慧や能力があるのではない、という二つの原理を、人類が心の底から信じ
ない限りは、人類はいつまでも業生の者として、苦の世界をそこに画きつづけ、みずからその波の
・中をさまよい歩きつづけなければならぬでしよう。
ところが神の大愛は、その原理を肉体人間に知らせて、その苦悩の生活を救いとらせようとして、
各守護神をこの人類の上に働かしめているのであります。そして、その守護神の中心というか総帥
・というか、そうした働きをしているのが、普通救世主と呼ぽれている大光明なのであります。
この救世の大光明を、宗教宗派の違いによつて、種々の名称をつけて呼んでいるのでありますが、
私はその名称はどのように呼ぽうとかまわないと思つているのです。何故なれば、文字や言葉に現
われたその名称はすべて仮りの名であつて、大神の大愛の大光明であることさえわかつていれぽよ
いからです。
それでないと、各宗派が各自に、自分の呼び名の神が一番中心なのだ、その呼び名でなければ救
おれぬなどという、馬鹿気た論戦になつたりしてしまつて、大神の真意がいつの間にかどこかへ飛
び去つてしまうのであります。
このような説き方をすると、その神名を呼んだり、自分たちの呪文を唱えなければ救われないと
思つている宗教は、なんとかいつて反擾したいところでしようが、救世の神名が宗派によつて異な
つているようでは、神名争いになつて、とても宗教の統一はおろか、お互いに意見の相違が出来
.て、敵対視するようにさえなつてしまいます。
127 全託への道
かたく
言霊学をやつている人々の中にも頑なに自己の学説を主張して、神道の神名でなければならぬよ
ことだま
うにいう人もあるのですが、言霊というのは、文字や音声にいずる言葉以前の光のひびきのことで
あつて、文字や音声にいずる言葉は、すでにその光のひびきが役目を果した後に現わされたもので
あるのです。ですから、いちいち何々の神というように文字や言葉に出さなくとも、想念の中で、
救世の大光明を想い、守護神様と、その守護神に感謝すれぽ、神の大愛への感謝となるのでありま
す。
霊性の開発128
全託への一番の近道
ここで再び全託への道についての方法を説明しなけれぽならぬと思います。神への全託の道を進
むためには、一体どうすることが一番容易であるかということの説明が必要であると思われます。
個人も人類全体も、神への全託が出来ていないのが現在の状態ですが、全託への一番の近道は、
肉体人間の智慧や能力で、この人類世界に完全なる平和が樹立できるかどうか、ということを、各
自が頭の痛くなるまで考えてみることであります。
考えて考えて考えぬいて、自分の頭ではとても世界人類に完全な平和など出来つこないと思つた
ら、もう他の人の頭などを頼りにせず、自分の智慧や能力では、世界平和はおろか、自分の心の平
和さえも確立することはできないものだ、ということを、はつきり自分で認めることであります。
一日や二日、三日や四日、心が安心していたとて、それが自身の心の平和でないことぐらい、誰
れにでもわかることであります。
どのように偉そうな言葉を吐く政治家でも思想家でも、肉体人間の知識や能力で、私の考えなら
世界人類は完全に平和になるなどといいきれる人は一人もないのであります。もしいいきる人があ
つたら、その人は白痴か誇大妄想狂かでありましよう。
また、私の思想を世界の為政者が実行してくれさえすれば、という思想家もあるでしよう。しか
し、実行してくれればであつて、実行するのは、その思想家ならぬ政治家であるのですから、そん
な言葉は、まるで確率のない言葉となります。
世間の偉ぶつた人は、よく、米国がこうすれば、ソ連がああやれば、世界は平和になるのにとい
つたりしていますが、そんな言葉は、ただ単なる理想論であつて、その人のいうように、米国やソ
連が、自国の利害を無視して動くわけはないのです。
どこの国でも、みな自国の利害のための政治をやつているのであつて、自国を犠牲にしても世界
の平和をはかりたい、などという国はないのです。日本もそうした国の一国であることには変りあ
りません。
ここのところが、肉体人間を主にした考え方をしている限りは、とてもお互いの利害の対立で、
いつまでたつても、世界の平和が樹立できない原因となるのであります。
たくぜつ
これは個人も国も世界も同じことであります。ですから、どんな理想論や、名論卓説を吐こうと
も、人間が肉体の利害を主にルている以上は、到底世界は平和になりつこない、というのが私の説
129 全託への道
であるのです。そして、そこから私のいう世界平和の祈りの行が生れ出てきたのであります。
ざいあくじんちゆう
それは、旧約聖書のいう、原罪や、浄土真宗のいう、罪悪深重の凡夫という説と同じように、肉
体入間観ではとても駄目なのだと、一度肉体人間は駄目なものなり、と捨てきつた時から、人聞は
真(神) 性を発揮してくるのだ、ということなのであります。
生命を生かす
肉体人間や、肉体人間の知識や能力に依存している考え方の国家では、とても世界平和の樹立は
できないことは、じつくり考えるまでもなく、わかりきつたことなのでありますのに、肉体人間の
頭は、なんとかなるさ、という至極安易な考え方、考え方というより、業想念の惰性に、ずるずる
とひきずられ、世界人類を次第に滅亡の方へ追いやつてゆくのであります。
その日その日が無事であればよい、明日は明日の風が吹く、というような一般大衆の生き方は、
そのこと自体が、人類を滅亡の淵に追いやつているということになるのであります。
人間は、その日その日を真剣に生きなければならぬものです。一日を真剣に生きるということは、
金儲けに懸命になつたり、出世街道をまつしぐらに進むというのではなく、真実なるもの、生命
(霊) を生かすことをいうのです。
生命を生かす、というのはどういうことか、といいますと、自己の天命を完うするための道を真
剣に生きる、ということであります。ところが自己の天命がなんであるかは、自分たちにはわから
霊性の開発130
ぬ人が大部分であろうと思います。しかし誰にでもわかつていることは、人類のすべてが仲良く平
和にくらしてゆけるようになることは善いことである、ということであると思います。
さあ、ここのところなのです。もし自分の天命がわからず、自己の職や、自己の家庭に不満であ
つたりして、真剣に生きることができないような人でも、世界の平和を祈ることのできないものは
ない筈です。
常に戦争の用意をしながら、世界の平和を願つている為政者より、そうした人々の方がかえつて
世界の平和は祈りやすい立場にあるのであります。
さてここまで話をすすめてきますと、容易に出来る、神への全託の道がおのずと開かれてくるの
であります。
平和の祈りで道は開ける
肉体人間だけでは、実際には自己の平安や家庭の平和さえも完全にはできません。常に病か不幸
への恐怖を心のうちに抱きつづけてゆくのですから、そうした不安や、恐怖の想念や不満や不足の
想念を、念仏のつもりで、世界平和の祈りの中にもつていつてしまうのです。
何故これが、神への全託の道にふみ入つたことになるか、と申しますと、世界人類の平和は、神
様のみ心そのものなのであります。神様は平和であり、大調和の実体なのであります。ですから、
世界人類の平和を祈ることは、そのまま、神様の懐に飛びこんだことになるのであります。全




131
そして世界平和の祈りの中には、守護霊、守護神への感謝の言葉も含めてあります。どうして、
神様ありがとうございます、といわないで、守護霊さま、守護神さまありがとうございます、とい
わせるようにしてあるかと申しますと、ただ、単に神さまという場合には、大神さまということで
ありまして、これは世界人類が平和でありますように、という祈りの言葉そのものの中に、もうす
でに含まれているのであります◎ そのわけは、先きにも申しましたように、世界人類の平和そのも
のが、すでに大神さまそのものの姿であるからであり、守護霊、守護神という名は、個人や人類の
業想念を浄めつづけ、消しつづけていて下さる救済の神霊の意味でありますから、この守護の神や
霊魂の援助なぐしては、私共業想念(ヵルマ) に覆われた、いわゆる罪悪深重の凡夫、罪の子人間
単独では、とても世界平和の祈りの中、大神のみ心の中には飛び上がれないのであります。いいか
えれば、自己の内部の神(真)性の中にも、宇宙神の中にも、業想念の邪魔があつて、なかなか飛
びこめないのが肉体人間の悲劇であつたのであります。
それを、イエスは十字架にみずからの肉体をかけて、キリスト(真理) を発現し、自分が人類の
原罪を背負つてこの通り肉体を捧げたから、すべての人間は、イエスの名を呼びさえすれば、神の
国につれていつてやる、といつてみずからが守護神(救世主)として、それまでの人間の罪の子の
観念を浄め去ろうとしたのであります。
人々が、イエスのみ名を呼ぶ時、その人々が、イエスの救世主であることを信じた場合には、そ
の人はすでに自己が肉体人間であるという立場を離れて、その霊性によつてキリストに結ばれてし
霊性の開発132
まうから、その人は救われるのであります。
その原理と同じことを私は現在説いているのであります。
世界平和の祈リの不可思議力
それが世界平和の祈りなのであります。イエスのみ名は、すなわち、守護霊、守護神であります。
仏教的にいいかえれば、守護霊、守護神は、阿弥陀様でもあります。
このように説かねぽならぬのも、現代の人々が、自己の霊性(神性) であることをあまり知つて
おられないので、知らず知らずのうちに、自己が肉体人間でなくして霊なる者であることを知らせ
ん為なのであります。
人間は業生の肉体人間ではなく霊性の者である、という真理を知らないでいても、祈つているう
ちに容易にわかつてきて神への全託への道に、いつの間にか入つてきている、世界平和の祈りは、
全く不可思議なる力をもつているのであります。この事実は多くの人々が体験ずみなのであります。
真正面から、神へ全託せよ、というのではなかなか全託でき得ぬ人でも、恨みの想いのままでよ
い、妬みの想いのままでよい、不満不足の想いのままでよい、かえつてそうした想念の湧きあがつ
た時にこそ、世界平和の祈りをなさいませ、といわれると、いつか知ら、そうした気になり、はじ
めは不承不承にやつている人も、世界人類が平和でありますように、という、人類共通の願いの言
葉に同感して、いつの間にか、本式にこの祈りをするようになつてしまうのです。
133 全託への道
ですから、言葉で神に全託なさいなどというよりは、何気なく世界平和の祈りを行じさせてゆく
方が、神への全託への道を、急速調で突き進んでゆくような結果となり、業想念の波が、いつしか
神の光明のひびきに変化してゆき、その人の心が安心立命してゆき、その人がまず平和な心境にな
つてゆく面白い現象が起つてくるのであります。
この世界平和の祈りを、私の肉体を通してこの世に知らせて下さつたのは、救世主みずからであ
るのですから、この祈りに力のない道理がないのであります。だから、私は世界平和の祈りをして
いる人々の心境が、見る見る向上してゆくのは、至極当然のことと思つているのです。
様々な呪文や、神名を呼ぶのもよいでしようけれども、誰にでも、どこの国の人にでも、その
ままわかりやすい祈り言が、個々人の心境を、短時日のうちに向上させ得るならぽ、その祈り言が
一番よいのではないかと私は思つているのであります。
無我になれ、空になれ、全託せよ。今日までは、こうしたむずかしいことを、なんでもなくでき
そうに、人に説いていた宗教者が多かつたのでありますが、こうした言葉が正面切つて飛びこんで
くると、もうそれだけで、私にはできません、という人が多いわけでありまして、ですから一般大
カルヤ
衆は宗教には飛びこめず、宗教入りする人は、ご利益信仰という、業生の取り引のような宗教? に
入つてしまい、宗教の本来の目的である、神仏と人間との関係をしつかと知ろうとする道からはず
れていつてしまうのであります。
私がいつもいうのですが、一般大衆はむずかしいことが嫌いです。ですから一般大衆を真実の道
霊性の開発134
にひき入れるには、やさしいということが第一なのです。それには称名させる方法が一番効果的な
のです。浄土門の南無阿弥陀仏、日蓮宗の南無妙法蓮華経などは、最も卓抜した称名方法であつた
のです。卓抜していたからこそ、鎌倉時代から現代まで、終始さまでの衰えをみせずにつづいてい
るのであります。
しかしながら、この卓抜した称名方法も、いつしか祖師の心を心としない、単なる形だけの称名
になり下がつてしまつていて、その称名によつて、安心立命の境地に立ち至つた、という程の人が、
あまり出てこないようになつてしまいました。
私の方法も一つの称名方法なのでありますが、祈りの言葉が現代人に適しているということと、
この提案者の私が現在生存していて、常にこれは神意である、ということを確固として説きつづけ
ていることが、非常な力である、と私自身も同志の人々も、強く思つているのであります。
この世界平和の祈りの効果が、はつきり世に示される時が次第に近づいていることを最後につけ
加えておきます。
」35 全託への道
X36
愛行について
霊性の開発
現代に欠けているのは真の愛行
愛という言葉はどれ程多く使われているかわかりませんが、愛の行ない程必要でありながら、む
ずかしい行ないはありません。
私はあなたを愛している、というその愛というものが、はたして真実の愛であるのか、自己満足
のものであるのかを判定するのもまた実に困難であるのです。
真実の愛行は、神のみ心をそのままに現わすものでありまして、愛行のないところには神は存在
あいあい
しないとさえ極言できるのであります。何故かと申しますと、愛とは合であり、相であつて、離れて
はたら
いたものが一つに合することであつて、横の作きとしては、兄弟愛、隣人愛、民族愛、人類愛と
はたらすうはい
なり、縦の作きとしては親子愛、祖先崇拝、神信仰となるのでありまして、愛行こそ人間が神と
おかし
一つにつながつた証なのであります。
人間は根本として、一なる神より分けられたる生命体でありますし,動植物、鉱物等もすぺて一
なる神の生命の働きを根本にしているわけでありますが、人間は神の生命の働きを、自己自身が自
由に使いわけ得る能力を与えられていて、自己の運命を自己自身が自由に創り得る存在者なのであ
ひぞうぶつ
り、本来、神の被造物ではなくして、神自身の能力を内部に持つた神の子なのであります。ですか
ないおう
ら、人間自身が欲つするならば、神のみ心の内奥までも探り得るし、神と一なる心境にまで到達で
き得る者なのですが、現在では、そうした心境まで到達した人々はごくわずかでありまして、大半
つくられたる
は神と動物、自由者と被造者との混合者としてこの世に生きているのであります。
そして、神の叡智の働きが一つの法則的動きとして現わされている宇宙の構造を、科学の力によ
つて少しつつ探りあてて、人類の向上に役立てようとしているのでありますが、それが内面的向上
にまで進まず、外面的な向上として、人類世界の文明文化の急速な進歩発達となつて示されている
のです。
ところが人類が神のみ心と等しい、あるいはこれに近い真実の自由を得るためには、如何に外面
的世界の発展をとげても駄目なのであります。駄目なぽかりでなく、外面的発展と内面的発展との
バラソスが大きな相違を示してまいりますと、かえつて、この人類は、内外の均衡を失つて崩れ去
つてしまうのです。今日はそうした内外の不均衡によつて、今や崩れ去ろうとする一歩手前の時代
となつてきているのであつて、ここにおいて、急速なる内面的発展をとげなけれぽ、折角の今日ま
すいほう
での地球人類の外面的発展も瞬時にして水泡に帰してしまうのです。
137 愛行について

今日程、人類が人間の内面に向つて瞳を凝らさねばならぬ時代は他にないのです。今こそ外部に
向ける眼を自分自身にむけかえて、ソクラテスのいうごとく、汝自身を知ることに全力を尽さねぽ
ならない時なのであります。汝自身を知る時、はじめてその人は世界人類のために役立つ、神の子
的人間になり得るのであります。
自分自身を知る第一歩は
自分自身を知る第一歩は、人間は神の生命において、一なる者である、ということであり、人間
はすべて兄弟姉妹なのである、という古聖たちの智慧の言葉でなけれぽなりません。
神の存在を思わぬ限り、我々の生命が一なる者の分れであるとは思えません。お互いが兄弟姉妹
なのであると、真実に思うこともできません。
神の生命の外に、肉体人間的自己の生命というものがある、という考えからは、真実の生命にお
ける一体観、真実の愛は湧き上がつてはこないのです。
愛とは生命の一体観によつて、おのずから湧き上がつてくる、神のみ心のひびきなのであります
から、人間はまず愛深き自分になることを、常に常に願わなけれぽならないのです。
ですから神を否定する人々が、平和運動を起したとしても、決して真実の世界平和ができあがる
わけはありません。平和とは調和のことであり、調和とは分れ分れのものがお互いの持味を発揮し
ながら、全く一つのひびきとしてひびきわたることであつて、このひびきは自己の生命の親を否定
霊性の開発138
するような根本愛にもとる想念の人々の集りからひびきわたることは絶対にないのであります。
近頃、自己の自由確立という立前から、親不孝論などという論が現われて、親のいうことを聞い
たり、親に尽したりするよりは、まず自己の思想を確立して、社会のために尽くせ、というような
わかつたようなわからないような言葉が叫ばれていますが、自己をこの世に現わしてくれた最大の
恩人であり、自己の肉体の元である親に尽くせぬような、愛のない人々に、もつともつと深い愛の心
が必要であり、絶大な自己犠牲の必要である社会運動などができる筈がありません。そうした人々
の社会運動などは必ず、片輪的な、自己満足的な結果的には人類の和を破つてしまうような運動に
違いありません。
愛行を実行する場合には、肉体的にかあるいは環境的にか、表面的には自己犠牲と見えるような、
外面的からは苦痛と見える情態においてなされる場合もあるわけですが、その本人自身の心は表面
的に他からみている犠牲的な苦痛の感じはなく、自我欲望を超えた神のみ心のそこに現わされてい
る深い満足感があるものであります。
愛は説教でなく我欲をこえた行ない
ところが、そうした自己犠牲というより、自我欲望を超えた行為の現われである愛行にまで到達
しないでいて、愛について説教をなんらの恥らいもなく、つづけている宗教者がなかなか多いので
あります。愛とは説教ではなく、自我欲望を超えてなされる、自然の行為なのであります。
139 愛行について
母親がみずからは貧しい食事をしながら、夫や子供たちにはご馳走を喰べさせて、その喜ぶさま
を見て心からの満足を感じている姿は、よくみかける日常生活中における愛行為ですが、その母親
にとつては、みずからの粗食などは、夫や子供の喜びの姿にひきくらべると、問題にもならぬもの
であるのでしよう。その時の母親の心は、全く夫や子供の中に融け入つていて、知らぬ間に自我欲
望を超えているのであります。
その母親はむずかしい理論をぬきにして、自他一体観を確立しており、自己の生命を夫や子供の
中に大きく拡げているのであります。彼女はおのずからなる愛念によつて、神のみ心を味わつてい
たのです。
さはんじ
こうした日常茶飯事における愛行は、なんでもなく見過ごされてしまいがちですが、こうした小
さな愛行によつて、この世は支えられていることが多いのであります。こうした小さな愛行を馬鹿
しわざ
にしての社会活動や人類活動などは、自我欲望の変形にすぎない業想念の仕業であるのです。
このような母親的の愛情が、自分一家だけにではなく、広く社会人類に拡がつてゆく時、世界人
類の平和がおのずから達成せられてゆくわけなのですが、こうした母親の愛情も、只、単に自分の
子供のため、自己の夫のためという狭い範囲に限られている限り、それは他の家庭や、自己の家と
の利害関係の相反する人々に対しては、自己や自分一家を護るための憎悪や敵対感情に変化してゆ
くのでありますから、真実の愛行を常に誰にでもつづけてゆくことのむずかしさが思いやられるの
であります。
霊性の開発140
祖国を愛するということ
愛国心という言葉がありますが、この愛国心にしても、どういう心が真実の愛国心であるかとい
うと、なかなか種々の議論があるわけですが、私は自分の国家が、人類の平和達成のために、役立
つような方向に国家の歩みをむけるような運動をすることが、愛国心だと思つているのです。こ
こうまりけん
の平和達成の方法にしても、降魔の利剣式に、平和を邪魔する人や国や民族は撃ち滅ぼし去つて進
まなければならぬ、という考え方もあるでしようが、私はそういう考え方は神のみ心である完全平
和の道に反するものと思つているのであります。完全なる平和を望むならば、やはり神のみ心であ
る人類愛の中に自己の全想念行為を投げ入れて、その立場から平和運動を推進しなければ、善悪が
相対することになり、悪の力が強ければ善の方が破れて、永久に平和は達成されないかも知れない
のであります。
愛には敵がありません
愛という言葉を行為にする場合には、絶対に敵があつてはいけません。敵を認めてはいけません。
これは甘ちよろい言葉ではなく、神のみ心であり、真理の言葉なのでありますから、その道を突き
進んでいて、・国家のためにならぬということは絶対にないのです。何故ならば、国家も民族も神の
み心により、神のみ愛によつて、その存在が保証されているからなのです。
141 愛行について
愛とは理論的にしろ、直感的にせよ、神のみ心の真直ぐ現われた行為なのでありますので、真実
の愛行は、どこをどう考えても、神につながつて、人間内部の本心が外に輝きださなければできな
い行為なのであります。
私たちの愛行は、自由主義も共産主義も、そうした一切の主義主張とはなんら関係のない、この
三界の世界、業想念世界を超えた神の世からの光の行為なのです。
こう申し上げても、白光誌や私の著書を読んでおられぬ方々には、おわかりにくいかと思います
が、私たちの生き方は、この地球世界の業想念波動の中に生活しながら、消えてゆく姿と、世界平
和の祈りによつて、人類の本体の中、人間の本心の世界、つまり神のみ心と一つになつて、すべて
じねんほうに
の想念行為を自然法爾的に行じてゆく方法を実施しているわけで、その方法を行じておりますと、
おのずから、愛深くなり、様々の業想念に惑わされなくなり、他人や社会に知らぬ間に大きな好影
響を及ぼしてゆくのであります。それはまるで嘘のような真実の話であるのです。
前記のように母親的の愛行が、全人類の中に拡がつて、意気張らず、誇らず、なにげない自然の
姿として社会人類的に行為されてゆくならば、人類の平和は日ならずして達成されてゆくのであり
ましようが、そうなるにはあまりにも今日の地球人類には自己保存の業想念が、人間内部の神の光
を蔽い過ぎているのです。
霊性の開発142
世界平和の祈リの功徳
私はそうした業想念の消滅をはかり、人間本来の神の子の光の働きを発揮させるために、消えて
ゆく姿の教えと世界平和の祈りの教えの教導に努めているのでありますが、先日の聖ケ丘の統一修
行会の時の福田さんの話が、世界平和の祈りの成果をはつきり現わされていたので、ここに一筆し
てみようと思います。
福田さんという人は、生来の短気と豪酒家で、奥さんや子供さんたちを困らせていた人なのであ
りますが、消えてゆく姿の教えを聞き、世界平和の祈りを行じているうちに、ニケ月もすると、い
つの間にかその飲酒のくせが直つてしまい、短気も起らぬようになつてしまつたのです。ところ
が、それから一年なんらの波風なく過していた家庭に、時ならぬ風波が起ろうとしかかつたのであ
ります。
それはどうしたことかと申しますと、福田さんの職業は整骨医でありまして、その日はある患者
に二時にくるようにと約束して置きながら、市川のお祈りの会に参加していて、約束の時間をはる
かに過ぎて、千葉の自宅に戻つたのでありました。ところが、患者は勿論怒つて帰えつてしまい、
夫の帰宅を待ちながら、いても立つてもいられないでいた奥さんが、かんかんになつて怒つてしま
い、何度も何度もくどくどと夫に向つて文句をいい、ついには明日からあなたにはご飯を喰べさせ
ません、といい、果ては、明日からの市川の五井先生行は禁止しますといつたというのです。
今日までは短気をすつかり消し去つてしまつていた福田さんも、ご飯を喰べさせぬぐらいはいと
やすいことだが、五井先生のところへ行つてはいけないといわれては、もうがまんができぬ、と、
143 愛行について
六尺近い体の右腕の拳を固めて「出てゆけ!」と大喝一声ぶんなぐろうと、腕をぶるぶるとふるわ
せた時、ふいつと、自分の本心の声が「今日までの、世界平和の祈りや五井先生の教えが一体どう
なる!」と、喝のように聞えてきたのだそうです。それは自分の本心の声でもあり、五井先生の声
でもあつたと、その時のことを福田さんは、聖ケ丘の統一修行会での体験談で語つておりました。
その喝と同時に怒りの想いが、すうと消え去り、改めて妻や患者に約束を破つたことの誤ちを詑
びる気持になり、再び奥さんに頭を下げたというのです。
そして福田さんは、私は皆さんの中で統一が一番下手だと思つていましたが、あんな風に本心の
中に咄嵯の間に統一できたことで、私の統一もまんざらでもないと思いました。ということを言葉
でははつきりだしませんでしたが、心の中でいつていたのでした。
私は、福田さんが大きな体で涙を流しながら、世界平和の祈りによつて業想念を超越でき得た喜
びを語るのを聞きながら、思わず喜びの涙で瞼をぬらしてしまつたのでありました。
その後日、福田さんは「妻も先生の信者なのですから、五井先生のところへ行つてはいけないな
どと、いくら腹が立つてもいいつこはないのですが、あんな風にいつたのは、きつと神様が私の最
後の怒りの業を消し去るために、一番私がいわれたくない言葉で私を怒らせようとなさつたのでし
よう」といわれて、にこにこ笑つておられました。
私はこの福田さんの様子をみていて、消えてゆく姿の教えと、世界平和の祈りが持つ、深い愛の
光をまざまざとそこにみせられていたのでありました。
霊性の開発144
肉体人間が考え出した祈リではない
消えてゆく姿の教えも、世界平和の祈りも、肉体の私が考え出したものでも、いいだした教えで
もなく、私に働いておられる救世の大光明、つまり守護神霊団の愛のみ心が、すべての人間の心を
痛めず、日常生活そのままで、なんらの無理も難行もせずに、やすやすと業想念をのり超えて、し
かも人類世界の平和達成の一つの光となれるような愛行の方法を、私の肉体を通して、地球人類の
せんぶ
ために宣布せられているわけなのであります。
今日までのいかなる聖なる教えも、肉体人間自体が考えだしてやつている教えはないのです。す
うけうつわ
べては救世の大光明から発せられ、肉体人間はその受器となつて、この世に広められていつたので
あります。
ですから、肉体人間としては、誰れも彼れも五十歩百歩でありまして、肉体人間自身が偉いも偉
くないもないのです。浄土門の聖法然は「わしのいう南無阿弥陀仏も、弟子のいう南無阿弥陀仏も、
その効果は同じである」と誰れかの問に対して答えておられましたが、全くその通りでありまして、
そうした肉体人間の偉さをくらべてみる必要はないのです。
肉体人間としての偉さをくらべてみているようですと、いつまでたつても空の境地にはなれませ
んし、真実の愛行もできにくいのです。自分が高いも、他人が低いもない。そうした比較する想念
は消えてゆく姿であつて、ただあるのは、神のみ心の愛念だけなのであります。
145 愛行について
愛以外の想念行為はみな消えてゆく姿
愛はすべてを生かし、すべてを癒すのであつて、愛の他の想念行為はみなすべて消えてゆく姿な
のであります。
肉体人間としての自己がここにあつて、相手を愛するのではなくて、自己と思う想念が消えはて
て、相手の生命、相手の心と一つ流れになつた時、なんのこだわりも、なんの苦悩も、なんのわず
らいもない、純粋無垢なる生命の交流、神の愛がそこに現わされてゆくのであります。
私の為とかあなたのためとか、そうした自我をもつた想念で自分や人を愛したようにみえても、
その愛の中には、どこか純粋無垢でない、業想念の片鱗がみられるものです。
自分はあくまで、自分自身の立場に立ちながら、しかも、自分自身がその場に消えて、相手の心
と一つになつてしまう。一つになつた心の中には神のみ心が生々と光り輝いている、というのが、
愛の本然の姿なのであります。
よく宗教者に悩み事を相談にゆくと、「あなたの愛が足りないからですよ」とか「あなたの心に
不足や不満があるからだから、まずその不足や不満を捨てなさい」などといわれることが多いので
すが、事実は全くその通りであるにせよ、そうした心が素直にだせるようなら何も人に相談にゆく
必要はないので、相談にゆくというのは、誰れかに自分の立場を知つて貰おう、誰かに自分を愛し
で貰い、慰めて貰おう、という気持が働いているからなのであります。
霊性の開発146
ところが、愛されるどころか、かえつて叱られて帰えされてしまつては、その人の業想念は消え
去るどころか、内部に圧縮されて厚い層をなしてしまいます◎ 私はそうした人々の想念が霊覚でよ
くわかるのであります。
私は一日に二百人三百人と人に会って、それぞれの相談に応じておりますが、私は会う人、一人
一人の想念の中に入つて、その人の本心と業想念との距離を計り、その人の本心が開発されるのに
は、どのような答えが一番適当であるかを、一瞬にして読み取り、つとめて相手の感情に合わせて
その答えをだしてゆくのであります。
誰れでも愛されたいと想つている
家庭問題の場合など、相談にくる人の方がたとえ悪い想念であつた時でも、私はその人を責めた
り、たしなめたりしようとは思いません。その人はその人なりに、自分を誰れかに愛して貰いたい
のであります。その人の業想念は愛情の不足からきているのです。愛されたいのに愛されない、愛
されないのは、自分が相手を愛さないからだということを、その人は頭で知つているかも知れない
が、心ではわからない。心でわからぬというのは実行できぬことで、みずからが愛行をせぬから、
他からも愛行を受けることができない。そこで、ますます業想念をまき散らして家庭から嫌われ、
誰かに愛されたくて、幸いにも私のところにその訴えに来た、というわけになるのです。
私はそういう、いきさつが一瞬にしてわかるから、決してその人を抑えつけるような言葉や態度
147 愛行について
を示さず、柔かく優しく、温い態度でその人の話を聞いてやるだけにして、ただ光をあててやるだ
けにしている。そうすると、その人は私を自分の味方だと思い、愛された満足感を得て、来た時と
はまるで違つた温かい心になつて帰つてゆく、するとその雰囲気はたちまち家中に伝わり、家内の
人たちも、なんとはなくその人に温くするようになる。これは想念の感応であつて、同じ波動が交
流し合うことになるのであります。
ここからまず、家庭調和の第一歩がはじまるのであつて、その後は私の愛念がますますその人に
通じてゆき、なんらの説教なしで、その家庭は平和になつてゆくのであります。
愛のない説教などは個人指導においては、なんらの効果のないぼかりでなく、かえつて人の心を
傷つけるぐらいのものであります。私は私のところにくる人々には、声にでる言葉で説くよりは、
世界平和の祈りを心の中でしながら特にその人の天命の完うされることを、守護の神霊に祈つてや
りなさい、と教えているのです。
人間は愛されたいのです。人類すべてに愛が必要なのです。愛とは説教でも小言でもありません。
柔かい温かい明るい光の波であります。
愛の祈りを根本に生きよう
私たちはまず自分自分が愛深い
F人間になるように、神に祈らねぽなりません。全身全霊から愛の
光がほとぽしりでますように、愛の光で満ち満ちている自分になりますように、私たちの祈りは、
霊性の開発148
世界平和の祈りを根抵にして、こうした愛の祈りの日常生活でありたいものです。-
私の宗教は学問の宗教でも、説法の宗教でもありません。日常生活における易行の道を切り開い
てゆく宗教です。そして私は慈愛を根本にする宗教者なのであります。天の方にあつて、ここ迄来
い、早く来い、何をしているのだ、というような天の方にだけある宗教ではありません。天の心を
地上に受け止めて、この地球界の業想念波動の中で、その神のみ心をやさしくやさしく体ごとで行
じている者なのであります。
どんな業因縁の深い人でも、信仰の浅い人でも、それはあくまで過去世から来ているものであつ
て、その人自身ではどうにもならぬ運命なのであります。そうした悲運の人々をおまえは信仰が浅
いと責めたとて一体どうなるものでありましようか。私は私に寄つてくるそうした人々は、只黙つ
て受けとめて、ひたすら神の光明をその人々の肉体、幽体、霊体にあてているだけなのであります。
業因縁の薄い人、はじめから信仰心の深い人は、実に幸せな人であります。その人々はみずから
の信仰心の深さを、祖先の人々に感謝しつつ、世界平和の祈りを一層なしつづけ、業因縁の深い人、
信仰の浅い人々の天命の完うされる応援をしてあげるとよいと思います。しかしそれはあくまで、
声にでる説教的言葉ではなく、深い愛念による祈りであり、祈りからでてくる優しい温かい言葉で
なければなりません。
私たちの世界平和の祈りの運動は徹頭徹尾、慈愛を根元にした活動であることを、この際はつき
り認識し合いましよう。
x49 愛行について
150
運命の修正と守護の神霊
宰性の開発
人生指導のむずかしさ
毎日種々な人々に接して、さまざまな相談を受け、生病老死の人生苦の只中にぎりぎり決着の生
活をつづけている、私のような立場の者にとつては、只単に■道を説くという、道徳主義者のような
言葉だけ、文章だけの生き方はとてもでき得ないのですが、といつて、相談にくる相手の、現象的
な利害関係だけの相談相手だけで済ましている気には毛頭なれません。
相手の人生苦、相手の環境そのままを、自己のものとして、相手の立場そのものになりきつて、
その苦悩、その環境の中において、真実の人間という者がいかなる者であるか、神と人間とはどの
ような関係にあるものであるかを、その人たちに知らせなければならぬのが、私の役目なのです。
いかなる環境の中にあつても、いかなる苦悩とみえるさなかにあつても、心をゆるがせず、安心
立命して生きてゆける程の人間を一人でも多くつくりあげてゆきたいと私は思つているのですし、
神様が、私という者を器としてつかつて、そうした役目を私にさせて下さつているのです。
善い言葉や、立派な教えを中つぎするのは、やさしいことではあるのですが、その言葉や、教え
が、その人自身の日常行為として、相手に感銘を与えるようになるのには、なかなかなみ大抵でな
い精進がいるものです。頭でわかつていることと、その人のすべてでわかつていることとは違うの
でして、その人のすべてでわかつてこないと、どんな立派な教えも、その人の日常行為としては生
きてこないで、言葉と行為とが、離れぽなれになつてしまい、偽善者的になつてしまうものです。
そこのところが実にむずかしいところなのです。
だいまい
明日の米代にも困つて訪ねてきた人に、高趨な道の教えを説いたところで、その人の心にしみる
どころか、耳にさえ聞えぬかも知れません。その人の心には、明日の米代のことしかないからです。
観念的な道の説き方では、そうした時のその人の心は開きつこはないのです。私はそうした時には
ほとんど説法らしいことは一言もいいません。ただ黙つて相手の開運を祈つてやるだけです。そし
て、前生の因縁としてその人に運命的な借りのある人を、霊覚で探してあげて、この人のところに
ゆきなさい、なんとかあなたの力になつてくれるでしよう、と教えてあげることにしているので
す。しかし前生の因縁としても、そうした貸分のない人の場合は私が直接助けてあげるより仕方が
ないことになるわけなのです。そうしなければ、その人の一家が滅びてしまうからなのであります。
人を救うということ遅









rr・
X51
人を救うということは、なまやさしいものではないので、金品をあげて救つたつもりでいい気持
あた
になつていると、かえつてその金が仇になつて、その人を堕落させてしまうこともあるのですから、
かわいそうがつて、やたらに金品をやつても、それが人間の救いになるわけではありません。
金品をやらなければ救えない場合と、やつては救えない場合とがあるので、ただ情に流されて相
手に対してはいけないということになるのです。なかなかむずかしいものです。このことはどんな
場合にも当てはまるのです。只どんな人に対する場合でも、相手をいやしんだり、低くみたりする
想いがあつてはいけません。常に深い愛念が心の底に流れていることが必要なのです。と申しても
肉体の人間は業生なのですから、いつでも誰れにでも愛念で対せることはできにくいと思うので
す。そこに私の提唱している、消えてゆく姿と、世界平和の祈りが生きてくるのです。
私はまず現実の相談事を、向うのいうまま聞いてあげて、その現実問題の解決をはかりながら、
じよじよに本心開発の道、宗教本来の道に導き入れるようにしているのです。
どうちやく
現実の世の中は、今生だけこの世だけのものとしてみると、矛盾瞠着のきわみでありまして、悪
い行ないをしていても強い者がかち、善い行ないをしていても、いつも小さくなつて生きてゆかね
ばならぬという、弱肉強食の動物と等しい生きの世であるように見えます。そして、貧しい家に生
れ、人なみ以下の才能しかもたず生れてくる人もあれぽ、金持の家に人なみ以上の才能をもつて生
れてくる人もあつて、赤ん坊の時からすでに出発点が違う人々が同時代に生きているわけで、運命
がおのずと違つてくるのは致し方のないことだと思われます。
霊性の開発152
運命と才能
さて、こうしたこの世の運命というものは、果して、はじめから定まつているものか、それとも
途中から変化し得るものかということなのであります。
一番最初に問題になるのは、才能の問題なのです。才能というものは、この世の地位を決定する
重大なポイソトだと思います。これは家柄とか、生家の貧富の差より、もつとこの世における各自
の運命の高低を決定する大きな鍵であると思われます。
自己の才能に悲観して、いじけた人生を送つている人がどれ程あるでありましようか。自分にも
つとなんらかの才能があつたら、こんな下積みにはならなかつたろうと、世をはかなんでいる人は
なかなか多いのであります。才能が自己のこの世の運命を築きあげる、ということもいえるのでは
ないかと思います。
美空ひばりや江利チエミなどが、あれだけ有名になつたのも、その基本は、やはり才能にあつた
ので、それに努力と人柄とがマツチして、運を開いていつたのだと思います。
こう書いてまいりますと、私はやつばり駄目なのだ、とかえつて悲観の極に達してしまう人があ
るかと思いますが、私のいいたいことは、これからなのです。
人間の運命を決定する要素は、才能を筆頭にして、健康の度合、人柄、家柄というものが、まず
最初にその人の運命の中に含まれてきているわけなのです。と致しますと、こうした要素を善い方
雲53 運命の修正と守護の神霊
にもつている人々は、この世の幸福の何% かは約束されているようなものであるわけです。
そして、こうした運命要素は、この世に生れてきた時にすでに備わつているのですから、前の世
とか過去の世とかを考えにいれなけれぽ、こんな不平等なこんな不公平な人間を、何故神が創つた
か、というように、神に対する不満になり、無神論者、唯物論者と同じように、神の力など当てに
しない、肉体人問だけの力で、自分たちの運命をひらき、人類の運命をひらいてゆこうという考え
になつてきて、個人では力が弱いので、集団を組んで、平等公平に生活できる世界をつくろう、と
いう考えになつてくるのです。これが社会主義者、共産主義者というようになつてくるのです。そ
ニヒリスト
して、そうしたことも面倒な人々は、虚無主義者や、刹那亨楽主義者となつて、行きあたりぽつた
りの乱れた生活をしてしまうのであります。
霊性の開発154
運命は一応定つているが変えられる
現在の世界を思想的に大別してみますと、自分で気づこうと気づくまいと、唯物論者と唯神論者
の二つになるのですが、唯物論者の中にも幾つもの分れがあつて、お互いに派を異にして争つてい
たりするのですし、唯神論者という中にも、真実、唯神のみ存在する、という、徹底した唯神論者
というのは少いのでありまして、大抵は神と悪魔とを対立して認めているような唯神論者が多いの
であります。

私たちの立場は、徹底したただ神のみお在すという生き方の光明思想でありますので、神のみ心
にかなわぬ、愛にそむいた真理にはなれた想念行為は、すべて消えてゆく姿として、実在の確固と
した姿形としては認めていないのです。
このことはまたあとで書くことに致しまして、自己が善い環境に恵まれ、才能に恵まれている場
合は、人生を謳歌できますが、その反対の場合には、どうしても、人生を否定し、常に不平不満の
想いが湧きあがりがちになります。これは無理のないことなのであります。人間は誰しも自由で
ありたい。自分の思う通りのことをしたいのであります。ところが、金や才能がないと、自分の思
う万分の一も自由にふるまうことができないのです。そこで、この不充分の想いが、不平不満にな
り、果ては虚無的になつたりするのです。
なんでもかでも自分の想う通りになつたら、人間世界はなんという愉快なところでしよう。金持
にはその何分かは満たし得るのですが、貧乏人や地位の低い者には、そうした自由はなかなかでき
得ないのです。これがその人々の運命の差ということになつてくるのです。
さて、この運命というものは、はじめからすつかり定まつているものでしようか。それとも変化
し得るものなのでしようか。観相家や手相みあるいは四柱推命学などという運命学者たちは、人の
運命は大体生れた時から定まつている、という人が多いようです。しかしそれはかなり大ざつばな
範囲の運命のことのようで、細かいことは刻々と定まつてゆくといつている人々もあります。
私の観ずるところでは、運命は定まつていて、しかも定まつていない、ということができるので
す。定まつていて定まつていないとはどういうことかと申しますと、一応は定まつている、しかし、
X55 運命の修正と守護の神霊
その運命は変化せしめることもできる、ということなのであります。
私のところへは種々な人々が尋ねてまいりますが、病人などでも、病院で駄目だと見放され、易
者や行者数人に、家族の者が観てもらつたら、一様にもう駄目だというような人を、私も一応は駄
目だなア、と思いながらも、家人の熱意につれて浄めをつづけているうち、いつの間にか直つてし
まうということが、たびたびあるのです。こうした場合、運命は一応は定まつていたが、神のみ光
によつて変化せしめられた、ということになるわけです。
霊峰の開発15◎
守護神霊の慈愛による運命の修正
この神の慈愛による運命の変化は、運命の修正といえるわけで、肉体人間以外の力が働きかけて、
その人の定まつた運命を修正して下さつたのだ、という結論になるのです。私の経験では、人間が
肉体人間的な生き方だけで生きている場合には、いいかえれぽ、業生の人間として業生世界の波の
中だけで生活している限りは、運命は変らないが、守護の神霊につながる想念行為をすれば、その
運命は善い方向に修正され得るものだ、ということを確言できるのです。
才能も人格も、すべて前の世からの続きではあるのですが、そうした業生の因縁因果の波を超越
した神霊世界に常に自己の心の波を合わせていると、神霊の力がその人に作用して、今までなかつ
た才能が急に現われたり、人格が自然に高くなつたりしてくるのです。これは明らかなる運命の修
正であつて、その人が業生の壁を突き破つて、守護霊、守護神の力にょつて、自分の本心の力をそ・
こに発揮し得たということになるのです。そういう人は世界平和を祈る会には、
ら、これは科学的な実証でもあるわけです。
守護の神霊との交流をつづけよう
随分いるのですか
わけみたま
いつも申しますように、人間は肉体人間としての人間だけではなくて、分霊魂としての自分と守
護の神霊とが一つになつた時に、神の子的本来の人格ともなり、神の子的能力も発揮できるので、
常に守護の神霊への感謝行をつづけることが必要なのです。
ですから、前生的因縁として、貧しい家に生れ、才能も少く生れたとしても、そうした業生の自
己を世界平和の祈りのような、大光明波動の中に、常に守護して下さつている神霊への感謝の想い
をこめて、日々想念を投入していれば、いつの間にか、自分では思いもかけぬような才能が現われ
できたりするのです。
この世の有様は、今にも破壊しそうな業想念行為の波の中にあるので、とても善い世界幸福な世
界だとは申せません。しかし、人間の本住の地である神界では、大調和の波、大光明の波の平和そ
めものの世界がくりひろげられているのですから、その世界の姿をそのまま、真直ぐにこの世にう
つし出せぽ、この世はたちまち大調和の世界になつてしまうのですが、現実はそのようにはまいり
ません。そこで、一度にそうしようとは思わないで、うまずたやまず、一人一人が各自の守護の神
霊との交流を怠らずつづけていれぽ、まずその人自体の運命人格が向上してきます。これはかなら
157 運命の修正と守護の神霊
ずそうなりますから、それを信じてやつて下さい。その一番やさしくしかも広く人類的であるのが、
,世界平和の祈りなのです。世界平和の祈りをする時には、神界がそのまま、その人の身近かに降り
てきていると同じなので、その人はその時神界の住者となつているのです。
そしてその祈りをつづけていますと、自分ではそう深くやつているつもりでもないのに、心が安
らかになつてきて、自分の運命に確信がもてるようになつてくるのです。これは多くの人の体験で
すから間違いはないのです。
心が安らかになり、運命に確信がもてるようになればしめたもので、その時すでに、その人の運
命は善き方向に修正されているのであります。
運命の修正はこういう時になされる
運命というものは、自己の想念行為でつくるもので、他の何人がつくるものでもありません。と
ころが運命は自己がつくるのだということを、肉体人間の自分だけと思つて行為しますと、相手を
押しのけても、自己の利益を得ようというような、さもしい、愛にはずれた行ないになつてしまう
のです。運命は自己の想念行為がつくつたのだ、ということは、どんな不運や不幸や、嫌な環境が
現われてきても、それを人のせいにしたり、他を恨んだりするものではない、ということなのです。
たとえ、自分が善意でしてやつたのに、相手が悪意でむくいてきた場合でも、それは自己の過去世
からの業因縁が消えてゆく姿として引き出されてきたのであつて、今悪いことができたのではない、
霊性の開発153
ということを知らねぽなりません。
運命の修正というものは、こうした時に非常に大きくなされるのです。自分が相手に善いことを
してやつたということは、愛を行じたことであります。愛は神のみ心であり光でもあるのですから、
相手に光を当てたことになるのです。ところが相手は光のお返えしに悪意つまり闇を出したわけで
す。普通の場合ですと、ここで、私が折角善意でしてやつたのに、悪意を返えしてくるとは何事だ、
というように、相手をそしり、恨んでしまいます。そうしますと、自分が愛念で光を当ててやりな
がら、相手の闇にひきずりこまれて、自分の光を消してしまうことになつて、過去世のお互いの囚
縁の中にひきこまれて、過去世からの悪い運命のままに動いていつてしまうことになるのです。
そこで私流の消えてゆく姿で、世界平和の祈り、というように、私の善意を相手が悪意で受けたの
も、お互いの過去世の業因縁が光によつて消されてゆく姿なのだ、いち早く消えてゆきますように
と、世界平和の祈りのもつ大光明波動、神のみ心の中に、投げ入れてしまえぽ、そこで、過去世か
らの相手との業因縁が、救世の大光明の中ですつかり消されてしまい、その人も、相手もそこで大
きく運命が修正されてゆくのであります。

これが禍転じて福と為す、知らぬ間に運命を修正してしまう、光明思想、世界平和の祈りの生き
方なのです。
運命を天命にした私の体験運










159
この世の人々が、運命をすべて天命と一つにしてしまう生き方ができるようになりますと、持つ
て生れた才能の差などには関係なく、自己の運命を開くことができるのです。私など自分の場合を
考えてみましても、才能も特別ない貧しい家の五男坊なのですから、神との一体化を為し得なかつ
たとすると、人に目立たぬ日陰に働く一人の男性でしかなかつたのでありますが、なまじ才能も資
力もなかつたばつかりに、神のみ心にすべてをゆだねて、誠心誠意その場その場の環境を生ききつ
てきたわけなのです。そして最後には神様どうぞ自分の生命を人類世界の為におつかい下さい、と
いうまでの深い信仰になつて、神のみ心の中にすつぼり入りこんでしまつたのです。
それからが守護の神霊との協力活動による世界平和の祈りの運動の第一歩がはじまつたわけで、
それまで私の運命鑑定をしてくれた人々が五六人はいましたが、その運命鑑定とは全く違つた現在
の運命環境にあるわけなのですから、どんな嫌な環境も消えてゆく姿として神のみ心の中に祈り心
で入れてしまうことが大・事なのです。貧乏も病弱も才能の貧困も、すべて過去世の業因縁の消えて
ゆく姿なのですから、そのような状態はすべて消えてゆく姿と割りきつて、世界平和の祈り一念で
時々刻々世界平和の祈りの大光明、救世主の方からの生活を頂いて生きてゆくことが、この世的に
もあの世的にも大事なことであるのです。
霊性の開発160
世界平和の祈りがどうして個人と人類の運命を変え得るか
この世に現われている姿形、想念行為を把えていては、いつまでたつても、自己の運命も世界人
類の運命もひらけてくることはありません。何故ならぽ、この世の姿はみな幽界に蓄積されている
業想念波の現われなのですから、この業想念波の現われの悪や不幸をつかんでいて、善くしよう、
立派になろうと思つても、悪や不幸と同じレールを走つているのですから、いつまでも追つかけつ
こになつてしまつて、一日として安心して生活することはできません。
ですから私はそうした現象面の悪や不幸、つまり業想念波動とは全く別な神の世界を新たに地上
界に顕現しようとしているのです。それはどういう方法であるかと申しますと、それが世界平和の
祈りということになるのです。どうして世界平和の祈りが、個人の運命を修正し、人類世界の運命
を修正し得るかといいますと、この人類世界は、どうしてもお互いの物質的利害関係で成り立つて
おります。精神的な利害関係ということもありますが、この精神的というのも、肉体人間に附属し
た精神であつて、霊的という意味でないのです。これはこの人類世界を肉体人間的考察、物質人間
としての考え方からしていますと、どうしてもそうなつてゆくので、どのように政治体制をかえて
も同じ結果になつてくるのです。それは真の人間というものは肉体人間ではなく霊そのものなので
すから、その単なる一部の現われである肉体人間としての把われの観念でこの世界が動いている以
上は、一部の働きしか現われないのですから、完全な調和した姿が、この世に現われるわけがあり
ません。そこで、しかたなく、お互いが自己を守り、自己の属する集団や国家を守るために、敵なる
相手をつくつてしまうのです。
そこで私は、一度そうした人間観から離れて、すべての生命の本源である大生命(神) の方に想
161 運命の修正と守護の神霊
いをむけた生活にみんなが心を転じて、人間本来の神の子的生活にかえれといつているのでありま
す。しかし、ただそういつても方法がなくてはできないので、消えてゆく姿と世界平和の祈りとい
う、祈り一念の生活を提唱しているので、それによつて、安心立命でき得る人が大分数多くでて
きているのであります。
今日までの人間観をそのまま、消えてゆく姿として世界平和の祈りの中に入れてしまう、そうす
ると、知らぬ間に自分の想いが肉体人間の業想念の波から離れてきて、神の子である人間本来の姿
がわかつてくるのです。わかつてくるに従つて自己の運命も変つてくるし、人類のために自己の存
在が必要であるという意識も湧いてきて、一日一日の生活は生きている意義を見出し得ることにな
つてくるのであります。
霊性の開発162
安心立命について
安心立命の境地に至るまでのむずかしさ
安心立命ということは、心安らかに命のままに立つ、ということでありますが、この安心立命の
心境に至ることが、この地球界の人々にとつては、実にむずかしいことなのであります。
いのも
何故むずかしいかと申しますと、命そのままに立つ、神のみ心のままに生くる、ということを、
妨げ邪魔する種々様々な要素が、この地球界に多くあるからなのです◎ それはくわしく申し上げる
までもなく、皆さんが日常生活の中で常に味わいつくしておることでありましよう。
人間生れ落ちるから死するまで、いのちそのままに心安らかに生きつづけられたら、どんなに幸
福であろうかと、ものを考えるようになつた頃の私は常に思いつづけていたのでありました。そし
て、そうした境地になりうるためには、自分自身が、人間というものを、深く深く掘り下げて極め
つくしてゆかなければならないのだ、と次第に宗教哲学的になつていつたのでありました。
163 安心立命について
人間というものは不思議なもので、掘り下げれぽ掘り下げるほどわからなくなつてきて、そのこ
とが青年の頃の私を悩ましつづけたものでした。ものを考えずにその場その場の行き当りばつたり
で生きてゆかれる人は、かえつて幸せなのかも知れませんが、ものを考えたり、思索的な傾向のあ
る人は、次から次へと思索し考えなければいられぬようにできているとみえて、他からは、そんな
ことを考えなくともよいのに、と思われるようなことでも考えつづけてしまうのであります。私
などは、丁度その中間とでもいいましようか、思索型でありながら、直感的行動的であつたよう
で、枝.葉末節にこだわつて考えつづけるようなことはなく、思索の果ては直感的になつて、ものご
との根本に踏み入り、その根本にむかつて、全身全霊でぶつかつてゆくという生き方をしてきたの
であります。そうした生き方が最後には内的な神の声にむかつて、生命を捧げつくす誓いをすると
いうことになつたのでありました。(拙著「天と地をつなぐ者」参照)
何事をも考えなしに、度胸一本でどしどしやつてゆくというのもよいけれど、それは余程直感力
の秀れた、いわゆる守護神とのつながりのしつかりした人ならよいのだけれど、普通一般的には、
大きな過ちを犯かしやすいし、他人や社会に迷惑を及ぼしやすいのであります。といつて、思索型
で考え深くて、考えてばかりいて、一歩も実行にうつせず、苦悩つづきの人生を送つているのも、
どうかと思います。また、考えもそれ相応にあり、実行力も相当にあつて、他人や社会に迷惑をか
けず、少しは人の為になつている人でも、人間自体の本質というものを、少しも考えようとしない
人、神と人間とのつながりなどは考えてもみない、という傾向の人がおります。このような人は、
霊性の開発164
自分は善いことはしているけれど悪いことはしていない、そして生活にも不自由はしていない、だ
から特別に神のことなど考える必要はないし、このままの人間生活でよいのだ、と自分の生活行動
に自信をもつているようです。こうした人も、真実の安心立命への道には遠い人であります。
自己に信頼するということは勿論よいことでありますが、その自信が、人間の深い根本的なとこ
ろから湧いてくる力、つまり神との一体観によつて湧き出てくる安心感ならよいのですが、過去世
からの善業による、能力や恵まれた環境地位の上に立つての自信や安心感だけでは、その善業の尽
きた時の、環境地位の変化によつては、その人の自信や安心感はたちまち崩れ落ちてしまうのであ
ります。
けつじよう
ですから、神との一体観によらない自信とか安心とかいうものは、立命したものでも決定したも
のでもない、消えてゆく姿的の自信であり安心なのであります。
まず人間の真実の姿を知ること
真実の安心立命の境地になるのには、どうしても人間の真実の姿を知らなければならない。人間
の真性を知れば、おのずから神と人間との関係がはつきりしてきて、神我一体の境地になつてくる
のですが、これがなかなか容易でないのです。
そこで私の消えてゆく姿の教えと、世界平和の祈りが必要になつてくるのであります。自分が過
じようこん
去世の因縁が善くて、上根の生れであり、おのずと深い信仰心が備わつていたので、純粋に神仏に安



Y’4



165
すがれる心境になつている宗教者は、どうしても、自己に照らして求道者をみつめるので、弟子た
ちのやつていることが、なかなか自分の心にかなわない。自分と求道者との間の大きなへだたりを

つい忘れがちになつて、己れのしている生活状態、信仰の在り方を、弟子たちに強いようとする。
そこで指導方法が苛酷になつてくる、自分にはなんでもなくできることが、人にはなかなかできに
くいことがある、ということを、人々は知らなければならないのです。
先日もある中年の婦人が、某宗教者に指導されている者だが、その先生は間違つたことは決して
いわれないが、自分にはとてもできそうもないことを、しかも短時日でやれというので、どうした
らよいか、やらなければ、その先生にひどく叱られる、と私の許に泣きこんできたのであります。
その問題は、私が観たところ、その婦人が一生かかつてもできるかどうか疑わしいような、難問題
でありました。私は種々となぐさめて、智慧を与えてやりましたら、その婦人は歓喜して帰えつて
ゆかれました。
いかに道理にかなつたことで、その道を進むことが善いにきまつていても、その人の因縁や、そ
の人の心境によつては、どうしても短時日には、その道に踏み入れない場合がたくさんあるのであ
ります。そうする方が善いのだ、と思つていてもできないことが、この世の中には数えきれぬほど
あるのですが、あまりにも自己の信ずる道に忠実なる指導者は、相手かまわず自己の信ずる通りを
早急にやらせようとするのです。これは宗教者の場合には特にはなはだしいのです。
芸術やスポーツの指導者は、順序を踏んだ方法で指導してゆくものですが、宗教者はあまりにも
霊性の開発166
個人の心の状態を無視した一般的道理に乗せた指導をしているようで、個性のない変に型にはまつ
ヘへ 
た、いわゆるくさい人間を多く造りだしているようであります。
一人一人の人間が、自己の個性を発揮して、しかも安心立命の生活を営んでゆけるようにならな
けれぽ、神のみ心がこの世に、はつきり現われることはありません。私はそのことを常に考えつ〜
け、実行しつづけているのであります。
業想念を始末しない限リ安心立命できぬ
いつも私が申しておりますように、人間は神の分生命であり、真性には迷いも把われもないもの
であります。そうした人間がこの地球界の生活においては、迷い把われ、憎み憎まれていて、安心
立命の生活ができにくいのは一体どうしたことなのでありましようか。
実相完全円満な人間には迷いなどというものがあるわけがない。無い迷いがどうしてでてきたと
いわれても無いものは無いのだから説明のしようがない、といわれた宗教者がいましたが、こんな
答で、現代の人々が安心立命の生活に入りうることができるでしようか、こんな不親切な答では、
現代人は満足するわけがありません。
この迷いの始末をしない限りは、人間が安心立命の心境になりうることはできないのですから、
宗教指導者は、無いものは無いのだと突つぼなしたり、枝葉末節の想いの問題を取りあげて、弟子
を叱つたりしないで、人間各自の無明、つまり迷いや執着や、それにともなう恨み、怒り、恐れ等
」6? 安心立命について
々の業想念を消し去る方法を教えなければならないのです。
れんみん
あまり高い境地を人々に強いますと、強いられた人々が、自分はとてもだめなのだと、自己憐慰
的な気持になり、かえつて自己を不自由にし、暗い雰囲気にしてしまいます。ですから立派な行為
をした人の話をきいて、非常に奮い立つて、自分も立派になろうと決意を堅くする人もいれぽ、そ
の反対に、自分にはとてもそんな立派な行為はできないから、とますます暗い殻にとじこもつてし
まう人もいるので、人間の指導はむずかしいのであります。
昔の聖者の言行の立派さを、各宗派の機関誌やパンフレツトで見せられて、それでこの世の人々
の行ないが改まり、救われの道に入つてゆくかというと、なかなかそうではないのです。本当に善
いことをいつている、本当に立派な人が存在したものだ、と一応感心したり、自分もそうした人に
近づきたいと思つても、この世の中の業想念、無明の波の渦が烈しいので、そう思つてはみたけれ
ど、いつの間にかこの世並みの業想念の波に巻きこまれた心境になつてしまうのです。
そこがこの業想念波動に充ち充ちた地球界で、立派に生きぬくことのむずかしさなのでありますQ
昔のように人里離れた山に篭つての修行なら、世の中の業想念波動を受けることが少いので、立派
なみ仏に近い心境でいられるけれど、現代の人々はそのようなわけにはゆかないので、容易に迷い
の世界を脱することができないのであります。
ここが現代人への説法のむずかしいところであつて、立派な言葉、善い言葉だけを伝えさえすれ
ぽよいというものではないということになるのです。本当に善いことが書いてあるなアとその時は
霊性の開発16$
思つて、その次の瞬間には、社会の業想念波動の中で、その業想念波動に妥協して生活している自
分を見出すことが、皆さんもよくあることでありましよう。
ですから、一番大事なことは、どうしたら容易に迷いの世界、業想念波動の世界をぬけだすこと
ができるか、ということなのであります。その方法を一般大衆にさし示すことが必要なのです。
迷いというものは、本来無いのだから無いというのは理想世界のことで、この世の生活の中には
終生つきまとつてくるものであります。といつても、この迷いの想い、つまり業想念は、人間に固
着してしまつて離れ去らぬものかというと、そうではないのです。迷いは種々の生活環境に結びつ
いて、その想いあるいは行為に現われては消えてゆくものなのであります。その一つの迷いの波は
想念あるいは行為になつたら必ず消滅するのですが、それを人間はかえつて把えて放つまいとする
ので、せつかく消え去ろうとする業想念が再び引き戻されてしまうのです。
人間の心を二つに分けて考える
いけない、いけないといつまでしてしまつた行為につかまつていたり、だめだ、だめだと自己を
責め裁いていたりしたら、その人の業想念はますます増してゆくぼかりで減ることはありません。
わけみたま
そこで人間の心というものを二つに分けてみて考えることが必要になるのです。一つは神の分霊
(分生命)である完全円満の存在者、一つはこの世に現われて、種々様々な生活環境の中で、消え
てゆく姿として現われている業想念波動としての心、この二つの心が人間の心として同時に存在し
169 安心立命について
ているということなのです。この二つの心を奇麗にひき放してしまえば、消え去るべきものはおの
ずと消え去つてゆき、本来性の存在はそのまま輝きだすのであります。本来性のものを私は本心
(光)と呼び、消え去つてゆくものを、業想念波動(暗)と呼んでいるのです。ですから、いかな
る悪い想いが自己の心に起きようと、どのように不幸な環境が自己の周囲に起ろうと、そのまま、
おもい
その悪想念なり、不幸なりに意を把われさせなけれぽよいわけなのですが、それは理想論で、実際
ヘヘへ
はそんなうまいわけにはゆかない。そこで、そうしたものに把われる意識を、他に転じさせる必要
がある。普通の人は、その転じさせる方法を酒とか遊びとかにもつてゆく、するとまたかえつて大
おもい
きな悲劇が生れてくるということになるのですが、私はその意を、本心の方に神様の方にむけさせ
ることにしているのです。そしてその方法が世界平和の祈りなのであります。
霊性の開発170
迷いを消滅させる方法
人間が本来神の分生命でなければ、これはもうどうにかなるようになるさ、で仕方がないのです
が、神の子であることは、数々の聖者の言葉からも、私の体験からも、間違いのないことであり、
そうした真性を知らせようとして、多くの守護の神霊が、人類の業想念消滅のために大きな働きを
していて下さることも事実なのであり、私はその事実を実にはつきりと知つているのです。そし
て、その多くの守護の神霊が一つになつて、現在は救世の大光明として、世界平和の祈りをする者
の上に、その大光明を当てて下さつているのであります。
“世界平和祈るは神のみ心のひびきにあれば祈るたのしさ
“なのであります。
ただ神様神様助けて下さいでは、あまりにも神の子的ではない、情けない心の状態であります。
それでは神の子ではなく、下僕的になりすぎます。そこで神様は私を通してただ神様神様助けて下
さい、というような祈りの方法でなく、世界平和の祈り、という大乗的な祈りをさし示されたので
ありました。
人間の幸、不幸というものは、その人の想念のいかんによるのであります。貧乏の中にあつても
幸福を感じている人もあれば、有りあまる金を持ちながらも不幸の想いに苦悩している人もありま
す。その人の想いが迷いや不幸の方にむいている限り、その迷いや不幸に把われている限り、その
人は真の幸福はつかみえません。
その迷い、その不幸、その欠点を抱きながらでもよい。そうした想いを神様の大光明の中に融か
しこまなければ、その迷いや不幸は消えることがないのであります。その神様の大光明の中にすべ
ての想念を融かしこむ方法が、世界平和の祈りなのであります。
迷いの世界に生活しているように見えるが実は
神様のみ心の中には、み光の中には、迷いも不幸もあるわけがありません。そして人間は誰も
かれも一人として神様の子でないものはありません。人間はこうしてこの地球界の業想念波動の
中、迷いの世界に生活しているように見えますけれど、いつも本体は神様の世界、完全なる世界で
171 安心立命について
光り輝いているものなのです。それは私自身体験として知つているのです。ですから皆さんもいか
なる不幸や悩みがありましても、自分を責めたり、人を裁いたりせずに一直線に神様のふところに
飛びこんでゆけばよいのであります。その一番容易なる方法が世界平和の祈りなのです。
のごと
己が幸願ふ想ひも朝夕の世界平和の祈り言の中
の歌のように、自分の全生活を世界平和の祈り言の中に入れてしまい、そこから神はからいにょる
生活におのずと光明化してゆく方法こそ、誰しもが肯定しうる祈りの方法だと思うのです。そして
そこから生れでる安心感こそ、真実の安心立命の心の状態であることは、私たちの同志の多くが体
験していることであるのです。
まず自分の心から不安の想い、不幸の想い、恨み妬みの想い等々の業想念を消し去ることが、世
界人類を平和にする第一のことなのですが、世界平和の祈りをしていれば、自分と人類とのつなが
りが、おのずからはつきりわかつてくる、と同時に知らぬ間に光明波動を宇宙にひろげていること
になるのです。
 ヘヘヘヘヘへ  ヘへ へ ヘへ
試みに〃世界人類が平和でありますように〃の祈り言をつづけてごらんなさい。いつの間にか心
に光明が灯り、安心立命の心境が開けてくるのです。これは幼い児でも老婆でも体験していること
なのであります。もう現代は宗教理論の時代でもなく、難解な経文の時代でもありません。誰れに
でも容易に理解でき、多くの人がなんでもなく実行できる宗教の道でなけれぽなりません。
霊性の開発172
ヘヘへ
すがるということの真の意味
ところが容易にできるということを、ただすがれぽよいというように考えたり、理論も立たぬの
に先祖の罪とか神の罰とかいう、こわ文句でおどかしておいて、我が宗教に入れば救われるとかい
うように、本心開発とはなんの関係もない、業想念世界の利害関係で釣つている宗教者があるので
こと
すが、これは私たちの世界平和の祈りによる本心開発の道とはまるで異なつた外道のやることであ
るのです。
神にすがるということの名目で、その人たちの依頼心を助長するようなことでは困りもので、神
に想いをむけることによつて、その人たちがおのずと愛念がわきいで力ができ、勇気が奮い立つて
くるようなものでなければなりません。
苦しい修行をするのが嫌だから容易にできる宗教の道を選ぶのだ、という心で、本心開発とはな
いのち
んの縁もない宗教入りしたら、その人はその時間だけ、自分の生命を生かさないことになるのです
から、.たy、口あたり、場あたりがよいというだけでの宗教入りをしたり、人にすすめられるから
仕方なく入つたなどという心細い宗教入りはいけないと思います。
そういう点でも、世界平和の祈りは、容易でありながら、高い神のみ心と一つの祈りだというこ
とがおわかりになると思います。安



V’つ


173
まず宗教が世界平和を願う大眼目に一つになろう
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私たちの天命が完うされますように
こうした三つの言葉を並べてみて、この言葉を口ずさんでみて、なんらかの疑義や不審がでるで
しようか、難解な言葉があるでしようか、むずかしい文字も、難解な意味もありません。たy文字
がそのまま、その言葉の意味を読む人の心にきざみこんでくれます。口ずさめばその意味がそのま
ま幼い子供の心にもしみこんできます。
ですから、幼児から老婆に至るまで、世界平和の祈りを喜んでするのであります。浄土門の人
は、世界平和の祈りの後で南無阿弥陀仏と唱えればよいでしよう。日蓮宗の人はその後で南無妙法
蓮華経と唱えればよいでしよう。キリスト教の人は、世界平和の祈りにあわせて主の祈りをすれば
よいでしよう。
この世界平和の祈りは、いかなる宗教宗派とも一つになり得る要素をもつているのです。ちなみ
に種々の宗派のことを考えてみましよう。南無阿弥陀仏と唱えることはキリスト教や日蓮宗、神道
の人には肯定でき得ないでしようし、南無妙法蓮華経では、その反対の人々は駄目でしよう。キリ
ヘヘヘ
スト教もまたしかり、神道ののりともまたしかりであります。
霊性の開発174
神道などは一宗一派では勿論ないのですが、世間の想いが一宗一派のように思つているうちは、
ヘヘへ
誰もかれもがのりとを唱えるわけにはゆかないでしよう。
今こそ、宗教が各宗派という相対的な考えを捨て去って、一つの目的、つまり地上に神仏のみ心
を顕現するために、心を一つにしなければならない時代になつてきています。そして、どの宗派の
考えも、地上天国を考え、世界人類の平和を願つていることには間違いないのですが、お互いが自
分が一歩下がつて、相手と融合しようという気持をもつことができずにいるのです。それは各首脳
メソツ
部の面子の問題もありましようが、実は、心を一つにして、お互いの摩擦なしに祈れるような祈り
文句がないからなのです。
光の大進軍の先駆者
メソツ
今は大事な大事な時なのです。自分の面子だの教団の地位など考えているのは実に愚かなことで
あります。人類の業想念は今や表面に浮びだして地球の表面を蔽いつくしているのです。その業想
念波動を消滅しつくす方法はたy 一つしかありません。それは人類の想いを、守護の神霊のみ心と
一つにすることだけなのです。人類の想いが守護の神霊のみ心と一つになれば、この地球界を蔽つ
ている業想念はたちまち消滅して、光明世界が現われてくるのであります。その先駆はまず宗教者
がやらなければいけません。各宗派の教義の違いなど、今の時代には枝葉末節的なつまらないこと
です。どうでもよいことです。
175 安心立命V’っいて
この理がわからぬようでは、その人はもはや宗教者とはいえませんし、つまらぬ人間です。米ソ
がちよつと近づいて話合いの気運が見えたということで、もう世界平和が近づいた、というように
話していたのんきな人もいましたが、この世界の現在の状態は、そんなのんきな生やさしいもので
はありません。といつても、私自身もこの世界がこのまま滅び去るなどとは思つてもいませんが、
今のままの人間の心の状態で安心しているというわけには、とてもいかないのです。
今のままの人間の業想念的波動をみつめていますと、多くの予言者のいつているような地球の壊
滅状態がうつしだされているのであります。しかしながら、その業想念波動を、地球の惨事にしな
いように消し去つて下さろうとして、人類守護の神霊の働きが活濃になされているのであります。
宇宙人の働きなども、その最もなるものとして今に現実にその姿をはつきり現わしてくることでし
ようo
そうした守護の神霊や宇宙人の働きを容易にするために、助けられる側の肉体人間が、のんきに
構えていたのではいけません。全力を挙げて自分たちの滅亡を防ぎとめなければならぬのはいうま
でもないことです。
世界平和の祈りこそ、自己の安心立命の道であると同時に、世界人類を神の光明と一つにつなぐ
偉大なる祈りの方法なのであります。どうぞ、その事実をよくつきとめられるために皆さんも世界
平和一念の日常生活をお送り下さい。
霊牲の開発176
宗教の本質と日本の在り方
宗教者としての立場と主張
先生は安保改訂反対なのですか、賛成なのですか、という質問を度々受けるのですが、私はそう
した問そのものに対しては、はつきりした答をしたことがありません。何故はつきりと答えないか
と申しますと、私の立つております立場は、現在までの地球人類の在り方を、一度びは根本から否
定した立場に立つておりますので、そうした時間的に現われてきた問題の善悪を論ずる必要もなけ
れぽ、そのような問題の賛否を云々する必要もないのです。
私の主張しておりますことを改めて申し上げますが、肉体をもつたこの地球上の人間たちが、神
を離れた相対的感情の業想念波動の渦の中で、いかに善さそうなことを考え、こちらが善い、あ
ちらは悪いと、自己の思想や行動を強調したところで、それらの思想や行動は、あくまで、大生命
(神) の流れを、二つにも三つにも分断した思想や行動であつて、お互いが相手を抑圧する力を結宗











177
集しようとしている姿に他ならないのです。絶対なる神の愛には、他を敵とみる思想などありよう
はないので、米国を敵とみることも、中共ソ連を敵とみることも、神のみ心ではなく、業想念の消
えてゆく姿に違いないのです。
片方の主張が善であり真であり、片方の主張が悪であり、誤りだということになりますと、お互
いが自己を善とみるのですから、どうしても、国内も世界も各種に分裂してしまい、神のみ心の統
一を破つてしまうことになつてきます。神のみ心は統一されたものであり、大調和完全円満なもの
であります。そして、人類の等しく望むところは、人類の恒久平和であり、大調和した姿でありま
す。人類は常にそうした平和世界を希求しながら、不思議と闘争の渦を抜けきれず、戦争の災禍を
度々蒙つてしまつているのです。
一体それはどうした欠陥によつて起る現象なのでしようか、それは人類が、自己の本体の何たる
かを知らなかつたからであります。いいかえれぽ、人類が絶対なる智慧であり、完全円満なる、統
一、大調和なる神の分生命であり、神の子たちであることを忘れ去つていたという、智慧の欠乏に
よつて起つた現象なのです。
相手を抑えなければ、自分たちが危い、という観点に立つての敵対行動では、それがいかに善悪
がはつきりした立場からとつた行動であつても、業生世界、善悪相対の世界の渦中にあつての行動
なので、神の国、世界平和の樹立される基礎にはならないのであります。そうしたことは、今日ま
でに繰返えし繰返えし行なわれてきて、今日のように地球世界を絶対的危局にまで追いこんでしま
霊性の開発178
つたのです。これは世界の歴史がはつきり示しているのであります。
神を離れた、肉体人間の智慧や力で、地球界の存立が保たれ得る、と思つているとしたら、これ
ばとんでもない肉体人間の思い上がりなのです。自分たちの力でなんとかできるだろう、というよ
うな思い上がつた考えや、甘い考えで、政治を行なつたり、社会を指導しようなどと思つていたり
したら、とんでもない破滅に地球人類を追いやつてしまいます。そうした考えによる破滅の道に、
人類は今や追いこまれつつあるのです◎ 真に危いことなのであります。
宗教者は神への統一を主眼とする
宗教者、信仰者と称する人々までが、こうした神のみ心を離れた、善悪相対的な思想の下に、敵
を想定しての行動を行なつているのを私は困つたことだと思いながらみつめているのです。
人間神の子完全円満と説き、敵を認めるから、そこに敵が現われる、だから敵を認めてはいけな
い、という大調和光明思想を説いている生長の家が、その同じペンで、韓国が日本に暴挙をするの
は、日本に武力が無いからだから軍備を充実させなければいけない、といつたり、この世は力と力
なのだから、ソ連中共に対抗できる武力を米国と組んでつくらねばならぬ、というように、完全に
敵を認めた対抗策を大々的に論じているのです。これでは生長の家本来の教えの、人間神の子も、
から
敵は無いという教えも、単なる空念仏になつてしまつて、教えと実際行動とが、アソバラソスにな
つて、多くの信徒がどつちを取つていいか困つてしまうのではないかと思います。また同じところ宗











179
に、日本を分裂させてはいけない、という論文も出しているのです。
分裂させてはいけない、といつてもみずからが安保改訂促進という(私が新安保反対という意味
ではありません)線を強く主張していることは片方を支持していることで、分裂の片棒をかついで、
粕手の間違つた行き方を叩こうとしているのですから、おかしな話になるのです。
私の主張は、例えば安保改訂の方がよいのだ、としても、宗教者というものは、神への統一とい
うことを主願とすべきものなので、そうした業生世界の業想念波動の片方の味方をして、わざわざ
敵対する相手を強く認める必要はないのです。生長の家が敵なりと認めた中共ソ連は確実に生長の
家の敵となつて現われるでありましよう。想念の世界というものは、すべてそうしたものなので
す。ですから私は、まず想念の世界から、すべての敵を無くし、すべての悪を無くし、すべての不
幸を無くしてしまおうと思つているのです。それには、生長の家のように、敵は無いのだ、不幸は
無いのだ、悪は無いのだ、と観念的に思いこませようとしても、それは教える側にさえ、実行でき
ないむずかしいことなので、私は、消えてゆく姿こいう真理の言葉を、すべてに応用しはじめたの
です。
悲しい想念の習慣性
敵を認めまいとしても、つい敵を認めてしまう。悪を認めまいとしても、不幸を認めまいとして
も否定しようとしても、いつの間にかそれを認めてしまつている、こうした肉体人間の哀しい習慣
霊性の開発180
性を、消えてゆぐ姿という言葉で、敵を認めたら認めたでよい。悪や不幸や、自己を責め、他を裁
く、そうした想念もあるならあるそのままでよい。それはすべて過去世の業因縁の消えてゆく姿な
ので、そうした業因縁の消えてゆくにしたがつて、神の子の本心が現われて、あなたの心が立派に
なり、あなたの環境に完全性が現われてくるのだ。平和になつてくるのだ。そしてそうした消えて
ゆく姿をどう処理するかというと、世界平和の祈りという、人類世界、母国、自己や自己の周囲が
平和になり、各自の天命の完うできることを祈る、個人人類同時成道ともいうべき大きな広い立場
に立つた祈り言の中に投入してしまうのだ。そうすると、世界平和の祈りの本体である救世の大光
明(守護の神霊の大集合団) のみ光によつて、そうした業想念は消滅されてしまい、光明は各自の
肉体を通して、人類世界に遍照してゆくのである。というように、禍を変ぜしめて光明化するとい
うのが、私の提唱している世界平和の祈りの主願なのであります。
宗教者の役目は本心開発にある
いかに真理であつても、この差し迫つた人類の危機に当つては、なかなかできないような悟りの
方法では駄目です。容易にしかも効果の著しい本心の開発方法でなけれぽいけません。うつり変る、
変化消滅するこの現象の消えてゆく姿を把えて、善だ悪だといつていたところで、相対世界はあく
まで、消えてゆく姿で、真実の神のみ姿である、人類平和が達成できるものではありません。
世界人類の平和をつくるためには、各個人が、自己にまつわつている業想念を消滅する方向に全
X81 宗教の本質と日本の在り方
力を挙げていなければ、とても世界人類の平和などできるわけのものではないのです。自己の業想
念をそのままにして置いて、愛国だの、平和だのといつても、これは実におかしな話になるのです。
私はそうした真理を知つているので、無駄なエネルギーを筋違いの平和運動につかわせようとは思
わないのです。
宗教者の役目というものは、人間の本心の開発にあるのです。本心の開発というのは、人間が神
の子として、神のみ心と等しい行為のできる人間になるということです。このことが宗教者の最大
の役目であつて、その基盤に立つことによつての、世界人類の平和運動ということになるのであり
ます。
こうした宗教者が、政治家や、他の思想指導者の煽動によつて、自己の役目をはずれた運動に血
道をあげるようであつては、神のみ心に相済まぬことだと私は思つているのです。
人間にはそれぞれの天命があるのであり、各自の生き方があるのです。ですから各自は自己の天
命を悟つて、その天命のままに行動してゆかなければ、思わぬ争闘の渦中に巻きこまれることにな
つてしまうのです。各自の天命が完うされることによつて、国の存在が意義あるものとなり、人類
世界の真の目的が達成されるのであります。
そしてこの人類の目的というのはなんであるかと申しますと、勿論人類の恒久平和の確立なので
す。ですから、個人の天命のなんであるかがわからぬ人々は、現在の環境のままで、世界人類の平
和を祈ることがよいのです。世界人類の平和を祈ることは、そのまま大きな天命完うの意義をもつ
無性の開発183
のであります。
肉体人間は、自己の生命の親である神のみ心の中に、一度すつぼりと自己を還元させてしまわぬ
と、どうしても業想念の波にさらわれてしまい、自己の天命が完うできにくくなるのです。その点
を昔から宗教者が種々な方法で説いているのです。私の方法は世界平和の祈りの中に、自己の全想
念を投入して、世界平和の祈りの方から、改めて自己の全生活を頂き直してゆくという方法なので
す。そう致しますと、神のみ心が素直に肉体人間の我れを通して行動となつて現われてくるのです。
私たちの同志は皆この方法で、力まず気ばらずに生れ更つたように立派な人間になつてきているの
です。それは世界平和の祈りの根元である救世の大光明の真善美の光明に日々業想念を洗い落され
ているからであります。
いつも申しておりますように、世界人類の平和になることは、人類の親である神のみ心そのもの
の現われであるのですから、世界平和を祈ることは、この祈りそのものが、神のみ心ということに
なるのですし、実際に救世の大光明の人類救済の光明波動が、世界平和の祈りとして輝きわたつて
いることを、私たち多くの人々が熟知しているのであります。
祈りなどというそういう観念的な行動でどうして世界が救えるか、といつている人もありますが、
いのち
祈りを除いた他の方法で世界が救えると思つていることが、迷信なのであります。祈りとは、生命
の宣言であり、人間の生命を大生命(神) のひびきと全く一つにして、人間の本体である神の子本
来の使命を素直に果すための行為なのであります。世界平和の祈りをするところに、世界人類の生
X83 宗教の本質と日本の在り方
命がさわりなく、
れてくるのです。
禍いなく素直にその場、その時において、神の生命としての尊い姿として顕現さ掴
人類は逆立ちして.いる
現代の人類は全く逆立ちして歩いているのです。それは肉体人間というものを、最も能力のある
ように考えていて、神だの仏だの霊だのというものを、ほんの肉体人間の思想の一部の存在としか
考えていないことであります。これは全くの顛倒妄想でありまして、神がすぺてのすべてであり、
人間というものは神の分生命であり、霊が主なる存在者であつて、肉体とは霊魂の入れ物に過ぎな
いのです。
こうした真理を知つて神との一体化を為し得た人を仏とか聖者とかいつて、人々が仰ぎあがめる
のであります。そうした聖者は、常に神の叡智によつて物事を処理し、説法していたので、肉体の
もつている知識だけでことを処し、説法することはなかつたのです。
ところが現代ではこうした聖者たちとは全く反対に、肉体の知識や経験だけで政治し、思想し、
行動しているのですから、肉体知識にないことや、今日迄の経験にないことに出会うと、どうして
あやめ
よいかわからず、自分の都合のよいように解釈して、文目もわからぬまま行動してしまうのです。
これでは行き当りばつたりで危険なこと限りないものです。
人間の生命が一体どこから生れてきたのかもわからぬ凡愚な知識で、しかも人間という者のほん
霊性の開発
の一部の現われしかわからぬ頭で、ああでもない、こうでもない、と他の行為を非難していて、そ
れで道がひらけると思つているところが、実におかしな話なのであります。
日本における安保条約改訂の問題でも、賛成にもうなずけるところもあり、反対にもうなずける
ところがあるので、お互いの派が、お互いに自己を善しと主張するのも当り前かも知れないので
す。しかし、どちらも日本を平和にする道でも、世界人類の平和を来らす方法でもありません。し
かし現象世界における日本の立場は、このどちらかの道を、国の歩みとして選ばなければならない
立場に追いこまれているわけなのです。
ところが、どこまでいつても、反対派が賛成派に一変する筈がありませんし、賛成派が反対派に
全糾合されるものでもありません。どちらに定まつたとしても、国論は二分あるいは三分四分した
ままで、お互いが敵対したまま進んでゆくわけなのです。ですから国論の統一などはできるもので
はないのであります。
いつまでたつても日本は、米ソの二大強国の川中島的立場で、両陣営の働きかけの中で、二つに
も三つにも分れて争いつづけることになり、ついには遅かれ早かれ、戦火に見舞われて大災害を蒙
ることになるのです。
どつちの政策に従つても、それは一時のがれの方法でしかないのです。それが私にはよくわかる
のです。ですから、安保の問題などにほとんど関心がないのです。宗











18う
今迄の知識や経験ばかりに頼つてはダメ
この日本を救い、世界人類を救う方法は、今日までの人間の知識や経験ではとても駄目なこと
は、一寸考えのある人なら誰にでもわかるのです。けれど、他に方法を知らないので、今日まで
の知識経験で、自分の了とする方に組してゆくだけなのであります。今日、自分の方法こそ、日本
を救い、人類を救う方法なのだ、ということを、神の力を別にして説き得る人は絶対にいないので
す。そのような人がいたら、その人は己れを知らぬ全くの愚者であるのです。
私は、はじめから肉体人間の自己は凡愚なり、と親鸞式に捨て切つてしまつて、全想念を神に返
上し、神のみ心の方から生れ更つて、世界平和の祈りの使徒として、働かされているのですから、
その場のがれの政治政策には、なんの関心も持たないのです。それは私の使命の他のことであるか
らです。そんなことをいつても現実問題として、政治政策は次々と行なわれてゆくし、行なつてゆ
かなければならない。そんな無責任なことをいつて、と怒る人たちがいるかも知れません。しかし》
その方々は、その方々で、自己の信ずる道を、自己の役目を果しつつ進んでゆけばよいのです。そ
ういう役目に生れた人々も多数あるわけなのですから、その人々はそれでよいのです。
霊{隼の開発↓8◎
永遠の生命を把握させるのが私の役目
只、私はそうした業因縁の消えてゆく役目の受持ではなく、永遠の生命を人々に知らせ、永遠
の生命を知ることによつて、はじめて生れる個人の平和と世界人類の恒久平和への道を説き明し、
行じ明すことの役圏の受持であるから、その役目に専念していて、他の役目の方には想いをむける
必要がないのであります。
私の天命は、人類の根本的な生き方を知らせ行なわせる方の役目なのですから、現象的な次々とう
つり変わる姿は、すべて消えてゆく姿として、その姿が善悪いかなる事柄であろうとも把われさせ
くうモくぜしき
ない方法を説いているのです。少しでも把われの想いがありますと、空即是色の世界、神の国がζ
くう
の世に顕現する邪魔となるからです。地上天国顕現のためには、どうしても空の境地というものが、
人類になくてはならないのです。
くロノ
こめ空の境地というのは、安保賛成、反対というような想念の世界ではないのです。個の生命が
く フくジ
全く大生命と一つになつた瞬間が空であり、空になつた瞬間が、実相顕現の姿となるので、真実の
人間の姿、人類の姿が現われてくるのです。
と、こんな風に書きますと、むずかしい理論的な宗教論になりそうで、現在の危機をのがれ得る
くラ
方法には程遠いように思われますが、この程遠そうな空即実相(是色) の姿が、消えてゆく姿と世
界平和の祈りの実行によつて、かなり容易に私どもの環境に現われてくるのであります。
もし、自己の立場上、どうしても現象的な賛成反対の渦中で生活しなければならない人々は、世
おもい
界平和の祈りの心のまま、その時の想念のむくまま、賛成なり反対なりしたらよいと思います。そ
カルマ
の時の行為は、あなたの背後の守護の神霊が、そうした業の渦の浄めとしてあなたにその想念を送
、37 宗蓼の本質と日本の在り方
つたのであります。世界平和の祈りから発した想念行為は、只単に自己の頭脳の働きとして発せら
れた想念行為とは全然異なる、光明化した行動となつているのです。
何故なれぽ神を離れた想念行為と、神のみ心から発せられた想念行為とが、同等に論ぜられるわ
けがないからなのです。
日本の天命はなにか
現在の日本も世界も大変な危機に立つています。この危機を防ぐためには、人間各自も、各国家
各民族も、自己に定められた天命のままに働くことが大切なのであります。国家民族が天命にはず
れた行為をしている限りは、地球世界は滅亡の方に次第に追いやられていつてしまうのです。
それなら、日本の天命は一体何なのでしよう。それは実にはつきりしているのです。日本という

名のごとく、日の本に還えることです。日の本とは、霊の本であります。霊の本とは、つまり神霊・
の本ということです。ですから、個人個人が霊性に還えることと共に、日本の国そのものも霊の国
として改めて出発することなのであります。
神々の間には争いはありません。霊の世界は相対のように現われることはできるが、相対ではな
く、絶対のカが、単に分れて働いているに過ぎません。そうした姿をこの現象界に現わすための、
先頭に立つべき国が日本なのであります。武器の力をもつて、敵を想定して戦争の練習したりする
のが、日本の真の姿ではありません。統一されたる神の絶対力、神霊の慈愛の光明力をして各国各
霊性の開発18§
民族を照り輝やかすのが日本の真の使命です。ですから日本といい日の本というのです。大空に輝
く太陽のごとく、みずからが光り輝いていることによつて、万物を生育せしめ、万物の働きを助け
るのが、日本の真実の役目なのです。
日本は武力に勝る大光明力を持つている
武力に勝る力を、日本の国は、そのまま持つているのです。それを日本人は忘れ果てているの
です。その力は何か、神からそのままくる力、慈愛のみ光、救世の大光明の絶大なる力なのです。
神は生々と働きつづけておられるのです。救世主はすでに天降つておられるのです。霊眼に観られ
る救世の大光明の光は、いかなる業想念をも敵と見ゆる存在をも、すべて融合して光一元にし得る
絶天なる力をもつているのです。その事実を私たちはよく知つているので、常に常にその大光明に
帰一する世界平和の祈りを説きつづけ宣布しつづけているのであります。
合気道の植芝盛平先生の無敵の姿は何処からくるかと申しますと、神と一体になつたところから
くるのです。人間が神と一体になつた瞬間から、その人には敵は無くなるのです。大調和の姿にな
るのです。それが合気道であり、世界平和の祈りなのであります。そして、それが日本の真の姿を
現わす真の道なのであります。
まず世界人類にさきがけて、日本人の一人一人が神との一体化を実現することこそ、日本の使命
が達せられる唯一の道であり、ひいては世界人類を恒久平和の道に導き入れる道でもあるのです。
18y 宗教の本質と日本の在り方
この地球界においては、力というものは絶対に必要なものです。しかし、この力というものが、
普通いわれる武力による力関係というように思われているうちは、世界人類の平和は実現でき得な
いし、日本の使命も永久に達せられないのです。
その力とは、合気道の植芝盛平翁のもつ力であり、世界平和の祈りがもつている光明力なのであ
ります。そうした力が、こうして現存的な力として示されているのです。宗教の本質が現われれば
何人も、こうした力をもち得るのですが、こうした神力を信ぜず、いまだに武力に頼ろうとしてい
る宗教者が存在することは、実に嘆かわしいと思うのです。
武力と武力の力関係によつてかもしだされる不安恐怖の時代を、人類はまだまだ続けようという
のですか。神力を信じつづけてもし仮りに地球人類が滅びるならば、それも神意によることなので、
致し方ないではありませんか。どうせ、神から来た私たちの生命なのですから、神のみ心のままで
よいのではないのですか。肉体人間はみずからが生きているのではなく、神のみ心によつて生かさ
れているものであり、み心によらねば、肉体に存在することも、肉体を去ることも許されてはいな
いものなのです。人間はそうしたわかりきつたことをもう一度じつくり考え直さねばなりません。
そうして、その真理をはつきり悟つた人こそ、生きるも死ぬるもない、永遠の生命を発現しつづ
けて生きつづけ得る、真の人間、神人になり得るのです。その日の為にこそ私たちは、世界平和の
祈り一念で生き続けることの大切なことを人類すべてに知らせようと活動しているのであります。190 霊





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