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8/20/2022
五井昌久著
責めてはいけません
聖ケ丘講話シリーズ刊行のことば
ひじりがおか
聖ケ丘講話とは、市川市中国分にある聖ケ丘道場統一会でなさった五井昌久先生のお話である。
お話のあと、先生ご指導のもと世界平和の祈りを全員でするのだが、祈り言葉を単純に心の中で唱
えつづけることによって、想いを世界平和の祈りに統一する実修をした。/
お話はたいがいは質問に応えてなさったもので、これから続々と刊行される聖ケ丘講話には、質
疑応答で終始する本も当然出てくる。質問もさまざまなら、お話の内容も多岐にわたっていて、ご
く身近かの問題から、ひろく世界の平和や宇宙の問題、霊界や死後の生活のこと、永遠の生命の覚
醒、霊性開発という本質的な問題、またご自分のことなど、きわめて親切に、わかりやすく又面白
く答えて下さり、人間とは何か、いかにして解脱して自由の心にいたれるかを、うまずたゆまず説
いて下さっている。
平成元年八月
3
目次
責めてはいけません
みんな救われる
予言と世界平和の祈りの意義
幸福なる結婚
幸福になる秘訣
神様も経験する
46 3216 7
むな
祈 りの中に己れを空しうしよう
愛行と犠牲の相違
法然親鸞と世界平和の祈り
109 10093776
5
新天地の創造
168 157151141127
6
生命自由にのびのびと
〃平和
“のために働くということ
柔和で明るく暖く
感情の純化
装領笹本悦子
責めてはいけません
昭和3年5月1日
業の消えてゆく姿
中庸の生き方が一番いいのですが、では中庸の生き方をするにはどうしたらいいか、というと、
やっぱり宗教の力がなければだめなのです。その宗教はどういうものかというと、今までのように、
こうしてはいけない、ああしてはいけない、というんではないんです。道徳というのはこういうも
しやくし
のだ、と杓子定規に当てはめて、必ず夫のいうことを聞かなければならないものじゃないのです。
からかみ
必ず姑のいうことをハイと聞かなければならないというもんじゃない。必ず唐紙は手で開けなけれ
ばいけないものだというんじゃない。
責めてはいけません
7
現われてくるものはみな消えてゆく姿、という私の教えがありますね。姑は憎らしい奴だ、こう
こう
思う想いはそれは業の消えてゆく姿。嫁が憎らしいと思うのは、息子は恋人のように懐しいんだね。
てい
その息子をとられてしまって、邪魔者なんだね、嫁というのは。もらわなければ世間態も悪いし、
息子も困るし、もらわなければいけないし、もらえば憎いというんですよ。大体そうなのですよ。
お嫁さんと姑さんはうまくゆくわけがない。そういう不調和の「ああこのヤロウ、しゃくにさわ
る」というのも、ああこれは業の消えてゆく姿なのだナ神さま!と思う。嫁さんのほうは嫁さんの
ほうで”姑さんはいうけれど、これは姑さんの業とこちらの業がぶつかって消えてゆく姿なのだ、
神さまはみんな消して下さるんだ、守護霊さん守護神さん、どうぞ一日も早くこういう業想念を消
して下さいませ、お願い致します、有難うございます”とやる。そうやっている間、チャンチャン
バラバラもあるでしょう。二度や三度やってもいいですよ。やりながら有難うございます、とやっ
ていれば、だんくだんく業が消えてゆく姿ということはわかっているんだから、チャンバラを
一度やりゃ一度消える。二度やりゃ二度消える。三度やれば三度消えるんです。
消えてゆく姿がわからないで、チャンバラをやれば消えません。一度やったチャンバラが二度に
いん
増え、三度に増えます。だんく陰にこもってものすごくなります。ところが消えてゆく姿だと思
8
ってチャンバラをやったのは、チャンチャンチャンとやりましても、お互いがやりながら、あ、こ
れは業が消えてゆくんだくとやっているうちに、だんくチャンくバラくをやるのがいやに
なっちゃう。そうすると、心の中で、あ、申訳けない、ヨれは業の消えてゆく姿だったのだ、神さ
ま申訳けありません、とか、有難つございます、ということを、自然に思います士讐こっちも思う、
向うも思う。今度はそれがうまくなってくると、だんく熟達してくると、チャンと始まろうとす
ると、あ\業が消えてゆく姿だな、とお互いがニッコリ笑いまして終り。
だからお互いが、本当は神の子であって、業想念の消えてゆく姿と思うことが出来れば、姑も嫁
も、親も子も、夫も妻も、みんな仲良くなるのですよ。自ずからなるのです。何故なるかというと、
神さまの子なのだから。始めから神さまの子で、完全円満なのだから、完全円満でないものはない
のですよ。無い、といったってわからないから、それは消えてゆく姿というのです。
押えてはいけません。押えることが一番悪い。やりたいことをいつもすべて押えていたのでは、
中にたまるだけです。昔の教えはそれをすべて押えた。人間は本当は神の子であって、完全円満で
あって、すべての業想念は現われては消えてゆくんだ、ということがわかってくると、忍耐とかな
んとかいわなくとも、自然に耐え忍ぶことも出来れば、自然に人を恨まなくなるんです。
責めてはいけません
9
ゆる
消えてゆく姿というのは非常に素晴しいことなのです。人を赦すんですよね。さんざん生長の家
などをやってきた人達は、心の法則で悩むんです。道徳科学などをやった人は悩むのです。ああ自
分はこんなに宗教をやりながら、こんなに修養しながら、どうしていつまでもこのように、自分の
心の中から、怒りや妬みや不安、そういう想いが消えないのかしら、といって悩むんですよね。!そ
こへ白光誌なんかがいくでしょう。白光誌に消えてゆく姿なんだというのが出ているでしょう。あ
\そうなんだ、消えてゆく姿だ、有難うございます、と一遍で嬉しくなって、手紙をよこす人が随
ゆる
分あるんです。赦されるんです。あ\自分が悪かったんじゃないんだ、自分は信仰しながらこうい
う悪い想いが一杯あるのは、自分が悪いんじゃなくて、過去世の自分の因縁が消えてゆく姿なのだ、
有難いな、とこうなんですよ。
10
行いが神さまになる
消えてゆく姿「ということを、みんなに教えてやるということが、とてもいいんですよ。あなた
が、悪いと思っているあなたは、それは消えてゆく姿なのですよ。あのように悪く現われているあ
の人も、消えてゆく姿なのですよ。みんな神さまの生命では交流していて、平等に交流していて、
天と地をつないでいて、光り輝いているものなのですよ、ということなのです。これは真理なので
す。法華経でもあり、その行じている姿が神道なのですよ。
ことたま
神道では、言霊といいまして、アイウエオ五十文字、これは神さまの光なのです。神さまの働き
なのです。アイウエオにはそれが現われているのです。ところがアイウエオといったってわからな
いでしょう。植芝先生(ム星ハ道創始者) はこれを実際に体で現わしている。言葉は神さまの光にな
って流れている。だからみなさんの中でも、アの音の働きをしている人もあるだろう、ウの音の働
きをしている人もあるだろうし、イの働きをしている人もあるわけです。だけどそういってもわか
らないですね。そこでどうしたらいいかというと、自分の業想念を全部神さまの中へ返す、世界平
和の祈りをしていれば、わが天命を完うせしめ給え、という祈りをしていれば、自ずから、神さま
のほうから、自分の本心のほうから、自分の仕事が決まっちゃうわけです。アならアの仕事をする
だろう、ウならウの仕事をするだろう、そのように仕事をしてしまうわけです。
自分が神ながらの生き方といって、神そのものの生き方をするということは、自由自在で、自分
の我の想いが少なくて、殆どなくてそれでそのまま自由自在に動いていながら、いつもいい行いば
かり出来る、こうしようあ、しようじゃなくて、自ずから動いていることが、そのままいい行いに
11 責めてはいけません
なっている、という生き方をすることが、神ながらの道なのです。それは神道なのです。
神道というのは言葉じゃなくて、行いなのです。その神道の行いが出来るために、キリスト教で
説いたり、仏教で説いたり、いろんな説き方をしてそこまでもっていくんです。そしてみんなが神
やおよろずたかまがはらカム
そのものの姿になる、八百萬の神になる。高天原に神ツマリといって、神づまるんです。高天原を
日本とすれば神づまっちゃう。みんなが神そのものになっちゃう。
神さまそのものというのは行いのことですよ。神さまだからさだめしきれいな男の人だと思った
ら、頭がはげていたり、鼻が曲ったりするでしょう。だけどもそれは形の世界なのです。いくら神
さまの心そのまま現わしても、急に鼻が高くなりゃしないんだ。形のことはそれはそれでいい。行
いが変って来ます。それで或る時間を経過してゆくと、顔がだんく変っていくんです。心がパッ
と変ったから、顔もパッとよくなるかというとそうはいかない。心がだんく変ってゆくと、知ら
ない間に顔が変ってくるのです。
自分の想いというものは、形に現われるという生長の家なんかの教えがあります。そうしますと、
広い心の人は必ずふとっているかというとそうでない。天まで届いた心をもっていたら、背が高い
かといったら、そんなことはない。おおむね小さいほうが多いんですよ。植芝先生が五尺一寸ぐら
12
い、私が五尺二寸ぐらい。小さいんです。小さいからいいという意味じゃないですよ。大きくても
いい人もあります。だから思うという想いがそのまま形に現われるという教えは、それは長い間の
ことであって、その瞬間瞬間じゃない。それを間違えて、髪の毛というものは神を現わすんだ、だ
から髪の毛のうすい者は神に遠いんだなんていうんですけれど、こんなバカなことはない。ひどい
ことになると、だから坊さんというものは髪がないだろう、だから神といわないで仏という(笑)
谷口先生に聞いた話なのだ。
落し話みたいですね。そういうように話をもっていっちゃうと、とてもおかしいことになってし
まう。ところが頭のいい人でも、想いの世界のことばかりいたずらにしていると、知らない間にそ
うなっちゃう。歯が痛むのは自分の心に人を痛めつける想いがあるーとこういうようにやる、そ
うすると自分の心を痛めちゃうんです。
歯が痛くなった、こんなに神さまを想いながら、どうして歯が痛いんだろう、私はだめなんだ、
というようにやる。病気になってねてしまう、あ\私はなんでーとこう思う。痔が悪ければ、そ
の家にいたくないからだというんだね。その家にいたくない心があってお尻がもぞくするから、
痔のような病気になって、お尻がちゃんと落ちつけない。こういうんですよ。このように想いとい
13 責めてはいけません
うものをいたずらしている。メンタルサイエンスというものはくだらないものです。そういうこと
は医者にまかせておけばいい。お医者さん、科学者の領分であって、宗教家の領分じゃない。
メンタルサイエンスというものから一歩出て、そういう想いはみんな消えてゆく姿なのだ、本来
あるべきものじゃないから消えてゆく姿なのだ、人間の体は健康に決まっているんだ、神さまの子
なの泥から、ということになって、いじくりまわさないのです。痛んでいるところをいじくりまわ
さないで、放っておけばいいんです。
むね
生長の家ばかりじゃない、天理教などでもそうです。胸が悪いのは家の棟にどこか悪いところが
あるからだ、とか”ハイ”といわないから肺病になる、でしょ。せきこむ心があるから喘息になる
とかいう。そうかもしれない。そうであったとしても、それは消えてゆく姿なのです。一想いをつか
なま
んで責めちゃだめ。生じっか宗教をやったり、修養をやった人というのは、人を責めやすいから、
責めちゃいけません。人ばかりでなく、自分も責めるからね。こういうつまらないことはみんな消
えてゆく姿。あるのは神さまの子である人間だけなのですよね。
そうするには、どうすればいいかというと
世界人類が平和でありますように
14
日本が平和でありますように
私どもの天命が完うされますように
守護霊さん守護神さん有難うございます
こうやっていると、自分たちが業の世界から、いつの間にか天界にいっているのです。それで天
界の光が流れ流れて入ってきて、今に天人がここに充満するのですよね。そういうことになるので
すよ。
15 責めてはいけません
16
みんな救われる
\
昭和3年5月2日
片よりすぎてはいけない
「真理の目玉よ降りて来い」という詩がありましたね、あれと同じで、理想論的に「人間の肉体は
無いんだ、病気は無いんだ、不幸はないんだ、実相は完全円満なんだ、みな神の子なんだ」それだ
けでは、やっぱり大衆には手が届かない。真理の目玉が降りて来ない。
高い所にいるものだから掴みようがない。肉体無しというところまで悟りがゆく、病気無しとい
くニノ
うところまで悟りがゆく、貧乏無しといういうところまで悟りがゆく、すべては空なんだ、という
はし
ところまで悟りがゆく、その梯子がない。いっぺんに飛び上らなきゃならないけれど、飛び上れな
い。飛び上っちゃ落ち、落ちては飛び上って、ついにくたびれてしまう。かえって宗教をやらない
前よりも、心が疲れてしまう、萎縮した人間になってしまう。
片一方では、因縁因果因縁因果で責められる方は責められ通しになって、くたびれてしまっては
だめになる。かえって唯物論者的に自分の思った通りをどんく実行してゆくほうが、凱歌を得る
場合が多いですね。それで今迄の宗教的観念を持った人が案外のびないで、唯物論的な観念を持っ
た人がぐんく延びていって、相当な財を残したり、相当な地位についたりするわけです。
それはどういうわけかというと、宗教の教えが片寄っていた。片一方は大乗的に偏っている。片
一方は小乗的に偏り過ぎている。そこで生長の家が出て来て、それをまぜたんだけれども、まぜ方
うきはし
が悪かった為に、十字交叉にならなかった。みんなを天之浮橋に立たせないで、十字交叉の真中に
立たせないで、端っこに立たせた。みんな上にやりすぎちゃったし、下へやりすぎちゃった。いび
つな生活をこの肉体界でしているわけです。それで私の”消えてゆく姿” が出たわけね。
消えてゆく姿の功徳
みんな救われる
消えてゆく姿の功徳は、把れをなくすわけです。人間の想いが運命を創っているのは間違いない17
ことなんです。人間は本当は、みんな完全円満な神の子であって、悪も不幸も病気も何もないので
す。ただ現われているにすぎない。
おお
想いの波が本来の光を掩って、それで運命が出来る。AならAという人があると、Aはアならア
の神さまの系統で光り輝いているのだけれども、それが肉体という物質の中に入ってしまって、物
質の影響を受けて、本来のスピードの微妙な働きが出来なくなって来て、粗い波の中に生きてゆく
わけです。そうすると、そこに業が生じるわけです。ものすごいスピードで走れるものが、わざわ
ざゆっくり走っている形になりますから、そこにギャップが出て、業というものが出来た。
いいかえるならば、A の魂とB の魂とがあるとする。A のことをBが想えば、A がB のことをパ
ッと同時に想えるようになれば、時間空間がなくてお互いの心がわかり合えるようならば、業は出
来ません。疑うこともなければ、なんにもないから、お互いにわかっているから。ところが一旦、
肉体という生活の中に、こういう器をまといますと、相手の心がわからない。相手が何を思ってい
るかわからないので、疑心暗鬼で、あれはへんな目つきをしたから、俺をなんか陥れようとしてい
るんじゃないかしら、あいつがあんな顔をしたから、俺に悪意を持っているんじゃないかしら、と
いうように、だんく自分と向うとを離して考える。
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或る国は或る国で自分を守ろうとして、相手を敵視してくる。相手も又変に思う。お互いに精神
が感応し合ってだんだん国と国、民族と民族とを離してしまって、本当は一つの大生命から分れて
いる小生命であり、一つのものから分れている民族民族なんだけれども、役目として民族が分れて
いるんだけれども、それがわからなくなってしまって、お互いが競争意識になってくるわけです。
今日そうふうになっちゃったわけです。
それをいっぺんに急に、人間は神さまの子で一体である、だからお前たちの肉体は無いんだ、と
やっても、この世に現われているけれども無いんだ、とやっても、これは一寸わからないです。
それで私が云うことは、この世は本当は神さまのみ心を現わす世界なんだけれども、まだみ心が
現われてないんだ。神さまの光がいろいろに分れて、二十何億に分れて働いているのだけれども、
それがまだ本当の光が出てないんだ。何がそれを邪魔しているかというと、お互いの個別個別の感
情、自分を守る感情、要するに自己保存の想いという業想念がお互いをへだててしまって、お互い
が緊密な連絡が出来なくて、心の調和が出来なくて、バラバラで働いているから、そこに溝が出来、
争いや戦争が起るんだ。それを直すのにはどうしたらいいかというと、一旦想いを、みな神さまの
中へ入れてしまわなきゃならない。神さま! って神さまの中へ入れてしまわなければならないんだ
19 みんな救われる
けれども、神さまは一体どこにあるかわからない。
20
神さまがつかめる
神さまは宇宙のどこにもある。草の中にも木の中にも、大地の中にもある、という言い方があり
ます。これを汎神論といいますね。実際そうなんです。そうなんだけれども、そういう言い方は非
常に掴みどころが無い。草をつかんでみたってしようがないでしょう。大地をつかんでみてもしよ
うがない。天をつかんでみてもなんだか頼りがない。神さまといってもつかむものがない。しかし
掴ませなければならないですね。実感として掴ませなければならない。
一番実感として掴ませやすいのは何かというと、祖先ということですよ。祖先というと立正佼成
会、霊友会ではないが、祖先は迷っている、迷っているから拝まなきゃならない、というような云
い方で祖先をもってくる。業の祖先として持ってくるんですね。私は業の祖先として持って来ない。
守護霊としてみんな自分の子孫を守っている形で持って来ている。光明思想といって明るいほうに
持って来ている。
実際にそうなんです。
祖先の中の悟った人が人間一人一人に正守護霊として守っている。脇には副守護霊として必ず二
人守っている。正守護霊、副守護霊として三人がついていつでも守っている。だから「祖先の悟っ
た霊である守護霊さん有難うございます」といいなさいというと、なんだか神さまを具体的に掴ん
でいる。その守護霊さんの上には分霊のおじいさん格の、神さまから分れた守護神さんがいて守っ
ている。守護霊で出来ないことは守護神さんが守ってやってくれるのだから、守護霊さまといえば、
業想念を突き破って自分の意識が守護霊守護神と一体になる。すると守護霊守護神の光がこの器の
中に入って来て、業想念をきれいに浄めてくれるんだ、とこういうわけです。
こうすると神さまというものが一寸わかってくる。守護霊守護神とズーツとたどってゆくと大神
いのち
様になって、宇宙に充満している生命になる。守護霊、守護神は背後で守っているのですが、自分
ちよくれい
の中にはどういうふうに入っているかというと、大神さまから分れた直霊という人類の元の光が
七つある。そのうち五つだけこっちへ働きかけていて、その五つの直霊から分れた光がここに入っ
ている、本心として入っている。それを業想念が覆っているんだから、守護霊さん守護神さん、神
さまというふうに上っていって、業想念をいっぺん突きぬけて、神さまに入ってしまうと、守護霊
守護神の光が入って来て、業想念を消し、本心とつながる。そうすると外なる神と内なる神とがつ
21 みんな救われる
ながってゆく。自分が神さまの光と一
そういう教え方をしている。
つになってゆくわけね。
22
把われない心を出す
実際的な活用とすると、消えてゆく姿がありますね、いつも云うんだけれど。
「今、現われてきているあなたの怒りの想いも、今、現われている妬みの想いも、相手があなたを
やっつける想いも、貧乏する想いも、いやだという想いも、憎らしいという想いも、すべてそうい
う想いは、潜在意識にたまっていた想いが、今現われて消えてゆく姿なんだから、消えてゆく姿と
思って、守護霊さん守護神さん有難うございます、と神さまの中に入ってしまえば、勝手に消えて
ゆく。今、酒を呑みたいという想いも、それも消えてゆく姿だ」
というのが私の教えでしょう。それをいつもいつも聞いていますと、福田さんじゃないけど、わ
ざく酒飲みたいと思わないようにしよう、と思わなくとも、酒止めようと具体的に思わなくとも、
なんだか酒が飲みたくなくなってしまう。というようになる。
それはどういうことかというと、酒を呑みたいという業想念が、”守護霊さん守護神さん五井先
生” とやっているうちに、光が入って来て、その業想念を消してしまっているんですよ。福田さん
が本当にいい実証だと思いますよ。
業想念が消えてゆくから、酒呑みの業想念がなくなっちゃった。短気だという業想念がなくなっ
ちゃった。儲けたいという業想念もなくなった、まだいくらか残っているかもしれませんが、あん
まりなくなっちゃうと、こんど奥さんが困るから、少し残しておかないといけないと思ってね。
(笑V それもやがてなくなると、本当のものが出てくるんです。
だんくだんく業想念の波が光の波に光ってゆく、それが消えてゆく姿の功徳なんです。消え
てゆく姿というのは、あらゆるものに把れない心を出す、把れを解脱させるためのものなのです。
安心立命するためには把れがあってはだめです。善なら善に把われてもだめです。自分はよく生き
なければならない、良心の命ずるままに生きなければならない、とこう思います。それはいいです。
いいことだけれど、あまり思い過ぎると、こんどちょっと悪いことをしても「あ私はあんな悪いこ
とをした、あ\私は間違ったことをした」と自分をいじめてしまいます。
自分はいいつもりで云っても、相手をけがしちゃう場合もあります。「私はいいつもりで云った
のに、あっちはあんなに嘆き悲しんじゃった、あ\悪いことをした悪いことをした、私はだめなも
23 みんな救われる
んだL とこう思います。
あんまり良心良心といって、良心ばかり出そうとすると、かえって善に把われてしまう。善に把
われれば即ち悪となる。何故悪となるかと云うと、自分をいじめてしまうから。自分をいじめれば、
自分は神の子なんだから、神の子というのは完全円満で、悪というのはないのだから、悪いものの
ない自分をいじめるということは悪いことでしょう。それじゃだめでしょう。だから良心にあまり
把われて、良心的に生きなきゃ生きなきゃ、というんじゃだめなんです。
良心的な人ほどのびのび生きる
ところが今迄の宗教家というのは、みんなそうやって教えるんです。こういう心を出しちゃいけ
ない。良心の命ずるままに従って生きなきゃいけない、人に迷惑かけるような生き方をしちゃいけ
ない、いい生き方をしなくちゃいけないーこれは当り前だね。誰だって悪い生き方をしようと思
って、生きているやつはありゃしない。それは余程どうかしているやつ。大体はよい生き方をしよ
うと思っている。よく生きようよく生きようと思いながら、良心の命ずるままに生きようと思いな
がら、生きられないのがこの業想念の世界なんですね。
みんな誰だってそうですよ、大半の人は人に親切でありたいと思うんですよ、けれど利害関係が
からんでくると、まず自分の利害を考えちゃって、自分の懐へ入れたいために、向うの傷つくこと
を平気でやってしまう。
かあいそう
いつも云うけれど、近所の子供が車にひかれて死んだとしても「あ\可哀相なんて可哀相、あ、
うちの子でなくてよかった」とこう思います。近所の子が死ぬよりも、自分の子供が腕一本折るぼ
うが重大事ですよ、親にとっては。
自分の子と近所の子供が一緒にいて、自分の子が助かって、近所の子が死んだとします。まず第
一に、あ㌧よかった、うちの子でなくてよかった、と思います。それから隣りの子は可哀相だった
なとこう思います。両方助かれば一番いいけれど、片一方が死ぬ場合には、自分の子供より近所の
子供が死んでもらった方がいいんですよ。
それが肉体のほうの想いですね。そういう想いは誰にでもあるんですね。ところが良心的に深い
と「あ\私はなんて悪いことを思ったんだろう、あ、私はなんて悪い人間、罪深い人間なんだろう
か」とこう思いますよ。良心的であればある程、この世をせまく、自分をいじめていじめて生きな
.
ければならないでしょう。いい者は馬鹿をみるですよね、悪い奴は平気だもの。人が死んだって
25 みんな救われる
“あの野郎、悪いやつだ、死んじゃえ。あ、いい気持だ
“とこう思いますよ。平気で殺して平気で
生きている。
そういう悪い奴は平気でしょう。ちっとも痛まない、ところが良心的であればある程痛む。そこ
で私はそれではだめだと思った。
良心的でいい人が、心を痛めて痛めて、だんだん縮こまっていったんじゃ、この世の中はますま
す悪くなります。悪い者がのさばりますからね。そこで良心的ないい人が勇気が出るように、良心
的でいい人ほど勇気を出さなきゃいけないと思って”消えてゆく姿”という教えが出て来たわけで
す。
26
実際の問題を処理する
人間というものは、業と光と両方がまざっているんだから、どうしたって本質的には自分をかば
いたいもんだ。自己保存の本能はあるんです。それがなくなるわけはないんです。自分のことを思
わないで、全然自分の家族のことを思わないでやってごらんなさい。子供が三人あって妻がある男
性が、働いたお金をみんな隣りのAさんに、隣りのBさんに、と半分つつでもやってごらんなさい、
奥さんは必ず怒ります、うちの良人は隣りの奥さんに気があるんだろうって。
要するに、私の云っていることは、実際問題で、実際の家庭、社会が救われなければそれは空想
論や理想論にすぎない。そんなことはやりゃあしないんだから、ただ自分をいじめるだけだから。
実際問題、人間の心をパッときり開いてみるとそういうものなんです。自分のところに毎月十万
円お金が入っても、隣りが五千円しか入らないから、十万円のうち四万五千円向うへやれば、向う
も五万円になり、こっちも五万円になるーとやる人はない。親戚にだってやりゃあしません。正
直いってそういうもんなんだから、又、それをやったらうまくいかない。何故うまくいかないかと
いうと、お金が入ってくる人にはお金が入ってくるだけの、前生の因縁、善因がある。お金が入ら
ない人には入らないだけの前の世の因縁がある。消えてゆく姿として貧乏したりなんかしているの
だからね。それをやたらに助けたって、こちらがそれでいいってもんじゃない。こっちはまたそれ
が負担になってしまう。
人にお金をやってごらんなさい。そうすると貰ったほうが今度遠慮しちゃって、チリチリしちゃ
って、その人いつまでも感謝しません。こんど恨んで来ます。私も経験があるんだ。
あんまりあげますと、もうなんだか会わせる顔がなくなってくるんですよ。そうすると自分に腹
27 みんな救われる
が立ってくると同時に、しまいにお金をくれる人に対して腹が立ってくる。そういう経験があるで
しょう。だからやたらに人にお金をやったから助かるっていうもんじゃない。一番急所でもって、
死ぬか生きるかの時にパッとやれば、これは生きるけれども、やたらにお金をやると、あいつは金
があるから威張るって思うでしょうね。だからお金をあげるのはむずかしいですよ。
そこでふつうの考えでゆけば、十万円稼ぐ人も、五千円稼ぐ人もお互いがお互いで生きなければ
ならない。貧乏なら貧乏の業があって、それは消えてゆく姿として貧乏になっている。それが消え
てゆく姿と本当にわかれば”あ\ これは消えてゆく姿なんだ、これで私の本心は現われてくるんだ”
と思っているとそして守護霊守護神につながっていると、そこに必ずその人達の生きられるような
お金は必ず入ってくるんです。
何故入ってくるかというと、人間は神の子であって、完全円満なんだから、本当は悪もなければ
貧乏もないからです。「消えてゆく姿」があって、守護霊守護神があって、守護霊守護神の梯子に
よって、はじめて神さまの子が出来てくるわけです。だから人間神の子完全円満と言葉で云ったっ
て、そんなものでは神の子にもなんにもなりはしない。守護霊守護神と一つになって、業想念を乗
りこえた時、はじめて神の子が現われるんです。それを守護霊守護神を通さないで業想念をぬけな
28
いで、業想念の三界の渦の中にいて、人間は神の子、病気なし貧乏なしとやったって、それは只ほ
えているだけにすぎない。それではちっとも本当のものにならない。嘘、偽善、欺隔なんです。そ
ういうことをやっていては、少しもその人は偉くならない。
みんなが救われる
やっぱり、不完全なら不完全な現実をみなければいけない。人間というのは不完全なんだな、肉
体世界では不完全なんだな、不完全だからこそ、凡夫であればあるこそ、自分の子供が他人の子供
より可愛ければこそ、自他一体化が出来ないからこそ、そういうような業想念があればこそ、親鸞
上人が必要だったんですね。
いつもいうけれど、親鸞上人みたいに、あんな勉強した人でも”あ\自分は罪悪深重の凡夫だか
ら、阿弥陀さまにすがるより仕方がないんだ”と阿弥陀さまの中へ入った。入っちゃったら、こん
どは阿弥陀さまのほうが、阿弥陀さまになって親鸞が生きたわけです。弥陀の心を心として親鸞が
生きた。親鸞の教えを聞いた人たちは、農家の学問のなかった人や下駄屋の無学の職人だったりし
た。そういう人でも念仏によって、阿弥陀さまの中に入りこんだ。阿弥陀さまが自分となって生き
29 みんな救われる
ている、あ\自分が生きているのは阿弥陀さまがここに生きているんだ、自分が働いているのは阿
弥陀さまが働かしてくれるんだ、という風に阿弥陀さまと一つになって、安心立命していた、とい
う実例があります。妙好人といいまして、そういう話が随分あります。
何故、安心立命したかというと、神さまの中へ全部入っちゃったから。それが法然親鸞の場合は、
南無阿弥陀仏といって、阿弥陀さまに全部想いをたくした、全託したわけです。阿弥陀さまに全部
託したところから、南無阿弥陀仏が生きてきたわけです。
ところが現代になりますと、南無阿弥陀仏というのは、死骸にばかりあげているような気がして
いる。病人の枕許でいっぺんやってごらんなさい。「お見舞いにまいりました。南無阿弥陀仏」な
んだか死んじゃったような気がするもん(笑)まずいでしょう。・何故、そうなったかというと、南
無阿弥陀仏が光明燦然と使われないで、お葬式や法要ばかりにあげるような経文みたいになってし
まったからです。そうすると、そういうような想いがみなぎってしまう。抹香くさい、意気はつら
つとしない、暗い感じがしてきちゃう。しめっぽくなっちゃっている。使いにくい、使ったってい
いんですよ、しめっぽく使いやいいんだ。
人間の想いというのは面白いもので、習慣になってきちゃうからね。そこでそれじゃだめだとど
30
こへ一体想いを集中させればいいか、どういうようにすればいいか? 神さま!とただいうんじや
だめですね。神さまというのは宇宙に充満しているから、たゞ神さま!といっても神さままでなか
く心が届かない。そこで私は守護霊守護神をたてた。実際に生きて働いているんですから。それ
から祈りとしては、世界平和の祈りをしたわけです。
世界平和の祈りは何故いいかといったら、もっともわかりやすい、だからもっとも想いが入りや
すい。”世界人類が平和でありますように” それだけ繰り返したっていいんだから。それで世界平
和の祈りを唱えさせた。ところが急場の場合、間に合わない時がある。
たとえば、胸がつまって心臓が止まりそうになった、そういう場合、何がいいかというと「五井
先生」というんです。短いわね。うんと短いので、私の名前を通して神さまの中ヘスッと入ってい
とつさ
っちゃう。そうやると咄嵯に救われるんです。もうたくさんあるんです。自動車が止ってはねかえ
った人もあるし、屋根から落ちて、ブリキのいっぱい尖ったところへ落ちても、どこにもささらな
かった、というのもある。階段からおちても、石段から落ちてもパッと想って、なんでもなかった
老人もいる。とたんに五井先生につながっているからね。みな救われてゆくのです。
31 みんな救われる
32
予言と世界平和の祈りの意義
(白光誌昭和36年3月号掲載)
小さな紛争も日本に影響する
今年(昭和36年)になっていろいろな予言が出ていますね。第二次大戦で日本が真珠湾を攻撃す
るといった、それで当った、という予言者が、この春頃には世界大戦が勃発するとか予言をしたり、
日本でも同じような予言をしています。
さて果して世界大戦があるものでしょうか、どういうもんでしょうか。これは実に大事なことで
すけど、私は〃ない”という予言をするのです。”そういうことはありません”という予言。私は
いい方の予言者、悪いことは一切予言しないことに決めているのです。それでそういう風にもって
いかないといけないでしょ。そういう風にもってゆくための世界平和の祈りなのです。
それではこれから世界平和の祈りの重大なる意義を申し上げましょう。
いつも申し上げているんですけれど、こうやって日本の情勢を見ておりますとね、この間もソ連
が、アメリカがラオスへ在日米軍を出兵させるようなことがあれば、日本は只じゃおかない、とい
うわけですね。嚇し文句をソ連がいって来ておりますね。といって日本は、アメリカ軍を日本から
追い出すわけにはいかない。もうちゃんと安保条約は決っているし、それにちゃんと駐留軍が来て
アメリカ
いるのだし、今更米軍を日本から追い出そうという気はないし、又出来もしないわけです。
アメリカ
そうすると米軍は日本にいるのだし、それで米軍と協力すればソ連から年中おびやかされるのだ
し、日本が戦争をしたくなくたって、例えばラオスならラオス、キューバならキューバという処で
米国が戦いをして、ソ連と戦争がはじまって、日本にいる米軍や沖縄にいる米軍を出兵させれば、
今度ソ連が日本をやっつける口実が出来るわけね。だからやっつけられても文句はない。とこうい
うことになるのですよ。ですからね、今はアメリカ軍とソ連軍とこの二つの国の動きがね、すべて
に関係する。全世界の運命をかけているわけです。その間に小さな国々など沢山ありますね。そう
いう小さな国の内乱はどうやって起るかというと、アメリカならアメリカとくっついている国があ
33 予言と世界平和の祈りの意義
りますね。するとソ連が物をやって武器をやったりして反乱軍をつくるわけです。反乱軍を作り上
げてしまって、それで反乱させるわけですよ。
反乱すると政府がアメリカに援助を求めてアメリカが援助する。陰ではソ連が焚きつける。アメ
リカは正面からやって来る。するとソ連はアメリカは侵略している、侵略すると世間に宣伝するわ
けです。アメリカはそうするとますます怒ってやる、というようなことになって、キューバなんか、
うまうまとソ連の手に乗っかっちゃったわけです。実にうまく術中に入ってしまってアメリカは国
交を断絶しましたね。あれが一寸筋が違えば、アメリカがキューバを爆撃した、さあソ連が援助し
て報復した。こうやったあ\やったといううちに、インドシナの方でもやる。どこでもやるとなれ
ば、これは世界戦争になっちゃう。
世界が大戦になればどうなるかといえば、原水爆が落ちてくるとこういうわけなんですよ。だか
ら私共が安閑として生活しておりますけれども、実は毎日毎日明日あさって死ぬかもわからない生
命の形で、生きているわけなんですよ。只知らないだけなんです。キューバで何があったって、イ
ンドシナで何があったって、一寸も関係ないような気がするでしょう。ところがキューバであるこ
とが、インドシナであることが、朝鮮であることが、どこかであることが、どんな小さな国である
戦でも、結局は日本に影響して来るわけだし、全世界に影響して来て、
かわからないという、境目になるわけなんですよ。
これが地球最後の日になる
幽界という世界がある
肉体の他に幽体というものがあって、その世界を幽界というのです。
幽界という世界はどういうことかというと、みんなの想いが溜っている処です。いろんなことが
一年中ありましたね、一年中あったことをみんな憶えていますか。憶えちゃいませんね。特別なこ
ときり憶えていません。後はみんな忘れているんです。その忘れたものはどこにあるかというと、
幽界を波になってぐるぐる廻っているわけです。これを普通、潜在意識というのです。そうした想
念の波動が自分の幽体の中に廻っている。それが他の人の方にも関係してズーと幽界をぐるぐる廻
っている。だから一人の人がいろんな想いをすることは幽界という広い範囲をぐるぐる廻っている
わけですよ。だから一人の人があのヤロウやっつけちゃおう、あいつは憎らしいからやっつけちゃ
おうというように想います。それで自分は忘れてしまう。忘れてしまうけれど、その想いは、幽界
をぐるぐる廻っているわけです。そういうやっつけちゃおう、あいつは敵だ、あいつは憎らしいと
35 予言と世界平和の祈りの意義
いうような想いが沢山たまると、憎らしいという想いと想いがぶつかって、それが戦争になったり
天変地異になったりするのですよ。
天変地異を起すのも戦争を起すのも、全部人間の想いなのです。嵐が起るのも地震が起るのも戦
争が起るのも原因は一つでね、人間の業想念、自分勝手な想い、人をやっつけようとする想い、要
するに調和しない不調和な想いが、みんなそういうものを作るのです。
36
幽界に危機の原因がある
それで幽界を予言者や霊能者がみますと、幽界にはそういう戦いの波だとか、やっつけちゃおう、
やっちゃおう、いろんな波が一杯溜っているわけなんで、その波をたどってゆくと、あ、今年あた
りもう戦争があるなという風に見えるわけなんですね。そういう波が実際にあるのだからね。だか
ら私共のような世界平和の祈りがなくて、只あたりまえの地球世界が今迄のま、の世界で、いわゆ
る肉体の人間という存在が只一つのもので、他に人間なんていうものはないんだ、神も仏もない、
肉体だけが人間の全存在だ、というような考え方をしているならば、これは終いに必ず地球は破滅
します。そういうように出来ているのだからね幽界は。
ところが私は破滅するとは思わない。世界平和の祈りが生れて来たということは、幽界に出来て
いるあらゆる業想念を、みんな浄め去ってきれいにして、本来ある神様の生命を、神様の子の生命
を、このま\ズーと神様の世界から肉体界まで、真直ぐに光を投げかけて光の交流をはかればね、
幽界というのはきれいになって、神様のみ心の絶対調和がこの地球人類の世界に、開けてくるに決
っているのですね。そういう風に出来ているんです。
一番初めには、神様は完全円満でしょ。だから完全円満のものが地球界にうつし出されて、神様
のみ心が現われて、地上天国が出来るように設計が出来ているわけですよね。ところが人間の業が
グルグル廻っちゃって、その神様のみ心をそのま\現わさないで、歪めてうつしているわけなので
す今は。それでうっかりすれば戦争になりそうな波が現われているわけですね。だからそのままジ
ーと見過していたらば、そのま\渦の中に入って、あいつがいけないとか、こいつがいけないとか
こいつが悪いとか私が悪いとかなんとかかんとかという風に、自分で思っている想いが消えない以
上は、必ずこの世界に戦争の危機とか天変地変の危機が訪れるのですよ。
星にも現われているんだし、霊能的にも現われているのだから、そういうものを見ればあ\戦争
があるな、天変地変があるなという風に見えるのですよね。だからそういう予言は必ずしも嘘では
37 予言と世界平和の祈りの意義
ないんです。けれどもそうなってしまったんじゃ、神は愛でなくなっちゃう。それこそ残酷物語に
なっちゃう。みんな亡びちゃうんだからね。そういうことがあるわけがない。あっちゃいけないよ
うに守護霊守護神があるんですよね。だから守護霊守護神とか世界平和の祈りを考えなければ、神
様なんていうものは非常に残酷なものですよ。そのま\人間は亡びちゃうのだから。必ず肉体界は
亡びちゃうのですから。
38
神様と人間の自由
だから今迄の宗教のようにね、只単に神様といっていたら、只行ないを改めなければダメだとい
うんではね、お前の信仰が足りないからだめだとかね、お前の心が悪いからダメだとか、これは本
当は原理なんですよ。自分の心が悪ければ悪いように現われるのだからね。自分が相手をやっつけ
ようと思えばやっつけられるのであって、むさぼればむさぼられちゃうんだし、自分の心が現われ
て必ず返ってくるのだけれど、只お前が悪いからそうなったというような、そういうお説教だけじ
ゃダメなんです。そういう宗教じゃだめになって来た。それから神様神様と只神様といったってね、
神様がどういうものだか、どういう働きをしているものだかわからないではダメなのですよ。
そこで私達が説いているように、神様というものは人類救済の波としては、守護神として現われ
なおひ
てるんだ、一方では大生命から分れた小生命、直霊直日という生命を司っているもの、その流れと
して神様から生命が来ている。生命は神様から来ているけれども、その生命はすべて人間の自由に
まかされているわけなんです。自分の生命は自分で自由に使っていろんなことが出来るわけですね。
何をしようと勝手ですよ。人間というものは大体生れてもの心つけば何をしても勝手ですね。喧嘩
しようと何をしようと自分の好きです。したい放題のことをするわけですよね。止めようと思った
って止まらないでしょ。いわゆる生命を神様から分けられ与えられているから、その生命を自由に
使って、その生命とは資本みたいなものですね、資本を自由に使って、どんなことでも自分で出来
るように出来ている、そこが機械と違う処なのですが。機械というものは自分の自由に出来ない、
作られたままで、作った人が動かさなければ動きがとれませんね。人間というのは創造の生命の原
動力をもらって、それで自由に自分の世界を作るわけですよ。だからこの地球界というものは、神
様のみ心と人間の心とね、まざってそれで出来ているわけなんですよ。
神様が自由にするわけじゃない。神様は”わしの子だ、自由だ”といって、人間がこっちへ行き
たいというのに、ぶんなぐってなんでもかんでもこっちへよせるわけじゃないし、善いことをする
39 予言と世界平和の祈りの意義
のもみんな人間の自由に任せているわけなのですよ。大神様というものはね。
ったら機械と同じになっちゃう。
それで任せていなか40
守護霊守護神の涙ぐましき働き
よくきくことは、どうして神様があって、神様が完全円満ならばどうしてこんな悪いことをする
人間を造ったか、なんだってこんな不完全な人間を創ったりするのか、こういうように時々質問が
あるのですよ。それは神様というものは生命そのものだからね、大神様は生命そのものだから、与
えただけですよ、大神としては。何が人間を指導するのか、ということはそれは守護神なのですよ。
守護霊守調神が人間の運命を司どって、人間に協力して、神様のみ心を地球界に現わすようになっ
ているわけです。だから守護霊守護神というものを考えない信仰というのは、ないんですよね。
神様が法則としての神様と、それから守護霊守護神としての神様と両方に分れて、守護霊守護神
が一所懸命人間を守りに守って、どんな馬鹿な人間でも、コッチむけというのにアッチむいてしま
う。又むけというのにアッチむいてしまう。いくらいっても駄目な人間が沢山いる。皆さんじゃな
いんだけれど、あるんです。それをあきもせず、私は守護霊守護神はよくあきもせずやっていると
思う。いうことをきかないから人間という奴は。もう自分の好き勝手。自分の想うことだけやろう
とするのですよ。業なんだから仕様がない。みすみす損をするのをわかっている癖に、こっちに進
うしろ
もうとする。それを守護霊守護神はなだめすかしなだめすかし、後からやっているわけね。いく
らやってもらって危い所を救ってもらっても感謝しない。平気な顔をしている。それで自分のこと
をやっている。そういう人間なのね。
それで私が神様と一つになった時ね、守護霊守護神が涙ぐましき働きをしているのがわかった、
何もこっちはお礼をいわないのにさ。眠らないんだからね霊は。人間は眠るでしょ。霊の方じゃ眠
らないで働き放しなんだから。それで一所懸命業をかぶっちゃ、苦しくなると滝へ行って、神様の
世界でもみそぎがあるのですから、やって又来ては守り、一所懸命しているわけ。それをこっちは
一寸も感謝しない。それをみていた時にね、これはまず第一番に守護霊守護神に感謝させなければ
ダメだと思ったのですね。守護霊守護神がこんなに苦心して守っているのにね、知らん顔をして守
りを受けている、平気な顔をしている馬鹿共があるか。こんなやつは亡びちゃった方がいい、とは
思わなかったけれどさ(笑)本当に守護霊守護神の立場になるとね、肉体人間程馬鹿な横着なもの
はないんだから。
41 予言と世界平和の祈りの意義
それで守護霊守護神の代弁者として、守護霊守護神に感謝しなさい、とこうやっていた。それで
守護霊守護神に感謝させていると、今度守護霊守護神がとても守りやすくなった。守護霊さん守護
神さんといっているのだから、業がこんなにあってもね、こっちから(肉体人間側から)守護霊さ
ん守護神さん!向うは助けたい助けたい、守護霊さん有難うございます! 助けたいとこうやって
ゆくでしょ。だからぴたっとくっついてゆく。そうすると大きな業が出てくる場合でも小さく済ん
じゃうのですよ。
42
一番運命をよくする方法は
守護霊守護神に感謝してね、いつも守護霊守護神にくっついていることよ。どんな悪いことがあ
っても、どんないやなことがあっても、守護霊守護神にくっついていることよ。そうすると守護霊
守護神がうまーくきれいに消してくれるのです。そこで守護霊守護神さん、有難うございますと感
謝しなさい、と私はいつもいうのです。それだけじゃまだ積極的じゃないでしょう。それでもっと
積極的な為にね、世界人類が平和でありますように、と守護霊守護神への感謝の想いを世界平和の
祈りの方にむけたわけですよ。
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
って、守護霊守護神への感謝と共に世界の平和を願ったわけですよ。そういう祈りをはじめたら
ね、守護霊守護神の光が大結集して、救世の大光明として改めて私と一つになったのですよね。
それからそれ迄の力と世界平和の祈りを始めてからの力とは、まるきり違っちゃったです。十二、
三年ぐらい前から、霊能のお婆さんが来ていましてね。まだ私がこんなに人数がない時に会った。
そのお婆さんが来ると、私を見て遠く離れちゃって「あ\有難うございます、あ\きれいな観音様、
大きな観音様で有難うございます」とおばあさんがいつもお礼をいっていたのね。私の母親なんか
眉に唾をつけて見ていたけれどね(笑) だんだんそれを信用しましたけれどね。それが久し振りで
この間来たの。そしたら襖を開けて私を見た途端、パーッと下っちゃってね「あ、有難うございま
す、あ\先生の観音様は大きくなられました。まあ大きい」といってね、感嘆これ久しうしていた。
43 予言と世界平和の祈りの意義
必
大きい観音様に皆なっている
前にあった時が例えばこの家ぐらいだったとすればですね、今はもう大きくて計り知れないくら
い大きいと、いうのですよね。観音様が大きくなったということは、光が強くなったという意味な
のですね。それは世界平和の祈りを始めてからだからね。大きさがまるっきり違っちゃった。それ
で側にいる者が叱られちゃった。「あなた方はわかんないでしょ。この先生の偉さ、こんなに光っ
ている」と叱っていましたよ。側には寄れませんといっていたけれどね、側に寄らなければ困る。
私は仕事にならないのです。
というわけで、世界平和の祈りを始めてからは、世界平和の祈りを始めない前の何千倍何万倍何
億倍というね、すごい光になっているのです。それは当り前の話でしょ。個人個人を救う光と、世
界人類を救う光とは違うに決ってますよね。だから皆さんが”世界人類が平和でありますように”
という時には、大きい観音様に皆さんがなっているわけですよ。
どんなお婆さんでも小さな子供でも
ヘへ”世界人類が平和でありますように… “とまともにいっている時は、その人はでっかい観音様です。
そう思ってこの日常生活をして下さい。すると心が豊かになって明るくなって、この世が楽しいで
すよ。そうしなければ世界は平和になりません。
どんな現象的なことをやったってダメですよ。どんな偉い政治家が出てもダメです。日本にいく
らいい政治家が出たって、アメリカとソ連がやっているのだからね。キューバあたりでやっている
のや、ラオスあたりでやっているのに、日本はどういう権限があるの。なんの権限もないでしょ。
アメリカはこうしろといったって、向うはそんなこと知ったことじゃない。ソ連は、といったって義
意そんな
こと知っちゃいない。日本なんかちびくさいのだから。そこでそんな言葉でいったって仕方の
り
がないから、霊界からサァーッと光をあててね、業想念の迷いの想い、人をやっつける想い、自分祈
の
が威張りたい想いを人類の潜在意識の中からサーと消してゆくんですよ。和
平
そつすると必要のないもの、死んじゃうものは死んじゃうだろうし、亡びる者は亡びるだろうし、堺
要するに光の人間だけが残ってゆくのですよ。そこで初めて地球世界が平和になってね、地上天国乱
が出来るのです。その時は皆さんもうんと偉くなっています。予
45
46
幸福なる結婚
(白光誌昭和36年5月号掲載)
好き嫌いということ
結婚は人生の重要なポイントです。自分の好みに従って、好きな人にお嫁に行ったり好きな人を
貰ったりすることにきめた方がいいか。好きでも嫌いでもないけれど、上司の人が決めたから仕方
なくなく涙をこぼしてでもいった方がいいか、その結果は後にならなければわからないでしょうね。
実をいうと、好きというのに二つありまして、魂的にもうピタッと吸いつけられて好きになる場
合と、いわゆる顔形、あるいは声に出る言葉とか態度、そういうもので好きになる場合もある。そ
れから、なんとなく、たゴなんとなくなんとなく、一目見た時好きになったのよ(笑)というよう
なものもあるし、いろいろあるんですよ。いろいろあるけれども、人間の好き嫌いというもの程当
てにならないものはないの。てす。
よくあるんですよ、恋愛でもって、誰が止めても止まらなくて、もう天下にこの人程いい人はな
いというんで、いった人がありましてね。大分あるんですよ、そういう人が。一年位いして、泣き
の涙で私のところにくるんです。だから私が”あなた確か恋愛結婚なんでしょ。好きで好きでしか
たなくていった〃というと”ええそうです。けれどもう嫌いでたまりません(笑)
” どうして一年
の間にそんなに変化があるん。てしょうね。
それは好きということが、本当のものではなかった。魂が好きっていうんじゃなくて、形の世界
の、丸顔だったから好きだったとか、四角いから好きだ、四角くて好きだかどうか知らないけれど、
そういうんでね。目がきれいだとか鼻が高いとか、それだけで好きになってしまうのですね。好き
嫌いというのは本当にわかりません。
ですから一番問題なのは、自分の心を澄まして、心がすっきり澄んだところでね、見てそれで好
きなら、それは間違いないんだけれど、大体好きか嫌いか決める時には澄んだ気持じゃなくて、の
ぼせてるんです。(笑)冷静な気持で恋愛するなんていうのはないからね。(笑) そこで一番大事な
47 幸福なる結婚
のは、自分のこの頭の中の好き嫌いというものと、それから魂いわゆる私がいっている守護霊守護
神が好き嫌いというものとが合体して、自分も好きであり、守護霊守護神も好きであるという、そ
ういう形の処へいったり、もらったりすればいいわけなんですね。
48
素直さが必要
ところがそれが自分ではわからないんです。わからないからどうしたらいいかというと、素直な
気持ということですね。素直に素直に運命に従ってゆく、という形。現われて来たものはみんな自
分にとって必要なものなんだ、どんな悪そうに現われても、それはやがては自分の為になるものな
んだ、というような素直さですよね。そういう素直さがやっぱり必要なんじゃないですか。
恋愛の場合でも、恋愛してしまってからじゃ間に合わないと思うんですよ。手遅れだと思うんで
す。恋愛してしまうと、はたからなんといったってもう好きだからしようがないんですね。それで
今頃はなお二十になれば自由なんですから。二十になると、親がどういったって私はいくわ、とい
えば、家を出てもしかたがないでしょ。だからそういう風に社会がもうなってしまっているから、
恋愛しないうちが大事なんですね。
今質問したような人は、もう子供さんがあるから、今度は子供さんのためにきいているわけなん
ですがね、そういうわけで、自分が好きにならないうちに、要するに子供のうちから、素直に天に
従う、天の心に従うというような生活を、知らないうちに身につけておくことが、一番結婚の勝利
者だと思うんです。そうすると、自然に直感力でもって、いい人わるい人、自分の魂に合う人合わ
ない人というのがわかるんです。魂にピタッと合う、魂的な恋愛が出来るわけなんです。誰か親が
決めてくれたり、知った人が決めてくれるよりも、魂的な恋愛なら、それが一番いいと思うんです。
好き嫌いというのは当てにならぬ
けれどもそのためには、どうしても自分の心が、自分の我欲というこの頭の中だけの想念で、好
き嫌いと決めるようなそういう習慣がついている間は、恋愛は危険だと思います。この頭だけの好
き嫌いというのは、本当にあてになりません。
若い人には、もうくれぐれもいっておきますがね、顔形が好きだとかあの人は好いたらしいとか
いうこと程、お\よそあてにならないものはありません。
つきあい
恋愛ばかりではありません。交際の場合でもそうですよ。四十五十の大人が、昨日まで、あの人
49 幸福なる結婚
はとても立派な人で、私のために非常にいいし、誰にでも親切で、とてもいい人です、ってほめた
人がですよ、今度翌月になって”あの人どうした。元気ですか” ときくと”ええあんな人、あんな
いやな奴はないんですよ。あんな自分勝手でどこが好きだったんだか、サッパリわからない” (笑)
私はよくそういうのをきかされるんです。だから、人をけなすことも勿論いけないけれども、やた
らに人を賞めるもんじゃありませんよ。人をほめておくとね、今度けなす時困っちゃう。(笑)だ
から、私はなるたけ人をあまりほめもしなけりゃ、けなしもしないことにしてるんです。
人間というのは豹変するんですよ。因縁が合ってる場合、要するに前生の借りかなんかありまし
てね、一所懸命片方がこの人に尽してくれるわけです。借りを払ってしまうと、もう当り前になっ
てしまう。当りまえの心で見ると、急にこの人がいやになったりする場合があるんです。あちらが
いやになるとこっちもいやになってくる。そうすると今迄ばかに尽してくれた人が、今度月が変っ
たら尽くさなくなってしまってね、自分に疎遠にしますから。そうするとこっちが”今迄あんなに
私にちやほやしていたのに、なんでちやほやしないんだろう”という風に腹がたってくる。そうす
つきあい
るとお互いがうまくなくなってくるわけなんですね。そういうのを因縁性の交際というんです。
それで、結婚の場合も因縁性の結婚ではだめなんです。そこで私はよく、うちの娘の縁談をって、
50
きかれるのです。そうすると二つも三つもこうあるわけなんですね。私が、あ\この人はこういう
処がいいけど、ここの処が悪い、とかいうわけです。で二人ともいいけれど、まあどっちでも自分
の好きな方を選びなさい、って、いい場合にはそういう風にいうんですよ。そうすると向うの人は
質問するんです。
“先生、結婚というものは生れた時からきまっていると思います。決っているのに、どうして先生
はこの人だといわないか” とこういうんですよ。ところが決っている縁談というのは、大旨、悪い
場合が多いん。てすね。
夫と妻の磨き合い
この世の中というものは、魂を磨きながら神様のみ心を現わしてゆくわけです。要するに過去世
の業を消しながら、だんだん神様のみ心を現わして、地上天国を創ってゆくわけなんです。だから
因縁が消えてゆく姿というものがあるんですよ。因縁を果していかなければならない、業を果して
いかなければならないものが、どうしても出てくるわけなんですね。それで果していった後で、本
心が開いて本当の世界が出てくるわけなんです。だから結婚の場合でも、一番心を磨いてくれるも
51 幸福なる結婚
のが、妻であり夫なんですよ。あんまりいい結婚をしてしまいますと、夫は妻をいたわりつ、妻は
夫を慕いつつ(笑)という風にね、あんまり仲がいいと、もう二十で結婚しました。四十廻って五
十になって、ますますよくなって、六十七十になってなおいい、なんてそういう結婚だとね(笑)
心が磨かれないんです。あんまりよすぎて、ホカホカしちゃって。(笑)
魂を磨くためには、刀でもそうですよ。日本刀を磨く時に、灼熱の火で焼いて、柔かくしてトン
トンうつでしょ。そして最後に綿かなんかでやるんでしょうけれど、初めは焼いたり叩いたりする
んですね。そうして鍛えられるんです。それと同じように、人間もあんまリホカホカホカと、はじ
めから生れた時幸福で、結婚生活も幸福で幸福でしかたがなくてね、死ぬまで、ということになる
と、魂は鍛えられないんですよ。
そういうことを守護霊守護神さんは知っているのです。知っているので、守護霊守護神さんほど
肉体人間側から守護霊守護神さんを思わない場合、守護霊守護神は仕方がないので、その場合に消
えてゆく姿を実演させるわけなんです。それで大体前生の因縁的に結ばれるものは、魂的には近い
のだけれども、因縁で相擦れあうようなものを選ぶのですね。それで結婚させるわけです。擦りあ
わせておいて、一番身近かですからね。妻と夫と、親と子と、親子、夫妻というのは離れられない
52
ですよ。それはいつでもいつでも一緒で擦りあうわけです。いやだと思っても、どうしても見なけ
りゃならない。口をきき、顔を見なければならない。そこでどうしても擦れあい磨かれて、嫌でも
応でも磨かれて、人間というものがわかってくるわけなんですよ。
守護霊守護神がピッタリと合う人を
そこで、種々と経験して、あ\愛というのは、要するに自分だけのことを思うんじゃなくて、相
手のことを思わなければならない、とかいろんなことがわかってくるのです。擦れあって、だんだ
んだんだん立派になってくるのであって、一番立派になるための擦り合い、いわゆる砥石のような
ものに妻や夫が一番いいわけなんです。あるいは親子ね。つまり夫婦というものは、大体において
百組の内の九十何組というのが、大体あんまり… … ね(笑)仲よくないんですよ。私つらつら観じ
てみるのにね。(笑)
それで大体我慢したりしてやってゆく、我慢するために忍耐しなければならない、忍耐するのも
辛い、何とかならないかというんで宗教の門を叩いたりなんかする場合が多いんです。本当は合わ
ない、いわゆる魂が擦れ合う人をわざと選んじやったりして、そういう風に使ってしまっているわ
53 幸福なる結婚
けなんです。そこで私が霊覚でみた場合に、あ\ この人はこのま\ いってしまえば、必ず六〇点ぐ
らいな結婚をしてしまって、擦れたり擦れ合ったり、出ようと思ったりひっこんだり、いろいろと
やりながら一生を送るんじゃないかと思うでしょ、そうすると私は一遍あった縁談をこわしちゃう、
ああそれはだめですってね。
一遍決っている縁談でもこわしちゃって、ご破算にして、さあ今度新しく選んでいくのですよ。
新しく選んで一番魂のよく合う、波の人を選ぶわけです。だからあ\この人も合うな、この人もこ
っちの面で合うな、百%合うということは殆んどないんですからね。九〇%か八五%か、それでこ
の人もこうだ、こっちの人もこうだ、それでどっちを選ぼうかと、こういう風になってくるわけな
んです。そのように説明してあげるんですよ。
自分の好き嫌いというものを超えて、魂の合う、いわゆる守護霊守護神が好んだ、分霊の自分の
本心が合うという人を選ばなければならない。だからやっぱりのぼせ上ったんじゃだめです。のぼ
せないで確かめる。それが打算でソロバンづくで、あの人は東大を出て、月給が今二万三千円とっ
ている、家柄がどうとか… だからいいとこういう風にいったり、親が偉いからいいと、そういう客
観的な条件だけで人を選んだら危いんですよ。客観的な条件じゃなくて、やっぱりその人の人物と
斑
いうものがいいか悪いか、冷静にみて、自分の心と合うか合わないかということを、見なければだ
めですね。たゞボヤーッと顔が美しい汚いとか、学歴がいいとか、お金があるとか、というんでは
こわいですね。
緑談ほどむずかしいものはない
相談されて一番私は困るのは、学歴もいい、家柄もいい、男振りもいいという人がいるわけです
ね。そういうのをもってくる。お母さんはこれはもう先生がいいというに決っている、と思って娘
のために持ってくるわけ。娘さんにしたって、家柄も学歴もいい、顔も美男だとしたら、これはも
うこたえられないからね。(笑) いいと思ってくるでしょ。そうすると私がみると悪い場合もある
んですよ。困っちゃうんです。いい、といってやりたくてしようがないのだけれども、これは普通
からみればいいのだろうし、お母さんももらいたいんだしね、娘もいきたいんだしね、いいといっ
てやろうかなあ、と思うのだけれども、やっぱりだめな場合があるのです。それは結婚すれば駄目
になってしまう、というそういう縁があるんです。そうすると私は涙をのんでね、さあね、といい
よ
ながら、止しましょ、というんですよ。そうすると先生を一遍でうらんじゃうんです。(笑)先生
55 幸福なる結婚
はなんでも悪い悪いっていう、なんてね。私は恨まれるけれども、やっぱりいけないものはいけな
いと断わらなければならない。一番いやですよ。形が整ってて悪い縁談というのは、それはその人
が他の人をもらえばいいわけだけれど、その人とは合わない。要するにいい人といい人とでも合わ
ないのがあるのですね。どこからみてもいい立派な男性と、立派な女性であっても、結婚すればだ
めな場合があるのです。不幸になってしまう場合がある。そういうのは普通の人にはわからないん
ですよ。
どこが不幸になるかというと、波長があわないのですよ、同じいい人であっても。
例えば色の場合でも、紫と赤とすれば、これは両方が生きない。紫の中に赤が入っているからね。
生きないわけです。片方が死んじゃうわけです。そういうようなのがある。
いい色であればある程、いい人であればある程、その長所が強いし、その長所と長所がぶつかる
んじゃなくて、短所もあるわけなんです。誰だってね。そうすると短所と短所がぶつかると余計に
うまくなくなるんですね。そこで片方がとてもすばらしい男性であっても、片方が素晴しくない女
性であっても、合う場合もあれば、あんなぐうたらのオヤジの所へよくあのいい奥さんがつとめて
るな、と思ってもね、それで結構当人達は満足している。はたからみてやきもきするのは馬鹿馬鹿
56
しい。そういうのもあるでしょ。
一人を個人的に見れば、百点あるいは九五点の人であっても、相性としてみれば悪い場合もある
のですね。そういうところがとてもむずかしいのですよ。だから縁談ほどむずかしいものはない。
これから結婚する人へ
これから結婚する人は、守護霊守護神さんにお願い致します、私共の天命が完うされますように、
といつも頼んでいて、頼んだ上において、今度は経験した人の参考的な意見などをきくといいので
す。そして自分の好みと、先生なら先生にきくのが一番いいんだね、先生のいいというのと、親な
どのいいというのと、この三者揃うような縁談をやっぱり選んだらいいでしょうね。
この頭の中の、好き嫌いというのはおおよそあてになりませんね。だから一番初めに頭の中の善
い悪いというもの、好き嫌いというのを一遍捨てる練習を、常にしておかないと駄目でしょうね。
捨てる練習をして、素直な気持で、スーと進んでゆくべきなんですよ。
昔の結婚で、いわゆる見合結婚がありましたね。相手を自分が知らないで、家と家とが結びつい
て結婚した。しかし昔はそれでもまあよかったわけ。それでも家と家とが結婚しても、嫁しては夫
57 幸福なる結婚
に従いですか、一遍いったら絶対に帰って来てはならないんですからね。帰って来られないように
なっていたから、それで我慢し忍耐してやっていた。しかし今はそういうわけにはいかない。今は
もう自分の自由ですからね。我慢に我慢して嫁いだままでいるってことは、殆んど考えられないこ
とでしょ。だからやっぱり出やすくなっているわけです。出やすくなっているから、いいことを幸
いに安直にいって帰って来たんじゃ、なお困るんですよ。
そこで、やっぱり自分の心というものを澄まして、きれいな心にして、透明に、要するに相手が
直感的にわかるような心にならなきゃいけないんですよね。そのためにはやっぱりこの統一会は必
要なのです。
統一会がどうして必要かというと、統一会は自分の我というもの我欲というもの、自分の趣味趣
向というものを、一遍浄化するのです。趣味趣向があっていけないというんじゃないですよ。自分
が好き嫌いがあっていけないという意味ではないのです。好き嫌いというもの、趣味趣向というも
のが、浄化されて浄まってくると、正しいものになってくるわけです。人を傷つけたり、自分を傷
つけたりするような、趣味趣向というのがなくなってくるわけですね。いわゆる競馬競輪をやった
り、ばくちをやったりするのが趣味だっていったって、そりゃあんまりいい趣味ではないですね。
58
そういう趣味がだんだんなくなってくると同じように、まあお酒をのんでも、晩酌で少しやる位い
ならいいけれども、それが妻をぶんなぐったり、子供を怒鳴りつけたりするようなお酒になったら、
お酒は困りますよ。少し飲めば血の循環がよくなっていいかも知れないけれども、過ぎては及ばな
いでしょ。
そういうように趣味であっても趣向であっても、それが浄化されてくると適当になってくるわけ
ですよ。それと同じように縁談の場合ね、妻を選ぶのでも夫を選ぶのでも、心がスッキリ澄んでい
ると、自分で選んだ人が神が選んだ人と同じなものになってくるのです。だからチョコチョコ好き
になっちゃだめだ、とこういうわけなんですよ。
人間の尊厳性を高く求めよう
この頃の女の人や男の人は、昔だったら、好いたり好かれたりしてもね、あ\好きだなあと思っ
ても、なかなか近よらないですよね。手紙出すことも控えちゃうし、話しかけることもしないで、
そのま、通ってス:と他の処へいってしまうわけです。それは一長一短で、それで悪い場合もある
のだけれども、今の人達は俗の言葉でいえば、惚れっぽ過ぎますよ。男の人と女の人がすぐ好きに
59 幸福なる結婚
なったり嫌いになったりする、本当に安直に好きだとか嫌いだとかになり過ぎている。それは自由
のはき違いなのですよ。
もっと自分というものを高く維持しなければだめです。自分の尊厳性、人間の尊厳性というもの
を高く求めてなくてはね。安直に好きになったり嫌いになったりするというのは、自分を惨めにし
て自分を馬鹿にしているというのと同じなんです。そういうんじゃなくて、もっと自尊心をもって、
本当に見定めなきゃいけないですよ。見定めるまで辛抱するぐらいな、辛抱強さがなければならな
い。
手あたりしだいに、側にいる人が皆好きになったり嫌いになったりする人がある、本当に若い時
には。だから二十か二十= 一の恋愛なんていう程、あてにならないものはないです。側にいて親し
つきあ
く交際う者が好きになるんですからね。近づく機会のある人が好きになってくる。それではだめな
のです。そこでやっぱり恋愛というよりは、親とか親戚とか先輩とかが薦めたもので、しかも自分
がいいと思うものを選んだ方が、男の人にとっても女の人にとってもいいと、私は思うのですよ。
というわけで恋愛講義になっちゃった今日は。
60
‘
幸福になる秘訣
(白光誌昭和36年6月号掲載)
想いにとらわれないこと
人間が幸福になる秘訣は何かといいますと、それは想いに把われないことなのです。自分の頭の
中でぐるぐる思っている、心の中でぐるぐる廻っている、要するに業想念、あれが欲しい、これが
いやだ、これがきらいだ好きだ、あいつは憎らしいこいつは妬ましい、とかそういう想いに把われ
ている以上は、どんな学問をしても、どんなに地位が高くなってもそれは駄目です。それだけでは
死ぬ間際には不幸になります。自分が苦しんで死ぬわけです。で想いを超えていくことが大事なわ
けです。それが仏教の極意なわけです。
61 幸福になる秘訣
くコつ
空という言葉はそこで出てるわけね。空になる、心をからっぽにして、自我をむなしくして自分
の欲望をなくしてすっきり澄み透った時に、初めて本当の仏の姿が出てくるし、神様の子の姿が出
てくるわけなのです。
ところが現代の時勢では、山にこもって滝にあたったり、坐禅をくんだりするには、時間がなさ
すぎる。片方に仕事を持っていますからね。女の人は家庭の仕事をもっている、男は勤めを持って
いる。だから年中山にこもったり滝にあたったりしているわけにはいかない。一週間に一遍や二遍
したって、たいしたことはないですからね。やるからには何年もつづけてやらなきゃあ出来やしな
い。近頃学生が一寸坐禅に行ったとか、何とかいうのがたくさんありますね。しかし一週間やそこ
ら修行して、あとしない、というその位いで悟れるような、そんな生やさしいものではないのです
よ、この世の中の業想念というのは。
そこで空になるためにはどうしたらいいかというと、やっぱり業想念があるままで、それがいつ
の間にか転化されて消えてしまって、その業想念が浄まって知らない間にきれいになってしまって
いる、というような方法がなければならない。そこで私の”消えてゆく姿” と、世界平和の祈りが
出来たのです。
62
“消えてゆく姿
〃というのはどういうのかというと、あなたが例えば臆病なら臆病の想いがある。
妬みなら妬み深い心がある、人をすぐ憎む心があるとする。それをいけないとかいいとかいったっ
て、潜在意識の中に一杯つまっているのだから、今更悪いとかいいとかいったって、なかなか普通
では直らない。かえって自分を責めるだけになってしまう。自分を責めるということは、自分の中
に光り輝いている本当の自分、つまり、神性、仏性を、責めさいなむことになり、神仏にそむくこ
とになってしまう。その仏性の光り輝いているまわりを、業想念が積って、ぐるぐるぐるぐる廻っ
ているわけなのです。それで自分は要するに臆病でいけない、短気でいけない、あるいは妬み心が
あっていけない、いけない、いけないとこうやっていると、なくなったのではなく消えてゆくので
なくて、只ぐるぐる廻って次第に心の中に押しつまってゆくわけですね。今迄の修養修業というの
はそうやっていた。
想いを神様の中に入れる
お釈迦様以前からそうですよ。やってはいけない、してはならぬ、こうしてはならんそよという
戒律がうんとあったわけね。戒律というのは我慢してるんですからね。そこで私は我慢させるのじ
63 幸福になる秘訣
やなくて、あるものはあるんだ、いやなものはいやなんだ、短気は短気なんだ、損気は損気なんだ、
嫉妬心は嫉妬心であるわけです。それがぐるぐるぐるぐる廻っているのだから、それを空廻りさせ
ようと思っている。空廻りさせて元へ戻ったんじゃしようがないから、この空廻りさせるのをどこ
へもっていったらいいかしら。そうすると守護霊守護神の中へ持っていっちゃえ、神様のみ心の中
へ持ってっちゃえばいい。ところが守護霊守護神もわからないし、.神様のみ心というのもわからな
い。どこにあるのかわからない。神は宇宙に充満しているものだといったって、これは観念的な言
葉でわからないでしょ。
そこで方法を見つけ出したわけね。世界人類が平和でありますように、という誰でも、どの国の
人、どの民族でも希望して、望んでいる言葉をもって来たわけです。
“世界人類が平和でありますように
“誰だって世界人類の平和を思わない者はない。”日本が平和
でありますように”誰でも日本の平和、祖国の平和を思わない者はない。”私達の天命が完うされ
ますように”誰でも自分達の天命が完うされて、完全に役目が果されることを望んでいるわけです。
その祈り言の中へ、守護霊さん守護神さん有難うございます。という感謝の想いをもって、ぐるぐ
る廻りしている想いを、平和の祈り言でもって入れてゆくのです。
世界平和の祈りというのは、神様が望んでいることで、神様のみ心です。世界人類が平和である
ために、神様がここに人類を下したのだから、地球世界が平和になることは神様の心に決ってます。
人間が喧嘩して騒いでいるのを、神様が望むわけがない。神様は大慈大悲なのだし大愛なのだから、
平和を望んでいるに決っている。それで世界平和というのは神様のみ心でしょ。世界人類が平和で
ありますように、という時には自分の想いがそのまま神様のみ心の中に入っているわけなのですよ。
これは理論でもそうだし、実際にもそうなんです。世界人類が平和でありますように、という時に
は、自分が嫉妬心が深かろうが、短気であろうが、臆病であろうが、そんなことは持ったままで、
世界平和の大光明の中に入ってしまっていることになるわけ。要するに光のエレベーターに乗って
いるわけです。祈りをつづけていさえすれば、光の中で業想念が消えてゆくのですよね。そうする
と今迄潜在意識から表面へ、表面意識からまた潜在意識へ行.てぐるぐる廻っていたのが、いつの緻
間にか、祈り言を乗り物にして神様の心の中に入り、神様のみ心の中でどんどん消えてゆくわけで妨
す。潜在意識にあるものがどんどん神様のみ心、上へ入って消κてぞ。その代りに世界平和の大慰
光明、救世の大光明(守護霊守護神の光明)がそのまま入って来て、自分の業想念と入れかわるわ幸
けですよ。65
66
内と外の光が合体する
それをどんどんつづけていると、今度、中の本心の光、いわゆる分霊の直霊までつづいている本
心の光、仏性がそのまま現われて来て、今迄業想念だった処が光になる、守護霊守護神の光になっ
てくる。中は勿論光っているのだから、本心の光と守護霊守護神の光が一つになってきて、サーと
発光してくるわけなのです。そうするとおのずから肉体から光を放ってね、なんとなくあの人はい
い人だなあ、頼りになるなあ、あの人は何か信用出来るなあ、というようにはたの者が知らないう
ちに思えるようになってくるのです。そういうようにみんな成って来てるんですね。
だから青年でもお嬢さんでも、そういう風にして生きていれば、あああのお嬢さんはいいな、是
非家の息子のお嫁さんに、と思うだろうし、青年の方もああなんていい青年だろうと思われるよう
になるわけなのです。そうすると非常にいい処から縁談が来たりして、いい結婚が出来る、という
ことにもなるし、先輩や上司も認めてくれるし、いろんな人が認めてくれるようになるわけなんで
す。認めさせようと思わなくたって、世界平和の祈り一念で、自分の業想念を浄化していさえすれ
ば、自分の幸福にもなるし、しかもそれがそのまま世界人類の幸福にもなってゆく、ということに
なるんですよね。これは間違いのない事実だし、いろんな人がもう実験しているし体験しているわ
けです。個人が救われると同時に人類が救われるというような、やさしい方法が、「世界平和の祈
り」なのです。
世論を分裂させてはならない
この間も、日本の指導者階級の人達が来たのですが、その人達にきくと、やっぱり方法がないん
です。どうしたら日本が平和になるんだかわからないんですね。日本はアメリカについている。あ
るいはソ連につきたいという、どちらについたって、半分半分。それで国内が片方はソ連につく、
片方はアメリカにつくということになってくると、どうしても国内が半分に分裂しているわけなん
ですよ。だからまず日本を救う大事なことは、国論を一つにすることです。
国内の世論というものを一つにしなければ、どんな名論卓説でもだめなのです。反対が立てられ
るような名論卓説の方法というものはだめなのです。反対が出来るからね。天皇なら天皇に帰一す
るといったって、天皇なんかなんだ、なんだ天ちゃんか、というのもあるでしょ。日の丸だ、とい
っても日の丸の旗のために、みんなが生命を投げ出して、ひどい目にあったんだ、というんで反対
67 幸福になる秘訣
があるでしょ。伊勢神宮に帰一しろ、といったって、伊勢神宮がなんだってキリスト教の人はいう
でしょう。何か立てればたてるで必ず反対があるんですよ。日本人はよけい反対したいのかも知れ
ないけど、非常に反対がある。ところが世界の平和を願うということは、反対にならないんです。
世界平和の目的でもって、みんなの心を一つにしましょうというのでは、共産党も社会党も自民党
も誰も反対出来ない。そんなもの、といった人にも私が説明すると、そうだといって誰も反対しな
い。とにかく、まず世界平和を実現しなければダメですね。世界は必ず平和になるんだ、日本は必
ず平和になるんだ、という想いが、自分達の中になければならない。
世界平和にするにはどうしたらいいか、といったら、自分達の我がなくならなければ駄目なんだ、
ということになって来るわけなんですね。我をなくすにはどうしたらいいかというと、我欲の想い
をどっか違う場所にやってしまわなければならない。その場所はどこだろうというと、場所がない
から、みな神様の中に入れちゃえ、という。神様といってもわからないから、どうやってよいかわ
からないから、世界人類が平和でありますように、日本が平和でありますように、というような言
葉の中に入れてしまいましょう、ということになるでしょう。こういうように説明していきますと、
誰も否といいません。反対したら、ではあなたはどうしたら日本の国論が一つになると思いますか、
68
どうぞお教え下さい、といわれてしまいますよ。どんな偉そうなことをいっても、どんな学者であ
っても、国論を一つにする方法を考えている人は、一人もないのですよ、世界平和ということより
国論を一つにする方法はないのです。
愛国心というものと人類愛というものが、全く一つになるのが世界平和の祈りです。愛国心とい
うのは間違えると右翼みたいになってね、あれは日本を毒する奴だから殺しちゃえというので、共
産党を狙ったり社会党の人を狙ったりするでしょ。あれは右翼のチンピラがやっているような形、
十六か十七の若い人達がやっているような形に見えるけれどね、実は影に廻って、知らないで踊ら
せている人もあるわけですよ。自分では天皇絶対論だ、天皇に帰一しなければ駄目だ、他の者はダ
メだといっている人があったとします。天皇を毒する奴はみな非愛国者だから、というような言葉
を吐いている人もある。共産党は敵だ、日の丸だといっている人もある。
敵だとか、あいつはダメだ、とかいうとですね、若い連中はわかりはしないのだから、あの奴が
いけないのだ浅沼がいけないのだ、と若い人はエネルギーの吐け場所を見つけているのだから、パ
ッとやっちゃうのですね。それで自分はいかにも正義のことをした、愛国心に燃えた青年である、
と思ってしまうのですね。まだ未熟の者なのだから、若い人達が、自分だけの考えではなくて、い
69 幸福になる秘訣
わゆる背後にある思想的なものが後押しした形になるのですね。ところが後押ししたことがないと
皆いうわけですよ。しかし自分達の言動が、青年達をあおりたてたのに違いないのだ。だからあの
ように相対的に、こっちが善くてあっちが悪い、あいつが悪い、共産党が悪い、社会党が悪い、天
皇に反対する者は悪いとか、反対反対というような言葉を用いたならば、その人が何をいったって、
国内を分裂させているわけです。国論を分裂させたら一番いけない。分裂させないものが一番いい
わけですね。それと同時に人間の個人個人は自分の心を分裂させてはいけないですね。神と業とに
分裂させてしまって、私がこれやったことは善いことかしら、悪いことかしら、というようなやり
方は駄目なのです。
70
“ダメな人間
” より一歩前進
今迄のやり方は、やったことを、いいかしら悪いかしらと一々考えて、考えぬいてやるわけです。
そうするとあの人は考え深くていいことになる。しかしそれをやっていると、しまいにわからなく
なってしまうのです。果して今のは良心の叫びであろうか、果して業の叫びであろうか(笑) 一々
やっているとそれはノイローゼになります。
「私は人の幸福を妬んだり、人の悪くなるのを喜ぶ性質で私は本当に悪い人です
」という人がいる
のですね。そういうように気がついている人は悪くないのですよ。気がついた時には、実はやりは
しないんだ。気がつかないで皆やっているのです。気がつかないから直さないのですよ。気がつい
た時にはすでに治っている時なのです。
例えばこれが青酸カリとしますね、飲んだら死ぬと気づいた人は、青酸カリを飲まないです。そ
ういうものでしょう。それと同じように、自分でわかって、ああ悪いんだ、と思った時にはそれは
善い心が出て来たから、悪いことがわかるのです。汚れたものを見て、ああ汚いなというのは、自
分がきれいになっているから汚いとわかるのです。批判した時、ああこれはいけないなとわかった
時、自分は救われているのだから、そのまま有難うございます、と世界平和の祈りの中に入ってし
まえばいいのです。それを今迄の修養というのは、私は悪い女だ、悪い男だ、悪い人間だ、といつ
までも悪い悪いといっていた。そんな悪い者を神様が創ったわけがないのだからねえ。
神様は悪いものを、絶対に創ってない。太陽のような光り輝いているものだけ創っているのだか
ら、悪いものは神様が創ったものではないですよ。それを、自分を掴まえて、悪い人間だ、駄目な
人間だ、私はダメだダメだとやっている。私が駄目ならいつまでたっても駄目ですよ。駄目な人間
71 幸福になる秘訣
だったら、駄目な人間をどこかへ捨てなければならない。捨てるより他ないでしょう。だから私は
悪い人間だと思ったり、自分はダメだと思ったら、自分では直しようがないのだから、サア神様ど
うか私をいい人間にして下さい、って”世界人類が平和でありますように”と平和の祈りの中に入
れてしまえばいいのです。」体ごと全部入れてしまえばいいのですよ。全部入れるくせがついている
と、いつの間にか善いとか悪いとかいわない内に、善い行いが自然に出てくるのです。それを全託
というのですね。
全託というと何かむずかしそうでしょ。何だか自分に出来そうにない気がする。全託といったっ
て自分のことを考えちゃうから出来ないと思うけれども、一遍に全託するなんていったって、それ
はなかなか出来ないのだから、ああ何かしてしまって、あ\しまったな消えてゆく姿なんだな、世
界人類が平和でありますようにとこうやる。またなんかしまったといったら、世界人類が平和であ
りますように、と又祈るというように、いちいち悪いことをしたり間違ったことをしたと思った時
には、すぐ世界平和の祈りの中に入れてしまえば、知らない間に消えてしまうのです。戻って来な
い、神様の世界にズーッといってしまうのだから、それをダメだなダメだなと掻んでいては、また
自分の中にひき戻してしまう。ひき戻したらまた自分の潜在意識の中にぐるぐる廻ってゆくわけで
72
すね。
今迄の宗教の誤謬
し
今迄の宗教の誤謬というものは何かというと、あまり人に反省を強いすぎた。あんまり人をお前
は悪い人間だ、お前はダメだ、お前のやり方はダメだ。心はダメだとやりすぎたから、ダメだダメ
だというのが入っちゃって、自分ではどうにもならない気がしちゃうのですよ。それがノイローゼ
になるんです。だから悪い奴でノイローゼになった人はない。大体良心的な気のやさしい善い人が
精神衰弱になるのです。悪党の気の強い奴は、ノイローゼなんかなりはしませんよ。気が強くて図
太いのだから。だから「悪い奴ほどよく眠る」という映画が出来ちゃうのですよ(笑)悪くない下
っ端の官僚が良心的だけど、一寸ほしいものだから貰って懐に入れちゃって、サア、ああ私は悪い
悪い、というので死んじゃうでしょう。うんと悪い図太い奴は、わしは何も知らん、とやっていま
すよ。悪いことをしながら胸を張っていますよ。一番悪い奴が一番威張っている。
それは良心が覆われていて、出て来ないからわからない。反省する力が全然ないでしょう。だか
ら悪いとは思わない。ところが反省する力の強い人の方が、心を痛めるのですね。それで宗教など
73 幸福になる秘訣
に入る。が入った宗教がまたみんなの心を痛めるような宗教に入ってしまう。お前の心が悪い、先
祖を祀らなければいけないとか、あそこにお百度詣りしなければならないとか、わざわざ自分の心
を痛めるような処に入ってゆく。
ところが幸いなるかな、世界平和の祈りというのが出て来て、あなたが悪いのではない。今あな
たが悪いように見えていても、あなたの心が悪いのではない。過去世の因縁が今あなたの前を通り
かかって、消えてゆく姿なんだよ、とこう教えてくれるわけですね。だから消える姿なんだ、どん
な悪い想いが出て来ても、どんな悪い行いをしても、しまったと思ったら、それを掴んだままで、
世界平和の祈りの中に入って洗濯してもらいなさい。そうすれば世界平和の祈りの大光明が消して
下さるから、もう再びその悪い行いをしなければいいのだ、また再び出て来たら、また入れればよ
い。三度ぴ出て来たら三度び入れればよい。四度び出て来たら四度び入れればよい。そういうよう
に入れちゃえばいいでしょ。そうやって入れてしまう内に、きれいになってしまうのです。
なんでもかんでも自分で始末しようと思ったって、出来っこない。自分で心臓を動かすことは出
来ないと同じように、自分の業想念は自分では始末がならないのです。始末がなっていれば、お釈
迦様以来みんな幸福になっているわけなのです。お釈迦様のような偉い人が出ても、イエス様のよ
瓢
うな偉い人が出ても、この世の中はそんなによくはならなかった。それは始末が自分で出来ないか
ら。それで法然さんのような偉い人でも、親鸞さんのような偉い人でも自分ではどうにも始末が出
来ないから、阿弥陀様におまかせするんだというんで、南無阿弥陀仏といって、阿弥陀様一念に入
っちゃったでしょう。あんな偉い人でもそうなのだから、まして社会生活の混頓とした生活の中で、
欲望の中にまきこまれていながら生活している現代人が、自分で自分の心を変えるなんていうこと
は、とても出来るものではありません。私自身だって出来やしない。だから神様の中に全部入っち
やったわけ。てすよ。
神様の中に入って、神様にまかせてしまうと、今度出て来た運命というものは、全部神様の責任
なんだ。一挙手一投足全部神様の責任なんです。こんな気の楽なことはありませんよ。自分の責任
は何もない。全部神様の責任なんですよ。そこまでにするようになるには、一所懸命世界平和の祈
りをして、一所懸命自分のあらゆる力をいいことに使わなければならないことになる。
全託というのは一遍にやるのではなくて、常に常に世界平和の祈り、消えてゆく姿の教えを実行
してゆくうちに、だんだん全託の方にむかっていって、しまいには全託になってしまって、神我一
体神と人間とが一つになる。要するに、仏性が開顕される。本心が開発される。みんな仏の子神の
75 幸福になる秘訣
子の姿があらわれてくる。とこういうことになってくるわけですね。それで一番やさしい方法が、
消えてゆく姿を想いながら、世界平和の祈りの中に入ってゆく、ということなのです。
76
神様も経験する
〈魂の幼いとかいうのは、
という質問に答えて
魂の経験の多い少いということか〉
(白光誌昭和36年8月号掲載)
魂の年令肉体の年令
この世的にいえば、三十才の人より八十才の人の方が年が上に決っています。しかし魂的に見る
と、肉体の年令と魂の年令とは何らの関係がないのです。
それはどういうわけかといいますと、何遍も生れかわって、いろんな経験を経た人、いわゆる生
たましい
命を生かした人、神様のみ心を余計に生かして働いた人が、魂年令が高いわけなのです。この世
的にいえば年が多いということです。ところが肉体身をつけておりますと、魂が年を取っているか、
魂が若いかということはわからないのですよ。
77神様も経験する
赤ん坊というのは、自分の生んだ子ですから、いかにも自分より下だと思っている。親は子供を
概ねみな自分より若いと思いますね。この世では、親の方が子供より若かったりすることはないわ
けです。ところが親よりも子供の方が魂の年令が多い場合がたくさんあるのです。
私などが観ると、赤ちゃんがおなかに出来た。声さえもわからない。顔も見分けのつかない赤ち
ゃんが、随分立派な魂の、年令の多い赤ちゃんだな、とこう思う場合が随分あるのですね。大体今
頃生れて来る赤ちゃんというのは、魂年令が高いです。それはどういうことかというと、今、あな
た方の肉体があるその間の何十年という期間は、非常に何といいますか、霊的発達が激しい時だし、
地上天国が出来る時なのです。だから余程立派な人が揃わないと、地上天国は出来ないわけなので
すね。そこで守護神の方では立派な人を揃えようとしているのですよ。どんどん若い人が立派にな
ってゆくわけなのです。
ところが立派になってゆく過程としては、どうしても前からの悪い癖、過去世からのいろんな悪
い想念行為を身につけています。人間というものは、一旦思ったらそのものがズーッと潜在意識に
残りますからね。どんなつまらない些細なことでも残っているわけなのですね。それは一才から何
十才までの間のものが残るのではなくて、一才の前、前生前々生過去世というものが残るわけなの
78
ですよ。幽体の中にね。一人一人がいろいろな想いを貯えているわけです。そこで三十億というも
のが幽体にいろんな想いを貯えているわけです。それがズーとさかのぼってゆくと、生命がいわゆ
る本源の世界からこの地球界に生れて来て、善い光の足跡もあれば、業想念の蓄積されたものもあ
って、玉石混交して幽体に溜っているわけなのです。
肉体の経験が必要だ
そこでこの世の中に生れて、ズーと苦労して来たりして、信仰に入って神様がわかって、神様一
筋に生きたとしても、すぐパッと偉くなったり、すぐ運命が開いたりというものではないのです。
開く人もあります。パッと信仰に入り、パッと目が開いてズーと開いてゆく人もある。しかし一年
やり二年やりある一つの段階に来ますと、何かしら消えてゆく姿のようなものが出て来るのです。
それでまた苦しんで、それをぬけて来るとまたそういうものが出て来る。またぬけて来てそれから
出る。そうやっているうちに知らない間に、業想念の三界の世界を超えてしまうのです。
パッと悟ったように思うけれども、パッと悟ったのではなく、悟るまでにいろんな魂の経験を経
とんこ
て、それでパッと悟る、頓悟するような状態が出て来る。魂的経験がなくて、パッと悟るというこ
79 神様も経験する
とはないのです。だから過去世において、さんざん修業した、しかも菩薩として働いていたお釈迦
様のような、あるいはキリストのような、いろんな人がいますね。法然でも親鸞でもそうだし、皆
菩薩的な働きをしていた人達が、生れて来て三十才位までうんと苦しむのですから。それだけの肉
体の経験がいるわけですから。その時代の肉体経験を経ないと、いかに霊的に磨かれている霊であ
っても、やっぱり働けないのですよ。それでお釈迦様のような、はじめから菩薩で生れかわり死に
かわりして、菩薩行をしているそういう菩薩様が、シッタルダ太子として生れて、三十才位までは
苦しみに苦しむのでしょう。いろいろの苦しみを経ている。妻ももらうし王子ですからいろんなこ
ともする。いろんな遊びもした。それではいけないと、心が満たされないでやってゆく。そこまで
は自分の本当のことがわからないわけです。お釈迦様が正覚を得るまでは、自分の前生もわからな
ければ過去世もわからないし、自分がどういうものであるかもわからないわけです。三十才位まで
ね。するとわからない間というのは、普通の人と同じです。一寸も違いはしない。只普通の人より
も内向性が強いというだけであって、あたり前な人間ですよ。ところが悟ってしまった時、はじめ
て、あ\自分は過去世からこういうことをしていたんだな、こういう人間なんだということが、ハ
ッキリわかって来たのです。
80
だから、例えば今三十であろうと四十であろうと、自分が凡愚だなと思ってもね、あ、まだ自分
は駄目だなと思っても、ダメだなあ凡愚だなあと思う心がいいのであって、自分は悟りを開いて、
もういいのだ、と三十や四十でいっていたとすれば、それは案外あてにならないことが多いのです。
よくあるのですよ。三十才や四十才位いで、自分が悟りを開いているような気がしているのです
ね。気がしているだけでごまかしている。そして一ぱしの教祖みたいになって、指導者のようにな
ってやっているけれども、いくらたっても立派にならないのですよ。内心では悶々として自分では
苦しんでいる。苦しんでいるけれども外には苦しんでいるように見せられない。それで自分は悟っ
たような、自分はこんな霊能があるとかいって、威張っているような人が、この世の中には随分あ
るのです。そういう人を見ると、私は気の毒だなあと思うのです。
そういう人は自分が教祖になって威張っているから、人に教わることが出来ないのですよ。人に
頭を下げて教えを乞うことが出来ない。他の人の弟子になるわけにはいかない。だからご修業が出
来ないのです。自分が或る一つの囲みの中に入ってしまって、その囲みの中から出られず、しかも
自分では本当に安心立命していないから、いつも苦しんでいる、いつも悩んでいる。そういう人が
随分います。
81 神様も経験する
皆さんのように、自分というものを一遍なくして、世界平和なら世界平和の祈りの中に全部投げ
出したような人は、例えそこに苦しみはあっても、それは消えてゆく姿なのですね。過去世のもの
が現われて消えてゆく姿なんだ、だからどんな苦しい姿が現われても、本当は人間は神の子であっ
て完全円満なのだから、あるものが出てしまえば、必ず本心がそのま、開いてくる時があるのだ、
ということを知っているわけですね。それを私が体験しています。体験している人が教えているわ
けですからね。
82
五井先生の体験
私などでも苦しくってしようがない時があったのですよ。霊能的に修行している時に、あらゆる
苦しみをよこす。業がかかってくるなら大したことではないのです。ジーっと肚を据えれば、それ
で済んでしまうのです。いくら業想念がやって来たって平気なんです。守護神が助けてくれますか
らね。鍛えようと思って守護神が試すのがある。守護神から恐怖なら恐怖の念をダーッと送って
よこすのですよ。守護神から送ってよこされると、本当に困るのです。とにかく守護神は強いので
すから。どうにもこうにもいたたまれぬような恐怖が起って来たりするのです。その時に困る。そ
の時誰が助けるかというと守護霊が助けるのです。面白いですよ、カンニングするのですよ。私の
場合は”天と地をつなぐ者”にも書いてあるけれども、霊界に弟がいたし、友達がいたでしょう。
それから祖先の方々がいたわけ。
どうにもこうにも困った時、かすかにかすかに教えてくれる。こういえ、パッとわかるわけね。
それが絶体絶命、死ぬに死ねない、どうしようもないのだから、あんな苦しいことは一寸ない。経
験しないとわからないですけれどもね。その時に教えてもらったわけ。それからちょいちょいカン
ニングしてくれた。それが守護神に知れちゃいけない(笑)守護神に知れないように守護霊が教え
てくれるのですね。でも守護神は教わったな、というのを知っているのだけれども、許してくれる
わけです。それでどんどん経験を経ていったわけです。だからいかなる苦しみがあっても、いかな
る悩みがあっても、いかなることがあっても、守護霊守護神が必ず助けてくれるに決っているので
す。助けてくれない守護神守護霊なんて絶対にない。但し、それを知らない人は別ですよ。守護霊
のいることを知らない、守護神のいることも知らないで、向うで助けたくっても、肉体の方ではそ
っぽをむいているのですから、そっぽを向かれてはどうしようもないですね。水を含ませようと口
に持っていったって、そっぽを向いていたのでは駄目でしょう。含ましてくれるのだから飲めばい
83 神様も経験する
いのですよ。皆さんは守護霊さん守護神さん有難うございます、といつも思っています。
神様も経験のないことは判らぬ
どうして守護霊守護神さんと二つにわけたかというと、普通の場合、守護神とはいうけれど守護
霊というのはいわない。守護霊というと守護神といわなかったりするのですね。みんな一つづつで、
同じものだと思ってこっちゃにしている。ところが大変な違いなのです。
守護霊というのはあくまで祖先の悟った霊、守護神というのは、悟って守護神になってもっと神
化したものもあるけれども、大体、直霊から分れたはじめから神様で、肉体経験のない人なのです
よ。ある人もあります。役ノ行者のような人も沢山います。近頃はそういう人が沢山いるのですが、
大体基本的には肉体経験のない人が守護神になっている場合が多い。そうすると守護神だけでは、
この世の肉体生活の苦しみ悩みが、経験がないからわかってわからないのですよ。いくら神様でも
経験のないことはわからないのです。大神様は生命の中に入っているから知っているけれども、は
じめから守護神として働いている神様というのは、肉体経験がないのだから、肉体経験を知らない
の。てす。
いいかえれば、はじめから坊さんで若い頃から山にこもって滝にあたって修業をして、それだけ
しか知らないで悟っちゃって、守護神になった人があるとすれば、それは経験として浅いのです。
市井の人情の機微とか、いろんな感情の苦しみとかわからないのですよ。生活にも困らないし何も
しないのだからね。貧乏した人は貧乏人の苦しみがよくわかります。あ\苦しいだろうな大変だろ
うな、しかし自分はそこをのりこえて来たのだから大丈夫なのだ、とそういう経験があるのですね。
ところがいくら偉くてもその経験がなければわからないのです。面白いものですよ。経験がないと
こういうことはわからないのです。そこで守護霊が大事なのです。
守護霊さんというのは過去世からいろいろ生れ更りして、いろんな肉体の経験をへて、そこで悟
った人でしょ。だからいろんなことを知っているのですよ。この市井の、地球界の肉体生活をいろ
いろ知っている。だからあの時はあ\やればいいな、ここの処はこうやればいいな。ですから守護
神だけでは足らないのです。そんなことを今迄いった人はいないのですよ。それで守護霊が非常に
重大になる。守護神がむずかしいことをやらせようとする。例えば肉体的に苦しんでも痛くても、
片足ぐらい折っても悟った方がいいのだからね。だからイエスキリストはいうでしょう。”目が邪
魔をするならば目をえぐれ、足が邪魔をするなら足を切ってしまえ” そういうわけですよ。これは
85 神様も経験する
守護神的な言葉なのですよ。目が真理を悟るのに邪魔するなら目をえぐれ、そう出来ますか。出来
やしないでしょう。そこで守護霊はその間に立ってかばってくれるのです。無理難題、無理難題じ
ゃないんだけれど、魂を開くことが守護神にとっては、肉体の生活より先きなのですから。だから
そうやってまともにやらせようとするのを、一寸お待ち下さい、私がなんとか致しますから、とい
うんで、要するにお父さんが小言をいうのに、お母さんがかばうとか、おじいさんがいうのをお母
さんがかばうとかいう形で、守護霊がかばってくれるわけですね。それでだんだんよくしてくれる
わけです。
86
守護霊と五井先生
ところが反対の場合がある。守護霊の方が守護神に申訳げなくて、例えば道楽の息子がいるとす
る。守護霊がいくらかばっても、なかなかこの息子がきかないとするのですね。そうすると守護神
に申訳けないでしょう。そこでこいつを一つひどい目に合わせてやろう、こいつ息の根を止めるま
でやってやってね、魂を叩き直さなければ駄目だ、と守護霊が思ったりする。その場合守護神がま
あいいよ、そんなにしなくても、という時でも、守護霊がバンとやる場合もある。それはなかなか
面白いですよ。こういうこともあるのですよ。私なら私の前に来るわけですね。すると私は守護霊
守護神両方あるけれど、守護神的立場なのです。息子なら息子が生意気なことをいうわけ。五井先
生に無礼なことをいうわけですね。五井先生は別に怒りも何もしない。あ、そうそう、と知らん顔
をしている。向うの守護霊が五井先生に失礼な申訳けのないことを、このバカなやつが、というん
で、怒りというのではないけれど、叱ろうとする気持が一杯私にうつってくるのですよ。普通なら
想いがうつってしまうと、そのまま私が守護霊になっちゃって、パーッと叱ってしまうわけなのだ
けれども、私が守護霊より強いのですよね。守護霊がいくら怒りの念波を出して来ても、ジーッと
抑えて知らん顔している。「いいよいいよ、そんなに怒ったってしようがないから、俺にまかせて
おけ」とジーと静かにしている(笑)で守護霊もそんなにおっしゃるのなら、とだんだん心が和ん
で来る。すると波がズーと治まってくる。そこで私はニコニコして話をする。そういうことが随分
あるんですよ。
守護霊守護神と一つになること
神様も経験する
ところが大概の場合、自慢じゃないけれども出ちゃうのですよ。いわされちゃう。お前達はなん87
だ/お前の心は… … なんてね。小言になってしまうのですね。小言になってはまた駄目なんです。
その上にいかなければいけないのだけれど、それになるには余程中が強くならないと、空っぽにな
らないと、どうしてもいわされるのです。だからいわされる言葉でも、本当はいわなくても済むこ
とをいわされることもあるのです。口から出たから何んでもかんでも神様の言葉だ、と思っていっ
たらいいかというと、そうでもない。ある時はいわれたことによって、向うが悟る時もあるけれど
も、いい過ぎてしまうことがあるのですからね、守護神でもね。そうした場合に向うが弱くて、ひ
なひなとなってしまうことがあるわけです。それで私などが教えている場合には、この人にはこの
位い、あれにはあれ、あれに黙っていよう、といろいろと使いわけているのです。
そこになるにはどうしたらいいかというと、それは委せきりに委せるのだけれども、守護霊守護
神、肉体の自分とがピターッと一直線につながらなければ駄目なのですね。守護霊とはうんとくっ
ついているけれども、守護神とは離れているのも困るしね、そういうように三段階が三身一体、一
つになっていないとだめなのです。それで守護霊さん有難うございます。守護神さん有難うござい
ます、と二つ私はいわせるのです。それは両方がピタッとくっつくようにね。
88
想えば余計通じる
守護霊に頼めば、守護神のことをいわなくてもいいじゃないか、とこう思うでしょう。守護神に
頼めば守護霊にいわなくたっていいだろう、と思うけれどもそうはいかない。やっぱり想いの世界
というのはそれは不思議なものです。だから皆さんの場合は、守護霊さん守護神さんとひたむきに
想う、あるいは五井先生! というまうに、なんでもいいからくっついていること。何いわれたっ
てくっついている。すると魂は必ず開きます。開くに決っている、開かないことは絶対にないです
よ。何故ならば人間というのは本当は完全円満なのだから。余計な想い、神様を離れている想いだ
けが、自分を悩ますんだし、自分を不幸にするんですよ。
「今は守護霊さん守護神さん、世界平和の祈り一念で他のことは何も思いません
」というけれど、
想わないというそばから、どうしたんだろう、私はダメじゃないか、私の生活はダメじゃないか、
私の病気はダメじゃないかと思うのです。みな経験があるでしょう。「私は不安がありません。守
護霊さん守護神さん五井先生一点ばりです。でも私はどうも体の具合が悪くて」(笑) それじゃね。
やっぱり想っているのですね。私はそれがいけないとはいわないのですよ。それは地球人間の姿と
89 神様も経験する
してはあたりまえなんだから。
90
業はどうしても受ける
この地球界の業波動を受けている者は、どうしたって受けるのです。偉そうなことをいっても、
どうやっても受けるのです。全部受けなくなれば仏様なのだからね。受けたものにどうしても左右
されるのだから、不平をいったって、愚痴をいってもいいのです。いいから構わず遠慮なく私にい
って来なさいよ。弱い人にいわないでね。私ならいくらいじめてもいいから、あ\そうって、平気
な顔をして、それを馬鹿にしているわけではないのですよ。向うと一緒になるけれども、そこが一
寸微妙なむずかしい処。向うと一緒になって一緒の悲しみのような、一緒の苦しみのようなことに、
そこで入っているのだけれど、一緒ではない。おかしいのだけれども説明にならない。
一緒になって心から同情するのだけれども、同情して入りっぱなしになっているわけじゃないの
ですね。入るけれどもスーと共に光の中にひろがっていってしまうのですよ。パッと入るとスーと
ひろがってしまうのですね。不思議にそうなりきってしまうのです。そうすると向うがいうだけい
って楽になる。こちらはいわれても平気。いわれて平気でない人の処へいって愚痴をいっては駄目
ですよ。すくなくも自分より力の強い人に訴えなければ駄目です。力の弱い人には絶対に愚痴をい
ってはならない。あの人なら自分より力が強いな、と思う人に愚痴でもなんでもいいなさいよ。そ
うするとその人は受けてくれるからね。そういうものです。縁の深い、しかも力の強い人にいう。
だから面倒くさいから私にいってくるといいですよ。一番さわりがないから。いくら愚痴をいって
も、私は、あ\お前はまだそんなか、まだ悟らんか(笑)そんなことはいわない。いったってしよ
うがない。
思いやり
私もつくづくこの頃、長い間人を指導していて思うのですけれど、人というのはいろんなものを
もっている。いろんな範疇にある。百人百様千人千様で、みんな違うのです。あんなこと我慢出来
そうだな、と思うようなことが、あの人には出来ない、人のことは「自分」があるとわからない。
丈夫な人があるとするでしょう、するとなんて家の嫁は弱いんだろうとか、うちのおばあさんは
弱いとかね、丈夫な人は弱い人に向って、弱い弱いと思うんですよ。自分の尺度で計るから。とこ
ろが弱い人は弱いんだね。気が弱くてすぐ泣きごとをいう。そうすると気の強い人は、泣きごとば
91 神様も経験する
かりいって本当にしようがない、意気地がなくて、と責めてしまうでしょ。責められてもその人は
ね、どうしようもないんですよ。やっぱり泣きごとをいってしまうのです。三界の業想念にあるう
ちは、それはしようがない。だからそれはそれでひとまずおいといて、新しく本当のものを引き出
したらいい。あ、それはそうでしょ。それはそれでいいから、お祈りの中に入れましょうね。と同
情してあげて「しかしあなたはそんなあなたじゃないのですよ、あなたは神様の子で、あなただっ
て私だって、皆違わない神様の子です。やっぱりあなたは本当は強い人なんで、光り輝いている人
なんですよ」という風に、おだてるわけではない。本当にそうなのだから、本当の方に入っていっ
てあげる。こっちはひとまず聴いてやらなければだめですよ。頭ごなしにそんなものは、というの
じゃだめなんです。聴いてあげて、一緒に消えてゆく姿をして、自分の祈りの中に一緒に入ってあ
げて、それで本心の中に向ってゆくのですよ。それが思いやりというのです。愛情っていうんです
ね。
92
むな
祈りの中に己れを空しうしよう
(白光誌昭和36年9月号掲載)
生命を働かすために宗教に入る
昔は、この世の苦しみを逃げるために宗教に入ったのだけれど、そんな気持ではだめです。この
世を逃避するために宗教をやるんだったらお止めなさい。永遠の生命を獲得するために、生命をフ
ルに働かすために宗教に入るのです。それが本当の姿です。
神様は光です。光というのは生命が働いている姿なのです。ですから生命の働きがにぶい時は、
それだけ神様から離れている時です。
生命を働かせるとはどういうことかというと、一所懸命にやるということなのです。なんでもい
93 祈りの中に己れを空しうしよう
いから、一所懸命やればいい。それがつまらないことのように、はたから見えたっていいから、一
所懸命やることが立派な場合があります。だから一所懸命生きることです。私は普通宗教家が嫌い
そうなボクシングの根本にある精神が好きです。私はボクシングばかりでなく、スポーツにある精
神的なものが好きなのです。先生は平和の祈りをしているくせに、なぐったりなぐられたり、勝負
を争ったりすることが好きなのか。そういう意味でじゃなくて、あの敢闘精神、あれはいい気持で
す。いくらやられたって立ち上ってゆく。あれはファイティング・スピリットで、いい気持です。
業に対してそういう精神がなかったらだめです。一寸人に悪口をいわれたら、ヘナヘナヘナ、一寸
苦しみがあったらヘナヘナヘナ(笑) そんなことで世界平和など出来っこない。
今の世界情勢をみてごらんなさい。この肉体人間の方から見れば、世界情勢はもう暗澹たるもの。
一つとして光明がないですよ。それこそ大変な世界です。
94
世界は危機にある
今、一番危険なのはベルリンです。そこでソビエトとアメリカとは対立し、アメリカもソ連も基
地からいざというと飛び立つようにしてある。もう一触即発のような恰好です。ソ連とアメリカと
の間で、ベルリンを舞台にして朝鮮戦争のようなことが起りかねない。もし朝鮮戦争のようなもの
が起れば、原爆がとばないとは限らないし、飛ぶ可能性が充分にあるのです。そうしたら一遍に地
球はつぶれます。日本の基地なんか完全にやられるだろうし、恐らく自分の生活がどうとかこうと
かいう問題じゃなくて、世界がだめになるか、ならないかの瀬戸際に来ています。それで現象世界
の肉体世界の面から見れば、何一つとして地球を救う道具はないのです。新聞やラジオ、テレビを
みたらよくわかります。もう一瞬一瞬が危いかも知れない。肉体人間的に見れば、救うものがなん
にもない。だからまかり間違えば終りになってしまうのです。そこでクチャクチャクチャクチャ自
分のことを思っているわけなんだけど(笑)でも思っちゃいけないというのではない、思ってしま
うのだからしようがない。
それはそれでいいけれど、少しは神様の気になって、神様の心を汲んで、自分の苦しみをそのま
ま世界平和をつくり出すための苦しみとして、救世の大光明の中に入れて、一所懸命平和の祈りを
祈りつづけなければいけないですよね。瞬時も離さず、平和の祈りが中にあるようにしなければい
けない。只頭で思え、というのではないのです。心の中で思いつづけると、世界が平和にならなけ
ればいけないなあ、本当にそうだなあ、平和だなあ、平和にしよう、神様お願いします、世界人類
95 祈りの中に己れを空しうしよう
が平和でありますように… … そういう気持。自分の小さなことなどどうでもいい、世界が平和にな
りますように、損したって得したってどうでもいい。食えなければ食えないで死んでもよい。
そのぐらいまでいって、そういう意味で平和の祈りをやると、今度自分の生命も生きるし、自分
の生活も生きるのです。
96
平和の祈りに自分を投げ出せ
自分の生活を助けたいために、平和の祈りをやるのは、これは一つの飴なのです。実際飴をなめ
させられるとうまいですが、それだけやっていると、あまり大きくなりません。自分のことを思う
のもいいけれど、本当は自分というものを世界人類の中に投げ出した方が、自分は生きるのです。
自分は食えなければ食えなくてもいい、亡びるならばそれも神様のみ心が知っていらっしゃるの
だ。神様は愛なんだし、自分は神様の子なんだから、自分を全部神様に投げ出して、それで悪いこ
ほぞ
となどあるわけがない、という膀を固めてしまうことです。神様の中へ全部投げ出して、自分の運
命が悪くなることは絶対にない。これは私が太鼓判を押します。私が実際に体験したことなのだか
ら。
自分の想いを、自分の全生活を神様のみ心の中へ投げ出して、そういう気持で、世界人類が平和
でありますように、どうか本当に喧嘩になりませんように、世界人類が平和でありますように、と
いう想いの中に全部入れて、個人個人のものは捨ててしまうぐらいな、そういう気合があると、運
命は余計に早く開く。それが自分の方が先なんだ、自分の生活をなんとかしてくれなきゃ、世界平
和もあったものじゃない、なんて思ったら、それはもうヘナヘナヘナと同じ。それを卒業するまで
は苦しみます。だから構うことないから、もう死んでもいいんだ、生きてもいいんだ、とにかく自
分というものは神様に生かされているんだから、神様がもうそれでおしまい、お前はあの世へ行き
ぼ
なさい、ひ干しになってあの世へ行きなさい、というんだったら、ハイって行けばいい。そういう
気持になっちゃうのですよ。
生命は神様から頂いたもの
どうせ神様から頂いた生命なのだから、心臓を自分で動かしているわけではないんだ。神様がも
うよろしい、といったら止まってしまうのだから、止まれば終りなのだから簡単なもの。自分の力
というのは一寸もないのです。あると思っているのがおかしい。心臓を動かしているのは神の生命
97 祈りの中に己れを空しうしよう
なのだから、胃を動かしているのもそうです。ああ心臓を動かしているな、肺臓を動かしているな、
ああ神様の力なんだな、自分が一瞬一瞬一秒一秒生きているのも神様の力なのだな。そうしたら自
分があがいたってどうしたって仕方がないじゃないか。とはっきり思い定めてしまうのです。・どう
ぞ神様ご自由に、って投げ出す気持で、世界人類が平和でありますように、とやるのです。そうす
るとパッと開けます。思いもかけないようなことが開くに決っている。私はそれを体験している。
人のことでも体験している。自分でまず体験して、人のことでもみな体験している。
そういうものですよ。パッと救いが現われる。斉藤さんなどもよく体験して知っている。一家心
中しようかな、とするとパッと助けが現われる、また死のうかな、また助かる。何遍死のうと思っ
ても、死なない運命にあるものは死なない。助けてくれる。それはもうきまりごとなのです。天で
決っていることが出てくるだけ。それで天で決っていることを早く出すためには、自分というもの
がなくなることが一番です。自分の想い、自分の生活というものを、全部世界人類の平和の中に入
れてしまえば、祈りの中に入れてしまえば、天で決っていることは素直に出てくる。迷うことがな
いから。心が迷わなかったら何も恐しいことはない。自分一個人の願いなど、世界平和の祈りの中
に入ってしまう。そうするとよくなる。若い人達はね、構わずなんでもいいから、先生にだまされ
98
たと思って、世界平和の祈りをしていれば、いい結婚も出来るし、
けなんですよね。というわけで脱線しそうだからこれで。
いろんないいことも出て来るわ
99 祈りの中に己れを空しうしよう
100
愛行と犠牲の相違
(白光誌昭和36年9月号掲載)
愛他行の喜びと犠牲の相違
キリスト教などの教えでは、犠牲ということが非常に大事だった。犠牲になるような気持でなけ
れば、宗教の道に適わないというように、それ程犠牲というものを尊んでいるわけですね。ところ
が私は犠牲というのは嫌いなのです。犠牲というと、何か悲しい想いが言葉の中にすでにあるので
すね。言葉が持つ雰囲気なんですね。あまり嬉しい気がしないです。
大体、神様のために喜んで死んでゆく場合、あるいは人類のため他人のために、喜んで死んでい
くような気持の場合には、普通にいう犠牲というような観念はないのです。喜びなのです。喜びが
伴なえば犠牲(本当の意味は別として)と普通思われている感じはもたないのですよ。
親が子供を育てている。苦心惨憺して子供を育てている場合、親が犠牲になって子供を育てた、
とはいわないでしょ。だけど表面的に見れば、親が例えば二十なら二十まで育てるということは、
大変なことなのですね。その育てることによって、苦しみはあるけれども、楽しみがありますね。
だから犠牲という感じはしませんですね。
ところが姉が弟達のために、身を売ったりなどして働いて、弟達を学校へあげたりなどして、お
嫁にいくのも遅れちゃった、という話も随分あります。そういう場合には犠牲という感じがあるん
です。喜びというよりも、人情のためにやった犠牲というような感じがするわけです。そうすると
何か悲しみがそこに流れてくるわけです。で、そういうことはいいことか、悪いことかというと、
私はあまり感心してないのです。
人間というものはお互いが、親でも子供でも兄弟でも、すべてがお互いの生命を生かしあいなが
ら、しかもお互いのためになってゆくような生活でなければだめだ、と私は思うのです。
弟が道楽者で、お姉さんがすっかりかぶっちゃって、弟のためにお金をやったり、自分の身をつ
めたりして、弟を助けたりなどするのがよくあります。人情美談ですよね。しかし私はあまり賛成
101愛行と犠牲の相違
しない。それはどこかに無理があるのです。お姉さんならお姉さんの心の中に無理がある。お姉さ
012
んの生活の中に無理がある。そういう無理が積み重ってくると、それはお姉さんならお姉さんの生
活の不幸にもなるし、体のためにもよくありません。想いがたまってんだからね。ただ喜んで親が
子供を育てるような喜んだ感じじゃないんです。
自由を生かしあう生き方が必要
親と子の場合でも、あんまり子供がせびりにせびって、もう青年になっても親にぶらさがって、
せびってばかりいると、やっぱり親としても、かわいいけれども憎いような気がするんですね。そ
ういうことが随分あるわけです。だからお互いの生命を殺しあうような、生命が自由にいきいきと
生きていくことを妨げるような生き方というのは、どんなものでもすべてだめなのです。私の教え
などはそこに根本があるんですね。
生命を抑えるような、生命を縮少させるような、痛々しいような生き方は、お互いにしてはなら
ないと思うのです。そういう生活は必ずどっかでつまづきが出来ます。無理のない、生き生きとし
た、お互いの自由を尊重しあって生きるような生活にもっていかなければならないわけです。だか
ら例えば弟なら弟、子供なら子供に怠けものがあったとする。そういう場合にはどうするか。あく
まで怠け者を助けて助けて助けぬいて、自分が苦労しぬいて助けてゆく、というのがいいか。とい
うと、それは余程知恵を働かせないと、いつまでたっても、その子供なり弟なりが、怠けたままで
一生を終ってしまって、その人の生命がこの世で死んでしまうような生き方をしちゃう場合がある。
ところが助けていることが愛情だと思い、あるいは犠牲美を感じて、そういうことをやっている人
がかなり日本には多いですよ。外国は知りませんが、日本においてはよく犠牲的な精神で親兄弟の
ためにつくしている人があります。
だんだん少なくなってきてますけど、昔など、親のために身を売って、親を助けた人情美談があ
ります。今でもそういう話を随分きくのですけれど、そういう生き方をすると、ある人の犠牲によ
って育てられて、大きくなった人達が、幸せにならない場合が多いんですよ。だからやる場合でも、
二十ぐらいまではとにかく成人してないから、弟であれ誰であれ、みてやってもいいと思うんです
けれども、成人した場合にはその人の生命は大人になったんですから、それを突っ放して、その人
が食べられようと死のうと、それはその人の自由に委せておいた方がいいと私は思うんですよ。
103愛行と犠牲の相違
神になることを遅らせてはならぬ
104
そういう生き方をしないとね、この世だけは生きられるかも知れないけれども、あの世で生命が
死んじゃうんですね。
人間の生命というものは、肉体の世界だけではなくて、神体の世界もあれば、霊界もあれば幽界
もあれば、また生れ更ってくる世界もあれば、もう何遍も何遍も生れ更り死に更りして、いわゆる
経験を積んでゆくわけです。神様の生命をそのまま素直に流しこむ練習のために、いろいろな物質
界を通って、物質界の経験もし、幽界の経験もしいろんな経験をして、一人前の如来様になってい
くわけですよ。
だから只々甘やかしてその人のためにしてやるようなことは、その人の如来様、いわゆる仏(神)
になることを遅らせるようなものであって、感情的にああこれでいいことをしたと思っているに過
ぎないのです。そういう生き方をしちゃいけないと思うのです。ところが私などもやりかねないん
ですよ。私なんか自分でも一寸甘い方でね、少し愛情過多だから、やりかねない場合があって、随
分反省することがあります。あまりよくないのですね。だから余程知恵を働かせなければならない
のです。それにはどうしたらよいか、というと、やっぱり世界平和の祈りのような、神様のみ心の
おこ
中に自分が飛びこんで、飛びこんだ中から、素直にスーと出てくる行ないが一番いいんです。
あるいは厳しすぎるような場合もあるでしょうし、あるいは甘やかし過ぎる場合もあるでしょう
おこ
けれども、それはやがて必ず相手のためになるような行ないになってくるんですよね。
国の犠牲、人類の犠牲
それで今度は大きな問題になって、国のための犠牲というのもありますね。人類のために犠牲に
なるというのもありますね。しかしやっぱり国のためであっても、人類のためであっても、なんか
悲しみを伴うような行き方というのは、やっぱりどこかに無理があります。イエスのような立場に
なる場合は、また別なんですね。イエスキリストのように、人類の代表者のような、そういう犠牲
のやり方というのがありますね。あれはやむにやまれず神様がやったわけであって、イエスそのも
のが霊人ですから、始めから肉体というものは余り問題にならないのだからいいけれども、普通の
一般の人間の場合には、ああいう行き方は出来ることじゃないのです。
よく国家人類のために一家を犠牲にすることがあります。社会事業とかあるいは社会運動だとい
105愛行と犠牲の相違
うんで、子供や妻を捨てて尽している人があります。それで子供や妻のためには、一銭もお金を入
016
れなかったり、あるいはお金がたくさんあったのに、妻子にはやらないで、社会事業ばかり投資し
てしまって、妻子は自分達が働いて食べなければならないような、そういう悲惨な目に会わせてい
ながら、自分だけは国家のため、人類のため、社会のために働いているという自己満足をしている
ようなのが随分あるんですよ。そういうのは私はだめだと思うんですよ。そんな不調和のことは、
必ずどこかにひびが入るからいけない。そう思うんですよ。
だからそういう風に考えてくると、ではどういう生き方をしたらいいかというと、いわゆるお互
いがお互いの生命を尊重して、親は子供の生命を尊重し、子供の自由を認め、兄弟なら兄弟の自由
を認め、他人の自由をみとめて、他人の生命が生きるように、あるいは子供の生命が生きるように
する、ということが根本でなければならないんですよね。
生命を生かす生活とは
生命が生きるということは、その人の力が出るようにという意味です。能力が出るように、子供
なら子供の能力が出るように、近所なら近所の人でもいい、その人が能力が出るような方法で援助
することが、一番いいわけです。それにはどうしたらいいかということですね。
それはその人の力を妨げている業想念、間違った想いをどこかになくさせる方法が一番いいわけ
ですね。その方法はやっぱり世界平和の祈りになるんです。
だから自分としては、金銭的には何もしてやれないとか、家を犠牲にしなければ他人に尽せない
という場合がたくさんありますね。いくら困った人達がいても、自分のところのふとんが一枚しか
ないのに、一枚はいで他人にやっちゃうわけにはいかないでしょ。皆別々に寝てたとしますね。そ
うすると近所の人が困っているから、別々に寝ないで、一緒に寝ればいいんだから、一枚やってし
まうという気持が素直に出来ればいいですよ。素直に出来ればいいけれども、素直に出来ない場合
があるんですね。やろうかやるまいか、やりたいような気はするけれどもやったら家が困るし、や
ろうかやるまいかとこう困る場合がある。いい人は随分困るんですよ。
やればいいんだけれど、やれない。サーとやれる人はまた別です。一家が揃って救いに立てるよ
うな、それはやることが喜びなんだから、これは犠牲でも何でもないからいいけれども、そうじゃ
ない場合があるんです。一つのものをやるために、他人を救うために、夫婦の仲が悪くなったり、
親子が喧嘩したりするような場合がある。そういう場合はいけないと私は思うのです。そういう場
107愛行と犠牲の相違
ほうせ
合は、それは出来ないから、出来る限りのことをして、あとは法施をする。法施というのは、法の08
1
施しですね。法の施しというのは、神様のことを知らせてあげる。向うがわからなかったら、こち
らから向うの天命が完う出来ますように、-どうか守護霊さん守護神さん、あの人達が立派になりま
すように、という愛の光を送ってやればいいと思うんですよね。
光を送ってやればその人は、いつか役に立ちますから、そういうやり方を法施というんですね。
こうしてやればいいと思うんです。だから出来る限りはやって上げてもよいけれど、出来ないこと
は法の施しに代えていけばいいと思うんですよ。そうすると無理なく世界人類のためになると思い
ます。その一番やりやすいのは、世界平和の祈りなのです。
法然親鸞と世界平和の祈り
(白光誌昭和36年10月号掲載)
法然と親鸞の生き方
親鸞上人が、あれだけの偉い人がどうして苦しんでいたのか、生涯としては、いろんな悩みがあ
って苦しい生活をしたわけです。どうしてそのような生活をしたのか、という質問が出ていますの
ちな
で、それに因んで、いろいろ法然親鸞の話をしましょう。
法然さんという人はどういう人かというと、お釈迦様と同じように、はじめから菩薩として生れ
て来ているような人なのです。お釈迦様は初めから菩薩として生れているわけです。そして菩薩行
をして来たわけです。
109法然親鸞と世界平和の祈り
法然さんはどういう生き方をしたかというと、大体迷いが少いのです。消えるものは消えてしま10
1
って、消える姿が殆どなかった。全然ないということは、この世ではないのですからね。親鸞はそ
うでなく、消える姿を非常に持っていて、その消える姿を利用して立派に人を導いてゆく、人がや
すやすと入ってゆける道を開いた人なのです。
法然と親鸞は全然性格が違うのです。生れながら違うのです。生れながら違うけれども、法然だ
けでは易行道が今のように盛んにならなかった。南無阿弥陀仏が盛んにならなかったわけです。親
鶯が現われて、易行道浄土門が本当に確立されたわけなのです。しかし法然親鸞だけでは現在足ら
ないものがある。そういヶ説明を少しつつしていきましょう。
親鸞がどうしてあ㌧やって苦しんだか、ということは、親鶯は苦しむように生れて来ている。親
鶯が苦しむことによって、その苦しみを通し、苦しんだ道を通して、民衆が悟ってゆくという、な
んていいますか、神様の一つの役目として、親鸞が苦しむような生れ方をして来ているわけですね。
やっぱり大きな菩薩行です。しかしやりきれない。
イエスが十字架にかかったのも菩薩行ですね。その時はイエスは苦しかったけれども、そう長い
苦しみではありません。親鸞の方は九十歳迄生きたのですからね。三十歳ぐらいで死んだのと、九
十歳まで生きて日常生活の苦しみをするのでは、大分違います。サアどっちが苦しいかといって、
これは秤にかけられないけれども、親鸞の苦しみは相当なものです。
親鸞と妻帯
その苦しみのはじめのもとは、妻帯をしたことにあるわけですね。それまでの坊さんというのは、
機れてはいけない、要するに家庭生活というものは臓れてしまうと、考えて、奥さんをもらえなか
った。お釈迦様もそう思ったから妻帯させなかったんですよ。
お釈迦様という人はどういうことをしたかというと、女性を弟子にしなかった。女の人が近づく
と男の心が乱れるから、女は全部のけといて、女は後廻し、と女の必要性を認めなかったのかも知
れない。とにかく女はいらない、男だけが悟ればよいとお釈迦様はそういうお考えだった。ところ
が阿難が、お釈迦様にとっては余計なことをしたわけなのですが、お釈迦様の育ての親のおばさん
が尋ねて来て、どうかお弟子にしてくれというのに、お釈迦様はすげなく断わるから、そんなにす
げないことをお師匠様するものではありません、私が身に代えて間違いないようにするから、どう
かお弟子にしてやって下さい、というので、お釈迦様の育ての親をお弟子にするわけですけれども、
111法然親鸞と世界平和の祈り
そこから女の人が入ってくるわけなのです。そのためにマイナスの面も随分あったけれども、女性
にとってはプラス面がやっぱりあったわけです。
お釈迦様ほどの人でも、女性をこわがるのですよ。女の人は女の人を別にこわがりはしない。男
の人が女性をこわがるのです。何故かというと、自分の心が乱れるからね。そこで阿難が出て来て
カバーしたわけです。しかし結局仏教というものは、他の宗教もそうなんですけれども、大体女の
人を近づけないで、男の人は男と、いう風にやっていたわけだけど、家庭というものを大体省みな
いわけですね。精神生活、霊的な生活を主にして、家庭生活というものは二の次三の次、なくても
いいように思っていた。仏教ではそうだった。そこで坊さんというものはみんな妻帯をしないで、
只その一代だけで来たわけです。それでなければ悟れないということになっていたのですよ。
そこへ親鸞が現われ、法然と話しあって法然の意志でもあるのですね、法然上人の処に在家のお
弟子が”お師匠さん達は独り者で、安楽にやっているからいいけれども、家庭生活をもち、妻を迎
え子供をもっている一般大衆というものは、あなた方のように超然としているわけにはいかない。
食べることもあるし、着ることもあるし、世間とのいろいろな交際もあるし、いろんな感情問題も
あるし、なかなかあなた方のように、悟ってすましているようにはいかないのだから、どうかあな
112
たのほうでも一般家庭をもっても、妻子をもっても悟れるような、そういう見本を見せて下さい”
とやさしい言葉でいえばそういって来たわけです。法然上人もこれを考えていないわけではなかっ
た。一般大衆と同じレベルにおいて、同じ生活をしながら、しかも悟った境地というものが、見え
て来なければいけないわけですね。そこで誰がいいかと思ったら、親鸞がいいというので、指定し
たわけです。
宗教の改革者
親鸞という人は、大体そういう役目で生れて来ている、宗教改革者です。目立たないけれど宗教
の改革をした人は親鸞なのです。
民衆からはなれていた宗教を、民衆と一つにして、民衆の一般社会の生活の中で、本当に生き生
きとさせたのが、親鸞なのです。.生き生きとさせた代りに、そのすれる業というものを一身にひき
受けたわけですね。そういう役目なのです。親鸞によって坊さんの妻帯も許されたわけなのです。
その代りあらゆる責苦を対外的にも受けたわけです。親鸞のくそ坊主、とさんざん責められ嘲笑さ
れたわけです。責められながらやっていった。しかしある年代に来ると、やっぱり親鸞のやったこ
113法然親鸞と世界平和の祈り
とは正しいことがわかって来るのです。
神様というのは面白いもので、時代時代によっていろんな人を現わして、時代に即応したように
やるわけですね。お釈迦様の頃はやっぱり妻帯しないで、一つの仏教という道を開くため、教えの
本道のために、ああやって修業した。親鸞時代になると、それでは間に合わなくなって、もっと俗
化して、やりやすい、わかりやすい道にしなければならなくなった。それで親鸞が妻帯した。妻帯
したけれども苦しみは親鸞に来たわけです。
何故来たかというと、二つの面があるのですね。どうして苦しんだかというと、妻帯した現実の
問題もあるわけです。妻帯すれば子供も出来る。子供が出来れば子供に対するいろいろな苦労があ
る。いい子ばかりが出来ればいいけれども、悪い子が出来たわけですからね。この悪い子が出来る
というのも、やっぱり神様がみれば、そういう風にして親鸞を苦しめて、親鶯が身をもって体得し
たものを民衆に知らせるためにあったわけです。で苦しんだ。
親鸞という人は非常に正直な人で、陽性な明るい人ではない。私のように明るい楽天的なという
ような感じでなくて、軽妙洒脱でもなくて、物事の一つ一つを真剣に見つめて、自分の心をえぐり
えぐって見詰めていくような性質の人なのです。知性派の人なのです。だから何か自分の心の中に
114
は妻帯したことが悪い気がしているのです。仏のみ心というか、長い伝統にそむいたものでしょう。
だから自分の潜在意識の中には、妻帯したことが間違いではないかなあ、というような気もするわ
けです。何故するかというと、妻帯しなければ苦しまないようなことを、妻帯したために苦しみを
非常に味あうわけですね。その度に、ああ私の妻帯したことは悪いのではないかな、と思う。思い
ながらしかしそれは神様のみ心だ、仏のみ心が私にそうさせたのだ、と思い返す。又ある時になる
とああこのやり方が悪かったのじゃないか、と思う。いやそうじゃない、それは仏のみ心だと思い
返す。それを年中、いいか悪いかと思索していたわけです。私が観ると、この中(心の奥の眼) か
ら見るとわかるのです。それでいいかなあ、悪いかなあ、と年中心をいじめていたのです。その心
をいじめたものが、生命の素直に生きる邪魔をして、いろいろな苦しみがあるわけですよ。
人間を正直にみつめた
歎異抄を読んでも、何かさびしいものが、書いたものの中にあるのです。又そのさびしいもの、
要するに人間を否定しながらも、しかも否定し切れない人間性。そういう否定性が親鸞の中にある
でしょう。それがインテリゲンチャに共鳴するのです。人間を見つめながら、見つめ見つめて来て、
115法然親鸞と世界平和の祈り
いい加減なことをするのではなく、自分の心を切り刻んで見つめて来て「どこまでいっても人間と16
1
いうものは駄目なものだ、罪悪深重の凡夫なのだ、私のようにこうやって修業しながらやって来て、
しかしこの妻帯したことが一番の原因だけれども、心が常に悩んでいる、悩みに悩みつづける人間
というものは駄目なものだ」と本当に思った。
どうして本当にそう思ったかというと、肉体人間の生活というものを正直に突きつめたからです。
切り刻んで心を切り刻んで来たのが親鸞です。その切り刻んだ傷跡がやっぱり生活の面で、不幸苦
悩のように現われて来たのです。大きな意味ではやっぱり把れなのです。陽性でないから、自分を、
ああそれは消えてゆく姿、と赦せないのですよ。例えば自分がお寺を持ちますね。そしてお寺が栄
えてくる。栄えて来ることによって、子供などが安易な生活になれて来る。やっぱりお師匠様の娘
や息子だから、みんないろいろなものなどを持ってゆくでしょう。そうすると安易になる。安易に
なって子供がダメになってしまう。そういうことを考えた。「ああ私はこんなにみんなに立てられ
て、こんないいお寺に納っていたのでは、これは私のためにも悪いけれど、子供達のためにも悪い。
こういうことをみんな受け継いでは大変だ」と親鸞は思ったわけです。知性派で自分をいつも反省
してばかりいる人だから、そこでお寺を捨てて出ていってしまうでしょう。これが反省の深くない、
知性的でない人ならば、そんな反省はしませんよ。ああこれはこれでいいのだ。といって他の方法
を考えると思うのです。他のやり方でもって、子供なら子供の教育をするとか、いろいろするわけ
でしょうね。親鸞はそうは出来なかった。あくまで自分自身をみつめていって、お寺を出ていった。
お寺を出たところから苦労がうんと始まるわけですよ。お寺に納っていれば、お寺はどんどん増
えてゆくし、自分は安穏ですし、お弟子も増え教えも弘まるし、いいわけなのです。ところがそれ
では済まないものが、中にあったのです。
一般民衆の中に生きる親鸞
そこで私はいつも思うのだけれども、済まないものがある人は、そんなことを考えなくてもいい
よ、といっても考える性質を持っているでしょう。親鸞の中には、そんなに自分をいじめなくても
いいじゃないか、といってもいじめなくてはいられないようなものを持っているわけですよ。それ
でお寺を出てしまったわけでしょう。それから苦労が始まるわけです。お弟子さんがお金を持って
来てくれても、それが本当に有難いと思う心がある。貰うべきものでないのを貰ったような気がす
る。それで有難かった。そういう素晴しいものを持っているわけなのですよ。持っているけれども
117法然親鸞と世界平和の祈り
その素晴しさが自分を切り刻んでしまったわけなのです。そこで不幸というような境涯が生れて、
118
九十年間あまり楽しい生活をしなかった。
その楽しい生活をしなかった人が、教えとしては素晴しいひびきを伝えて、みんなにインテリゲ
ンチャの親鸞が、ああいう風に反省して、いつも自分を見つめていった、しかも、偉ぶってはいな
い。罪悪深重の凡夫だという立場に置いて、自分は学問があるのに非常に低い処に置いてやってい
った知性的な処が、要するにインテリゲンチャの好みにあって、真宗というものは栄えているわけ
です。西方極楽浄土がうけたわけではない。親鸞そのものの考え方、親鶯そのものの人格、人柄と
いうものが、つまり反省これ反省している。知性でさぐりさぐって、要するに精神分析という形で
はないけれど、自分の心をえぐりえぐっていった処を、インテリゲンチャの科学性というものを持
った人達が共鳴したわけなのです。その共鳴したことによって、一般大衆に弘まって今日になって
いるわけなのです。
念仏から世界平和の祈り
そこで今度は私のことになるのですけれど、法然親鸞はここまで伝って来ていますからね。私に
来ると俄然変ってくるのです。どういう風に変って来たかというと、親鸞が否定して否定して否定
し切った、それで自分をいじめていじめ抜いた。いじめ抜いた救いの処はどこからというと、西方
極楽浄土なのです。南無阿弥陀仏という念仏によって、念仏を縁として阿弥陀様の中に入って、阿
弥陀様の方から自分が生れ更ってくるのだ、とこういう教えになって来たわけでしょう。それでは
現在ではもう力がなくなって来たのですね。
何故かというと、南無阿弥陀仏という唱名念仏が、もうすでに若い人達には受け入れられない念
仏になっている。第一西方極楽浄土なんていうのは、若い人にはわかりはしない。西の方に極楽浄
土がある、そんなのどこだい、ということになる。目に見えないからね。宇宙に充満しているとい
う感じなら、神様がどこにもいらっしゃるというのなら、まだ感じますけれど、西方極楽浄土とい
う一点は、今の人にはわからないのです。親鸞の教えももう青年層にひびきわたらなくなった。今
迄の人達で終りになってしまった。教えの根本は終ってはいないのですよ。根本の流れというのは
消えていないのですよ。根本の流れというのは消えていないのだけれど、教え方としては南無阿弥
陀仏という形だけではダメなのです。それは何故か? 葬式仏教になってしまったからです。この
世に生き生きとして生きる生命というものは、親鸞の教えの中にはないのですね。何故かというと、
119法然親鸞と世界平和の祈り
親鸞があまりにも自分をいじめて来たから、てす。それがこの世の明るさという光明世界を築きあげ20
1
るのには弱いのです。
そこで世界平和の祈りに移ってくるわけです。世界平和の祈りがいいということは、皆さん耳に
たこでわかっていらっしゃる。何故よいかというと、現代的で一番わかりやすいということ、それ
から世界平和というものを望まないものは世界人類の中には一人もいない。世界平和じゃない方が
いい、と思っている人は誰もいない。気狂は別。そうすると誰も彼もなんの抵抗もなく、ためらい
もなく思えるものは、世界平和なのですね。
南無阿弥陀仏ではない。南無妙法蓮華経ではない。ナムカラタンノーではない。アーメンではな
い。それらはその一つの宗派宗派にしか通用しない。その宗派以外の人は対抗的に思いますからね。
地球は狭くなった
宗教のカルマというものはひどいもので、自分の宗派というのは絶対なのですよ。日蓮宗は南無
妙法蓮華経が絶対なのです。南無阿弥陀仏は真宗浄土宗では絶対なのです。そこに入っている人に
ですよ。そうすると宗教をやっているがために、かえって派閥が生れて来る。それが宗教的カルマ
というのです。キリスト教の人は頑くなで、カソリックの人などなお頑くなです。結婚でもカソリ
ック同士でなければしないとか、いうことになっているし、非常に面倒くさい。人間は生命におい
て、平等であるという教えの根本が、そこで区切れてしまうわけです。ところが〃世界人類が平和
でありますように” という世界平和ということになると、どこにも垣がない。世界平和を願わない
ものはない。世界平和を想う時にはインドだろうが、イギリスであろうが、アメリカであろうが、
日本であろうが、みんな一つの想いになれるわけです。みんなの心が一つの目的に向ってゆく、そ
ういうものでないと、あらゆる民衆、人類が救われる道が出て来ないのです。
南無阿弥陀仏でもアーメンでも出て来ない。やっぱり世界人類が平和でありますように、という
ような道を開かなければならない。それを法然親鸞の系統のやり方を利用して、そのままあとを受
けついで、しかも世界平和の祈りというように、大きく世界中にひろげたわけなのです。
もっとも法然さんや親鸞さんの時代では、世界というのはないのだから、世界といっても日本だ
けなのだから、それに中国朝鮮ぐらい他は交際していないのだから、世界平和なんていうのは出来
っこないわけです。ところが今ならばラジオやテレビではすぐアメリカのことがわかってくるし、
ボタン一つでミサイルは地球のどこへでも飛ぶ。世界というのがうんと短縮されて、昔の日本より
121法然親鸞と世界平和の祈り
も江戸よりも小さくなっている感じなのですね。だからこそ今こそ世界が一つになる絶好のチャン
スなのです。世界平和というのが切実に感じられるわけですね。ああ世界人類だ、ということが子
供でも感じられる。これからますますスピードが速くなりますからね。ジェット旅客機が年中出て
ゆく。普通の家庭でもヘリコプターを使うということになれば、どんどんスピードを増してくるわ
けです。世界ということが耳できくよりも、胸の中に出てくるわけです。そこで世界平和の祈りと
いうものの光輝が非常に大きくなってくる。方法論として世界平和の祈りを提唱したかというと、
そうではない。世界平和の祈りをすれば、救世の大光明が輝くという前提があるのです。南無阿弥
陀仏というと、阿弥陀様がちゃんと救ってくれるという、阿弥陀様の光が輝くと同じように、世界
平和の祈りをすれば、救世の大光明がその人の体を通して、ヨコ(人類) に流れてゆく、というよ
うに約束されているし、実際にそうなっているのです。
122
祈りのスイッチはひねられている
スイッチをひねれば電気がつく。コックをひねればガスがでる。というように、世界平和… … と
思った時にはスイッチをひねったことです。その想いはすぐ感応するわけですね。世界平和… :・と
想った時には、想いが強かろうが弱かろうが、もうスイッチをひねったことになる。強くひねった
って、ゆっくりひねったって、スイッチをひねることは同じでしょ。そうすると世界平和の祈りの
大光明が体を通って来るわけです。自分で気づこうと気づくまいと、世界平和の祈り言を全部やら
なければならない、というのではない、世界平和… … と想った時には、もうスイッチをひねった時
です。そうすると光が流れてくる。だから何が何でも世界平和の祈りを全部いつでも繰返し繰返し
やらなければならない、というものではないのです。スイッチをひねりさえすれば、光が流れてく
ヘヘヘヘへ
るのです。それを力を入れてやらなければならないと思って”世界人類が… …”とやったら、スイ
ッチがこわれてしまうかも知れませんよ(笑)軽くひねればいいのです。”世界平和… …
“と気軽
く思うことが大事なのです。力を入れてやるからいいっていうものじゃない。力んではダメ。柏手
と同じです。力まないでいいんですよ。
スイッチをひねったらひねったそのままでいいのです。それを世界平和を祈りながら、こうひね
ったのだけど悪かろうか、止めてみたり又ひねったり、年中動かしているでしょ。動かしてたので
はちゃんと光が入って来ないでしょ。消えたりついたり、消えたりついたりするわけですからね。
だから動かさない。入れたら入れっぱなしにしておけばいいのです。
123法然親鸞と世界平和の祈り
ある時は世界平和… … と心の中で想わないで洗濯している。あるいは人と話をしている。そろば%
1
んをはじいている。商売をしている。そういう時は世界平和がないかというと、あるのです。それ
で時々世界平和の祈りをしよう、と思い出す時には、又スイッチを確かめてみているだけなのです。
あなた方は世界平和を一度祈ったのだから、もうスイッチをひねってあるわけなのです。あとは確
かめてみるだけです。
あなたはもう祈りの中にいる
あなた方があらためて世界平和の祈りを、頭の中でやろうと心の中でやろうとやるまいと、もう
世界平和の祈りの中にみんなが入っていて、いつも光り輝いているのだということなのです。そこ
までゆくと、法然親鸞のやった南無阿弥陀仏というよりも、もっとやさしくなって光明化してくる
わけですね。浄土門的法華経になる。
親鸞の教団はまだ浄土門でしょ。法華経というような形はあるけれど、教えとしてハッキリ現わ
れてない。世界平和の祈りというのは、一回祈ったら、世界平和の祈りの会に入ったら、もうスイ
ッチをひねってあるのだから、あとはそのまま何をしたって、光が流れ出ているのだということな
のです。つまり人間は本来神の生命であり、神の子で光り輝いているものなのだから、誤ったこと
をする人間じゃないんだ。それを自分達が勝手に、自分は駄目だナとか自分は間違っているナアと
思うから、思うだけ神様から離れてゆく。神様を否定するだけ離れてゆくわけです。離れてゆくだ
けのマイナスがあるわけです。ところがそういうように離れてゆくような業因縁を持っているわけ
ですからね。自分が持っているものだから仕方がない。それは消えてゆく姿として消えるまである
わけです。
だからああ。てもない、こうでもない、だめだ、いいんだと思う想いが全然なくなれば、神の子の
姿がそのまま現われてくるわけなのです。ところが全然なくなるというわけにはまだいかない。そ
れが罪悪深重の凡夫なのです。なくなるということはないから、このなくならないものを世界平和
の祈りの中に収めてしまえばいいわけでしょ。その繰返しを世界平和の祈りとしてやるのです。
人間は神の子なのだ、という教えは法華経なのです。それで浄土門の罪悪深重の凡夫が、自分で
は何事もなしえないから、阿弥陀様に委せ切ってしまうのだ、南無阿弥陀仏というような教えと法
華経の教えとをまぜて、世界人類が平和でありますように、という時には、すでにあなたは光り輝
いているのです、とこういう風に教えるわけですね。何故光り輝いているかというと、初めからあ
125法然親鸞と世界平和の祈り
なたは光り輝いているものなのに、勝手に自分が駄目だ駄目だと思っている想いだけが余計なのだ
216
から、想いを何処かに捨ててしまえばいいのだから、その想いを世界平和の中に捨ててしまえば、
もともとの光り輝いた自分が出るじゃないですか。その出るためにも救世の大光明が応援して消し
てくれるのだから、最も出やすくなっているのだーと親切丁寧に教えているわけです。
新天地の創造
(白光誌昭和36年1月号掲載)
自分をごまかしてはいけない
人間は二つ心を持ってはいけません。神様の子なら神様の子になり切らなければいけない。業の
子なら業の子になりきってやればいい。そうすれば壁に突き当って、”ああ業なんていうものはダ
いんべい
メなものだ”と本当にわかる。いいかげんに自分をごまかして隠蔽して、それでいかにも善さそう
な、立派そうなことをいうことは地獄に落ちるよりしかたがないのです。自分をごまかしていると
救われないのです。間違っていても、理屈をつけて、いかにもいいようにやっていると、いつまで
たっても本当の自分の世界、本当の心が開かないのですよ。
127新天地の創造
間違っているなら、間違ってました、といえばその時から赦されるのですよ。”ああ今迄思った28
1
こと行なったことはみな間違っていた”あるいは半分、あるいは四分の一間違っていたと思います
ね。”ああこれは消えてゆく姿なのだ、世界人類が平和でありますように”と私ならいうρ “神様ご
めんなさい”でもいいんです。といって神様の中に投げ出してしまえば、今迄やって来た想いがカ
ラッと晴れて、今度は新規まき直しになるでしょう。自分をごまかしているのを”ああ私は悪かっ
た、神様ごめんなさい”というのが臓悔なの.てすね。そうすると救われるのですよ。
何故救われるかというと、神様は罰をあてるわけでもなんでもない。人間の運命が悪くなったこ
とや地獄に落ちることも、それは自分の想いが自分の心を覆うだけです。
本当の心は正直で光り輝いている。自分をごまかすと、業の黒雲が覆ってしまう、自分の光をつ
つんでしまう。ごまかしただけ包むわけです。ごまかしてつけていると、うんと包んじゃって光が
なかなか出てこない。だからその重みで低い処におちてしまう。だから自分の運命というものは自
分が作るのですね。あくまで自分の想い.て作るのであって、神様が罰をあてるのではないのです。
だから自分をごまかしたような生活をしたら、必ず地獄におちます。
生命を生かす方が先き
ところが、この世の中というものは、なんとかかんとかごまかさないでは生きていけないのです
よ。全部正直でやったら生きていけない場合が随分あります。税金だって随分ごまかしている人も
あるでしょう。(笑) それがいけないとはいわないのです、私は。(笑)ごまかさなければ食べられ
ない時があるからね。税務署の人がいるかもしれないけれど(笑) といって法律だから従わなけれ
ばいけませんよ。
お米がない時分に、お米の統制がきびしかったですね。本当にヤミ米を食べないで生きていた人
が何人いましたか、というのです。大臣をはじめ役人はじめ、そういう法律を作った人がヤミ米を
食べないで生きていましたか、といったら、そういう連中の方がよけいに食べていたんです。(笑)
みんなごまかしているんだ。いかにも食べないようなことをいって、ヤミ米を買った人を罰してい
る。ああいうバカなことがあってたまるものじゃない。
しかしこの世の中というのは、真理と真理ではないものが逆様になっている。真理がかくれて、
間違ったものが出ているものだから、そういう間違ったことばかりやっている。うそばかりやって
129新天地の創造
いる。嘘ばかり並べ立てている。それで生きている。だから本当のことばかりいっても生きられな
いでしょ。そうするとあの裁判官だか判事のように、ヤミ米を食べないで栄養失調で死んでしまわ
なければならない。
大人だけならまだいい、私なんか食べなくても済みますよ。大体そんなに食べたくてはないんだ
から。子供があってごらんなさい。ヤミ米をたべなければ、今迄生きてこられやしないじゃないで
すかね。そうするとあれは果して悪いでしょうか。善いでしょうか。ヤミ米をやったことは果して
悪でしょうか。そんなのは悪にしたって、小さな小さな針メドみたいな悪ですよ。生きるのが先き
なのだから。生命を生かす方が先きなんだからね。だから大きな顔をして、ヤミをやった奴は悪い
ヤツだ、といえる人がこの世の中にはいないのです。
キリストはいいましたね。マグダラのマリヤが、白昼罪の現場を押えられ、パリサイ人や法律学
者に連れてこられて、キリストの前で「この女は罪を犯した」とみんな責めますね。マグダラのマ
リヤは今でいえば売春婦ですからね、石で殺してしまえ、とみんながいいます。するとキリストが
「罪を今迄犯したことがないと思ったものは、この女を石で打て」というと、誰も打てなかったで
しょ。それは何故かというと、自分たちも何かしら悪いことをしているからね。
130
それと同じように、ヤミ米を食べた人を責める人があったらば、その人はどうかしている。また
本当に自分が食べないで生きてゆけるような人には、責めるような心はないわけです。”ああしか
たがない、自分は出来たけれど、みんなはしかたがないんだ”と思うのですね。
この世界を一遍捨てることだ
だからやたらに形の世界の法則にしばられることはない。もっと自由自在になってもいいんです。
しかしわざわざ破れというのではないのですよ。絶体絶命でしかたがなかったら、というわけです。
生命を生かす方がいい。真理を生かす方がいい。真理というものは、この世の法則などというもの
よりも、神様のみ心に添うことなのですね。神様のみ心に添って、み心のままに生きるということ
です。
神様のみ心というのはどういうことかというと、みんなが手をつなぎあって、この世界を平和に
することですよ。神様のみ心の愛と真とを現わすために、みんなこの世の中に生きているんですね。
愛と真が現われないで、この世の中がいつまでも闇の世であるのなら、こんな世の中はなくなっ
ていいんだ、嘘いつわりばかりついて、ヤミが横行していて、嘘をいうヤツが偉くなっている、そ
131新天地の創造
ういう世の中なら、つぶれたってかまわない。そんな地球は一遍に大掃除でもなんでもして、つぶ
しちゃったらいいと私は思うんだ。こんなキタナイ世の中はつぶした方がいい。だからなんの名残
り惜しいことはないのです。
悪いことをしながら、自分をごまかしながら、それで汲々として生きているのなら、死んだ方が
ましなのです。だからこんな世界はいらないんです。ですからこの世界を一遍捨ててしまわなけれ
ばダメですよ。それでこの世界のことを考えないで、消えてゆく姿の方にまかせて”ああすべては
消えてゆく姿なんだ”と、私達がここに改めて新しい世界、世界平和の世界を造らなければダメで
すよ。本当に嘘いつわりのない世界。本当のことをいって生きられる世界。そういう世界を造らな
ければいけません。それが私の念願なのですよ。
だから現われている安保がなんとか、そんなものは問題じゃない、と私はいうのです。そんなも
のは消えてもいい。それでもって戦争になって終りになるなら終りになったらいいだろう。それは
神様のみ心に叶わないのだから。神様のみ心に叶わないで生きていたってしようがない。そんな地
球世界は滅びたっていいだろう、とこう私は思うのです。
それくらいの信念がなかったら、本当に神様のみ心のままに生きられませんよ。
132
必ず人類を生かす神様のみ心
神様のみ心というのは、必ず人類を生かすのです。絶対なる愛なのだから、人間を生かさないで
はおかないのです。人類を生かさないではおかない。神様! と本当にすがっている人を生かさな
い、ということは絶対にないのです。だからあなた方は安心して、世界平和の祈りだけ一念で生き
ればいい。あとの原爆も水爆も戦争も、死の灰も天変地変も一寸もこわがる必要はない。それらは
みんな消えてゆく姿なのです。そういう堅い強い信念で生きなければいけないと思うのです。
それで今迄自分でやって来た間違いがあったとしますね。誰だって間違いなくて生きている人は
ないんだから。間違いがあったらあったでかまいません。前にやった間違いを取りかえそうとした
って、追いつきやしないんだから。だから前にあった間違いも、すべての間違った想いも行為も、
全部世界平和の祈りの中に入れてしまうのです。そうすると世界平和の祈りの光の中でみんな消え
てゆきます。例え人殺しをした人があったとしても、それは消えてゆく姿になって消えてゆくので
す。ロバあんまり悪いことをしていると、本当に悔改めて全部世界平和の祈りの中に入れるというこ
とは、なかなかむずかしい場合もある。
133新天地の創造
しかし何遍か消えてゆく姿をやっているうちには、祈りの中に消えてゆきます。だから自分をい鍛
1
じめてはいけません。よくいい人が相談に来ます。”私は神様のみ心のままに生きようと思う。け
れどもこの世の中は悪いから、やっぱり嘘をいわなければならないし、ごまかさなければならない。
曲った道を通らなければならない。先生、この苦しい胸の内を察して下さい”私は確かに察してあ
げますよ。”ああそうでしょ。無理ありません。しかしそれはみんな消えてゆく姿なんで、今のあ
なたがやっているんじゃなくて、過去世のあなたがやっていたことが、ここに現われて来ているの
だから、それは消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中に入れなさい。世界平和の祈りの中から
どんどん生きて行きなさい。ヤミを買わなければならなかったら買ったらいいでしょ。そんなのは
消えてゆく姿だ”と教えているわけですよね。
今はヤミも何もないからいいけれど。この頃はあるんだかないんだかサッパリわからなくなって
しまった。(笑) あんないいかげんなものってあるものじゃない。この世の中のものはそういうも
のなのですね。
日本人自らが日本を救う
昨日は善だといったのが、明日悪になる。昨日の法律が悪法になって、又変るのです。昨日は手
を握った外国が、明日になると反対になるんです。この現れの世界というのは、そんな頼りないも
のなのですよ。
自分の国内の連中でも対立しあっているのだから、まして習慣も想い方も違う外国が救ってくれ
るなんて思ったら、とんでもない間違い。アメリカと手を握ったからアメリカが救ってくれる、な
どといったらとんでもない間違い。ソ連だって同じこと。アメリカが救うんじゃありません。ソ連
が救うんじゃありません。
日本人自らが日本人を救うのです。日本人が日本を救うのです。自らを救うのはどうしたらいい
かというと、日本人が心を合わせなければダメです。
日本人が全部心を合わせて一つのことをやらなければならない。日本の国内が三つにも四つにも
分裂し敵対しあって、それで世界が平和になる、日本が平和になる、そんなことありっこない。
賛成反対がある、中立がある。いろいろあって自分だけが正しいと思っていたのでは、日本が三
つにも四つにも分れてしまう。それでもって、外国に対しようとしたって、そんなことは出来っこ
ないですよね。
135新天地の創造
安保改定が出来た、アメリカと手をつなぎました。もし原子爆弾とはいわない、ただの爆弾が一36
1
発、東京の銀座あたりに落ちてごらんなさい。あるいはどこかの工場に一発落ちてごらんなさい。
さあどうなるか。共産党が”それみろ、やられたじゃないか”と女子供をけしかける。女子供はび
っくりする。蜂の巣をつついたように騒ぎます。それこそ暴動が起りますよ。
そういうことは片側の方ではいわないんだ。両方とも都合のいいことしかいわない。そこ。て私は
どっちでもダメだというのです。安保改定しても安心など一寸もしない。不安が増大するだけとい
って、安保改定がなくなったから戦争がなくなるか、というとやはり戦争の恐怖はつづくのです。
安保改定があろうとなかろうと、戦争の恐怖はつづくし、天変地変の恐怖はつづくのです。地球滅
亡の不安というものは消えやしない。
本当の生命があればいい
だから私達の運動というものは、そんなものではないんだ。現れの世界に出て来たことを反対賛
成とかいうのじゃなくて、そんなものは一遍消えちゃってもいいんだ。全部なくなってしまったっ
ていいんだ。いい。てすか、考えて下さいよ。
例えば皆さんの肉体が全部なくなってしまったっていいんだ。地球が全部なくなったっていいん
だ。何があればいいか。本当の生命があればいい。本当の人間があればいい。肉体はいつか亡びて
しまう。八十か九十になれば必ず亡びてしまいますよ。だからあるものは神様につながっている生
命。光り輝いている生命さえあればいいんですよ。その生命は肉体よりもっとずっと生き生きと生
きているんです。
普通の人は肉体だけが厳然として生きているような気が、どうしてもするのですね。ところが肉
体より霊体の方がぐうんとすごいのです。張りきっていて能力がある。
植芝盛平翁はいい例です。肉体は五尺位いしかない小さい八十才のおじいさんです。ところがあ
の人はものすごい強い。世界で一番強いのだから。五人かかったって十人かかったって、パンと吹
き飛ばされてしまう。何故飛ぶのか。肉体が投げるのではない。肉体にはさわりはしないんだ殆ど
ね。何が投げているのかというと霊体が投げている。光体が投げている。自分の本当の体、神とつ
ながった体、それがみんなを投げ飛ばしているんですよ。というよりみんな勝手に飛んでいってし
まうだけだ。光にふれれば業はとんでゆくだけです。
そういうものなのです。それほどのすごいものを皆さんはみな持っている。肉体など問題になら
137新天地の創造
ないものすごい能力を持っている。力を持っている。だからその力だけあればいい。その体だけあ
ればいいのです。肉体があってもなくってもいいんだ、というほど堅い強い信念を持たないと、こ
れからの世界というものはいろんなことがありますよ。おどかすわけじゃないけれど(笑)
肉体の生きることに汲々としていると。ボラ共産主義が入ってくるぞ、何々が来るぞ、地震があ
るぞ、病気があるぞ、死の灰が降るぞとかね、おどかしばかり出て来るからね。そのたびごとに、
驚いていたなら、心臓が悪くなってしまう。だからそういうことは、
「私は肉体が生きていようと死んでいようと、そんなことはかまわない。みんな神様におまかせ
してある。世界平和の祈りの中に入れてある。五井先生にまかせてあるから、生きようと死のうと
それはこ勝手に」といって、平気な顔をしていればいい。歌でも歌っていればいいですよ。
これからそれくらいの呑気な余裕がなければだめですよ。そうでないと心も体も痛めてしまう。
だから、世界平和の祈りの中に入っていれば、肉体があろうとなかろうと、自分は天国に生きてい
るんだ、という堅い信念を持つことが大事です。
そういう信念で世界平和の祈りをしますと、その力は無限にすばらしい力になるのです。それを
みなさんがやるわけです。そうしてやっていかないと、世界はつぶれてしまうんですよ。世界平和
1
の祈り一元ですよ。
世界平和の祈りの同志が多くなればなるほど、世界人類が傷つくのは少なくなって助かるのです。
他に方法はありません。
神の中に相対心はない
世界平和の祈りには、右も左もありません。神様が武力には武力をもって対せよ、というわけが
ない。平和を願っている想いは、神様のみ心に決っています。
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
神様有難うございます。
この祈りは大神様から来ている光に違いない。それに揺ぎがあってはいけませんよ。相対的に、
あいつをやっつけたい、あいつが攻めてくれば防がねばならん、というような心は人間心。業想念
の心ですよ。そんな心を少しでも持ってはいけません。持ったら”ああそれは間違っていたのだ、
139新天地の創造
消えてゆく姿だ、世界人類が平和でありますように”とやらなければいけない。
神の中に相対的な心があるわけがない。みんな兄弟姉妹。兄弟姉妹が殺しあう武器をもつ馬鹿は
ない。
アダムスキーも書いていますように、金星人が、もし地球人類と戦わなければならないようなこ
とがあったらば、戦わなければ死ぬようなことがあったならば、自分が死んでも戦わない。とハッ
キリいっていますね。そういうものなのですよ。
神様/ といって亡びるとしたら、その人は地球界にいるよりも、他の世界へ行った方がいいわ
けなんだ。そういう人は神様と一緒なんだから、地球界よりも、もっとよい処に行くにきまってい
るのです。
人をやっつけなければならない、なんていうのは世界平和の祈りには絶対にない。そう力んでい
る間はダメ。力みをなくして、すべてを神様の中に入れた時には、その人は絶対におかされるわけ
がない。おかすことの出来ない人間となるわけです。だから国でも同じです。すべてが世界平和の
祈りで神様の中に入っていれば、その国をおかすことは出来ない。絶対に出来ない。
それを断々固として信じて、あなた方は世界平和の祈り一念で生きて下さい。
140
生命自由にのびのびと
(白光誌昭和36年12月号掲載)
生命の自由
人間というものは神の子だから自由自在なのです。ところが今迄の宗教とか、修養とかあらゆる
生き方というものは、その自由自在性を奪ってしまって、一つの囲いの中に入れてしまって、人間
はこうでなければならない、こうしなければいけない、という風に決めてしまったのですね。
そう決めて枠の中で生きているものだから、みんな不自由になって、やりたいことをやらないで
我慢して、我慢して生命を縮めてしまったわけですね。縮めた上に宗教に入るとまた縮められてし
まう。お前はこういう心じゃいけない、こうしちゃいけない、という風にいわれますでしょ。それ
141生命自由にのびのびと
でやりたいこともやれない。
やりたいことがやれないということは、それでその想いが消えたわけではなく、やりたいのを我
慢したわけでしょ。我慢していると潜在意識の中に我慢した想いが溜っていきまして、それがたく
さん溜ると原子爆弾のようにグッと凝縮されるわけです。それがある縁にふれると、バンと爆発し
ちゃうわけです。
人間は生れて来てこの方、自分自分の軌道があって、その軌道によって廻っているわけですね。
だから親子であろうと兄弟であろうと夫婦であろうと、相手を押えて、相手を自分に屈服させて、
自分の思う通りに指導しようということは、それは神様のみ心ではないんです。
相手を自分の意志に従わせるということは、それが例えどんないいことであっても、それは神の
み心ではないんです。何故神様のみ心ではないかというと、神様が本当に力を発揮すれば、神様は
絶対で全智全能なのだから、フルシチョフがいけなかったら、ポンとフルシチョフの首を切るでし
ょう。毛沢東がいけないと思ったらポンと死なせることが出来るでしょう。ところがそういうこと
がないでしょ。悪いことをやっていても悪いままに自由にさせておく。いいことをしていても、い
いままにしておく。ただ人間の自由にまかせてあるわけですよね。サアそこが問題なんですね。
142
●
自由というのにも二つあるわけです。本当に生命を自由にして、みなが仲よく手をつなぎあって、
各々の立場で自由に生きられるような生き方をしているか、または、他の自由はみんな奪っちゃっ
て、自分達だけの自由や権利を主張して生きてゆく生き方の二つで、後の方は業なんですね。
みんなが自由に、生き生きと生きられるような生き方を自分がしていることは神様のみ心でしょ。
そこで私はそのような生き方を指導しているわけです。
相手を抑えない
そのためにはどうしたらいいかといったら、親子であろうと夫婦であろうと、兄弟であろうと友
達であろうと、そのやっていることを抑えてはだめですよ。それは失敗してもいいと思うんです。
間違ったことをしてもいいと思う。いい悪いじゃなくて、もう仕方がない。軌道を廻っているのだ
から、それをいくら抑えておっても、何かの縁でそれをはなすと濁流を抑えているようなもので、
かえってものすごく破壊力が大きくなってしまうわけです。それではだめだ、どうしたらいいかと
いうと、軌道をぐるぐる廻っている業というものの外に出す。外へ出すのじゃなくて、本当は本道
の中へ入れてしまう。神様のみ心の中へ入れてしまえばいいわけですね。
143生命自由にのびのびと
神様というものは何かというと、愛なんです。光なんです。自由自在性なんですね。ですからこ
ちらの光を向うにあてればいいわけですよ。
一人の人間が業につぶされているとしますね。お前はそうしちゃいけない、そんなことしちゃだ
めだ、そんな欲張ってはだめだ、と口でいっても、これは業を叩いているのだから、業はますます
頑なになって、光、本心を覆ってしまうわけです。それではいけないから、二人なり三人なり同志
がいて、お互いに知りあいの者が、この業を取るために、こちらから神様お願いします。あの人の
天命が完うされますように、どうかあの人が立派な人になりますように、という祈りの心を出すと、
祈りは光であり、光は神様のみ心だからその人の業をはぐわけです。業を薄めてしまうわけです。
祈る人が二人になり三人になり、このように団体になってくると、大勢の祈りの力が光になって、
一人一人の業を消してゆくわけですよ。
だから言葉で、いい悪いといってもだめだ、そうやって光をなげかけてあげると、いつの間にか
業がはがれてしまって、その人は神様の軌道にのれるわけです。というのは本心が現われるわけで
すね。そういう生き方を私は教えているわけです。そこが今迄の宗教や修養と違うところなんです
ね。
144
欠点をつかまない
今迄の宗教や修養というと、必ずその人の悪いところをつかまえるのです。あなた短気だから短
気を直さなければいけない。お前は妬みが多いから妬みを直さなければいけない。お前は意気地が
ないからそれではだめだ、とこうやるわけですよね。
そうやることはその人に悪いことを認めさせてしまう。ああ自分は短気でだめなんだ、自分は妬
みがあってだめなんだ、自分は気が弱くてだめだというように、自分が小さな小さな業の人間にな
っちゃうわけです。
そうではない。あなたは神の子なんだ生命は光り輝いているんだ。あなたは出せばどんな力でも
出るんだよ。あなたがやればどんなことでも出来るんだよ。ただし、神様につながらなければだめ
だから、神様の中へつながんなさい。神様というのはどういうことになっているかというと、守護
霊守護神としてある。祖先の悟った人が守護霊としてついている。その上神様そのものである守護
神がついていて、二つが協力して、分霊の自分にいい仕事をさせようと思って、神様のみ心を現わ
させようと思って、一所懸命に働いているのだから、その守護霊守護神につながりなさい。つなが
145生命自由にのびのぴと
る方法はどういうことかというと”世界平和の祈り”ですよ、と教えているわけですね。46
1
だから口でとやかくうるさく小言をいったってだめなんです。また業をはいであげるようにしな
ければだめですね。
業を押しこむ小言はだめですね。業を押しこむというのはどういうことかというと、自分の方が
これを教えてやろう、といって、対等に生命が流れてゆくのではなくて高みに立って、自分の業の
心で威張りたい心で、それではだめじゃないか、といったって、業と業とのぶつかりあいですから、
喧嘩になって、何いってやんだいうちのおやじは、とか、何だあの野郎生意気に、というように思
うだけで、業を押しこんでしまうんですね。そういうことはだめなんですね。
相手の立場に立って助け合う
愛でもって、相手の立場に本当になって、ああそうだなあ、あなたの立場になればそうだなあ、
しかたがないな。勉強するの嫌だろうな。お父さんだって勉強するのはいやなんだ面倒くさいから。
嫌だけれども、やらなければ偉くなれないだろう、だから一所懸命やろうよ、一緒に協力してやる
よ、という風にやれば、何だか味方になったような気がして勉強するでしょ。
それを大概の場合、夫でも妻でも、先輩でも後輩でも、みんな教えようとするのですよね。”あ
なた間違っている、それじゃだめじゃないの”とこうやるわけ。間違っているといわれると、その
間違ったことに姻まっちゃうわけね。”どうせだめだ、おれは” てなことになってしまう。そうい
うように業に掴まらせてはだめだから、業をとることをみんながやらなければならない。
自分の業も消すんだし、人の業も消すんです沿消すためには肉体の自分の力を借りて来て、守護
神さんよろしくお願いします。あの人の天命が完うされますように、という心でもって”あなたこ
うしましょうよ。私も一緒に一所懸命やりますよ”というようにすれば、うちの家内が一所懸命応
援してくれる、うちの夫は応援してくれる、うちの子供が応援してくれる、うちのお母さんは応援
してくれるという風になって、自分の力が倍加していくわけですね。
夫と妻の間でも、親子の間でもはなれてはだめですね。別な人間になってはだめです。生命とい
うのは一体だから、一体の境地にならなければだめでしょ。小言というのは離れています。愛とい
うのは離れてはいません。
愛は小言をいいませんよ。ああかわいそうに、一所懸命私もやりましょう、とこう思うのです。
小言というのは、子供なら子供を別にみる。夫なら夫、妻なら妻を別にみて、なんだあの子はだめ
147生命自由にのびのぴと
じゃないか。あの夫はだめじゃないか、あの妻はだめじゃないか、なんだあんなことをして、とい娼
1
う風にやるわけなんです。これはお互の生命が離れています。もう離れたものだったらいわない方
がいいですね。
胸がムカムカしているような言葉なら、いわない方がいい。いつでも何か注意の言葉をいう時に
は、胸がスーとしている時にする。ムカムカしている時には絶対にいってはだめです。ムカムカし
ている時には一所懸命祈って、そのムカムカをまずなくして、平心になって、心が平静になったら、
あなたこうしましょう、とか、あるいは子供に、お前こうしようよ、お母さんが一緒にやるからね、
とかこういうようにいえば、その言葉がそのまま相手に素直に入ってゆく。抵抗がなくなるわけで
すね。
自分の心臓がいつも揺れ、バクバクしているようであってはだめだ、と私はいうんですね。です
から心臓がバクバクしていっている言葉か、しないでいる言葉か、ということを考えることが大事
だと思うのですよ。
祈りの中でお互いの生命を生かしあう
私の教えというのは、人間お互いの生命を自由に生かして、生き生きと生きるということです。
ただ生き生きと生きる手前には、いろいろと過去世からの業があるから、間違ったことをするでし
ょう。失敗もするでしょう。しかし、それは消えてゆく姿として、赦してあげなければだめですよ、
というわけです。その悪いことがいいのじゃないんですよ。悪いことは悪いのだけれども、悪いこ
とを叩いたら、その悪いことがはがれる場合には叩いた方がよいでしょう。しかし概ね、カツンと
やるよりも、柔く、優しくジワジワジワと光を入れて温めてあげた方が効果があると、私の経験で
はそう思うんです。だから私はあまり叱ったことも怒ったこともないんです。ただ黙ってパンと柏
手を打って、神様の光を送っているだけですよ。
柏手がどうして光になるかというと、私の中にはなんにもないからですよ。あいつは馬鹿だとか
チョンだとか、そんなことは何も思っていないんです。その時は黙って柏手を打つ。すると光がピ
ューと入ってゆく。これをつづけて年中やっていると、業が自然にはがれてくる。
幽体にある業がドンドンはがれていくでしょ。すると中の本心がドンドン出てくるわけです。知
らない間に自分の運命がよくなるわけですね。
149生命自由にのびのびと
あせらないこと
150
人間の生き方としては、あせってはだめです。この平和の祈りなら平和の祈りに入っている人は、
平和の祈りの中で運命は決っている。平和の祈りというのは世界最高の祈りなのです。みんな人類
が平和になるということは、神様のみ心ですから、平和の祈りの中に入ったらもうその人は悪くな
りようがないわけです。入らない以前より悪くなることは絶対にありません。必ずよくなるに決っ
ている。
ですから、よくなるに決っていると思って、どんなことが現われても焦せらないで、悪いことが
現われたら消えてゆく姿と思って、一所懸命祈ってさえいれば、知らないうちに現われてくるもの
がドンドンいいものに変っていくわけですよね。そのうちにいいも悪いもそんなことは問題じゃな
くなってしまいます。この現象のいいとか悪いとかは問題じゃなくなって、いつも心が平安になる
ことだけを目指してゆくようになってゆくわけです。
〃平和
” のために働くということ
業想念を浄め去る運動
平和運動というと、衆を集めて会を開き、討論をし、決議案を出して、声明したり、反対賛成の
抗議をしたり、あるいはデモをしたりするように考えられがちですが、本当の平和運動というのは、
業想念を消し去る運動が一番で、業想念の波つまり神様のみ心に反する、愛と真というものに反す
る想いが一杯この世の中にある。争いの想い、憎しみの想いという不調和の想いが一杯ある。そう
いう想いがあるうちは、どんな決議を出してもだめなんですね。
やろうと思っても出来ない。みなさんも自分で体験するでしょ。自分では本当に愛したいのだけ
れど、愛せないというのがある。やろうと思うことがやれない。やらなければいけないな、と思う
151″平和”のために働くということ
ことがやれないことが随分あります。そのやれない想いというのは、やっぱり業なんですね。
そういう場合にどうやったらいいか。無理にやれば余計な摩擦を生じさせて、体にその影響が来
るとか、心が痛むとかなってくる。だから私達はそういう無理をしない。まず業想念を消し去る運
動をやっているわけです。第二段階ではどうなるかわかりませんよ。
現在世界平和を祈る会の第一段階としては、自分の業想念も周囲の業想念も、世界人類の業想念
も全部含めて、業の世界を浄めてしまうという運動なのですよ。
それにはどうしたらよいか。只抗議をしたってだめだし、鉢巻をして坐りこんでもだめでしょ。
只プラカードをもって歩いたってだめです。ただ祈ることより他にないです。
152
体を動かすことと本当に働くこと
人間というのはおかしなもので、言葉でしゃべったり、体を動かしてやらないと、働いているよ
うな気がしないけれども、実は寝ていても働いている。
眠っている時はあなた方は働いていないわけでしょ。肉体が動かないから。ところが眠っている
ということはどれだけの働きか。
毎日眠らないでごらんなさい。五六日眠らなかったら死んでしまうのではないですか。眠らない
ということを仮定してごらんなさい。どんなに苦しいかわからない。今晩も眠られない、明日もね
られない、眠られなかったら気狂いになるか、死んでしまいますね。眠れないでノイローゼにか
かった人は、わかっているけれど、眠れないことぐらい苦しいことはないらしい。だから眠っては
いけない、となったらとてもたまらないです。とすると睡眠ということは大事なことです。その時
間はうんと大事なわけですよ。
すると睡眠の時間は無駄をしているのかしら。働き者は眠っていると無駄をしたように思うので
す。ところが眠らなければ体が参ってしまう。眠っている間に体力が回復して、一日の働く力が出
てくる、力が湧き上ってくる。眠っている時というのは、働いている時間と同じように大事でしょ。
働いている以上に大事なわけ。
ところが自分は働いていない、肉体は眠っているんです。大事なことを自分が知らないでやって
いる。誰がやっているんでしょ。誰がこの脳の機械を休めてくれるのでしょう。ねようと思って眠
られるもんじゃないのですよ。夜になると疲れて自然にねむっちゃうんですよ。今晩はねてやるん
だ、やるんだ、とやったら、かえって眠られやしません。というのは睡眠ノイローゼの一つですよ
153″平和”のために働くということ
ね。騒
1
眠ろうと思わなくたって眠っちゃうんです。夜になればねちゃうんです。すると眠らせてくれ
る人は誰なんでしょう。そういうことを考えたことがありますか。
眠るのは平気だからなんでもなく眠ってしまうけれど、自然に眠ってしまうんです。自然の働き
というものを司っているのが、守護霊守護神なのですよ。守護霊守護神が肉体の休まっている時に、
一所懸命働いて、また明日の活力を蓄えさせてくれるのです。霊養素をうんとつぎこんでくれて、
霊魂をいろんなところへ連れていって、いろんな修業をさせたりして、起きている間より何十倍何
百倍の仕事を、ねている間にさせてくれるのです。それでまた起きて、肉体が働けるようになって
いるんです。
いいかえると眠っている間に百% の働ける原動力を作っておいて、起きて一% の働きをするわけ
なのです。だから肉体がガタガタと働いている時だけが働いているのではなく、眠っている時のほ
うが余計に働いているくらいなもんです。
祈りからすべてを発する
そこで今度は祈りということになる。黙って坐って祈っているから、全然働いていないかと思う。
ところが祈っている時には、肉体がガタガタ働いている時の何百倍何千倍というような働きをして
いる。生命がうんと働いているのです。宇宙に向って働いている。光をうんと蓄えている。光をう
んと蓄えてあるからこそ働ける。
話をかえますと、資本金を一億円親から貰ったとする。その一億円を使って働く人は、自分の働
きが少くても、一億円が利に利を生んで、うんと働きをします。
百円親から貰った人がある。百円の金じゃ働けないでしょ。利を生んだって百円にいくらつきま
す。一所懸命体を働かしてやっても、その百円はなかなかふえません。
祈りとか睡眠とかいうものは、そういう力のエネルギーを蓄えておく時間なのですよ。その蓄え
によって、肉体の働きがチョコッと少し働いても、すごい働きになるわけなんです。それを蓄えも
何もしないで、只肉体だけを動かしたって、百円の資本で働くのと同じで、たいした利益はないん
だ、とこういうことになるんです。
やっぱり肉体が働く予備運動としても、蓄積する資本としても、祈りというのが大事なのです。
祈りがなくては、肉体は本当の働きが出来ないのだ、資本が少いから働けないのだ、祈りによって
“平和”のために働くということ
155
神様の霊的大光明を蓄積しておいて、それで働き出せば、肉体を忙しく動かさなくても、素晴しい56
1
働きが出来ているんだ、ということなんですよね。
他の平和運動のように、声明を出し反対だ、デモだとやったって、そういうものは、業消滅とい
う根本的働きに、なんの力にもなりはしない、と私は思うんですよね。
私達の運動というものは、原水協やその他の平和団体のやり方とは全然違う。祈りが根本という
より、祈りがすべてですよ。祈りからすべてが発生するという、そういう運動なのです。
柔和で明るく暖く
(白光誌昭和37年1月号掲載)
霊性開発の真意
ヘヘへ
近頃は行者さんのようなのがいっぱいふえまして、それでわたしはみろくだ、わしは弘法だ、わ
しはキリストだ、わしは大神様だ、というのがたくさん出ているんですね。そういうのは若干みな
霊力があるんです。霊力があるために、前に坐ったら体が動かなくなっちゃったとかひっくりかえ
っちゃったとか、何んといいますかね、バラモン外道ですね、ああいうような力をもっている。
ひ
そういう力がちょっと作用すると、何か奇蹟みたいなことが起こるんですね。それに魅かれて、
大変偉い人だと思ってついてゆく。すると何か見えてきたり聞こえてきたりする場合が随分あるわ
157柔和で明るく暖く
けです。何か霊力を授かるわけです。そうすると、それがいかにも本心が開発した、霊性が開発さ
れたと思ってしまう。これはとんでもない間違いなんですよ。
霊性の開発というのは、ものが見えたり聞こえたりして、人のわからないことがわかったりする
のではないんです。それは単なる霊能に過ぎないのですよ。一つの技術ですね。よくよく憶えてお
いて下さい。これからこのような行者がたくさん出て来て、みんなの心を掻き回しますからね。そ
れで本当に霊性を開発し、神様のみ心と一つにつながるということはどういうことかというと、自
分の心が安心立命してゆくことです。
少し位い変ったことが起こってもそんなに驚かない。人が怒らせてもそう怒らない。地震があっ
ても火事があっても、原爆がなんとかといっても心が安らかでいられる。そういうような安心立命
する姿に向かってゆくのが、本心の開発なんです。
今迄不安だったのが、だんだん少なくなってゆき、やがてなくなってゆく、何があっても驚かな
くなっていく、という風に、どんなことがあっても心が安らかでいられる、というような教えが、
本当の教えであり霊性開発の教えです。
霊性が開発されるにつれて、見えたり聞えたりする場合がいいのならそうなるだろうし、人より
158
霊能が出た方がいいのなら霊能が出るでしょうし、自然に神様のみ心のままになってゆくのです。
それを本末転倒して、霊能力というか、そういうものが出ることが先ではないんですよ。それを先
にやったならば本心の開発は出来なくなります。そういう人はたくさん行者さんでいます。それは
危いこと限りない。
これからいろいろなこと、つまり、ちょっと霊力があるから来てごらんなさいとか、あの人は素
晴らしい人です、すごい力です、とかいわれて行ってみて、ちょっと体が動かなくなったり、稔な
らされたりすると、この人は偉かったというような、なんていいますか、悪魔のささやきのような
言葉にのらないように、お互いが戒しめあって、世界平和の祈り一念で本心の開発、いわゆる安心
立命してゆくような境地に自分達をもっていかなければいけませんよ。
幽界の生物も共に救われる
霊覚でみますと、本物は少ない。そして変な方が多いんです。それは何故かというと、ひそんで
いた業想念がみんな現象界に浮び上っているのです。もっとくわしい話をすれば、皆さんがこの肉
体界に生れてますでしょ。肉体界に生れているということは、とても大したことなんです。有難い
159柔和で明るく暖く
ことなんです。
人身得難し、といいますね。人の体に生れてくるということは得難いことなのです。魂の練磨、
修業に一番いいのが肉体界なんです。ところが過去世の因縁でもって、肉体に生れられない人間、
生物、人間といってもいいんですが、そういう過去世の因縁で肉体に生れないような業を積んだよ
うな人がいるんです。たくさんいるんですよ。肉体に入っていれば楽なんだけれども、そうじゃな
くて幽界でたくさん迷っていて、悟りたい悟りたい、なんとかしたいと思うんですね。思うんだけ
れども幽界の波というのは激しいでしょ。廻転するスピードが早いから業にどんどん動かされ流さ
れてしまう。それは肉体界のように時間がないから。この肉体界には時間があって、悪いことをし
たとすると、あああれは悪かったな、これは今度はこうしなければいけない、と思いますね。そう
いう風に反省する機会が随分あるでしょ。ところが幽界というのは反省する機会がないんです。波
が早すぎてね。
そこで手っ取り早く人間の肉体の方にピューッとついちゃって、幽体についてその中でもって、
この肉体を利用している。そして自分の業を消そうとするわけですよ。わかりますか。そうすると
つかれた人間は災難ですよね。病気になったり不幸になったりする。あるいは霊がかりになるんで
160
す。病気不幸ならハッキリわかるけれども、霊がかりになって何かものがわかって来たりする。あ
るいは人をポンとやると自分の思う通りに、その人が動いたりするようなことを見せるわけです。
幽界の生物がですよ。
そうすると自分が、このバカが思い上がっちゃって、自分は神様の使い、神様だと思ってしまっ
て、わしは何々の神様、わしはみろく、とこうやってしまうんです。これには力がありますから、
そうするとああ神様だ、という風に人がついて来るわけです。巧みにこの幽界の生物に利用されて
しまうわけですよ。
これでは誰も悟れないんです。幽界の生物も悟れない、いい気になっちゃうんですから。立てら
れるからね。すると立てられた人間も悟れないし、ついて来た幽魂も悟れない。しかしこれも又前
生の因縁でそういう所にいくのだからしかたがないけれども、皆さんのように世界の平和の祈りに
入って、もう相当やっている人は間違いないと思うけれど、念のためにお話しするわけです。
おど
そういうような只霊力でもって、人を動かす威かす、あるいは何か奇蹟をみせるようなことに魅
かれないような、そういう興味を持たないように努めてもらいたいですね。そのためには世界平和
の祈りをもっともっと余計やる、ということが大事ですね。
161柔和で明るく暖く
うじんつう
漏尽通になろう
162
本当の本心の開発、霊性の開発ということは、自分がいつでも安らかな、柔和な、温かい心でい
られるような人間になること。これが最大のことなんですよ。なんにも把われなくなること、これ
うじんつう
を 漏尽通といいます。
お釈迦様の教えに六神通というのがありますね。天眼通、天耳通、神足通、宿命通、他心通とい
う神通力がありますけれど、その中で一番大事なのは漏尽通といって何物にも把われない、という
ような悟りが一番大事な神通力になっているんです。
何物にも把われない、というのはちょっと見ると神通力ではないようでしょ。何も聞えたり見え
たりしてわかったりするんじゃなくて、要するに何んということがない。あなたのうしろに何かつ
いてます、そんなことをいうわけじゃないんだからね。何んにもしない。しかしその人は悟って静
かに何物にも把われない。何をいわれてもニコニコと、そうですかって平気でいられるような、そ
ういう人間になっている。しかしその人が果たして人の運命がわかるかというと、そんなことは問
題。てはないかもしれない。
しかし人の運命がわかったり、ものが見えたりする人で、しかもいらいらいらいらしたり、機嫌
が悪かったりする人よりも、何も見えなくたって聞えなくたって、自分がスーと澄んでいて静かに
している人の方が上ですよ。これを間違いなさんな。この心境があった上に、人の運命もわかり、
人の指導も出来ればこれが一番いいんですけども、まず第一番に漏尽通が先です。
要するに把われないということ、安心立命の境地で、いつも柔和な気持でニコニコして、例えば
地震があっても、雷がすぐそばに落ちても、爆弾が落ちても平気な顔をしている、平静でいる、そ
ういう人間になるのが第一番ですよ。
霊能力は自然に現われるもの
考えてごらんなさい。何か見えて聞えて運命がわかったとします。その中の運命でもわかってご
らんなさい。例えば自分の子供なら子供が、何年何月で死んでしまう。五年位い前にわかったとし
ますね。うちの子供が死ぬのはいつだろう。まだだあ、だんだん近づく。とやっていたら、親の方
が先に死んでしまいます。それを想っていたらくたびれてしまうものね。それがわからないことが
神様の愛なんですよ。その場にならなければわからない。
163柔和で明るく暖く
悲しみは短い方がいい。長い間悲しんではいけない。又自分なら自分の生命にしても、いつ死ぬ餌
1
いつ死ぬと、いつも死ぬことばかり考えてごらんなさい。たまったもんじゃない。悟っていないの
に、漏尽通になっていないのに、運命がわかったら苦しいですよ。
私なら私のような人がいますね。それで例えば悟っていないで、年中心がいらいらするようだっ
たら、大勢の人々が来て、先生いかがでしょ私の子供は… … もうまいっちゃいますよ。もう十人も
はいったらフラフラになっちゃいますよ。そうでしょ、あああの人はこうなってああなって、と思
っているでしょ。その人の顔を見るたびに嫌になってしまいますよ。その運命を直すことも出来な
ければ、何にも出来なかったら苦しいでしょ。だからそういう力がない以上は、あまりものなどわ
からない方がいいんです。それがそんな力がないくせして、予知能力や予言能力をほしがる人が随
分世の中にはあるんですよ。
人より何か力がほしい、人より霊力がほしい、人よりぬきん出てみたい、そういう安易な気持で
いると変な幽界の生物がきて、ちょっと霊力などが出て来るんです。しかしその代り心はいつでも
波立っている。いつでもいらいらしている。巷間の行者という人は大体そうです。何か霊能力があ
るような人は普通のような顔をしていないで、何か変な顔をしていて、何かイライラといらっぽい
怒りっぽかったり、機嫌屋で、平然とした曲豆かな顔はしていないんです。
だから皆さんの目指すところは、世界平和の祈りなのですね。世界人類が平和でありますように、
と祈ると同時に、自分の心が平和でありますように、いかなる事態があってもいつも平和でいられ
るような人間になるための、世界平和の祈りなのです。それを胸の中に深く畳みこんで下さいね。
それが第一で唯一無二ですよ。あとの霊能とかなんとかいうのは自然について来ます。自然にわか
ってくる。
それは斎藤さんだって坂井さんだって村田さんだって、別に霊能を得ようなんて思って修行した
わけじゃないでしょ。みんな安心立命しようと思って、みんな立派な人間になろうと思って修行し
た。そしたらそれと同時に霊能力がついて来ちゃったわけね。知らない間について来た。そういう
ものなんです。それを霊能霊能ってやったら、いつでも片半端な半分の人間になってしまうのです
ね。
感情想念をこえることを第一に
私が機嫌がわるくって怒っていて、イライラしているのを見たことがありますか。ないでしょ。
165柔和で明るく暖く
いつだってニコニコニコニコ。たまにはニタニタするかも知れないけど(笑) ニコニコしているか6
1
ら、いつも先生は苦しみがないといったらそんなことはない。毎日三百人位いの人が来ているわけ
です。それで来る人がお金が儲かってしょうがありません。ですから先生に寄附しましょうなんて
のは(笑)あまりない。みんななんとかして下さい、というので、夫婦の間の問題を持ってくる。
何かかんか問題ばかり持ってくるんです。解決策をききに来るんでしょ。私など人より余計に感じ
るんだから胸が痛い、だからやせちゃってふとらないんです。胸が痛いけれど、その痛さは痛いと
いうままの想いの中に入っているわけではないんです。この人の幸せを祈りながら、いろんな方法
でもって光を与えたり、言葉て教えたり、いろいろやってゆくわけでしょ。
本当は向こうがいらいらしたら、こっちもいらいらしたくなるところなんですよ。向うが悲しん
だら、こっちも悲しんで、悲しみに沈んでしまうところなんだけれども、それが沈まない。浮き沈
みがないんですね。どういうことかというと、これは漏尽通なんですね。
要するに何んにも心に波が立たない、そういう心境になることがやっぱりいいでしょ。そうなる、
為に世界平和の祈りをやるんですね。私がいくら.ても助けだちしますから、もうそれを唯一の目的
にして下さい。自分の心を安心立命させる。どんなことがあっても波立たない。感情に負けないと
いうこと、感情想念を超えて、いつでも明るい涼やかな、いい気持でいられるような人間になるこ
とを、只一つの目的として、それだけを目指して行って下さいね。
そうすると自ずから自分の運命は開いて来ます。それと同時に人類の運命も開いていく。その他
になんの種も仕掛けもないんですよ。
167柔和で明るく暖く
168
感情の純化
(白光誌昭和37年2月号掲載)
あらゆる感情を神の中に
人間が立派になるためには、感情の純化ということ、想いを清らかにすることが一番大事なこと
なんです。ところが感情というものは、勘定あっての銭足らずでね。(笑)かんじょうがあるとか
えってうまくそろばんが合わなくなるようなことなんで、どっちのかんじょうもむずかしいの。てす。
そこで感情の純化をするために宗教というものがあるのです。
感情が純化されて、神様の光、神様のみ心と人間の想いとが一つになれば、地上天国が早速現わ
れてしまうんだけれども、この世の中というものは感情の波というものが非常に多くありまして、
それが純化されていないために乱れてしまうのです。そこでこの統一会があるんですよ。
この統一実修会をどうしてやるかといいますと、やっぱり感情の純化のためにやるわけです。感
情の純化といっても、感情をなくすということではないのです。例えば恐れる想いがある。怒る想
いがある。妬む想いがある。悲しむ想いがある。喜ぶ想いがある。こういった想いが全然なくなっ
たとしますね。さあどういうことになるでしょうか。ここはむずかしいんですよ。今の肉体の生活
の中では全然感情がなくなるということは考えられないんです。また全然なくなるということはな
いのです。それではこの世の生活が成り立たないわけです。そこで感情が純化されるという言葉に
なるわけですね。感情が浄まってくる。
浄めるためにはどうしたらいいか、というと、一ぺんあらゆる感情、善い想いも悪い想いも、恨
む想いもあわれむ想いも、すべて善悪かまわず神様のみ心の中に入れてしまわないと、本当の純化
された感情になって来ないんです。喜ぶ想いだからいいわいいわで、あるいは人をあわれむ想いだ
からいいわいいわっていうことになり、野放図になりますと、これがまた片一方になってしまうの
です。
169感情の純化
愛情と家庭の調和
170
あわれみの想いなんていうのは余計にそうなんですよ。人がかわいそうだ、あああの人は困って
いてかわいそうだ、助けてやりたいなと思います。そういう心は愛の心から出ている愛情ですね。
だからいいわけです。いいわけなんだけれども、これが度を過ぎますと、自分の家庭を全然かえり
みないで、他人の家庭に深入りして他人を救ってゆく。あるいは社会事業に没頭する、ということ
になって、自分のものを全部投げ出してやってしまう。そうすると自分のお膝元の家庭というもの
は破壊されてくるわけですよ。
自分があわれみの心を起し、あわれみの心で人を助けることに興味を持ち、助けることに喜びを
感じます。それはいいことなんですけれども、度が過ぎてまいりますと、今度は家庭内というもの
がうまくいかなくなってくる。例えば奥さんにそういう感情がないとしますね。それほど人を助け
たいというより、自分の生活は自分でやってゆくんだ、しかし人の生活はみない、人はそれぞれ自
分でやればよい、お互いが自分でやっていかなければいけない、という自論を持った奥さんがいる
とします。旦那さんの方はそうではなくて、能動的に人を助けたい、困っている人を助けなければ、
余っているものは分けなければ、という気持だとします。そうしますと旦那さんの方はよい気持で、
人を助けに自分のお金や余ったものを、どんどんやってしまう。テレビを買うのを買わないでやっ
てしまうという形、奥さんだとか子供だとかいうのは、自分の生活は自分で維持していくのだし、
人に迷惑をかけているのではないのだから、ある程度の贅沢もしたい、ある程度のゆとりもほしい、
というんで、旦那さんがあまり人にあげてしまうのに、いい気持がしなくなってくる。だんだん自
分の富が減ってゆく感じがするわけですね。そうすると、あなたは家のことはかえりみないで、人
のことばかりやっている、というんで嫌味をいい出す、というようなことになって、しまいには旦
那さんは面倒くさくなって、社会事業なら社会事業に入ってしまえばいいような感じを持つんです
ね。
一灯園という団体がありますね。西田天香という人は偉い人です。だけれども、そこに入ってゆ
く人達はどういう形で入ってゆくかというと、自分の家を捨ててしまうんですよね。自分だけは打
算的な生活を一切ぬきにして、他のことは何も考えないで入ってゆくわけですよ。自分は気持がい
いです。お金のことも何も考えないで、下座について人のために尽したりなどする。魂の磨きにな
ると思うけれども、自分に荷せられたるこの世の使命、家族を養うとか、妻や夫にやさしくすると
171感情の純化
かいう、そういうことからぬけてしまうんですよ。その責任を果さないわけです。そうすると自分72
1
でいいことをしているつもりであっても、家庭内では悪い影響を及ぼしているということは、片半
端であるということです。折角の愛情、あわれみの心というものが、やっぱり半端になってしまう
んですよ。そこであわれみの心、愛情であっても、よく考えないと行き過ぎてしまうわけなのです。
ですから愛情というものも、あわれみ、喜び、悲しみなどの感情も、人類愛のような感情も、す
べて一度、神様のみ心の中に還えして、今度は神のみ心の方から改めて頂き直して、その行いに現
わしてゆかないとだめなんです。行いに神のみ心を現わしてゆく時に、はじめて感情が純化された
ということになるのです。
愛ということ
世界平和の祈りというのは神様のみ心です。世界人類が平和である、というのは神様の願いなん
ですから、神様のみ心である祈り言の中に入ってゆきますと、神様のみ心の中に自分の想いが大き
くひろがって、神様のみ心と一つになってゆくわけですよ。神様のみ心と一つになって、改めて自
分の体を通して、行いとして現われた時には純化された感情になるわけです。だからその時かわい
そうだな、お金をやりたいな、と思ってやるのは結構なんです。。あるいはこれは断った方がいい
とピタッと断るのも結構なんです。
ところが人間というのは大体気が弱いものだから、何か人によく思われたい、悪く思われたくな
いのですよ。だから何か頼まれて無理なことがあっても、それを断わりきれないんです。断るとい
やな気持がするものだから、いやいやながらも無理にお金を貸したり、家を貸したりするわけです。
いやいやながらあげたというのは愛にならないんです。嫌でやったり義理でやったりしたことは愛
にはなりません。
愛というのは自ずから湧き上って来て、しなければならない想いでやることなんですよね。いや
いやあげたお金なんて生きないんです。それは愛情ではなくて、自分が悪く思われたくないという
臆病です。それは純化された感情ではなくて、汚れた感情なのですね。
愛というのはどういうことかというと、分れていたものが合うということなんですね。天と地が
合う時には、神が人間をあわれみ給う時、人間の方からいえば信仰して神様の中に入ってゆく、神
様と一体になる。それが天地の愛でしょ。それから横の愛は、家族が愛し合う、あるいは友達が愛
しあう。隣人愛、人類愛が横の愛です。分れているものが合う時に愛の心が起るのですからね。そ
173感情の純化
して天と地の合う時に、ああ神様、と信仰心の想いが出るわけです。これが縦と横に十字になる。拠
1
それが狂いなく動くためにはどうしたらいいかというと、十字交差の真中に自分を置かなければな
らない。
神様に片寄りすぎてもいけない
神様神様と神様に片寄りすぎてしまうと、この世の生活はみんな偉い人ばかりいるわけではなく
て、迷った人、唯物論者もたくさんいるのだし、信仰のない人もたくさんいるんだから、他の人と
の近所づきあいが出来なくなりますね。神様を呼ぶのは心の中のことで、いちいち誰彼かまわず神
様といったんじゃ、あの人は変な人だ、つ・きあいにくい、とこうなってオミットされる。
会社になど勤めていてもそうですよ。私は経験があるけれども。私は唯物論者の中央労働学園、
つまり労働問題を取扱った所にいました。それで私は朝から晩まで神様のことばかり説いていた。
そうすると全然みな相手にしない。
労働組合の会などがあるんですね。私も出ている。すると一人が〃ストライキをやろう!”とい
うのです。方々に共産党がいるんですから片方で”賛成!”又片方”賛成!” とみんなでもって賛
成する。その気に呑まれて誰も声が出ないのですよ。私は神様一点ばりでしょ。闘争など絶対にい
けないと思っていますから、どんな争議もいけないと思っていますから、”反対!”と私一人でや
る。(笑) そうするとこっちの共産党の人達が”神様ひっこめ!” (笑)なんていうんですよ。結局
論争になってしまうんです。しまいに私が部屋から出ていくと、共産党の連中が私を取囲んで喧嘩
をふっかけてくるような始末なんです。
お前はだめだ、というと喧嘩になっちゃう、向うは何いってやんでい、となるでしょ。今の世の
中は唯物的な無信仰と信仰者とが分れているわけですね。信仰者の中でも何の神様、あっちの神様、
こっちの神様だなんていろいろ神様があり、仏様があって分れている。神様信仰の人達だって分れ
ているんだから、無信仰者、唯物論者と信仰者とが一つになるのが非常にむずかしいのです。この
むずかしいものをよくしなければだめなのですね。ですから神様神様と言葉であまりいい過ぎると、
心の中ではいいのですよ、あのヤロウおかしい、となる。ですから中労委の時は誰も仲間にならな
かったのですよ。私は一所懸命神様を説いているけれども、その時だれもついて来ない。社会党と
共産党なのだからついて来ない。それこそ変り者ということになってしまう。それでは何にもなら
ない。
175感情の純化
すべてが調和するために
176
だから心の中でいつも神様といっていて、態度としては日常生活をあたりまえに、常識をはずれ
ないように、誰からみてもおかしい人間でないように思われなければだめですよ。夫と妻がありま
すね。夫が唯物論者で神様など一つも思わない。妻の方は思っているとする。明けても暮れても五
井先生が、神様がと、神様のことばかり話していてごらんなさい。あんまりやられると夫の方はい
やになっちゃう。妻などに負けていられるものか、つまらない。(笑)すぐ素直に入れるものを入
れなくなっちゃうんですよ。
そこですべてが調和するためにはどうしたらいいかというと、自分の意見というのはあまりいわ
ないで、行いで見せるのがいいんですね。
信仰の一番根本の問題は愛でしょ。愛がすべてを癒すのだし、愛がすべてを解決するのです。愛
というのは言葉でいうことではないんです。行いに見せることなんですね。夫が唯物論者なら自分
が夫の通りに動いてやって、動いているうちに自然に夫が同化して来る。この頃妻はどこかへいっ
ている、お祈りしているらしいけれど、何だろう。近頃ばかにやさしくなった。(笑) この調子だ
とこの先生というのはどうも本ものらしいな、(笑)ということになるのですよ。
信仰に通っていて、だんだん妻が横暴になって、わがままになって夫を尻にしいて”あなたのい
うことは間違っているわよ”とやったんじゃ、そんな信仰は困るでしょ。そういうのは信仰でもな
んでもない。まず身近かの者が自然について来るようにならなければだめでしょ。まず一番身近か
の者というのは、夫であり、妻であり、子供であり親であり、兄弟姉妹です。その人達が”ああこ
の頃変って来たな” という風にならないとだめですよ。信仰をやったために、家のことは構わない
で年中あけている。何か知らないお経をやっているんでは、家の者は調和しないでしょ。だからま
ず第一番に愛の行い、いいかえると思いやりなんです。
思いやりと真理
思いやりというのは、こうやったら相手が痛むんじゃないかしら、こうやったら相手が苦しむん
じゃないかしら、これは真理の言葉だけども、まともにいったならば相手は今迄やっている行いが
悪いから、あんまりピタリといきすぎて心が痛むのじゃないかしら、というわけです。だから私な
ど人に会いますね。”今日は”と来る。ああこの人は大変な人だな、と思うけれども黙ってニコニ
177感情の純化
コして「あなたはいい方ですね」とこういっているんです。いい方ですね、なんていわれると、向
うはギクッとしちゃって、いいことをしなければならないでしょ。その他は何もいわずにニコニコ、
ポンポン、ハイさようなら、と帰す。(笑) 二度目三度目と来る。今に先生がお前のような悪い奴
は、ときっというかと思って向うは待っているんだ。ところが一向にいわないで、私がニコニコ笑
っているからしまいにはわけがわからなくなって、コンニャクみたいになって来ちゃうんですよね。
(笑)先生なら何んでも話せるというんで、自分の方から「実は先生、私はこういうことをしてお
りまして、なんとも申訳けないから神様におわびしてくれ」とやってくるんですよ。「ああそう。
あんたのいうのを待っていたんだよ。それじゃその罪は私が引受けようじゃないか」というんでお
浄めするでしょ。するとこの人はだんだんよくなってしまう。
みんなそうであって、この世に生きているからには、いろんなゴミや芥を背負っているわけです
よ。みんな生れかわり死にかわりしているから、いろんな業をしょっているのね。はじめから神様
そのままなんていう人は殆んどないんで、大半がゴミをつけている。そういうことを考えないとい
けませんよね。
誰でも彼でも神の子というけれど、神の子というのは中味のことであって、まだ神の子の現われ
178
ている人は少いのです。現われていない人が多いのだから、そういう人に向ってあんまり真理をハ
ッキリ説くと、自分が苦しくなるですよ。
今迄の宗教というのはそうなんですよ。お前の心がそういう欲望に充ちているからだめだ、お前
が誰だれを拝まないからだめだ、お前がどうしないからだめだ、とこう来るのですよ。これは宗教
の悪い癖です。それで説いている人が偉いかというと偉くないんだ。愛が深くなければだめですよ、
といった人が、実は愛が薄くて、いろいろ人をいじめたりしていることがあるんです。だからそう
いう声の言葉ではなくて行いなんです。行いが自ずから人をひきつける、人の心を和やかにする。
あの人と会っているといいことをしなくてはいられない、とこういうような行いにならなければダ
メでしょ。そういう行いになるためにはどうしたらいいかというと、やっぱり祈りになってくるの
ですよ。
消えてゆく姿で世界平和の祈り
人間はみんな光の玉だけれども、この地球界におりて来て働いている間に、いろいろ地球のゴミ
がたかって、光をまともに放射していないわけですね。ゴミが邪魔するわけです。だからああ短気
179感情の純化
を起しちゃいけないな、妬み心を起しちゃいけないな、愛の心を起さなければいけないなと思いな
がらも、自分のソロバンをはじいちゃうんだね。これを向うにやったらば俺の方が少くなるから損
だから、全然やらないのもいけないから、千分の一ぐらいやっておこうとやるわけですよ。何か欲
張ってしまう。それもこの世に生きている間は仕方がないと思う。波があるんだから一遍に出来は
しないんだからね。そこで私は消えてゆく姿というんです。
今怒りの想いが出たとする。ああ今自分が作った業じゃなくて、過去世からの神様から離れてい
た想いが現われて消えてゆくのであって、今の自分が悪いのでもなければ人が悪いのでもなくて、
みんな消えてゆく姿なんだ。人間というのは神の子なんだから、神様から流れて来ている生命なん
だから、悪いことはないんだ、もし目の前に悪いことが現われたら、それは自分と相手と環境の中
で、消えてゆく姿の業が今の目の前に現われて消えてゆくんだ、とこうやるわけでしょ。だから自
分がいらいらとしても、普通宗教をやっている人は、ああこんなに宗教をやって、こんなに一所懸
命教えをきいていながら、どうしてこんなにいらいらするんだろう、どうしてこう自分は妬み心が
起るんだろう、自分はどうして臆病なんだろう、とこう思うわけですよ。それで自分はダメなもん
だ、とやるでしょ。だめなもんだという想いが神様の光を又消してしまうんだ。完全円満を否定す
180
るわけだから。そうするといつまでたっても業がぐるぐるまわって、輪廻転生してゆくわけですよ。
それではだめだと私はいうんです。
ですから私は現われて来たものはみんな掴まえてないで、だめだもいいだもないから、それらを
一切合財”世界人類が平和でありますように” と世界平和の祈りの中にどんどん送りこみなさい、
そうすると世界平和の祈りの中にある救世の大光明が、それをみんな浄らかに消してくれますよ、
とこういうわけでしょ。個人的にあえば私は柏手で浄めますよ。
みんな自分というものは一遍捨てなければいけない。自分を捨てるからには、自分の悪い想いも
全部捨てなければだめですよ。いいことをしているからいいというのではダメなのです。”私は去
年は随分人を助けた、いいことばかりした。今年はのんびりして悪いことをしたっていいだろう”
(笑) そうなってしまう。徳を積んであるからいいだろう、そんなことはない。徳はどんどん減っ
てゆくんだ。だからこの世の中で家庭においても無事に暮している、お金も随分ある、地位もある、
子供もいい、何もいうことがないという人がありますね。そういう生活は過去世に積んであった徳
がそこにあらわれてくるわけになる。現われて来たものはそのまま減るんだから、善業も悪業もど
んどん減ってゆくわけです。だからいいことをそのままつづけていかない限り、どんどん減って最
181感情の純化
後にはバチャンといってしまうんです。あるいは霊界へ行ってやられるんですね。82
1
自分がいかにいい職にあろうと、いい地位にあろうと、家庭が円満であろうと、やっぱりいいこ
とをつづけなければならない。
いいことの最大なものは何かというと、神様に感謝することです。神様有難うございます。いい
かえるなら、
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊さん守護神さん
神様有難うございます
という想いでいつもいれば、それはそのまま光を放っているんだから、そのまま徳を積んでいる
ことになっているんです。いい地位ならいい地位のままで、家庭が円満なら円満のままで、そのま
までズーとゆくわけです。
心謙虚に神の中に入ろう
大概の場合は何も困ったことがないで、信仰をすすめられると「いいえ、うちはお蔭さまで何も
困ったことがありませんで、何も神様にすがることがないんでございますの」とこういうことにな
る。(笑)神様にすがることがないって、お前さん自分の生命はどこから来ているの。生命は神様
から来ているんですよ。神様がパッとはなせば生命はなくなってしまうんだからね。神様の中から
来ている生命なのに、一番肝心なものを忘れてやしませんか(笑) っていうんですよ。それを神様
の生命を忘れて、私は神様のご厄介になっていない、というのです。まあぬけぬけとよくいえたも
んだと思う。(笑)神様にご厄介になっていないものが、この世の中に虫一匹だってあるものか。
全部神様から来ている。その神様に何もお願いすることがございません、というのをみると、私は
この人はかわいそうだなと思う。
病気にあったり災難にあったり、いろんなことがあった人の方が、すがる力が強いからわかりま
すね。その方が幸いかも知れない。しかし何もなくて、家庭も円満で地位もあってお金もあって、
しかも神様につながっている人はなおいいと思う。悪いことなしでそのままいっちゃうからね。
183感情の純化
だからいつの日でもどんなことがあっても、心を謙虚にして神様の中に入って、神様のみ心とし
てこの世に出ていかなければだめですよね。そのためには毎日日常茶飯事の間で、ご飯を食べる前
も世界平和、食べ終っても世界平和。ねる前も世界平和、起きる時も世界平和。電車の中でも世界
平和。歩きながらも世界人類が平和でありますように、というように、いつでも世界平和の祈りの
中に、祈り言を通して神のみ心の中にスッポリと入っていることが大事なんです。そして神様のみ
心の中から改めて行動してゆく。いい想いも悪い想いも一度すべて世界平和の祈りで神様の中にお
還えしして、神様の方から頂き直してゆく時、感情というものは純化され、その行動は愛になるの
です。
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