分かれたものが一つになる
(昭和35年2月25日)
飯田橋・東京割烹女学校にて
イデオロギーよりも祈りで一つに
今日は何をお話ししましょうか。皇太子に赤ちゃんが生まれたことですから、天
皇ということについて、少し説明しましょうか。
天皇というのは、日本国の中心として、肉体に現われたのが天皇というのではな
(注4)
いのです。霊魂魂魄(れいこんぱく)として人間に現われている、その一番の真中にあって、すべてを
統一するところの役目を持ったのが、本当の天皇なのです。
昔、人類が始まった頃は、世界が日本という名前で一つだったのです。それが皇
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子がどこそこの島にいった、大陸に派遣されていった、というふうに各国に分かれ
ていったのです。
はじめは言葉も一つだったのです。それが皇子たちが各地に行ったことによって、
各国民族に分かれ、言葉も分かれていったのです。霊感でみてもそういうことなの
です。だから天皇はただ日本国の中心であるというわけではなく、本当は世界の中
心になるべきものなのです。
ところが肉体の天皇というものと、霊としての天皇とがちぐはぐになってしまっ
て、本当の天皇の姿が今まで現われていなかった。そこで単なる日本の天皇であっ
たり、あるいは天皇が隠れてしまって、時の幕府が権力を占めて、天皇はまるで置
き物になってしまい、天皇が本当の天皇の姿を現わしていなかった。
天皇の光をくもらせていたその曇りとは、どういうものかというと、日本なら日
本国民の想い、人類なら人類の間違った想いというものが、すべて業想念になって、
天皇であるべき霊のその光を発揮せしめなかった、掩(おお)ってしまって本当の形を現わ
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していなかった。それが今の昭和の天皇の時代になって、業が消(注5)えてゆく姿として
現われ、戦争で負け、国民も苦しい生活をしたりして、今日までに至ったわけなの
です。
皇太子が成人して、結婚なさった。
結婚ということでは、いとことか親戚とか血のつながりの近い人とが結婚すると、
科学的に子や孫にあまりいい結果が現われない。天皇家もその例にもれず、あまり
近親結婚が重なって、血のまじわりの濃い者同士が結婚しているものですから、あ
まり上等の人が生まれなかった。悪いけれど、本当に上等でなかった。その慣習が
皇太子によってピリオドを打たれた。
霊の世界でいえば、みんな肉体があるのですが、肉体的には血のつながりの全く
離れた美智子様という人が現われて、結婚なさった。美智子さんが妃になられたこ
とは、日本にとって、世界にとっても大革命なのですよ。
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そして今度赤ちゃんが生まれた。この赤ちゃんはまことに日本のホープでもあれ
ば、世界のホープである、ということに自然になるのです。だから私は、男の子が
生まれてよかったなァ、よかったよかったと、ひとまず安心しているわけなのです。
美智子さんがお嫁さんになった時もそうだけれども、今度赤ちゃんが生まれたこと
が、非常に明るい楽しいものを、国民のみんなに植えつけ、何か盛り上がってくる
喜びというものを感じるのです。ああよかったなァと、私なんか涙ぐましくてしょ
うがなくなるのですよ。
何か日本の基礎が決まったような、世界の基礎が決まったような、そういう気が
するのです。それは画期的なことなのです。
今までの天皇は形に把(とら)われすぎて、皇統連綿とかいう、天皇家という家柄、家族
意識というものに把われすぎてしまって、あまりにも近しい者同士で結婚したこと
は、マイナスだった。それが今まで現われていたのです。言いかえれば、今までの
日本の在り方、東洋の在り方というものは、あまりにも形の世界に把われて、形の
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前の世界、霊の世界のことがまるっきり分かっていない。霊の世界のことは形にみ
な現われているのだけれども、形だけにしてしまって、霊と関係なしの儀式ばかり
行なって、天皇は皇族でなければいけない、その配偶者も皇族や華族でなければい
けない、というように家柄というものに把われていた。
そういう間違った想い方が、今ここで破れたわけですよ。だから私は快哉(かいさい)を叫ん
で、これからいよいよ日本の曙だと思うのですよ。
それで皇太子なり、皇太子のお子さんたちはやがて天皇になる。本当の天皇、立
派な天皇に仕上げるにはどうしたらいいか、といいますと、人類の業想念、日本人
の業想念という汚れた想いの波を、天皇の身辺、皇太子の身辺、それからお孫さん
たちの身辺に近よらせてはいけません。光を汚しますからね。そういうために私た
ちがいるのです。光を邪魔しないように、光が十分に発揮されて、本当の姿が現わ
れるように、世界平和の祈りをするのですよ。
世界平和の祈りというのは、誰がするかというと、救世の大光明で、守護霊守護
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神がみんな一堂に集まって、地球世界に神のみ心を現わし、本当の地球世界を創る
ために結集して、大光明を放っているのです。その大光明をこの地上界に真直ぐ天
降らせれば、本当の天皇が生まれ、本当の平和が生まれ、本当の世界人類の姿が生
まれるのです。
そのためには、どうしても天皇の周りに、皇太子の周りに、あるいはお孫さんの
周りに悪い想いを流しこんではいけません。流れこむのを防ぐために、世界平和の
祈りを一生懸命やらなくてはいけない。それが一つの大きな役目です。お孫さんが
生まれたから、私はここでハッキリ言っていいと思うのです。
そうすると、あるべきものがあるべき位置につく。今の世界は、頭にあるものが
尻(しり)っぼにつき、尻っぽにあるものが頭につき、手であるものが足に、足であるもの
が手についているんだ。目茶苦茶なの。足をあげ、手をさげて、頭を横にして生き
ているのが今の地球世界の姿です。それをお釈迦さまは顛倒夢想(てんどうむそう)している、逆さの
想いをして夢を見ている世界が今の世界だというのです。本当に頭が頭につき、目
鍾
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は目に、鼻は鼻につき、手は手、足は足の位置について坐る時、それは本当の世界
なのです。
その世界を現わすために、どうしたらいいかというと、誤(あや)まった想いで曇らせて
いるこの世の曇りを祓わなくてはならないのです。赤旗を振ったって、白旗を振っ
たって、政治がどうだ革命がどうだ、と言ったって、曇りがはらわれるわけではな
い。そういうのは、戦いの想いだから、かえって曇りを増すだけなのです。
たとえば自分の社会思想がいいとする。自分の政治思想がいいとしても、相手を
やっつけ、相手を殴り倒して、自分の思想を押し通そうとするならば、それは闘争
心だし、相対的な考えだから業なのです。どんなに自分がいい考えをしていても、
相手を殴り倒してやらなければならない、というならば、そこに汚れが出てくる。
相手を倒すという憎しみの想いが出る。相対的な想いが出るから、生命(いのち)を分裂させ
てしまう。それではダメなのです。
この世の中というのはどういう世界か、といいますと、一つの神様の生命が分か
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れて、いろいろな人間に現われ、そして地上界を創ってゆく。そして地上界を創っ
て、自分の役目が貫徹されると、分かれたものがやがてまた一つになるわけです。
そういう姿なのです。生命が一つになって、一つに通い合った時、本当の地上天国
が出来るわけです。
生命が一つになるためにはどうしたらいいか、というと、全人類がみな一つの想
いのところに結集しなければならない。一つの想いに結集するためにはどうしたら
いいか、というと、共産主義がいいのだ、社会主義がいいのだ、いやそうじゃない
民主主義がいいのだ、何々主義がいいのだと言って、いろいろな主義が現われれば、
それがどんなにいい主義であろうと、どんなにいい方法であろうと、一つの主義、
イデオロギーとすれば、それは相対的になるのです。片方ではこの主義がいい、片
方ではこの主義がいい、主義と主義、イデオロギーとイデオロギーの対立になって、
どうしてもぶつかります。片方がいいにしても、片方が譲(ゆず)りません。イデオロギー
では譲りません。
%
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何が一体、人間の心を一つにするか。やっぱりそれは祈りでなければならない。
自分の生命をそのまま現わす方法。しかも世界平和を願う想い。これは誰も反対し
ない。共産主義のイデオロギーを持っていようと、社会主義であろうと、民主主義
のイデオロギーであろうと、どんなイデオロギーでもみんなが世界平和を目ざして
いるわけです。
形の上で偽(にせ)ものであっても、表面は「世界の平和のために、私はこうやるのだ」
といって、みんないろいろなイデオロギーを持ってくるわけなのです。それでイデ
オロギーが表面に出て、オレは共産主義だ、オレは社会主義だとやれば、それはも
う対立してしまうわけです。ところが世界平和の祈り、ということになって、真向
かう微塵(みじん)に、世界平和が表面に出ていますと、これに対して反抗することは誰も出
来ないのですよ。
世界平和は錦(にしき)の御旗(みはた)みたいなもので、世界平和の祈り!というと誰も「そんな
ことは」と言えないのです。誰も彼もが抵抗なく、反抗なく寄ってこられるのは、
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世界平和の祈りの他にないのです。他の言葉でいくらやっても、また違う言葉を言
うからね。
「神の光流れる……」と言ったら「仏の光だ、仏の光のはずだ」と言うかもしれ
ない。「いやそうじゃない。キリストの御名を現わすのだ」と言うでしょう。どう
いう言い方でもダメなのです。それで私は世界平和の祈り一本、真向かう微塵に、
単純率直に、世界平和の祈りと出してしまったのです。
世界人類が平和でありますように
実に当たり前の言葉。
日本が平和でありますように
当たり前の言葉。
私たちの天命が完(まっと)うされますように
当たり前の言葉。
それに守護霊さん守護神さん有難うございます、という感謝の言葉を加えたわけ
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です。
真理の言葉は光
コトバは即ち神なりき、と言って、言葉というのは神であり、そのまま光なので
す。真理の言葉は光なのですよ。
ところが「バカヤロー」という言葉は業想念の言葉。「あのヤロー憎らしい、死
んじまえ」これも業想念の言葉。世界人類が平和でありますように、と言う時には、
平和を願う想いがある。人類の平和を願う広い広い大愛、いわゆる人類愛の言葉で
す。愛の言葉は即ち光なのです。世界人類が平和でありますように、という時には、
言葉は即ち光になって、神のみ心になって、宇宙に流れるのですよ。人間の想いは
波なのです。
人間はみなこう形に現われているけれども、みんなの心は波が寄っているのです。
それで憎しみの多い人は憎しみの多い波を持っている。そうすると、憎しみの多い
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波が、ここにぶつかってきて、お互いが憎み合うのです。あるいは妬(ねた)み深いものが
あるとする。妬みの想いをもってぶつかる。同じ波は同じところを流れているから、
ぶつかる。同じところを流れているから、また同じグループになるわけです。
皆さんは世界平和の祈りをするためにここに集まってきている。祈りの統一(注6)をす
るために集まっている。世界平和の祈りというのは、高い高い高度なそして微妙な
人類愛の想いの中に、すでに皆さんは入っている。世界平和の祈りをしよう、と思
っている時には、世界平和の祈りという、高い高い人類の希望、大愛の光の中に入
っているわけです。そういう波に皆さんは合うわけです。
お互いに体がはなれていても、皆さんは世界平和の祈りという祈り言葉によって、
一つに結ばれて光の輪になっている。その光はどこから来ているかというと、救世
の大光明の中から来ている。皆さんが二人寄り三人寄り、五人寄り十人寄って世界
平和の祈りをしている時には、光になって、救世の大光明の中に吸い込まれてゆく
わけです。そうすると、その人たちの体は神様の光と化している。変わってしまっ
菊
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ているわけです。世界平和の祈りをしている時には、その人たちは神の子の姿をそ
のまま現わしている、ということになるのです。
一人が祈り、二人が祈り、十人が百人が祈り、千人がやり万人がやり、十万人が
やる。そうすると、祈っている周囲は光に輝いてゆくのです。
日本の中心は天皇ですから、どうしても業が流れてゆく、人類の気持ちが寄って
ゆく。天皇や皇太子や皇族に流れていってしまったのでは、どうしても天皇が汚れ
てしまいます。すると昔と同じようなことをやってしまう。それではいけないので、
天皇の周りの人垣になって防ぐわけですよ。それが世界平和の祈りなのです。その
先頭をきって、私がやっていますからね。私が全部、業想念を引き受けようと思っ
てる。それで天皇を本当の天皇たらしめ、世界の中心になさしめ給え、と思うので
すよ。
以前は、世界に王室がたくさんありました。だんだんなくなってきて、大きい国
であるのはイギリスと日本です。東西に二つしかないです。あとはヨーロッパの小
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さな国で、大統領とか首相という形にみんな変わってしまったでしょう。天皇とい
う形のものは日本だけです。最小限度に残ってくるわけ。最後に残るのが天皇なの
です。これはそういうふうに神様の世界では出来ているのです。だからそうなるに
決まっている。
それが今まで曇らされていて、天皇が本当の天皇の姿が出来なくて、人民は人民
の本当の姿を現わせなかった。それはなぜかというと、天皇が曇っていたから、天
皇自身が曇ったというのではなくて、天皇が国民の想いで曇らされて、天皇の力を
発揮できなかった。時の権力者が抑えようとしたり、軍閥(ぐんばつ)が天皇の職権を乱用した
り、政府が自分たちの都合のいいように職権を乱用したりした。しかし昭和の戦争
で負けてすべてご破算になり、天皇が人間だということになった。
天皇は人間なのです。肉体の人間として他と何ら変わらないですよ。天皇だって
ご飯を食べるだろうし、便所に行くだろうし、それは当たり前のことです。特別、
天皇陛下が雲の上に乗っているわけではありません。私だって雲の上に乗っている
42
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わけではありません。ただ中身が違う。
今の天皇を考えてみますと、天皇の中に私心があるでしょうか。ありはしません。
全然私心なんてありませんよ。私心があるとするならば、戦争に負けましたね。そ
の時、ふつうの大統領とか皇帝とか首相だと「私は本当は戦争したくなかったけれ
ども、あの大臣がやったんだ」というように、みんな、人の責任にしてしまって、
自分はなんとか逃(のが)れたいと思います。ところが日本の天皇はそうではない。
「東條が悪いのでもない。誰が悪いのでもない。みな私が命令した。みな私が悪
いのだから、私も死刑でもなんでもしてください」
と平然とマッカーサーの前に出て行ったでしょう。私心があって、自我欲望があ
って、自分が救われたいと思えば、そんなことは出来やしませんよ。「私だけが悪
いのです」と命を投げ出したでしょう。「みんな私の命令でやったのだから、私の
他に悪いものはないのです。国民の罪はみんな私の罪だ」と投げ出すところなどは、
まさに救世主です。自分の命を投げ出して十字架にかかる。今まで日本は負けたこ
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とはなかった。そんなためしのない天皇なのですよ。自分がはじめてなのですよ。
万世一系の祖先からみれば、恥でしょう。非常に恥辱ですよ。誇りがあって、気位
が高くて、自我欲望があったら、そんなこと出来ませんよ。
元気な人だったら切腹して死んでしまうか、あるいは逃げてしまうか。ずるかっ
たら逃げてしまう。そんな切腹もしなければ、逃げもしない。「軍閥が悪いんでも
ない、国民に罪はない。罪は私一人にしてください」と投げ出すところなど、とて
も普通の人には出来っこない。これはキリストなのです。イエスばかりがキリスト
ではない。
キリストというのは、真理を現わした人ということです。イエスさんは真理を現
わした肉体なのです。だからイエス・キリストという。天皇はその時、全くキリス
トになった。裕仁・キリストになったわけです。それで日本国民一億が救われたわ
けです。だから天皇というのは恩人なわけです。
戦争を始めたのは天皇ではなく、要するに日本の人民の全想念が戦争をして、消
“
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えてゆく姿としてその業を消したわけですよ。天皇の名を借りて業を消したわけで
す。それで業は消えてしまって、裕仁天皇によって救われたわけです。
さあ今度は、日本人が天皇に恩返しをしなければならない。それをわけのわから
ない人は「天ちゃんは……」と馬鹿にしている。じっくりと考えてごらんなさい。
日本がああいう状態になって、戦争にならないわけにはいかなかった。あとで戦争
しなければよかった、とかなんとか言うけれども、あの雰囲気になってきたら、業
の流れが強すぎて、戦争にならなければ収(おさ)まりがつかなかったです。全国民が戦争
をしたかった。
何故したかというと、アメリカやイギリスやフランスが経済封鎖をして、貿易を
止(と)めてしまう。経済的に日本を圧迫してきたのだからね。だからどうしたって、売
られた喧嘩なのだよ、買わなきゃそのまま亡びます。日本が欧米の属国になってし
まう。
戦争しなければよかったのかというと、戦争しなければいいのじゃないのだ。戦
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争しなければならないように、業の流れがそこまで来ていた。分かりますか。日本
人の業想念、世界人類の業想念がたまりにたまって、大東亜戦争というものを、し
なければならないように出来ていた。それをああしなければよかった、戦争しなく
て済んだ、軍閥が悪い、何が悪いのだというけれども、誰も悪いのではありはしな
い。時代の波にのって、裕仁天皇という立派な人が出たので、今まで積んで積み重
ねてきた業想念が、天皇の名を借りて、そこで現われて消えていったのです。
天皇は十字架に磔にかかって、みんな罪をしょって消したわけです。わかります
ね。それだから、今度は天皇にご苦労をかけないで、私たち国民が天皇のご苦労分
を自分たちが背負わなければいけません。私は真直ぐに自分で背負おうと思ってい
ます。私はそれで生まれてきたのです。だから全人類の業想念を全部、私は引き受
けようと思っています。それで世界平和の祈りをはじめたわけです。それで世界平
和の祈りをしていても、統一指導をしていても、いつでも朝から夜中まで、私には
波が襲ってきます。絶え間なく業想念が押し寄せてきます。
妬
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この間も五日間ぐらい、腎臓から胃腸から肝臓をカーッと取りまいて、にっちも
さっちも動かさないようにしているのです。私はなんのことはない。のん気なこと
を言ってお浄めをして、仕事なんか休みません。けれど肉体的にいえば、やっぱり
苦しいですよ、圧迫するのですから。苦しいけれど、別に弱音も吐かないし、別に
なんでもないですよ。
皆さんだって、自分の心に弱音を吐かなければ、自分が弱音さえ吐かなければ、
どんな業想念が来ても負けることはないのです。弱音を吐くから、気が弱くなるか
らいけない。気をしっかり神様の中に入れて、世界平和の祈りの中に入れていれば、
どんな病気が現われようと、どんな貧乏が現われようと、どんな失敗をしようと、
そんなものは一寸我慢していれば消えるのです。一寸の我慢が大切よ。ちょっとの
我慢です。それで世界平和の祈りの中に入りつづけていれば、どんな苦しみも消え
ます。それは私が体験していることであるから事実です。
普通よく業想念の想い、幽的想念を受ける人、霊魂の障(さわ)りを受ける人があります。
47分かれたものが一つになる
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一人か二人の想いがついて、よたよたとしてくる。私から見るとこれっばかりのも
のよ。「あなた、苦しがっているけれども、灰の一粒にも劣るくらい小さなもので
すよ」と言うの。それで私が柏手を打って浄めると、直りますね。そんなものぐら
いで負けていては困るのですよ。私なんかどれくらい来ているかわからない。霊眼
の人が見たらそれは大変なものです。
私のところに来ている人が、みな「五井先生!」と思いますね。そうするとその
人ばかりではなく、その人の先祖、その人の親戚縁者、迷った人がみんな私に来る。
一人が想ったって何百人という想いが来るわけ。それを何千人何万人の人が想った
ら、その倍数の十万人何百万人の業想念が来る。ふつうだったらギャフンとなると
ころだけれど、私はならないのです。苦しいは苦しいけれど、なんでもありません。
何故なんでもないか、というその秘訣は、自分の想いがない、ということ。一つ
も難しいことではない。自分の想いがなくなれば、簡単なんです。ところが自分の
想いがなくなるということが、ふつうでは簡単ではないのだ。なかなか自分がなく
佃
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なるわけにはゆきません。いろいろな想いがあります。子どもを学校に入れたいだ
ろうし、職業もうまく働きたいし、金も欲しいだろうし、いろいろな想いがありま
す。
そこで私はいつも言うのですよ。それはみな消えてゆく姿なのだ、想いがあるま
までいいから、世界平和の祈りを中に入れなさい。年中、世界平和の祈りをしてい
れば、この祈りは神の言葉で、言葉は即ち光で、神のみ心なのだから、大救世主の
み心がそこに輝いているのだから、祈りの中に自分が入っていれば、自分がなくな
るではありませんか。大光明に融けちゃうのだから。
「世界人類が平和でありますように」と言う時、自分がありますか?
「日本が平和でありますように」と言う時その中に自分がありますか?
自分がありはしません。なくなっちゃうでしょう。理屈的にも分かりますね。自
分の想いというのがなくなる。
自分の生活がよくなりますように、自分の月給が上がりますように、なんていう
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チャチなことはどちらでもいいのだ。そんなことを思わなくたって、世界人類の平
和の中に、自分の想いを入れればよくなる。なぜよくなるのか、それを説明すると
人間は神の子です。ここ肉体にいながらも、神様の世界で光り輝いているものな
のです。それなのに、自分は肉体の人間で、つまらないものだと思いこんでしまっ
た想いが、自分の運命を創っているのだから、神から離れているという想いだけが、
その人のマイナスになっているのです。その神様から離れているという想いを、神
様に近づけるためにどうしたらいいか、離れた想いは汚れているわけで、その汚れ
た想いを持ったままで、貧乏も災難も病気も不幸も持ったままで、世界平和の祈り
の中に入ってゆけばいい。
世界平和の祈りは神様が集まっている世界、光り輝く世界、自分の本体の世界、
その中に自分の本質、直霊(注7)があるわけだから、祈りの中に持ったまま入ってゆく。
想いが出たらまた持ったまま入ってゆく。また出たらまた持ったまま入ってゆく。
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どんどん入ってゆく。そうするといつの間にか、知らない間に自分の業想念という、
マイナスの面が消えてゆくのですよ。「どうか貧乏が直りますように、病気が直り
ますように」と言わなくたって、そんなものはなくなっちゃうのです。
たとえば薪(まき)を火の中にくべるとします。石炭でもいい。「これが燃えますように」
と言わなくなって、黙ってどんどん火の中に入れてゆけば、どんなものも燃えてゆ
くでしょう。溶鉱炉の中に、これがぜひ燃えますように、と言わなくたって、入れ
さえすれば燃えるでしょう。それを同じように、構わず文句を言わず、世界平和の
祈りの中にどんどん入れてしまえば、溶鉱炉の中に入れるようなもので、みんなバ
ーッと燃え上がります。みんな光り輝くのですよ。
それを普通の人は「世界平和の祈りはやりますよ。やりますけれど、まず私の貧
乏を先に直してください」とやるのです。貧乏と世界平和を離してはダメですよ。
後生大事に、貧乏をかかえ、病気をかかえて「私が世界平和の祈りをやります。け
れど病気のほうを先にしてください」と言う。そう言っている人は世界平和の祈り
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を実はやっていない。貧乏とか病気とかに入っちゃっている。この貧乏ごと病気ご
と迷いごと悩みごと、世界平和の祈りの中に貧乏も病気も悩みも迷いも、持って入
ってゆけばいいのですよ。
世界人類が平和でありますように、という時には、貧乏が直りますように、病気
が治りますようにも、すでに入っているのですよ。誰だって世界人類の中の一人で
しょう。みな動物じゃないのだから、人間なのですから、世界人類の一人なのだか
ら、世界人類が平和でありますように、という時には世界人類の中に入っているの
です。
たとえば銀行の金庫に、お金がいっぱいあるとします。自分は十円しか預金しな
かったとします。片方は千万円預金したとします。額は違うけれど、預金したこと
では同じなのです。金庫の中に自分のお金が入っている。それと同じこと。十円だ
ろうが五円だろうが、いいのですよ。だから自分の想いを、自分の値打ちなんかど
うでもいいから、自分がお婆さんだろうが、お爺さんだろうが、なんでもかまわな
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いから、その自分をそのまま、世界平和の祈りの中に入れさえすればいいのです。
入れることを年中していれば、入れっきりにしてしまえば、それは神様仏様になっ
ちゃいます。だから自分というものを、想いをそのまま入れてしまえばいいので
すよ。
それをいちいち分けている。分けてはダメですよ。たいがい分けている。分けて
ない人は少ない。せっかく、世界平和の祈りの中に入れなさいと教えているのに分
けちゃう。分けないほうがいいですよ。病気も貧乏も不幸も自分の悪い想念も、性
格もありますね。短気だとか、いろいろあります。そういうものもいちいち区別せ
ず、分別しないでいいのです。そんなもの構わず、入れてしまうのですよ。それが
一番の秘訣です。これは何遍も聞いてください。
分けるのは癖なのです。そもそも神様と自分というものを分けているからね。自
分の不幸とか自分の病気とか、悪癖というものは、消えてゆく姿なのですよ。実際
はありはしない。煙のようなものです。月にむら雲というように、むら雲という雲
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分かれたものが一つになる
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はありそうに見えたって、実は無い。むら雲だから、どこかに消えちゃうか、なく
なるでしょう。それと同じです。その雲をかかえて、雲といっしょに立っているの
だもの。みなそうでしょう。
「業を把えて何になる」というような詩がありましたね。病気として現われて消
えようとする、あるいは悪い性質として現われて消えようとする、その消えようと
するものを一生懸命掴(つか)んで、業(ごう)を神様だと思っているのだから、神様神様と業を追
いかけている。業を掴んで追いかけてどうなるか?本心や神様から離れますよね。
だから掴んで追いかけないで、私は悪いこと言っちゃったなァと思う想い、悪い性
質だなァと思う想い、貧乏だなァ病気だなァと思う想いを、思ったら想ったまま、
掴んだままそれごと世界平和の祈りの中に入れちゃうのですよ。そうすれば想いは
業は消えますよ。簡単な原理です。
真理というのは簡単なのですよ。大蔵経を何百冊読まなければならない。聖書を
全部読まなければならないーーーそんなことはない。そんな面倒くさいことはする必
舅
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要はないのです。この忙しいのに、そんなことはしていられない。大蔵経を全部読
んでごらんなさい。どれくらい時間がかかるか。そんな暇はありやしませんよ。一
頁読むのに一昼夜かかってしまうもの(笑)。そんなことをする必要はない。
大体今まで理屈が多すぎて、あまり書物が多すぎた。それでかえって迷ってしま
って、かえって頭だけいい気持ちになっちゃっていた。知識欲が満たされると、い
い気持ちになるんですよ。ああこれだけ覚(おぽ)えた、私は偉くなった。でも、実際には
なっていない。地震でもグラッとくると、ワァーと逃げちゃう(笑)。それよりも、
神様、五井先生ーと思っている人のほうが、地震が来たって驚かない。ちょっと
来ると、「先生ー」それで直っちゃう。みな経験があるでしょう。この間も地震が
あった。本当に信仰があると、神様ーとすがってしまうと、大丈夫なのです。不
安がなくなるのです。万巻の書を読んで、釈迦はある時こう言って、ある時はこう
言っていた、なんて釈迦の説法を歴史的に調べて歩いたって、そんなもの何にもな
らない。
55分かれたものが一つになる
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相撲だってそうですよ。いくら理屈を教わったって、学生相撲と本職の相撲では
全然かなわない。片方はめちゃくちゃに一生懸命やって、つねに練習に練習を積ん
でいるから、パッパッと変われるのです。理屈だけ憶えた人はかないっこない。鍛
えてなければどうにもならない。だから皆さんも心を鍛えておかなければならない。
心を鍛えると言ったって、心はハンマーで叩くわけにはいかない。心を鍛えると
いうことは、習慣をつけるということよ。祈りの習慣をつけること。世界平和の祈
りの習慣をつけて、いつでも神様の中に入る習慣をつける。業想念の中に入らない。
業想念を持ったままで神様の中に入る練習をするわけ、そうするといつの間にか知
らない間に出来ちゃう。
子どもは面白いですよ。小さなやっとものを言うくらいの子が、怪我なら怪我を
するでしょう。そうすると私のところに見せにくるの。見ると怪我をしている。私
のところに持ってくれば直る、と思っているのです。五井先生に見せれば直る、と
確信を持っている。だからパッと直っちゃうのです。イボぐらいパッと取れちゃい
%
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ますよ。子どもはそういう信念を持っているのです。先生のところに来れば直る、
という信念を持っている子は、ここには随分多いですよ。だから子どもに教わって
いるようなものです。
大人になると、今まで間違った経験をたくさん積んでいるでしょう。その経験が
逆になって、あれはちょっとおまけでしょう(笑)。あれは慰めだ、と言っている
から直らない。先生がそう言うのだから「そうですか」と言えば直っちゃう。たと
えば一人じゃ跳べない川があるとする。どう考えたって一人では跳べない。そうい
う時に私が「ハイ跳べる、大丈夫」「いや跳べません」「跳べる、私が手を持ってあ
げるからハイッ」ピユッと跳んでしまうのですよ。ハッと思っているうちに跳ばし
てしまうのだ。それを途中で「先生、跳べないよ」と言ったら、落っこちてしまう。
うっかりすると私まで落っこちちゃう(笑)。だからしょうがないので、私は手を
離して、向こうへ行ってしまう。だから跳べると言ったら跳べると思って、跳べば
いいのですよ。なんと言っても素直に、ハイそうですか、と言えばいいのです。
57分かれたものが一つになる
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真理に素直であること、明るい希望に素直であること、光明に素直である、とい
うことが人間の救われなのです。
ところがうんと勉強した人はやりにくい。いろいろ仏教の知識がある、キリスト
教の知識がある。何々の知識のあるという人は、いちいち面倒くさい、頭で考える
から。いちいちご飯を食べながら、「このカロリーは何カロリー、これを食べれば
蛋白質が……」とやっていたら、ひまがかかってしょうがないでしょう。食べてし
まえばうまいのですよ。栄養になってしまう。たいがい有り難がって食べれば、そ
れが栄養になってゆくのです。だからあまり理屈を言うようだったら、心臓を自分
で調べてみるといい。自分の肺臓、自分の心臓がどうして動くかって。それがわか
らなかったら、オレは生きないという人は、死んでしまえばいい(笑)。
本当に科学的というのなら、そこまでやらなければダメですよ。自分の心臓を自
分で計り、自分の肺臓を自分で計り、自分で息をし、それらを全部やらなければね。
それで「ああこれで分かった」と言えばそれは分かったのだけれども、そういうこ
兜
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とは分からないなりにしておいて、つまらない自分の楽しみでやっている。だから
そういう知識欲というのは悟りの邪魔になるのですよ。
どんな万巻の書も、どんな知識も、神様を分からせるためにあるわけなのです。
人間の本体を分かるために、いろいろな学問があって、本体を分からせようとして
いる。それなのに学問というものに掴まって、片方は分からなくなってしまう。
いつも言うけれど「ああ十五夜の月ですよ、いいですねぇ」という。これは学問
ですよね。経験、知識です。「月ですよ、月ですよ」とさす指がないと困るから、
さす指がある。そうすると空(そら)の月を見ないのだ。「どれ?どの月」(笑)。「細い月
だなァ」なんて、指ばかり見ている。「あっちですよ」とさす指をまた見てしまう。
またこっちだとさすと、その指を見る、さすものばっかり見ていて、天空の月を見
ないのですよ。ところが学問もやってないような人は「ああ月ですよ」と言えば、
ああと見ちゃう、指を見ないで月を見る。見ればいいのだ。「ああまん丸の月、私
の姿はこんなにまん丸か」ということが分かる。そういうことなのです。
5,分かれたものが一つになる
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、
だから浪花節調でもいい、落語調でもいい、漫才調でもなんでもいい。本当に本
当のものを掴めばいい。漫才を聞きながら涙を流して、心の浄まる人もあるでしょ
う。浪花節を聞いて、本当にいいなと言って、自分の行ないがあらたまる人もある
のですよ。ところがインテリのような人は「浪花節?」「落語?」とバカにしたよ
うに言う。そのくせ自分はナイトクラブなどに行って、へんなジャズを聞いている。
なんになるかと思う。そういう恰好をつけてはいけない。恰好などいらないのだよ。
本当のものを掴めばいい。
どんな話であろうと、話の中には必ず真理があるのです。それを掴めばいい。掴
むのはこちらの心構えです。いつも頭に知識をいっぱい詰めこんで、人の話を入れ
ないような頭にしておいてはいけません。素直に頭を空っぽにして、人の話が入る
ような頭にしておけば、子どもの言うことでも、年寄りの言うことでも、ああそう
だな、真理だな、というふうに思えるわけです。
それではこれで……
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(注4)巻末参考資料の168頁、第2図参照。
(注5)消えてゆく姿とは、怒り、憎しみ、嫉妬、不安、恐怖、悲しみなどの感情
想念が出てきた時に、それらは新たに生じたのではなく、自分の中にあっ
た悪因縁の感情が、消えてゆくために現われてきたと観ること。その際、
世界平和の祈り(注3参照)を祈り、その祈りの持つ大光明の中で消し去
る行のことを「消えてゆく姿で世界平和の祈り」といい、この行を続けると、
潜在意識が浄化されてゆく。
(注6)統一とは、自己の想念が自己の本心、神のみ心と一つになること。また、
そのために行なう行のこと。自己の想念が本心と一つになると、自ずから
愛と真と美の正しい行為が自己の日常生活の中に現われてくる。
(注7)巻末参考資料の鵬頁参照。
分かれたものが一つになる
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守護神さんについて
(昭和35年8月19日)
飯田橋・東京割烹女学校にて
守護神の中にも、より力の強い守護神と弱い守護神がある、と言うとおかしいけ
れど、要するに光の大きな守護神と光の小さい守護神とがあるわけです。それで私
はよく「ああこの人の守護神とてもいいな」と思う場合がある。光が強いわけ。と
ころが光が強いのに、肉体的にその割にその人が働けなかったり、あまり上等でな
い場合があるんです。磨けばその人は必ず光る人なんです。磨けば大きな光になる
わけね。一方、光が小さい守護神の人もあるわけです。これはこの世ではこれだけ
の役目で、これだけしかならない。
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