聖書講義


第一巻序文
聖書に関する書物は非常に多いのに、何故私が敢えて聖書講義を書く気になったかというと、今日までの聖書ものが、大方クリスチャソの書いたものや、聖書学者の書いたものが多く、どうもキリスト教におもねった形のものが多いのが気になっていたからである。おもねっていなくとも、ど
みびいきふ
うしても身贔屓の嫌いがあって、一般読者の聞きたいようなところには、その解説が触れていないのである。私のこの聖書講義で、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書を中心にして書いているのは、イエス自身の言葉や行いが、そのままこちらに伝わってくるには、この四福音書が一番よいと思ったからで、パゥロやペテロなどの手紙などでは、その著者の想念が多く加わってきて、イエスの真の息吹きから遠のいている感じがするのである。それでもキリストの言葉としてはおかしいような言葉が、なんの解説もなされず書かれていたり

する部分もあり、奇蹟のことや神霊の世界のことには、わざと触れずにいたりする向きも大分あったりする。私はこういう部分を、私の霊覚ではっきい・と解説することにしたので、今までわからずに読み過したような個所が、鮮明にわかってきたりするところがあって、クリスチャソにとっても
参考になり、キリスト教にあまり興味がなかったような人には、かえって非常に興味をおぼえさせるようなところもある。それに私は特にイエスと仏陀、キリスト教と仏教をところどころで比較して書くことに努め、宗教の奥義というものは、何宗でも終局は同じなのだということもわかっていただきたいと願った。
ひいき
なんにしても、キリスト教の人が贔屓のひき倒しになりがちなので、その点そういうマイナスのないように、霊的に背後から種々と教わりながら書いていった。その意味では、前作、老子講義と同じような流れをもっている。
それから、口語体の聖書をつかわずに、昔風の文語体の言葉をなぜ使用したかというと、文語体のもつ高いひびきのほうが、イエス・キリストの言葉としてのひき締った力強さを感じるし、言葉の味が心に沁みわたってくるので、文語体の聖書をつかったのである。心を伝えるには文体というものが非常に大事なものであることは、老子講義と同様なのである。
頁数の都合で、何巻かに分冊されるようであるが、聖書の一つの言葉は浅くも深くもとれるの文で、私は一つの言葉によってでも読む人の人生が開かれるように、私流のやさしい講義にしていっ4た。また一つの言葉でわからなかったイエスの心が、いくつかの言葉を重ねて読んでゆくと、しだいにはっきりわかってくる。そういう意味で一巻を読むと、また二巻が読みたくなる本になっている。
古代からの聖者中の聖者である、イエス・キリストの人柄と神格を、この書から受けとめて、読者の生きる糧として下さったら、著者の本懐とするところである。
昭和四十四年四月
著者識

第二巻序文
ほんとう
聖書講義第二巻を発行することになったが、こういう書物は、真実は一巻に纒めて発行したほうが、全章を一気に通読出来てよいのだけれど、あまりにも部厚くなり、値段も高価になると編集部で思ったものとみえ、全部で第三巻ぐらいになる見込みで、第一巻を発行し、ここに第二巻を発行することになったものである。
イエスの言葉の一言一句は、みな天のみ心を体し、真理そのままの言葉として、道を求むる者の心に沁みこまねばおかぬ、強いひびきをもっている。ところがイェス・キリストは二千年も前のしかも現在の日本などとは全く異なった生活状態にあったユダヤに生れた人であったので、日本人がみてはわかり難い説法が処々にあるのである。
真理のひびきとしてはわかるような気がするし、意味がはっきりわからないにしても、その中に籠っている真理を知らせようとするイエス・キリストの愛の心が、なんとなく心を打ってくるので文あるが、それより以上現代人にもわかりやすく、首をひねることなく、心の糧に出来得るようにと、宗教的に浅い人にも、神道や仏教やその他の宗教の人たちにも、反擾なく了解でき得るようにと、私の霊覚に感じたイエス・キリストの本心のひびきをたどって、この聖書講義を書きつづっているわけである。
長い間キリスト教一本できた人も、心を開いてみて下されば、必ずその人の信仰はより深く、より広くなってゆき、宗教の本質というものにはっきり触れることが出来るし、真実の救われを体得出来る、ということを、私は信じているし、この本を読んで、キリストが常に皆さんの心の中に輝やかに生きつづけていることがわかって下されば幸甚なことと思うものである。
昭和四十四年十一月著者

第三巻序文
聖書講義を書いていて、いつも思うことなのだが、天のみ心を地にそのまま現わそうとすること
カルマ
のむずかしさである。イエスのように正面きって業の世界に立ち向ってゆく天命をもった人は、実に大変なことであったと、身に沁みて思うのである。天のみ心をそのまま行ぜずにいられない聖者にとっては、自己の肉体身の受難などなんでもないのだが、その周囲にいる人たちの悲しみ苦しみは大変なものである。イエスの場合の母マリアや兄弟たち、そして二人のマリアをはじめ弟子や信徒たち。
えん
日本の吉田松陰の場合でも、親兄弟の精神的な苦しみや、迷惑は深刻なものであったろう。役の
おつぬ
小角の母の苦しみなども相当なものである。なんとか周囲の人々にこういう苦悩を味あわさせずに、天のみ心を地に伝え、地に行じることはできぬのか、と思うのだが、今日では、昔のような周囲の犠牲を少くして、真理を行じられるようになってきているのは、有難いことである。

私は聖書の真理を、自然に空気を呼吸しているように、人々に知らせ行じさせたいと思って、この講義を書いてきたのであって、イエスの時代、イエスの頃のユダヤと、真理の教えそのものとを切り離して、読者は読んでいただきたいと思うのである。
私の念願はあくまで、真理を知らせ行じるのに、周囲の犠牲や不調和を当然とするような昔風の考えを捨てていただいて、終始平和裡りに天のみ心を地のものとしてゆくことなのである。その生き方を、私は世界平和の祈りとして宣布しているわけである。聖書読みの聖書知らずにならぬための、この講義なのであることを一言して置きたい。昭和四十六年九月著者識
目次
序文はじめに 13太初に言あり 2
洗礼のヨハネ 30イエスとサタン 46
最初の弟子たち 56温厚篤実なアンデレ 6
神秘家ヨハネ 69ペテロ 73
詩ペテロの働巽 76取税人のマタイ 80山上の垂訓 84慰めの言葉 84
地の塩 96律法の成就皿汝の敵を愛せよ脳色情を抱きて女を見るものは鵬いたずらに誓うな鵬右の手のなすことを左の手に知らすな
主の祈り
財宝を天に積め認
何を食わんと思い煩うな慨
人を審くなかれ悩
求めよ、さらぽ与えられん蜘

その実によりて知るべし照砂の上の家幽
m

115

人あらたに生れずば〈ニコデモとの対話〉
イエスの奇蹟とパリサイ人蜘
弟子を遣わす鵬
愛なるイエス慨重荷を負える者我れに来れ燭きびしい愛隈隣人愛鋤人類を救おうとする愛珈イエスの女性観珈
イエスの家族獅
イエスの奇蹟捌汝の信仰、汝を癒せり捌五つのパンで五千人を養う蹴イエス海の上を歩く蹴
誰の罪か〈盲を癒す〉蜘
神の国・天国・来世魏天国についての讐え話翔
来世について蹴
神の国の来ることについて躍
祈りについて蹴
イエスの権 …威〈汝はわれを誰というか〉鋤
イエスと守護天使との交流鵬弟子への訓戒〈人もし頭たらんと思わば〉細富の問題鋤
神と富とに兼事うること能わず鋤
或る富める青年鵬
イエスの愛された人々謝
マリヤとマルタ謝
ラザロとその復活謝学者・パリサイ人らの反抗蹴 罪なき者まず石にてうてイエスとユダヤ人との問答
蹴蹴
先なる者は後に、後なる者は先取税人ザアカイ鵬ホサナ讃むべきかな謝偽善者への説法鋤
何の権威によるか蹴カイザルのものはカイザルに己れを高うする者は卑うせられわざわいなるかな偽善なる学者、
世の終りの予言魏天国への準備捌
一粒の麦地に落ちて死なずぽ弟子の足を洗う蜘弟子への遺訓姐

になるべし謝
獅パリサイ人姐
438

われは道なり、真理なり姐われ平安を汝らに遺す姻天父と助け主姻最後の祈り婿栄光の祈り粥弟子のための祈り捌一般信徒のための祈り捌ゲッセマネの祈り鰯イエス捕わる獅イエスとパラバ脳十字架上のイエス鵬
イエスの甦り枷イエスの昇天珈聖霊の降臨鵬
人にん間げんと真しん実じっの由き隷 (教義 )
にんげんほんらいかみわけみたまごうしようしゆこれいしゆごじん
人間は本来、神の分霊であって、業生ではなく、つねに守護霊、守護神
によって守まもられているものである。
よくのうにんげんかこせげんざいあやま
この世のなかのすぺての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念すがたこおとききあらいうんめそうねんが、その運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
くのうあらかならき
いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、さ消え去るき
つよしんねんいまぜんねんおこ
のであるという強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、
こんなんじぶんゆるひとゆるじぶんあいひとあい
どんな困難のなかにあっても、自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、舜と馨麗しの票をなしつづけてゆくとともに、暴罫蓄徽への蹴謙の夢つねに欝、纂寿の塀を塀つづけてゆけば・戴も薪
もきたいとくですく真しんの救いを体得出来るものである。

はじめに
聖書の講義や解説書は、今日までにたくさんの人びとがしていますので、今更とは思ったのですが、要望する声が多いので、私なりの聖書講義をすることになりました。私はイエス・キリストを尊敬しておりますが、イエスだけが神の独り子である、というような片寄った気持はもっておりません。イエスも釈尊も老子もみな同等の聖者であると思っております。イエスだけを神の独り子であるとするような信仰は、ともすれば独善的なキリスト教信者となって、排他宗教になり、すべてはみな兄弟姉妹である、というイエスの真の心にそむくことになります。聖書でも仏典でもそうでありますが、いずれも後になって弟子たちによって書き集められたものであって、イエスや釈尊の真実の言葉ももちろん多くあるでしょうが、弟子たちの推測したものや霊感によるもの、あるいは師をより高くあらしめたいという願望による附け加えなどもあるでしょ
うから、聖書や仏典全部がイエスや釈尊のそのままの現われというわけにはまいりません。
私はそこのところを、はっきり区別して解釈し講義してゆきたいと思います。実際誤てるキリスト教信者の排他性や独善性というものはやりきれない想いのするほどのもので、神のみ心のおおらかさ、無私なる大愛というものを、キリスト教という一つの小さな枠にはめこんでしまって、不自由な狭い視野の中から、宇宙をのぞいている状態になってしまっています。
いや
それからもう一つ嫌なことは、旧約聖書の予言に何事も結びつける考え方でありまして、使徒行伝の随所に出てくる、この事実は、何々の予言を成就したものであるとか、予言を現わしたものであるとかいういい方です。
私はどんな予言であろうと、予言などあまり問題にしないで、宇宙法則の道に乗った生き方を柔和な心と明るさとたくましさで、そのまま当り前に生活してゆき得る人びとを多くつくることが必要だと思っているのです。
未来の予言のことなどあまり思いすぎていると、みずからの潜在意識で、予言通りの事柄をつくり得ることがあるのです。それは神のみ心でもなんでもない、みずからの神をはなれた想い、神にそむく想い、念力の所産であって、善いことならそれでもよいが、不幸な出来事などつくり出しては、せっかくの宗教の道がマイナスになってしまいます。
とら
宗教の道とはすべての把われから離れ、神のみ心の大きな広い自由自在なみ心と一つになってゆくことに本然の姿があるので、そこから巧まずして、大愛の生き方が生れてくるのです。たとえいかなる善い事柄にでも、あまり想いが把われすぎると、かえってその把われから生じてくる波が、自分をも人をも不幸にしてしまうことがあり得るのです。
ここで参考のために、イエス在世中のパレスチナ地方のことを少し書いてみましょう。イエスはパレスチナのユダヤ地区のベツレヘムのうまやで生れたことは、大体の人びとが知っています。このパレスチナというところは、日本の四国の一倍半ぐらいの広さのところで、大部分が小さな
農家であり、漁夫や大工や皮なめしの職人たちや、牧羊者たちが住んでいるところでした。ここはアジアとアフリカをわかつ砂漠の一端にたち、一方、地中海沿岸から迫るヨーロッパの影響を受け、昔から、アフリカ、アジア、ヨーロッパの諸民族がここで相接触し、戦場となったり、文明の交流を行ったりして、一国家、一民族だけの国土になったことが一度もなかったのです。イエスの頃も一つの国家というものではなく、植民地でありまして、そのころはローマの支配下にあったわけです。ですから一般の人びとには富はなく、外国の役人や、ローマの権力者のご機嫌をとっていた貴族、サドカイ人が、ほとんどの場合、神殿礼拝を司り、神殿の富を管理していて生活が豊かでありました。それに対抗していたのがパリサイ人でありまして、これはモーセの律法を厳格に守ってい
た人びとで、宗教的には非常に権力をもっていたのです。
こういうわけで、貧富の差がはなはだしく、貧乏な生活の人びとが大半だったのです。そして、
一般の人びとは心ならずも、このような政治的、宗教的なグループの支配に甘んじていましたが、潜在的にも深く、ダビデ、ソロモンの時代の昔の栄誉と繁栄をとりもどそうという熱望をもってい
たのです。そしてそれが救世主待望の心を湧き立たせていたのです。
日本のように一民族一国家という統一されたものでない土地柄では、人種的分裂や、極端な貧富
の差、そして植民地なるが故の黙従、ひそかなる反抗精神が必然的につちかわれておるわけで、そ
の上、白雪をいただいたヘルモソ山頂は二八一四メートルあり、ガリラヤ湖の水面は地中海面より
しかい
二〇八メートルも低く、死海にいたれば、地中海より三八六メートルも低いという、高度、温度、
いちじる
気候の差異が著しいところであったという、地理的な不調和な状態でもあったのです。そういう中でイエスは育ってきたのです。
幸いに、イエスが少年時代と初期伝道時代に住んでいた、ガリラヤは、この地方では最も、川や泉が多く水に恵まれ、丘陵が少なく、ぶどう、小麦、大麦、果実、家畜に富んだ地方でありました。イエスは勿論、神が地球人類救済のための聖なる使命をもって、天より遣つかわされた人でありますが、その肉体的生活経験として、パレスチナのような気候風土に恵まれない、他国の植民地的な諸
民族の入り交じったような土地で、貧しい家に生れたということは、これも神のみ心でありまし
て、そういう生活体験からじかに生れてくる宇宙観、人類観と、神のみ心とが自然と一つになってゆく、そこで、イエス独自の伝道が生れてきたのであります。
神のみ心は永遠の眼をもっておられます。ですから、そのご計画は短い期間のものではなく、長い長い期間のものであります。みずからは宇宙の心として、大宇宙の法則として、また、地球人類
はず
への働きかけとしては、守護神として天使として地球人類が宇宙の法則から外れているのを、軌道にもどして、神のみ心のままの生き方のできるようになさろうとしているのであります。
ろうし
それが、モーセとなり、老子となり、釈迦と生れ、ヨハネと生れ、イエスとなり、というように様々な天使や聖者となって、この地に働きかけているわけです。イエスにはイエスの天の使としての使命があり、釈尊には釈尊としての使命があったので、どちらが上でどちらが下ということはありませんが、伝道の方法やその在り方に各自独得のものがあったわけです。
イエスの場合には、その生おいた立ちや生誕地の環境のために、どうしても、魂の純化の指導とともに社会改革の根本的な在り方についての教えを弟子たちにしていたようで、キリスト教徒が、自己の本心開発に重きを置いた仏教徒とは違って、社会のため、人類のためというように横への働きかけ
に重点が置かれていったのは、否定できないところです。
今日のようにキリスト教を世界的にしていったのは、ただたんに自己の本心開発のための宗教というより、社会人類の在り方を根本的に変化させようという働きかけがあってのことだったのです。
神のみ心のまま、聖人たちが天の使として地上界で働いておりましても、その生れた時代、その生れ育った国柄や郷土の在り方、環境などによって、その教え方導き方が違ってくるのは当然なことでありまして、そういうすべての事情を含めて、神のみ心の中には地球人類大進化のご計画がなされているのであります。
ですから、キリストの再臨ということにしましても、二千年前のナザレのイエスが、その頃の姿のままで再臨するのではありませんで、キリストなる真理の大光明が、はっきりこの地球界に現われる、ということなのであります。
それはたんに一人の人間の形になって現われてくるか、多勢の人の上に様々な能力として現われてくるか、または、大調和科学として、地球界の科学を超越した働きとして、人類救済、人類大進化の道を開いてゆくか、霊の人だけの知るところであって、一般の人びとにはわからないのであります。
キリストを信じた人びとが、キリストの再臨の時復活するとあるのは、その意志がその時になって達成されるということであります。ただし、その時実際に肉体的に生れ変って、この地上界にいる人もあるのです。
ただ、はっきりいえることは、キリスト教だ仏教だ回教だヒソズー教だというような、宗派別の宗教がなくなってしまうことは確かです。すべての宗教がおのずから真理の大光明に統一され、宗教と科学とが縦横十字に大調和して、はじめて、地球人類の救済が成り立つのであり、人類の大進化への道が開かれるのであります。
そういう日のために、老子も釈尊もイエス・キリストもその他古来からの聖者たちのすべてが、この地球界で身を犠牲として働かれたのであり、今も神界霊界から、人類救済の光明波動を投げかけられているのであります。
そして今日までに最も世界人類の生き方に大きな影響を投げかけてきたのは、なんといってもキリスト教にほかならないと思うのです。在世中のイエスの置かれた立場、そして最後の十字架上の
すさ
大犠牲の姿は、何人の心をも揺り動かさないではおかない、凄まじいまでの神の大愛の姿です。十字架上のイエスは正にキリストそのものであり、神の大愛をそのまま身に現わした姿であります。
十字架のイエスは実はイエスではなくして、パウロと呼ばれたイエスとよく似た弟子の一人であ
のちのち
って、イエスは後々まで生き永らえて道をひろめつづけていたのだ、という説もあるのですが、そ
ノげんざい
ういうことはどうでもよいことで、イエスが人類の原罪を背負って、人類の肉体身の汚れを浄め去

るために、十字架上に大犠牲者と成り終わせたということに、キリスト教が今日のようにひろまる
一つの要素があったとも思われます。
そして大犠牲の後の復活、これはイエス自身の霊化した肉体であったかも知れません。しかし、それもどうでもよいこととして、この二つの結びつき、そして、先程も申しましたように、魂の純化の教えとともに社会人類の根本的な在り方、富める者の天国に入るはラクダの針の穴を通るよりもむずかしい、という考え方、売春婦マグダラのマリヤに示した愛情、すべては神のみ心においては兄弟姉妹である、という考え方、下衣を取る者があったら上衣をも与えよ、右の頬を打たば左をも打たせよ、といった、和に徹した態度、こういう様々な要素が、大きく世界人類の生き方に影響を及ぼしたのでありましょう。
それから、イエス・キリストを想う時、どうしても忘れることのできないのは、洗礼のヨハネのことです。イエスにとってヨハネは絶対になくてはならぬ人であったでしょうし、ヨハネはイエスの出現によって、安んじて地上界を去ることができたのです。
ヨハネの偉大さというものは、イエスの陰にかくれていて、はっきり人びとの心に画かれないかも知れませんが、私はヨハネをイエスと同格の聖人と思っているのです。ただその天よりの使命が相違していただけであります。
ふじやくしんみよう
無私にして不惜身命。いかなる権力をも恐れず、ヘロデ王の前に縄目の身を堂々と立ちはだかり、朗々と神の道を説きあかし、双をあてられてもびくともしない偉大さ、とともに、それよりも更に
たたわくつひも
偉大だと思えるのは、後から来たったイエスを称えて「我れは彼の靴の紐を解くにも足りぬ者である」といって、イエスを立てるところなどは自己の使命に徹してしかも、その使命の外に一歩も踏み出さなかった、我の想いの少しもない、正々堂々たる態度です。こういう態度はなかなかできるものではありませんで、現在の日本の宗教者たちのよくよく味わ
ってみるべきところであります。私はこのヨハネのことを想うと、身心がひき締るような、なんともいえぬ爽快な気持になります。男児の本懐これに過ぐるはなし、とでもいうような快さです。こ
の気持は西郷南洲翁を想う時にも起ります。懐かしい涙ぐましい快い感激です。

はじめことにことばかみともことばかみことぽはじめかみあよろずよ
太初に言あり、言は神と借にあり、言は神なりき。この言は太初に神とともに在り。万のものこれに由りて
ななものこれなこれいのちいのちひとひかりひかりくら
成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命あり、この生命は人の光なりき。光は暗
ひてしかくらセこれさと
黒に照る、而して暗黒は之を悟らざりき。 (ヨハネ伝第一章一 1五)
ヨハネ福音書の、他の伝記にみられぬ特色は、この章のはじめの光のことについての言葉であり
そうせいき
ます。これは旧約の創世記第一章の、「おもてわだみやむなしかたちつくり元始はじめに神天地を創造たまへり。地は定形なく鵬空くして黒暗淵の面にあり、神の霊、水の面を
おおいいいよしやみ
覆たりき。神光あれと言たまひければ光ありき、神光を善と観たまへり神光と暗を分ちたまへり。
ひるなつやみなつこれはじめ
神光を昼と名け暗を夜と名けたまえり、夕あり朝ありき是首の日なり」とありますが、この言葉の調子と実によく似通ったいい方をしております。何か一貫したものを感じさせます。これはどういうことかと申しますと、二つの文章がともに霊感によって書かれたも
太・

初・に
とぱ言口





のだからなのです。他の伝記の文章はおおむね、実際にあったと思われるようなことや、イエスのいったり行なったりした言動を伝えているので、ヨハネの福音書が、他の伝記と異なった役目をしていることがよくわかります。
マルコ伝にしてもマタイ伝にしてもルカ伝にしても、いずれも普通の著述家というのではなく、霊感的な人たちの編集したものであろうとは思いますが、ヨハネ福音書には著しくその特徴が現わ
とも
れております。この福音書は、イエスに愛されていつも倶についていたヨハネのものであるという説と、他の長老のヨハネである、という説などがありますが、聖書とか仏典とかいうものは、何も何の誰々という個人の名が特に必要なのではなく、その内容を伝えるための神々のお計らいによる
せんさく
のでありますから、そういう穿墾はどちらでもよいことです。さて、そういうことはよいとして、この意味の解釈にうつりましょう。
はしめことばことば
太初に言あり、という、この言とはどういう意味なのでありましょうか。私たち人間が使っている肉体の声帯を振動させて出てくる言葉とは、深さが違っていることはわかります。しかも言ことぱは神
ともことばことばことぱ
と倶にある言であり、神そのものでもある言なのであります。そして、この言によらないで成っ
いのちことば
たものは、万物のうちに一つもないのであり、人の光である生命をこの言はもっているというのです。
ことぱ
さあ、この言とはいったい何を現わしているのでしょう。一口にいってしまえば、波動のことなのであり、ひびきのことなのであります。この波動 (ひびき )は生命そのもののひびきであり、光
ことばはじめ
の波動なのであります。ですからこの言は、太初に神とともにあった。つまり、唯一絶対なる宇宙神が、創造活動をはじめられて、光の振動をはじめられるまで、神のみ心の中で静止していたので
ことば
ありますが、宇宙神の創造活動とともに、言となって諸方にひびいていったのです。それは生命のひびきであり、光の波動でもあったわけです。
ことぱと
そういう生命せいめい波動、光のひびき、いわゆる言が宇宙創造を成し遂げていったのであり、現在も成し遂げつつあるのであります。
はじめつくりことば
旧約の創世記の「元始に神天地を創造たまへり」も、やはりこの言によって成ったのであり、す
ことば
べては神の言によってつくられていったのであります。神の言は生命であり、光でありますから、神光あれ、といえば光があり、生命あり、といえば生命があるわけなので、宇宙神は創造主であり
ニとばひびき
創造の方法が、言即ち、生命波動、光の波動によってなされていったわけなのです。人間の使って
ことばことばことぽ
いるのは、言ではなくて、言葉なのでありまして、言を根元にして、そこから枝葉として分れてき
ことばことば
たひびきなのです。ですから、神のみ心と一つになって話せば、その言葉はもはや枝葉の言葉では
ことば
なく、神の言としての権能をもつのであります。
ことばことばたくわ
そこで人間が、肉体頭脳に蓄えられている言葉だけをつかって、この世の生活をしているだけで
ことば
は、人間の進化はあり得ないのでありますから、神は時代時代によって、神の言をそのまま伝え得る人びとを、この地上界に遣わしているのであります。それが釈尊であり、イエス・キリストであ
f

り、老子でもあるわけです。
こと ことぱさかのぼ
実に言どいうものは大事なものでありまして、人びとは常に言の根元に遡って言葉を使うようにしなければならないのです。光ある言葉、生命ある言葉を日常茶飯事にでも使えるようにならなければ、神のみ心を地に現わすことができません。
私はこの言と言葉をはっきり二つに分けて説いておりまして、言のほうは光の波動 (ひびき )言
ことば
葉のほうを想念波動と説くのですが、言葉にしても想念波動にしても、その根元は、言であり、光
ことぱ
であるのですから、純粋な言とし、汚れなき光の波動とするためには、言葉や想念波動のでてくる
から
頭脳や心を空っぽにする必要があるのです。いわゆる小智才覚を捨てる、ということです。
から
ところがなかなか、この小智才覚を捨てることができません。頭脳や心を空っぽにすることはこ
の世的な頭が良ければ良いほどできにくいことなのです。
そこでそのためにこそ、想念を神のみ心に向けきってしまう祈り心が必要になってくるのです。
ことば
人間の本来性である、光の中に、言の中に、生命の本源の中に飛びこんでゆく祈りが大事な行事に
なってくるのです。
まつと
天のみ心が地に現われますように、という祈りでもいい、世界平和の祈りの天命が完うされますようにでもいい、愛深い私にならしめ給えでもいい、み心のままにならしめ給えでもいい。とにか
けん
く、この世に渦巻いている想念波動圏から、超越してしまう方法をとることが必要なのです。超越してしまう先は、いわずと知れた神のみ心の中であるわけです。「光は騨黒に照る。耐して瞠黒は悟らざりき」とあるように、人間一人一人の中に光は照り輝い
やみ
ているのですけれど、肉体人間の中にある暗黒、つまり暗黒想念は、自分の中に、神の光が輝いていることを悟らないのです。愚かな人たちは、生命そのものである神の存在を否定してしまいさえするのです。神の存在を認めている人たちでも、少しくこの世の中に苦しいことがありますと、自己の運命を駄目なものと悲観してしまったり、わずかの間祈っただけで、運命が自分の思うように
おちい
ならないと、神の愛に疑いをもったり、自虐の気持に陥ったりして、暗い想いになってしまうのです。
ことば
神が光であり、愛であって、神の言によらないでは何一つ生れてこないのである、という真理を
やみ
よくよく思いみるとよいのです。光であるということは、暗黒が無いということです。もし暗黒があったとしたら、それは光のあたっていないところ、つまり暗黒が光の照っているのを悟らないた
めであるのです。そこで、こう考えればよいのです。現在、自分の上に暗黒のような不幸な運命が蔽いかぶさって
やみ
いるとしたならば、それは自分が、自分の想念が、暗黒のほうに向いているからであり、思いきりよく光のほうに向きを変えれば、その運命の暗黒は消え去ってしまうということなのであります。
ぱっと光の方向に向きを変えることは、それまでの習慣でなかなかできにくいだろうから、少しつつ少しつつでもよいから、祈り心を出して、神のみ名を呼べばよいのです。神は愛なのだ、光なのだと、そうした想いにすがりつくとよいのです。
そうしているうちに、祈り心になれてきて、しだいに本格的な祈りになってくるのです。何事も一朝一夕でできるものではありません。この地球人類の暗黒想念は、どうしてなかなか厚い層をなしておりますので、ともすれば、その想念にさらわれそうになります。そういう時は、地球人類救
済のために、十字架にかかったイエスのことを想ってみるとよいのです。
ああ、あんな苦しい想いをなさって、人類の原罪 (仏教的にいえば無明むみよう)を消滅なさろうとして下さった方があったのだ、なあに、私たちのこれしきの苦しみ、と想ってみるのです。それとともに、神が人類救済のために幾多の聖者をこの地上界に遣わしておられる慈愛を想ってみることです。
ことば
何事も、遠い昔から、神の言 (光)を言葉 (業想念 )として、この世で使った時からの波動の汚れに原因があるので、この波動の汚れを消し去ってしまうまで、この人類の苦悩はつづくのですが、
ことに
神の言によらずにできたものはない、という原理に従ってみますと、光のほかに実在するものはな
ことば
いことになるので、この世のいかなる暗黒想念も、神の言 (ひびき )がゆきわたってゆけばなくなってしまうことになります。
そこで私は、すべての悪も不幸も災難も、消えてゆく姿として祈りの中に入れきってしまいなさい、と説いているのであります。
カルマあか
仏教では、すべての業は、無明から生れているというのです。無明とは明りが無いということです。明りが無いとは、光が無いということです。明りが無いところ、光のとどかないところが無明
やみ
であり、暗黒であって、そこからあらゆる悪や不幸や災難が生れてくるのであります。これをいいかえますと、明りがさし、光がとどけば、無明がなくなる、無明がなくなれば、この世の業因縁は消え去り、神の子、仏子の人類世界が開けてくるということになるのです。
やみ
なんにしても、人間がこの世の暗黒に想いをむけていてはいけないので、光明世界に想念を入れ
きってしまうよう努力をしなければ、天のみ心を地に現わすことはできないのであります。
光というのは、肉眼に感じられる物質波動に近い光子と、私たちが宇宙子と呼んでいる生命波動、
霊波動的光とがありまして、どちらも万物の存在になくてはならぬものなのです。イエスがベツレヘムの厩うまやで生れた時、東方から三人の博土が、救世主になるべき子供が生れたと
うまや
ころを尋ね歩き、星の動きに導かれて、ついにイエスの生れた厩を尋ねあてて、捧げものをする、というところがありますが、この星の導きというのも、イエス自身の霊光と、星の光との波長が合い、その光波を感じることのできた博士たちが、イエスを探しあてたわけなので、なんともいえない劇的な神のみ心が感じられます。
一人の人間が、この地上界に誕生することは、天にある光の分生命として生れてくるのでありまして、常に天地の光が交流し合って、この世の天命を完うしてゆくのでありますが、ふつうの人はこういうことを知りませんで、天と離れて肉体が地上界にぽつんとあるように想って、肉体人間としての自分勝手な生活をしているわけです。
ですから、天の光がその肉体とうまく交流できませんで、この世を汚してゆくことになってしまうのです。ところが、イエスのような天の使は生れながら、天地の交流がすっきりといっておりまして、肉体身をもちながら、光り輝いていたのであります。イエスの生涯は、この世的にみれば、涙なくてはいられぬほど、美しくも悲しき生涯でした。しかしイエスのみ魂は、天地を貫いて輝きわたっていた光明波動そのものだったのです。

灘礼証
C-)





かみつかひとなひとあかしな たひかウつあかし
神より遣はされたる人いでたり、その名をヨハネといふ。この人は証のために来れり。光に就きて証をな
ひとかれしんためかれひかウひかりつあかしためセた
し、またすべての人の彼によりて信ぜん為なり。彼は光にあらず、光に就きて証せん為に来れるなり。 (ヨハネ伝第一章六ー七 )
せんれい
このヨハネは洗礼のヨハネと呼ばれた人のことですが、この人はキリスト教聖書中にはなくてはならぬ人であるので、ヨハネ福音書でもルカ伝でも第一章に、マタイ伝でもマルコ伝でもこの人のことを書いております。
法然しんらんにうねんと親鸞とが切っても切れぬ重要な宗教的つながりをもつ師弟であったのとは、少し意味は違
ほうねんしんらん
いますが、法然なくしては親鸞の宗教が成り立たなかったと同じように、洗礼のヨハネなくしてはイエスが救世主としての確信を持ち得なかったことは事実です。
それは次の節にはっきり現われております。ヨハネがエルサレムに遣わされた祭司やレピ人との問に答えて「我はキリストにあらず、エリアにあらず、我は預言者イザヤの云へる如く、『主の道を直くせよと、荒野に呼ばはる者の声なり』」といい、明くる日イエスが自分の許に尋ねてきたのを見て、次のようにいいます。
みょっみのぞかみこひつじかつのもきたひとわれわれさセ
『視よ、これぞ世の罪を除く神の蕪羊。われ曽て「わが後に来る人あり、我にまされり、我より前にありし
ゆえひとわれかれしさかれあらわわれ
故なり」といひしは、この人なり。「我もと彼を知らざりき。然れど彼のイスラエルに顕れんために、我きた
みずほどこあかしいみみたまはとてんくだ
りて水にてバプテスマを施すなり」ヨハネまた証をなして言ふ。「われ見しに御霊、鵠のごとく天より降りて、
うえとどまわれかれしさわれつかわみずほどこたオわれつ
その上に止れり。我もと彼を知らざりき。然れど我を遣し、水にてバプテスマを施させ給ふもの、我に告げて
みたぽあるひとうえとどまみせいれいほどこものたま
「なんぢ御霊くだりて或人の上に止るを見ん。これぞ聖霊にてバプテスマを施す者なる」といひ給へり。われ
これみかみこあかし
之を見て、その神の子たるを証せしなり』 (ヨハネ伝第【章二九ー三四 )
この節を読んでおりますと、その時のヨハネやイエスや群集の様子が眼にみえるように現われて
かみひげけいけいい
きます。髪はぽうぽう、髭で顔中おおわれ、眼光燗々として人を射る風貌のヨハネが、ヨルダン河
畔くししはんで獅子吼している姿、その雄姿に吸いこまれるように見ほれ聴きほれている群集、その中にまじって、いまだ定かならぬ自己の行く道を、切り開いてくれる偉大なる人のあることを信じながら、
まな
その人を探し求めていたイエスの、期待に輝いている眼ざし、この瞬間は実に真実のキリストの教えが開かれんとする重大なる瞬間であり、イエスの運命の定まらんとする一瞬でもあったのです。
或る人と或る人の出会いということは、時にはその人たちの一生の岐路を定めるものとなるのであり、それが大きなプラス面となるか、マイナス面となるか、その瞬間は天のみ心のみぞ知り給うということになります。
ヨハネがイエスを群集の中から見出した時、ヨハネとイエスの霊交が一瞬間にして行なわれたの
メシヤ
です。二人は異なる感動で心身共に震えたのです。ヨハネはこの人こそ、光そのものである救世主である、キリストであると直感したのであり、イエスのほうは、我が行く道を指し示し下さる大先輩である、と直覚したのであります。
二人の間では、もう言葉に出さなくとも、心のひびきがわかりあっていたのでありますが、ヨハ
くつ
ネは群集にむかって、この人こそ、メシアであって、私はその靴の紐を解くにも足りぬ者だ、とイエスがメシアであることを宣言したのであります。
そして、イエスに洗礼をほどこした時、イエスの頭上に輝く大円光を観て、更にその確信を強め
たのであります。ヨハネにはこの頃相当数の弟子があったのですが、弟子たちにむかって、イエス
に従ってゆけ、彼は私より偉い師なのだから、といって、しきりにすすめたようです。しかしイエ
えにし
スと縁深い人びとだけがイエスに従い、後の者たちは依然として、ヨハネの風格を慕って、ヨハネのもとにとどまっていたのでありました。その時にイエスに従っていった一人がペテロの兄弟のアソデレであり、十二使徒の一人のペテロはアソデレにともなわれてイエスの弟子入りをすることになるのです。ここで少しくヨハネのことをルカ伝第一章第五節を参照して書いてみたいと思います。
すえ
ユダヤの王ヘロデの時、アピヤの祭司に、ザカリヤという人がありました。その妻はアロソの畜
いましめさだめ
でエリサベツといいました。二人ともに信仰心深く、主 (神)の誠命と定規とを堅く守って生活していました。しかしながら、妻のエリサベツは子供のできぬ体らしく、老年に近くなっても、一人の子も生れませんでした。彼らは山里のユダの町に住んでいたのです。ここでは祭司が組々によって順番に祭司の務を行な
くじた
うのですが、祭司の慣例にしたがって、籔をひき主 (神)の聖所に入って、香を焼くことになりま

した。香を焼くとき民の群はみな外に坐して祈っています。
おそ
ザカリヤが聖所で祈っていますと、香壇の右側に主の使があらわれて、心騒ぎ愕れるザカリヤに
おそ
むかって、『ザカリヤよ儂るな、汝の願は聴かれたり。汝の妻エリサベツ男子を生まん。汝その名
よろこびたのしみ
をヨハネと名つくべし。なんぢに喜悦と歓楽とあらん。又おおくの人もその生るるを喜ぶべし。この子、主の前に大おおいならん。また葡萄酒と濃き酒とを飲まず、母の胎を出るや聖霊にて満されん。ま
かつちから
た多くのイスラエルの子らを主なる彼らの神に帰らしめ、且エリヤの霊と能力とをもて、主の前に
さとき
往かん。これ父の心を子に、戻れる者を義人の聰明に帰らせて、整へたる民を主のために備へんとてなり』とおっしゃるのです。ザカリヤは信仰心の深い人ではありますが、もう普通では赤児を生める年でもない妻に子供がで
きるというみ使の言葉は、常識的にはちょっと納得できなかったので、どうしてそんなことがありましょうか、と反問いたしますと、天使ガブリエルは、ザカリヤの信の心の足りぬのをさとし、このことが成就するまでは語ることができぬぞといって、その日からザカリヤは唖同然になってしまいます。
こういうところが信仰の実にむずかしいところでありまして、知性的に判断できる道というもの

にはなんの疑間もなく従ってゆけますが、少しくことが常識を超えて霊的現象になりますと、そうすぐにそれを信じたり行なったりすることはできません。それが真実に神のみ使の声であるか、自己の潜在意識であるか、はたまた幽界の生物のいたずらによるものかが、はっきりいたしません。そういう時ただ信じられるのは、日頃の自己の想念行為
はず
が、神のみ心に外れていない想念であり、行為である、ということだけであります。それでも神の声、神の使の声として、一気に、肉体人間以外の干渉を受け入れる気にはなれません。私などの体験といたしましては、私の読書による宗教知識と静坐、座禅といったことからはじま
って、二十代の終りから三十代にかけて、身を投げ出しての心霊研究という段階に入り、自動書記をやっている時から、急速に霊界との交渉がはっきりしだし、自分の肉体がしだいに自分自身ではどうにも自由にならぬような状態に追いこまれていったわけですが、心内の神の声で「生命をもら
はず
った、覚悟はよいか」といわれた時には即座に「どうぞ」と答えられたのでありますが、常識外れ
な行為や事柄を、やれ、といわれても、こう想え、といわれても、すぐに「はい」といってやれる
ものではありません。私の場合などは、交通の激しい大通りを眼を閉じたまま歩け、といわれて、
何度でもやろうと思いながら、ついにできずじまいに終ってしまって、定めし守護神から叱られる
ことと思っていましたが、叱られもしなかったところをみると、やる必要のないような常識外れの
ことは、いくら神の声でいわれても、やらなくともよいのだ、ということを、私が悟らされたわけ
なのであります。
ところが、ザカリヤのような場合は、常識外れなことをやるわけではないので、ただ神の使の言
葉を素直に信ずればよいわけなので、神がその信を強めるために、唖にしてしまったのであります。
こういうところの判断というものは、やはり本人の日頃からの宗教心が本物であるか、どうかと
よこ
いうことでありまして、心が素直に天に通じていれば、邪しまな幽界波動を受けて、常識外れの行為をするようなことがないのです。
宗教の世界は、やはり霊の世界に通ずるものでありますので、宗教の道に入っていて、霊的な現象を否定することはできません。霊力の働かない宗教の道というのはあるわけがないので、キリスト教でも仏教でも、全面的に霊的な教えに充ちています。霊的というと、何か異端じみて思えますが、人間は本来霊性なのでありまして、この肉体界は、その霊性の働き場所であるわけです。
ですから、宗教の世界では、奇蹟はつきものでありまして、奇蹟のない宗教というものは、人の心を把えることはできません。ただし、その奇蹟の起こされるところが、果して神のみ心の中から起こされているのか、幽界の生物、つまり幽波動によって起こされているのかが問題なのであります。
そこで、イエスほどの大聖でも、自分の立場をはっきり是認してくれる人、自分の行く道をはっ
きり示してくれる人を求めていたわけで、その人が洗礼のヨハネであったわけです。
ですからヨハネはイエスにとってなくてはならぬ人であり、イエスをして、ヨハネは女の生める
最大の人である、といわせていますし、キリストの教えにとっても絶対に忘れ得られぬ人であるわ
けです。
天の仕組というものは実に妙を得ておりまして、どんな偉大な人でも、ただ一人では何事も成就し得ません。必ずその裏にいて、その人の仕事を支えてくれる、あるいはその人の力を充分にだせるような立場の人が存在するのです。
それが妻や兄弟であるかも知れない。あるいは友人であるかも知れぬ。または弟子の一人であるかも知れないし、先輩のうちにあるかも知れない。私の場合は、若くして昇天した親友と弟の二人が、神霊の世界から、私の修行を助け、何やかと神霊の世界の在り方を知らせてくれたのであります。キリスト教式にいえば、ミカエルやガブリエルといった天使の役目の守護の神霊方が、私に様々な修行をさせたのでありますが、その中で想念停止の練習 (拙著〃天と地をつなぐ者〃参照 )などは、今から想えば大変な修行であったわけですが、その修行をしたおかげで、おまえは地上唯一
ぽさつほとけおご
の大菩薩だとか、仏そのものだとかいうような、私の心に驕りの想いを湧き上がらせるような言葉
を盛んにいってきたのにもひっかからず、心が少しも動かずにいられたのであります。
はず
ヨハネの終始かわらず、自己の天命の道を外れず、イエス・キリストに神のみ心を伝え終えた、不動の心に、私が感動せずにはいられないのは、私の体験と照し合わせてのこともあるからです。一度に生命を投げ出すのはまだやすいが、どんなに苦しかろうと、辛かろうと絶対にその修行を終
えねば自由にならぬという、いうことは並大抵
一つの定まりの中で、
その定まりを意識しながら、修行をつづけると
のことではないのです。
このちつぽみこもいつつきかくいしゆなじひとなかナすわれかえり
此の後その妻エリサベッ孕りて、五月ほど隠れおりて言ふ『主わが恥を人の中にて雪がせんとて、我を顧み
たもかなたも
給ふときは、斯く為し給ふなり』
むつなみつかいオもおとめかみつかわおとめ
その六月めに、御使ガブリエル、ナザレというガリラヤの町におる処女のもとに、神より遣さる。この処女
いえひといいなつけものぞないみつかいおとめもときたい
はダビデの家のヨセブといふ人と許嫁せし者にて、其の名をマリヤと云ふ。御使処女の許に来りて言ふ『めで
めぐものしゆともいさことにこころさわかかあいさっいかニと
たし、恵まるる者よ、主なんぢと借に在せり』マリヤごの言にょりて心いたく騒ぎ、斯る挨拶は如何なる事
おもみつかいおそなんじかみみオえめぐみえみなんじゑこもなんし
そと思ひめぐらしたるに、御使いふ『マリヤよ、催るな、汝は神の御前に恵を得たり。観よ、汝孕りて男子
うななかれおおいいとたかきものことなしゆかみモ
を生まん。その名をイェスと名つくべし。彼は大ならん、至高者の子と称へられん。また主たる神、これに其
ちぢくらいたぽいえとこしえおさくにおわみつかい
の父ダビデの座位をあたへ給へば、ヤコブの家を永遠に治めん。その国は終ることなかるべし』マリヤ御使に
いいぽひとしいかこニとみつかいいせいれいのぞいとたかむもの
言ふ『われ未だ人を知らぬに、如何にして此の事あるべき』御使こたへて言ふ『聖霊なんじに臨み、至高者の
ちからおおこゆ丸なんじうせい馬のかみことなみしんぞく
能力なんじを被はん。此の故に汝が生むところの聖なる者は、神の子と称へらるべし。視よ、なんちの親族工
なんしはら
リサベツも、年老としおいたれど、男子を孕めり』 (ルカ伝第一章二四 -三六 )ルカ伝のこの話は、ヨハネとイエスとが親類筋に当ることを伝えていますし、ヨハネもイエスと
(二)

ともに、神のみ心がはっきりと働かれて、この世に生をるし享うげけたことを著しています。ただ、ヨハネが昔ユダヤに現われたエリアという偉大なる霊力をもった、神霊の霊の能力ちからをもち、民の心を整
いとたかきもののぞ
え、主のために備える役目をもって生れた、とありますが、イエスは至高者の子として、聖霊が臨んで生れる者である、といっているのであります。こういう聖書の言葉は、唯物論者にとって馬鹿馬鹿しいつくり話ぐらいにしか思われないでしょ
かいたい
うが、キリスト教信者にとっては、マリヤの処女懐胎ということとともに、重大なる信仰要素となっているのであります。
なんにしても、イエスが神のみ心を真直ぐにこの地球人類に伝え、肉体身の原罪観念を、人類からはらい去り、霊心そのままの人類に、この地球人類を昇華させるための中心者として、この世に生れ出でたことは確かなことです。そしてヨハネはキリストの道が広まりやすいように、迷信から
の悔改めを絶叫し、荒野のように、自分勝手の想い、欲望の醜い草木の生い茂った、その時代の人
々の想念波動を、叩き直そうとした烈とした気魂をもった霊人だったのであります。
こういう役目 (天命 )の定まりは、地球世界に肉体人類というものを現わそうと、神が決意された時からの定まりでありまして、イエスにしてもヨハネにしても、肉体的な生れ変りというものを何度びとなく体験して、イエスとなり、ヨハネとなったのであって、イエスがヨハネより高い霊位の者
であった、というのではなく、イエスもヨハネもすべて、キリスト即ち神の真理をこの地球世界に現わすための神の化身であり、神の子であったわけです。そして、ヨハネはヨハネとしての天命を立派に果し、イエスはイエスとしての天命を果していったのであり、やがて来るべき、地上天国創設の日には、イエスという名でもヨハネという名でもない、異った名をもったキリストの体が、この世の中心者となってゆくのであります。そういう日のために、かつてイエスとして生れた神霊もヨハネとして生れた神霊も、全く一つに和して、地上天国を創りなす聖業を助けて働かれるのであります。私はこうした神霊の団体を、救きゆう
せくま
世の大光明と呼んでいるのであり、この救世の大光明は世界隈なく照らしつづけ、神の子の本体を現わし得る人びとを一人でも多く、一日も早くつくりあげようとしているのであります。聖書の中にも、イエスという個人を称えようとするあまり、理に合わぬことも随分と出てくるの
しよじよかいたい
でありまして、その一つが、マリヤの処女懐胎ということであります。何故かと申しますと、もしマリヤとヨセフとの間に交わりなくして、イエスが生れたならば、マタイ伝の第一章に、アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図、として、アブラハム、イサクを生み、からはじま
り、長々と系図がつづいたあと最後に、ヤコブ、マリヤの夫ヨセブを生めり、このマリヤよりキリ
たた
ストと称うるイエス生れ給えり、とあるのが、なんのためのものか全くわからなくなります。
マリヤとその夫ヨセフとが交わらずにイエスが生れたならば、イエスとヨセブとは血統的にはなんの関係もないことになってしまい、せっかく長々とイエスがアブラハムや、ダビデやソロモソ等々の血統である、と伝えていることが、なんの足しにもならぬことになります。何故かとい、兄ば、イエスの生みの母マリヤは、アラブハムともダビデともソロモンともつながりのうすい女性であるからです。従ってイエスはアブラハムとも関係のないことになります。
私はイエスが処女懐胎の子であろうとなかろうと、そんなことはどちらでもよいのですし、そんなことで、イエスの偉大さがマイナスされも、プラスされもしないことを知っているからであります。釈尊は脇の下から生れ出たことになっていますが、釈尊がどこから生れようと、釈尊は釈尊であって、なんの変るところはありません。
私の申し上げたいのは、今日までのキリスト教の多くの信者が、あまりにもイエスだけを特別の大聖と思い過ぎてしまうあまり、他の宗教との融和をはかれない独善的な生き方になってしまうのを恐れるからなのであります。
神々や聖者方の霊位を、どちらが上だ下だなどと騒ぐことほど馬鹿げたことはありません。いずれの方も、宇宙神の大光明を地球界に伝え広げる伝達者であり、みなそれぞれの天命のままに働かれたのであって、根源においてはキリストであり、如来であり、み仏である方々なのです。
そうした大聖方は、地球界の宗派争いや、宗団の強化くらべなどには、ほとほと困っておられるのです。私がこの聖書講義のはじまりから、イエスだけが神の独り子ではないなどと、キリスト教会の人びとが聞いたら、腹立たしくなるようなことを書きつづけているのもこのためなのです。この事実をわかっていただいて、徐々にイエス・キリストの素晴しさを私独自の解釈で説きつづけて
ゆきたいと思います。ひいきの引き倒しにならぬことが肝要です。
みこも
さて本題にもどりますが、イエスの母マリヤは聖霊により孕りますと、ヨハネの父であるザカリヤの家にゆき、ヨハネの母、エリサベツと言葉を交わしていると、エリサベツが霊的状態になって、マリヤを称え、マリヤの胎児を祝福し『わが主の母われに来る、われ何によりてか之を得し。視よ、なんちの挨拶の声、わが耳に入るや、我が児、胎内にて喜びおどれり』とルカ伝にあります。イエスとヨハネは胎内にあるうち、すでに霊的に交流し合っていたので、それが三十年後にしっかりと一つにつながったわけなのです。ヨハネとイエスとの霊的な深いつながりが、このルカ伝の
いとこ
描写によってよくわかるのです。肉体的には従兄弟であり、霊的には正に光の兄弟なのであります。
かくてエリサベツはヨハネを生み、マリヤはイエスを生むのでありますが、ヨハネが生れて名を
つける時に、ユダヤの習慣によって、父の名にちなんだザカリヤとつけようと、親類一同の者がいたしますと、母のエリサベツは、天使の言葉が心に浮んで、この子の名はヨハネとつけますというのです。しかし習慣に縛られている人びとは、ヨハネなどというそんな名は親類中で聞いたことがない、ザカリヤにしようといってききません。エリサベツは頑としてヨハネだといいはります。
おし
父のザカリヤは天の使に素直でなかったので唖になってしまっていますので、それまでは父の意見を聞いても仕方がないと思っていた人びとも、母のエリサベツが日頃に似ず、頑強に自分の意見をいいはりますので、それでは一応わからないだろうが、と父のほうにその意見を聞くように親類
一同が首をむけますと、ザカリヤは書板を取らせて、そこに、その名はヨハネなりと書きました。
あやしのぞ
一同が怪むようにザカリヤの顔を覗きこみます。その時、ザカリヤが急に口をきき出し、唖になっ

たいきさつを語り出し、神を讃めたたえつづけました。一同が驚いたのは勿論ですが、この話が山里中にひろがり、ヨハネがどのような偉大な人物になるかの噂でもちきりになってしまったのでした。ヨハネは霊性に富む父母に似て、非常に霊感力に富んでいましたし、天の使のいわれたように、
ちから
エリヤの霊の能力をもっていましたので、エリヤと同じように、豪直で神の正しさをそのまま身をもって示し、誤れる者にたいしては、烈しくその不正を正しました。エリヤというのは、旧約聖書
に出ております素晴しい霊能力をもった聖者で、常にエホバ神の使命を帯びて正義を行ないました。天から火を降らすことも自由、モーセが紅海の水を分けて渡ったように、河川の水を両方に分けて、自分たちの通る道を即座につくり得るほどの人で、時にはエホバの起す風にのって、天上高く舞い上がることもできた人なのです。
そうしたエリヤと同じように、ヨハネは神の使命を正しく逡奉じゆんぽうして、少年の頃より常に統一に励み、成長してからは、荒野に住み、らくだの毛衣を纒い、腰に皮帯を締め、いなごと野蜜を食して人としての楽しみを一切行なわず、ただひたすら、神の道を切り開いていたのであります。
その行ないは中国や日本の仙人の行ないに似ておりますが、常に民衆に接して、道を説きつづけユダヤ全土から続々と人びとが集り、この人が救世主ではないか、と人びとに思われたほどでしたが、彼は自分はキリストでもエリヤでもない、ただ、主の道を切り開いてゆく者だと卒直にいってのけるだけでした。
ヨハネは、抜群の勇気のある人物で、そして実に正直な人です。終始一貫、自己の天命の道を歩きつづけた人だったのです。その神の道を行なうことにおける勇気と直情とは、現代人には真似ることのできぬほどの純朴なるものでありまして、自己や自己の周囲の環境の不満を、為政者や資本家たちの責に帰して、あたかも勇気ある正義の使者のごとく、革命運動に走る者たちとは、根底に
おいて異なった、純真一途なる神の使徒であったのです。
いちず
ヨハネのそうした、神の道を正しくこの世に切り開かんとする純粋一途の歩みは、 .最後にはヘロデヤの娘の願いで、ヘロデ王に首を切られるという悲惨な運命をたどるのですが、彼のように神の道開きのために、肉の身の意識を忘れ果ててきたような人物にとっては、どのような死に方をしようと、そんなことは一向問題ではなかったのでしょう。
彼、ヨハネにとっては、キリスト (真理 )の道開きをすることだけが必要だったのであります。
そして、彼がヨルダソ川のほとりで、イエスの姿を見、そこにキリストを見出し、彼にキリストと
して自覚を与えたことによって、その使命の大半は果されたのでありました。ヨハネは弟子たちに
自分を花婿むごの友人にたとえ、キリストは必ず栄え、自分は使命を果し終えて、衰えてゆくのだ、だ
もと
からお前たちは、イエスの許へゆけ、といって、しきりにすすめていたのであります。ヨハネのよ
はず
うに自己の天命の道を自覚し、その道を少しも外れずに生きていった人は、世にもまれなる人であります。
イエスとサタン
みたぽあらゆみちびたぽあくぽニニるやだんじセ
ここにイエス御霊によりて荒野に導かれ給ふ。悪魔に試みられんとするなり。四十日、四十夜断食して、
のもうこニうものいなんじかみニめいニれらいしなこた
後に飢えたまふ。試むる者きたりて言ふ『汝もし神の子ならば、命じて此等の石をパソと為らしめよ』答へて
いたもひといよかみくちいすべことによしる
言ひ給ふ『「人の生くるはパソのみに由るにあらず、神の口より出つる凡ての言に由る」と録されたり』ここ
あくませいみやニみやいただぴたいなんじかみこおのみしたな
に悪魔イエスを聖なる都につれゆき、宮の頂上に立たせて言ふ『汝もし神の子ならば己が身を下に投げよ。そ
ためみつかいめいたコかれてなんじささあしいしあてな
れは「なんちの為に御使たちに命じ給はん。彼ら手にて汝を支へ、その足を石にうち当てること無からしめ
しるいたもしゆなんじかみこころしるあくオ
ん」と録されたるなり』イエス言ひ給ふ『「主なる汝の神を試むべからず」と、また録されたり』悪魔またイ
いとたかぞまよくにえいがしめいなんじひれみわれはい
エスを最高き山につれてゆき、世のもろもろの国と、その栄華とを示して言ふ『汝もし平伏して我を拝せば、
ニれらみなあたいたぽしりそしゆなんじかみはいニれつかたてぽつ
此等を皆なんぢに与へん』ここに言ひ給ふ『サタンよ、退け。「主なる汝の神を拝し、ただ之にのみ事へ奉
しるあくまぽなさみみつかいきたつか
るべし」と録されたるなり』ここに悪魔は離れ去り、視よ、御使たち来り事へぬ。
(マタイ伝第四章一i十一)
ここはイエスが悪魔の試みを退けて、神の子の真価を発揮するところですが、宗教信仰者にとっ
て、特に大事な章であると思います。古来から今日まで、少しの修行もしないで悟られた聖者という者はおりませんで、それぞれ異なった形ではありますが、肉体に執着する想念を浄め去るための様々の修行がなされております。釈尊も断食行中に種々の悪魔の誘惑を受け、これを退けておりますが、イエスも同じように、断食中に前記のような悪魔の誘惑を受けております。悪魔というのはどういうものかと申しますと、業想念波こうそうねんばの現われの一つの形であります。
こう
業想念波というのはどういうことかを、ここで説明いたしますと、業というのは仏教語で、カル
マともいわれておりまして、人間が肉体身としてこの世に生れ出でて、種々と意識したり、想像し
たり、思いめぐらしたり、行なったりすることが、すべて業なのであります。カルマと申しますと
こう
悪いことばとして使われますが、業という中には、善業も悪業もあるのです。しかし、ふつう一般
的に業といいますと、カルマと同じように、悪や不幸災難の場合に使われています。
そこで業の深い奴だ、などといわれ、悪い想念おもいの多い人や、欲望の深い人、不幸の多い人などに使われています。そうした業の想念が波動になって、この世やあの世をめぐ経へ巡っておりますのを、私は業想念波と申しております。これが凝こり固まると、悪魔というように形の世界に現われてくるの
であります。人間が神のみ心を離れ、肉の身だけに把われた想念行為の波を、形ある世界に表現す
ると、悪魔とかサタンとかいうことになるのであります。この世の想いは勿論、行為も形も、すべて波動の現われであることは、今日の科学が証明いたしております。そうした業想念波が自己の心にありますと、外的な業想念波の誘惑、つまり悪魔の誘いにのることになります。女性の色香に迷
っている時などは、自分の本心では、これはいけないことだと自分
をたしなめながらも、明るいところを嫌い、真理の光をさけるようにして、暗い方にひきづられてゆきます。
こうした神のみ心、真理の光が、この世にはっきり差しこむことを嫌う想いが、悪魔の想いであ
りまして、これを今日流にいえば、業想念波というので、聖者賢者のゆく道を妨げたり、善人を陥れたりする行為をするのであります。その方法は女性の誘惑という形もありましょうし、金銭的なものや地位や権力欲的な誘いもありましょう。また脅迫的な恐怖をさそうような出方もしますし、おだて上げて高慢な想いを助長させ
ようとしたりします
Q

釈尊やイエスには個人的な業想念などありそうもありませんが、肉体身をもっている限りは、そ
しやり
の肉体身を改めて捨離する想念になる必要があるのです。そして、自己が霊身そのものであり仏で
あり、キリストであることを再自覚することが大事なのです。
さつ
釈尊にしてもイエスにしても、もともと菩ぽ薩であり、天使であるのですが、肉体身をもっておりますと、この世の肉体世界の業想念波動と感応し合う波動をもつことになります。それでなければ、この世の人の悩みや苦しみが自己の苦悩として感じられるわけがありません。この世の人の苦悩を自己の苦しみ悩みとして感じられないような人には、救世的な働きができるわけがありません。何故ならば、人びとの苦悩はたんに他人の苦悩であって、我れにはなんのかかわりもないこととなるので、救いにおこ起たつという気持が起りようがないからなのです。菩薩や天使が肉体身として生れてくるのは、肉体世界の苦悩を我が苦悩として、一度は受けとめるためでありまして、そういう人びとは、人並み以上の肉体的苦悩を味あわされ、ますます深い愛の心が培つちかわれてゆくのです。

そして、そういう肉体界の苦悩を超えるためにはどうすればよいか、ということをみずから体得
するのであります。その結果、いずれの聖者も、肉体への執着を離れること、という一つの道を見
出すのです。それが断食行というような形になって現われてくるのです。
ところが、この断食行というのがなかなか大変でありまして、食を断つことによって、肉体波動
が霊化してゆくのであります。一度に霊化してしまうなら楽なものなのですが、肉体波動が霊波動
化する前に、幽波動という一つの段階を通ってゆくのです。
それは人間が肉体人間として存在するためには、神霊波動という微妙極まりない波動から、すぐに肉体波動という粗あらい波動にはなり得ませんで、その間に幽波動という中間帯の波動圏を持たねばならなかったのです。
この幽波動圏が大変ややこしいところでありまして、神霊界の光明波動と、肉体界の物質波動との交流しあう場であり、顕在意識と潜在意識との出会いの場でもあります。断食の統一行などいたしますと、肉体波動の持っております汚れが、神霊波動の光明のひびきで浄められて現われてきます。それは想念の汚れとして、肉体の欠陥として、表面に現われてまいりますので、肉体の各所が痛み出したり、様々ないやらしい想いが出てきたりして、ふだんはこらえていたり、奥底に抑えこんでいたりした想いが抑えようもなくでてくるのです。
そういう時に信仰の深さが問題になってくるのです。そういう時にいたずらに奇蹟を願ったり、金銭欲や名誉欲や性欲に想いが把われてしまったり、恐怖心に襲われてしまったりしたらいげないのですから、そういう憂いのある人は、先覚者の指導のもとにしっかりとやらねばなりません。イエスの場合には、すでにヨハネによって、キリストの自覚を得ております。しかも元来が天使として天降って来た人です。四十日の断食で飢えきった体ではありましたが、想いは神のみ心の中
しりぞ
にあります。ですからあらゆる悪魔の誘惑にも想いが動くことがありません。「サタンよ退け」と いう有名な言葉によって悪魔、即ち業想念波を退けてしまったのであります。
肉体をもち、幽体をもっておりますと、自己の想念波動だけでなく、肉体界や幽界の波動が自然と伝わってきます。イエスが様々な悪魔の誘惑に会ったということは、肉体界、幽界の波動がイエスの中に流れこんできて、神のみ光によって消滅されていったということになります。
イエスの「サタンよ退け」という言葉によってかなりの業想念波が浄め去られたことは確かなことです。

イエスがキリストの自覚をもって、奇鳥や蛇や、様々の獣の隠れ棲む荒野に一人座って断食の統一をしている姿が眼に浮かぶようです。人類救済の第一歩を踏み出すためにした身心の調整のための断食統一行。恐らく他の同行者はな
しゆげんしやぎよう
かったと思います。これ以前にイエスは様々の修験者について、統一の行に励んでいたのでありますから、身心はすでに浄化しつくされていたのでありましょうが、大事の前の一き時と刻に更に身心の
みたま
統一を計ったのでありましょう。もっともマタイ伝の伝えるように、御霊に導かれるままに行動したのですから、イエスの意志は全く神のみ心と一つになって働いていたというべきでしょう。ここでちょっと面白いことに、たま御み霊に導かれて荒野で断食行したイエスが、今度は悪魔に連れら
みたま
れて聖なる都につれてゆかれたとあります。すると、イエスは御霊にも導かれるが、悪魔にも連れ
てゆかれるかということになります。悪魔が行こうといっても、断わればよさそうなものを、断わらずに悪魔と同行するわけです。この悪魔も、人間の形をした悪魔がいて連れていったのではありません。イエスの想念の中での問答でありましょう。イエスの意志は常に神のみ心と一つなのですから、イエスの行動は神の意志
こころ
とみるべきです。神がイエスに最後のテストを試みるため、悪魔を使ったとみるべきです。そういたしますと、悪魔というものが神と対抗してあるものではなく、神のみ心の地上界にすっかり現われきるまでの一つの役割りとして悪魔のような形も現われてくるのであって、悪魔というものは実在ではなく、人類の業想念波動の消えてゆく姿の一つの現われというべきなのです。
ですから大宇宙のすべての実在は神のみなのであって、人間は神の働きの中心者としての存在で
すがた
ある神の子というべきなのです。イエスはその神の子の相をこの地球界においてはっきり現わし得た一人の聖者であったわけです。
宗教の修行中で一番恐ろしいのは、自己を現わそうとする欲望です。奇蹟を現わす力を得て人びとをアッといわせたい、病気治しの能力をものにして、皆にあがめられ、金銭的にも得をしたい等の欲望なのです。
悪魔即ち人類の業想念は、イエスに向っても、石をパンにしろ、といいます。イエスはキリスト なのですから、なんでもできる能力があるわけです。ところがイエスは「人の生くるはパソのみにあらず」といって、自分も飢えていて食が欲しいのに、そういって、悪魔をたしなめます。また、汝もし神の子ならば己が身を下に投げよ、と悪魔がいいます。それもユダヤ教の聖書に「なんじのために御使たちに命じ給はん。彼ら手にて汝を支へ、その足を石にうち当てること無からしめん」
といってあるのを例にしていうのです。
こんな風にいわれますと、真実神のみ心の中に自己の想念が統一されていないで、ただ幽界波動による奇蹟を行ない得る人びとは、ついこんな言葉にひっかかって、それを実行してしまうかも知れないのです。そうして事実助かるかも知れないのです。ところが、イエスはそういうことはしないのです。「主なる汝の神を試みるべからず」実によい
言葉です。どんなに神の力を自由に出せる立場にあっても、人類社会のためになんらの利益にもな
らないことで、自己の勝利の満足のためだけに神の力を使うなどということは、宗教者の恥ずべき
ことなのです。こんなところが、イエスの素晴しく立派なところなのであり、神と一体となった人
格がいかに立派なものであるかの証左なのです。
こうかん
昔も今もそうでありますが、巷間の行者の誤れる人びとは、人びとの人気を得るために、必要でもない奇蹟を行なって、人びとをびっくりさせ、ひとり満足しているといった形のものが多かったのです。
私なども修行中に、交通の激しい大通りを眼を閉じて歩けだとか、あの家はおまえの家になることに約束されているから交渉しろとか、ちょっと常識では馬鹿げきったことを、ささやかれたものです。そして、その前には、様々な常人にはできない奇蹟を現わしてみせてくれて、その上でそん
はず
な馬鹿げたことをいってくるわけです。ですから、常識外れのことと思いながらも、神様はあんなに種々と奇蹟を行なってみせて下さったのだから、これもできることなのかなあ、と思ってみたり
わら
するのです。常人が聞いたら曝うべきことでしょうが、宗教的奇蹟を知っている人にとっては非常に迷うところなのです。何故かといいますと、このままの常識世界がつづいたのではやがては人類が滅びてしまう、何か超奇蹟が起らなければ、どうにもならぬ、と宗教的な人は多かれ少なかれ内心で思っているのです。
ですから、つい奇蹟的な出来事には心がひかれてしまうのです。まして、自己が様々な奇蹟を行なえる場合には、なおのこと超越的なことに心ひかれます。私の場合には様々の試みに耐えて今日に至っておりますが、そういう体験からみましても、イエスとサタソのやりとりが我がことのように感じられて、イエスさんは偉かったなあ、としみじみ思うのであります。
「主なる汝の神を試みるべからず」全くよい言葉です。イエスの澄みきった心のひびきが、こち らの胸にひびきわたってきます。信仰者と称する人びとの中でも、これだけこちらが信仰しているのだから、神様はきっと何か奇蹟的な善いことを示して下さるに違いないと思っている人や、自分の欲するような奇蹟的な事柄が現われないと、神に不信の気持を抱いたりする人がおります。そういう心は真の信仰態度ではないのです。そういう態度は、神を試みている部類に入るのです。神は大愛であって、私どもに決して悪いようにはなさらないのだ、という徹底した信の心に入ることによって、キリストの奇蹟が、その人の眼前にはっきり現われてくるのです。

ものみおのもとみさい
き者かいつべき』ピリポいふ『来りて見よ』イエス、ナタナエルの己が許にきたるを見、これを指して言ひた
みまことうちいつわウいいかにわれしたも
まふ『視よ、これ真にイスラエル人なり、その衷に虚偽なし』ナタナエル言ふ『如何して我を知り給ふか』イエスい答こたへて言ひたまふ『ピリポのこたみ いしたきくじちいわれよ汝なんじを呼ぶまえに、我なんちが無花果の樹の下に居るを見たり』ナタナエル答
かみこなんじおうこたいたもなんじいちじくきした
ふ『ラビ、なんぢは神の子なり、汝はイスラエルの王なり』イエス答へて言ひ給ふ『われ汝が無花果の樹の下におるを見たりと 。ひし爵りて儲ずるか・糞航よりも甦に蓼る蕊を見ん』ま各ひ織ふ『まことに馨
なんじつてんひとこかみつかいのだくだなんじみ
汝らに告ぐ、天ひらけて人の子のうへに神の使たちの昇り降りするを汝ら見るべし』 (ヨハネ伝第一章三十五ー五十 )
ばんさん
この章は、イエスに最初の弟子ができるところですが、最後の晩餐の時にイエスと食事をともにした十二弟子の一人のアンデレがまず最初の弟子になります。ちなみに十二弟子の名前を書いてみますが、最も有名なのが、ペテロとヨハネとイエスを裏切ったことになっているイスカリオテのユ
おんわ
ダでしょう。その他にシモソ・ペテロの弟のアソデレ、ゼベダイの子でヨハネの兄のヤコブ、温和で実際家のピリポ、取税人のマタイ、バルトロマイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、それにタダイ、熱心党のシモソの十二人です。
一番最初の弟子になったアソデレは兄ペテロとともに漁師をしていました。この頃イエスがおられたガリラヤの海は水が清く、魚類はたくさん棲んでいて、大勢の漁師がいたのであります。ですから、イエスの最初の頃の弟子には、漁師が多くいたのでありましょう。
もくしろく
ゼベダイの子のヤコブもヨハネ黙示録を書いたヨハネも漁師でありました。
マルコ伝一章十六節ー二十節には次のように書いてあります。
そあみう
イエス、ガリラヤの海にそひて歩みゆき、シモンと其の兄弟アンデレとが、海に網投ちをるを見給ふ。かれ
すなどウびとすなど
らは漁人なり。イエス言ひ給ふ『われに従ひきたれ、汝等をして人を漁る者とならしめん』彼ら直ちに網を

すてて従へり。少し進みゆきて、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネを見給ふ。彼らも舟にありて網を繕つくひ
ただやといびとのこ
居たり。直ちに呼び給へば、父ゼベダイを雇人とともに舟に遺して従ひゆけり。
この文をみますと、前記の四人が漁師であったことは確かです。ユダヤ教の中で生活していたこの地の人びとにとって、洗礼のヨハネもイエスも新しい宗教を開いている人びととうつっていることになりますので、種々の知識があったりする人びとは、話をきいたり奇蹟をみたりして、善い教えだ、素晴しい人だと思っても、なかなか思いきってその教えに飛びこんでゆく勇気がありません。
日本の現代のように、信仰の自由を憲法でうたわれている時代なら、誰でも楽々と自由に自己の善しと信ずる宗教宗派に加入してゆけるのですが、それでさえも知識や地位に縛ぼられて、善いと信じながらも新しい宗教には飛びこんでゆけない、いわゆるイソテリや地位の高い人びともいるの です。
そのことを思いますと、イエスの時代のユダヤにおいて、新しい宗教を開いたばかりのイエスに従ってゆくのには、地位も何もない人びとか、知識のすくない人か、知識も地位もあるが、その環境に絶望して、何かで自己の突破口を開こうとしている人びとでなければ、そう容易に飛びこんで
はゆけなかったと思われます。
アソデレやペテロにしてもヨハネにしても、マタイ伝に書いてあるように、我れに従え、といわれ、すぐに、はいといってつき従っていったのではありません。そういわれるまでに、イエスの話
せんれいたた
を何度も聞いていたのでありまして、先に師事していた洗礼のヨハネが口を極めてイエスを称え、あの人が救世主だといっているのですし、彼に従っていったほうが自分の下にいるよりよいのだぞともいっているのですから、イエスに対して深い尊敬を抱いていたことは間違いありません。
そこで或る機会に、この機会は勿論、霊覚者であるイエスのほうからつくって、我れに従え、と
いったわけです。 …機が熟していたのです。イエスとこの人びとのような生命の流れが一つになるよ
かこせこんじようきえん
うな深い結びつきになるためには、過去世からの密接な縁にもよりましょうが、今生における …機縁というものが大事なのであります。そういう最もよい機縁を見ぬく力を、イエスのような霊覚者はもっているのです。
機縁の熟さないのに、義理や情や金銭事などで深い結びつきになりますと、それが逆縁ぎやくえんといっ
うら
て、情けをかけてかえって恨まれたり、憎まれたり、仇されたりすることになります。ですから人と人との結びつきというものは、うかうかとしてなされてはならないのです。といって、どういう風にその機縁を見分けるか、といっても、普通人には、その見当がつきません。そこ
まつと
のところを私は、常に守護の神霊の加護に感謝しつつ、世界平和の祈りの中で自己の天命の完うを願いながら、人びとに接せよ、といっているのであります。そういう深い機縁というものは神のみ知り給うているのですから、神のみ心そのままのキリストや、霊覚者でなければわからないところ
です。そこで普通人は、守護の神霊の加護により、世界平和の祈りのような人類愛の心の中からその機縁を現わしてもらうわけです。キリスト教徒の中には、守護の神霊などを否定してしまう人びとがいますが、キリスト教そのものにもガブリエルやミカエルという天使いわゆる守護の神霊がはっきり存在しているのを、キリスト教の人びとも知っているはずです。
イエスが祈りを捧げている時に、常に、ミカエルやガブリエルが、白光に輝いて、イエスの背後に現われていたのですし、そうした天使たちとイエスは常に言葉を交えていたことも確かなことなのです。
ちよくれい
キリスト教徒が聖霊と一口にいっていますが、この聖霊というのでも、直霊 (本心 )のことであ
しゆごじんしゆごれい
る場合も、守護神である場合も、守護霊である場合もあるので、いずれも神そのものの御光と解釈してよいのですが、絶対神、唯一なる神、造物主としての神ということにのみ把われすぎていますので、どうもキリスト教の在り方を不自由にし、他宗と相容れないものにしていってしまった傾きがあるのです。
真の宗教というものは、どの宗教でも、絶対神、宇宙神のみ心によって運営されているのは勿論のことですが、その教主の直霊の働きとその教主に定められたる各守護神 (天使 )の働きとによって人類救済の光明化がなされるのでありまして、宇宙神そのものが直接働きかけられるということはないわけなのです。何故かと申しますと、宇宙神そのものは、大宇宙の法則そのものであって、
はずおかけがゆる
法則に外れた、つまり罪を犯した人びと、大きくは人類の罪微れを、赦すも赦さぬもないわけなのです。法則のほうから人類に歩調を合わせるわけがないからです。
ですから、守護の神霊 (天使 )や聖者たちが、その人類の罪稼れをみずから背負って、人類を宇宙法則に乗せようと働かれるのであります。こういう働きが人類救済の働きというのでありまして、その最大聖者の一人がイエス・キリストなのであります。
いやひい
イエス・キリストは、人の病を癒す力に特に秀でていましたが、人の運命や心を見通すことも、
人の状態を眼前に見るごとくわかる霊覚をもっていましたので、弟子になるべき人も、離れる人のこともわかっていたのでありましょう。
いちじく
ナタナエルに会わぬ前から、彼が無花果の木の下にいたことをあてて、ナタナエルに信仰心を起こさせるぐらいなんでもないことでした。イエスには説法の深さや霊覚もさることながら、その風貌ふうぼうにも人をひきつけずにはおかぬものが
こまひふあお
あったのです。日に焼けてはいるが、きめの細かい神経のよく行きとどいた皮膚、広い額、碧く澄んだ遠くのほうまで見透すような眼、私にはこの原稿を書きながらも、イエスの澄みきった深い眼がみえてきます。鼻も高いが素直な形のよい鼻です。
その雰囲気も光に充ちていながら、静かなのです。それで一度び説法をはじめますと、どこから
こも
そんな迫力が出てくるかと思うほど、よくひびく高い声で力の籠った音声です。その声には人の心を真理の道に自然に乗せてしまうような不思議なひびきがあるのです。私が何も小説を書くようなつもりで、イエスの風貌を画いているのではなく、イエス・キリストそのものを私は霊覚でよく知っているのです。普通に話す時には、非常に穏やかな声なのに、いったん説法になると、明るい火のように燃え盛る声になるのです。そういう真理に燃えた説法を、ガリラヤの海辺で、或る時は静かな日ざしの中
で、或る時は、突然吹きまくる突風もものともせず、叫びつづけたのであります。
ガリラヤのあたりは、東方はけわしい山脈になっていて、その高地から突然に風が吹き出して天候が一変することがありますので、イエスは雨風に打たれながら説法をつづけたことも、 .たびたびあると思われます。
イエスにとって、山も海も、雨も風もさして恐るるものではないが、人の想いだけが問題だったのです。悔い改めよ、と叫びつづけた洗礼のヨハネの後をついで、人類救済の深い自覚のもとに、人類の罪業を背負いつづけて歩まねぽならぬ、大犠牲者としての歩みの一歩一歩は、一日も早く人びとの想念が、神のみ光の下で浄められてゆくことを念願する愛の一念だけであったでしょう。
イエスにとって、自己の下に集ってくる信深き人びとが、どれほど可愛いかったことでありまし
しやくそんしやくそん
よう。釈尊と違って、イエスは若くして世を去りました。そして、釈尊の悟りと異った状態で、はじめから霊身の波動をはっきり表に出して生きてきた人です。この世の存在期間が短かいことも奥の心は知っていました。その短い在世中に自己の下に集まってきた人びとにたいする愛の心は、そ
れは深いものであったに違いありません。察するにあまりあります。
まして、自己に近い年令の青年たちにたいする愛は、全く師弟というより、兄弟にたいする愛情、同志的深いつながりにたいする愛情という、禅宗的なものとは異なった、人間性の横温おういつしたも
のと私には思われるのです。イエスはみずからは神と一体化した人でありながら、その胸中には横にひろがってゆく、人類愛 に燃えたった熱血児であったのです。
イエスの弟子たちのことを書いていると、釈尊をはじめ日本の上人しようにんや大師たち仏教の先達たちの師弟関係が思われてきます。釈尊は王子であった関係もありましょうが、王様が二人も三人も弟子になって、非常な後援をしておりますし、日本仏教の先達たちは、たいていその頃の政界の有力者
を後援者にしていまして、立派な仏閣を建立しておりますが、イエス在世中のキリスト教は、そう
うしろだて
いう有力な後楯が一人もいなかったように思われます。
イエスが貧しい大工の息子であったこともあるのでしょうが、イエスの生涯が最後の十字架を背負わされる運命をも含んで、悲愴感に濫れていて、イエスを思うと胸がじーんとしてくるのは私のみではないと思います。
それもこれもみな神の仕組には違いないのですが、イエスの十字架上の大犠牲の行為が、今日では全世界の各界にキリスト教者を生み出しているのですから、宗教というのは、ただたんに教えだけのものではなく、その中心者の魅力というものに左右されることはいなめないようです。
イエスの最初の頃の弟子たちが、ほとんど知識階級の人ではないのですが、イエスの光にあって
いるうちに、しだいに人格も向上してくるし、霊能力も発揮されてきて、イエスが天界に去った後
には急速にその力は増大していったのであります。
i

イエスが最も愛し、力にしていたのは、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人のようです。ルカ伝第八章四九 五一節には、
かいどうつかさわずら
「かく語り給ふほどに、会堂司の家より人きたりて言ふ『なんちの娘はや死にたり、師を煩はす
おそ
な』イエス之を聞きて会堂司に答へたまふ『儂るな、ただ信ぜよ、さらば娘は救はれん』イエス家
に到りて、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ及び子の父母の他は、ともに入ることを誰にも許し給はず。」
しんゆ
とあります。娘は神癒により生きかえるのですが、こうした大事な時にもペテロ、ヨハネ、ヤコブの三人だけは身近に置いています。また第九章二八ー三一には、

「これらの言をいひ給ひしのち八日ばかり過ぎて、ペテロ、ヨハネ、ヤコブを率きつれ、祈らん
みかおさまみ
とて山に登り給ふ。かくて祈り給ふ程に、御顔の状かはり、其の衣白くなりて輝けり。視よ、二人の人ありてイエスと共に語る。これはモ 1セとエリヤとにて、栄光のうちに現われ、イエスのエル
とせいきよ
サレムにて遂げんとする逝去のことを言ひゐたるなり。」この節は、イエスが人類の業生の身代りとなって逝去する日のことを、守護の神霊から知らせてきた時のことを書いているのですが、こんな重大なことの起る時にも、前記の三人を身近に置いて
うかが6

いるのですから、その親愛のほどが覗われます。
温厚篤実なアンデレ
しかし私はここで、一番最初に弟子になったアソデレを取り上げてみます。アソデレはペテロの弟ですが、非常に信心深い人で、はじめは洗礼のヨハネにつき従っていまして、熱烈なるヨハネの説法にひきつけられ、少しでも罪を犯かすまいとして、身をつつしんでいた若者です。
アンデレの性質は温厚篤実といった形で、滅多に自分から口を開くことはなく、常に人びとの話を聞く側に廻っているような人でした。ですから洗礼のヨハネのような男性的な強烈な行動力のある人には、非常にひきつけられて、師の後につき従おうと思い定めていたのでした。ところが、そ

の尊敬あたわざる師が、イエスこそ自分より偉大なる救世主であると誉めそやしたので、彼の心は燃えあがるような気持で、イエスのほうにむいていったのですが、性来、内向的な素質の人ですから、時折りそっとイエスの説法をきいたり、イエスの行くほうについていったりしながらも、自分から声をかけるようなことはできなかったのです。ところが或る日親友のヨハネと一緒になり、ヨハネが、イエスの歩いてゆく姿をみて、あれが師
のヨハネのいわれる神の子のイエスさまだ、とアンデレにささやきかけたのをきっかけに、二人はイエスの後をついてゆくことになるのです。
ヨハネのほうでは、早く追いついて話しかけたい気が充分にあるのですが、アソデレが慎重な様子をしているので、ついイエスに声をかけそこねていますと、イエスのほうで振りかえられ、何か願いごとでもあるのか、と問いかけてこられたのです。
イエスもそうであろうと思いますが、霊覚者というものは、なんでもかでも、自分が見通したことを、やたらに口にするものではありませんで、まず一口軽く口をきいて、相手の反応をみるのであります。そして、相手の心の動きをはっきり確めて、相手の一番よいように導いてゆくのです。
イエスも、アソデレやヨハネとの深い結びつきは一目でわかっていたのでありましょうが、軽く相手が話しやすいように口を切ったわけ .です。
そのときアンデレは「ラビ、どこにお泊りですか」ときき、イエスに従って、イエスの許にゆき、食事をともにして、イエスの話をきいたのであります。イエスは真理に通じた人でありますし、人びとの心の中もわかる人でありますので、その話をきいていたら誰でも、魅力を感ぜずにはおられないでしょう。まして、イエス .を慕う気持でついてきたアンデレのことですから、忽ちイエス党になり、イエスと別れたその脚で、三日もかかる郷里のガリラヤまで飛んで帰えったのです。それは
何故かといいますと、アソデレは何事においても相談しなければいられない、兄のシモソ (ペテロ)がガリラヤにいたからであります。
アソデレは幼い時から、兄のいうままに動いていたような人で、聖書にもアソデレのことがあまり出てこないのは、兄の大きさの蔭にかくれていたためでありましょう。アンデレが郷里にかけつけて、眼を輝やかして、イエスが救世主そのものである、ということを口重な彼に似合わず、熱を帯びて何度びとなく、兄ペテロに説きつづけたことはいうまでもありますまい。しかしペテロは漁師の仕事が忙しかったためかも知りませんが、別段反対することもしませんでしたが、ただ弟のいつに似合わず燃え上がっている心に興味をおぼえていたのでした。そのため、
アソデレはしばしばイエスの話をきき、行動派のペテロのほうが、アソデレにひきづられるように
イエスの話をききにいったようでありました。しかし、やがて時がきて、アソデレがイエスとはじ
めて言葉を交えた日から十八ケ月もたって、マタイ伝四章一八ー二十節に書いてあるように、漁を
しているところを呼びとめられて、イエスに従ってゆき、兄弟ともに十二使徒の一員となってゆく
のであります。
その時、友人のヨハネもその兄のヤコブも、一緒に正式にイエスの弟子となるわけです。
すなど
『われに従ひきたれ、汝等をして人を漁る者とならしめん』というイエスの権威ある言葉はどれだけ、この若者たちの心を高揚させ、希望に輝くものとしたことでありましょう。
しかしこの若者たちが、イエスに従ったのは、真理にだけ従ったのではなく、この人についていれば、この世における善き地位も必ず得られる、という気持が充分にあったことは、後に十二弟子の間で、誰が一番高い位につけるか、といい合っていて、イエスにとがめられたりすることがあったのをみても、うなづけます。
神秘家ヨハネ
ヤコブの弟のヨハネは霊的な瞑想家であり、神秘なものにひかれる性格の人でしたので、イエスの神秘性には特に強く心をひかれていたのです。尊敬おくあたわざる大師であったわけです。
ヨハネは神秘性において、十二弟子のうちでも最もイエスに近いものがありますので、イエスのいうこと行なうことの一つ一つが、心に沁みる弟子であったのです。ですから『義のために責められたる者、天国はその人のものなり』などという言葉には魂がふるえるぐらい、感動をおぼえたのです。
ヨハネは表面は静かな態度をしておりますが、内に燃えあがるものは、抑えようのないほど烈し
いものでありまして、イエスを慕って燃え上がった想いは、日とともに烈しくなり、この主のためには生命もいとわずの想いになっていたのであります。そういう一本気の愛情とイエスの心を直伝してゆく神秘性は、イエスのほうにもうつっておりまして、何やかとヨハネには命じやすく、一番身近に親しくするようになっていたのです。イエスの
まと
最も愛した弟子はヨハネともいえるのです。いかなる神の使徒といえど、肉体を纒えば、肉体自体のもっている波動想念があるのです。神霊そのままの生き方で、この世が救えるものなら、何もわざわざ肉体身に化身しなくとも、この世は救えるわけなのですが、神霊波動そのままの心では、こ
の業想念波動につつまれた地球世界を救うわけにはゆかないのです。
そこでイエスにしても、肉体身を纒っておりますから、肉体身自身の好き嫌いというものがあったのでありまして、ヨハネのような自分の肉体波動によく似通ったしかも、自分を慕いに慕っているような者を強く愛さずにはおられません。ペテロなども主を愛することにおいては、ヨハネにおとる沌のではなかったでしょうが、ヨハネの、肉体的にすでにもっている神秘性において、イエス
かんかく
との間隔を、ペテロは一歩ヨハネに譲っていたようであります。
まつと
ヨハネは十二弟子中で、ただ一人無事に長寿を完うした人でありまして、ヨハネ伝とヨハネ黙示録を残しております。 ,これは彼の天命の故にそうなされたのでありましょうが、一つには彼の神秘
のがまつと
力が、幾多の難を遁れさせ、天寿を完うさせたことによるのでありましょう。
イエスの十二弟子は、いずれも学問知識の深い人たちでも、地位の高い人たちでもありませんし、表面的にみて、特別に秀れたる人格者という風にも感じられません。そうした人びとが、日を経へ、月を経てしだいに霊性が磨かれてゆき、イエスの肉体消滅後は、急速に本心開発され、治病力、説得力、予言力ともに素晴しい力を発揮してゆくことになるのであります。
その点では仏教の釈尊の十大弟子とは、多分におもむきが変っています。釈尊の十大弟子は、はじめから秀れた素質が表面に出ております。なんあほつしやりもくれん大迦葉だいかしようにしても目連にしても、舎利弗にしても阿難にしても、その優秀さが目立っておりますし、釈尊在世中に大いに活躍して、釈尊が長寿であった関係もありますが、釈尊より前に亡くなってしまった人が多かったのです。しかし、イエスの十二弟子は、いずれもイエスの昇天後に、その真価を発揮して、キリスト教を今日のように発展させる基礎をきついたのであります。キリスト教では、自己が中心というより、五感に感ぜられぬ世界、霊界神界の導きというものに重点が置かれていたのでありまして、イエスが眼に見える世界を去ってしまわれて、霊身として弟子たちの前に現われ、真実に神というものを、弟子たちに実観として味わせたことにより、眼にみえぬ世界、神霊や天使の存在を弟子たちがはっきり確認することによって、各自のうちなる能力が、充分発揮でき得るようになったのであり
ます。
別ないい方をすれば、イエスが霊身となられてから、肉体身としてでは一つところにしか現われられないと思っていたイエスが、自分たちが呼ぶどこにでも、すぐに出現して下さるという確信がつき、神々が常に自分たちに力を与えていて下さるという、強い信念に弟子たちはなっていったのです。そういう強い確信が、あらゆる能力を強化せしめたのであります。
ほとけ
仏教の弟子たちは、そうした神界霊界ということより、自己の内部の仏ということに重点を置く修行をしてきていたので、自己以外の眼にみえぬ世界の加護によって力をいただくというより、自己の内部の仏、つまり本心開発によって、光明を発し、すべての能力を発揮する、という真実の自我の開発に力をそそいだわけなのでありまして、あくまで自我が主であって、自己以外の (この場合の自己は神霊を含めた自我でありますが )眼にみえぬ世界からの力を借りようとはしなかったのです。
こういう点、キリスト教の天なる神という観念と、仏教のうちなる仏、自我の開発というのは、根抵においては一つでありながら、現われ方としては相違したものになっていたのであります。それは釈尊が長寿していたということと、イエスが短命であったということにも原因はあるのでありましょうが、釈尊とイエスの教え方の相違にもよることでありましょう。



最初の弟子たちの中で、最も有名なペテロのことを、ここで少し書いてみます。
ペテロというのは、前に書いてありますが、アラム語ケパのギリシャ語形で岩という意味なので、イエスによって与えられた名です。ペテロはガリラヤの人で、ヨハネの子、ヨハネというのはこの地方にたくさんいましたし、マリヤだとかヨセブだとかいう同名人が随分おりまして、マタイ伝のマタイにしても、十二弟子の一人のマタイであったか、後の人であったか判然としてはいないのです。
ペテロの弟は先にでていましたアソデレです。ペテロにはすでに妻があったのですが、一時は妻を捨ててアンデレたちとともにイエスに従うのですが、そののち家族とともにカペナウムに住むことになります。しかし、ヨハネとともに最もイエスに信頼されていた彼には、おそらく家族とともに住む日はほとんどなく、諸方を道を説きつつ歩き廻っていたに違いありません。
仏教の僧たちは勿論ですが、キリスト教におきましても先達として働いた人たちには、家族の生活を捨てて、神の家建設のために身心を投げうつ人びとがほとんどだったようで、小さな家を捨てて大きな家づくりに献身したのであります。
神の国をこの地球界に創り上げるためには、マル業カ想念波動に蔽われている現在までの社会生活と、
まとも
相容れないものがでてまいります。ですから真正面にぶつかってゆきますと、真理の道を行ずることと、一般社会生活との交流がうまくまいりませんで、従ってその家庭生活は一般社会から浮き上がってしまうようになります。
イエスの頃は、まして、ローマの武力の圧政下にあったのですし、それに従う支配者の都合のよ
いような政治がとられていたのですし、それにユダヤ教が一般の信仰の中心となっていたのですから、イエスのような新しい宗教の布教は、いかに神の道を正しく説くのであろうと、正しければ正しいほど、自己本位の政治を行じていた支配者や、ゆがめられた道を進んでいたユダヤ教に固った人びとの圧迫を受けたのは、当然なことといえましょう。
イエスは勿論のこと、ペテロはじめ弟子たちの労苦も大変なものであったのです。イエスに従っ
た弟子たちは、家族の食生活のために働くということが至難であったことは当然のことでしょう。現在のように自由主義に徹したような日本においてでも、よほど、道と社会との調和をはかって動
かぬと、家族を困らせつづけて道を行じる、というようになってしまいます。
イエスの時代の圧制政治の中で、ペテロは十二弟子の先頭に立って、弟子たちの代弁者のように、イエスの神の子キリストであることを人びとに説き伝え、イエスにも喜ばれていたのですが、それ
かた
だけ支配階級や反対の民衆には、様々.の迫害を受けていたことは想像するに難くありません。ペテロの歴史の中では、イエスの予言の通りに、にわとりの鳴く前に三度イエスを知らぬといった、あの弱気からきた不信の言葉、そのみずからの臆病をどんなに、血を吐く想いで恥じらい、責めさいなみ、悔恨の涙にくれたであろうか、しばらくは弟子たちから身をかくして、悲嘆のどん底
ゆる
に沈んでいた後、イエスの霊身に赦されて、本格的な大弟子としてキリスト教の今日の基礎を築いたことと、紀元六〇年、ローマ皇帝ネ・のクリスチャソ大迫害の際、人びとにすすめられて、二、三の弟子とともに一たびはローマを逃げ出したのですが、途中で、キリストの光明を霊視して、逃げることを止め、みずから名乗ってでて、死刑の宣告を受け、主イエスと同じような十字架上で死ぬのは畏れ多いというので、みずからのぞんで逆さ十字架にかけられて死んでいった、という二つの事柄は、イエス在世中の、ペテロの岩らしからぬ、前進的でいて臆病な性癖と、キリストの霊身に会ってからの、不退転の信になりきったペテロそのものの大使徒としての心境との二つの面がは
っきりでていて、深い信仰は、その人の性癖をすっかり浄め去って、神の子の本心をそのまま出し得るほどになるのだ、ということを改めて感じさせるものであります。
すぐに激情して前進するくせに、内心気弱なシモソにペテロ(岩)という名を与えたイエスには、後年その名にふさわしい人物になり得ることが見えていたのでありましょう。ペテロもまたヨハネ
とともに地の塩そのものの人であり、やがて来る地球世界完全平和の、神の世を創るための光の先 達であったのです。
ペテロの働突
ペテロは大祭司の中庭から
遠く祭司長たちに囲まれてゐる主をみつめてゐた

祭司や全議会はイエスに死を決定せんとしてゐる
大祭司の数々の問に
イエスは昂然として自己が全能者の右に座すキリストである事を宣言した
ペテ・は小きざみに震へる体をじっと抑へて火にあたってゐた
そのうち議員の一人が主の顔を掌で打ち

一人は唾を吐きかけ
一人は頭部を拳で叩いた
ペテロは畏れと恐怖とで歯の根も合はぬ程に体が震へつづけた

その時大祭司の碑女ほしためがペテロを見て
この人はイエスの仲間だと言った
あわ
ペテロは周章ててその言葉を否定しながら庭口を出てゆかうとしたその彼を追ふ様に碑女は傍の者たちに彼は確にイエスの仲間だと告げ廻るペテロは再びその人たちにその人を知らずと云ひ放った然し傍の者たちはなんぢはイエスの仲間のガリラヤ人に違ひないと断定するやうに云った
あわ
ペテロはますます周章てて
われは汝等の云ふその人を神に誓って知らず
さう云ひ切って庭を出て行った薄明を破って彼をおびやかす様に鶏が鳴いた
ペテロの脳裡を
先夜の食事時に主の云はれたみ言葉が電光の如く烈しく打ち過ぎた
ふたたびみたびいな
ーにはとり二度鳴く前に汝三度われを否まんーそのみ声が脳裡を砕き割るように大きくひびきわたったペテロの痛む胸の中を
すが
尊く清しく懐かしき二人となき主イエス・キリストへの想ひが大きな哀しみを伴って流れきたったこらペテロは耐へかねあたりを忘れて働笑した
ユダは主を売りわれは肉体の恐怖のため魂を忘れた最早ペテロの上に青空は無くペテロの下に地さへも無かったペテロは肉体と云ふ橿の中で泣き叫ぶ自分の魂をもてあまし死せる人の歩むがごとく歩み出した
あお
蒼ざめた彼の影を砂塵がしきりに叩いて夜明の光をはばんでゐた
ゴルゴタの丘で
二人の盗人の間にはさまれ
尊く慕はしき主の姿が十字架を背にして立ってゐる
ペテロは悩み疲れた顔を
群集の間から伸び上るやうにして
かな
愛しき主の姿を仰いだ
ざんき
主を捨てた噺悦の念で彼の心は裂けつ父け流れ落つる涙の顔が幾度か霞んだ 1神よ神よ、主を危難から救ひ給へ 彼の心は血を吐くばかりに祈りつづけた霞んだ眸をみひらくと主の慈眼がペテロをみつめてゐるあ二その優しさその気高さそれはすでに地上の者ではなかった
i

1神よ我が肉体を主に代へさせ給へー
ペテロはすでに肉体の己れを捨てて祈りの中にひたり切ってゐた午後三時暗雲は天地を蔽ってゐる瞬間天地を貫く白光が燦然とペテロの眼を射た
イエスは全きキリスト (神)の姿に還元し
天空高く舞ひ昇っていった
ーペテロよ汝の罪は赦されたり汝は永遠にキリストと倶に働かんー
荘然自失しているペテロの心に
主イエス・キリストのみ声が
光り輝いて聞えてきた
取税人のマタイ
山上の垂訓と呼ばれるイエスの説法は、キリスト教聖書の中の、最も一般的に知られた高い深い教えでありまして、読む人の魂を揺り動かす強いひびきをもっております。聖書をよんだたいがいの人が、聖書といえば、山上の垂訓の一節を思い出すほど、山上の垂訓は、キリスト教にとって大事な教えです。
この山上の垂訓はマタイ伝に書かれているので、どうしてもここで、このマタイ伝を書いたと思われる、十二使徒の一人のマタイについて話さなければならぬと思います。
しゆぜいにん
マタイは、その頃の人びとが烈しく嫌っていた取税人でありました。今の人でも税務署の人というと、何か普通の勤人とは違った圧迫感を抱いたりする人が随分おりますが、イエス時代のユダヤでは、そのまま罪人というような呼び名にされていたのでありまして、ローマ帝国の代理者として動いていたヘロデの下で、民衆の意志に反する政治のために、重税を取り立てる取税人というのは民衆の敵でもあったわけです。
そして、取税人たちの多くは、自己の利益を計って、割当て以上の課税をして、自己の懐に入れ
ぺんぎさくしゆ
たり、便宜を計ってやるといっては、役得としての搾取をしたりしていたものでした。マタイは、
港町力ペナゥムの税関にいて、ガリラヤの漁夫や、水陸の旅行者とその貨物に対する課税や、北方ダマスコ、エジプトあるいは地中海の港からくる貿易商の物品に対して課税したりする、重要なそして有能な税吏であったのです。マタイの生活はかなり富んでいたのですから、彼も他の取税人のように、自己利益を計っていたことは確かなようです。
税務官吏の仕事は勤勉であればあるほど、民衆から恨まれる立場になるので、仕事に勤勉であったマタイも、相当、民衆からは白い眼でみられていたようであります。
マタイというのは「神の賜物」という意味で、十二使徒の一人となってから、イエスによってつけられた名で、普通はレビと呼ばれていました。レビは本質は学者的な人で、旧約聖書にも通じ、文才もありました。父親が金銭的なことで人に馬鹿にされていたのをみて、金を得ること、地位につくことを第一義と信じ、その第一歩を取税人として踏み出したのであり、金を蓄積するためには他の取税人同様、搾取もしたわけであります。しかし、本質が学者的な人でもあり、旧約聖書にも通じていた人でありますので、罪人意識で心が常に不安であり、不安定でいたたまれぬ日々だったのです。
その頃、有名であった洗礼のヨハネさえ、自分はその人の足下にも及ばぬとまで讃えていたイエスの存在を知り、陰ながらイエスの説法も聞いて感動していたので、収税所に坐っていた彼に向って、イエスが、「わたしに従ってきなさい」とおごそかに命ずるようにいうと、まるで待ち兼ねていたように、はいといって従うのであります。
ゆる
これで自分の罪は赦されるのだ、とマタイの心の奥で明るい希望が輝いたのです。イエスの光明
カルマ
が、マタイの業の雲を貫いて、マタイの本心に通っていったのでありましょう。イエスが、マタイ
のような民衆に嫌われている取税人を十二使徒の一人にしたのは、マタイがイエスと過去世からの縁が深かったこともさることながら、マタイの学究的性質とその文筆の才とが、必ず後に役立つことを見通していたからで、取税人を弟子にすることによって、民衆から反感をかうことなど、その胸中には問題にしていなかったことでありましょう。
はたして、マタイは歴史的な重要な役割を果しているのであり、マタイの弟子入りによって、中 間層に位する人びとの間にイエスの教えが大きく広がっていっ、たのです。イエスの一挙手一投足というものは、常に未来へのつながりをもってなされていたので、その時だけのための行動というものは、ほとんどしていないのです。
しよくざい
マタイは、常に自己の贈罪的な観念が残っていまして、自分がイエス・キリストの手足となって働くことによって、自分の取税人であった時代の罪臓れが消えるのだ、と思っていたようで、そのため、イエスに向って教えにたいする質問をしたり、ヨハネやペテロやユダのように、イエスと親
しる
しく口をきくようなことはせず、黙々と、イエスの言葉を記していたのであります。それが後に大
きく役立つわけなのです。
マタイはイエスの命によって、思想家トマスとのコソピを組み、旧約聖書の予言にある救世主は、
主イエスであると説法して歩き、イエスの昇天後もキリストの霊身に導かれて、トマスとのコソビ
を崩さず伝道を重ね、エチオピヤ、パルテヤ方面を主に伝道して歩き、ナタパールにおいて殉教の

死を遂げたのであります。マタイはヨハネやペテロとともに、キリスト教の歴史にはなくてはならぬ人物であったのでした。
もそのマタイが書きとめた、山上の垂訓を次に解説してみましょう。


山上の垂訓
慰めの言葉
めぐいやてんかん
イエスはガリラヤ中を巡り歩きまして、多くの様々の病人を癒しております。癩滴、中風などが治ったことが聖書に数多く記されています。そういう現象利益もさることながら、イエスのキリストとしての本領は、やはりその説法の素晴しさにあったのです。あの有名な山上の垂訓と呼ばれる
説法などは、一読胸をゆすり、清き心が湧きあがってくるような素晴しいひびきをもっています。
さいわいまずさいわいかななぐさ
『幸福なるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり。幸福なるかな、悲しむ老。その人は慰められん。
さいわいにゆうわつがさいわいじうかわあえ
幸福なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣ん。幸福なるかな、義に飢え渇く者。その人は飽くことを得ん。
さいわいあわれみあわれみさいわいきょさいわい
幸福なるかな、憐欄ある者。その人は憐欄を得ん。幸福なるかな、心の清き者。その人は神を見ん。幸福なる
となさいわいせ
かな、平和ならしむる者。その人は神の子と称へられん。幸福なるかな、義のために責められたる者。天国はその人のものなり』 (マタイ伝第五章三 -一〇)
この幸福なるかなの一連は確かにイエスの言葉の中でも光を放っています。イエスはこの世にあ
まりにも貧に悩み、病苦に悩み、圧政に悩む不幸な人びとの多いのに接して、深い愛の心から、こうした慰めの言葉が湧き上がってきたものでありましょう。一つ一つの言葉に不幸な人びとへの温かい慈悲の心がにじみ出ています。
この説法を聞きながら、アンデレもヨハネもヤコブもペテロも、民衆とともに感激の涙をたたえていたに違いありません。我が師は偉大なお方である、と弟子たちは師に親しみながらも、その愛と権威とに打たれていたのであります。
それではここで、幸福なるかなの一連の解釈をしてゆきたいと思います。
まず
最初の「幸福なるかな心の貧しき者」というのは、どうもちょっと誤解しやすいものをもっていますが、心の貧しい者というのは、心が貧弱なという意味では勿論ありませんで、心の謙虚な人という意味であります。
心の謙虚な人は天国の人だというのであります。人にたてられればたてられるほど謙虚になって
ひげ
ゆかぬと、つい邪道に踏み入ってしまいます。またそれと反対に、あまりに自己を卑下しすぎてい
しゆうせい
る人は、終生明るい心になりきれません。自分は駄目だ、自分は駄目だといっていたのでは、その人の本当の力がいつまでたっても出てはきません。高慢もまんげ卑ひ下慢も愚かしいことであるのです。
人間は常に裸の心で、自分をそのままみせていて、恥ずかしくない人にならねばなりません。それにはたゆみない反省、私流にいえば、消えてゆく姿で平和の祈りが必要なのであります。
「幸福なるかな悲しむ者、その人は慰められん」というのは、悲しむ事柄がその環境に現われてきた場合、それはせこ過か去世の因縁が消えてゆく姿として現われてくるのでありますから、悲しみが現われてきた場合には、守護の神霊方はよかったね、もう悪いことはそれで消えていったのだよ、これからは本心、本体の真実の光が現われてくるのだよ、と慰められるのであります。
悲しみや苦しみの種を底に持ちながら、それがまだ現われない時よりも、もう現われてしまって後は本心の光明が現われるだけというほうが幸福というべきなのです。
つが
「幸福なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣ん」の言葉は読んだままの意味でありますが、柔和なる者が何故地をつぐことになるのかと申しますと、この宇宙は大調和にむかっている世界なのでありまして、この地球波動の世界も、やはり調和にむかって進んでいるのであります。ですから柔和なる者はそのまま地上をついでゆく、地上世界に調和をもたらす人びとであるというのです。
私が日々声を大にして世界平和の祈りを人びとにすすめているのも、一人でも多くの人びとに地
つく
をつぐ者になってもらいたいためなのであります。いかに貧しき者たちのために尽している人でも
ほる
富める者たちに反感を抱いて、ごとごとに富める者の悪口をし、富める者を滅ぼし去ろうとするよ うな生き方は、柔和なる者地をつがんの生き方ではありません。一方を愛するのあまり、一方を恨
み傷つけるような在り方は、神の心ではないのです。そこに現在の社会主義者や共産主義者たちに対する、何か割り切れぬ恐れというものを、人びとが抱くのであります。
柔和とは文字通り、柔かく和している心でありまして、恨み心や傷つける心がある限りは、真の柔和というわけにはまいりません。悪や不正に対する怒り、というものは、どんな柔和な人の心にもあります。しかしそれは人生の調和を乱すものにたいする嫌悪の気持であって、富める階級そのものへの恨み心とは異なります。といって、柔和ということが、臆病からくる弱さとは全く違うの
であります。
「幸福さいわいなるかな、柔和なる者」と「幸福さいわいなるかな、平和ならしむる者」という二つの言葉があり
つが
ますが、柔和なる者のほうは地を嗣ん、としてありますし、平和ならしむる者のほうは神の子と称へられん、とあります。この二つは同意義に解釈してもよいのでありましょうが、厳密に申しますと柔和なる者より、平和ならしむる者のほうが、人の生き方としては、一歩前進している感じでありますし、実際に地を
つがとな
嗣ん、という言葉より、神の子と称へられんという言葉のほうをイエスは高く認められていること
は「幸福なるかな、義のために責められたる者。天国はその人のものなり」とつづけて説いていることでもわかります。
真実に柔和なる者でなければ、この地球界を維持してゆくわけにはまいりません。何かといえばすぐ腹を立て、自己や自集団の利益に反すれば直ちに武力で相手を屈伏せしめようというような人びとでは、とても地球世界の運命を完うしてゆくことはできません。
しかしながら過去から今日までの歴史は、弱肉強食の動物性さながらの世界でありまして、柔和
げざ
なる者たちは、常に下座にあって、自我心の強い、利益権力のためには、人を痛め傷つけることなど、なんとも思わぬような人びとによって、この地球世界の運命は左右されていたのであります。
そして今日では地球滅亡にいたる核戦争の危機が迫ってきている始末なのです。
イエスの時代もやはり強い者勝ちの時代でありまして、武力や権力にものをいわせる人びとのために、常に人民は不安な日々を送っていたのであります。イエスに働く神のみ心は、そうした不合
にな
理を改革なさろうとして、柔和なる者こそこの地球界の運命を担ってゆくものであって、いかに苦難の道がつづこうとも、恨みやねた憤いきどおりや妬み心など起こさず、柔和な心をもちつづけなけれぽいけな
い、とイエスに説かせたのです。
そして更に一歩進んで、そうした柔和なる者のみの地球世界にするためには、まず武力や権力欲 や恨みや憤りを浄め去るべき、平和の光をひびかせてゆく人びとが必要なのだ、と説くのであります。
平和の光をひびかせ得る人びとは、ただたんなる柔和というのみではなく、何者なにごとにも恐れぬ勇気が必要なのです。その勇気はどこから湧いてくるかというと、神のみ心と直接つながっている心から湧いてくるのです。自分は神の分生命なのだ、神の子なのだ、自分は神の理念をこの地球界に現わすためにこの地球界にきているのだ、という、強い信念がなければならないのです。
山上の垂訓はそのことを簡潔に表現しているのであります。イエスがその時聖書に現わしてある
言葉だけを語ったのではなく、私が今話しているように、人びとにわかるように、心に刻みこまれ
るように話したに違いありません。聴聞者は学者知識人より、学問知識のない一般人が多かったの
ですから、むずかしいことだけいってもわかるはずがありません。
噛んで含めるように、よく心にも頭にも入れるように説かれたことは当然のことでしょう。
私が、今、祈りによる平和運動をしておりまして、世界平和の祈り一念でこの世の生活を送るこ
とをすすめておりますが、人間が神の子となるためには、神のみ心の大調和な姿を、この地球界に
現わすために働いてこそ、はじめて神の子と自他ともにいえることを知っておりますので、人間神
の子の姿を、すべての人に現わしていただきたいためにやっておるのであります。
それをただたんに口先きや頭の中だけで、観念的に人間神の子とやっているだけでは、とても真実の神の子の姿は現われてはまいりません。真実神の子の姿を現わすためには、人類平和につながるなんらかの働きをしていなくてはならないのです。
優しい人だ、善い人だ、というだけでなく、一歩前進して、世界平和のための何事かをなし得る人になることを、イエスも望んでおられたのですし、私も望んでおるのであります。私はそれをやさしく誰にでもできる観の転換てんかん法として、消えてゆく姿で世界平和の祈りという方法にして、すべての人に神の子の姿を現わしていただこうと運動しているのであります。ただ自己の周囲の現象的な幸福だけを望んでいたのでは、その人たちは、いつまでも弱肉強食の世界、善悪混清こんこうの世界の住
とな
人として生活しつづけなければならないので、神の子として称えられるわけでもなく、神の子とし
ての真実の幸福を得るわけにもゆかないのです。
柔和でしかもこの世界を平和ならしむる、なんらかの働きをしている者を、神は祝福し給うので
あります。
そういう眼でこの世界を見渡してごらんなさい。個人としてはそういう人もかなり存在している
のですが、国家として、はたしてどこの国が、イエスのいう柔和なる者であり、平和ならしめる者
でありましょうか。ベトナムで爆撃をつづけて多くの人員を殺傷している米国でしょうか。米国憎
悪の感情に全人民を燃え立たせて、共産政権の安泰をはかろうとしている中共でしょうか。それとも陰にまわって小国群に武器を売り渡し、自国は原水爆の多量の蓄積のもとに、米国と中共との争
えいないな
いをほくそ笑みながら眺めているソ連でしょうか。否々というほかはありません。
イギリスフラソス
英国も仏国も、すべての国家群が、まず自国の安泰のための政策に終始していまして、イエス .
キリストのみ心に叶った生き方をしている国家はどこにもないのであります。
自国を救い、地球世界の運命を救うものは、もはや一人一人の平和ならしむる働きよりないので
す。一人一人が結集して平和ならしむ者の集りとして、神の子の結集をそこに実現せしむるより、
他に今日の地球の運命を救う方法はないのです。
「軒襟なるかな、平和ならしむる者、その人は神の子と称へられん」
イエス・キリストのこの言葉の実現のためにも、私たちは世界平和の祈りの道を拡げてゆかなけ
ればなりません。私たち一人一人のたゆみなき祈りの行は、そのまま、この地球界に光をふりまい
ていることになるのです。一人の人を真実平和な心にならせることだけでも、その人の神の子の姿
は現わされているのですが、世界人類のすべての人のために、日々たゆみなく、平和の祈りをして
いる者は、神の子の姿を常に現わしている尊い人なのです。
一人の偉大な政治家が現われても、国民一人一人の平和への強い歩みがなければ、国家というものの持つ、自己保存の業波動に負けてしまいまして、その場その時々の現象利益のために、完全平和への道を閉ざしてしまいがちなのです。時には平和のための戦争などという名目をつけて、自国を守ろうとするのです。
生命いのちいのちを捨てざれば生命を得ず、とも聖書はいっております。真実神の子としての生命を得るため
こうしよう
には、業生の生命を、やさしくいえば、この世の損得勘定をすっかり捨てきってかからないと、真実の神の子の生命は現われない、とイエス・キリストはいっているのであります。それは国家より
ごう
も、個人個人のほうがそうなりやすいのです。国家というものは、個人個人の小さな業でも多くの人びとのものが寄り集りますので、大きな業波動となって、なかなか少しぐらいの光明では、その業波動の動きを消し去ることはできずに、つい業波動のままの動きになってしまって、好まざる戦

争などに捲きこまれていってしまうのです。私はこの業生の生命、この世的な損得勘定で終始している生命、つまり業想念を、消えてゆく姿
かんてんかんそく
として、世界平和の祈りの中で、真実の神の子の生命に浄めかえてもらう、いわゆる観の転換即日々新 (神)生という生き方を提唱しているのであります。
「あかわう幸福さいわいなるかな義に飢え渇く者、その人は飽くことを得ん」

義に飢え渇く者、というのはどういう人のことをいうのかと申しますと、常に神のみ心に沿った正しいことをしたい、神のみ心がこの地上界にはっきり現われるための働きをしたいと切望している人のことであります。天意のままに働かなければいられない、という人は、神のみ心を尋ね求め、神のみ心の現われとわかれば、飢えた人が食物にむしゃぶりつくように、一心にその道のために尽さなければいられない、という人なのです。
よく大義のためにという言葉で、一方の集団のために、他方の集団の撲滅をはかって、どんな非

道なことでもやり遂げるような人がおりますが、これはたんに相対する一方のための働きでありまして、真実の大義ではありません。義というのは、あくまで、天意に沿った道であり、神のみ心のままの道のためのものでなければなりません。
古来からの聖者賢者や、神の道のために殉じた人びとは、みな義に飢え渇いた人びとでありまして、その人びとの後世は神霊の世界において、神のみ心のままの自由自在な生き方ができるものなのであると、イエスはいっているのであります。次の
さいわいあわれみあわれみ
「幸福なるかな憐欄ある者、その人は憐欄を得ん」
とありますのは、人の不幸や悲しみに心から同情し、我がことのように照せるような愛の心の深
い人は、自分がしたと同じように神様からも愛される、ということでありまして、ただ自分のセン
れんびん
チメソタリズムを満足させるような憐欄感ではないのです。他の人と同悲同喜する深い愛の心が、真実の憐欄感なのであります。自分を優位に置いて、高いところから人を騰ガというような憐欄感は真実のものではないことを、よくよく知っておいていただきたいものです。次は
「幸さ福いわいなるかな心の清き者、その人は神を見ん」という言葉でありますが、これはもう説明することのないほどはっきりしている言葉でありまして、この純真な、清らかな人はそのままで自己の心に神が輝いているのでありまして、常に神を自己の行為の中に見出していることになるのであります。そういう純粋に清らかな心の持ち主ほど幸福なものはありません。しかし、自己の心の汚れを常に浄めつづける努力もして、清浄そのものに成り得た人は、その努力精進の故に、さらに光輝ある神の姿をこの世の行ないの中にも、あの世における生活の中にも見出し得ることでありましょう。この一連の最後に、
さいわい
「幸福なるかな義のために責められたる者、天国はその人のものなり」といっております。
イエスがこの言葉を口に ℃た時、その心の中には、ヘロデ王のために首をきられた洗礼のヨハネのことが、強く浮んでいたことでありましょう。ヨハネこそ、義のために責められたる者だったか

らです。そして後には、イエス自身が義のための大犠牲者となって十字架に肉体身の最後を遂げられることになるのです。
天国は確かにその人のものであったでしょう。これはイエスやヨハネばかりではありません。国家や人類社会のために、すっきりした心で生命を捧げた人びとは、みな天国の住人となるのです。
いやいや
大義のためとはいえ、嫌々ながら、しかも恐怖におののきながら生命を捨てたのでは、天国はその人のものなり、というほどにはなりません。生命を捨てる時には、思いきって、すっきりと捨て切ることが必要なのです。
しかし、そういってもなかなかそうできるものではありません。そこに宗教の道があるのでありまして、祈り心をもって、神のみ心の中に入りこんで生命を捨てる、ということが大切なのです。
ひつじよう
恐怖も執着も、その祈りによって神の方よりすべて消し去って下さることは必定なのです。消えてゆく姿で世界平和の祈りとはそういうことでもあるのです。
イエス時代のことを想いますと、現在の人びとは、特に日本に住む人たちは幸福だと思います。少しでもさからせいしや為い政者に逆う言葉を吐けば直ちに投獄されてしまう、人民の運命は常に支配者の一方的な
行為によって定められてしまっていた時代、人民になんらの自由のない時代、そういう時代はイエスの時代ばかりではなく、日本においてもつい最近までそんな時代があったわけです。
道を説きながら、いつも身の危険を感じていたイエスだったのですが、そのイエスに附き従った弟子たちも、危険と貧しさに常につきまとわれていたわけなのです。そういうイエスと弟子たちの間柄は、血を分け合った兄弟のような一体観と師弟としての尊敬と愛情との交ぜ合わさわったものであったのです。
人びとに嫌われさいなまれたようなことも多くあったでしょうし、官憲の圧迫や、ユダヤ教の人びとの妨害もかなりあったことでしょう。そういう圧迫や妨害があればあるほど、師弟の愛情は強く結ばれていったのであります。
地の塩
汝らは地の塩なり、塩もし効力を失はば、何をもてか之に塩すべき。後は用なし、外にすてられて人に踏ま
まナ
るるのみ。汝らは世の光なり。山の上にある町は隠るることなし。また人は燈火をともして升の下におかず、燈台の上におく。かくて燈火は家にある几ての物を照すなり。かくのごとく汝らの光を人の前にかがやかせ。
おこない
これ人の汝らが善き行為を見て、天にいます汝らの父を崇めん為なり。 (マタイ伝第五章 ; T一六)
イエスは弟子たちを、地の塩にたとえています。塩というものは、日本でも浄めのために使用していますが、塩はしヘ(水)ほへ(火)という言葉でありまして、水と火の調和したものである、ということで、調和あるいは浄めの意味をもっているのであります。ユダヤでもこの塩は幕屋の神殿の供え物に加えられており、新生児を清めるためにも用いられています。また塩は、不変の節操と友情とを象徴し、今日に至るまでアラブ人はともに塩を食した者を友とみなしているのです。実際的には塩は防腐力があり調味の効があるので、そういうすべてを綜合して、イエスは真の弟子たちを、汝らは地の塩なりといったのであります。汝らがもし、そうした塩の効力を発揮しない
ままでいるようであれば、それはもうこの世に用のない人間として、人びとに捨てられてしまうの
である。汝らの天命は地の塩のように、神への不変の節操をもって、人びとを浄め、調和させ、カ
ルマに汚されてくさらぬような人びとを、多くつくりだすことだ、といっているのであります。
そしてその後で、汝らは世の光なのだから、汝らは多くの人にあって、汝らの光を世の人びとに
あが
当てて、人びとをかがやかせ、汝らの善い行為をみせて、人びとに天の父を崇める心を起こさせよともいっているのです。このイエスの説法をきいていますと、弟子の一人一人が、各自自己のために生きているのではな
く、天の父のためにあるのであり、地の人びとのために存在しているのである、ということをはっきり教えていることがわかります。仏教では、まず自己のうちなる仏、本心開発が主でありまして、自己の本心開発がおのずと人び
はん
との範となってゆくのであって、一にも二にも本心開発が主なのであります。
ここに、キリスト教と仏教の歩み方がおのずと異なってきて、今日に至っているのです。人間にとって、官己の本心開発、霊性の開発が、何よりも大事なことは論をまたないのですが、自己の本心開発のためだけの修行に全時間をかけていたのでは、他への働きかけがおろそかになってしまいます。
そこで、自己の本心開発と他への働きかけとの両面同時に生かすためには、たゆみなき祈りと、社会愛、人類愛という愛の行為とが同時になされていなければならないのです。イエスが自己も歩み、弟子たちにも歩ませたい道は、こうした道であったのです。地の塩の教えはこの道を端的に説明しているのであります。
自分は地の塩なのだ、人びとのための調味料となり、浄めとなり、調和の役目を果さんとしてこの世に存在するのだ。そしてそうした生き方が、世の光となり、この世の人びとに神の存在を示し神のみ心を伝えることにもなるのだ、というように弟子たちが悟ってくれれば、イエスのこの世に
かい
天降ってきた甲斐があるのであります。
うつわ
この肉体は神を現わす場であり、器であるということを、イエスははっきり知っておりましたが、弟子たちにはなかなかわからなかったに違いありません。頭ではわかっていたものもあったでしょうが、行為としてその実行ができた人は少すくなかったのです。
もく
ですから、一番弟子とも目されていたペテロですらも、イエスが捕われた時に、我れその人を知らず、といって、大事な大事な先生であるイエスとの師弟関係を否定してしまうのです。否定した後ペテロは非常に良心にさいなまれて苦しむのですが、その苦しみの後で、イエスの霊身に会い、肉体の生命をすっかり捨て切って、キリスト教を今日たらしむる基礎的な大活躍をするわけです。
これは先にも述べましたように、イエスの十二弟子が、はじめから秀れた素質の人格高潔な人びとではなく、イエスによってしだいに清められ、高められ、イエスの昇天後、キリストそのものの

光明や天使たちの応援によって、急速な進化を遂げたものがあったことが、はっきりいたします。こういうことは極めて大事なことなのでして、現在平凡な人びとが、いついかなる時に、にわか
へうぼう
に秀れた人に変貌しないとは限らないということを、証明しているのであります。後にでてくるパウロにしてもそうです。彼は役人として、反キリスト者として、キリスト教徒の弾圧を計っていた
めし
人です。その人がキリストの光明で盲いて、再び眼開いた時には、キリスト教徒最大というべき、大弟子に変貌してしまったのであります。
ここで私が申し上げたいのは、現在は宗教の道に乗り切れていない人も、神の存在に半信半疑の人でも、常に自己の信仰にあきたらず、自己卑下している人でも、はたまた唯物論者で、信仰者を嘲笑している人でも、いつ真の神の子の姿を現わすか、はかり知れないということです。
それは、どうしてであるかといいますと、人は誰でも神の子でないものはなく、みな誰しもが、地の塩の本性をもっているからなのです。人はみなキリストであり、キリストの弟子であり、大生命の分生命なのです。
かニせ
ただ人それぞれにその本心を蔽っている過去世からの因縁因果の相違があり、カルマの波の厚さ薄さによって、神の子のはっきり現われている人と、獣性の多く現われている人との区別がついているのであります。
人は重病や苦悩の果に、その本心をふいっと悟ることがあるのであります。それは、蔽っていた
カルマ
業が、重病と現われ、苦悩と現われて消え去ってゆき、本心がはっきりと表面に現われてくるから、そうなるのです。それを私は、常にすべては消えてゆく姿なのですよ、消えてゆくに従って、本心が開いてゆくのですよ、といって、消えてゆく姿で世界平和の祈りというように、人類愛の祈りの中にすべての想いを投入することを教えているのであります。
確かに人間は誰でも地の塩であり、世の光なのです。地の塩が塩の本質を発揮しなければ、イエスのいうごとく、外にすてられ、人に踏まれてしまうだけです。この世界は滅びていってしまうのです。
自己が完全にならなければ、人は救えないと善い人ほど思うことでしょうが、マル業カ波動に蔽われたこの地球世界で自分だけが完成しようとするのは大変なことなので、自己の完成と他の完成とが同時になされるような生き方でないと、急速に業波動を浄めさることはできないのです。
何故かと申しますと、人の救いに立った時、社会人類のために役立とうと思う時、その人はすでに地の塩の本質を現わしているので、その人は神の子の光明を急速に照らしはじめるのです。愛は光なればなりです。
ます
イエスの言葉は真理の言葉です。汝らは光なのだから、人の前で照らせ、燈火を灯して升の下に置くものはない、燈台の上に置くのだ、というのです。人を救おうとしたら、自己卑下していてはいけない。社会人類のためになろうと思ったら、おずおずしていてはいけない。陰で光っていないで、堂々と人前に出て、神の子の光を照らさなければいけない。全くその通りです。善人が強くな
って、真理の光明を堂々と照らし出すようにしなければ、この世の闇は晴れることはありません。
今こそ全くその時代なのです。
善人が、家にひっこんでいて自己卑下ばかりしていないで、堂々と人びとに真理の光明を照らし出す必要が、今日ほど必要な時はありません。祈りによる世界平和運動も正にその通りです。汝らは地の塩なり、光なり、神の子なり、汝ら動き出さずして、なんの世界平和の完成ぞ。時は今なのであります。
律法の成就
ねきてこぽこぽかえ
われ律法また預言者を穀つために来れりと思ふな。殿たんとて来らず、反って成就せん為なり。誠に汝らに
すゆすたことこコつと
告ぐ、天地の過ぎ往かぬうちに、律法の一点、一画も廃ることなく、悉とく全うせらるべし。この故にもし此
いましめいとちいさとな
等のいと小さき誠命の一つをやぶり、且その如く人に教ふる者は、天国にて最小き者と称へられ、之を行ひ、
とな
かつ人に教ふる者は、天国にて大なる者と称へられん。我なんぢらに告ぐ、汝らの義、学者、パリサイ人に勝
らずば、天国に入ること能はず。 (マタイ伝第五章一七i二〇 )

イスラエルの律法というのは、実に厳しいものですが、もっともどこの宗教の戒律でも厳しくないものはありません。しかしイスラエルの場合、宗教的戒律がそのま 国の律法となっておりますので、なかなか大変なことなのです。人類はイエス時代から今日まで、少しつつの進化はしておりますが、物質文明文化の目ざましい
x

進歩にくらべ精神面での進歩の状態は格段の差をつけられております。その進歩の状態は遅々たる
ものでありまして、イスラエルの律法や各宗教の戒律通りの行為ができる高い精神状態に達するに
はほど遠いものがあります。
ところが神のみ心においては、そういう律法や戒律がおのずと守れるように、人間の本心はできているということをご承知なので、各民族の予言者や、聖者賢者にそのような高い心の状態になる指導をなさせているのであります。
こぼ
イエスもそういう指導をする一人でありましたので「われ律法また預言者を穀つために来れりと思ふな」といわれ、かえって成就せんために自分は来ているのだと強調しています ◎確かにイスラ
エルの律法にしても、各宗教の戒律にしても、その通り行なったら、いかに立派な人類が出来上る
かというのは論をまちません。しかしこの地上界というのは、神のみ心を離れた肉体我で蔽われて
おりますので、肉体的の苦痛や、肉体にまつわる感情想念の満足に反することに対して、非常な抵抗を示すようになってきていますので、神のみ心を素直にそのま玉行ずることができないのです。
いましめいとちいさ
イエスは「此等のいと小さき誠命の一つをやぶり、且その如く人に教ふる者は、天国にて最小き者と称となへられ、律法の通りを教ふる者は天国では大なる者と称へられる」といっていますが、この地上界の人の中で、果してこれらの戒律を守って生きられる人が何人あるでしょうか。その事実
をはっきり考えて、私たちはこの戒律問題に取り組んでゆかねばなりません .それでないと、後にでてくるパリサイ人のようにほとんどの人がなってしまうのであります。宗
教に入ったために偽善者となり、常に自己の心を痛めつ父けているような人が随分あるのも、戒律あるための反対現象なのです。次には、モ !セの戒律を通して、和解、色情の問題、誓いのこと、汝の仇を愛せよ、などをイエスがどのように説いているかを解説してまいりましょう。
汝の敵を愛せよ
いにしえさにどさ
古の人に「殺すなかれ、殺す者は蕃判にあふべし」と云へることあるを汝等きけり。然れど我は汝らに告
さばじむかおろかもの
ぐ、すべて兄弟を怒る者は、審判にあふべし。また兄弟に対ひて、愚者よといふ者は、ゲヘナの火にあふべし。この故に汝もしうらの供物そなえもを祭壇にささぐる時、そこに兄弟に怨まるる事あるを思ひ出さば、供物を祭壇のまへに避しておき、先づ轡きて、その兄弟と秤轡、鴛るのち来りて・供物をささげよ・なんぢを認ぎ者とともに轡あるうちに、早く震せよ。群くは、訴ふる者なんぢを羅凋にわたし・審判人は下役にわたし・遡
つぐなあた
になんぢは獄に入れられん。誠に、なんぢらに告ぐ、一厘も残りなく償はずば、其処をいつること能はじ。 (マタイ伝第五章二一ー二六 )「目には目を歯には歯を」と云へることあるを汝ら聞けり。されど我は汝らに告ぐ、悪しき者に概搾ふな。人
うつた
もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ。なんぢを訟へて下着を取らんとする老には、上衣をも取らせよ。人もし汝に一里ゆくことを強いなば、共に二里ゆけ、なんぢにこば請ニふ者にあたへ、借らんとする者を拒むな。「なんちの隣を愛し、なんちの仇を憎むべし」と云へることあるを汝等きけり。されど我は汝らに告ぐ、汝らの仇を愛し、汝らを責むる者のために祈れ。これ天にいます汝らの父の子とならん為なり。天の父はその日を悪しき者のうへにも善き老のうへにも昇らせ、雨を正しき者にも、正しからぬ者にも降らせ給ふなり。なんぢ
むくいしゆぜいにんしか
己れを愛する者を愛すとも何の報をか得べき、取税人も然するにあらずや。兄弟のみに挨拶すとも何の勝ることかある。異邦人も然するにあらずや。然らぽ汝らの天の父の全きが如く、汝らも全かれ。 (同三八ー四八 )
地球世界の肉体人間にとって、こんなに行ないにくい、むずかしいことはありません。この教えを読むたびに、真理を行ずることのむずかしさが心に沁みて思われます。どんなにむずかしくとも
キリスト
行ないにくくとも、これは真理の言葉であり、神のみ心であることは、私の経験からしても確かで
す。キリスト者でありながら、この真理の教えをどうしても実行できずに、自己を偽善者と思って終生悩みつづけている人もかなりあると思います。この教えをなんとか消化してゆかなければ、キ
リスト者としては偽善になってしまうでしょうから、悩みつづけるのも無理ないと思います。
ユーゴの小説「レ・ミゼラブル」の、ミリエル僧正のように、愛で泊めてやったジャンバルジャンが、その恩を忘れて、大事な銀の燭台を取っていってしまう。そして官憲に捕われて僧正のところにくると、それは私がこの男にやったのだ、といって、その罪を少しも憎まず、ジャソパルジャン
の神性を認めて弁護してやるところがありますが、ああいう無我の愛、光明思想というのは、得難
いもので、感激しないではおられません。
ところがそれは小説上のことであって、現実のこの世界の行為としては、なかなかできることで
はないのです。
さばき
殺す者は審判にあふべし、どころではなく、兄弟 (人類すべてのこと )を怒るだけで、愚者よ、痴者よ、というだけでも、ゲヘナ (地獄 )の火あぶりに会うというのですし、人もし汝の右の頬を
うつた
うたば、左を向けよ。なんじを訟えて、下着を取らんとする者には、上衣をも取らせよ。一里ゆけ
といえば、二里をもゆけ、というように積極的に愛を行じてゆくのですし、なんじの仇をも愛せよ
というのです。
こんなことは普通はとてもできそうもないのです。しかし、聖書の言葉としてばかりではなく、因縁因果の法則としても、この世において (あの世においても )現われてくることは、すべて原因
こんしよう
結果の法則によって現われてくるのであって、今生の自己としては、やったおぼえも、行なった記億もないとしても、自己にあらわれてくる不幸災難も環境も、あらゆる出来事は、過去世において自己が想念し行為したことの現われでないものはないのであります。
ですから、こちらが何もその人にたいして、悪いことも不為になることもしていないのに、あち
うら
ら側で、こちらを怨んだり、叩いてきたりする場合もあるのです。ひどいのになると、愛情で親切
あだ
に世話してやった人が、かえって仇してくる場合さえあります。
かこせ
こんな場合には、たいてい怒りの想いが出てくるところですが、これも過去世において、自己が
なしてきた報いが現われてきて、そこで帳消しになってゆこうとして現われてきたのです。その反対に人に善くされることも、やはり過去世から今日に至るまでの、その人の善徳の想念行
為の現われてきたものに他ならないのです。ですから、その場、その時の正当さだけを取りあげて私のほうは何も悪いことをしないのに、あちらが仕掛けてきたのだ、というような浅い考えでは、神のみ心、真理に合わないわけです。
9「天の父の全きが如く・汝らも全かれ・というように・神の子そのままの響現わすためには・で
きてもできなくても、聖書の言葉通りにしてゆかなくてはならないのです。〆最後には、できるできないではなく、どうしてもそうしなければならぬように、神々のほうからしてゆくことになるのです。
こういわれても、どうも普通の人間には、そんな心境にはなれっこありません、という言葉がでるに違いありません。私もつきつめつきつめて考えて、やはりそう思ったのですが、私が、神に生
命を投げ出し切った時から、キリストの聖書通りの心で生きてゆかれる方法を神様から教わったのです。それは、私の教えの根本になっている、消えてゆく姿で、世界平和の祈り、ということなのであります。
人間はいかなる人でも、過去世からのつながりによって生きている人ばかりなのです。その人がどう否定しようとも、現在現われている環境も出来事も、すべて、過去世から、現在に至るまでの想念行為の現われでないものはないのです。
そこで私は、今、聖書通りの行為のできない自己は、過去世から今日に至るまでの神のみ心を離れていた想念行為の習慣によって、そうなっているのだから、そうした想念行為は、すべて今、現われて消えてゆくのである、と想って、聖書通りの真理である人類愛の想いによってできあがった、世界人類が平和でありますように、という祈りを根本にした、世界平和の祈りの中に、すべての想
てんかん
念を投げ入れてしまいなさい、というのです。そういたしますと、自然と観の転換がなされ、過去世からの習慣性が改まってきますし、世界平和の祈りがもっている神の慈愛の大光明によって、過
カルマ
去世からの神のみ心を外れていた、業想念が、しだいに消されていって、いつの間にか、キリストそのままの心が想念行為の上に自然にでてきた、何気なく、敵をも愛せる、敵を認めない心境にな
ってくるのです、と説いているのであります。ですから、一度に真理を行じようとして、それがで
さば
きないからといって、自己を偽善者として責め裁かず、やがては自分もキリストの如く、聖書の言葉をそのまま実現できる人間になるのだと、悠々とした気持になって、消えてゆく姿で世界平和の祈りの行をしつづけてゆけばよいのであります。
色情を抱きて女を見るものは ……
かんいんつ
「姦淫するなかれ」と云へることあるを汝等きけり。されど我は汝らに告ぐ、すべて色情を懐きて女を見るも
すでつまつくじナ
のは、既に心のうち姦淫したるなり。もし右の目なんぢを蹟かせば、挟り出して棄てよ、五体の一つ亡びて、
えきつゑづ
全身ゲヘナに投げ入れられぬは益なり。もし右の手なんぢを蹟かせば、切りて棄てよ。五体の一つ亡びて全身
えぴ
ゲヘナに往かぬは益なり。また「妻をいだす者は離縁状を与ふべし」と云へることあり。されど我は汝らに告
おニな
ぐ、淫行の故ならで其の妻をいだす者は、これに姦淫を行はしむるなり。また出されたる女を嬰めとるものは姦淫を行うなり。 (マタイ伝第五章二七ー三二 )
じめ
このイエスの言葉ほど、昔の若い青年たち、特に真面目に正しく生きようとする若者の心を戸惑まわせた言葉はないのです。女性はともかくとして、男性にとって、性欲望の問題は重大な問題なのでありまして、食欲に比するべき抑え難い本能なのです。健全な精神と肉体をもったこの地上界の
青年で、性欲望のない人はありません。女性を見て色情を起すというより、女性を見る見ないにかかわらず、年頃になりますと、おのずと肉体の内部より、欲情が燃えあがってくるのです。そうした欲情の発っする年頃に、女性を見た場合、その欲情を抑えるのには、よほどの意志力がなければなりません。女性を見ることによって、内なる欲情が外にひき出されてくるのです。これはもはや、女性を見る見ない以前の、本能的なものでありまして、女性を見ることによって、
その本能を果したくなるのでありまして、これは動物に与えられていると同じように種族保存の本能なので、おのずと湧き上がってくるのです。この本能は神が与えたかどうかは後の問題といたしまして、この本能がなければ、この肉体人間はすでに消滅し去っていることは事実であります。
昔の僧侶のように、カソリックの神父さんのように、すべてが妻帯しないことになれば、この肉体人間が存在しなくなるのは理の当然です。性欲望が起こらずに、快楽なくして、子孫だけ残すための男女の結合などというものが、実際上行なわれるものでしょうか。もし行なわれるとすれば、人間感情を超越した僅かな聖賢だけにできるのでありまして、自然は子孫を残すための手段として、性欲望を肉体人間に与えていることは事実であります。
しかし、神霊の世界においては、性欲望も、そういう快楽のないことも、私の霊覚においては、はっきりしたことなので、肉体人類が浄化されきってしまえば、神霊の世界と同じような状態にな
るでしょうが、現在までの肉体人間の世界では、こうした教えを守ることは実にむずかしいことで、真剣にこの問題と取り組む青年は、常に自己の想いに把われて、自己を責め裁く狭い善人、暗い不自由な活力のない人間になってしまいがちです。そうでなければ、常に自己の心をいつわって生きる偽善者になってしまいます。中には、この本能からくる欲望を超越して、そのエネルギーを社会人類のために活用させ得る偉大なる人物もでてはおりますが、そういう偉大なる人の行為に近
つくように努力精進することは勿論大切です。しかし、もし自分には到底とうていそういう人の真似はできないと思ったら、あまりその問題に把われないで、他の事柄で人類社会に霊せる人間に自分を育てあげてゆくことが必要なのです。偉大な魂の人でも、その本能が強い人もあるのですから、自分の想いをはっきりみつめて、自分が性欲望を超越できぬと見極めたら、いち早く妻帯して、その問題から想いを離し、他の能力を磨
いて、社会、国家、人類のために働ける人間になってゆくことが必要なので、何から何まで完成され
た人間になろうとしても、まだく今世紀ではそうなり切る人は滅多にあるものではないのです。
だがしかし、理想の世界においては、男女が性欲によって結ばれなくともよい時代が来るのであ
りますから、その理想をもって生きることはよいことです。夫婦の離縁の問題でも、夫婦は別れぬ
ほうがよいには決っておりますが、せこ過か去世の因縁によっては、二度も三度も結婚し直す人もあるの
ですから、その問題は人格の問題とは切り離して考えるべきだと、私は思っております。
イエスは天の理をそのま二説法したのでありますので、地上界の汚れが浄まりきらぬうちは、天の理に反することが次々と行なわれるのでありまして、個々人の生活の中にも、過去世の因縁を消滅させるために、いろいろと天の理に反するような現われ方をすることがありますが、それはその
かて
人の受け取り方によって、自己の向上の糧ともなるのであります。それを私は消えてゆく姿とい二、すぐ神のみ心に自己の想念を投入することを教えているのです。イエスは肉体の生命より、霊的生命を重要視しているのでありまして、片眼や片手を切りとって
も、精神をつまつかせぬほうがよいのだと説いております。肉体界の苦しみより、地獄 (ゲヘナ )の苦しみのほうが比べるべくもない苦しみであることを、イエスは霊覚において知っていたのであります。私もその点全く同感です。霊肉の世界を同時に見透している人びとは皆この言葉には同感なのであります。
人間の肉体は長くても百年の間しかこの世にいません。しかし生命自体は永遠に生きつ呈けてい
るものでありまして、その生命にまつわる想念波動の種類によりまして、その人の運命や境遇がき
まるのです。それは肉体にあっても霊幽の世界にあっても同じであります。
た父異なることは肉体界は波動の粗あらい世界なので、原因が結果として現われるのに年限がかかり
ますが、霊幽の世界においては一瞬の内に原因が結果として現われるのです。そこが恐ろしいとこ
ろなので、地獄の世界もそういうところなのです。反省する隙もやり直す時間もなく、その人の想念がそのま玉現実の状態として現われつゴけるのです。火に焼かれたら焼かれたま Σ、その苦しみが、ずっとつゴくのです。肉体世界なら絶息するとか死とかがあるのですが、地獄にはそういうことがないのです。長い間苦しみつ父けるのです。考えてみて下さい。肉体界の苦しみなど問題にはなりません。
なんた
イエスはそのことを、何度びもいっているのです。だからイエスにいわせれば、肉体界でどのよ
うに苦しんでも、不遇な目にあっていても、自己のもっている業因縁なら、肉体界で果しつくして
おいたほうがよい、肉体界で楽しもうとして、地獄にゆく業因縁を積みつ父けることが、いかに馬鹿げたことであるかを思いみなさい、と説いているのであります。
ですから、人間は常に明るい善意をもって生きつ父け、愛と真との生活をなし遂げてゆくことがと大事なのである、と真の宗教指導者は真剣に説くのであります。
いたずらに誓うな
いにし
また古への人に「いつはり誓ふなかれ、なんちの誓は主に果すべし」と云へる事あるを汝ら聞けり。されど
みくらだい
我は汝らに告ぐ、一切ちかふな、天を指して誓ふな、神の御座なればなり。地を指して誓ふな、神の足台なれ
おおきみおのかしらかみのけ
ばなり。エルサレムを指して誓ふな、大君の都なればなり。己が頭を指して誓ふな、なんぢ頭髪一筋だに白く
しかしかいないな
し、また黒くし能はねばなり。ただ然り然り、否否といへ、之に過ぐるは悪より出つるなり。 (マタイ伝第五章三三ー三七 )
このいたずらに誓うな、という言葉は、日本の人びとにとっては、あまりびんとこない言葉なのですが、イエスの生れる以前もイエスの頃のユダヤには、ユダヤの律法があまりに厳しいので、他国の文化や政治にひかれて、ユダヤ人らしからぬ言動をする人が多く出ましたので、紀元前二世紀頃からギリシャ文化に抵抗して、イスラエルの律法を厳密に守ろうと組織した、聖別という意味をその団体名とした、パリサイ派という団体ができまして、イエスの頃でも相当な勢力をもっていましたが、律法の形式を守ることのみに熱中し、実際にはモーセの欲していた、神のみ心と一つにな
る想念や行為はないがしろにしていました。
これをイエスは非常に嫌悪の想いでみていましたので、そういう偽善者をなくしたいと思い、天に誓うな、エルサレムに誓うな、己が頭に誓うな、というように、厳しく、できもせぬ誓をしてはならぬ、とパリサイ人たちをいましめたのであります。
実際にできぬことを約束するのは、人間と人間との間でもいけないことにきまっております。ま
114

して、神や自己の本心に誓うようなことは、そのま二自己を傷つけることになるのです。いったん
神様と約束しても、自己の運命の方向によっては、その誓を果せぬことが随分とあります。ですか
ゆだ
らやすやすと神に誓うようなことをせず、すべてを神に任ねた心境になって、自己の霊性開発の道に精進することがよいのであります
偽善者は偽悪者とともに、神の喜び給わぬ者なのであります。人間は常に神 (守護の神霊を含めた)への感謝をつゴけつ Σ、自己に与えられた環境の中で、真剣に自己の生命を生かしきることが大事なのであって、自分が宗教的に深い心境にあるようなことは、いたずらに喋々するものではないのです。
Q

右の手のなすことを左の手に知らすな
しかむくい
汝ら見られんために己が義を人の前にて行はぬようにせよ。然らずば、天にいます汝らの父より報を得じ。
にどニぎぜんしやあがかいどうまちなら
さらば施しをなすとき、偽善者が人に崇められんとて、会堂や街にて為すごとく、己が前にラツパを鳴すな、
っほどニこれ
誠に汝らに告ぐ。彼らは既にその報を得たり。汝は施しをなすとき右の手のなすことを左の手に知らすな。是
かくしかかく
はその施しの隠れん為なり。然らば隠れたるに見たまふ汝の父は報ひ給はん。
ぎぜんしやあらわかど
汝ら祈るとき、偽善者の如くあらざれ。彼らは人に顕さんとて、食堂や大路の角に立ちて祈ることを好む。
誠に汝らに告ぐ、かれらは既にその報を得たり。なんぢらは祈るとき、いまやへ己おのが部屋にいり、戸を閉ぢて、隠れたるに在す汝の父に祈れ。されば隠れたるに見給ふ汝の父は報ひ給はん。また祈るとき、興摺規のごとく懲 ♂に読を廊徹すな。彼らは孟叩多きによりて謄かれんと思ふなり。さらば彼らにならふな、汝らの父は求めぬ前に、汝らの必要なる物を知り給ふ。 (マタイ伝第六章一ー八 )
イエス・キリストが嫌った行ないのうちには、偽善者的行ないがあります。自分の心から湧き出
ほどこ
てやる行ないでもないのに、人にみせるために、正しいことや、施しをする、そして自分がさも神
かなほ
のみ心に叶っている人間であるようにみせて歩く。そして人にみられたり、人に賞められたりしな
いつわ
い場合には、愛にそむいた行ないをし、自分の利益のみをはかった行為をするような、自分を偽り
いつわ
他を偽っている人間を、イエスは大変嫌われたのです。
すべては天の父からみられ、賞められ、報いを受けるのであって、肉体人間にみせて賞められたってしかたのないことである。人にみせたい賞められたいと思ってした行ないや、自己宣伝の行な
むくい
いは、もうをの行為で報を受けたことになるので、天の父からは報を得られないことになってしま
いんとくただしぎ
う。右の手でしたことを左の手にさえ知らせないような陰徳を積むことによって、真実にそれが義
の行ないになるのであって、その行為は神のみ心に叶い、天の父から報を受けることになるのであ
る、とイエスはいわれるのであります。
祈るにしても、人に顕わさんとして、みせんとして、偽善者のように人前でやるのではない。祈りというのは本心開発のためにするのであり、天の父のみ心と交流するためにするのであるから、己が部屋にいり、戸を閉じて、眼にはみえないが、心の奥の隠れたところに在す汝の父 (本心 )に祈れ、とイエスはいうのです。
実際に祈りというのは、自己の想念波動を本心の座と一つになさしめるための行ないでありまして、人にみせるためにするのでも、人に賞められるためにするのでもないのです。真実の生命の働きを自由にのびのびとさせるために邪魔になる想念波動を、本心 (神)のみ心の中で浄めていただ
のりごと
くためにするのが祈りであって、生命の宣言であるのです。といって、人前でやってはいけない、声に出してやってはいけない、とかたくなに思うことはないのです。自分が宗教的な人間だということをみせようとする気持や、人に立派だとみられようと
とら
する、見られ、聞かせよう、賞められようなどという、つまらぬ把われ心を捨て去ることが必要なのです。またその逆にみられまい、聞かれまい、特殊な人間にみられては恥ずかしい、という気持もやはり把われの想いでありますので、もっと自由な気持で、神との交流をはかるために祈ればよいので
あります。
一人で静かに祈るのを原則として、人の前でもよし、大勢で祈ってもよし、声を出してもよし、出さぬでもよし、一回でよし、くり返えしてやってもよしで、その場、その時々の状態で、別にこれという把われの想いを必要とはしないのです。
世界平和の祈りのような、個人人類同時成道の祈りは、かえって大勢が集って祈ったほうが人類
の浄化が早められるのであります。イエスの時代には宗教的偽善者が多かったので、特に偽善者のごとくなるな、とイエスは説法されたのです。そうした偽善者嫌いのキリスト教からも、多くの偽善者が現われ、牧師の偽善的な態度に反感をもって唯物論に転向していった人たちもかなりあるのです。
ソ連のスターリンなども、そういう形の人であったようです。確かに宗教の道は、それを伝える人によって広まりもし、縮少されもするのでありまして、キリスト教の宣教師の中には実に天使そのままの人も随分ありましたし、ただたんなる信者であっても、その行ないが神のみ心そのままの
ような立派な人もあるわけです。しかし、その反対の面もかなりありまして、キリスト教の進展を大きく妨げているのであります。誰でも偽善者の好きな人はありませんが、偽善的な人であっても、宗教の道にふれない人より、
ふれたほうがよいのですから、少しぐらい自分を目立たせようとして、自己宣伝をしながらでも施しや善事をしていたとするならば、自分のぜいたくだけに金を使ったり、子分をつくるために金をばらまいたりするよりは、幾分よいのではないかと思います。そこで、そういう人には、あまりイエスのように厳しくいわないで、徐々にその想念行為を改めてゆくように、ことあるごとに教えさとして、真の愛深い人になるよう導いてゆくことが必要なのだと思います。あまりに真理そのまま
の厳しい教えは、かえって逆に偽善者を多く生んでゆくことにもなりかねないのですっ
釈尊やイエスと私たちとは時代も違い国柄も違いますから、釈尊そのまま、イエスそのままの教え方でよいというものではありません。聖書はあくまで真理の書ですが、これに把われて、一にも二にも聖書そのままに行なわねばならぬということになると、この世は偽善者とノイローゼ患者で
一杯になってしまうことでしょう。そこで私はその真理に何層もの階段をつけて、それを消、兄てゆく姿で世界平和の祈りという表現で、神のみ心と一つになる光明のエレベーターをつけているのであります。
かんじん
キリスト教信者の中には、キリスト教の儀式や儀礼にだけ把われて、肝腎の真理の行為を忘れている人びとと、真理だけを追究していくうち、イエス・キリストの心と直結して、他宗教の真理もキリスト教の真理も、全く等しいものであって、異なっているのは、その方法論であり、儀式儀礼
の在り方である、ということがわかった人との二種が大きく分けて存在します。儀式や儀礼の方法の違いをもって、他宗教と相容れないものとする誤ったキリスト者は、イエ
ばず
ス・キリストの深い心から外れた困った人びとであって、イエスを慕い崇める純粋な気持には打たれるものの、宗教者としては初歩的な人びとなのです。日蓮宗だけを真理とする者、マホメット教だけを真理とする者、ヒンズー教だけを真理とする者、みな純粋な心の持ち主であっても、宗教者としては初歩的段階の人といわねばなりません。何故ならば、真に聖者賢者といわれた人びとは、みな、神仏のみ心をこの世に伝えるために肉体
身をサこ纒ってこの世に生れてきた人びとであって、その教えはすべて人類に真理を知らせんとするもま
のであります。ただ真理にいたる修行方法や儀式儀礼が異っているので、各聖賢は現在神霊の世界
において、心を合わせて、地球人類の進化のために働いておられるのです。
キリスト教だけが真の宗教であるとか、仏教だけが真理の道であるとかいう論議などは、神霊の世界における各聖賢の心を曇らせるものでしかありません。時はしだいに現在までの宗教の在り方を超えた、宗教と科学の融合による、超宗教、超科学の宇宙時代に突入しようとしているのであります。
そういう時代感覚を根抵にして、皆さんもこの聖書講義を読みつづけてゆかれるようお願いする
iao

しだいです。
主の祈り
この故に汝らはかく祈れ。昊にいます我らの父よ・願はくば算の黙められんことを。齪纂たらんことを。讐の天のごとく、地
にちようかて
にも行なはれんことを。我らの日用の糧を今日もあたへ給へ。我らに謬ある者を我らの勉したる如く、我らの謬をも警給へ。我らを難憲せず、悪より救ひ出し給へ」
あやまちゆるゆるゆるあやまちウる
汝ちもし人の過失を免さば、天の父も汝らを免し給はん。もし人を免さずば、汝らの父も汝らの過失を免しムロまじ。 (マタイ伝第六章九 -一五 )
玄か}
ごと
私も若い頃毎日この祈りをつづけたものでした。実に素晴しいひびきをもった祈り言です。

みなあが
「天にいます我らの父よ、願はくば御名の崇められんことを」という、天の父というのは実在そ
のもの、創造主であり、絶対者である宇宙神のことをいうのですが、この天の父の名がすべての人に崇められ、神がおわさねばこの世界の存在はないのだ、というように、誰も彼もが、神によって
生かされている実感を味わう時代の到来を、イエスが心の底から生命がけで望んでおられたであろうことが、この祈り言によって痛切に感じられます。
イエスのように、神に直結していた人にとっては、神が在るも無いも、自分自身が神を現わして
いることを、事実として知っているのですから、神の存在を否定したり、自分勝手な想念で、神の
外に自分というものがあるように思ったりしている人びとをみると、哀れでもあり、嘆かわしくもあったのでしょう。
すべての人びとが一日も早く、神の存在を信じ、神によって肉体身として生かされているという真理を知って、神のみ名を崇めるように願う思いは烈しいものがあったのです。
「ごとみこころくに御み国の来らんことを。御意の天のごとく、地にも行はれんことを」という祈り言でも、神の真意がこの世に顕われるために自己がここに存在するのである、という使命観に燃えて説き明かし、説きつづけていたのです。神の御国である実在の世界、神界ではこの地上界のように、恨みや妬み
や争いもなく、恐怖も怠惰も、病気も貧乏も、不完全と名のつく状態は全くないのであります。旧約イザヤ書にあるように、獅子と羊とが仲良く遊び、四季の花の咲き競い、気候も温度も全く調和
した状態の中に、神々や神の子たちは生命いきいきと生きているのです。
すがた
そういう大調和した相が、真実の御国であって、イエスの時代のような、もっとも今日でもそう
ですが、強い国が弱い国をしいたげ、悪人が善人を抑えつけて生きている、というような、そんな
みくにみくに
国の状態は、真実の御国ではなかったのです。イエスの心の中にある御国は実在界そのものであって、現象世界の汚れに充ちた不完全な領土的国ではなかったのです。
そうした完全円満な御国が来らんことを、そして、神のみ心そのままが、天の状態のようにこの地上界に行われてゆくように、イエスの願いはそのまま祈り言となって弟子たちに説法されてゆくのであります。
私が常に説いております〃世界人類が平和でありますように〃の一行は、この主の祈りを、最も今日的にわかりやすく、老人にも幼児にも唱えられるように説いたものです。
この主の祈りは、前半は、ひたすら、神のみ心そのものである、大調和世界がこの世に顕現されるように、という祈りです。これは今日的に要約すれば、世界人類が平和でありますように、であり、日本 (祖国 )が平和でありますように、ということになるのです。
かてまつと
「我らの日用の糧を今日もあたへ給へ」という所は平和の祈りの〃私達の天命を完うさせ給え “の中に含まれてしまいます。
説法をつづけられた、イエスの髪も髭も定めし土ほこりにまみれて長く伸びていたでありましょう。身につけた衣は、あかにまみれて汚れていたでありましょう。しかし、イエスの眼は青空のように澄み切り、顔は白光のように輝いていたのであります。
イエスの全存在は、迷える人間たちを神のみ心につなげて、肉体人間の苦悩を少しでも軽くやわ
らげてやり、一日も早く地上天国を創りあげる道を開きたい、という、ただその愛の心一筋の存在
であったのです。
神と人間とをつなぐ方法、それは祈りにはじまって祈りに終わること以外にはないのです。その
みくにみこころ
祈りは第一に、神の御国の来ること、御意の天のごとく地にも行なわれること、この世界平和の祈りであったのです。
ゆるおいめゆる
第二に、個人としての祈り言ごと「我らに負債おいめある者を我らの免したる如く、我らの負債をも免し給え」以下の個人的な願いごとなのです。
りんね
この祈り言をみますと、イエスは過去世ということも輪廻ということも、はっきり知っていたこ
おいめ
とがよくわかります。ここにある負債というのは、今日的なものをいうのではなく、過去世からの因縁因果による負債おいめなのです。
たゆる
これも過去世の因縁の消えてゆく姿、というように、自己に不為めになる人びとの行為を赦してゆく生活、これは宗教の極意なのであって、イエスだけの説いているものではありません。自分が
ゆる
こうして人を赦したのですから、私の負債も赦して下さい、と神様に願うのは、たんなるご利益信
カルマ
仰とは違います。自分が先に赦すことによって、人からも赦される、これは業を脱する最良の方法
なので、神様は赦して下さるに違いないのです。私は私の教義に自分を赦し、人を赦し、自分を愛

し、人を愛し、というように説いているのも愛と赦しということが、この地球界の業因縁の波を超える最良の方法であることを知っているからなのです。
こころみあわ
「我らを嘗試に遇せず、悪より救ひ出し給へ」という祈りなど、誰でもそう祈らずにはいられぬ
ぼんのうぐそく
ほど、肉体人間は煩悩具足の存在であります。少し心をゆるめると、すぐにも煩悩のとりこになっ
てしまいます。そういう試みに会わせず、私を悪から救って下さい、という願いは、実に切実なる願いです。心の正しい人ほど、そういう願いが切実であるのです。
ただ、心の正しい人、清らかな人が、あまりにも、自分の心をほじくりかえして、自己の中の煩悩を探し出すことは、かえって、自分の生命のいきいきしたところを、阻害する危険もあるのですから、やはり私流にすべての想念行為は過去世の因縁の消えてゆく姿、というように割り切って、世界平和の祈り (主の祈り )の中に、自己の想念を入れきってゆくことのほうが、神のみ心に叶うと思うのです。
キリスト教の人が、とかく聖書の字義に把われすぎて、自分をいじめすぎる嫌いがあるので、私は、もっと大胆に明るくこの世を生きてゆくことが必要だと思います。神のみ心は、人間をいじめようとして働いているわけではなく、人間が自己の本体である神の生命
自体を、早く知ってもらいたいだけなので、そのためにイエスのような釈尊のような聖賢たちを、この世に送っているのです。宗教が多く出て、自分をいじめる人や、小さな心の人をつくり出すのでは、せっかくの神のみ心
すがた
に反してしまいます。人間が簡単に、神の子の相を現わせると思うの .もうかつなことですが、あま
り、罪の子意識や凡夫意識に把われ過ぎているのもいけないことなのです。人間はあくまで神の子
であります。しかし、この世的には凡夫であります。この神の子と凡夫とを、どういう風に取りあ
つかってゆくかということが問題なので、凡夫でずうっとつづいていったのでは、やがてこの地球界は滅亡してしまわねばなりません。
すがた
地球界を滅亡させぬためには、どうしても、人間神の子の真の相をこの世に現わさなければなりません。ところが迷いの想いに取りかこまれている、この地球界においては、なかなかどうして、
ナがたカルマ
神の子の相を、真実に現わすことができません。現わそうとすれば、現われる前に業 (サタン )の波動に邪魔されて、生活に追いつめられたり、社会生活ができなくなったりしてしまいます。
すがた
これを自己の生活もマイナスにならず、社会生活もあたり前にやってゆけて、しかも神の子の相を現わしてゆける方法はどうすればよいか、と申しますと、それが祈りによる方法なのです。主の祈りにしても、世界平和の祈りにしても、神と人間とをしっかりとつなぐ祈りです。ですから、こ れらの祈りによって、自己の生活をすすめてゆく時には、祈っている自分は、既に凡夫の自分を、神のみ心の中で消していただいて、神としっかりつながった神の子の生命として、この世に生きて
いることになるのです。
願わくばみ名の崇められんことを、御国の来らんことを、あるいは世界人類が平和でありますように、日本が平和でありますように、という祈りをしていますと、自己の汚れた凡夫の想い、罪の子の想いは、神のみ心の中に昇華していって、そこで消滅せられ、神の子の本心だけが、再び肉体
の自己として還えってくることになるのです。
おうそうすがたげんそうすがた
これを仏教的にいえば、往相 (悟ろうとする相 )と還相 (人びとを救おうとする相 )とが一つになっている祈り、ということになるのであります。
そこで、この祈りを繰り返えし繰り返えしていますと、いつでも自然と神の子としての自己を生かしきっていることになるのです。主の祈りの現代版が世界平和の祈りであって、本質的に少しも変るところはないのです。
天の父は、人間のうちには本心としてあるのですから、すべてを祈り心にまかせた時には、そのままその人の本心が開いているのであって、天の父と自己のうちなる本心とを全く一つに結び、立
すがた
派な神の子の相となるのであります。財宝を天に積め
たからさびそニなねすびと
なんぢら己がために財宝を地に積むな。ここは贔と錆とが損ひ、盗人うがちて盗むなり。なんぢら己がため
さび
に財宝を天に積め、かしこは轟と錆とが損はず、盗人うがちて盗まぬなり。なんちの財宝のある所には、なん
ともしび
ちの心もあるべし。身の燈火は目なり。この故に汝の目ただしくば、全身あかるからん。然れど、なんちの目
かねつか
あしくば、全身くらからん。もし汝の内の光、闇ならば、その闇いかばかりそや。人は二人の主に兼事ふるこ
あた
と能はず。或は、これを憎み、かれを愛し、或は、これに親しみ、かれを軽しむべければなり。汝ら神と富と
に辮駕ふること能はず。 (マタイ伝第六章一九ー二四 )
たから
なんじら己がために財宝を積むな、イエスは頭ごなしにこういうのです。ところが、昔から今日に至るまで、大半の人が、己れのために財宝を積んでいるのであり、僅かの秀れた人格の人びとが、財宝を天に積んでいるのであります。
地即ちこの世は虫と錆とで財宝を損い、盗人たちがそれを盗んでゆくが、天には虫も盗人もいないし、財宝が錆びることもない、とイエスは地に財宝を積まず、天に財宝を積むことが己れのためにもなるのだ、とその理由を説明しています。
この場合の財宝というのは、金銭や物品ばかりのことではありません。愛の行為や義の行為のこ
とも含まれているのです。自分だけのために、いかに金銭や物品を積んだところで、地位や権威のようなものを得たところで、それはこの地上界のものであって、この地上界においてでもやがては失われてしまうことが多いが、まして、天においてはマイナスになればとて、なんの蓄積にもならないものである、ということはイエス時代のみならず、今日でも変りない真理なのです。
人が今、財産家としてあるいは大臣長官として、この世で権威をもつ地位にあったとしても、その人が真に人のためを想い、社会や国家人類のために想い行ないつ玉そういう境遇に置かれているならば、それは過去世の善因に加えて今生の善因の行為となるのですから、その財宝やこの世の栄光は消えることなく、天にまでつづいてゆくわけです。これは、すべての運命が、過去世つまり潜在意識層に積まれていたものが今生で現われてくるわけで、現在いかに天の蔵に宝を積むような行為をしていても、過去世の行為がマイナスであった場合には、その借金払いのような形になって、今生の生活には財宝が積まれ、地位が権威あるものになるようにはなかなかならないのです。この世の運命は、過去世の因縁 (過去世の想念行為 )プラス今生の想念行為ということになるのであり
ます。しかし現在の神のみ心に叶った、陰徳や愛の行為は、必ず天の蔵に蓄積されて、この肉体界を去った後、霊界神界 (天)において善き実を結ぶか、再び生れてきて、この世で善き生活のでき得る境遇となってゆくのです。「なんちの財宝のある所には、なんちの心もあるべし、身の燈火は目なり、この故に汝の目ただ
しくば、全身あかるからん。」
とイエスはいうのです。これは、自己の財宝が地上界のものだけであれば、常に自己の想念はそ
の財宝ある地上界、肉体界に縛りつけられていて、肉体が滅しても、その想念は天国へは行けず
じばくこんばく
に、地上界にこびりついていて、地縛の魂醜として迷いつづけるのです。人間は生れれば必ず死ぬ
るのですから、この原理をはっきり知っておかねばなりません。人間というのは、この世だけに生
きるのではなく、あの世でも生きているのです。仏教はよくそのことを教えていますが、イエスもその真理をよく知っていて、天に財宝を積め、ということをさかんにいっておられるのです。人間がこの世だけで生きているのならば、天に財宝を積む行為などしてもなんの益もないことになるの
です。
イエスは想念 (心)のことを大事にしていまして、目という表現をつかって、意識想念の正しくあることの大切なことを説いております。目即ち心が正しくば、全身があかるいのだ、ということ
は、人間は心が正しく神のみ心につながっていることによって、光明化するのであり、地上界の欲望執着の暗いところにつかまっていれば、全身がくらからんといっているのです。
かねつか
だから人間は、天の父につかえていればよいのだ、天の父と地上界の富とに兼事えていては、こ
れを憎み、かれを愛し、あるいはこれに親しみ、かれを軽んずる、ようになってしまう。
ぺつし
とイエスはつづけて説いております。しかしこの言葉は、うっかりすると、金持を蔑視し、貧乏な人の肩をもっているように思われてしまいますが、イエスのみ心は、何も金持がいけないというのではなく、神のみ心よりも地上界の財宝の方に重点を置く、つまりつかえているような生き方をいけないといっているのであります。
いかなる金持であろうと、大臣長官であろうと、神のみ心を最も大事なるものとして、その財宝
や地位を生かしきってゆけば、貧乏で人のためにつくせぬ人より、多くの人につくせ、広い働きができてよいわけです。ですから、財宝があろうとなかろうと、要はその人の想念行為 (心)が、どれだけ神のみ心に叶った愛と真のものであるか、ということにかかるわけです。

凝り固ったクリスチャソの人は、貧しくなければ神のみ心に叶わぬと思い違えして、いたずらに
のが
財宝から遁れようとする人もいます。財宝も地位の高さもすべて、神のみ心のこの世に現われるための道づくりとして生かすということが大切なことである、ということを忘れてはならないので
つか
す。私はですから、神に事え、富を生かすことのできる道を説いているのであります。

いかに多くの善事を為そうとしても、金銭や地位がないと、できない場合が随分とあります。自己の想念が常に神のみ心の中にあるならば、自然と与えられた財宝や地位は、なんらちゅうちょな
くいただき、その力をもって、多くの人に神の国を知らせ、神の愛の行為を示したら、これは神につかえて富を生かしたことになるのです。 (富については、のちにくわしく説きます )
かこせ
この方法は、私が常に説いております、すべての想念や出来事を、過去世の因縁の消えてゆく姿として、神のみ心の中から、日々瞬々いた父き直してゆく、という、自然に神と一体化をはかる、消えてゆく姿で神様への感謝、もっと私流にいえば、消えてゆく姿で世界平和の祈り、ということになるのです。
わずら
何を食わんと思い煩うな
くらわずらな
この故に我なんぢらに告ぐ、何を食ひ、何を飲まんと生命のことを思ひ煩ひ、何を著んと体のことを思ひ煩
いのちかてましか
ふな。生命は糧にまさり、体は衣に勝るならずや。空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収めず、然るに汝らの天の父は、これを養ひたまふ。汝らは之よりも遥かに畷るる者ならずや。汝らの嘱たれか思ひ煩ひて身の麟一尺を加へ得んや。又なにゆゑ衣のことを思ひ煩ふや。野の百合は如何にして育つかを思へ、労せず、編がざ
さよそおいし
るなり。然れど我なんぢらに告ぐ、栄華を極めたるソロモンだに、その服装この花の一つにも及かざりき。今
あすろよそお
日ありて明日、炉に投げ入れらるる野の草をも、神はかく装ひ給へば、まして汝らをや、あエ信仰うすき者

よ。さらば何を食ひ、何を飲み、何を著んとて思ひ煩ふな。是みな異邦人の切に求むる所なり。汝らの天の父
ナベただしきさ
は凡てこれらの物の汝らに必要なるを知り給ふなり。まつ神の国と神の義とを求めよ、然らば凡てこれらの物 は汝らに加へらるるべし。この故に明日のことを思ひ煩ふな、明日は明日みつから思ひ煩はん。一日の苦労は一日にて足れり。 (マタイ伝第六章二五ー三四 )
何を食い、何を飲まんと生命のことを思い煩ひ、から、汝らの天の父は凡てこれらの物の汝らに必要なるを知り給ふなり。まず神の国と神の義とを求めよ、 1までのイエスの言葉は、瞬々刻々、世界平和の祈りの中からいただいた生活でありまして、神の国とは、完全平和な大調和した世界であり、神の義とは、そうした世界を実現させる心であります。
世界平和の祈りの道は、愛と真と美とが大調和した神の国をこの地上界に顕現しようとする光明
の道です。そして、天の父は人間の必要なものを知り給うている、とある天の父のみ心を完うする
こと
のが、私どもの天命が完うされますように、の世界平和の祈りの中の一行の祈り言です。野の百合の美しいよそおいも、空の鳥も、在りとし在るものすべて、神のみ心によらずして成りたるものはないのです。まして神の子である人間が、神のみ心の外にあるわけがありません。ですから、神のみ心が地に成ること、この世界が完全に平和になり、人びとの心から憎しみや恨みや妬みや争いの想いがすっかりなくなり、愛と真と美に輝いた世界が実現することだけが、神の子である人間の願いでなければなりません。神に仕えるというより、神の子として、神の生命と一体化することが望ましいのであります。
実際この世の中を見渡してみて、神のみ心なくして、いったい何があり得たでありましょう。空気といい水といい、植物の種といい、一番大事な人間の生命といい、神のみ心なくしていったい何
はず
人が創り得たというのでしょう。イエスさまは、真理を外れたこの世の欲望だけに生きていた人び
とをみて、いかに哀しみの想いを抱かれたか、私にはよくわかります。
イエスの時代も現在も、そういう誤った人間心は、少しも変っているようには見えません。よく
もまあ、こんな浅間しい想念行為の人間どもを、見限りもなさらずに、生命の光を限りなく投げ入
れられ、その生命がこの地球界に存続でき得るような、様々な自然要素をお与えになっていらっし
ゃる神のみ心の大慈悲というものが、私どもには有難くて有難くてたまりません。感謝の心でいっ
ぱいになります。
そういう神の大慈悲を忘れて、自分勝手なことをいいつのり、自分や自国の都合のよいことばかりを考えている人類の結末は、このままでゆけば、はっきり知れています。自分たちの肉体生命を奪ってしまい、この地上界を滅亡させてしまいそうな時代が愈々迫りつつあります。
しかし神の愛のみ心は、うまずたゆまず、様々な聖者賢者をこの世に送りこんで、人類救済を計っていらっしゃいます。イエス・キリストは正にその一人であり、重大な教えを伝えているのであります。人間は一度裸の心にかえって、空の鳥を見、野の百合をみつめて、すべての恩恵が神のみ
心より下されたものであることを、よくよく考えてみなければいけないのです。
一人一人の人間が、真に神のみ心を知って、天の蔵に宝を積むような行為を日常生活においてし
つづけてゆくことによって、国家も民族も真に救われてゆくのでありますが、なかなかそれができ
ません。個人の自我欲望が国家民族の自我をつのらせ、国家民族という集団の業がカルマ個人の生命の自由を奪ってゆく、この悪循環を、どこかで断ち切らなくては、地球は滅びの門に至るのは必然です。そこに人類の完全平和を祈る天のみ心を地に成らす祈りが必要になってくるのです。
イエス・キリストのみ心を生かすには、一にも二にも、神の国を想い、神の義を求める心になるようにしなければなりません。今こそ私の提唱している世界平和の祈りの道をイエスの道として釈尊の道として真剣に行ずるべき時なのです。この聖書講義の中で必ず、イエスの道も釈尊の道も老子の道も世界平和の祈りの道も根本において一つの道であり、神の大慈悲の道であることを皆さんにおわかり願えると信ずるのです。
さば
人を裁くなかれ
さばさばおのさばじおのれおのにかウねの
なんぢら人を審くな、審かれざらん為なり。己がさばく審判にて己もさばかれ、己がはかる量にて己れも
はかちりうつはりうつにウ
量らるべし。何ゆゑ兄弟の目にある塵を見て、おのが目にある梁木を認めぬか。視よ、おのが目に梁木のあるに、いかで兄弟にむかひて、汝の目よりうつぱり塵ちりをとり除かせよと言ひ得んや。偽善者よ。まつ己が目より梁木をとり除け、さらば明かに見えて兄弟の目より塵を取りのぞき得ん。 (マタイ伝第七章一ー五 )
全くこの言葉は今日の人や今日の国家群にこそ、声を大にしていいきかせたいところでしょう。昔もそうであったでしょうが、今日でも全くこの種の偽善者偽善国が多過ぎて、昔ならその被害が個々の小さな範囲で済んだものが、今日ではうっかりすると、この偽善行為のやりとりで、地球世界そのものが、滅亡しかねない様相を示しているのであります。
個人は個人で、自分のしている誤った行為、つまり己が目にある梁木うつばりを認めずに、他人の誤った行為だけを責め裁き、自己を優位な立場に置こうとし、国家や民族は、自国や自民族に有利なことだけを正義と考えるような、本心を蔽いかくした (梁木で目を蔽ってしまった )行為を押し通そう
さば
として、他国や他民族の主義主張を誤ったものなり、と審きつづけて、この地球世界を常に争乱の世にしてしまっているのです。
いな
イスラエルとアラブ諸国との争いなどは、二千年否もっと昔から、お互いが、自己の目にある梁木を認めずに、自分勝手の正義を振り廻して、争いつづけて今日に至っておるのであります。アメリカやソ連、中共にしても、いずれも自国の本心を蔽いかくした、権力欲や憎悪の感情で他国にたいしているのでありまして、この状態がつづけば、ついにはイエスの説くごとく、己がさば
136

さばきはかりはか
く審判にて己もさばかれ、己がはかる量にて己れも量られて、お互に傷つき損い合い、地球世界は滅び去ってしまうのです。アメリカにとって中共は目の上のこぶでありまして、原水爆を使ってでも、中共を滅ぼしてしまいたい気持であり、中共のほうもどんなことをしてでも、アメリカを滅ぼしてしまいたいところでしょう。そして、ソ連にしても、アメリカの衰退をひたすら願い、中共が己れの膝下にひざまつく
ことを策しているのであります。そういう大国間の気持が、ベトナム戦争を長引かせ、イスラエル、アラブ連合の争いに拍車をかけているわけで、こういう本心、神のみ心に外れた業カルマの想念行為は業カルマの法則として、お互いに自国の想念行為が自国に還えってくるので、そういう大国が、傷つかず自国を損ぜずに無事でいられるわけがないのです。これは正にイエスのいわれる通りなのです。
相手国の身勝手な主張をきいたら、ああ自国にもこういう気持があるのではないか、と自国の心を顧みて、本心に外れた想いや行為を取りのぞいた時に、はじめて、はっきりと相手国にものがいえる立場に立つのでありまして、そういう立場でものをいえば、相手国もその国の光明ある態度に打たれて、自我の主張を和らげて調和してくるのである、というのが、イエスのいう「偽善者よ、
うつばり
まつ己が目より梁木をとり除け、さらば明らかに見えて兄弟の目よりも塵を取りのぞき得ん」ということなのであります。
原水爆の問題など、個人的な常識で考えても実におかしなくらいで、米ソ中、ともに原水爆をつくり実験しながら、常に他国の実験を非難しつづけているのです。他国の原水爆の製造や実験を非難するのなら、自国の原水爆を放棄してからいうべきで、自国のことはすべて棚に上げておいて、他国ばかりを責め裁くというのは、イエスのこの章のいう通りの偽善者というべきであります。
わけいのち
イエスのいうごとく、人間はすべて兄弟姉妹であります。誰も彼も神の分生命であり、本体は一
あや
つの大生命から出ているものです。他人を殺め、他国を攻め滅ぼす、ということは、みずからの手
を傷つけ、脚を傷つけ、胸を痛める、と同じ原理でありまして、実に愚かしき行為であります。そ
の実に愚かしき行為を個人も国家民族も、常に行いつづけているのです。
しんらんじんちゆう
全く親鸞のいうごとく、罪悪深重の凡夫というべきであり、イエスのいう罪の子ともいうべきで
しょう。しかし、やはり人間は本質は神の子なのであります。私は体験としてそれをよく知ってお
はず
ります。人間に神の子の本質を現わさせないものは、過去世からの神のみ心を外れた想念行為なのです。この神のみ心を外れた、人間は肉体なのだ、という習慣の想い、自と他を、別の者としてみる個我の想い、そういう過去世からの習慣性の想念の道を、神の道にふりかえてしまわねば、人間は遂には滅びの門に至ってしまいます。
神の道にふりかえてしまうのが、すなわち祈りなのです。そしてその祈りの最も高く広いもの
が、イエスの主の祈りであり、今日の世界平和の祈りなのであります。
個人だけの願いごとを祈りと考え違いしていて、祈りなどで何ができる、という祈りの否定論者が随分といますが、祈りとは、神のみ心と人間の心とを素直に真直ぐにつなぐ方法でありまして、神のみ心がこの地上に流れやすくなる方法です。主の祈りや世界平和の祈りは、自己の誤っていた想念波動が、神のみ心の中で消滅されて、瞬々刻々神の光明波動が自己の体 (神体、霊体、幽体、
肉体 )を通して、世界人類の平和の光明となって、宇宙いっぱいにひびきわたり、ひろがってゆく祈りなのです。
ですから、この祈りは、自己のためにもなり、人類全般の本心開発のための祈りでもあるわけです。祈りとは本来そういうものであって、祈りなくして世界平和を実現することは到底でき得ぬことなのです。
神のみ心を外れていた過去世から今日までの想念行為を、すべて消えてゆく姿として、神のみ心
の中で世界平和の大光明に入れかえていただくことによって、人間は、神の子として新生できるの
であります。イエスがごとごとに祈りを説いておられるのも、その理を知っておられるからなので
す。次の六節 -一四節は祈りという言葉は使っていませんが、神を求めよ、という風に説きなが
ら、祈りの大事なことを説いています。
求めよ、さらば与えられん
おそらかえ
聖なる物を犬に与ふな。また真珠を豚の前に投ぐな。恐くは足にて踏みつけ、向き反りて汝らを噛みやぶらん。

求めよ、然らば与へられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。すべて求むる者は得、たつぬる者は見いだし、門を叩く者は開かるるなり。汝等のうち、誰かその子パソを求めんに石を与へ、魚を求めんに蛇を与へんや。たまもの然らば、汝ら悪しき者ながら、善き賜物をその子らに与ふるを知る。まして、天にいさ
たまさずぺせ
ます汝らの父は、求むる者に善き物を賜はざらんや。然らば凡て人に為られんと思ふことは、人にも亦その如
おきて
くせよ。これは律法なり。預言者なり。
ほろび
狭き門より入れ、滅にいたる門は大きく、その路は広く、之より入る者おほし。生命にいたる門は狭く、その路は細く、之を見出すもの少ナくなし。
祈り心のない者、神を求めてもいない者に神の道を説いたところで、聖なる物を犬に与え、真珠を豚に投げるようなものだ、とイエスははっきり言っております。実際に、神の存在を信じもしない。従って、求めもしない。つまり祈り心の全くない者に、神の道を説くほどつまらぬことはありません。豚ではありませんが、かえって噛みついてきます。神は求める者、祈り心ある者に、神の道を知らせ、真の幸福を与えるのであります。

「求めよ、然らば与へられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん」全くその通りでありまして、神を求め、尋ね、神の門を叩け、その想念行為が、すなわち祈りなのです。祈り心なくして、いったいどうして神を求め、尋ねることができましょうか、神様 !と呼ぶその心
が祈りそのものなのです。
何々してくれ、こうしてくれ、というような必要は実際にはないので、神様を呼びつづけて、神様のみ心と波長が合えば、神様の愛はそのまま流れこんできて、その人に必要な物、事柄を与えて下さるのです。
ですから、深く深く神様を呼び、神のみ心と自分め心との波長を合わせることが必要なのです。求め、尋ね、叩く、その心は祈りそのものであって、神のみ心に通ずる道なのです。その心が純粋であればあるほど、神のみ心深く通じ、その人の光明が増大するのです。自分が多くの人に愛され、優しくされたければ、人にもそうしてやればよい、自分のした行為はそのまま神のみ心に通じて、自己にかえってくるのである、とイエスもいっています。
求め、尋ね、叩く、その最も深く高いものは、やはり、自己の幸福のためばかりに神を求めるのではなく、世界人類、すべての人びとの幸福の来らんために、求め、尋ね、叩く、祈りであるのです。ただ、神様 !神様 !でも勿論、神のみ心に通じます。しかし、それがもっと深く広い人類
愛の心でなされれば、神のみ心深く通じることは当然のことです。
そこで、個人個人の願いごとのような祈り方をするよりも、世界平和の祈りのような、人類愛そのものの祈り言を、すべての信仰者が実行するようになれば、神の光明はどんなに力強くこの地球界に輝き出すことでしょう。その日のくることを私は待ち望んでいるのです。
確かに、イエスのいうように、滅びに至る門は大きく広く、生命に至る門は狭いのです。この世の生活は、物質万能の生活でありますので、金銭や物質が、非常に大きな役をいたします。そこで、そめ金銭や物質を得るために、どうしても、優位な立場に自分を置こうとします。善い学校を出るのも、善い職場を得るのも、大半の人はそういう気持に支配されているのです。そのうちに自分でも気づかぬうちに権力欲というようなものがついてきて、ますます滅びに至る門に近づいてゆき、生命に至る門から遠ざかってゆくのであります。
そういう愚かさに気がついて、永遠の生命を得るための道を求めつづける人たちも出てきているのですが、永遠の生命の道に至る門があまりにも狭いので、その門を叩き得ずに、唯物論の門を叩いて、社会主義、共産主義の道に至り、その行為は人類愛の行為でありながら、祈り心が欠けているために、死後の世界で闇の中を手さぐりで歩いているような、気の毒な人もいるのです。そして、僅かな人たちが、祈り心で狭き門を叩きつづけて、遂いに神のみ心と交流することができ、天 のみ心を地に顕現する新しい世界のための、永遠の生命の道を自己のものとすることができたのです。
真のクリスチャン、仏教者、その他宗祖、教祖の道を真直ぐにつき従った者たちは、この永遠の生命の道に至り、霊界にあっては、天使や守護の神霊となり、現界にあっては、聖者賢者として、この世界平和樹立のために働いているのであります。
私はこの狭き門を、尋ねやすく求めやすく叩きやすいものにするために、消えてゆく姿という教えを説きつづけ、守護の神霊の存在を教え、ついに世界平和の祈りに結びつけるに至ったのです。生命に至る道があまりに細くて、見出しにくくては、この地球界に神のみ心が顕現されることが困難になりますので、なんとかして、この狭い門、細い道を、広い、大きな道にしようと、私は日夜求めつづけたのです。そして生れたのが、消えてゆく姿で世界平和の祈りの道であったのです。
その実によりて知るべし
よモおいうばかすねおかみみ
偽預言者に心せよ、羊の扮装して来れども、内は奪ひ掠むる豹狼なり。その果によりて彼らを知るべし。茨
ぶどうあざみいちぢくか
より葡萄を、葡より無花果をとる者あらんや。斯く、すべて善き樹は善き果をむすび、悪しき樹は悪しき果を
さあたみりあたみど
むすぶ。善き樹は悪しき果を結ぶこと能はず、悪しき樹はよき果を結ぶこと能はず。すべて善き果を結ばぬ樹
どなげいしか
は、伐られて火に投入れらる。然らばその果によりし彼らを知るべし。 (マタイ伝第七章一五ー二〇 )
おこない
この節は、仏教でいう因縁因果のことでありまして、善い想い、善い行為は善い結果を得、悪い
想い、悪い行為は悪い結果を得るものであって、自分の想念行為を別にして、運命が開かれるとい
うことはないのだ、ということを、樹に例えて説いているのであります。
自分自身の想念行為が、しっかり神のみ心につながっていれば、偽預言者が、どんな扮装をして
きようはく
こようとも、偽宗教者が、巧みな弁舌で近寄って来ようとも、脅迫や義理人情にからんで入信をすすめられようとも、一切それらに惑わされることはないのです。何故ならば、神のみ心は愛であり、はず真まことであり、真理でありますから、その道に外れたものと、真の信仰者の心の波長が合う筈がないからです。すべては自己の想念行為の波が、自己の運命の道を

きめていってしまうのです。善い樹は悪しき果を結ぶことは絶対にないのですし、悪しき樹は善き

果を結ぶことはないのです。この世はすべて波長の世界でありまして、一つの想いも波であり、一つの行為も波動となって宇
へめ
宙を経巡ぐるのであります。ですから、常に自分の出した波が自分に帰えってくるのであります。
みみ
善き樹に悪しき果、悪しき樹に善き果の結ぶわけのない道理はここにあるのです。
みたとえ
釈尊はその理を因縁因果の理として説き、イエスは樹の果の薯話として説いているのであります。
ただ、人間世界をこの世だけと想っていますと、誰がどこからみても、善い行為をしつづけているような人が、意外と悪いことばかりつづき、その反対の悪いことを平気でやっているような人が善いことづくめの生活で、大きな顔をして、この世をのし歩いているようなことが随分とありますのが、理に合わぬことのように思われてきます。
ここに、人生観のむずかしさがあります。私が常に申しておりますように、人生というのは、この現世ばかりではないので、あの世もあれば、前生もあり、来生もあるという工合に、誰も彼も、はじめてこの世に生れてきて、死んでしまったら、もうその人が無に帰してしまったり、あるいは神と一体になって、人間でなくなったりするような、そんな単純なものではないのです。人間とは生命そのものであって、神のみ心をこの地球界に実現するために、多くの人間と分れて生れてきて、生れかわり死にかわりして、しだいに自己を天地一体のものにしてゆき、同時に神の国をこの世に創設してゆくようにできているものなのであります。そこで人類というものは、神の生命においてすべて兄弟姉妹である、といわれるのでありまして、この世だけの生命だと思っている限りは、イエスのいう真理も釈尊の説く道もわかりようがないのです。
そういうわけで、この世で善いことばかりしていても、過去世に積んであった悪いことが、今生に現われてくるのであります。しかし、それはあくまで過去世の因縁の消えてゆく姿として現われてくるのでありまして、今生で現在行なった善行為は、そのままその人の宝となって積み重ねられ

ているのでありますから、やがては、善き樹に善き果がなるように、その宝は現われてくるのであります。ですから、その善き行為の人は、過去世の悪因縁の消え去ることを信じて、あくまで善行為をつ

づけ、善き明るい想念を持ちつづけてゆくことが大事なのです。必ずいつか、善き果はその人の生活に実ってくるのであります。
悪いことをしながら、善い生活をつづけている人は、その反対の現象がやがて現われてくるのです。真理に狂いはないのです。すべてをこの世だけのものとみる人生観を人びとは一日も早く変えてゆかねばなりません。そして常にイエスのいう如く、善き樹のみ植えてゆくように心がけるべきなのです。次の節をみて下さい。
砂の上の家
みこころ
我にしゆしゆ対むかひて主よ主よといふ者、ことごとくは天国に入らず、ただ天にいます我が父の御意をおこなふ者の
むかよげん
み、之に入るべし。その日おほくの者、われに対ひて「主よ主よ、我らは汝の名によりて預言し、汝の名によりて欝象ひいだし・汝の名にょりて多くの描穿ある勲蕎ししにあらずや」と霞ん。その時われ離に伽。げん「われ断えて汝らを智ず・不法をなす者よ・我を離れされ」と。さらば巫て我がこ巷の夢ききて
行ふ者を・欝上に家をたてたる慧き人に耀へん・雨叡瀬誕り、風ふきて其の家をうてど膝れず、これ鑑
ニとこすなおろかなぞら
の上に建てられたる故なり。すべて我がこれらの言をききて行はぬ者を、沙の上に家を建てたる愚なる人に擬へん・雨ふり瀟 .蕊ぎり・風ふきて其の家をうてば、倒れてその欝はなはだし。 (マ・イ伝筆章二 二七 )
ここに書かれてありますように、イエスにむかって、主よ主よ、といっても、その心が神のみ心に合っていないものは救われないのだ、ということです。それはイエスの時代でも今日でも少しも変わりません。
イエスという肉体身は、神の使であり、神の場であり、神の器であって、全智全能なる神ご自身
ではありません。ですから、いくらイエス様、イエス様といっても、主よ主よ、といっても、真実
にイエスの心に合致し、神のみ心にすうーと入ってゆかなければ、その人を救うことはできません。

たとえ
そこでイエスは、神のみ心に入る道、真実の救われに入る道を、いろいろの讐をもちいて、話しつづけられているのです。そういうイエスの教えを行ないもしないで、その場のめぐりを廻っていたり、鑑げはしをさわっていたぐらいでは、とても真の救われに入るわけにはゆかないのです。自
T

己を救うのは、あくまで自己の想念行為によるのでありまして、聖者賢者という方々は、すべて真理への道を指し示し、この道をゆけよ、と教えさとすのであります。イエスとてその点は変りありませんで、自分の教える道を踏まずにいて、ただ、救ってくれ助けてくれ、といっても、その場その場の現象的危難はさけてやることはできるけれど、真実の救いにその人たちを入れきることはできません。
むか
そこで「我に対ひて主よ主よといふ者、ことごとくは天国に入らず、ただ天にいます我が父の御
こころことば
意をおこなふ者のみ、之に入るべし」といっているのです。そして、我がこれらの言 (真理の言 )
いわカルマ
をききて行なう者が、磐の上に家をたてたように、どんな業の波の流れの中でも崩れず、迷わぬ救われの道に入っている者であり、我が真理のことばをきいても、行なわぬ者は、砂の上に家を建てたように、風雨にさらされれば、すぐに崩れてしまうような愚かなる者ということになるのだ、といっているのであります。
宗教の道に入りますと、すぐに何もかもよくなる、と思いこんで入ってくる人がおりますが、宗教の道というのは、本来、本心開発の道であり、永遠の生命をはっきり知るための道でありまして、現象の利害得失を主にすべきものではありません。しかし、イエスの頃もそうであり、今日もそうなのですが、現世の利益がなくては、多くの人が入信する状態にはなりません。
そこで、天にまします父は、イエスを通して、多くの奇蹟を現わし給い、いざりを立たせ、盲の眼を開き、少しのパンで、多くの人びとを飢えさせぬような不思議を行なわれたのであります。これは現象的なそうした奇蹟が主ではなくて、神のみ心に入れるため、道開きのためであったのです。
イエスにキリスト (真理 )を現わさしめ、縁ある人びとの信を堅めさせ、多くの人びとを真実の救いの道に入らしめようとなさっておられたのです。イエスの言はすべてキリスト (真理 )でありましたし、イエスの行為はこれまた真理 (キリスト )そのものでありましたが、イエスの肉体はやはり打てば傷つき叩けば痛む、地上界のものであったのです。
この事実がわからなかったため、後に至って歴史的な事件、ユダの反逆行為を生むことになるのであります。このことは後にくわしく書いてまいりたいと思います。イエスもそうでありましたが、人類を救いたい、と願望して神の使徒となり、菩薩業をしてゆくものにとっては、現世の利益と、真実の救済とのギャヅプにあって、非常に苦労をするのであります。
現世の病気や貧乏や災難や、様々な不調和な状態から、人びとを脱け出させたい、と思うのは、聖者賢者や愛深い人たちの等しく思うところであります。しかし、現象利益だけにすがって、自己の本心開発を怠る人びとがあまりにも多いことにたいして、聖賢や菩薩たちは深く考えざるを得な
くなるのです。イエスがこの節の中で「主よ主よ、我らは汝の名によりて預言し、汝の名によりて悪鬼を逐いだ
ちからわざ
し、汝の名によりて多く能力ある業を為ししにあらずや」と人びとが、もし自分にいってきたら、
われ断、兄て汝らを知らず、不法をなす者よ、我れを離れされ、というであろう、といっています。
これは、いかに神の名により、あるいは、イエス・キリストのみ名によって、多くの奇蹟を為し遂とげたとしても、自分が日頃から教えている通りの行為をしていない者は、自分の弟子でもなければ、宗教信仰者でもない、そんな者たちを自分は知らない、法から離れている者たちよ、我れから離れされ、というのであります。
真の宗教信仰というものは、こういうものでありまして、ただたんに現世利益だけの霊能力をも
はず
って、人を救ったようにみえても、真理にそむき、神のみ心を外れた行為によって、そういう奇蹟がなされていたのでは、キリストのみ心が現われていないのですから、邪道ということになり、真実に人を救うことができないばかりか、かえって、人びとを毒してしまうのであります。
現世利益の教え方も勿論よいし、奇蹟もあるほうがよいのでありますが、それが常に、真実の救いにつながっていなければならないのです。真実の救いとはどういうことかと申しますと、人間の本体は神の分生命であって、肉体のみのものではなく、永遠の生命そのものなのであることを知る
ことなのであります。そういう道に導き入れるための現世利益の教えであり、また奇蹟でなければならないのです。
わざあがうや
イエスの様々の奇蹟は、すべて神のみ業を示すことにあり、それによって、神を崇め、神を敬ま
やしな
う、そういう心を養わせよう、としてなされているのであります。神を崇め敬まう心は、そのまま自己の本心開発につながるものであり、神のみ名によって、みずから善き樹を植え
つづけてゆくこ
とになるのであります
Q

人あらた
に生れずば

…・…
ニコデ
モとの対話
V

イエスの山上の垂訓は、学者の語るような、知識としての言葉ではなく、権威ある者のごとくであった、と聖書に書かれてありますが、神の使とか霊覚者とかいうものは、自己の頭脳に蓄積されてある知識を人に伝えるのではなく、神のみ心から流れてくる叡智によって語っているのでありま
エキス
して、生命の精髄というか生命の光のひびきそのままの言葉というか、魂にひびいてくる説法なのであります。ですから聴聞者はおのずから、魂を打たれ、本心を開かれた想いがするのです。神のひびきが心にひびきますと、自己の霊光を蔽っている汚れが自然と浄められまして、本心が開いてくるのです。イエスの時代のユダヤは、エホバ神を信仰するユダヤ教が、全般の宗教になっていましたのです
もとい
し、イエス自身も、ユダヤ教を基として、ユダヤ教の誤った方向に向っている教えや生き方を是正して、真実の神の道を説いているのでありますが、どんな誤
った道でも、長い間、その民族にくい
こんでおりますと、なかなかその誤りを認めることができないものです。イエス自身、ユダヤ教そのものを邪教だといっているわけでも、誤った道だといっているわけで
もとい
もなく、基を離れた形式主義の教えや、いたずらに神を恐れて、生命の自由をみずから縛ってしま
っている、そういう宗教観念を取りのぞいてやりたい、と思って新しい型で道を説いているのであります。
ですから、イエス自身も、ユダヤ教の本尊ともいうエホバ神を祭ってある、エルサレムに詣でていますし、神殿を汚す商人たちを、叱陀しています。ただユダヤ教信奉者とイエスとの大きな相違は、イエスはエホバを宇宙神であり、生命の法則としてみておりまして、エホバは怒りの神、妬みの神、というような感情をもった存在とは思っていなかったことであり、ユダヤ教信奉者は、神の
カルマ
法則と人間の業とを一緒に交ぜ合わせた存在者として、エホバを崇め畏れていたのであります。
ちなみに現在ではみながエホバと呼んでいますが、昔のイスラエルでは、エル・シャダイと呼んだり、エ・ヒムと呼んだりして、遂いには一切名前呼びをせずに、ただ YHWHという神聖な四字の言葉として、心の中で想って、口には出さなかった時代もあるのです。
たとえ、どういう名前で呼ぽうとも、宇宙神とは、大生命の法則であり、全生命の根源であり、在りとし在らゆるものの実体であり、大光明であります。そして人間は、その分生命であって、自
己の運命の責任は、一切自己が負ってゆくべき権威をもっているのであります。イエスの時代は、今日のようにはっきりしたことはよほど勇気がないといえない時代でしたので、イエスの苦労も並大抵でなかったわけです。
ここでかの有名なパリサイ人の学者ニコデモとの対話を書いてゆきたいと思います。ニコデモは、モーセ律法を市民生活の中に効果あるようにしようとしてできてい .る、ユダヤ人の最高議会サソヘドリンの議員であり、ユダヤ人の指導者であったのですが、イエス・キリストをかなり信じ尊敬していたこのニコデモでも、やはりその頃の宗教学者の域を出なかったことが、この対話ではっ
きりわかります。現在の日本の宗教学者の中でも、ニコデモ級の人がたくさんいるのでありまして、イエスの説法を真実にわかって、自己のものとすることのできる人は少ないのではないかと思います。
(ヨハネ伝第三章一-二一)
こニぴとつかさもと
髪にパリサイ人にて名をニコデモといふ人あり、ユダヤ人の宰なり。夜イエスの許に来たりて言ふ『ラピ、
ともいぽしるしあた
我らは汝の神より来る師なるを知る。神もし借に在さずば、汝が行ふこれらの徴は誰もなし能はぬなり』イエス答へて云ひ給ふ『まことに誠に、汝に告ぐ、人あらたに生れずば、神の国を見ること能はず』ニコデモ言ふ
おいか
『人はや老いぬれば、争で生るる事を得んや、再び母の胎に入りて生るることを得んや』イエス答へ給ふ『まことに誠に汝に告ぐ、人は水と霊とによりて生れずば、神の国に入ること能はず。肉によりて生るる者は肉な
あやおの
り、霊によりて生るる者は霊なり。なんぢら新に生るべしと我が汝に言ひしを怪しむな。風は己が好むところ
いずこいずこかく
に吹く、汝その声を聞けども、何処より来たりて何処へ往くを知らず。すべて霊にょりて生るる者も斯のごと
かか
し』ニコデモ答へて言ふ『いかで斯る事どもあり得べき』イエス答へて言ひ給ふ『なんぢはイスラエルの師にして獄かかる事どもを知らぬか。誠にまことに汝に告ぐ。我ら知ることを語り、また見しことを証す、然るに
いか
汝らその証を受けず。われ地のことを言ふに汝ら信ぜずば、天のことを言はんには争で信ぜんや。天より降り

し者、即ち人の子の他には、天に昇りしものなし。モーセ荒野にて蛇を挙げしごとく、人の子もまた必ず挙げ
とニしえいのち
らるべし。すべて信ずる者の彼によりて永遠の生命を得ん為なり』
ひとりごと二しえいのも
それ神はその独子を賜ふほどに世を愛し給へり。すべて彼を信ずる者の亡びずして永遠の生命を得んためな
つかわさば
り。神その子を世に遣したまへるは、世を審かん為にあらず、彼によりて世の救はれん為なり。彼を信ずる者は織かれず・信ぜぬ老は既に鶴かれたり。神の饗の名を信ぜざりしが故なり。その郵は是なり。光、世にきたりしに、人そのくらきいこな行為の悪しきによりて、光よりも暗黒を愛したり。すべて悪を行ふ者は光をにくみて光にお
まニと
来らず、その行為おこないの責められざらん為なり。真をおこなふ者は光にきたる、その行為の神によりて行ひたることの顕れん為なり。
この対話は宗教的になかなか意味のある対話でありまして「人あらたに生れずば、神の国を見る
こと能はず」というイエスの言葉に、宗教学者のニコデモが、非常に戸惑って質問している様子
が、よく現われています。ニコデモは、イエスの奇蹟をみたり、イエスの法話をきいたことのある
人であり、イエスを尊敬しているのですから、イエスの言行を信じています。そして、イエスの言葉や行為が、神からきているものであると、自分でいっているのです。それでいて、イエスのいっ
ている真理がわからないのです。
宗教を頭の知識だけで理解しようとしていると、どうしても、一番肝心な奥底の深いところがわからないのです。「人あらたに生れずば ……」は、当然肉体の人間として自分をみている限りは、神の国を見ることはできないのだ、肉体人間という自己の観念を一度捨て去ってしまって、霊なる
人間として自己をみつめなければ、とても神をみることはできないといっているのです。
うま
ですから、その次に、ニコデモが唯物論者と同じように、「人はや老いぬれば、いかで生るるこ
うま
とを得んや、再び母の胎に入りて生るることを得んや」などと幼い質問をしますと、イエスさんも少しあきれて、少しく強い言葉でいったのです。「人は水と霊とによりて生れずば、神の国に入ること能はず、肉によりて生るる者は肉なり、霊によりて生るる者は霊なり ……」
実にその通りであります。いくらどのように宗教学問を学んだとしても、万巻の書物を読んだとしても、人間とは肉体ではないんだ、肉体とは人間生命の一つの現われであって、それは場所であり・朧煙あるんだ・人間の本質は霊であって・最も微妙な光明波動の世界から様々な階層に、生命
波動が、その階層にふさわしい体を纒まとって生きているものである、ということを知らねばならないのです。想念が肉体波動の中にもいられれば、神界のひびきの中にも住んでいられるような練習が人間には必要なのです。
「風は己が好むところに吹く、汝その声を聞けども、何処より来たりて何処へ住くを知らず。すべて霊により生うまるるものもかくのごとし」とイエスがいっておられるのも、その真理を知らせたいからなのです。肉体の観念では、霊の動きはわかりません。みずからが霊の動きに同化してはじめ
て霊の動きがわかります。真実に神の存在を知りたいと思うならば、すべての物の中に動きの中に、それを物たらしめ動かしている、生命の力を知らなければなりません。
その一番やさしい方法は、自己のすべての想念を一度神様にお還えしして、瞬々刻々神様からい
ただき直してゆく、という気持になることなのです。これを私は消えてゆく姿で、祈り (世界平和
の祈り )つづける生活の中で実践することをすすめているのであります。
種々と地上的な例え話で話してさえもわからないのだから「天のことを天の表現のままで話した
らいかで信ぜんや」とイエスは嘆いておりますが、実に真理をわからせるために、真の指導者がい
かに苦労しているかがわかります。イエスはそのために十字架上の人となるのですから、全く真の
くだ
宗教指導者というのは大変な役目なのです。真の宗教者は、すべて天より降りし者です。ですから常に天地を往き来しています。それは肉体的に往き来しているというのではなく、霊的に往き来しているのです。ですから、神霊の世界のことも、この肉体界のこともわかっていまして、真実にこの肉体世界を立派にするには、やはり、霊なる本質を人間世界が知らなければならない、と真の宗教者の誰しもが想うのです。
「モーセ荒野にて蛇を挙げしごとく …」とありますのは、モーセが神命によって青銅の蛇をつくり、竿の上にかけておき、蛇にかまれた者がそれを仰ぐと、蛇の毒が消えてしまい、そのまま生かされた、というようなことがあったのです。その例のように、人の子 (イエス )もまた天国に挙げられて、その神の子なることを信じたものは神によって永遠の生命を得るようになるだろう、といった
しよくざいてんどうもうそう
のであります。イエスは確かに人類の贈罪のため、人間の顛倒妄想を直そうとして天降ってきたのでありますから、イエスの説いた道を真実信じて行なう者は、永遠の生命を得ることになるのです。それはどうしてそうなるかというと、神が人類を愛しているからで、神の中心の光明を伝えることのできる人のみを世につかわしたので、イエスの教えを信ずる者は救われ、イエスの教えを信じ
はずカルマさぱ
なかった者は、神のみ心を外れたまま歩んでいるのでおのずから、業によって審かれたのである、といっているのです。
聖書というのは、イエスの弟子たちの書いたものやいい伝えたものなので、どうしても、自分の
先生だけが、神の独子ひとりこというような表現になってしまいますが、神の中心の光明を伝え得る人とい
ひとりこもらこ
うようにしたほうがよいと思うのです。そうしないと、釈尊はいったい神の独子でなくて、貰い子か何かになってしまいます。そんなことは絶対にないので、イエスも釈尊も、その他の聖者も、神
の光明を伝え広め、ひびかせつづけた人びと、ということになるのです。
くらき
この世の中の人は、とかく、暗黒 (快楽 )を愛して、光から遠ざかろうとします。光を恐れるの
は、自分の心を写し出されると恥ずかしいことがたくさんあるからで、悪い人になりますと光を憎んで、人びとをも光から遠ざけようとします。イエスは光を憎む人びとのために、十字架に掛けら
れたのであります。
光ある心、愛深き心こそ、この世の宝なのです。皆さんは少しでも光を心に蓄えたくわるために、人の幸を祈り、世界人類の平和を願う、祈りの生活をつづけて下さい。その行為は、すぺての知識に先行して行なうべき真理の道なのです。光ある心とは自我 (小我 )の無い心です。小我を祈りの心の中で滅却して人のため、社会国家人類の平和のためにつくせる人を光ある人というのです。自分が人のためにしてやるのではない。神のみ心によってさせていただく、そういう心の人こそ光ある心の人なのです。
イエスの奇蹟とパリサイ人
イエス・キリストの人をひきつけた力は、その容貌や高貴な光ある雰囲気にもありましたが、なんといっても、その奇蹟を起す能力ちからにあったといえます。その最大の奇蹟は十字架につけられた後
よみが
の甦えりですが、治病力の偉大さもそれに劣らぬ奇蹟です。ですから聖書の中で、各伝記者が等し
く難病の癒されてゆく状態を書き記しております。
他にも、パソを増やした話や、暴風雨を静めた話など種々あります。このようにイエス・キリス
トと奇蹟とはきってもきれぬものがありますので、聖書の中から奇蹟の話をぬいてしまったら聖書
の内容がまるで変ってしまうことでしょう。
ところが、イエス・キリストへの信仰はありながら、その奇蹟の話になると、話をそこからそらしてしまう学者もあれば、奇蹟のことは認めたがらない学者もあります。これらはみな前記のニコデモのような人びとで、深い心で真理をみないで、頭脳知識ですべてを判断しようとしてしまう人びとなのです。
わざ
イエスが悪鬼を人の体から追い出したり、盲を癒したり、癩病を潔めたりしたみ業もこれらの学
者にとっては、たんにイエスの偉大さを現わすための話であって、別にそんなことはとるにたらぬ、問題にする必要のないことのように考えてしまっているのです。
それはとんでもない浅薄な考え方であって、それらの奇蹟を認める想いがあってこそ、人間の真
実の姿がわかってくるのであり、神のみ心や、神の世界のことがはっきりわかってくるのであります。様々な奇蹟というものは、人間がたんなる肉体人間ではない、ということを知らせる最も明ら

かなるヘしヘるしなのです。
病気というのでも、その人の気持が病んでいる病気もあれば、肉体自体が病み損われている場合もあります。これは誰にでもわかる病気なのですが、肉体的にみてはどうしてもわからない、いわゆる霊病といわれる、その人の幽体や肉体に五感に触れぬ存在の影響をうけて病気になっている場
合があるのです。聖書にある、悪鬼に愚つかれると一口に呼ばれている状態が、現代でも相当数ある
のです。私たちは、この状態を幽界の生物 (亡くなった人の妄念も含めて )の愚依ひようい現象というので
す。
こういう事実を認めることは、肉体以外にも生命があるんだ、生物が存在するのだ、ということ
を認めることになるので、唯物観念だけの世界観より一歩進歩した心の状態ということになるので
す。ただ、幽界や霊界を認める心の状態になったら、必ず神の存在を信じ、神の大愛を信じる、深
い信仰心を持たぬと、この世で生きるのにかえって臆病になってしまったりします。ではここで聖
書の一節を掲げることにします。
或日イエス教をなし給ふとき、ガリラヤの村々、ユダヤ及エルサレムより来りしパリサイ人、教法学者ら、
いやちから
そこに坐しゐたり、病を医すべき主の能力イエスと借にありき。
にな
視よ、人々、中風を病める者を、床にのせて担ひきたり、これを家に入れて、イエスの前に置かんとすれぽ、群衆によりて担ひ入るべき道を得ざれば、屋根にのぼり、瓦を取り除けて、床のまま、人々の中にイエスの前につり下せり。
イエス彼らの信仰を見て言ひたまふ『人よ、汝の罪ゆるされたり』髪ここに学者、パリサイ人ら論じ出でて言ふ
けがしごとゆる
『濱言をいふ此の人は誰ぞ、神より他に誰か罪を赦すことを得べき』イエス彼らの論ずる事をさとり、答へて
いず
言ひ給ふ『なにを心のうちに論ずるか、「なんちの罪ゆるされたり」と言ふと「起きて歩め」と言ふと執れか易き。人の子の地にて罪をゆるす権威あることを、汝らに知らせん為に』中風を病める者に言ひ給ふ『なんぢ
たちどニろあ
に告ぐ、起きよ、床をとりて家に往け』かれ立刻に人々の前にて起きあがり、臥しゐたる床をとりあげ、神を
おそれ
崇めつつ己が家に帰りたり。人々みな甚く驚きて神をあがめ、催に満ちて言ふ『今日われら珍しき事を見たり』 (ルカ伝第五章十七ー二六 )
イエスの治病力を現わしているうちの、一節を掲げたわけですが、イエスの治病力の偉大さは諸方に知れていましたので、人びとはその説法を聴くのも楽しみだったでしょうが、その奇蹟力を見ようとする人、イエスのその力にすがって病気を癒してもらおうという人たちも随分といたわけで
す。ユダヤ教の教えを説いたり、律法をあつかったりしていた教法学者たちも、諸方からイエスの話をききにきていましたが、イエスをやりこめてやろうという人もいたのです。人もいたというより教法学者の多くが、隙あらばイエスをやりこめたい、と思っていたのです。しかしイエスの説法は秩序整然としていまして、そういう人たちのつけ入る隙がありません。そこへ、いつもそうなのですが、病人をかつぎこんできた人びとがいたのです。その時は中風で身動きのできない病人で、床にのせたまま人びとの前に出してイエスに治病を頼んだのです。
にな
病人も病人を担いこんできた人びとも、イエスがキリストであることを信じていまして、イエスの前に来れば癒されるということを信じこんでいました。この信仰の深さをみられたイエスは、人よ汝の罪ゆるされたり、といわれたのです。
ここが非常に大事なところでありまして、イエスはまず病人や病人の附添いの人びとの信仰の深さをみておられます。いかにイエスといえど、神の愛を信じないような人を癒すことはできません。できませんというより、神がその癒しを許し給わぬでありましょう。
カルマ
何故ならば、信仰の深さ浅さというものは、その人びとの業消滅の時期が来ているか、いないかの。バロメーターなのであります。イエスの言葉として有名な、『汝の信仰汝を癒せり』という言葉があります。これはその意味の通りでありまして、その人自身の信仰が、その人の病を癒すのであります。イエスはただ、その癒しの口を開く立場にあるのです。イエスの心眼には、その人の信仰
カルマカルマ
の状態や、その人の過去世からの業の状態がよくみえているのですから、その業の隙をみて、そこに光明波動を放射すればよいのです。イエスはすでにキリスト (真理 )と一体の人なのですから、真理の方、神のみ言葉として、『人よ汝の罪ゆるされたり』といったわけです。それはイエスという肉体の口を通していうのですけれ
カルマ
ど、神のみ言葉がそのまま流れて出たものなので、権威に充ちていますし、実際にその人の業 (罪)
の消え去ったことを証明する言葉なのです。
そういう権威のある言葉のひびきを感じてか感じないでか、学者やパリサイ人は、ここぞ、イェ
スをやっつける隙だ、と思ったのですが、やはりイエス・キリストの権威ある態度に押されて、自分
たちの思ったことをはっきりいうことはできません。そこで、お互同志で、肉体をもった人間のく
ぼうとく
せに、神様より他にいうことのできない、罪の赦しの宣言をするとは何事だ、これこそ神を冒漬す
けがしごと
る濱言だ、というように小さな声でいいあっていたのです。
イエスはそういう人たちの心を察して、『私は肉体をもった人の子としてこの地に来ているけれど、神の使としてきているので、人の心の罪けがれの状態がよくわかるのだ、だからどのような時その人を赦せばよいのかの権限を神から与えられているのだ。だから私はその時をみて、この人を
カルマ
赦したのだ。ただいたずらに起きて歩め、といったところで、業のまだ消滅し得る時期の来ない者
にそういったところでどうしようもない。この人はその時期がきたので、汝の罪ゆるされたり、と、
その時期の来たことを知らせ、癒しの戸口を開いてやったのだ』イエスはそういわれると、声をは
げまして、『汝はもう病気ではない、床から起きて家に往け』といわれたのです。
その頃のユダヤの人びとは、神の罰というものを非常に恐れていて、自分の行為の過ちで神様の罰が当り業病になる、というように信じていたのですから、心からキリストを信じているイエスの権威ある言葉によって、立ちどころにさしもの難病が癒え去ったのは真理の眼からみれば当然なことなのです。
あかし
イエス・キリストは、常に神の証のために奇蹟を行なっていたのでありますが、時とか所とかその人の因縁をよくみわけて、奇蹟を現わしていたのです。イエス・キリストだから、どんな場所ででもどんな人にでも、奇蹟的治病を行なったかというとそうではないのです。
汝の信仰汝を癒せり、ということが常に根抵にあることを忘れてはならないのです。神の慈愛を信じ切る、ということほど、人類にとって必要なことはありません。神の愛を信じぬところから、様々な争いが起り、不祥事が起って社会を暗くし、世界を動乱に追いやってしまうのです。
しかし、ユダヤ教のように、自民族こそ唯一の神に選ばれた民族であることを強調している宗教では、神の存在が常に自己の自由を縛るくさりのようになっているし、エホバ神だけを唯一神とみて、他の神々を低い位置に置こうとする頑迷な宗教態度を持ちつづけていたので、イエスのように、そういう宗教観念から脱け出た、自由な広い真理の立場から道を説く者は、どうにもパリサイ人や律法学者たちにとっては、異宗教であり、神を恐れぬ冒濱者であるように思われたのです。その頃のユダヤ教の信者は、神の愛につながるというより、神の罰を恐れる、というこの意識が強く、そのため多くの律法をつくって、民衆の自由を奪っていたのであります。こういう中にあって、神の真理を顕現しつづけてゆこうとした、イエスの苦労は並大抵ではなかったのです。悔改めよ、さすれば罪は赦される、というようなイエスの教えでさえも、ユダヤ教の学者にとっては、神
を冒濱する教えであるとみるのですから、汝の罪 φるされたり、などということはその奇蹟があればあるほど、悪魔の使いのように思えて、邪魔者扱いにされるわけなのです。こうしたイエスの奇蹟は一方民衆の歓びになりながら、一方十字架にかかる道を強めていったわけなのです。
さば
人間は自己の想念によって、その運命をつぐっているものでありまして、自分が自分を責め裁いている限りは、自己の生命は自由に働けません。自分を赦し、人を赦す、そういう心の状態になった時、はじめて人間の生命は自由を得るのです。イエスはそれをよく知っていたのであり、釈尊な
どもその理をよく弟子たちに説いております。かのどうまんげ指し堂外道の話などもその理をよく現わしている話であります。
バラモン
釈尊の弟子のアソグリマ!ラという人は、若くして婆羅門の師匠についた非常に善良な優秀な人であったのですが、或ることでその師匠の怒りを買い、その師匠が彼を困らせようとして、百人の人の指を切らなければお前は悟ることができない、といい渡すのです。昔のインドでは師匠のいうことは、どんな無理でも聞かなければならなかったので、アソグリマーラも仕方なく、人を襲って指を切っては首飾りのように首にまいていました。二人斬り三人斬っているうちにしだいに狂ってきて、遂いにはなんの罪意識もなくなり、指髪外道と呼ばれて、人びとに恐れられるようになりました。九十九人迄斬って後一人という時に、自分の前に母親が来かかるのを見ました。狂った指髭外道は、その母親に襲いかかろうとした時、釈尊がその場に現われ、釈尊の光明によって常人になり、釈尊に弟子入りします。そして真剣に修業し、昔以上の立派な僧になります。
そのアングリマーラが或る日托鉢していますと、或る家から呼び止められ、妊婦が苦しんでいるから、どうぞ安産させてやって下さい、と頼まれます。その頃のインドでは、殺傷の罪を冒かさぬ僧から、安産だといわれれば必ず安産する、といういい伝えがあったのです。しかしアングリマーラは困ってしまいました。彼は殺傷戒を冒かさぬどころか、九十九人もの殺傷をしているのです。彼は困却して釈尊のもとに飛んで帰えり、どうしたものでしょう、と教えを乞いますと、『昔のお前はもうとうに消え去ってしまって、今のお前は殺傷戒など冒かしたこともない僧なのだから、安産の宣言をしてきなさい』といわれます。アソグリマーラは急いで妊婦のところにかけつけ、安産
の宣言をしますと、目出度く安産をしたのでした。
こういう仏教の話でも、自分が真実に自分を赦し切れば、赦し切るということは本心が開発され
わざ
た、ということになるので、神のみ業が成就することになるのです。だが、なかなか自分だけで自分を赦し切ることはむずかしいので、善き師匠によってその赦しを得ることが必要になってくるのです。イエス・キリストでも釈尊でも、そういう真理を実にはっきりと知覚し得た聖者であったの
です。
弟子



つか
遣わ


イエスはみずから霊覚者であったと同時に、弟子たちにもそれぞれの霊能力を与えていたのでありますが、特に治病力を与えていました。いつの時代でも、人間を一番苦しめ悩ますものは病気であります。貧乏も勿論苦しいことではありますが、病で動きのとれない状態からみれば、まだ増しであるかも知れません。
神の愛を誰にもはっきりわからせるのは、病気を癒すことです。神の愛が働き給うて、病気が治った、ということほど、信仰につなげ得る道はありません。イエスはそれを知っていましたので、弟子たちに特に治病力を強く与えていたのであります。すべては神の道を人びとに知らせるためであることは勿論
です。
<一)
かくけがせいこれおいだやまい
斯てイエスその十二弟子を召し、稜れし霊を制する権威をあたへて、之を逐ひ出し、もろもろの病、もろも
わずらいいやつかわ
うの疾患を医すことを得しめ給ふ。 ……イエスこの十二人を遣さんとて、命じて言ひたまふ。 (マタイ伝第十章一ー五 )
ねおかみさとはと
視よ、我なんぢらを遣すは、羊を射狼のなかに入るるが如し。この故に蛇のごとく慧く、鵠のごとく素直な
わたむちうつかさ
れ。人々に心せよ、それは汝らを衆議所に付し、会堂にて鞭たん。また汝等わが故によりて、司たち王たちの
ひあかしわたいかに
前に曳かれん。これは彼らと異邦人とに証をなさん為なり。かれら汝らを付さば、如何なにを言はんと思ひ煩
うち
ふな、言ふべき事は、その時さづけらるべし。これ言ふものは汝等にあらず。其の中にありて言ひたまふ汝ら
わたさからニれ
の父の霊なり。兄弟は兄弟を、父は子を死に付し、子供は親に逆ひて之を死なしめん。又なんぢら我が名のた
すべにくずく
めに凡ての人に憎まれん。されど終まで耐へ忍ぶものは救はるべし。この町にて、責めらるる時は、かの町に
めぐさた
逃れよ。誠に汝らに告ぐ、なんぢらイスラェルの町々を巡り尽さぬうちに人の子は来るべし。
しもべしもべ
弟子はその師にまさらず、僕はその主にまさらず、弟子はその師のごとく、僕はその主の如くならば足れ
いえあるじぽしおお
り。もし家主をベルゼブルと呼びたらんには、況てその家の者をや。この故に、彼らを催るな。蔽はれたるも
あらわくらきあかるき
のに露れぬはなく、隠れたるものに知られぬは無ければなり。暗黒にて我が告ぐることを光明にて言へ。耳を
ぴやのたぽしいむそたゑしい
あてて聴くことを屋の上にて宣べよ。身を殺して霊魂をころし得ぬ者どもを濯るな、身と霊魂とをゲヘナにて
ユろぎ
滅し得る者をおそれよ。二羽の雀は一銭にて売るにあらずや、然るに汝らの父の許やるしなくば、その一羽も地に落
すぐ
つること無からん。汝らの頭の髪までも皆かぞへらる。この故におそるな、汝らは多くの雀よりも優るるな
ねよあらわ
り。然れば凡そ人の前にて我を言ひあらはす者を、我もまた天にいます我が父の前にて言ひ顕さん。されど人 の前にて我を否いなむ者を、我もまた天にいます我が父の前にて否まん。 (マタイ伝第十章十六 -三三 )
イエスの時代は、今日のように医学が発達していませんので、病気はすべて霊の稼れであるとみていたのです。もっとも霊魂の汚れの浄化作用が病気と現われ、不幸災難となって現われることは、神 (心)霊研究家の等しく知っているところであります。
医学というのは、そうした浄化作用を、苦痛少く、肉体的損失を最少限度に喰いとめ得るための学問であり、医術であるわけなのですが、そういう原理を知らずに、ただ肉体というものだけに重点を置いて病人に向っているのが、今日の医学者の態度です。これでは、一方の病を治すために一方を痛めてしまうというような、副作用状態を起す処方や医薬ができてくるのは当然であります。
霊魂と精神と肉体というものの連関性を考慮に入れて、医学が進んでゆかなければ、病気の種類は無数に増え、ますます難症になってゆくことは論をまたないのです。霊魂と精神とを度外視していて、ただ肉体だけの病気の症状を治そうとしていたのでは、人類の病気は形は変ることがあっても、決定的に減少することはありますまい。
イエスの治病能力は、神の光明を病者に当て、病人の霊魂の薇れを浄めることによって癒すのであります。そういう神との一体化の能力を、十二弟子に与えたのです。そして各所に派遣したので
あります。現在の日本などは、信教の自由ということに憲法で定まっておりまして、どういう教義で人びとに接しても、それが医師法違反でなければ取り締まりも罰を受けることもありませんが、イエスの時代のユダヤでは、ユダヤ教がその地方の唯一の宗教とされておりました。そして、ユダヤ教の信奉者たちが、取締っている会堂や衆議所がありまして、国民の動静を監視し、犯罪を摘発しておりました。そういうところで、新しい宗教の道を説き、奇蹟を行なってゆくのですから、十二弟子たちも生命がけの大変なことなのです。
ですからイエスは弟子たちを派遣するに当って、弟子たちの先々における苦難の道を予見して、種々と忠告を与えたのでありますが、神のみ心をこの世に現わすための、自分や自分に従う老たち
はらん
の運命の波瀾を知るイエスの胸中は、察するに余りあるものがあったのです。
おおかみ
我なんぢらを遣すは、羊を財狼のなかに入るるが如し、という言葉からはじまるこの説法は、闇の世に光明をかかげる者の悲愴なひびきが籠っております。イエスやイエスの弟子たちは確かにこの世を救済するための大犠牲者であったのです。
この節の中でイエスは「いかになにを言はんと思ひ煩ふな、言ふべき事は、その時さづけらるべ
うち
し。これ言ふものは汝等にあらず、其の中にありて言ひたまふ汝らの父の霊なり」といっておりますが、これは宗教の真理でありまして、自己の想念をすべて神のみ心に託してしまいますと、自己
じぎ
の脳裡では思いもかけぬような、時宜に適した立派な言葉が出てくるものなのです。私どもなども、自己の肉体頭脳でとやかく思いわずらって話すようなことはありません。言葉が心の中からそ
のまま話され、答がおのずから湧き出てくるのであります。
人間が神に全託して、その答を待つ時には必ず、その人を救う答がなんらかの形で現わされるのです。どの聖者でも、小智才覚でものごとをするな、ということをいいますが、全く、肉体頭脳で
計算つくの小智才覚というものは、絶体絶命という場合にはなんらの力も持たないもので、そういう場合に役立つのは、うちから生れ出で、湧き出でる神智による答なのであります。
イエスはその真理を弟子たちに教えているのです。これは人類にとって非常に大事なことなのであります。神は人のうちにおわして、その人の認める度合によって、その力を発揮し給うのです。そして苦難にあっても、神の愛を信じて、最後まで耐え忍ぶ人は救われるのであります。これはイ
エスの弟子たちのみへの言葉ではなく、すべての宗教信仰者の心して聴聞すべき言葉なのです。
おそ
二四節から三三節までの素晴しい言葉は、身を殺して霊魂をころし得ぬ者どもを濯るな、身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ、というところから最後までで、いかに悪い者でも権力者でも、肉体を殺すことはできるが、その霊魂を殺すことはできない、しかし、自己の本心 (神)に逆えば、それは肉体を滅ぼすだけではなく、死後もゲヘナ (地獄 )に落ちて霊魂をも滅ぼしてしま
かしら
う。だからいかなるこの世の権力者もベルゼブル (悪魔の頭 )でも霊魂を滅ぼすことはできないの
おそ
だから、何も儂るることはない。私がそっとお前たちに教えたことを、お前たちは多くの人たちに
勇気を持って大声で宣べ伝えよ。一羽の鳥でさえも神の許しがなけれぽ地に落ないようにすべては
神のみ心が働かなくては何一つできぬことなのだから、信を深めて、私が説いている神の道を伝え
よ、我が教えを説いている者を私は天の父に伝えるし、我が教えを否定する者は、私は天の父の前
でその人を否むであろう、といっているのであります。
イエスのように神我一体になっていて、神と人との間に何の壁もない、すっきりと光が澄み徹っ
うつお
ている聖者にとっては、肉体という器であり天命成就の場である体は、いつどうなっても惜しくもなんでもないのですが、弟子たちにとっては、肉体というものは自分自身にとって大事なものであ
り、執着のあるものであります。
イエスや釈尊のような聖者になりますと、肉体は自分自身のためにあるのではなくて、天命鑑デのため、人類救済のための場としてあるのです。ですからこの世の天命が完うされれば、肉体が失われてもこれはなんでもないことなのであり、当然のこととしてなんの執着も残らないのです。
イエスが十二弟子を各所に伝道に送る時に、様々の苦難を予想して、ひたすらなる神への全託を説いたのは、神への全託のみが、肉体の執着を超こえ得る唯一の道であり、大智慧大能力の発揮され
得る道であることを、自己の体験に照してよくわかっているからなのであります。霊が主であり肉体は従である、と頭ではわかっていましても、いざという時になりますと肉体に執する想いがありまして、なかなか全託の境地になり得ないのです。そこで祈りというものが役立ってくるのであります。祈りを光の柱として、しだいに全託の境地に入ってゆく、ということが、弟子たちには必要になってくるのです。今日のように宗教の宣布で生命をなくすということのない時代ですと、伸び伸びと働けますが、イエスの弟子であるということだけで、白い眼を向けられ、監視の眼を光らせられるのですから、
生命がけな真剣そのものの宗教活動なのです。しかしその活動が生命をかけたものであり、真剣そ
のものであるだけに、弟子たちの心境は急速に進み、霊能力も速やかに加わっていったのでありま
す。
イエス在世中にそうした真剣な宗教活動をしていたことが土台となって、イエスが霊身にか、尺っていってから、一人一人の活動範囲が大きく広がり、今日のキリスト教発展の基礎となったのであります。
信の心というものは一朝一夕で深くなるものではありません。それは何生かけた宗教の道によっ
て生れてくるのですが、過去世のことはともかくとして、今生におけるたゆみなき祈りの行によっ
て、信仰はしだいに深められてゆくものであります。ですから、自分はなかなか信仰が深くならぬ、神の存在は信じながらも、どうしても自分の頭脳智で物事を考え行なってしまって、心の深い
あせ
ところから智慧や力が湧き上がってくる感じがしたことがないなどという人は、そういう焦り心をも含めて、ひたすら神との一体感を祈りつづけるといいのであります。それは、ただ単純に神様あ
ごと
りがとう存じます、という祈り言一点ばりでもよいのであります。あまりむずかしい祈り言葉では想念の習慣がつきません。すべては想念を習慣づけることが必要なので、祈るという習慣をまずつけることが必要なのです。
それにはやはり、自分の頭で納得できて、しかもやさしい祈り言葉がよいのです。神様ありがとうございます、に徹底してしまえば、四六時中、単純なその言葉を心の中でくりかえしていてもよいのですが、それだけでは単純すぎると思ったら、世界平和の祈りのような意味のはっきりした言葉にしていってもよいのです。主の祈りでも勿論よいのですが、私は世界平和の祈りの提唱者ですから、世界平和の祈りをおすすめいたします。世界平和の祈りを何気なくでもよい、心の中で祈りつづけておりますと、いつの間にか神のみ心と通い合う愛の心が生れてきて、しだいに信仰心が深くなってくるし、世界平和の祈りのもつ、大きな広い意味が自然と心の底から理解できてまいります。
ins

イエスの弟子たちの人類救済
の真剣な宗教活動にならって、私たちも、
ひたすら祈り一念の生活
をつづけ、世界平和のために働き
つづけてゆかねばならないのです。
イエスが弟子たちを、各所に派遣する時
に、弟子たちに与えた言葉としては、前記
の言葉よりは
るかに厳しい、聞きようによっては、この人はどうかしているのではないのか、と思われるほど
の、烈しい真理の言葉があります。その教えを垂れながら、或いはその教えをなし終えた後、肉体をもった、肉体感情としてのイエスの心の動きはどんなであったろうかと、聖書を読む度びに私はイエスの心を計っていたのであります。
イエスは神の大なる使徒でありましたが、肉体感情が全然なかった人ではありません。肉体人間間の愛情や思いやりを解せない人ではありません。そのことはまた後に説明することにいたしまして、
マタイ伝十章三四節「四二節をここにかかげてみましょう。
かえ
われ地に平和を投ぜんために来れりと思ふな、平和にあらず、反つて剣を投ぜん為に来れり。それ我が来れ
しウうとめ
るは人をその父より、娘をその母より、嫁をその姑樟より分たん為なり。人の仇はその家の者なるべし。我よ
みさわみさわ
りも父または母を愛する老は、我に相応しからず。我よりも息子または娘を愛する者は、我に相応しからず。
(二)
みさわ
又おのが十字架をとりて我に従はぬ者は、我に相応しからず。生命を得る老は、これを失ひ、我がために生命を失ふ者は、これを得べし。
つかわ
汝らを受くる者は、我を受くるなり。我をうくる者は、我を遣し給ひし者を受くるなり。預言者たる名の故に預言者をうくる者は、預言者の報むくいをうけ、義人たる名のゆゑに義人をうくる者は、義人の報を受くべし。凡
ひやや
そわが弟子たる名の故に、この小き者の一人に冷かなる水一杯にても与ふる老は、誠に汝らに告ぐ、必ずその報を失はざるべし。
どうですか、この言々火を吐く真理の言葉は、こんな強烈な思いきった言葉を、巷間の現代の霊

能者がいったとしたら、その人は邪教の教祖として、輿論によってほうむり去られるでありましょ
よこしまだんがい
う。イエスもその時代の邪な者として、政府と民衆から弾劾を受け、遂いに十字架上に肉体の生涯
を終えてしまったのであります。しかし、今日ではイエスのこうした言葉は、聖書として世界中の人びとの魂の糧となっているのです。それはイエスが義の人であり、真実の天の使いであったからです。このように善悪をそして正邪を定めるのは、後の歴史にまたなければならぬことがたくさんあるのであります。
人間は直ただちにその善悪を定め、正邪を分けようといたしますが、それは肉体人間のなすべきことではなく、すべては天の父がこれを為し給うのであります。人間は自己の利害関係や感情の動きの
ままに善悪を定め、正邪をきめてしまいがちですが、これは甚だ誤ったことなのであります。
さて、聖書のこの章ですが「われ地に平和を投ぜんために来れりと思ふな、平和にあらず、反って剣を投ぜん為に来れり」という出だしからして、大変な宣言で、うっかりすると、下衣を求むるものには上衣をも与えよとか、右の頬を打たれなば、左の頬をも打たせよとか、汝の敵を愛せよとかいっているイエスの言葉とは全く相反するように聞えて、思わず首をかしげたくなります。
自分が来たのは、親子を分れさせ、嫁と姑を分れさせるためだとか、我よりも父母を愛する者は、我にふさわしからずだとかいっていて、肉体人間世界の生活者としての常識を全く外れているように思われるのです。
そこのところをいったいどう解釈したらよいのでしょう。前にも述べましたように、イエスは肉体人間の感情を少しも持たぬというような人ではないのです。それは、ラザロという弟子が死んでしまった時に、イエス涙を流し給いき、とあるように、涙を流して、そしてラザロを甦よみがえらせる
奇蹟を演じられるのです。肉体人間感情がなければ、誰が肉体生命を終えようと、霊界ではまた生きつづける永遠の生命である人間なのですから、涙を落したりする必要はないのです。肉体人間感情として涙を流すところに、この地球界を救済する愛の使徒としての価値があるのであります。自分の子供や親しい人びとの死にたいしても、涙一つこぼさぬ、少しも悲哀の情がないなどというこ
とは、愛の欠乏を意味することでありまして、悟った姿、ということではないのです。
イェスはそうした肉体人間感情を持ちながら、しかも、前記の言葉のような情け容赦もないような言葉を吐くのですから、普通では、ちょっととまどうところですが、語っているイエスの心の辛さが私には身心に沁みてわかるのです。
神の使徒というものは、その人が肉体を持っている限り、その人の肉体感情では計り得ない深い高い永遠の思慮による神の言葉を受け入れがたい時があるのです。
イエスの肉体身が説いているようにみえますが、こういう鋭い、肉体感情を無視したような言葉は、天の父の言葉が、そのまま、肉体身のイエスの言葉のように流れ出てくるのでありまして、イニスの肉体身としては、天と地の中間にあって、非常な苦しい立場に置かされるのです。私なども神のみ心のままに生かされていますので、天と地の間にあって、人類救済の天地の間のやりとりの大きな愛がようくわかるのです。天のみ心がよくわかりながら、人にはその真実をいえぬ苦しさ、人の情愛やその苦悩が身に沁みてわかりながら、天のみ心を通さなければならぬ心の苦しさ、というものは、その立場に立たされたものでなければ、とてもわかるものではありますまい。
父母よりも、自己の家庭よりも、まず神を第一にしなければならぬのは当然のことなのですが、イエスのようにこうはっきりといい切ることはなかなかできるものではありません。
自分は家庭や国家やすべての物質的平和のために来たのではない、というのは、その頃、もっとも今日でもそうなのですが、肉体人間を主にして、神のみ心をないがしろにしている、個々人の家庭生活や、国家社会人類の姿の、そうした平和のために来たのではないということで、そういうはかない、砂上の楼閣のような平和を打ちこわして、新しい、真の平和、神のみ心と真すぐにつなが
った永遠の平和世界をつくるために自分は来たのである、とイエスはいうのであります。
人間の神性霊性を忘れて、ただ物質的生活に平和を求めているようなことでは、遂いには地球人類は滅びてしまうので、そんな目先きだけの平和を打ち破るための剣を投じるために自分は来たのだ、とイエスはいうのですが、そういうイエスの態度の中から、真理の生き方が真実にわかった人がどれほどいたことでありましょう。
汝らを受くる者は我を受くるなり、我を受くる者は、我を遣はし給いし者 (神)を受くるなり、といい、弟子たちに水一杯にても与うる者は、必ずその報を失わない、といっていますのもみな、すべてに先きがけて神のみ心を第一にせよ、ということなのであります。
ところが、実際のこの地上界の生活においては、イエスの時代から今日に至るまで、常に神のみ心よりまず自己や自己の周囲の幸せ、利害関係が先になるのです。いつかは神のみ心を第一にして生きてゆかなければならなくなる時代がくることを、多くの人びとは知ってはいないのです。神は
すべてのすべてであり、人間の本心本体は神そのものであり、その他のものはみな消えてゆく姿で
はず
あって実在ではないのです。ですから、神のみ心に外れた道は、すべて滅びに至る道であって、やがては消え去ってしまうものなのですが、そういう真理を人びとは知らないのです。私はそれをイエスのように強い調子でいう役目ではなく、優しく容易にわかる言葉で説く役目になっているのであります。
イエスは直線的に神のみ心に従うことを強調します。神に遣わされたる自分に従うことは、そのまま神のみ心に従うことなのであり、自分の弟子たちに親切をほどこしたるものは、神のために働いたものである、といいきっています。実際イエスは、神のみ使でありまして、この地球界に定ま
った家もなければ、妻子もありませんでした。母や兄弟姉妹たちも、イエスの教えを聞かぬうちは、その者を我れは知らず、といって、親近の情を示さなかったほどであります。その点、釈尊なども、釈迦族の若者たちを、仏弟子にしてしまって、親元から引き離してしまったり、夫婦別れをさせてしまったりしていますし、ご自分も、妻子を捨て去っています。人間の本体本心を自己のものにするためには、どうしても一度は肉体身にまつわる家族とか、義理人情とかを捨て切って、出家しなければならなかったのです。イエスの弟子たちの場合もそれに当てはまることが多くあったのです。
ところが現在では、宗教指導者の大半が家庭を持ち、俗世の因縁因果の渦の中で、道を説いているわけで、イエスや釈尊の頃の教え方をそのまま説いても、実行できる人は実に少ない人たちでありましょうし、教えは頭でわかるが、それを実行できぬ、と苦悩しつづけ、かえってこの人生を暗く生きてゆく人もあるでしょうし、いかにも得々と道を説きながら、あたかも自分は真理をそのまま行じているような顔をしている偽善者も多く出ているわけであります。
イエスや釈尊の説く、真理は真理として尊いものであり、それは崩くずすことはできませんし、やがては真理がそのままこの世に現われる時が来るのでありますが、今日の過程では、一般の人びとが真理をそのまま行ずることは不可能に近いのです。
ですから、真理を崩くずさず、しかもやさしく真理の道に入り得る方法がなければ、人類は永劫に救われず、その場その場の肉体人間的平和を得るために、神のみ心にそむいてでも生きてゆこうとする人びとと、常に自己を責め裁きながら、苦悩の人生を送りつづけてゆく善なる人とができていて、遂いには人類は滅び去ってしまうのであります。
そこで日本では、浄土門の宗教が生れて、念仏一念で浄土を現わす生き方、いわゆる易行道とい
げだつ
われる阿弥陀仏への全託行が説かれて、随分と解脱した人もでてきたわけです。宗教の教えは、国や民族により、その時代時代により、種々と変化し、その国や民族、時代時代に合うように説かれ
てゆくべきなのですが、強力な宗祖の教えは、国や時代を超越して人びとの心を把えて、人びとはその真理をつかもうとするのですが、時代のずれや、国柄の相違などで、なかなか真理を自己のものとすることができないのです。
宗教というものは、あくまで、人間の本心を、この世とあの世とを問わず、自由自在に発揮できる方法を教えるものであって、そこに、国柄とか時代とかなんらかの把われがあるようでは、到底その成果は得られないのです。
そのために、各国各民族、各時代において、幾多の聖者賢者が現われ出でているのであります。キリスト教の聖書は勿論尊いものであり、イエスの説教の =言一句が真理の言葉であり、人びとの胸を打つひびきをもっているのですが、それが頭の中だけでわかって、この世で実行できないような状態であったのでは、折角の神のみ心を無駄にしてしまうようなものです。
聖書を現代に生かすためには、やはり、イエスの心を心とした、しかも、近代に生きて、近代の
ヵルマなま
真理と業想念との混合体である人間の、生の息吹きを身に感じている人が現代に合うように説いてゆかねば、その効果は少ないのです。キリスト教の牧師が、イエス時代の時代がかった調子や、キリスト教一辺倒の他宗教を邪宗教あつかいにした説教をしていたのでは、イエス様の大愛のみ心をそこなう行為になってしまうのであります。近代の人びとにマッチする、日常生活そのままで本心




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開発の道に乗り得る聖書の説き方が、絶対に必要な今日なのです。
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185弟子を遣わす
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∫蝉覧
愛なるイエス
重荷を負える者我れに来れ
聖書の言葉というものは、どこをとっても善い言葉ではありますが、イエスの時代の人でなければわからぬ事柄や、旧約聖書に通じた人でなければ知らないような言葉が随分とありまして、現代のしかも国柄の異なる私たちには必要のない部分がたくさんあります。ですから聖書というものは、何がなんでも全部読み通さなくてはならぬというものではなく、自分でよく理解できて、成る
おの
程と心に沁みてわかるところ、こういう生き方をしてゆきたいなあ、と自ずと精神が浄まるようなところを、何度びでも読んで、自分の心の糧にし生活の中に生かしてゆけばよいのです。音楽を聴くのでも、何も好んで難解な曲を聴かなくとも、自分の心にすーっと入ってくるポピュラーな名曲を聴いて、心を楽しませ、心を浄めればよいわけなのです。そういう意味で私は、一寸
説明を加えれば、皆さんによくわかる、そして心の糧になる言葉を毎回講義しているわけなのです。今回はマタイ伝十一章二五節から三〇節にかけて話してゆきたいと思います。
十一章の前半には、洗礼のヨハネのことが書いてありますが、ヨハネのことは第一巻に大分書い
てありますので、ここでは省略させていただきますが、洗礼のヨハネは獄舎にありましても、イエ
スのことを気にかけ、世の中のことを心配しておりまして、弟子たちにイエスの日頃の言葉や行為をそれとなく尋ねていました。どうかイエスが、真実のキリスト (救世主 )であるようにと祈っていたようです。そして、イエスのほうでは自分の言行や様々な奇蹟を、ヨハネに伝えるようにヨハネの弟子にいっておりまして、自分が救世主であることを、ヨハネにはっきり納得してもらおうとしております。
イエスにとってはヨハネは宗教的先輩でもあり、一度は師礼をとって、パプテスマを受けた人で
もあり、自分が救世主的天命を持っていることを、自覚させてくれた大恩人でもあるのですから、
獄舎のヨハネの身を一人倍心配していたことは当然なことだったでしょう。
そこで、後のことは心配なさらぬように、ヨハネはこの世の母の生んだ人としては最大な人であるが、天の一番小さなものでも、ヨハネよりは大なるものである、自分はそういう多くの天使に守られてあなたの後を守って、世の中をよくしてゆくから、とヨハネを安心させているのであります。
イエスは肉体身としての自己を意識することが少なかったのでした。常に天の父や天使たちとの交流によって、説法し行動していたわけなのです。ですから、普通人ではいえないような思いきったことを言葉や行動に出していて、それが後に十字架にかかる原因にもなったのです。ではこの回のマタイ伝の言葉を掲げます。
かしニさと
その時イエス答へて言ひたまふ『天地の主なる父よ、われ感謝す、此等のことを智き者、慧き者にかくして
みどりごみニニうかなルぜ
嬰児に顕し給へり。父よ、然り、斯の如きは御意に適へるなり。凡ての物は我が父より委ねられたり。子を知
すぺ
る者は父の外になく、父をしる者は子また子の欲するままに顕すところの者の外になし。凡て労する者、重荷
ひくくびぴ
を負ふ者、われに来れ、われ汝らを休ません。我は柔和にして心卑ければ、我が範を負ひて我に学べ、さらば
たましいやすみやす
霊魂に休息を得ん。わが朝は易く、わが荷は軽ければなり』
この節で一番感銘を受けるところは、「凡て労するもの、重荷を負う者、われに来れ、われ汝ら
を休ません」というところであります。こんなに愛の深い言葉が他にあるでありましょうか。そし
てまたこんなに自信に満ちた言葉があるでしょうか。イエスの救世主という大自覚と、その深い慈愛の心が、自おのずとこういう言葉になって現わされたのです。
イエスの時代は圧制政治の時代でありまして、本来人を悪より遠ざけ、永遠の生命の道に導き入れるための喜ぶべき律法でさえ、為政者、支配者は自分たちの都合のよいように、民衆を従わせる
道具にしてしまっていました。ですから民衆は、律法の重荷、労働の重荷という様々な重荷を背負って生活していたわけですから、現在の日本の民衆の重荷などよりはるかに辛い重荷を背負っていたわけです。そういう重荷を背負った人たちよ、私のところにいらっしゃい、私があなた方を充分に休ませて
まな
あげますよ、とイエスは慈愛の眼ざしで優しくいったのです。天なる父のみ光でこの人たちの疲れた体や心を休ませてやりたい、とイエスは心の底から思ったのです。イエスは肉体こそもっておりますが、その心は天の父と直通している天使であったのですから、イエスの言葉は実現するのでありまして、イエスの側に近寄ったもの、イエスを慕ってきた者たちは、身心の休養を得、心が安らかになったに違いありません。
みどりご
イエスはいっております。「天地の主なる父が、学者たちにこういう力を与えられずに、嬰児であった私に顕わして下さった。私は確かに天の父のみ心に適った者だった。こういう神の子を知っていらっしゃるのは、父の外になく、こういう天の父を知る者は、私のような神の子でなければできない。また私の心をそのまま行なえるものでしかできない。私は柔和で、そして肉体人間としてのなんの欲望も誇りもない。天の父のみ心のまま己をひくくして少しの私の我もなく生きている。だから、私の範くびき(範とは律法の重荷をいう )は為政者支配者たちのものとは違って、天の父のみ心を心として、自我を出さず、良心のままに、心柔和に大らかに生きればよいのだから、私のような斬…を負ってゆけば、その荷はいと軽いものなのだよ」とこういうようなことをいっているわけです。イエスは民衆を悲哀の生活から救いあげたくて仕方がなかったのです。天の父の慈愛をこの世に顕わしたい、これがイエスの念願だったのです。ただ、天の父の慈愛というのは、種々様々な現
やすやす
われ方を致しまして、易々と人々を救い上げるというわけではなく、人それぞれの宿業を浄めながら、或る人には厳しく、或る人には優しく、というようになるのですが、イエスの十二弟子など
は、みな厳しい辛い一生を送りながら、神のみ心を現わしていったのです。
しかし当人たちにとっては、それが深い心の喜悦に充ちた一生だったのです。肉体の安穏だけが喜びではなく、霊魂の喜悦こそ、真の喜びであり、救われであることは、今日においても一向に変わらぬことなのです。
しかし今日の私たち宗教者は、霊肉共なる安らぎ、喜びを与えさせていただきたいと、天の父の前に祈りを捧げるものなのです。肉体生活の中に、常に安穏が得られぬ脚うでは、地上天国は単なる夢にしか過ぎなくなってしまいます。神の世界にはすでに地上楽園の原形が出来ておりますのですから、必ずこの地球界にもその姿が現わされるにきまっているのです。そのためにこそ、イエスの大犠牲が必要だったのだし、今日までの多くの人々の苦難の道が必要だったのです。
それを私は過去世の因縁の消えゆく姿として、世界平和の祈りを神々に捧げているのであります。イエスの心を心とした牧師方や信徒たちが、重荷を負う者、われらに来れ、われら汝らを休ません。という愛に充ちた言葉と行為とで、この世に処していったら、この世はどれ程明るくなってくることでしょう。キリスト教の人ばかりでなく、全宗教の信者たちが、みなこのイエスの心にな
って、或いは近づいて、世の中のためにつくしたら、もっともっとこの世は早く地上天国を生み出すことができるのではないでしょうか。
それはそうむずかしいことではありません。一人ですべての重荷を負おうと思っても、とても無理なことです。自分たちの生活でもでき得る人のためになる行為、それをたゆみなく、寸断せずにやり得ることが大切なのです。その一番やさしい誰にでもできる方法が、世界人類の平和を日々瞬
々刻々祈っている日常生活なのです。世界人類の平和を祈り、そして、それに適った行為をしてゆく、ただそれだけでも、どんなにこの世の中が明るく柔和になってゆくことでしょう。
それが神の子の生活でもあり、イエスや釈尊や今日までの聖者賢者の心を生かす生き方なのであります。どこの国家の為政者でも、政治的な立場に立ちますと、自分だけが善いと思っても、なかなかそれを実行することができなくなるもので、米国のジョンソン大統領にしても、何も爆撃ばか
りして、ベトナム人を殺したいわけでもないでしょうが、自己の立場を守ろうとするのあまり、引くに引かれず、イエス・キリストの名を汚すような、キリスト者として、全く恥ずかしい行為をし
つづけて、しかも自己の行為を正当化しようとする偽善者になっていってしまうのです。
重荷を負える者、我れに来れ、我れ汝らを休ません。この言葉をキリスト者であるジョソソンさんたちは、どんな風に思っているのでしょう。重荷を負える者たちになおも重荷を負わせ、それで平和をつくるという気持は本心から出ているものではないことは明らかです。サタソの想念に曇ら
されている良心なのです。
この世界は為政者、権力者のものではありません。すべての民衆のものです。世界中の民衆が真実に喜こべる政治でなければ、民衆の重荷は軽くなりません。まして、常に戦争の恐怖という重荷を負わせ、くびきをかけて、全世界をその方向に進ませようとするものがいたら、その人たちは、人類の道を誤まらせるものといわねばなりません。
イエス・キリストは神のみ心をこの地球界に現わすために来たのです。しかし、為政者の無智
カルマ
と、業に蔽われた民衆のために十字架上にかかって大犠牲者となってしまいました。それで肉体のイエスの生涯は終ったのですが、キリストが、世界中の人々の心の中に真理の言葉となって甦っていったのです。今日までに、多くの弟子たちや信徒たちが、各国の為政者支配者の手に圧迫されながら、或ものは処刑されるまで、真理の実行をなしつづけてゆきました。
そうした人々のすべてが、この地球界に争いのない、平和な世界が生れることを祈りつづけてい
カルマ
たでありましょう。業想念の重荷を少しでもこの世から消滅させようと、その人々は自分の身を顧みずに犠牲者となっていったのです。
人々の重荷を背負い合う、そういうところから地上天国が生れてくることは確かです。人の苦労を黙ってみていられない、そういう愛の心が大事な神の子の心なのです。他の国なんかどうでもよい、北ベトナムの人間なぞはいるだけ邪魔だ、そういう想いの中に、どうして神様がお住みになれるでしょうか。世界中の人々の業カルての重荷をみんなが手分けで背負い合い、神様の大慈愛、大光明の中で消滅し去っていただく、そういう心でこそ、この世に平和がもたらされるのです。
米国もソ連も中共もベトナムも、各国が自分本位な勝手勝手な想いで地球世界を滅亡の方向にも
ってゆかないように、キリスト教者はイエスさんのみ心を心として、仏教者は釈尊の教えを心とし
て、神道者は神ながらの道そのままに、神々聖賢者の道をますます広げてゆき、一日も早く地球世界を真の平和の軌道に乗せてゆかねばなりません。
イエスの地球救済の願望と、民衆を愛しつづけた慈愛心とを思っていると、どうしても戦争に向ってゆく道を、平和の方向に向けかえなければならぬ、と切々と思われてくるのです。全世界が心を一つにして平和の祈りを祈ることこそ、戦争の重荷を軽くする第一歩なのであり、イエスはじめ聖賢方の大犠牲に報ゆる、地球人としてなさねばならぬ仕事であると思うのです。
きびしい愛
イエスは深い愛の持ち主ですが、その愛は時には実に峻厳な言葉となって現われます。曹洞宗の祖、道元禅師の峻厳さは有名で、弟子が時の権力者から土地を寄附するというお墨附きをもらい、さぞ師匠が喜んで下さるだろうと飛ぶように師の下に帰り、このことを報告すると道元は喜ぶどころか、烈火のように憤り、そのお墨附きを破り捨て、その弟子に破門をいい渡し、弟子の坐ってい
いぎどお
た床まで切り捨てた、ということです。これは法の尊さを忘れて、物質欲に走ったことへの憤りでありまして、こういう弟子をそのまま置いておくことは他の弟子のためにならぬ、という法を尊ぶ一念の所業であったのです。
こういうことはとても常人のできることではありませんで、この一事だけみると、冷酷ではないかとさえ思われてしまいます。道元のように法に徹した人だからこの一事が道元の偉大さをますます明らかにするのですが、常人がこんな真似をしたら、世間から冷血漢といわれてしまいます。物
事というものは、その人物とその時の立場というもので、同じようなことでも大きな違いとなって現われるのです。
イエスの峻厳さというのは、道元のようにそういう事柄として語り伝えられていることはあまりありませんが、教えの言葉としては、随分烈しいものがあります。次に掲げますマルコ伝九章三十八-五十にある言葉も実に厳しく烈しい真理に徹した言葉であります。私などどうしてもこういう峻厳な言葉を吐けないで同じようなことをいうのでも、真綿で包んだような言葉になってしまい、
せい
突さすような言葉にはなりません。人柄の相違や時代の所為にもよるのでしょう。
みなハ
ヨハネ言ふ『師よ、我らに従はぬ老の、御名にょりて悪鬼を逐ひ出すを見しが、我らに従はぬ故に、之を止
ちからわざにわかモし
めたり』イエス言ひたまふ『止むな、我が名のために能力ある業をおこなひ、俄に我を識り得る者なし、我ら
さから
に逆はぬ者は、我らに附く者なり。キリストの者たるによりて、汝らに一杯の水を飲まする者は、我まことに
むくいっまずひセ
汝らに告ぐ、必ずその報を失はざるべし。また我を信ずる此の小さき者の一人を蹟かする者は、寧ろ大なる畷
うすくびオさかたわ
臼を頸に懸けられて、海に投げ入れられんかた勝れり。もし汝の手なんぢを蹟かせば、之を切り去れ、不具にて生命に入るは、両手ありて、ゲヘナの消えぬ火に往くよりも勝るなり。もし汝の足なんぢを頭かせば之を切
あしなえ
り去れ、窒肢にて生命に入るは、両足ありてゲヘナに投げ入れらるるよりも勝るなり。もし汝の眼なんぢを頭かせば、之を抜き出だせ、片眼にて神の国に入るは、両眼ありてゲヘナに投げ入れらるるよりも勝るなり。「彼うじかしこ処にては、その蛆つきず、火も消えぬなり」それ人は、みな火をもて塩つけらるべし。塩は善きものな
さやわら
り、然れど塩もし塩気を失はば、何をもて之に味つけん。汝ら心の中に塩を保ち、かつ互に和ぐべし』なんというはっきりした烈しい言葉でしょう。もし汝の手なんじを蹟かせぽ、之を切り去れ、足
そむ
なんじを蹟かせば ……汝の眼汝を蹟かせばというように、手でも足でも眼でも、真理に背く方向に肉体の欲望がさそいこんでゆくようなら、そんなものはみな切り捨ててしまえ、両手がなくとも、両足がなくとも、両眼がなくとも、真理に背き、生命の流れを離れるよりもよいので、真理に背き、生命の流れを離れてしまった場合は、ゲヘナ (地獄 )の業火の中で、永遠に焼きつづけられ、蛆の一杯つまったところで真理の道に入るまで苦しみつづけるのだ、とイエスはいうのです。
キリスト教の人々は、肉体界の他は天国と地獄という二大別だけを観念的に知っているようです
りんね
が、肉体界を去った霊魂が種々の界を輪廻転生してゆくことをよく教わっておらぬようで、肉体を離れたら、キリストの再臨するまでどこかにいて、これが漠然としているのですが、キリスト再臨
とともに再びこの世に生れてくる、というように単純に考えております。
人の生死というものはそんな簡単なものではなく、その人その人の想念所業に従って、肉体死後の世界が定められ、何度びとなく種々の界を経巡って神我一体の境地、或いはそれに近い境地になって、はじめて、輪廻転生、つまり生れかわり死にかわりする境界をぬけでることができるのであります。
キリスト教の信徒ならば、一度死んで今度生れ出るのはキリストの再臨の時であるなどと、実に単純な考えを抱いているのでは、仏教の深い教えにとてもくらぶべきもありません。
196

大体キリスト教では、天国のことはよく教えますが、地獄のことはあまり説いていないようですが、イエスはこういう霊魂の輪廻のことはよく知っていたのです。そして、真理に背いた者の行き
つく先の地獄の恐しさは、両手両足両眼のない不自由な体で生きているよりも、もっともっとくら
べられぬほど恐しく苦しいところである、と説いているのです。
道元が弟子を破門にした真意も、法を軽んじ物質を重くみたことへの警告なのでありまして、真
のつと
理の世界、永遠の生命の世界というものは、あくまで、宇宙の法則に則って、生きてゆくことにあるのであります。宇宙の法則というものは、一口にいえば愛と調和ということにつきます。愛あるところ、調和あるところ真理が生き、美が生れ、善がなりたちます。
神と人間とのつながりも、人間同志のつながりも愛によってなされ、そこに調和が生れてくるのです。神と人間とのつながりは縦のつながりであり、人間同志のつながりは横のつながりであるのです。この縦横が大調和する時、地球人類は完全平和が達成され、いわゆるキリストの再臨がなされるのです。キリストの再臨ということは、イエスが再び生れ変ってその姿を現わす、ということではなく、真理がはっきり、すべての人々の心の中で輝きわたる時をいうのであります。キリストとは真理ということだからです。
わざそし
イエスがヨハネの問に答えて、止むな、我が名のために能力ある業をおこない、俄に我を機り得る者なし、といっているように、我が名つまり神のみ名、イエス・キリストのみ名によって、悪鬼を追い出す能力を得た者が、たとえ、ヨハネやペテロのように、肉体のイエスに従ってきていなか
ったとしても、真理の言葉によって、悪鬼を追い出す能力を出したのだから、それを止むることはない。すべて真理の言葉や行ないが、悪や汚れを浄めるのだから、そういう能力を得た者が、イエス・キリストをそしるようなことがあろう筈がない。そのように自分たちが行なっている真理の道
さから
に逆わぬ者は、自分たちと一緒の行動をしていなくとも、それは自分たちと道を等しくしているものなのだ、とイエスはいっているのです。そして、自分や自分の弟子や教えを行じている者にたとえ一杯の水を飲ませてくれたとしても、
つまず
その人は、必ず善い報を受けることになるのであり、その反対に、その一人をも蹟かすような行為
ひどひきうすくび
をした者は、非道い未来が待っているのであって、その未来の報は、大なる磯臼を頸に懸けられて海に投げ入れられるほうが、まだ増しなくらい苦しいものなのである、と真理の道に味方するか背くかによって、未来のその人たちの運命が定まってゆく、と鋭い烈しい言葉で説いているのです。
イエスが我れに従え、と常にいっていることは、肉体のイエスについてこいということではなくて、キリストの道、真理の道に従ってこいということでありますから、ただいたずらにイエス様とか神様とかいっていても、それで救われるわけではないので、要は真理に即した生き方、愛と調和
に叶った生き方を、しているかいないかによって、その人のこの世の運命、あの世の運命が定まってゆくのである、とイエス自身も説いているのであります。
個人にしても国家にしても、いくらキリスト教だ、仏教だ、私は何宗の信者だ、我が国は何教だといっても、その想念や行為の中で、愛と調和の行を現わしてゆかなければ、その宗教は死んでしまうのです。そういう風に考えて、聖書でも仏典でもお読みになるとよいのでありまして、読んで頭の中で満足感を味わっているだけだったり、知識として頭につめこんでおくだけでは駄目なのであります。
キリスト教信徒の中には、私が毎々申し述べておりますように、キリスト教オソリーで、他の宗教をすべて邪教のように思っている人がおりますが、そんなことではイエス様の真理そのもののみ心に従ったことにはなりません。私のところになど、米軍の神父さんが世界平和を祈りにきていますが、真の宗教には、教団も宗派もないのでありまして、ただあるのは神のみ心、真理の道だけがあるのです。神のみ心を行じさせる、その方法に相違がありましょうとも、その道が神のみ心につなげる道であり、真理にそった道であればよいのであります。ただ、教える側と教わる側の魂的な縁と、過去世からの因縁というもので、自然と各宗教入りをしてゆくのでありますので、他の宗教宗派をとやかくいう必要はないのです。ヨハネがキリストに
いわれた通り、すべては神のみ心につながる道であり、神のみ心を伝える言葉や行為であればよいわけなのです。
ただお互いが、自己の未来や自国の未来のために、真理の道を行く者を蹟かせぬよう、真理の道を歩みやすくさせるように計ってやり、自己や自国も常に永遠の生命につながる道を歩みつづけるように努力しなければならないのです。
神を否定し、真理の道を蹟かせようとする者がこの地球界には多すぎます。ですから、真理の道を歩む者たちが、ますます心を広くし、たとえ宗教宗派は違っても、お互いが助け合ってゆかなければいけません。いちいち小さな枝葉のことを問題にしては、争い合っているような宗教人では、唯物論者の味方をするようなもので、神界からイエス・キリストの一喝を喰わされることでしょう。
高い神界においては、キリストも仏陀も老子もマホメットもすべて一つ心で、人類救済の光明を投げかけているのでありますから、そのつもりで聖書も読んでゆかねばなりません。個人が真理の道を真直ぐ歩むことは、そのまま社会国家の光明となるのでありまして、国家の政
けず
策を叩くだけで、自己の想念や行為が真理に外れていては、その人も国家も共に滅んでしまうのです。
今日のように自己顕現のみを計って他の人への思いやりのかけた時代はありません。自分を現わ すのも神の子としての自分を現わすのなら、この上なく結構ですが、自我欲望の自己顕現なのですから困りものです。すべては個人と社会国家とのつながりによって出来上がってくるのでありまして、ただ為政者のみが悪いような感じを持っていることは間違いなのです。国家の生き方が悪いのは、やはり自分たち国民の在り方が悪いのであります。真理の道を歩みつづけながら、しかもこの世のルールに沿った生き方も出来るという生き方こそ、今日の宗教者の生き方なのです。唯物的生き方で充たされている時代にこそ、真理に沿った道を生きつづける人々が大事になってくるのです。
イエス・キリストの道、仏陀の道、老子の道、マホメットの道、孔子の道、すべてが一つになって真理の道を大きく広げてゆくことを私は願いながら、聖書講義を書きつづっているわけなのです。
隣人愛
人間が人間を愛するということは非常にむずかしいことです。愛している、と本人が思ってやっていることが、実は相手を愛しているのではなく、自分の想いを満足させている行為であって相手にとっては甚だ迷惑であったり、業の想いを増長させるものであったりして、愛の本質にもとっていることが多いのであります。
イエスが愛について語るときには、神についての愛であり、それにともなう隣人愛であります。イエスは自分の家庭をもっておりませんでしたから、夫婦の愛とか親子の愛などについて語ってはおりませんで、隣人を愛することを説いていたのであります。ルカ伝十章の二五節 三七節によってその愛のあり方をみることにしましょう。
裡よ、或る教法師、立ちてイエスを試みて言ふ『師よ・われ譲の審を解ためには何をなすべきか』イ
おきてしる
エス言ひたまふ『律法に何と録したるか、汝いかに読むか』答へて言ふ『なんぢ心を尽し、精神を尽し、力を尽し、思を尽して、主たる汝の神を愛すべし。また己のごとく汝の隣を愛すべし』イエス言ひ給ふ『なんちの答は正し。之を行へ、さらば生くべし』彼おのれを義とせんとしてイエスに言ふ『わが隣とは誰なるか』イエ
くだよ
ス答へて言ひたまふ『或る人エルサレムよりエリコに下るとき、強盗にあひしが、強盗どもその衣を劉ぎ、傷
おハち
を負はせ、半死半生にして棄て去りぬ。或る祭司たまたま此の途より下り、之を見てかなたを過ぎ往けり。又レビ人も此処にきたり、之を見て同じく彼方を過ぎ往けり。然るに或るサマリヤ人、旅して其の許にきたり、
あわれけものはたごや
之を見て欄み、近寄りて油と葡萄酒とを注ぎ傷を包みて己が畜にのせ、旅舎に連れゆきて介抱し、あくる日デ
あるじついえ
ナリニつを出し、主人に与へて「この人を介抱せよ。費もし増さば我が帰りくる時に償はん」と云へり。汝い
かに思ふか、此の三人のうち、雛強盗にあひし者の隣となりしそ』かれ言ふ『その人に聯〃を施したる者な
り』イエス言ひ給ふ『なんぢも往きて其の如くせよ』

この章の中で、なんといっても心を打つのは、『心を尽し、精神を尽し、力を尽し、思を尽して、主たる汝の神を愛すべし。また己のごとく汝の隣を愛すべし』という言葉であります。全くこの通
i

りが行ないに現わせれば、人間いうことはないのですが、個人にしても国家、民族にしても、己れのごとく汝の隣を愛する行為の出来る個人も国家も甚だ少ないのであります。縦には真剣に神を愛し、横の行為としては、己れのごとく隣人を愛する、ということによって、世界は平和になるのですが、これがなかなか出来にくい。すべては人類総体から自己や自国を離してみるからでありまして、自己保存の本能の現われなのであります。
この章の讐え話で、強盗にあって半死半生の人を親切に助けて世話をしたのは、エルサレムの宮に仕え、人々に聖書 (旧約 )を教えていたユダヤ人の精神的指導者であるべき、祭司でもなければ、宮の管理の下働きをしているレビ人でもなくて、他民族と雑婚していて、ユダヤ教を離れ偶像礼拝
ぺつし
をしているということで、ユダヤ人に蔑視されていたサマリヤ人であった、ということは、イエス
がす λての人間を平等にみているということでもあり、案外宗教指導者という型にはまった人たち
より、一定の型はもたないけれど、裸の心で世を渡っている下級の人たちに、隣人愛に富んでいる人がいるものである、ということを例にとって話したものであります。
もっともイエス自身の体験として、ユダヤ教の型にはまった祭司たちが、いかに口ばかりのくだ
らぬ人が多いかを、嫌というほど味わっておりますので、讐え話にもこういうようにでてくるわけ
です。どんな宗教に致しましても、教祖や偉大な先哲の存在している時には、あまり誤りなく動き
ますが、教祖や先哲の残した型だけを追って指導しようとする後継者の場合には、その宗教が型だけにはまった人間の生命の流動を縛る、不自由なものになってしまいます。現在のキリスト教の教
たぐい
会でも、仏教の寺院でも、そういう類が随分と多いのであります。
宗教とは神のみ心をこの世にいかに現わしてゆくか、人間が神の生命をどのように生きいきと生かしてゆくか、という道を教えるものでありまして、一定の定まった型などあるものではありません。イエスのいうごとく、精神を鑑し、力を墨して神を愛すること、そして己れのごとく隣人を愛すること、が真理なのです。その道を素直に渡ってゆけるように私共は努力しなければならないのです。
この醤、兄話のように、祭司などという位がありますと、つい心に気取りが出来まして、路に倒れている半死半生の人などにかかわり合っていて、面倒になっては困るというように、自分の都合のほうが先きになってしまうのであります。自分の地位に満足していて、自分の心の負担になるようなことをやりたがらない習慣がついて、いつの間にか愛の心が欠乏していってしまったのです。レ
ビ人にしても、自分のたずさわっている宮の仕事の他には手を出したくない。自分の宮の仕事さえしていればそれでいいのだ、という自己の生活を乱したくない気持で半死半生の人を見捨てていってしまったのでしょう。
最後のサマリヤ人こそ、真実なんでもなく隣人愛の行なえる人であったので、旅館にあづけてお金を渡し、足りなければ、また帰りに払います、とまるで自分の身内を頼むように、見ず知らずの他人の面倒をみていったわけなのです。このように素直に隣人を愛する人は幸福な人でありまして、イエス・キリストの教えをそのまま実行している人といえるわけです。
ですから真実の信仰というものは、神よ、神よ、と口先きばかりで神を呼んでいたり、自分の利益を計るために神の名を呼んでいるような在り方ではなく、神のみ心である愛の行為を素直に行じられるようになることなのであります。自分の利益がなくては行なわないのが現代の人間でありますが、神を想う場合にはもっと純粋で素朴な感情でなければなりません。神を想い、神を慕い、神を愛することによって、自己の想念が純化され、神から分けられた本心が生きいきと生きてくるのですから、イエスのいうように、ひたすらに神を愛する、ということが人間にとって最も必要で大事なことなのです。
たとえ、お金が欲しい時でも、病気が直りたい時でも、そのことはひとまず置いて、ひたすら神を想いつづけ、神を愛しつづけることが大事なので、神はすべてであり、すべてを見通していらっしゃるのですから、その人がこの世で生活してゆくに必要な事態や事柄をよく知っておられるので
す。ですから改めて病気を直して下さい、とか、貧乏をなんとかして下さいなどと祈らなくとも、神様、私の天命を完うさせ給え、と祈って、ひたすら神の愛に感謝しつづければ、その人が病気で
天命が果しにくければ、病気を直す力や方法をさずけて下さるでしょうし、貧乏が天命を完うするの
に邪魔であるならば、その人が貧乏でなくなるようにさせて下さるでしょう。神はその人に無くて
ならぬものを知り給うのですから、天命を完うするに必要でないものは消し去って下さるのです。
ですから入々は、心を盤し、力を蓋して神を愛し、神より与えられている天命が完うされることを祈りつづけることによって、その人に無くてならぬものは与えられることになるのであります。神を愛するということは、神と一体となることです。神と一体になるということは、神のみ心が自ずと行じられるようになることです。半死半生の人を見過して行き過ぎてしまうようなことは、神を愛していることでも、神と一体になっていることでもありませんから、祭司もレピ人も神を愛していないということになります。
ところが実際の問題となりますと、路ばたに倒れている人を、なんのためらいもなく介抱するということは、出来そうでなかなか出来ることではありません。その人が一体どんな人であるかもわかりませんし、背後関係がどんな風になっているかもわかりません。後で身にふりかかる後難のようなことがあったらたまりません。
同じ愛の深い人でも、知性の低い人より、知性的で、すぐに後々のことを考えるような人のほう が、より考え深くなって、助けてやりたいと思う心と、うっかり手を出して、後難がくるようではかなわない、という想いとで、戸惑うことでありましょう。それも無理はないと思います。何故ならば、現代では、あまりにも悪い人や、悪いことが多過ぎて、人々が神経質になっているからです。土工さんや人夫さんなどに親切にお茶など出してやった奥さんが、その親切をほどこした人に襲われたりした話などききますと、つい親切をするにも臆病になってしまうのでしょう。
そういうことも現代のような時代では考えにいれねばなりませんから、半死半生の人を見過して
いった、ということだけで、その人たちを愛のない人ということは出来ません。確かに神と一体に
へだ
なっている、という境地とは大分隔たりますが、割り合い愛の深い人でも、そういうかかわり合い
しら
になりたくない人もあるのです。ですから、そういう場合には、警察に報せるだけでもしてやればよいと思います。それでも何かとかかわり合いになって、忙しい身を呼び出されたりしてなかなか面倒なものですが、愛の行ないとしては、その辺までは、誰でも出来ることと思います。
あまりに、理想的な愛行為だけを心に画いていますと、人のやった行為をとがめだてする想いが多くなりますし、愛の行為としてやったことで、自己の生活が苦しくなったりすることもあるものですから、愛の行為にも、型をきめてしまってはいけないのです。自分のなんでもなく出来る愛の行為を、他の人は出来ない、しかし、自分の出来そうもない愛行為を他の人がなんでもなくやってしまうこともあります。
愛の行為にしても、人それぞれの方向がありまして、一つの行為だけみて、あの人は愛の無い人だ、ときめつけてしまわぬようにしないといけません。私なども若い時は純粋すぎまして、私の想う愛行為を素直にしない人がいますと、あの人は愛のとぼしい人だ、と一つの行為で勝手にきめて
しまったものです。イエス・キリストの教えは、私のようにこの世の生活環境と真理を融合させて道を説くような生ぬるいことをしていませんでしたから、真理をそのまま、単刀直入に説いていました。真理そのままの言葉というものは、心が洗われるように清らかなひびきがあります。神のみ心の根本を知らせるためには、そういう説き方がよいのであり、絶対に必要なのです。しかし、こういう説き方はあくまで基本的なものであって、それをそのまま鵜のみにしてしまって、真理をそのまま行じない人を責めたり、自己の心を責めたりしていたらそれこそ、自他の生命の自由を縛る愚かしいことということになります。真理は常に、その国その時代、その環境によって、適当に現わすべきもので、キリストの言葉だから、釈尊の言葉だからといって、その言葉に把われてしまいますと、その時代の環境に融とけこめなくて、自己の生活を非常に不自由なものにしてしまいます。自己の生命を自由に生きいきと生かすということが、神のみ心の根本でありますから、業想念に
も把われず、真理にも把われず、自由自在に自己の生命を生かしてゆく必要があるのです。そうし
ますと、自然と神との一体化がなされ、自ずと真理の道が行じられ、深い愛行ができるようになるのであります。
人類を救おうとする愛
イエス・キリストの愛というのは一人一人の人を救うということは勿論ですが、人類そのものを救おうという、大きな深い愛なのです。しかしこれが、肉体という物質体を主として生活してい

る、この地球人類の生活とはうまく融け合いませんので、イエスは最後には十字架を背負って人類の腰罪をしよくざいする大犠牲者となるわけなのです。イエスの説法の中には、この世の常識的考えでは、その理としてはわかるが、実際的には行なえない、という事態がかなりありまして、イエスの説法のままをこの世で行ないますと、この世の常識に入れられず、自己の生活がおもわしくいかないような状態が過去からも随分現われておりました。イエスの説法を聖書を通して聴聞していますと、涙がこみあげてくるほど、心が感激し浄められますが、その説法を丸のみこみにしてこの社会で行なおうとすると、大方の人はこの世の自己の生
活が成り立ちにくくなってしまいます。現在までの地球人類の世界は、イエスの清純な神の愛をそのまま行じられるほど浄まってはいない業の力の強い世界なので、イエスの愛をそのまま行じる
カルマまとも
と、業の大きな抵抗を真正面に受ける形になって、この社会では苦難の道を歩くことになります。そうした苦難をものともせぬ、光の強い霊魂だけがイエスのみ心のままに行動しても、なんの悔も残さぬ立派な生涯を終ることになるのですが、常人の魂では正しい道を歩みながらも社会生活の中で苦しみ悶えるのであります。イエスの説法を聴いて、涙を流すほど感激する心は尊いのですが、それを行ないに現わす時には、自分の立っている場や、時や人との関係をよく考えて行為しなければいけないのです。ただ瞬間的な感激の情で行為にうつしますと、家族のためのマイナスになったり、周囲との調和を破ったりしてしまうのです。自己の力以上のことをやってしまったりするから、その力の足りぬところが大きなマイナスとなってかえってくるのであります。また、イエスの愛の行為を実際には深い愛の行為からではなく、人にみせるために、自己の名を売るためにしている人は偽善者といわれます。ですから、自己の力で出来得る範囲の愛の行為を、たゆみなく行なっていることが、やがては、イエスのみ心をそのまま行じられるような力を養っていくことになるのでありまして、愛の行為も、焦ってやったり、いたずらに感情的な興奮でやった
じねんほうに
りしてはいけないのです。何事も心を落ちつけて、じっくりと、自然法爾の行ないとしてやってゆ
くことがよいのであります。そういう行ないの出来得るために、たゆみない世界平和の祈りがある
のであります。ではまたルカ伝十五章一節から三二節によってイエスの愛を示しましょう。
しウぜいつみぴとつメや
取税人、罪人等みな御言を聴かんとて近寄りたれば、パリサイ人、学者ら眩きて言ふ『この人は罪人を迎へ
たとえももし
て食を共にす』イエス之に讐を語りて言ひ給ふ『なんぢらの中たれか百匹の羊を有たんに、若その一匹を失はば、九十九匹を野におき、往きて失せたる者を見出すまでは尋ねざらんや。遂に見出さば、喜びて之を己が肩
となりびと
にかけ、家に帰りて其の友と隣人とを呼び集めて言はん「我とともに喜べ、失せたる我が羊を見出せり」われ汝らに告ぐ、斯のごとく慨礁ガる天の罪人のためには、悔改の必要なき九 +九人の正しき者にも膿りて天に歓喜よろこびあるべし。又いつれの女か銀貨十枚を脊たんに、若しその一枚を失はば、燈火をともし、家を掃きて見出すまでは緯び
つい
に尋ねざらんや。遂に見出さば、其の友と隣人とを呼び集めて言はん「我とともに喜べ、わが失ひたる銀貨を
よろこび
見出せり」われ汝らに告ぐ、斯のごとく悔改むる一人の罪人のために神の使たちの前に歓喜あるべし』また言ひたまふ『或人に二人の息子あり、おとうと父に言ふ「父よ、財産のうち我が受くべき分を我にあたへよ」父その身代を二人に分けあたふ。幾日も経ぬに、弟おのが物をことごとく集めて、遠国にゆき、其処に
て放蕩ほらとうにその財産を散せり。ことごとく費したる後、その国に大なる飢瞳おこり、自ら乏しくなり始めたれば、往きて其の地の或人に鎌りしに、其の人かれを畑に遣して豚を飼はしむ・かれ豚の食ふ攣謬て・己が腹を充さんと思ふ程なれど何をも与ふる人なかりき。此のとき我に反りて言ふ「わが父の許には食物あまれる雇人いくばくそや、然るに我は飢ゑてこの処に死なんとす。起ちて我が父にゆき「父よ、われは天に対し、ま 12
となあさわウの
た汝の前に罪を犯したり。今より汝の子と称へらるるに相応しからず、雇人の一人のごとく為し給へ」と言は
へだたくびくち
ん」乃ち起ちて其の父のもとに往く。なほ遠く隔りたるに、父これを見て欄み、走りゆき、其の頸を抱きて接
づけ
吻せり。子、父にいふ「父よ、我は天に対し又なんちの前に罪を犯したり。今より汝の子と称へらるるに相応
しもベユ
しからず」然れど父、僕どもに言ふ「とくとく最上の衣を持ち来りて之に著せ、その手に指輪をはめ、其の足
ニうし
にまたにムひつ鮭をはかせよ。また肥えたる犠を索ききたりて屠れ、我ら食して楽しまん。この我が子、死にて復生き、失く
また
せて復得られたり」斯くて、かれら楽しみ始む。然るに其の兄、畑にありしが、帰りて家に近づきたるとき、
おどウ
音しもべのなりも楽と舞踊との音を聞き、僕の一人を呼びてその何事なるかを問ふ。答へて言ふ「なんちの兄弟、帰りたり、
こうしにん
その悲つつがなきを迎へたれば、汝の父、肥えたる積を屠れるなり」兄、怒りて内に入ることを好まざりしかば、父
すすいくとせつかいまそむ
いでて勧めしに、答へて父に言ふ「視よ、我は幾歳も、なんぢに仕へて、未だ汝の命令に背きし事なきに、我
やぎあそびめくら
には小山羊一匹だに与へて友と楽しましめし事なし。然るに遊女らと共に、汝の身代を食ひ尽したる此の汝の子、帰り来れば、之がために肥ニえたる犠を屠れり」父いふ「子よ、なんぢは常に我とともに在り、わが物は皆なんちの物なり。然れど此の汝の兄弟は死にて復また生き、失せて復さた得られたれば、我らの楽しみ喜ぶは当然なり」』
この節でわかりますように、イエス・キリストの愛は、人類すべてを救おうとする愛なのです。最初の羊の話は、九十九人の正しき者のためより一人の罪人の悔改のために働くことが意義あることだ、という説法です。人類の一人たりとも罪人にしておいてはいけぬ、というイエス・キリスト
のみ心です。これは深い広い人類愛の言葉です。
ところが現在までのこの地球界では、百人のうちの九十九人がみな悟った救われきっている人間ではないのです。一人の罪人のためにいくらでも想いをゆり動かされ、悪の道に入ってゆかぬとも限らぬ人間たちが多いのです。そういう人たちを捨てて、一人の罪人のために力を鑑していたら、折角の九十九人の普通人が中途半端のままで置き去られてしまいます。
全学連の学生たちの行動でもこのことはよくわかります。計画的に暴動を起こそうとしている学生は僅かな人数です。その僅かな人間に多勢の良識のあるべき学生がひきずりこまれて、何千人もの集団になって暴力沙汰をしているわけでありまして、これは少数の悪でも、多くの中途半端な人間を悪にひきずりこめるということなのです。ですから少数の誤った思想の学生を説得することに時間を費やすことは他の多くの人のために危険であり、効果の少ない在り方であります。そこで少
数の悪学生や、陰の応援者の自由を縛っておいて、その間に中途半端な思想の学生に、真実の良識
を教えこみ、誤った思想にひきずりこまれぬような人間に仕立てあげることのほうが最初になされ
ぬばならぬことだと思います。そうすれば多くの学生が立派な人間になっていって、自ずから少数
の悪学生の見本になり得、多くの良識で少数の悪学生も救われてゆくことになるのです。
そういうわけで、一匹の迷った羊を救うことより、多くの羊をより立派な羊に仕立てあげるほう
が、現在の地球人類にとって必要なことなのです。ですからイエスの言葉もその真意をよく了解して、その国や時や人々との調和を考えて、行為にうつさなければならぬのです。
次の銀貨の話も同じであります。最後の二人の息子の話の場合は、父というのは神のことであり、二人の息子は神の子である人間のことです。長男が神のみ心をそのまま行じている人間、次男は、一度は神のみ心に背いて苦難の生活をし、その苦難の中で、自己の行為の誤ったことに気づき、神を慕い敬うようになりながらも、自己が今まで行なってきた悪行為をいつまでも、自己の心
に把えて、神に救われることの出来ない自分である、と思いこんでいる人間の讐え話で、人間はいかに過去において悪行為を積んできても、悔い改めて、神のみ心の中に入りこめぱ、救われ赦されるものである、という、私のいう、消えてゆく姿で世界平和の祈り、と同じことをいっているのであります。人間のすべての行為は神の子の本心がするのではなく、過去世からの神のみ心を離れた想念がするのであって、それはすべて消えてゆく姿なのである。だから、誤っていたと気づいて、神にお詑びし、以後は、神のみ心の通りの愛行為を行じてゆけば、もうその時、その人は救われて
こう
いるのであって、過去世からその時まで積み重ねてきた業は、現われては消えていってしまい、いつかは消滅し去ってゆくのだから、その業因縁は祈り心の中で自然と消滅させてゆけばよいのだ、という私の教えを短く讐え話にしているのが、この父と二人の息子の話なのです。
神様は、人間に罰をあてようなどとは少しもしていらっしゃらない。病気や貧乏や不幸や災難は、すべて神のみ心を離れていた過去世からの自己の想念行為のせいであって、神様 (父)は喜んでお祝いして下さり歓迎して下さるのだ、といっているのであります。長男のように、はじめから神のみ心の通りに生きている人は、そのまま幸せなのでありますから、悔い改めてきた弟を父とともに喜び迎える寛容の心が必要なわけです。もっとも神のみ心の通りに生きている人は、寛容の心も備わっているわけですから、神とともにその弟の悔い改めを、素直に喜んであげられるわけです。
実際に人間は神の子でありまして、悪い想いや誤った行ないは、神の子である自分を離れてしま
った、想念波動が勝手につくり出してしまったものなので、その人が神の子であることを意識し、神のみ心の中に、自己を融合させてしまえば、それ以後のその人には、業因縁波動の誤った想念や、悪い行為が出なくなるのであります。そこで人間は常に神様を想い、神様のみ心である隣人愛、人類愛の心を行ないに現わすようにしていることが大事なのです。聖書ではそれを、ロもと真正面にま
はっきり示しているのです。
人間は常にその時々の想念の中に住んでいます。常に神を慕い敬い、神のみ心の通りの行為、つまり愛と真と善と美との生活をしていますと、その人は神界に常に住んでいるわけで、肉体の死後も神界にそのまま生きつづけ得るわけなのです。イエスは、常にそうした高い世界にすべての人々
を住まわせようとして、非常に調子の高い説法をなさるわけなのですが、あまりその調子が高く、
真理そのままの説法なので、凡愚のものはついてゆけないで、かえって反抗したりするわけです。
ですから、高い真理の道を地上界の凡愚な人々にでも自然と行じられるような道がどうしても必要になってくるのであります。私は常にそうした道を探究して、今日の教えをつくりあげたのであります。真理を行じるにはあまり短兵急であってはいけません。いつでも周囲との調和を考え、人々との調和を破らぬようにして真理を行じる必要があるのです。そう致しませんと、イエスや釈尊や聖者賢者の方々を別と致しまして、生半かの宗教者は口先きばかりになって、実が伴わなくなって、自らも苦しみ、人々をもかえって真理の道から落してしまいかねないのであります。
天の道を地の道とするためには、自己というものをよく見つめて、ただ単に先人の真似をするばかりでなく、自己の行く道を自己なりに見出してゆかねばならぬのです。そういう自己に適する行き方が自然に見出せるのは、ひたすらなる祈りの行が必要になってくるのです。私たちの天命が完うされますように、という、世界平和の祈りの中の一行の祈りは、そのためにあるのであります。
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イエスの女性観
人間の罪の聞題ということは、どの宗教にも多く取り上げられていますが、キリスト教でいう罪というものは、どのようなものだったのでしょう。今回は、イエスが罪というものを、どういう風に解釈し、どのように扱っていたかを解明してみたいと思います。
そしてまた、イエスを取りまいていた婦人たちについて一言してみたいと思います。釈尊は自分の教団に女性を入れるのをこぼみつづけていましたが、阿難のたっての頼みにより、義母と、それに伴う女性の入門をまず許し、次第に女性の弟子の数も増えていったわけなのですが、くぴく比丘と比丘ぴ尼ことははっきり別々に起居動作させていました。イエスは一体女性をどのようにみていたのでしょ
う。イエス自体は、三十余才の生涯を、終生女性に触れずに終った人でありますから、釈尊とは、そういう点では女性観の相違した点が必ずあると思います。それはどういう点に現われているかと申しますと、釈尊は精神修業に女性を近づけることは絶対に禁物であることを、自身の体験にもと
ついて知っていたので、教団をつくっても、義母を入門させるまでは一切女性の弟子はとらなかったのであります。これはご自身は、空になりきった覚者ですから、女性の色香にひかれるようなことはあろう筈もございませんが、青年の頃の自身の体験によって、女性の魔性というものを充分に認識しておられたので、弟子たちの修業の妨げにならぬように、女性を遠ざけられていたのであります。
ところが、イエスのほうは、女性の肉体に接したことがありませんし、青年期には神との一体化
の修業一筋の生活でありましたので、人間を男性と女性として区別してみるより、純粋な神の子観

で一つの人間と観ていたので、特に女性として意識してみる見方はしていなかったようです。です
から弟子たちが女性と口をきこうと、自分たちの周囲に女性が来て、種々と世話をしてくれよう
と、あまり気をつかうようなことはしなかったのです。
しようじや
それに釈尊のように、一定した精舎のようなものがなく、常に流動的に説法して歩いていたのですから、その点も釈尊程気を使われなかったのでしょう。しかし、結局は、釈尊の女性に対する見方と、イエスの女性観とはその生れ育った環境が相違していたように、相違していたのでした。釈尊とイエスではすべての点において相違しております。釈尊が王子として生れ、栄華に恵まれた生活を送ってきたのにくらべ、イエスは貧しい大工の子として生れたこと、釈尊が長寿であったのに
対して、イエスは三十数才の生涯でしかなかったということなど、その教えの根本においては等し
いものであっても、その方法、その在り方が違ってくるのは当然のことです。
そういう点で、釈尊時代や、イエス・キリスト時代の宗教の教え方在り方と、現代の宗教の教え方在り方が相違してくるのは、必然的なことというべきであります。だが根本の教えは、いついかなる時代においても変りのないものなのです。
私はこの聖書講義を書いていまして、いつもキリスト教と仏教とを対照して書いておりますが、それは常にキリスト教を独善的なものにしたくないという、神のみ心によるものなのです。イエス
の人間に対する見方は、いつでも生命そのものを直視しているのでありまして、生命の汚れを罪と
いい、汚れを掴んでいる想念を、罪ある者、という工合に観ています。
次に掲げる、罪ある女に対するイエスの態度には、そういうイエスの観方が実にはっきり現われ
ております。
.髪ここごに或るパリサイ人ともに食せん事をイエスに請ひたれば、パリサイ人の家に入りて席につき給ふ。視よ、
においあぶらせセこう
この町に罪ある一人の女あり。イエスのパリサイ人の家にて食事の席にゐ給ふを知り、香油の入りたる石膏
けこれくち
の壷を持ちきたり、泣きつつ御足近く後にたち、涙にて御足をうるほし、頭の髪にて之を拭ひ、また御足に接
づけロ
吻して香油を抹れり。
さわ
イエスを招きたるパリサイ人これを見て、心のうちに言ふ『この人もし預言者ならば触る者の誰、如何なる つみびと20ワロ女なるかを知らん、彼は罪人なるに』イエス答へて言ひ給ふ『シモン、我なんぢに言ふことあり』シモソいう
『師よ言ひたまへ』
かしぬしおいめつぐな
『或る債主に二人の負債者ありて、一人はデナリ五百、一人は五十の負債せしに、償ひかたなければ、債主
ゆるいずれ
この二人を共に免せり。されば二人のうち債主を愛すること敦か多き』シモン答へて言ふ『われ思ふに、多く
免されたる者ならん』イエス言ひ給ふ『なんちの判断は当れり』斯て女の方に振向きてシモンに言ひ給う『こ

ぬらかみのけ
の女を見るか、我なんちの家に入りしに、なんぢは我に足の水を与へず、此の女は涙にて我が足を濡し、頭髪
かしらねにおいあぶら
にて拭へり。なんぢは我が頭に油を抹らず、此の女は我が足に香油を抹れり。この故に我なんぢに告ぐ、此の
つみ
女の多くの罪は赦されたり。その愛すること大なればなり。赦さるることの少き者は、その愛する事もまた少
し』

遂に女に言ひ給ふ『なんちの罪は赦されたり』同席の者ども心の内に『罪をも赦す此の人は誰なるか』と言
ひ出づ。髪ここにイエス女に言ひ給ふ『なんちの信仰、なんぢを救へり、安らかに往け』


この後イエス教を宣べ、神の国の福音を伝へつつ、町々村々を廻り給ひしに、十二弟子も伴ふ。また前に悪
おいや
しき霊を遂ひ出され、病を医されなどせし女たち、即ち七つの悪鬼のいでしマグダラと呼ばるるマリャ、ヘロ
いえつかさつか
デの家司クーザの妻ヨハンナ及びスザンナ、此の他にも多くの女、ともなひゐて其の財産をもて彼らに事へた
り。 (ルカ伝七章三六 -八章三 )

この町に罪ある一人の女あり、というのは売春婦のことであります。昔からどこの国でも売春行為はいやしいものとされており、神のみ心を汚す罪深い行為とされております。しかしその行為はいやしむべきものとしても、その女性自身が低級な魂の人とは、一概にいうことは出来ません。
かく
現代ではあまりそういうことはないと思いますが、かつての日本では、妓楼や遊廓に身売りして、親兄弟の生活を救った女性の美しい愛の物語が随分とありますが、そういう在り方の是非は別として、我が身を犠牲にして親兄弟を救おうという、その気持は純粋な愛の気持であり、美しい魂の在り方であります。親兄弟を犠牲にしてでも自己の享楽にふけるという現代の娘かたぎとはまるで違った生き方です。
この売春婦もおそらくそうした一家の犠牲者であったのでしょう。魂は目覚めながら、過去世の因縁で売春婦となったこの女性は、常に自己の肉体を汚す行為を、神に詑びつづけていたに違いありません。ですから遂いにイエス・キリストに巡り会うことができ、キリストのみ名によって、自
ゆる
己の罪を赦されたのであります。求めよ、さらば与えられんであります。
イエスの霊覚には、この女性の過去世の業因縁も、この人の純粋な信仰心も、すっかりわかっていたのです。この女性は過去世の因縁消滅のために、止むを得ず、売春婦となっていたが、魂の世界では、すでに神のみ心に近づいていたのであります。この女性は、自己の生命の汚れを消滅するために、そして、その汚れに把われつづけている自己を神の光明によって解き放ってもらうために、
つかいびと
貧しい生活の中から高価な香油を買って、惜し気もなく、神のみ使人であると信ずるイエス・キリ

ストの御足にぬったのであり、神に接する歓喜の涙で御足をうるおし、頭の髪でこれをぬぐうたのであります。これは全身全霊を挙げて、神のみ心に飛びこんでいった形なのです。こんな純粋な信仰を、なんで神のみ心が見捨てておかれましょうか。イエスは神のみ言葉として
ゆる
「汝の罪は赦されたり」といい「汝の信仰汝を救えり、安らかに往け」といったのであります。この女性は、イエス・キリストのこの赦しの言葉によって、完全に霊肉共に救われたのです。イ
わけいのちみ
エスはこの女性を一個の女性とみていたのではなく、神の分生命として観ていたのです。すべては神の子であって、自己が生命を汚さず、汚れに把われなければ、その人が救われの道、神の道に入
っていることを、イエスは知っていたのであります。
まね
イェスを招いたパリサイ人はじめ、その場に居合せた人々は、彼女の信仰心をみようともせず、ただ彼女が売春婦であったことだけに想いをとめて、彼女をさげすみ、なじる想いでいたのでありましたが、人間というものは何故に、その地位環境や姿形のみに把われて、その真実をみようとは
なげ
しないのでしょうか、いつの時代でも嘆かわしい人間心であります。イエスはこの女性が深い信仰心で、止むなく売春行為をしながらも、心が純粋に神につながっているのを観みて、彼女の罪を赦されたのですが、イエスの心は、売春行為とか、不倫な男女関係を非
222

かんいん
常に嫌っておりまして、心に姦淫の想いがあったなら、もうそれは姦淫したと同じことであって、
かな
神のみ心に適わない、生命を汚す行為である、と極言いたしておりますが、それは全く道理でありまして、想念の世界のことがすべて現象界に現われてくるのでありますから、心で想えば、必ず肉体の世界にその行為が現わされてゆくのです。
ことわりえいこう
しかし、それが理である、といったままで済ましていたのでは、この人類は永劫に救われることはありません。そこにイエスとか釈尊とかいう種々な聖賢が現われて、真理をそのまま現わす方法
カルマ
とか、本心開発の方法を教えたり、人類の業を身に代えて救ってくれたりして、今日に至っておる
のです。私はそれらの聖賢も、すべて守護の神霊の加護によってその天命を果していったのであ
る、といっているのであります。イエスがキリストの本質を現わすためには、ミカエルとかガブリ
かたおら
エルとかいう守護の天使が、常にイエスの傍にあって、イエスの救世の仕事を援助していたのであ
もと
ります。私らも、そうした守護の神霊の援助の下に、消えてゆく姿で世界平和の祈り、という、祈りの道を世界中にひろめる天命の道を歩みつづけているのであります。
自己の罪が赦され、他の罪を赦すためには、たゆみなき、祈り心が必要でありまして、常に神のみ心の清浄なひびきの中に、自己の想念を置く練習を重ねてゆくことが大事なのです。自分は何も悪いことをしたことがない、というようなことをいう人がいますが、とんでもない思い上りであり
ぶつぼさつ
まして、肉体身をもったということそのものが、罪を浄めるためでありまして、仏菩薩以外は、肉
げんざい
体身をもっていて、罪なきものは存在しないのです。それをキリスト教では原罪ともいうのです。一度び肉体身をもてば、生命を汚さず日々を送ることはできないのです。それは一瞬一瞬でも外界
おか
の生命、贔でも魚でも鳥獣でもその生命を侵かさず生きてゆくことができないからです。そこで私は、日々瞬々、すべてを消えてゆく姿と想って、世界平和の祈りの中で、神々の光明でその罪を洗い流してもらうことを、人々にすすめているのであります。イエス・キリストはこの原理をよく知っておられて人々に道を説いておられたのです。イエスが、人々の環境や境遇、地位や貧富の差によって、その人をみることなく、信仰の深浅によって、
その人々をみて救いの光明を投げかけていたのでありましたから、貧しい人や虐げられた人たちが、多くイエスの周囲に集まってきたのです。そしてまた、イエスに純粋の愛情をもって接していた多くの女性がありましたが、イエスもまた、女性としてより、人間としてそれらの女性の愛情を受け入れていたのであります。
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イエスの家族
話はすこしは前にもどりますが、イエスと家族関係、つまり、両親や兄弟姉妹との関係はどうなっていたのでありましょう。予言者故郷に入れられず、とはイエスはじめ、大方の霊能者にいえる言葉でありまして、生れ故郷の人々とか、兄弟姉妹や幼い時から親しかった親類縁者などは、その
両親や、その予言者の赤児の時のことから知っていたりしますので、こんな大工の子供が神の子であるとか救世主であるとかいう道理がない、と思うのであり、まして一緒に育った兄弟姉妹にいたっては、幼い時の日常茶飯事のことの何もかも知っておりますので、急に神がかって、我がいうこ
とは神の言葉なり、といっても、なかなかその言葉が信じられなかったりするものです。
イエスの少年時代のことは、あまりはっきりした伝記はございませんが、私の霊覚によってみますと、少年時代は親に対しても素直な優しい子供であったようです。特に母に対しては非常な愛情をもっていたようで、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダの兄弟や、二人の姉妹とも仲良く育っていた
のですし、父の家業の大工仕事なども、上手にやっていたのです。ところが、十二才頃から、守護の天使たちが、表面的に働き出し、山や森林にイエスをまねきよ
せ、統一修行に入っていたのです。イエスの使命感はその頃から次第に心の表面に現われてきて、隠れた行者などの指導も受けたりして、まだ霊覚とまでゆきませんが、霊能力は年毎に強くなっていったのです。それが洗礼のヨハネとの対面で、はっきりとキリストとしての自覚をもつようになり、真実の霊覚者となったわけです。では、ここでマルコ伝三章二〇ー三五節によりその頃のイエ
スと周囲の状態をみてみましょう。
かくみうち
斯てイエス家に入り給ひしに、群衆また集り来りたれば、食事する暇もなかりき。その親族の者これを聞
セたいくだ
き、イエスを取り押へんとて出で来る、イエスを狂へりと謂ひてなり。又エルサレムより下れる学者たちも
つかしら
『彼はベルゼブルに愚かれたり』と言ひ、かつ『悪鬼の首によりて悪鬼を逐ひ出すなり』と言ふ。イエス彼ら
わかあらモ
を呼びよせ、讐にて言ひ給ふ『サタンは、いかでサタンを逐ひ出し得んや。もし国分れ争はば、其の国立つこ
あたあにもさから
と能はず、もし家分れ争はば、其の家立つこと能はざるべし。若しサタン己に逆ひて分れ争はば、立つこと能はず、反つて亡び果てん。誰にても先づ強き者を縛らずぽ、強き者の家に入りて其の家財を奪ふこと能はじ、
けがし
縛りて後その家を奪ふべし。誠に汝らに告ぐ、人の子らの凡ての罪と、けがす漬とは赦されん。然れど聖霊を
とニしえけがつ
けがす者は、永遠に赦されず、永遠の罪に定めらるべし』これは彼らイエスを『種れし霊に愚かれたり』と云へるが故なり。
ここつかわめぐざ
侵にイエスの母と兄弟と来りて外に立ち、人を遣してイエスを呼ばしむ。群衆イエスを環りて坐したりしが、或者いふ『視よ、なんちの母と兄弟・姉妹と外にありて汝を尋ぬ』イエス答へて言ひ給ふ『わが母、わが
ユわり
兄弟とは誰ぞ』斯くて周囲に坐する人々を見回して言ひたまふ『視よ、これは我が母、わが兄弟なり。誰にて
これ
も神の御意を行ふものは、是わが兄弟、わが姉妹、わが母なり』
釈尊のように王子の生れですと、高飛車な説法をしても、聴聞するほうも、はじめから頭を下げる気持で聞いていますから、そこになんの不自然さもないのですけれど、イエスのように、貧乏大工の伜が何をいうか、という気持が聞く側には強いのです。しかし実際に重病の治った人や、奇蹟をみた人々にとっては、イエスは確かに神の子であり、救世主であるのです。そういう人たちや、その人たちの言葉を信ずる人々は、ぞくぞくとイエスのもとに押しかけてくるのです。イエス家に入り給う、という家は、イエスの実家ではありません。カペナウムのシモンの家であったようです。シモン家は、ガリラヤ伝道の根拠地であったのです。
自分の親兄弟の家には、予言者となってからのイエスはあまり近づいてはいないのです。それは、そこで奇蹟を行なっても、説法をしても、ただ反論を受けるだけで、効果のないことを知っていたからであり、自分が正しい霊覚者であることを信ずる人のいないことも知っていたからなのです。
しかし、シモソの家で伝道していましても、大工の伜が狂人になって、馬鹿なことをやっている、といった工合で、イエスの親族の者たちを呼んで、イエスを取り押えようとしたり、エルサレ
ムから下ってきた律法学者たちにも応援を求めたりしたのです。エルサレムというところは、ユダ
ヤ教の中心地でありまして、人々はエルサレムに詣でることを、唯一の楽しみとしているようなと
ころで、宗教学者たちも、常にエルサレム詣でをしていたわけです。ユダヤには、祭司や律法学者
たちから成る七十人議会がありまして、宗教的事件だけでなく、民事まで裁判する権限を持ってい
たのです。

そうした学者たちも、イエスの態度をみて、イエスは悪鬼の頭であるベルゼブルに愚かれたもので、悪鬼に愚かれて病気になっているものを、ベルゼプルが追い出して治しているので、何も神の力によるものではない、とキリストの神力を否定しようとするのです。そこでイエスは神の権威を
けがれ
もって『人の子らの凡ての罪と、けがす濱とは赦されん。然れど聖霊をけがす者は、永遠に赦されず、永遠の罪に定めらるべし』と学者たちをきめつけたのです。
そこで、これはどうにもイエスを打ち負かすことはできぬと思った人々が、最後の手段として、母や兄弟を呼んできて、イエスの狂った心を醒まさせようとするのですが、イエスは別に狂っているわけではなく、人間の真実の姿になりきっている、神の生命そのものになっている霊覚者なので


すから、肉体界だけのつながりである肉身の情などで、真理を左右されるわけもないのです。そこでかの有名な『我、その女を知らず』の説法をするわけです。ここでは、『わが母、わが兄弟とは誰ぞ』といって周囲を見回し、イエスを真実に信ずる人々に視線をやって、『誰にても、神の御意を行うものは、これわが兄弟、姉妹、わが母なり』といっています。
実際に人間にとって一番大事なことは、生命そのものが自由にいきいきと働くことであり、生命
と生命とが素直に交流することであります。それが天地というように縦に交流すれば、神との一体化になり、横に交流すれば人類愛となり、真実の兄弟愛ともなるのです。イエスにとっては、イエスが神の使いであり、神のみ心そのままを行じている、ということを信じている人々が、一番身近な人々なので、それこそ、生命における兄弟姉妹であり、母でもあるわけなのです。ある期間だけで消滅してしまうような、肉体的つながりだけでは、イエスの心を把えることは出来なかったのです。
肉体に現われている人間というものは、ただ一時期そこに生命が現われている、というだけで、肉体は生命そのものではないのです。イエスにとっては、その生命のつながり、というものが重要なのであって、その点、イエスの本心を知らず、ただ肉体だけの兄弟姉妹というだけのつながりよ
り、生命のつながりの深い人々のほうが、より身近な兄弟姉妹であったのでしょう。イエスにとっては、霊魂 (生命 )そのもののほうが大事であり、肉体身というものは、ただ、その天命を果すた
うつわ
めの単なる器であり、場であったのです。
こういう真理は、宗教を深くやった人にはよくわかるのですが、現世利益だけの神詣でのような人にはあまりわからぬことかも知れません。しかし、この真理がわからぬ限りは、人類にこれ以上の進化はないことになり、人類は滅亡のほうに向ってしまうのです。そこで神のみ心は、多くの聖者をこの世につかわして、この真理を伝えさせたのであり、イエス・キリストは、釈尊と並び称せられる大聖者であったのです。
この世の建て直しとか、地球人類救済とかいう、神のみ心をこの世に顕現しようという立場に立
たされた人々は、この世的には多くの苦難があります。いかなる聖者も肉体身は生れながらにキリ
ストでも仏陀でもないのですから、キリストになりきるまで、仏陀の本心を現わしきるまでは、さ
まざまの苦悩があるのですが、イエスはその生涯が苦難の連続であったわけで、その母マリアのように、イエスが生れた時から、その子がただの子ではない、神選びに選ばれた子であることを知っていながらも、その弟妹の言葉や、親族たちの迫害にあっては、その女を知らず、と我が児イエスにいわれる程に、イエスがキリストであることの信から離れていたわけで、イエス様も随分辛い気持であったことと思われます。
霊なる立場をとることと、肉なる立場をとることとの調和がむずかしいことであるのが今更のよ
230

うに思われます。私なども、肉体身の自己から霊なる者になるためには、非常な苦労がありましたし、イエスと同じように、狂人あつかいされ、精神病院一歩手前というような状態に置かれたこともあるのですから、イエスの立場や、イエスのその時々の気持が我がことのようにわかります。
イエスの母のマリアは、今日でこそ聖母マリアとして救い主の側にあって、人々の信仰をあつめ、高級神霊として、神霊の世界から人類救済の手を差しのべられておりますが、イエス在世中
みずかなか
は、ユダヤ教的信仰心はあったとしても、自らのお腹を痛めて生み、乳を与え、普通の赤児と同じ世話をして育てあげてきた我が児であるのですから、どうしても、神の子、キリストとしての信仰
が強固にならなかったのも無理のないことです。
わが母とは誰ぞ、その人を知らず、とイエスにいわれた程の信の心だったのですから、処女懐胎かいたい
いつわ
の話も、どうもイエス・キリストを神秘化するための逸話であるに過ぎなかったと思われます。実
かいたい
際にマリア自身が処女懐胎であり、神の子をみこもった、と信じていたら、イエスにわが母は誰ぞ、などといわれるような、薄い信仰心ではなかった筈です。そういう事実はとにかくとして、イ
エスが霊身としてマリアの前に現われるまでは、マリアの信仰は薄弱であったことは事実でしょう。しかし、イエスが十字架にかかり、霊身としてキリストとして自己の前に現われて以来のマリアは、肉体観念を脱皮した聖母マリアとしての心境になっていたに違いありません。
人間が肉体身として、自己を見、他を見ている限りは、その人の心は神との一体化を体得出来ません。人間は霊なる者であり、肉体はその現われである、とみることが出来るようになって、はじめて、神との交流が素直に出来るのであり、天地を貫いたいきいきとした生命体になり得るのです。
イエスの弟妹たちは、ペテロやヨハネのような愛弟子と違って、ヤコブをのぞいては聖書の上でもあまり問題にされなかったところをみますと、あまりキリスト教の発展のために働かなかったのでありましょう。
ですから、イエスが肉体身を離れて、神界に昇られてから、愛弟子たちは次々と、イエス・キリストのみ前に霊身と接することが出来ましたが、弟妹たちは、光明燦然たるキリストの座から、はるかに離れた境界にありましたので、キリストの神霊に接することは出来なかったと思われます。
人間は肉体のみのものではない、ということを知ることは、真理を知る第一歩であり、永遠の生命を自己のものとする重要な悟りなのであります。肉体界において、例えいかなる苦しみがあろうとも、幽界の苦しみにくらぶべきもないのであり、肉体界において、過去世の業因縁をはらい浄め、人のためにつくしておくほど、あの世における立場が善くなることはないのであります。ですから、この世において生命を生かさず、享楽を追って安易に日々を送ろうとすることは、あの世に多くの苦の種を積み重ねてゆくことになるので
す。人々よ、この世の苦難など恐るるに足らず、積極的に人々のために奉仕せよ、奉仕の最大なるものは人類愛の祈りである世界平和の祈りなり、と私はいうのであります。

イエスの奇蹟
汝の信仰、汝を癒せり
現代の新しい宗教の大半は、病気治しと、貧乏からの脱却だつきやくという、現世の利益を目標にして、信
もといいや
者を集めていますし、それがその会を大きくしていく基になっております。病気が癒され、この世の生活苦から脱却出来れば、これほど有難いことはないと思うのが、この世の人の人情です。そういう道をつくってゆくことも大切なことです。しかしそれが、真実に神の愛を人間に知ら
わけいのち
せ、人間が神の分生命であることを悟らせる道につづいていないと、その宗教が病気や貧乏を一時癒したとしても、それは一時のことであり、深い神の愛を知ったことにも、人間の実体を知ったこ
よそ
とにもならないのです。悪くすると、独立心をなくしてしまって、自己の精進努力を外にして、ただいたずらに眼にみえぬ力にすがろうとする、依頼心の多い人間になってしまい、神のほうから現世利益が与えられぬと、自己の精進努力のいたらぬことはすべて棚上げして、神への不信を心に抱
いたりしがちになってきます。
イェスもあの時代においては、新興宗教の教祖ともいえる人です。イエスの治病力の偉大さは、他に比をみないような素晴しいものであったと思われます。だがイエスが病人を癒すのは、神の愛を人々に知らせるためであり、小生命である人間と大生命である神との一体化によって、病が癒ゆ
るものであることを、人々に知らせ、人間が神の生命を内にもっているものであることを悟らせた
のであります。イエスの一挙手一投足には、常に神の愛が輝き、人間に真性を悟らせるための努力がなされていたのです。ではマルコ伝五章二一節から四三節までを、その例としてここに掲げます。
またいまつかさ
イエス舟にて、復かなたに渡り給ひしに、大なる群衆みもとに集る、イエス海辺に在せり。会堂司の一人、
いとけ
ヤイロといふ者きたり、イエスを見て、その足下に伏し、切に願ひて言ふ『わが稚なき娘、いまはの際なり、来りて手をおき給へ、さらば救はれて活くべし』イエス彼と共にゆき給へば、大なる群衆したがひっつ御許に押迫る。
ここもついや
愛に十二年、血漏を患ひたる女あり。多くの医者に多く苦しめられ、有てる物をことごとく費したれど、何の競なく・鳳つて増々悪しくなりたり・イエスの妻ききて・群衆にまじり、後に来りて、難にさはる。
さわ
『その衣にだに触らば救はれん』と自ら謂へり。斯て血の泉、ただちに乾き、病のいえたるを身に覚えたり。
ちから
イエス直ちに能力の己より出でたるを自ら知り、群衆の中にて、振反り言ひたまふ『誰が我の衣に触りしそ』
弟子たち言ふ『群衆の押迫るを見て、誰が我に触りしそと言ひ給ふか』イエスこの事を為しし者を見んとて見
おののひれあ
回し給ふ。女おそれ戦き、己が身になりし事を知り、来りて御前に平伏し、ありしままを告ぐ。イエス言ひ給ふ『娘よ、なんちの信仰なんぢを救へり、安らかに往け、病いえて健かになれ』
いか
かく語り給ふほどに、会堂司の家より人々きたりて言ふ『なんじの娘は早や死にたり、争でなほ師を煩はす
おそ
べき』イエス其の告ぐる言を傍より聞きて、会堂司に言ひたまふ『催るな、ただ信ぜよ』斯くてペテロ、ヤコブその兄弟ヨハネの他は、ともに往く事を誰にも許し給はず。彼ら会堂司の家に来る。イエス多くの人の、甚ロいたく泣きつ叫びつする騒を見、入りて言ひ給ふ『なんぞ騒ぎ、かつ泣くか、幼児は死にたるにあらず、寝ねたいるなり』人々イエスを嘲笑ふ。イエス彼等をみな外に出し、幼児の父と母と己に伴へる者とを率きつれて、幼児のをる処に入り、幼児の手を執とりて『タリタ、ク、ミ』と言ひたまふ。少女よ、我なんぢに言ふ、起きよ、と
こニろ
の意なり。直ちに少女たちて歩む、その歳十二なりければなり。彼ら直ちに甚いたく驚きおどろけり。イエス此の事を誰にも知れぬやうにせよと、堅く彼らを戒め、また食物を娘に与ふることを命じ給ふ。
つかさ
会堂司というのは、会堂の管理や礼拝を準備する信徒ですが、その十二才になる少女が、人々の
眼にはすでに死んでしまったようにみえていたのに、イエスの光明によって甦がえづ、血漏で十二
年間も多くの医者にみてもらいつづけても治らなかった女性が、イエスの背後から、衣のすそにさ
おずら
わっただけで、その長病いが癒されてしまった、ということなのでありますが、この二人の人の癒
しにかかすことの出来ない厳粛な事実は、会堂司の娘の時は、その父親が、『わが稚なき娘、いま はの際なり、来りて手をおき給へ、さらば救はれて活くべし』という、イエスに来てもらえぽ、絶対に治るのだ、という堅い信の心があったのですし、血漏の女性の場合は、その女性自身『その衣
さわ
にだに触らば救はれん』という、深い信仰心があったのであります。
イエスが病を癒す時には、あやふやな信仰の人に対してなされることはありません。常に信の深い人になされております。『汝の信仰汝を癒せり』イエスの在り方は、単に病を癒して、自己の名をあげようとか、自己の宗教を広めようとかいうのではありません。癒される当人は勿論、周囲の人々を神への愛、深い信仰心に導き入れるために癒しがなされるのであります。
深い信仰心とは、神との一体化でありまして、大生命である神のみ心の中に、小生命である人間が、あらゆる妨げを排除して、素直に融けこんでいる心の状態です。こういう心の状態になります
カルマおの
と、いかなる業の妨げも突きぬけて、大光明波動のなかに突入出来るのでありまして、自ずから、
こんほく
神の光明が、その人の魂魂 (幽体肉体 )を浄めてしまうのです。そこで、いかなる難病も癒されるということになるのです。
こういう状態で病が癒された場合には、その人の心は、神との一体観を体験したことになるの
で、神の光明がそのままその人のものとなり、高い心の状態が持続されるのであります。そういた
しますと、病が癒されたことによって、その人が神の道に導き入れられたことになり、宗教の真の

導きがなし遂げられたわけになるのです。今日の人のように、お陰があったら信じようという心では、唯物論と同じでありまして、イェ

ス・キリストの愛を受け入れられる心の状態ではありません。み衣の裾に触れなば癒されん、という堅い信の心こそ、神の癒しを受けられる、一番大事な心なのです。
しかしながら、今日のように、人類全体的に唯物的教育が進んできておりまして、頭で理解しなければ信じない、科学的でなければ信じない、という時代にありましては、イエス・キリスト式の救い方では、多くの人に現世利益を与えることは出来ません。
そこでキリスト教そのものも、祈りによる治病というより、病院や治療所の設置に力をつくし、祈りと共に、医学者による治病活動のほうに力をそそいでおります。
宗教というものもその国柄や時代時代によりまして、種々と導き方が変ってゆきまして、イエス時代のキリスト教と、現在のキリスト教とはかなりその在り方が異なっておるのであります。そして現代の教会主義の奇蹟力の薄いキリスト教にあきたらぬ人々が、原始キリスト教にかえる運動をしていまして、これが霊的な奇蹟を喧伝する活動をはじめたりしています。
これは既成仏教の奇蹟なき在り方に不満足な人々による新興宗教の輩出はいしつとなって、現世利益のみを標榜すひようぽうる宗教団体が勢力を占めるようになったりしているのと相似たものなのです。
宗教の説法には、それを裏づける超人的力がありませんと、人々の心をひきつけることは出来ま
せんし、世を救う力は少くなります。病気を癒し、貧乏を治す、そういう現世利益を与えながら、
しかも、いつの間にか宗教の奥義にまで、多くの人々を導き入れることの出来るような道こそ、現代の宗教には必要なのです。
イエスが、三十何才というその短い生涯においてはなし得なかった道を、現代のキリスト者は成就させていかなければならないのです。
信深き人への説法、信浅ぎ人への説法。また信深き人の治病とともに、信浅き人の治病や、生活苦からの脱却というように、少しでも救われたい、という望みの人には、それが現世利益的であれ、本質的な救われであれ、それぞれの立場において対処することこそ、現代の宗教者の道なのでありましょう。そして更に突き進んで、唯物論者、神への不信者をも救う、宗教精神を根底にした科学の道の開発発展にまで、宗教者が果してゆかねばならぬ道はつづいているのであります。
それにしても、あらゆる迫害にも、少しもたじろがず、ひたすら神のみ心の本道を説きつづけ、今日の人々の真実の道を切り開いてゆかれたイエスの存在は、地球人類にとって、実に貴重な存在であることには変りありません。現在のように、便利な乗物のない時代に、岩山も砂漠もものかわ、長髪の汚れも、衣の汚れも、
この世の楽しみにも、すべてに心をわずらわすことなく、ただ澄み徹った瞳を輝やかせて、地球人類救済の道開きの第一人者として、道を説きつづけたイエス・キリストの愛そのものの姿は、人の
心を温かく包んでくれるのです。
イエス・キリストの慈愛によって重病を癒され、心を開かれた人々の中から、師の光明を受けつぎ、受けつぎ、二千年近い今日迄、或る時は十字架上に、或る時は獄舎で、つぎつぎと犠牲となって肉体は倒れながら、その光明をたやすことのなかったキリスト教のあることは、確かに、人類の地上天国完成の日のための道標であるのです。
『汝の信ずる如く汝になれ』イエスの治病に当ってのこの言葉は、人類の完全平和達成のためにも、重大な言葉なのです。神の愛を信ずるところに、人間の強い信念が現われてくるのであり、平和達成の深い願望によって、完全平和は達成されるのであります。
治病に当って、神と人間との仲立ちをイエスがしていたと同じように、世界平和達成のためには、多くの仲立ちが必要なのです。それを私は守護の神霊と呼び、その結集した力を、救世の大光明と呼んでいます。そして、守護の神霊との一体化をなし得た人々は、その肉体を持ったままで、神と人類の仲立ちということができるのです。
イエスは天使であり、傑出した聖者です。だが今日の世界には、一人や二人の大聖者が出てきた だけでは、世界を平和にすることは出来ません。イエスのような純一無磯な、神のみ心そのもののような聖者を数多く出すことが大事なのです。
しかし、それは現在ではちょっと無理な相談のようです。そこで私は、イエス・キリストや、仏陀や老子やあらゆる聖者賢者を、世界平和の祈り、つまり主の祈りの中に見出して、その方々を仲立ちとして、祈る人々が自ずから白光に輝く人間になるようにすることが必要だと思ったのです。
それには誰にでもわかる神の実体がいるのです。神は特殊な人々にのみ、その姿を現わされますが、一般にはそのみ姿を拝することは出来ません。神の存在は信ずるが、神のみ姿を拝したことはない、という人々も、神のみ心が、人類の平和を願っておられることは察せられます。人類の親様
うなず
である神が、子供たちの平和を願っておられることは、誰しも肯けます。願っておられるというよ
り、人類の大調和、地上天国の誕生こそ、神のみ心そのものであることを信仰ある人々には、肯定出来ることです。
ごと
そこで神との一体化をはかるために、祈り言が大事になってくるのです。その祈り言も、ただ単なる個人の祈り言ではなく、神のみ心をこの地上界の個人にも人類にも同時に現わす祈り言でなければなりません。それがキリスト教の主の祈りであり、私の主唱する世界平和の祈りでもあるのです。この祈りこそ、凡夫そのものに、聖者と等しい働きをなさしめる道なのですし、イエス・キリ
ストのみ心を今日に生かす道でもあるのです。多くの聖者はかくして自然と生れるのです。
五つのパンで五千人を養う
イエス・キリストの治病力というものは、民衆にとっては、非常な魅力でありまして、人から人
へとイエスの神癒の話が伝わり、病人をもった家族や、病人自体が、イエスの行く先々につきまと
っていたのでした。
今日のように医学が非常に進歩したようにみえる時代でも、その医学に先んじて、様々な病気が発生しておりまして、医学は常にその後を追いかけつづけ、病気というものにひきずり廻わされて
いる格好です。そこで、イエスの治病力には及ばぬにしても、神癒を行なうという宗教者や、治病
に効果ある民間治療家は、どこの土地においても、民衆に喜び迎えられているのであります。
イエスの魅力は、その治病力に加えて、その話術における説得力と、古代から今日までの間にも滅多に現わす人のいなかった、大奇蹟を行なったことにもあるのです。その中の誰も聞いていながら、そのまま聞き流している、二つの大奇蹟を、マタイ伝十四章からぬき書してみましょう。
いあわれ
イエス出でて、大なる群衆を見、これを欄みて、その病める者を医し給へり。タベになりたれば、弟子たち
さびハモ
御許に来たりていふ『ここは寂しき処、はや時も晩し、群衆を去らしめ、村々に往きて、己がために食物を買はせ給へ』イエス言ひ給ふ『かれら往くに及ばず、汝ら之に食物を与へよ』弟子たち言ふ『われらが此処にもてるは唯五つのパソと二つの魚とのみ』イエス言ひ給ふ『それを我に持ちきたれ』斯かくて群衆に命じて、草の上に坐せしめ、五つのパンと二つの魚うおとを取り、天を仰ぎて祝し、パンを裂きて、弟子たちに与へ給へぽ、弟子
くらかご
たち之を群衆に与ふ。凡ての人、食ひて飽く、裂きたる余を集めしに十二の筐に満ちたり。食ひし者は、女と子供とを除きて凡そ五千人なりき。 (マタイ伝十四章十四 -三)
これは一体どういうことなのでしょう。五つのパソと二つの魚を五千人の人々が、食べあきる程
かご
食べて、まだ十二の筐に余りが一杯あったというのです。唯物論者などは、そんな馬鹿馬鹿しい話がと一笑にふしてしまいますが、キリスト教信者は、この話を一体どのように解釈しているのでありましょうか。クリスチャンの中には、奇蹟の話はタブーとして、イエスの法話のみを主にして、キリスト教を宣布している人々もありますが、キリスト教が今日のように盛んになったのは、法話の立派さはもとよりですが、イエスの大犠牲の生涯と、その奇蹟の数々にもその原因があるわけなので、奇蹟を素通りにしてキリスト教を語ることは出来ないのです。最大の奇蹟は、キリストの復活といわれる、死後に、その霊姿を、弟子たちにみせられ、その時々の教えを垂れたことであります。次にこの章の奇蹟でありましょう。この奇蹟には二つの考え方
がなされます。
一つの考え方は、キリストの光明波動によって、食物そのものは口にしなかったけれど、民衆の心は充ち足りて、食物を充分に喰べ終った後のような満足感をもつに至った、という考え方であります。実際にこういうことはしばしばあることでありまして、法悦に充ちておりますと、何日食物を口にしなくても、空腹感もなく、満足に食事をしている時と、なんら変ることがない行動も出来るのであります。私などは二ヶ月余も水だけ飲んでいて、外出して人々に道を説いていたこともあ
とも
るのですから、神との一体化の心境になったり、大聖者と倶にいたりすれば、そういうことは可能になるのです。これは光明波動の中には、霊要素が充分に含まれておりますので、これが霊的食物、つまりマナとなって、人々の飢や渇きを癒すのです。こういう考え方が、一般の宗教者の考え方としては、一番適当なところであろうと思います。もう }つの考え方は、第二次大戦中に日本でも考えられて研究がすすめられたという、大気中の
ちつそ
窒素を科学的に変化させてパンをつくるということであります。これは遂いに成功にまで至らなか
ったようですが、科学者がこういうことを考えるように、この大気中には各種の成分が含まれてい
るのでありまして、人間の肉体を保たたせる養分があることは事実なのです。
イエスがこの真理を知っていて、天使たちと計って、これを物質化させて、人々に食べさせたという考え方であります。これは前の考え方より、真実性が薄いように考えられますが、そんなことあるものか、と一概に退けられないものをもっています。それは印度や中国や日本のように、霊性の高い国では、昔から仙者の修業をした人がかなりおりまして、霊体になったり、肉体になったり自由自在に出来る人が存在したり、霊体のままで肉体界に大きな影響を及ぼすことの出来たりした人がいるのであります。
そういうことを考えますと、イエスほどの大聖者が、天使たち、私流にいえば守護の神霊と話し合ってすれば、かなりの大奇蹟が行なえたであろうことは想像に難くはありません。私はそういう大奇蹟を普遍的に行なえるようにと思って、宇宙子波動生命物理学という科学の学問を研究しつづけているのであります。
一般の人たちはあまり知らないことなのですが、私たちの周囲には、肉眼にはみえぬが、守護の神霊方が、肉体人間の霊性を高めあげようとして、真剣に活動しておられるので、私など、日々瞬
々、その方々と交流して、私の働きをしているわけなので、守護の神霊との交流なしで、事を成す
ことはないのです。
ですから私にとっては、この世の存在者以上に守護の神霊の働きを重要視し、大事にしているの
であります。肉体の人間は守護の神霊、キリスト教式にいえば天使の応援なくしては、現在以上の進化はなし得ないのです。
イエスが常に天使たちと交流して自己の行動の基としていたことは明らかなことで、肉体のイエ
スとしては、単に三十才の若輩でしかなかったのです。イエスの大聖者としての資格は、自己のす
べてを神のみ手にゆだねきったところにはじまり、大天使たちとの交流をよく成し遂げ、自己の天命を果していったところにあるのです。
自己を神の手にゆだねきり、大天使たちの交流がすっきりといっていたので、数々の大奇蹟を行なうことができたのであります。モーセの紅海を真二つに裂いて、パレスチナへの道を開いた大奇蹟なども、そんな馬鹿なことが、といってしまえばそれまでですが、大天使たちが働けば、出来な
いことではないのです。現代の人々は神や天使の働きを馬鹿にしている傾向がありますが、神のみ手には何事も為し得ぬということはないのでありまして、ただ、地球人類のことは、地球人類の力にその基本をまかせきっておられるのです。しかし、もし、そこで大奇蹟を現わさなければ、宇宙の運行が損われる、という場合には、大きな力がそこに働かれ、大奇蹟となって現われるのです。それは常に、肉体界の大聖者を中心にして守護の神霊、大天使たちのみ力によってなされるのであります。
ですから、古代からの聖者たちの行為の中には幾多の奇蹟が行なわれており、その奇蹟によって、民衆の信仰が鷹耕れ、神界霊界と肉体人間とのつながりが、曲りなりにも断ち切られずに今日に至っているのです。宗教の歴史というのは、その歴史の陰に常に守護の神霊、大天使方の働きが秘められているので
あって、ただ肉体人間としての宗教者のみが、その主人公ではないのです。そうした今日までの宗教的奇蹟の数々は、やがて、誰にでもわかる、科学的形態をとって、この地球世界の進化への道を
はっきりと切り開いてゆくことになるのであります。
では、もう一つのイエスの奇蹟をかかげましょう。
イエス海の上を歩く
ただし
イエス直ちに弟子たちを強ひて舟に乗らせ、自ら群衆をかへす間に、彼方の岸に先に往かしむ。斯て群衆を去
ひそかひとりおか
らしめてのち、祈らんとて窃に山に登り、夕になりて独そこにゐ給ふ。舟ははや陸より数丁はなれ、風逆ふに
なやま
よりて波に難されゐたり。夜明の四時ごろ、イエス海の上を歩みて、彼らに到り給ひしに、弟子たち其の海の
へんげおそ
上を歩み給ふを見て心騒ぎ、変化の者なりと言ひて催れ叫ぶ。イエス直ちに彼らに語りて言ひたまふ『心安か
おそ
れ、我なり、催るな』ペテロ答へて言ふ『主よ、もし汝ならば我に命じ、水を踏みて、御許に到らしめ給へ』
おモ
『来れ』と言ひ給へば、ベテロ舟より下り、水の上を歩みてイエスの許に往く。然るに風を見て慨れ、沈みか
かりければ叫びて言ふ『主よ、我を救ひたまへ』イエス直ちに御手を伸べ、これを促へて言ひ給ふ『ああ信仰うすき者よ、何ぞ疑ふか』相共に舟に乗りしとき、風やみたり。舟に居る老どもイエスを拝して言ふ『まことに汝は神の子なり』 (マタイ伝十四章二ニー三三 )
これも有名な話です。五千人の食事を充たした話よりも、この話のほうが、そういうこともあり得るかな、とひそかに思う人も多いことでしょう。日本の各宗祖方にも、こういう程度の奇蹟ですと、あの方ならこのくらいのことなさったかも知れぬ、と思われる聖者もおられるからです。
たつくち
竜ノロの日蓮の法難でも、日蓮の首を打たんとして、刀を振りあげたとたんに、大雷鳴が起り、
日蓮の首をはねることが出来なかった、という話などもありまして、風雨や波を起したり、鎮めたりする奇蹟力は、聖者の話としては、当然のようにも思われておりますが、イエスの海を渡ってゆかれるこの奇蹟は、やはり大奇蹟といわねばなりません。英国の大霊媒であったホームズという人は、階上の窓から空中を歩いてゆき、また窓から部屋に入っていったという、空中歩行という奇蹟
を行なっており、これは単なる話ではなく、実際をみた人の書いている実話であります。こういう実話をききますと、イエスの海上を渡ってゆかれたことも真実のことであったと思われます。これは守護の神霊の応援があれば出来ることなのであります。この世流にいえば背後から二、三人の人
が抱きあげて、歩かせると同じようなことなのですが、ただ応援してくれる人が、肉眼には見えぬ だけのことです。
もう少し時代がたちますと、眼にみえるとかみえぬとかいう問題と、存在する存在しないということとは、全く別のことになってきます。現在眼にみえず、耳に聞えぬものが、やがては、誰の眼にも見え、誰の耳にも聞えてくるという時代が、やがてやってくるのです。その時に人々ははじめ
て、守護の神霊や天使方の偉大な存在に気づくのであります。
この波の上を渡るキリストの話のなかで、人々が教えとして受けねばならぬことは、ペテロがキ
リストに『水を踏みて来れ』といわれて、最初は水の上を歩んでゆくのですが、風が吹いてくる
と、にわかに恐怖心が出てきて、水に沈んでしまいそうになります。これをイエスが助けながら、
『ああ、信仰薄き者よ、何ぞ疑うか』とペテロをたしなめます。
はじめは、イエスが大丈夫だから水を渡ってこい、渡れるのだ、といわれ、そのイエスの言葉を信じきって渡れたのですが、風に恐れて、信仰が薄れたとたんに沈んでしまいます。イエスは守護の天使に支えられていることをはっきり知っていますので、動ずることもなく水の上を渡れました
が、ペテロは、初めはキリストの言葉を信じ、しかし風におびえて信をくつがえしてしまったわけです。ペテロはキリストの言葉よりも、この世の常識により多く心を把えられていたわけなのです。治病の場合でも、運命を開こうとする場合でも、常に守護の神霊の加護を深く信ずることが大切
なのでありまして、いたずらに常識の世界の不安な想いに把われてはいけないのです。自己の運命を開くのも、国家人類の平和をつくりあげるのも、すべて、神の大愛を信ずる、信の心からはじま
るのです。
誰の罪かー盲を癒すー
前にも申し上げましたが、イエス・キリストの奇蹟のうちでも、治病に対する奇蹟が非常に多く
ありました。奇蹟によって病気を癒すということは、民衆にとって大変な魅力であったことでしょう。それは今日においても変りありません。現代の新興宗教の人をひきつける点も奇蹟的な治病と
いうことが大きな要因になっております。
俗ないい方をすれば、イエスは病気治しの名人ともいえるのです。イエスの治病の中でも、盲人を癒した話がいくつもあります。パレスチナ地方には盲人が非常に多くおりました。何故盲人が多かったかと申しますと、生れながらの盲人もおりましたが、四季を通して強い直射日光を受けることが多い上に、空気中に細かいチリが多く、それらが原因となって不治の眼病になっていたようです。それともう一つは、戦争で捕虜になった者が、野蛮な戦勝者によって、面白半分に盲にされていたことがあって、そうした因果関係によることもあったのです。
ago

どんな病気でもそうですが、病気になるにはきっと何かの原因があるわけですが、生れながらの盲人などをみると、どうして神様はこういうことをなさるのだろうな、と神様が盲人にしたように思いがちなのです。モーセなども「人の口を造る老は誰なるや、唖者、聾者、目明者、盲者など造
ろうあしや
る者は誰なるや、我がエホバなるにあらずや」といっていまして、盲人も聾唖者も、人間そのものを造った神のなさったことのように解釈しています。イエスの弟子たちも非常にこの問題に不審をもっていまして、イエスに質問するのであります。ヨハネ伝第九章一ー七を引用してみましぼう。
みちうぽめしいめしひ
イエス途往くとき、生れながらの盲人を見給ひたれば、弟子たち問ひて言ふ『ラビ、この人の盲目にて生れ
おのれ
しは、誰の罪によるぞ、己のか、親のか』イエス答へ給ふ『この人の罪にも親の罪にもあらず、た竺彼の上に
わざあらわわざうちべよ
神の業の顕れん為なり。我を遣し給ひし者の業を我ら昼の間になさざる可からず。夜きたらん、その時は誰も
あたつばセつはきこれ
働くこと能はず。われ世にをる間は世の光なり』かく言ひて地に唾し、唾にて泥をつくり、之を盲人の目にぬ
とナなわ
りて言ひ給ふ。『ゆきてシロアム (釈けば遣されたる老 )の池にて洗へ』乃ちゆきて洗ひたれば、見ゆることを得て帰れり。
これによりますと、イエスは、弟子たちが生れながらの盲は親の罪か己の罪かと問いますと、こ
わざ
の人の罪でも親の罪でもない。ただ神のみ業が彼の上に顕われるためだ、といっています。これは仏教的な因縁因果説からいいますと、片寄ったいい方で、どんな病気にしろ災難にしろ、自己の責
任でないものはないわけなのです。親の罪でも己の罪でもない、とすると、一体人間の行為の責任は誰が負うことになるのでしょう。この盲人の場合は生れながらの盲人であるから、親の罪でも自
己の罪でもない、というのでしたら、人間の過去世ということをイエスが認めていないことになります。仏教では、過去世からの因縁因果ということは、人間本来仏性である、という法華経的な解釈と共に、この現象面での在り方としては、重大なことなのであります。
ところがイエスのこの説き方からすれば、イエスによる神の奇蹟を顕わすためにのみこの生れながらの盲人が必要だった、ということになります。イエス・キリストの奇蹟だけを浮彫りするために、人間個人個人の因縁因果というものが、どこかへ消されてしまった、という感じです。盲人にするのも不幸にするのも、個人個人の過去世からの想念行為がするのではなくて、みな神様がなさ
っている、ということになり、神様がこの世の不幸を造っている、という形になってきます。こういう聖書の在り方が、時には神が悪や不幸や災難をつくったりするという考えになり、人間
しもべどれい
は常に神の僕であったり、奴隷であったりするような考え方になってきます。イエス自身は「神は我が内にあり」といっていまして、神と人間とを離して考えてはいないのですが、どうも聖書の現わし方が曖昧あいまいでありまして、人間は神の子であり仏の子であるということと、因縁因果説との巧みな解説をもっている仏教の教えからくらべると非常に単純な教えととられがちなのであります。常
に暗い顔をしている真面目なクリスチャソなどは、こうした聖書の影響によるのであろうと思われます。
これは、イエス・キリストのみを神の独り子とする考え、イエス・キリストの奇蹟だけを拡大して知らせたい、という弟子たちの心が、こういう聖書の現わし方となってきたのでありましょうが、甚だ一方的な浅い現わし方だと思います。イエスは最も深い考え方をしてこういったのでしょうから、弟子たちはこの言葉と共に、イエスの真実の教えを伝える方法をもっと深く考える必要があったのではないでしょうか。仏教者からみたら、キリスト教者の独りよがりとも受け取れる一節であります。
たた
イエスの奇蹟はいくら称えても勿論よいのですが、それと同時に地道な教えを同じ章で説いてい
おざ
たら、聖書はもっと生きていたと思うのです。例えば、彼の上に神の業の顕れん為なり、というと
ころでも、イエスの奇蹟と共に、この盲人の過去世の因縁がこの世で現われて、イエス・キリストの光明によって消されてゆくのだ、というような解釈を何故しておかなかったのかと、私は思うのです。
ところで、あと二つ程、盲人を癒したイエスの奇蹟をマルコ伝八章二ニー二六と十章四六ー五二とによって伝えておきます。
めしひ
彼ら遂にベッサイダに到る。人々、盲人をイェスに連れ来りて、触り給はんことを願ふ。イエス盲人の手を

とりて、村の外に連れ往き、その目に唾し、御手をあてて『なにか見ゆるか』と問ひ給へば、見上げて言ふ
みつ
『人を見る、それは樹の如き物の歩くが見ゆ』また御手をその目にあて給へば、視凝めたるに、癒えて凡てのもの明かに見えたり。斯て『村にも入るな』と言ひて、その家に帰し給へり。
斯かくて彼らエリコに到る。イエスその弟子たち及び大なる群衆と共に、エリコを出でたまふ時、テマイの子バ
めしひがたエ
ルテマイといふ盲目の乞食、路の傍に坐しをりしが、ナザレのイエスなりと聞き、叫び出して言ふ『ダピテの
ロいまし
子イエスよ、我を欄らわれみたまへ』多くの人かれを禁めて黙さしめんとしたれど、増々叫びて『ダビテの子よ、我を欄みたまへ』と言ふ。イエス立ち止りて『かれを呼べ』と言ひ給へば、人々盲人を呼びて言ふ『心安かれ、起て、なんぢを呼びたまふ』盲人うはぎを脱ぎ捨て、躍り上りて、イエスの許に来りしに、イエス答へて言ひ

給ふ『わが汝に何を為さんことを望むか』盲人いふ『わが師よ、見えんことなり』イエス彼に『ゆけ、汝の
ゐち
信仰なんぢを救へり』と言ひ給へば、直ちに見ることを得、イエスに従ひて途を往けり。
イエスの治病能力というのは実に素晴しいものです。しかし、この治病の奇蹟は、常に治される
側の、熱烈なるイエス・キリストへの信の心があることを見逃すことは出来ません。イエスのいうごとく、「汝の信仰汝を救えり」であります。神の癒しの力がイエスの肉体を通して、病人のほうに影響を及ぼすのですが、病人側が、神のほうに心を向けていなければ、この癒しは成り立ちませ
ん。何故ならば、神のほうから光明を発しても、病人のほうがその光明と反対の闇のほうを向いているのですからこれはどうにもなりません。イエスが盲人を癒した三つの奇蹟でも、三人の盲人は皆イエスに触れれば癒されるものと信じているのです。すっかりイエス・キリストの光明のほうに心を向けきっているのです。ですから、神の光明である癒しの力は真直ぐに病人のほうに流れ入っ
て、病人の幽体の汚れを浄め、肉体の盲を癒していったのであります。
科学における治病というのは、肉体そのものに物質的な医薬や放射を行なうのでありまして、物質 (肉体 )対物質の交流によって、その患部だけが癒されるのであります。ところが宗教的な癒しというのは、肉体の患部だけを癒すのではなく、幽体という五感には見えぬ、波動体の汚れを浄め
 
ることによって、肉体の病気を癒すのでありますから、病気の原因が除去されることになるので
わざ
す。そこで、真実の宗教的治癒、神のみ業による癒しによれば、再びその患部が悪くなるというこ
とは余程再び同じような悪想念を持続しない限りは無いということになります。
物質科学的な治病はあくまで肉体の患部が主であり、精神科学及び宗教的な癒しは、霊体、幽体、
精神、肉体というように深いところまでの癒しであるわけです。イエス・キリストの癒しというの
は、実に宗教的治病の典型的なものでありまして、神の栄光をそこに如実に現わしているのです。
神はすべてのすべてであり、生命の本源です。神のみ心が肉体の病気を癒したいとお思いになれ
ば、癒せるにきまっています。しかし神は、大生命であり、愛そのものであると同時に、法則その
ものでもあります。神はいかなることがありましょうともその法則を変えることはありません。少しでも法則を変えたらその法則は法則として成り立たなくなるからであります。
人間の肉体が病気や災難や様々の不幸にあうことは、その人間が大生命の法則にそむいたことに
よって起る現象なのです。大生命から分れた小生命であり、小宇宙である人間は神の法則の通りに
はず
生きることによって、大宇宙との調和を保つことが出来るのでありまして、その法則を外れれば外れただけ、元の法則の道に戻すための生命の働きによって、そこに病気とか不幸災難とかにみえるような事態が肉体生活に起ってくるのであります。骨が外れたら、その骨を元に戻すために多少の痛みを感じるのは、やむを得ないのと同じ原理であります。
そこで神の愛はどういう風にその人間に働きかけるかと申しますと、人間のそうした法則を外し
た誤りを肩代りしてくれる偉大な人間、つまり過去世において非常に修業を積んで、肉体を持ちな
がらも霊そのもののような能力を持つ、いわゆる神のみ心に近い人間たちを選んで、この世につか
わし、人類の業生消滅の手助けをさせつつあるわけなのです。そうした手助けの人が、釈尊であり
イエスであり、斯界の聖者賢者という形で、この世に出現しているわけなのです。
そういう聖者賢者たちの肉体は神霊の体に近いので、神の光明を受けやすく、自己を通して、神 の光明を人類に与えるのです。そう致しますと、個人的には病気が癒されたり、不幸災難が防げたりするのであり、人類的には天変地変や戦争の災害を防いだりするのであります。人々はその真実を知らずに過しておりますのですが、実は、そうした聖賢の出現によって、どれ程、人類の不幸災難が防がれているか計り知れないのであります。
こうした聖者賢者をこの世に送り出し、そして人類の運命を守りつづけている神のことを守護の神霊また天使というのでありまして、この守護の神霊の働きがなければ、聖者賢者も生れず、人類はこう業カルマの波の中においてすでに滅亡し去っておるのです。過去六劫においては、こうした守護の神霊
むな
や聖賢の援助も空しく、地球人類は折角積み上げてきた文明文化の社会を何度でも滅亡し去ってい
るのであります。現在はいよいよ七劫の時代に入っていまして、キリスト教でいう、キリスト再臨
の時になっているのです。キリストの再臨とは、すべての人間が、神の子の真実の姿を現わす、とい
うことで、地球人類がいよいよ神性顕現の世となるのであります。そのためにもイエスの愛の働き
カルマ
がいかに大きかったかがわかるのです。イエスの十字架上の大犠牲によって人類の業が随分と浄め
られたのでありますが、それにまして、イエス・キリストの愛の精神が人類の心に沁みこんでいた
ことが、今日の文明文化社会にまで発展した大きな原因であることも見逃すことは出来ないのです。
神の国・天国・来世
天国についての磐え話
釈尊もそうでしたが、イエスも讐え話で道を説くことのきわめて上手な聖者でした。何しろイエ
なま
スは、群衆に向って道を説くことが多かったので、真理をそのまま生で説法をしたのでは、民衆にわかりにくいので、常に讐え話にして説いたわけです。ここでは、天国についての話を少し書きぬいてみましょう。
現代のように、ラジオやテレビや電話のような昔では考えられないような、科学的な進歩を遂げた時ですと、讐え話も非常にわかりやすく、聴く者が容易に納得出来るのですが、イエス時代の讐え話は、今の日本人にはわかりにくいと思いますので、その解釈をしながら講義をすすめてゆきましょう。


その日イエス家を出でて、海辺に坐したまふ。大なる群衆みもとに集りたれば、イエスは舟に乗りて坐した
あまた
まひ、群衆はみな岸に立てり。讐にて数多のことを語りて言ひたまふ。
ついにいしじ
『視よ、種播く者まかんとて出づ。播くとき路の傍らに落ちし種あり、鳥きたりて啄む。土うすき曉地に落ちし種あり、土深からぬによりて、速かに萌もえ出でたれど、日の昇りし時やけて、根なき故に枯る。茨の地に落ちし種あり、茨そだちて之を塞ぐ。良き地に落ちし種あり、或は百倍、或は六十倍、或は三十倍の実を結べり。耳ある者は聴くべし』弟子たち御許に来りて言ふ『なにゆゑ讐にて彼らに語り給ふか』答へて言ひ給ふ『なんぢらは天国の奥義を

知ることを許されたれど、彼らは許されず。それ誰にても、有てる人は与へられて愈愈豊ならん。然れど有たぬ人は、その有てる物をも取らるべし。この故に彼らには磐にて語る、これ彼らは見ゆれども見ず、聞ゆれども聴かず、また悟らぬ故なり。』
また他の磐を示して言ひたまふ『天国は良き種を畑にまく人のごとし。人々の眠れる間に、仇きたりて麦の
しもべ
なかに毒麦を播きて去りぬ。苗はえ出でて実りたるとき、灘麦もあらはる。僕ども来りて家主にいふ「主よ、畑
いかにあだ
に播きしは良き種ならずや、然るに如何して毒麦あるか」主人いふ「仇のなしたるなり」僕ども言ふ「さらば我らが往きて之を抜き集むるを欲するか」主人いふ「いな恐らくは毒麦を抜き集めんとて麦をも共に抜かん。難がら罎まで育つに轡よ。収穫のとき欝る者に「まつ毒麦を抜きあつめて・埜くために之を束ね・麦はあつめて我が倉に納れよ」と言はん」』また他の讐を示して言ひたまふ『天国は一粒の推糧げごとし、人これを取りてその畑に藩くときは、窺が粒
よりも小さけれど、育ちては、他の野菜よりも大きく、樹となりて空の鳥きたり、其の枝に宿るほどなり』また他の警を語りたまふ『天国はパンだねのごとし、女おんなこれを取りて、三斗の粉の中に入るれば、悉とく脹れいだすなり』
*
ニれ

天国は畑に隠れたる宝のごとし。人、見出さば之を隠しおきて、喜びゆき、有てる物をことごとく売りて其の畑を買ふなり。
あたいも
また天国は良き真珠を求むる商人のごとし。価たかき真珠、一つを見出さば、往きて有てる物をことごとく売りて、之を買ふなり。また天国は海におろして、うつわみ各様さまざまのものを集むる網のごとし。充つれば岸にひきあげ、坐して良きものを器に
みつかいたち
入れ、悪しきものを棄つるなり、世の終にも斯レくあるべし。御使等いでて、義人の中より、悪人を分ちて、之
なげさはがみ
を火の炉に投げ入るべし。其処にて哀実、切歯することあらん。汝等これらのことをみな悟りしか』彼等いふ『然しかり』 (マタイ伝十三章一-1五一 )
この聖書の天国についての讐え話は、ユダヤの農業の状態を説明しないと、ちょっとうなずけな
いところがありますので、一言説明しておきます。ユダヤでは日本の畑のように、一反畝つつにう
ねをつくって区切ってあるのではなく、広いままの畑に種を投げ散らすようにして農夫がまくのであります。そのためにまかれた種は、あっちこっちに散ってしまって、土の薄い石地や茨のなかに
も入ってしまうのです。また、この讐え話にある毒麦というのは、苗のころは小麦によく似ている植物ですが、有毒な雑草で、成育すると小麦との違いが識別しやすくなるのです。降雨の多い時に繁茂するため、パレスチナの農民の間には降雨のため小麦が毒麦に変ずるという迷信があったということです。実は小さく軽いので、ふるいにかけて取除くこともでぎるのですが、人が食べるとめまいがしたり吐いたり、時には死ぬこともあるような毒性をもっているのです。
それからもう一つからし種の讐え話は、天国の讐え話では一番有名だと思いますが、パレスチナに普通なのは、黒からしで、野生に産する十字花植物で、調味料として畑にまくこともあるのです。種子はユダヤ人が日常知っている種のうちでもっとも小さいものです。ところがこの植物は種は小さいのですが、四月から六月に実を結ぶころには四、五米にも達するほど大きくなってしまうのです。空の鳥がその枝に巣をつくったり、とまり木にしたりするのであります。
こういうことを知っておきますと、聖書の天国についての讐え話もよく了解できると思います。種播きというのは人の日常の行ないについての磐えですが、路の傍や、曉地いしじに播いたとて善い実がならぬと同じように、神のみ心の現われとは関係のない、金銭欲や地位権力を得るための行為は、天国を自己のものにすることはできない、無駄な労力である。また、神を信ずる心の浅いものは、


ちょうど土の深くないところに播いた種のようなもので、速かに萌え出ではするけれど、地中の養分が足りなくて、日が昇る時にはやけて駄目になってしまう。それは神のみ心に深くつながっていない、根のない行ないだからだ。
カルマ
茨の地のような、業想念の波の多いところでは、茨が伸び育ってきて、種に光があたらなくなってしまうので、少しぐらいの信仰心では天国の状態はその地では出来得ない。だから、良き地に種を播くことだ、そうすれば、あるいは百倍にもなって実を結ぶのだ。
とイエスは人々に自分も天国に入り、人々をも神の国に導き入れる道を説いてきかせているのですが、こういうイエスの讐え話の説法に不審をもった弟子たちが、なんで民衆には讐え話でなど話をするのですか、あれではよくわからないのではないのですか、と問いただしますと、イエスは、お前たちのように天国の奥義を知ることを許されている、神と人間とがどういう関係にあるかをよく知っているものには、こんな廻りくどい讐え話をしなくともよいのだが、彼らにはまだ真理をそのまま話してもかえってわからない。そんな心の状態の者たちには、天国の奥義、神の深いみ心を
話すことは許されないのだから、こういう話し方をしているのだ、といわれ、それにつけ加えて、人間というものは、金持はますます持ち金が増えてゆき、貧乏人はますます貧乏になるように、真理の光をよけいに持っている者は、ますます悟りが深くなって、心がいよいよ豊かになってくる し、真理の光のとぼしい人は、ちょっとしたことにもすぐに物欲や権威欲で想いが乱れ、その少し
カルマ
現われていた神の光さえも、業の波に消し去られてしまうものだ。それは彼らは、神を私にみてい
ながらも、見ないでいるし、私の言葉の中に、神のみ心がありありと現われているのに、それをも聴かないでいるのだ、まだ悟れないからなのだ、といわれたのです。
次にイエスは、毒麦の磐え話をしております。天国は良き種を畑にまく人のごとし、というのは、天国というのは良いことぼかりあるところで悪いことというもののないところなのだ、そのように人間はみんな神の子であって本来悪い人などないのだし、悪いことなど起りようがないのだ、ということです。
しもぺ
ところが、その畑に毒麦がまじっているのを、僕が発見して、主人に、畑にまいたのは良い種ばかりだったのに、何故毒麦があるのですか、と質問するわけです。こういう質問は現代でもひきつづいてなされておりまして、神様は全智全能であり、すべてのすべてであり、善そのものであるのに、何故悪い人間や不幸な人間が現われ、世の中がこんな悪いのですか、などといってくる人が多いのです。
イエスはこの答を、人々の眠れる間に仇のなしたるなり、といっておられるのです。これは、眠
っているというのは、神の子そのものである良心 (本心 )が、この世的な物質欲、生存欲に蔽われ
カルマ
て、ちょうど眠ってしまったように光を出さぬ間に、神の光のとどかぬ闇の波、業の波が毒麦のような形になって、人間の心、人類の社会に生えてきてしまったのだ、と説明しているのです。そし
しもべ
て、僕が、それでは毒麦だけ抜いてしまいましょうか、と主人にいいますと、主人は、いやそれでは毒麦をぬくつもりで良い麦までぬいてしまうから、収穫のときまでぬくのを待っていなさい、収

穫の時になれば、小麦と毒麦とはまるで違うのだから、毒麦だけはぬいて焚いてしまい小麦はあつ
めて私の倉に納れよう、といっております。
これはどういうことかと申しますと、善い人悪い人といっても表面だけでわかるものではない、悪い人と思って処分したら、善い人であったりして、とんだことをしてしまう。これを国に警えれば、善い国、悪い国といってもこれは実ははっきりわからないので、勝手にあの国は悪いといってみんなで攻め滅ぼしたら、かえって滅ぼされた国より、滅ぼした主謀国のほうが悪かったのだ、と後で気づいたりするものだ。だから、天の時をじっと待っていて、神の光明に自然に照らされて、善悪がよりわけられた時に、はじめておのずと善が残され、悪が消滅するのだ。何故ならば、天国は良き種をまく人のごとしで、善いことだけ、神のみ心に叶う愛の行ないだけをしていれば、おのずから人類は光明化し平和になり、神の国が現われるのだ、やたらに悪を認めて力を用いるな、と
イエスはいハ、ているのであります。
264

からしだね
次の警では、天国は一粒の芥種のようなものだ、といって、真実に神を信ずる人は、物質欲や権力欲に走っている人々の万分の一にも足りないけれど、芥種が播く時は小さいけれど、育つと、他の野楽よりも大きな樹となって、空の鳥たちの宿り木になれるように、たとえはじめは少しの信仰
よろず
者でも、その人々の心は天国につながっているので、やがては、万の物質欲者や権力欲者よりも、その数は多くなってゆき、強固になってゆく、といっておりますし、真珠の薯では、善き真珠を天国に醤え、すべての物をことごとく売りはらっても、天国を得べきだ、と説いております。そして、天国は海におろした網のように、様々なものを集めて、善きものを器に入れ、悪しきものを棄
みつかい
てるのである。世の中もそのようなもので、今に御使たちが、その選り分けをするのである、とい
うのであります。
確かに最後には、御使たち、私のいう守護の神霊の働きが、歴然とこの世の働きとして現われ、善悪をはっきり分け、この現われの世界も善のみの世界、つまり、世界中が平和に平安になる世界がつくられるのであります。
この世は肉体の人間が主である世界ですが、世界が完全平和になるためには、どうしても守護の
神霊の援助によらなくてはならぬのです。私はこの力を、救世の大光明といっております。イエス
のいう御使たち、救世の大光明として働く守護の神霊に私たちは真っすぐにつながって、世界平和
完成のために働かなくては、みずからが滅び去ってしまわねばなりません。そういう時が刻々と迫
っているのです。イエスは、天国についての讐え話のなかで、はっきりそれをいっているのであり
ます。
来世について
人間が肉体の生ある時に、是非とも知っておかなければならないことは、この肉体の世界の他に、種々な世界があって、肉体を離れた生命 (霊魂 )は、その日頃の想念行為によってつくられた自己の階層 (世界 )で生活するということであります。肉体の死によって個人の生命が終ったわけではなく、他の階層、いいかえれば、想念波動によってそれぞれの異なった世界において生活を営む、個性をもって生きつづける生命体である、ということです。
この事実がわからないと、神のみ心の深いところがわかりませんし、自分自身の進化を促進させ
まこと
ることも出来ません。神の道である愛と真の生き方は、他のどのようなこの世の利益を得ることよりも大事なことである、という真理を知って実行し得る心の状態をつくり出すためにも、是非とも、こうした永遠の生命というものを知らなければなりません。唯物論者の共産主義の人々の中に
も立派な人格者はたくさんおります。しかし、こうした永遠の生命の在り方を知らないがために、
多くの人々を誤った道にひきずりこんでしまい、せっかくの人類愛の行為が汚されてしまうのであります。
キリスト教の人々の中にも、こうした肉体死後の世界のことを知らず、クリスチャソの人は、死んだらキリストの再臨の日まで天国で睡っていて、再臨の時に自分たちも再びこの世に生れてくるぐらいの浅い考えでいたりする人もいます。ところがイエスさんも、仏教の死後の世界の話のように、死後の生活のことも時折り説いているのであります。
その一つの来世話を、ルカ伝十六章十九節から十七章の四節によってお話したいと思います。
むらささぽそロの
或る富める人あり、紫色の衣と細布とを著て、日日奢り楽しめり。又ラザロという貧しき者あり。腫物にて
はかど
腫れただれ、富める人の門に置かれ、その食卓より落つる物にて飽かんと思ふ。而して犬ども来りて其の腫物
ねぶみところ
を砥れり。遂にこの貧しきもの死に、御使いたちに携へられてアブラハムの懐裏に入れり。富める人もまた死

にて葬られしが、くるしみみ黄泉にて苦悩の中より目を挙げて遥かにアブラハムと其の懐裏にをるラザロとを見る。
あはれ
乃ち呼びて言ふ「父アブラハムよ、我を欄みて、ラザロを遣し、その指のさきを水に浸して我が舌を冷させ
にのほもだおも
給へ、我はこの焔のなかに悶ゆるなり」アブラハム言ふ「子よ、憶へ、なんぢは生ける間、なんぢは善き物を受け、ラザロは悪しき物を受けたり。今ここにて彼は慰められ、汝は悶ゆるなり。然のみならず此処より汝ら
みち
に渡り往かんとすとも得ず、其処より我らに来り得ぬために、我らと汝らとの間に大なる淵定めおかれたり」
くるしみ
富める人また言ふ「さらば父よ、願くば我が父の家にラザロを遣したまへ。我に五人の兄弟あり、この苦痛の

ところにヒ来らぬやう、彼らに証せしめ給へ」アブラハム言ふ「彼らにはモーセと預言者とあり、之に聴くべし」富める人言ふ「いな父アブラハムよ、もし死人の中より彼らに往く者あらぽ、悔改めん」アブラハム言ふ
よみがすすめ
「もしモーセと預言者とに聴かずば、たとひ死人の中より甦へる老ありとも其の勧を納れざるべし」
つまずきセたわざわい
イェス弟子たちに言ひ給ふ『蹟物は必ず来らざるを得ず、されど之を来らする者は禍害なるかな。この小き老の一人を贋かすよりは、寧ろ畷臼の石を頸に懸けられて、海に投げ入れられんかた善きなり。汝等みつから
いコし
心せよ。もし汝の兄弟、罪を犯さば、これを戒めよ。もし悔改めなば之をゆるせ。もし一日に七度なんぢに罪を犯し、七度「くい改む」と言ひて、汝に帰らば之をゆるせ』
この話は明らかに死後の話であります。肉体人間として生活していた間の、その人々の想念行為によって、死後の世界の生活が定まるものであることをイエスも説いているのでありますが、この話だけでは短かすぎて、人々に死後の生活の在り方を納得させるわけにもゆきませんし、ただ死後の世界は、金持は悪い境界に落ち、貧乏人は善い世界に住むというような、そんな単純なものではありませんので、このイエスの話だけでは真理をつかむことはできませんが、イエスはこの前後にたくさんの話をして、例えば、アブラハムとラザロとの霊的関係とか、モーセや他の予言者と金持との過去世からの関係とか話をして、この話になるのでしょう。イエスほどの人が、ぽつんとこんな話をしたのではないことだけは確かです。なんらかの過去世から今生の因縁話をしたり、各自の想
念行為の在り方の善悪を説き去った後にこの話をしたに違いありません。ただ聖書の著者たちが、イエスの話として取り上げた一部分が聖書となって今日まで伝わっているのでありますから、イエス・キリストの全貌は聖書だけで計ることは出来ません。その点仏教は釈尊の他にたくさんの聖者たちが、微に入り細にわたって真理の話を書きつづり、話伝えて今日の仏教となっておりますので、広く深いものになっているのであります。もっとも、三十代でこの世を去られたイエスと八十才を越えて他界された釈尊との肉体世界の生活の差が、後世の書物の上にも大きな差となって現われたのも当然のことでありまして、それによって、イエス・キリストと釈尊との霊位の差を云々す
ることなどは愚かなことです。ともに大救世主でありまして、神界の重要なる地位にあって、地球人類進化のために働きつづけておられるのです。
ぜいたくざんまい
この聖書の或る富める人というのは、自己の富に溺れて贅沢三昧をして亡くなった人でありましょうし、極貧にあえいでいたラザロという人は、貧しいながらも心の立派な、人のためにつくした人でなければ、真理の話としてこの話は成り立ちませんので、私はそういうことにして話をすすめてまいります。この話の中にアブラハムとかモーセとかいう名前がでてまいりますが、この方は皆様もご存知のように、旧約聖書に出てくる聖者であります。実際に立派な人格者であった古来の聖者たちです。
どなた
世界中の誰でもですが、古来からの誰方かの聖者の系列に必ず入っているのでありまして、日本人的に申せば、仏教的には法然親鸞の系列とか、弘法の系列、伝教の系列等々、或いは聖徳太子の系列とか、もっと古くなれば、神道の神々の系列というように、神々や聖者方の系列に入っているのであります。そういうことが普通ではわかりませんので私は、誰にも必ず守護の神霊がついていて下さるのだから、常に守護の神霊の加護に感謝しつつこの世の生活をしてゆきなさい、と説くわけで、守護の神霊が、すべてうまくやってくださるのです。
この聖書のラザロはアブラハムの系列に入る霊魂で、アブラハムの指導下に霊界における生活を営むわけであり、苦しんでいる富める人の五人の兄弟は、モーセの系列であって、モーセとモーセ傘下の予言者によってのみ救われに入ることになっているのです。ですから、他の系列の者の説法
では救われない、とアブラハムがいっているのであります。もう一つの考えはアブラハムを父神の地位に置き、父神は直接救いの立場には立たぬ、という意味もあるのです。こういうことを知りますと、嫌がるものを無理矢理自教団に入信せしめて、自分の点数かせぎをするというような信仰の在り方が間違いであることがすぐにわかります。信仰の道は嫌がるものに

無理強いすることではなく、自然に人がその人についてくるような人格を、まず自らが磨き上げて
270

ゆくことが大事なのです。
つまずきわざわい
次にイエスが、蹟物は必ず来らざるを得ず、されど之を来らす者は禍害なるかな、といっていま
いま
すし、もし汝らの兄弟罪を犯さば、これを戒しめよ、もし悔改めなば之をゆるせ。といっておりま
こう
すのは、過去世から今日までの自身でつくってきた業因縁は必ず巡って自分にかえってくる、これ
は覚悟しなければいけない。しかし、わざわざその人の業因縁を引き出して、その人を蹟つまずかせるようなことをする人は禍害を受ける、そういう愛のない、人を責め裁き痛めつけるようなことをするものではない、というのであります。もし友人や知人が罪を犯したら、その行為を反省させ悔い改めさせるようにすることは必要だが、責め裁いてはいけない。そして悔い改めたら、すぐにその人のそれまでの想念所業を許してやりなさい、とイエスはいっているのです。要するにイエスのいいたいことは、自分本位な利己主義な愛のない行為で人に接してはいけない。すべては自己の想念行為でその人のこの世の運命もあの世の運命もつくられてゆくのであるから、例え誤った行為を犯した人をも恨んだり憎んだり責め裁いたりすれば、その行為は自己の魂の
わざわい
汚れとなるのだから、それだけ禍害を受ける種になる。だから常に人を責め裁かず、いつも愛深い
想念行為をもってこの世もあの世をも生きぬきなさい、ということなのです。
私はこのイエスの教えをもう一歩進めて、自分を愛し、自分を赦し、ということと、大神様への
感謝は勿論、守護の神霊への感謝ということをすすめているのであります。そして、他人のことに
も自分のことにも、その善悪に把われぬようにするために、すべては過去世の因縁の消えてゆく姿
で、消えてゆくに従って、神の子の本心が現われてくるのですよ、と説いているのです。そしてそ
うした種々の事柄に把われる想念を、ひたすら世界人類の平和を願う、世界平和の祈りの中に入れきるようにして生活してゆきなさいと説くのであります。
イエスの一生は、愛そのものの一生で、人間は本来神の子であるのだけれど、小さく肉体の自己だけにしぼった欲望想念によって、この世が汚れてしまったのだから、この汚れた業想念に把われさせないで、神の子の本性を現わしてもらいたい、と祈りつづけておられたのであります。そのためには時に強い口調でゲヘナの火の恐ろしさを説き、時には、こういう行為は天国行きで、こうい
う行為はゲヘナ (地獄 )行きだと説いたりしておられ、ご自分は愛一念で貧富や地位の差なく、人々のための祈りをつづけ、遂いには人類の業生を軽くするために、自らの肉身を十字架上にかけてしまったのであります。
こういうイエスの一生を憶いますと、聖書を読んだ人々は、ただそれを心の慰めとして読むだけではなく、自らの行為として、イエスさんの真意を実行してゆかなけれぽいけないと思うのです。金持の人や地位の高い人は、それは過去世の陰徳が今生で返ってきて、その徳によって富有にな
2i2

り、地位も向上していったのでありますので、自己の過去世に感謝し祖先や守護の神霊に感謝しつづけ、少しでも自己の富や地位が、他の人々の役に立つようにと真剣に愛他の行をしなければいけないのです。
そう致しますれば、この聖書のような苦しい境界に死後になって落ちることはなく、今生も富有にそして霊界においても自由自在な境界に住みつき、神のみ心に近づいてゆくことが出来るのであります。
私は重ねて申しますが、聖書では金持が神のみ心に入ることはとてもむずかしい、と常に書いてありますが、それは金持にはおごり高ぶった人があまりに多いからなので、金持の誰もが神のみ心に入れない、というのではありません。どのような巨億の富を持ちましょうとも、その人の心が愛他の精神に燃えていて、人々や社会国家人類のためにプラスになる行ないをしていたならば、その人はそのまま天国の人なのです。過去世の徳を失わぬように、過去世につづいてますます陰徳を積んでおかれることこそ、富者や地位の高い人々のなすべきことだと思います。
それとともに、貧しく生れ、貧しい一生を終わらんとする人々は、今生で貧しければあの世で神の懐に入れるなどと簡単に考えてはいけません。金銭に貧しいように、常に不平不満をいいつづけ、想いも貧弱であるような人は、今生の貧しさの上にあの世でもまた、みじめな境界に落ちてし
まうのですから、貧しければなおさらのこと、人の幸福を願い、一心に世界平和の祈りのような人類愛の祈りをなしつづけ、少しでも人々や社会のためになるような行為をつづけることが大事なのです。すべては各自の想念行為のいかんによるのでありますから、常に神の愛を信じ、善い行ないをつづけてゆくことが貧富の差なく大事なことなのであります。
神の国の来ることについて
宗教信仰者にとって、一番気にかかることは、自分が救われるか、ということと神の国、地上天国がいつ現われるかという問題であります。
仏教の浄土門などでは、この世的な天国を説くことより、死後の西方極楽浄土というものを説いておりまして、西方極楽浄土の阿弥陀様の懐に抱かれるのは、死後という風に考えられております。それはその時代の被支配者階級は、どのように善くみようとしても、肉体の生あるうちに、天国浄土のような善い恵まれた環境になることは絶無に近い状態にあったからであります。
ところが、旧約聖書のメシア思想は、日本の鎌倉時代と同じように、一般民衆が天国の境涯のようなところに住むことなど考えられようもない状態なのに、この世的なアツ救メ世主を待ち望む希望を、
ユダヤ人に持たせつづけたのです。
この点で、日本の法然、親鸞への信仰が、あの世での救われを主にいたしておりますのに、キリストを信じたユダヤ民衆は、現世における神の国の実現を期待したのでありました。宗教信仰というものは、その国柄や時代の相違において異なってゆくものでありますから、他民族の古い時代の
とうしゆう
信仰方式や状態を新しい時代において、異なった民族が、そのまま踏襲してゆくことに無理があることは当然であります。しかし、イエスの教えも法然、親鸞の教えも根本においては同じであることが、聖書をみておりますと、よくわかります。そういう点もはっきりさせるために今日の時代には、新しい型の浄土門、新しい行き方のキリスト教信仰になることが、時代の流れにそった無理のない在り方というべきでありまして、それらの教えの根本を汚すことにはならないのであります。そこで今回は神の国についてイエスの教え方を、ルカ伝十七章二〇 1三七によって解説してまいりますが、神の国というものを、一般宗教人は、どういうものとして受け取っておられるかを考えてみましょう。
一般の人は、神の国というのは、着たいものは着ほうだい、食べたいものはどこにもあり、自分の想うことはなんでも叶う、という、自由自在な生活が出来るところであり、争いもなく、病気もない、平和そのものの国というように思っておられることでしょうが、実際に天国というところ
さんがい
を、霊覚でみますと、そういうところなのでありますが、この天国というのもまだ三界 (肉体界、
すい
幽界、霊界の下層 )でありまして、天人の五衰というように、精進しないでいると下に転落してしまう世界なのです。真の神の国というのは、一般の人が想っているのと大分違いまして、そういう自分勝手な自由を望んでいて得られるようなものではありませんで、調和した平和な国には相違ありませんが、遊び
ほう
呆けているようなところではなく、生命いきいきと活動している光明燦然たる世界なのであります。
神の国の何時きたるべきかをパリサイ人に問はれし時、イエス答へて言ひたまふ『神の国は見ゆべき状さコにて来らず。また「視よ、此処に在り」「彼かしこ処に在り」と人々言はざるべし。視よ、神の国は汝らの中に在るなり』かくて弟子たちに言ひ給ふ『なんぢら人の子の日のさ一ひとひ日を見んと思ふ日きたらん、然れど見ることを得じ。
かしニニニさゆいなづまか
そのとき、人々なんぢらに「見よ彼処に、見よ此処に」と言はん、然れど往くな、従ふな。それ電光の天の彼
なたしかさくるしみ
方より閃きて、天の此方に輝くごとく、人の子もその日には然あるべし。然れど人の子は先づ多くの苦難を受
しかにこぶね
け、かつ今の代に棄てらるべきなり。ノアの日にありし如く、人の子の日にも然あるべし。ノア方舟に入る日
めととつしほろぽ
までは、人々飲み食ひ嬰り嫁ぎなど為たりしが、洪水きたりて彼等をことごとく滅せり。ロトの日にも斯のごとく、人々飲み食ひ、売り買ひ、植ゑつけ、家造りなど為たりしが、ロトのソドムを出でし日に、天より火と硫黄と降りて、彼等をことごとく滅せり。人の子の顕はるる日にもその如くなるべし。その日には人もし屋の
うつわもの
上にをりて、器物、家の内にあらば、之を取らんとて下るな。畑にをる者も同じく帰るな。ロトの妻を憶へ。
おほよそ己が生命を全うせんとする者は、これを失い、失ふ者は、これを保つべし。われ汝らに告ぐ、その夜
のこうす
ふたりの男、一つ寝台に居らんに、一人は取られ、一人は遺されん。二人の女ともに臼ひき居らんに、一人は
しかばね
取られ、一人は遺されん』弟子たち答へて言ふ『主よ、それは何処ぞ』イエス言ひたまふ『屍体のある処には鷲も亦あつまらん』
この文のイエスの言葉の中で、最も重要な言葉は、『神の国は見ゆべき状さまには来らず、 1神の国は汝らの中に在るなり』というところと、『おほよそ己が生命を全うせんとする者は、これを失ひ、失ふ者は、これを保つべし』という二つの言葉であります。
普通の考えで不可解なのは、何故生命を完うしようとすると失い、失ったほうが生命を得るというのでしょう、ということです。こういうところにも、昔風な説き方が現代人にはわかりにくいということで、肉体に働いている個生命ということと、永遠の生命としての個生命ということをはっ
きりさせておかないと解釈しにくいことになります。
そこで現代の心霊科学の普及が大事になってくるのでありまして、人間は肉体の死の後に神霊の世界で個生命は存続してゆくものであるということを、一般の人々に多く知ってもらっておく必要があるのです。深い信仰というのは、現代人のように知識の発達している人間には、実際に示してみせる科学的な納得ということが土台になってなされてゆく場合が多いのであります。そういう点
で現代の宗教は科学との密接なるつながりを持って進んでゆかねばならぬし、そうすることによっ
て、一段の進化が人間の世界に起り得るのであります。
そういう意味で、この肉体の生命だけを失うまいとしている、そういう執着の想いがあると、永遠の生命のほうがわからなくなってしまい、肉体の死をもって長い間生命を失ってしまった状態になってしまう。ところが、永遠の生命、つまり神の生命ということを信じている人は、肉体的生命を失うことによって、永遠の生命がいきいきと生きることになり、かえって生命を得るということ
になる、とイエスはいうのであります。
そこで、前のほうの言葉の、神の国は汝らの中にあるのだ、という説法がきいてくるのです。神
の国というものが他動的にメシアによってもたらされてくるような錯覚をもっていたユダヤの国の
かしこ
人々に、そうではないのだ、神の国というのは眼に見えるように現われてくるのでも、彼処に在
ここ
る、此処にある、というものでもない。お前たちの心の中に在って、お前たちの心次第で、あの世的にも現われてくるのであるから、まず最初に自我の想いでこの世的の神の国を求めることを止めて、永遠の生命の現われとして、自我にわずらわされない心の奥の、本心の現われとしての神の国を求めよ、そうすることによって、この世がそのまま、その人にとっては神の国となってくることもあり、あの世において神の国に住むようになることもあるのだ、とイエスはいっているのです。
こういうことを言葉だけでわからせるのは、実にむずかしいことでありまして、科学的なものの
ない時代にどう説明してよいか、イエスも大変なことだったと思います。神の国というものは、最後には必ず形の世界にも現われるのでありますが、いかにメシア思想め盗れていたユダヤにして
も、イエス時代に現世的な神の国が現われることの不可能なことは霊覚者のイエスが一番よく知っ
ていたことで、イエスもやはり法然や親鸞と同じように、人間の内面的な悟りによって、神の国を
自分のものにすることを、民衆に教えたかったのであります。
こういう点で、法然親鸞のように、南無阿弥陀仏という、短い唱名の中に、自己の想念を投入させきってしまう他力の形をとったことは、自分たちの苦しい修行の中で、この他力道に到達したという長い経路がありまして、絶体絶命の境地からおのずと切り開かれた賢明な在り方だと思います。一方のイエスのほうは、三十年という短い生涯の中で、この世の天命を果し終えなければならぬのですから、自己の修行で宗教の道を編み出してゆくという時間がありません。すべて天使、守護の神霊との一体化によって、説法も行動も、この世の波に合わせてゆくのではなく、天降り式に行なわれていたのでありますので、力は強いのですが、どうしてもこの世との摩擦が起りやすかったのです。そこで信者は自力と他力との入り交じった行動の中で、イエスの言葉を神の言葉として各自、道を広めていったのであります。神の国の説明にしても、法然親鷲の場合には、はじめっから、肉体人間の無力ということを土台にして、阿弥陀仏に救済してもらうという一点張りで唱名念仏させていたわけで、信徒が地上天国を願うことより、・魂の救われを主にしていましたので、一つに纒りやすかったと思います。法然や親鸞にしても勿論苦難の道は絶えなかったのですが、イエスほどの悲愴感はありません。しかし、
イエスの説法の一言一句ににじみ出てくるものは、肉体身を持ったイエスという人の天命の悲しさ
であります。
しかま
『然れど人の子は先づ多くの苦難を受け、かつ今の代に棄てらるべきなり』などという言葉の中に籠る、自己の未来を見通している者の悲しみを心身にひびいてくるように感じるのはあに私のみではないでしょう。旧約聖書におけるユダヤ人の迫害につぐ迫害の歴史が、違った形で選ばれたる神の子イエスの肉身に及ぼしてゆくのです。考えようによっては、イエスは旧約聖書のメシア思想
の犠牲者ともいえるのであります。これはあくまで肉体的イエスを考えた場合であって、イエス・
メシア
キリストとしてのイエスは光り輝きつづけた最高の天使であり、救世主の一人であったのです。先に説明しました、生命を完うせんとする者はこれを失い、ということの実証として、アブラハムの弟の子のロトとロトの妻のことが書いてありますが、ロトは正しき者であって「エホバはこの
わら
町を滅ぼす」という天使の声を聞いて、多くの人々にこのことを告げるのですが、誰もあざ唆って
zso

信じようともせず、ロトの妻は、焼ける町の中に失われる自分の宝を取りにいって死んでしまうの
きた
です。こういう話をしながら、イエスは肉体身にまつわる欲望のあるうちは、神の国はその人に来らないのだし、そういう人々の多いうちは、この世的には神の国は現われない。自分の心境の中に、そしてこの世的にも神の国の現われるのは、ロトのように天使の声のままに自己の行動をする
ゆる
ものである、というのですが、私流にいえば、常に自分を愛し、人を愛し、自分を赦し、人を赦す
生活のうちに、ひたすら、人類すべての幸福を願う、世界平和の祈りのような、高い深い人類愛の祈り心で生活している人々は、常に神の国に住んでいるものであると同時に、未来における地上天国を築きあげている一人である、といえるのであります。
なんにしても、肉体身の欲望を常に消滅させてゆくように精進することは、宗教的には大事なこ
とであり、人格完成のためにも大切なことなのは昔も今も変りありません。私は常に申しているの
ですが、宗教的な戒律にあまり把われることはありませんが、肉体的な欲望に把われないと、本心
がいきいきと輝やきますし、生命が自由にいきいきとしてきますから、やはり、日頃から祈り心を
もって、神のみ心の中に入っていることが大事です。
神の国に常に住んでいるためにも、地球世界に神の国を顕現するためにも、自己の心を調和さ
せ、他との調和を主として生きてゆく必要があるのです。消えてゆく姿で世界平和の祈りを、クリスチャソの人もキリスト教の祈りとともに、是非実行していただきたいと願う次第です。
祈りについて
宗教というものが、どのような宗教でも、種々と形は違いますが、祈ゲを重要視していない宗教はありません。仏教の坐禅などは、祈りとは違ったもののようにみえますが、やはり祈りの姿なのです。
にごさわ
祈りとは常に私が申しますように、汚れや濁りや硬りという、生命の働きを損うあらゆる状態から超越して、生命そのままを現わすための方法です。生命そのままとは、生命は神より来ているものですから、神と一つにつながって、神の生命がそのままそこに現われた状態をいうのであります。
ですから仏教で坐禅観法して、あらゆる欲望を空にして、み仏の本質を自己の上に現わす、ということは祈りの状態そのものであるわけです。
はず
ところが民間で行なわれている祈りというものは、ともすると、そうした祈りの本質を外れて、ただ自己の欲望達成のために、自己以外の力にすがりつこうとする状態と、誤り考えているような
がま
のです。現世利益のためには、お墓様でも、お狐様でも、お蛇様でもなんでもかまわず、お願いし ますと掌を合わせること、それが祈りだと思っているのですが、とんでもない間違いでありまして、そういう心の状態は、祈りとはなんら関係ない行為であります。何故ならば、祈りとは生命の
のカルて
本質を現わすためのものであり、生命を宣り出すためのものであり、業想念をふりはらって、神と
の一体化を成就するための行為であるのですから、ただ単に肉体生活の利害関係を他の力にすがっ
て有利にしようなどという行為が、祈りの本質であるわけがありません。仏陀はそういう行為を嫌
われて、自己以外の何々様という神様らしくよそおう他の力にすがらぬようにと、自己内部の仏を
見出す、坐禅を教えたのであります。肉体を超越した自己の奥深くに働いている自己の本心が即ち仏であり、神であるのだ、ということを、自己の内面を一心に見つめることによって悟る、という方法を釈尊は弟子たちに教えているのです。
ところがイエスは、釈尊と同じように、「我が内に神はおわす」と教えると同時に、天にまします我等の神よ、というように、肉体人間を離れた天のほうにおわす、絶対者である神をあがめることも教えているのであります。
どちらかというと、我が内におわす神、という、釈尊的な教えよりも、より多く、天にまします神、という、肉体人間を遠く離れた、至上至尊の存在者としての神を教えることが多かったのです。そして肉体人間を、親鸞と同じように、汚れたるものとし、下僕ともいっていたりするのです。ではイエスの祈りについての在り方を、ルカ伝十八章一ー十七によって説き明かしてまいりま

しょう o
なおちたとえあるまちおそかえりさいばんにん
また彼らに落胆せずして常に祈るべきことを、讐にて語り言ひ給ふ『或町に神を畏れず、人を顧みぬ裁判人
やもめしばしほあださなひさ
あり。その町に寡婦ありて、屡次その許にゆき「我がために仇を審きたまへ」と言ふ。かれ久しく聴き入れざり
うちやもめわずらさば
しが、其ののち心の中に言ふ「われ神を畏れず、人を顧みねど、此の寡婦われを煩はせば、我かれが為に審か
しかなやオ
ん、然らずば絶えず来りて我を悩さん」と』主いひ給ふ『不義なる裁判人の言ふことを聴け、まして神は夜昼
たとついさほ
よばはる選民のために、縦ひ遅くとも遂に審き給はざらんや。我なんぢらに告ぐ、速かに審き給はん。然れど人の子の来るとき地上に信仰を見んや』また己を義と信じ、他人を軽しむる老どもに此の磐を言ひたまふ『二人

のもの祈らんとて宮にのぼる、一人はパリサイ人、ひとりは取税人なり。パリサイ人、たちて心の中に斯く祈
うばい
る「神よ、我はほかの人の、強奪・不義・姦淫するが如き者ならず、又この取税人の如くならぬを感謝す。我
ささにるか
は一週のうちに二度断食し、凡て得るものの十分の一を鍬ぐ」然るに取税人は遥に立ちて、目を天に向くる事
あわれ
だにせず、胸を打ちて言ふ「神よ、罪人なる我を欄みたまへ」われ汝らに告ぐ、この人は、かの人よりも義とせられて、己たこおのが家に下り往けり。おほよそ己を高うする者は卑うせられ、己を卑ひくうする者は高うせらるるなり』
さわみどりごいユし
イエスの触り給はんことを望みて、人々嬰児らを連れ来りしに、弟子たち之を見て禁めたれば、イエス幼児
らを呼びよせて言ひたまふ『幼児らの我に来るを許して止むな、神の国は斯かくのごとき老の国なり。われ誠に汝
らに告ぐ、おほよそ幼児のごとくに神の国をうくる老ならずば、之に入ること能はず』
かえり
最初の神を畏れず、人を顧みぬ不義なる裁判人については、そういうつまらぬ裁判人でも、いく
やもめ
ら断わられても熱心に訴えてくる寡婦の訴えは、聴きとめずにはいられなくなってしまって、遂いに寡婦のために審きをつけてやっている。まして、神は夜でも昼でも、神を呼びつづけている信仰深い、選ばれたる民のために、たといそれが遅くなることがあったとしても、必ず、きちんと、その是非、正邪をはっきりと審き給うであろう。
しかしながら人の子、つまりイエス・キリストの来るとき地上には、イエス・キリストを神の子と信じ、神に対する純心なる信仰がみられるのであろうか、とイエスは未来の自己の運命を見透して、こう慨嘆しているわけなのであります。
イエスは、神は必ず善悪正邪をはっきりした形でおしめしになるにきまっているし、必ずやがては地上天国が出来ることも信じきっているのでありますから、弟子たちに向って、確信をもってそのことを説いているわけでありますし、弟子たちもイエスの権威ある言葉に、ますます信仰を深めてゆくわけなのですが、肉体人間としてのイエスの胸中には、常に未来の自己の大犠牲の姿が浮び上がるのであります。勿論そういうことに把われているようなイエスではないのですが、キリストとしての本体とイエスとして肉体に現われている自己とのギャップが全然ないというわけにはまいりません。私なども神の生命そのまま道を説いている時の自分と、肉体身としてこの世の生活の中
にある自分とのギャップを常に感じながら、消えてゆく姿の教えの中でこれを大調和させているの
でありますのでイエスの胸中が実によくわかるのです。
それから次のパリサイ人と取税人との話ですが、パリサイ人は神の宮のことについての役目をしている人であり、片方は人に嫌みきらわれている取税人です。パリサイ人のほうには選民意識がありまして、得々と自己の行ないのよいことを、自己自身で想っています。
しかし、取税人のほうは、役目とはいえ常に民衆から金を取りあげており、民衆から恨まれ嫌が
られておることを知っております。そのことがいつも罪意識として、彼の心にあるものですから、真ロも正面に神のほうに顔をむけることが出来ぬような気持になとっていて、ただひたすら、神にその罪を詑びつづけている心境なのです。
イエスは、この二人の信仰の在り方をみて、取税人の心の在り方のほうに軍配をあげているのです。これは、親鸞の「善人もて救わる、なお悪人をや」というのと全く同じ考え方でありまして、
いや
自分は悪いことをしたことはないと思い上がっている人より、自己を罪人とみて卑しくしている者のほうが、神のみ心の中では高くせらるる、というのです。全く、善人誇りの思いあがった人程嫌味なものはありませんが、常に善いことばかりしていながら、自分は駄目なのです、卑しいものなのです、と暗い気持をもっているようですと、実はこれも
ひげまん
神のみ心に叶わぬ生き方なのです。私はこれを卑下慢と呼んでいますが、人間は置かれた環境が善い悪いということは過去世の因縁によるもので、その環境において、自己を裁かず他を裁かず、すべてを過去世の因縁の消えてゆく姿として、全力を挙げて善に向って進んでゆくことが唯一のことなので、自分を罪人です、悪い人間です、といつもいつも想っていてはいけないのです。そのためにこそ祈りというものがあるので、もっと素直に伸びのびと神のみ心の中に入っていってもよいのではないのでしょうか。
その点、キリスト教の人には、偽善的な人が多く出来て、表面では謙虚なようなふるまいをし、内には誇りをもっているような人がいるのです。これは聖書の読み方が悪いのか、先輩たちの指導が間違っているかするのでありますから、聖書を読むなら、イエスの真意をよく汲み取るようにして読まないと、暗い小さい善人になりかねません。
生命を生きいきと生かす、伸びのびと生きる、ということが祈りの本質でありますし、イエスもそう教えているわけなのですが、イエスのいた頃のユダヤの状態が、生きいきと伸びのびと生きられるような状態ではなかったので、聖書の上にもともすると、悲哀の情が流れているような感じを受けるのです。またそういうひびきが今日のキリスト教の発展の基となっているのかも知れません
が、神の本質は常に大調和であり、光明であって、生命生きいきとすることにあるのを忘れてはなりません。日本の神道的な大らかさ、純心さというものは、人間の進化のための大事な要素なのです。
次の「おおよそ幼児のごとくに神の国をうくる者ならずば、之に入ること能わず」というイエスの言葉が、非常に信仰の大切な心でありまして、幼児がいちいち私は罪深い者で卑しいものでなどといっているでありましょうか。体がよごれていようと、汚い着物をきていようと、なんでもなく純心に素直に神の膝に抱かれるのです。
肉体人間は、この未完成の地球世界に住んでいるのですから、どうしても汚れがちです。大勢の想いの流れが、自己本位であり、自国家本位なのですし、そうしなければ生きにくいことの多い世界です。こんな世界にいて、ちょっとした、ミスにも気がとがめて、自分を責めてばかりいたら、生命が伸びのびとすることはありません。不自由きわまりのない生き方になってしまいます。
常に自分の想念行為を顧みて、誤ったところ、悪いと思われるところは、すぐに改めるようにしてゆくことは必要ですが、いつも自分を罪人だの悪人だのと思って、生命を縮めているのは、あまり感心した生き方ではありません。イエスの皆にわからせたいことは、肉体人間自身の自己という
はず
ものは、常に真理から踏み外れがちなものであって、とても自己を誇れるようなものではない、ちょっとやそっとの善をなしたからといって、神のみ心に近づいたと思っても、どうしても、神めみ
心とは甚だしい差異があるもので、そんな小さな善を誇っているようでは、とても神のみ心の中には入れない。かえって、肉体身の自己は駄目なものなり、とはっきり肉体人間の無力を悟ることによって、はじめて神のみ心との一体化がなされるのである、ということでありまして、神のみ心に通じている自己、もうすでに神に全託しようとしている自己を、罪人とか悪人とか思う必要はないのです。
自己の悪を認め、罪を認めた時に、それを認めた心、そして悔い改めようとしている心は、すでに本心の開発された姿でありまして、その心は神のみ心の中にある心なのです。そこで私は、すべては消えてゆく姿と教えているのであり、消えてゆくに従って本心が開かれてゆくのだから、常に自分の想いを、神のみ心の中に祈り言によって入れて置きなさい、というのであります。それがキリスト教でいう主の祈りと等しい世界平和の祈りに結びついて、消えてゆく姿を「世界
人類が平和でありますように」という祈り言の中に入れきってしまうのです。イエスは、神は我が内にあり、といっているのでありますので、この内なる神を発現させるためには、その神の光明を蔽いかくしている肉体我の自己を罪人なりと否定し、愚かなるものと明らかにして、肉体身の自己を超えた、神の子の自己の中に常に自己の想念をもってゆく生活をすることを教えているのが、イ
エスさんなのです。
ここのところを間違えないようにしないと、偽善者になったり、暗い善人になったりしてしまうのであります。聖書を読むのにも、その文字だけを読むのではなく、神のみ心をその中から汲み取ってゆかねばなりません。神は決して人間に出来ぬような行為をおさせになる気づかいはありません。神の愛を噛みしめながら、宗教の書は読むべきです。
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イエスの権威
宗教の教祖や先達というものは、常に断乎たる確信と権威とを持っていませんと、人々を導いてゆくわけにはまいりません。イエスの話す言葉には一言一句権威がありましたし、その風貌や雰囲気には、神秘に充ちたものがありました。現代の新しい宗教の教祖たちの権威や神秘性と、イエスのそれとがどう違うかは別として、妖気の漂っているような神秘性というものをもっている宗教者に時折り会うことがあります。
すがすが
私の霊心に映じますイエスは、妖気などというものは少しもない、清々しい神々しさを感じさせます。いかに霊力があるようにみえる宗教者でも、その人に妖気を感ずるようであったら、その人は神の使徒ではないと思わなければいけません。人格の高さがそのまま霊力、神秘力に結びついているような人こそ、真の宗教者であるわけで、そういう人は、その雰囲気が輝やいているようで、清らかであるか、明るい迫力をもっているもの
であります。イエスの場合は、目前に大犠牲者としての運命が待っていることがわかっていたため蹴でもありましょうが、明朗さとか、無邪気な明るさ、とかいうものは感じられませんが、高い権威と、清らかさは誰にでも感じられたことと思います。
いかなる事態が起ろうと、神の使徒の座から一歩も離れることをしなかった、イエスの権威ある
メシヤ
態度は、弟子や信者たちには、実に頼もしい救世主の姿であり、頼むに足りる師であったわけですが、反対派の人々の心を恐怖させ、一日も早く、この人間をこの地上から去らしめたい、という畏怖からくる反抗心を湧き立たせたのでありました。ではまた、マタイ伝十六章十三節より二八節ま
でを掲げます。
イェス、ピリポ、カイザリヤの地方にいたり、弟子たちに問ひて言ひたまふ「人々は人の子を誰と言ふか」
彼等いふ「或人はバプテスマのヨハネ、或人はエリヤ、或人はエレミヤ、また預言者の一人」彼らに言ひたまふ「なんぢらは我を誰と言ふか」シモン・ペテロ答へて言ふ「なんぢはキリスト、活ける神の子なり」イェス答へて言ひ給ふ「パルヨナ・シモン、汝は幸福さいわいなり。汝に之を示したるは血肉にあらず、天にいます我が父な

り。我はまた汝に告ぐ、汝はペテロなり、我この磐の上に我が教会を建てん、黄泉の門はこれに勝たざるべよ
つな
し。われ天国の鍵を汝に与へん、凡そ汝が地にて縛ぐ所は、天にも縛ぎ、地にて解く所は天にても解くなり」髪にイエス己がキリストなる事を誰にも告ぐなと弟子たちを戒め給へり。
この時よりイエス・キリスト、弟子たちに己のエルサレムに往きて、長老・祭司長・学者らより多くの苦難くるしみ
かたえ
を受け、かつ殺され、三日めに甦へるべき事を示し始めたまふ。ペテロ、イエスを傍にひき、戒め出でて言ふ「主よ、然あらざれ、此の事なんぢに起らざるべし」イエス振反りてペテロに言ひ給ふ「サタソよ、我が後に
つまづき
退け、汝はわが顕物なり、汝は神のことを思はず、反って人のことを思ふ」髪ここにイエス弟子たちに言ひたまふ「人もし我に従ひ来らんと思はば、己をすて、己が十字架を負ひて、我に
いのち
従へ。 ,己が生命を救はんと思ふ者は、これを失ひ、我がために、己が生命をうしなふ者は、之を得べし。人、
しろ
全世界をもうくとも、己が生命を損せば、何の益あらん、又その生命の代に何を与へんや。人の子は父の栄光
おこない
をもて、御使たちと共に来らん。その時おのおのの行為に随ひて報ゆべし。誠に汝らに告ぐ、ここに立つ者のうちに、人の子のその国をもて来るを見るまでは、死を味はぬ者どもあり」
この節にもありますが、イエスは自分のことを、よく、人の子という言葉でいいます。何故私とか当り前のいい方をしなかったのでしょう。聖書辞典には、次のように書いてあります。 1旧約の用例では単に人を意味している場合がある。最も注目すべき用法は、メシヤをさして用いているダニエル書である。
「見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来る、とその前に導かれた。彼に主権と光栄と国とを賜い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、なくなることがなく、その国は滅びることがない」そしてその国は、「いと高き者の聖徒たる民に与えられ」その民を代表するのが、人の子である。
しかも人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。ダニエル書にあるように、人の子による永遠の国の確立は、彼の受難と死によって実現される。こうして人の子は受難ののちに栄光を受ける。だからイエスが人の子と自分のことをいっているのは、そういう救世主キリストでありメシヤであることを自
覚していていっておられるのだ –
私はそういうこともあったでありましょうが、人というのが本来霊の止まるところという意味の言葉でありますので、そういう霊の止まっている光明体をもって、人々にその光明を分ち与える者、という意味も含まれていたのであろうと思います。
なんにしても、イエスの神の使徒としての自覚は確然としたものでありまして、神のみ心を現わすことが、イエスにとっては最大最高の天命であったのです。ですから、シモンペテロが、なんじはキリスト、活ける神の子なり、というと、イエスはペテロを非常にほめるわけです。そして、今度は、イエスがみずからの受難の予言をはじめると、ペテロが、主にはそんな受難などあるわけが
こと
ありません、とイエスの身をかばう言をいいますと、イエスはペテロをサタン呼ばわりして、汝は
かえ
わがつまづき、汝は神のことを思わず、反って人のことを思う、とペテロを叱りつけます。
イエスの心には、神のみ心を現わすこと以外の何ものもなかったわけで、自分の肉体身も、ただそのためにだけある、ということをよく自覚しておられたのです。神のみ心を現わすためには、自分の肉体身の受難など、問題にしていないのであります。こういうイエスの態度をみていますと、
イエスという人は、普通いう肉体身ではなく、肉体にありながら霊身そのものによって行動していた方で、本来はそうあるべき真人の姿そのものであったことがよくわかります。実際に、この肉体身などというものは、あくまで、神のみ心を現わすための一つの場であり、器であることは事実なので、私なども幾多の霊修業によって、よくその真理を呑みこんでおります。そういう自覚がなければ、真の宗教指導老になれるものでもなければ、世界平和を実現させる大きな力となるわけもありません。肉体的にみれば、イエスの十字架上の死は悲惨でもあり、哀れでもありますが、イエスの霊身にとってはなんでもないことで、瞬間的な肉体の苦痛だけであったのです。しかし、そういう師の受難の予言をきかされたペテロや他の弟子たちの驚きや不安は、大変なものであったでしょうし、また、そんな馬鹿なことが、メシヤであるべきイエス様にあるはずがないと思ったのも無理からぬことで、ペテロが、師にそんなことはありません、と否定して、叱りつけられたわけです。イエスが弟子たちに知らせたいことは、永遠の生命をみんなが自己のものとすることであり、そ
の心境になり得て、はじめて、神の国をこの世に実現せしめる、神の使徒になり得るのだ、ということなのです。「人もし我に従い来らんと思わば、己をすて、己が十字架を負いて、我に従え、己が生命を救わんと思う者は、これを失い、我がために、己が生命をうしなう者は、之を得べし」以下すべて、肉体身に把われる想いをすぺてすてて、イエス・キリストを通してつながり得る永遠の生命 (神)に全託しなければいけない。人がもし、この地球世界全部を自己のものとしたとしても、自分の本体である、永遠の生命を失ってしまったら、これほどの損失はないのだ、と説きつづけているのであります。
実にこの言や真でありまして、肉体身やそれにまつわる損得などは、百年とは保たないのであります。しかし、永遠の生命を得たる者は、永遠にその生命を輝やかし得るので、肉体界の智慧や富など問題にならぬ、大きな智慧や富を得るのであります。
だがしかし、現在の地球界には、このイエスの真理の言葉が、そのまま素直に受け入れられない、厚い黒雲が蔽っているのです。その黒雲を浄め去るために、世の真の宗教者の働きが必要なのでありまして、私は世界平和の祈りという、神のみ心そのままの祈り言によって地球世界の浄化を
実践しているのであります。
この世に現在、己が十字架を負って、イエス・キリスト (真理 )に従ってゆく人がどれほどあるでしょうか。肉体の生命や、肉体生活の損得を一切考えないで、真理のためだけ、神のみ心のためだけに働いている人が、どれほど存在するでしょうか。私は残念ながら、数えられるほどの人数しかないと思うのです。
ですから、イエスの言葉をそのまま行なえない人でも、イエスのいうことを、真理であり、神のみ心である、ということを肯定し得る人は、一ぺんにこの言葉を実行にうつそうと力まないで、徐々に行なってゆくように考えてゆくべきなのです。イエスのこの言葉を行っているように、人にみせようとすると、どうしても偽善になりがちだ
し、自分に示そうとすれば、そのマイナスの行為だけ、自己を責め裁くことになります。あるいは自己が行い得ても、自己の周囲の人々の現世の利害関係に反したりして、周囲の人々の攻撃にあっ
たりすることも多いのです。
キリスト教の人々には、善い人も多いのですが偽善者も多くいるのであります。何故そうなるかと申しますと、イエスの説いているところが、真正面から真理を行ずることにありますので、よほど深い愛と、真理を行ずる勇気がありませんと、善い人は善い人で自己を責め裁くことが多くなり、良心的でない人は偽善者になってしまうのであります。
偽善者であっても、人のためや社会のためにつくしていれば、つくさぬ人や、悪いことをする人よりはよいのでありましょうが、それでは、自己の神性を開くことが遅れてしまうのであります。ですから、そういう心の状態にならないで、イエス・キリストのみ教えを行じることが出来れば、
これにこしたことはないのです。
神の世をこの世に現わそうとするためには、まず自己が永遠の生命を現わすことが大事なのであり、神のみ心と一つになることが大切なのですが、これをあまり焦って、短兵急にやろうとすると、かえって逆な結果になってしまうのです。
イエスにしても釈尊にしても、老子にしても、すべて最高の境地を説いているのでありますし、そうした聖祖は、みずからはその境地になりきっていたのでありますが、その境地というものになりきれる人は、そう数多くはないのです。そこで、法然や親鸞のような易行道を行じさせた宗教者もでてきているわけなので、各人その器量に応じて自己の道を進んでゆく必要があるのです。決して自己の心をあざむいて、それで善しとしてはいけません。私はそういう人の心の状態をよく知っておりますので、聖書を説くにあたっても、行じやすいように説くことを忘れないのです。

イエスと守護天使との交流
キリスト教の信者や、仏教の信者の中でも、霊的現象を嫌う人がおりますが、宗教の世界には霊的現象は、切り離して考えることの出来ないものなのであります。イエスの一生もこの霊的現象が
つきまとっておりまして、イエスが主なる神のみ心を、弟子たちに説きながらも常にその背景とし
て、霊的現象を現わしております。
普通の人が、唯一の人生のように思っておりますこの肉体世界は、真理を知った者の眼からすれ
ば、単なる一つの現われに過ぎないもので、一段々々と奥深い世界があることを知っているのです。ですから目覚めたる者、つまり霊覚者の歩むところ、幾多の霊的現象が現われることは必然の理なのでありまして、霊覚老の一生において、霊的現象が一度もなかったなどということは絶対にあり得ない・ことなのです。
何故かと申しますと、霊覚者と申します者は、神霊幽肉を通して働いている人でありまして、霊
身そのものの人というべきなので、肉身はこの世を救う便宜上の体として纒っているに過ぎないの
みずか
です。イエスが、人類の原罪をはらすために、自らの肉体を十字架上にかけたのも、イエスがすで
に霊身そのものとして、道を説いていたのを、守護の神霊、天使方が知っておられて、肉体のイエ
スを消滅させることによって、この地球人類に神への信を急速に広め得る、という考えがあっての
ことなのです。
守護の神霊とイエスとの合意によってこのことがなされたのであります。次の聖書の章では、守護の天使とイエスとが常に話合って、この世の動きを定めていたことを、よく伺うことができます。

六日の後、イエス、ペテロ、ヤコブ及びヤコブの兄弟ヨハネを率きつれ、人を避けて高き山に登りたまふ。
斯く彼らの前にて其の状さまかはり、其の顔は日のごとく輝き、その衣は光のごとく白くなりぬ。視よ、モーセと
エリヤとイエスに語りつつ彼らに現る。ペテロ差出でてイエスに言ふ『主よ、我らの此処に居るは善し。御意
ならぽ、我ここに三の鷹をいおり造り、一つを汝のため、一つをモーセのため、一つをエリヤの為にせん』彼なほ語
いわいつく
りをるとき、視よ、光れる雲、かれらを覆ふ。また雲より声あり、曰く『これは我が愛しむ子、わが悦ぶ者な
おモ
り、汝ら之に聴け』弟子たち之を聞きて倒れ伏し、催るること甚だし。イエスその許にきたり之に触りて『起
きよ、催るな』と言ひ給へば、彼ら目を挙げしに、イエス一人の他は誰も見えざりき。
山を下るとき、イエス彼らに命じて言ひたまふ『人の子の、死人の中より甦へるまでは、見たることを誰に

も語るな』弟子たち問ひて言ふ『さらば、エリヤ先づ来るべしと学者らの言ふは何ぞ』答えて言ひたまふ『実
o

にエリヤ来りて属が事をあらためん。我なんぢらに告ぐ、エリヤは既に来れり。然れど人々これを知らず、反
あしらここ
つて心のままに待へり。斯のごとく人の子もまた人々より苦しめらるべし』髪に弟子たちパフテスマのヨハネりを指して言ひ給ひしなるを悟れり。かれら葉の説に到りしとミ或人・羅にきたり・脆づきて言ふ『主よ、わが子を欄みたまへ。懸にて
いや
鰹み、しばしば火の中に、しばしば水の中に倒るるなり。之を御弟子たちに連れ来りしに、医すこと能はざり
き』イエス答へて言ひ給ふ『ああ信なき曲れる代なるかな、我いつまで汝らと借にをらん、何時まで汝らを忍ぽん。その子を我に連れきたれ』遂にイエスこれを禁いましめ給へば、悪鬼いでてその子この時より癒えたり。袈に弟子たち憲イエスに来りて言ふ『われらは何故に逐ひ牒し得ざりしか』彼らに ・
ひ給ふ『なんぢら信仰うすき故なり。誠に汝らに告ぐ、もし芥種一粒ほどの信仰あらば、この山に「此処より彼かしこ処に移れ」と言ふとも移

らん、斯て汝ら能はぬこと無かるべし』 (マタイ伝第十七章一ー二〇)
この章にありますように、イエスは、モーセとかエリヤという、昔の覚者で現在は守護の神霊と
みずか
なっておられる方々や、ミカエル、ガブリエル等々の天使方と、常に交流し合って、自らのこの世の使命を果していたのであります。
ペテロや弟子たちには、モーセとエリヤしか見えなかったのでしょうが、その高き山にはその他幾十もの神霊霊人が、イエスの前後に輝きわたっていたのです。そしてそうした神霊の光明波動に照し出されて、イエスの本体である白光が燦然と輝き出でたのであります。それが、その顔は日のごとく輝き、その衣は光のごとく輝き、白くなりぬ、という表現で現われているのです。
宗教者は昔から山に登って修業したりしますが、高い山には、神霊霊人が多く住んでおりますの
で、山で修業することは、霊的な向上には大きなプラスになるのです。イエスなども、少年の頃から、常に山に登って修業していたのであります。
えんおつぬ
日本の役の小角などは、多くの霊山を開いた大霊覚者ですが、私など山にまいりますと、神霊方や、役の行者の弟子であった霊人たちが、常に出迎えに出てくれます。山に登るのにただ面白半分に登ったり、征服してやるなどという生意気な気持で登ったりすることは、絶対にいましめなければいけません。常に六根清浄の気持で、神霊や霊人方を礼拝する気持で登ってゆくべきなのです。
イエスが白光の本体にかえって、モーセやエリヤと話し合っているのをみて、ペテロはじめ弟子
たちはさぞ驚いたことでありましょうが、その霊眼にみえてもみえなくとも、守護の神霊や霊人方
は、常に霊的指導者の背後にあって、手を取りあって地球人類救済のために働きつづけられている
のであります。
いおり
ここでペテロが、御心ならば、我ここに三つの盧を造りたい、というようなことをいっておりま
すが、モーセにしてもエリヤにしても自由自在心でありますので、今更物質界の盧など必要ないの
ひびき
で、イエスという代表者の波動に合わせてこの世の働きをしているわけなのです。
要は肉体界に存在している覚者の波動に合わせて神霊方は働かれるのでありまして、神霊方の波動と一つになり得る肉体界の住人が多ければ多いほど、神霊方の働く力は大きくなるのであります。私が一人でも多く世界平和の祈りの同志が出来ることを切望しているのも、世界人類の平和を祈る、そのひびきは神霊方の地球人類救済のひびきと全く一つのものなので、そういうひびきを出し得る人を、たくさんつくり出して、一日も早く人類を真の平安に導き入れたいと思っているからなのです。
聖書を読まれる方は、イエスのこういう神霊との交流にもっと心を打たれてしかるべきなのですが、この辺はなんとなく読み過して心にとめていないのではないかと思います。この世の救済もあ
の世の救済も、守護の神霊、天使方との一体化がなされねば、絶対に不可能であることを、また重
ねて申し上げておきます。
聖書を読む人は、大体イソテリジェソスのある人が多いのですが、聖書を読むことによって自己の良心を満足させる、という人がありまして、読んで行なうことが大事なのですし、神霊の世界と肉体世界の交流という大事なことを見落してはいけないのだということを忘れているのです。
仏教聖典の中でも、釈尊が神霊と交流しているところや、釈尊の肉体波動が薄れて、霊波動にな
りきり、釈尊の体が巨大に広がってゆく様子を、弟子たちがみているところなどがでてまいりますが、聖者覚者というものの体は、五尺や六尺の肉体身など問題にならぬ巨大なものでありまして、無限に広がり得るものなのです。
ということは、肉体人間としてここに現われている皆さんすべてが、実は本体は霊身であって、無限大の広がりをもつものである、ということを聖者覚者が実証してみせてくれているということでありまして、誰もやがてはそうなり得る、ということでもあるのです。
実際に、この肉体界において、信心厚き人の一家にでも様々な不幸が起ったりしまして、この一生だけの判定でははかり知れないものがありますが、過去から未来までつ父く、この現象世界の出来事を、すべて消えてゆく姿と観じ、常に自己の本体であり本心である神のみ心の中に、守護の神霊への感謝の想いで入りつづけてゆくことが大事なのであります。守護の神霊との一体化を行じている人は、いつでも守護の神霊に見守られ、常に自己をも含めた社会国家人類のために何かしらの貢献をしてゆく行為が、自然に出来ていくようになるのであり、自己の過去世の悪因縁もやがては
おの
自ずと消滅していってしまうのであります。
イエスは三十いくつも出ないで肉体を捨て去ったのですが、二千年もたった今日でも人々の心の
中に生きいきと生きていると同じように、肉体人間としての生涯を終っても、その人の生き方いか
んによっては、永遠の生命を生きいきと生きることができるのであります。
永遠の生命のたった一齢の百年余の人生において、悪賢く、悪因縁を残してまで、高い地位や物質を得ようとする必要がどこにありましょうか。この肉体人間の栄華を捨ててでも永遠の生命を得
るほうが、まだどれだけその人の本心にとって幸せであるかわかりません。それにも増してよいこ
とは、置かれた立場をそのまま感謝しながら、神との一体化の出来得る世界平和の祈りをしてゆく
ことなのです。
イエス・キリストの栄光は、人類永遠の平和を願って輝きわたっております。イエスこそ真の平
和の使徒でありますが、あまりにも真理に忠実すぎて、その頃の人々に多くの誤解を受け、十字架
上にかけられたわけなのですが、これも今日のキリスト教発展のための守護の天使のはからいごと
であったのです。
この章に出てくるセーセのことは皆さんよくご存知ですが、エリヤのことはあまり知ってはおら
ないようです。エリヤというのは、旧約聖書にあらわれる聖者中第一というべき霊能豊かな人で、
空を飛び海を渡り、あらゆる奇蹟的行事を行なった人なのでありまして、キリストが現われる前に
は必ず、このエリヤの生れ代りである人物が現われるということになっておりましたが、イエスは
エリヤの再来は洗霊のヨハネであることを弟子たちに示しております。前にもくわしく書きました
が、ヨハネほど神を信じ豪胆に自己の行くべき道を堂々と歩いた人は、この世に数少いのでありま
す。イエスが、人の母が生んだ最大の聖者であると、ヨハネを称えておりますのも、むべなるかなと思います。私は霊的にヨハネをよく知っておりますので、イエス・キリストを思うと同じようにヨハネを思っては涙ぐんできます。偉い偉い人だったのです。全くエリヤの再来だったのです。
しかしイエスの立場は、中心者であり、ヨハネの立場はイエスの先達であったので、イエスを通して、ヨハネは今日に生きてきたといってもよいのです。話は変りますが、この節の終りのほうでイエスは弟子の癒せぬてんかんを癒して「もしからし種一粒ほどの信仰あらば、この山に此処より彼処に移れと言うとも移らん、斯て汝ら能わぬこと無かるべし」といっていますが、イエスが常に信の想いの大事なことを説いておりまして、こういう強い言葉をも吐いているわけです。これは実に真理の言葉ですが、こういう深い信になることがむずかしいので、無理してこうなろうとしても無駄ですから、もっと気楽に、日常信の心を深めてゆくことが大事なのです。それは日々瞬々の祈りの行によって自然とその人の信が深まってゆくからなのです。無理に気ばってイエスの真似をしようとすると、かえって鼻もちならぬ人になりますから、その点聖書にあるからといって出来もせ
ゆだ
ぬことを出来るように思いこむ必要はありません。すべては守護の神霊に任ねて日々の行ないの中に人類愛の行為を生かしてゆくことにつとめましょう。


弟子への訓戒
宗教の道においては、なんの宗教にしても、自我つまり小我を捨てる、ということが根本問題です。キリストは生命を捨てざれば生命を得ずといっておりまして、肉体的な生命、これは肉体的にまつわる想念行為のことですが、これを捨てなければ、真実の生命、つまり真我は出てこない、と
いうことをいっていますが、いずれも自我 (小我 )を捨てることを第一としているのであります。
ところが、この問題が一番むずかしい問題でありまして、自分を捨て切る方法がわからなかった
り、方法がわかっても、周囲の事情やそれぞれの環境で自分を捨て切ることが、どうしても出来な
ひとりみ
いことが随分とあるのです。一人身ならばなんとか出来ないこともないのでしょうが、妻や子供のある家庭を持った人にとっては、この世的な自分を捨て切ることほどむずかしいものはありません。それは自分というものが、単なる一自分でなくなって、家族という広がりをもってきていますので、どうしても、家族というものまで捨て切らないと、自我を捨て切ったことにならないからで
す。しかし、家族の一人一人にはそれぞれの感情や環境がありまして、なかなか自分の思うようには
動きません。そこで、昔なら出家して、家を出てしまって、真我の開発にむかうことになってしま
ったりするのです。この小我の現われの一つとして、自己と他とを比べてみて、おまえと私とどち
らが偉いかとか、自分は彼より働いているのに、何故彼の方が地位が昇ったのかなどという、真我
たか
の世界からいえばつまらない事柄で、感情を昂ぶらせたりすることがあるのです。宗教の集りなどにも、自分がこれだけの信徒を集めたのに、師は彼のほうを重要視するとか、自
ヘヘヘへ
分のほうが古い信徒なのに、新しい彼のほうに重い役をつけたとか、種々ともヘんちゃくがあるよう
ヘヘヘヘへ
です。これはどこの教団にもあるらしいのですが、宗教の集団でこんなもんちゃくが起るほど馬鹿

気たことはありません。宗教の教団というのは、そういう俗世の想念波動を超えることを本命としている集りであるはずなのですから、実におかしな話なのです。俗世を超えてこそ、俗世を救う立

場に起てるのでありまして、自分が俗世の波に溺れていたのでは、俗世の凡夫を救う舟とはなり得ないのです。
とも
ところがこれは現代の話ばかりではなく、イエスと倶にあった十二使徒の間にもあった話なのです。これをマルコ伝九章十章からぬき書してみましょう。
……イエス家に入りて、弟子たちに問ひ給ふ『なんぢら途すがら何を論ぜしか』弟子たち黙然たり。これは途すがら、誰か大ならんと、互に争ひたるに因る。イエス坐して、十二弟子を呼び、之に言ひたまふ『人もし
かしらすぺてしりええきしや
頭たらんと思はば、凡の人の後となり、凡ての人の役者となるべし』斯てイエス幼児をとりて、彼らの中におき、之を抱きて言ひ給ふ『おほよそ我が名のために斯る幼児の一人を受くる者は、我を受くるなり。我を受く
つかわ
る者は、我を受くるにあらず、我を遣しし者を受くるなり』 (マルコ伝九章三三 -三七 )
愛にゼベダイの子ヤコブ、ヨハネ御許に来りて言ふ『師よ、願くば我らが何にても求むる所を為したまへ』イエス言ひ給ふ『わが汝らに何を為さんことを望むか』彼ら言ふ『なんちの栄光の中にて、一人をその右に、
さかづき
一人をその左に坐せしめ給へ』イエス言ひ給ふ『なんぢは求むる所を知らず、汝等わが飲む酒杯を飲み、我が受くるバ。フテスマを受け得るか』彼等いふ『得るなり』イエス言ひ給ふ『なんぢら我が酒杯を飲み、また我が受くるバプテスマを受くべし。然れど我が右左に坐することは、我の与ふべきものならず、ただ備へられたる
いセど
人こそ与へらるるなれ』十人の弟子これを聞き、ヤコブとヨハネとの事により憤ほり出でたれば、イエス彼ら
つかさ
を呼びて言ひたまふ『異邦人の君と認めらるる者の、その民を宰どり、大なる者の、民の上に権を執ることは、汝らの知る所なり。然れど汝らの中にては然らず、反つて大ならんと思ふ老は、汝らの役者となり、頭た
しもべつか
らんと思ふ者は、凡ての者の僕となるべし。人の子の来れるも、事へらるる為にあらず、反つて事ふることを
あがない
なし、又おほくの人の瞳償として己が生命を与へん為なり』 (マルコ伝、十章三五 四五 )
イエスの十二使徒のことは以前にも名前をあげて説明しておいたことがありますが、ペテロを中心にヤコブ、ヨハネの三人が常にイエスの側近としていまして、その後に他の弟子たちがついていましたので、自然とペテロ、ヤコブ、ヨハネが一番高い位にあると、自分たち、特にヤコブとヨハネは思っていました。
しかし他の弟子たちも我れこそイエスの一番の弟子である、と自負していまして、イエスがこの世の高い位についたら、自分たちを一体どんな位につけてくださるだろう、とお互いが自分はこういう役をしたい、いや自分はこうだというように高声で論じあっていたのです。これを前を少いておられたイエスが聞いておられて、これは困ったことだ、この者たちは、霊の世界を心では知っていながら、どうしてこの世的な地位や立場を問題にしているのであろう、と案じられ「人もし頭たら
しりええきしや
んと思わば、凡ての人の後となり、凡ての人の役者となるべし」という話から、種々と話されたわ
けです。この話はこの世的にだけ受け取っても、充分に有益な話でありまして、人の頭に立ちたいならば、人の後に従って、人のやらない嫌な仕事やつまらぬ仕事にも真剣に人一倍打ちこめば、必ず上役が認めてくれて取り立ててくれることは必定です。
ほうしよう
ところがイエスさまの話はこの世的な話ではありません。神の世界において受ける褒賞のことでありまして「我が名のために幼児の一人を受くる者は、我を受くるなり、我を受くる者は、我を受 くるにあらず、我を遣しし者 (神)を受くるなり」といって、どんなつまらぬことも、どんな小さなことでも、純粋にイエスのみ名の下に行なった時には神のみ心を果しているので、神との一体化がなされるのである、と説いているのであります。
また恐らくこの時と同じ時の話と思いますが、ヤコブ、ヨハネの兄弟がイエス様の栄光の中にて、
一人を右に、一人をその左に坐せしめ給え、と訴えますと、イエスは、この願いが、この世的なことであることを知っていますので「おまえたちは、我が飲む酒杯を飲み、我が受くるパプテスマを受け得るか」と問うたのであります。これがやがてくる大犠牲のことをいったのでありますが、そういうことが二人にははっきりわかりませんので、出来ます、と簡単に答えるのですが、これは大変な答なのであります。何故かと申しますと、イエスが受けるような苦しい受難の生活を私も受けます、といい切ったことになるからです。
そこでイエスはそれで「なんぢら我が飲む酒杯を飲み、また我が受くるバプテスマを受くべし」といいわたしまして、ヤコブやヨハネも伝道のために苦難の道を歩むことが決定されたわけなのです。しかし、我が右左に坐することは、これはイエスの心の中では神界における坐のことをいっているのですが、言葉としてはこの世的にも受け取れる言葉で、我が右左に坐することは、我の与ふべきものならず、神がそういう心境になっている、つまり備えられたる人にこそ与えらるるなれ、
といわれたのであります。
肉体的に生まれているイエスという人格は神の道を伝え、神の光をひびかせることは出来るけれど、神霊界の地位の決定はすべて、大神様のみ心にあることなのだ、ということなのです。そして大神様のみ心に叶うのは、各自の心の状態なのであって、他の老の関与出来ぬことである、というのです。
イエス様はそういう意味でおっしゃったことでしょうが、私ならば、大神様及び守護の神霊の決定すべきことであって、我の与うべきものにあらず、と守護の神霊の立場をつけ加えたことでしょうo
この時、他の弟子たちが、ヤコブとヨハネが自分たちにぬけがけて、イエス様に何か頼みこんだことを知り、みんなが憤ってイエスのみ下に集りますと、イエス様は、異邦人つまり神の国の者でないこの世で君主と認められたる者は、この世の民を支配し大なる者として、民の上に権力をもって存在していることは、おまえたちも知っているところだが、神の国の在り方は、かえって大なら
しもべ
んと思う者は、みんなの下積みになって働き、頭たらん者は僕となって働くのがよいのだ、おまえたちが神の国の者として高きにつこうと思ったら、そういう神の国の在り方の通りに生きなければ
つかつか
いけない。私がこの世に来たのも、事えられるために来たのではない。かえって事えるために来た
あがない
のだ、また多くの人の腰償として己が生命を与えんために来たのだ、と、やがてくる十字架上の運命を象徴的に弟子たちに話したのであります。弟子たちの中には、はっきりこの言葉を了解した者はなかったでしょうが、なんとなく、粛然たるものを感じ、自分たちがこの世的栄冠を追ってはいけないのであることだけは、はっきりわかっ
いちず
たのであります。なんにしても、十二弟子の大半は知識人ではありませんので、一途にイエスを慕
うち
い、イエスの言葉通り行動をしようとして従ってきてはおりますが、イエスの深い心の中はなかなか推察することが出来ません。
メシアという言葉でも、キリストという言葉でも、ついこの世的な栄光として感じてしまい、今にイエス様がこの世の王となられたら、というように考えてしまいがちだったのです。ところがこの日のようにはっきりした答を受けますと、大分自分たちの考えていることと、師の考えていることとが相違したものである、ということがわかってきたのです。イエスが次第に真実に自分がこの世にやって来た使命を、はっきり弟子たちに話しはじめてきますと、弟子たちの心もその度び毎にこの世的な想いから、深い神のみ心のほうに入ってゆくのでありますが、中に一人ユダという弟子
こころ
は、他の弟子と違ってイエスがメシアとしての真実の力を持っているのか、どうかを試みてみたくなってくるのです。
他の弟子たちは、素直な直情的な人たちが多いのでありますが、このユダだけは、非常に頭脳が
理智的でありまして、利にも富んでおゲました。ですから、イエスの話が真実にふれてくればくる
ほど、それが自分たちの心を深めるための話なのか、それとも真実にイエスはこの世の地位や権力がほしくなく、実際にも地位や権力を得ようとしていないのかを試みてみたくなってくるのです。ユダはイエスの行動を細かく観察しながら、しかも非常な愛情をもちながら、こんな立派な人格の能力の秀れた人こそ、この地上界において王たるにふさわしい人だ、と結論づけてゆくのであります。そしていつかは、イエスにこの世的な大なる力を発揮させようとして、その機会をうかがうようになっていたのです。ユダの眼からすれば、イエスにとっては何万人の軍隊ももののかずではない筈であり、我が師はいかなる障害も乗り切れる、大いなる力をもっているキリストなのである、と思いこんでしまっていたのです。こうしたユダの心がイエスを十字架につける発端となってくるのであります。いつの世でもユダ的な人がいるわけですが、聖書そのままの解釈で感じるユダは悪人的な要素を持ち、あらやるキリスト教者の憎しみの対象になっておりますが、実際のユダは悪人的要素をもった人ではなかったのです。ユダのことについては後々の章でくわしく述べることに致します。

富の問題
神と富とに兼事うること能わず
聖書の中には、翻訳のせいかも知れませんが、わかりにくい文章がしばしばあります。その文字の上から判断したのでは、イエスが一体何をいわんとしているのか、さっぱりわからぬようなものもあります。それは警え話が多いためかも知れませんが、文章そのものに説明不足のところが多分にあるためだと思います。
仏典でも老子の言葉でも、すべて古代の聖賢の言葉は、表面だけで判断すると、ご本人の伝えたいことと、まるで反対のことを伝えてしまう場合があるのです。ですから単に表面の文章や言葉に把われないで、それらの聖賢の真意を伝えることが大事なのであります。次のルカ伝十六章一ー十三などは、特に解説者を困らせる文章だと思いますが、私は私なりの解釈で講義してまいりましょう。
ついや
イエスまた弟子たちに言ひ給ふ『或る富める人に一人の支配人あり、主人の所有を費しをりと訴へられたれば、主人かれを呼びて言ふ「わが汝につきて聞く所は、これ何事ぞ、務つとめの報告をいだせ、汝こののち支配人た
つとめ
るを得じ」支配人、心のうちに言ふ「如何せん、主人わが職を奪ふ。われ土掘るには力なく、物乞うは恥かし。
せや
我なすべき事こそ知りたれ、斯く為ば職を罷めらるるとき、人々その家に我を迎ふるならん」とて、主人の負
債者を一人一人呼びよせて、初の者に言ふ「なんぢ我が主人より負ふところ何程あるか」答へて言ふ「油、百
樽」支配人いふ「なんちの証書をとり、早く坐して五十と書け」又ほかの者に言ふ「負ふところ何程あるか」
答えて言ふ「麦、百石」支配人いふ「なんちの証需をとりて八十と書け」愛ここに主人、不義なる支配人の為しし事の巧なるによりて、彼を誉めたり。この世の子らは己が時代のことには、光の子らよりも巧なり。われ汝らに
とこしえ
告ぐ、不義の富をもて、己がために友をつくれ、然らば富の失する時、その友なんぢを永遠の住居に迎へん。小事に忠なる者は、大事にも忠なり。小事に不忠なる者は大事にも不忠なり。然らば汝等もし不義の富に忠
オこと
ならずば、誰か真の富を汝らに任オかすべき。また汝等もし人のものに忠ならずば、誰か汝等のものを汝らに与ふべき。僕は二人の主につか兼かね事ふること能はず、或は之を憎み彼を愛し、或は之に親み軽しむべければなり。汝ら神と富とに兼事うること能はず』
この文章を表面的に解釈しますと、イエスがまるで嘘をついてでも自己の利益を計ることを奨励しようれい

しているように思えますし、主人をごまかすようなやり方をしている支配人を、主人が誉めるとい
うのもおかしな話です。小事に忠なる者は、という終りの言葉と、支配人の在り方とに大きなギャ
316

ップがあります。この文章全体が少しおかしいので、イエスの言葉のどこかがぬけて書かれている
に相違ありません。この文章そのままで、イエスの真意を解釈することは誰にも出来ぬことと思い
ます。聖書の中の最もまずい薯え話だと思われます。
そこで私はこの文章に種々とつけ加えて、イエスの真意を説いてゆきたいと思います。この支配人は、信仰心も何もない、ただ、自己のこの世の肉体生活を守るために窮々としている人間であり
ます。ですから主人の財産をごまかして自己の生活を充たそうとしているのです。ところが誰かの訴えで、主人が支配人を疑い、貸金調べということになるのです。支配人は、自分が主人に疑われ
ていることを知りましたし、首くびになる恐れのあることも知りましたので、首になっても大丈夫な自己の行く先をつくっておかねばなりません。それには誰かに恩を売っておいて、その恩を代償に自分の生活を安定させようと考えました。そこで、主人の負債者の負債額を低く証書に書かせて、恩を売るのであります。この文章の通りですと、百樽の負債のある者に五十樽と書かせ、麦百石の負債者に八十石と書かせています。こういうやり方を主人が巧みなりと誉めるなどということはありよう道理がありません。負債を支配人の勝手にまけてやるなどとやり方を誉める主人は、特別の哀れむべき事情のない限りはある筈がありません。
私はここに、負債者がなかなか証書に書かないのを、巧みに書かせたことで支配人を誉めたのであって、百樽を五十と書かせたり、百石が八十石になったのだなどとは知らなかったのだと解釈しました。勿論曹え話ですからどちらでもよいのでしょうが、そうこの讐え話を解釈してゆかないと、後のイエスの真理の言葉が浮いてしまいます。
ある本には、次のく不義の富をもて、己がために友をつくれ というこの讐え話が、クリスチャ
ンにとって理解するにもっと困難な句である、と書かれています。
しかし実は、イエスがいいたいのは、この磐え話から先の教えなのでありまして、〈この世の子らは己が時代のことには、光の子、つまり信仰のある自分の弟子たちよりも巧みだ、だから、光の子である、自分の信徒たちは、こういうやり方を真理顕現のためにつかったらどうか というのであります。
不義の富をもって、己がために友をつくれ、というのも、自分たちが、真理をこの世に広めるためには、富の必要な場合も随分とある。だから、金銭を得、富を増やすことを嫌がることはない。真理を求め、神の道を求める者は、とかく、金銭を低くみ、富を増すのを不義と認めている、しかし、そうした不義と認めている富でも、道のために使い、真理を広めるために使うならば、その人
たくわV
は天の倉に宝を蓄えておくのと同じで、真理の道の友もたくさん出来るし、また、霊界における友
V

もたくさん出来て、その人は、富のなくなった時でも、今日まで世話になった人々が喜び迎えてく
れるであろうし、霊界の友だちが、永遠の生命の善き住居を、その人のためにつくってくれるのであると、イエスはいうのであります。
そうなるためには、讐え話の支配人のような、自己の生活を守るための智慧も必要なのではないか、とイエスは少しナーバーに自己保存の智慧をもった支配人の話をしたのです。どうしてこんなオーバーな悪智慧のある支配人の話をしたかと申しますと、イエスの身辺に集まる者は、ほとんど
とら
が、真理や道に把われ過ぎていて、この世において、道を広めるのには、富や地位も必要なのであることに気づかぬ者たちなので、その把われを解くためにこういう話をしたのだと思います。その頃イエスにつき従い、あるいは常にイエスの話をききにくる者たちは、大体が自己の職業や生活が嫌で、何か特別な道がないか、と思っていたり、自己の職業や生活環境を逃がれたくて、イ
エスにすがりついてきている者たちなので、イエスはこんな薯え話をし、不義の富をもて、己がた
めに友をつくれ、といってみたり、小事に忠なる者は大事にも忠なり、小事に不忠なる者は大事に
も不忠なり、といってみたりしていまして、自己の置かれた環境で、自己の職業に精を出して、一生懸命富をつくれ、といってみたりしているのです。
イエスはこの世に真理の道を広げるために来た天使です。ですから、自己の在世中に少しでも多
く、真理の道を広めておきたい、と思っておられたに違いありません。ところが、集ってくる人々
が、ほとんど生活の智慧のない、貧しい人々や、職業や生活環境に不満をもって、宗教の中に逃れたい、という人々、またイエスのような凄い霊覚者の側にいれば、自分もきっとそのおかげを得るに違いない、と思っていたりする人々であって、積極的に職業を拡張させ、富を増して、イエスの手助けをしよう、とするような人が少なかったのであります。
とら
そこで、イエスは、不義なる支配人の讐え話をして、その人たちの心の把われを放とうとしたの
まことまか
です。「もし不義の富に忠ならずば、誰か真の富を汝らに任すべき、また汝等もし人のものに忠ならずば、誰か汝等のものを汝らに与うべき」イエスのいいたいのは、何物何事にも把われず、真理の道が広まるよう、神のみ心が広がるように働け、ということなので、その富が例え不義だとしても、その富を自分が任かせられていれば、その富を守り、増やすことに忠実でなければいけない、それでなければ、誰がその富をその人に任かせることをしようか、それと同じように、神様もその
まこと
職業、その環境を忠実に生きた人に、真の富を与えられるのである、とイエスはいうのです。
イエスの知らせたいのは、ただふわふわと自分の職業や生活をおっぽり出して、神様神様といっていたり、真理だ真理だといっていたりしているのでは、神様は真の富、つまり永遠の生命をその人に与えることはない。各人がその置かれた環境で全力を鑑して働くことこそ、真の富を得、永遠 の生命を自己のものとなし得るのだ、ということなのです。
しもべかねつか
しかしイエスは、最後のほうで、「僕は二人の主に兼事ふること能はず、或は之を憎み彼を愛し、或は之に親しみ彼を軽しむべければなり。汝ら神と富とに兼事ふること能はず」といっています。
この言葉は聖書の言葉として有名なものです。富める者の天国に入るは、ラクダが針の穴を通るよりむずかしい、と他の章でいっているのとこの言葉とは、イエスが富や富める者を非常に嫌って
いるような言葉に聞えて、神の道に入るのには、富んでいてはいけないのだ、と信仰深い人々は、富を否定する気持になったりしています。
トルストイは、大地主の息子として生れていますが、自分が富者であることに非常に苦しんでいたようで、富の平等ということを考えて、常に人々に分け与えていましたが、老年になって、家庭の不和もあったでしょうが、遂いに家を出て死んでしまいます。トルストイは大のクリスチャンでしたから、この富ということに把われてしまったのでしょう。立派な人が惜しいことをしたと思います。夫がクリスチャソであり、妻がそうでないという場合など、またその反対の場合などでも、よく家庭不和になりがちなのは、真理のはき違いや、善への把われによることが多いのです。このルカ伝にもありますように、イエスはただ単に富を拒否したり、富者を非難したりしていた
のではないのです。ただ、この章の最後の節や、金持はラクダが針の穴を …云々の例のような説き方がありますので、つい信仰者はこの言葉に把われてしまって、自分が富者であることに心を痛めたりするのですが、富者になるのも、貧乏になるのも、過去世から今日に至るまでの業因縁の相違
でありまして、富むことが悪かったり、富を蓄えることが悪かったりする道理はないのです。
ただ富んでおりますと、なかなか裸の心になれませんで、素直にさっと神のみ心に従いがたいのであります。そこでイエスは、神と富とに兼事うことあたわず、とか、富者の神の道に入ることのむずかしさを、説いたりしているのです。
富んだ生活をしておりますと、この世の生活で自由がききます。貧しい人々より金の威力で何事も思う通りにまいります。ですから、神に頼ったり、神にすがったりすることが、この世的には少
よみがえ
ないのであります。そして、この世を去るにあたりましても、富に想いが残りまして、霊界での甦
りが容易でありません。
そういう種々な理由によって、富者は神の道に入りにくい、というのです。しかし、こういう富
への把われがなくなれば、いくら富んでいても、容易に神の道に入れるわけですし、富があるが故
にかえって、神の道のために大きな役目が果せるのであります。仕えるのは神だけで結構ですが、富者を敵視したり、自己が富んでいることに心を痛めたりすることはよくないことです。
貧者は貧者なりに、富者は富者なりに、共に手をたずさえて、自己のでき得る範囲において、神の道をこの地球界に広める働きをすることによって、永遠の生命をその人たちが生きつづけることになるのであります。貧者が貧に想いを把われ、富者が富に把われるということがいけないのであ
って、その把われが自らの生命の自由をうばい、神のみ心から離れてしまうのです。
或る富める青年
常にキリスト教徒にとって問題になるのは、富の問題であります。富める者の悩みということがキリスト教徒にとっては切実なのです。一般の人々にとっては、富める程幸なことはありません
し、お金が思うままに自由に使えるということは大変な魅力です。一般大衆にとってお金を得ると
いうことは切実なことで、お金を得るためには、どんな嫌なことでも、辛いことでも、少しぐらい人情に欠けることでもやりかねない人が少くないのです。
ですから、キリストのいう、貧しき者は幸なり、という言葉をそのまま富の問題として解釈している人などは、何をいっているのか、だからキリスト教など嫌だ、この世で金持程よいものはないのだ、と心の問題を度外視して、物質的富有を、すべての富有として、金品を多く持っている人を富者といっているのであります。次の聖書の言葉なども、無信心者は勿論、キリスト教者にとっても、余程深い信仰者でないと心にわだかまりをもってしまう言葉なのです。
とニしえ
視よ、或人みもとに来りて言ふ『師よ、われ永遠の生命をうる為には如何なる善き事を為すべきか』イエス
ただいコしめ
言ひたまふ『善き事につきて何ぞ我に問ふか、善き者は唯ひとりのみ。汝もし生命に入らんと思はば誠命を守
いザ
れ』彼いふ『敦れを』イエス言ひたまふ『殺すなかれ」「姦淫するなかれ」「盗むなかれ」「偽証を立つる勿れ」「父と母とを敬へ」また「己のごとく汝の隣を愛すべし」』その若者いふ『我みな之を守れり、なほ何を欠く
ももちものにどニたから
か』イエス言ひたまふ『なんぢ若し全からんと思はば、往きて汝の所有を売りて貧しき者に施せ、さらば財宝
ことに
を天に得ん。かつ来りて我に従へ』この言をききて若者、悲しみつつ去りぬ。大なる資産を有てる故なり。
ぽた
イエス弟子たちに言ひ給ふ『まことに汝らに告ぐ、富める者の天国に入るは難し。復なんぢらに告ぐ、富め
らくだ
る者の神の国に入るよりは、賂駝の針の孔を通るかた反つて易し』弟子たち之をきき、甚だしく驚きて言ふ『さらば誰か救はるることを得ん』イエス彼らに目を注めて言ひ給ふ『これは人に能はねど神は凡ての事をなし得るなり』愛ニニにペテロ答へて言ふ『視よ、われら一切をすてて汝に従へり、然れば何を得べきか』イエス彼らに言ひ給ふ『まことに汝らにいくら告つぐ、世あらたまりて人の子その栄光の座位に坐するとき、我に従へる汝等もまた
やからさぱ
十二の座位に坐してイスラエルの十二の族を審かん。また凡そ我が名のために或は家、或は兄弟、あるひは姉
妹、あるひは父、或は母、或は子、或は田畑を棄つる者は数倍を受け、また永遠の生命を嗣がん。然れど多くの先なる者後に、後なる者先になるべし。』 (マタイ伝十九章十六ー三十 )
確かに聖書の問題点というより宗教の問題はここにあるといえるのです。「殺すなかれ」「姦淫


するなかれ」「盗むなかれ」「偽証を立つるなかれ」「父と母とを敬へ」こういう戒律は、仏教でも根本の誠しめとしておりますが、「なんぢ若し全からんと思はば、往きて汝の所有もちものを売りて貧し
セから
き者に施せ、さらば財宝を天に得ん。かつ来りて我に従へ」という言葉や、「まことにまことに汝
らくだ
らに告ぐ、富める者の天国に入るは難し。富める者の神の国に入るよりは、酪駝の針の孔を通るかた反って易し」などは、キリスト教独特のはっきりしたこの世の富める者への否定的言葉です。こういうイエスの教えが根底になって、社会主義、共産主義が生れてきたことは否めません。
キリスト教にしても仏教にしても、一度び自己を捨てきる、というところから悟りの道、救われ
の道に入ることになるのですから、富も地位もこの世の自己にまつわるすべてを捨て切ることにな
ってきます。しかし仏教では、富を否定することはありましても、イエスのような切実な言葉として、この世の富者を否定する表現はしていないで、空とか無所得とかいう、抽象的表現で仏への道を説いていることが多いのです。
私は聖者が道を説くにしても、その聖者の生れた環境や育った環境によって、その説き方や教え方が相違してくると思います。イエスと釈尊との説き方の相違や、キリスト教とマホメット教との相違などに、よくそのことが現われております。イエスが社会問題や富者や貧者のことについて、切実な表現で教えを説いているのは、自己の環境が、ローマに占領されたユダヤのしかも貧しい大工の家に生れ育ったイエスにとって、貧者に対する深い同情心と、富者に対する好ましからざる感情とが、潜在意識として残っていないとはいい得ないのです。そういう潜在する意識が、キリストと呼ばれる立場に立っての説法の中にも入り交じってくるのは致し方のないことであり、神はイエス
・キリストにはそういう教え方をさせるために、ユダヤの貧しい家に生れさせたともいえるのです。
釈尊の場合は、全くその反対なので、そういう現実問題を切実な表現では説かず、もっと形而上の哲学的問題として、深い言葉で説いているのであります。マホメットの場合などは、イエスや釈尊のような道一筋に生きてきた聖者と違って、四十何才かまでは商売人として社会生活を送っていた人であり、子供もたくさんあったようですから、その教えは、イエスや釈尊のような清浄そのもののようではなくなっております。女性問題などはその一端をはっきり示しております。
このように、各国各時代各環境によって、聖者方の教えも相違してくるのですから、現代には現
代の、日本には日本独自の教えもあってよいわけです。ただ、いずれも世界人類の進化のためのものであり、平和のためのものでなければなりません。ただいたずらに現世利益におもねり、自宗団の権力を誇示するような在り方であっては、神仏のみ心に反するものとなるのであります。
らく
ところで、イエスの富者に対する考え方ももっともなのですが、富める者が天国に入るのは、騎

駝が針の孔を通るような、そんなに不可能に近いむずかしいものではありません。そんなにむずか
しくては、富者の殆んどが救われぬことになります。自己の所有もちものを売って貧しい者に施すことは実によいことですが、そのために今度は自己が貧しい生活をしなければならぬようでは、これはこの世における教えとしては、実行し難いことになります。独身者ならこれも結構ですが、妻子があった場合には、必ず妻子の反撃を受けます。自己だけは深い信仰に支えられていても、妻子がそうでない場合には、妻子に深い恨みを受けます。ですからこういう無理は、この世における教えとしてはあまり感心できません。こういう教え方を間違って解釈しますと、富める信者は心迷い、貧しき者たちは、富者に対して反感を抱きます。この世で富める者は、過去世において、それ相当の徳を積んできた者であり、この世において貧苦に悩む者は、過去世において不徳の行をしていた者なのですから、これを表面上の人道主義で、平等の生活にもってゆこうとしても、これは因縁因果の法則からして無理なのです。そこで、今日の社会主義、共産主義の在り方が、どこかで無理を通そうとする形になります。ソ連や中共の在り方をみればその真理がよくわかります。トルストイなどは深いキリスト教者でしたが、この富の問題で苦悩して、晩年になって家を捨て、路上で亡くなったといわれていますが、聖書をまともに取りすぎたからではないかと思います。永遠の生命の上からすれば、イエスのようにこの世的幸せを捨て去っても徹底的に真理を実行してゆ
くのもよいのですが、この世の大半の人々が、そういう生き方の出来ぬ現代においては、各自が適当に自己の心で判断してゆかねばなりません。こういう聖書の教えには心を洗われるような想いがするのですが、現実問題としてはなかなか実
行しにくく、かえって善良なる富める人に苦しみを与えつづける結果になります。金持の家に生れたり、地位の高い家に生れ育ったりした人は、おおむね、この世の苦労が足りないので、貧しい人々や地位の低い者への思いやりが少い場合が多いのです。金力や権力で多くの自由を得られる人は、何事も金力や権力で為し得ると思い上りまして、生命をはじめ智慧も能力も、すべての根源の力は、神からきているのであることを忘れてしまいがちです。そこで神を敬うことも、神を慕うこともせず、自由気ままにその日その日を送っていってしまい、過去世の徳を使い果してしまった末には、悲惨な状態に陥ってしまいますし、死後の世界においても、神との接触が薄いので、光のない地獄のような境界で生活しなければならなくなります。
ですからあまりに金力や権力によって、自由気ままな生活をしている人は、それが因縁因果の世界の善業 (徳)の現われであって、本心そのものの現われた生活ではないのに、その真理がわから
おご
ず、心驕ってしまって、神を求め、本心を開くことを忘れてしまうのです。そのことをイエスは瀦
駝の針の穴を通るよりむずかしい、と、誇張していったわけです。
大体富者であろうと貧者であろうと、一心に神を求め慕い、真の愛行をつづけている人が、天国
に昇りうる人なので、天国の門には貧富の差がないのですから、金持だといっても、心を謙虚に神仏に感謝し、人々のため、社会のために尽していればよいのであります。金持のほうは貧乏な人より、金品の上では、人々や社会のために尽くせるのですから、実際問題として、富者と貧者とが同
等の心境人格である場合には、富者のほうがより多く、人々や社会のために尽すことが出来るのです。
おご
だが概して、富者は心驕り、神を求め慕うことが少い、というところで、イエスの説法が富者に
厳しいものになっているわけです。これは親鸞上人の「善人もて救わる、なを悪人おや」という言
葉と同意義のところがあるのです。
なんにしても、宗教の根本は、神と人間との一体化を目指すところにあるので、そうなるために
むな
は、肉体的自己を空しうして、ひたすらに神を求め、神の完全円満性を、その行為に現わしてゆくことが大事なのです。そこで貧者の家に生れたら生れたでよい。ひたすら神仏を求めつづけ、自己の本心開発に努力すればよいのであり、富者の家に生れたら生れたで、生命は神からきているのであり、現在の自己の善き環境は、過去世における徳の現われであることを、謙虚に思いみて、神仏への感謝と、他人への愛行によって、ますます徳を積んでゆくようにすればよいのですから、救わ
れに貧富の差をつける必要はないのです。
しかし、あくまで宗教の救われは、自我 (小我 )を滅却することが必要なので、常に私が申しているように、すべての出来事、事柄や感情想念を、消えてゆく姿として、祈りの中に、神への感謝の中に投げ入れてゆかねばならないのです。「私が」「俺が」という小我の自己主張を神は非常に嫌われるのです。神様が嫌われる、ということは、そういう想念は自己の本心を汚し、蔽ってしまうので、いつまでも、神我一体にはなれないので、真実の救われの道に入り得ないからなのです。十二使徒が一切を捨てたことによって、神界にあって、キリストの光明をこの地上界に放射しつづけ
くらい
る座位についていることは事実なのです。
330

イエスの愛された人々
マリヤとマルタ
イエスさまは神様そのものなのか、人間なのか、という問題が、キリスト教徒の中で問題にされ
みずか
ていたことがありましたが、果してイエスは神そのものなのか、自ら磨きあげて、神そのもののみ心をこの世に現わし得た人なのか、一体どちらなのであろうか、神の独り子とはどういうことなのか、等々、種々と問題にされたことがあったものの、あまりはっきりした答のでないまま今日に至
っております。私は時折りこの講義の中で、こうした問とは関係なく、イエス自身とキリストということについて話してまいりましたが、はっきり申して、イエスはやはり肉体を持った人間であったことには変
あら
りはありません。しかしこの肉体が、普通人の肉体のように、粗い波動で出来ているのではなく、
あら
霊波動を少し粗くしたような微妙な波動体であったのです。ですから普通人に行なえぬ神秘不可思議なる数々の奇蹟を行なうことが出来たのです。この地上界において、神のみ心 (真理 )を行なうためには、神霊波動をそのまま受けられる肉体
をもっていなければなりません。イエスは勿論、神のみ心をこの世に現わす、キリスト (真理 )となるべく、この世に天より遣わされたものなので、生れ出でた時より、イエス・キリストとなるべき天命を持っていたのであります。
ですがら大工職のヨセフの家に生れながらも、幼い頃より神を慕い、神秘不可思議なものにあこがれ、十二才の頃には、もう山に籠って、統一の修業をしていたりしたのです。それは自分の肉体が望んでするということもありますが、内なるもの、つまり自分の霊性と守護天使のみ心で、神霊の世界の交流を常に計らせているようにさせられていたわけなのです。
みずかおのず
イエスの場合ばかりでなく、各聖賢の場合も、自らなすことと、自からすることとが一つになって天命達成の道に、その聖賢を運んでいってしまうのです。ですから人である肉体と、神である本質とが、普通人よりその距離が近い、つまり波動の相違が少ないということでありますが、肉体は人間であることに変りはなかったのです。
あらく
しかしながら、普通人の肉体波動があまりに粗雑て、神霊波動をほとんどキャッチ出来ぬのにく らべて、イエスの肉体波動はあまりにも微妙に出来ているので、普通人との差が甚だしく開きすぎていて、神霊波動と普通人の肉体波動の中間に位するようになっていたのであります。つまり天と地をつなぐ位置にイエスの肉体身はあったわけなのです。
そこで、イエスは神でもあり、人間でもある、ということになり、どちらも間違いではないということになるのであります。
ここう
神の独り子というのは、普通人の在り方を遠く離れて神のみ心の中に独り住むという、孤高という意味にとってよいと思います。そういう意味で釈尊も老子も神の独り子であったわけです。私がいつも申しますが、イエスだけが神の独り子で、他の聖賢はそうではないといういい方は、他宗教のためによくないと思うのです。
今回の講義で何故こういう問題を取り上げたかと申しますと、イエスは一体普通の青年のように肉体感情があったのであろうか、性欲望などがあったのであろうか、ということです。釈尊にしてもマホメットにしても、妻子を持ったことがあるので、そういう点で普通人並みのことをしたわけなのですが、イエスに至っては生涯女性と肉体的に接したことはないようです。もっとも、日本の僧侶にしても、カトリックの神父さんにしても、表面的には皆独身を通していたわけで、その中の特別の人が実際に女性と接することがなかったわけで、そういう立場を厳守したのは、イエスだけ
ではなかったようですが、イエスの場合には、山に籠り切っているわけではなく、常に群集と共に舘いやヨあって、人々の悩みを聞き、病を癒していたのですから、女性との交渉も多くあったわけで、非常に誘惑が多かったと思われます いかに微妙な波動を持っているとはいえ、やはり肉体を持ち、この世的な愛情や喜怒哀楽の波動圏の中に生活しているのですから、イエスといえど、そういう波を受けないわけにはゆきますまい。そういう点で、聖書の中で有名な、マルタ、マリヤの姉妹とはどのような附き合いをしていたのであろうか、こういうことを私なりの解釈で話してゆきたいと思います。その弟ラザロの死に臨んで、
Q

いたく涙を流しき、とあるように、イエスはこの一家とは特に親しかったのです。
かくほどな
斯て彼ら進みゆく間に、イエス或村に入り給へば、マルタと名つくる女おのが家に迎へ入る。その姉妹にマ
あしもとみニとにもてなし
リヤといふ者ありて、イエスの足下に坐し、御言を聴きをりしが、マルタ饗応のこと多くして心いりみだれ、
みもと
御許に進みよりて言ふ『主よ、わが姉妹われを一人のこして働かするを、何とも思ひ給はぬか、彼に命じて我
わずらつかい
を助けしめ給へ』主、答へて言ひ給ふ『マルタよ、マルタよ、汝さまざまの事により、思ひ煩ひて心労す。されど無くてならぬものは多からず、唯一つのみ、マリヤは善きかたを選びたり。此は彼より奪ふべからざるものなり』 (ルカ伝第十章三八 -四二 )
すぎニし
過越の祭の六日前に、イエス、ベタニヤに来り給ふ、ここは死人の中より甦へらせ給ひしラザロの居る処な
みるまいつかつ
り。此処にてイエスのために饗宴を設け、マルタは事へ、ラザロはイエスと共に席に著ける者の中にあり。マ
あたいいつきんみあしかみのけ
リヤは価高き混りなきナルドの香油一斤を持ち来りて、イエスの御足にぬり、己が頭髪にて御足を拭ひしに、香油のかをり家に満ちたり。 (ヨハネ伝第十二章一ー三 )
マルタとマリヤの心の状態と、ラザロの家族との親しさを知るために、同じような情況を、ルカ伝ヨハネ伝からとってみました。
ルカ伝では、妹のマリャだけが、イエスにつきっきりで話を聞きつづけているので、どうしても
イエスに種々ともてなし事をするのは、もっぼら姉のマルタのほうなので、遂いには、マルタは心がいらだってきて、たまりかねて、イエスの前に進み「イエス様、マリヤにも、少しはお勝手仕事をするようにいって下さい。それでなければ私は、まるでイエス様のお話がきけないではありませんか」とイエスに不足を訴えるわけです。イエスをキリストとして救世主として崇めていることは勿論ですが、イエスは立派な顔立ちの美青年です。マルタの心の中に恋心が芽生えていないということはできません。恋心があればこそ、イエスをマリヤに独り占めされて、焦立ってしまったわけなのです。
また一方のマリヤのほうにしても、弟のラザロを死から救ってくれた大恩人でもあり、真実に偉大な救世主でもあり、そして、自分たちとは特に親しくして下さっているイエス様なのですから、尊敬と愛情の入り交じった恋愛感情があったことは間違いありますまい。
真理の話は心ゆくまで聞きたいし、一時も離れたくない想いもあるし、妹という気易さで、もてなし事はすべて姉におっかぶせてしまって、ひたむきにイエスの心の中に入りきっていたわけです。
このマリャは、働き者の几帳面な姉と違って、熱情的な烈しい気性の人であったのです。何故かといいますと、ヨハネ伝にあるように、価高き香油一斤を、イエスの御足にぬり、己が頭髪にて御足を拭ったとあります。そしてその香油のかおりが家に満ちた、とあります。ユダヤにおいては香油は高価でもあり、大事なものなので、少し、
つつ惜しんで使っているものなのです。その大事な香油を惜し気もなく大量にイエスのために使った、ということですし、自分の頭髪でイエスの足を拭
ったりしているところからみますと、これと思って燃え上がったら、他のことはすべてを棄ててそ
のことのみに熱中する、という気性が実によく出ております。
そのようにイエスを慕い、イエス・キリストへの信仰にすべてを投げ出しているマリャに対していかに天使そのものであるイエスにしても、他の女性と同様にさりげない態度で過していられるわけがありません。神霊そのもののようなイエスが、何故肉体身を現わして地上界に天降ってきたか
というと、神のみ心をこの世に現わすためには、霊身そのものの天使や守護の神霊だけでは、成功 しないのです。何故かと申しますと、神霊波動をそのまま受けて、神霊の心を心とするような、肉
体人間はあまり存在しないからなのです。肉体人間の世界に、神のみ心を現わすためには、どうし
ても、肉体身が必要なのです。ですから、イエスのような霊身に近い肉体身を中心にして、天使や守護の神霊が働きかけることが一番よい方法になるのであります。
他の肉体波動とは違うとはいえ、イエスの肉体も肉体身であることには違いないので、肉体人間の喜怒哀楽も好き嫌いも恋情も、すべて肉体人間同様に感じるのです。そこで、自己の道に対する熱意の高い人程身近に感じますし、同様にイエス自身を愛してくれる人をも身近に感じるのです。そうでない無差別愛では、キリストが肉体身のイエスとして出現した理由が無くなるのです。
無差別愛というのは、神そのものの愛であり、太陽のような愛ですが、こうした慈愛であってもこちらが神の愛と反対の側ばかりを歩み、太陽の光のささぬ陰にばかりにいれば、やはり愛の光を当てることが出来ません。人間というものは、あくまで、神の光を受けるように神の光のほうに、自分のほうから歩み寄ってゆかねばならぬ、ということを、肉体身をもった聖者が、身をもって示す必要があるのです。神の光のほうに向くには、まだ間のある人間を、無理矢理神の光のほうに向かせようとしても、余計反抗するだけで、かえって神の光から遠ざかってしまうことが多々あるの
です。
無信仰の人や信仰の薄い人たちが、神が存在するなら、そして神が愛ならば、何故この世に悪や不幸や災難や争いが出来たり、生れながら幸せの人や、生れながら不幸な人をつくったりしたのか
カルマ
などとよくいうのですが、この答は仏教の過去世からの因縁因果説の説明、無明や業の説明をすれば、すぐにわかることなのです。キリスト教では、全智全能の神一筋に説いておりますので、仏教程にしっかりした因縁因果やカルマの説明がなされていないだけなのです。
そうした過去世からの人類の宿業を、少しでも軽くしようとして、古代から聖者賢者が多数生れ出ているのであります。イエスはそのために十字架上に自己の肉体を終る大犠牲をはらうのですが、それはイエス・キリストとしての天命がそういう道を取ることになったのであります。
しかし、肉体身のイエスは、肉体身そのものが自然に持っている肉体身としての愛情で、自己に慕い寄る人々を愛したのです。そういう意味で、マリヤに姓する感情の中には、恋愛感情のようなものが動いていたことは否定出来ません。そういう感情が、自然とマルタの訴えに対して「マリヤは善き方を選びたり、此は彼より奪ふべからざるものなり」といってマルタの訴えを退けているの
です。それでなければ、イエスのためのもてなしに、イエスの話も聞けずに立ち働いているマルタを哀れと想い、時折りはその立ち働きをマリヤと交代させてやってもよい筈です。それとも自分のもてなしなどどうでもよい、無理にでも仕事を止めさせ、あなたもマリヤと共に私の話を聞け、と でもいえばよいわけです。
こういうところにイエスの肉体身としての微妙な想いの動きを、私はみるのであります。そして
私はむしろ快くこころよ思うのです。そういう感情を持ちながら、しかも、肉体を純潔のままで保っていたということに、私は更にイエスに深い尊敬の想いを抱くのであります。なんの感情も持たずに女性を近づけないのでは、そこに肉体身としてイエスが生れ出る必要がないのです。そういう感情の皆
無の人に、なんで身を犠牲にして人類を救済しようという愛情が生れ出てくるものでしょうか。肉体人間であって、そしてその肉体身の感情を超越した生き方をすることこそ、この世に生れ出た聖者賢者の真の生き方というのでありましょう。
ラザロとその復活
ここやにおいあメら
髪に病める者あり、ラザロと云ふ、マリヤとその姉妹マルタの村ベタニヤの人なり。此のマリヤは主に香油を分、蹉にて御足を擁ひし者にして、病めるラザ・はその兄弟なり・姉妹ら人をイエスに響て『主・視

よ、なんちの愛し給ふもの病めり』と言はしむ。之を聞きてイエス言ひ給ふ『この病は死に至らず、神の栄光のため、神の子のこれに由りて栄光を受けんためなり』イエスはマルタと、その姉妹とラザロとを愛し給へり。
とどましかぽた
ラザロの病みたるを聞きて、その居給ひし処になほ二日留り、而してのち弟子たちに言ひ給ふ『われら復ユダ
また
ヤに往くべし』弟子たち言ふ『ラビ、この程もユダヤ人、なんぢを石にてうたんとせしに、復かしこに往き給
じゆうにどきつまず
ふか』イエス答へたまふ『一日に十二時あるならずや、人もし昼あるかば、此の世の光を見るゆゑに蹟くこと
またねむ
なし。夜あるかば、光その人になき故に蹟くなり』かく言ひて復その後いひ給ふ『われらの友ラザロ眠れり、されど我よび起さん為に往くなり』弟子たち言ふ『主よ眠れるならば癒ゆべし』イエスは彼が死にたることを
いねむここあらわ
言ひ給ひしなれど、弟子たちは寝ねて眠れるを言ひ給ふと思へるなり。髪にイエス明白に言ひ給ふ『ラザロは

死にたり。我、かしこに居らざりし事を汝等のために喜ぶ、汝等をして信ぜしめんとてなり。然れど我ら今そのとな許もとに往くべし』デドモと称ふるトマス、他の弟子たちに言ふ『われらも往きて彼と共に死ぬべし』
すで
さてイエス来り見給へば、ラザロの墓にあること、既に四日なりき。ベタニヤはエルサレムに近くして、二十
あまた
五丁ばかりの距離なるが、数多のユダヤ人、マルタとマリヤとをその兄弟の事につき慰めんとて来れり。マル
タはイエス来給ふと聞きて出で迎へたれど、マリャはなほ家に坐し居たり。マルタ、イニスに言ふ『主よ、もし此処に在いホししならば、我が兄弟は死なざりしものを。されど今にても我は知る、何事を神に願ひ給ふとも、
よみがえり
神は与へ給はん』イエス言ひ給ふ『なんちの兄弟は甦へるべし』マルタ言ふ『をはりの日、復活のときに甦へるべきを知る』イエス言ひ給ふ『我は復活なり、生命なり、我を信ずる者は死ぬとも生きん。几およそ生きて我を信ずる者は、と永遠こしえに死なざるべし。汝これを信ずるか』彼いふ『主よ然しかり、我なんぢは世に来るべきキリスト、
ひそか
神の子なりと信ず』かく言ひて後ゆきて窃にその姉妹マリヤを呼びて『師きたりて汝を呼びたまふ』と言ふ、
たみもといオなお
マリヤ之をきき、急ぎ起ちて御許に往けり。イエスは未だ村に入らず、尚マルタの迎へし処に居給ふ。マリヤ
と共に家に居りて慰め居たるユダヤ人、その急ぎ立ちて出できくを見、かれは歎かんとて墓に往くと思ひて後
にかく随したがへり。斯てマリヤ、イエスの居給ふ処にいたり、之を見てその足下に伏し『主よ、もし此処に在ししなら ば、我が兄弟は死なざりしものを』と言ふ。イエスかれが泣き居り、共に来りしユダヤ人も泣き居るを見て、
いたいずこ
心を傷め悲しみて言ひ給ふ『かれを何処に置きしか』彼ら言ふ『主よ、来りて見給へ』イエス涙をながし給ふ。髪こニにユダヤ人ら言ふ『視よ、いかばかり彼を愛せしそ』その中の或者ども言ふ『盲めしい人の目をあけし此の人
いたほら
にして、彼を死なざらしむること能はざりしか』イエスまた心を傷めつつ墓にいたり給ふ。墓は洞にして石を

置きて塞げり。イエス言ひ給ふ『石を除けよ』死にし人の姉妹マルタ言ふ『主よ、彼ははやへ臭くさし、四日を経たればなり』イエス言ひ給ふ『われ汝に、もし信ぜば神の栄光を見んと言ひしにあらずや』ここに人々、石を除
あしかか
けたり。イエス目を挙げて言ひたまふ『父よ、我にきき給ひしを謝す。常にきき給ふを我は知る。然るに斯く
かたわ
言ふは、傍らに立つ群衆の為にして、汝の我を遣し給ひしことを之に信ぜしめんとてなり』斯く言ひてのち、
よばいきた
声高く『ラザロよ、出できたれ』と呼はり給へば、死にしもの布にて足と手とを巻かれたるまま出で来る。顔も手拭にて包まれたり。イエス『これを解きて往かしめよ』と言ひ給ふ。斯てマリヤの許に来りて、イエスの為し給ひし事を見たる多くのユダヤ人、かれを信じたりしが、或者はパ・リサイ人に往きて、イエスの為し給ひし事を告げたり。ここに祭司長パリサイ人ら議会を開きて言ふ『われら如何に為すべきか、此の人おほくの
しるしくに
徴を行ふなり。もし彼をこのまま捨ておかば、人々みな彼を信ぜん、而してロマ人きたりて、我らの土地と国
びと
人とを奪はん』その中の一人にて此の年の大祭司なるカヤバ言ふ『なんぢら何をも知らず。ひとりの人、民のために死にて、国人すべての滅びぬは、汝らの益なるを思はぬなり』これは己より云へるに非ず、この年の大祭司なれば、イエスの国人のため、又ただに国人の為のみならず、散りたる神の子らを一つに集めん為に死に
はか
給ふことを預言したるなり。彼等この日よりイエスを殺さんと議れり。 (ヨハネ伝第十一章一 -五三 )
この話は有名なラザロの復活のところです、ラザロ一家とイエスとの仲は、非常に深いもので、この一家と付合っている時のイエスは実に楽しそうです。ラザロ一家の信仰の深さということもあったでしょうが、過去世からの深い縁というべきでしょう。イエスの愛は殊のほかこの一家にそそがれていたのです。
その愛する者の一人のラザロが、死病にとりつかれたことを、マルタ姉妹から、他の地にいたイエスに知らせてきました。その地にくる前にイエスはマルタ姉妹のところにいたのですから、マルタ姉妹にとっては、なんでも予見の出来るイエス様が、何故ラザロが重病になることを気づかれなかったのだろう、何故重病にならぬようにお祈り下さらなかったのだろうか、などと取り乱した心のうちで、少しくイエスに恨みがましい気持を持ちながら、しかもすがりつくように、イエスの下
に使いを走らせたのです。常識的な考えからいえば、確かにその通りで、イエス程の霊覚者ならば、愛する者が死病にとりつかれぬうちに、未然にその病を防いでくれてもよい筈だ、と考えるものです。私などにも、そういう信徒たちの心持が実によくわかります。神を信ずるといいましても、どうしてもイエスという肉体をもった神の使の存在を通して、神の愛や能力を信じていることが多いのですから、イエスの肉体がそこに存在しなくて、自分たちだけの信の心では、とても死病にあえぐラザロの看病を落ち
ついてしているわけにはゆきません。イエスという肉体をもったキリストにすがりつく気になるのも無理からぬことです。ところが神の愛というものは、そう簡単に単純に現わされるものではありません。その人その人の過去世の因縁というものを、その人なりに果させながら、守護天使やイエスのような霊覚者の愛
の援助によって、最後の救いを果させるものであります。こんなに信じつづけてももう駄目なのかという最後の土壇場になって現わされる奇蹟こそ、大いなる神の愛というべきなのです。深い信仰生活に入れば何人もそういう体験を味わうことが出来ます。
ラザロにおける奇蹟などは、実にその最たるものでありまして、死んでしまって墓に入れられ、もう四日になろうとしている時に、イエスによって復活するわけですから、ユダヤの信仰の三日までは霊は肉体に帰えり得る、というそれより一日を経過しているので、絶対に生きかえることのない状態にラザロはあったわけです。そのラザロがイエスの力によって甦ったわけですから、その劇的な感激の瞬間が眼に見えるようです。
イエスがラザロの死病につかれるのを知りながら、他の地に行ってしまったり、マルタの使いがきても直ぐにラザロの下に駈けつけようとはせず、二日もたってからラザロの下に出向いていったりしたのは、すべて、神の栄光のため、神の子のこれによりて栄光を受けんためなり、とあるように、神の大愛はイエスを通して、死人さえも甦えらせることが出来るのだ、という、その証拠をここにはっきり衆人に見せるために行なわれたのであります。イエスは「ラザロは死にたり。我かしこに居らざりし事を汝等のために喜こぶ、汝等をして信ぜしめんとてなり」と弟子たちにいっております。そしてその足でラザロの下に往ったわけで、すべて神界とイエスとの話合いによって、神
わざ
のみ業のいかに素晴しいものであるかを、弟子や大衆に知らせ、イエスがキリストであることの実証を示したのであります。
イエスがラザロの下に前に来た時には、イエスに反抗するユダヤ人たちが、石を打ちつけたり悪口をいったりして、非常に布教しにくい土地だったのですから、弟子たちはこの地にイエスが出向くことを嫌がったのですが、イエスの一挙手一投足、すべて神のみ心のままになされるのですからイエスは肉体的な想いで何事をもなそうとはしなかったのです。肉体的生活の損得、肉体にまつわる喜怒哀楽、そういうものは、イエスにとって、単に一瞬にして消えてゆく姿でしかなかったのです。
イエスの言行はすべて神のみ心によってなされていたことが、ラザロの復活の一事によってもよくわかることなのです。イエスを迎えたマルタ、マリヤの姉妹の喜びようはどんなだったでしょう。これでラザロは助かる、と心の底から思ったに違いありません。信仰というものはそういうも
のなので、唯物的な人からは馬鹿気きったような、単純素朴な信の心が、大いなる奇蹟を生む原動力となるのであります。
また一方イエスにとっては、こうした大いなる奇蹟を生みなしてゆくごとに、十字架上での大犠牲の日が近づいてくるのでありますが、これはイエスの天命が成就するためであって、仕方のないことであったのでしょう。その頃のユダヤでは、ローマの圧制からユダヤ人民を解放しようという民族運動が盛んでありまして、イエスのような大能力を持つ者が、そうした運動家と手を組んで働き出したら、時の権力者の座が危くなる、という主権者側の自己防禦のための圧力が、イエスやその弟子たちに常に加えられていたのであります。
もしイエスの天命が政治改革にあったならば、あれだけの大能力者なのですから、民衆を統一して、革命を成し遂げ得ることも出来たのでしょうが、イエスの天命は、精神革命でありまして、精神の甦えりを人類に与えるためにイエスは天降ってきたのです。
聖者賢者といいましても、それぞれの天命のままに働くのでして、一人の聖者が何から何までゃりぬくなどということは、今日までかつてありません。イエスの天命も釈尊の天命もそして老子も孔子も、それぞれの天命に従って、この世の道開きをしていったのであります。
そういう意味では、イエスは肉体身としては不幸な天命を受け持たされてきたのですが、霊身と
しては輝やかに神界の中心に存在しているのです。前にも述べておりましたが、イエスは天の使と
Q

して霊覚者として、二千年前のユダヤの地に存在していたのですが、イエスとしての肉体身は血も涙もあり、青年としての多感な想いもあったわけなので、愛するラザロの死には、いたく涙を流し
いた
たのであり、ヨハネ伝には、心を痛め悲しみ、とか、また心を傷めつつ墓にいたり給う、とか書かれてありまして、神と倶なる霊身のキリストと、肉体身としてのイエスとの相違をはっきり示しています。こういうところに肉体人間としてのイエスの辛さもあり、存在価値もあったわけで、神のみ心そのままだからといって、悲哀の情がまるで無いなどということは嘘なので、肉体人間の喜怒
哀楽の中に住みながら、自ずと人々をして、その喜怒哀楽を超えた神の世界に導き上げることが、聖者賢者の使命なのであります。
ラザロの復活こそ、イエスの人間性とキリストとしての天命とが、全く一つに統一されて現わさ
れたる大奇蹟なのであり、神の栄光がまざまざと現わされたる最もドラマチックな一瞬であったの
です こういう奇蹟は、イエス・キリストとしても、そう数多くあった話ではなく、イエスとラザ

ロ一家との過去世からの深い善因によって、稔った神の栄光ともいうべきなのでしょう。いかなる宗教でも、教祖として起たされた人々には、それぞれ神の栄光は現わされるのでありまして、その栄光を自己の力と思い上がった時に、その教祖の堕落がはじまるのであります。教祖や
先達は、常に自己の肉体身に愛を一杯満たして、自己を顧みつづける反省の時を多く持たねばなりません。私はイエス・キリストの中に、神と人との全きつながりを観るのであります。

学者・パリサイ人らの反抗
罪なき者まず石にてうて
イエスの布教活動は、常に政府や、ユダヤ教の人々の監視の下になされていました。イエスに少しの落度でもあったら、社会を乱す者として、刑罰に処そうとして反対派が狙っていたわけなので、イエスとしては少しの隙もみせられないわけだったのです。しかし、神のみ心を現わす宗教活動はたゆみなくつづけられていたのであります。
イエスばかりではありません。日本においても、鎌倉時代の法然親鸞や日蓮など、常に政府や他宗教派の迫害の中にあって布教をつづけていたのであり、その後も仏教者といわずキリスト教者といわず、時の権力者に逆うことは、常に自らの死を意味していたようなものだったのです。全く不惜身命で宗教活動をしていたわけで、その点今日の宗教者の安易な日常生活は、昔の宗教者にくら
べて勿体ない程のものです ◎
イエスの立場は、日本の昔の仏教者でいえば、諸国流浪の托鉢僧のようなもので、これと定まった寺院があるわけでも、修業道場があるわけでもありません。雨風にさらされながら、神のみ心の
ままの布教の足を西に東と向けていたのであります。イエスの権威は洗霊のヨハネは別にして他の
何人がつけてくれたものでもなく、自らの霊覚による権威でありまして、実力そのものがイエスを
権威ある者として、キリストとして民衆に鐙仰さんこうされていたのです。今日の宗教者が、大殿堂を背景に、巨億の富の力を頼み、自己の権威を高めようとしているのとは、雲泥万里の差なのであります。現在のカトリックの法皇は立派な方なので、非常に心が安まりますが、国王や大統領と比肩し得る社会的地位にある法皇の立場とイエスの置かれていた立場とのあまりにもの相違に涙ぐましい気持になってきます。親鸞と今日の本願寺との相違とよく似ています。いずれにしても、新しい道をこの世に開いてゆこうという人は、殆んどの人が、迫害を受け、貧しく苦しい生活の中で、大いなる生き方をしてゆくのですが、イエス程歴史上に大きな影響を及ぼした人は、迫害の生涯を終えた人の中でも数少かったと思います。
おとしい
聖書の中の、宗教学者やパリサイ人たちのイエスの問いかけは、常にイエスを陥れようとする
たくらみが隠されているのですから、イエスとしても慎重に答えなければなりませんが、イエスは常人と違いまして、神と直通している聖者です。一言一句が相手の心を貫き、反論をさせぬ権威をもっていました。そういう権威をもちながらも遂いに、最後に十字架上の人となってしまうのです
から、神のみ心の深遠な計画は、常人にわかるわけがありません。真の信仰の状態は、すべてを善しとみ、すべてを消えてゆく姿とみてゆくことが大事で、神のみ心をあれこれ批判すべきではありません。
イエス、オリブ山にゆき給ふ。夜明ごろ、また宮に入りしに、民みな御許に来りたれば、坐して教へ給ふ。
こニかんいんまなか
愛に学者、パリサイ人ら、姦淫のとき捕へられたる女を連れきたり、真中に立ててイエスに言ふ。『師よ、こ
カどてかかう
の女は姦淫のをり、そのまま捕へられたるなり。モーセは律法に斯る者を石にて撃つべき事を我らに命じたるが、汝はこころか如い何に言ふか』斯く言へるはイエスを試みて訴ふる種を得んとてなり。イエス身を屈め、指にて地に物書き給ふ。かれ鼻ひて止まざれば、イ貢身を起して『なんぢらの牝・罪な薯まつ石を攣』と言ひ・ま
としよウ
た身を屈めて地に物書きたまふ。彼等これを聞きて良心に責められ、老人をはじめ若き者まで一人一人いでゆ
ただ
き、唯イエスと中に立てる女とのみ遺れり。イエス身を起して、女のほかに誰も居らぬを見て言ひ給ふ『をんなよ、汝を訴へる者どもは何処にをるぞ、汝を罪する者なきか』女いふ『主よ、誰もなし』イエろ言ひ給ふ、『われも汝を罪せじ、往け、この後ふたたび罪を犯すな』斯くてイエスまた人々に語りて言ひ給ふ『われは世の光なり、我に従ふ者は磯き中を歩まず、郵甜の光を得
ぺし』バリサイ人ら言ふ『なんぢは己につきて証す、なんちの証は真ならず』イエス答へて言ひ給ふ『われ自
まこといずニいずニ
ら己につき証すとも我が証は真なり、我は何処より来り何処に往くを知る故なり。汝らは我が何処より来り、
さばさばぽ
何処に往くを知らず。なんぢらは肉によりて審く、我は誰をも審かず、されど我もし審かば、我が審判は真なり、我は一人ならず、我と我を遣し給ひし者と僧なるに因る。また汝らの律法に、二人の証は真なりと録されたり。我みつから己につきて証をなし、我を遣し給ひし父も我につきて証をなし給ふ』ここに彼ら言ふ『なんちの父は何処にあるか』イエス答へ給ふ『なんぢらは我をも我が父をも知らず、我を知りしならば、我が父をも知りしならん』イエス宮の内にて教へし時これらの事を賓銭函の傍にて語り給ひしが、彼の時いまだ到らぬ故に誰をも捕ふる者なかりき。 (ヨハネ伝第八章一-二〇 )
汝らのなげう中うち、罪なき者まつ石を榔て、という言葉はキリスト者なら誰でも知っている言葉です。石打ちとは死刑犯人に科せられたユダヤの刑罰で、市外の一定の場所で行なわれ、第一第二の証人が備えられた高所から、裸にされた犯人の心臓部めがけて石を投げつけて殺すのですが、なんとかし
おとしい
てイエスを陥れようとしている学者やパリサイ人たちは、自分たちのいうことに対して、イエスが女をかばえば、律法に反した者として訴えようとしていたわけです。ところがイエスの答は、実
にその人たちの意表を突いた巧みな答でありまして「汝らのうち、罪なき者まつ石を郷て」と彼ら
にいったのです。彼らはすべてユダヤ教の信者ですから、現今の唯物論者とは違いまして、神のみ
心を恐れている者ばかりです。神のみ心に照して自分たちを罪なき者、といい切れぬ人ばかりであ
ったのは当然でしょう。一人去り二人去り、女だけを残して、すべてはその場からこそこそと姿を
消してしまったのです。現今の唯物論者ならば、平然として自分は罪なき者だといい切れる人がい
たかも知れませんが、その頃のユダヤ人はそれにくらべればまだ純心だったと思います。
ゆる
かくて、イエスは姦淫を犯した女をいましめて赦してやるわけですが、イエスがすぐにこの女性
かいこ
を赦したのは、この女性が悔悟の涙にくれていたからでありまして、己れの犯した罪を平然としていたら、イエスはまた別な態度でこの女性に接したことでしょう。
イエスにいい負かされつづけながらも、パリサイ人たちは、次から次へと、イエスを試みようとします。しかし、イエスとは智慧の出てくるところが違うのですから、イエスにかなうわけはあり
ません。イエスの智慧は神の叡智であり、彼らの智慧は、肉体頭脳からくる小我の智慧です。知らないということは仕方のないもので、神の使者のイエスと自分たちを同格とみようとしている愚か
しさは実に哀れむべきです。光の中を歩む者と闇の中を往く者との差がどこにあるか、彼らにはわ
はなはだ
からないのです。現今ではかえってその無知が甚しくなっているのかも知れません。もっとも、今日の世の中で、大工の息子上がりの地位も富もない一介の青年が「我は世の光なり、我に従う老
は暗き中を歩まず、生命の光を得べし」などといったら、なんだ、あいつは狂人かぐらいに思う人
もあるでしょう。そこでパリサイ人らは「なんぢは己につきて証す。なんちの証は真ならず」と反論するわけです。自分で自分のことを偉いんだといったって、誰が信用するものか、というところです。私なども修業中はなかなか人が信用しなくて、狂人あつかいされたものですが、実績が積み重なり、私の霊覚で救われる人が多く出てきて、いわゆる多くの人々の証によって、今日の立場が出来ているので、イエスの一言一句が実に真実にわかり、イエスさまももう少し社会的地位のある人々を後援者にしていたらば、もっと社会的権威も出来、イエス在世中にでも、その教えは大きく拡大されていただろうに、と思ったりするのですが、何しろ、イエスさまの天命が、最後に人類の大犠牲者として、十字架上にかかることに定まっていたのですから、これはなんとも致し方ありません。すべては天意の致すところ、肉体人間側でどう思おうと、神様の深い思慮の前には浅智慧で
しかないのです。
これはイエスばかりでなく、すべての人々に対してもいえることで、もう少し生かしておきたか
ったとか、もうちょっとあの地位にとどめておいたなら、とかよくいわれますが、すべては神のみ心の中のことであるのです。ですから私たちは一瞬の間においても、神への全託の気持で生活することが大事なのであって、自我の思いであれこれ思いあぐねて心をわずらわすことは天意ではないのです。
すべてを天の父におまかせする、私流にいえば、守護の神霊におまかせして生きつづけゆくこと
が、イエスの教えでもあり、すべての宗教の道でもあるのです。神にすべてをおまかせして、神の愛の中で、自己を愛深い勇気ある人格に仕立上げてゆくことこそ、この世でもあの世でも通用する光ある生き方なのであります。
天の父のおわすことを知らず、守護の神霊のたゆみなき加護を信じ得ない者は、不幸な人というべきでしょう。「なんぢらは我をも我が父をも知らず、我を知りしなば、我が父をも知りしならん」とイエスが最後にいっておりますが、実際にイエスの存在意義を信じ得た人は、そのまま天の父を信じたことになるのであります。今日における宗教者にしても、その人が真の天の使としての人であるならば、その宗教者の道を信じて生活してゆくことによって、その信奉者の道は光の道になってゆくのであります。
にせもの
ただいつの世でもそうなのですが、本物と偽物とがおりまして、この見分けがなかなかつきませ
ん。この見分けはどのようにつけたらよいものなのでしょう。一見にして見分けられることは、そ
の師が、金銭欲の深い人であるかということと、虚栄心からくる尊大ぶった態度であるかどうかと
いうこと、それに誰でもいいますが、色欲ということでしょう。それよりもまず先に自己の守護
神、守護霊様を心の中でお呼びして、その人に対すれば、その師の善悪がなんとなくわかってくる
ものです。
巧みな言葉やご利益の話などにつられずに、想いを守護の神霊の中に投入していることが大事なのです。大体において、現世利益を餌にして信者を獲得しようとするような宗教者はあまり上等な人とはいえませんが、現世利益をも含めながら、人間の生き方を立派なものにしてゆこうとする人
おの
もありますから、これも一概にはいえません。こちらの心が澄んでいれば、自ずと相手の真価がわかってくるのですから、いつも心を澄ませるように神に祈っていることが大事ということになります。変な宗教団体に入ることは、入らぬことより悪いことになるのですが、どんなところにいても、常に守護の神霊の加護を念じていれば、やがて、自己に一番ふさわしい環境が与えられるもの
です。
イェスのように得難い霊覚者に反抗していたパリサイ人たちの愚かさは、常に肉体我だけで物を判断し、その場その時々の自己の利害で事に処していた愚かしさからきたものでしょうが、今にして思えば、随分損なことをしたものです。
それにしても「彼の時いまだ致らぬ故に、誰をも捕ふる者なかりき」とこの節の終りにある文をみていますと、イエスの十字架上の運命が刻々と迫ってくるようで、私たち現今の宗教者も、人々の業をカルマ背負って、常人にはわからぬ大きな苦労をしているのですが、一挙に大犠牲を天命として果さねばならぬイエスの心境を想うと、たまらない気持になってきます。
イエスとユダヤ人びととの問答
あらひとがみ
ユダヤでは、日本の戦前のような、現人神天皇のような、現存する中心者はおりませんでしたが、神に選ばれたるアブラハムを祖先に持つ、神の選民である、という信仰が深く根を下しておりまして、未だにその信仰が崩れておりません。日本のように一度敗戦の憂き目をみた、というだけで、神国日本という看板をすっかりはずし切ってしまって、自国民を最低の国民としてこき下す大使ま
で出てくるのとは、大分その心意気、心構えが違っています。
長い歴史の中で何度びと数えきれない敗戦で、常に他国民の施政の下に圧迫されつづけながらも、神の選民である、という深い信仰を持ちつづけ、遂にイスラエル国という独立国をつくりあげたユダヤ人の自民族の存在意義を堅く信ずる心には敬服せざるを得ません。
かたく
ところがそういう選民意識は、時には非常に頑なに自己の主張を通す態度になり、他人や他国との調和を破る結果になってきます。イエスの頃でも、そういう頑ななユダヤ人が多くいまして、自
すえ
己の行為はそっちのけにして、アブラハムの高である、自分たちは選ばれた人間である、ということだけに誇りを感じて生きていた人がいたもので、神のみ心をそっちのけにした宗教形式や宗教誇りだけが目立って、一番必要な神の道を踏み行う人が少なくなっていたのです。
イエスが神の使としてこの世に天降ってきたのも、そういう神のみ心を現わす行為のともなわない宗教形式を打破し、真の宗教の道を確立しようとして説法し歩いていたのでありますが、古い殻に閉じこもって、頑なに自己の宗教観を守ろうとしている人たちには、なかなかイエスの言葉も耳
に入らなかったようです。ここでは、イエスとユダヤ人との問答をヨハネ伝第八章三十一.五十九から引用しました。
ニとば
髪おのれニこにイエス己を信じたるユダヤ人に言ひたまふ『汝等もし常に我が言に居らば、真にわが弟子なり。また真
すえど
理を知らん、而して真理は汝らに自由を得さすべし』かれら答ふ『われらはアブラハムの窩にして未だ人の奴
れい
隷となりし事なし。如何なれば「なんぢら自由を得べし」と言ふか』イエス答へ給ふ『まことに誠に汝らに告
おかとこしえ
ぐ、すべて罪を犯す者は罪の奴隷なり。奴隷はとこしへに家に居らず、子は永遠に居るなり。この故に子もし
すえことは
汝らに自由を得させば、汝ら実に自由とならん。我は汝らがアブラハムの喬なるを知る、されど我が言なんぢ
はかもと
らの衷うちに留らぬ故に、我を殺さんと謀る。我はわが父の許にて見しことを語り、汝らは又なんぢらの父より聞きしことを行ふ』かれら答へて言ふ『われらの父はアブラハムなり』イエス言ひ給ふ『もしアブラハムの子な
わざにか
らば、アブラハムの業をなさん。然るに汝らは今、神より聴きたる真理を汝らに告ぐる者なる我を殺さんと謀
かかわざ
る。アブラハムは斯ることを為さざりき。汝らは汝らの父の業を為すなり』かれら言ふ『われら淫行によりて生れず、我らの父はただ一人、即ち神なり』イエス言ひたまふ『神もし汝らの父ならば、汝ら我を愛せん、われ神より出でて来ればなり。我は己より来れるにあらず、神われを遣し給へり。何故わが語ることを悟らぬか、是わが言をきくこと能はぬに因る。 ……神より出つる者は神の言をきく、汝らの聴かぬは神より出でぬに因る』ユダヤ人答へて言ふ『なんぢはサマリヤ人にて悪鬼に愚かれたる者なりと、我らが云へるは宜うべならずや』

イエス答へ給ふ『われは悪鬼に愚かれず、反つて我が父を敬ふ、なんぢらは我を軽んず。我はおのれの栄光を
さはきとこしえ
求めず、之を求め、かつ審判し給ふ者あり。誠にまことに汝らに告ぐ、人もし我が言を守らば、永遠に死を見

ざるべし』ユダヤ人いふ『今ぞ、なんちが悪鬼に愚かれたるを知る。アブラハムも預言者たちも死にたり、然
あじわ
るに汝は「人もし我が言を守らば、永遠に死を味はざるべし」と云ふ。汝はわれらの父アブラハムよりも大なるか、彼は死に預言者たちも死にたり、汝はおのれを誰とするか』イエス答へ給ふ『我もし己に栄光を帰せば、我が栄光は空し、我に栄光を帰する者は我が父なり、即ち汝らが己の神と称ふる者なり。然るに汝らは彼
いつわりもの
を知らず、我は彼を知る。もし彼を知らずと言はば、汝らの如く偽者たるべし。然れど我は彼を知り、且その
みニとば
御言を守る。汝らの父アブラハムは、我が日を見んとて楽しみ且かつこれを見て喜べり』ユダヤ人いふ『なんぢ未いまだ五十歳にもならぬにアブラハムを見しか』イエス言ひ給ふ『まことに誠に汝らに告ぐ、アブラハムの生れい
さセし
でぬ前より我は在るなり』髪に彼ら石をとりてイエスに郷たんと為たるに、イエス隠れて宮を出で給へり。 (ヨハネ伝第八章三一ー五九 )
このイエスとユダヤ人との問答をみてみますと、イエスとユダヤ人との心の在り方が、あまりに
も離れ過ぎていて、どうにもならないという感じです。私なども道を説いておりますと、こういう
殻にはまった人たちに出会いますが、いかに巧みに説法しようとしても、相手が自分の立場を守り
きろうとして、一向にこちらの話をきこうとしていないで、ただ言葉尻をつかんで反掻してくるの
ですから、こちらの真意を了解しようもありません。
この問答だけですと、イエスのほうもあまりに頭ごなしに高いところから説法していますので、
なお更に相手の反擾を買っている傾向があります。ユダヤ人のほうは自分はいっぱしの信仰がある
ことば
と信じていますのに、頭っから、「汝らもし常に我が言に居らば、真にわが弟子なり。また真理を
知らん、而して真理は汝らに自由を得さすべし」とやっています。
もしこのユダヤ人たちに霊眼が開いてでもいますれば、イエスの体が光り輝いて見え、確かに神の使であるということがわかったことでしょうが、彼らにはそういう眼がありません。ただ大工の伜であったイエスという痩身痩躯そうしんそうくの青年が大言壮語しているとしかみえなかったのです。そこで怒
どれい
りに震えたような声で、「われらはアブラハムの喬にして未だに人の奴隷となりしことなし」だから自分たちは自由の身だ、というわけです。もうここで、いくらイエスがどんな真理を説こうと、彼らの心を開くことが出来ず、かえってイエスを一歩十字架に近づける、彼らの憎しみをあおった
なげうし
だけになってしまったわけです。最後の「彼ら石をとりてイエスに郷たんと為た」という文章でもよくその間の事情がわかります。
イエスの天命がそうなので仕方がないのですが、イエスが貧しい家に生れたこと、その説法があ
あい
まりにも高びしゃであったことなどが、イエスの奇蹟を現わし得る力と相まって、ユダヤ教の人たちや為政者の反感を強く買って、最後の結末になっていったのでありましょう。イエスが神の使徒として、肉体的には人類の大犠牲者として、若い生涯を終ったことの悲劇性が、キリスト教の大発展となる重大な要素となっているのですから、神のみ心は計り知られません。ですから肉体生活において、不幸なようにみえる人でも、魂的に浄らかに明るく愛一念で生きていますれば、その人の生涯は不幸のようにみえても、永遠の生命の座においては幸せを得ているといえるのです。すべては個人的な過去世の因縁、国家民族的には歴史的経過において、神のみ心を汚れ稼した想念の波が消え去ってゆくに従って、神の子である明るい幸せな個人や人類が現われてくるのであります。イ
エスは確かに人類の汚れ稼れを浄め去ってゆくための一人の大犠牲者であったのです。ところでこの問答の中の、自由の問題ですが、イエスは生命そのもの霊そのものの自由をいい、ユダヤ人は肉体生活的な自由をいっております。人間はいかに富や地位がありましょうとも、真の
ことぱ
自由を得ることは出来ません。イエスのいうように、神のみ心のままに、神のみ言のままに生きて

いる人が、はじめて真の自由を得るのであります。しかし、ユダヤ人たちには、イエスが悪鬼に愚
かれている者としてみえているのですから、とてもイエスの言葉などまともに聞くわけがありませ
ん。イエスが「人もし我が言を守らば、永遠に死を見ざるべし」というのでも、イエスの肉体がい
ことば
うのではなく、神のみ言がイエスの口を通して出てくるのですが、ユダヤ人たちにはそうは思えません。すぐ反掻して、
「一体何をいうんだ、アブラハムでも予言者たちでもみんな死んでいるではないか」といいます。これは肉体的にみれば死んでいるに違いありません。イエスのいうのは、霊魂として、真の人間としては、神のみ心の通りに動いていれば、肉体的に死んだようにみえようとも、真の人間、生命自体は生きいきと生きつづけるのだ、ということなので、イエスもそういう事実を、霊的によく知っているのであります。
実際この世の中には、肉体の死がすべての死を意味すると思っている人が実に多いのですが、実は肉体の消滅と人間の死とは全く違うのでありまして、肉体はあくまで真の人間生命の器であり場であるだけで、肉体が使えなくなれば生命自体は、肉体を離れて他の体つまり霊体において自由自在に生きつづけるのであります。その真理を知らぬ人は、肉体が死にますと、そのまま生命自体も
ちゆうう
死んでしまったものと思って、霊界にもいられず、肉体界にもいられず、いわゆる中有に迷って、死そのものの状態で、その真理に気づくまで、暗黒界にさ迷うのです。イエスと問答していた、ユダヤ人たちも、長い間中有を迷いつづけたことでありましょう。真理
を知らぬということは実に不幸なことであります。ところがこういう不幸な人たちが、いかにも幸
せそうに偉そうにこの世の生活を享楽しているのですから、肉体生活だけに把われていては、永遠
の生命を得ることは出来ないし、真の世界平和をつくることも出来得ないことになるのです。
ユダヤ人たちを一番驚かせ、いよいよイエスが悪鬼につかれている、と思わせたのは、「アブラハムの生れぬ前に我は在るなり」という言葉です。これは普通ではびっくりするのも当然です。これは、私が、釈迦の生れぬ前、イエスの生れぬ前から我は在るなり、というのと同じですから、あ

あいよいよこれは愚きものだ、とユダヤ人たちが思ったに違いありません。
ところが、イエスにしては当然なことなのであります。何故かといいますと、イエスにこの言葉をいわせているのは、神そのものであるからです。どんな古い人でも神様より古く生れている人はありません。すべての人々はみな神のみ心によって生れ出でているのですから、神様そのものなら、我はアブラハムの生れぬ前から在る、といって、少しの不思議もないのであります。
しかし、いかに神の言葉にしても、イエスという肉体を持った人間の口から出てくる言葉なのですから困るのです。こういう言葉をいちいち神と自分とを離して説いていたのでは権威がなくなってしまいますし、こういう説法をしたために敵対する人も多くなりましたが、その権威に打たれて信徒になった人も多いので、イエスの説法の仕方はやはりこれでよかったのだと思います。
すべては神のみ心のままでありまして、各人各様に自己の置かれた環境や立場において、常に守護の神霊の加護に感謝しながら、全能力を傾けて生きてゆけばよいのであります。イエスの生涯は神のみ心を少しも違えず、それこそみ心のままの生涯を送ったのでありまして、イエスにとって一分の悔もなかったと思います。普通の人にはわからぬことと思いますが、神のみ心と一つになって
いる肉体というのは、この世の迷いの想いや誤った想いの波の中を光明そのものとなって進んでゅくのでありますから、時には迷いの波や暗黒の波との激突があります。イエスはその激突によって十字架上の露と消えたのですが、私共は日々瞬々その波動を身に受けてこの世を進んでいるのでありまして、いかなる迷いの波も暗黒想念も、すべて光明の前の消えてゆく姿として進んでゆくのであります。祈りによる世界平和の運動もそうした光明波動の進撃なのであります。

先なる者は後に、後なる者は先になるべし
イエスは治病力が特に秀れていましたが、その説法にも非常な魅力があったようです。釈尊しやくそんもそ
たと
うでしたが、イエスの説法も常に警え話をもってなされていまして、その警え話がユダヤのその当時の群集の心にやさしく真理を沁しみこませることができたのです。
じよじよう
いかに真理でありましょうとも、理論づくめのこちこちの、叙情の少しもない説法では、聞くほ
しいや
うが疲れてしまうし、どこかではねかえってしまって、心に沁みこんできません。すぐに嫌になってきます。仏教学者とか聖書学者とかいう、宗教を学問的に取り扱かっている人々には、得てしてこのこちこち説法が多いのでして、教えが生きいきと人々の心に流れこみ、沁みこんでくることがないのです。
しやくそん
そこへゆくと、釈尊にしてもイエスにしても、またその他の教祖や先覚者と呼ばれる人々は、いずれも生きた説法のできる人たちです。それもそのはずでありまして、教祖や先覚者といわれる人
みずか
々は、いずれも自らの身心を投げうって体得した道を説くのであり、神仏のみ心がその人の心の底から湧き上がり、浴れでてくる説法ですから、聴聞者の心にひびくのであります。
それにまた、そういう人々は、その場その場に集ってくる聴衆の心の動きの読める人たちでありますから、この聴衆にはどういう話をしたらよいかが、その時々によってわかるのです。ですからその場その時々に合うよ ‘に書いてきて、原稿通り
5な薯え話が即座にできるのです。いちいち原稿の話をしようなどという死んでいる言葉では、人の心を揺り動かすことはできません。声も言葉も内容にも生命が生きいきと盗れているような、人の心をひきつけずにはおかぬようなものを、イエス・キリストは持っていたのです。
にたらセびとぶどうぞのいあるじ
『天国は労働人を萄葡園に雇ふために、朝早く出でたる主人のごとし。一日一デナリの約束をなして、労働人
つかわむない
どもを萄葡園に遣す。また九時ごろ出でて市場に空しく立つ者どもを見て「なんぢらも萄葡園に往け、相当のもの与へん」といへば、彼らも往く。十二時頃と三時頃とに復いでて前のごとくす。五時頃また出でしに、な
たどもみひねもすむな
ほ立つ者等のあるを見ていふ「何ゆゑ終日ここに空しく立つか」かれら言ふ「たれも我らを雇はぬ故なり」主
ゆうべあるじいえつかさいはたらきびとよ
人いふ「なんぢらも萄葡園に往け」夕になりて萄葡園の主人その家司に言ふ「労働人を呼びて、後の者より始
ちんぎんかくう
め先の者にまで賃銀をはらへ」斯て五時ごろに雇はれしもの来りて、おのおの一デナリを受く。先の者きたり
いえあるじつぶや
て、多く受くるならんと思ひしに、之も亦おのおの一デナリを受く。受けしとき、家主にむかひて眩きて言
ろシひとあしら
ふ、この後の者どもは僅に一時間はたらきたるに、汝は一日の労と暑さとを忍びたる我らと均しく、之を遇へ
あるじ
り」主人こたへて其の一人に言ふ「友よ、我なんぢに不正をなさず、汝と我と一デナリの約束をせしにあらず
いこころこころナ
や。己が物を取りて往け、この後の者に汝とひとしく与ふるは、我が意なり。わが物を我が意のままに為るは

可からずや、我よきが故に汝の目あしきか」斯のごとく後なる者は先に、先なる者は後になるべし』 (マタイ伝二十章一ー十六 )
たと
この磐え話は、わかるようでわからない、わからないようでわかる。そんな思いの人が多いと思
います。しかし、その頃のユダヤ人にはよくわかったのです。宗教の教えというものは、その起っ
た時代や国柄土地柄という歴史的なものをぬきにして、いつの時代にでもどこの国にでも、その時
の説法通りで、人の心を感動させることができるかというと、そうではありません。
この萄葡園の話でも、このままでもなんとなく、ばくぜんと、神の愛というものを感じる人があると思いますが、わかるようだが、なんだかよくわからない、というのが普通の人でありましょう。生活環境の相違でぴんとこないところがあるからです。その頃のユダヤには大きな葡萄園がいくつ
しゆうかくき
もあったらしく、萄葡の収穫期は短かいので、一時に多くの人の手を要するのです。そのため、萄葡園は、多くの人々の生活に身近いものとなっています。そこでイエスは天国の例えを萄葡園にとったわけなのです。それから、ユダヤでは、労働時間が、夜明けの六時から、夕方の六時迄の十二
時間でありまして、労働者の一日分の普通賃金は一デナリであったようです。はじめに主人は六時から労働人たちを萄葡園に遣つかわし、その後、九時、三時、五時と労働人を集めたわけです。この磐え話の問題点は、六時から六時まで十二時間働いた者も、五時から六時迄の一時間働いた者も、その労働賃金が同じであったことと、先の者より、後から働きに出たものに先に賃金を渡したことにあるわけです。
こんなことは現実生活としては決してないことであり、馬鹿げたことであります。そこで一日中働いた労働人が、あなたは一日の労働と暑さとを忍んだ我々と、たった一時間しか働かぬ者たちとを同等に扱うのは何故ですか、と主人に不平をいうわけです。これは当然のことでありましょう。
ところが主人の答は、「我なんぢに不正をなさず。汝と我と一デナリの約束をせしにあらずや :・
こころ
…この後の者に汝とひとしく与ふるは、我が意なり。 ……」というのです。現代の現実社会におい
ては、こんな主人ではとても労働者は集りっこありません。いくら雇主だとて、そんな不合理な勝
手なことは許されない、ということになります。そして社会の世論はすべて労働者の不平に賛成するに違いありません。
つかさど
そこが、この社会の在り方と永遠の生命を司る大神の厳しい法則との相違なのであります。ただたんに神様のみ心だけというのではなく、こういんねんせこ過か去世からの各人の業因縁をも含めた、過去現在未来という永遠の生命の歴史過程による現象界への現われ方の説明になるわけです。
現在だけの社会の眼からみれば、よけい働いた労働者の不平が当然なことなのですが、永遠の生命からみた、各個人の歴史的経過、やさしくいえば、せこ過か去世からの生活の在り方というものが、現在の結果として現われてくるので、現在だけの働きだけで、その個人の価値を評価することはできないし、事実この現世では心の正しい善人が貧乏していて、心のゆがんだ悪いことの平気でできる人が富んでいたり、権力の座についていたりすることが多いのです。
むじゆん
こういう事実を考えますと、神の存在を認める人々としては、当然この世のこうした矛盾に気づ
むじゆん
いているわけで、神が愛ならば、何故こうした矛盾が起っているのだろうと、大なり小なり、神への不信感がでてくるのです。
むしゆんかこせいんねんいんがとくふとく
イエスは、この矛盾の現われてくるところの過去世の因縁因果、徳、不徳ということをいわずに
しじようむじゆん
神のみ心によってすべてが決められるので、それが至上のことなのだから、この世的にいかに矛盾
したようにみえようと、不公平のように見えようと、それはみな神様の大智慧大愛によってなされ
ているのであるから、それを信じなさい、というのであります。しかし、これは私流にいえば、神
かこせむじゆんどう
の法則の面を説いているので、この法則は過去世というものを考えに入れねば、どうしても矛盾撞
着あいじちやくしてきます。そこで、法則の神と慈愛の神、つまり守護神という二つの神の働きを認めなければ
いけないのです。

「わが物を我が意のままに為るは可からずや」と、すべては神のみ心によってなるのであって、
まか
すべては神のものであるのだから、神のみ心に任せておいて、人間は神のみ心のままにしておれぽ神はその人間に悪いようにはなさらない。という、真理をイエスは説いているのであります。これは実に真理そのものなのですが、信仰の浅いものにとっては、神様ってなんという勝手なものか、
と思わせてしまいかねないのです。ところがイエスの教えの根本は「汝の信ずるごとく汝になれ」「汝の信仰汝を癒せり」でありまして、その個人個人の信仰の深さ浅さが、その人の運命を定めてゆくのだ、ということなのでありますから、神様のなさることにいちいち理屈をいい、不平不満を
あと
いうものは、救われの後まわし、ということになるのでありまして、自分は神様のためにこれだけ働いた、とか、自分は天国をつくるためにこんな大きな働きをしたとか、いう者よりも、神様のために働きたくてたまらなかったのだけれど、種々の環境で働けなかったという者たちは、神様のための働きができるようになると、大いに喜び、謙虚にしかも真剣に働きつづける、だから、後から入った者が先になる、つまり霊界の上位に昇ることもある。「後なる者は先に、先なる者は後になる」ようなこともあるのだ。とイエスは萄葡園の讐え話で説いているわけなのです。イエスは常に
まず
自己の行ないに慢心している人を低くみています。そして、心の貧しい者、つまり謙虚なる人を高くみているのです。
いんねんいんがかニせ
前回にも申しましたように、聖書は神中心の説法でありまして、因縁因果というものや過去世ということなどの説明には力を入れておりませんので、かえって神のみ心に対して不審を抱く人が随分あると思うのです。この萄葡園の讐え話にもそれがいえるのでありまして、私のように仏教その他種々と各聖者賢者の説き方を知っている者からみると、もっとなんとかこういう不審感を抱かせぬように聖書をまとめたらよかったのにと思うのですが、そう思うのはよけいなことで、キリスト教聖書には、その道独特の在り方でよかったわけなのでしょう。そのため各国に各宗の聖者賢者の出現する必要があったのです。一人や二人の聖者だけで、この地球を救うことのできぬことがしみじみわかります。
各時代各国に種々の聖者賢者が現われて、この地球界を手分けで徐々じよじよに磨き上げてゆくように神様がなさっているので、最後には聖者の集団によって、この地球を救済し、大進化させてゆくわけ
どうじゆ
なのです。そういう意味で仏教の人も道教の人も儒教の人も、神道の人も聖書の善いところを認め
てゆかれるとよいと思います。各教の各先達が、地球救済のために、枝葉のことは打ち捨てて、心を一つにして起ち上がった時、この世に光明は充満してゆくことでしょう。一日も早くその日のく
ることが望まれます。
我が宗教のみのむなしどくそん唯ゆいが我独尊ほど愚かしいものはありません。宗教者が自己を空うして、世界平和の
かがみ
ために手を取り合わねば、俗界の塵に汚れた政界や財界の人々の鑑になることができましょうか。
ぶつだろうしこうし
イエスを仏陀を老子を孔子をすべて我が内に生かして、宗教の統一がなされた時、はじめて、イエス・キリストの真価もそこに生きてくるのであります。
キリスト教信者と称しながら、お互いに自己を主張して、戦い合っている愚かなる民族があることをニュースでみる時、イエスの哀しみが伝わってきます。聖書がどこかで曲がって伝わってしま
ったのか、聖書だけでは消滅し得なかった地球の業カルマのなせるわざか。とにかく地球の夜はまだま
あんい
だ深いのです。この地球の夜明のためにも、宗教に志ざすものは、自己の生活の安易さだけを求めず、自己の魂の浄めと共に、世界人類の平和を祈る、人類愛の想いに生きねばなりません。
イエスは神のみ心を、その時代のユダヤに合わせて説くということより、讐え話によせて神のみ心をそのまま率直に説いておりまして、自己の言葉が、時の政府やユダヤ教の人々の反感を買っていることなど、あまり意に介さなかったようです。イエスという肉体は個人の肉体というのではなくて、真実に神のっわ器うであったのです。ですから、神の光明がその言葉から燦然さんぜんと輝き出ているの
ずいき
で、それを素直に感ずるものは随喜の涙をこぼして、魂が浄化されてゆくのであります。ところが魂の汚れの深いものは、その汚れがその時代の汚れとマッチして、高い地位や権力を得ている者た
ちなので、イエス・キリストの光明によって、その汚れが浄められてゆくと、自己の現在置かれて
いる権力ある地位が揺いでくるような、不安を感じて、極端にイエスを嫌い、イエスを迫害しよう
としたのであります。闇は常に光明を恐れるのです。それはいつの時代でも同じことですので、光
けが
明思想の人々は瞬時も神のみ心を離れぬ祈り心で、この世の汚れに稼されず、素直に謙虚に世界平和をつくりあげる進化の道を進んでゆかねばなりません。
372



取税人ザアカイ
今回も前回につづいてぱなし讐たとえ話の解説をしようと思います。ルカ伝第十九章一節から二八節まで
しゆぜいにん
の、取税人の話に出てくる薯え話です。例によってイエスは、ちょっと聞くと、それは反対ではな
いかしら、と思われるような話をするのです。
それにかなり鋭い言葉で、天の理を説き明かされるのですが、慕い寄る者や、イエスを信ずる者たちには、ますます信仰を深め、イエスの権威を感じさせるのですが、反対する者たちにとっては、いよいよ反感をあおられるような言葉がこの章でも語られます。イエスの説法は常に天の理を真直ぐ説いておりまして、この世との妥協が全くありません。そこがイエスのイエスたるところなのでしょうし、今日のキリスト教隆盛の元があるのでしょう。
みしウぜいにんかしらと
エリコに入りて過ぎゆき給ふとき、視よ、名をザアカイといふ人あり、取税人の長にて富める者なり。イエス
たけひくあたくわ
の如何なる人なるかを見んと思へど、丈媛うして群衆のために見ること能はず、前に走りゆき、桑の樹にのぼる。イエスその路を過ぎんとし給ふ故なり。イエス此処に至りしとき、仰ぎ見て言ひたまふ『ザアカイ、急ぎ
やどつぶや
おりよ、今日われ汝の家に宿るべし』ザアカイ急ぎおりて、喜びてイエスを迎ふ。人々みな之を見て眩きて言
もちものまずほどこ
ふ『かれは罪人の家に入りて客となれり』ザアカイ立ちて主に言ふ『主、視よ、わが所有の半を貧しき者に施
もしうつたつぐなすくい
さん、若し、われ謳ひ訴へて人より取りたる所あらば、四倍にして償はん』イエろ言ひ給ふ『けふ救はこの家
リナく
に来れり、此の人もアブラハムの子なればなり。それ人の子の来れるは、失せたる者を尋ねて救はん為なり』人々これらの事を聴きゐたるとき、讐を加へて言ひ給ふ。これはイエス、エルサレムに近づき給ひ、神の国
あらわすなは
たちどころに現るべしと彼らが思ふ故なり。乃ち言ひたまふ『或る貴人、王の権を受けて帰らんとて遠き国へ
わた
往くとき、十人の僕をよび、之に金十ミナを付して言ふ「わが帰るまで商売せよ」然るに其の地の民かれを憎
つかいつかわ
み、後より使を遣して「我らは此の人の我らの王となることを欲せず」と言はしむ。貴人、王の権をうけて帰
かねわたはじめ
り来りしとき、銀を付し置きたる僕どもの、如何に商売せしかを知らんとて彼らを呼ばしむ。初のもの進み出
もうよしもぺ
でて言ふ「主よ、なんちの一ミナは十ミナを蕨けたり」王、いふ「善きかな、良き僕、なんぢは小事に忠なりしゆゑ、十の町を司つかさどるべし」次の者きたりて言ふ「主よ、なんちの一ミナは五ミナ蕨もうけたり」王また言ふ「なんぢも五つの町を司どるべし」また一人きたりて言ふ「主よ、視よ、なんじの一ミナは此処に在り。我こ
ゐくさユ
れを歓紗に包みて蔵め置きたり。これ汝の厳しき人なるを催れたるに因る。なんぢは置かぬものを取り、播かぬものを刈るなり」王いふ「悪しき僕しもぺ、われ汝の口によりて汝を審かん。我の厳しき人にて、置かぬものを取り、さ播かぬものを刈るを知るか。何ぞわが金を銀行に預けざりし、然らば我きたりて元金と利子とを請求せしき
もわた
ものを」斯て傍らに立つ者どもに言ふ「かれの一、ミナを取りて十、ミナを有てる人に付せ」彼等いふ「主よ、か
もすべもも
れは既に十ミナを有てり 「われ汝らに告ぐ、凡て有てる人はなほ与へられ、有たぬ人は有てるものをも取ら
しかここ
るべし。而して我が王たる事を欲せぬ、かの仇どもを、此処に連れきたり我が前にて殺せ」』イ・エス此等のことを言ひてのち、先だち進みてエルサレムに上り給ふ。 (ルカ伝第十九章一ー二八 )
しゆぜいにんしゆぜいにん
この取税人の話は、先に同じ取税人であった、マタイの時にも少しく解説致しましたが、その頃
しゆぜいにん
イスラエルは、ローマ帝国の支配下にありまして、総督配下のローマ人に、取税人たちは使役され
りつぼう
ていまして、その手先となって税金を取り立てて生活をしていましたので、律法学者やパリサイ人
あそびめけいぺつ
たちからは特にきびしい批判を受け、罪人や遊女などと同じように、人々に軽蔑されていたのであ
L

ります。
しゆぜいにん
そういう立場の取税人の長であるザアヵイの家にイェスが宿ることになったのですから、イエス
の信者は勿論、信者でない者たちまでも、「なんであんな罪人同様の者のところにイエスが宿るの
だろう」といぶかったわけです。

ところが、イエスの心の中には、イエスを通して、神を信ずる者は、神の子であり、アブラハム
きせん
の子孫である、という想いがありますので、その職業の貴賎や、環境の善悪など問題ではありません。ただ、その人の信仰のいかんが問題なのです。そこで一心にイエスを求め、自分の財産の半分
ほどこつぐな
は貧しい者に施し、自分が誤って取り立てた金があったら、その四倍にしてでも償いたい、どんな
ことをしてでもイエス・キリストの救いを得たいと、真剣に訴えるザアカイのような人は、民衆がどんなに罪人視しようと、イエスにとっては、救わねばならぬ、アブラハムの子、つまり神の正し
い系統であったわけです。
イエスはこうして、常に神の子の発掘に努めていたのであります。ですから、イエスの救いの対象は、地位も貧富もそんなことは問題でなく、神の救いを求める真剣さのいかんによったのです。その磐え話をよく噛みしめて味わってみて下さい。
しもべ
貴人が、十人の僕に十、・
ナを渡して、自分の帰える迄にこの金で商売していけ、といいつけ、王の元から帰えってきて、一人一人にその成果をきくわけですが、一人は十ミナもうけ、一人は五、
ナもうけ、それぞれ適当な賞を受けます。ところが一人は、貴人に対して「汝は置かぬものを取
しもぺ
り、播かぬものを刈るなり」と反抗するのです。そう致しますと、貴人は、「悪しき僕、われ汝の
さば
口により汝を審かん」といわれて、彼のマ・
ナを取り上げさせ、十ミナ持っている人にわたすのでした。人々は不審に思って、「彼は十、・
ナ持っているのに、何故一ミナを渡すのですか」と問うわ

けです。ここで、イエスの教えがはっきりしてくるのです。「われ汝らに告ぐ、凡て有てる人はな
ほ与へられ、も有もたぬ人は有てるものをも取らるべし。而して我が王たる事を欲せぬかの仇どもを、此処に連れきたり我が前にて殺せ」とかなり烈しい説法です。
もも
大体有てる人がなお与えられ、有たぬ人は有てるものさえとられる、ということはどういうことなのでしょう。
たとえ、少しの信仰であっても、その信仰を人々に伝えてゆけば、その信仰は生きてきますし、
ほとこし
自分自身の信仰も深くなり、他の人々に法の施をしたことになります。一、・
ナの信仰を、十、
ナにした人は、自分自身の信仰の深さを十倍にしたことになりますし、その十倍はますます深められ

てゆきます。有てる人はますます与えられてゆくわけです。それに反して、一、・
ナの信仰を、ないがしろにして、こんなものでなんになる式に、イエスの与えたものに、少しの感謝もなく、まるで
ぜんこう
なんにも恩恵を受けていないように、イエス (貴人 )に楯をついた人は、最後のわずかな善業さえも、そこで失ってしまうのです。イエス・キリストに同時代において会うことができたというこ
かこせぜんいんみのは
と、話をきくことができた、という過去世からの善因を、その人はそこで稔らすことができずに破

棄してしまったことになります。信仰の深い人は、人々に神の教えを伝えることも多いでしょうし、伝えることによって、ますま

す、自身の信仰が深まってきますので、ちょうど、有てる人はますます与えられる、ということに

なり、反対の人は、有てるものさえ取られてしまうのであります。これは宗教の世界ばかりでなく、この世の話にもあてはまります。富有な人は、その財力をつか
ってますます利を得ますし、貧しい人は喰べるだけでせいぜいで、儲けに廻わす金の余裕などまる

でありません。ますます貧しくなってしまいます。これは金を有っている、という自信が、この金

を自由に動かして利を得る原動力となり、金を有たぬ、という貧しい心が、ますます自己を貧しくしてゆくのであります。たとえその時は貧しい生活をしていても、自己の能力に自信のある人は、今にみていろ、という能動的な力に充ちていますので、その自信力によって、他の人の信用を得、他人の金や銀行の金を自由に使って、自己の仕事を拡張させ、自己の富を増し、社会のためにもその富を役立たせることもできるのであります。一方は神への信であり、一方は自己の能力による信でありますので、その深さにおいてはくらぶべくもありませんが、一脈通ずるものがあるのです。ですから、神の信も深く、そして自己の天命に対する自信も深ければ、道のためにも、大いに尽すことができると同時に、自己の生活も富有に
なり、地位も向上されてゆくことになるのです。この話の最後のところで、「而して我が王たる事を欲せぬ、かの仇どもを、此処に連れ来り我が前にて殺せ」というような強い言葉を、貴人の言葉としていっておりますが、神への不信に対すると、イエスの言葉は、実に鋭く、烈しくなります。突きさすような、叩き割るような烈しい語調を、聖書の中から感じられます。私共も道を説いておりまして、神の存在を無視したり、神に対する非礼なる言葉をきいたりしますと、内からこみあげ
いきどお
てくる憤りを感じますが、その場の雰囲気や、環境をみて、それを表面に出すことは致しませんで、その人の天命の完うされることを祈り、その人の魂の汚れが浄まるように祈っております。それは私の役目が、天と地をつなぐ役目で、天の理想を地の現実に結びつけ、融合させる役目だから、そうしなければならないのでありまして、イエスの場合は、「我れはこの世に平和をもたらしにきたのではない。剣を投じにきたのだ」といっていますように、この世やこの世の人々の魂の汚れが、
カルマ
あまりにも厚く固りきっているので、この業を打ち破り、叩きこわしにきたのであります。この世のみせかけの平和などは、神の国が現われる前には、すぺて粉々に打ち砕かれてしまうのでありま
こうまカルマ
すから、そういうひどい災害がないうちに、降魔の剣で、人々の業を打ち破り、打ち砕き、・魂が粉
々に分散しないように、また、死後の世界で多くの人々が苦しみつづけることのないように、肉体あるそのうちに、人々を浄めさっておこうとしたのであります。
ヵルマ
そういう点で、イエスは、はじめから肉体の生命を捨て切り、人類の業を背負って、この世を去ってゆく天命を課せられていたのです。そこで、イエスの説法はこの世の人々にいささかも妥協せぬ烈しいものになっていたのであります。ですから、イエスの言葉の中には、讐え話にしても私共では使わぬような、剣を投じにきたとか、ここに連れ来て我が前にて殺せ、とかいう、宗教家らしからぬ言葉を吐いたりしているのです。実
際、真に世界平和を実現するためには、口当りのいい、優しい言葉だけで道を説いているわけにはゆきません。あらゆる業のカルマ汚れを破砕し、浄め去る強い光明波動を発しなければなりません。強い
しつせい
光というのは、時には烈しい言葉となったり、叱声になったりすることがあるのです。
イエスの光の強さが、やはり烈しい言葉となったり、叱声となったりするのは、イエス時代のイスラエルを思えば、尤なことだと思うのです。それには根底に深い神の愛を蔵していなければなりません。深い愛を心に持った鋭い言葉であり、叱声であることによって、人々は救われるのであります。私なども時折り叱声を発することがあったり、鋭い言葉を吐いたりすることはありますが、
その後で、その人の天命が完うされることを祈らずにはいられないものなのです。イエスが讐え話
にして語った真理の言葉を、その頃の人のどれだけの人がわかったことでありましょうか。その頃
はわかった人より反感をそそられた人のほうが多かったのではなかったでしょうか。そのためにイ
エスは若くして十字架上の人となったわけなのでしょう。聖書を解説しながら、天の理を地に実現することのむずかしさを、しみじみと思い、ひたすら世界平和の祈りをする私なのです。
s80

ホサナ讃むべきかな
イエスの頃のユダヤ人は、ユダヤ教が主なる教えでありまして、旧約聖書にあるユダヤ教の予言を信じております。ユダヤ人のように、常に他国の統治下に置かれていたものは、ユダヤを救ってくれる救世主を待ち望むことが久しいのです。そこで、救世主に関する予言に対しては、重大な関心をもっていたのです。
イエスの出現は、他国の支配下の圧力に苦しんでいる人々にとって、待望の救世主の出現であるかも知れぬ、という大きな期待がかけられ、一方現在の生活に満足している、支配階級に属する人々にとっては、邪魔な存在として、イエスの行動を監視しつづけているのであります。では今回は
ヨハネ伝十二章十二節 -十九節とマルコ伝十一章十二節ー二五節によって、その状態を説明してまいりましょう。
しゆう
明くる日、祭に来りし多くの民ども、イエスのエルサレムに来り給ふをきき、椋椙の枝をとりて出で迎へ、
 『「ホサナ、禦べきかな・主の御名にょりて来る者」イス三ルの王』と畷はる・イエスは小欝を得て之に銘
しるおモるば
乗り給ふ。これは録して『シオンの娘よ、堰るな。視よ、なんちの王は騨馬の
子に乗りて来り給ふ』と有るが如し、弟子たちは最初これらの事を悟らざりしが、イエスの栄光を受け給ひし後.に、これらの事のイエスに就
うち
きて録しるされたると、人々が斯く為ししとを思ひ出せり。ラザロを墓より呼び起し、死人の中より甦へらせ給ひ
ともかかしるし
し時に、イエスと借に居りし群衆、証をなせり。群衆のイエスを迎へたるは、斯る徴を行ひ給ひしことを聞きたるに因りてなり。パリサイ人ら互に言ふ『見るべし、汝らの謀ることの益なきを。視よ。世は彼に従へり』 (ヨハネ伝十二章十ニー十九 )
*にるかいちじくみ
あくる日、かれらベタニヤより出で来りし時、イエス飢ゑ給ふ。遥に葉ある無花果の樹を見て、果をや得んと其のもとに到り給ひしに、葉のほかに何をも見出し給はず、是は無花果の時ならぬに因る。イエスその樹に対ひて言ひたまふ『今より後いつまでも、人なんちの果を食くらはざれ』弟子たち之を聞けり。
おかえにと
彼らエルサレムに到る。イエス宮に入り、その内にて売買する者どもを遂ひ出し、両替する者の台、鵠を売
うつわ
るものの腰掛を倒し、また器物を持ちて宮の内を過ぐることを免し給はず。かつ教へて言ひ給ふ『「わが家は、もろもろの国人の祈の家と称へらるべし」と録されたるにあらずや、然るに汝らは之を「強盗の巣」となせり』祭司長・学者ら之を聞き、如何にしてかイエスを鵡がんと謀る、それは群衆みな其の教に驚きたれば、彼を艦
れしなり。夕になる毎に、イエス弟子たちと共に都を出でゆき給ふ。
いちじく
彼ら朝早く路をすぎしに、無花果の樹の根より枯れたるを見る。ペテロ思ひ出して、イエスに言ふ『ラピ見
のろいちじく
給へ、誼ひ給ひし無花果の樹は枯れり』イエス答へて言ひ給ふ『神を信ぜよ、誠に汝らに告ぐ、人もし此の山に「移りて海に入れ」と言ふとも、其の言ふところ必ず成るべしと信じて、心に疑はずぽ、その如く成るべ
すぺ
し。この故に汝らに告ぐ、凡て祈りて願ふ事は、すでに得たりと信ぜよ、然らば得べし。また立ちて祈るとき、
うらゆるあやまちゆる
人を怨むる事あらば免せ、これは天に在す汝らの父の、汝らの過失を免し給はん為なり』 (マルコ伝十一章十二ー二五 )ヨハネ伝のほうは、偉大な奇蹟を行なったイエスが、ユダヤ教の聖地である、エルサレムにくることを聞き知った大群集が、鎌蹴将軍を迎える時に用いられるものである榊榑の枝を手にとって、大歓声で迎えた様子が書かれてあります。「ホサナ、主の御名によりて来る者 ……」と、巡礼者がエルサレムに入って来る時に、祭司によってなされる祝福の言葉を、大勢の群集が、祭司をそっちのけにして、手に手に椋椙しゆうの枝をふりふり叫びつづけたのです。これは詩篇一一八章二十五ー二十六に書かれたものに基いているので、人々はイエスがユダヤの運命を、この国の王となって、政治的に救ってくれる、現実的な救世主として歓喜して迎えているわけなので、イエスは外敵を破り、未来の王国をつくる偉大なる人物として、彼らにうつっているのであります。
それに偶然的か必然的か、イエスは、旧約ゼカリヤ書九章九節に書かれてある、「シオソの女 (エルサレムの意 )よ、恐るな、見よ、あなたの王がろばの子にのっておいでになる」という通り、イ
ろば
エスは騒馬に乗って、エルサレムにきたのです。

それに加えて、ラザロを死から甦がえらせた大奇蹟を眼のあたりみていた人々が、群集の中にい
て、その奇蹟の事実を宣伝していたのですから、群集の心は、イエスを讃めたたえる気持で一杯になっていたわけなのです。もしかしたらイエスは、サタソではないか、とパリサイ人の悪意の言葉に心迷っていた人々まで、救世主としての事実が符合しているのを知って、大群集に加わって、イ
エスを大歓迎したのでありました。
イエスにとって、こういう歓迎の仕方は、有難いようで、実はあまり有難くはなかったのであります。イエスは自己が人々の歓喜して迎えてくれるような、地上の王でもなけれぽ、大政治家でも
ないことを、自身で充分に知っております。イエスはあくまで、霊的指導者であり、精神的な指導者であります。
イエスにとって、この世的な時間的に消滅しさるような地位や財宝による、平和などは、とるにも足らぬものであったのです。彼にとって必要なことは、永遠の生命を人々に悟らせることであり、瞬間瞬間的に変滅するような平安を彼等に与えるためではなかったのです。イエスと民衆との 心の行き違いは、瞬間的な平和感の中に生活しようとする者と、永遠の平和をこの世にもたらせようとする者の大きな相違にあるので、イエスを讃仰する民衆の幾人もの者が、イエスの真意につき従ってこられるであろうか、とイエスは大群集の歓声の中にあって、ひとり悲しい想いで、エルサ
もう
レムの宮に詣でたことでありましょう。しかし、これも神性のまだいくらも現われていない人間の世にあっては致し方ないことであります。イエスのみならず、古代からの聖賢はみな一様に、こうした民衆との違和感で悲哀の生涯を送ったのであります。弧高なる存在は、この世的には常に寂静とした生活をするより他なかったのです。民衆は常に幼き弟妹であったのです。
へんさん
私は聖書をみて、時折り想うのですが、何故もっと上手に編纂しなかったか、ということです。このマルコ伝の文章でも、こんなことどうして書いておくのだろう、と思われるところがあります。
ちじく
それは無い花果の樹を枯らしてしまう話です。キリスト教でない者が読んだら、実におかしな話であ
いちじく
ります。どこがおかしいかと申しますと、イエスが飢えて、無花果の果を取ろうとしたら、まだ時
むか
期が来ていないで、果がなっていなかった、するとイエスは、その樹に対って、今から後、人なんじの果を食わざれ、といってその樹を祈って枯らしてしまった、という話です。ここのところだけ読んだ人は、イエスというのは、なんという自分勝手な人だろう。自分の役に立たなかったからと
いちじく
いって、腹を立てて、無花果の樹を枯らしてしまった。まだ果のなる季節がきていなければ、果が
いちじく
ならないのは当然であって、何も無花果のせいではない。なんという横暴な人だ。とこう思うに違いありません。『神を信ぜよ、誠に汝らに告ぐ、人もし此の山に「移りて海に入れ」と言ふとも、其の言ふところ必ず成るべしと信じて、心に疑はずば、その如く成るべし』といっていますが、このように、神
ゆる
を信じての行は勿論よいことですし、最後の、「人を怨うらむる事あらば免せ、これは天に在す汝らの
あやまちゆる
父の、汝らの過失を免し給はん為なり」という実に宗教的な真理の教えはイエス・キリストの言にふさわしいものです。
いちじくむじゆんいちじく
無花果の話とこの話とをくらべてみると、実に矛盾しています。祈りで無花果が枯れるのも、祈りで山が海に入るのも、共に祈りの力だ、というのでしょうか。これは根本の心において全く相違
いちじく
しておりまして、等しい祈り心ではありません。無花果の樹が祈りで枯れたのは、イエスの空腹を
いちじくみ
無花果に果がなくて充してくれなかった怨みの想いで枯らしてしまったように受け取れます。イエス・キリストともあろう聖者が、そんな低級な想いをもつ筈はないのですから、同じ祈りの力を表現するなら、こんな無花果の樹を枯らしたような話をもってくるのは愚かしいことです。これが教えの警え話なら、あまり上手な讐え話ではありません。反キリスト教の人々のよい餌になります。私はイエス・キリストを尊敬するのあまりに、聖書のすべてが正しいとするキリスト教聖書一辺倒
386

の人々に反省をうながしたいのです。聖書の中にも、おかしなところもあるので、これは弟子たちが、イエスの法力をあまりにも大きく宣伝しようとして、ひいきの引き倒しになっているのだ、と
いうことなのです。
それは、何もイエス・キリストの価値になんらの傷がつくわけでもありませんが、イエス・キリストは聖書の中だけにあるのではない、ということを、聖書一辺倒の人々は知らねばならぬのです。
「凡て祈りて願ふ事は、すでに得たりと信ぜよ σ然らば得べし」という言葉は、宗教の根本の心でありまして、祈り事は必ず叶うということを私も数々の実証を得ていますのでよくわかります。しかし、祈りと我欲のヒロ念力ねんりよくとは全く相違するのでありまして、我欲の念力でも、それが強ければ叶うことが多いのですが、念力で望みが叶った後が大変で、その念力で叶えられただけのお返えしを、なんらかの形で後々になってやらされることがあるのです。
それは何故かと申しますと、我欲の念力というのは、神のみ心、生命の本源からのものではない
さんがいいんねん
ので、神のみ心から流れてきて、その願いが成就したのではなく、三界の因縁の世界からの横取りでありまして、一生の間に少しつつ叶えられるべきものが、一度に叶えられてしまうので、後々そ
の分だけ得る物事が減少してゆくのであります。
ところが真実の祈りによって得たものは、神のみ心、本源の世界から与えられて得たもので、金
品であろうと、地位であろうと、事柄であろうと、みな神のみ心そのものの現われということになるのです。ですから真実の祈りというのは我欲の念力とは違うので、我欲を神のみ心で浄化してしまって、生命が生きいきと輝いてくることが、祈りということになるので、真の祈りは神との一体

化とい .うことなのです。人間の肉体的想念の我があって、どうして神との一体化がなされましょう
そうねんはとう
か。神の本源は微妙な波動の高次元の世界であり、人間の肉体想念波動は低次元の世界のものであ
りますので、これが一体化するわけがないのです。神との一体化、真実の祈りは、肉体想念波動を、神のみ心の中で、浄め去った時に、その真価を発揮するので、そういう祈りによって叶えられた事柄は、讃うべきなのであります。
私はその間の次元の喰い違いを、消えてゆく姿、という言葉によって、その差を縮めてゆくようにしているので、我欲の想いがでてきたら、この想いは消えてゆく姿、と思って、神様のみ心の中に入れてしまう。それを繰り返えすわけなのです。神様のみ心は、世界人類の平和、宇宙大調和そ
のものなので、世界人類が平和でありますように、と祈るわけなのです。主の祈りでも結構なのです。或る時は念力も必要でありましょうが、真の祈りにまさるものはないのです。しかし、念力と真
の祈り、願いごとと真の祈りとの区別をはっきり教えるのは宗教者の役目でしょう。ところでこの章の中で、エルサレムの宮での商人たちをイエスが台を倒したり腰掛を倒したりして、追い出してしまうところが書かれてあります。こういう風に神のみ心に反する行ないの者に烈しい仕打ちをす
きひとも
るイエスのあり方は、あまりにも真正面すぎて、人々を恐れさせ、商人たちの恨みをかうことになるのです。それが、死の十字架にイエスを追いやることにつながっていくのです。これはイエスの若さでしょうか。はたまた、旧約聖書の予言を果させるべき、神のみ心であったのでしょうか。


偽善者への説法
何の権威によるか
イエスとユダヤ教指導者の問答を聖書でみていますと、相手はイエスが右と答えても、左と答えても法に触れるような、反政府的な答になるような問を出してきます。すると、イエスは常に実に鮮やかにその鉾先きを逆にとって、斬りこむような形で反問します。その反問が見事なもので、相
手はどうにも答えようがなくて、沈黙してしまいます。その沈黙をみすまして、イエスの説法が堂
々と繰りひろげられてゆくのであります。
おとしい
最初からイエスの話を聴こうというのではなく、なんとかしてイエスを陥れようとしている人たちにとっては、イエスがどんなに善い話をしても、天の理を伝えても、頭の中が自分の考えで一杯になっておりますので、少しもイエスの話が頭にも心にも入ってきません。ただイエスにいい敗
sso

くつじよくえんしゆじようどがた
かされた屈辱で頭がかっとしているだけなのです。縁なき衆生は度し難し、といわれていますが、
えん
イエスの場合は、この縁なきユダヤ教徒のために、真の教の宣布を妨げられ、遂いには十字架上に
えんしゆじよう
送りこまれてしまうわけなのですが、この縁なき衆生と思われている人々でも、すべて神の子なの
で、いつかは神に救われることがあるのでしょうが、イエスの肉体身とは縁が結ばれなかったものなのでしょう。実に惜しい機会を逸した人々が多かったものです。
イエスの教えは、実はユダヤ教が根底になっているのでありまして、このユダヤ教の真の教えを、あらゆる迷信をはぎとって教えているのです。ですから、イエスの説法の中には、ユダヤ教の予言だの、ユダヤ教の説法が諸々に入っているのであります。
では、マタイ伝二十一章二三ー四六によって、イエスの説法を聴聞してみましょう .、
宮に到りて教へ給ふとき、祭司長・民の長老ら御許に来りて言ふ『何の権威をもて此等の事をなすか、誰が
もモれ
この権威を授けしか』イエス答へて言ひたまふ『我もこ言なんぢらに問はん、若し夫を告げなば、我もまた何の権威をもて此等のことを為すかを告げん。ヨハネのバプテスマは何処よりぞ、天よりか、人よりか閣がれら互に論じて言ふ『もし天よりと言はば「何故かれを信ぜざりし」と言はん。もし人よりと言はんか、人みなヨ
ハネを預言老と認むれば、我らは群衆を恐る』遂に答へて『知らず』と言へり。イエスもまた言ひたまふ『我も何の権威をもて此等のことを為すか汝らに告げじ。なんぢら如何に思ふか、或人ふたりの子ありしが、その
つい
兄にゆきて言ふ「子よ、今日、萄葡園に往きて働け」答へて「主よ、我ゆかん」と言ひて終に往かず。また弟
のちいずれ
にゆきて同じやうに言ひしに、答へて「往かじ」と言ひたれど、後くいて往きたり。この二人のうち敦か父の
あモびめ
意を為しし』彼らいふ『後の者なり』イエス言ひ給ふ『まことに汝らに告ぐ、取税人と遊女とは汝らに先だち
て神の国に入るなり。それヨハネ義の道をもて来りしに、汝らは彼を信ぜず、取税人と遊女とは信じたり。然
るに汝らは之を見し後もなほ悔改めずして信ぜざりき。
まがき
また一つの讐を聴け、ある家主、萄葡をつくりて簾をめぐらし、中に酒槽を掘り、櫓を建て、農夫どもに貸して遠く旅立せり。べしものりどき果期ちかづきたれば、その果を受け取らんとて僕らを農夫どもの許に遣ししに、農夫どもみその僕らをまたう執とらへて一人を打ちたたき、一人をころし、一人を石にて撃てり。復ほかの僕らを前よりも多く遣し
あしら
しに、之をも同じやうに遇へり。「わが子は敬ふならん」と言ひて、遂にその子を遣ししに、農夫ども此の子
つぎしぎよう
を見て互に言ふ「これは世嗣なり、いざ殺して、その嗣業を取らん」斯て之をとらへ萄葡園の外に逐ひ出して殺

せり。さらば萄葡園の主人きたる時、この農夫どもに何を為さんか』かれら言ふ『その悪人どもを飽くまで滅
みのウどき
し、果期におよびて果を納むる他の農夫どもに萄葡園を貸し与ふべし』イエス言ひたまふ『聖書に「いえ造家つくり者らの棄てたる石は、これぞ隅のくオ首石おやいしとなれる、これ主によりて成れるにて、我らの目には奇しきなり」とあるを汝ら未だ読まぬか。この故に汝らに告ぐ、汝らは神の国をとられ、其の果を結ぶ国人は、之を与へらるべし。この石の上に倒るる者はくだけ、又この石、人のうへに倒るれば、其の人を微塵とせん』祭司長・パリサイ人
ら、イエスの薯をきき、己らを指して語り給へるを悟り、イエスを執とらへんと思へど群衆を恐れたり、群衆かれを預言者とするに因る。 (マタイ伝二十一章二三 -四六 )
392

宮でイエスが説法している時、「何の権威をもって此等の事をなすか、誰がこの権威を授けしか」と、サドカイ派に属する、ユダヤ議会のサンヒドリソの代表である、祭司長や長老たちが、イエスが病気直しをしたり、説法したりすることを止めようとして、こう質問するのです。日本でもそうですが、医師の資格や治療師の免状を持たぬ者は、病気直しの行為をしたりしてはいけないことになっております。ただ日本では宗教の説法は、神官や僧侶以外にしてはいけない、という法律はありません。しかし大体宗教の説法をしたり、病気直しのお祈りをしたりするのは、既成、新興を問わず、宗教法人の団体の人たちに限られているようで、医師法違反ということはよくききますが、宗教法違反ということは、そういう意味ではあまりききません。
いんか
ところがユダヤでは、人を教えたり、指導したりすることは、教権の手によって、允可を授けら
いんか
れたものに限られていたのです。しかし、イエスは誰からも教師の允可を授けられていなかったので、ユダヤ教の指導者たちは、これを問題にしてきたわけです。尤もイエスの能力がもっと小さく大衆にもたいした影響を与えていなければ、こう問題にされることもなかったのですが、イエスは能力も秀れて偉大であり、民衆への影響力も非常に大きかったので、政府の役人やユダヤ教の指導者たちから常に目をつけられていたのであります。
この祭司長に対するイエスの答は、例によって、答える前の反問です。「ヨハネのパプテスマは
せんれい
天よりか、人よりか」ということです。ヨハネとはバプテスマ (洗霊 )のヨハネといわれたあのヨ
ハネです。祭司長たちは、イエスを信じなかったと同じように、ヨハネをも信じておりませんでした。ところがヨハネは非常に多くの民衆に信じられておりました。ヨハネもイエスも共に教権の允可いんかを得ていません。共に天 (神)が人間の手を通さずに、人々に教えを垂れることを命じた、神
ちよくつう
直通の天使であります。そして、多くの民衆も大きな信頼を寄せている聖者です。
祭司長たちは、答によっては群集の怒りを買う恐れがあるので、天とも人とも答えずに沈黙してしまったわけです。イエスにとっては、ヨハネは心をはなれぬ人なので、ヨハネの話が時折出てきます。ここでヨハネが出てきましたので、祭司長たちには、ヨハネとイエスの二人の予言者が同時にそこに現われたことになり、民衆の信頼が倍加されて、自分たちの立場が大分不利になってしま
ったわけで、どんなことをいわれても黙って引退がるよりほかなかったのです。
現代の日本の政府においてもジャーナリストにしても、大僧正とか牧師とか神官とかいう、既成
の宗教団体の宗教者の言説や論文などは、なんの抵抗もなく受け入れながら、新興宗教の教祖の言説や論説は一向に取り上げようとは致しません。しかし次第に政府も社会も、新しい宗教の力に押され気味になってまいりまして、やがては既成も新興も全く一つ取り扱いになってくるに相違ありません。そしてやがては、世界の宗教が一つになってしまう時代がくることになるでしょう。
394

その点、ヨハネにしてもイエスにしても、既成のユダヤ教に対する新興宗教であったわけなので、時の為政者やユダヤ教の指導者が、これを正式に認めようとはせず、かえって敵視して、滅ぼそうとしていたわけなのであります。しかしながら、この新しい宗教は、イエスの滅後、時代を経て、ユダヤ教信者をはるかに超える信者数を、世界中にもつことになってくるのです。
この章の二つの萄葡園の話ですが、はじめの話は、往くと答えながら、往かなかった兄より、最初は往かぬといいながら、後に考え直して往って働いた弟のほうを、善しと見ています。勿論返事だけよくても、実際の働きをしない者よりも、返事は悪くとも考え直して、実際に働く人のほうが
よいわけです。これを宗教的にいえば、言葉や形だけの宗教入りよりは、はじめは無神論であっても、晦い改めて、真剣に宗教信仰に飛びこんでゆく人のほうを神様は喜こばれるということであり
ます。他の磐えでもイエスは同じような説法をしています。神様、神様といっても、それが言葉だけのものであったり、形だけのもので、心が入っていなければ、いつまでたっても真の救われには入ってゆけないのは当然でありまして、ユダヤ教の指導者たちでも、現在の日本の宗教者でも、この讐え話の兄の側に当てはまる人がなかなか多いのです。大いに気をつけねばなりません。
また、主人を裏切った農夫の話などは、話そのままで、その悪人どもを主人が滅ぼしてしまうのは理の当然です。これを宗教的に解釈しますと、主人は神で、農夫は神の教えを受けている者たち
です。神が種々と聖者や賢者を遣わして、神の教えを伝えさせるのですが、それを自分勝手に解釈して、神の教えを殺してしまうのです。そして最後には、神の子、つまりイエス自身をも殺してしまうわけです。イエスはこの頃すでに、自身の死を悟っていたのでありまして、そのことをも含めて、この讐え話をしているのです。
そして、これらの農夫は神によって滅び去り、真実の神の教えを実行している者たちが、信仰の実を結び、神の国に住めるのだ、というのであります。イエスの観ている救われに入る人々は、地
たか
位や物質の多寡によるものではないのは勿論、信仰の形式や、言葉だけの信仰ではないのです。あくまで、ヨハネの教えやイエスの教えを素直に信じて、その生活の上に行じている人でありまし
しゆぜいにん
て、それが、人に悪人と呼ばれている、取税人であろうと、遊女であろうと、そういう職業や立場
は関係のないことなのです。
イエスの教えの中で一貫していることは、自分は宗教をやっているんだ、という思い上がりで、実際の宗教行為である、愛や思いやりに欠けている人や、物質や地位の優位に立って、人々を蔑視べつし
している、いわゆる偽善者を嫌い、真実に素直に神を慕い、人々に愛を行じている、素直な心の信仰者を高くみていることです。
いえつくりおやいし
二つ目の萄葡園の話の中に、イエスが「聖書に、造家者らの棄てたる石は、これぞ隅の首石とな
れる ……」と旧約の言葉をいっておりますが、これは、社会的に不遇であったり、職業的に人々にいやしめられたり、宗教的に異端者だと思われたりして、世間から棄てられているような人々で素直に真理を信じ行じている者たちが、実は、天国を創り出す礎石となるのであって、宗教者としての世間的地位が高いことや形式的に宗教をやっているような、教えを殺しているような者たちは、神の国から追い出されてしまうのだ、神の国は、天国を創り出す礎石となった者たちのものなのだ、
ということなのであります。
おやいし
隅の首石というのは、家の片隅にあって、大黒柱を支える礎石のことなので、この説法は、天と地をつなぐ役目はイエス・キリストの役目で、その大黒柱を支える礎石となるのは、素直にイエス
・キリストの教えを信じ行じている人々なのである、ということなのです。
これは宗教のことばかりでなく、何事においても、謙虚に素直に自己の置かれた立場において、真剣に生きぬいてゆくことが大事なのである、ということでありまして、その心の支えとして、常に神のみ心を、自己の心の中に生かしきれるよう、祈るべきなのです。私はこの精神を祈りによる平和運動として、世界に広めようとしている者なのであります。
カイザルのものはカイザルに
私が講義用にしている聖書は、従来からの文語訳ですが近頃は、ギリシャ語の聖書を口語訳にした、文章としては非常にわかりやすいものがありますが、言葉のもつ品格というものが、口語は文語にはとてもかないません。
日本の武士時代の家族の会話を現わすには、「お父さんお母さん」とか、「パパ、ママ」というようなやりとりでは、とてもおかしくて、きいておられません。やはり、「お父上、母上」という、その頃の言葉で現わさぬとぴんときません。言葉というものは、その時代感覚の現われなので、イ
エスが原語で、どういう言葉を使っておられたかはわかりませんが、二千年近くも前のことであり、それが、すべて教えの言葉でもありますので、どうしても旧いクラシカルな感じのする言葉で、気品のあるもののほうが、それらしい感じがします。そこで私は、はじめから終りまで、文語体の聖書を原本にして講義してゆくことに致します。
そのかわり、内容は、誰にでもわかりやすいように、現代人の心にすうーと入ってゆくように解き明かしているつもりです。読者の方は、そういうつもりで、聖書の原文と私の解説とを照し合わせてお読み下さるようお願いします。ずうっと講義をつづけながら、何故今頃こんなことを申し上げるかと申しますと、文語訳の聖書の中には、あまりにも解釈しにくい言葉がありまして、口語訳のほうが素直に皆さんの心に入ってゆくかな、と時折り思ったりしたからなのですが、いや、解釈しにくいところは、私の解釈ではっきりわかるのだから、文章の形態のほうに重きを置こうと考え
直したことがあるから、一応念のために一筆したわけです。
こニいわなかはか
愛にパリサイ人ら出でて如何してかイエスを言の羅に係けんと相議り、その弟子らをヘロデ党の者どもと共
まニと
に遣して言はしむ『師よ、我らは知る、なんぢは真にして真をもて神の道を教へ、かつ誰をも揮りたまふ事な
みつどよ
し、人の外貌を見給はぬ故なり。されば我らに告げたまへ、貢をカイザルに納むるは可きか、悪しきか、如何
よニしま
に思ひたまふ』イエスその邪曲なるを知りて言ひたまふ『偽善者よ、なんぞ我を試むるか、貢の金を我に見せ
かたちしるし
よ』彼らデナリ一つを持ち来る。イエス言ひ給ふ『これは誰の像たれの号なるか』彼ら言ふ『カイザルなり』
あや
ここに彼らに言ひ給ふ『さらばカイザルの物はカイザルに、神の物は神に納めよ』彼ら之を聞きて怪しみいイェスを離れて去り往けり。
よみがえり
復活なしといふサドカイ人ら、その日、みもとに来り問ひ言ふ『師よ、モーセは「人もし子なくして死なば、
めと
其の兄弟かれの妻を嬰りて兄弟のために世嗣を挙ぐべし」と云へり。我らの中に七人の兄弟ありしが、兄めと
いやはて
りて死に、世嗣なくして其の妻を弟に遣したり。その二、その三よりその七まで皆かくの如く為し、最後にその女も死にたり。されば復活の時その女は七人のうち誰の妻たるべきか、彼ら皆これを妻としたればなり』イエス答へて言ひ給ふ『なんぢら聖書をも神の能力をも知らぬ故に誤れり。それ人よみがへりの時は嬰らず、嫁
がず、天に在る御使たちの如し。死人の復活に就きては神なんぢらに告げて神、
「我はアブラハムの神、イサクの
ヤコブの神なり」と言ひ給へることを未だ読まぬか。神は死にたる老の神にあらず、生ける老の神なり』
群衆これを聞きて其の教に驚けり。 (マタイ伝二十二章十五-三三)
いましめ
学者の一人かれらの論じをるを聞き、イエスの善く答へ給へるを知り、進み出でて問ふ『すべての誠命のうち、何か第一なる』イエス答へたまふ『第一は是なり「イスラエルよ聴け、主なる我らの神は唯一の主なり。なんぢ心を尽し、精神を尽し、思を尽し、力を尽して、主なる汝の神を愛すべし」第二は是なり「おのれの如く汝の隣を愛すべし」此の二つより大なる誠命いぽしめはなし』学者いふ『善きかな師よ「神は唯一にして他に神なし」
と言ひ給へるは真なり。「こころを尽し、智慧を尽し、力を尽して神を愛し、また己のごとく隣を愛する」は、もろもろの幡祭および犠に勝るなり』イエスその聴さとく答へしを見て言ひ給ふ『なんぢ神の国に遠からず』此の後たれも敢てイエスに問ふ者なかりき。 (マルコ伝十二章二八-三四)
パリサイ人というのは、大分たびたび出てまいりますので、今更説明するまでもありませんが、ここにヘロデ党というのが出てまいります。このヘロデ党というのは、どういう人々かと申します
と、ローマ政府と親密さを保ちつづけ、ヘロデ王家を支持し、ローマの支配権をいつまでも、ヘロ
デ王家によって代行していくことを望んでいる人たちで、本来はサドカイ的貴族階級に近く、パリ
サイ人とは日ごろはあまり親しくはないのですが、イエスを陥れるためには誰をも味方に引き入れ
o

ようとしていたのです。そこで両派が合体してイエスを言葉のわなにかけようとするわけです。
イエスが多くの民衆に支持されている人でなければ、なんとか理屈をつけて、縛ってしまうこともできるのですが、イエスには常に多くの民衆がついてまわっていますので、うかつに事を運ぶわけにはまいりません。民衆もかばうことのできぬような、為政者に対する不敬な態度や、反政府的な状態を、そこに現出させなければ、イエスをとらえることはむずかしいのです。
みつぎょ
「貢をカイザルに納むるは可きか、悪しきか」などという愚かな言葉のわなをかけたところで、
T

イエスのような神智者が、そんなわなにひっかかるわけはありません。案の定イエスは、貢の金の
一デナリを手にして、「偽善者よなんぞ我を試むるか」というわけです。どうして一デナリを手にし
て、かの有名な言葉である、「カイザルの物はカイザルに、神の物は神に納めよ」という名文句が
イェスの口から出たかと申しますと、一デナリの銀貨の表面には「すべての者の主、神聖なる ・
アウグストンの子、 ・ヵイザル」と刻印されてあるのです。そこで、この名文句が生れたので、
通貨は神が発行するものではなく、地上界のものであり、その国の国王や政府の名で発行するもの
でありますので、カイザル (ローマ皇帝の意 )のものはカイザルにといったわけなのです。イエス自身は、この地上界の富のことなど問題ではなく、問題にするのは、常に魂のことで、神からおあずかりしている永遠の生命である魂はいつでも神に納めなければいけない、ということだったの
F

で、次の「神の物は神に納めよ」という言葉になってきたのです。
あや
彼らこれを聞き怪しみ、とありますが、新訳では「驚嘆」となっております。これは勿論驚嘆のほうがよいと思います。
さて、今度は政治に対しても、聖書に対しても、保守的で、旧約聖書の正典以外の伝承を認めず復活ということはないと主張している、サドカイ人たちがイエスに対して質問するわけです。ユダヤでは、兄の妻にもし子供がなければ、兄の死後、順次弟に嫁ぐことになっていました。もし復活
(生れ変わり )があった場合、その女は七人のうちの誰の妻たるべきか、という質問です。サドカ
イ人は勿論生れ変りだの復活だのは旧約聖書の正典には書いてないので、自分たちも認めていない
ので、イエスが変な答をしたら、そんなことは聖書には書いてない、と論破するつもりでいたのです。
ところがイエスの答は、見事その裏をかき、旧約聖書の言葉をもってきての答なのです。しかも実に立派な堂々たる答をします。イエスは肉体身の人間を観てはいないのです。霊身そのものの人間、真に生きている人間を観て、「死人の復活に就きては神なんぢらに告げて、『我はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神なり』と言ひ給へることを未だ読まぬか」と大上段に答えているのです。神は生きたり死んだりする肉体人間の神ではなくて、生命そのものなのだ、というのです。そ して人間も、生れたり死んだりするのではなく、生き通しの者であって、或る時はアブラハム、或
る時はイサク、或る時はヤコブなどと名乗っているけれども、すべては神そのものの現われなのだから、汝らのように、聖書の真意や神の能力を知らぬものが、肉体身の人間だけを問題にしてい
てはどうにもならぬ。地上天国が出来る時には、現在のような肉体人間ではなくて、霊身そのもの
こうしよう
が、仮りに肉体身として姿を現わすので、まあ仏教的にいえば、業生のいざこざは一切なくなっ.てしまうのだよ。とこんな風な説教をイエスはしているのであります。
こういう説法は普通の人には、とてもわかりにくいことでしょうが、イエスが説法する場合、い
つも旧約聖書 (ユダヤ教 )が、その答の基本になることは、その頃のユダヤの状態としては止むを
得ないので、仏教のように、自由な立場で釈尊が道を説くようにはゆかなかったのです。一歩答が
はず
旧約から外れたら、忽ち、官憲の手が、イエスを捕えようと待っているの・ですから、或る範疇でし
か説法できなかったのは仕方のないことです。その点キリスト教は、仏教のように広い幅のある説法にはならないのです。
ところがその反面、一直線に神につながる強い言葉がどの章にも出てまいりますっ学者の誠命に対する問に対して、強くはっきりこう答えます『「なんぢら心を尽し、精神を尽し、思を尽し、力を尽して、主なる神を愛すべし」を第一に、第二に「おのれの如く汝の隣を愛すべし」此の二つより大なる誠命はなし』と。イエスは旧約の広範な律法をこの二つに要約したのであります。
いましめ
短い二つの言葉が、なんという迫力で私共の胸に迫ってくることでしょう。この二つの誠命を実行していれば、天国はその人のものでありましょうし、本心開発は当然成就されます。
聖書の中でも、特筆すべき善い言葉です。光り輝やく言葉です。説法などは多言はいらないのです。こうした真理の言葉が、自己のものとして話せるようになることが大事なのです。自己のものとして話せる、ということは、自己が、常にその真理を実行しようとして突き進んでいることに他ならないからなのです。
人間の生命は神からきているものです。人間にとって一番大事というより、人そのものである生命のその本源である、神を愛さずして、一体何ができるというのでしょう。神こそ我が生命であり真に我を愛するということは神を愛する、ということと全く同じなのであります。
いましめ
イエスが第一の誠命に、すべてを尽して主なる神を愛すべし、といったのは実にそのものずばりでありまして、自己の生命 (魂)を愛することと等しいのです。誤った宗教のように、自己の現世利益を下さる神を愛するというのでは、主なる神を愛することにはなりません。自己の欲望充足を願うだけの宗教になってしまうのです。先ず主なる神を愛するのです。自己の生命そのものを愛するのです。その余のことは、自ずと与えられるのです。
第二の誠命の「おのれの如く汝の隣を愛すべし」も全く至言です。先ず神を愛し、神と一体化し、その愛の光を、横にふりまくとき、それが隣人愛となるのです。私のいう世界平和の祈りです。すべての人々が平和で幸せでありますように、この想いが隣人愛の想いです。自分も神の分生命、あなたも君もみんな神の子、というところに、真の隣人愛が湧き起り、自分と同じように隣をも愛せる行為ができてくるのです。旧約の数ある律法を、この二つの誠命にまとめたところに、形骸化したユダヤ教がキリスト教として、新しく甦えることになってくるのであります。いかに律法の数が多くあろうと、日常に行ない得ぬような、死んだ教えではなんにもなりません。その頃のユダヤ教は確かに神のみ心が現われずに、いたずらに宗教の形骸だけを追っていた傾きがあったのです。イ
エス・キリストは、そういう意味でユダヤ教を洗い浄めて、新しく書き直した人物ともいえるのです。
己れを高うするものは卑うせられ、己れを卑うする者は高うせられん
宗教をやっているという人にはそれぞれの宗教癖をもっている人が、なかなか多いものです。自分は宗教の道に入っている者だ、神に認められているものだ、無神論者とは別の世界の者だ、というような思い上がった気持と、その宗教の形式や、しきたりを、わざわざ人目にふれるようにして
みずか
みせ、自らの優越感にふける、というような、宗教精神とはまるで反対な行為が身についてしまっ

ている人が意外と多いのです。
こういう形骸だけの宗教というものには、私共も常に嫌な感じが致しますが、イエスはこういう偽善者を黙って見捨てておけなかったらしく、聖書の諸所に、こうした偽善者に説法するところが出ております。次に掲げますマタイ伝二十二章四一-四六、二十三章一-十二にも、そういう問答がでております。
バリサイ人らの集りたる時、イエス彼らに問ひて言ひ給ふ、『なんぢらはキリストに就きて如何に思ふか、
みたまとな
誰の子なるか』かれら言ふ『ダビデの子なり』イエス言ひ給ふ『さらばダビデ御霊に感じて何故かれを主と称
いわか
ふるか。曰く「主、わが主に言ひ給ふ、われ汝の敵を汝の足の下に置くまでは、我が右に坐せよ」斯くダビデ
とないかあたあえまた
彼を主と称ふれば、争でその子ならんや』誰も一言だに答ふること能はず、その日より敢て復イエスに問ふ者なかりき。愛ここにイエス群衆と弟子たちとに語りて言ひ給ふ『学者とパリサイ人とはモーセの座を占む。されば凡てその言ふ所は、守りて行へ、されど、そのくくなら所しわざ作には敷ふな、彼らは言ふのみにて行はぬなり。また重き荷を括りて
 のれニれすべしわざためきようあだ
人の肩にのせ、己は指にて之を動かさんともせず。凡てその所作は人に見られん為にするなり。即ちその経札を幅ひろくし、衣の総を大くし、い饗宴ふるまの上席、会堂の上座、市場にての敬礼、また人にラピと呼ばるることを
となえ
好む。されど汝らはラピの称を受くな、汝らの師は一人にして、汝等はみな兄弟なり。地にある者を父と呼ぶ
いコとなえ
な。汝らの父は一人、すなはち天に在す者なり。また導師の称を受くな。汝の導師はひとり、即ちキリストな
えきしやたこひくひく
り。汝等のうち大なる老は、汝らの役者とならん。凡そおのれを高うする者は卑うせられ、己を卑うする者は高うせらるるなり』 (マタイ伝二十二章四一 -四六二十三章一ー十二 )
この節の最初はキリストについての問答があります。今日でもクリスチャンの中には、イエスという肉体界に生れた人と、キリストとを混同して考えている人が随分あります。この問答をみればおわかりのように、イエスより、はるかに昔に存在していた、イスラエルの王ダビデが、御霊に感じて、つまり霊的なキリストを観て、主と称えたのですから、ダビデの称えていたキリストは、肉体身のイエスではなかったことは勿論です。
キリストとは、初期は王や祭司長の尊称であったのが、後代に救い主の称号とされたものであり
ます。そして、真理とも訳されております。そこで、イエスという人は、普通人とはまるで波動の異なった微妙な波動体をもってはいましたが、やはり肉体人間として、存在した人なのでありまして、イエスが救い主、救世主としての立場に立ち、真理をそこに現わしたことによって、イエス・
キリストと称されるのです。ですから、真理をそのまま現わし、救世主の立場に立った時には、何人でもそれはキリストなのであります。そこのところを誤り考えますと、独善的なクリスチャンになってしまうのです。イエスという肉
体人間と、救世主であり真理そのものである御霊 (神)とが一体になって行動しつづけるとき、その姿がイエス・キリストなのです。そして、イエスという肉体は十字架にかかり、この地に果てますが、イエスの霊身は、キリストと全く一体になって今も輝き、永遠に輝きつづけるのであります。ここに五井昌久という肉体人間がおります。この人間は、普通の肉体波動よりはるかに微妙な波動をもっておりますが、やはり肉体人間であることには変りありません。しかし、常に神のみ心を体
わざ
し、神のみ言葉、神のみ業を、この地上界に取り次ぎ、神の大光明をこの地上界に放射し、この地上界の浄めの仕事をしております。ですけれども、肉体身の五井昌久が神かというとそうではあり
ません。肉体身はあくまで、神の働きの場であり、器であります。
常に人類の幸福を想い、世界の平和を願っている人は、みな、こうした立場で、時折りはキリスト(真理 )をその身心に、その行為に現わしているのです。そこのところがはっきりわかりますと、
わけいのち
人間はすべて神の分生命であって、この地上界の想念や出来事は、みな神のみ心を現わすための、消えてゆく姿なのであることが、よくわかってくるのです。
この地球界は、一人の仏陀、一人のキリストのみによって救われるのではありません。多くの心ある人々が、仏、菩薩となり、キリストとなって、はじめて、この世に神のみ心の全貌が、はっきり顕現されてくるのであります。そのためにこそ、イエス・キリストに学び、釈迦に師事すること が大事なことであったのです。そのための私の聖書講義でもあるわけです。
イエスは肉体の自己とキリストとの関係を実によく知っておりました。そこで、ダビデの言葉を引用したり、この節の最後のほうで、『汝等はラビ (先生 )の称を受くな、汝らの師は一人にして、
いま
汝等はみな兄弟なり。地にある者を父と呼ぶな、汝らの父は一人、すなわち天に在す者なり。また導師の称を受くな、汝らの導師はひとり、キリストなり』といっております。この場合のキリストは、イエスは自己のことをも含めて、永遠の導師である、真理の言葉、真理の行ないを指して、こういっているのでありまして、肉体の自分自身だけが導師であるなどとはいっていないのです。この辺をクリスチャンの方は、神のみ心を心で受け止めて考えてみて下さい。ひいきの引き倒しにしないで下さい。そのようにイエスが考えていなければ、イエスは真の救世主でもキリストでもないのです。何故かと申しますと、実際的の現実世界においては、イエスの肉体身存命中に救われた人は、実に数少ないのでありまして、肉体身のイエスのみがキリストであれば、小さな働きしかしないキリストということになります。イエスがキリストとして、救世主として、永遠に生きつづけて
ゆくのは、イエスが永遠なるキリストと一体となって、神霊の世界で生きつづけているからに他ならないのです。そこで、肉体身というものは、どんな偉大な聖賢でも、真理そのもの、キリストそのものではな
い、キリストの大智慧、大光明をこの世に現わすために、神界から遣わされた天使が肉体身を纒った姿であって、肉体身は常に、場であり、器である、ということなのです。ただ、この場であり、器である肉体身や想念思想を、常に浄めつづけて、神の善き場であり、善き器であるよう、私共は
精進しなければならないのです。イェスの非常に嫌われたのは、先にも書きましたように、宗教の形式や儀式だけを売り物にして、その精神は、まるで神のみ心とは異なる状態にある、いわゆる偽善者です。「学者とパリサイ人とはモーセの座を占む。されば凡てその言ふ所は、守りて行え、されど、そのくくならざわ所作には敷ふな。彼らは言ふのみにて行はぬなり。また重き荷を括りて人の肩にのせ、己れは指し
きようふだふるまい
にて之を動かさんともせず、即ちその経札を幅ひろくし、衣の総を大きくし、饗宴の上席、会堂の上座、市場にての敬礼、また人にラビと呼ばるることを好む ……」この態度は全く偽善者そのものです。モーセの座を占む、とは、律法に精通している、という意味で、学者の立場をいっているのです。そういう律法は守って行ないなさい。しかし、そうした学者
の態度を真似てはなりません。彼等は人々には偉そうに律法を説いたりして、重き荷だけは負わせるが、人々の苦しみを救おうとはいささかもしない。ただ経札を広くし、経札というのは、旧約にある、神を愛し、律法をつねに語る、主を愛し、そのことばを心と魂におさめる、という四つの聖
句を書きしるした巻物を入れた小さな皮の箱で、熱心な人がこれを額と左腕の内側に結び、つけて
いたのです。律法学者やパリサイ人はこの箱の幅を広くし、大きなものを目の間や左腕につけていたのですが、ただこれは自己の信仰心を誇る、みせかけだけのものだったのです。
ふさ
そして、又旧約に、上着の四すみに総をつけなければいけない、としるされてあるので、その衣
ふさ
の総を大きくして、これもまたみせかけをしているわけです。この総は空の青さをしめした青糸で
つくったもので、誠と光明とを示したものなのですが、彼等は誠も光明もないのに、あろゆるとこ
ろに虚栄心をふりまいているのです。
しわざ
この仕業をイエスが大いにたしなめるわけなのです。善人もて救わる、なお悪人おや、と親鸞の言葉にありますが、自分が悪いことをした、と思って、自己の行為を強く反省している人は、もう救いの道に入っている人なのですが、私は善いことをしている、私は神の道に入っている、などと、その形の世界だけの在り方に誇りをもっていて、少しも自己の本心をみつめようとしない、いわゆる誤った善人、善人誇りの人程、救われ難にくいものはないのです。何故かと申しますと、そうした誤
カルマ
った行為を、それで善し、と思っていて、少しの反省もないからなのです。業の想いで本心を蔽っていて、いつまでたっても、本心の光明が、表面に現われてこないのです。私たちは何も困っていないのだから、神信心など必要ないよ、といっている人と同じなのです。イエスにとっては、そう
いう人々の信仰態度は粛がゆくてならなかったことでしょう。イエスの時代のユダヤ教 (旧約聖書 )にこり固った人々の形式主義程、あつかい難にくいものはなかったでしょう。尤も今日でも、回教徒などの形式主義なども、その形式が長い間の習慣性になって
ひざまず
いて、礼拝の時間になれば、飛行機の操縦士が操縦をやめて、パッと絨毬の上に脆いて礼拝をはじめてしまう、という程、仕事よりも何よりも、宗教の形式のほうを重んじる、という始末です。礼拝などは、心の問題なのでその形通りにやらなければ効果がないというものでも、神が罰を当てるというものでもないので、できる場合はその形通りやっても勿論結構ですが、できぬ場合は、そんな形式にこだわることは毛頭ないわけなのです。
宗教のある形式が長い習慣性になっていますと、その形式を踏まぬと、何か神罰が当たりそうで、心が落ちつかなくなるのだ、と思いますが、真実の宗教精神というのは、そういう形式的なものではなくて、自己の想いが如何に神のみ心深くとどいているか、自己の行為が、神のみ心である、愛の行ないにどれだけ近づいているか、ということが問題なのでありまして、そういう神のみ心と一
てん
つになるための種々な儀式や形式なのであります。これを本末転倒してしまっては、古代からの聖者賢者のみ教えが泣くというものです。イエスは、そういう真理をよく知っていましたから、心の問題、行為の問題を重視していまして、
偽善的な形式主義に陥っているユダヤ教を改めたかったのであります。旧約聖書の中にも聖者がた
くさん出てきますし、それぞれ偉大な行為をしているのですが、そういう方々が、宗教精神を高め、立派な行為のできる人格者を多くつくるために定めた、形式や儀式が、その本質から離れてしまって、宗教精神を失ってしまった、形式儀式になりきってしまったのを、イエスは憤り、その精神の改革を計っていたのであります。いわゆる私共が、旧来の仏教やキリスト教や神道が形式主義に陥
って、形骸のようになってしまうのを防ぐために、それぞれの長所を融合させ、形式を最も安易な
ずい
ものに改めて、神仏のみ心の神髄に多くの人々を触れさせようと思って、新しい宗教をはじめたのと、全く同じなのであります。イエスは、病気こそ治して歩きましたが、現世利益の宗教者ではありません。真実に神と直通できる人々、真実に地球世界を平和になし得る人々をつくりあげようとして、身を犠牲にした聖者だ
ったのです。私共も勿論、現世利益を馬鹿にするものではありませんが、その主なる目的は、大宇宙の法則に叶って生き得る人々をこの地球世界に一人でも多く、一日も早くつくりあげてゆこうとして、祈りによる世界平和運動を宣布しているわけなのであります。この私共の祈りの中で病人も自ずと治り、不幸災難にも負けずに、立派な生き方のできる人々が輩出しているのであります。
わざわいなるかな傭善なる学者、パリサイ人
何度でも書くことになりますが、イエスの偽善者嫌いは徹底しています。ここでは、マタイ伝二十三章十三節 -三十九節を掲げますがイエスの言葉が、神そのままの言葉として、痛烈に、学者、パリサイ人の偽善者たちを叩きます。
イエスがというより神が、どうしてこうまで偽善者を嫌うのでしょう。自己の偽善を偽善とは思わず、反省の想いの少しもない人々は、自己を神から遠ざけると同時に、他の人々をも誤った道に誘いこんでしまう、自己のみならず他をも損う行為をするのです。悪人とはっきり自分も想い、他
となノ
も想っている人は、 =肱すれば、神の道に単刀直入できる場合が多いのですが、偽善者にはかえって、それができないのです。それではマタイ伝を解説しながら、話をすすめましょう。
わざわいとざ
禍害なるかな、偽善なる学者、パリサイ人よ、なんぢらは人の前に天国を閉して、自ら入らず、入らんとす
うみ
る人の入るをも許さぬなり。禍害なるかな偽善なる学者、パリサイ人よ、汝らは一人の改宗者を得んために海陸うへねかを経めぐり、既に得れば、之を己に倍したるゲヘナの子となすなり。
めしいニがねちか
禍害なるかな、盲口なる手引よ、なんぢらは言ふ「人もし宮を指して誓はば事なし、宮の黄金を指して誓はば
おろかこがねいずれ
果さざるべからず」と。愚にして盲目なる者よ、黄金と黄金を聖ならしむる宮とは敦か貴き。なんぢら又いふ「人もし祭壇を指して誓はば事なし、其の上の供物を指して誓はば果さざるべからず」と。盲目なる者よ、供
いずれすぺ
物と供物を聖ならしむる祭壇とは敦か貴き。されば祭壇を指して誓ふ者は祭壇とその上の几ての物とを指して誓ふなり。宮を指して誓ふ者は、宮とその内に住みたまふ者とを指して誓ふなり。また天を指して誓う者は、神の御座みくらとその上に坐したまふ者とを指して誓ふなり。
禍害なるかな、偽善なる学老、パリサイ人よ、汝らは薄荷・いのんど・クミンの十分の一を納めて、律法の
おわれみなおざり
中にて尤も重き公平と憐欄と忠信とを等閑にす。然れど之は行ふべきものなり、而して彼もまた等閑にすべきものならず。らくだニぶよ盲めしい目なる手引よ、汝らは蛸を漉し出して酪駝を呑むなり。
さかつひきよさどんじゆう
禍害なるかな、偽善なる学者、パリサイ人よ、汝らは酒杯と皿との外を潔くす、然れど内は貧欲と放縦とに
さかづき
て満つるなり。盲目なるパリサイ人よ、汝らまつ酒杯の内を潔めよ、然らば外も潔くなるべし。禍害なるかな、偽善なる学者、パリサイ人よ、汝らは白く塗りたる墓に似たり、外は美しく見ゆれども内は
けがれ
死人の骨とさまざまの臓とにて満つ。斯のごとく汝らも外は人に正しく見ゆれども、内は偽善と不善と不法とにて満つるなり。

禍害なるかな、偽善なる学者、パリサイ人よ、汝らは預言者の墓をたて、義人の碑を飾りて言ふ「我らもし先祖の時にありしならば、預言者の血を流すことに与くみせざりしものを」と。かく汝らは預言者を殺しし老の子
おのまむしすえいか
たるを自ら証す。なんぢら己が先祖の桝目を充せ。蛇よ、蝦の務よ、なんぢら争でゲヘナの刑罰を避け得ん
つかわうち
や。この故に、視よ、我なんぢらに預言者・智者・学者らを遣さんに、其の中の或者を殺し、十字架につけ、
むちうお
或老を汝らの会堂にて鞭ち、町より町に逐い苦しめん。之によりて義人アベルの血より、聖者と祭壇との間にて汝らが殺ししバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上にて流したる正しき血は、皆なんぢらに報い来らん。誠に汝らに告ぐ、これらの事はみな今の代に報い来るべし。ああエルサレム、エルサレム、預言者たちを
めんどりつばさ
殺し、遣されたる人々を石にて撃つ者よ、牝鶏のその雛を翼の下に集むるごとく、我なんちの子どもを集めんう
せいくたびすのこ
と為しこと幾度そや、然れど汝らは好まざりき。視よ、汝らの家は廃てられて汝らに遺らん。われ汝らに告ぐ「讃むべきかな、主の名によりて来る者」と、汝等のいふ時の至るまでは、今より我を見ざるべし』 (マタイ伝二十三章十三 -三九 )
誤った律法学者や、パリサイ人たちは、旧約の教えの、真実の心を汲み取らないで、モーセや各聖者方の律法や教えを、その形だけ取ってしまっていたのです。宗教の道というものはいかなる宗教であろうと、神との一体化を望み、神のみ心を心として、この世の行為に現わすことが主なので
ありまして、儀式や形式は、それを実行するために必要だったのです。
よそ
ところが偽善者と呼ばれる、律法学者やパリサイ人たちは、愛とか美とかいう神のみ心を外にして、自分たちの権威をみせるために、形式で飾られた自分たちの誤った道に人々を引きこもうとしていたのでありました。
それをみて、イエスは神の言葉として「汝らは一人の改宗者を得んために海陸を経めぐり、既に得れば、之を己に倍したるゲヘナ地獄の子となすなり」といっております。今日の誤った宗教者に
当てはまる言葉です。神のみ心を知らぬ盲目の手引というのは、自他共に恐るべき結果を生むことになります。それはユダヤ教が善い、キリスト教が善い、仏教がよい、ということではなくて、真実のユダヤ教の教え、真実のキリスト教の教え、真実の仏教の教えを教え行え、ということなのであります。
人が、宮に誓おうが、宮の黄金に誓おうが、祭壇に誓おうが、それはすべて、神に対しての誓となるのであるのも知らず、この誓はいい、この誓は悪いなどとでたらめのことを教えて、それで得々としている。モーセの十戒には「あなたは隣人について偽証してはならない」とあるのに、何か
と自己の行為をごまかして、自己の立場や権威を保とうとしている。そして、人々から金品を貰っ
たり、馳走になったりしている。「汝らはわざいなるかな、なんじらは、やもめたちの家を喰い倒
し、見栄の為に祈りをする」とイエスはいっているのです。
みえ
イエスのように神のみ心と直通している者からみると、神のみ心が少しもわからず、権威や見栄のために、教えを垂れたり、祈った恰好をしたりしている学者やパリサイ人たちは、どうにも仕方のない出来そこないに見えたことでしょう。その行為が自分たちだけを損うのならまだしも、他の
人を誤った道にひきずりこんでゆくのは、イエスにとって耐えられぬことでした。そこで何度びと
なく、偽善者に対する説法がなされているわけです。
誤った宗教者や偽善者を見分けるのには一体どうしたらよいのでしょう。酒杯の中に落ちたぶよのような小さな虫さえこすような、細い神経で、儀式や形式のことにこだわりながら、ラクダのように大きな汚れた不潔なもの、つまり神に対する大きな冒漉でも無神経に冒かしているような、は
っきりした現われがありますと、誤った宗教者だということがすぐわかるのですけれど、幽界の生物からの指導にしても、五感以外の世界との交流ができて、それで見神したと思いこんでいて、霊
ちよつと
能的にこの世の病気や不幸に対する指導力ももっている、という、一寸見は、本物に見えるような宗教者が、今日でも随分いるのですから、正邪の見分はなかなかむずかしいのです。
白く塗りたてた墓に似た偽善者とわかるためには、こちらが、常に守護の加護を願いながら、明るい不平不満のない生活に身を置いていないと駄目なのです。自己の生活や周囲への不平不満や、虚栄心がありますと、どうしても、真の宗教者と、偽善者との見分けがつかなくなるのです。いずれも言葉でいったり、本で現わしていることは、善いことにきまっているのですし、霊能力もあって、実生活の指導もできるのですから、自己が本心を現わしていることのみにおいて、正邪善悪が
おの
自ずとわかってくるのです。しかし、それでは一般の人が困るのです。そこでイエスも真実の道とユダヤ教を誤って伝えている人や、偽善者との違いを、どのようにして人々にわからせようか、と常に苦心していたのであり
ます ですから、誤った学者や偽善者に対しては、神のみ言葉そのままに、鋭くその非を正し、その偽善の罪を追求するのです。義人アベルとは旧約聖書にある最初の殉教者ですし、バラキヤの子
Q

ザカリヤとは旧約最後の殉教者です。こうした預言者や義人を殺したのは、偽善者である汝らだ、
まむしすえ
とまでいっていますし「蛇よ、腹の窩よ、なんじらいかでゲヘナの刑罰を避け得んや」とまでいっています。これはイエス自身の十字架に掛かることまで含めての、神の烈しい叱陀の言葉なのです。そして『「讃むべきかな、主の名によって来る者」と、汝等のいう時に至るまでは、今より我
(神)を見ざるべし』とまでイエスは極言しています。
真の宗教者と偽善者とを見分ける重要ポイソトは、その地位とか霊力とか信者の数ではなくして、教えを説いているその人自身の行為によることです。その人の説法がいかに巧みであろうと、霊力が衆に秀れていようと、それは一つの技術でありまして、神の道を示すものでも、悟りを現わすものでもありません。
真宗の妙好人のように、地位も学力も無くても、その想念行為が、愛そのものの道であり、調和そのものであれば、その人は真の宗教者で、神仏の道を指し示す人といえます。例え大僧正であろうと、枢機卿であろうと、その人の行為が愛にそむき、調和を欠いていれば、これは偽善者といえるのであります。それがいささかの過ちであれ、その人々が常に反省しているようならば、その人を
偽善者というわけにはゆきません。
みずか
偽善者とは、神の道にそむきながら、いささかの自己反省なきものをいうのであります。自らの
みずか
霊力を誇りとし、或いは教団の勢力を背景として、他をひぼうし、自ら以外に覚者無し、といったり、他宗教を全部邪教視したりするような在り方は、誤った宗教者の在り方でありまして、その宗教者や、宗教団体につき従ってゆくことは、神仏の道を遠く離れ去ってしまうことになりますし、その指導者は、イエスのいうゲヘナ (地獄 )への道をまっしぐらに進んでいる、というべきなのです。
イエス出現時代のイスラエルは、ユダヤ教の時代なので、ユダヤ教の教師以外は、すべて、公然
と説法できぬような時代でした。しかし、洗礼のヨハネにしても、イエスにしても、堂々と真の宗
教の何たるかを説法しつづけ、神の道を人々に指し示しつづけたのであります。
聖書で読めば、イエスの言が尤もであり、真理に叶っていますし、権威に充ち盗れております
が、総体的な立場から現実的にみますれば、学者やパリサイ人は、時の政府の大きな力を背景にし
いち
た、厳とした存在であり、イエスは、神がかり的な一新宗教の宣布者という小さな存在であったのです。ですから、イエスが、これらの律法学者やパリサイ人たちに、叱陀するような説法をするのは、
大胆不敵な行為なのです。日本の日蓮がした、鎌倉幕府の要人相手の大説法のようなもので、いずれも不惜身命の行為であるわけです。
尤もイエスのほうは、十字架上で肉体身を捨離し、永遠の生命と一つになって、この地上界の宗教運動を行ないつづけるわけで、そのことをいつの頃からかイエス自身も悟っていたのであります。イエスと日蓮では種々な意味で相違しますが、肉体身の死を恐れなかった点で相通ずるものがあります。内催しに湧き上がってくる力というものは、恐ろしいもので、肉体身の生死など問題にしない時があります。
天命として、神々や守護の神霊が、この者をこう働かせよう、と定めたことは、いかなる困難があってもやり通すのでありまして、時には肉体身の死を賭としても貫徹させることもあるのです。イ
えんしげせん
エスの場合は、普通の死とは違いまして、日本の役の行者のような屍化仙と同じように、肉体を消
滅させて霊身そのものになってしまったわけなのです。それが、イエスの天命上、役の行者のよう
みずか
に自らの意志で山上において、坐したるまま霊身に変貌したのとは、変化の様を異にしたのであります。

ともあれ、偽善者に対する説法に、イエスは常に肉体身を賭けていたのでありました。その清浄で勇壮な姿が眼に見えてきます。

世の終りの予言
私は宗教の予言めいた言葉が嫌いです。少年の頃は、未来のことを知りたくて、未来の予言などに非常に興味をもハ、たものでしたが、正確に神のみ心を知って以来、予言めいた言葉には一切耳をかさぬことにしています。ところが、新約聖書にも、ヨハネ黙示録のように、全くの予言書があります。この黙示録は種々
とまちまちの解釈がされていますけれど、これが正しいのだ、という正確な解釈を私はまだ見たこともありませんし、私自身も現在その解釈をしようとも思いません。もっともっと先の将来にいたってこそ、人々に納得できる解釈がなし得ると思うからです。
それにしても、予言の書などに私はあまり重点を置く気にはなれません。宗教の教えは、常に現在の立場において、神のみ心を実行に現わしてゆけるように教えるべきでありまして、未来にばかり眼をむけさせるべきではないのです。私はよく坂道を車を引いて登ってゆく讐えをとりますが、
車を引いて坂を登る時には、一度頂上を見定めることはよいことですが、後は上に気を取られずに、一歩一歩足を踏みしめて、一歩一歩に気力を籠めてゆくことが大事で、上にばかり気を取られていると、足元が定まらず、下にずり落ちてしまいますし、体が疲れてしまいます。
人生もそういうもので、宗教理論の理想像ばかりに気を取られていないで、自分の環境や立場で行なえる神のみ心を行ないつづけてゆけば、自然と理想の世界に達する日がくるのです。そこで、予言のことも同じで、個人のことでも国家人類のことでも、未来の予言を気にしていると、どうし
ても、現実の世界の道をしっかり踏みしめてゆきにくくなってきます。いつでも未来の予言のことが頭にちらついて離れず、想いが現実から浮き上がってしまいがちだからです。何故ここでこんなことを書いているかと申しますと、マタイ伝二十四章一ー五一にあるイエスの予言の言葉を、今解釈しようとしているからなのです。
てもの
イエス宮を出でてゆき給ふとき、弟子たち宮の建た造物を示さんとて御許に来りしに、答へて言ひ給ふ『なんちら此の一切の物を見ぬか。誠に汝らに告ぐ、此処に一つの石も崩されずしては石の上に遺のこらじ』
ひそか
オリブ山に坐し給ひしとき、弟子たち窃に御許に来りて言ふ『われらに告げ給へ、これらの事は何時ある
しるしまどわ
か、又なんちの来り給ふと世の終りとには、何の兆あるか』イエス答へて言ひ給ふ『なんぢら人に惑されぬや
おかいくさ
うに心せよ。多くの老わが名を冒し来り「我はキリストなり」と言ひて多くの人を惑さん。又なんぢら戦争と
つつしおそ
戦争の噂とを聞かん、慎みて堰るな。斯る事はあるべきなり、然れど未だ終にはあらず。即ち「民は民に、国
愈£えらうみくるしみ以
は国に逆ひて起たん」また処々に餓鯉と地震とあらん、此等はみな産の苦難の始なり。そのとき人々なんぢら 4
なやみわたくにびとにく
を患難に付し、また殺さん、汝等わが名の為に、もろもろの国人に憎まれん。その時おほくの人つまづき、且
わたにくコどわぽ
たがひに付し、互に憎まん。多くの偽預言者おこりて多くの人を惑さん。また不法の増すによりて多くの人の
ひややさナくあかし
愛、冷かにならん。然れど終まで耐へしのぶ者は救はるべし。御国のこの福音は、もろもろの国人に証をなさ
んため全世界にしか宣伝のぺつたへられん、面して後、終は至るべし。
なんぢら預言者ダニエルによりて言はれたる「荒す悪にくむべき者」の聖なる処に立つを見ば (読む者さとれ )
のがやいだくだ
その時ユダヤに居る者どもは山に遁れよ。屋の上に居る者はその家の物を取り出さんとて下るな。畑にをる者
うはぎみこものきわざわいにぐ
は上衣を取らんとて帰るな。その日には孕りたる者と乳を哺する者とは禍害なるかな。汝らの遁ることの冬ま
なやみはじめかかなやみ
たは安息日に起らぬように祈れ。そのとき大なる患難あらん、世の創より今に至るまで斯る患難はなく、また

後にも無からん。その日もし少くせられずぽ、一人だに救はるる者なからん、されど選民の為にその日少くせ
ニニこ
らるべし。その時あるひは「み視よ、キリスト此処にあり」或は「此にせ処こにあり」と言ふ者ありとも信ずな。偽キ
しるしぽどす
リスト・偽預言者おこりて大なる徴と不思議とを現はし、為し得べくば選民をも惑はさんと為るなり。視よ、
あらかっゆ
預じめ之を汝らに告げおくなり。されば人もし汝らに「視よ、彼は荒野にあり」といふとも出で往くな「視
いなつぼまたしか
よ、彼は部屋にあり」と言ふとも信ずな。電光の東より出でて西にまで閃きわたる如く、人の子の来るも亦然らん。それ死骸のある処には鷲あつまらん。
たにはなお
これらの日の患難ののち直ちに日は暗く、月は光を発たず、星は空より唄ち、天の万象、ふるひ動かん。そのとき人の子の兆、天に現はれん。そのとき地上の諸族みな嘆き、かつ人の子の能力と大なる栄光とをもて天
つかいつかわはて
の雲に乗り来るを見ん。また彼は使たちを大なるラッパの声とともに遣さん。使たちは天の此の極より彼の極まで四方より選民を集めん。霧熟の樹よりの讐をまなべ・その枝すでに柔かくなりて葉碧ば、夏の近きを知る。欺のごとく汝らも此
かどぺな
等のすべての事を見ば人の子すでに近づきて門辺に到るを知れ。誠に汝らに告ぐ、これらの事ことごとく成る
ゆことぱ
まで、今の代は過ぎ往くまじ。天地は過ぎゆかん。然れど我が言は過ぎ往くことなし。その日その時を知る者
きたしか
なし、天の使たちも知らず子も知らず、ただ父のみ知り給ふ。ノアの時のごとく人の子の来るも然あるべし。晩て洪水の前ノア捷鷹に入る日までは・人々飲み食ひ・灘り鷹がせなどし・洪水の来りて轟どく滅すまでは知
しかのこ
らざりき、人の子の来るも然あるべし。その時ふたりの男、畑にをらんに、一人は取られ、一人は遺されん。
うすひさまいず
二人の女磨隈きをらんに、一人は取られ、一人は遺されん。されば目を覚しをれ、汝らのきたるは、何れの日
いえあるじ
なるかを知らざればなり、汝等これを知れ、家主もし盗人いつれの時きたるかを知らば、目をさまし居て、そ
うが
の家を穿たすまじ。この故に汝らも備へをれ、人の子は思はぬ時に来ればなり。主人が時に及びて食物を与へ
まめやかさとしもぺ
さする為に、家の者のうへに立てたる忠実にして慧き僕は誰なるか。主人のきたる時かく為し居るを見らるる
しもべさいわいもちものつかさもしもぺ
僕は幸福なり。誠に汝らに告ぐ、主人すべての所有を彼に掌どらすべし。若しその僕、悪しくして心のうちに
おモたたさけのみしもぺ
主人は遅しと思ひて、その同輩を卦きはじめ、酒徒らと飲食を共にせば、その僕の主人おもはぬ日しらぬ時に
むちうモこなげきはがゐ
来りて、之を烈しく答ち、その報を偽善者と同じうせん。其処に哀果、切歯することあらん。 (マタイ伝二十四章一-五一 )この章を読んで、意味のはっきりわかる人が何人あるでしょうか。ただ、主人 (自己の本心 )に
忠実で、慧さとき僕 (肉体人間 )は幸福なり、というところぐらいが、かなりはっきりわかるところ
で、後の文章はすべて抽象的で、はっきりわからぬところと、現代人にとっては、戦争と戦争の噂
とか、鱗饒や地震のことも、現代より過去のことか未来のことかもはっきりしません。それにこの書は、ユダヤにいる者に与えられたような感じがありまして、世界全人類に与えられた教えとも思えません。どうも現代の日本人にはまるで必要のない言葉のようです。
まして、世の終りのその日その時を知るもの父のみであって、天の使たちも、子も知らずどいうのですから、なんのために「荒す悪むべき者の聖なる処に立つを見れば、その時ユダヤに居る者どもは山に遁れ、屋の上に居る者はその家に ……その日に磯励たる者と乳を囎する者とは僻獣なるか
はじめ
な……」などと、人々の恐怖するようなことをいっているのでしょうか。「世の創より今に至るま
で斯る患難はなく ……」ともいっています。そんなことをいくらいわれても、その日のことは絶対者である神様だけしか知らないというのですから、真面目に聞いている人の心が痛むだけで、なん
の効果もないことです。
まどわ
『なんぢら人に惑されぬやうに心せよ。多くの者わが名を冒し来り、「我はキリストなり」と昌「
ひ多くの人を惑はさん ……』とか、『「キリスト此処にあり」と、偽キリスト、偽予言者おこり、大
しるし
いなる徴と不思議とを現はし、為し得べくば選民をも惑はさん ……』とかいっていますが、この事実はイエスの頃から現代にも、実に多く現われていますが、イエスの言葉が実は、キリスト教が
かたく
頑なに、キリスト教だけを真理の教えとして、他の宗教を排斥する狭い宗教にしてしまった原因ともなっているのです。日本の真の神道のような、大らかな伸びやかな宗教観念になれなかった原因
ともなっています。
キリスト者の選民意識は、ひいては、他宗教排斥となりキリスト教国であるアメリカあたりが、
えせ
潜在意識的にも、こういう選民意識をもっていて、真実の愛を世界に行じられぬ以非クリスチャンとなってしまっているわけです。
ですから、私はこういう予言の言葉は、聖書の中に入れておくべきではないと思うのです。聖書の中には山上の垂訓をはじめ、珠玉のような真理の言葉がたくさんあります。そういう教え方こそ、人々の魂の糧となるのでありまして、この章のような人々に恐怖を与え、信者の心を狭量にさせてしまうような、選民意識を与える書は、キリスト教聖書としてはマイナス面だけを大きく浮び
上がらせるだけだと、私は思うのです。
この章を読んで、誰が魂の糧となし得ましょう。一読、心がすうーと澄みきってゆく、或いは、胸がじいんときて、本当に愛深い人間になろう、世のために働こう、そういう想いを人々に起させるような、真理の言葉こそ、真実の聖書なのであります。いかに、未来に大きな患難が起ろうと、天変地変や戦争が起ろうと、それはその時のことであって、わざわざ予言して知らせてもらう必要はないのです。要は人間が、この日々をいかに、自己の本心を生かし、人々のため、社会国家のため、人類のために、少しでも有為な働きができるか、神のみ心にそむかず生きることができるか、ということが問題なのであり、そのように本心を開いて生きてゆける道を常に指し示していてくれるのが、宗教の教えなのであります。
そういう点でも、このマタイ伝の章は、いらずもがなであると思われるのです。イエス程の聖者が、果して、こんなつまらぬことをいったかと、私は疑いの眼をもつのです。恐らく、イエス自身はこんなことを、人々に明らさまにいう筈がないと思うのです。全くいう必要のない言葉なのです。未来にこんな災難があるぞ、だから善い心を起こせ、という説教は、いいようで悪いのです。大体宗教の道に入ろうとするような人は、いわゆる人の善い、気の小さな人が多いのです。その人の善い、小さな心の人に、こういういい方をすると、未来の災難のことばかり気になって、ますます心がいじけて、生命力を萎縮させてしまい、より活気のない人間にしてしまいがちなのです。クリスチャンにはこの種の狭い、小さな人間がかなりあります。これは、少しでも悪いことをせずに天国にやってもらおうという行き方で、積極的に人の罪をかぶっても、善いことをしてゆこう、と
いう大きな魂の人物ではないわけです。これはやはり利己主義の現われで、あまり宗教的には感心した生き方とはいえません。本心が開発されている人は、常に他人の幸せ、社会国家人類という、多くの人々の幸せのために働いてゆくようになります。そこで、聖書を読むのでも、いつも自分の本心開発の糧にしてゆくように読むべきで、いたずら
に自分の心を責める道具に聖書をつかってはなりません。世の牧師さん方も、キリスト教を光明思想として説法し、人々の心を萎縮させるような方向に教えをむけてゆかぬほうが、イエス・キリストの望むところであろうと、私は思うのです。なんにしても、この世界を真実の平和にするため、
はな
神のみ心が地上界に華開くためにこそ、宗教の教えがこの世においても必要であるわけなのです。予言も時にはよいでしょうが、人々の心を明るくするような、未来の予言をこそ望むのです。いくら聞いても、どうしようもない、未来の不幸災難を予言することは、神本来のみ心ではないでし
ょうし、イエス・キリストの本心でもないでしょう。未来の不幸災難は現在の神の愛を信じ、神の
愛を行ずる、真実の信仰心によってこそ、未然に或いは小さく防ぎきることができるのです。一瞬一瞬の今の生活を明るい愛の心で生きつづけてゆく人間を一人でも多くつくりあげてゆくことが、真の宗教者の役目といえましょう。

天国への準備
聖書の曹え話の中には、日本人にはわからない例えをひいてある場合が、しばしばあります。イエスはユダヤの人でありまして、どうしても、ユダヤの植物とか動物とか、事柄物事、すべてユダヤを主にして話しておられます。それは勿論その筈です。近代のようにテレビがあるわけでもなく、ジェット機で世界中廻われるような時代ではないので、イエスの頭脳経験で知っているのは、ユダヤのことや中近東附近のことぐらいだったでしょう。それに聴聞する人が、殆どユダヤ人だったでしょうから、他の国の事物事柄で薯え話をする必要がなかったわけです。要はイエスの話が神
のみ心をこの世の人々に伝えている、ということに意義があるのですから、真理のひびきが聖書を読む人の心に伝わり、その人の心が浄まり、正しい行為のできる人になればよいわけなのです。
聖書学者の中には、原書に忠実にというので、字句や事例にばかり重点を置いて研究をつづけていられる方々もありますが、一つ一つの字句や事例がはっきりわからなくても、イエスの真意を了
解して、神のみ心をこの世に現わし得る一人一人になればよいのです。
聖書を読むのには、やはり、深い心で読まねば、イエス時代のユダヤのしきたりや、儀礼的なものにばかりに把われて、肝腎の神のみ心が陰にかくれてしまいます。聖書はあくまで神のみ心を世の人々の行為に現わさせようとして書かれたものですから、そのつもりで枝葉に把われぬ、真理把握の心で読んでゆかれるとよいと思います。
今日は、マタイ伝二十五章三一!四六を掲げ解説致します。
人の子その栄光をもて、もろもろの御使を率ゐきたる時、その栄光のい座くら位に坐せん。斯て、その前にもろもろの国人あつめられん、之を別つこと牧羊者ひつじかいが羊と山羊とを別っ如くして、羊をその右に、山羊をその左にお
はじめ
かん。庭に王その右にをる者どもに言はん「わが父に祝せられたる者よ、来りて世の創より汝等のために備え
つくらかわ
られたる国を嗣げ。なんぢら我が飢えしときに食わせ、渇きしときに飲ませ、旅人なりし時に宿らせ、裸なりしときにかせ・病みしときに識㌍、雛ぱ在りしときに来たりたればなり」農に正しき者ら答へて言はん「主よ、何畔なんちの飢ゑしを見て駕はせ、渇きしを見て飲ませし。何時なんちの旅人なりしを見て宿らせ、裸なりし

を見て衣せし。何時なんちの病み、また獄に在りしを見て、汝にいたりし」王こたへて言はん「まことに汝らに告ぐ、わが児弟なる此等のいと小ちいさき者の一人になしたるは、即ち我に為したるなり」斯てまた左にをる者ど
のろつかいとこしえ
もに言はん「謁はれたる老よ、我を離れて悪魔とその使らとのために備へられたる永久の火に入れ。なんぢら

我が飢ゑしときに食はせず、渇きしときに飲ませず、旅人なりしときに宿らせず、裸なりしときに衣せず、
とぷらここ
病みまた獄に在りしときに訪はざればなり」愛に彼らも答へて言はん「主よ、いつ汝の飢ゑ、或は渇き、或は
ひとやつか
旅人、あるひは裸、あるひは病み、或は獄に在りしを見て事へざりし」ここに王こたへて言はん「誠になんぢらに告ぐ、此等のいと小さきものの一人に為さざりしは、即ち我になさざりしなり」と。斯てこれらの者は去りて永遠の刑罰にいり、正しき者は永遠とこしえの生命に入らん』 (マタイ伝二十五章三一 -四六 )
この章に羊と山羊が出てまいりまして、羊は右の座をしむる正しき者、山羊は左におかれて誤てる者、というような讐え話ですが、なぜ右が正しく、左が誤りか、なぜ羊が正しく、山羊が誤てる側になっているのか、という疑問がでてまいります。これはパレスチナでは羊は白で、山羊は黒が多く、羊は山羊よりも柔順で肉もミルクもより大きな価値があると考えられていたのです。そこで羊を正しいほうの磐に、山羊を誤てる者の唇にしたのであります。それではどうして右の座が正しく、左の座が誤っている座に讐えたのでしょう。こういう例えは、うっかりすると誤解されること
が多いので、浅はかな人は、キリスト教では、右が正しく左は誤りである。など、すべてのことに
こんな考えをもったりすると大変です。
これはこの話に限り、こういう磐え話になっていったのだと思わねばなりません。もっともユダヤでは、左より右のほうがよい位置であると考えられていたようです。日本などでは、昔は左大臣、右大臣などという位がありましたが、左大臣のほうが右大臣より上位になっていました。これは国によって考え方が相違しているのです。
ひたみぎ
左は精神 (霊)を現わし、右は物質を現わすといわれ、左は陽足りで、陽で、右は水極で陰であるともいわれています。左廻わりは精神で、右廻わりは物質であるともいわれます。こういう風に考えますと、この聖書の左右の警などは、あまり気にせずに、真意だけをつかむことを心掛けることです。この話の要点は、人々が飢えている時に、或いは渇いている時、旅人なりしときに、裸なりしときに、病みしときに、獄に在りしときに助け慰めた人々は、神の働きを助けたものであって、神に

尽くしたと同じことなのである。だから、あなた方は、天国の座位に坐し、栄光の国を嗣げ、というのであり、その反対の行為をした者たちは、去りて永遠の刑罰に入る、というのであります。
人の子その栄光をもって、もろもろの御使を率いてきたる時、というのは、キリストの再臨の時をいうのでありましょうが、これは、多くの人々がキリストなる真理 (本心 )を開顕した時という意味なのであります。そしてそういう時になって、神のみ心の通りに、いと小さき一人の人にでも
愛をつくしたる者は、その時の栄光ある世界の一員として、神のみ国に住めるのであり、その反対の行為のものは、去りて永遠の刑罰に入る、というのです。これは聖書のいう通り、確かなことだと思います。仏教でいう因果の法則でもあるからです。平

常の行為は、物質欲、自己欲望が強くて、なんら人のために尽くさずにいて、神様、私が幸せでありますように、と祈りつづけたところで、神様のほうではどうにもしようがありません。それは神
ほず
のみ心に外れた生き方をしているので、いくら口で神様と呼んでいても、想念のほうは、次第に神
おの
の道から離れていってしまう、つまり光明のない世界、永遠の刑罰の世界に自ずと入っていってしまうのです。これは何も神が、その人に刑罰を与えているのではなく、自分自らが、永遠の闇の方
みずか
向に進んでいってしまうのですから、神はその自由を縛ることは致しません。自らが、自分の歩ん
でいる道は神への道ではない、永遠への幸福の道ではない、ということに気づくより方法がないの
です。
そういう人々に神の道はこっちなのだよ、真実の道はこちらへ向ってゆくのですよと、真理の道を教え知らせてやるのが、先に真理の道を悟った人々の為すべきことなのです。仏陀やイエス・キリストはその最先達であり、その後に従うものもたくさん存在するわけです。
はじめつ
「わが父に祝せられたる者よ、来りて世の創より汝等のために備えられたる国を嗣げ」という言葉が、この章の中にありますが、この宇宙そのものも、地球世界そのものも、すべて大調和に向って動いておりますので、地球世界の大平和達成も、神のみ心の中には定まっているのでありましょう。そして、汝らのために備えられたる国を嗣げ、といっておられるように、その栄光の道に最初に踏
434

み入る人も、後から進みゆく人も、みんな神計りに定められていることでしょう。
すべて神の子である原理からいって、一度は永遠の刑罰に入れられるような人々でも、やがては、神の栄光に浴する日が来ることでありましょう。ただ、いち早く、多くの人々が、神への栄光の道を突き進んでゆかれるよう、守護の天使方も、一心に想っていられるのであります。
汝らに備えられたる国というのでも、もうすでに、肉体界ならぬ神霊の世界では、大調和の状態になっておるのでありまして、神のみ心のままに、この世を愛一念で生きつづけてきたような人を、いつでも受け入れるようにできているのですから、この世が真理そのままを現わし得る世界になる
以前に、この世を去っても、真理を現わす生き方をしていた人は、そのまま天国の住人となる資格をもっているのです。そういう資格をもつ人を、一日も早く、一人でも多くつくり出すことが、今
日の宗教者に課せられたる使命なのであります ◎
ですから、宗教指導者が、この世の利だけを追い求めるような、いわゆるご利益信者を多くつく
ってゆくようでは、肉体を去ってから天国へ往ける人もできず、この世での地上天国をつくることも到底できるわけがありません。宗教信仰というのは、神との一体観と自他一体観、つまり愛をますます深めてゆく道をゆくことでありまして、自己の興味本位に神秘力を得たがったり、他の人より優位な立場に立ちたい、という自己顕示欲で、修業するものではないのです。
ほつ
小さな一人の人のためにでも、深い愛をもって接する、ということこそ、イエス・キリストの欲
おわ
する道であり、宗教の本道なのであります。いかなる人の中にも神は在すのであり、一人の人をも
さげ
蔑すみ、あなどってはいけないのです。もしその人が神の道を誤って歩み、或いは悪事に走ってい
る時などは、勿論その誤りや悪事を許すことはできませんが、その人々の神性が現われますように
と、守護の神霊の加護を願い、キリストの愛のみ心に祈りをささげてやる必要があるのです。
悪事や誤った道に走るのは、仏教的にいえば、その人の過去世からの因縁によって、その人の想念行為に振り廻わされているに過ぎないのですが、その人一人ではどうにも、そのカルマからぬけ出すことができないのです。そこに他からの援助がいるのでありまして、愛深き人々の祈りの応援
が必要になってくるのです。神の道を誤らず、愛一念に生きられる人程幸せな者はありません。常に悪事に走り、誤った道を歩みつづける人は、実に気の毒なめぐり合わせの人なのですから、その人の本心開発の祈りを神々にささげてやることが必要になってくるのです。そういう愛の行為が次第にこの世を明るくし、世界の平和を来たらす、一歩一歩の歩みとなるのであります。個人個人が憎み合い、いがみ合い、国と国とが争い、お互いの権力を誇示し合っているようで、なんで世界の平和が訪れましょう。イエス・キリストは、キリスト再臨の日のためには、いかなる人々をも、愛し得る人間の多くなることが大事だ、とこの章の説法をしているわけなのです。
436

ただここで問題なのは、人を愛することと、罪を許すこととは違うということです。愛することが即そく罪を許すことではありません。人を愛するが故に、犯かした罪は罰しなければなりません。罪を罰せられることによって、その人の心から業がカルマ消滅してゆくのです。犯かした罪を罰なくして許
せば、その人の肉体離脱以後も、その人の心から罪の意識は消えることがないのです。その点で安易なる死刑廃止論などは、真理を知らぬ浅薄な論であると思います。
かわ
渇きしときに飲ませ … …獄に在りしときに来たり …・」・という愛の心をイエスは尊い行ないとし、天国に入る行為としていますし、その人々の愛を、自己に向けられた愛としています。これこそ、神そのものの言葉であります。尤も愛の心に富んでいる人は、見知らぬ人の救われをきいただけでも喜びの涙をこぼすことがあります。
すべての人々の心が平安になり、一人でも悩み苦しむ人の無い世界の、一日も早く来らんことを、私共はイエス・キリストの愛に応えて、世界平和の祈りをつづけてゆきたいと思います。

一粒の麦地に落ちて死なずば
霊的指導者という者は、常に大衆より幾層も上の階層にいて、しかも大衆の中に降りて、指導し
へだた
ているのですが、イエスの場合は、イエスと大衆との心の位置に大変な距りがありまして、如何にイエスが下に降りて、大衆にわかりやすいように讐え話風に真理を説いても、大衆にはなかなかわからず、ただ、病気を癒してもらったり、現実の不幸を救ってもらったりした人と、その事実をみた人たちが、イエスを信じ慕い、教えそのものにつき従った者は僅かな人数であったようです。
大衆は常に自分たちの現象の利害関係のみに関心をもっているので、神のみ心につき従うという
心境になれる人は少なかったのです。これはイエスの時代だけではなく、今日でも同じことです。そこに霊的指導者の苦悩があるのでありまして、イエスの十字架上の死も、そうした大衆の肉体生活に執する想念を浄め去るための大犠牲の行為だったのです。
事実は肉体はすべて、霊なる本体の生命エネルギーの力によって、神のみ心をこの地上界に現わそうとして働く役目をもっているので、神霊の世界本来の役目を離れた肉体世界だけの幸福などと
いうものは、ほんの瞬間の幻影的なものに過ぎないのです。そういう真理を教えさとそうとして天降ってきたイエスと、肉体世界だけの幸福を追い求める大衆とのギャップは、イエスの大犠牲というものがなければ埋めつくせぬものだったのです。
そういう意味で、イエスの生涯は大犠牲者としての生涯だったのです。考えてもみて下さい。三十数年のイエスの生活に何一つとして、イエス個人の幸福というものがあったでしょうか。ヨハネ伝十二章二〇 1三七にもイエスの言葉は悲哀のひびきを感じさせます。
礼拝せんとて祭に上りたる者の中にギリシャ人数人ありしが、ガリラヤなるベッサイダのピリポに来り、請こ
ぽみ
ひて言ふ『君よ、われらイエスに謁えんことを願ふ』ピリポ往きてアンデレに告げ、アンデレとピリポと共に往きてイエスに告ぐ。イエス答へて言ひ給ふ『人の子の栄光を受くべき時きたれり。誠にまことに汝らに告

ぐ、一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし。己が生命を愛す
とニしえ
る者は、これを失ひ、この世にてその生命を憎む者は、之を保ちて永遠の生命に至るべし。人もし我に事つかへん
つかおつか
とせば、我に従へ、わが居る処に我に事ふる者もまた居るぺし。人もし我に事ふることをせば、我が父これを貴とうとび給はん。今わが心騒ぐ、我なにを言ふべきか。父よ、この時より我を救ひ給へ、されど我この為にこの時に到れり。父よ、御名の栄光をあらはし給へ』髪ここに天より声いでて言ふ『われ既に栄光をあらはしたり、復ぽたさ
いかつち
らに顕さん』傍らに立てる群衆これを聞きて『雷露鳴れり』と言ひ、ある人々は『御使かれに語れるなり』と嚇

言ふ。イエス答へて言ひ給ふ『この声の来りしは、我が為にあらず、汝らの為なり。今この世のきた審さばき判は来れ
おいだあすべもと
り、今この世の君は逐ひ出さるべし。我もし地より挙げられなば、几ての人をわが許に引きよせん』かく言ひ
おセてとこしえながら
て己が如何なる死にて死ぬるかを示し給へり。群衆こたふ『われら律法によりて、キリストは永遠に存へ給ふと聞きたるに、汝いかなれば人の子は挙げらるべしと言ふか、その人の子とは誰なるか』イエス言ひ給ふ『なほゆくてせおいつくらき暫しゴし光は汝らの中にあり、光のある間に歩みて暗黒に追及かれぬように為よ、暗き中を歩む老は往方を知ら
ず。光の子とならんために光のある間に光を信ぜよ』
しるし
イエス此等のことを語りてのち、彼らを避けて隠かくれ給へり。かく多くの徴を人々の前におこなひ給ひたれど、なほ彼を信ぜざりき。 (ヨハネ伝十二章二〇 1三七 )
この章のイエスの言葉を真実にわかった人は少なかったと思います。大衆は天使の声を聞かされ
ながらも、イエスがキリストであることを信じなかったのであります。何故ならば彼らにとって、

救世主キリストは、肉体の世界の、自分たちを救うこの世の救世主であって、この世を超えた永遠の生命に生きる方法を教え、その道に従うことによって、自らが救われるのであることを示す、そ
ういうキリストでは、彼等にとっては期待はずれとなるのであります。
おきてとこしえながら
ですから、群集は『われら律法によりて、キリストは永遠に存え給うと聞きたるに、汝いかなれば人の子は挙げらるべしと言うか、その人の子とは誰なるか』などと聞いております。群集のいう永遠の生命というのは、肉体身をもったまま永遠に生きるということですので、イエスが「我もし 地より挙げられなば、凡ての人をわが許に引きよせん」といって、その死に方を示したのに対して、
不審の念を抱くわけです。それは、彼らの頼みとする救世主キリストは、肉体に永生を示すものであり、彼らを肉体生活において救ってくれるものであったからです。
こういう心境の群集が多いのですから、かの有名な「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つに

てあらん。もし死なば、多くの果を結ぶべし。己が生命を愛する者は、これを失い、この世にて、その生命を憎む者は、之を保ちて永遠の生命に至るべし ……」という言葉も、あまり心深く入ってはいなかったようです。イエスとしては、自分の最後の十字架上の死の時を知っておりますので、自分に従う者を、この世において救う、とはいっていません。自分がこの世を去った霊界において、
つか
その輝かしい場所に、自分に事えた者たちを引き上げる、といっているのであります。
イエス側の救いの観念と、群集の救われの観念とが、著しく相違しております。イエスはこの群集の気持をはっきり知っております。しかし、自分の死の時期も悟っております。そこで、「わが心騒ぐ、我なにを言うべきか。されど我この為にこの時に到れり。父よ、御名の栄光をあらわし給え」と神に訴えております。イエスの心情察するにあまりあります。イエスは年齢三十歳余の青年

です。愛の心に充ちている人です。現象的に困っていて、救いを求める人々に、ただ霊界だけの救
いを説いていて、しかも、もうそれさえ説きつづける日は短いのです。実際の心としては、もっと
もっとこの世に生きつづけて、多くの人々を救いあげたいにきまっております。しかし、神との約束事は果さねばなりませんし、果される定まりになっております。天父も、イエスの心情を察して、群集にもわかるような声で、「われ既に栄光をあらわしたり、
いかつち
復さらに顕わさん」といわれたのです。群集はこれを聞いて「雷窪鳴れり」といい、「御使かれに語れるなり」とその霊現象にびっくりしたわけです。そこで、イエスは「この声の来りしは、我が為にあらず、汝らの為なり」といって、先程説明致したように霊界の救いを説いたわけですが、これがどれ程の人々に理解されたことでしょう。
しるし
「かく多くの徴を人々の前におこない給いたれど、なお彼を信ぜざりき」というのが、この節の終わりになっておりますところをみますと、イエスの烈々たる救済の言葉も、現世利益のみに走る群集の胸には沁みこんでゆかなかったものとみえます。
現代でもそうなのですが、現世利益を願う人々が、新しい宗教に多く入ってきておりまして、新しい宗教団体では現世利益を説き、現象の問題を主にしなければ信者は増えないようです。イエスもその頃の新しい宗教教祖であったわけで、救世主待望のユダヤの人々の心をひきつけたのでありますが、素晴しい神癒力をもち、超越した神秘力を諸処においてみせながらも、その根本の教えが、高適過ぎて、大衆がつき従ってゆきかねたのであります。 イエスは、政府の高官に対しても、ユダヤ教の長老たちに対しても、少しも真理を曲げて説こう
とは致しておりません。真理そのままを、真直ぐにぶつけております。「生命を愛する者は、これを失い、この世にてその生命を憎む者は、之を保ちて永遠の生命に至るべし」という言葉でも、真理を知っております私共であれば、全く一読同感して心が浄まるのですが、普通一般の人には、実に不思議に聞えると思います。
原語では、恐らくこういうむずかしいいい廻わしはしてないのだろうと思いますが、大衆の心にすうーと入ってゆく言葉ではないようです。生命を愛する者はこれを失うとは一体どういうことなのだろう、と思うわけです。これは生命を愛する老ではなくて、肉体の生命に執着するもの、肉体生活に把われる者、という意味であります。そして、その生命を憎む者というのは、この現象の肉
体生活を問題にせず、真理に生くるもの、という意味で、何も生命自体を憎む、という、直接の意味に解釈してはなりません。翻訳者が意味を強めてこう翻訳したのでありましよう。肉体にあろうと、霊界にあろうと、生命は尊いものであり、憎むべきものではないからです。こういうところをはっきりしておかぬと、宗教というものを誤り考えられる恐れがあるので、私はここでご言しておくわけです。
イエスの言葉として残っている言葉には、かなり極端ないい方をしているところがあります。
「われはこの世に平和をもたらしにきたものではない、剣を投じにきたのである」という言葉なども、イエスがあたかも平和主義老ではないように思われてしまいます。こういうところが、クリス姐チャソでありながら戦争に賛同している人がかなりいる、という結果を生んでいるのではないかと思えます。虫をも殺してはいけぬ、と殺傷をいましめているイエスが、戦争をすすめるわけがあり
ません。汝の敵をも愛せよ、というのですから、汝の敵なら叩きつぶしてしまう、戦争をすすめるわけがないのです。こういうところの聖書の読み方も大事なことです。ベトナム戦争を支援する牧師さんが、アメリカにはいるのですから、聖書もイエスの深い真意を読んでゆかぬといけないと思うのです。
とにかく、宗教の奥義というものは、なかなか理解できにくいので、古来からの聖者賢者も、言葉を大切にして説きつづけていたわけです。イエスさんも、人を感動させて、しらずしらずに真理を悟らせてゆくことの上手な人なのですが、なんにしても、三十数歳で、自己の肉体的な天命を成
し遂げてゆかねばならぬのですから、並大抵の苦労ではなかったでしょう。イエスを想うと私は常に胸が痛みますが、人類の迷妄に対する深い悲しみが、いつも道を説きながらも、イエスの心を去来したことでしょう。イエスは愛そのもの、真理そのものの人でありながら、悲哀のひびきを、その生涯からにじみ出させている人でもあったのです。イエスの断乎とした
強い格調の高い説法と、その底ににじみでている悲哀。それは私共が、イエスの十字架上の最後を想いながら、聖書を読むためでもありましょうが、そういうイエスの悲哀の生涯が、キリスト教を今日のように発展させてきた要因でもあったのです。
今日からのキリスト教者は、ただ昔ながらのキリスト教のみが宗教である、というような、そういう狭い心をすてて、もっと自由な広い心で、世界平和のために、人類愛の行為のために、他の悟れる者たちと手を組んで、この人生を歩んでゆかねばなりません。
聖書は勿論真理の書であり、光り輝く言葉に埋まっていますが、仏教にも、他の宗教にも善い立派な真理の言葉がたくさんあることも忘れず、しかも、自らは聖書の真理を行ないつづけて、少しでも人類社会のために役立つ働きをしてゆくように心がけて生くるべぎなのです。
形骸だけのキリスト教、教会主義のキリスト教を超えて、イエス・キリストがそのままそこに生きている、キリスト教を行じひろめてゆかれるよう切望するものです。

弟子の足を洗う
イエスの大犠牲の日が近づいてまいりますと、聖書を読んでいましても、心が切なくなるような気がします。すでに二千年も前のことでありながら、イエスの十字架上の最後の日のことは、そのまま現在の出来事のように、クリスチャンの胸を常に打ってくるのです。何故あれだけの霊覚者が、あれだけの神秘力をもちながら、おめおめと捕われてしまうのか、と残念な気がしている人も多々あると思います。しかし、すべては旧約聖書の予言の実現されるためである、と聖書には書いてあります。ヨハネ伝十三章一i二〇には、イエスが自分のこの世を去る日の近いのを知って、弟子たちの足を洗いながら、説法するところが書かれてあります。涙なしには読めない気が致します。
過おのウこしすき越のまつりの前に、イエスこの世を去りて父に往くべき己が時の来れるを知り、世に在る己の者を愛して
きわみニれゆうげ
極まで之を愛し給へり。夕餐のとき悪魔、早くもシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを売らんとす
おもい
る思を入れたるが、イエス父が万物をおのが手にゆだね給ひしことと、己の神より出でて神に到ることとを知
うわざてぬぐいついたらい
り、夕餐より起ちて上衣をぬぎ、手布をとりて腰にまとひ、尋で盟に水を入れて、弟子たちの足をあらひ、纒
のぐい
ひたる手げロ布にて之を拭ひはじめ給ふ。斯てシモン・ベテロに至り給へば、彼いふ『主よ、汝わが足を洗ひ給ふか』イエス答へて言ひ給ふ『わが為すことを汝いまは知らず、後に悟るべし』ペテロ言ふ『永遠に我が足をあ
かかわり
らひ給はざれ』イエス答へ給ふ『我もし汝を洗はずば、汝われと関係なし』シモン・ペテロ言ふ『主よ、わが足のみならず、手をも頭かしらをも』イエス言ひ給ふ『すでに浴したる者は足のほか洗ふを要せず、全身きよきな
ニとごと
り.きよ斯く汝らは潔し、されどか悉くは然らず』これ己を売る者の誰なるを知りたまふ故に『ことごとくは潔からず』と言ひ給ひしなり。
彼らの足をあらひ、己が上衣をとり、再び席につきて後いひ給ふ『わが汝らに為したることを知るか。なんぢら我を師またうぺ主しゆととなふ。然か言ふは宜なり、我は是なり。我は主また師なるに、尚なんぢらの足を洗ひたれば汝らも互に足を洗ふべきなり。われ汝らに模範を示せり、わが為ししごとく、汝らも為さんためなり。誠
にまことに汝らに告ぐ、おおいつかわおおいべ僕しもはその主よりも大ならず、遣されたる老は之を遣す者よりも大ならず。汝等これら
おニな
の事を知りて之を行はばえらすべいいは幸福なり。これ汝ら凡ての者につきて言ふにあらず、我はわが選びたる者どもを知さる。されど聖書に「我とともにパンを食ふ者、われに向ひて踵を挙げたり」と云へることは、必ず成就すべき
まえモれ
なり。今その事の成らぬ前に之を汝らに告ぐ、事の成らん時、わが夫なるを汝らの信ぜんためなり。誠にまことに汝らに告ぐ、わが遣す者を受くる者は我をうくるなり。我を受くる者は我を遣し給ひし者を受くるなり』この節には、イエスが弟子の一人が自分を裏切って、自分を官憲に売渡すことを知りながら、一
人一人の弟子の足を洗ってやっているところが出ているわけですが、ユダヤでは、妻が夫に対し、
子が親に対してすることもありましたが、一般通念では、奴隷が主人に対してする仕事でありまし
たので、ペテロなどは驚いて、「イエスさま、私の足などお洗いになって、とんでもないことで、
畏れ多いことで ……」と大変に恐縮して、これをこばむのですが、かえってイエスさまに叱られて、
しぶしぶ洗ってもらうわけです。
何故イエスが弟子たちの足など洗ったかと申しますと、イエスはもうユダの裏切りでこの世を去ることを知っていましたのですし、それが「我とともにパンを食う者、われに向いて踵を挙げたり」という旧約聖書の予言を成就することであって、自分の天命を果すための出来事なのであることを、弟子たちに知らせ、自分が旧約の予言を実現させる主である、キリストであることをはっきりさせたかったのであります。この事実をはっきりさせておくことによって、神のみ教えがこの地上界に
広まってゆくことが確実になることをイエスは知っていたのであります。実際にイエスの大犠牲によって、キリスト教は今日のように全世界に広まっているのです。イエスの心では、肉体身のイエスの働きはほんの序の口の働きであって、霊身のイエス・キリストの働きこそ、肉体イエスの開いた道をより広く、より大きく広げてゆくのであることを、よく知ってい
たのであります。しかし、肉体身のイエスとしては、愛する弟子に裏切られて、十字架上の最後の日を迎えるということの哀しさは、なんともいいようのないものであったに違いありません。肉体イエスの生涯には悲哀の影が漂っている感じがするのです。イエスは自分がこの世を去った後で、どうか弟子たちが仲良く協力して神のみ教えをこの世に広めてくれるようにと、自らが弟子の足を洗って、愛の如何なるものかを示したのですが、弟子たちはイエスの心境のはるか下にありまして、いまだにこの世の位において自分たちの上下を定め合ったりしていたのです。お互いに謙虚であれ、そして神のみ教えを広めるために協力してくれ、自分は神霊の世界に還って背後から応援する。というのが、イエスのこの時の気持であったのです。ペテロをはじめ弟子たちの誰がこのイエスの深い気持をわかり得たでしょうか。イエスが「すでに浴したる着は足のほか
ごとごと
洗うを要せず、全身きよきなり、斯く汝らは潔し、されど悉くは然らず」といって、お前たちの
あん
中に浄まっていない者がいるのだ、私を裏切る者がいるのだ、と暗にほのめかしているのですが、誰もまだはっきりとその意味が呑みこめていないのです。こんなに師を信頼しきっている弟子たちの中に師を裏切るようなものが出る筈がない、と、弟子
たちは思いこんでいたので、イエスの言葉の意味がはっきり了解できなかったのです。そのようにイエスにいわれた時のユダの気持はどうであったでしょう。
ユダにはイエスを裏切る気持など毛頭なかったのです。ユダは頭の切れのよい、弟子たちの中では一番経済面にも頭の働く人で、経済面でのやりくりはユダが主になっていたのであります。ユダは弟子の中でも、最もイエスの神秘力に魅力を感じていまして、我が師イエスにとって、不可能なことはないと迄思いこんでいたのであります。
我が師イエスにとっては、如何なる難病も癒されるのであり、如何なる天変地異も静められるのであり、如何なる軍隊が押し寄せてきても、これを壊滅させることができるのである。という風に、我が師イエスを神そのものと思い、オールマイティの人と思いこんでいたのであります。
そうした神秘力への憬れというような想いの動きに乗じて、サタン (業想念 )の誘惑の手が伸びてきて、実際に師の超越した力、絶大なる神秘力を試してみたくなってきたのです。大地に足のついていない信仰心の間隙というのは恐ろしいもので、幽界の波に乗りやすいのです。真の信仰心というものは、頭を天に出しながら、あく迄も足は大地をしっかり踏みしめていなければならぬもので、神様神様といって超越したことばかり望んでいますと、幽界の生物に足をすくわれ、とんでもない不幸な目に合ってしまうのです。理想はあく迄も高くあってよいのですが、行動は常にこの現 実世界に根を下して、じっくりと行動してゆくべきで、日常茶飯事の当り前の事柄の積み重ねの中
から、思わぬ力がさつかっていることが多いのであります。私はそれを、消えてゆく姿で、たゆみ
なき世界平和の祈りの生活といっているのであります。
ユダの心はイエスを愛するということより、イエスの神秘力にひかれて、ついてきたということなので、そこにユダの信仰の誤りがあったわけです。あわれむべきユダは、イエスの神秘力を追い求め、遂いに、自ら演出して、軍隊をも手玉に取ってしまう、師イエス・キリストの夢を画いてしまったのです。ユダにしてみれば師イエスを裏切るなどという気持はみじんもなく、イエスの超越
した力を見せてもらいたかったに過ぎなかったのです。
それも旧約聖書の予言を実現させるための、一人の人間の役割りとして定められてあったのかも知れません。私は新約聖書が、常に旧約聖書つまりユダヤ教の予言の範疇をぬけきれないでいるのが、すっきりはしないのですが、イエスがユダヤ人として、ユダヤ教からぬけでた人でありながらも、その土台がユダヤ教にあったのですし、聴聞者がすべてユダヤ教の人々であったのですから、その説法に、ユダヤ教の磐え話や、予言が取り入れられるのも無理からぬことなのでしょう。
イエス程の霊覚者で、ユダの裏切り行為をも察知できた人が、何故身の危険を除れようとしなかったか、これもユダヤ教の予言を成就させるために、敢えてしなかったともいえるのです。尤も聖
者賢者というものは、生死に把われず、権力や地位にも把われぬ、自由自在心をもつ人々なので、イエスにとっても、肉体の死によって、自己の天命が成就されるならば、何も肉体に恋々と執着する必要はなかったわけです。ちなみにイエスが十字架上の死というドラマチックな事件がなく、長生きして道を説いていたとしたら、果して今日のキリスト教の発展はあり得たかどうか、ということも疑問です。何事もすべて神計らいによって行なわれているに違いありません。ユダこそ実に損な役割りをひきうけたもので、イエスの心にはユダを恨む心などさらさらなかったことでしょう。ひいきのひき倒しということがあ 0。ますが、ユダなど正にそのてんけい的な人物です。いつの世にもこういうユダ的な人物はおりますが、宗教信仰の場合、自分勝手な想像で師のイメージをつくりあげて、自分のつくったイメ :ジにその師が合わなくなると、悪口をいって去っ
よこし
てゆくなどという人もおります。こういう信仰の在り方は邪まな在り方で、信仰というのは、あく迄神のみ心にこちらが合わせ従ってゆくべきなので、自分のほうに神をひき下そうとするような信仰は誤った信仰というべきなのです。
また、宗教の師というのは、あく迄、神と自己とをつないで下さる方で、神への道をさし示し、手をひいて神のほう迄ひき上げて下さる人なので、師を自分のほうにひきよせ、ひき下げて迄、自己の願望を果そうとするのは、誤った信仰態度なのです。ユダの行為を非難する人々の中にも、そ れと同じような道を踏んでいる人もあるのですが、自分で気づかずにいるのです。宗教の道はあく迄、神のみ心である、愛と真と美の行為の人間になるように、精進努力することであり、その最も容易なる方法が、祈りによる神への全託ということなのです。
神のみ心をこの世において成就するために、私共一人一人の人間が存在するのでありまして、一人一人の人間はすべて天命をもってこの世に生れているのであります。これを逆に考えているのが
うま
一般の人々でありまして、自己のこの世の生活が、上手くゆくように、というので神を呼ぶのであります。そして、自己の生活が自己の想うようにゆかぬと、神などあるものか、というような無神
論になったり、または、種々の宗教を飛び歩いて、自己の利益を充たしてくれるような神を求めつづけるのです。イエスの時代でもそうでありまして、イエスは随分と嘆いたものなのであります。その最もなる現われとして、ユダがイエスを十字架上に送りこんでしまったのです。心すべきは、宗教信仰の在り方であり、師に対する心がまえであります。

弟子への遺訓
われは道なり、真理なり
ユダの裏切りには、偉大なるものに憧がれ、イエスの力の極限までも自己の眼で確めたい、という、人間の理想への夢というものがあったのでありまして、それが無惨にも、師への裏切りという、キリスト教最大の悪行為として、ユダにかえってきたもので、そこには恨むべき憎むべき根拠というものが少しもなかったのです。ユダは最後まで師を愛し敬し、師の神通力を信じきっていたのです。しかし結果的にはイエスを十字架上に追いやってしまい、自己は悲嘆と恐怖のため、自らの生命を断ってしまうことになります。本当にユダは哀れむべき人間でありまして、現在の世でも、こ
たぐい
うした類の人はかなりいるわけです。ではヨハネ伝十三章ー十四章によって、他の弟子たちの心境をのぞいてみましょう。
いつニ
シモン・ペテロ言ふ『主よ、何処にゆき給ふか』イエス答へ給ふ『わが往く処に、なんぢ今は従ふこと能は
いのもす
ず。されど後に従はん』ペテロ言ふ『主よ、いま従ふこと能はぬは何故ぞ、我は汝のために・生命を棄てん』イ
みたびにわとリ
エス答へ給ふ『なんぢ我がために生命を棄つるか、誠にまことに汝に告ぐ、なんぢ三度われを否むまでは、鶏
ナみか
鳴かざるべし。なんぢら心を騒がすな、神を信じ、また我を信ぜよ。わが父の家には住処おほし、然らずば我かねて汝らに告げしならん。われ汝等のために処を備へに住く、もし往きて汝らの為に処を備へば、復きたりて汝らを我がもとに迎へん。わが居るところに汝らも居らん為なり。汝らは我が往くところに至る道を知る』
いずこいか
トマス言ふ『主よ、何処にゆき給ふかを知らず、争でその道を知らんや』イエス彼に言ひ給ふ『われは道な
まこといのち
り、真理なり、生命なり、我に由らでは誰にても父の御許にいたる老なし。汝等もし我を知りたらば我が父を
すで
も知りしならん。今より汝ら之を知る、既に之を見たり』ピリポ言ひ給ふ『主よ、父をわれらに示し給へ、然らば足れり』イエス言ひ給ふ『ピリポ、我かく久しく汝らと借ともに居りしに、我を知らぬか。我を見し者は父を見しなり。
如何なれば「我らに父を示せ」と言ふか。我の父に居り、父の我に居給ふことを信ぜぬか。わが汝等にいふ言
いま
は己によりて語るにあらず、父われに在して御業をおこなひ給ふなり。わが言ふことを信ぜよ、我は父におり
わざつ
父は我に居給ふなり。もし信ぜずば、我が業によりて信ぜよ。誠にまことに汝らに告ぐ、我を信ずる者は我が
わざ
なす業をなさん、かつ之よりも大きなる業をなすべし、われ父に往けばなり。汝らが我が名によりて願ふことは、我みな之を為さん、父、子によりて栄光を受け給はんためなり、何事にても我が名によりて我に願はば、
いオしめニたすけゆしとニ
我これを成すべし。汝等もし我を愛せば、我が誠命を守らん。われ父に請わん、父は他に助主をあたえて、永
しえともみたユあた
遠に汝らと借に居らしめ給ふべし。これは真理の御霊なり、世はこれを受くること能はず、これを見ず、また知らぬに因る。なんぢらは之を知る、彼は汝らと階に居り、また汝らの中に居給ふべければなり。我なんぢらよ
みなしごまたい
を遺して孤児とはせず、汝らに来るなり。暫くせば世は復われを見ず、されど汝らは我を見る、われ活くれば汝らも活くべければなり。その日には我わが父に居り、なんぢら我に居り、われ汝らに居ることを汝ら知ら
いましめこれ
ん。わが誠命を保ちて之を守るものは、即ち我を愛する者なり。我を愛する者は我が父に愛せられん、我も之を愛し、之に己を顕すべし』 (ヨハネ伝 =二章三六ー一四章二一 )
先ず一番弟子ともいうべきペテロですが、イエスが天上に還える日の近いことを知って、それとなく、別れの言葉をいうのですが、ペテロにはその言葉の意味がはっきりわからないので、「主の往くところならどこにでもついてゆきます」というわけです。「私は主のためなら生命をも棄てます」とまでいいます。
ところが、イエスの心には、ペテロの未来の心の状態がわかっておりますので、あの有名な、「なんぢ三度われを否むまでは、鶏鳴かざるべし」という言葉をペテロにいうわけです。
どうこく
聖書講義第一巻の中にペテロの働突という詩がありますが、イエスの予言の通りに、イエスが十
きつもん
字架にかかる前に、ペテロは役人に詰問されて、その人を知らず、と三度びイエスの弟子であることを否定するのです。イエスへの信仰心よりも、生命の恐怖のほうが、ペテロの心に大きく作用し
456

いわお
たのです。しかし後に、イエスの霊身に接して、ペテロはそれこそ、その名の通り厳のような信仰心の人となり、神人となってゆくわけです。
イエスはそのペテロの心の状態がずっとわかっておりますので、「なんぢら心を騒がすな、神を信じ、また我を信ぜよ ……」といいます。肉体をもった人間というものの弱さを、イエスは実によく知っておりますので、ペテロをはじめ弟子たちが、いかに師のためには生命もいらぬようなことをいっても、肉体身をかばう想いで、その信仰心が何度びも乱れるであろうことを、容認している
つち
のであります。しかし、その後になって深い不退転の信仰心が培かわれてゆくこともイエスは知っておりました。イエスははっきりと、自分はお前たちのために霊界における場をもうけておく、だから恐れず、自分の説いていることを人々に伝えよ、といっているのですが、これがまた、なかなか弟子たちに
いつこ
はわからないのです。弟子の一人のトマスは、「主よ、何処にゆき給ふかを知らず、いかでその道を知らんや」ときくのです。そこでイエスは、「われは道なり、真理なり、生命なり、我に由らでは誰にても父の御許にいたる者なし。汝等もし我を知りたらば、我が父をも知りしならん。今より汝ら之を知る。すでに之を見たり」と断乎としていうのです。ところがまだ駄目です。ピリポが今
しか
度は「主よ、父を我らに示し給へ、然らば足れり」というのです。
これは現今の唯物論者が「神様なんてあるなら、ここでみせてくれよ、な」などというのとは異なりますが、それにしても、常にイエスの側にいて、説法を聴聞しつづけ、多くの奇蹟をみてきた弟子の問としては、随分粗末な質問だと思います。それではなんのためにイエスを信じ、イエスの説法に感銘していたのかわからなくなります。
私などもよくこういう質問を受けますが、あまり古い弟子の人にこんな質問を受けると情けなく
とも
なってしまいます。イエスも実に情けない想いがしたとみえて、「ピリポ、我かく久しく汝らと借に居りしに、我を知らぬか。我を見し者は父を見しなり、如何なれば、我らに父を示せ、といふか、我の父に居り、父の我に居給ふことを信ぜぬか ……」と噛んで含めるように、自分が父の代理であ

って、自分が為すことはすべて父 (神)がしてい給うのである、と説きつづけるのであります。全く、イエスさんとして、天に還えるにも還えれないような情けない想いだったでしょう。しかし、じっと未来をみつめていると、これらの弟子が遂いには深い悟りを得て、キリスト教発展のた
じゆん
めに大きな働きをしてゆくことがみえてまいりますので、淳々と真の信仰心というものを説きつづけていったのであります。肉体をもった人間にとって、一番真の宗教信仰にあるむずかしいことは、師も肉体をもった人間であるということと、自分には肉体生活というものがあるということであります。神が自分のうち
にあって、自分の言葉はすべて神からきているのである、ということでも、これはこの世的な実証というものがわからないのですから、その師の人格や能力というものを信ずる以外には、その真疑を確めることはできないのです。
見ずして信ずる、ということが宗教信仰の極意なのですが、イエスと深いつながりのあるピリポ
てつ
のような弟子でも、父をここにみせてくれなどといい出すのですから、宗教信仰に徹するというこ
ひろ
とは大変なことなのです。キリスト教が広がってゆくのでも、イエスの肉体が生存していた時代よりも、イエスが十字架上の露と消えて、霊身として弟子たちの眼前に現われはじめてから、急速に熱気を帯びて拡張してゆくのであります。
それは肉体イエスというものに把われていますと、自分たちと同じ範躊の人間という考えについ
なってしまって、その神秘性ということが肉体があるということで、マイナスされてしまうのです。
ですから、イエスが肉体身を去って霊身として現われた時ふ弟子たちは、はじめて、そこにキリス

ト・イエスを認識するわけです。イエス様は真実にキリストだったのだ、神と一つの方だったのだ、と生前の数々の説法が心身に沁みて感じられてきたのであります ここが神界から、地球人類を救済する、ということのむずかしさでありまして、肉体身としての人間を使わなければ、肉体人間と親しく近づいて、その人々を救うわけにはゆきませんし、肉体を
Q

持つと、いかなる聖者にしても、霊身そのままの働きはできず、その上、人々が肉体人間として、その聖者をみますので、その教えに反対する人々もできてくるのであります。
そこで今日では、神界の守護の神霊と肉体人間との密接不離の働きが必要となってまいりましたので、世界平和の祈りのような、人類愛の祈りが生れてきたのであります。それにしても、宗教の世界は、信の心が一番でありまして、信なくしては、真実の行が成り立ちません。信と行とが一つになって、はじめて真実の信仰心が成就するのであります。
それにしてもいかにイエスが無我の人であるかがわかります。何故かと申すと、イエスの言葉の断乎としたいい方をよくきいて下さい。「:・…汝らが我が名によって願ふことは、我みな之を為さん、父、子によりて栄光を受け給はんためなり。何事にても我が名によりて我に願はば、我これを成すべし。汝等もし我を愛せば、我が
いましめ
誠命を守らん。われ父に請はん、 ……」真に父との一体観がなければとてもこういうことをいい切るわけにはまいりません。よく邪教の教祖などが、尊大ぶって、神がかったことをいいますが、イ
さわ
エスの言葉の清やかさ、澄みきったひびきとはくらぶべくもありません。このイエスの言葉の中で、父、子によりて栄光を受け給はんためなり、という言葉がありますが、
おざ
これはあにイエスだけが子というのではなくて、肉体人間のすべての行為によって、神のみ業が地 球上に成就する、ということでありまして、肉体人間の天に通じた正しい行いによって、神の栄光がこの地球界にやがて現われてくるのであるということなのであります。
大神様のみ力がじかに働いて、人類世界を善くするというのでは、一人一人の肉体人間の働く意義がなくなってしまい、肉体人間として生きている必要を認められなくなります。悪者をなくそうとすれば、大神様が光一せんすればなくなってしまう、というのでは、その他の人の働き場所がなくなってしまうわけで、人間の世界は、あくまで善悪混交の世界を、善心がますます神のみ心とつながり、強固になって、悪や誤りを是正してゆく、というところに、肉体人間の真の働き甲斐があ
るのであります。神と人間との一体化によっての地球天国の実現こそ真理なのです。その仲立ちとして、先達として昔からの聖者賢者の重要な役割があったわけなのです。イエスはその最も重要なる一人であったのです。イエスという一人の聖者が現われたことにより、ペテロも
ヨハネもトマスもピリポもそして多くの弟子たち信徒たちが、地球人類浄化のために働きつづけてきたのでありまして、こういう働きがあってこそ、地球人類が今日まで滅亡せずに済んでいるのであります。これはあにキリスト教ばかりでなく、仏教にしてもその他の宗教にしても、大きな人類救済の力になっているのであります。
そして今日からの宗教は、真の科学と縦横十字の大調和の姿を示して、地球人類に真の幸福をも
たらすことになるのです。そのためにもイエスや仏陀に対する感謝を私共は忘れてはならぬと思い ます。
平安を汝らに遺す
イエスや釈尊のような、霊覚者にとって、一番説明しにくいことは、神仏そのものの自分というものと聖者としての働き、それに肉体としての自己というものの区分なのであり、その各立場についての話し方なのであります。聖書の中で、イエスは常にこの表現に苦心しているようです。肉体をもった人間にとっては、イエスもやはり肉体人間としてうつります。大聖といわれるインドのヨギたちや、中国や日本の仙人
ばく
と呼ばれる人たちは、肉体人間というより、霊体を主にした人たちで、自分の前に現われた人の魂要素を利して、肉体のような形で現われるに過ぎませんから、そのような人に会った人たちは、その神秘に圧倒されて、この世的な理屈をいう気にはならなくなってしまうのです。
ところが、イエスのように、形の上では、肉体を主にした人間として現われておりますと、如何に神秘力を現わしてみても、やはり肉体人間としてのイエスのイメージは、会っている人たちの脳裡から消え去りません。そこにこの世の人たちを救うことのむずかしさがあるのです。
常に肉体的なイエスをみていますと、どうしても神そのものを、そこにみる気は致しません イ
エスが神秘力を発揮した時には、その神秘力に驚いて、この人は神そのものか、などと思いますが、すぐまた、その気持が奥にひっこんでしまいまして、肉体人間のイエスをその眼にみてしまうわけ
です。そこで、イエスはその説法に非常に苦労するわけです。どうしたら、この人々に神のみ心を
わからせ、そしてイエス自身というものをもわからせることができるか、ということです。
この世の人たちが、霊体が主で、時には肉体に現われ、また忽ち消え去ってしまうような、そう
いふ
した神秘な姿に、畏怖をおぼえ、神の姿を感じるなら、三十歳迄もちゃんとした肉体をもって、消えたり現われたりもしないで、大衆と共にいたイエスのような人を使わずに、霊体を主にした神霊的な聖者による人類救済を、神様はなさったらよいのに、と思うことでしょうが、それではまた、大衆は畏怖のあまり、その大聖や仙人たちに従うことより、その人々の前から逃げ去ろうとしてし

まうのです。ですからこの人類を救済する聖者は、やはり普通人同様の肉体を有ちながら、しかも
大いなる神秘力を発揮し得る人ということになるのです。この世を救うのは、あく迄守護の神霊の
加護深い肉体人間の大聖を中心にした、地球人そのものでなければならないのです。

ここで、ヨハネ伝十四章二二ー十五章一七によって、イエスの言葉を聞いてみましょう。
あらにあらは
イスカリオテならぬユダ言ふ『主よ、何故おのれを我らに顕して、世には顕し給はぬか』イエス答へて言ひ
Q

ニとばナみかを
給ふ『人もし我を愛せば、わが言を守らん、わが父これを愛し、かつ我等その許に来りて往処を之とともに為
ことはことばつかわ
ん。我を愛せぬ者は、わが言を守らず。汝らが聞くところの・
冨は、わが言にあらず、我を遣し給ひし父の言な
たすけぬしつかわ
り。此等のことは我なんぢらと階にありて語りしが、助主、即ちわが名にょりて父の遣したまふ聖霊は、汝ら
よろずのこ
に万の事ををしへ、又すべて我が汝らに言ひしことを思い出さしむべし。われ平安を汝らに遺す。わが平安を
さわがおそぴた
汝らに与ふ。わが与ふるは幽の与ふる如くならず、汝ら心を騒すな、また催るな。「われ往きて汝らに来るなり」と云ひしを汝ら既に聞けり。もし我を愛せぽ父にわが往くを喜ぶべきなり、父は我よりも大なるに因る。
のも
今その事の成らぬ前に、これを汝らに告げたり、事の成らんとき汝らの信ぜんためなり。今より後われ汝らと多く語らじ、この世の君きたる故なり。彼は我に対して何の権もなし、されど斯くなるは、我の、父を愛し父
したがいざ
の命じ給ふところに遵ひて行ふことを世の知らん為なり。起きよ、率ここを去るべし。
ぶどうみのぞ
我は真の萄葡の樹、わが父は農夫なり。おほよそ我にありて果を結ばぬ枝は、父これを除き、果を結ぶもの
だよすできよことばよ
は、いよいよ果を結ばせん為に之を潔めたまふ。汝らは既に潔し、わが語りたる言に因りてなり。我に居れ、
みあたヨたしか
さらば我なんぢらに居らん。枝もし樹に居らずば、自ら果を結ぶこと能はぬごとく、汝らも我に居らずば亦然り。我は萄葡の樹、なんぢらは枝なり。人もし我にをり、我また彼にをらば、多くの果を結ぶべし。汝ら我を
にあた
離るれば、何事をも為し能はず。人もし我に居らずば、枝のごとく外に棄てられて枯る、人々これを集め火に
ことばのぞみしたが
投入れて焼くなり。汝等もし我に居り、わが言なんぢらに居らば、何にても望に随ひて求めよ、然らば成ら

ん、なんぢら多くの果を結ばば、わが父は栄光を受け給ふべし、而して汝等わが弟子とならん。父の我を愛し
いましめ
給ひしごとく、我も汝らを愛したり、わが愛に居れ。なんぢら若し、わが誠命をまもらば、我が愛にをらん。
いオしめをよろこび
我わが父の誠命を守りて、その愛に居るがごとし。我これらの事を語りたるは、我が喜悦の汝らに在り、かつ
ようニび
汝らの喜悦の満されん為なり。わが誠命は是なり、わが汝らを愛せしごとく互に相愛せよ。人その友のために
おのれ
己の生命を棄つる、之より大なる愛はなし。汝らもし我が命ずる事をおこなはば、我が友なり。今よりのち我な
しもへしもべすぺ
んぢらを僕といはず、僕は主人のなす事を知らざるなり。我なんぢらを友と呼べり。我が父に聴きし凡てのことを汝らに知らせたれぽなり。汝ら我を選びしにあらず、我なんぢらを選べり。而して汝らの往きて果を結び、且その果の残らんために、又おほよそ我が名によりて父に求むものを、父の賜はんために汝らを立てたり。これらの事を命ずるは、汝らの互いに相愛せん為なり。 (ヨハネ伝十四章二二ー一五章一七 )
つかわ
この章でも、イエスは「……汝らが聞くところの言は、わが言にあらず、我を遣し給いし父の言なり」といっていまして、神と肉体身との自己をはっきり区別しています。そしてまた、「……此
たナけぬしつかわ
等のことは我なんじらと借にありて語りしが、助主、即ちわが名によりて父の遣したまう聖霊は、 ……」といっていまして、父 (神)と聖霊と肉体の自分というものの三種類の働きが、イエスとい
ことば
う肉体身を通してなされていることを語っています。この言によりますと、イエスは自己の肉体を
うっわ
神や聖霊の働きの場として、器として、はっきり認識していたのでありまして、その事実を弟子たちに語っているわけであります。助主、即ちわが名によりて父の遣わしたもう聖霊は、という言葉は、イエスが弟子たちに自己と
いうもの自己の立場というものを、わかってもらいたい、そして真理を知ってもらいたい、という心が実によく現われております。
肉体をもったイエスという人は、神そのものでもあり、助主として現われた聖霊そのものでもあり、肉体イエスそのものでもあるのですが、人々にはこの真理がわかりません。この真理がわかりませんと、人間が真実の救いを体得することができにくいのであります。人間は肉体にありながら、
わけみたま
分霊としては、神霊の世界におり、本体としては神そのものとして光り輝いているのであることを、
イエスのような霊覚者は皆知っているのです。イエスはその姿を如実に弟子たちに示してみせつ
つ、自己の昇天近きを悟らせようとしていたのです。
「主よ、何故おのれを我らに顕わして、世には顕わし給わぬか」と、イスカリナテのユダでない
ユダがイエスに問います。イエス程の能力の持ち主が何故、社会的な重要な役目につかないのか、
ふしん
という不審をユダはもっていたのです。ところがイエスの答は、「自分は神の許に往くのだから、お前たちが私を愛するならば、私が父 (神)の許に往くのを喜こんでくれるべきだ。何故かというと、父は私より大なるものだからだ、それに私は父の許に往っても往きっきりになっているのではなく、今迄よりもより以上に密接におまえたちと一緒にいるようになるのだ」というのです。そして「神が私を愛して下さるように、私はおまえたちを愛しているから、おまえたちも互いに愛し合
いなさい。友のために己れの生命を棄てる程大なる愛はない。おまえたちが私の命ずることを行な
しもぺ
えば、私はおまえたちを僕といわず、友と呼ぼう。僕は主人のなすことを知らないが、私が父からきいたことを、おまえたちはすべて私からきいているからだ」といって更に友たちが相愛することを念を入れて命じているのです。
イエスとしては、自分がこの世を去った後、霊身として、弟子たちを導くとしても、弟子同志で争ったりしては、神のみ心をこの世にひろめることを阻害してしまいます。そこで互いに相愛することを厳しくいうわけです。それから、もう一つ念を押していることは、「人もし我におり、我また彼におらば、多くの果を結ぶべし。汝ら我を離るれば、何事をも為し能わず」といって、イエス
・キリストと一緒にいるのだという想いをもち、私の語った真理の言葉を人々に語っていれば、おまえたちは多くの成果を得るのだ。そして父 (神)はその栄光を受け給うのだ、と、真理を離れぬように誠しめているのです。イエスにとっては、神のみ心がすべてのすべてであり、この世に在れといえばこの世に在るのだ
し、天にカ還カえれといえば、天に還えるのであります。そして次第に肉体身を離れて神の側近くに還える時期が近づいているわけです。しかしこの世的に考えれば、弟子たちや多くの信徒たちをこの世に残して、自分だけが肉体身を離れてしまうのは、やはり考えさせられる問題です。そこで自分
が肉体身を去った後々のことを細かく弟子や信徒たちに注意しているのであります。細かくといっ
ても、自分はイスカリナテのユダの裏切りによって十字架にかかるなどという、現象的なことをい
うわけではなく、自分のこの世にいなくなった後の心構えを説きつづけるわけなのです。
イエスにとっては、この世の君たる、ローマ皇帝も、ユダヤの総統も問題ではなく、ただ神のみ
がすべてなのです。そのことを弟子たちにも知ってもらいたかったのですが、弟子たちがどこまでイエスの真意がわかったか、弟子たちにとって、肉体身のイエスあっての神なのですから、イエスが如何に抽象的にこの世を去ることを説いても、それが現実的に実現するとは思わなかったに違いありません。
弟子たちにとって、イエスが三十才余でこの世を去るなどとは思ってもいないことで、イエスの説法では、常に精神的なことを説いておられるけれど、やはりこの世的にも重要な地位につかれるだろう、とどうしても思ってしまったことでしょう。ですから、イエスのこの章での説法も、その精神はわかっても、イエスの真意はつかめぬままに、弟子たちは各処に法を説きに出かけていった
のです。弟子や信徒たちにとっては、自分の師は、どこの誰よりも偉い人であってもらいたいし、社会的地位というか、その社会的名声も高い程よいと願うものです。イエスの弟子たちも信徒たちも、イ
エスが真のキリストであり、この世の救世主であってもらいたいので、霊的の救世主ということなど考えられもしなかったのです。
大体救世主というのは、肉体をもって現われるのか、霊身をもって、肉体の指導者を援助して、この世の救済をするのか、イエス時代は、救世主待望時代でしたから、イエスのような偉大な神秘力を現わし得た人を、救世主であり、キリストである、と思ったのは当然でありましたし、イエスはその民衆の要望に霊的にはっきり答を出していたのですが、肉体的な現実問題としては、三十余才でこの世を去ってしまったのですから、ここに救世主としての問題は後に残されるわけです。
天父と助け主
前回でも申しましたように、イエスが昇天する前に、どうしたら弟子たちにイエス・キリストという存在をわからせようか、神と聖霊と自己というもののつながりを、はっきり認識させようかと、種々と言葉をつくしているわけです。次のヨハネ伝十五章十八ー十六章三十三までの文章も、前回と同じように、自己の肉体の死と、助け主や天父について、なんとか弟子たちに納得させようと、言葉をつくして説いているのであります。
しかし、実際にイエスの立場に立たないと、こういう神と人間との奥義の問題はなかなかわかり
にくいものなので、弟子たちも、思い悩んだことでありましょう。
よなんじにくセんじらわれにくおのあい
世もし汝らを憎まば、汝等より先に我を憎みたることを知れ。汝等もし世のものならば、世は己がものを愛
よえらにく
するならん。汝らは世のものならず、我なんぢらを世より選びたり。この故に世は汝らを憎む。わが汝らに
しもべおおいことばせせことぽまも
「僕はその主人より大ならず」と告げし言をおぼえよ。人もし我を責めしならば、汝等をも責め、わが言を守
ニとばこれらわななつかわ
りしならば、汝らの言をも守らん。すべて此等のことを我が名の故に汝らに為さん、それは我を遣し給ひし者
よぴたかたつみよう
を知らぬに因る。われ来りて語らざりしならば、彼ら罪なかりしならん。されど今はその罪いひのがるべき様なし。我をおこな憎にくむものは我が父をも憎むなり。我もし誰もいまだ行はむ事を彼らの中に行はざりしならば、彼ら
さおきて
罪なかりしならん。然れど今ははや我をも我が父をも見たり、また憎みたり。これは彼らの律法に「ひとびと
しることばじようじゆもとつかわたすけロし
故なくして、我を憎めり」と録したる言の成就せん為なり。父の許より我が遣さんとする助主、即ち父より出
しんウみた雲あかしはじめあかし
つる真理の御霊のきたらんとき、我につきて証せん。汝等もまた初より我とともに在りたれば証するなり。我これらの事を語りたるは、汝らのこるしかじよめいづ蹟つぽつかざらん為なり。人なんぢらを除名すべし。然のみならず、汝らを殺
みつかかみつかきたゆえかた
す者みな自ら神に事ふと思ふとき来らん。これらの事をなすは、父と我とを知らぬ故なり。我これらの事を語
かはじやこれらい
りたるは、時いたりて我が斯く言ひしことを汝らの思ひいでん為なり。初より此等のことを言はざりしは、我
ともあゆえつかわしかうちいずこ
なんぢらと借に在りし故なり。今われを遣し給ひし者にゆく、然るに汝らの中、たれも我に「何処にゆく」と
まニと
問ふ老なし。唯これらの事を語りしによりて、憂なうれいんぢらの心にみてり。されど、われ実を汝らに告ぐ、わが
さえきこれなんじつかわよ
去るは汝らの益なり。我さらずば助主なんぢらに来らじ、我ゆかば之を汝らに遣さん。かれ来らんとき世をし
て舞につき・ぎつき・舞につきて、馨るを譲めしめん。署酵きてとは、彼ら我を信ぜぬ爵りてなり・
ぎつよさばきつ
義に就きてとは、われ父にゆき、汝ら今より我を見ぬに因りてなり。審判に就きてとは、此の世の君さばかる
よつことえたみたま
るに因りてなり。我なほ汝らに告ぐべき事あまたあれど、今なんぢら得耐へず。然れど彼すなはち真理の御霊
さとおのれおおよ
きたらん時、なんぢらを導きて真理をことごとく悟らしめん。かれ己より語るにあらず、凡そ聞くところの事
ことしめあらわしめ
を語り、かつ来らんとする事どもを汝らに示さん。彼はわが栄光を顕さん、それは我がものを受けて汝らに示
もしめい
すべければなり。すべて父の有ち給うものは我がものなり、此の故に我がものを受けて汝らに示さんと云へる
しごらしばら
なり。暫くせば汝ら我を見ず、また暫くして我を見るべし』裳に弟子たちのうち或者たがひに言ふ『暫くせば
いか
我を見ず、また暫くして我を見るべし」と言ひ、かつ「父に往くにょりて」と言ひ給へるは、如何なることそ』
またたまと
復いふ『この暫くとは如何なることそ、我等その言ひ給ふところを知らず』イエスその間はんと思へるを知り
たずまこと
て言ひ給ふ『なんぢら「暫くせば我を見ず、また暫くして我を見るべし」と我が言ひしを尋ねあふか。誠にま
つなかなうれさよろこび
ことに汝らに告ぐ、なんぢらは泣き悲しみ、世は喜ばん。汝ら憂ふべし、然れどその憂は喜悦とならん。をん
なくるしみうきいうれ産まんとする時は憂あり、その期いたるに因りてなり。子を産みてのちは苦痛をおぼえず、世に尺の生れたう
よろこびかくうれいさ
る喜悦によりてなり。斯汝らも今は憂あり、然れど我ふたたび汝らを見ん。その時なんぢらの心喜ぶべし、そ
よろこびう匠つ
の喜悦を奪ふ者なし。かの日には汝ら何事をも我に問ふまじ。誠にまことに汝らに告ぐ、汝等のすべて父に求
たま
むる物をば、我が名によりて賜ふべし。なんぢら今までは何をも我が名によりて求めたることなし。求めよ、
さしかよろこび
然らば受けん、而して汝らの喜悦みたさるべし。我これらの妻鷺て語りたりしが、また慧て語らず摩に父のことを汝らに止・ぐると熟らん・その
日には汝等わが名によりて求めん。我は汝らの為に父にい請ふと言はず、父みつから汝らを愛し給へばなり。ニ
いきたよいよ
これ汝等われを愛し、また我の、父より出で来りしことを信じたるに因る。われ父より出でて世にきたれり、
はなゆみあらわいささたとえ
また世を離れて父に往くなり』弟子たち言ふ『視よ、今は明白に語りて柳かも薯をいひ給はず。我ら今なんぢ
とこれ
の知り給はぬ所なく、また人の汝に問ふを待ち給はぬことを知る。之によりて汝の神より出できたり給ひしこ
おのおの
とを信ず』イエス答へ給ふ『なんぢら今、信ずるか。視よ、なんぢら散されて各自おのが処にゆき、我をひとりいまともをいたいないた遺のこすとき到らん、否すでに到れり。然れど我ひとり居るにあらず、父われと借に在すなり。此等のことを汝
なやゐ
らに語りたるは、汝ら我に在りて平安を得んが為なり。なんぢら世にありては患難あり、然れど雄々しかれ。我すでに世に勝れり』 (ヨハネ伝十五章十八 -十六章三三 )
この言葉は、イエス・キリストを信じきっている重要な弟子たちにいっている言葉でありましょう。現代の現世利益本位の宗教ならば、自分を信じ、神を信じていれば、よいことばかりが、自分に現われてくる、というようにいうところでしょうが、イエスのこの章の言葉は実に厳しい、弟子たちにとって肌寒くなるような言葉です。
「世もし汝らを憎まば、汝等より先に我を憎みたることを知れ。汝等もし世のものならば、世は己がものを愛するならん。汝らは世のものならず、我なんぢらを世より選びたり。この故に世は汝らを憎む。 ……」とか、「……人なんぢらを除名すべし。然のみならず、汝らを殺す者みな自ら神
472

つか
に事ふと思ふとき来らん。 ……」
こうしよう
などといっております。世というのは、この世のことで、この世は業生の世界でありまして、イエス・キリストの放つ、真理の光明に明らさまに照らされることを恐れ嫌っております。「おまえ
こうしよう
たちも、私に選ばれて、もはや業生の世界、即ち世のものではなくなっている。だから、世のものたちから憎まれ嫌われる。それどころではない、人々はこの世からおまえたちを除名し、おまえたちを殺すことによって、自分たちが神につかえていると錯覚する時もやがてくるのだ」とイエスはいっているのです。
イエスを信じ、神を信ずることが、自分たちの肉体生存の危機になってくる、ということは、現代のご利益信仰の人たちにとっては身震いのでる程、恐ろしいことで、そんな危険な道なら、私は絶対に通りませんと、大半の人がその信仰をぬけてゆくことでありましょう。
イエスの弟子たちも、入信のはじめには、この世での開運を願って、イエスに従っていたのでありますが、イエスと行を共にし、その説法が身に沁みてくるにしたがって、真理が次第にわかってきまして、いつの間にか、現世利益の想いが薄らいでしまっていたのです。そういう弟子たちが、
めい
イエスの命によって、諸方に説法に廻ることになっているのでありますが、イエスと共に迫害を受けるのならどうにでも耐えられるが、もしイエスが自分たちと共にいないとしたら、と思うと、今後の自分たちの運命を思いやって心寒い想いがするのです。ただ、イエスの言葉が決定的な死を意
味しているものとは、弟子たちは聞いていないのでありまして、自分たちのいる場所から、天の父
のところに帰える、ということの意味が、わかったようでわからないが、しかし、イエスの話ぶり
で、何か師との別離になることは、どうも決定的なような気がしてきていたのです。
「今われを遣わし給いし者にゆく、然るに汝らの中、たれも我に『何処にゆく』と問う者なし。唯これらの事を語りしによりて、憂なんじらの心にみてり ……」というイエスの言葉によって、弟子たちにとって、イエスとの別離がどのようにして行なわれるのか判然としていないのが、よくわかります。はっきりはしていないが、そのことを問い正すのが恐ろしいので、弟子たちは、イエスにむかって「何処にゆく」と問うことを躊躇してしまったのです。
この章で一番肝腎なところは、「わが去るは汝らの益なり。我さらずば勝葺魁んじらに来らじ、我ゆかば之を汝らに遣さん ……」という一節です。弟子や信者たちにとっては、イエス・キリストという肉体身をもった人が、救世主であり、助け主でもある筈なので、他に救世主や助け主があろ
うとは思、兄ないのです。それを、その肝腎の師が、自分が去ることによって、助け主がおまえたちのところにくるのだ、というのですから、まるでその意味がわからないのです。もっとも前の言葉の中に「父の許より我が遣さんとする助主、即ち父より出ずる真理の御霊のきたらんとき ……」とい
うのがありますが、これでも弟子たちには、やはりはっきりイエスの真意が呑みこめぬことでありましょう。弟子や信者たちにとっては、イエスという肉体身こそ唯一の救世主であり、助け主であったからです。
ここでキリスト教の片寄った考えの人々に一言申しておきたいことは、イエスという三十余才の肉体身をもった人が唯一の救世主だということには、各宗教宗派の人々には、かならず異論があると思います。これをもう一つ広げて、肉体身、霊身を一つにした、イエス・キリストを唯一の救世主とすることも、他宗教の人々には肯定でき得ぬものがあると思います。そこで、イエス・キリス
トは救世主の一人であったということで、他宗教の助け主をも認めなげれば、天の父の意志にそわないものと思うのです。
天父というのは、 .キリスト教的にいえば、エホバ或いはエロヒム、神道でいえば天御中主大神、仏教でいえば、法身仏であるわけで、回教にしても、ヒソズ !教にしても、その中心の神は天父であるわけです。そして、この世の肉体身として現われて、人類救済の大業を担っていった人は、みな菩薩であり、救世主の器であるわけです。しかし、釈尊のように、イエスのように、分霊の肉体身と、神霊そのものの本体とが全く一つになり得た人は、例え肉体身が若くして死のうと、その身そのままが救世主でもあったわけなのです。
イエスの肉体は三十余才で死にますが、その本体からきている霊身の光明波動が、イエス・キリ
ストとして弟子たちに働きかけ、今日もなお人類救済のために働きつづけておられるのです。釈尊とても同じことです。
そういう神の仕組みを果すためにも、イエスという肉体身は、人類の原罪を背負う大犠牲を果して、若くして昇天することになっていたのであります。イエスという肉体が昇天しなくては、弟子や信者たちに、真の人類救済活動をさせる不動の信を培わつちかせることができなかったわけなのです。神様の仕組みは肉体の人間にはなかなかわかりにくくなっておりまして、肉体的には不合理と思われることも随分と出てまいります。旧約聖書にあるエレミヤの悲劇などはもっとも神の現われ方の肉体側からみた、不合理ということになりましょう。しかし、永い深い眼でみますれば、神の仕組
みには一分一厘の不合理もなく、大宇宙の調和の一環として、地球人類の進化促進をすすめておら
れるのであります。数々の不合理とみえる肉体上の現象もすべて、地球人類のより高く、より深き真人としての進化のための、調整としての現われなのであります。
私はそれを、やさしく簡単に過去世の因縁の消えてゆく姿であり、消えてゆくに従って、本来の神の子の姿が、地球上に現わされてくるのである、といっているのです。イエスがこの原理を弟子
へだた
たちにわからせるためには、種々と苦心されたのですが、イエスと弟子たちの悟りの距りがあり過
ぎて、その一端だけしか話し得なかったのであります。しかし、イエスの昇天後、弟子たちは、イ
エスのいった助け主のことも、天父と助け主とイエスのつながりのことも次第にはっきりわかの、て
いったのでした。

最後の祈り
栄光の祈り
イエスの最も偉大なところは、天の父と全く一つになりきっていたことであります。天の父を太陽とするならば、イエスはその光線として、天の父のみ心をそのままこの地上界にうつし出していたといえるのです。
そのイエスが、いよいよ地上界の役目を果して、今度は天上界から、地上の弟子たちや信徒たちに対して、力を与えつづけることになるのですが、そのイエスの訣別の祈りともいえる、栄光のための祈りを、ヨハネ伝十七章一ー五節によって掲げましょう。
イエスこれらの事を語りはて、目を挙げ天を仰ぎて言ひ給ふ。『父よ、時来れり、子が汝の栄光を顕さんために、汝の子の栄光を顕したまへ。汝より賜はりし凡ての者
に・叢の蕃を与へしめんとて・万民を治むる蔑を子に賜ひたればなり。蓬の生命は、唯一の募神に
わざ
在す汝と汝の遣し給ひしイエス・キリストとを知るにあり。我に成さしめんとて汝の賜ひし業を成し遂げて、我は地上の汝の栄光をあらはせり。父よ、まだ世のあらぬ前にわが汝と借にもちたりし栄光をもて、今御前にて我に栄光あらしめたまへ。』 (ヨハネ伝十七章一-五)
霊的な現象をあまり知っていない人は、祈りについても、どうも祈りがきかれるのかきかれないのかもわからないし、自分の祈りが果して神様にとどくものなのか、などと考えたりします。祈りは必ずきかれるものであり、人が祈っている時は必ず神々は祈っている人の上にきていることは間

違いのないことです。それは私の経験からしてはっきり申し上げられます。イエスが「目を挙げ天を仰ぎて言ひ給ふ」とありますが、正に神々と語る時にはうつ向いて語ることなどはありません。常に天を仰いで語る姿勢にあります。私が神々と申しますのは、神とは、宇宙神 (天父 )ばかりではございませんで、守護天使の方々が多数いらっしゃり、その祈りの深さや浅さ、その態度等々に応じて、それに適当した神々天使が現われ給うのであります。
イエスにも必ず天父がそのまま現われてこられると限られてはおりません。天使ガブリエルや、・、カエル、時にはアブラハムやモーセ等が現われて語り給う時があります。私なども無心の統一をするのですが、その時々で出現なさる神々は異ことなることがあります。中心の大神様は勿論天父であっ
ても、その役目の神様が、その時々の祈りに応えて現われられるのです。この訣別の祈りには、天父がはっきり現われていたのでありましょう。聖書はイエスの昇天の後
ほんやく
になって、弟子たちが書いたものでありますし、また原典を種々各国語に翻訳してもありますので、文章自体にもって廻ったいいまわしが多くて、わかりにくいところが随分とあります。この文章でもどうとってよいかわからぬようなところもあります。
しかし、要約して申しますと、
「いよいよ自分も昇天する時が近づいたようです。どうぞ最後まであなたの栄光を顕わさせ給え。あなたはすべての者に永遠の生命を与え、私にその永遠の生命を知らせる権威をおあたえ下さいました。永遠の生命を知るには、唯一の真の神におわすあなたと、あなたの遣わし給いし、イエ
わざ
ス・キリストを知るにあります。私はあなたから賜わった業を成し遂げて、この地上に、あなたの栄光をあらわして来ました。父よ、まだこの地上が現われぬ以前から、あなたと借にもっていた栄光をそのまま現わしていて下さい」こういう意味の祈りの言葉です。この言葉は人間が自分の生みの父を眼の前にして話しかけていると同じように、イエスにとっての生みの父である天父と話しあっているわけなのです。しかし敬
震な心で祈っているわけです。人間というものは、その心も肉体も波動でできているのであります。心は微妙な波動、肉体は粗
い波動と簡単に申しておきましょう。科学的にくわしく説きますと、非常にむずかしくなりますので、この文章では、そこまでふれませんが、人間が物質的な固体であると思っていては、とてもイエスの心の状態がわかりようがありません。同じ心でもイエスの心は非常に微妙な波動で、神のみ
心の一番深いところにありますし、肉体も普通人よりもはるかに微妙な波動で、霊波動に近いものでした。ですから、天父や天使たちとは、肉体に生活しながらも、全く一つ場所にいるように交流ができたのであります。
弟子のための祈り

では次に、弟子のための祈りをヨハネ伝十七章六 一九によって掲せてみます。
うちたユみなもの
世の中より我に賜ひし人々に我、御名をあらはせり。彼らは汝の有なるを我に賜へり、而して彼らは汝の言を守りたり。今かれらは、凡て我に賜ひしものの汝より出つるを知る。我は我に賜ひし言を彼らに与へ、彼らは之を受け、わが汝より出でたるを真に知り、なんちの我を遣し給ひしことを信じたるなり。我かれらの為に願ふ、わが願ふは世のためにあらず、汝の我に賜ひたる者のためなり、彼らは即ち汝のものなり。我がものは
i

もの
皆なんちの有、なんちの有は我がものなり、我かれらより栄光を受けたり。今より我は世に居らず、彼らは世に居り、我は汝にゆく、聖なる父よ、我に賜ひたる汝の御名の中に彼らを守りたまへ。これ我等のごとく、彼らの一つとならん為なり。我かれらと借にをる間、われに賜ひたる汝の御名の中に彼らを守り、かつ保護したり。其のうち一人だに亡びず、ただ亡の子のみ亡びたり、聖書の成就せん為なり。今は我なんぢに往く、而し
よろこび
て此等のことを世に在りて語るは、我が喜悦を彼らに全からしめん為なり。我は御言を彼らに与へたり、而して世は彼らを憎めり、我の世のものならぬごとく、彼らも世のものならぬに因りてなり。わが願ふは、彼らを
オねが
世より取り給はんことならず、悪より免らせ給はんことなり。我の世のものならぬ如く、彼らも世のものならず。こと真ぽ理にて彼らを潔め別ちたまへ、汝の御言は真理なり。汝われを世に遣し給ひし如く、我も彼らを世に遣せり。また彼等のために我は己を潔めわかつ、これ真理にて彼らも潔め別たれん為なり。 (ヨハネ伝十七章六ー一九 )
これはこの言葉のままでよくわかると思います。
「この世の中から、神がキリストの働きのために自分に下さった人々、即ち弟子たちを、自分はあなたの御名の中にて守り、保護してきました。聖書の成就するため (旧約の予言の成就のため )亡びの子のみ亡び、後は一人だにも亡びませんでした。私はあなたが私を世に遣わしたように、彼
もと
らを神のみ心を世に知らせるために遣わしました。私があなたのみ下に還った後は、どうぞ、私に賜わったあなたのみ名の中に彼らを守ってやって下さい。私がこの世のものでなかったように、弟
482

子たちもこの世のものではありません。私のお願いすることは、彼らを悪より免らせ給えというこ
とです。私が真理で潔まっていたのは、彼らをも真理でこの世の悪に染めないように、地にありな
がら天の存在としたかったからです」
とこういうことを、イエスは弟子のために天父にお願いしていたのです。イエスとしては、自分が肉体界にいて、弟子たちを指導しながら、神のみ心を世の人々に説きつづけたかったことでしょうが、自分の運命は、世の人の原罪を背負って昇天してゆくことに定まっていますので、それももう近い日に実現するのですから、肉体界に自分のいない後々の弟子の加護を天父にお願いしておきたかったのです。
イエスの役目は、神の真理の道をこの世に貫き通すことにあったのでしょう。そして人類の原罪
を背負って昇天してゆくわけなのです。その後は弟子たちがこの世にその道を広めてゆくというこ
とになるわけです。イエスは正に真理 (キリスト )であったのです。
イエスは昇天後、イエス・キリストのみ名を呼ぶ者のところに必ず現われて、彼らを守護しつづ
けているのでありますし、世界平和のためにも天界から常に働きかけつづけているのであります。
肉体身というのは全く仮の姿でありまして、この地球界の進化のために、より進化を遂げた聖霊
方が、キリストとなり、各聖賢となって働きかけてこられているわけで、イエスにとっては肉体界を離れることそのものには、なんの執着もないのでありますが、ただ弟子たちや信者たちの、迷い
の道に入らぬことのみを気にかけていたのであります。次には一般信徒のための祈りを掲げましょ
う。
一般信徒のための祈り
我かれらの為のみならず、その言によりて我を信ずる者のためにも願ふ。これ皆一つとならん為なり。父よ、なんぢ我に在し、我なんぢに居るごとく、彼らも我らに居らん為なり、是なんちの我を遣し給ひしことを世の信ぜん為なり。我は汝の我に賜ひし栄光を彼らに与へたり、是われらの一つなる如く、彼らも一つとならん為なり、即ち我かれらに居り、汝われに在し、彼ら一つとなりて全くせられん為なり、是なんちの我を遣し給ひしことと、我を愛し給ふごとく彼等をも愛し給ふこととを、世の知らん為なり。父よ、望むらくは、我に
さき
賜ひたる人々の我が居るところに我と借にをり、世の創にじめの前より我を愛し給ひしによりて、汝の我に賜ひたる我が栄光を見んことを。正しき父よ、げに世は汝を知らず、然れど我は汝を知り、この者どもも汝の我を遣し
また
給ひしことを知れり。われ御名を彼らに知らしめたり、復これを知らしめん。これ我を愛し給ひたる愛の、彼らに在りて、我も彼らに居らん為なり。 (ヨハネ伝十七章二〇ー二六 )
イエスは天父に願いつづけます。「私は弟子たちだけのためではなく、自分を信じるすべての者のためにお願いするのです。すべての者が、あなたと一つにならんためです。それはあなたと私が
一体でありますように、私と信者たちが一体になるためです。私はあなたから与えられた栄光を彼らに与えました。これは神であるあなたが、私を愛されたように、彼らをも愛し給うておられることを、すべての人々に知ってもらいたいからです」
というように、神の愛を彼の信者に知らせ、そして世の中のすべての人々に神が愛であることを
知らせたい、と願う祈りなのであります。ここで、一つ申し上げたいことは、「世の創はじめの前より我を愛し給いしにより」ということです。これは、この地球界がまだできていなかった以前から、私は神と一つになっていた、神に愛されていた、ということでありまして、イエスは勿論、人類は、この地球界の生れぬ前から存在していたのである、ということなのです。
この聖書講義をお読みになっておられる方は当然わかっておられるでしょうが、肉体が誕生してから精神が生れるのではなくて、精霊が先に存在して、そこから様々な人類が生れ出でたのであります。個人の存在にしても、はじめに霊の世界が生れ、そして各星々に、様々な体を纒って誕生したのであり、地球には物質体である肉体を纒った人間として生れてきたわけなので、神霊の世界から肉体の世界までは、多くの階層があり、それぞれその波動が異なっているのであります。同じ肉体のようにみえる人間同志でも、その波動体は同じ階層にあるわけではないのです。
肉体身が常に想念を占有していて、少しも高い次元の世界に想いを向けられぬような物質主義的
な人々の波動は低い粗雑な波動でありまして、この世を去る時の苦しみは非常なものなのです。こ
の世を去った後の霊魂の苦しみも大変なものであるのは当然なことです。何故ならば微妙な浄まった霊波動になれていない霊魂にとって、そういう波になれきるまでは非常に困難がともなうわけなのです。
イエスのように、その肉体波動が霊波動に近い、常に神と一体の想念になっている人にとっては、肉体の死などはなんでもないことなのです。死を恐れぬためには、常に神のほうに想いをむけていることが大事なのです。神のほうに想いを向けていることが、すなわち祈りなのです。ですから常
に神のほうに想いを向け、感謝を捧げつつ、すべての人々の平安を祈りつづけて生きてゆくことが、人間にとっては大事なのです。それを私は世界平和の祈りとして宣布しているのです。イエスの祈りは今もずっとつづいているのでありまして、地球世界が完全平和に達するまで、イエス・キリストの働きは、仏陀と共に、世界中において行なわれておるのであります。
ゲッセマネの祈り
今回は有名なゲッセマネの祈りについて書いてみたいと思います。十字架上の最後の日が近づくにつれて、イエスの心境もなみなみならぬものであったでしょう。察するにあまりあります。


イエスは正に悲劇の聖者であり、大犠牲者であります。古来からの世界の聖者たちは大方、様々の苦難の生活をつづけてまいりました。日本の法然や親鸞や日蓮にしても、流刑に処せられており
ますし、惚鵬和尚などは猛火の中で死んでおりますが、いずれもイエスほどにそこに悲しみという
ものを感じさせません。それはどういうことなのでしょう。マタイ伝二十六章三〇 1四六によって
解説しながら、その意味を説明いたしてまいりましょう。
彼ら讃美を歌ひてい後のちオリブ山に出でゆく。ここにイエス弟子たちに言ひ給ふ『ニ今い宵なんぢら皆われに就きてよ鷲がん「われ脚調潔を打たん・さらぽ謙の羊散るべし」と鍬されたるなり。されど我よみがへりて後、なんぢ
たといつまづ
らに先立ちてガリラヤに往かん』ペテロ答へて言ふ『仮令みな汝に就きて蹟くとも我はいつまでも頭かじ』イエス言ひ給ふ『まことに汝に告ぐ、いなよい今ニ宵、鶏鳴く前に、なんぢ三たび我を否むべし』ベテロ言ふ『我なんぢと
いな
共に死ぬべき事ありとも汝を否まず』弟子たち皆かく言へり。愛ここにイエス彼らと共にゲッセマネといふ処にいたりて、弟子たちに言ひ給ふ『わが彼かしこ処にゆきて祈る間、なんぢら蛯処に坐せよ』欺てペテロとゼベダイの子二人とを伴ひゆき、憂ひ悲しみ貯でて言ひ給ふ『わが心いたく
ひれみ
憂ひて死ぬばかりなり。汝ら此処に止まりて我と共に目を覚しをれ』少し進みゆきて、平伏し祈りて言ひ給ふ
さかづきここるままみニころ
『わが父よ、もし得べくば此の酒杯を我より過ぎ去らせ給へ。されど我が意の儘にとにはあらず、御意のままに為ニし給へ』弟子たちの許もとにきたり、その眠れるを見てペテロに言ひ給ふ『なんぢら斯く一時ひととなも我と共に目を覚
オどわしげあたたび
し居ること能はぬか。誘惑に陥らぬやう目を覚し、かつ祈れ。実に心は熱すれども肉体よわきなり』また二度ゆき祈りて言ひ給ふ『わが父よ、この酒杯もし我飲までは過ぎ去りがたくば、御意みこころのままに成し給へ』復きたりて彼らの眠れるを見たまふ、是その目疲れたるなり。また離れゆきて三たび同じ言にて祈り給ふ。而して弟
もとわた
子たちの許に来りて言ひ給ふ『今は眠りて休め。視よ、時近づけり、人の子は罪人らの手に付さるるなり。起きよ、我ら往くべし。視よ、我を売るもの近づけり』 (マタイ伝二十六章三〇ー四六 )
ゲッセマネの祈りは、イエスにとって悲哀に充ちた祈りです。「わが心いたく憂いて死ぬばかりなり。汝ら此処に止まりて我と共に目を覚しおれ」と弟子たちにいって、平伏して祈られたのです
さかづき
し、しかもその祈り言葉は「わが父よ、もし得べくは (願わくば )この酒杯 (十字架上の死 )を我
こころままみこころ
より過ぎ去らせ給え。されど我が意の儘にとにはあらず、御意のままに為し給え」と三度びも同じ言葉で祈っております。そしてたびたび弟子たちのところへ行って、弟子たちが眠っているのをみて、自分とともに祈りつづけていないのを、なげかれています。
イエスほどの大聖が何故このように、自己の最後の時を恐れているようにみえるのか、という疑
きぜん
問が、死を前に毅然としていた幾多の聖者の態度を聞き知っている人々は思うことでありましょう。確かに禅坊主などの死を少しも恐れぬ態度を本などで読んで知っている人たちには、イエスのこのゲヅセマネの祈りの態度は、この仏教の聖者たちに劣るように思われるのも無理ないことです。
ここで考えられることは、聖者の中にも二つの形があることです。一つは仏教の聖道門の聖者や
488

ヨガの行者にあるような、自己の内面を深く掘り下げていって、ついに自己の本心を開発した、いわゆる大悟した人々と、生まれた時から或いは幼少から、守護の神霊や天使と一つになっていて、守護の神霊や天使のみ心のままに肉体人間のほうがその天命達成のために動かされている、いわゆる生まれながらの天使というか菩薩というか、そういう形があるのです。
後者のほうでも勿論様々の修業もあり、内部開発もあるのですが、主体が天つまり神霊の世界の
ほうにあるので、肉体のほうは、神霊の世界で創りあげられている地球世界の未来像実現のために、神霊のみ心のままに働く、ということになっているのです。イエスはこの後者のほうの大聖でありまして、イエスという肉体はこの世にキリストのみ心を実現するために、仮りに姿を現わしたに過
ぎないのです。
ですから前者は、自己完成を主として、自己完成にしたがって、人々に善い影響を与えてゆくという聖者であり、後者は、神霊の世界で仕組まれた地球人類完成のための天命達成が主となって、その働きとともに肉体の自己完成がなされてゆくのでありまして、あくまで、神霊の地球世界への働きかけが主となっているのであります。
イエスの場合は、そういうわけで、イエスという肉体身の生活とか立場とかは、あくまで従でありまして、神界の地球世界に対する仕組を実現することが主なのですから、イエスという肉体をこ
の世に現わしておく必要がもうこれ以上はなし、と神界で認めれば、イエスという肉体や、その周囲の人々の想いなどは問題外となるのであります。ちょっと考えると神の非情という風にも考えられる在り方でありますが、人間は肉体ではなく、霊なる者である、という原理原則からすれば、勿論非情でもなんでもなくなるわけです。
イエスはこの時三十才余です。普通の世界ではまだ社会人としてやりと一人前になったばかりの年令です。神霊の世界に長く住みついていて、やっと地球世界の肉体波動になれてきたばかりのと
ころですし、弟子たちの働きのためにも信者たちのためにも肉体身としてもう暫くは、この地球世
界で働きつづけてゆきたい、と願うのは肉体身の側からみれば当然なことです。
みこころ
それが絶対変えられぬ御心ならもう致し方はないけれど、自分として願わくば、もう少しこの世
に止まって働きたい、と願うのは、死を恐れるというより、折角開発してきた働きの場を肉体身と
して離れたくない、という想いが強いのです。無理のないところです。しかも是非ぜひそうして下さいというのではなく、御心がゆるすならばと謙虚な気持でイエズは祈っているのであります。
ゲッセマネというのは、オリーブ山の西の麓にある油しぼりという意味の名のところで、オリーブ園です。そこに連れていったのは、イエスが最も愛し信頼していた、ペテロとヤコブとヨハネの
三人です。最も自分のことをよく知っている愛し信頼しているこの三人の弟子たちでも、自分のこ の苦悩を分ち得ないで、肉体の疲れに負けて寝入ってしまったので、イエスは実に情けない想いであったでしょう。自分はお前たちや信者たちのためにも、この世にもっと長く存在していたいと思
って、神に祈りを捧げているのに、という気持があったように、聖書の言葉から感じられます。心は熱すれど肉体は弱きなりとか、その眼疲れたるなり、とかいって、そういう想いを打ち消して、弟子を許しているのです。
イエスほどの大聖が、普通人のように、いたずらに死を恐れるわけがありません。たとえその死が、十字架上のはりつけという、むごたらしい死であっても、死を迎えるということだけで、わが心憂いて死ぬばかりなり、というような泣き言に聞えることをいわれるとは思えません。『今宵なんじら皆われに就きて漿ん・「われ讐潔 (イ貢 )を打たん、さらば群の羊 (弟子たち )散るべし」と (ユダヤ教典 )に録されるなり。されど我よみがえりて後、なんじらに先立ちてガリラヤに往かん』とイエスはペテ・にいっておりますし、「……視よ、時近づけり、人の子は
わた
罪人らの手に付さるるなり、我ら往くべし、視よ、我を売るもの近づけり」といっておりますので、
自己に今後起ることははっきりと知っていたわけで、すでに早くから覚悟は定まっていたに違いあ
りません。しかしただ、願わくばもう少し肉体界にいたままで、神のみ心を広めてゆきたい、と思
ったことは事実でしょう。
イエスのように未来のことがわかったり、人々の心を感じ取ったりできる人は、非常に敏感な肉体波動の持ち主なので、弟子や信者たちの想念波動をもろに感じ取ることができます。
この日頃、主イエスが時折り自分たちを離れて天の父の下に還えってしまう、というようなことをいっておられるし、その態度の節々に自分たちとの別れを告げているように感じられるので、弟子や信者たちの心は哀しみに充ちておりまして、主イエスを自分たちの側にひき止めておきたいという願いが強烈になっております。
オリーブ山にいた三人の弟子は勿論、遠く離れていた弟子や信者たちの想念の波が、イエスのような敏感な心に感じてこないはずがありません。そういう弟子や信者たちの悲哀の想念が、イエス個人としては、まだ肉体世界で働いていたいという、この世への愛のための執着というようなちょ
っとした想念に感応してきて、わが心いたく憂いて死ぬばかりなり、というような感情になって現われたのであります。衆生病むが故に我れ病む、というようなことと同じ状態であります。
こういうことは、自分にその経験の無い人にはわかりにくいことですが、人の感情や人の痛みを我がことのように感じる、生まれながらの菩薩的心身を持っている人が、現在でも随分といるのであります。私なども、人の悲しみを自分の悲しみと感じ、人の喜びを我が喜びと切実に感じる身心
を持っていますので、イエスさんの心の状態がよくわかります。


ですから、自己の悟りを主にして生きてきた仏教の聖者たちと、イエスのように生まれながら守
護の神霊との一体化によって、この地球人類の救済を主として働いている者との相違があるのです。
それはどちらがよいとか悪いとかの問題ではなく、過去世からのいきさつで、各自がそういう立場
に置かれるのであります。
しかし、やがてはどちらからいっても、神のみ心の中に入りこんでしまうので、人間は神の子で
あり、神そのものでもある。仏教的にいえば、仏子でもあり、仏そのものであるということになる
のです。
釈尊にしても、イエスにしても、過去世からの聖者でありますが、何度びとなく聖者に生れ出ま
しても、肉体界においては、やはり、それぞれの身心の苦難を経て、改めて、自己の仏性や神性を
自覚するのでありますので、過去世が善いからといわれても、怠けてなどいられるものではありま
せん。
この地球界に肉体人間と生まれている以上は、この世の波と同調しながら、しかも、神性や仏性
こころざ
を現わして、世の人々を浄めてゆかねばならぬのですから、道に志す人は、あらゆる人々の善悪の
行為をすべて、自己の磨きの材料として、少しでも自己の本心を大きく開き、この地球世界救済の
ために働き得るようにしてゆかねばならぬのです。私どもはその最もやさしい方法として、たゆみ
493最後の祈り
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なき守護の神霊への感謝と消えてゆく姿で世界平和の祈りという生き方を人々に行じてもらおうと
思っているのであります。
それにしても、常に古代からの聖者たちへの感謝をかかすことはできません。特に釈尊やイエス
のような大聖への感謝は忘れてはならぬものです。私など常にこれらの大聖を身近に感じて、少し
でもこの世のためにそしてあの世のために働きつづけたいと祈りつづけているものなのです。
494
———————[End of Page 2]———————

エス捕わる
イエスの最後の時が刻々と近づいて、言葉にて神のみ心を語る時間が無くなってきました。イエ
スの心は次第に、弟子や信者たちの悲哀の波を浄め去ってゆきました。イエスがキリストの本性を
はっきり現わす時が、いよいよくるのです。イエスの霊眼には、もうすでにユダに案内されて、イ
エスを捕えんと近づきつつある、祭司長や役人の姿がはっきり観えているのです。
しかし、イエスの心はいささかも乱れてはいません。様々の迷いの想いをはらい浄めた後の澄み
切った心境で、イエスは時のくるのを待ちながら、弟子や信者たちに語りつづけていたのでありま
した。
くちづけ
なほ語りゐ給ふとき、視よ、群衆あらはれ、十二の一人なるユダ先だち来り、イエスに接吻せんと近寄りた
みそば
れば、イエろ言ひ給ふ『ユダ、なんぢは接吻をもて人の子を売るか』御側に居る老ども事の及ばんとするを見
つるぎううちしもぺ
て言ふ『主よ、われら剣をもて撃つべきか』その中の一人、大祭司の僕を撃ちて、右の耳を切り落せり。イエ
495イエス捕わる
———————[End of Page 3]———————
ニれしかしもぺいやおりれさいし
縁卜質.言.ひたまふ『之にてゆるせ』而して僕の耳に手をつけて医し給ふ.かくて己に向ひて来れる祭司長.姻
宮守頭・長老らに言ひ給ふ『なんぢら強盗に向ふごとく剣と棒とを持ちて出できたるか。我は日々なんぢらと
さくらき
共に宮に居りしに、我が上に手を伸べざりき。然れど今は汝らの時、また暗黒の権威なり』
遂に人々イエスを捕へて、大祭司の家に曳きゆく、ペテロ遠く離れて従ふ。人人、中庭のうちに火を焚き
もろともにしため
て、諸共に坐したれば、ペテロもその中に坐す。或る碑女ペテロの火の光を受けて坐し居るを見、これに目を
そモともうけが
注ぎて言ふ『この人も彼と借にゐたり』ペテロ肯はずして言ふ『をんなよ、我は彼を知らず』暫くして他の老
ともがらひととき
ペテロを見て言ふ『なんぢも彼の党与なり』ペテロ言ふ『人よ、然らず』一時ばかりして又ほかの男、言ひ張
ニれびと
りて言ふ『まさしく此の人も彼とともに在りき、是ガリラヤ人なり』ペテロ言ふ『人よ、我なんちの言ふこと
やがムりかへ
を知らず』なほ言ひ終へぬに頓て鶏鳴きぬ。主、振反りてペテロに目をとめ給ふ。ここにペテロ主の『今日に
はとり鳴く前に、なんぢ墾魔われを盈まん』と言ひ給ひし概謙を胤ひ炉だし、外に出でて懲く泣けり。守る老
ちようろうおお
どもイエスを嘲弄し、之を打ち、その目を蔽ひ問ひて言ふ『預言せよ、汝を撃ちし者は誰なるか』この他な.ほ
そし
多くのことを言ひて、識れり。
たみ

夜明になりて民の長老・祭司長・学者ら相集り、イエスをその議会に曳き出して言ふ、『なんぢ若しキリス
トならば、我らに言へ』イエス言ひ給ふ『われ言ふとも汝ら信ぜじ、又われ問ふとも汝ら答へじ。然れど人の
ちから
子は今よりのち神の能力の右に坐せん』皆いふ『されば汝は神の子なるか』答へ給ふ『なんぢらの言ふごとく
みつか
我はそれなり』彼ら言ふ『何ぞなほ他に証拠を求めんや。我ら自らその口より聞けり』
(ルカ伝二二章四七ー七一)
———————[End of Page 4]———————
自分が手塩にかけて育成してぎた愛弟子であるユダが、師である自分を捕える手先となってきた
のですから、普通の人ですと、怒り心頭に発して、手足を震わせ大声で、怒鳴りつけるところでし
ょうが、イエスは前々からそうなることを承知していますから、物静かな調子で「ユダ、なんぢは
接吻をもて人の子を売るか」といったわけです。
ユダにしてみれば、前にも申しあげましたように、イエスが救世主キリストであり、大奇蹟を現
わし得ることのできる神の使であることを、幾多の実証によって信じきっておりますので、その大
奇蹟、つまり、いかなる軍勢が攻め寄せてきても、主キリストの力の前には、一度に屈伏してしま
う、という現実を期待して、胸震わせながら、祭司長や役人の手引をしてきたので、主を裏切ると
いう気持ではなかったのです。主イエスがどこまで大きな力を持っているかを確かめてみたかった
のが、ユダの裏切りというような行為になってきたので、その点、ユダの好奇心がサタンの波のよ
い餌になってしまったわけです。しかし、そのことも神のみ心の現われであり、ユダヤ教の予言を
現実化して、キリストの教えを広めるための一大布石であったのでしょう。イエスの悲劇的大犠牲
がなければ、今日のようにキリスト教が世界中に広まっていなかったかも知れませんし、また、イ
エスがキリストに成り切って、神霊の世界から弟子たちに働きかけることもできなかったと思いま
す。
497イエス捕わる
———————[End of Page 5]———————
そういうところから考えますと、ユダも犠牲者の一人であったのです。すべてはユダの期待した
通りにはならずに、イエスは役人に捕えられてしまうのですし、後にはみじめな格好で十字架を背
負わされ、刑場まで歩かされてゆくのですから、ユダの夢はずたずたに切り裂かれ、はじめて、自
分が主イエスを裏切り、役人に売り渡した行為をしたことを是認せざるを得なくなったのです。イ
エスが救世主キリストとしての大能力を発揮しなかった落胆と共に、主を売った自己の行為が、大
悪人の行為として、自己の心を責めさいなみ、遂いには、狂気のように罪をわびながら、井戸に身
を投げて死んでしまうのであります。
こうしたユダのような人が、宗教信仰者の中には随分と多いのでありまして、常に師である人の
一挙手一投足に想いを動かし、自分自らが創り出した師の幻影の中で、自己の信仰心を培っている
のであります。そして師の行為が、自己の幻影と相違してくると、師に対する信仰心が揺らいでく
るのです。これは宗教信仰者としては、困った態度なのです。何故かと申しますと、宗教信仰とは、
神のみ心とはいかなるものであり、神と人間とが一つになるにはどうしたらよいか、神のみ心の真
理を人間が現象界において現わしてゆくのにはどうすればよいか、という神我一体になる道を教わ
り、その道を信じ仰ぎ、信じ行うものであります。
ですから、その道を伝えることが天命であり、弟子や信徒たちは、師より教え伝えられた道を行
498
———————[End of Page 6]———————
なうために、真剣に努力することが必要なので、師の日常生活の枝葉末節に把われることはないの
です。師たる人はその日常生活においても、道に違った行為は、非常に少ないと思われますが、そ
の日常生活が自分の好みに合わぬからといって、その師に失望する必要はないのです。それは弟子
であるその人の好みであって、道そのものをその師が外していたということにはならぬからです。
また、弟子が大奇蹟を望んでいても、その師は大奇蹟力を持ちながらも、神のお許しのない限り、
その大奇蹟を現わさぬかも知れないのです。大神様のみ心というものは、肉体人間の計り知れない
もので、肉体人間側で、ここでこうすれば人間が救われるのに、と思っても、神はその場において
はお救いにならずに、もっと遠大な救いを計画なさっているかも知れないのです。かもではなく、
神は常に人類の永遠の幸福をおつくりになるように働かれているのであります。
イエスの十字架上の悲劇でも、ユダの想っていたように、常日頃のイエスの大奇蹟力をもってす
たいほ
れば、逮捕に向った役人の一団ぐらい、大風でも起こして、ふっ飛ばせばよいわけで、逃げてしま
うことは容易なことなのです。しかし、イエスはそれをしなかったのです。どうしてそうしなかっ
たかと申しますと、神のみ心はイエスを十字架上のはりつけにして、その大犠牲によって、人類の
救いを成就しようとなさっていたからなのです。
ユダがイエスの大奇蹟力を信じたその眼は確かなのでしたが、神の人類進化の大計画にまで、そ
499イエス捕わる
———————[End of Page 7]———————
の心がとどかなかったわけなのです。しかし、それも大きな神計らいであったわけで、この世に現
われる善いことも悪いことも、すべて、神々の計画からすれば、地球人類の大進化のための一齢一
齢であるわけです。
だからといって、それなら人間が善いことをしようといって努力したり、人類救済のために身心
わら
を投げ打って働いたとしても、それは一切神からみたら曝うべきことである、などと思ってはいけ
ません。人間のそうした善意こそ、人類の大進化を促進させる大きな力となっているのであります。
イエスが大奇蹟力を現わさなかったことについては、弟子たちや信者たちも、随分と失望したこ
とでありましょう。イエスのそれまでの奇蹟力は、或いはまやかしではなかったのか、とイエスへ
の信仰心を一度で失ってしまった人もあったことでしょう。宗教信仰者の中には、奇蹟力のみを信
じている人たちもかなり存在するからなのです。
それは昔から今日まで変りはありません。新しい宗教団体や、霊能者のところに集まる人たちの
心の中には、いずれもその宗教や、その霊能者の奇蹟に対する興味が大なり小なりあるからなので
す。勿論、宗教には奇蹟はつきものであり、奇蹟のない宗教というのは、味のない食物のようなも
ので、信者の興味をひくことはできないのです。ですから既成といわれる宗教は、新しい宗教ほど
真剣な信者をもちませんし、物質的にも豊かになっていないのです。
500
———————[End of Page 8]———————
そこのところが実に問題なところでありまして、キリスト教にしましても、カトリックとプロテ
スタントの大きな分れができていますが、このプロテスタソトの中にはまた多くの新しい宗派がで
きておりまして、霊能を主にした、日本の新しい宗教の在り方と同じような、奇蹟を売り物の宗派
も存在するのであります。
たとえ神仏の道を説くにしても、奇蹟力を背景にして道を説くのと、今日迄の宗教者が説いてき
た通りの道を、奇蹟力もなくただたんたんと説いているのとは、集ってきた人の熱の入れ方が違っ
てくるのです。奇蹟力をもつということの魅力というものはたいしたものなのです。
ところが、この奇蹟力というのが、また問題なのです。イエスにしてもやたらに奇蹟力をみせて
いたわけではなく、神のみ心を人々に知らせるために、必要に応じてその力を現わしていたのであ
ります。その奇蹟力を現わすために、そのほうにのみ興味をひかれる信者たちが多くなって、肝腎
の道を求め、実行する心が失われていってしまったら、その宗教の師や先達は、なんのために宗教
ほんまってんとう
の指導者になったのか本末転倒した形になってしまいます。
かなめ
奇蹟力というのは肝腎要の時に現われればよいのでありまして、いつでも手品師のように、道の
しやくそんばらもんげどうげんじゆつ
ために必要でもない奇蹟を行なったりしていることは、釈尊時代の婆・。維門外道の幻術のようなもの
で、宗教の邪道であるわけです。宗教の教えを進まれる方は、この点に充分に注意なさって、常に
501イエス捕わる
———————[End of Page 9]———————
神仏の道を外れぬように、興味本位の宗教態度や、現世利益だけを願う思いを捨て、道を求める心
を中心にして自己の心を磨いてゆく必要があるのです。
はなカルマ
真実の道というものは、そう奇蹟ずくめの華やかなものではなく、常に自己の業想念消滅のため
きわ
に、愛と調和の精神を強めてゆく努力の連続の道であるのです。その道を易しく極められるように
と、私の説く、消えてゆく姿で世界平和の祈り、という道が開かれているのであります。
しもべ
この聖書の章の中で、大祭司の僕が弟子たちに耳を切られたのを、イエスが手を当てて癒すとこ
ろがあります。これなど全く宗教心そのものの心でありまして、イエスの心は、敵というものを全
く認めていなかったことがはっきりわかります。実にイエスの愛の深さはたいしたものです。いか
なる奇蹟よりもこうした愛の心こそ、宗教の本道でありまして、私どもが大いに学ばねばならぬこ
とです。
どうですか皆さん。自分を捕えにきた敵であるべき者に対して、これだけ深い愛の心が現わせる
しもべ
でしょうか。深い愛の心が無ければイエスの奇蹟は起らないですから、大祭司の僕に対するイエス
の愛の心は深かったのであります。
イエスはかつていっております。「たとえこの山を動かす力があったとしても、愛なくばなんの
益があろう」真実に愛なくば、いかなる奇蹟を起こしても、それは己れの力を誇示するだけで、な
502
———————[End of Page 10]———————
んの益もないのです。それにつけても、恐怖のためにペテロが一時でも師にそむいた心情は察する
どうこく
に余りあります。このことは、この講義の前半に「ペテロの働巽」という詩とともに説明してあり
ますから、合わせてお読み下さい。
503イエス捕わる
———————[End of Page 11]———————
504
イエスとバラバ
イエスが役人に曳き立てられてゆく姿、捕われ人として、小役人にごずきまわされてゆく姿を想
像する時、キリスト教信者ならずとも、思わず眼を閉じて、涙ぐんでしまいます。「哀れなイエス
さん、大犠牲者のイエスさん」そう想うとペンを取りながらでも、私の胸は熱くなってきます。
みたま
高い天界の住者であるべき霊魂が、肉体人類救済のために、神霊の世界の本住の地では、はるか
あなど
にはるかにくらぶべきもない下位の霊魂の役人たちに、その肉体をこずきまわされ、侮りの言葉を
あびせかけられているのですから、普通で考えれば屈辱そのものであり、身ぶるいするほど口惜し
いところですが、イエスさんその者は、すでに神霊の世界にその想念を統一させきっていたので、
こちら側で考えるほどの屈辱感も心の痛みもなかったに違いありません。しかし師の姿をみていた
弟子や信者たちの心の中はいかばかりであったでしょう。二千年近くもたった今日の私共の心の中
にも、その時の弟子や信者たちの心のさまがうつってきて、苦しくなるほどなのですから。
———————[End of Page 12]———————
この肉体界というものは、そしてその地位や能力というものは、霊位の高低にはよらぬものなの
で、霊位の非常に高い人でも、低い地位におかれ、社会の下積みになっている場合もあり、霊位の
低い者が、高い地位について権力を欲しいままにしていることもあるのです。このアンバランスが
正常に戻り、神霊の世界そのままの形態になってまいりますと、この世が地上天国となってくるの
でありますが、何千年来いまだその段階にまで肉体人類は進化を遂げていないのです。
それではここで、ルカ伝二十三章一!二五によりまして、イエスがピラトやヘロデの前に曳き立
てられ、刑が定まるまでを聖書のしめすまま書きうつしてみます。
たまどわ
民衆みな起ちて、イエスをピラトの前に曳きゆき、訴へ出でて言ふ『われら此の人が、わが国の民を惑し、
みつぎみずかとな
貢をカイザルに納むるを禁じ、かつ自ら王なるキリストと称ふるを認めたり』ピラト、イエスに問ひて言ふ
びと
『なんぢはユダヤ人の王なるか』答へて言ひ給ふ『なんちの言ふが如し』ピラト祭司長らと群衆とに言ふ『わ
とがつむ
れ此の人に葱あるを見ず』彼等ますます言ひ募り『かれはユダヤ全国に教をなして民を騒がし、ガリラヤより
ニこけんか
始めて、此処に至る』と言ふ。ピラト之を聞き、そのガリラヤ人なるかを問ひて、ヘロデの権下の者なるを知
もといた
り、ヘロデ此の頃エルサレムに居たれば、イエスをその許に送れり。ヘロデ、イエスを見て甚く喜ぶ。これは
かく
彼に就きて聞く所ありたれば、久しく逢はんことを欲し、何をか徴を行ふを見んと望み居たる故なり。斯て多
ニとばていた
くの言をもて問ひたれど、イエス何をも答へ給わず。祭司長・学長ら起ちて激甚くイエスを訴ふ。ヘロデその
あなどはなギかニうもさきあだ
兵卒と共にイエスを悔り、かつ嘲弄し、華美なる衣を著せて、ピラトに返す。ヘロデとピラトと前には仇たり
505イエスとパラバ
———————[End of Page 13]———————
しが、此の日たがひに親しくなれり。
つかさオど
ピラト、祭司長らと司らと民とを呼び集めて言ふ、『汝らこの人を民を惑はす者として曳き来れり。視よ、
ただつとが
われ汝らの前にて訊したれど、其の訴ふる所に就きて、この人に葱あるを見ず。ヘロデも亦然り、彼を我らに
わざなさこらゆる
返したり。視よ、彼は死に当るべき業を為さざりき。然れば懲しめて之を赦さん』民衆ともに叫びて言ふ『こ
のぞいつさひところしひとぞ
の人を除け、我らにバラバを赦せ』此のバラバは都に起りし一揆と殺人との故によりて獄に入れられたる者な
ゆる
り。ピラトはイエスを赦さんと欲して、再び彼らに告げたれど、彼ら叫びて『十字架につけよ、十字架につけ
みたびわざこら
よ』と言ふ。ピラト三度まで『彼は何の悪事を為ししか、我その死に当るべき業を見ず、故に懲しめて赦さ
ん』と言ふ。
もとめ
されど人々、大声をあげ迫りて、十字架につけんことを求めたれば、遂にその声勝てり。髪にピラトその求
ナまぽひところしひとや
のごとく為べしと言ひわたし、その求むる随にかの一揆と殺人との故によりて、獄に入れられたる者を赦し、
わたまオ
イェスを付して彼らの心の随ならしめたり。(ルカ伝二十三章一ー二五)
506
ローマから派遣されている総督であるピラトも、ガリラヤをその権限下に治めているユダヤの王
であるヘロデも、共にイエスを罪人と認めずに、かえってイエスに興味を示して何度でもユダヤ教
の祭司長や民衆に、イエスになんの罪があるのかを問い正していたのでありますが、ユダヤ教の祭
司たちや、イエスの教えを邪教視する民衆たちの多数の力で、イエスは遂いに罪人と定められ、十
字架上の死罪を定められてしまうのであります。
———————[End of Page 14]———————
この頃パラパという革命家がいまして、ユダヤの独立運動をしており、民衆から非常な支持を得
ていました。民衆は長い間ローマの圧政下に苦しんでいまして、キリストの出現を期待していた民
衆の中には、イエスがその神秘力をもって、ユダヤをローマから独立させ得るのではないか、とい
う大きな希望をもっていた人々も多かったのです。しかし、イエスの教えはあまりにも精神的であ
り高尚すぎて、現在の自分たちの生活にはなんら役立たないとみた人々が多くおりました。その人
々は純粋に革命家として立上がったバラバのほうに心ひかれていったわけで、一人の罪人が定まれ
ば、他の一人が助かるという定まりのあったのを利して、イエスを罪人に仕立てて、その時捕われ
ていたパラバを救おうと、バラバ支持の人々は、イエスの信者の数の増えるのを妬み、いつかイエ
スをなき者にしようとしていたユダヤ教の祭司長や司たちに呼応して、イエスを罪人にしたて上げ
たのであります。
せんおうへ
常には専横で自己の言を通しつづけていたピラトでありましたが、あまりに数多い祭司や民衆の
声に押しきられて、イエスの死刑を定めてしまったのであります。
このようにすべてイエスに不利に向かってゆくようになったのも、神のみ心が、イエスを、肉体
人間の原罪を浄めるための大犠牲者としての役目を果させるための成り行きであったのでしょう。
ピラトとしては、新しい宗教の教えを説くだけで別に実害のないイエスを処刑する必要はないの
507イエスとバラバ
———————[End of Page 15]———————
で、三度びもイエスをかばったのです。しかし、そのかばう心より、民衆がパラバを救おうとする
熱意のほうが数段勝っていたのであります。
いつの世でもそうですが、眼の前の現実の生活を利する唯物的な人のほうが、精神面の指導者よ
り、多くの支持者を得ているようで、宗教という名で人々に接していても、その支持者の多い団体
は必ずといってよいほど、現世利益による支持者であり信者であるのです。その点、イエスの時代
も同じで、ローマの圧政から民衆を解放しようとして立ち上がったバラバに対する民衆の期待は、
精神革命のイエスへの期待より上廻っていたわけなのであります。
民衆が精神生活よりも、物質生活に重点を置いて、物質生活に執着しているうちは、これ以上地
球人類の進化はあり得ないのです。その真理を世に伝えにきたイエスなのですが、民衆の大半は物
質生活の利を求めつづけていて、イエスの真の教えを解し得たのは、僅かな人であったのです。だ
がこの僅かな弟子たちが、やがて、肉体をぬぎすてて、キリストの本体と合体したイエスの、神霊
の世界からの指導の下に、イエスの肉体身生存中とは見違えるような働きをしてゆき、今日のキリ
スト教の発展に至らしめる根本を築いていったのであります。
日本ではキリスト教信者でなくとも、イエスを崇める人はたくさんおります。その人たちの多く
は、イエスを救世主として崇めるよりも、大犠牲者として、その悲惨な十字架上の死に対して、深
508
———————[End of Page 16]———————
い同情を捧げ、その犠牲者としての生涯を高く評価しているであります。そういう意味では、釈尊
に対する気持とイエス・キリストに対する気持とでは、宗教的ではあるが、クリスチャソでない人
たちの感じ方は大分違っておりまして、釈尊はそのままみ仏であって、近寄り難い方であり、自分
たちとは全く異なった方、という見方をしていますが、イエスに対しては、そういう崇拝の仕方で
はなく、神の使者ではあるが、自分たちの身近な人であり、同情すべき人類の犠牲者という見方に
なっているようです。
それと同時に、キリスト教信者は、前にも書いたことがありますが、いつしか人類の富の平等と
いう在り方に意識が走ってゆきまして、貧者の味方という形で、社会主義的な傾向を持つようにな
っています。マルキシズムもキリスト教精神がその土台になっているといわれています。イエスが
その神秘力を使わず無抵抗で捕われ、十字架上の露と消えましたが、キリスト教の一部の人たちは、
イエスの庶民性と、富者の救われ難いことを、イエスがその説法中に説いていたことに影響されて
か、イエスとバラパとを一つにしたような在り方になっていまして、常に為政者に反抗する唯物論
者と紙一重の社会主義者的な生き方をするようになってきたのも仏教信者と相違するところでしょ
うo
かのトルストイなどは、キリスト教信者なるが故に、自らの地主である富者の生き方に常に反発
509イエスとパラパ
———————[End of Page 17]———————
して、遂いには老年に至って家を出て、路上で倒れるという悲惨な終末を遂げています。
とく
イエスが総督ピラトに対しても、ヘロデ王に対しても、少しも悪びれぬ堂々たる態度で、答えた
くないことには口を開こうとはしませんでしたが、それは神の子キリストである自覚と共に、政治
的に抑圧されつづけてきた、庶民の一人としての反発の想いも潜在的にはあったのではないかと思
われます。いかなる偉人聖者といえど、その肉体生活中に体験した生活内容が、その潜在意識にあ
ることは確かなことです。
ところで、キリスト者を一番圧迫し迫害したローマが、後にはキリスト教の本拠地となるのです
から、世の動きというものは計り知れない面白いものです。すべては神霊の世界にあったイエス・
キリストの背後からの影響によったことでしょう。
常に他民族の圧迫によって、独立を侵害されていたユダヤ人にとっては、自分たちの独立を樹立
し、自分たちを他国の圧迫から救済してくれる救い主を求めつづけていたのでありますから、少し
秀れた人が出てくると救世主ではないかと思ってみたりしたのです。そして洗礼のヨハネも救世主
と目されて多くの人々が集まってまいりましたが、ヨハネは後から現われたイエスを指して、彼こ
そ救世主キリストであると、弟子たちにまでイエスの下にゆくようにすすめたほどでした。そこで
弟子たちはじめ民衆はイエスこそキリストであり、救世主であると思って、イエスの下に救いを求
510
———————[End of Page 18]———————
めてきたのであります。
その要望に応えるように、イエスは多くの奇蹟力を示して、キリストなることを実証してきたの
でありますが、それはただ単に個人の救済であって、多くの民衆の望んがいる、大きな政治的救済
にはなってこなかったのです。多くの民衆の望んでいたことは、現ユダヤ王ヘロデのように、ロー
マ派遣のピラト総督の前に、手も足も出ぬようなユダヤの代表老でなく、ピラトを追い出し、ロー
マの力をユダヤから撃退してしまうほどの強い権威をもった王こそ望んでいたのであります。ヘロ
デ王としても、ただ腕をこまぬき、頭を垂れたままで、・ーマに服していたわけではなく、何かと
ピラトに向って、自民族の要望を訴え、時には強腰でピラトと論争したこともあるわけで、イエス
が捕われた頃は、ピラトとヘロデの仲は非常に悪かったわけなのですが、イエスのことでのやりと
りのうちに、お互いの心のわだかまりが融けて、イエスのお陰で和解するような形になったのであ
ります。
しかし、民衆は真の独立が欲しいのであり、それを成し遂げる王たる人物を望みつづけていたの
で、ヘロデでは勿論駄目であり、イエスこそキリストであり、ユダヤ王である、と大きな期待をも
って迎えたのでありますが、イエスが精神的な王であっても、この地からローマ軍を追いはらい、
ユダヤの独立を成し遂げ得る真実の王でないことを知って、イエスを見殺してしまうわけで、実に
511イエスとパラパ
———————[End of Page 19]———————
この地球世界は、精神と物質の両面にわたって、力ある働きのでき得る、救世主をこそ望んでい
る、ということになります。
そういう救世主の現われるのは果していつか、それは一人の肉体人間として現われるのか、救世
の大光明の各人への働きかけとして現われるのか、それは今後の課題であるわけです。それにして
も真の救いは、宗教精神と大調和科学の開発によって成就されることは確かです。その音頭を取る
のは、個人か集団かということになるのであります。
512
———————[End of Page 20]———————
十字架上のイエス
いよいよイエスの最後の時が迫ってまいりました、イエスがキリストと全く同体になる時が刻々
と近づいてきたのです。クリスチャソには涙なしでは読み得ない聖書の一字一文です。ルカ伝二十
三章二六ー五五において、イエスの最後の状態やその周囲の様子を、私たちもイエス・キリストの
大犠牲に感謝を捧げながらみてゆきましょう。
イエスの死を無駄死にしないためには、人々は如何にしたらよいか、イエス・キリストの存在価
値というものが、果してクリスチャソだけの価値としてあったのか、そんな諸々のことを、このル
カ伝を読みながら、皆さんと共に考えてゆきたいと思います。
ひびととら
人々イエスを曳きゆく時、シモンというクレネ人の田舎より来るを執へ、十字架を負はせてイエスの後に従
はしむ。
おおいむれふウかえ
民の大なる群と嘆き悲しめる女たちの群と之に従ふ。イエス振反りて女たちに言ひ給ふ、『エルサレムの娘
513十字架上のイエス
———————[End of Page 21]———————
おのうオずめこさいわい
よ、わが為に泣くな、ただ己がため、己が子のために泣け。視よ「石婦・児産まぬ腹・飲ませぬ乳は幸福な
14
り」と言ふ日きたらん。その時ひとびと「山に向ひて我らの上に倒れよ、岡に向ひて我らを襟へ」と言ひ出で5
あおき
ん。もし青樹に斯く為さば、枯樹は如何にせられん』
また他に二人の悪人をも、死罪に行はんとてイエスと共に曳きゆく。
されこうべ
欄膿といふ処に到りて、イエスを十字架につけ、また悪人の一人をその右、一人をその左に十字架につく。
かくころもくじとり
斯てイエス言ひたまふ『父よ、彼らを赦し給へ、その為す所を知らざればなり』彼らイエスの衣を分ちて國取
つかさあざけも
にせり、民は立ちて見ゐたり。司たちも嘲りて言ふ『かれは他人を救へり、若し神の選び給ひしキリストなら
おのれすもびと
ば己をも救へかし』兵卒ども嘲弄しつつ近よりて酸き萄葡酒をさし出して言ふ、『なんぢ若しユダヤ人の王な
すてあだ
らば、己を救へ』又イエスの上には『之はユダヤ人の王なり』との罪標あり。
かモし
十字架に懸けられたる悪人の一人、イエスを識りて言ふ『なんぢはキリストならずや、己と我らを救へ』他
いさしおモむくい
の者これに答へ禁めて言ふ『なんぢ同じく罪に定められながら、神を畏れぬか。我らは為しし事の報を受くる
みくにおぽ
なれば当然なり。然れど此の人は何の不善も為さざりき』また言ふ『イエスよ、御国に入り給ふとき、我を憶
えたまへ』イエス言ひ給ふ『われ誠に汝に告ぐ、今日なんぢは我と階にパラダイスに在るべし』
あユねまなかさ
昼の十二時ごろ、日、光をうしなひ、地のうへ偏く暗くなりて、三時に及び、聖所の幕、真中より裂けた
よばひやくそつちよう
り。イエス大声に呼はりて言ひたまふ『父よ、わが霊を御手にゆだぬ』斯く言ひて息絶えたまふ。百卒長この
じつぎじん
有りし事を見て、神を崇めて言ふ『実にこの人は義人なりき』これを見んとて集りたる群衆も、ありし事ども
すぺしるべ
を見てみな胸を打ちつつ帰れり。凡てイエスの相識の者およびガリラヤより従ひ来れる女たちも遥に立ちて此
———————[End of Page 22]———————
等のことを見たり。
しわざくみ
議員にして善かつ義なるヨセフという人あり。ーこの人はかの評議と仕業とに与せざりきーユダヤの町なる
もとしかばね
アリマタヤの者にて、神の国を待ちのぞめり。此の人ピラトの許にゆき、イエスの屍体を乞ひ、これを取りお
あユぬのいわおそなえびあんモくにち
うし亜麻布にて包み巌にほりたる、未だ人を葬りし事なき墓に納めたり。この日は準備日なり、かつ安息日近
しかばね
づきぬ。ガリラヤよりイエスと共に来りし女たち後に従ひ、その墓と屍体の納められたる様とを見、帰りて香
においあぶら
料と香油とを備ふ。
かくいましめしたが
斯て誠命に遵ひて、安息日を休みたり。(ルカ伝二十三章二六ー五五)
イエスが十字架につく時、「父よ、彼等を赦し給え、その為す所を知らざればなり」といってい
るのは、実に感嘆せざるを得ない立派な心です。イエスが神の子であり、愛そのものの心の持主で
あることを、この言葉が如実に示しています。不当な理由づけでイエスを十字架にかけるまで追い
こんだ、ユダヤ教の人々やパラパのためにイエスを売った人々は、普通の言葉でいえば、憎みても
あまりある人々なわけです。そういう憎悪すべき人々の行為を、その為す所を知らざればなり、と
いって神に彼らの罪の赦しを乞うているのですから、その愛の深さは大慈悲心という、み仏の心そ
のものでしょう。キリスト教が世界に広まる要因となった心です。
私がたびたび書くところなのですが、太平洋戦争の終戦後に、天皇陛下がマッカーサーのところ
515十字架上のイエス
———————[End of Page 23]———————
にご自身お出でになられ「戦争の責任は全部自分にあるので、自分はどういう処置を受けてもよい
から、国民の生活の安全をお願いする」と申され、天皇はご自身から進んで十字架にかかられて、
全国民を救おうとなされたキリストそのままのご行為はマッカーサーをすっかり感激させてしまっ
たのです。天皇のお心を計らず、自分たちの計らいで太平洋戦争に突入した軍部の過ちをも、天皇
は自らがお背負いになったのです。そのお心は、全く神そのもののみ心でもあり、親の心でもあっ
たのです。まさに天皇であられたのです。あの時、天皇のお体がご無事であったことは、真に生命
いん
を捨てて生命を得た大奇蹟であり、今日の日本の発展の最大の因となっているのであります。
十字架上のイエスの愛の心と天皇のみ心とが全く真理そのものであり、神の大慈悲であることに
おいて等しいものといわねばなりません。ただ異なるところは、イエスが天なる父に罪を冒せる人
々の赦しを乞うたのにくらべ、天皇は、軍部や政治家の過ちを、赦すも赦さぬもなく、自らの責と
して背負われきったところです。天皇がご自身の意識としては思われてはおられないのですが、そ
のご行為は天皇ご自身が神そのものの立場に立たれていたことになるのであります。その時の天皇
のみ心は、天地を貫いた神我一体になられたみ心なのです。
いいかえますと、イエスには未だ神と我との間隔が幾分なりとあったのですが、天皇には神と我
との間隔が全く無かったのであります。それ故天皇は神の名において、誤った軍部や政治家を赦し
516
———————[End of Page 24]———————
ていただく、というイエスのような祈りをなさらず、自らを責め、自らを捨て切り、澄みきった鏡
のように自らの真の姿を肉身に写した、神我一体の真の天皇としてそこにおわしたのです。
この真理は普通の方にはなかなかわからぬところでしょうが、なんとはなくでもわかっていただ
くと幸だと思います。天皇は縦から観た真理(キリスト)であり、イエスは横から観た真理(キリ
スト)なのでありまして、表と裏ということにもなるでしょう。今日でも天皇を戦争責任者である
とみていたり、軍国主義の中心であると思ったりしている人があるのですが、それこそとんでもな
い間違いで、天皇は真理そのものの方であり、平和そのものの方であり、大調和の中心者であるので
す。この聖書講義をかりて一言、天皇の本質の一部分を述べさせていただきました。
さて、この章のもう一箇所、イエスがキリストとしての権威ある言葉があるのです。それは、イ
エスを聖なる人とみていた盗人の一人が、「イエスよ、御国に入り給うとき、我を憶え給え」とい
とも
うと、イエスは「われ誠に汝に告ぐ、今日なんじは我と楷にパラダイスに在るべし」という言葉で
す。十字架上にかけられ、今まさに肉体生命を絶たれるという苦痛の極に、共に処刑される盗人の
イエスへの深い信仰心を観てとって、自分と借にパラダイスに連れていってやる、という愛と自己
の権能を信じきっているこの権威ある言葉は、確かにキリストなるイエスのものであります。単に
肉体人間としては、こんな権威ある言葉は吐けません。
517十字架上のイエス
———————[End of Page 25]———————
わざ
イエスは常に、すべてのみ業は肉体のイエスがするのではなく、神我れにいまして為すのである、
わざ鵬
といっていますが、どんなに才智があり能力のある人でも、肉体人間自身が行う業はたいしたこと
わざ
はありません。神が自分のうちにあってみ業を行う、という深い信の心によって、はじめて偉大な
る行ないができるのであります。
深い愛の心と、神を信ずる確かなる心とが相まって、大奇蹟も起るのであり、恐怖なき生活がで
きるのでもあります。十字架のイエスは形としてはみじめな哀れな姿をしていたでしょうが、その
心は愛と信とに充ちた、あと一瞬にして全きキリストとなる直前の姿であったのです。その真の姿
を信じた盗人の一人は幸せなる人であり、信ぜず、そしりののしった一人のほうは哀れゲヘナの火
に入れらるべき愚かなる人だったのです。
最後までイエスを慕い、イエスの処刑を嘆げぎ悲しみながら、刑場の奇蹟をみ、イエスの死体を
墓に納めた、ヨセフ議員をはじめ、信仰厚き彼や彼女らは、肉体離脱後は善き世界に生れた幸せな
人たちでありました。
この世における地位や姿形だけで、その人の真価を定めてはいけません。この世の地位なく財な
く、みじめに見える生活をしている人の中にも霊位高き立派な人格者もいるのであります。地位高
き時、財宝豊かなる時にはつき従い、地位失い、富失いし時には、悪口雑言をする人々こそ、いや
———————[End of Page 26]———————
しむぺき魂の持主であります。
人間の本質はすぺて霊であり、神のみ心の中に住む者でありますのに、その真理を忘れ果てて、
肉体波動の汚れの中に埋れきってしまっている人が如何に多いことでしょう。釈尊、イエスの時代
から今日に至るまで、神のみ心を体してこの世に生れ出た、聖なる人々の活躍によって、この世の
壊滅は防がれてはいますが、一日も早く、一人でも多く、自己の真性を悟る人の多く出ずることを
祈らずにはいられません。
イエスは十字架上にあって、肉の身の最後の一瞬まで、人々の罪稼れの浄まることを祈りつづけ
ていたのであります。彼らは為す所を知らなかったのです。どうぞ神様、彼らを赦してやって下さ
い、の赦しの言葉にイエスの愛の心がハッキリみられるのです。
あまね
ところで「昼の十二時頃、日、光をうしない、地のうえ偏く暗くなりて、三時に及び、聖所の幕、
真中より裂けたり。……」という、イエス最後の瞬間の自然現象の変化を、現今の人は何気なく読
み過してしまうでしょうが、その時のユダヤの民衆は、実に大きな魂の衝撃を受けたのでありま
す。「実にこの人は義人なりき」という言葉は、その時に立ち会った、多くの民衆のつぶやきだっ
たのです。
この奇蹟的現象と、後にイエス・キリストの甦りによって、弟子たちの心も信徒たちの心も、深
519十字架上のイエス
———————[End of Page 27]———————
い信仰心になっていったのであります。宗教には奇蹟はつきものですが、イエス・キリストには終
始この奇蹟がつきまとっていたようです。
ともあれ、この地球界の人類の進化促進のための、天よりの使者であるイエスにしても、他の聖
者方にしても、地球界の物質波動、つまり、肉体人間を主にした、生活環境の中にあって、人間の
本質である霊の世界の生き方を指導してゆくことは、並大抵の苦労ではなかったのです。微妙な神
霊の世界の波動と、粗い肉体界とのギャップに立って、このギャップを埋めて、天地一体の生活環
境をつくり出すことが、どれほどむずかしいことであるかは、実際にその立場に立って実践してき
た人でないとわからないことかも知れません。
イエスがもし、神霊波動の世界だけを主にしていたならば、十字架にかかるどころか、どのよう
な軍勢が立ち向っても、そんな力はものともしない、強力な霊波動によって、寄せ手の軍勢を滅す
こともできた筈ですが、そんな力は使わずに、肉体界を主にした在り方で捕われの身となり、十字
架上で昇天することになったのです。それは神霊波動と肉体波動の調和を主にして、自己を犠牲に
したためであります。そういう在り方をしないと、いつまでたっても、神霊の世界と肉体の世界の
大きなギャップが埋まらないのです。そこでイエスの死は、肉体人間の原罪を背負ってなされた死
ということになるのであります。
520
———————[End of Page 28]———————
この地球世界の人類を、更に進化させるためには、神霊波動が知らぬ間に、肉体波動と融和して
ゆく、ということが必要なので、そのためにイエスのような天使の大犠牲が必要なのです。私など
も常にそういう立場に立って、神霊世界と肉体世界の融合を妨げる幽界の黒雲を浄めさる祈りの行
をつづけているのでありまして、そのためには、普通の人には到底わからぬ、大きな苦しみを背負
い、それを乗り越え乗り越えして働いているのであります。イエスさんの大変さが身に沁みてわか
るのも、そういう体験をつづけているからなのです。なんにしても、私どもは真剣に世界平和の祈
りをつづけ、この地球の壊滅を防ぎ止め、大きな人類の進化を成し遂げてゆかねばならぬのです。
521十字架上のイエス
———————[End of Page 29]———————
522

エスの甦

普通人の死というものは、死によって、その人の生命は終ってしまったことになりますが、芸術
作品や、発明や、後々まで残る善い仕事を成し遂げて世を去った人々は、肉体は死によって消滅し
ましても、その作品や発明や仕事が、その人の生命のひびきとして、後の世迄も残ってゆきます。
いわゆる哲学的知性的にいう永遠の生命です。ところがイエスの場合には、イエスという肉体昇
天後、直ちに霊身のイエス・キリストとして、弟子のところに現われるわけです。そして、その後
もひきつづき、有能な弟子たちに現われて、キリスト教発展の大きな力となって働かれるのです。
イエスという個性が、肉体消滅後も存続して、キリスト(真理)そのものとして、弟子たちを通し
て神のみ心をこの世に伝えつづけるわけです。世にいう奇蹟なのです。
しかし、私共の体験と致しましては、イエス・キリストの甦りというような大きな使命をもった
現われは別としましても、個性の死後の存続ということははっきり致しておりまして、肉体は死し
———————[End of Page 30]———————
ても、その人の個性は永遠に存続して、他界で働きつづけるのであります。肉体はその人間の一つ
5つわ
の器であり、場であり、衣服でもあるのです。
イエス・キリストの場合は、もう個性というより、神霊そのものでありますので、イエスという
個性でもあり、神そのものの一つの働き、としてのイエス・キリストでもあるわけで、普通個人の
死後の個生命の存続とは少し意味が違うと思います。
今回は、そのイエス・キリストの甦りを、ヨハネ伝二〇章一ー三一によって、解説してまいりま
す。
ひとまわりとウのすなわ
一週のはじめの日、朝まだき暗きうちにマグダラのマリャ、墓にきたりて墓より石の取除けあるを見る。乃
もといた
ち走りゆき、シモン・ベテロとイエスの愛し給ひしかの弟子との許に致りて言ふ『たれか主を墓より取り去れ
いずこ
り、何処に置きしか我ら知らず』ベテロと、かの弟子といでて墓にゆく。二人ともに走りたれど、かの弟子べ
とかがムのおく
テロより疾く走りて先に墓にいたり、屈みて布の置きたるを見れど、内には入らず。シモソ・ベテロ後れ来り
みこうぺてゆぐいはか
墓に入りて布の置きたるを視、また首を包みし手拭は布とともに在らず、他のところに巻きてあるを見る。先
しるよみが
に墓にきたれる彼の弟子もまた入り、之を見て信ず。彼らは聖書に録したる、死人の中よりその甦へり給ふべ
いまつい
きことを未だ悟らざりしなり。遂に二人の弟子おのが家にかへれり。
さをかがしかばね
然れどマリヤは墓の外に立ちて泣き居りしが、泣きつつ屈みて、墓の内を見るに、イエスの屍体の置かれし
ニろもみつかいニうぺかたしか
処に白き衣をきたる二人の御使、首の方にひとり足の方にひとり坐しゐたり。而してマリヤに言ふ『をんなよ、
523イエスの甦り
———————[End of Page 31]———————
いずニうしろムりかえ
何ぞ泣くか』マリヤ言ふ『誰か、わが主を取去れり、何処に置きしか我しらず』かく言ひて後に振反れば、イ
なん
エスの立ち居給ふを見る、然れどイエスたるを知らず。イエス言ひ給ふ『をんなよ、何ぞ泣く、誰を尋ぬるか』
そのもりいつこつ
マリヤは園守ならんと思ひて言ふ『君よ、汝もし彼を取去りしならば、何処に置きしかを告げよ、われ引取
るべし』イエス『マリヤよ』と言ひ給ふ。マリヤ振反りて『ラボニ』(釈けば師よ)と言ふ。イエス言ひ給ふ
さわもと
『われに触るな、我いまだ父の許に昇らぬ故なり。我が兄弟たちに往きて「我はわが父、即ち汝らの父、わが神、
しかじか
即ち汝らの神に昇る」といへ』マグダラのマリヤ往きて弟子たちに『われは主を見たり』と告げ、また云々の
事を言ひ給ひしと告げたり。
びとおそよと
この日、即ち一週のはじめの日の夕、弟子たちユダヤ人を催るるに因りて居るところの戸を閉ぢおきしに、
かわき
イエスきたり彼らの中に立ちて言ひたまふ『平安なんぢらに在れ』斯≦言ひてその手と脅とを見せたまふ、弟
つかわ
子たち主を見て喜べり。イエスまた言ひたまふ『平安なんぢらに在れ、父の我を遣し給へるごとく、我も亦な
せいれい
んぢらを遣す』斯く言ひて、息を吹きかけ言ひたまふ『聖霊をうけよ。汝ら誰の罪を赦すとも其の罪ゆるされ、
とど
誰の罪を留むるとも其の罪とどめらるべし』
イエス来り給ひしとき、十二弟子の一人デドモと称ふるトマスともに居らざりしかば、他の弟子これに言ふ
あとわき
『われら主を見たり』トマスいふ『我はその手に釘の痕を見、わが指を釘の痕にさし入れ、わが手をその脅に
差入るるにあらずば信ぜじ』
たちともお
八日ののち弟子等また家にをり、トマスも借に居りて戸を閉ぢおきしに、イエス来り、彼らの中に立ちて言
ひたまふ『平安なんぢらに在れ』またトマスに言ひ給ふ『なんちの指をここに伸べて、わが手を見よ、汝の手
524
———————[End of Page 32]———————
をのべて、我が僻にさしいれよ、信ぜぬ老とならで信ずる者となれ』トマス答へて言ふ『わが主よ、わが神よ』
さいわい
イエろ言ひ給ふ『なんぢ我を見しによりて信じたり、見ずして信ずる者は幸福なり』
この鑑に蹴さざる外の多くの難・イエス弟子たちの前にて欝給へり。されど此等の事を鍬ししは、汝等
みないのち
をしてイエスの神の子キリストたることを信ぜしめ、信じて御名により生命を得しめんが為なり。
(ヨハネ伝二〇章一-三一)
イエスの処刑後一週間目に、マグダラのマリアがイエスの墓にゆき、イエスの死体が消滅してし
まったことを知るわけですが、ペテロとイエスの愛せる弟子、恐らくはヨハネでしょうが、この二
人の弟子は墓の中をみて、イエスの骸の無いことは、はっきりわかったのですが、旧約聖書の予言
の中にある、死者の甦りのことはわからずに、そのまま家に帰えってしまうのですが、マグダラの
マリアは、そこは女性の執着の想いで、いつ迄も、墓の外に立って泣いていたのです。そこで、二
人の天使と、霊身のイエスを見るわけです。
天使やイエスの霊身を、マリアが見たということ、話したということは、マリアの体が霊波動を
感じやすい体であり・鍛嫌体質であったから、そのエクトプラズムを利して、天使やイエスの霊身
が現れた、ということでありましょう。その後の弟子たちに現われたのも、はっきりした肉体身の
ようにして現われてはおりますが、これもやはり、肉体人間側の霊要素をもととして現われられた
525イエスの甦り
———————[End of Page 33]———————
のだと思います。
ヨガの行者などでも、その身は他の地に坐しながら、弟子のところに肉体身そのままの姿で現わ
れることができる人がおります。といっても、見る側は常に霊要素を使うことのできるような人に
限られて聡りまして、一般の誰にでも現われたり見えたりした話はあまり聞いておりません。もし、
イエスの頃に、相手側の霊要素を問題にせず、霊体になったり、肉体になったり自分自身の力だけ
でできるようであったら、その頃より数等倍、心霊科学の研究の進んでいる今日、何を苦労して、
霊媒を使っての物質化現象などする必要があるのだろうか、ということになります。
しかしながら実際は、今でも、霊媒を使って、しかも、おうむね、暗い燈の中での物質化現象で
す。また、イエス自身が、ロ1マ皇帝にでも誰にでも現われて、その心胆を寒からしめ、教えを広
めさせることもできた筈ですから、そういう面から考えても、やはり霊要素の使える弟子たちや、
縁の深い人々に現われることができたのでありましょう。
ともあれ、イエスはイエス・キリストとして霊身を弟子たちに現わし、弟子たちを急速に霊化さ
せ、多くの奇蹟を弟子たちにも現わせるようにさせたのであります。神様事というものは、肉体人
間側の小智才覚では計り知れぬ、先の先迄の深い見通しによって行なわれるので、理論ずくめで考
、兄ても、どうにもならぬことが非常に多いのです。先日も或る青年が「戦争の危険がいつも絶えな
526
———————[End of Page 34]———————
かったり、不幸や災難や悪い心の多い人間なぞ、神様はおつくりにならなければよかったのに」と
いうのです。この青年は信仰の深い青年なのですが、あまりに世の中の悪い事柄を見過ぎ、ついこ
んな質問をしたわけです。信仰心の薄い人はえてしてこんな質問を致しますが、信仰心の深い青年
でも、あまり苦しいことや不幸が身近にあったりすると、ついこんな心にもなるのでしょう。
私は即座に、「宇宙は無限の進化をつづけているので、地球の今日の混乱も、大きな進化の一齢
の一瞬の苦悩なので、神のみ心からみれば、不幸や災難ではなく、人間が苦しい想いをして山を登
ったり、水泳をしたりする、あれと同じなのだ。大きな生命の神が、自己を細かく分けて、分れた
がわ
側から、自らの本体をみつめさせているのだ。本体をみつめつづけていれば、苦悩や疑問はそのま
ま消え去ってしまって、神そのものの調和した姿がそこにあるだけなのだ、ということがわかる。
みつめられる本体も神、みつめる側も神であって、つくったも、つくられたも実は無いんだよ」と
申したのですが、これはちょっとむずかしくて、その青年にはわからなかったようです。
わけいのち
これは真実そうなので、この生命の本体と分生命の間にイエス・キリストや聖者賢者が働いてい
らっしゃるのだから、私共肉体側は、そうした聖賢の指さす方向に、日常茶飯事はそのままで、進
んでゆけばよいのです。その一番必要なことは、人間にはそうした聖者賢者が、神霊の体で常に我
々を守りつづけて下さるので、その方々に我々の運命はお任かせして、ただひたすら、神への感謝
527イエスの甦り
———————[End of Page 35]———————
をつづけつつ、与えられた場で生き生きと生きていればよいのだ、ということです。この聖書の一
節のように、イエス・キリストは「平安なんじらにあれ……」と彼を信ずる人々に、神霊の体にな
ってからもいっておられます。その通りなのです。イエス・キリストを信ずる者には、イエス・キ
しやくそんしやくそんほうねんほうねん
リストが、釈尊を信ずる者には釈尊が、法然を信ずる者には法然が、その守護神となって、その人
を守りつづけて下さるのです。そこで私はすべてを含めて、守護神、守護霊としてその加護に感謝
することを教えているのです。
イエスがトマスに、「なんじ我を見しによりて信じたり、見ずして信ずる者は幸福なり」といい
ますが、全く、見ずして神の存在を信じ、神の愛を信ずる者は幸福な人です。私なども見ずして神
わざ
の愛を信じた者ですが、信じて肉体の生命を、神のみ業のために使っていただこうと投げ出した時
から、奇蹟を現わす能力が生まれ、神の世界のことや神霊の働きについて非常にはっきりわかって
きたのであります。
信仰というものは、昔からいわれていますように、理論で考えてはいけないものです。といって、
よこまど
やたらに信じて邪しまな教えに惑わされてもいけません。そこで、これは信じても信じなくても、
祖先への感謝はできるのですから、祖先の悟った人が守護霊になっているのだから、その守護霊様
への感謝は抵抗なくできる筈です。まずその辺からはじめて、次第に本格的な信仰に入っていって
528
———————[End of Page 36]———————
もよいと思います。
現代の日本人は、イエス生存中のユダヤ人のような信仰心はありませんが、祖先を慕う気持はど
この国の人より深いものが、今でもあります。今は表面的には祖先を慕っているようにはみえませ
んが、それでも若い奥さんたちが、団地に住んでいながらも、仏壇をもっている人が多いというこ
とです。それは取りもなおさず、潜在的に祖先を慕い敬っている証拠なのです。
私が聖書講義を書いているのは、何もキリスト教だけに人々を入信させようというのではありま
せん。聖書講義を通して、真の宗教信仰の在り方を人々に知らせたいからなのであります。
キリスト教でも仏教でもよい、日本人には日本人として、しかも人類の一員としての、宗教信仰
の在り方があるのです。神道のことはここでは一まずおきますが、日本人には日本人特有の生き方
があることは確かです。それはユダヤ人特有の生き方があるのと同様です。各民族が、各民族の特
徴を生かして、そして人類の進化のための働きをする、ということが、大事なのであり、そのため
の各宗教なのであります。私は各宗教の奥義を霊覚的に調べておりまして、奥義はすべて同じであ
りながら、各民族によって、通り道が異なるのだなあ、と感じているのであります。
529イエスの甦り
———————[End of Page 37]———————
530

エスの昇天
イエスの甦りの状態を前回で書きましたが、一度肉体の死を遂げた人が、再び肉体身のように弟
子たちの前に現われた、ということは、現代の人々にとって、不可思議の話で、信仰心のない人は
勿論のこと、キリスト教徒の中でも、ここのところは、ただ読み捨てておいて、あまり考えない、
というのが事実であろうと思います。
しかしながら、私共のように様々な波動の世界、つまり三次元、四次元、五次元と無限次元の世
界があることを知っているものにとっては、イエスσ甦りを、真実あったこととして、素直に肯定
します。精神も肉体も、すべて波動の現われであることが、やがて誰にでもわかってまいりますと、
イエスの甦りもさほど不可思議ではなく、科学的な現象なのです。肉体波動は粗い波動であり、霊
波動は微妙な波動なので、肉体波動の内に霊波動は常に入りこんでいられるわけで、たとえ肉体が
消滅しても、霊波動はそのままなんの支障もないのです。そこで、その霊波動、つまり霊魂の本住
———————[End of Page 38]———————
の場にある波動界に、肉体消滅後の人間は生活することになるのですが、イエスのように高級な霊
魂は、最も微妙な高いひびきをもった階層に住むことになるのです。
これが大神の右の座とか、左の座とかいわれるところなのです。イエスの肉体は一度墓場にほう
むられたわけですが、その肉体を神々は波に変えてしまわれ、その波動を、弟子たちのエクトプラ
ズム(霊要素)と合致させて、再び肉体のような姿を、弟子たちの前に現わτたわけなのです。よ
うな、といったのは、以前の肉体そのものではないからです。ではまた、ヨハネ伝二一章一ー二二
と使徒行伝一章三i一四によってこのことを語りましょう。
ぽたうみぺおのれ
この後、イエス復テベリヤの海辺にて己を弟子たちに現し給ふ。その現れ給ひしこと左のごとし。シモソ・
ペテロ、デドモと称ふるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子ら及びほかの弟子二人もともに
すなどりゆ
居りしに、シモソ・ペテロ『われ漁猟にゆく』と言へば、彼ら『われらも共に往かん』と言ひ、皆いでて舟に
乗りしが、その夜は何をも得ざりき。夜明の頃イエス岸に立ち給ふに、弟子たち其のイエスなるを知らず。イ
あみ
エろ言ひ給ふ『子どもよ、獲物ありしか』彼ら『なし』と答ふ。イエス言ひたまふ『舟の右のかたに網をおろ
おびただ
せ、然らば獲物あらん』乃ち網を下したるに、魚彩多しくして、網を曳き上ぐること能はざりしかば、イエスの
愛し給ひし弟子、ベテロに言ふ『主なり』シモン・ペテロ『主なり』と聞きて、裸なりしを上衣をまとひて海
わずか
に飛びいれり。他の弟子たちは陸を離るること遠からず、僅に五十間ばかりなりしかば、魚の入りたる網を小
ひさかな
舟にて曳き来り、陸に上りて見れば、炭火ありてその上に肴あり、又パンあり。イエス言ひ給ふ『なんぢらの
531イエスの昇天
———————[End of Page 39]———————
今とりたる肴を少し持ちきたれ』シモソ・ペテロ舟に往きて網を陸に曳き上げしに、百五十三尾の大なる魚満
ちたり、斯く多かりしが網は裂けざりき。イエス言ひ給ふ『きたりて食せよ』弟子たちその主なるを知れば
『なんぢは誰ぞ』と敢て問ふ者もなし。イエス進みてパンをとり彼らに与へ、肴をも然なし給ふ。イエス死人
の中より甦へりてのち、弟子たちに現れ給ひし事、これにて三度なり。斯て食したる後、イエス、シモン・べ
ぽさ
テロに言ひ給ふ『ヨハネの子シモソよ、汝この者どもに勝りて我を愛するか』ベテロいふ『主よ、然り、わが
ニひつじあたたび
汝を愛することは、なんぢ知り給ふ』イエス言ひ給ふ『わが圭…羊を養へ』また二度いひ給ふ『ヨハネの子シモ
ンよ、我を愛するか』ペテロ言ふ『主よ、然り、わが汝を愛する事は、なんぢ知り給ふ』イエろ言口ひ給ふ『わ
が羊を牧へ』三度いひ給ふ『ヨハネの子シモンよ、我を愛するか』ベテロ三度『われを愛するか』と言ひ給ふ
を憂ひて言ふ『主よ、知りたまはぬ所なし、わが汝を愛する事はなんぢ識りたまふ』イエろ言ひ給ふ『わが羊
おび
をやしなへ。誠に誠に、なんぢに告ぐ、なんぢ若かりし時は自ら帯して欲する処を歩めり、されど老いては手
ニれ
を伸べて他の人に帯せられ、汝の欲せぬ処に連れゆかれん』是ベテロが如何なる死にて神の栄光を顕すかを示
かあワかえ
して言ひ給ひしなり。斯く言ひて後かれに言ひ給ふ『われに従へ』ペテロ振反りてイエスの愛したまひし弟
さきゆみげよ
子の従ふを見る。これは嚢に夕餐のとき御胸に椅りかかりて『主よ、汝をうる者は誰か』と問ひし弟子なり。
ペテロこの人を見てイエスに言ふ『主よ、この人は如何に』イエろ言ひ給ふ『よしや我、かれが我の来るまで
とどぽほつかかわり
留るを欲すとも、汝になにの関係あらんや、汝は我に従へ』(ヨハネ伝二一章一-二二)
くるしみたしか
イエスは苦難をうけしのち、多くの燧なる証をもて、己の活きたることを使徒たちに示し、四十日の間、し
ばしば彼らに現れて、神の国のことを語り、また彼らとともに集りゐて命じたまふ『エルサレムを離れずし
532
———————[End of Page 40]———————
b
て、我より聞きし父の約束を待て。ヨハネは水にてバプテスマを施ししが、汝らは日ならずして聖霊にてバプ
テスマを施されん』
弟子たち集れるとき問ひて言ふ『主よ、イスラエルの国を回復し給ふは此の時なるか』イエス言ひたまふ
きのぞ
『時また期は父おのれの権威のうちに置き給へば、汝らの知るべきにあらず。然れど聖霊なんぢらの上に臨む
ちからはて
とき、汝ら能力をうけん、而してエルサレム、ユダヤ全国、サマリヤ、及び地の極にまで我が証人とならん』此
等のことを言終りて、彼らの見るがうちに挙げられ給ふ。雲これを受けて見えざらしめたり。その昇りゆき給
ふとき、彼ら天に目を注ぎゐたりしに、視よ、白き衣を着たる二人の人かたはらに立ちて言ふ、『ガリラヤの
人々よ、何ゆゑ天を仰ぎて立つか、汝らを離れて天に挙げられ給ひし此のイエスは、汝らが天に昇りゆくを見
たるその如く復きたり給はん』髪に彼らオリブという山よりエルサレムに帰る。この山はエルサレムに近く、
みちのウたかどの
安息日の道程なり。既に入りてその留りをる高楼に登る。ペテロ、ヨハネ、ヤコブ及びアソデレ、ピリポ及び
トマス、バルトロマイ及びマタイ、アルパヨの子ヤコブ、熱心党のシモソ及びヤコブの子ユダなり。この人々
ひたすら
はみな女たち及びイエスの母マリャ、イエスの兄弟たちと共に心を一つにして只管いのりを務めゐたり。
(使徒行伝第一章三-一四)
この聖書によりますと、四十日間、弟子たちの間に、イエスは現われていたようです。このイエ
スの甦り現象は、ペテロをはじめ弟子たちに、深い信仰と勇気を与え、キリスト教宣布の重大な力
となるのであります。またそれまでは弟子たちのようにイエスをキリストとして崇めることをして
533イエスの昇天
———————[End of Page 41]———————
いなかった、母マリヤをはじめ兄弟たちが、ここにおいて、真実の信仰にすっきりと入っていった
のです。心を一つにしてひたすらいのりを務めていた、とここにも書いてあります。
はりつけ
イエスの甦りについて、種々の話があります。一つは実はイエスが礫になったのではなく、弟が
身代りになって、イエスは日本に渡ってきて、百歳位で亡くなっているというもので、イエスの墓
は日本の青森県にある、と私のところにいってきた老人がありました。これは私も前から聞いてい
た話でしたが、この老人は、私が「イエスである証拠があるのですか」とその老人に好意を示しな
まな
がら、やさしく聞いたところ、その事実を疑ったものと誤解し、怒りの眼ざしをして、声高に、口
早に何かいっていましたが、あまり興奮していっているので、何をいっているのか、さっぱりわか
りませんでした。多くの人々に嘲笑ぎみにあつかわれてきていたので、味方になろうとする私まで
敵と誤解してしまったのでしょう。
もう一つはやはり身代り説で、十字架に掛ったのは、イエスではなく、イエスによく似ていたパ
ウロという弟子であったというのです。そしてこのパウロはその犠牲によって、神霊の世界で高い

位に昇り、後に現われた、ソウロがキリストの光にあって盲になった時、そのソウロに愚りうっっ
て、盲を直し、深いキリスト教信者として、名もパウロそのものを名乗って、キリスト教発展の最
大の使徒となった、というのであります。
534
———————[End of Page 42]———————
そして、この二つの話は、いずれも、肉体的にも難を逃れたイエスが、弟子たちの前に現われた
のであって、別に甦ったわけではない、というのです。
どうもこの二つの話では、やはりキリスト教の神秘性が薄くなってしまいます。ここではどうし
ても、イエスに十字架に掛ってもらい、甦ってもらわぬと困るわけです。それでないと弟子たちの
急速な霊的な進歩や、弟子たちに示す奇蹟に迫力がなくなってしまいます。
一度死んだ師が甦ってきて、自分たちに話しかけ、共に食事をした、というような事柄が、キリ
スト教今日の発展の大きな力ともなっているのです。宗教にはどうしても奇蹟がないと、魅力があ
りません。キリスト教の発展は、イエスの教えの立派さもさることながら、イエスの示した数々の
奇蹟と、イエスの大犠牲ということが基盤となっているようです。ところで、使徒行伝のこの章に
「エルサレムを離れずして、我より聞きし父の約束……」というところがあります。この父の約束
というのは、ヨハネ伝十四章一六節の「われ父に請はん、父は他に助け主をあたへて、永遠に汝ら
と楷に居らしめ給ふべし。これは真理の御霊なり」ということ、また、十五章二六節にも「父の許
より我が遣さんとする助け主、即ち父より出つる真理の御霊のきたらんとき、我につきて証せん」
ということです。
せいれい
キリスト教の人々は、この助け主と聖霊とを一つに解釈しておりますが、それはそれでもよいと
535イエスの昇天
———————[End of Page 43]———————
思います。私の解釈と致しましては、宇宙神と申すのは、大宇宙すべての智慧であり力である大生
命そのものでありますが、そのままの動きが、すべての法則となって運行されてゆきます。宇宙の
法則、生命の法則そのものであります。
ところが、この法則そのものだけでは、迷える人類は救われようがありません。何故かといいま
すと、迷っている、ということは、法則を外れている、ということでありまして、法則そのままに
動いていれば、迷いも不幸も災難も起り得ないのです。しかし、この現象の地球人類には、迷いも
不幸も、災難もあるのですから、この法則に乗せ切ってくれる、なんらかの働きかけがなくては、
えいこう
人類は永却に救われることはないことになります。私はその働きかけを、守護の神霊の加護という
のであります。
宇宙大神は、自らを法則の神と、守護の神とに分けられて、人類の進化を助けておられるのです。
この人類救済の働きを、私は救世の大光明と呼んでおりますし、ヨガなどでは、ハイラーキーとい
っております。聖書でいう助け主とか聖霊とかいうのは、この救世の大光明、ハイラーキーの働き
かけをいうのであります。ちなみに、イエスもこの救世の大光明(ハイラーキー)の一員でありま
す。
人類救済のために働いている聖霊はたくさんおられまして、釈尊、イエス・キリストをはじめと
536
———————[End of Page 44]———————
だいせい
して、今後一番中心となって働く、マイトレイヤーもおり、七大聖と呼ばれる、先頃私のところに
霊的に見えられた、クートフーミi大師とか、ニューハソプシヤーでロシヤの老婆を通して現われ
た、モリヤ大師とかいう方々もおられますし、日本や中国の聖賢たちも、それぞれの場に置いて働
いておられるのです。
これらは地球救済のために働いておられるのですが、他の星々にもこうした聖霊がまた働いてお
られるのです。そしてその星々の聖霊の一部が、宇宙人として地球人類救済の後押しとして、私た
ちに働きかけております。このように、神のみ心は地球をより進化させ、この場に、神のみ心を、
はっきり現わさずにはおかぬ仕組みになっているのです。
そのためのイエスの大犠牲であり、各国聖賢の働きでもあるのです。
537イエスの昇天
———————[End of Page 45]———————
538
聖霊の降臨
さてこの回には使徒行伝二章一-四二から、聖霊の降臨についての弟子の一人が書き残したもの
についてお話しましょう。使徒行伝はパウロを中心にして、様々な弟子たちのキリスト教宣布の様
子やそれら弟子たちの犠牲の有様、予言の成就のさまがしるされています。従って霊現象的なこと
が多くなっています。この二章も聖霊の降臨のことですから、勿論霊的現象が書かれています。
ひとところつどはげ
ひびき
五旬節の日となり、彼らみな一処に集ひ居りしに、烈しき風の吹ききたるごとき響、にはかに天より起り
おのおの
とど
せいれい
て、その坐する所の家に満ち、また火の如きもの舌のやうに現れ、分れて各人のうへに止まる。彼らみな聖霊
みたまニとくにことご
にて満され、御霊の宣べしむるままに異邦の言にて語りはじむ。
けいけんぴとを
時に敬震なるユダヤ人ら天下の国々より来りてエルサレムに住み居りしが、この音おこりたれば群衆あつま
り来り、おのおの鄙が駁難て使徒たちの語るを聞きて騒ぎ合ひ、かつ驚き磐み昏ふ『視よ・この語る者
は皆ガリ・ヤ拶らずや、如何して、馨おのおの生れし国の夢きくか・我等はパルテヤ尽メヂヤ人・エ
ラム人、またメソポタ、ミヤ、ユダヤ、カバドキャ、ポント、アジヤ、フルギヤ、パンフリヤ、エジプト、リビヤ
———————[End of Page 46]———————
たびびとびとびと
のクレネに近き方などに住む者、ロマよりの旅人ーユダヤ人および改宗者ークレテ人およびアラビヤ人な
くにことばみわざまどたがひい
るに、我が国語にて彼らが神の大なる御業をかたるを聞かんとは』みな驚き、惑ひて互に言ふ『これ何事ぞ』
あざけいぶどうしゆ
或者どもは嘲りて言ふ『かれらは甘き萄葡酒にて満されたり』
ここたこえあのすべ
愛にペテロ十一の使徒とともに立ち、声を揚げ宣べて言ふ『ユダヤの人々および凡てエルサレムに住める者
ことにあら
よ、汝等わが言に耳を傾けて、この事を知れ。今は朝の九時なれば、汝らの思ふごとく彼らは酔ひたるに非
すぺ
ず、これは預言者ヨエルによりて言はれたる所なり。「神いひ給はく、末の世に至りて、我が霊を凡ての人に
そそむナニむすめまほろしとしよウ
注がん。汝らの子女は予言し、汝らの若者は幻影を見、なんぢらの老人は夢を見るべし。その世に至りて、
しもぺはしためしたしるし
わが僕、碑女に、わが霊を注がん、彼らは予言すべし。われ上は天に不思議を、下は地に徴を現さん、即ち血
いちじる
と火と煙の気とあるべし。主の大なる顕著しき日のきたる前に、日は闇に月は血に変らん。すべて主の御名を
呼び頼む者は救はれん」イスラエルの人々よ、これらの言を聴け。ナザレのイエスは、汝らの知るごとく、神
よちからしるし
かれに由りて汝らの中に行ひ給ひし能力ある業と不思議と徴とをもて汝らに謹し給へる人なり。この人は神の
みむねあらかわたはりつけ
定め給ひし御旨と、預じめ知り給ふ所とによりて付されしが、汝ら不法の人の手をもて釘礫にして殺せり。然
くろしみうなが
れど神は死の苦難を解きて之を甦へらせ給へり。彼は死に繋れをるべき者ならざりしなり。ダピテ彼につきて
いま
言ふ「われ常に我が前に主を見たり、我が動されぬ為に我が右に在せばなり。この故に我が心は楽しみ、我が
かつたオしいよみ
舌は喜べり、且わが肉体もまた望の中に宿らん。汝わが霊魂を黄泉に棄て置かず、汝の聖者の朽ち果つること
いのちみかおよろこび
を許し給はざれぽなり。汝は生命の道を我に示し給へり。御顔の前にて我に歓喜を満し給はん」兄弟たちよ、
先祖ダビデに就きて、我はばからず汝らに言ふを得べし、彼は死にて葬られ、其の墓は今日に至るまで我らの中
539聖霊の降臨
———————[End of Page 47]———————
くらい
にあり。即ち彼は予言者にして、己の身より出つる者をおのれの座位に坐せしむることを、誓をもて神の約し
せんけんよみがへりよみ
給ひしを知り、先見して、キリストの復活に就きて語り、その黄泉に棄て置かれず、その肉体の朽果てぬこと
よみが
を言へるなり。神はこのイエスを甦へらせ給へり。我らは皆その澄人なり。イエスは神の右に挙げられ、約束
せいれいさ
の聖霊を父より受けて汝らの見聞する此のものを注ぎ給ひしなり。それダビデは天に昇りしことなし、然れど
自ら言ふ「主よわが主に言ひ給ふ、我なんちの敵を汝の足台となすまでは我が右に坐せよ」と。然れば、イス
しかつ
ラエルの全家は確と知るべきなり、汝らが十字架に釘けし此のイエスを、神は立てて主となし、キリストとな
し給へり』
人々これを聞きて心を刺され、ペテロと他の使徒たちとに言ふ『兄弟たちよ、我ら何をなすべきか』ペテロ
くいあらたゆるし
答ふ『なんぢら悔改めて、おのおの罪の赦を得んためにイエス・キリストの名によりてバプテスマを受けよ、
せいれいたまものナベ
然らば聖霊の賜物を受けん。この約束は汝らと汝らの子らと凡ての遠き者、即ち主なる我らの神の召し給ふ者
つすすかく
とに属くなり』この他なほ多くの言をもて謹し、かつ勧めて『この曲れる代より救ひ出されよ』と言へり。斯
きぴい
てペテロの言を聴納れし者はバプテスマを受く。この日、弟子に加はりたる者、おほよそ三千人なり。彼らは
まじわりさいのりひたすら
使徒たちの教を受け、交際をなし、パンを撃き祈祷をなすことを只管つとむ。(使徒行伝二章一-四二)
540
この章などは、深くキリスト教を研究した人でないと、何がなんだかわからぬまま、神の奇蹟を
みせられて、多くの人々が入信したのだなあ、と思うぐらいで読み過ぎてしまうと思います。この
使徒行伝は旧約聖書を読んでいないとわからぬ部分が全編に随分とありますし、いちいちこれは誰
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々の予言だとか、これこれを予言すべしだとかかれていて、教えとして心にしみてくる文章は少な
いのです。前にも申したことがあると思いますが、一人の使徒が役人に殺されたりすると、これは
何々の予言を成就したのである、というようにいちいち旧約の予言に結びつけていて、如何にイエ
せんぶ
スがキリストそのものであったか、イエスの教えを宣布することは、その身を犠牲にしても悔いな
い尊いことであり、すべて旧約聖書の予言を成就するためなのである。というように、イエスがキ
リストであったことを証明しようとして、ことあるごとに旧約の予言をもってくるのは、私たちに
しんすい
は困りものです。イエス・キリストの教えそのものに心酔し、その教えを少しでもよいから行じよ
うとしている、日本の良心的な人々には、何もそんなにイエスが真実のキリストだ、神の右に坐す
ものだ、という念押しはかえってわずらわしいことなのです。
しかし考えてみれば、これは何も日本人のために書かれたものではなく、その頃のユダヤ人やそ
の近辺の人々に書かれたものですから、その点を考慮して日本人は読まねばならぬのでしょう。そ
れは使徒行伝に限らず、いずれも、その頃の時代と国の相違、習慣の相違などを配慮して読むべき
えだは
なのです。仏教などにもやはりそれがいえます。要は教えの根本を吸収すべきで、枝葉のことはす
べて切捨てて、その国、その時代に適合するように行じていったらよいのです。ですから聖書でな
ければ駄目だ、仏教でなければ駄目だ、神道でなければ、というような、一つの宗教が絶対であると
541聖霊の降臨
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思うのは間違いなのです。今自分の住んでいる国において、自分の生活の中で、最も無理なく行じ
られる教えをまず自己のものとしてゆくべきで、無理をして教えを行じねば行じられぬものなら、
もう少し先に見送っておくべきです。私はそういう観点に立って、誰にでも無理なく、今置かれて
いる立場で容易に行じられる教えとして、消えてゆく姿で、世界人類が平和でありますように……
以下の教えを宣布しはじめたわけです。宗教的な対立という程愚かな神のみ心に反するものはあり
だいわ
ません。何故ならば、宗教の根本の教えは、大調和ということだからです。まして、日本は大和の
ひもと
国であり、霊の本の国なのですから、日本人はすべてを統一して調和させる天命をもっているので
す。
しつか
その統一を武力をもっての統一、国々、人々を膝下に敷いての統一と誤り考えたところに日本の
敗戦があったわけで、●それもよい薬になったというより、消えてゆく姿として、日本のためにも世
界のためにも通らねばならぬ道であったのでしょう。
ところで本題に戻りますが、使徒行伝のこの章にペテロ以下十一使徒と出ていますが、ユダがい
なくなったあとの使徒は、ヨセフとマヅテヤが挙げられ、くじ引でマッテヤが選ばれています。こ
しようてんこ
の十二使徒が第一期のキリスト教宣布の中心でありまして、イエス昇天後、常に背後にイエス・キ
へんぼう
リストの力をいただいたペテロの変貌はたいしたもので、強力なる霊力と、説得力は、生前のイエ
542
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ふたいてん
スにも及ぶかと思う程であったのです。イエスの復活を眼の前に見た深い感動が、不退転の信仰を
ペテロに植えつけ、イエス・キリストとの一体観を得たのでありましょう。
各使徒が聖霊と一体になって、諸国語を語った奇蹟に聴衆が驚き、三千人もの信者を得ることに
なるのですが、これは何も神そのものが働きかけなくとも、霊界にいるそれぞれの背後霊が、使徒
れいぱいてきそしつ
たちに働きかければよいわけで、使徒たちは、いずれも霊媒的素質をもった人々であったわけで
せい
す。聖霊というのは或る時は神霊そのものである場合もあり、或る時は、かつてこの世に肉体の生
を受けた人々が、霊界から働きかけてきた場合もあります。
いずれもイエス・キリストが中心にあって、その場、その時々に天使や背後霊たちと話し合って、
使徒に働きかけていたのであります。
今日でも、肉体人間自身が知りもしない、思いもかけぬことを予言したり、当てたりする人々が
はどうけん
かなりいます。いずれも幽体の波動圏が普通人より広い人で、幽界、霊界の波動を受けやすい人な
ので、幽界或いは霊界の働きかけをすぐに受け得る人たちです。肉体人間のでき得ぬことを行なっ
わざ
たから、といって、それがすぐ神のみ業、と思うのは、心霊の世界のことをよく知らぬ人たちのこ
とで、他の霊魂が、肉体を使って物をいい、事を為すことが大分多いのです。イエスの使徒たちの
ように、身心共にイエス・キリストに捧げ尽していたような人々なら、たとえその場で生命を失っ
543聖霊の降臨
———————[End of Page 51]———————
ても悔ゆることがないでしょうが、ただいたずらなる興味本位で、使徒のようになりたいなどとは
思わぬことです。
こま
神界、霊界、幽界のことは、実に微妙な細かい仕組みがあって、その仕組みに順応してゆくには、
せんだつ
優秀なる先達が必要で、みだりに自分勝手な修業するのは大変危険なことです。ちょうど電気のこ
とを知らずにやたらと電気をいじるようなものです。

現在では神霊の世界や、幽界のことを知るのには、宗教の統一法や、心霊科学の霊媒によるより
方法がありませんが、そのうちに、新しい科学が生れて、神霊の世界のことも、幽界のことも、テ
レビに写してみるようにわかる時代が必ずやってきます。それは現在のテレビがはじめてできた

時、まるで嘘のような事実として人々が驚嘆した、それ以上の驚嘆の眼で、新しい時代の科学に接
することでしょう。
使徒行伝に出てくる数々の奇蹟も、イエス・キリストの奇蹟もやがて明らかになってきますが、
にちにちしゆんしゆんけいけん
その前に私共は、常に日々瞬々敬震な心で、神々への感謝と、世界人類の平和を祈りつづける必
せいけんあいた
要があるのです。今日まで幾多の聖賢や道を切り開いてきた犠牲者たちの、愛他の精神によって生
かされてきた、その恩を片時も忘れてはなりません。
一生名も知れず、陰にかくれて、しかも大きな犠牲の道を歩いてきた、キリスト教の信者たちや、
544
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各宗教の先達たち、そして科学や政治の道を切り開いてきた先人たち、その人々の献身によって、
今日の我々があり、今日の世界があるのです。これからの地球の守護は、そして人類の進化は、私
共の手で為さねばなりません。旅行もよしレジャ:もよろしいでしょう。しかし根本精神として、
神々への感謝と先人たちへの感謝、そして世界人類永遠の平和のための心からなる祈りを捧げつづ
けてゆかねばいけません。
私は聖書講義のペンを止むるにあたり、イエス・キリストへの深い感謝と、そして、イエスをキ
せんれい
リストたらしめ、今日のキリスト教発展の最も根本に位置していた、洗礼のヨハネに対して敬虔な
る感謝を捧げるものであります。そしてまた、人間の弱点をはっきりさらけ出した、ユダに対して
も、同情の涙を流すものであります。
そういえば、ペテロもヨハネもマリアもみな懐かしい人々でありました。
(了)
545聖霊の降臨
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