五井昌久著
聖なる世界へ
白光真宏会出版局
ー
影
近
者
著
ぜ磐’チゆ霧り
嚢霜講ガξ惹λ
日水プ桑のギ言9塔ようら
窪ア太箋名め{ う凡
4 蓬一雪夢り.召うこぎe署
ぐ穫鞍ガ・グごうござ」ゑつ
碧ろ吻
序文
聖なる世界に憧れ、聖なる行いをしたいという人は、この世にかなりいると思
います。しかし、一心かけてその世界に昇ろうと思い、聖なる行いを行じようと真
剣になしつづけている人は意外と少ないのであります。
聖なる世界とは勿論、神仏の住んでいる世界であり、神霊方の住んでいる世界で
あります。聖なる行いとは、深い愛の行い、大調和の行い、真善美に徹した行いで
あります。しかし、自我と自我とぶつかり合っている現在の肉体世界においては、
この聖なる世界や、聖なる行いは、どうしても理想として、実際の日常生活から
は、離れがちであります。そこでどうしても、真の宗教の道が必要になってくるの
です。
私の説き、広めている道は、現在の日常生活をいささかも崩さず、しかも生きい
きとさせる、誰でも無理なく行じられる道であります。この道を歩んでいきます
と、内にも外にも聖なる世界をはっきりと確認出来るばかりでなく、その世界に住
めるようになります。
本書においては、私はいろいろの面からそれを書きしるしておりますので、熟読
玩味して下さって、一日も早く道を自分のものとされるよう望む次第であります。
昭和五十一年七月
著者識す
4
目次
序文1
神霊と人間との関係7
神との一体化をめざして23
神の救済力について39
宗教の本質54
真の生命を得る71
i 生命を捨てざれば生命を得ずi
ー
愛について87
頂き直す生活鵬
本心の開発慨
因縁因果をこえる鵬
言は神なりき慨
祈りの力m
祈りと統一について鵬
霊光写真について鵬
装頗有沢由美
5
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人間と真実の生き方
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わけみたまごうしようしゆこれいしゆごじん
人間は本来、神の分霊であって、業生ではなく、つねに守護霊、守護神によって守
られているものである。
かこせ
この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念が、そ
の運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去るのであると
いう強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難のなかにあ
ゆるゆるまことゆる
っても、自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづ
けてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の祈りを祈
りつづけてゆけぽ、個人も人類も真の救いを体得出来るものである。
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ド
秘
神霊と人間との関係
人間は神霊方の末である
神といいますと、キリスト教的に申しますと、天にまします神で、宇宙神一神のように感じさ
せますが、実は神は神道で申すように、一即多神なのであります。すべてのすべてであり、宇宙
の大神である一神が、大宇宙にその働きを広げてまいります時には、多くの神霊として、その光
明を分けまして、各種各様の働きをすることになるのです。
すえわけいのち
そして、人間は、各神霊の窩である、神霊の分生命であるということになるのであります。で
すから、単純な言い方で申しますと、一神の中にすべてがあるということになり、人間も一神の
中にあるわけで、神と一つの者であるわけなのですが、今日のように、肉体界、物質界という現
7神霊と人間との関係
象の中で生活していますと、神とは別の肉体人間として存在しているように、どうしても思われ
てしまいます。
そこで、人間という存在は、実在界においては、宇宙神の大生命の中で、個々の生命として生
きているのだけれども、現象の世界においては、大生命の生命光線を物質界にまで延長して、肉
体人間として、神と離れた独立した存在として生活している、というように、両面的に考えるこ
とができるのです。
8
完全性が現おれてない現在の人間
そして、現在の人間の大半は、この現象面の肉体人間としての自分たちだけしか考えられない
で、実在界の神と一体になっている光明波動そのものであり、生命そのものである、自分という
ものを考えることができないでいるのです。
宇宙神は絶対者であり、完全円満者であり、大調和の存在なのですし、その中に生きているζ
とを自覚している分生命は、神の完全性をそのまま生きている、調和した存在なのですが、物質
界という現象界で生活している肉体人間は、実在界のように神と一つになって、神の完全性をそ
のまま生きている、というのではなく、神とも離れ、肉体人間同志も、皆別々になっている感じ
で、神の完全性が分断され、失われているわけです。そこで、肉体人間は神の完全性がなかなか
現われず、常に不完全な姿が、その生活の中に現われてくるのであります。
ひと
こうした肉体人間を、より完全にするためには、やはり、実在界の人(霊止) のように、宇宙
神のみ心の中に入ってゆくことが大事なのでありますが、この現象界と実在界の問には、種々様
へだたり
々な距離がありまして、簡単に神のみ心に入ってゆくことはできないのです。
大体、肉体人間が、この物質界に住みつくようになるためには、宇宙神と肉体人間との間に、
何段階もの段階がありまして、その段階の順序を踏んでゆかなければ、宇宙神と一体になること
はできないのです。
拙著「神と人間」にも書いてありますように、宇宙神がその働きをするためには、一なる宇宙
神としてでは働きようがないわけで、宇宙神は大生命であり、大智慧、大能力の根源として存在
していて、その力を各種各様に分けて、その働きを示してゆくことになるのであります。
タカミムスビノカミムスビノ
神道で、宇宙神、天御中主大神が、その働きを、高御産巣神、神産巣神、という陰陽二神に分
れ、その二神の神が、種々の神々を産み出してゆく、ということをいっておりますが、一なる宇
9神霊と人間との関係
宙神が陰陽に分れ、各種の神々と分れて、はじめて、種々の世界が生れてきたわけで、この肉体
界は、様々な神界、様々な霊界が生れ、その長い歴史の中から、各星々の世界が生れ、幼い生命
体から次第に進化して、地球の人類では及びもつかぬような、文明文化の進んだ、星の世界がで
きているわけなのですが、この事実は、あまりまだ地球人類の間では知られていないのでありま
す。多くの星の中では、私共の地球人類は、まだ低い’文化の人類なのですが、多くの人々はその
事実を知らずにいるのです。
ジェット機や、宇宙船や、テレビなどというものをつくり出した秀れた科学力は、確かに、地
球人類の文化の高さを示しているようですが、そういう秀れた科学力の反面、核爆弾をはじめ、
多くの殺りく兵器をつくっている精神面の幼さは、地球人類の文化性の平均点を非常に下げてし
まっているのです。折角進化に向おうとして発明され、発見されている科学力を、一挙に、自殺
行為に等しい、強烈な破壊兵器で、無に帰してしまおうという精神の幼さを地球人類はまだ持ち
つづけているのであります。
1Q
幼い精神状態を正すことが先決
現在の地球人類が、進化した先輩星の世界のようになるためには、先ず、その幼い精神状態を
正してゆかなければならないのです。自分たちが滅びるのは嫌なくせに、他人や他国を平気で減
ぽしてしまおうという、その幼い精神状態は、進化した星の人々からみれば、危険でみていられ
ぬような状態です。そこで進化した星の人々は、常に地球の監視をおさおさ怠らずにいるのであ
ります。それが空飛ぶ円盤の出現であり、宇宙人の時折りの出現であったりするのです。
この宇宙はあらゆる星々の調和によって保たれているのであります。地球なら地球という一つ
の星の混乱は、そのまま宇宙の調和の波を乱すことになるので、その波の調整のために、秀れた
宇宙人たちは働かねばなりません。
地球は宇宙の一つの集団
この地球を地球だけのものとして、運行してゆこうとする時代はすでに過ぎ去っているので
す。地球も宇宙の一員として、宇宙の大調和の方向にその歩みを運んでゆかねばならぬのです
が、その調和への方向を、地球人類の大半は知らないでいるのです。地球人類だけが、この宇宙
における唯一の人類のように想っていることなど、大変な誤りなのであります。
11神霊と人間との関係
地球人類を大宇宙の一つの集団として考える時代に今はなってきています。人間が肉体人間だ
けでなく、幽界にも霊界にも神界にも、その生命の働きをしているのだ、という、肉体という物
質、五感で感じる存在以外の人間の存在を、今日では嫌でも考えなくてはいけないのです。それ
と同時に、人類というのは地球だけに存在するのではなく、宇宙の星々に存在していて、地球人
類よりはるかに高度な秀れた科学力を持っている宇宙人たちが宇宙調和のために活躍しているの
であることを知らねばならぬのです。
しかし現在の人間は、この両方共にあまりよくは知っていないし、全然知ろうとせずに否定し
ている人々も多くいるわけです。人間が神を知ろうとする場合には、どうしても縦に幽界、霊界
を通って神界に至り、自己の本体と神との一体化を知るのでありまして、幽界の存在も、霊界の
存在も知らずして、神を知るということはないのです。或る一部の宗教者のように、人間の死後
の生存を否定していながら、肉体のうちなる仏との一体化を計ろうとしても、それはとても駄目
なことで、肉体のうちなる仏といっても、粗い肉体波動から、幽波動、霊波動という微妙な波動
の世界に、人間の想いが昇華していって、神界という霊妙不可思議なる微妙そのものの光明波動
の世界に到達するのであります。
12
その階層を幽、霊の二界で代表させておりますが、もっともっと複雑なる様々な波動の世界を
通らずに神界に達することはできないので、肉体界の他に人間の世界は存在しないなどという誤
った宗教観で、神我一体、仏心一如になることはできない相談なのです。
彼岸には達せぬ唯物論者の運動
ですから、神も仏も否定している、唯物論者の人類救済運動などは、いくらその運動に善意を
もち、身心をかけて打ちこんでいても、それは間違ったフォームで泳いでいるようなもので、と
ても彼岸に到達することはできないのです。何故ならば、その人たちの頭には、肉体人間の幸福
ということだけがありますので、肉体に附属する精神だけの働きになってしまいまして、肉体よ
りもっと高度な微妙な世界に生きている、精神の本質の喜びを知ることもできなければ、その精
神の高さに到達することもできず、七十年八十年という限定された個人生命の喜びだけを人々に
与える、ということに止まるのです。そして、肉体人類という限られた範囲の中で、限られた物
質や、限られた自由という中で、相反する範囲の人々が、自分たちのやることだけが正義である
と想いつめてその限られた幸福を争い合い、奪い合って生きてゆく、ということを繰り返してゆ
13神霊と人間との関係
くことになるのです。
唯物論共産主義の運動などはそういうことになるので、活動している人々が立派な善意の人々
でもあったとしても、神々の大きな広い眼でみ、宇宙の大調和の本質からみて、誤った生き方と
なるのであります。すべての精神、すべての物質が、みな宇宙神のみ心から生れてきているので
あることを知ろうとしない運動はすべて、軌道を外れた運動というべきなのです。
肉体人間という物質的に限定された人間観で、この世の幸福や平和を追究していったのでは、
肉体人間というものは、相対的なものであり、それぞれの家族や集団があり、それぞれの地位環
境が異なっているのですから、そこに自分たちの思想や集団を守ろうとしたり、力を増大しよう
としたりしての争いの想いが生れてくるのです。共産主義でいえば、一般民衆、プロレタリアー
トの権益を守ろうとして、地位や金力のある者たちを敵視し、この人々を下に引きずり降そうと
します。ブルジョアとそれに組みする者たちと、プロレタリアートの戦いということになりま
す。
そこに必然的に、恨み合い、憎しみ合いが生れ、地球の調和は乱れてゆくのであります。これ
は共産主義運動のもつ宿命的なものです。14
肉体人間という相対的な世界で、しかも限定された物質や、限定された自由の中では、どうし
ても物質的な損得や、地位の上下というものをなくすことはできません。例え共産主義社会にな
っても、個人個人の能力の相違によって、収入や生活の差もでき、指導者と被指導者という地位
の上下ができてくるのでありまして、ここに争いの種はつきないのであります。
まして、資本主義陣営と共産主義陣営という対立世界におきましては、あらゆる面が対立し
て、争いの種はつきることはありません。やがては大きな戦争を引き起こしてしまいます。唯神
論者のように、神のみ心という基盤に立っておりますれば、枝葉に種々の差はありましても、基
盤においては一つなのですからやがては一つになることができます。しかし唯物論者の場合は、
立っている基盤が限定された物質の中にあるのですから、いつ迄たっても、相対的な立場で、争
いのつづく不安定な生遂方になってしまうのです。
ですから、真の安心を得、真の平和世界をつくるためには、人類の基盤を、すべての能力、す
べての存在の大半である、宇宙神の中におかなければなりません。人類の智慧能力や、物質の存
在を、肉体人間世界に付髄する範囲と限定してしまっていることが誤りであることを、入類は多
くの苦しみの中で悟ってゆくでありましょうが、私共は一日も早く、苦しみが少しでもすくなく
15神霊と人間との関係
なるように、神と人間との一体化を計っているのです。
16
人間が神々につながるために
さてここで、宇宙神と人間との間の諸々の神霊の話をしなければなりません。唯一絶対なる宇
宙神の働きの面として各種各様に分れている神霊方は、それは数多くいらっしゃるのですが、肉
体人間の世界のように、一つの肉体は一人の人間というように限定されてはいないのです。ここ
のところが、神霊の話をする時のむずかしさなのであります。
肉体人間の習慣からして、人間というものを、五尺何寸何貫という物質的の中で考えてしまい
ますが、この考えが、神霊の世界、実在の世界を知るためには、大きなマイナスとなるのであり
ます。
例えば、各個人に守護神がおり、正副として守護霊が三体以上はいらっしゃる、という説明を
しますと、それでは地球人類が三十数億とすれば、百億以上の神霊が存在するわけで、神霊の世
界が一杯になってしまわないか、というような質問がまいります。肉体人間の考えでは習慣的
に、物質体の形をもった神霊の姿を想像してしまうわけなのです。
ところが、神霊の存在というものは、太陽を宇宙神とすれば、その光線のようなもので、その
形で場をふさぐようなものではなく、その存在そのものが、他を生かしてゆく、といったものな
のです。そして神霊の光明(線) の末が人間である、ということになるので、守護の神霊を便宜
上、一体とか二体とか申しますが、肉体人間の想定するような体ではなく、一瞬にして諸々にそ
の光明を発し得る、自由自在な、光明波動そのものなのであります。
ですから、或る守護神は、Aという肉体人間の専属の守護神でありながら、B、Cの人間の専
属の守護神でもあったりするのです。これは肉体人間の物質的考えではとても考えられないこと
ですが、形を考えず、光明波動と考えれば、なんとなく肯けることでしょう。
この間の消息を、古事記などでは、何々神又の名を何々神といって、一つの神霊の存在がその
時々によって、種々の名に変って、違った存在のような働きをしているのであることを説いてお
ります。
尤も肉体人間にしても、一人の男性が、妻にとっては夫であり、子供にとっては父親であり、
弟にとっては兄である、ということにもなるので、神霊の場合は、肉体人間のように受身の立場
でなく、神霊のほうが能動的な立場でそういう働き方をするわけなのであります。
17神霊と人間との関係
そこで、肉体人間の人口が三十数億になれば、守護の神霊は百億以上になる、というような肉
体人間的考えでなく、守護の神霊そのものも、宇宙神のように、一即多神という現われ方をする
のである、と考えて頂きたいのです。神霊の世界のことは、肉体人間の考えの及ばぬことだらけ
で、神霊の世界に入ってみて、はじめて成る程、成る程と、感嘆し、尊敬しということになるの
で、それは肉体人間的に考えれば、複雑にして微妙な働きの世界なのであります。
18
守護の神々に感謝の心をつないでゆく
そこで、一般の肉体人間側と致しましては、そんな微妙な、複雑な神霊の世界のことはわから
ないので、自分に一番身近な、祖父母とか、父母とかいう先祖的な霊人に、常にその守護への感
謝を捧げ、自ずと高い神霊の守護につないで貰うことがよいのであります。祖先の中には必ず、
その人の守護霊さんがいらっしゃるのですから、それを一口に守護霊さんありがとうございま
す、という感謝の言葉として守護神さんありがとうございます、に感謝の心をつないでゆくので
あります。
守護神さんの中にもその力の強弱、地位の高低というものがありまして、これは宇宙神の分れ
として、宇宙神の中心の働きに近いところにあるものを上位とするわけで、人類世界への働きか
けとしては、直霊という存在がその中心となり、そこから、各守護神が生れ、守護霊が育てられ
てゆくわけなのであります。
宇宙の運行は、宇宙神の全能力、大生命エネルギーを働きの源として、各神々が、それぞれの
担当をもって、その天命を果してゆくのですが、今日までの地球人類は、地球人類だけの神々を
考えていて、といっても、神々を考え、尊敬していく人々はよいのですが、神々などを考えず
に、肉体人間という自分たちの智慧能力の他のことは考えられない、という幼い人々も多いので
す。
ところが、神々というのは、単に地球人類だけのものではなくて、宇宙のあらゆる星辰に存在
して、各自の小宇宙を進化させているのであります。金星なら金星、火星なら火星に、各自中心
の神が存在して、地球と同様に神々と分れ、その末に人類が存在しているのです。そして、地球
よりはるか先輩星は、その人類の一人一人が、すでに、地球人類の守護霊、或いは守護神といっ
た神霊方と同等の力をもっているのであります。
そして一番宇宙神に近い神霊の世界には、地球の中心神霊や高い神々もいらっしゃいまして、
19神霊と人間との関係
それら先輩星の中心神霊や高い神々と、同等の格で大宇宙の運行について、神計りに計り給う
て、それを各神霊に伝えるのであります。先輩星の進化した人類は、自分たちが、他の星々の進
こう
化の手助けのために働くということはあっても、自分たちが、自分たちの業で、神々に苦労をか
けるということがありませんので、神々は自由自在に、宇宙運行の天命のために働きつづけるこ
とができるのですが、地球人類の場合は、肉体という物質体に把われる想いが多ぐて、宇宙運行
を妨げる業の波動に巻きこまれ、守護の神霊をはじめ、各神々の天命の道の邪魔になるような行
為をしているわけなのです。そこで、進化した先輩星から派遣されている、進化の遅れている星
々の援助をする役目の宇宙人たちが、種々様々な方法で働きかけてきているのでありまして、地
球にも昔から働きかけてきているのです。
今日のように自らを滅ぼそうとする程の核兵器や科学兵器の実際使用を阻止しようとして、そ
の力を大きく働きかけてきているのであります。これからはますます空飛ぶ円盤などが、多くの
人々の眼に触れてくることでしょうが、私共へは大調和科学の智慧や知識をテレパシー的に教え
てきているのです。私共は、宇宙人のそうした援助を受けてもう十五年ぐらいになりまして、着
々と宇宙からの大調和科学の知識が積み重ねられていっているのです。
20
地球人類の現在のように、唯物的方法で、各国が、強大な破壊兵器をもちながら、平和な世界
をつくりあげようとしても、とても無理なことは、良識者であれば、はっきりわかっているので
ありますが、真に世界平和を実現する方法を知らぬので、核兵器全廃運動などで、その気持を現
わしているのですが、お互いの国が、他より自国のほうが物質的に優位に立ちたい、この地球に
おける権力を持ちたいと思っているのですから、武力の優位を自ら放棄するとは考えられぬこと
です。
それよりもかえって、核兵器以上の兵器を生み出そうとさえしているのです。ですから、世界
平和をつくり出そうとする善意の人々が、なんらかの、各国の権力欲や物質欲を抑え得る、或い
はそういう欲を消滅させる方法を考え出さなければ、善意はあっても、力がないことになり、地
球を滅亡の方に追いやってしまうことになります。
善意の人々が平和の力をもつときだ
時期がここまで押し迫ってまいりましては、もはや肉体人間の智慧能力だけでは、もうどうに
もなりません。資本主義だ、共産主義だなどという主義運動などでも、どうにもなりません。各
21神霊と人間との関係
大国の権力も、核兵器やその他兵力も、その力を喪失してしまう程の大調和の力、平和の力を、
平和をつくろうとする善意の人々が、その手に持たなければならぬのです。
そういう力を、私共は神々から頂こうと想っているのです。私共に働きかけている救世の大光
明プラス宇田天使の働きは、やがて大きくその成果を開いてゆくでしょうが、その大成果を得る
日の一日も早からんことを念ずるならば、一人でも多くの人々が、神々の人類救済の愛の心を信
じ、神と人間との間をすっきりとつなげる、世界平和の祈りを実施して頂きたいと思うのです。
神々の愛の心による、地球人類への救済の力と結ばぬ限り、地球の滅亡は近いと知らねばなり
ません。そのための世界平和の祈りであり、各神霊や宇宙天使への感謝の祈りなのであります。
祈って祈って祈りつづけて、神我一体の人々を一人でも多くつくってゆきたいものです。
22
神との一体化をめざして
信仰のポイント
神様のことについては、種々な宗教書が、それぞれの角度から、かなり事細かに説明、解説し
ておりますが、書を読んだだけでは、なかなか神様の実体を把握することはできません。
そこで、種々な修業をして、身体ごとぶつけて、神様を知ろうとします。そして、そうした努
ヘヘへ
力の結果、かなり神様のことがわかってまいります。しかしそれとても、かなりの程度で、神様
の実体を把握するというところまではゆきつきません。
神様は生命の親様で、有難いのだよ、と教わって、その言葉をそのまま信じて、朝な夕なに、
素直に、真心こめて、神様に感謝の生活をつづけているような、素朴な人は、頭で神様を知ろう
23神との一体化をめざして
としたり、身体をぶっつけての修業で、神様の実体をつかもうとしている人より、簡単に苦労な
く、神様の実体をつかんだ生活をしてゆくのでありまして、ここのところが、宗教信仰のポイン
トになるのであります。
神様は生命の親様で、すべてのすべての力で、有難いのだよ、と教わって、それがそのまま、
なんの抵抗もなく、素直に心に入って、神様にすべてをお任せした気持で、感謝全託の生活に入
ってゆけるような人は、真実に幸せな、神の子そのままの人なのでしょうが、そうなるために
は、過去世からのたゆみない修業が、その土台になっていたに違いないのです。
頭で知るより先に、心が深く知っているということは、どうしても過去世からの修業の結果に
よることで、上根の生れ性なのです。そしてこういう人は意外と、地位の低い人や、学問知識の
少い人に多いのですから、社会的には力のない人に多いのです。
近来は殊にそうなのですが、頭で理解しなければ飛びこんでいけない、という人が多くなっ
て、宗教のように、眼にも手にも触れない、神というような存在を知ることが、非常に不得手に
なってきているのです。何事につけても頭では理解できる、しかし、実際には行えない。そうい
う立場で生活している人が大分おります。
神事などでも、眼にも手にも触れない神様にお任せする、ということがなかなかできないが、
そのくせ、神様は大生命で、自分が赤ちゃんになる前から生命として存在している、ということ
など、頭ではよく理解しているのです。
天の理がすーうと心に沁みこんできて、その心の通りに身体が動き、生活がそうした身心にそ
ってなされてゆく、そういう人は実に幸せな人なのですが、学問知識のある人や、考えぐせのあ
る人は、このすーうと天地を通ってゆく光の波動を妨げてしまう、とどこおりの想いの波を心の
中にもっているのです。そしてそれと全く反対の人は、神様といえば、なんでもかんでも有難が
って、お猫様でもお墓様でも、お狐様でも、ご利益を叶えて下さる方なら、何様でも神様として
たぐい
お詣りしよう、という類の人がおります。この人々は物の理というものを考える習慣をもたない
人々で、なんでも単刀直入に実行にうつす、生活力旺盛とでもいう人なのでしょう。
心霊技術者と真の宗教者
ここでは宗教に関心のない、神の存在を否定する人はのぞくことにして書いてゆきます。
世に宗教者といわれる人に三種類あります。一は宗教技術者といいますか、心霊技術者といい
25神との一体化をめざして
ますか、いわゆる霊能力はあるが、真に神のことは知らない人々。
二に神の実体把握に真剣に取り組んではいるが、霊能力に劣る人。
三に、神の実体をかなり把握しながら霊能力も秀れている人。というこの三種類です。
神の実体を把握しながら、人格が低いということはありませんので、真の宗教者は、愛も深く
真の心も深い人に違いありません。しかし人格が高いということと、霊能力のあるということと
は別のことなので、宗教的に深い高い境地にあっても、当て物とか、病気直しとかいう霊能力の
少い人もあります。その反対に人格は低劣なのに、霊能力の秀れた人もあります。私はこういう
人を、心霊技術老と呼ぶことにしております。
こういう人は真の宗教者ということはできませんが、そういう人がかなり多くて、その中で
は、多くの人々を集めた、大集団になっているのがあるのです。自分の想っていることを当てら
れたり、そこに存在しない人の風貌をみているようにいわれたり、過去を当て未来を予言したり
すると、その人を偉大な人物として尊敬する気持が起るもので、そういう人の下に集まる信者は
多いのです。新しい宗教団体というのは、たいがいこういう教祖が中心になって大きくなってゆ
くものです。
26
●
それはそれなりに、役目を果しているのですが、その人の人格が低いと、折角のそうした心霊
技術を、自己の権威力の増大のほうにもっていったり、金もうけのためにつかったりするので、
ヵルマ
神のみ心を離れてしまう結果になり、つき従ってゆく人も、次第に業の深い渦に巻きこまれてい
ってしまうことになります。
人間に宗教が必要なのは、あくまでも、神と人間との一体化を計ることにあるので、人格が神
のように広く高くなることを目的として宗教の道を進むことにあるのです。ですからいかなる宗
教的心霊技術も、人々を神のみ心の愛と真のひびきから遠ざけてゆくようなものであったり、人
間に神の子としての尊厳さを失わしめ、他の力にすがって生きてゆく、という弱々しい心に仕立
ててゆくようなものであったら、その技術者は指導を誤っているということになるのです。
肉体人間というものは心弱いもので、常に肉体生活の安全性を確保しようとして、汲々として
います。家内安全、商売繁盛、給料の値上り、役目や地位の向上、と願う想いは、常に自己や自
己の家族の肉体生活の安全性にあります。
お互いに肉体をもっている限り、こうした想いも無理からぬことですが、皆がこんな気でいた
ら、人類の進化もなければ、地球の存続もできません。お互いが自己や自己にまつわる人々のみ
27神との一体化をめざして
の安全を願っていることは、この世のように相対的な立場のところでは、どうしても、ともすれ
ば、利害の対立が起ってきます。使用者と使用される側、資本家と労働者、売る側と買う側、商
売仇、会社対会社、国家対国家、民族対民族というように、自己の権益を守るための対立抗争が
次々と起ってきます。現に今、世界中が、自国を守ることで、他国との対立をよぎなくされてい
ます。これは世界大戦争の基になります。
それに加えて、現在は地球が大宇宙の流れに調和してゆくための、地殻の変動ということもあ
りまして、一人一人が、ロハ単に自己の肉体生活を守るための努力だけでは、とても地球人類の存
続は無理である、というところまで追いこまれているのであります。
28
一番大事なこと
ここまで追いこまれてきましたら、どうしても、大宇宙と地球との関係を、人類ははっきり知
らなければならなくなります。大宇宙の中にあって、地球がどういう立場をしめているのか、ど
ういう状態で存在しているのか、ということを知らなくては、今後に対処してゆくことができま
せん。
こういう大きな深い根本のことを、人類の現在の頭で、どうして知ることができましょうか。
現在の科学でも哲学でも、学問と名のつくものでは、まだとても、その片鱗を知ることよりでき
ません。
そこにはじめて真の宗教の必要が、人類全体のものとして生れてくるのです。個人個人が家内
安全、商売繁盛と祈っていても、いつかは、家内の誰かが、病気もするでしょうし、死ぬことも
ありましょう。意味もわからない神様詣りをしていて、一体死後の生活をどうしてゆくのか、と
いうことです。肉体生活だけのことを考えての宗教入りなどは、本当は実におかしなことなので
す。
ここで大きなことを、はっきり申し上げますと、一番大事なことは、大宇宙の調和を保つため
に、私ども地球に住む人類の生き方が、非常に重要なのである、ということで、個人個人の生き
方も、すべて、大宇宙の調和に協力する、地球人としてなされなければ、その価値をもたないと
いうことになるのであります。
一人一人の肉体生活の安全対策のための宗教入りや、只単なる心霊技術者の指導者ぶりなど
は、それが、神の大調和のみ心に触れていない限りは、取るにも足らぬ、消えてゆく姿的努力に
29神との一体化をめざして
過ぎないことになるのです。
人類は、肉体的にこうして生活している間に、神のみ心と自分たちの心の間隔を少しでもちぢ
めておく必要があるのです。大宇宙神のみ心は、すべての調和の根源にあって働いておられま
りん
す。そして、大宇宙神のみ心み力を分けられた神々が、それぞれの立場で、宇宙の経論に当って
ちよくれいわけみたま
おられるのであり、人間は直霊の分霊として、肉体身をもって働いているのであります。ですか
ら人間は、肉体身にありながらも、いつも本心は直霊の中にあり、大宇宙神の中にあるのであり
ますが、その実感をどこまで体得できるかが問題になってくるのです。
神(直霊) としては、人間の内部にいながらも、真理をわからせようとして、自らが分れて守
カルマ
護神ともなり、守護霊をつくって、外面的に、人間に智慧を与え、力を与え、業から守っている
わけで、肉体人間は、神霊に守られながら、自己の天命を完うしてゆくようにつくられてあるの
であります。それなのに人間は、肉体身に把われきってしまい、神のみ心を離れて、勝手に肉体
身の安全性だけを考えて、行動するようになってしまったのです。そこで、神と人間との間隔が
次第に離れてしまい、遂には神など存在しない、という唯物論まで生れてきたのであります。
特に神という名で呼ばなくとも、大自然でも大生命でもよい、肉体人間の他の大きな根源の力
30
に崇敬の念をもっている、ということが人間にとって大切なことで、なんでもかんでも肉体の人
間の力で出来るし、やり遂げなければいけない、という、肉体人間以外の智慧ある存在を全否定
している、という生き方は、全くの自己限定で、大宇宙の調和の波に乗って生きてゆくことので
はず
きない、軌道を外れた生き方なのです。
自我の放棄
わけいのち
肉体人間として生きている自己の生命は、神の大生命の分生命なのだから、常に大生命からの
智慧能力をいただきながら、天命を完うしてゆかねばなりません。そのためには、肉体人間とし
て肉体生活に執着しているために起る、様々の想念を常に消し去っておかねばならぬ、そこで、
神様のみ心の中で、そういう想いを消していただこう、神様との一体化を祈りつづけよう、とい
うような生き方をしてゆくことがよい、と私はいうのであります。人間は肉体人間としての無力
感を感じることが当然なので、肉体人間では何事もなし得ない、という想いをはっきり表面に意
識して、改めて、人間を生み育てていて下さる、大きな力に真向ってみるとよいのです.
がりき
一度肉体人間の能力の限界を、はっきり認識しないと、どうしても、我の力みになって、自己
31神との一体化をめざして
の運命を損い、人類全体のマイナスをつくり出していってしまうのです。ですから昔から宗教的
言葉としていわれているように、自我を放棄し、全託の気持になることが第一なのですが、それ
がなかなかできにくい。そこで必要になってくるのが、日々のたゆみない祈りの生活ということ
になるのであります。
神に全託して改めて踏み出した自己の力と、小我の中で生きていた頃の自己の力とは、まるで
違うことを、私のように体験している者には、実にはっきりわかるのです。
人類は今後好むと好まざるとにかかわらず、神のみ心に一歩でも深く近づいてゆかねば地球を
滅亡させてしまうことになるので、一日も早く、神のみ心の中心に近づき、大きな力を地球人類
のものとしなければならないのです。
普通一般の宗教信者のように、自分というものが、肉体身としてはっきり別にいて、神様は自
分の外の高いところにいる、といったような在り方では、もう駄目なので、ひと想いに、神様の
み心の中に、自分全体を投げ入れてしまう、一度神様にすべてをお返えししてしまう。そして改
めて、日々瞬々、神様からすべてを頂き直して、自己の生活をしてゆく、という程の宗教態度
に、みんながなってゆかなければ、地球のこれからの変化についてゆけなくなってしまうので
32
す。
生命の本源の世界から
キリストの全託の教え、釈尊の色即是空空即是色の教え、老子の無為の教えが、今こそ全く切
実なものになってきているのです。老子の道を受けついだ教えを説いているような荘子の教えの
中に、次のようなのがあります。
がんかいえき
顔回曰く、「回益せり」と。仲尼曰く、「何の謂そや」と。曰く、「回、仁義を忘れたり」と。
ままみ
曰く、「可なり。猶ほ未だしなり」と。他日復た見えて曰く、「回、益せり」と。曰く、「何の
謂そや」と。曰く、「回、礼楽を忘れたり」と。曰く、「可なり。猶ほ未だしなり」と。他日復
しゆくまみ
見えて曰く、「回、益せり」と。曰く、「何の謂そや」と。曰く、「回、坐忘せり」と。仲尼楚
いすしりぞ
然として曰く、「何をか坐忘と謂ふ」と。顔回日く、「肢体を堕て、聰明を瓢け形を離れ、知を
よみ
去り、大通に同ず。これを坐忘と謂ふ」と。仲尼曰く、「同ずれば則ち好するなきなり。化すれ
なんじしりえなんじ
ば則ち常なきなり。而、果してそれ賢なるか。丘や請ふ而の後に従はんことを」と。
仲尼とは孔子のことで、顔回とは孔子の最も高く評価している弟子ですが、老子の無為の教え
33神との一体化をめざして
の系統の荘子が、心の正しさを形式の上でも礼義として行うことを教えていた孔子のことを書い
ているのは面白いことです。
この意味を易しく解説しますと、顔回が或る日孔子に、「私は実に有益なことをしました」と
いうので、孔子が、それはどういうことかと尋ねますと、「仁義、仁義といつも把われていまし
たが、今はその把われが無くなって、すっきりしました」顔回がこういいますと、孔子は、「そ
れはよい。しかし、まだまだそのくらいでは駄目だね」といいます。
また暫らくたった日に、顔回は孔子に今度は「私、今日では礼楽への把われもなくなりまし
た」といいますと孔子は、「それは実によい。しかし、まだ足りないな」といいます。
次に孔子に会った時「私は坐忘しました」と顔回がいうのです。孔子は顔回の言葉の中に素晴
しゆく
しい高いものを感じて、想わず楚然として、「坐忘とはどういうことか」と問いますと、顔回は
「心が形にありながら形を離れ、知性を離れ、すべての把われから解き放たれて、本心そのまま
になりました」と申しますと、孔子は大いに感嘆して、「生命の本源の世界に通ずれば、よいに
きまっている。本源と一つになれば自由自在だ。賢なる生き方である。そんな素晴しい境地にな
ったなら、私も顔回の後についてゆきたい」といった、ということです。34
孔子のように、学問知識の深い人でも、肉体人間の学問知識よりも、すべてを放って、本源の
世界に自我を投入してゆくことのほうが、高い深い生き方になると、顔回の言葉に感嘆したので
す。人間の真実の生き方は、どうしても、肉体人間の想念知識というものを、一度離れきって、
生命の本源の世界から、瞬々刻々の生活をいただいてゆく、という、そういう生き方になること
なのです。
肉体人間としての自我を神様に投入しきる、つまり帰一しきったところから、業生をぬけた人
類の世界がはじまるので、肉体人間を先に立てて、足りないところは神様に助けてもらおうなど
という、神様と自分とを別々の力とみているような信仰では、現在の地球の難関を乗りきってゆ
くことはできません。
まか
心も体もすっかり神様にゆだねきって、神様へのお任せの境地から、日常茶飯事の置かれた立
場で全力を出して生きるということが大切なので、神様にお任せした立場でいますと、肉体人間
として限界である、と思われている能力以上の力が、はっきり出てまいり、生活が思うように発
展してゆくのであります。
35神との一体化をめざして
36
神との一体化を
へだ
なんにしても、神様と自分との間隔を隔てていてはいけません。神様を自分のほうにひき寄せ
ることはできませんから、自分のほうから神様の中に入ってゆくより仕方がありません。なんと
しても、神様と自分との間隔をつめて、神様と全く一つになる迄近づかなくては、地球人類の運
命は駄目になってしまいます。自分は自分自身としても、地球人類の一人としても、神様の力を
この地球界に導き出さなくてはいけないのであります。
神様といっても、つかみどころがないでしょうから、神様のみ心の現れと、自分の心とを一つ
にしてゆくことによって、神我一体になってゆきます。神様のみ心は、愛と真と美でありますか
ら、そういう心を出しつづけ、行じつづけてゆけばよいのですが、なかなかそれがむつかしいの
で、その代わりに、神様のみ心を代表して現わされた、人類を愛するひびきを、人類側で受けて
生れた、世界平和の祈りのような、人類愛の祈りの中に、日々の生活を乗せて生きてゆくことに
するのがよい、と私は皆さんにすすめているわけです。
世界人類が平和でありますように、みんなの天命が完うされますように、と守護の神霊に感謝
しつづけてゆく生活は、いつかしら、荘子のいう坐忘と同じように、肉体人間としての想念意識
から、神の子としての大きな広い立場に自己を置くことになるのです。世界平和の祈りは、神と
人間との距離を極端に縮めて、神我一体の境地にまで高め上げる道となるのです。
なんにしても、神を遠く離してはいけません。神様は、人間の内部にも光り輝いていますし、
外面的にも充ち充ちている全存在です。人間は神の大きな光の中で生かされているのですから、
生かされている生命を充分に活躍させて生きねばなりません。それには、神様のみ心の近くにい
て、神様の力を充分にそそぎこんでいただいて、活躍することが賢明なわけです。
こう
肉体人間が神を離れていて、如何に利巧ぶっていても、地球滅亡の方向にむかって進むだけ
で、神の国をつくるなんの助けにもなりません。今こそ、人類のすべてが、神のみ心を中にいた
だいて、心を合わせて地球の運命を改善してゆくべき時なのです。神を離れている想いが争いの
想いとなり、天変地変の波ともなっているのです。
神様ありがとうございます。こんな簡単な一つの言葉がどんなに人間のために役立つか、やっ
たことのない人は、一つためしにやってみて下さい。この一言の中で、人間は知らないうちに神
との一体化を成し遂げてゆきます。
37神との一体化をめざして
その一言を押し進めてゆけば、自ずと、世界平和の祈りになってゆきます。何事を成すにも世
もとい
界平和の祈りを基にして、やりつづけてまいりましょう。神との一体化をめざして、神の国誕生
をめざして、私どもは地球人類の浄化向上のために、生きつづけてゆくのであります。
38
神の救済力について
生けるものすべて神のみ力
神について、人々は種々なことを考えるわけですが、無神論者のように、神という文字や言葉
は否定しながらも、実際は神の力の中で生かされている人々もいるわけです。
肯定とか否定とかを超越して、神は厳然としてこの大宇宙に存在するのであり、神の力なくて
は、生きとし生けるもの、すべての存在は無くなってしまうのでありますのに、無神論者や唯物
論者は、神という言葉や文字に把われて、これを否定するのであります。何故神という名を否定
するかといいますと、無神論者、唯物論者は、肉体人間以外に智慧能力のある、人間の運命に関
与できる存在を否定したい心をもっているからです。それは、この地球世界のことは、自己の運
S9神の救済力について
命をも含めて、自分たち肉体人間の力のみにおいて、運行させてゆきたい、させるべきである、
と強く思いこんでいるからなのであります。
そこで、神という、大きな智慧能力を想像させる存在は否定したくなるのです。しかし、自然
というような、智慧能力を、そこに認めなくともすむ、人格を想像する必要のない自然現象とし
ての動きは、そのままその働きを抵抗なく認めて容認してゆくわけです。
神と呼ぽうと、自然現象といおうと、その働きの奥にある、大宇宙の秩序を保ち、宇宙の調和
を維持してゆこう、という大智慧とその働きをなさしめる能力とは、人間を生存させている根元
の力であることに変りはありません。
大体人間のような智慧能力をもった、創造力をもった生物が、無智慧、無能力なる世界に突然
生れてくるはずがありません。神と呼ぼうと自然といおうと、呼名はどうでもよいのですが、肉
体人間を超えた、大智慧、大能力をもった存在或いはそうした世界の力で生れ出でたものに相違
ないのです。無から有は生れませんし、瓜の種からナスは成らぬという法則がある通りです。
それを宗教信仰者は、神様の生命を頂いて、日々生かして頂く、というように素直に受け取っ
ているのであります。宗教信仰者にとっては、神というものは、絶対者であり、大生命であり、
40
人間救済の慈愛の光明そのものでもあるのであり、自分たちの生命の親でもあるのです。
師と弟子の立場でもあり、親と子の立場でもあるのが、神と人間との仲だ、というように理屈
でなく、宗教信者の大半の人はそう想っているのです。そして、神の姿を実際に眼で見、手に触
れることができないので、宗祖とか教祖とかいう、神の教えを説く人を、神の代理者として、神
と同等に敬し礼しているのであります。
実際この大宇宙のことを考えると、全く不思議です。宇宙のことまでゆかなくとも、人間その
ものを考えても不思議でなりません。不思議と思わない人はどうかしているのです。そうでしょ
う。小さな小さな精子と卵子とが結合して、やがてこんな智慧能力のある一個の人間としての成
長を遂げる。この精子と卵子をつくった者は一体誰で、精子と卵子を結合させて、こんな立派な
複雑な頭脳や、心臓や肺臓のような五臓六脇をつくりあげたその働き手は一体誰なのでしょう。
.
まして、大宇宙、大自然の運行においては、人間には考えられもしない、永遠性をもった、秩
序ある働きがなされているのであります。あの多くの臓大な星が、各々その位置を保ち、回転を
つづけて、他の星の領分を侵かすこともなく、衝突することもなく、輝いているのです。
その星々には、私土ハの太陽より数等倍も大きな星がたくさんあるのです。それは皆さんもこ承
41神の救済力について
知のことです。そうした大きな星々が宇宙空間に、それぞれの位置を保って浮かんでいる、とい
うことを考えるだけで、その星々に一定の位置を保たせている力というものの物凄さを感じずに
はいられません。
これをぐっと縮少して、私共の住んでいる地球について考えてみましても、この地球もやは
り、宇宙空間をぐるぐる廻って浮いているわけで、私共は気づかずにおりますが、時には宇宙空
間を逆立ちしている時もあり、横になって立っている時もあるのです。それでも倒れもしなけれ
ば、落っこちもしません。これは引力という力が地球にあるからだということは小学生でも知っ
ています。しかし、この引力というのがどうしてできたのか、ということは誰も知りません。
近代の科学は種々なことを発見しました。発見はしましたが、その根源の力を知るというまで
には至っておりません。引力もそう、斥力もそうです。原子の発見も、素粒子の発見も、発見は
しましたが、それがどこから生れたのか、どうしてそういうものができたのかということはわか
っていません。
科学は、作者不明の作品を方々で発見しているのです。そして、学者はわからぬことは自然の
作用ということでひとまつ息をついています。人間にとって一番大事である、生命の問題など
42
は、まだまだ根源にゆきつくには先のことで、科学によって作者探しをするのは、到底及びもつ
かぬことなので、或る科学的作用によって、生命が誕生した、というような工合でお茶をにごし
ております。
科学でなんといおうと、無神論者、唯物論者が何んといおうと、人間にわからぬ不思議の分野
は、まだまだわかっている事柄より九〇パーセソト以上も多いようです。そのわからぬ分野は勿
論わからぬでよいのですが、わからぬ分野を、宗教信仰者が、神と呼んで、尊び敬う心になって
いるのに、神などない、霊魂などない、などと、神や霊魂の存在を一笑に付してしまう人々がい
るのは、これもまた不思議な現象です。
神にみる法則面と救済面
話を宗教信仰者に向けて進めてゆきますと、神を絶対者一本で信仰している、キリスト教のよ
うな信仰と、神々として、一即多神として信仰している神道のような信仰があります。神は絶対
はず
者でもあり、すべての法則でもあって、その法則を外れるものは、自ずと滅びる、という信仰
が、道を深く入れば入る程強くなってゆきます。
43神の救済力について
神を絶対神一神とみている場合、自分が神の道を誤った場合、自分を救って下さる神は無くな
ってしまいます。そこで、イエス様やマリア様に救って頂く、という信仰の在り方になってゆき
ます。
浄土門の真宗などは、はじめから、自己を罪悪深重の凡夫とした宗祖親鸞のように、罪悪深重
の自分たちでは何事もでき得ないからと、信仰の出発点から、自己を放下して、阿弥陀様の救済
力の中に、身心を投げ出してしまっています。
真宗では絶対者の神様や法則の神様というより、救済の神様一筋に、槌りついてゆく、という
信仰態度なので、これは理屈なしにはっきりしていて、庶民の宗教としては、確かに入り易いも
のでありました。
そこへゆくとキリスト教の一部の方は、何かいつも自己に罪悪感のようなものが残っている感
じがします。神様のみ心である、愛と真がそのままできぬ自分たちは罪人である、とか、人間
は、はじめから原罪を背負っているので罪人であるとか、どうも暗いほうの面を持っていて、そ
の暗さを捨てようとはせずに、イエス様やマリア様に救って頂こう、としているようです。そこ
は真宗のように、その罪人の面も神様のみ心の中に持ちこんで、神様の慈愛の中で消して頂いた
44
ほうが、すっきりするのではないかと思うのですが、キリスト教の方々は、なかなかそうはゆか
ぬようです。
それは絶対者の神と、救済の神とが、こったになっていて、どっちつかずの神観になっている
からではないかと思われます。神には宇田万般の法則としてある、絶対者としての神と、人類救
済の救世の神というように、二つの面がありまして、法則の神との対面は、人間自らが、その法
則に乗って生きるということ以外にはありません。神の宇宙大生命の法則の通りに生きるという
すがたすがた
ごとが、神我一体の相でもあり、悟った相でもあるのですし、それは仏典や聖書にある、真理の
言葉通りに生活してゆく人のみにでき得る神との一体観であります。
ところが一般の人々には、こうした高度の生き方がとてもできませんので、神の他の一面であ
る、救世の神にすがりついて、神と一つになりたいし、自分の魂や生活を救って貰いたいと願う
わけです。
日本の観音信仰
この救世の神の日本での代表的な神(仏) の名が、観世音菩薩(仏) であります。私も神との
45神の救済力について
よあけけもの
一体観を得た時、「汝の働きは、狡明観音の働きである」と天の声を聞いたのであります。ぢへ
んのついた夜は、現在はけもののような夜であるから、この夜明のために観音の働きをするの
だ、ということなのでした。
ここでちなみに、法華経の中の観世音菩薩普門品を取りあげて説明してみましょう。釈尊と無
尽意菩薩との問答形式になっていて、観世音菩薩のことを説明しているのがこの普門品です。易
しく書いてみます。
全章すべて、観世音菩薩の救済力の偉大さについて書かれているのですが、どういう救済力な
のか、その幾つかを挙げてみましょう。先ず最初に、何故観世音と名づけるのか、と無尽意菩薩
が聞くのです。すると釈尊は、
も
〃善男子、若し無量百千万億の衆生有りて、諸々の苦悩を受けんに、是の観世音菩薩を聞き
みな
て、一心に名を称せば、観世音菩薩、即時に其の音声を観じて、皆解脱することを得しめん〃
みな
という言葉につづいて、観世音菩薩の名を保つ者は、火にも焼かれない。大水にあっても、そ
らせつみな
の名号を称すれば、浅き処を得る。また羅刹鬼の国に落ちても、その中の一人でも、名を称えれ
ぽ、羅刹の難を解脱することができる。そういうように、人の心に応じて、救済の力を発揮する
46
ので、観世音と名づけられた。
と釈尊は説明なさるのです。そして、その救済の力はあらゆる所、あらゆる事柄に及んでいる
のであることを事細かく説き明かしておられるのです。
もまたまさのぞみなと
〃若し復人有りて、当に害せらるべきに臨みて、観世音菩薩の名を称せば、彼の執る所の刀
つお
杖、尋いで段々に壊れて、解脱することを得ん〃
この言葉などは有名で、浪曲にまで取り入れられて口々に伝えられています。
羅刹に悩まされた時、鎖につながれた時、賊に襲われた時、中の一人の人でも南無観世音菩薩
ぎぎかく
の名号を称えれば救われる。釈尊は、観世音菩薩摩詞薩威神の力、魏々たること是の如し、と言
っておられます。
いかり
事柄の面ばかりでなく、心の面でも、観世音菩薩を想えば救われるので、欲も瞑も、愚痴も、
すべての誤った想いが浄化される、というのであります。
その他にも、男の子が欲しければ、男の子、女の子が欲しければ女の子、而も福徳智慧の男の
子、端正有相の女の子を生むことも、観世音菩薩を礼拝し、供養していることによって、成就さ
れる、ともいうのです。
47神の救済力について
そして、この観世音菩薩は、仏身にも、声聞にも、梵天にも帝釈にも自在天にも、居士にで
も、婆羅門にも、比丘にも比丘尼にも、男女の信者にも、男の子にも女の子にも、龍にでも、夜
叉にでも、人非人にも、三十三身に身を現わして、人を救う、というのであります。
釈尊が観世音菩薩の救済力について説き明かしていらっしゃることは、救世の仏(神) として
の観世音菩薩の偉大さでありますが、一般大衆は、無心に近い気持で、観音様に救いを求めてい
るという状態です。
「観音様助けてえ!」
という感じで、一般大衆は観音様にお詣りするのであります。観音様の他には不動様、お稲荷
様というように種々の神様があります。
現世利益的にも魂的にも救われたい、と思うのが宗教信仰をしている一般の人々の想いで、神
の法則に乗って神我一体の道に入りたい、というところまでゆく人は、数少いと思われます。
私は救世の面で働かれる神様にすがりながら、いつの間にか、神の法則に乗ってゆけるように
なる道を、守護神、守護霊への感謝に明けくれる生活によって、成就してゆくのだ、と説いてい
るのですが、何んにしても、一般大衆の宗教は、救済の神を、しっかと自己の心に把えて、その
48
神の愛を信じきって、敬し礼して生活してゆく、ということが必要なので、その道を歩みつつ、
自ずと神の法則、神のみ心と一つになってゆく、一つの生き方ができてくる、ということが理想
だと思うのです。
ヨガのように、神のみ心につながる七つのチャクラを開発してゆく、修業をする、という生き
方もありますから、それができる人はそれでもよいのですが、これがなかなかむつかしくて、七
つのチャクラを開発するまでにゆきつく人が甚だ少く、途中で私の教えに入ってくる人もかなり
あります。勿論ヨガの教えが悪いのではなく、ヨガの修業に適さない人たちが、私のところのよ
うな易行道に入ってくるのです。
宗教信仰の道も、その人に適するか、適しないかということがあるのですが、私の説いている
のは、守護の神霊の加護による本心開発の道であり、それが大きく広がって、祈りによる世界平
和運動という、人類愛の宗教の本質的道なのであります。
個人個人の救済の神の力と、人類を救う、救世の神の力とを、世界平和の祈りによって一つに
結び、この世界を光明化してゆこうというのが、私の生き方なのです。個人人類同時成道と、私
は常に言っているのですが、観音様や、不動様によって、個人が救われるのは結構なことですけ
49神の救済力について
カルマ
れど、それだけでは、この業想念に充ちた地球世界そのものが救われるわけがありません。観音
様や不動様の救済の力を、救世の力として、宗教信者の皆さんが、仲立ちして発揮して頂くよう
にすることが、今日では大事なことなのであります。
50
観音信者のスプリングボード
観音信仰を個人と人類同時成道の方に、もっていって頂きたい、と私は願うのです。これは仏
教一般の信者の方々も、キリスト教の方々と同じことでありまして、今日では単に個人だけの救
われで満足してはいられぬ時代になってきているのであります。
戦争の危機、天変地変の危機、エネルギ!資源枯渇の危機等々、地球世界には今正に幾多の危
機が襲ってきようとしているのです。これは単に個人の救われだけでは解決しません。たまたま
得た個人の救われは、次の瞬間、世界と共に崩れ落ちる危険があるわけです。
日々の生活の瞬々刻々の問にでも、私たちは神の救済力、救世の光明を、この地球界にふりま
いてゆかねばなりません。
観音様に、不動様に、キリスト様に、阿弥陀様に、各自自己の信ずる神様仏様に向って、常に
常に、世界人類の平和の来ることを、願う祈りをしてゆくことこそ大切な、人間の行為というこ
とができます。
観音様の救済力、救世の力は、釈尊のおっしゃるように、絶大なものです。釈尊の言を信じ
て、一心決定して、自己の救われと、世界人類の救われとを、観音様に願う、世界平和の祈りを
することは、観音信者にとって、重大な進歩といえるのではないでしょうか、各自の信じる、あ
らゆる神仏に、真剣に世界人類の平和を願う、世界平和の祈りを実践してゆく時、この世は次第
に明るくなり、地球の危機は遠のいてゆくことになるのです。
釈尊が、でたらめに、観音様の力を称えるわけがありません。これはあに観音様ばかりでな
く、神々はすべて、大いなる力をもっておられるのです。私はこうした人類救済の為に働かれる
神々のみ名を総称して、救世の大光明と称え、守護の神霊への感謝と共に、世界平和の祈りを、
瞬時もかかさず、祈りつづけているのであります。
観音様は三十三身に変じて、人に対するということですが、神々は如何なる人々にもいらっし
ゃるので、如何なる人々をも、神の子として拝む時、その人は、観世音菩薩の姿を、その人の前
に現わすのであります。
51神の救済力について
大臣にも下僕にも、観世音菩薩はいらしゃるのです。そして、その観世音菩薩を拝みきること
のできる人は、どんな人の中からも、どんな事柄の中からも、救いを体得できるし、神のみ心を
摂取できるのであります。
神様はご自分の生命を細かくわけて、各星々に人類として誕生なさったのです。地球人類もそ
の一つです。ですから、ご自分のみ心を、人類の中ですっかり現わしきろうとなさっているので
す。ところが、神のみ心そのものと、物質的肉体を繰った人類というものとの微妙さが、あまり
にも距離があり過ぎて、神と肉体人間との問に何らかの中間的つながりを働かせないと、人類は
永劫に神のみ心を現わしきるわけにはゆかなくなるばかりでなく、地球共々滅び去ってしまわね
ばなりません。
その中間として、人類に援助の力をさし伸べているのが、守護神、守護霊なのであります。観
世音菩薩という名もその守護神の一つのひびきに名付けられた名称なのです。
神様の名というものは面白いもので、その形態に名付けられたのではなく、その働きに付けら
れたものなのです。そうした守護の神霊がそれぞれの働きの面で人類の加護をなしつづけている
のです。
52
私は、一口に守護神と申しておりますが、詳しくは、救世の仕事そのものにたずさわっている
守護神と、各個人個人の守護をしつづけている守護神とがあって、地球ばかりでなく各星々の完
成を助けて、大宇宙の運行に寄与しているのであります。
個人個人の専属の守護神といっても、常に救世の神々と連けいして働いているのです。いつれ
にしても、宇宙大神は大愛なので各守護の神霊や天使たちによって、人類を救わずにはおかない
のです。そのことを我々人間は、よく知って神の大愛に感謝しながら、生きていかなければなら
ないのです。人間が、神々に感謝しながら、そして、地球の平和を築き上げて行く、もっとも易
しい方法が、日々瞬々刻々おかれた生活環境の中で、世界平和の祈りをなしつづけてゆくことな
のです。
人間はともすれば、過去世からの習慣の想い、つまり、業想念に負けて、よいと想うことでも
出来ない場合が多いのですが、私は、現われてくる出来事も想いもすべて、過去世の因縁の消え
てゆく姿と想って、ひたすら、世界平和の祈りを祈りつづけてゆくことが大事だと説きつづけて
いるのであります。
53神の救済力について
54
宗教の本質
神さまを把握すること
今回は宗教の本質ということについて、改めて書いてみたいと思います。宗教の本質について
は今まで何度びとなく書いてきておりますけれど、なかなか心がぴたりと納得する迄にゆかぬ人
が多いようです。
ひま
宗教信仰者にも、いろいろな形があるようでして、或る人々は、閑があれば神社仏閣詣りをし
ていたり、或る人々は、やたらと、宗教団体に入りたくて、あちらの宗教団体、こちらの宗教団
体と廻り歩いていたりします。
人によっては、聖書や仏典でひとり神仏を求めていたりする人もおります。いつれがよい悪い
と簡単にいうことはできませんが、要は宗教の本質に近づいてゆく道を歩いていればよいわけな
のです。
宗教の本質というのは、人類生命の源である、大生命、つまり無限の生命、無限の能力であ
る、我々が一口に神と呼ぶ存在を、自己の心の中で、しっかりと把握することであります。
把握などという言葉を使うと、ちよっとむずかしくなりますが、易しくいえば、人間が神様の
み心と一つになる、ということであります。神様のみ心と一つになって、神様のみ心のままに働
けるようになる、ということが、宗教の本質をつかんだということなのです。
神さまに強要するのは問違い
宗教宗教といいながら、常に、自己の欲望達成のために、神様を自分のほうに引き寄せて、無
理にも、自分のいうことをきいて貰おう、というような想いでいる人々がかなり存在するのであ
ります。
例えていえば、自分の子供を志望校に入学させようとして、「神様是非是非この子をこの学校
に入れて下さい。絶対に入れて下さい」などと神様に強要している人があります。これなど、宗
55宗教の本質
教信仰でもなんでもないのです。自我欲望の達成のために、神様に無理にでも自分の想いをきい
て貰おう、という功利的な願いでありまして、宗教の本質から全く離れております。
いつどの学校に入ったほうがよいのか、決定的なことは人間にはわからないことなので、良さ
そうに想えた学校に入って、子供がノイローゼになることもあり、悪いと想っていた学校に入っ
て、縁の深い良い先生や、良い友だちに会ったりすることもあるのですから、人間智でやたらに
その学校と決めてかかることはむしろ危険なことであるのです。
宗教信仰というものは、神様のみ心のままになさしめ給えと、一切を神様に託せて、自分たち
のできる限りの勉強なら勉強をしてゆくべきなので、私のいう「天命を信じて人事を尽くせ」と
いうことになるのです。
56
難病に苦しむ人、倒産におびえる人に
難病にかかっている場合や、会社の倒産の揚合などは、是非共、病気を直して頂きたいし、会
社を建て直して頂きたい、と願うのは、これは悲痛な叫びでありますので、そんなのは宗教信仰
ではないそ、などと一口でいうことはできません。
藁にもすがりつきたい心境というのは、人間誰しも同感できる心境なのであります。ですか
ら、難病の人や、倒産寸前の人々が、あちらの神様、こちらの神様と、お陰のある神社仏閣や、
宗教団体の神々様詣りをするのは、あながち無理とはいえないと思います。
しかし、今一歩深く踏みこんで考えてみまナと、そんな肉体生活だけに固着した想いで、神様
を呼んだところで、どうにもならぬことはすぐにわかるのです。何故ならば、人間の生命は肉体
だけにあるのではなくて、神霊の世界を貫いた、永遠のものである、というのが、真実であるか
らです。
ですから、永遠の生命の深い高い広いおもんばかりを捨てて、只単なる肉体生活の幸不幸とい
うことだけが全体のもののように想っている誤った考えをつづけていることは、その人にとって
は生命の大きな損失であり、その人の進化の行き止りとなってしまうのであります。
難病なら難病になった自己の肉体から、生命そのものの本質に一心に想いをむけて、肉体がす
ごやかになるということより先に、生命そのものがすごやかに働き得るような、神への祈りをさ
さげなければいけないのです。自己の生命と神の生命との一体化、ということが、難病を癒やす
最大の方法であり、生命を生きいきとさせる最も良い方法なのであります。その方法が祈りであ
57宗教の本質
り、私共の提唱しております、
「私共の天命が完うされますように」という祈りを含んだ、世界平和の祈りなのであります。
もはや、神を外にだけ求めてはいけません。神は自己の内に、自己の生命と一つになって存在す
るのであり、その神は、深い深い、高い高い、大宇宙の中心にまでつづいている無限の叡智をも
った大生命なのである、ということを知らねばならないのです。
5$
神さまは内にも外にもいらっしゃる
神を外に求めてはいけない、といっても、神は外にも存在するのであります。神、大生命とい
うのは、大宇宙に遍満する大智慧、大能力でありまして、大は大宇宙そのものでもあり、小は微
粒子の中にも生きいきとしているのです。
微粒子即ち、電子や素粒子というものは、人間の肉体を形づくっている根本のものですから、
微粒子の中にも神が在るということは、人間の肉体のうちにも神が在るということであります。
そして、人間は霊肉一体のものですから、肉体より微妙な存在であり、肉体よりもっと生命の根
源のものである霊体の中にも神が存在することは当然なことであります。
こう考えますと、人間の内にも外にも神がおられて、内には肉体生命として、神は働かれてい
るのであり、外面的には、太陽となり、空気となり、水となり、食物となって、人間を生かして
いるということが、はっきりわかってまいります。
宗教信仰というものは、こういう事実を、素直に肯定して、内なる神に感謝し、外なる神に感
謝して、神のみ心である、愛と誠の生活を実行してゆくというところにあるのであります。
不思議ばかりを追い求めると道に外れる
こういう神への感謝を忘れて、ただいたずらに、人間の肉体外の力が起す奇蹟というものを求
めつづけて、それが宗教信仰の道だと思っているような人がありまして、あちらの宗教の教祖
は、何々の奇蹟を起こす、こちらの教祖はこれこれの不思議を行う、というように、それはあた
かも、あちらこちらに、奇術師を追い廻すがごとく、各宗教教祖を尋ね歩いているのです。
こういう態度を、釈尊は外道といっておりまして、そんな宗教態度では、決して悟りに至るこ
ばらもん
とはない、といっておられるのであります。釈尊の時代には、婆羅門の修業者が非常に多く、各
自が、いろいろと奇蹟を行ってみせたりしますので、ついその奇蹟にひかれてその弟子になった
59宗教の本質
り、信者になったりして、末は心身共に苦痛にあえいで、死後も幽界で苦しみつづけたりするの
です。
釈尊はそういう人々を見捨てておく気にはなれず、神というものは、そのように外にあるもの
しず
ではなく、人間の内に仏として存在するものである、だから、想いを鎮め、想いを消し去って、
内なる仏を引き出さなくてはいけない、人間は即ち仏性そのものなのだ、と説いておられたので
あります。
人間が自己の内なる神を忘れて、いたずらに外に神を求めて、神社仏閣に詣で、宗教教団に入
てん
ったりすることは、本末顧倒している態度であります。人間が自己の内なる神をしっかり自己の
ものとして、神社仏閣に詣で、宗教教団において働くならば、神は内外一つになって、その人の
大いなる働きとなるでありましょうが、外の神のみに依存する宗教信仰態度は、決してその人の
プラスにはなりません。
内なる神を忘れてしまうと、ちよっとした奇蹟や不思議にもすぐつられて、奇蹟を行う人や不
ヘヘへ
思議を行った人を尋ねて、その人々の背後で働く幽界の生物のとりこになってしまうのでありま
す。
6Q
肉体の近くにある幽界というところには、肉体の人間にもなれず、といって動物にもなれなか
った、いろいろの生物が、種々様々な格好で生活していまして、折あらば、人間の幽体に入りこ
んで、その人間にとってかわろうとしていたり、人間たちをたぶらかして、面白おかしくくらそ
うとしたりしているのです。
ばらもんげどう
昔のインドの婆羅門外道たちは、多かれ少かれ、こうした幽界の生物に動かされて、種々の奇
蹟を行っていたのであります。現今でも、肉体人間の行えない奇蹟を行う人の中には、こうした
幽界の生物にあやつられて生活している人がかなりいるのであります。
宇宙や身のまおりに起きている奇蹟
ですから、いたずらに奇蹟を求め、不思議を追って、それが宗教信仰だと思い違いしているよ
うな生活をしては、危険も甚だしいというのです。神のみ心というのは、ただいたずらに奇蹟を
行い、不思議を現わそうなどとは少しも思ってはおられません。奇蹟といい不思議といえば、大
宇宙の万般、生命の働きそのものが、不思議そのものであります。
ただ精子と卵子とが結合した、というだけで、形整い、智慧能力の備わった赤ん坊が誕生し、
61宗教の本質
その赤ん坊が、両親がなでさすって大きくするわけでもないのに、いつの間にか、立派に成育し
てゆくことなどは、不思議も不思議も、どうにもただ感嘆讃嘆するより他に方法のない程、不思
議なことであります。
こうした不思議にくらべれば、巷間の宗教者行者の行う奇蹟など、まるでくらぶべくもない力
です。
せいしん
大宇宙の無限の星辰をそれぞれの場に配置して、衝突もなく、追突もなく、調和せしめてい
る、大宇宙神のみ心、無限の生命が、皆それぞれのところを得て、各自の生命のままの生活をし
ているその源動力の神のみ力、こういう風に想ってみますと、ただただ神のみ心に全託して、そ
の揚、その時々の環境の中で、真剣に生きてさえいれば、人間は必ず幸福そのものになるにきま
っている、と今更のように思うのであります。
62
唯物論の人々の頭
それなのに、唯物的な人間は大きな考え違いをしております。それは、何も神のことを想わな
くとも、思考力も想像力もでてくるし、体の力も手足の力もでてくる。だから人間の世界のこと
は、人間自体の頭で考え、体で行動してゆくことによって、保たれ発展してゆくのだから、神な
どという他の力に依存することはない、というのであります。
その人たちの考えは、大宇宙の運行も人間や動物たちの生命というものも、自然に出来、自然
に進化してゆくものであって、神とか仏とかいう、人間以外の力ではないし、そういう肉体人間
以外の力は存在しない、と思っているのです。彼らは、なんでも自然という言葉で片づけてしま
います。智慧とか創造力とかいう、精神的なものを、自然の中にみていないで、この人間のよう
な智慧や創造力を備えた生物が、智慧や創造力という人格的なものをもたぬ自然から生れ出で、
成育してゆく、という矛盾した考えを、矛盾とわからずに過ごしている頭の構造を、唯神的な人
々は只々不思議な頭と思うのであります。
唯神的な人々の頭では、自然の動きという中に、どうしても、大智慧、大能力を備えた、神と
いう存在を認めずにはいられないのです。それでなければ、人間を含めたこの大宇宙の在り方が
全く道理に合わなくなってしまうからなのです。
また唯物論と反対の立場を取る人の中には、奇蹟的なことや不思議なことを、すべて神仏や神
霊界の住人のなせるわざとみてしまい、先程も申しましたように、奇蹟や不思議を追い求めて、
63宗教の本質
教祖や神社仏閣を次々と尋ね歩いている人々もあるのであります。
6奎
悟りの道、救わ・れの道
わざ
神の存在を認めぬ唯物論も困りものですが、このように、なんでもかんでも神のみ業と思いこ
んでしまうような人々も困りものなのです。本来人間は神の分生命でありまして、神の生命が人
間のうちにあって、人間の智慧能力も、内臓や諸機関の動きも、その生命力によってなされてい
るのですのに、その真理を忘れて、自己に一番近い神の力をないがしろにして、外にある神社仏
閣や奇蹟力、不思議力に頼ろうとしているのでは、自己の内なる神の力が強く発現するわけがあ
すもうけんとう
りません。角力や挙闘をするのに、他の助太刀に依存していて、自分の力を出さずにいるような
ことは絶対にできません。自分自身の内部の力と日頃の修練に頼る他はないのであります。
人間の悟りというのも、救われというのもそういうものでありまして、宗教の本質である、神
との一体化がなされねば、真の悟りにも真の救われにも至るわけがありません。
すべては、自己の内部にある神の分生命である力を大きく発現することが第一でありまして、
そのためには真の祈りが必要になってくるのです。その真の祈りとは、神の生命と自分の生命と
は一体である、という祈りなのです。
おわ
勿論、神社仏閣や宗教教団にも、それぞれの神霊は在すのですが、それは自分の内なる神の発
現と同じように現われてくるのでありまして、自分が自己の内なる神をないがしろにしていて、
只々外なる神社仏閣や、宗教教団の神に依存しても、真の悟りにも、真の救われにも到達するこ
とはできない、と私は申し上げたいのです。
ですから、手品や奇術を追いまわすように、神々の奇蹟や不思議を追い求めているようでは、
その人はいつ迄たっても、悟りの道に至ることも、宗教の本道に至ることもできないのでありま
す。
宗教の本道はおかれた環境の中にある
これは唯物論が誤りであると同じように、全くの誤りなのです。宗教の本道はあくまで地道な
歩みの中にあるのであり、その置かれた環境の中にあるのであります。
妻子があるのに、妻子を捨てて、自分だけが、山に籠ったり、宗教教団に入りこんでしまうな
どというのは、実に卑怯なやり方であり、無責任な在り方であるのです。妻子があれば、まず妻
65宗教の本質
子との調和をはかり、妻子の生活の安泰のために働く、これは当り前のことでありまして、今日
の社会では別に改めて考えるようなことではありません。
しかし、宗教的に片寄った人々は、時折り、こうした当然なことを踏みはずして、自分だけの
悟りを求めて突き進んでしまう場合が多いのです。過去世の因縁によって置かれた環境のその因
縁を解きもせず、悟りへの道という美名にかくれて、その環境から逃れていったとしても、どう
して、真の悟りや救いの道にゆきつくことができるでしょう。すべては過去世の因縁を浄め去っ
ての後になされるもので、過去世の因縁をそのままにしておいて、神の道に昇りつこうとして
も、それは絶対にできないことです。真の悟りも、真の救われも、三界の業因縁を超えたところ
から開けてくるのです。そうした道を求めつづけるのが、宗教の本質なのであります。
66
三界を解脱すること
さんがいよくかいしきかいむしきかい
三界というのは仏教の言葉で、欲界、色界、無色界の三界をいうのですが、今流に訳せば、肉
りんねてんしよう
体界、幽界、それに霊界の低い層ということです。こういう階層はいまだ輪廻転生するところ
で、個人我、小我の想念の消え去っていないところなのです。低い層といっても霊界と名がつけ
ば肉体界で考えているような天国のような状態のところもあるのですが、その天国は、過去世の
せきとくげだつごどう
積徳や、善因縁で昇っていったところで、真に解脱し、悟道に入って昇ったところではないの
で、過去世の積徳や、善因縁の蓄積が消え去ってしまう時になれば、再び下の階層に落ちてしま
こすいはんちやう
うことがあるのです。よくいわれる、天人の五衰というのもこの範晦のことです。
ですから人間は、因縁因果だけで、自分の住む階層をつくりあげてゆくのではなくて、肉体や
くうわたしりゆう
幽体にまつわる想念波動をすべて、釈尊流にいえば、空にし、私流にいえば、消えてゆく姿と
して、空の境地に達し、神仏のみ心のままの光明波動になりきってゆかねば、真の救いを体得で
きぬし、大宇宙運行の手助けもできないのであります。
広い高い深い道を堂々と歩け
今日のように、個人も社会も国家も、三界の業因縁の自我の想念で人類の生活に処しているよ
うですと、大宇宙の進化に遅れて、滅亡してしまわねばならなくなります。今日の人類世界の様
相は、正に滅亡寸前の様相を呈しておりまして、神々、救世の大光明の援助がなされなければ、
地球人類滅亡は必至のことと思われます。
67宗教の本質
ですから各人は、自己の家庭の幸福を願うのも、病気の治癒祈願もよいですけれど、もっと根
本に宗教の本質である、神と人間との一体化を求め、神のみ心のままにこの人生を渡ってゆく、
広い高い深い道を堂々と歩いてゆくことを実行してゆかねばならぬのです。
その易しくできる道を、私は祈りによる世界平和運動として、消えてゆく姿で世界平和の祈り
という教えを宣布しているのであります。
68
精神生活と肉体生活の二つの道
この人類世界には、どうしても二つの道があり、二つの想いを持たねばならぬような仕組にな
っております。それはどういうことかと申しますと、精神生活に生きようとする道と、肉体生活
に生きようとする二つの道であり、他人や人類社会に尽そうとする想いと、個人の生活の幸福だ
けを主にして願う、という、この二つの想いであります。
この二つの道、二つの想いが、常に交叉して頭脳を駈け巡っております。しかし、現実の物質
世界の生活をつづけてゆくためには、どうしても、精神生活より、肉体生活に重きを置く人のほ
うが多くなり、他人のためや人類社会のためよりは、自己や自己の周囲の者のために尽すという
気持のほうが多くなるのであります。
しかし、こういう生き方を尤だ尤だと肯定していたのでは、この人類世界は滅びてしまいま
す。それは国家と国家とのやりとりによってもよくわかります。米中ソという大国を例にとって
みても、お互いが、お互いの国の利益のためにのみ力をそそいでいるのですから、どうしても相
対的な抗争になってしまうのは、理の当然であります。小国はとみれば、小国も同じようなこと
で、イスラエルとアラブ諸国の争いが、いつ迄たっても、調和に至らなかったり、インドシナ諸
国の戦火がいまだに消えずに、避難民がますます増加している状態などは、地球人類滅亡への見
本のような気が致します。
地球人類の生き方がこれでいい筈は絶対にありません。なんとかしなければ、なんとかして国
々の考えや行動を改めさせなければ、と心ある人々は誰しも想うのでありますが、誰もがその方
法を知らないのです。
誰にでも出来る宗教の本道
私は神々との交流によって、その方法を知ったのであります。今こそ、釈迦やキリストたち聖
69宗教の本質
者賢者の教えたことを実行することなのです。聖賢の道を実行しろ、といっても、とてもむずか
しくてできるわけがない、というのが一般の声でありましょう。
しかし、それが実は易しくできるのであります。それが祈りによる世界平和運動なのでありま
す。人類は人類自体がひとりで生れ出たのではないことは誰にでもわかります。人類をこの地球
界に生みなした方、つまり神との一体化こそ、今一番必要なことなのです。人類の生命の親、神
のみ力なくして、この地球人類の存続はあり得ません。今こそ人類は神の救いを呼び求めるので
す。全心の力を出して、神のみ心に飛びこむのです。その方法を易しく何気なく実行してゆくの
が、日々瞬々刻々の世界平和の祈りなのです。神々、人類守護の神霊は人間一人一人を真剣に守
りつづけていて下さいます。その総合の力が、救世の大光明です。たゆみない守護の神霊への感
謝の想いと共に、世界人類が平和でありますように、の世界平和の祈りを祈りつづけてゆくこと
によって、人間の業想念は、いつの間にか、神のみ心の光明心に変化してゆくのであります。変
化というより、本来の神の子人間の心が自然と現われてくるのであります。
これこそ、人類救済運動であり、宗教の本質を求める道なのであります。個人人類同時成道の
世界平和の祈りを、どうぞ祈りつづけて下さい。
70
真の生命を得る
1 生命を捨てざれば生命を得ずt
生命のこと
いのち
生命を捨てざれば生命を得ず、という言葉は聖書の中の有名な言葉です。なかなか内容のむず
かしい言葉ですが、先ずこの言葉の解釈の前に、生命ということについての説明をしてまいりま
しょう。といっても、生命の字義の解釈をするわけではありません。
生命ということなど、わかりきっている、と思う人もありましょうけれど、実はまるっきりわ
かっていないのが、事実なのです。わかってはいないけれど、人間にとってというより、あらゆ
る生物にとって、一番大事なのがこの生命である、と誰もが思っているのです。昔の人の中に
は、生命より義を重んずるとか、生命より名を尊ぶとかいって、義や名を生命より大事なものと
71真の生命を得る
していた人もあったようですが、その人たちも、真の生命のことをいっているのではなく、肉体
にある生命だけのことをいっているのであります。
尤も一般的に生命と申しますと、肉体内にある生命のことを思うのですけれど、生命というの
は、肉体内にだけあるのではなく、いつも私が申しておりますように、幽体にも霊体にも神体に
もあるのであります。生命の働きにとっては、神体における働きを最も根本にして、霊、幽、肉
と粗い波動の世界に働きかけてきているので、人間は、生命のことについても、釈尊のいわれる
ように、顛倒妄想しているのであります。
人間は誰でも、生命が惜しいのであり、生命が大事なのでありますが、肝心なその生命のこと
を知らなすぎるのであります。生命というのは肉体にだけあるのだ、という迷信が積み重なっ
おら
て、今日では、肉体の他に生命が生きているなどというと、あざ啖う人さえいるのです。
といって私は、あの幽霊のようなことをいうのではありません。厳然として光り輝いている生
命というものが、神霊の世界で働きつづけているのだ、ということをいいたいのです。そして、
そちらのほうが生命の根本であり、生命の根本の働き場であるので、肉体は生命の働きの末の場
ということになるのであります。
72
わけいのち
人間は神の分生命
人間は生命そのものであり、神界も霊界も幽界も肉体界も、その生命の働き場であるのです
が、人々が肉体の場からみておりますと、肉体にだけ生命が働いているように思えるのです。そ
して、肉体が亡くなってしまえば、生命はそのまま滅びてしまう、と思うのです。
そこの思い誤りが、人類が悲惨な歴史を繰りかえしている、根本的な思い違いなのです。生命
わけいのち
は永遠不滅のものであり、神そのものの働きであるのです。ですから、人間は神の分生命であ
り、神を大生命と呼ぶのであります。
この大生命は大智慧、大能力、創造力をもっていて、その大智慧、大能力、創造力をもって、
大宇宙万般のあらゆる生命現象を現わし、事物をつくりあげていったのであります。昆虫の世
は
界、魚の世界、爬虫類の世界、鳥の世界、獣の世界、そして人類の世界、無限と思われる生物の
ちみつけんらん
無限の生態を次々と想い浮べてごらんなさい。種々様々な生態行動の緻密にして、絢欄、豪華な
その様相。それらを生みなし創りなした大生命の不可思議力には、今更ながら、只々感嘆し、讃
美する他はありません。
73真の生命を得る
そして、宇窟の星々、この大地、山川草木の種々相。もう何をかいわんやであります。こうい
う素晴しい大生命の働きを、只大自然の働きとして見過ごし、その奥にある、大智慧、大能力を
認めようとしない、唯物論者の幼い心はどうでしょう。一体自分の生命をなんだと思っているの
でしょう。それも只単なる自然現象の一つと思っているのでしょうか。単なる自然現象の中に、
なんで、人類愛だの、社会愛だのという想いが生れてくるのでしょう。そうした愛の生れてく
る、生命の本質的心を、大智慧、大能力をもち絶対者である神と呼ぶのを何故、ためらうのでし
ょう。
わけいのち
そういう大生命の分生命として我々人類は生れてきているのであります。しかし、大生命は、
肉体生命と、すぐにつながっているわけではないのです。大生命の中心は大宇宙の中心にあるの
ですし、その中心に近いところから、神界、霊界、幽界と、ひろがってゆくのですが、その神霊
の世界にもいくつもの高低があるのでして、人間が肉体人間として、その生命力を肉体的に働か
せるまでに、幾つもの階層を通ってくるのであります。
AならA、BならBという個性をもった人間として、肉体界で働く人々のその生命の基は、神
界の神のみ心そのものの中にありながら、様々な階層の波動の世界を通って、肉体界の働きをす
74
る迄に、各自が、
なるのです。
様々な経験を経てきて、その人、その人の特徴を、肉体人間として持つように
生命は神と一つのもの
別項でも神霊と人間との関係を書いておりますが、こういう説明はとてもむずかしいことなの
で、何度びでも、なるべくわかり易く説明してまいりましょう。最初に大生命、宇宙神が、人類
わけいのち
として、自己の分生命をつくるその基に、七つの直霊として分れた、という説は、いつもしてい
ることですが、その直霊から分れた、古い分生命方は、今日では、神界霊界肉体界の各界の各種
の経験を経て、基の直霊の中心で神々として宇宙神の手足となって働かれておられるわけで、そ
の中には人間各自の守護神として働かれている方もあるわけですし、各星々の中心者として働か
れている方々もあるわけです。
そして、現在肉体界で働いている分生命である人々の中にも、古い分生命、つまり直霊の中心
の光に近い分生命として生れてきている者もあり、これは、天使或いは菩薩というように、地球
人類の救済のために、自分から願って苦しい肉体世界の生活に飛びこんできている人々なのであ
75真の生命を得る
ります。
ですから、天使、菩薩のような、汚れのない浄まった生命の働きをしている人々から、過去世
において、生命を汚しきって、その幽体に悪業想念がこびりついている人もあるわけですが、生
わけいのち
命そのものは、いずれも大生命の分生命には違いないのです。分生命の中に、個々の心もあれ
ば、想念波動も生れてくるのでありますが、天使や菩薩や、高い霊界からきているみ魂たちは、
生命そのものが自分であり、その生命の親が宇宙神であることをよく知っているのであります。
そして、常に自己の生命を汚さぬように、宇宙神との一体化を計って働きつづけているので
す。ところが、幽界の汚れた想念を一杯つけている人々は、汚れた波動の世界が人間の世界であ
り、汚れたままの肉体波動が自分であると思い誤っていて、天地を貫いて働いている生命そのも
のが、自分である、ということがわからなくなっているのであります。
そこでどうしても汚れた世界の、憎悪や、争いや、物欲や性欲や、権力欲、虚栄心の渦の中
で、自分もその渦の中の一員として、これが人間なんだ、というように、そういう実体のない喜
怒哀楽の波にもてあそばれているのです。その人々は、自分は生命そのものなんだ、そして、生
命は神と一つのものなのだ、ということを忘れ果て、肉体という形や場を自分であると思いこ
76
み、肉体世界だけを、自分たちの世界と想いこんでしまっているのであります。
肉体内にある自己即ち自己の生命は、ほんの一瞬のものであり、生命の働きの末の場であっ
て、自己そのもの、生命そのものは、神霊の世界において、自由自在に働きつづけているもので
あることを、現在の地球人類の大半は忘れ果てた肉体人間観に終始しているのです。
生命の汚れを洗い流す
イエスキリストはそういう真理をよく知っておられて、そういう生命観を捨てなければ真の生
命を得ない、といったのです。人間は肉体ではない、肉体は自己生命の一つの働きの場である、
これは私が三十才過ぎた頃、実観として知ったことであり、それ以来、私は見かけは、普通の肉
体人間と少しも変りなく見えながら、実は、神霊の世界にある、真の自分や、自分たちの神霊仲
間が、この地球界救済のために、その肉体を使って働きつづけている、ということを、よく承知
しているのであります。
さわ
人間は自己の生命が、神霊の世界から肉体世界まで、碍りなく、すうーと働いてきているか、
神霊の世界から幽界を通ってくる途中で、幽界の汚れの中で動きがにぶくなり、幽界の汚れをた
77真の生命を得る
くさんつけての肉体界での働きになるか、これは過去世からの各自の因縁因果によるもので、そ
れは現在としては運命的に定まったものなのです。しかし、その運命を回転させるために、神
々は、人間一人一人に守護の神霊をつけて下さっているので、その守護の神霊と一つになること
により、過去世の因縁によって生命にこびりついてきている、幽界の汚れも、次第に浄められて
ゆき、本来の神の子の生命そのままの自己に立ち還えることができるようになるのであります。
そこでイエスキリストの、生命を捨てざれば生命を得ず、という言葉も生きてくるのです。
捨ててしまわなければならぬ生命というのは、肉体にこびりついている生命であり、それにと
もなう想念波動なのです。生命が肉体にこびりついていて、肉体の自己保存に明けくれる想念波
動でその生活を送っていると、その人間の生きている範囲は非常に狭いものになり、一生を通し
て、ろくな働きもできずに、人のためにも社会のためにもならぬ、つまらぬ人間としての一生を
送ってしまい、肉体を去ってからの生命も、その肉体界における習慣に把われて、幽界の狭い暗
い世界でくらさなければならなくなってしまいます。
ですから、肉体に生命の働きをこびりつかせず、あらゆる面で自由自在の働きができるように
しておかなければいけないのです。肉体は生命の一つの働き場であって、生命そのものが自分な
78
のだ、ということを、しっかり知る練習をしなければいけません。それは、真の宗教書を読むこ
とと、神との一体化を願う祈り、つまり世界平和の祈りのような祈りを常にやっていることであ
ります。
生命そのものが自分であり、生命はそのまま神なのである、という真理を知ることによって、
今日まで、肉体が自分であり、肉体内にのみ生命が存在するのだ、と思っていた、誤った人間観
がなくなり、自然と生命を捨てて生命を得る、ということになってくるのであります。
生命の働きの不自由さ
人間は肉体であり、地球は物質である、という唯物的な考えでは、遂には大きな戦争にな
り、自己や自国の権力争いのために地球を滅ぼしてしまうのであります。それは資本主義だ、社
会主義だ、共産主義だなどといって、お互いの主義主張にこだわっている間に、人間の生命の働
きがますます不自由になって、地球人類の悪業の波のまにまに滅び去ってしまうわけなのです。
右の主張があり、左の主張があり、国と国との損得が対立し、お互いの権力欲が傷つけられ
る、というそういう立場に立っていて、どうして世界が平和になることがあるでしょう。悪業に
79真の生命を得る
取り巻かれた生命の働きの不自由さのために、あらゆる国家が、自国の自由を得ることができな
いのです。
大生命から分けられたお互いの生命であって、兄弟姉妹であるべき人々が、お互いの集団をつ
くり、国家をつくって、お互いの利害権力のために戦い合う、そんな馬鹿気たことはない筈です
のに、今日までの歴史は常に戦いの歴史であり、今日に至っては、核戦争による地球全滅という
ようなところにまで、地球人類は追いつめられてきているのであります。
ここで、どうしても、イエスキリストのいう、生命を捨てざれば生命を得ず、の実行をするよ
り仕方のない状態に各国共に追いつめられてきているわけなのです。お互いに肉体人間が、物質
国家の中で、その損得利害で動き廻っているようでは、もうどうにもならぬ時代に立ち至ってい
るのであります。
ここで、各国指導者が、肉体にまつわる生命や、物質国家としての各国の在り方を、一度捨て
きって、各国共に、大生命の下においては一つなのだから、お互いの足らざるを補い合って生き
てゆこう、というような想いになれば、しめたものなのですが、お互いがお互いの肚の中をさぐ
り合っていて、なかなかそういうことにはなりません。
80
そこで仕方がありませんから、各自が個々にその真理を知って、真理を知った人が他に知らせ
合って、個人からだんだん集団の力にしていって、やがては、各国指導者の頭の切り替えを大勢
の力でなしとげてゆくようにするのであります。
物質生命観から永遠の生命観へ
その一つの方法として私共は、祈りによる世界平和運動として、こうした生き方の提唱をつづ
けているのです。一度に物質的生命を捨てうといっても、ちょっとできそうにもありませんか
ら、すべての誤った想念も、嫌な環境も各自の過去世から今日までの、大生命(神) のみ心を離
れた、物質人間観の消えてゆく姿として、今現われてきているのだ、しかしそれは、人間の本
心、本質、完全性が現われるために、邪魔な波動の消えてゆく姿として現われてきているのだ、
だから現われてきている、病気や不幸、災難や自他の嫌な想念は、すべて消えてゆくものとし
て、神のみ心の中で消して頂きなさい、そのためには祈りが必要なので、世界平和の祈りをなさ
い、そうすれば、いつの間にか知らないうちに、物質生命観から、永遠の生命観に変っている自
己を発見しますよ、と私たちはいっているのであり、多くの同志はみなそうした体験をして、今
81真の生命を得る
日に至っているのであります。
武力をとりあげる
なんにしても、この地球界が救われるのには、現在までの世界観では駄目なことは明らかな事
実なのです。現在の国々はどうしても、武力をもって自国を守ることを主にします。大国は勿
論、小国も大国の武力の傘の下で自国を守ろうとします。その武力が今では、大変な量の核爆弾
を大国が持つようになっていて、いざ戦争となれば、忽ち地球は壊滅してしまう程のものになっ
ております。
各国からこういう武力を取り上げないことには、戦争の危機はなくなりませんし、真実の平和
ができっこはありません。右手で殴る格好をしながら、左手で握手をしようとしても、真の握手
になりっこはありません。
しかし、どうしたら各国の武力を取り上げることができるのでしょう。それは指導者や為政者
や人民たちが今日までの世界観を一変させるより、その手はないのであります。自分たちが自覚
して、武力を放棄することより他に、各国から武力を取り上げる方法は今のところ見当りませ
82
ん。
各国指導者が、武力はいらないのだ、という自覚を持つことは、今では夢物語のようなもので
すが、人類の多くが、各国家の指導者とは別に、平和をつくるのだ、という強い意志力で、横に
結ばれてゆけば、国と国とが武力で戦う必要が無くなってしまうのであります。国と国とがお互
いの権力を奪われはしまいか、自国が損をしわしまいか、という疑心暗鬼が、各国に武力を持た
せるのですから、その疑心暗鬼を取りのぞいてしまえば、お互いが信じ合える心の状態になるの
です。
そうした心の状態に、各国の為政者、指導者をもってゆくためには、各国の多くの民衆の信じ
合った横の力が必要になってくるのです。その民衆の横の信じ合える力をつくり出す方法が、世
界の平和という人類の大目的に、心を結集させるということであります。
祈りによる世界平和運動は、そういう方法の一つとして、神霊の世界の大きな力の応援によっ
て、できあがった運動なのです。「世界人類が平和でありますように」という人類の念願そのま
まを祈り言葉として、その言葉の下に各国民衆の心を一つに結んでゆく、ということは、やって
できないことではなく、現に私共の運動は月毎年毎にその人数が急速に増えております。それは
83真の生命を得る
勿論日本ばかりでなく、各国にも順次にひろがりつつあります。
各国の民衆がお互いに、自分たちの平和への念願を信じ合えるようになれば、各国民衆たちの
間では、お互いに戦争をし合う程のいがみ合いの想いは無くなります。後は各国為政者や指導者
の政策上の問題としての戦争が残るだけになります。そこで各国の政策上にも戦争をする必要が
ない、というところまで、世界平和運動は押し進められてゆかねばなりません。
そこにはもはや、肉体人間の力だけでは、とても到達し得ない、肉体人間観や、各国の利害打
算欲、権力欲が、人間の心を蔽っていますので、この分は神々が大光明波動で、浄めつくして、
人間本来の汚れなき生命の働きそのものにしてゆこう、ということになっております。只、こう
した神々の大光明力を仰ぐためには、たゆみなき神霊への感謝と、世界平和の祈りの実践が必要
になってくるのであります。
34
超科学の出現
それからまた一方では、秀れたる宇衝人の援助による、大調和科学の完成でありまして、この
科学の完成をみた暁には、核爆弾をはじめ、あらゆる武力が使えなくなる波動の照射がなされ、
各国共に武力の持ちぐされになってしまうようになるのです。
この科学は、宇宙のあらゆる波動を自由にコントロールできる科学力でありまして、あらゆる
爆弾が爆発しようにも、その元である、原子、電子や中間子が、この科学の波動の照射によっ
て、すべて調和してしまって、爆発する力を失ってしまうのです。全く漫画家の描く、宇宙人物
語のようなことですが、その力が事実となって現われる日もやがてくるのであります。
近来特に話題にのぼっている、空飛ぶ円盤の構造などは、この大調和科学、宇宙子波動学の根
本原理そのままなのです。現在の地球科学のように、すべてを物質的力や、ロケット推進力の力
によるような、そういうエネルギーカの科学では、どうしてもその力の限度がありますし、プラ
スになる反面には必ず害がともなうのです。
飛行場周辺の公害をはじめ、そうした科学力の働く周辺には必ず、公害が発生しているのであ
ります。原子力の発見にしても、原子力を使う場合には、どうしても放射能の害がともないます
し、この力を核爆弾に使うようなことにもなってきているわけですから、力による科学では、こ
れ以上、地球人類の進化に役立つことはできないのです。
進化に進化を重ねた宇宙人の発見した科学力は、地球の科学力のような、すべて力で押してゆ
85真の生命を得る
く科学力ではなく、すべて調和ヘコソトロールされた科学なのであります。そういう宇宙人の科
学が、やがて、滅亡寸前の地球救済のために使われることになるのですが、現在は、地球にふさ
わしい使い方のできるように、私共に日夜勉強させてくれているのです。
現在の地球科学でもテレビジョンのような調和の科学もあるのですし、人間の思考をコソトロ
ールする念力を使った科学もソ連あたりでは急速に発達してきているようです。ですから、宇宙
おかし
人の指導による、大調和科学である、波動による生命物理科学が生れいでても別に面妖なことで
はないのです。
宇宙の神々はなんとかして、地球を壊滅させずに、救いたいと念願され、真理に目醒めた人々
を使って、地球救済運動をつづけておられるのであります。私共は、祈りによる平和運動と、宇
宙子波動生命物理学の二つの道を、神々の応援で、突き進んでいるわけなのであります。すでに
物質的生命を捨て、真の生命にめざめた方々、どうぞ率先して、この世界平和運動を推進して頂
きたい、と私は切に願うのであります。
$6
愛について
アインシュタインの思想
愛については、私も何度びか書いておりますが、愛の行為の実例をあげながら、また書いてみ
たいと思います。これは直接、愛について書かれたものではありませんが、真の愛は、こういう
境地になることによって生れるものだ、という意味のアインシュタイソの言葉が、一九七二年四
月二十九日のニューヨークタイムズ紙に載っており、在米同志の高木俊介博士が日本文に訳し
て、私に送ってきましたので、その文をこの小論の最初に掲載してみます。
「人間は宇宙と呼ばれる全体を構成する一部であるが、時聞と空間の枠にとじこめられている
ヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘへ
ために、独立した自分が考えたり、感じたりするものと理解する。この理解は想念に生じた一種
$7愛について
ヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘへ
の幻像であって、我々の意識に対して牢獄のような作用をし、我々を自分の欲していることにの
み気を配ったり、身近の人々にのみ愛情をそそぐようにしてしまう。我々の使命は自分の意識を
この牢獄から解放し、すべての生物やすべての自然をあるがままの美しさで抱擁するまでに、自
分の愛念の及ぶ範囲を拡げることである。これは非常に難かしい仕事で、誰にも成就できない
あへぽう
カその努力は自分を解放する道を歩むことであり、心の落着きを培うことであるL (傍点筆者)
これがアインシュタイン博士の言葉ですが、実に真理を悟った言葉であり、全く同感の至りで
す。アインシュタインは科学者としての第一人者でもあり、人間としても地球人として最高級の
人だと思われます。
私が常に、人間が自分自分と自分を主張している、その自分というものは、頭脳を駈けめぐっ
ている想念意識であって、真実の自分ではない、単なる消えてゆく姿なのだ、真実の自己という
ものは、奥の奥の世界、神のみ心の中にあるのだ、といっているのと全く同じ発想であるので
す。
神のみ心である宇宙的な境界に立たない愛ですと、その愛は執着を生じたり、他に対する不調
和をまねいたりしまして、自己を愛し、自己の身近な者を愛することによってかえって、自己を
8$
執着という牢獄へ閉じこめてしまうことになります。
宇宙意識から、自己を小さく区切って考えた範疇で行じられる愛行為では、宇宙意識、つま
り、神の大いなる意識から外れてしまっている場合があるのです。ですから、そうした愛行為で
すと、他との争いを起こしたり、良心的な苦痛を味わったりするのです。宇宙意識を外れた個我
と個我の愛情は、宇宙意識の大調和の運行の外にあるので、自分たちだけの瞬間的な喜びであり
まして、次の瞬間には別離の悲しみとなってきます。
ぽう
私がアインシュタインの言葉に傍点をつけたところは、仏教の奥義に通ずるものであります。
時間と空間という三次元、或いは時間を一次元と考えた四次元の、つまり肉体という形のある世
界に住んでいますと、形の上で独立した自分を考えます。そして自分の考え、自分の行為という
ように、真実の自己を想念意識で縛ってゆくのであります。
肉体という限定された形の上での、自他の想念意識で縛られた状態は、不自由そのもので、さ
ながら牢獄につながれた如き状態です。アインシュタイソにいわせると、こうした時間空間的な
把われの中での自己意識は、一種の幻想で、本来は宇宙生命の自由自在な働きをしている存在者
であるべき真実の自己が、そういう幻想的意識を持つと、肉体的な身近な人々にのみ愛をそそ
89愛について
ぎ、人類全般、
というのです。
生物全般にそそぐべき、宇宙意識的愛行為が出来なくなってしまうことになる、90
牢獄からの脱出
わけいのち
これを私流に易しくいいますと、人間は本来、神の分生命であり、霊そのものであって、肉体
人間が真実の人間ではない。神の分生命の働きが、今仮りに肉体人間という、三次元的現れをし
ているのであって、それは単なる現れにすぎないので、その現れの形の世界にのみ把われていて
わけいのち
は、神の分生命の本来の働きが出来なくなる。だから常に、祈り心をもって、生命の本源である
神の世界に自己の想念意識を置くようにしなければ、肉体世界という狭い、低い次元の世界に把
われてしまって、神の分生命である本来性を忘れてしまい、ついには神のみ心の軌道を外れて、
滅亡してしまうのである、ということなのであります。
くとフ
しかし、なかなか肉体人間観を脱却することがむずかしいのです。仏教でいくら空になれと説
いても、老子の無為の道を説かれても、それはいつも肉体人間の意識として聴いているのであり
こ
まして、肉体意識を超えた霊性の意識を、この現象面に発現させるような聴き方をしないのであ
ります。
人はみな一つの根源から生れ、すべて兄弟姉妹である、という神の世界、霊性の世界の真理
が、肉体人間観のままでいては、いつまでもわかってこないのです。そこで、自己の身近なもの
か、自己になんらかの利益をもたらす者しか愛せないようになり、そうした執着にふり廻わされ
て一生を終ってしまうのであります。
肉体の人間のみが人間である、という迷信を捨て去らねば、人類の進化はここで止まってしま
って、地球人類は滅亡するより仕方がないのです。その土壇場に現在の地球人類の運命は来てい
るのです。しかし、こうして眼に見え、手に触れる人間というものは、肉体の形をした人間であ
りまして、心というものは、その肉体の内部器官から生れてきている、というように一般では考
えておりますので、どうしても肉体が人間だという意識を捨てきるのが大変なのです。
それは科学者であるアイソシュタイソ博士もいうように、時聞と空間の枠にとじこめられてい
る意識想念の幻想なのであります。釈尊はこれを転倒夢想している、と説いているのでありま
す。といわれましても、やはり肉体人間が自分だという想いが消えることは、容易なことではあ
りません。
91愛について
92
物質とは? 肉体とは?
そこで、今度は科学的に物質を考え、肉体を考えてみましょう。毎度申すようですが、肉体を
含めた物質は、種々の細胞分子で出来ております。そしてもっと細かく分ければ、原子となり、
電子とか中間子とかいうことになり、素粒子、微粒子の群となってまいります。そして遂には
波動である、というところまで突きつめられてゆきます。もう電子顕微鏡でもみえぬところま
で、科学者の理論は進んでいます。
そう致しますと、すでに肉体というものは細かく分解されて、微粒子の集り、はては波動とい
うことになりまして、限にも手にも触れぬものになってしまいます。そう考えますと、この五尺
や六尺に固定されている肉体という物質体は、このように固定されたものではないということに
なってきます。ですから古い時代のように、人間は肉体なんだ、という考え方から、肉体も物質
体の一種で、原子、電子、微粒子、波動というように、元を正すと、眼にも手にも触れない、微
妙な存在でそうした存在を肉体のような固定した形に組めあげている生命の働きこそ、真の人間
そのものなのだ、という考えが生れてくるのは当然なことであります。アイソシュタイソもそう
いう考えだったのです。
肉体というものに把われている人間は、自分の意識を牢獄に閉じこめているようなものだ、と
いうアイソシュタイソの考えも、生命そのものが人間なのだから、個々の肉体などというものの
中に、人間の意識を把われていないで、すべての生物や自然のあるがままの美しさを抱擁しよ
う、というわけです。
肉体というものは、個々に働いている生命がこの物質世界で働き易いように、と作りあげた一
つの場であり、器なのでありまして、肉体が人間そのものではないのです。
このことを地球人類が知るか知らぬかによって、地球人類の素晴しい進化の道が開くか、地球
人類滅亡かの、二つの運命のどちらかになるのであります。しかし神様は、地球人類を滅ぼすこ
とはしない、とおっしゃつて、地球人類救済の救世の大光明、と私たちが呼んでいる救済の神霊
の団体的働きを地球に送ってよこしておられるのです。そして、それと同時に、宇宙天使の進ん
だ科学の道を私どもに教えて下さり、宇宙子科学というものの研究が、今私どもによってつづけ
られているのであります。
93愛について
94
人間観を変えよう
分解すれば波動になってしまう、肉体という形の頭脳の中に、生命の原理だの、宇宙の原理だ
のの大智慧が蓄えられている筈がありません。また精神というものでも、肉体波動を超えた大生
命の中心からひびいてくるものでありまして、肉体頭脳の中にあるものではありません。
地球人類の肉体未生の昔から、大生命の分生命の働きの中に、精神も智慧能力もすでにあるの
でありまして、そうした智慧能力や精神の働きが、肉体誕生と同時に、肉体人間を通して働くよ
うになっただけなので、本来肉体の中にあるものではないのです。
人間は肉体人間として生れぬ前も、また肉体死後の世界でも、個性をもって生きつづけていた
ものであり、生きつづけてゆくものであることを、心(神)霊にくわしい人々は皆知っているの
であります。
仏教でいう過去世や来世というものが、実際にあるのだ、ということを信じることが、やは
り、地球人類が救われる大事なことでもあるのです。そして、真実、神性の人というものは、生
れ変りも死にかわりもない、神のみ心の中で生き通している者である、というところにまで、境
地が到達してゆくことこそ望ましいのです。
唯物的な教育を受けている現代の人々は、五感に触れぬ世界は一切否定しようとしますが、科
学の分野では、すでに五感に触れぬ分野にまで理論がいっているのでありまして、やがて四次
元、五次元、無限次元というように深いところにまで、科学の手はのびてゆくことになるのです
が、この科学は今日までの線をたどっていたのでは、どうしても途中でゆきづまってしまい、地
球人類滅亡のほうが先にやってきてしまいます。
ですから、どうしてもアインシュタインや私たちのように、物質界や肉体世界だけに把われて
いる世界観を超えた、宇宙観にならないといけないのです。それでないと、小さな個我、つまり
個人個人が、形の上の国家とか民族とかいうものの、自己本位の相対的な争いがつきませんで、
やがては大戦争になってしまうのです。
形の世界の個人や国家や民族ではなく、宇宙の中心、つまり神のみ心の中において、本来一つ
である生命のひびきを各自が理解して、その理解の下に、置かれた立場において働く、というこ
とになると、その行為がそのまま神のみ心の現れともなり、人類愛の行為ともなって、戦争はお
ろか争いの少しもない、助け合いの地球発展の歩みとなるのであります。
95愛について
生物や自然のもっている本来の美しさ、その美しさを我がものとして、各自が働く、というこ
とになると、争いとか恨みとかいう、美に反した、調和に反した行為はなくなってしまうので
す。
そこで、どうしても人々の宇宙観を変えていかねばならぬ、ということになるのです。人間は
肉体ではなく、宇宙生命の一つの働きなのだ、肉体とは単なる生命の働きの場であり、器なの
だ、という先程来の言葉をまた繰り返えして申し上げて、本題の愛について書いてゆきたいと思
います。
96
永遠の生命につながる愛
親が子を愛し、夫婦や恋人が愛し合う、これも愛であることに変りありません。しかしこうし
た愛は、個人的な愛でありまして、肉体的つながりによって生れる愛です。ですから必ず、別離
の悲しみがそこに伴います。人間は肉体的には別離の時が必然的にめぐってくるからです。
こうした愛のみを愛と考えている人も随分あるのですが、これは自己愛の現れでありまして、
肉体という自己限定から生れているのですから、永遠の生命につながる愛とはなりません。かえ
って神の大愛を妨げる行為となることもあるのです。
真実の愛というのは、そこに自我というものが無い状態の愛行為でありまして、自己の感情の
喜びを意識しての愛ではありません。ですから、どうしても肉体身としての自己を意識しては、
とても行なえるものではありません。肉体身を超越して、宇宙生命と同化した心になっていてこ
そ、自然と自己犠牲の愛が行なえるのです。
だがしかし、そういう心境になるためには、それ相当の修業が必要になります。釈尊は愛とい
こう
う言葉を執着と同じようにみておられ、業のほうに入れておられます。そしてその執着の愛の想
いを超えるためにも、空になる修業が必要であると説いておられます。
くう
現代の人々は、釈尊時代のように、空になるための坐禅観法ばかりしていられません。だから
といって、執着であり、喜びが裏がえって悲哀となり、親密が時には恨みとなってくるような愛
の想念でいたのでは、人間はいつ迄も苦悩の世界からぬけきることは出来ず、永遠の生命を得る
ことも出来ません。
親子や夫婦や恋人や知人の愛情の交換がいけないというのではありません。そうした愛情も根
底においては、宇宙生命のひびき、神のみ心に根ざしているという、大きな広い愛からきている
97愛について
ものでなければ、この地球人類はもう進化がないどころか、自我のぶつかり合いで、滅亡してし
まうに違いありません。
ここのところが実にむずかしいところでありまして、親子の愛や夫婦の愛、恋人の愛、友人の
愛、はてはもう少し大きくなって、郷土愛、国家愛、民族愛、というように、こうした愛がだん
だん広がってゆきまして、国家愛、民族愛というところまでゆきつきますと、執着の愛でありま
しても、自分個人というものを捨てた、大きなものへの奉仕、犠牲精神というものになってきま
す。
ところが、自己犠牲である、民族愛であり、国家愛でありましても、神のみ心本来の愛、あり
としあらゆるもの、生きとし生けるものを生き生きとさせる、すべての生命を生かす、という愛
になっているか、というとそうではありません。その愛は、国家というエゴイズム、民族という
自我心で止まってしまっています。
お互いの国民が、民族愛といい愛国心という、自己犠牲の精神で戦いつづけ、そこに得たもの
は、地球人類滅亡への一歩一歩の歩みでしかなかったのが、現在の世界の状態です。かつての日
本人も愛国心で戦ったのです。アメリカ人もベトナム人も愛国心や民族愛で戦ったのです。そう
98
した個人個人の犠牲精神は美しい。しかし、その根源が自我欲望の道を歩いているのですから、
その犠牲は現状としては稔りはしなかったのです。しかし考えようによっては、そうした大きな
犠牲をはらったことによって、お互いが戦争の愚かさを次第に心の奥底にまでしみわたって知っ
てゆくことでしょう。それは確かに個人個人の大犠牲によって生れ出たプラスへの道であるので
す。
私はアイソシュタイソのいうように〃これは非常にむずかしいことで、誰にも成就できない
が〃神のみ心の奥の世界、宇宙生命の根源の意図を悟って、地球人類が真の人間の在り方、真の
愛の行為を、是非共行わねばならぬと思うのです。これは一朝一夕で出来るものではありませ
ん。たゆみない修練と日常生活の習慣が必要なのです。
それは日々瞬々刻々の観の転換法によるとよいのです。観の転換法即ち祈りなのです。この世
の入り乱れた雑念だらけの頭の整理のため、私たちは心を静めることが大事です。心を静め、そ
れと同時に、知らない間に宇宙観が変ってゆく。肉体身オンリーであった人間観が、いつの間に
か神一念、久遠の生命のひびきと一つになってゆく、この観の転換法、これが私が常に申してお
ります、消えてゆく姿で世界平和の祈りなのです。
99愛について
世界平和の祈りの中に、凡夫である自分、間違いだらけの自分を瞬々刻々投げ出して、神の正
しいみ心を頂き直す、そういう自然の祈りの行為の中に、親子の愛も、夫婦や親族知人の愛の行
為も、人類愛の行為と等しい行為として、執着を放たれた光明輝くひびきとなってゆくのであり
ます。では終りに、第二次大戦中の清洌な愛の行為の話を書いて、皆さんの心に清らかなひびき
を伝えることに致しましょう。
100
囚人一六六七〇号ーコルベ神父
春秋社刊「ゼノ死ぬひまない」松本桃楼著より
《一六六七〇号》、それがコルベ神父の囚人としての登録番号だった。その番号を胸に縫いつ
けられた囚衣は、どこの誰が着ていたか知れない血や、膿でこわばっていた。抑留者は、身につ
けたすべての物といっしょに、一人の人間としての人格も、名前もすべてがはぎ取られ、ただ、
胸に表示された一個の番号だけによって存在する「物」として扱われるのだった。
コルベ神父がニェポカラノブから拘引されたとき、コルベ神父の右腕として活躍していたユス
テイノ神父は、共にアウシュヴィッツに送られた。その後、ダハオ収容所に移されたため、九死
に一生を得て、終戦後来日し、修道院長をつとめたが、一時期、コルベ神父と共にしたアウシニ
ヴィッツの模様を次のように語ってくれた。
「収容所の中は息もつまるほど悪い臭いが、一ばいで、ベッドは、手も足も伸ばせない。から
だも動かせない三段ベッドは、板も削ってない台にジカに寝ました。毛布は四、五人に一枚だ
け、シラミの大軍… … そんな生活のために、身分の高い知識人でも、昔からの大切な友だちの顔
も見わけられないほど、頭がダメになってしまった人が、何人もいました… … 」牛や馬がうける
ほどの扱いさえ、夢にも期待できない苛酷な労働。飢え、不潔、疫病、刑罰、そしてその中で、
ヘヘヘヘへ
最も悲惨な不幸は、自分だけが少しでもいい目を見ようとあせる、仲間同志のおとしいれや闘争
だった。
こういう中にあって、脱走を夢みるのは、誰にも、無理のないことだった。だがそれは、もし
ヘヘヘへ
成功すれば、あとに残った抑留仲間が少なくとも十人はみせしめのため死刑にされることになっ
ていたし、失敗すれば、自身むごたらしく殺されることはわかっていた。
だから、たとえそれが、いかに綿密な計画によったものであっても、結局は、絶望的衝動によ
る、自暴自棄か、自分さえ助かれば、他人の不幸などかえりみないという、動物的本能がさせる
101愛について
ことだった。その脱走事件がコルベ神父たちの、第十四号収容所から起こった。同舎の抑留者た
ちは、いっぺんに恐怖の底につき落された。あすまでに、脱走者が発見されなければ、自分たち
のうちの十人が死刑になるのだ。それもただ殺されるのではない。〈死の家Vと人々が呼んでい
る、地下の、明り窓さえもない監房に閉じ込められたまま、餓死させられるのだ。死ぬまで一滴
の水も与えられないで。
「その十人の中に、もしも自分が入ったら……。」その夜、誰も、一睡もした者はなかった。
翌朝になっても、ついに脱走者は帰らなかった。第十四号収容所の抑留者は、全員、真夏の炎天
下に、不動の姿勢で立たされたまま、水も、一片のパンも与えられず、昏倒者が続出した。ナチ
の親衛隊員が、それを棍棒でなぐって立ち上がらせる。夕方の点呼の時間になった。保護拘禁所
長が、部下を連れてやって来た。いよいよ犠牲者の人選がはじまるのだ。囚人たちの、恐怖にあ
えぐ息づかいが、聞きとれる。所長は、ねずみをさいなむ猫のような眼差しで、抑留者ひとりひ
とりの顔を見回して歩いた。彼自身、まだ、誰にするか予定していないのだ。所長の気まぐれを
待つ時間が抑留者をさらにさいなんだ。
●「自分は大丈夫」と信じられる根拠はなにもない。しかも「ひよっとしたら助かるかも… …」
102
という欲が、不安をますます大きくするのだ。
「… … こいつ… …あいつ… …」
所長は手にした杖で、囚人を指して行った。副官が、そばから、指さされた囚人の胸の番号を
書きとめる。選ばれて、列からひきずり出された十人の犠牲者。その中の】人が、妻と子の名を
叫んだと思うと、声をあげて泣き出した。だが、選ばれなかった人々に、それに同情を感じてい
る余裕はなかった。
「助かった!」その思いだけで精一杯だったのだ。そのとき、一人の男が、列をはなれて、所
長の前に進み出て来た。
「なんだ!」
自分の命令以外には、指一本動かす者もあろうとは、思ってもいなかった所長は、一瞬気を呑
まれたあと、威厳を回復するために激しく怒鳴った。だがその男は、微笑したままだった。
「わたしはその人と代わってあげたいのです」小柄なその囚人は、まだ号泣している若い男を
指さした。長い沈黙の秒がきざまれ、やがて意外にも、所長が力ない声で「よし」と答えた。副
官は犠牲者の番号を書き代えた。新しい番号は二六六七〇L だった。
XO3 愛について
「コルベ神父だ。マキシミリアソ神父だ」抑留者たちの、ささやきかおすかすかな声が、アゥ
シュヴィッツの広場を、ゆるがすように拡がっていった。
「友のために命をすてるより大いなる愛はなし」。人々は今まさに、キリストが残していった
ヘヘへ
愛のあかしを体験したのだった。
神父の目は、ちょうど地平線の西に落ちてゆく夕日の美しさを、ただうっとりと見つめてい
た。この世に生をうけて四十七年、ひたすら聖母マリアに捧げきって来た毎日だったが、その過
去にも、かつておぼえなかった平安と満足とを、かすかなほほえみの中にただよわせながら。
やがて、〈死の家〉に向かう列の最後について歩き出す神父の背を、次第に夕闇がつつんでい
った。
一九四一年(昭和十六年) 八月十四日、聖母被昇天の祝日の前日に、コルベ神父は帰天した。
何十年来、一度も人なみの健康を持たなかった神父は、いっしょに餓死監房に入った人々の中
で、最後まで生き残った。ナチ親衛隊員は、神父の腕に、石炭酸を注射した。神父は静かに眼を
閉じた
⑩4
なんという清らかなそして烈しい愛の行為でありましょう。真の宗教信仰とはこうしたものな
のです。自己を肉体的なものではないとわかった時、その人は自己犠牲の大きな愛に踏みきるこ
とができるのです。しかし私は、誰もがそうした愛を行じることはできぬと思いますので、そう
した愛行に通ずる道として、常に他の人の幸福を願い、人類の平和を願う心になっている、とい
う意味でも、世界人類が平和でありますように、人々の天命が完うされますように、という世界
平和の祈りが必要だと思うのです。
なかなか捨てきれない、肉体的自己愛の想いを、瞬々刻々の世界平和の祈りの中で、知らぬ間
に消し去り、祈り心を積み重ねてゆくうちに、自己犠牲とかいう想いのないまま、真実の愛が自
然に行じられるようになってくるのです。
なんにしても、人間にとって、祈り心ほど大切なものはありません。そしてその祈り心が人類
愛そのものになっている、世界平和の祈りこそ、肉体身にいながら、肉体身を含めた生命全般へ
の大きな愛のひびきとなって、ひびきわたってゆくのであります。
105’愛セこつL、て
XO6
頂き直す生活
生かされているということ
頂き直す生活というのは、浄土門の根本的な生活方法ですが、どんな宗教でも、結局は、頂き
直す生活をするようにならなければ、神の子、仏子の生活はできないのであります。
では頂ぎ直す生活とは、いったいどんな生活なのか、少し話してまいりましょう。
人間はこの肉体身を、肉体をもった父母から生み育てていただきます。ですから父母は、肉体
身の親であり、恩人であることは間違いありません。しかし、父母の生命も子供の生命も、父母自
身がつくったものでも子供自身がつくったものでもありません。父母の祖先の祖先の、ずーっと
さかのぼった祖先から分けられたものであり、その祖先の生命も、どなたからかいただいたもの
であります。そのどなたかは、生命の基であり、大生命絶対者とでもいおうか、人類の発生しな
い昔の昔から大宇宙に生きつづけている生命であり、大智慧、大能力の存在者であるわけなので
す。その大生命、大智慧、大能力の絶対者こそ、私どもの生命の親様であり、私どものすべての
すべてであるのです。
こんなわかりきったことを、はっきりわからないでいるところから、人類の不幸がはじまって
いるのであります。何から何まで自分で納得しなければ信じない、という人がありますが、この
世の中で納得できることなど、どれ程あるでしょう。大体一番大事な生命というものがわかって
いないのです。生命というものはいったい何なのでしょう。すべての生物を生かしているもの、
に違いありません。生命があるので、脳も内臓も血管も働いている。そして肉体が保たれてい
る。こういう一番大事な生命というものがまるでわかっていないで、納得できないことは信じな
い、などといっているのは、甚だおかしなことです。信ずるも信じないもない。そんな想いとは
関係なく、人間は生かされているのであります。生かしているのは、生命そのものなのです。生
命がある以上は生きている。その生命は自分でつくったものではなく、与えられている、という
ことになるのですから、人間は自分で生きているのではなく、生かされているのだ、ということ
].07頂き直す生活
になります。鵬
生きているのではなく、生かされているのだ、と知ることが、宗教信仰の第一歩なのです。生
かされている生命を、充分に生かしてゆこう、という人間観、人生観こそ、人類を更に一段と進
化させる考えなのです。
自分でつくった生命でない、与えられて働いている生命を、どうして感謝もなく、自己のもの
として自由にしようとするのでしょうか。与えられている生命なのだ、いただいて生きている生
命なのだ、という神仏への感謝がなくて、自分勝手な生き方をしていて、どうして、神のみ心に
叶う、平和な幸福な世界が生れてくるものですか。生命への感謝のないところには、真の幸福が
生れてくる筈がありません。個人も人類も同じことです。
肉体は霊の器
人問が自分だと思い、自分の体だと思っている肉体身は、その重要ポイントの働きの殆んど
が、自己の意志によって動いているのではなく、自然に自己意識以外の力によって動いているの
であります。心臓、肺臓、胃腸、肝臓、腎臓と数えるより、数知れぬ細胞そのものが、自己の意
志、意識にかかわりなく働いているのであります。
その動かしている力は何か、といいますと、一口に人間が生命と呼んでいる力に他なりませ
ん。人間の生命は、肉体以外の世界の力を、肉体の内部に導入して働かせている、そういう立場
にある働き、とでもいう存在です。この生命が、肉体内部に働きかけなくなれば、その人間の肉
体の働きは停止してしまい、死という形がそこに現われるわけです。
人間の死とは、生命の去った、生命が働きかけなくなった、肉体の姿、ということになりま
す。ここで考えてみなければならないことは、生命の去った肉体を、果して人間と呼ぶのでしょ
なきがら
うか。人間そのものではなく、人間の骸というべき、一つの物体に過ぎないのです。
と致しますと、人間の中味は生命でありまして、肉体は単なる容器に過ぎないということにな
ります。テレビジ。ソに例えれば、肉体はテレビジ。ンのボックスであり、放送局からの電波の
働きによって、放送局で演じている事件事柄をうつし出しているのだ、ということになります。
もと
光波や電波は、生命波動ということになり、その本には、個人としての生命と、その奥に大本
である大生命とが働いているのだということになるのです。ですから、肉体人間そのものを唯一
の人間のように思っている人は、容器だけをみて自分だと思っている錯覚に陥っているわけで
109頂き直す生活
す。容器である肉体保護のために、人間の本質そのものである、生命の働きを損わせるような生
活をするならば、その人は実に愚かしい人というべきなのですが、実は、こういう人のほうが現
在の世界には多いのであります。
一人の人間が誕生するには
エイエイ
一人の人間がまだこの世に誕生しない以前から、このAならAという肉体人間を形成する生命
エイ
の力は、すでにその両親に働きかけて、その母親の胎内でAの肉体をつくりあげているのであり
ます。
一人の肉体人間が、この世に誕生するためには、まずその人間の守護神が中心となり、子供と
エイ
して生れる生命(霊魂) と、その両親となるべき生命との調和を計ってゆくのであります。Aの
生命が霊界から肉体界まで延長されて働くことになるのですが、協力している両親の生命の働き
と、その両者の上に立って調和のひびきを放っている守護の神霊と、諸々の生命要素が相協力し
て、その役目を果してゆくのです。
エイにイエイエイ
AならAという人間は、肉体のAという人間として生れる前に、もうすでにAという生命体と
110
エイエイ
して存在しているのですから、Aという肉体人間は、A という生命の、或る時間的の現れに過ぎ
ないのであります。
エイ
そしてAという生命体は、大生命、大神様の分生命で、大宇宙の運行を、神霊の世界におい
エイ
て、自己の受け持ちの分だけ働くようになっているのです。肉体界のAもやはり同じことなので
すが、肉体界を蔽っている、物質波動や種々の業の波動に妨げられて、神霊の世界のように純粋
に大神様の働きができないのです。
大神様の働きができないばかりでなく、神霊世界に働いている自己の本体を忘れ果てて、肉体
身にまつわる想念意識だけを、自分だと思いこんでしまったのです。そういう人が、この世の中
の大半をしめているのです。
この肉体身だけに想いが把われている限りは、生命というものが、肉体身にだけ働いていると
思ってしまいます。生命が肉体身にだけ働いているという迷信を打ちはらうためには、やはり父
母、祖父母ー先祖というように上にさかのぼって、生命が肉体人間以前に存在しているのだ、
という基本を認識しなければ駄目なようです。
111頂き直す生活
112
愚かしい迷信
しかしながら、学問知識の深い、いわゆるイソテリのほうが、教育の浅い人々より、こういう
生命の基本を認識していないのです。自分というのは、こうした肉体身である自分である、生命
というものは、肉体身そのものに働いているだけで、肉体消滅と共に無くなってしまうものであ
る、と思いこんでいるのでありまして、肉体消滅後も生命は他の世界で存続しているのである、
つまり霊魂の世界の存在などを説く人を愚かしい人として、一笑に付してしまおうとする傾向を
もっているのであります。
こういう人たちは、神という言葉をいうのさえ恥かしいと思う妙な感情をもっているのです。
知識人と称する人々の多くは、学問という名前のつかない知識は、自分たちの知識として受け取
らない変な癖をもって、インテリの誇りとしているのであります。
はず
こういう人たちが、宗教的には一番救われにくい人たちで、永遠の生命の流れから、いつも外
れて生活してゆくことになるので、いつまでたっても、小さな狭い肉体身という枠から出ること
ができずに過してしまうのです。それだけならまだしも、肉体身以外の生命の世界を否定してい
くらやみ
ますので、肉体死後においては、生命の光明をみることができずに、生命の無い、真暗闇の世界
で、想念意識だけが働く、全く身動きできない年月を送らねばならなくなってしまうのです。恐
るべき迷信の結果であります。
ですから、たとえ、学問知識の殆んどない人であっても、素直に神の愛を受けて、すべてを神
様から恵まれていると感謝して生活している人は、常に肉体身だけでなく、広い、深い神の世界
に住んでいることになり、あの世に行っても幸せな生活を送ることになるのであります。
神の御恵み
人間は、一番大事な生命からはじまって、すべてを神様からいただいて、生活していることは
確かなことです。神様は或る時は漁師となり、或る時は百姓となって、人々の食縫の供給のため
に働いて下さり、或る時は織物屋となり、建築屋となって、人々のためにつくして下さっている
のであります。
何故ならば、漁師も、お百姓も、織物屋も建築屋も、みな神様の生命を分けられて、この世で
わけいのち
働いている、神の分生命であるのですから、人々は、自分に働いている生命だけではなく、その
113頂き直す生活
生命を肉体身において生かしきるための配慮は、すべて神様のほうでなさっていて下さるのであ
ります。肉体の人間の力では、水の一滴、少量の空気でさえも、神の基本的要素を使わなけれ
ば、生み出すことができないのです。その事実を正直にみつめる必要があるのです。
その事実を正直に素直にみつめてまいりますと、何者何事につけても、感謝の心が起ってきま
す。昔から行われておりますのは、太陽に対する感謝行です。
太陽に対する感謝行というのは、特に宗教的という立場に立たぬ人でも、昔からしております
が、こういう素朴な感謝行こそ、頂き直す生き方の根本的な生活態度といえるのです。
太陽の光がなければ、万物が生育致しませんし、人類も生きることができません。太陽光線は
正に神の御恵みなのです。この事実を素直に感謝でみつめることのできぬ人の多くなっているこ
とが、人類の悲劇なのです。
日本のインテリ階級というのは、不思議と、神を語ることを恥じらい、物事についての感謝を
現わすことを嫌います。この変な恥じらいが、自然と人間との間を引き離してゆくのでありま
す。
黒住教の教祖の宗忠神人は、肺病になって、もう死が迫ってきている状態の時に、或る日太陽
114
を凝視しつづけ、太陽との一体化によって、肺病が即座に直ってしまって、教祖になってしまっ
たのですが、そのように、太陽との一体化は人類にとって大事なことなのです。
宗忠神人は、一度滅亡しかかった肉体身を、太陽との一体化によって、頂き直したのでありま
す。人間は誰でも、太陽の御恵み、空気や水やその他諸々の他動的な働ぎかけによって、日々瞬
々刻々、生かされつづけているのでありますから、日々瞬々神の御恵みを頂きつづけて生活して
いることになるのです。自分自身でつくった生命でもないものを自分自身の生命であると思いこ
んでいる愚かさに、なんで人間は気づかないのでしょう。
人間は日々瞬々、頂き直し、頂き直して生きてゆくものなのです。その事実を、はっきり認め
よ、と私は申しているのであります。
太陽が神の慈愛の現れであるように、大地にも山川草木にも、あらゆる自然の風物現象には、
神の生命の働きかけがあるのでして、人間が太陽との一体化のような心境で、神のみ心と同化し
ていさえすれば、すべてが、人間の働きを助ける力となってくるのであります。
ところが、人間が自己の生命や生活を、あたかも自己の力によってつくったような思い上がり
をしておりますと、神の慈愛のみ心と離れてしまい、自然の運行とも遠ざかって、滅亡の方向に
115頂き直す生活
突き進んでしまうことになるのです。現在の人類は大体その方向に進んでいるのであります。
116
感謝の心は祈りのこころ
人類を滅亡の方向に向わせないためには、どうしても、頂き直すという謙虚な、謙虚というよ
り当然な生活態度にならねばいけないのです。すべての権能は神のみ心にあるのでありまして、
人類はこの権能を分け与えられて、神の理念をこの地球界に現わしてゆく、そういう天命をもっ
ているのであります。
神が在っての人類でありまして、神を離れた人類というのは、滅亡するより仕方のない存在と
なるのです。ですから人類は、一日も早く、神との一体化を計って、神の権能が、真直ぐ人類の
上に働きかけられるような態度をもっていなければいけないのだ、ということになります。
そのためには、たゆみない祈り心が必要になるのであります。神様ありがとうございます、と
いう神への感謝の心も祈り心です。世界人類が平和でありますように㍉という心も祈り心です。
日本が平和でありますように、私たちの天命が完うされますように、というのも祈り心です。
そして、そういう祈り心に先んじて、すべては神様から頂いて生活しているのだ、という、全
面的神への感謝の生活ができていれば、申し分がないのであります。
祈リ心と念力は違うL
祈り心と、念力とは違います。祈りとは、神の生命のひびきに、肉体の想念が一つになって、
本心をひびきわたらせようとする、その方法であり、念力とは、自己の思念の力を集中すること
であります。
ですから祈りは、神のみ心を、常にそこに現わすものですから、その結果は調和したものであ
りますが、念力は、神とは関係なく、自己の想念意志の力をそこに現わすのでありますから、そ
の人の念力の達成が神のみ心に反する不調和なものであることが多々でてくるのです。
祈りは常に自己の想念を、神のみ心の中に投げ入れて、つまり神のみ心に人間の想いを全託し
て、神のみ心にすべてをゆだねる方法です。神のみ心に人間の想念をゆだねつくしますと、人間
の本心は神と一つのものですから、その瞬間から、その人のああでもない、こうでもないという
想念波動がなくなり、その人の本心のみが働き出します。本心とは神の心ですから、神のみ心の
完全性がそこに現われて、物事が成就してゆくのであります。
]17頂きICJ.す生活
念力の場合は、神のみ心である本心が働くのではなく、幽体に蓄積されている想念のエネルギ
ーが、集中して或る目的にそそぎこまれるので、そのエネルギ!の力によって、目的が達成され
るのですから、他の人や他の集団が同じ目的にそのエネルギーをそそぎこめば、両者の念力合戦
になってしまい、両者が傷つくのであります。
念力が強いことは、弱い人より、物事が成功していってよいでしょうが、あくまで自我の力で
すから、宗教的な悟りの境地とは反対の方向の力で、宗教者が、念力を人々にすすめるとした
ら、それは邪法であると思うのです。宗教者の目ざすところは、神仏の世界でありまして、神仏
を離れた自我の世界ではありません。
くうくう
釈尊が空になる坐禅観法を教えたのは、空にならずに、想念波動のエネルギーをつかっての念
力の修練では、三界の苦しみを超えることができないのを知っておられたからなのであります。
釈尊が、バラモンの教えを超越した仏教を立てられたのは、念力をも含めた、あらゆる肉体人間
の把われを放つことによって、人間は神仏の世界と一つになり得るのだ、ということを教えたか
ったからなのであります。
人隅はいつかは、神仏をはっきり自己のものとすることができるようになるのですが、その時
118
代の前に、自己の力ででき得る方法として、念力を謳歌する時がくると思います。そうなれば、
念力合戦のような状態が諸々で起こってくるでしょう。しかし、真の宗教者は、そうした念力と
はかかわりなく、ただひたすら、祈り心で明るく正しい生活をつづけていればよいのでありま
す。世界平和の祈りの日々こそ、明るく正しい生活をつづけるための神との一体化の祈りなので
あります。
頂き直す生活と、世界平和の祈りの生活こそ、この汚れきり、乱れきった地球世界を浄め、大
宇宙の一員としての、地球世界につくりあげてゆく、最もよい方法なのであります。
焦らず無理せず祈り心で真剣に生きよう
人間は焦ってはいけません。焦って急いで得をしようと思ってはいけません。人のうまい話に
乗って、すぐにでも幸福になれるように思ってはいけません。お金持になるのも、地位が上がる
のも、幸福になるのにも、すべて、それ相当の年限がかかります。そして、チャソスというもの
もあります。焦らず無理をせず、祈り心で、じっくりと与えられた立場を真剣に生きてゆくこと
が大事です。
X19頂き直す生活
すべてはあなた方の守護の神霊がみておられます。ですからすべての運命を、守護の神霊に託
して、守護霊様、守護神様、ありがとうございます、といつも感謝しながら、世界平和の祈りの
生活をつづけていって下さい。一番無理なく、一番妥当なあなたの運命があなたの前にひらいて
ゆくのです。
我欲をつのらせ、小智才覚をつかって、商売が一時繁盛したとしても、それは砂上の楼閣のよ
うなもので、いつかはこわれてしまう運命です。いつまでもこわれない、ゆるがない運命という
のは、神仏から、日々瞬々刻々頂き直す運命です。南無阿弥陀仏といって、阿弥陀様に感謝する
のもよいでしょう。神様と感謝するのもよいでしょう。とに角神仏から頂き直して生活してゆく
ことに感謝しつつ、真剣に生きていてこそ、人類の未来が明るく光明化してゆくのであります。
肉体人問の能力だけで、この地球人類の未来を平和にしてゆこうという、思い上りはさらり
と捨てて、人類を今日まで、守り通してこられた、守護の神霊への感謝を根本にして、地球人類
の進化の道を切り開いてゆく、智慧能力を、神から与えられるよう祈りつづけてまいりましょ
う。
今日までの人類の生き方で、どうして地球人類の進化があるでしょう。進化どころではない、
120
人類の思い上がりは、核爆弾となり、念力合戦となって、地球の波動をますます混乱させ、天変
地変をひき起こす原因をつくりあげているのであります。
はず
そのすべては、神のみ心を外れた、肉体人間観にあるのであります。人間とは神霊のひびき
うつわ
を、肉体という器に受けとめ、肉体という器であり、場であるところで、神の理念の大調和の世
界をつくりあげてゆく天命をもっているものであります。
そのためには、一度肉体人間観を捨てきって、神のみ心にすっぽり入ってしまう、世界平和の
祈りをなしつづけ、神のみ心の中で、すべての人々が心を一つにして、人類の平和への念願を成
就してゆくように努めるべきなのです。
なんにしても、頂き直す生活こそ、これからの人類すべての心構えとなすべき生活であること
を、私は再び三度び強調するものであります。
121頂き直す生活
122
本心の開発
本心と業想念
こうそうねん
本心と業想念という言葉は、皆さんは常に耳にせらるる、白光特有の言葉ですが、この本心と
まとも
業想念のことについてここで真正面に説いてゆきたいと思います。
私が本心といっているのは、仏教的にいえば、仏心のことであり、キリスト教でいえば、内な
る神ということであり神道的には、神そのままの心ということであります。
ですから本心そのままで生きている人があれば、その人は神そのものの人ということになりま
すが、なかなかそういう人はありません。老子や釈尊やイエスがそういう人ということになりま
す。
その本心に対しまして、業想念というのは、この肉体界に誕生してから、神から与えられてい
る生命エネルギーを使って、種々様々な事柄を、肉体人間の想念行為として行ってゆく、そうい
う肉体人間としての行為から生れてきた想念意識です。これは本心そのままのひびきもあります
し、本心を離れた肉体人間としての想念もあります。現今では、本心のひびきは少く、肉体人間
としての波動が多いのであります。
普通一般に心といわれているのは、この想念意識のことで、私の使っている本心というのは、
あまり使われていませんで、本心という場合でも、業想念の人間のいつわらない想い、というよ
うな意味を、本心といったりしているのです。
それではいつまでたっても、神の心である本心と、肉体生活にまつわる想念意識との区別がつ
かず、人間は今日以上に進化することはできません。そこで私ははっきり、本心は神仏の心、業
想念は善悪混交の肉体人間の心と二つに分けて心の問題を説くことにしたのであります。尤も、
昔の禅宗の坊さんの中には、自分の仏心を、本心さん本心さんと呼んでいた人がいたのです。
この世の人間は確かに、善悪混交、玉石混交の心をもち、行いをしております。そして、この
心を心として働かせているのは、神からきている生命エネルギーです。神からきている生命エネ
123本心の開発
ルギーを使いながら、人間の心に悪や不純、不調和な心が働くというのは、いったいどういうこ
とでしょう。
神のみ心は完全であり、大調和であることは論をまちません。そういう神のみ心から生れた人
間が、しかも神からきている生命エネルギーを元にして、いろくと考えたり行ったりしている
のに、どうしてそこに悪だの不調和な状態だのが現われるのでしょう。
それは人間は神のみ心から生れた、分生命である存在であるのに、いつの間にか、神とは離れ
た存在として、肉体人間の生活をしてしまったからなのであります。肉体人間として、神から離
れた生活に入ってしまっては、完全さが失われてゆくのは当然なことであります。神の大生命と
して統一された天命が成就されてゆくのが本筋なのに、小さな個々にばらくになった運命を運
んでゆく、肉体人閥となって生活してゆくのでは、不完全さや不調和な状態が起ってくるのは必
然の理です。そこに悪心が生れ、不幸や災難が生れ出てきたのであります。
124
肉体生活のスピード化が物語るもの
ですから、神のみ心を成就するためには、個々の肉体人間が、神のみ心の中で統一して生活し.
てゆくこと以外にはないのです。神のみ心である本心そのままの生き方をするように、肉体人間
のすべてがなってゆくことによって、この世の不完全さはなくなってゆくのです。
ところが、この肉体人間は、もう生れ変り死に変りして、長い期間、肉体人間として、神のみ
心の中心から離れ過ぎてくらしておりますので、一朝一夕で神のみ心に入りきってゆくというこ
とはできないのです。そこで、何か神のみ心の中心に入り易い方法がなくてはならぬということ
になります。
昔から今日まで、種々様々な方法で、肉体人間の生活を向上させようと思って働いた人々がた
くさんいたのでありまして、精神生活の向上も勿論ありましたが、肉体生活の便利さを得る、と
いう方向により多く進んでゆき、今日ではテレビ、ジェット機、コソピューターというように、
昔では考えもつかぬような日常生活の上においても大きな進歩を遂げております。
神界や霊界は、無限の速度というような、微妙な波動の世界でありますから、肉体人間の魂意
識の中から伝わってくるその微妙さを規わしたいという想念が、人間の生活の中で、スピードを
欲するようになり、生活のスピード化をなしとげたい意識となってくるのであります。
それが、汽車や自動車となり、飛行機となり、遂にジェット機にまで到達し、今は人工衛星
125本心の開発
というところまできているわけです。肉体生活のスピード化です。これは魂の本然の姿ですか
ら、いつかはこうなるようになっているのです。
本心の世界である、神霊の世界では、この世のように、想念意識というものと、行為というも
のが、或る時間経過を経て行われるというものではなく、想念と行為とが全く一つになってい
る、いわゆるひびきそのものの世界なのです。
例えていえば、そこに山をつくりたいと意識した時には、即座にそこに山が現われている。川
がと想えば、川が現われる。あの神霊に出会いたい、と想えば、そのままその神霊と向い会って
いる、というように、なるわけです。但し、神霊の階層がはっきり定められてありまして、上位
の神霊が常にその主導権をもっているのであります。
それはすべて微妙な波動の現れの世界だからです。しかし、この肉体世界では、想うことと行
うこととにそれぞれの時間経過があるのでして、或る事柄においては、五十年も百年も否千年二
千年とかかることもあるわけです。
だが、心の中では、魂の経験として、想念行為が一つに働くことを知っておりまして、それが
想念と行為との時間経過をちぢめようとするわけです。その端的な現れが、乗物や電信電話の発
126
明でありまして、場所的距離を乗物のスピードでちぢめ、電信電話においては、一瞬という程の
短い時間に、相手に接することができるようにしていったわけです。
この発明などは、肉体人間が、神霊の世界に接近してゆく、進化なのであります。他の動物と
はくらぶべくもない素晴しいことなのです。やはり人間は神の分生命である、という一つの証拠
でもあるのです。
物質も神のみ心によって現おされている
精神主義者の人たちは、物質文明に対して、ただやたらに非難をあびせて、物質文明が人間の
世界を毒した、といっておりますが、物質文明の発達も、人間が、神の分生命である、本来は神
霊そのものなのだ、という証明なのでありまして、非難だけあびせてよいものではありません。
人間というものは、兎角一方に片寄りやすくできておりまして、物質主義の人々は、すべての
幸福を物質物質と思って、精神の価値を低くみてしまうのでありますが、精神主義の人々は、物
質にひかれる心を低劣と馬鹿にしてしまう癖をもっています。確かにあまり、物質に把われてい
る人々をみていると、どうもあまり立派な人として、尊敬する気にはなれませんが、といって、
127本心の開発
物質になどまるで心をひかれないという人は、実に数少い人なのでありますし、その数少い人の塒
中には、物質を馬鹿にしすぎて、一生を貧しい生活で送ってしまい、自分の想っているように、
世のため、人のために尽くすことさえできなくなってしまった人々もあるわけです。
この肉体人間には、物質もやはり大事なものであり、この物質も、神のみ心によって現わされ
ておりますので、あまり馬鹿にしてあつかわぬほうがよいと思います。何事、何者に対しても感
謝して生活してゆくのが、宗教を信奉する人の生き方であるのですから。
今日の物質文化の発達は、随分と私どもの生活を楽にし、楽しくもしているので、こういう生
活を築き上げてくださった先人のご苦労に感謝しながら、この文明文化の便利さを利用して生活
することが大事だと思います。そしてその上において、いよく本格的な本心開発の生活を打ち
出してゆく必要があるのであります。
主人公は本心神のみ心
うま
神様の世界は実に上手くできておりますので、物質主義より、精神主義のほうが先行して発達
していましたら、先程も少し申し上げましたが、今日の物質文明文化はあり得ませんで、アプリ
カの奥地にあるような、肉体的行動の不便、不自由さのまま、いつ迄も過していてしまい、神様
のみ心が、地球のような、物質波動の世界を現わした意義を失わしめてしまいます。
地球にも勿論、霊波動の階層と、肉体人間のみている、物質的地球とがあるのですが、この物
質的地球というものを、神様がお生みになったということは、これに適合する居住者を必要とな
さったからで、神様のひびきの場を、一段とひろげられたわけなのであります。最も微妙な神の
ひびき、その次の霊波動、幽波動と次第に神の働きの場がひろがり、やがて物質波動、物質波動
といっても、肉体人間が見ている物質波動ですが、物質波動の世界がひろがってきたのです。
そして、その地を治めるべき、肉体人間が出現したわけなのです。ですから、この地球の物質
波動の世界においては、そこの住人が、物質を大事にして生活することは当然なことでありまし
て、それも一つの神のみ心の現れでもあるのです。しかし、あくまでも、その場の主人公は、神
のみ心でありまして、やがては神のみ心が真直ぐそのまま行われるような、地球世界になるよう
に定まっているのであります。
ひと
現在はあく迄、その過程でありまして、地球の物質世界において、人(霊止) は肉体人間とし
て、その場により深く、より広く、神のみ心を現わそうとしているのであります。それは人間自
129本心の開発
体、神のみ心とは気づかず行っているのでありますが、実は神のみ心の哺部の現れに近づいてゆ
く、文明文化の発展ということになっているのです。
130
今こそ本心開発の時
しかし、今日からは、もう物質世界の上に、文明文化を発展させる、という科学の働きだけで
きた
は、物質的にゆきすぎて、精神の世界とのアソバラソスを来し、地球滅亡というところまで突き
進んでしまいかねないのであります。
そこで今日では、過去の歴史から今日までの地球の有様をじっとみつめて、どうしたらいった
い今後の地球の進化に寄与し、地球の平和をもたらすことができるか、ということに想いをめぐ
らさなければいけない、ということになるのです。
物質科学は、核爆弾という破壊兵器で、各国が地球の運命をにぎっていますが、各国各民族の
心は真実の平和の道を見定めることができずに、今日までの歴史通りの古い考えで、他人や外国
に対しているのであります。
仏陀やキリストの言葉は、ただ教えとしてのみあるのでありますし、各教祖の教えは、ただ形
式のみが残っておりまして、その形式通りに生活してゆくことが、宗教だと思っているような民
族が大分いるのです。
今こそ全く、神のみ心そのものである、人間の本心を開発しなければ、どうにも進めない時代
に入ってきているのであります。自分という肉体個人を守り、自国という物質的国家を守る、と
いうそのための物質や権力、武力、そういう力は一切無駄な時代に今はなっているのだ、という
ことを痛切に感じなければいけないのであります。
イソドなど全く情けないことで、折角釈尊のような偉大な聖者を生みながら、これからの進化
の道とは全く逆方向に、国家の運命をもってゆこうとしております。
一億人もの餓死者がいるというのに、そういう対策にはたいした力を使わず、今更持ったとこ
ろで、どうにもならないと思われる、核の力にすがりつこうとしているのであります。先日の核
兵器の実験は、核の平和利用のためといっておりますが、平和利用のためなら、実験してみる必
要はないのであります。
インドが核をもったということは、日本の右傾の人々にとっては、日本も持たねば、というそ
ういう気持を強めてゆく、ということになりかねないのであります。
131本心の開発
日本は絶対に核兵器をもってはなりません。お金だけ使って、これはなんにもならぬ、マイナ
ス面だけ出てくることだからです。核を持つからには、地球滅亡覚悟で、持たねばならぬのです
から、そんなことなら、そんなものを持たずに、それで滅びるなら、それも運命だと割りきっ
て、すっぱり武力と縁をきったほうがよいのです。
神のみ心から離れて、勝手に自己を滅亡させようとしている、業想念を、一日も早く消しさら
ねばなりません。個人も国家も本心そのままの生き方をしない限りは地球の未来は滅亡に向かっ
てゆくより仕方がありません。
132
進化した星の人類
他の星々の進化した人類は、地球の未来を案じ、なんとかして地球に力を貸そうとしてきてお
ります。地球人類は非常な想い違いをしております。それはなんであるかと申しますと、人類と
いうのは、地球にだけしか存在しないものだと思っていることです。近頃では大分そうでないこ
とを知ってきた人が、増えてはおりますが、地球人類の大半は、人類とは地球のものだけと思っ
ております。
以前から私は申しているのですが、あの無限とも想える星々が、ただこんな小さな地球の夜景
を楽しませるために存在していると思えますか、ということです。大智慧大能力の大宇宙神が、
地球はおろか、太陽よりも大きな星がたくさんある、その各々の星になんの使命も与えずに、た
だ地球の飾りのように輝やかせておくだろうか、そんな馬鹿気たことがある筈のないことは、考
えるまでもないことです。
と致しますと、その一つ一つの星にも神のみ心が働き、各自の使命があるのだということにな
ります。この小さな地球にでさえも、智慧能力を神から分けられた人類があるのですから、それ
ぞれの星にそれぞれの人類があっても別に不思議はありません。
ただその人類が、地球と同じような形をしているかどうかは、また別のことです。地球の物質
界と波動が異なれば、地球人の眼にはうつらない存在としてあるかも知れません。しかし、空飛
ぶ円盤に乗ってきている宇宙人は、なんとかして、形ある存在として、地球人と接しようとして
働きかけてきています。私どもには、科学の智慧を授けにきています。いずれも地球救済の手を
差しのべていることには間違いないことなのであります。
宇宙人たちの科学力にくらべれば、地球科学はまるで低次元の科学のようです。円盤一つとっ
X33本心の開発
てみても、一瞬にして他の星から地球に飛来でき、地球のジェット機で追いかけても、まるで問341
題にならぬスピ! ドで消え去ってしまう、走るも止まるも自由自在なのです。もし宇宙人にテレ
ビの子供の時間の映画のように、悪意があって、多くの円盤を使って地球に攻撃をしかけてきた
ら、地球などひとたまりもなく減ぼされてしまいます。テレビのように、一人や二人のウルトラ
マンや、仮面ライダーがいても、映画のように毎回うまくその攻撃を防げるものではありませ
ん。
幸いに私の知っている限りでは、宇宙人は地球を幼い弟妹という眼でみていて、その進化の手
助けをしにきているのであります。ありがたいものです。
科学的態度と非科学的態度
自分たちの科学や、自分たちの経験外のことは、すぐにそんなものはない、そんな馬鹿なこと
はない、と迷信視して否定してしまう人々がいますが、今はそんな時期ではありません。何人か
の体験老があれば、それを単に否定したり、簡単なテストで否定のほうにもっていってしまった
りすることは、非科学的の態度というべきでしょう。
少年たちのスプーソ曲げの事実でも、遂にインチキ視してしまった人々がありますが、ああ
いう念力というか、背後の霊人の働きかけによる力を、自分たちの考えの外の事実であるとして
否定しさるようでは、その人たちの進化はもうすでに止まってしまっているのです。
新しい物事の発明発見は、常に多くの人の常識を超えたところからなされているのです。念力
にしても、私はただ単にいけないといっているのではなく、自我欲望で念力を使うことがいけな
いというので、自分を立派にするために使えるものだったら使っても一向差し支えないのです。
ただそれよりもよい方法は、自己の想念意識を、神のみ心に一度投入して改めて頂き直す、本心
そのものの力による、能力を駆使するほうが、最高の方法であるというのです。
これからは現在までの常識では計り知れないことや、どうしてよいか考え及ぼぬ事柄が次々と
出てくると思います。大宇宙の運行につれて、地球の動きも変わりつつあるのですから、地球の
変化に伴って人間の生き方も変えていかねばいけないことは当然なことなのですが、どう変えた
らよいか人々にわからないわけなのです。
そこで、どうしても本心の開発を急がねばいけないということになります。円盤の科学力を生
み出せるような、神の大智慧大能力に近づく人間にならねばなりません。現在の地球の科学で
X35本心の開発
は、まだ大宇宙のほんの片鱗しかわかっていないのですから、こんなところにまごまごしていれ
ば、地球の変化のほうが進んでしまい、天変地異やその他の異変で、人類は地球から滅亡しさっ
てゆかねばなりません。
地球人類は、自分たちの智慧や知識がまだ幼いものであることを、心から思ってみなければな
みずか
らぬのです。当の科学者のほうが謙虚なのに、自らはなんの発明も発見もしたことのない人々
が、地球科学の進歩の上にあぐらをかいて、自分たちの心を謙虚に反省してみようとはしていな
いのはおかしなものです。
アインシュタインのような偉大な科学者でも、地球科学はまだほんの宇宙の一部を知ったに過
ぎない、といっていました。そういう謙虚な心をもって、地球人類はこれからの進化の道を進ん
でゆかねばなりません。私たちの知っている宇宙人の科学は、現在の地球科学の及びもつかぬも
のであることは確かです。
136
神への無条件降伏
そういう科学力を地球のものとするためにも、地球人は一度、自分をこの世に生んで下さった
神々に対して、心から謙虚な気持になって、神様どうぞ宜しくお願いします、すべてをおまかせ
致しますから、私どもが地球のためによりよく生きられますように、お力をお貸し下さい、とい
うように、無条件降伏することが大事です。
大体、神様をぬきにして生きていられるという思い違いを、最初に改めなければいけません。
神様のみ心が働かなければ、一瞬でも生きていられないのが、人間なのです。それをしっかり心
で承知して、真実神への感謝の一瞬一瞬の生活に建て直してゆかねばなりません。
神様ありがとうございます。神様ありがとうございます。こういう心で自己の生活に立ち向っ
てゆく、ということになりますと、いつの間にか、自分の心を乱していた業想念が消え去って、
本心そのままの生き方に変化してゆくのであります。
如何に智慧能力がありましょうとも、業想念的力は、本心から溢れでてくる智慧能力にかなう
わけがありません。すべての業想念は消えてゆく姿、ただあるのは神のみ心である本心のみ、と
いう生き方に一日も早くなりたいものです。それはひたすらなる、世界平和の祈りの生活からも
たらされてくる幸福なのであります。
137本心の開発
X38
因縁因果をこえる
過去世を考えずして今はない
仏教でいう因縁因果という言葉は、日本人の心に広く沁みついておりますが、これは浅く沁み
ているだけで、その深い意味は、キリスト教でいう、原罪ということと同じようにわかっていな
いようなのです。
私は時折り、そういう話をしておりますが、今日は、まともにこの問題の説明をしてみたいと
思います。
因縁因果というのは、簡単にいえば、原因結果ということですが、この世でいう原因結果とは
違って、この因縁因果に必ず、過去世と云うものが、ついてくるのであります。普通宗教的でな
い人は、過去世など考えてもみないでしょうが、今日ここに生活している人間はみな過去世をも
っているのであります。
この文明文化の進んだ世に、今更過去世だなどという迷信くさいことをいって、と或る人々は
いうでありましょう。しかし、過去世を考えずして、皆さんの今の人生があり得ないことは事実
なのです。
樹木や草花や果実が育つのも、過去において、この種を植えたから、こうして今日育っている
のでありますが、そんな大事なことも今日だけの原因結果を考えてしまうのが、現今の人間の心
の在り方なのです。
一人の人間が、この世において、成功するしないは、勿論その人の生れ素性、智慧能力、体力
や努力研究等々種々の要素によるものですが、その上にその人の持っている運、不運ということ
が加算されます。
ところが、この運、不運というものは、どこから生れてくるのか、ということと、その人がこ
の世に生れてくるために宿る、両親とか、家柄とか、いうもの、生れてきてからの、体力や美醜
や智慧能力の差異ということなど、随分と考えさせられることが多いのです。こういうことが、
139囚縁囚果をこえる
ひんぶ
どうして、今生だけの原因結果ということができましょうか。両親の貧富や地位や能力や家柄な
どは、いったい誰が選び、誰の想念行為の原因結果ということになるのでしょう。
只単なる原因結果的な考えからすれば、これはどうにもわからなくなる問題ですが、この人類
の運命を決定する最も重大な真理の一つの問題なのです。ここに因縁因果ということが、只この
世的な原因結果とは大きく異なるところとなってくるのであります。
わけいのち
これからの人類は、最も古いこうした因縁因果的な考え方と、人間は神の分生命である、とい
う二つの大きな根本問題を解決しながら、一歩一歩と歩を進めてゆかねば、この世的な原因結果
の結末としての核戦争や、天変地変によって滅亡してしまうにきまっているのであります。
X40
これまでの歴史は権力闘争のくりかえし
この世的な原因結果として、地球人類の未来をみつめてみましょう。国家や民族にとっての歴
史的な時間は、すべてなんらかの原因結果によってつくられているわけですが、この地球世界の
歴史をふりか・兄りながら、今日の地球の様相に照し合わせてみますと、すべて相対的なお互いの
権力闘争のくりかえしによってその運命が運ばれてきています。
恨むという原因が恨まれるという結果を生み、叩かれたという原因が叩くという結果を生んで
いることは、はっきりした事実です。そういう事態が、種々と形を変えながら、イスラエルとア
るいせき
ラブの憎しみの累積となり、アメリカ、ソ連、中国などの権力争いとなり、イソドやパキスタソ、
りんね
東独、西独、韓国と北朝鮮との対立というように、原因結果が輪廻しながら、一つの地球を、お
互いの自我で引き裂いてしまおうとしているのであります。
どこの国でも、核爆弾を使えば、地球が傷つく、ということはわかっていながら、次第に強力
な核爆弾を造っているのであり、その実験として、何度びとなく、地球を汚し、傷つけているの
です。お互いが相手国の核爆弾が、地球を汚し、傷つけ、遂には滅ぼしてしまうものである、
みずか
と知りながら、自らの権力防衛のために、同じような地球滅亡の武器をつくりつづけているので
あります。
これは、すべてそれらの国々の権力闘争が原因となっており、その結果として核爆弾を生み、
その核爆弾を生んだということによって、地球滅亡という結果が正に表面に現われようとしてい
るのです。
このように各国が、他国と戦いの想いをもちながら、他国を自国の権力下に置こうとする原因
141因縁因果をこえる
をつくりながら、どうして結果だけ平和になるということがあるでしょうか。もうこの地球世界
まかりんね
の平和は、今日までの表面に現われている原因結果だけに任せておけば、これは悪業の輪廻とな
って、地球滅亡という結果が起こってくるのは当然なことであります。
ですから真に地球に平和世界をつくりあげるためには、こうした原因結果の悪業の波に任せて
おいたのでは、如何なる方法を講じようと、到底地球を救うことはできないのです。
142
白光の教えが生きてくる
わけいのちこうしよう
ここに至って、人間は神の分生命であって業生ではない、業生の人間の想念行為は、すぺて現
われては消えてゆく姿である、という白光の教えが生きてくるのであります。そしてこの教えを
すえ
深く理解するためには、神道でいう、人間は神々の窩である、という教えやキリスト教の人間の
ぶつしようむみよう
内なる神という教え、それに仏教の、人間は本来仏性であるということと、人間は無明からはじ
まる因縁因果によって、この世とあの世との輪廻をくりかえしているのである、という教えなど
を想い起こしてみるとよいのであります。
なかんずく、人間は神の分生命である、ということと、仏教の因縁因果説をよく織りまぜて理
解してゆく必要があるのであります。
この世的な原因結果からいえば、地球世界を自ら滅ぼしてしまうような、争いの原因を人類は
つくりあげているのですから、このままの世界観、宇宙観では、この結果を変えることはできま
せん。これは仏教的な因縁因果説からいっても同じであります。
ただ、この世的な原因結果説と、仏教の因縁因果説では、その幅や深さがまるで違うのであり
ますし、この因縁因果は、すべて無明より起こってくるといいまして、真実の宇宙の姿や人類の
姿を知らない、すなわち、光明そのもの、調和そのものである、神仏の存在を知らないところか
ら起こってくる、というのであります。
ということは真実の神仏の存在のなんたるかを知り、無明を消滅させれば、業生の因縁因果は
消滅するということになります。無明というのは読んで字のごとく、明りの無いということで
す。ですから、無明を消滅させるには神仏の光明で照らせばよいわけです。
仏教ではこの無明から十二の因縁が生れ、それが人間の真性を惑わせて、この地球世界が、今
日のように悲しみや、苦しみや争いの世界になっている、というのであります。つまり、神仏の
子である人間が、その真性から物質波動、肉体波動のほうに想いが把われていって、神仏の光明
143因縁囚果をこえる
を見失ってしまったところから、人類の苦しみがはじまっているわけなのです。
ところがこの肉体人間は、業生の因縁因果の波の中で生活していますので、どうしてもなかな
か、自分たちが神の子であることを心から納得できないのです。業生の因縁因果の波動は烈しく
動いていますので、少しぐらい神様、仏様と想っても、すぐに業生の波のほうが主力になってし
まって、原因結果、因縁因果の世界から脱れることが出来ないのです。
せいけんげだつ
そこで、昔から、種々な聖賢が現われて、因縁因果を解脱する方法を教えたのであります。
さんたん
しかし、そうした聖賢でさえも、苦心惨胆の末に解脱し得たのですから、そうした特別な意志
ほうねん
力のある人以外は、真の解脱ということがなかなかできなかったのです。そこに日本では法然上
人という方が現われて、浄土門易行道を開かれたのです。
144
法然上人が現われた意味
法然上人は、それ迄に宗教学の奥義を極めておりまして、その頃の宗教者の最高の知識をもっ
ておりました。その法然上人でさえ、業生の因縁因果の世界からの解脱、つまり正覚を得ること
のむつかしさを悟って、念仏一念という易行の道を閾いたのであります。
念仏行がどうして易行道であるかと申しますと、その頃の宗教者は、朝な夕な、坐禅観法に明
けくれ、妻帯もせず、食事も粗食にして、肉体感情をいじめることによって、本心を開発しよう
としていたのです。ですから偽善者が続出して、かえって俗人より低卑な宗教者を多く生むよう
な結果にさえなっていました。
みずかせきほうそうぽさっ
そこで法然は、自らの碩学を捨て去り、念仏一念の宗教を開いたのであります。昔、法蔵菩薩
さいほう
が、四十八願を立て、その中で、衆生が救われなければ、自分は仏にならない、といって、西方
ごくらくじようどあみだぶつ
極楽浄土に阿弥陀仏となられたという教えを掲げ、南無阿弥陀仏と唱えれば、いかなる悪人も、
阿弥陀仏が、極楽浄土にひき取って下さる、という教えの下に、自ら百万遍の念仏といって、瞬
時もおかず念仏を唱えつづけておられたのです。
現代の知識人だと、西方極楽浄土などというところが、いったいあるのか無いのかわからない
し、阿弥陀仏などいう仏様もみたことがないし、そんな念仏唱名などに自分を任せるわけにはゆ
かぬ、というところでしょうが、その頃は戦いにつづく戦いで、武士階級はいつ戦死するかわから
ないし、百姓や町人は、武士階級の犠牲になって、常に食べるにも食べられぬような貧困の生活
にあえいでいた時代でありましたのと、法然上人という偉い坊さんがそういうのだから、という
145囚縁因果をこえる
法然上人への信頼感もありまして、上人のもとにわんさと人々は押しかけたのであります。
ところで、法然上人が念仏行に身を挺した真意は、法然上人はそれまでにすでに、深い霊覚を
得ていて、神霊の世界に出入し得ていましたので、極楽浄土というところが、真実にあること
も、阿弥陀仏という仏様が実際にいらっしゃることも、わかっていたのです。そして中国の偉い
坊さんのお経を解説した中に、阿弥陀仏が衆生すべてを救う、といっておられると書いてあるの
ですから、その教えにぴったりと自分の進路を合わせたのです。
この肉体身をもった人間は、子供の頃から宗教の道一筋に修業してきた坊さん方でも、僅かな
人しか自己の本心の仏を開発することができないのに、まして衆生が生半可の信仰で悟りに入れ
るわけがない、そこで、そうして自分自身で悟りを開こうの、救いの道を見出そうなどという、
自分というものを捨て去り、他からの救いの中に身を投じたほうがよいのだ、という心になって
いたのです。
そこで自分というものの身心も生活も、阿弥陀様に託して、念仏一念の生活の中で、阿弥陀様
から真実の生活を頂き直すのだ、という教えを自分が先頭に立って行じたわけなのであります。
私流に申せば、この肉の身も幽の身も、その想念行為も、すべてこの業生の因縁の消えてゆく姿
14G
であって、真実存在するものは、神仏と一つになっている、自分の本心、本体のみなのであるか
ら、念仏を通して、自己の本心、本体と一つになるのだ、ということなのです。
神の子の本質を現わして生きる
ここまで来ないと、この世的原因結果も、あの世をも通した、過去世から未来世にも通じる因
縁因果の法則を超えることができないのであります。人間の本心、本体が神仏と一つである、と
いうことが真実のことでなければ、この地球世界はもう滅亡の他はないのであります。
神仏と一つであり、神の子としての人間性を、この地球世界にはっきり現わすことこそ、地球
世界を滅亡から救い得る唯一のことなのであります。仏教でいう因縁因果ということが、過去世
からのことであって、輪廻し転生して、人間世界の運命となっているのであることを、人々はし
っかり知って、というより、これは信じておく必要があるといったほうがよいでしょう。
わけいのち
また一方、人間は神の分生命であることを信じ、過去世からの因縁因果として現われている、
個人や人類すべての運命を、すべて本来性のものではなく、消えて行く姿として、神仏のみ心、
救世の大光明の中で、消して頂くことを人々は心がけてゆくべきなのです。これからの人生は、
147因縁因果をこえる
神々の援助によらぬ、人類のみの働きでは、過去世からの因縁因果の波のまにまに、ほんろうさ
れ、はては滅びさってゆくのです。
この肉体人類の因縁因果の波の中では、どうしても、相対的な権力争いの輪廻が大きく地球世
界の運命を決定してゆくようで、どこの国も、権力争いと、自衛のための闘争ということから想
念を放つことができないのです。それではとても平和になることはできないので、神々の平和そ
のものの光明力が、そうした肉体人類の因縁因果の波を消滅させて、人類本来の神の子的、調和
な姿を、この世に導き出そうと、働きかけてきているのです。
そのはっきりした働きが祈りによる世界平和運動として今、示されているのであります。神々
と肉体人類との協力によらなければ、この汚れきった地球世界の因縁因果の波を乗りきれるもの
でないことは、今日の世界情勢を見れば、よくわかることです。
人類はどうして神様の助けを呼ぶのを、ちゅうちょするのでしょう。恥ずかしがらずに神様の
助けを呼んで、神様の応援の下に地球人類の平和を達成してなぜ悪いのでしょう。今こそ人類
は、人類の親である神々のお力にすがって、一段と大いなる進化の道を突き進んでゆかねばなら
ぬ時なのです。
14s
神々の力を導入しなければならぬ
この業生世界の因縁因果の現れとしては、第三次大戦もあり、天変地変もあることになるので
すから、好むと好まぬとにかかわらず、神々の力をこの肉体人間世界に導入しなければならぬの
です。
人類は最早、神々の存在を否定することはできないのです。神々の存在を否定することは、自
分自身の存在を否定することになるからです。何故ならば、自己の内にも神は存在するのであっ
て、その神の存在を否定することによって、因縁因果の波に溺れて、自己も他も滅び去ってゆく
のであります。
ともあれ、因縁因果の波の世界を脱却して、神々の光明に照らされながら、この地球世界の平
和をつくりあげてゆくより、肉体人間の道はないのであります。その道を私たちは祈りによる世
界平和運動として、宣布しているのです。
よくよくよくよく考えてみて下さい。国民の個人個人が、世界の平和達成のために、いったい
どんな働きをしたらよいというのでしょう。はっきりおわかりになる人がありますか。イスラエ
149囚縁因果をこえる
ルとアラブをどのようにして仲良くさせるのですか。アメリカやソ連、中国が真実の調和の姿を
この世で現わすことができると思いますか。そして私共がそのためにどう働けばよいというので
すか。みんなわからずづくめです。
日本の憲法改正、再軍備問題にしても、日本の憲法を改正するためには、国会が、各議院の総
議員数の三分の二以上の賛成で発議し国民の過半数がそのことに賛成しなければならぬといいま
す。現在の国民感情では、憲法改正に賛同する人は半分もいないと思われます。また仮りに憲法
が改正されて、軍備がゆるされたとしたら、日本がどんな風に変ってゆくかを、じっくり考えて
みたことがありますか。もし軍備がゆるされ、対外的に日本が正式な軍隊を持ったとわかれば、
先ず第一に荷せられるのは、アメリカに代ってアジアの防衛任務でしょう。その最初が北朝鮮、
中国に対する韓国への軍事援助でしょう。これは日本に正規の軍隊があれば、盈むことはできま
せん。韓国を振り出しに、アジアの自由主義陣営の旗頭としての軍事負担が、日本に大きくのし
かかってくることも、事実なのです。
日本だけを守る軍隊をもとうなどということは現在の世界情勢ではできない相談なのです。日
本の軍隊は即自由主義圏防衛の軍隊となり、今日までのアメリカの負担をかなりの量肩代りしな
15Q
、
いわけにはゆかなくなるのです。
憲法改正、再軍備論者は、この事実を、よくよく考えてみることです。そのための、日本国民
の精神状態は、とてもとても、そういう現実に及びもつかぬ、軟弱な精神状態です。自分たちの
身を挺し、家族を総かつして、国のため、自由主義のために尽すなどという人は、ほんの僅かで
す。再び戦争は嫌だ、という気持で一杯な国民層です。
もし何発かの爆弾が日本のどこかに落ちたら、一遍に白旗をかかげたくなる人がどれ程多いこ
とでしょう。そんな国民感情の上に、如何なる軍備をしようと、たとえ核爆弾をもとうと、日本
が強くなった、と外国に想わせるわけにはゆきません。現在の日本の国民感情では、正式の軍隊
など、とても駄目なことと思われるのです。軍隊をもつからには、戦争をも辞さない、という強
い国民感情がなければ、無駄な軍備になってしまうのです。
そういうわけで、現在の日本の憲法をいじることは、無駄なことであると思います。そこで残
されている方法は、現在の日本のまま、国民の心を一つに結集させることなのです。現在の国民
生活そのままで、心を結集させ実行できること、といえば祈りによる世界平和運動よりないので
す。祈りによって、神々のみ心と一つになって、日本を大光明波動、平和のひびきで蔽いつくし
151因縁因果をこえる
てしまうことなのです。
15y
すべてを捨てて神を呼びつづけよう
なんにしても、業生の因縁因果の波を超えねば、この地球世界のこれ以上の進化は望めないの
ですから、因縁因果を超える方向に日本の進路をしっかりと定めねばならぬのです。ですから、
業生の中で右往左往しているこの肉体人間そのものを、神様の慈悲のみ心の中に投げ入れてしま
うより他に、なんらの救われの方法もないのです。
神様、神様、神様、気取りも格好もすべて投げ捨てて、今こそ、真剣に神様を呼びつづけるの
です。神様は、この地球世界を救済しようとなさって、救世の大光明として、人間の一人一人の
近くに天降ってきておられるのです。
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私たちの天命が完うされますように
守護霊様、守護神様ありがとうございます
私たちはこの唱え言の生活の中で、様々な神々の慈愛を身心に受けています。かなり多くの人
々が大きな力を頂いているのです。
自分を救い、日本を救い、世界人類を救う方法を知っている人がいるならその方法をやればよ
いでしょう。しかし、神々の救済の力を得なければ、この地球世界は救われないことは、因縁因
果の法則のしめす通りなのです。祈りによって神々との交流を計り、神人合一の力で地球の危機
を救うことより、他の方法のないことを、人々は心を開いて思いみて下さい。一日も早ければ早
い程、あなたも、日本も人類そのものも、傷つくこと少く救われるのです。
X53囚縁因果をこえる
154
ことば
言 は神なりき
言葉との違い
ことばことま
「言は神なりき」という言葉が聖書にありますが、この言について、今日は書いてゆきたいと
思います。
はじめことばことばともことま
これをもう少しくわしく書きますと、「太初に言あり、言は神と借にあり、言は神なりき。こ
ことばはじめあよろつよなものこれ
の言は太初に神とともに在り、万のものこれに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで
なこれいのちいのちひかり
成りたるはなし。之に生命あり、この生命は人の光なりき」。とあります。これはヨハネ伝にあ
ことば
るのですが、この言は、言であって、言葉ではありません。原語でこうなっているのか、日本語
ことば
に訳した人が真意をはっきり知って訳したのか、言として言葉という文字にしておりません。言
と言葉では意味が違うのですから、よくはっきり訳してくれたものと思います。この説明は拙著
聖書講義第一巻に書かれていますので、それを引用してみます。
はじめことばニとば
『太初に言あり、という、この言とはどういう意味なのでありましょうか、私たち人間が使っ
ている肉体の声帯を振動させて出てくる言葉とは、深さが違っていることはわかります。しかも
ことばともことばことばことま
言は神と倶にある言であり、神そのものである言なのであります。そして、この言によらないで
いのちことよ
成ったものは、万物のうち一つもないのであり、人の光である生命をこの言ぱもっているという
のです。
ことば
さあ、この言とはいったい何を現わしているのでしょう。一口にいってしまえば、波動のこと
なのであり、ひびきのことなのであります。この波動(ひびき) は生命そのもののひびきであ
ことばはじめ
り、光の波動なのであります、ですからこの言は、太初に神とともにあった、つまり、唯一絶対
なる宇宙神が、創造活動をはじめられて、光の振動となられるまで、神のみ心の中で働きを静止
ことば
していたのでありますが、宇宙神の創造活動とともに、言となって諸方にひびいていったので
す。それは生命のひびきであり、光の波動でもあったわけです。
せいめいことばと
そういう生命波動、光のひびき、いわゆる言が宇宙創造を成し遂げていたのであり、現在も成
155百は神なりき
し遂げつつあるのであります。』
ことばことばことば
こういう意味の言が、神なりきの言なのですが、この言が現象世界、枝葉の世界に降ってきま
まば
すと、言葉となってくるのであります。この言葉の世界は想念波動の世界と、普通使われる、人
間の声帯を震わせて出てくる言葉の世界との二種あるのです。
想念波動の世界と言葉の世界とは、別々の世界で活動している時と、同じ世界で活動している
時とがあります。言の世界を、実在の世界、光明そのものの世界とすれば、想念波動の世界と言
葉の世界は現象の世界ということになるわけで、人間はどちらの世界でも活動しているのであり
ます。
くう
釈尊の空、老子の無為、浄土門やキリスト教の全託の境地というのは、想念波動と言葉の世界
から、言の世界へ自己を投入してしまうことをいうので、想念や言葉の世界を空にし、無為に
し、神様に全託することによって、真実の言、光そのものの言が身心から溢れでてくる、という
のであります。そうしますと、実在の世界の様相そのものが、その人の身心に現われて、神仏そ
のものの人格になってくる、というのが宗教の極意なのであります。もっともそこまでに到達で
きる人は、なんのためとか、なんになろうとかいうような、ケチな根性で道に精進しているので
】50
はないのですが、一応はそういうことになります。
言の中に昇華を
私どもが毎日使っております、この言葉というものの中には、想念波動のひびきも、実在の世
ことぱ
界の言(光) のひびきも混じっているわけなのですが、得てして、人々は、汚れた業想念波動の
言葉を使いたがります。
ことば
せっかく神様が、光り輝く平和な実在界を言のひびきをもってつくって下さっているのですか
ことば
ら、私ども人間は、日々使っている言葉や想念波動を通して、実在界の言の中に昇華してゆく必
要があるのです。
あの馬鹿野郎という言葉を、あの人の天命が完うされますように、と変えてゆき、この世に平
和などとてもこない、地球はもう駄目なのだ、という想念波動を、悪いものごとはみんな過去世
め神のみ心を離れていた誤った想念行為の消えてゆくために起っていることなのだ、消えてゆく
に従って必ずよい地球世界になってゆくのだ、というような明るい想念になって、世界平和の祈
りの中にもってゆく、というように、実在界の光明につながってゆく生き方をしてゆくことが大
157冨は神なりき
事なのです。
それには常に、言葉の使い方を勉強し、想念波動の在り方に気をつけて、常に常に、神のみ心
に叶う言葉を使い、想念波動にしてゆかねばなりません。
ちなみに、神様のみ心を簡単にいえば、愛と調和と、美と勇気ということですから、そのよう
な心になるように精進してゆくことが大事なのです。
ことよ
実在世界に、言葉や想念の元になる光明そのものである言があるということは、有難いこと
で、善い言葉や、善い想念をたどってゆけば、実在世界の神のみ元にたどりつけるということで
あります。
祈り言葉というのは、実に神の世界につながる善い言葉なのであります。想念波動の世界で
は、悪い想いや、不安な想念が起ったら、それはみんな、過去世から蓄積されていた想念行為の
波動が、今現われて消えてゆく姿なのだ、と悪や不安の想念のままでよいから、今度は、口に出
す言葉の世界の祈り言葉で、神様のみ心の中に飛びこんでゆく、私流にいえば、消えてゆく姿
で、世界人類が平和でありますように、と悪も不安もひっくるめて神様のみ心の中に飛びこんで
いってしまう。そういう祈りを重ねてゆきますと、いつの間にか、心配苦労はどこへやら飛び去
158
、
り明るい勇気のある人間がそこに生まれ変ってくるのであります。
想念波動と人類の運命
テレビが普及して、漫才やコメディアソがつくり出す、変な言葉がいつの間にか普通の言葉に
なったりして、日本語が非常に乱れてきて、嫌な言葉や、汚い言葉が巷間に浴れています。それ
も困ったことですが、もっと重大なことは、想念波動のことなのです。
人々は想念波動の大事なことを知らずにおります。口に出る言葉以上に、時には世界を動かし
かんいん
てゆくのが想念波動です。イエスさんも、「女をみて姦淫の心を起すものは、すでに姦淫したる
なり」といっていますが、想念というものは、言葉や行為にさきがけて起るもので、その想念が
起った時は、もうその言葉をいい、行為をしたと同じだということなのです。
私はイエスさん程に同じあつかいは致しませんが、言葉や、行為を改めてゆくためには、まず
想念を先に変えておかなくては、駄目なのです。人間の想念波動が浄まっているか、汚れている
かによって、この世界が平和になるか、滅亡に向ってゆくかが定まってしまうのです。
そこに宗教の道の重大性があるのです。宗教の道は、人間の想念を浄め、神のみ心と人間の心
159言は神なりき
とが一つに働き得るようにしてゆく道です。この想念波動は、肉体界、幽界、霊界に働きかけて
ことぱ
いるわけで、そこに蓄積されているものが、光明に輝く言に通じているか、汚れている幽界、肉
体界に通じているかによって、この人類の運命が進化の道を進むか、滅亡の道に向うかが定まる
めです。
その想念波動を、常に浄らかに神に通じるものにしてゆくように指導してゆくのが、宗教者の
天命であるわけです。イエスさんは、そこのところが実に厳しく、想うだけでも実行したと同じ
だというのです。私は想念と行為の間に、消えてゆく姿という教えをいれて、守護の神霊の加護
によって、でき得る限り、業想念を消していただき、悪い想念がそのまま行為に現われぬよう
に、世界平和の祈りを行じることをすすめているわけなのです。
なんにしても、想念波動も言葉も神のみ心に叶った浄らかなものにしておく必要があるので
す。それでないと、人類の進化はこの辺で止まってしまい、一気に滅亡の方向に向っていってし
まうのです。
言葉なんかなんでもないと思っていたり、想念の重要性を無視していたりしたら、これからは
とんでもないことになってきます。人間の想念が、これからの人類の運命を決定してゆくので
160
す。
ことばことば
言は神なりき、の言の世界に人類は一度還らなければいけません。それは肉体を脱ぎ幽体を脱
いでゆくというのではなく、肉体をつけたまま、幽体をつけたままで、想念意識として、まず言
の世界の光明波動の中に投入してゆかねばなりません。昔流の言い方をすれば、先程も申してお
くうむい
りますように、空になり、無為になり、全託をして、という状態に嫌応なしに、人類は一度なら
ねばならないのです。今日までくると、人類は一度神のみ心にすっぽり還えってゆかないと、今
日まで築き上げてきた地球の文化も文明も、あらゆる歴史も、永遠の闇の中に滅び去っていって
しまうのであります。
念力と宗教の祈り
神を離れた肉体頭脳の中でつくりあげた人生観や世界観で、この地球を進化させようとして
も、とうてい及ばない時代に今はなってきておりますのに、いまだに地球世界は目ざめずに、神
の存在を否定し、人間の能力を信じきっています。核兵器まで進み、世界を力で抑えてゆこうと
している国々が、想念の力を知りますと、今度は、この想念を、また他国を抑える力として研究
161言は神なりき
しようとしています。囎
近頃流行している、信念の力や、念力の普及の道に人々や国々が真剣になっていった場合、そ
の奥の神のみ心の大調和ということを知らずにいたら、お互いの念力合戦になってしまいます。
争いの力となってきます。信念とか念力とかいうと、ちよっと宗教的な言葉のように思えます
が、宗教の祈りの心とは全く反対のあり方ですから、その点お気をつけ下さい。宗教の道は常に
根底に神のみ心があり、人間同志の愛の交流があるのですが、宗教を離れた、信念や念力という
のは、これが他への影響を考えぬ、利己主義的なものでありますと、地球の不調和に拍車をかけ
ることになってくるのです。
宗教の道に入りながらでも、自分の利益のためには、神様を自分の方にひきよせ、自分の望み
を叶えてもらおう、というのがあります。本来は、神様のみ心のほうに自分のほうから精進潔斎
して昇ってゆくべきなのに、自分の道に神様を引きこもうというのですから、誤った信仰なので
すが、意外と、こんな信仰の人が多いのです。こういう信仰の人は、信念の力や念力の活用に興
味をもって、神様を捨てても、そのほうに走ってゆくかも知れないのです。
信念の力や、念力の活用も、自分の仕事の能率をあげるためとか、学問の向上のためとかいう
ように、他人の迷惑にならぬ範疇でやるのなら、別にいけないという理由はなく、かえってその
人のすべての成績があがって結構なことなのであります。
人間は信念が強いことがよいことなのでありますから、信念を強めることそのものにはいささ
かも否定することはありませんが、他との念力競争のようになってくると、神のみ心である調和
の精神にもとってくるというのです。
宇宙の根源はひびき
ことば
先程からコト。ハのことで申し上げておりますが、言が神そのものであり、光そのものであり、
すべてを創り出したひびきそのものでありますから、この言の中に入りこんでしまえばすべての
力が人間にも備わるわけなので、そうすればよいわけです。古来からの聖者はみなその道をめざ
して精進して、やがてその根元の力と一つになって、衆生済度の歩みをはじめられたわけです。
実際にこの宇宙は、神のみ心、ひびきそのものでできているのです。ひびきを言というのです
が、このひびきは、あらゆる創造能力をもった、叡智そのもののひびきであり、大調和そのもの
のひびきなのです。
163言は神なりき
そのひびき(律動、波動)が根源になって、いろくの階層の世界ができているので、神霊の
世界は光明波動そのものでよいのですけれど、霊界から幽界、肉体界とその働きを現わしてゆき
かんまん
ますと、次第に波動の働きが粗く、緩慢になって、光明のひびきそのものが、想念波動となり、
想念波動から、肉体的行為となって、物質の地球世界ができ上がっているわけです。
三千大千世界と釈尊がいっているように、本源の言のひびきによってでき上がった世界は無限
に近くあるのです。この物質の地球世界は、その下層の世界の一つとして存在しているので、地
球は次第に進化して、本源の世界に近づいてゆかねばならぬのです。
そのための一つの大きな進化の時が現代はもうはじまっているのであります。この時代は物質
文明文化だけで進んできた今日までの歴史を、はっきり書きかえるような、神人一如の世界にな
めんけいってくるのです。ただ単なる精神時代というのではなく、神霊の世界と人類世界との綿密な提携
によって、地球を大きく進化させるわけなのです。
164
言は神なりきの時代
ここでもう一度考えておく必要がありますのは、この世の中は、本源の世界が、言のひびきに
よってできていると同じように、やはりひびき、つまり波動でできている世界であることは、私
が常に申し上げております。
原子、素粒子というような存在が物質の素ではなく、それも波動の現われである、という科学
の学説も現われはじめていて、単なる物質論、精神論などとは異なった、波動の研究というの
が、本格的にはじめられようとしているのです。
いよいよ、言(ひびき) は神なりき、の真理が現象の世界にもはっきりわかってこようとして
いるのです。人類が、想念波動、いわゆる心のひびきを大事にしない限り、地球は滅亡の方向に
向うより仕方がないのであり、心のひびきを、神のみ心に合わせて生きる時、地球が真実の平和
世界になってゆくのである、ということなのです。
ただなかなかむずかしいことには、地球人類は生まれ変り死に変り、肉体身というものを守る
ために、自己保守の本能というものに心を縛られて、自分を愛すると同じように他を愛すると
いうことができない、習慣性をもってしまったのです。神のみ心がここでゆがめられてきてしま
ったのです。
ですから、どうしてもこの習慣を、神のみ心の通りに生きてゆく、という本来の人としての生
X65百は神なりき
き方に変えなければならないのです。それでなければ、この地球界は、神のみ心の通りの平和な
調和した世界にはならないでしまうのです。
ことま
そこに祈りの大事さが大きくあらわれてくるのです。祈りだけが、神本来の言の中、光りその
ものの世界に、人間を昇華させてゆけるからです。近代の人間は祈りの真価というものを知らな
すぎます。祈りをただの願いごとのように思っています。祈りは人間の本心を開く方法であり、
ことば
神の言、神のひびきの中に人間を導きあげてゆく方法なのです。
坐禅観法で空になる修業をするのも、無為になる道を見出すのもよいでしょうが、正しい言葉
ことば
によって、本来の神の言に正しくつながることが、近代の忙しい生活の中で、その日常生活をこ
わすことなく、人間の本心が開発され、神のみ心をこの地球世界に顕現することができる一番や
さしい方法だと思うのです。
この世の言葉を正しく使い、頭脳を駈けめぐる想念を神のみ心につながる方向に習慣づけてゆ
くことが、地球を完全な平和世界に築きあげてゆく光明の道なのです。この世には本心を開発
し、神仏との一体化を計る、いろいろの宗教の道がありますが、私の広めている道は、現在の日
常生活をいささかも崩さず、この世だけの言葉を、言は神なりきの神の世界にまでひきあげる、
166
世界平和の祈りの道なのであります。
天地をつらぬくコトバ
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私たちの天命が完うされますように
守護霊さま、守護神さまありがとうございます
この言葉は誰にでもわかるこの世の言葉でありながら、言は神なりき、の神のコト。ハでもあり
ます。言と言葉が全く一つになった、しかも誰にでも、意味の明白な、そして深いコトパです。
つらぬ
こうした天地を貫いた祈り言葉を間あり時ある毎に使い、この祈り言葉の中に、真剣に想念を
いれて生活してゆけば、その人の心は常に神と一体の状態になってゆきます。
言葉や想念は、大事に使わねばなりません。世の中を暗くするような、混乱させるような言葉
や想念の波をふりまいてはなりません。いたずらにむずかしい言葉だからよいというのでもなけ
れば、やさしい言葉だから悪いというのでもありません。
167言は神なりき
ありがとうございます、という感謝の言葉など、やさしい言葉でありながら、人の心を潤おわ
す実に善い言葉であります。そのように明るく親しい言葉、人を勇気づける言葉、柔和な言葉、
親切な言葉、ユーモアのある言葉等々、この世を明るく楽しくし、未来の発展を導き出すような
言葉が善い言葉といえるのでしょう。
ところが現代は、まるでその反対で、暗い言葉、不調和な言葉、乱暴な言葉、愛のない人を傷
つける言葉、人を責め裁く言葉などが多く、天の理想から次第に言葉は低次元の世界に落こんで
ゆくようです。
なんで、自分がいわれて喜こぶような言葉を人にいってあげられないのでしょう。暗い言葉
や、乱暴な言葉も、人の心を愉快に楽しくするわけにはゆきません。
そこへゆくと、世界人類が平和でありますように、というような、人類愛の言葉は誰がきいて
も善いものにきまっています。他のつまらぬ言葉をしゃべっているより、どうにもならぬ心配事
おもい
で想念なやんでいるより、世界人類が平和でありますようにではじまる、世界平和の祈りを神と・
人類にささげるつもりで祈ったら、どれ程気持がよいかわかりません。
16$
世界平和への道を切り開く
ごと
世界平和の祈り言こそ、真理の言葉であり、天と地をつなぐ、光明の柱でもあるのです。暗い
言葉、汚れた言葉を、一度神にお還しして、神のみ心で洗い浄められた、正しい美しい言のひび
きをいただき直す、そういうためにも、世界平和の祈り言は大事なものです。
人類はもう人類だけの力ではゆきづまってきています。国という国が、自分の播いた種で自分
を縛ってしまい、苦悩にあえぎつつ、いまだに自国だけを愛する生き方で、世界に処そうとして
います。
今日ではもう一国だけの平安というものはありません。世界全体が平和にならなければ、一国
の平安はあり得ないのです。私どもはまず日本中に世界平和の祈りの光明をひびかせつづけ、日
本が真実平和を願っている正しい国なのであることを知らせるべきなのです。
そして、日本が率先して、世界平和に向うあらゆる道を切り開いてゆかねばならないのです。
世界人類が平和でありますように、と祈るのをきいて、誰がその祈りが悪いというでしょう
か、ただ祈りで世界が平和になるものか、という、祈りというものを知らない無知から起る無関
169言は神なりき
心が大分あるのであります。⑳
私たちはそれにかまわず、世界平和の祈りの運動を、正しい言葉、正しい想念波動の在り方と
して、諸国に知らしめてゆくべきなのであります。祈りは神のみ心のひびきである、ということ
を事改めて今ここに申上げておきましょう。
祈りの力
平和の力は祈りから
祈りのことについては、度々お話していますが、宗教の根本は、祈りにはじまって祈りに終
る、と極言していい程宗教の道には、祈りは重要な行なのです。
ところが、宗教者の中にも、祈りの真意というものを理解していない人々がかなりおりまし
て、祈りを、単なる願い事のように曲解しているようなのです。仏教を学問的にのみ研究してい
るような人には、特に祈りを馬鹿にしている人が多く、祈りなどしたとて、一体何になるか、な
どといっている向きもあるのであります。
一般の人々でもそうですが、祈りというものを消極的なものとひとりぎめしておりまして、祈
171祈りの力
りなんかしていないで、もっと積極的な実際活動をしてなくては、などと話しているのをよく聞塒
きます。
祈りなどで、世界が平和になるものか、祈りなんかで、人の運命がよくなるものか、知識層に
なればなる程、そんな風に祈りを軽く考えているようなのです。
ところが、この考えはとんでもない誤りなのであります。というより、祈りというものを全く
知っていない無知からこうした考えが起っているのです。
祈りを一口にいえば、本心即ち神のみ心に素直になることであります。神のみ心と真っすぐに
つながり、神の完全円満性、愛と真とがその人の想念行為の中に現われてくるためのものであり
ます。ですから単なる自我欲望の願いごととは全く異なるのであります。
神の完全円満なるみ心が、この地球界にそのまま現われてくれば、この地球界は全く平和な大
調和した世界になってくるのは、理の当然なのです。尤も神を否定している人々にとっては、祈
りという言葉そのものが、最初から無意味なものなのでしょうから、こうした文章を読む気にも
ならないでしょう。そうした人々には、言葉や文章の説得でなく、実際面で祈りの力を示してみ
せるより仕方がないのであります。
この地球界では、なんにもまして、力というものが必要なので、力の前には、どんな善人も、
善い考えも、一蹴されてしまうのです。米ソの対立などでも、力対力の対立なのであります。そ
の力は、表面的には軍事力として現わされておりますが、その底には、経済力、精神力などとい
う力が、その軍事力を支えているのです。
そして、その力の均衡が破れた時には、戦争が起ってしまうのだ、という考え方を米ソの指導
老たちが持っておりまして、いよいよ、ますます軍事力の増強を計っているわけなのです。
ところが、こうした考えに、軍備否定論者たちがどういう形で対応しているのでありましょう
か。只いたずらに、軍備はいけない、核実験を止めよ、と叫んでいても、米ソにとっては、力の
増大が絶対に必要だという、根本的考えに立っての方針なのですから、背に腹は代えられぬ式
で、「そのお言葉はごもっともだが、止められぬ」と、そうした説法はすべて聞き流して、既定
方針の線のままに軍備の増強をつづけているのであります。
力の裏づけのない平和論などは、米ソにとっては、なんの手応えもないのです。平和主義者に
は平和主義者なりの力がないと、ただ単なる主張にしか過ぎなくなるのです。
世界の平和をもたらす為には、それこそ、絶大なる平和の力が無くてはならないのでありま
173祈りの力
す。その力は一体どこからでてくるのでありましょう。無神論、唯物論の平和主義者たちは、こ
の問題をどのように考えておられるのでありましょうか。
私たちは、絶大なる平和の力は、神の大愛から来ると信じ切っているのであります。信じてい
るばかりではありません。実際面において、神の大愛は、平和を来たらす為の力を急速に私たち
に送りこんで下さっているのです。そうした力が、徐々に地球世界に現われて、無神論者、唯物
論者といえども、否応なく神の存在を認めざるを得なくなるような時期が訪れることになるので
あります。
その日を来たらす為の最大の方法が、たゆみなき祈り心なのであります。祈りの力の現れは、
私たちの日常生活には、数限りなくあるのでありますが、その力がやがて、世界平和を地球界に
もたらす、大きな力となって現われてくるのです。
174
この宇宙はすべて波動
この宇宙は、すべて波動によって、現われているのです。人間の眼には形象と見えるすべての
物体も波動の現れであり、人間が心とか想いとか呼んでいる、精神的な動きも、すべて波動の現
れであるのです。
テレビやラジオの出現は、この原理を説明し得る科学的な大きな功績なのであります。近頃次
第に盛んになった脳波の研究などでも、人間の精神の動きを波動で調べているのであります。
現代の科学の進歩は、人間が単なる物体であるとか、人間の想念が、只、単に想いである、と
いうように簡単には取り扱っていないで、もっと深く奥底を探っていっているのです。そして、
肉体も波動の現れであり、想念も波動なのである、というところにまできているのです。
現代の科学は、浅い宗教の面よりも、人間の奥底を把えているようにもみえてきているので
す。宗教信者たちが、自己の欲望達成のために宗教信仰をしている、という時代から、今や急速
に、高い宗教の境地に、しかも科学的な理解力のもとに、自ずと昇華されてゆく時期に現代はな
ってきているのであります。
人間が肉体だけの存在だ、などと思っている時代は、もうすぐに昔の夢だった、という時代が
やってくるのです。
そういう時代が眼の前に来ているのに、自国や自己の周囲の損益のために、常に地球世界を戦
争の恐怖にさらしつづけている、そうした国々があり、そうした人々があるということは、進歩
175祈りの力
した星の人類からみれば、実に幼児の仕業に等しい、馬鹿気きった狂人ざたに見えるのです。
176
光明身に還元する方法
人間の生命は、神の大生命の光によって、生かされているのであります。神の大生命、大光明
は、各種の光を放ち、その光の律動が様々に交叉して、この人類をはじめ、すべての生命体を創
っているのであります。
大生命、神の恩恵なくして生存している人間など一人もいないのでありますが、その真理を素
直にわからない人々の多いのは、根源の光の微妙な波動から、あまりにも遠い粗雑な物質波動、
つまり肉体意識の中に入りこみ過ぎてしまった結果なのであります。
ですから、釈尊の昔から、否そのもっともっと昔から、肉体意識を本心に統一させて、真理を
知ろうとする、種々な行法が行われてきたのです。
人間が、霊性の人間から、その微妙な波動体を、守護神の力によって肉体人間として、この地
球界の物質体の中で生活するようになり、古い経験を経た人間から、また再び元の霊体意識に還
元していったのですが、次から次へと、新しく分生命として肉体身を纒う人々が現われ、霊性と
肉体身との交流の経験にとぼしいそうした人々が、人間は肉体身なりと思いこんでしまって、肉
すがた
体意識だけに自己を占領されてしまって、真の自己である霊性を忘れ去ってしまった相をもつよ
うになったのです。こうした人々が無神論者、唯物論者として、この地球界で生活しているわけ
なのであります。こうした人々は、肉体身への関心で終始していますので、肉体的な知識に秀れ
ているような人が、かなりいるのであります。この世的な知識に秀れながら、宗教面のことに
は、まるで無知である人々のあるのは、霊界と肉体界との交流の経験のとぼしい人ということに
なるのです。祈りなどなんになる、という類の人々はこのような人々なのです。
ところで、祈りを科学的に説明するとどういうことになるかと申しますと、人間の肉体身、も
う少し微妙な波動の体の幽体身の中にある想念波動を、自己の本体である、光明波動の中に還元
させることなのであります。
人間の本体である光明体は、実に自由自在身であって、如何ようなる波動も自由に発し得る身
心なのであります。身だとか体だとかいうと、すぐにも、この肉体身のような固定した体を想像
しがちでありますが、光明体というのは、そうしたものではなく、肉眼で見える範囲でいえば、
太陽や星々のような、光がくるめいている、といった、ああした体であります。肉眼より微妙な
177祈りの力
眼でみれば、もっともっと形から自由になったものなのでありますが、これはこの世の言葉では
どうにも説明出来ません。仮りに太陽のようなものである、と説明しておきます。その太陽のよ
うな光を四方八方に放っているような光明体の人間が、真の人間なのですが、その光明波動を次
第に物質波動に合わせてゆくと、この肉体身のような形に現われることができるのです。宇宙人
の出現などでも、そういうように微妙な波動を物質波動的にして現われるわけなのです。
この光明体は、自由自在に自己の欲っすることが行えるのであり、現わし得るのであります
が、この地球界に現われている、粗い波動になってしまっている肉体人間としては、全く不自由
な心身を嘆かざるを得なくなっているのです。
そこで、元の体のように自由自在になるためには、肉体にまつわるすべての想念を、光明身で
ある、自己の本体の中に還元してしまう方法を取るより仕方がないのであります。その方法を、
仏教では坐禅観法という方法で、想いを空にする修練をさせたわけなのでありますし、キリスト
教では祈り、神道では鎮魂というような各種の方法を取ったのであります。
いずれも、想念を本心(神) の中に融けこませて、本心そのもの、仏教的にいえば、仏心を顕
現する為の行であったのです。道元禅師などは、常住坐臥の観法であるといっておりますが、い
178
のり
つでも法、つまり神のみ心の中にいる、ことを、坐禅によって教えていたのであります。
ところが、そうした根本の教えも、いつの間にか、坐っている時だけの観法になってしまっ
て、坐らなければ観法はできないもののように思ってしまった人々が多くなったのです。神道の
鎮魂などでも同じでありまして、或る一定の形の上での行事をしなければ、鎮魂しないように考
えてしまっているのです。
坐禅でも鎮魂でも祈りでも、すべては、業想念を本源の世界、神のみ心の中に投入してしまう
方法なのでありますから、いつでも、何処でも、容易にできる、そうした方法があれば、それが
一番よいわけなのであります。それが、私の提唱し実行しております、世界平和の祈りなのであ
ります。
縦横十字交差のひびき
宇宙神のみ心というものは、そのまま完全であり、大調和しているのでありますが、そのみ心
が、種々な世界を創造する働きとして働きをはじめるのには、どうしても、各種に分れた光の波
動として働きださなければ、創造の営みがなされないのです。唯一のものが唯一のままで働いて179祈
り
の
力
いたのでは、いつまでたっても唯一であって、創造されたものがそこにないことになります。そ
こで、どうしても、大きくは陰陽と分れ、それがもっと複雑になると、各種の光の波動として分
離し結合して、様々な状態や物質を生み出してゆくわけなのであります。
そして、その根源の働きは常に七色の光によってなされているのです。既刊「神と人間」にも
書かれておりますように、宇宙神の大光明は、人類世界の霊的波動の根源としては七つの直霊と
して分れた他、動植物鉱物の根源としても各種の霊波動として分れて働き始めたのであ
ります。
宇宙神そのものは、絶対者であって、その波動は無限大の大きな振幅をもつ働きから、無限小
の微妙なバイブレーシ.ンをもつ働きの両面を内在しているのですが、その光明が各種の働きと
して分れた時には、その各種の神々の光明波動の振幅は異なるものとなっているのです。
その波動が大きな振幅をもつ面の働きとしての神々(光明) と、微妙な波動の働きをもつ神々
(光明) とが縦横の働きとして分れたのであります。微妙なひびきをもつ縦の面の神々の働きは
心の働きつまり精神面として霊魂的な働きとなり、大きな振幅の波動をもつ横の面の神々の働き
はく
は、魂的つまり物質面の働きとなって現われているのです。
そして、この縦横が十字に交叉して、肉体をもつ人類をはじめ、すべての生命体をもつ、物質
180
が生れ出でたのであります。ですから鉱物にでも生命があるといえるのですが、その生命のひび
きは、実にその振幅が大きく緩慢で、さながら、生命が無いと同様な物質体に見えるのです。植
物や下等な生物は、すべて波動の振幅の大小によって、その生命のひびきの感じが違ってくるよ
うになるのです。
調和と不調和
さてそこで、再び本題の祈りの説明に入りますが、宇宙万物の調和は、すべてこの縦横が、完
全なる十字に交叉してその働きをしていることによって、その調和を保っているのです。人類も
その通りでありまして、縦横、つまり、霊性の働きと、肉体的の働きが、完全に十字交叉した調
和されたものでなければ、そのバラソスがとれないので、個人としても、人類全体としても、不
幸や不調和が必然的に生じてくるのです。このバランスの崩れた波動を業想念とか、カルマとか
いうのです。ですから肉体身が霊性を離れた肉体だけの波動を出すと、その波動は粗雑なものと
なるのです。その波動がカルマ波動なのです。
この業想念またはカルマが、どういう風に、個人や人類を乱してゆくかと申しますと、片方でX81祈
り
の
力
は物質面をまるで無視した片よった精神主義にして、物質界の文明文化をないがしろにしがちに812
なり、片方では、精神面をおろそかにした物質一点ばりの唯物的な生き方に人間をもっていった
り、利己主義、国家主義の生き方に個人や国家をもっていったりする波動をふりまいてゆくので
あります。
ですから私たちの、少しの利己主義でも、心の乱れでも、それはすべて業想念、カルマの波動
に冒かされていることになるのでありまして、その波動はひいては、国家人類をも同じように冒
かしていって、遂には個人も人類も不調和の極になって、滅亡してしまうことになるのです。
個人同志が憎み合ったり妬みあったり、国家同志が角つき合ったりしているのは、実に人間の
本性がそうさせるのではなくて、縦横の波動の十字交叉の不完全さからくる業想念波によるので
す。
宗教の在り方
こう考えてまいりますと、どうしても、人間は、精神波動と物質波動の両面の調和を計る生き
方をしなければ、この地球界の永遠の平和をつくりあげることはできないことがわかってまいり
ます。世には、精神面だけを強調して物質をまるで無視した生き方をすすめている宗教者もあり
ますが、これは一般大衆の心というものを知らない愚かさともいうべきで、かえって現世利益だ
けを主とした新しい宗教に大衆を送りこんでしまうことになります。
宗教の在り方というのは、最も自然で、水の流れのようなものでなければなりません。どこか
に無理があれば、その宗教は神のみ心を、そのまま現わすという生き方にはなりません。神の生
き方には無理がないからです。無理にこうしろ、ああしろという宗教の教え方は、どうしても永
続き致しません。そこには無理があるからです。
無理なく自然に調和した生き方のできる宗教の道でなければ、一般大衆を救い、人類を救うと・
いうわけにはまいりません。また、現世利益だけを強調されて、それでついてゆく大衆が、現今
では非常に多くなっておりますが、これは当座だけのもので永くつづく筈のものではありませ
ん。何故ならば、現世の利益というものは、過去世の因縁によって、その個人の一生に定まって
与えられているものでありまして、早く利益を得れば、後に得られる利益が、その分だけ減るの
でありますから、その時の喜びは、後の悲しみと変ってくるのであります。その理を知らずに、
当座の現世利益だけに酔いしれているような愚かさは、神の眼からみると、哀れというべきなの
183祈りの力
であります。
現世に真の利益を得るためには、やはり宗教本来の、本心の開顕、神と人間とのつながりを全
くしなければならないのです。今までの説明の上からゆけば、霊性と物質性の縦横十字の波動の
調整をなさねばならないのです。
今日の人間の殆んどが、この縦横十字の波動の調和がなされていないので、完成された人間と
しての安心立命した生活を営めずにいるのであります。
キリスト教の十字架も、イエスが十字架にかかって、人類の業生の身代りとなった、というた
めの意味もありますが、もっと奥深い意味は、縦横十字の完成を人類に教えていることにあるの
です。
184
自らの波動を調整せよ
心も物質もすべて波動から成り立っているという真理は、私たちが今真剣に取りくんでおりま
す、宇宙子科学の根本問題でありまして、私たちが宇宙人と呼んでいる、他の星々の人類は、波
動の実体をはっきり把握して、宇宙子科学を生み出し、大調和世界を築きあげているのでありま
す。
宇宙のあらゆる波動を、いかに組合せてゆくかによって、地球の運命も定まってくるわけであ
りまして、そのまず最初のことは、自分自らの波動の調整にあるのであります。
じねんほうに
精神面にも物質面にも片よらぬ、自然法爾的な生き方こそ、今地球人類が為さねばならぬ行事
なのであります。その方法は一体どのようにすればよいか、その説明はこれから致しましょう。
人間には永い間の習慣というものがありまして、これが今生だけでなく過去世からつづいての
習慣なのですから、一朝一夕ではとても直るものではありません。人間が先ず自己を守ろうとす
る本能は、国家にも拡大されるのでありまして、この自己を守ろうとする本能は、自己を守って
くれるなんらかの力の存在による安心感が出来ない限り、自己防衛の本能は、遂には国家民族
間の大戦争という、悲惨事にまで追いこまないではいられないのであります。
第一次、第二次の世界大戦は、根本は自己防衛の本能からもたらされているのであります。そ
の本能が、物質面の場合も精神面の場合もありますが、いずれも自己や自国を守ろうとする本能
からきていることは間違いのないことなのです。
ですから、この自己防衛の本能を消し去ってしまわぬと駄目だということになります。
185祈りの力
この自己防衛の本能も、縦横十字の波動の調整がなされると、自ずと消減し去ってしまうので
あります。世にいう大聖というのは、縦横十字の波動の調整がなされていた人なのであります。
釈尊やキリストやヨガの聖者たちが、精神面にのみに重きを置き肉体を無視したように見られ
がちですが、決してそうではなく、肉体の働きを極度に有効になさしめるための霊性の開発を教
えているのであります。キリストの十字架のはりつけには、表面に現われていない深い音…味があ
るのですが、それは時期がきたら、また書くことに致します。
186
救世の大光明は地球に集中されている
人間の縦横十字の働きが完全になるために、その交叉の中心に、私が常に説いております守護
の神霊の救済の光明波動が放射されつづけているのでありますが、今日までこの真理は殆んどの
人が知ってはおらないのです。
そこで私は、そうむずかしいことはいわず、ただ、人間個々人には、守護霊、守護神が常に守
っているのだから、いつも守護の神霊に感謝しつづけて生活していれば、いつの間にか安心立命
した生活ができてくると申しているのであります。
肉体人間として、こうしてこの地球界に住んでおりますと、心も物質も波動だといわれても、
ああ、そんなものかなあ、と思うだけで、縦横十字の波動をどうして調整してよいかわかりませ
ん。そこで私はそこに祈りの必要があるのだというのであります。
祈り心というのは、神のみ心に、自らの想念を投げ入れる心です。神様と思う時には、自らの
汚れた波動に神のみ光が照らされてくる時なのです。ですから、何事につけても神への感謝で生
活している人には常に神のみ光が、その人の波動体に流れこんできているのです。私はそれを、
縦横十字交叉の中心にいる守護の神霊への感謝として、各人の想念を守護の神霊に常にむけてい
なさい、と説いているのです。
その想念を更に一歩進めて、縦横波動の中心にむかって祈る想いを、守護の神霊への感謝と共
に、十字交叉の中心点から世界人類の平和を祈る、という横のつながりである、肉体人類への光
明波動の放射を同時にすることにしたのであります。
守護の神霊への感謝と共になされる、世界平和の祈りは、その人その人の霊肉波動の大調和の
中心から世界人類に拡がってゆくので、全き光明波動となっているのであります。
いいかえれば、祈る人が、神の子そのものの光明体となって、人類に光明波動、大調和した波
187’errりのブフ
動を送るということになるのであります。ですから祈りの力が、肉体人間の念力としてではな
く、神の子としての実在の力として、世界人類に働きかけることになるのであります。今や救世
の大光明は、地球世界にむけて、その全光明を集中しております。各人は今こそ、救世の大光明
に呼応して、各人の波動の調整と共なる世界平和の祈りを一瞬の時をも惜しんで、実行しつづけ
ることが大事なのであります。
X88
祈りと統一について
真の祈りにいたる方法
祈りについては、度々書いていることではありますが、いくらいわれても、なかなか真実の祈
りの境地にはなれぬものなので、こうしてくどくどと書いてみなさんの参考にしていただきたい
と思うのであります。
また、祈りと同じような状態の統一ということがあります。祈りと統一とは同じなのかしら、
違うものなのかしら、などと頭で考えても仕方のないことを考えて質問してくる人もあります。
まずその間に答えつつペンをすすめてゆきたいと思います。
いのち
祈りというのは、一口にいいますと、生命が完全にひびきわたっている状態、いのちが生きい
189祈りと統一について
きと生ききっている状態をいうのでありまして、普通祈りといわれるものは、真の祈りにいたる……
方法であり、祈り言葉なのであります。
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私たちの天命が完うされますように
守護霊様、守護神様ありがとうございます
という、世界平和の祈りでも、これは祈り言であり、真の祈りに至る方法なのです。この祈り
言をつづけているうちに、真の祈り、つまり、生命が完全にひびきわたり、いのちが調和して生
きいきと生ききっている状態になってまいるのであります。
これは世界人類が… … といえば世界人類すべての生命の完全性であり、私たちの… …といえば
私たちのいのちの完全なるひびきに至る祈り言となるのです。ですからこうした祈り言を通し
て、すべてのいのちが、神そのもののいのちとして完全なるひびきを奏でることによって、大宇
宙の運行がスムーズに大調和してなされてゆくのでありますので、こうした祈り言が大事な行に
なってくるのです。この祈りの真意を解さないで、自分たちの欲望達成のための願い事を、唱え
ることが祈りだなどと感違いしている向きが多いのであります。そこで、祈りなどしたってなん
になるとか、他力本願そのもののように思っているのが、一般の人々であるわけです.
願い事そのものは、祈りではありません。病気快癒祈願も、貧からの脱出の願いごとも、その
願いごとから、真の祈り言に深まってゆくことはあっても、その願い事が、即祈りということに
はならぬのです。といっても、願い事が神にきかれぬか、というとそういうものでもありませ
ん。その人の真剣な願い事は神々の加護の力を導き入れることができます。
真剣な願い事というのは、念力のようになりまして、その人の生命のひびきを大きく強くひび
かせることになり、神霊のひびきに瞬間合致することになることがありますので、願い事もきき
とどけられることがあるというのです。一方低級霊の波動に波が合って、低級霊の力によって利
益を得る、ということも随分とあるのです。これは後に必ずそのマイナスが出てまいります。
真の祈り言葉とは
私の申している真の祈り言というのは、神との一体化を計る方法で、神本来の完全性を、佃人
の上に、人類の上に現わすための行なのであります。個人の念力でそうするのではなく、祈り言
191祈りと統一について
によって、人間本来の能力や、完全性、調和性が自ずと現われてくる、ということなのです。
人間は本来、完全円満性のものであり、人類もまた、完全調和したものなのです。その完全調
・和性が破れたのは、肉体という物質体を纒った時からでありまして、人類本来の霊性は完全調和
したものなのです。その完全円満な霊性を肉体人間の上にも、そのまま現わそうとして行ずるの
亭が、真の祈り言なのであります。ですから単なる願い事とは違うのです。そこのところが、はっ
きりわかっていないと、祈りによって、世界を平和にする、という運動が力弱いものに思われて
しまうのです。
真の祈りというものは、物質を超越し、あらゆる業の波を消滅して、神のみ心をこの世に現出
させる、偉大な力をもっているのであります。
己が幸願ふ想ひも朝夕の世界平和の祈り言の中
という私の歌の心は真の祈り言の中に、自己のすべての願望が含まれているのだ、ということ
を示しているのです。世界人類が平和でありますように、という言葉でも願い事のように思えま
・すが、世界人類が平和である、ということは、人類本来の姿でありまして、願い事というより、
本来性をこの世に現出させる、ということでありますので、祈りそのものの境地ということがで
192
ぎるのです。
ですから深い高い、神本来の理念の地球世界への現出を導き出す力をもっているのが、世界平
ことば
和の祈りである、ということになるのです。言は正に神なりき、でありますので、低い小さな個
人的な唱え言より、やはり、人類的な大きな高い立場の唱えごとのほうに、人々は想いを向けて
ゆくべきなのです。病気の直りたい人、貧乏から脱出したい人の焦りいらだつ気持はわかります
が、病気や貧乏に向けている想いを一転飛躍させて、世界平和の祈りをする時、病気快癒も、貧
よりの脱出も、世界平和の祈りがもつ、神本来の完全性の中で、なされてゆくのであります。
ですからどうしても、病気快癒の祈りや、貧からの脱出の祈りをしたい人は、世界平和の祈り
の後で、その唱えをしたらよいと思います。すべてはあなた方の守護の神霊のみ心にありますの
で、守護の神霊への感謝は一日として忘れてはなりません。肉体人間というものは動物の一種で
習慣性をもつ生物なので、この習慣性によって、自己の肉体生活につい想いが向いてしまい、現
在の肉体生活の不自由からの脱出を先にしたいと願うので、これも無理からぬこととは思います
が、やはり真の幸せをつかむためには、この習慣性を超越した波動圏に、自己の想念を向け変え
る必要があるのです。
193祈りと統一について
病気の人は病気を、貧乏の人は貧乏を、ひとまず、自己の想いから離すことが大事で、それに
把われる想いのままでよいから、世界平和のような、高い深い立場の祈り言の中に、飛びこんで
ゆくとよいのです。
ご利益信仰、願い事信仰の人々も次第に真の祈りに入ってゆく時代に今はなってきておりま
す。全地球人類のすべてが結集して、地球の完成を目指す時期に立ち至っているのでありまし
て、個々人ばらばらの信仰では、神のみ心はこの地球界に実現されないのです。そこで、世界平
和のような、祈り言が現われ、人類の心を一つに祈れる態勢に向って進んでいるのであります。
今こそ人類全員が、真の祈りに目ざめて、全員出家の覚悟で、地球の崩壊を防ぎ、世界平和を
へめぐ
実現してゆかねばなりません。出家とは、肉体想念に把われている想念、三界を経巡っている想
いを、神仏のみ心の中に脱出せしめることなのです。
人類が、神の完全性に合致していってこそ個人も人類も救われに至るのであり、その他の如何
なる在り方も人類の救われとはなり得ないのです。真の祈りこそ、地球人類を救う基本の姿勢で
あり、何事に際しても必要欠くべからざる心の在り方なのであります。
194
祈りと統一
ところで、ここで祈りと統一のことについて申し上げますと、真の祈りと真の統一とは全く同
じ状態でありますが、その奥に至るまでの方法が相違している場合が多々あるのです。統一とい
うのは、自己の本心、つまり神のみ心と自己の想念とが全くぴったり一つになることでありま
す。いいかえれば、本心を離れて浮動している想念意識が、本心の中に入りきってしまう、とい
うことが統一なのです。神我一体になることです。
普通いわれている、精神統一とか、仕事に統一するとかいうのは、そういう本格的な統一とは
別のことであります。神道でいう一霊四魂三元八力が、散らばった働きでなく、一霊に統一し
て、統一したところから各自の働きをする、ということが、真の統一であり、大きな働きをなす
基となるのであります。
世界平和の祈り言は、こうした真の統一の助けとなる唱え言でもありますので、統一の助けと
して、世界平和の祈りをすることも必要だと思います。
195祈りと統一について
196
富士登山について
先年、七月十六、七、八の三日間にわたって、娘の昌美を中心にして、宇宙子科学のメソバー
及び青年たち四十数人で、富士登山をしたのですが、この富士登山は、普通の登山と違って、世
界の神々が富士山に結集し、地球の業波動を浄め、天地の和合を成し遂げる、という、古代から
の計画を実行にうつしたのでありまして、その中心の神の受け器が昌美に定まっていたのであり
ました。
そして、この富士登頂の成功は、一にかかって、全員の祈りの如何による、というもので、神
我一体に近い、深い祈りが必要だったのです。
地球世界が今日に至るまでは、種々様々な眼に見えない神々と人間との交流による働きがなさ
れていたのでありまして、そういう礎石によって、今日の地球が文化文明の発展を遂げながら、
保たれているのであります。
今回の神々と我々との交流による富士登頂も、眼にみえぬ、大きな地球の浄めがなされたので
あり、この大神業が、後々の地球世界完全平和達成のために、大きな働きであったことが、わか
ってくるのであります。
常にそうでありましたが、神々の大浄めの際には必ず、妨害の業波動が烈しく襲いかかってく
るもので、この度びの富士登頂にも、それは烈しい業波動の襲撃が、中心者の昌美には特に鋭く
加えられてきたのであります。
それを助けたのは昌美をはじめ全員のたゆみない祈りの行であったのです。後できいたところ
によると、全国の会員の皆さんも、陰ながらの祈りをしていて下さったそうで、祈りによって統
一された人々の発する光明波動が、間断なく襲いくる業波動を浄めつづけていたのでありまし
た。
神々の加護の力は、祈りの波動によって、その力を発揮するのでありまして、祈りなきところ
には、その力が発揮できにくいのであります。何故ならば、波長が合わぬので、働きが加えられ
ぬ、ということになるのです。
娘の昌美は、長い大病の末、霊覚を得たのでありますので、未だに体質が弱く、特に心臓が、
人一倍弱いのです。ですから医者にみせて、富士登山の可否をきけば、即座に、とんでもない、
富士登山どころではありませんよ、速足で歩いてもいけない、といわれる程の体なのです。単な197祈
り
と
統
一
に
つ
い
て
\
る登山にしても、殆んど成功おぼつかない体の所有者の昌美に、烈しい業波動の襲撃が加えられ珊
つづけるのですから、なお更に危険きわまりない状態なわけなのです。.
そういうハソデを押して、富士登頂を敢行することになったのですから、昌美の体の状態を知
る者の心配は並々ならぬものでした。しかも私は肉体的には、一行と行を共にしないで、他の山
において祈っているわけなのですから、この心配は当然のことです。
はじめは五合目から登っていいのだと思っていたのですが、宇宙の神のほうから、絶対に麓か
ら登るのだ、というきつい指示があったので、嫌でも応でも麓から登らねばなりません。昌美は
当日近くなるまで、自己の体に照してみて、悩みぬいたようでしたが、当日が近づくにつれて、
次第に生命を投げ出して、人類救済の浄めの器となろう、と覚悟が定まり、当日を迎えて、凛々
しく一同の前に立ったのでありました。
急に深くなった青年たちの統一状態
昌美はじめ一同は、肉体は離れていても、先生の祈りが自分たちを必ず守っていてくれる、
いいきかせていたようで、明るい元気な姿で、麓の浅間神社を後にしてゆきました。
と
私は一二〇〇米近い山頂に建っている、マウント富士ホテルの一室に泊り、富士に向って祈り
をつづけていたのであります。肉体はホテルの椅子に坐ってはいますが、霊体は昌美と共に歩
いていました。宇宙子科学のメソ。バーは、長年祈りに祈りつづけて、即座に深い統一に入れるの
ですが、青年たちは五六人を除いては、メンバーの祈りに及ぶべくない経験の浅い人たちです。
はじめのうちは心が乱れていて、あまり昌美の役には立っていないようでしたが、昌美が烈し
い業波動の襲撃で、意識を失いかけ、メンバーや、霊体の私の光明波動によって、その危険を脱
した直後から、急速に青年たちの祈りが深まり、全員の統一が素晴しいものになってきました。
その心の状態が、ホテルに祈っている私のほうにすっかり伝わってきて、これなら大丈夫だと、
私もいささか安堵していたのです。
どうして急速に青年たちの統一が深くなったか、というと、心の中で思い思いに世界平和の祈
りをしながら歩いた青年たちが、中の一人の音頭によって、五井先生、五井先生、とリズムをつ
けて、歌うように唱え出した、五井先生の唱名で、みんなの想いが、すうーと五井先生に統一し
てしまったのでありました。
五井先生というのは、私の肉体であって、肉体ではありません。救世の大光明の中心になって
X99祈りと統一について
働かれている五大神の総合名称が、五井先生でありまして、私の肉体はその受け器なのでありま脚
す。受け器の私は神々の光明を受けて地球に放射し、人々の想いを受けては、神々の中に投入す
る、そういう、天と地をつなぐ役目をしているわけなのであります。
普通宗教のご本尊は、阿弥陀仏であったり、大日如来であったり、キリストであったりしてい
ますし、開祖を信仰する宗教では、日蓮さんであったり、親鸞さんであったりしますが、私のと
じねんほうに
ころの在り方は、自然法爾にそうなったのでありますが、唱名の対称が五井先生になってしまっ
ています。勿論その奥には宇宙神的名称である、阿弥陀様や、大日如来様や、天御中主神などが
在わすわけですが、信仰する皆さんがいつとはなく五井先生を称名のように唱えはじめて、肉体
側の私はなんとも恥かしいような気がして、何度か他の方法に変えようとしましても駄目で、目
的は世界平和の祈り、自分たちの救われは五井先生の称名という風になり、今では、表面に世界
平和の祈りがすっかり全目的、全目標として定まりまして、咄嵯の救われには五井先生と呼ぶよ
うになってきていました。
しかし、今度の富士登山のような、地球の業想念突破という危急存亡の時には、長い文句の祈
り言葉では、なんとなく自分たちの心に隙ができるようで、不安心になってくるのです。そζ
で、短く、リズミカルに一気にそこに統一できるような祈り言葉が必要になってきます。南無阿
弥陀仏や、南無妙法蓮華経は、その点実に統一しやすく出来ております。そのことについては別
に書いた本がございますからお読み下さい。
富士登頂の青年たちは、五井先生という称名が、自分たちの一番統一し易い方法であること
に、いつとはなく気づいたのです。青年たちは五井先生という称名をもって神との一体化に成功
したのであります。
全員天命を完うして
この世は波動の世界であることは、私が常々申しております。神霊の高い波動の世界から、怠
惰や欲望に充ちた低級波動の世界まで無限に近い波動圏があります。どこの波動圏に自己を置く
かは、すべて自己の責任にあります。今回の富士登頂は、世界の神々が結集して、神霊の波動圏
が広くひびきわたっていると同時に、引き寄せられた、業波動の波が富士山を隈なく蔽おうとし
て寄せてきていることも事実だったのです。
我々の登頂隊はこうした神霊の光明波動を、引き寄せてある業波動の中に放射する受け器とな
201祈りと統一にっいて
る役目を荷っていたのであります。その最大の中心の器が昌美であったのです。メンバーも青年㍑
たちもその受け器の一人一人であったわけで、一人一人の想いが如何に神霊と合致しているか、
ということが問題なのでありました。
ところが、最初の頃は、神霊波動との交流ができきれず、ともすれば、業波動のほうの不安感
や疲労感に襲われていたのですが、五井先生の称名で一気に神霊波動との交流が、スムースにな
ってきたのです。
それは、昌美の苦しみを助けようという、青年たちの愛の心が、すっきりした統一に自分たち
をもっていったともいえるのです。その点、宇宙子科学のメンバーの人たちは、最初から最後ま
で、日頃錬磨している統一法で、少しも心を崩さず、富士登頂を成功させた重要な働きをしてい
たのであります。
富士登頂のくわしい報告は隊員の皆さんから、それぞれあると思いますので、私はこのくらい
にしておきますが、何をするにも、どのような仕事を成功させるにしても、想いが乱れていて
は、できるものではありません。
精神一統何事かならざらん、という言葉がありますが、自己の本心、神のみ心に統一しなくと
も、仕事なら仕事に統一してさえも、立派な行為といえるのですから、実際に神との一体化の統
一を為し得れば、その人が立派にならぬわけがありません。
日頃の、たゆみない統一行はどれだけ、その人の人生を光明化し、その人の運気を増すかわか
りません。世界人類が平和でありますように、と日々瞬々唱えつづけていることは、祈りがその
まま統一行になっているのでありまして、その人が常に神霊波動の中で、生活していることにな
るのであります。
雑念はすべて消えてゆく姿
祈りをしている時起る雑念は、すべて消えてゆく姿としなければいけません。祈り言を何度び
となく唱えて、想いが本心に統一してゆこうとしている時、しきりに雑念が湧き起ってくること
がよくあります。そうした時は、その雑念を消えてゆく姿なのだ、と思いかえして、雑念のでる
がままに祈りつづけるとよいのです。如何なる雑念も、相手にされなければ、やがて消えてしま
うので、出てくる雑念をあたかも実在するもののように思って、相手にしている必要はないので
す。
203祈りと統一について
現われてくるものは、すべて過去世から今日に至る迄の因縁因果の波なのですから、そういう
因縁因果の波に関係のない、実在世界の光明、神霊波動のひびきを、この世に現わしきることこ
そ、世界を立派にするための人間の役目なのです。
そのためにはどうしても、過去の因縁の波に把われず、すべてを消えてゆく姿として祈りの中
に消しきってしまうことこそ大事なのです。
ですから、現在の生活環境も、現在の統一の状態も、すべて過去世のものであって、今のあな
たの心の状態を示すものではない、今のあなたは、これからの人生、老年の人は来生のための光
明の蓄積をしつづけてゆくことが必要なのだ、と私は説いているのです。
数限りない運命波動の中に住む人間なのですから、自分の一番好む、一番必要だと思う運命波
動の波に自分の想いを合わせればよいのです。それはあたかもテレビのスイッチをひねるような
ものなのです。そのためにはあくまで、過去の現れに把われてはならないのです。過去の現れは
すべて消えてゆく姿として、今後自己の欲っする運命の波に自己の想いを合わせてゆけばよいの
です。
ところが、ここで考えねばならぬことは、自己が幸福だと思って合わせた波が、実は後には不
204
幸の波につながっているかも知れないということです。これは人間心では計り知れないことで
す。
この時にこそ、守護の神霊への感謝行と加護を念ずる祈りが必要になってきます。キリストの
いう、み心ならば、という気持で、世界平和の祈りをするのがよいのであります。すべての運命
を、守護の神霊にゆだねる気持で、只一筋に、世界人類の平和を念ずる、世界平和の祈りをなし
つづけることが尊くも、大事なことなのです。
愛の心に神霊は交流する
多くの人を愛する心には、自ずと高い神霊波動の交流がなされます。世界人類の平和を祈る、
人類愛の心には、勿論、高級神霊の波動とのひびき合いが起ってくるのは当然なことです。です
から、病床に横たわっている病人でも、世界人類の幸福を念じつつ、世界人類が平和であります
ように、と祈りつづける時、その人の心と高級神霊のひびきとが交流し合っていて、その人の今
後の運命は高いひびきの圏内においてなされることになるのです。もしその病人が昇天したなら
ば、それは高い神霊の世界に昇天してゆくに違いないのです。
205祈りと統一について
要はその人の想念が常にどの階層にあるかということによって、その人の運命が定まるのであ蹴
だくさん
ります。お金をたくさんもっているから必ず幸せということもありませんし、子沢山だからよい
か、というと、そうとも限りません。その人その人にとって、常に心が安心立命していられる境
地が必要なので、その道は、真の祈りの行より他にないのであります。
祈りつづけることと、行動的に働きつづけることとは別に相反することではなく、働きながら
でも、いつでも祈りはつづけられます。電車の中でも自動車の中でも、食前食後でも歩きながら
でも、洗面所においてでも、世界平和の祈りは、どこでもいつでも祈りつづけられる祈りなので
す。
病気治癒も、貧からの解放も、みんな世界平和の祈りの中から行われてまいります。何故なら
ば、世界平和の祈りは、すべての人々を幸福にしようとして生れた祈りなので、その祈りを祈っ
ている人を不幸にするわけはありません。
の
病める人病みたるままに先づ祈れ世界平和の神の祈り言
という私の歌があります。すべてはこのようなものなのです。
どうぞたゆみない世界平和の祈りにあけくれて、少しでも人々の役に立ち、世界の役に立って
まいりましょう。
207祈りと統一について
`LO8
霊光写真について
円光だけが写っていた
霊光写真については、撮影者の島田さんから、時折り話があることと思いますが、この世的に
いえば、全く不思議という他はない話です。
この霊光写真は、現在同志の皆さんは殆んどお守りとして持っておられるし、その守護の力は
偉大なものがあることは、幾多の霊験で明らかにされています。
自家用車が、崖から転がり落ちても、乗車していた誰一人として怪我さえしなかった話とか、
飛行機事故が起っても、霊光写真を持っていた人と、その周囲の人だけは、生命を取止めたと
か、トラックに脚をひかれて、トラックのタイヤの跡がはっきり脚についているのに、その脚は
なんでもなかったとかいう、奇蹟話は後をたちません。
ところで、今頃になって、霊光写真の出現を説明するのも、どうかとは思いますが、今日は霊
光写真の説明につれて、神霊の世界と、肉体の世界の相違や関連性について、いろいろ書いてゆ
きたいと思います。
同志の方は、もうすでに霊光写真がどういうものであるかという概略を知っておられるのです
が、唯物的な人は、恐らくこの話を信じないのではないかと思われます。あなたの話には嘘がな
さそうだが、何かの間違いがそこにある、という人はまだよいほうで、一笑に付してしまう人が
多いことでしょう。
わら
しかし、畷われても馬鹿にされても、霊光写真は、厳然としてここにあるし、その写真が多く
の人を救っている、という事実は動かせないことなのです。
五井昌久という肉体をもった人間が、訪問先の家の玄関で、鞄をもって立っているのを、その
家の主人の島田重光氏が撮影した、その結果、そこに写し出されたのが霊光写真、つまり白く光
っているフイルム一杯の円光写真なのです。五井昌久という肉体人間が、円い光の玉に変化して
写ってしまった、という、世にも不思議なことが起ったわけです。
209霊光写真について
撮影した当人の島田氏は科学者なので、常識の世界で起り得なかったことが、自分の前で起っ㎜
た時に、それを疑問視して、科学的な探究をしないではいられません。いろくな角度から、写
真について、探究しつづけたのですが、その結果は、島田氏のカメラは、霊光を、玄関前の私の
位置で把えて撮影した、という事以外になんの答も出てこなかったのであります。横から光が入
ったとか、なんだかだという、撮影上のミスがなされた形跡はないのでした。
ところが実際には、島田氏の眼には、霊光は見えていないで、五井昌久の肉体だけが見えたの
で、島田氏の撮影した当体は、霊光ではなく、五井昌久であったわけです。ということは、五井
昌久の肉体が消えて、代りに霊光が写った、ということか、または、五井昌久という肉体人間
は、カメラの微妙な眼によってとらえると、霊光であった、ということか。とに角、眼に見えな
い世界のなんらかの働きかけが加わって、この霊光写真ができ上がったということなのです。
インドあたりに、霊光になってしまう人がいた、という話を聞いたことがあったように記憶し
ていますが、こうして肉体人間を写したものがはっきり霊光写真として、援影されているのは、
私の知っている限りでは、この霊光写真だけなのであります。
私がどうして、今更のように霊光写真のことを書き出したか、といいますと、肉体と神霊世界
との関係について、この霊光写真の話をもってくると、人々にわかりやすいと考えて、ここに霊
光写真の話を持ち出してきたわけなのです。
五井昌久という肉体をもった人間が、霊光になってしまった、ということは、肉体と霊光との
間に密接なつながりがあったことは疑う余地もありません。人間の眼でみれば、五井昌久という
人間は、普通人と少しも変らぬ肉体人間のように思えましょうが、カメラの眼は、はっきり普通
人との差を見出したのです。私の場合は、カメラがこの差を見出したのですが、他の人の場合
も、それぞれの差があるのでありまして、合気道の植芝盛平翁の体が澄みきって、自分の体の中
を魚が通りぬけた、という話や、七、八人の人が同時に槍で突きかかっていっても、自分たちが
倒れてしまうだけで、翁は平然とそこに立っておられるという例や、その他達人とか第一人者と
かいう人は、確かに普通入と違った肉体なり精神なりをもっているものなのです。
二〇〇倍のエネルギー
私の場合、肉体のほうは背丈一米六〇糎ぐらい、四〇何キロという体重の人間ですから、普通
平均以下の肉体的素質です。ですけれど、私の打つ柏手のひびきがもつエネルギーは、普通人の
211霊光写真について
一一〇〇倍もある、というのが、九州芸工大教授の音響学の北村音萱博士のデーターです。
ーターを次にかかげてみます。
五井先生の柏手の音の測定
測定日時
測定場所
使用測定器
測定者
測定位置
そのデ鎚
昭和三五年十二月十八日午後
東京割烹女学校(統一中)
指示騒音計(日本電子測器製)OF1 7周波数分析器(日本電子測器製)
北村音壷教授
測定用マイクロホンの位置は、掌中心より五〇センチの距離前方の位置、音源か
らマイクロホンまでの距離が変わると、音の強さも変わるので、本測定では五〇
センチ一定に保った。
測定の概要
柏手中の掌の間隔は約二〇センチである。統一中は柏手される位置は左右に動くので、正面位
置で、マイクロホンとの距離五〇センチの時の柏手の音のみを測定した。また柏手の音の強さは
一定ではなく、数デシベルの範囲の変動があるので、測定器のメーターのふれの最も多く指示す
る値を代表値として選んだ。この値は大体中央値を示していると考えられる。
音の強さはデシベル(以下dbと記す) で示す。これは音の強さのレベルの単位である。人間
の聴き得る最も小さい音は、O db、最も大きい音は一三〇dbである。
測定結果
五井先生の柏手の音の強さのレベルは、前述の測定位置で一〇三db である。最大一〇五db
最小九九dbであるが、一〇三dbが代表値と考えられる。
一般人の柏手の音は、一〇才代男子一名、二〇才代一八名(内男一七名、女一名) 三〇才代七
名(内男六名、女一名) 四〇才代男子一名、五〇才代二名(男一名、女一名)六〇才代一名、の
三〇名につき測定。これらの人の平均(中央値)を求めると、最大八八(七七〜九一)db ふつ
う八〇(七三〜八八) dbであった。
最大というのは、約三分間、この強さで拍つと、掌が痛くなる強さ、ふつうというのは普通音
楽会等で拍手をする時の強さである。カッコ内の数値は、三〇人についての測定値の分布の範囲
を示す値である。
213霊光写真について
これより考えると、ふつうの人の拍手の音の強さに比べて、五井先生の柏手は23db強いとい怨
える。しかしこの比較は或いは妥当でないかもわからないとも考えられるのは、五井先生のよう
に、一日中柏手をふつうの人にさせた時のものと比較すべきであるが、この実験は時間を要する
のでできなかった。それ故23db以上の違いがあると考えてもよさそうである。
また前述のように、ふつうの人が三分間くらいしか拍てない最大の拍手の音の強さと比べて
も、五井先生の柏手の音は15db強い。これは驚くべき柏手の音の強さである。
結論
五井先生の柏手の音は、一〇三db の強さで、普通人より23db強い。これは音のエネルギー
で考えると、二〇〇倍の強さである。
また普通人がいかに力を入れて、一所懸命に拍手をしても、最大八八(七七〜九一) dbで、
五井先生の柏手の強さには到底至ることが出来ない。
まことに不思議な柏手の音の強さである。
昭和三十六年四月二十六日(水)午後七時半より八時、毎日放送よりラジオ番組「音の科学」
第十五回「信仰の世界」によりますと、一〇三dbという音の強さを、北村教授は次のように話
しておられます。
「ふつうの人が一生懸命叩いた時とくらべても、一五db大きいというんですからね。たしか
になんか一寸特別な粕手の音ですね。そうですね、一〇三dbといいますとね、一寸例が悪いん
だけれども、工場でリベット打ちありますね。ニューマチックハソマーで、あれを大体一メート
ルぐらいの近くで聞いた時一〇三ぐらいですがね。ですからエネルギーは大体二〇〇倍ぐらい出
ているのですよ。ですからすごいものですね。結局五井先生一人の人が叩いた柏手をされた音と
ですね、二〇〇人の人が集って同時に一杯叩いた時の出た音と同じだ、ということですね。二〇
〇倍ということは」
このデーターは勿論音のエネルギーのことだけですが、私一人の柏手と、二〇〇人の人の拍手
の音とが同じ或いはそれ以上に私の柏手のエネルギーが大きい、ということは、どう考えても不
思議なことであります。この柏手は音のエネルギーというだけではなく、他に様々な要素がある
のです。霊能力のある人からみれば、粕手のひびきはそのまま霊光として輝きわたっていると
か、柏手を打つたびに光の波が、打たれている柏手の人の体に沁みとおってゆくとか、相手の体
215霊光写真について
の悪い個所の黒くなった場所に吸いこまれていって、黒い個所が次第にきれいになってゆく、
か、いろくいっております。
と
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肉体と神霊世界の関連
私の柏手のひびきは、すでに肉体のひびきではなく、肉休以外の力の働きかけによるひびき、
という他はありません。
そう致しますと、そのエネルギーは霊光の中から発せられているかも知れませんし、大生命の
中心から、そのまま肉体に働きかけてくるのかも知れません。どちらに致しましても、五井昌久
という肉体をもった人間の頭で、柏手を打とうと想って打つのですが、その力は常に肉体の力を
はるかに超えたエネルギi量であるということです。
そこで、五井昌久というのは、肉体人間プラス、眼に見えない神霊の世界の力をもっていると
いうことができます。そして当の私は、そうした神霊の力をよく知っているのであります。自分
はかはか
の行動のすべては、神霊の世界の神謀りに謀られた働きと全く一つになって行動されている、と、
いう事実を私は充分に知っていて、世界人類の平和達成のための祈りの中で生活しているのであ
ります。
そう致しますと、五井昌久という人間は、肉体は主でなくて、霊光として写真に写った直霊、
本体のほうが、この肉体世界の活動においても、主となっているともいえるのです。皆さんも私
も全く同じことなのですが、皆さんは自分自身の本質をあまりご存知ないが、私は種々の霊的体
験によって、よく知っています。そして、私の肉体身を写した、写真が、霊光写真となって現わ
れたことによって、私自身の肉体は霊光そのもの、或いは霊光と殆んど等しい波動の存在という
ことがわかったわけです。
この霊光は私の本体、直霊もしくは、直霊と分霊の光明の合体したものとしますと、写真撮影
のその瞬間には、私の肉体波動は消え果てていたか、霊光と一体になっていたかしたわけで、ど
う考えても、霊光と肉体との問に、そう差がないように思われるのです。
私自身が祈っている時、柏手を打っている時、講演をしている時など、私の肉体は非常に稀薄
な感じになりまして、大きな大きなとてつもなく大きな存在が、人々に光明を投げかけているの
であります。私の肉体というのは、神々の働きがこの地上界になされるための場であり、器であ
ることを、私にはよくわかるのです。
217霊光写真について
私が常に説いておりますように、人間は神の分生命でありまして、肉体世界に生きている時、恥
同時に神霊の世界にも生きているので、肉体世界を生命が去って、肉体の死という状態の時に
ぶんれいこんばく
は、肉体に入っていた、分霊魂魂は、神霊の世界の生命要素と一つになってゆくのです。しか
ばく
し、なかなか一つになりきってゆく人は少く、大方は、肉体にあった分霊魂のまま、魂要素を地
上と半々に残して、生命の本源と離れて、生活することになってしまっています。
こんはく
どうしてそうなるかと申しますと、肉体生活において、分霊魂魂が、想念というものを生み出
しまして、その想念が、直覚的に働いていた分霊魂の在り方を乱して、肉体人間の運命をつくり
出す、主になる働きをするようになってしまったからです。想念が人間の運命をつくり出すよう
になりますと、分霊魂の本来の直覚的働きで、肉体を生命が離れれば直ちに本源世界の生命と全
く一つになって神霊そのままの働きができるようになる筈なのに、想念の働きのほうが強くてそ
うなることができず、肉体死後も想念のままに別個の運命を本源の生命と離れてつくるようにな
ってしまうのです。
私などは、肉体に現在存在しながら、自己の想念というものを、すべて神様のみ心にお還えし
してしまいまして、すべて神様のみ心のままの生き方に徹底してしまっています。そこで、私の
肉体は、肉体としてこの地上界にありながら、神々の場として器として、本源の生命の働きが直
通的にできるようになっているのであります。これをお任せの生活とか、神我一体の生活とかい
うのでありましょう。肉体身の私というものをもっている以上、人間は、神との一体化をするζ
とができません。一度はどうしても、肉体の私というものを捨てきって、神様のみ心に入りこん
でしまわねばならないのです。
普通では、なかなかそれができないので、私はたゆみない、消えてゆく姿で世界平和の祈りの
生活といって、皆さんに祈りにつぐ祈りの生活を教えているのであります。
力をぬく1神霊に全託するー
皆さんも実は、私の霊光写真のように霊光の体をもっているのでありますが、それを知らない
だけなのです。自己の想念が常に肉体身にまつわりついている限りは、肉体以外の霊なる力を得
ることはできません。霊光のひびきを想念が妨げてしまっているからです。
私などは、柏手を打つ時でも、殆んど肉体に力を入れていません。肉体にある力を逆に殆んど
ぬききってしまっているのです。そうしますと、神霊の世界の力が肉体に働きかけてきまして、
X19TCOL光写真について
普通人の二〇〇倍以上の力となって現われるのです。
力と一口にいっておりますけれど、これは単なるエネルギーというのではなく、人間の体や精
神を浄める力もあり、生命を生きいきとさせる力もあるわけです。
このように一人の人間が二〇〇人力を発揮すれば、この世の中は大変な利益を得ることになる
のですから、誰しも、一人力より二〇〇人力になったほうが得なわけです。そして、そうなるた
めには、一度自己の肉体の力をぬききらなければいけないということになります。
剣道でも柔道でも相撲でも、そしてボクシングでも、体の力をぬかないと、真の力がでないと
いうことですが、私のような場合は、全身の力をぬききってしまう。神霊のほうに全託してしま
う、ということなのですから、普通ちょっとできることではありません。そこで私は、徐々にそ
うなるようにと、世界平和の祈りの中に、自己の想念を入れきってしまう日常茶飯事を送ること
を、皆さんにすすめているのであります。自分も気づかぬうちに、肉体の力と霊身の力とが入れ
代っている、ということ、神霊の力が、いつでも肉体身をカバーしてくれる、という、そういう
無理なく神霊の力を自己の力としてゆく方法を、消えてゆく姿で世界平和の祈りという方法にし
て人々にすすめているのであります。
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神は一神でありながら、多神として働きます。そして人間は神の分生命であります。神は宇宙
大生命であり、神々と分れて様々の創造をなさっておられるので、人間は神々の物質界への働き
うつわ
手として、幽体、肉体をその場とし、器として生活しているわけです。
ですから、この地球界の完成にしても、肉体人間だけでできるわけではなく、常に守護の神霊
方の応援によってその道がすすめられてゆくのです。宇宙は無限の進化であり、永遠の生命の働
き場です。ということは、神の働きは無限である、ということです。したがって人間も神との一
体化がなされていれば、無限の生命をもつということになります。
地球を破滅から救うために
神は無限絶対であって、完全円満性をうちにもっているわけですが、これは対照的に写し出さ
なければ、その完全性も円満性も味合うわけにはまいりません。そこで、自己の大生命がもつす
べての智慧能力を、神々と分けて、働きはじめたのであります。そして神界が生れ、霊界が生
れ、様々な星辰が生れ、次々とその完全性、円満性を現わしてゆき、今日では、地球が完全性、
円満性を現わす番になっているのでありますが、幽界などの様相では完成よりも、滅亡の影を濃
221霊光写真について
くしているようなのであります。予言者たちはみな幽界の様相をみて、地球滅亡の警告を発して蹴
います。
どうしてそんなことになってしまっているかと申しますと、地球人類が、いつの間にか地球世
界の物質波動のもつ遅鈍な動きに把われてしまい、神や神々のみ心から離れかかってしまったの
です。神や神々の力によって、完成されるべき地球の未来が、神や神々の力を離れた肉体人間だ
けの力で完成される筈がありません。滅亡してしまうのは当然です。そこで神々は、釈尊やイエ
スのような様々な聖賢を地球に派遣して、神のみ心を人類に知らせようとしたのであります。
人類の大半の人が知らないのですが、人間は常に肉体身の自分だけで生きているのではなく、
守護の神霊の加護によって生活していられるのであるのは事実なのです。物質の一種である肉体
とその内部だけで活動している浅い知恵能力で、どうしてこの大宇宙の中で、この地球を進化さ
せてゆくことができるでしょうか。どうしても、大宇宙の在り方を知っている、大智慧大能力の
力と一つになっていなければ進化どころか、地球の運命を保ってゆくことさえできません。その
通りの様相が、もうすでに現われて、地球滅亡の予言が、そちこちからなされているのでありま
す。
皆さんはここで是非共実行なさらなければいけないことがあります。それは皆が力を合わせて
地球滅亡を救わねばならぬということです。そして地球を救うためには、自分たちだけの力では
どうにもならぬということを、はっきりと自分の頭で認識することです。そして、改めて、自分
をこの世に生み出して下さった、大きな力、大生命である神のみ心に感謝し、神の道を進むこと
を心がけることです。神の道に一番易しく近づけ、そしてそれが同時に地球人類の救いに直結し
ているのが、私の説いている、世界平和の祈りなのです。それは私が肉体身でありながら、神霊
の体として、人々の救いに立っているこの経験からして、充分に、神と人とのつながりを実生活
で行うことができるのです。自分と神霊とは一つの者である、という正しい認識に立って、皆さ
んは勇気を出して立ち上がって下さい。
223霊光写真について
戸
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