純朴の心


に代えて
秋風が吹きはじめると
祈り仲間の心が益々一つに融けて
そのひびきが一挙に拡がってゆく
世界中がまだまだ争いの波で渦巻いているとき
天変地変のきざしがそこごこに現われているとき
神の愛を離れた人間に一体何ができるというのだろう
1
神の愛を大きく地球界に働きかけて頂かない限り肉体人間の運命は終ってしまうのだ
世界人類が平和でありますように
この祈り言に乗って神々の働きかけが強くなってくる
その事実を私たちは知っている
菊の花やコスモスなど秋の花が
無心に咲き盛っているように
私たち人間の心も無心に神との一体化を果していなければいけない
神の愛の働きを充分に身心に受けて
人間も花や樹のようにそのいのちを生かしきってゆかねばならないのだ
2
秋風から厳冬にと季節はつづいてゆくけれど
祈り心は神との一体化で温かく地球を守りつづけてゆく
世界人類が平和でありますように
守護霊様守護神様ありがとうございます
神々への感謝はいよいよ深くなってゆくのである
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目次
序に代えて秋の心
人間の生き甲斐7
永遠の道朝夕の道23
人間の奥の世界39
i 数学者岡潔氏の言葉に想うー
純朴の心56
ー良寛や黒住宗忠と大愚の生き方ー
不動心73
i 西郷隆盛のことー
宗教の本道8

1 妙好人の生き方に学ぶ1
犠牲精神について期
– 小説「塩狩峠」より1
肉の生命と永遠の生命鵬
聖者方の話凶
ー役行者・イエスキリスト・洗礼のヨハネ・老子-
続・聖者方の話研
– 親鸞・法然・空海・伝教ー
愛の種々相旧
– 真実に自他を生かす道-
祈りの真髄皿
カパー・有沢呈由5
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卿人間と真実の生き方
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わけみたまごうしようしゆこれいしゆごじん
人間は本来、神の分霊であって、業生ではなく、つねに守護霊、守護神によって守
られているものである。
かこせ
この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念が、そ
の運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。

いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去るのであると
ゾいう強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難のなかにあ
ゆるゆるまことゆる
ゾっても、自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづ
けてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の祈りを祈
舳りつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得出来るものである。

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人間の生き甲斐
忍耐力の養成を
現代の青年に一番不足しているものは忍耐力であります。苦痛に耐える力、感情想念にふりまわ
されぬ力、いわゆる忍耐力は人間精神の進化にとって最も大事な力であります。
彼らは幼い時から目上を敬うとか、国のために働くとか、朋友相信じ、とかいう教育勅語的精神
鍛錬は一切なされず、ただ自己顕示、いわゆる自分の思っている言いたいことを発表する、そうい
う教育が根本になって育成されてきた若者達なのです。したがって、耐え忍ぶ、相手への愛のため
にいいたいこともいわずに、自分がその苦痛に耐えてゆくというような、犠牲精神的な忍耐力など
は、めったにみられなくなりました。
7人間の生き甲斐
昔の人は忍耐するということの教育が強くなされていたし、その頃の社会状勢は忍耐力なしで
は、常に敗残者となってしまうものでした。昔のそうした社会状勢においては、力の弱い者や、婦
女子の意志の発表はほとんど抑えられて、内にこもったまま一生を過してしまうということが多か
ったのです。そういう点では、現代のように女子も男子と同じように自分のいいたいことがいえ
はた
る、自分というものをそのままうち出せるので、今日は傍目には随分よい時代になったというよう
に思われます。
ところが、これがまた一長一短でありまして、力の弱い老や、婦女子がいいたいことや、やりた
いことをすっかり内にこめて生きていた、悲惨な状態がもっているマイナス面と、全く反対なマイ
ナス面を、現代の若者や、婦女子や力の弱い者たちは、もってしまったのであります。それは、人
間の本心をはなれて、自分勝手という業想念の渦の中に、知らぬまに巻き込まれて、人間の本心を
見失ってしまっているからなのです。
人間の世界には、長い長い歴史がありまして、人間はその歴史の中で、何度もの生まれかわりを
なしつつ今日に至っているのであります。その生まれかわりの度に、自分の心の録音機の中にその
一生において行ったすべての記録がなされていくのであります。
8
そして、今生の運命は、その八〇パーセソトが過去世の行為の記録の顕れとして、その人の運命
となってくるのです。
ですから、さまざまな運命学がかなりの適中率をもって、その人々の未来を予測するのでありま
す。そういう真理を考えてまいりますと、婦女子や若者や弱い者たちが、やたらに衆をたのんで、
自分たちの望みを達しようとするのも、よくよく考えなければならないことなのです。
人間には、これ以上はとても我慢ができぬという事態もあります。その時こそ、衆をたのみ力を
結集してその相手にあたるべきなのです。当らなければいられないのです。昔からそういう例はた
くさんありました。後世までその行為は、讃えられつづけているのであります。
政府は国民の敵ではない
現代では、そうした行為が、やたらと行われ、相手の立場など眼中になく自分たちの自我欲望を
通そうと、集中攻撃をかけているのであります。
かこせ
人間は、過去世から定められた役目がありまして、普通の人は、その役目を完うしようと真剣に
働いているのであります。別に現在の総理をかばうわけではありませんが、総理は、総理なりに真
9人間の生き甲斐
剣に国を思ってその職務につくしているのであります。
ただ国の運命や世界の状勢が、なみなみならぬ重大なる危機にありますので、右に左に政策の破
綻が起ってくるのであります。これはあに現総理ならずとも他の人々が、総理となってやっても、
違った角度でいろいろの破綻が生じてくるでしょう。こういう国家も世界も最大の危機にのぞんで
あげあし
いる場合には、大臣同士がお互いの揚足を取ったり、国民がやたらと政府の政策を攻撃したりする
ことは、自ら自分の身体を引きさいているようなものです。
自分たちはいったいどこまで忍耐できるのであろうか、そういう覚悟をまず定めて、自分の生活
や心の状態をじいっとみつめてみる必要があるのです。自分たちの、ちょっとした我がままで国家
をつぶしてしまっては大変です。政府というのは、国民の敵としてあるのではなく、国民が一人一
人ではできないむずかしい事柄や、外国との交渉をしていてくれるところであります。近代の風潮
からすると、左翼労働組合の匂をにじませた、政府を敵とみる風潮がいつのまにか国民や、若者た
ちの間にしみこんでいっているのであります。
勿論、私たちの目からみても、現政府の政治には、不備なところがかなりみえます。しかし、こ
ういう政府を倒して、未来の政策もわからぬ革新団体の手に政治が握られたときに、国民の大半は
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思いもかけぬ不自由な生活に一挙に追い込まれていくことを覚悟しなければなりません、
自民党の中で、だれが総理になろうとその政策面にはそれぞれの特異性があるでしょうが、根本
思想にはたいした差異があろうとは思いません。戦後この方日本の政府は、アメリカと協調してア
メリカの助けをかりながら、アメリカの力になりながら、今日まできております。
国民は、政府の悪い面ばかりをみ、公害その他におこされたマイナス面ばかりをみつめておりま
すが、戦中戦後の食事さえもろくろくなく、衣服さえも満足に持てず、身体を洗う石けんさえ手に
入らなかった、あのみじめな生活状態をもう一度思い起こすとよいのです。あの時の生活と、現在
の生活をよくよく比べてみてください。多くの文化的マイナス面はありましょうとも、あの頃より
今日のほうがよいと思う人のほうが多いと思います。
もし、あれが仮りにソ連との協力によって政府が作られ政治がなされていたとしたならば、今日
のように自分勝手のいいたい放題、やりたいほうだいが出来るどころのさわぎではなく、言論の自
由はなく、行動の自由もない、軍隊監視の中の生活を行うことになっているに違いありません。
本当に日本が、アメリカ一国の占領下において新しい誕生をみたのは、天皇そのまま存続の奇跡
を含めて、神の深い愛のみ心としか思いようがありません。アメリカにもいろいろと自分勝手な行
11人間の生き甲斐
動がありますけれど、総体的に日本のために大きな力になってきたことは、国民誰しもが思う事実
なのです。
しかし、今日のように日本が世界の経済大国として、世界注視の的になっているような立場にな
ってまいりますと、今までのように、アメリカに甘えた態度などみせておられません。日本のこと
は、日本独自な立場で自国の力でなしとげてゆかねばなりません。
その一番最初の難問が、武力のことなのです。日本の今の自衛隊の力で外敵に当ることができる
でしょうか。東洋の一小国が、向かってきても危いのではないかと思われる武力です。といって国
民の世論からして、現在以上の自衛力を持つことは当分できません。
だがしかし、よくよく世界の状勢をみまわしてみますと、例え日本が、国民の税金をしぼり取る
だけしぼり取って、核兵器の製造に血道をあげたところで、すでに米ソ両国の手に握られている核
爆弾の力は、広島原爆の六千万倍ぐらいの力をもっているとのことです。今更日本が、武力云々し
てもいたしかたありません。
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三つの危機
皆さんご存知ないと思いますが、米ソの飛行機、潜水艦は世界中の空に海に核兵器を積んで、飛
びまわり、泳ぎまわっているのであります。
世界の運命は、米ソ両大国の手中に握られているといっても過言ではありません。いつ両大国の
利害のもつれや、感情のもつれで、核爆弾の引きがねが引かれないとも限らないのです。人為的運
命としては、匿界はそういう立場にあります。また、大自然の動きとしての地球の運命は、地殻の
変動による大きな天変地変が起ると方々で予言されております。
そして、皆さんが今日の文明文化の発展を最大の敵のごとくいっておられる諸々の公害がありま
す。こういう大きな危機の中で、我々は日々生活しているのであります。この事実を国民は、はっ
きり認識しなければいけないのです。以上あげた三つの危機のうち、戦争の危機を取り上げよう
と、天変地変の危機を取り上げようと、思わずぞっとせずにはおられぬ、恐しい危機であります。
公害のことは、なんとか人間の智恵で是正してゆくことはできると思いますが、戦争と天変地変を
日本人として、どうして防いだらよいのでしょうか。
運命を決定するもの
13人間の生き甲斐
再び人間はここで、深く人間自体を考え、地球世界というものをみなおしてみる必要があるので
す。この世界は、想念波動と、行動力の世界です。想念波動は、目には見えませんが、人間の一人
一人の肉体からして、その人の波動圏の中で、いろいろな転回をしています。国家には、国民の一
人一人の波動の流れの集合する場がありまして、その国家の想念波動の大きな力となって働いてい
ます。その国民一人一人の波動は、必ず、他の人の波動に影響を及ぼし、あるいは及ぼされ、多く
の各自の波動圏が入り乱れて、大きな力となっているのであります。
一つの国家の中で、たくさんの波動圏が、入り乱れていればいる程その国の国政は乱れてしまい
ます。日本などは、その大きな波動圏がかなり統一されていまして、あまりにでたらめな政治政策
が行われたことはありません。ここが一番問題なところです。
普通の人々は、自分の想念波動が、それ程大事なものと思っていないようです。しかし人間の想
念波動ほど大事なものはないのです。人間の想念波動が、地球世界の運命を決定するのです。想念
波動というと特別の言葉と思われる方々がいるでしょうが、わたしは、人間の想いを想念波動とい
っているのです。なぜそこに波動という言葉をつけるかといいますと、人間の想いというのは、波
の動きのようになって、この地球を常に経巡っているのです。人間の肉体は科学的研究の結果から
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みて細胞分子、原子、電子、素粒子というように、細かく出来ているもので、最後は波動になって
しまっていると私が常に話していますが、想いのほうは、更に微妙な波動なのです。皆さんは是非
この事実を心にとめておいて下さい。昔のように肉体は、単なる肉の塊りであると思ったり、想う
ことやしゃべることが、そのまま消えてしまうものだと想っていたらとんだ間違いなのです。人々
の想いはたとえどんな細かなことでも、この地球や宇宙を巡り巡っていくわけなのです。そこで、
先程から申し上げている波動圏ということについて、わかりやすく説明いたしましょう。
波動圏ということ
人間過去世からの因縁によりまして、各自の環境や生活がそれぞれに異なります。一人の人間
が、一軒の家に住んでいたとしますと、その人間はその家の広さを自分のものとしています。しか
し、その人の想いの世界はその家の中にとどまっているのではありません。その人の想いの波は、
過去世からの因縁の定めによって、その働きの場が、大きくも小さくも、定められているのです。
ですからお互いの波動圏がすれ合い、ぶつかり合い、影響しあって、親子兄弟や、友人知人は、生
活しているのであります。しかし、人間の波動は、AとBとの接触によりAとCとが交流をはじめ
15人間の生き甲斐
たり、CとDとの交流によってそこにAとDとの交流が生まれたり、複雑多岐に想念波動の交流が
なされていくのであります。そこでその人自身は自分で少しも気づかずにいながら、他の想念波動
の影響を受けていたりすることが多いのであります。
ですから、自分の想いというものを大事にしなければいけません。皆さんが今想っていること
は、そのまま波動となって世界を駆け巡るのです。そして、その想いと同じような想いをお供につ
れて再び自分の所へ帰ってくるのです。
たとえば相手をやっつけてやろうという想いを出した場合、自分に返ってきて自分に向けられる
ヘヘヘヘヘヘヘへ
想いは、倍加されたやっつけてやろうという想いになってくるのです。それが行動に移ってくると、
思いもかけない人から、いじめられたり、たたかれたりするような事態がおこってくるのです。
もう一つの例をとってみますと、お金が欲しい、人の金でもどんなお金でも欲しいのだという想
いを出していた場合、一時うまい具合にそのお金が、入ったとしても、いつの間にかそのお金は、
誰かに取られていってしまうのです。運命的に神からゆるされて得たお金や、地位は、そのまま祝
福されて、お金は更によきお金を集め、地位は更に輝きを増すでしょうが、自己の欲望想念で、引
き寄せた財産や地位は、後に必ず、暗いかげをのこして失われてゆくのです。
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その薄ぎたない根性をすてろ
人間の想念波動は、出来る限り、きれいな純粋なものにしておきたいものです。得をするなら
ば、法律にさえふれなければ、どんな悪いことをしてもかまわないと思ったり、その反面、出す税
金はできる限りごまかして、なるたけ少なく出そうとする、そういう物質の損得にこびりついてい
て、結構、老人のためや孤児や貧窮者のために、政府は大きく手を打たなければならないというよ
うな、人道的な口をきいている人をよくみかけますが、これ程、馬鹿馬鹿しい笑うに耐えないこと
はありません。自分のほうから政府に出すものは最少限度にとどめて、政府には、最大限度の支出
を要求するこんな馬鹿な国民がたくさんいたら、国家は、とても立ってはいかれません。そういう
自分勝手な人間たちが、国家の運命をそこねてしまうのです。自分の主義主張で、政府の政策や行
政に文句をつけることは、立派なことですし、政府の政治政策に、虚心坦懐に反対意見を述べるこ
とは正しいことだと思います。そういう反対論があって、政治政策は、みがかれていくものと思い
ます。
ですから私は、政府攻撃も政治政策への手厳しい批判も必要なことと思っていますが、ただ、ま
17人間の生き甲斐
ったくの自分達の目先の利害得失だけで、すぐにやたらに集団を組んで、相手方にいうことをきか
せようとするような、意気地のない、薄ぎたない日本国民の少しでも少なくなるよう祈らずにはい
られません。
きたならしい行為で、金銭や物質を得たとしても、また支払うべき金銭を支払わずにすんだとし
ても、それはすべて魂の清算としていつかは、必ず大きな利子をつけて返さなければならないこと
を思うと、そういう行為に生きている人たちの心があわれでなりません。
現代の人々は、魂と肉体との関係がほとんどわかっておりませんが、肉体生活の幸不幸というこ
とは、魂と肉体との間にある幽体に録音されている、過去世から今日までの想念波動の善し悪しに
ょって定まってしまうのであります。ですから、現代の社会風潮のように目先の損得利害だけで、
いちいち不平不満を政府や会社やその他資本家にやたらにぶつけていたところで、その人達のため
にも社会のためにも少しの得にならぬばかりか、かえって地球の気の流れを汚してしまって、天変
地変をさそい込むことになってくるのです。
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理知の光と感情
昔、青年は父祖や先輩の前では一言の抗弁もできず、どんな無理をいわれても自分の感情をおさ
えて、生活してまいりました。そのため忍耐力は大いに養われましたが、反面、自分より下の者や、
後輩に対してその権限をふるって、威張ったものです。ところが現代は、父祖や、先輩が何をいお
うと、自分のいいたいことを言いたて、自分のしたいことをしてゆこうとしています。それが誤り
のないことならよいのですが、浅い経験の頭で感情におどらされてやるのですから、成功すること
ははなはだ少ないのです。学問をするにも、事業をするにも、それ相当の勇気と忍耐力がなければ
なりません。
現代の甘やかされた青年は、いいたいほうだい、やりたいほうだいのことをしながら、その責任
はすべて親兄弟に向けてしまう者が多いのです。これでは独立した人間とはいえません。また一
方、赤軍派や過激派の連中のような激烈なる自己顕出欲の所有者は、人の度肝を抜くようなことを
おこし、自分の存在を主張しようとするのであります。彼らにとっては、革命でも何でもいいので
す。たまたま先輩の言葉にひかれて、その道にはしったのでありましょうが、根本は自分の生命エ
ネルギーを燃焼させたいだけだったのです。
理性がエネルギーの燃焼と感情想念の爆発を抑えきれずに、爆破事件などを起こしたのです。す
19人間の生き甲斐
べて、自己顕出欲のなせるわざなのであります。
ダイナマイトを爆発させたり、爆弾をなげたり、ピストルを打ったりして革命騒ぎをすること
は、暴力団のならず者のすることとなんの変りがありません。魂に目ざめた青年たちは、あくまで
も理性を主に、感情想念を常に自分の意志の力で制御しながら、自己の運命を作っていかなければ
なりません。
理知の光に照らされ、理性の声に導かれ、人類国家社会のために自己の持てる才能を充分に発揮
していってこそ、この世に生まれた生きがいがあるのです。
日本が、経済大国として、無一物の国から今日の繁栄をみたのは、各実業家の働きもさることな
がら、青年や壮年層の各職場における、勤勉と優秀なる技術のたまものにほかならないのです。左
翼陣営が、実業家や各大会社の悪口雑言をいう尻について、青年や婦女子までが、実業家や大会社
はあたかも国民の敵であるが如く思ったりしている愚かしい状態が諸所において顕われております
が、それは自分の首を自分の手でしめているような愚かしいことなのです。
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まず自分の人格を磨こう
よくよく考えてみてごらんなさい。自分の夫は、自分の息子は、兄弟姉妹は、なんらかの形で、
それぞれの大会社に直接間接の関係をもっているのです。大会社のやり口にも非常に悪どい、ずる
いやり方がみられることがずい分とありますが、そういう悪い面は、労働組合の人々や革新政党の
人々が、専門的に非難攻撃してくれています。
ですから、婦女子は、もっばら、自分の家庭を調和させ、青年は自己の人格を磨きあげて、自分
で自分を客観的にみて、この人間は好きだなと思えるような自分に仕立上げてゆく必要があるので
す。
それは、日々瞬々起ってくる対人関係や諸々の出来事に対し、直ぐ感情をむきだしにいどんでゆ
くようではどうにもなりません。要は、自分の感情に勝つことです。自分を大きくするのには、一
にも二にも、自己の感情想念を理性の力で、自由に処理していく訓練をしていく必要があるので
す。感情というものは、甘やかしては駄目なのです。一度甘やかすと、それを抑えるのに大変苦心
をします。
そこで私は皆さんに一言申し上げるのです。一日に何回でもいいから、自分の理性も感情想念も
世界人類という大きな波動圏の中に入れてしまうことなのです。ああ自分は、世界人類の中の一人
21人間の生き甲斐
なのだ、自分の想いは自分の心は、世界という大きな心と一つなのだ、というように、世界人類と
いう大きな波動圏のひびきの中で、個人という自分と世界人類という全体との一体感を実感として
味わう訓練をするとよいのです。そのために世界人類の一番望んでいる平和ということ、個人の一
番望んでいる平和でありますように、という祈り言葉にして、この祈り言葉を根本に、学業も人格
の練磨も続けてゆけば、人間は、必ず立派に大成してゆくのです。
22
永遠の道朝夕の道
理想は大きく高く
おのさちあさゆうの
己が幸願ふ想ひも朝夕の世界平和の祈り言の中
の歌は自分の歌ながら好きな歌です。私の会の人たちは、この歌の心で日々の生活を送っている
わけです。
人間の世界には、動物と違って、理想というものがあります。誰も彼もが大なり小なり理想とい
うものを持っております。近頃は刹那主義になっておりまして、理想を持たぬ人が多くなってきて
おりますが、それでも何かと幾分は持っておるようです。
理想の一番高く深いものは、神のみ心である、完全調和した世界、愛と真と美の世界をつくりあ
23永遠の道朝夕の道
げる、ということでありましょう。それを端的にいえば、世界平和の実現ということであります。
世界中の人々が、助け合い、いたわり合い、深い愛の交流によって、大調和した世界をつくり出
す、ということは、心の正常な人ならば、誰でも理想とするところであります。
ところが、この世界があまりにも乱れ過ぎておりますので、こういう一番大事な理想を持ちつづ
けている人が非常に少く、自分のことや、自分の周囲のことの理想だけに、心を燃やして、日常を
送っている人が多くなっております。
永遠の道である、世界平和ということは、自分たちの行動範囲のことでないかのごとく、朝夕の
生活のことだけに力をつくして生きているという人たちが、実に多いわけです。世界平和といった
ところで、俺たちにはどうにもならない、こんな気持がひそんでいて、世界平和の道のほうには想い
がゆかずに、自分たちの食生活や、エンジ・イする生活のほうに力をそそいでしまっているのです。

政晋治と国民
その中で少しは世界平和の道につくせるのは、政治の世界だからと、選挙の時だけ一生懸命に、
候補者の応援をしたりする人もいます。しかし、その候補者が、果して、世界平和実現の道の人
か、その反対の人かは、明らかではないのです。それは世界平和の道の根本を知っていないからな
のです。
自民党の人がうまいことをいえば、なる程そういうものか、尤だ尤だとその人に入れたくなり、
革新系の人が、こういうことだから戦争になってしまうのだ、というと、また尤だ尤だと、その候
補者に一票をいれたくなる、という人も大勢いるのであります。
自衛隊のことを一つ取ってみてもそうです。自民党側で、世界各国で軍隊を持たないところはな
い。ところが日本は憲法にある通り軍隊はもてないので、自衛隊をもち、最少限度の自衛力として
いる。一国として独立している場合、世界各国と対い合って、少しの自衛力もないというわけには
ゆかない。そこで日本でも最少限度の自衛力をもっているので、相手国と戦争をしようとするよう
な軍隊ではない。
というと、そうだその通りだ、今ぐらいの自衛隊では仕方がない、と思うのです。しかし革新系の
人が憲法の条文の中では、一切の武力を持たないことになっているので、自衛隊は違憲である、と
いうので憲法九条の条文を読んでみると、成る程、どこにも武力をもっていいと書いてあるところ
はない。とすると自民党のいうことはいいくるめなのかなあ、と自民党政府を疑う気持になってく
25永遠の道朝夕の道
る。というようなわけで、一般国民の気持は、口のうまいほうにいつでも引きづられているような
工合になっているのであります。
日米安保条約のことについても、政府側は、安保条約で、米国の軍隊が後でにらみをきかせてい
てくれるので、日本は侵略されないのだ、もし安保がなければ、日本は今の自衛力の何倍かの武力
をもたなければならない。だから現在は日米安保条約が必要なのだ、というのをきくと、尤だ、そ
の通りだ、と肯く気持になります。すると革新側は、日米安保条約があって、日本に米国の軍隊が
いることは、ソ連や中国の疑惑をそそりたてることで、日本を戦争の渦中に巻きこんでしまう恐れ
がある、日米安保は速やかに破棄すべきだ、それが世界平和への道なのだ、といろいろと細かく日
米安保条約のあることの不利益なことを説くのです。すると、これも尤なことなので、成る程、成
る程、日米安保はいけないんだ、と国民はその時はそう想ってしまうのであります。
この世のことは、万事が万事よいということはないので、ここのところは悪いけれど、ここのと
ころはよい、というような工合になっているので、政府側の言うことも反面の利があり、反面のマ
イナスがある、と同じように革新系のいうことも反面の利と反面のマイナスがあるのであります。
ここのところを、国民はいったいどう受け取ってゆくか、実際心を落ちつけてじっくり考えなけれ
26
ぽ、うかつに善悪をきめるわけにはゆかないわけです。それは国民の朝夕の道が、どこで永遠の道
につながってゆくか、ということが一番問題なのでありますが、一般の人々には永遠の道というの
がはっきりわかっていないので、いろいろと迷うわけです。
平等な地位、富はありうるか
そこで私は、人々の朝夕の道と、永遠の道とを易しくつなぐ方法を説きつづけているのでありま
す。
人間にとっては、自己や自己の周囲の生活の問題が一番切実な問題でありまして、自己の生活を
考えずに、社会や国家や人類のことを考えてゆく、ということは、特殊な人々でなければ、とても
できることではありません。
一般の人々は自分たち一家の朝夕のことが、なんにしても気がかりで、自分たち一家のために働
き、自分たち一家の安穏を願いつづけているのです。そして、そのうちの隣人愛の強い人々はその
余暇や余力をもって社会や人々のために尽すのです。この隣人愛の強い人々にしても、その理想が、
永遠の道につながっているかどうかということになると、なかなか考えさせられてしまうのです。
27永遠の道朝夕の道
或る人は、この世の中の富は公平に分配されなければならない。貧富の差があることは人道上ゆ
るされないことだ、と思っていて、そういう政策の党であるような共産党に応援し、自らも出来得
る限り、金品を貧しい人々のために投じているのです。この人の心は実に立派で人類愛の深い人で
あります。
ところがこの反面、富んでいる人、ぜいたくをしている人に対する怒りの想いは強いのです。貧
しい人々を愛するのあまり、富有な人を恨む、というそういう気持がこういう人にはあるのです。
しかし、人間それぞれ、生れた環境が違い、能力の差もあって、赤ちゃんとして同時にこの世の
出発をしても、三十四十になれば、明らかに差がついてまいります。はじめから、環境が違い、能
力に差がある上に、運命というものの差があるのですから、公平な富や、公平な地位を得るという
ことは、土台無理な話です。
そしてまた各人の努力ということもあるのですから、富有な人を、その富有なるが故に、恨んだ
り、そしったりすることは問違っていることなのです。過去世から今日までの総合的計算からすれ
ば、各人の貧富の差というものは、当然そうなるべくしてなっているので、誰が悪いわけでも、誰
を恨むべきでもないのですが、過去世のことなど問題にしない人にとっては、今生だけで決定され
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るべき問題となるのでしょう。しかし、今生のことだけとして考えても、よくよく観察すれば、貧
富の差のつく原因がいろいろとあるのであります。
一概に良心的でない、悪いことを平気でできる人が金持になり、良心的で悪いことの少しもでき
ない人が貧しい生活をしている、とはいえないのです。金持でも良い人もあれば、貧乏人でも悪い
人はあります。なぜ金持が金持になり、貧乏人が貧しい今日に追いやられたか、ということを、も
めんみつめんみつ
っと深く綿密に調べて、その上で富の公平な分配を叫んだらよいのですが、深く綿密に調べたら、
富の公平な分配ということは無駄なことであると思い至ることでしょう。
もし仮りに、一度富を公平に分配したとしても、やがて数年のうちには、各人再び大きく差がつ
いてゆくことは必然なのです。それはやはり能力の差や努力の差によるのであります。ちなみに共
産圏諸国においても、各職種や地位によって富の分配は異なっていて、ただやたらに公平な分配は
されておりません。
若いうちから人との和を持たず、努力もしないで老いて貧しい生活になっている人と、若いうち
から人々に愛され、努力を惜しまず働いてきた人で晩年富有になった人とを、同等にあつかって、
富の公平な分配という風にしたら、いったいどうなるでしょう。人間の生き方がまるでわからなく
29永遠の道朝夕の道
なってしまうではありませんか。ですから、ただいたずらに富の公平な分配など考えても、とても
実行不可能なことであり、現在の人間の精神状態では、そういう必要がないともいえるのでありま
す。
隣人愛の深い人は、ともすれば、自分の家族のことは後廻しにしても、人々のためにつくしたい
と思って、社会運動などをするのですが、妻子は必ずしもその人と心を同じくしません。夫のする
こと父のすることを悪いこととは思いませんが、身近な自分たちのことをないがしろにして、他人
のためにばかり働いているというので、不平不満の日々を送るようなことになり、折角人のために
つくしていながら、肝腎な自分の家庭は不調和な状態をつづけてゆく形になってしまいます。
私は常に想うのですが、一つの家庭を持った以上、妻子の幸福ということはいつも考えてやらね
ばならぬことです。自分の家庭が不調和では、社会のためにつくしていても、どうしても無理がで
てきて、長つづきは致しません。人間生活の朝夕の道というのもむずかしいもので、あまり理想だ
けを追っていますと、つい足元がくずれてしまいます。個人の家庭の朝夕の道もつつがなく歩み、
しかも永遠の道、人類最高の理想の道をも踏みつづけてゆくというのでなければ、これからの人間
生活の進化はないのです。社会生活の富の公平な分配などの問題は、実はそうした道を踏み行って
30
いて、自然と出来上がってゆくものなのであります。
永遠の道
では永遠の道というのはいったいどういうことなのでしょう。先程ちょっとふれましたが、永遠
の道を一口にいえば、神の大生命の道ということができます。無限につづく大生命の働きこそ、永
遠の道であります。そしてその働きは、すべての生きとし生けるもの、すべての存在を、常に大調
和させてゆく働きなのであります。
大は宇宙の運行から、小は元素の活動に至るまで、すべては調和に向かって動いているのであり
おぎな
まして、少しの不調和が現われると、すぐそれを調和すべく働くのであります。足らざるを補い、
余れるを他に廻わし、常に一定の調和を保たせておく、これが神のみ心である、大生命の働きなの
です。
いのち
その大生命の分け命である人間が、大生命の在り方と同じような生き方をするのは当然なことな
のでありますが、実は、意外と大生命の在り方と異なる方向に動いていってしまうことが多いので
あります。それはどうしてなのかと申しますと、小生命である人間は、肉体という、固定されたよ
31永遠の道朝夕の道
うにみえる形の世界で生活していますので、どうしても、大きく広く、全体を見廻すことができな
いのです。自分の肉体生活や、妻子の肉体生活だけに想いをとられていて、他人や社会や人類とい
う広い立場で生命全体を見廻し、見通すことができにくくなっているのです。
そこで、他との不調和ということが起り、全体の利と、自己の利とが相反するようなことが起っ
たりするのです。お互いの小生命と小生命が、お互いの小さな立場での利害関係に支えられての横
のつながりはできるけれど、利害が相反すれば離れてしまう、ということで、大生命という全体の
中で、お互いが生かされているのである、という縦のつながりのあることを忘れ果て、大生命とは
関係のない、単なる横のつながりとして他の生命をみてしまっているのです。国と国との交際など
この誤りが実にはっきり現われています。戦争などというものも、こういう国の在り方が根本原因
になっているのであります。
このように、個人にしても国家にしても、大生命という全体の働きを無視してしまって、小生命
である自分や自国が、お互いにぽつんとひとりでに生まれたような錯覚を起こして、朝夕の道を歩
こと
もうとするから、お互いが利害反する、自分勝手の道を歩むことになり、その誤ちを糊塗するため
に、武力をもったり、金力で権力を増そうとしたりするのです。
32
大生命と小生命
人類はどうしても大生命である、神の永遠の道につながる、お互いの朝夕の道を歩まねば、いつ
かは滅びてしまうものでありまして、今日では大きく人類減亡のきざしが見えているのであります。
こういう重大なことがわからなくては、どんな名案をもって、朝夕の道をつづけてゆこうとして
も、その名案はむなしく失敗に終るでありましょう。
ばず
いかに善意で行ったことでも、真理に外れた道で行われたのでは、その善意は生かされません。
真理とは何かと申しますと、我々人間は、神の大生命の分け命であって、大生命の動きに外れて生
きることはできないものなのだ、ということなのです。大生命の動きというのは、終始、大調和の
動きであり、愛の動きであるのです。ですから人類も個々の人間も、それと同じように動かねば、
自己に分けられた生命の道を完うすることはできなくなるのです。
大調和の働きが、なんで、他の利益を自国の権力で押しつぶそうとするでしょう。武力や金力に
よって、他国の自由を縛ることなどは、大調和の働きに反すること大であるといわねばなりません。
たが
個人の朝夕の道も、国家の朝夕の道も、大生命の真理に違って歩んでいたのでは、これ以上の進
永遠の道朝タの道
化どころか、滅亡より他にありません。どこの国家もみなこの滅亡への道を突き進んでいます。各
個人がいち早く朝夕の道と永遠の道とを直結させる歩みを実行して、国の政治政策の姿勢を根本か
ら立て直させなくては、いずれの国家も時間の問題で滅びに至ってしまいます。

お互いが影響し合っている
近頃の超能力のマスコミ騒ぎで、皆さんもご承知のように、物と物とが直接触れ合わなくとも、
物の形を変えることができるし、相手が人間である場合、その人の想いを遠くにいてでも、自分の
意思の通りに動かすこともできるのであります。
それは精神は勿論波動でありますが、肉体もすべての物体も、みな波動の現れでありまして、こ
れは科学的に説明されていることです。単に固定した物体などというものはないのであります。で
すから、こちらの波動があちらに影響すれば、あちらはこちらの通りに動いてしまうのでありま
す。
これはよく考えてみると実に大変なことなのです。自分のしたくもないことを、相手の念の力で
させられてしまう、という近頃テレビでよくやっている催眠術のことは皆さんもよく知っていられ
ることでしょう。ああいう風にはっきり術者の通りになってしまえば、術にかかればああなってし
まうのだなあ、とわかりますが、この世の中では、あのようにはっきり念力で動かされていること
がわからずに、実は他人の力によって動かされているということが、大変多いのであります。
それはどういうことかと申しますと、先程も申し上げましたように、人間の想念(精神)も肉体
も窮極は波動である、という原理のように、人間は一人一人自己の波動圏をもっているのでありま
す。そして、その波動圏は、この世界を流れている、種々様々な波動の影響を受けているのであり
ます。
人間は一人一人別個に離れて生きていると思う肉体人間観は誤りでありまして、人間は好むと好
まざるとにかかわらず、自己の波動圏に他の波動の影響を受けているのです。物体のようにみえて
いる肉体も、肉体の中で保護されているように見えている精神も実は固まったものや、固まったも
のに保護されているのではなく、単に肉体波動、精神波動として、むき出しに、この世界の中で生
きているのであります。
なにがしなん
肉体の人間というのは、実は、何の何某という波動体なのであります。地球という波動の流れの
なにがし
中の何某という波動体が、一人の人間なのであります。ですから、こちらの想念行為が地球の運命
35永遠の道朝夕の道
そのものに影響もしますし、地球の波動の流れが、こちらに大きく影響してくることもあるので
す。こともあるのではなく、常に影響してきているのです。人間というものは、自分だけ孤立して
あろうとしてもできるものではなく、多くの精神波動や物質波動によって、動かされているものな
のです。
そこで、催眠術者の想う通りに動かされたりもするのであります。催眠術者にも、地球を流れる
自己を損う波動に歯動かされずに生きるためには、いったいどうしたらよいのでしょう。現在の地
球の国家群の在り方では、お互いが調和して生活してゆくということはむずかしいことです。どこ
の国もが、自国の権益や自国の利益のために動くほうが先でありまして、真実世界平和のためを全
目的として働いているという国は見当らないのです。
3G
朝夕の生活の道を永遠の道につなげる
人を傷つける想念波動や、不調和な波動の流れが、この地球世界には多くて、調和した波動の流
れは少ないのですが、ただ縦の流れ、いわゆる神の大生命のひびきは、いつの日にあっても、大調和
の流れそのままであることを忘れてはいけません。私ども人類が、不調和な誤り多き地球世界の波
動圏をぬけ出すためには、神の大生命波動の中に、自己のもっている波動圏をひき上げてしまい、
地球のもっている業波動の影響を受けないようにしてしまえばよいのです。
私どもの朝夕の生活の道を、神の永遠の道の中にひき上げてしまうことが必要なのです。それは
いったいどうすればよいか、と申しますと自分の想いをいつも、神様のみ心の愛の中に投げ入れて
おくとよいのです。投げ入れておくというのは、神の愛のみ心の現れである大調和の波動の中に、
世界平和の祈りをもって入りこんでしまうということです。
世界人類が平和でありますように、という祈り言は、神の大調和のみ心と、人間の平和でありま
すようにという悲願の心とが、全く一つに融け合う祈りです。そういう縦横十字交叉の真理の大光
明波動の中で、祈る人の精神波動も、肉体波動も光明化してゆくのであります。
この祈りをつづけておりますと、いつの間にか、地球の業波動のかからぬ、他の波動に影響され
ひびき
ぬ、神のみ心の波動の中で、日々の生活ができるようになり、永遠の道と朝夕の道が一つになって
くるのであります。
現在の世の中では、頭で考えても、自分だけの幸せというものは考えられません。常に国家や人
類の運命が、自分たち個人の生活に影響してきているのであります。人類の自分勝手な、神を離れ
37永遠の道朝夕の道
た業波動の世界を、神の愛のみ心の光明波動に一変させるために、私どもは私どもの朝夕の生活の
道を、永遠の道の中に入れきってゆく、世界平和の祈りをたゆみなく行じてゆくのであります。
人間は肉体という物体ではありません。精神は肉体の中で生まれたものでもありません。すべて
は神の大愛によって生かされ動かされているものなのです。そのことを改めて想い起こして、神へ
の感謝の想いで、朝夕の道を永遠の道の中にひきあげてまいりましょう。
世界人類が平和でありますように
38
人間の奥の世界
理想を現実に現わす道
私が常に考えており、実行にうつしているのは、宗教と科学との調和ということであります。宗
教がいつまでも、今日までの宗教の道を歩いていたのでは、少数の個人は救えても一般大衆を救う
ことも国家や人類という集団的なものを救うこともできません。どうしたら宗教の道によって、国
家や人類を救うことができるのか、私は常々そういう宗教の道を見出そうとして修業しつづけてい
たのです。
そして今日、宗教の祈りの道から、宇宙子波動生命物理学という、新しい科学の道を切り開くこ
とができるようになったのです。ですから私は世界の科学者の動向に非常な興味の眼をもちつづけ
39人間の奥の世界
ていますし、私共の科学の道と、今日までのいわゆる地球の科学の学問との一致点に、一日も早く
到達させようと真剣な研究をつづけているわけなのであります。
今日までの科学が外側から内側に向かって突き進んでいるものと表現すれば、私共の宇宙子波動
科学は、宇宙の奥から外側に向かって解明してゆくという形の科学でありまして、宗教の道が人間
の内側を直観的に把握してゆき、外側の正しい行動となしてゆく、というのと形の上ではよく似て
いるのであります。
形の上ではよく似てはおりますが、宇宙子波動科学は、あくまで純然たる科学でありまして、直
観によってなされるのではなく、今日までの科学の道と同様な方法で研究を進めてゆくのでありま
す。
それは精神科学とか心霊科学などの分野のように数学的要素のあまり必要でないものではありま
せん。今日までの科学と同じように、その根本はどうしても数学的にならざるを得ない。いわゆる
数式がなくては、解決のできない学問なのであります。
どうせ宗教家のはじめたものなのだから、神がかった変てこな、言葉だけのものだろうぐらいに
思われる人たちも随分あると思うのですが、そう思っている人たちが研究成果を見たら、眼を円く
40
して、暫らくは言葉もでないということになるでありましょう。
今日までの宗教者が、旧態依然たる宗教観念の中にどっかりアグラをかいて、理想論だけをぶっ
ていたのでは、神様のみ心の深いところが次第に判らなくなってしまいます。
理想を現実に現わし得るそういう道こそ、この地球界に必要な道なのであって、それが宗教とし
て現われようと、科学として現われようと、はた又、単なる思想として現われて政治政策となって
ゆこうと、どういう道を通ろうと、それはかまわないと思うのです。
この世界は宗教の道しかないなどと、それも狭い範囲の自己の宗教だけの道に固まって、排他的
な行動に終始しているような宗教者がいたら、その人や、その宗団宗派は、もはや旧い過去の遺物
でしかないのです。
又、宗教として説いている教えは素晴しいのに、その教祖が、実際社会の歩みや、政治的な発言
になると、その教えとは全く反対の業想念波動と取り組んだ、信者の心を分裂させてしまうような
発言や文章を書いてしまう、そういう本物とにせものとが交互して現われているような人もいます
が、そういう宗教者の在り方では、とてもこの地球世界を救うことはできません。それは理想を現
実に現わす方法を知らないでいて、自分では知っているつもりでいるからなのであります。
41人間の奥の世界
数学の証明も感情の満足が必要- 岡潔氏の言葉よりー
そこへゆきますと、真剣に科学の道に取り組んでいる人の中に、意外な程宗教の真道に徹した人
もいるのであります。以前にも書いたことのある数学老の故岡潔氏などその一人であると思いま
す。
そこで、「人間の建設」という、小林秀雄氏と岡潔氏の興味ある対談集がありますので、岡氏の
言葉を少し抜粋して数学者でもこんな考えをもっている、ということをお知らせして置きたいと思
います。
ー数学は知性の世界だけに存在しうると考えてきたのですが、そうでないということが、ご
く近ごろわかったのですけれども、そういう意味にみながとっているかどうか。数学は知性の
世界だけに存在しえないということが、四千年以上も数学をしてきて、人ははじめてわかった
のです。数学は知性の世界だけに存在しうるものではない、何を入れなければ成り立たぬかと
いうと、感情を入れなければ成り立たぬ。ところが感情を入れたら、学問の独立はありえませ
んから、少くも数学だけは成立するといえたらと思いますが、それも言えないのです。
42
最近、感情的にはどうしても矛盾するとしか思えない二つの命題をともに仮定しても、それ
が矛盾しないという証明が出たのです。だからそういう実例をもったわけなんですね。それは
どういうことかというと、数学の体系に矛盾がないというためには、まず知的に矛盾がないと
いうことを証明し、しかしそれだけでは足りない。銘々の数学者がみなその結果に満足できる
という感情的な同意を表示しなければ、数学だとはいえないということがはじめてわかったの
です。じっさい考えてみれば、矛盾がないというのは感情の満足ですね。人には知情意と感覚
がありますけれども、感覚はしばらくおいて、心が納得するためには、情が承知しなければな
りませんね。だから、その意味で、知とか意とかがどう主張したって、その主張に折れたっ
て、情が同調しなかったら人は、ほんとうにそうだとは思えませんね。そういう意味で私は情
が中心だといったのです。そのことは、数学のような知性の最も端的なものについてだってい
えることで、矛盾がないというのは、矛盾がないと感ずることですね。感情なのです。1
矛盾がないということを説得するためには、感情が納得してくれなければだめなんで、知性
が説得しても無力なんです。ところがいま数学でできることは知性を説得するだけなんです。
説得しましても、その数学が成立するためには、感情の満足がそれと別個にいるのです。人と
43人間の奥の世界
いうものはまったくわからぬ存在だと思いますが、ともかく知性や意志は、感情を説得する力
がない、ところが、人間というものは感情が納得しなければ、ほんとうに納得しない存在らし
いのです。ー
感情の奥底ま。て納得する
この辺まででもなかなか岡氏は真実のことを言っています。宗教の道でもそうでありまして、い
かにくわしく原理を説かれても、それは真にごもっともでございます。頭ではその理論はよく判り
ますんですが、私にはとてもなかなかできそうにもありません。という工合に、宗教原理が単に理
想論としか、聴聞する側に感じられない、つまり知性で判っても感情としてついてゆかない、とい
う場合には、その宗教の教え方はいかに教理が高かろうと、人を救うということにはなってゆかな
いものなので、宗教本来の役目を果すことができないのです。
既成的仏教などでは、教理としては、一般大衆がついてこないので、大きな華やかな殿堂をつく
って、そのケソランさで、大衆の感情を把え、その信徒の増加をはかってゆこうとして、さかんに
ガラソを建てたり、大仏像をつくったりしたものなのです。
44
しかし、そうした行き方は、真実に感情の奥底、つまり本心そのままの心のひびきをゆり動かす
のではなく、現象的な大きさとか美しさとかきらびやかさに感動して、それが自分の救われにつな
がる、という感情の流れなので、神仏の力というものが、そういう大きさ広さ、きらびやかさの中
さつかく
から生まれでるという錯覚によるものなのです。
現代の新しい宗教の方では、大衆の感情を把えるために、病気が直る、貧乏が直る、という、は
っきりした現世利益をそこに打出してきているのです。しかしこれもやはり、それだけでは、感情
の奥底は納得しきるわけにはゆかないので、真実の救われの感じは湧いてこないものなのです。
人間の救われというものはむずかしいものなので、この肉体の形の世界だけが救われたようにみ
えても、それは真実の救われによる安心立命という感じにはならずに、絶えず神仏に救いを求めて
すがりつこうとする態度になってしまうのです。
それは、感情の奥底までが納得して、救われているという自覚になっていないからなので、いく
ら自分自身で救われているといいきかせても、何かことがあると、すぐに不安動揺する気持が起っ
てくるのです。
ここで又、岡氏の言葉をつづけてみましょう。
45人間の奥の世界
じようちよ
時は情緒に近いー岡潔氏の話i
46
1 情緒というものは、人本然のもので、それに従っていれば、自分で人類を滅ぼしてしま
うような間違いは起こさないのです。
小林それでは岡さんのおっしゃる感情をもととして、科学なり数学なりを進めていく道と
いうのはあるのですか。
ー感情をもととして、ベドイトゥソグ(意義)を考えて、その指示するとおりにするので
なければ、正しい学問の方法とは言えないと思っています。
ーいまの人類文化というものは、一口に言えば、内容は生存競争だと思います。生存競争
が内容である間は、人類時代とはいえない、獣類時代である。しかも獣類時代のうちで最も生
しれつ
存競争の熾烈な時代だと思います。ここでみずからを滅ぼさずにすんだら、人類時代の第一ぺ
ージが始まると思います。1 もしできるならば人間とはどういうものか、したがって文化と
は どういうものであるべきかということから、もう一度考え直すのがよいだろう、そう思って
います。
ー人はずいぶんいろいろなことを知っているようにみえますが、いまの人間には、たいて
いのことは肯定する力も否定する力もないのです。一番知りたいことを、人は何も知らないの
です。自分とは何かという問題が、決してわかっていません。時間とは何かという問題も、こ
れまた決してわからない。時間というものを見ますと、ニェートンが物理でその必要があっ
て、時閲というものは、方向をもった直線の上の線のようなもので、その一点が現在で、それ
より右が未来、それより左が過去だと、そんなふうにきめたら説明しやすいといったのです
が、それでいまでは時間とはそんなものだと思っておりますが、素朴な心に返って、時とはど
ういうものかと見てみますと、時には未来というものがある。その未来には、希望をもつこと
もできる。しかし不安も感じざるを得ない。まことに不思議なものである。そういう未来が、
これも不思議ですが、突如として現在に変る。現在に変り、さらに記憶に変って過去になる。
その記憶もだんだん遠ざかっていく。これが時ですね。時あるがゆえに生きているというだけ
でなく、時というものがあるから、生きるという言葉の内容を説明することができるのです
が、時というものがなかったら、生きるということはどういうことか、説明できません。そう
いう不思議なものが時ですね。時というものがなぜあるのか、どこからくるのか、ということ
47人間の奥の世界
はまことに不思議ですが、強いて分類すれば、時は情緒に近いのです。
ー数学は必ず発見の前に一度行き詰まるのです。行き詰まるから発見するのです。
ー西洋人は自我が努力しなげれば知力は働かないと思っているが、数学上の発見はそうで
はない。行き詰って、意識的努力なんかできなくなってから開けるのです。それが不思議だと
ボアンカレは言っています。
情緒と純化された感情
岡氏は感情を情緒ともいっています。そしてそれは人本然のもので、自分で人類を滅ぼすような
ことはしない、ともいっています。これは真実の言葉で、感情の奥のいわゆる本心のひびきである
わけみたま
情緒というものは、神のみ心が、分霊である人間世界の人同志を理論や理屈でなく結び合わせ、自
然の姿や、芸術の世界から、美や力や喜びや温かさや、生命本然の生き甲斐というような感情を湧
き起こさせる、そういうひびきをもっているのです。
人間同志や国と国とが、理論や理屈で争い合ったり、利害関係で戦ったりする、そういうこの世
的な浅い感情ではないのです。ですから情緒豊かな人間が多くなれば、この世は明るく美しく、何
48
んともいえない善いものになってくるのですが、現在ではなかなかそうはいかない。一に二に権力
欲、金銭欲、そうした欲望につながる感情で、世界が動いているわけであります。
現在の文化がそういう感情から生まれた文化だから、その内容は生存競争ということになるので、
そういう時代は人類時代でなく、獣類時代と岡氏はいうのですが、私も全く同感で現在はまだ、人
類というのにはほど遠い感じのする地球世界の住民なのです。これは進化途上にあるのですから致
し方ありまぜんが、現在のような生き方で地球の住民が生存競争をやっていますと、この人類はい
つかは滅びてゆくに違いないのです。
人類はまだ真実のものをほとんど判っていない。生命のことも心のことも、時のことも空間のこ
とも、それなのに、そういう重大なことをほったらかして、眼に見えている世界、現在手のとどく
世界のことだけに血眼になって競争しているのです。情緒の世界を離れた、肉体人間だけを保存し
ようとする、欲望想念だけで、この地球世界に住みつづけようとしているのです。
時は情緒に近い、と岡氏はほんとうにうまい表現をしていますが、情緒とは、恋愛の雰囲気など
の中にもありますが、酒場や遊興場のようなところにある、ああいう雰囲気ではありません。そう
いうのを情緒として取り上げている作家などがありますが、ネオソサイソや赤い提灯の灯にある雰
49人間の奥の世界
囲気などではないのです。
さお
知に働けば角が立ち、情に竿さしゃ流さるる、という情でもないのです。一口にいえば純化され
た感情というのでしょう。
現在では、情緒ある人というのが紗なくなりまして、知に働いて角を立てる人や、科学的科学的
と何事にも科学というものを持ち出し、それでいて科学の本質を知らない人や、利害打算だけでこ
の世を渡っている人等々で、美しい明るい雰囲気が非常に損われているのであります。
宗教の道というものも本来現世利益のためにあるものではなく、生命の本質を直観させる為にあ
るのですが、それが本質を外れて、現在の利益のみを目ざす人々の集りのような宗団ができたり、
少しでも自己の権威をみせようとする人々の集りとなったり、遊びのかわりに宗教をやる、という
形の人ができてきたりしているのは困ったものです。
岡氏のいうように、数学の世界や学問の世界でも知性や意志だけではなく、感情の満足がなけれ
ば、その学問が成り立たぬ、ということは、学問をやっている人々には、一寸意外と思うでしょう
が、実際に感情が納得しなければ、何事も成功しないことは事実なのです。いくら勉強しろと親に
むち打たれても、少しも真剣に勉強する気にならぬ子や、いくら勉強しても、一向に出来のよくな
50
らぬ子供たちは、その子供たちの感情が知性と一致してゆかないところから、そうなるのでありま
す。
好きこそものの上手なれ、という言葉もあるように、確かに感情に訴えてゆくことは大事なこと
なのです。しかしただ、常に浅い感情の満足でこと足りるとしている指導方法は、かえってその人
々を真実の道からひきおろしてしまうことになるのでありまして、ガラソ仏教や現世利益宗教の誤
ったゆき方であるのです。
人間には知性というものが大事であると同様に感情というものも大事なのですが、感情が純化さ
れ、清まっていないといかに知性的に人々が生きようとしても、それができなくなってしまうので
す。
平和の祈りで知性と情緒との融合を
純化された感情は情緒として、人類が真実に人類としての神のみ心と一つになって生きるための
カルマ
主要な要素となりますが、低い汚れた感情は業想念波として、人類を滅亡に追いやってしまうもの
なのであります。
51人間の奥の世界
人類が真実に神のみ心をこの地球界に現わす為には、人間の心の奥の奥からこの世にまでひびき
わたっている知性と情緒とが全く一つに融合して、この世の働きとならねばなりません。人間とは
肉体という形ではないことは、私がいつも申しておりますが、人間がいつまでも、肉体を守るため
にのみ働いているようでは駄目なのです。肉体の内深くある霊性の世界に想いをすっかりすえて、
そこから働き出さなければいけないのです。
自己の肉体を守ろうとする本能は、獣的な本能でありまして、これが広がれば、国と国との対立
となり、民族と民族の対立となったりするのであり、弱肉強食という生き方となってしまうのです。
ですから、肉体の自己を守ろうとする本能を超えられない限り、人類は現在以上の進化はできな
いことになるのです。しかし、神のみ心、大自然の法則は、無限の進化の法則を人類の上にも及ぼ
しております。
そこで、人類はどうしても、獣類的人類から、神の子的人類に必ず進化してゆくことになってい
るのです。岡氏のいう人類は滅びる可能性が多いけれど、もし滅びなければ、自然に対して、もっ
と建設的な面に自然科学の目をむけるべきである。それには先ず人類の心の一番根抵の人間とは何
か、自分とは何かという問題に腰をすえてかかるべきだ、という、そういう時期に現在はもうさし
52
かかっているのです。
私たちは、すでに宗教の面では、消えてゆく姿で世界平和の祈りという、業想念波動、つまり汚
れた感情想念を、世界平和の祈りという、大乗的な人類愛的な広い深い意味をそのまま言葉に出し
た、祈り言の中で浄化してゆき、そしてその祈り言がそのまま、人類世界の汚れた想念感情を純化
してゆくという方法をもって、神の子的人類としての生き方を示しているのであり、一方、今日の
科学がおおむね知的な面のいわゆる自我の努力によってのみ生まれてきたと思っているのに反し
た、祈りによる純粋感情、情緒から生まれてきた、宇宙子波動生命物理学というものを生み出して
きたのであります。これは岡氏がボアンカレの言としていっている、意識的努力などができなくな
ってから開けてくるのが、数学上の発見だ、というのと相似しているのです。
この学問がつき進んで参りますと、人間というものがどのようなものか、自分というものは如何
なるものか、という重大な問題が、かなり深く科学的な実証によって判ってくるのであります。
人類が飛躍的進化をとげるために
これは、岡氏も、仏教に光明主義というのがあって、その中心である全智全能の如来が、個人と
53人間の奥の世界
の交渉をもつということは不思議なことで、全智全能者は知においても意においても関心をもたぬ
が、ただ情において関心をもつ、あわれ、可愛いいという情において、交流するのだろうといって
いますが、私共のいう守護神守護霊の在り方など全くその通りで、人類の進化にとって、肉体人間
としての足りないところ、つまり業想念波動消滅のために、守護の神霊の働きが行われているので
ありまして、守護の神霊の加護なしには、この人類のこれ以上の進化はあり得ないので、人類には
消滅あるのみということになってしまうのです。
そういう守護の神霊の外に、他の星の住人、つまり宇宙人の援助がありまして、人類破滅を促進
させる科学ではない、これからの新しい科学、大調和科学ともいうべき、進化した科学の働きがな
されてゆくのであります。
人類は神の大愛なしには生きてゆけぬものなのです。人類の生命は神のものであり、その智慧能
力も、すべて神からきているものなのです。そんな判りきった事実を判ろうとしない人々の為に、
神は真の科学力をこれから使ってゆかれるのです。それは全人類の波動の調整という形でなされる
かも知れません。すべての人々が、神のみ心に正しく想念の波長を合わせられるように、私共は世
界平和の祈りの大光明波動を人々の上に輝かしているのであり、宇宙子波動生命物理学の完成に
54
よる、科学的な方法による進化への道を、地球人類に開発せしめようと、働いているのであります。
現在の地球人類の破滅は、少数の人々の良心や善意では到底ふせぎきれるものではありません。
もう、米国が悪い中国が悪いなどと、只批判している場合ではありません。善いも悪いもすべてを
ひっくるめて、すべては消えてゆく姿として大神のみ心の中に、おかえししてしまうのでありま
す。すべてを新しく神から頂き直すのです。
地球人類すべての生命を、改めて頂き直すのです。それが消えてゆく姿で世界平和の祈りなので
あります。
55人間の奥の世界
56
純朴の・い

神の心、肉体の心
人間は誰でも、神の心そのものと、肉体に附随する心とをもっています。神の心は、愛であり、
えいち
調和であり、叡智をもった心でありますが、肉体の心は、自己本位の利己主義であり、肉体生活の
欲望、つまり、物質欲、地位欲、権力欲の想いをもっています。
この二つの心のどちらが多いかによって、その人の人格が定まるので、地上に天国ができるのに
は、すべての人が肉体心を超えて、神心になった時なのですから、なかなか大変なことです。
神の心そのままで生きょうと致しますと、世間一般がほとんど、肉体の心のほうを多くもった生
き方をしていますので、そういう多くの想いの波に妨げられて、この世で生きにくくなってしまい
ます。余程、神の心そのままの境地に常に住んでいる人でないと、一般の肉体の想いの波に同化し
ないではこの世を生きぬいてゆけなくなるので、なかなかこの世が立派にならないのです。
原則と現実の難しさ
例えていえば、そのたびに国家的論争になり、国民の関心の的にもなる、防衛力整備計画の問題
でも、政府としても、世界の平和を望むことは、当然のことであり、世界平和のほうに大股で進ん
でゆきたいにきまっておるでしょうけれど、そういう神のみ心の愛と調和の心をむき出しにして対
外の政策をとれば、どの国をも敵とみない政策を取ることになり、防衛計画はおろか、対外的な防
衛措置は必要ないことになります。しかし、現実の面をはっきりみつめますと、共産圏の国ばかり
ロロのこノうしろだて
でなく、他の国々でも、みな軍備をもっていて、何かの交渉事になりますと、その軍備を後楯とし
て、向かってきます。何かの話の行き違いで、いつ、この野郎と腕力を振って来ないとは限りませ
ん。その時こちらに防衛力が全くなかったり、微弱だったりしたら、心細いこと限りない、という
思いを政府や自衛論者はもつわけです。共産主義国との条約などは、第二次大戦の日ソ不可侵条約
でもわかるように、日本の武力が衰えてきたら、忽ちその条約は破られて、ソ連が満州に侵入して
57純朴の心
きたのですから、自国の利益の前には、信義も何もあったものではないと思う人も多いのです。
そういう前例が多くありますので、為政者はどうしても、防衛力を強固にしておいて、いざとい
う時に備えたいと思うのでしょう。為政者としては無理もないことです。
ところが、国民一般はこの防衛力増強ということに対して、反対する向きが多いので、国が一つ
になって、自衛隊を強くする、という道はないわけです。そんなことに何兆ものお金を使うなら、
他に使いたいところがたくさんある、ということと、平和国家という看板をかけているのに、武力
を増強したのでは、諸外国が、日本がまた軍国主義になるのか、と疑惑の眼をもってみるし、かえ
って戦争を誘発して、日本の運命にプラスにならぬ、ということの三点で反対するわけです。
これも尤なわけです。自民党政府を支持する人の中にもこういう考えの人は随分あるのです。真
理として、原則としては、戦争をしたくないのなら、自国が率先して武力を放棄することがよいの
ですが、現在の世界は、一国だけで生きてゆける世界ではなく、他国との連関協力がなければやっ
てゆけないわけなので、自国だけの考えを固執して、他国の考えをいれずに政治をとるというわけ
にはゆかないのです。米国との間など正にそうです。
私共のように、祈りにょる平和運動一本で戦後ずうっと一貫して通してきているものでも、ただ
58
単に日本は武力を放棄すればよいなどと無理なことを思ってはおりません。日本が武力を放棄して
も大丈夫になるためには、国民一般が、真実に世界平和一念の生き方をするようにならなければ駄
目なのです。自己が世界平和に反する不調和な心をもっていて、自分の行ないが平和に反してい
て、ただいたずらに武力をなくせ、などといっても、それは無理で、自分の行ないがすでに、戦争
をひき起こす、運命の一役を買っているのです。
人をやっつける想い、人を引きずり下ろす想いがある人が、世界を平和にといったとて、それは
おかしなことです。人間の一人一人の想念波動が、日本の運命ともなっているので、政治家だけの
罪ではないのです。
光の防壁をつくるために
私共は政治のことをとやかくいうより前に、自分たちの想いを、人類の理想である、世界平和と
いう明るい調和した想いに一致させる日々を送る心がけをしなければならぬと、思っているので
す。一般国民の心が、そうした明るい調和した想いになれば、平和な気が国内に充ちて、それこそ
四次防五次防も必要ないと政府にも進言できますし、その光明波動にょる平和な防壁が自ずから出
59純朴の心
来てくるのです。それは諸外国にその心の状態がひびいていって、日本は真実に平和を願ってい
る、他国を侵略する意志もなければ、他国になんらの害を及ぼす気持もないと、日本国民の生活事
実としてわかるのです。
そういう平和に対する実績が、今迄の日本国民にはなかったのですから、種々な型で外国から疑
惑の眼をもってみられるのです。現在の日本は、政府にしても、野党政治家にしても、国民一般に
しても、みな中途半端な心で世界に対しているのです。アメリカや中国やソ連を平和を乱すものと
してとやかくいいますけれど、そういうその人の心が調和したものでも、平和のひびきをもったも
のでもないのでは、どうにもならぬのは理の当然です。
各自の平和な心がけが振り出しで、日本の政治が平和の方向に進んでゆくのでありまして、政府
の政策だけ責めても、どんな政治家がやっても、たとえ社会党や共産党がやっても、満足な政治は
できる筈もありませんから、責めるだけでは無理なのであります。
国民一般の真に平和な心を根本にして、はじめて、日本に真実の平和政策が打ちたてられるので
あります。
大体現代の人たちは、自分の責任はさておいて、他の責任を責め裁いたり、頭の中だけで目先の
60
ことをこちょこちょと考えて、自分の現象の利益や感情に触れると、他を責め悪口をいう、
工合で、魂の奥から出てくるような調和した生き方ができないのです。
という
りこうぶるのはよそう
現代の人は、あまりにも利巧ぶろうとしすぎるのです。自分、自分、自分と、自分という五尺何
寸かの肉体の人間と、それに附随する人間だけが大事で、自分の利益、自分たちの利益と、まず利
益、次に感情の満足ということで夜を日を送っている人が多いのです。
これでは決して、真の利益も、真の満足も得られるわけがありません。自分と他人、自国と他国、
自民族と他民族、こういう相対の世界にありましては、お互いが自分たちの利害や感情で相手をみ
ていますと、到底真の調和に達することはありません。お互いの譲り合いの精神、愛の精神がなけ
ればなりません。
愛の精神、思いやりの精神が、肉体に附属する自己本位の想念に打ち勝たねば、真の平和な世界
はできません。目先きのその場その時の利害得失に把われず、永遠の生命、真の地球世界の平和と
いうことに想いを至して、生きてゆかねば、個人も国家も民族もやがて滅亡してゆかねばなりませ
61純朴の心
ん。
たとえ、自己の利害関係に反し、自己の感情に反する相手や環境があっても、それは過去或いは
過去世からの消えてゆく姿なので、原因は過去にあるのであり、現在はその原因が果となって現わ
れてきているので、その消えてゆこうとするものを把え感情を乱し、心を痛めて、また過去におけ
る出来事のむしかえしをするのは愚かしいことなのです。
むなしうしづ
ですから、そういう場合は、自己の感情的行為で処理しようとしないで、心を空し、心を鎮め
て、その原因結果のいちはやく消え去ることを、祈ることがよいのです。想いを、肉体的な感情の
中に置かずに、祈り心で神さまのみ心におあづけしてしまう、ということによって、仏教の空の心
むいむげ
境、老子の無為の心境に到達して、真実の生き方、無擬の生き方ができてくるのです。
今日こそ、良寛さんや黒住宗忠神人のように大愚の生き方に向かってみる必要があるのです。
ゆだ
一度、自己を凡愚と想いきり、すべてを神仏のみ心に任ねる、こういう生き方になってこないと、
今日以後の世界は、もう滅亡の方向に一歩一歩進んでいってしまうのです。そんな話、馬鹿馬鹿し
い、と思える程の、純真、純朴な人の話をいくつか書いて参考に供しましょう。
例によって妙好人の話が多いのですが、こかんべん下さい。62
妙好人三河七三郎の話
三河七三郎という妙好人がいました。三十一才の時妻をむかえ、夫婦心をあわせて厚く母に孝養
をつくしていました。生まれつき正直律義で、人と交るに礼儀正しく、かりそめにも無益なることを
いさへつら
語らず、またみだりに人にさからわず、しかし人のためにいいことと思えば率直に諌めて、謳うと
いうことを知らなかったのです。或る時、自分の山の木を盗んだ者がありました。七三郎は少しも
惜しむ色なく、かえってその盗んだ者をさがし出して心からお礼の言葉を述べました。それを聞い
て不審に思うてその仔細をたずねた人がありました。すると七三郎は、「これはわしが過去世にて
あの人の物を盗んだ報いでありましょう。まことにお恥しい次第です。それをこちらから返す道を
知らずに過して来ましたのに、あちらから取りに来てくれたのじゃと思えば、お礼を申す外はあり
ませぬ」と答えた、ということです。
なんという、教えに素直な純真な心でしょう。この世は過去世からの因縁因果の現われては消え
てゆく世界です。ですから、現在人からされること、されていることは、善悪にかかわらず、過去
世の報いであるわけで、その真理を、この人は素直につかんで、素直に行じているわけです。
63純朴の心
もう一つやはり泥棒にあった時の話。大和の清九郎という、妙好人として有名な人の話です。
64
大和の清九郎の話
寛延二年七月上旬の頃、原谷村の祐安という同行の家に仏事があって、清九郎が家を留守にして
いる間に、盗賊が壁をこぼち忍び込んで、莚の下に入れて置いた銀札七匁を取って行ってしまいま
した。後に近所の人々がこれを聞いて見舞いをいうと、清九郎は「盗みをするほどの者ならばさぞ
不自由であろうに、われら風情の家に入っては何も取るものがなく、気の毒なことである。それで
も菜種を売った代の銀札が十五匁あったのを、八匁はこの春以来の洗濯料に払い、残る七匁が家に
あったのはまだしもじゃ。平生ならばこの七匁もないであろうに、折角入って来た者に手を空しく
させずに、僅かでも取られるものがあって嬉しう思うております」と答えました。それを聞いて人
々は盗まれて嬉しいとはどういうわけか、と訊きますと、清九郎は「これが嬉しうなうてどうしま
しょうそ。その故は、盗まれたわしも同じ性分の几夫で盗みかねぬものであるのに、今はこ慈悲の
お蔭で盗みこころも起らず、盗まれる身となったのは有難いことじゃ。もしこの清九郎が五匁十匁
でも人様の物を盗んだと評判せられたら、わしはもとよりのこと、同行中の顔よごしで、再び皆さ
まと交わることも出来まいに、盗まれたのは不覚に似たれども恥辱にならず、同行の顔もよごれ
きず
ず、仏法に疵もつかず、これほど嬉しいことはありませぬ」と答えた、といいます。
普通の人では、とてもこの心境になれるものではありませんが、日頃からの祈りの行、ここでは
念仏によって、これ程までに純朴になり得たのだと思います。禍をすべて福として受け取れる人は
幸せです。私の会の人たちにも、こういう心境に近い人がかなりできています。
なんでもかでも悪くとる人と、何事もすべて善くなると、よいほうにょいほうにとる人と、どち
らが幸せな生き方であり、どちらが神のみ心に叶った生き方であるか、ということは論をまたない
ことです。
そのままの姿の良寛さん
今度は例によって、良寛さんの話です。
ある名月の夜のことでした。良寛さんは、興に乗って、芋畑の中をあちらこちらと名月を眺めな
がら歩いていました。その姿を畑の持主がみつけまして、すわ畑荒しと思いあやまり、やにわに鉄
拳をふるって良寛の頭を打ってきました。そして、それだけで気が済まずに、とうとう彼を縛って
65純朴の心
木の枝に吊して置いて、あり合せの棒で滅多やたらに郷りつけたのです。それでも良寛さんは少し
も逆らわなかったのですが、しまいにとうとうたえられなくなって、実は自分は良寛であるとその
人に申し出ました。そして自分は芋などを盗む気は更になかったが月がいいのでぶらぶら歩いてい
たのだと告げて畑を荒したことを詑びました。百姓は初めてそれを知り、大いに恥じ入って深く罪
を謝したのですが、良寛は少しも相手を餐めなかったばかりか、むしろ気持よさそうに笑って、左
の如き一首の古歌を口ずさみながら瓢然とそこを去ってゆきました。
打つ人も打たるる人も諸共に如露亦如電応作如是観
良寛さんのそのままの純朴な姿、み仏に任せきった姿は、船頭に川に落されながら、落したその
人を少しも恨まず、かえってその人に救われたことを心から感謝した、というあの有名な話と同じ
心境で、非常に心を打たれる話です。
やたらに利巧ぶった生き方より、こうした純朴な生き方のほうに人は心をひかれます。

黒住宗忠の純朴さ
この純朴な心をもつ見本のような黒住さんの話を一つ二つ書いてみようと思います。
宗忠がかつて観想家某に、試みにその人相を占わしめたことがあります。観相家はみおわって黙
然たることやや久しかったので、宗忠は、何故に黙せられるのかとたずねました。観相家は、やむ
なく、次のように答えたのです。「実は全く申し難いことですが、ご免蒙って正直に申せば、貴殿
の相は阿呆の相でござる」と。これを聞いた宗忠、失望するかと思いの外、すこぶる喜悦の色を面
に浮べて、「さては、他年阿呆となる修行をしておったが、願いかなって、いよいよ阿呆となるこ
とが出来たか、いや有難いことでござる」といい、その喜び方は非常のものでありました。何故な
ら宗忠は、常に人に向かって、阿呆になれよ、この世のことに遅鈍になれよと、すすめて来たから
だったのです。
この話、私は全く同感なのです。親鸞のいう罪悪深重の凡夫、という生き方とよくにていますが、
宗忠神人のは、おおらかで、明るい純真な感じがして、そのまま気持のよいひびきを受けます。
親鸞のほうは、なんといっても宗教学に秀でた人で、宗教の道を極めに極めて苦悩の末、法然の
サもと
下に至り、ここではじめて心を開くわけで、宗教知識がいっぱいつまっていて、そのつまっている
ものを打ち捨て、自己自身を罪悪深重と切り捨てて、南無阿弥陀仏一筋になるわけなので、知識的
67純朴の心
に突きつめ、突きつめた末に、その境地に来ているので、どこかに、苦悩の影が残っているよう
な、いわゆる、現代のインテリの苦悩のようなものを、生活の底に感じるのです。ところが、黒住
さんのほうは、宗教学問で悟った、というのではなく、神のほうから身心を、天照大御神の分身と
して、開発されきった、という天与の悟りなので、光明の光、そのものを感じさせるのです。
といって、宗忠のほうが親鸞より上だとかなんとかいう問題ではなく、悟りの道も、その人その
人によって、種々とあるのだなあ、と感じるのです。ではまた宗忠神人の話です。
68
宗忠の教えが、岡山藩を始め、近郷近在に盛んになるにつれて、附近ののらくら、修験者、法
者、祈祷者等の連中がすっかり仕事を奪われた形になったので、修験道の一群の元締たる、児島の
ごりゆう
御流某なるものが代表として、宗忠の許へ怒鳴り込んで来たことがあります。実に恐しい権幕で、
殺気に充ちた彼が、宗忠に向かって声高に談じこんできたのです。宗忠始終黙々と聞いているばか
ヘへ
り で、あえて一言の応答も試みようとしません。そこで相手はくみし易しとばかり、いよいよかさ
にかかって、聞くにたえざる悪口雑言をなし、揚句の果ては、
「今後道を説くとか、まじないをするとか、さようなことは一切止めてしまえ!」といい放った
まま、傲然として、ザマを見うといわぬばかりに座を蹴って帰って行きました。その男の去るのを
待ちかねていた夫人が、無念の涙と共に、
あげつら
「あまりといえば悪口雑言です。いかに他人と論うことが悪いとはいえ、あなたも、人さまに
対して道を説く方として、一言半句のご返答もなさらぬとは心外でございます」と残念の意を漏し
た時、宗忠は黙ったまま障子をあけ、庭前の道を意気揚々と帰ってゆく御流某の姿を指して曰く、
おれ
「奥や、あれを見い。あの人が、あんなにも喜んで帰らっしゃる姿をーあれが、もし儂と口論
になり、儂が勝って見い、あの人がどれ程残念がらっしゃることか、おそらく今夜帰ってから、夕
飯の味もなかろうではないか。それも、あの人ぎりのことならいいが、あの人のこ分心ーつまり
神さまのみ心がおふさぎになるとしたら、まことに勿体ないことではあるまいか。マア見やされ、
あの通り、あの人のこ分心は勇んでお帰りだ、ありがたいことではないか、奥や!」
彼は、そういって、静かに柏手を打ったということでした。
この話は前にも白光に書いたかも知れませんが、何度書いても、なんという素晴しい心の人だろ
うと、改めて宗忠神人を尊敬せずにはおられません。ここまで人間の本心をみつめることのできる
69純朴の心
人はめったにはないでしょう。しかし、人はみなこの境地までたどりつきたいものです。
こうした純真な信仰、純朴な行為というものは、やはり神のみ心そのものと一つになった行為
で、人類の指針となる道の現われです。自己を偉くみせよう、利巧にみせようなどという想いは、
宗忠神人や良寛さんや妙好人の前にくると、汚れた泡のようなもので、単なる消えてゆく姿にすぎ
ないと、今更のように思われます。
今を光明化する生き方
人間が立派であるということは、自我の想いに左右されるかされぬか、というところできまるも
のであり、常に自我を脱却している状態で日常生活をつづけてゆくことが必要なので、それは日常
の祈りの生活によって、自我がいつの間にか小我の自我でなくなり、神との一体感による想念行為
になってゆくのであります。
実際は、自衛隊の問題のように、是か非かを判断するのは、実にむずかしいことなので、物事に
はいずれも一長一短があり、その人その立場にあって見方が異なるのです。それを簡単に右が是で
左が非である、というように安易に判断してしまってはいけないのです。
70
現在の現象面において、その在り方がいけないようにみえましても、過去からの原因をさぐれ
ば、そのいけないような状態を通らねば、完結に至らない、というような出来事がたくさんありま
すので、その場その時だけの善悪是非で物事を判断してはなりません。
私共は、この現象に現われてくるすべての事件事柄を、みな過去世から今日に至るまでの原因が
結果として現われてきたので、現われれば、消え去ってしまうものとして、その現象に想いを把わ
れるより、その状態から離れて、今の立場を生かして、今を光明化した精神で、自己も欲し、人も
欲する、例えていえば、世界人類の平和を祈る、というような、前進的な光明を願った生き方をし
てゆくことを実践しているのであります。
人の根本的な立場、生命の本質というものをなおざりにして、ただ現象面の善悪是非に把われて
生活を左右されていたのでは、人類は今日以上の進化を遂げることはできません。
その根本精神は、なんと申しても、神仏の愛を信じて、神仏のみ心に叶う生き方をしてゆくこと
で、そこから現象面のすぺての事柄に対処する智慧が生まれでてくるのです。ですから、良寛さん
や黒住さんや、妙好人たちの一寸見には、愚かとも見える純朴な想いや行為の真似事でもする気に
なって、日常生活を送ってみるとよいのです。
71純朴の心
何事においても、現象面の損得勘定を計算して行為したり、感情の満足のみを追った生活をして
いったのでは、人類の進化どころか、人類の進化を阻止する行為を自分がしていることになります。
人類の完全平和達成ということも、人類の今日以上の進化ということも、肉体人間だけの智慧能
力では、どうにもならないところに追いつめられているのです。このどうにもならない人類の運命
を開いてくれる力はどこからくるのでしょう。それは神々の力にょる他はないのです。
神から生まれ出た人類が、再び神のみ心に還りついて、はじめて地球人類に平和な世界が実現す
るのであります。神のみ心なくしてなんで人類は生きのびることができましょうか、人間の体が、
脳や心臓の働きをはじめ、あらゆる臓器や諸機関によって生かされていることは誰でもわかること
で、自分の心臓は自分で動かしていると思う程の馬鹿はいないでしょう。
それと同じことが、人間の外部の生活においてもなされているので、神のみ心なくしては人間は
一瞬の生命を保つこともできないのです。その事実をはっきり認め、生かされている生命という認
識に立って、神仏への感謝を常に持ちつづけ、守護の神霊の加護を念じて、日常生活をしてゆく、
純朴な精神になることが、これからの人類にとっても、最も大事なことなのです。すべてはその後
において自ずと行われてゆくのであります。
72
不動へ
、L U

西郷隆盛の豪胆さ
私は西郷さんが好きなので、すぐ西郷さんのことを例にとりますが、今回もまた西郷さんのこと
むいあ
を例にして、無畏怖、不動心の話をしてゆきたいと思います。
西郷さんの豪胆というか不動心というか、全く驚く程のものです。話は三つありましていずれも
以前に書いたことのあるものですが、こういう話は何度聞いてもよいと思いますのでまた書いてみ
ます。
ひかわしさつ
一つは氷川清話にある話で、西郷さんを刺殺しようとして、勝海舟に西郷さんへの紹介状を書い
て貰った、後に茨城県知事になった人見寧という人がありました。海舟は人見が西郷さんを刺しに
73不動心
ゆくということを気づいておりましたので、『この男は足下を刺すはずだが、ともかく会ってやっ
てくれ』と紹介状に認めておきました。人見は西郷さんに会う前に桐野利秋に会いました。桐野
は、人見の挙動が尋常でないので、ひそかに海舟の紹介状を開いてみて、人見が刺客であることを
知り、驚いて、驚いてといっても、桐野利秋も豪傑ですから、普通の人のように驚いたわけでもあ
りますまいが、すぐさま委細を西郷さんに通知してやりました。ところが西郷さんはいっこう平気
で、勝からの紹介なら会ってみよう、といって人見に会うことになりました。
普通人なら、この時点でそういう人に会うはずがありませんし、会うにしても、ボデーガードを
身辺に置いて会うようにしたでしょうが、西郷さんはそんなことは致しません。人見が西郷さんの
屋敷を尋ねて、『人見寧がお話を承りにまいりました』と隙あらば刺そうと構えておりました。西
郷さんはちょうど、玄関で横に臥せっていましたが、その声を聞くとゆうゆうと起きなおって、
『私が吉之助だが、私は天下の大勢などというようなむつかしいことは知らない。まあ聞きなさ
おおすみ
い。先日私は大隅のほうへ旅行した。その途中で、腹がへってたまらぬから十六文で芋を買って食
ったが、たかが十六文で腹を養うような吉之助に、天下の形勢などというものがわかるはずがない
ではないか』といって大口をあけて笑ったのです。
74
血気の人見も、このだしぬけの話に気をのまれて、殺すどころの段ではなく、挨拶もろくろくせ
ずに帰って、『西郷さんは、実に豪傑だ』と感服して話したということです。豪胆そのものの在り
方です。
もう一つは、広野の真中で、大雷雨に会って、西郷さんの真近に落雷したので、他の者はみなあ
まりの恐ろしさに、地にひれ伏したのですが、西郷さんは、立ったままの姿を少しも崩さず、微動
だにもしなかった、という話。
三つ目は、江戸城引渡しの当時、その当時というのは、非常に物騒な時節で、どこにもここにも
殺気がみなぎっていまして、城を受け取りにくる官軍の委員たちも、警戒厳重な中で、少しくのぼ
ろうはい
せ気味で、官軍の全権委員の一人が、何かに狼狽して、片一方の足の草履をはきながら、玄関をか
けずり昇ったという位の奇談さえ残っているのです。
この無気味な、殺気みなぎる中で、西郷さんは、悠々として少しも平生と変らず、城受け渡しに
関するいろいろの式が始まると、居睡りをはじめ、式がすんで、全権委員らがみな引き取ってしま
った頃、大久保一翁に起こされて、寝ぼけ顔を撫でなで帰っていった、という話です。
この三つの西郷さんの逸話は、西郷さんの不動心の、豪胆の面をよく現わしていまして、感嘆せ
75不動心
ずにはおられません。西郷さんには敬服驚嘆すべきいろいろの面がありますが、豪胆ということ
も、その魅力の一つです。
76
不動心と豪胆さ
ところで、この豪胆さというものが、いったい心のどこから出てくるのか、ということです。想
念がすっかり本心と一つになっていて、心が微動だにもしない、いわゆる本格的不動心というもの
と過去世の様々な修業によってそうなってきた豪胆さとがあります。
西郷さんの場合など、天命を信じ、天と一つの自己の生命と観じての生活ですから、不動心の境
地になっていたと思われます。それに過去世からの修業による豪胆さも備わっていたので、その人
けいてんあい
格の魅力は絶大なものとなったわけです。西郷さんにはその他長所がたくさんあります。「敬天愛
じん
人」という言葉、「子孫のために美田を買わず」という言葉は、西郷さんの心を端的によく現わし
ています。
人間の目的は、大調和の生活を自分たちのものにしてゆく、完全調和をこの地球界に現わす、と
いうことにあるのですが、この大調和を実現させるためにも、ただの柔和さというだけでは、世界
の不調和の波に押しつぶされてしまいます。
真実の平和世界をこの地球界につくり出すためには、柔和な心だけでは足りないのです。いかな
る困難の事態に処しても、その調和した心のひびきを、ひびかせつづけなければいけないのです。
それには柔和な心の底に、大いなる勇気がいります。西郷さん程の豪胆さにはなかなかなれるもの
ではありませんが、事態の変化にいちいち顔色を変えているようでは仕方がありません。
ところが、宗教の道に入ろうとする人、神仏のお力にすがって生きようとする人たちは、善良な
人が多いのですが、その反面、豪胆な人が少ないように見受けます。しかし最初は気の弱そうに見
られた人が、信仰が深くなると、どっしりと、悠揚迫らざる人物になってくる場合が随分とあるの
です。
過去世において積み重ねた経験や、修業の結果、今生では豪胆になっている人がいますが、豪胆
だから不動心だというわけにはゆきません。宗教的にいう不動心とは、本心と想念行為とがぴたり
一つになっていて、本心を離れて、動き廻る想念波動というものがないのです。豪胆だといって
ざんこく
も、人に対する仕打ちが愛に欠けている人もあり、残酷な人もおります。
西郷さんの場合は、豪胆であって謙虚であり、深い愛の持ち主でもあったのですから申し分あり
77不動心
ません。私たち宗教の道を進む者は、まず第一に愛の想念行為が必要であり、何もの何ごとにも臆
せぬ不動心が必要です。実際にはそういう心を開発するために、道を求め神を求めているのであり
ます。
愛が深くて人のよい人でも、臆病な場合が随分あります。愛の深さは持って生まれても、豪胆の
こうしよう
ほうの蓄積がなかったのでしょう。想念波動が主体の業生の世界では、なかなかすべてが整ってい
るというわけにはゆかず、長所と欠点というものを誰しも持ち合わせていますから、西郷さんのよ
うな人は稀なる大人物で、その真似をそのままできるわけではありません。
因縁をこえる
ですからここでは、一度に西郷さんになれなくとも、次第次第にそうした境地になってゆけるよ
うな方法を説いてゆきたいと思っているのです。
過去世からの因縁としての豪胆ということは、とても今生だけではなり得ぬことと思われます。
因縁性として過去世から修業で得た、豪胆とか度胸とかいうことではなく、人間は神の子である、
という本質から出てくる、不動心であり、勇気であり、胆力である、という本質を顕現すること
78
を、私は皆さんにすすめてゆきたいと思うのです。
因縁性の短気だ、臆病だというのを、因縁性の波動の中で直そうとしても、それは追っかけっこ
をしているようなもので、なかなか直るものではありません。因縁性の欠点は、因縁性を超えた世
界から直さなければ駄目なのです。
人間の本質は神の分生命でありまして、自由自在な神のみ心の中にあります。従ってその分生命
である人間の本質も、自由自在であります。ですから人間は神の分生命の本質の中で生活している
限りは、常に自由自在であって、悩みや苦しみのでてくる機会はないのであります。
人間が多くの欠点を持ち、不自由な生活の中に閉じこめられているのは、人間が自らの本質の神
のみ心の中から、因縁因果の波動の世界に把われていってしまったからです。そこが問題なので、
釈尊が出家したのも、この問題の解明のためであり、遂いに解明し得て、仏陀となられたのであり
ます。
私は人間の在り方を二つに分けて考えております。それは本心の世界と、業生の世界、の二つで
す。本心の世界は神のみ心の中にありまして、自由自在であり、光明燦然たる世界です。業生の世
界とは皆さんご存知のこの世界です。
79不動心
りんね
業生の世界は、生死の輪廻を繰りかえし、善悪混交の世界で、不完全、不自由な世界です。何度
みずか
びも戦争を起こし、自らの手で、自らの愛する地球を滅亡に追いやろうとしているのです。
そういう業生の世界で、右往左往していても、人間は向上しませんし、地球も救われは致しませ
ん。どうしても一度、皆さんは、業生の世界を捨て去るつもりで、自己の全想念行為を、神様にお
返ししてしまうことが大事なのです。
それを一度やらぬ限りは、地球世界を救うことはできません。その方法が祈りなのです。臆病も
短気も、業生の因縁因果も、すべて神様の大光明の中で消していただいて、改めて、新しい世界を
生み出してゆく、ということになるのです。
$0
天命を生きることに意義がある
臆病とか、短気とか、虚栄心とかいう想いは、人間の本心ではありません。本心から出てくる生
命波動のエネルギーを元にして、人間の肉体頭脳から生まれてきているものです。私はこれを本心
と分けて、想念波動、或いは想念意識の波動と呼んでいまして、業生としているわけです。
本心は神のみ心そのものでありまして、永遠の生命のひびきそのものです。そのひびきは常に調
和したもので、そこには不調和なひびきはありません。それは個人の本心でもあり、大宇宙の本心
としてひろがってゆくものでもあります。
大西郷が常に「天」という言葉をつかいますが、この天が本心であり、神でもあるのです。です
から西郷さんはいつでも神と一つになって働いているのであり、神のみ心、本心のひびきのままに
行動しているので、その行動がそのまま不動心となっているのであります。
人間は過去世の経験や修業によって、今生の精神状態も、肉体状態も、種々様々であります。西
郷さんのような偉人もあれば、前科何犯という人もあります。上は神そのもののような人と、下は
動物以下の人と区分けすれば、どのくらいの区分けができるか計れない程いろいろです。
神そのものの人というのは、どんな人かといいますと、愛と調和の生き方を実践している人で
す。自身をかばう欲望の最も少なく、常に人々や社会国家、人類というように、他への愛行をつづ
けていて、自身の生活も周囲と調和している、ということです。
しかし、社会や人類のために身を捨てて働いていますと、どうしても自己の属する家庭の生活が
おろそかになりがちで、聖者と称される人の家庭生活はあまり調和していないことが多いのです。
社会や人類から称えられながら、妻や子には白眼視されている聖なる人は、イエス、ソクラテスと
81不動心
あげれば忽ち十指に余ってしまいます。
大の虫を生かすために、小の虫を殺さぬまでも見過してゆかねばならぬ、という状態があるわけ
です。私なども大の虫も小の虫も共に生かしてゆく生活をしてゆかねば、真の聖者とはいえないな
どと、昔いったことがありますが、どうしてどうして、そんなにたやすく、大の虫も小の虫も同時
に生かせるものではありません。
そこから生まれたのが、消えてゆく姿で世界平和の祈り、という生き方なのであります。古来か
らの聖者方は、今でこそ有名になっていて、人々に賞め称えられていますが、その実在時代には、
身心の苦労は大変なものであったでしょう。一生影になって働いて、終生人にも知られず、歴史的
にもその名の残らぬ、聖なる人も随分とあるのですが、要は肉体の人間に賞め称えられることでは
なく、自己の天命を完うしてゆくことに意義があるのです。
82
祈りと天命
地球人類全員の天命は、地球世界を、大宇宙の運行に合った調和したものにしてゆく、というこ
とであります。これは何人といえど天命として与えられているのです。今生でできなければ来生
で、というように根本の天命はつづいてゆくわけです。その他に第二の天命として、職業としてな
迷れてい允り、趣味としてなされていたりする仕事があるわけです。
世界平和の祈りというのは、人類全般の天命を個人個人の天命の道として実践する方法です。知
らないうちに、聖者の道を踏み行ってゆくというのが、この祈りの行なのです。本題の不動心にな
る方法も、この祈りのたゆみない実践の中から、自ずと自己のものとしてゆくことができます。
カルマ
人間が業想念に振り廻わされているのは、本心を忘れてしまっているからです。本心はあなた方
一人一人のうちにあるのであり、神そのものの心なのですから、常に自己の想念意識を、本心と一
つにしていることが必要なのです。
ところが、普通の生き方では、どうしても肉体生活主体の生き方ですから、肉体生活にまつわ
る、損得とか、幸不幸とか、病気や貧乏や、対人関係の感情問題等に、自己の想念がひっかかっ
て、本心を見失ってしまい、神のみ心を遠く離れた、自分勝手な生き方の中で苦しみ悩むのであり
ます。人間は何故、肉体の自分を見ると同時に、肉体をこの世に生み出してくれた、大いなる力、
神の存在を見ようとはしないのでしょうか。生命が自分にある限り、神はそこに実在し、生きいき
としているのであります。生命は神からきているのです。そして終始、あなたをあなたたらしめて
83不動心
この世でも、あの世でも生かしつづけていてくれるのです。生命はそのまま神なのです。
ですから、生命そのままを、素直に生きていれば、神は自由自在にその人となって、働きつづけ
るのです。それを肉体頭脳を駈けめぐる業想念が、小智才覚で、その生命の働きを何やかと阻害し
しやくそん
てしまうのです。釈尊が空になることをすすめたのは当然なことです。空の境地になって、業想念
から離れた時、人間の生命は生きいきとその力を発揮するのです。神と人間との間を阻げるのは、
肉体経験の中で生まれてきた、業想念でありまして、業想念がなければ、神と人とは常に明らかな
交流を成し遂げ、地球の平和は直ちに実現するのであります。
そこで私は、すべてのこの世の出来事も、自己にまつわる喜怒哀楽も、悩みも苦しみも、みな過
去世で積んできた、神を離れていた業想念所業の現れであって、現われれば消えてしまうのであ
る、だから、消えてゆこうとして現われてきたものを、なんだかんだと相手にせずに、今のあなた
は、今日以降未来の幸福を、今の想いの中で、今の行動の中で、積みあげてゆきなさい。それに
は、世界人類の平和を願う、人類愛の行為である、世界平和の祈りをしつづけ、現われてくる不完
全なこと、嫌な出来事は、みな過去世の因縁の消えてゆく姿として、守護の神霊への感謝の祈りの
中で消して貰ってしまいなさい、と説きつづけているのであります。
神とともに生きる
要するに、この世もあの世も、大神様はじめ、守護の神霊方が、その人その人の本心と共に完全
大調和の世界をつくりあげる一人一人の働きを実践させて下さるのだから、神のみ心を離れた、自
分勝手な、ひとりよがりな想念意識で、自分の運命をつくりあげようとしては駄目だ、神を離れた
まさ
想念波動でつくった運命が、神のみ心でつくられた運命に勝るわけがないのだ、ということなので
す。
天を敬い、天命を信じ、人を愛して生きてゆくことが大事なのです。神は常に人とともにあっ
て、神人一如で、この地球世界に神のみ心の大調和世界をつくりあげようとなさっているのです。
あなたもあなたもその神の子の一人一人なのであります。
人間は大方の人が、神様を遠くに離してみています。ところが、神さまは遠くにいらっしゃるの
ではなくて、全く人間と一つのところにいらっしゃるのです。一つには生命として、一つには本心
として、私たちと全く一つなのであります。そしてまた一つには、守護の神霊として、肉体、幽体
の背後に守りつづけていらっしゃるのです。
85不動心
ですから神様は天にもいらっしゃるし、生きとし生ける万物の中にもいらっしゃるけれど、人と
一つの生命としては、はっきりその存在をしめしていらっしゃるのです。それなのに人間は一体ど
こに神様を求めようとしているのですか。生命が神様であり、本心が神様なのだ、と思いこむこと
が大事なのですが、こう想おうとする、想念意識が、なかなかそうは思わないで、常に神の完全性
から離れた、人間だから仕方がない、人間は神様とは違うから、式になって、弱気になってしまう
のです。
そこで私は、想念意識が自己の生命が神だとか、本心が神だとか、頭では想うが、意識全体とし
てなかなか思いきれないだろうと察して、そこに守護の神霊の存在を強調し、祈りによっての神我
一体観を実践することをすすめているわけなのであります。
86
神の子顕現の時代へ
私などははっきり自分を二つに分けていまして、神界に神としている我、いわゆる五井先生と、
肉体界で皆さんの相手をしている五井昌久という、三十才位までのこの世の体験で出来ている想念
意識の場としてある自分。この二つの我を巧みに融合させ分離させて働いているのであります。
一人の神、霊、幽にまたがって輝いている五井先生は権威と力をもって、一人の肉体の場にいる
五井昌久は、明るく柔和で謙虚な思いやり深い人間として、皆さんに接しているわけです。そして
その両面共に自分であることがよくわかっているのです。誰でもみんなそうなのですけれど、皆さ
んはその事実を知らないのです。
人間は確かに神であり、神の子でもあります。そして同時に、動物性をもつ、弱肉強食的な生き
方をする自分勝手な生き物でもあります。果してどちらの部分が強いかによって、その人の人格が
わかるわけです。この地球界は進化をつづけています。動物性から神性への人間の進化は、たゆみな
くつづけられ、今日では、神の智慧の流れによって、文明文化は非常な隆盛をみているのであります。
ものをつくり出す智慧のほうは非常な発達をしたのですが、本心を顕現するという、神のみ心の
面では、まだまだ、神の子としてはるかに遠いところに人間はいるのであります。そこで今日から
は、神のみ心をどれ程多く現わし得るか、という、神の子顕現の時代にいよいようつってきたので
ありまして、嫌でも応でも、神の道を歩まねばならないことになるのであります。
その神の道を、私は消えてゆく姿で、世界平和の祈りという方法で進んでゆこうとしているので
あります。
87不動心
88
宗教の本道
– 妙好人の生き方に学ぶー
宗教マニアは困リもの
宗教の道を求めることは結構なことですが、宗教マニアという形の人がいます。それはどういう
人かといいますと、奇術やスリラー映画でも観るようなつもりで、宗教の奇蹟だけを求めて宗教者
を尋ね歩いている人です。
宗教には奇蹟はつきものですし、宗教の世界には常識を超えた、様々な不思議な事態が起りま
す。それは肉体人間の住んでいる五感の世界を超えた世界からの働きと、一つになろうとするとこ
ろに宗教の歩みがあるのですから、五感で計れない事態が起ってくるのは当然なのです。
この大宇宙には、眼耳鼻舌身意つまり肉体身で感じる、五感を超えた六感以上の無限次元の波動
の世界があるのでして、宗教の道というのは、この無限次元の根源の世界と直結しようとして、身
心を打ちつけて求めてゆく道なのです。それを在家宗教では、神仏におすがりして救いを求めると
いう、簡単な形で宗教の道が開かれているのであります。
そこで、病気や貧乏や不幸災難を逃れようとして、神仏にすがりつく宗教というものが盛んにな
ってきたのです。日本の観音信仰などはその代表的なものです。肉体生活の不自由さから脱却しよ
うとするのは、人間の本然の姿で、病気や貧乏や不調和というものは、肉体生活を苦しく不自由に
のが
するものなのですから、その苦しさ不自由さから脱れようとするのは当然で、それを神仏の救済力
にゆだねるのも、至極あたりまえのことです。こうした苦しさ不自由さを脱れようとして入った宗
教の道から、次第にその求め方が深くなり、人間の本体本心を開発しようとする気持が湧いてまい
りまして、真実の宗教信仰の道を歩みつづけてゆくことになる人が多いのであります。
はじめから、本心の開発一本で宗教を求めている人は勿論立派な魂で、結構なことですが、現世
利益から入っていっても、次第に神我一体の道に歩みを進めてゆくことになれば、現今の人にとっ
てはそれでも結構だと思うのです。ところが、宗教マニアともいうべき、宗教の奇蹟だけを求め歩
いている人は、その道のために、身心を惜しまぬという不惜身命の覚悟ができていぬと、これは恐
89宗教の本道
るべき未来が待ち受けているのであります。
90
宗教の本道とは
宗教の道というものは、本来自我(小我)を捨てて、神仏のみ心と一つになる道でありまして、
自我をもったままでは、到底神仏と一つの境地になることはできません。そこで古来からの聖者は
無為にして為すことを教えたり、空になる方法をしめしたりしたのであります。私は無為になり空
になる道程として、消えてゆく姿という教えをしているわけで、人間の自我、業想念を過去世から
の因縁の消えてゆく姿として、神のみ心、本心の中に瞬々刻々入れ切って、遂いには無為の境地、
空の境地に入らしめる方法を教えているわけなのです。
無為になることも、空になることも、消えてゆく姿という方法も知らず、頭で知っていても行わ
ずして、ただいたずらに、奇蹟や霊能を追い求めていますと、いつまでたっても本心の開発ができ
ずに、その自我想念に幽界の生物が働きかけて、本心開発、神我一体の道とはなんの関係もない、
やくろう
見世物的霊能を身につけさせ、その人の自我想念を満足させ、次第に幽界の生物の自家薬籠のもの
としてゆくのであります。これは恐ろしいことでありまして、末には頭が変になったり、人間とし
いつだつ
ての理性を逸脱した行為をつづけたりして、自らの身を破滅させてしまうのです。どうしてそのよ
うになるかと申しますと、神の分生命である自己というものを、その虚栄心や、自我のために、他
の生物にゆだねてしまったからで、自己の肉体幽体を幽界の生物に占領された形になってしまうか
らなのです。
それが神霊にゆだねる場合なら、必ず無為になる心がけ、空になる気持になることが必要なので
すが、それは非常にむずかしいことなので、何事何物も、たとえ眼前において、どのような奇蹟が
現われようとも、すべて消えてゆく姿として、一心に守護の神霊の加護を願うことを実行しなけれ
ばいけないのです。守護の神霊は一人一人の人間と密接につながって、その人々を守っているので
すから、何を置いても、守護の神霊のほうに想いを向けて事に処することが大切なのです。そうし
ていれば魔性の働きかけの奇蹟や霊能力ならば、消え去ってしまうのです。禅宗の坐禅において
は、例え仏菩薩が霊眼に映じようとも、すべて魔性のものとして、そうした霊現象に想いを把われ
くうかん
させず、ただひたすら空観にひたるように指導しているのです。私はそこを消えてゆく姿として、
世界平和の祈りの中に全想念を投入させるように教えているわけです。
それでも更に消えぬ霊現象なら、その現象はそのまま打ち捨てておいて、ひたすら世界平和の祈
91宗教の本道
りを祈りつづけることです。要は、自分の想いの中の虚栄心や、自我欲望を最大限度取り除いてお
くことが必要なのです。虚栄心や自我欲望にかえて、世界平和の祈りのような、広い人類愛の心の
中にひたりきってゆくことによって、そこに神本来の大光明が輝き出でて、いかなる魔性も消え去
ってしまうのです。そして、その後から生まれ出でた霊能力なら、これは本物で、自己の進化にも
人類救済のためにも役立つ力となってくるのであります。
病気や貧乏などという日常生活の切羽つまった時の自我で、神仏を求めるのは、これはやはり本
心開発して、自由自在な自己になるための一段階として赦さるべき在り方なので、こうした現世利
益のための欲望は、真実の宗教に入る一過程として容認されます。しかし虚栄心を満足させるた
め、自己を大きく価値づけたいために奇蹟や霊能力を追い求めるのは非常に危険だと私はいうので
あります。奇蹟や霊能力は、純真に無心に神仏を求めて、祈りつづけている時に自ずと授かるもの
でありまして、それこそ、神霊のほうから賜わった霊能力なのであり、奇蹟なのであります。そこ
のところをよくよく気をつけて、宗教の道を進んでゆく必要があるのです。
92
宗教は感謝の世界
宗教の道において終始必要なのは、感謝の心なのです。神への感謝、空気や水やその他自然現象
への感謝、動植物一切への感謝、すべての物事事柄への感謝、人々への感謝、自己の精神や肉体へ
の感謝等々あらゆるものに対して、日々瞬々感謝の心を失わぬ、ということこそ、神との一体化を
為し得る最大の行であり、人類進化の根源の心なのです。感謝の心こそ、光明であり、愛であるの
です。
このような感謝の心こそ宗教者としての尊い心なのでありまして、人類すべてが根本の心をこの
おの
感謝行に置いたならば、世界の平和は自ずから成り立つのであります。宗教の道を志す者は、率先
してこの感謝行に生きるべきで、その他のことはすべて枝葉末節のことともいえるのです。
平凡といえば真に平凡であり、この道を真実に実行できればまた非凡ともいえるのです。ここに
おいて、私はいつも妙好人のことを想い出さずにはいられないのであります。妙好人たちは、いず
れも平凡にして非凡な生き方をした人々です。一口に感謝などというと、そんなこと今更聞かなく
ともわかっている、という人も多いと思います。わかっているならやればよいのですが、あまりに
わかりやすい平凡なことなので、つい実行できないでしまうのです。平凡な感謝という行ないが、
神との一体化を実現できるほど深いものであろうか、と人々は思うのです。しかし、宗教的な深い
93宗教の本道
学問も、様々の行も、すべて常にこの感謝の心が自ずと生まれ出でる境地になるためのものであ
り、そこから神のみ心の愛のひびきが宇宙に温れ出でるということになるのであります。
それではここで妙好人伝のうちから妙好人のことを二三ぬき書きしてみましょう。
94
四人の妙好人
e 豊後の妙喜
豊後国(大分県) に妙喜という尼があった。若い時某家に嫁し、舅姑に孝行を尽し、国主から褒
賞を頂戴したほどであったが、不幸にも夫及び一子に死別してより、世の無常を観じ、以来、弥陀
本願の信者となって、終日称名念仏を喜ぶ身となった。或る人が彼女の信仰心を試みようと、或る
時彼女に水をかけた。しかし彼女は少しも立腹しないので、その人は何故怒らないのかと問うた。
彼女は、
「天より暴雨が降ったと思うと、なんで怒ることなどありましょう」
と答えた。また或る人が彼女を鞭打つと、
「家の上から瓦が落ちたと思えば怒られません」
というのであった。また或る時本堂の暗闇で仏を拝んでいると、小僧は知らずに妙喜を踏倒した
が、彼女はそれでも少しも立腹せず、
「仏恩、仏恩」
というので、人が不思議に思い、そのわけを聞くと、
「私が今にも死ぬ所であったのに、これを免れたのは仏恩であります」
と彼女は静かに答えるのであった。
また或る時、飯をたくとき誤って火傷をし、非常に痛むように見えた。その時また、仏恩、仏恩
というので人々は笑って、
「苦痛を忍ぶのも仏恩であるのか」
と尋ねると、妙喜は笑っていった。
「罪障深き身には、この火傷の苦しさにも増して、幾千万倍か知れぬ地獄の苦しみを受けねばな
のが
らぬを、仏力の不思議で、この地獄の苦痛を早や免れました。今の少苦は転重軽受のご利益であり
ましょう」
95宗教の本道
⇔ 安芸の五助
安芸国(広島県) に五助という仰信な人があった。或る時、報恩講を勤めるといって、手次寺の
住僧に何月何日の夜と案内をした。ところがその夜になると、住僧は酒に酔って五助の処へ行くこ
とができなかった。しかし五助は仏壇の前に通夜をして、ご恩徳を有難がるのであった。さて翌朝
になると、住僧は五助の家の案内を思い出し、
「昨夜は申訳けなかった、今夜は必ず参るから」
と使いをやるのであった。けれどまたその晩も泥酔して行くのを忘れてしまい、翌朝酔いがさめ
ると、住僧は後悔し、今夜こそ必ず参るというのであった。五助はなんの不足もいわず、
「有難うございます」
とお礼をいった。その夜、住僧は間違いなく五助の家を訪れ、一昨夜来の詑びをいうと、
「私は幸せもので、三晩も御恩を喜ばせてもらいました」
と五助は答えた。これを聞いて住僧も大層恥じ、その後は大酒をやめたということである。
或る時、彼は鹿の踏んだ稲を苅るといって、一穂ずつ拾いあげてはすすぐので、ついひま取り、
幾ほども苅ることができなかった。しかし彼は、
96
「見捨てては勿体ないと思う中に、御仏様が、私を地獄から引上げて下さるもこのようなもの
だ、と思って、お称名を喜び喜び苅っては拾い上げるのも苦にならず、終日尊いことに逢っており
ます」こういうのである。
或る時、五助が念仏を唱えながらうつむいて道を行くと、不意に道端で侍に行き当った。侍は立
腹して、
「己れ無礼千万な奴、一打ちにしてしまうそ」といった。五助は珠数をかけて侍を拝みながら、
「貴方は無常のお使い様か」
こう問うた。侍はあきれて、
「お前は狂人か?」
「はい、はい」
といって、念仏を唱えるのである。侍もその無我の有様に感じて、そのまま通り過ぎて行ったと
いう。
国美濃のくめ
ヘへ
美濃国(岐阜県) にくめという女がいた。くめは夫に死別してから殊更貧窮を極め、日々の生活
宗教の本道
さえ思うようにゆきかねていた。しかしこのおくめは、性来愚鈍な人間であって、東西南北の方
向、月の日次も知らない女であった。また甚しいことには、百文の銭を数えることもできないとい
うことである。このような愚かな女であったが、その信仰の深いことは他郷にまで聞えていた。そ
れであるから、十里五里の道をも尋ねてくる同行が多かった。或る時、一人の同行が尋ねてきた
が、その貧家の様子や、また世事にうといのを困ったことと思っていたけれど、くめは一向厭う気
色も、恥じる姿もなかった。同行は、
りようかい
「ご老人のご心中領解のほどをお聞かせ下さい」
とくめに問うた。
「私の心は明けても暮れても、地獄へ堕ちるのではないかと思う心が強く、それにのみかかわっ
ていると、阿弥陀如来様は〃その心にはまかすな、我にまかせよ。その心は地獄へゆかばやれ、そ
ほう
の方は我が助けるほどに”と仰せられるので〃はいはい〃とお受け申してご報謝の称名を時々刻々
に喜ばせてもらってます」(注… … この阿弥陀様のお言葉は、「誤ちを悔ゆるはよけれ悔いのみに
生きるいのちは愚かしきもの」と同じです)
こう答えた。そこで同行は更に問うた。98
「只今のこ相続の姿、いかがお喜びなさっておりますか」
「私の浅間しさを見てはご本願の尊さをおもい、ご本願の尊さを仰いでは、我が身の浅間しさを
思い、縄の如くにご慈悲にまといつき、また我が機から法が離れませんので、命が終る時まで、縄
の如くに相続させていただきます」
この二心なき堅固な心に、同行も今更己れの身を振り返って見て恥しく思うのであった。
くめの家は極貧であったから、衣食の乏しいのを同行たちは気の毒に思い、衣類夜具等をそれぞ
れ贈るのであった。しかし、こうした同行の好意も、その一人息子の放蕩のために無になるのであ
った。彼は勝負を好み、日夜大酒におぼれ、母のもとには居つかなかった。
そして勝負に負けた時にやってきては、母の衣類夜具等残らず、はぎ取って行くのである。そん
な時、くめは寒夜に古袷一枚を着たのみで、
「誠に伜の悪知識があるばかりに、寒夜寝ることなく、仏恩師恩を知らせてもらっています。も
しこのようなことがなかったら、暖衣をまとい、ご恩徳をも忘れていることでしょう」
といって仏恩を喜ぶのであった。こうしたことが度重なると、同行もくめを気の毒に思い、衣類
一切を同行のところに置き、日夜着換えに来たら安心だとすすめたが、くめはもらうことも、息子
99宗教の本道
に取られることも一切心にかけなかった。蜘
或る時、息子の所持している勝負事のカルタというものが棚にあったので、くめは古びてもいる
ことだし、不用になったのだと思い焼いてしまった。後になって息子が、
「この棚に俺が、大事な物を上げておいたが知らなかったか」
と問うた。そこでくめは答えた。
「カルタであったら、古くなっているので、不用と思い火にく、、へたが」
「俺が大事にしてる物を火に入れたというからは、お母さんの大事にかけている本尊も大分古び
ているから、これをも焼いてやろう」
立腹しながら、息子は内仏の本尊をはずしてくると、火に入れた。
「さてさて私のために、無量劫来火の中にお入り下され、またこの世でもこのようのご苦労をし
て下さる」
くめはこういって狂気の如く泣きわめいた。さすがの息子も、母の様子に御内仏の本尊を、半焼
にして止めて出て行った。くめは涙ながらに、半焼けの本尊を仏壇に入れるのであった。その後同
行が来て、内仏へ拝礼した時、この半焼けのご本尊を見て不審に思い尋ねた。
「今までは火の中、毒の中のご苦労とは聞いておりましたが、ご恩のほどを身にしみじみと感じ
なかったのです。それを俸の悪知識のおかげで、眼前で火の中へお入り下され、このばばアにお見
せ下されました。それでようよう無始己来の火の中のこ難難のほどお知らせにあずかり、それより
このお姿を拝礼しては、さてもさても私ゆえのお姿と、一入ご恩のほどを喜ばせてもらっておりま
す」
涙ながらに語り終って、念仏を唱えるのであった。
次には私のところの会員でこの人たちに劣らぬ平凡にして非凡な老婆を紹介致します。
四現代の妙好人・向後さん
千葉県横芝町に向後たけという八十余才になるおばあさんがいます。祈りを信ずること堅固なる
人です。
初め、世界平和の祈りをなんでもいいから祈りなさい、と教えられ、ひたむきに祈っていたら、
肺結核が治ってしまったのでした。
市川市中国分の聖ケ丘道場にも二時間ぐらい汽車にゆられ、セッセと通うのでした。そして聖ケ
101宗教の本道
丘道場の統一会にくるたびに胃が痛くなり、吐いたりして大変苦しみましたが、それでも三年間、皿
道場には通いつづけ、平和の祈りをつづけていました。
或る時、聖ケ丘道場で五井先生が、
おもい
「病気として現われていることは、過去世において神様をはなれた想念が消えてゆく姿として現
われたことであって、現われれば必ず消えさるものです」
とおっしゃいました。このお言葉を伺ってハッと悟るものがありました。それ以来、不思議なこ
とに胃の痛みはピタリと治ってしまいました。あとでわかったところによると癌だったというので
す。
こうなると、あとはどんなことがあっても有難い有難い、自分の過去世のものが消えるんだ、こ
れできれいにして下さるんだ、有難い有難い、と自然に心が喜ばれるのでした。
「ああ、おれの心は日本晴れだ、サバサバサバサバしている、ああいい気持だ、いい気持だ、あ
あ有難い有難い… …」
と最近も八日市場の集会で、自分の心境をこう吐露し、心から本当にはればれと感謝しておりま
した。
日曜日になると聖ケ丘に来ずにはいられなくて、くると帰りは駅の階段をスタスタとかけ上って
しまうほど身軽くなるそうです。(編集部記)
肉体知性の及ばぬ境地
この四人の妙好人の生活には、神仏を離れた自我というものがなくなっています。神我一体とい
うようにむずかしくいわなくとも、本心そのままが開いている生活です。知性的な人はともすると、
わら
こういう人たちの生き方を、むしろ無智なる生き方として啖いさろうとします。しかし、この人た
わら
ちを哩おうとする知性人とこれら妙好人とどちらが幸せな境地にあるかというと、何事にも感謝で
きる妙好人のほうがはるかに幸せな境地にありますし、死後の生活においては、その住む階層がそ
うした知性人とはくらぶべくもない高い階層に住むことになります。
人間の素直さや純真を解せない知性などというものは、それは全く誤った知性でありまして、神
本来の知性というのは、真理を素直に理解し得る叡智から生まれ出たものなのです。知性人と称し
知識階級といわれる人が、ともすると難解な学問知識にのみ意識を把われていまして、この世でも
わら
あの世でも必要な、単純な現われ方をしている真理をないがしろにし、駿いとばそうとするのです。
103宗教の本道
宇宙の真理というものは、一言にいえば実に簡単で、すべての生命は、大生命(神) の分れであ
り、すべての物事事柄は、生命エネルギーの働きによって大調和にむかって運行されているのであ
る。ということなのですが、この真理を探ろうとし、人類自体のものにしようとして、科学をはじ
め各種の学問研究がなされてゆき、この真理をつかむ学問研究が実に難解になっていったのであり
ます。
しかし真理そのものは、神の実体の中に入ってしまえば、それは簡単に理解でき、応用できるも
のなのです。ただ真理を把握し、応用し得るようになることが、宗教の世界においても科学の世界
においても大変なことなのですが、無心に真理は神のみ心にある、ということを信じ、神一筋の心
になって、自己の学問に打ち向かってゆく時には、その大変さや難解さは消え去ってしまい、ただ
神への感謝、すべてへの感謝が残されるだけになってくるのであります。
あえ
妙好人の素直な信仰は、余人なら難解なる人生に苦しみ喘ぎつつも昇り得ぬ境地に、その心素直
なるが故に、難なく昇り得たのです。啖うどころか、見上ぐるべき立派な魂の人々であるのです。
104
たゆみなき祈りを
この世の文明文化の進展は、確かに科学の力に負うところ大なのですが、この世における不安混
迷もまた科学の力によってもたらされたともいえるのです。この科学がもたらしたマイナス面を消
滅し、科学を真に人類の光明とするためには、科学者がすべて、神の御愛を信じ、真に人類を愛す
る、深い信仰者である必要があるのです。調和した人格、愛深い人格から生まれ出た科学の道こそ、
必ずや、人類の光明として、神のみ心を喜ばせることになると思います。
私共は今後の科学の道を大調和科学の道と呼びたいと思います。大宇宙はすべて大調和にむかっ
て進化しています。地球人類もまた大調和に向かって進まねばならないのは論をまちません。その
基本となるのはやはり科学者の心が調和したものであり、人類愛に充ちたものであることです。私
共は宗教の道を進むものでありますが、それと同時に十年来、大調和科学の道を遮進致しておりま
す。私共の研究所は宇宙子波動生命物理学研究所といいますが、神の大調和のみ心を根抵にして、
その道をひたすら突き進んでいます。この道は宗教的な観念の道ではなく、数学的な方程式をもつ
純粋な科学の道であります。
ともあれ、これからの人類の進化は、宗教精神が科学の上に生かされてはじめて成し遂げられる
ものであることは事実です。それにしても一人一人の人が妙好人のように素直で純真な感謝行の人
105宗教の本道
であることが望まれるのです。そのためにも、常に消えてゆく姿で世界平和の祈りの日常生活が大
事な行になってくるのであります。どうぞ皆様たゆみなき祈りをおつづけ下さい。
106
犠牲精神について
一粒の麦
私は犠牲という言葉があまり好きではありませんでした。何故かと申しますと、犠牲という言葉
ひあい
の底に、悲哀とか苦痛とかいう、いたましい人間の姿が見えるような気がしていたからです。犠牲
という言葉からは、暗いやりきれない想いを受けるような気がしたのです。
ところが、犠牲になった当人は、自分では犠牲になっている、という暗い気分や、悲惨な想いは
なく、かえって、意気が高揚しているのではないかと思われるのです。
犠牲といえば、先日読んだ三浦綾子さんの塩狩峠(新潮社刊) という本に、一人の犠牲者の話が
でていました。その一節を抜粋してみましょう、一人のクリスチャンの鉄道員の殉職の話なのです。
107犠牲精神について
小説「塩狩峠」よリ
てしお
汽車はいま、塩狩峠の頂上に近づいていた。この塩狩峠は、天塩の国と石狩の国の国境にある大
きな峠である。旭川から北へ約三十キロの地点にあった。深い山林の中をいく曲りして越える、か
なりけわしい峠で、列車はふもとの駅から後端にも機関車をつけ、あえぎあえぎ上るのである…
: ・o
… … 一瞬客車がガクンと止ったような気がした。が、次の瞬間、客車は妙に頼りなくゆっくりと
あとずさりを始めた。体に伝わっていた機関車の振動がぷっつりととだえた。と見る間に、客車は
加速度的に速さを増した。いままで後方に流れていた窓の景色がぐんぐん逆に流れていく。
無気味な沈黙が車内をおおった。だがそれは、ほんの数秒だった。
「ああ汽車が離れた!」
だれかが叫んだ。さっと車内を恐怖が走った。
「たいへんだ! 転覆するぞ!」
その声が、谷底へでも落ちていくような恐怖を誘った。だれもが総立ちになって椅子にしがみつ
108
いた。声もなく恐怖にゆがんだ顔があるだけだった。
信夫は事態の重大さを知ってただちに祈った。どんなことがあっても乗客を救い出さなければな
らない。いかにすべきか。信夫は息づまる思いで祈った。その時、デッキにハソドブレーキのある
ことがひらめいた。信夫はさっと立ち上がった。
「皆さん、落ちついてください。汽車はすぐ止ります」
壇上で鍛えた声が、車内に凛とひびいた。
興奮で目だけが異様に光っている乗客たちは、食いつくように信夫のほうを見た。だがすでに信
夫の姿はドアの外であった。
信夫は飛びつくようにデッキのハソドプレーキに手をかけた。信夫は氷のように冷たいハソドブ
レーキのハソドルを、力いっぱい回し始めた。… … かなり速度がゆるんだ。… …
信夫はホッと大きく息をついた。もう一息だと思った。だが、どうしたことか。ブレーキはそれ
以上はなかなかきかなかった。信夫は焦燥を感じた。… … とにかく車は完全に停止させなければな
らない。いま見た女子供たちのおびえた表情が、信夫の胸をよぎった。このままでは再び暴走する
109犠牲精神について
にちがいない。と思った時、信夫は前方約五十メートルに急勾配のカーブを見た。
信夫はこん身の力をふるってハンドルを回した。だが、なんとしてもそれ以上客車の速度は落ち
なかった。みるみるカーブが信夫に迫ってくる。再び暴走すれば、転覆は必至だ。次々に急勾配
カーブがいくつも待っている。たったいまのこの速度なら、自分の体でこの車両をとめることがで
きると、信夫はとっさに判断した。… …次の瞬間、信夫の手はハソドブレーキから離れ、その体は
線路を目がけて飛びおりていた。
客車は無気味にきしんで、信夫の上に乗り上げ、遂に完全に停止した。
110
人々は、汽車が完全にとまったことが信じられなかった。恐怖から覚めやらぬ面持ちのまま、誰
もが呆然としていた。
「とまったぞ、助かったぞ」
誰かが叫んだ時、不意に泣き出す女がいた。つづいて誰かが信夫のことを告げた時、乗客たちは
一瞬沈黙し、やがてざわめいた。ざわめきはたちまち大きくなった。バラバラと、男たちは高いデ
ッキから深い雪の上に飛びおりた。真白な雪の上に、鮮血が飛び散り、信夫の体は血にまみれてい
た。客たちは信夫の姿にとりすがって泣いた。笑っているような死顔だった。
*
昭和十四年、旭川六条教会月報に、当時の小川牧師はこう書いている。
「いまを去ること満三十五年前、明治四十二年二月二十八日は、私共の忘れることのできぬ日で
あります。即ちキリストの忠僕長野政雄兄が、鉄道職員として、信仰を職務実行の上に現わし、人
命救助のため殉職の死を遂げられた日であります」
*
入信以来新年毎に書きあらため、長野政雄が肌身離さず持っていた遺言状。
一、余は感謝して凡てを神に捧ぐ。
ゆる
一、余が大罪は、イエス君に贋われたり。諸兄姉よ、余の罪の大小となく凡てを免されんこと
を。余は、諸兄姉が余の永眠によりて天父に近づき、感謝の真義を味わわれんことを祈る。
〈中略V
一、苦楽生死、均しく感謝。
111犠牲精神について
立派な信仰
112
小説では信夫、実録では長野政雄というこの人の死は正に見事な犠牲精神によって貫かれていま
す。咄嵯にこんな行為に出られるのは、余程日頃からの信仰心が深かったに違いありません。肉体
身より、魂の生き方を重要視している、真の宗教者の在り方です。
この長野さんは、ふじ子という婚約者に、
「ぼくは毎日を神と人のために生きたいと思う。いつまでも生きたいのは無論だが、いついかな
る瞬間に命を召されても、喜んで死んで行けるようになりたい。神のなさることは、常にその人の
最もよいことなのですよ」
といっているのです。実に立派な信仰であります。信仰はキリスト教でも仏教でも新しい宗教で
もなんでもよろしいのです。只、こうした神への素直さ、いさぎよさがあればよいのであります。
私がいつも申しておりますように、現世利益を足場にしての宗教入りも結構ですし、現世利益を全
く捨て切る、ということも、余程上根の人でないとできにくいことなのですから、現世利益を願う
想いは、それはそれでいいとして、この長野さんのいっているように「神のなせることは、常にそ
の人の最もよいことなのですよL というそういう信仰心に入ってゆかなくては、人間が真に救われ
に入ることはありません。いついかなる瞬間に、命を召されても喜んで死んでゆける、という程に
はなかなか、並大抵の信仰ではなれませんが、自分の願い事がもし裏目にでて、自分が物質的な損
をしたり、精神的な打撃を受けたとしても、神のなさることをよしとみて、裏目に出た状態に処し
てゆけるようになれなくては、宗教の道に入っている人とはいえないのです。
私はこういう場合、すべては過去世から今日に至るまでの、業因縁の消えてゆく姿です、といっ
て、その出来事を含めて、世界平和の祈りの中に祈り入れてしまうことを教えているのであります。
恐怖をもこえた愛の心
自分の運命の中に、心の中に、神のみ心を離れた自己を不幸にする業因縁の波を持ちながら、い
くら神様助けて、と叫んでも、それは救われるものではありません。過去世の業因縁は、神への祈
りの中に入れきってしまわなければ、新しい幸福になる因縁が出てくるわけがありません。
そこで私は、すべてを消えてゆく姿として、消えてゆくにしたがって、善い事柄や善い事態が現
われてくるのですよ、といっているのであり、業因縁を消し去る場所を、神様のみ心の中として、
113犠牲精神について
世界平和の祈りをたゆみなくつづけてゆくのがよいのです。といっているのであります。
これは個人の場合も、国家の場合も、地球人類全体の場合と同じことでありまして、悪い業因
縁、カルマを持ったままでは、到底救われることはないのです。そこのところが重大なところなの
ですが、宗教信仰のない人や、宗教の道の浅い人は、理解できないようなのです。
例えば、自分や自国の損得を考えることが心をしめていながら、他人や他国のためにつくしてい
るような格好をしても、例え、実際に物品を恵んだりしたとしても、それは自分たちの損得勘定が
心にあって、実意が籠っていないのですから、相手の心を動かすことはできません。その物品は相
手や相手国を生かす物品とはならず、かえってこちらの態度に反感さえもつようになります。
本当に相手や相手国を生かそうと考えて行うことならば、相手や相手国の今日までの在り方の不
備なところなども、よく研究して、相手に与えた物品が、生かされて使われるような指導をしてや
るような気持になるのでしょうし、そうしてやってこそ、真実の愛の行ないとなるのであります。
日本なども低開発国への様々な援助をしているわけなのですが、かえって反日感情を持たれてし
まったりしているのは、政府が真剣に愛の気持でそのことに取り組んでいるのではなく、常に自己
の損得勘定を先にした事業家が、その窓口になっていたりするからなのですから、そういう状態の
114
かんし
監視を政府がよくなすべきなのであります。その国への愛情の不足が、そうした心やりを妨げてい
みずか
るのでありましょう。個人にしても国家にしても自らを一段高いところに置いて、仕方がないから
してやるのだ、恵んでやるのだ、というような気持で、他人や他国の援助をしたところで、自らの
徳にもならず、他人や他国の感謝を受けることにもならぬのです。
要は真実に愛の心で事を行っているかどうか、というところにかかっているのです。先の長野政
雄さんの犠牲死などは、自己の身に代えても、乗客を助けたい、という一念で、身を汽車の前に投
じたわけで、そこには自らの損得勘定も、自らの誇りも、そして恐怖さえも越えた愛の心が、一瞬
にして生命を散らしたわけなのですが、その行為は神の使徒そのものということができるのです。
魂の浄まる行為
もう一つ同じような犠牲者の話がありますので、次にしるしましょう。
それは或る年の九月のことです。台風のため青函連絡船の洞爺丸が乗客をたくさん乗せたまま沈
没した事故があった時のことです。
船窓から激しく流れこむ海水の音の中で、船客はみるみる水につかってゆくのです。中に救命具
115犠牲精神について
の紐がきれた一人の女性が、泣声を出して、助けを呼びつづけていたのでした。
「ワタシノヲアゲマス」
その時、そばにいた外人の宣教師がすぐ自分の救命具をはずして女に与え、自分はそのまま海中
に沈んでいってしまったのです。この洞爺丸には二人の外人宣教師が乗っていて、二人とも救命具
を人に与え、自らは死んでいったのであります。
この話なども、一読その愛の心に胸を打たれずにはいられません。こういう犠牲の行為こそ、神
の子そのままの行為なのであります。こういう人たちは過去世からの深い信仰の道を歩んだ人なの
でありましょう。常人の到底なし得るところではありませんが、魂の浄まりを誰しもおぼえること
でありましょう。こういう死を賭した犠牲行為は、特別上根の人のみができるのですが、常日頃日
いけにえ
常茶飯事の中で、喜んで自己を犠牲にして、家人や知人につくしていた、昔の女性の心の美しさ
を、私は今更のように思うのです。
現代のように、男女共に自己主張の強い時代には、自己犠牲の精神が次第に失われていって、自
我のつっぽり合う醜い心の状態を、いたるところで見せられております。こういう時代には、犠牲
精神の尊さ、ということをごとごとに知らせておいたほうがよいのではないかと、近頃私は思うよ
116
うになりました。
いけにえいけにえ
ヨガの教えでは「吸う息は吐く息の犠牲に、吐く息は吸う息の犠牲に」という言葉がありまし
て、犠牲精神ということを、強く教えております。この地球世界において、今日までのように、自
カルマ
我のつっばり合いで、個人も国家も突き進んでゆきますと、遂いには、自らの地球を自らの業で滅
亡させてしまうことになります。それは必至のことです。
イエスの大犠牲
二千年前、イエスキリストが、人類の大犠牲者として、十字架上にその肉身を失いました。この
イエスキリストの大犠牲は人類のカルマを大きく背負ってゆかれたことなのですが、この大犠牲の
内容を知る人はほとんどありません。しかし、イェスキリストの教えは今日では広く伝わっており
まして、その犠牲精神は多くの信徒に伝わって、先に書きましたような犠牲者として、死を賭して
人々を救う行為に出ることのできる人をつくり出したのです。
地球人類が、自我のつっぱり合いをしながら、幾多の戦争を行いながら、今日まで滅亡に至らず
来ておりますのは、イエスをはじめ、多くの聖賢たちの大犠牲のたまものなのであります。この事
117犠牲精神について
実を皆さんは知らねばなりません。そして常にそれら先覚者への感謝の想いをもたねばなりません。181
今日の世界の様相をごらんになってみて、人間が今日のこのままの想念で、このままの行ないに
生きていて、果してこの地球を滅亡させずに保てるでありましょうか。自信をもって地球人類は滅
びない、といえる人は殆んどないのではないかと思います。
この地球の危険な状態を防ぎ、地球世界を平和にするためには、何か大きな力が必要である、と
誰しもが思っているのであります。スーパーマン、救世主を待望する想いは、オカルトブームを巻
き起こそうとしていたり、新しい宗教が、次々と現われたりしていることでもよくわかります。
ところがこの想いの中には、自分たちはあまり苦労しないで救われる、そういうスーパーマソや
救世主を待ち望んでいるようなのです。自分たちは少しも犠牲精神をもたずに、他人の力で、この
地球世界を救って貰おう、と思っている人々が多いのであります。この地球は自分たちの住む地球
である、この国家は自分たちの国家である、ということをあまりはっきり考えもせず、自分たちの
生活の安泰がすべてであるようにさえ思える行動をしながら、地球世界や国家の安定を望んでいる
のであります。それは実に虫のよい話でありまして、過去世から積んできた自分の業は、すべて自
分で払わねばなりません。自分の借金を人に払わせようなどという精神は人間として最低の精神で
す。
日々神さまへの感謝を
しかし、守護の神霊方は、その借金を自分たちが払ってやろうとおっしゃっているのです。但
し、自分たちのほうに一心に想いをむけていなければ、救いたくとも、波長が合わずに救えない、
といっておられるのです。常に守護の神霊への感謝の想いをもっている人は、確かにその人の業を
守護の神霊が肩代りしてくれているのです。
世界平和の祈りと守護の神霊への感謝で貫かれているような生活をしている人は、過去世の悪業
が大きく積まれていても、それはその人の苦しみ少なく、見事に浄められてゆくのであります。人
間が人間に救いを求めても、それは極く限られた救いしか与えられませんが、守護の神霊への感謝
と、世界平和の祈りとの生活をつづけてゆけば、霊肉共なる大いなる救われを得るのであります。
さんがい
三界(迷いの世界) の業生の世界にお互に住みながら、救おう、救われたい、といっていても、
それは僅かな救いであり、救われでしかありませんし、救うほうは大きな精神や物品の損失をとも
ない、救われるほうは、一瞬にして消えてしまう程の救われで、満足する程の救いを受けることは
119犠牲精神Y”ついて
できません。
しかしながら、この地球世界には、三界の業生の渦の中から抜け出せずにいる人々が大半住んで
いるのです。大神様はそのことを知っていらっしゃるので、はじめから各自に守護の神霊をつけた
り、時代時代に大小の菩薩や天使方を派遣されておられるのです。そしてそれらの大犠牲的働きに
よって、地球人類は今日までかろうじて滅亡せずにきているのであります。
ですから、一般大衆は、日々神への感謝の想いを持ちつづけなければいけないのです。
120
自分を大きく生かす
自分たちの生活だけが無事ならよい、という考え方は、今日ではもう通用致しません。個人と国
家と世界人類とは一つにつながっているものなのであります。個人の想念行為が誤っておれば、そ
れがすぐ、国家や人類全体に影響してゆくのであり、世界の情勢は忽ち国家の運命に伝わり、国家
の運命は、個人の生活に影響を及ぼしているのであります。
精神波動的にも、物質波動的にも、個人も全体と全く一つにつながっているものなのです。この
さんがい
地球世界は、もう三界の業生の波の中での生活のピリオドを打つ時になっております。三界を超え
た神の世界とのつながりによってのみ、この地球の存続が可能なのであり、そのために今日迄多く
の菩薩や天使方の犠牲が行われていたのであります。
日本は第二次大戦で負けましたが、その戦争のために多くの将兵が、国の犠牲になったわけで
す。その死を無駄死であった、と今日の人たちはいいますが、私は決して無駄死であったなどとは
思っておりません。一人の個人が国家という大きな存在の中に、死をかけて融けこんでいったとい
うことは、その人の魂が小さな個の魂から、大きく広く拡大されていったことなのでありまして、
小さな人間が、大きな神の姿となって、神霊の世界で働くことになったということなのです。
要は死んでいったその人その人の、その時の想いの在り方によるのでありまして、死ぬのは嫌
だ、こんなところで死ぬのは無駄死だなどと思っていた人は、死後の世界であまり高い所にはゆけ
ないと思いますが、真実国家のために身心を捧げる気持で昇天していった人々は、正に犠牲精神そ
のものでありまして、神霊の世界で大きく生きることになるのです。
ですから世の人々は、あまり、個人生活のことだけに想いを把われず、少しでも他人のため、社
会国家のためという気持をもって、自己を大きく生かしてゆくことが必要なのです。
何も死を賭しての犠牲などというドラマチックな考えをもたなくとも、日常茶飯事の生活の中
121犠牲精神について
で、少しでも他人の生命を生き生きとさせてやれるような生き方を自分たちがしてゆくことが大事2
1
なのです。私などは神の天命が、宗教指導の中心者としてきまってしまったので、普通の信者さん
方より、より大きな犠牲的な生活になっていますが、それが嫌だとも不幸だとも、重荷だとも思っ
こう
たことはありません。流れ寄りくる業の波は、すべて身心に受けて、苦痛の波を静かに浄めながら
の日常生活をつづけているわけです。
ですから皆さんは、少しでも他人のために、国家や人類のためになるように、と犠牲精神という
程に改まらなくとも、素直な明るい気持で、世界平和の祈りを祈りつづけ、心ある人には、世界平
和の祈りの重要さを説いてきかせ、どうぞ世界の平和をつくるために、一緒にお唱え下さい、とす
すめてあげて下さることがよいと思うのです。
肉の生命と永遠の生命
いのちとわ
〃肉の身を惜しむ想ひに祈るならず生命永遠なる平和の祈り〃
という私の歌があります。読者の中から、この歌を細かく分析して説明して下さい、という要望
がありましたので、この歌を説明しながら、肉の身と永遠の生命について話してゆきたいと思いま
す。
肉体の人間がこの地球世界に存在していることは、肉体人間だけが、宇宙の外にあって生活して
いるのでもなければ、自己の力だけで生存しているわけでもありません。宇宙の一つの現われとし
て、この地球界という場を定められて生きているということになるのです。
ですから一人の肉体人間が生存しているという事実は、大宇宙という存在を先ず考え、大宇宙の
123肉の生命と永遠の生命
中の一つの場である地球というものを思い、そして、肉体をもった祖先、両親というものに考えが以
1
至り、そして、自分というものに至るわけですが、それはまた単に表面的にそういう順序になって
くる、というだけでありまして、内容的に考えてみると、それぞれは実に深い複雑な仕組みになっ
ているのであります。
生命の不思議さよ
先ず第一に、すべてを生かし、すべての存在の根源になっている生命と呼ばれる実質の不思議さ
であります。この生命というものは、肉体側の人間の眼には直接見ることはできません。肉体人間
がみているのは、生命そのものではなく、生命の働きをみて、生命がそこにあることを知るに過ぎ
ません。
その働きも、わずかな範疇の、つまり小範囲の波動の世界に現わされた生命の働きを知っている
に過ぎないのです。この大宇宙には、その大宇宙を形成している、或いは無限に形成しつつある大
生命の中心波動から、極く外界になっている粗雑な波動の世界まで、無数の波動圏があるのでし
て、肉体人間の観じている波動、つまり五感で知っている世界は、実に小さな範囲でしかないので
す。
そして、大生命(神) の意志は、その微妙な波動世界から、極く粗雑な波動の世界にまで、完全
に調和な姿が現われ出るように、あらゆる方法で、働きかけられているのであります。
それが、宇宙の星々、太陽や地球や月の波動圏から、肉体人間、動物、植物、鉱物という各種の
波動をもつ物体にも、たゆみない新陳代謝となって行われているのです。
精神に物質細胞に常に新陳代謝が行われていることは、生命の働きが休みなく働きつづけられて
いるということでありまして、その働きかけが、一体どこからなされているかということを知るこ
とが、最も重大なことなのでありますが、今ではまだ、その実体にふれることを、科学の世界でも
なし得ていないのです。
こうして肉体として現われている人間の本体というものは、肉体波動の中にあるのではなくて、
肉体波動より何段階も微妙な波動体なのでありますが、肉眼にはそうした波動体をみることはでき
ないのです。そういう微妙な波動の世界から、肉体波動の世界までは幾層もの層があって、それが
精神波動と物質波動との交流によって、それぞれの階層に生命の働きを表現しているのです。
それは深い微妙な波動の世界から、粗い浅い波動の世界まで、いずれも縦横に交叉して丁度この
125肉の生命と永遠の生命
世的にいえば碁盤の目のようになって、この人間世界が構成されているのであります。
生命世界全体の大調和を祈る
私共の、平和の祈りは、何も粗い浅い波動の肉体世界だけの平和を祈っているのではなく、深い
微妙な波動の世界から、ずうーっとつづいている生命世界全体の大調和を祈っているのであります
ので、この平和の祈りに徹しながら自らは、この肉の身を去っても、別にどういうことはない。肉
の身を去った後は、深い微妙な世界の生命体として、神人として働きつづけるのですから、肉の身
をことさら惜しがる理由もないのです。
しかし、私共がこの世に世界平和の祈りをなしつづけ、この地球界にこの祈りの大調和波動をひ
ろげてゆくことによって、この肉体世界の汚れた想念波動、つまり業想念波動が浄められてゆけ
ば、この地球世界も救われるし、他の天体や、奥の霊的世界の働きの邪魔にもならずに、この大宇
宙の進化を促進させてゆくことになるのですから、私共の肉体の生存がどうなろうとは関係なく、
世界平和の祈りは、絶対必要な行為となってくるのであります。
人によると、肉体の生命がこわくて戦を恐れている、軍備を恐れている、と思う人もあるでしょ
126
うが、肉体の生死などより、生命体そのものの汚れの方が、より恐ろしいのです。永遠の生命を汚
す想念行為、つまり、自己本位の想い、恨み怒り妬み、争い等々の業想念波動のあることが、人間
にとって、肉体の生死の有無よりも余程恐ろしいのであります。
それが普通の人には判らないのです。そこでイエスキリストなどは、眼が真理の行ないを邪魔す
るなら眼をえぐってしまえ、足が邪魔するなら足を切ってしまえ、とまで極言しているのです。
人間は永遠に生きつづけるのだから…
人間にとっては、肉体の生命よりも、永違の生命の方が大事なのです。永遠に生きつづける自己
の生命の流れを汚してまで、肉体に生存している必要はないのです。それが真理なのです。個々の
永遠の生命の獲得によって、全体の永遠の生命が確立するのでありまして、永遠の生命など想いも
しないで、只単なる肉体の生存だけに血道をあげているのは実に馬鹿気きったことなのです。
ところが、人類の大半は、この馬鹿気きったことが、この世の生き方であって、永遠の生命論な
どは、単なる理想論であるとしか思っていないのです。また、永遠の生命ということをいう人で
も、その永遠の生命は、親から子、子から孫へとつづいてゆく生命、または、一人の人の思想や、
127肉の生命と永遠の生命
発明発見が、後人にうけつがれてつづいてゆく、そういうことだけの、永遠の生命観なのですが、218
私共の永遠の生命観は、大宇宙そのものの永遠の生命ということは勿論として、個人個人の上にお
いても、肉体波動の世界からずうーっと奥の微妙な波動の世界まで、各個人が、その個性をもった
まま、昇華してゆく、個人的永遠の生命ということを重大視しているのであります。
人間は肉体的に死んでも、後世というものがあって、永遠に生きつづけてゆくものである、その
生き方は、この肉体に自分というものが生きていることを知っている、より以上に、はっきりと個
性をもった世界が、永遠につづいているのだ、ということなのです。
この章では、幽界とか霊界とか神界とかいう言葉もつかわず、宇宙子波動学の学説もつかわず、
一般の人にも知識層にも、あたりまえの言葉のようにして判って頂きたいと思って書いているので
すが、心霊学的な言葉や宇宙子波動学的な説明ぬきで、微妙な世界の話をするのはなかなか困難な
ことであります。
国家的にも敵を認めない
私共の世界平和の祈りは、只今も説明して参りましたように、只単に肉体世界の平和を祈るだけ
ではありません。また、現れの日本国を守るというためのものだけでもありません。只単に戦争だ
けを防こうというのでもありません。
永遠の生命と個人生命との関係、人間の真実の幸福はどうしたら得られるのか、人類の幸福はど
うしたら得られるか、という根本問題をひっさげての平和論なのでありまして、敵をやっつけて、
自分たちの集団だけが平和になるなどという、昔ながらの因果律のような平和運動ではないので
す。
個人的にも国家的にも敵というものを認めている想念のある限り、敵は何度びでも姿を変えて立
カルマ
ち現われます。武力をもってゆけばゆく程、真実の平和からは遠ざかって、業波動の弱肉強食的世
りんね
界の輪廻をつづけてゆくより仕方がなくなってゆき、地球世界の人類は、大宇宙法則の大調和軌道
はず
から外れきってしまって、何等かの形で消滅し去ってしまいます。
それは、大宇宙の法則が調和を求め、調和をつくり出してゆく道にあるのですから、調和から外
れてゆくものが、自然に滅びてゆくのは理の当然ということになります。
かんかく
大宇宙の無限の星が、お互いに一定の間隔を保って、空間に浮いている、ということなど、驚く
べき調和の在り方です。少しでもあの調和が崩れたら、宇宙の星々は互いにぶつかり合って、消滅
129肉の生命と永遠の生命
し去ってしまうことでありましょう。我が地球とて同じ運命にあるのです。
ですから、地球に住む人類が、お互いに争いや恨みや怒りの想念波動を出し合いつづけていたな
らば、地球の調和は必然的に破れて、地球が崩れ去ってしまうことも、当然考えられることです。
私は常に、地球の滅亡は戦争ばかりでなく、天変地異にもよるものだ、といっているのはこのこと
なのです。
人間一人一人の、そして国家民族各自の、想念波動の汚れは、この地球界に戦争を引き起こす
か、天変地異を現わすかして、地球人類を滅亡に追いやってしまうのです。
尿遠の生命に立脚した在り方を
そこで私は、人聞個人個人の想念波動の在り方の大切さと、国家民族が、その場その時々の利害
得失による、真理を外れた自国本位の生き方をしていると、自ら地球自体を滅亡させてしまって、
元も子もなくしてしまうようになる、と常にいいつづけているわけなのであります。
この世は波動の世界です。人間の想念波動がすべての運命を決してしまう世界です。仏教のいう
因果説は、こうした業生世界の在り方を説いているのです。
130
ところが、永遠の生命の根源に自己の想念を入れきってしまいますと、普通人のいう、想いとか
おの
考えとかいうのとは全く違った、生命そのものの智慧能力が、自ずと、その人の言葉や行為に現わ
れてきまして、いちいち想ったり考えたりするのではなく、真理そのものが、言葉や行為となって
現われてきて、その言葉や行為が輝いているのであります。
こういう風になった人を、無為の人とか、空になった人とか仏とか、キリストとかいうのです

し、その人たちは業生の世界を超えた真理そのものの人、真人ということになるのです。
そこで、現在の一般の人々は、真人ではなく偽人ということになったり、神の子ではなくて、神
の子と動物との混清した存在ということになったりしているわけで、現在の国家群は、すべて人類
の真の姿を現わした国家というわけにはゆかないのです。
個人も国家も、永遠の生命に立脚した在り方を示すようにならないと、いくらその場その時をう
まく切りぬけたようにみえても、この宇宙に存在する必要を認められなくなってしまうのでありま
す。
ところが、この世の人々は、いくら理論的にそうだと思っても、想念行為が、自己本位の習慣を
もちつづけていますので、なかなか真理を実行にうつすことができません。そこでそういう想念を
131肉の生命と永遠の生命
もったままで、自分も救われ、人も救われるという道をみつけ出すことが絶対必要になってくるの窺
です。
そこで生まれてきたのが消えてゆく姿で世界平和の祈りということになってくるのです。世界平
和の祈りは、今まで説いて参りましたように、真理そのままの祈りです。普通真理そのままになる
には、空の心境になり、無為の境地に至らぬとできないのですが、この世界平和の祈りは、凡夫で
もできる祈りなのであります。凡夫であればこそ必要な祈り言なのです。
けんお
誤った想念をもったまま、怒りや恨みや妬みや恐怖や、自己嫌悪の想念をもったままでも、世界
平和の祈り言を唱えていれば、世界平和の祈りそのものが持つ真理の光明波動が、自ずと、そうし
た業想念波動を消してくれて、肉体という器を通して、逆にその光明波動を周囲に放射してくれる
ことになるのであります。

〃日本には日本の道ありにけり思想を超えし平和の祈り”
という歌もありますが、日本の進む道というのは、思想がどうの、イデオロギーがどうのという
道ではないのです。思想とかイデオロギーとか、そういう表現のない、行為そのものが、すーと出
てくる、そういう道が日本の道なのであります。
いろいろと理屈をいって、それで納得したからやる、納得せぬからやらぬ、というより一歩奥深
じねんほうに
い道を、直観的に自然法爾的に進んでゆく、そういう道が、実は真実の日本の道なのです。これは
うっかりすると感情的にぱっとやってしまう、ということになりかねませんが、真実に祈り心にな
っていればそんなことはなくなります。
そこで、思想を超えし平和の祈り、というように、何が故に平和の祈りをするのだとか、平和の
祈りでこの世がよくなるのか、とかいう、そういう想いを超えた、相対的イデオロギーを超えたと
ころに、平和の祈りがあることを、直観的に判り得るのが、日本人の本質なのであります。
かん
空観とか、無為観とかは、日本人には自然にそなわっている生き方なので、神道的にいえば、神
ながこと
准らの生き方というか、言あげせぬ生き方というか、理論をいろいろこねくりまわして結論を得る
という生き方は、本質的には日本人に適してはいないのです。
そういう言あげせぬ式の生き方が、日本の天皇に対する尽忠の根源になっていたのですが、そう
いう生き方が現在は大分変化してきているようなのであります。こういう生き方はプラス面では、
一番高い生き方となるのでありますし、マイナス面となれば、個人個人の自主性のない、封建的生
133肉の生命と永遠の生命
き方となってしまうことになるのです。
このマイナスは労働組合運動などにもよく現われて参りまして、ほんの少数の共産主義者の指導
力に易々としてついていってしまう傾向を示したり、一人が悪口をいったりすると、すぐ附和雷同
して、自分たちでよく考えてもみない事柄の悪口を言ってしまったりすることもあるのです。
こういうマイナス面を無くす為には、どうしても祈り心というものが必要になってくるのです。
それも日本の天命である、和を基本にした平和の祈りのような祈りが一番適した祈りになってくる
わけです。
現在のように、天皇に対しての統一観の無くなった日本人に、今こそ真の祈りがなければならな
いのです。それも世界人類の大調和を願う、世界平和の祈りのような祈りが適当であることは論を
またないところでしょう。
さだめおの
〃日本の運命想へば自ずから言葉に出つる平和の祈リ

日本の運命は、今の混迷した思想のままで進めば、惨憺たるものになるにきまっています。日本
人が日本人の本質を蔽いかくしてしまっている現在を想うと、じっとしてはいられません。そうい
13#1
う私の心から自ずから湧きあがってくるのは、世界平和の祈りなのです。
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
この祈りのもっている光明波動は素晴しいもので、その光明のひびきは、地球の汚れを浄めるの
に非常に役立っているのであります。地球世界は現在、人類の様々な業想念波動で汚れきっている
のです。その汚れた波動を浄めきらなければ、地球は地球本来の動き方をつづけるわけにはゆかな
くなってしまいます。地球自体もやはり波動体であるから、その波動の流れが汚れきっては、動き
が狂ってくるのは必定です。
そういうことを、この世の人たちは殆んど考えてみようともしないのです。国家の損失とか権威
力の維持とかいう問題は、そういう地球を汚してしまう誤った想念行為の積み重ねからみれば、た
いした問題ではないのですが、それが判らないで、本末転倒した生き方をしているわけなのです。
現在の地球世界の崩壊を防ぐためには、世界平和の祈りのような光明波動で、地球の掃除をしつ
づけなければいけません。そうして地球を浄めつづけながら、そこに新らしい人類の生きる道をつ
くってゆかねばならないのです。
135肉の生命と永遠の生命
絶対平和の真理の道
136
それはどういう道かといいますと、第一に人間一人一人の想いを、大宇宙の意志である大調和と
いう生き方に、合致させてゆくという生き方です。その道はやがて人類全体に真理を顕現させるこ
とになるのであります。
何事をさておいても、調和ということを先ず考え、調和ということを目標にして生きてゆく、も
し自分の想いに不調和な想いや、愛にそむく想いが出てきたら、消えてゆく姿として世界平和の祈
かんてんかん
りの中に入れきりつつ生活してゆく、というように徹底した観の転換をしながら、愛と調和の生活
をしてゆく生き方を実行してゆくことなのです。
人がしないから自分もしたら損してしまう、他国もやっているのだから、自国もやらなければ、
というように、人の悪事や他国の間違った行為と同じようなことをこちらがしていたのでは、いつ
ひら
ま でも新しい道は展けてきません。地球が滅びるか滅びないかの瀬戸際です。必死になってでも、
正しい道を生きぬいてゆかねばならないのです。
その正しい道は、今更私がいうまでもなく、釈尊やキリストや老子方の聖者賢者たちが説きつづ
けてきているのです。私はただそうした道を、誰にでもできる易しい方法でひろめているのであり
ます。
これからはどうしても、真理を行じて生きなければ生きられなくなるのであることは、私が毎月
のように白光誌で説きつづけているのですが、何度でも何十度でも、そのことを強く説きつづけな
ければいられないのです。
何事もその道に徹しなければいけません。徹するということは、把われるということではありま
せん。今日こそ一つの道に徹し切るよい時期なのであります。もう一つの道しかなくなってきてい
るのです。
それはどういう道かといいますと、やはり絶対平和の道なのです。片手に武器をもっての平和な
どという時代ではなくなってきているのです。お互いに正義を云いはっていても、武力で道を開こ
うとする態度でいる限り、その双方共に、宇宙の意志に反した正しくない行為となるのでありま
す。
片方が八十パーセソト不正で、片方が八十パーセソト正しいとしても、武力で相手を倒そうとし
ている、そういうことが、完全平和を否定している態度なのです。これは誰が何んと言おうと、ど
137肉の生命と永遠の生命
ういう事態がそこに生じていようとも、平和を実現させる態度ではないのです。
私たちの時代にもし肉体人類が一応滅び去ったと致しましても、絶対平和の精神を堅持した人々
や国々は、その人々やその民族の永遠の生命は生き生きと輝いて、地球世界の再建はそういう人々
の手によって、明るく楽しくはじめられることでありましょう。
しかし、武力と武力の争闘によって死滅した国家や民族の死後の世界は、それはそれは悲惨なも
のとなるのでありますし、地球世界の再建は暗憺とした困難を極めたものとなるのであります。
これはもし肉体人類が滅亡したら、ということでありますが、私の霊覚では、地球人、類は絶対に
滅亡しないことになっております。ですから私は、ますます完全平和達成の道に私の能力のすべて
をかけて突き進んでゆくつもりです。
138
日本は敵をつくるな
日本に敵をつくってはいけません。日本の天命は、すべてを統一させることにあります。日本に
天皇が存在していた事実も、その象徴であるのです。
統一とは右にも左にも傾かず、縦横右左すべての相異なる状態を一つの大目的に統合することで
あります。そういう天命を日本はもっているのです。
そういう天命をもつ日本が、一方に偏して一方の陣営というのはおかしなことです。現在友好的
な米国とその相手の中国ソ連の間に立って、双方の妥協点を見つけ出し、どこかで双方を結び合わ
かな
せる働きをすることこそ日本の天命に適った在り方なのです。その為には現在のような信念のない
態度では駄目なのです。日本の大和の天命を、政府も国民もしっかり自覚して立たなければいけま
せん。
それより他に日本の生きる道はないのです。私たち国民の大半が、真実に平和精神に徹して、世
界平和の祈りの生活の中から一丸となって政府に働きかければ、政府の肚もしっかり定まってくる
ことでありましょう。敵をつくって国の運命を武力の勝負にかけるには、今の日本人はあまりにも
安易になれ過ぎております。といって、なんの信念もなく、ただ戦争が嫌だからといって、中国や
ソ連に色眼をつかうのも、相手方に馬鹿にされ下目に見られるだけです。私のいうのは、そのどち
らでもないのです。絶対平和達成に日本人の運命をかけて突き進む只一筋の道があるだけなので
す。
その一筋の道の旗印が世界平和の祈りなのであります。世界平和の祈りの道に一日も早く一人で
139肉の生命と永遠の生命
も多くの同志を結集させることこそ私共の使命なのです。皆さんもどうぞ全力をあげて、
い、世界に完全平和を達成させるこの道の為にお働き下さい。
日本を救蜘
聖者方の話
役の行者のこと
聖者方については、いろいろと皆様もお知りになりたいことが多いことでありましょう。私も私
ろうししやくそん
に関係の深い聖者の方々については、いつもいろいろと思い出したりしています。老子、釈尊、イ
えんほうねんしんらん
エス、ヨハネ、役の行者、法然、親鸞、等々思い出すだけでも懐しく親しい感じがいたします。こ
の聖者方は、各自がすばらしい特質をもっていまして、探求してゆけばゆく程、驚歎の度が深くな
ってゆくばかりです。
えんじよめい
まず役の行者のことを書いてみます。役の行者という人は、訂明天皇の落胤といわれていまし
みずか
て、年少の頃から山野をかけめぐり、修業に修業を続けていった末、自らの念力で、肉体を霊化せ
141聖者方の話
しめてしまったほどの人です。霊化した役の行者は、日本の山という山をほとんど浄め歩き、幽界412
の生物、山々の主たちを、屈服せしめその足跡の残っていない山はないといわれている程です。
肉体が霊化して、肉眼ではみえなくなってしまうなどということは、常識ではとても考えられな
いことですが、役の行者は確かに自己の念力で、肉体を霊化してしまったのです。役の行者の弟子
の中にもそういう人がでてきています。
役の行者は、初めは観音像をまつって、観音様にすがって自分の修業を達成しようと思っていま
したが、ある日突然、一切の神仏にすがらぬという想いが起り、観音像を谷に捨てて、念力一本の
修業にはいったのです。そして遂に、肉体を霊化せしめて生き通しの聖者となったのであります。
げに、驚歎すべきその自力、その念力であります。
ところが不思議なことに、この自力の御本尊が、私の守護神として、絶対他力の道を私に教え、
私を導いてくれたのです。それは一体どういうことなのでしょう。筆舌に表わせぬすさまじいまで
の自力修業で、自己の肉体を霊化せしめた役の行者でありましたが、霊化してみたら神霊の世界に
は、はかり知れない深さ広さがありまして、今まで自分が考えていたような自力では、とてもそれ
以上の世界に昇ってゆくことは不可能であることがわかったのです。わかったその瞬間、役の行者
の霊身は、本体の自己と; になり、宇宙神のみ心の中に、すっぽりはいっていたのでありますじ
苦行は悟りの因にあらず
肉体世界の修行にばかり把われている人は、例え、その念力で自己の肉体を霊化せしめても、霊
界幽界の世界を自由にかけめぐることが出来たとしても、ただその程度の力になったにすぎず、宇
宙神との一体化までは、とうてい及ぼないのであります。役の行者は、そのことを極限の肉体修業
の末に、悟ったわけであります。それはあたかも、釈尊が「苦行は悟りの因にあらず」といったの
と同じ心境であったのだと思われます。
宗教修業者が、仙人のように、自由に空を飛び、山野をかけめぐりたい、そういう力がほしい等
と思っていたとすれば、それは宗教の本道をはずれたもので、役の行者の一喝をくうところでしょ
う。修業というものは、すべて神のみ心をいろいろの世界に現わしてゆく為のその一員の働きとし
てのものでありまして、修業即神業達成の道ということができます。そしてこの神業は、地球世界
ばかりではなく、大宇宙のあらゆる星において現わされるのであります。ですから人間は、この地
球世界の、まして肉体的な修業だけで、事足りると思っていたらとんでもないことで、肉体の修行
143聖者方の話
などは、いわば序の口というべきなのです。この肉体世界からみれば、役の行者の修行の成果など蟻
は、全く驚歎せずにおられない、すばらしいことなのでありますが、役の行者自身からみれば、そ
れは修業の単なる序の口であったのです。
「苦行は悟りの因にあらず」といわれた釈尊の言葉も全く同じ心境から出ている言葉と思われま
す。肉体世界の修業において、肉体を極限に痛めつけたり、断眠、断食の苦行を行ったとしても、
それはかえって肉体に把われているという証明にすぎず、想いが肉体から離れた時でも、そう高い
ところまで離れていってはいないのです。この地球世界のように、肉体身をもっていなければ生活
してゆけないところでは、肉体そのままで、神のみ心と一つになる道をみいださなければ、真の悟
りにはいってゆくわけにはいきません。
その事実を、はげしい肉体修業の末に、役の行者も釈尊も悟ったのです。そして共に正覚を得た
のであります。そういう生き方ができなければ、肉体世界において神のみ心を行じてゆくわけには
まいりません。肉体が邪魔なら、初めから肉体のない世界で生活するより仕方ありません。
自力の権化が他力を唱導していること
ちどんあら
神霊の体からみれば、遅鈍で、粗い波動の肉体は、どうにも取り扱いにくくて仕方がないもので
すが、こういう物質の世界にも、神のみ心を現わすためには、どうしても物質体である肉体が必要
であるわけです。
ですから、肉体を邪魔にして、肉体から離れよう離れようとすることより、肉体身を少しでも微
妙な波動にするように、常に肉体身を神界のみ心の中にとけこませておく必要があるのです。それ
が祈りなのであります。
役の行者や釈尊がその出発点において、祈っていたその祈りとは、全く異なるのが真の祈りであ
りまして、役の行者も釈尊も、苦行の末にそのことを悟られたのであります。
みずか
そのことは、役の行者や釈尊が、私をとおして自らおっしゃっているのですから、確かなことで
す。
但し、これはあくまで宗教修業の道のことでありまして、スポーツや武道の道も根本において
は、宗教の奥義と等しいところがありますが、その修業の道は自ずから異なっておりまして、肉体
の錬磨につぐ錬磨によって、精神も向上し、技も上達してゆくのであります。武道やスポーツの修
業において、肉体の錬磨がなければ、とてもその技は上達いたしません。
145聖者方の話
宗教の道で他力と申しますと、肉体生活での精進努力を少しもせずに、ただ単に、神仏の力が自
分達の生活をいいようにして下さると、念仏や唱え言だけをしている人達もあるようですが、実は
これは大間違いで、肉体生活の精進努力は、人並みに常識的にやりながら、その根本において神仏
に自己の運命のすべてを、ゆだねるということが、宗教の他力の道なのであります。
自力の道では、その精進努力が人並みはずれ、常識の線を越えた、苦行がともなう道でありまし
て、あくまで自分の力で、本心を開いてゆこうとするのであります。他力では、本心は神仏の中に
あると信じまして、神仏を心に呼び続け、感謝し続けて、本心の自分をこの地上界において開こう
とするのであります。それはあくまで、自分が念力で開くのでなく、守護の神霊のご加護によって
開かれるのであります。
役の行者や、インドの仙人の中には、一切の他力を捨てて、肉体界を解脱した人もありますが、
役の行者のように、肉体を霊化させた後に、あまりにも神霊の世界が奥深く幅広いので、永久に自
力を続けてゆく不可能さを知り、宇宙神のみ心の中に自分の一切の想念を、投入した時、神霊の世
界の奥深いところに、自然と自分の座があることに気付いたのです。
宗教の他力というものは、そのように奥深いものでありますので、怠惰のやりやすい道として、
146
その言葉を使ったりしてはいけないのです。絶対他力になりきった時には、神我が全く一つになっ
ているのでありまして、その境地には、なかなかゆきつくものではありません。そこで私は、そう
いう神我一体の境地を邪魔する想念行為を、すべて過去世の因縁、神のみ心を離れていた時のマイ
ナスの現れとして、消えてゆく姿という言葉を使って、神様のみ心の中で、消していただいている
のであります。
イエスキリストのこと
釈尊と対比されている、イエスキリストは、初めから天使としてきている方なので、自意識で修
業をしようとする形ではなく、天使の方々の神霊世界からの指導によって、すべてが行われていた
ぜいたくざんまい
のであります。釈尊がイソドの王子と生まれて、若いうちは自分の思うままの贅沢三昧の生活がで
きたのに比べて、イエスにはその自由は与えられてはおりませんでした。イエスには、肉体的に個
人の自由というものは一切なかったと思われます。ですからイエスは初めから絶対他力の生活をし
ていたといえるのです。
私などは、三十才頃までは、平凡なる一青年として、肉体的自分の思う通りの生活をしてきたの
147聖者方の話
でありますが、三十才頃から、神のみ心に自分の一切をささげつくす生活に、自ら好んで身心を投48
1
じたのであります。そして、それからが、イエスと同じような絶対他力の生活となり、今日に至っ
ているのであります。
イエスのことを思うと、私はいつも自然と涙ぐみます。人類救済の天使として、一切の肉体生活
の楽しみを与えられず、三十余才にして、十字架上にその肉体を消滅させていった、その生涯の天
命達成の道は、天命とはいえ、肉体的にみれば、悲哀に満ちた生涯です。
しかしそれは、あくまで肉体的にみた感情であって、イエスの魂はキリスト(真理顕現) として
光明燦然として輝きわたっているのであります。人類の業は、肉体人間として生まれた時、原罪と
なって、そこからすべての業因縁が生じました。その業因縁消滅のために、イエスは肉体を十字架
にかけることになったのです。イエスの十字架上の死ということは、この地球人類にとって、どれ
だけ大きな影響を与えてきたか計りしれないものがあります。イエスが自らの肉体を十字架にかけ
たという大犠牲の行ないこそ、人々の魂をゆさぶり、魂を純化させる大きな行為であったのです。
洗礼のヨハネとイエス
イエスのことを語ると、どうしても一言しておきたくなるのは、洗礼のヨハネのことです。新約
聖書はイエスキリストの弟子達の著わしたものですから、イエスが主になって、すべてが従になり
ます。それは当然のことです。イエスとヨハネの間柄でも、ヨハネがあたかもイエスにとって行き
ずりの予言者のように思われがちですが、魂的には切っても切れないつながりがありまして、ヨハ
ネがなくては、イエスがキリストの自覚に到達することができなかったかもしれません。
ヨハネは、この世的には、純然たるイエスの師であったのです。ヨハネは、日本の役の行者の形
によく似た人で、素晴しい念力をもつ自力の人でした。イエスは、はじめからうすうす天使として
の自分の存在を感じていましたから、常に天を仰いで、父神の応援を願っていました。いわゆる、
天にまします我らの父よ、式の父への祈り言の中で自分の修業に励んでいたのでありますが、ヨハ
ネのほうは、祈ることよりも先に、自分の身心をぶっつけて、修業の道にとびこんでいました。
りん
そのヨハネの姿が、常に勇気凛然としていて、人々の心をひきつけました。その魅力にひかれ
て、遠くからも人々が集まって来ていたのであります。イエスもその一人として、ヨハネの前に現
149聖者方の話
りん
われたのです。イエスは、ヨハネのその凛然たる姿に心をうばわれ、ヨハネは天父の光明と、あと励
一歩のところで合体しようとしているイエスの姿をそこにみたのであります。二人の魂は、そこに
おいて交流し合い、イエスはヨハネに肉体世界における幽界の生物を浄める方法をいろいろ教わる
のであります。
ヨハネは、イエスが自分がこの世において、ゆきつかなかった高い世界の光明と全く一つになれ
る人であることを知って、イエスを励ましながら、そのことを伝えたのであります。イエスはそれ
までは、うすうす自分が救世の天使であることを感じながら、幽界の生物の様々な妨げや、自己の
勇気の出し方の不足によって、一つふっきれないでいたものが、雲が晴れるように、すっきりして
いったのであります。
ろう
ヨハネは、牢屋にはいった後々までも、イエスが真実、キリストの姿を現わして、その天命を完
ろう
うしてゆくか、を案じつづけていたのです。イエスのほうは、ヨハネを牢から救いだしたいと思っ
ていたのですが、神々はそれには力を貸そうとはなさらなかったのです。ヨハネの天命は、イェス
にキリストの自覚をもたせることにあったので、イエスがその自覚をしたことによって、立派に天
命をはたしたことになるので、その後の肉体の存在は、必要なかったのであります。
神道や仏教の或る人達にいわせると、聖書に伝えられているような霊力を、イエスがもっていた
としたら、十字架などにかからず、悠々他国へ逃がれ去ることもできたはずだ、というのです。も
っとも、ある研究者はイエスキリストは十字架にかかっておらず、日本において老令で昇天されて
いる、その墓も某地に存在するといいます。十字架にかかったのは他の人であったともいうので
す。
しかしこの二方面の話は、宗教信仰上にとっては、なんの価値もないもので、イエスの天命は、
数々の聖書における教えを残し、奇跡を残し、十字架上において昇天するということが、その完成
ということになるのです。そしてやがては、多くのキリスト(真理顕現者) によって、地上天国が
創られてゆくのであります。
宇宙絶対者は、オールマイティ(全智全能) ですが、神々としてその働きを現わされる場合に
は、神々が寄り集まって、オールマイティになるのでありまして、天使としてこの世に現われてい
る聖者達も、やはりそれと同じことなのであります。
老子のこと
151聖者方の話
ここで、役の行者ともイエスとも釈尊とも、全く違った在り方で教えを説いていた老子の話をい512
たしましょう。老子については、拙著老子講義で、詳しく述べてありますが、全く空の奥の又空の
と、老子講義に書きましたように、その心を掴んだと思って近よると、遥かかなたに老子はいって
おります。近よっても近よっても老子の実体を掴むことはできません。それでいて老子は、私の心
と一つになっていて、老子講義を私に書かせたのであります。老子講義を書く前に、老子が私の体
の中にはいってきて、私が急ぎ足で道揚へ向かって歩いていると、なんでそんなに天地を無視して
歩いているのだ、天地は、もっと悠々と歩いているのだぞ、と一喝されたことがありました。そう
いう老子の姿は、実に悠々としていました。ところがこの老子は、家の中にいて外のことを万事見
しゆんびん
通し、一瞬にして千里の彼方にその姿を現わしうるという程の峻敏なる人なのであります。役の行
ひしよう
者もどこへでも自由に飛翔しうる霊力をもっていましたが、役の行者の場合は、常に峻烈な気がみ
なぎっていましたけれど、老子の場合は、明るく、無邪気な気をただよわせていました。
役の行者も老子も共に私に重大な生き方を教えてくれた聖者であり、地球世界に出現された聖者
のうちでも、最高の人達であります。
守護の神霊への全託
役の行者は、私が幽界霊界や神界のことがわかってきた頃から、かなり表面に現われて、私の一
挙手一投足についても、やかましく指導してくれたのであります。修業中のある時のこと、私が歩
いていますと、急に中から(おまえは、もうこの世では役に立たない、このまま昇天する)とこわ
い声で役の行者がいうのです。そして、私の歩みをとどめさせもせず、私の想いを次第に肉体から
抜いてゆこうとするのであります。肉体からすっかり想いが抜けたら、一体どうなるでしょう。座
っているのではなく、立って歩いているのですから、そのままばったり肉体は地上に倒れるに違い
さんど
ありません。そう思うと全く冷汗三斗で体全体がすくんでしまいました。その時は、守護霊のよう
になっていた友達の渡辺君や、弟の五郎が、助太刀してくれて、どうやら急場をきりぬけたことは
「天と地をつなぐ者」にも書いてあると思います。
何しろ真実の霊能者になり、霊覚者になるには、肉体にまつわるすべての感情想念をなくさなけ
ればなりません。しかしなかなかそういう境地にはなれません。そこで、すべてを守護の神霊に託
して、守護の神霊との一体化によって、生きてゆく必要があるのです。ですけれど、私のように守
153聖者方の話
護神そのものが、こうして試みてくると、どうしてどうして守護の神霊へ全託も出来にくくなって54
1
きます。そこが大事なところです。やはり常日頃と同じように、守護の神霊の心の中に、自己の肉
体の想念を入れきっていなければなりません。そうすれば、必ず、その場の試みは越えられます。
肉体人間は、一にも二にも、守護の神霊との一体化によって、生ぎてゆくべきなのです。現代の
人々のように、人間の本体の何んであるかも知らず、守護の神霊の価値どころか、その存在さえも
信じていない世の中では、よほど強力な救世の力が働かなければ、その進化が促進されてゆくわけ
にはまいりません。人類が、今日以上の進化をみなければ、宇宙の進行におくれて、地球もろ共亡
びてしまうことになるのです。そこでどうしても今日では、地球人類救済の大きな力が、必要にな
ってき、それが私共には救世の大光明として、働きかけてきているのであります。
地球大進化のとき
役の行者をはじめ、守護の神霊方が、身心共に私を鍛え上げてくれたのも、救世の大光明の器と
して、充分な働きができるようにと、宇宙神のみ心にょるのです。私の今生における霊修業は、割
り方短かいものでしたが、肉体をもちながら、神霊側に立って地球人類の郷ダ浄める仕事は・
とて
も大変なことで、守護神方に鍛えあげられていなければ、とてもできるものではありません。
そこで救世の大光明の神々が、世界平和の祈り言に和して、この地球界に光明をふりまいてゆく
ことにしたのです。世界平和の祈りは、肉体人間を器として、神々の働きの場として、唱えられは
じめ、今では大きな働きの場となっているのであります。
大宇宙は、先輩星がつぎつぎとその働きを大進化させ、神そのものとして働いておられます。地
球は、今一つの進化の時に至っているのです。その進化は今日までのように、人類の心がばらばら
になっていたのでは、到達できるようなものではありません。今人類の心が調和して、はじめてで
きる進化の道なのです。
役の行者が、肉身を霊身に変化させたと同じようなことを、現代の我々はなさねばならないので
す。今日までのように、この肉体の身をのみ、人間と思っているような世界観では、とても駄目で
す。肉体のみが人間であると思っている以上、肉体身にまつわるいろいろの把われで、どうしても
他人とのいざこざを起こしやすいのです。その大きなものが民族間や、国家間の争いということに
なるのです。
現代の国際関係は、今日までのやり方でいったのでは、やはり弱肉強食の動物的あり方になって
155聖者方の話
しまって、とても地球の平和達成を実現することはできません。ですからそこで、今日までの世界
観、宇宙観の誤りに気付いた人達は、なんらかの方法で、気付かぬ人々にその誤りを知らせねばな
りません。
私共は、祈りによる世界平和運動として、守護の神霊の光明を力として、世界に働きかけている
のです。今では、私共の調和の心に同化して、宇宙の天使達が、大きな援助の手をさしのべている
のであります。
156
続・聖者方の話
親鸞の妻帯
法然上人のことは、親鸞上人程話にでてまいりませんが、宗教をやっている日本人で知らない人
はないと思います。しかし、親鸞さん程有名度はありません。親鸞が有名になったのはその妻帯が
第一のことと思われます。日本宗教界の革命ともいうべき妻帯生活をしたことは、親鸞一人の決断
によるものではなく、法然が全面的にその責任を背負って、決行させたことなのであります。
法然さん自体は、過去世からの修行によって、女性への執着をすっかり超えていましたので、ご
自分のための妻帯生活などは、少しもしようとしなかったのです。しかしながら、周囲を見渡して
みて、かなりの深い宗教的境地に入っている人でも、ともすれば心の中で、女性への禁をおかしか
157続・聖者方の話
かい
ねない程で、ほとんどの人が形の上においてか、想いの上においてか、どちらにしても女戒をおか581
しているのです。肉体をもった人間にはめったにできない事柄を、それが宗教者の戒であるから
と、表面上とりつくろっている、偽善の行為をいつまでも続けていくのは、よくないことである
と、法然さんは常に思っていたのです。そして、念仏一念の易行の道を開いて以来も、民衆の真の
救いに立つためには、民衆と同じ妻帯生活をする宗教者があってよいのではないかと、ますます強
く思うようになっていました。
そこへ親鸞が、宗教者の妻帯生活のことについてまともに質問してきたのです。親鶯は、何事に
つけても真剣そのものに行じる人なので、そういう大事な問題をうやむやにして、偽善的な生活を
送ることがとてもできなかったのです。といっても親鸞は、道にひかれる心のほうが強くて、女性
にひかれる想いは、他の友人達よりも、少なかったのです。しかし親鸞の性格は、少しでも自分の
心に割り切れぬものを残してはおけない、激しさをもっていたのです。
そこで、宗教者の妻帯問題も、はっきりと、心の中で割り切っておきたかったのですが、過去世
の因縁というか、み仏のみ心というか、一人の女性が親鸞の心に深く座をしめて親鸞の心は全く苦
境にたたされたのです。法然さんは、そういう親鸞の心をみぬいていましたし、親鶯の大きな今後
の役目をも知っていましたので、親鸞とお互いに心を打ち開けて、宗教者の妻帯問題について語り
合ったのです。
そこで結論として、法然さんが全責任をもって、親鸞に妻帯させるということに決定したので
す。今でこそ宗教者の妻帯など、あたり前で、話の中にも出てきませんが、その当時は師弟二人共
に、重大なる決意がなければできないことだったのです。親鸞の妻帯は、宗教界の革命でもあり、
親鸞自身の革命でもあったのです。
アミダ様と一つの法然
親鸞は妻帯したばかりに、この世における宗教者が未だ味わったことのない苦難を味わうわけな
のです。親鸞にはそういう天命もあり、過去世からの果さねばならぬ業もあったわけです。それに
げだつぼさつどう
比べて、師の法然さんの方は過去世において、すでに業因縁から解脱して、ひたすら菩薩道一筋に
突き進んでいる状態にありまして、法然さん個人の悩みは少しもなかったのであります。法然さん
のことについては、余りくわしいことが残っておりませんが、真の菩薩でありまして、霊覚者その
ものであったのです。しかし、法然さんは弟子や信者達にむずかしいことは少しも教えず、一向専
159続・聖者方の話
念の念仏を行じさせつづけていたのです。60
1
ざんそ
晩年、他宗の誕訴にあって、島流しになり、念仏は一切口にしてはならぬ、と役人からいわれて
いたにもかかわらず、音声さわやかに念仏を唱えつづけて、役人につれられていったのでありま
す。役人達はその法然さんの念仏を阻止しようといたしましたが、法然上人の身心から発する霊光
の輝きに、心おそれて、何事もなしえなかったのでした。
法然さんは、全く阿弥陀様と一つになりきっている法然さんだったのです。法然さんの頭や意識
の中には、宗教的学問が一杯つまっていて、当代随一の学者であったのですが、そういう学問知識
もすべて、阿弥陀様の大光明の中に統一されていたのであります。いうなれば、法然さんは阿弥陀
仏が肉体をもってそこに現われておられる方、ともいえるのです。
霊眼のきく弟子達の中には、法然さんの身体が光り輝いているのが観じられていたようです。肉
体人間は、その肉体想念をすっかり神様のみ心にお返ししてしまうと、神様の光が、その肉体を通
して輝いてみえるのは確かなことです。そういう体験を私共もたくさん知っております。
大きな進化へのひとこま
そこへいくと、妻帯し庶民と同じような生活に身をゆだねたためもありましょうが、親鸞は法然
さんの境地まではなかなか行きつかなかったようです。もっとも親鸞にとって、その妻帯生活が、
悟りのための大きな重荷になっていたのです。しかしその重荷は、親鸞以後の易行道の僧侶の偽善
を広く救ったことは事実であり、念仏門が盛んになった根本の事柄でもあったのです。親鸞ほどの
人ですから、もし妻帯しなかったら、法然さんと同じような境地にゆきつけたかもしれませんが、
法然さんと親鸞の天命の相違がそこに現われているのであり、親鱒にとっては、来生のための大き
な経験として、その妻帯はなさねばならぬ事柄であったのです。

現在親鸞は、地球を救う救世の大光明の中心者として、自由無擬なる働きをしているのでありま
す。この世における自分に不利なる出来事も、それはすべてその人々の大きな進化のための出来事
として、私達は、神への感謝一念で生活していかなければいけません。過去世の想念行為が今生の
運命として、今現われているように、現在の想念行為は、今日から未来へかけての働きであること
を、皆さんは知っておく必要があるのです。
法然と九条兼実の関係
161続・聖者方の話
親鸞妻帯の蔭には、法然上人の他に法然さんの弟子の中心となって、法然さんを仰ぎ、つくして612
かねざね
いた、時の太政大臣であった九条兼実がいました。一説には、親鸞の最初の妻の玉日姫は、九条兼
実の末娘といわれています。
兼実は在家で、僧として、何らの戒にも把われる必要がなかった立場にありましたが、自分のよ
うな立場の弟子が、他にもあってもよいのではないかと、法然さんに、自分の姫を法然さんの弟子
の誰かにめあわせ、自分のように在家の弟子として生活させたいと申し出ていました。そういう強
い後押しもあって、親鸞の妻帯となったようです。
兼実と、法然さんとの仲は普通の師弟とは異なった深い過去世からの縁に結ばれていまして、兼
実の法然さんを慕い敬うことは、なみなみでなかったのです。彼が法然上人と出会ったのは太政大
臣になった四十一歳の年で、政界の中心者である太政大臣を十年間勤めました。その間法然上人の
ためには、身を挺してつくしてくれていましたので、法然の教えに反対する宗派や、権力者も法然
に指一本出すことができませんでした。しかし、兼実が、政界の力を失った頃、それらの人々は法
然を邪教者として、島流しにしてしまったわけなのです。この兼実は、やや霊眼が開いていたとみ
えて、自分の家である月輪殿で、法然さんの講義を拝聴して、上人が帰られようとして庭におりた
時、上人の姿が大地を離れ、後には頭光があらわれ、蓮華をふんで、虚空を歩んでいる姿にみえた
のです。それ以来ますますみ仏のごとくに、法然につかえたのであります。
法然さんのほうは法然さんで、兼実を特別扱いにして、弟子達が兼実が太政大臣という要職にあ
るために、さすがの法然上人も特別あつかいにしている、といううわさをふりまくのを聞き「人と
人とのつきあいには、それぞれ過去世からの因縁というものがあって、その因縁によって、今生の
つきあいの色合いができるので、私と兼実とのつきあいも、今生の利害の問題ではなく、過去世の
深い交わりによるのである」等々と弟子達に懇切に説かれたのであります。
法然の弟子、熊谷次郎直実
法然さんには、地位や階級を問わず、広い範囲で弟子や信者がいました。中に坂東武者であった
れんしようぽうくまがいじろうなおざねきんだちあつもり
蓮生房熊谷次郎直実がいました。この人は、源平の戦において平家の公達平敦盛を打ちとり、その
若者のいさぎよい戦死ぶりに痛く感動し、そのまま武士を捨てて、法然上人の弟子に入った人です。
なおざねかねざね
この直実が、或る時上人のお供をして、兼実の月輸殿のこ法話の席にはべっていました。席とい
くつぬぎ
っても、直実は上人の供の者ですから、沓脱の所に坐り、縁に手をかけて待っていました。しか
163続・聖者方の話
し、法然さんのお話は遠くてよく聞き取れませんでした。本来豪傑で、素直な性質の直実は、法然614
さんのこ法話を聞きたさの余り、「ああこの世の中はいやな所だ、極楽にはこのような差別はなく、
お話も平等に聞けるだろうに、ここでは遠くて聞こえない、口惜しいことだ」と持前の大声でいっ
たものでした。その声が兼実に聞えて、彼が兼実がかねてから名前を聞いていたことのある蓮生房
であると、法然さんに聞かされ、自分達と同じ席にくるようにと庭先に声をかけました。
普通の人ならそう声をかけられても、太政大臣と一沙門との大きな地位の相違がありますので、
なかなか同席などできるものではありません。ところが、蓮生房は=言の辞退もなく、兼実のそば
近くに坐ったのです。直実のような位の者が、堂上に上ったことは未だかってなかったことで、蓮
生房の人柄と、本願念仏のお蔭であるといわれたものでした。
この直実は、源頼朝に念仏をすすめ、仏法を説いて頼朝を感嘆せしめたことがありましたが、郷
里熊谷へ帰る時に、この直実は鞍をさかさまにして後を向いて馬に乗り、西方にだけ頭を向け、西
方浄土をひたむきに心に画きながら、念仏を唱えつづけていったという話もあります。
法然さんの弟子には、大体素直な人が多かったようで、法然さんが念仏さえ唱えていれば、必ず
極楽浄土に往生できるとおっしゃっているのだから、自分達は念仏一念でいこうと、ひたむきに念
仏を唱、兄つづけていて、自分達の極楽往生を少しも疑わなかった人も、ずいぶんといたようです。
法然さんのことは、ひとまずこのくらいにして、あまり私は筆にしたことがなかったのですが、弘
法大師空海のことについて、書いてみようと思います。
弘法大師のこと
あたいだぎみあと
空海は、宝亀五(七七四)年、讃岐国多度郡屏風浦に生まれました。父は佐伯直田公、母は阿刀
まお
氏、彼の幼名は真魚といいました。彼の遠祖は讃岐国造であったといわれ、この地方きっての名門
であり、一族には官人や学者が多かったのです。幼少のときから神童のほまれ高かった空海は、十
五歳のとき母方の伯父で、伊予親王家学士であった、阿刀大足に伴われて上京し、やがて十八歳に
して大学の明経道の科試に及第しました。
うしかいうまざけ
空海は大学において博士岡田牛養に左伝を教わり、味酒浄成に五経を学んだのですが、入唐した
際、唐の知識人たちを驚かせた盤かな文才はこのころ培われたのでありましょう。
大体空海の中には文化的な資質と野人的な前進力とが融合されていて、学問に深く、書画には天
才的なひらめきがあって、書の道においては天下の三筆といわれ当代一流の文化人でありました。
165続・聖者方の話
また一方においては、進取の気性に富み、人間の本質探求のためには一身を惜まず、役の行者の切616
り開かれた、大峰山をはじめ、けわしくきびしい山々をかけめぐり、あるいは、昼夜をわかたず、
静座瞑目して、神霊の世界との交流をはかったのです。それは冬も夏も通して行われ、冬は深い雪
の中でかえって薄着をして坐り、炎夏には殻類や水を断って、過去世からの業因縁を消滅しよう
と、努力したのであります。
幽界の生物に対処する
深い山中における修行には、その山に住む幽界の生物が必ずその修行の邪魔をするものですが、
空海の場合にもその例にもれず、修行の日を経るにしたがって、怪異なことが多く、海中より毒竜
が焙々たる炎をはき、朱を流したような口を大きく開き、今にも彼を一のみにしようと迫ってきた
ぐもんじ
時があります。その時空海は、心を少しもさわがせず、端然として坐り、静かに求聞持の真言を唱
えつづけました。するといつのまにか、毒竜も海底に消え、怪しい光も姿を消しました。とみるま
に遥かかなたより明星がとびこんできまして、口中にはいると覚えますと、空海の一身は大光明に
包まれ、自らの吐く息も光り輝いて、すべてが照り輝いている感じになりました。
こういう霊的状態は、覚者になった人が、それぞれの方法で体験いたしますが、私なども人の病
気の治療中、多くの幽界の生物におそわれたことがあります。しかし、心を少しもたじろがせず、
神との一体観を念じつつ、それらの生物の方に心を進ませました。するとたちまち、それらの生物
は消、兄て、あたりは光明燦然と輝いていたのであります。ですから幽界の生物や、幽魂におそわれ
た場合には、勇気をもって、その方に向かって心を向きなおさせると、必ずそれらの怪異は消え去
るのであります。
人間は常に自分が神の子であり、神を思えば神の大光明で怪しい物事は消え去ってしまうもので
あることを、信じなければいけません。この大宇宙はすべて、神のみ心の大調和によって運行され
ているものでありまして、その運行を妨げるものは、神の愛を信ぜず、神から離れた行為をしてい
る人間達の想念波動によるのです。常に自分達の想いを神のみ心の中にいれておくことが大事なの
です。その方法がたゆみなき祈りの生活なのであります。世界平和の祈りは、その最も強力なる神
と人間とをつなげる大光明の柱であり、梯子であるのです。
167続・聖者方の話
激しい修行のすえの自在心
168
空海は、こうした山林修行における幽界の生物や様々なる怪異な出来事によって、次第にその霊
えん
能を深め、ついには霊覚に達したのであります。その間、彼の守護の神霊の要請によって、役の行
者がたびたびその援助をしたのであります。延暦二十三年(八〇四)空海は一留学生として密教を
学ぶために唐に渡りましたが、どの留学生も味わったように大変な苦労をして、長安(唐の首都)
あじやウ
に入ったのであります。そして、恵果阿閣梨にあったのですが、阿閣梨は過去世からの空海との縁
によって、空海の素晴しい霊性を知っていましたので、待ちに待っていた自分の後継者に会えたと
非常に喜んだのであります。そして急速に胎臓界潅頂を、そして、金剛界潅頂を授けたのでありま
す。
日本に帰ってからの空海は、最澄のように比叡山を中心にしての活躍ではなく、日本全土を股に
かけての修行の旅をつづけたのであります。その間多くの奇跡をおこし、真言密教の力を人々に知
らせたのであります。
しげ
空 海という人は、役の行者と似たようなところがあり、役の行者のように屍化仙にはなりません
でしたが、つねに霊幽界肉体界を往復して、様々な奇跡を演じていたのであります。真言密教の唱
え言の中にも勿論力はありましょうけれども、空海そのものの、はげしい修行の末に得た自由自在
心の力が非常に強かったのであります。
日本だけでも宗教の道には、様々なゆき方がありまして、仏像を仏の現れとして、その仏像に帰
依し、礼拝することが宗教の道であると思っている人や、比叡山で勉強した人達のように、哲学的
に宗教を知ろうとしていた人々、はた又、法然、親鸞のように、すべての哲学や宗教の学問を一度
は捨て切って、易行道念仏門に入ってしまった人、それに役の行者や空海のように、山野を疾駆し
おの
て様々な奇跡を行い、それが自ずから人々の宗教信仰心を高め揚げた、というようなゆき方もあり
ました。
伝教大師のこと
空海のことを書きますと、どうしても同時代に宗教活動をし、空海と同時期に入唐して勉学し
た、空海と同じように有名な伝教大師最澄がいます。先程も一寸ふれましたが、最澄は空海とは全
く行き方を異にし、行動よりも哲学的に傾きやすく、実践派の弟子達よりも宗教学的弟子を多くつ
169続・聖者方の話
みずか
くりました。しかし、常に空海の宗教的力を尊敬し、一時は、自らも空海に弟子入りした程であり
ました。だがついに比叡山仏教の範蒔をぬけられず、空海ほどの悟りに至ることができませんでし
た。素質的に空海ほど非凡でなかったわけです。私の霊覚にょれば、後に生まれかわってから大悟
に至り、現在は救世の大光明の中で守護神の一人として働いています。
人間というものは、現代の人達がみているように、この世限りの肉体人間ではなく、前生、前前
生というように、過去に多くの霊幽肉の各界の経験を経て、はじめて神我一体の人間になれる心の
状態を体得するのであります。ですから今生においてはげしい修行をしたという人よりも、今生に
おいては短かい期間の修行しかしないが、過去世においてすでに大悟の手前まできていた人の方
が、先に悟りの道に到達することが随分とあるものです。
170
空海は二人いた?
空海についてはいろいろの奇跡話がありますが、空海は法然や親鸞や道元のように、その全容を
把握することができません。何か霊界の霧におおわれたように、その事柄、事柄だけしかみること
ができません。一説によれば、空海とは、二人の人格が一つに混って、二人物が一人の人間として
存在したように、後世に残ってしまったので、一人の人間として判断するのにはむずかしい、とも
いわれています。
空海の半面は、温厚優雅で、書画に長じ全くの文化人の素質をもっていますのに、半面はそれと
は正反対に、身命をおしまず、山野をかけめぐって、人間の実体や、人間と宇宙とのつながりを探
求しつづけた、行動そのものの野人的人でもあったのです。ですから、二人の人間が一人の人とし
て、存在したのではないかという疑いも出てくるわけです。しかし、そういうことはともあれ、空
海は、やはり日本宗教界の代表的覚者であったことには、違いありません。
新しい神の力
世界各国に聖者、賢者と呼ばれる人々が現われ、大きく人類の破滅を防いでまいりましたが、今
日のように人類殺職兵器は、核爆弾をはじめ、あの恐るべき細菌兵器等々多くの危険なものを各国
がもっています。お互いが自国を守ろうとして、恐るべき兵器を造るのですが、その兵器がお互い
の国土を破壊してしまうことを、どうしてもっと深く考えてみないのでしょう。今や様々な公害に
よって、空気も水も人間の生存をおびやかしつつあります。そして、人口の増加にともなう食糧の
171続・聖者方の話
危機や、様々の資源の減少というように、すべてのものがこのままでは地球人類の滅亡を指さして712
います。この危機を救うものは、今日まで現われた聖者、賢者の今日までの力ではとうてい救いよ
うがないのです。今日の地球世界を救う力は、先ず、核兵器を使えなくする力、空気や水を人類の
生命維持の力としてよみがえらせる方法、食糧や、各資源を地球人類が生きうるだけのものを常に
充足させていける方法、等々というように、今日までの宗教観念ではどうにもならない事柄を処理
してゆかねばなりません。それはどうしても、字宙の神々と地球人類との一体化による科学力の発
見にほかなりません。あらゆる兵器の力を消滅させ、今日以外の方法で食糧を作り、資源を探り出
し、そして空気や水を人類のための本来の生きる力となしうる科学こそ、どうしても地球人類が自
分のものとして、使いこなせるようにならなければなりません。
その道はすでに開かれているのです。それが、祈りによる世界平和運動から生まれた字宙子科学
なのであります。宗教の根元である祈りと、この大調和科学の発展とによってのみ、地球人類は救
われるのであります。その救いの母体である救世の大光明の中には、過去からの多くの聖者、賢者
が働いているのであります。
愛の種々相
ー真実に自他を生かす道ー
さまざまな愛の形
愛については様々な人々が説いていますし、私も時あるごとに話したりしていますが、真実に自
分を愛し、人を愛すということは、実にむずかしいことなのです。
愛しているつもりで、実はかえってその人を傷つけていることなどは、無数にあることです。
真実に愛に徹するということは、このまま無我の心境なのです。無我の心境からの行為が真実の
愛として現われるのです。しかし、そうした説法めいた言葉よりずっと奥底から、自然と行為に現
われてくるのが、真実の愛なのであります。
じねんほうに
と申しましても、これは理想の姿でありまして、普通一般の人と致しましては、こう自然法爾的
173愛の種々相
まれ
に、愛行為ができることは稀なのです。741
常に常に自我を消し去る精進をしながら、愛の心を磨いてゆくことによって、そうした理想であ
る、大愛の人になってゆくわけです。
一般の人の中には自分の欲望を遂げることを、あたかも愛の行為と勘違いしている人がたくさん
あるのですから、愛の種類やその段階についてくわしく説明してゆくことに致しましょう。
あいあい
愛という言葉は、合、相という言葉と語源が同じでありまして、その深さは違いますが同じ意味
が含まれているのです。ですから単純にいえば、一つになるということであり、一に還えるという
ことなのであります。
そこで一番愛の深い心は、一なる宇宙神のみ心と一つになるということになります。神のみ心の
ままなる行為をする時、その行為はすべて真実の愛の行為となってゆくのです。イエスなどはその
代表的な一人であるわけです。
そこで、神のみ心と一つになってしまえば、あとのことは何もとやかくいうことは一つもなくな
るのですが、神のみ心の中に全想念を入れきってしまうことがなかなかできないのが、この地球人
間なのであります。
愛の心には、このような神と一つになろうとする愛と、人類すべてを愛そうとする人類愛、国家
を愛する愛国心、隣人を愛そうとする隣人愛、親兄弟姉妹を愛する肉身愛、男女が愛し合う恋愛と
いうように、幾種類もの愛の形があります。
こういう様々な愛の形も、これがすべて、神のみ心にそった道を進んでおれば、みな万々歳なの
ですけれど、この愛の形が、自我に蔽われた想念の波にゆがめられて、とかく正常な愛の行為にな
らないで、いびつなものになりがちなのです。
恋愛と結婚
まず恋愛について申しますと、これは、男性と女性が一つになってゆく為の感情でありまして、
普通人ならば、誰にでもこの感情はあるのですし、これは神のみ心のひびきとして当然なることな
のです。
何故かと申しますと、この宇宙はすべて陰陽、プラスとマイナスの離合集散によって、動いてい
るのでありまして、陰陽、プラスとマイナスの融合や分離の働きがなければ、この宇宙の生成進化
は成り立たないのであります。
175愛の種々相
こういう原理は人類にも働きかけているのでありまして、人類も男性と女性によって成り立って
おります。そして、男性と女性(つまりプラスとマイナス) の融合によって、種族は繁栄発展して
ゆくわけなのです。
ですから男女間において、恋愛感情が起るのは至極当然なことで、別に恥ずべきことではありま
せん。ただここで問題なことは、神のみ心である原理と、肉体人間として、久しく神のみ心から遠
ざかって肉体人間独自の生活を築き上げてきた人間との大きな差によりまして生じた業想念が、人
類を繁栄発展させてゆくべきこの原理からくる恋愛愛情を、自分の欲望を満足させる、いわゆる自
我の波の中に巻きこませてしまいまして、お互いが相手を自己の満足の為の道具のような立場に置
いてしまいがちになってきたのです。そこで、或る一瞬間一瞬間だけの楽しみはあっても、永遠の
生命につながる深い大きな喜びにはならないで、お互いが不平不満を持ちはじめるようになるので
す。結婚も同じようなものです。
神のみ心である愛の心による調和感が乱れた場合は、その恋愛や結婚には、私流にいう消えてゆ
く姿がそこにあるのですから、お互いが神のみ心に入ってゆく、祈りを捧げて、その消えてゆく姿
に想いを把われぬようにしないといけないのです。
176
恋愛でも結婚生活でも、常にお互いが相手の立場になって動いてゆく、
れが真実に恋愛を生かし、結婚生活を生かしたことになるのであります。
という想いになれば、そ
親子兄弟の愛
親子兄弟の愛でも全く同様でありまして、親が子供の心から不調和な想いを常に取りのぞいてや
り、すべては自己の精進努力によって、切り開かれ、達成されてゆくものであって、不正直なずる
い想いで、その結果だけを成功させようとしても、それは人間として恥しいことなのだ、というこ
とを、常に教えてやることが大事なのです。そういう教育こそ、ただただ可愛がるということより、
深い愛の心となるのです。親は子供を可愛がることで自己満足していてはいけません。自分の子供
がいかに人の為に役立つ人間になるか、社会人類の為に必要な人間になるか、ということを、いつ
も考えて子供を愛さなければいけないのです。
柔和なる愛と峻厳なる愛
愛には柔和なる愛と峻厳なる愛とがありまして、この柔和な方は割りかた易しいのですが、峻厳
177愛の種々相
なる愛の行為は実にむずかしいのです。私なども峻厳な方の愛は苦手でありまして、つい柔和な愛
行為の方に傾いてしまいます。叱った後で相手にしょんぼりされた時の気持の悪さは、親御さんや
上役の方たちは、よく御存知のことと思います。
柔和な愛行為は、すぐにその反応がありまして、こちらも気持のよいものですが、峻厳な愛で叱
りつけたりする時は、一時的にもせよ反感を受けたり、相手の心を痛めやしないかという心配も起
りまして、あまり快いものではありません。
しかし、真実に相手を生かす為には、時には烈しく叱りつけることも必要なのです。こうしては
かわいそうだ、ああしてはかわいそうだ、という想いも愛の心ですが、真実にその人を愛するなら
ば、その人の誤った想念、不調和な想念波動を一掃する為の、烈しい気迫が必要なのです。
しつた
愛の叱咤は強い光の波動ですから、業想念波を一瞬にして浄め去ることができます。私など近頃
になってやっと、峻厳なる愛の重要性を身に沁みて知り得たのです。
柔和なる愛と峻厳なる愛とを自由に行為として現わし得る、そういう人に誰もがなりたいもので
す。
ただし、峻厳な愛と見せかけた、冷酷な想いや高慢な想いから出た烈しさは、神のみ心に全く反
178
したものですから、部下や子供を愛のとぼしい想いで叱りつけて置いて、これは峻厳な愛だ、など
と自分の行為をかばうようなことをしないように気をつけないといけません。
自由自在に両面の愛行為のできるようになるのも、やはり神のみ心の中にすっぽり入りこんでい
ないとできないのですから、たゆみなき自己反省が必要です。その自己反省の最も易しい方法が消
えてゆく姿で世界平和の祈りなのです。祈りはそうした自由自在な境地になるためにもかかせない
ものなのです。
愛行為は自分を楽しませることではない
真実の愛行為は、自己を楽しませようとしてするものではありません。相手の生命を生き生きと
させ、相手に調和感をもたせる為の行為であります。
愛するということは、神のみ心をそこに表現することなので、真実の愛行為であれば必ず、相手
の生命は生き生きとしてくるし、心は調和してくるものです。それは即座にそうなるものとそうで
ないものとがありますが、愛されるということによって、その人の心は明るく勇気づけられること
は間違いありません。
179愛の種々相
愛の行為の中には常に、神のみ心が働いておられるので、愛された人は、その愛行為の中に、自拗
己の本質の姿である、神のみ心を感じとるのです。具体的に神のみ心としては判らなくとも、生命
おの
の本源の中から流れてくるいのちの輝きを、愛された人は自ずと感じとるのであり、愛する側は、
相手の喜びを自己の喜びとして喜べるのであります。
愛というものは、お互いの想念が、神のみ心の中で一つになることなのですし、お互いの生命が
調和して生き生きとしてくることなのですから、それに反する行為は、愛のようにみえても愛では
ない、ということになります。
愛の行為は、恋愛や親子や知人の場合、愛情という形でなされますが、情に傾き過ぎますと、業
想念波動に巻きこまれてしまうので、愛情には祈り心がともなわないと、危険なわけです。
自分を真実に生かし、他をも真実に生かすという愛の行為は、やはり祈りによって神のみ心に入
りこみ、そこから生まれ出でたものでないと真実のものになりませんから、常に、愛深い私になら
しめ給え、とか世界平和の祈りによる、神との一体化を瞬々刻々行じながら生活してゆくとよいの
です。
愛とは奉仕精神であリ下座行精神である
宗教をやっている人が、少し古くなってきますと、後輩に対して、頭から教えを垂れる式に、こ
うしては駄目、ああしてはいかん、と押しつけがましく説教してしまう場合があります。
宗教の教えというのは、教えの言葉そのものにあるのでなくして、言葉の奥の行為のひびきにあ
るのですから、その行為を示さないで、言葉だけで人を導こうとしても、到底人がついてくるもの
ではありません。
教えの言葉を人に伝える場合には、伝える人自身が、その言葉の奥の行為のひびきそのものにな
って、人に伝えないと、言葉だけが、押しつけがましく聞こえてしまって、人を感動させ、人を真
実の愛行為に導きあげる助けとはなりません。
自分が自分の説教に酔ってしまって、相手の心を計ろうともせずにしゃべっている人を、よくみ
かけますが、あまり感心したものではないのです。
これは愛の行為からの説教ではなくて、自己欲望の一つの現れに過ぎないのです。愛とは最初に
も申しておりますように、無我から出た行為なのですから、自己がそこに現われただけ、その人の181愛




愛はマイナスされるのであります。
愛の行為とは厳粛なものでありまして、浮ついた喜びの行為ではありません。古代からの聖賢た
ちは、真実の愛行為をするために、どれ程の苦悩をなめつくしてきたか計り知れません。
愛の行為は、自己没却の行為であり、奉仕精神の現れでもあります。それが深くなりますと自己
没却とか奉仕とかいう、そういう想念さえ少しもない純粋なる愛の行為になってくるのです。
母親の愛がこうした純粋なる一体観でなされる場合をしばしば見受けます。純粋なる母親の愛行
為には、いいかげんな宗教者はとてもかなわない気がします。
ところが、子供の為には、そうした純粋な愛行為のできる母親が、一歩、社会の為とか国家や人
類の為ということになると、子供に対したような純粋さは影をひそめて、凡々たる一個の女性とな
ってしまうから不思議です。
またこれと反対に、社会の為、国家の為といって懸命に東奔西走している人が、意外と妻や子供
に対しての愛を行じていないことが随分とあるのも不思議です。
182
愛国心とは
愛国心の問題が近頃話題にのぼりはじめていますが、真実に国を愛するということは、どのよう
な在り方なのだろうか、私ははっきりとこう割り切っております。
国を愛するとは、人類世界の永久平和達成の為に絶対必要である国家に、国民の一人一人が自国
を仕立てあげてゆくことであると思っているのです。
地球人類の完全平和達成という大目的を中心にして国家が進んでゆけるようにすることが、国を
愛する行為であって、ただいたずらに、国家の権威を示そうとしたり、国家の目前の利益だけをも
たらそうとするような行為は、真に国を愛するもののすることではないと思うのです。
まして、自国が人類の平和を乱すような、そんな方向に進んでしまうような運動をしていたら、
これこそ、それが如何に目前に国家の利益があったり、国家の権威を認められるようなことがあっ
たとしても、それは、真の愛国の行為とはいえないのです。
地球人類が大調和することは、神のみ心です。そして人類すべての悲願でもあります。それぞれ
の国家は、この地球人類の悲願達成の為の一つの集団であるわけですし、それぞれの天命が備わっ
ているのであります。
各国家がそれぞれの天命を完うしてゆくところに、世界人類の平和が築き上げられてゆくわけ
183愛の種々相
で、戦争を挑発するような行為や、他国を自国の権益下に従えさせようなどという行為が、神のみ
心であるわけがありません。
只単に国を護るのだ、といって肩肘張って武力張ってみたところで、それで国が護れるわけで
も、国の天命が完うされるわけでもありません。
一つの国の中で、我々の思想はこうだ、私たちはこうだ、といって四つにも五つにも思想行動を
分裂させていたのでは、例えその一つの行動が正しいとしても、その正しい行動者たちが、他の行
動者たちの行動を敵対視してみているようでは、その国の行為が一つに纒るわけがないことになり
ます。
そう致しますと、国家はいつまでも不安動揺した、いつ何時内乱が起るかも知れない、危険感を
もってくらさなければならなくなります。
日本国内における、自由主義陣営と社会共産主義との対立抗争は、常に国内を分裂して他国に乗
じせしめる隙をつくっていることになるのです。
みずか
真の愛国者と自ら思う人々は、何を置いてもまず、自国を一つ思いに纒める運動をすることが第
一です。それには目標がいります。それを私は「世界人類が平和でありますように」という人類の
184
悲願をそのまま祈りにした目標をつくり、右も左も一応この目標に向かって一つになってゆこうじ
あなど
やあないか、どうしても一度全国民の想念を一つに纒めてしまわないと、国内が分裂して、他国の侮
りを受ける。それぞれの思想みなごもっともだが、それは先ず二の次にして、誰も彼も世界人類が
平和でありますように、という言葉には異存のあるわけがないのだから、一応その言葉で結ばれ
て、それからそれぞれの思想を強調し合ってもよいではないか、というところにもってゆこうと思
っているのです。
むな
真の愛国心というものは、それこそ自己の思想想念を空しくして、祖国の天命を完うさせる道に
精進すべきなのであります。私たちの祖国日本の天命は、世界平和達成の中心者としての天命であ
るのです。
自我を空しくして愛を行ずる
社会や国家の為に専心働いている人々の中には、家庭や子供たちを顧みる暇のない人たちがある
と思いますが、それが家庭では自己の偉さを示せないから、他において自己の偉さを示す、という
自己満足の変形で、社会や国事に奔走していて、家庭を顧みない、という人々もおるわけで、自我
185愛の種々相
むな
を空しくして、愛を行ずる、ということのいかにむずかしいことであるかがよく判ります。
どのような愛行為も、自分を喜ばせようとして為されることは駄目なのでありまして、真の奉仕
精神、神に対する下座行精神でなければならないのです。
相手の生命を生き生きとさせる為の奉仕であり、下座行であるところに、愛は生きるのです。相
手の業想念、欲望を満足させるために、その人に奉仕し、下座行をするのではいけません。それは
相手の業想念を助長するだけで、相手の生命を生かすことにはなりません。子供を恐れる母親など
は、特にこの誤ちを冒し易いのです。
真の愛が働いた場合には、必ず相手の生命(これは肉体のことばかりではありません)が生き生
きとし、相手の心が調和し、明るくなり、そして勇気づいてくるのであります。
そういう為の奉仕であり、下座行なので、神の生命に対する奉仕であり、下座行であるわけです。
カルマ
奉仕奉仕といって、いたずらに、業の固まりであるような宗教団体に金品をいれあげたりしてい
カルマ
る人がありますが、これは神への奉仕ではなく、業への奉仕であって馬鹿気きったことであります。
私たち人類の一人一人は、神の生命に対して平等な兄弟姉妹であります。神の生命をよりよく生
かし、より大きく生かしている人々が兄であり姉であります。神の生命をよりよく生かし、より大
186
きく生かすということは、どういうことかと申しますと、人々の生命をより大きく、よりよく生き
生きとさせ、調和させ得た人々ということになります。
世界平和の祈りの行は、目に見える効果はそれと判らないとしても、一人一人の祈りの生活は、
より多くの人々に救世の大光明を与える役目をしているのですから、その点をしっかりと心に銘じ
て、祈りの日々をお過し下さい。
自分を真実に生かさなければ、人の生命を生き生きとさせることはできません。自分を真実に生
かすということは、自己の欲望を満足させることではありません。自己の生命を生き生きとさせる
ことです。自己の生命を生き生きとさせるということは、心に把われの想念が無くなることです。
思いがすっきりと、生命の本源である神のみ心、つまり愛そのものになっていれば、その人の生命
は生き生きとしているのです。
真実に自分を愛している人
心が愛の心そのものになっていれば、自我を出すのではなく、
ような行為を相手に対してしているのであります。
自然と人の生命が生き生きとする
187愛の種々相
自分が自分がという想念がある以上は、深い愛の行為はできません。自分がという想念が下座に818
むな
ついた時、空しくなった時、その人の行為は生きてくるのです。
あの人の為にしてやるのだ、という気持があっては、その愛の行為は深いものでありません。さ
せて頂くのだ、という気持に転じた時、その人の愛行為は深いものになってゆくのです。
どんな辛い仕事でも、如何なる下座の役目でも、真実に感謝して、させて頂くというような気持
のある人は、実に尊敬に価する人です。してやったのだ、やってやったのだ、というような素振り
の人の行為は、鼻もちならぬ嫌味なものです。
人に目立たぬ善行為を、それを感謝の気持でやっている人が、私の会にはたくさんいますが、涙
、、
一でる程有難い気がします。
こういう人々が真実に自分を愛している人なのです。自分を愛するとは、自分の本心、神のみ心
を現わすことで、神のみ心を行為に現わすことです。
ですから、無我になることが、自分を愛し、人を愛すということになるのですが、この無我にな
るために、消えてゆく姿で世界平和の祈り、ということになるのであります。
無我になる、この我は、業想念波動のことでありますから、業想念波動を常に消えてゆく姿とし
て、祈り心の中に入れきってしまっていれば、無我というむずかしそうな言葉でいうより、容易に
本心が現われてくるのです。
本心とは神のみ心なのですから、本心が現われた時には、その人は神の子としてそこに存在して
いるわけなのです。そこで私は個人的には本心の開発を主目的として、世界平和の祈りをすすめて
いるのであり、と同時に大きな広い意味、つまり人類愛の行為として、世界平和の祈りをすすめて
いるのであります。
人類愛と世界平和の祈りの実践畠
最後に人類愛について述べますと、個人の本心開発がそのまま、人類愛につながってゆくのです
が、個人の場合は、個人だけでできることですが、人類の問題になりますと、その間に社会とか国
家とかいう集団があり、その総体的なものが人類というわけですから、人類愛を貫ぬいてゆくこと
は大変です。
例えて申せば、一国の大統領とか首相とかが、自分としては戦争行為は嫌だし、戦争行為につな
がる武力の増強などということはしたくはない、と思っていても、国民の輿論があり、敵対行為を
189愛の種々相
してくる国がありますと、人類すべてを愛する、という神のみ心にそいたいと思いながらも、輿論蜘
や他国の挑発行為に引かれて、武力を使ってしまう、ということもあるのです。
これはその責任地位が高ければ高い程、自己の本心に反することを、止むを得ずしてしまうとい
うことになりかねないのです。
そこで、人類愛の根本の心である、世界平和樹立の為には、そうした高位高官に働きかけるより
も、横のひろがりである一般大衆の中で、世界平和を打ちたてることが、あなたの為でもあり、同
時に国家人類の為でもあることを強調して、国民運動、民間運動としてやってゆくことが大事だと
思うのです。
人類愛というのは、神のみ心がそのまま、横ひろがりに広がって、すべての人々の上に光明を与
えることであつて、これ程高い愛の行為はないのであります。
個人の本心を輝かす愛の行為を、人類愛として広げるのには一体どうしたらよいか、それは社
会事業や、救済・事業も大事だけれども、それと平行して根本的な、人類すべての業想念波動をすっ
かり光明化してしまう、世界平和の祈りの実践行為をすることが、より大事であると思うのです。
この祈りの行は、その行をすることによって、自己や自己の周囲も立派になり、世界人類の平和を
導き出す、大きな役割を果すことになるのであり、そして最後の結着は、
大調和科学によって、世界平和が達成されてゆくのであります。
宗教精神から生まれ出た
191愛の種々相
192
祈りの真髄
大救世主自ら陣頭に立つ
先日、或る青年からの質問で、
「先生、僕は天と地をつなぐ為には、祈りが必要であることは判るし、祈りの効果も判る。しか
し、宗教的な祈りだけでは、唯物論者の多いこの世界が救われてゆくでしょうか」
と、自分は祈りの生活をしながら、祈りの効果も判りながら、自分たちはそれでいいが、唯物論
者、無神論の多いこの世界のことを考えると、何かじっと祈りの生活だけはしていられぬ焦燥を感
じる、というのです。
私も全くこの青年に同感するのです。今日まで行われている、宗教的な祈りだけでは、とてもこ
なおさら
の世界は救われそうもありません。まして、宗教的な説法だけでは尚更に救われそうもありませ
ん。といって、祈りは駄目なのだ、などとは、祈りを最も大事な行為としている私がいうわけはあ
りませんし、宗教的な説法もまた必要なことであると思っております。
ところが、普通いわれている、いわゆる自分の心の慰めだけに止まっているようですと、その祈
りの効果は極めて狭いものになってしまいます。祈りというものが、自己の本心を照り輝かす程の
ものになっていないと、他の人の心に影響を与えてゆくことはできません。まして、世界人類の為
に役立つ力にはなりません。
いのち
祈りというのは、私が常に申しますように、生命の本源に肉体身の自己の想念を、すっかりお還
しして、生命の本源と肉体身の自己とが、全く一つになる為の行ないなのであります。祈りは単な
るお願い言ではないのです。
本来心は神と全く一つであり、神の子である人間なのですから、その本来の姿に還えるための行
事が祈りなので、真実の祈りの姿は、そのままが、神の子人間の姿になるわけなのであります。
しかしなかなかそこまでの祈り心になっている人は紗ないのです。宗教の祈りを行じているとい
う人の中でも、真実の祈り心に徹している人が砂ないのですから、唯物論者、無神論者に、祈りに
193祈りの真髄
よる善なる影響力を与えることの難しさは思いやられるわけです。そこで前記の青年の質問のよう隅
な疑問がでてくるわけで、私も全く同感なのです。世の中の人の大半が、そんな風に思っているこ
とと思います。
私も同感だといってはいますが、その同感しているところは、今日までの祈り、ということに対
してのものでありまして、世界平和の祈り、となると、全く別の話になってくるのです。
世界平和の祈りと今日までの祈りの方法とは、その力、その効果において、くらべるべくもな
い、大きな差異があるのです。
今日までの種々な祈り方によっても、病気が直り、災難を防げたこともかなりあると思います
が、それは単に個人的な奇蹟であり、個入的な浄まりであるのですが、世界平和の祈りというの
は、個人と人類が同時に成道する、同時に救われる、という本願によってはじめられたものであり
まして、個人の幸せと人類の平和とを一つのものとして、この祈りがはじめられたのであります。
うつわ
これは肉体側の私の悲願に大救世主が応え給うて、私をその器として使って下さることになっ
て、世界平和の祈りという祈りが生まれ出でたのでありまして、只単に、私も世界平和を祈ってい
る、というような、個人的な祈りではないのです。
世界平和の祈りというのは大救世主自ら陣頭に起ち、肉体人間の善意を統一して、地球世界を最
後の土壇場から、一挙に救い上げて、宇宙神のみ心である、地球世界の完全平和を築きあげること
になっているのであり、着々と、その光明は地球世界に影響しはじめているのであります。
どのような驚くべき奇蹟が起りましょうとも、起こすことができる人が現われましょうとも、そ
れが、地球人類の平和達成の為のものでなければ、その価値は低いのであります。原子力の発見そ
のものは素晴しいが、それを原爆に使用したことは、折角の力を悪魔的な行為にしてしまったこと
で、それは信仰の奇蹟にもいえることであるのです。
私共の世界平和の祈りは、個人的にも人類的にも多くの奇蹟を生みなしてゆくのでありますが、
奇蹟の最大なるものは、宇宙科学の大智慧を頂いたことであると思います。
祈りが単なる祈りでなく、祈りから驚天動地というべき、宇宙科学の原理を知らされ、その原理
が着々と押し進められ、やがて驚くべき、実践方法が知らされることになっているのであります。
今日までに発表されている理論でも、地球科学者が二代三代、一世紀にもわたって研究せねば成
立せぬような理論が、実に系統だって、この地球界で判り易いような、絵図面や数式によって説か
れていると、研究部員の或る理学博士はいっているのであります。
195祈りの真髄
この宇宙科学の出現は、祈りだけでは唯物論者に真理を知らせることはできない、と嘆いた青年
へのよりよき答となるのです。真実の祈りの中から、世界平和の祈りの中からは、地球を救い得る
科学が生まれ出でたのだ、ということがいえるからです。
私が最初に、青年の祈りへの疑問に全く同感だといったのは、今日までの祈りが単に個人的な安
心立命だけのものである、としての同感であったので、世界平和の祈りのような、個人人類同時成
道の祈りの中からは、やはり、世界人類を救い得る大きな力が自然と生まれ出てくるのであります。
世界平和の祈りは、宇宙科学を生み出すだけではありません。治病に災難防止に、家庭の調和達
成に、多くの奇蹟的な力を発揮することになっているのです。それはやがて、日を経、月を経るに
従って、事実として次々と現われてくるのであります。
あらゆる不完全、不調和が消されてゆき、人間本来の神の子たる姿が、完全、調和の姿として現
わされてゆくことは、宇宙神のみ心が現われれば当然なことであります。宇宙神のみ心の正しいひ
びきに、個人人類の想念波動を合わせてゆきさえすれば、個人も人類も、完全な平和な姿をそこに
現わすことのできるのは理の当然です。
しかし、今日まではそれができなかったのです。何故ならば、業想念波動の方が、個人的な祈り
196
の力より強かったからです。しかし今からはそうではありません。救世の大光明波動は、いかなる
業想念波動をも光に変え得る力をもっているからです。救世の大光明の働くところ、業想念波動は
次々と光に変ってゆき、闇の想念は消え去ってゆくのです。
これは理想論をいっているわけではなく、実際にそうなってゆくのです。
その為の大救世主の出現であり、世界平和の祈りの出現でもあるのです。今日では単なる宗教理
論では間に合いません。唯物論者にもはっきり、それと判る、実際の効果でなければなりません。
それは恰も、テレビが普及されて、外国の街々が手に取るように見えたりすれば、誰もが、その外
国の街のあることを知る、と同じように、実際に見せられ、聞かされれば、それが事実である、と
納得しないわけにはゆきません。
それと同じようなことが、これからの宗教の世界にも起るのです。今までは思いもかけなかった
ようなことが、実際の出来事として一般大衆の前に繰りひろげられるのです。いいかえれば、神の
力を、まざまざと眼の前にみせられるのです。論より証拠という言葉の通りになってくるのです。
それでなければ、祈りの生活は、いつまでも単なる個人的な安心立命の生活となってしまいま
す。個人の安心立命が、同時に人類の安心立命になるような大奇蹟、それが今日からの宗教の在り
197祈りの真髄
方となってくるのであります。
僥倖を頼む安易な生き方をすてよ
いちばち
一か八かという言葉がありますが、今日の世界は、救われるなら、完全なる平和の姿になるのだ
し、完全なる平和の姿になり得ぬのなら、これは必ず滅びる、という土壇場にきているのです。
いいかげんのごまかし合いや、一時の話合いなどで、世界の危機が防げるものではありません。
世界の危機は、あらゆるところで、次々と起っているのであります。米国がソ連が、英国が仏国が、
中国が、そして群小国がすべて、我身可愛さ、敵憎さ、という態度で国政を執っているわけで、少
しでも、我身の為にならぬ国には好意が持てない、という気持でいるわけで、その対立抗争の根は、
今日ぽこんと起ったわけではなく、永い年限の間に、積み重ねられて堅い根のようになった、想念
波動のぶつかり合いであるのですから、表面的な政治工作などではとても駄目なことなのです。ま
して、その政治工作さえもうまくいっていない今日の状勢は危いことこの上なしであります。
何んにしても、根本的には、どこの国も利害を異にしているのですから、この利害関係が全く一
つにならぬ限りは、いつかは大爆発を起してしまうことになるので、何んとしてでも、世界の利害
198
を一つにしてしまわねばならぬと思います。
世界共通の利の方はまだ判っていないらしいのですが、害の方はどこの国も判っているのです。
それは戦争であるということです。ところが戦争よりもっと害のあることがある、と思っている国
もたくさんあるのです。それは何かといいますと、自国が他国に侵略されるということなのです。
他国の武力の前に自国が自由にされてしまう、ということは、戦争で滅びるよりもまだ害である、
と思っている国々がかなりあるのであります。
自国が侵されるのなら、一か八か戦争してしまおう、当って砕けろ、という気持なのです。その
気持は判りますが、判ったからといって、一か八かで戦争されてはたまりません。小国の中にはこ
の一か八かの気持で動いている国が随分あると思います。日本の太平洋戦争なども、一か八かであ
ったに違いありませんが、今日の一か八かは、地球を全滅させる恐れのある戦争を導き出してしま
うのですから、そんな一か八かをやられてはたまりません。
各国の指導者も馬鹿ではないから、世界が滅びてしまうような戦争をやる筈がない、というよう
な安易な考え方で、自分自身の目先きの利害だけを追いまわしている人々がいますが、人間窮地に
立つと、何をするか判らないものであることを知らねばなりません。国々の立場でもそうでありま
199祈りの真髄
きゆうそか
して、小さな国々の窮鼠かえって猫を噛むという、諺のようなことが起りかねないのであります。O
2
ぎようこう
なあに大丈夫さ、というような、自分自身にはなんの成算もないのに、単なる僥倖を頼んでいる
安易な生き方は、今日の差し迫った世界状勢の前では困りものです。
どんな小さなことでも、どんな弱々しい力でも、それが世界人類の平和の為に、という願いのた
めの働きであったら、その人は立派に神の子の生き方を現わしていることになります。
危急存亡の時こそ救世の大光明を受けよう
天は自ら助くるものを助く、であって、世界人類の一員である自分が、世界人類の平和の為に何
一つしないでいて、只、誰かがなんとかするさ式の生き方をしていたのでは、その人も人類も共々
に滅びるより仕方がありません。どんな小さなことでも、その人自身が自ら助けなければなりませ
ん。真に自らを助くる者は、世界人類の為にも働いていることになるのです。
真に自ら助くる者とはどういう人かといいますと、自分の本心の生き方に忠実である、というこ
となのであります。自分の本心に忠実であれば、自然に愛の心が湧いてきます。愛の心とは他と自
己とを一つに観る心です。自他一体観です。そういう愛の心は、この世の中の悪い事柄、間違った
状態を、只黙ってみていられない想いを湧きあがらせて参ります。その想いはひいては世界人類の
平和を願う想念にまで拡がって参ります。自分だけが幸せならよい、というような安易な人生観で
はいられなくなるのです。
そこで、少しでも人のお役に立ちたい、人類の為に働きたい、と思うのですが、その方法がなか
なかみつかりません。そういう人たちに私はその方法を教えるのです。さあ、皆さん世界平和の祈
りを致しましょう。世界人類の心に蓄積されている、自分勝手な想い、人を憎悪する想い、悲しみ
の想い、妬みの想い、権力欲の想念等々を、救世の大光明の力によって、浄め去って頂きましょ
う。その為には救世の大光明を世界中にふりまく一つの器に自分もならせて頂きましょう、という
気持で世界が人類が平和でありますように、と唱えて下さい。そう祈れば、世界人類の心の汚れと
同時にあなた自身にまつわる業の波動も浄まってゆくのです、と教えているのであります。
世界人類の運命を善くするのには、肉体人間の自分たちが、離れ離れに行動したところでどうに
もなりません。多くの人々が一つ想いになって、世界人類の平和を瞬々刻々祈ることが第一なので
す。世界平和の祈りは救世の神々が結集して大光明となっているのです。
この地球がはじまる時にはすでに今日救世の大光明として、地球世界を救うことになっていた神
201祈りの真髄
神が、大救世主を中心にして、予定の行動として結集してきているのです。この救世の力は、今日022
の歴史はじまって以来の大きな力なのです。
各人がなにもしないで、のほほんとしていたら、地球は必ず滅びてしまいます。滅びるより滅び
ない方がよいにきまっています。信じても信じなくともそれは結構ですから、なんにもしないで滅
びるよりは、藁でもよいからすがってやれと思ってもいいし、どっちにしても一か八かだという気
持でもよい、試みに世界平和の祈りを実行してみて下さい、と私はいうのです。
現在では個人だけの幸せなどというものはあり得ないのです。現在幸せだといっている人も、実
は幸せそうにみえているだけで、その幸せはいつ崩れるかも知れないはかないものなのです。
宇宙は常に変化しています。そして今や大きな変化を成し遂げようとしています。地球も宇宙の
一つの星です。地球の動きも大きく変りつつあります。これは科学的に種々と知らされています。
今日から、今までのような生き方をつづけていたのでは、生きてゆけない程、地球の変化は大き
いのです。地球人類は、好むと好まざるとによらず、大きな変換期に入ってきているのです。
一方では大戦争の危機として、人々の心を乱し、一方では、天変地異の様相として、人々の心
を、嫌でも応でも変化せしめないでおかない時代に、今はなってきているのです。皆さんは、まだ
そのことに気づかずに、呑気そうにしているのです。
こうした危急存亡の時に、救世の大光明の大きな働きがなされるのですが、人々はいちはやく、
この救世の大光明の光明力を受ける必要があるのです。それは何もむずかしいことではありませ
ん。どんな土地にいても、どんな日常生活の中にいても、今の立場そのままでいいから、世界人類
が平和でありますように、と祈り、守護の神霊への感謝をつづけてゆけばよいのです。
汚れた想念を浄める
一か八かという程、気持を緊張させなくても、ゆっくりした気持で祈っていてよいのですから、
自分自身の救われと、世界人類の平和とを同時に叶えられる、世界平和の祈りの一員に一人でも多
くの人が、一日も早くなることを私はおすすめするのです。
そう致しますと自分でも気づかぬ間に、心の持ち方が変ってきたり、生活が明るいものに変化し
てきたりするのです。何故そうなるかと申しますと、世界平和の祈りに自己の想念を向けますと、
救世の大光明の光が、その人の霊幽肉の三体を常時浄めていてくれるからなのです。汚れた想念、
業想念が次々と浄められてゆくからなのです。
203祈りの真髄
この世は想念波動の世界です。想いは常に波動となって宇宙をめぐっています。その想念波動の脳
中は、善いものも悪いものも入りまじって流れているわけで、私共人間はそうした善悪入り交じっ
た想念波動の中に、自分自らも種々な想いを出して生きているわけです。
ですから、自分の出した想念波動によって、この世界を流れている同じような想念波動と結びつ
くことができるわけです。それは自分が現在気づこうと気づくまいとそうなってゆくわけです。こ
れは自然の法則なのです。そこで、自己を立派な完全なものにしたかったら、常に常に明るい想念
波動、正しい想念、善なる想念を出していれば、そうした想念波動と結びついて、自己の運命に明
るい立派なものがくるわけなのですが、人間は、なかなかいつでも明るい正しい想いだけを出して
いるわけにはゆきません。
それはどうしても、過去世から蓄積されている種々の想念波動が、ひょこりひょこりと表面の想
いの中に顔を出すからです。そこで私は、消えてゆく姿、という言葉をつかっているのです。
どんな嫌な想いも、間違った念いも消えてゆく姿なのだから、この消えてゆく姿を、はっきり
と、神々の光明の中で消して頂きなさい。それには、嫌な想いや間違った念いのでた時こそ余計に
世界平和の祈りをして、救世の大光明の光明力をたゆみなく注入していなさいというのです。
明るく正しい立派な想念の中でも、最も明るく正しく立派な想念は、やはり、神々の大光明の中
から湧き出でてくるのです。そこでなんにも増して、世界平和の祈りをつづけることが大事なので
ある、というのです。
私たちの起こす奇蹟は、すべて世界平和の祈りの大光明によってなされているのであります。宗
教学をやるのも哲学をやるのも勿論結構ですが、真の宗教というのは、すべて頭の中の知的楽しみ
ではなくて、実践的なものです。自己の知的な楽しみの為に、実践的に宗教を行じている人々の手
足をひっぱるようなことをしたら、その人は神の前にマイナスの行為をしたことになるのです。
最高の愛の生き方
宗教的な生き方とは、愛の生き方です。愛の最も深いものは人類愛です。人類愛の実践こそ、最
高の愛の生き方だと思います。世界平和の祈りの実践は、そのまま人類愛の実践なのです。ですか
ら世界平和の祈りをしていることは、自分で人類愛などとは意識してやっていなくとも、そのまま
人類愛の行為となるのであります。
自分のことさえ満足にできないのに、世界平和など、とんでもない、と思われる方もあるかと思
205祈りの真髄
いますが、そういう人は、はじめは自分の運命改善の為にだけ、世界平和の祈りをしていてもよい062
のです。祈りつづけているうちに、自分がいつの間にか、本気で世界平和を祈っていることに気づ
いてゆきます。いつの間にか自分の心が広くなり、立派になっていることに気づくのです。
世界平和の祈りというのは、そうした祈りなのです。禅宗の悟りのように、自分で突きつめてす
るというより、或る軌道に乗ると自然に車が走り出すように、世界平和の祈りという、神界へのエ
レベーターに乗りさえすれば、その人はいつの間にか、肉体界と神界との道を自由に往き来できる
ようになるのであります。
人間には、各人それぞれの想念波動の磁場がありまして、いつまでも同じ磁場を廻っていたので
は、その人の過去世からの想念行為は変化しませんので、その運命を変えようと思えば、その磁場
を広げるなり、高めるなりしないとなりません。ところが一体どうしてよいのか判りません。そこ
で祈りが必要になってくるのです。まして世界平和の祈りのような高さも広がりも無限のような光
明の磁場に、祈りによって引きあげて貰えば、祈りだけで、いつの間にか、自分が立派になってし
まうのも当然なのです。何故かといえば、自己の今までの想念波動の働き場所である磁場が、神界
にまで広げられ、そして、その神界の光明波動によって、今までの磁場も明るい磁場にして貰える
からなのです。
人類の原罪を浄める
人間の想念の流れにも習慣的に道がついていますので、それが今いう磁場のようになってぐるぐ
りんね
る廻っているのです。仏教の言葉に輪廻という言葉がありますが、人の想念行為は輸のように廻っ
ていて、なかなかその輪の中をぬけられないものだ、というのです。そしてその輪廻をつづけてい
る限りは、その人は神界に昇ってゆくわけにはゆかないのです。
それが現在では、世界平和の祈りのような素晴しい祈りができていますので、この世界平和の祈
りをエレベーターにして神界まで昇ることもかなり容易になってきたわけです。これからは地球人
類も、輪廻転生の業生の生き方から、本心のままの自由自在な生き方のできる、神の世そのままの
生き方のできる世界をつくりあげてゆくことになるのです。世界平和というのは、そういう世の中
になることなのです。
そういう世界になれば、病も貧も不幸災難もすっかり無くなり、誰も彼もが本心でつきあえる
し、死という状態も悲しいものではなくなる時代になるのであります。そういう世界に一日も早く
207祈りの真髄
ならせたいと、私たちは世界平和の祈りの宣布に一心をかけているわけです。
そういう時代がくる前に、どうしても通らなければならない道は、人々の心をすべて、神のみ心
に合わせる、という、いわゆる波動調整の時代の到来なのです。無神論者も唯物論者も誰も彼も
が、一度は、心の汚れをすっかり取り払われる時がやがてやってくるのです。それをしなければ、
この地球世界は、天変地異か、大戦争で滅亡してしまわねばならないのです。
ふる
地球世界は今や大きく変ろうとしています。いつまでも旧い殻にとじこもっていたり、自我欲望
のとりこになっていたりしたら、その人は、それだけの苦しみをなめなければならぬことになるの
であります。
人間はどうしても、最後には神の子の姿を現わさずにはいられぬものなのです。苦しみなく神の
子の姿を現わす方法、それが世界平和の祈りなのです。キリスト教でいう人類の原罪とは、肉体人
間が神のみ心から離れ、神の子の資格を忘れ果てたことをいうのです。
ですから、人間が再び神の子の姿を復活させれば、人類の原罪はそこに消え去ってゆくわけなの
です。人類の原罪を浄める為にも、世界平和の祈りを行じつづけることです。キリストは今世界平
和の祈りと共に働いているのです。
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