神への郷愁

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劣6翻.
序文
人は常に何かを求めずにはいられぬ性分をもっている。それが物質的なものであ
れ、精神的なものであれ、ただじっとしてはいられぬ動的な要素をもっている。それ
は生命自体の本質なのである。
生命の本質は神とそのまま直結しているが、人間の肉体の中で働いていると、肉体
という物質体の中に固着してしまって、精神的な働きといっても、それは、肉体に附
属した精神の働きというものになってしまい、神そのままの、生命の本質としての精
神の働きとは程遠いものになってしまう。
人間は幾多の輪廻転生の経験を経て、精神というものが、肉体に附随して生れてき1
たものではなく、生命の本質である、神のみ心の中から生れ出てきたものであること
を悟ってゆく。唯物的な人でも精神ということに重きを置く人が随分存在するけれ
ど、これはあくまで、肉体世界に附随した精神であって、神そのままの本質的な精神
ではない。
人間が物質的な幸福を求めるのも、生命本来の自由自在性を求めている姿であっ
て、それは浅い求め方ではあるが、何も求めることをしない怠堕な空虚な生き方より
も、一歩進化の道を進んでいるのである。物質的な幸福を求めることによって、今日
の文明文化の世にまで進展してきたのであり、今日のような世の中になって、はじめ
て真に神のみ心のままなる精神というものを求めざるを得ない、心の状態に多くの人
々が成長してゆくのである。
そういう人間の成長のための知識というものが、今日程必要な時代はないのであっ
て、真の精神の糧になる良い書物が多くでることが望ましいのである。そのような意
味で私は易しく空気を吸うように水を飲むように、真理が了解できる書を出したいと
2
思って、常日頃から心掛けているのであり、この随想集も、そういう書物の一つなの
である。一編がみな短いものなので、誰れにでも読み易いものなので、手軽く気軽
く、何度びでも読みかえしていただいて、少しでも魂の糧になれば幸甚であると私は
思っているのである。
薯者識
3
4
目次
序文
美の探求
美の探求
3428221?11
純真無擬14
第九交響曲をきいて20
単純化25
ソ連人のヴァイオリソ演奏をきいて…30
9
人生を美化するために
少年合唱団をきいて
〃一
π に想う
夕陽によせて
自然の風光の中で
天地の恩
折れた百合
39 無心の美
43 そのままの心
4641
3?
山は美しい
神秘の世界への感謝行
人間の智恵
花と動物
心の青空
大自然との融合
787266625349 潮




自然の風光の中で
花の心
乙女の純潔
香り高き人格
?469645650
愛犬
野平愛仔
和情
良の
論反
猫者応犬
100948983
ひびきを高く清らかに
979286
81
天然自然の理
仔犬を抱きつつ想う
心の灯を消すな
濫の中のライオン
蜂のいのち
老人のユーモア
10194101
心の灯を消すな
125117111
105
新しいもの古いもの
時計5

心試結イ仕楽恥美有和
宴験綾毒名磐
翻3蓬い無洋
るにてラ居家との名服
171171164157151145140135130125
東京タワーによせて
ジ狂結脱真人神愛
禿燥婚
ととと
ノへ
イ明人
実経
憲形の情
い芝使過
やい
ド朗生皮り居方多
小さな幸福感をこえよう

宇神の

宙の郷
卿愁
119114167160154148143138133128
郷愁

自縛をぬけよ
214210203196190185
批断誕神
判と
とい
亜う,u. こ
口念生と
古き皮袋に新しき酒は汲めない

一歩一歩
苦の世界の解消
生きること死ぬこと
216212206199193181
183
6
行為は言語より尊い
いのちそのままの世界
開かれるもの
愛の実践
人間の愛らしさと憎らしさ
240234230225
不幸は神への跳躍台
心の窓をあけよう
真実の光明思想
貴重な人間の肉体
231232221222
私の願い
私の願

ソ連のチェコ侵入に想う
真の平和精神を文部省教育に
相手の立場にたつ
世界平和への道
愛について
小の虫、大の虫
291281280274267260252245
学園紛争に想う
289285216270264256248
243
R ・ケネディの死とアメリカ
明治維新を顧みて
この世界を支えるもの
平和をつくるのは国民だ
すべてを理解しようとする姿勢…-
善悪の判断をどこにおくか
鎮魂
四季おりおり
一月の生き方珊年賀状
307
291
7
二月の生き方
冬から春へ
善い種を蒔こう
世界平和はみんなの心で

326321316310304
国民に心構えを
巣立ち
陽気な季節
七月に想う
十一月の空
宿題
生きるということ
冬の感想
師走に想う
341334328324319313301
8
装煩多田栄二
美の探求
美の探究
先日上野松坂屋で、ルノワールの画展があったので、仕事の合間をみて鑑賞にいった。
ルノワールの画というのは、裸婦の画は勿論であるが、風景画に至っても、色彩といい、形とい
い、美しく、豊かで円やかで、女性のもっている曲線の美が、そして生命の輝きが、見事に画かれ
ているのである。
「この汚れた世の中で、更にきたないものを探し出すことはない。美しいものを求め、画き出す
ことこそ必要なのだ」
言葉は違ったかも知れぬが、こういう意味のことをルノワールはいっているが、全くルノワール
11美の探求
の画には、この世のみじめさや、きたなさ、醜さというものは、少しも画かれていない。生命の美
しさ豊満さ、女性のもつ肉体の美と自然の風景の中にある、円満な輝やきが、観る人の視覚を通し
て心に沁みてくる。
近頃は、やたらに、人間の醜さや、この世のきたなさをえぐり出すことによって、真実の世界を
画いているような気の画家や小説家が多くなっているし、人の欠点や恥部ばかりをあばいて、正義
漢のような顔をして、とくとくたる人々が存在するが、そういう醜さやきたなさは、人間の真実で
すがた
も、この世の真の相でもない。私流にいえば、すべて真理(神のみ心)を離れていた人類の想念行
為の消えてゆく姿であって、真実の地球世界、真実の人類というものは、尊く美しく、光り輝いて
いる神の生命に他ならないのである。
すがた
だから、そうした尊い美しい人間性や自然の相こそ掘り下げ掘り出して、画き出してゆき、この
世を美しい輝やかな生命の交流し合う世界にしてゆかなければいけないのだ。
そうしなければ、いつまでたっても、醜い汚れた世の中は改まってはゆかないのである。何故か
といえば、あらゆるものごとは、否定し去ることによって消え去ってゆくものであって、肯定して
ゆく限りは消えてゆかないものなのである。

きこと
愛と真と美とそうした真実のものを、完全に具有しておられる存在者を、私たちは神と呼ぶ。そ
して私たちは神なる大生命の子としてここに生存している。であるから、私たちの生命の流れは、
愛と真と美とに輝いているわけで、醜いもの、汚れたもの、悪なるものは、すぺて、神のみ心をは
むらくもセうねんしよぎよう
ずれた想念所業によるのであって、それは人間の本心ではなく、叢雲のように本心の前を通りす
ぎて消え去ってゆくのである。そして人間の本心本体は、太陽のごとく依然として輝やきつづけて
いるのである。
愛を善を真を美を追究しつづけてゆくものは、ついには神と一体となり、悪や醜や汚れに把われ
つづけてゆくものは滅びの門に至るのである。即ち肯定するものはそこに止り、否定するものは消
えるのである。私はあくまで、神の完全性を肯定し、人間の本質が、真善美に輝いているものであ
ることを肯定するものなのである。
13美の探求
14
純真無磯
昨日知人が、高島屋で催された良寛展から、良寛の書の写真版を買ってきてくれた。私は少年の
昔は、良寛さんの人格が好きで、良寛さんのことを書いてある本を、あさり読みしては、こんな純
真な、こんな柔和な、こんな円満な人格に自分もなりたいものだ、なんとかして良寛さんになりた
い、良寛さんこそ自分の道を指し示す唯一無二の人である、と、自分の性情に照し合わせて、良寛
さんを慕いつづけていたのであったが、いつしか種々な人の本を読み、種々な聖者賢者の影響を受
け、良寛さんもその人々のうちの一人ということになってしまっていた。しかし良寛さんの行為か
ら受けた影響は、今日になって、日常生活のうちにその幾分かが自然に行為されているようである。
その良寛さんを、今日大人になった私が書の上からじっくりとみつめて、今更のように良寛さん
の童心、その純真無磯なる心に驚いてしまったのである。
四十点ばかりあるその書は、時代によって書体にはいちじるしい変化のあるものがあるが、その
書はいずれもなんの把われもない、自由で大らかな筆の動きが見え、この人の人格に、じかに接し
ている気持になってしまう。中には非常に書境の高い、誰が見ても、文字として秀れた立派な遺墨
もかなりあったが、私が一番感動したのは、その表紙になっていた「天上大風」という文字であっ
た。その文字は、低学年の少年が書いたような文字であって、良寛の書であることを知らぬ人が見
たら、恐らくは子供の書いた文字と思い違えてしまう程に、飾り気のない文字である。
天という字の、上の横棒と下の一とが馬鹿に間があいていたり、人という字が、いかにも無雑作
のようにしまいがかすれて書かれていたりしているのだ。だが心してみると、なんという欲のない、
なんという飾り気のない、なんという純真で把われのない、なんという自由な、なんという清々し
い一筆一筆であろうか、とその一字一字から眼が離せなくなってしまうのである。
良寛さんの純真無磯なる人格が、そのまま文字になって浮き出しているのである。良寛さんの日
頃からの心境が、筆にも墨にも紙にもわずらわされず、そのままそこに画かれているのである。
15糸屯真i無礎
ひオ
私は自分の心が洗われるような気持になってじっとその文字をみつづけ、閑があるとまた出して
はじっとみつめていたのであった。
私はこれだけ自己の心を、なんの隠しもなく裸で人に見せて、人に恥じないでいられる人を、あ
まり見たことがない。長年にわたり、様々な学問知識を身心につけ、…様々な体験を経ていながら、
童心をそのまま損わずに一生終っていった良寛さんのような人は、確かにいつの世においても、一
服の清涼剤たるを失わない。偉大なる童心、純真無磯の人格、良寛和尚のような人が、今日の世に
も何人か現われていたら、この世はそれだけで、清々しいのではないか、としみじみ思ったのであ
る。
私たち人間は、この世だけの生物ではない。あの世、次の世と永遠に個性をもって生きつづけて
ゆくものである。この世の利益だけのために、自己の永遠の生命(霊) の流れを阻止するような、
自我欲望を出してはならない。幼児が愛らしいのは、自らの生命を汚すような自我欲望や、よけい
な想念を出さぬから、神の生命がそのまま生きていて美しく愛らしいのである。折角の学問知識や
体験を、神の生命を臓すほうの、曲学にしてしまっては、自己の未来も暗いと同時に、社会国家人
類の前途をも暗くしてしまうものである。
16
神は大生命であり、人間は小生命である。小生命人間は、只々神(大生命) のほうに心をむけて
いればよいのである。個人の運命も、人類の運命も、それだけで好転してゆくのである。
人生を美化するために
人間誰しも美に憧れを持たぬものはない。形象の美、心の美。醜いものより美しいものにひかれ
る心を、すべての人間はもっている。しかしその美に対する感じには深浅があり、高低がある。

落日を美しいと観、満月を美しいと観ない人はないが、その人々が、どれだけ落日の真実の美し
さ、満月の真実の美しさを観ているかは、その人々の心の中に入ってみなければわからない。
その美観が形象だけに止まっている人もあれば、形象となって現われているものの、その現われ
17人生を美化するために
の奥の深いところからのひびきに、その美を感じ得る人もいる。芸術家とか、芸術的な人、あるい
は真実の宗教者という者は、形象の美だけに把われず、形象に現われているその奥の心のひびきに
美を感じ、真を感じ得る人々なのである。
うつ
先日「炎の人ゴッホ」という映画を観たが、真実の美を画き出すために、終生欝々と楽しまず、
ついに狂人に近くなって自殺して果てる程、苦悩しなければならなかったゴッホという人を、今更
のように哀しい気持でみつめたものであった。
肉体の彼は不遇のうちに死んだが、彼が苦悩しつつ画き出した作品は、自然の生命の躍動や、神
の命の美を、人間として形の上に現わし得る極限に近いまでに現わし得ていたのである。
ゴッホの悲哀に充ちた一生は、この人間世界の後々の世まで、神の命の美しさ、自然の真実の姿
の美しさを、指し示し、人間の心を美化し、勇気づけてゆくことであろうと思われる。ゴッホは人
間世界を美化せんとして生れた大犠牲者である。
ベートーベソやシューベルトが、その一生が恵まれぬものであったにもかかわらず、あのような
素晴しい数々の名曲を残していったのと全く等しいものである。
ああした名画や名曲のひびきが、どれだけ人間世界を浄化し、美しいものにしているかは、計り
18
知れないものであるが、一般の人々はその真実を殆んど知ってはいまい。一般の人々にその真実を
知れといっても無理であり、ゴッホやベートーベンになれ、というのはなお無理である。いくら美
は好ましいといっても、ゴッホになるにはあまりにもこの世的に悲惨でありすぎるし、なれもしな
い。私たちはそのような特殊な人になる必要はない。私たちの美への探究は日々のその場その場に
おける感謝の想念からはじめればよい。
一般の人々が肉眼で見ている風光や人間より、大自然の姿がどれ程美しいものであるかは、肉眼
以外の心の眼が開いている特殊な人や芸術家以外にはわからないのだが、普通の人々にもやさしく
その美が感じられ、他へもその美を感じさせる方法がある。それが日々の感謝行である。
神への感謝、万物への感謝、ありとしあらゆるものへの感謝の想念こそ、神の真実の美を感じ、
人間を含めた大自然の中に、素晴しく調和した最高度の美の展開があることを感じ得る、誰にも出
来る真善美の感受法なのである。
天地に、日月星辰に、山川草木、人間、動物、鉱物に、いたるところに神の恩寵はあり、大自然
の美が溢れているのだ。我々は神に生かされている。大自然に生かされている。そこになんの不服
があろうか、不満があろうか。不服な想い、不満な想い、それは神の美、大自然の恩恵から自らを
19人生を美化するために
ひき離してゆくものであり、自らを醜い、いやしい人間にしてゆくだけである。神様ありがとうご
ざいます。天地万物様ありがとうございます。そうした想念から世の中は美化されてゆくのである。
20
第九交響曲を聴いて
先日、東京交響楽団の指揮者、秋山和慶氏に招待をうけて、久しぶりで東響の演奏によるべート
ーベンの第九交響曲を聴いた。
何しろ毎日忙しい日がつづくので、落ちついて名曲を聴く機会がなかったので、この日の第九は
音楽の泉に全身を浸したように、実に快いものであった。さすがに楽聖といわれる高いひびきをべ
ート!ベンはもっているのだなあ、と今更のように心を打たれていた。
● それに指揮者の秋山氏はじめ若い年令層の多い演奏者たちが、実に忠実にベートーベンを演奏し
ていたのにも感心した◎
音楽というものは、善いものでも悪いものでも、人間の心に影響を与えることは確かで、浅いも
のは胸の表面の感情に沁みるものであり、悪いものは性欲望を刺激したり、淫狼にしたり、心を暗
くしてしまうようなものであり、善い音楽は真の宗教と同じように、人間の魂の奥底にひびいてき
て、魂の浄めに役立つものである。べートーベソのものでは第九が一番よい、というのは音楽評論
家の定説のようであるが、私が霊的に聴いても、第九のよさは格別である。
バッハの音楽は勿論高く深く素晴しいものではあるが、大旨、感情を超越した音楽で、大衆の心
をゆさぶるというものは少ない。大衆感情に共鳴するものが少ないからである。音楽専門家は別と
して、一般の若い人の中で、バッハはよい、といっているのをきくと、真実にバッハのよさがわか
るのかなあ、と思うし、わかっていうなら若いのにその人はたいしたものだ、と思うのである。バ
ッハは宗教的に相当な高い精神状態にならぬと、その真のよさがわからないのではないか、と常々
私は思っているからである。
そこへゆくと、ベートーベンの音楽は人間感情にもの凄い迫力でひびいてくる音楽で、人間の生21第








命のひびきが、この世間の苦難の波濤の中に生きいきとしてくる。いわゆる人間感情を通してその
魂を烈しくゆさぶり動かす音楽である。高く深く天地をつなぐ音楽でありながら、大衆を魅了せず
にはおかぬ不思議なひびきをもっている。
22
少年合唱団を聴いて
純白の僧衣をまとい、胸に木の十字架をさげた、五六名の成人を交じえた、三十名余りの少年が、
日比谷公会堂のステージで合唱している。
私は知人に伴われてその合唱を聴いていた。
めて過ぎる。
一曲を終わるごとに、私の脳裡を種々な感想がかす
愛らしく、純潔そのものだが、合唱そのものとして聴くと非常に物足りない。しかし十歳年配の
少年だから仕方がない。大人の低音歌手がよくこの少年たちを助けている。この大人たちがこの合
唱の穴をよくカバーしていてくれる。だが、どうにも合唱音楽としては、音量感からも、変化の面
からいっても、心を満足させてはくれない。なんといっても少年たちなのだから、そんな要求はど
だい無理なことである。こうした合唱団は純潔で愛らしくあればそれでよいのであろう。
などなどと種々な批判が心を走った末、この日の音楽会からの結論は、真実、音楽として胸を打
つ合唱は、多くの人間の様々な声の質が入り交って、大調和するところから生れてくるのであって、
少年だけで組織されているような合唱は、異なる意味で心にしみることはあっても、音楽のもたら
す深い感動を呼び起すには、あまりにも、幅の狭い単調なものでありすぎる、ということであった。
それから私の想いは更に飛躍して、人間世界全般のことに及んでいった。
人類世界はあたかも一大交響楽あるいは一大合唱のようなものであり、様々な民族国家が、各自
その特性の律動(ひびき)を奏でていて、その特性、天命の質は各々異なりながら、お互いが調和
(ハーモニー)してこの地球世界にひびき渡っているべきものであり、その指揮者は神であるのが
本来の姿であるべきなのに… … と思ったのである。23少








しかしこの現実世界は、あまりにもそうした本来の姿を遠ざかり過ぎている。ある国は少年の声
を出し、ある国は女性の声を出し、ある国は青年のパートを受けもっているかも知れない。だが、
そうした各国、各自の声の質を、そのままの天の声として歌い出している国や民族が、一体一つで
もあるのであろうか。一国一民族が、天から与えられた自らの声の質を理解しないで、やたらにソ
プラノで歌い、バスの大声を出したとしても、それで合唱がうまくできると思ったら大間違いであ
る。
今の日本は一体どのような声で歌えば、自己のパートを忠実に守り得るのであろうか。私は今の
日本の声は夜明けの声であろうと思っている。それはソプラノの甲高い声ではない。バスの低音で
もない。それはテナーのやや高い柔かい明るい声でなければならぬ。その声を例えれば、今上天皇
のあの優しい柔かい純潔な声によってやや象徴される。
ひひ
日本国は陽の国である。日本民族は陽の民族である。今こそ日本民族が天から与えられている自
己の声で、世界平和の祈りの合唱をしなけれぽ、神の世の夜明けは永劫にこないかも知れないのだ。
私たちは今、自分たちが日本人であることを改めて認識しなければいけない。日本人は日本人の
本質に従って、自分の声で歌わなければいけない。日本人がソ連人の声を出し、米国人の声を出し
24
て、それが日本のためであり、人類のためである、と思っていたりしたら、
を、その人自らが打ちこわしているようなものである。
それこそ人類の大合唱
単純イ

先日三越で横山大観展をみて、今更のように感じたことがある。それは、芸術というものは、複
雑な美的内容を単純化して現わすものなのだ、ということであった。
洋画の下手な絵程、くどくどとした色を使い、形もわざと複雑にしたりしてある、これは絵ばか
りではなく、詩や和歌や文章の面においてもそうである。
墨一色で単純化された名画が、観る人の心を洗い清める力をもっているのに、たくさん色をつか
25単純化
い、様々な形を画いたそれらの絵画が人の心を浄化させないのは、画くその人が、その対象の内容
をしっかり自己のものにしていないので、その内容が統一されず、ばらばらに表現されるため、や
たらに筆を加え、色を加えて複雑な表現になってしまうからなのである。文学の面においても同じ
ことである。
ところがこれとは全く反対に、やたらに単純化しようとして、点と円と三角で形づけようとする
ような絵が近代では多くなり、はては自己の頭の中でデッチあげた妄想を、奇怪な色や線や形で表
現して、それをもって進歩した近代画であると称し、批評家のほうもなんとなくそうしたものにひ
きずられて、そうした絵画を讃美したりしている向きもかなりふえているのである。
まと
これは統一されていない複雑さと共に、的をはずれた単純化であり、自由化である。何故かとい
うと、芸術というものは、本来自然なり、その物体なりが持っている、調和性、いいかえれば美を
その作者の感覚に照し出して画面に再現することであって、自然そのもの、物体そのものの本質を
ゆがめて不調和にして画き出してよいというものではない。
じねん
そうした表現方法は、我々の生命から湧き出てくる自然の動きをゆがめ惑わすだけであり、生命
の本来性である美や調和を破壊してゆく悪魔的表現であって、そうした作品からは美しい人聞性が
26
ひき出されもしなければ、真実の喜悦や自然に対する感謝が生れいでる筈もない。
それは美術にも音楽にも文学にもいえることであって、それらの芸術はすべて、大自然、大生命
本来の美や調和を表現すべきものであると私は思っている。
もし、自然のゆがみや人生の悪や不幸を画いたとしても、その作品の底には、そのゆがみや悪や
不幸を否定する作者の心がなけれぽ、その作品は立派な作品であるとはいえないのだ。
宗教方面においても、神のみ心をわざと複雑化し戒律化して、神と人間とをかえって引き離して
しまっている教もあれば、神のみ心を、物質利益という低い階層にひき下してしまって、信仰の単
純化だと思っている人々もある。
これは両者共実に困ったことである。神のみ心はわざと理論化し戒律化して複雑にする必要もな
ければ、現世利益的にひき下ろすこともないのである。
たやす
神のみ心は最高、最深のところに置いたままで、容易くそのみ心にとどき得るような教の単純化
こそ、人間の理想なのである。
それを成し遂げたのが、日本の法然、親欝の念仏信仰であり、真実のキリスト教のイエスのみ名
によって神に接し得るという教である。27単


南無阿弥陀仏の六宇の称名により、あるいはイエスのみ名という容易な行為によって救われに入
れるという信仰は、実に、複雑なる真善美を単純化せる信仰方法である。そして、そうした信仰行
為が、日本神道でいう神代時代の再現になってゆくのである。
28
“一
” に想う
一という字を、私は時折り色紙に書くことがある。筆にたっぷり墨をつけて、さっと、一を書き
終る一瞬、私の生命の一番深いところから、光明がひびきとなってその一の文字に沁みわたってゆ
くo
色紙に書かれたその一の文字は、私の生命のひびきを伝わって、大生命の根源にまでその存在を
はっきりと表示する。
私はなんともいえず、この一の文字が好きである。一の文字がもつ底知れない深さ。最も単純な
形を示しながら、どこまでも計り知れない奥に向って広がってゆく一、最少単位と最大単位を同時
すがた
にもっている一の相は、それがそのまますべてであり、そして最も小さな姿でもある。
私たちは、最も大なる一の中にすっぽり包まれていながら、また最も微少なる数多くの一によっ
て生かされている。私たちのいのちは、最も大なる一の中から絶え間なく流れてくる、最も小なる
一の集合離散の働きによって生かされている。
一なる意志は、大智慧、大能力をもって大宇宙を把握し、大宇宙を貫ぬき、すべての生命の微少
なる一の働きをも司どっている。この大いなる意志は、私たち人類の本心となって、一なる目的を
もって働きつづけている。この目的は大調和世界の創設ということなのである。
どのように国々が分れ、どのような民族感情があろうとも、奥底では全く一つにつながっている
こんじも
地球人類なのだから、やがてはそうした本心に目醒めることがあるに違いない。しかし、今日では
あまりにも枝葉末節的な複雑さに想いを奪われ、単純にして明解なる一の価値を忘れ果てているの
である。
29 ミー
亀V’想う
私は今日も一の文字を色紙に書く。一の文字が内包する深い意味を、多くの人々が知ったなら、
複雑怪奇なこの世の相は一瞬にして改まるのである。
一はハジメという文字でもある。一に還えれ、という言葉を単に聞き逃がしにしてはならない。
一の中に私たちのすべてを投げ出した時、はじめてその人の本心が開くのであり、その人がその人
の天命を全うすることができるのである。
30
ソ連人のヴァイオリン演奏を聴いて
私は時折り音楽会の切符を頂戴するが、忙しい体なのでなかなか行かれない。ところが先日は、
ちょうど体のあいている日にソ連のレオニード・コーガンというヴァイオリニストの演奏会に誘わ
れた。
私はいつもの習慣で、そうした招待を受けると、すぐその演奏者の演奏程度を観じてしまう。コ
ーガンの場合は、これから切符を買うのだが、どうかと電話で私の都合を聞いてこられたのだが、
電話でコ!ガンという名を聞いた時に、はじめて聞いたその名から、これは素晴しい演奏家だと直
覚した。
会場への道すがら、連れ立ってゆく知人が、オイストラッフ(ソ連の名ヴァイオリニスト)とは
どうでしょうね、と私にきかれる。オイストラッフとはまるで反対ともいえる、しかも同程度の演
奏者ではないでしょうか、と私は直覚的に観じとったコーガソの演奏から、そう答えた。私が相手
を見もせず、その音楽を聞きもせず、その内容を知ることができるのを、この知人は熟知している
ので、その答を素直に受けとって、さて演奏をきく段になった。
最初にブラームスのソナタ第三番、弓が絃の上をゆるやかに動いた、と思うと、一体どこからそ
んな音がひびき出すのかと思う程の、温かい愛情の籠った音が私たちの胸に沁み入ってきた。
弓が速くあるいはゆるやかに、強くあるいは甘く柔く、さながら演奏者の体の一部となりきって
ミューズの神の心のひびきをステージ一杯に振りまきつづける。それはどう考えても小さなヴァイ
31ソ連人のヴァイオリン演奏をきいて
オリソの中から出てくる音ではない。それは宇宙の心のひびきと人間の心のひびきとが、全く一つ
に融合して鳴りひびいているという感じである。
二曲三曲と聴いていると、ますますこの人の素晴しさに心を打たれ、芸術というものの意義を深
く感じさせられ、秀れた芸術家に対する尊敬と愛情を抱かせられる。
以前にオイストラップやギレリス(ピアニスト)を聴いた時は、ソ連の音楽にも二つの面がある
ことをはっきり知った。
ソ連という国が、共産主義国であって、世界征覇の目的のためには、いかなる卑劣なことも残酷
なことをもやってのける国であることは知っていたが、その反面にこのような素晴しい芸術家たち
を育てあげて、人類の感情の純化のために役立っているという事実は、実に不思議でさえある。
いかなる国家民族であっても、この地上界においては、善と悪、優と劣の二面をもっているもの
で、そのどちらがその国や民族に余計作用しているかで、その国や民族の人類的価値が定まるもの
である。
その悪の面だけを取りあげて、その国を非難しようとすると、その国の善い面を知っている人々
から反擾されて、かえって世論を紛糾させてしまって、その悪の面を肯定している人たちまでも、
32
その反擾者たちの言に同感してしまったりする場合がある。だからその国や民族の悪の面を非難す
るにしても、その善い面も取り上げて、しかしこのように悪の面が強すぎては遂いには他国を犯か
し人類を滅ぼしてしまうものだ、というようにその善悪の比重をはっきり示して世論にうったえる
ほうが、世論をまとめあげることができるのではないだろうか。それはソ連ばかりではなく、中共
に対しても同様であろう。
私たち宗教老は人の悪を掘じくり出すことを使命としていないので、ひたすら世界平和の祈りに
よって、人間や民族の本来の神からの使命観を輝き出させるようにしなければならない。悪の面ば
かりみていれば、いつまでも対立的な闘争感情をぬけきれず、世界の平和を実現することはできな
い。
人間の生命は一なる神からきている光のひびきなのであって、いかなる業想念的暗黒思想もやが
ては消え去ってゆくものである。消え去ろうとして浮かびあがってきているそうした状態を把えて、
あいつは悪い奴だと息まいてみても、息まく当人より相手が強大な場合は、単に息まくだけであっ
てどうにもなるものではなく、かえって自己のうちに業想念を増してゆくばかりである。
もう今日の時代では、人類を護り、国や民族を護り通すためには、守護の神霊を通しての世界平33ソ















和の祈りによる、絶対者(大神) の大光明救済にまつより他はないことを人々は知らねばなるまい。
世界平和の祈りによってはじめて、各人や各国民族の真実の智慧や力が、この地上界に真直ぐに現
わされてくるのである。
34
夕陽によせて

夕陽の色にとけて死なむという人をかなしみみつっ河原をゆく
白梅の花匂はせて暮れなつむ夜空は我れを君にとけしむ

こんな相聞歌を昔詠んだことがあったが、夕陽が今まさに空の彼方に入ろうとして、周囲の白雲
あかね
を茜色に染めている風景は、誰でも常に見かける平凡な風景でありながら、なんとはなく心に沁み
るものである。あの夕陽の沈む空の彼方には一体どんなところがあるのであろう。あエあの赫々と
燃える夕陽にとけこんで自分も空の彼方に行ってしまいたい。こんな気持は恋する乙女でなくと
も、青少年の心の中には一様にひそんでいる感情である。
そして、しだいに暮れてゆく夜空の中には、深い神秘が隠されているように思われてくる。そん
な感傷にひたることは馬鹿馬鹿しい、と思う感情は、夢の枯れた大人の感情であって、柔軟に伸び
ゆこうとする者の心ではない。
すぺての感傷を捨て去るのが、宗教の根本の在り方ではあるが、そうした感傷精神が、しだいに
大きなロマンチシズムやヒューマニズムに発展して、神と人間との関係や、神の深い愛に触れ得る
機会を得させることになる可能性が多いにある。
私はそうした心の経路をたどって今日になっているような気がする。形ある世界にだけ眼をとめ
て、形なき世界にまで、想いを飛びこませない教育方法は、人生に詩もなく、味もない人々を育て
あげるばかりでなく、神秘に対する憧憬の心をなくさせてしまうものである。神秘に対する憧憬を
失った人程、無味乾燥なものはない。
35夕陽によせて
太陽はこうした元素とこうした要素でできている、というように、すべてを科学的に割り切ろう
とし、割り切れぬ答に対しても、神秘を少しも感じない人間の多いことは、この人生をいかにつま
らぬものにしているか計り知れない。
昼の太陽と青空に、清しい勇気を鼓舞され、夕陽と茜雲に憩いへの感謝の想いを捧げ得る人々は
幸せである。その人々は、すでに神の愛と恩寵を感じている人だからである。
神秘に対する感謝、神秘に対する憧憬、神秘に対する謙虚なる探究。そうした生き方のできうる
人々は、地をつぐ人々である。神のみ心を地上に顕現しうる人々である。
それはひからびた現実主義からは来ず、夢をもつ、ロマソチシズムからくるものであろう。私は
いたずらな感傷主義を称えるのではないが、深いロマソチシズムに発展してゆく一段階として、或
る種の感傷的想念が必要であることを認めているのである。
自然の風光の中で
世界平和の祈り
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私たちの天命が全うされますように
守護霊様
守護神様ありがとうございます
天地の恩
むくるぽそら
個性なき歩みか群るる人自動車銀座は天を失わんとする
以前にこんな歌をつくったことがあったが、人間の知識が進み文明開化の今日になると、徳川時
代とは全く別世界のように、生活が便利になり、どこへ行くにも、電車、自動車、はては飛行機に
まで進展してすべてが非常にスピード化してきた。とともに組織化してもきた。
ついや
これは一面において、昔のように労力を費さず、自己の便宜がはかれる生活状態になってきたこ
とで、実に結構なことではあるが、この歌にもあるように、人間の生活が劃一化され、個性的変化39天



に乏しく、一歩一歩の歩みにも、味わい深いものをなくしていくかに見える。
そら
高い建築物と、相次ぎ行交う自動車、ひびき合う騒音、人間はこうした中を、天の美しさを見失
ひろ
い、大地の広らかさを忘れて、押し流されている。
人間の築き出した生活の中に、自然は次第に置き忘れられていく。
天空に流れている自然の生命、大地に温れている自然の慈味、そうした自然の生命が、人間生命

の中に、流れ来り、融け入り、そして、一個の人間の深い味わいとなっていることを、文明開花の
社会生活は、いつしか、人間から忘れさらせようとしている。天空は、晴雨というそれだけのため
にあるのではない。大地は農民のためにだけあるのではない。天地は全人類のために一瞬も欠くこ
とのできない絶対なる存在である。
天候に感謝しても、天空そのものに感謝する人は少い。まして、農民を除いて、日々大地に感謝
して生きている人がどれ程いるであろうか。天地なくして我々は生存することができない。暴風雨、
天変を恐れるより天に感謝することである。地震を恐れるよりも先きに、大地の恩に感謝せねばな
らない。
人間は何よりも先きに、天地自然の大恩に感謝し、父母に感謝し、自分に触れるすべての人々、
40
事物に感謝すべきである。
そうした想いを根底にして、はじめて、文明開化の様々の恩恵が、真実の姿として生活に生きて
くるのである。
神仏への信仰は、こうした心構えが、その最初の出発点であり、最後の帰着点でもある。
無心の美
秋風の色は白いという。その秋風に心をさらして、雨ならぬ朝々を、きまったように暫らくは庭
に仔っている私なのだが、もう終りに近い庭の草花類に眸をとめていると、毎年同じようにくりか
えされている自然の動きが想われ、そうした自然の動きの中に、毎年変化してゆく人間界の、烈し
41無心の美
い動きが、対照的に浮きあがってくる。
草花の種類は様々であるが、彼らは定められた期間を、自然のままに純粋に、そのいのちを生か
し切り、そのままに散ってゆく。彼らは自然に開かれるままに花開き、そして散ってゆく。
咲き競う花々、という形容詞があるが、彼ら自身が咲き競っているのではなく、人間が勝手に咲
き競わせているのである。花のいのちは咲き競う想いもなければ、散り急ぐ心もない。ただ純粋で
無心な生命の動きがあるだけなのである。
純粋に真実を求める人間なら、無心に咲いている花の姿をみて、その純粋ないのちの美しさに打
たれぬものはあるまい。花はその生命の無心さ、純粋さの故に美しいのである。赤児の美しさもそ
れに等しい。
いのちそのままが純粋に開いている、純粋に生きている時の美しさは、神をそこに見る気がする。
大芸術家のみせる美は、その極端な例であるが、人間の誰でもが、そうした美しさを瞬間的に見せ
ることがあるものである。
人間のいのちは、生かされているそのままを生ききれば、いかなる自然の産物よりも美しいひび
きを宇宙に奏でるものであるが、自然のいのちを無心に純粋にひびかせる人は巽ば少い。

こうした人間になるためには、欲望を少くし、或いは捨て去らねばならぬ。自己の欲望にしがみ
ついていては、草花に数段劣る者といわなければならない。
人間界における権謀術策がもたらす烈しい動き、そのような動きは、業想念の僻い動きであって、
一つの花の瞬間的美しさにも及ばない。
いかに表面的動きが少いように見えようとも、いのちそのままを純粋に生きる人間こそ神のみい
のちを、この地上界にうつし出す、重要なる存在者であることを、私は改めて思うのである。
折れた百合
ヘヘヘヘヘヘへ
久しぶりに日暮れぬうちに家に帰えると「知人がしゅうかいどうを持ってきてくれたから、すぐ
43折れた百合
植えて下さらない」と妻がいうので、常には観ては楽しむ側だけであった私も、たまには土いじり
も悪くないと、二つ返事でシャベルとバケツを持って庭に出た。
ところが挾い庭に種々な草木が植わっているので、やっと少しの空地をみつけて、そこに足を踏
み入れたとたんに、ぼきりという音がした。私ははっとして、足下をみた。ああなんと、私の足下
には、蕾を一つつけた小さな百合の茎が、がっくりと土にその先きをつけていた。私は思わず、し
まったと思いながら、その茎を起してみたが、もう後の祭りで、私がその茎に手をふれた時に、そ
の茎は本茎から離れてしまった。私は一瞬、心が冷くなるような思いで、百合さんごめんなさい、
と百合の茎に対して頭を下げた。申訳けないような、哀しい気がして胸がしめつけられる想いがし
た。しかし、気を取り直して、ち切れたその茎を、せめてもの申訳けに部屋の中の花びんの花の仲
間に差し入れたのであった。
生物の生長をさまたげるということは、こんなにも哀しいものであるのだが、こんなことはこの
世の中の日常茶飯事に何事でもないようになされているのであろう。
その物やその人が、ある役目を果し終えて果てる場合は、同じ哀しみでも、まあ、よかった、と
いう想いが残された側にするものだが、役目半ばで、天命を果さずに果ててゆく場合には、そのも
44
の、その人を惜しむ気持が非常に強く残って、なんともやり切れない気がするのである。
この折れた百合ではないけれど、一人前に成人せぬうちに矢折してゆく幼児や少年少女たちのこ
とを想うと、その人の親ならなくも心が痛むもので、そうした不幸はなんとか防げぬものかと痛切
に想うことがある。
私は病弱や精神の弱い子供たちを、一人前にしてくれと、よく頼まれる。こうした子供たちを頼
まれると、表面は明るく呑気相な顔をして引受けるが、引受けた瞬間から、その子供たちと全く一
つの気持にならざるを得なくなる。
弱い子供には、その弱い気持に一度は同化してやらぬと、到底その子供を立派に育ぐくむことは
できない。子供たちの心を離れての治療や教育ということはあり得ない。いのち一つの気持になら
なくては、子供は決して善くなるものではない。それが愛である。
私の終生の念願は、生きとし生けるものすべてが、その生命をけがれなく、さわりなく伸びのび
と生きつづけて天命を全うしてゆくことを願う想いであり、それがそのまま世界平和につながって
もらうことである。
だから人間は、お互いに相手の天命の全うされる立場を阻害しないように、充分なる心やりが必45折




要で、自分の思い通りに相手を抑えつけようとすることなどは、それがたとえどのような善いこと
であろうと、それはその人の天命が全うされる助けにはならない。おのもおのもが自分の信ずる道
を突き進み、その道がお互いの道の邪魔をし合わないような生き方のできる日が一日も早く到来す
るように私は祈らずにいられない。それが世界平和の祈りでもあるのだから。
46
そのままの
、心
春は花、夏は緑、秋は紅葉、冬は雪、日本の四季の色とりどりの美しさは、大自然のそのままの
姿の中にあることは、誰でも知っていることである。これに人工を加えて、自然と人間とを一つに
結びつけてゆくことによって、観られる自然と観る人間との一体化が広い範囲でなされてゆく。
人間の文明文化が、大自然の美観を傷つけてゆくことも確かなことではあるが、人工を加えるこ
とによって、大自然の美を多くの人々、広い範囲の人々に満喫させていることも事実である。小さ
くは庭園の美。大きくは、箱根や日光などの山脈を巡るハイウェーのように、人工によって、多く
の人々の心を楽しませ、休ませることができるのである。
或る人々は、いたずらに文明文化によって人間の毒されてゆくことのみを喧伝していて、人工を
加えることによって、自然との一体化が容易にできるようになった、文明文化の恩恵をないがしろ
にする向きがあるが、これは地球の進化を逆に戻そうとするような考であって、そういう考では人
類は進化することができない。
人類の必然的な進化の道を、より容易にするように、人々は過去の誤ちを正し、過去の善きもの
の上に、未来の善きものを堀り下げ発掘してゆかねばならない。そうでないと、精神の面のみを強
調するあまり、文明文化の進展が遅れて、いまだに貧富の差が甚だしく、一億にもの繧る餓死者を
出すことになったインドやアフリカ諸国の悲惨な状態を現出しかねない。
かた
その点、日本人は物質文明を巧みに生活に取り入れて、今日の繁栄を来しているのであって、他
いな
の国に劣る生き方とは思えない。だがしかし、今日では少しく物質文明に傾きすぎていることは否
そのままの心
めないので、この物質文明を土台にしてでよいのだから、精神面の働きを強調してゆくことが大事
なのである。物質も精神もともにこの地球人類の進化のために必要なのであって、片方に片寄りす
ぎることは、人間の本質のそのままの心に反するのである。
山や海や草木が大自然のそのままの心で生きているように、人類も、人類としてそのままの心を
生きぬいてゆくことが必要なのである。人類のそのままの心というのは、精神面のみを強調して物
質をないがしろにすることでも、物質面にのみ執着して、精神面をおろそかにすることでもない。
精神と物質との調和した姿こそ、人類そのままの心の現われなのである。いいかえれば、精神活動
をよく物質面において生かしてゆくことこそ、中庸を得た、そのままの心というべきなのである。
物心一如という言葉があるが、物質を単なる物でなくするところに、深い精神活動が生きてくるの
こんぜん
である。より進化した人類の姿は、神そのままの働きと、素晴しい超科学による…機械文明が渾然一
体となって展開されてゆく世界なのである。

山は美しい
或る用があって富士山麓にいった。それは二月末のことだった。この冬最高というような寒い日
かむふじ
にぶつかったが、雪化粧に輝やく神富土をはじめ、連らなる山々の樹氷の林を前景に、光と陰に色
よそおぎ
どられた美しい粧いは、なんとも形容できない調和した姿であって、各自が自己の姿そのままを魏
ぜんそぴ
然と聾え立たせながら、お互いが調和している立派さには、人間の世界を思い浮べて思わず頭の下
がる想いであった。
山々の今日迄の歴史には天変地変や風雨にさらされた、人間にはとても耐え得られぬような厳し
い年月が秘められているのであるが、その骨身を削る厳しい年月が山々の姿を一段と美しくしてき
たことは間違いない。
人間の個人個人の生活も、社会の集団集団の在り方も、そして各国家民族の姿も、こうした山々
のように、各自が各自の個性そのままに聾え立ちながら、調和し合ってゆくということこそ望まし
49山は美しい
いので、お互いがお互いの頭を抑えつけあい、足をひっばり合いながら、幸福な平和な生活を営ん
でゆこうとしている今の人類の姿は、なんとももの哀しいみじめな感じがするのである。
あの聾え立つ山々のような大自然の中で、お互いの調和を助け合って存在してゆくような、大ロ
マソチックな人類になるためには、個人も集団も、自分たちだけの利害や主張だけを唯一なものと
思っているような、小さな自我を捨て切って、大宇宙という大きなものの中の一員一集団として、
枝葉の誤りはさておいて、お互いの長所を伸ばし合い助け合ってゆくようにすることを、まず実行
してゆくことが大事なのではあるまいか。富士山麓も今はもう雪も溶け、緑の山々で明るい春の香
りをまき散らしているであろう。
50
潮騒に想汽ノ
私は或る日、相模湾の小高いところに建っている知人の家の広庭から、真正面が冬陽にきらめく
朝の海をみていた。海は半円形を画いて、重々しく、この庭を包んでいる。
あお
白銀にきらめく波間から、小舟が一艘蒼い海面のほうに浮び出てきた。冬陽が白光に波立ってい
うなも
るのは中央だけで、左右の海面は、沈んだ色である。
松の木の木の間がくれの、蒼い海の彼方に、小舟が消え去ってゆくまで、ぼんやり海に向ってい
た私の耳に、先程から一定間隔をおいて、なんとなく聞えていた潮騒の音が、にわかにはっきり聞
えてきた。はるか遠くの彼方から、ひたひたひたひたと、次第に大きな潮騒になってくるのだが、
そのはるか遠くの音は、霊の世界からひびき渡ってくるようにさえ思われる。
潮騒の音は不思議な音だ。近くを走る電車の音や、建築現場の音などのような、この世的な音で
はない。深い深い底の世界に、遠い遠い太古の世界に、そしてまだまだはるかな久遠の昔の世界
に、私の心をいざないつづけ、ひきよせつづけてゆく、不思議なひびきだ。
かなた
私が今面しているこの太平洋の彼方には、様々な島々や大陸があり、人間も鳥獣もそれぞれの生
活を営んでいるのだろうが、そういう現われの世界の底に、海を海たらしめ、陸を陸たらしめてい
51潮騒セこ想う
る、大きな力が働いていることを、潮騒は物語るのだろうか、潮騒はいつ迄も海の言葉をひびかせ
つづけている。
ひびきわたる潮騒の中に、私は神のみ心を感じる。潮騒の底の底の底に、地球を地球たらしめ、
宇宙を宇宙たらしめている、生命の根源の力を、私は強く感じている。
潮騒は海の呼吸だ。吐く息、引く息に、海の生命が働き、そして深い安らぎがある。大空と、大
地と海と、人間世界を育ぐくんでいるこれらの大自然から、人間は何故もっと深い真理を学びとろ
うとはしないのであろう。只、自己の肉体世界の利用価値としてのみ、この大自然をみつめ、探ろ
うとする。人間の生命が、肉体だけのものではなく、大空の中心にあり、海の深い深い底にある、
永遠の生命と等しいものであることを、そして、人間はその真性である、雄大な心を自己の心とし
ずぺ
て生きる術のあることを、それが祈りであることを、人間本来の深い呼吸によって知らねばならな
いのだ。
私の心は潮騒のひびきをききながら、全く、海の心と同化して、人類完全平和達成の祈りを祈り
つづけていたのである。
52
神秘の世界への感謝行
かな
厳寒によくぞ耐えこしいのちなりしみじみ愛し庭の白梅
春は花の季節、その春のさきがけとして梅の花が咲く。寒風に耐え、冷霜に耐えて、梅の花のい
のちは、一体どこにひそんでいたのであろう。
昨日までの枯枝から、こんなに可憐な美しい花片が一面に咲き出でるこの不思議さ。三月には桃
の花が、四月には桜が、そしてその他種々様々な花々が、色も形もそれぞれに異なった姿で咲き競
う◎ 不思議といえばまことに不思議なことである。53神









この花々の美しさが、
い。
どんなにか人間世界をうるおしていてくれることか、思えば実にありがた54
天地の和合で花が咲き実がなると同じように、宇宙大自然の営みの神秘不可思議さは、人間の智
恵では計り知れるものではない。
この不可思議さを当然のことと思うような心では神のみ心のわかりよう筈もなく、そんな頭では
深い科学への道に到達することもない。
大自然のみ心は、花々に示されているように香ぐわしく美しく、大空に星々をちりばめてそのま
ま調和しているように、大ロマンの心でもあり、大調和の心でもある。
この不可思議な偉大なるみ力に対して、私たちは、ただただ頭を下げずにはいられないが、頭を
下げぬ人間の多いことも、これまた一つの不思議である。その深い愚かさがである。
けいけん
神秘不可思議な大自然のみ心を、敬盧な気持で受け入れて、素直に神の恩恵に感謝し得る生活の
できる人程幸せな人はいない。その人は常に神のみ心に通い得ている人だからである。
感謝の想いも持たずに、ただ人間世界の幸福を築き上げようとしても、とてもとてもできるもの
ではない。それは生命エネルギーの供給源に背を向けているのだし、宇宙法則の流れから外れてい
るからである。
在りとしあらゆる存在に、宇宙の神秘を感じる心は、人間の神性を信ずる心である。花が咲くの
も、鳥が飛ぶのも、人間がこうして生きているのも、それがなんの不思議もない、きまりきったこ
とである、と考えているような人が多いようでは、この地球界の真実の進歩はあり得ない。
人間をこうして働かしめている生命の不可思議さ、智慧能力が自ずと湧きあがってくるこの神
秘、こういう不可思議なる現象を、肉体人間に当然備わっている能力であるとして、かくあらしめ
ている神秘力の根源である、神への感謝を忘れ果てているような人間の多い世界を、闇の世界とい
うのである。この闇の世界を一日も早く光明世界にするために、私たちは神秘世界に心を昇華させ
て、神の大光明波動と一つになり、世界平和の祈りの宣布をしつづけていかなければならない。
55神秘の世界への感謝行
56
自然の風光の中で
 

初春の際推りのぽかぽかと明るい縁側で、咲きはじめた草花を、なんとはなしにみていると、心
なごとき
が真実に和やかでのびのびとしていて、平和だなあ、と思う。こういう一時刻は大事だなあ、とも
思う。
よそと
私に僑ってきている、多くの人びとの悩み事も、世界の運命のことも、しばらくは、私の心の外
といのち
に置いて、小さな自然の風光の中に融けこんでいると、命が純粋に在るがままにひびいている、と
いう感じである。
一日に多数の人に会い、それぞれの人の生活の重荷を、幾分なりとも肩がわりしている私の体に
は、肉体をもったその人たちの去ったのちのちまでも、その余韻がつづいていて、私自身の生活と
いうものはないに等しい。だからこういう寸暇は尊い。
人間は個人個人が、各自の天命を天職として生かしてゆけることが、いちばん幸福なことだと思
うが、これが天職だと自らが思って喜々として働いている人ははなはだ少く、大半が生活のためと
して職についているのだが、私のように天命がそのまま天職でもあり、私に接する人びとの喜びが
そのまま私の喜びでもある、という生活者は有難い存在なのであろう。
そのかわり、人びとの苦悩や悲しみが、国家や人類の苦しみが、そのまま私の苦しみになってく
るのだから、悲しみや苦しみの渦のなかにつねに入りこまぬように、光明心を発揮していなければ
生きてはいけない、ということになる。
ニんじよう
人間というものは、今生だけの自分の努力や修練だけで、自分の思う通りの生活ができるわけで
はないが、たゆみない精進努力は絶対に必要である。しかし、すべては過去世からの善因善果を根
底にして、自分の生活が自分の好ましいものになってゆくのは事実である。
そこに宗教信仰の要があるので、過去世の因縁とは善因ばかりではなく、悪因もあるのだから、
かえ
そういう過去世の因縁をすべて、神のみ心のなかにお還しして、白紙にかえった自分になって、自57自







びやつこうくう
己を白光に輝やくようにしてゆかねばならない。白紙にかえすことが空になる、ということなの
くうさんぜん
で、空になったところから白光燦然とした光明が輝やき出て、その人が天地を貫いて生き得る覚者
となるのである。
かた
私などもいちど自己のすべてを神にお還しして、白紙の状態になり、神の方よりさまざまの教育
を受けて、こんにちのようになってきたのであるが、白紙にかえしてからの後は、神々のみ心のま
まになされるのであって、肉体の自己の関知することではない。いわゆる自我没却の状態になって
いるわけだ。
ただ、つねにやっておらねばならぬことは、神よりおあずかりしている肉体にまつわってくるこ
はら
の世やあの世の汚れを、祓い浄めておくことなのである。そうしておかないと、天人の五衰ではな
いけれど、地上界の人間に舞いもどってしまうのである。
だからいかなる人といえども、神への全託と同時に、つねに精進潔斎していなければいけないの
やこぜん
である。悟ったからこれでよいなどと思いあがったら、その人はたちまち野狐禅ではないが、迷い
の想念に使われてしまうのである。人間はいかなる時でも、神への感謝と同時に、肉体人間として
の謙虚な心がないといけないのである。
58
深い叡智と勇気と謙虚な物腰、大人物というものはそうしたものを兼ねそなえている人のことを
いうのである。
各国の指導者のなかに、そういう人がどれほどいるであろうか、私はそれを思うと、現在第一線
に出ていない人のなかから、そういう人びとをつくりあげてゆかねばならぬ、としみじみと思うの
である。
天を敬い人を愛す、といって、それを実行していた西郷南洲翁などは、なんといっても日本の第
一人者であったのだ。こんにちの政治家のなかに西郷のような人が一人でも出てくれば、日本の政
治はまるっきり変ってくるであろうことは疑わぬところである。
私は宗教界にあって、世界の汚れた波動を浄め、一人でも多くの人間を育成することに努め、世
界の平和につくしたいと思っているし、そういう天命を持っている。どうぞ心ある人は、自己を生
まつと
かす道は、自己の天命を全うすることであるし、自己の天命の全うされるためには、どうしても守
護の神霊の加護によって、過去世の悪因縁、キリスト教的にいえば、原罪を消滅してもらうことが
必要なのであることを知っていただきたい。私はそのことをもふくめて、世界平和の祈りを人びと
にすすめているのである。59自







so
(二)
日々人事問題で明け暮れている私にとって、自然の風光に浸っていられる時間は、実に貴重な時
間に思われる。
人と人との交わりは、これが調和している時は、なんともいわれぬ、光のひびきを感じるし、美
しい快い気持になれるのだが、いったん不調和な波で蔽われてくると、荒れ狂う風雨のなかに立っ
ているよりも、たまらない嫌な気持がするものである。
私などは・そうした不調和な波を一瞬にして超えられる・想念転換の訓練を経ているので、そう
した不調和波動に巻きこまれることはないが、想念転換の訓練のできていない人々は、この世での
対人関係のわずらわしさは大変なことだと思う。
対人関係で心が疲れてしまった時には、ひとまず対人関係の波のなかからぬけでて、自然の風光
のなかに心を浸すことがよい、と私は思っている。
自然の風光のなかには、宇宙神の愛のみ心が、しみじみと沁み渡っているのを、私は常に感じて
いるからだ。
それはなにも、わざわざ遠方にでかけてゆく必要も、山登りをする必要もない。自分の家の庭に
立って、祈り心で、草木をみつめ、空を見上げているだけでよいと思う。空の深い奥から、草木の
枝から花から、神の大調和のひびきが、こちらの心に伝わってくるものである。
それは、庭の狭い広いは問題ではない。五感に触れている庭草の奥に、木々のいのちのひびきの
なかに、空のひろがりの底に、生命の世界の本質的なひびきがひびきわたっているのだから、その
本質的なひびきが、真実のいのちの輝きを、その美しさを、現われの世界に伝えてよこすのである。
私は、仕事の後、仕事の前の少しの間、庭に狩って、じっと空をみつめていることが、こよなく
楽しく思われるo
61自然の風光の中で
62
人間の智恵
農村や山川草木の自然の美に囲まれて生活をしている青少年が、都会文明にあこがれ、ネオソサ
インの街でくらしてみたい気持になり、高層建築やネオンサインの、文明文化の生活に恵まれてい
る人たちが、山や海や自然の姿にあこがれ、休日を利しては、そうした自然の美にひきつけられる
ように旅をする。
どちらも自己の満足感を他に求めているわけであるが、果してどちらの生活が人間にとって幸せ
なのか、一言でいえるものでもない。自然の風光に恵まれているところは、交通の不便さをはじめ
幾多の文明文化的恩恵が薄いし、文明文化の恩恵を多く受け、人工的美観の中でくらしている人
は、自然の美に恵まれ難い。
こういう不均衡な状態はなかなか是正することができない。しだいに人口が増加し、機械文明が
盛んになれば、山や森林を切り開いて、人の住居や工場をつくってゆかねばならぬ。どうしても自
然の姿を切り崩し、その美を損なってゆくことになる。これはさけることのできない事態である。
人間は大自然の中の一つの生物でありながら、自然を浸蝕してゆき、自然を自己の自由に支配し
てゆこうとする。肉体という存在がある限り、人間と自然とは、相対する姿勢をつづけてゆかねば
ならぬ。それでいて、人間の心は、自然をそこに現わしているうちなる心と、一つに交流すること

を望んでいるし、交流することによって、生命本来の喜びを感じ、大いなるみ心に融けてゆくので
ある。
先日、箱根、伊豆スカイラインを若い者に自動車に乗せてもらって自然の美に浸らせてもらった
が、人工の美が見事に自然の美の中に融けこんでいて、なんともいえない調和をそこに感じさせら
れた。伊豆箱根の山脈と太平洋の海の色が、人工によって開かれたスカイラインから眺めることに
よって、文明の進んだ今日の姿として、実に見事に自然の美を満喫させてくれたのである。
こういう風に人間の智恵が、自然を生かして、すべての行動に現わせるようになれば、肉体をも
63人間の智恵
ちながらも人間と自然の和というものが満足になされてゆくのだなあ、と思わされていたのである。64
花の

♂L・
すみれ
四月は花の月である。種々様々な花が咲き競う月である。桜、かいどう、チューリップ、董、た
んぽぽ、れんげ草、こうならべたてると、きりのない程花の名が浮んでくる。
天国というと、すぐに美しい花園が誰の心にも画かれる。全く天国と花園は切っても切れない関
係をもっている。それ程に花の美しさは人々の心をうるおし、清めるのである。
花は美しい。私の知っている範囲では、花を嫌う人はいない。人は常に美しいものを求めている
たやす
からだ。そして花は、手近かに容易く求められる。
だがしかし、花にも負けぬ美しいものを、人間自身はもっている。それは愛の心であり、愛の現
われた行動である。愛とは理屈でもなければ説法でもない。美そのものであり、調和そのものであ
る。
愛を説きながら、愛にもとる行為をしたなら、それは醜である。そうした醜行為は、自分自身の
本心を開いていないところから起る。肉体人間として現われている自己を、立派な人物にみせよう
とする虚栄心が、その人を真実の愛から踏みはずさせる。
ヘヘへ
花にはみせかけがない。見せようとも見られようともせず、ただそのまま、自分のいのちを花咲
かせているだけなのである。その自然な姿がなんともいえず美しい。
人間がすべて、いのちそのまま、本心そのままで、この世に生きていたら、どんなにこの世が美
しい世になるであろうか、昔から宗教者がよくいう、赤子のように生きよ、という言葉は、こ
うい
う本心そのままの生き方をいうのである。
私は人間の裸の心が好きだ。自分の誤りや欠点をはっきり認めて、それを消えてゆく姿として、
本心開発にかそしんでいる純真な心をみると、私は思わず、有難いなあ、と思う。
裸の心というのは、わざわざ自分の欠点や誤りをさらけ出して、俺はこれだけのものだとみせび
らかす心ではない。それは偽悪者の心である。欠点や誤ちを、本心にはない消えてゆく姿だと思う65花


ところに、宗教の救いがあるのだ。
消えてゆく姿で、世界平和の祈り、という教の尊さは、計り知れなく深い、神の大慈愛のみ心な
のである。人の心を責めず、自分の誤ちを責めず、すべて消えてゆく姿として、祈り心の中に入れ
ゆる
きってしまう、大きな赦しは、今日の世には得難い救いの道なのである。
66
花と動物
我が家の庭は、庭というにはあたらぬ程の狭庭ではあるが、四季を通して何やかと幾許かの花を
かいどう
咲かす草木があって、私の心を和ませてくれる。今日この頃は乙女椿、桜についで海巣や雪柳がそ
れぞれの生命の美しさを、そのまま私たちに示してくれる。
どの花といわず、花はなんと美しいひびきをもっているものであろう。形や色が美しいというた
だそれだけではない。花自らは我欲の想いもなく、自然の命そのままが、自ずと開ききってゆくと
ころに、神のみ心をなんらの障碍なく純粋に感じさせ得るからであろう。
いのちそのままが現われているということは、実に大事なことであると、花をみるたびに私はい
つも感じさせられる。
先日広島から修学旅行できた姪をつれて、多摩自然動物園に行ってみた。自然動物園と銘打って
いるだけに、鳥類の他は、他の動物園のように狭い鑑住いの動物はいないで、野にいる時に形どっ
て、周囲を岩や堀で囲った、やや自由な面積が与えられていた。しかし、その自由な面積といって
も、本来の彼らの棲息地にくらぺては、くらべようもない程の狭さである。
小さな動物はまだしも、大きな野獣はその大きな体をもてあましたように寝ころんでいたり、時
折りは前後に行ったり来たり、どうにも退屈でたまらぬような、生命力のやり場のないような動作
をくりかえしていた。また野外演芸場ではチンパソジーが、人間の服をきせられてスヶートや綱渡
りなどをして、観衆から盛んなかっさいをはくしていたが、私は虎や豹の前で覚えた哀愁を、この
チンパソジーの前でも感じさせられていた。
67花と動物
現在我が家の狭庭に植えられている草木も、元来は広々とした山野にその生命を栄えさせていた
ものの分れに違いはないが、こうした狭い庭にあっても、かなり自由にその生命の美しさを開かせ
ることができるし、私たちがその木や花を見て、もっと自由にしてやりたいという哀愁を感じるこ
とがないのに、動物の場合にはどうしてあのような哀しみが感じられるのであろうか。
それは自らが動き得る能力を持ちながら、その活動の範囲を限定されている動物と、自らでは一
歩の前進をもでき得ぬ植物との、自由の範囲の相違によるのであろう。
人間は自らが動き得るもののうちの最大能力を持っている存在者である。従って動物と同じよう
に、自己の自由活動の範囲を限定されると、実に不自由な不満な感情を抱くのである。しかしそれ
まさ
だけでは、動物となんら変ることはない。人間が動物に勝っているところは、いかなる不自由な境
界にあっても、与えられたその環境において、神より分けられたそのいのちを、あらゆる障碍を超
越しながら、しかも草木の花の如く素直に純粋に開ききってゆくことができることである。
野獣の活動力と植物の素直さ純粋さ、それらを含めた能力を大調和させ、発現させ得てこそ、こ
の地球界にはじめて真実の神の子人類が誕生してくるのであろう。現在の人問は内なる神性を発現
する途上にあるもので、ある点では動物に劣り、ある点では植物に劣る存在であることを心に沁み
68
て感じ取らなければいけない。そして、一日も早くうちなる神性を発現せしめるよう神に祈りをさ
さげつづけ、自己の生活を生きとし生けるものへの感謝の中に送らなければいけないと私はしみじ
み思うのである。、
乙女の純潔
一年のうちで春の季節は、誰にでも一番好かれる季節である。全く春は心明るみ、心温まる季節
である。
花々がつぎつぎと蕾を持ち、それぞれに色とりどりの花片を開いてゆくさまは、実に美しく快く、
人生に生甲斐さえも感じさせてくれる。
69乙女の純潔
この地球上の人間世界が、個人個人や国々の自我欲望の業想念で、人生を暗く憂欝な雰囲気にい
うどってしまっている時、自然の風光の清しさ美しさは、人々の心に非常な安らぎを与えてくれる。
まして、どんな小さな庭先きにでも、自然のいのちの美しさを観賞させてくれる花々の姿は、人間
生活にとっての一つの救いでさえもある。
ところが、この花々にもまして、もっと手近にその美しさを満喫させてくれているものがある。
それは幼い子供たちや、汚れなき乙女たちの存在である。
幼児の愛らしさと、乙女たちの美しさは、いかなる自然への愛も、花々の美しさも及ぼない程の
ヘへはじヘヘヘへ
ものである。花も差らう乙女、という言葉は全くむべなるかなで、十代の乙女の美しさはいかなる
名花も及ばないと思われる。この乙女の美しさは一体どこからくるのであろう。それは心に世の汚
ヘヘへ
れを知らぬ純潔さと、肉体生長の最も盛んないのちの美しさとの融合されたところから生れてくる
のである。
ヘヘへ
それは鼻が高い低い、口が大きい小さいという形からくるのではなく、いのちそのものの美しさ
が温れ出ているところからくるのである。しかし近来、非常に残念なことには、せっかくの乙女の
美しさの一要素である、心の純潔と肉体の純潔とを、あたかもなんの価値もないもののごとく、深

い考えもなく享楽の世界に粗末に投げ出してしまう傾向が多くなってきていることである。全くも
って口惜しいことである。
こうした乙女の純潔を保つためには、どうしても道徳教育の必要が痛感される。その道徳教育と
は、今日までのお説教調なものや、修身的なものでない、自然に心にしみるようなものでなければ
ならない。それはどういうものであろうか。音楽か美術か文学か、はたまた祈りか、実に緊急を要
する問題なのである。
私はそうした乙女たちの純潔を守るためにも、人類世界全体に流れている業想念波動の純化に努
めることが大事であると思っている。そのためにも、世界平和の祈りがますます必要であると痛感
するのである。
71乙女の純潔
72
、心の青空
晴れ渡っている空というものが、誰にとっても快いものであるように、人間の心も晴れ渡り、澄
み切っている状態が、一番よい心の状態であることは間違いない。
ところが、そういう心の状態をつづけられる人は滅多にいないのである。どうして心が晴れわた
り、澄み切っていられないかというと、天候と同じように心の雲が出るからである。
気象状況の雲のことは、人間には今のところ自由にはならないけれど、心の雲はその人間の努力
しだい、生き方しだいで、薄めることも、消し去ることもできるのである。この心の雲のことを、
こうそうねん
宗教的にいえば、業想念波動というのである。
この業想念波動の雲は、個人の上にも、人類の上にも、次から次へと現われてくるので、余程陽
気な心か、強い忍耐力がないと、ついその雲をつかんでしまって、心を曇らしてしまい雨を降らし
てしまう。しかしどんな業想念波動でも、やはり天候の雲と同じで、現われれば消え去ってしまう
のである。
これを素早く消し去り、或いは、表面に現われぬうちに消し去ってしまうようにするのには、ど
うすればよいか、これが問題なのである。
それは、雲が表面に出てこようとする時、つまり怒りや妬みや憎悪や恐怖が現われようとする
時、その雲をつかんで、光明世界に急上昇してしまうことが必要なのである。その方法が祈りなの
である。そして、それが個人的であっても、人類的にまで広がってゆくのが、世界平和を念願す
る、世界平和の祈りなのである。これが消えてゆく姿で世界平和の祈りということになるのだ。
祈りというのは、本心の中に、青空の中に、大光明世界に、神のみ心の中に、急上昇してゆく方
じようじゆうざが
法なのである。そういう習慣を常につけておくことが大事なので、常住坐臥、立っていても歩いて
ごと
いても、仕事をしていても寝ていても、いつも祈り言が心の中にある、という状態に心をしておく
ことが必要なのであるQ
73心の青空
いつもそういう心の状態でいると、どんな事態が起ってきても、いかなる自己に不都合な事柄が
出てきても、想いがすぐ祈り心に入っていって、本心の光明が現われ、晴れ渡った、澄み切った心
になってくるのである。
祈り心は、神と人とを結ぶ心であり、人類世界を真実の平和世界になし得る唯一の心なのであ
る。祈り心のない幸福感や平和論は、真実の幸福への道でも、平和への道でもないQ何故ならば、
そこには天に通ずる道がないのであり、業想念波動の雲を消滅させる光明波動がないからである。
74
香り高き人格
山川草木に、朝夕の日月に、そして四季のすべての風光に、自然の姿は変化にとんで美しい。そ
の美しさの中で、人間の最も身近かに生命いっぱいの美しさを咲き出している草花の姿は、どれほ
どこの人生にうるおいを与えてくれているかしれない。
木の花、草の花、その花々は形も色もそれぞれながら、どの花をとってみても、美しくない花と
いうものはない。
咲き出でたるそのままで美しい花の姿をみていると、肉体人間の醜い汚れが、対照的に目立って
きて、どうにもやりきれない時がある。
たましいてき
肉体や物質にしがみついて生きていて、魂的な生き方の少しもできない人々の姿の中には、自然
の風光や、草木の花々からは絶対に感じられない、醜悪な雰囲気が感じられて、肉体人間には救わ
れはないのではないか、と悲哀の想いを抱いたことが、青年の頃にはよくあったものだ。
人間は万物の霊長といわれ、神の子といわれていながら、何故に草花の美しさに劣って見えるの
であろうか。いかに美しい容貌の女性であってもその人が魂的な内面的な美しさを持たぬ以上は、
その女性から最初うけた美的な感じが次第に消えてゆき、相手側が精神的不安定な状態に追いこま
れてゆくものである。
美とはすぺて調和した姿をいうのであって、調和の欠けたところには真実の美はないのである。
75香り高き人格
近頃は不調和の中に美があると思ってか、わざと不調和な形を示したがる芸術作品があるが、これ
は真実の美意識のない人々の作品である。
美とは神のみ心の現われ、すなわち大調和の姿の表現の中にあらわれるもので、そのみ心の現わ
れの多少によって、その美の価値が定まるものである。
肉体的の美しさ、形の上においての美しさ、それも一種の美には違いないし、瞬間的には人の心
を慰めるので、そのことも必要には違いないし、そうした美しさも多くあったほうがよいのだが、
それにも増して、それに先行して心の美、魂の美、いわゆる高い人格というものが、なければなら
ない。
高い人格とは、神のみ心をより多くその想念行為の中に示している人をいうのであって、口先き
ばかりで偉そうなことをいっている人のことではない。
そうした高い人格者は、その容貌や姿形が、肉眼でみると醜いように思える人でも、じっと対坐
していたり、みつめていたりすると、なんとなく香り高い雰囲気がその人の全体から感じられてく
るものである。
人間の姿形の美しさや、容貌の美しさは、先天的なものであって、どのような手段をとっても驚
76
嘆するほど変化するものではないが、その人格的雰囲気というものは、後天的にいくらでも変え得
るものである。
その人格的雰囲気を香り高い、美しいものにするには、ひとすじに神につながり、神のみ心を自
ずから、自己の想念や行為に現わし得るようにすることである。神のみ心とは大調和であり、大愛
である。
その大調和、大愛を最も容易に現わし得るのが私の提唱している世界平和の祈りである。まだ実
行しておられぬ方は、だまされたと思って、朝の目醒めと就寝時、三度の食事の時だけでもよいか
ら実行してみるとよい。三日もすれば、必ず見違える程、その人の人格的雰囲気が高くなっている
ことを私が保証する。
私のグループでは、朝の九時、十時、午後三時、午後九時の各回に集団の祈りをしているから、
前の五回に併わせてこの時間にも、どのような形をしていてもよいから、心の中で世界平和の祈り
をするとよい。願わくば、たゆみなく心の中で世界平和の祈りが鳴りひびいているようになること
を、あなた方のためにも世界人類のためにも切望するものである。
77香り高き人格
78
大自然との融合
五月六月は緑の季節、若葉青葉の木立の道を通って、聖ケ丘にむかってゆく気持は、なんともい
こころよ
えず快い。
つい先年までは、聖ケ丘の四囲はすべて緑の台地であったが、今は前後左右に家が建てられはじ
めて、自然の美景がしだいに失われてきたのがなんとも味けない気がするが、家のない人にとって
は、自然よりもまず我家というところで、これはどうにも致し方ないことである。
人類の発展は、自然を切り開いてゆくことで、その第一段階がはじめられた。そして、人類の文
明文化が進むにつれて、大自然の元のままの姿が失われてゆき、人口の多い都会程、自然から離れ
ていった。
しかし、人々の心の中には、自然を希求する想いは消え去らず、休暇を登山やハイキソグにむけ
ている若者たちが多くなっている。登山で遭難する人が毎年増加しているのだが、若者の登山熱
は、そうしたニュースを恐れようともせず、ひきつづいて山を目指して旅をする。
こころよ
実際山頂で大きく大自然の呼吸に融けこんでゆくことの快さは、なんにもたとえられないよいも
ので、人間世界の小さなつまらぬ感情のやりとりから解放された、生命の安らぎを充分に感じとる
ことができる。
そういう旅のできない、中老年期になると、庭木々や草花の中に自然の美景を観じとって、そう
した緑や花々の中で、生命を洗い浄める生き方ができてくる。私などもぼつぼつそういう年代にき
たらしく、庭木々や草花に非常に心をひかれている。

内観の統一行をしていることは、そうした山川草木の奥底にある深い生命の源に融けこみ得る行
であるから、統一した後の清々しい気持を、皆さんが大事にして、常に統一行に心ひかれるわけな
のである。
人間は誰でも、大自然の懐に還えりたい願望をもっているのだが、この世の俗事に追われて、そ79大






の願望を忘れ去っているのである。しかし時折り、山川草木の自然にふれて、自然はいいなあーと
思うのである。
そうした山川草木を通して自然の心に融合する方法と、統一行による内観によって、大自然、大
生命の根源のひびきに融合する方法と、人間には外観と内観との二つの道があって、二つともに生
命の浄められる大事な方法である。だから、山に登るのは、山を征服するためではないし、統一す
るのは、人を驚かすような霊能力を得るためのものでもない。純粋な大自然との融合観を得るため
なのである。そうした純粋な気持がその人の生命の力となってくるのである。そうした自然の気持
を外れると、山では遭難するし、統一行と想っていて変な霊能を身につけてしまったりするのであ
る。
80
愛犬
仔犬
中学生の甥が、広島へ遊びに行っての土産に、親類から生後四十日余りのスピッツの仔犬をもら
ってきた。私は家にいる時は書きものをすることが多いので、動物が嫌いではないのだが、スピッ
ツのように、家中を目まぐるしく駈け廻わる犬は苦手であった。
ところがその苦手のスピッツを土産にもらってしまって、さて、と思ったが、もらってしまうと、
無心に黒眼でみつめるこの仔犬が、なんともいえずに可愛くなってしまった。妻は子供もいないこ
ととて、まるで我が児のような愛し方で、小人数の家中が、急に明るく賑やかになってきた。
小さなものは、人間の幼児をはじめなんの子によらず愛らしいものだが、自分で飼っている動物

83仔
はまた特別可愛らしい気がする。どこが一体そんなに可愛らしく思えるのかというと、その仔犬は
すべてを私たちに無心に全託しているからである。何から何まで、それこそ生くるも死ぬるも、ま
かせきって飛びはねているからである。
犬などは考える智恵がなくて、本能だけで動いているから、まかせるもまかせぬもそんな考えが
ないのだ、という人があるかも知れない。
しかし仔犬に限らず成人した犬でも、飼主を信じきって生きていることは確かで、それは人間た

ちの小我の智恵を超えた大きな智慧なのではなかろうか。
自分を信ぜず、人を信ぜず、そして神の存在さえ信ぜず生きている人間の多いこの世でこうした
動物たちの無心の姿にふれることは、何か有難い気さえしてくるのは、私だけではないだろう。
智恵というなら神の叡智までに高まったものならともかくも、小我の智恵や知識をやたらにふり
まわして、偉がっているうちに、人間の本体も、神とのつながりも一向にわからずじまいで、この
世を去ってゆき、あの世で苦悩しつづける人たちからは、そうした生き方が愚かであるということ
を知らされるだけで、真実の道へのなんらのためにもならないが、飼犬の無心な生き方からは、無
心に純粋に人間の主人公である本心(神)に全託しきることの大事さを教えられる。
84
人間が不幸になるのは、あまりにとや角、自分の小智才覚をめぐらせすぎるからで、飼犬が人間
を信じてすべてをまかせきっているように、人間の生命の本源である神の存在を信じ、守護神の愛
を信じて、神のみ名の下に自己の生活をしてゆくことが、智慧ある人の生き方であると私は信じて
いる。
人間に与えられている思考力というものは、神の智慧や力を、この地上界の完成のために充分に
働かしめ得る道開きの力であって、神を否定したり、人間間の愛を否定したりするためにあるので
はない。
人間に思考力があることは、動物より上等である証拠なのだから、そうした大事な力を自己を滅
ぼしてしまう方向につかっているようでは、動物蔵りも劣った生き方であるということになる。
まなニ
人間も一度は、仔犬のような、無心な眼で神をみつめてみるといい、無心にみつめれば、神があ
りありと自己の心の中に見えてきて、この世が有難くて有難くてたまらない世界に見えてくるもの
である。私たちはその境地を体験して、今度は神様の中に、自分のすべてをすっぽり投げ出して、
神様のみ心のままにこの世に生きていて、自分も幸福になり、人をも幸福の道に導き入れているの
だ。

85仔
無心になる一番やさしい道は、自己の想念知識を、世界平和の祈りの中に投げ入れて生きてゆく
ことである。そうすると、純粋に神のみ愛をしみじみと味わえるように必ずなってくるのである。
86

ひびきを高く清らかに
動物の習性というものは面白いもので、我が家のスピッツは、無暗やたらに庭中の土を掘ってし
まう。家内が折角体をふいてやっても、たちまち庭に飛びだして、土に顔をつっこんでの穴掘りで
ある。
そうした穴埋めは人間であるこちら様がするのであるが、人に聞いてみると、どこの犬でもそう
いうものであるらしいQ この習性は、食物を他の動物に取られぬために、穴を掘ってそこにかくし
ておくためらしい、とのことである。
我が家の犬などは、生まれたての子を広島からもらって育ててきているので、生まれてからそう
したことを覚えたわけではない。とすると、赤児が自然と乳首にすいつくのと同じような、生まれ
ぬ前から備っている習性に違いない。
習性と一口にいってしまえばそれまでであるが、こうした習性も一つの智慧の現われで、一体こ
うした智慧が、ならいもしないで自然と湧いてくるのであろうか、と思うと、そのことだけでも生
物というのは不思議な存在であり、生物を生物たらしめている。根元の力というものの存在を考え
ずにはおられない。
ところが唯物論者の骨口によれば、そうしたものはすべて自然の作用であって、何も神とか絶対者
などという智慧能力を備えた存在者があってそうしているのではない、といいきって平然としてい
るし、誤った仏教者なども、神とか絶対者とかの存在を否定していて、人間内部の仏を開顕するこ
とを唯一の道としている。
形のあるものは、形のない世界からの能力に作用されて現われてくることは、誰しもいなめない
ことなのだが、そうした能力も、ただ自然の所産であって、人格的な智慧能力をもった神などとい87ひ









うものの力でないと、それらの人々はいい、それはやがて科学の力でしだいにわかってくるのだと
いうのである。
それでは、その科学する智慧能力は、一体どこからきたのであろう。智慧も能力もない、単なる
唯物論的自然作用などから、人間のような素晴しい智慧能力をもったものが生まれてくるはずがな
いことを、この人たちは気づかないで、ただ、科学だ科学だと叫んでいるが、実は真実の科学者の
ほうがかえって神の存在を認めていて、敬度な気持で科学しているのである。
肉体内部だけの仏などを唯一のものとしていて、その仏が神とはなんの関係もないなどといって
いる仏教者は、こうした信仰心ある科学者には宗教的にもかなうものではない。
形なき世界を真実に人間のものとしない限りは、平和世界は地球界には開けてこない。それに
は、神との一体化を願う、敬崖な祈りの心を元とした科学であり、事業であり、政治であることが
絶対に必要なのである。

肉体人間観を超えた、神性人間の開顕こそ、世界平和への大原則なのである。科学はすでに形あ
るものは形なき波動より現われることを実証している。その形なき波動の世界を、最も高い、最も
無私な、最も清らかな、光明波動の世界に直結せしめることこそ、宗教者の使命であるのである。
88
それが世界平和の祈りによる、波動世界の浄化運動なのである。
汚れたるもの、争うもの、不調和なるもの、それらはすべて消えてゆく姿であって、唯一なるひ
びきは、神のみ心の光明波動なのであることを、私たちは一日も早く全世界に知ってもらいたいの
である。
愛情の反応
我が家には子供がいないので、淋しかろうと親戚からスピッツの仔犬をもらったが、その仔犬を
リリーと名づけて育てはじめてもう十ケ月にもなってしまった。
そのスピッツの面倒はもっぱら妻一人がやっているので、その犬の妻へのなつきようは大変なも89愛




の。私と二人で出かけて帰宅すると、私などに眼もくれず、感極まったような鳴き声をあげて、何

度も何度も妻に飛びつき、手といわず顔といわず、さけようもない程甜めつづける。やがてやっと
気が静まると、今度私への番になって、お世辞のようなじゃれ方をする。
全く動物というものは、実にはっきりと愛情の返礼をするものであると、今更ながら、思い知ら
されているのである。
ところがこうした愛情の交換は、人間同志の間では、動物が人間にみせるような、単純素直な態
度ではなくなってくる。どのように愛情を示しても、少しもそれに反応してこない相手もあれば、
片方がなんの愛情をもみせないのに、なみなみならぬ好意を示してくる相手もある。
そこに人生の悲喜劇が展開され、人生が複雑な様相を呈してくるのであるが、これが善いことか
悪いことか、一概に決めるわけにはゆかない。そこが動物世界と異った人間世界の面白さであるか
も知れない。
さて話をもう一歩進めて、今度は人間と神様との間における、こうした問題を取上げてみよう。
神様ははたしてどちらの部類の態度を示されることであろうか。
神様は人間のそれではなくして、むしろ動物の示す態度に近い態度で、人間にお応えになるので
90
ある。人間は自己が示した愛情だけを神様からかえされるのである。
ただ動物のように、尾を振り甜めしゃぶるような反応は示されず、神を愛する人間自身の心の中
に生活の中に、自ずからなる返礼をなさって下さるのである。
人間が神へ示す愛情は、そのまま信と呼ばれる態度になる。その信への返礼は、神のみ心、神の
み光、神のみ力のその人間への交流となって現われ、その人間は自らが神の子としての安らぎと、
権能とを知らぬうちに与えられてゆくのである。
私は神を愛し、信じ、そして神への全託の生活に突入した。そして、神のみ心、神のみ光、神の
み智慧を、私に集ってくる人々に伝えることができるようになった。私は神のみ働きの器となり、
同時に人間の姿を写す鏡となった。
私は私を通して神への信に進む人々をしだいに多く磨きあげることができるようになった。
私は私を通り道として神を愛し信じてくれる人の心が、そのまま神の返礼としてその人に光明と
なって還えってゆくのを日々みつめながら、
– 汝の信仰汝を救えりーというイエスの言葉が真理であることを確認し、日々神の大愛に感
謝し、信仰厚き人々のその愛情をそのまま、その人々への愛情として示しているのである。91愛




92
天然自然の理
十月のある真夜中、我が家のスピッツ、リリーちゃんが、近所のボーイフレソドに誘惑されてし
まった。板塀の下の土が大きく掘られていた。
リリーちゃんはその夜無事に帰えってはきたものの、もう只事でないのはきまっている。只事で
ないのは動物の本性でしかたがないとしても、さてその相手がどの犬であるかは、はっきりわから
ない。一番仲良しは二匹なので、そのいずれかであるには違いなさそうだが、茶のほうなのか黒ぶ
ちのほうなのか、家中が集まるとその話になる。
ところが月満ちて、生れ出た仔犬は四匹、そこで雄犬の正体がはっきりした。黒ぶちのほうであ
った。仔犬は二匹がリリーのような白で、二匹が黒ぶちであったからである。
天然自然の理は不思議なもので、その点人間も動物も変りがない。ただ人間より動物のほうが秀
れて? いるところは、動物は自分ひとりで子供を生んで、後始末もすっかり自分でしてしまうこ
とである。これは人間はとてもかなわない。現在の人間は本能的な動きにおいて、その鋭敏さ周到
さにおいて、動物に勝っているとはどうしてもいいかねる。
リリーちゃんではないが、私が我家の門前近くくると、もう私の帰宅を知って、奥の部屋のほう
から門のところまで飛び出てくる。こんなことは、霊能者以外の人間にはとてもできないことであ
る。
人間は高級だから、そうした本能的感覚がないのだ、と、そうした敏感さのあることがさも人間
より劣っている証拠のようにいう人があったが、そうした感覚の秀れていることが下等であるとい
うことになるはずがない。そうした感覚が鋭敏であったほうが、かえって人生から災を少くするこ
とになるのではないだろうか。
人間も古代人にはそうした鋭敏な感覚があったのだったが、現代はしだいに社会が機械化されて
そうした鋭敏さが衰えてしまったのである。だから宗教の門に入って心を静める鍛錬をしていると、
93天然自然の理
そうした直感力がひらいてきて、未来の危険を未然に防ぐ方法を人に教えることができるようにな
ったりするのである。
人間がわざわざ動物のようになる必要はないが、あらゆる生物の秀れたところは自己にも現われ
るような修錬は必要であると思う。それでなければ万物の霊長だなどといばっているわけにはゆく
まい。ところが現代では、動物本能の悪いところだけ真似して、秀れたところは見習わぬような人
々が増えてきているのは、真になげかわしいことである。
人間はもう一度古代精神に還えって、神との一体観から出直さない限り、しだいに動物よりも劣
ってくる人間が増えてきてしまうかも知れない。
94
平和論者
おなじみ我が家のスピッツ、リリ:は、全くの平和論者である。テレビでちょっとでも争い事の
場面が出てくると、眼を細めて寝ころんでいたのを、やにわにはね起きて、テレビに向って猛烈に
吠えかかる。観ているほうはどうにも制しきれなくなって、スイッチを切らざるを得なくなる。
画面が消えると不思議そうに首をかしげて、テレビ台のあたりで、消え去った闘争の匂いをかい
でいる。
外で不調和な騒音がしたり、飛行機の爆音が聞えたりすると、その不協和音を追って吠え走る。
かん
自分の調和精神を乱すあらゆる物音物事が、すべてリリーの滴の種であるらしい。
リリーの一番好むところは、育ての親の愛撫にあるらしく、頭をさすられ、お腹をさすってもら
とうぜん
って蕩然としている。そのくせ、その育ての親の肩を、私がもんでやったりすると、私にむかって
飛びかかってくる。人が仲良くするのに気がもめるのであろう。
その上この平和論者は非常に臆病で、何気なく客が手を出したりすると、恐怖のあまり、反射的
にその人の手に噛みついたりしてしまう。その点、自己防衛に徹しているのであろうか。噛みつか
れる人間のほうはやりきれない。世界の軍隊に、こんなふうな行動に出られたら、国民がたまらな
95平和論者
い、とふと思ったりする。
リリーは生まれつき犬なのだから、本能的な反射作用で、人に噛みついたりしてもしかたがない

が、私たち人間は、そうした反射作用を超えた、全く敵のない、相手を傷つけぬ、真の平和論者に
なってゆきたいものである。
だが、真の平和論者になるのは非常にむずかしいもので、深い愛の心と、不退転の勇気がない
と、とてもなれるものではない。口や文章でただ平和だ調和だと叫んでいたり、悪い事柄や争い事
に遠くから、リリーのように吠えついていたりしていたのではどうにもならない。といって、あま
り近よりすぎると、そうした争いの念波の中に、いつの間にか巻きこまれてしまっている場合もあ
る。
かた
いうは易く、行うは難し、とはこのことをいうのであろう。全く人間世界は、リリーの世界のよ
うに、自己防衛の本能だけでは済まされぬ世界なのだから厄介なものでもあり、限りない進歩が、
一歩一歩の歩みの先きにあるのだから愉快なものでもある。
私は真実の平和論者となる深い愛と、不退転の勇気とを、神への全託からいただいたので、その
全託の方法を、世界平和の祈りとして、人間世界に提唱しているのである。
96
仔犬を抱きつっ想う
どんな動物でも幼い時は愛らしいものだが、いつでも身近かでみられる仔犬の愛らしさは、誰で
も知っているところである。研究所のマスコット、ロビンと呼ばれる仔犬は、ヨークシャテリヤ種
で、大人になっても体重が一キロをいくらもオーバーしないという愛玩用の犬である。
この仔犬、眼まで垂れ下がっている頭髪はしだいに金色になってくるし、体の毛髪は銀色になっ
てくるという変り種、眼も鼻も黒々としてまんまるく、抱かれていても、走っていても、みる者が
思わず微笑をさそわれる愛嬌者。私などもこの仔犬をみていると、諸々の苦労も一時は軽くなる感
じである。97仔








人間の幼児はより以上可愛いには違いないが、その子の未来に対する責任のようなものが、いつ
も心にのしかかっていて、手離しでその愛らしさの中に浸りきってはいられないのが親の感情で、
無責任に近い気持で飼犬を愛するのとは、どうも少し違うのである。将来の運命を心配するなどと
いうことは犬の場合にはないからである。
このロビソ君、抱かれていても、何かで急に下に降りたくなると、足でけったり、噛みついたり
みちなか
して、降せという。ところが庭がぬかっていたり、道中だったりすると、降すわけにはゆかない。
じいっと押えつけていると、余計に自己の自由を主張して、人間の腕の中で荒れまわる。
暴れた拍子に腕の中から落ちでもしたら、何しろ小さな犬なので、足を折ったりしてしまう。無
事に落ちたとしても、泥んこになったり、道路だったら、自動車にひかれたり、野犬に噛みつかれ
たり、とにかく無事というわけにはゆかない。
人間の子供でも、親の眼からみれば危くてしようのない、勝手な振舞いをする子供もいるだろう
し、立派な大人になっていても、神様の眼からみれば、馬鹿なことばかりしていて、自分の自由だ
と思っていたりする人もいるだろう。
人間がロビソ君を腕の中から落すまい、としている以上に、守護の神霊方は、人間に神の道を踏
98
はず
み外させまい、としておられるのだが、人間のほうは、自己の眼の前の利害得失やその場その場の
はず
感情で、神の道である調和や愛の行為を外してしまうのである。
仔犬と全く同じように、神の守護をかえって邪魔にして、自由勝手な行動に出ようとする。仔犬
の場合は、意志とか知性とかの持ち合せがないので、すべての行為が可愛いく思えるが、人間のよ
うに意志力や知性を持った生物が、自己や自己の周囲のその場だけの利害や感情の動きのために、
神からきている知性をごまかして行動してしまうのは、なんともはや嫌なものである。人間は天地
四方をみわたしてみて、自己が常に神のみ心に抱かれて生きているのであり、全体の調和の中の一
員として生活しているのであることを、よくよく考えてみる必要があるのである。
ロピン君は今私の膝の上で全託して眠っている。
99仔犬を抱きつつ想う
100
野良猫
(一)
夕方、帰宅すると、妻が心配そうな顔をして「野良ちゃんになにか変ったことでもあったかし
ら」と私に聞くのである。「別に変ったことはないようだが、どうかしたのかい」私は野良ちゃん
の安否を確めながら、こう答えた。「実はいつもはもう夕食をねだりにきているのに、朝きたっき
りで、いまだに姿を現わさないの」と妻がいう。
野良というのは、一ケ月ばかり前から、朝晩きては、食事をねだっている野良猫のことなのであ
る。この野良猫君の食事時には、我が家の勝手口は大騒ぎとなるのである。何故かと申すと、飼犬
かん
の スピッツは、妻が野良君にサービスするのが瘡にさわるらしく、猛烈な勢で勝手口に走り寄って、
野良君の食事の妨害をするのである。ある時私がそれをみつけて、
「これ、リリー、お前は家で充分にご馳走を喰べているのに、やっとの思いで食事のできる野良
君の邪魔をするとは情けない。少しはゆずってやりなさい」
といいきかせると、そのまま吠えやんで静かに部屋のほうにいってしまったこともあった。しか
しその後はまた吠えついているらしく、野良君の食事時は相変らず大変な騒ぎだ、と家内がこぼし
こぼし野良君の毎日の食事をやっているというわけである。
そういういきさつの野良君だから、来ないでくれれば、面倒がなくてよさそうなものであるのに、
一日食事の時間に姿を見せぬとなると、あたかも自分の飼猫のように、この日も野良君のための魚
を買って用意していて、その安否を気づかっているのだから、私も思わずニヤニヤせざるを得ない。
うるお
ところがこうした人間の小さな情愛というものが、実は人生を潤す大事な要素となっているので
ある。家内と野良君とのつながりのような、ほほえましい情景はどこでもちょいちょいみられるも
のであって、しかもこのささやかな情愛がより集って、この人間世界を住みよいものにしているの
だし、明るい温かい、生き甲斐のあるものにしているのであろう、と私はしみじみと思っていたの
である。101野


102
(二)
うちの野良猫は、いまだに親娘二匹が健在で、時折り孫を生んでは、私共を困惑させているが、
またしても娘のほうが子猫を三匹生んでくれた。
うエみ
生 めよ殖えよ地に充てよ、は聖書の文句としては結構だが、度び重なるご出産では、飼主ならぬ
宿貸し主のほうは、その度び毎にその処理に頭を痛める。
我が家には、八年も前から正当なる飼犬の権利を主張しつづけて、一歩も譲らない、うるさ形犬
のスピッッ〃リリーグが存在するので、猫族は座敷に上がりたくても、家の敷居をまたぐことさえ
もできずに、裏口で食糧をねだりつづけているしだいなのである。
ところで、生まれ出た小猫というものは、いつの時でも、なんともいえぬ、あどけなく愛らしい
もので、先を争って母親の乳房を我がものにしようとして、手脚? をばたつかせているのは、い
っまで見ていても飽きないものである。といって、そのまま放って置いたら、我が家の庭は野良猫
の天下になって、一人子のリリーは猫族に翻弄されてしまう。
妻にも老母にも、ここが頭の痛いところで、折角生まれ出た生命が、むざむざ滅びてしまうよう
な捨猫にもできず、どうしましょう、と私に相談する始末となるのである。
家庭調和の相談や、病気や貧乏の訴えならば、相手が人間のことなので、なんとかその相談にの
ることもできるし、対処する方法もあるが、相手が動物となると、これがかえって困りものなので
ある。
とつおいつ思案の末に、いつものように、誰かにもらってもらおうということになり、その誰か
を物色することになって、一応けりがつきそうなのであるが、私共のように、多くの知人をもって
いるものは、なんとかその度び毎に動物の生命を尊重した方法で、解決することができるが、そう
でない人には私共のように笑い合いながらの困り方ではなくて、真剣に悩んで困惑しつくしてしま
う人たちもあるときいている。
猫ならぬ人間に仇する形になってしまう鼠でさえも、あの真黒な愛らしい眼をみていると、とて
も殺す気にはなれない。といって、殺さねばならぬ立場の人もたくさんいるのである。ここのとこ
ろが、実に生命尊重のむずかしいところであるのだが、ことこれが人間の場合にあてはめた場合、103野


うなつ
殺すよりは殺されるほうがまだましである、という人の出てくることは肯ける。それ程生命という
ものは理屈を超えて大事なものであることを誰にも感じさせるのであるが、自国の権威保持のため
なら、何十人でも何百人でも一度に人間を殺傷し得るという、そういう感覚の持ち主に人々をさせ
てしまう、国家とか民族とか主義とかいうものを私は不思議でならない気持でいるのである。
104
心の灯を消すな
櫨の中のライオン
四月の或る一日、私は中学一年生の甥にせがまれて、久しぶりで、上野の動物園に行ってみた。
その日は午後からすっかり晴れ渡って、春には珍らしく風の穏やかな、好日であった。公園の桜
のどか
も、ちらほら咲きはじめて私たちは全く長閑な歩みを動物園内に踏み入れた。
甥をガイドにして、立ち並んでいる橿の中を順次に見て廻わっていた私は、ライオソの濫の前で、
暫くはじっと動けなくなっていたo
ようぽう
牡ライナンの素晴しい容貌肢体にひきつけられてしまったからである。そのライオソは、その四
まともかお
肢を横たえ真正面に人間たちのほうに貌をむけていた。
107濫の中のライオソ
かお
なんという大らかな逞ましい貌であろう。なんという権威に充ちた、雄々しい容貌であろう。か
っては密林の王者であった彼は、今静かに、この狭い濫の中に横たわっている。彼は今や人間に捕
われの身であり、人間たちのショウ的興味の視線の中に日々を過している身である。
やがて彼は、四肢を起こし「そのたてがみはヤアエのびん髪、巨大な額は無敵の紋章」と詩人高
うた
村光太郎氏に詩われた、その素晴しい立派な貌を、鑑のほうに近づけてきた。しかし立派なその貌
は、深い憂愁に曇っていた。それは深い深い耐え難い心の苦悩を現わしているような容貌であった。
牡ライオンは鑑に近づくと、一声大きく胞吼した。その声に驚いて、人間たちは自ずと一、二歩
しんかんししく
尻ごみした。過ぐる日は百獣を圧するその胞吼、密林を震憾させたその獅子吼も、今はいいようの
ない悲しみを私の胸に伝えてきた。
彼の生命は今悲しみに震えているのだ。彼の生命の自由な働きは、密林原野にあってこそ発揮さ
れる。彼の真価がこんな狭い鑑の中で発揮されようわけがない。たとえいかようなご馳走をこの艦
の中でもらおうと、生命になんらの危機がなかろうと、ライオンにとって、こんな濫の中の生活
は、自己の生命を生かす何ものでもないのであろう。
私はこのライオンのために涙を流しながら、人間世界に想いを至してみた。
108
人間のうちの何% の人々が、生命を天より与えられたそのままの、自由無擬に生かし得ているで
あろうか。
自分たちに与えられた職業において、自分が置かれている環境の中で、どれ程の人が、真実喜悦
の心で生活していることであろうか。

ライオソは本能的に欲し、本能的に悲しむ。だが彼には、その本能を超える思考力も、知性の光
もない、その無力さの故に、人間に捕われ、その自由を奪われている。しかし人間は、自己の中に
神と等しき心、直覚と知性を同時にもっているものである。その直覚と知性が、本能のままに踊ら
されることを防ぎ、それを超越して、神の世界をこの地上界にも繰り広げようとしている者なので
ある。それが、ライオソと同じように自己の自由を外からの力に縛ばられているとすれば、実にお
かしなことなのである。それでは全く動物と等しいものであって、容貌体躯に勝るライオン以下と
いわなければならない。万物の霊長などという名に恥じなければならぬ。
ライオンが鉄の艦に入れられているように、人間は、自我欲望という、神から離れた想念行為の
カルマみずか
業の濫の中で、自らの生命の自由を、自ら縛っているのである。万物の霊長であるべき、真の人間
は、いかなる不遇な環境にあろうとも、自らその生命の自由を縛ってはいけない。生命の自由は、
109鑑の中のライオン
外部の何ものといえど、支配することのできない神の働きなのである。
肉体が動かなければ何事もなし得ない、と思っているのは大変な誤りである。黙って坐っていて
も、神との一体観にあれば、神の力が、外部と見える他の人に働きかけて、いつの間にか、その人
の希望を達成せしめてくれるものである。私たちは常にそうした体験をつづけている。
生命の自由、生命の働きは、肉体だけにあるのではなく、神体、霊体、幽体を通って、肉体に及
ぼしているのである。だから霊肉一致の働きのできるものは、肉体の自由を縛ばられていても、生
命の働きの自由を失ったわけではない。
この真理は、誰でも気づかずに、日常生活の中で行っているのである。そうした事実に気づいた

時、はじめて、人間はラィナソの立派さを超えることができるのである。その理を知らずに万物の
霊長とか、人権の自由とかいっているものがあったら一度動物園にいって、牡ライオソのあの堂々
たる姿と、自分自身とを比較してみて、人間は一体どこが、このライオンに勝っているのか調べて
くるとよいであろう。
110
心の灯を消すな
暗い田舎道を歩いていると、遠くの街灯の光さえ、とてもなつかしい気がする。早くその明るい
ところまで歩いてゆきたくなってくる。
駅から私の家までは、ごくわずかな距離なのだが、その間に街灯が六つ位ついている。しかし、
とコも
その全部が点っていることはまれであって、たいがいは一つか二つは消えている。ひどい時には一
っ位しかついていない時もある。
あたり
先日も私の家の前の電球が切れて、その一晩は、その辺は暗がりになってしまった。
常人は誰しも闇や暗がりは好まぬもの、それは人間の本来性が光であって、闇ではないからで、
111心の灯を消すな
ひぎやく
やたらに闇や暗がりを求める人は、何か心にやましさか、自己被虐の想いがあるか、または人から
のが
自己の姿を見られたくない時か、あるいは正しさから遁れようとする想いがあるかするのである。
もっとも、宗教的な統一をしている人が、暗室で坐っていたりすることは、五感の世界を離れ
て、本源の光の世界に想いをむけようとしている時なので、これはまた別の話である。
私も常人並に、闇や暗がりは好まぬほうで、家の中の電灯も明るいほうが好きである。従って薄
暗がりの道より明るい道を歩きたいのだから、街灯の消えているのを、嬉しい現象とは思わない。
街灯というものは、たとえ、自分の家の前にあったとしても、自分の家のためだけのものではな
いのだが、自分たちが家に籠っていたりすると、つい自分たちの不便にならぬので、つけるのや、
電球の切れていたりするのを忘れがちになる。
ところが街灯は、自分の家の前を照してくれて、自分の家も明るくなると同時に、道ゆく人のた
めに、どれだけの助けになるかわからないものである。
一人一人の人間の心も、この街灯のようなものであって、自分の心に明るい灯を点していること
は、自分自身の幸福であると同時に、周囲の人々や、行きずりの人たちまでをも、その灯で照して
いることになるのを、案外気づかずにいる人が多いのである。112
自分の心に灯をつけず、暗い想いで日々を送っていることは、ますますその人の運命を闇の底に
ひきずってゆくことであって、そうした癖がつきはじめると、なかなか心の灯をつけにくくなる。
一たん癖ついてしまうと、暗い不幸な想念の波が重なってきて、闇の層が厚くなってくる。そう
なると、光からますます遠のいていって、何もかも面白くなくなり、この世の中が面倒くさくなっ
てきて、気持がやけになってしまって、ついには運命を駄目にしてしまい、あの世でも地底の暗闇
でうごめきつづけなければならなくなってしまうのである。
この世には意外なほど、こうしたデカダソスな人が多くあるのであって、この人々はそうした生
き方をしながら、自分の生き方が他人の迷惑になっているとも、世の中のマイナスになっていると
も思わず、自分のことは自分の自由だと思いこもうとしているのである。こうした人々は、自分の
責任である灯をつけずにある街灯のようなものであって、自分の生きていることが自分自身にもマ
イナスになり、世の中のためにもマイナスになっているのであることを考えずにいるのである。
人間の本来性は神であり、光である。自分が全く、幸福で生きたいと思うならば、何よりも先き
とコも
に、自分の心に明るい灯を点さなければいけない。社会のために殊更に何をしなくとも、まず自分
の心に明るい灯を点すことが第一である。自分の心に灯をかかげないでいて、社会のためも人類の113心






ためもあったものではない。
人間は心を明るくすることをもって、自己の出発としなければならない。暗い心から生れたもの
は、けっして、人類社会を幸福にするためのものとはなり得ない。
かこせ
現在の自己の不幸を歎く者は、その不幸が過去世からの業因縁の消えてゆく姿と思い、その立場
で直ちに明るい心になるように、読書や善い話を聞くようにすることである。ただ単に神様、神
様、と呼びつづける生活をしていてもよい。
自分の心に灯をつけずにいて自分の運命が暗いと歎いているほど、馬鹿馬鹿しいことはないのだ。
114
はち
蜂 のいのち
「痛い!」という妻の声に飛び起きてみると、スカートの中に蜂が止まっていて、膝のあたりを
ニケ所さされたというo
なるほど、膝の中央に赤くはれあがった箇所が二つある。私の脳裡を元日紡貝塚のバレーボール
しばら
監督大松さんのことが走り去った。大松さんはシャツの中に蜂が入っていて心臓をさされ、暫く病
床にあったということだ。
「蜂はどこにいる」
私が怒ったような声でこういうと、妻は、
「そこにいるけれど、可哀相だから殺さないで」という。
私はその蜂を紙でつまんで窓のほうにもっていった。妻は後から、
「蜂は人の体をさすと、そのまま死んでしまうというけれども本当かしら、それだと可哀相です
ね、死なないといいけれど」
と自分が悪いことでもしたように、しめった声でいう。
あか
私は思わずはっとして、顔を赫らめてしまった。その時の私の心には、妻の体のことだけが気に
なっていて、蜂を哀れむ想いなど浮んできてはいなかったからだ。115蜂




私は妻に恥ずる想いで、改めて蜂の天命の全うされることを念じながら、窓から蜂を放してやっ
たのである。
人間というものは駄目なもので、私のように、愛一念で生活している人間でも、咄嵯の想いに出
てくるものは、自己の身近かなも○にかたむける愛情が多くて、その者にマイナスとなる相手の運
うす
命に対しては関心が薄くなってしまうのである。相手が蜂であろうとも、その想いのケースは同じ
ことである。
いかなる生物に対しても、自己本位の考えをもつことは、宗教者という私のような立場のものに
とっては、マイナスの想念であると思う。私もまだまだ駄目なものだとつくづく思いながら、妻の
ほうをみると、妻は意外と明るい顔をしながら、
「もう、痛みは止りましたわ。きっと蜂さんが、私の毒素を吸い取っていってくれたのね、あの
蜂さん、私とそういう縁があったのね」
というのである。私もつりこまれてにっこりしてしまい、
「おまえさんのその心なら痛みもすぐ止まる筈だよ」
と蜂の犠牲? に温い想いを投げかけていたのであった。
116
新しいもの古いもの
我が家の風呂桶は、使いはじめて十年以上にもなるが、まだまだ一、二年は使えそう、だが、風
呂場のすのこ(敷板)のほうは、うっかり力を入れて踏むと崩れてしまいそうに朽ちていた。しか
し三人の家族合わせて二十九貫何がしの重量が、この崩壊をわずかに支えていた。
何しろどんな物でも、使えなくなるまでは大事に使おうという、我が家の掟? なので、そのま
まに打ちすぎていた。ところが或る日、帰宅して風呂場に入って驚いた。すのこが真新しい木の美
しさで輝いてみえたからだ。今朝大工さんがきて新しいのにしてくれたのだ、という。
全く、新しい木というものは良いものである。心が改まったように眼が明るくなったように、私117新








は桧の香りを眼と鼻で味わっていた。
ちょっとオーバーな表現のようだけれども、その時は本当にそう感じたのである。古いものにも
良いものもあるけれど、板の朽ちたのや、畳の破れ古りたものはよい筈のものではなく、そうした
古いものが、急に真新しいものに変ると、眼の前が明るく輝いたようにみえるのも不思議ではな
い。だが、常に新しいものづくめの人にはこの美しさはわからなくなってしまうものだ。
新しいものと、古いものの代表的なものに赤ん坊と老人がある。老人のほうは古板や古畳とは違
って朽ちたから捨て去る、といったものではない。肉体は老い朽ちても、その生命が幾多の苦難の
道を乗り越えてきた、尊い七十年八十年の経験で光っているのである。
新しい生命体の赤ん坊は誰でも愛することはできる。だが老人を真実愛せる人は少い。どんなに
つまらない生き方をしてきた人でも、その長い年月を生きぬいてきたということは尊いことなの
で、私はそういうことだけででも老人を敬っている。
この世を長い間生きぬいてゆくことは大変なことで、その大変なことを成し遂げて、やがて霊界
への新しい誕生を迎えようとしている、ということだけでも、愛さずにはいられないものを老人は
もっているのである。118
新しい生命、伸びゆく生命を大事にするあまり、老い朽ちてゆく生命を粗末にすることはありが
ちなことであるが、そういう老いの姿はやがて自分のものとなることがあるのを考えると、老人を
粗末にしていることは、未来の自分を粗末にしていることと同じであることに思いを至すことが大
事である。それはさかのぼって、神に感謝していることになるからでもある。
といっても、新しい生命、伸びゆく若い生命はこの世を開発してゆくためには、何にも増して大
事なものであるのだから、昔のように親孝行が第一で、子供の養育を第二にするような考えには私
は賛成できないが、新しいものは古いものを、古いものは新しいものを、共に大事にし合ってゆ
く、そういう時代にしてゆくように、みんなで心をつかってゆきたいものである。
119新しいもの古いもの
120
老人のユーモア
私の仲間にはお年寄がかなりいる。この老人の中には、年は取っても若い者には負けないほどに
すみや
頭の働く人もいるけれども、大体において、耳が遠くなり、眼はかすみがちで、頭脳の回転が速か
ではなくなってきている人が多いのである。
独りでしゃべるだけしゃべり、私の答は自分自身の考えと同じことにしてしまって、独りうなつ
いて帰ってしまう老人もいるのである。私はただ黙ってにこにこして、頭を上下に軽く動かしてい
るだけで用が足りるわけである。
こうした老人の特徴ともいえるのは、外来語に非常に弱いことで、アパートがアパート、デパー
トがデパード。バス(乗合自動車) がパス。パス(定期) をバス。ブレゼソトをプレゼントという工
合に発音してしまう。
一例をあげれば
「わしはな、若い者にバスを買うてもろうたので、パスでくるのが楽になった」と、こういう按
配である。
先日もある老婆に、何かの拍子に言葉についてちょっと教えたところが、その老婆が感心しなが
ら聞いていたが、急に
「先生、わたしはこの頃、これが」といって、私にバナナの包を出しながら、「これが、バナナ
というのか、バナナというのかはっきりしないのですよ」
と、いうのである。私もこれには思わず吹き出してしまって、ア

「それは勿論.ハナナですよ」一

と、笑いながらいったものであるが、人のことは笑いながらいっているけれど、実際私たちだっの

て、グループをグループといってみたり、バーテンをバーテンといい間違ったりすることもないと老
はいえない。m
若い人たちが、外来語など間違えるのは変なものだが、お年寄が間違って使うと、かえって自然
のユーモアがあって、なんだか、その老人が可愛らしく思われてくる。老人になったら、あんまり
しっかりと抜け目のないのより、どこか間の抜けた、おっとりした感じになったほうが気がおけな
くて愛らしく感じられるQ
くらし
お嫁さんと一緒に生活ている老婆などは、あまり家庭のことに気をつかわぬように、伸びのびと
気楽な気持で、その日その日を送っていったほうが利口である。気を使い過ぎたり、いちいち家事
に口出したりするとかえって嫌がられるものである。老人のモウロクはご愛嬌でこそあれ、家庭の
邪魔にならない。
老人は伸びのびと明るく、余生を楽しんでゆくようにしたほうがよさそうである。その楽しみの
中に、世界平和の祈りを入れて下さると、その楽しみが、この世のための大きな働きにもなり、来
生の浄土行の保証ともなるのである。
122


なじ
知 人から頂戴して、すっかり馴染み深くなっていた柱時計が、遂いに修理できぬほどにこわれて
しまった。そこで致し方なく、家内のお供でデパートへその代理品を買いに出かける破目になった。
時計売場を見渡すと、実に様々な時計があちらこちらに並べてあり、掛けられてある。どれにし
ようかと種々と見て廻っているうち、とに角、置時計を買うことにきめた。
さて、置時計ときめて改めて見定めていると、美しいデザイソの新型のものが眼について心を引
かれ、旧い形のきまりきった置時計は二の次になってしまう。そこで、新型と心にきめて女店員に
その性能をきいてみると、その女店員は正直な女性で、
「これは美しい型で見た眼にはよろしいのですが、少しの震動にでも狂いやすい欠点がありま
す」
という。家内はそれでは困る、という。暫らく二人でもの欲しそうにその時計を眺めながら、も

123時
っと高級な新型のほうにちらりと眼を走らせる。女店員は私たちの眼を追って、
「あのほうなら、形も美しうございますし、狂いも少うございます」
と私の顔をみる。それはその筈、その時計は何万という金額のものである。私たちはもはや恐れ
をなして、今度は、二の次にしていた、旧型のなんの変哲もない、がっちりした時計の並べてある
ほうに歩みを運んだ。
ふる
「この辺のお時計なら型は旧うございますが、狂いはございません」
と、すかさず女店員が口添えする。
結局、私たちは、旧型のなんの変りばえもせぬ実用一点ばりの置時計を買うことになってしまっ
た。
この買物でつくづく思ったことだが、人間にしてみても、真面目で実直だが、特別才能もなけれ
ぽ面白味もない、という人もいれば、才能が人並み以上あったり、人並み以上美しい容貌をしてい
る人であっても、実直さや真面目さに欠ける人もある。さて、どっちを選ぶかというと、これが好
きずきであって、なかなか選択がむずかしい。一長一短があるからだ。
そこで、高級品の時計のように、両者の長所を兼ねているような、そういう人はいないかなあ、
124
まれ
と首をひねってみるのだが、この地球界では、そうした人は稀にしか見当らない。大天才などとい
われた人は、皆それぞれに極端に片寄ったところがあって、円満具足の人柄ではなかったようだ。
そこで私は、一長一短ある人々のために、その一長一短を、ひとまず世界平和の祈りの中に入れ

てしまい、世界平和の祈りの大光明の中で、一短のほうをしだいに減らしていただいて、円満具足
した、そして面白味のある人間性を輝やかしていただくことを希望しているのである。それは空論
ではなくて、実際にそうなり得る方法が世界平和の祈りなのである。
和服と洋服
服装というものは、文明世界にとっては、なかなか大事なものである。商売人の宣伝にのっての
125和服と洋服
ファッシ・ソ・ショー式のオシャレ競べはさておいて、各自の地位や立場によっては、それ相当の
服装を備えておかなければならないことにもなるらしい。
先日も或る結婚式にまねかれたのだが、この招待状に平服のことという但し書があったので、私
は気楽でよいな、といった軽い気持でいたのであった。ところが家内の立場になるとそうではない
らしい。というのは、モーニソグならモーニソグで定まったものが一着あるからよいけれど、結婚
ふだんぎ
式場に着て出るというほど、シャソとした夏服を私はもっていない。服はすべて平常着なので、夏
服などは、なんとなく手ずれて光っているし、よれよれとまではなっていないが、どうも晴れがま
しい場所で着るにはふさわしくない、ということなのである。
こういう話は、或る年令に達した人々にはタ全くご同感だ”と思い当ることがありそうである。
ところで日本人は、どうしても洋服と和服の二重生活になりがちである。私なども、家にいる時
と道場にいる時は和服で、外を歩く時はすべて洋服である。外を歩くのは確かに洋服が適当だし、
畳の上に坐るには和服のほうが楽でよい。
近頃の日本の都会の家屋は、大体畳の部屋と洋間との両方でできているようである。畳だけの家
より一部屋でも洋間のあったほうが、来客の場合に都合がよい、と皆が思うからである。洋間ばか
126
せつちゆう
りではまだ今の日本人には適さないようであるので、当分こうした和洋折衷の家が建ち並ぶことで
あろう。
こうした和洋折衷の生活は、あらゆる点で、日本人の誰しもが味わっていて、この生活を上手に
調和させているのである。
日本人の本質というものは、こうした日常生活にも現われているように、諸外国の文明文化を自
国に取り入れて、本来からあるものと融合させ調和させてしまう特性をもっている。
もっといいかえれば、各国各民族に分れ分れになっている素質を、一つに集合させて、大調和さ
せ、神のみ心を完全に現わしめる天命を、日本人は本質としてもっているのである。
127和服と洋服
128
東京タワーによせて
東京者の東京知らずとでもいうのか、私は長年東京や東京近郊に住んでいながら、東京の名所と
いうものを、あまり知らない。勿論名所の名前や、その外側だけは知っているが、その中がどうな
っているかを知らないのである。
東京タワーなどもその一つで、いつか折をみて行ってみようと思っていた。先日ちょうどその機
会があったので、人に連れられて行ってみた。
行ってみてまず驚いたことは、集ってきている人の大半が、地方からの見物客で、東京見物の土
産話に一見というところなのであろう、きっと学生の修学旅行なども多いのであろう。
ここは、テレビやラジオ、電信の発信と受信を一ケ所で、というのが、その本質的な目的で建設
されたものであったのだが、一般の関心は、そういう本質から離れて、東京全域を一眼で見渡され
るという、全長三三三米という展望台に集っているのである。
全くその高さはたいしたもので、屋上から天にそそり立っている鉄塔は、正になんともいえぬ壮
観であり、その鉄塔をエレベーターが昇り降りしているのが、夜で灯のついているせいか、天上界
と地上界を行き来している乗物のような気さえしてくる。
問題の展望台からの夜は、これはまた素晴しいもので、様々な灯火の色で、東京全域が、直角に
曲線に、様々な角度で画き出されて美しい光の絵巻物のような感じである。国電や自動車の走って
いるのも、こちらが天にそびゆる大男になって、玩具をあつかうように、自分の自由自在にそうし
た乗物をあつかっているような気がしてくる。
マンモス都市といわれる東京の夜景が、ここから見ると、箱庭的にみえてくるから不思議であ
る。もっとも神様の眼からごらんになれば、地球世界そのものが、箱庭的存在であるかも知れな
い。下から吹き上げてくる風は、私の頬に生ぐさい生温かい汚れたものに感じられる。
美しく見えるこの光の絵巻物の中には、虚栄と虚色にひしめき合う人々と、真面目一筋に仕事に
129東京タワーによせて
打ちこんでいる人々との入り交じった様々な生活がくりひろげられていることなのであろう。燭
こんな東京タワーをつくり上げた科学の力には頭が下がるし、東京の街をここまで文明開化させ
た事業家たちの努力にも敬意を表するが、こうした科学や文明文化を、誰も彼もが、安心して享受
できるような、そういう世界に一日も早くなるようにするための働きを、私たちが全身全霊をあげ
てやってゆかねばならぬと、しみじみ想うのである。
有名無名
人間は有名ということに憧れるもので、有名と名のつくものだと、
たかったり、聴いてみたかったりするものである。
会ってみたかったり、観てみ
ところが有名かならずしも良いものばかりでも、秀れたものばかりでもなく、俗悪に類するもの
も随分とある。人に知られずひっそりと野山に咲いている花の中には、人々が競って咲かせあって
いる花々に劣らぬ美しいものもある。
花と名のつくものは、有名無名にかかわりなく、総じて美しいものであるが、人間世界のいわゆ
る有名人と称する人々や集団の中には、どうしてこの人が有名になったのか、なんでこんな集団に
人が多く集まるのか、と思うような有名人や有名団体がある。
ビートルズという英国の音楽グループが、日本に訪れるというので、マスコミは大変な騒ぎをし
ていた。このビートルズは欧米諸国でも若い年代に大受けをして、一年の問にそのレコードが一億
枚以上も売れたというので、英国々家から勲章をもらったというほどなのである。
どこにどんな魅力があるのか、私などその音楽を聴いていると、やかましいばっかりで音楽の本
質など少しも感じられないのだが、ヨーロッパでは中年の女性でもシビレてしまうという人たちが
あるらしい。ビートルズの一体どこに感銘するのかとよくよく観察してみると、実際は音楽の美し
もろもろ
さにチャームされるのではなくて、聴衆者の中にある充たされぬ恋愛感情や様々の不満や諸々のコ
ンプレックスが、その凄まじい爆発的な音量にひき出されて、私流にいえば、そこで一時的でも消
131有名無名
え去ってゆくので、すかっとした快いものとなるのであろう。32ー
ルビンシュタインやカラヤンの有名と、ビートルズの有名さとは本質を異にしたものなのであ
る。前者は優秀なる音楽家としてのものであって、聴衆の心に美を満喫させるのであり、ビートル
ズのは聴衆の抑圧した感情を発散させる音楽なのである。
この世においては、善い悪い、深い浅いというより、どうしてもそういうものが生れ出でざるを
得ないで生れてくるものがあるので、善悪深浅は別として、有名人というものが生れ出るのである。
宗教の世界においてもそうであって、有名といい無名といい、その教の深さや低さというだけで
計れぬものがあるのだが、善悪高低の相違があっても、有名になるものは有名になるべくしてなる
のである。
虚名を挙げるに東奔西走しても、一向に有名にならぬ者もある。有名ならざる時期には、野に咲
く花のごとく、ひとりひそかに清らかなる花を咲かせていても、いつか時来りて聖なる名をはせる
人もあるのである。
愛情過多

ある人からいただいてあった蜂蜜を、お湯に融かして飲んだところが、あまり濃すぎて甘すぎ
て、喉がからからにかわいたようになってしまった。
甘さも適量が過ぎると、辛いものを喰べた後のようなかわきを覚えるものである。
いやかわ
人間の愛情もこんなものであって、愛情の甘さは過ぎると癒すことのむずかしい渇きを与えるこ
とがある。それは相手がいつでも、それと同等の愛情をこちらに要求する癖がつくからであり、そ
ニかつ
うした愛情をうけられぬと、心が枯渇した感じになって、かえって恨み心を抱いたり、仇をしたり
するのである。
133愛情過多
これは親子の間によく見られる現象であるが、この愛情過多の面からくる不良息子や不良娘と、
厳格すぎることから親に反抗して堕落する子女とがあって、愛するということのむずかしさを、こ
うした問題を持ちこまれるたびに痛感させられる。
私なども愛情過多の面が多分にあるので、自戒おさおさ怠らぬつもりでいるのだが、どうも愛が
情に傾きやすくて、厳しく叱ったほうがよいと思いながらも、「いいや、いいや、私がちょっと苦
労すればよいのだから叱っては可哀相だ」と思ったりして、相手が自分でつぐなわなければならぬ
カルマたまちから
こちらで引きうけてしまう。業まで、ところが結果的には、その人の魂力がそれだけ強まらないこ
とになって、どこかでその人の魂力の足りないだけを強める修行をさせなければならぬことになっ
てくる。そこで、私のその人の表面の想いを痛めないための甘い態度は、私の苦労というマイナス
を残すだけ、ということになってしまうのである。拙著〃釈迦とその弟子” (二四頁ー二六頁) の
あなんもくれんそんじや
中で、阿難が、その性情の弱さを目連尊者にたしなめられているところがあるが、私も時折、目連
さんならぬ、家内などからご注意をうけては、「全く全く」とわが愛情過多の性情に苦笑している
のである。
(目連とは釈迦十大弟子の一人、神通第一といわれた。)
134
美しきもの
人間の愛の行為ほど美しいものはない。愛は神なり、神は愛なり、という言葉は真理の言葉であ
しせいヘへ
る。その美しい行為は、市井の日常生活の中に、たえず繰り返えされているのだが、あまりにあた
ヘヘへ
りまえに行われているので、人々はその美しさに、特に気づかずに過してしまっているのである。

そして、特に超越的な犠牲精神、あるいは、自我欲望を超えきった愛他行為に対してだけ、大いな
る感動を受け、美しさを感じるのである。
先日、私が保谷というところへ行くため、西武電車に乗った時のことである。私の乗った時すで
に坐席は満員で、私は吊皮につかまって立っていた。私の立っている前の坐席には若い勤人風の青135美




年が坐っていた。池袋発車二分前ぐらいになった時、急いで駈けこんできた若い、これも勤人風の
女性が、この青年をみつけて「あら、あなたもこの電車だったのね」といいながら微笑を浮べて、
私のわきによってきた。
青年もニコニコとなんともいえぬ嬉しそうな笑顔をみせて、だが周囲の人々に気恥かしそうに、
ぶっきらぼうな言葉で「坐れよ」といって席を立とうとした。するとこの妻らしい若い女性は「私
は、そこで夕飯のおかず買ってこようと思うの、あなたも降りて次の電車にしない」と小さな声で
ささやくようにいう。青年は「いいよ、降りてから買おうよ、まあ坐れ」といってその女性の手に
軽くふれた。若い女性は素直にうなずいて、青年と代って腰掛けると、青年の顔をじっとみっめた。
その眼は愛情の輝きに満ちていて、こよなく美しいものだった。青年はいつまでもその眸にみつめ
られていて、少し照れたように手にしていた新聞のほうに眸をそらした。
その瞬間、若い夫婦の素直な温い愛情の交流が、私の心にそのままうつってきて、私の胸にも柔
かく優しく温かな感情が湧きあがってきた。私は二人の愛の交流を1 美しいなあーとしみじみ
想い、1 人間はいいなあーと喜ばしくなり、二人の幸福を心から祈っていたのだった。
こんな情景は、夫婦の中に、親子の中に、隣人の問に、常に繰り返えされている愛情の交流であ
136
ささい
るのだが、こうして改めて味おってみないと、見過してしまう些細な情景なのである。しかし私は、
こうした些細な愛の交流こそ、人間生活をささえている、尊く美しい瞬間瞬間であると思う。
些細な、と思われるこうした瞬間瞬間の行為の中にこそ、神は自らの姿を現わされていて、平凡
な日常生活を、神の世界に自からつながり得る光の縣となしていられるのである。

愛は美しい、そして愛の行為は尊い。それはまず些細な日常生活の瞬間瞬間の行為の中から生み
なされて、やがて大きな愛となって世人を救い、地上を浄める光となってゆくのである。
かえり
妻や子を顧みず、いたずらに社会改革を叫び、人類愛を唱導したところで、その人が真理の人で
あるとはいえない。真実の愛に生くる人は、自己の身近な人からも愛の人と呼ばれ、敬され慕われ
る人である筈である。
私はそうした電車の中で、今まさに沈まんとする夕陽に眼をやりながら、私はあの夕陽のように、
かなた
自己の身を彼方の国に沈める最後の日までも、自らの心に、愛の光を輝やかせつづけてゆき得る人
でありたい、と心の底から思っていたのであった。
137美しきもの
138

小 さな幸福感を超えよう
私の乗っていた国電が、何かの都合で、橋の上で止まってしまった。窓の外は、西空の茜色がし
だいに色薄らいでゆこうと暮れなずむころであった。
やや離れたところに、新しい橋ができるらしく、工事の人らしい影がまだ二、三人動いている。
近くの水面のさざ波は暮れ残った白い光の紋をきざみつづける。
川岸の家々の灯が一つ二つ三つ四つと灯りはじめて、人間の生活の息吹きが、国電の中の私の心
にひびいてくる。
かな
こうしたありふれた風景の中で、私は温かい自然の心と人の世のもの哀しさとを、同時に感じて
いた。春から夏にかかろうとしている夕暮れの自然の色は、人間の生活を柔かく抱きつつんでくれ
るような甘さを感じさせ、人の家の灯の色は、この世の生活の安らぎともみえるのだ。
大きな自然の中のほんの一部分の空と川と人の家とが、小さな調和を保って、私の視野からやが
て、夕闇の中に融けこんでしまおうとしている。闇が深くなれば、その小さな調和は無に等しいも
のとなって、闇の中で消されてしまうのである。
ただもの哀しい小さな灯だけが点々と、その調和の陰をわずかに残しているのである。私は若い
時、詩人のはしくれだったので、こうした哀調ただよう人生をいとおしみ、庶民の幸せというもの
を探し求めた。
しかし、人生がもの哀しいものと思われ、自然の小さいいとおしみに甘えているようでは、この
人生に真実の幸福のないことを悟らされていった。
そういう小さな幸福を求めているだけでは、人生の真実の幸福が永遠にこないことを知った。そ
うした小さな庶民的な幸福感、人生観のひろがりだけでこの世を終ってゆくには、人間の知性も直
覚もずっと高く深いものでありすぎるのだ。
とも
家々に灯る小さな灯にも安らぎはあるのだけれど、そんな小さな安らぎでこと足りるとしている139小










ようでは、人間がこの世に生をうけた価値がない。
人間がこの地球界に生命体として生かされているのは、個人個人のそうした小さな安らぎのため
だけのものではない。甘哀しい幸福感のためでもない。宇宙大神のみ心をこの地球にはっきりと現
わすために生きているのである。
そういう真理を知っていないと、つい自己本位の、他人の心を傷つけても、他国を侵かしてでも、
自分たちの幸福をつかもうというような、いやしい想いを起こしてしまうのである。人間は神の子
であり、この世もあの世も神のものであることを誰も知らなければならぬ時がやがてやってくるの
である。
140
恥ずかしいこと
ああ
混んでいる電車に、幸いと私は腰かけていた。一つの駅で右隣の席が空いた。空いた席の前には
老婆が疲れたように立っていたが、後のほうから五十五、六のオジサンが、まるでその老婆をつき

のけるような勢いで、野球の選手がベースに飛びこむように、その空いた席に腰を降した。
私はその墜いた席には当然老婆が坐わるものと思っていたので・いささか霧れて腰掛けたオジサ
ソのほうをみていた。しかし気がついてみると左隣のほうに少しずつ隙がある。私が左のほうに腰
をずらすと、隣りの人も私にならって腰をずらす。そこで小さな老婆の腰を降ろすだけの空間がで
きた。
「さあ、お掛けなさい」と私のいうのを待ちかねるように老婆は会釈して腰を降ろした。私も何
かほっとして、私も時折りは気づかずに、あのオジサンのようなことをするのではあるまいか、と
自分を顧みる。
腰掛けた老婆にむかって、オジサソが大きな声で話しかける。大きな声なので、聞こうと思わな
くても聞えてくる。
まぬ
「今の連中は社会秩序をちっとも知らん。今かけていたおやじなどは、大股をひろげて二人分の
141恥ずかしいこと
席をとっていた。なあ、一人立ったらこうして二人掛けられたじゃないか、いい年しやがって、今翅
の若い連中と同じように社会常識がないんだ、本当に困った世の中だ…:・」
といったような話である。私は思わず苦笑して、そのオジサンの顔をのぞきこんだ。
自分のしたことはすっかり棚に上げて、人の行為の批判を、しかも自己は完全なる人格のような
ちようちよう
顔をして喋々としてしゃべりまくる。
この場のオジサンの行為はたいしたことではないけれど、このオジサン一事が万事この調子じゃ
ないのかなあ、と思ってみると、このオジサソの行為を大きくしたような人々がかなり存在するの
を思い出す。
自己の行為には批判も反省もなく、他人や社会や国家に対しては、聖者ぶり、正義漢ぶって、や
たらに悪口し、説教する人たちの、高々とうごめく鼻の、鼻もちならぬ悪臭が、このオジサンの雰
囲気を通して、私の心をあじけないものにしていた。
私や私の友人たちが、そんな仲間には、夢にでもならないように、反省おさおさ怠ってはならな
い、としみじみ思いながら、私は電車にゆられていた。
神経の使い方
人間の世界というものは、なかなかうまいようにはゆかないもので、善い人といわれる人のほう
が心の弱い、神経の細い人が多く、悪い人物と目される人のほうが、「悪い奴ほどよく眠る」とい
う映画のように、心も神経も図太いようである。
たく
これは人類社会にとって、はなはだ困ったことであって、心の善良な人程、心が強く神経も逞ま
しくなくてはいけないのである。
お互いに相手のことを思い合いながら、かえってお互いの神経を疲れさせている善い人たちをち
ょいちょいみかけるが、これは実に世の中にとっての損失である、と私は常に思っているのであ
る。143神


使


これからの世界は、善い人ほど逞ましく大きく生きてゆかねばならぬので、そうでないと人類社翅
にご
会は、ますます汚れてしまって、どうにもやりきれない濁りきった世界になってしまう。
神経を針金のように細くくねらせて使っていては、その人自身、この世の中が住みずらくてやり
きれないし、そのお相手する側も、あの人は善い人だけれど、あの人と話していると、こっちが疲
れてしまう、というように、両方共に精神のマイナスになってしまう。
どうしてそう神経を細くくねらせて使わねばならぬかというと、その人が自分を少しでも善くみ
せたいという気持、悪くみられたくない、という気持または、自己被虐の想いが心の底に働いてい
るからなのである。裸の心で生活していないからなのである。そういう神経の使い方をする人は、
大体善い人にきまっているのだから、そう神経を使わなくとも結構善い人として、誰からも悪く思

われぬような素質の人なのだから、自分の地をそのままで人に対しているほうがよいのだ、と知る
ことが必要である。
そういう神経の使い方の習慣がついていると、すぐに直るというわけにはゆかないが、そうした
神経の使い方をしたら、そのたびごとに、その神経の使い方を否定して、それを消えてゆく姿とし
いのごと
て、世界平和の祈り言の中で、再びそんな神経の使い方をしない、と誓うとよいのである。そうい
う風に繰りかえし、くりかえして実行していると、いつの間にか、神経が太く、あまり対人関係で
神経を使わないようになってくるのである。
神経は先が鋭くとがっていてもよいが、元は太く逞ましいほうがよいのである。鋭くて太くなけ
れば、この汚れきった地球世界で、平和の使徒として立派な働きをすることができない。そういう
神経になるために、どうしても世界平和の祈り一念の生活をしてゆかねばならないとしみじみ思う
のである。`
楽天家
人間が一つの仕事を成し遂げてゆくためには、どこか楽天的なところがないといけない。今日ま145楽


でに大きな仕事をしてきた人で、楽天的な心をもたぬ人はあまりいない。416
神経もよくゆきとどき、知識も深く、行動力も備わっているとしても、明るい楽天的なところの
ない人は、どこかで崩れてしまいがちである。
国を想い、人類の運命を憂い、なんとかして国や人類の運命を善い方向にもってゆこうと考えて
いる人でも、あまりにその事柄に把われていて心に余裕がなさすぎると、その運動は挫折してしま
う。
何をするにも、想いが把われてしまうと、その人の本体から流れてくる、天与の力がそこにとど
こおってしまって、生きた力にならなくなってしまうのである。
楽天家というのは、そういうとどこおった想念のない、天に通じた明るい心の現われたものなの
で、いったん運命がとどこおったとしても、その楽天的な想いの波を通して再び天与の力が流れて
きて、運命は改善されてゆくのである。
といって、どうにかなるさ式の生き方を楽天というのではない。真実の楽天家というのは、常に
人事を尽しきっているところから生れてくるものなので、そこに心の余裕がもてるのである。人事
を尽して天命を待つ、という気持が楽天に通じてくるのである。
私はそれを、天命を信じて人事を尽せ、というように説いている。何故天命を先きに出して、人
事を尽すことを後にしたかというと、まず人間は、自己が生きている、この世に生かされている、
ということになんらかの天命のあることを信ずることが非常に生きる上において大事であるからで
ある。自己の天命を信ずる、という信仰的な気持になると、自ずから自分の生き方に張りが出てく
る。張りが出てくるとあらゆる事柄に人事を尽したくなる。
世の中には、何事につけても、消極的で、否定的で、物事を悪いほうに悪いほうにとりがちな人
があって、なんとしても楽天的にはなり得ない人がある。こういう人が楽天的になるには、どうし
ても信仰の道を通らなければどうにもならない。
わいのち
自己が神の分け命であって、神の一つの使命をもってこの世に生れ出でたものである、という信
仰をもつことによってのみ、この人は楽天的になり得るのだし、物事を成就し得るのである。すべ
てを神のみ心に投げ入れた時程、その人の心が明るく強く逞ましくなることはない。何があっても、
どんなに逆境に立ち至っても、崩れ折れることのない楽天家になるには、神との一体観を観ずるこ
とが第一なのである。
147楽天家
148
人形芝居
先日知人に誘われて、文楽三和会の人形浄瑠璃芝居を観に行った。私は特別文楽に興味があるわ
けでも、浄瑠璃好きでもない、全くの門外漢なので、一緒の知人の説明を拝聴しながら、この人形
芝居を観ていたわけである。
桐竹紋十郎という人を中心に、各自持役の人形使いの人たちが、舞台で人形に芝居をさせるので
かみしも
ある。一つの人形に三人の人形使いがついていて、中心の人は神姿で顔を現わしているが、あとの
二人は覆面黒装束である。
この三人の人々が、一つの人形を浄瑠璃の語りにつれて、巧みに操り、芝居をさせてゆくのであ
るが、はじめのうちは、操る人々と人形とに半々に眼がゆき、背後の操る人が見えずに、人形だけ
が見えるほうがよい、どうも人間が邪魔で仕方がない、と思っていたのが、しだいにその人形使い
の姿が邪魔にならず、人形だけの動きが中心になってきて、人形自身に魂(生命)があって、自然
に芝居をしているように見えてきたから不思議である。
私は人形たちの芝居をみつめながら、自ずと守護霊と肉体人間との関係を思っていた。人形を肉
体人間に讐えれば、中心の人形使いは正守護霊、覆面黒装束の二人は副守護霊に当る。もし肉体人
間の内部に霊魂(生命)が働いておらず、思考する力がなかったら、この人形と同じになり、外部
からのつまり背後の霊たちの想いのままに動くに違いない。そうなれば、現在の人間世界のように、
種々の行き違いや、様々の争いは起らずに、神の意志が正確に実現されるに定まっているから、そ
のほうがよさそうに思われる。
ところが、肉体人間は、そうした人形や機械のように、外部からの力が動くのではなく、自分自
身の生命の流れにより、自分自身の思考の力によって、何事もなし得てゆくのである。それだから
しんしん
こそ、人生は生きいきとしていて劇的であり、興味津津としている、というわけなのである。しか
ごう
しそのため、自分自身おかした業は、自分自身で払ってゆかねばならぬということになってもいる149人



のである。
ところが私たちの体験では、肉体人間には人形芝居の人形的な要素があるというのである。それ
は、肉体人間も、彼の人形と同じように、常に背後において、自己を操り、その動きを正道に乗せ
ようとしている守護者が、厳然として存在するということなのである。
人形芝居では、その守護者(操り手)の姿が見えているけれど(もっとも人形自身には見えない
のだ)肉体人間の世界においては、その姿が見えないので、普通人はその姿に気づかずにいるだけ
なのである。肉体人間背後の守護の神霊は、その被守護体の一挙手一投足にも気を配り、その内部
の神性発現のための、絶大な援助を行っているのである。現代人でそのことを知る人は、まだ非常
に少いのであるけれど、今に私たちや心霊研究の人々の運動により、急速に増大してゆくことであ
ろう、と私は信じている。何故ならば、今後の世界は、見えざる守護者たちの応援なくして、一日
として、安心して生きてゆかれぬ時代になってゆくからである。この世において安心立命の生活を
送り、この世からあの世への橋渡しを立派になしとげてくれるのは、私たちの背後の、守護の神霊
であることを、この世の人たちは、一日も早く信じなければいけない。
人間に死はなく、あるは霊界への転移のみであることを知るには、守護の神霊への日々の感謝行
150
にあるのだ、ということを、多くの人々に急速に知らせたいものである。
文楽を観ながら、私の想いは、とんだ異なる方向に飛躍していたのであった。
仕組まれた芝居
芝生というものは、青々としているのは勿論よいけれど、すっかり黄に枯れたのもなんともいえ
ない風情をもつもので、見越の松の緑、庭隅にある白と紅の山茶花の咲き残った五つ六つの花々や
散り敷いた四五片の花片との対照は、自ずと心和むものがある。
毎年私はこんな風景の中で元旦を迎える。元旦は晴れても曇っても、人の心を新しい気持にさせ
てくれる。無限の空間と永遠時間を生きぬいてゆく人間生命にとって、元旦は単なる一瞬には過ぎ
151仕組まれた芝居
ないのだが、私は子供のように元旦が好きである。
一の中にすべてが含まれ、一の中からすべてが生れてくるように、元旦の中から今年の息吹きが
生れ出るという気持だし、元旦の奥から永遠時間の応援がありそうな気もする。確に、今年の元旦
も、永遠の生命の一つの新しい鼓動として開かれてゆく年の鍵を握っているのである。
人間の生命というものは、実に面白くもあり、不思議なものであって、肉体を離れて久しい人々
が、常に子孫の運命を見守っていて、子孫の霊性開発に役立つように働きかけているものである。
守護霊というのは、そういう祖先の中の解脱し得た人々が成り得ているのである。
先日、或る人にお茶に呼ばれた。この人は名器や有名な茶道具をもっていることで知られている
しやくしようあん
茶人である。客になった私が、ふと茶杓をみると、小庵という号が彫ってあるので、小庵とは誰方
しやく
か、と尋ねると、亭主は、千家の二代目だという。その茶杓は、模倣だというけれど、身体の細形
しやく
の気の優しそうな弱々しい人が、茶杓を通して私の霊眼に見えてくる。私に何か頼み事をしている
しやくしやく
のである。私が茶杓に興味を示したので、その家の亭主が、次々と茶杓をみせて下さった。利休と
か玄々斉とかいうのもあって、皆稽古用だというが、やはり本物のひびきが伝わってくる。利休は
誰でも知っているが、小庵だとか玄々斉などはお茶に関心をもたぬ人は知らぬし、私もそれまでは
152
知らなかった。玄々斉などは凄い迫力のある逞ましい心の持主で、何事もびしびしやっでのけるよ
うな人である。聞くと、十一代で中興の祖といわれる人だとか、さもありなんと私は思つた。
その日は久しぶりに時間があって、舞踊劇の切符をもらっていたので、新橋演舞場に、その足で
いってさて舞踊劇をみていると、なんと、その夜の出し物に「お吟さま」というのがあって、お吟
さまの父の利休も兄の小庵も揃って舞台に出てくるのではないか。やはり、本物が役者の後にはっ
きりついていて、ついているといっても迷ってついているのではない。私に用があってついている
のである。
むこうさま
私はその人たちと霊的に話合って、向様の用件がすっかりわかって、その用件を果す祈りをした
ことなのである。
そのように、人は永遠に生きているのであって、肉体界に用があれば、特殊な人々に協力しても
らって、その用を果してゆくのである。私など、日夜そういう用を果す協力をしているわけで、世
界平和の祈りなどは、歴史上の様々な聖賢方と私たち肉体界に在る人間との協力によって、大きく
宣布されてゆくのであり、神霊界と肉体界の心を一つにした、地球世界救済の大仕事なのである。
すべては神のみ心によって仕組まれた大芝居であるともいえるので、私たちはその役柄を全力を
153仕組まれた芝居
挙げて、演じてゆくわけなのである。そのためにはよく監督や演出者である、神々(守護の神霊)
の指導を受けてやらねばならぬ。そのためのたゆみなき守護の神霊への感謝行なのである。
154
真実の思いやり
先日所用で三越へ出向き、急に知人に電話をかける用ができて、公衆電話のそばにゆくと、中年
の一人の婦人が話中で、その人の子供が一人と三人ばかりの人が、その電話の終るのを待っていた。
ところが、その婦人の話の長いこと、待っている人たちのことなどはまるで気づかぬ如く、一体
何通話になるのかと思うほど、ご丁寧な言葉で喋々としゃべっている。聞くともなく聞いていると
その内容はいつでも話せるような日常茶飯事のことで、なんら長話の必要のない事柄である。
待っている人たちは、靴先で床をこつこつつっついているやら、苦い顔をして下を向いたり天井
を仰いだり、腕ぐみしてみたり、といてみたり、それぞれのいらいらしている気持が、私の心に手
に取るようにわかってくる。
あまり長いのにたまりかねたのはまずその婦人の坊やで、「お母ちゃんお母ちゃん」としきりに
袖をひっばりはじめる。しかしその婦人は平然と長話をつづけているのである。その話への統一ぶ
あつに
りはマコトに天晴れという他はない。
こういう経験を味わされたことは、皆さんも一度や二度はあるのではないかと思うが、この婦人
こま
でも、一家の人たちのことには、細かく神経がゆきとどいて、案外夫や子供たちにはよい妻であり
母であるのかも知れない。
自分一家や知人に対しては思いやりがあっても、見知らぬ人のことや、社会へ出ての行動は、意
外と思うほど、思いやりのない行為を見せる人が多いのは、一体どういうことなのであろう。そう
エゴイズム
いう人たちの思いやりというのは、単に自己主義の拡大したものであって、真実の思いやり、つま
り愛の行為ではないのである。そうした程度の思いやりの人で自分は人を愛することのできている
者である、と思ったりしている以上は、その人たちには、真実の世界平和を云々する資格がない。155真






というのは、米国やソ連が自国を護るために他国を侵したとしても、その行為を責める資格をもた
ぬからである。米国やソ連が自国の都合のために、他国の不利になることをするのも、為政者から
すれば、自国に対する愛の心である、と思っているだろうからである。
こう考えてくると、この世に真実の愛の心思いやりの心そのままで生きている人がどれ程存在す
るかということになる。私は僅かの僅か、数えるほどの人しかいないであろうと思う。それ程に、
真実の愛、真実の思いやりというものは難しいものである。
わら
だから私たちは、他人の思いやりのなさを暇う前に、多かれ少かれ、自己主義的な想いをもって
かえりぽんぶ
いる自分自身の心を省みて、自分自身の凡夫であることを悟り、自分自身では到底そうした凡夫の
あき
境界を超え得ることのできぬものと明(諦)らめ、そうした想いから、凡夫のままで守護の神霊の
中に全想念を飛び込ませて、日々新生の赤子のような気持でこの世の生活を送るようにすることが
大事であると思う。
それが私の提唱している世界平和の祈りで、ひとまず自己の全生活を世界平和の祈りの中に飛び
こませると、その世界平和の祈りの中から、はじめて真実の愛の心、真実の思いやりの行為が、自
然の形で行われてくるのである。何故そうなるかと申すと、世界平和の祈りそのものが、大愛の光
156
であるからである。世界平和を祈る時、
る。
その人は凡夫のままで菩薩の光を放つことができるのであ
インシャーラ
先日アラブ諸国へ行ってきた人の話で、あちらの国の人たちは、人に借金をしている場合でも、
催促された時に、インシャーラ、というと、相手はそれ以上催促することができないというのであ
る。インシャーラとはどういうことかというと、神のおぼしめしだから仕方がない、ということな
のだそうだ。
この場合は神が借金を払わしてくれないのだから仕方がないということになるのだろう。すると
157インシヤーラ
相手も神様のおぼしめしなら、どうにも仕方がないということになるらしいのである。螂
どうも日本人からみたら頭をひねらざるを得ないやりとりである。確かに何事も神様のおぼしめ
しであることには違いがあるまいが、こんな風に人間同志の努力や誠意の在り方で片づく問題まで、
ことごとく神様のみ心でとやられたのでは、こうして肉体人間が個別に分かれてこの地球界に住み
ついている意味がなくなってしまう。
せい
自己の怠情や不誠意から出た事柄を、神様の所為にしてしまう人が、日本の宗教信仰者の中にも
かなりあるにはあるが、イソシャーラ問答のようなことが普通のこととしてまかり通っている国柄
からは、人間神の子というような尊厳さをもった人格を感じるわけにはゆかない。
中近東あたりの宗教信仰の在り方も、神と人間との間柄を、親と子との関係ではなく、主人と下
僕というような関係として取り扱っていて、或る種の動物を神の使いとして人間以上に崇めたり、
わいのち
つまらぬ儀式に縛りつけられたりしていることが随分ある。人間が神の子として、神の分け命とし
て、その自主性をもってこの地球界に神の大意志を実現してゆくという、重大なる意義を失わせて
しまっているのが、こういう宗教の在り方なのである。
アジアが彪大な人口を持ちながら、ヨーロッパの文明文化の前に従属しているような状態を、長
い間つづけているのは、こうした誤った宗教観念が、アジアの文明文化を極度に遅らせてしまった
ことによるのである。
誤った宗教観念というものは、利己的な唯物主義と同じように、地球の進化を妨げてしまう困っ
た生き方となるのである。
神が地球世界を生みなし、自己の分け命を肉体人間としてこの地球界に生活させることにしたの
は、神のみ心を地球世界において表現されるためなのであって、その主人公を肉体人間と定められ
たことによるのである。だからあくまで肉体人間がこの地球界の運命の主役なのである。その主役
の重要性を自ら捨てて、神にその責任の転嫁を計るようなことでは、神のほうではそんな人間をこ
の地球界の主人公にはしておけないことになる。といって、その生命や智慧能力をたゆみなく送り
こんでいて下さる親様である神の存在を無視して、あたかも自らが生命をつくり、知恵能力をつく
り出したかのように、大生命である神の恩恵になんらの感謝もせず、ふり向こうともせずに自分勝
手な生活を送ろうとする人間は、これも神のみ心をこの地球界に現わし得る人間ではないので、こ
の生き方も長つづきはしないものなのである。
この二つの生き方は共に、宇宙法則を外れた生き方なので、やがては消え去ってしまう生き方な
159インシヤーラ
のである。
神は大生命であり、人間はあくまで神の分け命であり、神の子である。天なる父のみ心を子なる
人間がこの地球界で果してゆくべき使命をもっているのである。であるから、常に天なる、つまり
人間のうちなる神のみ心に自らの想いを合わせて、この地球界の進化の道を進んでゆくべきなので
ある。そういう姿が祈りの姿なのであり、こういう神我一体の人類になさしめるために働きつづけ
ているのが守護神、守護霊なのであることをよくよく知っておかねばならぬのである。
160
脱皮
ある朝の道場で、小学生と中学生の男の子が二人、庭の木から探してきた蝉の幼虫をそれぞれ一
匹つつ掌に乗せて、その幼虫が殻を破って出てくるのを待っていた。待つほどに幼虫は音もなく殻
を破り、少しつつ頭からその姿を現わしはじめた。
しかしその現われ方は全く少しつつの動きであうて、その脚を現わし、羽根を現わすまでには、
見ているほうがすっかりくたびれてしまうほどに緩慢で、何か必死の力をそこに感じさせるものが
あった。
掌に乗せている少年たちは勿論、傍で首をのぺて見ている大人たちも、その幼虫が無事に殻をぬ
け出し一匹並みの蝉としてこの世に出てきてくれることを祈るような気持でみつめているのであっ
た。
私が応援のつもりで、ちょっと掌をその上にかざすと、幼虫はぴくりと大きく身を乗り出した。
それは皆が「あっ!」と思わず声を出したほどの動きであった。私の応援力が、幼虫の生命の力に
強く働きかけたのであろう。
やがて幼虫は全身を乗り出し、すっかり殻から抜け出すと、見るまに、脚は脚らしく、羽根は羽
根らしく形がととのい、立派な蝉の形になって、緑色と、とき色に変色したその身を、それぞれの
少年の掌に乗せて、よちよちと歩み出し、数分の間もなく、畳の上をはっきりした歩調で歩みはじ

161脱
めていた。
見ていた人々は、ほっと吐息をつき、お互いの顔を見合わせて、微笑み合った。二匹の生命が無
事にこの世に姿を現わしたことに自ずからなる安堵の想いを抱いたものであろう。それがたとえ、
蝉であれ、なんであれ、生命そのものに対する尊貴の念と愛情の念との現われであることには違い
ない。
このような小さな生物ですら、その生命の動きに対しては何故か尊い感じをもつのが人間の心の
本質である。私は生命のもつ神秘さと、その尊さを今更のように感じながら、そこに集っていた人
々に短い真理の話をしたのであった。
人間はこの蝉のように眼に見えて脱皮するのではないが、常に眼に見えぬ脱皮をしているもので
あることを、多くの人々は知らないでいる。
生命はその人の想念のいかんにかかわらず、常にたゆみない進展をつづけているもので、その生
命の進展に邪魔になるものは、次々と捨て去り、破壊し、脱け出てゆくものである。それが今日ま
で必要であった物質であれ、生活環境であれ、それが今日から必要でなければ、惜しみなく脱皮し
てゆくのである。その最も重大なものは肉体の脱皮、つまり死である。
162
病気といい、貧乏といい、不幸といい、それらはみな、避葺ぜから積み重ねてきた籍欝纏蕨饗げ
消えてゆく姿、つまり、生命が、生命本来の進展のための脱皮作用なのである。
生命は大は宇宙生命から個々人の生命まで永遠不滅のものである。肉体の生も、肉体の死も、す
べて生命進展の一つの作用であり、より大きな、より広い生命の働きのための一つ一つの変化なの
である。
その変化の一こま、一こまのために各守護霊、守護神がどのように大きな働きをしているか一般
の人々は殆んど知ってはいないが、私はそうした守護霊、守護神に依頼されて、個々人の運命指導
や、浄めの祈りをしているのであるが、その人々が、日々脱皮してゆき、知らぬ間に、人間の本質
である、神のみ心に叶うような想念行為になってゆくのが、実によくわかる。
人間は貧乏や病気や様々な不幸として現われる脱皮作用を恐れてはならない。それらはすべてあ
なた方の生命の本質、神の分霊である本質を現わすためのものであるのだから。そしてその脱皮作
用をより容易に軽く行うためには、守護霊、守護神への感謝を常に常にしてゆくことである。その
感謝をもう一歩進めると世界平和の祈りという、自己を含めた人類社会の平和の祈りとなるのであ
る。

163脱
164
結婚について
結婚は人間にとって重大な事柄の一つであって、というより女性にとっては最大の重要事である
ので、よさそうな月、よさそうな日を選んで、その結ばれを実現したいのは無理のないことである。
この結婚については種々な考えをもつ人々がいるのであるが、最も相違した二つの考えを挙げれ
ば、一つは、結婚とは陰陽二つに分れた一つの霊魂が、再び一つに結ばれたのだから、いかなる事
情があろうとも絶対に分れてはいけないのだ、それは神への大なる反逆である、という考え方と、
結婚というのは社会という一つの枠を形づけるための方便で、実は男女はどんな結ばれ方をしよう
と自由なのだ、ただ一応そういう形をとるだけなのだから、嫌ならどしどしやり変えたらよいの
だ、というような考えとである。
これは正に相違する二つの考えである。今日までの宗教者は殆んど前者の考え方を根本にしてい
るし、唯物論的な進歩主義の人々は、大体後老に近い考え方をしているようである。
さて私はどのような考え方をしているかというと、結婚とは勿論、霊魂が肉体を通して一つに結
ばれるものである、と思っているのだが、それが必ず一つの霊魂が二つに分れたものの結ばれであ
じつそう
るというような、単純な宗教観ではない。実相としてそうであろうし、理想としてもそうありたい
こうしよう
のだが、この現象の肉体界ではそういう結婚はいたって数少いのであって、業生としての結ばれに
ょるものが大半なのである。それで私は、守護霊同志、または守護神同志の結ばれによる結婚と、
業生(業因縁)によるものとの二っに分けて説明しているのだが、業生の消えてゆく姿としての結
婚のほうが実に多くて、神々の調和による結婚が実に少いのを、私は多くの家庭を観察して感じて
いるのである。
結婚は一つの霊魂が二つに分れて再び結ばれたものであるなどと、理想論だけを振り廻わされて
じに
は、苦しみ死しかねない人々も出てくるであろう。
この世での生活は、すべて理想と現実をはっきり分けて考え、現実を理想世界にまで、高めあげ
165結婚について
なければいけない。理想をすぐさま現実にもってきて考えたり実行したりしようとすると、かえっ
て現実生活を打ち壊してしまうものである。結婚もその通りで、二つに分れた霊魂が元の一つにな
るのであったら、夫婦が不調和であったり、お互いの気が合わなかったりするわけがない。そこで
私の説くようなお互いの業想念の消えてゆく姿としての結婚という考え方も必要なのである。但し、
私の消えてゆく姿の底には、神の子としてのお互いの姿があることを忘れてはいけない。
守護霊、守護神への感謝と世界平和の祈りによって、しだいに消されてゆく業生の結婚生活は、
やがて守護の神霊のみ心によっては、そのまま神の子としての結婚生活と生れ変ってくるか、ある
いはその結婚生活はそのまま消え去ってしまって、新しい結婚生活にお互いが入ってゆくかも知れ
ない。一つの霊魂が分れてという理想論では、消えてゆく姿の教えのような、自他を責め裁かぬ自
由な心の動きにはなれない。
私は唯物論的な結婚観は間違っていると思うのだが、こういうわけで、凝り固った宗教観念によ
る結婚観にも不賛成なのである。
166
結婚と人生
先日ある結婚式に出席して、テーブルスピーチを頼まれ、咄嵯に話したことは、夫婦というもの
は、ダソスのパートナーのようなもので、片方が右足を出したら、片方は左足を下げる。また片方
が左足を出したら片方は右足を下げるというように、夫が出てきた場合には、妻が引き下がる、妻
が出た場合には、夫が受けて引き下がる、ということによって、夫婦の調和が保たれるので、片方
が右足をだし片方が左足を出したら、お互いがぶつかり合って、ダソスにはならなくなってしまう。
夫婦というのは、お互いが相手の立場に立ってものを考え、譲り合うことによって円満な家庭がつ
くられるのである。この世の人間というものは完全円満な人格になり切った人などいないのだし、
167結婚と人生
自分自身も完全でないのだから、相手の感情を考えずに自分の感情だけを満足させようとすること
は愚かなことなのだ。だから、お互いの欠点を責め裁かず生活する習慣をつけることが必要なのだ
し、赦し合うことが絶対に必要なのであるーというような内容であった。
実際、結婚ということは、縁によって結ばれるもので、つい先頃までは、この世にそんな人が存
在していたということさえ知らぬ男女が、恋愛にしろ、見合にしろ結ばれてゆくのであって、自分
たちで決めたように思っていても、実は、不思議な縁の糸に結ばれたというより仕方がないものな
のである。
こうしよう
その縁を守護の神霊の縁にしてゆくか、業生の縁にしてゆくかが問題なので、その運は勿論自己
の日頃の心がけによるものではあるが、両親の神とのつながりの深浅にもよるのである。
かこせ
過去世からの善因縁として、善い結婚運に恵まれている人であっても、日頃の心がけの悪さによ
っては、しだいに悪くなるか、或いは子供の結婚時になって苦労する運命になってしまうものであ
るし、過去世からの因縁が、悪い結婚運をもった人でも、守護の神霊に深くっながっていれば、は
じめは悪い結婚と思っても、しだいによくなってゆくし、子供の結婚に恵まれてゆくこともある。
なんにしても、日頃からの心がけというものが大切であるが、その第一はやはり常に守護の神霊
168
に感謝を捧げつづけて生活してゆくということが大事なのである。それから第二に、夫なり妻なり
は、守護の神霊のほうから、自分に現われて下さったのだ、と思うことが必要である。
人々の日頃の心がけとしては、男性は明るく逞ましく、そして愛深い人間であるように努めるこ
とであり、女性は明るく柔和で愛深い人になるよう祈ることが必要なのである。人間の世界で大事
なことは奉仕の精神なのであるが、夫婦の間でも奉仕の精神は非常に大事なことで、奉仕の精神の
ない人は、妻となり、夫となる資格のない人なのである。
いと
人間の中には、社会的な奉仕は嫌わないが、夫や妻に対しては奉仕の精神のさらさらない人がた
またまあるのである。こういう形の人は、結婚をしないほうがよいと私は思っているのである。も
し結婚してしまっていたら、子供のできないうちに別れて、一人で自己の才能を自由に生かし、社
会のために働くほうがよいのである。
夫婦の生活というもの、家庭の生活というものは、お互いが奉仕し合い、短所を補い長所を伸し
合ってゆくことによって築かれてゆくものであって、お互いの自我欲望を達成し合おうと思って結
ばれているのでは、神のみ心に叶うものとはならない。その点、現在の結婚生活をみていると、甚
だ残念なことながら、間違った結婚、つまり業生と業生の結びついた、お互いの欲望を押しつけ合
169結婚と人生
った結婚の多いのには慨嘆せざるを得ない。
もし守護の神霊への感謝をつづけながらも、結婚に恵まれなかったら、その人は、神が必ず何か
の才能をその人(女性)に与えているのであるから、結婚にばかり想いを向けずに、その才能を自
己のうらから見つけ出すことが必要なのである。
守護の神霊にとっては、その守っている人の本心開発が第一であり、本心開発の妨げになるよう
な環境ならば、それが結婚という女性にとっての一番大事なことであっても、その人に結婚生活を
与・兄ないこともあるのである。それは結婚することによってその人が心的に堕落してゆくような場
合が、それに当てはまるのである。
だから、どんな環境になろうとも、常に守護の神霊がその人のために善かれと思って、そういう
立場に置くのであることを信じて、一歩一歩明るく祈り心で歩んでゆくことこそ、その人にとって
最高の運命を導き出す、唯一無二の生き方なのである。
170
試験期に
一月二月三月という月は、入学試験や就職試験の時期で、毎年のことながら、相談相手になる私
の心が毎日辛い想いをする月なのである。
この世において、親が子を想う程の、深く厚い愛情は、他の関係にはあまりみられないものであ
り、親子の愛情というものは、親が子を想う比率は、子が親を想う何層倍ともいえるのである。夫
婦の場合や友だち間の愛情は、お互が相手に愛情を求める交換的愛情の上に、その関係が成り立っ
ているようであるが、親が子を想う場合には、そうした交換条件を超えた自然の愛情の発露である
のが普通である。それを本能的となづけようがどうしようが、親は子供に愛されるから愛すという
より、愛さねばいられぬ能動的な愛情を子供にむけているものなのである。
したがって親は子供との関係においては、非常に割の合わない立場に立たされているわけである
が、その合わない割を埋めて余りあるものが、愛することの喜びにあるのであろう。ところが、こ171試



の愛情が行き過ぎてしまうと、子供の運命に執着しすぎてしまって、入学試験時の狂奔騒ぎとなっ
て、親子共々の神経衰弱気味の苦しみを味わうことになったり、嫁や婿とのいざこざとなったりす
るのである。
こうした問題は父親より母親の場合が多く、女性の愛情が常に執着になりやすい最もはっきりし
た・事例を多く示している。そして、そうした母親の子供の運命の進展を願う想いが私のような宗教
者へ神の援助を頼みにくるのであるが、いくら頼まれても、目指す学校にはとうてい入学でき得ぬ
子供がたくさんあるので、そこをどうにかといわれるところに私たちや学校の先生方の悩みが生れ
てくるのである。
誰でも、より立派な学校に入りたいし、入らせたいと願うのは無理もないが、目指す学校に入れ
たことが、必ずしもその子供の幸せになるかどうかは、その子供の親たちにはわからぬことなの
で、そこのところを、神様どうぞ子供の天命の全うされます道にお導き下さい、という、世界平和
の祈りのような祈り心になって、私たちに応援を依頼してくるようだと、その人たちの子供さん
は、必ず立派な前途を約束されるのであるが、と私はしみじみ思うのである。
何故かというと、各人には必ず天命が定まっているものであって、各人が常に神のみ心につなが
172
っていさえすれば、その人々の神から与えられた役目は無事に果されることにきまっているのであ
る。だから現象的な問題がその場その時において、自己の願うところと反する結果になったとして
も、各人の天命の全うせられることを祈り、神のみ心の現われである世界平和の祈りを常に心に想
っていさえすれば、その人々が、結論において不幸な立場になることは絶対にないのである。世の
母親たちは、この理を念頭において、子供の運命の進展を願うことが必要である。
人間にとって大切なことは、その場その時のご都合主義でうまくゆくことではなくて、自己や自
己の周囲の人々が、常にもてる力を出し切って生きてゆけるような習慣をつけることと、運命のす
べてを神のみ心にゆだね切ってしまうことである。結果はすべて神に一任して人事を尽してゆくこ
とこそ、智慧ある生き方なのである。
173試験期に
174
狂燥と明朗
近来急に盛んになり出した、ロカビリーという音楽? がある。先日ある家で見るともなしにそ
のロカビリーなるものを、テレビで見てしまったのだが、これはまたなんという狂燥的なステージ
なのであろう。演奏者のほうも二十才前後の人々で、聴衆者は勿論ハイ・ティーソ族。
楽器をかかえた歌手? が、まるで電気ショックにでもかけられた人のように、頭の先から足先
けいれんへ
まで痙攣させ、全身が中風病のような格好をして、喘息の息づかいそのままのしわがれ声で煽情的
にどなり散らしていると、その歌声? も聞えぬばかりに、女声のかな切り声が湧きあがり、はて
は興奮のあまり、ステージにはいあがって、歌手の体に抱きつくもの、その足先をひっぱるもの、
姫御前のあられもない大狂燥曲をくりひろげる。
私はこの情景をみて、全くあきれはててしまって、というより情けなくなってしまって、しばら
くは声も出なかった。テレビに写っているこうした娘の姿を見ている親たちもあったであろうが、
一体どんな気持であの有様をみつめていたであろうQ
あれは全く、フロイドのいうリビドーの発動であって、演奏者側も聴衆者側も、動物そのままの
姿をそこにはっきり見せているのだった。
暗い陰気な生き方より、明るく朗かな生き方がよいのだが、これはまた明朗とは全く違った知性
を失った狂燥であって、神の心を遠くかけはなれた想いの爆発である。こうした狂燥的な馬鹿騒ぎ
ゆううつ
をやりうる娘たちの気持が裏がえった時は、急に憂欝性になりかねぬもので、その動作は人間本来
の大事な心である知性の働きが完全に停止されている状態であって、酔漢の状態と相等しいもので
ある。
こうした狂燥性はこれらの娘たちばかりにではなく、大人にも多分にあるのであって、労働組合
のストライキだの、スポーッファンの喧嘩もやりかねない熱狂ぶり、大きくは国家社会の革命家な
どの中にもかなりこの要素が含まれているのである。
175狂燥と明朗
青年は狂燥性と明朗性を間違えてはならない。真の勇気から出てくる行動力と、興奮にかられた
行動とをはっきり区別けしなければならない。青年男女は常日頃その知性を磨きあげておかなけれ
ば、ともすると、興奮的感情にかられて、善悪理非の判断を誤って、暴動や革命の中に飛びこんで
しまう破目になりかねない。
近頃の新興宗教のある一部の人々のうちには、この狂燥性にかられた行動で、周囲の人たちを困
らせているむきがかなり多いのである。
げだつ
真の宗教とは、そうした狂燥性や、興奮的感情から解脱させうることのできる教であり行であっ
て、興奮して他人に論をぶちかけていったり、やたらに他宗を非難したりするものではなく、その
人々を平和な調和した心境になさしめるものでなければならぬ。
真実に神の存在を信じうるようになると、自然と心が明るくなり、楽天的になってきて、病気や
不幸が、いつの間にか消え去ってゆくものである。
いたずらに騒がしい人、憂欝な人、興奮しやすい感情を持った人々は、真実の宗教に入るか、名
曲といわれる音楽を聴きなれるかするとよいのだ。
176

・rし
♂ をきよめる
わい
近頃は、汚職とか収賄事件で、種々の人々が新聞面を賑わしているが、新聞やテレビに現われて
いる人々は、実際に汚職や収賄をしている人の中の僅かの人数で、いわゆる運の悪かった人々とい
われているのである。
そして、こうした事件を引き起した面々の悪口がさかんにいわれるわけで、ロぎたくなくののし
っているわけなのだが、果して、悪口をいい、口ぎたなくののしっている人たちが、自己の心を深
くさぐってみて、自分がもしそうした立場に立ったら、絶対に汚職や収賄をしないといい切れるか、
というとそうでもなさそうである。
177心をきよめる
人間の心というものは頼りないもので、権力欲や物質欲に把われがちなのである。ただ法律に触781
れるとこわいという臆病な心で、汚職や収賄ができない、という人がかなり多いのであるQ
やま
確かな正しい心で、疾しい想いを出すことが少しもない、という人物はなかなかないものなので
ある。肉体をもった人間というものは大体利害得失で動いていることが多いので、よほど心がしっ
かりしていないと、つい贈収賄とか汚職とかいうことをしかねないものなのである。だから、やた
らにそうした罪を犯した人の悪口雑言をいうより、そういう事件のあるごとに、自己の心をふりか
えってみて、自己の心の中の小さな欲望でさえも浄め去っておくようにすることが大事なのである。
わけいのち
あらゆる欲望に打ち勝つためには、常に自己が神の分生命であることを思いみて、神の完全円満
性の中に、自己の想いを入れておく練習をする必要があるのだ。その方法を祈りというのである。
自己の中の欲望をひたかくしにしておいて、人の悪だけを認めているようでは、とてもその人は
神のみ心に入りきるわけにはゆかない。神のみ心に入りきらなければ、人間に真実の平安がくるこ
とはないのだから、誰も彼もいつかは神のみ心に入りきらなければならないのだ。そのためには、
どうしても自分の心も他人の心も正直に認めて、自己の中にある誤った想念も、他人の誤った想念
をもそのままにしておいてはいけない。誤った想念は、すべて神からきたものではないので、それ
は消えてゆく姿として、祈りの中で神の大光明によって消していただかなければいけない。すべて
をごまかして、いいや、いいやというような態度ではいけない。自他ともに、悪想念はすべて消し
去っておかねばいけない。
自己の本心を祈り出し、他の人の本心を祈り出してゆくことによって、この世はやがて清らかな
世になってゆくのであって、やたらにお互いが他の悪口雑言をしているようでは、とても立派な世
界ができるわけにはいかない。
ジキルとハイド
四月というのは気温も柔かく、木々の花に草花に、人の心の和むよい季節なのだけれど、砂塵を
179ジキルとハイド
吹きあげて吹きまくる生温かい風のいたずらには、折角和んでいる心を乱されてへいこうしてしま
う。
人生もそれぞれの季節と同じように、良いところもあれば、悪いところもある。悪い面ばかりみ
て、不平不満の一生を送る人は、この世になんのために生まれてきたのか、生まれてきた甲斐がな
いし、心の世界に光明を蓄えていくこともできない。
先日テレビで、昔有名だったジキル博士とハイド氏という映画を観た。ジキルという立派な医博
が人間の心の中の善と悪とをはっきり分けて、悪のほうを消滅させてゆけば、人生は善のみの世界
になるという考えのもとに、善悪を分ける薬を研究していたが、誰もその研究に協力してくれぬの
で、自分自身がその薬を服用して、自己の中の悪だけをもった自分自身をつくりあげてしまう。そ
して、時蒼てまた元に戻る還元薬を飲んでは・ジキル博士自芝戻るが・費に還一兀薬の効果が
なくなって、ハイドという悪、そのものの人間でいる時間が多くなり、最後には友人のピストルに
撃たれて死んでしまう。その死顔はジキル博士そのものの優しい顔になっている。
という筋なのだが、人間何人たりとも、絶対善の心で生きている人はいない。偉いといい、善い
人といえども、すっかり心を裸にすれば、神そのものの心だけというわけにはゆかない。だから、
180
人の悪をみつけて、あいつは悪い奴、こいつは卑怯なやつ、と人を責め裁いてみても、或いは自己
しよにつ
の中の悪や誤ちを把えつづけて、自己処罰していても、それで人生が善くなるというものでも、人
間の進化を促進させるというものでもない。
人間の中のジキルとハイドを、あまりはっきり区別しすぎると、つい自己を責め、人を裁きたく
なる。人間は理性(知性)というもので、自己の欲望を抑え、外に出さぬようにしているので、こ
ひとた
の世がどうやら保たれているのだが、一度び理性が麻痺してしまえば、欲望がそのまま顔を出して
くる。だから、いちいち理性で抑えるようなことをしなくとも、自然の想念行為そのものが、神の
み心に叶うような、正しく清らかな美しいものであるようになることが大事なのである。それは知
性で自己を制禦することも必要ではあるが、根本的な生き方としては、人間が神の子である、とい
う真理の下に、自己の想念行為のすべてを、神のみ心で照らしていただき、善いものは再びいただ
き直し悪いものは消滅せしめていただくようにすることが大事なのである。
人間の中のハイドの面ばかりみつめていると、いつの間にか自分の潜在意識はハイドで一杯にな
ってしまって、神のみ心の光明波動の入る余地がなくなってしまう。だから人間は常に善なる行
為、明るい世界のほうに想いをむけて生活してゆかなければ、自分のためにも、人類のためにも大181 ジ






きな損失となるのである。真善美の想念、光明波動を、潜在意識に一杯蓄えておくような生活が、
その人のためにも人類のためにも大切なことなのである。
182
神への郷愁
神への郷愁

あな尊と青葉若葉の陽の光
芭蕉のこの句が昔の国民歌謡のメロディーにのって、私の脳裡に浮んでくる。
さにわ
花のとぼしい私の狭庭を飾ってくれるものは、青葉緑葉の柔らかな色彩である。木々の青葉と草
生の緑葉ほど、私たちの心を安らかに穏かにしてくれ、慰めてくれるものはない。文明文化が進ん
でくればくる程、自然のままの姿が消されてゆき、ひらけた都会程、こうした青葉若葉をみること
さにわ
が少なく、いつしか自然の心から離れてゆくものであるが、その自然の心の美しさをわずかに狭庭
の草木に見出して、都会の人々は朝夕を自然に接した心持ちでいるのである。そして、それだけで
185神への郷愁
はとうてい満足できない人々が、ハイキングや登山にと出かけてゆくわけなのである。
自然への郷愁。それはとりもなおさず、神の姿への憧れなのである。自然の一部であり、神の姿
の分れである人間が、物質文明の急速調の進展にひきずられて、いつの間にか、人間の本質、神の
み心からはずれてしまって、物質面の幸福追求だけに浮身をやつしだしてしまったのは、地上天国
顕現の日までの過渡的現象とはいえあまり感心したことではない。
だが、今日ではすでに物質文明の進展が、核兵器による最大の破壊という、大きな壁に突きあた
ってしまって、人間の心に自然の憧憬と人間以外のものからの救いの手出現への期待という、物質
にあらざるものを求める心が強く動きはじめてきている。それがたとえ、どのような形による現わ
れであり、その求め方に低い高いの差があろうとも、それはどちらも、窮極の目標は、神との一体
化に違いないのである。
口には神仏という言葉をつかわなくとも、人間に自然を慕う気持のある限り、その人々の心には
神を求める気持が起っていることは間違いのないことである。
唯物論といい唯神論といい、その表現の違いこそあれ、人間がなにかを求めて動いているその心
の底には必ず、人間の本質のもつ自由自在性、つまり神の心を自己のものにしたいという願望がか
186
くされているのである。
そしてその端的な心の現われが、自然への憧憬となってゆくのである。
あな尊と青葉若葉の陽の光
の心こそ神と人間との一体化が実現される基本の心である。そして、その一本化を誰でもが日常
生活そのままで、容易なわざとして、いつのまにか実現してゆき得る道が世界平和の祈りの道なの
である。
神とい
日本人の中には、
♪つこと
きら
神という言葉を極度に嫌ったり、馬鹿にしたりする人たちがいる。この人たち187ネ






は一体、神という言葉自体を嫌うのか、肉体人間以外の智慧や力や能力を無視しようとしているの
か、どちらなのであろう? 喰わず嫌いという言葉があるが、この人たちは喰っていながら嫌って
いるという感じなのである。
何故かというと、神という言葉自体を嫌おうと、肉体人間以外の智慧や力や能力を否定しようと、
事実は肉体人問以外の力によって養われていることは、誰でも知っていることである。
人間生存に無くてはならぬ空気でも水でも土地でも、一体誰がこれを創り出したのかということ
である。そういえば、この宇宙には、人間を生かしている数えきれぬほどの、各種の要素がある。
太陽や月も勿論だが、酸素や水素や炭素や窒素やカルシウム、ナトリウム、マグネシウムや燐や
その他種々の元素がそれである。こういう元素を、それは私の智恵によってできたのだ、というほ
どの馬鹿が人間の中にいるだろうか?
こういうどうにもならない事実を日常茶飯事にみせつけられていても、まだ肉体人間以外の智慧
能力を否定しようとするなら、その人たちは底の知れない馬鹿者たちである、というより仕方がな
い。
それよりもっと根本的ないい方をすれば、私たちを生かしているというより、私たちそのもので
188
ある生命というもの自体が、肉体人間誕生以前から存在しているのだし、生命のない人間など考え
られもしないのだ。そうした根本的な智慧や力や能力を、人々は神と呼んでいるのである。
だから神を嫌おうと、神の存在を否定しようと、人間は誰もが、神の子であり、神の生命の研け
響のである。神は大宇宙そのものであり・懸簾であり・大自然でもある・
しかし、どうしても神という言葉にひっかかる人は、大生命に対して感謝してもよい。大自然に
対しての感謝でもよい。それができなかったら、太陽に対してでも、空気に対してでも、水に対し
てでもよい。それもできなかったら、自分の体のどの部分にでもよい。眼がみえていてよかった、
耳が聞えてよかった、手足が働いてくれてよかった、考えられる頭をもっていてよかった、等々、
どこかに感謝する気持を持つことによって、いささかなりとも、神とのつながりを得ていることが
できるのである。
誰にもなんにも感謝のできない人は、生きながらの死骸である。しかし、神々はそういう人々ま
で救おうとして、世界平和の祈りによる大光明波動を地球界に放射しつづけているのである。この

地球界が一日も早く、感謝の心と感謝の心とで融け合えるような、そういうものになるように私た
ちは祈りつづけなければいられないのである。
189神ということ
190
宇宙人
空飛ぶ円盤の研究が、米国や英国では、かなり真剣になされているようであるが、日本ではあま
り問題にされず、民間の有志が集って、小さな研究会をやっているだけのようである。
空飛ぶ円盤とは一体何であろう。それは、ポーランド生れの米国人、ジョージ・アダムスキとい
う哲学者が、空飛ぶ円盤実見記、空飛ぶ円盤同乗記という著書によって、広く各国に紹介している。
私もその二つの著書を読んでいるが、実に興味深い本であった。
その同乗記には、著者が宇宙人に空飛ぶ円盤に乗せてもらって、高度数万フィートの成層圏に滞
空している巨大な母船に到着して、その母船内を種々見学したり、その母船内で、金星人、火星人
土星人等と話し合ったりしたことが書いてあるのである。
その話の内容では、これらの宇宙人は、地球人類とはまるで段違いの進歩を遂げている人類であ
り、神のみ心をよく体得していて、愛と叡智によって生活しているので、地球人のように戦争や闘
争のような状態は全く無く、素晴しい科学と精神の発達は、空間や距離を超越しているというので
ある。そして、宇宙の大生命の中にいながら、理解力の欠乏と、感情を支配する方法を知らぬまだ
幼児である地球人の救いのために、現在まで様々な宇宙人が地球に天降った、イエスもその一人で
あるといっているQ
また地球人が、今のように、創造者(神) の意志に反した、残酷な行為や兇暴な殺人(戦争)等
をしていると、必ず大災厄が起る。もし地球人が大災厄を起さずに生きようと思えば、同胞を自己
自身とみなし、他人を自己の反映と考える必要がある、といったり、原水爆の大害を説いたりして
いる。
また、宇宙人の女性の一人は「私たちは、愛とは神の心から万物に、特に人間を通じてあらゆる
物に万遍なく放射された光だと理解しています。地球上のゆがんだ状態は、地球人が自分自身をも
父なる神をも理解していないからです。この無知のために自己の行為を少しも理解しないで、戦争
191宇宙人
をひき起し、他国民に対する残忍な殺人を犯すのです。いつれの問題にも解決策を見出さず自分た
ちの手で互いに破壊するばかりでなく、更に苦悩を生み出しつつある状態にどうして地球人が眼ざ
めようとしないのか、私たち宇宙人にはよくわかりません」といっている。
最も私が感動させられたのは、男性の一人の「好戦的な地球人とでも、彼我の生命の対抗という
事態に至る場合は、兄弟(地球人) を殺すより先に私たちのほうが自滅します」という言葉であ
る。私はこの言葉には全く共感し感動した。何故ならば、地球人より、はるかに智慧に勝り、すべ
あや
ての力に勝っている宇宙人でありながら、自分の生命の兄弟を、いかなる場合にも、殺める、とい
うことができぬ、殺めるという気持が起らぬ、自分が滅びても他を殺めぬ、というのだから、その
最高至高の大愛の心には、地球人の誰一人としても、匹敵できぬであろう。
この著書を読んだ人の中でも、なんだ空想的創作だ、という人も多数あると思うが、私は、他の
遊星の人類の存在を信じているので、このような事実があったことを肯定する立場に立つものであ
る。
私は地球人類が、肉体人間の力だけでは、滅亡せざるを得ないと思っている。今こそ肉体以外の
力、神霊の援助による救済以外にこの地球は絶対に救えぬ、と思って、神界との約束事である、世
192
界平和の祈りの普及に努めているのである。世界平和の祈りの中にこそ、天父が地球救済の光明
(力)を地球界に投げかけてくることができるのである。その力は、或いはこの著書の中にあるよ

うな、宇宙人の力によるかも知れない。地球世界の暴力を超え得る力は、同じ地球世界の防衛力を
超えた、神霊の光明力より他にないことを私は強く確信している。だから、心ある人々は救世の大
さわ
光明を、この地上界に碍りなく働かせしめる、真実の祈りをしなければならぬ、と私は強調するの
である
古き皮袋に新しき酒は汲めない
古き皮袋に新しき酒は汲めない。この言葉はイエスのいった名言である。近頃私も本当にこの言
193古き皮袋に新しき酒は汲めない
葉の通りだなあ、としみじみ思わされることがある。
十一月は私の生れた月でもあるので、誕生日が近づくにつれて、人間の誕生についての神秘と、
宇宙という、広大無辺の存在についてますます深い関心を抱かされる。
人間の神秘性と宇宙の神秘とは、切っても切れない関係にあるので、人間を深く考えてゆけば、
どうしても宇宙の神秘ということにまで、想いがゆきつかないではいられないものである。
宇宙は無限でありながら、尽きざる進歩をつづけている。人類が次第に進歩していっているの
も、宇宙の進歩性の一つの現われなのである。
進歩というのは、常に新しく生きいきとしている生命の働きから生れる。古びたよれよれの心か
ら生れることはない。
宗教の道でも同じことで、老子や釈迦やイエスの時代の古い言葉をそのまま、今日の時代に合わ
せて、人々に行じさせようとしても無理である。教の根本は勿論秀れているし、真理に違いないの
だが、その一言一句の中には、今日の時代と非常にずれてしまっているところが多分にある。
その時代ずれした一言一句に把われて、今日の時代に行じようとすると、どうにも苦しくてやり
きれなくなり、かえって周囲との不調和をましてしまう。
194
イエスの時代には、古い教とイエスの教との開きが大き過ぎて、到底一つにはなり得なかったに
違いない。古い皮袋にイエスの新しい真理の教は汲めなかったのである。
今日ではまた、イエスの名言が、今度はイエスはじめ古代の聖者の言にあてはまってくるので、
古代の聖者の素晴しい真理の言葉を生かすためには、今までの古い形から脱却して、今日にふさわ
しい、新しい教の道として、改めて出発しなければいけない。
世界は全く一つの心にならなければ、最早、地球は滅亡しかねない。一つの心それは、世界を平
和にする、という一つの目的に帰するのである。
古代のあらゆる宗教や思想観念を、今こそ新しい教の中に、すっかり融けこませて、世界の平和
を念願する一つの目的に結集しなければいけない。古き皮袋をいさぎよく捨てて、世界平和の神の
甘酒を汲む、新しい教の形の中に、あらゆる宗教者が心を一つにすっぽりと入りこむ時は、今をお
いて他にはないのである。
古い皮袋に新しき酒は汲めない。イエスは実に素晴しい聖者であった。
195古き皮袋に新しき酒は汲めない
196
自縛をぬけよ
かなみびん
鎖につながれて、自由な行動のできぬ飼犬が哀しそうに吠えたてている姿をみると、不欄な気が
して、そうした犬に生まれてこなくてよかったと、普通の人は思うことであろうが、人間も実は、
鎖につながれたそれらの飼犬と同じように、自分の想念に縛ばられているのを、その人たちは気づ
かずに、自らを不自由な生活に閉じこめているのである。
飼犬はその飼主の手によって縛ばられているのだから、自分の力ではどうにもその自由を得るこ
とができない。しかし人間は、本来誰にも縛ばられているものではなく、自分自身の想念行為で自
己の心を縛りつけているものなのである。
ところが、いやそんなことはない、私たちは仕事に縛ばられ、社会の秩序に縛ばられ、すべて他
の力によって自分の自由をうばわれているのだ、と反発する人がたくさんいると思うが、そう思っ
ているうちは、その人たちの一生は常に何かしらに縛ばられていて、自由な生き方ができないので
あって、そういう考えがもうすでに自己を縛ばる考えなのである。唯物主義の人々は、すべてそう
ヘへ
した考えでことを運んでいるのでいつも対抗意識で他に対し、破壊的、闘争的な生活態度で生活し
なければならなくなり、心の平安を得ることができずに自己を滅ぼし、社会人類を損ねて一生を終
ってしまうのである。
そのような生き方は全く動物と同じ生き方であって、考える力をもっているだけに、動物のよう
に単純な苦しみではなく、どこまでもつづく深い苦悩を味わいつつ生きてゆかなければならないの
だからしまつが悪い。
自分が苦悩の生活にあるのは、他の誰が悪いのでもなく、自分自身の過去から現在に至るまで
の、想念行為の在り方が悪いのであって、誰をも恨み怒る必要はない。自己の環境はあくまで自己
の想念行為がつくったものであることがわからぬ以上は、その人もその国も、社会人類も救われる
ことはできない。それが真理なのであるが、そう単刀直入にいってしまっては、そこになんらの救
197自縛をぬけよ
いもないので、私は人間の現在の病気も貧乏もすべて万々の不幸も、その人々の過去世からの業想
念の消えてゆく姿であって、今のその人が悪いのでも、その人々に対する者たちが悪いのでもな
い。そうした苦悩の現われて消えてゆくに従って、その人々の神性である自由自在心(本心)が現
われてきて、いつしか何ものにも把われぬ安心立命の生活ができてくるのだから、自己を責め他を
責める想いを守護霊守護神への感謝に切りかえて生活してゆきなさい、と教えているのである。
この世は神のみ心によって創られつつある世の中であり、人間はすべて神の子なのである。神の
子が他に自由をうばわれたり、不幸になったりするわけがない。その自由性を自己の肉体生活を護
るためだけにつかっている自我欲望の想念が悪いのだ、というその真理を知ることによって、人間
ははじめて動物を超越できるのである。その真理を知らずにいて、人間は万物の霊長だなどと思っ
しいた
て他を虐げていると、死後の世界で動物以下の環境で苦しむことになるのである。
てんか
自己の運命の不振を他に転嫁せず、自国の不振を他国に罪せず、人間の神の子の真意を先ず知る
ことこそ、自縛の世界から抜け出る秘訣なのである。
198
誕生
(一)
霊界への往生と、この世への誕生とは、人間の二大行事であって、これに勝る行事はない。誕生
も往生も共に祝事であるのだが、普通人の考え方からすれば、誕生は祝事であっても、往生のほう
は祝事とは考えていない。
さて、往生のことはまたの機会に書くことにして、今は誕生のことについてペソのむくまま何か
書いてみよう。
一人の人間がこの世に生れるためには、いかなる人でも、父母の肉体を必要とする。父母がどの
ような人柄の人であろうとも、そこから生み出されてきた人間は、父母を最大の恩人と思わなけれ

199誕
ばならない。何故ならば、この世に誕生することは、その人にとって、その人の魂にとって、重大蜘
なる進化の道になるからである。
人間の本質は霊魂である。その霊魂がこの世とあの世との生れかわりをつづけて、種々な経験を
積み重ねてゆくうちに、肉体界にありながらも、その本質である神性をすっかり顕現できるように
なり、あの世をもこの世をも照り輝やかし得る聖なる人間となり得るのである。
頼みもしないのに勝手に俺を生んだ親に対して、何が感謝だ、という人たちが今の世には現われ
てきているけれど、そうした文句をいう人間たちでも、あの世とこの世の生れかわりをつづけなけ
れば、いつまでも幽界の下のほうで地獄の苦しみをつづけ通していなければならない。
なんと文句をつけようと、肉体に生れでてこられたことは、その人間にとってのプラスであって
も決してマイナスでないことは、心霊問題にくわしい人なら、誰でも知っている事実である。この
肉体世界の環境がいかに苦しいものであっても、その人にとっては、肉体に生れてきたことは、マ
イナスではなくして、大きな進化の一こまなのである。
私は私をこの世に送り出してくれ、今ははや神界で働いておられる私の生母に対する感謝の想い
を忘れたことはない。
私の母は私の恩人であると共に、私を通して神の道に入れた人々の恩人でもある、とひそかに思
ったりして、涙ぐまれる時さえあるのである。
この世に今ある無しにかかわらず、父母への最大の感謝行は、自己が神とのつながりを、はっき
りさせて、自分がこの世に存在することが、この世の人々にとって、なんらかのプラスであるよう
な生き方をすることである。その最もやさしい方法は、私の提唱している世界平和の祈りであるの
だ。
(二)
私の生れたのは大正五年の十一月二十二日だが、私の天命の定まったのは、過去世の過去世のず
うっと古い昔である。人は誰もそうしたものであるのだが、ただ人々がその真理を知らないだけな
のである。
肉体的五感で知ることは、肉体的に辿どってきた行為だけであり、他を見るにも五感の世界だけ

201誕
で批判しがちである。五感でみれば人間は何尺何寸、体重十数貫という肉体人間なのだけれど、そ02
2
の肉体人間の奥底には、それに何千万倍、何億万倍もの力があり広がりがあり、歴史があるのであ
る。
人間に限らず、物事万般みなそういうものなのである。
すべての始まりは、すでにその完成を意味しているのであり、意味なくしていたずらに始まる何
物何事もないのである。
人間の誕生もその通りであって、いと小さき幼児も、この世に誕生したことによって、すでにそ
の児のこの世での天命は開かれているのである。この世でのといったのは、霊界での天命はもうと
くから果しつづけつつあるので、その一駒が、この世の天命として果されてゆくのである。
その児がいかにひ弱な児であり、愚かな児であったとしても、その児にはその児なりのこの世で
の天命があるのである。また例え幼くしてこの世の生命を果てようとも、その児のこの世での天命
を果して、天界への天命の一駒としてゆくのである。
私たちの天命は霊肉離れてあるものではなく、霊肉一致し相関連して、宇宙神の大意志を果して
ゆく、一役一役を荷っているのである。
私たちはその一役を輝やかに果してゆくために、私たち自らの誕生を喜び、
て、世界平和の祈りの行を為しつづけてゆくことが大事なことなのである。
他の人の誕生を祝し

人間にとって、死という文字ほど恐ろしく嫌な文字はあるまい。この死という文字と、苦という
文字と貧という文字を、この世からなくせるようになれたら、この世はそのまま天国ということに
なるのだが、この三つの文字のどの一つをもなくし得ないで、人間の世界は今日にまできてしまっ
ているのである。
このうち死という文字が人間の前に立ちふさがると、あたかも鉄の壁の前にいるようにまた、底203死
なしの崖の前に立たされて、後を遮断されてしまったような、絶望感が人間の心に襲ってくるので謝
ある。
ところが実際は、死という状態は、その当人にとって絶望感で迎えなければならぬような状態で
はないのだ。というより、死というものが、今日まで誰にでも思われているような暗い悲しいもの
ではなく、新しい生であり、生命が新しい階層に進んでゆく状態なのである。
その事実を私はよく知っている。私ばかりでなく、かなりの人々がその事実を知っているのであ
る。だから死という状態は、異なる波動の世界への誕生であって、実は死という文字のふさわしく
ない状態なのである。
だがしかし、その事実を知らぬ人の多い現代では、死という文字は依然として、暗い鉄壁であり
底なしの崖であることにかわりはない。宗教者や心霊研究家のなすべき仕事は、この死という文字
を、明るい軽やかな文字に書きかえてしまうことにあるのだ。
この世とあの世とが自由に交流でき、あの世の人とこの世の人とが楽しく話し合え、顔を見合わ
せることのできるような時代がきたら、どんなにこの世の人々の心が明るくなり、生命のびのびと
生きてゆかれることであろうか。人聞の心から死の重圧を取りのぞくことは、死後の世界の真相を
すべての人々に知らせることであり、人間の日常の想念行為が、死後の世界においていかに重大な
る要素となるか、ということを知らせることである。
そういう真実がわかる時代が、やがてやってくる。それは宗教と科学の一致したところからやっ
てくるのである。それまでは、すべての人々に、祈り心の大事なことを教え、祈りによる世界平和
運動を拡大して、この地球界の減亡を防ぎつづけてゆかねばならない。
世界人類の平和を願う、真実の祈りこそ、神のみ心のこの世に現われた、尊い心の状態なのであ
り、永遠の生命を、素直に現わし得ている心なのである。
205死
206
生きること死ぬこと
私は日々人々の相談に応じていて、一番返答に困ることは、死病にかかった親や子を、先生どう
にかしてくれぬか、という相談ごとである。
どんな名医にかかっても、いかようにお祈りしても、もう霊魂が肉体を離れきっていて、僅かに
霊線がつながっている状態の病人は、十中八、九は肉体的には助からぬものなので、いくら泣きつ
かれても、その人やその子に死別することが、悲哀そのものであっても、どうしようもないのである。
人間の眼には死にそうにみえていても、霊魂がしっかり肉体に存在しているものや、霊魂が離れ
きっていないものは、医薬や祈りで、治ることが多い。私にはその生命の状態がよくわかるので、
治るとみえるものは、断乎と治りますといい切れるが、十中八、九助からぬというものには、返答
に困ってしまうのであるQ
この人は駄目ですよ、とはっきり教えたほうがよい場合もあるが、そのまま時のたつのを待って、
できる限りの愛の看護をその人たちにさせたほうがよい場合が多い。ぷつりと望みの糸を断ち切る
ようなことは、私にはとても苦手なのである。家族の切々としたなんともいえぬ愛情のひびきが私
の胸に伝わってきて、少しでも悲しみの時間を先に延ばしてやりたい気持でいっぱいになってくる。
肉体にあっても霊界にあっても、その人たちの生命は生きつづけていることは事実なのであり、
肉体離脱までの心の状態によっては、肉体界より霊界のほうがはるかに光輝ある世界であり、生き
甲斐のある世界なのだから、肉体の生死など問題ではない、というより浄化した人にとってはむし
ろ喜ばしい現象なのである。
だから、肉体界に生きている期間に、生命の光を汚さぬよう、過去世からの宿業を日々浄化させ
てゆくように精進してゆくことが大事なのである。そういうことをはっきり知っている私でありな
がら、人々の死別の姿をみると、やはり残された家族の涙を肯定しているのである。
人間の世界から死別の悲しみをなくすためには、どこの世界にいても、お互いが心が通い合い、
207生きること死ぬこと
話のできる時代にならなければ駄目なのである。そういう霊界との交流ができる時代がやがてくる
ことを、神霊研究家はみな信じているのである。
だがその日のくるまで私たち宗教者は、肉体の死を恐れぬ人々を一人でも多くつくっておく必要
がある。真実死を恐れぬためには、自己の肉体界での生活が、自己の良心に忠実であり、本心にそ
むかぬものであることが、絶対に必要なのである。良心にそむき本心を汚しながら、いわゆる才能
がある、頭が走る、度胸がよい、というだけで社会の高い地位を得ているという人々にとっては、
死は恐ろしいものであり、死後の世界は苦難に充ちたものなのである。自己の高い地位を背景に権
威あるごとく見せている人々が、死に面して、あたかも貧者のごとく、みじめにみえてくることが
あるが、それは死後の世界の重圧が死に面して、その人の心に蔽いかぶさってくるからなのであ
る。
人間は肉体界にあるうちに、過去世から今日に至るまでの生命を汚した想念行為、本心を汚した
行為を、すべて消し去っておき、霊魂の負担を最低限にしておくべきなのだ。そこで私は、消えて
ゆく姿で世界平和の祈りという方法を、神のみ心によって唱導しているのである。
すべての悪も不幸も過去世の因縁の消えてゆく姿である、と知って、神のみ心でもあり、人類の
208
悲願でもある、世界人類が平和でありますように、という祈り心の中から日々瞬々の命をいただ
き直してゆく、素直な生き方を人々はしてゆくことが大切なのである。こういう生き方は自己も他
せさば
をも責め裁かず、素朴に良心に従って生きてゆける道なのである。神の慈愛と素直につながって生
きてゆける道なのである。
神のみ心に素直につながって生きてゆく時、人間は永遠の生命を生きつづけてゆけるので、肉体

の生死を何気なく超えてゆくことができるのである。その人々にとって、死の恐怖は少くなり、残
された家族の上にも、神々の光明がひびきわたって、家族の悲しみも自然薄らいでゆくのである。
人間がいつまでも、肉体というものばかりにこびりついているようだったら、この世界は永劫に
うつわ
救われない。肉体というのは、あくまで生命の一つの場であり器であるに過ぎないのだから、人間
は生命そのものになりきって、神のみ心そのままに生きつづける道を一日も早く自己のものにしな
ければならないのだ。その道を私たちは切り開いているのである。
209生きること死ぬこと
210
一歩一歩
この世の日常生活は、一日一日の積み重ねによって、築かれてゆくのであって、いくら焦ってみ
たところで、急に資産ができたり、地位が昇ったりするものではない。各自各人の環境というもの
かこせ
は、過去世からの一秒一分という時の間の想念行為の蓄積の結果の現われなので、現在自己に現わ
れているすべての環境や状態は、置かれるべくして置かれている環境であり、現わるべくして現わ
されている状態なのである。
かこせ
善い状態や悪い状態が急に現われ出でたように思われることが、しばしばあるが、それも過去世
えんふ
から今日に至るまでに積み重ねられていた想念行為が、縁に触れて現われて出ただけで、突如とし
てできた状態ではないのだ。
この世の生活は荷車を引いて坂道を登っているようなもので、坂の頂上ばかり気にしていると、
心が乱れ足を踏みすべらせて、ずり落ちてしまう。一度坂を見定めたら、もう坂の上を気にせず、
一歩一歩足を踏みしめて歩いてゆけばよいのだ。一歩一歩の堅実な歩みが、その人の気息を乱さ
ず、知らぬ間に頂上に荷車を引き上げてしまうのである。
焦り心でことを運んだりせず、世界平和の祈りの中に自己の全想念を投入して、その祈り心を根
底にして、日常生活の歩みを一歩一歩堅実に歩みつづけてゆけば、神のみ心はその人の全生活を平
和な想念で送らせて下さるし、そうした生活状態が世界人類の平和のための大きな働きともなるの
である。
211一歩一歩
212
断念
物理学老たちは、或る研究がそれ以上どうしても進展しない時には、すっぱりとその道を諦めて、
改めて他の道を見出す努力をする。そのことを学者たちは断念と呼んでいるのである。
ただこの断念は、普通いわれる状態のようにもう駄目だ、もうどうしようもない、というように
あらた
心なえて、へなへなになってしまうような状態ではない。心新に別の道に眼をむけてゆく時に使わ
れる言葉なのである。
科学者が或る研究を断念して、また新たに別の道に眼をむけうるのは、それまでの道を自分たち
の研究のでき得る限りの極限まで、研究しつくした、という信念があっての断念であって、力をつ
くしてのいさぎよさ、というものがそこにはあるのである。
そして面白いことに、断念した後でかえって素晴しい道が開けてくる、と或る科学者はいってい
るのである。
こういう境地は、本来は宗教者のもたねばならぬ境地なのだが、宗教者がかえって、それぞれの
宗団宗派的形に把われてしまって、大きい視野から、大宇宙の本源をみつめることをしない。その
宗団宗派の行き方にどのような誤りがあろうとも、それを押し隠し、おしつつんで、宗団宗派の権
威を守りつづけようとしてゆく。こういう宗教者こそ、科学者のいう断念をして、新しく宗教の本
源から出直す必要があるのである。神のみ心には宗教も宗派もあるわけがないので、時と人と場と
に従って、常に新しい道が開かれているのであり、その道は常に古い正しい道と直結した道なので
くう
あるQ断念とは想念停止、空の境地に等しいものである。
すべての宗教者が、一度自己の宗教観を真剣に見極めて、断念すべきは断念して、神のみ心の本
源で全宗教者が一体になりきらねばならない。そこからはじめて科学との和合の道も開かれ、世界
平和完成への道がひらかれてゆくのである。
213断念
214
苦の世界の解消
人間世界の生活の中で、一体どんなことが一番苦しいことであろうか、私は時折りそんなことを
考えてみる。
貧苦か病苦かそれとも家庭の不調和か、いろいろ考えてみるが、どれもこれも、自己の生命の自
いや
由自在性が縛られる事柄は、すべて苦しく嫌なものである。
その日の生活にも事欠く貧苦に悩んでいる人からすれば、愛情問題で悩んでいる人などは笑止の
沙汰であろうが、その当人の心には何事にも比べられぬ苦悩がその愛情問題の中にあるのである。
病苦に悩んでいる人は病苦に悩んでいる人で、その病気さえ直れば他のどんな苦しみも問題でな
いような気がしてくる。
人間の一生には、種々…様々な苦労の種があるので、一つの苦労の解消だけで、他の苦労がすべて
解消されるわけではない。そこで、この世界を苦の世界だといっている人もある。
ところが、この苦の世界を苦の世界でなくする方法が一つある。
まか
それは一体どんな方法かというと、自己や自己の周囲の運命を、神様に託せきってしまう方法で
ある。神様に託せきったところから、一瞬一瞬、一日一日の生活を改めていただき直すことであ
る。神様が自分の中に生きていて、人類すべての中に生きていて、神様自身が自己となって生活し
ていて下さるのだ、と信ずることなのである。
こう正面切っていわれると、なんだか自分にはできそうもないと思われるかも知れないが、その
最もやさしい方法が、私の提唱している、消えてゆく姿で世界平和の祈り、ということなのであ
いのちいのち
る。生命を捨てざれば生命を得ずのキリストの言葉がやさしく実現できる方法なのである。
いと
神は愛そのものであり、人間は神の愛し子である。なんで親が子供を苦しめようとなさる筈があ
もうねん
ろう。苦の世界とは、人間が今日までにつくりあげてきた妄念の世界なのである。
えが
神の世界には苦は無い。人間世界に神のみ心を現わすためには、妄念が画いた苦の世界をすべて215苦






消えてゆく姿として、改めて平和世界の姿だけを心に画きつづけることが必要なのである。そうし
ていると、自己に現われてくるあらゆる苦悩も、時がたちさえすれば必ず消え去ってしまうもので
あるという、大きな安心感で心が充たされ今まで苦悩とみえていた事柄が、さして苦しい事柄でな
くなってくるから妙である。
216
批判と悪口
悪口をいわぬことを善しとするのは普通一般誰しもの心であるが、人の悪口をいいつづけること
によって人気を博している人々もある。そうかと思うと、悪口と批判とを同一視してなんでも他の
いうことを無批判に肯定しようとしている人々もある。
口で悪口をいっていても、心に悪のない人はその悪口が妙に親しみをさえ感じさせられるが、心
もろもろそらそら
に諸々の不浄がありながら、口では人をほめちぎってばかりいる人には、空々しい感じを抱いて、
近寄ってゆく気になれないものである。
人間というものは面白いもので、口では善いことばかりいおうと考えて、声に出る言葉で善いこ
とばかりいっていても、かならずしも想念がそれについてゆけるものでもなく、悪口ばかりいって
いても、想念がいつもきれいでいる人もある。
だから、声に出る言葉ばかりで人を批判したり、その人の人格を評価したりしていると、真実の
ものがわからなくなってくる。
人間の善悪や人格の高低は、その人の常に抱いている想念と、自ずから行われているその人の行
為によって判断さるべきであるが、普通では、この判断ができかねるのである。そこで直感的なも
のが必要になってくる。
その直感はどこからくるかというと、自分の心を常に澄み清まらせているところからくるのであ
る。澄み清まらせるためにはどうしたらよいかというと、寝ても覚めても神を想いつづけて、常に
神のみ心の中に自己の想いを入れておくことである。
217批判と悪口
今までの宗教の欠点は、ああしてはいけぬ、こうしてはいけぬ、と戒律のようなことばかり教え
こうそうおん
ていて、いつの間にか神の子人間を、業想念の渦の中にひき下してしまっていたのである。
悪口をいってはいけぬ、ということでも、批判と悪口と全く一つにしてしまって、なんでもかで

も人の悪を見るな、実相を観よ、というように、あの人の行為はあれではいけないのだ、と心では
思いながら、その心を自ら抑えてしまって、無理にその人の善いところを観ようとして、いつしか
かえってその人の悪い波にひきこまれてゆき、自らもその悪念波の渦の中に入っていってしまった
ぎまん
りして、常に自己偽隔して生きていく習慣がついてしまうのである。
この生き方は自己の直感力を、自己の小我の想念で抑圧している状態であって、真実の宗教信仰
者のとるべき態度ではない。鍬焼というものは、悪と締えるもの、善と掛えるものの両面ともに、
みみ
はっきり自己の心にうつし出して、その悪と観える事柄も、善と観える事柄も、すべて消えてゆく
姿であり、そのすべてが消えてゆく姿であると観ずる想いも消えてゆくものである、とまで直感で
きる本心の座に住んでいるのである。
自分は普通人である、凡夫であるから、真人のようなそんな境地にはなれぬ、と思う人もあるだ
ろうが、人間は誰でも本来は真(神)人であるのだから、そのように自己を否定する想念をまず消
218
えてゆく姿と想いつづけることから、しだいに本来の自己(本心)が開顕されてゆくのである。
宗教の道とは、ただ無批判に、なんでも善なりと観ることではない。宗教の道に入れば入るほど
はっきりした批判力が出てくるのであって、心が馬鹿のように無批判になるのではない。直感的批
くう
判力をはっきりもちながら、その批判力さえも消えてゆく姿と観じてゆくところに、はじめて空な
ひらくうそくぜしき
る境地が展けてきて、空即是色といわれる、真実の世界がその人の世界となってくるのである。

人の悪口をいわぬことは勿論よいことだが、一切の批判力を失わせるような宗教を、私は是とす
るものではない。智と直感とが全く一つになってこそ、真実の世界があらわれてくるのである。
219批判と悪ロ
220
行為は言語より尊い
かた
いうは易く行うは難し、と昔からいわれているが、実際に人間は、お説教したり、しゃべったり
いな
している何分の一、否何十分の一の行為もできていないことが多いものである。
宗教の門に入りまして、種々と真理への話をきいたりしていると、その言葉だけが、頭に残り、
新しく入ってくる、いわゆる後輩に、さも自分はその真理をすべて行じているような口振りで、
織履としてお説法をしている人を時折りみかけるが、その人が、心を鋤めて、自分の行為と自分の
あか
説法をひきくらべてみた時、ひとり顔赫らむ想いがするであろうと思うのだが、意外とそうでない
場合があるもので、その人はいつも、行為に数倍する説教をつづけていたりするものである。
新しい宗教の場合には特にそうした傾向が多くて、教祖、中心者をはじめとして、会員一同が、
ヘヘヘヘへ
自己反省のない、浅薄なるおしゃべりを誰かまわずにしていることが多い。
〃舌は禍福の門、多言はしばしば窮す”という老子の言葉や〃行為は言語より尊い”という、ピ
ーコンスフィールドの言葉の通り、自己の言語には、常に自己としての責任をもち、立派な言葉は
自分にいいきかせるつもりで語るべきで、頭で覚えたことや、自分を偉くみせようとしてのおしゃ
べりを、得意顔でするものではないことを痛感致すのである。
どんなに立派な言葉も、その人の体験行為からにじみでたものでないと、人の心を打たないもの
だし、例え相手がその言葉の立派さによって悟るところがあったとしても、語った人のほうが、そ
の言葉を、自己の行為と結びつける訓練をしていない限りは、後輩がどんどん、その先輩を追いぬ
いて立派になっていってしまったりする。
その点で、世界平和の祈りのような祈りは、祈りがそのまま人類愛の行為になっているので、喋
々と多言を用さなくとも、その祈り言を教えてあげるだけで、相手に人類愛の行為を知らせたこと
になり、言葉と行為とが全く一致することになってくるのである。
〃君子は行いをもっていい、小人は舌をもっていう
“といった孔子の言葉を手本にして、言行の221行








一致した、世界平和の祈りの行を私共はつづけてゆきたいものである。
言行一致の生き方になるためには、小我の自己というものを、常に神のみ心に投げ入れる習慣を
つけることが大事なのであって、この方法が、すべての現われは消えてゆく姿なのだから、瞬々刻
々、新しい生命の力を宇宙神からいただき直すのである、という教えになってくるのである。
すべての誤ちも悪も不幸も、みんな過去世からの業因縁の消えてゆく姿であると割りきりながら、
世界平和の祈りのなかに飛びこんでゆくことが、最も善い生き方であるのだ。
(ビーコソスフィールドは一九世紀英国の政治家。首相になったこともある。文筆にも秀でた人)
222
不幸は神への跳躍台
「歯が痛む時には、必ず歯が病んでいる時です。神様が痛みによって、歯の治療の必要をその人
に知らせているのだと思います。痛みがなければ、その歯が駄目になってしまうまでその人は気づ
かないでしょうから。全くうまくできているものです。」
とは私の知人の歯医者さんの話である。この話は実際に真理である。こうした実例は諸事万般、
いたるところ、いたる事柄に現われているのだが、人々はその事実に気づかない。
病気を嘆き、貧乏を悲しみ、自己の思うようにならぬ環境に不平をいっている人たちがこの世の
中には非常に多い。嘆き悲しみ不平をいったところで、一体その病気や環境がどうなるものでもな
い。それを知っていながらも、なおも嘆き悲しみ不平をいうのだから、肉体人間というものは仕方
のないものである、と少しく悟った人ならそういうであろう。
そうした自己に不都合な状態が起った時こそ、一番容易に神様の中に飛びこめ、自己のゆるぎな
い幸せをつかみ得る時なのであることを人々は知らなければならない。
いわゆる私のいっている消えてゆく姿であって、内から真実の神の子の姿、光が輝き出でようと
している時なのであるから、この時が一番大事な時なのである。
223不幸は神への跳躍台
病気のしっぱなし、貧乏のしっぱなし、不幸になりっばなしでは、その人も大損だけれど、人類242
全般としても誠に不幸なことである。
かこせごうそうねん
自分が病気になるのも、不幸になるのも、すべて自分の過去世からの積もり積もった業想念行為
せめ
(誤った生き方)にょるのであって他の人の責ではない。そうした病気や不幸を超えるためには、
自分がその業想念の渦からぬけいでるより他はない。ぬけいでる方法というのはどういうことか
と、ただ一筋に、光明のほう、神のみ心の中に自己の全想念を投げ出してしまうことである。
全想念を投げ出すなどというと、実にむずかしいようだけれど、今日では世界平和の祈りとい
う、大救済の光明のひびきが、私たち地球入の身近で鳴りひびいているのだから、実にありがたい
ことなのである。
苦痛の想いそのまま、不平不満の想いそのまま、妬み心のあるままで、世界人類が平和でありま
すように、と祈っていると、いつの間にか心が安らかになってくるのが世界平和の祈りであり、そ
の祈りがそのまま世界平和の実現に役立ってゆくのであるから、この祈りを行じている人は真実の
幸福を自己のものとした人なのである。
これは行じつづけている人々の等しく体験されていることである。
いのちそのままの世界
私のところには、毎日のように、父母や祖母に抱かれた赤ん坊がやってくる。たいがい私が名づ
け親だが、どの児を見ても、なんともいえなく愛らしい。
太い児、細い児、小さい児、赤黒いのに色白に、大きい眼玉に、小さな眼、鼻元、口元それぞれ
の特徴をもった赤児たちだが、一様にいえることは、いのちがむき出しに、そのままの梛憾私の心
にひびいてくることだ。
「ああ、なんて可愛いんだろう」と思うのは、いのちのひびきが、その小さな顔や体から、素直
に純粋にこちらにひびいてくるからなのだ。225い









犬や猫や猿や鳥や、ライオソのような猛獣にしても、幼ないものは愛らしい。それが次第に生長郷
してくると、いのちのひびきが変化して感じられてくる。乙女は清らかな美しさに、青年は逞しさ
に、そして老年は、静かな底深いひびきを感じさせてくる。
ヘヘヘヘヘヘへきようざつぶつ
ところが、いのちそのままを蔽う來雑物、つまり、様々な欲望想念が、生命本来のひびきを、こ
ちら側にそのまま感じさせないようになってしまうと、赤児をみて誰もが、可愛らしい、と思うよ
うな、そういう素直な感じで、大人のいのちのひびきを感じることができなくなってくるのである。
生命本来の愛らしさ、美しさ、逞ましさ、静かさ、というものが、人間のもつ業想念波動によっ
よご
て、汚され、ゆがめられて、人と人とのいのちの交流が、すっきりと行われなくなってしまうので
ある。
そこから、醜悪さや、嫌悪感や不安や、恐怖が生れてくるのである。
人間がいつの日でも、赤児のようにいのちそのままの生き方ができるようになる日こそ、人間の
世界は、赤児の愛らしさと、花や乙女の美しさと、青年や大木の逞しさと、老人のもつ深い静かさ
とを、同時に現わし得る世界に成り得るのである。
こうそうねん
完全平和の世界、そういう世界は、人類が、現在までもちつづけている業想念のすべてを、神の
み心の中に、消えてゆく姿として投入しっくしたところから、自然と生れ出てくるものであって、
人類の業想念のもつ、智慧や知識で、いくらもがいてみても、決して成り得るものではないのであ
る。
いのちは美であり、力であり、智慧であり、深い深い大調和のひびきである。大調和のひびきは、
人間が神のみ心にそのまま全託し得た時にはじめてひびきわたるのである。いのちそのままの世界
それが天国浄土なのである。

‘い
の窓をあけよムソ
初夏の国電内の息苦しいほどの蒸し暑さの中で、しかも満員に近い車内であるのに、どこの窓も227心







閉ざしたままでいる。私は車内の中ほどに立って、暫くは人いきれと蒸し暑さにじっと耐えてい螂
た。しかし誰一人として窓を明けようとする者がない。
私は思わず前の青年に「窓を明けたら」と小声でいった。青年はちょっと首をこちらにむけたが
意味がわからなかったらしく無言でいる。私は再び声をかける気もしなかったので、少しつつ腰掛
けのほうに足をにじり寄せて、窓に手のとどくところまでいった。窓に手をかけて明けようとする
と、先程の青年がちらっと私のほうをみて手伝ってくれた。
窓が明くと、戸外から新鮮な空気がさっと流れ入ってきた。「いい気持だね」と青年にいうと、
「そうですねえ」とニコニコ顔で青年が答えた。
そぱ
傍の人たちも、みんなほっとしたような顔をしている。新鮮な空気といっても、東京都内でのこ
となので、澄み切った新鮮さではない。だが、人いきれでにごり切った空気とはまるで違った清浄
さだ。
人間というものはおかしなもので、ちょっと手を伸ばせば運命が即座に開けてくるようなことで
も、誰かが先立ってやらなければ自分から進んでやろうとはしない。祈りによる世界平和運動でも
少し心の窓を開いてやれば、誰にでもできる運動だし、それがいつかは世界中を動かす力になるこ
となのに、誰もが、たまたま心の中で想っている程度で、形の世界に現わしてみようとはしない。
そこで私は、世界人類が平和でありますように、私たちの天命が全うされますように、という、
意味がそのまま言葉になりきっている祈り言を提唱して、人々の日常生活の汚れ乱れている想念を、
この一つの祈り言に結集させて、人間の社会生活をそのまま意義あるものにしてゆこうとしている
のである。
人類すべての大悲願であり、大目的である世界平和ということは、国と国とが相対的な感情でお
互いの利害を考え合って行おうと思っていたのでは駄目なのだ。純粋に素直に世界平和を念願する
気持を形の世界に現わすことが大事なのである。
それは国と国とでできることではなく、一人一人の人間がやることなのである。一人一人の人間
が心の窓を少しつつ開いて、世界人類が平和でありますように、と日常生活そのままの中でやれば
よいのである。そうした一人一人の祈り言は、純粋で純朴で右にも左にも中立にも片寄らぬ、本心
からの叫びになっているのである。そういう一人一人が人類にとって至極大切なのである。
229心の窓をあけよう
230
開かれるもの
芸術家や実業家だったら、なんでもない一つの言葉や一つの行為が、宗教者にとっては、重大な
問題となるので、常に神のみ心と一つになって生きてゆかねばならない。神のみ心を一口にいえ
ば、愛のみ心であるので、宗教者にとって、愛の行為ほど大切なものはないということになる。
愛とは自他が一つになる心であるから、自分の欲っしないことを相手に望んだり、相手の心を傷
つけるような言葉や行為のできるものでもない。やさしくいえば思いやりの心でもあるのだから、
どうしても優しくなりがちである。
ところが、優しいだけが愛ではなく、愛には峻厳な面もあるので、ここのところがなかなかむず
かしいのであるが、私の愛のあらわれ方は優しさ八十%、厳しさ二十%というところである。
しかしあくまで、宗教というのは、愛の行為そのものが大事なのであって、宗教学や、宗教知識
はそれほど必要なものではない。宗教知識が必要なのは、迷った道に入ってゆかぬためのものであ
って、愛の精神や愛行をそっちのけにして、宗教知識だけを追い求めようとするのは、真実の道を
求めずに、いたずらに霊能をのみ求めてゆこうとするのと同じことである。
宗教精神の中には霊能を求める想いもあるけれど、その根底には、あくまで真理を求める心がな
ければならないし、自己の本心開発の努力がなされなければならない。
知識に溺れ、霊能にすがっていることで、真の道を曇らせてしまうことは、実につまらないこと
である。宗教の道を興味を主として歩いてゆくようではいけない。宗教の道は、永遠の生命につな
がっている道なのだから、いくら真剣に求めても求め足らない程のものである。
人間の本質とはいかなるものか、自己の本体は何なのか、という興味つきざる道ではあるけれど
も、宗教の道というものは、やはり素直に愛行をつづけてゆくところから、自然に開かれてゆき、
深まってゆくものであることを、私の宗教体験からも、はっきりいえることなのである。
231開かれるもの
232
真実の光明思想
光と闇とどちらを人間が好むかというと、誰しも闇より光を欲っする。太陽にしても月にしても
星にしても、人間はすべて光り輝くものに心をひかれる。何故かというと、人間は本来光そのもの
であり、神の分生命であるからだ。
そこで、人間の本心本体をそのままこの世に顕現しようというのが、いわゆる光明思想なのであ
る。
この世には光の世界と闇の世界がある。愛の行為、真善の行為は光の行為といい、誤った行為、
悪の行為を闇の行為という。人を憎む行為、争う行為を、光の行為という人は誰もいない。
だから、光明思想、光明波動の中には、人を憎んだり、人を傷つけたり、人を破滅させたりする
行為がある筈はない。それは個人的にいっても国家人類という大きな場面においても同じことであ
るo
そういう想念行為は、光明思想からいえば神の子の心ではなく、消えてゆく姿というのである。
真実の光明思想の中には、決して敵があってはならないし、ましてや人や国を憎む想いや争いの
想いがあってはならない。しかしこの世の人間はすべて完全ではないのだから、そういう想念行為
が全然ないというわけにはゆかない。そこで私たちは、そういう想念行為は、いけないもの、あっ
てはならぬものとして、そういう想念行為の現われる度びに、反省し、悔い改めて、再びそういう
ことのないようにと、救世の大光明の中に、世界平和の祈りを通して、消えてゆく姿として消し去
ってしまうのである。
ところが、同じ光明思想家の中に中共の存在を恐怖し、憎み、北ベトナム爆撃は道徳的爆撃では
駄目だ、米ソが協力して国連軍をロケット部隊にして、敵対するものがあったら、原水爆砲撃を加
、兄てしまえ、という軍部でもちょっと口に出さぬようなことを機関誌に書いている人がある。その
人は常に日本の軍備の強化を唱えている人であるが、今度は日本の軍備を強調するのをためらった
233真実の光明思想
のか、米ソだけが軍備をもって、後の小国は軍備を放棄せよといっているのである。彼は米ソが神324
力なのであり、米ソだけが正義の使者だと思っているのであろうか。
光明思想家でない人が、いくらこういうことをいっても、別にその人の考えであって、そういう
考えもこの世においては、あえて不思議ではないので、私たちが兎や角いう必要はないのだが、こ
れが光明思想家をもって任じている、しかも敵をみてはいけない、敵をみる心が敵をつくるのだ、
と常に法話で教えている人なのだから、どうしても一言いわずにはいられない。
真実の光明思想家でも、心の表面では、この世の波動につれて、瞬間的に恐怖や怒りの想いが出
ないとは限らない。しかし、それは常に消えてゆく姿として否定し去ることが正しいのである。光
明思想家が、闇の想念行為を把えて放さないようでは、その人は本物ということにはならない。
愛の実践
善い言葉を話し、善い文章を書いて、人々を教化することは大事なことである。そして、そうい
う役目だけでこの世を過せる人は幸せな人である。
ところが同じ光明思想を普及する役目でも、私のように、話したり書いたりするだけではなく
カルマ
て、身をもって、人々の業想念を受けて立たねばならぬ役目になっているものもある。
みずか
イエスのように、自ら十字架にかかって、人間の生命の本質が、肉体そのものではなく、永遠の
生命につながるものであることを証明した人もある。イエスは肉体身としては大犠牲者であり、人
類愛そのものの行為の人であった。
話や文章で神のみ心を伝えることのできる人は多いが、神のみ国をこの世に現わすために、神に
すくな
自らのすべてを捧げつくすことのできる人は甚だ少い。
悩み疲れたるもの我れに来りて憩え、我そのものを休ません、という深い愛と、神との一体化の
確信、イエスのこの言葉は心にじいんと沁みこんでくる。こういう言葉を心の底から真実の言葉と
していえる人はイエスの他にそう幾人もいたとは思えない。235愛



私などもそういうキリストの愛の心を、少しでも実践してゆきたいと思い、人々の苦悩を我が苦36
2
しみとして、日々多くの人々に接している。一人の人の苦しみを引きうけるのでもなかなか大変な
のだが、多くの人々の様々の重荷をなんとか取りのぞこうと思って、真剣に取り組んでいるのは並
大抵のことではない。
人間にはあの世に往かない限りどうにもこうにも苦しくて耐えきれないような苦悩もあるもの
で、そんな深い苦悩の渦の中にいる人に接して、その人に光明を与えようとするのは、口や筆では
どうにもならない。ただ救世の大光明のひびぎで、その人の業因縁をはらい浄めてやるより仕方が
ない。こちらが愛一念で身心共に光明化して、その人に接しているより他に方法がないのである。
あまり多くの悩める人々に会っていると、この肉体界は全く苦のシャバであると思わざるを得な
くなる。ただ、口先きで善い言葉だけを喋々としゃべる気にはならなくなる。しかし、そういう肉
体界、幽界の苦悩の渦の中にあって、しかも光明一念で生きてゆくことこそ、光明思想家の天命な
のである。それは私は、消えてゆく姿で世界平和の祈り、という方法で実行しているわけである。
イエスの大犠牲を思いみれば、日々の苦悩の渦の中で、じいっと光明波動をひびかせていること
は、苦しいながらも、まだまだありがたいことである。
貴重な人間の肉体
神と人間との問題は、なかなかはっきりつかめぬことが多くて、宗教者としてこの道一本でやっ
てきている人々でも、確たる答をなし得る人が少い。天にまします神という風に、神の場を限定し
てしまうと、人間は神の下僕というように、主従の関係になってしまったり、被造物という感じに
なってしまって、神と人間との間に遠い距離ができてしまう。従って、親様というような親近感が
なくなってしまう。こういう神観だけだと人間は常に行動を監視され、とがめられ裁かれる気持が
ゆる
していて赦されるという感じが少い。敬度な心にはなるが、小さな枝葉の事柄にもいちいち気を使
って大きな広い心にはなりにくい。237貴







また仏教的に神(仏)は人間の内にある、というように、自己のうちにある神仏を開発しようと螂
して、自己の外なる神仏を問題にしなくなると、修業がなかなか困難な自力修業になってきて、今
日の社会生活の中で、実にむずかしい生き方になる。こういう形の中からは、唯物論者と同じよう
に、無神論者を生み出してしまうことにもなりかねない。自己を開発し、自己を救済するのは、自
分自身以外にはいないと思いこんでしまうからである。
といって、常に神社仏閣にある神仏を求めて、そうした神仏に自己の救済を求めているような宗
教的な在り方は、自己の本心開発がおろそかになりがちで、何もかも自己の外なる神仏に依存して
しまって、自主性を失ってゆく。先日も伊勢にいって、改めて思ったことだが、神社仏閣にはいつ
でも神仏がおわすのではなくて、信仰深い人間の光明波動が、その神社仏閣にうつって、そこに外
面的に神仏として親われてくるのであって、主体は自己の信仰心にあるのだということである。
だから、人間は神というものを、天にあるものと思っているだけでも、神社仏閣にあると思うの
みでもいけない。内にある、と思うだけでもいけない。神とは宇宙に遍満している大生命であり、
わいのち
分け命としては人間の内部にあって、人間の肉体をその働き場として使っているのであって、神と
人間とは本来一体のものであり、命の親子関係にあるのだ、ということを知らなければならないの
だ。
わけみたさ
そして、宇宙に遍満している大生命を宇宙神といい、人間内部に働いている神を直霊- 分霊と
いい、外部的に人間及び人類を守りつづけている神霊を、守護の神霊というのだということも知る
べきなのである。このように神は一神であって多神として働いているのであり、人類は神の分け命
すえカルマ
であり、神の畜であるのだから、この肉体をもった人間が、業想念の波を浄め去って清浄そのもの
になれば、肉体はそのまま神社なのである。そこで人間は自己が一日も早く清浄身になるように、
守護の神霊に祈りつづけ、自己の心身を浄めさる行動を常になしつづけてゆくことが大切なのであ
る。そこで私は、消えてゆく姿で世界平和の祈りという教えを広めているのであって、個人の精進
がそのまま世界人類の清浄身になり得るような道を開いているのである。
複雑微妙なる構造をもっている人間の肉体が、ただ単なる木材でできている神社仏閣より、神に
やしろ
遠いということは馬鹿気たことなので、人間の肉体が、神の社になりきるよう、たゆみない祈り心
で、人間は生きねばならないのである。そうすることによって、世界人類すぺてに神のみ心がその
まま現われ、世界人類の平和が実現することになってくるのである。
239貴重な人間の肉体
240
人間の愛らしさと憎らしさ
人間神の子というのが、私たち光明思想家の常に唱えているところであるが、人間神の子と思い
こむのがなかなかむずかしいし、神の子そのままの想念行為で、この世の日常生活を送ることはな
お更に容易でない。
この世における肉体人間というものは、愛らしい面と憎らしい面とを持っていて、神の子と思い
こもうとしても、とても思いこめない憎らしい嫌らしい人問がかなり多く存在するのである。
日頃は愛らしいと思っていた人が、何かの拍子に実に憎らしい嫌らしい面をむき出しにしてくる
こともある。
こうした憎らしい嫌らしい面をその人たちにみながら、その人をそのまま神の子として、善なる
人とみるということは、実にもって至難なことである。ここに光明思想家の陥し穴があるのである。
何故かというと、この世の人間というものは、どうしても好きなことと嫌なことがあり、美しい
ものと、汚いものとを見分けて、嫌なもの汚いものから離れたい、という気持がどんな人にもある
のである。こうした気持は一面この世を住みにくくしているとともに、この世を立派な美しいもの
にしてゆこうとする運動ともなるのである。
くそ
光明思想、神の子思想は、何も糞も味噌も一緒にし、美醜の判別をしてはいけないというのでは
ない。嫌なものは嫌、悪いものは悪い、という判別の心があって、その嫌な面、悪い面を、神のみ
心にはないものとし、実在するものでないとして、消えてゆく姿であると思い、その悪や不幸や憎
しみを、祈り心をもって、神様のみ心の中で消していただくのである。この点を間違えて、なんで
もかでもみな善しとみて、そのまま神の子、神の世として拝むには、まだこの世の姿が未完成であ
り過ぎるのであるから、実行不可能なこととなるのである。そうしたことを知らずにただ神の子神
の子とやっていると、いつの間にか、自分の心を齢わってしまい、人をも麟してしまっていること
になり、偽善者のような形になり、自分を苦しめ、人までも誤った道にさそいこんでしまうのであ
241人間の愛らしさと憎らしさ
る。2

だから、光明思想には、必ず、消えてゆく姿という、自然に、真実でない実在でないものを否定
してしまう言葉や想念が必要なのである。それと共にその消えてゆく姿を、消し去って下さる神の
み心の大光明の中に、自分も人も入れきってしまう、世界平和の祈りのような、縦横十字の大調和
をそのまま表現した、祈り言が必要となってくるのである。
私の願い
私の願い
八月六日に、原爆の日によせて、というテレビ放送があったが、そのテレビをみていて、誰しも
が強く思ったであろうことは、いかなる場所でも、いかなる敵に向っても、世界各国は決して原水
爆を使ってはいけないのだ、ということであったろう。
昭和二十年に最初の原爆が広島に落ちたことによって、一瞬にして二十六万余の人が悲惨な死を
遂げてしまったのだが、現在では一瞬にして、地球人類が滅びてしまいかねない原水爆がつくられ
ているのである。
原水爆が実戦として落されるばかりでなく、その実験による放射能の害をもってしても、地球人245私



類の損傷ははかり知られぬものとなってきつつあるのだ。
秋の風身にしむる日の近い夜の庭に立って、大空の星をみつめながら、私はしみじみと地球人類
こうしよう
の業生の深さを思っているのだ。どうにも現在のように、国家対国家、民族対民族が、武力を背景
にしての、掛け引きで、世界平和を実現しようとしてみたところで、一体どうして平和な世界が生
れてくるであろうか、それがわかっていながら、できないでいる大国首脳部でもあるのだろうが、
相手を威嚇するためのつもりで原水爆をつくっていたとしても、それをいつ実際につかってしまわ
ないとも限らないのが、人間の業なのだから、人類はどんな平和そうな話合いが大国間でできたと
しても、安閑と心を安んじているわけにはいかない。
真実の世界平和をつくるためには、自国がすっかり丸腰になって、私の国はこれこの通り戦争の
意志はまるっきりないのだ、だからどこの国も戦備をやめて手を握り合おう、というのでなければ
ならない。ところがこれが現在の大国ではもうできないのである。国の威信にかかわるし、その大
国の武力に信頼してついてきている国々が、その大国を袖にして相手国につきかねないからである。
それができる国は日本以外にはないのだ。どうしてかというと、日本は最初の原水爆被害国であ
って、今後の戦争の恐ろしさを、その体験をもって他に語ることができる国であり、現在武力とい
246
える程の武力をもっていない弱小国なのであるからだ。
日本こそ世界平和を堂々と唱え得る国家なのである。手に強力なる原水爆の武器をもちながら、
世界平和を唱える愚かしさを、日本の政府ははっきり認識しなければいけない。武力がなければ侵
略される、と誰かがいうかも知れない。原水爆の甚大なる被害を地球人類から喰い止めるか止めぬ
きようだ
かの境にあって、右左とみまわしてためらっているようだったら、その国はその怯惰のゆえにその
国の存在価値を失ってしまうのだ。
日本人はすべての政策を超えて、今直ちに世界平和の祈りの運動に逸進することこそ、日本人が
神から荷せられたる使命であるのだ。すべてを神の子として、兄弟姉妹として、敵なき人類世界を
あしおと
つくるための、高々とした最初の遣音は、世界唯一の原水爆被害国の日本がなすべきことであり、
日本人がなさねばならぬことであると私は確く信じている。それ以外に今日の日本人の生き方がど
こにあるであろうか、それを日本人一人一人がよくよく考えてみることである。
世界平和の祈りに徹して武力なき日本が他国に侵かされたとすれば、それは地球人類が神から見
放された時であるのだが、そんなことは決してないことを、私に働いていられる神々は微笑しなが
らはっきりと答えられているのである。必要なのは神の愛を信ずる素直さと勇気である。247私



248
学園紛争に想う
学園の紛争については、種々な立場の人々が様々な感想を述べているが、私が一番感じること
は、戦後から今日までの教育の在り方が、道を間違っていた、ということである。
何故かというと、真実の人間性の確立ということをまるでないがしろにして、技術的な学問を教
えているに過ぎなかったからである。人間はいかなるものであるか、そしていかに生くべきもので
あるのか、そういう重要な問題を一体どこの学校が教えているであろうか、教えている大学は皆無
に等しいのである。ただ優秀な先生が存在すれば、その先生の人格が自然と学生に感応してくるこ
とは勿論あるのであるが、そういう高い人格をもった大学教授という者は甚だ少くなっているので
ある。従って今日の学園紛争は、学校の在り方と先生方の至らぬ教育方法が自分たちにかえってき
ているともいえる。
真実の人間性とは、正しい宇宙観によって養われる。正しい宇宙観とは、すべては大智慧大能力
のある中心者によって動かされているものであって、大宇宙の星農から人類、動物、山川草木、あ
らゆる存在が大調和の法則によって自らが保たれているのである、ということを知ることなのであ
る。
各自が己れの置かれた立場において、大宇宙の運行に沿って働いている、という大原則は動かし
そむ
難いことで、この法則に背けば、その存在者は消滅してゆくより仕方がなくなるのである。それは
この顕われの世界のことばかりでなく、人間の五感に触れぬ他の波動の世界においても同じ法則に
よって動かされているのである。
であるから、大きくは大宇宙の、小さくは人類そのものの分れである個人というものや、個々の
集団や各国家民族というものが、その個人や集団が、個々勝手な正義観を振り廻わして、自己や自
そこな
己の集団だけの思想を唯一のものとして、お互いが痛め損いあっているようでは、こうした宇宙観
さから
に逆うことになってくる。249学






さから
現在の教育というのは、真実の宇宙観に逆う、個人我(小我)顕現の教育なので、世界や国家の50 2
調和を破ることになってくる。何故ならば、小我の顕現は、大我(真我) の大調和精神を細かく切
りきざんでゆく在り方であって、いつまでたっても、人類世界の平和を築くものとはならないので
ある。
そのはっきりした現われが、学園紛争であり、全学連の無謀なデモソストレーションである。良
識ある人の誰もが眉をしかめる行為がなんで世界平和に結びつくことがあろう。世界の平和は各自
の調和精神によってでき上がるのであって、各自が闘争精神で突き進んでゆくことは、終始闘争に
つづく闘争を繰りひろげることになることは理の当然である。
こうした誤った行為を、理のあることとして容認するような人があったら、その人そのものも、
そむ
宇宙の法則に背く滅びゆく人であるのだ。こういうところに教育の誤りが目立って現われてきてい
るので、目立たぬ個所でも随分と現教育の誤りが、人類の運命を危険なものにしていっているので
ある。
人間は根本原理をないがしろにしては絶対に成り立たぬもので、この世に生み育ててくれた父母
を粗末にする行為や、種々のことで世話になり、教え導いてくれた先生や先輩方の恩恵をなんら感
じることのないような忘恩の思想では、その人たちがどんな立派そうな理論を述べ立てようと、す
べて空念仏に過ぎないし、立派そうに見える理論も詳細に分析すれば、宇宙の法則に外れた理論に
他ならぬことがわかってくる。
どんな立派そうな理論もそれが唯物思想から出ているものである限り、ある時期にはよい理論と
はず
してもてはやされたとしても、根本が宇宙の中心から外れた大生命(神) の恩愛を無視した理論で
あるのだから、いつかは滅びゆく理論となってくるのである。
今後の学校教育は、あまりむずかしいことは抜きにしても、大宇宙には中心があることや、祖先
や両親や先輩などという、長上を敬い、天地や山川草木に感謝する、ということぐらい教育してゆ
かなくては、折角教わった技術的学問が人類のために役立たぬ方向に進んでしまうのである。
両親や先輩長上をないがしろにする方向に向う教育などは、むしろ無いほうが増しなのであるこ
とを、教育者の方々はよくよく考えていただかなくては困るのである。いつからでも遅くはないの
だから、先生方が協力して、本来の正しい教育に戻す努力を払っていただきたいものだと、各学校
の先生方には特にお願いする次第である。
251学園紛争に想う
252
ソ連のチェコ侵入に想う
人間の欲望というものはきりのないものであるが、個人の場合は法律的のことや、社会機構、世
間の批判などあって、どんなに金力や地位にものをいわせようとしても、限度があるので、欲望を
現わし得る限界というものが自ずからきまってくる。
ところが国家ということになると、法律や機構的なもので、その権力の限界が個人同様定まって
いるようでいてそうでない。米国のベトナム爆撃や、今度のソ連のチェコ侵入などは、法律的なこ
とや世界機構などまるで無視した犯罪行為である。個人の場合の犯罪行為はどんなに地位金力があ
っても、歴然とその事実がそこに現われた時には、これを罰することができるが、国際間の問題と
なると、その国家の軍事力が大きくものをいって、みすみすその国家の犯罪行為がわかっていても
言論や文章でその非を叩くだけで、実刑に処するわけにはゆかない。力つくで実刑に処そうとすれ
ば、世界大戦争になってしまうことは必然である。
国連がどんなにその国を糾弾したところで、国連そのものの軍事力の中には、その当事国の力が
大きいのであるから、国連自体の力ではとてもその国を抑えることはできない。現在の国連ではど
うにも世界の調和を保つ総合力の持ち合わせがないのだから、歯ぎしりするだけの話である。国連
事務総長たるものが正義を通そうとしても、力の裏づけがないのだからどうしようもないのだ。
今度のソ連のチェコ侵入は、あにチェコだけの問題でなく、ソ連と利害関係をもつ小国のすべて
にその危機があるわけなので、ただ外国のこととしてぼんやり見過してはいられぬ問題なのであ
る。日本政府のように、二言目には国連の場を通してとか、国連の意を体してとかいっているだけ
で、国家が守れるものかどうか、この辺でよくよく考えなければならない。
これは何も軍備の増強ということをいうのではない。チェコだって軍備はもっていたのだが、そ
の力において、到底ソ連の敵でないことがわかっていたから、無抵抗で侵入を許してしまったので
ある。日本など今日の力でいくら軍備を増強したところで、ソ連はおろか、中共にでも太刀打はで253ソ










きない。それにも増して現在の国民感情では、戦争などということができるわけがない。日本人の542
大半が戦争恐怖症だからである。
これは無理からぬことで別に悪いことでもないが、それにしてもあまりにも国を守ろうとする意
欲に欠けすぎていることはいなめない。個人の自分たちだけの真の幸福などは、現代の世界機構で
はあり得ないことが、何故日本人にはわからないのであろうか。国家が侵略されてどこに自己の幸
福があるだろうか。チェコ人民は身にしみてその事実を感じているであろう。国家が安泰でなけれ
ば、一瞬にして自分たちの幸福は破壊されてしまうのであることをチェコ事件がはっきり示してい
るのである。
自国を守るのは軍事力よりもまず先に、国民全体が世界人類の幸福のために平和のために働こう
という、一致団結した心なのである。その平和に結集した心の上に立って政治機構も社会機構もで
き上がるべきものなのだ。
そのためにこそ、私ども日本人は、枝葉の思想や諸問題はひとまずおいて、世界人類が平和であ
るための生き方を、自己のものとしなければならない。私はそれを祈りによる平和運動として、日
常茶飯事あらゆる瞬間にも、世界人類が平和でありますように、との祈り心で生活してゆくことを
人々にすすめ、着々と同心の人々が増加してきているのである。個人と国家と人類というものが全
く一つの理に結ばれているものであることを、皆さんは改めて想いみることが必要である。
国民の心が各自勝手な方向に、自己の欲望だけを追っていて、どうして国家を守ることができよ
うか。国家を守ることができなければ、自己の家庭というものはその時から破滅してしまうのであ
る。
日本を社会主義や共産主義に仕立上げたい人々は、そういう社会がきても、ソ連や中共のような
権力者に頭を抑えられて自由な活動ができなくなることを、今度のチェコ問題で存分に思い知った
ことと思うが、革命的闘争でつくりあげた政権は必ず、いつかは滅び去るものであることを知らな
ければならないo
もと
日本はそうした変貌をするのではなく、地道に世界平和の念願の下に、国民の心を一つに結びつ
けて、日本が心を一つに世界の平和を祈りつづけている国であることを、世界中に知らせてゆくこ
とが大事なのである。力と力の対決でなく、国と国とが自然に融合してゆく方法は祈り心を根底に
した行動より他にはないのである。
255ソ連のチェコ侵入に想う
256
R ・ケネディの死とアメリカ
ロパート・ケネディが兇弾に倒れた、というニェースは全世界の人々に突きさすような衝撃を与
えた。キソグ牧師の死につづいてのこのテロ行為は、アメリカの恥部をはっきり全世界に知らせて
しまった、といっても過言ではないであろう。
キング牧師という人は世界では知らぬ人も多かったが、ケネディとなると前大統領の弟であり、
若い進歩的行動家であり、大統領候補者として、立候補戦の最中だったのだし、誰知らぬ者のない
世界的ホープなのであるから、世界中の人々がその死を惜しみ、その死に心を打たれ、犯人を憎ん
だのも当然なことである。
ジョソ、ロバートと兄弟二人が、同じような悲しい最期をとげたということは、ヶネディ家にと
ってなんともいいようのない悲劇であると同時に、アメリカそのものの姿に悲惨な影を刻みつけた
大きな事件でもある。
新聞やテレビの解説や対談で、ベトナム戦争というような大量殺りくを行っていると、その国民
の心は知らないうちに、人殺しをなんとも思わぬ想いになってしまう、というようなことをいって
いたが、全くその通りで、戦争というものは、人の心をいつの間にか兇暴にしてしまっているので
ある。人間の想念というのは、習慣性をもっているのであって、一度二度と悪いことをすると、知
らぬ間にその想念行為が良心を痛めぬようになり、平然として悪が行えるようになってしまうもの
なのである。
アメリカの戦争行為は、その荒々しい想念行為がいつしらず国内に満ち充ちてしまっていて、ち
ょっとした動機でも殺人が行えるようになってしまうのである。それに加えて、アメリカに殺され
たベトナム人たちの恨みの念波がアメリカに蔽いかぶさっていて、アメリカの滅亡を計っているこ
カルて
とも見逃すわけにはゆかない。人にしたことは自からにかえってくるのは業の法則であって、それ
は個人でも国家でも同じことなのである。257R・











戦争となると殺人がなんでもなく行えるが、一人のヶネディが殺されたことでも、全世界の人々528
の心を冷たくさせるのである。平静な心でいれば、一人の殺人でも大変なことなのである。まして
何十万という人が殺されている戦争というものが、いかに罪深い行為であるかが、よくわかるので
ある。有名な人の生命だから大変であり悲惨であって、無名の人の生命だから、なんでもない、と
いうことは人間の世界ではいえないことなのである。
アメリカの或る高官が、アメリカ人一人の生命は、ベトナム人何千万人の生命にかえられない、
というような放言をしていたことがあったが、こんな手前勝手なことをいっている人が高官の中に
いるようでは、アメリカの正義感というのは、ゆがんだものに相違ない。そういうゆがみが、今日
はっきり表面に出てきたのが相次ぐ殺人事件なのである。
軍備をもって、いざといえば戦争をも辞さない、という国家群の在り方は、それこそ第二次大戦
前の在り方であって、今日のように世界各国が戦争にはコリゴリしているのに、お互いが仮想敵国
をっくって、軍備を増強し合っているのだから、ただただ呆れる他はない。
真実に国家同志が愛し合い、世界平和をつくりあげるためには、お互いの国家が敵国をつくりあ
って、武力が自国を護る最大の力のように思っていたのでは、なん度びでも大戦が繰り返えされ、
人間を動物的にしてしまって、とうてい世界平和など成り立つわけがない。
これは国内の革命行為でも同様である。相手を倒さなければ、自己の目的が貫徹されないという
のはスポーッの世界だけでたくさんなのである。個人でも国家でも暴力行為を一切なくすためには、
自己が自国がまず武器を持たぬところからはじまるのだ。その点、現在の日本は正式の軍隊を持っ
ていないので、そういう点では理想的なのである。だがしかし、そういう姿で国家を護るためには、
徹底的な平和を愛する心を持ち、日本中が一つになって平和の祈りをすることが、大きな強い平和
の力となるのである。
祈りとは自分勝手な願望を神にきいてもらおうとすることではなく、神のみ心と人間とが全く一
つになるためになされる心の修錬なのである。
259R・ケネディの死とアメリカ
260
真の平和精神を文部省教育に
人間は根本にしっかりとした生きる目的をもっていないと、その立場や周囲の状態や影響によっ
て、自己の歩んでゆく方向が変ってきてしまうものである。
佐藤首相を頂点とする日本の政治も、どうやらこの例にもれず、次第に方向が変ってきつつある
ようなので、国民の心はそれにつれて不安感を抱くようになってきている。いつかは自衛隊が本格
的な軍隊になって、徴兵令がしかれ、核装備もするようになるのではないか等という、日本の平和
憲法を根底からくつがえすような状態に、いつの間にかなってしまうのではないかという不安なの
である。
どうして国民がそういう不安を抱くかというと、佐藤首相たちの気持が一体どの辺にあるのか、
常にゆらゆら揺れているようで、平和世界をつくるのだ、というしっかりした根本信念が、こちら
にうつってこないからなのである。
日本が平和に徹して進んでゆくのだ、という固い信念が佐藤首相はじめ内閣首脳部にはないよう
に思われてくるのである。米国側の顔色を常にうかがっている、そういう印象を国民の心から消す
ことができない。恩は恩、日本の主張は主張なのであって、米国の子分のような感じを国民に与え
たのでは、国民の心が嬉しくないのだ。
もっとはっきりと正直に日本の世界における立場を、国民に話してきかせたり、米国や台湾との
関係を卒直に打ち明けて、日本の進むべき道を、国民と共に検討してゆくという態度でなければ、
国民は不安のあまり、左翼系統の人たちの話に耳を傾けて、ただいたずらに政府のやり方が悪い、
と思いこんでしまいがちである。
沖縄返還の問題だって、核装備がついたままで返還されるのか、核装備を切り離しては返還が実
現できぬのか、日本の軍備を拡張して、日本自体の軍備でアジアの平和が守れぬようでは、沖縄は
帰せぬというのか、いずれの問に対しても、佐藤首相ははっきりした答をしないで、急がないで今261真












後の交渉をまとうとか、日本人は核アレルギーになっているとかいって、問題をぼかしてしまって魏
いて、左翼政党の人ならずとも、真実平和を願っている人々は、心のおさまらない感じなのである。
なんとかずるずるひきずっていって、軍拡や核装備の問題が、既定事実になってしまうことを望
んでいるような態度にも受け取れてくる。そうすると、平和憲法は絶対に変えぬとか、核装備など
絶対にしないなどといってきた、はじめの頃からの態度が次第にゆれ動いて変色してきている匂い
がしてくるのである。
そこへ持ってきて、今度の灘尾文相の国防教育を小学校からやらねばならぬ、といった今日まで
には色にもみせなかったことを、はっきりと言明するようなことになってきた。
こういう一連の動きの中に、軍拡や核装備容認の心が動いていないとは、誰もいえないことで、
日本の立場も世界の国々と全く同じような、武力防衛の一環の国となってしまうようである。
私が常にいっているように、日本はあくまで大和精神を本質的にもつ国で、大調和の中心に立た
ねば、日本の天命が果せぬ国柄なのである。まして、太平洋戦争に負け、原爆を受けた唯一の国と
して、どこの国にもない、平和憲法を天からさずけられた国になったのであるのに、その絶対なる
機会を再び逃して、他国と同じ場に立って、武力防衛の国になってしまうのでは、祖神に対して申
訳けないことになってしまう。
文部大臣などは、国防などという言葉をつかわずに、世界に平和を築くための心を、小学校教育
の中にも含ませて、左翼や右翼の他を排する片よった教育にせぬ、中正なる平和精神を養わせる教
育課目をつくる、とでもいえばよかったのである。
守るといっても武力で守ることは、戦争につながるのである。どこの国でも侵略という名目で戦
争する国はない。みな自国の権益を守るという名目で戦争をするのである。攻めようと守ろうと、
戦争は戦争なのである。平和は武力で守れぬことは、今日までの歴史で実にはっきりしているわけ
なのだが、何度びでもその愚をおかそうとしている。平和を守るのはあくまで徹底した平和精神で
あって、この精神こそ不退転の勇気がいるのである。そういう勇気ある精神を文部省教育の中にも
りこんでいただいて、日本を平和の中心国にまでもっていっていただきたいものである、と私は切
に願うものである。
平和を守る勇気ある精神こそ、そのまま国家を守り、人類を守る精神となるのであって、単なる
国防教育などというものは、他国を敵とみ、武力をもって守り、ついには戦争に至る精神でしかな
いことをご反省願いたい。嫌な歴史をくりかえさず、人類進化の道である、真の平和教育こそ、日263真












本に最もふさわしい教育なのであることを考えていただきたい。政府は常に一貫した思想で青少年
に国の大事なことを知らせ、自分勝手なことだけしないで、社会や国家のために生きることが自分
を生かすことなのだ、という観念を植えつけて欲しいものである。青少年を広く大きな人物にする
のは、個人と社会、国家、人類との密接なつながりを教育することにある。真の愛国心とは、国家
を人類永遠の達成のために働かせ得る行為である、と私は思っている。
264
明治維新を顧みて
近頃テレビなどで、明治天皇という映画をはじめ、
る。私はこれは非常によい傾向だと思ってみている。
種々と維新前後を画いたものが放送されてい
日本は現在、明治維新以上の、大変化の時に立ち至っているのだが、人々は何気なしに日々を過
してしまっている。瞬々刻々として近づいてくる大きな歴史的変化のひびきを、多くの人々は、自
己の生活に把われてしまっていて、心を鎮めてきこうとはしていない。
日本は再軍備しなきゃあ駄目にきまっている、という人も、日本が軍備をしたら大戦争に巻きこ
まれる、という人も、少数の人をのぞいては、殆んどが、自己の生活に把われきっている、そのほ
んの一部の想いとして、時たま言葉にでたりするのであって、そのことについて深く考えて答を出
しているのではない。
こんな時、明治維新をなしとげた偉人傑物、特に西郷南州や勝海舟のことを思うと、改めて心が
感動で震えてくる。あの時代にもし、天朝側に西郷なく、幕府側に勝なかりせば、英仏をはじめ諸
外国の勢力は、天朝側、幕府側と両派に分れて、日本は全く戦火で焼けただれ、その末に外国の欲
っするままに料理されていたであろう。
西郷の私心無き純粋な愛国心と、勝の幕臣としての自己を超越した日本人としての明智と、国民
を戦火からまぬがれさせたいという深い愛情は、日本を大きな戦火から救い、今日の日本を築き上
げる土台となったのである。それには上は明治大帝の叡智と徳川慶喜の時代を見極める眼とその柔
265明治維新を顧みて
順さ、下は坂本、山岡、大久保等々の傑物が、明治の時代には揃っていたことも、日本の今日を生
み出した原動力であったのだ。
今日は、その時代よりも、さらに重大な時代なのである。明治維新の西郷や勝や山岡のような大
かがみ
人物の心を自己の生き方の鑑として、更にその上にある世界人類すべての幸福のための、大きい広
い生き方を、今日の私共はなし遂げてゆかねばならないのである。
今日の敵は米国でもなければソ連中共でもない。永遠の生命観から離れた、その場その時だけの
自己満足の想いに酔う心である。その時々で敵をつくり味方をつくる。その敵もその味方も、すべ
て自己保身のため、自国の利害損得を中心にした敵であり味方であって、天からみた正であり、義
である道を進んでいるのではないのである。

天道には敵がない。だから特に味方と呼ぶ必要もない。ただ未だ光の射していないところに光明
を放射してゆく行為が必要なのである。光明の射さぬところを闇という。闇の中では憎悪があり、
敵があり、戦争がある。敵を認め戦争を認める想いは闇の中の生活から起る。
今日からの世界は、そうして闇の想念をすべて消し去らねば生れてこない。闇の想念が消え去ら
ねば、地球世界の未来は無いのだ。西郷や勝の愛国心に加えて、人類愛という心が働かないと、地
266
球の未来は破滅するより仕方のない時に今はきている。明治維新の頃の朝廷と幕府を、米国とソ連
中共と見、日本を世界全体と仮定してみた時、西郷や勝のような私心のない動きこそ、今日の日本
人には特に必要といえるのである。
相手の立場にたつ
相手の立場に立ってものを考える、ということは、若い人たちにとってなかなかむずかしいこと
なのであるが、相手の立場に立ってものを考えるという習慣がつかないと、この世に争いは絶えな
いし、国際紛争も絶えることはない。
自分を顕わす、ということは人間本然の欲求ではあるが、周囲の状況や相手かまわずに、自己の
267相手の立場にたつ
欲望を現わしたりすることは困ったことなのである。終戦以来の学校教育が自己顕現ということに螂
重きを置いて、自分の意見を表現させることに力を入れてきたのは、それなりに善いことなのであ
るが、自己を現わすことに夢中になって、相手や周囲の損失や迷惑を少しも考えようとしない行動
は、集団生活をしていかねばならぬ人間にとって、はなはだ困りものなのである。
それが正義という名前がつくと、全く相手の意見や立場が眼に入らなくなって、ひとりよがりの
行動となって、全学連やちょっと骨のある青年たちの行動は少し間違うとそういうことになってく
る。
もっとも国ということになると、なおさらにこのひとりよがりが大きくなって、自国の正義を至
上のものと思って、他国の立場を深く考えてみようとはしない。すべて自国本位のものの考になっ
てしまう。
政治などでも、野党は与党の立場などまるっきり無視して、自分の党がその立場に立ってもでき
はしないことを、要求したりする。相手の欠点をつき、相手を痛めつけさえすればよい、というよ
うな狭い愛のとぼしい心で、国家の政治などとれるものではない。意見は異なっても、相手の立場
もじっくり考えてやれないようでは、その人物は小人物なのだし、そういう集団はたいした集団で
はない。
個人でも集団でも国家でも、狭量であってはならない。狭いひとりよがりの心では正しい行為は
できないし、大きい仕事はできない。正不正をはっきり分け、善と悪とを分け、不正や悪を消滅さ
せようとするのは、勿論結構だが、それは相手方に対してだけではなく、自分や自国のことも、は
っきりその点を区分けして、自分や自国の不正や悪をもみずから消減させなくてはならない。
それができないようでは、他人や相手国の不正や悪を責め裁く権利はないのである。だから常に
相手の立場に立ってものを考え、その上で相手に対する行動を起すようにしなければ、自己も相手
をも不幸にしていってしまうのである。これは個人にも国家にも同じことがいえるのである。
すべては神の公正な眼が、その結果を決定するのであって、人間はいかに神のような広い深い、
公正な立場に自分を置いて生きられるか、ということを常に真剣に勉強してゆかねばならぬ存在な
のである。
269相手の立場に,たつ
270
この世界を支えるもの
犠牲ということばを私はあまり好まないが、この世の中は犠牲精神によって保たれていることは
事実である。ただ私は、犠牲精神というものが、言葉として現わされたり、表面の想いの中にあっ
たりすることを好ましく思わないのである。両親が子供を生み育て一人前の人間に仕上げてゆくこ
とは、大きな犠牲の精神がなければできないことなのだが、世の親たちは、私は犠牲をはらってき
たなどということも少ないし、子供の犠牲になってきたと思ったりすることも少ない。子供への愛
情によってすべてがなされてゆくので、たまたまは犠牲というような想いがでてきても、それはす
ぐに消え去って、自然と子供のために尽しているという形になってしまうのである。
今日まで幾多の魂の秀れた人々が、国家や民族や人類社会のための尊い犠牲になって、その貢献
によって、この地球世界が今日の文明文化を築きあげ、どうやら無事に過してこられたのだけれど、
犠牲になった聖者賢者たちは、自分の魂の命ずるままに自己の行動をしたのであって、犠牲になっ
じゆん
たなどという気持は少しも持たなかったと思うのである。ただ道に殉じ、神のみ心を心として行動
をしただけなのである。
犠牲という言葉には何か暗い悲愴な雰囲気があるが、思いやりという言葉では少し軽いし、お互
いを生かし合う、というだけでもまだ足りぬ。しかし、この世界を保ちつづけ、進化発展させてゆ
くには、どうしてもこの犠牲精神が必要であるのだから、この精神を多くの人々が持ちつづけ、そ
してしかも明るく輝やかに生きてゆくことが大事なのである。今日の社会はあまりにも利己主義す
ぎて、自己や自己の集団の利害だけを重くみて、他の利害や損失は殆んど顧みようとしない風潮が
多い。こういう風潮を破るためには、宇宙全体、地球全体の運命ということを、まず先に考えさせ
るそういう教育をしてゆかなければいけないと思う。
宇宙の中の一人の自分、地球の中の一人の自分というように、大きなものの中で、大きなものの
使命達成の一人の荷い手としての自分を生かす、ということを学校教育の中でも根本的なものとし271こ









て取り上げてゆく必要がある。そうしないと、個人個人が宇宙とか地球とかいう全体から浮き上が72
2
ってしまって、てんでんばらばらの生き方になり、たとえ一つの集団として働いても、その集団が
他の集団の利益を犯してしまう行為をしがちになってくる。だから現在の個人の自我(小我)を拡
張させるような教育を根本から改めて、大我に殉ずることによって自己が生きる、という教育に代
えてゆかねば、真実の自己を生かしきることはとてもできないのである。
そういう生き方が身についてくると、自然と犠牲精神が備わってきて、今日まで持っていた犠牲
という悲愴感がなくなり、いきいきと明るい感じで、世のため、人のために生きてゆくことができ
るようになってくるのである。そういう生き方の一つの見本が、
おのごと
己が幸願う想いも朝夕の世界平和の祈り言の中
という私の歌の生き方であって、世界人類の平和を祈るという、人類愛の生き方が、そのまま個
人の平和に結びつくことになるのである。これからの生き方は、この気持でないと長つづきしない
のであって、今日までのような、小我拡張の自己顕現の生き方は地球滅亡にそのままっながってゆ
くのである。学校騒動などがそのよい例なのである。
犠牲精神というのは一口にいって、大我に殉ずるということであり、愛そのものの精神なのであ
る。三派全学連の暴動などは、大我に殉ずることでも犠牲精神でもなく、幾つとなくある思想系統
かいらい
の一つの思想の偲偲となってその若い力が使われているに過ぎないのだ。だから社会の平和を乱し、
他人の迷惑もかえりみぬ無茶な行動をしてしまうので、宇宙の法則からみて逆行していること甚だ
しいといわなければならない。
こういう全学連の中心者を、坂本竜馬どころの話ではない、最も優秀な学生だ、理論的にもぼく
自身教えられるところが非常に多い、などと、歴史家の羽仁五郎氏などが、おだてあげているのだ
から、なんとも困った世の中である。学生暴動の陰の人物たちも、自分は日本や世界の大犠牲者に
でもなったつもりでいるのだろうが、宇宙や地球世界の調和を乱す行動は、右であろうと左であろ
うと、真理ではないことを心に止めておいてもらいたいものである。
273この世界を支えるもの
274
世界平和への道
こんなに青空がきれいなのに、自然はこんなに美しいのに、何故人間世界はこのように醜く、こ
のように苦悩に充ちているのであろう。
青年の頃は、ちょっと思索型の人なら誰しも、こんな感慨にふけるものである。これは私たちの
古い祖先から、現代に至るまで、一向にかわらぬ青年たちの気持であろう。人間世界の様相は、い
つの時代でも、自然の風光の美しさに劣っているもののようであるが、今日程、人間社会の姿が、
自然の美から離れている時代はないのではなかろうか。
個人個人の利己主義から起る不調和は、家族の間に隣人の間に常に醜い争いを巻き起し、国家民
族間のアツレキともなり、遂いには地球世界を破滅させてしまいかねない、業想念の渦巻となって
しまっているのである。
人類の心が青空のように快く晴れわたり、自然の風光のような美しい雰囲気をもつようになるた
めには一体どうしたらよいのであろうか。人類の醜さや汚れをはらわんとして起った青年たちが、
今度は以前と異なった、しかし同等の範疇の業想念の波動の世界で、また新しい汚れや醜さを身に
つけてゆくのであっては、折角の青年の純情さから発した行動が無駄になってしまう。
日本における新安保反対の、学生を交じえた青年たちの行動は、その発想状態においては同感で
きるものがあったとしても、その暴力的闘争的行動は、政府与党のもっている業想念と等しい想念
の波動でしかない。

青空のような明るい平和世界を築くためにはすべての相対的感情想念を超えての行動でなけれ
ば、とても成功でき得ないものであることを、人々は心に沁みて知らなければならない。その方法
は、自然の風光のように、素直な気持で世界平和の祈りの中に、自己の全想念全生活を投げ入れる
ことより他にはないのである。
そうした生活の中にこそ、青空もあり、輝かな光明の道も見出されてくるのである。この方法を275世






のぞいて、他に世界人類を平和にする方法があるであろうか、真摯な平和の祈りの中に輝く、救世
の大光明の人類救済の力が、やがて驚天動地的な現われ方をする日の近きにあることを、私たち世
界平和の祈りの同志は、神々から種々と神示されて、ますます確信づけられているのである。
276
平和をつくるのは国民だ
昔は日本一国でも広い感じがしていたが、現在では、全く地球は狭くなった感じである。一国の
動きはすぐに地球全体にひびくし、一国の運命は、常に地球全体の動きによってどうにでも変って
しまう。今はそういう時代である。
宇宙衛星によるテレビ放送は、同時間の世界の情景が、まるで眼の前で行われているように、私
たちに観察できるので、日本もアメリカもイタリアもフラソスもスペインも、どこの国とも距離が
なくなってしまいそうである。
こういう現代においては、日本なら日本だけの利益を計って、他国のことは顧みないで済ますわ
けにはゆかない。日本だけの利益を計るというより、他国の影響によって、日本自体の損得が生じ
てくるので、他国なしに日本という存在がある、という昔の日本ではあり得ない。これはどこの国
も同じことであって、地球は一つにつながっていることを如実に感じさせる。
そこで日本の政治でも、常に他国との折り合を考えてなされているので、他国の感情や利害関係
を考えないで政治を行うわけにはゆかない。そこが、実に現在の政治のむずかしいところである。
民間ではやたらに政府を悪くいって、簡単に反対論の気勢をあげたりしているが、自分が為政者
の座につけば、一つの事柄でも、簡単に反対運動をしたり、政府を無能呼ばわりしたりできるもの
でないことがわかってくる筈である。
対外的には幾種類かの相手があり、国内的にも種々の輿論があるからである。なんにしても現代
程政治のむずかしい時代はあるまい。それにつれても幕末から明治維新の頃の英傑たちが生命を投
げうって、国家のためにつくした素晴しい働きが想い出される。中でも東京を灰燈から救った、西277平










郷と勝の両英傑が改めて想われる。㎎
2
あれ程の人物が、日本の与野党に存在し、世界の東西の両陣営に存在していたら、日本ももっと
骨組のがっちりした逞ましい日本になってくるだろうし、世界の政治も、こうも血なまぐさい争い
の場ばかりを現出しないでも済むのではないかとも思われるが、いやいや、西郷、勝ではまだ足り
ない、超々力の人物か、現代科学を超越した大調和科学の出現がなければ世界はもう駄目になりそ
うなところまできているのだ、と今更のように想ってみたりするのである。
私たちは、世界平和の祈りを旗印しに、宗教精神から生れ出ずる、大調和科学の出現のために働
きつづけているのだけれど、それが実現するまでの間に、世界を大戦争に追いこんでしまっては大
変なので、心を一つに世界平和を祈ろう、と各所に働きかけているわけである。
最初に申しているように、政府の為政者たちには、対外的な関係があって、日本の本心をあまり
はっきり表面に出していえない場合もあるし、自分たちでも歯がゆい想いで、国内や国外の政治政
策に当らなければならない立場にもあるので、政府為政者が、真実日本が完全平和を熱望している
のである、ということを、対外的に知らせてゆくためには、どうしても、真に平和の祈り心で日本
人全部が結集しているのだ、ということを、世界にアピールする必要がある。
枝葉のことはひとまず置いて、日本人の心が平和の願い一筋なのだ、という運動を国民運動とし
て行ってゆくことが大事なので、私は心を一つに世界人類が平和でありますように、というスロー
ガソをかかげて、祈りによる世界平和運動を推進しているのである。
人間は、一人一人の生き方が、そのまま国家の運命を左右してゆくのであり、ひいては世界人類
の危急存亡を救いうるものにもなり得るのだということを、祈りによる平和運動の実践によって、
人々に知らせてゆきたいと、念願して、世界平和を祈りつづけているのである。ただやたらに政治
家や国家の悪口をいっている時代はもう過ぎ去った。今こそ、国民の一人一人の生き方が世界の運
命を左右する時代になってきたことがはっきりしてきているのだ。人まかせ国まかせの時代は昔の
こと、あなた方一人一人の世界平和の祈りが、あなた自身を救い、国家や人類全体を救う、一つの
光明の道となってゆくのである。
279平和をつくるのは国民だ
280
愛について
一人の人をも真に愛することはむずかしいことだが、国家という立場になるとなお更にむずかし

いことになる。愛するということは、自己満足が主であってはならぬことは論を侯たないことなの
だが、どうも自己満足に陥ってしまうことが多い。
肉欲の満足感を愛情と感違いしている低俗なものもあれば、他人に感謝されることにおいて自己
満足する施しの行為や、社会事業的働きもある。肉欲の満足感などは動物的本能であって、愛その
ものでないことは誰でも知っているが、施しや他人のための奉仕は、誰がみても愛の行為であるよ
うに思える。事実愛の行為に違いはないのであるが、自己満足が主である場合は、その愛の行為は
はなはだ光を減じてしまい、時には自己の本心を蔽ってしまう黒雲を湧き起こすことさえある。
何故かというと、施しや奉仕をして、その相手が自分に感謝をしてこぬ場合は、その人たちに対
して怒りや蔑視の感情を起してしまうからである。
愛の行為の一番根本の問題は、相手の生命を生かす、相手に光を与えるということであって、自
己の満足感などはその後に自然に湧いてくるものなのである。自己の満足感は相手の生命に光を与
えた、という満足感なのであって、相手に感謝されるされぬは、それは相手自体のことなのである。
生命に光を与えるということは、それが物質によろうと、教によろうと、兎に角相手の生命が生
きいきとして、本心が開くための役に立つことをいうのであるQ そういうための肉体関係なら、そ
れはそのまま愛である。真に和合した夫婦の愛などは、そういう形で表現されることもあるわけ
だ。
だから、常に相手の本心開発に役立つような行為をすることが愛なのであって、自己満足を得よ
くら
うとしてする施しが、時には相手の本心を晦ましてしまうことになることもある。ところがこうし
た個人の愛は、どうしても感情をともなわないわけにはゆかない。理論としては自己満足ではいけ
ないとはいうが、多かれ少かれ自己満足の感情が伴いがちである。そこで、すべての愛の行為は祈
281愛にっいて

り心と共にするよう私は人にすすめているのである。消えてゆく姿で世界平和の祈りというのは、
自然に真の愛に人々を導き入れるやさしい方法なのである。
国家の場合はこれと全く反対であって、国際関係の愛の行為は、常に衆知による行為であって、
個人の場合のように感情で動くことははなはだ少い。智が情に優先して愛の行為になってゆくもの
である。
これが逆に働くと、個人ではとてもでき得ぬような残虐行為をも敢えて行ってしまうことになる
のだ。戦争などという行為は、全く愛にもとる行為なのだが、これは個人の場合の喧嘩のように、
感情が先立ってなされるのではなく、やはり衆知を集めた損得勘定を主体にしてなされているので
ある。
しかし戦争も長くつづいてくると、国家もやがて個人化してきてしまい、国家感情というような
ものになって、損得計算を外れてしまった、国の権威とか国の面目とかいう感情に支配されてくる。
ベトナム戦争の長期化に業をにやした、米国上院軍事委員長のマンデル・リバース氏などは「一
人のアメリカ人の生命は、全ベトナム人の生命に価する。もし必要なら、全世界がいかにさわぎた
てようとも、われわれはハノイを消し去るだろう」というような非人道的、非人類愛的な暴言を吐
282
しさ
いて、核兵器の使用を示唆しているのである。
こうなると、国家の損得勘定による行為というより、ペトナム人などに馬鹿にされてたまるか、
米国人の生命はベトナム人などの生命より数千倍も貴重なのだ、という黄色人種蔑視の感情に他な
らないのである。これが米国国家を代表している存在者としての在り方となってしまっているので
ある。
戦争は全く愛にそむくものであり、国家や国民を悪魔に売り渡すものである。こう考えると、例
え自己満足にしても、人のためや社会のためにつくす行為のほうが上等のもののように思われてく
る。
だがしかし、真実に人を愛せる人を一人でも多くつくってゆかなければ、やがて国家も人類も滅
び去ってしまうことは、火を見るよりも明らかである。真の愛の心は結論的にいって、神からくる
ものである。神において、すべての人の生命が一つのものである、ということが、はっきりわかっ
てこないで、国際間に真の愛の行為は生れてこない。私は真実の愛に生きられる個人を一人でも多
くつくってゆくことと共に、国と国とが真に愛し合ってゆけるようなそういう道をつくり出すため
に、消えてゆく姿で世界平和の祈り、という方法を行じているのである。283愛




この世における善悪すべての行為、幸不幸という環境、これは個人と国家とを問わず、過去世か
らの因縁の消えてゆく姿であって、ただ真に存在するものは、神のみ心であり、大生命のひびきだ
けである。だから、神のみ心と一つになって生きてゆかぬ限りは、その人は滅び、その国は滅亡し
てゆくのである。
神のみ心と一つになる方法は、すべての想念や出来事を消えてゆく姿とみて、世界平和実現を無
心に祈る、世界平和の祈りの行を根底にして、日々の生活をしてゆくより他に世界の平和を導き出
す方法はないのであることを私ははっきり知っているのである。過去の想いに把われ、国家の権威
に把われている限り、個人も国家も永遠の生命につながることはできない。ただ滅びの門に至るだ
けである。
恨みにもって恨みを返えし、憎しみに憎しみを返えす、そういう国家関係の改まってゆくために
も、私共はひたすら、消えてゆく姿で、世界平和の祈りを祈りつづけてゆかねばならない。
284
すべてを理解しようとする姿勢
人間にとって愛の行為程必要なものはない、ということは、誰でも常識的に知っている。知って
はいるけれど、一体どういうように愛を行じたらよいか、具体的にはっきりしない人が多いのでは
ないかと思われる。
愛の行為をもっとも単的にいえば、思いやりの心と、相手の想いや行為を理解しようとする態度
であるといえる。相手の想念行為を理解しようともせず、ただこちら側の感情や損得で、相手を非
難してしまう態度には、愛の行為は少しも認められない。
主義思想に凝り固まった人や、宗教の狂信者たちは、相手の立場や、相手の想いや、相手のいう
ことなどには、いささかも耳をかさず、自分たちの信ずることだけを主張する。それでは相手と調
和することなどできようもない。そんな態度でこの世界の統一を計ろうとしても、とても無理なこ
とである。
285すべてを理解しようとする姿勢
人間は誰でも、自分を理解してくれる人を求めている。いいかえれば愛してくれる人を求めてい%2
るQ人間世界から愛の心が失われてしまったら、それはそのまま地獄である。
人間が宗教の道に入るのも、真実に自己を理解してくれるものを求めるからであり、自分で自分
をはっきり理解したいからでもある。神はすべてのすべてであり、何者何事をもはっきり知ってい
らつしゃる叡智であるからである。
だから一人一人の人間が、お互いに相手を理解し合うように努力することは、神の愛のみ心を、
そこに実現していることになるのである。
夫や妻や子供や、そして友人や知人や自分に触れるすべての親しい人々に対して、少しも理解し
ようという姿勢を示さずに、ただ、自分たちの損得や自分自身の思考の範疇だけで、小言をいい、
文句をいい、教を垂れたり批判したりする人がよくあるが、相手の心や立場を理解しないでいて、
なんでその効果があがるであろうか。愛がすべてを癒すのであり、すべてを完成させるのである。
家庭の不和も、国家間の争いも、お互いがお互いを理解し合おうとしないところから起るのであ
ることは、小さくは嫁と姑の不和がそうであり、米国と中共とのやりとりがそうである。米国は中
共を少しも愛していないのであり、中共は米国を憎悪しているのである。これではどうにも仕方が
ない。どこかの国が、少しでもお互いが理解し合うような橋渡しを真剣にしてやらなければならな
さつりく
い。帝国主義は憎くとも、人間を愛することはできるのだし、共産主義は愛せなくとも、神が殺識
を欲しないことはキリスト教国の米国が知らないわけがない。愛の心が欠乏すればお互いが滅びる
より仕方がない。地球を滅亡から救うために、何をおいても各国が相手国を理解する努力をはらう
べきであり、そうすることが人類への奉仕なのである。
小の虫、大の虫
近頃は、世界情勢が窮極にきてしまったようだし、それに加えて水害や地震などで、
されるので、どうも呑気に雑文を書いている気がしなくなってしまった。
時折り驚か
287小の虫,大の虫
そのように幽界の雲ゆきは、実に妖しい様相を呈しているのである。戦争も天変地変も、すべて
人類の想念の波動によってもたらされるもので、人間の業想念を別にしては戦争も天変地変も起り
得ないのである。
おもい
だから、人間の想念というものは大事なものなのである。人間個々人の発している想念は、個人
としては幽体に蓄積され、人類的には幽界を輪廻しているので、それらの想念の蓄積が、争いや恨
みや妬みや怒りやそうした業想念である場合は、輪廻波動の先端が肉体界に廻ってくると、個人的
にも人類的にも破壊的な事態が起ってくるのである。
こういう真理がわからぬ限りは、人類はその完全性、調和性をはっきりとこの世に現わす道に踏
み入ることはできないので、個人も国家も、自己や自国の発している想念の浄化を先ず第一にして
事に処さなければならないのである。それでなければ、いかなる平和策も平和運動も世界平和のた
めの効を奏し得ない。
自己の想いを浄め、社会人類の想念を浄めつづけること以外に世界平和の実現は困難なのである。
そこで私は、個人と人類の想念を同時に浄めさる方法を口に筆に説きつづけているので、それが消
えてゆく姿と世界平和の祈りなのである。
288
よく、社会や人類のことに真剣になると、小さな個人的なことは全部顧みなくなってしまう人が
あるが、それでは家族やその周囲の人々が迷惑してしまう。小の虫を殺して大の虫を生かす、とい
ヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘへ
うことがいわれるが、私の歩む道は、小の虫も生かし、大の虫も生かすという道なのである。
鎮魂
人間の本心は神と一つのものであって、常に本心を現わした行為をしていれば、この世はそのま
ま神の世となり、完全平和が実現しているのだが、なかなかそうはゆかない。
自分のやりたいこと、したいことを、他人の迷惑おかまいなしにやりとげることが、本心を現わ
した行為だと思い違いしている人々が随分といる。善いといわれる人々でも、感情想念に負けてし

289鎮
まって、本心を見失いがちになってしまうことが多い。
ぎよくせきこんこう
神のみ心である本心を現わすためには、玉石混滑のいわゆる普通、心といわれている、そういう
そうねん
心だけでは、どうにもならない。そこで私は、神と一つの心を本心といい、普通使われる心を想念
或いは想念波動という言葉で、はっきり二つに分けて説明している。そうして、本心は永遠の生命
と全く一つのものであって、想念波動は現われては消えてゆく姿としている。
はか
人間はこの消えゆく停ない想念波動に揺り動かされて、妬み、僧み、恐れ、争い合っているので
あるが、これがわかっていながら、どうにもならないでいるのだから口階しい。
カルマ
自己が立派になるのも、社会国家人類を、平和なものにしてゆくのにも、この業の波である想念
ほんろう
波動に翻奔されていたのでは駄目である。そこで、どんな想念波動でも、それが正義という形で現
しず
われようと、善である、と現われようと、その想念は一度心の底に鎮めてみて、本心の中に入れき
こん
ってしまうことが必要なのである。神道の鎮魂というのはこのことをいうので、人間の霊魂が、幽
へめぐ
界を経巡る想念波動に揺り動かされているようではいけないのである。

私はそれを世界平和の祈りという人類愛の祈りで、本心の中、神の大光明のみ心の中に融けこま
せて消してもらいなさい、と説いているのである。
290
自己の本心を乱す、想念波動、つまり感情想念を、一度は必ず祈りの中に入れきって、世界平和
ごと
の祈りという神と人間との一体化の祈り言の中で、きれいに洗い流してしまうことが、自己を救い、
こうそうねん
人類世界を救う、唯一の道といえるのである。そういう業想念をなくさないでいて、正義だ善だと
りんねてんしよう
いっていても、それは三界を経巡る、輪廻転生的な生き方に過ぎない。真実の世界平和の達成は、
人間が輪廻の世界から、本心の世界、神のみ心に入りきることによってはじまり、やがて達成され
るのである。
善悪の判断をどこに置くか
神のみ心は完全円満で、善悪を超越した、絶対善ともいうべきものであるのだが、この地球人の
291善悪の判断をどこに置くか
現われの世界においては、常に善悪の想念行為が混交していて、神のみ心がそのまま現われてはい92
2
ない。
だから個人の心の中においても、社会国家人類という集団の中においても、常に善悪の戦いが行
なわれている。ところがこの善悪の基準というものを一体どこに置くか、ということになると一言
にしてわかっているようで、わかり難いものなのである。個人の場合においては、人に迷惑をかけ、
人の利益を損い、人の心を乱すような、自分勝手な行為は、悪の行為である、というような単純な
ことはわかっているのだが、それさえも、守り得ないで、そこに自分本位な理屈をつけて、悪の行
為を助長していってしまう。まして、これが政治の思想に結びついて、集団的になってしまうと、
そうした悪行為さえも、正義のためであり、人類進化のための善である、というような錯覚を起し
てしまうのである。全学連や共産主義者や右翼の人たちの行動などは、おおむね、そうした錯覚的
な正義観による行動が多いのである。
それなら、今日の誤った政治政策をこのまま見過しておいてよいのか、何もしないでいてよいの
か、などという反論があると思う。そこで、では今日の日本の政治政策の一体どこが誤っているの
か、と問えば、米帝国主義と結んでいるブルジョア主義の資本主義政策が悪い、と単純に答えてく
る。実に単純素朴にして、浅薄な答えである。
人類社会の善悪というものは、そんな表面的な政治政策にあるのではなくて、もっと根本的なと
ころから判断しなければならないものであるのだが、それが少しもわかっていない。
それはどういうところにあるかというと、大宇宙の運行と基を一にしているところに善悪の基準
を置かねばならぬ、ということなのである。米帝国主義とか、日帝主義とか、ブルジョア主義とか
プロレタリア主義とか、それらはみんな一時の現われの姿であり、時が経てば変化変滅してしまう
のであって、大宇宙の運行とはなんの関係もない、いわゆる消えてゆく姿なのである。
真実の善とはどういうことか、それは今申しているように、大宇宙の運行に合わせた生き方を、
個人も国家民族も地球人類すべてもが為し遂げてゆくことにょって、現われてくるものなのである。
大宇宙の運行を一言にしていえぱ、たゆみなき大調和に向ってゆく働きである。従って地球人類
はず
の動きも、それに向って進んでゆかねば、大宇宙の運行から外れて、滅亡し去るより仕方がなくな
る。資本主義だ、共産主義だ、中共派だソ連派だ、米帝派だなどと、互いに争い合っている姿の中
には、真実の正義も善も無いのだ。相手を敵とみて、争う心の中にはすでに正義も善も消え果てて
そむ
いるので、そこには大宇宙の運行に逆く、地球滅亡への道があるだけなのである。293善











お互いに説得し合うのはよい。しかし、想念の中においても行動においても、なぐり合い、叩き
合うものがあったら、そこからは善も正義も消えてしまうのである。何故ならば、お互いが正義と
信じ、お互いの正義を侵かされることに怒りの想い、恨みの想いを抱き合うところに、なんで大調
和への道が開かれようか、ということなのである。
これが強盗や殺人犯人を、叩きつけ、射殺した場合なら、相手は自分が悪いことをはっきり知っ
ているのであり、こちらは正義であることがはっきりわかっているので、お互いの善悪がお互いの
心の中でも、すべての人々の心にわかりきっていることなので、正義が悪を倒したことになり、調
和への道が開かれることはあっても、その行為によって、調和が乱されるということはない。
このような誰の眼にもはっきりした不正行為を是正するための力の行使は、人類の欠陥を正して
調和に向わせるものであって、何人も異議をはさむことはできない。ところが、主義と主義、国家
と国家ということの対立には、お互いが自己の正義を主張し合って、こうしたはっきりした善悪の
けじめがない。こうした善悪のけじめのはっきりしない対立には、両方が宇宙の運行のいわゆる大
調和に沿った動きをしてゆくことがよいのであるが、片方が調和の方向に働きを進め、片方が不調
おの
和な宇宙の運行に外れる方向に働きを進めてゆけば、自ずとこの勝負は明らかで、宇宙の運行に沿
294
って調和的な働きをしていったほうが究極の勝利を得るのである。これは大宇宙の運行に照して間
違いのないことである。だから、自分の集団のほうが正義だから、相手集団の悪を叩きつぶすのだ、
という考を持たずに、終始、大調和の方向に自集団の働きを進めてゆくことによって、すべての悪
が消滅してゆくのである。これが大宇宙、大自然の法則なのである。
そこに神の存在が生きいきとしてくるし、日頃からの祈りの行が大事になってくるのである。
汝の敵をも愛せよ、というキリストの言葉や、世界人類が平和でありますように、という祈り言
はこのためにこそ役立つものなのである。
295善悪の判断をどこにおくか
四季おりおり
一月の生き方
一という数字は、誰にでも非常に好まれる数であり、魅力のある数である。
一とはもののはじめであり、統一調和であり、一位、一等というように、ものの頭の意味、ぬき
いでている意味をもっているからである。
一月という月が、他の月に比べて人々に関心をもたせ、重大視せらるるのも、その年のはじめの
月であって、その月の中から他の十一ヶ月が生まれてくるような気さえしてくるからでもある。
一月に順調なスタートをするとその年全体がその人にとって、幸運な年になるような気がしてく
かげ
るし、一月につまずいた人は、その年全体に暗い騎がさしているように思われたりするものである。299一





それだけに一月という月は、人々にとって大事にしたい月であり、重大視しなければならぬ月で
もあるのだ。
ところが、実際はどうであるかというと、この一月を大事にすごし、重大視して生活している人
が案外に少いのには驚いてしまう。
一月をさながら、遊んで過ごす月であると考えている。考えているわけでもなかろうが、慣習的
に遊惰にすごしてしまう人々が、かなり多いのが実情であるようだ。
一年のはじまりの月であり、その年全体をじっと見通して、その年のすべての計画を為すべき月
を、正月休みの惰性につられて、まるで無為無策ですごしてしまうようでは、その人々の一生の生
活が思いやられる。日本人は一体にお祭り騒ぎが好きすぎて、遊ぶことと働くこと、遊ぶ日と働く
日、遊ぶ時間と働く時間の区別があまりにつかなすぎる悪癖がある。
お祭りにはお祭りの正しい意義があり、祝日には祝日の意義があるのだから、その日を尊び喜ん
で祝い賑わうことは結構なことであって、なんら口をさしはさむ余地はないのだが、その祭日や祝
日の尊い意義はさておいて、ただいたずらに酒を飲み、馬鹿騒ぎをして、その余波を、その月全体
にもたらすようでは、その人々もその国の運命も全く思いやられる。

正月は尊く、一月という月も全く目出度い月である。その尊く目出度い月を、最も有意義にすご
すごとこそ自分の生命に対しても、社会や国家や人類の運命に対しても、誠実な生き方であるべき
筈である。
一月を有意義にすごし、有意義に生きるということはどういうことか、というと、心改めて、一
ヘヘへ
ということの意味を考え、もののはじめということを考えてみることである。
自分のはじめは一体なんであったのだろうか、この世のはじめには赤児であったことには違いは
ないが、赤児の前には一体なんであったのだろうか、その前は… …、というように、自分の生命の
本源にさかのぼっていって、一番最初のもの、一なるものに思いをはせてみることである。
一なるものそれは宇宙神である。絶対力である。大生命である。自己の生命をたどりたどって、
大生命(神) にまで思いをさかのぼらせ、じっと大生命(神) のことを想ってみるがよい。
すべての生命の源である神の存在を、じっとみつめてみるとよい。我が親の親の親、ああ大親様。
そう想えるまで、自己の生命の源にさかのぼって考えてみるがよい。
ああ大親様! と思えた時に、心の底から湧きあがってくる万感こもる感謝の想いが、湧然と外
に温れでてくるであろう。
301一月の生き方
自己生命への感謝、本源の生命、はじめなるもの、一なる神への感謝に自己の想念をもってゆく
ような素直な心になることこそ、一月においてなすべき最大の尊い生き方であり、有意義な生き方
である。
そうした一月の生活の中からこそ、その年全体の運命が、その人に輝やかなものとなり、すべて
に感謝でき得る生活の根源ともなってゆくであろうことを、私は確信しているのである。
302
年賀状
元旦にくる年賀状を見ていると、子供たちのものは別にして、越えてきた年一杯の、
生活の匂いと、新年に対する新しい希望とが、入り交じって感ぜられてくる。
その人々の
年賀状が届くのは新年になってからだけれど、それを書くのは、前年の歳末である。一年の締め
くくりの、まだその年の結末がつききらぬうちに書いている年賀状なのだから、書く文字は新年の
中に飛び込みながら、想いはその年のまだ解決しない諸問題のうちに立ちすくんでいて、新年の明
るさの中に生活しているわけではないQ
しかし、新年といい賀正という文字は、その人をもはや新しい年の生活の中にひっばり込んでい
る。
元旦にくる年賀状は、こうした新旧二つの想いを乗せて、名宛人の手に入るのである。私はそう
した年賀状の、新旧二つの想いを感じながら、その人が賀状を書いたときの想いの状態をたどって、
その日以後のその人の運命の波が、少しでも多く光明化することを、その人のために祈るのであ
る。
これが私に賀状をくれた人へのご返事なのである。
歳の瀬がいかに苦しい生活の中にあろうとも、新しい年の進展を望むならば、賀状を書く時だけ
でも、心明るく、不退の希望をもって書くことが望ましい。新年という文字が、過ぎ来し生活の苦
悶の波を残しているようでは、新しい年の運命の進展をさまたげる恐れがある。
303年賀状
人間は日々新生なのである。まして一つ年を越えるということは、実に大事なことであると思わ
れる。人間は昨日の憂いを今日に持ち越すことはない。昨日の失敗は、過去の日の失敗の因が縁に
触れて、その日に果として現われたに過ぎず、その日新しく起した失敗ではないのだ。失敗という
一つの因果律が、その日消え去っていったに過ぎない。
すべてをこのように、すぎゆく過去の影として消し去ってゆき、新しい年には、すべて新しい意
欲を振い起して働き出さなければいけない。
304

汝 が過去はすべて消えたり新しきいのちに拝め元旦の空
二月の生き方
二月という月は、正月ののんびりと心くつろいだ休日気分もすっかり醒めきり、冷えきった現実
の世界に立たされている、という感じの月である。
これからは一体どういう風に動いてゆこうか、今年はどんな決意で生活に立ち向ってゆこうか、
誰でもがはっきりと心の方向を定めるのも、実は一月ではなくて、この二月の凍てついた風光の中
においてである。
きさらぎの風は冷めたい。その凍りつくような風にさらされていると、心がぐっとひきしまって
きて、その年の社会人としての生活態勢が肚の底ではっきりとしてくる。
今年はどんな年なのか、自分の運命はどうなのか、日本の運命は、世界の状勢は、何はともあ
れ、今年こそしっかりやらねばならない。自分たちがしっかりした生活をしないでいては、日本の
運命も世界の運命もどうにもなりはしない、と心ある人たちははっきりと自分の方針をきめるので
ある。
たしか
確に自己の運命は、自己の想念行為の在り方によって定まってゆくのである。日本の政治の在り
方が悪いといい、世界各国の在り方が自国本位であり過ぎる、といってみたところで、個人々々の
305二月の生き方
すぺ
力では、急速にどうしよう術もないのである。
個人々々にでき得ることは、自己の精神の確立であり、自己の人格の向上によって生まれてくる、
国家や人類に対する影響力である。国家といい人類といっても、いずれも個人個人の業想念波の集
積によって、今日の誤った方向に突き進んでいってしまったので、個人個人の力ではいかんともな
し得ないところなのである。
みずかノ
だがしかし、それをなし得る一つの方法が残されている。それは神の大光明に自らがつながって
カルマ
その光明波動で、人類の業想念波動を浄め去ることなのである。
個人の一人一人が、神の大光明に直結して、その肉体身を光明波動になし得た時こそ、その個人
の結集による、人類の光明化がなし得るのである。神と人間とが離れていてはならない。神を離れ
た肉体人間には何事もなし得ない。肉体人間が神としっかりつながった時、人間ははじめて神の子
として光明を発揮し得るのである。
日本も世界もこのままでいっては、早晩大変な危機に見舞われてしまうのは必定である。今年こ
そ、人間が肉体人間観を捨て去って、神との一体化による光明を放つ人間とならねばならぬ。
おのさちの
己が幸願う想いも朝夕の世界平和の祈り言の中
306
の歌の心で生活してゆくべき時なのである。
国民に
、心構えを
温い家の中から、木枯し吹きすさぶ戸外に出ると、思わず〃ぶるっ”と身震いが出るが、電車を
待つ間のプラットホームでは、もうすっかり肚が定まってしまって、皮膚に沁みいる寒風にかえっ
て皮膚細胞が刺激されて、生きいきとした感覚が湧きあがってくる。
寒いなら寒いで、その寒さに対処する気構えができてしまうと、温い家の中の人々が、外出して
いる人は寒いだろうな、と思う程の辛さを外の人々は感じていないものである。
はじめから貧乏で、貧乏生活になれてしまった人が、富んでいる人が思う程、その貧乏を苦にし307国






たり、辛がったりしていないのも、その人が貧なる生活に対処する心構えを、自分さえ気づかぬう038
ちにいつの間にか会得してしまっているからである。
このように、はじめからそうした心構えができていれば、その場になって、心を乱すことが少い
のであるが、温いと思っていたら意外に寒かったり、富んでいるつもりでいたら、急に貧乏生活に
追いやられたりしたら、大抵の人は、その辛さや不幸に、極端に傷つき痛められることであろう。
この理は人類にも国についてもいえることで、米国のように、何事も世界一と思いあがっている
国が、急に他国に追いぬかれたとすれば、その落胆や衝撃は甚大であろう。ソ連とても同じことで
ある。そして、その時期が絶対に来ないとは誰しも保証はできない。
ところでお膝元の日本はどうであろうか、日本人の殆んどが、真実の日本の状態を知ってはいな
い。知っているような気がしているだけで、今の日本が世界の渦中のどんな立場に置かれているか
を、真剣に考えてもみていないし、為政者も、はっきり知らせようとはしていない。為政者がどう
してもっとはっきりと、真実のことを国民に説明して、今の日本の状態はこれこれこうなのだと裸
になって、あらいざらいぶちまけて、こうすれば、こうなり、そうすればそうなる、国民は一体ど
の道を選ぶのか、どちらにしても大変な時期なのだから、お互いが内輪げんか等をせずに、はっき
りした答えをするか、わからなければ、政府におまかせする、といって貰いたい、ぐらいのことを
いってみたらどうであろう。
国民がなんにも知らないうちに、核兵器基地などになられていたのでは、それこそ心構えも何も
できていない国民大衆は、煽動者の煽動にのって、やたらに興奮し、何をやり出すかわかったもの
ではない。その危険性は充分にあるのだ。
そうしたことを為政者は充分に考えて、最大の国難は現在であることを、国民の納得の行くよう
に説明して、国民大衆に、しっかりした心構えをさせて置くべきではないか。
黒だか白だか、すっきりせぬ、温かいのか冷たいのか、はっきりせぬ、そんな国民指導では、今
の日本の精神的混乱状態を、統一してゆくことはできまい。
寒いなら寒いで、はっきり実証的に説明して、寒さに耐する心構えを国民に警告したほうが、真
実の政治といえるのではなかろうか。
また国民側としては、いつどんな事態が起っても、心を乱さず、いたずらに興奮せずに、自己の
進むべき道を見出せるようにして置かなければならない。
それは常に精神に栄養分を与えて置くことが第一である。精神の栄養分とは一体何か、それは神309国






の光明でなければならない。自己の生命の大親である、神へのつながりによらなければ、精神に栄㎜
養分が吸収でき得ない。
神こそ、すべてのすべてを超えた、絶対力であり、大調和であり、大平和である。その大調和、
大平和なみ心に一筋につながっている時こそ、人間の心に乱れがないのである。心が神につながり、
調和している者は、いかなる事態の中にあっても滅びるということはないのである。
私たちは一瞬の間たりとも、神を忘れてはならない。そのためには、世界平和の祈りを、日常茶
飯の間にも、心に抱いていることである。
祈りに明けて、祈りにくれる生活の中にこそ、真実平安な日常生活が開けてくるのであり、国や
世界の正しい政治も開けてくるのである。
冬から春へ
猛吹雪で列車が立ち往生してしまうニュースがつづいた、今年の冬の寒さは、東京でも毎日のよ
うに氷点下の日を迎えて、庭には毎朝霜柱が立ち、台所の水道が凍りついて、久し振りの厳冬であ
った。
しかしながら、この厳冬の辛さは、何月もつづくわけではなく、三月に入れば、ほっと一息とい
う温かさになってくる。
私の故郷は越後なので、積雪が二階の屋根と平行していて、歩みを運ぶのが、なんとも愉快だっ
た少年の頃の記憶をもっている。きびしい寒さは辛いには違いがないが、その辛さがあるために、
かえってなんともいえぬ喜びを感じることが度々ある。こたつに温たまって読書したり執筆したり
する楽しみは、冬でなくてはの楽しみがあり、暖房の部屋で、一家そろって温かいものを喰べなが
ら、談笑することなども他の季節では味わえぬ味がある。
また、厳冬の終り近くなって、目の前に近づいてくる春を待つ気持も、冬の厳しい辛さがあって
の楽しみなのである。311冬




人生はすべて、こうした季節のうつりかわりのようなもので、辛さ悲しさというものを深く味わ鎚
っている人ほど、その喜びも深いものであるのだ。
寒い街中を歩いていても、寒さを恐れず、体を真すぐにし、胸を張って歩いていると、かえって
寒風が快く感じてくるもので、首をすくめ胸をせばめて歩きだすと、どうにもやりきれない寒さを
感じるものである。
人間というものは、恐れるという想いをもつことによって、自己の生活を不自由にし、様々な苦
悩を導き出してしまうものなのである。
冬の後には必ず春が来ると同じように、人生における悲哀も不幸も、やがては、すべて喜びに変
わることがあるのである。
小さくは個人の、大きくは人類のすべての不幸や争いごとも、時が来れば、自然に、大調和な状
カルマ
態に統合されてゆくのであるが、現在の業波動に踊らされている人間の心には、その真理がわから
ない。
そのわからない想いを業想念というのだが、その業想念は、神の大愛を信じ、すべてが神のみ心
に生かされているのである、という想いに自己をむけてゆけば、自然と消え去ってゆき、いつか真
理の道がひらけてくるのである。

i


春風に大地が温み、芽吹き花咲き初むる三月がめぐってくると、入学、進学、就職と、青少年の
それぞれの巣立ちがはじまる。
巣立ちとは、鳥が独力で飛び立てるようになること、人間でいえば一人前に成ったことをいうの
だが、小学校から中学校、中学校から高等学校へと、学窓を進めてゆくのも一つの巣立ちである。
そして、やがて就職して、親の手元から離れて独立してゆくのであるが、最後にはこの世の社会生
活を終えて、あの世への巣立ちともなるのである。313巣


こうした人間生活の一つ一つのうつりかわりに当ると、人々は、未知への期待と、恐れとで、心
がかちかちになってくる。近頃のように、入学、進学、就職ともに、並大抵の努力では、よりよい
学校、よりよい職につけぬ時代では、親子共に、心が極度に萎縮してきて、試験前の数ケ月から、
試験結果の発表のその当日まで、いても立ってもいられない焦燥感で、家中が陰欝になって、三度
の食事も有難くいただけなくなってくる。
こんな状態を俗に試験地獄と呼んでいるがこれは全く困ったことだ、と私は思っている。

人間はこの世に生れて、あの世に巣立つまで、或いは還えるまで、一人一人が、それぞれの天命
を果すようにできているものなのである。その真理を真実に知っていれば、そうした各種の巣立ち
に当って、恐れも不安も、さらさらなく、ただ、未知への希望だけに心がふくらむものなのだが、
現実はなかなかそうではない。
人間が生れようとして生れたのでもなく、育とうとして育ち、老いるわけでもないのに、自然に
生れ、自然に育つようにできていて、親も周囲も、その生命の育ちのよいように、枝葉の働きをし
ゆだ
ているだけであるのだから、根本の働きは、大きな権能(神) に任ねられているのであることに違
いはない。
314
一人一人の人間の天命は、その大きな力の中から、この世にむかって働いているのだから、自分
の子供の将来を、いちいち想いわずらう必要はない。想いわずらうその想いを、その子の天命の本
源の神にすっかりお返しして、その子の天命が全うされるようにと祈ってやることのほうが賢明な
る親の心である。
親が想いわずらったから、子供が立派になった、ということはない。想いわずらわず、じっと子
供の天命、素質をみつめ、その天命、素質を伸ばしてやるような、希望に充ちた、自ら勇気づくよ
うな言葉を、常に子供の身辺で聞かせてやるほうが、子供は立派に成人するものである。
クラーク博士の「少年よ、大望を持て」という有名な言葉があるように「父母よ、子の将来を想
いわずらわず、少年に大望を持たせよ」と私はいいたい。それにつづいて「成功とは、高い役目に
つくことでも、資産を蓄えることでもなく、また、楽をして生活できる役目につくことでもない。
ただ、どれほど、人のため、社会国家のため、人類のために役立つ生き方ができたか、ということ
である」と私はつけ加えたい。
そうした大望こそ、人間は少年の頃から持ちつづけなければいけない。中学や高校や大学の落第
が、一体どれ程、あなたの人格を傷つげるというのだ。
315巣立ち
青少年よ、すべからく、真の大望と不屈の勇気を持て、さすれば、最後の永遠への巣立ちは、光錨
り輝くものとなるであろう。
神は常に、あなたの内と背後にあって、あなたの心の動きをみつめつづけているのである。
善い種を蒔こ卸つ
四月は花の季節である。草に木に様々な花々がその美しさを競うのは四月である。
けんらん
今絢燗と咲き盛っている草花の美しさは、前の年の九月十月の頃種を蒔いたことによって、私共
はその美しさを満喫し得ているのである。多年草や木々の花々は、その元をたどれば、数年或いは
数十年、数百年の昔植えられた、種や苗木によるのであろう。
なにごとによらず、そうした時間的経過によって、物ごとは成り立つのであって、すぐがすぐ花
が咲くわけでも、実が成るわけのものでもない。
人間はそんなわかりきったことを、つい忘れがちである。花が咲き、実が成ると同じように、人
間の幸や不幸も、現在急に幸せになったのでも、不幸になったのでもなく、幸せになるには幸せに
なる、不幸になるには不幸になる原因が、その人の過去からの想念行為の中にあったわけなのであ
る。過去を深く探れば慰葺世からということになる。
そうした真理を心を静めて知ることが大事である。現在現われている病気や不幸や災難を、あた
かも、現在突然巻き起こされたもののようにあわてふためいたり、恐れたり、はては、他の人を恨
んだり、神にさえも恨み心をむけたりしている人が意外と多いのは、蒔いた種は後になって生える
のだ、という当然な真理を知らない愚かさによるのである。
人間が万物の霊長たる由縁の一つは、先の善き結実を見越して、善き種を蒔き得ることにあるの
だ、人類が農業をはじめたことは、他の動物の真似ることのできぬ智慧によるものである、と誰か
がいっていたが、確かに、他の動物にも、狩猟はできるし、冬の食物を秋から貯えて置くこともで
きるが、先になって花が咲き、実が成るような農業的な計画性は持っていない。
317善い種を蒔こう
そうした人類の智慧も、心の問題と運命との関連性になると、実に情けないほど浅いものになり、18
3
うっかりすると、他の動物にも及ばないほどの馬鹿げたことを平気でやってのけている。
それは、深酒や不節制というような、医学的な悪行為ばかりでなく、自己の想念行為はすべて自
己に還元してくるものだ、という、因果の法則をまるで知らないことなのだ。
蒔いた種が生え、蒔かぬ種は生えぬ、ということがわかりきっている法則であると同じように、
想念行為(心) の法則というものは厳然としたものなのである。だから、もう現われてきてしまっ
ている病気や不幸や災難を、ぐちったり恐れたりしていないで、その現われは、すべて過去世から
の誤った想念行為の種の結実の消えてゆく姿として、神様のみ心の中で、いち早く消していただく
ように、世界平和の祈りのような、善なる種蒔の祈り心にふりかえてしまいなさい、と私は常に説
いているのである。
陽気な季節
おの
人間は誰しも陽気を好む。春から夏にかげての明るさは、自ずから人の心を開かせる。秋でも冬
でも、それぞれの季節がもつ尊さ善さがあるのだけれど、春から夏にかけての陽気な季節のひびき
は、生命伸び伸びとして快い。
私たちが、こんな陽気な季節の中で、しかも文明文化の恩恵に浴しながら、楽しみながら働いて
いられるのに、南北ベトナムの陰惨な戦争状態はどうであろう。新聞やテレビニュースでその状態
を見聞していると、このままではいけない。このままでは大変だ、というじっとしてはいられない
気持にかられてくる。
米国が爆撃すればベトコソも報復する。ベトコソがゲリラに出れば、米国の爆撃がまた強まる。
事態はベトナム一国だけの問題でなく、米国と中共ソ連、資本主義圏と共産主義圏との相容れない
思想の果てしない戦いの一つの現われなのである。
319陽気な季節
えにし
日本は資本主義圏の一環となって、米国とは切っても切れない縁を結んでいる。といって中共は230
強大なる隣国であり、古来からの深いきずながある。この隣国との交流もおろそかにするわけには
ゆかない。台湾が正当なる中国だといっても、千二百万の人口の国と六億五千万の国とをくらべて
みれば、六億五千万の国家を認めず、千二百万人口の国家だけを認めるということが、どれだけ無

理なことであるかは論を侯たない。
米国が共産主義滲透を喰い止める最前線として、南ベトナム政府軍を援助し、必死に北爆をつづ
けているが、こういう力の作戦を同じアジアの日本が、ただ黙って見過しているのは能がなさすぎ
る。とはいうものの、この機会に名目がつきさえすれば、中共の核基地を叩いてしまいたい、とい
う程の決意で北爆をつづけている米国に、日本がどんな提案をすれば効果があるのか、政府として
は、首相をはじめ、困った困ったと思うだけで、未だに手のつけようがない。
武器を背景の力と力の押し合いは、やがては地球滅亡の大戦争に至ることは、火を見るより明ら
かである。武器の力による均衡が世界の大戦争を防いでいるのだから、日本も武力を増強してこの
均衡を保たなければいけない、という論もあるが、私たち真に世界平和を願うものは、まず日本人
の精神力を、世界平和という大願目一つに集中し、平和に徹して、戦争防止という世界の大きな光
明波動の壁になることが必要なのである。私たちの力は武器を背景にした力ではなく、
を背景にした平和を願う良識の力であり、祈り一念の力でなければならない。
神の大光明
世界平和はみんなの心で
おの
五月六月は青葉若葉が美しく、人の心が自ずと開いてくる季節である。
こんな快い季節の中でも、人の世には、種々と悪い事柄が多すぎて、世界人類の平和はおろか、
自分たちの周囲の平和さえ確立できない、と人々は思っている。
ところが私たちは、世界人類の平和を願う祈り一念の生活をしつづけている。
自分たちの身近かな平和、日本一国の平和すら実現不可能と思えるこの世で、世界人類の平和を321世










願ったとて、とても駄目なことよ、とはじめから投げ出してかかっている人もあるが、そんな人で2
3
も、世界人類の平和を、心の底では願っていないわけではない。ただ、はじめからどんなことをし
ても駄目だ、と思いこんでいるに過ぎない。
やらないでいてできる、ということは、何事においてもないことなのに、自分たちの地球世界が
ひとごとぼうぜん
崩れてゆくのを、あたかも人事のように、ただ呆然とみつめているだけでは、あまりにも能がなさ
すぎる。
といっても、どうしていいか、なにをしていいか、実際のところわからない、というのが、大多
数の人々の心なのであろう。
そこで私は、やらぬよりは増しだ、という軽い気持でもよいから、世界平和の祈りをしてみたら
どうか、とすすめるのである。世界人類が平和でありますように、という祈り心のなかに、自己の
生活の根底を置いて、世界人類の平和ということと、自己の周囲の平和ということとを一つに考え
ての、日常生活をしてゆくことを練習してみたらどうだろう、というのである。
世界人類が平和でありますように、という祈り心で生活していることは、ただいたずらに自己の
利害関係だけを追っての日常生活より、どれほど気持が明るくなるかわからない。知らず知らずに
自分の心が、世界人類という大きな広がりのなかに融けこんでいって、小さなごたごたはあまり気
ひる
にならなくなり、寛い豊かな心になってくる。
それに加えて、世界平和の祈りには、あらゆる神霊が結集した、救世の大光明の人類救済の光が、
この地球界に流れてきているのだから、世界人類が平和でありますように、というひびきの中に、
自分の想いを合わせることによって、自分も自分の周囲も、そのまま光明波動に変化してゆくので
ある。この世はすべて、神の光をエネルギー源として、人々の想念波動ででき上がっているので、
自己の想いを、神の人類救済のひびきに合わせ、光明波動で自分がつつまれれば、その人の本心は
おの
開発され、運命は自ずから善くなるにきまっているのだし,世界人類を蔽っている、悪や不幸とい
う不調和な想念の波を浄め去る働きが必然的になされることになるのである。
323世界平和はみんなの心で
324
七月に想卸つ
今私の家の庭には、白ばら紅ばら、黄色のばらと、色とりどりにばらの花が、その美を競ってい
こがね
るし、えにしだの黄金色の花も咲き残っている。
ところが、七月ともなれば庭は全く別な風光になってくる。
このように季節というものは毎年同じ法則で動いていて、細かい相違はあっても、大綱的には全
く同じことが同じ時期に繰り返えされていくのである。人間の年代というものも丁度これと同じよ
うなもので、少年を春とすれば、青年、壮年、老年と、四季の変化を人間はもっている。これは確
定的なことであって、年を逆さにとっていくわけには絶対にいかない。
ところが個々人の運命というものは、少年のころ悪かったが、老年になってよくなった、という
人もあれば、少年青年期には恵まれていたが晩年になればなるほど悪くなった、という人もあって
非常に個人差があるものである。
男女の性別や、年令の高低などは、現在の人間の力ではどうにもならないものだが、運命を変化
させることは、現在の人間の力でもでき得ないことはない。でき得ないことはないといったのは、
人間の運命も、過去世からの想念行為で、一応は定まっているのであって、容易に変化でき得るわ
けではないから、でき得ないことはない、と反語をつかったのである。
四柱推命学や、手相人相姓名学などが、相当な確率をもって、運命の予言をしているのも、運命
は一応定まっているという証左なのである。そこで、運命をより善く変えるためには、大変な努力
が必要なのである。
なんの努力もせずに悪い運命環境を変えようなどということはできる筈のものではない。努力と
いっても、生命の法則を知らずに、ただ無我夢中で努力したとて、その効果はない。すべての努力
は、まず生命の法則を知ることを第一にして、そこから新しい歩みをはじめなければいけない。生
命の法則を知るためには、科学が自然の法則を発見したと同じように、人間の肉体構造の不可思議325七




みひら
さに心の眼を瞠き、生命の神秘性に深く頭を下げて、敬度な気持で真剣に大生命宇宙神のみ心のな
かから新しい運命の道をいただき直す努力をすることが必要である。それが運命改善の最大の道で
あり、その方法が祈りなのである。
326

九月は私の生母の昇天した月である。もうこの世を去って九年にもなるが、何かと折りにふれて
は、背中の丸くなった小さな老母の姿を想い出す。
夏の熱い日など、血圧の高かったせいか、氷水が非常に好きだった母のことが特に想われる。私
が霊的修業の最中には、食事は殆んど摂らなかったし、氷水など勿論飲まない時があった。
真夏の或る日、母と二人で何かの用件を足しての帰えり道、母はハソカチで顔の汗をふきふき、
時折り私の顔をちらちらとみていたが、たまりかねたように、遠慮ぽい調子で氷水が飲みたいねと
いう。私が氷水を絶対に飲まないことを知っているので、自分もがまんして帰えろうとしていたの
である。
その態度がまるで、子供のように無邪気に見えて、思わず微笑を禁じ得なかったものだった。そ
んな母にどうやら孝行の真似事ができて今日の私になってきたのだが、母はいつも私の心の中に生
きいきとしている。
霊的にみれば、母は救世の大光明霊団の一員として、私の背後でいつも活躍していてくれるので
あるから、普通の人以上に母を想い出すことが多いのかも知れない。しかし何人の心の中にも、幼
くして母と別れた人の心の中にも、母というものへ思慕の情はいつまでも消え去ることはないもの
のようである。
そうした母への思慕の情と同じようで、もっとも深いところまで広がってゆくのが神への思慕で
ある。母を慕う気持をずうっと奥へたどってゆくと、必然的に神のみ心の中に入ってゆく。
神のことを大父母と呼ぶ人があるのもむべなるかなである。神は大父母であり、肉体の父母は小327母
父母であるかも知れない。
母という名は甘く柔かく、香わしく美しく清々として慕わしくーと私が詩に書いたことがあっ
たが、大父母である神のみ心は、どのように慕わしく香わしいものであるかは、大宇宙の運行を観
じ、大自然の風光をしみじみと味わってみれば自ずから知られることである。
しかし、それと同時に、肉身の母の心を通して、神のみ心を観ずることもできるのであること
を、私は私の母に対する思慕の情を通しての感じとして、世の青少年たちに知らせて置きたいと思
うのである。
神は高きところに望まずとも、母という名を通して、母の心を通して、その存在をはっきりお示
し下さるものである。
328
生きるということ
秋風が吹きはじめる頃になると、なんとはなく、人生というもの、運命というものについて、一
応は考える人々が多くなってくる。
肌にしみる涼風から、冷たい木枯しの季節への連想が、おのずと心をひきしめてくるからであ
る。
同じ地球世界に生きていながら、数えることのでき得ぬほどの、種々雑多な人間像の、喜びも哀
しみもそして憂いも怒りも、この世においての生存競走から生れた一つの姿ではあるが、この姿が
そのまま、人間が真実に生きている姿であるとはいえない。
秋風からはじまる思索の季節に、人々がまず考えなければならぬことは、真実に生きるというこ
とが、一体どういうことであるかということである。
人間は、肉体的に生存していることと、真実生きていることとは、神の世界からみれば同等のこ
とではないのだ。それはどういうことかというと、生きるということは生命を生きるということで
あって、生命を生かさぬ生き方は、そこに肉体が生存していても、生きている時間とはなり得ない
329生きるということ
のである。30
3
生命を生かすということは、いかなることなのかというと、人間の生命というものは、宇宙大生
命の中から生れてきているものであって、一人一人ぽつんと孤立しているものではなく、宇宙大生
命の中で、それぞれ交流し合い、影響し合っているものである。そして、お互いがお互いのために
なり合いながら、やがては宇宙大生命(神)の意志を地球界という形の世界に、はっきりうつし出
すことになっているのである。それが地上天国である。
この原則は、実にはっきりとしているのであって、この原則に外れた、自分勝手な生き方とはど
ういうことかというと、神の生命の本然の姿である愛と調和に欠けた想念行為をしていることであ
る。自分の肉体的欲望のために他の心を傷っけ痛めている時、自分の肉体生存のために、他の人の
存在を無視したり、傷つけたりしている期間、大略してこうした期問は、その人の生命は真実に生
きているとはいえないばかりでなく、世界人類を破滅に導く導火線ともなるのである。
であるから人間の生命は、愛と調和に生きていた期間だけが真実に生きているということができ
るので、肉体人間の生存年限がいくら長くとも、それだけで長生きしたと喜ぶわけにはゆかないの
である。
とはいっても、愛と調和の生活ばかりをつづけることは、肉体人間にとっては実にむずかしいこ
とである。そこで、私は、神のみ心が、そのまま現わされている、世界平和の祈りの生活を人々に
すすめて、愛と調和との生活を何気なくつづけてゆかれる方法をひろめているのである。
ないのち
世界平和祈りてあれば汝が生命人の世照らすみ光となる
十一月の空
いつの間にか陽溜りが恋しくなって、
なた
日向をよって歩く十一月ともなると、晩秋の淋しさから、
331十一月の空
冬を迎える心の構えで、誰しも身心共にきちっとひきしまってくる。私はこの月の二十二日にこの323
世に肉体をまとって生れてきたのであるが、落葉の舞わぬ東京の下町の、その頃の大人たちの大半
はもうこの世にはいないのである。
樹木の少い、山野のない東京の、まして下町の子供たちは、自然の風光に親しむより先きに人間
の飾らぬ情愛の中で育ってきた。私もそうした環境の影響をうけてか、裸で情愛を人々にむけかけ
てゆき、飾らぬ愛情を喜ぶ傾向をもっている。
人間というものは不思議なもので、生れ育った郷土の影響を大なり小なり受けていない人はない
ようだし、その影響を善いほうに受ける人と悪いほうに受ける人とができてくるのである。
不思議といえば人間の誕生程不思議なものはない。あまり不思議すぎてわからない。不思議だと
思うだけで、その不思議さに手がとどかないので人々はその不思議さを常識として、その常識の土
台の上から、この人生を思考し行動してゆく。
しかし近代では、その手のとどかない不思議の世界に、誕生をさかのぼって入ってゆける人々が
現われている。生れぬ前の父ぞ恋しき、のその天父への道が、誕生をさかのぼってゆくとはっきり
とわかってくるのである。そうした道を人々が寄り集って科学的に研究してゆくのが心霊研究なの
であるが、現在ではまだ、特殊の人々、聖者たちが、天父(神) のみ心に融け入れたような、そん
な深い高いところまでは、手がとどいていない。
私は一般の人々が、そうした誕生以前の世界の一番奥深い父なる神のみもとに飛びこんでゆくた
めには、まず自己の誕生を神秘なものとして、もう一度改めて見直してみることからはじまる必要
があると思っている。誕生の神秘性を素直に認めた人々は、その認めた心がすでに神につながり得
るのである。何故ならば、人間誕生の神秘の奥に天父が厳然と働いておわすからである。
そうして、その天父への道案内として、自己の肉体的誕生に深い関係のある守護霊・守護神が、
常時私たちの背後にあって、私たち神の分霊の生命を、さわりなく素直に生きいきと働かせつづけ、
その働きを通して、真実の神の子として、肉体にあるまま、あるいは他界に往生した後において、
天父の光明をはっきり仰ぎ見得るようにさせてくれるのである。
人間の肉体の誕生は、神のみ国をこの地上界に顕現させるためなのであるが、神国顕現の最初の
第一歩は、やはり自己の誕生の神秘性を認識し、自己の誕生に感謝し得る心ではないのかと私は近
頃しみじみ思うのである。
333十一月の空
334
冬の感想
(一)
厳しい寒気の中で、青空を眺めていると、心がきりりとひきしまって、命が生きいきとしてくる
気がする。
春になれば、春が一番よい気候のように思うのだが、冬を迎えてみると、冬もこれまた実によい
と思う。私は外国のことはあまり知らないが、日本内地の春夏秋冬のうつりかわりは、なんともい
えずうまくできているような気がする。夏もよし冬もよし、という気持である。
私は元来不平不満の少い性で、いつも心の底から有難い、という想いが湧き出てくるのである。
じねん
これはわざと想おうとしているのでもなんでもなく、自然と湧きあがってくる想いなのである。
この十数年来の私の生活は、病苦や貧苦や愛情の苦悩の渦に取り囲まれ、明けても暮れても「先
生この苦しみをどうしたらよいでしょう」「先生この病人をどうしても生かして下さい」というよ
うな、数多い訴えの声のなかでくらしているのであるが、私の心は、そうした人生苦のなかに共に
巻きこまれてゆくこともなければ、人類の不完全、不円満さを、肯定してしまうこともなく、悲劇
の中に入りこんでしまうこともない。
といって、私がその人たちに冷淡であるかというと、そうではない。私はその人たちと共に悲し
み、共に歎いて、その人たちの運命の中に自分も一緒に住んでいるのである。
この人生を現象的な眼だけでみれば、実に悪業に充ちた世界で、神仏の救いのみ心というのが一
体どこにあるのだろう、と、神仏への不信感を持つ人がいても、無理もないと思える程である。私
などそうした人間世界の苦悩の流れをまともに受けて生活しているのであるから、そうした不信感
もよくわかる。
だが、そうしたあらゆる苦悩の奥底をみつめていると、その奥底から、そうした苦悩を否定しき
っている、神仏の光明が輝きわたっているのがわかってくる。神仏の光明が輝きわたっているから
こそ、人間の苦悩というものが生まれてくるのであり、そうした苦悩が現われることによって、人335冬



間世界に神仏の光明が全き光となって現われてくることができるのだといえる。
人間の苦悩とは、神仏の光明から離れていた過去世からの想念行為が、次第に神仏の光明に近づ
いてきているための、いわゆる消えてゆく姿に過ぎないのである。私はそうした消えてゆく姿の真
理を体得しているので、人間世界の悲哀の波の渦の中で、天地に対してなんの不平不満もない、愛
と感謝の生活ができているのだと思っている。
336
(二)
各地で猛吹雪という記事が毎日、新聞で報じられているこの頃だが、いかなる厳寒の辛さでも、
近代の装備をもってすればなんとか耐え得ることはできる。しかし、世界を吹き荒さぶ冷戦の嵐、
戦争への恐怖の日々を耐え得るには、物質的ないかなる備えをもってしても、どのようになるはず
のものでもない。
世界を真実な平和な環境にするためには、どのような物質的な繁栄をもってしても充分ではなく、
まして科学の総力を挙げた兵器によって平和達成を目指すなどということは全く馬鹿げたことであ
る。
そうした無駄を承知の上で、次々と兵器を生み出し、その場その時の自国の体面を保とうとし、
自国を優位に置きたがっているのが、大国たちの在り方なのであるからおかしなものである。
平和を生み出すのは、個人の平和な心であり、人類社会の平和な心であり、世界各国の平和な心
でなければならぬ。自分たちが平和とは全くかけはなれた想いをもちながら、行為をしながら、世
界平和、世界平和といくら叫んだとて、平和などくるわけがない。何故ならば、平和を乱している
のは、他でもない自分たちだからである。
たとえ武器を持たなくとも、相手をやっつけてやりたい想い、相手を自分たちの下に組み敷きた
い想いは、スポーッの世界をのぞいては、全部平和を乱す想念行為であることは考えるまでもない
ことである。
社会主義者や組合運動をやっている人々には、こうした当り前なことがわからなくて、武器を持
つ者たちだけが平和を乱すものだと思っているらしい。私たちから見れば、共に世界平和を乱す業
想念であることに変りはない。
真実に冷戦を止め、大戦を防ぐには、まずみずからが、自己の心に平和を築きあげなければなら
337冬の感想
ない。しかし、現在の肉体人間は完全なる平和な心を現わす迄には成長していないのであるから、
私は一歩退いて、平和を乱す自分たちの想念、人類社会の想念、地球世界の全想念を、ひとまとめ
にして、神様の世界、絶対調和の世界、大光明界にひとまず引き取ってもらうために、世界平和の
祈り言をその仲立ちとして世界人類の平和をくりひろげてゆこうというのである。
カルマ
人類の業想念が神様の大光明で消されてゆけば、そこにおのずから人類本来の調和した大らかな
世界がひらけてくるのである。それは人類がみな神から生れた兄弟姉妹であることからして当然な
ことというべきなのである。
338
宿題
いや
宿題というものは、学生にとっては実に嫌なものである。といって、それを棄て去ってしまうわ
けにはゆかぬので、しようことなしにその宿題をやってしまう。やらずにおけば、成績が悪くなっ
てしまうからだ。
かこせ
人生はこの学生たちと同じように、常に宿題が出されている。その宿題は過去世から引きつづい
て出されているのだから、学生の宿題より幾増倍ややっこしい。
この世の生活で様々と苦労の多い人は、それだけ過去世での宿題をやり残しておいたか、やり方
がまずかったか、なのであるともいえる。
ニんじよう
過去世からの宿題は一日も早くやり遂げておかなくてはいけない。それは今生の宿題と重なり合
って出てくるのだから、そうした不幸や災難やすべての嫌な事柄は、それが現われた時こそ大事な
ので、ああ過去世からの宿題を今果してゆくのだ、これで青天白日なのだと思うべきなのだρ 私の
いっもいう、消えてゆく姿なのだ。
消えてゆく姿といえば、今月は十二月。この年も、今月で消え去ってゆくのである。思い起こせ
ぱ、今年もこの地球上には種々のことがあった。善いことも悪いことも、種々の想い出となって、
過去の世界へと消えてゆく。

339宿
この世に起こるすべての出来事は、変化変滅してゆくものであるが、その変化変滅の中で、各人鋤
各様のいろいろな宿題が残される。この年が、皆さんに一体どんな宿題を残していったか、それは
一人一人が考えてみるべきことである。
私に残された宿題は、世界平和の成就なのである。世界平和こそ、私だけの宿題ではなく、地球
人類すべての宿題なのである。この宿題を果さないことには、他のいかなる宿題を果し終えても、
この地球人類は滅び去ってしまうのである。
その真理を誰も彼も心に深く銘記しなければいけないのだ。
学校の宿題を果さない子供たちを責める親や両親はたくさんあるが、さて自分たちの果し終えて
いない宿題に、子供を責める程真剣になっている人は少い。
かさ
自己の宿題は一日も早く果しておかなければだんだんとその宿題は重んでしまう。まして世界平
和の達成は、絶対に果さなければいられない重大な問題なのだ。それは国家にとっても個人個人に
おも
とっても同等の重みをもった問題なのである。
師走に想義ノ
月日のたつのは早いものという言葉が、十二月になると全く、そのまま実感として思われてくる。
この一年を振り返えってみて、世界が果して平和の方向に少しでも進んでいっているかを考えると、
まるで昨年と同じように、争いと疑惑と憎悪の波が地球世界をすっかり蔽っているのである。ベト
ナムは依然として戦争状態、アラブとイスラエルはこぜり合いがつづき、イソドと中共の国境争い
にも眼が離せぬし、今度米国の発表によれば、ソ連の人工衛星は、宇宙へ戦争基地を拡大して、衛
星爆弾を自国の想うままに、どこにでも自由に発射できる拠点をつくるのを主要目的にしているよ
うだ、という。そういっている米国自身も、ソ連と同じ気持であることは間違いないことで、ソ連
に一歩先を越された口惜しさで、この発表をしたものだと思われる。
私が以前書いていた推測が、そのまま事実であったことが証明されてきた。どこの国もが、軍備341師




優先で、曲がりなりにも平和を優先にしているのは日本だけらしい。こんな世界の状態と同様にご蹴
の世は悪や不正が大いに幅をきかせ、正しい柔和な人は、常に後塵を拝していて、うだつがあがら
ない有様である。
そこで、正しく勇気のある人は、この世の悪や不正を憎み怒る想いが強く湧き上がってきて、祈
ちゆう
りによる世界平和運動の同志の中でも、悪や不正を正すための天珠を加えなければならない。祈り
を根底にして、悪や不正を罰するべきである、という論をもっている人がでてくる。そして、たま
だんがい
たまそういう正義の熱情で、悪や不正を弾劾してみるが、どうも世界平和の祈りの、大調和精神に
反しているように思えて、自分の心が神のみ心に外れているようで不安になってくる。なまじ平和
の祈りがなければ、思いきって悪や不正を責めさばくことができたのに、どうも心がすっきりと割
り切れないで悩んでいる、という、そういう質問が時折り私のところにやってくる。中でも私の宗
教の大先輩であるキリスト教に徹した筈である、高い魂をもった人からも、同じような質問が来て
いるので、それに答えてみたい。
S …様へのこ返・事i
大先輩のあなた様からこんな謙虚なお手紙をいただくと、私もなんとご返事致してよいかわかり
ませんが、霊性極めて清らかなあなた様だからこそ、悪を憎み、不正に対する怒りが、人一倍強い
のではないですか。私等も本質的には、悪を憎み怒る想いの強い人間なので、自分でもその烈しさ
に困惑したことが何度びもありました。悪をくじき正義を現わすことは、この人生にとって是非共
必要なことで、そういう正しい心の勇気ある人々が多くならなければ、この世は到底救われること
はないのだと、私は今日でも思っております。
はな
ただ私の今日行っている方法は、正義が悪を消滅する方法として、自分が悪や不正の放っている
よご
毒気の波と同化して、自己の心を怒りや憎みの毒素で汚してはならないということで、悪や不正を
憎み、怒る想念の波を、どこかで消し去ってしまうことを考えたのです。
相手の悪や不正と自己の相手に対する怒り憎しみの想念とを、同時に消滅させてしまうために、
私はすべては過去世の因縁の消えてゆく姿である、とはっきり割り切って、神のみ心の中に相手の
想念を自分がしっかりつかんで、飛びこんでしまうことを考えたのです。すべてが神のみ心によっ
てなされる。そういう信仰心が、相手の悪や不正も、自分の正義感もその正義感によって発する怒
り憎しみの想念も、すべて神のみ心の中で解決していただくことを考えついたのです。これは浄土343師




門の宗祖たちの考えついたところで同じなのです。
こうそうねん
私はそこからまた一歩突き進んで、そうした業想念を消滅させると同時に、神のみ心である大調
和の光明を、自己を通してこの世に照り輝やかせる方法を見出したのです。それが人類愛の心が祈
りにまで高まった、世界平和の祈りなのであります。消えてゆく姿で世界平和の祈りとは、こうし
た私の心境から生れ出たのでありまして、私の心には常に悪を怒る想いが湧き上っているのです。
悪や不正をそのままにしておいて、ただ調和だ、平和だ、といっているのではないのです。いうべ
きことはいい、正すべきことは正しつつ、心に湧き上ってくる悪や不正への憤りを、世界平和の祈
りの中で消滅させていただいているのです。
ですからあなた様も、正すものは正し、いうべきことはハヅキリいいつづけた従前の通りの生き
方で、一向差し支えはないのです。ただそこにつけ加えることは、自分や周囲の人々の心を痛め傷
っけぬように、怒りや憎しみの想念をその度びごとに、相手の悪や不正とともに、世界平和の祈り
の中で消し去ってしまうことをなさる必要があるのです。
そういう習慣をっけますと、悪や不正を正しながら、時に憎み憤りながらも、心は平和な光で、
未来の完全平和を楽しみながら、生活することができるのです。何事も肉体の人間がするのではあ
344
こう
りません。神のみ心が、その大光明世界の実現に妨げとなる業の波を消滅させるために、あなた様
を使い、私を使い、その道を切り開いてゆかれるのです。すべては神のみ心なのですから、自分と
神とを切り離して考える必要はないと思います。
この世の悪や不正さえも、神のみ心がこの地球界を進化させるために闇がけずり取られてゆく衝
撃の現われだともいえるのです。私たちはためらうことなく、自己の置かれた立場で、自己の持味
を生かして突き進めばよいのです。
S様、どうぞお気を楽になさって、あなた様の持味を生かして堂々と歩みを運んでいって下さ
い。
では遠慮なく私の意見を申し述べさせていただきました。取急ぎ一筆。合掌

この返事につけ加えたいことは、世界の動乱の状態でも、ただ米国が悪だ、ソ連だ中共だと悪や
不正の責准を追求し、弾劾しているだけではどうにもならないことで、これらはすべて地球人類の
カルマ
業想念の波動の消えてゆく姿なのだから、私たちは、永遠に消えることのない神の大光明波動によ
って、新しく地球世堺の平和をつくりあげるつもりで、世界平和を祈り、祈りを根底にした行動を
345’師走に想う
何者をも、何事をも恐れず実行してゆくことが大事なのである、ということである。
悪や不正の世界、争いに充ちた世界はやがては消え去り、唯一の実在である神の光明に充ちる地
球世界が必ず実現することを、私は少しも疑わないのである。
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