神は沈黙していない
久著
昌
井
五
○
者
著
ぜ2毒霧9
嚢翁有董う凡
日水グ平ゆデ言9望イようら
窪ア太箋3肌塔お鳥
々荏一蛋夢り.霊多ざe署
ぐ穫繧汐ηグご気・ヴ∴ゑつ
髪る翻.
序文
人間というものは不思議な存在である。この世に存在するあらゆるものが不思議
でないものはないが、人間という存在は特に不思議である。
この不思議さを不思議とも何んとも思わず、当然なものとして、生まれ出て育て
られて、学問をして就職して、家庭をつくり、家庭の生活だけを守って、食生活の
為に働き、その場その時々の楽しみを味わって死んでゆく、そこに何んの不思議さ
も感ぜずにいる多くの人々の存在することは、実にこれ又不思議である。
この世に生まれ出てきたという一番最初のことが不思議のはじまりであり、生命
というものが一体何処からきて、何処に去ってゆくのかということも不思議である。
文
序
1
肉体内部の頭脳やあらゆる諸機関が、或る一つの統率の下に、秩序整然と各自の働
きをなしつづけてゆき、生命というものを、この肉体内部に保ちつづけてゆくとい
うこと、頭脳智が赤子から生長してゆくにつれて次第に発達してゆき、種々様々な
ことを考え、創造活動を営んでゆくという、そういう能力が、一体どういう根源か
ら生まれてきて、どういう風に統一され運営されてゆくのか、その根本を司ってい
るものは何なのか、考えればきりのない程不思議さの連続である。
こういうすべてのことに不思議さを感じぬ頭の人たちが多く存在しているようで
は、とてもこの世界は、これ以上進化してゆくことはできない。不思議を感じ不思
議なことを不思議でなくしてゆこうとして科学の道が開かれていったのだけれど、
今の科学の力では、まだこの不思議さの何億分の一も解決されていない。一番重要
な生命という問題などは、まるでまだ手も触れていない状態で、それでいて、その
外皮に触れただけで、生命の起源が分ったなどといっている人々もある。
私はこうしたすべての不思議さを、少しでも解明してゆきたいと思って、宗教の
2
門に飛びこんでいった。宗教の道は、不思議さは不思議さのまま、判らぬことは判
らぬことのままで、大きな生命、神仏への感謝の心で受け取ってゆく、ということ
からはじまる道であって、信が深まるにつれて、次第に人間の実体や神仏とのつな
がりを心身で感じとってゆくことになるのだ。私はそうした神仏への道を誰れもが
判り易く進んでゆけるように本書を発行したのである。どうぞ心をゆっくりとして
読んで下さるようお願いする次第である。
昭和四十二年七月五日
五井昌久
文
序
3
4
目次
序文
人間と真実の生き方
カルマ
人間とその業
1
消えてゆく姿の使い方
睡眠の大事さと夢について
あらゆる環境の中で天命を生かそう
人間に一番大事なものは何か
宗教精神と祈り
神は沈黙してはいない
1221048770533624 7
‘
こ
肉体人間観を超えよう
永遠の生命について
霊能と霊覚の相違点
自由自在心
これからの生き方
真の自我の確立
世界平和の祈りの運動精神
241224207190173156139
装偵多田栄二
次
5目
人間と真実の生き方
人間は本来、神の分霊であって、業生ではなく、つねに守護霊、守護神によって守
られているものである。
この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念が、そ
の運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去るのであると
いう強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難のなかにあっ
ても、自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづけ
てゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の祈りを祈り
つづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得出来るものである。
人間と真実の生き方
人間は本来神の分霊であって業生ではない
これから私共の教義である、人間と真実の生き方について解説してゆきたいと思います。
わけみたまごうしょう
先ず最初の、人間は本来神の分霊であって、業生ではなく、常に守護霊、守護神によって守られ
ているものである、ということから説いて参りましょう。
人間は一体、神の子なのか業生なのか、という問題は、古来から宗教者の論点となっているとこ
せいぜんせつせいあくせつ
ろなのです。これを、性善説、性悪説ともいっております。人間は一体神の子であつてその性は善
カルマ
なのであろうか、それともまた、業の子であって、その性悪なのであろうか、という両者の考え方
は、いずれも一理ありまして、こちらが正しい考えなのだ、といい切りますと、必ず反論がかえっ
7人間と真実の生き方
てきまして、その説明でき得ない個所をつかれます。
人間は神の子であって、性は善なるものである、ということを唱えますと、人間が神の子であっ
て、性が善なるものであるなら、何故こんな欲望に充ちた、争いに充ちた悪いことが多い世の中が
できているのだ、といってきます。神はオールマイテー(万能) であって何でもできないことはな
い筈である、そうした万能なる完全な力をもった神の子である人間が、自分の生活を守る為に他人
を損ねたり、自国を守るたあに他国の損害をかえりみなかったり、常に自分や自分の周囲の者の利
益の為には、他の損害を顧みるいとまのないような生き方をしている。それはたまには㍉自分を犠
まれ
牲にして他を救うような立派な人もいるけれど、それはほんの稀な存在であって、一般の人々は先
きゆうきゆう
ず自分自身を守ることに汲々としている、というのが現実の姿ではありませんか、そんな生き方し
かできない人間が、何で神の子であったり、善なる存在者でありましょう。
と反論してくるのです。成る程その通りなところが充分にあるのです。こういわれますと、この
反論者に満足のいくような答はなかなかでてきません。現在の人間は、神の子としては、あまりに
低次元な精神生活しかしておりません。先ず自分を守る、ということが本能的に行われてしまいま
す。そしてその自分を守るということが、この相対的な世界ではどうしても相手の損とか不利益と
8
いうことに関連しがちです。
夫婦の間、親子の間、兄弟姉妹の間においてすら、そういう自己本位の生き方が行われていて、
相手を傷つけやすいのですから、まして、他人との間、特に遠い他国の人との利害関係などは、相
手の損害などほとんど気にかからぬのが一般人の想いのようです。
自国を守る為には、他国人の死などは問題ではありません。戦争などはそういう心理から生まれ
てくるので、人間の性は善なり、という根本思想が崩れかねません。台風襲来の場合などでも、日
本本土へくるか他国の方にゆくかなどというところへきますと、どうぞ日本本土が襲われませんよ
うにと、自然に想われます。そして他国の方にいってしまうと、ああよかった、これで助かった、
というように、他国の損害のことの方には想いがゆかず、我が身の安穏を感謝する気持だけが強く
でて参ります。
こういう気持が自然にでてくるところなどは、完全円満である神から生まれた神の子の生命の同
はず
一感からは実に外れている、というより仕方がありません。
こういう風に神の子説、性善説の欠点のようなところを反論されますと、余程徹底した思想の持
主でないと、それもそうだな、神の子説、性善説は理想論かなあ、と思ったりしてしまいます。人
間
と
真
実
の
生
き
方
9
ところが今度は性悪説について、神の子論者から反論すれば、どんな人にでも良心というものが
ある、悪いこと、人間の道に外れたようなことをすれば、誰でも良心が痛むものである。狂人か、
いと
極悪非道者以外は誰でも良心の痛みはあるのだ、人間はすべて、悪を嫌い、善を求めている、悪行
為には眉をひそめ、善行為には感謝感激する。これが人間の本質である。だから人間の性は善であ
る、というのだ、というのであります。
実際この世において、悪を讃美する人は変質者以外にはないと思います。とすると、人間の性は
本来善である、ということができるわけですが、これがまた、そう簡単にいい切れぬ程人間は複雑
にできております。
一般の人々というものは、自分や自分の周囲の者と何等かかわりのない善意とか、利害関係に
かちゆう
は、無関心か或いは善意の方に味方を致しますが、いざその渦中に自分が入ってしまいますと、自
己の立っている側を善なり、と思いこもうとします。そしてひたすら自分側の立場の有利になるた
めに、相手の損得を考えようともせず行為するわけです。これは特別秀れた人格者でない限りは、
その差はありますが、大同小異のところです。
と致しますと、こういう行為が自然とでてくる人間というものが、果して簡単に善なりといい切10
れるものではありません。まして、神の子なり、と大きく見得を切るわけにもゆきません。
私共の説いておりますところは、性善説の側であることは明らかでありますが、只単に人間は神
の子だ、実相完全円満だ、悪は無い、不幸は無い、などというのではありません。人間は神の子で
あり、性本来善であることは、私の霊体験、霊覚によって、はっきり判っているところなのです
が、この現象世界の様相は善悪混清でありまして、悪や不幸の方がよりきわ立ってみえておりま
す。その最もなるものが、戦争状態であり、国と国とのいがみ合であります。個人集団の小なる悪
行為は数限りなくあるようです。そして、より強い悪の方が勝利を納めているようなところもあり
ます。
そこで私は、人間は神の分霊であり、神の子であるけれども、分霊としての自分一個人、肉体人
間一人の存在として生きている限りは、この世において、神の子の姿を、はっきり現わすことはで
きない。少しぐらいの善意は、この世界の烈しい業想念の波の中では、すぐに蔽われてしまう、と
こう
いって人間は業生ではない。業生ではないといっても、真実の生き方を知らないでは、業の子と同
じように、悪行為をしないではこの世では生きてゆかれないようなことになってしまう、というの
であります。
11人間と真実の生き方
守護霊守護神に守られているものである
そこで、真実の人間は、肉体の自分個人が、自分そのものではなく、祖先の悟った霊魂、つま
り、霊魂としての親である守護霊と、霊としての親である、いいかえれば、守護霊の親、肉体人間
の分霊魂にとっては、祖父母にあたる守護神との、完全なるつながりによって、はじめて、神の子
人間の真実の姿を、この世において現わし得るものである、と説いているのであります。
守護霊、守護神とのつながりを無視して、人間神の子といっても、人間の性は善なり、といって
も、それは極めて微弱なる善意であって、少しく業想念の波動がかかってくれば、すぐにもぐらつ
いてしまう程のものなのです。
宇宙神としての神は、絶対者であり、一なるものであります。この一なる大生命が、この地球界
に、肉体的人間として生活してゆくためには、一なる大生命としてでは、到底生活してゆくわけに
はゆきません。種々様々な変化を経て、分生命として、この地球界に、一人一人の人間として生ま
れてゆくわけなのです。
これはどういう変化をしているかと申しますと大まかに説明しますと、拙著『神と人間』にも書
いてありますように、一なる宇宙神は一が二に二が四にというように、その働きを分けまして、天12
地創造を成し遂げ、人類世界を創ったのでありますが、人類の最初の出発点と致しまして、そこに
直霊という光明源、生命源を七つに分けて存在せしめたのであります。この七つの直霊が、あらゆ
る人類(あらゆる人類とは、地球ばかりではなく、宇宙あらゆる星々に住む人類という意味であり
ます) の世界をつくる根本の力となっているわけであります。
この七つの直霊が、それぞれ横縦に働きを分けまして、横には各守護神となり、縦には、ずうっ
と肉体界まで降って肉体人間となり、その間には各守護霊が存在しているのであります。
ぷんれいこんばく
ですから、宇宙神ー直霊← 分霊-分霊魂碗
↑ ↑ ↓
守護神← 守護霊
となって、一人の人間が出来上がっているのであります。これはロバ簡単に説明しただけで、事実
はもっともっと複雑なるものなのですが、あまりくわしく説明しますと、かえってそうした神秘的
げだつ
なことばかりに気を取られて、本命である日常生活において解脱してゆく行為がおろそかになりま
すのでやめておきます。
ただ、宇宙子波動学でも説明されておりますように、すべての生物、すべての存在は、七の数七
の変化が根幹になっております。ですから七の数が完成を意味する数といわれているのも、真実の13人
間
と
真
実
の
生
き
方
ことなのです。宇宙子波動学を研究しておりますと、今まで宗教的にだけ説明されていたことが、
すべて科学的な裏づけのあることだったと、今更のように数字を計算しながら、思っているのであ
ります。
宗教的には、神は唯一神であるとか、多神であるとか、意見が二つに分れている向きもあります
が、神は唯一神であって、多神でもあるわけで、人間は唯一神から生まれた多神の末であるわけで
す。
そこで次は、どうして神の末である人間が善悪混渚の人間に成り下がってしまったのでしょう
か、そういう説明から、教義の解説をして参りましょう。
14
過去世からの誤てる想念とは
私が宗教の道に足を踏み入れてみて、一番強く感じたことは、多くの人々が神に救いを求めなが
ら、実際に安心立命している人、神の子としての真実の姿を出しきっている人が何人あるだろう
か、ということでした。大方が自分の想いをごまかして、救われていると思おうとしたり、神の子
だ、神の子だ、と自分に言いきかせては、その時々を過しているのですが、その人々の行為は神の
子の姿を現わしきっているとはいえないのです。
まして、神も仏も無い人たちにとうては、救いとか救われとかは問題でなく、その場、その時々
の自我欲望の満足感に、その一生をかけているわけなのであります。
こうした地球界における人類に、神の子の姿が真実に現われきるのには、一体どうしたらよいの
であろうか、私は随分と考えつづけ、私の生命を捧げますから、どうぞこの問題を解決させて下さ
い、と祈ったものでした。
天国に至る門は狭く、滅びに至る道は広し、と聖書にもありますように、真実の救われの道、神
の子の姿を現わしきる道は、なかなか厳しく狭いのです。それはどうしてかといいますと、この地
あら
球界は物質世界でありまして、粗い波動の世界、低い次元の世界であります。ところが、霊なる人
間、直霊から分れた分霊としての人間は、光明波動そのものでありまして、微妙な波動の自由自在
に活動し得る存在者なのです。
この微妙な波動をもった高次元の存在者が、低次元の物質波動を身に纒って生活しなければなら
ないのですから、その不自由さはおして知るべしです。
この不自由さの中で、霊なる人間は、次第に物質波動になれていってしまい、自己の本質から離
15人間と真実の生き方
れていってしまったのです。いわば、肉体波動、物質波動に同化していって、微妙な霊波動、自由
自在なる心が、いつの間にか、低次元の波動に蔽われていったのであります。このギャップ(すき
間へだたり)が業波動となって、今日までの人類世界を善悪混清の世界としているわけなのです。
人間の過去世から今日に至るまでの誤てる想念、と教義にありますのは、このことでありまし
ごうそうねんはどうこ
て、この業想念波動を超えて、真実の神の子人間をこの世においてもあの世においても現わし得る
のは、先程から申しておりますように、真実の人間の在り方である、守護の神霊との完全なる一体
化がなされなければ、到底駄目なのであります。
何故かと申しますと、分霊魂碗の人間だけでは、烈しく渦巻いている業想念波動の壁を突き破っ
て、高次元の微妙な波動の世界の自由性を現わすことはできないからなのです。神の子の本質は、
その本住の地である、高次元波動の世界(神の国)から、絶え間ない、光明波動を流入して貰って
いなければ、現わし得ないのです。
16
いかなる苦悩といえども現われれば必ず消えるもの
あみだぶつ
そ こで、人間は凡夫なのだから、阿弥陀仏のみ心の中に入りきって、阿弥陀仏のみ心の中から改
めて真実の人間の生き方を頂き直すという唱名念仏の教が生まれでたのであり、肉体人間では何事
も為し得ない、イエスのみ名を通して神につながるのだ、というキリスト教の教があるのでありま
す。
私の教は、阿弥陀仏、イエスというところを、人間一人一人に関係深い、祖先の悟った霊であ
きゆうざい
り、自己の魂の親でもある守護霊そして直霊の救済面の現われである守護神という、何教の人にで
も誰にでも納得できる形で、人間が神の子の真実の姿を現わす道を説いているのです。
守護霊、守護神というのは、前から申しておりますように、自分自身の本質的な存在なのですか
ら、切っても切れない仲なのでありますから、こちらがその方に少しでも想いを向ければ、向うか
らは光の波動を流しやすくなるのです。それを常に守護霊、守護神への感謝をしつづけているよう
な態度で生活していれば、これはなおさらに守りやすくなり、神の子の姿を早く現わし得るように
なるのです。
守護の神霊との一体化の姿が、真実の人間の姿なのですから、そういう心でいさえすれば神の子
の姿が現われないではおかないものなのです。
かこせとら
しかし、過去世から現在に至る迄の、業想念波動の中に把われていた想念行為の消えてゆく姿と17人
間
と
真
実
の
生
き
方
しての、苦悩や不幸災難、嫌な想念波動もあるのですけれど、これはすべて、人間の真実の姿が現
われる為の消えてゆく姿であって、必ず消え去ってゆくものなのです。
この消えてゆく姿という教に徹しませんと、人間神の子光明燦然とか、悪も不幸も病気もないと
かいう真実の教も、兎角ごまかしになってしまって、かえって自分の本心を蔽いかくしてしまう、
いんべい
自己隠蔽の形になってしまいがちなのです。ここのところは同じ光明思想でもとても大事な相違で
ありまして、自然に成る程成る程と肯定できて、自分の想いをごまかさずに、みんな消えてゆく姿
なのだなあと、力みなく気張りなく、世界平和の祈りの中に入ってゆけるし、守護の神霊への感謝
もできてくるわけなのです。
人間神の子といっても、この身このまま極楽浄士といっても、現象世界にはやはり、悪や不幸災
難が充ちておりますし、自分の想いの中にも自分でも嫌いだなあ、と思えるような愛の不足したよ
うな想念もあるのですから、ここは素直に消えてゆく姿という言葉に徹してしまって、すべてを守
護の神霊の集合団体である救世の大光明の中に入れきって、世界人類の平和を念願する、世界平和
の祈りのような人類愛の祈りの日常生活をつづけてゆくことがよいと思うのです。
カルマ
そう致しますと、業波動である悪をそのまま肯定している性悪説も、世界平和の祈りの中に消え
18
ていってしまって、自分を責め裁く想いも、人を責め裁く想いも次第に無くなってしまうのです。
善は善、悪は悪とそのまま素直にみる
ぷんれい
人間は神の分霊であり、神の子なのですから、必ず救われるに定まっているのです。ただ今日ま
でのように、業想念波動の現われである悪や不幸につかまっていて、世の中は悪い、不幸な世界
だ、というように想いつづけていたり、消えてゆく姿という順序を踏まなければ、神の子人間は現
われないのに、ただやたらに、神の子完全円満と思おうとして、事実はなかなかそうならないの
で、ついには自己や他人の不完全さに打ちひしがれたり、自他の現象をごまかしの眼でみて、あた
かも自分は神の世界にそのまま住んでいるのだ、という印象を人に与えようとするような、偽善
者、不正直な人になってしまっていては、人間の真(神)性は現われては参りません。
人間はこの現象世界は、そのまま素直にありのまま、善は善、悪は悪とみ、不幸は不幸とみてよ
いのです。悪を悪とみまいとし、不幸を不幸とみまいとし、不調和を不調和とみまいとするような
光明思想は、人間の自然な想いをねじ曲げるようなもので、真実の光明思想というわけにはゆきま
せん。無理なく自然に想念が光明化し、神の子の姿を現わし得るようになるのでなければ、世界人19人
間
と
真
実
の
生
き
方
類が救われるものとはなりません。
人間本来神の分霊であることは間違いないことなのですから、みたまま、味わったまま、現われ
てくるものすべてを消えてゆく姿として、神様のみ心の中に送りこんでしまえばよいのです。実際
にすべては消えてゆく姿に違いないのですから。
しよぎようむじようじようじゆう
諸行無常、すべてが変化変滅してゆくのがこの世の自然の姿です。ただ常住なるものは何か、と
いいますと、神のみ心そのものだけなのです。ですから人間は、すべては消えてゆく姿として、神
のみ心の中に、すべての想念行為、現象を入れきってしまえばよいわけなのです。
消えてゆく姿という想念で神のみ心に入りきってしまうエレベータ!として、世界平和の祈りと
いう、神のみ心そのものである人類の大調和世界顕現を願う祈り言を、日常生活の一瞬一瞬の間に
おいても実行しているのであります。
こういう日常生活というものは、すべての現象を無理に善なりと思おうとするわけではなく、自
然と悪や不幸や、自他の想念の誤ちに把われなくなってしまい、いつの間にか、真実の光明思想の
生活になってしまうのです。肉体人間、物質人間観が、自然と神霊人間観になってしまう易行道の
光明思想が、消えてゆく姿で世界平和の祈りなのであります。
20
どんな困難の中にあっても自分を赦し人を赦す
ゆるゆる
ここで教義の中の、自分を赦し、人を赦しということについて少しお話し致しましょう。
人を赦し、ということは誰でも申しますが、自分を赦し、ということはあまり申しません。宗教
の世界では、かえって自分を責あ、たしなあることを善しと思っております。私が自分を赦し、と
いうことを教義と致しましたのは、人間は完全円満なる神の子である、という根本を知っておりま
ひと
すので、神の子である自分を責め裁くというのは、他を責め裁くと等しく、神を責め裁くことにな
ります。肉体にまつわる想念で、どうして神の生命そのものである自分や他人を責め裁くことがで
ひそ
きましょうか、自分を責め裁く想いの中には、他をも責め裁く想いが潜んでおります。
この責め裁く想いが、この世にある限りは、この世に完全平和はおとずれません。それでは、自
己の悪も誤ちも、他人の悪や誤ちもそのままにして置けというのか、という疑問がでてくると思い
ます。
私はそのままにして置けとはいっていないのです。責め裁くかわりに、消えてゆく姿という想い
で、すべての悪や誤ちを、世界平和の祈りに託して、神のみ心の中に入れきってしまおうとするの
です。21人
間
と
真
実
の
生
き
方
人間には神の生命を責め裁くことはできませんが、神は絶対者ですから、どうなさろうと御勝手
です。ところが神は愛そのものであり、大調和そのものですから、神のみ心の中に入れきった業想
念である悪や誤ちは、神の大光明波動の中で、見事に消え去ってしまうのであります。
22
徹頭徹尾消えてゆく姿で世界平和の祈り
そして、そうした業想念を運び入れた人々の祈りの道を通して、かえって神の大光明の波動が、
ぼんのうそくぼだい
そ の人々の中に入ってきて、その人々が光り輝いてくるのです。煩悩即菩提という仏教の教がその
まま生きてくるのであります。
ところが、自分の誤ちや他人の悪をみて、それをすぐそのまま消えてゆく姿と見得ない時もたま
たまあるわけです。その時には、自分を責め裁き、他人を責め裁いた想いなり言葉なり、行為なり
を、気持の落ちついたところでよいから、改めて、今のことはすべて消えてゆく姿だったのだな
あ、世界人類が平和でありますように、私どもの天命が、あの人々の天命が完うされますようにと
いう祈り言の中に今までのことをすべて入れきって、守護の神霊への感謝をすればよいのでありま
す。
失敗したら、何度びの失敗でもよいから、その度びごとに反省して、消えてゆく姿として世界平
和の祈りをつづければよいのです。
ぎよう
こういうように徹底した消えてゆく姿で世界平和の祈りの行でないと、なかなか自他を浄めるわ
けには参りません。
人を責め、他国を責める想念をそのままにして置いて、いくら平和、平和を叫んでいても、到底
世界平和どころか、自己自身の平和な環境さえ生まれてはきません。
のつ
私たちは、倦まずたゆまず、消えてゆく姿で世界平和の祈り、という光明思想の行為を為しつづ
けてゆかねばなりません。徹頭徹尾消えてゆく姿で世界平和の祈りの日常行をしつづけてゆくこと
が、そのまま自分を救い人類に平和世界を導き出すことになるのであります。どうぞ皆さん、ます
ます大らかに明るく世界平和の祈りをつづけてゆこうではありませんか。
23人間と真実の生き方
/
24
カルマ
人 間とその業
人間観によってその人の運命は定る
人間とは一体如何なるものなりや、ということは、この人類世界にとって、考えようとしないで
も、考えずにはいられない問題であります。それは何人といえど、自分自身が、その人間と呼ばれ
る者であるからです。
しんせん
ところが、この考え方には、人によって非常に深浅の差がありまして、全く一様ではありませ
ん。この人間観、人生観、世界観の如何によって、その人の運命は定り、その人生観の推移によっ
ては、この世界の運命も定まってゆくのであります。
人間とは肉体そのものであって、生まれて喰べて働いて、そして遊んで睡って死んでゆく、それ
でおしまい、という人生観があります。そして、こうした人生観の人がかなり多いのです。こうし
た人生観の人々は、自己の肉体生活を満足させることにすべての能力をそそいで生きているわけで
す。
このような人生観の人々が主流をなしている世界では、肉体自己の欲望のために、常に争いや騙
し合いに終始する生活をしなければならぬことになるのは当然ともいうべきです。この考えが国家
のものとなり人類全般のものとなっている限りは、世界の平和など思いもよらぬことになるので
す。
ところが、同じような肉体人間観をもっていても、それが常に、横とのつながり、生命としては
兄弟姉妹なのだ、という精神的深さをもつ人生観の人々もあるのです。こうした人々は、個人の自
己というものを、人類の中の一人という意識で生きており、個人の幸福というものと、人類の幸福
というものを、一つに結びつけて生きようとしているのであります。
てい
こうした人々は、或るものは社会主義者、共産主義者となり、或る者はその心身を挺して科学や
社会福祉のために働きつづけているのです。ただ社会主義者や共産主義者の場合は、自分の主義主
張に反する者をすべて反動者として、人類社会の幸せを乱す者として、その者たちの滅亡を策する
25人間とその業
1
立場に立ってしまうのです。
自分で気づかぬうちに、自分たちと立場を異にする者を敵とする、真の人類愛にもとった想念行
為にいつの間にかなってしまっていたのです。これではやはり世界平和を築きあげるには全く不満
足です。
次には肉体人間の上に神仏という存在者を置いてものを考える人生観があります。いわゆる宗教
的といわれる生き方です。ところがこの宗教的生き方にも実に何種類もありまして、お互いに他の
生き方在り方とは、同調しようとしない人々が多いのです。その上この入々は、他宗派の人々以上
りつち
に無神論者を敵として観るくせがあります。いわゆる上に或いは内に神仏を存在せしめながらも、
自己の考えと異なる考えのものとの生命の一体観ということを実観でき得ないのです。
すべての人間を、神の子、仏子として同等のものとする根本的な思想をもっていながら、その行
為の上に現われるものは、対立の様相を呈してしまうのですから、人間というものはむずかしいも
のです。
このように、この地球界の人間生活の中には、各種の思想が流れていまして、種々と入り交じ
り、争い合い、反目し合っているのです。これを仏教的には業といったものでありましょうし、キ
26
リスト教的には罪の子思想となったのでありましょう。
肉体側からのみ人間をみようとしては神仏との一体観は生まれない
この様相は、肉体側からのみ人間というものを観ようとしている以上は、決して純化されること
はありません。宗教的といっても、神仏と仰いでいても、いつもそれは、肉体人間としての自己を
そこに置いて仰いでいるのであって、神仏の中に自己というものが無くなってしまっているわけで
はありません。
昔からの聖者や名僧といわれた人々は、そこのところがわかった人々なのでしょう。神仏と自己
とが離ればなれになっているようでは、どうしても、人生観が相対的になってしまいます。相対的
になってしまえば、相手があるのですから、自分と相手の喰い違いが、必ずどこかで出てきます。
善い人は、その喰い違いを、自分の方で我慢してしまうでしょうし、当り前の人は、争ってしまう
でしょう。
我慢したのは、調和したのではなく、自分の想いを、潜在意識層に押しこめただけで、その嫌な
想念が無くなったわけではありません。不調和な想いは、そのまま潜在意識として残ってしまい、
27人間とその業
いつかは折りにふれ縁にふれて外に出てゆこうとするのです。それは想念の法則で致し方ないので
す。その姿が、災難とか病気とかいう不運な状態となって現われてくるのです。ですから、善い人
といっても、心の法則に沿った生き方をしていないと、不幸や災難の波から遁れられないのであり
ます。
28
潜在意識層につみ重ねられているカルマ
人間の潜在意識層というものは、積みこんだ想念を、ぐるぐると流転させているのでありまし
て、表面の意識で欲っしようと欲っせざるとにかかわらず、その想念波動と波長を等しくするもの
に縁がふれると、そこにその姿を現わすのです。それが、怒ろうと思わないのに怒ってしまう。妬
むのは嫌やだと思いながら妬んでしまう。その人を赦そうと思いながら恨んでしまう。というよう
に、自分の表面の意識とは別の想念行為に自分をかり立ててしまうのであります。
宗教者が、神仏のみ心と一つになろうと思いながらも、自己の生き方に反する思想の者を敵視す
カルマ
る 想念行為を現わしてしまっているのも、この潜在意識に積み重ねてあった業想念の波動のためで
あるのです。
言葉や文章では、大愛を説き、自他一体観を説き、現象の姿に把われぬことを説いても、実際の
生活面では、敵を認めたり、権力を欲っしたり、自他を離反させたりする業想念波に流されてしま
カルマ
って、自己は気づかず神性を離れている宗教者が多いのです。それ程に、業というものは過去世の
過去世から根深く積み重ねられているのであります。宗教者でもその大半がそうなのですから、一
般大衆が、この業の波を超越した神我一体、自他一体の、自由自在な心的状態で生きられるわけが
ありません。
私なども、かなりの欠点をもった人間として、自分を観ていましたので、自分自身の力では到底
悟りの境地に入れるなどとは思っていませんでした。誰か立派な人格者に、キリストや仏陀のよう
な神格者にすがって、自己を向上させて貰い、何等か人類のお役に立たせて貰いたいと念願してい
たものでした。そこで、現代のキリスト、仏陀を尋ね歩いたわけなのです。
ところが、キリスト、仏陀は肉体の姿としては私の前に現われず、守護神、守護霊として、私の
背後に姿なき姿をもって現われたのでありました。それは私のたゆみなき祈り、i 神様どうぞ私
の生命を人類のお役に立てさせて下さいーという真心からの祈りに感応して現われて下さったの
です。(拙著『天と地をつなぐ者』参照) 29人
間
と
そ
の
業
私が今日になった重要な点は、肉体人間としての自己の無力さを知ったことにあり、素直に神の
大愛を信じて神に自分の運命を全託したことにあるので、他の何ものにあるのでもなかったので
かつぜん
す。法然親鸞の通った道を私も同じように通ったのでした。そして、そこには私自身の天命が部然
として開かれていたのでした。
30
心眼が開かれた時力ルマの姿をはっきり知った
カルマ
私の心眼が開かれた時、私は地球人類を不幸に陥れている業想念の姿をはっきり知ったのです。
すがた
業想念は確かに無明から生まれ出たものでした。無明とは簡単にいえば自己の真性を明らかに観な
かった、ということで、人間の真性を、肉体波動、物質波動の中に閉じこめてしまって、肉体波動
の世界、物質波動の世界の住人になりきってしまったところから、そうした無明から業想念の世界
が転回しはじめて今日に至っているのでした。ですから仏教では、こうした業想念の世界を解脱さ
くロつ
せるために空の境地というものを説いて、その空の状態、つまり、あらゆる想念を停止せしめる修
業をさせたのでありました。この空の境地になった時、実在の世界、人間の真性の世界がはっきり
すがた
自 己のものとなって、この肉体の世界は単なる現われの世界であって、実在として厳然とした相で
あるものではない、ということがわかってくるのです。
えとく
私はこの空の境地を、神への全託という形で、自ずと会得させられたのでした。それまでは肉体
人間の自己として存在していた私が、神のみ心の中にすっかり消え去ってしまって、改めて真性の
私が、それまで私という形で存在していた肉体波動を巧みに使い、神と人間との関係、霊性開発の
導師として働きはじめたのです。肉体人間としての私はすでに消え果てながら、しかも肉体人間の
姿をした私が、神の使徒としての天命を果しつつあるのです。
人間が神の子である真実の姿を現わせば、この世は必ず幸福になり、平和になるにきまっている
のですが、業想念に妨げられて、神の子の真性を現わせずにいるのが地球世界の現状なのですが、
私は必ず神の子の姿がこの世界にもはっきり現われる日があることを信じて働きつづけているので
す。
カルマ
神が完全円満であり、全智全能なら、何故業想念をつくるような人間を生んだのか、という質問
を神の存在を説いている人々は何度びとなく受けていることでしょうが、私はいつも、神のみ心が
実在の世界から、この地球界にすっかり現われきるまでの過程的な時間だけ、人類が不完全のよう
に見え、不幸なように見えているだけなので、人類の永遠の姿から見れば、不幸のように見える期31人
間
と
そ
の
業
ひゆ
間は、ほんのわずかな期間なのだ、と説いてはいるのですが、こういうことは、どのような比喩を
もちいて、どのように上手に説明しても、納得できない人には納得できないので、造物主的神を説
くことは、かえって人に反感を抱かせる場合もあるのです。そこで仏教のように、造物主的神とい
うことを説かずに、人間自体の想念ですべての運命が決定する、すべては汝自身の責任だ、と説い
た方が、非情なようでいて真理なのか、と思う人々のあるのも、尤もなことだと思います。ところ
が、こうした仏教的解釈だけでは、徹頭徹尾自力になってしまって、心の弱い人々には、どうにも
救いのない宗教になってしまうのです。
32
明解な神観
そこで私は、造物主的神、大生命としての神は、ひとまずそのままにして置きまして、人類救済
のために働く神霊、つまり守護神、守護霊の存在を強調することに私の教えの重点を置いたのであ
ります。
神の存在を、生命としての神、法則としての神と、守護の神霊、人類救済の光明波動としての神
との二つに分けて説いていることは、実に重大なことなのであります。
一なる、造物主的神としてのみ、神の説明を致しますと、どうして全智全能の神が罪を冒すよう
な、悪事をするような人間を生んだかということになってきます。そこで神は、分霊魂の分生命の
人間だけでは、この物質界の粗い波動の中では、神の子の完全性を現わすことができぬのを御承知
で、人類が物質的人間として、この世に住みついた頃合を計って、人類の上に守護の神霊を遣わ
し、分霊魂、守護霊、守護神と一つにつながって、神本来の完全円満性を、この地球界の上にも現
わし得るように計画されていて、現在は、その計画の実現される途中の時期なのである、と、私は
前の説明に加えて、このように説いているのです。
そして、現在では、世界平和の祈り、という祈り言を仲介にして、分霊魂醜と守護の神霊との一
体化が容易にでき得るようになっているのである、と説いているのであります。
そして、この世に悪人のように現われている人たちも、自我欲望の想念で生きている人たちも、
みんな、神のみ心がこの地球界に、完全に顕現されるための一役を買っているのであって、只単
に、固定した悪人という者や悪事というものではないのだ、それは神の光明が現われてくると、闇
の姿が削りとられてゆくような状態で、そのために使われている人たちや、その消えてゆく姿とし
ての出来事を悪人とか悪事とかいうのだ、だから真に宗教信仰のある人々が、その真理を知って、33人
間
と
そ
の
業
一日も早く神のみ心が完全にこの地球界に現われるように、消えてゆく姿の悪や不幸が一日も早く
なくなりますように、と祈りつづけることが最も必要なのだと説いているのです。
私達肉体をもった人間の側としては、守護の神霊の人類救済の働きのしやすいように、守護の神
霊への感謝をこめた世界平和の祈りをしつづけながら、日常生活の中では、人を責め裁かない行為
と共に自己の業想念行為をも責め裁かずに、その行為を反省する想いと共に、世界平和の祈りの中
に入れてしまうことが大事なのです。
34
自己を分裂させては理想界に到達出来ない
仏教やキリスト教その他、宗教的な理想の境地を目指すのあまり、ついその理念に照し合わせ
て、人の行為を責め、自己の心を責め裁く宗教信仰者がかなりあるのですが、自分自身の中に責め
る自分と責められる自分とがいるような、分裂した自己では、とても宗教の理想の世界には到達し
ないのです。それは聖法然や親鸞によってすでに知らされている筈なのです。責める自分も、責め
られる自分もすべては神のみ心の中に消えてゆく姿として認めた時、その人に残るものは、只世界
平和の祈りだけなのです。
私はその真理を知っておりますので、私のところにどんな無理難題を持ちかけてくる人も、神な
どあるものかなどときめつけてくる人々をも、ふんわりと受けとめて、只世界平和の祈り心の中に
融合せしめてしまっているのです。
カルマ
実際この世に生活する人々の中には、自分ではどうにもならぬ不幸な業を背負いつづけている人
たちが随分と存在するのであります。私はそういう人たちの為の真性開顕を祈りながら、涙ぐむ時
がしばしばあるのです。深い厚い業想念波に蔽われている人々のために、肉体側の私たちが、一体
どれだけの力になれるのでしょうか、ロハ、その悩みを分けもって、その人の心を少しでも軽くして
やる他に方法がないのです。頭ごなしの説教など、とんでもないことです。言葉などで、どんなに
いわれてもどうにもならぬ人間の業生なのであります。私はそうしたこの世の人間の姿をよく知っ
すべ
ているのです。肉体側の私たちは、ひたすら人を愛することより術を知らないのです。
だがしかし、人間は神の子であり、完全円満性の者なのであります。業想念波動は時が経てば必
ず救世の大光明の中に消え去ってゆくものなのです。そして、私たちは、救世の大光明の一員であ
り、救世の大光明の光明波動を世界平和の祈りという祈り言を柱として、この地球世界にひびきわ
たらせているのであります。そういう事実を私は私の全体験で実によく知っているのです。
35人間とその業
36
消えてゆく姿の使い方
科学は神の全能を把え得るか
人類世界に宗教心の絶えることがないのは、一体どうしてなのであろうか、と、唯物論者でも心
ある人は、時折りは考えるでしょうが、全く遠い昔から、種々な宗教が存在していて、人類の為に
なったり、不為になったりしてきています。
人間が神そのものの全智全能にならぬ限りは、永遠に宗教心というものは無くならないでありま
しょうが、人類の進歩と土ハに、宗教というものの形態は次第に変化してゆくことになりましょう。
人によりますと、科学が発達してゆけば、自然と宗教は無くなる、と思っている向きもあります
すがた
が、果してどこまで、科学が神の全能の相を把えることができるか、ということが、先ず問題にな
ってきます。
どのように科学が発達しても、宇宙のすべての力の根源をはっきり把えることができねば、やは
り、科学が神の全智全能を自己のものにした、ということにはならぬので、そこに宗教心は残され
るのです。
何故なれば、宗教心というのは、神の実体を求める心なので、神のみ心そのものに自分が成り切
るまでは、いつまでも無くならないものなのです。
カルマ
この世には、宗教心の全く無いように見える人でも、実は宗教心が無いのではなくて、業想念の
はつが
波に本心が蔽われつくしていて、宗教心の発芽していない状態なので、その人の業想念波が解けて
くるにしたがって、宗教心が表面に現われてくるのであります。
人間は誰一人として、神によらずして生まれ出でているものは無いので、自己の心の中に、神を
持たぬ人のある筈がないのです。只、その求める姿がいろいろと異なって、宗教という形になり、
芸術という形になり、哲学という形になったりしているのです。
世の人々は、科学というと、神を求めることとは何等の関係もないもののように思っております
が、科学という学問は、現われの世界を通して、神の完全性を追求してゆく学問で、表面には神と
37消えてゆく姿の使い方
いう言葉は少しもでていないけれど、宇宙万物の実体を究めよう、とする意図によるのですから、
やはり神を求めていると云えるのです。
ですから世界の秀れた科学者の中には、宗教心の深い人々がかなりいるのです。唯物論者に云わ
せれば、宇宙の万物を創ったものが、何も神などというものではなく自然に出来たのだ。自分たち
には神など必要ない。と云うのですが、その自然に出来たという、その自然には、万物を生み出す
能力があったわけなのです。
人間なら人間がこうして生まれ出てきたのも、例えばどんな生物の進化したものとしても、進化
し発達してゆくその力というものを、何人といえど認めないわけにはゆきません。
突然に或る元素ができて、何ものの力も働きかけずに進化発展していったなどとは誰も考えられ
ません。唯物論者の自然にできたというその自然の働きを、私たちは神の力と呼んでいるのだし、
その根源にある全能力者を神と呼んでいるので、神というのは人格的に考えてもよいし、宇宙万物
に隈なく働きかけている能力と考えてもよいのです。
38
科学精神と宗教心
人間が人間自身の力で生まれ出でてきたとは思えないし、自分たちの智慧才覚で、五体揃ったこ
うした人聞を生み出したとも思える筈がありません。ですから人間は生まれ出でるはじめから、何
者かの力の働きかけによって、存在する生物ということになります。
そして、この生物は、その生みの働きかけをしてくれた力と同じような智慧能力を、もたされて
いるのであります。とすると、この人間は、その大いなる働きかけの、分けられたる働きというこ
とになるわけです。
そこで分けられたる働き、つまり分生命である人間が、その生命の根源である大生命の働きの実
体をみきわめようとする科学精神は、そのまま神を求めている姿と解釈してもよいわけです。
ところで、この科学精神が、現象の世界の表面から次第に奥に入っていって、神の実体をつきと
めようとするのに対して、宗教者は、万物の表面的な物という観念から奥に入るのではなく、物の
奥に働いている神の心の中に、直覚的に入ってゆこうとするのであります。
科学は機械器具を使って現われを分析してゆく方法であり、宗教は、心の波によって、万物の奥
の心の波に直接に触れようとするゆき方であると云えます。
科学にも様々な科学があると同じように、宗教にも種々な系列があるのです。大きく分けて、神
39消えてゆく姿の使い方
道、仏教、キリスト教、道教、回教等がありますが、この一つ一つがまた各種の宗派に分かれてい
るのであります。
そして、どのような宗派でも、人間の本心の開発を目指しているのでしょうが、ともすると、高
度に過ぎて大衆にはついてゆきかねるものになったり、この現象界の利害関係にわずらわされて、
本心開発の方が全くおろそかになって、現象利益だけを追いかけてしまうようになったりしてしま
った宗教団体が、たくさん出現してきたのであります。
40
世界平和の祈りの教えの急所
私の宗教は、どのような系列に入るかといいますと、神道的でもあり、仏教的でもあり、また、
キリスト教的でもあり、道教的でもある、という、何教的にも片寄らない、万教融合的とでもいう
宗教の道なのであります。
この世的な言葉でいうと、世界平和を唯一の目的としている、という宗教なのです。世界平和と
いうものを唯一の目的としながら、個人の本心の開発も出来、日常生活も平安になってくる、とい
う教えを説き実行している宗教なのです。
月刊誌白光や他の私の著書を読みつづけている方々には、今更こんなことをいうまでもないこと
なのですが、新しく読まれる人のたあに概略的な説明をしたわけなのです。
さて、この世界平和の祈りの教えの一番急所ともいうべきところは、いつも申しますように、消
えてゆく姿で、世界平和の祈り、ということであります。
消えてゆく姿で、世界平和の祈り、という中に、自分を赦し、人を赦し、自分を愛し、人を愛
し、という、教義の中心的な想念行為が含まれているのです。
どうしてそういうことになるかと申しますと、消えてゆく姿、という言葉の中には、この世のあ
らゆる業想念行為、つまり、不幸、悲しみ、恐怖、恨み、妬み、憎悪、不平、不満等々の想いや行
為を、人間の真(神)性から出るものではなく、この世の中を、神の子人間が歩みつづけてゆく時
に削りとられてゆく、闇の面の消えてゆく姿である、と全否定してゆく、断固たる人間神の子、仏
子観が確立されているのです。
人間の神性を断々固として認めきらないと、いつまでたっても、善悪混清の人類世界の姿は消え
ないで、次第に善が悪にその光を奪われていってしまいかねない状態になってしまいます。現に人
類は表面的にはそうなりつつあるのです。
41消えてゆく姿の使い方
現代こそ、真実の光明思想というものが必要なのです。あらゆるものを、すべて善しと観る、強
い神愛肯定の思想が必要なのであります。
今日の世界には、もうむずかしい宗教理論などは、足袋をはいて足の裏をかくようなもので、到
底一般大衆の救いにはなりませんし、世界平和確立のための運動にもなりません。
ところで、このあらゆるものを善しと観る、ということは、なかなか容易にできるものではない
のです。光明思想をいち早く日本で説いたのは、私の知っている限りでは、生長の家がその最たる
ものであったろうと思います。
しかし残念なことに、この生長の家思想は、光明思想一本で通しきれずに、光明思想と小乗的な
精神分析的思想との混合されたものとなってしまったのです。
42
カルマを全否定し神の完全性を全肯定する
人間神の子といい、人間の神性を全肯定するならば、人間の心の誤りの面を分析したり、批判し
たりして、責め裁く形にしてはいけないのです。神性の人間が誤りを冒かすこともなければ誤ちを
冒かさせることもないわけです。
ここのところが、実に大事なところなのです。一方で、病気無し、貧乏なし、不幸なし、悪な
し、と説いても、一方でそれを認める精神分析をしては、教えをきく方の人の心が迷います。私は
その欠点を知ったので、この精神分析的な小乗面の教えの代りに、消えてゆく姿、という言葉を用
カルマ
いて、すべての業想念行為を全否定してしまったのです。
人間の神性だけ、神の完全性だけを全肯定するためには、どうしても、その反対である業想念的
行為を全否定しなければ、その思想には一貫したものが無くなります。
しかしながら、どう否定しようとしても、この世の悪や不幸や苦しみは否定しきれません。ここ
のところが、この世の宗教の盲点となるところであり、実在の世界そのままを、現象世界に写し出
ゆえん
すことの出来難い所以なのです。
それはその筈なのです。神性の人間を肯定するのに、肉体の想いで肯定しようとするからとても
無理なのです。肉体の人間の想いにはやはり業生の世界の様相しかうつりません。そこで私は、消
えてゆく姿、という言葉を使って、一度、肉体人間そのものさえも、全否定しきっているのです。
しかし、それを大げさに、肉体無し、などとは説かずに、ロハ何気ない言葉として消えてゆく姿を使
い、あらゆる肉体世界の想念や出来事を、その消えてゆく姿という想いに乗せて、神の世界、神の
43消えてゆく姿の使い方
み心である、大光明の中、完全性の中に融合させてしまう方法をとったのです。
そして、この消えてゆく姿の想いを、更に世界平和の祈り、という、全人類等しく念願する祈り
言に託して、神の大光明の中に、すべての業想念を消し去る、という方法をとっているわけです。
こうしてゆきますと、観念的に肉体無しとか悪や病気や不幸無しとか、空だとかいわないで、自
然に業生の世界、業想念の世界の波動を光明波動に切り代えてゆくことができて、いつの間にか光
明一元の世界に住みついてゆくことになるのです。
44
光明思想に徹底するために是非必要なもの
こう致しますと、何も自己の想いの誤ちを責め裁いたり、人の誤ちを責め裁いたりする精神分析
的小乗的なことをする必要がなく、言葉の上から云えば、自分を赦し、入を赦し、という形が自ず
から出てくるのです。
こうして、無理なく実際的に神の大光明の中で、肉体人間的な誤った想念を消し去ってゆきます
ので、自ずと、自己の神性、光明性が発揮されてきて、神仏のみ心に適った行いがでてくるので
す。
ですから、光明思想に徹するためには、どうしても、消えてゆく姿、という思想がなければなら
くロつ
ないのです。消えてゆく姿という言葉があって、はじめて、無し、とか空とかいう実観が出てくる
わけで、突然に無しとか空とかで、光明思想に徹するには、余程に素質のよい、上根の人でなけれ
ばできないのでありますQ
私は大体において、一般大衆が容易に入れる本心開発の道ということに重点を置いて道を説いて
いるので、宗教学的に説こうとは思っておりませんが、この消えてゆく姿で世界平和の祈りの道を
説いていますと、いつの間にか、神学や仏教学の真髄を説いていることになっていまして、相当に
神学や仏教学をやってきた人々が、活眼してゆくのであります。
理想と現実をうまくつなぐ
この世の人たちには、頭で知識として判っていても、実際の想念行為としては、行い得ないこと
が随分とあるのです。こうしなければいけない、と想いながら、つい、いけないことをしてしま
う、ああしたい、こうしたい、と理想的な善事を想ってはいるのだが、なかなかそうした理想的な
善事ができない。45消
え
て
ゆ
く
姿
の
使
い
方
聖者や賢者の秀れた行為をきくと、非常に感激して、自分も直ちにその行為を実行したい、と心
明るく社会人類に対するのですが、その感激も束の間で、またいつの間にか、それ迄の自己の想念
行為に還元してしまうのです。
例えば、人間の真性は肉体的なものではなく、霊性そのものなのだ、肉体はその現われに過ぎな
い、ときかされて、自分もその通りに違いない、と信じていながら、自己の想念行為は、肉体生活
に把われつづけていたりするようなもので、この世に住んでいる限りは、なかなか宗教原理のまま
には生きてゆかれぬものです。
そして、理想家であったり、良心的であったりする人程、理想と現実との間に心をはさまれて、
理想に達し得ない自己を歎き痛め、責め裁くことになるのです。ですから、どうしても理想と現実
との間を上手につなぐ何らかの方法がなければなりません。高い理想と低い現実とでは、あまりに
も距離がありすぎるからです。
そこで、この低い現実の様相を、すべて消えてゆく姿として、高い理想世界の中に融けこませて
しまう、ということが必要だと私は思ったのです。この低い現実世界を高い理想世界そのままにす
るには、どうしても、この低い現実世界を無くしてしまわねばなりません。ところが普通ではこの
46
世界が無くなるわけがありません。無くする為には、すべてを空なりという境地にまで人類を高あ
なければなりません。
その空観というのが、これまた理想実現そのままのむずかしさなのです。その掛け橋に私の説く
消えてゆく姿、という思想が必要になってくるのです。
消えてゆく姿として、一度この現象世界を全否定して、全否定した想いを、今度はそのまま、現
実世界での最高の理想である、世界平和の実現ということに結びつけてゆく、これが、消えてゆく
姿で、世界平和の祈り、という私の主旨になるわけです。
この世に住んでいる限りは、この世の安定した幸福ということを望むのは当然のことで、その最
高の現われが、やはり世界人類すべての平和、世界平和ということになります。
この世界平和ということは、神のみ心の完全性が、この地球世界に実現することなので、神その
ものの望まれていることであります。神そのものの望まれていることが実現しない筈はありませ
ん。その実現をはばんでいるのは、人類の低い想念行為であるわけです。
消えてゆく姿で世界平和の祈りというのは、業生の人類世界をそのまま神のみ心の世界平和に切
り代えるスイッチのようなもので、この祈りをした瞬間には、もうその人の世界には、神の大光明
47消えてゆく姿の使い方
が降りそそいでいるのです。しかし、その大光明によって開かれるその人の世界は、大光明がその
人の業生と入れ代わり切るまでのこの世的な時間がかかるのです。
ですから、瞬時に心も運命も開く人もあるけれども、徐々のような形で本心が開発され、開運し
てゆく人もあるのです。人類的にいえば、世界平和の祈りの中に、この世の業想念行為の波動を入
れ切る人が多ければ多い程、世界平和の実現は早くなるということになります。
48
赦しの言葉を汚してはならない
消えてゆく姿という言葉は、個人や人類の本心開発のスイッチなのですから、この消えてゆく姿
というのを、業生の小我の想いで使ってはいけないのです。
消えてゆく姿というのは、過去世からの自他の誤った想念行為を、神の大光明の中で赦して頂く
たあのものであって、神様に赦して頂く気持がなくて、ロバ、言葉の上だけで、消えてゆく姿なの
よ、といっても想っても、それは効果がないばかりか、他人の病気や不幸や悩みを鼻であしらうよ
うな、冷淡な感じを人に与えるのです。
「私あの人に悪いことしたと思って悩んでいるんです」などと人がいうと、真剣にその人の悩み
の程度も計らずに、「そんな想いは消えてゆく姿よ」と突っ放してしまういい方がそうなのです。
それは病気の場合でも不幸の場合でも、人に相談されたりする場合に、そんなことはみんな消えて
ゆく姿よ、と何の同情も示さずに、頭から突っ放されてしまったら、相手の人はもう再び何の話も
その人にはしたくなくなります。心が寒々としてしまいます。
それは丁度、あなたの因縁だから仕方がない、とか、それはあなたの心の影よ、とかいう言葉と
同じようになってしまって、折角神様が、人類の罪臓れをすべて世界平和の祈りによって赦して下
さろうとしているのに、親の心子知らずのように、折角の赦しの言葉を汚してしまうのです。
消えてゆく姿という言葉は、必ず神の大愛に感謝しながらいうべきで、愛念も感謝の念も無くし
て人にいってきかせる言葉ではないのです。こんな素晴しい赦しの言葉は今日まであまりないので
すから、心で噛みしめて使わねばいけないと思います。
念仏さえ唱えていれば救われる、という浄土門の教えも、反省も悔い改あもせずに、只、何をし
ていても念仏さえすれば救われる、というのではなく、それまでの自己の想念所業を一切阿弥陀様
のみ心の中で消して頂いて、阿弥陀様と一つになった心で、一瞬一瞬を送ってゆくための念仏なの
ですが、これがまるで違って考えられて、念仏を唱える前までの自己の誤った想念所業を、そのま49消
え
て
ゆ
く
姿
の
使
い
方
ま自己の中に置いたままで、口先きだけで念仏していながら、阿弥陀様に救われる、と思っていた
人たちが、たくさんいたのです。
消えてゆく姿、という言葉は、その点、そういう想い違いのないような言葉なのですが、それで
も想い違いをする人があるので念のために申しますと、消えてゆく姿というのは、この現われの世
界、つまり現象世界のすべての業想念行為、出来事も、事柄も一切消え去ってゆくものであり、実
在するものは、神そのものの絶対善、絶対愛だけである。だから、すべてを消えてゆく姿と想い定
めた時には、神そのものの大愛のみ心だけが、この世の姿として現われ出でるのである、という理
論なのですから、消えてゆく姿だ、といいながら、またその消えてゆく姿的な誤った想念行為を自
己や人類のものだ、と把えて想うような生き方では、折角の消えてゆく姿の教えが生きてこないこ
とになるのであります。
ところが、人間の長い間の習慣というものは、どうしても、今まで把えていた想念のままに動き
つづけようとするものなので、理論として消えてゆく姿がわかりながらも、またその消えてゆく姿
を自己や人類の実在の姿としてみてしまうのです。
そこで私の教えには、消えてゆく姿の後に世界平和の祈り、という、神のみ心そのままの祈り言
50
があるわけです。全否定して全肯定ということなのですが、消えてゆく姿ということが、世界平和
の祈りをしていると、自然と実観としてわかってくるのです。
言葉は即ち神なりき、と聖書にあるように、言葉は真実にその言葉の世界を創ってゆくのです。
すべての悪や不幸や誤りは実在するものではなく、只単に自己の前を通り過ぎてゆく、消えてゆく
姿なのだ、という真理の言葉は、世界平和の祈りという、大光明波動の祈り言と相和して、神のみ
心そのままの世界をこの地球界に実現させずにはいない、強いひびきを持っているのです。
カルマ
業を相手取っては平和世界は樹立しない
ですから、消えてゆく姿、という言葉のない、只、単なる世界平和運動というものは、この世の
悪や不幸や不完全さの上に、完全性の現われである世界平和を創りあげようというのですから、ど
うしても今日までの想念行為が邪魔をしてしまって、つい、平和を望む心が、その邪魔な業の波を
相手取ってしまい、その業の波と争うような心の波を起してしまうのであります。
これでは、本来の平和な心が、いつの間にか業の波となってしまったことになり、いつもその平
和運動の前には、業の波が立ちはだかっていることになります。
51消えてゆく姿の使い方
カルマカルマ
どのような業想念波動が自分の前進をはばもうとしても、その業の波を相手取っているようで
は、真の平和世界は樹立しません。業の波動は、神のみ心のひびきでも、実在の波動でもなく、人
類が神のみ心を離れて独り立ちしようとした時から巻き起された波動なのですから、人類が再び神
のみ心に入りこんでしまえば、そのまま、いつの間にか消え去っていってしまうものなのです。
そこで、私は、自己や他の業想念行為を、把えたら把えたでよいから、消えてゆく姿として、把
えたままで、世界平和の祈りの神のみ心の中に入りこんでしまいなさい。何度びでも何度びでも、
それを繰り返えしていれば、その人は知らぬ間に神の子の姿を現わせるようになっているのです、
と説いているのであります。
業想念波動を肉体人間の自己の側に置いておいて、ロバ、想いだけで、消えてゆく姿で世界平和の
祈り、とやるのではなく、業波動を消えてゆくと云う想念の中に入れたままで、世界平和の祈りの
中に飛びこむことによって、私の易行道的法華経の道が開かれてゆくのです。消えてゆく姿の使い
方を大事にして下さい。
52
睡眠の大事さと夢について
夢が生まれる時
睡眠や夢については、一般の人たちは関心を持ちながらも、深く探究は致しませんが、近来は学
者たちの間で、真剣にこの問題の研究がされはじめております。
「実生活は一ページ一ページ、はじめから読む本に似ている。ところが夢は、ふと開いて読むぺ
ージである。だから夢にはつながりがない。過去のことも、未来のことも、突然に出てくる」と哲
学者ショウペンハウエルは言っていますし、生理学者林繰氏は、それに誤解があるとして、「実生
活は一ページ、一ページ読む本、ただし過去をくりかえすことはできるが、これから読むところは
禁じられている。夢はこの過去の経験の断片断片を自分勝手につづり合わせて一ページとしたもの
53睡眠の大事さと夢について
で、したがって過去のものでなく、未来の想像でもなく、現在の創作なのである」
といっていますが、ジョン・ファイファーという人は、眠りと夢の正体という本の中で、睡眠を
四段階に分けて、その中で科学的に夢の状態を説明しています。
「現在までにこの分野の研究で四千人の被験者が実験台にのぼり、一万回の夜間観察実験が行な
われ、1中略-目の動きを電気信号としてキャッチし、頭部から脳波をキャッチする。また心臓の
鼓動、筋肉の緊張など他の要素も電気信号でとらえる。…… …
第一段階1うとうとする段階。電圧の低い不規則な波が急速に続き、さざなみ模様を描き出す。
第二段階1浅い眠り。一秒に十二ないし十四の割合で活発な”紡錘状” の波が生まれる。第三段階
1比較的深い眠り。電圧の高い、大きな波がゆっくり現われる。第四段階1ー深い眠り。大きな波ば
かり続く。以上の四段階が終わると、次は逆戻りするが、第一段階に戻りはじあたときを注意しな
くてはならない。大きな波がいくつも続いたあと、その数が次第に少なくなり、ついで紡錘状の波
に変わり、さらにさざなみ模様に戻る。このときが夢の生まれる時間である。
このような実験が繰り返された結果、夢の基本的パターンが明らかになった。まず夢を見る時間
が一晩に四、五回訪れること、その時間を合計すると全睡眠時間の二〇ないし、二五パーセントを
54
占めることである。七八時間の睡眠中、一時間半ぐらいであろう。一部の説とちがい、夢
は単なる怠惰な活動ではないのだ。興味深いが本質的には項末な脳のレクリエーションだ、とはい
えないのである。夢はきわめて重要で、必要欠くべからざる生物学的現象なのである」
夢はどんな人もみている
筆者はデメント、ブイシャー両氏が被験者に夢をみせない実験を行った時のことを書いて、夢の
時間に入ると被験者を起こすことを何回もしていると、益々夢をみる回数が多くなって、ついに
は、まるで頭脳は失われた夢の時間を取り戻そうとするように、焦って夢をみようとする状態にな
り、夢の邪魔をすることが不可能になってしまった、といっています。
また「神経細胞の放出する電気信号を調べると、夢の時間には頭脳は実に活発に活動しているこ
とが判った。実際のところ、昼間のたいていの時間よりもっと活発かもしれない。われわれが日常
の決まりごとをする場合には、頭脳は最高能率をあげないものである」ともいっていまして、夢を
発生させる中枢部が脳にあることは、夢をみることが生き残るために必要であるためだろう、とい
っているのです。55睡
眠
の
大
事
さ
と
夢
に
っ
い
て
夢を交じえた睡眠というものが、どんなに人間が生きるために必要なことであるか計り知れない
のであります。人間ばかりではなく動物もそうなのですが、この場合は人間だけに限って説明して
ゆくことにしますが、第二次大戦中、アメリカで数百人の兵隊を使って、断眠の実験をしたのです
が、その結果は肉体的にはどこにも異常がないのに、精神的に参ったものが多かったということで
ありました。眠りと脳の活動とは深い関係があることを示しています。
東大の実験でも、逆説睡眠状態の人を起してみると、一〇〇%夢をみていたということ、もしそ
うだとすれば、逆説睡眠の時間は毎晩二一二時間あるのがふつうだから、たいていの人は二、三時間
は夢をみていることになる、といっている学者もあり、逆説睡眠の脳波をくわしく調べると、脳の
海馬溝といわれる部分からの脳波がいちじるしい、といいます。つまりこのへんが活動状態にある
ということで、おもしろいことにこの海馬溝は”記録の場” といわれ、過去の出来事と関係があ
る。過去の印象の再現ともいわれる夢がどういうしくみで起るか、このへんに解決の手がかりがつ
かめそうだ、と研究者たちはいっています。
56
夢をみなければ人類は亡びている
さて、そこで私はどういう風に睡眠や夢について考えているかと申しますと、拙著『神と人間』
の中でも少しく書いておきましたが、睡眠は勿論のこと、夢をみなければ、この人類はとうの昔に
滅び去っている、ということを痛切に感じているのです。
前述のように学者たちの研究でも、夢をみることの大事さが次第に取り上げられてきています
が、実は夢はみるものではなく、みせられるものなのであります。この小論のはじめに、林繰氏
の、夢は過去の経験の断片断片を自分勝手につづり合わせて一ページとしたものだ、という言葉が
ありますが、人間を肉体的人間としてみた場合は、この言葉は間違っておりまして、夢は自分勝手
にみることのできるものではなく、守護の神霊の力によって、過去において蓄積された想念波動
を、夢の世界において消し去って貰っている姿なのであります。
人間が睡るということでもそうでありますが、いかにも自分の勝手に睡ったり起きたりしている
ように思えますが、よくよく考えてみますと、睡るということは、極く自然に力みも気張りもなく
行われることでありまして、自分で睡ろう睡ろうとすれば、睡眠薬でも飲まなければ睡れなくなっ
てしまうもので、自然に眼がさめると同じように、自然に睡るのであります。
人間が生きていて呼吸をしている、この呼吸をしているのでも、意識して、呼吸をしようとして
57睡眠の大事さと夢について
呼吸している人はありませんで、自分の気づかぬうちに自然と呼吸をしているのでありまして、呼
吸のことに想いが把われたりしますと、却って呼吸が乱れて苦しくなってきたりします。
人間の万般、心臓から肺臓、腎臓肝臓、すべて、人間意識にかかわりなく活動しているので、そ
の場所やその働きが気になり出した時は、その個所が故障している時なのであります。
宗教的な言葉として使われている無為にして為すことの大事さ、全託の必要さは、肉体内部のこ
うした働きをみると、全く尤もな教えであると思わざるを得ないのです。
人間が生きている、ということは霊性がすっかり開発された人で、自己が神の分生命であること
を知り、自分の想念がいつも本心の中から発せられている人たちの言える言葉であって、肉体人間
としての立場に立っている人としては、生かされている、という心構えが本当なのであります。
私がいつも申しますが、太陽といい空気といい、この大地といい、みな肉体人間の生存のため
に、大愛そのものの誰方かのお力が働いていることは事実なので、それを神と呼ぼうと自然と呼ぼ
うと日々感謝せずにはおられないものがあります。
睡眠や夢もそれと同じように、人間の生存のために絶対に必要な状態なのです。睡らないでいれ
ば、断食に耐え得る期間よりはるかに短い時間で、人間は参ってしまいます。睡りの大事さがその58
一事で判ります。
夢と睡眠とは守護の神霊の一つの働き
それでは睡眠とはどういうことであり、夢とは如何なる事態なのかということを、私なりに解説
してゆきたいと思います。私には学者の研究のように、種々のデーターがあるわけではありませ
ん。私が守護の神霊方から知らされた通りを申し述べてゆくだけです。
人間の想念も肉体も、すべて波動そのものであり、波動の現われでないものはないのです。一人
の人間が何かを想います、するとその想いは波動となって、宇宙に伝わってゆくのです。善いこと
を想えば光の波動が、悪いことを想えば汚れた波動が流れてゆくのです。
そういう状態が何人にも過去世から、ひきつづき行われてゆくのでありまして、その想念波動は
ひそんでいるこころあらわれているこころ
輪のようになって廻っているのです。それが顕在意識としてまたは潜在意識として、行いとなり、
形となって、自己の運命をつくりなしてゆくのであります。これを仏教的には因縁因果というの
りんねてんしよう
で、この世を輪廻転生の世界というわけなのです。
神から分けられた生命エネルギーを基として、人間各自は、自己の想念波動を出して、自己の形59睡
眠
の
大
事
さ
と
夢
に
っ
い
て
の世界の運命をつくってゆくのでありますが、人間がこの地球という物質世界に、肉体という衣を
纒って生活するようになってからは、どうしても肉体的自己保存ということに重点が置かれ、競争
心や争いや恐怖や恨みや怒り妬心などが生じてきまして、今日の世界をつくりあげてきたわけです
あらわれているおもい
が、想念の波は行為となり、行為は潜在意識層に入って、再び顕在想念となり、また行為として繰
りかえされてゆくのですが、その間、人を憎む想い、争いの想い、妬みの思い怒りの想い等々
の、他を痛め、自己を傷つける想いが、自己の想念の輪の中にも、地球世界全体の波動圏の中にも
充満してゆくのであります。
これが大きくは世界戦争や、天変地変となり、小さくは、自己の運命の崩壊ともなって現われて
くるのです。
そういう業想念波のエネルギーを、何とかして消滅させてしまわなければいけない、というの
で、神の大愛の行為者として、各自の守護の神霊が、人間を睡眠状態に導き入れ、霊魂にまつわり
カルマのなみ
ついている、業想念波動を霊界において洗い浄めることになったのです。肉体が睡っている時、そ
の霊魂は神界或いは霊界において統一行をしているのであります。そしてその間に守護の神霊が、
その人の業想念波を洗い浄めるのです。その洗い浄めている時に幽体或いは肉体の脳裡に、その波
60
動が夢として画かれてゆくのであります。
想ったことは必ず形の世界に現われてしまうのが、業の法則なのでありますので、形の世界に現
われないうちに、何とかして消し去ってしまわなければ、この人生は終りになってしまうのです。
拙著『神と人間』にも書いてありますように、肉体人間の世界では、自己を守るのあまり、人を恨
み妬み、恐れ怒り、というように、悪い想念を出すことが多いのでありまして、人間各自の想念波
動がそのまま形に現われてしまったら、この地球世界は一瞬のうちに業火によって滅び去ってしま
うのは必然なのです。
そして悪い想念を出すまいとして抑えていれば、肉体内に積ってしまって、肉体を痛めてしま
い、大病になり滅びてしまいます。どっちにしても、日々の蓄積されてゆく業想念波動を何分かで
も消し去ってゆかなければ、個人も人類も滅亡し去るより仕方のない状態が現在の地球世界の状態
なのです。
ですからこの面から人間を観る人は、人間は本来悪なのだ、と観てしまうのであり、人間は神と
は遠い距りをもった生物であるように思ってしまったりするのであります。こういう観方もあなが
ち無理ではないので、この肉体世界だけを人間の世界とみている正直な唯物的な人は、善悪の戦い61睡
眠
の
大
事
さ
と
夢
に
っ
い
て
ということを考えてしまうのであります。
ところが、神は大愛なのであり、絶対的能力の持主なのです。自らの分生命である人間を、むざ
むざ滅ぼしてしまわれるようなことをなさるわけがありません。神といっても宇宙神そのもの、法
則そのものの神として働かれるわけではなく、人類救済の神、つまり守護の神霊として働かれるわ
けであります。
そして、守護の神霊の一つの働きとして、睡眠があり、夢があるのであります。現在の人々は、
人間というものを肉体人間唯一のものと思いこんでいますが、そのことが、人間の進歩を阻んでい
る最大のものなのです。
62
人間は肉体だけのものではない
人間は神の分生命であり、太陽のような光そのものなのであります。その光のエネルギー波動
が、様々な階層をつくりなしていったのであり、その世界は神界と呼ばれる界もあり、霊界と呼ば
れる世界もあり、幽界という波動の世界もあるのです。そして、皆さん御存知のこの肉体世界があ
るのです。
ですから、私共は肉体の世界に住んでいると同時に幽界にも霊界にも神界にも住んでいることに
なるのであります。
人間を形と考えないで、意志であり、意識であり、想念であると考えてみて下さい。肉体自身は
意志をもち想念波動によって、動かされてゆくことは事実でありまして、意志も想念も無く、活動
するということはありません。
人間はあくまで生命そのものであり、生命の働きが光の波となり、想念の波動となって、形の世
界や運命をつくってゆくのであって、肉体はあくまで、光の波や想念波動によってつくられたもの
なのです。それをどう間違えたか、肉体が人間だと思うようになってしまったのです。
生命である人間は、神界においても働き、またずっと粗い波動体として肉体界にも働いているの
であり、生死を超えた永遠の生命なのであります。この人間生命は種々様々な階層に神のみ心を画
き出そうとして働いているのであり、皆さんが肉体界で意識しようとしないとにかかわりなく、皆
さんの本心本体は神界霊界幽界肉体界を通して、生命波動、光の波動としての働きをつづけている
のです。
睡眠の場合などは、人間の本心と守護の神霊とが、人間の顕在意識の想念波動に邪魔されること63睡
眠
の
大
事
さ
と
夢
に
っ
い
て
なく、充分に働き得る貴重な時間なのであります。肉体がめざめている日常生活の中でも、常に本
心は神のみ心を伝えているのであり、守護の神霊は、浄あの光明波動を与えているのですが、肉体
界の波動が邪魔をして、その当人にその事実を判らせることができないのです。つまり、肉体の意
識想念が邪魔なわけです。そこで、古代の聖者方は、いずれも、その想念波動を取りはらうことを
教えているわけで、それが空になる修業とか、鎮魂とか、無為とか全託とかの教えや方法の伝授に
なるわけなのです。
何にしても、人間が神の分生命であり、神のみ心をこの地球界に現わす為に自己がこの世界にい
るのだ、という真理を阻げる想念行為が、人間の進化を遅らせ、地球世界の平安を乱しているので
あります。私はこれを、消えてゆく姿で平和の祈りとして、神のみ心との一体化を計っているので
す。
実際人間というものは、人類に必要なことよりも、人類の進化を阻げるような、業想念の方を多
く出しているのであって、このままでは実に困ったことになるのでありますが、守護の神霊のたゆ
みなき加護と、睡眠による浄化という方法で、何とか持ちこたえているのであります。
64
人間進化のために大きな働きをしている
前述の学者たちの研究によると、夢の時間の方が昼間のたいていの時間より頭脳が活発に動いて
いたとか、海馬溝といわれる脳の部分が夢の時間にはいちぢるしく働いているといい、その海馬溝
は記録の場といわれる、等の発表がしてあるのは、私が守護の神霊に教わったことと一脈相通ずる
ものがあるのです。
それはどういうことかといいますと、頭脳というものは人間の進化にとっては一番大事なところ
であることは、誰でも知っております。その大事な頭脳の働きが、夢をみている時が最も活発に
働いているということは、人間の進化の為の一番大きな働きを、夢の時間にしている、ということ
になってきます。そしてもう一つ面白いことは、脳の海馬溝といわれる部分が記録の場であって、
しかも夢をみる時に最大の働きをしているということです。
これは私の説の裏づけをしてくれたようなもので、過去からの想念波動の蓄積は、その脳の海馬
溝といわれるところにあるので、この海馬溝は幽界、霊界、神界という、他の階層との波動の交流
点であるのです。ですから想念波動の記録は、その交流点を通して、幽界から肉体頭脳に、肉体頭
脳から幽界に或いは霊界神界にと交流してゆくのであります。
65睡眠の大事さと夢について
そして、睡らされている時の肉体意識は、肉体界と、幽界、霊界、神界との交流の阻げをしない
カルマ
無意識状態なので、神霊界の光明を肉体頭脳に流し入れ、肉体頭脳に蓄積されている業想念波動の
記録を、夢と画いて消し去ってゆくのであります。そういう働きが急速になされるので、その時、
その働きを司る、肉体頭脳の一部、つまり海馬溝が活発に働くということになるのです。
こういう作業を行っているのは、守護の神霊方なのであります。守護の神霊の働きを考えない
で、自然に睡ったり、自然に起きたり、夢をみたりすることは決してできないのです。ちなみに睡
たくない時に、いくら睡ろうと思っても、薬の力にでも頼る他は睡れるはずがありません。
人間は肉体ではなく生命そのものであり、光の波と想念波動によって肉体世界というものがつく
られているのであることは、前にも申しましたが、光の波と想念波動とは、常に神界霊界幽界とい
う様々な階層にそれぞれの世界をつくっているのでありまして、肉体世界はいつでも、これらの階
層の影響下にあるのです。
それが、神界の影響を強く受けうる意識想念の人々は、人格高潔な立派な人物となり得るのであ
り、幽界の低級波動の影響をより多く受けている人は、人格低劣な人物となってしまうのでありま
す。66
守護の神霊への感謝を怠らずに
守護の神霊は、いずれも自己の守護する人間の本心開発の為に働いているのでありますので、そ
あし
の人間に悪かれと思ってやるようなことは決してないのですが、あまり過去世からの業想念波動が
たま
蓄りきっている人間に、一挙に神界の光明波動を注入しては、その人間が肉体身を保つことができ
ムよとも
なくなってしまう。真昼の太陽を真正面にみると眼がくらんでしまう、と同じようなもので、光明
波動が強すぎると、業波動が一度に崩れ去るので、その衝撃に肉体が耐え得なくなるのです。
そこで、少しずつ浄める為に、その肉体人間に適当と思われる階層に波を合わせて、適量の光波
を注入するのであります。これを宗教的霊的に説明致しますと、肉体が睡眠に入るということは、
死と同じように、霊魂が守護霊に誘導されで肉体を離れてゆくのです。そう致しまして、その霊魂
に適当な階層まで守護霊が連れてゆき、そこで統一に入らせたり、目ざめてから必要な道の修業を
させたりするのであります。
いかんそくたい
その状態を情景として画けば、高僧の前で修業させられていたり、衣冠束帯の神人の指導で統一
行に励んだりしている姿となるわけです。そういう状態の間に、守護の神霊はその人間の霊魂にま
つわる業想念波動の浄めの働きをするわけなのです。67睡
眠
の
大
事
さ
と
夢
に
つ
い
て
そして、或る時間がくると、肉体にその霊魂を戻してよこすのです。只死の状態と違うことは、
たまお
霊線、つまり魂の緒がしっかりと肉体と霊魂とをつないでいて、いつでも霊魂が肉体に戻れるよう
になっているのです。魂の緒が切れればそれは死という状態になるのであります。
こうして毎夜霊魂の浄化が行われ、新しく霊要素を頂いて、一日の仕事を成し遂げてゆくので
す。ですから、急に叩き起こされたり、大きな音で目ざめたりすると、気持が悪くなったりするの
は、徐々に霊魂が肉体に入ってくるのを、急速に戻ってしまうので、不調和な状態になり、気持が
悪くなるのです。又折角充分な睡眠をとっていながらも、寝ざめが悪かったりする時もあります。
これは、霊魂が肉体外の階層で修業に疲れたりする時の名残りがあるからです。しかしこれは業想
念とは関係ありません。
人により、その日の状態によって、その夜の予定だけの浄化ができにくかったりする場合も疲れ
が残るものです。
何にしても、この睡眠中の守護の神霊の働きは大変なもので、守護霊、守護神というものは、寝
さ
ても醒めても、被守護体の人間を守りつづけ浄めつづけているものなので、人間の運命を考える場
合に、守護の神霊のことを考えないではいられないものなのです。
68
このように睡眠というものは大事であり、夢という状態で、業想念波動が浄められてゆくことの
ありがたさは、とても筆舌ではつくせない御恩であるのです。(『神と人間』参照)
ですから人間は一日たりとも、守護の神霊への感謝を怠ってはならないものでありますが・守護
の神霊への感謝は、少しでも神のみ心をこの世に現わす手助けを人間側がすることにあるのでし
て、その一番易しく大きな行為が、世界人類の完全平和を願う、世界平和の祈りの行為であるので
す。
睡る前に感謝の心で世界平和の祈りを祈り、目ざめてすぐに世界平和の祈りを祈り、常に自己の
想念行為を反省して悔い改め、すべての誤った想念を消えてゆく姿として、世界平和の祈りの日常
生活をつづけてゆく時、あなたの睡眠はより進化の道を早め、あなたの安心立命の道がより早く切
り開らかれてゆくのであります。
69睡眠の大事さと夢にっいて
70
あらゆる環境の中で天命を生かそう
本職と余技
十一月の私の五十年誕生祝に、みんなが種々と催物をしてくれたので、私も返礼の意味で、即席
に浦島という舞踊をすることにしたのですが、何しろ五十歳になってはじめて舞台の上で踊りを踊
るのですから、上手であろう筈がありません。
その上常にはスカートのようなアンドン袴をつけていますのを、その日は頂戴物の馬乗り袴をつ
けたものですから、二つに分れた一つの方に両脚を入れてしまって、脚は自由に広がらず、片方の
分は踊る度びにぶらぶらと揺れ動いている始末、もう少しで舞台で立往生をするところを、それで
も歳の功で、どうやら切りぬけて、爆笑のうちに舞台を降りたのです。
ところがこの失敗が却って観衆の心に私への親近感を催おさせ、和気あいあいたるうちに会を閉
じることになりました。本職ではないことをやるのは実に気楽なもので、失敗しても別にどうとい
うわけでもなし、このように却ってプラスになることさえあります。
観客の側に立っていると、何だへたくそな、と思えるような歌や踊りでも、やっている当人にと
っては、懸命に真剣にやっているわけなので、近頃はやりの十代二十代の歌手やテレビタレン
トが
人気を保ってゆくのも、並大抵の努力ではないだろうと、自分が余興の踊りをやってみて、改めて
その人たちの日々の努力を称えたくなってくるのです。
人間というものは勝手なもので、自分がやったらできはしないことでも、人がやることにはケチ
をつけたがるもので、相手がその言葉でどんなに傷つくか判らぬようなことを、平気で吐き出すよ
うにいったりします。
どんな仕事でも本職としてやる場合には、普段からの精進努力が絶対に必要でありますので、精
進努力を怠ったことがはっきり判るような仕事をしているのを見れば、誰しも気を悪くするのが
当然ですが、真剣に精進していても、なかなか仕事が上手にならぬ人たちも、この世には存在する
のです。
71 あらゆる環境の中で天命を生かそう
できる人ができない人をみて歯がゆく思うのは無理はありませんが、自分ではそこまでもゆかな
いのに、人をけなしているのはあまり感心したことではありません。
人間には、できるできないはひとまずおいて、何事にも真剣に取り組んでゆくということが必要
なので、いいかげんな態度で世の中を渡ってゆこうとするぐらい嫌なことはありません。
与えられた職業はそれがどんな職業でありましょうとも、その人が永遠の生命をしっかり自己の
ものとする為の一つの経験として与えられているものでありまして、その人に必要でない経験は現
われてはこないのです。
72
一番大切なこと
人間にとって一番大事なことは、自己が何の為にこの世に生まれ出でてきたのか、自己とは一体
何なのか、ということを知ることなのでありますが、これがなかなか容易に判るようなことではあ
りません。
ソクラテスも汝自身を知れ、といっていますが、この自分自身の本体本質を知ることが個々の人
間にとって最も必要なことでありながら、自分自身を知ろうとして努力する人は少なくただ現象生
活のうつりかわりにのみ気を奪われて時を過してしまっているのです。
そこで、各人を守っている守護の神霊が、様々な環境に各人を置いて、その人が永遠の生命を一
日も早く自己のものにできるような経験を与えるのであります。そういう経験を過去世から種々と
与えられながら、人間は成長してゆくのであります。
ですから、自己が置かれている環境に不満をもって、与えられた仕事を怠るようであったら、そ
うした経験を魂の底に沁みこませられるまで、同じような環境をぬけきることはできないのです。
そこで、どんなつまらなそうな仕事に対しても真剣に立ち向わなくてはいけないというのです。
人間には自分には判らない天職というものがありまして、私等も三十近くになるまで、自己の天
命がどこにあるのか判らず、ただひたすら自分が置かれた環境を生かしきって、様々な仕事に精進
してきたのであります。人間はどこでどう変って生活が一変するようになるか判らないのですか
ら、いかなる仕事も、いかなる人々をも馬鹿にしたりしてはならないのです。
自分の嫌な仕事だからといって、怠ったり、馬鹿にしていたりすることは、その時間だけ自己の
生命を死なせているということであって、その人の真実の幸福をつかむことを、それだけ遅らせる
ことになり、この世における苦しみは倍加してゆくことにもなるのであります。73あ
ら
ゆ
る
環
境
の
中
で
天
命
を
生
か
そ
う
人間の一人一人が、すべて異なった過去世の因縁をもって生まれてくるのですから、どんな人の
運命もそれぞれ相違しています。たとえ同時に生まれた双生児であっても、その運命も性格も全く
同じということはあり得ないのです。
各人が自分自身の性格と運命を持って生れてくるので、自分自身が自己の性格を磨きあげて、運
命を高めてゆくより仕方のないものなのです。ですから、親や知人や他の人々が如何に善悪それぞ
れの干渉をしたとしても、その干渉自体によって、その人の運命が変わるものではないのです。
運命を変え得るものは、自己が過去世から今日までの習慣となっている想念行為を変えること以
外にはない。その方法は超人的な意志力をもっていない限りは、真の信仰によって、自己の守護の
神霊と一つになり、守護の神霊の力によって、その道を変えて貰うより仕方がないのです。そこに
真の宗教の意義があるのです。
自己の運命環境を常に他の人の責任に転嫁している人々をよくみかけますが、それ程馬鹿気た愚
かなことはありません。責任は他の何人にもあるのではなく、自分自身にあるのです。その真理を
知らない人は到底真実の幸福をつかむこともできませんし、立派な人物になることもできません。
】生を運命の荒波に奔弄されて生きてゆくだけです。
74
常に自己の運命環境に泣き事をいっている人の未来は終生暗く冷たいものとなります。どのよう
な運命環境の中にあっても、明るい希望を失わず、真剣に生きぬくのです。それにはどうしても、
守護の神霊の絶大なる援助が必要なのです。守護の神霊との一体化がなければ、暗い運命に負けて
しまわねばなりません。
カルマ
人はみな神の分生命でありながら、肉体界に住みついて生命(霊魂) に泌みこませた業想念行為
カルマ
の波動を奇麗にぬぐい去るまでは、様々な労苦をしてゆかねばならぬものなのですが、その業波動
を一日も早く浄め去る為には、自己の方から運命の波に飛びこんでゆく勇気をもって、運命の奥に
働いておられる神のみ心の中に入りこんでしまうことが一番善いことなのです。守護の神霊はその
人間の最も浄まり易い環境にその人を置いて、神のみ心をこの地球界に現わし得る人間に仕立上げ
てゆこうとしているのですから、何事にも恐れず神の愛を信じてゆくことが大事なのです。そこに
祈り一念の生活というものが生まれてくるのであります。
食べる為の生活は余技である
この世の人たちは、自己の食生活つまり、金銭を得る仕事を本職と考えておるのですが、実は深
75あらゆる環境の中で天命を生かそう
い考えから申しますと、食生活の為の働きも、本職つまり天命を完うする天職というわけには参ら
ひど
ぬのです。それは非道い言葉で申せば単なる余興に過ぎないのです。
こんなことを云うと、何をいうか、こんな世智辛い世の中で、金銭を得て食生活を満足にやって
ゆくには、それは大変なことなのだ、時には生命がけでやらねばならぬこともあるのだ、とお怒り
になる人もあるかと思いますが、それではあなたは、あなたのこの世における生命を、どんな働き
をして自己のものとしてきたのですか、赤ちゃんとして生まれてくる為にあなたはどんな努力をし
てきたのですか、と私は反問したくなります。
人間として必要な肉体要素、そして精神要素そういう生命現象は、その人自身が苦労してつくっ
たものでも、両親となった人たちのつくったものでもなく、神から与えられたものなのです。
個人の生命というものは、永遠の生命の一つの現われとして、この世に生きているのでありま
す。生命を生かすのは、肉体人聞自身ではなく、永遠の生命自体、神のみ心そのものなのでありま
す。そういう大事な真理を忘れて、自己や家族の幸福のみを願ったり、自国や自民族の権威を守ろ
うとしたりしているから、個人も人類もますます汚れきってしまうのです。人間はあくまで、自己
の生命を汚さず清らかに生かしきらねばならぬものなので、生命を汚す行為をしつづけて幸せをつ76
かもうなどというのは実に愚かしいことなのです。
ですから、その形は金銭を得る為、食生活を守る為の働ぎとして仕事をしていてもよろしいので
すが、その心は常に人類の一人として、永遠生命(神) の分生命としての、自己に与えられた職場
において、真剣に働くことが大切なのです。
例えば、人の嫌がる仕事や、人類の為にならぬような仕事についていたとしたら、仕事そのもの
が人類の為にマイナスになるとしても、その人がその仕事を通して、人類の平和を祈る心になっ
て、その職場に生きていたならば、他の人がやれば害になるような仕事も、祈り心の光明波動によ
って、そのマイナスが極度に小さくなってゆくのであります。
これは人類の借財を減らしてゆくようなもので、やはりその行為はこの世にプラスとなってゆく
わけなのです。
人間の生命の権限は、あくまで神のみ心にあるのでありまして、肉体人間自身では如何様にもな
し得ないのは誰でも知っているところです。唯物論者が神を否定するのは、自分自身、人間自体が
責任をもたず、他に依存し他に責任を転嫁するのを嫌む心によってその想いが出るのでありまし
て、人間自身の尊厳性が失われ、責任感のない人間になるのを恐れることにもよるのです。77あ
ら
ゆ
る
環
境
の
中
で
天
命
を
生
か
そ
う
実際、迷信に陥っている人々は、自分自身が自分自身の人間としての責任を果そうともせず、た
だ安易に自己の幸福を神から得ようとしているのでありまして、自己の欲望達成のためなら、狐だ
ろうと狸だろうと、神としてあがめる程の低い想いになってしまっているのです。
そして、そうした神々をよそおうた生物は、事々に人間に命令を下し、人間を自己の奴隷としよ
うとするのであります。しかし自己の眼前の利害得失に気を取られている迷信家たちは、そのこと
には気づかず、ただひたすらその眼にみえぬ生物たちを、神として恐れ敬うのであります。迷信こ
そ人間神の子の真理に反する行為でありまして、宗教はアヘンなりという言葉もあてはまってくる
のです。
78
宗教迷信と科学迷信
宗教とは根本の教え、元の教えということでして、生命の根源、宇宙の根源は如何なるものであ
るかということを教えるものであります。ただこの教えは、脳裡に知識として教えただけでは判り
得ませんで、その教えを心に沁みこませて、内観的に生命の根源を知り得るのであります。
ですから、肉体現象の幸不幸に把われていては、真実の神が判るわけがないのです。何故なら
ば、その人の想いは内深くあるのではなく、常に肉体という表面の波動の中にあるからなのです。
そこで御利益宗教のままでは人間は真の救われを得ることはない、と私はいうのです。
そして科学の方はどうかと申しますと、宇宙の根源を探ることは、宗教と少しも変わりはないの
ですが、宗教が内観してゆく、つまり人間の心のうち深く入ってゆき、深く入るにつれて宇宙の根
源、生命の根源としっかり一つになり得て、一つになったところから、この現象世界の物事に対処
してゆく、というのに比べて、表面に現われている事物事柄から、手をつけて、次第にその事物事
柄を通して奥に入ってゆく、という方法をとっているのであります。
ただ、眼にみえぬ力にばかりあこがれる宗教迷信と、何でも可でも眼にみえ手に触れる事物事柄
だけを真実とする科学迷信とは、共に、両面の真理に反する誤った行為なのでありまして、この迷
信がどれだけ人類の進歩を阻げているかはかり知れないのです。
宗教と科学という二つの道が、真に縦横十字の大調和を示して、共に助け合っていったら、この
人類の進化は急速になされることであろう、と私は常に想っておりましたが、現在は私自身が、宗
教精神から生れ出でた、宇宙子波動生命物理学という科学の道を切り開きつつあるのです。
人類は無限に進化してゆくもので、五十年、百年後の世界がどれ程進化しているかは、普通人に79あ
ら
ゆ
る
環
境
の
中
で
天
命
を
生
か
そ
う
は、とても計り知れないことでありましょう。この進化というのは、現在までのように、物質文明
だけの進歩をいうのではありません。精神の向上進化が重要な課題となるのでありまして、精神状
態の向上進化がなされなければ、地球人類の運命は、恐らく五十年先はつづいていないと思われま
す。
今こそ地球人類の精神的大進化が絶対になされねばならない時なのです。それには一体どうして
たらよいか、眼前の利害得失にのみ想いを奪われず、人々はこの重大時期に当って、自己と人類と
の結びつきを、はっきり認めた、人類の一人として、人類進化に役立つ世界平和顕現の一員として
の自覚をしっかり持たねばならないのです。
80
人間の天職は何か
ここで再び前の説明にうつりますが、金銭を得るため、食生活のためだけの働きというものは、
人類の一員としての本職ではないことが今までの説明でお判りのことと思います。しかし、更につ
け加えて申し述べますと、はっきり一口に申して、地球人類の本職、つまり天命は、誰も彼もが、
地球世界を大宇宙世界の一環として、精神と物質との融和を計り、完全なる平和世界とすることの
働きをなしつづけてゆくことにあるのであります。
その他のことは、すべてこれ余技であり、余興であるのです。そして余技のうちに余興のうち
に、人間はたゆみない精神の向上を計らせられているのであります。ですから、そうした金銭を得
るため、食生活のためにのみ、全精神、全能力を傾けて生きていたのでは、これは本職を忘れて、
余技余興のために生命をすりへらしているということになり、甚だ無駄な生き方となります。
人間は表面金銭のため食生活のための働きに終始しているように見えても、常に自己の精神の向
上につくしているものなのであって、そういう想いのない人は多いようで意外に少ないのでありま
す。
金銭を得ては酒を呑み、パチンコをやっているといった人々でも、心のうちではそういう生活に
不満足で、真実の生き方がしたいとひそかに念願しているのを、私はよく知っているのです。た
だ、まだその機会に恵まれず無駄に時を過しているに過ぎないのです。
天命天職を果そうとする気持は、誰の心のうちにもあるのであって、それがなされないために、
想いを他に転じ、酒や女やかけごとにうき身をやつしているのです。個人においても国家において
も人類そのものにおいても、時というものがあるのでありまして、老子や孔子や釈尊やキリストの
81あらゆる環境の中で天命を生かそう
ような大聖者が現われても、時至らねば、その生まれた国さえも平和にはできなかったのです。
昨日までの怠け者が、今日忽然と真人間になったという話もあるのでありまして、いついかなる
時に、悪者が善人になるかも判りません。すべては本性は神の分生命でありまして、悪と現われ、
怠惰と現われているその様相は、過去世の因縁の消えゆく姿に他ならないのです。
人類すべて一人残らず、神の子でないものはありません。ただ過去世からの蓄積された妄念の現
われてきている姿が悪であり不幸をつくる種でもあるのであります。そう思いますと、この地球人
類も見捨てたものでもありません。
だが、そういう本性、神の子の本性を全人類に開発させるためには、老子や釈尊やキリストの説
いた真理の道を、すぐにも身をもってできるような易しい方法で、人々に教えることが必要になっ
てきます。
その道を私は、消えてゆく姿で世界平和の祈りという道にして説きつづけておるわけですが、ど
の聖者もいっているように、人間は自分で生きているのではなく、生かされているものである、と
いう真理を先ず知るようにすることが大事です。自分で生きている、と思うと、どうしても心も体
も自由にならなくなります。肉体人間としての自己というものには、はっきりした力の限界がある82
ことを、誰でも知っていますから、力の限界外のことがでてきたらどうしよう、という恐怖心が絶
えず心に襲ってきます。
職がなくなったらどうしよう。病気になったらどうしよう。親が死んだら、夫を失ったら、老人
になったら等々、思えば切りのない程恐怖の種はあります。それはいずれも自己の生命存続の為の
恐怖なのです。
金がなくとも、職がなくとも、食べなくとも生きていられる、という道があったら、それはどれ
程心安まることでありましょう。ところが現実の生活では、そういうわけには参らぬように思われ
ます。しかし、これを裏がえして考えてみますと、金があり職があり何事の不自由がなくとも死病
にでもなったら、どうでしょう。心の安定は殆んどの人が失ってしまいます。
ですから心の安定を得るということは、金でも職でも体の自由でもなく、永遠の生命を得るとい
うことにあります。永遠の生命を得るということはどういうことかと申しますと、自己の生命が神
から分れてきている生命であって、神のみ心のままに生かされている生命であるということを知る
ことです。そして自己を生かしていてくれる神とは、肉体人間ならぬ、霊性そのものの自分であ
る、ということを知ることなのです。83あ
ら
ゆ
る
環
境
の
中
で
天
命
を
生
か
そ
う
神とは大宇宙心そのものでもあり、自己そのものでもあるので、全く一つのものが分れて働いて
しもべ
いるだけなのであります。人間は神の僕である、という言い方でも、これは真実は宇宙神の僕とい
うより、自分の霊性が肉体人間の主人公である、ということなのであります。
宇宙神は真の人間に対して、たゆみなく生命の流れを流し入れるだけであって、人間は人間の霊
性そのものが、自己の肉体の生命の権限をもつものなのです。一人の人間の霊性というものは、守
護の神霊と分霊との一体化によるものでありまして、肉体的には一人として現われていますけれど、
一人の肉体人間の天命を完うさせる為には、こうした大いなる霊性の働きがあるのであります。
ですから、私などは、一人の肉体人間と対する時に、常にその肉体人間だけをみているのではな
こんばく
く、その人の霊性、つまり守護の神霊と分霊魂醜をみているのであります。それでなければ、自分
勝手な想念の多い人間を、神の子などとはとても思えるわけがありません。
84
天職を生かしている人
そこで人間の天職(本職)とは、地球人類を宇宙の一環としての大いなる人類にする為めの働き
にあるのであって、その他のことは余興であり、余技であると私は言うのです。
例えば野球なら野球をしている、それが余技であり、余興であったとしても、真剣にその技を競
っている時には、その人々の生命はやはり生き生きとしているのであって、それはそのまま、人間
の向上に役立つことにもなるのです。何故かと申しますと、何事にも真剣になって取り組むという
ことが、生命を生かすことになるのであって、いいかげんな生き方をしていることが生命を死なせ
ているということになるのです。
こう考えて参りますと、会社の仕事でも商売でも、芸術芸能、はてはスポーツの世界でも、常に
余技と天職とが一緒になっているものでありまして、単に金銭のため、食生活の為、或いは自己の
権力拡張のためとかいう想いでやっている人々は、天職を果していないみじめな人というべきであ
り、如何なる仕事にでも全身全霊を打ちこんでやっている人々は、天職を完うしている人というべ
きなのです。
天職は生命を生き生きと生かしている、という状態であって、それが深くなってゆけば、自ずか
ら自己の生命を生かすと共に、他の生命をも生かしきりたいと願う心になってくるのです。それを
私は単的に世界平和の祈りという祈り言にして、日常茶飯事の間にも、瞬々刻々の間にも祈りつづ
けることを提唱しているのであります。
85あらゆる環境の中で天命を生かそう
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私たちの天命が完うされますように
守護霊さま、守護神さまありがとうございます
こうした祈り言葉はそのまま生命の光として宇宙にひびきわたってゆくのです。この意味は真理
を求めている人なら必ず判ると思います。自己の幸福を祈ると同時に他の人の幸福も祈る、祈らず
■
にいられない、そういう愛の心こそ、人間の天命完うの姿であり、いかなる環境にあっても、自己
の本心を見失わず知らないうちに世界平和の為、人類進化の為に役立っている人となり得ているの
であります。
86
人間に一番大事なものは何か
大事なものは生命である
まとも
人間に一番大事なものは何か、と真正面に尋ねられると、一寸即座に答えられぬ人が多いことで
しょう。しかしやがて答えられる答は、人それぞれにまちまちであろうと思います。
金が一番という人もありましょう。正直な心が一番だ、勇気だ、いや才能だ、等々、各人各様の
答え方をするでありましょうが、ずばり、生命だ、と答える人は意外と少ないのではないでしょう
か、それはあまり当然すぎて答の中にいれなかった、ということになるのでしょうが、やはり一番
大事なものは生命である、というところから、すべての答を出してゆかないと、種々と間違いが起
り、様々な問題が起ってくるのです。
87人間に一番大事なものは何か
生命の大事さということを根抵にして、その生命を生かす上における大事なことを次々と考えた
り、行ったりしてゆかないことには真実の人類世界の幸福は生まれてこないのであります。
生命程大事なものはない、ということは、誰でもが肯定することなのですが、それでいて、この
生命を大事にしていない人が実に多いのです。それは、暴飲暴食をしたり、夜更しをしたりする普
通いわれる不摂生は勿論のことでありますが、もっともっと深い根本的なことを知らないで、生命
を粗末にしていることが多いのです。
その第一は、何の為に、この世に人間生命として自己が生まれ出でたか、という原理を知らない
ことから起るのです。生命とは一体何なのか、自分とは一体どういうものなのか、という疑問は、
誰しも時折りはもつことでしょうが、それは時折り思うだけであって、その疑問を深くつきつめて
ゆこうとする人が少ないのです。だがその少ない中の一部が宗教的になって、自己生命と大生命と
のつながりを内面から探究してゆき、一部は科学的に外面から探究してゆくのであります。哲学と
いうものは、宗教面への足がかりともなり、科学面への橋ともなってゆくのです。
なぜ
小さい子供が、何故こうなっているの、何故あるの、何故しちゃあいけないの、何故何故何故と
いう疑問責めで両親を困らせることがよくありますが、本当にこの世には、何故? という疑問符が88
多過ぎるのです。
何故、何故、何故、この何故を追いかけてゆくところに、科学が生まれ、発明発見がなされ、人
類の文明文化が開花していったのでありますし、宗教的聖賢も輩出されたわけなのであります。
生命の根本原理の探究を忘れていないか
ところが、この何故? という疑問符は、一般の人々には次第に浅くなって、自分達の現象生活の
不平不満の材料としての何故だけぐらいに止まってしまって、根本的な何故という分野から遠くに
想いはいってしまっているのです。一番大事なものの探究を忘れてしまって、どうでもよい枝葉末
節の何故だけを追いかけ廻わすようになってしまっているのです。
ところが意外なことに、一番根本的な何故に肉薄しているように見える、科学の道も、この一般
はんちゆう
人の何故とは、範疇はまるで異なる広さ大きさではありますが、やはり自分達の集団の都合のよい
ような、御都合主義の功利性に合わせたところで、ぐるぐる廻わりをしていまして、根本的な生命
の探究、何故人間生命がここに存在しているか、人間生命の目的は何なのか、という重大な原理の
追究を一部の人々以外には忘れてしまっているのであります。89人
間
に
一
番
大
事
な
も
の
は
何
か
そうした生命の根本原理から外れた科学の道から生まれたものが、原水爆として恐れられる核兵
器であったのです。これは科学者の罪というより、政治家の罪といった方がよいのでしょうが、や
はり科学者が、何故人間生命がここに存在しているか、人間生命の目的は何か、という根本原理の
ヘヘヘヘへ
追究をないがしろにして、その集団集団の功利性に合わせた枝葉末節的な政策に波長を合わせたこ
とに起因するのです。しかしこれも現在の地球人類の在り方からしては無理からぬことであるので
しょう。
宇宙ロケット、人工衛星等の一環した宇宙探究にしても、米ソの政略的、戦略的な要素が根本に
なっていての探究なのですから、あれだけの彪大な費用をかけつづけていられるのですが、あれだ
けの両国の彪大な費用を、純粋な意味の地球人類救済の科学面に使っていたら、どれ程地球人類が
救われる科学の成果が得られていたか、と私はつくづく思うのです。
その他の兵器に使う費用でも、全く同じことがいえるのです。だがしかし、現在の地球人類の様
相というか、悟りの程度では、どうしても、そういう無駄な費用をかけてまでも、軍備優先という
ことをしなければならぬ状態になっているのでしょうから、その場その場の担当者としては万止む
を得ぬ、ということになるのでしょう。90
そうした軍備優先の各国の政策の中からも、そうした科学研究の落し子のように、地球人類の文
明文化を促進させる発明や発見が種々となされているのですから、それで一応は満足していなけれ
ばならぬ、ということになります。
宗教者として一番大事なことを忘れていないか
さて今度は宗教面をふりかえってみましょう。宗教の世界こそ、真実、直線的に大生命の懐に飛
びこみ、大生命と自己の生命との一体観を味わえる道がついているのですし、その一体観によっ
て、人間生命がこの世に存在する原理も、人間生命そのものの目的も直覚的に判ってくるのです
が、それがなかなか、その境地まではゆきつけませんで、各人が苦慮するわけなのであります。
宗教宗教といって、神の道を追い求めているように見えながらも、実は、自己の肉体生活の功利
性を満足させようとしている、現象利益のみに、終始想いが把われている人々が多いのでありまし
て、やはり、人間に一番大事なものごとを忘れているのであります。
尤も、こういう人たちは、まだ宗教者というのではなくして、現象利益を種にして、宗教の道に
守護の神霊がひきこもうとしている段階の人々なのであります。はじめは現象利益を目的にしてき
91人間に一番大事なものは何か
ながらも、いつの間にか、真実の宗教者として、一番大事なものを自己のものとして悟り得た人も
随分とありますので、いちがいに、そういう態度で宗教に入ってはいけない、とばかりは申せませ
ん。
宗教の道に入ってくる人には種々の人がありまして、霊魂的にはあまり立派でなくとも、肉体要
素が非常に霊界の波動に交流し易い優れた素質をもっている人もありますし、霊魂的には非常に立
派でありながら、肉体的には神霊の話などには興味をもたない人もあるのです。
そして、前者は、真実の宗教性である人類愛的精神は少ないのに、霊能的に人に教えを垂れ得る
立場に立っていられたりするのに、後者は愛他的精神をもち人類愛的であって、ひたすら神の道を
求めながらも、いささかも霊能的にはなり得ない、ということがよくあるのです。
これは勿論、過去世からの生活様式や修業の仕方等々のいわゆる因縁性によるところなのです
が、霊魂の在り方と肉体の在り方の相違によるものなのです。
92
霊と魂の調和と人格の完成
霊魂とか肉体とかいうと、ふわふわした火の玉とこうした顔や姿をした物質体という区別で考え
たくなりますが、実は両方共に神様のみ心のひびき、つまり大智慧、大能力をもった生命の波動の
すがた
現われなのでありまして、霊とは神のみ心そのものが、そのまま障碍なく働いている相なのであり
ます。そして魂とは、霊波動が、神界から他の階層に働きかける時に現わされる相なのです。です
さちみたまにぎみたまあらみたまくすみたま
から、神道では、; 並四魂といって、一つの霊が、幸魂、和魂、荒魂、奇魂というように異なった
波動をもった働きとなり、その四魂の調和した時に、その人格が完成され得る、というのでありま
す。
人によって、荒魂の主となっている人もあれば、和魂の主になっている人もあるのですが、どち
らの人にしても、四魂が調和して働かなければ、その人の人格というものは完成されないのです。
俺はどうせ生まれつき気が荒いんだ、といって威張っているようでも、私は生まれつき気が優し
すぎるの、と自分をひっこめすぎているようでも、その人の人格は完成されていないので、四魂の
調和ということが大事なのであります。
一人の人間の人格が完成されるということは大変なことなのでありまして、この地球界に住んで
いる現在の人類の大半が、未完成の人々なのであります。
; 並つまり人間の本心の方から考えますと、単なるこの世における幸福などということより、完93人
間
に
一
番
大
事
な
も
の
は
何
か
ひと
全なる人(霊止)をつくりあげることが大事なのでありますから、その完成の為に必要な環境状態
を常に、各人の為に用意するわけであります。
どのような悪そうに見える人でも、低劣そのもののような人でも、その本体は神界にあって、光
うつしみ
り輝いているのでありますが、その分霊がこの現象世界の現身となるまでに、神界の本体の光の道
から想念波動が外れてしまってきて、人間として必要な各種の要素が不調和になってしまったので
す。そして、その不調和な想念波動が、憎悪とか、闘争とか、妬みとか、恐怖とかいう、この世に
不幸をもたらす運命をつくりだしてきたのであります。
この世の人々は、生命(本心) というものと、想念というものとをごちゃごちゃにして考えてお
りまして、神のみ光そのものである生命を、想念波動で汚しきってしまっていまして、生命本来の
働きを邪魔してしまっているのです。
くロつ
そこで、昔からの聖賢は、空になれとか、無為にして為せとか、全託とかいって、肉体頭脳を駈
け巡る想念波動を、消滅させようとしているのであります。
94
生命は無限数の階層に働きつづけている
生命というものは、宇宙神のみ心の中から生まれているものでありまして、神界、霊界、幽界、
肉体界という各階層を、それぞれの光の波動で働きつづけているのでありますが、神界霊界とい
う、いわゆる神霊世界では、生命波動がそのまま光明波動であって、生命の働きが、そのまま何の
さわり
障碍もなくなされるので、すべてが大調和しているのです。
ですから、この肉体世界のように、想いと行為とが、後先きになることが多いようなことはな
く、すべての行為がそのまま瞬間的になされるのです。生命波動と想念波動と別々になっていない
で、一致しているのであります。空そのもの、無為そのものの行為が、即ち生命の働き、光の波動
となって、宇宙神のみ心を現わしてゆくのです。
この肉体世界でも、そのように神霊界の行為そのものになれば、各自の生命が、宇宙神のみ心そ
すがた
のままの働きをしてゆくことができるので、神霊世界の大調和の相が、そのままこの肉体世界にも
顕出してゆくわけなのです。
わけみたま
ところが、分霊だけの働きだけでは、どうしても、肉体世界、物質世界の、粗雑な波動に調和し
きって、生命本来の微妙な光明波動のままの働きで通すことはできなくなり、守護の神霊の力を借
りて、この地球界にも神霊界の大調和の姿を現わしてゆこうとしているのです。95人
間
に
一
番
大
事
な
も
の
は
何
か
生命というものが、この肉体界だけのものと思っている限りは、とても人間は真実の幸福をつか
むことはできませんし、人類を真実に平和にする科学も生まれては参りません。何故ならば、生命
というものは、神界にその働きの本源があって、種々の波動の階層でその生活をし、肉体界はその
一番先端の世界であるのです。
これは人類全般にも個人々々にも当てはまるのであります。ですから肉体世界の生活で、その生
命の働きを邪魔するような、想念波動が起りますと、その邪魔を除こうとして、病気だの不幸だの
という、いわゆる人々の嫌がる状態が起ってくるのです。そして、こうした業想念波動という、生
命の働きを邪魔する状態が、人類全体を蔽ってきますと、天変地異とか戦争とかいう大災害となっ
て、その業波動が消滅させられてゆくのであります。
神が愛ならば何故人類に、このような悲惨な状態を現わすのか、という疑問が起ってくるのです
が、宇宙神のみ心は宇宙人類すべての完成ということにあるのでありまして、肉体世界だけの幸不
幸というものにだけあるのではありません。宇宙の完成ということにみ心を置いて、そのみ心がそ
のまま法則となって全生命に働きかけているのであります。
そして、この宇宙神と人類との間に立って、人類の悲惨事を、もっとも少なくさせるべくその光96
明波動をもって、人類救済に当っているのが、守護の神霊団体なのであります。それが現在では大
救世主を中心にしての本格的な地球世界の大平和実現の為の援助活動となってきているのです。
霊魂の在り方と肉体の在り方の相違
ここでこの章のはじめの方で申し上げた、霊魂の在り方と、肉体の在り方との相違ということに
ついて説明致しましょう。
霊魂といい肉体といっても、共に生命の現れに他なりませんが、霊つまり、生命の根源は、光明
そのものであり、生命そのものであって、実体と現象とが全く一つになっているものであります
が、魂となりますと、生命の実体が、現われの世界にその姿を写し出してゆく段階に入るわけで、
魂の階層には種々の段階ができてくるわけなのであります。そして霊魂の波動が、地球なら地球の
物質界に働きかけてくると、地球人類つまり肉体をもったこうした人間ができあがってくるのであ
ります。
ですから、霊魂の世界は、自らが実体であって、現象世界にも住みついていることを、はっきり
意識している階層から、霊魂としての現象界だけに住んでいるつもりでいるものもあるのです。肉
97人間に一番大事なものは何か
体人間となりますと、大半が現象世界だけに住んでいる感じで生活しておりますので、自己の本体
である神霊界の意識が無いのであります。
肉体人間としてこの世に住みながら、はっきり神霊意識をもち、自己の肉体身を自由自在にあつ
かえる人を覚者というのですが、そういう人は僅かしかおりませんで、大半がこの現象世界の自己
という想念波動にふりまわされて、神霊の本心を忘れ果てているのであります
すがた
そこで守護の神霊の方では、この世における幸不幸というより、いち早く、生命の実の相を人々
に知らせたいと思って、種々な環境にこの世の人間を置いて、修行させるわけなのであります。
ですから、霊魂的にはあまり高い段階でない人にでも、神霊波動を感じ易い肉体を纒わせて、神
霊の世界を知らせ、霊魂的の方の進化の促進を計るのであります。その反対に霊魂の地位の高い人
に、この物質界の種々相を種々と勉強させたい為に、わざと、神霊のことにあまり興味を持たぬよ
うな肉体を纒わせて、そのプラスにしようとしたりするのであります。
神々の計りごとはなかなか複雑でありまして、一概にこれがこうだというような判断は下せない
のです。ですから現在は唯物論的に見える人でも、いつ何時、深い信仰をもつようになるかも知れ
ませんし、知性的で困ったような人が、霊能的になったりするかも知れません。
98
ノ
生命汚さず生き生きと
何にしても、一番大事なことは、生命というものが永遠性のものであって、自己の肉体にのみ存
在するものではない、ということをはっきり知ることに努める心がけなのです。
けが
永遠につながる自己の生命を素直にそのまま働かせるということ、生命を汚さないということの
大事さをしっかり認識をしなければいけないのです。
生命というものは、神のみ心そのままに動いているときが、一番生々としているときなので、い
つも生命を生々と活動させていることが個人にとっても人類にとっても貴重なことなのです。
さて、生命を生々とさせているというのは一体どういう状態をいうのでありましょう。肉体の諸
器管についていえば、諸機能が、さわりなく病なく順調に働いている状態でありますし、精神的に
いえば、心に何の把われもなく、すっきりと晴々としている状態であります。
一口にいえばこういうことなのでありますが、常にこういう状態に自分を置くのにはどうすれば
よいか、ということが問題なのです。それは、自己の想念波動にも、他の人の想念波動にも把われ
ぬ心境になることが第一なのです。
そこ
自他の想念の波に把われることによって、神のみ心そのままに働くべき、生命の流れを損ない、
99人間に一番大事なものは何か
天命の遂行を遅滞させてしまい、その人の運命を狂わせゆくのであり、肉体の諸機能の働きをも損
なわせてゆくのです。
前にも申しましたように、神霊の世界では生命波動がそのまま光明波動であって、本心が生々と
表現されてゆく世界なのです。こういう世界は、すべてが大調和していて、嫌なもの不幸な状態と
いう相がないのであります。
どうしてそうなっているかといいますと、本心と想念とが一つになっていて、同じ目的、同じ方
向に働いているのです。本心とは神のみ心そのものであり、光明波動の本源であり、想念とは、本
心の波動の伝わりなのでありますが、肉体世界においては、神界からの本心の波動が、物質界の粗
い波動と混清して参りまして、光明波動そのものではなくなってしまい、天候で例えれば、曇りの
状態になってしまうのです。
太陽は本当は照り輝いているのですが、雲に蔽われると地上にとどく光りは、非常に薄くなる、
というのと同じような状態なのです。
100
業想念波動を光明波動に変える
こうした状態における心の波を業想念波動というのであります。そこで、この業想念波動をどう
にかして透明な、すっきりした、光明波動に代えなければ、人それぞれの本心のままの働きができ
ないということになり、生命が常に生々と働けなくなるのです。
その方法を、諸聖祖をはじめ種々な宗教指導者が、各自のやり方で説いているわけなのでありま
す。私は業想念波動を光明波動に変えてしまう方法を、消えてゆく姿で世界平和の祈り、という方
法で人々に説きつづけているのであります。
想念波動が曇りのような状態では、いつまで経っても、真実に人間生命を生かしきることはでき
ませんし、この地球世界を光明波動に充ちた、完全平和の世界にすることはとてもできません。
おもい
そこで私は、各自の想念を一度神のみ心の中に投入しきってしまうことをすすめているのであり
ます。これだけは、浄土門をはじめ各宗派がだいたいやっている方法なのですが、私の方法は、あ
りとしあらゆる想念も、この世における災害も不幸も、すべて過去世からの神のみ心を離れていた
ことによって生じた波動である、この業想念波動を消滅させるためには神のみ心の中で消して頂く
より方法はないのだから、祈り心をもって、神の大光明で消して頂こうというのです。
神と只いっても、その神のみ姿をつかみようがないから、神のみ心そのものである、人類世界の
101人間に一番大事なものは何か
完全平和ということに、すべての想念をもっていってしまおう、というので、自他の業想念を消え
てゆく姿として、世界平和の祈りの中に入れきってしまうことを、提唱しはじめたのであります。
世界人類が平和になるという人類の目的と神のみ心とを合致させて、その中に、自他の業想念を
投げ入れることによって、人間本来の神の子の姿が、神界の光明波動に照し出されて、はっきり現
われてくることになるのです。
業想念波動を、神の大光明波動の中に入れきってしまえば、自ずから、生命本来のひびきが、そ
さわり
のまま障碍なく、地球人類の上に伝わってくるのでありまして、ここに個人の生命も生々と働き、
人類全体の生命も、自他の運命を損なうことなく、生々と働きつづけることができるようになるの
です。
浄士門のように、阿弥陀仏への全託でも結構なのですが、私のは、人類全体の希求する世界平和
という大目的を、祈り言として、その祈り言の中に宇宙神の大光明を導き出してきたところに、大
きな意義があるのであります。
世界平和というのは、全人類の悲願であって、如何なる宗教者といえども、どのような唯物論者
であろうとも、反対の声のでるようなものではありません。
102
それがそのまま祈り言になっているのですから、誰でもどのような立場にあっても、世界人類が
平和でありますように、とは唱えられるのです。その唱え言の中に、自他についての把われの想い
を、すべて入れきってしまう習慣をつけてゆけば、巧まずして、想念の転換が行われてゆき、いつ
の間にか、業想念波動が光明波動に変っていってしまうのであります。
私などは、多くの神々の光を身をもって知っております。一神にして多神という、神界の相をよ
く知っております。世界人類が平和でありますようにと祈る時、そこに輝く大光明はそれは素晴し
く荘厳なものであります。この事実は私の会の人たちばかりでなく、正しい霊能者は知っているの
です。
この世界平和の祈りの中から個人の生命はさわりなく輝やき、人類の業想念波動は次第に浄めら
れてゆくのであります。
103人間に一番大事なものは何か
104
宗教精神と祈り
道への把われ
宗教をやっているという人の、つい陥ってしまう落し穴があることを、私は常々注意しているの
ですが、この落し穴は、知らず知らずに陥ってしまうようにできていますので、かなり知性的な人
でも、人に注意されてみて、はじめて、ああそうだったか、と気がつくようなものです。
それはどういうことなのかと申しますと、道への把われということなのであります。
むげしざい
本来宗教の道というものは、無擬自在なものでありますのに、何かの宗教に入りますとそれがか
えって、不自由極まりない道と化してしまうのです。
人はみな神の子でありまして、大生命につながる分生命であります。その分生命である人間が、
大生命のつながりであること、神のみ心の中に生きていることを、再認識するための道が、宗教と
なっているのであります。
自己が神の分生命であって、常に神のみ心の中で生きているのだ、と知ることは、自分の心を、
実に明るく伸々と自由にさせ得ることでありまして、何やかと自己の心に把われの想いを起こさせ
ることではないのです。
ところが、実際に宗教の道に入っている人々の心は、その道というものに把われてしまっていま
して、これをしてはいけない。ああいうことはいけない。こんな想いでは、あんな想いでは、と云
うように、実に七面倒くさい程、一つ一つの想念行為に把われてしまっているのです。
そしてその把われが自分だけならまだしも、他人の行為までが、やたらと気になりまして、いら
ざる差出口をきいたりして、他人の心をも、その道に把われさせてしまうのであります。道という
ものに把われてしまいますと、これがなかなかぬけがたいものになってしまいまして、その道をは
ずれまい、はずれまいとして、心を不自由なものに萎縮したものにさせてしまうのであります。
このように宗教の道に把われますと、一つ一つの小さな事柄までも、普通人よりもかえって気に
かかったり、他人のことにお節介になったり、生命の自由で伸々としたところを失わせてしまった105宗
教
精
神
と
祈
り
りして、宗教本来の生命の自由自在性を損なってしまうのです。
老子の言葉ではないが、真実の宗教の道というものは、聖を絶ち、義を棄てる、という程の自由
くロつ
無擬な、そのままの生き方のできる道なのですから、やはり、一切の把われを放つ空の心境という
ものを確立する道筋に乗って、真実の道に達するようにしなければならぬと思うのです。
尤も今日存在する宗教とか宗教団体とかいうのは、その中心者が、かならずしも悟りの境地に入
った人であるとはいえないので、その指導方法が横道にそれてしまうのも当然なことともいえるの
です。
106
大導師は永遠の生命を把握させる
宗教の真実の道を指し示すこと程、むずかしいことはないのでして、一寸した霊感ぐらいで、宗
教指導者になることなど、とんでもないことだと思います。宗教の道というのは、永遠への道であ
りまして、宗教指導者は、その永遠への道、永遠の生命を、自己の下に集る人々に直接把握させな
ければならぬ天命をもっているわけなのです。
ですから、自己が宗教の本道を歩いていない限りは、人の指導などできるわけのものではないの
です。自己の歩いている道が、宗教の本道であるかどうかを見極めることが、これが又、なかなか
容易なことではありません。そこで大導師という者が必要になってくるのです。昔の釈尊やイエス
や道元や法然等々は真の大導師だったのです。そして、それにもましての大導師は、老子のような
じねんほうに
無為の教えの大聖者だと思われます。すべての事柄は、何の為といってするのではない。自然法爾
に、大生命のそのままに運行されてゆくのである。という徹底した自由思想、深い深い体験から教
えを垂れているのが老子なのであります。
釈尊の教えでもイエスの教えでも、つい枝道の把われに想いを走らせてしまうようなところが、
随所にあるのであります。それは、してはならぬ、こうせねばならぬ、というような戒めのような
ものが多いからなのです。
又、そうした戒めの言葉があって、弟子たちは立派になってきたのですが、その反面、生命の自
由自在性を縛ってしまう方向にも、その戒めが作用していることは、否めない事実なのであります。
くロつ
そうした戒めを通り越して、空の心境になり得た人々と、その戒に心が把われて、かえって、自
己の生命を不自由な狭いものにしてしまった人々との双方が、仏教やキリスト教からは生まれ出で
ているわけなのです。107宗
教
精
神
と
祈
り
人間の想いと”うものは実に厄介なもので、戒律のようなものがなければ、つい破目をはずして
なかなか自分の想念行為を整えてゆくことができないし、戒律の外に出まいとすればする程、自己
の心が不自由になってきて、生命の自由な流れを損なってしまうようになり勝ちなのですから、正
しく生きてゆくことがむずかしいことになるのです。
108
正しく生きる
それは個人ばかりでなく、国家でも社会でもそういうもので、右か左かのどちらかに片寄ってし
まうのです。いつも私が申しておることですが、ソ連と米国との対立は、どちらの国もが、片ちん
ばの考えをもって、それを善しとして相手方に押しつけようとしているのですから、いつまで経っ
ても対立抗争の果つることはないのです。
くロつ
真 の正しさというものは、個人でも国家でも一度対立を越えた空の世界からはじまった想念行為
によらないと駄目なもので、如何に自分や自国が正しいと認めたことでも、相手や相手国を納得さ
せることができないのは、やはり対立感情を根本にしての自己主張だからなのです。
ところが実際問題となりますと、相対的な世界の善悪、正不正ということが表面に浮びでていま
すので、どうしても相対的な対立的立場から善悪を定あ正不正を判定しなければならなくなりま
す。そこで真の宗教の道が大事なことになるのです。
真の宗教の道を除外した行動では、この相対世界の対立を越える行為をすることは絶対にできま
せん。そこに米ソの苦悩があり、人類全体の悩みが生じているのです。
それなら真の宗教とは一体どんなものなのか、仏教なのかキリスト教なのか、それとも神道なの
か、それとも老子の教えなのか、と聞かれることでしょう。
私のいう真の宗教とは、何々教がよい、というような一方的なものではありません。仏教もキリ
スト教も神道も道教も、その教で真の宗教の道に入り得ればそれで結構なのです。
ところが、米国の歴代の大統領は大のクリスチャンであり、米国にはキリスト教信者が沢山いな
がら、個人も国家も対立抗争の渦中を遁れることはできていませんし、インドのネールのような聖
者に近い宗教者でも、かつて中印戦のごとくインドを戦争の渦中に巻きこんでしまったのです。そ
の他仏教国でも回教国でも、ヒンズー教国でも、すべて対立の世界を越えて生活している国はあり
ません。
国々の安定がなければ人類世界の安定はあり得ませんし、人類世界が対立抗争の渦を巻き起して109宗
教
精
神
と
祈
り
いれば、個人の安定もあり得ません。今日の世界は、いつも申しますように、個人の安心立命だけ
ではすまされぬ世界になっていますし、真の個人の安心立命というものは、どうしても国家や人類
の完全調和の道筋を見定めた上でなり得るもので、国家や人類の安定を外にしての個人だけの安心
立命は真実のものとはなり得ません。真実の宗教者というものは、社会や国家や人類の苦悩をその
ままにしておいて、自己だけが澄ました顔で安心立命していられるものではありません。そうした
安心立命の姿は、過去の宗教者のものであって、地球世界の生か死かの定まるべき、今日の宗教者
の安心立命の姿ではないのです。
110
宗教精神とその人の行為
ここで考えられることは、宗教精神ということなのです。宗教精神とは一体どういう精神状態を
いうのでありましょうか。宗教の道に乗っての歩みは、行為的には宗教精神となって現われるので
ありますから、その人の行為が宗教精神にどのように叶っているかいないかによって、その人の宗
教者としての深さが判るわけなのであります。
宗教の道を求めている入には二通りの人があります。それは、神の姿を霊視したり、霊波を感じ
て五感で感じられぬ、霊魂や幽界霊界神界等の様相を観たりする人々と、そうした霊視や霊聴は
全くないが、ロハ、神の存在を信じ、人格の向上を計って生きてゆこうとしている人々とでありま
す。
これはそのどちらが善いか、という問題ではなくて、生まれながらの体質の相違で致し方ないこ
となのであります。お互いがお互いの素質に応じて、その人格を磨きあげ、真の宗教の道を生きて
ゆく努力をすることを心掛けてゆくことが大事なことなのです。
霊能的な人は、肉体界以外の世界を常に感じていますので、霊界や神の存在をはっきり認識する
ことができるのですが、その反面、普通の人が感じ得ない、幽界の波動を感じまして、種々な病に
冒かされたり、恐怖感に襲われることが多かったり、感情の変動が烈しかったりして、人目には何
んとなく変な人にみられることもあり、気分屋とみられたりすることがあるのです。
一方霊能的でない人は、神の姿や、霊界の姿を観ることができないので、体験的な神の認識や霊
界の存在の認識に欠けるのであります。ですから宗教的な道が理論的に判りながらも、神のみ心に
すっぽり飛びこんでゆく、いわゆる全託の道には、なかなか入りこめないのです。そこで、どうし
ても、神のみ心と自己の心というものを分けて考えて、神のみ心を自己の行きつく目標として、着111宗
教
精
神
と
祈
り
々と自己の心の向上を計ってゆく道を進んでゆくのです。
キリストが「見ずして信ずる者は幸なり」といっていますが、見ずして信ずることはむずかしい
サ
ものなのです。そのむずかしい道を歩むたあに、霊能的でない人は、宗教精神というものを、自己
の行為として生きてゆくことに努力するようにするものなのです。
112
調和精神に欠けていたら
こう説いて参りますと、霊能的な人の方が早く悟りの境地に入り易いように思われますが、なか
なかそう割り切ることはできません。何故なれば、先程も申しましたように、霊能的な人には、幽
界の波動の邪魔が多くありまして、神のみ心と波調を合わせる非常な妨げとなるのです。
どういう風に邪魔をされるかと申しますと、感情の波を乱される、ということが第一にあるので
す。急に怒りっぽくなったり、悲しくなったり、淋しくなったりする一方、何だか自分が偉い人物
に思われてきたり、人を劣等視する想念の波を受けたりするのです。
ですから、精神の安定が保たれず、宗教精神のうちで一番大事である、調和の精神を乱すことが
多くなるのです。宗教精神というのは大調和の精神が根源のものでありまして、それが愛の行為と,
して現われ、真の行為として現わされるものなので、この調和の精神に欠けていたら、他のプラス
の面が大きく割引きされてしまうのです。
宗教の道はどうしても宗教精神によって、この世界に現わされてゆくものなのですから、宗教精
神に欠けている人は、宗教の道を外れている人といわねばならないのです。神といい仏といって宗
教団体で活躍していましても、宗教精神のしかも調和の精神に欠けていたら、その人の宗教活動は
本ものではないということになるのであります。
この調和ということが、一口にいえば易しそうですが、並み大抵のことではないのでして、自分
自身を大調和させるたあには、どうしても守護の神霊の援助がなければできないのであります。
この世には、かなり宗教精神の深い人もいるのですが、調和そのものという程にはなかなか成り
得ないのです。大調和精神というのは、何にもまして得難い精神なのです。
そして、この大調和精神に徹しない限りは、この人類の完全平和達成はでき難いのです。この地
球人類が運命の最後の関門に立って、どうしても自己のものとなさねばならぬのは、宗教精神であ
り、宗教精神の根源である大調和精神なのであります。
113宗教精神と祈り
大調和精神を自己のものとするには
さてこの大調和精神を自己のものとするのには一体どうしたらよいか、ということが問題になっ
て参ります。それには大調和精神を阻害する、自己の業想念と、地球世界の不調和な想念波動を浄
め去らなければなりません。
その方法は只一つ、祈りより他にはないのです。その祈りもロハ一つ、世界平和の祈りより他の方
法はないのであります。他の祈りの方法によっても、個人の救われはできるのですが、地球世界を
取り巻いている、人類の不調和な想念波動を浄め去ることはできません。
地球世界の不調和波動が浄め去られない以上は、どうしてもその波動の影響を受けて、個人の心
も大調和そのものにはなり得ないのです。
これからの政治家は地球世界の不調和な波動に影響されない、真の光明思想家、大調和精神の持
主でなければなりません。そういう政治家はやはり真の宗教者、宗教精神の持主でなければならな
いことになります。
もはや今日の世界は、個人人類同時成道の宗教の道が開かれなければならない時代となっている
のです。すべてが真の宗教精神に目醒めて、一つ心になって地球世界の浄化に努めなければならな
114
い時代となってきているのです。
世界の人の心を一つに纒める宗教、それは一体どのような方法がよいのでしょう。一宗一派に偏
しない宗教の道というのはどのような道がよいのでしょう。その道を知るためには、世界中の人々
の心が一体何を望んでいるかということを確めねばなりません。それは一口にしていえることです。
即ち自己の平安と世界人類の平和であります。自己の全き平安を得る為には、今日のように争いに
充ちた不調和な世界であってはなりません。世界の平和即ち自己の平安に結びついてくるのです。
の
己が幸願ふ想ひも朝夕の世界平和の祈り言の中
であります。
そう致しますと、世界人類が等しく願う宗教の道というのは、世界平和を願う宗教の道というこ
とになってきます。さてその宗教の道に世界人類を結んでゆくには、何といっても一つの合言葉が
必要です。その合言葉を宗教的にもってゆきますと、祈り言となります。
世界平和の合い言葉に人類を結ぽう
その祈り言はどういう祈り言がよいか、それはもう簡明素直に何国人にも何民族にも理解できる115宗
教
精
神
と
祈
り
言葉でなければいけません。そこに必然的に生まれてきた言葉が、16 ‘
1
世界人類が平和でありますように
であります。もうその言葉だけに、神への感謝を加えればよいのですが、それだけでは、自国の
ことや自分たちの祈り言が入っていない、という、不満足な想いがあります。そこで
祖国(日本なら日本) が平和でありますように、とつけ加えるのです。そして、その次に、自分
たち自身の祈り言として、
私共の天命が完うされますように、と加えるのです。そこで最後に、その国、その民族独自の神
の名称でよいから、
神様ありがとう存じます。と祈ればよいのです。これを私は、守護霊様守護神様ありがとうござ
います。としておりますが、これはどのような神様の名称でも、その国その民族のやり易い名称で
よいと思います。
こういう祈り言をすれば、各国各民族の心が知らぬ問に一つに結びついてゆくのであります。ロハ
単にこういう言葉の祈り言だけでもそうなのでありますが、実はもっともっと深い意味がこの祈り
言の中には秘められているのであります。,
それは、この祈り言をすることによって、この地球世界を救おうとして働いておられる救世主の
大光明波動が、この地球界の浄化に大きく働きかけてくれることなのであります。地球人類の平和
の祈りは、救世の大光明に直接つながってゆく、天地を結ぶ光の柱をつくりなすのであります。
世界人類が平和でありますように、と祈った人の体は、もう祈り以前のその人の体ではなくなっ
て、救世の大光明につながった、光明の伝導体となっているのです。その人が自分で意識しようと
しまいとそうなっているのです。
この事実は私の霊覚によってよく判るのであります。私ばかりでなく、会の霊能的な人々にも判
るのでありますし、全然そういうことを知らない霊能者の人たちにも判るのであります。
二つ程例をとってみますと、市川に住む塚本清子さんという人が、或る日八幡さまのお社で世界
平和のお祈りをして、そのまま境内の石段を降りようとすると、そこで易を立てていた老婆が、眼
を輝やかせて塚本さんを呼び止め、
「あなたは今何をお祈りしていられたのですか、あなたの背後には、もの凄い光明が輝やいてい
ます。一度易を立てさせて下さい」
というのでした。塚本さんは、その日は急ぎの用があったので、易はことわって、
117宗教精神と祈り
「私の背後のお光りというのは、守護神さんのお光りなのでしょう」18
1
と軽くいうと、その老婆は、改まった顔になって、
「いいえ、ただ単なる守護神さんのお光りなら、よくみますが、あなたのは、そういう単なる守
護神さんの光ではない。大光明だ」
というのでした、と後日塚本夫人が語られたのでした。
もう一つは、浅草橋に住む山本しかさんという夫人は、夫に先立たれて、常に墓前で世界平和の
祈りをしていました。或る日昔来ていた霊能者が、ひょっこり尋ねてきて、仏前で祈祷をしていた
が、祈祷が終ると、
「今祈っておりますと、御主人の墓がみえました。ところがそのお墓は光り輝いてみえるので
す。そして、その光明はその周囲の墓の方まで照り輝やかせているのです。不思議なことです」
と、感嘆した声で、そういうのでした。
と山本夫人は嬉しそうに報告にきました。この山本さんは世界平和の祈りによって、二度も死期
をまぬがれている人なのです。
宗教精神を日常の行為に現わす祈り
このような例は、他にもいくつもあるのですが、世界平和の祈りというのは、凡夫がいつの間に
か菩薩行をしている、という工合に自分が気づかなくとも、その人の体を通して救世の大光明が、
その人に縁ある人や、縁ある土地に光を送っていることになるのです。
非常に短気な人が柔和になったり、心の狭い人がいつの間にか、調和した人格の人になってきた
りするのは、この世界平和の祈りの特徴ともいえるのです。
ですから、この祈りをしていますと、いつの間にか、宗教精神が自然と行為に現われてきて、調
和した愛深い人になってくるのです。この世界平和の祈りの教えの中には、何もの何ごとにも把わ
れることのないように、という心遣いがしてありまして、これが、消えてゆく姿という教えとなっ
ているのであります。
消えてゆく姿、という言葉は、他の宗教のように、何してはいけぬ、そういう心ではいかぬ、と
いうような、戒あの言葉ではなくして、すべてを赦す、赦しの言葉となっているのです。
人間の心というものはおかしなもので、何をしてはいけぬ、といえば、その、何をしてはいけ
ぬ、という言葉に把われてしまって、心の自由を失ってしまうものなのです。こうしてはいけぬ、119宗
教
精
神
と
祈
り
ああ想ってはいけぬ、ということは確かに為になる戒めには違いないのでしょうが、改めてそうい
われると、その戒めに心が把われてしまう、という程、人間の心は把われがちな波動をもっている
のであります。
と
ですから私の教えは、そうした把われの想いを一切すっぱり解きほこしてしまうために、善いこ
とも悪いことも、病気も不幸も災難も、人の想いも自分の想いも、すべてその人々の本心開発のた
めに、過去世からの業因縁波動を、神の慈愛の光りが消し去って下さる作用なのだから、そうした
現われの姿は、すべて消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中に投げ入れてしまいなさい。
と説くのであります。私の教はこの点が大事なのでありますから、毎日のようにこの真理を説い
ているのです。真の宗教は、人の想いをどこにでも把われさせてはならないのです。人間は本来、
自由な生命の動きによって完成されてゆくのですから、その生命の自由、心の自由を縛るような教
えをしては、折角の宗教の道に曇りができてしまいます。
老子の偉大さは、生命の自由性を縛ばらぬ教えにあるのでして、私が老子講義を書いたのも、こ
の辺の真理を判って貰いたいためなのであります。
例え如何なる霊能力神秘力を持っていても、人の心を把われに導くような現わし方をするなら
120
ば、その能力は、大きなマイナス面をもっているといわねばならないのです。真の宗教は把われを
放って、宗教精神を日常の行為に現わさしめるところにあるのです。
121宗教精神と祈り
122
神は沈黙してはいない
神は黙っているか
毎日新聞の宗教欄に作家の遠藤周作氏は、ベルナスの小説「田舎司祭の日記」をひいて、なぜ神
は黙っているのか、と問を提起しています。
つめたい霧雨のふる丘からみすぼらしい青年が足もとの村を見おろしていた。村は貧しく、小さ
かたま
い。家畜小屋のような農家が雨にぬれて、塊って、震えていた。
青年は学校を終えたばかりの神父である。そしてこの寒村のふるい教会に働きにきたばかりだっ
た。彼は今日から自分がこの村で果たす使命を感じながらも、それにおびえているのである。
この若い神父は、我々と同じようにごく平凡な人間だ。才能もなく頭もそんなによくはなく、そ
の上、胃弱ときている。
毎日の神父としての仕事がはじまった。だが、彼が善意をもって村のためにやろうとしたこと
は、一つとしてウマくゆかない。だれもが彼の話をきこうとしないし、時には白い目でみているよ
うだ。神父はこの村のいたるところに、生活の貧しさと心の悲惨とをみつけるが、彼の手はそれを
助けられなかった。彼が救おうと努力した孤独な老人も女性も、かえって逆に自殺してしまう。神
父でありながら、彼はこの世界で全く役たたずの、無用な自分にみじめにも気がつくのである。
胃がひどく痛んだ日、医師を訪れた彼は、自分が胃ガンであることを知る。死の不安におびえな
がら、この若い司祭はむかしの友人をたずねるが、そのまま屋根裏部屋で友人の女にみとられなが
おんちよう
ら死んでしまう。息をひきとる時、彼はひとこと「すべては恩寵だ」とつぶやいた。
遠藤氏は小説のあらすじをこのように書かれ、更にこう述べています。
1 この小説は現代で聖者を描いた傑作だといわれている。しかしこの神父の物語は、彼が現実人
生では神から助けてもらえなかったように見えるからだ。神父としての彼の仕事は、外見どれも失
敗する。救おうとした人間たちは彼を裏切り、彼自身も胃ガンで死んでゆく。神は彼を助けようと
しない。神は彼の日常生活や現実の人生ではつめたく黙っているようだ。神は沈黙している1 更123神
は
沈
黙
し
て
は
い
な
い
に言葉をつづけ、24
1
1 なぜこの世界にはわけのわからぬ残酷さがあるのか。不正義が正義を圧倒するのか。なにもし
なかった子供が苦しんで死なねばならぬのか。その時、神はなぜ黙っているのか。そして神が黙っ
ているように見えるため、人は神はないといい、あるいは神を捨ててゆくーと書いています。そ
して重病で苦しんでなくなったある作家の遺稿をあげて、神の沈黙をどう考えたらいいか、再び問
を出しています。
遠藤氏自身は亡くなった作家のように、神が黙っているとはいわないのですが、氏自身も断言出
来ない問題として、第一に多くの宗教者のいう、一種の試練説で説明しようとします。つまり苦し
みや不合理は、我々を通俗的な生から、より本質的な生に目覚めさせ、近づけ、我々の知恵を浄化
する。神の働きかけはそこにある、という説明です。しかし氏には充分納得がいかないようです。
第二にはキリスト教的解釈だが、と断って、神が人間の自由を尊重する、という考え方をもって
来ています。これはいかなる状況にあっても、人間は根源的な自由だけは奪われないという前提に
立つものだそうです。そして、アウシュビッツ収容所という我々の想像を絶する悲惨な世界でも、
今日これを食べねば、明日の強制労働にたえられぬとわかっていても、自分のパンを病人に与えた
人たちがいる。彼らは愛と自分の死とのどちらを選ぶか、という自由の岐路にたって、愛を選ん
だ。神は人間にその自由の力のあることを知っていたが故に、沈黙していた、というわけです。氏
はこの説明でも満足していません。
第三の説明はどうか、神は黙ってはいない。人間内部の深層意識において、人間は神を無意識で
はあるが求めている。神は人間を誘い語りかけている、というのです。
これだけの説明では皆釈然としないと思います。この問題について宗教者は皆悩んでいると思い
ます。五井先生の明解なるご説明をお願いします。
神の存在
編集部から、前記のような質問がきていますので、この問題を中心にして、話をしてゆきましょ
う。
はじめに、小説中の神父の話ですが、実際にも、あのような立場で、あのくらいの心境でいる神
父さんがたくさんいるのだと思います。神の愛を信じながら、現象的には何等神の恩寵を受けられ
ぬような形で死んでいった、神父さんのことを思うと、小説を読んだ人々の心は哀れさで一杯にな125神
は
沈
黙
し
て
は
い
な
い
ったことと思います。しかも神父さんが死の間際に、すべては神の恩寵だと、つぶやいた、という
に至っては、思わず涙ぐましくなります。
遠藤氏のいうように、この作品では、神はこの神父に表面的には救いの手を差し伸べてはくれな
かったようです。しかし遠藤氏は、次の或る作家が、神は人間の不幸に沈黙している。だから私は
神と挟をわかった、といって死んでいったのに対しては、神が人間の不幸を黙ってみていることを
その作家のように肯定する立場には立っていないようにうけとれました。
遠藤氏は神の存在を信じながら、しかし、この人生に起っている多くの災難や不幸を、何故神は
何とか救って下さらぬのか、と不審を抱いています。と同時に、いやいや神は何らかの形で人類に
救いの手を差し伸べていて下さるのだ、と神の恩寵を信じたい気持も働いていて、自身の答えが出
ないまま、苦慮している様子が、その文章からありありと伺えるのです。
実際には、この世には不幸災難が多すぎますし、人類は常に不安恐怖におびえながら、生活して
いるようなものですから、神の存在を否定したり、神の恩寵を信じなかったりする人々が多いの
も、無理からぬことに思われるのです。
ですから、自分は多少の信仰心はありながらも、人を説得する言葉を知らないで、却って自分の
126
心まで悲哀に沈んできてしまうような人も多いわけなのです。
宗教の世界というのは、全く奥底の知れない程、その信仰の段階が数多くありまして、”私は信
仰しております”といったとて、どの程度の信仰であるかが、問題になってくるのです。
小説中の神父さんのように、現実的には伝道生活に失敗したように見えますが、最後にこれが恩
寵だ、とつぶやいて、そんな苦しい日]に会いながらも、最後まで神の大愛を信じつづけていた、と
いうのは、その信の心が、その神父の内部から起った、神の声であり、本心の開発であったので、
この神父は立派に救われているのであります。そして、それと対照的なのは、或る作家の、最後に
神から離れていった態度です。
神はすべてのすべてであり、一人一人の人間の本心として、輝きわたっていて、その人から離れ
得べくもない存在なのでありますが、自らが出している業想念の黒雲で、その光明を蔽ってしまっ
て、神は存在しない、と自分自身が神の光明に背をむけてしまったのでは、その人が再び神の方に
想念をむけるまでは、永劫に神の存在はその人には無いことになるのです。
神の存在は厳然として確たるものであることは今更いうもおかしなものなのですが、自分たち
が、その神の生命力によって生かされていながら、物質的な肉体波動の粗雑な波に左右されて、微127神
は
沈
黙
し
て
は
い
な
い
妙な根源のひびきを離れてしまい、次第に神の存在が判らなくなってしまったのが現代の肉体人間281
なのです。
ところが、この現実の五感で見ている世界は、もうすでに神のみ心から離れた想念波動が充ちて
いまして、不幸や災難の波が一杯になっています。その渦中に入っていますと、どうも神様が愛な
ら、何故こんな人間の苦しみを取りのぞいてくれないのだ、神は全智全能なのだから、取りのぞこ
うとすればわけがない筈だ、というように、宗教信仰者までが、不平不満の想いを発するようなこ
とになるのです。その結果が、或る作家のように死の間際で、神の存在を否定してしまうような、
愚かしいことをしてしまうのです。
神に対する観念
何かの物を得ようとするのには、そこまで手を差し伸べなければ、その物が得られません。神も
そのようなもので、しかも姿形なき、根源の能力です。ですから、人間が肉体の手を差し伸べても
駄目なのです。姿形なき存在者にこちらも姿形なき心を差し伸べなければならないのです。その心
をどう差し伸べたらよいのか、というと、先ず、日々あらゆる生命が生かされていることへの感謝
の想いとして差し伸べ捧げるべきなのです。
小説中の神父さんのように、苦しんで死ぬことさへも神の恩寵なのだ、という感謝の想いなので
あります。ただ、この神父さんは、聖者というにはあまりにも遠い、これから悟りに入ろうとして
の修行最中の人であったのです。
聖者といわれる人は、神と人間との関係をもっと直接に把握していまして、もっと明るく堂々と
していて、光明心が自ずから人を導き治めるという風格ができている人なのです。
しもべ
誤ったキリスト者が持っている、神と人間とを離してしまう、あの罪悪感、人間は神の僕である
式の、神と人間との親近感を失なわしめる考え方には、私は全く同感できないのです。
神はあくまで、人間の親であって、人間を下僕視する神はないのです。神と人間とは親子でもあ
り、師弟でもある、といういい方なら、もっとも神と人間の関係をいい現わしている適当な言葉だ
と思います。
神といっても、私のいうのは、唯一神のみを指すのではありません。神々、つまり守護の神霊の
ことを指していうことが多いのであります。
いつも申しますように、宇宙神として唯一絶対なる存在者としての神は、人間の生命として、そ129神
は
沈
黙
し
て
は
い
な
い
のまま私たちに分けられて働いているわけですから、私たち肉体人間側が、何の業想念も欲望もな30
1
く、真っすぐそのまま内面の力を出し得さえすれば、宇宙神即肉体人間として存在できるわけなの
ですが、宇宙神の微妙極まりないひびきと、肉体人間としての私たちの粗雑な波動とでは、あまり
に差があり過ぎまして、容易なことでは、一つに真っすぐにつながるわけにはゆかないのです。
そこにこの世の不幸災難の現われがあるわけなのです。私は私の修行によって、その真理をよく
知っておりますので、宇宙神と肉体人間との間をつなぎ、肉体人間の霊性を高めて下さる存在者で
ある、祖先の悟った人の霊である守護霊と、直霊の救済の光明として分れて働いている守護神との
存在を、常に常に説きつづけてきたわけなのです。
宇宙神と肉体人間という関係だけでは、この世の存在は保ちません。神の根源的な微妙なひびき
と、物質地球界の波動とでは、あまりにそのひびきに差がありすぎるので、うまく調和することは
できないのです。そこでその中間のつなぎのひびきとして、守護の神霊の存在が絶対に必要になっ
てくるのです。いいかえれば、守護の神霊の働きなくしては、この地球界はすでに遠い過去におい
て滅び去っているのであるということなのです。
この世はすべて波動である
人間でも動植物でも、こうした形の世界に現われ出でるまでには、種々な波動の変化をもって現
われてきているのでありまして、単に肉体人間として、母親の胎内からぽっかり生れてくる、とい
った単純なものではないのです。
人類などは、その波動の変化のいちじるしいもので、微妙極まりない波動から、肉体的な粗雑な
波動になるまでの、何段階もの波動の世界を通って、現在この地球界に肉体人間として現われてい
るのであります。
唯物論者などというものは、実に幼稚な頭の持主たちでありますので、単に一つの現われに過ぎ
ない、肉体波動の人間だけを把えて、それをあたかも人間のすべてのように思いこんで、いたずら
に騒ぎ廻っているのですから、真理を知っている者からみると、実におかしなことでもあり、困っ
たことだと思うのです。しかし、そうした人たちも、やがて次第に成長してきて、人間は各種の異
なる波動の世界に同時に生活し得るものだということを知ってくることでありましょう。
これを昔式の宗教的にいえば、人間は肉体界に存在しながら、同時に、幽、霊、神という各界に
同時に生きているのだ、ということなのであります。131神
は
沈
黙
し
て
は
い
な
い
人間は死んでからあの世に行く、と今日までは思われてきていましたが、実は、肉体に存在する32
1
ままで、いつでも、神界、霊界、幽界という各界にも存在しているので、改めて死を恐れたりする
ことはないのです。そのはっきりした一例は、睡眠ということであります。睡眠中のことは誰れも
知らないようですが、その間その人は、その人に一番適当した階層で生命磨きをやっているのであ
ります。そして、その消えてゆく姿の面が夢として現わされてくるのです。時折りは、その階層の
ことをそのまま夢に見たり、未来に起ることを、見せられたりする場合もあるのです。
睡眠の場合は、かなりはっきりした例ですが、その他日中でも、自分で知らずに二重三重の波動
の世界で自分たちは生活しているのであります。この事実はやがて科学的にも知らされてくること
でありましょう。
神は常に答えつづけている
神の存在というのは、実に素晴しいものであって、何ともかともいいようのない、大計画の下に
大宇宙の運行がなされているのです。そして、人類はその中心的存在として、あらゆる星々(地球
もその一員) の中で、大神様の心を心として、計画通りに働きつづけているのであります。
ところが、トンネルを掘れば、掘る人々が泥まみれになってしまうと同じように、人類が物質波
動の地球世界に神の微妙な波動を融合させるために、どうしても一時は、トンネル掘りの人々のよ
うに、物質波動で霊波動、神のひびきが蔽われてしまいます。神の微妙な波動が、はっきり地球世
界に現われはじあようとしている今日では、急速に、その物質波動が霊波動に還元しようとしてい
カルマ
る、いわゆるトンネルの泥を落すように業が人類の不幸災難と現われ消えてゆこうとしているので
す。人類の、この不幸災難は、神の子人間の真実の姿が現われるための、消えてゆく姿なのであり
ますから、消え去ってしまいさえすれば、その後には、微妙な神霊波動がこの世界にもそのまま働
くことができ、光明燦然たる大調和した神の国が、この地球界にも現われ出でてくるのであります。
ですから、如何なる苦悩も、神の微妙な波動にこの世が変化するまでの辛抱なのでありまして、
永劫の苦悩というものはないのであります。その真理を知らない人々が、その苦悩の中で、只、い
たずらに、もがき悲しんで、心の波を更に粗雑な汚れたものにしてしまうので、不幸や災難のくり
かえしを行なう恰好になって、いつまでも、人類の苦悩が消えない形になっているのであります。
そして、現象的にみれば、人類はすでに救いようのない泥沼にもがいているようにみえてくるの
です。米ソの原水爆競争など、実にその最たるものです。しかし、大神の救済の光明である、守護
133神は沈黙してはいない
の神霊の大活躍は、今や救世の大光明となって、先きに神霊化してしまった金星などに住む、宇宙
天使群と協力して、この地球界の救済に専念しているのであります。
その事実を私は身をもってよく体験しているのです。神は常に人闇に応えつづけていて下さるの
です。それを人間側の心が澄んでいないために、判らずにいるだけなのです。
神は人間内部に厳然として存在すると同時に、外面的にもいつも救いの手を差し伸べているので
す。
134
霊能より霊覚へ
この世の人間の中には、肉体的な物質波動だけしか感じないような人もあれば、幽界波動を多く
感じる人もあれば、神霊波動を常に感受出来得る人もあります。
物質的に現われたもの以外には、何ごとにも興味のない人々のことはさておいて、肉体界以外の
微妙な波動を感じ得る人の中にも、何種類もあるのであります。
たた
昔 の言葉に、さわらぬ神に崇りなし、という言葉がありますが、少し神仏詣りをしたために、幻
覚症状をきたしたり、幻聴になったりして、いたずらに物事におびえたりするようになる人や、今
まで温厚だった人柄が、急に、人の欠点をつきさす言葉を吐いたり、やたらに予言めいたことをい
ったり、権柄つくになったりして、どうも、それまでより人柄が悪くなった、というような、宗教
生活に入ってから人間が下等になってきた、と他から嘆かれる場合があります。
又、過去において、自分が霊能的になって失敗した経験をもつ人や、周囲に霊能的な嫌な人をみ
ている人たちは、立派な霊能や霊覚さえも否定しがちでありまして、神と交流した話や、見神の
話、霊界との交渉などを、全部忌み嫌ってしまいます。あまり霊能的な変な人に接しますと、そう
した気持になるのも無理もないとは思いますが、この地球界が立派に平和になるためには、どうし
ても、眼に見えぬ世界、いわゆる神霊の世界の援助がなくては出来ないので、さわらぬ神に崇りな
し式ではなくて、真実の大神や神霊に、身心をもって、ぶつかってゆく勇気がなくては駄目だと思
うのです。
現今では、神霊との交流のない、単なる宗教理論などを振り廻わしていても、どうにもならぬ程
の時代になっているので、釈尊がどういうとか、キリストがどういうとかいうことより、自らも行
なうことができ、一般大衆にも行ずることのできるような、宗教の道が必要なのであります。
135神は沈黙してはいない
霊性を高め、自己の生活を向上させる祈り
只、神様仏様、何々様を拝んでさえいればそれが信仰だ、などと思っているようなことでは、変
な霊能や、嫌な人格になりかねませんが、真実の神への道を求めつづけていさえすれば、その人
が、人に忌み嫌われるような人格になるわけは絶対にないのです。何故ならば、神は絶対なる愛で
あり、人聞は神の分生命なのですから、神と真っすぐつながっている人が、愛にもとる行為の人に
なるわけがないからです。
愛の行為をしている人を、人々が忌み嫌うわけがありません。愛はすべての人の心の渇わきを癒
すからです。神を真実求める心は、先ず、自分という想いを神のみ心の中にお還えししてしまうこ
とからはじめなければなりません。今私たちが、自分と呼んでいる者の中には、神の生命そのまま
に生きている善なる美なる真なる面もありますが、自己保存の本能からくる、自己本位の名誉欲、
カルマ
権威欲、色欲、金銭欲等々、欲と呼ばれる様々な、業想念的な想いが同時にあるのであります。こ
うした業想念は、神の世界では不必要なのです。この世に神の国をつくり、自己も神仏の子として
立派な人格を現わそうとするからは、そうした不必要なものを一切捨て去らなければならないので
す。
136
ところが、なかなかそう容易には、そうした業想念は捨て切れません。そこで、そこに祈りとい
うものが必要になってくるのです。神のみ心の中に、自分を一切投げ入れて、改めて神のみ心だけ
の自分として生れ更って日々の生活をしてゆく、ということが、宗教信仰者の生活であります。
一瞬一瞬の生活を、常に神から頂いてゆく、という心構えが、すべてへの感謝行ともなってゆく
わけですが、そうなるためには、先ず業生の自分を消してしまう祈りが必要なのであります。
その祈りは、各宗教宗派によって種々とありましょうが、私は今日の時代に一番ふさわしく、一
番誰にも反感を持たせぬ祈りが、世界平和の祈りだと確信しているのであります。
世界人類が平和でありますように
日本(祖国) が平和でありますように
まつと
私達の天命が完うされますように
と祈って、守護の神霊への感謝で終る、この祈りごとは、容易でしかも、非常に価値のある祈り
言なのです。
世界人類の平和を祈ることが、同時に自己の霊性を高め、自己の生活を向上させる祈り言とな
る、この祈り方は、今日でなくては、出ない祈り言だったのです。
137神は沈黙してはいない
地球世界が、今や危急存亡の時、人類の運命を等閑視した、自分だけの宗教などというものがあ
ってよいわけがない。すべてが神のみ心の中で一つになって、地球世界の平和達成の為の働きとな
るのでなければ、この世に生を受けてきた生甲斐がありません。
地球人類の平和達成は、宇宙人類すべての大調和への最大の行為です。自分たちが、この地球界
に生を受けたということは、正に、世界平和達成の一員となるための天命によるのであります。
宇宙の大調和、地球世界の平和達成、自己の本心の開発、すべてが一つの祈り言によって成就す
るのです。それが世界平和の祈りなのです。世界平和の祈りの世界には、霊的な障りも、ゆがんだ
霊能もありません。恐れず惑わず、日常生活の根抵にしっかり世界平和の祈りを植えつけて、私た
ちは生きつづけて参ろうではありませんか。
138
肉体人間観を超えよう
肉体身だけが人間の全存在か
私は少年の頃は、自然も好きでしたが、人間も実に好きでした。人と人との交わりというもの
が、何ともいえず快いものに思われていたのでした。
ヘヘへ
私の住んでいたのは下町だったので、小さな家が雑然と建っていて、開けっぴろげな心のおかみ
ヘヘヘヘヘへ
さん達が、好き放題なことをいい合い、笑い合っていたりしていました。そうしたおばさん達が、
どうしてか私をとても好いてくれて、大人の仲間に入れて、大人並みの話をきかせてくれたもので
した。
私はそんな大人の話を無心に聞いていたものでしたが、話の内容などは毛頭心に残らず人間の生139肉
体
人
間
観
を
超
え
よ
う
命と生命が交流し合っている、和やかな美しさだけを心に残していたのでした。そして、いつもら
に喜びが充ちていたようでした。
そんな少年が次第に青年になり、社会に出るようになってきますと、急に人間の世界の虚言や虚
飾や、様々な汚れに眼がとどき出してきて、自分の正義感が、常に自分の住んでいる世界を打ちこ
わそうとして心の中を暴れ廻わり、人間世界の悪をしっかり心に掴んでしまっていたのでした。
人間というものは、実にけがらわしい、嫌なものだ、という気持が、人間の善性を認めている気
持と、交互に私の心を占領しているようになっていました。そんな気持が、真実の人間性というも
のを、否応なしに、私に追究させてゆき、罪悪深重の凡夫としての人間と、神の子としての人間と
の両面を持つ人間というものに突き当っていったのでした。
人間とは果して如何なる存在者なのであろうか、私はその問題に一心かけてぶつかってきたわけ
なのです。そして現在では、消えてゆく姿の人間と、実在としての人間、つまり神の子人間との両
面が、世界平和の祈りという祈り言の中で、すっかり融け合って、永遠の生命のよどみない流れと
して、大らかなひびきを日常生活の中で、かなでられるようになってきたのです。
人間というと、この五尺何寸の肉体の姿をすぐに思い浮かべます。人間とは肉体身なり、と思っ
140
ている人が、かなり多くあるわけなのです。かなりどころではない、大半の人々がそう思っている
かも知れません。
人間は肉体身そのものだ、と思っているような思想では、この人類世界は、もうとても永持ちは
致しません。やがては自らを自らの手で壊滅させてしまうに決っているのであります。
私が常に口をきわめて申しておりますように、肉体身とは人間の一つの現われにしか過ぎませ
ん。現在の科学もすでに証明しておりますように、物質はすべて波動の現われにしか過ぎません。
肉体も一つの物質であって、やはり固定した確固たる存在でないことは、明らかなことです。あら
ゆる物質が変滅すると同じように、肉体も変滅する存在です。
そんな変滅してしまう肉体身だけを人間の全存在だと思っているような人類では、とても永続き
の出来るわけがありません。変じ滅してしまう原則の下に存在しているようなものが、永遠の生命
と一つのものとは到底思われないからなのです。
人類が、そうした変じ滅してしまうような人間観から、解き放たれない限りは、その観念の現わ
れとして、やがて滅亡してしまうことになるのです。
人間は誰も彼も、自分が滅びてしまってよい、と思っている人はないのです。自分を滅亡させま141肉
体
人
間
観
を
超
え
よ
う
い、滅びさせまい、という気持が、種々とものを考え、様々な努力をして、今日までの人類を生か42
1
してきているのであります。
そうした心が、文明文化を生み育て、科学の発達を遂げさせているのですが、この人類を滅亡さ
せたくない心というのは、一体どこからくるのでありましょう。それは、永遠の生命のひびきが、
おの
自ずと人間各自の心にひびき、人類の心として種々な働きとなってきているのであります。
人類は永遠の生命の中心的働きとしての現われなのです。ですから、永遠の生命観から離れた、
単なる肉体観、人間は肉体身なり、というような、浅はかな考えでは、人類は滅びるより仕方がな
い、ということになるのです。
人類の心が永遠の生命という観点から離れた、単なる肉体人間観になった時、人類は自我欲望と
いう自己保存の本能に躍らされて、敵をつくり、武器を持って立つ、ということになるのです。そ
の最たる現われが、米ソの核兵器競争なのであります。
生命の根源は一つ
相対的な人間というものは、過去世からの因縁で、悪い面や嫌な面が見えてきたりはしますが、
私が少年の頃に直感していたように、お互いの生命の流れは、調和したひびきをたてて交流し合っ
ているのです。生命の世界では、如何に相対的な争いの想いに充ちていても、一つの流れとして、
快いひびきをかなでているのであります。
ですから表面に見えている、如何なる悪も誤った想念も、すべては肉体人間観にまつわる消えて
ゆく姿であって、永遠の生命は、宇宙に満ちた快い光明として光り輝いているのです。
すべては大生命(神) の分生命として、永遠の生命の画き出す、宇宙図を各自のタッチで画きつ
づけているわけなのであります。人間はお互いの肉体身と分れているように見えますが、実は、地
球世界に神のみ心を顕現する便宜上、そうした姿で、お互いの天命を完うし合っているわけなの
で、元は大生命の中で、一つに交流し合っているわけなのであります。
私たちが現在こうして持っております肉体身は、永遠の生命を離れた肉体身として存在を許され
ているのではなく、永遠の生命の働きの一筋である分生命としての自分が、地球界物質界での働き
やすい同じような物質波動として、肉体身を現わしているだけなのです。
人間が肉体身だと思っていれば、どうしたとて、相手と自分を全く違ったものと思ってしまいま
すし、お互いの生命の交流というものを阻害しやすくなります。そうしますと、自他の利害関係の143肉
体
人
間
観
を
超
え
よ
う
相違では、争いもしかねなくなり、憎み合う状態も起ってきます。4
1
人間は一つの生命から分れてきている者である、ときかされても、自分の想念が、自分という肉
体観念に把われているようですと、生命の根源は一つのものという真理が、実際の生活には生かさ
れてこないことになります。
肉体の人間の眼には、生命の流れとか、心のひびきとかいうものが見えるわけではありません。
そうしたひびきを感じるのは、肉体身そのものではなくて、生命波動そのものが感じとるわけで
す。相手の心のひびきを感じるのは、やはりこちらの心が感じるのであります。そのひびきは或る
時は、肉体的行動として伝わってくるかも知れませんが、肉体的行動として伝わってきても、相手
の心のひびきの真意を知るのは、やはりこちらの心が感じとるのであって、肉体身にまつわる触覚
で知るのではありません。
ゆだ
私のように肉体身をすべて神のみ心に託ねつくしてしまった者にとっては、肉体身の存在の有無
にかかわりなく、相手の心のひびきを知ることができるのです。相手がそこに肉体身として存在し
ようが、遠方の地にいようが、そんなこととは関係なく、その人の心のひびきを知り得るのです。
人間はひびきである
それはどうしてそうなるかと申しますと、人間の存在というものは、その場所に肉体がいなけれ
ば、その人が存在しない、というものではなく、そこにその人の肉体身がいるから存在していると
いうものでもなく、そこにその人の心のひびきが伝わってきているか、きていないかによって、そ
の人がそこに存在する存在しないということになるのです。
これは普通の人にはむずかしいいい方になりましたが、その人の心がそこに無ければ、その人の
肉体身がそこにいてもその人がそこにいないのと同じことである、ということなのであります。
もっといいかえて申しますと、多勢の人が同じ部屋にいたとしまして、その各自が、お互いの家
人や知人のことを思いつめている時に、その人の心はその家人や知人のところにいるのでありまし
て、その部屋には単に形だけが存在しているわけで、その人の実体は、家人や知人のところにいる
ことになるのです。
こういうことは、科学面の発達によっても次第にわかっては参りますが、人間の本質は心そのも
のにあるので、心が生命を自由自在に働かせて真実の人間世界を創りあげてゆくわけなのです。
現在の地球人類というものは、まだ真実の人間が現われきっていない姿でありまして、人間とは145肉
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人
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超
え
よ
う
9
肉体身というような固定したものではない、ということが、電波や光波の発見発達によりまして、
だんだんと判らされてゆく過渡的な存在なのであります。
そこで私たち宗教者の役目としては、そうした科学の面からでなく、直覚的な面から、人間は単
なる肉体身ではないのだ、ということを人々に知らせてゆかなければならないのです。
146
肉体人間観から永遠の生命観へ
人間は肉体身だという観念をいちはやく、超えなければ、人類は必ず滅びてしまうからなので
す。何故ならば、相対界に住んでいる限りは争いはつきぬし、永遠の生命から離れた人間界は、そ
の想念の通り、限りある年限で終ってしまうからなのです。人間はどうしても、肉体身という限り
ある人間観でいてはならないのです。肉体人間観では、自己を滅ぼすと同時に地球人類をも、永遠
の生命から切り離してしまうことになって、地球世界は滅亡してしまうのです。
自己を救い、地球人類を救うもの、それは、人間観の転換による他はありません。有限の世界観
から無限の世界観に、肉体人間観から永遠の生命の人間観に、地球人類の心を向け変えなければい
けないのです。
自分だけが善ければよい、自国だけがよければ、自民族だけが、というような想念は、すべて、
肉体人間観からくるのであって、永遠の生命の流れとして、働きとしての人類なのだ、という観点
た
に起った人々には、そうした利己的な想いはないのであります。
現在の日本国は、単なる一小国の日本ではありません。地球人類に永遠の生命を輝やかせる為の
大きな一つの役目を持った日本国なのであります。そうした真理を心身に感じた愛国心で事に当ら
ないと、日本を四分五裂してしまいます。
わけみたま
人間は、神の分霊であり、大生命の分生命であります。神はすなわち大生命であり、神の子人間
すなわち分生命であります。宇宙に充ち充ちている生命の光が、お互に交流し合い和合し合って、
神の大交響楽が、この地球界にも誤りなく演奏せられるのであります。
七十年八十年で死んでしまうような肉体人間観では、この神のオーケストラの素晴しい大光明に
接することはできません。大神様は現在各守護神と分れ、そしてまた、救世の大光明として、一つ
の働きに結集され、地球人類に永遠の生命を輝かし出そうとしておられるのです。
世界人類が平和でありますように
私たちの世界平和の祈りは、こうした大神様のみ心の下にはじめられた祈りなのです。
147肉体人間観を超えよう
病気も不幸も災難も、自他の想念行為の誤りも、みんな、神のみ心を離れていた想いの消えてゆ
く姿として、改めて神のみ心に感謝しつつ、世界平和の祈りの大光明の中に入れてしまうのです。
そこに自ずから新しい生命観が湧きあがり、知らぬ間に、肉体人間観を永遠の生命観に切り替え、
各自の本心が自然と開発されてゆき、日常生活がそのまま生き生きとしてくるという、最も容易な
る世界人類救済の道がひらかれてゆくのであります。
148
生命の流れを滞らせてはならぬ
とどこう
生 命の流れというものは、滞らせてはいけない。生命の流れが滞るところに病気や不幸や災難
が現われてくるのです。生命の流れを滞らせぬためには、兎や角想い迷い、心を痛めつけることが
一番いけない。それは善悪にかかわらずいけないのです。そうした生命の流れをとどこうらせる想
念行為が、ひいては世界人類の運命を悪化させることになってしまうのです。
この世の善悪に把われて、生命の働きを損ねては、折角その行為が善意から生れたものでも、マ
イナス面の動きとなってしまうのです。老子の在り方を観ていると、実に真の生き方がよく判りま
す。自由無擬にして無為、老子の存在には、只感嘆の声あるのみです。
こうしよう、ああしよう、と自分の頭脳で思っているうちは、たいしたことは出来ない。といっ
ても、善いことをしようと思ってすることは、しようとも思わない連中より、はるかに善いにはき
まっていますが、しかし、その善が宇宙の運行の、絶対善から観ると、全く小さな小さな善という
ことになります。
ですから、自分の頭脳でやろうと思った善行為を、もう一度、神のみ心の中にお還えしして、世
界平和の祈りの中から、今度は自然に出てくる善行為にしてゆく、という方法にすると、必ずその
人の行為が生きてくると思います。
自分の頭脳だけで考えた善行為は、一方では成程善いことだと思われても、一方からは反対の眼
でみられるかも知れないのです。自分の頭脳で考える想いを、一度祈り言を通して神様のみ心の中
に入れ切ってしまうと、同じことをやるにしても、神我一体の行為として、右をも左をも、誰をも
生かし、宇宙運行の大きな流れに沿った善行為となってくるのであります。
真の自由人
思想上の行為などは、尚更そうでありまして、自分たちが良し、とする思想が、他のグループか
149肉体人間観を超えよう
ら悪し、とみられることは往々あるのです。ですから、単なる肉体頭脳の善悪観というものは、危50
1
なっかしいものなのです。
日蓮上人など、その人自身は立派な人でありながら、あまり極端に他宗を罵った為に、その想念
ばり
の流れだけを現在の頭の悪い人たちが受け取って、他宗を罵署罵倒して、自宗に信者を引き入れよ
うとしています。宗教とは大調和することが最大の目的なのに、その最も根本の目的に全く沿わな
い教えにされてしまっては、霊界の日蓮上人も困り切っていることでありましょう。
同じようなことは中国の孔子の場合にもいえます。
がんめいころう
孔子の説いた教えを、その型通りに当てはめようとした人々の頑迷固随さは、生命の流れの自由
自在性を縛ってしまって、型にはまった不自由なやり切れないような人間をつくり出してしまった
こともあります。
そこで老子のように、道に把われてもいけない、名に把われてもいけない、すべての把われから
みずか
自らを解放せよ、といいたくなるのです。この自由性は、心の世界の自由性でありまして、形の世
界だけの自由を叫んだとて、真の自由を得ることはできないのです。この点、現代の自由主義者と
いうのと、老子などの自由無擬とは全く違ったものなのです。
如何なる形の世界に住んでいても、心は自由自在というのが、悟りの根本なのでありますから、
どうしても、肉体観を解脱しなければ、真の自由人になることはできないのです。
実際この肉体というものは、無くてはこの世で用が足りないけれど、こうしてここに現われてい
ると、何かと面倒なことの多いものです。私など、私の肉体などというものは、私個人としては無
い方が実に気楽でよいようなものですが、この肉体が無いと、世界平和の祈りのリーダーシップが
とれないので、世界平和の祈りの運動の中心の形として、ここに存在しているわけなのでありま
す。
形の世界のことばかりに心を把われていますと、肉体身の名ということを大事なように思い、肉
体身の名声を挙げようと、汲々としていることになるのです。肉体身の名がいくら挙がっても、そ
の実が伴わなければ何にもなりません。実があって名が挙がらないのは結構ですが、名だけ挙が
って実がないと、当人にとっても、その周囲にとっても、そのやりくりに困惑しつくすことになる
のです。
そういう人やそういう会を私は沢山知っております。いたずらに会員を増やし、やたらに大きな
建物を建てても、その中心者の実力がなかったら、いつも心はやりくり算段で明るむ時がないこと151肉
体
人
間
観
を
超
え
よ
う
と思います。
152
誰にも天命がある
人間には天から与えられた定まった天命というものがあります。どんなに努力しても、どんな方
法をとっても、その天命以上の行為をすることはできません。天命以上の仕事をしたように見せよ
うとすると、自ずからそれが虚勢となり虚飾となって、そこに嘘の生活がくりひろげられてゆきま
す。嘘が嘘を呼び自分で自分の心をがんじがらめに縛ってしまい、ますます虚勢を張るようになっ
てしまいます。
有名になればなる程、身をつつしみ、謙虚な心にならないと、人間は自然と駄目になってしまう
ものなのです。私など有名になろうと思ったこともないし、人にあがあられる生活をしようと思っ
たこともない。ロハ、世界人類の平和の為に、私の生命をおつかい下さいと願って、神様に生命を投
げ出しただけで、そこから現在の世界平和の祈りの運動がはじまっているのであります。
ですから、神様の方から自然と行われてくることを、真直ぐに受けて、日々の行為をしているわ
けなのです。
聖ヶ丘の土地も道場も、最も自然な形で、無理なく与えられ、集ってくる人たちも自然と集って
きて、自然と立派になってきているのであります。私はただ、自然に素直に明るく道を行じていれ
ばそれでよいので、こんな気楽なことはないのです。すべては救世の大光明の素晴しい働きかけが
やって下さる。私はその大光明のみ光りの動きのままに、この現われの肉体身を動かしていればよ
いわけで、神様の方で、お前は救世主だといえば、それでもよく、もうこれまでだ、といえば、そ
れでもよし、といたって呑気なものなのです。
私の中には私という個我は全くないので、神様だけが住んでいらっしゃるのです。神々の集合
所、即ち五井昌久というわけです。ですから、私は世界平和だけを心として生きていればよいわけ
ですが、もうそれさえもなく、只無心に明るく、在るがままに生きているのであります。私の天命
が完うされることは、そのまま世界人類が平和になることだ、と大確信を神様の方から持たされる
わけです。
私が世界平和の祈りの中で、私達の天命が完うされますように、と唱えるようにしているのは、
すべての人々の天命が完うされることと、世界人類が平和になることとは、全く一つのことだから
であります。153肉
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日本の天命が米国の天命が、ソ連の天命が完うされますように、と祈ってもよいわけですが、そ
れでは面倒なので、世界人類が平和でありますように、と祈り、私達の天命が完うされますよう
に、と祈っているわけです。
154
世界平和の祈り一念に結集しよう
– 今や救世の大天使群は、その力を重点的に地球世界の平和達成のたあに行使しようとしていま
す。時はいよいよ熟してきています。あらゆる宗派、あらゆる集会、それぞれ種々の考え方もある
でしょうが、世界人類の平和を念願する想いは全く一つだと思います。小さな枝葉のつまらぬ感情
をさらりと捨てて、世界平和の祈り一念に結集しようではありませんか。くだらぬ枝葉のごたごた
をいっている間に、人類の運命はずるずると破滅の方向にひきずられていってしまいます。
現在の人々が為すべきことは唯一つ、世界人類が平和になりますように、という祈りだけなので
あります。世界人類が平和でありますように、世界人類が平和でありますように、と、私は只、そ
れだけをこの頁一杯に書きつづりたいだけなのです。
皆さんの持っている肉体生活の利害関係に対する関心も業生の面からみれば、よく判ります。判
るからといって、その考えはごもっともと同意ばかりはしていられません。業生の生活に同意して
いたのでは、世界人類は業生の波に呑まれて滅亡し去ってしまいます。
人によると、米国もソ連も、原水爆を使えば自分の国も危いということをよく知っているから、
決して原水爆戦争は起らない、といっていますが、そんな安易な考えはとんでもないことで、何度
びもそういう危険な状態を通ってきているのです。考えてごらんなさい。米国の哨戒機はみな原爆
を積んで飛行しているのですよ。一寸指令が誤っても原爆は落ちるのです。人間の頭は兎角ぼうっ
となりやすいものなのです。
カルマ
ですから、私たちは世界平和の祈りによって、業の波動を光の波動に変えてしまう運動をしてい
るのです。この世はすべて波動の世界なのです。争いの波動を光明波動にすっかり切り替えてしま
わなければ、世界は平和にはならないのです。世界平和を世界がこぞって祈る時、瞬時にして、こ
の地球世界は平和の様相を呈してくるのです。その先きがけの私たちの世界平和の祈りなのです。
世界を光明波動一元にするために、すべての肉体身にまつわる想念を、世界平和の祈りの中に投入
しつくして生活してゆきましょう。それが、あなたを救い、世界人類を同時に救う唯一無二の方法
なのであります。155肉
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永遠の生命について
死を忘れた宗教の代用品はごめんだ1 堀秀彦氏の諭説
六月十日付(昭和三十四年) の読売新聞の文化欄に、評論家の堀秀彦氏が、現代に宗教はあるの
か、という標題で、死を忘れた宗教の代用品はごめんだ、という内容の論説を書いたのに対して、
キリスト教仏教の各氏がそれぞれの立場からの反論を発表していました。私も私の宗教的体験から
堀氏や反論者諸氏の論説に対しての意見を述べてみたいと思います
新聞の宗教論説は読者の方々も、興味をもって読んでおられることと思われるので、私の考えを
述べて置こうと思い立ったのです。
さて、まず堀氏の論説を抜粋してみます。
「科学と宗教と、どっちを信頼できるか。私はむろん科学だと思うし、こんな平凡な意見を少し
はんばく
強調し拡大してのべると、きっとあとから反駁を受ける。科学だけでは割り切れない世界がある。
だから、宗教は必要なのだ。大衆も、時には大学生たちもこう言う。それじゃその人たちは何か特
別の宗教を信じているのかといえば、別段どの宗教を信じているわけではない。
反対に僧侶や牧師たちに、来世の極楽とか奇跡とかをほんとうに信じているのか、と率直にきけ
ば、それらの宗教家の何割かは答えるだろう。今日の宗教とは、この世を如何に生きるかというこ
とのための心の支えなのだ。釈迦がマヤ夫人のワキの下から生まれたかどうかなんてことは問う必
要がない。イエスが復活したかどうかも問うことも、問う必要もない。ただ、イエスの教えをこの
世の生活に実行すれば幸せになれるのだと。つまり、今日の宗教家たちははっきりと宗教を合理化
し現世化しようとする。
大衆は神秘的なもの、超現世的なものをあいまいな態度で求めようとし、宗教家は神秘的なもの
を出来るだけ合理化理性化して大衆に説教しようとする。ここで両方から適当な歩みよりが生ま
れ、なんともなまぬるい、変に分別くさい宗教が生まれる。大衆は現世だけで安心し切れず、宗教
家は素朴に来世を信じ得ないために、宗教を現世化する。1 私はこういう宗教的関心や宗教を二
157永遠の生命について
セモノだと思う。来世を問題にしない宗教なんて、そもそもコッケイだと思う。i 生の問題では
なく、死と死後の問題を教えるのが宗教であったはずだ。今年の選挙でさまざまな宗派が議員を送
ることができた。少しでも政界や政治を浄化するためだというのだが宗教家つまりこの世のものな
らぬ神や仏を信ずるものが、一体なんのために、この世のことについてこんなに思いわずらうの
か。信者の票をかきあつめて政界にのりだそうとするのか、- この世に神の国をうちたてようと
いうのは、飛んでもない思い上がりであり、見当ちがいであり、非宗教的なことだ。ー投票用紙
の枚数で極楽や天国が建設されるなんてことがあるものか。1 宗教とは、昔も、いや本質的に死
を問題にし、永遠の生命をあたえるはずのものなのだ。人間の世界から死を一切放逐することに成
功したら、それでも宗教とか神とか仏とかはいるものだろうか。現世の人間が現実に永遠に生きる
ことができるとすれば、神とか仏とか不用なタワゴトになるはずだ… …後略」
大体こうした論旨で、宗教とは現世のものではなく、死や死後についてのものであるという結論
になっています。
158
聖書的永遠の生命ー佐古純[郎氏の反諭
それに対して、佐古純一郎氏というキリスト教系の評論家は「1 今日の宗教家たちははっきり
と宗教を合理化し現世化しようとする、と堀氏がいう場合、それはどのような現実に即しての批判
であるのかが問題である。イエスの教えをこの世の生活に実行すれば幸せになれる、というふうに
今日福音を説いているような牧師には私はまだお目にかかったことがないが、堀氏は今日の教会の
どのような現実の認識の上にたってそのように判断されるのか、i だろう、とか、らしい、とい
うのは、どこまでも堀氏の推論なのであって、判断ではない。i 宗教の本質が、永遠の生命をあ
たえるはずのものだと、いう理解は、きわめて正しい宗教の本質に対する理解だと思う。ところが
その場合、堀氏が、永遠の生命、という言葉を使うわけだが、その言葉の意味はあまりにも宗教、
少くとも聖書の意味する、永遠の生命、とはかけはなれているようである。もしかりに科学が人間
の不死ということに成功したら1 宗教とか神と仏とかはいるものだろうか、などという素朴な宗
教批判が、堀氏のような現代日本のひとりの良識から発せられるということ自体が私にはむしろ大
変興味があった。少なくとも聖書のいう、永遠の生命とはこの批判に示されるような自然主義的な
ものではない。ーキリスト教を批判するなら、もう少しキリスト教を正しく理解していただきた
いということである。1 わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとえ死159永
遠
の
生
命
に
つ
い
て
んでも生きる。また生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じ610
るか。このイエスの前に、マルタとともに、主よ、信じます。と告白しているのがキリスト者なの
である。1
科学と宗教と、どっちを信頼できるか。私はむろん科学だと思う。そういう言い方で宗教批判を
すすめるということ自体が今日ではもう大変古めかしい宗教批判のすすめかたである。立派な科学
者がけいけんな信仰に生きている事実を知ってほしい」と反発しております。
仏教者の永遠の生命観- 坂本環城氏の反論
また、坂本環城というお坊さんも「科学が人間の不死ということに成功したとしたら、つまり生
命を新しく創り出し、その創り出した生命を永遠に生かせておくだけの技術を発明したとしたら、
つまり人間の世界から死を一切放逐することに成功したとしたら、それでも宗教とか神とかはいる
ものだろうか、という堀氏の文章に対して、堀氏の宗教に対して示した見識からいってこの生命観
は少しお粗末すぎる。宗教に入る前の生命観は科学的生命であるにすぎぬが、宗教の覚りとか、救
いとかは、科学的な生命観が破れて、新たな生命観が見出されたことでなければならぬ」と堀氏に
はんばく
反駁していますが、この坊さんは「死後のことをきかれると、私は、自分はまだ行って見たことが
ないから死んだ後のことはわからん、と答えている」と平然と書いておられます。そして「永遠の
生命については、人間の煩悶のもとは実は死にあるのではなく、人間の分別心に問題がある。すべ
ての人間は自分は生きていると思っているが、仏の智恵の眼からみれば、皆死んでいるのだ、みん
な仮定の妄想を画いてよろこんだり悲しんだりしているので、ほんとうに生きていないのである。
この世とはこの死んでいる世界のことである。まことの生命の世界はいつもこの現実に根を下して
おらねばならぬ。永遠の生命とは、この現実をはなれては観念に過ぎない、現実と現世とを一つに
考えてはならぬ」というような意味をのべておられるのです。また他にも各氏が種々と述べられて
いるのですが、いちいちそれを書くのも大変なので、このくらいにしておいて、さてこの私は果し
て何を言わんとするか、なのであります。堀氏はこれらの反論の後で、私は死ぬのが恐ろしい。だ
から永遠の生命とは、具体的にどういう状態なのか教えてほしい、と云っていました。
死んだらどうなるのだ?
私はこれらの各論を新聞を読んでいて、堀氏のような考えをもった人が、日本のインテリ層には161永
遠
の
生
命
に
つ
い
て
かなり多いのではないかと思ったのです。そして、こうした人に対して、反論をなさった各氏の宗62
1
教観は根本的には同感ではありますが、今日の宗教としては観念的であって、堀氏の心を満足させ
るものではなかったのも無理からぬことだと思われたのです。と申して、堀氏の説に私が全く同感
しているわけではなく、日本のインテリのうちでは、死後のことを問題にしているところに、この
現実世界をつきつめた真実さを感じるのであります。
リロ
実際、この肉体の死を超え得る宗教でないと、真実の宗教とは言えないのですが、この肉体の死
を超えることが、なかなかの難事であって、そう容易にできることではないのです。そしてこの肉
体の死を超え得る方法は、永遠の生命を体覚することより他にないのであります。
堀氏に反論なさった方々は、いずれもそうした永遠の生命を体覚なさった方々であろうと思われ
ますが、それにしては、死後の問題を少しも説き明かしていないのはどういうわけなのか、死後の
ことが判らなくて真実の永遠の生命が判り得るだろうか、と私は少なからず疑問に思ったのです。
坂本というお坊さんなどは、死後のことが判らぬのを当然としておられるのです。もっとも僧侶
の方たちには、死後のことを問題にしない人が意外に多いのには驚かされることがあります。それ
はどういうところからきているかと申しますと、坂本師も言っておられますように、この現世にお
ける苦悩は、自らの画いた妄想(無明) にあるのであって、生死にあるのではない、という釈尊の
深い高い教を、そのまま遵法しているので、このうつり変りの激しい、いわゆる仮の姿である現世
の種々相々は問題にすることはない。従って死後のことなどもどうでもよい、仏法者はすべて分別
を超えたみ仏のいのちそのままを生きてゆくことだけだ。という生き方に立とうとしているからな
のでありましょう。
私の生き方も、実はそこに根抵があるのですが、そうした生き方をそのまま大衆に教えてみたと
うつしよ
ころで、大衆は現世の生活に追われていて、いのちそのものをみつめつづけて生きてゆく素直さに
はなかなかなれないのです。大衆というより、堀氏らのような指導者階級の人々でも、いのちその
もの、み仏そのものの姿を見出すことはできなくて、肉体人間としての生死を問題にしているの
は、当然のことであり、科学が不死に成功したら、神仏はいらなくなるのではないか、というよう
な考えも起り得ることでありましょう。勿論私たちのように、肉体の生死を超え得て、神仏はいの
ちそのものなのだから、神仏がいるもいらぬも、そんなことを考えるさえおかしい、と体験的に知
っているものは別として、大半の人々は堀氏のような考えに同調しかねません。
ですから、その点をはっきり説き明かさぬことには、いくら高度な仏教論を説かれても、キリス163永
遠
の
生
命
に
っ
い
て
ト教論理を説明されても、堀氏らのような現実主義的な人々には、納得でき得ない筈であります。614
宗教者がその教えを説く場合には、あくまで相手の環境とか立場に立って、その思想の流れの中
に光を差しこむような説き方をしなければならぬものだと私は思っているので、堀氏に反論した各
氏の答には満足しかねたのであります。
説教より簡単な解決方法が先だ
堀氏は二度目の文章で、私は死が恐ろしいのだから、その解決を教えてほしい、と言っているの
ですから、簡単に死が恐ろしくなくなる方法を教えなくては、高度な永遠の生命観には飛びこんで
ゆけないのだと思います。
「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信ずる者は、たとえ死んでも生きる。また、
生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」佐古氏が、イ
エスのこの真理の言葉を書いて、この間に対し、マルタとともに、「主よ、信じます」と言えるも
のがキリスト者なのだと、堀氏に説法していますが、私たちなら、本当にその通りなのだ、とその
ままうなずけるのですが、堀氏はじめキリスト教とはなんの関係のない者には、その説法から、永
遠の生命を感得し得ることできないと思われます。
かいじん
今日のような末世といわれ、地球世界が、一寸した人間の想念の動きで、忽ち灰尽に帰してしま
いそうな時代にあっては、誰にでも判りやすく、実行しやすい宗教の教導でなければ、とても多く
の人々に真実の道を判らせるわけにはいきません。
今日では、仏教やキリスト教の既成宗教的な教では大衆を導く強い力とはなり得ないのでありま
す。自分が判っているから、人も判るだろうと浅く考えてはならないのです。既成宗教の手ぬるい
導き方や、高度すぎる理論についてゆけない大衆が、政治的に乗り出して、政界の浄化をするの
だ、という、宗教精神とは全く相反する新興宗教団体に強くひきつけられて、宗教の本質、み仏や
キリストのみ心とは全然異なる外道に陥ってゆこうとしているのです。
永遠の生命論にしても、そうなのです。何故もっと判りやすく永遠の生命を説き得ないのでしょ
うか、自分ができるだけ、自己が判っているだけでは仕方がありません。自己の判った、自己が悟
った境地を他に判らせるための大いなる努力を、宗教者はしなければならないのです。それが菩薩
の道であるのです。
165永遠の生命について
大生命と個性的小生命の永遠性
私は自己の説く事柄は、つとめて誰にでも判りやすく、そして実行しやすく、かつ高度な教えで
あることを念願しています。
私の説いている、消えてゆく姿の教や、守護霊、守護神への感謝行、そして世界平和の祈りの行
事は、そのまま永遠の生命を説き、死後の世界を説き、一般大衆が日常生活そのままで、自ずと自
己に輝きわたっている永遠の生命を体得してゆくのであります。
永遠の生命を説く場合には、どうしても二通りに説かねばなりません。一つは、神そのものとし
て無始無終に生きつづけ輝きつづけている生命と、その生命の働きとしての光線的働きである個々
の生命の光、一つは、因縁因果的に、肉体界、幽界、霊界、神界と輪廻転生しながら、その輪廻の
世界を貫いて、ついには神のみ心と直結している自覚をもつに至った人間。いいかえれば、実在界
に在って輝きわたっている生命と、現象界にあって、実在界につらなって働いている自己を認識す
ごんばく
ることによって、永遠を自覚し得た霊魂碗人間の二通りであります。
坂本師や佐古氏の説いている永遠の生命は前者のことでありますが、前者だけの永遠の生命を説
いていたのでは、この人類の果して何人が永遠の生命を真実自己の生活の中に働かし得ることか、
166
と思われます。それが堀氏らの立場からは、うなずけない答となっているのです。
人間は前者の永遠の生命であるとともに、肉体、幽体、霊体、神体という、個性的体をもったま
ま永遠に生きつづける生命体でもあることを、そうした人々に知らせなければいけないのでありま
す。
一人の人間が肉体をぬぎすてた時、その人自体、つまりその人の霊魂は、果してどのような環境
を自己のものとしているか、ということを知らせることが、その人々を死の恐怖から救い出すこと
になるのですが、この方法は理論的だけの既成宗教者にはできないのであります。昔の釈尊時代に
は大弟子たちは皆そうした指導もでき得た人々なのであります。釈尊の教は深い哲理的なものであ
ったと同時に、現実的な指導、つまりその場、その時々の因縁因果の解脱の方法を指導していたの
です。
因縁因果的なことを説きながら、それも過去世の因縁、無明(神仏のみ心を離れていた想念) か
ら生まれた想念行為の消えてゆく姿として、あなた方の運命となり、環境として現われてきたのだ
から、世界平和の祈りの中にそうした業想念をすべて消えてゆく姿として投入してしまいなさい、
と教えている私の方法は、永遠の生命の表現である世界平和の祈りの中に、輪廻転生する業生の人167永
遠
の
生
命
に
つ
い
て
間を消し去って、改めてこの世の日常生活の中で、永遠の生命そのものになって、個性的な生き方
が自然とでき得る方法なのであります。
肉体人間は、仏教哲学や、キリスト教神学そのままのように、容易に永遠の生命を自覚できた
り、神のみ心に融けこんだりできるものではないのです。常に常に守護の神霊の加護によって、次
第に大神のみ心に導き入れられるものなのであります。
その長い期間には、肉体界を去って幽界で生活したり、幽界で浄化して霊界へ昇ったり、種々様
々な輪廻転生を経て、永遠の生命を自覚し、神仏と一体になり得るのです。ですから、高度な永遠
の生命観の判らぬ人々には、もっと親切丁寧に、現われの世界(肉、幽、霊) の輪廻の状態も教
え、その人自身のこの世の生き方次第で、その人自身の現在の肉身より上等な世界に誕生すること
を教えてやらねばならぬと思います。
私のところにきていたり、きておられる人の家族の方々で肉体界を離れられた方々は、いずれ
も、清らかな安らかな死顔をしておられて、次の世界のよりよき環境を物語っているのでありま
す。私は時折り老人の方たちには、あなたの死後はこの位の世界に往かれるのですからご安心なさ
い、と教えているのです。
168
宗教の教は、小乗的と大乗的との両面を常に説いておらぬと、一般大衆がついてこられないので
あります。高い立派な教の宗教者が、小乗的な面を去って、大乗的な面だけの説法をしていると、
ヘヘヘへ
大衆はどうしても、小乗的なまやかしの邪宗教に走っていってしまうのです。邪宗教は、口先のあ
たりがよかったり、入らぬと恐ろしかったりするからなのです。
私の教は、高い教理を一般大衆に判りやすく判りやすく説いているのでありますが、それでも、
目先のご利益宗教の甘い言葉や恐ろしい脅迫的言葉にひきずられてしまうのが一般大衆であるので
すから、立派な宗教者こそ、もっと大衆に判りやすく、実行しやすい導き方をして頂きたいものだ
“
と思います。
さて、ここで、生まれ変り生き変って生きつづける方の永遠の生命は、どうしても一般大衆に知
って貰わぬと、地球世界の平和達成が遅れてしまうと思いますので、私が現在やっている方法
と、これから行われるであろうと思われる在り方を申し上げます。
私の指導方法
うつわ
私は世界平和の祈りを根本にしての個人的救済と人類平和の達成の為に、救世の大光明団体の器
169永遠の生命について
として場所として働いているのでありますが、救世の大光明の働きである世界平和の祈りに人々の70
1
想念を統一させる方法として、消えてゆく姿と守護神、守護霊への感謝行を教えるわけなのです。
人間はすべて神の子であり仏性であって、永遠の生命をこの世において生かしているものであ
る、というのが大乗の教であり、私の教えているところでもありますが、これだけでは、この苦難
にみちた業想念波動の世界をどう判断していいのか、頭のよい人程悩みつづけることになります。
そこで私は、この世の苦難や業想念波動(憤怒や妬心や恐怖等々) はすべて、神の子仏性である人
間の本質から離れた、つまり光をはなれた無明の所産であるのだから、そうした環境や業想念は何
時いかなる時でも世界平和の祈りの中に投入していさえすれば、世界平和の祈りの大光明の働き永
遠の生命の光の中に、業想念波動はいつの間にか消え去ってしまって、人間本来の神性、仏性がそ
の人その人の環境として想念行為として現われてくるものである、というように巧まずして永遠の
生命を体得させるようにしているのであります。
そうして、もう一方では、私自身が個人的に人々のあの世までへの運命指導をしているのであり
ます。
死んでしまえば個性がなくなって無に帰してしまうとか、神と全く一つになってしまうとかい
う、誤った思想でいますと、肉体をぬけ出た時に、その人々の霊魂の行き場所がなくなり、親類縁
よ
者の肉身に碕ってきて、親しい人々を病ませたり、苦しませたりしてしまうのですから、そうした
誤った思想はいちはやく改めぬと自他共に死後までも苦しみ、苦しめることになるのです。
死んでも個性は永遠に生き続ける
人間は死んでも、個性的に永遠に生きつづけてゆくものであります。死んだら想念がなくなって
しまうなどとは決して思ってはなりません。個性として永遠に生きつづけながら、その個性が神の
光明にすっきりとつながって生きつづけてゆくことを悟りというのでありまして、そうした悟りに
生きる人々は、神そのものの永遠の生命と、個性としての永遠の生命とが、全く一つに融け合っ
て、肉体にあっても霊界にあっても、どちらにあっても、業想念波動に把われぬ、それこそ仏教流
くうそくぜしき
にいう思慮分別に把われぬ、空即是色の生き方ができるようになるのであります。
そうした人の最大の人を仏陀といいキリストというのでありまして、宇宙人と私達が呼んでいる
人々も、そうした境界の人たちであるのです。そうした人々の協力による地上天国が、私達の世界
平和の祈りの実生活に波長を合わせて、やがて、近いうちにその実際活動がこの地球上においてな171永
遠
の
生
命
に
つ
い
て
されてゆくのであります。守護の神霊団体と宇宙人と、世界平和の祈りを行じている地球人との三
者が一体となっての地上天国開現の日のために、私達は日々世界平和の祈りを根抵にした日常生活
をしているのであり、この生き方こそ、何人にも勝る宗教的生き方なのであります。むずかしい宗
教理論やご利益宗教は私たちの活動とは無関係でさえあるのであります。
172
霊能と霊覚の相違点
本心と業想念を区分する
この世の生物の中で人間という者程、複雑にできている生物はありません。
「口に人間と呼びは致しますが、この肉眼で見える姿形には一定したものがありますものの、一
人一人の心の姿をみますると、千差万別でありまして、一人として寸分違わぬ心や形をもっている
人間はないのです。
そして、人間の一人の心というものは、単純な一本の線のようなものではなく、何重もの想念波
動のべールで囲まれていまして、複雑極まる波動の層をなしているのであります。
このような面倒な考え方をしている人は、一般の人にはあまりありませんが、自分でそのように173霊
能
と
霊
覚
の
相
違
点
考える考えないとにかかわりなく、人々の心は複雑なべールで覆われているのです。普通の人は、
心は一つしかないと思っているのですが、私は一つの心、つまり神の直霊分霊として働いている心
ひびき
を本心と呼んでいまして、その本心の周囲を何重にも巡っている波動を想念と呼んでいるのです。
例えば、本心の働きによって生命がとどこおりなく素直に活動していて、肺臓も心臓も胃腸も丈
がん
夫でいたとします。そこへ、肺病で死んだ、癌で死んだ知人があったりしますと、”ああ、私も肺
病になりはしないか、癌になりはしないか” とふいっと想います。このような、本心の働き、生命
の働き、を一寸疑うような心の動き、そうした心の動きを、私は心とは呼ばずに、業想念と呼んで
いるのです。もっと端的にいえば、神のみ心に素直につながっている心だけを、心と呼び、神のみ
心を離れた心の波動は、すべて想念と呼んでいるのです。
このように、本心と業想念とを区別致しませんと、宗教的な深い話を致します時に、判りにくく
こんばく
なる嫌いがあるからなのです。それは丁度、霊と魂醜をはっきり分けて考えないと、神の光その
ものである霊というものをつかまえて、幽霊というような言葉を使ったりしてしまうからなので
す。
実際は幽霊などというものがあるわけのものではなく、魂碗つまり想念波動が、肉体界を離れ難174
く、その場に残っている姿をみて、幽霊といっていたもので、執念の想いの波なのであります。
この点をはっきり致しておきませんと、人間は神の子である、光明身である、という光明思想の
説明が判らなくなってくるのです。私達の説いております光明思想は、すべては神のみ心み光の現
われのみであって、病んだり迷ったり争ったりしている姿は、未だに神のみ光がその人の世界に完
全な姿を現わしきっていないからなのであって、神のみ光が現われるに従って、その人のすべての
苦悩は次第に消え去ってゆくのである、と説いているのであります。
ですから、この地球界の国々の争いや、人類の不幸災難は、やはり、神のみ光が未だに地球界に
完全なる姿を現わしきっていないからである、といえるのです。従って、地球人類が想いを一つに
して、神のみ光の一日も早く完全にこの世に現われるようにという祈りをしつづけていれば、地球
界が平和な幸せな姿を現わすことは間違いのないことなのです。
そうした運動が、私の提唱し行動している世界平和の祈りの運動なのであります。人間は光明身
(心) であって、業想念の産物ではない、ということを多くの人々が知ることが大事なのでありま
す。
175霊能と霊覚の相違点
霊覚者というのは76
1
ところで、この辺から本題に入りますが、只今も申しましたように、人間の本心を取り巻く業想
けんざいいしき
念波動の層は何重もの層になっておりまして、一番表面に現われている想念波動を顕在意識層とい
ひそ
いまして、普通一般に心とか想いとかいわれているのです。そして、その奥に何重もの潜んでいる
想念波動があります。これを潜在意識層というのであります。そしてこの潜在意識層は、単純なも
のではなく、実に複雑なる波動の交流をなしており、幾重にも幾重にも重なり合い、入り交じり合
っているのであります。
この潜在意識層には、一番深い奥底に、神のみ心そのものであった意識があるのでありまして、
この意識がそのまま現われれば、その人は霊覚者となり得るのであります。もっとくわしく申し上
かわ
げますと、潜在意識の一番奥底には神界意識があり、次に霊界意識があり、何度でも生まれ更り死
に更りした、過去世からの想念意識が何重にも層をなしており、最後に現界での赤子の時から何十
歳の今日までの意識が潜んでいるのであります。
霊覚者というのは、現界での想念を、何重もの、現界及び幽界霊界(過去世) の潜在意識層を超
えて、真っすぐ、宇宙神のみ心の中に融けこませてしまった人をいうのでありまして、このような
人は、如何なる過去世からの想念波動(因縁因果) にも、幽界霊界からの想念波動にも把われるこ
となく、自由自在に宇宙神のみ心み光を、宇宙一杯に働かすことができるのであります。釈迦牟尼
仏などは、こうした人であったわけです。
こうした霊覚者は、神のみ心のままに自由自在に自己の本心を働かすことができるのですから、
神のみ心である、愛と調和の行為に欠けることがなく、愛そのものであり、調和そのものであっ
て、愛の行為にもとったり、調和のひびきを破ったりすることは絶対に無いのであります。
宇宙神の完全なるみ心を、そのままその肉身に行為として現わしている人こそ、仏といわれ如来
といわれ、霊覚者といわれる人であって、自我や欲望のかけらも無いのであります。
こう説明致しますと、それでは親が死んでも知人が不幸になっても、人が苦しんでいても、霊覚
者というのは平然として、悲哀の想念が一つも湧いてこないのか、と問われる方があるかも知れま
せん。
ところがそうではないのです。霊覚者といえど、親の死には涙を落し、知人の不幸や苦悩には、
深い同情を寄せ、共に悲しむこともあるのです。
“それはおかしいではないか、宇宙神のみ心を自己の心とした人が、何で悲哀の想念をもつこと
177霊能と霊覚の相違点
一
があろうか”とおっしゃる方もあるかと思います。
しかし、それはその人の考え違いなのであります。何故ならば、宇宙神のみ心は愛そのものであ
り、調和そのものでありますので、愛に欠けた状態や、不調和な状態をみるにしのびなく思われる
のです。そこで、自らは大生命の法則そのものとして動いていらっしゃるのですから、宇宙神その
ものとして、人類救済の働きをするわけにはゆきません。法則は厳然たるもので、いささかも曲げ
ることはできないからです。そこで宇宙神の愛のみ心は、救世主として守護神として、人類救済の
大光明波動を地球世界に放射して、宇宙神の大調和のみ心が一日も早く人類の上にすっかり現われ
切るように働きかけられているのであります。
霊覚者というものは、そうした宇宙神のみ心をそのまま動いているものなのですから、死や不幸
災難という状態を平然とみているわけがありません。その死や不幸災難に処して悲しみ涙を落した
としても、愛の行為の当然なる現われなのであります。但し、涙を落し悲しんで、心を乱してしま
うようなことは決してないのです。霊覚者の涙や悲しみは、相手の業想念を浄め去る涙であり悲し
みであって、業想念を把えて落す涙ではないのです。
親の死にも冷然としてい、知人の不幸災難にも平然としていることを、悟った者の所業であると178
思い違いしている人もあるようですが、覚者というのは、常に愛の光明を人々に与えているもので
あって、冷たい想いは心のどこにもないのであります。
霊覚者の心は鏡のようなもので、相手の魂の状態や想念の波が、はっきり写ってくるのでありま
す。ですから人の想いが判り、その人その人の因縁因果の波も判るのです。しかしながら、あくま
でも、各人の本心開発の道を教え示すのが霊覚者の天命でありますので、各人の迷いに光を当てな
がらその迷いを消し去りつつ、或る時は強く或る時は優しく説き諭して光明の道に導き入れるので
あります。
只単なる現世利益だけを与えて、それでよしとしているような霊覚者は存在しないのです。
霊能者について
さて、霊覚者のことはこのくらいにしておきまして、霊能者の説明にうつりましょう。霊能者と
いうのは、どういう人を指していうのかと申しますと、一般の人々には見えもしない聞えもしない
姿や声を聞いたり、人の想いが判ったり、運命が判ったり、過去世における状態が判ったり、医薬
を使わないで不思議と人の病気を直したりする人、つまり、普通人に不可思議に思える現象を示す179霊
能
と
霊
覚
の
相
違
点
人々をいうのであります。801
こうした人々は、その人の人格の高い低いにかかわらず、霊能者といわれるのでありまして、霊
覚者のように、宇宙神のみ心そのまま働いている人ではないのです。
ですから、運命の予言や病気治しは上手だが、人格としては頂きかねるという人もあるわけで
す。人の想いが判ったり、運命の予言ができたり、病気を治すことが上手だったり、肉眼で見えな
い世界が見えたり、という、そういう能力があったとしても、そうした能力がかえって相手の本心
開発を遅らせる、自我欲望達成の旦ハとなるだけだったら、その霊能者も相手の人も不幸であるばか
りではなく、人類世界の進歩の為にも善くないことになるのであります。
巷間では、単なる霊能者を霊覚者と呼んでいる向もありますが、霊能者と霊覚者とは厳然として
分けなければいけないのです。
霊能に秀でた人々は、ますます魂を磨いて、宇宙神のみ心をそのまま行為にうつせるような立派
な人格に、自己を高めることが大事でありまして、人格の伴わない霊能力だけでは、その人の終末
は不幸になってしまいます。
霊能力などが少しもないように思える人でも、その人の人格が秀れていれば、その人はやはり神
のみ心に近い人であるのです。
人格が秀れている人ということは、愛の想いが深く、真の心が厚く、というように、神のみ心を
より多く現わしている人をいうのであります。愛も真も光そのものであるからです。
霊能はどういう状態になると現われるか
それでは一体霊能というのは、どういう状態になると現われてくるのか、ということについて説
明致しましょう。
人間はいつも私が説いておりますように、肉体の他に幽体とか霊体とか神体とかいう体をもって
いるのであります。そして、人間の想念波動が、常にどの体の中に一番多くの時間を巡っているか
ということによって、その人の人格が定まり、運命が定まってくるのであります。
その人の想念波動が常に神体の中を巡っている人は、高い人格者であり、神人合一の境地のいわ
ゆる霊覚者にもなり得るのです。そこで私は、いつでも守護霊さん守護神さんに感謝を捧げつつ、
世界平和の祈りをしていなさい、と教えているのです。守護霊さんは霊界にいて、肉体界にまでそ
の光の波動を伸ばしてきているのであり、守護神さんは神界にいて、光明波動を肉体人間の波動に
181霊能と霊覚の相違点
合わせてきているのであります。そうして肉体人間の業想念を常に常に浄めているのであります。
そこで、浄められ守られている肉体側では、いつでもそうした守護の神霊の加護に感謝の想いを
向けていれば、その人の想念はいつも霊界神界に往っていて、肉体界に、神界霊界の光明波動を導
き入れ易くなってくるわけです。ですから、その人の人格は自然と高くなってくるし、その人の運
命もよくなってくるのです。
霊能者といわれる人は、自己が意識するとしないとにかかわらず、幽界の波動や霊界の波動を受
け易い肉体に生まれついているのであります。そして、自己の霊能に気づきはじめますと、今度
は、その想念そのものも、幽界や霊界にむかうことが多くなり、本格的に霊能者となってくるわけ
なのです。
そうした霊能があると気づいだ場合には、いち早く、真の秀れた宗教者のところに行って、自己
の想念波動が、常に神霊の世界のみに集中されてゆくような指導を受けることが必要なのです。一
般の人の見えぬ世界が見えたり、運命の予見ができたり、病気を治すことができたりすることだけ
で、自分の人格が立派になったように思ったり、神様が自分にのりうつったように思って、高慢に
なったりする霊能者は、いつかは自分をも人をも傷つけ損ねてしまうのです。182
先程から申しておりますように、霊能力と人格とは違うのですし、霊能があるということがその
まま神様の力が特別自分に働きかけているのだ、と思ったりすることは誤りなのです。
}人の人間が生きているということだけでも神様の力が働いていることは事実なのですが、そう
いう意味でなく、神様が特別に自分に力を与えている、特別に神様の愛を得ている、ということ
を、単に霊能力があるというだけで思ってしまうことは実に危険なことなのです。
霊能力のあるということが、即、神様の力ということではありません。霊能力があるということ
は、その人の肉体波動が幽質に近いので、幽界や霊界の波動を受け易い、ということなのでありま
す。幽界や霊界の波動の中には、人間各自の過去世の意識層(想念波動) や未来に起ってくる運命
の波動もあるのであります。
そうした種々の波動を、自己のもつ幽質的機関がキャッチすることのできるのが霊能力となるの
です。そうした人々にはその背後には肉体界と幽界或いは霊界との交流を計ることを役目としてい
る霊魂(人)や、単にそうしたことに興味を持っている霊魂(人)がおりまして、その交流を助け
ているのであります。
そうした背後の霊人の住んでいる世界の高低によって、その霊能者の人格の高さが定まってくる183霊
能
と
霊
覚
の
相
違
点
のであります。これを逆にいえば、霊能者の人格の高低によって、その背後に働く霊人の高低が定
まってくる、ともいえるのです。
ですから、霊能者が、その霊能力を誇りに思うだけでなく、常に人格の練磨に心掛け、常に神霊
界へ自己の想念波動を向けているようにすれば、霊覚者にまでなり得ることもできるのです。
ところが巷間の霊能者と称する人には、人格的には片輪的な人が多くて、高慢そのものであった
り、怒りっぽかったり、心が狭かったり、物質欲や権力欲が旺盛であったり、女色に溺れ易かった
り、というような、普通人よりも低い行為をみせる人が意外な程多いのです。
184
常識を外れず常識を広げよ
私が常にいっていることなのですが、宗教者という者は、常識外れであってはいけない、といっ
て、常識そのままでは、人の運命指導はできない、だから、常識を外れず、常識を広げ、常識を超
えてゆかなければいけない、というのです。
常識を外れず、常識を超えるということはどういうことであるかといいますと、常識といいます
のは、そのままが全部真理というのではありません。しかし、一般人の大方が納得し得る識が常識
といわれているわけなのですから、その常識の線は一応肯定して行為しなければ、一般社会に調和
して生活してゆくことはできません。
しかも常識というものは、時代が進むにつれて次第に広げられてゆくものであって、いつまでも
旧い常識のままでは世界が進歩致しません。徳川時代の旅行は、歩いてゆくか、駕篭か馬かが常識
であって、自動車や汽車や、空を飛ぶ旅など、常識外のことであったのです。
そのように、現代の常識でも、未来の常識から見れば、実に狭い範囲の常識となってしまうので
す。一例をひけば、現代の常識では、死んでしまえば、人間はそのまま消滅してしまうというのが
常識です。しかし実は、人間は肉体の死の後に幽体霊体神体の生が生々とくりひろげられてゆくの
であります。
こう申しますと、すぐに現代の常識家は、そんな馬鹿なことはない。死んだ先の人間など考えら
れもしない、と一笑にふしてしまいます。しかしながら、肉体死後の人間の生存は厳然たる事実で
あるのですから、これはやがて、未来には常識となってくるものです。
それから、宇宙人の問題でも、宇宙人などいない、というのが現代の常識です。しかしこれも、
私たちのように宇宙人との交流をつづけて、実際に種々な知識を授けて貰っている者にとっては、
185霊能と霊覚の相違点
宇宙人の存在は確固たるものなのです。すると、宇宙人の存在も未来の常識となってゆくのです。816
このように、現代の常識がそのまま真理ではありませんが、あまりにも常識を外れた行為を宗教
者がやっているようですと、一般人の宗教への関心が、今度は疑惑の方に変っていってしまいます。
私などは、その点に非常な注意を払っていまして、私自身の行為は、常識家そのものの行為をす
るように心掛けているのです。私などの世界は、現代の常識などとは比較にならぬ高い広い常の
(老子講義参照)立場に立っているのですから、現代の常識の立場で生活をしてゆくことは、実に
面倒でもあり、厄介なことなのですが、一般社会との調和の点を考えて、不自由を忍んで、常識に
合わせているのであります。
私がもし常識に外れた行ないをしていたら、私の教えに敬意を払ってくれている人たちは、すぐ
にも私の行為を真似てしまうことでしょう。そこで私は自己の行為を常識に合わせるよう努めてい
るのです。
霊能者こそ人格完成に精進せよ
人格の秀れた霊能者という者は、これからの時代には無くてはならぬ人なのです。ですから秀れ
た霊能者が数多く現われてくれることは、世界人類の進歩の為に望ましいことなのであります。
その為にも、霊能のある人々が、常に自己の想念を、世界平和の祈りのような、高い目的をもっ
た祈りの中に入れきっていて下さったら、人格識見共に向上してゆくにきまっているのです。
霊能者は即宗教者でなければなりません。霊能者が只単に大衆の現世利益の為にだけ働いている
ようではいけません。現世利益の為の教えもよいけれど、その根本にはいつでも、本心開発の為の
祈りがなされていなければなりません。
我は何々の神であるそよ式のお教祖は、もはや過去のものであって、これからの宗教者ではあり
ません。自分が教祖であることを誇って、信者を一段低い人格と見下しているようなことでは、立
派な宗教者とはいえないのです。
芸術家などには、その作品は秀れていても人格の円満でない人は沢山います。ベートーヴェンな
ど、作品はあのように秀れたものでありますが、非常に奇矯な行ないの人であったようです。世界
を通じて、画家でも彫刻家でも、人柄の変った、常識外れの人が多いようです。
芸術家などは、その作品が主であって、秀れた作品を残してゆくことがその目的なのであります
から、他のことは大目に見て貰えるわけなのですが、宗教者となるとそうはゆきません。宗教者の
187霊能と霊覚の相違点
作品は、自己そのものの人格なのであります。人格の低い宗教者や、人格の不調和な宗教者など、
存在してよいものではありません。
宗教者はその人格がすべてなのであります。如何に霊能力に秀れているとしても、愛と真の行為
に遠い人は、時代が進むにつれて次第に消滅し去ってゆくでしょう。
真に世界の為になる霊能力は、秀れた人格をもった人から生まれ出ずるのです。いたずらに人の
上に立ちたい為に、霊能力や神秘力を誇ってはなりません。そうした業想念から生まれ出た霊能力
などは、自分を損ない人をも傷つけ、世界人類の調和の波を破るだけの役しか致しません。
人は霊能力を得んとして宗教の門を叩いてはいけません。宗教の門を叩くのには、自己の本心開
発の為を根抵にして叩かなければならぬのです。この世では、日常生活がうまくゆかねば困るにき
まっておりますから、病気の回復や、営業の進展、家庭の調和等々の現世利益を願う想いのあるの
は尤もなことなのですから、そうしたことを願って悪い筈はありません。しかし、それだけを願っ
ての宗教入りは私の感心しないところなのです。
まして、自分が人に優越した地位を得たいばっかりに、神秘力や霊能力を欲するのは、非常に危
険なことであるのです。神秘力や霊能力を得るより先に、人格の完成に向って宗教の道に精進する
188
ことを、私は何人にもおすすめしたいのです。
世界平和の祈りは、人格の完成にも真の霊能力の開発にも、そして、そのまま世界人類の平和を
築く為のものでもあるのです。
ですから、皆さんは、
さちのごと
己が幸願ふ想ひも朝夕の世界平和の祈り言の中
の歌の気持になって、消えてゆく姿で、世界平和の祈り、という私の教えの道を突き進んでいっ
て頂きたいと願うのであります。現世利益も霊能の開顕も本心の開発も、そして又世界人類の平和
もすべて世界平和の祈りから生まれてくるのであります。
189霊能と霊覚の相違点
190
自由自在
、
」L、
想念の習慣程大事なものはない
光明思想の等しく願うところは、全人類がすべて、神の子であるという自覚に起つというところ
でありますが、この神の子の自覚に起つということが、なかなか並大抵のことではないのです。
人間神の子、仏子なりということを、口にいうことは易しいことですが、神の子仏子の自覚に起
つということになると、これはなかなかの修行がいるのであります。
人間神の子というには、あまりにもこの世の姿は乱れきっておりますし、個々人の人間性も神の
み心を離れた、肉体人間的想念に巻きこまれ過ぎているのですから、少しぐらい光明思想、神の子
思想に照し出されても、すぐに、肉体人間的業想念波動に巻きこまれてしまうのです。
理論的には非常に光明思想に精通している人が、実際問題にぶつかると、意外な程不安混迷の想
念を出して、心を乱してしまうことがあるので、光明思想というのは、理論を頭で知ることより
も、先ず神の愛を信じ、自己の天命を信じて、常に光明世界に自己の想念を入れきっておく習慣を
つけることが大事なのであります。
想念の習慣というもの程大事なものはありません。暗い波動の方向に向かう習慣を、自己の想念
につけてしまうと、いつの間にか、ひょこりひょこりと暗い不安な想いがでてきて、幸福の真只中
にいても、何か心が落ちつかなくなってきたりするのです。
この想念の習慣性というものは、遠い過去世からひきつがれてきているもので、一朝一夕でその
こう
習慣を変化させることはできません。このことを業(カルマ)というのであります。
ですから、この習慣を明るい方向に、光明世界の方向に、常に向け変えつづけてゆけば、いつし
か、想念の習慣は、暗い方から明るい方に変ってゆくのでありますが、これが、すぐがすぐに変わ
るというわけにはゆきません。
それはその筈です。野球やボクシングや角力のようなスポーツでも、一度悪いくせがつくと、そ
の悪いくせを直すのには、なかなかの努力がいるのですから、過去世からの長い間の習慣を直すの191自
由
自
在
心
に、一朝一夕でゆくわけにはゆかぬ道理です。
192
人間は神界霊界幽界に同時に存在する
人間というより、人類全体の最も根本的な悪い習慣は、人というものを、肉体という存在にだ
け、自分で限定してしまったことで、人間生命というものが、肉体身が存在している時だけ在るも
のである、という、誤った想念を、習慣性にしてしまったことであるのです。
すべての悪や不幸や争いは、生命の永遠性ということをよく知らぬことからでているのでありま
す。永遠の生命というと、哲学的な人は、自分は永遠の生命を認識していると思うかも知れませ
ん。しかしそれはおおむね、大生命として、大自然の運営としての永遠性でありまして、個々の人
間の生命が永遠に生きつづけてゆく、ということではないのです。
釈尊の教えを遵奉している仏教者の中にも、人間の存在を肉体身だけに止あてしまって、霊魂的
な生命というものを認めようとしない人がかなりいるようなのですから、宗教心の稀薄な人たち
が、肉体滅後の個生命の存在を一笑にふするのも無理からぬことなのでしょう。
霊魂といいますと、すぐに幽霊とか、火の玉のようにふわふわしたものを想像しますが、これも
昔からの人間の想念の習慣でありまして、霊魂というのは、肉体人間以上に、しっかりとした確固
とした、生命の存在なのであります。
人間というものは、宇宙神(大生命) の無限のひろがりの中で、個々に分れて存在する生命の波
動の現われなのでありまして、肉体だけに現われているのではないのです。これは文章で説明する
のは実にむずかしいことなのですが、宇宙神大生命のみ心の一番中心の光明に近いところに存在す
る世界を仮りに神界と呼ぶのであり、順次離れてゆくと、霊界となり幽界となり、肉体界という風
になるのであります。
これはすべて波動の異なることによって定まっているのでありまして、一人の人間が同時に神界
にも霊界にも幽界にも肉体界にも存在することができるのです。それは何故かと申しますと、人間
はすべて、宇宙神のみ心の中心の働きから生まれ出でているもので、最初の存在を七つの直霊とい
うのであります。その七つの直霊は神界の中心にあって光を放っているので、その直霊の光明波動
が、種々と分れまして、ずっと、肉体界までその波動を現わしているのです。只、神界霊界幽界肉
体界と、波動の働き方が異って参りますので、微妙な波動の上の世界、奥の世界からは肉体界のこ
とがよく判りますが、肉体界の粗い波動、幽体の波動の方からは、霊界神界のことがよく判らない193自
由
自
在
心
のであります。
それは波動の相違で是非も無いことなのです。例えていえば、ジエット機は早くも飛べるし、高
く上がれるので、人間の眼に触れぬこともできるが、ジェット機の方からは、遅い人間の歩みはこ
と細かく見ることができるし、自己の行動範疇にいつも入れておくことができるのですが、人間の
方からは、ちらっとその姿をみるだけであって、向こうが見せまいとして上昇してしまえば、見る
ことはできない、というのと似たようなものです。
このように、人間は神の子でありながら、肉体身としての自己の立場から、自己の本体の神の姿
を見ようとしても、粗い波動想念では、神の微妙な光明身を見ることができないのです。
194
永遠の生命を自覚する迄の過程
昔昔その昔、直霊からの光明波動が、霊波動、幽波動というように、次第に粗い波動に変化し、
地球界の物質波動に同調して、現在のような肉体人間としての誕生をみたのでありますが、これは
地球世界という物質波動の世界を開拓するためには、どうしても一度は、こういう順序で波動を変
化させて、地球世界、物質世界を開拓せねばならぬので、その為に都合のよい体にしたわけなので
あります。
そして、こうした肉体という物質体を纒ったことによって、今日のような地球世界の文明文化が
盛んになって、地球世界の物質的開拓が成功してきたのであります。ところが、物質世界の開拓に
は成功してきたのでありますが、あまりにも物質世界開拓の方に想いがゆき過ぎまして、それが習
慣性となってしまいまして、本体の神の光明波動の方、直霊の世界の方に想念を向けることを忘却
してしまったのであります。(『神と人間』参照)
そこで、人間は肉体身だけの存在だというような、習慣性の想念波動が地球世界全般に拡がって
しまって、肉体身の自己を守る、肉体身の自己にまつわる国家民族を守るというようなことになっ
てしまい、地球人類には争いの絶え間のない、暗黒的な歴史が繰返えされてきてしまったのです。
しかしながら、人間が唯物論的になったのも、地球世界開拓の為には是非もないことであって、
それが悪い善いという問題ではないのです。肉体保存ということに汲々としてきたから、その身を
守るための科学というものが生まれて、戦争の災禍と平行して、文明文化が盛んになってきたわけ
なのです。
その反面、唯物論的人間を説得しようと、天使としての宗教者や精神主義者が現われて、地球世
195自由自在心
界の思想のバランスを保とうとして活躍したのであります。神のみ心というものは実に素晴らしい916
ものでありまして、種々な角度から、種々な人材を配置しておき、地球世界を完成に進ませている
のです。
その最も素晴らしい在り方は、直霊、分霊に配して、守護神、守護霊というように、生命の法則
的な在り方と、救済者としての在り方との両面に神々を配置してあって、現在では守護の神霊団体
の「致団結という姿で、救世の大光明の活躍ということになってきているのであります。
現在でも、この世の中は、悪や不幸に充ちているように見えてはおりますが、これは、地球世界
の完全平和達成の為の一時期の消えてゆく姿的の現象でありまして、永遠の生命を各自が自覚する
に至る、過程の一駒に過ぎないのです。
想念の習憤を好転させる方法
私が常に消えてゆく姿です、という言葉を使っていますが、これは私独得の言葉ではなく、今日
までの宗教者の大方が使っている言葉なのです。しかし、使い方が私のように、素直に相手を納得
させるようには、今日までの誰方もが使っていないのであります。
前生の借金払いですよ、というように使っている人もありますし、浄化している姿ですと使って
いる人もあります。生長の家のように、消えてゆく姿をそのまま言葉として使っている人もありま
す。
だがこの使い方が、直接に光明思想、神のみ心の中にすっぽりと入りこんでしまうような使い方
にはなっていないのです。生長の家のように、消えてゆく姿という言葉をそのまま神示として受け
ながらも、その言葉は陰の方に隠してしまって、自壊作用という言葉をつかったり、心の法則とい
うのをつかって、人の想念の中を分析して、その業想念にその人の想いを執われさせてしまって、
ごとごとに精神分析的な自他を責め裁く想念が、ひょこりひょこりと顔を出すような悪習慣をつけ
てしまったりして、折角の神示を無駄にしているのであります。
私の教えでは、自己の悪い想念も、悪い習慣も、人の悪想念も、失敗も、あらゆる業想念を、そ
のまま掴んでいてもよいから、消えてゆく姿と想い直して、世界平和の祈りの中に入れてしまいな
さい、瞬々刻々、ごとごとにそうしたやり方で、自他を責め裁かずに、消えてゆく姿で世界平和の
祈りというような善い習慣、光明思想の習慣に変えてしまいなさい、と教えているのであります。
自他の悪い習慣や不幸災難は、やはり、過去世からの悪い習慣、光明世界、神のみ心を離れてい
197自由自在心
た頃の暗黒想念の消えてゆく姿としての現われなのですから、殊更自己を責め裁いても、他を責め918
裁いても仕方のないものなのです。それを自分が悪い人が悪い、というように自他を裁いて、悪い
想念を分析しても、それはかえって、ますます暗黒想念の中に入りこんでしまうだけなのですか
ヘヘへ
ら、悪かった、或いはしまった、又は憎らしい、やっつけてやりたい等々の想いがでたら、その想
いを掴んだままでよいから、消えてゆく姿として世界平和の祈りの中に、入りこんでしまった方が
よいのです。そうすると、救世の大光明の光明波動が、その人の業波動を浄あて下さって、いつの
間にか、明るい、自信のある想いに、その人をしてくれるのであります。
これを習慣づけてやっていますと、次第に想念の転換が早くなりまして、消えてゆく姿も何も思
わなくとも、常に光明波動に自己の想念を切り替えることができるようになるのです。
これは容易に入り得て、効果絶大な、光明思想の道なのであります。百の説法屍一つということ
や、百知は一真実行に及ばずというように、これは実行してみることが一番であります。
学問的な人の中には、種々と宗教書は読むが、只それを頭脳知識の満足感だけに止めて置いて、
その方法を実行しようとしない人がおります。それではその人の為にも人類世界の為にも今生の役
には立ちません。善いと思ったことは少しでも早く実行なさることが、智慧であると思います。
消えてゆく姿という言葉は、実に善い言葉でありまして、宗教的に諸所を遍歴してきて、どうし
カルマ
ても自分の業というものに心が把われていた人たちは、消えてゆく姿なのですよ、というご言で、
業想念に把われていた自分の心が、ぱっと開いて一瞬にして明るくなったと口々にいっておりま
す。
ごたごたと説教を並べたてるよりも、単純のようにみえる一言の方が、かえって人を救うことが
あるものですが、この消えてゆく姿というのは易しい言葉でありながら、深い深い神のみ心の本質
を判らせてくれるのです。
“消えてゆく姿” の真髄を極める
く つ
空とか無為では、頭から、自分には出来ないと思う人も、この現われのすべては消えてゆく姿で
すよ、という言葉には軽く肯ずけるものがあるのですし、その奥に、救世の大光明とつながる道で
ある、世界平和の祈りという祈り言がある、ということを知ると、そのことだけでも心が明るくな
ってくるのです。
消えてゆく姿、というのは諸行無常という仏教の言葉よりも、もう一つ深いものがあるのです。199 自
由
自
在
心
それはどういうものかといいますと、消えてゆく姿というのは、消えてゆく、という言葉を追って02
しき
ゆきますと、どこかにその姿が消えてしまいまして、何も無くなってしまいます。即ちそのまま色
そくぜくうくうくう
即是空の空の状態になってしまいます。ところが、この空の状態だけでは、どうにもなりません。
この宇宙世界の何処を探しても、何も無い世界というのは無いのでして、何処も此処も大生命の働
きがあるのであります。
真空といわれる状態の中にも、科学的にいえば、原子が活動しているのでありますし、宇宙子科
学的にいえば、もっと深い真空の中にも、宇宙子の活動があるのであります。
そこで、色即是空、即ち、すべての物質や現われは、これはみんな空なんだ、というのですが、
この空になった瞬間には、もう空の中から出てくる何かがあるわけなのです。それを般若心経で
は、色即是空の次に空即是色といっているのです。この空即是色は、空になったその後から再び色
という字が出てくるのであります。
この色が問題でありまして、色即是空の色とこの空即是色の色とは同じ色でも根本的に違うので
あります。色即の色は、神の光明と業想念との交じった、いわゆる物質世界的な物や現象のことで
ありますが、後の色は、神の光明波動そのものの現われをさしていっているのであります。
ですから、一度この世的な物質世界の物事事柄を空と切ってしまうと、その瞬間から、神の光明
波動が、そのままこの世に現われてくるのである、と釈尊はいっているのです。そこで、私の消え
てゆく姿、というのは、諸行無常という、この世のすべては常に変化していて常住しているものは
無いという、この現象世界のことだけをいっているようにとれる言葉よりも、一歩深く、神界の光
明波動の中に、消えてゆく姿という言葉で人の想いをひっぱっていって、神のみ心の中にバトンタ
ッチしてしまう、光明世界にその人の想いをつないでしまう、ということになるのです。
色即是空、空即是色ということを易しい行為にしたのが、消えてゆく姿で世界平和の祈り、とい
うことなのであります。ですから、消えてゆく姿は、只、消えてゆく姿だけで使ったのでは効果が
少ないので、どうしても、消えてゆく姿で世界平和の祈り、というようにつづけて使っているので
あります。
宗教にも把われるな
宗教の教えというものは、常にその時代やその国家事情や社会状態というものと密接な関連をも
っていますので、釈尊の教えやイエスの教えをいつの時代にも、何処の国にでも、昔のままで伝え201自
由
自
在
心
ようとしても、そこに大きなギャップが出来てまいりますので、素直に伝わることはありません02
2
し、時にはかえって誤解されてしまったりします。
宗教の教えというものは、時代時代によって生き生きと、生きた教えとなっていなければなりま
せん。世の宗教者はそのことを考えて、人々を指導してゆかねばならぬと思います。
コつ
イエスのいったこと、釈尊のいったこと、日蓮のいったことというのを、そのまま鵜呑みにして
しまって、それだけを金科玉条の言葉としているようでは、その人の宗教は生きてきません。
大体宗教の道に入るのは、人間生命を自由自在に働かせるためであります。自己の生命が自由自
在になるためには、自己の本体が神と全く一つのものであることを知らねばなりません。自己と神
との真実の関係を知らなければ、自由自在心になるわけにはゆきません。
どんなことにでも把われの想いがある以上は自由自在心にはなりません。把われの想いが深いか
にく
浅いか、多いか少ないかによって、生命の自由な働きができ易くもなり、でき難くもなるのです。
生命の自由ということは心の自由自在にそのまま通じるので、自由自在心とは、生命が神のみ心そ
のままに動いていることであるわけです。
物質欲に把われても、権力欲に把われても、生命の自由を損います。生命は神からきているので
すから、神のみ心を外れるということになります。これは宗教的な人なら誰しも一言で肯定しまし
ょう。ところが、宗教に把われているということも、生命の自由自在性を縛っていることだ、とい
うことを、宗教者は意外な程気づかずにいるのであります。
宗教戦争などというものも、そういう宗教的把われから起ったのですが、現在でも、この宗教的
把われから解脱できない宗教者が、どれ程多く存在することでありましょう。
生命の自由自在性、自由自在心を得るために入った宗教の道において、今度はその宗教そのもの
に把われて、心の自由を失ってしまうようでは大変なことです。
しやくぶく
仏教に入って戒律に把われ、日蓮宗に入って、折伏に把われ、キリスト教に入って、罪の子に把
われ、因縁因果説の宗教に入って、因縁因果説に把われ、精神分析的宗教に入って心の法則に把わ
れ、光明思想の宗教に入って神の子に把われる。
むい
宗教の道に入ってこんなことでは駄目であります。宗教の道の最大眼目は、無為にして為すとい
うことであり、空即是色ということであります。それが宗教の一つの方法論に把われてしまって、
肝心の自由自在心になる方向を見失わせてしまうようでは、どうしようもありません。
それは、物質欲や権力欲と違うようにみえますが、やはり横の線の三界的生き方なのでありまし
203自由自在心
て、縦にすっきりと昇っていって、
生き方ではないのです。
昇ったところから横ひろがりに、三界を照すという光明思想の024
凡人がいつの間にか超人になる
ですから一番よい方法は、すべての現象面の想念や出来事を消えてゆく姿という言葉で、その現
象面の出来事や方法論に把われぬようにしてゆくことなのであります。
如何なる強打の拳闘家も、あまりその強打で打倒しようとしますと、かえって固くなって、相手
に破れてしまうことがあるものです。まして、神のみ心の中ではすべては一つである、という大調
和世界をこの世にうつしだすことが使命である宗教者が、自分の宗教というものに把われてしまっ
たら、とても大調和世界の現出はおろか、自分の行為そのものが、もう調和を乱す一つの行ないと
なってしまっているのです。
ところが、この世には種々な想念波動が渦巻いていまして、ともすれば、光の心を蔽ってくるの
です。そこで、かなり出来た宗教者でも、うっかりするとその業想念波動を把えてしまって、相手
を悪く思ったり、善い人を悪い人と勘違いしてしまったりすることがあるのです。
いつでも如何なる時でも、自分の想念を、自由自在な世界、光明波動の世界に置くためには、た
ゆみなき祈り心が必要なのであります。法然などは、百万遍の念仏といって、瞬時も休まず念仏し
ていたようです。私はそれ程のことはいいませんが、神の光明心を否定するような想念がでたら、
必ずその瞬間に、これは消えてゆく姿なのだと思って、その想念を世界平和の祈りに切りかえるこ
とが大事だというのです。
世界平和の祈りは、常に申しますように、大救世主が中心に起って諸神善霊の光明を一つに集め
た大光明なのですから、その大光明波動の中に自己の想念を入れることは、自己の心にまつわる業
想念を浄め去って貰うことになるのであります。
この地球世界は、今や人類全般の業想念、つまり暗い争いや不調和の想念波動で充ちております
ので、浄まっても浄まってもまたすぐにその業想念波動が、自己の光を蔽ってきます。それは毎日
風呂に入っても体はいつの間にか汚れているようなものですから、心もそのようなものだと思っ
て、自分の心の素直な明るい想いが少しでも暗くなったら、すぐに消えてゆく姿と想い、世界平和
の祈りの中に入ってしまうことが大事なのです。
常住この生活をしていますと、正覚を得た人が、何もの何ごとにも把われず、自由自在心でいら205自
由
自
在
心
れるのと同じような、把われない、無擬自在な心になってきて、神のみ心を素直に自己の行為とし026
現わしてゆけるような人になってくるのです。
それは行なっていさえすれば次第に熟達してくるもので、平凡な人々が、いつの間にか非凡な人
に生まれかわっているのであります。そうした把われのない人になってきた時、はじめて、神の子
としての真価が、巧まずして自然にその人の行為に現われてくるのであります。神の子というのも
頭の中でだけいくら想おうとしても実観として想えるものではありません。すべては消えてゆく姿
で世界平和の祈りという行為の中から生まれ出てくるのであります。
}」れからの生き方
よりよい人生にふみ出す為に
人間というものは、どんな人でも、習慣性というものをもっています。想念の動きも、肉体の行
動も、過去の世から今日に至るまでの習慣性によって動かされている、といっても過言ではないよ
うです。
ですから、人間が現在より、より善い人生に踏み出す為には、それまでの習慣性を超えた、別の
道を踏み出さなければ、どうにもなりようがないということになります。
貧乏な人が貧乏の道からぬけ出し、病弱の人が病弱の波から脱皮し、気の弱い人がその気の弱さ
ごうしよう
からくる運命を切りぬける為には、そうした運命を創り出している習慣性、いいかえれば、業生を207こ
れ
か
ら
の
生
き
方
超える道を見出してゆかねばならないのです。028
人はみな想念にも体にも、常により善い、より立派な波動をひびかせ得るような道を見出し、そ
の道にそって人生を進んでゆかなければ、その人も人類も、現在より立派になるわけがありません。
ただいたずらに、自国を非難し、世界の情勢を批判しているだけで、自分自身の生き方をより高
い、より立派な方向に変えてゆこうとしないのでは、その人の人生は退歩するだけであります。
人間は何といっても神の子であることには間違いないので、真実は神のもてる能力をそのままも
みずか
っている筈なのです。しかし現在では、自らが神のみ心から離れてしまっていて、神とは別な肉体
人間というものを、自分自身でつくりあげてしまっているのです。
その肉体人間である、神とは別のものである、という想念の習慣が、肉体行動の習慣ともなり、
全生活の習慣ともなって、今日のような肉体人間としての常識をつくり出してしまったのでありま
す。
神などあるものか、という一部の人の考え、神は神、人間は人間だという考え、自分たち人間に
は神のような能力はありっこない、という考え等々、神と人間とを引きはなしてしまう考えが、ほ
こんにち
とんどの常識となっている今日です。
常というのは、拙著『老子講義』でも説いているように、神のみ心の一番深いところの在り方な
のでありまして、それを意識することを常識というのであります。ですから常識という言葉の本来
性は今日いわれている常識とはまるで奥行きが違うのです。しかし今日の常識という言葉に当ては
めれば、人間は神と等しき能力をもつものであって、道に乗り切りさえすれば、神の如き能力を現
わし得るのだ、などということは、常識外れのことだと世間の人にいわれることでありましょう。
そこで私は、真実の常識、神のみ心そのままの状態が現われることの認識を超常識と呼んでい
て、人々に迷惑をかけたり、やたらに人を驚うかせたりする常識外れの行動と、はつきり分けて説
明しているのであります。
やがては、今日の常識の範囲が、広まり深まっていて、真実の常識の世界に到達するのでありま
すが、そうなるためには、やはり今日の習慣性の生き方を改めることに専念しなければ駄目なので
あります。
宇宙の運行は大きく変化している
以前に申しましたように、現在は宇宙の運行が大きく変化しつつあるのでして、地球も宇宙の一209こ
れ
か
ら
の
生
き
方
環として、その大きな変化に沿って変化してゆかねばならぬ時期になっているのであります。
科学的にいえば、今日までの肉体波動のままでは生存でき得ない時代に遭遇するので、どうして
も幽波動、霊波動に合わせ得る想念や体につくり変えなければいけない時になっているのです。
地軸が傾いていると、予言者もいうし科学者の一部もいっておりますが、地軸が傾くということ
をいい変えますと、地球界の物質波動が変化しつつある、ということなのであります。
地球界の物質波動が変化してきますと、それに適合して、肉体波動も変化しなければ、この地球
界での生存はおぼつかなくなります。そうしたずれは、病気に災難に、天変地異に戦争に、という
ような現われとなって地球人類の前に不幸な事態を現出してくるのです。
こうした事態は、現在の人間の心の状態ではどうしてもまぬがれ得ないところなのです。ヨハネ
黙示録をはじめ、種々の昔からの予言にそうしたことが、はっきり書かれてあります。
今日の人間の生き方としては、例え少しぐらいの善いことをした、或いは悪いことなどしていな
いぐらいのことでは、とてもどうにも仕様のない事態なのです。
そうした予言を別にしても、よくよく心をひらいて今日の世界の情勢をみてごらんなさい。とて
も只では済みそうもないことが、諸所において見受けられます。210
のるかそるかの時
にら
アフリカ内部の紛争、中近東諸国の睨み合い、南北ベトナム問題、それらの諸国の背後において
勢力を競い合う大国、なかんずく、米国とソ連と中共の権力争い等々、原水爆を切り札に、いつい
かなるところで業火の火の手をあげるかはかり知れません。こうして私がペンを走らせている間に
も、米国と北ベトナム← 中共との戦をかけたかけひきが行なわれているのであり、一歩間違えば、
米国の核兵器使用ともなりかねない状態にあるのです。
中共と米国との交戦は、日本にとっても生命とりの戦いとなるのであり、世界大戦への口火とも
なるのであります。そういう馬鹿なことをする筈がない、といいきれないものを、米中両国とも持
めんつ
っているのです。それは権力欲と、面子の問題という、真理の世界からみたら馬鹿気きったことに
たん
端をはっしそうなのであります。
これは何も軍事専門家や政治家の目でなくとも、一般大衆の一人一人の目にも、はっきりその状
態はうつってくるのです。これらの状態は今日までの習慣性の波動の変化、つまり人類の業生の消
えてゆく姿として現われようとしているのです。
のん
こんなすさまじい変化の時期を迎えているのにこの地球の人間たちは、まあ、なんて呑気に構え
211これからの生き方
ていることだろう、と宇宙人ならずとも、少しは先の見える人々は、人間の呑気さというか、怠惰12
2
な生き方に驚き入っているのであります。
自分たちがいくら騒いでもどうにもならないと諦めて、呑気にしているのか、先のことは何も考
える能力がなくて、一日一日を享楽しているのか、何にしても、地球という自分たちの居住地に対
する、この無責任さというものには、どうにもやり切れない気がしてきます。今の心境のままで、
地球が滅びたら、あなた方は一体何処へ行くつもりなのか、と反問したくなります。死んでしまえ
ばそれまでさ、とたかをくくった答をする人もあるでしょう。
死んでしまえばそれまで、などという考えほどとんでもない考えはありません。死んだ先の世界
が何処までもつづいていることを御存知ないから、そんな呑気なことがいえるので、死んだ先の世
界が、自分自身の想念行為のままに厳然として現われてくるのだ、ということを知ったら、その人
りつぜん
は慷然としてしまうに違いありません。
投げやりな怠惰な生き方で死んでしまった人の、この世以上の悲惨な世界を、私など嫌という程
見て知っています。私のように、あの世のことや神の世界のことの判るものにとっては、この世で
不まじめな生活をしていた人の哀れさを思うと、ひっぱたいてでもいいから、その真理を知らせて
やりたい気がするのです。
何にしても、この世の生を大事に真剣に生きなければなりません。自分の生き方を常にみつめ、
人々の為に人類の為に、少しでも役に立つ人間として生きてゆくことが、何人にとっても大切なこ
となのです。
のそ
それにしかも今日からの地球の状態は、全く伸るか反るかの状態なのです。全く死んでしまう
か、真実に生きるかの瀬戸際に立たされているのです。
中途半端の生き方は通用しない
なまはんぱ
もう生半かの生き方、中途半端な生き方のできない時代になってきているのです。宇宙の運行の
変化につれて、地球世界の今日までの習慣性の波動が、いや応なしに変化してゆくのです。変化し
てゆく姿が、病気や不幸災難、天変地異、戦争などとなって現われてくるのです。これを先程も申
しましたように、少しぐらいの善事をなしたからといってふせげるものではありません。
今日までの習慣性の想念行為を、すっかり変えきってしまわねば防ぎ得ない状態なのです。防ぎ
得る方法は、只一つしかありません。それは自分たちも宇宙の運行と同じ軌道に乗ってしまうこと
213これからの生き方
であります。14
2
宇宙の運行というのはいったいどういうことかが、きっと判らないと思います。それは自然に花
が咲き自然に実が成るような、そうした生命に対する従順さ、ということなのです。
くロつ
今こそ、昔からの聖者たちの教えた、空の心境、無為の心境、み心のごとくなさしめ給えの全託
の心境になり切らねばならないのです。なれぬもなれないも無いのです。是非共そうならなけれ
ば、そうならないだけの痛手を心身に受けねばならないのです。
それは誰がするのでもない、過去世からの自分たち自身の神のみ心の軌道を外れた想念行為の分
だけするのであります。これを、因縁因果の摂理というのです。
神のみ心から分れた生命体として種々な世界で生きつづけた人間が、最後にはどうしても神のみ
ぞと
心と全く一つになり切って生きることになる為なのでして、何人といえどこの摂理の外にあるもの
はないのです。
かた
神など無い、などといっている人たち程、神のみ心と一つになり切ることが難いので、それだ
け、この世またはあの世における苦悩は烈しいものとなります。そんなことあるものか、という人
は、その苦悩を味わってはじめて真理を知るのでありまして、それも致し方ないと思うのですが、
致し方ないだけでは済まされぬものを、私たちの愛の心は強く感じるのです。
私たちのとるべき道
そこで生まれ出でたのが、消えてゆく姿で、世界平和の祈りという教えなのです。この教えは、
守護の神霊方が、人類すべての苦悩を肩がわりしてあげたい、というみ心でなされたもので、この
祈りをする人々に対して、救済の大光明を放射して下さり、その人及びその人にまつわる縁ある人
もろこんばく
々や諸々の魂睨を浄化して下さるのです。
今日からの地球世界の状態は、古来からの聖者方の教え通りにしてゆかねば、生存してゆけない
くうむい
状態になることが必然とされているのですが、なかなかそうした、空や無為や全託の状態にはなり
切れない。そこで、消えてゆく姿という教え方が現われたのであります。
空や無為や全託になれない想念を、徐々にそうならしめる易行の道として現われた消えてゆく姿
で世界平和の祈り、というのは一体どういう道かと申しますと、これは毎月白光誌を読んでいらっ
しゃる方はよく判っておると存じますが、新しい人の為のものとして新しい気持でお読み下さい。
空や無為の心境にならなければ、地球人類は滅びてしまうことは、宇宙の運行の変化に伴なう、
215これからの生き方
くコつ
地球自身の波動の変化によるのですから、どうにもしかたがありません。といって空や無為や全託
の心境にはとてもなり得ない、一体どうしたらよいのだろう、というのが、道を求めている人々の
等しく考えることなのです。
なまやさ
今日は本当に生易しい時ではないのです。全く死か生かをはっきりきめねばならぬ時代なので
す。ですから、いいかげんな中途半端な信仰などは許されない時代なのです。許されないというの
は、自分の本心が自分自身を赦さないということなのです。
嫌でも応でも、人間が神の子の本体を現わさねばいられぬ時代が今日からの時代なのです。これ
は試験をパスしなければ上級学校に進めない、ということと全く同じことでありまして、絶体絶命
なことなのです。
しかし神は愛でありますから、最後に救いのみ手を差しのべられているのです。それが、消えて
ゆく姿で世界平和の祈り、という教えの道なのであります。
人間の心臓や肺臓やあらゆる機関は、人間の想いで動かそうとしなくとも、自然に動いておりま
す。赤ん坊に大きくなれ大きくなれといわなくとも、お乳を一体誰が成長の要素にして下さるの
か、自然と大きくなってきます。216
まか
そういう肉体内の諸機関のように、人間の頭脳を駈け巡る想念波動を、自然のままに託せきって
しまう、神のみ心に全託し切ってしまうことを、空とか無為とかいうのであります。
心臓や肺臓が自然に働いているのだから、想念だって自然に働いてもよいわけです。よいわけで
はなく、自然に働くことがよいのです。その真理を体得していたのが、老子であり釈尊であり、イ
エスであり、古来からの諸聖者であったのです。私もそれを体得して知ったのです。
ほんとう
自分で動かさなければ想いは動かない、と思っているのは真実は馬鹿気きったことなのです。自
分自身で動かそうと思わない時、いわゆる空の状態になった時、無為になった時、想念は光となっ
て、四囲を照すのです。自分でこちょこちょ動かす想念は、小智才覚というので、聖人たちの嫌う
ところなのです。ですからどの聖者でも、小智才覚を捨てよといっているのです。
小智才覚も消えてゆく姿である
小智才覚を働かせている間は、深いところからくる神智は現われないのです。小智才覚を捨て切
った時、即ち空になった時、はじめて神智がそこにひらめくのであります。
自分で考えなければ智慧がでてこないと思う愚かさを、地球人類は捨て去らねばなりません。そ217こ
れ
か
ら
の
生
き
方
カルマ
れは単なる習慣性なのであります。つまり業なのであります。神と人間との間にある隙間が、そう128
した習慣性をつくり、小智才覚で人類を支配するようになってしまったのです。
そこで神々は聖者賢者をこの世につかわして、その習慣性を改めさせようとなさっていられたの
です。そして今日の最後的時期に到達してきたのであります。しかし、幾多の聖者賢者のみ教え
も、習慣性の想念が厚い波動の帯となって、真理の光を蔽ってしまっているので、なかなか人々に
実行させるまでにならないのです。
くサつ
そこで、一度に空や無為という心境にさせるむずかしさを一段低くして、消えてゆく姿、という
教えにしてきたのです。あなたのやってしまった過去からの誤ちも、誤ちをとがめる想いも、他人
のした誤ちも、自他の悪い想念も不幸も災難も、小智才覚も、すべて過去世からの習慣性の消えて
ゆく姿であって、あなたが悪いのでも相手が悪いのでもない。すべては自他の本心開発の為の、神
の子の姿が現われる為の邪魔な想念波動の消え去ってしまう為に現われたものなのだ、というよう
に善悪に把われる想念を、一度消えてゆく姿として放してしまうのであります。そしてその放した
消えてゆく姿は、何処で消されるかというと、世界人類が平和でありますように、という、世界人
類の平和を祈念する、世界平和の祈りという、救世の大光明の光り輝く波動の中で消して貰ってし
まうのであります。
どうして世界人類の平和を祈ることが、光り輝くことなのかと申しますと、神は光そのものなの
であり、神のみ心は平和であり、大調和そのものなのです。ですから人間側が平和の祈りをする時
には、その人の想念は、神のみ心と一つになって自ずから神の光を導入し光り輝くのです。
そこで、本来の人間、真人の姿となり、神我一体の光明体となるのであります。まして世界平和
の祈りをするところに、救世の大光明は輝きわたる、という、神の宣言がなされているのでありま
すから、光明化するのは当然なのであります。
くロつ
こうして、すべての想念行為を消えてゆく姿と思い、空や無為に至る道に一歩足を踏み入れ、そ
して世界平和の祈りによって、大光明世界の住者となるのです。この祈りの行をつづけてゆきます
じねんほうに
と、自分でも気づかないうちに無為に近い行為ができるようになり、自然法爾の生き方のできる、
むげ
無擬自在の行為の人になってゆくのであります。
これはその人の過去世からの因縁によりまして、早くなり得る人と、年月の長くかかる人とがあ
りますが、この祈りをつづけていれば必ず無為の境地に到達できるようになるのです。
消えてゆく姿という教え方は、空、無為、全託に至るエレベーターであり、世界平和の祈りは、219こ
れ
か
ら
の
生
き
方
宇宙神のみ心の中ということになるのであります。
220
自己の真実の悟りと世界の平和
いつも申しますように、現在では個人だけの救われの道というのはないのでありまして、個人の
救われは同時に人類の救われでなければならないのです。それ程に個人と入類とは切り離せない時
代になってきているのです。
こう
ですから個人だけの救われの為の行を致しましても、常に地球人類全般の業波動が、その人にか
いちれんたくしょう
か って参りまして、真実の安心立命の境地にはとても成り得ないのです。一蓮托生という言葉があ
りますが、今日の地球人類の運命は全く一蓮托生でありまして、個人の運命だけをぽつっと切り離
せるようなものではなくなっています。
今日の世界でも、その場その場における幸福感というものは勿論ありますけれども、永遠の生命
につながる安心立命感というのは、自分自身だけが悟り得た、という満足感だけで得られるもので
はありません。自分と共に人類の完全平和が約束されるというところにまでこないと、真の安心立
命はでき得ないのです。
それは真実に悟りの道に入っている人々の等しい境地だと思うのです。昔の修行者たちが、山に
篭って自分だけが悟り澄まそうとしていましたが、今日ではそういう手段は神の喜び給うところで
みずか
はありません。業想念渦巻くこの市井にあって、自らの悟りが直ちに人々の為の光明となるような
そういう悟りの道が、今日の宗教者の道であり、道を求むる者の生き方であるのです。
各人が自己の置かれた環境立場において、自己の悟りを得、人々の光明となる、そういう道こ
そ、現代の道を求むる人々の生き方でなければならぬのです。
今日では、肉体波動、物質波動が急速に霊波動に変ってきています。いいかえれば、粗雑であっ
た波動が、微妙な波動に変ってきているのであります。
いつまでも旧態然たる物質波動、肉体波動の想念にしがみついていては、滅びの門に至るだけで
す。人々は一日も早く微妙なる霊波動になれなければいけません。これは好むと好まぬとにかかわ
りなく、そういう時になっているのでありますから、どうしてもそうならなければならぬのです。
そこで私共は口をすっぱくして、肉体想念だけでは駄目だ、もう肉体智だけではどうにもならな
い時代になってきたのだから、想いをすべて一度神のみ心にお還えしして、改めて神様から運命を
頂き直せ、といっているのであります。221こ
れ
か
ら
の
生
き
方
今日ではもう単なる現世利益の信仰だけでは駄目になってきました。たとえ一時病気が治り貧乏222
から解放されたようにみえましょうとも、それは単なる業波動の転回に過ぎませんので、肉体人問
が、霊性の人間に変化したわけではありません。
永遠につづく生命の道を自己のものに
肉体人間観を、真実の神の子観、霊性人間としての生き方に変えていかなければ、今日この地球
に生きている意義が薄れてしまうのです。
今日この地球世界に生きている、誰も彼もが、完全平和達成の為の一役を、神様から役目づけら
れているのです。その役目を済まさないことには、人間は決して安心立命できる世界に住むことは
できないのであります。
その為に消えてゆく姿の教えが生まれ、世界平和の祈りの行法が生れ出たのであります。巻頭の
教義(人間と真実の生き方)をよくごらんになって、消えてゆく姿で世界平和の祈りという、神の
大愛の道を日々行じつづけて下さい。必ずあなた方の安心立命の道は開かれて参ります。
人間は肉体だけではありません。永遠につづく生命です。永遠につづく生命の道を、今生の世界
あなた
において、はっきり自己のものとしてゆく幸せを、貴方も貴方もどうぞじっくりと噛みしめてみて
下さい。
生成発展してゆく大宇宙の素晴しいロマン、そしてその運行をつつがなく成し遂げられている神
々の大偉業、そして私たちの背後にあって、愚かな数々の行為に対しても、少しのあなどりもな
く、守りつづけていて下さる守護の神霊方、こうした神々の恩愛に対しては、どれ程の感謝を捧げ
ても捧げつくせないものなのです。私はそれを身心に沁みて知っております。どうぞ皆さんも、守
護の神霊への感謝と世界平和の祈りを、大らかにそして真剣につづけていって下さい。完全平和の
道は世界平和の祈りによって先ず開かれてゆくのであります。
223これからの生き方
224
真の自我の確立
自我ってなんだろう?
近頃は大学から小学校に至るまで、自分を出すこと、自分の意見を発表することをすすめていま
す。最近の東大総長の学生への講話の中にも、自我の確立についての話が中心となっていて、福沢
諭吉のように、いかなる時でも自己の主張を曲げずに生きられる人間になることを、すすめていた
ようです。
ところがこの自我というものが問題でありまして、本心の現われそのものを自我という、そうい
まこと
う意味の自我であれば、これは実に自我をそのまま出すことが大事であり、必要であるので、そう
した自我であれば、これはお互いの自我がぶつかり合うようなことは、絶対になく、お互いがお互
いの為になり合うように自然になってゆくのでありますが、自我を出し合うことによって、お互い
がぶつかり合い、争い合うような、いわゆる手前勝手な自我であっては、現在の米国や中共やソ連
が代表してみせている態度でありまして、世界人類全体の為にならぬことは論をまちません。
ですから自我を出すことをすすめ、自我の確立ということを教えるためには、自我というものが
一体どういうものであるか、どういうところから生まれ出てきているものであるかを、先に教えな
ければ、つい、自分勝手な主張をし、自分勝手な行動を強く押し進めてゆくことを、自我の確立で
あると思い違えてしまいます。
昔は自我を出すなという教育がなされていましたが、出してはいけない自我というのは、本心
はずカルマ
(神) から外れた、いわゆる業想念的喜怒哀楽のことでありまして、こうした自我、真実は自我で
はなくて、業想念欲望であり、自分勝手な想念行為なのでありますが、こういう想念行為をも、思
い思いに勝手に出し合うことをすすあているようであっては、教育というものの実体がなくなって
しまいます。
これが個人として出すのではなく、団体としてのものであっても、真の自我の主張でないことに
は、敵対し合うもの、お互いを傷つけ合うものが、必ずそこに生まれ出でるのです。225真
の
自
我
の
確
立
それは、真の自我というものが、神のみ心の中にあるものであって、肉体人間の頭脳の中から湧226
きでてくるものでも、肉体人間としての環境から生まれてくるものでもない、という真理を知らぬ
ところから起ってくるのです。
正しさをはかる秤
例え自分の考えが正しいものであると、自分自身で思っていても、それが神の眼からみて、宇宙
の法則に照し合わせて、正しいかどうかは判らないのです。自分の意見や考えが正しいということ
を、お互いが思い合って、お互いが思い思いの方向に進んでゆくことによって、お互いの天命が完
うされ、社会人類の為に少しでも役立つようであれば、これはお互いが真の自我によって、お互い
の道を進めていったことになるのですが、事実はなかなかそのようなことは少なく、大方はお互い
に正義を主張し合い、正しさを論じ合いながら、争い傷ついてゆくのです。
自己の正しさを計るバカリは果して何によってなさるべきなのでしょう。それは宇宙の根本原
則、大生命の法則によってなされねばなりません。この世や国家の定めが幾度びとなく変更されて
ゆきましょうとも、宇宙の根本原則には変りはありません。真の自我の確立者とは、常にこの根本
はず
原則を外れず生きてゆける人のことなのであります。
それでは、宇宙の根本原則、大生命の法則とは一体どのようなものでありましょう。それは一口
にいって大調和ということであります。あらゆるものが大調和にむかって進んでゆく、ということ
が、宇宙の法則なのであります。
ちなみに原子の活動状態などでも、一つの調和が乱れれば、すぐにもその調和を満たそうとし
て、粒子が活動するのであり、その活動によって、原子の存在が保たれ、分子としての役目がなさ
れ、あらゆる物質としての使命が達成せられているのです。
これは小は原子の世界から、大は大宇宙の星々の問においても、そうした活動がなされているの
であります。見た眼には破壊とも見える地震や風といった状態も、不調和状態を調和させる活動な
のであります。
大宇宙の星々の中には、すでに調和状態そのもので生活しているところもあるようですが、この
地球世界は、今正に不調和状態を調和させようと、大宇宙の働きがなされでいるのであります。た
だ大宇宙のみ心が法則そのままの動きを進めてゆきますれば、現在の地球界の不調和状態は、その
こロつ
波動調整の為に、大なる被害を被むらなければならぬ程のものとなっております。それではあまり
227真の自我の確立
にも地球人類にとって悲惨な状態になるので、大慈愛のみ心は、人類守護の神霊としての働きを、
みずか
救世の働きとして、人類の心に、自ら不調和状態を調和させ得る方法を各聖者を通して教えさせて
いるのであります。
228
苦悩を生んだ幼稚な自我意識
自我の確立ということは、とりもなおさず、神々のそうしたみ心を、自己の想念行為として確立
してゆくことにあるのですから、自らの想念行為を調和させ、社会人類の生活環境を大調和にむか
って、進ませてゆくようなそういう働きにしてゆく、主張であり行動でなければならぬ、というこ
とになってくるのです。
いたずらに、自分の考えはこうなのだから、誰がなんといっても、こうするのだ式の、幼稚な愚
かな自我意識は、自分を傷つけると共に他を損うことなのですから、学校教育にたずさわる人など
は、特に生徒のそうした誤った自我意識を助長するような、教育方法をしてはならぬと思うので
す。
団体、社会、国家というような大きな自我になってきても、やはり原則は同じことであって、す
べて大調和を目指しての働きでなければならぬのです。
個人も人類もすべては神のみ心の現われなのでありまして、神のみ心によらずして生まれ出でて
いるものはありません。人間は誰しもが、神のみ心を持っているのでありますが、その本心を現わ
し得ずに苦悩しているわけなのであります。そして本心である、真実の自我は神のみ心そのものの
現われなのですが、個人個人としてはっきり形の世界で分れてしまった、肉体の中では、小さな一
つの形の中から生まれでた自我としてしか現われず、その小さな自己主張をつづけようとしてきた
のです。現在の人類の苦悩の大きな原因はそうした小さく自己限定した偽りの自我から生まれたも
ほうくう
ので、その苦悩を超えるためには、そのような、偽りの自我想念の方を空にしてしまえ、さすれば
真実の自我、み仏の心が現われてくるのだ、と説かれたのが釈尊であったわけです。
大生命という根源から離れた自我というものは、自分たちの肉体生活を護ろうとして、お互いが
相手の利益より自己の利益を先にしたがるもので、自己の現象利益をマイナスする相手を排斥した
り憎んだりしてしまうものです。ですからお互いが自己主張することによって、そこに争いが起っ
てしまうのであります。
そういう自我をなくさせるために、老子や釈尊やイエスなどのような聖者賢者たちが、神のみ心
229真の自我の確立
を説き明かそうとして出現したのですが、なかなかその自我がなくならずに、今日の世界状勢にま320
で人類を追いつめてきてしまったのです。
ここで、世の中にはこういう人たちも存在しているのだ、ということを、木村毅氏著の”ドウホ
ボール教徒の話” 〈講談社刊〉という著書から抜粋してお知らせしてみましょう。たしかに心打た
れる話だからです。
ドウホボール教徒の話
ドウホボールという教団は、ロシヤの素朴な土俗宗教で、当時(帝政ロシヤ時代十八世紀)その
信者はみんなで二万人ばかりのきわめて小さな宗派だったが、しかし、彼等のもつ信念はきわめて
高大だった。聖書でも、その中に書いてあることで、最も重大で、きびしく守らなければならぬこ
ととしているのは、
「汝、殺すなかれ」
「汝の隣人を愛せよ」
「暴力に対するに暴力を以て抵抗するなかれ」の三点である。
神への奉仕、キリストの教えの遵奉のため、ドウホボール教徒たちは兵役を拒否し、兵器を返上
してしまった。
軍法会議にまわされ、死刑だ、銃殺だとさんざんおどされ、むち打たれ、なぐり倒されても、志
をひるがえさなかった。
兵役拒否を申し出た兵隊たちは、上官の前でその理由を述べねばならなかった。元来無知の農民
出なのだから、言うことがまことに簡単で、つじつまの合わぬところもある。しかしこれを読んで
心を打たれずにいることのできる者はあるまい。ここにはチフリス軍法会議所でドウホボール兵と
裁判官との間にかわされた問答の一節をかかげる。
問きさまは一体何者なんだ。
答私たちはキリスト教徒でございます。
問きさまのような奴がどうしてキリスト教徒といえるか。… …何派の信者だ。
答妙なことを申されます。あなたはキリスト教徒というのが、どういう者か、御存知ありませぬ
か、イエス・キリストを信じ、神様の教えをまもるものは、みなキリスト教徒でござります。
〈中五行省略〉231真
の
自
我
の
確
立
問どこの国に住んでるかときいているんだ。322
答神さまの国でござります。
問そんならそこの統治者は誰なのだ。おまえはだれに服従してるのだ。
答自分たちの住む国土の主人であられます神さまに服従いたしております。
問神の国土にすみ、神にのみ従うというのなら、皇帝陛下はみとめぬ者と察するが、その点はど
うか。
答天子さまを特別にどうということは考えません。昔から天子だった家の人は、今後もまた天子
になられて、さしつかえないでござりましょう。しかし、この地球とこの地球上に住んでいるい
っさいの者を創造なされましたのは、神さまだということを忘れてはならぬと存じております。
問きさまの申し條によると、べつだん皇帝陛下を承認しないのではなさそうだ。それなのにな
ぜ、兵役の義務に服しないのだ。
答べつに自分勝手な一存で、兵隊をご免こうむるわけではありませぬ。キリストの信者でござり
ますから、人に危害を加えることがゆるされぬだけのことでござります。キリスト教徒は、生き
ている人みんなの自由を尊重し、人類同胞を殺すなどとは、とんでもないことでござります。
問だれに教わって、そんな考えをいだくようになったか。
答神さまのお言葉におしえられました。モーゼの十戒に、殺すなかれとございます。
問人殺しをせよなどと、だれがきさまに要求した。だれもそんな命令は出しはせんではないか。
答妙なことを申されまする、軍事教練は、どうすれば人殺しが巧妙にできるかということに外な
らぬではありませんか。軍事教練をしておいて、人殺しを要求せんなどと、どうして言えます。
キリスト信者である私たちは、人はひとりひとり、すべて生きた神様の殿堂だと信じております
から、それに鉄砲をむけることは、絶対にできないのでございます。
問もちろん、理由もなく人殺しをするのは罪悪にちがいないが、しかし敵がきて、吾々を殺そう
とする時は、正当防衛の上から、その敵を殺すことが、どうして悪いだろう。もしそんな時、敵
を殺さなかったら、自分も殺されるじゃないか。
答なるほど、相手に殺人の罪悪をおかさせぬだけに、自分をまもるのは、べつに悪くはございま
すまい。しかし神さまは、私どもを守り、助けて下さいます。それを忘れてはなりませぬ。
〈十二行省略〉
ただ人を殺せという命令には、従えぬというだけのことでござります。吾々キリスト教徒はど
233真の自我の確立
んな場合にも人殺しをしてはならぬので、人類みなおたがいに兄弟なのでござります。
問阿呆め、きさまを殺しにくる敵を、兄弟呼ばわりする奴があるか。
答いや、人類はみな神の子で兄弟なのでございます。だれが善いか、悪いか、だれが正しいか、
まちがっているかを審判して制裁を加えるのは、神様のなさることです。私たちは兄弟として、
たがいに愛し合わなくてはなりません。1 それでは、あなたに一つお尋ねさせていただきます
が、あなたが人を敵としてごらんになりますと、その人はあなたを何とみます。
問奴等もおれを敵とみるだろうさ。それがどうした。
答私たちは、だれをも敵としては見ませんので、したがって誰も、私たちを敵と思う者はござり
ません。あなたは人から敵としてみられるのと、神の子として、兄弟として見られるのと、どち
らがいいと思召します? もし神様に仕えて、人類はたがいに兄弟であると信じて愛しあうな
ら、誰からもかたきとは思われないで、おたがいに神の子としてみとめ合えます。もし天子さま
に仕えて、その天子さまの下の限られた数の国民のほかは、みな敵とみとめる時は、あなたはた
くさんの世界人類から敵とみなされなさらなきゃならなくなるでしょう。そのどちらがお好きで
ござりますかな。
234
これに似た問答は、あちらこちらでくり返えされているのである。
と著者はいっております。そしてその後、この人たちは、コーカサスの辺境に移動させられてし
まったのであります。
コーカサスの辺境は山匪の横行するところで、ドウホボールのような、「無抵抗」だの「汝殺す
なかれ」だのと聖書からのはえぬきのような融通のきかぬことをいっていたら、山匪によって、根
だやしに殺されてしまうこともあり得る。だから彼等は必然武器をとってその財産や家族を守るだ
ろう。そうすれば必然的に武器をもつ教派に改まるだろう。でなければ彼等は死滅してしまう。ど
ちらでもよい、と政府は一石二鳥の名案をたてたわけであったが、結果は、ドウホボールは山匪に
襲われても無抵抗で仕返えしもせず、軍隊や警察の救援を求めようともせず、出さきで飢えるよう
なことがあると、そうした賊をも助けて、心よく食べ物を恵んでやるような神のみ心そのままの行
為に生きていたので、さすがの山匪もこれを親愛するようになり、かえって守ってくれるようにな
った、ということなのであります。
こういう人たちは、この世界に滅多に存在するわけではありませんが、ここまで神の信仰に生き
られたら、確に人類は今日の姿を高次元の姿に変貌させてゆくでしょう。たいした信の生き方で
235真の自我の確立
す。この人たちは肉体の生存なぞより、神のみ心の中で生きることが重大であることを、
って知っていたのです。こういう姿こそ、真の自我の発露というのでありましょう。
身心をも326
相手が攻めて来た時恐怖なく無抵抗でいられるか
しかし、今日の人聞の中で、このような生き方のできる人は僅かな人々でありましょうから、こ
れをこのまま実行せよ、といっても無理なことでしょう。
無抵抗とか殺すなかれ、ということは釈尊もキリストも共に説いているところでありまして、向
ってきたらやっつけてしまえ、と説いている聖人はありません。と致しますと、人の生命を奪うこ
とと、争いを起すことは、神のみ心の根本原理から外れていることは誰でも認めることなのであり
ます。
ところが、相手が攻あてきた時に、無抵抗で相手のままになっていられるか、ということになる
と、なれるといい切れる人はなかなかあるものではありません。恐怖しながら、自己の無力による
無抵抗というのでは、神のみ心を現わしていることにはなりません。恐怖感のない無抵抗というこ
とが尊い生き方なのです。
人間は習性として、肉体を護ろうとします。これは人間ばかりでなく、あらゆる生物がそうなの
ですが、人間は肉体を護ることよりもっと大事なものを護らなければならぬことを知っておりま
す。それは本心を汚さぬこと、神のみ心のままに生きねばならぬことなのです。知っているといっ
けんざいいしき
ても、表面の想いでも知っている人と、顕在意識としてはまだ知らないけれど、潜在的には知ってい
る、という二面がありまして、顕在意識としては、肉体だけを大事だと思っている人の方がまだまだ
多いのですから、人間の大半が未だに神の子と動物との間を低迷しているということになります。
そこで、肉体を護ろうとするあまり、どんな方法ででも、加害者をやっつけてしまおうとするわ
けなのです。人を殺してはいけない、お互いの生命を傷つけ合ってはいけない、ということは人類
の大半の人は知っているのです。知ってはいるけれど、それは自己の肉体環境が冒されない場合の
ことであって、一度び、自己や自己の周囲が危機にさらされれば、相手に対して非常に敵意を感
じて護りを固めることになるのです。
それが国家と国家という場合には、常に相手の先手に立ってゆこうとするのあまり、相手が仕掛
けてこぬ先に、自分の方から仕掛けてしまうようなことになってしまいます。中共と米国との間が
正にそうで、殺す勿れなどという聖者の言は、どっかへとっくに吹っ飛んでしまって、動物並みの237真
の
自
我
の
確
立
しかも動物よりも非常に残酷な方法で、相手を痛めつけようとしているのであります。328
神のみ心の中では、お互いに兄弟なのだ、ということなどは、米国政府の心の中からも、中共政
府の心の中からも、きれいに消滅してしまったように、お互いが相手国の滅亡降伏を計り合ってい
るのです。
人を殺すことは正義にあらず
ドウホボールの人たちからくらべたら、まるで天使と悪魔との違いのようです。私がいつも申し
ておりますように、正義というものは、お互い同志、自国や自国陣営の方のものだと思いこんでお
りく
るのであり、その正義を通すためには、少しぐらいの犠牲、犠牲といっても相手方を殺鐵すること
ですが、仕方のないことだと思っているのです。
だま
人を殺すことが、どうして正義に通じることでしょう。爆撃したり、人を騙したり、自国の都合
のよいことのみに人を動かそうとすることが、果して平和をこの世にもたらすもののやることでし
ょうか、この大宇宙は常に大調和にむかって進んでいるのです。
この大調和に反する想念も行為も、やがてはすべて消滅さるべきときがくるのです。そうした調
はず
和に反する行為、神のみ心を外れた行為をしていて、どうしてその国が栄え、その人類が平和世界
を創りあげることができましょう。
私たちは、ドウホボールのような行為を一般の人々にすすめようとは思いません。それはどんな
に教えられても、すぐにできることではないからです。人が刃物をもって斬りつけてこようとする
時、平然として無抵抗でいられることは容易な信仰ではありません。
そこまではなかなかゆくものではありません。しかし、やがて攻めてくるだろうといって、まだ
攻めてきもしないものを、敵と認めて軍備をすることに、私たちは賛成できない心のしこりを感じ
ます。何故でしょう。それは、どんな立場になっても、二度と再び戦争をこの地球界で起したくな
いからです。攻めてきたから迎え討つのだ、といっても戦争はやはり戦争です。どちらが善いもど
ちらが悪いもなく、戦争をすれば双方共に傷つくのです。
まず日本が神のみ心の中に入りきろう
ですから、どちらか一方先に神のみ心に入った方が、あらゆる武器を捨てる、という思いきった
行動に出ない限り、この世の争いはつきないし、やがては地球世界の滅亡をまねいてしまいます。
239真の自我の確立
しかし、現在の米国にも中共にもそれができようとは思いません。それができるのは、平和憲法を
420
現在もっている、日本をおいて他にはありません、日本こそ世界中に向って声高々と、地球世界の
人類よ、すべての武器を捨てて話し合おう、と叫び得る唯一の国なのです。日本の天命はそうした
世界平和の中心として起つことにあるので、日本が今更軍備増強して、中共やソ連や北鮮の攻撃を
防ぐ、などという、中途半端な立場に立つことは絶対にしてはならぬことです。
そうしなければ日本が滅びるというのなら、この日本という国が地球上に必要でないということ
なので、霊界で存続すればよいことなのです。しかし、神のみ心の大調和の法則にすっかり乗り切
った、世界平和を旗印にして、殺す勿れを実行してゆこうとする国が滅びるわけのあろう筈があ
り
ません。私共は日本をそういう国として立ち上がらせる為にも、日本人全部のいまだいたらぬ良心
の開発の為にも、やろうと思ってできない日常茶飯事の生活状態の誤りを、神のみ心の中で梶して
頂く為にも、消えてゆく姿で世界平和の祈りの実行をますます励んでゆかねばならぬのです。
“世界人類が平和でありますように、日本が平和でありますように、私達の天命が完うされます
ように” の祈り言の中で私共は神々への感謝をつづけて参ろうではありませんか。これこそ、真我
の開発の最大の易行道なのであります。
世界平和の祈りの運動精神
個人と人類とのつながり
この人間世界は、病気と貧乏と争いとがなかったらどんなに良いであろう、とは誰でも思うこ
とでありましょう。まして、自分や自分の周囲の者が、病気をし貧乏をし、争いごとでみちてい
た、という経験をもっている人は、殊更に強くこうした悪いことの無い世界を願うに違いありませ
ん。
過去からの聖者賢者たちは、老病貧苦をこの世からもあの世からも、すっかり消し去ってしまい
たい、という深い願いをもって、世の指導者となったのであります。
愛深い人々は、そうした人類の苦悩を和らげる為に役立つことを願って、或る人は医者に、或る241世
界
平
和
の
祈
り
の
運
動
精
神
ていしん
人は広い意味の科学者に、或るいは社会運動家として、その身を挺身してゆくのであります。
病気や貧乏は個人的なものであり、争いごとの大きなもの、つまり戦争は、国家的人類的なもの
だ、と思っている人もあると思いますが、病気や貧乏も、只単なる個人的なものではなくて、社会
国家人類という、大きな集団の影響下にその原因が起り得る、ということがあるのですし、それを
な
直し得る力も、大きな集団の力によって為し得るものなのです。
みつせつふり
今日の生活は、個人と国家や人類とが密接不離なる関係をもっておりまして、個人はもはや、単
なる個人ではなく、大きな集団の一つの単位としての個人なのであります。
ですから愛深い人々は、常に個々人を通し、集団集団を通して、全人類の為の奉仕にその】生を
捧げつくしているわけなのです。それが宗教の面においてであろうと、科学の面であろうと、政治
の面においてであろうと、その根抵は等しく人類愛の心によって為されているのであります。
実際に今日のように、地球が狭く感じられることは過去の時代にはなかったことです。米国の出
みき
来事が同時に、日本においても見聞きできるというテレビの発達、航空機による旅行時間の短縮等
々、他国のことが我がことのように感じられる程、距離や時間が短かくなってきているのです。私
へだ
共の感覚の上で確かに地球は狭くなったのであり、他国と自国との距たりが縮められていっている242
のです。
すみ
それは善いことの上にも、悪いことの上にも、実現されているのであります。文明文化の速やか
なる交流、これは喜ぶべきことでありますが、他国において行なわれたる核爆弾の実験による放射
能は、直ちに我が国にもその影響を及ぼしてくるのであり、他国の伝染病なども、すぐに我が国を
おびやかすことになるのです。まして、密接なる関係をもつ米国内の出来事は、我が国の経済状態
に微妙な影響を与えるのであります。
心の世界もみなつながっている
それは、あたかも太平洋の水が、日本と米国とを一つに結んでいると同じように、空において
そうねんはどう
も、想念波動の世界においても、世界は全く一つにつながっているのです。
海の水がつながっていることや、空が一つであることなどは、すぐに理解できるが、想念波動が
つながっているということはどういうことか、という問がでてくると思います。
ところがこの想念波動の問題を知ることこそ、世堺平和を実現する最も大事なことなのでありま
す。想念波動の伝わりということは、音波や電波や光波によってテレビやラジオやテレフォンで、
243世界平和の祈りの運動精神
お互いの声を聞き、他国の人の姿をみることができるという科学の原理と同じなのです。想念波動424
とは電波や光波や音波よりも、もっと微妙な精神宇宙子の波動なのであります。
これは私たちが現在研究中の宇宙子科学の原理によってよく判ることなのですが、まだ一般の知
識としては、この精神宇宙子のことは判っておりませんので、電波や音波光波よりもっと微妙な波
動とだけ思って頂けばよいでしょう。
この微妙な波動が、人類すべての思い思いの波動となって、世界中を空気の波のように無限の層
ねたみ
となって蔽いつくしているのです。その波動は、争いに充ちたものもあり、妬みに充ちたものもあ
うらいか
り、病苦、貧苦に充ちたものもあり、恨みや怒りに充ちたものもあります。またそうした暗い汚れ
た想念波動でない、明るい愛に充ちた、善意に充ちた光明そのものの波動もあるのであります。
こうした想念波動の渦は、それぞれがエネルギーでありまして、そのエネルギーは人間の肉体に
働きかけて、人間にその想念波動の通りの行為をなさしめるのです。電気的エネルギーが流れ出せ
ば、電流となってモーターを動かし得ると同じように、想念波動のエネルギーも、人間の肉体を動
かし得るのです。
そして、その想念波動が争いや妬みの暗い汚れたものであれば、働きかけられた人間はそういう
行為をするのであり、愛や善意の光明波動であれば、愛の行為になってくるのであります。
人間の肉体というものは、肉眼で見、肉の手で触れれば固まった一定した形をもったもので、口
から入らなければ外部のものが中に入ってくることはないようにみえますが、実は常に外部から眼
に見えぬ種々な要素が入ってきているのです。
眼から耳からは、映像として文字として言葉として音として入り、放射能のようなものは体のい
たるところから体内に沁み通ってきます。そのように、光線よりもっと微妙である想念の波動は、
直接に脳髄に入りこんでくるのであり、神経系統のあらゆるところにも沁みこんでくるのです。
ですから、人類世界のすべての階層のそれぞれの想念波動は、各個人や集団のそれと合致した想
念の渦をもつところに、絶え間なく入りこんできて、その人やその集団は、恨みなら恨み、怒りな
ら怒り、争いなら争い、情欲なら情欲の渦中からぬけ出せないようになってしまうのであります。
人類愛欠如の原因
うずまき
たまたまは愛の心や柔和な想いが起ってきても、争いや恨みの暗い想念波動の渦巻が烈しすぎる
と、そうした善なる想念もたちまち流し去られて、その個人や集団はまた再び暗黒想念を出しつづ
245世界平和の祈りの運動精神
けてしまうのであります46
2
それはちょうど、暴力団に入ってしまった少年が、これはいけないと気づいて、その仲間からぬ
け出ようとしても、その団員たちの脅迫にあって、どうしてもぬけ出せない、というのと同じよう
なものです。
世界各国の軍備態勢というものと同様なものでありまして、武力による力と力の均こうによって
のみ平和が保たれる、という考えは、お互いの優位を保つ為に、お互いが武力を増強させつづけな
ければならぬ、という悪循環をもたらし、何にもまして軍備に資金をついやすという状態になって
しまい、それでいて、一日として安心していられる日のない、戦争恐怖症の人々をつくりあげてい
る始末なのであります。
これは世界にとって最も不幸なる、人欄不信感の暗黒想念に踊らされている状態でありまして、
世界の指導者がみなこんな心の状態では、とても世界の平和など及びもつかないことなのでありま
す。
よくあつ
軍備を増強して相手方を抑圧しようなどという考えのどこに、人類愛の想念がありましょうか、
人間は生命において一つのものである、という人間本来の愛の心は、こうした差別心や不平等の想
念からは、とても実行でき得るものではありません。
けつじよおお
こうした人類愛の欠如は、この人類世界を蔽っている想念波動が、争いや恨みや憎悪に充ちてい
わけいのち
るからなのであります。人間は本来神の分生命で、悪や不幸の想念をもっていない存在者なのです
が、神の分生命であることを忘れてしまった人々が、神の光明波動に自ら遠ざかってしまって、そ
こんこう
の光明波動の薄れたところから、真理を見失いはじめて、現在のような善と悪との混清した世界を
つくりあげてしまったのです。
この光明波動の薄れが、次第に暗黒化してきて、人間不信感の争いや妬みや憎悪の感情想念が生
まれ出で、地球最大の危機を迎えてしまったのであります。
想念波動の重大性
こうした危機を救うには一体どうしたらよいのでしょう。どんな方法を用いたらよいのでしょ
きんこう
う。武力の増強をつづけてあくまで、力の均衝でやってゆけばよいのでしょうか、それではいつま
でたっても、人類から戦争の恐怖は去ることはありません。去るどころではなく、いつかは実際に
世界大戦がはじまってしまうでしょう。
247世界平和の祈りの運動精神
人間の心には、造ったものは使ってみたい、強めた力は試してみたい、という想いがあるのでし482
て、いつか何かのはずみで、核兵器のボタンを押さないとは限らないのであります。
私はこ、で、今まで申し上げてきた、想念波動の重大性ということについて、皆さんにじっくり
考えていただきたいと思うのです。想念波動を浄化しきらない限り、世界は絶対に平和になること
はない、ということです。そして世界が平和にならない以上は、個人の平安はあり得ないというこ
とです。
たとえ、病気が治ったとしても、貧乏から一時ぬけでたとしても、それだけで、その個人が平安
になったというわけにはゆきません。それは一時の平安でありまして、永遠の平安ではありませ
ん。
私は個人の平安と、世界人類との完全平和が、一つにつながってなされる、という方法を願い求
めたのです。そして生まれ出たのが世界平和の祈りなのであります。
個人個人の体は、肉体としてはお互いが離れてあるように見えますが、想念波動の世界ではお互
いが結び合い交流し合って、お互いに影響を及ぼしあっているのです。それは、親子兄弟とか、親
へめぐ
戚知人とかいう間柄だけではなく、一個人の想念波動は一瞬一瞬の間にも地球上を経巡っているの
であります。
ラジオやテレビに伝わってくる音波や光波は、絶え間なく大気中を流れているのでありますが、
ラジオやテレビのスイッチをひねって電流を流し入れ、ダイヤルをそれぞれの音波や光波に合わせ
なければ、そこになんの音も聞えず、なんの映像も写ってこないのです。
人間の想念波動も全くそれと同じでありまして、自己の出した波動が地球上を経巡っていると同
時に、すべての人類の想念波動は、自分の上に流れてきているのであります。ただ自己は、自己の
意識、意識といっても表面に出ている顕在意識だけではなく、潜在している潜在意識を含めた想念
波動の部分のダイヤルをひねっていることになるのです。
個人と人類が同時に救われなければ
おお
そこで、人類すべての想念波動が自分の上に蔽いかぶさってきているのですけれど、自己の廻し
ているダイヤルの分だけ、自己の運命となって現われてくるのであります。これをいいかえます
と、自己の出している想念が憎悪や争いの想念波動であれば、その想念波動は、同じような想念波
動をもっている地球上の多くの人々の上に影響を及ぼしているのであります。そして、この想念波
249世界平和の祈りの運動精神
動が、愛や善意の光明波動であれば、地球人の多くの人々は、その光明波動によって、知らぬ間に520
浄められているわけなのです。
この真理を考えますと、個人の想念行為は、自己にその報いが必ずやってくると同時に、人類全
般にその影響を及ぼしていることになるので、どんな小さな想念行為でもゆるがせにできないので
あります。
私はこの真理をよく知っておりますので、個人と人類が同時に救われなければ、世界は平和にな
ることはないと言っているのです。個人個人の想念の在り方を問題にしないでいて、世界平和も戦
争は嫌だもあるものではありません。戦争が嫌な人は、先ず自己の想念を、平和な調和したものに
しておくことを心がけなければいけません。
戦争反対を叫び、世界平和を叫びながら、その運動を闘争という名で呼んだりしている団体や、
自己の団体の権力を強めることのみに全力を挙げていて、大自然の法則そのものである、調和の精
神を踏みにじっている宗教団体などがあることそのものが、暗黒業想念の所産なのであります。
個人の平安と世界人類の平和を達成する為には、憎悪や妬みや権力欲等々の業想念波、暗黒想念
波動を、大光明波動によって浄めさらなければならないのです。
心の光明化は環境の光明化
個人が自己の運命を改善するのには、自己の運命の上に現われている、自分の欲っしない状態、
例えば病気や貧乏や恨みや妬みや恐怖の想いなどの不調和な状態を、自分の心から放す練習をしな
ければなりません。そうした自己の欲っしない状態を自己の上から放つ為にはどうしたらよいので
しょう。
それは、潜在意識と顕在意識とにかかわらず、自己の運命環境に現われた状態は、自己の想念波
動の上に必ずあるのでありますから、これは自分の想いの中にこういう運命環境になるべき原因が
あるのだ、と思いを明らかにして、自己の想念を明かるい幸せな方向にむけてしまうことが大事な
のです。どうすればよいかといいますと、今、自己に現われている現象は、すべて過去世から現在
に至る誤った想念の消えてゆく姿だ、と思って、改めて新しく、自己の欲っする状態や想念を出し
てゆけばよいのです。しかし、いちいち自己の欲っする状態を考え出している余裕はありません。
そこで、積極的に、世界人類の平和を願うという、自己にとっても人類全部にとっても、一番根
まつと
本の問題である、世界平和の祈りの中に自己の天命の完うされることの願いと共に、自己の全想念
を投入してしまうことに想いを定めるのです。そして自分の心に現在の環境に対する不平や、自己
251世界平和の祈りの運動精神
の性癖に対する不満が起る度に、その不平不満を、世界平和の祈りの中に、消えてゆく姿として入52
2
れてしまうようにするのです。
そう致しますと、いつの間にか知らぬ間に、自己の想念波動が、明るい調和したものに変化して
いって、平安な感情になってまいります。すると、それにつれて生活環境も明るく幸せなものに次
第に変ってくるのであります。
これは当然なことであります。何故かと申しますと、自己の出していた想念波動で知らぬ間に自
己の運命をつくりあげていたのですから、その想念波動が、世界人類の平和を祈るというような、
明るい大きな広いひびきに変った以上、世界平和の祈りに叶った明るい大らかな平安な環境が生ま
れてくるのは、大自然の法則の通りなのであります。
まして、世界平和の祈りというのは、大救世主を中心とした救世の神々の大光明波動から生まれ
れいたい
てきた祈りなので、この祈り言に想いの波長を合わせれば、救世の大光明波動は、その人の霊体に
ゆうたい
幽体に肉体にひびきわたって、その人の環境を光明化し、その人の周囲を光明波動で照してくれる
のであります。
この世もあの世も、すべて神のみ心と想念波動とでできているので、その想念波動が、神のみ心
のひびきに合致すれば、その人の心は光明化するにきまっているのです。そしてその人の心が光明
化すれば、その人の環境も光明化してくることは理の当然なのであります。
こうして個人が光明化することは、それがそのまま人類全般の上にも影響を及ぼすことになるの
で、それだけ地球上の暗黒想念が浄まることになるのです。
想念の浄化運動が主体
私たちのやっている世界平和の祈りの運動は、想念波動の浄化ということが主であるわけで、世
界人類の想念波動が浄まらなければ、世界平和は決してできるものではない、と思っているわけで
す。
物質欲や権力欲で対立している場合は、それそのものが誤りであることはすぐ判りますが、思想
と思想との対立というものは、どちらの思想にも、それぞれの理がありまして、それぞれの思想に
同感するものが、お互いに相対した集団となってくるので、どちらにも理がありながら、結果的に
は、世界を二分し三分してしまう不調和想念波動を世界中に流してしまうのであります。
こしつ
これは宗教団体の場合にも全く同じことがいえるので、自己集団の教えを固執していますと、教253世
界
平
和
の
祈
り
の
運
動
精
神
えそのものは別に悪くないとしても、神のみ心の一番根本のものである大調和精神に反して、他宗54
2
団との不調和をきたすのです。
世界平和の祈りの運動精神は、すべての想念事柄を、ひとまず、神のみ心そのものである、大調
和の中に入れきってしまおうとする運動なのであります。各自各国、種々様々な思想ややり方があ
るではありましょうが、一番大事なことは、この地球世界を滅亡させないことにあるのですから、
枝葉末節的な方法や手段は後廻しにして、世界平和という人類の大願目の中に、一人でも一国でも
多くの人々の想念を結集してゆかねばならぬと思っているのです。
枝葉末節的な小さな自我欲望を出していると、自己も人類も、暗黒想念波動に巻きこまれていっ
て、遂いには破滅してしまわねばならなくなります。自分の方が正しいのだ、自国の方が正義なの
だ、という正義のやりとりも、そのやりとりによって、お互いの心に怒りや憎しみの想念が湧きあ
がるようなものであったら、その正義観は、もう神のみ心そのものではなくなっているのです。
ここのところを世の指導者たちは心をいたさなければいけないと思います。地球を滅亡させてし
まって、なんの正義でありましょう。自国の利益も人類の利益も共に消滅してしまうのでありま
す。
そんちよう
人類の生命を尊重するのは、直接相手を傷つけ痛あなければよいというだけではなく、相手の生
命を生き生きとさせてやる、ということにあるのです。お互いの生命が、神のみ心のままに生き生
きと働けるような、お互いの天命が完うされるような、そういう個人であり、そういう国家である
ように、私たちは、自他土ハにならなければいけないのです。
それには何度も繰りかえすようですが、世界平和の祈りが大事なのであります。世界人類が平和
でありますように、私達の天命が完うされますように、という祈り心が大事なのであります。
世界中の想念を、ひとまず、完全平和を願う祈り心に結集してしまうことが、何事にもまして大
事なのです。各国各人の損得はその後で話し合えばよいことなのです。世界中の人たちの誰一人と
して望んでいない地球の滅亡に追いやるような、第三次大戦のぼっばつを防ぐことこそ、何国何民
族であろうとも、人間一人一人の大きな責任である筈です。
人類の一人としての責任を自覚しよう
その大きな責任を果すためには、自分たちの欲望はひとまず後廻わしにしてもよいではありませ
んか、地球が滅びてしまって、一体どこで自己の欲望を果そうというのでしょう。自分一人ぐらい255世
界
平
和
の
祈
り
の
運
動
精
神
何をしたとて、世界人類となんのかかわりもないなどと思っていることは、とんでもない間違いで56
2
す。
人間一人一人の想念行為が、今日程大事な時は他の時代にはなかったのです。前から申しており
ますように、一人の人間の想念が暗黒想念(自分勝手な欲望)であるか、光明波動(愛と真の心)
であるかによって、世界人類の運命は、滅亡にも完全平和にもなり得るのであります。
昔からいわれる宗教の極意である、善にも悪にも把われず、今日このままをすべて素直に受けて
ゆこう、今日このままの姿は、つけ足すところも、減ずるところもない、神のみ心そのままの世界
すがた
なのだ、という教えを更に一歩進んで、実在世界の完全円満な相を、世界平和の祈り言を通して、
一日も早く、しかも、最少の苦悩の経験によって、この世に顕現せしめよう、という、大救世主の
み心を、私はこの肉体を通して、多くの人々に宣布実践しているのであります。
今日、世界平和の祈りが、日本において生まれ出でたことこそ、神のみ心そのものなのでありま
して、この祈り心によって、世界人類の暗黒的業想念波動が、次第に光明波動に浄められてゆくの
であります。どうぞ皆さんもこの真理をよく噛みしめられて、より一層世界平和の祈りの運動に湛
進して頂きたいのであります。(おわり)
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