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8/20/2022
五井昌久著
真の幸福
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人間と真実の生き方
わけみたまごうしようしゆこれいしゆごじん
人間は本来、神の分霊であって、業生ではなく、つねに守護霊、守護神によ
って守られているものである。
かこせ
この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念
が、その運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去るので
あるという強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困
ゆるゆるまこと
難のなかにあっても、自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦
しの言行をなしつづけてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに
想い、世界平和の祈りを祈りつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得出
来るものである。
~
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2
目
次
真実の幸福とは
環境や運気を超える法
改めて教えを噛みしめよう
永遠の生命と過去世未来世
生・老・病・死の苦悩を超えるために
62
4733195
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装画片岡球子
く芸術院会員V
改めて考えよう人間の性は善か悪か
生命の神秘を改めて認識しよう
真の勇気と忍耐
純朴な信仰心
感謝の心・愛の心
峻厳なる愛と優しい愛
1481341191059176
3
———————[End of Page 6]———————
真実の幸福とは
感情が喜べば幸福だろうか?
幸福という言葉は、簡単につかってはいますが、内容的には一言で言えるようなも
のではありません。
お金があるから幸福だ、地位がよいから幸福だ、夫婦が仲良いから幸福だ、子供が
善いから幸福だ等々、幸福の種類はいろくとあるようですが、こういう一つの事柄
だけで、真実の幸福が得られているでしょうか。そういう一つ一つの事柄は時によっ
ては一瞬にして変化してしまうことがあるもので、一分前の幸福が、一分後には不幸
感に突然変化してしまうことが多々あるのです。
5真実の幸福とは
———————[End of Page 7]———————
一体真実の幸福というものは、どういうものなのでしょう。
一般的に考えられる幸福というものは、感情が喜んでいられる状態のことだと思い
ます。夫婦が相和している時の感情の喜び、環境が良くなった時の喜びというよう
に、感情が喜んでいる時を普通は幸福感と呼び、そういう状態がつゴいていることを
幸福と呼んでいます。
しかし、この幸福は時には一瞬にして崩れてしまうものである、と今も申しました
通り、真実の幸福とはいえません。勿論その状態々々は、幸福な状態ではあります
が、真実の幸福、つまり、いつまでも崩れない根本のしっかりした幸福ではありませ
ん。
ですから、表面上のそういう幸福を追いまわしているうちは、真実の幸福をつかむ
ことはできず、その幸福が崩れはしないか、という不安感が、時折り襲ってくるので
あります。夫婦や子供たちが仲良く生活し、経済生活には地位にも不満のない状態と
いうのは幸福な状態に相違ありません。しかし、そういう状態が不変のものであると
いうことができないので、これだけでは、真の幸福につながってゆくことにはならな
6
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いのです。
世界戦争の最中や、敗戦後の貧困時より、今日の生活のほうが幸福にきまっていま
す。この今日の幸福が、永遠の幸福のほうにつながっていれば言うことはないのです
が、事実はそうはゆきません。
ですから、今日の生活からは絶対に戦争は起らない、というようになってしまえ
ば、今日の幸福は、永くつ黛いてゆきます。しかし戦争の他にもいろくの公害もあ
りますし、天変地変もあり、個人々々の病気や災害もありますので、たとえ、戦争が
絶対に起らないという状態になっていても、それだけで真実の幸福をつかんだ、とは
いえないのです。
真実の幸福とは、もっと根本のもの、人間の生命の本源をしっかり知った時、或い
は、生命の本源に真っすぐつながった時から得られる幸福なのであります。たとえて
言いましたが、戦争が絶対に起らない、ということでも、人類が生命の本源にはっき
り目ざめて、人類は神の生命によって生かされているのであり、生命の本源からくる
智慧能力が、すっきりと肉体身に働きかけてくる時からでないと実現し得ないことな
7真実の幸福とは
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のであります。
何故かと申しますと、現在のような肉体人間を主にした世界観からでは、どのよう
な科学的な手を打ちましょうとも、お互いが、自分たちの肉体身を自分たちで守ろう
としますので、たとえ国というものが無くなり、国際連合というような組織で、世界
を治めていったとしましても、個人々々が自分を守ろうとする本能は無くなりませ
ん。そこで、自分たちに利害の近い人々がどうしても寄り集って、自分たちの優位に
なるように働くことになってしまいます。この地球世界には、個人々々が満足できる
ような物質も環境もありませんので、どこかでお互いが、がまんしている形になって
きます。まして今日のような国連の在り方では、米ソという両大国の力が大きく働い
ていまして、小さい国々が集って、平和の方向に世界をひっばってゆこうとしまして
も、どこかで米ソの利害に関連して、いつの間にか調和のとれないま瓦になってしま
います。そこで、小国は小国で、米ソ中の三大国は三大国で、自国の利害関係の為
に、常に戦争の危…機をはらませているのであります。
8
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国家にとっての最優先は国益
そういう現在の世界の中では、マイホーム主義でうまくいっている家庭が多くあっ
たとしても、そういう幸福が地球世界の幸福をつくり出すことはできません。国家と
いうものは一軒一軒の家庭の幸福より、国の利害関係のほうを先行させてゆくもの
で、そういう国家が集っている地球世界というものは、どうしても国と国との利害関
係の争いから逃れることができなくなってしまうのです。ですから国家の利害の為に
おなノおうちようへい
は、個人々々の幸福が崩れることが往々ありまして、高い税金だの、徴兵だのとい
う、眼にみえた被害を国民は被むるのであります。税金はともかくとして、軍隊へ徴
さら
兵などは、生命がそのまΣ危険に曝されることでありますので、国民の側からみれ
ば、あまり有難いことではありません。
しかしこれも国家の教育の持ってゆき方によっては、個人々々の名誉として、徴兵
おんため
されることを喜ぶという傾向もありますが(これは過去の日本の、天皇の御為にと徴
兵され、それを喜んでいた人々もあったのです)深く考えれば、戦争するということ
9真実の幸福とは
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は、そのまx地球滅亡への一歩であるのですから、その戦争に参加することは、その
人その人が、地球滅亡の片棒をかついでいることになるのです。
現在では日本人の大半はその事実が判ってきて、日本人は殆んどが戦争反対老であ
ちようへいきよひ
り、徴兵拒否の人々であろうと思います。徴兵といっても、過去においての国民の感
情は実に純粋なものでありまして、国家という大きなものの中に自分を犠牲にして生
たいぎもと
きてゆく、という大義の下に喜んで死んでいったのでありますので、こういう国民感
ぜ
情はまた、是とすべきところがあるのです。
ところで現在徴兵制度のない国は日本の他には私はあまり知りませんが、徴兵制度
がない、ということで、どれだけ国民の気分が楽であるか知れません。二十歳になれ
いやおう
ば、嫌も応もなく軍隊入りをする、という制度は、国民の自由を縛ってしまうことで
すが、軍隊があって、どうしても一定の人数の軍人がいなければならぬ、ということ
になれば、国民の自由な気持にまかせて置くわけにはゆきません。国家が法律として
制度をつくらねばならぬわけです。国民感情が、軍隊で国家を守らなければならな
い、というものであれば、若者が軍人になっても当然なことで、これは義務でもあ
10
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り、責任でもある、ということになって、国家に強いられなくとも、国民のほうから
進んでそうすべきなのでしょう。
日本は現在、平和憲法の下で、軍隊をもてぬことになっており、次第に国民感情
が、日本もやはり他国並みに軍隊をもたなければいけないなあ、と思う人が大分増え
てはきておりますが、まだ大半は憲法を改正してまで軍隊をもとうとは思っていない
ようです。
もつと
尤も軍隊をもつことに賛成するからは、いざという時には、自分でも自分の子供で
も、嫌がらずに軍人となる気持がなければなりません。軍隊は欲しいが、自分の子供
の徴兵は嫌だ、というのでは理に合いません。
ぜいじやく
ゆきすぎた自由が脆弱な精神の青年を生んだ
現在の日本は徴兵制度が無いだけ、他国より国民が自由であり、幸福である、とい
うことになりますが、国民としての義務があまりにも少く、自由すぎるということ
むぎ
で、青年の精神がゆるみきってしまっている、という向もありますので、青年に一定
11真実の幸福とは
———————[End of Page 13]———————
きりつ
の規律を与える何らかの方法がないものか、と識者たちも首をひねっている状態で、
徴兵制度があって、軍隊生活を嫌でも味合わされて、精神的にもプラスになったこと
が、ちらりくと頭をかすめたりするのです。
人間は大体、神の理想通りの状態を、その生活態度に現わすことができずに、肉体
人間としての自我欲望のほうにひきずられて生きておりますので、集団的社会生活を
する為には、何等かの規律や、規定がないと、その社会生活が失われてしまいます。
大半の人が税金を出すのが嫌なようですが、みんなで税金を出して国家のお金として
おかなければ、警察一つも出来ません。警察がなければ、個人々々で悪人からその家
を守らなければなりませんので、日々が不安でなりません。少しぐらいのお金を出し
ても、国家で専門的に悪人の手から守られた方が得策であり便利でもある、と多くの
人が考えるようになり、個人に代っていろくの事件、事柄を国家でやってもらうこ
とになってきたわけであります。そこで国家で定めるいろくの規約ができているわ
けで、軍隊のある国では、徴兵制度ができているということになるのです。
規約といえば、学校では、入学試験、進学試験などで縛られ、就職すれば、その場
12
———————[End of Page 14]———————
しようじんどりよく
のさまざまの規定があって、たゆみない精進努力が必要です。こういう現実に耐えて
ゆかなければ、一つの家庭をつくり、幸福なマイホームをつくるわけにはゆきません。
しかし現在の日本では、青壮年にとって最大の束縛である、入営、召集という軍隊
との関係がないのですから、他国とはくらべられない自由さを得ているのです。だが
日本人にとって、かえってこの自由さが自己の精神力を弱めるような結果になって、
すべての事件事柄に対する忍耐力というものを失ってしまおうとしているのです。白
でも黒でも上の者には絶対に従わねばならぬ、という軍隊での烈しい教育が、すっか
り無くなっている現在、自分のやりたくないことは先生が言おうと、親が言おうとや
つら
らないなどといったり、ちょっと辛いことがあると、すぐ逃げ足になってしまった
り、自己の感情をセーブすることが非常に下手になってしまっているのであります。
戦後になって、急に自由になってしまった大人たちも、お互いが、良いにつけ悪いに
つけ一つの統一の下に生活していたのが、今では自由主義という名の下に勝手気まエ
に生活してゆける社会構成になってしまい、そういう大人の下で教育されている子供
たちは尚更に、勝手気ま瓦になってしまったわけです。只強く彼等を縛るものは、学
13真実の幸福とは
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校の試験で、強い精神の者は人を押しのげても前に進み、弱い者は登佼拒否や、不良
化或いはノイローゼになってしまうのであります。そして、家庭的に不平不満のあっ
た借たちは、右翼や左翼や果ては暴力団に入ったりして、破壊活動をしようとするの
です。宇宙は常に中心に統一して運行されていますし、宇宙の一つの働きである人類
も、中心に統一されて働いているのでありますので、中心も統一もない人間は、自由
が何をしてよいのか判らず、この世的に何等かの力をもつ団体や人間にひきずられて
行動してゆくようになってしまうのです。
14
マイホーム型幸福感はひよわな花
こういう青年が意外と多いので、家庭的に平和に幸福に生活している若者というの
は、どちらかというと消極的に自分だけを守ってゆこうという生き方になっているの
です。こういう家庭の幸福というのは、確かに表面的には幸福感がありますでしょう
が、その幸福は他からの働きかけで、いつ崩れるかも計り知れないものなのです。し
かし、そういう幸福でも、破壊活動をしている者や、人に迷惑をかけて生きている者
———————[End of Page 16]———————
たちよりよいにきまっていますが、深い眼をもつ人からみれば危っかしくてみていら
れないものなのであります。
真の幸福というものは、他から働きかけられても、それが崩れるようなものではな
く、表面の生活がいくら変化しても、それで不幸になってしまうようなものでもあり
ません。真の幸福とは、表面の幸福そうな状態は二の次で、根本からその幸福は崩れ
ない状態のものなのです。
現在は個人の幸福は国家社会の運命とつながっていますし、国家の運命は世界とい
うものの動きにつれて動いてゆきます。その上、自然の動きによる天変地異などもあ
りますので、どうしても、生命の根本的な在り方にしっかりつながっていないと、個
人も国家も真の幸福を得ることはできないのです。
それには、私がいつも申しますように、自分たちの生命が永遠の生命と一つのもの
であって、肉体だけの生活をしているのではない、肉体を離れた後は神霊の世界で、
立派に生命を生かしてゆくものである、という真理を知るようにしなければならない
しん
のです。その真理が判らなければ、その人は一生真の幸福をつかむことはできませ
15真実の幸福とは
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ん。勿論一瞬とか、一時期、一時期の幸福感にひたることはできましょうが、それは
さじようろうかく
やはり、砂上の楼閣的な幸福感でしかありません。
人間が真の幸福をつかむのは、永遠の生命を悟ることと、神との一体感を得ること
なのです。その為に古代から幾多聖者賢者がその真理をいろくの角度から説いてい
たのであります。しかし今日までは、自分たちの欠点を直してからでなければ駄目で
あったり、浄らかな心境になっていなければ、神に祈れぬということになっていて、
神様に近づくのがなかなかむずかしかったのです。
自分の欠点を直してからだの、浄まってから神様に祈るのでは、大半の人が神様に
わけいのち
近づくことはできません。私の説いておりますのは、人間は本来神の分生命で、浄ら
かな老なので、肉体人間として、物質世界に住みついてから、物質世界に自己を合わ
せて生活する為、無限とか自由とかいう、神の生命本来の生き方を忘れてしまって、
むげん
肉体人間という小さな自己に固ってしまったのです。その為、神様からきている無限
きようきゆう
供給というものから次第に小さな有限になってしまって、自他の差別がいちじるし
くなり、お互いが幸福の奪い合いというようなことになってきてしまったのです。
1G
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み心の中から人類の歩みをやリ直そう
そこで私は、こうした人間をこのように神様の分生命である、自由自在な人間に戻
す為にはどうしたらよいかということを考えて、悟ったことは、人間の生命本来が神
の分生命で神霊の世界のものなので、物質的な肉体では有限な不自由なものである。
だから本来の自由自在な人間になる為には、人間が生命そのま玉の本来の神霊的人間
として生きてゆくようにしなければ駄目なので、それにはこちょくと欠点を直そう
としていたり、浄まろう浄まろうと、浄まることのみに想いを奪われて、自己の自由
性を縛ってしまうようではいけない。一度、すべてを神様のみ心の中にお返しして、
そこからやり直してゆかなければ駄目なのだ、ということが判ってきました。
くうそくぜしきくうくう
つまり、釈尊のいう空即是色なのです。一度空になって、空になったところから、
真実の神のみ心を自己のものとして現わしてゆくということなのです。
くう
しかし、空になるということはとてもむずかしいことで、容易にできることではあ
りません。そこに消えてゆく姿、という言葉が生かされてきたのです。現在の人間の
17真実の幸福とは
———————[End of Page 19]———————
想念行為は、もうすでに空の境地に遠い、物質世界の流れに把われきっていますの
で、急に空になろうとしてもとてもできるものではない。そこで、すべての人間の想
念行為は、過去世つまり肉体人間として生れてきた遠い昔から今日に至るまでの、神
の大きなみ心を離れて、物質世界の流れに把われてしまった、誤った想念行為であっ
て、真の心ではない。だから今現われてきたことはすべて、肉体人間として神を離れ
勝ちになっていた自分たちのものなのだから、その過去からの想念行為の結果として
現われてきた人間の運命を、すべて過去世の誤った想念行為として、現われたら消え
にちにちしゆんしゆん
るのだからと、すべて消え去るものとして日々瞬々新しく、愛の心、神と一つの正
しい想いを自己の心にきざみこむようにすることによって、自己の運命が神からくる
正しい運命となってゆくのだ、という結論になったのです。そして、その一番よい方
法が、世界平和の祈りであるというのであります。
祈りによる世界平和運動の中から生れる自己の運命こそ、ゆるぎない幸福の運命な
のであります。そのことをよくく考えて今日からの生活をなさって下さい。そこで
初めて、真の幸福を得るのです。
18
———————[End of Page 20]———————
環境や運気を超える法
外界の環境よリ心の環境の変化を
もうぼせんもうし
孟母三遷の教えということを皆さんも知っておられると思いますが、孟子の母は子
ものフし
供の成育には、環境が大事であると思って、常に孟子のためにその環境を変えてい
た、ということであります。簡単にその環境について説明しますと、はじめに墓所の
近くに住んでいましたが、常に僧侶や墓参のまねをしてばかりいました。孟母はこれ
もうし
を憂い、そこを移転しました。越した所は街の中なので、今度は孟子は商人のまねば
かりしていました。そこで三度、越しましたところが教育所(学校)のあるところで、
もうし
孟子はそこで学問を励むようになりました。この後孟母の話は、たくさんあるのです
19環境や運気を超える法
———————[End of Page 21]———————
が、とにかく孟母は子供を育てるには、環境が大事と思いこんでいたようです。
私の母の場合などは、病弱の夫と子沢山なので、生活してゆくのにやっとで、環境
など選んでいる余裕がなかったので、私の成育したところは、片方が吉原土手で、片
方が今日どや街のある山谷だったのですから、環境としては悪いといわざるをえませ
ん。そこで育った私が、何をそこで知ったか、というと、吉原遊廓の女性たちの悲哀
と、どや街の貧しさに埋もれた人間の無気力さと街のきたならしさでありました。そ
こで私の心は、私はこういう生活を決してしない、例え貧しくも気力に満ちた清々し
い人間として生活してゆきたい、社会の為につくしたい、ということでした。私の心
せん
は、孟母の三遷の逆をいったわけです。
悪い環境を土台にして、良い環境を生みだしてゆく、というのが知らぬ間に私の生
活になっていたようです。環境が大事であることは、論をまちませんが、あまり環境
に把われるのも考えものです。孟母が私の母のような立場におかれていたら、随分と
心を悩ませながら、自分の思うようには実行できずに、生活し続けていったことでし
ょうo
20
———————[End of Page 22]———————
まして近頃は、自分たちの思うように環境を変えられない時代です。土地を買った
り借りたりするのも、家を買ったり借りたりするのも、なかく大変なことで、随分
とお金も時間もかかるのです。ですから、子供のためといっても、搦樽と住居を変え
ることはできません。ここが人生を渡ってゆく大変にむずかしいところで、そうすれ
ば良いことがわかりきっていても、いろいろの事情でそうできないことが多いので
す。
そこで、孟母の三遷式のゆきかたは、今の社会ではできにくいことなので、外界の
環境を変えることより、心の持ち方を環境に支配されぬように、訓練してゆくことが
第一、ということになってくるのです。私のように素質的に、何でも良く生きる方向
のプラスにしてゆく人間はよいのですけれど、なんでも環境に引きずり込まれて、自
たちこ
分を失ってゆく性質の人は、是非とも環境を超える心を養ってゆかねばなりません。
悪い環境を良い環境にかえるには
私は、そのゆき方を指導している者なのです。住んでいる社会や、周囲の人々の悪
21環境や運気を超える法
———————[End of Page 23]———————
かた
い影響を受けないためには、常に想いを天の方に向けておくことがよいのです。天の
かた
方、つまり神のみ心の愛と調和と美、というように人生を明るく美しく、つくり上げ
てゆく大きな心の中に入っていることがよいのです。それが祈りなのです。悪い環境
を良い環境にかえるのは、祈りしかありません。
たとえどんなよい環境にいたとしても、その人の心が、間違った道に向かっていた
ら、どうにもなりません。間違った道というのは、勿論、人間社会の幸せを傷つけて
ちよつとみ
しまうような道ですQそれは一寸見には自己の得になるような道なのですが、よく
くみますと社会を傷つけ、自分をも傷つけてしまっている道なのです。
物価の値上がりを利して自分たちだけが儲けてしまうようなやり方だの、自己の権
力を背景に国家社会の利益とは反対の方向に国家社会の歩みを向けてゆくような在り
方など、誤りも甚しい道です。
ところがそういう生き方がさも当然であるような雰囲気が、今日迄の社会環境とし
てできあがっているので、そういう環境で育ってきた少年たちが成人しては、前人の
行ってきたような道を歩いてゆこうとするのであります。
22
———————[End of Page 24]———————
環境というのは、個人的には過去世から今日に至るまでの個人の想念行為の現れと
して、運命的にそういう環境におかれたり、そういう環境が現われたりしているもの
なのですし、国家的には古くから今日までの歴史によって、今日の国家の環境ができ
ているのであります。
ですからどちらにしても、環境を簡単に変えるわけにはゆかないので、そうした環
境の中にありながら、悪い環境ならその悪い影響を受けずに.、かえってその悪い環境
を土台にして、いい運命をつくってゆくように努力しなければなりません。しかしこ
こ
れは、ただ単に肉体人間の努力だけで超えてゆけるものではなく、やはり神との一体
こ
化によって、超えてゆくより仕方のないものなのです。
神と人間との一体化の道が祈りの道であり、祈りの道が行為に現われると、真、
善、美の行き方になってくるのであります。そこでやたらに環境をおそれて、逃げ廻
ったり、環境にばかり把われたりしないで、自分の心の状態をしっかりさせて、神の
道をこの世に画きだす働きをしたらよいのです。神との一体化ができれば、環境は自
ずからよいものになってゆくのに決まっているのです。
23境環や運気を超える法
———————[End of Page 25]———————
24
子供たちへの祈り
世の親たちは、自分たちは信仰があるから何とかやってゆけるけれど、子供たちが
心配だ、と今日の社会環境を憂うる余り、日々子供たちの心配が心を去らないらしい
のですが、子供たちにも生まれる前から守護の神霊がついていらして、瞬時もかかさ
ず子供たちを守っていて下さることを、忘れてはいけません。心配の想いがでてくる
たびに、神様有難うございます、子供たちの天命が完うされますように、と心に唱え
てやることがよいのです。
そういう日々の子供たちへの祈りが、子供たちを神様のみ心深く住まわせて頂くこ
おの
とになるので、環境は自ずから良い方向に向ってゆくのであります。そういう生き方
をしていさえすれば、無理をして置かれた環境を変えようとしたり、常に悪い環境か
ら逃がれようとしたりしなくとも、祈りを根底にした生活で安心して、生きてゆける
わけです。
表面に現われている良い状態だけで、学校選びをしたり、就職選びをしたりするよ
———————[End of Page 26]———————
り、祈りの中で神のみ心に、自己や子供たちの運命を全託しておいたほうが、どれ程
安全かわかりません。神のみ心は、その子やその人たちの終生の運命を考えて、学校
も職業も選んで下さっているのです。肉体人間の浅はかな目とは、まるで違うのです。
ついている、ついていない
ところで、前に申したことがありますが、運、俗にいう「つき」のことですが、野
球の試合をみていると、その「つき」をまざまざとみせられることが、ずいぶんとあ
ります。ついている時には、当たりそこないのゴロでも、そこに守備の人がいなかっ
たりして、ヒットになったりしますが、ついていない時には、あわやホームラソかと
いう痛烈なライナーでも、丁度その辺に守備の人がいて、すいこまれるようにその人
のグローブに球が入ってしまったりすることがあります。いくら良い当たりをして
も、ヒットにならなかったり、ヒットがたくさん出ても点にならなかったり、その反
対に少ないヒットで多くの点が入ったり、ボテボテの当たりが次々とヒットになった
りするのは、野球は実力だけではないという証拠です。
25環境や運気を超える法
———————[End of Page 27]———————
勿論、実力のない人や実力のないチームは、打てもしなければ、勝ちもしません。
しかし、実力が充分にありながら、運気(つき)をものにできずに負けてしまうこと
があるのは、何としても不思議なことです。不思議なことといえば、宇宙の万般みな
不思議なのですが、この運気の問題も、この世だけの計算ではどうにも計りきれませ
ん。
実力というものは、素質プラス精進努力によってついてきます。これは自分にもわ
かりますし、他から見てもわかります。しかし、運気というものは、その場その時に
なってもなかくわかりません。そこで運気の高低によっては、実力がありながら、
実力のない者に負けたり、実力のない者がその日やその時に限って実力以上のことが
できたりします。野球でいえば、ホームラソなどを打ったことのない人がホームラン
を打ったり、二、三回しかもたないだろうと思われた投手が、完投シャットアウトし
たりすることがあるのも、みな運気のなせるわざです。
26
人生をよりよく生きる方向へ
———————[End of Page 28]———————
運気のいい時は勿論喜ぶぺきで、実力一杯だしきっていれば、万事うまくゆくわ
けですが、運気の低い時、ついていない時には、どうしたらよいのでしょうか。そこ
が人生をよりよく生きられるか、人生を落伍してゆくか、の分れ道なのです。運とい
うことは、過去世から今日に至るまでのその人々の想念行為によってできているもの
で、その波動の流れを運気というのです。ですから、その波動の流れが、その人の現
在の状態にプラスしているようなら、その運気は高いといえますし、マイナスしてい
るようなら、その運気は低いといえるのです。といっても、今日までに既に決まって
しまっている気の流れなのですから、その気に逆って、いくら力んでみても、策をほ
どこしてみても、その運気を変えることはできません。
こ
そういう運気はそのままの流れにしておいて、運気の流れを超えた、神々の光明の
こ
流れの中に、自己を置いてしまうより仕方がないのであります。運気の流れを超える
こ
ということは、運気の流れている波動界を超えてしまうことより方法がないのですか
ら、運気の波動界の奥の世界にある神霊波動の世界にみなさんが飛びこんでしまうこ
となのです。それはやはり世界平和の祈りなのです。
27環境や運気を超える法
———————[End of Page 29]———————
要するに、運気を知って運気に把われず、守護の神霊と一つになる祈りの世界か
ら、働きだすことが大事なのです。
この運の高低は、肉体人間観を超越し去った人以外には、三なら三の周期で高低が
ありまして、三〇年、三年、三時間、三十分というように、どんなに肉体的の努力を
こ
はらっても、智恵をはたらかしても、その周期を超えられない、という実に困まった
ことが人間にあるのです。どうしてそういうふうになるのかというと、これはまた実
に面倒な説明になってきて、神霊の世界から、星の話、誕生日の話にまでなってくる
わけですが、こういうことを知っても、運気の低い時には、王のような達人でも急に
不振になってきたりします。王の調子が回復するのは、王が自己の肉体的動作や、頭
くよノ
の中での想念波動を、空にして、打ってゆかなければ、その気が高くなるまでは打て
ないのです。王ほどの人ですから、それはいつか自然と体得してゆくことでしょう。
28
自己保存の本能が生み出す危機
人間の肉体というものは、初めから肉体としてできたのではなく、もっと微妙な波
———————[End of Page 30]———————
動の世界に、霊体、幽体としてできていたものが、守護の神霊方の計画と、本人の意
志によって、肉体界に肉体人間として生まれてくるのでありまして、肉体人間の存在
する以前に、微妙な波動の生命体として、生きていたのであります。この事実がわか
る、或いは信じられるようにならぬと、地球の今後の進化は望まれないのでありま
ちどん
す。今日までは、霊波動からかなり遅鈍な波動になって、この物質界の生活をしてい
くら
るのでありまして、霊界の生活とは比ぶべくもない劣った生活なのであります。しか
し、肉体身として生まれかわり、死にかわりし、物質界になじんでしまいますと、今
度は物質界を自分たちの住みよいように開発してゆくことになりました。
こ
もとく神霊の世界に本体があるのですから、本体の世界では物質界を遙かに超え
はな
た文化文明の華が開いているのです。そして、その波動が守護の神霊の応援によっ
て、肉体界のほうに智恵能力となって現われてくるのですから、地球界は次第に霊界
のあり方に近づいてくるのであります。昔なら一寸不思議なことがあっても、神様ご
ととして恐れ入ってしまっていたものが、今日では自分たちの頭で考え、研究してそ
の不思議の原因を探ってゆくのであります。そして、今日ではかなり不思議な出来事
29環境や運気を超える法
———————[End of Page 31]———————
が解明され、電気をはじめ、テレビやジェット機や宇宙船、というような昔では考え
られもしなかった高度な文明文化の世界が、開いてきているのであります。しかしそ
れと同時に、不思議というものが、人間の頭でやがてはすべて、解き明されてくる、
というような不遜な考えも多くなってきているのであります。
このように形の世界においては、大いなる発展をとげている人類なのですが、お互
いの自己保存の本能によって、争いの機運が続いているのであります。現在では、い
つ核戦争になるかわからない危機をはらんでいるのです。
今日の人間は、地球界開発の智恵能力と同時に、お互いが助け合って地球を進化さ
せてゆく、愛と調和の心を持ち続けなければならないのです。それでなければ、地球
上で生き続けられないので、どうしてもそうしなければならないのです。しかし、自
己を他から守ろうとする本能は、国家としては自国を守るために武力の増大をはかっ
たりして、なかく愛と調和の方向に、心が働いてゆかないのです。こうした自国本
意の行き方を改めなければ、とうてい戦争の脅威はなくなりません。だが、各国共に
自国本意の気持から抜け切ることはできません。
30
———————[End of Page 32]———————
神のみ手にゆだねる
神の愛を抜きにして考えてみれば、地球は早晩亡びざるを得ない状態です。しかし
幸いなことに、人類の最後の運命は、神のみ手にゆだねられてあります。ここに神の
力がはっきり現われれば、地球は救われの道にはいるのです。
かんじん
人間は考えているようにみえながらも、肝腎なことは考えていないのです。私がい
つも申しておりますように、人間は自分の意識として、肉体の内臓や諸器官にこのよ
うに動けと命令しているわけではないのに、生まれた時から、自然と動いております。
その根本を考えようとはしないのです。生きているから当然であるというのです。
すると、内臓や体の諸細胞が自然に動いているのは、一体誰の力によるのでしょ
う。当然と考える生命力、つまり神のみ力によるのであります。それなら人間が意識
かくさく
的に自己保存の本能を根本にして、いろくと画策してゆくことなど、つまらぬこと
で、その当然の生命力のあるがままにまかせておいたほうがよいのではないでしょう
か。そうした自己保存の本能のはたらく前に、肉体の内臓や諸細胞が、自然と人間を
31環境や運気を超える法
———————[End of Page 33]———————
生かしていてくれるので、そうした自己保存の本能はその次にくるものだからなので
す。
内臓や諸器官を自然にまかせておくように、運命全般を神にゆだねて、その場、そ
くえノ
の時々を大事に働いていけばよいのです。人間が空の境地になりますと、肉体意識を
超えた能力が内から湧き出てきまして、自然と大きな働きができるようになるので
す。私など、自己意識でいろくと生きている時より、自己を神に捧げつくした後の
ほうが、すべての能力はくらぶべくもなく増大しまして、しかもそれは内臓が動いて
いると同じように自然と出来てくるのであります。そのことは「天と地をつなぐ者」
くわ
という本にも詳しく書いてあります。人間は、自分が気が付かなくとも、いつも守護
の神霊に守られているのですから、守護の神霊への感謝と、祈りの生活を続けてゆけ
ば、その個人は幸せになってゆくのです。そして、そうした個人が、多くなってゆけ
ば、その国家は平和の気に満ちてゆくのであります。
そのためにも世界平和の祈りの生活を続けてまいりましょう。
32
———————[End of Page 34]———————
改めて教えを噛みしめよう
消えていく姿は光のコトバ
どんな善い言葉でも他の言葉との組合わせ方によっては、悪い意味に思われてしま
うことがあるものですが、宗教の言葉などにも、そういうことが随所に出て参りま
す。
例えて言えば、消えてゆく姿という言葉ですが、この言葉はうちの教えの中心とも
なる救いの言葉なのですが、こういう素晴しい言葉も、心ない使い方によっては、そ
の言葉の本来もっている愛の心の反対のひびきを人々に与えてしまうのです。
消えてゆく姿で世界平和の祈り、というのはうちの会独特の言葉でして、この言葉
33改めて教えを噛みしめよう
———————[End of Page 35]———————
で今までの宗教的束縛から解放されて自由な心になった人がどれだけあったか計り知
れません。
今日現われている不調和な環境や困った状態も、今そこでつくられたのではなく、
過去世からの神の正しいみ心から離れていた想念行為がつくりあげてきたもので、今
日それが表に出て消えてゆこうとして現われたのだから、人間の本来の神の子の光と
守護の神霊の光明とでそれを消し去ってしまえばよいのだ、その為にも世界平和の祈
りが必要なのだから、世界平和の祈りを祈りつづけなさい、と私は教えているのであ
りますし、今他人の口から出てくる悪い言葉や行為や、自分の心に浮んでくる悪い不
調和な想念なども、みんな過去世につくられたものが、ここで消えてゆこうとしてで
てくるのだから、そうした言葉や行為にとらわれないで、ひたすら、消えてゆく姿と
して、世界平和の祈りの中へ心を入れてしまいなさい、そして守護の神霊への感謝の
想いで日々を過しつづけてゆきなさい、そうすれば必ず、過去世からの業因縁として
現われてきた悪や不調和の影は、守護の神霊の光明のひびきに消されて、その人の本
心が明るく表面に現われてきますよ、と私は説いているのであります。
34
———————[End of Page 36]———————
この消えてゆく姿という神様の赦しの言葉を、愛情も思いやりもなく、他人の病気
や不幸に使いますと、まるでその人を責め裁いているようになります。「おなかが痛
いんですって、大丈夫よ、それは消えてゆく姿だもの、大丈夫、大丈夫」というよう
に励ましてくれるのはよいのですが、消えてゆく姿という言葉が却って、その人の心
の弱さを責めているようで、医者に看てもらうのも、何んだか教えに反するような気
がしてきたりするものです。それから又、不幸な状態にあったりした人に「今のあな
たの状態は消えてゆく姿なんだから、負けないでゆくのよ」というように簡単にやら
れてしまう場合もあります。その消えてゆく姿だから、という言い方には愛情が感じ
られないで、通り一辺の教えの言葉として、その人の信仰の弱さをなじるようにさえ
聞えてしまうのであります。
消えてゆく姿というのは、あくまで守護の神霊の方で消して下さることによって、
成就することなので、無責任に突っぱなすように言われても、消えてゆく力とはなら
ないのです。言う方の側の人は、この人が救われますようにという祈り心を籠めて、
消えてゆく姿なのですよ、と聞かせるべきで、教えの通り一辺の言葉として軽々と言
35改めて教えを噛みしめよう
———————[End of Page 37]———————
ってしまったのでは、相手にとっては逆効果となってしまうだけなのです。
36
人を生かそうとするならまず愛の心
宗教心というのはやはり、愛の心でありまして、愛の心がなくては、人を生かすこ
とはできません。宗教を求めているような人は、常に自分の心がいたらない、と思っ
ているような人が多いので、そこへもってきて大体の宗教団体は、そのいたらない心
を責めるような教えになっています。つまり理想の行為をあたかも現実にすぐにでも
実行できるように説くのです。そこで説かれる方は自分の日頃の行為と照し合わせ
て、自分は駄目だなあ、と自分を責めてしまうのであります。そこで神様はそれでは
人間の心がますます萎縮してしまうと思われて、私に消えてゆく姿という教えを説か
せるようにして下さったのです。
自分の中から出てくる悪い想い不調和な想念行為も、他からくる不幸災難や嫌な出
来事も、みんな現在つくったのではなく、過去世からのものであると知れば、何んだ
か今の心がほっとして、ここで現われたのだから消えてしまうのだな、守護霊様、守
———————[End of Page 38]———————
護神様によって消して頂けるのだなあ、それだけでも心が明るくなります。しかもそ
こで世界平和の祈りをして守護の神霊への感謝をすれば、実際にその人やその人にま
つわる人々の魂にまつわる業が消え、それだけ潔められるのだから、全く易行道の宗
教の道であるわけです。
そういう意味の深い教えなのですから、これを又再び昔の教えや今まであった教え
のように、自分や他人の責め言葉として使っては折角の教えが何んにもならなくなっ
てしまいます。
へだた
神様としては、神と人間との間に何んの距りもない光明一元のつながりにしたいわ
けなのですから、そうなりきる過程で、いちいち人間側から余計な知恵を出して、何
や可と人間の生き方に難くせをつけられては困るのです。ちょうど人類は今大きなト
ンネルを掘っているようなもので、先の方から幾分の明りは見えますが、大体が闇で
手さぐり半分で歩いているといった工合なのですから、トソネルが掘りあがって、神
と人間との完全な一体化ができるまでは善いように見えたり悪いように見えたり、不
幸や不調和に見えたりするのです。
37改めて教えを噛みしめよう
———————[End of Page 39]———————
ですからそれはそのままにして、一日も早くトソネルが掘り上がるようにと人間側
では、神様の大光明の方に一歩でも余計に近づいてゆくことが大事なのです。それが
世界平和の祈りなのです。そこで、片一方でこの現象の姿をすべて消えてゆく姿とし
て、その消えてゆく姿ごと、世界平和の祈りの中に入りこんでゆくことによって、神
と人間との完全なる一体化が達成されてゆくのであります。
消えてゆく姿という言葉は、自分自身の心の中の問題でありまして、人をたしなめ
るように使われてはいけないのです。過去世の因縁の消えてゆく姿として、自己の中
の想いや他から襲ってくる不調和、不合理な事柄を、実際に現在行われているものと
してでなく、夢の中の出来事のように醒めれば消え去っている、というように、世界
平和の祈りによって、消し去って貰うのであります。
そういう生き方をしていますと、自分の心の動きにも、この世の中の出来事にもあ
まり把われずに、ひたすらなる平和の祈りの中だけで気楽に生活してゆけることにな
るのです。
38
———————[End of Page 40]———————
祈りほど強く逞しい生き方はない
ところが、そんな風に祈りの生活だけしていると、自分自身の向上心や競争心が失
われていって、弱々しい消極的な人間になってしまいはしないか、という疑問を出し
てくる人がいます。
祈りというと、どうも今日までの習慣性で、神仏への願いごとで、消極的な事のよ
うに思われ勝ちですが、実は祈りほどしっかりした強い生き方はないのです。何故か
といいますと、祈り心によって、肉体人間の生き方は、神のみ心と一つになってゆく
ので、神のみ心の大智慧、大能力をその身心に現わしてゆくことになるので、これ以
上強い逞ましい生き方はないし、これ以上愛深い生き方もないのであります。
そうおっしゃるが、スポーッの場合でも、商売の営業の場合でも、身心共なる精進
努力と、積極性が必要なのに、祈り心のように、ふんわりしていては、積極性が出て
こないのではないか、という疑問を又投げかけてきます。
祈りというと、形の手を合わせ、形の上での静かさをみて、そういう向きが多いの
39改めて教えを噛みしめよう
———————[End of Page 41]———————
ですが、祈りというのはいのちを生々させる、ということで、祈り心になると、その
身心は静かに穏やかに見えていても、瞬間瞬間に発する力は、常人をはるかに超えた
素晴しいものになるので、それはスポーッの場合でも営業や交渉事の場合でも同じに
働くのであります。
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏といいながら商売もできないでしょうし、のりとをあげ
ながら野球のバットも振れないでしょう。もしやったとしたら、商売でも野球でも勿
論うまくゆくわけがありません。私のいうのはそういうことではなく、常に心の中に
世界平和の祈りがあり、守護の神霊への感謝がある、ということで、学問なり仕事な
りについている時は、そのこと、そのものに真剣に心を打ちこんでやることは、常識
人と何等変わることはないのです。
常に心の中で神との一体化、神への感謝を祈りつづけることによって、その人の能
力が、神のみ心に近づいてゆくということになり、常人には思いもかけぬような成績
があがってくるのであります。祈りというのは神のみ心に入りきって、神から分れて
いる自己のいのちを充分に出しきれるよう、心についているもろもろの汚れをはらい
40
———————[End of Page 42]———————
浄めてゆくことなのです。
カルマカルマ
心に業がかぶさっていて、生命本然の力が出てこないのですから、心の業をとるこ
とによって、生命本然の神の力が肉体人間の力としても発揮されてゆくわけで、その
為には唱え言もするでしょうし、商売の準備や、スポーッの練習に努力精進を重ねて
もゆくでしょう。こう考えて参りますと、祈りの生活と、競争心ということが調和し
て、自分の心もすっきりするし、他との摩擦もなくなってくるのであります。
祈り心がなくて、肉体人間としてもっている智慧能力や体力だけでは、誰もが五十
歩百歩で他をぬきんでることもできませんし、たとえ、ぬきんでたとしても、他との
摩擦によって、他へ何等かの損害を与えてしまう恐れがあるのです。
他人との交渉にしても、あらゆる技術にしても、心にわだかまり、把われがあれ
ば、その力を充分に発揮することはできないのですから、祈り心によって、その把わ
れの原因を守護の神霊方によって消して頂きながら、その生活を進めてゆけば、その
人はその道で成功することは間違いないのです。
41改めて教えを噛みしめよう
———————[End of Page 43]———————
宗教の道は自由で調和した道
42
それを今度は思い違い致しまして、この祈りに把われていってしまう人ができてく
るのです。中近東諸国やアフリカなどの低開発国では、宗教の把われが多くて、文明
文化の発展を阻止してしまうのでありますが、日本でもそれらの国々にくらべれば、
それは問題なく少ないものですが、宗教の戒律や定めなどによりまして、日常生活を
阻害されてしまうことがあるのです。祈るということにしても、一定の定まりとして
は、時間がきめられたり、祈り方をきめられたりして、一つの形はありますが、それ
は勿論心の問題が根本でありまして、心が神の欲っする方向に動いていれば、その定
まりや形は二の次、三の次でよいのです。しかしなかなかそう思えないで、規律や形
に把われて、日常生活を支えている職業の妨げになったりする場合があるのです。職
業の妨げになれば、それだけ職業はうまくゆかなくなりますので、神様にすがりなが
ら、神様を求めながら、日常生活が悪くなっていった、というようなことになってく
るのでありますQ
———————[End of Page 44]———————
宗教の道というのはあく迄心が主なのですから、宗教規律や形の上で、各自の職業
や、日常生活の調和とぶつかってしまう場合は、先ず、日常生活が生かされる方を取
ってゆくべきで、宗教の道は、心の問題として、心の中で神への感謝をつづけ、世界
平和の祈りを祈っているべきで、わざわざ形の世界にその姿を示さなければならない
ものではありません。うちの教えなどでも、夫が祈りの録音を嫌がっている場合、そ
れを無視して、録音テープを流しつづけることは、調和に反することになるのですか
ら、夫のいる時にはそのテープを止めて、自分たちだけの時にかけて祈ったらよいの
であります。祈りつづけてゆけばいつかは夫も自然と宗教の道に心をふりむけてくる
ようになるのです。自分のやりたいことを、たとえそれが善いことであるとしても、
夫に無理強いするのはいけないことなのです。まして、一日中テープをかけ放しにし
ていることなどは、常識に外れていることで、会の在り方そのものさえ非常識だと思
われたりしてしまいます。
宗教の道というのは、神と一体化になる道でありますし、その神のみ心の中心は調
和ということにあるのですから、調和に外れた行為はそれが善い行ないであったとし
43改めて教えを噛みしめよう
———————[End of Page 45]———————
ても、根本的には考え直さなければいけない、ということになります。
ですから、会の教えを伝えるにしても、相手の気持を無視して強引に突き進めるこ
とは、私たちのすすめることではありません。家中の者や周囲の者たちに、よいと信
じる教えを伝えることは勿論よいことにきまっておりますが、相手に押しつけがまし
くすすめてはいけないのです。何んでも自然にいつの間にか人々が同化してくるよう
な在り方で、自分の信ずる道に人々を導き入れたらよいのです。その方法は、先ず自
分の方から相手の為につくしてやり、相手のやり易い人間として交際する、という風
に、相手次第で自分が動くようにしてやりながら、こちらの教えも何かと自然に伝え
てゆくようにすることがよいのです。
教えの拡大の為には、焦ることが却ってマイナスになります。根本は神々のみ心で
教えがはじめられたのですから、こちらは神々への感謝一念で、自分たちの行動をし
ていればよいので、その自分たちの自然の行動の中で自ずと教えの活動もなされてゆ
くわけです。それは正面から堂々と教えを拡められる人は一番幸せな人ですが、奥さ
ん方にはそれができない人が大分いると思います。そこで先ず調和第一で、夫や周囲
44
———————[End of Page 46]———————
の人々と調和しながら、自分の行為として教えを行じてゆくことがよいわけです。
宗教団体に入りますと、却って自分の心が縛られ、人の行為も縛るようになりまし
て、不自由な生活になってしまい勝です。宗教は人の心を自由にすることが本質なの
ですから、自分や他人を縛るようなことをしてはいけません。警察官が悪いことをし
た人を縛るのはこれは別です(呵々)。
神々の強い救いを受ける生き方
こう書いて参りますと、宗教心の通り、神のみ心通りに生活してゆくことが大変む
ずかしく、普通ではなかなかできにくい、と思われる方が大勢いらっしゃると思いま
す。そこに私の説いている奥義があるのです。この世の中は、個人の生活でも、社会
や国際間の在り方でも、右と左、あちらとこちらというように利害が相反するような
ことや、やり方の全く違うようなことが沢山ありますので、右がよくて左が悪い、左
が正しくて右が誤りであるというように肉体頭脳で割り切ることができませんし、割
り切れることでも、その当事者になりますと、割り切ったことを実行することがむず
45改めて教えを噛みしめよう
———————[End of Page 47]———————
かしいのです。
戦争は悪い、軍拡はいけない、とお互いの国で思っていたとしても、現在の肉体人
間の精神状態の上からみて、先に軍備を縮少した方が有利になるとはいい切れませ
ん。却って軍備の強い方が自国の言い分をつよめてくることでしょう。そこで核爆弾
の実験も未だに止まず、軍縮もなかなかできないことになっているのです。個人の間
でもこういうことはよくあります。そこで私は肉体人間には何一つ大きな善いことは
できないのだ、調和生活を築き上げることはできないのだ、ということを改めて思い
定めて、すべての運命を生命の親である神様にお任せするつもりで、神様への感謝を
しながら、人類の最大の希望である大調和世界実現の為の、世界平和の祈りをつづけ
なさい、そうすることによって、神々の救いの力が強くなり、神と人間との一体化に
よって、この地球界も調和してゆくことになるのですよ、といっているので、一にも
二にも世界平和の祈りを根底にして、日常生活をつづけてゆくことが現在の人間の最
上の生き方だというのであります。
46
———————[End of Page 48]———————
永遠の生命と過去世未来世
物質主義と精神主義
今日までの哲学的運命論から申しますと、人類が永遠の生命を、自分のものとして
生きられるようになる、という理想をかかげて、生活してゆく、ということによっ
て、精神的満足をしてゆく、ということになるのですが、個人の精神意識が、肉体身
が滅亡してから一体どうなるのか、ということは、あまりはっきり説明されておりま
せん。
くおん
永遠の生命というものを、自分のものとするということは、久遠の大生命というこ
とを、認識することで、肉体消滅と同時に個人生命が永遠の生命の中に同化されてし
47永遠の生命と過去世未来世
———————[End of Page 49]———————
まう、というように、大方の哲学者は解釈しているようです。
ですから、肉体消滅後の個人の生命の行方を追究してゆくことはせず、永遠の生
命、久遠の生命ということで、その中に個人はそのまま昇華してしまうことになるよ
うです。そして、それがそのまま個人の悟りの姿ともいえる、ということになってい
るようです。
そこで、物質世界の地位や権力を求めたり、物質や金銭そのものに執着したりして
いる生き方を低級な生き方としてさげすみ、物質や地位権力から離れた生き方をして
いる人を立派な人格者とみなしている、という意識が一般的な人間論となっておりま
す。
しかしどちらの生き方の人たちがこの世の指導権を握っているかと申しますと、一
般に低級とされているような人々のほうで、立派な人格者といわれる人々は、世の片
すみ
隅で、ひそかに生活しているという形になっており、たまくその中の大物とみなさ
れる人が、権力者に劣らぬ指導力を、この世でも発揮していることがあるのです。こ
ういう聖賢の指導は、やはり物質や権力を離れたところに人々を導こうとしている精
48
———————[End of Page 50]———————
神的なものなので、経済力やその経済力を生かして、自分たちや自国本位の物質世界
をそのまま動かしている、精神的には低級視されている人々の動きに常に先を越され
てしまうのであります。
この世を動かしているもの
事実、この世を動かしているのは、経済力であり、政治力でありますので、経済的
に豊かであればある程、個人にしても国家にしても、その力を充分に出し得るのであ
って、経済力の裏づけのない精神主義の生き方には、その場、その時々の経済力にひ
きずられている一般大衆はついてゆけないのです。
日本の国が、米国についで経済力で幅をきかしているのも、経済界の指導者たちの
働きと、職場大事と、真剣に努力している職員や従業員の働きが、他国を超えUてい
ならいせい
る、ということで、自分も富み、会社をも富ませるように自然に習性となっている生
き方が成功しているわけです。
そこには取り立てた精神主義というものも、経済に把われぬ心というものもあるわ
49永遠の生命と過去世未来世
———————[End of Page 51]———————
けではありません。かえって他国の隙をみては、巧妙に商売をしてゆく、という物質
主義の生き方が根本的になっているのです。
これを、あの国ともこの国とも利益を分けあって、こちらの発明発見も、商売のコ
ツも、あの国々にもそちらの国にも教えて、どの国も同じような利害関係の上に起っ
てゆきましょう、というように精神主義を正面からぶっつけて生きてゆこうとします
と、どの国もみな人口も面積も政治の在り方もいろくと相違していますので、同じ
にするのは容易なことではなく、というより、そこまでゆくまでに、精神主義にして
もまた浅いものと深いものとありまして、これを等しくするのが第一の苦労となりま
す。これは理想だけで、実際に行うことはできそうにもありません。
そこでやはり現在のように、その国々の考え方や努力によって、その成績を上げた
り、駄目にしたりしてゆくわけで、根本が物質の上に成り立っている地球世界なので
すから、物質のことを先ず考えなければ、その先に進むことができないのです。そこ
でどの国も、物質本位の生き方をするようになり、自国を富ませることに努力し、精
おこな
神的な生き方は、物質を離れては行いにくい状態になってしまうのです。
50
———————[End of Page 52]———————
神界にも物質がある
神様の世界では、肉体人間の世界のように、精神と物質とが、別のものと思われて
いるのとは違って、精神も物質も共に生きて活動しているので、神界には物質が無い
というようなことはないのです。
一般の人たちは、神様の世界というと、つい精神だけのような感じを受けるでしょ
うが、神界にも厳然と物質の世界はあるのでして、肉体人間の世界のように、五感に
触れているものではないのです。
私がいつも申しておりますように、精神も波動ですが、物質もやはり根元は波動で
こうしじま
ありまして、十字交叉の重なり格子縞のような状態で存在し働いているのです。肉体
人間の習慣で物といいますと、手に触れ、眼に触れるものと思いがちですが、近頃の
ように科学が発達してきて、原子、電子の世界のことまで、見えるようになります
と、物質は五感に触れないところにも存在する、ということが判ってきます。神界の
物質というのは、そういう状態の物質でありまして、宇宙子科学的に答えれば、共に
51永遠の生命と過去世未来世
———————[End of Page 53]———————
宇宙子の働きなのだが、プラス、マイナスの組合せや、角度の相違によって、精神作
用として表現されたり、物質というような状態になって現われたりもするのである、
ということになるのです。
宇宙子科学がもう少し完成すれば、精神のことも物質のことも詳細に説明できるの
ですが、現在ではまだ科学的実証の段階に入っていないので、もう少し先にいって説
明されることになるでしょう。ともかくここで申せることは、神のみ心の最も微妙な
現われである、宇宙子の角度や組合せによって、この宇宙の様々なことが現わされて
いるのであるということだけは言えるのです。現在地球科学で研究されている、電子
や素粒子と宇宙子の間には多く数学的説明が必要で、いろくの計算がそこに行われ
ることになるのですが、そのことは宗教的文章の中ではなく、宇宙子科学として、改
めて説明されることになるでしょう。
52
行動や能力に現われた神との一体化
なんにしても、神の実体をより深く知る為には、神との一体化が深くならなければ
———————[End of Page 54]———————
なりません。永遠の生命と自己との一体化を精神主義者たちは理想として進んでいる
のですから、それで完成された人間にまで到達すると思われるのですが、現在は学者
先生方の理想として頭に画がかれているだけで、神との一体化の中から現われてきた
現実というものを、把握することはできていないのです。
そうした程度の精神主義では、物質主義の上にあぐらをかいて突き進んでいる唯物
たちう
的な人たちの力の前には太刀打ちはできず、実際の行動としては、押しきられてしま
うのが、常であります。神との一体化がなされた場合は、神の力がその人の行動や能
力にはっきり現われてこなければなりません。行動や能力に現われない、理想や学問
では、とても瞬々刻々の変化に対応してゆく、物質世界のこの地球では指導権を握る
ことはできないのです。
かえって、常々は信仰のことは口にも出さぬ科学者などが、一つの研究に真剣に取
り組んでいる時に、その答を夢の中で知らされたり、ハッとした瞬間につかむことが
いのち
できたりすることがあるものです。それは一つの研究に生命がけで打ちこむというこ
とが、神との一体化の道と一つになっていることがあるからです。いわゆる他の想い
53永遠の生命と過去世未来世
———————[End of Page 55]———————
くうそくぜしき
はすべて捨てた空即是色の心にその人がなってしまったからなのです。
ところが、精神主義といいながら、ただ頭だけで学問的に追求しているぐらいの心
の状態では、とても神我一体の境地にはならないので、学問的であるなしにかかわら
くうそくぜしき
ず、神我一体になる道や、空即是色になる道に入って突き進まなければ、神我一体に
はなれないのです。
54
肉体人間の自己があってはダメ
それは頭で知識として考えているのではなく、祈り心になって、その祈り心の日常
生活を送るようにしなければならないのです。神のみ心と一つに通じるのは、肉体人
間としての自己があっては駄目なのです。一つの物事に生命がけの真剣さで打ちこん
で、超越的な成果を得る、ということなども、その時は、すでに肉体人間的自我を捨
て切って、目的の中にすべてを突入させているから、超越的なまでの成果を果し得た
ので、その場合、その人が知らなくとも目的が神仏と同じような立場に置かれていた
のであります。
———————[End of Page 56]———————
肉体人間というと、どうも、神と離れてある感じですから、神を想うにしても、慕
かんかく
うにしても、そこに間隔があります。そういう間隔があっては、学問的な永遠の生命
感と同じで、神のみ心とぴったり一つにはなれませんので、そこに全面的な神の力が
発揮されてこないのです。そこで、神仏といわなくとも、生命がけの真剣さで、一つ
の目的に心を集中させた人たちのほうが、その成果を得るのであります。
永遠の生命を自己のものとする、というのは理想論だけではなく、実際に出来得る
いのち
ことなので、只単に大宇宙的生命の中に、自己の生命が融けこむ、という哲学的理想
だけでは、その永遠の生命感は力がないのです。
永遠の生命というものが、そのまま自己の生命でもあり、また大宇宙そのものの生
命でもあって、肉体人間の世界ばかりではなく、神、霊、幽と仮りに私が呼んでいる
各階層に働いている神のいろくな働きだということを知らなければなりません。
いのち
そして、その神の働きが、人間一人一人の縦横の生命のひびきとして、神の力を分
け合って発揮してゆくのであり、大きくは大宇宙、小さくは微粒子の生命要素を自己
のものとして、各自が永遠に生き通してゆく、という真理を知らねばならぬのです。
55永遠の生命と過去世未来世
———————[End of Page 57]———————
個人の生命が、永遠に生き通してゆく、ということは、哲学的な永遠の生命という
わけいのち
より、自分が神の分生命として生きているのだということの確信がつきまして、悟り
そのものの生活ができてゆくのであります。
56
個生命は生きつづける
以前にも申しましたが、人間が肉体だけで個人の生命はそのまま終ってしまう、と
いうことになりますと、神が何人をも同じように愛していらっしゃる、ということが
嘘になってしまいます。何故ならば、生れながら才能も備わり、生れた家も地位の高
い、物質にも富んでいた、という人と、何んの才能も持たず、その上貧しい家に生れ
た、という人とでは、その運命の行く道はおおよそ想像がつきます。
そういう不公平な生れ方を神様がなさる、ということは、その愛が片寄っている、
ということになり、神の大愛としてはおかしいということになります。
神の子としては、誰も彼もが同じような能力や立場を分けられて、個々の生命とし
て出発したが、各自が与えられた能力の使い方によって、自分たちがそれみ\の地位
———————[End of Page 58]———————
や富を定めてゆき、生れ変り生れ変りして、現在のような人類の姿ができ上がってき
たのである。不公平にみえる人間各自の姿は、神がそのままつくったものではなく、
人間が各自の精進努力の相違によって、つくられていったものである、ということが
真理なのであります。
そこまでつきつめませんと、哲学的な神我一体論のように、知識的欲望は満足させ
るが、実際のこの世の生活にはあまりプラスにならない、ということになってくるの
です。
生れかわりについて
そこで今度は生れ変りのことですが、この生れ変りも、何叫撒騨、何の某という名
はく
の人に生れ変った、という単純なものばかりではなく、肉体的、いわゆる魂要素は、
何某のもので、魂的には、何某のものである、という生れ変りや、魂要素にも霊魂の
ほうにも、多くの人の要素が交じり合わさって生れ変ってきた、という人や、それは
さまざまの生れ変り方があるのです。
57永遠の生命と過去世未来世
———————[End of Page 59]———————
そして、或る星における経験を積むと、次には他の星の経験を積みにゆき、多くの
経験を積んだ上で、今度は守護神的な立場として、神界で働くことになるのでありま
す。これはこうした小論ではその片鱗を説明するだけで、噛んでふくめるような説明
はできないのです。
まず祈
り
58
わけいのち
しかし、人間各個人は、神の分生命として、大宇宙のあらゆる立場を経験として知
り、次々と神の中心の立場に近づいてゆくのだ、ということの偉大さは、その事実を
想うだけで、心が広々としてくるのであります。ですから、只単に、この地球界の物
きゆう
質世界における幸、不幸だけに把われて、=暑一憂していることは馬鹿らしいこと
で、じっと心を静めて、大神様のみ心の中をみつめてみる必要があるのです。そのみ
ヘヘへ
つめる方法がいのりなのであります。
善事を追い、真理を求めるにしても、頭脳の知識を満足させようとして追求してい
る、いわゆる学問的な人、学者先生方は、どうしても心身をぶっつけ、全人格を投げ
———————[End of Page 60]———————
出して行動するというより、頭で理論をいじり廻わすことが多くて、理論はあまり判
らないが、ただひたすら念仏を唱えつづけて、素直にこの世を生きている、といった
農家の老人などにその心の状態が及ぼないことが多いのです。
死後のことにしても、生れ変りのことにしても、学問的の人は、それを事実として
しる
みるより、今日までの学問の中にそういうことがどのように著されているか、という
ように、書物の中に、その実証をみようとするのでありますが、知識の少ない素直な
人たちは、そういうことを体験的に知っている人の言葉を素直に信じて、祈り心一念
で生活してゆくのであります。先ず祈り、というのが、そういう人たちの宗教なので
す。
徹底した祈りの生活
死後のことや、生れ変りのことや、神霊の世界のことを、肉体身をもったままで知
り得た人は、みな徹底した祈りの生活からそうなり得たので、知識だけでなり得た人
はありません。知識の上で神の存在を知り、神との一体化の大事なことを知り、永遠
59永遠の生命と過去世未来世
———————[End of Page 61]———————
の生命の中に人間の心を投入しなければならぬ、ということを知っても、そこに祈り
の行を加えないので、そのまま知識の上だけのことになり、実際には永遠の生命も、
ゆくえ
個人生命の行方も判らずじまいになってしまい、観念の上だけの悟りに終ってしまう
のです。
神仏を知り、永遠の生命として生きる人間を知る上には、どうしても祈りが必要な
のであります。祈りのない宗教というものは成り立たないのでありますが、近頃の宗
教家の中には、祈りなどで何ができる、という風に、宗教を単に精神運動の場として
だけみて、物質的人類救済運動と等しい立場に置いてしまっているものもあります。
今日まで、祈りをお願いごとと感違いしている向きが西洋にも東洋にもあったわけ
で、真実の祈りというものを知らぬ宗教者が多くできてしまったわけです。私はここ
で声を大にしていいたいのです。祈りのない宗教などというものはない。そして祈り
というものは、生命そのものを生きいきとさせるものなのである、ということです。
祈りとしては、念仏がもっともやり易いと思いますが、より容易で、意味がそのま
ま誰にでも通じるのが、私の提唱している、世界平和の祈りなのです。世界人類が平
60
———————[End of Page 62]———————
和でありますように、という人類の悲願が、そのまま神への感謝と共に、唱えつづけ
られるところに、その効果が大きく現われるのでありまして、私どもの同志の人たち
が、神との一体化の道を日々突き進んでいるのであります。
61永遠の生命と過去世未来世
———————[End of Page 63]———————
62
こ
生・老・病・死の苦悩を超えるために
人生の四大苦と仏教
生きてゆくこと、老いること、病気になること、死ぬること、この生老病死は、人
こ
間の根本的な苦悩です。釈尊もこの苦悩を超えるためには、どうしたらよいか、と真
剣に悩まれ、王子の座を捨てて、修業のために山に籠ったわけです。そして仙人につ
いて難行苦行をいたしましたが、成果が得られず、いくら難行苦行をしても真理の道
は見つからぬのかな、と想いを空にして、暁の明星(金星)をみつめた時、一瞬自ら
の本体と合体し、人間の実体がはっきりわかってきたのであります。
その日から仏教が生まれたわけで、多くの人が救われていったのであります。さ
———————[End of Page 64]———————
て、釈尊は、本体と合体され仏となられて、どのような教えを人々にたれたのであり
ましょうか。それは膨大な仏典として、いろいろの弟子達の手によって今日に残され
ているのであります。
仏教は、南方をわたって日本に来たのと、中国から日本に渡来してきたのと、二つ
まじ
の傾向があるのです。そしてこの二つの教えが入り混って、日本の仏教となっている
しんとう
のであります。日本の宗教は、本質的には神道なのでしょうけれども、一般には行じ
のりと
方がわかっておりませんで、たまたま祝詞をあげる程度ですし、伊勢神宮や熱田神宮
まいり
その他神社詣でも、物見遊山的なおまいりが多く、道を求めるといった態度は一般の
人にはなさそうです。そこへいくと、仏教のほうが方向が定まっているようで、日々
お経を読んでいる人も、かなりありまして、日本は仏教国のように見えるのです。し
わけいのち
かしやはり日本は本質的には神道的で、人間は神の分生命であって、神のみ心そのま
ま生きてゆけばよい、という生き方を中心にしているのであります。
ごう
ところが、そのままの生き方というものが、肉体人間にはわからなくて、業の行な
ぜ
いをそのまま是とするような教え方さえでているのであります。神道でいう、そのま
63生・老・病・死の苦悩を超えるために
———————[End of Page 65]———————
まというのは、神のみ心そのままというのであって、業の行ないをそのまま是として
いるのではありません。やはり私が申しておりますように、この世の生き方すべてを
消えてゆく姿として、神のみ心の完全性だけを真の生き方、としてゆかなければ、そ
のままの生き方というものが生きてこないのです。こうした真理のそのままができる
ためには、この世の喜怒哀楽の想念が邪魔になります。そこで仏教では、この想念に
把われぬようにと、座禅を組んだり、お経を読んだり、滝行をしたりして肉体観念を
はなれようとするのであります。
64
苦行は悟りの因にあらず
しかし、釈尊やその他の聖者のように、一般の信者にはその真理が掴めませんで、
肉体に苦行を与えることによって、悟りの道が開けると、思い違いしているのです。
いん
釈尊も初めはそうした道を踏んで難行苦行したのですが、苦行は悟りの因でない、と
いうことがわかって、仏心を現わされたのであります。
これはどういうことであるかと申しますと、人間が神そのままの生き方をするため
———————[End of Page 66]———————
には、肉体を主にしていたのではできない、だから、悟ろうと思っていくら肉体を苦
しめても、悟りに対しては何の効果もなかったのであります。苦しませるも喜ばせる
も、とにかく肉体を相手にして神のみ心を現わそうとしていたのでは、真理を行じる
くうぜんたく
ことはむずかしいのです。そこで、空になる教えや、全託の教えがなされているわけ
くミノ
なのですが、この空になることや、全託することがまたむずかしいのであります。
しようろう
人間が悟りをひらいて、神のみ心そのままの生き方ができるようになれば、生老
びようし
病死という苦しみも消えてしまうのでありまして、釈尊や聖者方の理想が達成される
のであります。しかし、なかなか簡単にそうはまいりませんで、釈尊が生まれてか
ら、三千年もたった今日でも依然として人間界から生老病死の苦しみはなくなりませ
んし、地球の存続さえ危くなっているのであります。
だれもが聖者方の生き方を
こ
生老病死の四苦を超え、地球世界に完全な平和をつくりだすためには、一般の人々
おこ
が今日まで行なってきたような生き方では駄目で、聖者方のような生き方をしなけれ
65生・老・病・死の苦悩を超えるために
———————[End of Page 67]———————
ばならないわけなのです。ところが、この聖者方の生き方というのは一般の人々には
こんこう
できにくいことで、どうしても善悪混交の今日までの生き方のわくを抜け出ることは
できないのです。人間が肉体身を自己として生活している問は、善悪混交の業生の世
界が続いてゆき、遂には地球を滅亡させてしまうようになるのですが、それでは神様
が地球界に人類を誕生させた意味がなくなってしまいます。
地球世界も、他の先輩星のように、完全調和したところになることが、神のみ心に
は描かれているのであり、事実、人間の実体である神霊の世界では、そのような状態
が開かれているのであります。この地球界の人間にとっては、どうしても肉体が自己
であるように思われて、神霊の体が人間の実体である、といくら聞かされても実感と
なってこないのです。それは、長い間物質体である地球の物事に合わせて生活してき
たので、物質体である肉体が主になってきてしまったからです。そこで神々は、その
つか
誤りを正そうとして、釈尊やイエスや様々の聖賢を地球界に遣わして、今日までに至
ったのです。そして、或る意味では、その効果は現われてきておりまして、人間相互
の生命の尊重や、社会的な愛の行ない等は、昔とは較べものにならぬくらい、精神的
66
———————[End of Page 68]———————
な進歩をしてきています。だが、その行ないもあくまで肉体人間を主としての在り方
なのですから、根本的な人類の救いにはなりませんで、生老病死の苦しみも、地球世
へ
界滅亡の恐怖の想いも、少しも減ろうとしておりません。
いま
それもそのはずです。人間は未だ、真理を行じていないからなのです。人間の実体
は微妙な光明波動の神霊の世界にありまして、この肉体身は、物質の地球世界を進化
させるために、それに合わせて現われている仮りの姿にすぎないのです。自分は神霊
の世界に住んでいる者であるということがわかりますと、肉体界の生老病死の苦悩
は、たちまち消滅してしまうのであります。
釈尊は、金星の光明によって自己の本体と合体し、本体がそのまま仏としてこの世
の指導にあたったのであります。その時からの釈尊は、神霊(仏)であって、肉体身
ではなくなっていたのでありますから、生老病死の苦悩は消滅していたのです。そこ
こ
で釈尊は、ご自分の悟った道を人々に知らせ、生老病死のこの世の苦しみを超えさせ
こ
ようと、仏教をひらかれたのであります。生老病死の苦悩を超えるためには、どうし
ても自己が霊身であることを悟らなければなりません。各聖者はその悟りの道を、そ
67生・老・病・死の苦悩を超xるために
———————[End of Page 69]———————
れそれの角度で教え導いてこられたのであります。
しかし、物質世界で人間が生活するためには、肉体でそれに対処しなければなりま
せん。そこで、肉体というものが最も重要な存在に思われてきて、肉体即人間という
観念からなかく離れられなくなっているのです。五感でみる限り、人間というもの
は肉体身以外にみえないのですから、致し方ないといえば致し方ないといえるので
す。だが、致し方ないといって、今日までの生き方で生活していれば、地球は滅びて
しまうにきまっているのです。だから、そのことを知っておられる神々は、次々と聖
つか
者賢者をこの世に遣わされているわけなのです。
イエス・キリストと釈尊の教えの相違
イエスなども勿論その一人ですが、イエスは釈尊と違って、人間の生老病死の苦し
みをみかねて出家したというような生き方ではなく、人類救済の天使として地球界に
派遣された、というのがその生涯の言動や運命に、はっきり現われていました。イエ
スにとっては、その天命上、個人々々のその時代における肉体界の生老病死の問題
68
———————[End of Page 70]———————
を、一人一人の悟りによって、解決させてゆこう、というような釈尊のような方法を
とっておりません。イエスが病気や災難を救って歩いたのは、神の栄光を現わし、神
の力の偉大さを人々に知らせるためでありまして、終極の目的は、人々がひたすらに
神の国の正しい行ないに入ってゆくように、神を求め続けてゆくことを実行させるこ
とにあったのです。
その頃のユダヤは、ユダヤ教の予言にある、救世主を待ち望んでいたので、さまざ
まな奇蹟を行なうイエスを救世主と崇める人々が多くなっていったのであります。人
々は今日の世界の人々と同じように、肉体生活の幸せを救世主がもたらしてくれる
と、救世主を待望していたわけなのですが、イエスは、肉体人間の幸せというより、
魂の救済を主にして天下ってきたのであり、後々の人類世界の神の国、昇格を願って
きたのであります。
従って、教えることも個人的な肉体生活の幸せへの方法でなくて、人類社会のため
になる生き方が主になっていたのであります。
釈尊が、個人の悟りへの道を主にして教えていたのと、イエスの教えは全く対照的
69生・老・病・死の苦悩を超えるために
———————[End of Page 71]———————
であったのですが、釈尊が人間の本心(仏)開発の道をきり開いていったのと、イエ
ただ
スがひたすら神の国の義しきを求めさせたのとは、根本的には等しいことであって、
どちらからいっても、その教えるとおり実行すれば、その人は悟りをひらいていける
のであります。従って、その人達は、生老病死の苦しみを自ずと超えているのであり
ます。
釈尊の教えは、あくまで内なる本心の開発を目ざしておりますが、イエスの神の国
の義しきを求めるという生き方は、実際は釈尊の本心開発と同じことなのですが、神
の国が外にあるような気がして、神を外に求めたりする誤りをおかしがちです。神と
もう
いうのは、神社仏閣に祭られてあろうとも、その神社を詣でることは、あくまでその
人の本心開発のためになることでありまして、外なる神が、内にはいってくることで
はなく、祈るその人の本心が開かれてゆくのであります。
宗教の信仰によって、現世の利益を与えられることが多々あります。それはそれで
結構ですが、宗教信仰はやはり本心開発が主になるものでありまして、本心の開発に
したがって、社会や人類のために、自ずと貢献してゆく生き方になってくるのであり
70
———————[End of Page 72]———————
ます。ですから、自分たちの現世利益の願いだけで、神社仏閣や教団参りをしていた
のでは、その人々は地球滅亡を防ぐ何んの力も出していないことになります。そのこ
とは、現世利益だけではついには、自己を滅ぼしてしまうということになるのです。
釈尊にしてもイエスにしても、また他の聖者賢者にしても皆その真理を教えていた
のでありまして、現世利益だけの教えをしている人はなかったのです。現世利益は、
とじよう
あくまでも本心開発の道の、途上で与えられるものなのであります。
今こそ肉体人間観を捨てよ
人間が生老病死の苦悩を超えることと、地球世界の平和達成とは、全く一つのこと
でありまして、生きてゆく生活に悩み、老いてゆく身をなげき、病いに苦しみ、死を
恐れる、という個人々々の想いや、武力を背景にして自国の利益を増大しようとはか
る国家群のあり方などでは、地球界の滅亡を支えるわけにはゆかないのです。
とにかく、肉体人間世界のしかも自分や自国、自民族の利害得失だけが頭にあるよ
うでは、地球人類はもうおしまいだということになるのであります。
71生・老・病・死の苦悩を超xるために
———————[End of Page 73]———————
むいな
老子などは、その真理をよく知っておりまして、無為にして為せ、ということを説
むい
いたのであります。無為にして為せ、とはどういうことかといいますと、この大宇宙
は一つの意志、すなわち大生命の絶対智によって、動かされているのでありまして、
地球もそして地球人類も、その力によって活動しているのであります。ですから、人
間は大生命に分生命として、小生命と呼ばれるのであります。この分生命の小生命の
存在は、大生命である神のみ心のままに働いているのでありまして、神をはなれた肉
体人間としての想いを出せば、それだけ完全性がかけてゆくのであります。そこで老
子は、大生命の動きのまま、神のみ心のままに無為にして動け、といわれたのであり
ます。
無為にして為せ、ということは確かにすばらしいことでありまして、私も修業中に
その心を体得したのであります。人間の肉体身の想念行為は、神にまかせきった時、
いわゆる無為になった時、神のみ心そのままの力を発揮するのでありまして、その人
くら
は肉体人間観の人とは較べものにならぬ程の智恵能力を発揮し、神通自在の人間とな
るのであります。私なども肉体人間観の時の自分と、まるで違った智恵能力が湧き上
72
———————[End of Page 74]———————
がってくる状態になったのであります。そして今日では神々がその光明を結集して、
救世の大光明となられたその中心として肉体界において、祈りによる平和運動を展開
しはじめたのです。
自分の想いを神様の中に昇華させる
長い間肉体を主として生きている想念や行為を、人々が一挙に自分たちを神霊の体
であると確信することはとてもむずかしいことなので、私は肉体身は肉体身として今
日までの生活様式はそのままにしておいて、ひたすら祈り心によって、自分の想いを
神様のみ心の中に昇華させてゆく方法を、説くようになってきたのであります。
それが、消えてゆく姿で世界平和の祈りなのであります。真実の祈りを知ると知ら
ぬでは、その人にとって大変な精神の差にもなりますし、運命の差にもなります。い
つも申しておりますように、今生の運命は過去世における想念行為が、今生の運命と
して現われておりますのですし、生老病死の苦悩も、過去世からの引きつづきとし
て、味あわされているわけで、あくまで肉体人間を主としての現われであります。で
73生・老・病・死の苦悩を超えるために
———————[End of Page 75]———————
こ
すから、どうしても肉体人間観を抜けださなければ、生老病死の苦悩を超えることが
できないのです。それを力まず、無理なく、特別の修業もなくて超えてゆける道が祈
りの道であり、その祈りが個人人類同時成道の道として、世界平和の祈りが生まれ出
ているのであります。
守護の神霊に感謝しながら、この祈りを続けておりますと、いつの間にか肉体を主
にした宇宙観から、神や大宇宙を主にした生命体としての人間観に、自分も気付かな
わけいのちだいせいめい
いうちに変化してしまうのです。祈りというのは、分生命である人間と、大生命であ
る神との交流を続ける方法なのでありまして、大生命の光明波動が、分生命である人
間の業想念を浄め去って下さる慈愛の道なのです。
人間の想いが、肉体に把われている限りは、死の苦しみを超えることはできませ
ん。肉体がなくなってしまえば、人間がそこで消え去ってしまうと思いこんでいるか
らです。ところが実際は、人間の生命は生きとおしであって、肉体が消滅してもその
人自体は消滅することはないのです。それは私や神霊の世界のことを知っている人々
は、皆保証しているところです。そういう真理を把握する想いになるためにも、世界
74
———————[End of Page 76]———————
75生・老・病・死の苦悩を超えるために
平和の祈りは大切なのです。どうぞたゆみなく世界平和の祈りを続けて下さい。
———————[End of Page 77]———————
76
改めて考えよう人間の性は善か悪か
国際間のやりとりを見ていると
個人でも我欲の強い、恥知らずの人は、人の損得など問題にせず、自分の利益の為
に、人目もはばからず自我を押し通し、善良な人のほうが現象的には、どうしても損
をする側に廻ってしまいますが、国家となりますと、それが増大されまして、正しい
だけでは立ちゆかないような国際関係になってしまいます。
先日もニュースにありましたが、米国の中性子爆弾に対して強い抗議をしていたソ
連が、実は自国でも中性子爆弾をつくっていて、もうすでに完成させてその実験を行
っていた、ということであります。これなど個人関係であったら、実に馬鹿気きった
———————[End of Page 78]———————
あき
ことで、呆れかえった恥知らずというところですが、国際間というのは面白いところ
で、こんなことも平気で通ってしまうらしいのです。
さ
こんな調子ですから、一方の国で軍縮をしようと、自国のほうから一歩でも後に退
がったら、相手国がどんな風につけこんでくるか、危険でとても実行できそうにもあ
りません。人間性悪説の見本のような国際間のやりとりです。
この地球世界の国際間のやりとりをみておりますと、どうも善よりも、悪のほうが
力がありそうで、人間の性は悪ではないのか、と思わせるようなことが多々ありま
す。
戦争はしたくない、したくない、と言いながら、双方共に軍備を増大させていった
り、小国間の闘争状態の仲介を、表面的にとるような格好をして、片方では自国の武
器を売りつけて儲けていたりする大国があったりします。
ベトナム戦争なんかにしましても、最初はフラソスとの争い、次はベトナム人同士
の勢力争いに、米ソ中が口を出しはじめ、米国は遂には本格的に武器をとって、左翼
けんせい
派北ベトナムを叩きつぶそうとしましたし、ソ連や中共は、これもお互いに牽制し合
77改めて考えよう人間の性は善か悪か
———————[End of Page 79]———————
いながら、北ベトナムや東南アジアの共産主義的な陣営を金品や武器で援助して、共
産主義国の拡大を計りました。結局小国を表面に立てて、米ソ中の三大国が自国の勢
力拡張の為の画策をしていたということになります。
アラブとイスラエルの抗争なども、一向に平和の方向に進展せず、その根の深さを
想わせます。双方の国が、自分たちの利益を先に立てているのですから、どうにもな
りません。それに加えて誤った宗教観のやりとりなどがありますので、尚更のことで
す。
78
自己本位の生き方
こうして、個人も国家も自己本位の生き方で明け暮れているのですが、これはいず
れも神の子である自分たちや、神の生命において兄弟姉妹である人間をはっきり認識
せずに生きておりますので、肉体人間としての生き方よりできないわけで、どうして
も、他から自己を守り、自己や自国の運命を自分たちの力で開いてゆくのだ、という
力みになってしまうのです。そこに物質や権勢欲が湧いてまいりまして、神の子とし
———————[End of Page 80]———————
ての愛の行為が薄らいでしまうのであります。
自分たちの都合によっては、折角守護神様が力をつくしてつくって下さった赤児を
中絶してしまったりします。これはやはり殺人行為で、悪い行為にきまっているので
すが、近頃の人は、こうしたことを平気で行っているのです。性悪説の顕著なる現わ
れです。止むを得ず、どうしても中絶しなければならない場合には、守護の神霊に深
くお詑びして、それに代る善いことを致しますからと、それまでより一歩深く愛他行
の生活をしてゆくようにしなければなりません。人間の本性が性悪であるならば、人
類は絶対に救われることなく、地球と共に滅亡していってしまいます。ところが表面
に現われていること、想いの中にあることは、今迄の説明でもおわかりのようにどう
も不調和なことや、自己本位の想いが多いのです。
個人にしても、国家民族にしても、こんなに自己本位の想いが多いのでは、人間の
性は悪である、と割り切ってしまうほうが本当かも知れない、と想い、インテリであ
あきらめすご
ればある程性悪説に傾き、この世を諦の境地で過してしまうようになってしまうの
です。
79改めて考えよう人間の性は善か悪か
———————[End of Page 81]———————
もっとも人間には生まれながら、陽気で楽天的な人もあれば、陰性で気の小さい人
もありますので、一概にはいえませんが、かなり、陽気な人でも、あまりに個人や国
家の悪い面をみせつけられますと、人間は本来から悪いことにひきつけられるものを
もっているのだ、と思ったりしています。それ程に現在は、悪い面がたくさん出てい
る社会になっています。
80
愛の行ないに心打たれる
といって、貧しい者を助け合う運動だの、病人や老人の力になる組織などが次々と
生まれていまして、人間も善いところがあるなあ、と思わず人々が元気づいたりする
こともあります。いわゆる人間の性の善の部分が現われている状態をみて、各自の善
なる心が力ついたということであります。
個人的なチャリティ1活動や、ボランティア活動なども近来盛んになってきていま
すが、貧しい国や遅れた国々の力になろうと真剣に働いている国もありますので、人
間の性は悪だけではないなあ、と性悪説の人の心にも少しは働きかけているようです。
———————[End of Page 82]———————
しかし、どちらかと言いますと、やはり性悪説のほうがその現われが根強く、広い
範囲をもっているようで、この地球人類は、性悪説の言うような運命をたどっていっ
てしまうかも知れないのです。
この決定的な悪は、やはり核兵器を力にしての各国の戦争状態の存続でありましょ
う。敵対するものなら、人の生命も平気で殺せる国家の在り方というものそのもの
が、もう人間の性悪そのものというべきなのです。
自分をかばい、自国をかばって、他人や他国の損失に目をつむっている、というよ
うな想いは、人間誰の心の中にも多少なりともあるもので、これが人間性の悪の根拠
になるものですから、この現象世界の生活の上では、どうも悪のほうが強い感じが致
します。
ですから、自分自身としては、愛と真と美の精神で生活してゆこうと思っていて
も、こうした悪想念の波が強くて、現実の行ないとして、愛と真の精神をその生活に
貫き通して生きてゆくことがむずかしい、というのが、この世の実際の生活です。
そういう生活がむずかしいだけに、そういう生活を見せられますと、人々は感動し
81改めて考えよう人間の性は善か悪か
———————[End of Page 83]———————
て、自分たちも、愛と真や美の生活で生きてゆかねばならないと思うのです。人間は
本来、そのように愛や真や美の行ないにひきつけられる心をもっているのだから、人
間の性は善なのである、という意見もありますし、実にその通りだと思うのですが、
物質欲や権力欲や虚栄の想いで、自己の生活をくらませることも多いので、本来やは
り悪なのだ、という説もまた出てくるわけで、いくら言い争っても、お互いがお互い
の想うようにしか答は出てこないのです。
82
今までの人間観、世界観を変えよう
さあそうなると、この文章も書き出さない前と同じことになって、黙ってこの世の
生活を見過しているより仕方がなくなってきます。しかし、それではこの世が少しも
善くなってゆきませんし、本来の神の子人間の姿を現わしてはまいりません。
ここでいつも申しますように、今日までの世界観では、性悪説の言う通りに、人間
自身が自分たちの行ないで、この地球世界を滅ぼしてしまうだろう、ということで
す。
———————[End of Page 84]———————
今日までのように、本来性である、神の子人間の在り方から離れて、肉体人間とし
ての性善説ぐらいで生活していたのでは、悪想念の暗黒の波動を破ることはできなく
て、地球を滅ぼしてしまうことになります。核兵器をはじめ様々な兵器の増強が、先
ずそれを現わしています。
ですから現象的に性善説、性悪説としての対比では、肉体人間がもっている悪の波
動のほうが善の波動より強くて、国際間の争いが絶えることがなく、遂には地球を滅
亡させてしまう迄になってしまいます。それでは人間の性は悪であるということにな
ります。
ところが人間の本来性は神と一つの者であるのです。神とは愛と真と美と勇気とす
べての完全性、調和性を根本として行動する生命そのもののことで、人類はこの完全
調和に向う大生命の分生命そのものなのですから、本来悪想念行為があるわけがない
のです。
しかし実際には悪想念行為があるわけです。ここのところが判らなくて、人類のう
ちの相当知性度の高い人々でも、人間とは善悪混交の者なので、一寸でも油断をすれ
83改めて考えよう人間の性は善か悪か
———————[End of Page 85]———————
ば、悪のために滅びてしまうのである、と思っているのであります。
それは神と肉体人間とを離して考えているからなのです。人間は神の生命そのもの
であって、その生命の完全円満性を、この地球界にも現わしてゆく使命をもっている
のだ、ということを知るべきなのです。
無限数の星々が、ただ小さな地球という星の生存の為に大空に輝いている、という
ような馬鹿気た考えや、微妙不可思議というべき人間の存在が、たかだか百年ぐらい
でその生命を終ってしまう、というような浅い考えでは、とても神の完全性をこの地
球界に現わすことはできません。
84
自己限定観の追放
人間が肉体という体だけにしか生きていられない、という考えではやがては地球の
滅亡を来すことになるのですし、その時機が次第に迫って参りました。もうこの辺迄
くると、どうしても真理をはっきり表面に現わさないと、真実の人間の姿を人々が知
ることができません。今日迄にも幾多の聖賢が、いろいろとこの真理を説いてまいり
———————[End of Page 86]———————
ましたのですが、人々はその深い奥を知ることができずに今日迄来てしまったのであ
ります。
神は神、肉体人間は肉体人間として、離して考えている限りは、どんなに善意に行
動しようとも、悪想念波動の厚い壁を打ち破ることはできません。世界の現状がそれ
をよく現わしています。
それは、この地球世界が限りある物質によって形づくられているものであり、人間
もその物質に適合するように、肉体という固定した物質体として現われておりますの
で、この限定された物質世界において、自己の自由を満喫する為には、自己が充分な
物質的な自由を得ていなければなりません。人間は元来生命自由に生かしきろうとし
て存在しているものですから、どうしても物質世界においても、できる限りの自由を
得ようとします。各自各自がそう想い、各国、各民族がそれを欲していますので、知
らぬ間に物質を奪い合うような形になってしまいます。
現在迄の地球世界は、領土や物品という物質の力をかりた自己や自国の自己保存的
生き方になってしまっていますので、お互いがその為に争い合うように必然的になっ
85改めて考えよう人間の性は善か悪か
———————[End of Page 87]———————
てしまったのです。そしてそうした力の強い者のほうが権力を持つというようになっ
てしまいました。そしてその権力の争いが戦争というような形になり、遂には核兵力
による力くらべのようになってきて、いつ地球を自分たちの手で滅亡させてしまうか
わからなくなってきているのです。
このように地球を限定された物質世界とみ、人間をそれに合わせた肉体人間と思っ
ているうちは、どんな善意も善行為も、どこかに大きな犠牲が出るだけで、平和な調
和した世界は生み出せる筈がないのです。何故ならば、人間の本質である、生命を自
由に生かし得る要素が、限定された物質世界ではないからなのです。人間の本質であ
る生命の自由自在性を生かす為には、人間自体を肉体という限定された物質体の束縛
くベノ
から解き放つことが必要なのです。それが個人的には仏教の言葉で代表すれば空の境
地になることであります。しかしもっと端的に言えば、人間が物質的肉体として地球
界にくる以前から生命そのものとして生きている者である、ということを知ることな
のであります。
人類が肉体をもって地球の生活をする以前に、すでに神、霊、幽と仮りに呼んでい
86
———————[End of Page 88]———————
る幾多の階層に肉体より微妙な体をもって生きていたのであります。人類はそうした
様々な生命波動の世界で生活しながら、或る時がきて地球という物質波動の世界に肉
体をまとって天降ってきたのです。多くの星々もみなそうした仕組になって次第に神
の働きの場をひろめていったのであります。
今、地球は脱皮する時
そして、或る星々ではすでに、地球でいう物質的波動が、霊波動と一体のようにな
って、地球からみれば微妙不可思議なる生活ができるようになっているのでありま
す。そうした宇宙の住者である宇宙人たちが、今地球人類の進化の手助けに地球人と
接触をはじめているのです。
地球人類がもはや肉体人間観だけでは地球での生活を持続してゆけないことは、世
界情勢をじっくりみつめていれば誰にでも判ります。そこで、大神様のはじめからの
ご計画のように、人間に各自の守りとして存在する守護の神霊や人類総体の守護をし
ていられる神々たちの力を、肉体人間に知らせようとなさって、幾多の聖者賢者を地
87改めて考えよう人間の性は善か悪か
———————[End of Page 89]———————
球界に天降らせたのであります。
救世の大光明の力を中心にして働きはじめた祈りによる平和運動もその一つであ
り、大きな力をもっているのであります。私は守護の神霊の存在をはっきり知ってお
ります。日々瞬々、その波動を感じつつ生活していますので、自我を出す必要があり
ません。守護の神霊の指導の通りに行動していればよいのです。肉体頭脳をゆききす
る想念波動をすべて神様のみ心におかえししてしまいますと、守護の神霊の叡智と入
れかわりまして、守護の神霊の叡智のみ心の通りの行動をしてゆくようになるので
す。それは私だけではなく、かなりの人がその経験をしているのです。
ss
神への全託で道は開かれる
この道は実行するより他に方法はありません。神様を呼ぶのを恥ずかしがっている
ようではいけません。神様を親のような気持で慕うのがよいのですが、なれないとな
かなかそこまでゆけませんから、自分たちが智慧のある人間だと思わずに、自分たち
肉体人間では何事も成し得ない、という謙虚な気持になる必要があるのですが、それ
———————[End of Page 90]———————
だま
さえも出来にくい人は、只騙されたと思って、平和の祈りを祈りつづけ、守護の神霊
への感謝をつづけるとよいのです。そう致しますと、いつの間にか、神様のみ心が自
分の心に伝わってきて、安心立命に近い気持になってきて、次第にゆったりした気持
で、世界をみわたすことができるようになります。
肉体の人間がどんなに頭をふりしぼって考えても、世界を平和にする力はでてこな
いのですから、そうした無駄な力を一度捨てきって、神様のお力にすがるようにする
ことなのです。人間ははじめから神様の生命の分れであり、守護の神霊に守られて生
きているのですから、このことは私の体験でよくよく知っておりますので、私を信用
して下さい。
りこうばか
人間が利巧馬鹿にならぬように、大馬鹿になり、幼児のようになって、神様にすべ
てをゆだねることが必要なのです。神への全託が肉体人間を大きく働かせてくれる道
となるのです。
人間の性は現在の現われとしては、善でもあり、悪でもあるのですが、生命の本質
としては、大調和世界をつくる為に働いている、真、善、美の働きそのものなので
89改めて考xよう人間の性は善か悪か
———————[End of Page 91]———————
す。大神様のみ心が、大宇宙の星々に次々と調和世界を開いてゆくのであり、現在は
地球がその完成への道をスタートしたところなのです。そうした地球の大進化の為
に、人間は守護の神霊の加護の下、宇宙人の先輩たちの援助の下、次第に大智慧、大
能力を身につけてゆくのであります。
90
———————[End of Page 92]———————
生命の神秘を改めて認識しよう
おろ
赤ちゃんを生んだ女性で、無神論の者は、実に愚かな人である、とかつて私が書い
たことがありますが、赤ちゃんが生れるという神秘そのもののことを、神という存在
をぬきにして考えるという頭は、一体どのようにできているのか、と不審に思わずに
はいられません。
東京新聞の四月廿一日(昭和五十三年)づけの記事に、長沢武というお医者さんの、
いのちの原点という文章がのっていましたが、赤ちゃんの生れてくる不思議さを、神
という言葉ではいっていませんが、天地の大いなる縁起のお力として感謝一杯の心で
書いておられます。その文章を紹介しながら、次の文をつ父けて参りましょう。
赤ちゃんの心臓が動いた日
91生命の神秘を改めて認識しよう
———————[End of Page 93]———————
せい
『人の心臓の動きが止まった日が生の終わりですから、赤ちゃんの心臓が一人前に
せい
動き始めた日が生の初日とみていいでしょう。
私たちの心臓は胸に一個あります。その中は四つの部屋に分かれて、血液は左の心
室から出て大動脈を通り、全身をまわって↓右心房↓右心室↓肺↓左心房↓左心室と
一巡しています。
この人が女性で妊娠すると、胎盤ができます。胎盤を通して赤ちゃんに酸素と栄養
を送り、尿の成分を吸い取ってやります。胎盤では血液は二枚の膜をへだてて相対し
ており、赤ちゃんの血液と混じりあうことはありません。
一方、赤ちゃんの心臓も既に独立して動いています。部屋も四つあります。だが、
お母さんのお腹の中ですから肺がまだ開いていません。血液が肺を通れません。それ
で大人の血液の巡り方とずい分違うのです。
肺が通れませんから、肺をとばして右心室の出口から大動脈の根元にボタロー氏管
という特別の血管ができました。すると心臓内の左側の二つの部屋も、とばされたこ
とになって血液が入りません。これでは困るので、心臓の真ん中の壁に穴ができまし
92
———————[End of Page 94]———————
た。卵円孔といいます。この大人には無い穴を通って血液は右から左にうまく流れま
す。
もう一つ。胎盤から来る血液にはたくさんの栄養と酸素が含まれていますから量が
多くなります。静脈は特別に二本になりました。(後にアランチウス管)これら三つ
の特別装置で赤ちゃんの血液は順調に巡り続けているのです。
医学でも説明できぬ神秘さ
さて、月みちて赤ちゃんが生まれ、オギャーの一声をあげました。すると今まで閉
じていた肺がパーッと花のように開きます。血液がサーッと勢いよく肺を流れます。
一人前の血液の巡りになれたのです。だが、この時、今までの三つの特別装置がなお
残り続けていると、動脈血と静脈血が混じり合って、とても生きてゆけません。
不思議なことに三つの装置はオギャーの声とともに、ひとりでに静かに閉じてくれ
ます。閉じる時間は早からず遅からず、閉じる前後の順番も正しく。もし少しでも間
違えば赤ちゃんは死んでしまいます。
このむずかしいスイッチの切り替えをだれが正確に巧みにしてくれるのでしょう
93生命の神秘を改めて認識しよう
———————[End of Page 95]———————
か。全く神秘です。医学では説明がつかぬ事実です。
天地が生み出した美しい珠
次にオギャーの一声ですが、私たちは吸う息では声が出ません。吐く息で声が出る
のです。お母さんは陣痛の苦しみにあって、また介添人たちは忙しく立ち働いている
時に、だれが赤ちゃんの気管に最初の空気を入れてやったのでしょう。人間の力では
できません。ひとりでに入ったのです。ひとりでというのは、天地の大いなるお力が
皆の知らぬうちに空気を少し少し、また少し少し、小さな鼻と口から入れてくれたの
です。そして「もういいよ。入れてやったわよ。いってごらん。いってごらん。オギ
ャーといってごらん。さあ!いえるんだから、いいなされ。さあ!いいなされ」
と励ましました。
その励ましに応じて赤ちゃんはオギャーといえたのです。このいわしていただいた
一声で肺がパーッと開き、血液がサーッと流れました。むずかしいスイッチの切り替
えがされました。そして一人前の血液の巡りが確立されました。いのちが誕生したの
です。
94
———————[End of Page 96]———————
わが子のオギャーの声を聞いた時、お母さんはだれでもみな泣きます。安心と喜び
と感謝のあふれる涙に手で顔を覆って泣きます。
私たちは天地の大いなる縁起のお力と、お母さんの尊い涙に迎えられて、この世に
生をうけたのです。自分の力などみじんもない天地の美しい珠(たま)でございます。
これが人間のいのちの原点だと思います』
一つの大きな生命から生れた
こういう文章です。先月も生命についての感謝について書きましたが、赤ちゃん誕
生のことにふれると、こう科学的に書かれなくても、精子と卵子との結合によって、
母体に▼赤ちゃんの生命が宿ってゆく、ということその事実だけで、神秘な力にた父た
父恐れ入るばかりです。生命の原点、つまり神に対して、感謝せずにはいられません。
この世には無限ともいえる生物が存在します。そしてみなそれみ\の生き方をして
います。人類は男性と女性とに分れていて、男性には精子が、女性には卵子が自然と
つくられていて、その結合によって赤ちゃんが生れ、種族の存続がなされてゆき、そ
95生命の神秘を改めて認識しよう
———————[End of Page 97]———————
の生命の働きの中から智慧能力が生れて、たゆみない進化向上をつ父けゆくわけです
が、全く何んといってい瓦か、その生命の原動力、天地といおうか、神といおうか、
その絶対者の力には、人間側からは何一つ言うどころか、只々感謝するばかりであり
ます。
ところが、こんな大事な生命に対して、その原動力の神に対して、反抗しているの
ではないか、と思える程、生命同志の調和に反する行為をしている人が意外に多く、
自分たちだけの生命を大事にして、他の生命の生死など問題にしない、個人がおり、
団体がいるのであり、その大きなものが国ということになるのです。
そしてお互いが、自分たちの生命の権益を拡大しようとしたり、守ろうとしたりし
て、ますます、生命の働きの調和を乱してしまっているのです。たゆみない核兵力の
増大など、その最もよい例なのです。
何んにもなかったところから、先祖をさずかり、父母をさずかって、人間の一人と
して生れ出た者たちが、人間の先祖が原点においては、一つの大きな生命の力から生
れている、みんな兄弟姉妹なのだ、とどうして思えないのか不思議にさえ思えます
96
———————[End of Page 98]———————
が、これはみな、肉体人間とか、国家とかいう限定された物質的場にのみ生命の存在
を置いているので、自分と他人、自国と他国というように、お互いの存在をすっかり
離してしまって、その生命においては、一つの原点からきているのだ、私もあなた
も、実は一つのものなのだ、という実観を無くしてしまっているのです。
お預りしているいのち
赤ちゃんの生れて育ってゆく不思議さ、万有生物の存在の不思議さ、見るもの聞く
もの触れるものすべて不思議でないものはないこの世界で、自分の権利だ、自分の生
だま
命だ、とお互いが自分を限定して争い合い、騙しあっていて、そういう自分を愚かだ
あらちどん
と思わない人間の多いことは、肉体波動、物質波動の粗い、遅鈍な波に巻きこまれて
いて、生命本来の微妙な働きができなくなっているからなのであります。
せいせいはついく
赤ちゃんとして生れてきた一人の人間の、その生成発育は一体誰がみているのでし
ょう。勿論その赤ちゃん自身であるわけはありません。といって、お父さんでもお母
さんでもありません。その父母は赤ちゃんの生命がいつの間にか一人の人間としての
97生命の神秘を改めて認識しよう
———————[End of Page 99]———————
種々様々な機能を備えてゆく、その或る一部の手助けとしてあるだけで、赤ちゃんの
生命をつくったり、その各種の機能をつくったりできるものではありません。
赤ちゃんは或る大きな力、つまり大生命がその分生命として母体に宿らせ、その父
母の子として、この世での生活をさせるように計画しているわけで、すべての権能は
その計画者である大生命(神)にあることはいうまでもないことなのです。ところが
そういう本質を忘れてしまって、自分の体も自分の生活もすべて自分自身のものだと
誤り思ってしまったのが、今日の人類の大半のものなのです。
98
生命の親へ感謝
自分がこの世で生活している、最も根本的な生命そのものが、自分のものではな
く、神からの預りものなのですから、自分の体とか、自分の権利とかいうことはない
わけで、すべては神のみ心のま鼠、神の権能そのものであるわけなのです。
そういう一番重大なことがわかっていないところから、人類の悲劇ははじまってい
るのでありまして、そのま瓦の考え方でゆけば、やがては地球を滅亡させてしまうに
———————[End of Page 100]———————
きまっているのです。
自分でつくったものでもなく、何んの費用も出したわけでもないのに、自分の生命
だ、と思いこんでいるその単純さは何んという愚かしいことなのでしょう。おあずか
どこ
りした生命をぬきにして、一体自分というものは何処に存在するのでしょう。すべて
は生命というものを中心にして考えられることなのです。その生命が、自分というも
けんり
のより先に存在していたのですから、自分は生命の子であって、生命そのものの権利
しやけんきよ
者ではないのです。ですから人間は謙虚にその生命の親に感謝しながら、その生命を
もとい
基にして、智慧能力を発揮して、善い人類社会をつくってゆくべきなのであります。
宗教的に神様というものを、絶対者として大生命として認識してしまっていれば、
自ずから自己の生命も神様から与えられたものとして、他人に対しても謙虚に愛深く
付き合ってゆけるのですが、現代人は、何かと言うと科学的にという言葉をつかっ
て、絶対者である神の存在を否定しようとします。そのくせ科学の専門的なことはま
るで知らない、という人が多いのです。そしてかえって専門の科学者のほうが神の存
在を信じていたりするのであります。しかし科学者の立場とすると、神というもの
99生命の神秘を改めて認識しよう
———————[End of Page 101]———————
を、すべての現れの原点としてしまうと、その研究ができにくいとみえて、
信仰者でも、科学と神とを結びつけて説明しようとはしていません。
かなりのm
生命の研究
すべてが神様のつくられたものとすると、その研究がやりにくいのでしょうか、こ
二のところが私共にはよく判りませんが、私共が宇宙人に教わっております、宇宙子
科学の学問では、素直に神のみ心を、宇宙心として頂点において、そこからすべてが
はじまっていることを認識しているのであります。
宇宙心から、宇宙核、中心核、宇宙子核と順次働きを広げてゆき、宇宙子核から、
宇宙子という微妙な働きが生れ出て、この宇宙子の様々な働きによって、精神も物質
も出来上ってゆくのであります。地球科学では、電子顕微鏡にでも触れなければ、そ
の存在を認めることはできませんが、私共のように宗教的に科学の学問をしている者
は、神のみ言葉として、私共の場合は宇宙人(天使)の指導によるのですが、こうだ
と言われればその教えに従って勉強してゆくのでありますが、面白いことに、その勉
———————[End of Page 102]———————
強研究の結果が、地球科学の何処かの部面と一致してゆくのですから、その教えは正
しいものであるということになります。地球科学は下から、現象世界に現われている
表面から研究してゆくものであり、宇宙子科学は上から奥から発展してゆくものであ
りまして、或る一点において両者が一つになってゆくのであります。
地球科学では現在のところ、電子の働きというところまでの発見ですが、宇宙子科
学ではその奥の働きを幾何学的に数学的に解明してくれているのです。宇宙子という
最少単位というか、波動の一番根源の働きというか、そこのところから、いろくと
教えてくれているのであります。
きか
それも宗教的直観的なものではなく、厳然とした幾何や数式を使った科学的な説明
であります。只私共は、神霊の世界や、他の進化した星の世界には、もうそういう学
問の組立てによる世界が出来上っている、ということを信じて、その知識を教わって
いるのですから、地球科学の人たちよりは、学問的には楽なようにみえますが、宇宙
人との交流による勉強というのが、なかなかむずかしい上に、幾何や数式の解明がま
たむずかしいので、容易な勉強ではありません。
101生命の神秘を改めて認識しよう
———————[End of Page 103]———————
しかし、やがてはこの地球界に進化した星の世界の最も進んだ科学が生れでてくる
のですから、真剣に取組んでいるわけです。地球科学の現在の進み方からしますと、
電子から、その素粒子というところで突き当っているようで、物質と精神の生れ方の
相違や、宇宙と人間との深い関係などは、とても長年月かけなければ判ってこないと
思われます。
ところが、宇宙子科学の勉強の仕方は、もうすでに実現している世界から、その科
学を教えて下さっているのですから、どんなにとまどったとしても、地球科学の手さ
ぐりの研究とは違った早さで研究は進んでゆきます。生命の神秘についても、やがて
ははっきり科学的に説明されてくるでしょう。地球科学のように、原始海中でタンパ
ク質が動いた、というぐらいで、生命の誕生が判ってきたなどという幼いことはいい
ません。
102
生命のもとの神の力を借りよう
原子力の発見そしてその利用、コンピュータ!の発展、テレビや、人工衛星やその
———————[End of Page 104]———————
他様々な発明発見は、地球人類の頭脳もたいしたものだと思いますが、その発明発見
が、常に戦争へつながっていったりする、その心の状態の危険そのものなのが、秀れ
た宇宙人の生き方と大変な相違なのであります。
秀れた宇宙人たちの心は調和そのものを根本にして働いていますので、その科学の
こうけんそこ
発明発見も大宇宙の調和に貢献するものばかりで、お互いを損ねるような状態をつく
り出すことはありません。地球人類が地球を滅亡させたくない、と思ったら、先ず戦
争になる状態を世界から無くさなければなりませんし、物質の不足や公害などの人類
の生命をおびやかす事態を生まないようにしなければなりません。その為には、徹底
した調和の心を地球人類全体がもたなければなりません。全体というより、指導者た
ちだけでもよいから、先ずそうならなければなりません。
それには、やはり素直に神の絶対力に頭を下げて、神の力を借りるためにも、神と
の一体化の心にならなければなりません。その方法を私は率直に祈りといっているの
であります。たゆみない神への感謝、そこからはじめて地球人類への幸福の道が開け
てくるのであり、不調和な働きのない科学の門が開いてくるのであります。私共の宇
103生命の神秘を改めて認識しよう
———————[End of Page 105]———————
宙子科学は、そういう意味で、宇宙人の望んでいる心の状態からはじめられているの
です。しかし何分にも、地球科学の学問さえ満足でない宗教者が教わってやるのです
から、とても容易なものではありません。しかし十五六年の歳月を経て、どうやら、
科学というものが判りかかってきました。宇宙子科学と地球科学との接点もかなりは
っきりしてきている今日なのであります。
地球科学者の神への交流を望んで止みません。
104
———————[End of Page 106]———————
真の勇気と忍耐
私の青春時代
青春時代というのは、誰にとっても、意義の深い時代だし、壊かしい時代でもあり
ます。私のように六十才を過ぎた者にでも、青春時代のことは、ついこの間のことの
ように想い出されます。
私たちの青春時代は、太平洋戦争に突入する前後の時代ですので、今日のようにレ
ジャー、レジャーと騒いでいる時代ではありませんで、一日一日が国の運命と取組ん
でいて、個人の遊びごとをしている心の余裕がありませんでした。
大体青年というものは、それは今日でも本質的には変りはないと思いますが、正か
105真の勇気と忍耐
———————[End of Page 107]———————
悪か、右か左かと単純率直にきめてしまう傾向がありまして、家族をもった成人のよ
うに、利害打算で動くことを恥じらいます。ただ今日の人は私たちの頃の青年のよう
に、国家との結びつきが弱いので、自分たちだけの損得で動いてしまうような習慣が
ついているようです。
戦前戦中の青年は、常に国の指令というものを中心に動かされておりましたので、
自分たちだけの生き方というものができませんし、それがやはり習慣になっていまし
さしず
て、上からの指図を待っているという形になっていました。
ちようへい
一番問題なのは徴兵で、これは逃げも隠れも、否も応もありません。命令がくれば
どんな青年でも、健康が兵隊に適さないという人の他は、みな兵隊になっていったも
のです。私は兵隊に適さない病身とみられていましたので、徴兵のほうにはかかわり
はありませんでしたが、次の徴用といって、働き場所を国家できめて、やはり命令的
に動かされてしまう立場に立っていました。そこで自分のほうから先手を打って日立
製作所に入ってしまったのであります。
私は少年の頃から、何か人の為の働きをしてゆきたい、と思いこんでいましたの
106
———————[End of Page 108]———————
で、国家の為に働くことは心から喜んでいました。だが軍隊だけは、戦争ということ
は別にしても、私の体力がついてゆけないと思っていたので、好もしくは思っていま
せんでした。神様のみ心も私が軍隊にふさわしくないと思われたのでしょう。兵隊に
は全く適しない体格に、私をつくられ、終戦後の平和運動に全身全霊をあげられるよ
うに仕向けておられたのであります。体格はきわめて悪いのに、体は丈夫で、日立に
いる間でも工場一の労働率で、後に労働学園に就職の際に、理事長の調査が日立にあ
った時、五井さんなら体の丈夫なことも勤務状態も太鼓判です、と守衛長さんたちも
口を揃えて言ってくれたそうで、神様のほうでは私を戦後から本格的に世界平和の為
に使おうと、いろくの錬磨をし、そういう状態になるよう組立てしていたのです。
努力と因縁因果の合作で運命を開く
人間はその時々の努力で、その人の運命が変えられるか、というとそうではありま
せんで、その努力の底に過去世からの想念行為、つまり因縁因果というものが働いて
いないと、努力だけで、その人の運命が開けるものではありません。
107真の勇気と忍耐
———————[End of Page 109]———————
過去世からの因縁因果をうまく生かして、その上に努力し、錬磨してゆく、という
ことによって、今まで悪かった運命も急速に開いてゆくということになるのです。生
死のことなど、どんな錬磨、努力も及ばないことが多くあるのであります。
私が日立に入ったのも、中央労働学園に入ったのも、みな過去世からの因縁因果を
生かした上に、努力、錬磨をしていったからなのであります。過去世の因縁因果をど
んな風にして生かしていったかと申しますと、少年の頃から、私の生命を、社会や人
類の為になる働きに使って下さい、と常に願っていた、ということが、丁度神様のみ
心と一つになる道に叶っていたので、過去世の因縁因果を超えた、神のみ心のまま
に、私の人生が使われていったのであります。
108
個人的利害打算の上にあったもの
今から考えれば、こんな小さな経済力のとぼしい国が、大国の米国やヨーロッパを
相手にして戦争をはじめた、ということは、愚かしいとも何んとも言いようがありま
せんが、その時はそれで、国家指導者としては、戦争するより他に道がなかったよう
———————[End of Page 110]———————
にみえたのかも知れません。
国民としては、現代の人たちのように、自分たちの考えを率直に言えるような時代
でもありませんし、それに何事も国家や上からの指図で動いていた習慣がついていた
ので、国家指導者のきめた通りに大半の人が文句なしについていったわけです。
実際問題としても、その頃の日本は、経済的に欧米諸国の圧迫を受けて、どうにも
苦しくて動きの取れぬような状態になっていたので、戦争して活路を開くより道がな
い、と思った人が随分いたのであります。一か八かの捨身の気持なのでしょう。
私たち青年には深いことは判りませんが、国が国運をかけてこうやるんだ、といっ
てはじまった戦争なのですから、何もかも国に捧げてやってゆこう、と殆んどの青年
は思ったのです。個人的に何やかやと思うより先に、国家の為に働かなくては、とい
う気持が、打算も計算もなく、想念の中にも行動の中にも現われていたのでありま
す。
その頃の青年は、国家の為に尽す、ということが個人的利害打算の上にあったよう
で、国家の運命にそっぽを向いて、個人の利害を追っていたという人は数少なかった
109真の勇気と忍耐
———————[End of Page 111]———————
のです。国家の為に尽すということで、血湧き肉躍るというところだったのです。
中でも兵隊として国家に尽す人たちは、それこそ、一身を投げ打っての働きをする
わけで、不平不満が多かったら、忽ち体をこわしてしまいます。勿論不平不満が少し
もないなどということはありませんが、そういう気持より、国家に尽す、という気持
のほうが強く働いて、兵隊生活をつづけてゆけたのでありましょう。その兵隊生活
は、古参兵にいじめられて随分みじめなひどいものだったのですが、国家の為という
ことと、自分を抑えて上の者に従う、というその頃の習慣で耐え忍んでいったので
す。現在の人たちが急にあの生活をしたら、とても無事に勤めてゆくことは出来なか
ったと思います。今の青年には、昔のように耐え忍ぶという生活習慣がついていない
ので、昔の兵隊生活などは死ぬ苦しみになることでしょう。
110
耐え忍ぶこと
耐え忍ぶという習慣がついていないと、自我の出せない立場になると、その立場に
耐えきれなくて、すぐに病気になったり、その立場から逃げ出したりしてしまいま
———————[End of Page 112]———————
す。その点自己主張を表に出して、耐え忍ぶということを教えていない現在の学校教
育や社会の在り方は人間を立派にしてゆく為にはマイナスになっているようです。と
いって昔のような兵隊教育がよいというわけではありませんが、現在でも何か、社会
とか国家とかいう中心から、自分勝手には逃げられない、秩序ある訓練を、青年の間
の何年かを体得させておいたほうがよいと思います。
それには何か、そのことが正義の為であるとか、社会人類に役立つ為にやるのだ、
とかいう名分がないと、現在の青年は飛びこみにくいと思います。戦中のように罰則
があってやらせるなら、よいも悪いもありませんが、現在のように自由の立場に立っ
たままでそういうことを行わせるのは、余程指導者のほうで頭をつかってやり方を考
えなければなりませんが、それができれば現在の青年は今よりはるかしっかりした逞
ましい青年になってゆくと思います。
青年は自分の利害得失で行動することを、兎角恥じらいがちで、大人の嫌がるよう
な危険性のあるほうに向かって進みがちです。心が純粋というのか、冒険を好むとい
うのか、いろいろの要素がそこには入っているのでしょう。
111真の勇気と忍耐
———————[End of Page 113]———————
単純率直もいいけれど……
ふえ
深く広くものをみたり、後々のことまで考えて行動したりすることは青年には不得
て
手で、単純率直に行動してしまいがちです。主義運動などでも、尊敬に値するような
人がいると、自分でその主義を研究してゆくというより、その尊敬する人の言動を率
直に信じて、周囲を見渡すことなく、その場その場の行動をしてゆく、というような
ことが多く、国家の方針や先々のことを考えている成人たちを困らせてしまうのです。
私なども単純率直なほうだったので、よしと思うことをすぐに行動にうつしてしま
う青年特有なものをもっていましたが、心の底に幼い頃から、深く宗教観念が沁みこ
んでいました。これは勿論過去世からの生き方によるのですが、今生的には母親が常
に念仏を唱えていたその影響もあるのだと思います。
ですから、社会主義や共産主義のような、唯物論には最初から想いが合いませんの
かんぜんちようあく
で、唯神論的勧善懲悪の行為に向かって進んでいたわけです。日立にいた頃は、各工
場の少年や少女工員をかばって、首を覚悟で、上の人たちとやり合ったり、精神運動
112
———————[End of Page 114]———————
にら
で憲兵から睨まれたりしましたし、中央労働学園にいた頃もやはり精神主義一辺倒で
通していまして、組合の会議に出席しては、共産党員を中心にした賃上げ要求に真向
から一人だけで反対したりしたものです。この学園は労働問題の研究団体で、出費だ
けが多く、出版部の僅かな収入しかなく、後は理事者側が何処からかお金を工面して
やりくり
遣繰していたのであります。
目先の利益ばかリ考えると
ですから常にお金にとぼしく、その時も、とても賃上げなどできる状態ではなかっ
たのです。共産主義者側はそんなこと一向に問題にせず、お金を用意しておくのは理
事長の当然の役目で、自分たちは自分たちの状態に処して要求すべきものは遠慮なく
要求してゆく、それで理事長が要求をのまなければ、ストライキでも何んでもして、
使用者側を困らせる、という、営利会社と同じようなやり方をしていたのです。私は
そういう理不尽な考えには我慢ができなくて、今は賃上げは無理だと、真向から反対
したのでした。内心は私と同じような考えをもった人たちもいたのですが、自分たち
113真の勇気と忍耐
———————[End of Page 115]———————
の賃金が上ることで組合側が理事者側にかけ合っているので、組合員としてその反対
を正面きってやれる人はいなかったのです。結局は私一人が反対で大声で反対理由を
説明しつづけたのですが、多数決で共産主義者側の勝利になってしまったのです。こ
んなことをやっていたのでは、いつかは学園をつぶしてしまうことになると私は思っ
たのですが、何処の会社や組織をみても、同じようなことを今日までやってきている
のであります。
人間は目先の自分たちの利益に弱くて、その利益に取りつけば、後には自分たちが
困ることができるなどということを、その時は考えてもしないのでしょう。間違った
てんけい
組合運動など、その典型的なものです。自分たちの要求を通せば、会社なり事業所な
りがつぶれてしまうのに、突っばって遂いには、職を失ってしまうようなことが、か
なり多くあるのです。そこで喜ぶのは共産主義者だけで、国も事業家も国民も共に苦
しみのほうに一歩足を突っこんでいってしまうのです。
114
社会主義、共産主義の根本的誤り
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共産主義者は、現在の政府をつぶして、共産主義政権にしたいのですから、政府の
政治がマイナスになるように、その運動を行っているので、会社や事業所がつぶれる
ことは、その目的の一つなのです。そういう人たちの扇動に乗って、大事な勤先を自
分たちの手でつぶしてしまうような労働組合運動をするなら、その組合は実に愚かな
人たちの集りであると思います。
社会主義や共産主義にも勿論よいところもあります。ですから人格の立派な学識の
深い人たちで同調する人が多いのですが、根本的に一番悪いことは、国の調和を乱し
て、自分たちの力を増してゆこうとしていることです。どんなに正しそうに見える生
き方も、国や社会を不調和にしてゆく在り方では、大宇宙の運行にそむくもので、宇
宙の運行にそむくようでは、とてもその運動が正しいものとはいえません。
この大宇宙はすべて調和に向かって進んでいるので、社会主義や共産主義のよう
まい
に、はじめから敵をやっつけるというような在り方ではどんな高適な理想も計画も根
本から崩れてしまいます。それは大宇宙つまり神のみ心に反するからなのです。
青年は共産主義の理想論に同調しがちになりますが、根本が不調和な心からはじま
115真の勇気と忍耐
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っているのですから、いつかはその理想論は崩れてしまいます。常に敵をやっつける
ような気分で生きていたのでは、とても人類の平和をつくりあげることはできませ
ん。青年たちはよくそこのところを考えて、社会主義や共産主義の理論をきいたほう
がよいと思います。
いつも申すのですが、正義ということでも、その理論や行ないをしているのは、そ
の理論や行為を善しと思ってやっているのはお互い様なので、お互いが自分たちのほ
うが正しいと思いこんでやっているのですから、双方共にひっこむことはありませ
ん。その道を変えるという時は、何かの機会で、自分で自分の行く道が間違ってい
る、と思った時だけだと思います。
正義の判定をする為には、その理論や行為が、根本が宇宙の調和に合致しているも
のかどうか、ということだけしかありません。根本の調和に反していれば、いくらよ
さそうに聞える理論も、その行為も、どこかが間違っているのであります。
青年によくありがちなのは、自分たちの相手や邪魔ものを、傷つけたり、痛めたり
して、取りのぞいてゆこうとしたり、根本を忘れて、やたらと行動して、中心者のや
116
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り方を知らぬうちに妨げてしまったりすることです。前へ前へと突き進んでゆくこと
が勇気だと思っていて、相手を叩きふせても自分たちの道を進もうとする傾向が多い
のです。
忍耐力をも超えている神我一体の生き方
真の勇気ということは、非常に忍耐力のいることで、愛は忍耐なりと同じように、
極力相手との争いをさけてゆくことが大事なのです。しかしそう思ってばかりいた
ら、弱々しい力のない行動になってしまいそうですから、一歩普通人より前に進んで
ごと
しまって、神様のみ心に世界平和の祈り言をもって飛びこんでいる日常生活によっ
こ
て、忍耐力をも超えてしまうのです。
祈りつづけているということは、遂いには自分の行うことと、神のみ心とが全く一
じねんほうに
つになって、自然法爾に進んでゆくことができるようになるのです。私などは常に神
のみ心のままに生きておりますので、普通人だったら一瞬も耐えられぬような苦しみ
を長年にわたって超えてきているのです。
117真の勇気と忍耐
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神様と一つになった状態というのは、どういう状態かといいますと、肉体の頭の中
で、いちく考えていないでも、自ずと行為に現われてきまして、想うことと行うこ
ととが、それはスムーズに行われてゆく、それは武道の達人が、特別構えていない時
でも、不意にかかってくる相手の太刀先きをかわしている、というそういう状態と同
じです。植芝盛平先生のようなお人です。
もっと易しく申しますと、心臓や肺臓、いわゆる五臓六臆が頭でいちく命令しな
いのに、自然とその役目を果しているのと同じように、想いも体も自然に神の動きに
なって、生活している、というのが、いわゆる神と一つになった、神我一体の生き方
です。
そうなる為には、たゆみない神への感謝と世界平和の祈りの行ないが必要なのです。
神と一体になれる人が多くなれば、この地球人類の救われは早くなってゆきます。ど
うぞ皆さんもたゆみない世界平和の祈りを心に一杯にして、日常生活を当り前に生活
していって下さい。
118
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純朴な信仰心
真の信仰に目ざめよ
地軸が傾いてきている、ということは、皆さんの耳にも随分聞えてきていることと
思いますが、最近も、日本の東海大学松前総長達がその一つの原因は各国の原水爆実
験の為でもある、という学説を発表しています。この説には外国の人たちのほうに肯
定する人が多く、お膝元の日本のジャーナリストは、あまり耳を傾けようとはしてい
ません。
しろうと
こんなことは素人の人たちが考えても、当然原水爆実験に罪あり、といえること
で、原水爆の実験は空中で行おうと、地下で行おうと、地球破壊の方向にプラスする
119純朴な信仰心
———————[End of Page 121]———————
だけで、地球の運命を開く力となるわけがありません。
近頃の世界中の天候異変など、確かに地球に大きな変化が起りつつある証左である
ようです。地球人類がこんな不安な気持のまま、ただじっと自分たちの生活だけを守
っているようでは、時が来れば地球は大変化をして、肉体人間は全部亡び去ってしま
わねばなりません。
何んとか積極的に、地球の崩壊を防がなければ、自分たちの住むところがなくな
り、肉体人間として生きてゆくわけにはゆかなくなってしまいます。そういう時に今
はなりつつあるのです。今こそ真の宗教信仰に目醒めて、真の科学を生み出してゆか
ねばならぬのです。
各種の平和団体や、国連などでも、原水爆実験停止をしきりに訴え、核兵器の縮小
を大国に迫るのですが、大国は返事だけで、一向にそのほうに実行の手をのべようと
は致しませんで、相変らず実験をし、相変らず兵器の力を強める研究をすすめてい
て、未だ依然として、核兵器増大競争をしているのであります。
もはや真の宗教信仰が行われていかなくては、地球人類は滅亡するより仕方がない
120
———————[End of Page 122]———————
ことになってしまいます。大国がそのほうに動かないのですから、小国も積極的に動
カルマ
けず、国家群としては、あれよくという間に自国たちの業の流れのままに、地球滅
亡のほうに流されていってしまうのです。
それは、お互いの国の滅亡への恐怖心によって、かえって、その滅亡を早める道の
方向に、自分たちを走らせていってしまうのであります。
お互いが相手国の侵略を恐れて兵器を増大する。その兵器は相手国をも殺傷すると
同時に自分たちをも殺傷してしまう、核兵器という恐ろしい兵器にまで発展してきて
しまっているのです。お互いが平和を欲っするならば、先ずこの核兵力を無くすこと
を第一にしなければならないのですが、共にかけ声だけで、一向に実行にうつそうと
は致しません。お互いに相手国が先にやることを望んでいて、自国のほうから先に実
行しようとはしないのです。
一歩でも手をひけば、それだけ自国の力が衰えて、相手国に踏みこまれると思って
いるので、先に縮小することができないのです。それなら同時にやったらどうか、と
いうことになっても、その同時にやるということにも疑惑をもちまして、双方共にな
121純朴な信仰心
———————[End of Page 123]———————
かなか実行にうつせないのです。お互いが一瞬でも敵を優位に置いては、
が危いと思いこんでいるのであります。
自国の存立m
幼児のように神さまを呼ぼう
ですから地球人類は、一先ず国家を相手とせず、個人くが手を組んで平和運動を
つづけ、嫌でも応でも、お互いに武器をもっていられない、というようなところま
で、各国の心をもっていかなければならないのですが、これがなかなかできないで、
せつしやくわん
平和運動家は切歯施腕しているのです。もうここまできますと、肉体人間同士だけの
平和運動ではどうにもならぬ、という時代にはっきりなってきているということが誰
にでも考えられるのであります。宗教信仰家のすべてが、幼児が母を慕うような気持
で、「神様地球人類を救って下さい」という叫びをあげるのです。もう神様以外に地
球人類を救って下さる方はいないのだ、自分たち肉体人間だけの力ではどうにもなら
ないのだ、ということを心の底から想うようにするのです。
実際にどのように考えようと、自我欲望があり、自己保存の本能がある以上は、人
———————[End of Page 124]———————
カルマぜせい
おお
類の心を蔽っている業の波の不調和を是正する方法がないのです。調和しようとして
とくしつ
も、過去からのお互いの利害得失が次々と顔を出して、国と国、民族と民族というよ
うに対立の波は消え去らぬのです。
米国とソ連の対立のように、小さな国々を表面に立てて陰からの謀略や、お互いに
表面上はっきりと利害を言い立てての対立。こうした対立行為は、どちらかが立派に
なって先にその対立を止めなければ、地球の最後迄その対立は止らないでしょう。し
かし、どちらも相手の出方を恐れて、自分のほうから一歩もさがろうとはしないので
す。そして、やがては核戦争にまで追いやられていってしまうのです。現在のように
大量に核爆弾が出来ていては、最後迄これを使わずに戦争するということができない
ので、米ソが一戦を交じえれば、必ず世界は核爆弾の洗礼を受けずにはいられないこ
とになります。
ベトナムが米国との戦争を終って平和になったかといいますと、なかなかそうはい
きませんで、中共やソ連に陰で糸をひかれている、カンボジヤやその他の国との戦争
状態がつづいているのです。要は先ず米ソ中の大国が真の仲良しになることが第一
123純朴な信仰心
———————[End of Page 125]———————
で、これができなければ、小国も平和になることはできないのです。ところが、米ソ
中が仲良しになるということは、今のところどう考えても実現しそうもありません
で、地球世界の不調和はますます大きくなってゆくばかりなのです。
124
世界中の人が手をとり合うこと
どうぞ世界人類の皆さん、よくよく考えてみて下さい。地球世界の運命は、どこの
国に任かせることもできない、今日の現状なのです。
ですから今は、国家と国家というより、地球人類の一人一人としての自分たちを考
え、個人くの平和の願いを結集して、何等かの方法を生み出し、世界中の個人く
が手を取りあって、真の平和世界建設に立ち上がる、ということをしなければ、地球
の滅亡を防ぐわけにはゆきません。
そこで世界中の個人が一つに結ばれるのは、地球世界の平和ということなので、そ
の願いを先ず一つの言葉にして、神仏否定論者はまあ別として、少しでも神様の存在
ごと
を信ずる人たちは、その言葉を祈り言にまで高めあげて、神様に一心こめて願うよう
———————[End of Page 126]———————
に訴えてみることにするのです。それを簡単に言いますと「世界人類が平和でありま
すように」という言葉になり、神様ありがとうございます、という神への感謝の言葉
にもなってくるのであります。
先程からも申しておりますように、今日ではもう肉体人間の智慧能力だけでは、地
球人類の滅亡を防ぐ方法がないことは、かなりはっきりしてきているのですから、心
素直に神の人類救済のみ心に全託する気持で、世界平和の祈りをすればよいのです。
地球人類の運命の好転はそれからはじまるのです。それ迄は、滅びの方向に流されて
カルマ
ゆくだけなのです。何故かと申せば、業の波が、本心を蔽いかくしていて、肉体人間
の力だけでは、人類の本心を大きく働かせることができなくなっているからなので
す。
単純素朴な信仰心こそ
地球人類の救れは、単純素朴に、純粋に、神の力を働かせて頂くことを願う祈り心
以外には現在はないからです。真の宗教信仰とは理論でも知識でもなく、純粋に素朴
125純朴な信仰心
———————[End of Page 127]———————
に、神様の救いを念願する心のひびきなのです。複雑な宗教知識も最後には、単純素
朴な世界平和の祈りに投入して、世界中が手を握り合うというところまでこなくて
は、地球人類の救れはないのです。今にして思うのですが、当代随一ともいわれた宗
とうほうねんしんらん
教知識をさらりと捨てて、念仏一辺倒で大衆の先頭に立った法然、親鸞の偉さには、
頭を下げずにはおられません。
どんな道でも、学問知識でその道を乗り越えようとするのは、知性派の人たちの悪
い癖で、それ迄の学問知識は一度捨てきって、霊肉一体の実行の生活にならなけれ
ば、どのような道にも到達できないのです。まして宗教の道は神という無限絶対の叡
せんばく
智のみ心と一つになりきる道なので、肉体的な浅薄な知識などはかえって妨げになる
のです。全く法然、親鸞を見ならうべきなのです。
うちむらかんぞう
近代の宗教者として有名な内村鑑三氏なども、信仰の単純化をしきりに人にすすめ
ていましたし、自己も単純素朴に神を求めることを実行していたようです。
望星七、八月合併号(東海教育研究所刊)に載っていた原島正氏の内村鑑三につい
ての文章を掲載してみます。
126
———————[End of Page 128]———————
、「信仰は単純なるを要す、単純ならざれば明瞭ならず、又単純ならざれば熱心なる
おもいあまた
事能はず、幾多の問題に思惟を奪はれ、多数の教義に注意を分たれて信仰は熱心なら
すく
んと欲するも能はないのである、自己を完うする上から見ても、又他人を済ふ点から
もと
考へても、信仰の単純は最も探求むべき事である」
内村鑑三(「信仰の単純」『聖書之研究』一六三号)
内村の信仰は単純なることを、その特色としている。内村の著作は、教文館版によ
れば、信仰著作全集25巻、聖書注解全集17巻、日記書簡全集8巻、英文著作全集7巻
に収められているほどのもので、まことに壮観である。その作品の大部分は、初期の
作品を除いて、内村が始終、主筆としてその発行に力を尽くした『聖書之研究』(第一
号明治33年9月30日ー第三五七号昭和5年4月25日)に掲載されたものである。
内村は、自分の信仰はいたって簡単で、これは十語以下をもって言い表すことがで
きる、と言う。
「基督教の信仰も亦之を単純に言ひ現はすの必要がある。然らざれば基督教は救霊
127純朴な信仰心
———————[End of Page 129]———————
の大勢力たることが出来ない」
いだ
「人を早老せしむる者は複雑なる信仰である、我等は単純なる信仰を懐いて永久に
小児である事が出来る」
その単純なる信仰とは「神の恩恵に対する人の信仰、恩恵と信仰」そのことにつき
る、と言う。
12$
この文章をみていますと、内村鑑三氏の信仰態度がよく判ります。無学の田舎のお
婆さんや、職人さんなどに、意外と不退転の深い信仰をもって、学者先生たちの千万
言の言葉も問題にならない日常生活をしている人がいることを、時折りみかけること
があります。宗教信仰は宗教学問ではなく、その人その人の日常生活における行為
が、神のみ心に近いことをよしとするのです。神のみ心とは愛と調和であり、何事を
も赦し得る深い心であります。如何に複雑な宗教知識を述べたてたとしても、その人
の行為が愛や調和に欠けるものであったら、その宗教知識は何んにも役立たぬことに
なります。
———————[End of Page 130]———————
神との一体化
言葉も行為も愛そのものであり、調和そのものである、ということが宗教の極意な
のであり、神との一体化をそこに示していることになるのです。愛、調和、真、善、
美、というように神のみ心は働かれていますので、神を慕い敬う人たちは、少しでも
こうした行為の日常生活をするよう心がけるべきで、それにはむずかしい理論は何も
いらないのであります。
たん
神との一体化こそ、肉体人間の真実の生き方なのであります。その道を端的に示し
なむあみだぶつ
たのが法然親鸞の南無阿弥陀仏であります。私はこの道を現在の地球世界の状態に合
わせて、世界人類が平和でありますように、と祈り言にして、神への感謝と共に日々
瞬々行じることを人々に示したのであります。
こんこう
人類は善と悪との混交した者で、常に善悪が個人の心のうちでも戦っているし、社
会や国家や世界のすべての中でこの二つの心や陣営が戦っている、というのが大半の
人の心でありますが、実は、世界の心も物質もすべて神のみ心の現われでありまし
129純朴な信仰心
———————[End of Page 131]———————
て、真実は悪などというものはないのです。人間の眼に悪のように見え、悪事のよう
に社会に行われていることは、神のみ心の大調和なひびきが、形の世界に現われる為
に、神のみ心のまだ現われていない、闇の世界を切り開いてゆく過程におこっている
状態でありまして、或る時間経過を経ますと、その不調和な姿は消え去ってゆき、神
の大調和なひびきが現われてくるものなのであります。
ところが人間は、肉体としての自分の立場でしかものをみておりませんので、肉体
世界、物質世界での出来事に想いを把われていて、そこに現われている不調和な、悪
や不幸、災難のような姿を、そのまま自己や人類世界の真の姿と思いこんでしまって
いるのです。それでは、神と悪とが対立してしまい、人類社会をつくっているのは、
神と悪魔だということになってしまいます。
130
すべては神の大生命のひびきの現れ
しかし絶対にそのようなことはないので、すべての心の現われも、神の大生命のひ
びきによってのみ生れ出ているので、人類が、神のみ心がはっきり全体的に自分たち
———————[End of Page 132]———————
の世界に現われるまでの過程として、不完全、不調和な姿がそこに瞬間的に現われて
いるだけで、その不完全や不調和は、実在する悪ではなく、神の大調和の現われるま
での不完全さの現われとして悪のようにみえるだけなのです。
そういう真理はいくら宗教学を学んでも心で判るものではありませんので、単純素
朴に神様ありがとうございます、神様と私とは一つでございます、とか、私は常に神
とも
様と倶にいるのだ、とかいう想いを、端的に何等かの祈り言にして生活してゆくこと
がよいのです。それが西方極楽浄土の阿弥陀仏への信仰であり、世界人類の完全平和
を祈願する、世界平和の祈りの生活でもあるのです。
りんごりんご
ここに一つの林檎があるとします。学者先生方は、この林檎を科学的に分析して、
皮はどうなっていて、実はどうなっている、全体の形はこうである、などと説明しま
すが、実際に林檎を喰べたことがないので、その形や成分だけしか判らず、味そのも
のを知りません。ところが形だの皮だの実だの成分だのと言っていなくとも、実際に
喰べた人は、そのまま林檎の味を知っています。
どちらが一体林檎を実際に知っていることになるでしょう。どちらの人に林檎のこ
131純朴な信仰心
———————[End of Page 133]———————
とをきいたほうが、実感として判ることでしょうか?これは言うまでもなく、実際
に味わった人のほうが真実を判っているのだし、人に話すにも実感が籠っているわけ
です。
宗教信仰も全くこれと同じでありまして、宗教理論を複雑に研究している人より、
神様がいらっしゃる、ああそうですか、と単純素朴に神様のみ心に飛びこんでゆける
人のほうが、深い信仰に到達できるのであります。一度は複雑な信仰理論に入り、ま
たそれを超越して、素朴単純に神のみ心に飛びこんでゆければ、なおよいのでしょう
が、普通一般の人には、なかなかそういう時間はありません。
ふつうよ
普通一般の人は、先人の善し、として通ってきた道を、自分も善し、と信じて、飛
びこんでゆけばよいので、純朴な信仰心が必要なわけです。純朴な信仰心があれば、
もしも先人の道が誤っていたとしても、その誤った道の中から、いつの間にか正しい
道に乗り変えて、ずっと変りなく信仰をつづけてゆくことができるのです。何故かと
申しますと、神のみ心は善そのものであって、そこに悪はないので、善のみを自分の
ものとして、神のみ心に飛びこんでいる人が悪の道に入ってしまうことは絶対にない
132
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のです。
宗教信仰というものはそういうものなのです。「消えてゆく姿で世界平和の祈り」
の信仰など、そのまま信じて行っていて下されば、その人もその周囲も必ず善くなっ
てゆくに決まっているのであります。
133糸屯ホトな信イ〕叩’〔〉
———————[End of Page 135]———————
134
感謝の心・愛の心
まず感謝の心を
人を指導するということも、政治を行うということも、実にむずかしいことで、な
かなか自分の想うようにはゆかないものであります。福田首相のように、総理以前に
は、自分の周囲のものばかりではなく、多くの代議士諸公にも、よき指導者と思われ
ていたようなのですが、いざ首相になってみると、首相以前の福田さんの言動とは全
に
く違った、煮えきらない歯切れの悪い政治姿勢になってしまって、意外と思っている
人が多いわけです。
実際に人のやっているのを見ている時は、いくらでもけなせますが、自分がその席
———————[End of Page 136]———————
についてみると、前の人と同じように、なかなか思うように事が運ばず、世論の攻撃
を喰ったりするものです。福田さんのように、福田さんにまかせたら、忽ち経済は立
ち直るか、と思ったら、経済の立ち直りはおろか、なかなか国際政治も進展致しませ
ん。外国からのいろくの言いがかりの受け答えをするのにせい一杯のところです。
これはあに福田さんのみならず、誰でもそんな立場になることがあるものです。人
の指導どころではない、自分が人に感謝することすら、ろくに出来ない人が、この世
の中にどのくらいいるかわからないのです。人間は先ず、こういう簡単な行いを一人
一人の人間ができるようにならなければ、世の中をよくすることはできないのです。
感謝の心は、愛の心とならべて人間生活を立派な平和なものにする根本の心なので
す。愛も感謝もない心で、政府は駄目だ、この政策は駄目だ、などと叫んでいても、
から
そんな叫びは、たゴの空っ風のようなもので、この世の中のなんの得にもなりは致し
ません。
私はそこで、何度も書いて耳だこのようですが、感謝の心と愛の心についてまた今
回も書いてみようと思うのです。
135感謝の心・愛の心
———————[End of Page 137]———————
生命への感謝
136
感謝しなければならぬ一番根本は、自分自身の生命についてでありましょう。生命
がなければ自分がないのですから、生命程大事なものはないわけで、ここに無事に存
在するということに対しては、感謝せずにはおられないわけです。
人間で生命に感謝せずにはおられぬ者はない筈です。ところがそうではなく、生命な
んてものがあるから、俺はこんな嫌な世の中に生きたくもないのに生きてるんだ、何が
生命に感謝せよだ、とかえって反ばつしてくるものがいます。それでいてそんな人たち
は、他人のものを盗みとったり、人をだましたりして自分の生命を生かそうとします。
人の生命は平気で殺せるけれど、自分が殺される立場になると逃げまわっている刑
事物のテレビなどをみていますと、悪い人程、自分の生命が大事で他人の生命など眼
中にないという感じです。人生をはかなんで自殺する人なども、実は自分の生命が思
うように生かせないので、それが重荷になって肉体身を殺してしまうのです。しかし
その人にとってやはり生命は大事なものなのです。
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この大事な生命を誰も彼も感謝して生かしてゆく、ということを徹底して人類が知
ることを一大運動としてゆく必要があるのです。生命への感謝、それは自分という個
人の肉体生命だけでなく、人類全体を生かしていて、しかも個人くに自己として生
きている生命、というものに全感謝を捧げるという運動になってこなければならない
のです。
ところが、これが又むずかしいことで、自分の肉体生命というものだけが大事だ、と
思っている人が非常に多くて、自分や自分の家族のことを想うだけでせい一杯です。
それも平素は感謝とまではゆかず、生活に追われて生きているわけで、人類全体の生命
に対しての感謝というところなどへはとても、なかなか想いがゆかないのであります。
お互いが自分たちの日常生活のためにだけ、全力をつくしているのですから、お互
いの利害関係がぶつかり合えば、お互いが不快な感情になり、争いになったりするの
で、国際間においてはこれが間違うと戦争にまで発展してしまうのです。根本はなん
といっても、お互いの生命礼賛の心が欠如しているところからきているのです。愛と
感謝の不足が人類を常に危機に追いこんでいるといえるのです。
137感謝の心・愛の心
———————[End of Page 139]———————
ですからこの世に戦争を起こしたくない、平和な世界をつくりたい、と願うなら、先
ず自分たち自身が、生命に対して常に感謝を持ち、少しでもよいから、他人を愛する
ようにして生きてゆかなければ、国と国とが仲良くしてゆくことはとてもできません。
イスラエルとアラブのように長い歴史的な憎悪がお互いの潜在意識に深く蓄積され
ていますと、イスラエル人同士、アラブ人同士の愛の交換ではとても間に合いません
で、他国他民族の大きな愛の心の応援がなければ、彼等の潜在意識から、憎悪の感情
を消し去ることはできないのです。
それにくらべますと、日本のように、歴史的に何処の国に対しても、そう憎しみも
怨みもない国は、お互いが愛し合うところから、世界の平和に貢献できるので、お互い
がお互いの為につくし合いながら、世界平和の祈りのような、人類愛の祈りを祈りつ
づけてゆけば、それが次第に世界中に光明をふりまくことになってくるのであります。
そこで私ども日本国民が、イスラエルやアラブのことをどうしよう、中近東の問題
にどう手を打とうなどと考えても、とても力が及びませんから、それは政府の外交政
策に任せておいて、国民としては、日本そのものを先ず平和にしてゆく、世界平和の
138
———————[End of Page 140]———————
祈りを実行してゆき、日本中を光明化して、
にふりまいてゆくことにするのであります。
こうか
剣に行じていて、効果をあげているのです。
その光明波動、平和のひ父きを、世界中
もう現在そのことは、多くの賛同者が真
自分を責め人を責めることを止めよう
人間というものは変な癖をもっていて、そのようにどんく前進して世界平和のひ
黛きを広めつ父けてさえいればよいものを、何やかと、自分の行為や他人の行為を責
めたり、非難したりしがちで、光明波動を曇らせてしまうのです。
それが善良な、道を求めるような人のほうが、かえって自分を責め、他人を責める
想いを強くもっているのであります。自分や他人の悪や不備な点を見出すことによっ
て、人間が一段と向上してゆくと思っているようなのですが、悪や不備な点をそこに
並べたてますと、その悪や不調和の波にいつの間にか巻きこまれていって、身動きな
らない状態になっていってしまうのです。
良い人たちが集っていながら、お互いが曇ったものを出しあって、光明を消してし
139感謝の心・愛の心
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まおうとすることが多いのです。それはあまりに普通いう良心的に生きようとしすぎ
て、悪や不調和に把われてしまうからなのであります。
そこで悪人のような人のほうがかえって善悪に把われず、堂々と明るく生きている
のに、善人たちが小さく固って、力なく生きているという格好になってしまうので
す。善人たちがもっと堂々と明るく生きてゆくようにならなければ、悪いことが平気
でできる人たちの強い波をうけて、この世の指導権をその人たちに渡してしまうこと
になるのであります。
現在はもうその形になっているのであります。善人が強く明るく、悪人のどんな行
いもその光明波動で浄めさってしまえるようにならないと、この世が良くなることは
ありません。善人と思われる人々が、お互い離れぐに小さく生きているのに、悪人
と思われるような人々が、金力や暴力で、この世の指導権をもって生きている。こん
な間違った在り方では困りものなのです。
善人に強い力をもたせるようにすることが、大事なことになります。善人に強い力
をもたせるのにはどうしたらよいか、それは先ず自分を責めることを止めることから
140
———————[End of Page 142]———————
はじめなければなりません。責めるより先に、自分がこの世に生きている存在意義を
じっくり考えてみることなのです。この世に自分たちのように、人に迷惑をかけた
り、人を困らせたりすることのできない人と、人の迷惑も、人の損失もそんなことは
一切かまわずに、自分たちだけの利益をむさぼり取ろうとしている人、また、その上
暴力で人々を従わせようとするような人々と、どちらがこの世に存在意義があるかを
考えてみることなのです。
誰が考えても、人に迷惑をかけず、人を困らせずに、自分たちの生活をしている人
たちのほうが、自分の利益のためならどんな悪いことをしても平気な人たちよりも、
存在価値のあることは当然なことと思うでしょう。
神と自分とのつながりに確信を
それなのに何故、そういう善い人のほうが、自分たちの欠点を責めつ父け、積極的
に世の中のために大きく働きかけないのか、ということが不思議になってきます。そ
れは宗教心が弱いからなのであります。神と自分たちとのつながりに確たる信念をも
141感謝の心・愛の心
———————[End of Page 143]———————
たないからなのです。神は愛であり、善であり、真であり、調和である、ということ
を信ずることは、宗教信仰の初歩であり、そして真理そのものであります。
それなら、少しでもそうした神のみ心に近づこうとしている人々が、神のみ心とは
反対の方向に動いている人より、力強く生きるのが当然なのです。善人であると自分
も想い、人にも想われているような人々は、もう一度改めて、人間はすべて神の子で
あって、愛と調和で生きてゆくべきものだ、ということを想いかえしてみるとよいの
です。そしてそのところから肉体人間としての自分の行いの欠点のほうに想いをむけ
ないで、そのまま、神への感謝の想いの中に入ってしまうことなのです。それを具体
的な行動にしてみれば、世界平和の祈りということになってくるのです。
善人といわれ、自分でもあまり悪いことをしたことがない、と思っている人々は、
今から即刻、世界平和の祈りを実行してゆくことなのです。世界平和を祈ることは、
いつも申しますように、横には人類愛の祈りであり、縦には神のみ心と一つにつなが
る神我一体の祈りとなるのでありますから、その上自分の勝手な想いで、自分を責め
たり、人を責めたりする必要は毛頭ないのであります。
142
———————[End of Page 144]———————
自己防衛本能を神さまにまかせよう
肉体人間は大体自分勝手なものでありますけれども、積極的に他人の幸せを奪っ
て、自分の幸せにしようとする、いわゆる悪人というものはそれ程多くいるものでは
なく、他人に自分の幸せを奪われまいと、自己防衛の生活をしているのでありまし
て、お互いの自己防衛がぶつかって、仲良くできなかったりするだけなのです。それ
なのにこの世は悪と不調和に充ちているようにみえ、国際間でもいつも不穏な情勢に
なっているのであります。
人間同志お互いが、自己防衛を、神様におまかせしてしまうようにすれば、そこに
何らの争いも不調和もなくなるわけなのです。ですから、一にも二にも祈りの生活と
いうことになるのであります。
他人を責めようとする想いも、自分を責めようとする想いも、そういう想いが出て
くる度びに、世界人類が平和でありますように、と世界平和の祈りの中に自分の想い
を入れてしまうことにすればよいのです。神のみ心を離れた自分というのは存在し得
143感謝の心・愛の心
———————[End of Page 145]———————
ないのは事実なので、神のみ心の通りに常に歩みつ黛けているところに、人類の進化
があるのですが、それが人間にはわからないのです。しかし、人間は神様からきてい
こうてい
るということは、唯物論者の他は誰でも肯定しているところなのですから、いつで
も、その神様のみ心の中に想いを入れながら生活してゆけば、常に神様のみ心の愛と
調和が人間の行為の中に現われてきて、特別に何しようと思わなくとも、自然と他人
や社会人類のためになるような働きをしている人間になっているのであります。
144
雑念を相手とせず世界平和の祈り一念で
しずくう
よく坐ってお祈りしている時、自分で自分の想念を押し鎮めて、空になろうとしま
くえノ
すが、これはなかなかどうして長い間僧侶として坐禅をしつゴけている人でも、空に
しろうとくう
なりきることはできないのですから、宗教の素人が一寸の時間坐ったぐらいで空にな
ることは、滅多にあることではありません。
私の道場で修業している人々に私は、空になろうとして、自力で想いを抑えつけて
も、とても想いはなくなるものではない、かえって想いに把われてしまう、だから出
———————[End of Page 146]———————
てくる想いはそのま玉にして、心の中ででも、口に出してでもよいから、世界平和の
ごと
祈り言を唱えつ黛けなさい、というのです。そう致しますと、いつの間にか想いが世
界平和の祈りに統一してしまって、頭脳を去来する想念が消えてしまっているので
す。
心というものはいつも申しますように、録音機のようなもので、一度吹きこんであ
りますと、いくら抑えようとしても次々と吹きこんであることが現われてきまして、
そのま瓦消え去ることはありません。そこで、抑えつけようとしないで、それ迄の想
念や事柄とは別に自分の欲っする、例えば世界平和の祈りのような言葉を間断なく唱
えるのです。そう致しますと、いつの間にか、今迄吹きこまれてあった想念や言葉
が、世界平和の祈りの言葉に変ってしまっているのです。録音機というものはそうい
うものでしょう。人間の心も全くそれと同じでありまして、過去のことはそのま玉自
然に任せて、新しく自己の欲っすることを実行してさえいればよいのであります。
今、明るい運命をつくるのです
145感謝の心・愛の心
———————[End of Page 147]———————
本来人間の心は神のみ心と一つのものでありまして、その本心をいろくの業想念
が取り巻いていて人間の運命となっているのですから、業想念のほうへは新しく想い
を向けず、た父ひたすら、自己の欲する事態や事柄に想いを向けてゆくことが大事な
ので、世界平和の祈りのような神霊の光明波動と一つになっているひ父きに想いを合
わせていれば、過去にどんなに業想念波動があろうとも、それとは関係なく、その人
の肉体身は、光明波動に取りまかれることになり、明るい正しい人間にと本心そのも
のの輝きが現われてくるのであります。
要するに人間の運命は、潜在意識、つまり録音機に過去からの想念行為が吹きこま
れていて、それが次々とこの世の運命や性癖として現われてくるので、今その現れを
どう抑えようとしても仕方がありません。それはそのまま守護の神霊におまかせして
置いて、自分は今自分の欲する運命を、自分の想念行為として、実行しつゴけてい
けばよいので、今現われてくる想念や運命を抑えようとしても無駄な努力なのであり
ます。今現われてくることは、すべて過去世の因縁の消えてゆく姿でありまして、こ
れからの運命は、今からの想念や行為でつくりあげてゆくより仕方がないのでありま
14.5
———————[End of Page 148]———————
す。ですから、今からの想念や行為を正しく明るく、善なるものにしておかなければ
ならないのです。そのためにも世界平和の祈りのような神我一体になる祈りをつ父け
てゆくことがよいのです。後はすべて、守護霊様、守護神様におまかせしておいて、
のびのび
伸々と明るく生活してゆくべきなのです。
病気でも不幸災難でも、今起っていることは、みな過去世からの想念行為の誤りが
現われては消えてゆく姿なのですから、そうした消えてゆく姿に想いを把われず、世
界平和の祈りをつ父けてゆき、神のみ心と同じような愛と調和の想念行為をしてゆけ
ばよいのです。しかし、なかなかそういう行為はつ父きませんので、そのマイナス
を、世界平和の祈りで、守護の神霊の光明波動で消して貰いながら生活してゆくので
あります。
人間の肉体生活の運命はすべて過去のものなのです。真実の運命は、今、今の連続
でつくりあげてゆくのであります。その運命を私どもは守護の神霊の加護によって、
最も善いものにしてゆくのであります。
147感謝の心・愛の心
———————[End of Page 149]———————
148
峻厳なる愛と優しい愛
愛の現われ方
私の最初の著書の「神と人間」に、
れいこく
1愛は時に峻厳を極める場合がある。然し冷酷とは全然異るものである。愛は全
体を生かすと共に、そのもの、その事をも、真に生かす為に、峻厳さを示すものであ
り、冷酷とは、自己や自己の周囲の利益の為に、すべてを殺すものである。愛の峻厳
であるか、冷酷性からくる厳しさであるか、自己を省み、他を参考にしてよく自己の
よそお
道標としなければならぬ。愛の峻厳を装った冷酷、愛と擬う情意(執着)此の二つの
心を超える為にこそ、人は神に祈り、神と一体にならねばならぬ。1
———————[End of Page 150]———————
と書いてありましたが、この章は、今日までの私の文章の中で、やはり根幹になる
言葉であると思われます。
私は元来柔和な性質の者だ、と自分で思っていましたので、優しい愛の方は、殊更
努めなくとも、自然に行為に現われてくるのでしたが、峻厳なる愛を行為として現わ
した場合、その後でその相手に対して、悪いことをしたような、可哀相なことをした
ヘヘへ
ような、割り切れない、心に何かしこりが残っているような気がして仕方がなかった
ものです。
厳しく叱ったり、突っ放したりすることで、相手の心を痛めたり、傷つけたりしは
しないか、と案じる想いが私の心の中にあったからなのです。
今から考えますと、神と一体になって現わされた行為ならば、それが優しい現われ
方であろうと、峻厳な現われ方であろうと、相手の心や魂を痛め傷つけるような、相
手のマイナスになるようなことは絶対に無い筈なのであります。
それが、相手を厳しく叱った後などは、何とはなく、私の心は晴々としなかったも
のです。厳しい愛は私の持味でないと思いこんでいたからなのです。
1491唆厳なる愛と優しい愛
———————[End of Page 151]———————
だるま
ですから私は、達磨や道元や禅宗の坊さんたちの立派さには感服しながらも、弟子
たちに対する、厳しく烈しい修行態度を、あまり好ましいやり方と思ってはいなかっ
たのです。
ところが、老子が私の中に入ってきてからは、私の態度が、その以前とはまるで異
なる態度になって来たのであります。峻烈極まりない行為が自ずと現わされて来たの
であります。そして、そうした峻厳なる行為をした後でも、昔のように相手の心を探
るような、弱々しい意気地の無い態度はしなくなったのです。
150
聖者が合体したということについて
私が、イエスが入って来た、釈迦が入ってきた、老子が中にいる、とかよくいいま
すが、この入ってきた、ということについて、一体どんな状態なのだろう、と不審に
想ったり、興味をもったりする人たちが沢山いると思いますので、ここでそのことに
ついて一寸お話しさせて頂こうと思います。
普通人間といいますと、どうしても、この固定した肉体を思ってしまいます。この
———————[End of Page 152]———————
五尺何寸、十何貫という肉体をもったもの、これが人間だと思っているのが、大半の
人々だろうと思います。
だがそれは、肉眼を通して見ると、そう見えるというだけであって、そうした姿が
人間というわけではないのです。近来の地球科学でも、物質というものは、肉眼で
見、手で触れて感じるような、只単に固まったものではなくて、大空にちりばめられ
て輝いている星と星とが、互いにそれぞれ一定の空間をもっているように、物質もそ
れぞれの原子と原子とが星と星とが互いに離れているように、一定の空間をもって、
しかもお互いに支えられているのである、しかしながら人間の眼や手では、固まって
いると見える物質となって感じられているのだ、といわれています。その証拠とし
て、物質は、火に焼けたり、水に融けたり、という風な変化をするのです。空間が何
んにもなく、きっちり固まっているものなら、何んでどうしようと、その形が変化す
ることはないのですが、他からの働きかけによって、どんな物質でも種々な変化を起
すのであります。人間の肉体もその例をまぬがれないのです。
そして、物質を構成している原子というものはどういうものかと申しますと、陽子
151峻厳なる愛と優しい愛
———————[End of Page 153]———————
や電子や中間子などという微粒子によってできているので、火なり水なりという他か
らの働きかけによって、それらの微粒子が、それまでの運動に変化を起こし、その原
子の構造が変化してしまうのです。そう致しますと、多くの原子によって支えられて
物質として固定したような形をもっていたものが、原子の変動によって自ずから変動
してきまして、それまでの形が崩れてゆくのであります。
これが今日の地球科学によって実証された真理なのであります。そして、物質を構
成している最小単位である陽子や電子や中間子等は、波動となって、今日地球科学の
あらゆる機械器具の眼からも見失なわれてしまうのであります。
さてその波動の根源を探る科学が、今私たちがやっている宇宙子科学なのです。と
いうようなわけで、人間というものは、この肉眼でみている肉体という固定したもの
ではないことがはっきり致してまいります。
私などは、そうした真実を、はっきり私自身が体得しているのであります。人間と
は肉体ではなく、霊妙不可思議なる光の波動なのである。宇宙神のみ心から生みださ
れている、精神的宇宙子光と、物質的宇宙子光との調和した働きによって成り立って
152
———————[End of Page 154]———————
いる、自由自在なる生命の働きなのである、ということをよく知っているのです。
ですから、自己の想念を宇宙神のみ心の中にすっかり投入してしまって、宇宙神の
み心のままにこの世に生きているのであります。
宇宙神のみ心というものは、どういうものかと申しますと、宇宙万物、生きとし生
けるもの、在りとしあらゆるものを生みなし、創りなして、しかも、そのもの、その
ものに、間断なく生命の力を与えつづけておられるのです。
特に人類には、宇宙神の根源の力である、創造力というものを、そのまま与えられ
ているのです。人類のもっている智慧能力というものは、宇宙神からそのまま通じて
くる智慧能力なのであります。ですから人類はすべて神の子でなければならないので
す。
ところが、遠い昔のいつの頃からか、地球人類は宇宙神からきている智慧能力を、
宇宙神の大調和という愛のみ心から離して、自分勝手な創造に使いはじめてしまった
のです。
これを私は業想念と呼んでいるのです。神人とか聖者とかいわれる人は、こうした
153峻厳なる愛と優しい愛
———————[End of Page 155]———————
神から離れた業想念はないのでして、宇宙神のみ心のままが、想念行為として、その
まま現わされるのです。
科学的にいえば、宇宙神のみ心の光の波動が、何んの妨げもなく、人間の想念行為
として現わされるのです。そういう光の波動そのままを行為に現わしている人を聖者
というのです。
老子さんなどは、宇宙神のみ心が、この地球を創りなした、その最初から、地球人
類の動きを観察し、監督していた、宇宙神のみ心に一番近い人なのです。老子という
名は、中国に現われて道を説かれていた頃の一つの仮の名であったのです。
宇宙神の大生命波動は、様々な光となって、様々な光となってというのを宗教的に
いえば、種々な神々と分れて、ということになります。
そうした様々な神々の光によって、宇宙万物の構成がなされていったのでありま
す。そしてその構成の仕方は、すべて光の波動によってなされたのです。その光の波
動を、宇宙子科学では、宇宙子というのです。こうした神々の働きのさま、宇宙構成
の原理、人類の在り方等々が、宇宙子科学の研究が進むことによって、はっきりと地
154
———————[End of Page 156]———————
球の人々にも判明してきて地球界の完全平和が達成されることになるのです。私たち
はその日の為に、日夜を分たず宇宙子科学の研究に努めているのであります。
そうした光の波動、生命波動といってもよいのですが、神のみ心に近い程、微妙な
波動であり、物質界に近づくにつれて粗い波動になってくるのであります。そこで、
肉体は物質でありますから、一番粗い波動ということになり、肉体感覚では、神霊波
動の微妙さを感知することはできないので、神の存在が判らないのであります。
心の波動が全く一つになること
ところが、常に神のみ心の中に入る想いの練習をしている人々には、神の存在が、
かなりはっきり判ってくるのです。何故かというと、その人の想念が、肉体波動の中
にはいないで、常に、神のみ心の微妙な波動に、その想念波動を合わせておりますか
ら、必然的に肉体身に在りながらも、神の微妙な波動をキャッチすることができるよ
うになるのです。
そこで私自身のことを申し上げますが、私の想念というものは、一切神のみ心の中
155峻厳なる愛と優しい愛
———————[End of Page 157]———————
に投入しつくしてしまってありますので、私の肉体波動というものは、神の光明波動
をそのままキャッチできる波動になってしまっているのです。そこで私は、肉体身に
在りながら、幽界にも霊界にも神界にも同時に存在して働き得る状態になっているの
であります。
そうした私の心の波動に合わせて、イエスや釈尊や老子などが、働きはじめたので
あります。私の波動と全く一致した心的波動をもっているのが、これらの聖者たちな
のです。
何故私の心の波動とこれらの聖者たちの心の波動とがぴったり一つになり得るのか
と申しますと、どの聖者たちも、すべて、地球界の完全調和のために、この地球界に
生れ、過去の世に働いた人々なのであります。そして現在では、人類の本心開発のた
めに働いている人や、地球界の大調和達成のために身心を捧げつくしている人々の背
後にあって、その霊身を働かせているのです。
この世に肉体身として生れた私も、人々の本心開発のため、世界人類平和達成のた
めに個我想念をすっかり無くしてしまっていますので、現在では、神霊波動そのもの
156
———————[End of Page 158]———————
になっていまして、過去の聖者たちの心の波動とそのまま一つになり得ることができ
るのです。
老子が私の中に入ってきたというのは、そうした心的波動が、ぴったり一つになっ
て、老子が全く私と合体し、私の肉体を通し、私自身となって、地球人類救済の働き
をしているということなのであります。釈尊もイエスも全く同じ原理で働かれている
わけです。
私の光体が、過去よりも大きく広がって光を放っているということなのです。ちな
みに近頃私の写真をうつしますと、必ずといってよい程、私の体は光で蔽われている
のが写されるのです。今に老子やイエスの姿が、はっきり写し出される日がくること
でありましょう。
聖者の働き場所
現今はもう過去の聖者たちが、すべて地球人類救済のために働き出さねば、取りか
ごう
えしのつかぬ事態になってしまう程、地球人類の業は表面に浮び出てきているのです。
157峻厳なる愛と優しい愛
———————[End of Page 159]———————
そうした聖者の働き場所が、世界平和の祈りによって代表される、救世の大光明の
中なのであります。現在はどんな願いにもまして、世界平和を念願しなければならな
い時代です。世界平和を祈ること以上の祈りが一体何処にあるでありましょう。あら
ゆる人々が、先ず世界平和の祈りに想いをむけ、それから個人個人の願いごとをして
もよいと思うのです。
私の提唱し実行している世界平和の祈りは、個人の念願をそのまま含めての世界平
和の祈りでありますので、個人と人類とが同時に平和を実現し得る祈りなのでありま
す。
カルマ
個人も人類も、過去世から積んできている業想念の波動で、一杯になっています。
その業想念波動が浄まりきらぬ限りは、どんな表面的な政治政策も社会施設も、砂上
ろうかく
の楼閣に過ぎません。善い政策、善い施設をやることは勿論有難いことなのですか
ら、その方面の方々には、より一層のご努力をお願いしながら、私たちは、根本問題
の業想念波動(自我欲望、相対想念、恨み、妬み、怒り、悲哀、等々の心を汚す想念)
の浄化に尽すことに一心を籠めねばならぬと思っているのです。
158
———————[End of Page 160]———————
それが世界平和の祈りと、その祈りによって自ずと生み出されてゆく想念行為なの
です。宇宙子科学の実践などは、その最もなる行為なのです。
宗教者の中でも、祈りの効果を信じようとしない人だの、人間の永遠の生命を疑っ
たりしている人々がありますが、人間の肉体が滅びても、その人たちは、その人たち
の想念の境界に従って、幽、霊、神と様々な体を纒って生きつづけているのでありま
す。老子などは、はじめから霊身そのままで肉体身を現わし、一定の仕事を為し終え
ると、神霊の体に還えって、地球人類の運命を観守っておられたのです。イエスや釈
尊でも生き通して、今日のくるのを待ちつづけていたのです。
峻厳なる愛
さてこの辺から本題に入ることに致しますが、イエスさんなどは、みなさんの心に
どんな風にうつっているでしょうか、イエスさんは愛の人だから、優しく柔和な人の
ように思ってしまうでしょう。ところが、私の中に入ってきたイエスさんは、厳粛な
峻厳な透徹した心の持主で、ふくよかな柔かさというものを看板にしていた人ではあ
159峻厳なる愛と優しい愛
———————[End of Page 161]———————
りませんでした。
といって、優しい柔和な面がないというのでは勿論ありません。
つか
1労れたる者我れに来れ、我れ汝等を休ません。i
といった、その休ませる方法は、透徹した心のひびきをもって為されたのであっ
て、ただ、にこにこと柔和な面持ちをして、その労れを慰めたのではなかったので
す。老子さんなどに至っては、勿論にこにこなどしてはおりません。烈しい生命力を
ぶっつけて、人々の魂を浄め去るのです。だからといって、人々がこちこちに固くな
って相対するのを喜ぶものではないのです。生命を汚さない枝葉のことまでを、兎や
角いわれることはありません。かえって枝葉のことにこちょこちょと気をつかってい
るような態度や、形式のことにこだわる想いなどを嫌がります。自由潤達な、伸々と
した心を喜ばれます。
だじやれ
のびのびとしていて本道を外ずさない生き方なら、どんな駄洒落を飛ばす態度であ
っても、よしよしと肯ずかれるのです。
峻厳なる愛には、ユーモアを含む余地がなさそうですが、私どもにみせる老子さん
160
———————[End of Page 162]———————
の格好そのものが、もうユーモアそのものですし、老子は非常にユーモアを解する人
なのです。それでいてその一喝などは、如何なる天魔も一瞬に消し去らしむる力をも
っているのです。
こういう話を書いていますと、一体五井はどうしてそんなことが判るのかしら、と
首をかしげる人があるでしょうが、そのことは、先程から申しているように、波動が
全く一つになっているから、よく通じてきて、種々と判るのです。こういう事実も、
宇宙子科学が地球界のものになることによって、自然に理解されてくるのでありま
す。
ですから人は、自己の想念波動を、自己が一番幸せになる方向にむけていればよい
し、人類が平和になるような想念波動にしていればよいわけなのです。自己が一番幸
せである状態は、常に心が平安で澄みきっていられる状態だと思います。そこで、自
己の心の平安を乱し、自己の心を曇らす、様々な想いを、大調和そのものである神様
のみ心の中にいつもいつも送りこんでいれば、神様の大調和のみ心の中で、そうした
邪魔な想念を消して下さるのです。それが祈りの生活なのです。そしてその祈りを、
161峻厳なる愛と優しい愛
———————[End of Page 163]———————
自己の平安のみでなく、世界人類の平和のためにと、拡げてゆく祈りが、世界平和の
祈りなのであります。
私のいいたいことは、一瞬一瞬の問でも、想いの波を清らかにしていて、自己の本
心の光を曇らせないということなのです。自己の心を曇らせ、他人の心を曇らせると
いうことが、強いては、世界人類の平和を乱すことにもなるのです。
かげ
人間の心に曇りや騎が多く積もれば積もる程その人の運命も善くならないし、地球
世界の光明も蔽われてくるのです。
こうした曇りや騎が、人々の心に積もらないようにというので、種々な宗教者が、
各自の持味で、様々な教えを示したり、浄めのわざをほどこしたりしているのです。
峻厳なる愛というのも、優しい愛というのも、相手の人々の業想念の波動の流れの状
態を観て、自ずと為されるのであります。或る時は峻厳に、或る時は優しくというよ
うに指導してゆくわけなのですが、相手の業想念波動を見極めて適宜に指導してゆく
ということは、余程秀れた宗教者でないとでき得ないのです。
厳しい人はいつでも厳しいまま、優しい人は、優しいままの指導ということになっ
162
———————[End of Page 164]———————
てしまうのです。私などは前にも申しましたように、
て、滅多に厳しい指導の仕方はしなかったのです。
優しい愛が殆んどでありまし
赦しの教えと峻厳なる愛
自分を赦し、人を赦し、自分を愛し、人を愛し、という教義でも、すべては今のあ
なたが悪いのではない、過去世から今日までに至る、あなたの業想念の消えてゆく姿
なのだ、だから消えてゆくに従ってあなたの本心が開発され、あなたは立派になって
ゆくのだ。
というような教え方でも、一切の人を責め裁かない、という優しい愛の心から生れ
出でた教えなのであります。あなたのやり方が悪い、あなたの心が悪い、というよう
に、悪い悪いとその人の業想念を把えながら、本心を開発させようとするのは、かえ
って相手の想いをその悪い想いや、その人の欠点にこびりつかせて、本心開発を遅ら
せてしまうことになりかねないと私は思ったのです。良心的な人は、人からいわれな
くとも、常に自己の想いをみつめつづけているのですから、その上宗教に入って、指
163峻厳なる愛と優しい愛
———————[End of Page 165]———————
導者たちに責められてはたまりません。宗教の道を求めるような人は、大体において
善い人の部類に属する人が多いわけなので、そうした人々の心を痛めずに本心を開発
させたい、というのが私の願いだったのです。
あなたの悪いと思っている癖も、あなたの病気も、あなたの不幸も、みんな消えて
ゆく姿なのだから、今の一瞬一瞬を祈り心で過していれば、やがて、そうした不幸や
悪癖はすべて消え去っていって、幸せなあなたが現われてきますよ。という言葉は、
どれだけ多くの人の心の疲れを癒し、固まった想いをほぐして、心を明るくさせたか
わかりません。
消えてゆく姿で、世界平和の祈り一念という神様の教えは、全く簡にして要を得て
いる、素晴しい教えだ、と私自身が道を説きながら、自分で感心していたものでし
た。ところが、この教えは教えで勿論よいにきまっておりますが、人によっては、或
る一箇所が厚い業想念で固まっているような場合があります。そう致しますと、優し
い言葉で柔かい態度で教えを説くだけでは、なかなかその厚い業のかべは破れません
で、他の人にまで悪影響を及ぼしてゆく場合が起ってくるのであります。
164
———————[End of Page 166]———————
他の人に悪影響を及ぼしたり、世界平和の祈りの妨げになるようだと、その人は知
こう
らずして、業を重ねているようなことになります。そうした時、峻厳なる愛が必要に
なってくるのです。
烈しい光明を、一瞬にして相手に与える方法、それは愛の叱声でなければなりませ
ん。大喝一声の光明放射、それは如何なる厚い業想念も、みちんに砕け散る烈しい光
なのです。老子はその方法を用いました。達磨も道元も禅門の傑僧たちもその方法に
よって弟子を訓え導きました。
私は近頃、やっとその方法を自分のものとすることができたのです。それは老子を
はじめ、救世の大光明の中で働かれている聖者たちの後押しによって会得したものな
のです。
現在の私は、厳しさと優しさとを、随時随所において使い分け得る宗教者となって
おります。これは実に有難いことだと思うのです。
教義の中の、自分を赦し、人を赦し、というのでも、自分を愛し、人を愛し、とい
うのでも、その人たちの、業想念、誤った想念や行為を赦せ、というのではありませ
165峻厳なる愛と優しい愛
———————[End of Page 167]———————
ん。そうした業想念や誤った行為は、すべてもうそこに現わされてしまったので、善
いも悪いもないのです。それは恰かも、食事の後の糞のようなもので、でてしまった
ものが、汚いも嫌もありません。それは只消えてゆかしめるより仕方がありません。
だからそれは消えてゆく姿なのです。消えてゆく姿といっても、その想念、その行為
を、心の底から誤っていた、と認めなければ、その業想念は再び廻り廻って自己の心
に戻って来ます。ですから、心の底から、悪かった、これではならない、と深く自ら
を反省して、世界平和の祈りの中で、救世の大光明の神々に消して頂くように願わな
ければいけないのです。それが自分を愛し、自分を赦すことなのであります。
只単に、ああ消えてゆく姿よ、というだけでは業の波動は消え去るものではありま
せん。その業波動を、神の大光明の中に放して、神々に消して頂くのです。この真理
をよく判って頂きたいと思います。
そうした消えてゆく姿の反省のない人のために、峻厳なる愛の行為が必要になって
くるのです。
私は一筋の霊笛を吹くのでも、一つの気合をかけるのでも、また柏手を打つので
166
———————[End of Page 168]———————
も、常に常に救世の大光明の流れの中でやっているのです。是が非でも創りあげねば
ならぬ、地球世界の完全平和の日のために、私たちは常に消えてゆく姿と反省し、世
界平和の祈りを根底にして、明るく勇気をもって、日々を生きつづけなければならな
いのです。
167峻厳なる愛と優しい愛
———————[End of Page 169]———————
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