白光への道

五井昌久著
白光への道
白光真宏会出版本部

序文に代えて
1
地球の未来を輝かす為に
人々が是非共識らなければならぬ事がある
それは御身たちの真実が
御身たちの本心が
肉体生活にまつはる欲望と恐怖と
そして悲哀と憎悪と云ふ
黒い翼に蔽はれてゐると云ふ事である
それよりも亦一層深く識らねばならない事は
御身たちの本心は
御身たちの真実は
宇宙を動かしてゐる大いなる智慧
無比絶対なるエネルギーの源泉に
其の基を置いてゐると云ふ事である
御身たちの本心は常に神と一つであり
2
御身たちの真実は神から発する光であり
そして御身たちは嘗つては本心そのものであつたと云ふ事である
欲望恐怖悲哀憎悪
カルマ
さうした業生の想念は
御身たちが神の光の世界から
肉体と云ふ形の世界に自己限定した時から起つたもの
現はれては消え去る大海の泡沫
夢幻が画く一夜の劇
人類が争つてゐるのではない
人間たちが迷つてゐるのではない
争つてゐる想ひが
迷つてゐる想ひが
3
4
今消え去らうとして人類の前を本心の前を通り過ぎてゆくところなのだ
御身たちはロハ黙つて
御身たちの本心が神と座を一つにしてゐる事を想つてゐるがよい
光り輝く神と本心とをみつめつ父けるがよい
心を落ちつけ想ひを静め
只々神の光明を観じてゐるがよい
さうしてゐる時が一番
カルマおもひ
様々な業生の想念が消え去り易い時なのだ
御身たちよ
カルマとど
消え去る業生を止める事はない
夢幻の苦痛を想ひかへす事はない
御身たちが止めさへしなければ
想ひかへしさへしなければ
カルマ
業生は再び御身たちの下に戻つてくる事はない
御身たちは今
本心そのものである
神の大光明と全く一つの者である
地球の未来を光一色で画き出すものである
昭和三十年十二月
著老識す
5
6
目次
序文に代えて
人間の使命と責任9
悔改めと把われとの相違21
親子夫婦の因縁について32
愛について4
祈りと念力の相違56
天命と運命について65
不動心について79
真の霊能と魔境86
南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経との相違点
人間神の子観と凡夫観について95
真の感謝行について皿
人の相談相手になるためには㎜
光明思想ということ撫
90
7
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人間と真実の生き方
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人間は本来、神の分霊であって、業生ではなく、つねに守護霊、守護神によって守
られているものである。
かこせ
この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念が、そ
の運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去るのであると
いう強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難のなかにあ
ゆるゆるまことゆる
っても、自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづ
けてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の祈りを祈
りつづけてゆけぽ、佃人も人類も真の救いを体得出来るものである。
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人間の使命と責任
人間と動物の相違
さんせんそうもくしつかいじようぶつ
山川草木悉皆成仏といい、すべては神の顕現である、とは皆さんもよく聞かれる言葉でありま
す。この世に現われているものはすべて神の姿を内にもっている、ということは確かに真実であ
りますが、只、こういわれると鉱物も、植物も、そして人間もすべて同等のもののように聞えま
す。しかし、そうです、とは、人間側からは云いかねるものです。犬だって人間だって、神様か
ら創られたものなのだから同じなのだ、ということは出来かねます。すべて神様の顕現には違い
ないのですが、その現われ方がまるで違うのです。
肉体的構造から見ますと、人間も動物もたいして変ってはいない。力やその他では、動物の方
が勝っていることがたくさんあります◎ ところが人間は万物に勝っていることになっており、事
しつか
実、人間は次々と万物を自分達の自由にし、膝下に組敷くような工合になっています。これはど
人間の使命と責任
9
うしてそうなったかといいますと、皆さんも勿論御存知のように、人間には思考し、創造する能
力が備わっているからです。人間は動物に劣れるその肉体力の欠陥を、その思考力、創造力に託
して、機械や器具やその他、種々のものを創って、万物の長となって来たのです。
動植物や他の生物の何ものにもない、こうした思考力、創造力が、人間にだけはどうしてある
のでしょう。ここに、人間が他のすべてのものと同じ神の顕現でありながら、他のものとは全く
違った姿で神を現わしているということが、うなづけてくるのです。
はっきり申しますと、人間は自己自身を、自己自身で創造し得る者、つまり神の能力を自己の
内にもったまま活躍し得る創造者なのであり、動植物その他の物は、神の被造物であって、自己
自身の力では、何ものをも創造し得ぬものであります。
肉体的には同じように見えても、内部構造においては動物等と全く異っているのが人間なので
す。
このことは「神と人間」という私の著書にも書かれてありますが、唯物論者のように神とか、
創造者とかいう者を考えずに、只人間は動物の進化した者というだけで、動物を平気で自分の犠
牲にしている者は、自己欲望の充足の為に、他の人を損い、他の民族を損うことも容易にやり得
る者となるのです。
白光への道lU
人間は地球世界の中心者である
この世界は神の姿の顕現の場所なのです。神の姿を完全に写し出そうとしてこの世界があるの
です。すべての生物は、それぞれの役目をもって、この世界に場を占めているのですが、その役
目が終ると、その姿はこの世界から消え去るのです。そして人間はこの世界の中心者として存在
しているのです。いいかえますと、神は、鉱物、植物、虫類、魚類、鳥獣というようにいろいろ
の形態、性能をもったものを創造し、最後にその統率者として、神自身の分霊(創造力・智力・
思考力等をもつ)が実相の世界、本源の世界から天降ったのです。
この地球世界の出来る以前に、他の天体にもこのようにして人聞を現わし、それらの天体(星)
の中には実相の世界の本源がそのまま、或いはそれに近い状態で現われている世界があるのです。
これらの世界を現わす絶対者(神) は、人間すべての心の内奥に無限大に大きく、無限光に光
り輝いて存在するのです。そして人間はそれを意識し得る存在なのです。それを意識し、認識し、
直覚し得たのが釈迦であり、キリストであったのです。即ち人間は神でもあり、神の子でもある
ことを悟ったのです。知ると識らざるとによらず、人間の心の奥深くに神界があるのです。そし
てその神界に人間の本体、即ち直霊(真我)があり、守護神があるのです。ともあれ、人間はこ
の地球世界の中心者なのです。山川草木、動植物等々、あらゆる神の顕現たるその機能、性能を
それぞれ生かし、完全円満なる地上世界創設の為に働くことこそ、人間すべてに荷せられたる尊
い使命であり、責務でもあるのです。
人間は大神の理念を地上世界に顕現する為に来ている者なのです。只単に自己の肉体生活の為
11 人間の使命と責任
に生きることは真の人間に遠く、動物の生活により近いことになるのです。まして、自己や、自
そむ
己の周囲の欲望充足の為にこの世界を不調和ならしめる者は、神に背き、自己の本心に反逆する
愚しき者というべきであり、その人々こそは、植物、動物及びその他の神の顕現物を私すること
の許されぬ存在者である、ということになるのです。
人間はこの地上界の主宰者なのです。そしてその他の生物、産物は、すべて人間を援けて神の
姿を地上界において完全に現わさん為の、それぞれの役目をもっているのです。それらの生物、
産物の役目を生かす生かさぬ、いいかえれば、神の理念を生かすか生かさぬかは、人間の自覚一
つによるのです。
もし人間が、人類が、神と人との関係、神の理念と人間の使命等をいつ迄も悟らずに、神から
離れた想念行為、つまり、愛の世界、真の平和世界の為の行動をしない時には、肉体人間の使命
は果されぬことになるので、宇宙神から見ても、肉体人問の必要が無くなってしまうわけになる
のです。その時こそ末法といわれ、最後の審判の時といわれている時期であるのです。それはい
つか、現在、今なのであります。
今こそ、人類滅亡か、地上天国完遂かの最後の段階に至っているのです。人間一人一人の責任
は実に重大といわなければなりません。自分一人だけが自家一軒だけが、その日を無事に過せる
というだけでは、もはやすまされぬ時期になっているのです。ですから私は、一人一人の小乗的
の御利益を説いてはいないのです。一人一人の御利益信仰などではもう間に合わぬ段階に入って
白光への道12
いるのです。一人一人がその強弱はあっても、真の信仰生活に入らなけれぽならないのです。
原水爆禁止運動は真に世界を平和にするか
原爆はいかぬ、水爆を禁止せよ、と今さかんに叫ばれています。しかし現在原爆はもうすでに
各大国には相当数量出来ているのです。たくさん持っている国は米国であり、次いでソ連という
ことであります。航空機が秀れ、原水爆の数量の多い方が先制攻撃をかければ、その国が絶対に
勝利を得るに定ったようなものです。しかし勝利を得たとしても、その国や、その国の連合国も
原水爆の攻撃を受けて、大きな傷手を受けるに違いありません。そしてその波紋は全世界(日本
も勿論です) に拡がって、やがて地球の滅亡というところ迄行くでしょう。だからといって、原
水爆禁止運動をやり、それが成功して禁止の条約が大国間で出来たとしても、それをどちらかが
破らないとは誰れも保証出来ませんし、止められもしません。先に破って攻撃を仕掛けた方が、
これも一度び有利になります。禁止の約束などは表面上一寸安心させるだけで、破ろうと思えぽい
つでも破れます。喧嘩は絶対しませんと誓ったとしても、国の利益問題や、国民感情の問題の前
には、そのような誓約などは一片の紙にも等しいものです。現在の人類の心の高さでは、他人よ
りも自己の有利を欲し、自国の利益を欲するにきまっています。富を平等に分け合い、利益を平
等に分けあおう、とはどの大国もいいもしなければ、実行もしていません。ソ連のような共産主
義を唱えている国そのものが、各国の富や権利を平等にしようなどとはいっておりませんし、実
13 人間の使命と責任
行など勿論していません。かえってその反対に、一国でも多く、その権益下に入れてしまおうと
権謀術数を用いている有様です。さて、そういうことになると、原水爆の禁止運動も真の世界平
和に役立つということにはなりません。原水爆が出来ている為に、第三次大戦の勃発が防がれて
いるのだ、という説さえあるのです。それはどういう訳かというと、あのような超破壊的な、人
類滅亡的な爆弾であればこそ、うっかり使用すれば、使用した方も必ず報復爆撃をうけて、瀕死
の重傷を受ける恐れが充分あるから、その一発をも容易なことでは使えないということになる、
ということと、米国側の原水爆の優位に圧されて、ソ連側が、日本やその他の国に武力的侵略行
為に出ないのだ、ということの二つの理由をあげているのです。だから原水爆禁止運動をやるこ
とは、ソ連側を優位に導くだけで、日本自体をかえって不利に導くというように説いています。
白光への道14
純梓的に宗教面から考える
私は一体どんな風に考えているかといいますと、あく迄純粋的に宗教面から考えています。つ
まり私の持論の人類の業生である肉体人間の因縁的想念をひとまず相手にせず、肉体人間の本心
(直霊)並びに守護霊、守護神のみを相手として世界平和、人類平和、日本の平和を祈りつづけ
ることを主願目にしているのです。
個々人でも人類全体でも同じですが、因縁的想念の肉体人間には、常に現象的な自己或いは自
国の有利を願う想念が強いにきまっています。他人の子供が死んでも・たいして心が痛まないが、
自分の子供が僅かな怪我をしても、他人の子供の死以上に心が痛むものなのです。大きくいえば
国と国との間においても同じことがいえるのです。そうした業因縁的現象の想念の人間にむかっ
て、いくらどんな話合をし、どんな外交的手腕を発揮したとしても、自国側の利益がまず大きく
胸中をしめるのですから、現象的に少しでも自国の不利になるような取りきめをしたくないので、
有利な立場に立つ為のあらゆる手段をお互いがしてしまうのです。
ですから、そうした業因縁的人類を相手とせず、肉体的言葉に出さずとも通じ合い、汽車や飛
行機で会いにゆかなくとも、心で思えば理解しあえる、人類の本心(直霊、神) の世界、守護神
の世界に、世界人類の平和を頼んだ方が幾層倍もの効果があるのです。頼むというより本心(直
霊) の世界、守護神の世界は、不調和な争いとか、自我(小我)というもののない、完全調和し
た光り輝く世界なのですから、私共が、その世界にお互いの守護霊、守護神を通してつながって
ゆけば、その世界、つまり神界の大調和の光が、私共に入ってきて、この肉体世界を光明化して
ゆくのです。光明化するということは、神の光の波が、お互いの利害関係のみで動いている誤っ
た各自の想念を打ち消してゆくことなので、次第に不調和な業因縁の波が光明化され、調和して
ゆくことになるのです。
世界平和の祈リは根源世界を動かす
人問の使命と責任
15 〃汝等ひたすら神
の国の義を求めよ、神の国は汝等のものとならん〃とイエスキリストもいっ
ています。只ひたすら神の国の正しきを求めていれぽ、私の言い方でいえぽ、世界人類の平和を
祈りつづけていれぽ、神の国、地上天国は実現する、ということになるのです。
神がすべてのすべてなのですから、人類の責任はすべて神が負っているのです。もし人類が誤
りつづけるようなことがあれば、神は大光明を発して肉体人間を消滅させてしまうでしょう。そ
れが天変地異という現われになってくるのです。そして新しく(人類とは肉体だけでなく、幽界、
霊界にもあるのですから)肉体界だけを全部やり直すことも出来る訳です。そうなれば肉体人類
世界は実に悲惨極まりない世界となり、阿鼻叫喚のうちに滅亡してゆくことになるのです。そう
はこぶね
したことは過去の世界において、数度びも繰返されているのです。そこにノアの方船というよう
な話もある訳です。
ところが宇宙神のみ心の中には、肉体人類が、現在のような業因縁的想念で、肉体世界滅亡の
瀬戸際に追いこまれることがわかっていられるので、守護神という人類救済の働きの神力を用意
されていて、今や活澄にその働きをはじめられているのです。それが私達を使って、その働きを
多くの人に識らせ、肉体人間が守護神と協力して、この世界を救う術はこのようにするのだ、と
教えさせているのです。
それは常に私が話していることなのであり、今もお話しているように、現象の肉体人類をひと
まず相手にせず、自己の肉体頭脳を駈け巡る想念をも相手とせず、ひたすら自己を神の座、守護
神の座に上げてしまう、ひたすら守護霊、守護神を想う、そして祈りの言葉はただひとすじに世
白光への道16
界人類の平和、日本の平和であります。世界人類の平和、日本の平和を祈ることは、神そのもの
の願うことでありますから、こちらの祈りと神の理念とが完全に合体します。神我一体というこ
とになってくるのです。
この神我一体の中から、すべての世界平和への行動が生れてくるのです。それは自己自身が行
動してやらなくとも、世界を動かす人々の肉体頭脳に感応して、必ずその人々を真の世界人類平
和の行動に起ち上がらせることになるのです。
人類の心は大海のようなものです。こちらから神我一体の強い光の波、大調和の波動を送れば、
必ず万波に伝わるのです。
皆さん一人一人の世界平和の祈りは、このようにして根本の世界、心の本源の世界を先ず動か
して、肉体人間の真の平和的行動に次第にうつってゆくことになるのです。
皆さん一人一人の責任はかくの如く重大なのであります。このことをよくよく認識して、一日、
一時、一分をも有益に心を働かせなければならないと思います。
自分自身を救い世界を救いに導く
心ある人で、人類世界の平和を欲しない人も思わない人もありません。しかし、その人達のう
ちには、人間の本体は神(直霊) であり、守護霊守護神が、常に自分達の誤った想念の波を消し
ていて下さる、ということを知っている人は極めて砂いのです。従って、只いたずらに不安憂慮
17 人間の使命と責任
しながら、方法も知らずに、その不安の心で世界人類の平和を、漠然と祈っているだけなのです。
祈りに不安憂慮はいらないのです。真の祈りは必ずきかれるのです。まして世界平和という大
乗的な、根本的な、神的な祈りがきかれぬ筈はないのです。何故なれぽ、この世は神の創り給う
た世界であります。神は完全であり、大調和であります。その完全、大調和の神の心の中に飛び
こんでゆく人間の心は、すべての業因縁的想念を離れた直霊(神)と一つの心であるということに
なるからです。
神が愛であることを信じなければなりません。神が円満完全であることを信じなけれぽなりま
せん。人間の本体は神(直霊)であることを信じなければなりません。この肉体の業生の悪と見
え、不幸と見える想念行為の波を常に打ち消していて下さる守護の神霊の存在を信じなければい
けません。如何にこの現れの世界が不幸のように見えようと、すべて過去の誤てる想念行為の
消えてゆく姿であることを信じなけれぽいけません。
これらの事柄を信ずることは、世界平和への第一歩であり、この心を活用させることが、世界
を救い、日本を救い、自分自身をも真の救いに導く最も大事なことであるのです。
白光への道is
自己の職務に忠実たれ
現在は種々な思想宣伝が行われています。右の話をきけばそれもそうだと思われ、左の話をき
けぽ、それもそうだと思われ、それも肯ける、ということが多いのです。深い洞察力が無い以上
はどちらの話も尤もな話にきこえ真理のように思えるのです。ですから、うかうかと人の話にのっ
て、署名運動に加わったり、デモ行進に加わったりすることは極力さけて、ひたすら心の世界の
真理活動に専念することを私は皆さんにお勧めしたいのです。
普通の人の知識では、何が何んだか、どちらがどちらなのか、一体それが善なのか、悪なのか
皆目判らないのが、現世界の動きであり、日本の動きでもあるのですから、己れの行動にはよく
よく気をつけて、早まった同意や、浮ついた行動をしないようにせぬと、折角国を思い、人類を
思って行動したつもりが、かえって、逆の結果になってしまうようなことになる恐れがあるので
す。
ですから、そのような枝葉的な活動に心を把われず、根本的な神我一体観を行じることを第一
にしてゆきたいものです。それが私達人間の責任であると思います。
肉体的行動にうつした活躍は、派手でもあり、如何にも働いているという自己満足を得るので
すが、私は、そうした肉体的行動、活躍は、自己の職分を通してやれぽよいと思っています。自
己の職場に真剣に打ち込んでいることは、天命を完うしている姿であって、浮ついた社会活動や、
愛国運動、真理(神)を知らない思想活動より数等勝った行動であるのです。
自己の職分に忠実であり得ぬ者が、真の愛国運動、人類活動が出来る筈もなく、真に国を愛さ
ぬ者が、人類平和の為の働きが出来る訳のものでもないのです。
職場における己れの不満、家庭における不満足の欝憤を晴らす為に社会運動に走ったりするよ
19 人間の使命と責任
うなことでは、その人自身救われようもないし、社会の為になる働きが出来よう訳がありません。
2U
まず己れの心を平和に
自己の心が乱れていては、社会の為も、国家の為もありません。乱れた心をもった人の活動は、
どうしても片寄った極端な行動になり易く、かえって社会を乱し、国を乱すことになってくるの
です。
世界の平和を欲するならぽ、まず己れの心を平和にしなけれぽなりません。
己れの心を平和にするためには、その乱れている想念を消さねばなりません。その為にはどう
しても、乱れたり悩んだりする想念の世界をぬけ出さなければならぬことになるのです。そうし
た想念の無い世界、それは神様の世界の他には無いのです。
どこから、どう廻っても、人間は遂には神に還えらなければ救われようのない者なのです。
神を度外視して人間を救い、人類を救うということは、絶対に出来得ないことを私は断言し得る
のです。
人間は神の分霊です。根源は神(直霊) でもあるのです。その根源から離れて、業因縁の世界
をぐるぐる廻りする愚を人類は一日も早く止めなければなりません。先ず真の自己を認識した皆
さんから、その実行をしてゆくことが人類を愛するということになるのです。どうぞ心を合わせ
て、世界人類の平和を祈念致しましょう。
白光への道
悔改めと把われとの相違
真の悔改めは神の心を自覚する
ざんげ
繊悔とか悔改めとかいう言葉は誰れでも知っているし、これ程宗教と関係深い言葉はありませ
ん。
〃峨悔しなければいけません。悔改めなけれぽ救われません
〃宗教に入った人でこの言葉をき
かない人は砂いと思います。しかし、どういうふうにしたら餓悔になるのか、悔改めになるのか
を真実に知って行じる人はそう多くはいないと思われるのです。
こんなことをいうと、クリスチャンの人等は怒って、そんなことはない、私等は何度繊悔し悔
改めたか判らない、と云われるかもしれません。
一体慨悔といい悔改めというのはどういうことなのか、というと、これもまた、そんなことは
判りきっていると叱られそうな気がします。ところがこの言葉が判っているようで、なかなかそ
21 悔改めと把われとの相違
うではないのです。
言葉通りにゆけぽ、今迄やってきた悪い行いをすべて吐き出して、改めて立直ってゆくという
ことになるのですが、実際はこれがなかなか出来ていないのです。
済みません、これから致しません、と今迄の悪いと思った行いや想いを流し去って、すっきり
と善い方向に立直ってゆける人はたくさんありそうで、そうたくさんは無いのです。
私は悪い人間です。私はとても駄目な人間です。みんな私が悪いのです。等々、人に会う度び
にこんなことをいう人を私はよくみかけるのですが、これが不思議と宗教をやったような人に多
いのです。悪い人間だ、と思ったら何故その時から善い人間になろうとしないのでしょう。駄目
な人間だと思ったら、何故駄目でない人間になろうとする努力をしないのでしょう。全く可笑し
な話です。真実に自分が悪い人間だと思えたなら、それはもうすでに、自分の本心(良心) が光
り出しているので、悪い人間という範囲から一歩抜け出しているのです。ですからそのまま善い
行いの方へ一歩一歩でもよいから前進してゆけばよいのです。
白光への道22
把われたら善も悪になる
真実に自己の悪さを知った時には、すでに善なる自己へ転換しているのですから、そのまま嫌
な自己でない道へ踏み出してゆけばよいのです。駄目な人間だ、という場合でも同じことで、駄
目な人間だ、と自己を否定することは心の内部の善い自己が思うのです。駄目な人間そのものが、
自己の駄目なことを判りようがないからです。例えていえば、闇の道に立っていては、闇以外の
何ものもないのですが、灯をもって立っていれば明るいところと、暗いところが、はっきり区別
がつくというようなもので、自己の内部の心の灯が、自己を蔽う闇(駄目な人間) を、これは暗
い、いかん駄目だ、と否定するようなものです。そうしますと、自分は悪い、自分は駄目だ、と
自己を否定しますことは悔ということになります。その自己否定即ち悔は、自己をもっと善いも
のにしたい、という心の転換を内に含んでいるわけです。そこで、その想いを転回させて、一歩
踏み出せば善なるものへの前進になり、改め、改心、自己肯定となってゆくわけです。ところが
弱い人は、自己否定はするが、その悪い自己、駄目な自己を否定しておりながら、いつまでもそ
んな想いを大事そうに把えていて、何度でも、何度でも、私は悪い人間で、私は駄目な人間で、
とやっているのです。それで、そんな心を悔改めの心とか、臓悔の心とか、思っていたりしたと
すれば、笑止に耐えない馬鹿なことだと思うのです。そうした人は、実際には、内なる神の心
(善心) が光っていないで、本心を蔽う闇、迷える想念、誤まてる想念を、否定しきっていない
のです。只、そうした自己否定のような言葉を吐いていれば、みんなが謙虚な人だとか、宗教的
な人だとか、ほめてくれるであろう、位の浅い心、迷いの心でしかないのです。しかし、一方真
実に自分は悪い、自分は駄目だと、自己の業因縁に押しつぶされそうになっている自己否定者も
あるのですが、これさえも、内部の本心、神なる心と表面に現われている業因縁の心、或いは才
能との甚だしい差異による自己否定なのです。この人々は未だ悔いるところへ迄もいっていない
23 悔改めと把われとの相違
人々で、神とか、宗教とかを知らない人々なのです。
24
みんな私の責任だという境地は
また、みんな私が悪いのです、というような人は殆んど宗教方面に入っている人のようです。
これが真実に、みんな私が悪いと思える人は実に稀であって、この人はもう悔改めの境地をすで
に抜け出て、表面の想念で知ろうが識るまいが、本心がそのまま光り輝いているので、神我一体
自他一体の境地にあると云えるのです。神我一体、自他一体の心にあるから、不幸と見える事態
が自己の周囲に起ってきた揚合、それが自分自体の直接起した場合でなくとも、自分が痛み、自
分が悪いと思うのです。それは神は完全円満であるのに、神の子であるべき自己の周囲にその完
全円満が現われてこないのは、自分が直接してもしなくとも、自己の責任であり、自己の誤ちで
あり、自己の悪である、とその人には理由づけてそう思うのではなく、純粋認識的にそう思える
のです。そうした風に思える心は、澄み清まった心であり、すでに神の完全円満な心と一つにな
っている心であると云えるのです。何故かといえば、すべての不調和の責任を負えるものは神以
外にはないからです。
白光への道
神性を隠す繊悔誇リ
ところが、この反対な心で、実は、少しも自分を悪いなどとは思っていないくせに、みんな自
分が悪いのです、と悟り済ました聖者のようなことを云って歩く人があるのです。みんな自分が
悪いのです、と云い歩くことによって、自己の心境の深さを人にみせびらかそうという魂胆なの
です。私は善人なのだ、ということを、みんな私が悪いのです、という反対表現によって人に知
らせようとするのです。こんなのは唯物論者と同じように、悔にも改めにもなっていないのです。
それなのに、如何にも自分は常に悔改めているような顔をしているのです。そんな人を戯悔誇り
の人というので、いつまでたっても神の心と一致するような人にはなれぬ、つまり偽善者という
ことになるのです。自分の善さを見せよう、誇ろうとする心が、そのまま神性を隠す心になるの
ですから、常にそうした反対表現をして、自己の神性を隠していたら、永劫に救われぬ人になっ
てしまいます。
またその心は純粋でありながら、悔改めの方法を知らない人がたくさんあるのです。
私が悪かったのです、と一たん悔いたら、それですぐ改めて正しい道に出直せぽよいものを、
いつまでも、私が悪かった、私が悪かったと、過去の自己の悪をしっかりつかんで放さない人が
あるのです。それは折角、本心の光が、悪因縁の想念を消そうとしているのに、その人の執着心、
把われの想念が、消えようとする悪因縁の想念を把えて放さない姿なのです。
消さねば救われぬ
25 悔改めと把われとの相違
悔改めとは、悪かった、しまった、と思った時に、もう悔いているのですから、その悪かった
想念行為、失敗させた想念行為を、その悔と同時に、消さなければいけないのです。その消すこ
とによって、改めの道にはじめて入り得るので、消さないで悔いてばかりいたのでは、折角光っ
てきた内なる本心の光を、再び迷いの雲で蔽ってしまうことになるのです。すべては過去の業因
縁の消えてゆく姿なのですから、悪かった、しまった、と思ったら、そのまま、ああ、これで過
去の悪業が消えてゆくのだ、もう再び、こうした誤ちは起すまい、とその誤ちを過去の悪業の現
われて消えてゆく姿と打ち消してしまって、その瞬間に、これからの自分はかかる誤ちを絶対に
起さない、と本心に堅く誓うのです。それが悔改めなのです。いつ迄も悔いてばかりいては、悪
を把えていることになるのですから、その人の神性が表面に表われることが出来ないのです。悔
も改めも、同時に瞬時的にするのであって、永々と時間をかけてやるのではありません。自分が
悪い悪いといつ迄も思っていることはけっして神様のお喜びになることではありません。神の世
界には悪はないのですから、自分の悪でも、人の悪でも、悪い悪いといつまでも掴んでいるよう
では、その人は神の世界から遠ざかっていることになるのです。悪を掴むのは自己なり人なりか
らその悪を消し去る為に、一度掴むだけなのです。それが自己の場合には悔改めとなり、他人の
場合には赦し、ということになるのです。
すべては、人類を神の光そのままにする為の作用でなければならないのです。
人間の本体、本心は神であり、神の心であることを常に忘れてはならないのです。
白光への道26
お前の罪は既に消えている
釈尊も常にこうしたことを教えていたのです。釈尊のお弟子にアソグリマーラという人があり
ました。
この人は立派な家の子に生れたのですが、若くして婆羅門の或る師匠のところに求道者として
弟子入りしました。彼は秀才であり、熱心な求道者でありましたが、或る日、かねてから彼に心
を寄せていた師匠の妻が、師匠の留守中に彼を誘惑しようとしました。しかし道心堅固な彼は、
よこしま
驚いてこれをはねつけました。この邪な妻は、その腹いせに、師匠である夫が帰ってくると、自
ざんそ
分がしたことを、彼がしたことのように諦訴したのです。師は非常に憤って彼を困らせようと、
百人の指を切らなければお前は悟ることは出来ない、と云い渡したのです。師の言葉には絶対服
従するというのがその当時の律法であったので、彼は仕方なく、毎日毎晩人を殺しては指を切り
その指を首飾りのように首にまいていました。
しまん
人々は彼を指髪外道と呼び、彼の出没しそうなところには誰れも近寄らなくなりました。そし
て遂いにあと一人で百人の満願という日には他に一人の人も通らず、彼の母がやってくるのを見
出しました。すでに理性を失っている彼は、その母さえも殺そうと待ち構えたのです。しかしそ
の時幸いにもそこへ釈尊が現われたのです。彼は母にむける匁を釈尊にむけましたが、釈尊の全
まなこ
身から輝き出でる光明に眼くらみ、そこで釈尊のお弟子になるのです。彼は仏弟子となって真剣
27 悔改めと把われとの相違
に戯悔し、修業し、釈尊から、おまえの罪はすでに消えているのだ、と云われるようになりまし
た。
或る時、彼が托鉢していますと、苦しんでいる産婦人に出合い、産婦人に安産の祈りを頼まれ
たのです。その頃の印度では殺傷の戒を冒さぬ出家に、安産だ、と祝福されると必ず安産すると
云われていたのです。ところが彼は自分は先日迄は大なる殺人者であったのですから、困却して
ひとたびこのことを釈尊に聞きに参りますと、釈尊は、今日のおまえは昨日迄のおまえではない、
あや
今日のおまえは一度も人を殺めたことも傷つけたこともないおまえなのだ、行って祝福してやり
なさいと云われたのです。彼は再び行って祝福してやりますと、産婦人は易々と安産した、とい
うことなのです。これはどういうことかといいますと、常に私が説いていると同じように、想念
として行為として現われたことは、すべて現われた時が消え去る姿なのだから、悔改めたその時
から、その人の新しい想念がその人の人格となり、運命として展開してゆくのです。ですから真
実の悔改めをすれば、もう過去の想念行為に把われることはいらないのです。過去に把われてい
たら悔改めが悔改めにならないのです。
ほんとう
普通一般の人が自己と思っているものは、真実は自己ではなく、自己の想念なのです。肉体を
自己と思い、想念を自己と思っているのです。善悪、幸、不幸、はすべて想念の中にあるので、
しまん
真実の自己には善も悪も不幸もないのです。ですから釈尊は、指髭外道と呼ばれたかっての殺人
鬼さえも、悔改めたその日から、仏弟子とし、罪を冒した指纒外道とは全然別の人格として認め
白光への道28
られていたわけです。
罪は悔改めた一瞬消える
普通の考えでは、一度冒した誤りは永久にその人の冒した誤りであり、罪であることになるの
ですが、宗教的に本体論的に考えますと、その人が悔改めた瞬閲から、その誤り、その罪はその
人から離れてゆくのです。そしてその誤ちを為し、罪を冒した想念行為は、過去の業因縁の消え
てゆく姿として、その人の本体から離れてゆくのです。それがもしも、真実に悔改めをしていな
い人の場合にはその誤てる想念行為が、いつまでもその人の本体の光を包んでいて、罪はその
ままその人から離れぬことになるのです。ですからその人が其実の悔氏めをしているかいないか
は、その人の今後の運命として、はっきり現われてくるのです。それは他から何といわれようと、
何と思われようと、一向に関係はありません。その人の想念そのものが、その運命の差異となっ
て、やがて現われるのです。他には悔改めのごとく見せかけて、実は自己の誤りを少しも認識し
ておらぬ、いわゆる偽善者は、その人がその偽善の想念を改めぬ限りは決して救われることはな
いのです。
虚栄やみせかけや、宗教的誇りがあっては、真の悔改めは出来難いのです。親鸞上人が善人も
て救わるなほ悪人をや、と云って、善人ぶっている人の救われ難いことを、逆説的に説いている
のは、実に真理であると思います。
29 悔改めと把われとの相違
裸の心で日々を大らかに送ろう
指髭外道のような殺人を冒せば、今の世では必ず死刑になります。しかし一度び悔改めた人に
とっては死刑になろうが、何になろうが、そのようなことはどうでもよいのでしょう。誤った想
念行為が消えてゆく姿として肉体まで消えてゆくのですけれども、真の悔改めをした人にとって
は、その時から神仏と一つの道に入り、魂は救われているのですから、過去の消え去ってゆく想
念の肉体を惜しんだり、痛んだり、悲しんだりすることはないのです。明るくいさぎよく、罪の
消滅をしてゆける心境になっているのです。その心境でなければ真の悔改めとはいえないのです。
現われたものはみんな消えてゆく姿なのだ、しかしその底に永劫に存在する真我、神の心が輝い
ているのだ、と自覚すること、これが真の悔改めなのです。神の心を自覚した者は、再び誤ちを
冒すことはないからです。ですから、不幸とみえ不利とみえ、理不尽と思われる事柄が、自分の
周囲に起ってきてもそれはみんな過去の誤った想念や、行いが、現われて消えゆく姿なのだ、
といち早く消え去ることを念じ、自己の真実の姿が一日も早く現われ出ることを祈っていられる
ようなら、この人は日々悔改めをしている人といえるのです。ところが、私は何一つ悪いことを
しないのに、何故こんなに不幸な目にばかりあったり、不利な立場にばっかりなるのだろう、と
不平をこぼしがちな人があります。これは善人ぽこりといって、なかなか神さまの真の姿を、自
己の環境に現わし得ない人なのです。
白光への道30
自分が真の悔改めをしているか、偽善的であるかをしっかり判断して、出来る限り偽善でない、
すべてを神様(守護霊、守護神) に任せた裸の心で日々を生きてゆきたいものです。
31 悔改めと把われとの相違
32
親子夫婦の因縁について
白光への道
母の悲劇の原因はどこ?
親子、特に母と子はこの地上界においては、実に密接な関係があります。お腹を痛めて、生ん
だ子供は、自分の分身であって、自分の所有物であるような気さえ起りがちです。そこに母の悲
劇があるのです。
肉体的にみれば、確かに我が生みの子は、自己の分身であります。従って自己の所有物と思う
のは無理からぬところがあるのです。しかし、その子供が各自個性をはっきりもった青年となり
結婚適令期となった時、好むと好まぬ、とに拘わらず、その子供は親の所有から配偶者にすべて
のバトンを渡さなければならなくなります。その時に子供を自己の所有のごとく思っている親
程、自己の大事な宝を奪われたもののごとく、悲しく哀れな存在に陥ってゆくのです。子を持っ
親には、そうした時期が必ず一度以上はあるわけです。
そうしますと、子供は親の所有の者でなく、成人するまで、誰れからか預けられたものを育て
ている、ということになってきます。そのあずけた者は誰れかというと、神であるということに
なるのです。神の分霊魂を一時おあずかりして立派に育てあげるというのが、地上の親の役目で
あるわけなのです。
天に魂の親がいる
真実は、天にも親があり、地上にも親があるのです。天の親は神の分霊であり、地上の母の胎
内に入り、そして生れ育ってゆくものは、その分霊より生れた魂なのであります。そしてその神
の分霊は、普通守護霊として自己より生れた魂すなわち、肉体人間を背後より守り育ててゆくわ
けなのです。そして魂の方は肉体において種々の体験を経、幽界の体験を経、霊界において分霊
と合体し、遂いには神そのものの直霊とも合一して、今度は守護神的働きをすることになるので
す。神(直霊)は大親様というわけです。
しかし、一方分霊がそのまま分霊魂として幽体、肉体にあって活躍し、他の祖先霊がその守護
霊となり、魂の親として背後から守っていることもあるのです。
兎に角、魂の親は天にあり、地上には肉体的な両親があるというわけなのです。そして子であ
る魂と親である霊とは遂いに合体するのでありますが、地上の親とはやがて、離れ去るべき運命
となっているのです。ですから、地上の親は、我が子とはいいながら、子供は天から自分に預け
33 親子夫婦の因縁について
られた者である、ということをはっきり認識して、いつでも天のおぼしめし通り、
返しする、という気持でいなければならないのです。
子を産み立派に育てあげることが人類への大功徳
人類、社会にお
34
魂が肉体に生れてくるということは、魂にとって一大進化なのです。幽界からこの肉体界に出
てくる援けをしてくれる者は、この魂にとっては恩人なのです。表面は親達が勝手に子供を生ん
だのだ、ともいえそうですが、実は子供として生れる魂の親である分霊、または守護神から、親
達の魂が頼まれてこの肉体世界に生み出したものなのです。まして、自己の肉体に大きな犠牲を
払って、この人生に生み出してくれる母親というものは、この地上界最大の恩人ということにな
るのです。ですから、これを反対に母の側からみれば、女性が子供を生む、ということそのもの
が、すでに他の入(魂) に恩を施したことになるので、子供をたくさん生むということは、近頃
は如何にも頭の悪さを表わすようにいわれていますが、実はそれだけ人生にプラスしていること
になるのです。
子供をたくさん生み、そして他人に迷惑を掛けずに社会に役立っ立派な子供に育てたとするな
らば、その親達は、自分が直接何ら社会に役立たなくとも、実に有意義な人生を送ったというこ
とになるのです。それは実に大きな自己の魂へのプラスになるのです。
もし故あって生むべき子供を、生まぬということがあるならば、それだけ何等か社会人類に貢
白光への道
献する仕事をしなけれぽ、折角自己に与えられた魂のプラスの機会を逃がしてしまうことにな
り、魂の進化をそれだけ遅らせることになるのです。
近頃の女性は直接外に出て働かなければ、人の世の為にならないと思っているようですが、こ
の混濁した世にあって、子供を立派に育てあげることは容易なことではありません。その容易で
ないことを成し遂げるだけで、更に立派な社会への貢献をしているのであることを、心に銘記す
る必要があります。
愛は執着ではない
愛して執せず、ということはむずかしいことですが、愛されるという報酬さえ求めずに子供を
育てることを、母は最大の心構えとして生きてゆかねばなりません。それが出来れば、その母は
偉大なる母であり、神の心そのままの人間ともいえるのです。その為にも、常に子供は自分のも
のではなく、神から一時お預りした者であると思いこむ必要があるのです。神からお預りした大
事な宝物を守り通すという気持で、子供を育ててゆくべきです。執着せず、束縛せず、その子の
天分を見出し、それを伸ばしてゆくように種々研究してゆくことです。それにはやはり真実の愛、
神からそのままくる愛の心を日頃から磨いておかねばなりません。愛の心を磨くにはどうしたら
よいかといいますと、私がいつも申しますように、守護霊、守護神に感謝の気持で、自分の天命
を完うせしめ給え、子供達の天命を完うせしめ給え、と祈ると共に、愛深き自分に成らしめ給
35 親子夫婦の因縁について
え、と常に祈っていることが一番肝腎なことなのです。
36
夫婦の因縁について
母子と同じように密接な関係をもつものに夫婦があります。夫と妻の結びつきは実に微妙なも
のであります。つい先日迄は一面識もなかったよう人が結ばれたり、急に恋愛して結ばれたりす
るのです。どんな永い附合いでも赤ん坊の時から愛し合って結ばれることはないわけです。
そうした間柄の夫婦が、親子より永い年月を共に生活してゆくのですから、全く面白いもので
す。
この夫婦の結ばれにも霊的または因縁的な種々な結ばれ方もあるのです。
霊的とは、守護霊同志が了解し合って結ぽれた夫婦、因縁的とは、過去世からの業因縁によっ
て結ばれる夫婦をいうのです。
守護霊同志が了解し合って結ばれた夫婦は、大体において完全に近い夫婦、調和した夫婦とい
うことが出来ます。しかし、稀に不調和なように見える結婚もありますが、これさえ晩年には調
和することの出来るような夫と妻とを結ばせています。守護霊同志が祝福して結ばせる結婚を、
神に祝福されたる結婚というのです。
過去世からの業因縁によって結ばれたる夫婦というのは、どのような状態の結婚生活をするか
といいますと、その業因縁、つまり過去世のお互いの想念を今生において実現せしめる為、或い
白光への道
は誤てる想念の修正の為に結ばれるのであります。
例えていえば、過去世において、表面は夫に隷属しながらも心の中ではその憤満を耐え忍びつ
づけていたような女性が、今生ではやはり過去世においてそのようにして妻を踏みにじっていた
同種類の男の下に嫁ぎ、今度はその男を反対に踏みにじるような行為をつづける妻となってゆく
のです。その反対に、過去世において妻に裏切られたことを恨みつづけていたような男性が、今
生にて、やはり過去世に夫を裏切るような行為をしてきた女性と結ばれ、その女性を踏みつけに
する行為をしてゆくのです。
そうしたように、過去世の夫婦間における業因縁の想念、つまり、恨み、怒り、妬み、等々の
感情が、今生において果されてゆくのですが、それは、前世の夫なり妻なりに限って行おれるの
ではないのです。
かわ
生れ更リは運命の修正
りんね
人間の生れ更りというのは、霊が生れ更るのではなく、想念(魂)が幽界、肉体界と輪廻して
いる姿なのです◎ ですから、普通の人達が人間と観ている者は、実は真実の人間ではなく、人間
の想念を観ているわけなのです。そしてその想念は法則的に動いていて、殴った者は殴られ、借
りたものは必ず返さねぽならぬようになっているのです。それが夫婦間に適用され、過去世の反
対の生活を営むようになるのです。そのことを悟らぬ以上は、いつまでもこの想念(業因縁) の
3? 親子夫婦の因縁について
法則に縛られていて、真実の調和した夫婦生活を営むことが出来ないのです。
ですから、人間が、それぞれ片寄った感情、誤った想念をもっている現在では、なかなか完
全に調和した夫婦というものが無く、どこか修正し合わなければ完全にならぬような夫婦が多い
わけなのです。
ところがはじめに申しましたように、守護霊同志が同意で結ぽせた結婚や、守護霊同志が、過
去の肉体界における生活中に夫婦であったような場合は、業因縁の流れによった結婚より、完全
に近い、或いは完全な結婚になるのです。これはどうしてかといいますと、守護霊は、子孫であ
る肉体人間の霊質をよく知っているので、その霊質の等しいものから生れている魂醜によってな
る人間同志を結ばせ、業因縁的流れによって結ぽれることを避けるのです。そして修正されなけ
れぽならぬ、彼や彼女の業因縁的想念(性格)は様々な方法によって、彼や彼女の心がなるべく
傷っかぬようにして消してゆくのです。云いかえれば夫婦間で真正面にぶつかりあって、烈しく
業因縁を消してゆくようなことをせず、適時、適所において彼等の業因縁を消滅させてゆくわけ
です。
白光への道38
これから結婚される人々へ
こう考えてまいりますと、完全なる、または完全に近い相性の夫なり妻なりを選ぶ為には、お
互いに自分達には過去世の因縁が判らないのですから、神様(守護霊、守護神) に選んでもらう
より他に安心の道がないことになります。どうして神様に選んでもらうかといいますと〃守護霊
様、守護神様、どうぞ私の天命が無事に完う出来ますような配偶者を私にお授け下さい”と祈り
つづけていればよいのです。そして自分の結婚のことは神様にお任せした気持に成り切ってしま
うのです。そうしますと、守護霊が、その人の運命に必ずプラスするような配偶老を選んで呼び
よせてくれるのです。
業因縁の想念で自己の配偶者を呼びよせるか、守護霊、守護神にお任せして呼びよせてもらう
かによって、その人の結婚、従って、運命全般に渉る良否が定ってゆくのです。
はじめから善い結婚運をもって生れて来られた方は、そのままでも幸わせな結婚が出来るでし
ょうが、それは結婚してから初めて判るので、否、老後になってからはっきり判るのですから、
自分の容貌、才能、のような肉体的自信だけに頼って結婚するのは危険なことだと思います。
結婚生活の不調和に悩む人々へ
もし、現在、あなたが不調和な結婚生活の中にあるとするならば、その不調和、不完全さは、
過去のあなた方の誤まった想念が消え去ってゆき、やがて真実の姿、調和した完全なる夫婦の姿
が現われてくるに違いない、と思わなければいけません。そして、守護霊、守護神に、私達の天
命が完う出来ますような結婚生活に一日も早く私達をお導き下さい、と祈りつづけることです。
そうしますと、次第に調和した結婚生活になってゆくか、どうしてもお互いの運命に傷がつきそ
39 親子夫婦の因縁について
うな結婚ならば、自然に別れてしまうような機会がくることになるのです。
不調和な結婚といえど、自分たちの我で別れようとしても別れられるものでもなく、また別れ
たとしても、それと同等の運命の苦しみを嘗めなけれぽならぬことになっているのです。それは
過去世の業(想念)が消え去るまでは、そうした環境が彼等のために必要であるからです。そこ
で、そうした想念を一度に短期間に消し去ってしまうには、どうしても、そのような過去世から
の想念を、神様の方に流し入れて、神様に消してもらうより仕方がなくなってくるのです。神様
は光明であり、大調和なのですから、その不調和な想念の波を、光の波で洗い浄めて下さるので
す。只神様といったのでは、何だか自己に遠いような気がするので、自分に一番身近かな祖先の
悟った霊である、守護霊に、このお願いをする方が、実感もあり、易しく出来ると思うのです。
ともあれ、心の中の泥水、つまり悪い想念は、あまり掻き廻わさないで静かに消してゆくよう
にすることによって、澄み清まってくるのです。
白光への道40
自分を愛せよと何故いうのか
自分を愛し、人を愛し、自分を許し、人を許し、と私はいつも教えているのですが、どうして
自分を愛しというのかといいますと、愛深い人は、どうしても人のことが先になって、自己を常
うるわ
に犠牲的立場に置きがちです。これは実に美しい行為に見えるのですが、これはまだ真理の生き
方としてはいささか足りないのです。何故かといいますと、自己も他人も、同じ神の子であり、
神の生命であります。それは同等の価値を有するものであります。ですから同等の立場に置くよ
うにしなければ、片方の生命に忠実なものとはいえなくなります。自己のみを他人の下位に置い
てそれで満足するということは、そのことが広い意味、人類的意味において、有意義であった場
合、つまり、その人の存在の方が、自分の存在よりも自他共に重要であると思えるような場合の
他は、あまり感心出来ないのです。そうした場合は、その人の働きの中に自分の犠牲的な行為が
大きく生きてくるから、自分の生命も、それだけ大きく生きたことになり、犠牲であって、犠牲
でなくなる生きた行為、賢明なる行為、自分を愛し(生かし)人を愛し(生かす)たことになる
のです。その反対の場合には、やはり自分を先ず生かさなければいけないのです。ですから国家
の為に自分を犠牲にした場合等は自分を生かしたことになるのです。これを誤り考えて、国の為
に犠牲になって亡くなった人たちのことを、惜しいことをしたとか、つまらぬことをしたとか思
うことはないのです。多くの人間の集合している国の為に生命(肉体の生命)を亡くしたという
ことは、多くの人たちの中に自己の生命を大きく生かしたということになるのです。
このことは重大なことであって、いたずらに犠牲になることはない、と共に、何んでもかんで
も犠牲は嫌だと、逃げることもないのです。
人間は肉体ではなく永遠の生命である、という認識に立っていれば、この生命を生かすか殺す
かに重点がかかるので、それが判れば、自分を愛すとはどういうことかが判ってくるのです。人
を愛す、というのも同じ理であるわけです。
41 親子夫婦の因縁について
ゆる
自分を赦すということ
それから、自分を赦し人を赦す、というのも大事なことなのです。普通の人は自分を赦すとい
うことを、あまり考えていないのです。人を赦せ、ということは、一寸した人は誰れでも云うの
ですが、自分を赦すということはあまり闘題になっていないのです。ところが、これ程重大なこ
とはないのです。人間の悲劇は自分を赦さぬところから生じているといっても過言ではない程、
これは大事なことなのです。それは今迄の宗教観念が、誤ちを冒かしてはならぬ、戒を守らなけ
れぽならぬというようになっており、現今の新しい説き方の中にもやはり、こうした不幸はこう
した心の現れである、というように説かれているので、常に自己の誤った心を探し歩き、誤る
まい誤るまいと、戦々就々として自分の心をいじめているのです。これはいけないのです。こ
れでは小さな人間をつくりあげてしまって、大事を成す人悶になり得ません。誤ちは真の人間が
するのではなく、業因縁的想念が表面に現われた時にするのです。誤りとして表面に現われれぽ、
その業因縁はそれだけ消えたことになるのですから、そこでその業因縁を把えて、これはいけな
い、何んという自分だろう、等といつ迄も自分をいじめて嘆かずに、これで業因縁が消え去るの
だ、とすっぱり自分を一度赦してしまうのです。そして改めてもう自分は再びこういう誤ちは冒
すまい、と心に或いは守護霊守護神に誓うのです。
今迄の善い人といわれる人は、これを知らず、いつ迄も自分をいじめつづけていたのです◎ で
白光への道42
すからいつでも、くよくよしたつまらない人間になってしまうのです。人類全般にもこの原理は
通用するのです。自分を真に赦せぬ人が、何んで真実に人を赦すことが出来ましょうか、自分が
掴んでいる悪だけ、他の悪をも掴むのです。悪と現われるものはすべて過去からの業因縁の消え
去ってゆく姿である。自分は神と一つの者であって、光そのものであることを、常に認識し一日
も早く悪想念の渦から抜け出でなけれぽならないのです。
43 親子夫婦の因縁について
44
愛につ


白光への道
真実の愛の精神に復活する為に
愛は神なり、愛はすべてを癒す、という言葉があるように、人間世界にとって愛の行為程重大
で必要なものはないのです。
愛の行為のあるところに神の真の姿が現われ、神の光が現われ、神の癒しが行われる。
愛の充足がそのまま世界平和をもたらし、愛の欠乏が世界を不調和にし、破局へと追いやるの
です。
たとえ表面小さな行為であろうとも、純粋なる愛念による行為であるならば、そこに神が現わ
れているのです。人間の一人一人が日々愛の行為によって生きているとするならば、この世界に
大きく神の真の愛が顕現し、たちまち大調和の世界となり、闘争なき世界となるでありましょ
う。しかしながら、真実に自分を愛し国を愛し、すべてを愛するということはむずかしいことな
のです。
愛とは、現象的自他の利益を超えて、自他の生命を真実に生かす心の状態であり、行為である
からです。云いかえれぽ、本来一つである生命が、個々の肉体身に分れながら、本来の一に還元
しよう、統一しようとする心であり、行為であるのです。もっとやさしくいえぽ本来一であり、
絶対の統一であり、すべてのすべてである大生命(神) にしっかりつながろうとする人間の心、
行為が、横のつながりである他の人、他の民族に働きかける状態を愛というのです。
遠い昔から一である大生命(神)が個々の生命に分れて働き、この地上世界、肉体世界を創り、
この世界に神自身の姿をはっきりと写し出そうとしているのですが、未だその姿が全面的に写し
出されてはいないので、光に影がともなうように不調和な姿がこの世界に現われているのです。
神は本来、無限の光であり大生命でありますが、その光が、その大生命がそのまま写し出され
たのでは、この地上世界がはじめから一つの光となり、一つの生命となって、個々に分れた生命
や形が出来上りません。従って、肉体人間というものは出来得ず、この地上世界に個々の世界が
成り立ちません。そこで大生命が一度小生命に分れ、無限の光が、個々の光に分割されて、この
地上世界の創立となってきたのです。これが、宇宙神、直霊、魂醜等の関係となっているので
す(『神と人間』参照されたし)。
このように個々の小生命(肉体人間)は表而の意識で知ると知らぬとにかかわらず、潜在意識、
もっと深い霊魂意識には自も他も本来は一つの生命である、一つの光であるのだ、ということが
45 愛について
判っているのです。それが知らず知らず愛の行為となって現われてくるのです。
ところが、表面の意識があまりに肉体的自己に把われすぎておりますと、その意識が、いつし
か潜在意識(幽体意識)に積みこまれ、霊魂意識、本来意識の表面に表われてくるのを阻止して
しまうのです。これが利己主義となり、物質欲、所有欲となってきて、次第に愛の欠乏を来し、
神から遠ざかり、光から離れ、現今のような、闘争的奪い合いの世界、自分だけ、自分一家だけ、
自国だけが良ければ、それで満足の世界になってきたのです。
恐るべきは、肉体的自己への執着であり、神からの離反であります。
愛の精神、平和、大調和の精神に復活する為には、ひたすら神を求め、自己の神性顕現の祈り
をしなけれぽなりません。自己の神性を顕現した者こそ、愛の権化であり、世界平和実現の為の
偉大なるリーダーたり得るのです。
白光への道46
愛はすべてを生かす
如何に愛の言葉の如く、愛の行為の如く思われましょうとも、その言葉、その行為が、神の光
を根本にし、神の大調和の理念に基いていないようなものでは、真の愛の言葉、愛の行為とはい
えないのです。片方の利益の為に片方を倒す、というが如き行為は、片方に愛のように見えて
も、それは我欲であって神の愛ではないのです。一度は倒すように見えても、それはその人なり
その集団、その階級を最後には生かす、という深い思いやりがなければ愛の行為とはいえません。
真の愛はすべての生命を生かし、すべての立揚を、世界大調和の為に意義あらしめるような立
場にしてゆく行為活動でなければなりません。
現今のように自我欲と自我欲とがぶつかり合い、人と人、国と国とが、常に争い合っているよ
うな姿、愛の欠乏せる姿がこのままでゆけば、この世界はやがて崩れ去ってしまうに違いありま
せん。しかし私は、この世界が崩潰し去ることはないと堅く信じているのです。何故かといえば
神は愛であるからです。この世界にたとえ少数ではあっても、現在真実の愛の心に生き、真実の
祈りに生きている者達の存在がある限り、この世の崩潰は未然に食止め得ることが出来ると確信
するのです。
一日も早く、一人も多く、真実の祈りに生き、真実の愛行為に生きる者の増加してゆくことを
私は深く祈っているのです。
自分を愛し、人を愛し、人類を愛する人達の速かに増加してゆくよう祈っているのです。
愛と情との関係について
私はあの人を愛している、と云いながら、実は愛しているのではなく、その人を自己の所有に
帰したい、という欲望で動いている人がたくさんおります。
また、我が子を熱愛しているように見える母親の中には、真実その子を愛しているのではな
く、自己満足の対象にしていたり、その子の神性、即ち、正義の心、真実を求める勇気等を失わ
47 愛について
しめるような育て方をしている人が多いのです。
これらは情であって、真実の愛ではありません。情が愛から離れた姿は、只単に執着の姿であ
って、迷いの現われなのです。愛とは常に相手の神性開発の為に働く行為ですから、相手の迷い
我欲を満足させる為、或いは自己の執着欲を満足させる為のものではありません。
愛の働きと、情の動きとは常に混同され勝ちですから、余程気をつけて自己の行為をみつめな
けれぽいけません。
夏目漱石の草枕に「情に竿さしゃ流される」とありますが、情に溺れると自己も相手も共に生
命の働きを止めてしまうのです。情のごとく働いていても、常にその底に愛の意識が働いている、
つまり人間の神性開発、お互いの真実の姿、ほんものを出すことを根底にしていることが大切な
のです。
普通は愛情と呼ばれているように、愛の心も働きとしては情のような形で他に及ぼしてゆくこ
とが多いのですから、情はいけない等と極端な言葉で簡単にいうことは出来ません。母子の場合
夫婦の場合、恋愛の場合、すべて愛の行為は愛情として互いの間に働きかけるわけです。
白光への道48
情の中に愛を光らそう
仏教では愛も情もすべて執着の心、無明(迷)としております。そして私の云う愛の位置に慈
カルマ
悲を仏の心、菩薩の心とし、愛情を業の中に入れているのです。
私の愛という言葉を慈悲という言葉に置きかえて、情との関係を説きますと、慈悲心(神仏の
心)が、人間世界の業因縁の中で働きます時、優しく柔かく情的な在り方で働く場合と、峻厳な
冷酷かと思われるような現わし方で働く揚合とがあるのです。
情はあく迄、業因縁の世界の感情でありまして、この情の中に愛の光が輝いてきますと、自己
を生かし、人をも生かす働きとなってまいり、執着の想念が強く働くと、自己をも他をも滅ぼす
マイナスの面として現われてくるのです。と云って情という感情が無ければ、この世界に生活の
味が無くなり、慈悲心の働きかけも無味なものとなってしまうのです。
情愛から生れたもので、愛の働きを受けては愛情となり、業因縁(迷) からの働きかけによれ
ぽ執着となってゆくのです。
これは恰も、霊(光) から魂(想念)が生まれ、この三界の世界(業因縁の世界)が生まれて
きたと同じように、愛(神) から情(幽体、肉体の人間)が生れ出でたわけなのです。
ですから愛は愛情として人間世界を浄めてゆき、情は人間の間を交流しているうちに、愛をそ
の中にひきよせてゆくのです。そしてその間に執茄強き人間界、我欲と我欲とぶつかり合う肉休
世界を現出せしめることはあっても、やがては、愛の光が情を巧みに操って、人間世界を神の座
まで向上せしめてゆくことになるのです。情深き人間はその情に流されてマイナス面もそれだけ
多いのですが、愛の光を多く受け入れることも出来るので、冷酷なる人間よりも数等倍、神に近
づきうるわけなのです。
49 愛について
人間の中で一番愛の光(神)を受け難い人種は、冷酷なる性を持つ者達です。
しかし人間は一日も早く、真実の愛によって澄み清まった人情に生き合わなければならぬと思
います。
祖国に殉じたデンマーク青年の手記
昭和三十年八月号の文芸春秋に次のような記事がありましたので参考にお話し致しましょう。
それは、愛は収容所の壁の中に、という.題名の記事で、キム・マルテという二十二三才のデン
マークの愛国青年の手記なのです。
この青年は第二次世界大戦に、ドイツに攻められた祖国デソマークの為に悲愴な抵抗運動に挺
身し、投獄、拷問されながらも最後迄屈せず、母や愛人や同志に愛情と激励をこめた手紙を書き
つづっているのです。その中から愛人に送った手紙だけを書きぬいてみましょう。
白光への道50
今日ぼくは軍事裁判で死刑の宣告をうけた。たつた二十才の娘のきみに、この報らせはどんな
に手ひどい打撃だろう! 告別の手紙を書く許しをうけたものの、ぼくはいつたいどんなことを
書きつづつたらいいのだろう?
臨終にのぞんだ白鳥の歌には、どんな奏べがふさわしかろう? 残された時間は短かく、語る
べきことは無限だ。
このいまわの際に、ぼくがきみにあげられる最後の、そしてもつとも貴い贈物は何んだろう?
きみがぼくを失い、しかもなおかつ微笑みつづけ、生きつづけ、成長しつづける力となる、永の
別れの形見として残すことのできる、いつたい何物をぼくは持つているだろうか?
ぼくら二人が乗組んだ船の行手は、どこもさかまく嵐の海だつた。ぼくらは幼い子供たちのよ
うに純真に知り合い、心から互いに愛した。今でもお互いに愛し合い、これからも絶えず愛し合
うだろう。しかし一日、嵐が二人を隔てた。ぼくは千尋の海底に沈み、きみは岸辺にうち上げら
れた。気がついてみれぽ、眼前にあるのは未知の新世界。そこできみの新しい生活がはじまる。
きみがすつかりぼくを忘れ去る、そんなことはありそうに思われない。ぼくたち二人の間にひろ
がる、あんなに美しい思い出を、どうしてきみが忘れられるものか? けれども、きみはその思
い出の奴隷になつてはいけない。きみはこれまでと同じほど自由に、これまでと同じように優し
く人生に触れ、倍も幸わせにならなければいけない。なぜかといつて、生命はきみの行手に、そ
の最大の祝福を捧げて待ちうけているではないか。身も心も仲びやかにーあらんかぎりの歓喜
を味わい、生命の捧げる祝福をいやが上にも輝かし、何よりも明るく掲げたまえ、そしてぼくの
思い出も、その一つとして大切に蔵つておきたまえ、けれどもそれで自分の目かくしをして、人
生がきみのために調えてくれたほかの宝を見えないようにしてはいけない。幸せになるんだ、ぼ
くの愛しい人。心のうちに美しい実をみのらせ、豊かな貯えを積むのだQ わかつてくれるかい。
ぼくのハソネ?
51 愛について
きみは生き、きみは数々のすばらしい冒険に出くわす。そこで一つの約束をしてくれーぼく
ヘヘヘヘヘヘヘヘへ
が生命をかけて求めてきたもののために、きみはそうする責任があるーぼくの思い出を、きみ
ヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘへ
と生命との間に割り込ませない、と。ぼくはきみの心に生きつづける。だが、そこに住みつくぼ
くの思い出は、健かで自然なものだけに限り、それも大きな場塞ぎになつてはならぬ。それでも
ヘへ  ヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘへ
邪魔になると見てとつたら、ぼくは背後にしりぞき、そこで一塊の土となり、そこに芽生えたき
ヘヘヘへ ヘヘへ ヘヘヘへ 
みの幸福と成長の養分となろう。
きみは心砕かれ、いわゆる悲嘆にくれる。だがハソネ、そのさきをごらん。人は誰でも必ず死
ぬもの、そしてぼくの死ぬ時間が少し早かつたからといつて、それが良いことだとか、悪いこと
だつたか、誰にいいきれるものか。
ぼくは今でもソクラテスのことを考えつづけている。きみも読んでみたまえ、プラトーが今ぼ
ヘヘへ  へ  ヘヘヘへ
くの感じていることを、そつくりそのまま説明してくれるだろう。ぼくのきみに対する愛は、き
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
みを縛る鎖ではなかつたはずだ。これからはとりわけそうでなくなる。きみの愛も、ぼくを苦し
ヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘへ ヘヘヘヘヘへ
めるとしたらもうそれは本当の愛ではない。これが愛のあるべき道だ。わかつてくれるかね?
ぼくの内面で生長している何かがある。霊感か、愛か、好きなように呼びたまえ。ぼくには、そ
れを何と名付けるべきか、いまだにはつきりわからないのだ。ぼくは今や死にのぞんで、ぼく以
外の誰かに、小さな火花を移し点けたか、まだ疑問のままだ。生命の火花、それによつてぼくが
生き続ける小さな火花を。それにもかかわらず、ぼくは安らかな気持でいる。何故なら、ぼくは
白光への道52
この世の自然の豊かさを、十分に見とどけたからだ。そうした豊かな自然が、ぼくの死んだ後も
生きつづけることを考えたら、どうして暗い気持なんかにふさがれるはずがあろう?
愛は死を越えて
頭を高くあげて、見たまえ! 海は依然として青い。ぼくが大好きだつた、そしてぼくらをゆ
つたりと包容してくれた、その頃のままの青さだ。これからきみは、ぼくの分まで引受けて、二
人分生きるのだよ。ぼくが逝つてしまつて、きみのうちに残る思い出は、どうかきみを温い、豊
かな、幸わせな女性にする力となるものであるように。
これはきみに、いきなり悲しみから起きあがれということではない。もしそれがきみにできる
としたら、きみはコチコチの、聖人ぶつた女だつたことになり、ぼくをも、きみ自身をも裏切る
ことになる。ぼくが何よりも愛したきみーそのきみは初めから終りまで、そしていつでも『女
性』そのものだつたのだ。
ヘヘヘへ ヘヘヘヘヘヘヘヘヘへ ヘヘヘへ
忘れずにおきたまえ、ぼくは誓つて断言するーいつさいの悲しみはやがて喜びに変つて行く
 ヘへ
ものだ、と。けれどもその時がきても素直にそう自認できる人は数すくない。そうできない人た
ちは、いつまでも偽りの喪服を脱がない。習慣が「悲しみとはこういうものだ」という考えをう
えつけてしまうのだ。そしてそのまま喪服を着つづける。真実とはそんなものではない。悲しみ
はいつか、成熟し、成熟してみのつた果実は時を失わずとりいれるべきものだ。
53 愛について
いいかい、ハンネ、きみはある日のこと、きみの夫となるべき人に出会う。ぼくの思い出が、
きみの胸を掠めるかもしれない。そしてきみはなにかぼくを裏切るような、あるいは自分の心の
純潔と神聖を傷つけるような、不安な後めたい思いをするかもしれない。そうしたら、もう一度
頭を高くあげて、きみの目の中をのぞきこんで微笑しているぼくの目をみつめるのだ。そうすれ
ヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘへ ヘヘヘヘヘヘへ ヘヘヘヘヘヘヘへ
ぽわかるだろうーぼくを裏切るただ一つのこと、それはきみが自分の自然の衝動にそむくこと
ヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘへ ヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘへ
だと。そういう人にぶつかつたら、心をいつばいにひろげて見せてやりたまえ、悲しみを紛らわ
ヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘへ ヘヘへ
すためにでなく、その人を本当に愛するために、そうすれぽきみは、きつと、きつと幸せになれ
るにちがいない。今ようやくふくらみ初めたきみの感覚の蕾も、そのとき一時に花開くだろう。
伯母さんによろしく伝えてくれたまえ。別に手紙を書きたかつたのだが、その暇がなくなつた
ヘヘヘヘヘヘヘへ  ヘヘヘヘヘへ  ヘヘヘヘヘヘヘヘへ ヘへ ヘヘヘへ へ
ようだ。ぼくのうちにある生命力は、ひたすらきみに向つてほとばしり流れ、その流れに乗るこ
ヘヘヘヘへ ヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘへ
とが、今ぼくにできる最善のことだと感じたからほかのことはかえりみなかつた。ぼくはぼくに
残された力をすべて、きみの中に吹きこんでやりたい、一と滴の無駄もないように、それがぼく
の宿命だ。(仮名つかい原文のまま。傍点は筆者)
白光への道54
青年よ、純粋な祖国愛に燃えよ
この手紙を見て、私は実に素晴しい手紙だと思いました。恋人に対する純粋な愛の心がにじみ
出ています。純粋に祖国を愛したこの青年は、恋人に対しても、実に清い高い愛の心をみせてお
ります。日本の特攻隊の人達の中にも、このような高い心の人達がいたようです。現今の青年の
中にも、このような高い心境の人達が一人でも多く出て貰いたいと望まないではいられません。
自分の欲望の充足の為に、人を傷つけて恥じないような人々の多いこの末法の世にあっては、
このデソマーク青年のような深い愛の心、死を前にしてすら、少しも乱れぬ愛念をもちつづけら
れる人間を、この日本から一人でも多く出したいものだと思います。真に祖国日本を救う者こ
そ、人類救済の場に起ち得るのであります。祖国を足蹴にしての人類愛ということは絶対にあり
得ないと私は思っております。
55 愛について
56
祈りと念力の相違
白光への道
精神科学は宗教ではない
近頃精神科学的な本がたくさん出版されてきて、信念とか、念力とか想念とかいう言葉が、科
学的に説かれております。
太平洋戦争中にも信念という言葉を随分聞かされ、精神力が敵の物量の力を圧するのだ、信念
で敵を破るのだといわれつづけたことがありました。それが現今では、西欧側からこうした言葉
が精神科学的な言葉として日本に移入されてきて、日本でもそうした訳本が多く出版されるよう
になり、心理学者、医学者、それに一部の宗教家が、それを自己の研究結果として、自己の思想
として発表しているのです。
そして、それはそれなりに学説でもあり、実証的発表でもあって、私もどうこういおうと思っ
てはおりませんが、そうした学説なり、思想なりが、一度び宗教者の口から宗教思想のごとく発
表されはじめると、大変な誤ちが起りはじめるのです。
信念の力というのはまことに結構でありまして、神仏を信ずる力の方にもむけられる言葉であ
りますが、これが、念力とか、想念の力とかいう風に転じて参りますと、それを宗教者が、宗教
の話として、神仏を口に説きながら話される場合には、余程気をつけて話しませんと、聴衆や信
者を誤った道にひきいれてしまいかねないのです。
何故かと申しますと、宗教の話をきき、宗教の本を読むような場合は、その信者なり読者なり
は必ずといっていい程、神仏というものをその説の奥に認めており、認めようとしているのです。
これが心理学者や医学者の話なり著書なりであれば、聴く側、読む側が、信仰的な想いで聴い
たり読んだりするのではなく、先ず知識として頭に入れようとしてかかるのですから、宗教信者
のように、はじめから鵜のみに心の中に入れるようなことは致しません。宗教信者の在り方は、
常にその説教者なり著者なりを、神仏の代辮者、或いは神仏の代講者として聴いたり読んだりし
ているのです。
ここに同じようなことをいうのでも、科学者がいうのと、宗教者がいうのとでは、その働きか
けが違ってくるのです。それを知らずして、宗教者が、科学者と同じようなことをいうとするな
らば、それは人間の心というものを、心の働きというものを認識していない愚しい人という他は
ないのです。
人間、それぞれ自己の立っている場が違っているのですから、その自己の立っている場という
57 祈りと念力の相違
ものを先ず認識してかかる必要があるのです。
レスリソグの選手が相撲のような立場で試合したとすれば敗北するでしょうし、高跳の選手が、
百米走者のようなスタートをしたとしたらこれは失敗することが必定です。
というようにその立場というものをよく考えて行動しなければいけないのです。まして宗教者
というのは人間の一番深い問題を取りあつかう役目をもつ者です。その人達が、時流に同調して
宗教者本来の神仏の問題、人間の本体の問題等を等閑にふしてしまう、或いは説きもし、書きも
するが、本題としてでなく、おざなり的に説いたり、書いたりするようではならないと思うので
す。
私が何故にこのようなことを長々と前置きしてしゃべっているかといいますと、いわねばなら
ない重大なことがあるからです。それは、念力、いいかえれば想念の力というものと、祈りとい
うものが全く違うものである、ということを皆さんに認識して頂きたいからなのです。
念力は我欲の現れ
ところが想念の力、即ち念力と祈りということの区別をはっきりつけている宗教家は砂いので
す。
例えば、職が欲しい、家が欲しい、金が欲しい、といったような場合、その欲する目標に向っ
て一心を集中し、つまり想念の力を強くしていけば、その職なり、家なり、金なりが自己の下に
白光への道58

ひきよせられる、だからその目的物に向って一心を集中しなさい、というような教えがあるので
す。また或いは、自己の欲するものはすでに与えられているのである、と堅く思いこむことで
す。常に想いつづけることです、というように教えたりもしているのです。さすれば必ずそのも
のは貴方に与えられる、もしその希望が叶えられぬとするならぽ、それは神が貴方に必要がない
と思われるからである、と希望が叶えられぬ時の言訳けまでしているのです。そしてこうした教
えが宗教の一つの方法であるように信者や読者にはどうしても受けとれてしまうような説き方、
或いは書き方がしてあるのです。こうした教え方は、純粋な宗教精神からすると、実に困った、
誤った説き方なのです。こうした説き方が新しい宗教であると思われたり、宗教的祈りであると
思わせたり、科学的宗教といって、宗教の一つの説き方である、と思わせたら、真の宗教精神か
ら人間を功利的精神にひき下げてしまうことになって、宗教の堕落になってしまうのです。
想念の力ということと、祈りということとはまるで違うことなのです。想念の力ということは、
精神科学であって、宗教ではありません。想念の力と祈りとを混同して、共に宗教の分野に置く
ことは出来ません。
祈リとはおまかせの心境
宗教心とは、宇宙の本源を知りたい心、人間の本体を知りたい心、真理の姿を知りたい心なの
です。そして、そうした心の動きが、祈りとなるのであって、この心は想念の世界、つまり業因
59 祈りと念力の相違
縁の渦巻く三界を超えた働きになるのです。ですから想念の力(念力) のように、業因縁の世界
の幸不幸を問題にするのではなく、真実の世界、神仏の世界に到達して真実の人間の姿(仏、菩
薩)を顕わし得る心の働きになるのです。いいかえますと、祈りとは自己の本体、直霊(神) に
合体する為のものであり、念力とは相対的世界、肉体界、幽界霊界の三界に働く想念の力であり
ます。祈りは、自己の想念の力をすっかり神様におかえしして、お任せして、空になってしまっ
た心境であり、念力は、自己の想念の力を他に働きかけて、自己の想い通りに相手を動かそうと
する心であり、業因縁の執着する心、把われの心であります。こうしたことを認識せず、祈りと
念力とを同じと思わせるような説き方をすることは、宗教への冒漬であります。
白光への道60
念力では真実の平和を築きあげられぬ
むげ
宗教は人間の心から執着を放して、自由自在な心、神と等しい無凝の心にさせる教えでありま
すが、念力は、執着の心であって、これを強めるということは、執着力を強めるということにな
るのです。お互いが念力を強め合ったら、次第に力と力の争いになってゆきます。昔の行者は、
念力による試合のようなことをよくやっていたようでありまして、滝の水を止めたり、石を念力
で持ち上げたり、降したりして闘ったようです。こんなことは、何等宗教とは関係のないことで、
只単なる力の錬磨というにすぎないのです。従って念力では人類の平和、世界の平和はおろか、
一人の人間の真実の平和を築きあげることも出来ないのです。
私は念力など必要ない、というのではありませんが、念力が宗教精神とは違ったものであり、
祈りとは相違するものであることを皆さんに認識して頂きたかったのです。
念力の世界には闘争や不和がありますが、祈りの世界には闘争も不和もないのです。もしあっ
たとすれば、それは過去の誤った想念行為の消えてゆく姿として起っているだけなので、その祈
りをつづけてゆけぽ、やがて不調和な姿は無くなってしまうのです。
ですから、宗教者が、祈りと念力の相違を認識せず説くことは信者を外道(誤まてる道) にひ
きずってゆくことになるのです。
まして、無くてならぬものは必ず与えられる、とか念じても与えられぬものは、神がその人に
必要でないと思われるからだ、とかいうことをつけ加えているのは、宗教者としての大きな矛盾
であります。よくよく気をつけなければいけないと思います。
まず世界人類の平和を祈ろう
〃無くてならぬものは必ず与えられる〃これが真理なのです。なくてならぬものは与えられる
のですから、何も殊更念力を使ってものをひきよせることはないのです。すべて神様にお任せす
る心境になって、大きな祈り、根本的祈りの、世界人類の平和、日本の平和の祈りをなし、自己
や家族の天命の完うされることを祈った方が、余程秀れた行為だと思います。
自己の真の幸福は、常に世界人類平和の中に、そして天命が完うされる中にあるのであって、
G1 祈りと念力の相違
その場、その時の幸福をまねきよせようとする念力などは、問題にならぬほど、低い願いである
のです。それはある時は、恐怖の別名であるということも出来るのです。
〃無くてならぬものは必ず与えられる〃この真理を深く信念づけてゆくべきです。それが神を
信ずることになるのです。神(直霊、本体) から現象知覚に判らぬうちに生み出され、育てられ
てきた自分達が、何故己れを生み出し、育ててきたものを信ずることが出来ぬのでしょう。実に
じねん
不思議に思えるのです。太陽は、空気は、すべて自然と己れに与えられているのです。肉体人悶
がいかに思念しようと、働こうと、太陽をつくることは出来ないのです。しかし、自己の本体の
中には太陽をはじめ、すべてのものを生み出す力があるのです。ですから、一度無力にちかい人
間の力を捨てきって、本体(神) の力にすべてをゆだね、任せてゆく祈りをすることを先ず第一
にしなければならないのです。人間の想いが恐怖なく、欲望なく、恨みなく、妬みなく、怒りな
く、猜疑なく、何にも把われない、というならば、祈りすら必要でないのですが、現象人間には
必ずこのうちのどの想いかがあるのです。そこでどうしてもこの把われを放つために、本体(神)
と一体になる祈りが必要となってくるのであり、最も大事な人間の行為になってくるのです。
人間が相対的力によって自己のものを獲得するのではなく、祈りによって、自然に自己の世界
がつくられてゆくようにならなければ、真の人類平和はこないのです。祈りによって生れ出るす
じねんほうに
ぺての力こそ、相対的の力を超えた絶対力になるので、これはもはや、力と呼ぶより自然法爾と
でも呼ぶより他に呼びようのない絶対の現れになってくるのです。そうした生き方をしている
白光への道62
人は現在の世界にもかなりあるのですから、
であ肱宗教心なのであります。
誰れにでも出来る生き方なのです。それが信仰なの
祈りは何気ない愛と真の行為として現れる
信念ということも、本体の力を信ずる念い、自己の真実の力や運命を信ずる念い、いいかえれ
おもい
ば神を信ずる想念にならなければ、真の信念とはいえないのです。絶対力(神、本体、((直霊)))
から自然に湧き出てくる力でなく、その場、その時の力みや自分勝手な想念の力を信念の力と誤
解してしまうのは、真の信仰心のない人たちがやることなのです。真の信仰心、宗教心とは、信
念の力とか、想念の力とか、そうした言葉から入ってくるのではなく、純粋認識的、純粋行為的
に自己の心に湧きあがり、行動となってゆく、不退転の力、意気ばらず、強がらず、只、素直に、
なんでもなさそうに自然に愛と真の行為として現われるものなのです。それが真の祈りの大効果
なのであります。信念の力とか想念の力とかいう言葉に出たり、思ってみたりする時は、もうす
でに宗教心から一歩後退しているということになるのです。
自己の本体の神なることを信ぜよ
くりかえして申しますが、念力というのは我であって、念力を強めて、自己の望みを遂げよう
ということは、ついには戦いの姿になってゆきます。何故なれぽ、お互いが念力を強め合って’、
63 祈りと念力の相違
お互いの望みをとげあおうとする場合には、必ず、弱肉強食のような不調和な世界が出来てしま
うからです。そして、その人達は常に念力を強める努力をしていなけれぽならぬので、いつも少
しもゆとりのない緊張した心の状態でいなければなりません。油断をすれば、或いは一つ目的を
想いつづけなければ、自己の望みがとげられなくなる、ということになり、落伍者となってゆくわ
けになるからです。もしすべての人達が、この想念の力ということを認識して、想念の力を強め
合う時のことを考えてごらんなさい。想念の力の弱い者は、常に敗北者の.憂き目をみているとい
うことになり、昔の武力の変形ということになってくるのは必然です。
或る時は想念の力で利益を得ても、それは神に任せた心境ではなく、あくまで現象人間の自力
なのですから、想念力の衰えた時には、悲惨な境遇に陥らぬとは限らぬのです。これでは魂の向
上にも、悟りにも少しも関係のないことになるのです。ですから私は、宗教家があまり想念の力
をとやかくいって宣伝することは邪道であるというのです。
人類は真の祈りなくしては永劫に救われない者なのです。自己の本体の神なることを信ぜよ、
そして祈り、そして起て、と私は強く叫ぶものなのです。
白光への道64
天命と運命について
運命とは生命をはこぶ状態
人間は、運命という言葉をよく使う。しかしその意味について、特別に考えてみようとはしな
いものです。
運命とは一体如何なることなのであろう。
うんわかんむりしんにゆうしるし
運命の運という文字の上の[冠は天を現わしている印であり、下の
、丸は道、つまり地上を現わ
くるま
している印であり、天と地の間に車が置かれてあって、一つの文字になっています。
文字というものは、全く面白いもので、どの文字でも、一つ一つに必ず、深い意味が蔵されて
います。この運という字などは、その意味が説明しやすい方で、天と地の問に車が置かれてある
と説明されただけで、もうその意味が察知出来ることと思いますが、一応説明しておきましょう。
天と地の間に車が置かれてあるとはどういう意味かと申しますと、
65 天命と運命について
ヘヘへ
この文字のはこぶ、という読み方で、そのまま現わされているのです。はこぶ、即ち、天と地
ヘヘへ
の間の或るものをはこぶということになるのです。すべての物も人も、天地間にあるものなので、
天地間に、一応、車という字を入れて、はこぶ道具を象徴したわけです。
しかし、この運だけでは、一つの意味をもつ言葉になりません。そこで、この下に種々の運ば
れるものの名を入れて、その意味を現わすので、ここでは命という文字を入れて、運命と読ませ
ているわけです。
ヘへ
運の下に命という字が置かれますと、どういう意昧を現わすことになるかといいますと、いの
 
ちを運ぶということになります。いのちとは、生きとし生けるものの根源であり、この力が無け
れぽ、すべての働きが止まってしまいます。宇宙のすべてにこの力が働いているわけですが、こ
の力が人間の内部で働いている時に、その人間は生きている、ということになるのです。
肺臓を動かし、心臓を動かし、あらゆる箇所を動かして、人間を生かしている力、これをいの
ちと人は呼んでいます。こんな素晴しい力が、一体何処からきているのか、ということを一般人
はあまり深く考えようとはしていないのです。
白光への道66
生命は肉体以前から存在する叡智ある力
精子と卵子との結合によって、母胎内に赤児として生育してゆく、その生育してゆく力そのも
のも、すでにいのちの力であるのですから、いのちとは人問未生以前から、すでに存在する力と
いうことになってまいります。しかもすべてを動かし、形づける力、これをエネルギーといおう
と何んと名づけようと、それは只、単なる名称であって、その不可思議絶対なる力の存在には変
りはありません。
それは、単なる力ではなく、ものを誤りなく、それぞれの形に生育させ、方向づける秀れたる
ヘへ
叡智をもつ力なのです。それを私共は神と呼び、神力と呼んでいるのです。その力は、ものから
 へ
生れてくる力でないことは、実にはっきりしております。もの以前の力、そして無限の層と、無
限の拡がりとをもつこの力が、人間の肉体を創り出して、或る一定量(?じの力がその中に入っ
ていて、五臓六腋を動かし身体のあらゆる部門を動かしているのです。
こうしたことを、唯物論者は、深くも考えずに、肉体の人間がすべてのすべての根源であるよ
うに思い、肉体以外の眼に見えぬ世界の力、人間の中にいのちの力を流し入れている無限絶対な
る神の力を否定し切っているのです。
いのち
ですから、唯物論者たちは、肉体以前の世界、五感に触れ得ぬ世界で、人間の生命が、お互い
に交流し合い、影響し合っていることなどは一向に知らず、限定された肉体という殻だけを実在
とみて、その世界だけの物質的幸福のみを追求しているわけなのですが、この重大なる誤りは、
現在までにも、幾度びかの人類の危機を生じさせ、今、最後の最大危機を呼び迎えようとしてい
るのです。
そうした唯物論的考えが、一般の人達の中にもしみこんでいまして、いのちを運ぶ、というこ
67 天命と運命について
とつまり、運命という言葉を誤り考えている傾向が多くなっているのです。
運命は自分が創り責任は自分にある
つまり、〃これが運命というものさ”とか〃運命だから仕方がない” 〃運命が悪いのだ” とか
いうように、他動的に、自己の責任でないような、他の力でひきずり廻されているようなことに
解釈しているのです。
これは、とんだ間違いなのであります。
ヘヘへ
いのちを運ぶのは自分自身なのです。自分自身は、自分自身のいのちそのものなのです。自分
ひと
のいのちを運ぶのに、他人事のように、運命だから仕方がない、とか、運命が悪いのさ、等とい
っているのは、自己の無智から起る考えなのです。
いのちは神からきたものです。そして、肉体にあって自己という一個の存在となっております。
自己とは、肉体内に限定されたいのちの力を、運んでいる者ということになります。
いのちそのものが人間であり、いのちを運ぶ者も人間であります。ですから、人間とはいのち
そのものであり、運命そのものであるともいえるのです。
人間といえぽ、運命を想い、運命といえぽ、人間をそこに想います。ところが、現在まで、運
ヘへ 
命というものを、いのちを運ぶというように解釈せず、想念行為の結果の名称、因縁因果のこと
ヘへ
を連命と思ったり、解釈していたりしたのです。そこで運命、というと、何か、どうにもならぬ
白光への道68
暗さの方をより多く感じさせられて、明るいひびきは、その言葉の中から感じられなくなってい
るのです。

試みに字源を索いてみますと、運命とは、人の身にめぐりくる善悪、吉凶のこと、めぐりあわ
せ、まわりあわせ、と書いてあります。
運命に対して、こうした思い方、考え方では、人間世界が真実幸わせになることは出来ません。
こうした考え方では、どうしても、運命とは、自己の力というより、他動的に、どこからか自然
にまわってくるようにしか思われないからです。
運命とは、あくまで、自己のものであり、自己がつくったものであり、自己そのものの全責任
であるのであって、運命というものが、突然に他からやってきたり、めぐりあわせ、まわりあわ
せ的にきたりするものではないのです。
このことが判りませんと、人間は常に運命にひきずり廻されて、自己の力を否定し勝ちになっ
てしまうものです。
運命は神の生命を個々に分けて運用している姿
運命とは人間自身であり、個々の運命とは、人間各自のいのちの働いている状態そのものなの
であります。
そう解釈しなけれぽ、運命という文字の意味が、嘘になり、でたらめになってしまいます。も
69 天命と運命について
うんそうねん
し、現在迄多くの人の考えているような意味ならば、運想念とか、運行為とか、運善悪とか、運
因縁、とかいうことぽにしなければ意味が当てはまりません。
運命とは、神を運ぶことです。神のいのちを分けて運んでいるのが、人間であり、個々人の運
命であるわけです。
こう考えてまいりませんと、人間全体が、人間全体に責任のない、自己自身にも責任のない人
を多くつくり出すことになります。
いのち
重ねていいますが、運命とは、神の大生命を、人間各自が自己のいのちとして分け合って、運
んでいる、運用していることをいうので、運命の善悪、高低は、すべて自己の責任に帰せられる
もので、決して他に嘆いたり、他の責任に帰するようなものではないのです。その人の運命の善
悪、高低は、その人のいのちの運用の正、不正によるもので、何等他の働きかけによるのではな
いのです。
白光への道70
天命とは神の使命
その訳を、これから順次説明してまいりましょう。
この人間世界は、神(大生命)の個別的展開であるのです。大生命が、各小生命に分れて、自
己の姿をこの地上界に顕現しようとして働いている世界なのです。
ですから、小生命(人間) の正しき生き方というのは、大生命(神) の理念のままに素直に生
きてゆくことなのであり、その生き方が、この世界に神の姿を顕現する為の、一番正しい生き方
ということになるのです。それを、小生命(人間) が勝手な動き方をして、勝手な想念を出し、
勝手な行為をして、運命ではなく、運想念、運因縁にしてしまい、勝手に運命の善悪を思ったり、
嘆いたりしていたのです。
運命と同じような言葉に、天命という言葉があります。天命とは、読んで字の如く、天の命、
或いは天のいのちということです。天の命とは、天の使命ということで、天とは神のことですか
ら、神の命、神の使命というのです。
七つの直霊と地上天国の完成
神は大生命であり、大霊であります。この大霊が、七つの霊に働きを分けて、いわゆる職能と
いうか、働きの特色というか、使命というか、ともあれ、七つの色に分れたのです。これを七つ
の直霊と私は呼んでおります。この七つの直霊が各自異なる特色をもって、各自のいのちを働き
出し、互いに交流し合い助け合って、この人類世界に、やがて神の世界を完成するわけなのです
が、その過渡的現象として、現今のような乱れた不調和な世界が生れておりますが、これもやが
ては、大調和世界を生みなす、一つの過程的期間なのであります。
この七つの直霊から、分霊が生れ、その分霊から又分霊が生れているのですが、その分霊たち
は、いずれも、七つの直霊の、いずれかの特色を強くもち、後の六つの要素は、その特色の裏面
71 天命と運命について
で、この特色を助けて働いているわけで、各分霊がそうした一つの特色と、六つの補助的働きを
もって活躍しているわけなのです。
神は大霊であり、大生命であり、大光明なのでありまして、その光の根源である大霊は、人類
世界の働きかけとしては七つの光源即ち、七つの直霊となって、基となり、その七つの光源が、
各種に分れて各分霊、各光線として個別の人間が出来ているわけです。ですから、各民族それぞ
れ各自の特色をもち、各人それぞれ異った特色をもっているのですが、これを大別すると七種類
に分けられることになっているのです。
これを聖書では、七つの金の燈台とか、七つの教会とかいっているので、七つの光が完全に配
合、調和されれぽ、神の理念が達成されるわけです。そこで、七という数字が完成を現わす数字
とされているのです。
そうした神の働き、光の輝き、生命の働きを、人間各自は、自己のうちにもっているのであっ
て、このいのちの働きを、天命の通り、天の使命通りに働かせ得る人、運用出来得る人を神の使
徒といい、自己の運命を完成させた人といい、天命を完うした人、というのです。
天命のままに創り出してゆく人こそ、偉大なる人というのです。そうした偉大なる人物がたく
さん出現してこなければ、この地上世界が、天国浄土になることは出来ません。
白光への道72
天命を完う出来る方法
どうしたら、そのような人物になり得るのでしょう。自力で成り得る人は、勿論そのままで結
構ですが、人間の殆んど大半が、運命という言葉の意味も知らず、自己の天命の何んたるかも知
りません。
少数の偉人だけでは、この彪大な人口の世界を大調和させることは出来ません。どんな人にも、
少年にも出来得る方法で、自己の天命を完うすることが出来なければなりません。
現今までには、真実に自己の天命を完うしている人は甚だ少く、殆んどの人間が、誤つた想念
行為に流されて、生命を消耗しているような状態なのです。
それは、人間がこの地上世界にこうして生存している理由目的を知らないからです。
しかしここではこの点にふれずに天命を完う出来る方法をお話しようと思うのです。
天という言葉を、神といわなくとも、自然としてでも、絶対者としてでも、何等かの力として
でも、いのちの源の力としてでもよいから、そうした或る力から自己に命ぜられた使命が、必ず
あるのだ、ということを心深く認識することを真剣になってやることを薦めたいのです。
人間の一人が、この地上世界に生れてきたことが、何の意味も持たないということは絶対にあ
りません。何んの意味もなく生れてきたものであるならば、人が殺されることなど、何んでもな
いことになるのですが、人間の心の中には異常性格者を除いて、誰れでもが、人殺しは第一の罪
悪であることを、理屈なしに思う心の作用をもっています。
人の為になることを善となし、人を損うことを悪とする、ということなども、教えられなくと
73 天命と運命について
も、自然に認識しています。悪人と呼ばれる人間でも、自己の行為が悪であることは知っている
のですQ しかし、それを強力に打消しては、又悪事を働いたりしているのです。
人間とは、どうしても、人間お互い同志助け合って生きた方が気持がよく、人を傷つけ、損ね
ると気持が悪いように出来ているのです。それを平気でやり得る人は、狂人か、少数の異常性格
者だけであります。
その気持は、どこからくるかといいますと、それは心の中、生命の根源から、表面の意識に自
然と浮び上がってくるのです。生命の根源では、自己も他人も、すべて一つにつらなっているの
ですから、(全く一つの者なのですから)他人を傷つけ、損ずることは、自己を傷つけ損ずるこ
とになるのです、そうした理由を誰れもが知っているわけではないのですが、知る識らないにか
かわらず、他人を傷つけ損ずることは、どうにも気持よくないのです。他人を傷つけ損じて、平
気でいるように見えている人でも、それは表面だけの平気さであって、心の中は、やはり平然と
して愉快であるとはいえないのです。本当に平気でいられるとすれぽ、それは異常性格者、狂人
なのです。
白光への道74
人間は天命を完うする為にこの世に生れる
人間がこの地球世界に生れてきたのは、たとえ、生れてすぐ死ぬ赤児であっても、真実の人類
たま
を創設するための、一役を買っているのです。それは、自己自身のいのち磨き、魂磨きの為でも
あり、又、親となった者の魂磨きであり、天命を完うさせる為の一役でもあるのです。
人間一人一人、すべて天命を完うする為にこの世に生れているのであって、それが判らないの
は、過去世からの誤った想念や行為によるのです。
ほんろう
現在の人間は、自己自身も知らずに、天命を完うしている人もありますが、誤った運命に翻弄
されている人たちの方が多いのです。
現在自己が、悪い運命、不幸な運命にあったとしたら、それは、過去世から現在に至る誤った
運命観によってもたされた運命なのです。
自己の想念の根本に、自己の生れた使命観をもたなかったか、又は、自己という肉体の殻の中
に閉じこもって、他との生命の交流を計らず、自分勝手に、神からきたいのちを、物質と引きか
えに消耗していたか、或いは他人の生命の働きを損い傷つけていたかに違いないのです。ともあ
れ、天命を知らず、自己の生命を、様々な欲望に負けて、いたずらに浪費していたことによるの
です。真の運命を生きていなかったということになるのです。
天命の完うされることを神に祈リ続けよ
神から分れてきた自己の生命から、様々の思考力や想念行為が生れてきたのですが、その想念
行為を、自己の肉体と限定された枠内の幸福だけに使いはじめ、人類の本質から離れ、神の使命、
天命から離れてしまったことによって、その人達の不幸が、もたらされ、大きくは、人類の不幸
75 天命と運命について
がもたらされてしまったのです。
これは、現在の何十年という短い期間の誤りではなく、遠い過去世からの人類の誤りであり、
個人個人の誤りであったのです。
ですから、現在は善い行いをしつづけているけれど、なかなか幸福な生活が顕われてこないと
いっている人もあるわけで、この人達は、現在までの善い行いをつづけつつ、自己の天命が完う
されますように、と神(守護霊、守護神) に祈りつづけているとよいのです。そうしますと、過
すみ
去世の誤ちは軽く速やかに消え去ってゆき、天命が、職業としてではないが、その人の生活して
いる状態の中に必ず現われてまいります。その時は、心がすっきりと割り切れた気持になるの
で、これが天命であると判るのです。
私の話を聞いて、そうだ、とうなずけた人は、今から早速、素直に神にむかって、自己の心の
中にしみこむように、我が天命を完うせしめ給え、と祈りはじめることです。そして祈りつづけ
ることです。神棚の前でなくともよいのですから、楽な気持で、自己の心にむかって、神様(守
護霊様、守護神様) と呼びかけて、天命の完うされることを祈ればよいのです。そうしますと、
次第に自己の想念の中の不安なものが消えて、天命という意識の中に、自己の心が統一してゆく
のです。この祈りは、数多くやればやる程よいのですから、形のことはどうでもよいから、なる
べく数多く祈ることが効果的だと思います。
要は、天命ということを強く意識することによって、天の自分、分霊、直霊にしっかりつなが
白光への道76
ってゆくので、直霊の光が現われの自己、すなわち肉体界に直通してきて、神の理念実現の一役
をっっがなくやらせてもらえることになるのです。
 ヘへ
いつも申しますが、私共のいのちは永遠に生きつづけているもので、天地を貫いているのです。
ヘへ 
その天地を貫いて輝いているいのちの力(霊)を元として、私共の想念(魂)が、生きかわり死
にかわりしているのです。私共のいのちの本体(直霊)は、その光を休みなく働かせつづけ大神
おも
の使命達成に尽しているのですから、私共が、素直に、直霊(神)を憶って、天命の完うされる
こんばく
ように祈りつづけれぽよいわけなのですが、直霊と分霊、分霊と魂魂との間に過去からの誤った
カルマ
想念が、つまり業が蓄積されているので、なかなか直霊まで、新たな想念が通っていかないので
す。そこで、私共の身近かな祖先の悟った人、つまり守護霊をお呼びして、その守護霊と、そし
て、守護霊の上位に直通している守護神とに、直霊と肉体想念とが速やかに連絡出来るように直
霊の光を直接、放射して頂くことの出来るように、周囲の業を浄めて頂くのです。常に守護霊、
守護神に感謝の祈りを捧げていることが、一番早く、自己の天命の道に足を踏み入れることが出
来るようになることなのです。
世界平和と天命の完うされることを祈り続けよう
このことを知らずに、只信仰信仰といったり、
命を完うすることは出来ないのです。
神参りをしたり、教団参りをしたところで、天
77 天命と運命について
最後に繰り返して申しますが、
運命とは自己のいのちを、神の理念の通りに運用してゆくことをいうのです。神のいのちは、
人類共通のものですから、自己の為に、他のいのちを損わせ、傷つけてよいものではありません。
自己のいのちを生かすということ、正しい運用をするということは、同時に他の人のいのちの運
用を援け、大きくは人類のいのちの進展の為、人類世界の真の幸福の為のものである、というこ
とになるのです。
このことは、人類世界の真の幸福の為のものである、ということにもなるのです。
このことは、人類が過去世から幾代かけて、願望しつづけてきたことであって、この世代にお
ヘヘへ
いていよいよ人類が足並そろえて、お互いのいのちを生かし合い、天命を完うしあって、大調和
世界、地上天国を創りあげてゆくということになるのです。私たちは、その一員であることの誇
りをもって、小さな自我欲に負けずに、世界の平和を祈り、天命の完うされることを祈りつづけ
ようではありませんか。
白光への道7s
不動心について
神につながつて揺がない心
不動心とは、読んで字の如く、動かざる心であります。動かざる心とはどういうことかという
と、頭脳を駈け廻る種々の想念にひきずりまわされない心をいうのであります。
人間の不幸というものは、本心(神の心)が、業の想念、誤った想念、つまり、悲哀、憎悪、
妬み、怒り、恐怖などにつつまれて現われ出ることの出来ない姿をいうのですが、不動心になり
ますと、本心が明かに光を放っていまして、業の想念がこの本心をいつまでもつつんでいること
が出来なくなるのです。どうしてかといいますと、肉体人間の中にあります分霊の心が天の直霊
(神の心) としっかりつながってゆるぎない状態でいるからです。
この心を不動心というのです。いかなる悲哀も、憎悪も、恐怖も、本心(直霊) としっかりっ
カルマ
ながっていさえすれぽ、必ず消え去ってゆくものなのです。こうした業の想念は、神仏からの実
79 不動心について
在の心ではなく、三界を経めぐって、消えてゆく幻影のようなものなのです。しかし人間は、そ
うした迷いの想念を、人間の心と誤り信じてしまっていて、その迷いの想念につれてひきずり廻
されてしまうのです。それは真の人間という者をしらないからなのです。真の人聞は肉体人間で
はなく、神と等しい自由自在の生命であるのです。私はそれを直霊とよんでいるのです。ソクラ
テスが、「汝自身を知れ」と云ったのはやはり至言なのです。
自分自身が自由自在なる神の生命であると知ったなら、眼前にいかなる困難があろうとも、は
た又いかなる激しい感情が起ろうとも、それに把われて、身を誤つようなことは絶対にないの
です。何故ならば、本来自由自在なる者が誤つような把われ方をすることはないからです。
白光への道bO
不動心を得るにはどうすればよいか
不幸とは、業因縁に心が把われている状態をいうのですから、把われさえしなけれぽ、不幸は
ないのです。そうした把われから解脱する為には、どうしても不動心にならなけれぽならぬので
す。
直霊と分霊とがしっかりつながって動揺しないでいるこの不動の心になるには、やはり常日頃
から、自分と神とは一体である、とか、常に守護の神霊が自分を護っていて下さる、ということ
を想っていることが大切なのです。神仏を離れてはけっして不動心にはなりません。不動心とは
只単なる度胸等をいうのではないのです。
不動明王が、いかめしい顔して、背中に火を背負い、手に剣をもって立っている姿は、すべて
業因縁、迷いの想念を断ち切る心の状態を現わしているのです。いかめしく厳しい顔は、業因縁
を睨みつけている本心の姿であり、背負っている火は、煩悩を焼きつくす光明であり、手に持つ
剣は、迷いの想念を切り払う降魔の利剣なのです。
観世音菩薩を慈悲心の現われの姿とすれば、不動明王は、峻厳なる本心発顕の姿であるのです。
業因縁の側から見れば恐ろしく、厳しい身震いが出るような姿に見えるわけです。
現今の世界情勢を見、日本の現状を観じます時、その現れの世界の姿の中には絶対といって
いい程救われの姿も安定の状態もありません。只単に一家族だけを見ても、表面に現われた意識
の世界には、真の安定とか、真の平和の姿は甚だ勘いように見うけられます。表面現象の世界に
は確に安心立命の意識も、これで良いのだ、という平和の生活もなく、これからも善くなる、と
いう確固たる目標も見出しません。
七月の巨頭会談は非常に結構なことだとは思いますし、勘からず戦争の恐怖を緩和しています
が、しかしあの会談だけで真の平和が生れ出るとは誰も思う者はいないでしょう。
それは、すべてが、神と直通した心、直霊と一体になった心で、その会談をしているわけでは
なく、四巨頭のいずれもが自国の利益、自国や自国側の利害のみを頭で計算して、交渉している
かちなのです。私流にいうと、業因縁の想いから割り出した智恵や知識で話し合っているのです
から、お互いの理論がびたりと一致するわけがないのです。どちらかがいくらかつつの譲歩をす
8] 不動心について
る位のもので、たいした成果はあり得ないのです。
いいかえれば、いずれもが、不動心でも、菩薩心でもなく自我欲の大きくは国家欲、集団欲、
の想念で掛け合いをやっているのです。
それでなければ、自国の利益や権益をもっと大きく平和的に、持たざる各国に投げ出して掛か
るわけなので、自分達だけが、富や力を大量にもっていて、その力を背景に、おどかし合いや、
ごまかし合いをしていては、真の世界の平和が出来る筈はありません。
白光への道82
世界人類を滅亡から救う只一つの力
根本の考えがまるっきり違っているのですから、そうした世界の立役者達だけにお任せしたと
ころで絶対に世界の平和は出来っこありません。そこで私共は、その一人一人が、先ず人間精神
の根本であり、人類の根本である、本源の世界、神の世界に各自各自が飛びこんでそこから改め
て出発しなおさなくてはならなくなってくるのです。
そして自己の根源、真我(直霊)と一体になり不動の心になって、この業生の世界に、明るい
光、神の光明を放射してゆかねばならぬのです。一人が十人を浄め、十人が百人を浄め、百人が
千人を浄め、業因縁の我欲を次第に浄めてゆくより仕方がないのです。
我欲が無くなれぽ、真実の智恵、神の智恵が本源の世界からこの現象の世界に流れ出てきます。
そこから思いも掛けぬような世界平和の為の名案も生れてくるのです。先ず一人一人が現象の諸
々の迷いの想念にひきずられぬ不動の心になって、神のみをみつめつづけ、祈りつづけて、神我
一体の人間になってゆくべきです。そうした神性から生れ出てくる智恵の波動が、遂いには世界
の立役者達を、真の人間精神、神の子的人間として動かしはじめることになるのです。今のまま
の人間の考えでは人類は必ず滅びてしまいます。世界の予言のすべてが、世界の滅亡を伝えてい
る今日であることを、人々は知らなければいけません。
世界人類の滅亡を救うものは、只一つ、神愛を信ずる不動の心から輝き出でる神の光明のみで
あるのです。
ひたすら神を想い世界平和を祈ろう
神を信じ、そして神の愛を、神の力を自己のものとする祈りをしなければいけません。
それは常にいうように
ヘヘヘヘヘヘへ ヘヘヘヘヘヘへ
世界人類が平和でありますように
ヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘへ
日本が平和でありますように
ヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘへ
私達の天命が完うされますように
へ ヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘへ ヘヘへ
守護霊様守護神様ありがとう存じます
の祈りなのです。
こんなことで何んで世界が平和になるものかなどと、心を動かしてはいけません。
ss 不動心について
神はすべてのすぺてであるのです。神のうちにすべてが存在するのです。みなさんの一人一人
カルマカルマ
は本来は神の器なのです。それが今では業の器になっているか、神と業との半々になっているか
カルマ
しているのです。業すなわち業因縁、キリスト教的にいえぽサタソ、悪魔が、人間の幽体、肉体
を己れのものとして跳梁しているのです。
カルマ
しかし、その業、サタンは実在ではなく、誤てる想念の波動の現れにすぎないのですから、
その跳梁に対して、ただひたすら神を念じて心を動かさずにいれば、必ず消え去ってゆくものな
のですのに、普通一般の人達は、この位の誤りは人間だから仕方がないさ、とか、人間だから迷
うのは当り前さ、だとか、怒ったり悲しんだりするから人間らしいだとか、愛憎は表裏一体だと
か云ったりしています。これは全く人間の本質を認識していないところから出る言葉で、業因縁
を人間と思いこんでいる言葉なのです。人間の智恵や力をこのように低く見る人生観ではいつま
でたっても真の人間世界は出来あがりません。
人間だから迷ってはいけないのです。人間だから怒ったり悲しんだりしてはいけないのです。
まこと
人間だから、愛はあっても憎しみはないのです。そうした人々の感情は、真の人間が顕現する過
程に起っている一現象にすぎないのです。
すべては過去の誤った想念行為の消えてゆく姿であり、真の人間、神性顕現の一歩手前の姿な
のです。
私共は、只ひたすら神を信じ、神を想い、自己と神との一体を念じつづけてゆきましょう。
白光への道84
神愛を信ずる不動心こそ我等を根抵から救うのです。
85 不動心について
真の霊能と魔境
白光への道86
魔境とは自己利益的欲望の現れ
禅宗の坊さん達が、魔境についての忠告をしているのを時折り本等で読みますが、その人達は、
霊眼に映ずるすぺての姿形、例えぽ仏、菩薩像等も、ことごとく魔境の現われである、迷い心の
現れである、と強く否定していますが、私はこれは断見である、一方的な見解であると思いま
す。何故ならぽ、釈尊をはじめ、大弟子の目連、舎利弗、迦葉等は皆、霊眼で仏菩薩や、霊界、
幽界の情景を観ることが出来た人達であり、イエスや、その弟子達も、やはり、そうした霊眼が
開いていたのです。只、それに把われてはいけないということの注意は絶対に必要なのです。
といって、近頃の低い行者層のように、霊眼霊視を売物にして、何か特別に自己を偉大視させ
ようとすることは、これは又困りものです。
そこで、真の霊能と、魔境的、迷い心の幻覚、幻聴との区別を、どういうようにしてつけたら
よいかということになります。
初め、人間にとって危険な魔境的、幻聴、幻覚とはどういうものかをお話しましょう。
魔境とは、先ず最初に、自己の力を誇示したいとか、自己の都合のよいようにその力をつかい
たいとかいう想念でなった霊眼、霊聴、霊言のすべてをいいます。そうした想念が魔境的想念な
のでありますから、そうした想念、そうした統一でなった霊能は、全部一度うちけして、もとの
普通人に還えらなければいけません。それは例えば霊限に仏・菩薩の姿が観え、霊聴に神と称し、
キリストと名のってきこえてきても、これは駄目なのです。何故というと、自己利益的欲望では、
絶対に神仏の真の力を頂く境地にはなれないからです。しかもそのような欲望的境地でも、亡く
なった人の姿が観えたり、現象的には適中する霊聴、霊言の力にはなり得ます。そして、その場
その場の細かい御利益も与えられます。しかしそれだけの話で、魂の開発向上には少しも役立た
ぬぼかりか、遂に自己の身を滅ぼし、ひいては他人の魂を傷つけゆがめてしまうようにもなる
のです。
それから、善し悪しかまわず、はっきり、いってしまう霊言、人をおびやかし、.人の勇気をく
じくような霊言、人と人とを不仲にさせるような霊言等々、それが実際に当っていても、これら
はすべて魔の境地からなる霊能というべきなのです。
それでは真の霊能とは、どういう現われをするのかといいますと、真






87
愛の深さが霊能の最大条件
まずその人の、愛の深さが、最大の条件となります。愛が深いということは、魂の清さ高さを
単的に現わしているからです。自己を深めたい、人を救いたい、人の為に働きたい、人の世のた
めに全力を挙げたい等々、常に自己の力を他に捧げたい、という愛の心が根本になって、開発さ
れた霊能であることが第一です。だがいかに深い愛をもっていても、霊視、霊聴、霊言を審判も
せず、ただやたらに信ずるようではいけないのです。霊能があったからといってすぐ有頂天にな
ったり、すぐ人に告げてみたりする軽卒さでは、守護神はその人に及第点を下さらないのです。
もしその人に深い洞察力がなければ、出てくる霊能を否定しつくすことです。否定して否定して、
否定しつくしても、どうしても消えぬ霊視であり、霊聴であり、霊言であったら、それはやはり
真実のものと判断すべきです。
しかし、もっと危険性のないことは、出てくる霊視、霊聴、霊言に把われず、我が天命を完う
せしめ給えの祈りと、守護霊、守護神の加護を念じつづけることです。
そうしていさえすれぽ、霊能になる天命のものなら、必ず善き霊能者として社会人類のために
働かせて下さるのです。
もし、そうしているうちに霊能が消えてしまったとすれぽ、その人の素質が外に現われる霊能
ではなく、内部からの直感的働きとして、職業生活を通して、天命を完全にとげてゆく素質であ
白光への道8s
るということになるのです。
真の霊能はすべて守護神の指導によるものであり、
魂達の興味本位の肉体界への働きかけによるのです。
魔境的、外道的霊能は、幽界の悟らざる霊
89 真の霊能と魔境
90
南無阿彌陀仏と南無妙法蓮華経との相違点
白光への道
お念仏の真義
仏教信者の中には現在、南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経と唱える二つの派が大きな勢力となっ
ていますが、この二つの唱名がどのような相違をもつものかを、はっきりしっている人は非常に
勘いのではないかと思います。
南無阿弥陀仏を唱えるとしても、実際は幾通りもの唱え方をしているのですが、浄土派的唱名
は、南無は帰命するということ、生命の源に帰るということ一つになるということで、西方極
楽浄土に御座す阿弥陀仏と一つにならせ給え、というようになります。それをもっとはっきりい
いますと、西方極楽浄土という言葉を、眼にも見えず、手にも触れないけれど宇宙に充満してい
る仏の世界、光明燦然たる苦難の少しも無い世界、完全円満なる世界と訳し、そのような世界に
仏と一つに住まわせて下さい、と願う唱名になるわけです。簡単にいえば、阿弥陀仏、私を救っ
て下さい、というようになるのです。阿弥陀仏という名で表現されている絶対者(神) にむかっ
て、人間側から救って下さいと願って、唱名しているわけです。しかし同じ浄土派でも一遍上人
のように、自分の中の仏が、阿弥陀仏と一体になる唱名だ、といっている人もあります。
とにかく、仏と一体とならせ給えという唱名なのです。ですから、念仏というのは総体におだ
やかな、静かな、柔かなリズムを持って、熱情的な激烈な高揚した調子は見られません。何か懇
願的なひびきをもっているのです。しかし一遍の念仏踊りのように高揚したものもありますが、
これは内部の仏が宇宙神である阿弥陀仏と一つになるのだ、という一遍上人の大乗的悟りによる
内容的明るさにょる高揚であり熱情であるのですが、一般的にはやはり懇願的ひびきをもってい
ることはいなめません。
南無妙法蓮華経とは
ところが一方南無妙法蓮華経の方はどうかといいますと、
南無はやはり帰命とか生命の源とか訳しますが、妙法蓮華経という後の五文字が、南無阿弥陀
仏という唱名とまるで異なる内容をもっているのです。
妙とは、妙なる実相とか、妙々不可思議とかいう、実在、即ち絶対者(神) の表現なのです。
ヘへ
法とは、のりのことであり、法則のことであり、理念のことなのであります。妙(神) の法則、
或いは神の意志、理念の宣言、つまり神が表現されたということになるのです。
91 南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経との相違点
はな
蓮華というのは一つの言葉で、蓮の花のことであります。蓮華は泥中に咲く華でありますから、
カルマ
これを地上界の業の汚れの中で華開く、つまり、悟った、ということになるのであります。この
場合の悟ったということは、正覚を得たということで、前の言葉につながって、
「神の法則を、或いは意志を理念を、この地上界において立派に華咲かせた。つまり完成させ
た、そして生命の源に、この地上界にいながら一っになっている。」ということになります。も
っと易しくいいますと、「私はすでにこの地上界において正覚を得た仏なのだ」ということにな
ります。ですから、南無妙法蓮華経とお題目を唱えることは、私は仏である私は覚者である、そ
の経を今ここに唱えているのである、ということになるのです。
この理を知って、よくよく南無妙法蓮華経と唱えている調子を聞いてごらんなさい。非常に高
い調子の、高揚した、堂々として確信に充ちたリズムをこのお題目はもっているではありません
か。
「私は仏なのだ、覚者なのだ、さあ、みんな私の下にいらっしゃい、みんな救ってあげます
そー」というようにきこえるのです。
それを、南無阿弥陀仏と同じように考えこのお題目を唱えれば自分が救われる、と思って唱え
ている人が、どれだけ多くいるか計りしれません。
白光への道92
言葉の意味を知らず唱えるのは危険
南無妙法蓮華経は自分や自分一家を救って貰うために唱えるものではありません。世を救い、
国家を救い、人類を救うために、自己の生命を投げ出し得る人達、つまり菩薩級の人達が唱えて、
はじめて、その意義が現われるので、単なる一般民衆が、自分を救ってもらえるつもりで唱えた
りしたら、実に危険なことだと思うのです。
言葉はすなわち神なのです。ですから一度表現された言葉は、その内容にもつ意義の通りに動
いてゆくのです。言葉の意味も知らず、その意義も知らず、やたらに唱えたり、しゃべったりす
ることは非常に愚かなことなのです。昔の武士や、戦争中の軍人などには、南無妙法蓮華経を唱
えていた人がたくさんありました。これは、それでよいのです。何故ならば、武士や軍人は、常
に主家のため、国家のために一身一命を投げうつ心境にあるのです。いわば菩薩的心境にあって
一身一家のことを顧みる心の閑はないのです。一身一命を常に犠牲的立場に置いているのです。
ですから、南無妙法蓮華経のような大乗的意義をもつ題目の唱名がぴったりするのです。
これを南無阿弥陀仏でやってみると、その比較がよく判ります。一度声を出してやってごらん
なさい。実によく判りますから。
日蓮上人もそのことをよく知っておられたと見えて、法華経の行者は、種々の法難に会うであ

ろう、とはっきりいっているのです。それは当りまえなのです。私は仏だ菩薩だ、みんな碕って
いらつしゃい、救ってあげます、と宣言しているのですから、肉体の人はおろか幽界からも救わ
かか
れたい霊魂が、我も我もと愚ってくるのです。呼びよせて置きながら、自分自身にそれを浄め救
93 南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経との相違点
う力がないのですからたまりません。種々な難がやってくるのです。しかもはじめは、このお題
目を唱えれば救われる、と信じていて、精神が高揚していますから、種々なものが悪ってきても
それを払いのける力がありますが、次第に力が弱ってくると、本来が悟って唱えているわけでは
ひようねん
ないのですから、次第に悪念に身動きならなくなってくるのです。
もし、自己に浄める力の無いことを悟ったならば、先ずお題目にさきんじて、守護霊、守護神
の加護を念じ、守護霊守護神に葱ってくるものを浄めてもらうつもりで、南無妙法蓮華経と唱え
ればよいでしょう。そうすれば、そのこと、そのものが、菩薩行になってゆくわけです。
この理を知らず、念仏もお題目もすべて同じなんですよ、と教えている宗教家もありますが、
とんでもないことで、困ったものだと思うのです。
白光への道94
人間神の子観と凡夫観について
強盗に花嫁を世話した老夫婦の話
先日、何気なくラジオのスイッチを入れると、老夫婦の公園作りという題目の放送がなされて
いました。それは藤野繁という老人とその老妻とが、近所の子供たちの為に、土地を買って公園
を作ってやった話を、アナゥソサーが当の夫妻に種々と問い訊ねている放送でした。
その老夫妻の話の中に、強盗にお嫁さんを世話した話というのがありました。その話の筋は、
ある夜、この老夫妻の家へ、四人組の強盗が押し入って、日本刀の抜身を老夫妻につきつけなが
ら、家中を手当り次第に物色しはじめたのですが、何処を探しても、あまり現金が無かったらし
いのです。強盗が少し探しくたびれているのをみて、老夫妻は気の毒になって、(私がラジオで
聞いていると、実際この老夫妻は強盗たちに同情の気持が湧いたらしいのです) 「まあ、その刀
を置いて、お茶でも沸かすから、御飯でも食べて、ゆっくりまた探したらよいだろう」と老夫妻
95 人間神の子観と凡夫観について
が交々に云ったというのです。この時老夫妻は、抜身をさげた強盗たちが、不思議と恐しくなか
ったそうです。
そうしてお茶を沸かしはじめたりしていると、強盗の一人が、眼に涙をたたえている様子なの
で、この強盗にも良心があるらしい、この分なら、少し説いて聞かせれば、心を改めるかも知れ
ぬ、と思って、夫妻で種々と話してきかせ「職がないから、こんなことをしているのだろうから
職は私が探してやるから、朝になって改めてやって来なさい」と云ってきかせ、散々にちらかっ
ている現場はそのままにして置いて、警察にもとどけず、その翌日まで待っていますと、その強
盗の一人は、また改めて翌日夫妻を尋ねてきたのでした。そこで、老夫妻は、その強盗に職を世
話しようとしていますと、他の三人が盗んで入質したモーニソグのポケットから、藤野さんの名
刺が出てきて、直ちに四人共御用になってしまいました。そこで藤野老人は、知人の辮護士を頼
んで、前科のある一人を除いた後の者を示談にして許して貰い、そのうちの一人を、自分が世話
して、嫁まで持たせたというのであります。
また、警察から頼まれて、前科八犯の男の世話もした、という話も、なんの飾りもなく、この
老夫妻は代り合って話していました。私はその放送を聞いていて、胸の熱くなるのを覚えました。
なんという、素朴な純真な、愛深い人達であろう、こんな温かな、こんな愛深い、こんな善良な
人が、市井の片隅に、ひっそりと、善事を善事とも思わず、愛情を一杯心に秘めて生きていて下
さることの有難さに、思わず胸を熱くしたのでありました。
白光への道96
この話は、レ・、、・ゼラブルの、・・リエル僧正にそっくりではありませんか。抜身をさげた強盗の
前で、その強盗を恐れず温かい言葉がかけられる、ということは、この人たちが、余程常々から
人間の善性を、はっきり自分たちの心深く認識していたからに違いありません。人間の悪性の方
を強く思っている人には、到底この真似は出来るものではありません。常日頃からのこの夫妻の
人生観が、人間の性は善なり、人間神の子、の観点に立ってたからに違いありません。もっとも
この人たちが意識的にそうした観点に立っていたかどうかは判りませんが、意識しようとしまい
と、この夫妻の心は、悪なるものを認めていなかったことは、実際の夫妻の行動がはっきりしめ
しているではありませんか。
私はこうした生活態度が、宗教そのものであり、神の子そのものであると思うのです。悪は無
い、と説きつづけながら、他人の欠点や悪を、裁きつづけているような宗教的な人には、こうし
た実生活の、生きた見本にみならうべきでありましょう。
であるからといって今日までそうした生活になれない人が、急に藤野さん夫妻のような生き方
が出来るものでもありません。急にそんな真似をしようとすると、生兵法は大怪我のもと、とい
うことわざ通りになりかねません。物事には、常に、普段からの時間をかけた練習が必要なので
あります。永い問の心の修練によって、その心がけが、第二の素質となって師叙法爾晦に・その
言動、行為、となって現われるのであります。
97 人間神の子観と凡夫観について
片寄つたひとりよがりの生き方
宗教の教えには、法華経的な、人間神の子、仏の子という式に、人間は本来神性であって、悪
じんじゆう
や病気や不幸は無いものである、という生き方と、我々は罪悪深重の凡夫なのである、という教
えと、表面的な解釈によると、この二つの生き方があるように見えるのです。
そして、この二つの生き方の、どちらかに固執して生きている人が、なかなかたくさんあると
思われるのであります。
人間神の子、仏の子、という教えを、片言的に把えて、自己の宗教としようとしている人々は、
 ヘヘヘヘへ
実に高慢不遜な、同情心のない、いわゆる人間味のとぼしい、ひとりよがりの人になりがちです。
病気で臥っている人を見れば、「神の子に病気などあるものか、直ぐに床をたたんで起きなさ
い」というように、相手の心境も病状も顧みず、起き上らせようとしたり、
「神の子の家に泥棒など入るわけが無いのだから、鍵などかけて置く必要はない」と自分の家
だけならよいのに、お節介に他人の家に出掛けては、「君は神の子であるということを忘れてい
るから貧乏するのだ、神の世界に貧乏などは無い」等と、愛情や同情心からでなく、自分の悟り
を誇示する為に説教して歩く人が、かなりあるのです。
まこと
この説教の言葉だけ聞けば、全くもっともで、真にそれに相違御座いません、と恐れ入るとこ
ろなのですが、残念ながらこの説教者は、罪悪深重とまで親鴛が嘆いた、人間の一方面の因縁性
白光への道98
というものを忘れ果てているのです。
この地球人類の現在の肉体身において、全く業因縁性を超えた、神性そのもので生活している
人は皆無といってもよい程少ないのです。この地球人類というものは、業因縁因果の波動の中で、
その神性を輝やかそうとして努力しているものなのですから、業因縁性を全然度外視して生きて
ゆけるものではありません。
そこに、業因縁性を全く度外視した、神の子的生き方の無理があるのであります。現にここに
肉体という業因縁で出来ているものがあるのを、神の子実相完全円満主義者も、見逃すわけには
ゆきますまい。ところがこの人たちは、肉体は無いのである、と云いたいところなのでしょうが、
それは、釈尊のような大覚者のみが云い得ることであって、その他の人々が、言葉だけでやすや
すと云えるような言葉ではありません。
と云いましても、私も、神の子の実相完全円満論者なのでありまして、人間神の子を常に説き
つづけているものなのでありますが、私の説き方は今までの神の子論者たちとは、少しく異なる
ところがあるのです。それは次第に述べてゆきましょう。
明るさに欠ける凡夫的生き方
ところで一方の、人間は業因縁の深いものであって、どうにもこうにも仕様のないものだと、
罪悪深重の凡夫という言葉の裏にもつ深い意味を知らずに、この罪悪深重の几夫である、という
99 人間神の子観と凡夫観について
ところに自分の生き方を置こうとしている人々は、人間は神(仏)の子である、等というと、「馬
鹿を云うな、そんな大それたことをいうな、おまえは思い上がっている、人間は罪深いものなの
 ヘヘヘヘへ
で、どのようにへりくだってもまだ足りないようなものなのだ」と、神の子論者を攻撃するもの
であります。ところが、こうした人々は、勿論高慢でも、不遜でも無く、お互い同情心も深いの
でありましょうが、この人たちはと角、明朗性、積極性に欠け、この世における天国浄土を創り
あげる、気力が見られないのであります。自分がこの世にありながら、自分の内部の神性を発揮
して、法華経的世界を、この地上界につくり出そうとは思わず、外面的な阿弥陀仏、あの世での
救い、(これさえも真実にそう思っているかどうかは判りません)に依頼しているのであります。
私はこうした凡夫観は、やはり片面的で、真理の道に到達することは不可能であると思うので
す。キリスト教の人々の中にも、これに似通った想い方で生きている人もなかなか多いのです。
それは、やはり自分たちは罪深いものであって、イエス様にすがるより他に絶対に救われようが
無いのだ、神の子とはイエス様だけであって、自分たちが神の子である等と考えることは出来な
い、と、常に自分の罪業というものに抑えられつづけている人たちであります。
この人たちも、どうも真の救われに入りそうにも、真の道を歩んでゆけそうにもありません。
罪悪深重の凡夫と云ったり、罪深い人間なのだ、と云ったりするだけでは、いくら南無阿弥陀
仏と西方極楽浄土にすがり、イエスキリスト様と云って、天国にすがったところで、その人の中
に、仏の光、神の光がなければ、とてもその人が極楽浄土に住まい、天国界に生活するわけには
白光への道100
ゆきません。
何故かといえば、玉は磨けば光りますが、瓦はいくら磨いても玉のように光り出すことはあり
ことわり
ません。自分の仏性、神性を否定する人は、自分を瓦と見ていることになります。そうした理を
よくよく考えてみないと、仏にひざまつくつもり、神に対し自分を低くするつもりが、かえって
人間自身のうちに存在する神仏を、汚し蔑すむことになるのであります。
神は絶対者であって、絶対の愛、絶対の智慧であります。その絶対者が、罪悪深重の凡夫だの、
罪人的人間を創られるわけがありません。しかも、神は、人間を自分の姿に似せて創られたと、
聖書には書かれてあります。神自身に似せて創られた人間が、罪悪深重だったり罪人だったりす
おかし
ることの面妖さに気づかなければなりません。
本心と業想念を区別せよ
いつ、どこから、そんな間違ったことが起ってきたのでありましょう。それは、本心と業想念
を混合してしまって、人間自身と思い違えてしまったことから起ったのであります。ひゆ的にい
えば、木に彫刻された像と、彫刻する為に削り取られた木屑とを、こちゃまぜにして、完成像と
見まちがっているようなものであります。
像は勿論本心(神の子) であり、木屑は業想念であります。
ですから、神の子という場合でも、罪悪深重の凡夫という場合でも、その云い方、想い方を、
101 人間神の子観と凡夫観について
はっきりしないと、かえって神仏から遠ざかってしまうのであります。
人間は本心において神の子、仏子なのであり、業想念においては、罪悪深重の凡夫であり、罪
の子でもあるのです。この区別をしっかりすることが出来なければ、この地球人類世界は永劫に
救われることは無いと思います。
無神論はひとまず別として、神とか仏とか思ったり、云ったりする人々の中の大半は、凡夫の
自分が、神仏に救って貰おうとして、外面的の神仏にすがってゆく生き方であります。神仏と自
分とを、別々に存在するものと思って、そうした天地程の距離感をもって、神様、仏様、お救い
下さい、と祈ったり、念じたりしているのであります。
そうした宗教観の人々の心には、どうしても、神仏が自分と親しい間柄である、親のように自
どれい
分と一直線につながっているものであるというようには感ぜられず、主人と奴隷の間柄のように、
へだヘへ
非常に距たりを感情的にもっていて、一寸でもへまをすれば、すぐにもおとがめを受け、罰せら
れるように思い勝ちなのであります。
その為、日常生活が、ともすれば、誤ちを冒すまい、間違いを致すまい、というように、消極
的になってゆき、神仏の本質である、光明燦然はおろか、明朗澗達な、おおらかな生き方さえ出
来なくなってゆき、無神論者の、自力だけで押し通す、強力な行動に抑えられ、押しつけられて
しまうのであります。
暗さや、陰謬さ、不明朗さは、神仏の好まないところなのです。それは、地球界の万物を生か
白光への道102
している太陽をみてもお判りのことと思います。暗さ、陰欝さということは、それだけで、神仏
を離れていることになるのです。
一方少数ではありますが、神の子人間的生き方の人があります。片寄った神の子人間的な生き
方は、確かに明朗で、積極的ではありますが、肉体人間の業因縁性、業想念の循環の力を無視、
或いは軽視して、軽はずみな言動をしていることは、さきにも申し上げた通りであります。
こうした人々が、一度び、業因縁性の力につまついてしまうと、今度は、神というもの、神の
愛というもの、宗教というものに大きな疑惑を抱きはじめ、因縁因果説、心の法則説等の精神科
とりこ
学法則論の虜となってしまい、神仏をかなりはなれた、こう想ったから結果がこうなった、ああ
想ったから、ああなった、と神仏の愛を離れた、三界は唯心の所現式、精神分析で、自分の運命
は、自分自身が創るのだ、と、業因縁の横の波の世界をぐるぐる廻りはじめるのです。
これは、観念的、空観の持ち主の地上界から足を浮かした生き方と共に、余程気をつけぬと、
唯物論者に嘲笑される形をとるのであります。
本心は神の子、罪想念は消えてゆく姿
そこで、これらの宗教観に比較して、私の生き方を述べることに致します。毎月白光誌や私の
著書で私の説をお読みの方も、前者の生き方と比較して読まれると、より深く私の説が判ってく
ると思います。
103 人間神の子観と凡夫観について
私は前にも述べてありますように、本心と業想念とをはっきり区別することを、先ず第一番に
説いているのであります。
人間の本心は、人間の内面にあって分霊、直霊として、絶対神につながるものであります。業
想念は、そうした本心から離れた、肉体身保存のための、個人的小我が、利己的欲望想念行為と
なり、過去世から久しく、個人及び、この地球人類世界に、波動となって蓄積されていたもので
あって、いくら表面的意識想念、或いは運命、行為に現われてきても、把われさえしなければ、
そのまま消え去ってゆくものである。であるから私たちは、本心(神) の方に想いをよせて、ど
のような誤った想念、行為が、そこに現われ、どのような運命がそこに実現してきようとも、す
べて消えてゆく姿として、掴まぬようにしなければならぬ、と説いているのですが、それだけで
はとても、そうした業想念の循環の波にかないませんので、守護神、守護霊の救済の力を説くの
であります。
白光への道104
法則の神と愛なる神に区別する
私は人間界に働いている絶対神の力を、生命自体の法則的に働く神と、守護神的、救済面に働
く力とに分けて説いているのです。どうしてそのように説くかと申しますと、生命自体としての
法則的神では、現在誤った想念行為の中に溺れこんでいる人間を救うわけにはゆかぬからです。
私は、自分の体験から、内部の直霊、分霊と、外面的に自分に働きかけている、守護霊、守護
神の存在を、自分の肉体が此処に、こうしてはっきり存在すると同じように、確実に知っている
のであります。
自分自身が、生々とした霊的体験をもたない、知識だけの宗教者は、人間は神の子であり、仏
性である、ということや、色即是空、空即是色や、三界は唯心の所現等という言葉を、体験とし
てではなく、頭脳的知識として、それがあたかも、自己の体験のごとく、知っているように思い
やすいのです。そして、そうした真理を、自己の体験からではなく、知識の言葉として、人々に
教えようとするのであります。
そこで、様々な行き過ぎた事柄が発生し、真理の言葉がかえって人々を戸惑わす結果になって
しまうのです。それはその教える側の人々が、法則の神と守護神、守護霊を区別することが出来
ないぼかりか、法則が、懇願的祈りによって変化するものと思ったり、(神の法則がいちいち変
更されたら、この宇宙は目茶苦茶で、統一がなくなってしまいます)三界は唯心の所現、つまり
自分の想う通りになる世界、ということに把われて、因縁因果の波は超えられないといって、悪
想念の存在を肯定させたり、或いはその反対に、自分の想う通りになる世界だから、病気が無い
と思えば無くなる、あの人は善い人だ、善い人だと思えば、どんな人でも善くなる、金持ちにな
る、金持ちになると思えぽ金持ちになる、といった工合に、誰れでもすぐにでも、自分の想い通
りの善い世界が出来るようなことを説いたりしているのであります。人













105
知識だけの指導では救えぬ
このように、真理を、片言まじりに知識として知っている人に指導されたら、指導される方が
可哀想なことです。このような片言的指導では、教わる人々が、いつかは、必ず行きづまりに来
てしまい、宗教的にならなかった以前よりも、心の乱れが多くなってくるのではないかと思いま
す。
この世が、想う通りになる世界であり、念力の強い人程、この世の勝利者である、という言葉
は、宗教的な言葉のようであって、実は神と悪魔とを半々に持ったような言葉なのです。
何故かと申せぽ、善い想いでも、悪い想いでも、一念凝らして念ずれば、成就されるというこ
とになり、想念の戦いの世界となるのであります、現在の世界が恰も、その通りの世の中である
のですから、三界は唯心の所現(想う通りに現われる世界)という事実を超えたところに、真実
の宗教世界があるのだ、ということを、私は皆さんに知らせたいのであります。
三界は唯心の所現とは、事実その通りの言葉でありながら、それが宗教の言葉だと思ったりす
ると、個人の平安も、人類の平和も絶対に築くことは出来ません。
人間神の子という事実も、罪悪深重の凡夫、罪深き人間等の言葉も、それが個々別々に説かれ
て、統一性を持たない限り、真実の救われの言葉とはならず、人を驕りたかぶらせ、或いは陰欝
にならしめる言葉となってしまうのであります。
白光への道106
宗教の教えは、終始一貫していなければなりません。或る時は罪悪深重の凡夫と云い、或る時
は光明燦然たる神の子と云ったりすることや、運命は心で変えられると云った口の裏から、因縁
因果の波は超えられぬ、と云ったりすることは、一体どちらが真実なのか、衆生は困惑するであ
りましょう。また、敵を想えば敵が現われる、だから敵を想定してはならぬ、と説いている人が、
再軍備を強固にしなければ、敵にやられると説いていたりするのは、実に笑止であって、その人
の、論理の大きな矛盾には頭を疑いたくなるのです。
釈尊は、唯心の所現等の小乗的教えの後に、人間はそのまま仏である、という法華経を説いて
いて、今まで説いていた教えは真実の教えではなかった、と云っているのであります。
わけ
これはどのような訳かと申しますと、三界は唯心の所現、今日でいう心の法則、因縁因果の世
界は、肉体人間にからまっている世界であって、真実の人間世界、霊の世界、神仏の世界のこと
ではない、真実の人間世界とは、神仏そのままの世界であって、業想念の波動の循環とは関係の
ない世界なのであるから、私(釈尊)が今まで説いた肉体人間への教えを超えたこの教(法華経)
の世界に、皆の想いを昇華させなさい、という意味なのであります。
こうした釈尊の教えを、ばらばらに解釈して種々な宗教団体が出来たのでありますが、小乗を
くう
説けぽ、小乗に把われて、片言的であり、法華経や、般若心経を説けぽ実相に把われ、空に把わ
れて、この肉体生活の現実、因縁因果の渦巻き、業想念の強い力を、無視した教えを説こうとす
るのであります。そこには、どうしても無理が生じ、人間を真実の救いの道に導き入れることが
107 人間神の子観と凡夫観について
出来なくなるのです。
108
無理なく明るく神の世界へ昇つていくには
私の教えは、どうしたら、法華経的実相界(神仏本体界)と、小乗的因縁因果の肉体世界を、
無理なく、楽々とつなぐことが出来るのか、という苦悶の末に出来上がった教えなのであります。
それが、絶対神を二つに分けて考えることになり、一方を法則神として、一方を守護神とした
のです。そして法則神を生命そのものの働きとし、生命そのものの人間への働きの最根源を、直
霊と呼び、その枝の働きを分霊と私は呼ぶことにしたのです。これが人間の内部の働きであり、
肉体、幽体、霊体と深く微妙な働きとなっていると説いているのであります。
しかしこの生命の働きが、分霊の働きとなり、幽体、肉体を創った頃から、個々人の体が波動
あら
の粗い、物質的体となってきたので、お互いの生命の同一性、つながりが判り難くなり、お互い
の個体を護ろうとする、業想念、業因縁、つまり個人我、小我が生れてきた、そして遂に現在
のような、神と人間とが別々に相離れた世界、迷いに充ちた世が出来てしまったのである、と説
くのであります。この辺が、三界は唯心の所現、想う通りになる世界、心の法則の世界なので
す。
もと
そこで、この世界を超越して、本の世界、神仏の世界に人間が到達するのにはどうしたらよい
か、という一番大事な重要な説明にかかるわけです。
白光への道
それが守護神論、つまり私の常にいう、消えてゆく姿ということ、守護霊、守護神への感謝と
いう二つの想い方ということになるのであります。
ここまで来ると、人間神の子という真理も、罪悪深重の凡夫、罪の子という言葉も、そのまま
生きてきて、人間の救いとなり、悟りへの言葉となってくるのです。
なぜ生きてくるかといいますと、釈尊の教えが、完全に統一されてきて、小乗から大乗に理屈
でなく、知らぬまに、昇ってゆくことが出来るからであります。
かつ
空だ無だと意気ばることも、肉体も物質も無い、病気も不幸も無い、という喝のような言葉も
じねんほうに
必要がなくなり、自然法爾的に神の心、つまり本心が開発されてくるのであります。
もっと細かく説明しますと、この世は本来、神仏だけの世の中でありまして、悪や不幸や病気
等がありようがないのですのに、実際はそうしたことがある、というよりそのような事態の方が
多いのであります。
しかしよくよく考えますと、どうも神様の創られた世の中が、悪いことで充ちているというこ
おかし
とは非常に面妖なことです。ここに否定と肯定の二つの面が現われてくるのであります。悪の否
定は、神の子、仏子円満完全という、悪も不幸も病気もある筈がない、という考え方、悪の肯定
は、罪悪深重の凡夫、罪の子という考え方です。反対に善の否定は、人間はどのように修業し磨
こうと決して神仏には成れっこはない、だから、神仏にすがってあの世で天国や極楽浄土に生れ
させて頂こうという、念仏門や、キリスト教の一派の行じ方となり、善の肯定は、神の子人間また
109 人間神の子観と凡夫観について
は、山川草木悉皆成仏、という考え方であります。
ところが、こうした二面の考え方は、すべて、肉体人間が人間の本体であることを否定しなけ
れば成り立たない考え方であることを、人々はともすれぽ忘れ果てて、こうした真理をもてあそ
んでいる傾向にあるのです。そこで私は、はっきりと、肉体世界にまつわる想念所業を、すべて
一度び業想念として突き放つことを教えているのであります。それは善悪を問わず、すべて消え
てゆく姿として、その想いを執われさせぬことを説くのです。
そうして、一度この肉体世界を全否定させてしまって、その想いを本心(生命の根源) に直通
させる為に、人間を外面的に守護し、人間の運命を、生命(神) の本道に乗せていて下さる守護
霊守護神への感謝行に向けかえさせてしまうのであります。そして、それと共に、この現象世界
に直接関係ある、世界人類の平和の祈りをさせるのであります。
ですから私の教えには、自分が悪いとか、人が悪いとか、自分が善いとか、世界が悪いとか、
病気だとか、不幸だとか、そうした神の姿に似ていない姿は、すべて過去世からの業想念所業、
神仏を離れていた人間の誤った想念行為が、消え去ってゆく為に現われている姿としてあるので
す。
こう考えますと、人間同志、責め、裁き合うことも、肉体人間をいやしむこともなく、人間
が、病気や不幸や、善悪にあまり把われずいつの間にか、そうした現象の変化に心をわずらわさ
なくなってゆき、ロハ一筋に神仏である、自己の本心、本体につながってゆくのであります。そし
白光への道110
て、そうなる為には、自己が常に守護の神霊に護られているのだ、という観念を強めるように、
守護の神霊への感謝の中に生活してゆけ、と説いているのです。
宗教の教えは、無理があったり、観念論であったりしてはなりません。その気になれば誰れで
も自然と行じられて、日常生活そのままに、明るい気持で、そのまま神様の世界に昇ってゆける
ものでなければなりません。私の教えは、そうした点に重点を置いた、一般大衆の宗教であり、
易行道であると信じております。
111 人間神の子観と凡夫観について
112
眞の感謝行について
白光への道
空々しい感謝の言葉は止めよう
先日、石川達三氏原作の「自分の穴の中で」という映画を観ました。
この作品は、同氏の「悪の愉しみ」等と共通した意図をもっている作品で、人間のもっている
あらゆる妄念、つまり、利己心、色欲、物質欲、愛の不足、それに伴うこの世の無常観、絶望、
そうした生命への不徳行為をさらけ出して画いています。
そして、人間はこれではいけない、これでは社会がだめになってしまう、という作者の哀しい
迄の叫び声をその作品の底にひびかせているのであります。
この映画では、愛の心を利己心によって見失ってしまっている、哀れな兄妹の不幸な結末を画
き出しているのが、説教ならざる説教になっていて、人の心を打ってくるのです。
こうした悪徳行為、愛にそむいた性格を画き出すことによって、かえって善心への憧憬を感じ
させるのは、作者の文筆の秀れた手腕によるのでありましょうが、それよりも、作者の、人間精
神の向上進歩を願う底深い愛の気持が、こうした作品を作者に書かせるのではなかろうかと、私
には思えたのです。
私はこれとはまるで反対な現象を、よく見受けて歎息することが多いのです。
それは、軽々しい善行為の吹聴と、そらぞらしい感謝の言葉の頻繁なるやりとりであります。
これは殆んど、宗教に首を突っこんでいる人達によるのであり、巷の宗教者の、それも人間性
の善なることを認識せしめようとしている宗教に入っている人に多いのですから、私がより深く
歎息するわけなのです。
人間は神から来ている者である、神の子である、善なるものである。こうした言葉は真実であ
り、真理なのであります。真実の言葉であり、真理であるが故に、そう簡単に、やすやすと口か
ら出るものでもなければ、出せるものでもないのであります。
有難いということは
ヘヘヘヘヘへ へ  ヘへ
私は有難いんでございます、という言葉は、真実神によって生かされている自分であり、仏の
慈悲によって生き得ている自分であることを観じ、得難い人間としての生をこの世界に生活して
いられる、という感謝、感激から、思わず出てくる言葉であって、浮ついた口調で、やすやすと
して云えるものではありません。
113 真の感謝行について
有難い、という言葉の中には、神(直霊)と肉体人間(分霊魂) との、はっきりした光の交流
カルマ
が、業生を破って行われた時に、表面意識に知ると知らぬとに拘わらず、こうして生きているこ
と、生かされていることに対する、万感籠った思いのほとぽしり出た言葉なのであります。
事業がうまく行って有難い、病気が癒って有難い、それも有難いのでありますが、この有難さ
ヘへ 
も、神のいのちを善く生き得ることが出来た、という内容を含むが故の有難さ、感謝なのであり
ます。
また、人の愛を受けた有難さ、人に愛を行じた有難さ、これも、その行為に神のいのち、仏の
いのちの顕われを観るから自ずから有難くなってくるのであります。
こうした有難さは、自然であり、深い精神につながる感謝の心であり、言葉でありますから宜
しいのですが、自分の宗教心を人に示そうとしたり、自己の善人なることを他に知らせようとし
ヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘへ
て、私は有難いんでございます、とやたらに自分のをも含めた人間の善行為を人々に吹聴して歩
く姿は、その人間の浅はかな心を人に見せて歩いているようなもので、卑しいものさえ感じさせ
ます。
また、ただいたずらに、すぐ合掌する人がおりますが、合掌なども、そうやすやすと出来るも
のでもなく、するものでもありません。
合掌とは陰陽合体の姿であり、天地合体の姿でもあって、大調和している姿なのです。
こうした真剣な、大事な行事を、軽々しくやってのける癖がつくと、常に浅いところを堂々め
白光への道114
ぐりしていて、いつ迄たっても、真実の世界、神のみ心の中に飛びこんでゆくことが出来なくな
ってしまいます。安易なる自慰行為では、真実の神をつかみ、真実の自己を表現することは出来
ません。
こんな行為をしている人が、宗教人という者の中に多くなってゆけば、神はいつの間にか地下
にひき降されて、無神論者は勿論、神を信じようとしている人達からも、信仰心をマイナスして
ゆく結果を生み出してゆきかねないのです。
ヘヘヘヘヘへ へ
自己の信じていることをいちいち他人に知らせる必要もなければ、しゃべりまくって、自分の
宗教に人をひっばりこむ必要もありません。そんなことより、自己の精神や行為が、自ずから他
の人の内部精神、信仰心を醒めさせ、知らず知らずのうちに、他の人が、その人の周囲に集って
くるようにならなければ、とても、真実の信仰に人を導くことは出来ないのです。
朝の目覚めから就寝迄を、有難いという感謝の心で生活出来る人程幸せな人はおりますまい。
それはやたらに、有難うございます、と言葉に出してみたり、やすやすと合掌したりすることと
は違うのです。その人の全生活が感謝であり、合掌である境地の人は、全感謝であり、全合掌で
あるのですから、殊更に有難うと云ったり、合掌したりする形の姿でなく、全身から温れ出てい
る穏やかさ、柔和さ、明るさ、安けさを、周囲に感じさせずにはおかないと思います。全人格か
ら、そうした.雰囲気を漂わせる人間こそ、真実の信仰者、宗教者といえるのであり、そうした境
地に近づいてゆくことこそ、宗教精神であり、神の子的人間の進むべき道だと思うのです。
115 真の感謝行について
全生活が感謝である人に業はない
自己の身近に如何なる悪と見え、不幸と見えるような事態が起っていようとも、自己がこうし
て生かされていること、そのことそのものが有難いのだと思える人、その人の環境からは、悪と
すみや
見え、不幸と思える事態は、必ず速かに消え去ってゆくであろうことを、私は確信しているので
す。
何故ならば・人間は自由自在なる麟りなき神から来た者であるから、力黙である不幸があるわけ
ヘへ
がないのです。それがあるように観えるのは、過去世からの、神から離れた想念がそう観るので
あって、想念の慣習が、悪や不幸を観念の上に固定化させてしまったのです。
カルマ
ところが業的想念、悪や不幸に自己の心を把われず、自己の生命が、そのまま生きている、生
かされている、只それだけに感謝出来得る心境の人にとっては、神がそこにそのまま碍りなく生
きているのであり、輝いているのであり、業的想念はすでに消え去っていて無になっているので
あります。ですから、現実面においての、客観的不幸の姿もやがては消え去ってゆくのは定まっ
カルマ
た事実なのです。それは、過去世から蓄積されていた分だけの業が出切ってしまえば、その後に
業的想念、悪や不幸の想いを出していないのであって、その人の運命の中に、悪や不幸が蓄積さ
れようがないから、その人の置かれた立場は、神の心だけの世界、光明・愛・真.善・美の世界
だけになってくるわけなのです。
白光への道116
ところが普通は、そのようには考えずに、現在眼の前に現われている不幸を心に掴んで放さず
に〃私は不幸だ、何んという運の悪さだ、こんなことで感謝が出来るか、神も仏もない”等と、
過去の神から離れていた想念行為、誤った想念行為が、今形の世界に現われて消え去ろうとする
時なのに、かえってその不幸と見える姿を掴んで消そうとしないぼかりか、また新しく神仏から
離れた想念、光明から離れた想念、不幸な想念を、自己の心の中、運命の中に蓄積してゆくので
す。
例えて云えば、過去において借金をしていたものが、期日になって払わなければならなくなっ
てきたのを、こんな借金なぞ払えるか、とやけ酒を飲んでまた新しい借金をつくってしまうよう
なものです。実に馬鹿気たことなのですが、実際はこのようなことをやっている人がかなり多い
のです。
物が増えたり、金が儲かったり、地位が上がったりすることにだけ幸福を感じ、喜びを感じ、
感謝の心を起したりしておりますと、物や金が減り、地位が下ったりする時になりますと、不満
の想い、不足の想い、恨みの想い等が起って参り不幸感に陥るのですが、常に、そうした事物の
いのち
変化や環境の変化だけに心を把われず、生命の輝き、生命が生きていること、生命を生かし切っ
て生きることに重点を置いている人は、事物の変化や、環境の変化だけで、不幸感を味わうこと
はなくなってくるのです。
真実の感謝は、そのような心構えや、そうした心の訓練によって、常にもちつづけることが出
117 真の感謝行V’ついて
来るのです。
先日も埼玉県に住む或る中老の女性が、私に〃私は今、やっと真実の幸福の中にいる自分を見
出しています。昔、夫がこうあれば、環境がこのようであれば、といつでも相手の姿や、環境の
中に幸福を見出そうとして失敗していましたが、今は、夫がどのようであろうとも、環境がどの
ようであろうとも、いのちが、こうして明るく生き、こうして生かされていることだけで有難い
のだ、としみじみ、神様の御慈愛を感じさせて頂いております。こうした私のような者が、こう
して毎日生き生きと生かされていることの喜びは、只々感謝せずにはおられません。只、こうし
て生かされていることだけで、私は深い幸福を感じております。有難うございます。有難うござ
います〃と涙を流して申されていました。
その言葉は、いささかの虚色もない、真実の溢れている言葉でした。私はその人のそうした姿
の中に、神としっかり交流している正真正銘の人間の輝くような姿を見出していました。聞いて
いる私迄、有難うございます、と思わず云いたくなってしまった程でした。
こうした心境になりますと、生きても死んでも有難い、有っても無くても有難い、只み仏のみ
心のままに生きてゆく、生かされてゆく仏子の姿そのものが顕われている、ということになるの
です。
こうした心境は永遠不滅のものであって、何千万金にも代え難い尊いものなのです。118 白




善人もて救わるなお悪人をや
安易な感謝でも、口先だけの有難い、でも、習慣的な形式的合掌でも、感謝の心の全くない人
よりも、神仏を全然顧みぬ無合掌の人よりよいではないか、そうしているうちには自然と真実の
深い感謝になり、大調和の合掌迄に心境が高まってゆくのではなかろうか、と云う人があります
が、安易な感謝や習慣的な形式的合掌と、真実生命を礼拝し、生かされており、生かし切ってい
る生命への感謝とは、根本がまるで違っているのですから、そうした感謝や合掌から真実の感謝、
こと
合掌に進歩向上してゆくことはないのです。それは全く範疇を異にする心の在り方なのです。
前者の感謝や合掌は、何度び繰返えされましょうとも、現象利益や、自我感情の満足の範囲を
出ることが出来ません。その範囲は業生の感情の範囲であって、いたずらに輪廻する波の現われ
であり、利己主義を一歩も出てはいないのです。
こうした心的範囲で生活していながら、自分は宗教的であるとか、道を求めているのだ、とか
思っているとしたら、この人達は一度、物質的大損失か、感情的な大悲劇か、その想いの誤りを
指摘してくれる賢者に会うかしなければ、真実の感謝に到達する道の方に足を踏み入れることは
出来ないのです。
親鸞はそうした人のことを〃善人もて救わるなお悪人をやπ の善人の側に廻しているのです。
そのような善人ぶった人たちでも救われるのだから、自己のしたことを、常に悪い悪いと思って
119 真の感謝行について
いるような反省力の強い者が救われるのはあたりまえである、と云っているのです。こう考えて
来ますと、昨日迄宗教心の一かけらも無いように見える人でも、感謝の心の全くないような人に
見える人でも、何かの衝動で、私流に云えぽ、守護の神霊の働きによっては、賢者や覚者に出会
まこと
って、急速に、真の道、生命礼拝の道に入ってゆくかも知れないのです◎
ですから、形式的合掌者、安易なる感謝行者たちが、心の中でそうした人々を軽視することに
よって、自己の信仰心を喧伝したりしていることこそ、真の道に遠いことであると痛感せずには
おられません。
親鸞上人が、愚禿親鸞とか、罪悪深重の凡夫とか云っているのは、肉体の自己、つまり肉体生
活にまつわる想念のことを云っているのですが、この肉体的想念は煩悩そのものであるから、こ
うした煩悩身でいくら悟ろうとしても、とても悟れるものではない、もうこうした肉体の想念で
悟ろう等と自力の心を起さず、すべてを阿弥陀仏にお任せしてしまおう、と、南無阿弥陀仏の六
字の称名にすべてを全託してしまったのであります。
その状態はどういう状態であるかと申しますと、自己が全部無になってしまった状態になった
わけであります。自力ではどうにもならないと自己を捨て切って、阿弥陀様の中に飛びこんでし
まったのですから、阿弥陀様(神様) の中に自己を没入させ、阿弥陀様と一つになってしまった
わけです。そうしますと、自分の生活環境に現われてきます事態は、すべて阿弥陀様の現れに他
ならなくなりますQ
白光への道120
その場にどんな事態が出て参りましょうとも、それは阿弥陀仏(絶対者) のみ心なのですから
そのままでよいわけで、悪や不幸と見える姿が出て参りましても、それは過去における自力の生
活の所産であって、只消え去ってゆく為に現われてきているだけ、ということになるのです。何
故ならぽ、大慈悲である如来様(神様) の中に悪や不幸が存在するわけがないからです。
そうした心境から出てくる感謝であり合掌であってこそ、真実の感謝であり、合掌であるわけ
です。本当に生命が生き生きと生きている姿となるのです。
そうした全託の心境にならぬ以上は、何時迄たっても、何処までいっても、不幸や災難が消え
きることはないのです。
自己の誕生の時に一度び思いを戻して、果して自己の自力というものが、どれ程の力をもって
いるかに考えを至してみると良いのです。肉体的の自己の存在する最初から、人間は他力であり、
こうして生きて生活している自己の環境は殆んど他の力に依存している状態ではありませんか。
天の恩、地の恩、父祖の恩、知人の恩、そうしたすべての恩恵によって生かされている自分であ
ることを考えてみる時、大きな顔をして、自己の利益を強調し、自己の所有を争うことが、実に
おかしくもあり、無智なることに思われてくるのですQ
太陽は誰が創り、空気は何人が創ったのか、と原始的説法さえしたくなるのです。
うまごんぺんことば
誕生の、誕れるという字は言偏に延びるという字が書かれてあるのです。言とは、〃言葉は神
ことば
なりき”と聖書にありますように、神であり光であるのです。その言(神) が延びる、延長して
121 真の感謝行について
くる、という意味を、この一字はもっています。神が肉体世界に延長してきて生きる、という意
味が誕生という文字に現わされております。
神の大愛であることをまず信じよう
この意味からしますと、人間が肉体に誕生してくる以前から、人間は神として無限次元の世界
に存在していたか、神の一つの現われとして肉体と次元を異にした世界、肉体より波動の微妙な
世界にいた、ということを考えずにはおられないのです。
私はすでに、その次元の異った世界のことも、神の世界のことも、体験しているのですから、
私としては存在することを、はっきり確認しているのですが、一応論理的にお話しているのです。
こうなりますと、神に全託するもしないもの段ではなく、神にお任せするより仕方のないこの
人生なのであり、お任せすることによって、神の生命の延長の肉体人間が完全なる働きをするこ
とが出来るようになるわけなのです。
お互いに、神仏が大慈悲であり、大愛であることを信じましょう。それがまず最初の出発点で
なければなりません。
何故大慈悲であり大愛であるかといいますと、人間をこうして生かしている根本的のすべては
神によって創られているからです。神はすべてであり、人間は直霊としてその光源が神の座にあ
るからです。
白光への道122
親が子を愛さぬわけがないと同じように、否それをはるかに超越した大愛によって、神は常に
人間を観守っているのです。その一つの現われが自然の姿であり、生命そのものであり、一つの
姿は、肉眼に見えぬけれど、背後から一挙手一投足の指導をしている守護霊(祖先の浄まった人)
であり、その上方にある守護神であるのです。
こうした神の愛を信じられない人は、生半かな神詣や、神信心などをせず、とことん迄自力で
自己の環境を開いてゆく努力をする方がよいのです。生半かな信仰や、にえきらぬ宗教心は、実
は安易なる自我への妥協であり、勇気を損じ、依頼心のみを助長するだけで、同じ道を行ったり
きたりしていて一向に真実をつかむことは出来ません。それならかえって、唯物論的に、勇敢に
すべての事態に自力でぶつかってゆき、自力で通り得ない障碍に突き当って、切羽つまった体験
として、唯物論的自力では、到底人間は真実の幸福をつかみ得ないものだ、と悟った方が、時間
的に早く真実の人間を発現することが出来るものです。
素直に神の愛を信ずるか、唯物論的自力で進むか、はっきりどっちか一つの道を選ぽないと、
その人はますます、その心境を低め、業生の想念、感情の感謝や合掌の悪癖を習慣として心につ
けてしまい、そこからなかなか脱却出来なくなってゆくのです。よくよく心すべきでしょう。
人間の一番大事な心は「素直」ということです。それは何に素直であることが大事なのかと云
いますと、自己の良心、内部の声に素直である、ということです。
素直に自己の良心の声を聴くことに想いを至すことが必要です。それには現象の損得、物質界
123 真の感謝行について
の利害打算等を一度御破算にしないと、良心の声をそのまま聴くことは出来難いし、良心の声の
ままに動くことも出来難いのです。
カルマ
良心とは神の心なのですから、業生的利害損得の想念では、その心のままに動くことは出来な
カルマ
いのです。ところがこの肉体人間という者の大半は、業生的利害打算によって動かされているの
です。ここに人間の悲劇、人類の不調和がはじまり、そして永遠につづいてゆこうとしているの
カルマ
です。人間のこの悪想念、悪習慣、業を消滅しない以上は、人類の平和をつくることは出来ない
のです。
白光への道124
いのちを捨つる者は生命を得べし
「いのちをすつる者はいのちを得る」とキリストは云っていますが、実に人類は、ひとたび誤
てる生命観、つまり肉体だけが人間であるという生命観を捨てない限りは、真実の人間のいのち
を得ることは出来ません。私がいつも申しますように、肉体は人間そのものではなく、真実の人
間の器であり、神の生命の一つの働き場所なのであります。これを信じない限りは、肉体世界の
ヘヘへ
利害得失から想いを離すことは出来難いのです。人間にとって大事なのはいのちなのです。いの
ヘヘへ
ちを生かすことが大事なのです。いのちの無くなった後の肉体(亡骸)を大事にしている者は今
の陸ではありますまい。その肉体はもう何の役にもたちはしないのです。死んで後に役立つのは
ヘヘへ
いのちそのものなのです。いわゆる霊であり魂であるのです。肉体は霊魂の乗り物であり、いの
ヘヘヘヘヘへ
ちの器であり道具であることを信じなければいけません。いのちは永遠不滅なのです。いのちは
神界のものであり、霊界のものであり、幽界のものであり、肉体界のものでもあるのです。肉体
ヘヘへ
の生活だけを護ろうと思って、大切ないのちの働きを不自由にし、狭少なものにしてしまうこと
は実につまらない話です。
ヘヘへ
人間は肉体的には自他が離れぽなれでありますが、いのちとしては、お互いに交流し合い、プ
ラスし合っているのです。それを知らず、個別の利害関係だけで(これは感情も加えて)動いて
いて、損した得した、幸福だ不幸だと云い合っているのです。
道元禅師の云うように、百尺竿頭一歩を超えなければ、真の人間性を開顕することも、百%自
己のいのちを生かすことも出来ません。
いのちは神のものであり、自己の肉体は、神の姿をこの世に顕現する為の道具である、場所で
ある、自己の本体は神であり、個別の小生命としてここに働いているのだ、と堅く信じることで
す。肉体生活の表面上の損得とか、感情のいざこざなどは、全く吹けば飛ぶようなつまらない出
来事なのです。
ヘヘへ
現在置かれてある環境で真剣にいのちを働かせること、それだけであなた方の運命は開けるの
です。
物質を得るために働くのではない。楽をする為に働くのではない。子供の為に働くのではない。
へ へ
妻の為に働くのではない。自己の神のいのちを働いておられることが有難いから働くのだ。働け
125 真の感謝行Y’ついて
ることが有難いのだ。いのちを生かしていることが有難いのだ。
このように思える人は何んと幸福な人でしょう。この世で一番の幸福者だと私は思うのです。
神様有難うございます。神様有難うございます。すべての皆さん有難うございます。心の底から
こうした感謝の心で働きつづけ、生きつづけている人が多くなったら、どんなに世の中は明るく
温く、和やかになることでしょう。天国はその人たちのものなのです。
まず真に自分を生かせ
白光への道126
皆さんの良心の声に代って私は云いたいのです。
神はすべてのすべてなのだから、神だけを想いつづけて生活しなさい。
神は愛であり光であるのだから、愛の心、明るい心で生きつづけなさい。自分のことのように
ヘヘヘヘへ
人 にもおもいやり深く接しなさい。
自己を生かすと同じように、人をも生かしておやりなさい。
人を赦すと同じように、自分をも赦しなさい。
こうした生活態度を根本にして生きて行きますれぽ、その都度の小さな事柄は、すべて誤ちな
く解決されてゆくものです。
と皆さんの良心の声は申しているのです。
人のために働いているのだ、という心は、どうしてもその人達に恩着せがましい気になりがち
物質に把われ、感情に把われた我欲の想念が、神から来た生命の光、
いるのですから、そうした我欲の想念がぬぐい去られた程度に従って、
る程度が強くなってくるのです。
真の感謝の道に入ろう
真実の人間の姿を蔽って
周囲の人達に光明を与え
そこでまた前に話が戻るのですが、物質や自己満足の感情から起る浅はかな感謝や、みせかけ
の合掌等の、業生的形式的感謝行ではいけない。もっと純粋な、生命への感謝、神仏への感謝、
何はなくとも、物質的、地上的報いはなくとも、唯、生命がここに生かされて生きていることへ
の感謝の道に入って行かなくては、その人間からは光が輝かない、神の姿が顕われない、とい
うことになってくるのです。
もしあなたが、今迄形式的な感謝や合掌の生活を送っていたとするならば、今日只今から、一
度そうした習慣を捨てきって、ただひたすら、常に自己の背後にいて自己を守っていて下さる、
守護の神霊への感謝行に、その想念を切りかえてゆくことをすすめます。
神様(守護霊) ありがとうございます、神様(守護神)ありがとうございます。と、一度びは
御利益や形式主義をすっかり忘れるようにして、ひたすらこの感謝行をしていますと、いつしか
自ずから深い神への感謝、生命が生かされていることへの感謝が、湧然と湧きあがってきて、何
はなくとも、このままで有難いという真の感謝、生命の礼拝の心が、安心立命の心境に自己を自
白光への道128
です。妻の為、子供の為、親の為という心で働くのは、一寸聞いた処ではよさそうに思われます
が、実は真実の人間の働きというものを理解していないからそのように思うので、働くというこ
とは、誰れの為でもなく己れ自身のいのちの為にするのです。自己のいのちを生かす為にするの
です。その働きが、自己自身だけの肉体生活の為でなく、妻子や親兄弟や、他人の為に役立てぽ、
それだけ有為に自己のいのちを生かしたということになり、これが大きく社会国家人類の為とい
うように拡がった働きになってくれば、その拡がりが大きい程、その人のいのちは大きく生きて
いるということになるのです。
社会国家人類の為に働くと致しましても、あまりに、為に為にというように心が片寄りますと、
思うように行かぬ場合に自然と焦立ちや憤満が起り、無理な働きかけ等をしまして、自分を損い、
社会国家をも損ってしまうことにもなってしまいます。
ですからあまり自意識的に、何々の為という思い方をせずに、あくまで自己そのものを真実に、
神の分身として生かしきることに重点を置くようにしてゆくことが大切なのであります。
自己を真実に生かし切れぽ、その人は必ず社会国家人類の為に有為な働きをしていることにき
まっているのです。
自己自身が、表面的に何も発表しなくとも、立派な人格として、神のいのちを生かす生活、つ
まこと
まり、愛と真の生活をしていたとするならば、それだけで、周囲に光明を輝やかせていることに
なるので、その周囲の人達に、立派な影響を与えずにはいないのです。
127 真の感謝行について
然と導いてゆくものなのです。
129真の感謝行V’ついて
130
人の相談相手になるためには
白光への道
〃人生案内欄”の解答
この地球界における、個々人の生活に対する相談相手になるということは、実にむずかしいこ
とでありますが、誰れかが相談相手になってやり、善い智慧を与え、強い力を貸してφ、らなけれ
ば、まともに生きぬいてゆけぬ人たちがなかなか多いのです。そこで各所に種々な相談所がある
のでしょうが、各新聞社でも斯界の有名人に依頼して、相談欄を設けております。
そうした相談欄の答の中には、私などとはまるで反対とも思われる答もありますし、霊感で答
えてでもいるかのような名答もあります。しかし、各解答者は、それぞれの経験から割り出した
答えを、常識的な線を外さずに相談欄に発表しているようであります。
中でも読売の木々高太郎氏の答は、かなり眼にたつ答であります。どういうところが限にたつ
かと申すと、はっきりはっきりと割り切っているからです。その答え方には時には冷酷とさえ
思える程にはっきりしていて、何故あのような冷たい、つっぽなしたような答え方をするのであ
ろうか、と読者が話しているのを耳にする程です。
例えば、これこれこのような行為をする息子があって困っていますが、どうしたらよいでしょ
う、という相談がありますと、そういう息子は変質者でとても直るとは思われません。他の人の
迷惑にならぬように処置することです、とか、大酒呑の夫があって乱暴して困る、という相談に
も同じ調子で変質者だから、どうにもならぬと承知して処置を講じなさい、というような答え方
なのであります。
ひとこと
こういう答をみますと、いかにも他人事だという冷たい不親切な感じを受けるのですが、私た
ちのように、実際にそうした困った人々をあつかった経験の多い老にとっては、お医者である木
々さんは、きっとそうした人々をたくさんあつかっておられて、身にしみて変質者は駄目だと思
いこんでおられるのではなかろうかと思い、無理ない答でもあると思われるのです。
不良や大酒呑み等々の変質的な人々を実際にあつかってみますと、表面的にただその家族が可
哀そうだが、その息子やその夫を捨てては情がない、なんとかならぬか、と簡単に救いを要求す
るような単なる宗教的同情心などでは、どうにもならぬ非常な忍耐力が、直す側には必要なので
あります。
悪癖が心身にこびりついてしまっている人々、つまり業想念の層の厚い人々の、その悪癖とい
うものは、汚れきった板の間のようなもので、いくらふいても、磨いても汚れがしみこんでいて
131 人の相談相手になるためには
容易にきれいにならぬのです。
ですから、自分自身が直接そうした悪癖の人々を手がけた人は、はじめのうちは、熱意をもっ
て愛をもって真剣に教導するのですが、二人三人五人と次第に多くの人々に接しているうちに、
あまりにその教導効果の少いのに落胆してしまって、遂いには、変質者は絶対に直らぬと思いこ
むようになってしまうのです。
相当に愛情の深い人であっても、変質的な悪癖老にかかっては、人間の愛情の限界を知らされ
てしまうのですから、実際にそうした人々を取扱ったことのない人が、悪癖老の教導に冷淡のよ
うにみえる人に対しても、やたらにけいぺつの眼をむけることはできないのです。教導者の立場
に自分が立たされた場合に、果して自分がその役目を立派に果せるかどうかは実際にやってみな
ければわからないことだからであります。
何事でも、側からみていると、種々の文句や小言がでるものですが、その当事者になってみれ
ば、その事柄に無関係の他人が、軽々と云ってのけるような上手い工合には、その事柄を処理で
きぬのが、この世の中の実情なのであります。
白光への道132
理想論だけを押しつけても駄目
私などのように、相手の過去世からの因縁の波を観じ、将来の運命を予測し得る者は、そのま
まの想念の波で生きてゆけぽ、こうこうの運命となるし、その想いの波を変え得れぽ、また異な
った運命が展けてゆく、というように予測して、その家族の心の在り方や、変質者自身の想念の
動きを観察しながら、指導し教導してゆくのですが、その家族がその当人にかかわっていては、
家族全体に被害が及ぶと判断した時は、即座に当人だけをこの世から断ち切る覚悟で、病院やそ
の他適当な場所へ隔離させてしまったり、夫婦なら、離婚させる援助をしたりしています。しか
し私は隔離した人々をそのまま捨ててしまうわけではなく、写真などで浄めつづけるわけです。
この世には、種々様々なことで困っている人がたくさんおりまして、私なども毎日多くの困っ
た相談事を持ちこまれるわけなのですが、時には、二年三年もはては五年も十年も、じっと耐え
忍びつづけるより他に、その困難の環境を切りぬけることのできぬような人々もあるのです。そ
れは精神面でのものもありますし、経済面のものもあります。
例えていえば、性格から趣味からすべての点において相性でない夫と生活していて、嫌で嫌で
たまらない妻が、離婚しようとするたびに生家の親たちに止められ、遂いに子供が年子で四人も
できてしまった。今になっては嫌でも応でも子供のために離婚するわけにはゆかなくなったが、
なんとも夫が嫌でたまらない、しまいには顔を見るさえ寒気がする、というような場合、経済を
考えれぽ、子供が中学でもでる頃にならねば絶対といってよい程、その点で夫に依存せねばなら
ないのだから、少くも十年位いはその夫から別れて生活することはできない、ということになる。
こうした人に相談された時に、単なる常識論で、お互いに何かの因縁で結婚したのだから、ま
あ、因縁とあきらめて、なんとか夫が好きになるように努力してゆくより仕方がない。なんとし
133 人の相談相手になるためには
たって別れようがないのだから、などと云ってきかせても、その妻の心は一向に慰みもしないし、
悩みから解放されもしないのです。
こうした相談はなかなか多いので、私なども随分考えさせられるのです。しかし、私には世界
平和の祈りという、救世の大光明の働きにつなげ得る、素晴しい方法がありますので、これは実
に困ったというような行きどまりのような苦悩はありません。その妻の困却しきった想いの波は
夫が嫌でならない、という一点からはじまっているのですから、夫が嫌でなくなるか、夫の存在
が彼女の心の中で問題にならなくなればよいわけです。
ヘヘヘへ
好きだ嫌いだなどとはぜいたくだ、という人もおりますが、嫌な者を好きになるということは
容易ではないのです。性格が合わない、すべての生き方が相違するという夫婦が好きになり合う
などということは、外部に共同の敵が現われて、無意識的に心を一つにして、その敵に向うとい
うような場合の他は、なかなかでき得ないことなのであります。
人間というものは勝手なもので、自分でできないことを、人にはやすやすと要求するものが多
いのですが、人ができにくいことは、自分にもやはりできにくいことが少なくないのです。人に注
意したり、要求したりする場合、人に生き方を教える場合などは、果して自分自身にその行為が
できるかできぬかを、真剣に深く考えてやらぬと、かえって相手を苦しめてしまう結果になって
しまうのです。
もし深く考えて自分自身にもできにくいと思うような事柄は、私自身でもこのことはできると
白光への道134
思えないのですが、それより方法がないと決まれば、できる限りなんとかその方向に向ってみる
努力をしようではありませんか、私も蔭ながらお祈りしております、といった工合の言葉で、同
情深く、柔かく言ってやることがよいと思います。自分自身ができもしないことを、軽々とでき
るような態度で人に押しつけたりすることは、自分自身をもその相手をも傷つけ痛めることなの
です。こうした行為を愛の薄い行為というのです。
キーポイントはここにある
人間には過去世からの因縁因呆というものがあるのですから、自分が愛せる人を、他の人が愛
せるとは限らないのだし、あんな人間をと思える人に一生を捧げている女性もあるのであります。
そうした行為が馬鹿な行為に見えたとしても、実はその行為によって、その女性が過去世におけ
る業因縁の借りをその人に返しているかも知れないのです。
ヘヘヘへ
ひとりよがりの判断や、浅はかなけいべつや同情は、真理に遠いということを人々は知らねば
なりません。
カルマ
私の教えは、この世的、業的な感情の動きによる想念行為は、すべて消えてゆく姿としている
のであります。自己の行為がいかによさそうに見えても、それが真理からきているものか、業想
念からきているものかは、後々でならねばわからぬことが多いのです。幕末頃の勤皇佐幕、尊皇
擾夷、開港鎖国とそれぞれの思想の下に入り乱れて戦いましたが、果してどちらがよくて、どち
135 人の相談相手Y’なるためには
らが悪いのか、未だにはっきりわからないのです。すべてはそうしたものなのです。
そこで私は、この肉体的な想念行為は善いとみえることも、悪いとみえることもすべて過去世
の因縁の消えてゆく姿として、全想念を神のみ心の現われである世界平和の祈りの中に飛びこま
せて、飛びこんだそこから改めて日々の生活をはじめつづけることにしているのであります。
私の教えは全否定即全肯定ともいえるので、肉体人間を罪悪深重の凡夫なり、と親鸞同様、全
否定して、その否定そのままの想念を、世界平和の祈りの中で全肯定にすりかえてしまうので
す。ですから、すべての禍い、すぺての不幸、すべての悪想念行為が、世界平和の祈りをする瞬
間に大光明にすりかえられてしまうのです。このことが、人類が救われるか、救われぬかのキイ
ポイントなのであります。
白光への道136
必要なのは共に悲しみ喜ぶ愛情
先きにのべておりました妻女の場合、いくらその人に夫を好きになりさえすればと説いたとし
ても、因縁とあきらめてと説いたとしても、それは、こちらが業想念波動の肉体的人間として説
いているのですから、効果のあろう筈がないのです。
私なら、その妻女に全面的に同情し、その不平に同意して、その妻女と環境を同じくした立場
に一度融けこんで、はじめてそこで、そうした苦悩はすべて貴女の本当の心、本当の幸せが現わ
されるための消えてゆく姿として、貴女の苦悩として現われているのだけれど、その苦しみの想
いのままで、世界平和の祈りの中に飛びこんでごらんなさい。私が一緒につれていってあげます
よ、というように世界平和の祈りを教えることでありましょう。
はじめは理論も説教も何もいらないのです。ただ、相手と共に悲しみ、共に喜んでやる愛情だ
けが必要なのです。相手と一緒の境地になってやらなければ、どのような方法もその人の心を安
ませることはできないのです。
相対的に相手をみて、上から教えるような態度では真に人を救うことはできません。相手の心
の痛みが、自分の痛みとして受け取れるまで相手の心に近づいていないのでは、真に人の相談相
手になれるものではありません。私の提唱している世界平和の祈りは、縦の面では救世の大光明
との一体化であり、横の面では愛情の純化に役立っているのです。
自分を愛し、人を愛し、自分を赦し、人を赦す、愛と真の生活は、世界平和の祈り一元の日々
からはじまるのです。
こしらえごとの愛情では駄目であり、人にみせようとする親切ではいけないのです。自ずから
湧きあがってき、自然と愛行をしてしまう、そういう人間が多くならなければ、この世は平和に
はなりません。と申せ、これを私は理屈として云い、理論として云っているのではありません。
すべての感情想念を、自分が悪い、人が悪いではなく、ただ消えてゆく姿として、世界平和の祈
りの中に投げ入れてしまうところから、自ずとはじまる新生活が、巧まずして、力まずして、自
然と平和な環境を生みだしてゆく真理的な生活方法となるのだと申しているのです。
13’7 人の相談相手になるためには
えど
昔からこの世は稼土といわれている程、汚れた想念の世界なので、このままの想いをつづけて
ゆくだけでは、滅びるより仕方がないのですから、みんなでなんとかしなければなりません。そ
こに現代の宗教が果す大きな役割があるのです。
ある大きな新興宗教の教祖が、この世の人たちがあまりに汚くみにくすぎるので、私は死にた
くなった、といった意味のことを云っているのを雑誌でみたのですが、この世が汚くみにくいか
らこそ宗教者が現われて、肉体人間を神につなげて、その本心を開発させ、その汚れやみにくさ
を消し去ってゆく指導をするわけなので、今更、みにくいから死にたくなったなどというのでは、
その人には宗教指導者の地位が無理なのでありましょう。
この世の罪猿れをすべて自己の身に負って生きぬこう、という大決意があってこそ、宗教指導
者といえるので、自己の心の安易さを求めているようではどうにもなりません。この肉の身とそ
れに附随する想念は、すべて消えてゆく姿なのです。その真理がはっきりわかった時、その人の
心はもはや不退転のものとなっているのです。
人間は神の子であり、この世はすべて神のみ心の現れである、ということは絶対に動かし得
ない真理なので、この真理に外れるものはすべて消えてゆく姿であり、消えてゆく姿と観じつつ
世界平和の祈りの中に、自己の想念を投げ入れている生活をしていることから真理の世界が、こ
の地上界にも現わされて、この世界から次第に汚れや悪が消え去ってゆくのであります。
カルマ
しかしながら、この世の汚れやみにくさは、長い間積み重ねられたものなので、その業が消え
白光への道133
去るまでは、肉体人間が、神の子の姿である世界平和の祈り、神の大調和のみ心の中に日々の生
活をつづける必要があるのです。理論だけの神の子観や、安易なる実相論などでは、一寸した業
想念にも把われてしまって、昨日の神の子が今日の業の子になってしまい、死にたくなったり、」
この世に不平がでたりするのです。
日々の相談事を受けていますと、なんと困難な生活をしている人が多いことであろう、この世
は実に不合理不都合な世界で嫌な世の中だ、と表面の現われだけみたら、誰れしもこの世の中が嫌
になってしまいます。どうにも救いようのない世界であり、人間の業想念であると思うからです。
釈尊でもイエスでも古来の聖者は等しく、そうした表面の世界をみつめて、嫌悪の想いを起し、
この嫌な世の中、こんなみにくい人間性を超え去らなければ、とても生きてはゆかれない、とい
ぼんのうそくぼだい
う心になり、身心を捨て切って修業し、煩悩即菩提を悟り、世の人々を薇土から救い出したので
あります。
正直に肉体人間の現れを見ること
この世が善い世界であれば、宗教も宗教者もいらないのです。この世が迷いの世界であり、み
にくい業想念の波に蔽われている世界だからこそ、宗教や宗教者が必要なのです。そこで宗教者
や人生相談を受けられる人々は、まずこの世の現れの姿をしっかり把握して、肉体人間という
ものは、業想念の波に把われていて、自分自身では、その業想念(怒り妬み恐れ恨み疑い等々)
139 人の相談相手になるためには
波動をぬけだせずにもがきつづけているものだ、ということを深く認識しなければいけないので
す。云いかえれば肉体人間はすべて罪の子であり罪悪深重の凡夫なのである。とみきわめ、そう
した凡夫がそれぞれの因縁に従って、それぞれの境界で生きつづけているのだ、ということをは
っきり知って、その立場に自らも立たなければ、とうてい人間を救いだすことはできないので
す。
何故かと申しますと、自分だけが高い立場に立って上から相手を見下しているような境地にい
たのでは、悩んでいる相手、苦しんでいる相手が、自分の境地から離れたものにみえすぎて、な
んだ、そんなことで悩んでいるのか、というような、その相手と離れた気持になってしまい、b
の距離が遠くなって、こちらの光が相手にとどかなくなり、単なるお説教になってしまって、つ
い、あなたの心が悪いのです、その心持を直せぽよいのです、等という、愛情のない責め言葉に
なってしまったりするのであります。
これは宗教者や人生相談を受ける指導者のよくよく気をつけぬばならぬことだと思います。自
分が苦しみつづけてきて相談するのに、その上また責め言葉を頂戴するのでは、その人にとって
は立つ瀬がないことになり、己れの身がますます心細く心もとなくなって、しまいには死んでし
まいたい気になりかねないのであります。
自分にはなんでもなくできることが、ある人にとっては容易にできない、ということがよくあ
るもので、過去世の因縁の善く生れている人が、怒り心が少い、という場合、怒り心の多い因縁
白光への道140
の人をみて、すぐにも自分のようにニコニコした心境にならせようとしても、そうした怒りの因
縁の消え去らぬうちは、すぐニコニコの人間に早変りするわけにはゆかないのです。
こうしたところが、業因縁性で生きているこの世の人間指導のむずかしさなのです。ですから、
自分のできることは誰れにでもできるのだ、というような単純な想いでは、人の相談相手にはな
れないのですから、ひとまず、自分の考えというものを捨て切って、愛清だけの空っぽの気持に
なって、相手の相談を聞いてやらないと、真実の相談相手とはいえないのです。
生かす言葉は世界平和の祈リより
空っぽの気持になるのがむずかしかったら、世界平和の祈り言を心の中で唱えながら、相談を
受けてやるとよいのです。世界平和の祈りをしていれぽ、それだけで、なんの口出しをしなくと
も、こちらから光明波動が伝わってゆきますので、相手が業想念のぐちをしきりに話しているう
ちに、その業想念の波が世界平和の祈りのもつ大光明に融けこんでゆき、いつしか心が明るんで
しまうのであります。
そうした実例は私の会にはたくさんあるのです。相手の心から離れたお説教忠告より、黙って
相手のぐちを聞いてやりながらの世界平和の祈りの方が、はるかにその人の救いになるのである
ことを、私は私たちの体験でよく知っております。
すべては愛の心が根本なのですから、愛の心に遠いお説教などは無用に近いものなのです。愛
141 人の相談相手になるためには
とは相手の心と一つになること、相手の心と自己の心とが通い合うことなのですから、相手の心
から離れた高みにいて、愛行ができるわけがないのであります。
真理を知らない宗教者やそうした指導者たちが、昔の聖者の説いた言葉を、いくら喋々と説い
てみたところで、その言葉は死んだ言葉となって.かえって聴聞者を傷つけ痛めてしまうのです。
自己が愛そのものになって、はじめて、人を救うことができるのであります。
今日の宗教界を見渡してみますと、釈尊やイエスや、その他の聖者の言葉を売り物にして生活
しているだけの人々が、なかなか多いのです。これは末法の特徴であるかも知れません。
愛そのものになり切って生き得ることがむずかしいと思われる人は、救世の大光明の働きであ
る、世界平和の祈りを、自己に接する人々のために唱えてあげるとよいのです。世界平和を祈る
気持を根底にして、自ずから湧きでてくる言葉で、相手に対していれば、その言葉は必ず相手を
生かす、相手の本心を開発することに役立つ言葉となっているもので、その一言一句が光の波と
なって相手を照らしているものなのであります。
白光への道142
世界平和の祈リの神髄
世界平和の祈りをしている人は、一人一人がみな観世音菩薩の働きをしているので、
の人は本心の座、直霊の座に自己を置いている時なのです。
世界平和祈るは神のみ心のひびきにあれば祈るたのしさ
その時そ
144
光明思想ということ
白光への道
人間は誰れでも自由を欲している
宗教の道は、どんな宗教であっても、最後は一つのところを目指しているのですが、その手段
方法が間違いますと、いつまでたっても宗教の根本の道に導きいれぬぼかりでなく、かえって人
間を神から引き離してしまうようになりかねません。
キリスト教などでも、実際はよい教えなのですが、その一端の教えである、人間は罪の子だと
いうところばかりを強調しますと、人間の自由がうしなわれてゆき、心の萎縮したかたくなな人
間になってしまい、神のみ心の真意から次第に離れてしまいます。また反対に、日蓮宗の一派の
ように、日蓮と南無妙法蓮華経の題目だけを至上のものとした高慢な気持になりますと、いたず
らに他宗をさげすみ、排撃して、不調和きわまりない状態を現出してしまいます。
ですから、総体的にみて善い教えであっても、その一端のみを強調してしまいますと、かえっ
私はこの歌を一番多く色紙だの私の著書だのに書いていますが、全くこの歌の通り、世界平和
の祈りは、神のみ心のひびきなので、この祈りを祈ることが自ずから楽しいものになり、快いも
のになってくることが望ましいのです。

迷ひ心迷へるままにまつなさめ世界平和の神の祈り言
という歌がありますが、この人類の業想念をそのまま世界平和の祈りの中に運びこんでゆくこ
とこそ、世界人類が真実の大調和世界、大平和世界を実現させ得る唯一無二の手段なのであり、
方法なのであります。世界平和の祈りの中からこそ、宇宙人の大きな援助の働き、守護神たちの
輝く光明がこの地球界の業想念波動を浄め去って、新世界ともいうべき、神人合一の大平和世界
がひらけてくるのであります。
私たち一人一人は、まず自己のために世界平和の祈りを唱え家族や親類縁者のために唱え、日
本のために唱え、世界人類及びすべての生きとし生けるもののために唱えるのであります。
それは、すべて力みかえってするのではなく、日常生活そのまま、ふんわりと、何気なく、心
の中で唱えつづけていればよいのですから、この世で一番やさしい人類救済の方法であると思い
ます。
私がこうしてこの原稿を書いている時、天から地から前後左右から、宇宙人、守護神の大光明
が皆さんに光を送りつづけているのであります。人












143
て宗教の道に入らなかった以前の方が善い人であった、と思われるような人ができ上がってくる
のです。
宗教の道の根本義は、いつも申しますように、神と人間との関係を明らかにし、人間の真性を
知らせることにあるのですから、その点を明らかにせぬような教えはあまり感心できません。
宗教をやっている人で、神が人間生命の親であり、仏教的にいえぽ、人間の真性は仏そのもの
であることを信じないものはいないでしょう。だから、その神にすがり、或いは仏を現わす修行
をして、自己の心身を自由自在にしようとしているのであります。たとえ宗教入りのその動機が、
その場その場の環境の打開のために宗教入りをした人であっても、その心の底では、神仏と同じ
ような、自由自在な心身を自己のものにしたい、という願望があるのです。
人間は誰れでも、心身の自由を欲っするものなのです。病気の人は、病気によって縛ばられて
いる肉体の自由を欲っし、貧に縛られている人は、貧からの自由を得たいと願うのですし、仕
事によって自由を縛ぼられている人は、自己の想うままに仕事のできる環境を得たいと思うので
す。
それが大きくひろがりますと、外国によって自由をうばわれている国は、自国の自由のために
戦いさえも辞さない、という気持に追いやられてくるのです。
すべての苦悩、すべての不調和は、真実の自由人になれぬところから生じてくるので、これは
個人も人類も等しいものであります。そこで、神仏がもっている絶対性、自由性に憧憬の念を抱
145 光明思想ということ
き、その絶対力、自由力を自己にも分け与えてもらいたいという気持で宗教の道に入る、或いは
自己が、絶対性、自由性そのものになろうとして修行するということになるのです。このことを
やさしく云えば、人間が神の子としての自己の本性を現わそうとして、宗教の道に入るというわ
けなのです。
その為に昔の人たちは、自己の置かれた社会生活という環境をぬけ出て、出家といわれる生活、
または修験者といわれる生活に飛びこんでゆき、周囲の束縛のない修行環境に身を置いたのであ
りますが、ここでもまた、肉体にまつわる本能的な欲望に負けて、自由自在になり得ず一生を終
ってしまう人々が多く出たのであります。
しかし、現代では、昔のようなそうした修行方法というものは、余程特殊の人でなければでき
なくなって、社会生活を営みながらの修行ということになってきたのです。そこに多くの新興宗
教といわれる現代生活に即した宗教の道が現わされてきたのであります。こうした現代の宗教は
病気直し、貧乏直しというような、現実に即した面を表面に取り上げているので、入信する人の
大半は、そうした現実生活での自由性を求めてきた人々であるのです。ところが、こうした現象
利益の面の宗教であっても、宗教というものは、やはり心の面を重大視しますので、各人の心を
直すことによって、現世利益が得られるのだ、とその指導者たちは一様にいうのであります。こ
れは当然なことでありまして、心の問題を取りあつかわぬ宗教などというものはありようがない
のです。
白光への道146
心の取リあつかい方
さて、これからが問題であります。と申すのは、この心の取りあつかい方なのです。指導者に
よるこの心の取りあつかい方、私流に云えば、想念の取りあっかい方によって、立派な人々をた
くさん仕上げることができるか、かえって真理から離れた人間にしてしまうかの、全く反対の道
がその人たちの前にくりひろげられてゆくわけなのです。
心の取りあつかい程むずかしいものはないのでありまして湘引っかりした指導の仕方をすると、
条理にあった言葉であっても、相手を戸惑わせ、痛めつけてしまうようになってしまうのです。
その中で一番マイナス面を出しやすいのは、因縁因果の話です。因縁因果というのは、昔から
宗教の言葉としてはつきものでして、それは何かの因縁よ、という工合に当り前の会話にもつか
われているのです。この因縁因果というのは、どういうことかと申すと、原因結果ということな
のですが、この原因結果が普通いわれる原因結果より、奥深いもので、個人的にも現世だけの原
因結果ではなく、前の世、その前の世というように、人間生命が、その想念行為として、人間生
命として、この地球界にも生れてきた過去の過去のずうっと過去の想念行為から現在までの原因
結果なのでありまして、現在のその人自身ではわかりようのない原因によって生じた結果を、自
己の環境として受けている、というわけになるのです。
そうした因縁因果を、信者たちの前に持ち出して、お前たちの不幸は、こうした因縁によるの
147 光明思想ということ
だ、とやるのですが、これがその導師が宿命通の人であり、神通自在の人であるならぽ、その因
縁因果を超えられる方法を、その信者に援助してやらせることができるのですが、そうした力の
ない導師ですと、現世の現われの面からあてはめた因縁因果を持ち出して、信者にまかせること
になってしまいます。聞かされた方は半信半疑ながらも、自己の因縁の深さにうんざりして、か
えって生きる気力さえ失ってしまうような気弱な気持になってしまったりするのです。
白光への道148
忘れられた因縁因果を超える方法
確かに人間の世界は、因縁因果の波で動いてはいるのですが、この因縁因果を人類に超えさせ
る為に、釈尊やキリストや法然のような聖者が現われて道を説いたのです。ところが、後の人々
は、因縁因果の方だけを心に止めて置いて、それを超える方法を忘れてしまったのであります。
それは、仏教その他の戒律の教え、キリスト教のアダムとイブの原罪の教えなど、私に云わせれ
ば、消えてゆく姿の方に重点を置かせてしまって、消えてゆくべき、そうした因縁因果を、いつ
までも心に止めて置くようにしてしまったのです。これは人間を神の子、仏子だという真理から
離してしまう教えとなってしまっているのです。
イエスだけが神の子であって、他の者は罪の子であるなどという教えは、他宗の人々の素直に
受け入れられる性質のものではありません。人間は神の子として、誰れも彼れもが平等なのであ
カルマ
り、業想念の波としては不平等、不調和なのであります。
人間を罪の子として認め、因縁因果の中に住む者としての宗教の教えは、小乗的なものであり
まして、人間は神の子、仏子であるという光明思想に反するものなのです。人間の想念が、罪の
意識、因縁性の意識のうちにある限りは、人間は永劫に神の子にも仏子にもなり得ません。一歩
一歩善を積んで、罪の意識をなくし、因縁性を超えてゆく、というやり方では、人類の業想念の
波の方が、個人の肉体的人間的善意識よりも強いので、サイの河原の石つみのように積んでは崩
れてしまうものなのです。
ですから、どうしても、因縁因果というもの罪の子というものに取り組んでいるような指導方
法を宗教指導者がとっているようでは、それが例え、イエスキリストを一心に思えぽ救われる、
或いは南無阿弥陀仏と念ずれば救われると教えたとしても、因縁因果意識、罪の子意識の方がど
うしても強すぎて、真実の救われには至らないのです。
光明思想は徹底していなければいけない
そこでどうしても徹底した光明思想が必要になってくるのです。光明思想というのはどういう
ものかと申しますと、人間は神の子であるとして、すべての悪や不幸や不調和を大神様(救世の
大光明) の中に、消えてゆく姿として投げこんでしまう方法なのです。いかなる悪も不幸も不調
和も、因縁因果という言葉も罪の子という意識も、すべて一度つかんだら、そのつかんだ想念ご
と、消えてゆく姿として、守護の神霊への感謝の想いとともに、世界平和の祈りの中に入れてし
149 光明思想ということ
まうのです。そうすると、いやでも応でもやがては、神の子本来の姿が、その人の生活環境の中
くう
に現われてくるのですじこれは絶対なる真理なのです。やさしい全託、空の境地の実現なので
す。
光明思想の日本における、はっきりした現われ方は、生長の家によってなされたのです。教祖
谷口雅春師が「生命の実相」という著書によって、東西の光明思想を自己のものとして、日本の
光明思想の確立がなされたのです。これは実に偉大なことであって、谷口雅春師は宗教史上に永
劫に名を止めることと思います。
しかし、谷口師にとって全く致命的な欠陥は、著書をあまりにも多く出しすぎたことにあるの
です。次々と著書を出さねばならなかったため、つい種々の外国書の翻訳などから横道にそれて
ゆき、昔からの仏教思想の囚縁因果の業生世界の分析のところに戻ってきてしまったのでありま
す。それが精神分析の教えであり、心の法則の教えとなって、光明思想の面からは教えが逸脱し
てしまっていったのでした。私はこれは実に惜しいことであると思っていましたが、それもやは
り神様のお仕組の一つであろうと思われます。というのは、その後に私が現わされまして、徹底
して光明思想を人々に伝えることになったからです。
白光への道150
自分の悪も人の悪もつかまない
光明思想というからには、徹底的に悪をつかんではいけないのです。自分の悪も人の悪も、そ
れはみんな神の子の姿が現わされるための過去世からの因縁の消えてゆく姿なのであって、自分
の心が悪いからと、いちいち自分の心をせんさくし、精神分析して、自分を痛め傷つけるのは、
自分の業因縁に自分の想いを縛りつけておくようなものなのです。
肉体人間というものは、どのように修養しても、何かしらの不完全不調和の箇所があるもので、
いちいち自分の欠点を自分でひき出して、自分で直すということは、容易なことではないのです。
そういうやり方は宗教ではなくて修養なのです。」宗教と修養とは違うのです。修養というものは
結構ですし、たゆみない修養は必要なのですが、修養はいつまでたっても修養であって、神我一
体の境地になるのには、修養だけでは到底なれるものではないのです。
神我一体になるのには、やはり、人間は神の子である、ということをみずから体覚する道に入
ることより仕方がないのです。
人間の運命環境は自分の過去世からの想念行為できまってくるのですが、人間は神の子なのだ、
光の子なのだという観念の下に、そこから全生活をやりなおさないと、因縁因果の波の世界、心
の法則の波の世界を脱け出ることはできないのです。そこで、宗教指導者という者が必要になっ
てくるので、信徒たちに一つの目標をもたせ、その目標の中に、知らぬうちに、その人たちの全
生活が融けこんでしまうようにしなければならぬのです。その人たちが、今日まで掴んでいた因
縁因果の波、善悪、幸不幸の想念というものを、常にその目標の中に入れてしまっている、とい
う口常生活をしていると、その人たちの業想念の波が、その目標の中で消えてゆく姿となってし
151 光明思想ということ
まうのです。その目標が世界平和の祈りなのです。
日蓮宗派ではこれを南無妙法蓮華経という題目の中に入れてしまって、南無妙法蓮華経の中か
らすべてが生れてくる、というような風にしているのですが、この題目は、他宗の人には通用し
ないのです。そこで、勢い他宗を排撃してまで、自宗に人々をひきずりこもうというようになっ
てしまう宗団もでてくるのです。そこで、神の子、仏子としての最大の資格である大調和精神に
外れてしまい、宗教の道からいえば外道ということになってしまうのです。
白光への道152
全人類の一大目標
すべての生活を投入でき、しかも他との調和も崩さない、という一大目標は、どうしても全人
類等しく願望している祈り言葉でなければなりません。そうしますと、その祈り言葉は、世界人
類の平和を祈る祈り言葉より他にないことになります。個人の救われが同時に世界人類の救われ
の道をひらく祈り、それが世界平和の祈り、ということになってくるのです。
この世界平和の祈りの他に何の足し増しがいるのでしょう。世界平和の祈りをやりながら一体、
精神分析をやる必要がどこにあるでしょうか。因縁因果の波を把え、自己を責め人を裁く必要が
あるものでしょうか。精神分析も、因縁因果も、あれが悪い、これが悪いも、すべて、世界平和
の祈りによって、救世の大光明の救済力にゆだねてしまうことより他に何の方法があるのでしょ
うo
神はすべてのすべて、神は絶対智、絶対愛、大調和の大光明です。その神にゆだねても、まだ
足りないものがあるとでも思っているのでしょうか。すべてを神の大愛にゆだねて、そこからお
のずと展開されてゆく運命を、私たちは自己の天命と信じ、人類の天命と信じてゆくものなので
す。、神の大愛にゆだねていて、その人間に不幸があるわけがありません。人類の運命も全く同じ
ことであります。神の大愛に全託したようにみせながら、まだいたずらに自己の我をつかって、
相対的な敵や悪をみつけて神のみ心と離れた、肉体人間的智慧才覚で動こうとしているようでは、
光明思想とは云えなくなってくるのです。
神々が大光明として働いている平和の祈リ
そうした想念は、すべて消えてゆく姿です。むなしい動きです。私の霊覚には、守護の神霊が
大挙して、この地球人類を守りつづけておられるのが、はっきり判るのです。そうした守護の神
霊方は、肉体人間的想念で動くな、敵を認めたり、悪や不幸を認めた立場に自分たちを置くな、
そうした想念はすべて消えてゆく姿と想って、世界平和の祈りの大光明の中に投げこめ、と云っ
ておられるのです。真実、神々は光り輝いて働いておられるのです。神というのは抽象的な言葉
ではありません。神社仏閣におさまりかえっているものでありません。宇宙に生き生きとして活
動しておられ、姿を現わされれば、私たちと同じ人間の姿で現われられるのです。
そうした神々が大光明として集って働いておられるのが、救世の大光明と私たちが呼んでいる
153 光明思想ということ
大神の地球人類救済の力なのです。私は観念論的に神の大愛を説いているのではないのです。神
の大愛を私は身にしみ、心にしみて知っているのです。神は人間に罰を与えることはありません。
人間を責めることもありません。ただ、地球人類はまだ幼いなア、と思っていられるのです。地
球人類はまだ一人歩きのできる程成人してはいないのです。ヨタヨタしている見るからに危いの
です。大神様は危くて見ておられないので、祖先の悟った人々を各国にみつけて、守護させてお
られ、それだけではまだ足りぬので、その上守護神をつけられているのです。しかし現在では、
その幼い子供が、成人した人なみに種々な科学兵器という道具をもって、お互いにその道具をみ
せびらかし合って、今にも打ち合いになりそうになっているのに、それを止める程力のある成人
の国が存在しないので、守護の神霊を一つに集めた救世の大光明の力で、そういう幼い子供のい
たずらを止め、一挙に成長させるための光のエネルギーを、地球人類に送りこんできているので
す。
その光の柱、エネルギーの注入場所が、世界平和の祈り、ということになっているのです。
今日のように地球人類の最大危機になってまいりますと、個人個人の小さな欠陥の修正よりも、
人類全体の欠陥の修正の方が大事なのです。ですから神様のみ心は、個人個人の小さな心の傷は
どうでもよいから、大きな傷の修正の方に各自の精神エネルギーをつかってくれ、というみ心
で、世界平和の祈りによる、人類救済の道をひらかせたのであります。
そうして世界平和の祈りをやっていると、大きな傷の修正になると同時に、いつの間にか自己
白光への道154
の心の傷も全快してしまっているのです。ですから、昔の宗教のように因縁因果にもっていった
り、心の法則的に、自分や人の心を探り合ってみたりする必要はないのです。もはや精神分析的
教え方は医学の部門であって、宗教者の部門ではなくなっているのです。
今日まで業想念世界の中で、種々とあれこれと苦労し合っていた想念を、一挙に神の世界の光
明の中に昇華させてしまって、一挙に神の子としての生活をしてゆくのが、私の提唱している世
界平和の祈りなのです。
日本中が世界平和の祈り心で充ち充つる日こそ、世界人類の平和がひらかれる、真実の天の岩
戸開きの日なのです。精神分析に憂身をやっしていたり、自分たちは国際共産党の防波堤として
起っているとか、君たちは赤旗を取るか日の丸を取るか、などというようなことを云って、現象
の消えてゆく姿の世界状勢の中で、日本を二分する一方の陣営に入っていながら、世界平和の祈
りの真似事をしている根底のあやふやな光明思想では、とても世界平和にはなりません。
光明思想に対立敵対想念はあるべきでない
光明思想というのは、文字通り光明一念の思想であって、いささかの不安も、いささかの対敵
観があっても、その光明が汚れるのです。光明思想家が、何故大神様の大愛にすべてをゆだねま
つってゆけないのでしょう。それは消えてゆく姿をやらないからなのです。ファシズムの台頭も
共産主義の拡大も、すべて大神様のみ心の現われを促進させる消えてゆく姿であって、ひたすら
155 光明思想ということ
世界平和の祈りの大光明を当ててやることだけでよいのです。それだけで満足しないで、肉体的
業生的方法で、そうした思想を抑えようとしたら、明らかに、光明思想が共産思想や右翼思想と
同等の立場に立ってしまって、相対的になってしまうのです。それでは折角の光明思想が、神の
ものでなくて、肉体人間的な思想に下落してしまうのであります。共産主義を光明思想と対立さ
せていて、私たちは敵をみていない、と云っても、それは単なるキベンであって真実の言葉とし
て通用は致しません。

日本を真実大和の国として、霊の本の国として起ち上がらせたいならば、徹底的な光明思想、
徹底した平和の国として、国内の対立の上に起たなければなりません。そうした実行をしていて
日本という国が滅びるならば、この日本という国は地球上の国としてもはや使命は終ったとみる
より仕方がないではありませんか。真理をそのまま行じて滅びるものなら、それも天命というの
でありましょう。
私に働き給う神々は〃日本は地球の中心の国、大調和、大平和の見本の国である。光明思想の
普及に徹底し、いささかも相対的であってはならない。相対的なものはすべて消えてゆく姿とし
て世界平和の祈りの中に投げ入れよ”と云っているのです。
相対的な立場にみずからを引き下しながら、しかも相手も実相は神の子だから、主義を改めれ
ば赦してやる式の思想では、大神様のみ心とはあまりに距離のある、我の想いであると思いま
す。
白光への道156
宗教者の使命をふみちがえるな
そうしたことは現象面の専門家の政治家諸氏に任せておくべきであって、宗教者はやはり真実
の祈りを人々に知らせることに専念すべきであります。祈りが頼りにならなくて、実際行動で形
づけようとするのでは、宗教者としては困ったものです。祈りにはじまって祈りに終る生活こ
そ、宗教者としての道であるのです。
じねん
真実に世界平和の祈りを行じていると、不思議と相対的な感情想念は消えてゆくもので、自然
ほうに
法爾な動きができてくるものです。世界は今正に危急存亡の時です。それは共産主義がどうの、
ファシズムがどうのということではなく、人類の潜在意識(幽体) に積り積った業想念が、何ら
かの形を取って、自己破壊を遂げようとしているからなのです。
現象的に観ると、ソ連のフ首相などは、まるで全く良心のない行動をしておりますが、これと
ても人類の業想念波に躍らされているのであって、単に共産主義を抑えたからといって、それで
世界が平和になるものでもありません。その底に流れる人類の業想念が浄まりきらぬ限りは、こ
の地球人類の平和は達成できません。
金星の長老の言葉のように、もし地球人類と殺し合わねばならぬようなことがあったら、自分
は相手を殺さず、自分が死を選ぶであろう、というような崇高な気持になるように、地球人類を
浄めきらなけれぽならないのが宗教者の役目です。私たち光明思想家は、日々消・兄てゆく姿を行
157 光明思想ということ
じながら、世界平和一念の生活を送りつづけてゆきたいと思います。
こうした世界平和の祈りによる浄まりの中にこそ、真実の地球天国ができあがるのだと思いま
す。すべての相対観念を超え、自己をも他をも責め裁かぬ、祈り一念の日常生活を行じつづけて
ゆこうではありませんか。
白光への道158


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