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8/20/2022
五井昌久著
生きている念仏
序文
南無阿弥陀仏とこう漢字で読むと、何か有難い気持になる人もあると思うが、只
ナムァミダブツと耳で聞いていると、ついお葬式を思い出してしまう。それ程、念
仏は葬式に関係深いものになっている。念仏が葬式に関係深いのはよいのだけれ
ど、葬式宗教になりきっていて、それで善し、としていたのでは困りものだ。念仏
がこの世とあの世とを通して、人間の生命を生々させるものでなければ、法然や親
鷺の教に反することになる。
この本は、浄土門の宗祖たちの深い心をくみとり、念仏を現代に生かす為に書い
たものの集録である。肉体身の法然や親鸞は七八百年も前の人であるが、その教に1
よって開かれた道は、永遠の生命につながっている道であって、その中に宗祖たち
の霊身は輝きわたっているのである。私はその真実を霊覚によってはっきり知って
いるのである。この中に書かれている妙好人たちも、念仏の真理を体覚してみ仏と
の一体化の生活を人々に示してきた、覚者たちなのである。
いかに宗教学に秀でている学者であっても、み仏や宗祖たちの心をぴたりと心の
肌で戚じとっていなければ、安心立命の境地になることもできないし、人々の魂を
打つ生活態度になることもできない。妙好人たちは、いつれも学問知識にとぼし
い、お百姓や職人階級の人々である。それでいて、その言行は人々の心を打たずに
おの
はおかないものであり、自ずと人問の心を浄め去るものである。
宗教とはそういうものである。まして念仏門においては、素直な心が知識を超え
てみ仏の心につながる最上なものなのである。自己の想念鳳情をすべて阿弥陀仏の
すがた
中に投げ入れきった時、その人の本心がそのまま輝き出でて、仏菩薩の相がその人
の日常生活に現われ出でてくるのである。
2
人問の本心は、すべて神の子の心であり、仏心である。そういう真実が、素直な念
仏行の中から・断鱒灘酵に体得されてくるのである。私などは、神仏への戚謝一念
で神仏との一体化を体得したのであるが、天地万物に対する戴謝行は、念仏一念の
生活と等しいものなのである。
自我を捨て切ること、これはどこの宗教でもいわれることなのだが、この捨て方
が仲々むずかしい。浄土門の念仏は、そこのところを自然にうまく導いているので
ある。私はそれをもう一歩易行道にし、積極化して、消えてゆく姿で世界平和の祈
り、という教にしてきているのであるが、この本を読んでゆかれると現代に於ける
浄土門念仏の在り方が、心に泌みて判ってくるのである。
いつの時代でも、真理に素直なこと、天地万物への鳳謝ということは、人間にと
っても大切なことであるのに変りはないのだ。
昭和四十三年一月五日
五井昌久3
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念仏と世界平和の祈り
み仏の心のま二に
救われの自覚
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卜
4
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8
1
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自らを智者と思っている愚者
法然・親鸞と今日の浄土門
善人と悪人
大乗仏教と親鸞
生きるということ
●
裸の心
小我の放棄
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人間と真実の生き方
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わけみたぽこうしようしゆこれいしゆごじん
人間は本来、神の分霊であって、業生ではなく、つねに守護霊、守護神によって守
られているものである。
かこせ
この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念が、そ
の運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去るのであると
いう強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難のなかにあ
ゆるゆるまことゆる
っても、自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづ
けてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の祈りを祈
りつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得出来るものである。
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念仏と世界平和の祈り
権力欲と共に打揚げられた人工衛星
ソ連の人工衛星打揚げの成功が、純粋に宇宙の他の星の世界への交通の為のものであるならば、
地球世界の人々の全員が、心からなる大歓声を挙げて、この成功を祝福したでありましょうが、ソ
連の意図が軍事的であることが明らかであります。更に人工衛星より思うままにミサイルを発射出
来るという、米国の発表もありますので、地球世界潰滅への歩みを一歩急速に前進せしめたような
感じを人々に与えて、世界平和を望みっづけている人類の心を更に暗澹とさせてしまったのであり
ます。
大陸間弾道兵器の成功にっついての人工衛星打揚げ成功は、ソ連が、ポタソ一つで瞬間的に思う
ところに原水爆を落し得る最後的戦術において、米国に先んじたということであって、米英の出方
7念仏と世界平和の祈り
一っでは、地球世界潰滅戦争に突入しかねない最も危険な状態に立ち至ってきたといえるのです。
現在の米国側陣営は、確かにソ連の力に抑えられた形になっており、ソ連はこの時とばかりに、
自国の力を誇示して、小国を自己の陣営にひき入れようと、盛んな外交宣伝を開始しているようで
す。
本来ならば、宇宙旅行への第一歩として、喜こぼなければならない人工衛星の成功さえもが、自
己欲望の拡張を根底にした、闘争的想念の中から生れてきたものであるが故に、人類はその成功を
かえって恐怖の眼をもって、むかえなければならないのであります。実に悲しむべき事実です。
世界を二つに分けての権力争い、主導権争いの存在する限り、如何なる科学陣の進歩も、これは
すべて相手方を傷っけ痛める、軍事的目的に使用されるだけで、人類の福祉の為に使われそうにも
ありません。
8
どうしようもない日本の立場
こうした米ソの間にはさまっている日本の在り方は一体どうしたらよいのでしょう。どうしたら
祖国を滅ぼさず、人類の平和に尽すことが出来るのでありましょう。
、
「
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近頃の新聞の報道では、いよいよ日本も世界にむかって、自国の立場を明確にしなければならな
い時機に追いこまれてきているようです。それは、日本が米国側として一応安保条約を結んでいる
立場上、ソ連を敵として認めている形になっているので、米国がソ連に対して有利な立場を示す為
には、どうしても、日本の国土の何処かに、米軍の前進基地が絶対に必要である、ということであ
ります。
その前進基地が今迄のように、只単なる兵器ならよいのですが、原水爆砲弾の基地が必要である
ということになってきているのです。それは、ソ連の大陸間弾道弾に対する、米国の政策であっ
て、米国としてはどうしても、日本に協力して貰いたいと思っているのでありますので、日本が米
国のこの要請を、果して断り得るものであろうか、どうか、ということであります。
もしこの米国の要請を断った場合には、日本としては、日本独自の防衛体勢を取らなければなら
ないわけで、防衛に対する米国の支援を仰ぐということは、事実上不可能にならざるを得ないと思
われます。
日本が米国と緊密なる協同体制をとって、誘導弾基地でも、核兵器でも国内に置いて、ソ連の攻
撃を防ぐ、強力なる防衛体制を敷くことが日本にとって最良のことなのか、米国と離れて、ソ連を
9念仏と世界平和の祈り
も敵と見ずに、現在のままの自衛軍を置いておけばよいのか、米国とは緊密に結びながら、米国の
要請する核兵器は受け入れぬ、ということが果して出来るのか、等々のことを、日本国民が欲っす
る欲っしないにかかわらず、国家としては明確な答を出さなければならぬ事態に立ち至っているの
であります。
最新兵器(核兵器や誘導弾等) の防衛体制を整え、米国としっかり手をっないでいれば、ソ連も
うかっに日本に手を出さぬだろう、という人々もいれば、いや、そんなことをすればソ連は先ず原
水爆で日本を叩いてくるにきまっている、という人々もいる。
米国と離れてソ連をも敵と見ぬ自衛体制の方が、ソ連を刺激しないから危険がない、という人々
がいると思うと、そんな手薄な防衛だったら、あのソ連のことだ、またたく間に日本に上陸してき
て、忽ち共産国にされてしまう、と反擾する人々もある。
それらと全く反対にソ連に協力した方がよいという共産主義者やその同調者もいるわけで、日本
の行方は実に混とんとしているのが現在の国情です。
こうして種々と並べて書かれると、一般大衆は、右にも左にも一理あるようだし、どれもこれも
不安で、一体どうしてよいのか、どういう政策に協力してよいのか、全く頭が混乱して、ノイロー
1Q
ゼになりそうであります。実際に、こうすれば日本は絶対に大丈夫だという確信は、政治家たちの
胸中にもあるわけではないのです。
どっちにしても危険な橋を渡らなければ、日本の運命も人類の運命も明るくなりはしないのだか
ら、自分たちの思想や経験で、よりよいと思う方向に、政策を進めてゆこう、その政策に同調しょ
う、あるいはこうした政策を進言しよう、というのが、日本の指導者層の生き方なのであります。
ですから、各自の思想体験や立場によって、国論はどうしても分裂せざるを得ないのです。国論
が分裂していて、国家の充分な力が出せるわけがありません。一般大衆は何が何やら判らぬまま
に、右に左に流されてゆき、大きな苦労を味わされる破目になりかねないのです。
肉体人間の無力さ
大衆は全く何にも判らないのであります。大衆ばかりではありません。判ったような顔をしてい
る知識人や政治家たちの大半も、やっぱり何んにも判らないのであります。みんなが何んにも判ら
ないままに、自分たちの希求する世界平和の夢から、業想念の闘争不調和の波の中に巻きこまれ
て、人類最後の大惨事の渦中に叩き落されようとしているのであります。↓
1
念
仏
と
世
界
平
和
の
祈
り
私たち肉体人閥には、何んにも判りはしないのです。いくら利巧そうな口をきいていても、一番
肝腎な生命という根本問題について、生命が一体何処からきて、何処に去るのか、生命とは一体何
んであるのか、ということの片鱗さえも知っていないのです。
一番大事な問題が判らない人たちが集って、国政がどうの、世界がどうの、といっているのです
から、一般大衆が、どうしてよいか戸惑うのも無理がありません。私がこうして今この一文を書い
ているのは、こうした時勢において、一般の人々は一体どういう生き方をしたら、安心立命の生活
が出来るか、ということを知って頂こうと思うからで、国政を批判しようとか、現実の政治問題を
兎や角いおうと思っているわけではないのです。現実の国政をどうすればよいかを、ここで兎や角
いっても何んにもならないからであります。私の役目は、皆さんに神を知らせ、人間の本体を知ら
せることによって、世界人類を平和な幸福生活に導き入れることが出来る、という原理方法を説く
ことにあるからです。
その為には一度、肉体人間の無力さということを改めて皆さんに知って頂かなければと思って、
今迄の事実を書いたわけなのであります。
現今程、平和世界が熱望されながら、その人類の意志に反して、地球人類潰滅の方向に突き進ん
12
でゆきつつある時代はありませんし、肉体人間の何人にも、その運命の歩みを阻止する力があるよ
うには思われません。今日迄のいっの時代でも肉体人間は、自己や自国を先ず守ろう、あるいは他
より優位に立とうとする自我欲望の想念の故に、争いつづけてきているのであり、強者が弱者を抑
圧しつづけているのであります。そして最も弱者であり、無権力である庶民大衆は権力者たちより
も先に、自己の無力なることを悟り、人間以上の力、神への信仰によって、自己の精神の平安を得
ようとしたのであります。
日本においては法然、親鰭による浄土門他力信仰の道が、こうした庶民大衆の最も善き安心立命
への道であったのです。浄土門信仰の道には、時の権力者も入信してはおりましたが、真の信仰者
は権力者の座をすでに離れかかっている者や、離れ去った者、あるいは世の中のすべてに無常感を
抱いた者たちであって、自己の力に依存している者たちには浄土門の真の教えが判らなかったので
す。
肉体人間としての自己の力に依存している者にとっては、神仏の力は余分のものであって、神仏
の方に想いをむける余地はないのであります。ですから、自己の力の無能なることを知る程度が強
ければ強い程、神仏に想いをむける程度が強くなってゆくわけで、肉体人間の力を全否定し去った13念
仏
と
世
界
平
和
の
祈
り
者の神仏信仰は、全託の境地になり得るのであります。
その点、現代の世界の指導者たちは、科学の力に依存し過ぎて、神仏に向う想いを阻止している
傾向が強いのです。神仏に向う想いが弱ければ、そこに業想念の波動が強く働いて、その政治や政
策が、神のみ心である、大調和大平和の方向に進んでゆこう道理がないのであります。他国を敵と
見ながら、どうして世界が平和になることがありましょうか、それは指導者たちが、神仏を知らぬ
無智から起っているのです。
14
理論で知ろうとするよりもまず神を想うこと
神仏を知る為には、一心に神仏の中に入りこむ練習をしなければなりません。ところが知識人と
称する人々は、その練習訓練はひと先ず置いて、その神仏というものを、頭の中で理論的に知ろう
とするのであります。そして理論的に判ったら、それを信じようというのであります。それは恰
も、林檎や蜜柑を喰べるのに、いちいちその成分を調べて、その調査の結果、こうした味だと判っ
たら、それを喰べようというのと同じでありまして、いくら調査しても、喰べてみなければ絶対に
その味は判りはしないのです。
神仏を知ろうとするのに、業想念で出来ている肉体頭脳でいくら考えめぐらしても駄目なのであ
り、科学的に外界から調査しても判りはしないのであります。神仏を知るのには、只神仏の中に自
己の想念を投入することだけなのです。その方法には聖道門と浄土門の二つがあるので、聖道門と
は自力門といわれているように、哲学的学問や様々な修業、統一行によって自己の内部の神仏を開
顕せしめる方法であり、浄土門とは、阿弥陀仏(神) の称名のみで、他に何等の自力の行を附加し
ないで神仏と一つになる方法なのであります。
聖道門が、自力による学問知識や、様々な修業に耐え得る絶大なる意志力が必要であるので、気
根の秀れた者でなければなかなか成功し得ないのに比べて、浄土門は、念仏一筋でゆくのですか
ら、一般庶民大衆には入り易い方法なので、鎌倉時代から今日まで、非常に信徒の数の多い宗教と
なっているのです。日蓮宗なども、これに似た称名方法があった為、信徒が入り易く、その数も多
くあるのだと思われます。
大衆の中から生れる妙好人
浄土門の信徒の中に、妙好人といわれる人々があります。この人々は比較的学問知識にとぼし15念
仏
と
世
界
平
和
の
祈
り
‘
く、文字もろくに書けぬような農民や職人たちの中に多いのです。
この人たちは、学問知識から宗教の門に入ったのではなく、先達の説法を聴聞しっづけ、たゆみ
なき称名念仏のうちに阿弥陀仏と一つになっていった人々であります。
妙好とは、もと蓮花の美わしさを歎称しての言葉であるが、それを人間に移して、その信仰の美
たと
印わしさに喩えたのである、と鈴木大拙博士がいわれていますが、この人たちの日常生活が、そのま
ま美しく浄らかであり、純真そのものであって、安心立命の姿であったようです。
このような妙好人が、自力門といわれる天台や禅宗からは出ずに、他力門である、浄土真宗から
多く出ていることは、自力門、聖道門といわれる天台や禅宗あたりが、一度びは理論的な智慧才覚
を通らないと、なかなか判りにくいことと、一般大衆が日常生活そのままで、その道を行ずるとい
うことは到底出来難いということにあるのでしょう。
浄土門、いわゆる他力門は、如何なる煩悩をもったままでも、南無阿弥陀仏と唱えていさえすれ
ば、すべて浄土に救いとられるのである、といわれているので、どんな無学な者でも入り得る道な
のであり、日常生活そのままで、救われの道に入り得るわけであります。
16
の
才市と南無阿弥陀仏
鈴木大拙選集の中に、才市という妙好人が書かれてありますが、この才市はあやしげな仮名文字
よりしか書けぬような無学な下駄職人でありますが、念仏一念から入ったその悟りの境地は、昔の
聖者、聖人たちの境地に匹敵するものであるのには驚かされます。
次に同著によって一、二例を挙げてみますと、
ほどけが、ほどけを、をがむこと
なむがあみだに、をがまれて
あみだがなむに、をがまれて
きみよう
これが、帰命の、なむあみだぶっ。
月
やみが、っきになるこた、できぬ
っきに、てらされ、つきになる
さいちがほどけになるこた、できぬ
17,念仏と世昇平和の祈り
名号ふしぎに、てらしとられて、
なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。
is
というような覚書を才市が書いています。この心境は、実に宗教の根本を真実に知った者でなけ
ればいえない境地で、自己と仏との一体観を如実に直覚している言葉であります。私が常に説いて
おりますように、自己の内部にある仏(本心)が、外部にあるように見える、神仏(守護の神霊を
含めて) を拝むのが真の祈りであり、業想念、つまり闇が、神仏、月になることは出来ない。才市
にいわせれば、月にてらされ月になる、で、神仏と本心が照し合って、真実の人聞が、神の子人間
が顕現するのであって、業想念の才市、っまり肉体人間が月(神仏) になることは出来ない。その
方法は、只一つ、名号不思議に照らしとられる、つまり、阿弥陀仏(神仏) にはじめから救われて
いるのだから、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称えてさえいれば、いっか阿弥陀仏と一っになって
しまうのだ、ということなのであります。
この境地は、聖道門、自力の聖者たちが、難行苦行をして後に達し得た境地と全く等しいものな
のであって、他力行念仏の成果をはっきり現わしております。この才市の場合は、それが単なる言
葉ではなく、自己の生活そのものの中で、体観し得た真実そのものの境地なのですから有難いので
す。
才市という人は、本心と業想念とをはっきり区別していて、他の覚書では、自己をあさまし、あ
さまし、じゃけん、じゃけん、邪悪驕慢の悪才市と口ぎたなく、ののしっております。そしてその
ような才市(業想念) から一躍、
これが親のなむあみだぶつ
ヘヘへ
これがわたしのなむあみだぶっ
これが世界のなむあみだぶつ
こくう
これが虚空のなむあみだぶっ
わしの世界も虚空も一っ
親のこころのかたまりで出来た
心に収め取られて、これがあんしん
19念仏と世界平和の祈り
と、自己の世界も虚空も一つである、という大乗的大自覚になっているのであります。
業想念はそのまま消え去るもの、本心は仏と一っである、ということを、この無学の才市翁は、
はっきり自覚していたのであります。
ここまで参りますと、自力も他力も全くなくなって、絶対力が、そのまま、南無阿弥陀仏となっ
て、才市の生活に生き生きとしてくるのであります。
こうした例をあげればきりがないのですが、一般庶民である、無学の三十五年程前(昭和八年)
に亡くなった才市という人が、念仏一筋で、これだけの境地に到達し得たということは、宗教信仰
者の大なる光明であります。南無阿弥陀仏という称名を天と地をっなぐ柱にして、この才市翁は、
天地一体の生活を身心に行じ得たのであります。
才市翁の言葉をもう一つぬき書きさせて頂くと、
20
当流の安心は、好いのがでても、
それをよろこぶじゃない、またわるいのがでても、
ただ仰いで、頭を下げて、尊むばかり
それをくやむじゃない、
ともあります。
それらはみんな消えてゆく姿、只真実にあるのは神仏の姿だけである。自己の本心の輝やきだけ
である。だから、何が出てきても、神仏への感謝、万物への感謝をっづけておるだけだ、という、
私の教えと全く一つであるのです。
現代人と南無阿弥陀仏
ここで問題になってくることは、才市翁のようにこの境地までに成り得た人はよいのですが、成
り得ない人が、果して、念仏一筋だけを満足してつづけてゆけるであろうか、ということでありま
す。
現今の人たちは、阿弥陀様という仏様が、西方極楽浄土におわして… …ということは、とても信
じ切ってはおるまいと思います。尤も才市翁の念仏も、何も弥陀を西方極楽浄土にあると思ってい
るのではなく、宇宙に満ち充ちている神として観じていた、いわゆる親様として観じていたのであ
りますから、肉体のあるそのままで、神我一体の境地になれたのであり、安心立命し得たのであり
ます。と致しますと、この阿弥陀仏は、何も阿弥陀仏でなくとも、何仏でもよく、神という言葉で21念
仏
と
世
界
平
和
の
祈
り
もよいわけで、法然や親鸞が、西方極楽浄土と場所を定めたのは、仏説の法蔵菩薩の四十八願の、自
分が西方極楽浄土に阿弥陀仏という仏になって、すべてを救う、ということをとらえたわけで、実
際に法蔵菩薩が存在したしないは勿論、西方でも東方でも法然や親鸞にとってはよかったわけで、
只、人々の心を種々と動揺させず、一定の仏名、場所に精神集中させて、心内を去来する業想念か
ら、想念を神仏のふところ、神仏の大光明の中に投入させてしまって、安心立命させようと思った
からに違いありません。それでなければ、南無釈迦牟尼仏と念じさせたわけであります。
ここの阿弥陀仏信仰に対しては、日蓮が知ってか知らぬか、この急所をとらえて、釈迦牟尼仏を
外にして、阿弥陀仏等を拝まさせるのは何事だ、念仏者は無間地獄に陥るぞ、と念仏者をこきおろ
しているのです。
ところが私からいわせると、南無阿弥陀仏だろうが、南無釈迦仏だろうが、どちらでも一向にさ
しつかえないのです。(南無妙法蓮華経は一寸意味が違います)
22
人類共通の悲願- 世界平和の祈り
そ こで私は、南無阿弥陀仏という念仏が、現今ではどうも、死骸だけにあげるような、何か沈ん
だものと思われてしまっている不利と、非常に消極的な、力弱い感じを抱かせること、それに他の
人々に対して生き生きとさせる感動を起こさせる要素がないことを、改めて思いみて、これでは現
代の一般人が、この念仏にあきたらなさを抱くのは無理がない。特別の人や、特別の日以外は、現
代人の大半が、この念仏称名を日常茶飯の間にでも行じつづけることをしないに違いない。日常生
活の刻々の間にでも、かかさずに念ずるところに、この念仏の意義もあり、力も出てくるのに、た
またま、ぽつんと称えたところで、何んの意義も、何んの効果もない、ということを知ったのであ
ります。
そうした私の心に、直覚的に、天から声があって、念仏の代りに、人々に、世界平和の祈りを実
行させなさい。世界平和の祈りをなすところに救世の大光明が輝やく、救世の大光明の輝やく人々
の周囲は自ずから浄められる、という神示が与えられたのです。
そして、それを実行した人々には、次々と奇蹟的なことが起ったのであります。実際に世界平和
の祈りを唱えていた人が、大光明にっっまれていた事実を、私たちと何等関係のない局外の霊能者
が認めているのです。
念仏も世界平和の祈りも、深い原理においては等しいのでありますが、世界平和の祈りは祈りの
23念仏と世界平和の祈り
言葉そのものが、現代人の誰れにでもはっきり意味の判る言葉であり、その言葉は、何人も異議を
申立てることの出来ない内容をもっていることが、念仏より一般的であり、世界各国人にも理解出
来る言葉でもあるのです。もし米国人が祈る場合には、日本というところを米国とすればよいでし
ょう。(註…この祈りの日本の平和というところの日本という意味は、この島国日本という意味ではないので
すが) しいて誰れかが文句をいうならば、何も守護霊、守護神などといわずに、はっきり神といえ
ばよいではないか、神は世界に一つなのだから、余計な霊や神を想う必要はない、というところで
しょうが、この守護霊、守護神への感謝行こそ、この祈りの一番意味深いところなのです。しか
し、その名をいうのが嫌な人は、只、神様ありがとう御座います。でも結構でありますが、そうい
う人々でも、やがては、守護霊、守護神への感謝行が如何に大切であり、守護霊、守護神が如何に
人類を守りつづけて下さるかが、はっきり判ってきて、いつの聞にか、神という言葉の中に、守護
霊、守護神の存在を認めざるを得なくなることでありましょう。
神は一神であって多神であることを忘れてはなりません。また、我等の祖先や先輩霊が、人類救
済の為に、一心に我等の本心開発の指導者として働いておられることを忘れてはなりません。
私は世界潰滅の危機を救うのは、自我の想念を世界平和の祈りの中に投入して、日常茶飯事のう
24
ちにもその祈りをっづけてゆくことを根抵にしての生き方でなければならないと確信しているので
あります。
自己をも世界をも同時に救う方法、それは世界平和の祈りによる他はないと思うのです。
25念仏と世界平和の祈り
26
凡夫と仏性
人類の幸せを導き出す生き方は何か
人間が神の子なのか、罪の子なのか、という問題は、実に人類にとって重大な間題なのでありま
す。これはいいかえますと、性善説と性悪説ということにもなります。
ざいあくじんじゆう
人間は本来仏(神) なり、とするのが法華経的考えであり、罪悪深重の凡夫なり、とするのが、
浄土門的考えであります。神道は神々の行為そのものであって、これは言葉や文章にすべき道では
ないので、言葉として聞き、文章としてみる時には、もうすでに神道そのものではなくなってしま
っているのですが、ここでは絶対善の生き方と致します。そして、キリスト教はやはり浄土門的な
罪の子的考え方が大半の生き方となっております。
み
このように宗教的に観ても、相反するように思われる生き方、考え方があるのですが、実際には
一体どのように考えた方が、人類の幸せを導き出すのに有効なのでありましょうか。ここで浄土門
いなば
的宗教から生れ出でた、妙好人の生き方について、柳宗悦、衣笠一省編の因幡の源左(百華苑刊)
から、処々引用してお話してゆきたいと思います。
カルマ
妙好人とは、白蓮華のような人という意味で、その想念行為の浄く美しい、業を超えた人々のこ
とをいうのです。
妙好人因幡の源左の言行
いなば
妙好人因幡の源左という人は、文字も読めない無学な農民なのですが、その言行は、あたかも名
僧智識の如きであったといわれます。その行為の一端を少しづっ書きながら、浄土門信仰の在り方
にっいて、その長所短所と、法華経やその他の光明思想といわれる考え方の長所短所とを比較検討
してゆくことに致します。
源左の住んでいた山根地方では、「芋明月」といって、旧の八月十五日、中秋の月の晩には、若27凡
夫
と
仏
性
者達が芋を掘っていたずらをする習慣があった。源左が自分の畑に行くと、人の掘って取った跡が
きずおざわざ
あった。それを見た源左は、「こりゃ手でも怪我さしちゃならんだがやあ。」そう云って、態々鍬を
そこへ置いて帰った。ー
又、或る日、源左が家路を急いで帰って来ると、知らぬ馬子が、源左の大豆畑に馬を入れて喰わ
せている。源左は「馬子さん、そこらのはま赤なあけ、先の方のまっとええのを食わしたんなはれ
な。」馬子は逃げるように去って了った。ー
又或る時、源左が鳥取の紙商竹田屋で金を受取り、之を懐にして山根に帰るさ、いっもの如く
「なんまんだぶなんまんだぶようこそようこそ」と念仏を称えながら歩いてくると、うさんな男に
後をっけられた。彼は出獄したばかりの前科者であったというが、源左が店から金を受取ったのを
いよいよ
見ていた。御熊坂の峠にさしかかる頃、愈々様子がおかしいのを知って、源左はその男に振り向い
て、「おらあの持っとるむんに、お前にゃあ欲しいものがあって、っいて来よんなはるか。欲しけ
りゃ上げもしようが、まあ如来様のことを話さしてつかんせ」そう云って連れ立って、法話をしい
28
O
しい遂に村まで来た。男は源左の人柄に手の下しようがなかった。かくて夜にもなったので源左は
その男を自分の家に連れて来た。早速家内の者に食事を仕度させ、遂いにその晩は泊めてやり、あ
たり前のようにもてなした。そうして翌日は弁当をもたせ、幾許かの金をもやり、人目につかぬよ
うに朝早く立たせた。男は源左を拝んだ。1
源左のこれらの逸話を読んでいると、良寛さんやミリェル僧正の姿が、ほうふつとして浮んでく
るようです。全く同等の心境のようです。たいした者だと胸を打たれ、思わず、有難うございます
といいたくなってしまいました。
西田天香と源左
また、他の逸話を要訳して書いてみます。
大正十一、二年の頃、因州智頭町の安東氏の所に西田天香氏が招かれて講話があった時、源左も
招かれたが、急用で時間に遅れて会場では天香氏の話はきけなかったが、天香氏の特別の好意で天
香氏と対面した。天香氏の肩を揉みながら源左が、今日の講話の内容を聞くと、天香氏は、「今日
のわしがお話したことは、ならぬ堪忍するが堪忍ということでなあ、堪忍ならぬ所から先を堪忍す
29夫凡と仏性
これ
るでなければ、堪忍したではないがな。皆堪忍し合うて暮そうということをお話しましたよ。L 之
を聞いていた源左は、「有難う御座んす、おらにゃ、堪忍して下さるお方(阿弥陀様)があるで、
する堪忍がないだがやあ。」
天香氏が帰えられる時源左に、「あんたもせい出してお念仏申して、よい仏になんなされや」と
ていげ
云うと、源左は「先生様、何をおっしゃるだいなあ。おらがやあな底下の泥凡夫に、なにが仏にな
るやあな甲斐性が御座んしうに。だけどなあ、親様が仏にしてやるとおっしゃいますだに、仏にし
て貰いますだいなあ。」
この源左の一言一言は、絶対他力の浄土門徒の深い信仰を現わしているし、全く全託の境地その
ままであります。自分の肉体人間としての価値を最低のものとして、肉体人間の自己を罪悪深重の
凡夫として捨て切って、すべてを阿弥陀様の方から頂き直している日常生活が、実にはっきり現わ
れております。
私の提唱している世界平和の祈りも全くこの源左の信仰と同じ境地から発しているのですが、少
しく違っているところもあるのです。それは後に述べることに致しましょう。
では次をつづけてみましょう。
30
源左の無我の心境
ー源左は家の御内仏の前で、よくぐんらりぐんらりと居睡りをしていた。行儀が悪いと餐める
人があると、源左は、「親さんの前だげな、なんともないだなあ。」
或る日、草を背負って帰ってきた源左は、あやまって川に落ちて血だらけになった。近くいた友
達が驚いて起してみると、源左は血の出ている片手をかかえ、「ようこそようこそ」といってい
る。友達があまりに不審に思うて、「おまえさん、傷しとって何が有難いだいのう。」源左は「片腕
折れても仕方がないに、ようこそようこそ」と感謝していた。
源左の長男が死に、引続いて次男が死に、災厄が重なった。願正寺の住職が「爺さん、仏の御慈
悲に不足が起りはせんかいのう」と尋ねると、源左は「有難う御座んす、御院家さん、如来さんか
らの御催促で御座んす。之でも往生は出来んか、之でも出来んかと、御催促で御座んすわいなあ。
ようこそようこそなんまんだぶ」
31凡夫と仏性
どんな不幸や災難があっても、自己の宿縁と諦め、私流にいえば、消えてゆく姿として、如来様
の慈愛による本心開発のためのものとして感謝しっづけて生きる、この源左さんの心には感涙させ
られます。世界平和の祈りの同信の中にも、この心境に近い人々がでてきていることを私は有難い
ことに思っております。
ではもう少し源左さんのことを書いてゆきましょう。
下石村の山口さんが、小別所から田圃路づたいに村へ出る途中、働いている源左をみかけ、こん
な所で何をしているのかと聞くと、源左は、「上の道路を出よったら、田圃に大きな穴があいとっ
ひ
て、おらは止めるような奴ぢゃあないけっど、源左よ源左よ、源左が止めにや、この田圃は干てし
まうそって、親さん(如来様)が云われるだけに、一間ほど出たけど又後もどりして、止めとるだ
いなあ。」
悪いことはすべて自己から出たこととし、善なることは、すべて親さまがやって下さっていると
いう、この無我の心境に源左はなっていたのです。
32
安岡夫人が、「主人は正気になって仏法を聞いてくれぬで、気がせれる」と云うと、源左は「気
をせられでもええがなあ、十方衆生、一人も残らず助けにゃおかのの大願だけえ。今世でいけにゃ
来世。来世でいけにゃ来々世。どうしても助けにゃおかのの大願だけのう」
阿弥陀如来の在り方は、世界平和の祈りのもつ、救世の大光明と同じであって、只一念の祈り言
で、その人は必ず救われるのです。人類すべてを救おうとしての出現が、救世の大光明であり、そ
の救われの方法が世界平和の祈り言であるからです。
わらじ
或る人が、源左は孝行者だというに、母親に草鮭の紐をほどかせるというのを聞いて、源左は、
「親はなあ、子が可愛いだけえ、草鮭の紐がほどきたいだいなあ。」
くら
この源左と同じような心が私にもあって、昔母親と一緒に生活している時、私が会社から帰って
くると、母親が必ずパケッにお湯を汲んできて、「さあ、足を出しなさい」といって、三十に近い
頃の私の足を洗ってくれるのです。その時の母親の子を愛することの喜びが、私の心に伝わってく
るので、私は自分で洗った方が早くて面倒でないのですが、毎度母親がバケッを持ってくるのを縁
に腰かけて待っていたものです。して貰うことによって喜ばせる親孝行や、頂くことによって相手
33凡夫と仏性
を喜ばせる愛行為というものもあるものです。私は源左さんのこの話をみて、
想い出して、にこにこしてしまいました。
後はつづけて抜き書きをしてみます。
思わず自分のことを34
源左の一体感と光明思想
i 源左は相手の宗旨などかまわずに仏法の話をしたが、「うちは禅宗だが」と云う人があった
時、「禅宗でも達磨大師のやあに修行はできまいし、聞かにゃ落ちるけれ、聞かあそよ」1
或る人に源左が「おらあ、監獄の人を見りゃ手を合して拝みますだいな」或る人「そりゃまた
どがなわけだいなあ。」源左「この源左奴は、まっと悪い人間でござんすだけど、おらの身がわり
になって姿を見せしめしてござれるで、縛られずにすみますだいな。そが思やあ、手を合せて拝ま
ずにゃをられませんだがやあ。」ー
ああ、この自他一体感こそ、世界平和の祈りなのです。
*
源左「御法話に来いって招待があって、ついて行くだが、人様から色々のお尋ねが出ると、する
すると答えさして貰うだかやあ、何にも知らんおらが云えるなあ、全く親様の御恩だで、有難いも
んだいのう。我が云いながら我が聞いて我が喜ぶ。我ということはないだでのう。」1
私をはじめ、私たちの平和の祈りの同志は、みなこうした生き方をしているわけです。
源左「お上さん、この世のこたあ、何につけ『させて』の字をつけなはんせ・兄よ、貰うちゃなあ
て『貰わさせ』貰いなはれ、こらえぢあなあて『こらえさせて』貰いなはれ。」
源左の持言コニ世に一仏、恒沙に一体、仏の中の大王様が、われが生れぬ先から、願も行も成就
し上げてお呼びづめだけ、われが落ちようと思っても、親が先手をかけて、落とされんだけのう」
仏の中の大王様は、今式にいえば救世主ということで、救世の大光明は、人間がどんな悪いこと
を思おうとしても、しようとしても、その先手を打って、救っていて下さる。という、源左の光明
思想なのです。
いなぱ
このように、因幡の源左という人は、妙好人そのものでした。この源左のように、肉体人間とし
35凡夫と仏性
ての自己を、全く罪悪深重の凡夫として捨て切って、南無阿弥陀仏一念に融けこんでいると、罪悪
深重の自分という者は消えていってしまって、只そこに現われているのは、神仏の行為そのものの
人格者だけになってしまうのです。悪や不幸はすべて消えてゆく姿であって、神仏の光明だけがそ
こに生き生きと生きつづけてゆくのであります。
36
源左の生き方に学ぶ
罪悪深重の凡夫が、阿弥陀仏にすがる一念で生活している、という一見消極的に見える生き方
が、源左のようになると、その生き方そのものが、法華経の生き方と等しい、光明思想、神我一体
の生き方として現われてくるのです。
我は神の子なり、仏なり、と直覚的に把握して、あらゆる業想念に把われずに生きてゆく、いわ
ゆる法華経的光明思想は素晴しいのですが、これは一歩間違うと、高慢独善的で排他的となり、鼻
もちならぬ嫌な人間となってしまいます。自己の業想念をそのままにして置いて、我は神の子なり
仏子なり、と叫んでいても、その神の子観、仏子観は、業想念波動の中での観念に過ぎないので、
真実の仏の姿、神の子の姿が、その人の行為に現われてくることはないのです。
自己が神の子なり、仏子なりという考え方は、心が明るくなり、その生き方に迫力も出てはきま
すが、うっかりすると、自己の振りまいている業想念波の悪臭に気づかずにいて、人々に嫌われて
しまうことになりかねません。それは自己反省が足りなくなるからなのです。
ところが、浄土門やキリスト教的な、罪の子観の生き方は、源左の心境にまでなってしまえばよ
いのですが、そうでないと、いつでも罪の子や、罪悪深重の凡夫の自分を把えっづけていて、暗い
力弱い格好で生活してゆかねばならないようになってしまいます。そして、自分の神性を打ち出し
て、勇ましく明るく、意気揚々と生きてゆこうとする人間を、思い上がった高慢な人間だといって
毛嫌いしてしまうのです。
浄土門の生き方の根本理念は、肉体人間としての自己を一度、阿弥陀仏という、救世主的大光明
の中に投げ入れて、阿弥陀仏の大光明の中から、自己の本心の光明を改めて輝やき出させて貰うと
いうところにあるので、いつまでも罪悪深重の凡夫の自分を把えつづけて生きうというのではない
のです。
一度びは、罪の子の自分を、はっきり認識させ、凡夫の自分と、阿弥陀仏(親様)の子としての
自分とを二っに分け、そして凡夫の自分を、親様の中に融けこませて、親様の大光明の子としての37凡
夫
と
仏
性
自分を頂き直してくる、ということなのです。
そうしますと、どんな業想念も、悪行為も阿弥陀如来(親神様) の大光明を消す程のものはない
ので、如何なる業想念も不幸災難も、そのまま光明の生活とふりかわってくることになるのです。
どのような厚い氷でも、太陽に照しつづけられていれば融けてしまうと同じようなものです。浄
土門信仰の一番大事なところはここのところなのです。そして、唱名念仏しながらも、いつまでも
残っているように見える、業想念や不幸があったら、それもいっかは消えてゆくにきまっているの
ですから、そのことに把われずに念仏しっづけて生活してゆけばよいのです。あまりに罪の子ぶっ
たり、凡夫ぶったりしていると、それだけ如来の光明から遠ざかっていることになります。
源左さんが、自分程の底下の凡夫はないといっていますが、これは源左のように自他一体感の持
主は、自分といっていても、実は肉体人間全部の業想念を自分と感じていっているので、こうした肉
体人間全部が、神仏の中に飛びこんで日々生活を頂き直さねばいかぬ、ということにあるのです。
浄土門信仰の方々は、宜しくこの源左さんを学ぶべきで、いたずらに凡夫凡夫といっていること
は、神仏のみ心に叶わぬことです。といって、光明思想のはき違えのような、自己の想う通りにな
るという念力主義や、業想念と真我とを混合させて、神の子だと威張っているような無反省な生き
38
方も困りものです。
〃神の生命我において働き給う
“に徹しよう
ヘヘヘヘへ
源左さんではないが、すべての善行為はさせて頂くという謙虚な気持でいて、悪や不幸災難は、
過去世からの宿業、っまり自分の想念行為が、神仏のみ心を離れていた期間のマイナスの消えてゆ
く姿として生活してゆけば、その人の心には高慢もなければ、不平不満も起らなくなってくると思
います。
何んにしても人間という者は、神のみ心の働きがなければ、何一つできるものではないので、善
といい悪といったところで、その場その時々の消えてゆく姿に過ぎないのです。只、永劫に消えな
い行為は、神と一つである生命の働きだけなのでありまして、神の生命我れにおいて働き給う、と
いう実観がつづいている時、その人は真の幸福者なのであります。それはこの肉体が存在しようと
存在しまいと、どちらでもよいのです。いいかえれば、肉体界にいようと霊界にいようと、それは
どちらでもよく、常に神と一つの生命を実観していることが大事なのであります。
そうした実観の上に立っていると、如何なる不幸災難にあっても、それに把われることなく、何
39凡夫と仏性
んとなく消えてゆく姿にしてしまえるのです。どうしてそうなるかと申しますと、神のみ心の中に
悪や不幸がある筈がないことを、そうした心境の人々には、はっきりわかっているので、自分に起
ってくるすべてを有意義なもの、プラスと認めているのです。
ヘヘヘヘヘヘヘへ
そうした神我れと倶にありの実観を得るまでに至るのはどうしたらよいか、と申しますと、源左
さんのように専念南無阿弥陀仏でもよいけれども、南無阿弥陀仏という唱名が、現代の人々には、
何か抹香臭く思われ、葬式と結びつけて考えられてしまったりするので、そうした昔からの臭味の
ない、しかも現代人の感覚にぴったりする唱名の方法はないかと常々私は考えていたのですが、い
つの間にか、世界平和の祈り、という唱え言ができてしまったのであります。
それは全くいっの間にかできてしまったのでありまして、肉体の私の意識的な作為的なものでは
ないのです。もっとも私の教えそのものが全く自然にすらすらとできたものでありまして、作為的
なものではないのです。
私の教・兄といっても、肉体の私の教えではなくて、神我一体となった私の教えは、浄土門的法華
経ともいうべきもので、世界平和の祈りの唱え言をしていると、いつの間にか、深遠な法華経の境
地になってゆくものです。それは実に容易に入り得てしかも自然に心境が高まり深まってゆくとい
40
うものなのです。
念仏の奥義
おうそう
浄土門的にいえぽ、往相の南無阿弥陀仏で弥陀と一体になり、今度は弥陀と一体となった自分か
げんそう
らでる南無阿弥陀仏で還相、つまり人類救済の念仏行として生きてゆく、というこの念仏の奥義
を、世界平和一念で、そのまま行じられてゆくのであります。
南無阿弥陀仏というと、阿弥陀仏に帰命する、阿弥陀仏と一つになるということで、一っになる
までの念仏行を経ぬと、なかなか還相としての念仏行にはなれないのです。いつまでも罪悪深重の
凡夫が心に残ってしまうのです。その反対に南無妙法蓮華経の題目となると、私は仏と一っであ
る、という宣言ですから、意気高揚して還相的なのですが、ともすると排他的になり、他を蔑視す
る傾向をもち、調和を欠く行為、出過ぎた行為になりやすいのです。言葉のもつひびきというもの
は不思議なものです。ですから言葉は即ち神なりき、というのでしょう。
ヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘへ
ところで、世界平和の祈りはどうでしょう。世界人類が平和でありますように、という、人類の
願いの心ずばりを言葉に現わした祈り言は、そのままが神の完全円満なるみ心の現われです。自己
41凡夫と仏性i
個人の願いと、人類共通の願いと、神のみ心とが、全く一つに融け合っている祈り言、それが世界
平和の祈りなのです。
私がこの祈り言を書いた時に、或る人が、先生は詩人なのですから、もっと詩的な言葉で祈り言
を書かれたらどうですか、といってこられましたが、私は只黙って、今日の祈り言にしてしまった
のです。神様のみ心は、誰れにでも容易に理解できる、ふいっと心に沁みこむ祈り言を私に現わさ
ごと
せたのであって、おきれい言の祈りをさせようとなさったのではなかったのです。
私の教えに一貫しているものは、一般大衆にわかりやすく、そして神のみ心に一番近い教えとい
うことでありまして、これは言葉にも文章にも統一会にも、私の日常茶飯事の行動にも、すべて現
わされていることなのであります。
気取った取り済ました姿ではなく、明るい開けっぴろげな庶民的親近感の中に、高度な神のみ心
が自然と現われている、というのが、世界平和の祈りの会の姿であり、祈り言のひびきでもあるの
です。
42
〃神は愛なリ
“の堅信で祈ろう
世界平和の祈りの在り方は、浄土門的法華経の姿でもあり、往相と還相、個人の救われが同時に
人類世界の救いとなる、という在り方であり、最後には、神道そのものの、神々の姿がこの地球界
に生活するという、地上天国顕現の生き方そのものでもあるのであります。
皆さん個人個人も現象的には、嫌なこと、苦しいことがたくさんあるでありましょう。日本の姿
も、人類世界全般の姿も、嫌なこと、苦しいことだらけの様相を呈しております。しかし御安心下
さい。神は大愛であり、慈愛の大光明です。あなたやあなたの周囲やそして世界人類を、このまま
苦しみの中に放り出して置くわけはありません。あなたも人類も必ず救われるのです。それは単に
時間の問題なのです。
ですから、その時間だけ、どんな苦しいことがあっても、消えてゆく姿として、世界平和の祈り
の中に入りこんでいて下さい。世界平和の祈りは救世の大光明です。その祈り言をするたびに、あ
なたもあなたの周囲も次第に光明化されてゆき、やがて人類すぺてに神の子の姿が現われるので
す。
私たちはそのさきがけとして、日々世界平和の祈りの宣布をしているのであります。
神は愛なり、の信を深くお持ち下さい。
43凡夫と仏性
鱗
み仏の
へ
、L 】
♂ のままに
妙好人宇右衛門さんの話
宗教の道は理屈でもなければ、上手な言葉のやりとりでもない、只神仏のみ心に沿った行いにあ
る、と私はいつでも申しますが、浄土門に多い妙好人たちの生き方は、如来様のみ心そのままの生
き方で、私は常にその行動に強い感動をおぼえるのです。
またその妙好人の話を書いてみたいと思います。
*
うえもん
兵庫県揖保郡太子町北村というところに、二百年前に、宇右衛門という馬子がおりましたが、こ
の宇右衛門は、若い頃は力自慢で乱暴な人でしたが、或る時念仏の説法を聴聞しているうちに、後
生の一大事、という阿弥陀如来の本願を説き聴かされ、非常に興味をもって念仏門に入ることに
なりました。そして次第に心改まり、唱名念仏絶ゆることなき、昔とは別人の柔和にして不言実
行の信者となり、馬子をやめて、農業に精を出し、かりそめにも人と争わぬ、法のまま生くる生
活を身心に行じるようになりました。
昔、禅宗の大徳白隠禅師が、近所のいたずら娘の懐胎の罪をなすりっけられた時、そうかと言っ
て、無実の罪を引受けられたことが、美談となって伝わっておりますが、宇右衛門にも、これと同
じような佳話があるのです。
太子町太田より南、山陽線にそって山戸というところがあります。この村の某という者が、亡父
十七回忌法事の記念に仏壇を買い、宇右衛門にこの礼拝を頼みました。宇右衛門はその家を訪ね仏
壇を礼拝して帰えりましたが、その後で大変な問題が持ち上りました。
それはその某が金二十五両を仏壇の引出しにしまっておりまして、いよいよ入用だという日にな
ってあけてみますと、その金子がありません。仏壇の前に行ったものは、家内のものか、宇右衛門
しかおりません。盗人の入った風もありません。そこで某は女房に向い「宇右衛門さんは正直な念
仏者ではあるが、凡夫だからふと盗み心が起ったのかも知れん。」と話しますと、女房も同感した
45み仏の心のままに
ので、某は急いで宇右衛門の宅へ参り実はかようかようでと、さも言いにくげに申しました。大抵
の人ならこんな疑いをかけられたら、腹を立てて怒鳴りつけてしまうところですが、宇右衛門は怒
るどころか、その話をきき終るなり、どうもすまぬことを致しました、といいながら、二十五両の
金を渡してその罪をわびました。
よもやま
さてその後、その人の隣の人が用事があって大阪に行き、その人の息子の家に立寄り、四方山の
つい
話の序でに宇右衛門が、仏壇の引出しから金を盗んだことを話しました。息子はびっくりして、そ
の金なら実は私が大阪に来る時に持ち出した、実に宇右衛門さんに済まぬことをした、と急いで山
戸に帰えり、両親に打ち明け、その足で宇右衛門の所へ行き、重々詫びながら二十五両を返えしま
すと、宇右衛門はかえって気の毒そうに、それでは前生でお借りしてはおりませんでしたか、とい
ってその金を受取りました。1
宇右衛門のこの素直さはどうでしょう。現代の人からみたら、馬鹿ではなかろうかと思われます
が、何事がでてきても、過去世の因縁の現われと思いこみ、すべての出来事事柄を、過去世と結び
っけていて、今生だけの出来事とは思っていないのです。
あらわれのいしき
自分の顕在意識では判らないが、すべては阿弥陀如来様のみ心によって現われてくることなの46
で、その事柄が如何に自分に都合の悪い事柄であろうと、素直に受け切って生きてゆく、という素
晴しい真理の生き方を、何気なく当然のこととして行じている、この宇右衛門の素直に徹した姿は
光り輝やく尊いものです。現代の人の生き方の習性は、自分のした間違った行為でも、何んとか言
いぬけて、自己の損にならぬように、という、今生の瞬間瞬間利害関係で動いているそういう人が
多いのです。天と地の差です。これが白隠ほどの学問修業を積んだ人なら又別格ともいえるでしょ
うが、馬子上りの百姓爺の学問知識のない人の行為なのですから、宗教の道は百知は一真実行に及
ばず、という守護神の言葉がよく判ります。
妙好人宇右衛門には、そうした種々の話があります。もう二、三書いてみましょう。
宇右衛門は自分のことよりも、人の為に村のために働いた人であります。総体に百姓は夏田の水
かんばつ
入れに皆苦労するのです。干魑になると特にひどく、みな吾が田に水を入れようとして、水喧嘩を
起したりします。我田引水とはここから起った言葉で、この世の生活には、個人個人の関係から、
国際間の問題でも、この我田引水的やり方が多いのです。
ところが宇右衛門は全く反対で、もし他人の田に水がない時には、自分の田の水を落して入れて
47み仏の心のままV’
あげます。そうして、私は水上ですからいつでも水が入れられますといい、水上の人には、あなた
の田は水上ですから、遠慮なく入れて下さい、と申します。このようにあまりにも人の善い宇右衛
門の行為には、村人も気の毒がって、皆々そのまま帰ってしまいます。こんな風でいて、宇右衛
門は村で有数の資産家になってしまうのです。
又或る時は、隣の人が宇右衛門の持ち山の柴を盗んでいる人を見つけたので、すぐこれを宇右衛
門に知らせますと、宇右衛門は、有難う、といいながら、握り飯をっくり、干魚を添えて弁当にし
て山へ行きました。すると知らせて貰った通り、どこの人か知らぬが、一所懸命に柴を刈っており
ましたが、宇右衛門の足音をききつけると、一寸ふりむいて、一目散に逃げてしまいました。
帰ってから宇右衛門は隣の人にこの様子を話して、自分が日頃忙しいため、山の柴刈に手が届
かず気になりながら放っておいたので、頼みもしないが、人が丁寧に刈ってくれたのだと思い、弁
当だけでも作ってお礼をいいたかったのだが、誠に申し訳けないことをした、と心の底から申すの
でした。
*
48
又、宇右衛門は入信以来、如何なる事にも腹を立てたことがなかったので、村の悪い青年たちが
四、五人集まって、宇右衛門をおこらしてみようと相談して、或る時、柴を負って姫路の御坊へ急い
でゆく宇右衛門を川の中へっき落してしまいます。っき落された宇右衛門は、ずぶぬれになりなが
らも、怒ろうともせず、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏を唱えながら、ああ、己が悪かったの
だ、如来様へお供えする御仏飯をたく柴が、山で牛や狐や人間の小便で汚れているかも知れないの
に、洗いもしないで持参するのが悪かったのだ、これからは柴や薪をよく洗ってもって行け、との
仏様のいましめだと了解して、その後は必ず柴や薪は洗って御坊へ持ってゆきました。村の青年た
ちも宇右衛門の信徳に感化されて言行をつつしみ、殺生を戒しめ、風儀とみに改まり、淳朴温厚、
家業に精励したということであります。ー
この話など、良寛さんの舟頭に川に落されて感謝した話とよく似ております。実にみ仏に純一そ
のものの生き方です。こういう話をきいておりますと、自然と心清まり、心温まる想いがします。
今更ながら、宗教の道とは言葉でなくて、その人の日頃の行いにあるのだなあ、と思います。
ついでにもう一つ宇右衛門について心温まる出来事を書いてみましょう、
49み仏の心のままに
一
或る年の冬、宇右衛門の息子の嫁で、わがまま気ままの一家の手に負えぬ女が、宇右衛門の物の
言い方が悪いといって、庭にあった横槌を取って舅に投げつけました。その槌は宇右衛門の額に当
って沢山の血が流れました。側にいた温厚な息子も流石に腹を立てて、お前のような女房は離縁す
ると門ロへ引き立てて行きますと、宇右衛門はびっくりして、我が子の袖を引きとめ「この親父が
悪いのだ」といって謝まります。息子は「とんでもないお父さんが悪いのではない。お父さんに手
をあげるようなこんな不孝な嫁は、切りきざんでも腹の虫が納りません。何故お父さんは、こんな
わがままな嫁をとめるのですか」と申しますと、宇右衛門は涙を流しながら「うちでさえ辛抱の出
来ぬ嫁がよそへ嫁入って一日も辛抱できる筈がない。この家を追い出されては、この嫁の身の置所
がなくなってしまう。おれさえ辛抱すれば大事にならず納まるだ。不心得な嫁を貰ったのはそちの
しあわ
不幸せ、私の因縁の悪いせいじゃ、何事も勘忍せよ」とかえって息子をなだめ、お仏壇に参りお光
をあげ、念仏を唱えて明るい顔をしていました。流石の嫁もこの宇右衛門の深い愛に感激して、大
いに後悔してあやまり、その後はうってかわった孝行な嫁となったのであります。ー
この話なども、全く恐れ入ってしまう程、み仏の心に徹しています。私の常に説いている、すべ
ては過去世の因縁の消えてゆく姿、ただ在るのは神仏のみ心だけなのだ、という真理そのままの生50
き方をこの宇右衛門さんはしているわけです。それがわざとらしくするのでもなく、気張ってする
のでもなく、その場、その時々の出来事を、自然に光明化してゆく、無為にしてなす、という行為
を、宇右衛門さんはいつの間にか体得してしまっていたのであります。
神のみ心に波長を合わせる
一向専念の念仏、或いは一念の念仏ともいうのでしょう、ひたすらなる念仏行もここまでくれば
たいしたものです。たくさんの学説をならべ立てながら、その想念や行為に、少しもみ仏や聖者の
み心が現われていない学者よりは、はるかに人格秀れた宇右衛門さんであるわけです。
こういう生き方は宗教の極意なので、誰れでも彼れでもすぐ真似できるというものではありませ
んが、こういう人の行いを手本として誠実真行の道を進んでゆくことは必要なことであります。
世には、何々の神でなければいけない。何々仏でなければ救われないなどといって、宗派争いを
している人々もありますが、実に馬鹿気きったことでありまして、宗教の道は、自己の本心開発の
為に必要なのであり、宇宙心(神) のみ心を自己の心として生きてゆける道が宗教の道なのであり
ます。
51み仏の心のままY’
要するに、常に自分の心が澄みきって神のみ心に通い合っている、ということが必要なので、そ
の神のみ心とは、自分の本心そのものであるわけです。
ですから、自分の心に如何なる事情にょろうと、善に把われようと、悪に把われようと、どちら
にしても、曇りができた場合には、その曇りを、瞬々刻々はらい浄めておかなくてはいけないので
す。それを私は、消えてゆく姿として、神様のみ心の中で消し去って頂くようにしているわけで
す。
この場合の神様は、神様のみ心の中ということにしているので、神様のみ心は、すべての大調和
であり、大宇宙から地球に至るあらゆる部門の平和達成のみ心であります。そのみ心に合わせて、
肉体人間側の私たちが、世界人類が平和でありますように、という祈り言にのって、神のみ心に心
の波長を合わせるわけです。すると、巧まずして、神と人との心の波長がぴったり一っに合致しま
して、神我一体のひびきがこの宇宙に鳴りひびくことになるのです。
そこで、消えてゆく姿で世界平和の祈り、という道が、そのまま真の宗教の道となってくるので
あります。この祈りには何々神も何々仏もいらないのです。ただ常に自分を守って下さっている守
護の神霊への感謝があるのみなのです。52
とかく一宗一派の形ができますと、ついその宗派の形式というものができまして、その形式に当
てはめようとするのです。南無阿弥陀仏とか南無妙法蓮華経などという唱え方は、実に簡にして本
そく
質に則している素晴しいものですから、それはそれで勿論よいのですが、それがいつの間にか一つ
の形式化してきまして、一宗一派というようになってきてしまって、日蓮宗の人は真宗を嫌い、真
宗の人は日蓮宗を嫌うというようなことになってきまして、本来の大調和の神仏のみ心から外れが
ちになってしまってきたのであります。
日蓮宗の人にも、宇右衛門さんのように、あまり世には知られなくとも、立派な人格をもった人
々もたくさんいたことでありましょうが、今日のように、世界を一つにしようというような時代に
なってきますと、一宗一派という形がありますと、どうしても相容れないものがどこかにできてき
てしまうのです。
妙好人を一人でも多くつくリ出すために
そこで私は、神の心、み仏の心をそのまま行いに現わした、大調和精神そのものの、世界平和の
祈り、という道を生み出したのであります。
53み仏の心のままV’
世界人類が平和でありますように、という気持を持たぬ人は、どこの宗派の人の中にもいないわ
けです。唯物論の人でも、世界平和を願えばこそ、自己の身心をとして働いているわけです。
妙好人宇右衛門のような人を一人でも多くつくるためには、どうしても、そうなり易い方法を誰
れかがつくり出しておかなければなりません。南無阿弥陀仏の教はその点では実に秀れた道である
と思うのですが、日蓮宗の人でも禅宗の人でも、キリスト教の人でも道教の人でもマホメット教の
人でも、誰れでもが、自己の今日までの宗教の道や、祈り言はそのままにしておいても、一つの道
においては誰れも彼れも異義なく同意できる願い事は世界の完全平和達成ということにあるのです
から、その願い事を、祈り言にまで高め上げた、世界平和の祈りは、何んの摩擦もなく、どの宗
派でもできる祈りなのであります。やがてこの真理が急速に判ってくる時が参るでありましょう
が、一日も早くその日のくることを私たちは待ち望むのであります。
妙好人の殆んどが、地位や学識経験者でない、農家の人とか、手仕事でその日を送る人々とかい
う平凡な生活の人々なのですが、如来(神)を信ずる心の厚いことは、赤児の母を慕う心に加え
おの
て、敬度なる祈り心そのままが、全生活ににじみ出ているのでありまして、その行為が自ずと人々
かがみ
の鑑となるのです。
54
地位や学識のある人々が、この妙好人のような生活を行ったとしたならば、その影響するところ
は更に大きく広がってゆくものと思いますが、地位や学識がありますと、かえってその地位や学識
が邪魔をして、妙好人のような赤児の心にはなりにくいのであります。そこで聖賢たちは、口々
に、小智才覚を捨て去ることを教えているのです。
ところが、この小智才覚を捨てるということが実にむずかしいことなのでして、すべては神のみ
心によって運ばれてゆくのだ、と心の隅では知っていながらも、それとは別に、自分自身の肉体頭
脳で何やかと考えずには、事を行うことができないものを人々はもっているのであります。
生命の素直な流れを邪魔するもの
私がよく、無為にして為す、という老子の教を説いておりますが「何んにも考えないで一体何が
できるのですか」とすぐ反問してくる人たちがいます。そこで私は逆に問いかえします。「あなた
方は、いちいち頭で考えて、心臓を動かしたり肺臓を働かしたりするのですか、人間の五臓六脇を
はじめ諸器官は、いちいち頭で考えなくとも、その役目のままにその働きをしているではありませ
んか、頭で考えたり、想いがとまどったりすれば、かえって諸器官の働きを邪魔してしまうではあ
55み仏の心のままに
りませんか」智慧というのもそれと同じことで、頭脳の想念をあれやこれやと動かすことによつ
て、かえって、真実の智慧の出てくるのを妨げてしまうのです。
実際に私のこれまでの宗教的霊的の体験によりますと、人間というものは、この肉体という体の
他にいくつもの微妙な体のあることが判るのです。そして一番奥深いところにある体というより心
といった方がよいところから、神の子本来の智慧能力が常に流れてきているのであります。それが
縦に流れて参っておりますのを、自己の頭脳を駆け巡る意識想念の小さな範囲しか考えられない肉
体我が想念の波をはりめぐらしてしまって、縦に流れてくる、神智をさえぎり曇らせてしまうので
あります。
日頃から学んでおります学問知識というものの中には、人類の進化の為になるものもあります
が、人類の進化を現在の状態にとどめてしまうようなマイナスの面もあるのです。それが肉体人間
の頭脳では、はっきり区別できないのです。例えていえば、人間というものは、この肉体というも
のが自分自身であって、この肉体にまつわる能力を増進させ、肉体の個我を充分に発揮させること
によって、意義ある人生が送れるのだ、だからいかなる個人といえど個人々々の考が大事なのであ
るから、すべての人が各自の意見を述べあって、この社会構成をしてゆくべきで、特別の人の意見
56
というもので社会をひっぱっていってはいけない、というような、民主主義的な学説があります。
一応尤なように聞えますが、よく考えますと、肉体的な個人というものは、殆んどの人々が、自己
の肉体的生活環境を守ろうとして社会生活を営んでおりまして、自己や自己にまつわる損得勘定に
一番敏感なのであり、自己の得になっても損になるようなことは望まないわけです。
ですから利害が相反し対立するような場合は、お互いが自分の方の意見を主張し合って、常に対
立抗争する形になります。個人々々の誰れもが自己の損得を基準にした主張をし合うわけですか
ら、どうしても多くの対立抗争を生み出します。それを地位や権力のある人々が、自己の側にひき
入れようと、権謀術策を講じます。そして、人数の多い側、権力の強い側の主張が通ってゆくわけ
で、個人々々が自我を主張し合ったようでいて、結果はその主張を入れられない人々が多くでてく
るわけです。
頂き直した生活を
要するに、肉体的な自我欲望を、自分自身の真実の主張と思って行為したことは、常にこの世界
に争いの種を蒔くことになり、しかも自分自身も快い生活ができない、ということになります。何
57み仏の心のままに
故こうなるかと申しますと、人間の本質は、神の大生命の中において軌を同じくした兄弟姉妹的な
生命体でありますのに、その生命を分けあったその本質的在り方を、少しも考えずに、肉体という
一個の形だけの人間を自己と想い違いして、その肉体生活だけを守ろうとする想念を真の自我と思
いこんでいる大きな誤りがあるからです。
ですから、いつまでたっても、どんな政治政策ができても、真実人々を安心立命させるような政
治はできないのであります。そこで聖賢方は、肉体の自我を助長させるような学問知識を小智才覚
というのです。
みずか
小智才覚的な自我の発揮というものは、常に、この世を乱し、自らをも損ってゆくのでありまし
て、神の大智慧大能力の法則に合致してゆくことがないのです。人間は考えずにはおられない生物
です。人間が他の動物と違うところは、理想をもち考え計画してゆくということであります。しか
し、この考えというものは、常に人類全般の幸福ということと結びついていなければならないので
す。
そこで、学問知識を身につけるのは結構なことなのでありますが、人間が神からきているもので
あるということと、人問はみな生命における兄弟姉妹なのである、という大きな愛の気持を根底に
58
していないと、その学問知識がかえって自己及び人類の進化を遅らせてしまうようになりかねない
のです。
そういうわけで、一度小御才覚というより、自己の頭脳知識体験として蓄積されているものを、
神のみ心の中にお還えしして、改めて出て来る智慧によって事を運んでいったらよいというので
くうそくぜしき
す。それをやさしい空即是色の在り方というのです。一度神のみ心の中で選り分けて頂いて還えっ
てきた智慧能力は、必ず自己を含めた人類の為、兄弟姉妹の為になる智慧能力であり想念行為とな
るのであります。真宗ではこの方法を南無阿弥陀仏一念で、如来様からすべてを頂き直す、という
のです。
妙好人たちは、みな如来様からすべてを頂き直して生活をし、知らないうちに、多くの人々の模
範となる人格者となっていたわけです。私共は、それを、消えてゆく姿で世界平和の祈りと教えて
いるのであります。
人間の行為の神のみ心に叶うか叶わぬかは、その行為が、自己の肉体生活の欲望の満足のためだ
けのものか、少しでも他の人への好影響があったか、社会人類の為になったか、ということであり
まして、自分の欲望の満足を遂げるために、他の損害を顧みないなどということは悪い行為である59み
仏
の
心
の
ま
ま
に
ことは今更いうまでもありますまい。
中共の青少年たちが、異口同音に、国の為人民の為に働くことによって、自分は満足だ、といっ
てい惹のを聞くと、教育というのはたいしたものだなあ、と思いますが、国の為というのをもう一
歩広げて、人類の真実の平和の為、大宇宙の調和の為、というところまで進んでこないと、国の為
に一戦も辞さぬ、という形になってきて戦争の危機をまねくことにもなります。
国の為であれ、誰れの為であれ、他に対して恨み心や、殺傷意識をもつことは、その想いそのも
カルマ
のが神のみ心に反し、国を損い自己をも損う心でありますから、正義の為といってもそれは業の波
のさせるわざであって、神仏の喜び給うところではありません。私共はただひたすら、人類の完全
平和を瞬々刻々祈りつつ、自己の心に深い慈愛の想いを常にたたえている人間になってゆくことの
みに重点を置いて生きてゆきたいものです。
60
救われの自覚
人間の生き方を考える
常に私が望んでおり、行じておりますことは、一般大衆に真実の宗教を知らせ、日常生活そのま
まで、なんらの難行苦行もせずして、神とめっながりを体得させ、その体得しつっある求道のうち
すがたげんそうおうそう
に、つまり往相の相のうちで、同時に菩薩業である還相の行をなさしめようということであります。
それが私の教義と世界平和の祈りの宣布であるわけです。ですから私は学問的なむずかしい理論
を説いたり、やたらに神々の名前を覚えさせるような説き方をしないのです。
その行をしてさえいれば、知らないうちに宗教の真髄が判かり、深い信仰心が湧きあがってき
て、生死の境に立っても、うろたえ騒がぬ態度でいられるような人間を一人でも多くつくりあげた61救
わ
れ
の
自
覚
い、そしてその行がそのまま、世界人類の平和に役立つというものでありたい、というところか
ら、私の世界平和の祈りの教が生れたのであります。
わけいのちわけみたま
人間は本性は神の分生命であり分霊である神の子なのでありますが、肉体人間としてこの地球界
に生活しております人類の想念行為の中には、神の本質である愛や光から離れたものが多分に含ま
れていて、いざ生死の境に立ちますと、本能的に自己を守ろうとして、日頃の修練や修養もどこへ
やら、人より先きに自己の肉体生命をかばってしまいがちであります。相当悟ったように見える信
仰者でも、咄嵯の場合には、他より自己を守ろうとしてしまう場合が、生死の境のような急場にな
ると行為にでてしまうものであります。
この行為は、神の心である愛にそむいたものといわなければなりませんし、神の子としての生き
方にそむくものであるわけですが、これが頭で判っていてもいざとなるとなかなか行ない得ないと
ころに肉体人間の生き方を深く考えてみなければならない所以があるのです。
62
信仰の無償性- 亀井氏の宗教観よりー
こ のことについて、亀井勝一郎氏は親鸞の書の中の〃信仰の無償性” という題の中で次のように
いっております。
一っの設問ーたとへば自分と友人と海に溺れようとしてゐる。そこへ唯一っの救命具が流れて
きたとしましよう。一人のうち誰れかひとりだけが救はれる可能性あるとき、友人に救命具をわた
して自らは海中へ没しうるか。我らの平生の道徳的口吻からいへば、当然自分が犠牲とならねばな
らぬ、信仰深きものの態度もおそらくそうであらう。だが現実は友を押しのけて己れのみ救はれよ
ざんはいとくむ
うとする無葱な背徳を犯しさうだ。その可能性の方が自己犠牲の可能性よりずつと多いと気づく。
どんらん
… … …愛すらも貧禁な生存欲の前に崩れてしまいさうだ。事死生に関する限り人間の打算はきはめ
て微妙な動きを示す。… … …
人間の悲惨はこれだけに止るものではない。かくして生き残ったものは、自分の手で押しのけた
友人の「崇高な死」にっいて、呵責と悔恨の涙にくれながら語りはじめるであらう。何ものも友の
死を償ふことは出来ぬ。… ……
かくも悲惨な存在に対して、なほ神の悲心は注がれるのであらうか。もはや祈る以外に道はな
く、ただ祈ることによつてこの存在に救ひが示されるのであらうか。人間である我々は口をつぐむ
より他はない。救ひありといへば神への不遜とならう。ある筈がない。だが永久に赦されぬと断言63救
わ
れ
の
自
覚
することも出来ぬ。何故なら神の悲心を試みることは冒漬となるであらうから、己のこととしてい
えば、絶対に救ひを拒否して、ただ祈る以外にないであらう。…… …
右の設問における犠牲者たる場合を今度は考へてみよう。己を犠牲にして海の深みに没する人間
を、もとより私は尊ぶ。… … …ところで仮に私が己を犠牲としたとき、信仰は私において完ふされ
たと感じることが出来るであらうか。その刹那は果して法悦であるか、苦杯であるか。水火の裡に
平然として死についたと云ふ人物は古来幾多あつた。私は戦標を禁じえない。信ゆゑに死はほんと
うに平然たるものなのであるか。愛ゆゑに死して悔いることなきものなのか。死して忽ち天人の奏
楽が聞え、浄土に生れ変るといふ幻想において瞑目出来るものであるのか。いかに祈つても、神仏
は何らの保護は与へぬ。自己犠牲とはただもう苦しいだけのものなのではあるまいか。祈りの深さ
浅さに拘らず、死苦だけは冷酷に公平であるように思へる。…… …
他の犠牲において生くることは罪悪だ。自分が犠牲になることは容易なことではなく、ただ苦し
いだけの思ひのみ残る。だが、このいつれをも拒否しようとするならば、我々は人生そのものを拒
否しなければならぬ。人生を拒否することは神に与へられた課題に答へるゆゑんでない。近頃私は
忍耐こそ最上の美徳であると思うようになった。
64
* 箭*
神を信ずるものは奇蹟を信ずるものだ。… …… しかし大事な問題はその次にある。若しこれらの
徴があらはれなかったとするならば、私は神を否定すべきであるか。祈りの深さは必ず奇蹟を伴ふ
ものであるか、真実の宗教と邪教とのわかれる一点はつねにここだ。救ひや恩寵は、祈りに対応す
る即効薬のごとくあらはれるものだらうか。必ずあらはれることを唯一の保証とするところに邪教
は成立っ。乃至信仰の堕落が生ずるといってよい。すなはち功利的なものとなる。
奇蹟は人間の打算分別を絶したものであることは確かだ。まことの信は神の意志に一切を委せ、
何ものをも期待せぬであらう。…… …少数の選ばれた老にのみ奇蹟が起つて、大多数が永久に追放
されねばならぬのは何故か。何故唯ひとりにのみ復活は赦されるのか、それは彼の信のまことゆえ
と人はいふかも知れない。おそらくさうだらう。しかし大事なことは神の責任はここに完ふされた
とはいへないといふことだ。赦されざるもの、呪はれたるものの惨苦は誰が背負ふのか。それはつ
ねに人間にのみ負はされた宿業であるのか、かく救はれざるものの裡にあらはれる奇蹟ll若し起
りうるとすれば、神の強力な普遍性を証明する場はおそらくここ以外にあるまい。
莞涛*
65救われの自覚
私は親鸞によって示唆されっつ、自分でも気づいた信仰内に生ずる様々な危険を列挙してみた
い。
第七の危険1 それは「救ひ」である。救ひを説かない宗教はないのだが、宗教の最も深い惑は
しがここに生ずる。ここで人間の自己計量は最も巧妙に働くからである。さう云ふ自己計量を捨て
るのが信仰にちがひない。… … … 言葉としてはまさにさうである。しかしただ実行しないだけであ
る。… … 救はれたと思ひごむことは出来る。悟ったと思ひごむこともできる。もしそこで幸福なら
さう思ひごむことは自由だが、このとき人間は自己閉鎖状態におちいつて盲目になりはしないだら
うか。私は人間の発する言葉の中で最も惑はしにみちてゐるのは、「救ひ」といふ言葉だと思ふ。
誰れでも決して救はれさうもない行為をつづけながら、どうして救ひを求めるのか。… ..… ・あへて
「救ひ」と云ふ言葉を使ふならば、それは安心立命といふことでなく、その道である。それは苦痛
の消滅ではない。以前とは違つた風に苦悩の実体が明らかにみえてくるといふことである。この意
味で明蜥の眼が与へられるといふことだ、故に慈悲なのである。… … …
と云うような文章であります。
66
誰れも救われようとして信仰に入る
私が何故長々と亀井氏の文章をここにかかげたかと申しますと、亀井氏は知性的な宗教研究者で
親鸞の崇拝者であり、知性者の代表的な文筆家であります。そして、知識階級の中には同氏の共鳴
者がなかなか多いようでありますから、亀井氏を在家の宗教研究者の代表的人物とみてよいのでは
ないかと思い、私の生き方、私の宗教への道との相違を説いてみたいと思ったからです。
亀井氏は全く正直に素直に自分の心をみっめ、人間の想念行為の動きをはっきり分析して批判し
ているようであります。私もある点においては同感しながら、全く同感ですといいかねる点をこの
人の思想の中にみいだしているのであります。
その第一は、祈りによる救いや恩寵を保証する宗教は邪教である。ということや、誰れでも決し
て救われそうもない行為をつづけながら、どうして救いを求めるのか、というところ、宗教に救い
を求めてはいけない、救いを拒否してただ祈るだけだ、という論旨であります。
一体この世の中で、どのような人が、救いを求めずに宗教信仰に入ってゆくでありましょうか。
この世の中に何らかの救いを求めず生活している人があるでありましょうか。まして、神仏を求め
る想いの中には、神仏に対する救われの想いが根底にあることは何人といえどはっきりした事実で
67救われの自覚
あるのです。
亀井氏といえども最初は救われを目指して宗教信仰に入ったに違いありません。しかし自己の目
指す救われは、氏の宗教信仰の中からは得られなかったと氏がそのように思ったことなのでありま
しょう。もっとも、昔から宗教信仰者が多数おりながら、人類は常に不安混迷の渦の中で右往左往
しているのですから、宗教の中に救いはないのだ、と思うのもあながち無理ではないとも思われま
す。
救われを求めれば求める程、その期待をむなしくされて、かえって信仰心を失ってゆくような人
々のあることも事実です。宗祖の現存しない現代の既成宗教に救われを望んで救われず、唯物論者
に転向した人たちもあるのですから、現世利益的救われのみを求めての宗教入りは、根本的には誤
っているのですが、現今の社会生活の中では、なんらの現世利益的な救われをも思わずに、宗教信
仰入りをする人々は、一般大衆の中には僅かな人数しかないのではないかと思います。ましてその
救われの欲求を、精神的なもの魂的なものであっても拒否する方がよいのだとなりますと、一般大
衆の殆んどが宗教信仰者としては落第ということになりそうです。
救われを求めながら、遂いには救われるも救われぬもない、いのち生くるそのままでよいのだと68
悟ってゆくのが普通人の宗教信仰ではないのでしょうか。
信仰は知的遊戯ではない
亀井氏の文の中にも、救いを説かない宗教はない、とはいっていますが、氏は、その後で、最も
惑わしにみちているのは、救いという言葉だと思う、といい、結論的に救われそうもない行為をつ
づけながら、どうして救われを求めるのか、といっております。氏のいわんとする心のうちは私に
よく理解できるのですが、さて実際の行いとして、氏のように、救いを拒否してただ祈る心境に一
般の信仰者が果してなり得るのでしょうか、何か頭の中での知的遊びの感じさえするのです。
真実身も魂も神やみ仏に全託した境地からでてくる言葉の中には「救いを拒否して」の拒否など
という自力的な言葉はでてこないものなのです。
それは救われようと願う想いよりも親鸞の心にそわぬ自力的想念なのです。亀井氏は親鸞の教を
知っているようで、その諦観的な面だけを把え、親鸞が、本心と業想念とをはっきり区別して、肉
体的親鸞は罪悪深重の凡夫であり、本心の親鸞は阿弥陀仏と一っのものである、と悟りきっていた
のを知らないようなのであります。
69救われの自覚
自己の都合のよいような救いを願うことは、他力信仰の嫌むところですが、弥陀の方よりの救い
はなんらかの心の状態となって、各自が想うも想わぬもなく、信仰者の心の中から湧き出でてくる
ものなのです。
親鸞が法然上人に会って、この師の仰せならば地獄に落ちてもよい、といったのは、法然上人の
人格そのものの中に救いを直覚したからなのであり、み仏の光を上人そのものに観たからなのであ
ります。ですから親鸞は、法然に触れた時、すでに救われてしまった自分を観じていたので、この
師の仰せのままに行くのなら浄土だろうと地獄だろうと何処でもよい、という確信を得たわけなの
で、救われなくともよいのだ、という想いがあったわけではありません。救われなくともよい、と
思う人が道を求めて修業しつづけるわけがないからです。
大体救われというのは、神仏と自己との一体観を得ることでありますし、神と自己とのつながり
をはっきり知った時に救われが実現するのでありますから、神仏を求め、神仏の道を求めている人
が救われを想わぬわけがないのであります。
亀井氏のように救いを拒否してただ祈るというような、素直でない表現は自意識過剰な自力的な
想念で私たちの賛同しないところです。70
とにかく知識的に学問的に宗教を求める人は、身心をぶっつけての求道に入りにくいので、先哲
の教を全身全霊で体覚的に知ることをせず、頭脳を主にして知ろうとするきらいがあるものです。
祈リは必ずこたえられます
亀井氏などもそうした点があるのではないでしょうか。その一つの現われは「神を信ずるものは
奇蹟を信ずるものだ」といっていながら、神の奇蹟を否定したような文を書いていたり「救いあり
といえば神への不遜となろう」とか「祈りの深さ浅さに拘らず、死苦だけは冷酷に公平であるよう
に思える」とかいっているところなどは、私たちのような身心を投げだして神とのはっきりしたつ
ながりを得たものにとっては、宗教的言葉でもなんでもない、単なる常識的言葉に過ぎないので
す。
神の奇蹟は祈りの深さ浅さによって歴然とその効果が相違してくるし、死苦の相違などは信仰
心の深浅によっては、実に格段の開きができてくることを、私たちは周囲の人々の経験ではっきり
知っているのであります。
全託の深い信仰者たちの身辺には幾多の奇蹟が起り、自ずと死苦を超越でき得るのです。神々が
71救われの自覚
生き生きとその身辺にみ光りを放っているのを、はっきり認めることができるのであります。
いくら祈っても神は保証を与えぬなどというのは、その祈りが頭脳だけの祈りであって、身心を
かけての祈りではないからです。祈りは必ずきかれるし、人間は必ず救われるのです。
救いを保証するのは邪教だということになると、なんのために一体信仰の道に入るのかといいた
くなるのです。必ず救われるというより、救われている自分を再発見する、神の子である自分を改
めて認めることが祈りなのであります。
信仰は功利的であってはならない、ということは真理です。しかしはじめからなんらの功利的想
いがなくて信仰生活に入るという人は、極く稀れであると思われます。亀井氏の場合精神的なもの
でも救いを求めては功利的だという見解なのですから、そうした信仰生活に入るのは一般の人々に
はとてもでき得ないことであろうと思います。
72
肉体人間はみな五十歩百歩
私は常に一般大衆の救われを念願としているので、やさしく入りゃすい方法を説いているのです
から、信仰の第一歩が、現世利益からであろうと、精神面の向上を目指してであろうと、どちらで
もよいと教えているのであります。
私も親鸞と同じように、肉体的人間は罪悪深重の凡夫だと思っているのでありますから、その凡
夫にむずかしい課題をもってきても、とても多くの及第者を望むことは無理であると思っているの
です。亀井氏のいう、自分と友人と海に溺れようとしたとき、という例のように、相当立派と思え
る道徳的人物でも、いざとなったら、自己の肉体生命をかばいかねないのですから、偉いといい、
偉くないといっても、肉体的人間観を放していない人々は、五十歩百歩の凡夫なのです。肉体的人
間観のままで、己れを立派に見せようとすれば、自ずから偽善的人間になってしまって、かえって
神仏の心から離れていってしまうのであります。
ですから親欝上人の仰せのように、肉体的人間はすべて凡夫なのだから、その凡夫の人間がいく
らもがいても救われようがないのだから、凡夫のままで、怒りや妬みや不安の業想念のあるままで
よいから、南無阿弥陀仏の唱名の中に、阿弥陀仏の大慈悲の中に飛びこんでしまいなさい。そうす
れば、自然と阿弥陀仏の中に輝きわたっている各自の本心の光りが、唱名する人々の中から光り出
でて、いつの間にか、仏子である自己を再発見して、安心立命の生活ができてくるのですよ、と、
私も南無阿弥陀仏の代りに世界平和の祈りを唱えさせているのであります。
73救われの自覚
亀井氏のように、人間を肉体人間のみに固定し、本心としての神の子仏の子としての人間をこの
世から消し去ってしまっていては、おっしゃるように、人間世界に救われなどありよう筈がありま
せんし、そのような宗教に救いを求めたとても救われがありようわけがありません。そうした思想
は決してこの世を明るくもしないし、神のみ心を伝えているものでもありません。単なる常識論で
あり、知的遊びに過ぎないと再びいわないではいられません。
私は亀井氏が他の様々な文章の中で、日常生活のための非常に有益な指導的役割りをしていらっ
しゃるのを知っておりますが、こと宗教的な思想となると、どうも頂けないものが根底にあって、
時折り人々にその思想の善し悪しを尋ねられると、あの方はあの方でよいのです、とは答えながら
も、いっかはそうした思想に対する私の考えを述べようと思っていたのでした。
74
闇を消す明リ
この世は神の光と業想念との混滑した世界であります。そして現今までは業想念(迷い) の方の
波が強く現われているように見え、人間世界は、いくら信仰生活に入っても救われないものである
ようにさえ感じさせているのです。
こうした現象の表面に現われている事柄だけをみていては、人類は遂いには滅亡してしまいま
す。そこに宗教者の存在の必要があるのであります。
暗い部屋に入っていって、ただ暗い暗いといっていたり、暗いのだから仕方がないなどといって
いたりすれば、いつまでたっても明るくなりようがありません。闇を消すには明りが必要です。そ
の部屋に灯をつければ暗さは消滅するのです。この人生はその理と全く同様なのであります。暗い
想念をそのままでいてはいけない。暗い想念の中に光を差しこまさなければその人は滅びてしまい
ます。そしてその光をさしこむ者は宗教者であり、その光は神の慈愛なのであります。
暗い想念の中に閉じこもっていると、自分一人ではどうしても、その心の闇を開くことができに
くいのです。それは社会も国家も人類全体としてもそうでありまして、どうしても肉体的生存を超
えた力の働きかけを必要とするのであります。
それが私のいう守護神であり守護霊なのであって、そうした守護の神霊は、肉体的には宗教者を
通して、各人や社会、国家、人類に働きかけるのであります。
大神様は大生命であり、人間各自の中に各小生命として生きておられるのですが、救済の働きと
しては守護神となって働いておられるのであります。この事実は自らが神とのつながりをはっきり75救
わ
れ
の
自
覚
\
認識した人や、その人の言を素直に信じて行じている人たちでないと、なかなか実感とならぬよう
であります。それは神は唯一神なりという観念が今日までの信仰者の心の中に潜在しているからな
のでありましょう。唯一神の神だけでは、亀井氏等のいわれるような救われを願って信仰するのは
迷いであるというような、一般人の信仰への道とは程遠い言葉となってしまうのであります。
神は法則としての働きと、救済の面での働き、つまり本心開発の援助としての働きとの二面に分
れておられるので、この事実を認識しないと、宗教信仰が、単なる心の在り方になってしまって、
常識世界を超越することはできないのです。
理想と致しましては、はじめから信ではじまり、在りとしあらゆるものへの感謝行で生活しつづ
けてゆくことが、真実の宗教精神といえるのでありましょうが、現今のように業想念の波動の烈し
く表面で動いている時には、この理想にはじめから到達する人は滅多に存在しないと思います。
そこで私は、誰れにでもでき、何気なくでも行じていれば、いつの間にか心の持ち方も日常生活
も知らないうちに明るくなってゆく、絶対他力的な世界平和の祈りと消えてゆく姿の教をひろめて
いるのであります。
人間ははじめから救われている。しかしこの世的肉体人間は業想念波動の世界で苦難の道を歩い
76
ている。私はこの業想念波動は必ず消え去るものとして、ひたすら守護神霊の人類救済の大光明へ
はしご
の梯子である世界平和の祈りを唱える運動をしているのであります。
やがて人間神の子の真理がこの地球界にもはっきり判ってくる日のくることを、私に働いている
守護神団は強く確言しているのであります。
77救われの自覚
78
自らを智者と思っている愚者
虚無感に導く誤った仏教研究
私が、肉体世界の他に幽界霊界神界という世界があって、人間の生命は個性的にも永遠に生きつ
づけてゆくものである、ということを体験として知りはじめた頃、碩学だという真宗の坊さんを囲
んだ座談会に出席したことがありました。
話がお経のことになり、何んの為に仏壇にお経をあげるのかということになってきたのです。と
ころがその会に集っている人の大部分が社会主義者的の人たちで、仏教が唯物論的であり、無神論
であるというところで、真宗の坊さんの仏教の唯物論的話を聴聞する為であったのですから、私等
の出席する幕ではなかったのでありましょう。
さて、その坊さんの経文にっいての知識はなかなかくわしく、その坊さんの経文の説明につれて
釈尊は全くの無神論者で、無神秘論者になってゆくのでありました。そして仏教の経文には、自己
の他に絶対者などという神があって、人間世界に関与したり、求める者に救いを与えたりするもの
ではない。自己(肉体人間) の心と行為のみがすべてなのである、ということを書いてあるのだ、
というのであります。
そこで若かった私は一問を試みたのでありました。それは『それではあなたが仏壇で経文を唱え
られる時は、死者を葬うのではなく、生きている人の悟りのためだけに唱えるのですか』という問
でした。すると坊さんは、『勿論そうです。死者に生命があるわけではないのですから、死者に経
文が判ろう筈がない、仏壇で経文を唱えるのは、只単なるしきたりと、生き残った人々への慰めの
為ですよ』と笑いながらいうのでした。
この坊さんの心は、只商売だから仕方なく唱えるので、死者の為でも、生者の悟りの為でもなか
ったのでありました。それでいながら仏陀の教の哲学性には非常な感銘をうけているらしく、それ
を唯物論的に受けとって、知識欲を満足させ、仏教を唯物論的に解釈するところに今日までの迷信
をぬけでた知性者の誇りを感じているらしいのです。
79自らを智者と思、っている愚者
、
私はもう馬鹿らしくなって帰えってきてしまったのです。その後もそうした考の僧侶や宗教学者
に何人か会っておりますが、身心をぶちつけた生命がけの研究もせずに、只単に書物のみをあさっ
て、何んだかだと、理屈をいいあって、知識欲を満足させあっているようでは、その人たちがいつ
までたっても悟りの道に入るわけがありません。
80
危険な遊戯
先日もある会で、仏教の根本原理についての講演を聞いたのですが、この人は理博という仏教研
究とは畑違いの人だから仕方がない、といえばいえるのですが、自分では今日までの誤った知識を
改めさせる為に、仏教の根本原理を述べるのだ、といっているところからみると、仏教の専門学者
何んのそのという、気焔なのであります。私はそれ程の人なら、いくらか深い道に叶った話をなさ
るかと思って、一時間余り心を集中して聴聞していたのですが、何んとこのお話、宗教を一寸深く
研究した人なら誰れでも一時は通ってきた学説で、この学説を、声だけは大きく、言葉だけははっ
きりとみ教を垂れる調子で話されているのですが、いかんせん、その人の悟りからでてくる言葉で
はないので、聴衆の殆んどの頭にも心にもひびかず、言葉が場内を空転しているのでありました。
その大要を申すと、人間は常に自己の希望的観測で物事をみている。西洋では、幸福の探求などと
いうが、幸福などというものが、一体どこにあるか。うまいというも、まずいというも、損だとい
い得だというも、すべて自己の側からみているのだ。幸福の探究などさせるのは全くの誤りだ、自
己の希望などをもってはいけない、そうした自己は真実の自己では無い。自己も他も無い、あるも
の、それは西洋哲学的な絶対者的、創造主的神でもなければ、心霊主義者のいう心霊でもない。大
智慧や絶対力や意志をもつものではない。それは自でもなく他でもなく一つなるものである。それ
を釈尊は如来といい、仏といった。その如来、仏になるためには空になることである。空になれば
よいのだ、その方法は坐禅だ、というようなことをむずかしい言葉をつらねて話されたのでありま
す。しかし揚内の聴衆は何が何んだかさっぱり判らず、只くたびれてぼんやりしてしまっていたの
であります。
この人の話が何故聴衆をくたびれさせ疲れさせ、あきさせてしまったのでありましょうか。
自他を超えた一なるものという言葉や、如来や仏や、空がでてくるのだから、宗教を求めている
人は、何かそこで、話の中の一ケ所でも心に沁みるところがありそうなものでしたが、大半の聴衆
にそれがなかったのは、一体何処にその原因があったのでありましょう。それは実に簡単なことな
81自らを智者と思っている愚者
のであります。それはその話が無神論であった、ということと救いがどこにもないということ、話
している人が独りよがりで、大衆の心を少しも知らなかった、いわゆる愛にとぼしかったこと、等
々であったからです。
人間のうちで幸福を求めていぬ人が一体存在するものでしょうか、人間は如何なる人でも自己の
幸福を求めているものと私は思っております。ただ、その幸福が肉体としての自分や自分一家一族
だけのものか、霊の世界、神仏の世界につながる深い高い幸福か、というだけの違いで、はじめは
小さな自己の幸福を求めていたのが、いつの間にか、深い真理を知って、より大きな、より広い自
己の幸福の探究にむかってゆくこともしばしばあることなのです。
この人の話は、それをはじめから否定してしまっています。そして最後に如来や仏がでてくるの
ですが、その如来や仏は、智慧もなければ意志もない一なるもので、求めようも、つかみようも、
すがりようもない、とりとめもない如来様であり、仏様なのであります。そしてしかも、人間にと
くラくほフ
って至難に近い空という心の状態を、何んでもなくできるようにいうのです。それでいて、その空
になる方法は坐禅だ、といい放つだけなのです。
何んという観念論的説教でありましょうQ 何んという愛も慈悲もない、知識人の遊びでありまし
82
たぐい
よう。私はこうした類の人の話を聞いたり読んだりする度びに、真実身心を投げ出して、社会革命
に乗り出した主義者たちの捨身の行動や、キリスト教牧師の人種を超えた.隣人愛的奉仕生活に頭が
下がるのであります。
主義としては唯物論的な共産主義等は誤りであることはいなめませんが、その中の秀れた人々の
捨身の行動性は、十字架上に身をさらすことを恐れずイエスの教を実行していたキリスト教信者と
一つのものがあるようです。その根本精神はいずれも人類や社会の苦しみを見ているにしのびぬ愛
ろう
情が、観念論的な言辞を弄してばかりはいられず、直接行動にでているのであります。私はそう
した精神を尊ばずにはいられません。
それにひきかえ、前記のような仏教学者や、仏教研究者は、釈尊の生き生きとして働かれていた
生命の光り、真理の働きを度外視して、後の人々が作りあげた学説を、表面上の文字そのままに取
り上げ、この地上界の人間が、実際生活上に為し得るか得ないかを問題の外にした観念論で説いて
いるのであります。
如何なる名論卓説も、地上人類が実行し得ないようなものでは、それは空理空論に等しいもの
で、無いより増し、という程度のものでありましょう。
83自らを智者と思っている愚老
84
仏と神は違うのだろうか?
ところが、仏教を唯物論として説いたり、無神論として説くような根本的な大きな誤りをしてい
る学説は、人間の心を虚無的にしてしまい、宗教の存在を否定すると等しいものであって、始祖釈
尊を損うこと甚大であるのです。
言葉では仏といおうと神といおうと、それはどちらも絶対者の意味であり、絶対者のそのまま働
いているという意味でもあるのです。それは仏教的にいえば、自己のうちにあるものとして説いて
いるのですが、その自己というのは、肉体の自己という意味ではなく、全人間、つまり幽、霊、神
の各界を通して働いている光明体である人間を、自己といっているのであり、そうした自己のうち
というのは、神界ということになるのであります。
こうした真理も知らない、人間とは肉体だけのものだ、肉体が死んでしまえば、その人の個生命
は滅びてしまうのだ、という浅薄な知識しかもっていない仏教学者が、真実の仏を説けるわけがな
いのです。何故ならば、仏は、神界に在って、霊界、幽界を通して肉体界に働きかけているもので
あるので、肉体界の他の人間世界を認めない学者たちに、真実の仏が判りようがないのでありま
す。
なほひわけみたま
仏教でいう仏は、神道でいう直霊と等しいものと私は解釈しているので、神の分霊が直接働いて
げだつ
いる肉体人間が、業想念を解脱して、直霊と一体になり得た時、その人は自己に内在する仏を知り
得た人ということになるのであります。
釈尊という人は、真実自己の直霊(本心)と一っになり得て、直霊が直接肉体において自由にそ
むげ
の光明を放ち得るようになった人であったのです。そこで、自己を仏であると称したり、無凝なる
者と称したり、正覚を得た者といったりしたのであります。仏とは自由無磯なる者、正覚し、一切
のものから解脱し得た者、という意味なのですから、神と仏を別々に説明すれば、一切の欲望を解
脱し、自己のうちなる絶対者を直接に認識し、その能力を自己のものとして発揮でき得る人になり
得た場合、その人を仏というので、キリスト教的にいえば、キリスト(真理) であります。それは
すべて肉体をもった人間の方を主にして、人間側から見た考え方で、人問のうちにすべてがある、
という考え方からきているのであります。
一方、神という考え方は、肉体人間以前にさかのぼってこの世界を考え、人間以前から存在する
絶対者に対する考え方であります。ですから、その神は絶対者であり、創造者であるわけです。創
85自らを智者と思っている愚者
造者(大智慧者) でなければ、人間のような智慧をもつ者を創り得るわけがない、と考えたからで
あります。
このように仏と神を二っにわけて考えてみますと、仏と神とは全く異なる存在のように考えら
れ、仏教者が神を否定してもいささかも差し支えないように思われますが、実はそうではないので
す。
くニノ
仏教の仏が、肉体人間のみのうちなる者であれば、いくら空になってみたって、人間は依然とし
くう
て肉体人間の智慧や力より発揮できるわけがないのでありますが、実際に空の境地になりますと、
おの
妙々不可思議の能力、いわゆる神秘力が自ずと現われてくるのです。それは私自身体験しておりま
すから間違いありません。
空になるとどうしてそうした神秘力が現われてくるかと申しますと、空になるということは、肉
体にまつわる業想念(欲望) を解脱し得たことで、その人の意識は、肉体をもったままで、肉体の
奥の世界、つまり霊界、神界に還元してゆくからであります。それはどういうことかといいます
と、人間は大体が五感の眼では物質体の肉体のみに見えるのでありますが、実はその肉体も近代の
科学では波動の現われである、ということになっておるのです。そしてその波動は粗い波なので88
あって、肉眼で見えるのでありますが、霊質の波動は微妙な速さの光の波でありまして、五感には
見えもせず触れもできぬのであります。
くう
肉体人間が空になって、五感の欲望を解脱し得ると肉体の粗雑な波動から、霊界、神界の微妙な
リズム
光の波動の方に意識が転換できるのです。そうしますと、肉体の波動の中だけで生活している人々
には考えられもしないような、神秘力、超越力が、その人の行動の中に現われてくるのでありま
す。
つまり人間の本体、易しくいいかえれば、肉体人間を創りなした創造主の中に肉体人間としてあ
った意識が一っに融けこみ、創造主の人間世界(神界、霊界、幽界をも含めた) への働きの根源の
なほび
光り、私のいう直霊と直結した神我一体の力がでてくるのであります。
あらかん
こうした超越力をもつことのできる人を、仏或いは阿羅漢又は菩薩等と仏教ではいっているので
す。肉体人間の側から、その心のうち深く探究し、修業をしていって発現した仏というものは、人
なほひ
間の創造主的神、或いは神道でいう直霊と全く一つのものであって、一方は肉体人間の内部にそれ
を観、一方は肉体人間の外部(実際は外部という言葉ではまずいのですが) に神として認めている
のであります。尤もキリスト教等でも或いは外に或いはうちに神を認めているのであって、仏教と
87自らを智者と思っている愚者
同じようなところもあるのです。
仏教といい、キリスト教といい、神道といい、いずれもその真理は人間は肉体だけではなく、無
限絶対なる大智慧、大能力をもつ神の光の一筋一筋である、と説いているのであり、その真理を知
ることによって、人間は真の力を発揮できるようになることを説いているのであります。
無智なる人々が、一寸常人にできぬ奇蹟をみせると、その人を神様あつかいにして、すぐに教祖
的人物を生みだしがちなのや、狐でも狸でも、慕でも蛇でも何んでも信仰の対象にして御利益を願
ってお詣りしたりするのも困りものですが、前記の知性的と自らを信じている仏教学者のように、
仏が神とは全く異なるもので、神などという迷信的なものではない等と思っている人々も、真理の
眼からみると、馬鹿気きった困った人々だと思うのです。
$8
守護神の援助で釈尊もキリストも悟った
釈尊もイエスも、すべての聖者は、みな守護神の援助によって、自己の神性(本体) を発現し得
て、世の為、人の為に役立ったものであって、守護神の援助や加護なくして、覚者になり得ること
は絶対に無いのであります。そうした事実は、自らが真の神通力を得た人ならば誰れも知っている
のであり、そうした人々にとっては、今更事改めていう程のことではないのです。
釈尊も守護神については、弟子たちに常に話していたようで、仏教研究者が守護神を否定してい
たりするのは実におかしなことなのであります。
釈尊が造物主的神を説かなかったのは、あの頃の時代には、迷信的な神が多すぎて、人々がそう
した外的な神にたより過ぎて、自己の神性を全く度外視してしまい、信仰することによって、かえ
って真理を離れてゆくので、そうした行き方を否定するために、外部的な神を根本にせず、人間の
うちなる神性、つまり仏を主として教導していったのであります。
外的なものに頼らぬ生き方というものは、知性的な人や、勇気のある人には非常に共鳴できる生
き方で、そうした人々は唯物論的な生き方や、自己自らの力で自己の内部を掘り下げてゆく生き方
に片寄りやすく、内部を掘り下げながらも、不可知なるもの、神秘なる現象にぶつかると、その不
可知さ、神秘さをそのまま素直に肯定せず、その扉の前で歩みを止めてしまい、そこから表面の方
へ引きかえしてしまい、不可知なるもの、神秘なるものの扉の前が、彼らの人生観の出発点となり
理論の根源となってしまうのであります。
その扉を開けて一歩歩を進めた知性者、勇者こそ、自己のうちから叡智を発現でき、神我一体の
89自らを智者と思っている愚
道を歩み得るものとなるのですが、そうした人は数少いのであります。
神秘なる扉の前からひきかえした知性者と称する人々は、そこから取りかえしのつかぬ無神論者
となって社会に現われ、完全な唯物論者或いは、無神論的宗教者となったりするのであります。
90
自らを智者と思っている愚者
ヘヘヘヘヘヘヘヘへしヘヘへ
こ の人々を神は、自らを智者と思っている愚者と烈しい言葉でいいきっているのです。何故神は
そのような烈しい言葉で、この人たちを非難するかと申しますと、この人たちの言葉や行動は、一
般大衆の言葉や行動と違って、多くの人々を唯物論、無神論という、地球人類滅亡の方へ、ひきず
りこんでゆく力が強いからです。何故かというと、その人たちの理論は神の扉の前までは、非常に
尤なるような理論だてをもって述べられてゆくからで、頭でものを考えることを好む知識階級、い
いかえれば指導者層或いは未来の指導者となるべき人々の心に同感を与えるからであります。これ
は実に恐るべきことなのであって、こうした人々が増加すればする程、素朴なる一般大衆が迷いの
道にひき入られてゆくからです。
五感の満足のみを求める人たちも真理を求めにくいのですが、知識欲の満足のみを追い求めてい
る人々も、なかなか真理の道に到達できにくいものです。それは、心と体とを真正面にぶっつけて
の真理の探究をしようとはせず、知識欲の満足だけで事足れり、としてしまうからです。
田舎の百姓婆さんや学問知識のない人などが、死後の世界では、意外と思う程高いところで生活
していたり、あれ程の宗教者、あれ程の学者が、と思う人々が、迷界で喘えぎ苦しんでいたりす
るのを、私も知っておりますが、他の霊能者たちも、霊界通信や、直接体験で発表したりしていま
す。
これはどうしたことかと申しますと、自我想念、つまり神仏を離れた想念の持ち主が、知識欲や
権威欲を満足させ得る地位の人々に多く、理屈はあまり判らぬが、自己に与えられた天職に満足し
て、只素直に神仏に感謝の生活を送っていたような素朴な人々の方が、神仏の世界では上位に置か
れるものである、という証左なのであります。地位も権力ももちながら、神仏への感謝の生活で、
自己をむなしうしている人々があれば、これに越したことはありません。
幸なるかな心の貧しき者
人間は常に神仏に謙虚でなければなりません。神仏に謙虚であるということは、神仏の子である
91自らを智者と思っている愚老
さいわい
人間同志も謙虚であるということであります。キリストのいったー幸福なるかな心の貧しき者、
天国はその人の者なりーという言葉は真理であります。
謙虚ということは卑下することとは違います。すべて一切の智慧や行為を神様のものとして生活
することであります。肉体の自分の智慧や能力があると思うことは、神に対しての不遜であり、真
理を遠ざかる業想念であります。
肉体としての自分には、何等の智慧も能力もないもので、肉体のうちに働く神霊の力によって、
肉体の自分に智慧も湧き、知識も吸収できるのである、という謙虚さからこそ、真実の神の子とし
ての働きができるのであって、大智慧、大能力者、神を除外して肉体人間に智慧能力があると思い
あがっている人々は、その考の改まる迄は、永劫に安心立命の生活はでき得ないのです。
私は常に神への全託を説く者です。私自身が神への全託によって、守護神の絶大なる援助をう
ぴやつこう
け、真理を世に伝える者となったからであります。全託の一番易しい方法は、毎月白光誌に書いて
いる、消えてゆく姿の教と、守護霊、守護神への感謝行であります。すべての悪も不幸も、憎い欲
しいの業想念も、それらはみな過去世からの神を離れていたマイナス面の消えてゆく姿、消えてゆ
くに従って、あなたの本心である神性があなたの行為や生活に自然と現われて、あなたは必ず幸福
92
となり、安心立命の生活ができるようになる。そしてもう一歩進んで、自他同時に幸福になり平和
になる世界平和の祈りをなされば、あなたはそのまま菩薩道を進んでいることになるのですよ、と
私は説いているのであります。
絶対神は、各守護神となって、人類の平和の為に日夜の暇なく働きつづけておられ、今こそその
総力を結集して人類世界に働きかけているのです。その働きを一日も早く全面的に地上界に発現さ
せるのが、世界平和の祈りなのであることを、ここでもまた末尾にしるしておきます。
93自らを智者と思っている愚者
94
法然・親鸞と今日の浄土門
読者からの質問
ほうねんしんらん
法然と親鸞とは浄土門の二大聖人であり、全く一つの系統であって、法然なくしては、親鸞を語
ることはできませんし、親鸞なくしては、浄土門の信仰が今日のように一般化されるわけにはゆか
なかったことでしょう。
そこで今日は法然と親鸞とをひきくらべて浄土門の信仰にっいて語ってゆきたいと思います。
それについて、読者から次のような質問が参っておりますので、その質問に答えながら書いてゆ
きましょう。
たんにしよう
! 最近、歎異抄を読み、親鸞上人の弥陀の本願にまかせきった信仰をみて感激しました。例え
ば同書の第四章の〃末通りたる慈悲心”に、
「慈悲に聖道、浄土のかはりめあり、聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐく
むなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふ
は、念仏していそぎ仏になりて、大慈大悲心をもて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきな
びん
り。今生に、いかにいとをし、不便とおもふとも、存知のごとく、たすけがたければ、この慈悲始
終なし。しかれば、念仏まうすのみぞ、末とをりたる大慈悲心にてさふらふべきと、云々」
とあります。他力というか、阿弥陀力に徹底した親鸞上人の信仰はすばらしいと思いました。念
仏に徹し、み仏の心のままに生きていたであろうと思われます。それは次の和讃でもうかがわれま
す。
○
真実信心得るひとは
じようじゆ
すなはち定聚のかずにいる
不退のくらいにいりぬれば
かならず滅度にいたらしむ95法
然
・
親
鷲
と
今
日
の
浄
土
i’S
○
信心よろこぶそのひとを
如来にひとしと説きたまふ
大心信心は仏性なり
仏性すなはち如来なり
○
しかし、一方親鸞八十八才の作である別の和讃の中に、
○
浄土真宗に帰すれども
真実の心はありがたし
ヒけムじつ
虚仮不実のわが身にて
清浄の心もさらになし
○
悪性さらにやめがたし
こういうのがあります。
96
だかつ
こころは蛇蜴のごとくなり
修善も雑毒なるゆゑ
こけ
虚仮の行とそなづけたる
○
ざんぎ
無噺無塊のこの身にて
まことのこころはなけれども
えこう
弥陀の廻向の御名なれば
功徳は十方にみちたまふ
○
あと二年で死ぬ頃、親鸞上人の信仰はいよいよ深まり、こころはつねに如来にひとしかったと想
像されるのに、この反省ざんきのことばは、痛々しいと思われます。
なんで親鸞はこうも自分をいじめなければならなかったのでしょうか。師の法然上人の春の海の
ような大きさ暖かさ。また後年真宗の教を奉じて、念仏一念にありがたいくとくらした妙好人た
ちの信仰とくらべると、不可解なことに思われるのです。何事も徹底した親鸞上人が、消えてゆく
97法然・親鸞と今日の浄土門
姿を行じていたら、などと思いました。五井先生の親鸞観から、
根本をお説き頂ければ幸甚です。i
消えてゆく姿で世界平和の祈りの98
法然と親鸞
読老からきたこういう質問は、親鸞をみつめてきた人々の何割かの人々の感ずる疑問だと思われ
ます。私は霊的に親鸞と深い関係がありますので、親鶯の心の姿がよく判ります。
はず
自己の心をあくまで追いつめ、如来心から外れた想念行為を、徹底的にあばき出して、自己をむ
しれつ
ちうつ親鸞の本心開発へのひたむきな求道心は、熾烈なものでした。こうした在り方が、知識人の
イソテリジエソスに迎えられて、親鸞を好む人が知識人に多いのです。しかし、こうした親鶯の悲
めめカルマ
愴ないいかえると、女々しくさえ感ぜられる業への把われを嫌う人が、知識人の一方にはあるので
す。しかし、親鸞ほど自己の心を正しく見、行動に移し得る勇気を持った人は滅多にあるものでは
なかったのです。
くう
法然の徹し切った、徹し切ったというより、空そのものになり切った晩年の姿は、如来心がその
じねんほうに
まま現われていて、任かせるも任かせぬもない、自然法爾の姿で、澄み切った清々しさが感じら
れますが、歎異抄にみる親鸞の晩年の姿には、如来心の傍に常に肉体人間の親鶯という業想念がち
らついているようにさえみえます。
法然が神我一体、如来と一枚になりきっているのに、親鸞には光と影とが交叉してみえるので
す。そこが又親鸞の魅力でもあり、インテリの知性に合致するところなのでしょう。
法然の晩年と親鸞の晩年とを比較してみれば、歎異抄をそのまま鵜のみにすれば、法然がはるか
に高い境地にあったことは否めないようですが、親鸞の出現によって、多くの庶民の救われの道が
開かれたのも事実なのです。
自分たちと異なる超然たる境地にある人よりも、自分たちと同じような悩みを悩みつづけつつ、
高い深い世界にもつながっている、という人の方に、親近感を感じて近づきたくなるもので、親鸞
の歎異抄が多くの人に取りあげられ、人々の心をひきつけることにもなるのです。
法然の深さというか、高さというか、その大きさは、釈尊にも匹敵するもので、肉体を感じさせ
ない澄み徹ったものです。そしてその光明波動も強いものです。私の心眼にはその状態がよくわか
ります。曇りの少しもない輝やきわたっている心というものは、その人を想うだけで、こちらの心
かんばくくじようかねざね
が清まってきます。法然とはそういう人なのです。関白九条兼実公が、法然の後姿が光につつまれ
99法然・親鸞と今日の浄土門
ているのを観たり、暗い部屋で書見をしている法然の額から光輝が放たれていた、という弟子の言
い伝えも、さもあらんと思うのです。
ほうねんぽうげんくう
法然房源空は、少年の頃より非凡な才を示し、十三才の時、時の大学林たる比叡山に上ぼって、
あじやウ
西塔持宝房源光の下で、出家し、十五才で皇円阿閣梨の下で勉学し、若くして天台三大部、天台一
せきがく
宗の奥義を極め、後、法相宗、三論宗、華宗と各宗の学問を勉び、幾多の碩学高僧も及ぼぬ碩学者
かんぎようそ
であったのですが、大蔵経五千余巻を心読し、遂に善導和尚の観経疏の経文に心を打たれ、浄土門
の開祖となるわけなのですが、当時の碩学たちが舌を巻いた程学識者の法然が、「ただ南無阿弥陀
仏と申して疑いなく往生するぞと思いとりて申して申す他には別の仔細候わず」とそれまでの学問
知識をさらりと流して、阿弥陀如来に任せきった念仏行の、一見安易にして単純とも見、兄る行為の
牛に飛びこんでいったのは、何んにしても、把われのない思い切った行き方であります。
これは親鸞にも同じようなことがいえるのであります。親鸞も法然に劣らぬ秀才であり、碩学で
ありますが、法然の説法を聴聞し、法然の人格にひきつけられたことは勿論なのでしょうが、それ
までの学問も地位も投げ打って、ちゅうちょなく法然門下に参じたのです。
この辺までは同じようなのですが、これもみ仏のみ心なのでしょうが、法然が既成宗団の恨みを100
かって、様々な迫害をうけ、最後には墓まであばかれる、ということもありましたが、親鸞の方は
法然と同じような迫害に加えて僧侶にとって驚天動地ともいうべき、妻帯という宗教界においては
全くの異端的行為を実行したわけです。これが親鸞をして最後まで法然の境地にまでならしめなか
った大きな原因となるわけです。
親鸞のくびかせ
法然にとって、自己の肉体にまつわる想念所業を捨て切ってしまえば、後は心に残る何ものもな
い、天命のままの生き方が素直に出来る状態です。法然の道を妨げる家族という因縁生の把われは
何もないからです。ところが親鸞にとっては、自己の肉体を投げうっても、妻といい子という因縁
生のつながりが、後に残って、常に自己の想念所業の中にまつわりついてくるのであります。
神霊の体ならば、自由自在心で活動ができるものを、なまじ肉体身というものがあるために、肉
体や幽体の想念波動に把われ、わずらわされてしまうのが、この地球界の人間です。しかも、自己
と
という肉体身の他に妻や子という、自己の肉体身にまつわる因縁の波というものは、なかなか解き
ほこしにくい執着力のある波動なのです。
101法然・親鸞と今日の浄土門
まして、親鸞にとっては、宗教界はじまって以来の新しい生活様式を、自己がはじめて踏み出し
ぺつし
たものであって、諸方の迫害や蔑視の眼も烈しかったのであります。その上妻子運が悪く、最初の
妻には死に別れ、三度び妻を迎えているのです。しかも娘は遊女になり、息子は自分の教を離れた
道を進んでいる、といった工合に、親鱒の家庭づくりは不成功に終っているのです。
これは何んとしても、親鸞の宗教者としての道にマイナスにならざるを得ません。今日のように
坊さんの妻帯が普通のようになっている時ならいざ知らず、万人監視の中で、最初の家庭というも
のを持ったわけで、家庭生活に対する責任感とか、家庭に対する様々の把われというものが、親鸞
の心を離れたことはなかったと思います。
念仏一念になり切って、不退のくらいに入り、滅度にいたることを信じつつ、如来と一体になり
得ることを信じながら、一方、妻や子やそれらにまっわる因縁性の波をはらいのける必死の努力を
はらいつつ、しかもともすれば、そうした因縁性の波にふと把われている自分をみつけて・櫻艦と
することが何度びとなくある親鸞であったのです。
その嘆きが、霧不実のわが身とか・清浄の心さらに芒とか・心は髭のごとく乞とか・い
う言葉になって出てきたのであります。最初の寺が繁栄してきて、自分の地歩がすっかり固まろう
102
おご
とするとき、子供の心が安易になじんで、弟子たちを下目にみたり、驕り心になれてきて、真理か
ら外れてゆくのを恐れ、寺を出てしまうあたり、如何に家族というものに縛られた想いにあったか
が窺われます。
もし妻や子が親鸞に無かったら、もつと超然としていられたでしょうし、生き方がまるで違った
ものになっていたでしょうが、今日までのような大衆と密着した念仏行の道は開かれていなかった
ことでしょう。大衆と同じ立場に立って、大衆と同じように家族をもっての布教であったからこ
そ、大衆が非常な親近感を持ち、救われていったのであります。
弟子にも理解出来なかった親鸞の本心
こうしようわざ
親鸞の妻帯は、彼の業生のなせる業ではなく、み仏のみ心による菩薩業の為であったのです。親
こうしよう
鷺は自己の体験として、人間の業生の深さというものを身心に沁みて感じとりました。ですから人
おろかもの
の悩み心を訴えられ、人の煩悩ごとを見聞しても、馬鹿者、愚者というように叱りっける気にはな
れません。そういう訴えを聞き、煩悩の行為をみせられる度びに、我が身も未だにそうなのであ
る、とその人たちの心を心として、相談相手になり、念仏一念の説法をしていたのであります。
103法然・親鸞と今日の浄土門
大衆に肉体の自我では絶対に真の救われに入り得ぬことを知らせる為、老齢になって、すっかり
びだつ
解脱の境地に入っているにもかかわらず、一段と自己を低めて、昔の自己の想念にあった、業生の
心の状態を、今のことのように嘆いてみせたりしたのでした。心血を注いだ苦悩の末の一念の念
仏、阿弥陀仏への全託、日々瞬々弥陀の方から頂き直す生活に到達してしかもかつ、自己の至らぬ
過去の想いを今日の自己の心境の如く弟子たちに説く親鸞の態度は、正に菩薩そのものであったの
です。自己の真理への歩みに対しては、少しの妥協も赦さず、人々の為には、下座に立って、導き
上げんとする親鸞の本心を、身近な弟子たちさえ知ってはいなかったようです。唯円の歎異抄はよ
くそのことを物語っております。
だがしかし、親鸞の在り方には、やはり法然に対するに一歩足りないものがあるよう見受けられ
ます。それは親鸞の生活上からも来るものなのでしょうが、親鸞に接することによって、晴々とし
た陽気さというものを感じとることができないからです。法然のような澄み徹った、カラッとした
ものを親繕からは感じられません。親鸞の真剣さの中には人生の悲哀が籠っているのです。
こういう宗祖の血の出るような心の苦しみを現在の本願寺の重職者たちは、どう感じ取っている
のでありましょう。親鸞の苦悩とその深い愛を自己の心として、より一層阿弥陀如来のみ心深く自
104
己を投入し、親、驚を超える道を開いてゆかぬことには、阿弥陀仏のみ心に報ゆることも、宗祖親鸞
の悲願を生かすこともできないのであります。
宗教の極意である、放つ、ということ、解脱する、ということが如何にむずかしいものであるか
げだつくう
判ります。と同時に、解脱への道、空の境地に至る道を、どうしても易しく入りうる道として、衆
生の前に切り開いてみせることが必要になってきます。
いたずらに現世利益だけを追い求めさせる道でなく、その道を行けば自然と現世利益もありなが
ら、しかもいつの間にか、深い高い阿弥陀仏のみ心の中、自己の本心の中に入りきってしまう、と
いう道こそ必要な今日なのであります。
法然、親鸞の時代は、鎌倉時代の争乱の時でありまして、庶民の生活は一日として安定した日の
無いような時代でありました。ですから、肉体生活の安心が得られぬのなら、せめて後世だけでも
安泰でありたい、と庶民は願っていたのであります。法然はそうした庶民の心に応えて浄土門を開
いたのでありますから、庶民のしかもそれまでは寺門に入ることを赦されなかった婦女子の喜び
は大きかったのです。
むずかしい経文の判らぬ庶民一般は、法然の易しく説かれる南無阿弥陀仏の教は、心にひびいて
105法然・親鸞と今日の浄土門
判ったようです。たゆみなき南無阿弥陀仏の唱名こそ、常に阿弥陀様の方から、救いの光を垂れさ
せられるのだ、という聖道門にはみられない易しい道は、庶民ばかりでなく、上層階級にまで及ん
で、時の関白九条兼実公など、最大の法然信奉者であったのです。
法然から親鸞へ、浄土宗が、浄土真宗となっても、浄土門の一貫した流れには変りがありませ
ん。現在浄土宗、浄土真宗共に多くの信徒を持っておりますが、果して法然や親鸞の心を心とした
教導者がおられるかどうか、宗教の道は、常に教導者の人格や導き方によって、高まりもすれば低
くもなるのでありまして、教導者の高低は、宗教道にとって重大な問題なのであります。
106
時代と共に救いへの門は広くなければならぬ
法然が弟子たちに、信が先か、行が先かという問題を出し、弟子たちが答に迷うところがありま
くまがいなおざね
す。親鸞や熊谷直実は信の座に坐った、と吉川英治の親鸞という小説の中にありますが、信が先で
あることの方が、確かに行が自然と行われてきます。見ずして信ずる者は幸なり、とキリストもいっ
ております。しかし、その人の過去世からの因縁性で、行ずるうちに信じてゆく人も随分とあるの
です。知性的な人は、なかなか信を先に立てることは致しませんで、試みることを先にし勝ちで
す。
私はそれはそれで仕方のないことだと思います。相手の気根に応じ、相手の因縁性に応じて、人
を導びかないと、折角救われの道に入り得る人まで逃してしまいます。信が先でなければいけな
い、ということに執われてしまいますと、その道は狭くなってしまいます。宗教の道は狭き門だ
と、イエスはいいます。しかし、いつまでも宗教が狭き門であっては、人類は永劫に救われること
はありません。
時代が進むにつれて、宗教の門は広くなってゆかねばなりません。広くしてゆかねばいけないの
です。
ですから昔のように、戒律を多く定めたり、儀式沢山にしたりすることなしに、すうーと宗教の
道に入りこめるように、神のみ心と一つになれるようにすることが大事なのです。浄土門の道は、
容易に神仏のみ心の中に入れる道です。一念の念仏でも百万遍の念仏でも、それはその人の因縁性
において自然に行じられてゆくことで、信が先か行が先かもその人々によって随意にゃったらよい
と思います。要は一人でも多くの人を、一日も早く、神仏のみ心につなげることが、宗教者の役目
であるからです。
107法然・親鴛と今日の浄土門
私は、法然や親鸞の易行道、浄土門の教を更に容易に、現代の人に合うような教にして宣布して
いるのです。〃消えてゆく姿で世界平和の祈りがというのが私の教の根本ですが、消えてゆく姿と
いう教を行じていたら、親鸞があれほど苦しまずにすんだことでしょう。知性的な人は反省力が強
いので、なかなか安易に自己を赦そうと致しません。親鸞もそうした人の一人ですが、親鸞には、
法然の下にすぽっと入ってゆけたような純粋な信の心があるのです。
ですから、親鸞の心は、消えてゆく姿という真理の言葉が判らぬ筈がありません。阿弥陀様に投
だかつ
入するのなら、何故自己が悪とみている、蛇蜴とみているそういう想念を、いつまでも弟子たちに
語っていたのでしょう。業想念の自己というものを何故に何十年もそのままに把えていたのでしょ
くう
う。それは消えてゆく姿、という真理に気づかなかったからです。法然のようにすうーと空になり
切れたような人には消えてゆく姿もなにもいりません。しかし、親鸞には消えてゆく姿という言葉
が必要だったのです。さすればわざわざ自己をいつまでも低めて、弟子に対することはなかったの
です。
1Q8
現代の浄土門
この世もあの世も、すべてありとしあらゆるものは、神(阿弥陀仏) のみ心の現われであり、大
生命波動の顕現であります。神仏の他に創造主を考え、造物主を考えるということは、宗教の世界
ではありません。唯物論者であっても、その生命は神仏より来ったものであり、生命エネルギーの
働きによって、物事を考え、創造してゆくことができるのであって、生命エネルギー(神の力)が
存在しなければ何一つ生れ出ては参りません。
悪魔をっくり悪や不幸をつくり出すのは、人間自体が勝手に、神仏の外にはみ出して画き出して
いるものであって、神仏の本質の中には無いのです。
ですから、人間自体が、その生命エネルギーを、神仏のみ心(本心) の中において活動させてお
きさえすれば、それ自体では存在し得ない悪魔や悪行為や不幸災難は、そのまま時を経れば、エネ
ルギ:が無くなって消え去ってしまうのです。
悪.魔も悪行為も不幸も災難も、人間自体がつくり出した影なのですから、消えてゆく姿と思い定
めて、その方に生命エネルギーを送りこまないで、悪魔も悪想念行為も不幸も災難も、すべてその
まま神仏のみ心の中に送りこんでしまえばよいのです。そうしますと、神仏の大光明波動が、そう
した心のつくり出した影を消し去って下さるのです。
109法然・親鸞と今日の浄土門
だかつこけ
親鸞にしてもいつまでも自己や人の想いを蛇蜴のようだとか、虚仮不実だとか悪性だといってい
ないで、もっと明るく、この人生が送れる道を弟子たちに説くことができたのではないでしょう
か。尤も現代と時代が違うので仕方のないことだったのでしょう。何んにしても、業想念の方に悪
や不幸の方に生命エネルギーをつぎこんでいないで、その想念をっかんだままでよいから、南無阿
弥陀仏と唱えつづけることが現代の浄土門の教であるべきです。
そう考えると、法然のように百万遍の念仏の方が、想いの隙が出なくて、自然と阿弥陀仏の大光
明で心の中が洗われていってよいのかも知れません。親鸞の一念の念仏という教え方を曲解します
と、常々は業のままに動いていて、困った時だけ念仏するという人がでてしまうのです。真実に一
念の念仏で南無阿弥陀仏の中に飛びこみ切れるのは大変なことなのです。
親鱒の時代に消えてゆく姿の教があったら、確かに親鸞はもっと苦しまずに多くの人々を導き得
たことでありましょう。しかしこれはすべて神仏のみ心の中にあることで、肉体人間側の如何とも
しがたいところです。
法然も親鸞も、道元も日蓮も、一遍も蓮如もすべて神仏の方から、人類救済の為の役目として、
それぞれ役割りを与えられたということで法然同様に親鸞もみ仏の使徒であったことは間違もない
110
ことなのです。
そこで私はいつも思うことは、法然と親鸞とは離して考えることのできない人で、法然親鶯と一
つに呼んで、浄土門の道ということになるのだ、ということなのです。科学の道は時代と共に急速
に進んでゆきますが、宗教の道は、いつまでも昔の宗祖を最大なものとして、現代の宗教者はその
末輩の者として思うような習慣がついております。
もしそうであるならば、この世は宗教によっては絶対に救えないことになってきます。私は個人
も人類も同じように、常に進化してゆくことを信じております。それはらせん形のようになって昇
ってゆくもので、或る時は前より低くなったように思われることがあります。だがそれは、より高
くなってゆく為のカ;ブに過ぎないのです。
宗教の場合も同じでありまして、進化の道をたどっていることは間違いないのでありますが、昔
ヘヘヘへみすか
の宗祖に対するあこがれが宗教者自身にも強くありまして、常に自らを昔の宗祖の下に置こうと
するのであります。しかしそれは果して神仏の喜び給うところでありましょうか。私は個人とし
ては謙虚であって、人の下につくことをいさぎよくしてよいと思うのですが、道に立った場合は
素直に神仏の言葉を伝えるぺきであろうと思います。昔の宗祖では未発達の時代で言い現わす言111法
然
・
親
鶯
と
今
日
の
浄
土
門
葉のなかったような新しい道を、新しい言葉で宗祖の立てた塔の上につなぎ合わせていってもよ
いと思うのです。それが私を捨てた無我の心ではないかと思います。もしそれが誤ったものであ
れば、そこだけが自然と崩れ落ちてしまうでしょうし、真実のものならば、その塔は益々天に近
づいてゆくのであります。
釈尊の教がインドの地でインド語で説かれたからといって、その原語で判らなければいけない、
という馬鹿な話はないと同じように、現代には現代の行き方があり、祈り言葉があるのでありま
す。様々な過去から伝わっている呪文にしても、祈り言葉にしてもすべてその宗祖が神仏との交流
で定めたことなのであって、その内にふくまれている意味や神のみ心のひびきが伝わってくれば、
新しく神との交流によって、現代に適する祈り言葉をつくり出しても一向に差し支えないのです。
宗教は把われを放つこと、神仏の心を心として自由自在に生命が活動できるようにするためにあ
る教なので、宗教があるために人々が把われをつくるようでは、その宗教の間違いか、やる人が間
違っているかのどちらかなのです。
私は神との一体化によって、消えてゆく姿で世界平和の祈りという教を伝達されました。世界平
和の祈りは神と私との約束事で生れたのです。世界平和の祈りを祈るところに大光明波動がひびき
112
わたる、ということです。これは二十年来の経過で、多くの人々が体験しております。世界人類が
平和でありますように、こういう世界中の誰しもが願いに願っている、人類の大悲願を、祈り言
までに高めあげて、世界中に真実の平和を築きあげようとしているのです。悪も不幸も過去世から
の因縁の消えてゆく姿、これは個人にも人類全般にも通用する真理で、すべての悪や不幸や戦争の
危機を、過去の歴史の誤った業波動の消えてゆく姿と否定しきって、人類の悲願である世界平和の
祈りの中に投入しきった時、阿弥陀仏(神々) から救いの大光明が世界中にひびきわたってゆくこ
とになるのです。それは大調和をめざす科学の力として現われるかも知れませんし、政治上の大調
わざ
和として現われるかも知れません。いずれにしても、人類進化促進の大きな力として、力あるみ業
となることでありましょう。
113法然・親鸞と今日の浄土門
114
善人と悪人
善人なをもて往生をとぐ、
たんにしよう
いはんや悪人をやー歎異抄よりー
自己の想念行為を見つめ見きわめた親鸞
たんにしんらん
善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや、これは歎異抄によって、親鸞上人の言葉として多
くの人々に知られておりますが、この言葉は、普通常識の反対の言葉であって、はじめてこの言葉
をきく人は、善と悪とが間違って反対に印刷されてしまったのではないかしら、と疑問に思うので
はないかと思います。
ところが、宗教に深く入ってくるにしたがって、この言葉のもつ意味の深さが、いやという程わ
かってきて、人間の心を直視しつづけてこられた、親鸞上人のまともな真剣な生き方に敬意を払わ
ずにはいられなくなります。
大体親鸞上人という人は、学業に修業に、様々な苦難をしつづけつつ、いささかの嘘いつわりも
なく自分の想念行為をみつめみきわめ、っいに、人間の業想念の深さは、自力ではとうてい払い得
ぬものと、阿弥陀仏に全託のほかなしの悟りに入っていった人なのですから、自己の業想念といい
かげんの妥協をして、それでよしとするような、自己に不正直な人ではなかったのです。
ですから、親鸞にとっては、本来一っに結ばれてこの世の生活を送らねばならぬようにできてい
る、陰陽の別れである男女が一つになってはならぬ、という僧侶の道というものは、自然の道に反
する、人間の本来性に反するように思われてならなかったのです。そうした想いを抑えているのが
人間性をいつわっているようにも考えられるのでしたが、それと同時に、自己が業想念の把われ人
であるという自己の不信の念にもさいなまれていたのであります。
ほうねん
そうした想いが、法然門下となり、易行道念仏行の道に入って、一般大衆の救いへの導き手の一
人となってきてから、無理なことをせずに当り前のことをしていて、誰でもが救われに入れる道
でなければ、真の易行道ではないという信念が強まり、自らが年来の宿願であった結婚生活と僧侶
としての行いとの両立の道を切りひらく決意をなし、自己の身をもって、一般大衆と同じ立場に立
っての易行道念仏の生活をはじめたのでありました。
115善人と悪人
これは勿論恩師法然上人の賛同と応援を得てのことでありますが、その頃の僧侶としては革命的
これ
一大事件であったわけで、親鸞こそ、平常心是道、当り前の生活の中での宗教、一般大衆に入り得
る宗教、偽善でない宗教の道を開いた最大功労者であったのです。
今でこそ僧侶の妻帯などなんでもないことですが、その頃において、公然と妻をめとったという
ことは、あらゆる世間の嘲笑罵倒を覚悟の上、僧侶としての信用下落も覚悟の前という大決意をも
ってなされたもので、親鸞の自己をいつわらぬ、肉体界における人間生活の本然の生活をはっきり
と打ち出した上での、宗教活動に挺進しょうという、すさまじいまでの真正直な姿がその行為には
っきりとみられるのです。
親鸞のこの世における宗教生活は、すべて本心の叫びによってなされているもので、そこには、
少しの嘘いつわりもなく、飾りもよそおいもないものでした。そこのところが、親鸞上人が、宗教
史上特筆さるべき宗教人であり、聖なる人であったという確証であり、一般大衆の目じるしともな
るべき宗教者であるいわれでもあるのです。
親鸞のように、真正直に自分の心をみつめつづけている人にとっては、どんなに精進しても、ど
しつよう
んなに努めても、人間の心には執拗に業想念がからみっいていることが判るのです。こうしなけれ
11G
ば、ああしなければ、と思うそばから、いけないと思う想いが湧いてくる。み仏の世界において
は、誰も彼もが一つでなければならぬのに、好き嫌いの想いが起り、会いたい人、会いたくな
い人の差別が起る。自分と同じように人を遇しなければならぬと思いながらも、自分や自分の子供
たちには善くつくし、他人にはそれ程でもない。またはその反対に、他へのおもんぱかりで、自分
や自分の妻子には悪いあつかいをし、他人には丁重なあっかいをする。
くヒノ
というように、どうしても空のままの、澄み切った想念行為で、いつの日もくらしていられるよ
うな人間にはなれない。何かしら、いつも心にわだかまる想いがある。親鸞にとっては、そうした
少しのわだかまりでもが、神仏に相済まぬ悪い心と思えていたようなのであります。そして、そう
ざいあくじんじゆうぽんぶ
いう風に思えたればこそ、自己を罪悪深重の凡夫として、一度は本心と切り離して、いかに自分が
精進して、自力をもって、自分の心にまつわる業想念をふりはらおうとしても、とても本心そのま
ま、み仏そのままの生き方ができるものではない。自分はとにも角にも、宗教学をさんざん修め、
様々な修業をしてきた人間だが、その自分さえ、こんなに業想念を自力ではらうことができないの
だから、一般の人々、日常の生活に追われて、まとまった修業のできない人々にとっては、なおさ
らに自力で業想念ははらいきれない。だから、すべての想念行為を、善いも悪いもすべて南無阿弥
117善人と悪人
陀仏の唱名に乗せて、阿弥陀仏(神) の光明の中に投げ入れてしまい、
自分の全生活を頂きなさい、と、自分の心の遍歴を通した実感として、
いたのが、親鸞の姿であったのです。
阿弥陀様の方から、改めて
易行道念仏の道を説かれて
118
本心をはなれて遠い善人ぼこり
一般常識の世界からみれば、親鸞など何一つこの世で悪いことをしているようにはみえません。
悪いことよりも、普通人にできない正しい生き方をしております。それなのに、一生を通して、自
己の肉体身を罪悪深重のものとし、自分の想念をいやしんでおります。
この親鸞の心にくらべますと、ちょっとぐらいの善行為を鼻にかけて威張ってみたり、私は今日
まで何一っ悪いことはしていません。ですから特別に神仏に何も頼むことも、お詑びすることもあ
りません。などといい切っていたりする善人顔の人たちの本心から離れすぎている思い上り方が、
おかしく気の毒にさ、兄思えてきます。自分は善人だ、あいつは悪人だと思う、そうした想念が、も
うすなわち、本心(み仏) から離れた業想念なのであって、そうした想いをもちつづけていたので
は、とても、その人には本心を開発することはできません。幸いに今生の肉体生活が、幸福そうに
かわ
くらし得たとしても、あの世の生活において、または、生れ更りの生活において、いつまでもその
幸福そうな生活がつづくとは思えません。
人間の肉体界における生活も、幽界、霊界における生活も、それはみな、人間の本心、神の子と
しての人間の真価を発揮させるための修業の場なのですから、そんなひとりよがりの善人顔をして
いたのでは、本心開発の道には遠いので、守護の神霊は、その人の本心開発のために、また別の運
命をその人の為に切りひらくようにするでしょう。それは前生とはうって変った、苦難の道である
かも知れません。
それは守護の神霊が、その人が真実神の子としての本心そのままの道を自己のものとするために
選ぶ道であるから、慈愛によって、切りひらかれる道であるのです。
人間の本心の世界、み仏の世界というものは、人間がちょっとやそっとの善いことをした、とい
うような、そんな善の世界ではなく、自も他も全くない光一元の世界であり、大調和そのものの世
界であって、この世における自他の差別のない、それでいて天命のままに各自が動き得る、天命が
そのまま個性となっている、そうした世界なのであります。いいかえれば、自己の光明は自己の光
明とはっきり判っていながら、その光がお互いの光の為に有益な働きかけをし合っていて、なんら
119善人と悪人
の邪魔にもならないという、すべてが調和した神霊の世界が、私たちの本心の世界なのでありま
す。そうした姿が、この世に現われた時、それが地上天国と呼ばれる世界となるのです。
ちょっとばかりの善事を鼻にかけたり、私は今日まで何一っ悪いことをしない、などといってい
るような境涯では、とてもそうした地上天国の一員とはなれません。私は今まで悪いことをしてい
るから、悪い境涯が現われてもあたりまえだ、と自分自身で、自分の悪い行為を認めている人は、
その悪い境涯を消して貰う為にも、真剣に神仏にすがる想いが出てくるのですが、自分は善人だと
いう思い上りのある人は、自分自身の行為を高くみていますから、真剣に神仏に救いを求める祈り
は致しません。そこで善人顔をしている人は本心が開発しにくい、真の救われの道には入りにくい
ということになるのです。
それを親鸞は、そういうような思い上がった人でさえも念仏を唱えていれば往生をとげられるの
だから、自分を悪人だと思いこんでいて、この悪人をお助け下さいという気持で真剣に念仏を唱え
ているものを、阿弥陀仏が救わぬわけがない、ということを、標題のような言葉でいわれたのです。
120
本心に忠実であれ
親鸞上人のいいたいところは、人間はあくまで本心(み仏の心) に忠実であるべきで、本心と業
想念の区別をはっきりつけなければ駄目だ、本心と業想念の区別がはっきりつくと、肉体人間とい
うものは全く業想念に取りまかれていて、とても一人立ちできるものではないということが判って
きて、非常に謙虚な気持になる。そうした謙虚な気持になると、真剣に神仏からの救われを念ずる
気持になってくる、というところを根本にしているのでしょう。
いいかえれば、肉体人間には何事もなし得ない、肉体人間に神仏の救済の力が働きはじめて、そ
こに真実の人間(仏子) が誕生するのだ、そのためには、自己の全想念を阿弥陀仏(神) の中に投
げ入れてしまいなさい、業想念の自己が何やかだといっているうちは、とても人類は救われるもの
ではない、といっているのです。
親鸞にとっては、人間は仏子であり、神の子であると共に、この肉体世界においては業想念の子
でもある、ということを妻帯してからより強く認識したのでありましょう。それは一般大衆の誰
ようにん
でもが、表面的にそう思わなくとも、容認していることなのであります。それをその頃の僧侶の大
じようこん
半は、いいかげんにごまかしてすごしていたのです。中には上根(秀れた)の僧もいて、はじめから
業想念の波の少ない生れ性で、他の僧侶がなんとしても昇り得ない高い境涯に進んでおられた人も
121善人と悪人
あったでしょうが、親鸞の場合は、その天命が一般大衆を宗教の道に導き入れる役目になっていた
ので、一般大衆と同じ境涯に身をおいて、一般大衆とともに、本心開発の道を歩みつづけていった
わけなのです。
122
神仏だけを相手にする
親轡…は、悟りとか救いとかいうものは、業想念の波を相手にして、いいの悪いのといっていたの
では、いつまでたっても、成就するものではない、この業想念波というものを、一切相手にしない
ことによって、はじめて悟りとか救われの道とかに入り得るのだ、ということが判っていたので
す。業想念波を相手にしなけれぽ、相手にするものは、神仏よりなくなってきます。神仏だけを相
手にしていれば、自分もいつの間にか神仏と等しいものになってくるのは必定です。そこで、幸い
に法然上人という偉大なる師が現われて、自分より先きに、そうした原理をといて、念仏一念の生
活に大衆を導き入れているのを知り、すっかり感動して、弟子入りして、法然の教を一歩進め、自
己を一般大衆と同じ立場に落して体験としての易行道の教をひらいたのであります。法然門下には
傑出した人々がかなりいたのですが、親鱒のように、自ら一般人と同じように妻帯して、俗人と同
じ立場に身を置く程に易行道に徹した人がいなかったようです。
この辺が親鸞をして今日まで不朽の名を残さしめている所以でありましょう。大衆は自分たちの
身近かな行為の人として、親鸞に親しみをおぼえているのであります。
現代に生きる親鸞の心
人類が、肉体人間の想念行為をもってして、世界が平和になり得ると思っていたら、これはとん
でもない思い上りです。自分は物質にも恵まれ、その上善いことをしているのだから、何も殊更に
神仏にすがる必要はない、と思っている個人と同じように、自分の国は世界平和実現のために軍備
による力をっくっているのだ、といっている国があったら、これは実に思い上がった考え方です。
世界平和と軍備とは全くなんらの関係もありません。
個人にしても国家民族にしても、神のみ心を中心にしての活動でない限り、一時はその個人、そ
の国家民族が栄えているように見えましょうとも、やがてはその反対の現象が必ず起るものです。
それは世界の歴史をみていれば自ずから判ります。自己や自国家の力を過信していると、やがては
谷底の運命がその佃人その国家の前に待っていることになるのです。それは業生世界の必然性だか
123善人と悪人
ら仕方がないのです。しかしそれを人類全般に及ぼしてしまってはたまりません。そのたまらない
運命が今や全人類の上に妖しげな陰影をちらちらとうつし出しているのです。
今こそ親鸞のいうように、全人類が謙虚な心で、自己や自国の在り方をはっきりみつめ、神のみ
心にそむいていないか、人類愛の政策に反しはしないかを考えてみなければならないのですが、な
かなかその実行はでき得そうもありません。眼の前の出来事や、政策のやりくりに追われてしまう
からです。
124
平和の祈リで本心現われる
そこで私たちの世界平和の祈りによる、世界平和運動が是非とも必要になってくるのです。人間
はほとんど全部といっていい程、親鸞のいう意味での罪悪深重の几夫なのです。とともに、神の子、
仏の子でもあるのです。この両面の世界に生きている人類が、片面が強く出れば、世界人類は瞬時
に破滅してしまう大惨事となってしまうし、片面が大きく現われれば、世界平和実現の大なる燭光
がみえてくるのです。
私は片面の業想念の面を、消えてゆく姿として、片面の神のみ光の中に、世界平和の祈り言とと
もに投げ入れてしまう方法を提唱し行じつづけているのです。
人間がこの世に生を受けてきて、生れもった素質というものがありますが、これはそれが磨かれ
る磨かれぬということはありましても、その素質が変ってしまうということは、滅多にあることで
はありません。ところが、世界平和の祈りの日常生活をしていますと、まるでその素質がすっかり
へんぽう
変貌でもしてしまったように、人々に思われる程、何事においても秀れてきたりするのです。うち
の普及局長の斉藤さんなどは、画才などまるきりない人であったのが、世界平和一念の生活をして
いるうちに、急に仏画を画きはじめ、今日ではまるで専門家のような立派な仏画が画けるようにな
っています。このように、今まで外に現われていなかった善い素質が世界平和の祈りとともに次々
と現われてくる人が、かなり多いのであります。これはどういうことかと申しますと、今日までの
業想念波の業生から、世界平和の祈りのもつ神々の大光明波動の生活の中に飛びこんだことによっ
て、神々がその人に必要だと思われる才能を、神々のみ心の中からその人々に与えてくださるから、
今までなかったと思っていた才能が、突然に現われてくるのです。もっといいかえますと、今日ま
での業想念波による不自由心から、自由自在な神の世界の住者となったから、神の世界の自由自在
性の一面が、そうした才能となって突然現われてきたように現わされてくるのです。この事実は、125善
人
と
悪
人
世界平和の祈りによって、各自が神の子の本質を、知らぬ間に顕現させているという証左となるの
であります。そして、こうなった人々は、今日まで苦しい生活環境にあったとか、自己の悪い性質
を自分自身ではっきり知っていた、というような人々に多いのは、親鸞上人の言葉の通りなのです。
126
幸不幸のわかれ目はどこに
世間には、愛情も人一倍あり、努力も人一倍している、つまり自他ともに善い人と思われるよう
な、素質的には恵まれたような人が、案外な程、深い信仰生活に入らないでこれで善し、という生
活状態をつづけていることがよくあるものです。こういう人は、どんな信仰をすすめられても、当
りさわりなくあしらって、その道に深く入ろうとはしないのです。
ですから、こういう形の人は、迷信邪教にも陥らぬかわりに、深い真実の信仰生活にも入れず、
本心開発の道に、この世において入り得ずに、ただ単なる善い人で一生を終ってしまうのです。私
もこういう形の人に会うと、ただ通り一ぺんの話だけして、深く信仰的な話はしないのです。何故
ならばその人はただ単にあいそよく私の話をきいてくれるだけで、私の話の中に入ってくる程の深
い関心は決して示さないからです。そこで私としては、後々の御縁結び程度の軽い話で、そういう
人とは別れてしまうのです。
人間の生活というのは、果してどういう生活が幸福で、どういう生活が不幸なのか、こう考えて
くると、なかなか判らなくなってくるものです。良さそうな生活が、永遠の生命、本心開発の道か
らみると、案外に悪い生活であり、悪そうな気の毒そうな生活をしている人が、案外、本心開発の
道の近くにいる、ということにもなるのですから、悪そうな生活やみじめそうな生活環境の住者
も、そう悲観落胆したものでもありません。要は、永遠の生命を自己の生命と一っに結びつける、
いわゆる本心開発の道に入り得さえすれば、すべてが神の光につつまれた、常に楽しい明るい生活
となってくるのですから、そうなるための精進努力がまず最大のことであるわけです。
念仏を一歩進めた世界平和の祈り
この世における生活だけを掴まえていると、どうしても本心開発の道には入り得ません。それは、
どうしても物質面や物質世界の環境に心が把われてしまっていて、そこからぬけ出すことができな
くなるからです。といっても、物質面の生活、この世の地位環境をあまりにないがしろにしますと、
妻子を路頭に迷わせ、悪い父親ということになりかねません。127善
人
と
悪
人
私の提唱している世界平和の祈りは、物質面を把えたら把えたままで、精神面に把われたら把わ
れたままでよいから、そのままの心の状態そのままの日常生活状態で、世界平和の祈り言をしさえ
すればよいというのです。これは全く親鸞上人の易行道念仏と同じ方法なのですが、私の祈り言
は、世界人類の平和という大きく横にひろがる祈りなのです。世界人類の平和を祈るということ
は、神のみ心、み光りというものを、そのまま地上界に顕現するための光の柱になることです。人
類の一人一人が光の柱になって、地上界が神の大光明で輝きわたるためになされる祈りなのであり
ます。
神はすべてのすべてであり、完全円満なる大光明です。それは親鸞上人の言葉の中にも、いかな
る悪も弥陀の本願(光明) を消す程の悪はないとあります。神の大光明を消す程の悪業はどこの世
界にもあるものではないのです。と申すことは、神のみ心が現われれば、現われたところは光明化
し大調和することになるにきまっているのです。したがって世界人類が平和になるということは、
そのまま神のみ心が現われるということであり、世界人類の平和を祈るということは、その祈り言
がそのまま神のみ心と合致することになるのであります。ですから私共が世界平和の祈りをしてい
る時には、私共の体は光り輝いてみえるのです。霊能のある人々は異口同音にその事実を認めてい
128
ます。
世界人類の平和を妨げているのは、個人の悟りを妨げていると同様の業想念、つまり、肉体の自
己中心、自国中心の想念行為です。こうした業想念を世界平和の祈りの中に投げ入れてしまえば、
その人が光明化してくると同時に、横ひろがりに世界人類の上にその光明をひろげてゆくのであり
ます。このところが、親鸞の南無阿弥陀仏が一歩進んで、個人の救われと世界人類の救われとを同
時に為し得る方法になってきているところなのです。これは言葉のもつ意味が、そのまま神のみ心
顕現の姿になっているところに重大な力があるのです。
そこで私は、世界平和の祈りを、易行道的法華経または、易行道に現われた神道といっているの
です。そして常住坐臥における世界平和の祈りは、そのまま常住坐臥の坐禅観法ともいえるのであ
ります。
〃敵をやっつけよう
“から平和は生れない
現在の世界状勢も、国内状勢も、話合いとか、会議とかでは決定的な平和状態に一歩を進めるわ
けにはゆきません。お互いが敵対する相手を認めて、その為の軍備力を貯え、そのかたわらで、平
129善人と悪人
和になろう平和にしよう、などといっているのですから、背後で盛んに火を燃やしつづけながら、
涼しくなろう、涼しくしょうといっているのと同じことであります。日本の国内問題にしても、は
じめからはっきり二つに分れている思想の人々が、しかも一っになっては自分たちの立場のなくな
ることの恐れのあるような人々が、何を話合おうというのでしょうか、話合わぬ前から、話が一致
せぬことは判りきったことです。
私はこうした業想念世界のやりとりなどにはまるで興味はないのです。業想念の渦の中で、いく
らどのような智慧をしぼろうと方法を考え出そうと、とうてい真の平和運動にならぬと思っている
からです。真の平和達成の運動は、神の大光明の中に、すべての思想想念をもったままでよいから
世界平和を祈る祈り心をもって、全身全霊をあげて飛びこんでゆく運動よりほかないのであります。
その祈り心から生れてくる実践方法こそ、はじめて、国家の天命を達成させる真実の実践方法とな
り、世界人類が真実の平和を築きあげる、最高の政治方策となるのであります。敵をやっつけよう
と思う想念の中からなんで世界平和が生れてくるものでしょうか。為政者はまずそのことを真剣に
考えてみることが必要でありましょう。
130
大乗仏教と親鸞
浄土門的宗教とは
人間という者の不思議さ、人間として生きていることの不思議さ。喜び、哀しみ、恐れ、憂いな
がら、この一生を終えてゆく、この人生というものの不可解さ。この不思議さ、不可解さを、不思
議と思い、不可解と思う、その想いの中から、科学心、哲学心、宗教心が生れ出る。
私は幼い頃から、病弱のせいもあったのでしょう。いつも死というものを眼前にみつめて、人間
生活の不可思議さを、宇宙の神秘性と並べて、ひとり考え、ひとり思いつづけ、種々の哲学書、宗
教書をあさるように読みふけり、遂いには、心霊研究の分野に足を踏み入れ、生命をかけて、肉体
以外の世界を探求し、今日のような教を説いているのですが、私の教は、前生からの関係もあっ
131大乗仏教と親
て、浄土門的色彩の強い教なのであります。
浄土門的宗教、つまり法然や親鸞の教は、法華経とは全く無関係のように思っている人がたくさ
んあって、未だに、日蓮が叫んでいたような、念仏無間地獄、を叫んでいる人があるようですが、
これは、法然や親鸞の真実の心を知らぬ為にそのようなことをいっているのであって、たまたま日
蓮在世の頃、浄土門の真の教を知らなかった僧侶たちの、誤った生活態度に、日蓮が鋭い攻撃を加
えたものなのであります。
浄土門の真の心を知らず、誤り教え、誤り行ずるような弟子たちが、現在あるとすれば、その人
たちは極楽往生等は、到底出来っこないのであります。又法華経を云々しながら、法華経と全く相
違した教えや行動をしている人たちも、地獄に陥ることは必至であります。
日本の宗教家で、最も大衆がその名をよく知っているのは、日蓮と親鸞であろうと思われます。
それは、日蓮と親鸞を書いた書籍が、沢山出ているからでありましょう。しかし、親鸞を書いて、
親鸞の真意、浄土門徒の真の在り方を、はっきり書いた人も、私の読書範囲ではいなかったのであ
ります。おられるのでしょうが、私の読んだ狭い範囲ではいなかったのであります。そこで、私は
私の信ずる私の解釈で、これから浄土門の教の真意を書いてゆこうと思うのです。132
法華経の教
せき
親鸞のように幼時から仏門に入り、若くして碩学(広く深い学問の人)といわれた人が、法華経
を読んでいない訳がありません。仏教書をありとあらゆる程読み学んでも安心立命することが出来
なかった。如何に難行苦行しても悟れなかった。知識としては真理が判ったのでありましょうが、
実行にうつすことが出来ない。真理そのままを行ずることが出来ない。これは良心の鋭い人にとっ
ては耐え難い苦しみなのであります。
仏教哲理がいくら頭につめこまれても、法華経の教が、教としてだけで脳裡に入っても、その人
が救われに入ったというわけにはゆきません。学問的に人には説法出来ても、自身がその説法の通
りに行じられない以上は、その人の心は安心立命することは出来ないのであります。
によらいじゆりようほん
法華経にはどんなことが書いてあるかというと、その如来寿量品にて釈尊は、自分は仏を得てか
さいあそうぎ
ら経て来た劫の数は、無量百千万億載阿僧砥なり、つまり、無限億万年前から仏なのだ、生れて三
十何歳で仏になったような者でもなく、仏になって四十何年しかたたないような者でもない、とい
っておられるのです。そして、肉体として生れたり死んだりするのは、只方便の為であって、私は
133大乗仏教と親鸞
実は生れたり死んだりすることはない。常にここにいて法を説いているものである。私の住んでい
あんのん
るところは、人々の劫がつきて大火に焼かれてしまう時でも、安穏で、天人が充満している云々…
といっておられます。
これは、釈尊という肉体は方便の為に人々の眼の前に現われているので、真実の釈迦牟尼仏とい
いのち
う者は無始の方から無終までの永遠の生命なのであって、その実相の世界は、天人が充満し、美し
い花が咲き充ち、美しい音楽に光り輝いているところなのである、ということなのであります。
じやうふぎようぱさつほん
そして常不軽菩薩品では、誰も彼もが、皆仏様なのだ、といっているのです。
総体にもっとつづめて申しますと、人間の真実の姿は霊身であり、完全円満な仏(神) なのだ
てんどうもうそう
が、それを顛倒妄想して、肉体の人間が真実の人間であると思いこみ、その誤った想念の中で、生
おのの
死に惑い、五欲に執着して、恐れ、標いているのだ、だから、自己の本体が霊であり、仏(神) で
あることを真実に想って、肉体であるというさかさまの想いから離れよ、というのであります。
X34
法華経から浄土教へ
親鸞ほどの知的な人が、こうした法華経の内容を理解出来ない筈がありません。法華経ばかりで
ねはんはんにやしんきよう
はない華厳経も、浬梁経も、般若心経も学んでいたに違いありません。
ですから、知識としては、仏教学の深い真理を知っていたと思われます。そうした深い真理を知
っていたからかえって、浄土三部経(大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経) のような、知識で知る
より、直情的に素直に心で信ずるより仕方のない教は、頭を素通りしていたのではないかと思われ
ます。
何か大きなものに鎚るのではなく、今の知識人がそうであるように、自分のもっている知的理解
力、自分の思考力、自分の実行力、つまり、肉体身(業生) の自分の能力で悟ろうとしていたので
あります。そうした生き方は、他の力に槌って仏の世界に引き上げて貰うような教、弥陀の誓願の
ような教(昔、法蔵比丘が、四十八願を立てて、その十八番目の本願に、たとい我れ仏を得たらむ
しんぎようおも
に、十方の衆生心を至し、信楽して我が国に生れむと欲うて、十念せむに、もし生れずば正覚をと
らじ、云々) のような、私が救ってやろう、というような教は、知性的で若い親鸞の心に合わなか
ったので、その本は読んでも、心を把えなかったものだったのでしょう。
ぼんのう
ところが、種々学び、種々行じつづけても、自己の心を巡る様々な煩悩は去ろうともしません。
それはその筈なのです。脳裡には、本心の姿はこう、仏の姿はこう、と、その完全さを画きなが
135大乗仏教と親鸞
,
ら、その本心と離れ、心と離れた業生の想念や思考力で、その本心を求め、仏を得んとしていたの
であったからです。
いくら求めても、業生の肉体人間の知識の波の中をぐるぐる廻わりしていたのでは、知識を超え
た実相の中に飛び込めるわけがないのです。仏教理論が判れば判る程、その理論に振り廻わされ
へだたり
て、仏と自己との距離をいやという程感じさせられ、死んでも死にきれぬ精神的苦痛に喘えぎつづ
けたのであります。
これが、知性的な人でなく、思考力のとぼしく、良心的でなかった人なら、どこかで自己の業生
に妥協して、このようには苦しまなかったでしょうし、どこかで、自分なりの安住を得ていたかも
知れません。
さが
親鸞にはそれが出来なかったのです。出来ない性に生れていたのです。
こ
自分の中の出来得る限りの能力で、一心籠めて仏教にぶつかってゆき、遂いに、肉体的にも精神
的にもへとへとになってしまった時、法然上人に出会ったのです。
136
親鸞の悟リ
ヘヘへ
肉体人間の自力にあいそをつかしかかったその時、法然に出会ったということは、親鸞の守護神
がそうさせたのでありましょうけれど、実に親鸞にとって絶好の機会であったのです。あれがもし
あれ程迄に自力の勉学や修業に、疲れ果てていない時であったならば、あのように、今迄の修業の
成果として得た宗教的地位を、易々として捨て去って、法然の門下になることはなかったでありま
しょう。又、もっと以前の親鸞、修業当初の親鸞であったら、もし法然門下になったとしても、永
つづきはしなかったでありましょう。
せきがく
時期が丁度よかったのであります。しかも、法然上人その人が、聖道門自力の修業を経て来た碩学
(広く深い学問) の人であって、親鸞同様の精神的苦悩をして来た人であったのですから、尚更に
ょかったのです。
かくて親鸞は尊師法然より、改めて、無量寿経の講義をきき、弥陀の誓願一筋の他力信仰に入っ
ていったのです。
今迄素通りしてきた教が、法然門下に入って何故判ったのでしょうか。
それは、親鸞が自力を尽して来たからなのであります。自力を尽してみて、肉体人間としての自
分にすっかり見きりをつけてしまったからなのであります。
137大乗仏教と親鸞
肉体にまつわる想念知識というものは、いくらそれを振り廻わしてみても、けっして、悟れるも
ヘへ
のでもなければ、仏(神) と一つになれるものでもない。駄目だと思えば、駄目に把われ、よしと
ヘへ
思えば、よしに把われる。仏、仏と仏を追い廻わせば、追い廻わすことで、仏の自由自在性が、す
でに自分から離れてしまっている。とすると、自分という者を一度なくなしてしまわなければいけ
ない、と改めて悟ったのであります。
改めて悟ったということは、仏教は、何処にでも無我を説いてあるので、今迄にも無我になろう
として、悶え苦しんで修業していたのでありますが、悶え苦しむことそのもの、無我になろうとす
ることそのものが、もうすでに無我ではない。彼が改めて悟った無我は、自我を全く捨て去り、す
はから
べての計いを捨て去って、西方極楽浄土におわすという阿弥陀仏に鎚りきったことなのであり、弥
陀仏に全託しようと決意したことなのです。肉体も、肉体にまつわるすべての想念も思考も、すべ
て阿弥陀仏に帰一させてしまうことにきめたのであります。
138
阿弥陀仏と本心
と申しましても、親鸞が、実際に西方という一定の空間(場所) にある極楽浄土を信じ、阿弥陀
仏を信じたかと申しますと、そうではないのであります。この時の親鸞にとっては、それが、西方
極楽浄土であろうと、阿弥陀仏であろうと、釈迦牟尼仏であろうと、何んでもよかったのです。只
絶対者(神)を知ったのです。この時において、親鸞は、法華経はじめ、釈尊の諸々の深い教が、
はっきり判ってきたのです。
どんな風に判ったかと申しますと、自分の本体が仏(神) であり如来であるのだ、ということが
判ったのです。肉体の自分自身をすっかり捨て切る、つまり、何かに自己のすべてを一任しさえす
れば、自分の本心が業生の想念から離れて、自由自在に働ける。生命がそのままに働ける。その一
任し、全託する相手は、肉体身として生れ出でぬ前から自分として働いている生命、本心、つまり
仏なのである。その仏は法華経にあるように無眠億万年以前からの仏である。それは釈迦牟尼仏で
もあり、阿弥陀仏でもあり、法然上人として働いている仏でもある。とはっきり判ったのでありま
す。
地上界にいた業生の親鸞が、法然上人を通して、法華経の天界に舞い昇っていったのであり、永
遠の生命の流れの中に、自我を投入してしまったのであります。
親鸞はその日から、仏を求めることを止め、念仏の中に生命そのままの生活、何が出てきても、
139大乗仏教と親鸞
すべて念仏の中に融けこませてしまう念仏一念の生活に入っていったのです。彼の生活の中に、も
カルマ
はや過去の想念思想は、業生として蓄積されているのではなく、仏(神) と一体となった彼の本心
の前を消え去ってゆく過去の影として現われるだけで、彼はそうした業報の現われを把えて自己の
おうそうげんそう
苦悩とすることはしなくなったのです。そして、彼の歩みは、往相と還相、求め昇る想いと、菩薩
としての想いが、全く一つになって、衆生に念仏道を説きつづける生活となったのであります。他
力が、そのまま仏力として庶民衆生の上に働きかけていったのであります。
人間の本心(仏)、真心を汚すものは、いかり、ねたみ、執着、恨み等々の迷いの想念でありま
す。そうした想念は、如何に仏を求め、経文を学び、修業をしようとも、到底本心を離れきるもの
ではない、ということを親鸞は自己の体験ではっきり知っておりますし、師法然もそうであったこ
とをも聞いております。
元来、親鸞という人は庶民衆生救済の想いの強い人でありましたので、自己が悟りを求めたの
も、その悟りの上に立って衆生を救いたいという菩薩心があってのことです◎ そうでなければ、僧
侶としての高い位についた時、その位に満足して、その位のままで、修業をつづけたでありましょ
う。しかし、彼の求道心と菩薩心がそれを許さず、ついに、すべてを捨てて念仏門に入ったのであ140
ります。
庶民大衆への教
親鸞は、念仏門に入っての自己の悟りを、そのまま衆生に説いても、庶民大衆が、その悟りを理
解し得ないと思い、あの有名なー善人もて救はるなを悪人をやーという言葉のように、弥陀の
本願をさまたげる程の悪などはこの世にないのだから、弥陀に帰一する念仏、南無阿弥陀仏を称え
れば、何人も救われるのだ、といい切ったのです。
善人というものは、自分は今迄何も悪いことをしたことはない、と思って神仏に槌ることをしな
い、槌っても、どうしても一心が足りない、ところが悪人は、自分は悪い人間だ、自分のような者
はとても善い往生が出来る筈がない、と思っている。だから、念仏一念で救われる、立派な往生が
出来るといわれると、それこそ救われたい一心が深い念仏となるので、かえって救われ易い、だか
がお
ら、悪人の方が救われ易く、善人の方が救われ難い、しかし、そのような善人(善人面) の人でも
阿弥陀様は救って下さるというのであります。
これは前にも申しましたように、親鸞自身が西方極楽浄土の阿弥陀仏の存在を信じていたからそ141大
乗
仏
教
と
親
鶯
ういったというより、自己の悪想念行為に把われているが為に、かえって本心(仏) から離れ、業
生の迷いの渦から抜け出られないでいる人たちの為に、丁度、大無量寿経に書かれている弥陀の本
願をもってきて、西方極楽浄土の阿弥陀様に、衆生のすべての想いを吸い取って頂く、唱名念仏を
させたのであります。
人間の中に、自己の生活の安心立命を願わぬ者はないのであります。まして親鸞の頃は、死んで
からの先きの往生のことを心配する人が非常に多かったのですから、この世の生活もあの世の生活
も、どうぞ苦しいものでないようにと願わぬ人はなかったのです。もしこの世の生活がどうしても
駄目なら、あの世でだけでも立派な往生がしたい、と願っていたのが一般大衆であったのです。そ
して一般大衆は学問知識が現今の人のようにないのですから、むつかしい理論は判らないのです。
ですから、阿弥陀仏の名を使わずに、あなた方の内部に仏があるのですが、その仏が迷いの想いに
蔽われていて、あなた方の生活の面に力を現わさずにいるのです。あなた方は自己の内部の仏を発
現させる為に云々、というような説法をしても、何んだか意味さえ掴めなかったろうと思います。
それを法然は勿論、親鸞も承知していたので、そうしたむつかしい説明をせずに、ただただ唱名念
仏だけを勧めたのであります。自分から悟るということより、救って貰えると思う方が、その頃の
142
一般大衆には、はっきり判るのです。
他の外国諸国の人々がしきりに救世主を求め、救世主によって、救われたい、と願った想いと同
じであります。
師の法然は、唱名念仏をするのに数多く唱えることを勧め、自身も百万遍の念仏をした、といわ
れていますが、親鸞は一念の念仏で救われる、といっておりまして、別に念仏の数にこだわってお
りません。それは親鸞が法華経をよく理解していたことを立証するのであります。それは、人間の
本心は仏心なのであって、迷っているように見える想いは、人間の本心が仏心であることを知らな
かった頃の誤りの想いが消え去ってゆく姿であって実の心ではない、ということに、根底を置いて
いるからであると思います。何故ならば、人間の想いを仏(親鸞の場合は阿弥陀仏) の完全円満性
と結びつければ、たとえ一念の念仏であっても、本心開発の道に入っている、ということを知って
いて、一念でも救われるといったのであります。
ざいあくじんじゆう
肉体人間は罪悪深重、本心は仏
もが
肉体の人間は、どう腕こうと、煩悩が循環している業生の世界に住んでいるのである。自分とて143大
乗
仏
教
と
親
驚
も、肉体身としてはその煩悩の渦に苦しめられていたのであり、今でも、その煩悩の渦が、本心を
蔽っている。だから肉体身をめぐる想念を相手にしても駄目なのだ、とは、親鸞が終生いっていた
言葉であり、自らを罪悪深重の凡夫といい、極悪人といっております。しかしそれはあくまで、肉
体人間を経巡る想念のことをいっているのでありまして、念仏を唱えている時の人間への言葉では
ありません。
一度び念仏の門に入り、一念の念仏でも唱える想いになれば、迷いの想いが起る度びに、救われ
たいから、唱名念仏をしないではいられぬ、という風に親鸞は思っていたのでしょう。親鸞は、人
間を罪悪深重といい切りながら、人間の性善、仏性をはっきり知っていたのでした。
これを何人かの親鸞研究家は、終生親鸞が自己を卑下しつづけ、罪悪深重と想いつづけていたよ
うに思い違いをしておられるのです。しかし親鸞は自己を卑下もせず、罪悪深重とも思っていなか
ったのであります。それはあくまで、過去世からの想念行為によって生れた、肉体人間としての想
念であって、念仏一念によって行動していた親鸞とは、はっきり別のものであり、消えてゆく姿と
しての過去の親鸞であったのです。
彼は、本心と業想念とを、はっきり区別していて、業想念を罪悪深重といいながら、自らは本心
144
の世界、仏の世界から終生菩薩業をしつづけたのであります。
親鸞は、業想念の把われから衆生を放つ為に自らを罪悪深重といい切り、業想念の欲望から、本
心の世界に衆生の想念を昇華させようとしていたのでした。
ひとりで
念仏一念になってからの親鸞は、全く自然法爾、つまり、み仏の動かすままに言動していたよう
でありました。
じねんほうに
自然法爾の親轡…
じれんほうに
あの驚く可き、妻帯のことでも、自然法爾の行動であったのです。すべてをみ仏に任せた親鸞の
行動は、自分の前に現われる事件、事柄は、すべて、過去世からの業報の消えてゆく姿であり、と
同時にみ仏の光明を輝かす事件事柄であったのです。それは、親鸞滅後の今日になって、はっきり
その成果を現わしているのです。
親鸞の生活には、誇りもなければ、苦悩もないのです。只、み仏のみ光があり、み仏の歩みがあ
るのみだったのです。
親鸞の天命は、業報を転じてみ仏の光明にすることでありました。この地上世界に、み仏を迎え
145大乗仏教と親
奉らて、衆生をみ仏と合一させる為の唱名念仏の普及であったのでした。
ほとう
日蓮が、念仏無間地獄と叫び、法然や浄土門の人々を罵倒したのは、法然、親鸞の生き方と真
実の姿を知らなかったからでありましょう。
親鸞は確かに法華経を最も易しい念仏に変えて教導した第一人者であったことを私は信じており
ます。
日蓮宗の人々が、南無妙法蓮華経のお題目のみが、真実の救いに入る道だと思っているようです
が、真実の救いとは、唱名念仏や、お題目そのものにあるのではなく、本心と業想念とをはっきり
区別させることにあるのであります。
くおんじつじよう
本心は久遠実成の仏であり、大生命であって、肉体があろうとなかろうと、働きつづけている力
であって、永遠不滅のエネルギーであり、叡智者であります。
そして業想念は、肉体と幽体並びに霊界の下層を経巡る迷いの想いであって、有限の波動であ
り、やがては消え去ってゆく姿であります。人間の幸福、人類の平和とは、人間の個々人が、本心
を業想念の欲望で蔽われぬようにしてゆくことによって、はじめて達成されるのでありますから、
私共は常に本心を呼びつづけて生活をしていかなければなりません。想いを常に本心(み仏・神)
146
の中に置くことこそ、世界平和の為の第一のことと思います。その為にこそ、私の提唱する世界平
和の祈りが大切になってくるのです。世界平和の祈りは易しく知らず知らずに自分をも人類をも平
和にしてゆく第一の方法なのであります。
人間神の子とか、仏とかいって、神の子、仏に把われ、空といって空に把われ、業因縁をいっ
て、業因縁に把われるのが、肉体人間の想念の習慣であります。私はこの把われを放つことに重点
をむけ、すべての想念を一度び消えてゆく姿として見送らせると同時に、その想念を神仏(守護の
神霊) の方に転じさせて、把われなき生活をこの世に顕現せしめようとしているのであります。こ
れは親鸞と全く等しい方法なのであります。
147大乗仏教と親s
148
生きるとい卸つこと
生命がそこに生きていること
この地球界には、三十数億の人が生活しているのですが、真実に自分の生命を生ききっている人
がどのくらいあるでしょうか、又生きるということの真実の意味はどういうことなのでしょうか、
生きるということ生かされていることなどについてお話したいと思います。
普通いわれている、生きるということは、赤ん坊として生れ出でたその日からはじまっているわ
けで、その人が病気になり、或いは老衰して、只単にわずかに息づいているだけでも、息ある限り
は生命がそこに生きているということになっているわけです。
そして、息の根が止まった時が死んだ、ということになるのです。ですから、如何なる聖者も、
如何なる健康な人でも、いっかは、死の時期を迎えて、生きるということに終止符を打つことにな
っているのです。
ところが実は、生きるということは、五十年や百年のそんな短い生命の働きの期間をいうのでは
ないのであります。肉体が息づいているということが、そのまま生命が生きているということでは
ないのです。肉体が息していようといまいと、存在しようとしまいと、その人の生命が生きている
ということには、変りはないのです。但し、生き方が変化したということはいえるのであります。
この人変なことをいうな、肉体が滅びれば、その人は死んだにきまっている、と私の著書などを
はじめて読む人は、私の話していることを不審に思って、そんなつぶやきを漏らすことでありまし
ょう。しかし、そういう人は生命というものの本質をあまりょく知らないからそういうだけで、私
のいうことは真実の言葉なのです。
人間の本質
しかしながら、こういうようないい方をはじめからしていますと、戸惑う人が非常に多いと思い
ますので、最初に人間の本質というものから説いてゆきたいと思います。
149生きるということ
私が毎回のように申しておりますが、人間というのは、肉体を纒った、こうした肉体身だけでは50
1与
ないのです。肉体身は人間生命の纒っている一つの衣であって、人間そのものではありません。
不幸な境遇の人たちが、よくいう言葉ですが、こんなにいつも不幸なら、死んでしまった方が余
程増しだ、という言葉です。死んでしまう、つまり肉体身を滅ぼしてしまえば、それで自分の不幸
な境遇が消え去ってしまうと思っているそうした人の考えこそ、より不幸な考えなのであります。
死んでしまう、肉体を滅してしまえば、それで自己の意識が無くなり、自分というものの存在が
すっかり無くなってしまう、と思っている唯物的な考え程、愚かしいものはありません。どのよう
な方法で、肉体を死なせたとしても、その人自体が死ぬわけでもその人の自己意識が無くなるわけ
でもありません。
その人は、或る瞬間は騰りと同じように、意識を失っていることはありますが・やがて時間がた
つと、失った意識が復活してくるのです。そして再び自分の存在をはっきり認識してくるのです。
そして、肉体界にいた頃の想念の渦の中に巻きこまれてゆくのであります。
しかしながらその人には、最早、肉体身はありませんので、肉体身より微妙な波動の幽身の中
で、その人の想念が循環し、行為となってゆくのです。ところが幽身は肉体身のように循環のしか
たが遅くはありませんので、非常なスピードで、その人の想念行為が、その人自身に還ってきて、
自己の出している想念波動の通りの世界を、自己の環境に繰りひろげてゆくのです。
神を認めていない人は、神のない光のない世界、闇の世界を経巡ぐり、不幸の想いに把われてい
た人は、不幸の想念波動の世界で、翻弄されつづけるのです。死んだら楽になるどころの騒ぎでは
なく、肉体身での不幸などくらべようもない程の苦悩を幽体界では味あわされるのです。
私たちはその原理をよく知っておりますので、この世の不幸や災難は、すべて過去世の業因縁の
消えてゆく姿と思って、自分の不幸を嘆げく想念の中にいつまでも把われていずに、世界平和の祈
りの中に、そうした想念ごと入りきってしまいなさい。そうすれば、救世の大光明の慈愛の光が、
あなたの不幸や災難の起ってくる過去世からの業因縁をすっかり消し去ってくれますよ、と説いて
いるのです。
わけいのちちよくれいわけみたま
人間は光明そのものである神の分生命なのであり、宇宙神、直霊、守護神、守護霊、分霊として、
生きているのであって、自己の分霊だけが、只、ぽつんと、肉体身の中にあって生きているのでは
ないのです。
み
自己というものは、内的に観れば、直霊、分霊として生命輝やかに存在するものあり、外的に観
151生きるということ
れば、守護神、守護霊の守りによってこの世の生活を営んでいるのであります。
ですから、神が無いといおうと、守護神、守護霊などあるものかなどといおうと、
神のみ光りによって生かされているのであります。
その人は常に
152
真実生きるということは
さてそこで、生きるということの本題に入ってゆきましょう。生きるということは、只単に、肉
体身が生存している、ということではありません。肉体身を通して、神のみ心がそこに現われる、
ということ、神のみ光を、肉体身を通して、外部に輝やかすということが、真実生きるということ
なのであります。
これは、霊幽肉のどの世界にあっても、同じ原理なのであります。一なる宇宙神のみ心が、あら
ゆる生物、森羅万象を生み出だし、これを神霊幽肉、各界の神々、分生命によって、様々に交流さ
れ、運営されて、宇宙一杯に、大生命の絵巻物を繰りひろげているわけなのであります。この地球
界に住んでいる人類も、一人残らず、この大生命讃歌の一人の歌手であり、演奏者なのでありま
す。
ですから一人の歌手、一人の演奏者でも、大生命の流れのリズムを誤って演奏した場合には、大
生命の生命を生かしていないことになるのです。この大生命讃歌には、最高中心のコソダクターも
あり、各部各部の指揮者もあるのでして、各指揮者の指揮のまま、渾然一体となって、大調和の演
奏ができるようになっているのであります。
ところが現在では、この大生命の流れに沿わない、リズムに合わない、独りよがりの生き方をし
ている、つまり自我欲望の業想念リズムで生活している人々がたくさんありまして、この肉体界に
は、完全に調和した、大生命讃歌は聞えてきていないのです。
そこで、大生命の分生命である自己の生命を真に生きる人々をたくさんつくるために、古来から
各部所に、聖者賢者が次々と現われまして、この世での指揮を取っていたのでありますが、今日ま
ではその時期に至っておりませんで、いよいよ今日のように、もう大生命讃歌は地球世界では完全
に演奏できっこない、というような事態になり、地球界で、真実生命を生かしていない、宇宙神の
ヘヘへ
大生命のリズムに合わない人間たちを、一度ふるいにかけて、消し去ってしまおうというようなこ
とにもなりかねないのであります。
それが、各宗教の末法の世の災害の予言となって現わされているのです。ところが神々は今日
153生きるということ
は、各パート、パートに分れて、地球人類を指揮してきたが、この光明波動を一つの中心に纒め
て、救世の大光明として、指揮するようにしたらどうか、ということになり、今日では、救世の大
光明の中に、神々や古来の聖者賢者が総集合して、地球人類救済の大光明波動を地球世界にひびか
せはじめたのであります。
ですから、今日まで、各人各人の守護のみに専念していた守護の神霊も、救世の大光明の一員と
して参加して、救世の大光明の光の中で、各人各人の守護に当たることになったのであります。
歴代の聖者賢者などは、すべて、守護の神霊との全きつながりによって、大智慧を得、神通力を
得て、地球人類の為に働いたわけでありますが、今日から、すべての人々が、これらの聖者賢者と
同じように、守護の神霊との全きつながりによる、大智慧、大能力を発揮でき得る時代になってく
るのであります。
X54
守護の神霊と全きつながりを得るには
それは一体どのような方法によって、そのようになり得るかといいますと、
と、真実の生き方のできる人になり得ればよいということになります。
真に生命を生かすご
真実に生きるということは、先程からも申しておりますように、肉体人間の欲望の充足のみに働
いていたとしても、それは真に生きているということにはなりません。大生命の大調和交響楽、大
生命讃歌のリズムに合わせた生き方をすることこそ、真に生きるということになるのであります。
そこに、世界平和の祈りの必要が生れてくるのです。この宇宙は、すべて光の波動、光のリズム
で出来ております。光を汚す、光を蔽う、暗い想念、闇のリズムは一切必要ないのであります。と
ころが、この世は暗い想い争いや不調和の波動で充ちております。ですから、このまま、今までの
生き方や、ものの考え方をしていたのでは、真に生命を生かすことはできません。
そこで、今日までの暗い想いや、嫌な想い、不幸や病気や災難という出来事は、過去世から今日
に至る大生命リズムを損っていた想念行為の消えてゆく姿である。だから、そうした消えてゆく姿
の想念行為を、救世の大光明の人類救済の祈りである、世界平和の祈りの中に入れてしまいなさ
い、世界平和の祈りを祈りっづけなさい、というのであります。
三界の業想念波動を超えた、神の世界に自己の想念を、世界平和の祈り言にすがって入れきる生
活をつづけていることは、いつの間にか、自分が守護の神霊との】体化を為し得てしまうことであ
り、自分が神霊の世界に住みついていることになるのであります。
155生きるということ
例えば、二人の人が同じような病気で、病床に臥していたとしても、一人が世界平和の祈りを祈
り、守護の神霊に感謝しており、一人は、病気の不幸をぐちりながら臥せっていたとしたら、前者
は身は病みながら、神霊の世界に住み、地球人類救済の一役を買っていることになり、後者は、肉
身に在りながら、死んでいる生活をしている、ということになるのです。
、
これは単なる観念論ではないのでして、実際に世界平和の祈りをしている人の用囲には大光明が
輝いている、ということは拙著「神は沈黙していない」にも書いた通りであります。
人間は、大生命につながる永遠の生命なのでありますから、永遠の生命を、肉体人間として区切
ったり、自己限定したりしてはいけないのです。それは自己の本質である永遠の生命を阻害するこ
とになるのであります。しかしながら、この真理は、業想念波動に蔽われた肉体生活をしておりま
すと、なかなか悟り得ないのです。
そうした悟り得ない人の為に、先きに真理を知った人が、その人たちの永遠の生命への道案内
をしてやればよいのです。それが真の宗教者の役目であるのです。そしてその一番易しい方法が世
界平和の祈りなのです。あらゆる想念を、一度びは世界平和の祈りの中に入れてしまって、自己の
生活を頂き直してゆく方法で生きていますと、種々と自我欲望が起りながらも、そうした想いは消15f
えてゆく姿として、救世の大光明の中で消し去られ、それと同時に、救世の大光明の光が、その人
の肉体の波動と一致して光を放ち、周囲を照すことになってくるのです。そう致しますと、その人
の生活もその人の人格も立派になってきて、難行苦業して悟った聖者賢者のような働きを、実質的
にすることができるようになるのです。
そして、そうした世界平和の祈りを根本とした生き方の人が多くなればなる程、地球世界を汚し
ている業想念波動が浄められるのであります。
神に生かされている生命
真実の生き方ということを一口にいえば、自己本位の想い、自我欲望の想念を、神様のみ心の中
にお還えしして、神様から自己の生活を日々、瞬々改めて頂いて生活してゆく生き方なのでありま
す。
そうしておりますれば、大生命のリズムに全く同化した、永遠生命そのものの生き方となり、霊
肉一致の生き方となるのであります。一番困った生き方は、人間は肉体界のみの存在であって、自
分独力で生きているのだ、という不遜の想いで生活してゆくことなのです。肉体としての人間が、157生
き
る
と
い
う
こ
と
どうして自分独りの力で生きてゆけるのでしょう。
自分で創った生命でもないのに、あたかも生命まで自分で創ったような高慢な想いになって、神
への感謝をまるで忘れ果てている人々こそ、一番生命を生かしていない、生きていない人間なので
す。
何んの想いにもまして必要な想いは、自分は神によって生かされているのである、という感謝の
想いなのであります。
神に生かされている生命と知って、如何なる不幸や災難の中にあっても、神への感謝を忘れない
ような人は、実に立派な人だと思うのです。ですけれども、神に生かされている生命と知り、普段
は神への感謝で生活していながら、不幸や災難がつづいたりすると、つい、神への感謝ができなく
なり、暗い想念に取りっかれてしまう人たちが、相当深い信仰者の中にもあるのであります。
神に生かされている生命と知りながらも、その神に感謝できない境遇に立たされることがあるの
ですが、その時には単に感謝しなければ、と人に教えられても、容易に感謝の想いが湧いてくるも
のではありません。
そこで、私の説いている、消えてゆく姿、という教が生きてくるのです。こうした悪い環境も、iss
過去世の業因縁の消えてゆく姿、消えてゆくに従って、本心が開発されてゆくのだ、という想い方
は、それが世界平和の祈りに結びつくことによって、いっか知らず、真実の深い感謝の想いが、不
幸そうに見える環境にいながらも、湧き上がってくるのであります。
消えてゆく姿で世界平和の祈り、という方法を行じておりますと、その環境の如何によらず、深
い平安と、感謝の想いに充たされてくるのです。
神に生かされている生命を、真に生ききる為には、どうしても、消えてゆく姿という想いと、世
界平和の祈りのような、広い深い祈りが必要であるのです。
生かされている、ということと、生きているということとが、全く一っ想いになって、自然法爾
的に日常生活ができてくるようになると、これは生きることの達人ということになるのでありま
す。
真実に生きる、ということは、祈りの生活をしていない人には、実にむずかしいこととなるので
すが、祈りの生活をしている人々にとっては、祈りそのものが、もう、生命を生かしていることで
ありますから、実に楽なことになるのです。
ですから、世界平和の祈り一念の生活をしている人にとっては、特別に考えてみなくとも、その
159生きるということ
まま自然の生き方をしているそのことが、
す。
すでに真実に生きている、ということになるのでありま蜘
人間みな宇宙神の光り【筋である
人はみな神の光のひとすぢと知りて生きなば明るきものを
この歌のように、人はみな宇宙神の光のひとすじなのでありますが、この光は、今肉体人間とし
て生活しておりましても、同時に、神界にも霊界にも幽界にも光っておるのであります、というよ
り、神界において、宇宙神のみ光の分れとしての神霊の自分が現存しておるのであり、その光(生
命) の末として、肉体の自己が在るのであります。
そして、神界の自分の心を本心というのであり、肉体内の想念を、業想念というのであります。
ですから、常に肉体の想念を、神界の自己、本心の座に還えさせて置けば、宇宙神のみ光がそのま
ま肉体の自分に入ってきて、神我一体の生き方ができることになるのです。
この神界の自己との一体化は、守護の神霊への感謝行によって、自然となされてゆくのでありま
すから、私は守護の神霊への感謝行を、私の教の根本としているのであります。
肉体人間としての自己の想念が、常に何処の座にいるかによって、その人の人格の高さも定ま
り、運命の波も定まってゆくのです。その人の想念が、いつでも肉体人間世界の、利害損得、感情
のやりとりの横の方向に向っているか、完全円満な神界の光明波動の方向に向っているかによっ
て、その人の品格というものが決定してゆくのは理の当然なことです。
すべては想念の習慣によって決定されてゆきます。一瞬一瞬の想念の在り方というものは実に大
事なものなのです。といって、あまりそうしたことにこだわっていますと、かえって悪い想念を恐
れすぎて、心が臆病になってしまい、生命を生き生きと自由にさせることができなくなり、小さな
固った人間になってしまいます。
業想念を光明に変える祈リ
そこで、時間を定めた平和の祈りが必要になります。一瞬一瞬には悪い想念を起こしたり、嫌な
想いのテレビやラジオを見聴きされたりしても、一定時の祈りの時に、そうした想念をすべて消え
てゆく姿として、祈りの中に入れてしまうことは、非常にその人々にとって有意義のことであるの
です。
lti1生きるということ
心で想ったことは、もう行ったことと同じである、とイエスもいっていますが、想ったことは行
ったことと実際は同じなのであります。だが幸いなことに、この肉体界では、どのような悪い想
い、汚れた想いを出しましょうとも、それがすぐに自分に還えってくることはありません。潜在意
識にもぐりこんでゆくだけです。
そこで、悪い想いや、汚れた想いを起こした後では、必ず、世界平和の祈りをして、そうした想
念を神様の光で消し去って貰うように願うとよいのであります。
悪い想いや汚れた想いが出てくるということは、その人の潜在意識層に、そうした想いがあるか
らなのであります。ですから、抑えようとしても、いけない、と想っても、いつかは外に出てくる
ものなのです。そこで、そうした想念を消えてゆく姿として、祈りの中で消して貰うのでありま
す。いいかえれば、業想念と光とを入れかえて貰うのです。そう致しますと、潜在意識層の業想念
が減って、光の波動が代って入ってゆくことになり、悪い想いや汚れた想いの出る度びに、光が潜
在意識層に入っていって、いつの間にか、潜在意識層が光に充たされてくるのであります。
じねんほうに
そうなればもうしめたもので、その人は、自然法爾に、ひとりでに、善いことのみを想い、よい
行いだけのできる人になってくるのであります。
162
想念の入れ代えが、つまり祈りということなのであります。業想念と神の光との入れ代えなので
すから、悪かろうはずがありません。祈りぐせがつきますと、何んにつけても、すぐにでも祈りの
心になつてきます。想念の習慣が、いつの間にか、神と一体の想念の流れとなってしまい、自然に
人格が高くなってくるのです。
念仏一念の人たちが、はじめはお寺の和尚さんの話をきいて、ほうほう、と感心しながら、死ん
だら浄土に行けるようにぐらいの軽い気持ちで念仏をやっているうちに、いつの間にか、うちから
湧き上がってくる念仏になってきて、不幸も死も恐れぬ、安心立命の境地にいつのまにかなって、
ながねん
永年修業に修業を重ねた、禅宗の坊さんにも、一歩もひけを取らぬような、立派な問答もできるよ
うになり、神我一体の境地になってしまうこともあるのです。
真宗に多い妙好人などという人々は、学問知識の無い、教育の低いような人々が、念仏一念でそ
うなり得ているのですから、祈りの力による想念の転換というものはたいしたものだと思います。
尤もこれは想念の転換だけではなく、勿論神仏の光明が働いた浄化によるところが多いのでありま
す。
世界平和の祈りも、こうした念仏一念のやり方と軌を一つにしているのでありますが、世界平和
163生きるということ
げんそう
の祈りは、往相(悟ってゆく道)と還相(菩薩業) とが全く一つになって、同時に行われてゆく、
というところに、念仏一念を少しぬけ出ているのです。
それはどういうわけかと申しますと、念仏は一人一人が救われてゆくということが主でありまし
て、一人の人間が救われたことによって、他の人々にも影響を及ぼしてゆくということになるので
あります。
世界平和の祈りは、一人の人間が救われてゆく道すがらにおいても、すでにこの地球世界にその
人の肉体身、幽身を通して、大光明波動をひびかせているということになっていますので、人類救
済のピッチが早くなっているのであります。それは神々のすべての力が、今日では結集して働かれ
ている、という原理によるのです。
真実の生き方をする為に、皆さんどうぞ世界平和の祈りを根本にした日常生活をして下さい。世
界平和の祈りは、あなたの心を平安にし、世界人類の業想念を浄め去る唯一の祈りであるのです。
164
裸の
、
♂L・
そのままの心で生きようとすれば
じねんほうに
宗 教の話の中でよく使われる言葉に、そのままの心と、自然法爾という言葉があります。ところ
が、そのままの心とか、自然法爾という言葉の真意が判らない人が多いし、頭で判っても日常生活
の行に現わすことが出来ない人も多いのであります。
そこで今日は、そのままの心、自然法爾ということについて、お話ししてゆくことに致そうと思
います。
そのままの心というと、ちょっと聞きには、すぐ判りそうでいて、どういう心のそのままかなか
なか判らないのです。そのままの心というのは、一口にいえば、裸になった心、生命生きるままに
165裸の心
生きてゆく、大きな力に生かされるままに生きてゆく、ということでありますが、この説明でもま
だわからない。何故判らないかと申しますと、生かされるままに生きてゆくということなら、自分
の食物が無くなったから、人の物を取って食べても、取ることの出来る立場にあったら、それも生
かされる証左だから、そうして生きていってもよい。生かされぬものなら、入の物にもなんの物に
も、周囲に自分を生かす何物も無いことになる筈だ、ということになるではないか、という理屈も
出てくるのです。そこで今度は、自然法爾という言葉の方になってくる。この自然法爾という言葉
のり
は、自然の法のままに生きてゆくという言葉であります。いいかえれば、み仏(神) のみ心のまま
に生きてゆく、ということであります。そう致しますと、み仏の心、神のみ心が、人の物を取って
食べても生きてゆけ、とお思いになるかどうか、ということになってきます。
やま
み仏の心、神の心、即ち、良心であり本心である心は、自己に疾しい想いを抱かせてまで、この
肉体世界に生存してゆくことを望んでいるかどうかということになるのです。
やま
神の心、本心の中に疾しい想いがあるわけがない。あるわけがないのだから、人の物を取って食
べようという想いが出てくるわけがない。と致しますと、人の物を取ってまで生きようとする想い
は、自然法爾の心ではないということになってきます。従って、そのままの心でもないということ
166
になります。
しかしながら、この肉体人間の世界に住んでいる人々にとっては、自己の肉体の死活問題となっ
てきますと、少しぐらい良心に恥じても、肉体を生かすための行為をしてしまう。宗教の道に少々
入っているというぐらいでは、とても餓えの苦しみを耐えきってゆくことは出来ない。ということ
になって、良心のきわめて鮮明な、本心の開顕している人でないとこの境をなかなか乗り越えるこ
とは出来ないのです。
そして、この境を乗り越えるか、乗り越えぬかによって、個人の真実の幸せが生れるか生れぬ
か、世界人類の平和が達成されるかされぬか、という重大なことになってくるのであります。
こう申しますと、ああ、それじやあ、人間は一生救われっこないし、世界の平和などとても達成
されるものでもない。誰れだって死活問題になれば、少しぐらいの悪いことはするからな、という
人がたくさん出てくると思います。
良心に恥じる行為をしなくとも生きられる
私の申し上げたいと思うのは、実ばその間が出てからなのであります。私もこの人間世界を見渡
167裸の心
してみまして、実に全くその方々のいわれる通りだと一応は思うのです。思いながら私はその人た鄭
ちに全同意しているわけではないのです。その人たちのいわれる通りが人間の大半の真実の心な
ら、この人類は絶対に救われっこはないのです。ところが、私の体験からしても、真実にこの人生
を生ききった人たちの体験からしても、真実の人間は、良心に恥じる行為をしなくとも、いかなる
困難をも乗り越え得るものであるということなのであり、生かされるそのまま、自然法爾の姿のま
まで、肉体生活を安らかに生きぬいてゆけるものである、という確信をもつことが出来るのであり
ます。そして、人間というものは誰でもが、良心に恥じる行為を少しもせずに生きてゆかれるよう
になり得るものだという確信をもつことが出来ているのです。
一燈園の西田天香師が、すべてを捨て切って、神を求めつづけ今日の道を開いた話などは近来の
有名な話でありますが、ひたむきに神を求めつづけてゆくということが、生死の境に立っても心を
乱さぬ唯一無二の方法なのであります。
私が今日の世界平和の祈り一本の宗教の道を朋いたのも、すべてを捨て切って神に全託した賜な
のですが、今日過去をふりかえってみて、何一つ苦しかったことなどなかったように思えるので
す。私の体験の中でも、神にすべてを捧げての無収入時代がありまして、親兄弟にでも負担をかけ
させるなら、一食たりとも食事を取らぬ、と心に定めたことがあり、一ケ月余も、人の病気の治療
などに歩き廻わりながらも、殆んど絶食に近い生活をしていたこともありましたが、心も体も少し
も弱らず、遂に自然法爾的に収入の入る生活になってきてしまったのであります。その私の体とい
うのは、幼少から虚弱体質であり、よくもこう肉の量が少く出来ている、と人にからかわれるよう
な肉体の所有者であったのです◎
こうした私の体験からみても、食べなければ生きられない、という想いを出せば出す程餓えの苦
しみや、貧の苦しみが烈しいので、神はすべてを生かし給うのだ、という心境に立った時は、そう
した苦しみはかえって心の底から勇気を奮い立たさせてくれるものなのであります。そうした体験
は私ばかりでなく、かなり多くの人々が味わってきていると思うのです。
神は大生命であり、すべてのすべてであり、あなたになくてならぬものは知り給うているのであ
ります。すべてのすぺてであり、すべてを知り給う神にあなたは何故不信の心を抱くのでしょう、
と、神との一体観に立った人々は、一般の人々にこういいたくなるのです。しかし、その前に教導
者たちの知らなければならないことがあるのです。それは因縁因果の波、業想念波ということなの
であります。
169裸の心
170
いつ
理想だけの押しつけは心を傷つけ、偽わらせる
人間世界は渦巻くこの因縁因果の波、業想念波動というものを無視しての信仰の説教をしており
ますと、神との一体観は、そのままの心、裸の心によって、はじめて達し得ることなのであります
のに、各自の業想念波動を知らずに、善なる教だけを押しつけますと、或る人々は、俺には出来な
い、といってその教を離れてしまうか、かえって反擾して唯物論などに走ってしまったりします
し、或る人々は、表面はその教が判ったようによそおいますが、実際の行為にはその教を現わすこ
とが出来ない。仕方がないから、その先生たちや仲間の人たちには、さも自分は教の通りの生活を
しているように見せかける。しかし、実際には教の通りの生活をしてはいないのだから、自己の良
心の痛みを感じて、自分の心を傷つけ痛めつける、ということになるのであります。そう致します
と、折角の神の教が、かえってゆがめられ、曲りくねってしまって、不透明な不純なものになり、
裸の心どころでない、偽善の心になってしまうのであります。そういう人たちが寄り合っていて、
にか
何 やかと話し合う、それは虚偽と虚言の化し合いとなってしまって、神の心、素直な心はどこへや
らいってしまって、宗教精神などは消し飛んでしまっていることが、かなりあるのです。
よくある話なのですが、教育者の子供や、宗教者の子供に親にそむく子が出来てくる、というこ
となのです。どうして教育にたずさわる人や宗教の教導者が自分の子供を善く育てることが出来な
いのでありましょう。それは二通りのことがいえるのです。一つは、その子供たちのもっている因
縁の波、業想念の波を観わけることが出来ず、やたらに、正しい道と自分たちが信じている道の教
を押しつけようとするから、子供は自己の心を蔽っている業想念と親たちの押しつける教との板ば
さみになって、想いがかえって、へし曲ってしまうのであります。
もう一つは、親たちが自分たちにばかり正しい教をやらせようとしながら、親たち自身が、少し
もその教を実行していないではないか、親たちだけが、見せかけだけの善い人になって、実際は出
来もしないことを、自分たちにはさも出来るようにいっている。そんな馬鹿気た話があるものか、
そんならかえって親たちの偽善の皮をはいでやろう、という、反擾の想いで悪くなってゆく、とい
うことなのです。
信仰心を見せかける必要はない
自己を信仰深い人間に見せかけようとすることは、もはや裸の心でもなく、そのままの心でも、171裸
の
心
自然法爾でもありません。自己の信仰を何も人にみせかける必要は毛頭ありません。自己が信仰深
とくたたとく
いことは、その人自身の得なのであって、人に称えられるから得なのではありません。心の欲っす
るまま自然に行なった善行為こそ尊いのであって、ほめられようとしてやることは、小さな子供な
おさな
らよいかも知れませんが、大人の世界にとっては稚すぎる行為であります。しかし、自己の善行為
をほめられたら、そのまま素直にありがとう、と心から喜ぶことは一向に神のみ心に反するもので
はありません。私のいいたいことは、なんでもあまり作為のあるやり方は、神のみ心に遠いという
ことを申すのであります。
うらおもて
裏表のある行為ということは誰がみても、気持のよいものではありません。素直な純真な行為と
いうことが大事なのです。
素直な純真な心とは何処から出てくるか、と申すと、裸の心、そのままの心からおのずと行為と
なって現われてくるのであります。裸の心というと、なんでもかでも、自分の思った通りをやって
みせ、どんな悪行為も平気で話したり行なったりして少しも恥じず、俺はこれだけの人間なんだ、
俺はなんの気取りもない素裸の心をそのまま出してるんだ、というような人もありますが、これは
私のいう裸の心ではなく、動物のままの未発達の精神状態の人間の在り方で、業想念に本心の光が
172
隠しおわせられている人であります。
自己の欠点をわざとさらけ出したり、人に恥かしい思いをさせることを平気でやったりすること
は、やはり神のみ心に遠いことで、喜ばしい傾向ではありません。と共に先程から申しておりま
す、偽善的宗教信仰も人間の神性を損うもので困ったものだと思うのです。
導き方として最も重要なこと
知性的階級が、なかなか宗教信仰に入らない一つの理由としては、今日までの宗教信仰者と称す
る人々が、あまりにも偽善的であったり、独善的であったりしたりしたこと、言うことと行為とが
まるで違った人々が多かったことなどであると共に、もう一つは、素直に信ずるという素直さが、
知識階級にはとぼしいことなのであります。
ところが、知識階級の人々、知性的な人々が、一度び、知識的その頭脳が納得すると、今度は奥
義に達して、不退転の境地に立つのもまた早いと思われます。それは頭と心の両面的に教が判るか
らなのであります。そしてその時のその人は、全く素直な心になっているからであります。それは
キリスト教のパウロが一番そのよい例証でありましょう。
173裸の心
人間には今生で好むと好まざるとにかかわらず、知性的な人と直感的な人とがあり、それぞれの
業想念を心につけておるので、他の人の通りにその人が信じられるものでも、行なえるものでもな
いのです。ですから、声に出る言葉の教えだけで、人々を導きつづけようとしてもとても駄目なこ
とであり、かえって反擾されたりしてしまうのです。たとえぽ裸の心になれといっても、なかなか
裸の心になり得ない人もあり、私が長い間の絶食状態にあっても、平気で働けたからといって、誰
でもそう出来るものでもない、という、いわゆる因縁の違い、業想念の違いというものがあるので
す。
この業想念を消し去ってしまうことが、宗教の導き方としては、最も大事な重要なことであると
私は思っているのであります。そうした業想念をそのままにして置いて、裸の心になれといって
も、その人にとっては、自力ではどうにもならぬのですから、かえって反援して、唯物論に入って
しまったりするのです。
この理を知らないと、自分が判ること、自分が出来ることは誰でも判り、誰でも出来るもの
と思いこんでしまって、そこに自然法爾でない、無理が生じるのであります。無理が生じたら、宗
教の導き方としてはもう駄目であります。
174
私は常に申しておりますように、一般大衆の人々を導き上げなければ、この世は救われないと思
いこんでいるので、立派な人々だけを神様のお仕事に働かせ、後の者は勝手に後からついてくれば
よい、というようなやり方の出来ぬ宗教者なので、どうしても、誰にでも無理なく自然と出来る
救われの道というものを切り開いてゆくという教え方になってくるのです。
むずかしくては駄目だ、無理があっては駄目だ、というのが、私の教の主眼目なのであります。
その主眼目が今日世界平和の祈りの教となり、消えてゆく姿の教となって、如実に生きてきたので
あります。
心が素直になることは、救われの第一眼目です。幼児のごとくなれという古代聖者の教えは、真
理に素直になれということなので、このことは実に大事なことなのです。これは裸の心、そのまま
の心と相通ずる心なのです。しかし、こう世の中を見廻してみますと、業想念にはすぐにでもつい
てゆけるが、神のみ心の方にはなかなかついてゆきにくい、という人がたくさんあるのであります。
こうした人々のためにも救いの道がなければなりません。今日まではそうした救いの道が、はっき
りとついていなかったのであります。
こうしてはいけない、ああしてはいけないという、戒律の教では、もう今日の世界は救えないの
175裸の心
です。皆が知らないうちに救われの道に入っている。救われているという宗教の道が必要なのです。
それが今、平和の祈りとして誕生しているわけなのです。
176
すべて人の救あれの道
どうして世界平和の祈りが、すべての人の救われの道かといいますと、世界平和の祈りの教の中
には、何人をも責め裁くところがない、自分の心も責め裁かないと同時に何人の想念行為をも、消
えてゆく姿として、責め裁かない、という重要な教があるのです。悪いことをしている人を、その
まま神の子として拝めというのではない。神の子の現われるための、業想念の消えてゆく姿として、
その人の不都合な想念行為をみてやる、そういう想いでみょうとしても、自己の心に憎しみや妬み
や怒りの想いが強くて消えてゆく姿と思うことが出来なかったら、そうしたすべての想いのままで、
世界平和の祈りをなさい、というのです。
この世界平和の祈りは、祈り言そのものが業想念を浄める大光明を放っているので、信じようと
信じまいと、その大光明によって、その人は浄められているのです。そして、この祈りをつづけて
いますと、知らぬうちに、祈りに真が入ってくるし、真が入ってくるに従って、自己の性癖や運命
が知らぬ間に善くなってくる。これは多くの人々の体験ですから科学的な立証なのです。
自分の為にも人の為にも、その業想念を把えてとやかくいうより、まず世界平和の祈りの中に、
そのような業想念をそのまま投げ入れてしまう日常生活にしてゆくことが第一です、と私は説いて
いるのであります。
神秘自在な者になるために
人間は本来神から来ているものであり、神の子的存在者であることは間違いのないものです。悟
ればその人が神秘的自在な存在者になれるし、安心立命の生活者になれるということは、人間が普
通の人の思っているような、凡愚な肉体人間でないという証しなのです。
そうした神人になるにはどうしたらよいかというと、裸の心、そのままの心、自然法爾の心にな
って日常生活をしてゆけば、自ずから普通人とはかけはなれた能力が出てくるし、安心の境地で生
活しつづけるということになってくるのです。そして、この裸の心、自然法爾の生活になるために
はどうしたらよいかというと、自分の本心の光を常に乱している業想念を消し去ってしまえばよい。
欲しい、惜しい、憎らしい、妬ましい、こうした業想念を消し去ってしまえばよい。しかしこうし
177裸の心
た業想念を消し去るには、自力では並々ならぬ大修行が必要である。日常の食生活に追われている
718
身が、そんな大修行など出来っこない。そこで、そうした業想念を誰かに消し去って貰わねばな
らぬ。消し去ってくれる人は一体誰だろうと思ったら、それは、自己が生れてきたところ、生命
の本源(神) にお返えしすることによって消え去るに違いないと思い当った。しかし、その生命の
本源というのが一体どこにあるのか判らない。人間のうちにあると聞いたことがある。人間のうち
というと胸の中か、頭の中かと探っているうち、ヨガの教を知って、それをたゆまず実行してみ
た。しかしなかなか難行で、業想念が今までと違った形で自分を苦しめる。
こんな体験をした人が私の会にたくさんきています。私はその体験も消えてゆく姿として結構だ
と思いますが、もう一歩進んで、神を本心として働く直霊神、と外面的から直霊(本心) の光を遮
ぎる業想念を消し去るために働いている守護霊、守護神の両面に考え、消えてゆく姿として下さる
のは、守護の神霊の方としてしまう。そうして業想念がすべて消え去った時には、直霊(本心) と
守護の神霊とが全く一つのものとして、外面も内面もなく、その人そのものとなって輝きつづける
ということになる、というように思ったらよいと説くのです。思ったらよいというより、それが真
理なのであって、私など体験としてその真理を知っているのであります。
そうなりますと、自分が意気ばって、業想念を消し去ろうと思わなくも、守護霊さん、守護神さ
んお願いします、と業想念を守護の神霊の光明の中へ想いとして送りこんでしまえばよい。またそ
れを一歩進めて、世界平和の祈りの中にすべての業想念を投げ入れてしまえばなおよいことになる
のです。それはどうしてかと申しますと、世界平和の祈りというのは、守護の神霊のすべてが、大
救世主の光明を中心として、その祈り言の中に集り来っているからであります。
親鸞上人の言葉に、いかなる悪でも、弥陀の光明を薇す程の悪はない、という意味のことがあり
ますが、全くその通りで、世界平和の祈りを稼す程の悪はないのです。ですからどのような業想念
でも、その業想念をもったままで世界平和の祈りをすれば、その業想念はいつの間にか、世界平和
の祈りのもつ大光明によって消し去られてしまい、その人本来の神の子的光明心が、日常生活の中
で現われてくるのであります。
くうそくぜしき
要は空即是色と同じことでありまして、人間は業想念にわざわいされて、裸の心、空の心にはな
れないので、消えてゆく姿として、少しつつでも空の境地に近づけ、知らぬ間に本心の光、神の子
としての真人の心になってゆくようにしてゆくのが私の教なのであります。
今日までの宗教は、それを自力的にやらせたのでありますが、私のは全他力的にしてしまってい
179裸の心
るので、やはり今日の時代のように、守護の神霊が、大救世主の光明を中心にして結集した大光明
の働きかけとなるまでは、全他力ということも出来にくかったものでありましょう。
180
世界平和を祈る時あなたは神の器だ
今日の時代は、業想念、地獄の様相が地上界にすっかり浮び上がってきているのでありますが、
これを反対側から見れば、守護の神霊の力、大救世主の大光明によって奥深くひそんでいた人類の
業想念が表面に浮ぴあがらせられて、いよいよ人類の心から消し去られようとしているのだ、とも
いえるのです。
この業想念の消え去る姿が、不幸とも見え、災難とも見える様相となって現われるのですが、こ
うした不幸や災難を、最少にするためには、私共肉体人間側から、救世の大光明の中に昇ってゆく
ことが大事なのです。それが世界平和の祈りなのです。
自分が悟ると共に、人々をも悟らしめる祈り、それが世界平和の祈りなのです。もし、あなた方
の周囲に、世界平和の祈りさえする気にならぬ人があったら、その人の為に、あなたが、その人の
分まで世界平和の祈りをしてあげるといいのです。世界平和の祈りがもつ光明波動は、あなた方を
そうなりますと、自分が意気ばって、業想念を消し去ろうと思わなくも、守護霊さん、守護神さ
んお願いします、と業想念を守護の神霊の光明の中へ想いとして送りこんでしまえばよい。またそ
れを一歩進めて、世界平和の祈りの中にすべての業想念を投げ入れてしまえばなおよいことになる
のです。それはどうしてかと申しますと、世界平和の祈りというのは、守護の神霊のすべてが、大
救世主の光明を中心として、その祈り言の中に集り来っているからであります。
親鸞上人の言葉に、いかなる悪でも、弥陀の光明を繊す程の悪はない、という意味のことがあり
ますが、全くその通りで、世界平和の祈りを臓す程の悪はないのです。ですからどのような業想念
でも、その業想念をもったままで世界平和の祈りをすれば、その業想念はいつの間にか、世界平和
の祈りのもつ大光明によって消し去られてしまい、その人本来の神の子的光明心が、日常生活の中
で現われてくるのであります。
くうそくぜしき
要は空即是色と同じことでありまして、人間は業想念にわざわいされて、裸の心、空の心にはな
れないので、消えてゆく姿として、少しつつでも空の境地に近づけ、知らぬ間に本心の光、神の子
としての真人の心になってゆくようにしてゆくのが私の教なのであります。
今日までの宗教は、それを自力的にやらせたのでありますが、私のは全他力的にしてしまってい
179裸の心
るので、やはり今日の時代のように、守護の神霊が、大救世主の光明を中心にして結集した大光明
の働きかけとなるまでは、全他力ということも出来にくかったものでありましょう。
180
世界平和を祈る時あなたは神の器だ
今日の時代は、業想念、地獄の様相が地上界にすっかり浮び上がってきているのでありますが、
これを反対側から見れば、守護の神霊の力、大救世主の大光明によって奥深くひそんでいた人類の
業想念が表面に浮ぴあがらせられて、いよいよ人類の心から消し去られようとしているのだ、とも
いえるのです。
この業想念の消え去る姿が、不幸とも見え、災難とも見える様相となって現われるのですが、こ
うした不幸や災難を、最少にするためには、私共肉体人間側から、救世の大光明の中に昇ってゆく
ことが大事なのです。それが世界平和の祈りなのです。
自分が悟ると共に、人々をも悟らしめる祈り、それが世界平和の祈りなのです。もし、あなた方
の周囲に、世界平和の祈りさえする気にならぬ人があったら、その人の為に、あなたが、その人の
分まで世界平和の祈りをしてあげるといいのです。世界平和の祈りがもつ光明波動は、あなた方を
通して、そのままその人の業想念消滅のために必ず働いて下さるのです。私は、多くの人の為に神
様がこの地上界に存在せしめている神様の働きの器であり、場所なのですが、あなた方も世界平和
の祈りをしている時には、神様の救世の器であり、場所となるのです。それは地位や、年令や悟り
の度合とは別問題に、世界平和の祈りを為す人々すべてが、神の器であり、救世の場所であるとい
うことになるのであります。
181裸の心
6
182
小我の放棄
個人差に合わせた導き方
人間というものは、この現われている姿形は、男は男、女は女として、大体一様に出来ておりま
すし、その人間意識や情意の問題でも、一定の標準がつけられるように、大同小異にみえておりま
す。
ところが、実際に人間を観察しつづけますと、一口にこれが人間だ、とはいいきれないような甚
だしい差異を見出すことがしばしばありますし、その相違には何段階もの階層のあることが、はっ
きり判って参ります。
釈迦やキリストのような聖者たちも人間であれば、自分の欲望を達成するためには、どんな悪ら
つな殺人行為をしても、平然としているような人間も、やはり同じく人間として取扱われます。
釈迦、キリストから強盗殺人者までの間には、それはそれは、種々様々な想念波動をもつ人間が
存在するわけであります。こういう種々様々な入間像を、一つの人類として、一っ世界の住人とし
て纒めてゆかねばならぬのですから、神々の働きは大変なものだと思うです。
わけいのちすがた
人間は本来神の分生命であり、神の子なのでありますが、神の子の相をそのままこの地球界にお
まれこんこうこうそう
いて現わし得ている人は、ごく稀でありまして、一般大衆というものは、玉石混瀟、神の子と業想
ねん
念波動(物質人間観) とが入りまじっておりますので、人間は完全性をもった神の子なのである、
ということがなかなか判りにくいのであります。
そこで、神々は、その真理を知らせるために、それぞれの個人差に合わせて、それぞれの導き方
をしているわけなのです。
ぶつぼさつ
聖者賢者型の人には、真向うから厳しい試練を与えて修行させて、仏菩薩の本体を現わせ得るこ
とができるのでありますが、一般の人々は、宗教的な厳しい修行には耐え得ません。聖道門といわ
れる烈しい禅の修行や、修験道やヨガの行法で悟りを開き得る人は、上根といわれる人々でありま
して、一般の求道者は、たいがいそうした烈しい忍耐には耐えられずに、他の修行方法に自己の行
ass小我の放棄
く道を変えてゆくのであります。
まして、宗教の道など求める気もなく、ただただ自己や自己の周囲の者の安易なる生活だけを求
めているような、一般大衆の霊性開発ということは、実にむずかしいことなのです。
こうした自らは決して道を求めないような人々に対して、守護の神霊方は、その日常生活の中
で、霊性開発を邪魔している、いわゆる業想念波の消滅をはかります。そうした業想念波の消えて
ゆく姿が病気とか、事業の失敗とか、貧乏とか、家庭の不調和とかいう形になって現われてきま
す。
それは丁度、上級学校に上がらなければならない子供が、どうしても勉強のほうに想いがむかず
に困っているので、教師や親たちが種々な手段方法をもって、学問のほうに想いを向けさせようと
しているのと同じことであります。
宇宙のありとしあらゆるものは、無限の進歩向上を目指して進んでいるのでありまして、人類と
いうものは、その中心的存在者なのであります。ですから、人類は嫌でも応でも卒先して進歩せざ
るを得ないようになっております。
その人類の進歩は、そうした使命をもつ神々が、常時背後にいて、陰ながら援助指導しているの
184
です。肉体人間としては考えられもしないような、
るのであります。
めん
綿密な計算のもとに、神々の活動はなされてい
人間は肉体を器とし場所として働いている生命
うつわ
神々からみた人間というのは、只単なる肉体人間のことではありません。肉体を器として場所と
して働いている霊なる人間、つまり、生命の光のことなのです。
たまぎれい
神々はその生命の光に協力して、幽体や肉体に蓄った汚れを、様々な方法で奇麗に掃除して、生
命の光である人類の一人一人の天命を果させようとしているのであります。
いつも申しますように、人類というものは、地球だけに住んでいるものではありません。あらゆ
る星々に人類は住んでいるのですけれど、ここでは地球人類のことだけについて申しあげているの
ですが、人間の体というものは、それが霊体でありましょうとも、幽体でありましょうとも、肉体
うつわ
同様、それは一つの場所であり、器であるのでして、人間とはあくまで生命そのものなのでありま
す。
ですから、生命波動そのものである人間が、その場所や器に把われてしまったら、その把われた
185小我の放棄
瞬間だけ、生命の働きが自由でなくなるのです。そこで人間が真実に自分自身を自由にするために
とら
は、何事何物にも把われない光そのものの自分にならなければならないので、そうした状態になる
ことを、正覚を得る、というのであります。
そうなるために仏教では餐繍の縫セするのであります。何物何事にも把われなくなる空の境地に
なりますと、今度は何物何事をも自由になし得るのであります。
人間が肉体観念を超越致しまして、真人の境地になりますと、それは実に超越的の能力が発揮さ
れて参りますもので、常識では到底考えられぬ神秘力を現わすものです。
何物何事にも把われない境地ですと、あらゆる想念波動にも把われない境地ですから、心を乱す
ことはありません。いわゆる安心立命の境界に住しているわけです。
宗教者は勿論こうした自由自在の境界に入ることを願って、道を求めているわけですけれど、一
般大衆としては、こういう上等の自由を求めているわけではなく、日常生活の自由性を求めている
のであり、その為に地位を欲っし、権力を欲っし、金品を欲っするわけなのであります。
ここのところが、人類の進化にとって重大なるマイナス面となるので、神々の負担の増すところ
となるのです。186
生きているということをじっくりと考えてみよう
人間がじっくり自分自身の今日までの在り方を考えてみますれば、そんなに神々に負担をかける
こうそうねん
ような業想念波動(欲望) を出さなくとも済むのでありますが、自分自身の在り方をじっくり考え
る人々が、意外な程少いのであります。
実に〃汝自身を知る”ということこそ、自分自身を自由にし、神々の負担を軽くさせるものなの
です。どうして多くの人々が一番大事である、自分自身のことを、じつくり考えることをしないの
でしょう。
自分は一体何によって生きているのであろう、そのことを何故じっくり考えてみないのでしょ
う。生命という力によって自分が存在することは、何者といえど否定することはできません。とす
ると、その生命というものは一体何処から自分を生かしていてくれるのであろう。自分の何処にあ
って、自分の内臓や諸器官、諸神経を動かしているのであろう。生命そのものを自分というのか、
生命と自分とは別々のものなのか、自分の生命というものは、自分が母親の胎内に宿った時に、は
じめて生命として働き出したのか、それとも、それ以前から生命として存在していたのか、等々、187小
我
の
放
棄
考えずにはいられない問題が山積しているのです。
生命の問題こそ、各自がどんなにつきつめて考えても探究してもよい問題なのであり、その他の
ことは、すべて生命に附随したものである筈なのです。
生れ出でるということの神秘、死ということの重大性、この二つの重大なる出来事は、すべて、
生命そのものの問題なのです。この重大問題を、常に遠くの方に追いやっていて、それでいて、自
己の自由を求めている、自己の幸福を求めている。判らないことはみんな科学者のほうに廻わして
しまって、自分で解決しょうとはしない。こういう生き方では、とても、その人の真の平安はつか
み得ません。
しかしながら、そういう人がこの世の大半なのですから、こういう人々でも自然に本心を開発し
てゆける道が現われてこなければ、誰もが幸福になれるという時代は、永遠にやってこないことに
なります。
188
凡人が悟り得る方法
凡人が悟り得る方法というのが、どうしても必要になってくるのであります。その方法は過去に
どんらんぜんどうにうねんしんらん
おいては、曇鷲、善導、法然、親鸞と受けっがれた浄土門易行道の教であります。
人間すべてを一応罪悪深重の几夫と断定して、すべての想念行為を、阿弥陀仏のみ心の大慈愛に
全託して生きてゆく、という方法であります。それは只、南無阿弥陀仏という、唱名一念にすべて
を投入して、すべての生活を阿弥陀仏から頂き直してゆく、という方法なのであります。
肉体人間の智慧才覚では何事も成し得ない、という凡夫の自覚が、浄土門の出発点であり、阿弥
陀仏という救世の大光明が、各人の本心開発の出発点となるのでありまして、凡夫の自覚が成り立
った時には、もうすでに、本心開発の、いわゆる悟りの道に一歩踏み出しているのであります。
肉体人間の自分では何事も成し得ない、という自覚は、そのまま、大生命への小我の放棄という
ことになるのです。人間が小我を放棄した時、そこに生れてくるのは、大我の生命の力だけとなる
ごくいくう
のでありまして、仏教の極意である空の境地と等しいものとなってくるのであります。
神の力を離れた肉体人聞の自分として、何らかの力がある、と思っているうちは、神力は自由自
在に働き得ることはありません。小我を放棄することによってのみ、神力は自由自在に働きはじめ
るのであります。
聖道門、自力行で、厳しい修行の末に空観を得る、という上根の人のみがよくなし得る行と違っ189小
我
の
放
棄
て、浄土門易行道では、阿弥陀仏の唱名による小我の放棄によって、上根のもののみが為し得る聖
道門の道と等しい悟りの境地に凡夫を導きあげるのであります。
肉体が無ければ、この世での生活が成り立ちませんが、この肉体を保持するため、肉体の欲望を
満足させようとする想念のために、かえってこの世の生活が完全なものになり得ないのです。そこ
でこの世の生活を完成させるためには、どうしても、肉体に把われる想念を消滅させなければなら
ない、ということになるのです。こうしたジレンマから宗教の道が成り立ってゆくのでありますの
かりんねてんしよう
で、人間が生れ更わり死にかわりしている、いわゆる輪廻転生の間に、遅かれ早かれこの理を悟っ
て、誰でも宗教の道に入ってゆくのであります。
神のみ心を知らなくては、人間の進化は止まってしまいます。しかし、人間の進化は止まること
がないことになっておりますので、いつかは誰も彼れもが、神のみ心を知ることになるよう定まっ
ているのです。
190
只、
救世主のみ心によってはじまった世界平和の祈り
はじめにも申しましたように、人間の心の段階には多くの階層がありまして、本心の開発さ
れている人なら、一言で判るようなことでも、低い階層の人には、百万言ついやしても判らない、
というようなことが随分とあるのです。
生命の神秘にさえも、少しも心を打たれず、自己の欲望の追求だけに夜を日を送る人々の多いの
が今日のこの世であってみれぽ、神々や諸菩薩の苦心の程がよく判ります。
自力にしろ他力にしろ、それが現世利益を得るためのものであっても、神仏に手を合わせる想い
になった人々は、まだ上等なのでありまして、自己の欲望達成のためには、どんな悪らつなことで
も平気で出来る、神を恐れぬ人々の存在は、実に人類の大きなマイナスになっていると思うので
す。
凡夫以下のそうした業想念の固まりのような人々や集団の浄化のためには一体どうしたらよい
のであろうか、と考えてみざるを得ません。
そこに生れ出でたのが、世界平和の祈りなのであります。世界平和の祈りは、凡夫が知らないう
ちに、自己の業想念を消滅させながら、人類愛の光明圏に自己の想念を安住せしめている祈りであ
りますが、この祈りの光明波動は、凡夫以下の人々の為の浄化運動となって、地球世界を隈なく照
らしつづけるのであります。
191小我の放棄
浄土門易行道の、全想念を南無阿弥陀仏一念に昇華させてゆく方法を、もっと易しく、もっと知
的な人にも理解させやすくしたもので、今日の時代にぴったりとした祈りが、世界平和の祈りなの
であります。
日本における浄土門の発祥時代は、この世における平安などは、到底無理な、国内争乱の時代で
ありましたので、信徒はただあの世にある、西方極楽に救い取られる、という念願が主であったの
ですが、今日の世界平和の祈りは、この世とあの世とを全く一つにして、真実の平和世界をつくり
あげようとする、大救世主のみ心によってはじまったものでありますので、あの世で極楽浄土に救
い取られるというだけのものではなく、この世においても、自己と人類とが共々平和に成り得る、と
いう祈り言になっているのであります。
.この世においても、自分が救われるのであり、同時に人類全体の完全平和に寄与している祈りが
世界平和の祈りなのです。
その点、浄土門易行道の救いの幅を、より深く、より広く、しかも誰にでも入り易く判りやす
くしているのであります。
192
悪想念も不幸も過去世からの業の消えてゆく姿
この世界平和の祈りの前言葉として、自他共に如何なる悪い想念行為をおこそうとも、どんな不
かこせ
幸災難にあおうとも、それは過去世からの因縁因果の消えてゆく姿として起るのであって、今の自
分が悪いのでも、今の他人が悪いのでもない、みんな人類の本心が開発されるために、邪魔になる
業想念波の消えてゆく姿なのだから、その悪想念や、不幸災難が現われ出たことによって、人類の
業想念がそれだけ消え去ったことになるのだから、いっそう早く消え去りますように、という気持
で、世界平和の祈り言に託して、救世の大光明によって、すべての業想念を消し去って貰いましょ
う、そうすれば自ずから人類の本心が開発されて、完全平和な世界がこの世に出現してくるので
す。
と説かれているのであります。
この祈り言は、どのような凡夫でも、祈ろうとする想いさえあれば易しく理解できる祈り言なの
ですから、世界中の多くの人々が容易にでき得る祈り言なのであります。
きゆうせ
この祈り言を祈っているうちに、知らないうちに、自己の小我が救世の大光明の中に消え去って
いって、いつの間にか、真実に世界の平和を念願する、大乗的な人類愛の気持で、生命が生き生き
193小我の放棄
としてくるのです。
個人だけの平安を願うのではない、
す。
というところに、この世界平和の祈りの大きな力があるので
194
高次元の光明波動に同化させる
いつも申しておりますように、この宇宙世界は、すべて波動でできております。眼に見えぬ光明
波動や想念波動もありますし、物質化し固体化している物質波動もあります。物質が、細胞分子か
ら原子、電子というように微粒子になっていることはすでに科学的な常識でありますし、その電子
や中間子、中性子などは、究極は波動になってしまう、ということも定説になっております。
想念の方は勿論波動でありまして、相手の想いがこちらにうつってきたり、こちらの想いを相手
にみすかされたりするのは、波動が伝わり合うからなので、一口に雰囲気といわれるのは、それぞ
れの人々が常時発している想念波動の気なのであります。
この想念波動と物質波動とは、不離密接なる関係がありまして、想念波動は物質波動に影響し、
物質波動も想念波動に影響するのであります。
まらもん
昔のインドの婆羅門や日本修験者たちが、自己の念力で岩を動かしたり、水を湧出させたり、火
を起こしたりした例は随分とあるのでありまして、今日の心霊者たちが、物質浮揚現象などを起し
ているのもその例なのです。しかしこれは顕著なる例でありますが、このように目立って行われず
に、はっきりとその場その時は目立たないが、いつの間にか、影響し合っている、というのが通常
なのであります。
その事実を多くの人々が気ずかずにおるだけなのです。私はこの想念波動のことをよく知ってお
りますので、人間の想念波動を、宇宙神の完全円満なる大光明波動と一つのものにしてしまうこと
が、宗教の奥義であることがよく判るのです。
ですから、その道に進んでゆきさえすれば、何も滝にあたったり、山に籠ったりする、難行苦行
をしなくともよいのであります。どうしたら日常生活をそのままつづけながら、大光明波動と一つ
になり得るか、ということが問題になってくるだけなのです。
南無阿弥陀仏や、南無妙法蓮華経の唱名方法や、様々な呪文というのは、みな一つの波動に同化
してゆく為の方法なのであります。自己の想念波動を、一番高次な光明波動に結びつけてしまっ
て、ついには、高次な光明波動そのものに、自己の波動が成りきってしまえば、その人は神我一体
195小我の放棄
、
の人ということになってくるのです。
196
悟リはもはや時間の問題
その方法を私は、消えてゆく姿で世界平和の祈りとして宣布しているわけなのであります。自己
の想念を光明化させるということが悟りの重要点なのですから、大光明波動に直結している世界平
和の祈り言を常にしていれば、誰でも神我一体に成り得るのでありますが、その人その人の消え
てゆく姿の量によって、悟りを開く時間の違ってくるのは止むを得ません。
しかし、一度大光明波動の軌道に乗れば、その人はやがて神我一体に成り得ることが確定してい
るのであります。
人間の唯一の救いというのは、人間は本来神の分生命であって、完全円満性のものである、とい
うことでありまして、瓦を磨いて宝石にするのではなく、本来、宝石であるものの、汚れを取っ
て、宝石である本心を開発してゆくだけなのです。
それでなければ、人類は永劫に救われることはなく、やがては地球が壊滅してしまうにきまって
いるのです。しみじみ有難いものだと思います。
ですから私共は、常日頃から自分の想念を大事にすることを怠ってはいけないのです。誤った自
分の想念波動は、只単に自分を汚すだけではなく、人類そのものを汚してゆくことになるのであり
ます。
自分の出す想念を常に神のみ心の愛と調和に合わせて置くようにすべきなのです。だがどうも、
なかなかそうはゆかないでしょうから、私は奥の手の消えてゆく姿をつかうのです。
愛と調和にそむいた想念が出た場合には、ああこれは消えてゆく姿だな、神様どうぞ、一日も早
くこういう誤った想いは消し去って下さい、というような気持で、世界平和の祈りをするとよいの
です。そうしますと、無理なく気張らず、自分の想念が、愛と調和に充ちたものになってゆくので
あります。
努力、反省そして祈リ
易行道には、無理があってはいけません。無理なく自然に悟れるのでなければ、易行道とはいえ
ません。しかし、努力なしに悟ろうなどということはとてもでき得ないことです。例えどんな事柄
であろうとも、努力しないで熟達するということはありません。
197小我の放棄
、
悟りとか、本心開発とかいうことは、これは永遠の平安を得る、人間として最も重大な事柄なの
ですから、何等の努力もしないで、その成果を得ようとしてもそれは駄目なことです。
といって、別にむずかしいことをするわけではありません。常に自己の想念行為を反省するとい
う努力、それも自分は駄目なものだなどと自分の心を責めよ、と私はいうのではありません。
自分を責めるのではなく、自分の想念を省みて、これは消してしまわねばならぬ想いだなあ、と
自分で想ったら、先程申し上げたような工合に、世界平和の祈りをすればよいのであります。
自己反省と世界平和の祈り、自己反省をいいかえれば、消えてゆく姿ということになるのです。
消えてゆく姿というからには、その想念行為を消し去って頂く謙虚な想いが必要でありまして、無
反省な消えて行く姿というものはないのです。
消えてゆく姿といったり、想ったりする揚合は、その想念行為や、その環境や立場が、神のみ心
の大調和を外れている、愛と真にそむいているという場合なのですから、その点をはっきり認識し
て、そういう想念行為、そういう環境や立場を、大救世主のみ光によって浄め去って頂き、新しく
調和した完成した想念行為や、環境立場を、自己のものとして出して頂く、ということが大事なの
であります。198
神はすべてのすべてであり、守護の神霊方は、人類救済のために働きつづけているのでありま
す。私はその事実を実にはっきりと知っておるのであります。
神々は生き生きと働いておられます。どんな人の背後にでも、神々は光り輝いておられるので
す。自分は駄目だとか、この世は駄目とか、あいつをやっつけてしまいたいとかいう、暗い想い
や、人間否定の想念があったら、一日も早く世界平和の祈りの中で消して頂いてしまいなさい。
やがて地球世界の夜明けがおとずれます。真実神々があなた方の眼前に現われる日がくるのであ
ります。その日の一日も早からん為に日々喜んで世界平和の祈りを実行して参りましょう。
199小我の放棄
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