明るい心

明るい心
五井昌久講話集4
白光真宏会出版局
著者(昭和38年11月23日、御誕生祝賀統一会で)

刊行のことば
宗教信仰においては聞くということは大事なことである。録音テープにおさ
めた二十数年前の五井先生のお話を聞き直して、お話が今でもいきいきとして
心にせまってきて、魂の高まるのをおぼえる。ただ録音技術未熟のために、テ
ープとして再生し、皆さんにご紹介することは不可能である。そこで、テープ
より文字におこし、文章として、それもなるべく話し言葉に忠実に再録して、
ご紹介することにしたのが、この講話集である。
このお話によって、読者の皆さんが安心立命し、明るく把われない心で、こ
の人生を生きいきと生きて頂けるよう切望して止まない。
2
目次
天国の住者5
いのちの救い21
心の奥の天をつきとめた
40
目次
思い出さずに忘れずに
愛はすべてを癒す……
みんな同じ命樹
積極的に善をなせ励
85
装禎有沢昆由
3









人間と真実の生き方
わけみたまごうしようしゆこれいしゆごじん
人間は本来、神の分霊であって、業生ではなく、つねに守護霊、守護神によって
守られているものである。
かこせ
この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念が、
その運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
いかなる苦悩といえど現われれぽ必ず消えるものであるから、消え去るのである
という強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難のなか
ゆるゆるまことゆる
にあっても、自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦しの言行をな
しつづけてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の
祈りを祈りつづけてゆけぽ、個人も人類も真の救いを体得出来るものである。





天国の住者
昭和32年12月26日神田神保町区民会館
宗教は光明科学
天国の住者
今、吉田さんに体験談を話してもらいましたが、ありのままを淡々としゃべられて、非常に
よくわかりました。あの吉田さんはお父さんの大田さんや奥さんの話では、とても気むずかし
屋で短気で、いつもむっつりしていたんだそうです。それが私どものところに来ましてから、
にこやかでとても柔和に変ってしまったんです。
これが一番大事なことだと思います。今迄短気でもって、ぶっきらぼうな、要するにくさい5
うらないしや
顔が、柔和な顔に変っているということは、占者でも出来ない。人の心を変之るということ
が、神さまの一番尊い愛だと思います。神さまが私を通してそうして下さるんです。現実にあ
るということは科学的実証なのです。
宗教というと何か迷信のように思うけれど、祈りというのは科学なんです。ただ普通の物理
的な科学でわからない科学なんです。光の科学なんです。光明科学なんです。光の波が自然に
入ってゆくと知らない中に”あなたこういう心じゃいけませんよ”とか”こんな心を持っちゃ
いけませんよ”なんてつまらないお説教をしなくても、臭い顔の人が柔和な明るい顔の人に変
ってしまう。そういうことが一番大事なことです。だから私は大体お説教みたいなことをしま
かしわで
せん。ハイ今日は、ポソポン(柏手を打って) ハイ、といってやるだけで、あなたの心はこん
なだから直しなさい、とか、あなたはこんな顔しちゃダメですなんていうことはいわないんで
す。言っても無駄だと思うんです。自然にこちらの光を、愛を相手に注ぎこんでやれば、向う
が非常に明るくなるし、愛の心になってくるわけです。
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誰でも往くべきところへゆく
天国の住者
いんどうじようぶつ
お話の中に、最後の引導を渡されて成仏したということだけど、いつでもあちら(霊界) へ
ゆく時には引導渡します。危い、往きそうだ、と思ったら先生/と想いなさい。肉体の私に会
わなくとも、神体の私が行って引導を渡します。私を本当に信じて下さった方は、必ず成仏す
げだつ
るのです。成仏とは仏に成ること、仏に成るということは解脱するという意味です。成仏まで
ゆおうじよう
いかなくとも、要するに安らかに往きます。往くべきところに往き、往生します。
ところが大体、死ぬ時往生していないんです。往生というのは生れに往くんです。生れに往
かないで、みんな本当に死んじゃうんです。どういうことかというと、自分の想いの中に巻き
りだつ
こまれたままなの。死にますと一度は眠ってしまうんです。肉体から幽体が離脱します。霊魂
を乗せて離れて行く。霊線というのがあって肉体と魂をつないでいる。それが切れちゃうと死
ということになる。想いが暗い人やみじめな想いの人は、そのままみじめな想いの中、暗い想7
いの中につつまれちゃって地獄へ行っちゃうんですよ。
俗によい人だといわれている人が案外、悪い処へ往ってる場合もある。何故かというと、心
が明るくないから。暗いということは神さまから遠いんです。神の子である人間が暗くあろう
道理がない。神さまは明るい。明るい光なんだ。光の子だから暗いわけがない。暗いというこ
とは業なんです。だから暗いままで往くと暗い処へ往っちゃうんです。ところがこちらから光
を送りますと、亡くなった瞬間に光がパ!ッと入って、ちゃんと守護霊がつなげてくれるんで
す。そうすると守護霊がちゃんと案内してくれる。日頃は暗い想いの人であっても、暗い想い
がヒューッと払われて守護霊とつながって、そこで守護霊さんの行く霊界へちゃんといけるん
です。
私は今迄に随分亡くなる人を送りました。私の処へ来たから必ず病人がみんな治っちゃうな
じようみよう
んていうことはないです。定命の人は死にます。いつもいうけれど、第一の寿命、第二の寿
命まではなんとかなるけれども、定命といって第三番目の寿命は誰がどうやってもだあなんで
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す。それでなくちゃ百年生きたり三百年生きちゃうなんていうのが出来て、何兆何億万なんて
日本になど住めません。長生きばかりすればよい、というわけではない、適当になっているんで
す。適当なところで適当に往くのがいいんです。ただ同じ往くならば、明るい気持であの世へ
旅立てるようにならなきゃいけません。ニコニコ笑って往くんです。地獄へ行く人は絶対にニ
コニコ笑っていませんから。未来が映ってくるから。ニコニコ笑って死ねる人は必ずよい処へ
往けます。私が今迄送った人でもって変な顔をして死んだ人はありません。みんなニコニコニ
コニコして、みんな亡くなっても、有難うございます、先生お蔭さまで安らかに、といいます。
たとえ若くとも、やがていつか三十年五十年たてばやがては向うへ往くんだから、今から憶
えていたっていいんですよ。あの世もあるんだって。この世で悪いことをすればあの世へいっ
けが
者て悪い処へ行くんです。この世で生命を械す、生命を臓すということは、自分が神さまから離
碓れて生きるようなことをすれば・それだけ濯れるんです・魂が汚れれば死んだ時悪い処へ行く

天んです。それは昔からいうでしょ。それは本当のことなんです。9
ただ人間というものはよいことばかり思っておられません。たまには喧嘩をするでしょう。
人を恨みもするでしょう。妬みもするでしょう、金儲けもしたいでしょう、いろんなことをし
たいですよね。だからそれはいけないとか良いとかいうんじゃなくて、そういう想いはあるけ
れども、そういう想いまでこめて、全部神さまの中へ入りなさい、悪いのは悪いでよいから、
この人を恨んじゃいけないけど恨んじゃう、妬んじゃいけないけど妬んじゃう、という想いが
あったらあったままで、そのまま神さま有難うございます、と入ってなさい、というんでナ。
そうやっていれば、たとえこの世に生きている間に、恨みの想いや妬みの想いが消えなくと
も、亡くなる最後には守護霊さん有難う、守護神さん有難う、五井先生! なんていっている
と、ちゃんと守護神さんにつながっていって、その恨みの想いや妬みの想いを消してくれるん
ほうねんしんらん
です。それで天にゆくんです。それを法然や親鸞が南無阿弥陀仏で教えたんです。南鉦.阿弥陀
仏といいさえすれば、一向専念唱名念仏すれば、必ず阿弥陀さまのもとに救ってあげる、西方
極楽浄土へやりますよ、といったのはそういう意味なんです。10
間違った想いがあるままで救われる
天国の住者
だから自分が悪いからもう神さまに救ってもらえない、と思ったら間違いです。自分に間違
った想いがあっても、その間違った想いがあるままで、妬みの想いがあるままで、恨みの想い
があるままで救ってもらえるんです。それでなかったら本当の信仰になりません、お前の心が
悪い、といじめられいじめられて萎縮していることはない。よい悪いは神さまの光が出てくれ
ばわかるのです。神さま有難うございます神さま有難うございます、と年中いっていて、神さ
まの光とつながっていさえすれば、神さまの光が心の中に充満するから、悪いものは自然に消
える。妬みの深い人は妬みがなくなります。暗い顔の短気な人がニコニコおだやかな人になり
ます。幽体にこもっていた昔からの癖の短気なもの、陰気なものが消えちゃうんです。知らな
いうちに消えちゃうんです。私どもへ来ている方は大体明るくなります。
暗い、くさい顔というのはいやですよ。旦那さんが仕事から帰ってくる。たいがいくさい
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顔。若い人は割合いしないけれど、明治生れは、お帰りなさい、といっても返事もしない。何
が気に入らないのか、不満でたまらないような顔をして帰ってくる。ご飯をたべてもうまいん
だか、まずいんだかわからない。昔の形の人には多いんです。家内なんかに笑顔をみせたらこ
けんにかかわるような気がしている。そんな人は横関実さんを見習うといい。奥さんは”き
ぬ”というんですが、きぬやきぬや、って甘たれな声を出して呼ぶんですよ。昔、さんざん悪
いことをしたからだけど、それでもいいですよ、一生懸命奥さんを愛してるんだから。
暗い顔をしたり、けんのある顔をするよりも、明るい柔和な顔のほうが神さまのお気に召し
ます。妻もそうだし夫もそうだし、姑もそうだしお嫁さんもそうだし、みんなそうなんです。
誰だって暗い顔の嫌な顔なんていやですよ。明るい柔かい顔のほうがいいですよ。そういう顔
に自然になります。そうすると美人になります。心が顔にあらわれます。美人になると同時
に、自分は天国の住者になる。
生き死にはどうでもいいんですよ。やがては誰でも死ぬ。儲かったって儲からなくたってど12
うだってかまわない。賃金が上ったって上がらなくたって、そんなことはどうだってかまわな
い。神さまの世界では問題ではない。一番大事なのは、この世に生きている間に、神さまのみ
心をどれほど現わすことができるか、神さまのほんとうの姿、自分の本心をどれだけこの世に
示すことができるか、人に影響を与えることができるか、そういうことだけなんですよ。だか
ら仕事が成功するとかしないとか、地位が上るとか上らないとか、ということではなく、命を
生かすか、生かさないかということです。
いのりの中で生きていける人をふやそう
天国の住老
この世のなかに本心の光だけで生きている人が多くなればなるほど、この世のなかは地上天
国に近づくのです。だから世界が平和になるってえことは人がやってくれるんじゃない。アメ
リカがやってくれるんじゃありません。ソピエットがやってくれるんじゃありません。政府が
やってくれるんじゃありません。みなさん一人一人が世界の平和を作るんです◎ それを間違え
13
ちゃいけませんよ。人間の心のなかに、柔和なる心、愛の心、思いやりの心、暖い心、そうい
う心が現われ、行ないに現われてきたという人が多くなればなるほど、地上天国は早くできる。
だから世界が平和になるということは自分の責任です。それを人の責任にして、政府が悪い、
アメリカがどうだソ連がどうだ、といっている。みんな業をつかんでいる。いつでも対抗意識
でぶつかっている。
アイゼソハワーは個人としてはまれにみるいい人だと思います。けれどアイゼソバワi 一人
でやってはだめです。みんなの盛上りの世界平和の祈りがなければ、アメリカがほんとうに世
界の中心になるわけにはいかない。ソビエトは勿論なれません。世界をほんとうにまとめるも
のは、世界平和の祈りの中で生活している人、世界平和の祈りの中で明けても暮れても日々の
行ないをしている国民です。日本は神国だ、日本人は偉いんだと神がかり的なことをいっても
だめです。行ないが世界平和の祈りの中で生きていける人たちが多くなればなるほど、その国
が中心になります。14
天国の住者
世界平和を祈っている人はたくさんいます。各国で祈っているでしょう。しかし、自分の本
心が神さまの中に在り、自分は神の子であり、神そのものでもある、世界平和の祈りは、神さ
まが自分を通してやっているのだから、自分は”世界人類が… …”と思えばいい。思えば神さ
まの中ヘスーッと入ってゆく。ダイヤルをまわせば神さまの光が入ってくる。自分がよけいな
想いで、この世の中はダメなんだ、とか、これはダメなんだとかいっているのを、捨てさえす
ればいい。ところがただでは捨てられないから、世界人類が平和でありますように、という祈
りにして、神さまの中に入ってしまう。こういうように世界平和の祈りを説いている人はない
ですね。
それで、もともと神さまの世界は平和なのであって、ただ人間が邪魔しているだけなのです。
人間の業想念で、相手を敵とみて、防備しなければやられてしまう、というような恐怖の想い
がいっぱいに満ちみちているので、世界が平和にならない。そういう想いさえなくなればよく
かくかく
なる。太陽は赫々と照っているし、月もこうこうと輝いているのだけれど、雲があって、光を15
そのまま通さない、雲さえどけば、もとー太陽は照っているんだから、空は青空です。雲を
どかすためにはどうしたらいいかというと、業想念を流れるままにしておいて、神さま有難う
ございます、とやるのです。
しつと
嫉妬心は嫉妬心のままで結構、恨み心は恨み心のままでいい。短気は短気のままで結構だか
ら、そのままにしておいて、神さま有難うございます、有難うございます、といっていると、
業想念はいつの間にか消えてしまうんです。つかんでいるから直らない。これをはなせば、だ
んーと知らないうちに消えてゆきます。時間がかかるかもしれません。かかってもいいん
だ。神さまとつながっている想いの中から、光が流れて来て、自然と短気とか恨み心とか嫉妬
心が消えてしまう。消されてしまうのです。これがほんとうの意味の南無阿弥陀仏なんです。
浄土門的法華経なのです。イエスが教えたのはそういうことだったのです。
むずかしい理論じゃわかりません。むずかしい理論はいらないんです。ただ守護霊さん守護
神さん有難うございます、世界人類が平和でありますように、日本が平和でありますように、16
私たちの天命が完うされますようにーこれだけがいつもいつも心の中にある、自分の生活の
中にあれば、その人の生活は悪くなろう道理がない。よくなるにきまっている。しかし寿命で
亡くなる人は亡くなります。亡くなっても、決して悪い所へはいかない。
子供がここへ来ていなかったら、来ないで結構。無理ー引張るとヘソに思われて、喧嘩に
なるから、子供の守護霊さん、どうぞよろしくお願いします、世界人類が平和でありますよう
に、と子供の分まで祈ればいい。妻なら妻が一人来ていれば、夫の分も子供の分も親戚の分
も、みんな祈ってやればいい。ある時間がたつと、みんな入って来ます。世界平和の祈りの運
動は必ず大きくなります。大きくならないではいないのです。
肉体人間の提唱になる祈りではない
天国の住者
世界平和の祈りの言葉はやさしく、誰にでもわかる、意義も感じられる。そして排他的であ
りません。他の宗教に入っていてはいけないというんじゃない、どこへ入っていたってかまい17
ません。どこの教団の人が唱えたってかまいません。ただ世界人類が平和でありますように、
と祈ることです。それを神さまは願っていて、私にやらせているんです。だからひたすらに世
界平和を祈ればいいんです。
キリスト教の祈りの中で”み心の如くなさしめ給え”という言葉がありますね。本当はみ心
の如くなさしめ給えなんです。だけどそれだけじゃなんだか心細いでしょ。世界人類が平和で
ありますように、というと意味がわかるし、何か称えているようでしょ。日本が平和でありま
すように、という日本は本当は世界の別名なんです。これはむずかしいことであまりしゃべっ
てもわかりませんがね。ひとりよがりになりますからいえないけれども、日本というのは世界
という意味で、それは今にわかります。重ねて平和でありますように、とやっているわけで
す。ところが私の向うを張ったのか知らないけれど、宇宙が平和でありますように、と祈り始
めた人があるんです。世界より宇宙が大きいだろうというんで。言葉ばかり大きくてもだめで
すよ。もう金星でも火星でもみんな平和なんです。平和でないのは地球なんですよ。地球がこ18
わくせい
の太陽系の惑星では一番遅れているんだから、地球が平和であることを願えばいい、地球世界
が平和でありますように、が先なんです。私が世界人類が平和でありますように、というのは
肉体の人間が提唱したのではなく、神さまのほうで、守護神団、救世の大光明のほうから、こ
の祈りをした者のところには、光明が現われるぞ、というんです。実際に光明が現われている
のです。
周囲に光が漫透する
天国の住老
山本しかさんという人が、自分のお墓におまいりするたびに、自分のお墓は勿論だけども隣
りの無縁さんのお墓にも、世界人類が平和でありますように、と祈っていた。そして守護霊守
護神に感謝していました。ある時、神道系の行者さんが来て、神棚の前で祈っていたら、お墓
がみえて来た。大きなお墓が山本さんのお墓で、それが光輝いていた。その光がまわりの小さ
な墓までさしていって、小さいお墓の人たちがみんな喜んでいた、あxお宅のご信仰は大した19
ものですね、とその行者がいうわけ。山本さんが夫のことも拝んで下さい、と頼んだら、いや
あなたの旦那さんはとってもいい高い処にいらっしゃるから、私が拝むというより、向うから
お光をいただくようなものだ、というんです。
それはどういうわけかというと、山本さんが世界平和の祈りをやっていらっしゃるから、旦
那さんは勿論、お墓のそばにあった無縁さんもみんな光っちゃったんです。わかってもわから
なくてもいい、みなさん一人一人が世界平和の祈りをすれば、自分の周囲、親族へ全部光が入
ってゆく。それを山本さんが実証してみせてくれた。光によって照し出されるということは、
この世ばかりでなく、あの世まで、またのちの後の世までもひびきわたるのです。
みなさんは肉体の人間だけではないんです。内なる神の分霊の光が光明燦然と輝いているん
です。そういうことが、これからだんだん実証されてくるでしょう。
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いのちの救い
昭和33年2月9日市川五丁目会館
借りたものは返さなければいけない
いのちの救い
お釈迦さまが或る王様のところでお話をして帰えってくると、乞食が待っているんです。お
釈迦さまをどうしても通さない。お釈迦さまの心眼には前生の因縁がわかりますから、あx昔、
自分がこの人にお金をもらったことがある、それを返さない以上は、因縁はとれないんだ、と
いってお金をやって、それで通してもらった、ということがあるんです。そういう風に前生の
因縁で借りたものは返さなければならない。すみやかに返せばいい。それをふつうの人は、前
21
に借りておいて、借金をしておいて、そ九を返さないで踏み倒して、この世もあの世広渡ろう
と思うからいけない。払うべきものは払わなければいけない。しかし払うべきものをまけても
らうためには、どうしたらいいかというと、人を救うことです。
A ならA という人に借りたとします。そうしたらB という人に対して、今生でいろいろなこ
とをして尽しますと、A という人に対する借金が帳消しになるんです。借りた人は借りたもの
を返しちゃったんだから、積極的にいいことをすればいいんです。稽極的に人汐救えばいい。
人を救うにはどうしたらいいかといったら、世界平和の祈りを教えればいい。世果平和を祈り
なさい、こういう功徳があるんですよ、というように教えればいい。あるいは私のところへ引
っばってくればいい。私が引き受けますから。
いのちさわりなく生きることが救い
ただ他の宗教で、立正佼成会とか霊友会とかいろいろありますが、五人引っばって来なけれ22
ばいけないとか、何人導かなければお前の功徳がない、というけれど、そういう意味ではなく
て、人にとにかく世界平和の祈りを教えてやりさえすれば、それは大きな功徳になります。
人間が救われるということはどういうことかというと、衣食住が足りた、というだけじゃな
いです。お金をもうける秘訣を教えたというのが救いじゃない。病気を治したというだけじゃ
救いじゃない。病気を治したって、因縁があればまた病気になるからね。業因縁が幽体にたま
っている以上は、一度治っても二度治っても、三度病気する。それじゃだめなので、幽体の中
の業を礎ってしまって、きれいになって病気をしない、病気をしても問題にしないような心構
えになる。そういう風に教えることが救いなのです。
命がさわやかに、命がすごやかに、さわりなく生きることが、救いなのです。それを教、兄て
撫いるのが私なのです。私というのは即ち救世の大光明の言葉です。こういう真理の話をしてい
切る時は救世主がここにいるんですよ・それは五井先生なのだ・他では違う名で現われている。
圃それを間違えますと・五井先生だけ肇っているようで・困るんです・
救世主団体の仕事
24
この間も神田で、この世でいくら総理大臣になったって、金持になったって、それが死んで
から守護霊になるわけじゃない。むしろ、貧乏な人とか、お百姓さんとか、職人さんのような
下積みの人が案外、霊界できれいな心に磨かれて、守謹霊になる、というお話をしたことがあ
るんです。そうしたらそれを聞ぎ違えちゃって、ある人が誰かに話したんですね。その聞いた
人が来まして「先生、守護霊というのは、大工さんなんかじゃなくちゃならないんですか」と
いうんです(笑) 「あれ? そんな話をしたかな」「そう聞きましたが」「そりゃ違うよ、この
世の金持とか大臣とかいうものじゃなくて、心の問題を私は説いたのに、それを間違えたんで
しょ」といったら「あx そうですか。私の先祖は武士なのですから、大工さんがつくわけがな
いから、私には守護霊がないかと思った」というわけね(笑)。
そういう話にもっていかれると困るから、そこでことわりをいうのですけれど、私、五井昌
いのちの救い
久というこの肉体は、救世主の器です。神さまの器です。救世の大光明の天と地をつなぐ柱、
光の柱なのです。そうした存在はイソドにもいるでしょう。アメリカにもいるでしょう。イギ
リスにもいるでしょう。ほうぼう中にいるんです。そういう人たちが救世の大光明を受けて、
自分に集ってくる人に放射して、光の輪をつなぐんですよ。救世主というのは総合団体の名前
です。そういう救世主が働きかけているわけです。大神さまのそのままの現れが救世主といっ
てもいいくらいなのです。それは肉体にも現われているんですよ。何故現われているかという
から
と、空っぽな人に現われればその人がそうなんだ。
から
そういうわけで、皆さんが本当に空っぽになって人を救っていれば救世主です。わかりま
す?救世主というのはたくさんあるわけですよ。本当は誰でも救世主なのだ。一人一人が空っ
ぽになって、愛の心に満ちるならばその人は救世主です。そのくらいの自信をもっていいです。
世界平和の祈りをつづけている人は救世主の仕事をしているのです。救世の団体の仕事をして
いるんです。
25
金もうけだけを教えたり、病気治しだけを教えたりしている人は救世主じゃない。救世主の
光を受けている人じゃない。救世主の光を受けている人の教えは何かというと、個人を本当の
救いに導いてゆく。個人のいのちをさわやかに出す、さわりなく出す。人類の真の救いを教え、
行じさせるものです。
26
姿を見せる
救世主というのは個人だけ、一人だけに現われているんじゃない、ということを私は断言し
ます。救世主というのは大光明の団体が合わさった団体、いいかえれば大神さまが現われたと
いう形です。それがいろんな肉体に入ってくる。それで救世の大揮動を起こすんです。それで
五井先生という者を中心とした救世の団体はここにある。それは世界平和の祈りを唱えて、高
々と進軍してゆくんです。その団体というのはものすごいんです。守護霊、守護神が無数にい
て、素晴しい大光明なのですよ。それが今に、だんだん現われてきます。それがやがてこの肉
いのちの救い
の眼に見える世界に現われてくる、と私はいうんです。あΣ こんなに大勢の方々が働いていて
下さったのか、こんなに素晴しい光が働いて下さったのか、とみんなが思えるように必ずなる
んです。それが出来なければダメですよ。
霊能の人には、先生の背後にはこういう神霊がいる、あ玉こんなに働いている、ということ
がわかるんですよ。しかし霊眼でない人には見えない。ところが霊眼でない人にも見、兄るよう
に、霊能者が集って、その霊能者の力によって、ここに働いている光を見せますよ、必ず見せ
る、と断言している。誰が断言しているかというと、うしろに働いている神々です。それでそ
ういう活動を今始めている。
もう一つは宇宙人です。金星人や他の星の人たちがこの地球界に現われる。現わす準備を今
している。それがやがて現われる。そういう風にならないと、唯物論を破ることが出来ない。
論より証拠、ワラ人形という言葉があるでしょう。私がいくらしゃべっても、病人の病気も治
らない、なんにもわからないというんでは、誰もついて来ませんよね。いくら慕わしいといっ
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たって、効果があるからみんなついて来るんですよ。なんだか来れば安心してくる。病気が治
ってくる。会っていればなんだか便利なことがある、というんで、やっぱり便利屋の役もする
んですよ。救世主というのは便利屋の役もするんです。
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みなさんは尊い器
そういう意味なのです。だから救世主は方々中に働いているんだ。その一つの現れが五井先
生だ。肉体の方の五井先生ね。天の五井先生といったら救世主そのものです。それは五井先生
という名前であるけれども、はたからいえば違うんです。マイトレーヤ、再臨のキリストなど
いろんな名前があるんです。しかし働いている救世主は、皆さんのどこへでも入れる。呼びさ
えすれば、いくらでも働いてくれる。だから自信をもったらいいですよ。五井先生というのは
肉体じゃない。肉体は器ですQ五井先生の器です。皆さんも五井先生の器なのです。いいかえ
れば一人一人が救世主の器です。だから空っぽになりさえすれば、いくらでも救世主になれる。
いのちの救い
斉藤秀雄さんがなったようになれるんです。奮起一番、みんな救世主になったらいいと思うん
です。遠慮することはありません。救世主が多くなればなるほどいいんです。
本当は救世主だけしかないのだ。神だけしかない。この世には神だけしかない。神の大光明
だけしかないのですよ◎ 悪魔だとか悪霊なんとかいうものはない。あるのは業の想念があって、
それがいろんな形になって、悪魔みたいに現われているんだけれども、本当はそれは消えてゆ
く姿で無いんです。在るものは神さまだけなのだから、自分が神さまの子である、救世主の分
霊であると思ったって、一向にさしつかえないんですよ。本当にそうなのだ。
裕仁天皇の偉大さ
ただこういうふうに(両拳を鼻の上にのせる) なったら、救世主じゃない。そうなったらも
てんぐげい
うだめ。天狗は芸の行きどまり、というんだ。自分が天狗になったらおしまい。肉体の自分が
おつ
偉いなんて思ったら、とんでもないことですよ。偉いなんて思った時には、ダーッと落こっち
29
やう。正しけれぽ威張る時は堂々と威張ってもよござんすよ。空っぽ、愛の心だけでず。愛の
心だけでやっていかなければいけません。
前にも話したけれど、今の天皇が終戦になってから、マッカーサーのところへいって、他の
者には罪がないんだ、みんな私が命令したんだから、自分だけが罪をきる、みんなを赦してく
れ、自分だけが罪になろう、といったでしょ。あの行為は全く救世主。日本を救ったのは絶対
に天皇です。あの時、天皇は仏陀であり、キリストであり、救世主である。だから今の天皇は、
日本を敗戦から救ったということだけで、天皇の面目が輝きわたったですよ。ですから私は今
の天皇を偉いと思いますよ。好きですよ。仲間のような気がしますよ。
肉体の天皇というのは猫背で、何かぎごちない。だけども、いざとなれば救世主になるんで
くらい
すよ。天皇という位は救世主の位です。救世主の光明となるのは誰かといえば天皇です。天皇
となって現われないと困る。天皇となって現われることを望むし、そうなっています。それで
小救世主がいっぱい集って、天皇を助けるんです。そうしないと本当の日本、太当の世界とい30
うものは出来ない◎ だからといって救世主が一人に固っちゃうわけじゃない。どこにでもいる。
いのちの救い
質問世界平和の祈りをしているうちに、こんな祈りでいいのかしら、と思うんですが…
答こんな祈りでいいのかしら、と思ったら、その想いはそれは消えてゆく姿なのです。世
界平和の祈りを否定する想いが出たら、それは業想念。それは消えてゆく姿です。神さま!と
さまた
想う心を妨げる想いがあったら、それは全部業想念です。この世は神さまだけしかないのです。
おぼしめ
それで世界平和というのは神さまの思召しなのです。神さまの願いごとなのですよ。世界人類
が平和であるということは、神さまの思召しなのだから、世界平和を想うことは神さまにつな
がることだから、それを否定する想いがあったらば、それはみんな業想念で消えてゆく姿です。
いいですね。
こんなことでいいのかな、と思ったら、それは消えてゆく姿。こんなことで救われるのかな
と思ったらそれは消えてゆく姿。なんでもかんでも、光明心をおおうような想いがあったら、
31
それはみんな消えてゆく姿だから、その時こそ、一生懸命、世界平和を唱えたほうがいい。否
定する想いが出れば出るほど唱えたほうがいい。否定するものなんか構わず唱えるんです。
いつもいうけれども、暗い部屋にいて、ただ暗い暗いといつまでいったってなんにもならな
い。暗い部屋にいたらば電灯をつける。つければ明るくなる。電灯でも一番大きいのは何かと
いうと、世界平和の祈りなのです。世界平和の祈りという電灯をつければ、太陽よりも輝く。
救世の大光明というのは太陽よりも強いのですよ。世界人類を救う力というのは太陽の光より
もっともっと強いです。
その救世主の祈りの中には、宇宙人もいる、守護神もいる、キリストも仏陀もみんないる。
もくれんしやりほつ
だから世界平和の祈りをした時には、キリストも仏陀も、目連も舎利弗も、法然も親鸞本、道
元も、弘法もみんなそこに集まるのです。私が世界平和の祈りをしている、或いは話をしてい
る時には、キリストが現われ、仏陀が現われ、法然が現われて、いつでもここにいます。そう
いうのが今に見えてくる。ということを私が断言している。断言したから見えてこないと困る。32
ところが神さまが約束したんだから間違いない。
神さまとの約束
いのちの救い
なぜ神さまが約束したかというと、私の言葉は神さまから来ている。ここで(肉体)ちっと
も話していない。ここでちっとも考えていない。こんどはこういう話をしよう、なんてこの頭
で思っていない。スラスラく話している。だから向うへ飛んだり、ζ っちへ飛んだりするけ
れども、結局はちゃんと結末はついている。ですから皆さんも行なう時には、いちいち物を考
そんとく
えて、こうしたら損かしら得かしらなんて思わないんです。世界平和の祈りの中から進んでゆ
くんです。
たとえば借金とりに行くなら、今日はとれるかしらとれないかしら、そんなことは考えない
でいい。どうせその場所へゆくまで何を考えたって考えなくたって行くんでしょう。借金がと
れるかしら取れないかしら、と考えたってなんになりゃしない。物を売りに行くんでも、これ33
売れるかしら売れないかしら、と考えたってなんにもなりゃしない。試験を受けるにして本、
受かるかしら受からないかしら、と考えたってなんにもなりゃしない。それよりも、行く道で
“世界人類が平和でありますように、守護霊さん守護神さん有難うございます、わが天命を完
うせしめ給え”この祈りをしながら歩いてゆくんですよ。そうしていると、光明をふりまいて
歩いているんです。そうすれば受からないものも受かるだろうし、取れないもの本取れるだろ
うし、売れないものも売れるだろう、ということになるのです。
なぜそういうことになるかというと、自分が神の姿になっているから。ひたすら神さまにな
らなければだめだ。自分は本当は神さまの中にいたのだから、神さまにならなければだめです
よ。誰でもなれるのです。病気でねていても、世界平和の祈りをしている時は、その人は救世
主の働きをしているんです。大光明がそこに来ている。丈夫でピソピソしていて、儲けること
ばかり考えて、儲けることばかり喜んで、ただそれだけでとんだり跳ねたりしている人よりも
病気でねていても、世界平和の祈りをしている人のほうが立派だということになる。34
ねごと
この世の計算でいけば「何いってんだ、ねていて何が出来る、そんなの寝言だ」と思うかも
しれないが、そう思うのは本当の真理を知らない人なのです。人間というものは想いなのです似、
想いがすべてを支配する。その想いを神さままで高めてしまうのが、世界平和の祈りなのです
よo
いのちの救い
質問神さまのおさとしと自己催眠、自己暗示について… …
答神さまのおさとしはいつまでもさめません。或る時間が来れば、自己催眠はさめてしま
います。それだから私の話はいつも理に叶うような話をしているんです。これを打ち破る術は
ありません。世界平和の祈りをしてはいけない、なんていう人はないでしょう。世界平和なん
てそんなもの、という人はないのです。祈りというものを否定する人は宗教家にはないんです。
宗教家で祈りがきかない、と思う人があったらそれは宗教家でもなんでもない。唯物論者と同
じです。宗教をやる人で祈りを否定する人は一人もいない。
35
祈りほど力のあるものはない
36
すべて祈りなのです。祈りで一番高い祈りは何かといったら、世界人類を救うための祈りな
のです。一番心がひろがるでしょう。南無阿弥陀仏といったり、南無妙法蓮華経といったんじ
ゃ、現象の心が理解しませんでしょう。ところが世界人類が… … という時には、それこそ言葉
の力で、世界人類という想いに同化して、唱えている内に自分というものがなくなっちゃいま
すよ。自然に世界人類になっちゃう。
祈りほど尊いものはないし、祈りほど力のあるものはない。祈りに始まって祈りに終るので
す。祈りがなかったらこの世は亡びます。この肉体の頭の力で、常識の力ではたしてこの日本
を救うことが出来るか、この世界を救うことが出来るかということを、よくよく考えてみると
いい。自分の力で、岸信介さんの力で、或いはアイゼソハワーの力で、ネールの力ではたして
世界を救えるか。救えやしません。救えないということは明らかです。それなら誰に頼るかと
いのちの救い
いうと、神さまに頼るより他にないのですよ。どうかなと思っても頼ったらいいでしょう。
ところがどうかなもへったくれもありゃしない。神さまは現実に生きて働いている。光明燦
然として働いているんですよ。みんなは知らない。見た人はわかる。見ない人は知らないでし
ょう。それでも信じていますね。信ずる力というもの、信ずる心というものは、神さまを実際
に見ないけれども、あΣ神さまの力が働いているんだな、五井先生が働いているな、というよ
うにわかるんですよ。あとは体験でわかってくる。そして今度はだんだんやっていると、神さ
まというのが見えてくる。大神さまの働きの光が物質化して見えてくる、という時代が来るん
です。そうすればグーもスーもないけれども、それを作るためには、皆さんの世界平和の祈り
が大いに役立つのです。皆さんの世界平和の祈りが強ければ強いほど、早くそういう時代が現
われる。
一人一人の力37

だから皆さんが人類を救っているのと同じなのだ。人類世界は他の人が救うんじゃなくて、
外国の人が救うんじゃなくて、アメリカが救うんじゃなくて、ソビエトが救うんじゃなくて、
イギリスが救うんじゃなくて、みなさん一人一人が救うんです。みなさん一人一人の世界平
和の祈りの力によって、日本が救われ、世界が救われるんですよ。だからやらなけりゃいけな
い。
みんな初めは世界平和の祈りをして、なんだかこれでいいのかな、こんなことで効くのかな、
と思うけれども、スケートがうまくなるんでも練習しなければならないんです。世界人類を救
おうとするお祈りが、練習なしに出来るわけがないです。練習をしている内にだんー本物に
なってくる。
世界平和の祈りをやっていれば、お風呂に入ってさえも、今迄南無妙法蓮華経をやっていた
よりももっといい気持で入れる。それから自分のような者でも、世界平和の祈りをさせて頂く
ということが本当に有難いことだと今、お話してくれた方がありましたが、こういう謙虚ない
sa
いのちの救い
い方、素直な謙虚な気持というのはいいことですね。誰でもどんな人でもやってさえいれば、
初めは口の中でブツブツいっていても、寝言のようにいってもいいから、やっている内に本物
になって来ます。何故、本物になってくるかというと、自分の業の想念がだんく世界平和の
祈りによって純化されて、神さまの方へみんないっちゃうんです。そして神さまの光がそのま
ま入ってくるものだから、無理なく自然に、自分の魂が高くなっています。
世界平和の祈りをしない人と、した人と同じクラスの魂だとすると、世界平和の祈りをやっ
た人のほうがズーッと上へ行っちゃいます。これは間違いない、私が保障します。ですから、
あきず、うまず、たゆまず、世界人類の平和を祈って下さい。今度、世界平和の祈りの歌が出
来ましたよね。今度、うたって下さいよね。あれをやってもいいです。いつも世界人類という
ことを思っている、世界人類の平和を祈っている、そういうところに救世主の大光明がくだっ
てくるわけです。さがってくるのではなく、自分が上ってゆくんです。同じことですけれども
ね。霊の世界では空間も時間もないから、そういうことになるんです。
39
40
心の奥の天をつきとめた
昭和3年3月9日市川五丁目会館
三つの要素
人間には二種類ありまして、直感的な人と理論的な人といます。一ぺん会って、直感的にそ
のままなんのためらいもなく、ス!ッと入ってくる人と、先生の教えはここのところがいいな
どと理論的に考えて、自分で割りきってゆく人と両方あるわけです。直感的な人は非常に早く
入って来ます。理論的な人はおそいけれど、掴んだら確実なんです。
直感的な人の場合には間違う場合があるんです。悪いっていうとおかしいけれど、低い宗教
心の奥の天をつきとめた
に何か霊的なものにひかれて入って、さんざん苦労した挙句、私に会ったりする人もたくさん
あるんです。どっちがいいということはありませんが、知と直感と両方まざった人が一番いい
ですね。知的でもあり直感的でもあることが一番いいけれど、そうは問屋がおろさないんです。
どっちかに片寄る。どちらでもかまいません。もって生れたものですから。魂の素質だからね。
私は生長の家の悪いと思うところをのけて、私の体験したことなどをまぜて、一番単純化し
たのが、私の教えなんですね。私がどういうところに観点をおいたかというと、易しくわかっ
て、効果があって、人をとがめないという三つの要素です。
私は生れながらに人をとがめるのが大嫌い。たとえば高みから教えてみる。お前だめだ、こ
うしなきゃ、といってみる。いったあとでさて、自分が出来ているかと考える。出来ちゃいな
い。その場合、教える自分が出来ないものを、教わる人が出来るわけがない、ということにな
るんです。ところがふつうの宗教家というのは、大体、自分が本当に完全でないのに、完全円
満になっていないのに、人間は完全円満、だからお前は完全円満でなけりゃだめだ、お前はこ
41
ういう所が悪い、あN いうところが悪いというんですよ。ところが云っている当人がそういう
欠点をもっているわけです。人には云うけれど自分は出来ないんでしょう。自分の嫌なことで
も人に押しつけるわけ。
42
人をとがめない
おやじ
たとえばいつも云うけれども、道楽で道楽でしょうがない親爺さんがいる。働きもしないで
飲んだくれて帰ってきて、妻をけとばして、髪をひっぱってなぐる、引きずりまわす。そんな
人がいる場合、生長の家の講師に相談しますと、あ\それはお前さんの拝み方が足らないから
だ、拝まないからご亭主がよくならないのだ、拝みなさい、なぐられても、けとばされても拝
むんです、と云うんです。講師の云っていることは間違いではありません。本当に拝みきれ
ば、いかなる悪人でもよくなります。けれども、それが出来るのは菩薩さまなんです。そう出
来る境地に生れている人はもう宗教なんかに入らなくとも、自ずから備わっている人だから、
心の奥の天をつきとめた
その人は講師に聞かなくたって出来るんです。
ところが二十何億の人がいて、九割九分九厘九毛九糸ぐらい出来ないんです。どうしても拝
みきることは出来ない。しかし先生方に教われば、拝まなければいけないと云われる。拝めな
いし、拝まなきゃいけないし、あΣ自分はだめなもんだ、だめなもんだというふうに、いい人
であればある程、自分をせめてしまう。先生方は偉いんだからね。先生がおっしゃることは間
違いないのに、自分は出来ない、どうしたらいいか、と苦しんでしまって、病気になったり、
神経質になったりするんです。そういうことを生長の家に私はいて、数限りなく見たのです。
私自身もそういうことを非常に苦しんだのです。
教えは理論的にはすぐれている、つっこむすきはない。人間の実相は神であるし、神の子で
あり仏の子である。神さまの子に悪いものがあるわけがないのだから、夫がどんなに悪いこと
をしても、それは私からいえば業がしているんで、実相は完全円満に違いない。だから拝まな
きゃならないっていうことは確かなんだ。だけども拝むだけこっちが本心の開発がされていな
いでしょ、板ばさみになって、心を苦しめて苦しめるんです。
それで私は、これはいけないな、どうしたらいいだろうなと考えた。”そこで消えてゆく
姿” ということを神さまから教わった。で、さっきの話ではないけれど、道楽をした上で妻を
なぐる蹴るという夫と、別れるといえば追っかけて来て殺されちゃうかもしれない。どうにも
ならなくなってくる。こちらは一生懸命働いて、食べさせているんだけれど、向うが飲んだく
れて働かないで、ぶんなぐったりする、どうみても夫の方が悪いでしょう。そういう場合に、
妻の方は、夫がそう悪い上に、自分が拝めないから悪いんだ、と責めたんじゃ立つ瀬がありま
せんね。
44
効果がある
そこに消えてゆく姿が入ってくると、人間は本当は神さまの子であって、完全円満なもので
あるけれども、過去世の因縁、つまり神さまの子であるということがわからなくて、想ったり
心の奥の天をつきとめた
行なったりしていた業が積み重なって、今、現われて、夫の方からも現われ、こっちからも現
われ、それがぶつかって消えてゆくんだ。一つなぐられれば一つだけ業が消えたんだ、向うの
業も消えたんだ。一つ引きずり廻されりゃそれだけ消えたんだ。みんな現われては消えてゆく
んだから、自分が悪いんでも、向うが悪いんでもない、消えてゆくんだ、という教えになって
くると、自分をせめることがなくなっちゃう。
私が拝まないから夫がよけいにやるんじゃなくて、拝んだって拝まなくたって、それは過去
世の因縁としてはそこに現われてきて、やらなきゃならない運命にある。だからやられるたび
に減ってゆくんだから、一つやられたら一つ減った。二つやられたら二つ減った。早くなぐら
れて早く消しちゃおうなんて、あなた一つでいいんですか、三つにして下さいなんて(笑)顔
を出すようになりますよね。そのくらいの余裕がだんー出てくるんです。そうすると、自分
が自分をいじめないで、自然に業が消えていって、やがては晴れてゆく。何故晴れてゆくかと
いうと、向うにも神さまの心がある。どんな悪い人でも、中に神さまの心がある。只、業がお45
おっていて、それでこっちの業とぶつかって、それで消えてゆくんです。
雨が降ります。どうして降るかというと、水蒸気があって雲になり、その雲が重なって雨に
なるんでしょ。降ってしまうと晴れますね、雲がなくなるから。雲がなくなると太陽が出て来
ます。それと同じように、いかに業の雲が満ちていようとも、いかに家庭が悪かろうとも、そ
れは過去世の因縁が現われては消えてゆく姿なんです。そのポイントをよく掴んで下さい。
46
理想は今すぐやれない
私の所に相談に来た人は”いいよ、あなたが悪いんじゃないよ。あなたは悪くないよ” とな
だめてくれる。あとの宗教家というのは、相談にいけばたいがい叱られるんです。相談にいか
ないのは叱られないんです。バカな話でしょ。どこの宗教へ行っても、あなたの心を直さなけ
ればだめだ、という。そうするといい人がますます苦しんで、悪い奴は心が痛まないんだ。な
ぐって蹴飛して飲んで、それで平気なんです。いい人はいじめられて日を送ってゆく、片方は
心の奥の天をつきとめた
飲んだくれて大きい顔をして日生を終る、そんなベラボ! な話はないでしょう。
今までの教えのどこに違いがあるかというと、出来もしないことを教えたということなんで
す。真理があまり高すぎて余程立派な人でないと”あΣ 無情” の中のミリエル僧正のような立
派な人でないと出来ない。菩薩でなければ出来ない、高い境地の人でなければ出来ないような
ことを、一般の人にいっても一般の人は救われない。
みんなを拝みきるというのは理想です。真理です。ミリエル僧正は、ジャソバルジャソのよ
うな凶悪な人間でも泊めて、かばってやる。ジャソパルジャソの悪を見ない、ということは理
想でしょう。そういう映画をみたり、本を読んだりすると涙が出ます。あxなんて立派な人
だ、私もあ」いう風になりたい、と思いますね。しかし、今すぐなれるわけじゃない。なりた
いということと、なれるということとは違います。理想を今すぐやれるかというと、やれない。
たと、兄ば、海で二人が溺れた。一人が木につかまった。ところが二人で掴まれば沈んでしま
うので、片方の人が放して、ハイあなたにあげますよ、私は死にます、さようなら、なんて沈47
んでゆく人はいないでしょう。自分は.犠牲になっても人を助けるという絡神は犠牲精神といっ
て素晴しいでしょう。しかしそれがとっさの場合に出来るかというの。出来ないでしょう。理
想なんです。実際には出来ない。
木の枝にぶらさがって、二人ぶらさがったら落こっちゃう。そういう場合に、足に一人がし
がみついたら蹴飛しますよ。自分だけつかまるために落します。サァつかまんなさい、一緒に
落ちようなんていう奴はいないでしょう。一緒に落ちればほんとは神さまの中に入っているか
ら、二人共に助かるんだけれども、それはなかー出来ないんです。そこまでに相当の段階が
あって、いろいろ修業してそこまでゆくんです。
48
やさしくわかって行なえる”消えてゆく姿”
今迄の宗教の教えというものは、理想と現実を混同して、神さまのやり方そのまま、菩薩の
やることをそのまま現実世界に持っていこうとしたんですよ。持って来て、教える人が実行出
心の奥の天をつきとめた
来ているかというと出来やしない。講師だとか教祖だとかいうものは、”あ玉みんな私が悪い
んだ” って本当に思って、人の罪をみんなしょっているかというと、そうじゃない。自分が間
違って、弟子が間違っていないのに”弟子のせいだ、弟子のあれがやった”という。すると弟
子は”いやあれは信者がやった”といい、結局、信者の罪のない人が罪になったりすることが
随分あるんです。そういうことを私はこの目で見、この耳で聞いているんですよ。
教えている人さえも出来ない、選ばれた教祖さえも出来ないことを、ふつうの信者さんに押
しつけようとしたって、それはだめだ。そこで私はこれではいけない、と思った。私は正直だ
から、自分に出来ないのに、たとえば、奥さんの立場になってみて、のんだくれたおやじに撲
られて蹴とばされて、それで有難うございます、といえるか、いえないなと思った。自分が出
来ないものを人にしろ、ということは出来ないでしょ。そこで、消えてゆく姿を考えた、とい
うより教わったんです。あΣそれは消えてゆく姿で、その奥さんが悪いんでもない、その夫が
悪いんでもない、悪いように現われているのは、過去世の業が消えてゆく姿、そういうふうに
49
思えるわけです。そこに私の教えの一つがあるんです。
50
私はこう思索した
もう一つひっくりかえして、この人間は完全円満で、神さまの子だということは真実なんで
す。この命は神から来ているにきまっている、神から来なければどこからも来っこない。肺臓
を動かし、心臓を動かし、胃腸を動かし、すべてを動かし働かせているものは、神さまから来
ているに間違いない。
みんなは愛し合う心があって、子供は可愛い、妻は可愛い、夫は可愛い、何か愛さないでは
いられない心がある。人間は愛したい、愛したいっていう心があるのです。それは神さまから
来ている心です。だから神さまをはずすことは考えられない。そうすると神さまからきている
人間なんですね。だから本当は悪いことは無いはずなのに、どうしてこういうふうに悪いこと
ぼかり多いか。人間の心には恨み心もあれば、妬み心もある。戦争してでもなんでもかんで
心の奥の天をつぎとめた
も、人の国をとっても自分がよくなりたい、という想いがみちみちている。いつまでたっても
よくならないように見えている。
いい人が一生懸命働いて、人のために尽したりして働いていながら、貧乏していて苦しんで
いる。一方、なんでもかんでも儲けて目をおおって、恥かしさを知らないで悪いことも平気で
やれるような人が案外金持になったり、偉くなっている場合が多い。そうすると悪いことをし
てでもなんでもして、この世の中で栄耀栄華をほこったほうがいいんじゃないか、という考え
になっちゃうんですね。矛盾しているんです。そこでこの世の中は矛盾撞着しているんだ、と
いうところに考えが来たんですよ。どんないいことをいっても矛盾しているんだと。これはど
うも変じゃないか、神さまから出ているなら、完全円満なんだ、それなのにこの世の中が悪い
のはどこに間違いがあるのか、ということを考えたんです。そうすると、それは神さまに本当
に投げ出さなかったからだ、という結論になったんです。
人間の運命を神さまに全部まかせておけば、神さまの命がそのまま入っているんだから、そ51
のままいいことが来るに決っているんだ。ところが神さまにまかせていないんですよ。自分の
頭で考えて、欲しいー、とに角儲けなきゃならない、こうしなきゃ暮せない、あ」これはだ
めになっちゃいやしないか。そういうふうに自分で勝手に、だめになるーというものを掴ん
でいるわけですね。そこから始まっているわけです。それがわかった。そうすると二元じゃな
いですね。一元なんです。一元なんで神さま一本しかないんですね。神さまの光しかないもの
を、神さまの外に出ちゃって、何かないかーって探しているんです。そこに不幸があったん
ですよね。
光の中に入ってりゃ暗くないのに、わざわざ電気の消えた脇に行って、暗い暗い暗いといっ
ている。太陽がさんさんとさしているのに、窓もなにもない変な土蔵の中に入って、暗い暗い
といっている。それがこの世の中の暗さが生れた原因なんです。
52
神さまと私は一つである
心の奥の天をつきとめた
たった今でも、戦争がありゃしないか、というような時代です。現実の目で見れば、ソピエ
ットとアメリカはいつ戦争になるかわからない。強い者が弱い者をいじめている。力でなけれ
ば押えることが出来ない。今、アメリカはソビエットを押える力はありません。だからどんな
に日本が正しく生きようと、イソドが正しく生きようと、アメリカかソピエットの下につくよ
り仕方がないです。日本などアメリカから金でも貰わなきゃやっていけないでしょ。たとえば
アメリカが間違っているとする、ソビエヅトも間違っている。そういう間違ったものに屈服し
ているわけですよ。屈服するより仕方がない。何故仕方がないかというと、日本の本当の姿が
現われていないからです。いわゆる業の中に入っている。
神さまをはなれた世界の中に日本は住んでいる。アメリカも神さまをはなれた世界の中に住
んでいる。ソビエットも神さまをはなれた中に住んでいる。どこもここも、みんな神さまをはな
れた中に、人間と神さまとは別なんだ、神界と肉体界とは違うんだ、全然別個に考えて住んで
いる。だから別個のものが出来ているんですよ。そこでどうしたら本当に神一元になるかとい
53
うと、簡単な原理です。,神さまに全部まかせちゃえばいい。生れて来たの亀神さまのおかげな
らば、死んでゆくのも神さまのみ心です。どうかみ心のままにならしめ給え、どうか神さま、
あなたに運命を託しますって、まかせてしまったらば、神さまと一元になります。
それは私がやってみたんです。そして私はこうなったんです。そこで私は修業中に何をやっ
たかというと、神さま! っていったきりです。神と私は一つである。私と神は一つである。神
はわが内にあってわれを生かし給うのである。神さま有難うございます、神さま神さま神さま
神さま神さまだけです。あとは何にもありません。他のことは何もいいません。何を下さいと
も、何をお助け、もありません。神さま神さま神さま、神さまを売って歩くように、朝から晩
まで神さまです。願ったことは、愛深い私にならして下さい、どうか私に出来ることを神さま
やらして下さい。何んでもかまいません、ということだけです。神さま神さまって神さまばっ
かりいってたわけです。二十四時間プラスアルファ、寝ごとにまでいっていた。夢の中までい
っていた。神さまだけしかないの。神だけだ。そうしたら自分の業がなくなっちゃった。神さ
54

まの中に入りきりになっているんだからね。いつの間にか消えちゃいますよね。
私は実証した
心の奥の天をつきとめた
その代り貧乏もしたし、何もご飯も食べない時もあった。やせちゃって、青くなっちゃって
ヒョロヒョロしていた時もあって、いろんなことを修業したんです。だけどむずかしい修業は
一つもしなかった。滝にもあたらなかった、山にも登らなかった。何にもしない、只神さま!
っていってた。それだけが修業なの。私は素直に神さまだけだと思ったんだ。神さまだけにす
がって、死ぬものなら死んでもいい、貧乏になるものなら貧乏になってもいい、どうなっても
いいと思った。出来るか出来ないか、一べんやってみなきゃね。それで神さまにだけすがっ
た。そしたらこういう霊覚にもなったし、みんなを救えるようになった。お金をかせこうなん
て、一回も思ったことはなかった。別に金のことを考えないで、とうとう今になっちゃった。
今、食べるに不自由もしなければ、住むに家があるし、ちゃんと皆さんが話をきいてくれる
55
し、先生になろう、と思ってやったわけじゃないのに、先生先生ってみんながいってくれる、
あがめられて先生といわれる身分になって、いい家に住んで、と思ったことはないんです。な
んにもそんなことは思わない。ただ神さま、いい仕事をさせて下さい、と願い、愛深い私にな
らしめ給え、どうか私のいのちが神さまのお役に立ちますように、神さま神さま神さま、それ
だけ。簡単でしょう。その間に苦労はあったけど、ついにこうなった。そして、神さまだけを
思ってればいいんだ、と自分が立証したでしょう。
神さまだけを思ってれば、のん気になって、朗らかになって、何が来ても驚きもしない。地
震だッといっても平気な顔してねているし、火事だって別に驚きもしなけりゃ、騒ぎもしな
い。そういう風になったでしょ。そこで私は皆さんにいつもいうんですよ。神さまだけを思い
なさい、他に何もありませんよ。現われるものはみんな消えてゆく姿で本ものじゃない、みん
な消えてゆく姿、あるものは神さまだけだってね。愛と真と美しい姿、その神さまだけしかな
い。柔かさが満ちあふれている、光があふれている。そういう姿きりこの中にはないんだ、と
56
いうことが本当にわかった。わかったからみんなにそうだ、と教える。
心の奥の天をつきとめた
私が体験した守護霊、守護神
しかし、それではまだわからないだろうと思って、説明するんですが、神さまというのは自
分の中に分霊として、太陽のように光り輝いている。それを問違った想いが業になって覆って
しまっている。だから光が外へ出ていかない。光が外へ出てゆく程度に従って、その人はいい
人なんです。十出ていれば十だけいい人。百出ていれば百だけいい人。ところが曇っていれば
悪いことでも平気で出来る。金を儲けるためには人を殺しても平気である。光が覆われてしま
っているソビエットの首脳部みたいに、人を殺しても自分の政治をやろうとする人は、光が覆
われている人。人類二十何億かある中で、光が覆われてしまっている人と、光が少しつつ出て
いる人と、うんと出ている人とあるんです。
光を出すためにはどうしたらいいかというと、自分でいくら頑張っても出ないんです。そこ
57
でここに守護霊、守護神が現われて来るんです。どうして現われて来るかというと、私が体験
したんです。神さま神さま神さま、と自分で悟ったみたいな気がするでしょう。ところが実
は、何べんもその間私は救われているんです。神さまと一体になるまでの間に、苦しい想いが
して、恐怖の想いがして頭をギューッと締めつけられて、冷汗が流れて、どうにもこうにもな
らない時があった。
あうん
その時、中で「オーム」と唱えろ、という声が聞えてくるんです。ナームというのは阿噂の
呼吸という、阿咋なのです。それがまた本当をいうと神の名なんです。それをいえ、というん
です。いい方までパッとわかるんです。教えてくれるんです。その通りやったらパーッと頭が
晴れてきて、きれいに澄んでくるんです。恐怖心などが起ってくると、オームと唱えると、パ
ッと消える。いろいろなことを教えてくれた。教えてくれたのは誰かというと、守護神であり
守護霊なのです。その人たちの名前も知っていますが、今ここに働いています。私の死んだ弟
もいた、私の親友もいた。その上にいろんな人がいた。それが順順に教えてくれた。押しよせ
58
心の奥の天をつきとめた
はら
てくる波をみんな祓ってくれた。だから分霊の力で祓ったんじゃなくて、うしろの守護神守護
霊が祓ってくれたことがハッキリわかったんです。
守護霊さん守護神さんをよびなさい
そこで私は「守護霊さん守護神さんと呼びなさい、あなたの後には祖先の悟った霊が正守護
霊として守っている、その上には守護神がたくさんいる、何段階になっているんだ。それは私
が実際に体験して知ったんだから、あなた方も守護霊さん守護神さんと思いなさい、そのほう
が苦しみが少なくて、分霊の本心の力が光を出してくれるんだから、一生懸命、守護霊守護神
さんと呼びなさい」というわけです。
ところが悟ったような顔をしている宗教家には、守護霊守護神がわからなくて、お前さんの
中に神さまがあるんだ、外の守護霊とかそんなものじゃない、という。それは本当です。嘘じ
やないですよ。あなたの中に神さま仏さまがあるんだから、誰に教わろうとか、浄めてもらお
59
うとか、そんなことは必要ない。自分の中の仏さまを出しゃいいんだし、自分の中の神さまを
出せばいいんだ、とこういうんです。出してごらんなさい、見たことあるか?・見たことあり
ゃしない。出しなさいよ、というんだからね。出せないからこそ人にすがるんですよ◎ 出せる
人は自分で出せばいい。ところがなかー出せるものじゃない。
本当に迷いがかかってくると、もう五井先生さえも呼べないんだから。0 さんもちょっと迷
ったことがあるんです。相当出来ているのにね。お父さんの腰が痛かったりなどすると、姓名
学へいってみたり、易でみてもらったりした。ところが私は他へ行っていることはちゃんとわ
かるんです。わかるけれど黙って知らん顔している。行くのは自由だと思うんです。私は人権
を尊重しますからね。人がどこの神さまへまいろうと、どこの宗教に入ろうと、私には関係な
いです。私は光をこっちから放射すればいいのであって、その人がどこへ行こうと、そんなこ
とは私の知ったことじゃないです。その人の自由なのです。よそへ行ってだめだと思えば、こ
こへ来るんだし、それはきまりきったことなのです。私はただ浄めていればいい。
60
迷信に把われるな
心の奥の天をつきとめた
ところが方々廻ってくると、私のところみたいに、こんなに自由で楽な教えがないんです
よ。どこへ塩をまけ、とか、草植えろ、とか、便所が悪いとか、鬼門だとか洋服だとかよくい
うんです(笑) 鬼門も洋服もそんなものありゃしないのですよ。外国人が、アメリカ人やイギ
リス人が鬼門だとかなんだとかいってません。外国人が家を建てるのに、鬼門だとかなんとか
いって、方位をよけて建てているというのは聞かない。それでもちゃんと大統領になる人は大
統領になっている。あれは東洋の迷信です。鬼門だなんだといいはじめて、それが実証される
こともたくさんあるでしょう。そうするとだんー想いが”そうなったらそうなる” と想って
しまったんです。想いがうーんと固ってくると、それが実現してくるんです。
ところが外国にはそんなのないでしょう。外国で方位よけというのはあるかしら、聞いたこ
とがないです。日本とか東洋だけでしょう。東洋だけにあって西洋にはない、というのは普遍61
的ではないでしょう。たまたま当ったりしているうちに、鬼門はいけないとかなんとか思いは
じめた。想いの業が現われるんです。たとえば幽霊ばかり思っている人がいるとします。そう
いう人はヒョッと思うとすぐ葱きます。想うから呼ぶんですよ。それと同じように、方位方角
のことなどばかり思っていると、把われてしまうとその通りになるのです。鬼門はいけない、
家を建てるなら鬼門はさけたらいい、といわれたって、東西南北方々中にあるんだから、どこ
かしら鬼門にあたるでしょう。どういう風にやったって完全な家なんか建ちっこないんですよ。
完全によけることは出来ないのです。どっかしらかかるんです。それをいちいち気にして、今
日は東へ行っちゃいけない、南へ行ったらなんとかだ… … 毎日どこかしらあるんでしょう。六
人家族がいるとする、この日はご主人の鬼門だ、この日は奥さんだ、この日は長男だ、次男
だ、といったら、六人いる家族の家はどこかしらぶつかって、毎日鬼門よけ、暗剣殺よけ、方
位よけばかりしている。そんなことで商売やの人は商売出来ないでしょう。
あるんですよ。ここの所へ何月まで越さないといけない、というんで、店をしまってこっち
62
へ越す。また他の人に見てもらうと、ここにいると危ないから、ご主人が死んじゃうから越
せ、といわれてまた越してゆく。半年や一年、二年でもって越して歩いていたんじゃ、商売が
成り立つわけがないでしょう。そういうのを憶病というんです。信仰が何んにもないことなの
ですね。
神様の世界だけに方位よけあリ
心め奥の天をっきとめた
本当に宗教信仰があるならば、神さまにまかせてあるんです。本当は業なんか消えてゆく姿
でありゃしないんだ。自分が積んでいないものは、いくら鬼門に当ろうと思ったって、鬼門に
当らないんです。自分が積んでない業ならば、いくらどこへ行ったって怪我をしないです。病
気もしない。自分の中に業があれば、よけようとしたってそこへいっちゃいますよ。だから業
というものと離れて住まなければならない。離れて住むところはどこにあるかというと、神さ
まの世界だけしかないんです。神さまの世界だけに方位除けがあるんです。神さまの世界だけ
63
に悪をよける、業をよける、いわゆる悲しみも恨みも妬みも、不幸も病気などもよける世界が
あるのです。
神さまの世界に住むのにはどうしたらいいかというと、神さまを呼べばいいんです。神さdま
ー神さまーと呼んだらいい。神さまはどこにいるかというと、後ろには守護霊守護神とし
ている、中には分霊として、自分の本来の姿としている。しかしそれは業がおおっていますか
ら、守護霊のほうから、守護神のほうから救ってもらったほうが早いんです。守護霊守護神は
この業を消すために来ているんだから、分霊の負担を助けてやろうと思って、助太刀として来
はら
ているんだから、守護霊さん守護神さんといえば、後ろのほうから祓ってくれる。神さま有難
うございますというと、中から光ってくる。だから守護霊さま守護神さま神さま有難うござい
ます、本心さん有難うございます、という祈りをすると、内なる神は光ってくる、守護霊守護
神さんは祓ってくれる。だんー光が出てくる。ということは業の世界を越えてゆくことなの
ですよ。
64
私は内なる天をつきとめた
心の奥の天をつきとめた
神さまというのは、天にまします神よ、というけれども、天にもいるのですよ。星のように
光り輝いているんです。この中(わが内) にもいるんです。ということは、輝いている星とい
うものは、天にもあるんだけれど、光がそのままここに入っている。だから人間というものは
一人一人が太陽のようなものなのです。あなたもあなたもみんな太陽のようなものが、内にあ
るんですよ。ここ(内) はどこかというと天なのです。人間の奥の奥をたどってゆくと天なの
です。それを私はつきとめたのです。
私が統一していたら、スーッと上っていった。上って上って上りぬいたところに「天と地を
つなぐ者」にも書いてあるけれども、ちゃんと自分の本体がいるんです。本体は天の奥にい
る。天の奥というのはどこかというと、この中にある。「心よ心よどこにいる探し求めて
幾転生」という詩があるけれど、神さまはどこにいたかというと、この中にあった。求め求め65
てこの中にあるということをつかんだ。つかむ助太刀をしてくれたのは誰かといったら、守護
霊さんであり守護神さんだったんです。だから本当の神さまをつかむためには、神さま! と
ただ呼ぶだけよりも、守護霊さん守護神さんといって呼んでいるほうが、早く楽に、つかめる
し、自分の本心が輝き出るんですよ。
それを知らないで、お前の本心を出せ、人になんか浄めてもらう必要などない、といってい
る人があるんですけれども、相手が立派な人ならいくらでも浄めてもらえばいい。助太刀をし
てもらうことは差支えない。守護霊さん守護神さんがそこへ連れてくるのです。私なら私のと
ころへ連れてくるのは、守護霊さんや守護神さんがスーッと連れてきちゃうんです。連れて来
て、私の所で光を当ててもらって〈この肉体が当てるんじゃないですよ、間違えちゃいけませ
んよ〉、私の中の直霊が当てる。またはその人の守護霊や守護神が私の体を借りて当てる。そ
うするとむこうの業が消えてゆきます。業が消えてゆくと、病気や不幸がなくなっちゃう。
66
なつかしい人
心の奥の天をつきとめた
五井先生と会うと、たいてい懐しい気がする。肉体が懐しいんじゃないのです。何か懐しい
気がする。それは何故かというと、こちらの光とむこうの光とピタッと会うからです。親と子
が対面するんですね。それはどういうことかというと、魂のお母さんである守護霊、魂のおじい
さんおばあさんである守護神が、私の体に移ってきているんです。むこうにいたんじゃわからな
い。そこで”先生お願いします” と私の中に入って来て、こちらから形を通してむこうに見せ
るのです。そうすると、むこうは”あx懐しい、なんて懐しいんだろう” というふうに感じる。
直感的な人は一遍でわかるんです。「こんにちは、ハッこの人は」というふうに思うんです。
この人って、この体の五井先生というんじゃなくて、この中で働いているその人の魂のお母
さん(守護霊) 魂のおじいさんとかおばあさんの守護神さん、というものが、サァといって真
向うわけです。そうすると、なんだか懐しくて、お母さんのような、おじいさんのような、お
67
ばあさんのような、なんだか親戚のような気がする。この顔の人が懐しいんじゃないんです。
中から出てくる愛の光が懐しいんです。それで「あN嬉しいな」と思うんです。私はなんにも
いわないんだからね。「ハイこんにちわ」「よくいらっしゃいました」「あなたはいい人です
ね」ぐらいでしょう。お世辞をいうときもあるけれども(笑) 懐しくて再び三度び来たい、と
いう気がするわけです。
おやじ
女の人ばかりじゃない、男の人もそうです。横関実さんでも私の親父ぐらいの年ですよ、そ
れでも会った時、自分の親のような気がしたというんです。四十才の者が六十数才の親である
わけがないでしょ。それは肉体の年令であって、この肉体は器で、入れものです。この入れも
のを通して、昔から働いている大生命が働いている。これを通して昔から守護神が、ここで働
いている。守護霊がこの体を借りて働いている。みんなの守護霊、守護神が私に入って来て、
純化してみんなへ廻ってゆくわけです。そうすると、懐しい慕わしい、という気持になってく
るわけです。68
一人一人を愛する
心の奥の天をつきとめた
だから私は一人一人見て、一人一人可愛いんです。AをみればAが一〇〇% 可愛い。Bを見
ればBが一〇〇% 可愛い。Cを見ればCが一番可愛い。先生は八方美人だ、あっちヘニコー
こっちヘニコニコ、憎らしい、なぜ私だけ可愛いがってくれないのか、っていうけれど、そう
すると私は神さまから落ちぢゃって、ただの恋人かなんかになっちゃう。そんなのつまらない
から、私は八方愛そうと思うの。実際に愛そうも愛さないもないんです。愛そうと思っている
んじゃない。何もない。会うと、あΣ 可愛いなアと感じるんです。可愛いなアと感じる人が八
十のお婆さんだったり、六十のお爺さんだったりするんです。
六十のお爺さんなんか可愛くないような気がするでしょう。それでも可愛い。いい坊や、と
頭をなでてやりたい。むこうの守護霊守護神がいっていることが、こちらへ来る、それをその
まま直訳して出しちゃうと、可愛い子だね、お前いい子だ、よく大きくなったね、とこういう
69
のです。だけれどそのまま出しちゃうと、先生は少しいかれているんじゃないかと思われると
いけないから、あの人はいい方だ、というように言葉を丁寧にする。踊る神さまなんか会って
ごらんなさい、ハッキリいいますよ。岸総理大臣をつかまえて、岸、お前は偉うなったのう、
というんでしょう。あx いう調子でやっちゃいますよ。ところが私は常識があるから、やさし
く普通の言葉でいうんです。そういうものなのですよ。
いのち
人問というものは、形が邪魔しているけれども、本当は、神のみ名において、神の命におい
て、みんなつながっているんですよ。縦にも横にもつながっている。手をつないでいるんです。
それなのに喧嘩しているんです。手をつないでいることが本当にわかれば、喧嘩はないのだけ
れども、業という波があって、手がつなげない。
神さまがこの中にいるということは、天から光が降ってきて、つながっているのだけれどわ
からない。それで自分の欲張りというものが出ている。人間と人間がはなれているものだか
ら、お前と俺とは違うんだ、憎らしいとこういうわけです。夫と妻が喧嘩するくらいばかなご70
心の奥の天をつきとめた
とはないんですよ。兄弟姉妹が喧嘩することぐらいバカなことはないんだけれども、
喧嘩をしたりするでしょう。それは業です。
神さまにまかせておきなさい
やっぱり
業が深いと喧嘩したくなくとも喧嘩になっちゃう。そこですよ。喧嘩するのも、怒るのも、
それは業が消えてゆく姿なんだ、だから、あなたが悪いのではない、むこうが悪いのでもな
い。やがて業が消えてゆけば別れるものは別れてしまう、一緒になるべきものは一緒になる。
それはみんな神さまがやっていらっしゃるんだから、神さまにまかせておきなさい、というこ
とになるんです。
そういう風に教えた一番初めの人は日本においては、法然上人です。それを受けついだのは
親鸞です。人間というものは、いいことをしようと思っても、悪いことが心に浮んでくる。あ
れを憎むまいと思っても、憎む想いが浮んでくる。本当は憎んじゃいけないと思っても、憎む
71
んです。そういう心がいつまでたっても消えない。だから罪悪深重の凡夫だ、キリスト教的に
いえば、みんな原罪があって罪の子なのだ。あなたたちは罪が深いんだ、私も深いんだ、深い
からこそ阿弥陀さまにすがっていかなければ、救われないのだ。罪悪深重の人間がいくら努力
しても、いくら修業したって、少しは消えるかもしれないけれど、いつまでたっても一向に消
えやしない。それよりも、罪悪深重の凡夫のままで、悪いものを持ったままで、怒りの心を持
ち、妬みの心を持ち、業に流れる心をもち、そういう想いを持ったままで、阿弥陀さま! と
いってアミダさまの中へ入っちゃえば、アミダさまは光一元だから、光明如来だから、どんな
けが
汚れも、どんな罪も磯れも一ぺんに消えちゃうんだ。だからアミダさまと思いなさい、ナムア
ミダブツーといいなさい、とこう教えたのです。
、ミダの光というものは、神さまの光というものは、どんな悪にも負けやしない。どんな悪が
あっても、神さまの光を械すほどの悪はないんだ、っていっているんですよ。ミダの本願をさ
またげるほどの悪はないんだ、と歎異抄かなんかでいっています。親鸞上人は大胆不敵ですよ
7a
心の奥の天をつきとめた
ね。どんな罪悪も、どんな間違いも神の光を消すほどの悪はないんだ、だからどんな悪人でも
いい、どんなに自分が罪をおかしていてもいい、どんな迷い心を持っていてもいいから、仏さ
まの中へ、ナムアミダブツと入りなさい、と教えたんです。そうすれば助かるんだ、救われる
んだ、それ以外に救われることはないんだ、ということです。
救われに入るのは簡単
それをもっといいかえれば、アミダさまではキリスト教の人は困ります。日蓮宗の人も困る
でしょう。神道の人も困るでしょう。そこで守護霊さん守護神さんという、どこでも使ってい
る言葉を使い、守護霊さん守護神さんといえば、その中に自分の想いが入ってしまうのだか
ら、守護霊守護神の救世の大光明をけがすほどのものはないのだ、守護霊さん守護神さんとい
うふうにすがりなさい、と教えているんです。そうすると、想いがいつもいつも三界の業の世
界から抜け出て、守護霊守護神の中へ入ってしまう。とびこんでゆくからね。そうするときれ
73
いになっちゃう。簡単なのです。
救われに入ることは簡単です。この世の中は神さまだけしかないんだ、今現われている自分
の迷い心とか、不幸とか病気とかいうものは消えてゆくんだ。善も悪も消えてゆく姿なのです
よ。私はこれだけいいことをしたんだ、ということも消えてゆく姿。太陽がおれはお前を照ら
してやっている、だからいくらかくれ、なんていわないでしょう。ただ黙って照らしているん
です。照らすだけ、天照大神だネ、照らすだけでいいんです。人間も天照大神の分霊がここに
入っている。だからこの分霊を輝やかせればいいんですよ。それにはどうしたらいいかという
と、人を愛すること、人のためを思うこと、真を尽すこと、美しい心を出すこと、愛して愛し
て愛しぬくこと、あΣみんな慕わしい、みんないとしい、あなたも私の兄弟です、あなたも私
の姉妹です。みんな有難うございます、ということになれば、神さまがそこに現われている。
そうなる手助けとして、守護霊さん守護神さん有難うございます、世界人類が平和でありま
すように、私どもの天命が完うされますように、という祈りをやっていれば、こちらの光がズ74
心の奥の天をつきとめた
ーッと出てゆく。そういうことを私がいつもいつも教えている。毎日、三六五日プラス、アル
ファ教えている。
夜ねながらも教えているんですよ。私が寝床に入りますと、お客さんがたくさんいらっしゃ
るんです。目に見えないお客さんが。足の先から頭の先からズーッと来るんです。私はジーッ
としている。そうすると中から光が出て、みんな納得して帰えってゆく。浄まってゆく。夜中
もやっているんです。
私は神さまを思いっぱなし
この間、詩で”寝床の中で祈りμ と書きましたけれど、私は祈らないんです。私は何もしな
いんです。みなさんは言葉で心の中で世界平和の祈りをやっているでしょう。ところが私は云
わない。言葉でも心の中でも思わない。何故かというと、もう思い放しだから。神さまを思い
っぱなしなのです。今更、神さまというほどの遠い仲じゃないです(笑)うんと苦しい時があり75
ます。みんなの想いが来て、心臓が苦しかったり、頭が割れるように痛かったりします。痛い
けど私は神さまと呼ばないのです。呼ぶほど離れていないのです。もうピッタリ一つなので
す。思い出すんじゃない、思い出すも出さないもない、そのままいつも神さまになっているん
です。
ということは、自分のことはなくて、いつでも人のことばかり考えているんです。だからみ
なさんも自分のことは考えないで、ただいいと思うことを行なっていればいいんです。あとは
人のことばかり思っていれぽいいんです。どうか夫が機嫌がいいように、と思えばいいし、ど
うか子供が元気でありますように、と思えばいい。人のことを思っていると自分のことを思っ
ていると同じなのです。一人の人問が自分のことばかり思っていたら、元っこでしょう。一人
の人のことを思えば二人に増えますよね。三人思えば三人にひろがる。百人思えぽ百人にひろ
がる。千人思えば千人にその人の命がひろがってゆくんです。二十何億思えば二十何億にひろ
がる。神界、霊界まで思えば宇宙にひろがる。そういう風にいつでも思っていればひろがるで
76
心の奥の天をつきとめた
しょう。ところがそのように一人一人思うわけにいかないから、世界人類の平和を祈るんです。
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私どもの天命が完うされますように
簡単でしょう、けどなんていい言葉かと思うんですよ。実にすぽらしい言葉、やさしくてわ
かりやすくて、やってごらんなさい。世界人類が平和でありますように、というと、自分が世
界人類にひろがるような気がするから、自分は世界人類の一人なんだな、こう祈っていると世
界人類がよくなるんだな、というふうに思います。

私どもの天命の中には、自分も入っているけれども、我じゃないです。金がもうかりますよ
うに、というんじゃないでしょう。天命というのは神さまの命が現われることでしょう。だか
ら天命を完うせしめ給え、といえばそれは神さまのみ心よ現われ給え、ということです。世界
人類の平和を祈り、日本の平和を祈り、天の使命が自分たちに、家族に現われますように、こ77
れだけの祈りでしょう。これは大したものですよ。それで「守護霊さま守護神さ支有難うござ
います」とお礼をいうんです。こういう祈りは簡単なようだけれども、実に深い深いものなの
です。
誰かがもう少しリズム感があったほうがいい、守護霊さん守護神さんてなんだか古くさい気
がするから、何かうまい調子がないかしら、といって来ました。これはこれっきりいえないん
です。言葉を飾って、いかにも美しそうに見えてもダメなのです。中味がちゃんと現われて、
子供にでもやさしく出来るようにしないといけない。今、小さい子供がやっているんですよ。
それでズーッとつづけて、大人になってごらんなさい。何があったって”世界人類… …” と思
いますよ。とっさに”五井先生” と思いますよね。
わが名を呼ぶところにわれあり
この間、五井先生が亡くなったらどうするんですか? と聞いた人がいました。私は、あん
78
心の奥の天をつきとめた
まり早く私を亡くさないで下さいよって頼んだのだけど、私は数え四十三才、満で四十一才で
すから、まだ四十年やそこらありますよ。まあいつか亡くなるでしょうけれども、亡くなる頃
にはみんなの中に入っちゃいます。五井先生! と呼べばチャソとそこに現われます。イエス
の如く現われます。亡くならないうちから現われているんですよ。五井先生と呼ぶ人にはチャ
ソと現われる。どこへでも必ず現われるんですよ。その私というのは、肉体が現われるのじゃ
なくて、肉体と同じ顔をし、同じ声をしているけれども、直霊がチャソと現われるのです。”わ
が名を呼ぶ者には我は現わるるなりμ と仏さまはいったでしょう。それと同じことですね。
こういうと、誤解されるといけないと思って、いつもいうんだけれども、肉体の五井昌久と
いう人はご飯も食べます。便所へも行きます。顔も洗います。鼻もかみます。床屋へも行きま
す。肉体は入れ物だから、これでも少しは磨かねばね。おしろいはつけませんけれど磨くんで
す。この中で働いている五井先生の直霊というものは、そのままどこへでもいきます。アメリ
カで呼べばアメリカへ行きます。ソビエットで呼べばソビエットに行きます。どこえでもいけ
79
るものです。それは私だけの独専じゃなくて、みなさんもそのまま神さまなのだけれど、そう
いくらいわれてもわからないでしょう。みんな神さまなんだ、というと怒ります。キリスト教
の人なんか、神の子というのはイエスさまだけだ、イエスさまだけなのに、みんな神だなんて
そんなバカなことはない、こういうんです。それならお前さん、イエスさまに会ったことがあ
るか、いやまだお目にかかっていません、そうだろう、私はいつでも会っている、とハッキリ
いいますからね。
80
キリストとは何か
宗教にこったような人は、自分が信じている神さまだけいいと思っちゃって、キリスト教の
人はイエス・キリストだけいいと思っている。イエス・キリストのみ名を呼ばなければ、誰も彼
も救われないようなことをいっている。そんなバカな筈はない。神さまというものは、宏い心
なのだから、イエスだけだったら、仏教の人は救われないでしょう、神道の人は救われやしな
心の奥の天をつきとめた
い。そんなことはない。イエスというのは二千年ばかり前、肉体として生きていた人間でしょ
う。ちゃんとお母さんのお腹から生れた人ですよ。空から飛んで来たわけじゃなくチャソと生
れた人です。キリストというのは何かというと、真理、神ということです。神が現われる、真
理が現われるということをキリストというんですよ。
真理はキリストなのです。神はキリストなのです。だからイエスという人が、神さまの愛を
現わした。みんなの罪を自分がしょって、十字架にかかって犠牲になり、キリストと一体にな
った、神さまの大愛をそこに現わしたのです。大愛を現わした時にイエス・キリストになった
のです。イエスという肉体の人間が神さまのみ心をそのまま現わしたから、キリストになった
のですよ。それでイエス・キリストというんです。
こうもん
黄門という名称がありますね。黄門というと水戸黄門だけだと思っているでしょう。黄門と
いうのは徳川の副将軍が隠居した人をいったり、中納言のことをいったのです。だから他にも
みつくに
黄門はたくさんいたわけです。それでも黄門さまというと水戸光囲だけだと思う。太閤さまと81
いうと豊臣秀吉だけだと思うでしょう。そうじゃない、太閤という位です。大師さまというと
弘法大師だと思うでしょう、弘法大師が一番偉かったから。しかし大師というのは高僧へ死後
おくられるおくり名ですが、大師さまというと弘法大師だと思っちゃうでしょう。そのように
特別目立った人の名前になっているから、キリストというとイエスさんだと思っちゃうんです
よ。そうじゃなくて、真理を現わ毒た人はキリスト、神さまのみ心をそのまま現わした人はキ
リストです。そうすると私が神のみ心を現わせばキリストでしょう。それをイエスばかりキリ
ストだと思って、イエス・キリストのみ名においてでなければ救われない、といっているわけ
です。そんなことはない。
誰でもほんとうに真理を現わした人、無我になってそのまま神さまのみ心を現わした人はキ
リストです。だからみなさんがほんとうに無我になって、神さまのことを現わしたらキリスト
ですよ。繹というのもそうです・仏陀とキリストとは同じ立愚肇す・仏さまは甥つぼになっ
た人、自我がなくなった人をいうんです。ほどけた人、罪がほどけてきれいになった人を仏さ82
まというのです。仏陀というとお釈迦さまだけだと思うでしょ、
を考えないといけないですね。
そうじゃない。そういうこと
心は青空の如く
心の奥の天をつきとめた
だからイエスのみ名だけを呼ばなければ救われない、そんなことはありません。そんな狭い
心じゃいけません。誰でも救われる。,自分が神さまから来ているんだということがわかると救
われる。自分は神さまから来ている分霊であるから、神さまのみ心を現わしさえすればいい。
神さまのみ心は何かというと、愛です。それから明るいこと明朗性、光でしょう。太陽のよう
な光です。暗くありません、メソメソする光はないでしょう。太陽が輝いて青空のときには雨
は降りません。それと同じように、自分の心を青空のように光らしてなければダメですよ。太陽
が光り輝いている。いつも青空になっている。青天白日の身になっていることが大事でしょう。
しめっぽい想いがあったり、悲しみがあったり、妬みがあったり、恨みがあったり、不害が83
あったら、それを世界平和の祈りの中に入れちゃうんです。入れているうちに、青空になって
来ます。私の書いた「神と人間」の序文に短歌がありましたね。

ひたすらに神を想ひて合はす掌の
それさへ消えてたゴに青空
これはどういう境地かというと、あれはまだ本当に悟っている境地じゃないんだけれど、祈
っていると、フーッと体がひろがっていって、もう掌もなければ体もない、光り輝いた青空だ
けになっちゃう。自分が青空だけになっちゃう、という体験をして、それから
あめつちうみな
天地のひびきひとつに海鳴りと
ひい
なりしところゆ陽は出でにけり
となった。これはどういうことかというと、天も地も海も一体になって、天地が合体してし
まって、海鳴りのようにひびきわたっている。光のうずまきのひびきわたったものが自分だ、
ということがわかったんです。それでこういう歌が出来たのです。それは私の悟りの心境です。
84
思い出さずに忘れずに
昭和33年3月9日市川五丁目会館
思い出さずに忘れずに
いつも一緒であれば
信仰というものは”思い出すよな惚れよじゃないよ、思い出さずに忘れずに”という小唄の
文句のようなもんです。毎日毎日、一緒に暮している夫を忘れることはないでしょう。いつも
一緒にいると忘れないでしょ。自分の鼻を忘れる人はない。いつもついているでしょ。はなれ
ないでついていることが確実なんだよ。そうすると改めて思い出さないですよ。思い出してい
るのは病気だったりしてね。神さまはそういうものなんです。思い出さずに忘れずに。思い出
85
しもしなければ、忘れもしない。いつでもあるんですね。だから神さま! って今更呼ばなくた
っていい程の境地になれば一番いいんです。
その境地になるために、その過程として、神さま神さまと思わなきゃだめです。法然上人は
初め自力から入った。法然さんは頭が良くてよくて、行ないも実に正しい人なんです。けれど
自力から入った人だから、南無阿弥陀仏を六万遍か唱えたんですね。寝ても覚めても南無阿弥
陀仏ー。人と話をしていても、あxさようでございますか南無阿弥陀仏、あΣそうかな南無
阿弥陀仏、それはいいことですね南無阿弥陀仏と、ズーッと南無阿弥陀仏ばかりやっていた。
それだから刑で四国へ流される時でも、南無阿弥陀仏をいっちゃいけない、というのに南無阿
弥陀仏と平気な顔をしていってたでしょ。もうなんの話でも南無阿弥陀仏をやってた。
皆さんは世界平和の祈りをやれば、そういうことになっちゃうんです。はじめそんなところ
から入るんです。ところが親鸞になりますと徹底しちゃって、七万遍も六万遍もやれとはいわ
ない。一念の念仏、ほんとに仏さまと深く思えば、口でヘラヘラいわなくったって、それで救86
思い出さずG’忘れずに
われる、とこういったんです。ほんとに神さまを思えば、口で云わなくったって神さまくっ
て思います。それを狙ったわけですよ。六万遍いえ、といわれると、いわれたほうも”アレ、
少なかったかな” って、数えるのも大変ですよ。世界平和の祈りを朝から晩まで、一万遍やっ
てごらんなさい、何も仕事が出来なくなっちゃうから。お早ようございます、世界人類が… …
お念仏より少し長いからね、一万べんどころか、千べんも出来ないですよ。
親鸞が一念の念仏で救われるといったことは、ほんとに仏さまはある、仏さまにみんな任せ
ようという気持になって想った人は、適当に胸の中で南無阿弥陀仏が出ているんですよ。そう
いう風に世界平和の祈りも、神さまと思うのもあればいい。口でいちいち神さま神さまといわ
なくても、ふつうの人と話して、あΣ いいお天気でございますな、という時、あΣ有難いなア、
というのが入っている。あ」なんていいお天気だ有難いな、こんにちわ、とにこやかに入って
くる。そういうのが信仰なんですよ。
87
いつも世界平和の祈りを
88
あ」こんにちわ、という時に心がパーッと明るくなってくる。あの人が平和でありますよう
に。こんにちは八百やさん、この人も元気でよかったな、世界人類が平和でありますように。
道で会って、どうでした学校の成績は? ええおかげさまで、世界人類が平和でありますよう
に。落ちました、お気の毒に、世界人類が平和でありますように。歯が痛くてこんなにふくれ
ました。それは大変でございますね、世界人類が平和でありますように。と心の中で何でもか
んでも、すべて世界平和の祈りにひっくりかえってくる、そういう練習をする。いちいち言葉
に出さなくていいですよ。
言葉に出してやってごらんなさい。「歯が痛くて」「世界人類が平和でありますように」と
いったら、なんだか当てつけみたいでしょ。子供が学校を落ちまして、どこへやったら「あN
世界が平和でありますように」といったらなんだかバカにしたようでしょう。だから言葉に出
さなくていい。世界人類が平和でありますように、というのは祝福することと同じようなもの
です。平和であるんだから。だから、学校おちた。「あΣお気の毒でした、でもね、またいい
ことがあると思います。気を落さないように」といっている時、心の中で、世界人類が平和で
ありますように、とやっているんです。これは出来るんですよ。
守護霊さんが教えてくれる
思い出さずに忌れずに
昔、ばんがくとかいう人がいて、山中の仙人に教わっていたんです。そしたら或る時、ねな
がらお前のいびきを数えろ、というんです。ねている間に自分がいびきをいくつするか、数え
るということが出来ますか? できると答える人はないでしょう。それを数えろ、というんです。
困ったねえその人も。数えろというんだから数えようと思って、いい加減でもって、何千とか
何百とかいうわけです。違う、とおこられるんです。ひっぱたかれるんです。でも最後に数え
られたんです。どういう風にしたかというと、ねちゃえばいいんですよ。かまわずグ!グー寝
89
ちまえば。それで心がちゃんと神さまに通じていると、起きると幾ついびきをかいたか教えて
くれますよ。私なんか出来ますよ。だって起きりゃ自然にわかるもの。ねている自分はわかり
ませんよ。けど中に守護霊さんがいいます、守護霊さんがちゃんと教えてくれますよ。
守護霊と一つになっていれば、神さまと一つになっていれば。守護霊さんは寝ずの番で守っ
ているんだから、お前はきのうは七六〇だったとか、八〇〇だったとか教えてくれます。その
教わった通りいえばパチッと当ります。そういうものなのです。出来ないと思う心はこっちの
頭の中だけであって、出来ないことはないんです。何んでも出来るんです。
神さまと一つになっていれば、守護霊と一つになっていれば、なんでもわかるんです。向う
から誰か来るんだってわかります。時計がなくても何時だかわかります。便利でいいやね。ゆ
うべの地震は何時だった、あ工二時だ、なんてそんなのわけなくわかります。わかるのが当り
前なんです。だから皆さんは世界平和の祈りをするんでも、言葉で、せかいじんるいが… … な
んていわなくたって、心の中で世界平和を唱えているものがある。神さまが守護霊や守護神が
9Q

思い出さずに忘れずに
世界平和を唱えているんです。だから自分がすっかり任せきって、すがってさえいれば、中で、
世界平和、世界平和ってほんとにしきりに唱えていますよ。心を澄ませばちゃんと唱えていま
す。
私が修業中に、電車に乗っていても、神と一つであるように、私は神と一つである、とやっ
ていた。そうしますと、中で、南無阿弥陀仏といっているんですよ。それは素晴しい良い声な
の。誰かって、法然さんがいっているんです。もうありありとこの中でひびき渡っているんで
すよ。その時に、あx法然さんがうちの守護神だと思ったですね。うちの守護神は他にもいる
んですよ。だから私は法然さんを法然先生と思っているんですよ。わが師の君と思っているん
です。私は教わったことがあるからね。法然さんがひびきわたって、ここで南無阿弥陀仏と唱
えていた。実にいい念仏です。悟りきった念仏なんだね。その時私は、あx神と一体なんだな
ア、と本当に感じたですよ。
91
神さまとピタリと合う
92
そういう風に、世界平和の祈りも自分の肉体、自分がやっているんじゃないんです。自分の
肉体は神さまに合わせさえすりゃいいんです。世界人類が平和でありますように、と思うと、
神さまにピタリと合うんですよ。そうすると神さまの方から世界平和をスーヅと光によって流
してくるんです。それが声にすれば、世界人類が平和でありますように、ってきこえるわけで
す。いちいち世界が平和で… … とやっていると、電話を間違えちゃうし、おせんべを数えるの
も間違えちゃうから、そうやる必要はないんですよ。世界平和というものはこの中に湧き出て、
世界平和の他に何もないんです。
いつも世界平和で消えてゆく姿。何が来たって、悪いことが来たって、そんなもの消えてゆ
く姿で、別になんでもない。消えてゆく姿と思うことさえないですよ。消えてゆくに決まって
い るから、消えてゆく姿と思うことさえもなくなっちゃう。世界平和とわざーいうことさえ
もなくなっちゃう。もうそのまま神さまと一つになってゆくのです。そういう人がたくさん出
来れば、その光は大変なものです。輝いています。
神さまというもんは、思い出すようなもんじゃなくて、思い出さずに忘れずに、思い出すん
じゃなくて忘れずに、思いも出さずに忘れもしない。そういう風になればしめたものです。
神の化身植芝盛平先生
思い出さずV’忘れずに
人間というものは宇宙と一つなんです。神と一つなんです。自分の我があるだけ一つになれ

ない。我が全部なくなれば神さまなんです。植芝盛平先生は自分は神だ、というんです。あx
あそこに私が働いている、あそこにも私が働いている、とこういうんですよ。昔、憲兵なんか
を教えていたけれど、憲兵の中に私が大分いる、なんてこういういい方をするんです。それは
自分は神さまになって、神の化身だということが本当にわかっているんです。といって威張る
かというと威張りはしないんです。
93
合気道の達人がわざー年令的には若い、しかも後から出た私を訪ねて来られて、そして
門私はチャソバラばっかりやって損しましたよ、五井先生はチャソバラも何もやらない、はじ
あから世界平和だからほんとにいいですね。私はあとからついて行きますから、どうか先頭に
立ってやって下さい、もう先生の時代です」とこういうんですよね。それで信者になります、
といって維持会員になられて帰ったんですよ。それほど謙遜になられている。
神と自分は一つである、自分は神の化身だとわかると、威張るんじゃないんです。ところが
・今の宗教家、新興宗教の人などは、神がかってきたり何かすると、威張っちゃう。新興の大宗
教の教祖なんてそうなんですよ。教祖も息子もその奥さんも、みんなそうなんです。信者たち
が頭を深々とさげても、頭も下げず挨拶もしない。まるで昔の大名や殿様が通って行くような
恰好で通って行く。そういうことは神さまの目から見ればバカなことなんでナ。威張っている
ことだけ神から遠いということなんです。神さまはちっとも威張っていませんよ。いつくしむ
だけ、愛するだけなんです。俺は神さまだ、お前は別だ、なんてそんなことは思わないのです。94
思い出さずに忘れずに
謙虚とか何とかということと違うんです。そのまま暖かくて、そのまま柔らかくて、そのまま
一つなんです。そういう姿がやっぽり植芝先生にはあるんです。私にもあるんです。
とが
私は全然威張ったことがありませんよ。間違ったことをいってもあんまり餐めもしない。だ
まって消してゆくだけでしょ。唐紙でも開けてくれば、さあいらっしゃい、ハイいらっしゃい、
そういう調子でしょ。威張っていっている必要はない。そんなことをしていたら、私くたびれ
ちゃうもの。一旦二百人もの人に会ってて、そうやっててごらんなさい、くたびれちゃう。何
か聞くことがあるか。へえ実はこれーこうで。あxそうか、それはお前の心が悪い、直せ(笑)
なんてやっていたらくたびれちゃうよ。さあいらっしゃい、あxそうなの、あx悲しいでしょ、
とやっている。それがわざーやっているわけじゃありません。だけどそうなっちゃうんです
自然に。神さまの心ってそういうものなんです。自分が空っぽになりゃ、さあいらっしゃい、
苦しいの、さあだいてあげましょう、というところです。自分とあなたは一つなんだから、み
んな一つなんだから。自分が宇宙ならみんな宇宙じゃないですか。だから本当に神さまがわか95
った人なら威張ることはないんです。
毛嫌いしているうちはダメ
あまてらすおおみかみ
黒住教の黒住宗忠は天照大御神が自分の中に入って、天照大御神の化身だと思った。そうす
るとみんな天照大御神にみえるんです。誰も彼も。だから黒住宗忠はとっても愛情があって、
とてもやさしい人でした。癩病患者が来ても、家にあげて治療してやったんです。平気でさす
つてやったんです。かわいそうに可哀そうにと涙を流してさすってやれる人なんです。植芝先
けぎら
生でも恐らくそうでしょ、私もそうですよ。あの人は汚ない、あんなのはいやだ、と毛嫌いし
ているうちはダメなんですよ。毛嫌いしているだけ神さまから遠い。だから毛嫌いしているら
があったとするならば、それは業の消えてゆく姿だ。人が憎いと思ったら業が消えてゆく姿。
本当の自分というものは神さまの子なんだ、神さまと一つなんだ。宇宙大なんだから、みんな
なつかしい。みんないとおしい。96
思い出さずに忘れずに
どんな人でもいとおしいんですよ。私どもの処にも、汚ない手をした、さわるのもいやなよ
うなお爺さん、お婆さんが来るんです。私は手を握ってチャソとさすってあげるでしょ。別に
汚ないことも何もありゃしない。愛していりゃ全然汚なかない。自分と同じものだからね。自
つばき
分の唾があるでしょ。のみこみますね。誰も汚ないと思わないです。ところが一ぺんこれを出
してみなさい。外へ出してのみこんでごらんなさい(笑) 汚ない感じがするでしょ。どうして
中にあったら汚なくなくて、外に出したら汚ないんでしょう。それは他人扱いをするからです
よ(笑)自分のものでなくなるから。それと同じように人間でも自分の外に出しちゃうと、宇
宙の外に出しちゃうと汚なくていやですよ。会うのがいやです。外に出しちゃえば、こんな汚
ない婆さんが私のきれいな手を握ろうとする、なんていうでしょ。自分のものだと思えば汚な
はな
くないですよ。漢をくっつけられたって汚なくない。汚ないなんていうことがないんです。そ
こまでゆくわけです。
しかしそれは順々に行かなくちゃいかないでしょう。一番行き易い方法は、やっぱり神さま97
と一つである、世界人類が平和でありますように、世界人類が平和でありますように、愛深き
私にならしめ給え、どうか愛深い私にならしめ給え、などどういう方法でもいいけれど、世界
平和の祈りが一番ひろまり易いから、世界平和の祈りがいいでしょう。世界人類が平和であり
ますように、とやる。神と一つである、五井先生と一つである、といってもいい。そうすると
自分は坐っていても神さまから教わります。実際は毎日、朝から晩まで神さまから教わってい
るんだけれども、自分でわからないだけなんです。
98
中で平和がなりひびく
本当は向うへ行ったら怪我しちゃうかもしれないけれども、知らないうちにこっちへ来てい
る。その人と会ったら都合の悪いことがある場合には会わせないとか、そのようにいつでも守
ってくれるんです。それが守護霊さん守護神さんでしょう。守護霊守護神も五井先生もみんな
一つなんです。一つなんですよ。体が邪魔なんです、けれど体を消してごらんなさい、私がい
思い出さずに忘れずに
ないと思って、声が自分の中から聞えてごらんなさい。自分と一つだと思うでしょ。私は法然
さんの南無阿弥陀仏をきいて、あ玉仏さまは私の中にいらっしゃるなと思った。それと同じこ
とです。
ほんとに深く世界平和の祈りをやっていますと、中で世界平和がなりひびいている。なりひ
びくということは、光が流れて宇宙に流れているんです。この地球世界に流れている。だから
いつも世界平和の祈りをやっていればいいんですよ。そうすると、その中に五井先生がいる、
世界平和の祈りというのは私が提唱したでしょ。だから世界人類が平和でありますように、と
やる時には五井先生がいる。南無阿弥陀仏をやる時には法然がいる、親鸞がいる。念仏も法然
上人が生きていた時、親鸞上人が生きていた時と、法然、親鸞が亡くなったあとは効果が大分
違ったです。
法然、親鸞がいた時は法然、親鸞を通して南無阿弥陀仏でした。だからとてもききめがあっ
た。ところが法然、親轡…のような偉い人がいなくなって、あとぬけたような和尚さんばかり出
99
た揚合には、その和尚さんを信ずるわけにはいかないでしょう。だから力が弱かったんですよOo
1
ね。ところが今ここに五井昌久がいます。低界平和をやる時は五井先生を思い出しますね。五
井先生というのはこの肉体の形だけのものではなくて、宇宙にみなぎっている五井先生なの。
その五井先生がみんなのところへゆくわけ。体があるから邪魔なんだけど、なければ困るでし
ょ。そのうちに消えたり出たりするかもしれません。それはないとは保証出来ません。あるか
もしれない。そういう時があるんですよ。
みんなの体が高天原
というのはどういうことかというと、逆にかえせば宇宙人が現われる時があるんです。目に
見えない姿が目に見えて現われてくる。イエスキリストがここにいます。ところが目に見えな
いでしょ。こちらが浄まってきて、もうソロソロ降りてもいい頃だと時機をはかったら、スー
ッと現われます。皆さんの世界平和の祈りの中から出てくるんですよ。世界平和の祈りがひろ
思い出さずに忘れずに
まればひろまる程、神さま方が降り易い。やっぱり人間の形をしていると、なんだあれは人間
じゃないか、五井先生っていったって人間じゃないか、とこう思うんですね。人間の肉体だけ
じゃ都合が悪い、それで肉体に出なかった人が肉体になって現われれば、それは天降りです。
それこそ天孫降臨だね。
たかあまはら
高天原がここにあるんですよ、高天原ってどこだか知ってますか? みんなの体ですよ。高
のりと
天原に神づまりますかむろぎかむうみのみこともちて… … という祝詞がありますね。高天原
というのは覚った人の体ですよ。みんな体に神づまりに神づまっているんです。神さまたちが
から
みんなここに来ているんです。だから皆さんも空っぽの体になって、世界平和をやっていれば
そこへ神さまたちがみんな集っている。何ものも侵すことはできませんよ。そういう人たちが
多くなれば、日本は世界の中心、平和の中心になります。日本は他に能がないですよ。
101
日本にそなわっているもの
XO2
この間も話したけど、日本は自分の霊性を現わす以外に能がありません。力はありません。
金はありません。色男でもありません。顔で比べてごらんなさい、白人のほうがきれいでしょ。
力もありますね。何が外国人にまさっていますか? 只一つある。それは何かというと、中ら
帰一の思想というんです。パッと一つのものに集って来られる思想。今までは天皇だった。と
ころが戦争に敗けちゃったから、天皇の御為にはきかなくなった。なくなってしまった。そし
たら日本人ほどだめになったものはありません。このままでいったらヨーロッパにかないっこ
ない。
南極探険に行って失敗して帰えってくる。あれはお金がないからです。金があれば氷割の船
を造ってゆくでしょう。ないばかりに、氷が張った所へ行って砕氷船を頼んだでしょ。あれで
もうこおりこおりしたですよ(笑)。無いのにやるといってもだめです。あることをやればい
思い出さずに忘れずY’
い。日本に備わっているものがある。それは帰一思想であり、霊性です。日本は霊の力が非常
に強いんです。最後の切札で、いよいよ日本は他にないということがわかって来た。サケマス
漁業権で、ソピエットにいじめられ、アメリカにいじめられている。そしたらこの間、新聞に
書いてあったけど、かまわずソ連にどんー進んでいっちゃえばいいというんですよ。そうす
れば大丈夫だ、何んだったら、サケマスだから(笑) これはうまいことをいうな、と思った。
だけど実際には向うは避けません。力によって勝ってるでしょ。今この現象世界を押えてゆく
のは力です。軍備の力、金の力です。アメリカとソビエットが頑張ったら何も出来ないでしょ。
原爆、水爆の製造や実験を日本が止めてくれといったって、ソピエットもやめっこないし、
アメリカも止めない。向うは背に腹はかえられないんだよ、悪いと知りながらやっている。悪
いと知ったら止めりゃいいのに、知りながらやっているのは悪党ですよ、その行為においては
悪党です。それはアメリカもソピエットも同罪です。しかし文句をいったって涌用しません。
向うの方が力が強いんだから。日本はどうしたらいいかといったら、霊性の開発、霊の力にお塒
いて、神さまの力において勝るより仕方がないんです。神さまのカキ結集して、ここに同志を04
1
たくさん作って、それで世界を押えるよりしようがないでしょ。それじゃどうしたらいいかっ
ていうと、祈るより仕様がない。祈るにはどうしたらいいかっていうと、世界平和が一番いい。
世界平和の中心勢力が日本
世界平和の中心になるのは、日本より他にないんです。それで世界人類の平和を私が唱えて
いるんです。世界平和を祈ると宇宙人も助太刀にきまず。守護神、守護雪孟助太刀にぎます。
その力によって、さあどうだ、といわない限りはソビエットもアメリカも頭を押えることは出
来ません。それをやるのは日本なんです。日本であることは確かなんです。日本という名前も
そうだ、日の本、霊のもとです。それもそうだけども、実際問題として現象に現われきたこと
がみなそうなのです。
まず原爆でやられましたね。日本だけでしょ。一番戦争のわざわいを知っているんです。つ
思い出さずに忘れずに
いこの間も水爆でやられましたね。そうすると、日本は原爆、水爆に対して一番反対する権利
があるわけです。もう戦争はこりごりだというのが日本でしょ。今、日本で戦争したい人なん
か一人もないです。戦争したって、武器において敗けるし、やる気なんてない。どうしても力
じゃだめだ、金じゃだめだ、男ぶりじゃだめだ。なんでもだめだとしたら何がいいかといった
ら、神さましかない、ということになるでしょう。そこで世界平和の祈りをして、抽さまの力
を結集してやるという所にどうしてもいきます。アメリカにいじめられ、ソピエットにもいじ
められ、韓国にもバカにされる、どうしてもだめだ、ということがわかって来ます。よくよく
考えてわかって来ますと、みんながこの祈りの方にくっついてきます。五井昌久ってのがやっ
てるぞ、あれなんだかバカに増えてきた。なんだろうッてんで来る。もう方法がなくて、日本
を救う憂国の士などがみんな祈りに参加します。
世界平和の祈りより他に大きな祈りはありませんからね。みんな参加してくる。そこへ宇宙
人が参加してくる・守護神守護霊が現われてくる・現われて来たらみんな寄って来享から・燭
今、宇宙人がハヅキリ現われて、さあ日本人と手をつなぎましょう、と云ってごらんなさい。06
1
問題ですよ。空飛ぶ円盤のような変幻自在な物体を持っている人種と戦争が出来まナか? 戦
争なんか出来やしませんよ。人工衛星など問題になりません。空飛ぶ円盤のようなものが出来
るということは、素晴しい科学を持っているということでしょう。そういうものと手を組んだ
国は、一番強いに決まっている。原爆を作り水爆を作ろうと人工衛星を作ろうと、全く押えら
れてます。そうした力と提携した国というのはウソと浮び上っちゃう。
私の念願
今は軍備が強いところが勝っているんでしょ。だから単なる説教とか宗教的な理論とかそん
なものはだめなんです。南方仏教ではこうだ、北方仏教ではこうで、イエスはこうだった、な
んて、そんなもの聞いている間がない。こういう行ないをしなきゃならない、こうするんだ、
なんて説法だけ聞いたって、もう屍にもならない。そんなもの間に合わない。説教はみんな聞
思い出さずY’忘れずに
いているんだ。アメリカだってアイゼソバワ! はじめクリスチャソでしょう。それだってやっ
ぱり原爆を作り水爆をつくって実験したでしょ。自分を守るためには業の力にかなわないんで
す。
そんなものじゃなくて、実際に実施してほんとに力あるものを天降すようにしなければ。ど
うぞ現われて下さいって、みんなが世界平和の祈りで迎えなければだめです。要するに救世主
を迎えなきゃだめです。その救世主の大光明が天降った国が中心になるに決っている。神さま
がそのまま降りてくりゃ敵うものは何もないでしょ。神さまが創ったものなんだから、あとは
消えてゆく姿なんです。それをやろうじゃないかというのが、私たちの念願なんですよ。それ
に協力するのが皆さんなんです。
世界人類が平和でありますように、日本が平和でありますように、私たちの天命が完うされ
ますように、この三つの中に、皆さんの幸福も入っているんです。皆さんの働きも入っている。
そして守護霊守護神に感謝していると・やがて平和は出来る・そうした時に讐さんは・あΣ 斯
私の力も加わった有難いな、私も働きが出来た、私はお婆さんだったけれども、これで働きが08
1
出来た、私は病人だったけれども、世界のためになった、うちは家庭が不和だったけれども、
あΣお国のためになった、という風になりますよね。そうすると家庭の不和も、貧乏も吹っと
んじゃいます。
まず第一番に、世界の平和を作らなきゃ、自分の家庭の平和など成立たないです。だから世
界平和の祈りをやらなければいけない、祈ってた方がいい、ということになるんですよ。
愛はすべてを癒す
昭和3年4月5日飯田橋・東京割烹女学校
愛は暖い
愛はすべてを癒す
私の宗教の根本は、人を責めないということ。自分を愛し人を愛し、自分を赦し人を赦す。
これが根本なんです。今迄の宗教に赦すという言葉があるんです。愛すという言葉もあるんで
す。ところが愛すというのは氷だと思っている(笑)冷たい心で、お前は罪深い者だ、お前は
悪い、お前が… … とそれがアイスだった(笑)私はホットのほうなんです(笑)愛というのは
温いもんです。見るからに温いものです。畑
消えてゆく姿というのを私が教えましょう。病気で苦しがっている人がある。そうすると「病10
1
気はネ、それは消えてゆく姿ですよ、大丈夫ですよ」とちっとも同情しない。片方は痛いんだ
よ(笑) 消えてゆくも何も覚えやしないその時は。痛い、苦しい、とやっているでしょう。そ
の時はダメですよ。さすってやったらいいでしょう。そうすれば有難い気がする。
また息子が悪くて、困って「もうどうにもならないんです」といってくる。そうすると「い
いじゃないですか。消えてゆく姿ですよ、今によくなりますよ。神さまがよくしてくれますよ、
大丈夫ですよ」ただそれだけいうんです。向うじゃまだ息子が悪くて、自分は死んでしまいた
い気でいるところ、ただそれを消えてゆく姿だけで、頭ごなしにやっちゃだめなんです。それ
は言葉なんです。自分が苦しくないんだよ。さっきの斉藤さんのように「あΣ矢野さんの守護
霊さん、ごめんなさい、すいませんでした」というのは、矢野さんと同じ気持になっている。
矢野さんの命と同じになっている。
向うが苦しんでいるのに、慰めもしないで、はじめっから(そっけない調子で) 消えてゆく
姿ですよ、そんなの消えちゃいますよ、って頭ごなしにやったんじゃ、それは愛に乏しい行ない
です。消えてゆく姿という言葉が生きてないんです。それは言葉だけの言葉です。消えてゆく
姿というからには、自分が向うと同等の気持になって、向うの苦しみを自分の苦しみとして、
はじめて「あΣ そうですか、息子さん大変ですね。本当にお気の毒に、私も一緒にお祈りしま
しょうね、あなたもお祈りしていけば、必ず消えてゆきますからね、さあ一緒にやりましょう」
こういうのなら、向うと同じ苦しみになるでしょう。それで始めて消えてゆく姿になるんです。
何故かというと、自分が背負うからよ。あ玉大変ですね、本当にお気の毒ですね、という時に
は、向うの苦しみを半分背負っているわけなんです。それじゃ二人で祈って消しましょうね、
ぼさつぎよう
蹴そうすれば消姜すよ、というのは”消えてゆく姿〃なんです。韮口薩業というんです。

翼塗き.た心をとかす
蛾頭ごなしに「そんなもん消えてゆくのよ・病気なんか無いのよ」てなことになると・菩蒙m
てんぐ
じゃない。天狗になってしまう。自分はわかっている、お前はわからない、わかっているから
1ー
2
アィス
教えてやる、ということになるんです。愛に乏しい行ない、氷のほうです。そんな言葉を聞い
ても少しも嬉しくありません。温くなくちゃいけない、暖い分にはいくら暖くてもいいです。そ
れには一遍、聞いてやらなければいけないんです。大変ですね、本当に悲しいでしょうね、と
聞いてあげて、それからコ一人でお祈りしましょうね、世界平和の祈りをすればきっとよくな
ると思います。先生もそうおっしゃっていますから、先生にも助太刀してもらってやりましょ
うね」そうやってごらんなさい、嬉しいですよ。それが宗教をやっていると、マニアになっち
ゃう。教えのマニアになっちゃだめですよ。教えが固く、ひからびてしまっては、死んでしま
います。ひからびちゃいけない、いつも生きている。私がそんなことをいったためしがない。
私の所へ来てごらんなさい。私は、ハアそうですね、大変ですね、と聞きますから、なんに
も意見がましいことをいいません。私が聞くということは、悩みを打ち開けたことだから、私
の中に入って来て、消えてゆくんですよ。あエそうー、聞くだけ。実は聞いてなかったりす
愛はすべてを癒す
るんだけどさ(笑)向うは言うだけ言えば消えるんだ。溜めておかなくてすむ。いわして上げ
なさいよ。変なお説教より、言わして上げたほうがよっぽどいいです。悩みある人があったら
聞いてあげたほうがいいですよ。苦しかったらさすってやったらいいですよ。理屈ばったお説
教は一切無用。そんなものいらない。そんなもの昔の宗教です。
愛の行ないただ一つ。愛の行ないというのは温かいんです。暖かくて暖かくて業が溶けてし

まうんです。悩んでいる時や迷っている時や苦しんでいる時は、心が氷のように冷たくて冷え

きっている。冷えきったところへ冷えた言葉をもっていったって、カチッとぶつかるだけです
よ。だから温かい言葉で受ける。温かく温かく愛の光を当ててやるんですよ。そうすればお説
ぜき
教などする必要はないんです。咳が出て苦しんでいる、あx大変ですねとさすってやる。さす
ってやれば楽になります。そうすると、人間の愛というものをしみじみと感じましょう。向う
の氷った心が溶けてくるんです。
明日の米の無い人に”神さまって祈ってれば出ますよ、みんな人間には食が与えられている塒
から、米なんか出ますよ”自分がそうなったこともないくせに、自分がなったらどんなに苦し14
1
いか、それがわからないで、人の心がわからないで、人の苦しみがわからないでお説教なんて
とんでもないことです。人の苦しみと自分の苦しみが合体して、人の苦しみが自分の苦しみに
なった時、始めて救いというものは成就するんですよ。頭ごなしの説教は一切いらない。私は
そう思うんですよ。
愛はすべてを癒す
もと
愛の行ない唯一つ。愛はすべてを癒す。愛だけです。もしか私が愛の行ないに悸っているこ
とがあれば、私は説教する資格がないんです。お説教なんか本当はいらないんです。愛しさえ
かしわで
すればいい。愛の一番の現れはお浄めの柏手です。あれが光なんです。光が入っている。愛と
は光なんです。それが向うに入ってゆくんです。
私は朝から今日何人お浄めしたか知らないけれど、二百人は超えていたんじゃないかしら。
新しい会館の時は、柏手が多いんです。掌が破れて痛いんですけども、痛いから止めちゃおう
と思わないんです。柏手を叩くのをいい加減にやったって、相手はわからない。先生、変った
お浄めをするな(笑) それだけですよ。けれどそういうわけにはゆかないんです。痛いのなん
て問題じゃない。真剣にやらなければいられないんです。愛さなければいられないんです。わ
ざー手を叩いているわけじゃないんですよ、やらなけりゃいられない。そうなるんですよ。
神さまと一つになって、愛さなけりゃいられません。損得で愛しちゃいないんですよ。愛さ
なければいられないから愛す、というまでにならないと、氷のほうのあいすになる。チャリテ
ィにならない。愛するが唯一つ、理屈はいらない。愛しなさい。温かくなりなさい◎ 温かく温
鶴かくどこまでも温かくなるんです。そうすると、この世の中の氷は溶けるんです。
篭今、この世の中は北極ですよ。世界中が愛に乏しくて、お互いが権力を争っている・個人は

す個人で権力を争っている。夫婦は夫婦で権力を争っている。親子は権力を争っている。みんな
郵がお互いの自我を出そうとやっているんですよ・そういうものは塑てゆく姿として・こちら田
はただひたすら愛すればいい。向うがどんなに自分にかかって来ようとも、自分をどんなに恨16
1
もうとも、どんなに妬もうとも、どんなに自分をやっつけようとも、それは自分の業の消えて
ゆく姿です。唯、あΣ 神さま有難うございます、神さま有難うございます、世界人類が平和で
てっとうてつぴ
ありますように、もう徹頭徹尾やるんです。そうすると神の光が必ず相手を純化させます。相
手の霊性を開発させます。それで本当の調和が出来るんですね。
まつこ
つくりごとじゃだめですよ。やらなければだめですよ。真向うひた押し、命のあらん限りは
世界平和を唱えるべきものなり。もう世界人類が平和でありますようにー唱えつづけるんで
す。そうすると本当の人間が出来上るんですよ。自分が救われると同時に、他人が救われ、社
会が救われ、世界が救われるんです。
何か質問があったらして下さい。
ゲヘナの火に投げ入れられるよりよい
愛はすべてを癒す
質問先程のA夫人の体験談のとき、手と足の無い方が口で書いたり、腕の先で描いたりし
ているとお話されましたが、背後霊が何か補佐しますか?
答勿論補佐します。と同時に自分の努力もありますね。偉いと思いますね。不具の人がニ
コニコ笑って、明るい顔をしていられるということは、偉いんですよ。人聞の偉さというもの
ふぐう
は、本当に困った時に現われる。一番不遇の時に心がおびえず、明るい心が出せるようになっ
たら、大したものです。
その人にとって不遇というんではない。一つも不幸じゃない。それは本当に神の姿です。本
当は肉体というものはどうでもいい、ということになるんだ。だからキリストは、もし足が神
っまえ
の行ないを蹟つかせるならば、足をきってしまえ。目が神の行ないを妨げるならば、目を挟ぐ
れ。それでも地獄の火の中へ入れられるよりもいいんだ、といっていましょう。ゲヘナの火とm
いいますね。魂のほうは永遠なんですよ。霊をくもらせてしまうなら、肉体が亡くなったほう
がいいんですよ。それほどにキリストはハッキリ言っているんです。
しかし私はそんなハッキリしたことはいわないです。肉体の世界も立派でなければならない。

霊の世界も立派でなければならない。どっちが先かということになる。霊の世界に思いを馳せ
ていると、肉体が自然によくなる。ところがお釈迦さまの時代では肉体を粗末にしていました
べつし
ね。時代が今の世と違うものだから、肉体を少し蔑視しましたね。ですから自分の縁者をみん
な引っぽって坊さんにしちゃったでしょう。
カビラエ
迦毘羅衛城というお釈迦さまのお城がありました。しまいには釈迦族というのは滅びてしま
うでしょう。何故滅びたかというと、優秀な若者をみんな坊主にしてしまったのだからね。残
ったのは弱い奴ばかりだし、手向ってはいけない、殺してはいけない、といわれたでしょ
う。
だから滅びてしまったのです。お釈迦さまの時はお釈迦さまの時でいいかもしれないけれど、
今の世の中では通らない。妻帯してはならないというでしょう。今月号の「白光」に書いてい
11$
愛はすべてを癒す
によにん
ますが、お釈迦さまはとにかく女人を近づけなかった。近づけると坊さんたちが心を乱して修
おかあ
業が出来ないから。それを阿難がお釈迦さまの義母の願いを聞いて、お釈迦さま、どうか義母
さんなんだから尼さんにしてやって下さい、と頼んで、お釈迦さまもやむを得ず比丘尼という
のを作ったんです。
阿難はとてもやさしいから、是非是非というおばさんの願いに、じっとしていられなかった。
女でも同じ命じゃないか、と思ったんですね。ところがお釈迦さまは坊さんのために女の人を
弟子にしないつもりだった。しかし比丘尼が出来ちゃったでしょう。それでもまだまだ警戒を
して、ふつうの女人を近づけなかった。お釈迦さまが浬薬に入ってからも、片よった弟子たち
は女人をお釈迦さまの遺体に近づけまいとしたのです。それを阿難が押しきって、女人に参拝
させるんですね。あれは私の霊覚で書いているんですけど。お釈迦さまの頃はそうやった。
今、女性を近づけまいなんていうことは出来ません。女子と小人は養い難しじゃないけど、
女はだめだからなんていったらどうするの? 女が救われなかったらどうします? 女が救わ囎
れなければ子供が救われません。今はどんな人でも救われなければだめな時なんですよ。今救210
われなければ救われる時がないんだ。すべて救われなければだめなのです。救うのは何かとい
とが
うと、餐める想いではなくて、消えてゆく姿という想いなのです。
空独尊
私は神さまの中に命を投げ出したんです。”神さまどうか私の命をお使い下さい、どうか人
類のために私の命をお使い下さい” “神さま有難うございます”その二つだけ思っていたんで
から
す。何々させ給えなんて他のことをいわなかったんです。そうやっているうちに、自分が空っ
ぽになっちゃったんです。空っぽになるということは、自分の想いがなくなる、自我がなくな
るということです。すると神さまがそのままうつって来て、神さまの働きをするというわけで
す。
ここに坐っているでしょう。いるけれどこの肉体の波動、ひびきはふつうの人のひびきと違
愛はすべてを癒す
から
うんですよ。空っぽなんです。だから私がピョッとやると、霊能者の人がみたら見えません。
一緒に歩いていても、私がちょっとやると、あN先生どこへ行ったんです、なんていうんです
くうしきそぐぜくう
よ。それは何故かというと、自分というのがなくなっちゃう、要するに空です。色即是空にな
るんです。色即是空になると、空の中から本当の光が出て来て、神さまの働きが出来るんです。
くう
だから皆さんが空になりさえすれば、神さまそのものになれるんですよ。みんなの心もわかる
し、遠くの人のこともわかる。こうやったままでわかる。
今、フルシチョフが二大権力を握っています。共産党の第一書記であり、首相になっていま
ながつづ
すが、私の目から見れば、これは影がうすい。うすいというのは永続きがしないということで
す。今にそうなりますから。アイゼソハワーが大統領になっていない時に、大統領になること
もわかっていたし、ミコヤソという人がソ連にいます。あれが相当な勢力にならない前に、あ
れは勢力になるよ、ということもわかっていた。誰かに話してあります。先生、そうなりまし
たね、というように必ずなるんです。
121
それで私が思うのは、日本が非常に霊的な働きをこの地上界でして、世界平和の中心の国に2
1
なるということは確実なんですよ。これは曲げることは出来ない。神さまがそういうんです。
神さまというのは誰かというと、五井先生の直霊なんです。五井先生という名前で現われてい
くうどくそんから
る神さまです。五井先生というのは何かというと、空独尊というんです。空が独り尊い、空っ
h から
ぽになることが一番尊いということ。ふつうは空っぽになれないんですよ。なろうなろうと思
からから
っても空っぽになれない。ところが空っぽになることが出来る。どうやれば出来るかという
と、神さまの中へ命を投げ出しちゃうことなんです。
自分がなくなる祈り
ところがふつうじゃ命を投げ出せないでしょう。私はだんーだんー手前に引いて来てい
るんですよ。本当は空になるのが一番いいんだ。自我欲望を出しちゃいけないんだーところ
がそれは出来ない。それならどうしたらいいかというと、神さまの中へ命を投げ出せばいい。
愛はすべてを癒す
ところがそれもなかなか出来ない。それでもう一つ下がって来て、それなら世界平和の祈りを
しなさい、というのです。どうして世界平和の祈りをするといいかというと、世界平和という
のは神さまのみ心なんです。人類が平和になり、大調和することは神さまのみ心です。そのみ
心の中に飛びこむことは出来ますわね。それで世界人類の平和を唱えると、その想いが神さま
の中に飛びこむ。それは妬みの心があるままでよろしい、恨みの心があるままでよろしい、不
幸な心があるままでよろしい。どんな心があっても、どんな想いがあってもかまわないから、
そのままの想いを世界平和の祈りの中に入れなさい、というのです。
やさしいですよね。そうすると、自分がなくなるでしょう。自我欲望がなくなるんです。神
から
さまの中に入っちゃうから、みんな神さまにお返ししちゃうんだからね。そうすると空っぽに
から
なるんです。空っぽになると、神さまの光がその人の器、肉体を通って光り流れてくる。だか
ら皆さん自分ではご存知ないけれどもくご存知ある人もあるんだV世界平和の祈りをしている
時には、その人は光明燦然としているんです。必ず燦然としているんですよ。それを通り越し塒
てしまうと、なんにも思わない。
124
何も思わない
私は歩いていても何んにも思っていない。人と話していても何んにも思っていない。こうや
って話していても何んにも思っていない。何んにも思っていないのに、どうして話が出来るか
というと、肉体の私が話しているんじゃないんですよ。神さまがそのまま口をきいているんで
す。日常生活も全部神さまがやっている。自分で思ったり、考えたりすることはないんです。
今日ここに来て、どういう話をしようかなんて考えてないんですよ。肉体はここに現われてい
る器である。中で働いているのは神さまなのです。そのまま働いている。空っぽだから。
先生の話には冗談がありますが、あれも神さまでしょうか、と聞いた人がいますが、冗談の
神さまというのもあるんですよ(笑) 神さまといっても多うございますよ(笑) 大神さまとい
うのは、在りてあるまま、そのままのものなのです。光なのです。大生命なのです。大智慧、
愛はすべてを癒す
絶対者なんです。それが働きに現われる時には、守護神として現われるんですよ。だから守護
神はたくさんいるのです。その守護神が代り番こに、サア今日は俺をつかわしてくれ、今日は
私が… …ある時はキリストが来て話をし、仏陀が来て話をし、いろんな人が来て話をするんで
すよ。だから霊眼で見ればいろんな人が見えるのです。この体は話をしやすいのです。
といって、今神さまがかかった(笑)お前たちの心は… …なんてやりはしませんよ(笑)そ
ういうのではなくて、この身このまま神さまに全部投げ出しているんだから、肉体側の方は何
にもないんだから、神さまが自由に使えるでしょう。ちょっとの業でもありますと、神界の神
さまは来ないで、幽界の辺からくるんです。自分の権力がほしい、自分の智恵をみんなに知ら
せたい、自分の鼻が高くなりたい、という想いがありますと、その鼻の分だけ自分の位が低く
なる。私のぐらいが丁度いい。鼻は高くもなければ低くもない、ちゃんといいように造ってあ
る(笑)。
125
天の光が流れて来て… …
126
話をするのじゃなくて、話が流れてくるんです。天の光が流れて来て言葉になり、天の光が
かしわで
流 れて来て柏手になり、皆さんのほうに入ってゆくんです。だから私に会うと、なんだか知ら
ないうちに肩が軽くなったり、心が軽くなったり、なんだか懐しい気がするんでナ。皆さんの
祖先が来ているんだもの。必ず守護霊が連れてくるんです。五井先生お願いしますって連れて
くるんです。ハイよござんすよ、と引き受ける。だから私は説教なんかしませんよ。みなさん
の想いがまるっきり映るから、あx この人はこのくらいはしょうがないなア、徐々にやりまし
ょう…:・この人はこのくらいの高さだから、このくらいのことをいってもわかるだろ
う、と向
うの心に下がっていろいろと話をする。
斎藤秀雄さんが初めて来た時「三年何カ月、お前は食うに食えないよ」といえば、そのまま
一家心中になるから、ハイ三月辛棒しなさい、三月たてばお金が出てくる、ほれ三月とやって
愛はすべてを癒す
延ばしてゆくと、自然につられてゆくでしょう。「まだ出ない、出なけりゃならないんだけど、
そりゃおかしいね」といいながら、三月三月と引っぽってゆく。そうすると知らない間に、二
年や三年たちますよ。その間に業が消えます。そうするとパッと出てくる。それをバカな(私
は馬鹿という言葉は好きじゃないんだけど)行者は、本当のことをいっちゃう。お前の命はあ
と三月なんて。本当のことをいったらもうダメなんです。お前の運命はもう三年たたなければ
開かない、とやったら、それで認識しちゃうでしょう。そうだと思ったらそれでおしまい。消
すことは出来ないんです。
私はそういう馬鹿なことはいわないんです。もうつっておくんです。それでただ黙って業を
消してゆくんです。消してゆくうちに本当の姿が現われて、光り輝いて来る。今の斎藤さんは
から
立派ですよ。変ってしまった。五井先生がのり移ってから。ということは空っぽになって世界
平和の祈りをしたからですよ。神さまがのり移ったんです。みんなにものり移るんですよ。の
り移ったって変なことをいいませんから。我は天照大神、そんなことはいわない(笑)低級の拗
に限って名乗りをあげるんです。我は八幡大菩薩とか、我は不動明王なり、とか名乗りをあげ218
るのは全部嘘。そのつもりでいて下さい。神さまは名乗りをあげません。その必要がないので
す。その行ないによってわかるんだから。
私が育てたい人
行ないが正しい人はやっぱり偉い人。愛が深い人はやっぱり偉い人。名乗りをあげても、八
幡大菩薩にしっぽがあったり(笑) 天照大神が耳が長かったりするんですよ(笑) そういうの
はたくさんある。偉そうに名乗りをあげる人がいいんじゃない。
霊能者の方が随分来ていらっしゃるし、霊能がだんー開発されて来ます。しかし私のとこ
ろへ来て開発された霊能は、高慢になるような霊能じゃない。人を迷わすような予言をしない。
温かい、明るい当り前の人、常識人として生活が出来ながら、しかもいろんなことがわかる。
そういう人に育てようと思っているし、そうなっています。何故そうなっているかというと、
一番先に業を汚れをとっておいて、高い神さまの所に連れていって、それから始まるからです
よ。それから始まりますと、みんなよくなるんです。
年中、来ていらっしゃる人は、必ず霊能が開発されます。霊能が開発されるということは、
いわゆる霊眼に見えたり、霊耳に聞えたりするばかりではありませんよ。直感的にわかる。直
感的にわかるということはどういうことかというと、パッとひらめくというのと、ひらめかな
いで、そのままスーッと行なったらいい方へ行っちゃう。そのままパッと行ったら良い人に会
う。パッとしゃべったらいい言葉が出て来た。そういう風に、知らない内に、神さまの言葉が
自分の口をついて出るんです。そういう風になっている。そういう人を造ろうと思っているん
鮒ですよ。みんな必ずなります。それは私が保証します。だから安心して世界平和の祈りをして
龍いくのです。
が世界平和の祈りをしていると・声の言藩出るんじゃなくて・知らない間に世界平和だけに
郵なっちゃうんです・世界平和だけになるとどういうことになるかというと・光り輝いている・伽
私は自分の言葉として唱えてはいませんよ。なんにもない。甥っぽです。ただ黙って歩いてい
る。ただ黙って冗談いっている。黙って冗談いっているんですよ(笑) 私は黙ってしゃべって
いるんですよ。そのつもりでいて下さい。私という肉体の方は何もしゃべっていません。黙っ
ているんです。黙っていると、神さまのほうから、サラサラロをきく。さっきのA 夫人でもそ
うです。自分で考えてしゃべったようにみえるけれども、考えたのとうしろの守護神の力とが
合わさっている。
本当の霊能が開発されると、言う言葉がみんな人の胸をつく。知らないうちに誰かしらの為
になっている。知らないうちに誰かしらを傷つけている、というのはたくさんあるんですよ。
それは誤った宗教家であり、霊能の低い人なんです。わかりますね。そういうことをよく考え
て、より励んでもらうといいと思います。
ではこの辺で世界平和の祈りで終りに致しましょう。
130
みんな同じ命
昭和3年4月5日飯田橋・東京割烹女学校
大事な霊性の開発
みんな同じ命
れいせい
人間にとって一番大事なことは霊性の開発なのです。日々の生活というのは、霊性の開発が
ないと生きて来ないのです。今までの人間が霊性というものを知らない、唯物論といいますが、
肉体以外に人間というものはいないんだ、と思っているんです。今、ここに来ている方は肉体
の他に霊というものがあって、霊性が肉体を支配しているということがわかっていますけれ
ど、本当に心からわかっている人はそんなに多くはないんです。ところが肉体の人間というも
131
のは霊界の指示に従って動いているんだ、ということは厳然たる事実なんです。それがハッキ32

リわからないと本当の世界にならないんです。
おうせい
霊性が非常に旺盛な、霊の力が非常によく働いているのは日本なのです。ですから霊性の開
そそ
発に一番力を注いでいい国なのです。なのに今、日本はさびしいですね。アメリカとソビエッ
トの間に板ばさみになって身動きが出来ない。たとえば中共と貿易をしようと思えば、台湾か
めんどう
ら文句をいわれて、どうしたらよいかと土43えちゃう。といって台湾が日本の面倒をみてくれる
おぎな
わけじゃない。日本の経済力を補ってくれるわけでもない。しかし中共と貿易したら日本が必
ずよくなるという目どもない。
どうしたらいいかわからない。岸総理大臣も誰もわからないんです。何故わからないかとい
うと、霊の眼で見ないで、霊の心で考えないで、肉休の現象の世界のことだけで考えているか
らです。それが私たちの心にはハッキリわかるのです。
今、世界がアメリカのいうように、ソピエットのいうように、中共のいうように、動いてい
みんな同じ命
たら一体どうなるかということはハッキリしたことなのです。それは地球が壊滅するというこ
となんです。滅びてしまうということだけなのです。そこで地球を滅ぼしてはいけないという
ので、各国に働いている守護霊的存在、守護神的存在、そういう光明がより集って大光明とな
って、使いやすい肉体を使って世界の建て直しをしようとしているのです。
その大光明が私にも来ている、皆さんたちにも来ているわけなのです。それで私の場合には
世界平和の祈りというのを先頭に掲げて、個人の霊性の開発と日本の霊性の開発を同時にやろ
うというのです。日本の霊性の開発というのは世界の霊性の開発と同じことなのです。日本と
ひれいれい
いうのは、いつもいうように霊の本、ひというのは霊ですから、霊の本という意味があるわけ
です。それで霊性の開発をやらなければだめなのです。それにはどうしたらいいか。今まで方
法がなかった。どうしたら真実の人間がわかるか、霊性が開発されるか、ということでいろん
な聖者や宗教家が先達になってやって来たんだけども、霊性開発が出来ていないんです。何故
出来なかったかというと方法を教えていないんです。それで私が方法をハッキリ教えた。
133
想いの転換方法
134
何かというと”消えてゆく姿” ということです。この世に現われているすぺてのことは、悲
しいことも、怨めしいことも、妬ましいことも、すべてが消えてゆく姿なのだ、あるのは神さ
まの光だけがそこにある。
一人一人の人間がいるということは、神さまの光が分れて光線となって現われている。人間
ごうしようごうしようこんこう
はすべて神の子であって、業生ではないのだ。業生というのは、善悪混交の想いです◎ 善いと
か悪いとかいう想いです。そういう想いは、すべて現われては消えてゆく姿だ、と私がハヅキ
リいっている。今迄そのようなことをいった人もあるんですけれど、これほどハッキリいって
いないんです。人間は神の子なんだから、悪があるわけがないんだ、神の子が問違ったことを
するわけがないんだ、というんです。それなら何故この世がこんなに乱れているんだ、何故こ
みじ
ん なに惨めなのか。争いに満ち、戦いに満ちている世界というのはどうして起ったのか。それ
みんな同じ命
はなやみ
は神さまのみ心から離れたからなんです。人間が神の子であることを忘れてしまって、闇の中
てんかん
に入っていったからですね。だから神さまのほうに想いを転換させさえすれば、おのずから神
さまの世界が開けてくるんですよ。そのためには、消えてゆく姿ということが行事として行わ
れなければならないんです。
しんじつ
目の前に現われていることが、すべてそのまま真実とすれば、この世の中はそのまま亡びま
す。真実というものは消えることがないからです。ところがこの世に現われたものは、すべて
消えてゆくのです。いかなる想いも消えてゆく。いかなる財産も消えてゆく。いかなる成功し
げんえい
た事柄も消えてゆく。すべてが消えてゆく姿、幻影と同じなのです。映画のフイルムが十巻な
ら十巻あるとします。十巻が終ると消えてしまうでしょう。芝居はどんな面白い芝居でも終る
と消えてしまう。この人生劇場はそれと同じようなものなのです。
この世は人生劇場なのです。人生劇場で神の子という役者が芝居をしているんです。今お芝
居の最中なのです。まだ慧蹴騰にφ かないんです。過程なんです。プロセスなんです。神さま塒
の理念がこの世界に現われるための一つの過程が今なのです。最後の幕が今まさに開かれよう316
としている。ですから今、生きている人、ここに生存している人は非常に幸せだと私は思うん
ですよ。しかも神さまのことがハッキリわかるような教えに入った人は幸せだと思います。
神さまの心を現わす宗教
宗教はたくさんあります。新興宗教なんていうのは数知れないほどあります。ところが本当
に神さまのみ心が現われるような教えをしている宗教は、あまり数多くないのです。大がいお
前はこういう悪いことをしてはいけない、お前はこんな妬み心を起しちゃだめだぞ、お前の因
縁は悪いんだぞ、先祖がたたっているぞ、障りがあるからこのままではダメだ、とこういうの
ごう
です。それで大体いじめているのです。業のほうを掴んで、消えてゆく姿を掴んでみんな説教
しているんです。現われては消えてゆく姿なのに、本当は人間は神の子なのに、神の子でない
かすやみ
ほうを掴んで、粕のほうを掴んで、闇のほうを掴んで、罪のほうを掴んで、お前が悪いんだー
みんな同じ命
悪いんだーというのですね。
しんらんざいあくじんちゆうぼんぶ
親鸞が罪悪深重の凡夫といったのは、肉体人間のことをいったのです。肉体の人間というも
かわい
のは、自分自身が可愛くて、自分にまつわる子供や家族が可愛いんであって、それが重天事な
かわい
んです。他の子供は自分の縁にふれるのが遠いに従って、可愛くなくなってくるんですよ。誰
こうしよう
でもそうでしょう。そういう風に出来ているんです。それが業生の人間なんですよ。それはい
けない、といったって、いいといったってそうなのです。それをハッキリみなければだめなの
です。
私はクリスチャソだから、いかにも愛深そうな顔をし、私は自分の子より人の子のほうが可
愛いんだというような顔をしようとしたって、それはダメなのです。いい加減にごまかそうと
しても、本当の想いはやっぱり自分の子のほうが人の子より可愛いんです。それがハッキリわ
ざいあくじんちゆうぽんぶしんらん
からないといけない。わからせるために、罪悪深重の凡夫という親鸞の言葉があるんですよ。
肉体の人間は罪悪深重の凡夫なんだ、人の子が死んだってそんなに悲しくないけれども、自分餅
の子が怪我でもしたらとても悲しいのだ。人の夫がどう怪我しようと大したことはないけれど、38

自分の夫に間違いがあったら大変なんです。誰でもそうでしょう。
いのち
人間は神の命において平等であるのに、仏のみ名においてみな平等であるのに、自分に親し
いものだけが可愛いくて、自分に親しくないものは可愛いくないのです。そういう想いはいつ
しんらんさいたい
までたっても消えないんですよ。親鸞はさんざん苦労した。お坊さんで初めて妻帯したわけで
しょう。そして子供もたくさんあった。ところが子供はみんな離れていったり、いうことをき
しんらん
かなかったりする。情けない悲しいですよね。そういう想いがいつまでたっても親鸞から消え
こうそうねんあやましんらん
ないのです。それは肉体にまつわる想いなんですよ。業想念、誤った想いです。それを親鸞は
ぼんのう
よく知っているんです。煩悩というものはみな肉体にまつわるものであって、それは誤った想
いであるということをよく知っている。
肉体人間はやはり罪悪深重の凡夫
みんな同じ命
誤った想いというものは肉体生活にくっついています。子供は自分のそばにくっついている。
妻は自分のそばにくっついている。自分の親戚はみなくっついている。そうするとどうしても
いのち
これは可愛い。だから平等に愛そうと思っても愛せない。仏の命としては平等だけど愛せない。
あΣなんて自分は罪悪深重の凡夫なんだろう、それがハッキリわかっていないとダメです。
一旦、肉体的には罪悪深重の凡夫なんだ、肉体的にはどうにもならない人間なんだ、とハッ
キリわからないといけない。それをいい加減にごまかしていてはいけません。例えば隣りの人
が困っている。自分はとにかく貯金が百万ぐらいあるとする。毎月食べるにも困らない。向う
は千円の金にも困っている。という場合に、自分が千円を与えることは出来るんです。二千円
を与えることは出来るんです。しかし、自分の百万円を半分に割って、五十万円をやるわけに
はいかない。自分と隣りとが平等になるように与えることが出来る人はないんです。誰も出来塒
ないんです。自分が余っているから余っただけを与えることは出来るんですよ。けれど、自分
と同じように人に与えることは出来ないのです。世界に何人しかないだろうと思います。肉体
人間はそういうものなんですよ。
ちょっとぐらいいいことをした、あの人にお金をやった、何かやった、だから私はいいこと
うぬぽささい
をしているんだ、というようなことは自惚れですよ。そんなもの些細なことですよ。実際問題
として、向うがどうぞあなたの財産を半分下さい。そうすれば私はあなたと同じになります、
と頼まれた場合、本当は神さまの御名においては平等だから、命において平等だから、さあ上
げましょう、とやれるかというとやれやしません。宗教家が全部集まってもやれません。
私のところに、先生、私は困っているから一万円下さい、私は三千円下さい、先生は宗教家
じゃありませんか、下さいって毎日毎日十人も二十人もやって来たって、私はやれやしません。
金がそんなにないからやりたくたってやれません。私にも家庭があるから、全部やるわけには
いかない。自分の家庭をみなければいけないでしょう。向うが望んでもあげられないんですよ。X40
そうすると自分の心の中に痛みが生じますね。あΣ本当はやりたいけれども私は救えないと。
親鸞、トルストイ、スターリン
みんな同じ命
例えばハソガリーに暴動があって、みんな困りましたね。こちらから救援物資をやろうとい
う気が起っても、余ったものをあげるだけですね。どこかに水害があった、でも誰も自分の財
産の半分をあげやしません。少しつつ余った分をあげる。ですから真理を本当に追求してゆく
ざいあくじんちゆうぼんぶ
と、肉体人間は生きられない。だから肉体人間としてはやっぱり罪悪深重の凡夫なんだ、自分
をかばう想いが強く、自分の親戚をかばう想いが強いのだから、そういう意味においては神さ
まのみ心にかなっていないんです。
神さまのみ心にかなわないけれども、やらなければ生きてゆけない。そういうところを突き
つめて突きつめて考えたのが親鸞なのです。
ところがみんなはいい加減にしちゃうんだ。ちょっと悪いことをしたけれど、千円やったか
141
らいいだろう、私は方々に配っているからいいだろう、そう思う。配った金はたかがしれてい
412
る。自分の生活は大きい。
良心的に深くなりますと、例えば自分が金が少しある、いい生活が出来ます、出来ますけれ
ど貧しい人を見ていると、自分が苦しくなってくるのです。私はこんないい生活をしていいの
かしら、あんな貧しい人がたくさんいるのに、自分だけは絹の着物を着、自動車に乗ってゆけ
る、これでいいのかしら、とそういう風に思う。
トルストイなどもそうです。彼は大地主の子です。自分はとっても富んでいる。ところが小
作人、自分の畑を耕している人たちは貧乏なのです。そういう人たちと自分と較べて、どうし
て自分だけがこんなに富んでいて、こんなに楽をしていて、みんなが貧しいのか、あのまま放
っておいていいのか、と思ったのです。有島武雄もそうです。それで苦しんでー、家を出て
しまうでしょう。トルストイは路傍で死ぬんですね。有島武郎は心中しちゃった。
本当に神さまとか、因縁とかいうものがわからないと、良心的であればあるほド苦しみ、良
みんな1司じ命
心が業で.覆われていればいるほど平気なのです。苦しまない。非常に不平等です。おかしなも
のです。
神さまがあるならば、何故こんなに人間を不平等に造ったのか。片方では貧しい人がいる。
片方では富んだ人がいる。片方では千坪の家に寝おきしている。片方では三畳に六人もねてい
る。そういう生活がある。こんなに不平等な生活はないですよ。神さまがあるならば何故こん
な不平等の生活をつくったのか、というのが共産主義者の始まりですよ。
スターリンだって子供の時にはキリスト教会にいたのです。やっぱり何故こんなに不公平な
世界があるのか、神なんかあるものか、という形でもって共産主義に走ったのでしょう。日本
の共産党の人たちもそういう人たちが多いと思います。良心的であればあるほどたまらなくて、
じっとしていられないんです。
共産主義者になって、みんな平等にしよう、有るところからとって、無いところにならした
らいいじゃないか、平等だーというふうになるんです。
i43
ところがそれをやりますと、暴動が起ります。有るものからとるんだから、一ぺん革命でも
414
戦争でも起して、無い者と平等にしようとする。ところが実際に平等にしてみると、力のある
者、才能のある者、頭のいい者がどんどん出て来て、また平等でなくなってしまう。いくら平
等にしても平等にしても、この世界は平等ではなくなってしまう。
現にソ連では持てる者と持てない者とはハッキリしているんです。政治局の上の者や芸術家、
才能のある者はうんと金を持っていて、悠々と暮している。労働者は黒パソか何か食べて、や
っと食べている。ソ連でさえかえってピラミッド型になって、持てる者と持てない者とが分れ
てしまう。
肉体人間を一度否定する
いくら理想を画いても、この肉体世界だけが本当のものだと思っている以上は、いくらどう
やってもこうやっても平等にはならないし、本当の人間の平和は来ないんです。それをわから
みんな同じ命
なければいけない。それを親鸞はわかって、人間は罪悪深重の凡夫なんだ、キリストは罪深い
もんだと一ぺん肉体を否定しちゃった。肉体の人間ではだめなんだから、神さまにおまかせし
なければならない、というように神さまに全部おまかせした。
みだぶつあみだなむあ
親騰にとってそれが南無阿弥陀仏になったのです。阿弥陀さまにすべておまかせするんだ南
無阿弥陀仏、阿弥陀さまだけなんだ南無阿弥陀仏。自分は阿弥陀さまの中にとびこんで生きる
んだ、自分の悩みも怨みも、何もかも全部阿弥陀さまのほうへ投げ出しちゃったのです。そし
て阿弥陀さまのほうから与えられた命を生きている。今、一瞬生きるのは阿弥陀さまの力で生
きているのだ、この一日生きるのは阿弥陀さまの力で生きているんだ、南無阿弥陀仏、有難う
ございます。感謝になります。
一日生きているのは自分の力で生きているんじゃなくて、神さまのほうから生かされている。
神さまに生かされている自分なんだ、神さまに生かされている自分なんだ、有難うございます、
有難うございますーそうやっていますと、自分の想いというのが無くなってしまうでしょう。
145
あいつが悪いも、こいつが悪いも、自分が悪いもなくなってしまう。
416
良心的であればあるほど苦しむものを、一ぺん罪悪深重の凡夫、肉体人間は罪の子なんだと
一ぺん捨てきると、神さま有難うございます、阿弥陀さま有難うございます、すべてがよくな
りますように、世界人類が平和でありますように、とおのずからそうなって来ますよ。みんな
が平和でありますように、みんなが幸せでありますように、私の天命が完うされますように、
神さま有難うございます、という気持にいやでも応でもなってゆく。
罪の子を神の子に
自分の想いというものを全部否定してしまって、神さまの中に全部お返えししてしまうと、
自分の霊性が開発されてくるのです。肉体の人間の力、肉体だけの力を神さまから離して、お
れはこれだけ力があるんだ、おれは東京大学を出てこれだけ勉強したんだから、これだけの力
があるんだ、おれの力でやるんだ、というような想いがあるうちはダメ。全部の力、すべての
みんな同じ命
力を投げ出して、どうか神さまよろしくお願いします、世界人類が平和でありますように、と
いうように、自分の想いを全部神さまの中に返してしまうと、始めて神さまの力がここに湧き
出てくるんです。
自分が生きているのは、自分が肉体が生きているんではなくて、キリストがこの中に生きて
いるんだ。キリストというのは神のことです。真理がここに生きているんだ。自分の中に神さ
まが生きているんだ。二十何億かいる人間は一人一人が神の子であって、それは悪いことなど
考えたこともないんです。妬み心など起したこともないんです。怨み心など起したこともない
んです。出世しようと思ったこともないんです。あいつをやっつけちゃおうと思ったこともな
いんです。そういうように思うものは神の子人間ではなく、神の子から一歩離れた想い、業な
のです。
むみようむみよう
神さまから離れた時、そこに業が出来るのです。仏教では無明といいます。無明はどこから
来たのか。これは大問題でして、無明の説明をしている人はないんですよ◎ 無明は忽然と出来即
たというんです。忽然念起というんですね。忽然と迷いが出たんだ、業が出たんだ、というの48
1
です。しかし忽然と出た、出ないは別としても、神さまの子であることを忘れて、神さまから
来ているのではなく、自分の力でやるんだ、と思った時に神さまから離れてしまう。離れると
余計に自分をかばって、自分の力でやる。自分の力でやるんだ、ということが陛.重なって考え
てゆくうちに、だんー離れてしまって、人間と人間とは別々になって、個々別々になりバラ
バラになってしまった。
本当は統一して、横に命としてつながり、縦にも命としてつながって、十字交差していたの
です。これがバラバラに離れてしまい、一人一人が肉体が洌々になってしまって、神さまとは
なんの関係もなくなった。それで神の子でなくて罪の子になっちゃった。
罪の子を神の子に返えすにはどうしたらよいかというと、神さまの世界に自分の想いを全部
入れてしまえばいい。ところが今までの宗教はそういうことは教えないんですよ。教えたよう
な恰好をして本当は教えていないんです。
神は責めさばかない
みんな同じ命
神さまの子であるならば、その人を責めることはないでしょう。神の子は完全円満なんです。
神さまの子は悪いことはしっこない。その神さまの子を、お前の心が悪い、とこう責めている
んです。お前の行ないが悪いからそうなった。お前が怒るからそうなった。お前が妻を愛さな
いからこうなる。お前が子供をこうするからこうなる。という風にみんな宗教家には責められ
通しに責められているのです。宗教を廻った人は責められていますよ。ところが私はそうは言
わない。
悪いお前は消えてゆく姿なんだ。さんざん宗教を廻った人が「先生、私は悪い人間でして、
子供が悪くなったのも、私がみんな悪いんです。夫が悪いのもみな私が悪いんです」という人
がよくあるんですよ。本当に悪いかと思っているかと思うとそうじゃない。ただ言葉だけで悪
いというのです。即
「あんた、どこが悪いの、悪いところを出してごらんなさい。どこが一体悪いんですか」
510
「えッ、なんだかわからないんですけど、あっち行っても悪い、こっち行っても悪い、どこ
へ行っても悪いっていわれるんです」
「そう、それじゃ悪かったらどうするの」
「よくなりたいと思うんです」
「どうしたらよくなるの? 」
「わかりません」
もぐ
そうでしょう、泥の中にいて、潜ってしまって、あ」これは泥だ、しょうがないくといっ
たって、上りはしません。だから泥の中にいることを一ぺん忘れなければいけない。悪い自分
というのは消えてゆく姿なんです。
今のその人が悪いから、子供が悪くなったわけじゃない。今のその妻が悪いから、夫が悪く
なったわけじゃない。悪い心がそこに出てくるのは、前の世の夫と妻との関係、子供との関係、
そういう因縁が現われて消えてゆこうとして、向うを傷つけ、こっちが傷ついているんです。
それを知らないで、馬鹿な宗教家は、お前が悪い、こいつが悪いというんです。悪いもの探
しは宗教家の仕事ではない。宗教家というのはいいものを引っぱり出すために来ているんです。
お前は神の子なんだ、お前が悪いんじゃないんだ、悪いものはみんな消えてゆく姿なんだ。
お前は神の子じゃないか、完全円満じゃないか、と目にもの見せて引っばって上げてゆく。そ
れが宗教家なんです。今までの宗教家はみな間違っているのです。みな何かしら罪をいう。既
成宗教でも新興宗教でもみてごらんなさい。みんなどこかに”悪い”があるんです。
宗教は権勢欲を満足させるところではない
みんな同じ命
生長の家などは人間は神の子だと、ほめているのだけれど、そういいながら、やっぱりお前
の心の影だ、というのがある。いらざるお世話ですよ。自分で宗教の門を叩くような人は、自
分が悪いと思っているのです。自分が悪いと思って、自分の力でどうにもならないから、神さ瑚
まどうかお願いします、といって宗教に入ってくるんです。そう来た人を、お前が悪いんだ、52
1
と押える。そうするとますますと縮まってしまいますよ。
メンタルサィエンス
恐れるものはみな来る、という心の法則があるんですね。精神科学です。お前が恐れるから、
恐れるものが来るんだ、お前が病気を恐れるから病気になるんだ、というんです。それは業の
世界のこととしては本当ではあるんです。ところが、お前が恐れるから病気するんだ、あんた
臆病だからそうなるんだ、といわれたら、気の弱い人はますます臆病になってくる。あっ私は
また恐れた、また何か来やしないか。また恐れた、また何か来やしないか。あべこべになっち
やった。
本当はこの人をよくしてやろう、と思っていっているんだけれど、智恵が足りないばっかり
に、気の弱い人をおびやかすものだから、ますます気が弱くなっちゃって、自分はダメ自分は
ダメと小さくなってしまう。
あまり教えがたいしたことがないのに、信者がうんとある宗教がありますね。どうして信者
みんな同じ命
が入るかというと、五人導ければ導き親とかなんとかいって、親分になるんですね。そうする
と、先生とか先輩とか、みんながいいましょう。今迄先輩になったり、先生になったことのな
い人達、世の中でたてられたことがない人たちでしょう。学問で立つわけにいかないし、何に
も立てられることがない、宗教だけが立てられることが出来るのです。五人でも十人でも入れ
ますと、自分が先輩として立てられ、○ ○ 先生といわれて、あなたの心は… … とちょっといい
気持になる。自分が偉くなっちゃったような気がして(笑) 向うは宗教だから仕様がないから
先生とたてるんです。たてられるものだから、ますますいい気になっちゃって、ますます人を
けんせいよく
いじめる。自分の権勢欲の満足なのです。先生といわれるほどの馬鹿でなし、というのはそこ
から始まったのかどうかわからないけれど、先生にたてられれば立てられるほどいい気持にな
って、人を導き入れましょう。それがつけ目ですよ。
金儲けをさせなくても、なんか自慢させて、いい気持にさせる。そこにUつの宗教の手があ
る。だから教えがそんなによくないのに、いっぱい人がふえる・そういう宗教の人たちをみて塒
ごらんなさい、みんな人を責めるから。新しい人を責めます。お前の先祖がどうとか、お前の54
1
お詣りが足りないから、そういうことばっかり云っています。それで宗教だと思っている。そ
れでいいと思っている。
その人たちが親孝行かと思うと親孝行でもない。親切かというと親切でもない。思いやりが
あるかというと、思いやりもない。神さまのみ心から離れた行ないをしながら、自分だけは威
張って、それでなんとか言うんです。そういうのは宗教ではないんです。宗教を売りものにし
て、自己満足をしているわけです。金だけとるのが自己欲望じゃない。威張りたい、という権
勢欲も自己欲望なのです。自分が威張りたいから人を入れるのです。
神さまは、助けたいばっかり
自分が完全円満な行ないが出来るならば、お前の心は悪いよ、といっても、あxあの人がい
わっしゃるのだから仕様がなかろう、あんな立派な人に云われたんだから、と自分も直す気に
みんな同じ命
なるけれど、年中夫婦喧嘩している人に、夫を尻にしている小母さんに、お前が悪い、といわ
つら
れたって”何いってんだ、お前の面みろ” ということになるでしょう。立派でない奴に文句い
われて、ハイそうですか、というのは仕方がないからそういっているだけで、心には実際にし
みこみはしません。
年中、おどかされて戦々競々としている。お詣りしなければ罰が当りやしないか。もう二月
も行かないから罰が当りやしないか、何ヵ月いかないから罰が当りやしないかしら。そんな気
持でおそるーやって来て、お前は何月も来ない、そんなことでは罰が当る、今に病人が出る
おび
(笑) なんていわれるでしょう。また怯えるのです。そういうのになれた人がうちにも来るん
ですよ。”もうしばらく来ませんで、先生、罰が当る……” よせっていうんです(笑) 私は太
鼓じゃないというんです(笑)三味線やでもないから、バチなんてあてませんよ(笑)
神さまが罰を当てるわけじゃない。自分が自分で自分に勝手に罰を当てているのです。神さ
まは救うほうだけなのです。救いたいばっかりなんですよ。それで守護神をつかわし、守護霊価
をつかわして、お前さんは神の子なんだよ、お前さんの悪いのはみんな過去世の因縁が消えて56
1
ゆくんだよ、今のお前さんが悪いんじゃないんだ。夫と妻が喧嘩しているのは、夫も妻も悪い
んじゃないんだよ、前の世の因縁が、前の世で神さまを離れた間違ったことが、今、夫となり
妻となってチャソチャソバラ。バラやって、磨きあって、それで業が消えてゆく姿として現われ
てくる。業が消えてゆきさえすれば、そこに本当の神さまの本然の姿が現われるんだ、とこう
教えているんです。
芝居はまだ途中
そうしなければ、いつまでたっても輪廻転生で、あいつが悪い、こいつが悪いと業の渦の中
を廻っています。あいつが悪い、こいつが悪いといっている内はダメです。この世に現われて
ごうしよう
いるのはみんな業なんですから。現在の世の中が業生の世界なんです。だから悪いこともあれ
ば、いいこともある◎ いいこともすれば、悪いこともする。今はまだ本心が開発されてないの
みんな同じ命
だから仕方がない。神さまの理念が現われきっていないんだから仕方がありません。
芝居は途中なのです。途中でもって”引っこめ! ” といったってしょうがないでしょう。引
こみがつかない。彫刻しています。彫刻途中では、ねずみだか兎だかわかりませんね。途中の
を見て、この彫刻はまつい、といわれたって、仕様がないですよ。トソネルはまだ掘り上らな
い、彫刻はまだ出来上らない。その途中をみて、人生は悪い、人類はダメだ、神もへちまもあ
るものか、というのは気が短かすぎます。これから出来上るのです。
ただし、今までのような宗教観念では出来上りません。宗教があったために、かえって人間
こそくいんぜい
が姑息になり、いじめ合って陰性になっています。宗教のないほうが大らかで、自分でやりた
はた
いことを自由自在にやっている。それで間違えれば、傍からポソとやられるから気がつく。と
はた
ころが宗教をやっている人は傍からやられないんですよ。神さま神さまといってましょう、そ
していつもー自分をいじめ、人をいじめているんだ。宗教という、神さまという名にかくれ
ているものだから・人が責めないのです・卿
宗教の強制は一番困る
158
一番困るのは、宗教の強制です。この神さまをお祭りしなさい、と強制されますと、断われ
ないんです。神さまごとを断わると罰が当りそうな気がしてね。それでまあいいや、入ってお
け、と入る。そんなのは信仰でもなんでもないんです。生命保険なら断われます。どういうも
うしろたて
のか宗教だけは断われない。神さまという後盾があるものだから。罰を当てるそんな神さまは
ありません。それは業なのです。業の想いと、神さまの本当の姿とを間違えてはいけませんね。
ゆる
神さまというものは、あくまで人聞を救おうと思っている。人間を赦そうと思っている。人
げんさい
間をいじめようと思って来ていない。人間の原罪というものをほどこうと思っている。罪の観
念というものをなくそうと思って来ているんです。
イエスさんはそうなんですよ。イエスさんが十字架にかかったのは何故かというと、人類の
しよ
原 罪というものを、自分が身替りになって背負ったことなのです。私がみんなの替りになって
みんな同じ命
原罪をしょったんだから、あなたがたは原罪の観念を捨てなさい、罪けがれをみんな自分が引
き受けたんだから、あなたがたは、自分の名前だけ呼べば私が助けてあげる、とこういって十
字架にかかったんです。
それをキリスト教の間違った人たちは、原罪だくという。そんな原罪は現在ありゃしない
んです(笑)過去のものなのですよ。過去の罪を、過去に犯したことを、いつまでもー掴ん
でいる。そして、私は罪深いものでございます、というんだ。いつまでもいつまでも罪が深い
とか、私は悪いんです、とかくだらないですね。神さまはちっとも喜ばないです。私は悪いも
のを創った覚えはない、私は完全円満なものを創ったんだ、不完全なものを創るわけがない、
と神さまがおっしゃる。そうすると、自分はダメだくと思うだけ、神さまから離れている。
ところが今までの修養家とか宗教家というものは、自分がダメだーと思えば思うほど、そ
の人はいい人だと思う。しかしそれはいい人ではない。ダメだくという想いも消えてゆく姿
なんですよ。あΣ自分はまだ行ないが出来ていない、信仰しながら、神さまくと思いながら、靭
まだーどうしても妬み心が出たり、恐れが出たりする。あx自分はダメだな、と思いますね。
60
1
そう思う想いさえも消えてゆく姿なんだ、これは神さまの心ではないんだ、そういうように思
わなければいけません。
煩悩即菩提
ダメだと思う心も消えてゆく姿なんだ、神さま有難うございますくと、何事もことごとく
自分を否定する想い、人を否定する想い、そういう想いが出た度びに、神さま有難うございま
すーー神さまのほうへすがってゆくんです。そうすると業が現われるたびに神さまにつな
ぼんのうそくぼだい
がる。余計深くつながる。また現われればまた深くつながる。それを煩悩即菩提というんで
す。
煩悩が現われた時には消えてゆく姿なんだから、菩提心が現われているんだ、というのです。
ふつうでは、煩悩が出てくるとそれを土台にして偉くなるから、というんだけれども、それで
みんな同じ命
は言葉が足りない。煩悩という迷いが現われて消えてゆくから、そのまま菩提心が現われてく
る。神さまの姿が現われてくるんです。だからどんな悪い心が起ろうと、どんな不幸が起ろう
と、起った時には、今のその人が悪いんじぬ、ない。いいですか。宿縁として出てくるんです。
だから出てくるものは消えてゆく姿。
現在、みなさんがここにいらっしゃる。今ここに私の話を聞いているんではなくて、もう過
去において聞いているんだ。わかりますか。だから、今この世の中がこんなに乱れていて、今
にも第三次大戦が起って、今にも地球人類が壊滅するかと思うような世界が現われているけれ
ヘへ
ども、実はもう消えてゆく姿であって、それはもう無いんです。
神さまの世界では完全円満の理念が出来ているわけですよ。神さまは全能なんだけど、それ

がまだ現われて来ないだけなんです。映画はすでに撮られているけれども、映画館で封切りし
てないだけなんです。映画は二つ出来ているんです。神界では完全円満な映画が出来ている。
肉体界にそれが映し出される前に、雲が一ばいかかってしまい、そのために映像がゆがんじゃ聯
って、幽界には不完全で壊滅するような、世界人類の何分の一しか残らないような、そういう62
1
映画が出来ている。
そのフイルムが映っては大変だから、神さまのほうで守護神をつかわし、守護霊をつかわし
て、編集し直しているんです。あx ここを一寸切って、鋏を入れてここも一寸きって、ハイー
どうやら少し苦しいけれど、しまいには完全になる。そのように編集をし直しているんです。
それを守護霊の救いという、守護神の救いという、救世主の救いというんですよ。それを私た
ちはやっているんです◎ 皆さん方も協力してやっているんですよ。
人間はあくまで神の子である
人間というものはあくまで神の子です。絶体絶命神の子です。神の子でなければ、この世の
中は亡びるんです。神の子で完全であればこそ、みんなが安心していられるんですよ。完全で
あるからこそ神さま! とすがれるんですよ。神さまの完全性を否定し、人間の完全性を否定
した場合には、そこにはもう救いは無いんです。
人間はダメなんだーという人には救いがないの。だめなのは肉体人間の現在の姿でしょう。
さっきもいったように、人の子より自分の子は可愛いんだからね。平等にはなれっこないし、
相対的なんだから。一つの物がある。みんなが群り来れば力の強い者がとっちゃいますよね。
それは個人も世界の国々も同じです。アメリカとソピエヅトが勢力争いをしようとする。力の
しな
ない日本や他の国は萎びている。そんなものはみんな消えてゆく姿。今、アメリカが強そうに
みえ、ソビエヅトが強そうにみえ、あとはみな萎びているけれども、そういうものはもう既に
無いのです。
けさ
神さまの世界には無いんです。ないけれども幽界には、自分たちが勝手に仮作した、仮りに
輪作った幻影がある。地球が亡びてしまうような幻影なんです。それをみてチャチな予言者は、
胴人類は亡びてしまう・大天変地変がくるぞ・戦争が起るぞ・と予言しています。去年だか何月
編に大地震がある・なんて予言したのがあります・私は絶対ないよ・と断 =。しました・何馨い旧
かというと私がいるからといったのです。
614
何故私がいるから、と云うかというと、私は地球滅亡なんてみていない、完全円満きり見て
いない。大丈夫だ、という信念が、神さまの心が大丈夫にしちゃったんですよ。大丈夫でない
ものはみんな消・兄てゆく姿、あるのは大丈夫だけなんです。光明だけ、大光明だけなのです。
霊性だけなのです。
人間が霊性を第一番に根本にするか、肉体人間を根本にするか、によってこの世界が終りに
なるか、完全になるかの境い目なのです。それで私たちは一生懸命、あなた方入間は神の子な
んだよ、霊なんだよ、肉体というものは消えてゆく姿なんだよ、霊性は消えないんだよ。永遠
に光り輝くものは霊なる人間だけなんです。あとはみんな消えてゆく姿なんです。わかります
か。
永遠の生命について
みんな同じ命
もう簡単なことなのです。いかに長寿の人であっても、どんな健康法をやっても、どんなに
体を大事にしても、どんなに美食をしても、百、二百と生きません。せいぜい百ですよ。やが
て消えていっちゃいます。一番ハッキリしています。肉体も消えてゆく姿、消えないものは何
かというと、命だけですよ。命は永遠に輝いている。
永遠に輝いているというのにも、二通りあるのです。個人の命が永遠にあるという説i 私
もこの説ーと個人はなくなっちゃうんだけど、人類としての命が永遠にあるんだという考え
方。トルストイなどはこういう考え方だった。人類の命が永遠につながってあるんだ、という
考え方。これも本当でしょう。だがそれだけじゃ足りないのです。個々の人間の命も永遠につ
ながって輝いているもんだ、ということがないと、なんだこの世界、どうせ死んじまえばそれ
までだ、悪いことをして、楽をして食って、うんと金をためて、栄耀栄華をほこったほうがい燭
いんだ、という考、兄方が出て来ます。個人がそのキまなくなっちゃうんだ、八十たら八+ で死
616
だま
んでしまうというのなら、やりたい放題をやって、人を欺したってなんだって、恨まれたって
なんだってかまわないから、やりたいことをやったほうがいいですよ。
ところがそういうことは許されない気持が誰にでもある。良心的であればあるほど、顛纏静

華をほしいままにして、人を踏みつけにしては心が痛む。何が痛むのかというと霊なる心が痛
む。
お前、そんなことをして、悪いことをしたらば、お前の命は永遠につづかないんだよ、地獄
の苦しみをなめるんだよ、死んでからということがある。来生が苦しむんだよ、ということが
中で囁いている。いうならば守護霊がそれじゃダメだーと教えている。守護霊の声がよく聞
わけみたま
える人、中の分御霊の声のよく聞える人は良心的なんです。それで悪いことをしないんです。
こう
それが業で覆われていると、守護霊がいくら注意してもわからないで、平気の平ちゃらで悪事
をしてしまう、ということになりましょう。
だから永遠の命というのでも、人類として永遠の命があるという考え方だけでは足りないん
です。人類としてあるけれども、それを含めて、個人の命がAならAという人、BならBとい
う人が個性をもって、ズーッとそのまま生きつづけてゆくんだ、ということがハッキリしない
と、この世の中はだめなんです。それをハッキリさせようとして研究しているのが、心霊科学
なんです。
肉体も霊化しつつある
みんな同じ命
物質化現象といって、霊魂がここに存在する、といって、お前のおじいさんだぞ、お前の曽
祖父さんだぞ、これは誰々だぞというふうに、現わしたり、霊魂の声を聞かしたり、そういう
科学が出来たわけです。その科学もまだ足りない、まだ未開なんです。白昼で霊魂が見えても
僅かなんです。それだけでは足りないですね。ところがこの世界は肉体の波、バイブレーショ
ンと幽体のバイブレーションと霊体のバイブレーションとが非常に近くなって来ている。肉体研
こま
の波がだんだん細かくなってきている。細かくなってきているから、テレピジョソが出来たり、68
1
人工衛星なども出来たりして、すべて世界の動きが非常に早くなっています。それは人間の肉
体のバイブレーショソが緻密になって来た、という証拠なんです。
現象の目でみると、人間はいつまでたっても、ちょっとも霊的には進歩していないように見
えます。肉体的にはちょっとも進歩してないように見えます。ところが文明文化と同じように、
人間の肉体というものもどんー進化しているんです。どんー進化しているんですよ。だん
だん波動が細かくなって来ているんです。だから近頃は霊能者みたいな、行者みたいなのがた
くさんいます。幽界の波を感じるから、田舎のおばあさんがすぐ霊能者になったり、郵便やさ
んが霊能者になったりするんですよね。肉体の波が細かくなり、幽体と大分似て来ているから
です。
今までの人間の考え方は、この何年かに急速度に変わります。それは星の渾行が変わってい
ることもあるんですよ。急速度に変ってくる。それは何かというと、肉体の波動が幽体の波動
みんな同じ命
に近くなっている。だんー近くなって来た。そしてこれが一つになってゆくと、このままで、
肉体と同時に霊体が見えるんです。そういう世界が近くなって来たんですよ。それで私たちは、
亡くなった昔の人たち、あるいは聖者といわれた人たちを、サーッとここに現わそうと思って
いるんですよ。
白昼、太陽の陽光もとでも、電気がこうこうとついているところでも、ハッキリ現わせると
私は思うのです。神さまが現わせるというんです。そういう時が近づいて来る。そうすると肉
体が死んだらおしまいだ、なんてバカバカしい考え方がなくなってくる。さっきも或る人がみ
えたのですが、その人に”肉体が死んでも霊魂があるんですよ。先祖はみんな生きているんで
すよ、生きているけれども、命をハッキリ現わしている人と、死んでしまったら肉体はもうな
い、自分の意識が残るのに、ないと思っている人が、亡くなって、意識が戻ると、生きかえっ
さわつ
たのだ、死ななかったのだ、と思って、親しい人の肉体につく、それが障りになって源くんで
すよ” という話をした。そしたらわからない。ちんぷんかんぷんなのですよ。まあそれは無理㎜
もない。人間というのは肉体だけだと思っているんだからね。
170
宇宙人の存在
ところが人間が肉体だけだ、なんて思っていることはすぐなくなりますよ。肉体の他にあり
ありとした存在が、誰の目にも霊眼でなくて見えてくる時代が来るんです。それと同時に、こ
の地球の他に、金星があり、水星があり、火星もあり木星があり土星があります。そういう星
の中に、人類と同じようなものが生きているんだ、ということがハッキリ現われる時が来るん
です。
金星が一番古く、一番進歩しているんです。金星人類や火星人類がハッキリ現われてくる時
が近いのです。そうすると唯物論など素っ飛んじゃいますよ。ところが唯物論を素っとばした
だけではだめなんです。みんなが霊があるんだ、霊界があるんだ、あx死んだ人が生きている
んだ、と思うだけではまだ足りない。何が足りないかというと、自分の感情があるうちはダメ
みんな同じ命
なんですよ。
あの人が憎い、この人が憎い、怨めしい、という感情を、肉体の他に霊体があるんだ、死ん
でも生きているんだ、と思っただけでは制御することが出来ない。金星人かの話で、地球の人
間はまだ感情を制御出来ないからだめだ、感情を自分でもって自由にすることが出来ないから、
地球人には宇宙の秘密を教えることが出来ない、というんです。金星の人は感情を自分の自由
に出来るんです。私も出来ます。私は感情などに支配されません。
感情の波にのって、怒ってみたり、泣いてみたり、妬んでみたりするものが多ければ多いほ
どだめなんです。それは消えてゆく姿です。いかに何々の神さまが現われても、消えてゆく姿
ということがわからないとだめなんです。これは大事なことなんですよ。たとえ自分が、今、
興奮してきて、怒り心頭に発しても、それは消えてゆく姿なんだ、と思っていると、短い時間
ですんでしまいます。それを知らない人は、いつまでもーやっています。
怒りが湧いてくると、その怒りの業に振り廻わされちゃう。ふりまわされながらも、あーこ171
れはみな消えてゆく姿、私は本当は神の子で、完全円満で、こんな騒がしいものでないんだ、72
1
と思う心があると、いくら現われても、短い時間でスーッと消えるんです。それをつづけてい
ると、どんな感情が出て来ても、しまいにはスーッと消えます。
私の青年時代
私は少年から青年にかけて、短気で短気でしょうがなかった。すぐむかくと来るんです。
それをギューッと押さえている。消したんじゃない、消えてゆく姿なんて知らないんだから、
消えてゆく姿って真向微塵に教えているのは私が初めてなんだからね。だからその時は知らな
いんです。押え我慢すればよいと思って、ならぬ勘忍、するが勘忍とやって、忍耐忍耐、お前
はいかなる時でも忍耐しなければいけない、と自分にいい聞かせた。短気は損気、というよう
な諺がたくさんあるでしょう、それを一生懸命暗記して、それで忍耐忍耐して、押えに押えて
たんですよ。
みんな同じ命
押えているんで、無くなったんじゃないんだから、ぎゅーっと詰めているわけです。詰りき
って一杯になってくると、一寸誰かがいったことが縁になって、バーソと爆発しちゃって、ど
うにもこうにもならない。私の場合は正しいことを貫き通すということだったんです。工場に
勤めていまして、文化運動をしてたんだけども、上役が間違ったことをしていた。こっちは下
役だから我慢しています。我慢して押しつけているんだ。ところが詰っちゃってくると、もう
しょうがない。そうなると、命もいらない、職もいらない、なんにもいらなくなっちゃうんで
す。相手を刺し殺すような気でもって、真向うからぶつかってゆきます。すごいんだから迫力
が。だからいうことを向うはききますよ。けど後味の悪いこと(笑)いやなもんですよそれは。
相手をやっつけたって、いい気持のものではないです。いやーな気持、だからあ」ダメだな
1自分はこんなに今まで忍耐して忍耐していたのに、とうく爆発しちゃったか、と思うんで
す。それから又一生懸命忍耐する(笑)。半年するとまた爆発しちゃうんです(笑)半年に一ぺ
ん爆発しちゃう。ガスタンクみたいなもので危くてしょうがない。ちょっと火がつけげ爆発し鷲
ちゃう(笑) そうやって来たんですよ。ところがこういう風になってから、短気も何も無くな74
1
っちゃった。
直霊と合体すると
ちよく
なんでなくなったのかというと、自分の本体を知ったからバカバカしくて怒れませんよ。直
れい
霊と合体したから、自分は神の子である、神である、神の光が流れて来ている自分である、と
なおび
いうことをハッキリわかっていますからね。自分の直毘がハッキリ現われたからね。そうする
と、腹が立たないんです。なんだかバカバカしくて、ニコニコ聞いているだけ。
お前はバカだ、チョンだ、といわれても、あxそうですか有難うございます、と思っている
んですから。蹴飛ばされてもなんだか有難い気がするんです。よくお話しますけれど、足が痛
くて六\ しょうがない時があった。びっこを引きながら、満員電車に乗った。そうしたら、ガ
ソとその足を横から来て蹴とばした奴があるんです。混んでるんだから仕方ないでしょう。そ
とつさ
の時、痛いとも痒いとも思わないんだ。有難うございます、ということがサーヅと咄嵯に出て
くるんです。それは肉体の頭から出て来やしない。有難うございます、が、光の中の自分の本
体から出て来た。それで足が治っちゃった。治ったのは、けっとばされて、有難うございます
が出て来た、その光なんですよ。
蹴っ飛ばされても有難うございますが、出てくるようじゃなかったら、宗教なんかやっても
何もならないですよ。怒っちゃっても、あΣ すみません、ごめんなさい、とあやまる。その手
前はさんざん怒っちゃってもいいから、すみませんと謝まる。自分の業が出た時に謝まれるよ
うにならなければダメですよ。ポーソと蹴られて”有難うございます” までゆけばいいけど、
そこまで一朝一夕でゆかないから、順を追ってやるのです。
みんな同じ命
感謝の心が出るまでの段階
順からゆくと、ムラムラと来て怒った時、取っ組み合いをするか、撲るかするかしれない。驚
このバカヤローといっちゃったかもしれない。いっちゃっても、後で興奮が静まり、あX しま76
1
ったな、あんなこといわなければよかったなアーと思ったならば、早速そこへ行って謝まれば
いいんですよ。先っきはごめんなさい、私がつい短気で、ごめんなさい、と謝まるんです。喧
嘩は両方共に悪いに違いないんだからね。こっちが先に謝まっちゃうと、向うでどうにもなら
ないんですよ。いつまでも怒っていられない。
もうちょっと偉くなると、なんだこのヤロー、あΣ いけない、これは消えてゆく姿、どうも
すみませんーそこで無くなっちゃう。もう少し偉くなると、そのちょっと手前にゆく。この
バカ… … 頭の中で消えちゃうんです。あΣ これは業なんだ、と消えてしまう。
それよりもっと偉くなると、神さま、直霊に近くなってくると、バーンと蹴とばされても、
有難うございます、になってくるんですよ。段階があるんです。
業を認めていたらだめです。自分はあくまでも怒りの中にいる自分じゃない。妬みの中にい
うら
る自分じゃない、不幸の中にいる自分じゃない、怨みの中にいる自分じゃない、病気の中にい
みんな同じ命
る自分じゃないんですよ。そんな自分はニセモノなんです。
ちょっと悪いことがあると、もうくさっちゃう。くさっちゃだめですよ。腐ったものは便え
ない。腐らないうちなら手当が出来ますよ。くさる、というのはうまい言葉を使ったもんだ。
腐っちゃ使えませんよ。すべて腐らないようにするにはどういう風にするかというと「自分は
あくまでも神さまの子で、光り輝いているんだ、光明燦然としているんだ」と思うことです。
それが出来てくると、相手がどんなにぶつかって来ても、こちらは悪くなくて、向うが悪い
とします、それで向って来て何か文句いって来ても、何か文句いうことは、こっちの業が消え
てゆく姿なのだと思えますよ。そうすると喧嘩になりません。そこまでくれば達人ですね。
合気道の植芝盛平先生
この間、うちの人たちが合気道の植芝盛平先生のところへ行って来たんです。合気道の植芝
先生といえば有名な人です。その時の植芝先生の話もやっぱり私と同じなんです。「人間とい切
うものは宇宙なんだ、みんな宇宙なんだ、何故皆さんは宇宙だっていうことがわからないのか78
1
なあL というんですね。「自分は宇宙なんだ、光り輝いているものなんだ、全知全能なんだ」
というんです。それで植芝先生はちゃんとそれを実証するわけです。
若い人たちが木刀でもってパッと打ってくると、どうやったかわからないけれど、皆すっ飛
んじゃう。いくら力でもって若い者が押えつけても、大木のようにびくともしない。五尺ぐら
いの人ですよ。それが頭を一寸ふるとみんなすっ飛んでしまう。「自分に千人かかって来ても、
何人かかって来ても、自分は負けることはない。自分には敵はない。何故、敵はないかという
と、それは自分が宇宙だから。宇宙に向う敵はない」というんだ。すごいね、それを実際にや
るんだから。そういう人がいるということは、実に有難いと思うんですよ。
大の男もちょっと指で押えられたら動けない、というんでしょう。みんな見て来たんですね。
力を出せば出すほど動けなくなっちゃう。何故、力を出せば出すほど動けないかというと、向
うはやっつけようと思う力です。こっちは宇宙でしょう。もう肉体にいないんですよ。いくら
みんな同じ命
ぶとうとしても、肉体はそこに見えているけれど、実は居ないんです。業の中にいないんです。
神の中に入っちゃっているんです。ぶたれるというのは業の波でしょう。業があるからぶたれ
るんです。
業がない、神の中に入っちゃっているから、いくらぶったってダメですよ。次元が違うんだ
から。片方は三次元で一生懸命ぶってくるのに、片方は無限次元の所にいるから、手が届かな
い。ぶとうと力を入れれば入れるほど、自分の力で飛んでいっちゃう。
植芝先生は私のことをわかっていて、私もそういう人だというんです。私はまだ立ち廻りを
やったことがないから、人をすっ飛ばすかどうか知らないですよ。けれど、向うから悪い人が
来る、会いたくない人が来れば、そのまま会わない。来るのがわかるから逃げることがいくら
でも出来ます。だから宗教的には同じです。武道じやしりませんよ、私は武術家じゃないから。
179
業の世界を超える
こうこ
やっぱり業の世界を超えてなければダメですよ。それを私は教えているんですよ、植芝先生
も教えているんです。業の世界というのは争いの世界、相対的世界です。敵があるんです。自
分があって人があるんです。自分と人とが違うのです。自分と人とが別々なんです。別々です
から敵になるでしょう。利害関係では敵になる。自分と人とが神さまのみ名において、神さま
のいのちにおいて一つであるとするならば、敵はないでしょう。
この間、斎藤秀雄さんの話を聞いて、とても感心しました。それは、斎藤さんが毎朝お祈り
をするんです。そして私の直霊からいろんな講義を聞いて起きるんです。或る朝、ひょっと新
聞をみた。そしたら矢野という巡査を殺した人がいました。新聞じゃ悪いことをすると”さ
ん”を無くし、悪いことをしない時は”さん”とかなんとかついているんですね。私はつけて
おきましょう。巡査を殺した矢野さんの記事が出ていた。その途端、斎藤さんは、あΣ矢野さ
180
みんな同じ命
んの守護霊さん申訳けございません、矢野さんが悪いことをしてすみませんって、矢野さんに
なり替って、守護霊さんにお詑びしちゃったんです。これは大変なことなのよ。私は聞いてい
て涙が出たんです。あーあ、斎藤さんこんなに偉くなったかと思って、私は嬉しかったんで
す。私のところに来てから偉くなったんですからね(笑) ここにいますからね(笑)。
これは出来ないことなんですよ。あ」このバカ野郎がこんなことをして… …なんてふつう思
いますよ。ところが、新聞をみた時、矢野さんの守護霊さん申訳けありません、と神さまにお
詑びする気持というのは、自分と矢野という人と一つにみたんです。矢野さんの命と自分の命
と全く一つになったから、あN申訳けありません、というんですよ。そういう気持に、ここに
いる人だけでもなれば、世界平和になります。そういう気持にするために世界平和の祈りをや
っているんですよ。
181
命の大元の中へ送りこむ
182
みんなが命は一つなんだ、みんな神さまの命なんだ。みんな悪いことはないんだ、悪いこと
はみんな消えてゆく姿なんだ。そういうことが本当にわかるために、世界人類が平和でありま
すように、日本が平和でありますように、私どもの天命が完うされますように、守護霊さん守
護神さん有難うございます、というんです。それは業の想いをいつでも神さまの中へ、命の大
元の中に、大本源の中へ送りこんでゆく教えなんです。南無阿弥陀仏を現代版にしたのと同じ
です。
これがわかってくると、嫁さんが姑さんをいじめることもなければ、姑さんが嫁さんの悪口
をいうこともなければ、夫が妻を悪くいい、妻が夫を悪くいうこともなくなります。何故なく
なるかというと、実際。バカ。バカしいやね。こんなつまらないことは消えてゆく姿。あっ嫁、消
えてゆく姿。夫が道楽、それも消えてゆく姿。わからない妻だ、これも消えてゆく姿。みーん
みんな同じ命
な消えてゆく姿ですね。あるものは神さまだけなんです。
もしこの世の中に悪いことをする人があったらば、自分が謝まらなければいけないんですよ。
私たちもそうなんです。うちに来ている人で、困った人に困らない人が恵んでくれたりするん
です。そうするとほんとに有難いと思うんですよ。有難うございます、ほんとに有難うござい
ます、という風に私、思うんです。その人と同じに心から思うんです。それは、私の命とその
人の命と同じでしょう。自分が恵んでもらったような気がしちゃう。いいことをしてくれると
有難いと思いますよ。自分が有難い、自分がとても嬉しいんです。そういう風にみんななっち
ゃえば大団円です。芝居は終りでさあね(笑)けれどもなかなかならないところが、また面白
い(笑)逐次それになりつつある。
私は、人を責めたり、おどかしたり偉ぶってお説教したりするのはだめだと思うんです。み
んなが一つ命になるように、みんなが兄弟姉妹であるように、同じ命であることを自分が認識
する・そういう生き方が大事です・同じ命であることを認識するためには・あいつが悪い・こ塒
いつが悪い、といってはダメです。自分が悪いといっちゃダメです。自分の悪いこともなし、
人の悪いこともなし、みんな業は消えてゆく姿です。悪いと思ったらばすぐ止めればいい。あ
Σ しまった、ごめんなさい、もうしません。このヤロー、アッすいません、もうしません。そ
ういうんですよ。もし病気になっていたら、あx過去の因縁の消えてゆく姿、私は本当は完全
なんだ、というんです。そのように消えてゆく姿ーとやっていると、知らない間に、自分の
本当の姿が現われてくるんですよ。そういうものなんです。
184
積極的に善をなせ
昭和35年10月号白光誌発表
積極的に善をなせ
人間は初めから神の子
物質科学の発達、あるいは人間の精神的成長によって、この肚の中はだんーよくなってゆ
く、と誰でも思っていますね。しかしこの世の中は、だんーよくなってゆくというのではな
いのですよ。変なことをいうようだけれど、同じ形が進歩して、だんーよくなるというので
はないのです。
この弍卿(現象) の世界というものと、天国というものとは全然別なのです。違うのです。麟
ということはどういうことかというと、一日増しによくなるというのではなく、はじめからい86
1
いのです。これが法華経の極意、神道の極意なのです。
人間というものは初めから神さまの子で、はじめから汚れもなければ、病気も貧乏も悪いこ
ともないものなのです。本当はそういう世界なんだけれども、それがこの地上界にうつし出さ
れてくるために、形の世界にうつし出されてくる過程として、完成への過程として、悪いよう
に見えているだけなのです。だからこれからよくなるのではなく、消えてゆく姿です。消えて
ゆくものに把われず、どんどんかまわず消えてゆくものは消えてゆくとして、こちらは世界平
和の祈りで神のみ心の中に入ってさえいれば、いつのまにか悪いものは消えていって、いいも
のが現われてくるのであって、今改めてよくなるのではないのですよ。今改めてよくなるので
あるとすると、私のようなダメなものが、神の子のようないい者になれるわけがない、とこう
いうようにやってしまう。”私のような”というのがあるでしょう。その”私のような” とい
うのは業のほうであって、あなた方自身ではないのですよ。それを問違えてはいけません。
債極杓に善をなせ
私自身でもそうであったのです。私は子供の時から病弱であった。だから小学校一年の時、
半分も学校へ行かれなかった。ちょっと風が吹けば息がつまって苦しくなっちゃう。行けなか
おとな
った。だから私のような、とすぐそう思ったね。私のような弱いものは、大人になったらどう
おとな
しよう。どうして生きていったらよいだろう、あまり金持の家の息子ではないからね。大人に
なることを心配したんです、子供心に。それがどうしたもこうしたもありはしない。スーッと
守護神の導きでこうなってしまったでしょう。そういうものなのです。いい見本です。それが
先祖代々巨萬の富をもった一人息子だったら、何も偉くない。その点、お釈迦さまよりイエ
ス・キリストのほうが大変でしたね。
お釈迦さまは王族の出で、さんざんしたいほうだいのことをしてさ、お釈迦さまには悪いけ
ど(笑) もういいかげんなところで出家したのだから、それは楽だけれど、イエスさんはなん
にもしないでスーッと来たからね。そこでイエスさんのほうが大体人気があるのですよ。お釈
迦さまは遠いところへ行ってしまって・イ貢さんのほうが近いところにいる気がするので餅
す。それは自分たちと同じ苦労をしたという、自分たちと同じ庶民の子だというのが、とても8
1
みんなの共感を呼ぶのですね。
神に素直なこと
そのように私たちの世界は、お釈迦さまと違って、庶民の子の貧しい生活の中から立ち上っ
たわけですね。何が私をそうなさしめたかというと、向う(天) からいえば守護神がやったこ
とですが、こちらからいえば素直ということです。なんでもかんでも素直に一生懸命、いいこ
とをしようと思った。それで私の一番やりたいと思ったことは、自分は力もない、体もよわ
い、どうしたらよいか。私は人にやさしくすることだけ出来ると思った。私の出来ることは、
力がないのだし、お金はないのだし、だから何が出来るかといえば、人にやさしくすることだ
けが出来ると思った。徹頭徹尾、私は日本一、世界一やさしい人間になろうと思ったのです
よ。だからありとあらゆることに、やさしくやさしく人のためになるようにやった。
積極的に善をなせ
朝起きれば近所のところをズーッと掃いて、水をまいてしまった。十才ぐらいの時からね。
そのように、なんでも人の手数をはぶいてやろう、人のためになろうと、それで一番小さいこ
と、はき掃除からやったですよ。これをやっていると、近所の人はほめてくれますよね。「あ
あ五井さんところのせがれは、なんていいせがれでしょう」とほめてくれる。いいことをする
と、こうやってみんながほめてくれると、子供心にうれしいね。それでまナーいいことをす
る。なんでもやさしく人のためになることだけを、私は考えた。それだけやっていた。
それである時、神さまに命を捧げたでしょう。私の命をさしあげますから、どうか世界人類
のために使って下さい、とさしあげたら、ういやつじゃと、ポンとハソコをおしてくれたわけ
です。それであとできいてみた。どうして私のようなものを、こういう役目につけて使って下
さるのか、と守護神にききましたらね、そしたら「お前の一番いいことは素直なことだ、お前
のような素直な者はいない」というのですね。真理に素直、善に素直だったのです◎ それだけ
なのです・塒
私がこうなった原因は、神さまのみ心にかなったこと、素直にいいことをした、良心のささ93一
-辱
やきに素直だった、ということだけなのですよ。何も特別なことはありやしない。やさしいで
すよそんなこと。金がかかることでないのだから。素直にいいことをすればいいのだから。と
ころが一般の人は、電車なら電車にのっていますね。年寄りでくたびれている人がのって来
た。かけさせてやろうかなと思っても、なんだか恥かしいような気がして、よしたりするので
すね。そういうことは随分経験があるのではないですか。私はそんなことはしなかった。おば
あさんが向うのほうにいると「おばあさんおばあさん、ちょっとちょっと」と呼んでかけさせ
た。これは一例ですが、いいことをするのに積極的だった。もうあっさりとやる。いいことは
すぐする。思ったことはすぐする。
いいことが素直に出来るために
いいことが素直にパソと出来るような人になるためにも、世界平和の祈りをしていますと、
積極u勺に善をなせ
神さまのほうから自然にさせられるのですよ。自分の想いと神さまの想いが一つになって、神
我一体、自然法爾になるのです。ひとりでにパソと動くんですよ。ひとりでにやったことが、
みないいことだということになってくるのです。そういうふうになるまでには、消えてゆく姿
(悪い想い、いやなこと) がたくさん現われて来ます。
ちょっとしまった、失敗しちゃった、ということがたくさん出てくる。出てくるけれどそれ
は消えてゆく姿であって、今のあなたが悪いことをしたわけでも、失敗したわけでもなくて、
それは消えてゆく姿として現われているのですよQだから自分を責めることは一切いりません。
昔の宗教は自分を責め、人を責めた。あ工私はこんないい教えを教わりながら、なんでいつ
までたっても立派にならないのだろう。悪いことばかりしているのだろう、私はダメだ、とこ
ういうように思う。それはネ、今のあなたが悪いことをしているのではなくて、過去世からの
因縁が消えてゆく姿として、自分の前に現われてくるのですから、自分が悪いのでもなんでも
ありゃしない。瓢
止めようとしたって止められないものがあるからね。実際止めようと思っても止められない92
1
怒りもあれば、妬みもあれぽ、恨みもあれば、恐怖もあるのですよ。私は神さまのことを一生
懸命教わっていながら、どうしてこんなに恐怖心がおこるのだろう、と思う人があるでしょ
う。思うけれども出て来ますよね。いくらいけないいけないと思っても、出て来るものは出て
来る。
業想念の強さということを私はよく知っているのです。迷いの想いの強さを私はよく知って
いるものですからね。だから業想念が出て来たことを、とがめたりすることを絶対にしないの
ですよ。
お前の信仰が悪いから、と絶対にいわないのですよ。「あ鼓それは仕方がないよ、今のあな
たが悪いのではないんだよ、あなたの過去世の因縁がそこで消えるために出て来て、まちがっ
た行為になったりした。それは消えてゆく姿で、あなたが悪いのではないのだよ。あなたは自
分をせめてはいけませんよ。それは消えてゆく姿なのだから。今度はまちがわないように、世
積極的に善をなせ
おこ
界平和の祈りをやりつづけながら、改めて行ないをしなさい」とこうやってゆくでしょう。そう
ゆる
すると、まちがった行ないをしても、それは赦されるのですよ。自分が自分を赦さないから、
自分が立派にならないのですよ。自分で自分を赦さない以上は、絶対に立派になりません。
誰が神さまの子である自分をせめる権利があるか。神の子をせめる権利は誰にもない。わか
りますね。いや業をせめているのだ、といったって、業は消えてゆく姿だから、せめてもしよ
うがないでしょう。だから自分をせめないこと。そこで私の教えは、自分を愛し自分をせめな
い、自分を赦し、とあるのです。
どうして自分を赦しと教えるか
どうして自分を赦しという教えが出て来たかというと、今迄、立派な宗教家が何千人と出て
いるのに、この世界はこの人聞は、こんなに救われないのかと、私がゆき悩んだのですよ。ど
うして救われないのかと・ゆき悩んだすを・パ・と気がついたことは・あ毒んな自分をせ鄭
めているからだ、と思った。私は自分をせめる力が強かったからね。あΣ自分をせめてはダメ
だ、まず自分を第一番に赦さなければだめだ、赦さなければならないけれど、自分が悪い場合
に赦せないでしょう。そしたら本心と業想念を分けなければだめだと思ったのですよ。本心は
神の子であって、光り輝いているのだ、悪いことをしたり、いたずらしたり、恐怖したり、人
をいじめたり、自分をいじめたりするのは、業想念なんだ。あNそれは消えてゆく姿だ、本物
ではないのだ。それは消えてゆく姿で、どこかに放り出せばよいのだけれど、放り出すところ
がない。どこへやったらよいか、とさがしているうちに、守護霊守護神を見つけたんだよね。
あx守護霊守護神の中へ入れてしまえばいいんだ、もっと広くいうと、世界平和の祈りの中
へ入れてしまえばいいんだ、というわけで、業想念を世界平和の祈りの中に全託してしまった
のね。そうすると、ボラ自分の本心が現われてくるでしょう。素裸かになって本心になるので
す。
業想念という着物をつけているのだから、業想念という着物をぬぎさえすれば、光り輝く自
194
積極的に善をなせ
分の本心が出てくるのはきまっているのですよ。これは理論的なものなのです。それを私がや
って、自分がなった。そこで「自分をせめてはいけませんよ、自分を赦さなければいけません
よ、自分を愛するということは、自分を赦すということと同じことなのだ。自分は神の子なん
だから、自分をせめてはいけない。自分を赦さなければいけない。悪いものは一切消えてゆく
姿なんだよ、消す元はどこにあるかというと、アメリカでもソ連でもない、世界平和の祈りの
中に入れればいいのだよ」と世界平和の祈りをさせているわけです。
平和の祈りさえしていればいい
おうそうげんそう
それは親構の南無阿弥陀仏と同じなのですよ。南無阿弥陀仏が往相から還相、菩薩業になっ
て世界平和の祈りになったのです。だからみなさんは、世界平和の祈りさえしていれば、自分
の業想念のことなど思わなくていいのです。知らない間にいい人間になります。
私などは若い頃は、短気でしょうがなかったのだから。それがなくなってしまった。消そう鵬
も消すもない。なくなってしまった。悪いくせというものが、全部なくなっちゃったのです。96
1
そういうものなのですよ。そこでうちの会の人たちは、斎藤さんでも村田さんでも、みんな悪
いものはどんーなくなってしまっているのです。
自分でもって、あΣ自分はダメだ、こうしなければ、というのではないのですよ。世界平和
を祈って、統一をやっている間に、知らない間に、悪いくせなどというものがなくなってしま
うのですよ。
酒のみが知らない間にのまなくなったり、タバコのみが知らない間にタバコがやまっちゃっ
たり、怒りっぽい人が直ったり、知らないうちにそうなっている。ということは、業想念が消
えてしまうということです。何が業想念を消すかというと、世界平和の祈りの中に働いている
守護の神霊の絶大なる光明が、消してしまうわけなのですね。それが五井先生という名前で、
ここにあらわれているわけですね。だから皆さんは世界平和の祈りが、急場の場合間にあわな
い時があったら、先生! といえばいいのですよ。すると光がパヅとそちらへ行きますから。
積極的に善をなせ
それはウソもかくしもなくそうなのです。
だけどバカな人たちがいましてネ、世界平和の祈りというものを、個人の肉体の五井昌久の
祈りだと思っている。”世界人類が平和でありますように” というのだから、その言葉からし
て、個人の祈りなんてありっこないでしょう。個人の祈りなら”なんとか自分がなりますよう
に” とやるのでしょう。”世界人類が… …” というのは個人の祈りであるわけがないでしょ
う。それを個人の祈りだと思っているような人がいるのです。
世界平和の祈りというものは、個人がですよ、世界人類の中にとけこんで、宇宙神の中にと
けこんで、はじめて光り輝いて出て来る言葉なのです。それを私は代表的にやってしまって、
みの
私の中に世界平和の祈りが実っているわけ。光り輝いているわけですよね。そこで皆さんが五
井先生というものに会って、五井先生の中に入っているからね、みなさんが何気なく”世界人
類が平和でありますように”とやっても、個人の祈りでなく、世界人類の祈りそのものになっ
てくるのですよ。ここで(体を指す)濾過してゆくわけ。五井先生というものの中で、流過し
197
で消えていって世界平和の祈りになってゆくのです。個人のものでなくなってゆくのです。98
1
それを個人が世界平和の祈りをやっていると思ってはいけません。世界平和の祈りを思った
時、自分の頭の中でそんなに深く思わなくとも、その人はすでに救世の大光明のエレベーター
にのって、世界平和の光り輝く中に入っているのだ。世界人類のために働いているのだ、とい
う信念をもって下さい。もつように自然になりますけれどね。世界平和の祈りというのは、そ
ういうものなのですよ。


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