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8/20/2022
五井昌久著
心はいつも青空
白光について
言葉
美について
赤児と美
ひびき
ひびき
17 14118
春に寄せて
人間の責任
松と白藤
39363330
感謝行
白光真宏会について
髭
たそがれから
262320
秋風
人間の誕生
冬に想う
51484542
2
新生
いのちあらたに
新生せよ
業想念を超えよう
星は輝いている
道
今年こそは
生きる力
道
合気道と世界平和の祈り
87848178 65625956
裸の心
鳳仙花
幸なるかな心の貧しきもの
神の完全性を信ぜよ
祈りと統一
私とあなたは一つである
969390 747168
目次
3
明るい心
新しい年に望む
偽善者になるな
妥協と調和
みたままつり
お茶を頂く
愚者を救う力
開く
本心を開こう
新年は光明心で
人語を話す小鳥
建国記念日論議
138135132130 112110108106104102
国連軍縮特別総会によせて
神の深い愛と人類の業
母子の愛
明るい心
さざん花
春に想う
夏の思い出
平和をつくる心
原点に立て
149146143141 126124121 118115
4
おもいやり
151
平和への提案
調和精神で生きよう捌
国の生き方を分裂させるな……… 研
他に尽くす愛の心を樹
世界平和と人類の危機鰯
私の愛国心
日本の科学が進む道
宗教の本質を貫こう
世界平和への目標
189185179168
装偵笹本悦子
目次
5
φ
口
葉
8
びやつこう
白光について
むげ
白光とは読んで字の如く白い光である。白い光とは純潔無磯なる澄み清まった光、人間
の高い境地から発する光をいう。ホワイトスピリット即ち高級神霊の光である。
現今のように汚濁に満ちた肉体人間の世界にあっては、余程多くのホワイトスピリット
が白光を縦横に発して大活動しない限り、その浄めを完成することはできない。またホワ
イトスピリットの光を自己のものとして働く菩薩心そのものの人間が沢山できなければ、
高級神霊も自由にこの地球世界に活躍することはできない。何故なれば、肉体身ならぬ高
級神霊が地球世界に働きかけるためには、人類救済の悲願に燃ゆる、即ち菩薩的人間の肉
体を通して働くことが一番働き易い状態なのであるからだ。そしてこの地球人類の一人一
人のうちにある菩薩心を、より早く、より多く、磨き出して行くのが私たちに課せられた
る天命なのである。
私が宗教者として人間指導の第一線に起ったのも、私の菩薩心にホワイトスピリットが
働きかけて、天の私(直霊) との一体が実現されてのことなのである。ホワイトスピリッ
ト、天使即ち守護神は常に各人の背後上方にあって、その菩薩心発現のために、全霊力を
カルマ
挙げて業消滅の働きをつづけているのである。あなた方の宗教心の発露はその第一歩なの
である。
宗教心とは、自己が真に救われようと思う心であり、自己の本質を知ろうと思う心であ
る。そして、自他一体観を追究し、同根異葉の本質を認識体験しようとしている心でもあ
る。自己が救われようと思う心はやがて他人をも救おうと働く心になり、自己を知ろうと
いう心は、人間全体を知り得る心となる。
病苦に悩み、老後を憂い、死を恐れるがために人々は宗教の門をくぐるように見えては
いるが、それは単に表面に出ている状態であって、真に彼等の心が求めているものは、魂
の開発であり、永遠の生命への覚醒である。
永遠の生命の覚醒、神我の開発ができ得る迄、人間の苦悩は形を変えつつも消え去るこ
白光にっいて
9
とはないのである。
一日も早く真に救われたいと思うならば、まず自己の菩薩心を起こすべきである。菩薩
心とは人を救いたいと思う心である。光明心である。
真実人を救うには人間の本質を知らせなければならない。神と人間との関係を知らせな
ければならない。
そのためにはまずあなたが道の先達として、あなたの信ずる道にあなたの同胞を導いて
やることが第一である。
それだけの深い信の心をあなた自身が強固にしなければなるまい。
10
言葉
私は言葉の使い方の大切さを、近頃しみじみと感じている。
アメリカの有名な詩人ロングフェローの詩に「矢と歌」という詩がある。
私は空中に矢を放った
矢は地上に落ちた
その矢がどこに落ちたか私は知らない
という行で始まるこの詩は、私たちが不注意にいう言葉を矢に例え、その矢が樫の木
(強い気高い人のたとえ) を傷つけたことを見出し、また何気なく語った愛の言葉を歌に
例え、その歌(愛の言葉) がいつ迄も友人の心に残っていて、友人を慰め力づけていたこ
とを知った、というようなことを歌っている。
葉
言
1
私はこの詩のように、言葉の重大さを今更のように思うのである。
愛の言葉は常に人を生かし、自己を生かすが、憎悪、嫉妬、怒り、不実等の言葉は人を
傷つけ痛める、と共に反転して自己を損なう。
言葉とは音声に出ずるものばかりではない。音声以前の想念の中にもあるもので、音声
の言葉だけ愛深そうにいったところで、それが愛の言葉とはならない。
言葉は常に真実性がなければならない。愛の言葉、真実の言葉が国に充ちているか、不
実の言葉、不注意の言葉、心なき言葉が充ちているかによって、その国の運命は定まって
しまうのである。
愛の言葉は天からくる言葉である。本心からくる言葉である。正義の言葉である。自他
一体の言葉である。人を生かし、人を勇気づけ、人を慰撫する言葉である。深い思いやり
をもった言葉である。
愛の言葉は、常に神を想い、神に感謝し、万物に感謝している者からは、巧まずして、
自然に湧き出でて、光のごとく、人の心を明るくしてゆくものである。
不注意なる不実なる言葉を吐かず、人を生かし、人を勇気づけ、明るくするような愛の12
おのずか
言葉が、巧まずして、自ら口を出つるような人間になりたいものである。
一言、一言が愛に充ちた言葉を、人間すべてが交換できる日を一日も早く招来せしむる
よう、私たちは神に祈りつづけなければならぬ。
神様、どうぞ愛深き私でありますように
13 言葉
14
美について
人間は美ということに非常な関心をもっている。
ただその関心が、内面的な美によせられるか、外面的な美によせられているかの相違は、
各人の心の高低によるのである。
ミス何々といわれる美人の選定は、まず容姿容貌ということにあり、心の美ということ
はその選定方法に加えられているとは思われない。そうした美人は確かに外面的な美しさ
を充分にもっているには違いない。美しい人たちは何もせぬそのままで、人間の眼を楽し
ひとた
ませてくれるが、その人たちが一度び自分たちの家庭なり、同じ環境なりに入って来て、
果たして各人にその楽しさを味わせつづけてくれるかどうかは問題である。身近い交際に
おいては、外観の美というより、心の美の働きのほうが、より多く他の人々の心を打って
くるからである。外観の美と心の美とが揃っていればこれにこしたことはない。
心の美というのはその人の行為による。その人の行為に愛の働きが強ければ強いほど、
深ければ深いほど、その美は輝くのである。内面の美、心の美というものはその人の行為
の美である。
赤児が愛らしく美しいのは、生命の動きがなんの作為もなく、そのまま外的行動に現わ
れているからであり、少年少女や、若い女性の美しさは、生命の働きが、伸びゆく姿とし
てそれらの肉体に働いているからである。
はだ
乙女の膚の美は、言葉にいえぬ程の美しさをもっている。それは生命の働きが、肉体に
強く、充分に伸展している姿だからである。
美とは生命が障りなく働いている姿である。
生命が肉体的に働いている姿は外面的な美となり、生命が内面的に働いている時は、心
の美、行為の美として人の心を打つ。
中老の人たちがいかに外観を装うとも乙女の美に敵う訳はない。その人たちにとって、
乙女の美、青年の美に勝るものは、内面的な美、心の美の外にはない。肉体における生命
15美について
の伸長には年齢的限度があるが、心の伸長には年齢的制限はない。
人間は年と共に心を深め、高め、次第に神そのものの美しさを、その言動行為に顕わし
てゆかなければ、自己をみじめにし、人の心をも暗くしてゆくようなことになってしまう。
お互いに真の美しさを自己のものにしてゆきたいものである。
16
赤児と美
私は毎日のように様々な赤児を見ているが、どの児を見ても心が純粋になり、和やかに
なってくる。
眼が大きかろうが小さかろうが、鼻が低かろうが高かろうが、そんなこととは別問題に、
えいじ
嬰児は純真で愛らしい。
家庭の不満や、会社の不足、種々様々な不幸や悩みの相談相手になっていて、現象世界
の人間像の、苦悩に充ちた生活の中に、否応なしに対座させられている私の心に、ぽっか
り明るい神の灯をもってくるのは、こうした赤児の来訪である。
汚れた貧しいねんねこにくるまっていても、高価な毛皮を着ていても、赤児の心に惑い
もなければ、誇りもない。只ぱっちりと眼を開き、或いはぐっすり眠りこけ、自己の環境
17赤児と美
も、親の悲哀も、その児の純粋さを稼しはしない。
じねん
赤児はいのち生かさるるままに、自然にそのままに生きている。そのいのちは未だ自我
を伴わず純粋に素直に、人間世界への第一歩を印してゆく。
自我のないいのちは、自らの純粋そのままを乱され、はばまれた場合に、不機嫌になり、
泣き叫び、ぐずる。赤児がぐずり、泣き叫んだとしても、それがその児の我ままであり、
傲慢であるとは思われない。
赤児はいのち(神)の法則のままに生き、法則をはずされると、不機嫌になるのである。
赤児を立派に育てる最大の秘訣は、その児のいのちを常にいのちの源(神) と結びつけ
て考えることである。もろもろの不安は、神のいのちを稼しこそすれ、プラスすることは
ない。
赤児が愛らしく美しいのは、形の幼さもさることながら、与えられたいのちに何等の不
安なく、任せきった生き方をしているからである。
神に任せきっている姿、それは大人の世界においても、やはり愛らしく美しいのである。
善い音楽や美術が美しいのも、神のいのちを純粋にその曲にその画面にひびかせている18
からである。
世の大人達が最大の美しさに生きるためには、そのもっている自我を一度びは、いのち
の本源(神) に返上し、そこから再び、地上世界にむかって自らのいのちを奏で、ひびか
せなければならない。その実行者は、赤児のそれよりも、より一層高い美しさを地上世界
に顕現し得るものである。
19赤児の美
20
感謝行
人間は、停電になると電灯の有難さを感じ、水道が止まると、水道の有難さを感じ、雨
が続けば、太陽や青空の有難さを感じ、干天になれば雨の有難さをしみじみ思う。そのよ
うに日頃何気無く使っているものが、さて無くなってみると、その必要度に応じて、その
ものその事柄に対する感謝の想いが湧き上がる。
今迄必要であったものが、その働きを止あた時に、そのものその事柄に対する必要度を
痛感し、感謝する。それでいて日頃からそのものその事柄に対して感謝する人はまことに
少ない。
夫の悪口や、妻子の悪口、会社や勤め先までの悪口をやたらに人に訴える人があるが、
もしその相手が、この世を去ってしまったらどうするか、その会社を辞めさせられたらど
ヘヘへ
うするか、その夫の働きが少し位い悪かろうと、その妻が少しくきつかろうと、会社の待
遇が悪かろうと、亡くなってしまうより、辞めさせられてしまうより、生存して働いて貰
い、置いて貰って働けたほうが有難いに違いない。
人間という者は、至極勝手な気ままなものである。こうした勝手気ままな心の在り方で、
家庭の調和や国家の調和、さては世界の平和を願おうというのだから、ますます勝手気ま
まという他はない。
世界が平和であることは、人間の誰でもが願うことである。
世界が平和であるためには自己の国家が平和でなければならない。国家が平和であるた
めには、自分の家庭や、自己の身辺が調和していなければならない。
自分の家庭をごたごたさせて、自分の心が平和であることはできない。自分の心が平和
でない者が、世界の平和を口にするのさえおかしなものである。
世界平和を欲するならば、自身の心を平和にしなければならない。自身の心を平和にす
るためには、自身の心を乱す、我まま気まま、自己本位の想念を捨て去らなければならな
い。そうした誤った想念を捨て去る為にはどうすればよいか、といえば、自己を生かして21感
謝
行
くれるすべての物心に対する感謝の気持ちを湧き上がらせるより他はない。すべての物や
心といってもむずかしいから、すべてのすべてである神に対する感謝を、ひたむきにして
ゆくことが最初で最後のことであると思われる。自己を生かしてくれるものへの感謝の気
じねん
持ちと、世界平和の祈り、この二つをつづけてゆけば、自然と自己の心の乱れが消え去り、
自己の身辺も平和になってゆくのである。
22
白光真宏会について
今度、会の名称が変わって、白光真宏会となった。五井先生鎖仰会では、私自身が呼称
じねん
するのにどうにも具合が悪くて仕方がなかったのだが、私は万事、自然の動きに任せて、
事を運んでゆくことにしているので、一度定まったことは、それが自分自身に都合が宜し
かろうと悪かろうと、文句はいわないことにしている。そして、またそのことが、何かの
都合で自然に改まればそれでよいと思っている。自分の都合不都合で事を運ぶ癖がつくと、
ひとりで
常に想いが乱れていて、不動の心にはなれぬからだ。宗教者は自然法爾に善き方向へ事が
運ばれてゆくようになることが望ましいし、それが真の人間の生き方である筈なのだ。
今度、熱心な皆さんが、幹事会をつくって、白光真行会という名で、信徒会活動をはじ
められたのを機に、自然に五井先生鎖仰会の実践活動が、白光真行会に移ってゆく形になっ23白
光
真
宏
会
に
つ
い
て
てきて、五井先生鎖仰会が、名称だけになりはじめた。そこで、それならいっそのこと、
五井先生鎖仰会を白光真行会と一つにしてしまって、新しい名称に変えてしまおうという
ことに、何とはなくなっていった。そして白光真宏会という新名称が出来上がったものな
のである。
白光というのは、以前にもお話してあるがホワイト・スピリット、いわゆる澄み清まっ
た光、高級神霊のことである。この救世の大光明を、真にひろまらせる会、真に宏大して
ゆく会というのが、今回の名称であって、皆さんの一人一人が、世界平和の祈りを、神界
につながる柱として、この白光と一つになり、世界大調和の大運動と為してゆくことによっ
て、この名称を真実に生かし切ることになるのである。
おのずか
この会の特徴は、自分が今、救われながら、自ら世界人類の平和の為にも働いている
おうそうげんそう
ことになる、という、往相と還相、つまり、神へ昇ってゆく道と、神から救いに天降って
くる道とを、同時に行っている、というところにあるのである。それが世界平和の祈りな
のである。
祈りからはじまって、祈りに終わる生活の中に、すべての活動が生きてゆく真実の人間
24
の生き方が、自然と行われてゆく、それが私たちの会の生き方なのである。
業想念と本心が、世界平和の祈りによって、はっきり区別され、業想念が次第に消え去っ
てゆき、個人にも人類にも、大調和した本心(本体) 神の生活が顕現してくる、というの
がこの会の運動なのである。
25白光真宏会にっいて
26
髭浄
或る時、一人の青年が私の髭をみて、
「先生はなんのために髭をはやしているのですか? 」
と、何か私が権威をつけるために髭をはやしているとでもいいたげな口調で、私にこう
きいた。
「いや、別になんのためと考えてはやしたわけではないよ、無精髭が伸びて、伸びた髭
を人々がほめてくれたので、いつの間にか、今のような髭になってしまったのだよ」
と、私は軽く答えた。潜在意識ではいざ知らず、私はなんのためというような大げさな
気持ちで髭をはやしたわけではない。ところが世の中の人というものは、いちいちなんの
ヘへ
た め、なんのため、というようにものを考える。人間というものは、一挙手一投足になん
、、、おのずか
のためを考えなくとも、根本が神のみ心につながっていれば、自ら神のみ心に叶った、
真善美に叶った想念行為になってくるものなのである。
ところで、この私の口髭だが、若い頃は、真黒な艶のいい髭で、その頃間借りしていた
家の娘が宝塚の生徒だったので、その組が東京で上演する時は毎回切符の割当てがあって、
劇場にゆくと、生徒たちが踊りながら、一様に私のほうをみては、くすくすと笑い合う。
後でその娘のいうことには、
「先生の口髭を、私たちの友だちは、みんなでジャングル髭と呼び、ジャングル髭の先
生が今月も来た、といっては懐かしんでいるのですよ」
とのことであった。
そういっていた娘たちも、やがて有名になったり、お嫁に行ったりして、私の漆黒の口
髭も、いつかは秋色を帯びた栗毛色になってきて、中に白い毛もちらほらみえてきた。
ひたい
私の口髭はもはや、私の額と同じように、私の顔のなかでは、なくてはならぬ重要な存
在となってしまった。私の体の中で、一番人々の印象に残るものは、大きな額と、この口
髭であるらしい。今私の口髭を切ってしまったら、みんなの印象の中にある私が変貌して
27 髭
しまうのである。
28
ひびき
ひびき
私は毎朝、或るキリスト教会の鐘の音をききながら、道場にでかけてくる。
その鐘の音は、冬の凍った空気を融かす、甘い、柔らかい、温かいひびきを私の心にひ
びかせてくれる。
晴れ渡った日などは、太陽の光と、その鐘のひびきとの調和が、天国浄土を想わせさえ
する。
この世界は、すべてそれぞれのひびきによってできている。それを波動と科学者は呼ん
でいる。光の波動、音のひびき、想念のひびき、そうした、こもごものひびきの交流が、
私たちの住む世界をつくっている。
一体、私たちは毎日どんな想念のひびきを出しているのだろう。30
教会の鐘のような、温かい、柔らかいひびきであろうか、それとも氷のような冷たい固
いひびきであろうか。知らず知らずに発している自分たちの言動のひびきが、大なり小な
り人々に影響を与え、その影響はまた自分に戻ってくる。そして、それが自分の運命とな
り、それが大きく集まれば、人類世界の運命を自然に決定してゆく。それは絶対ごまかし
ようのない原理なのである。
言葉のごまかしや、態度のごまかしではいけない。正真正銘、自己の発する心のひびき、
人間自体の発する想念のひびきが、この世界に交流し、交叉して、或いは戦争を生み、或
いは平和をきずく力になったりしてゆくのである。
ねた
私たちが、常に怒りや妬みや、冷酷の想いを発していたとするならば、それは自分や、
その当面の相手が痛み傷つくだけでなく、この人類世界の調和の波を、それだけ乱し、傷
つけることになるのである。
もし、そうした想念が起こった場合は、その想念以前のひびき、すなわち、光そのもの
ひびき
の波動(神)につながらなければいけない。それを祈りという。いいかえれば、祈りとは、
おもい
人間が、いろいろの想念を、ひとまずそのままにしておいて、想念の起こる以前のもの、
31ひびき
絶対なる宇宙の光明、神をただひたすら想いつづけることなのである。そこには理屈とか、
理論とかいう想念はない。想念以前の直感だけである。赤児のこころそのままである。た
だ念ずるのである。ただ祈るのである。”神様、どうぞ私が貴方様と一体でありますよう
に” とその時、宇宙の真なる光は、その人を通して、素直に、真っ直ぐにこの地上世界を
照らすのである。それを真なる、善なるひびきという。
32
春に寄せて
桜の花の咲き始めた公園のベンチで、若い母親が一人、赤児を抱いて坐っている。
母親は胱惚として乳房を与え、赤児は無心に乳を吸う。
母の中に菩薩が住み、赤児の中に仏が息吹く。
青空は慈顔をますます和ませ、花片はいとおしそうに自分の心を匂わせる。そして大地
はぐく
は母親を己れになぞらえ、万物を育む大役に満足してひろびうと胸をひらく。
こうした風景の一こまに私は自然と人間の調和を感じ、その調和の中に何気なく見えて
奥深い神の愛を感じる。
神には理屈もなければ理論もない。神は只自己の大生命を徐々に宇宙全体に繰りひろげ
てゆくだけである。その動きの中に愛もあり、美もあり、真もある。
33春に寄せて
いのち
人間はその繰りひろげられてゆく大生命の一つ一つの生命の線として、その大絵巻を各
自分担して画きつづってゆくものである。
いのち
大生命が右に動けば、生命の線も右に動けばよい。左に動けばそのまま左に動けばよい。
大生命と小生命(いのちの線) とは不離一体であって離れることはできない。
大生命の動きのままに従わなければ、その小生命は傷つき、ねじれる。それが法則であ
る。その法則に逆らって傷つきねじれたいのちの線が、次第に神から離れた形に見え出し
て来、遂にあまりに曲がりくねって、己れの光線の源を見ることができなくなってしまっ
た。そこで大生命は、そのいのちの光を傷つきゆがんだ光線に強く放射した。その強く放
射された光源を守護神という。
その光源(守護神) の強い光によって、次第に光線のゆがみがためなおってゆき、ゆが
んだ光線によって画かれた絵巻の一筆一筆が、修正されてゆく。そして大生命の大絵巻を
完成に近づけてゆく。ゆがんでは修正され、誤っては加筆されながら己れの生命線を立派
な絵筆としてゆくことが、人間の為すべきことであり、なさねばならぬことである。すべ
ての人間が立派に神の絵筆となり、守護霊、守護神の指導のままに各自の画面に神の意志34
を画き出してゆく時、天地一体、宇宙大調和の姿が、大絵巻として画き上ってゆくのであ
る。
私たちは幼児の如く、無心に素直に守護霊、守護神の愛を信じ、神の大絵巻完成の一光
線とならなければならない。
桜の花の咲き始めた公園のベンチで、若い母親が一人、赤児を抱いて坐っている。
母親は幌惚として乳房を与え、赤児は無心に乳を吸う。
こうした何気ない情景さえも、神の大絵巻の一こまである。
35春に寄せて
36
人間の責任
暁け方まで降っていた雨が止んで、新緑に残された幾粒もの水滴が、五月の陽光と快く
調和し、銀色に光り、金色に輝き紫色の光を放つ。天界の美の片鱗が、庭先にうつし出さ
れている朝のひととき、私の心は天地の恩寵を感じつつ和やかに停む。
こうした小さな水滴の中にさえひそんでいる自然の美しさ、そしてそれを感ずる人間の
美意識。
ひかりくさき
天と地と陽光と風と、雨と草木と人間と、このようなすべての存在の中で、人間のみは
美を感じ、醜を感ずる側にあり、その他のすべては、人間に美醜を感じさせる側にある。
いかに自然が美しくあろうとも、観る側の人間が存在しなければその美は成り立たない。
自然は観られるそのままに存在し、人間は観るも観ざるも己れの自由に任されたる存在と
して生きている。そして人間同士お互いの存在を観、聴き、その美醜、善悪を選択する自
由をもっている。
この宇宙世界を創造した絶対者は、果たして重点を観る側(人間) と観られる側(自然)
とのどちらに置いたのであろうか。私は観る側(人間) に重点を置かれたものと考える。
何故なれば、観るということは、観る力が中に存在しなければ、観るという能力は生まれ
て来ない。観るということは意志と感覚との協同作用である。観られる側にはそれがない。
絶対者(神) は観る力となって人間の内部に存在し、自己の創造した自然をみつめている。
そして観られる側(自然) に働きかけている創造活動のひびきと、人間の内部における観
る力、いのちのひびきとの調和によって生まれる美観を愉しんでいるものと思われる。
この考えをもう一歩進めてゆくと、人間のためにすべての自然が存在するということに
なってくる。それほど重大な人間という存在が、真実の美意識を失いかけている。自然の
おもい
中から美を見失い、最も共通なひびきをもっている人間お互い同士の間から神の理念とは
いのち
全く反対な憎しみと闘争という、生命を削る醜悪なる事態を現出させつづけてきた。そし
まさ
て、それが恐怖を生み、悲しみを生み、今将に自然そのものを崩壊させようとしている。37人
間
の
責
任
私たちはここで改めて神の理念を想い起こさなければならない、美であり、大調和である
わけみたま
神の大生命的存在を、そして大生命の分霊である自分たちを。生命は調和の中に生き、不
そこ
調和の中では死ぬのである。己れの生命を生かすものは誰か、己れの生命を損なうものは
誰か1
私は自己の生命を生かしきる人の一人でも多からんことを祈る者である。
38
松と白藤
亭々と省えている松の木の頂迄、そのつるを巻きつけて白藤が咲いている。
はなれてみると、それは丁度白竜の天に昇らんとする姿にも見える。
私は今迄にあのように中空にむかって咲き誇っている藤の花を見たことがなかったが、
ふと松の木の負担が思われた。
松の木は自己の力そのままに、大地にひろく根を張り、その根力を基にして、堂々と己
あらしな
れの姿を中空にむかって伸び育ってきた。その百年を超ゆる年月の問、暴風雨に耐え、地
震にも耐え、人間の迫害にも耐えてきていたことであろう。幾多苦難の歴史の中に、松は
人間の世界の変転を超然と眺め、超然と認めて来た。
白藤のつるは恐らく数年の間にわたって、その松の木を己れの伸びゆく支えとして、年
39松と白藤
毎に己れの花を咲かせていたに違いない。
白藤にとっての歓喜は松にとっての負担となり、生命進展の障害となることを思わせる。
松の木は自己の力そのままに生長し、白藤は他に支えがなければ自己の生長を形づける
さカさカさカ
ことのできぬ性をもつ。それがお互いの生まれながらの生命の性なのである。性そのまま
とが
に伸びることにはなんの不調和もなく科もない。
くす
松の緑と白藤の花房と、人の眼には奇しくも美しい眺めであろうが、私には何か変則的
な美しさに見えるのである。一方の生育が一方の負担であって、何等の恩恵もないという
ところには私は不調和を感じ、不満を感じる。お互いが、お互いの生命を生かし合いなが
まこと
ら、このような色彩的コントラストを生み出し得たならば、私に真の美しさを感じさせ、
楽しさを感じさせるに違いない。
白藤の花はやがて散って、今では青空の中に松の木だけが亭々と聲えている。だがその
松の木にからまっている白藤のつるはいつの日に己れの体を松の木から離し得ることか。
人間の世界には常にこうした不調和、不公平がつづけられている。日本の国がそうした
藤の花であってはならない。また日本人の一人一人がそうした他人依存の人間であっては40
ならない。松の木であっても白藤であってはならない。人間は植物ではない。人間の生命
には自己の運命を左右する智慧も力も含まれているのである。業生の慣習を自己の運命と
思ってはならない。業生の慣習を超えた生き方こそ人間の真実の生き方であることを知る
べきである。
41松と白藤
42
たそがれから
あかね
夕陽が赫く燃え、茜雲がたなびいている時刻から、あたりが次第に薄紫になり、鼠紫に
なり、すっかり夜のとばりが降りきる迄の夏のたそがれ時は、人の心になんとはなくなつ
かしい思いを抱かせる。
一日の働きを終えた人々が、家路に帰るこの時刻は、母や妻が、かまどに火をたき、夕
餉の支度に忙しい時でもある。
さえず
鶏の声や、小鳥の噌りにむかえられて、太陽が輝きはじめる暁け方は、明るく勇ましい
雰囲気をもつ、夜の憩いへの前奏曲であるたそがれは、夢幻的で人にもの思わせる色彩を
持つ。
自然の動きに朝と夜、動と静とがあるように、人間にも朝と夜、動と静とがある。
少年期、青年期は、朝から昼であり、動である。壮年から老年にかけては、たそがれか
ら夜にいたる静の期間である。
青少年はすべてのものを吸収し、これを即座に発表しないではいられない衝動を持つが、
壮年になると、吸収したものを一度びは我がものとして収め、含味熟読する静の境地をもっ
ている。そして、その後に動にうつって実行する。老年に至ると、実行の段になっても次
第に静的になってゆく。
人間は、働きたい願望をもつと共に、憩いたい願いをもつ。朝を欲すると同じように夜
をも待ち望む。
しかし壮年になることを望む青少年はいるが、老年になることを望む青少年は殆ど見か
けられない。青少年の生命は、しばしの憩いを欲することはあっても、再び活動出来ぬよ
うな憩いに足を踏み入れることを欲しないであろう。
だが、朝が来れば必ず夜になるように、人間も老年のおとずれを逃れることはできない。
自然の法則では、夜から再び次の朝があぐって来るが、人間には夜(老年) が終局点で
新しい夜明けはない、とされている。しかし、それはただそのように見えるだけであって、
43 たそがれから
人間も自然の法則と同じように、夜から再び朝になり昼になることができるのである。即
ち人間の霊は永遠不滅のものであり、魂と肉体(醜) が生死の世界を輪廻し、転生してゆ
くのである。その魂醜の循環が、老人となり、再び少年となってゆくのである。
もし人間が善き行為の生涯を終えるならば、次の夜明けは輝かしい人生のスタートとな
るであろう。
人間は今一度、たそがれの中で、夜の憩いの中で、次の夜明けのことをじっくり考え、
おそ
老年への伯れ、死への恐怖を超える心境にならなければならぬ。
44
秋風
風には色がある。春の色、夏の色、秋の色、冬の色。
季節が風を運ぶのか、風が季節を運ぶのか、ばらが咲き、百合が咲き、ダリヤが咲き、
そして、吹く風ごとに散っていった。
今、秋風の庭に萩とコスモスが咲いている。萩もコスモスも秋風の中に咲くにふさわし
い色である。
夏の暖気にゆるんだ人間の頭脳に、秋風は澄んだ色を浸透させ、冷静な思索を要求する。
そして秋風は人間すべてを詩人にし、哲学者にする。
秋風が吹きはじめると、人間は急に先のことを考え出す。冬のこと、正月のこと、はて
は老い先のこと、秋風は、どうしても人間にものを想わせる。
45秋風
く り
人間の心は不思議なもので、引き出せば中から種々なものが出てくる。うかつに生活し
ていれば、自己から出て来たものごと、事柄を、何も役立てずに過ごしてしまうが、ひと
こと、ひとことに心をこめていれば、ひき出されてきたもの、すべてが己れを立派にする
に役立ち、生命を真実に生かしてくれる。
秋風は、冬の来るを警告し、人間に晩年のあることを悟らせようとする。
金に追われ、仕事に追われ、何かに追われつづけて生きている人間たちに、秋風は自己
をみつめよと警告する。
自己をみつめることなく生きている人間程、みじめな者はいない。彼等は自分たちにとっ
て、何一つ真実のことを知ることなく、この世の幕を閉じてゆかねばならぬからだ。
季節に春夏秋冬があるように、人間にも春夏秋冬があるのである。
春を無駄にした者は、夏に伸び得ず、夏を無為に過ごした者は秋に育ち得ず、秋に思索
し得ざりし者は、冬の晩年を真実に生き得ない。
私は、秋風さやぐ庭に停って、澄み極まった天空を仰いでいた。
天と地と、そして、それを貫いて生きる人間という存在。その存在は神の生命の中で、
46
最も偉大なる存在であることを、私は秋風のささやきの中で、再び強く確認した。
47秋風
48
人間の誕生
十一月は私の生まれた月である。
澄みきった碧空が、日毎に冷えまさってくる大気にひき緊って、次第に厳しい色をしめ
し、地上には百花の、この年最後を飾る菊の花が、けんらんと咲き盛る十一月は、私の誕
生の日があることをも加えて、私の好きな月である。
まこと
生まれるということは、実に不思議なことである。私がこの十一月の月に、日本の国土
に男子として生まれてきたということの理由も意義も、その時は誰にも判りはしない。母
親の体内に入る前に、何処にどうして何をしていたかも判りはしない。誰も彼もがそうで
ある。
まか
この人生は、こうした摩詞不思議な事態からはじまる。
草木が天地の恩恵によって生長し、花が自然に開くように、母親の体内で赤児は自然に
育ち、やがて生まれ、そして成長してゆく。
こうした不思議さを、一般の人はなんでもなくあたりまえに見過ごしてしまう。赤児を
母の体内に宿し、そしてはぐくんでゆく原動力は一体何処から来ているのか、その赤児の
いのちは、赤児以前には何処で何をしていたのであろう。
もだヘヘヘヘヘへ
そうした疑問に蓬着すると、人間は黙さざるを得なくなる。自力ともがく、そのもがき
がおかしなものになってくる。自分で生きているのではない。何か大きな力に生かされて
いるのだ、と判ってくる。そうして、どうしてもその大きな力(神) に謙虚にならざるを
ヘへ
得なくなる。その謙虚を根底にして、ああ、こうして生かされているいのちを無為に粗末
ヘヘへ
につかってはいけない、と感じてくる。生かされているいのちを、大切に有効に生かし切っ
てゆくことに真剣になりはじめる。
私もあなたもあの人も、みんな同じ大きな力(神) によって生かされているのだ。お互
こた
いに生かし合い、生かされ合って神のみ心にお応えしなければならぬ、と思わずにはいら
らいはい
れなくなってくる。そこにお互いの生命を礼拝し、愛し合う人間の尊貴さが現われてくる。
49人間の誕生
いのち
人間のいのちは尊い。人間の生活は尊い。神の大生命をこの地上界に華咲かせ稔らせる人
間の尊貴さ。私はこの尊貴さを一人でも多くの人たちが認識して、生活して頂けることを
祈って止まないものである。
50
冬に想う
こがらし
空から吹き下してくる凧に、躯のあらゆる皮膚が、今迄甘やかされていた夢から目醒
めさせられて、高い青空を仰ぎみる。
冬の空は、地上五尺余の人間の身長を何億万倍伸ばしてもとどきそうもなく高い。
人間は朝の寒気の中で、清洌な冬空の下に立って、肉体感覚ではどうにも手のとどかぬ
自然の本源を心のどこかで感じはじめる。
こがらしとげ
樹木は枯れ、すべての花も散り果て、鳳の冷い刺が、装いを捨てた自然の厳しい姿を、
とお
人間の肉体感覚を徹して、その魂にうつしてくる。
ひととき
人間は、この自然の厳しさに一時は少しくたじろぐが、やがて魂の力が肉体の表面に進
出してきて、謙譲ですっきり澄みきった心になり、かえって真実の人間精神が、自分の生
51冬に想う
活内容に充実してくるような感じがしてくる。
清洌な高い青空が、肉体を通さずに、自分の内部で、自分とぴったり一つになってきた
ように感じられる。
人間は、肉体が厳しい自然と対決した時、または烈しい世界の動乱に立ち向かった時、
肉体の装いをかなぐり捨てて、真に魂の力でこれに立ち向かう。
こうした真剣な対決となると、甘やかされた肉体、虚色に酔いしれた五感は、もはや何
等の役目も果たさず、人間内部の力が人間の生命力を極度に発現させて、これらの烈しい
襲撃を追い退ける。
肉体そのものに一体なんの力があるであろう。肉体の五感は、常に安楽を追い、華美を
喜び、味覚の陶酔にふけろうとする。
そうして、その決算をつけるのはいつの日でも魂の力による。魂の力なくしては、肉体
感覚は真の喜びを味わうことはできない。
肉体は魂に負担を負わせつづけて、やがて滅び去ってしまう。魂はその肉体の残した負
債を負いつづけて、困苦に耐え、哀しみに耐えつつ、その負債の責を果たしてゆくのであ52
る。
肉体五感の一瞬の愉しみのための、魂の負担がいかに大きなものであるかを、肉体人間
はじっくり考えてみる必要がある。
ほんとう
人間とは真実は霊と魂との合体であり、肉体はその働き場所であり、器である。場所や
器の恰楽のために、真実の人間を傷つけ損なわす愚かさを、一日も早く改めなければ、冬
のさ中に裸で、寒気に震えおののく馬鹿げた結末を味あわなければならなくなってしまう
のである。
53 冬に想う
新生
56
いのちあらたに
よこしあらとしひかり
邪まの想ひ浄むと新年の陽光の庭に拍手をうつ
新年という言葉は、実に不思議なひびきをもつ。心改まるというが、全く心を新しくさ
せる微妙な閃きが、その言葉の中から感じられる。
十一月から十二月にうつるのも一ヵ月であり、十二月から一月にうつるのも一カ月であ
る。同じ一カ月でありながら、この一ヵ月のうつりかわりは、非常な差異を人間の心に感
じさせる。特に日本人においておやである。
庭の樹木も、天も地も、昨日のつづきであることには違いないのだが、元旦の天地、山
川草木、すべてが、目新しい光をもち新鮮なひびきをもつように、人間の心に感じられる。
おのずか
年が改まったことによって、人は自ら、心に新しい生きる力、新しい理想、新しい道
への開発を見出そうとする。
新年お目出度うございます、と人々は一様にいう。
目出度い人も、目出度くない人も種々様々でありながら、新年を祝いたい心が、日本人
の心の中に潜在している。
人間の生命の流れは、川の水のように、昨日ここで見た水は、今見ている水とは違うの
である。昨日の水は、もうすでにどこか遠くへ流れ去っているのである。人間の生命もそ
のように間断のない光の流れであって、一処に止まっているものではない。
おもい
肉体人間というものは、生命の流れに各様の想念を乗せて流れているもので、昨日の生
おもいおもい
命は今日の生命でないように、昨日の想念はまた今日の想念ではない。従って、昨日のあ
なたは今日のあなたではない。
昨日のあなたが、いかような善事を為したとしても、今日のあなたがしたのではなく、
あやま
昨日のあなたのした過ちも、今日のあなたのしたものではない。だから、昨日の善事に誇
あやま
ることもなければ、昨日の過ちを嘆くこともない。それらはすべて、消え去っていった想
まこと
念行為に過ぎない。人間は常に今の瞬間々々を正しく清く、愛と真に充ちた生き方をして
57いのちあらたに
ゆけばよい。
新年は、そうした生き方を改めて思い起こさせることによって目出度い。
して、人間は日々新たな生命を生かしきってゆきたいものである。
元旦を契機と
58
新生せよ
今年もいつしか冬が過ぎ、梅から桜へと花のいのちが展開して、人間の心を和ませてく
れる季節となった。
霞んだような青空の土手を、花をみながら歩いている休日のひとときは、人々の心に平
和が宿る。
ひかりのどか
柔らかい陽光と、花の清純さが、人間の心を自ら優しく慰め、長閑な憩いを与えてくれ
る。
しかし、花の頃につきものの風塵が、そうした平安を瞬間的に曇らせるように、今日に
つづく明日への生活のおびえが、ひょっこり暗い想いを人間の心に呼び興す。
明日からの生活がもっている様々な不安と、社会全体、人類全体から覆いかぶさってく
59新生せよ
る黒い雲。戦争、天災、老病貧苦。
なあに、明日は明日の風が吹く。人々は強気に、そうした生存への圧迫を明日の方へ追
いやってはみるものの、先程までの平安は、その人たちから、もはや奪い去られているの
だ。
呑気になったり、いじけたり、笑った心が、すぐ嘆いたり。そうした想いを繰りかえし
ながら、人々は漠然と生きてゆく。
やがて春が去り、夏が去り、また冬がくる。そうして遂には人間たちの知らない何処か
へ、自分が消え去ってゆくそのはかなさ。
これが、万物の霊長といわれている人聞集団の殆どの生き方である。
ああ、もうそんな生き方は、すべて過去として捨て去らなければいけない。
真実の人間は、そのように不安から不安につながって生きてゆく程、弱々しい者でも、
はかないものでもありはしない。
貴方がたは、生存するために働いているのではない。ほんとうに生命を生かし切るため
に生きているのだ。生命とは肉体ではない。肉体は生命が使っている単なる道具だ。60
ヘヘヘヘヘへ
雨だといってはぐちり、地震だといってはおびえ、貧しいといっては嘆き、病気といっ
ては心を細らせる。
おもい
そのような想念は、もう過去へさらりと捨て切ろう。
人間はすべて、神から来ているのだ。あらゆる自然現象を超越して生き通せるのが真実
の人間なのだ。
おもい
恐怖は、過去世からの想念の習慣から起こる。貴方がたは、各自がすべて神の使命を肉
体世界において果たすために来ていることを知って、不動の安心を生活に行じなければな
らぬ。
61新生せよ
62
こ
業 想念を超えよう
今、ここ大地の上に私という一人の人間が立っている。
この一人の人間は、五月の青葉のさやぎに眼を細め、大空からひびいてくる、陽光の律
ズム
動に自己の想いを溶けこませて、生きていることの喜びを満喫している。
ひかり
陽光は有難い。青空は有難い。この大地も草木も、花々も、すべてがなんと有難いこと
であろう。私はそう想って、神との一体観をしみじみと味わっている。
しかし、こうした快い自然の調和したリズムの中にいても、なんの喜びも湧きあがらず、
自己を不幸だと思い、死にたいと思い、生まれて来なければよかった等と思いつづけてい
て、どうにも自分ではこの想念から逃れることのできない人もあるし、何かと不平不満の
理屈をつけて、自己や周囲を不快にし、不幸にしている人たちもなかなか多い。
そうした人たちは、現在の生活環境が自己の希望に染まないので、つい、いらいらし、
あくせくして、そうした想いが習慣になり、何もかも面白くなく、嬉しくなくなってくる
のである。
おか
人間とは可笑しなもので、幸福を求める想いがあるから、自分を不幸だと思い、よく生
きたいという想いがあるから、死にたい、という反対表現をする。幸福を求めながら、不
幸だ不幸だと自己を不幸という想念の渦の中に巻きこんでゆき、生命をよりよく生かした
こかつ
いと想いながら、生命が枯渇する暗黒の思想の中に自分を追いこんでゆく。神から観るな
らば、実に白痴に等しい行為である。
おもい
こうした人たちの想念の誤りは、まず神を知らず、神の愛を信じないところから起こる
のである。
一回じっくり落ちついて、自分はいったい何処から生まれて、何処へ行くものか、自分
の心臓を動かし、肺臓を動かしている生命とは何か、ということを考えてみることである。
しかし、いくら考えてもこうしたことはわかりはしない。判らないということが判ったら、
自分で判っても判らなくとも、たゆみなく自分を生かしつづけていてくれる、大きな力が
63業想念を超えよう
あることを信ずるがよい。その力に任せきるより仕方がないのが肉体人間なのだ。大きな
力は、生命として人間に働いている。人間は生命を無視することは絶対にできない。神は
太陽となり、地球となり、食物となり、様々な姿になって人間を生かしつづけているのだ。
肉体人間の文句をいう権利が一体何処にあるかを、お互いに反省してみようではないか。
64
星は輝いている
けんらん
日中には太陽の光に隠れて見えぬが、夜に絢燗と輝く星の群は、人間に様々な想いを抱
かせる。
夢を、理想を、希望を、感傷を、そして、果てしらぬ大空の、計り知れない叡智と、そ
のロマンは、人間の心に知らずして大きな影響を与える。
星は生きている。確かに、星の群は、その一つ一つが、太陽のように、地球のように、
生き生きと活動している、と私は思っている。
人間は、最初に星の世界から天降って来たのだ、という説が諸所にある。私もそう思っ
ている一人である。
星と人間との密接な関係を、世の人々は知らない。太陽と人間とが、深い関係をもつこ
65 星は輝いている
とは誰でも知っているが、星と人間との密接な関係を知る人は甚だ少ない。
星は、地球界に人間を生みなして以来、常に人間界の運命のすべてを眺めつづけていた。
星の世界に住む、我等の祖先は、この地球界に、それとなく援助の力(光) を送りつづけ
ていたが、人間界の大半は、その事実を知りもしなければ、考えてもみないでいた。
しかし、次第に、そうした事実が、明るみに出る時節が近づいてきた。地球世界の人間
集団の白痴に等しい生き方が、遂に自分たちを滅亡させる方向に急激に走りはじめたから
である。
このまま肉体人間に任せていて、この地球世界が平和になり調和になる、と断言できる
人が何処にあるだろう。
原水爆のたえざる製造と、思想的謀略との戦いの中に、平和や、調和の影が見られるわ
けがない。ただ、お互いに自分たちの有利な理由を見つけ出そうとして暗躍している時間
が、平和になるかな、と無智な人々に思えるだけなのだ。智恵ある人たちの力は弱く、真
理に暗い人間たちの魔力は強い。
いずこ
この地球世界を救う者は一体誰なのか? 何処から来るのか? それは、やがて判明す66
る。時期が近づいたからだ。
私は黙って、宇宙神に祈りを捧げている。世界が平和でありますように、人類が平和で
ありますように、と私の同志たちも守護の神霊に祈りつづけている。
空飛ぶ円盤が東京の空を飛んでゆくのを多くの人たちが見たという。私たちは救世の悲
こ
願を祈りに籠めている。救世主は一体何処から来る?
67 星は輝いている
68
裸の心
眼に沁みる濃緑と、焼けつく太陽光線。真夏は、人間を原始的な生活感情に立ちかえら
せる。
裸体に近い服装に、女性は意識せずして、イヴの昔に還えろうとするが、男性は一家の
糧の勤労にあくせくして、そうたやすく、アダムに立ちかえるわけにはいかない。
禁断の木の実を食べて、人間の原罪をつくったといわれるアダムとイヴの物語は、裸身
を覆いかくしたところからはじまったという。しかし、その裸身とは裸心であって、裸の
心、本心を覆いかくした蛇の智慧、業想念のはじまりを意味しているのだ。
真夏を素裸でいるのは、誰しも快いものであろう。裸身が快い以上に、裸心、裸の心に
なると実に快いものである。ああではない、こうではない、これは損だ、これは得だ、欲
しい惜しいの把われの、そうした業想念をさらりと捨てて、本心のままの素裸になれば、
アダム以前の古代我(神我) の生活が、この地上界に顕現するのだけれど、裸身になって
も、裸心になることが、今の人間にはむずかしい。
現代までのどの宗教も、我欲を捨て、裸の心になれと教えているのだが、どうしたら裸
の心になれるのか、本心そのままになれるのか、この世の生活が、あまりに物質的であり
すぎて、物質を考慮に入れない生活は成り立たない、成り立たないという観念のままに、
物質生活を豊かにするために、智慧をしぼり、肉体を活動させ、個人も国家も、自己防衛
の物質生活に立てこもってしまった。かくして、物質と想念とが入り乱れ、交換し、ます
ます本心が奥に潜入してしまい、唯物的想念行為がこの世を覆ってしまって、折角イエス・
キリストがアダムとイヴの原罪、つまり本心を覆う肉体的物質的業想念を、自己の肉体に
代表して十字架に掛けて消滅してくれたのを無為にしようとしている。
アダムとイヴとは肉体人間の最初の男女であるということになっているが、その以前に
は、肉体をもたぬ霊身の人間が活躍していたのを多くの人は知らない。
肉体人間は幾多の業想念を積みながら、肉体人間としての最高の文明を築きあげて、原69 裸
の
心
子の発見利用に迄到達した。もうこれ以上は自己滅亡の道があるのみだ。肉体人間はもう
一度、本心(神)が何を望んでいるかを考えてみなければならない。
だんらん
夕涼みのうちわの風に、家族が団簗している間にも、あなた方の背後の守護の神霊たち
は、人間世界を救済しようと全力を上げていることを信じて貰いたい。まず心を裸にして
天命を信じ人事を尽くそうではないか。
70
鳳仙花
或る朝、ふと庭隅を見ると、他の草木の蔭になっていて今迄気づかずにいたが、小さな
ほうせんか
鳳仙花の赤い花が、僅かに自己の存在を示していた。
他の場所には、同種族の花が、勢いよく咲き盛っているのに、この花は尺余に足りぬ背
丈けに、色弱い小さな花を一輪咲かせている。私は今日迄、この花の存在に気づかずにい
たことを、この花に詫びたい気になりながら、聖書の言葉を頭に浮かべていた。
ついばいしし
ー播くとき、路の傍に落ちし種あり、鳥きたり啄む。土うすき礎地に落ちし種あり、
すみやいばら
土深からぬによりて、速かに萌え出でたれど日出でてやけ、根なき故に枯る。茨の中に落
ふさは
ちし種あり、茨育ち塞ぎたれば、実を結ばず。良き地に落ちし種あり、生え出でて茂り、
実を結ぶ事三十倍、六十倍、百倍せり。という言葉である。
71 鳳仙花
この鳳仙花は、その種の落ちたところが、悪かったがゆえに、僅かより育たなかった。
小さな卑弱な赤い花。卑弱ながらも、受けし種に僅かに咲かすそのいのち。
私は小さなその花に、限りなく愛情を感じて、いつまでも見つめていた。
人間生活にも、こうした生命をしばしば見受ける。生まれた環境悪く、育つ環境悪く、
学業も教養も殆ど受けずに育ってきた人々の生活は、その生命力を充分に伸ばす機会に恵
まれず、この花のように、わずかにその生命を息づいている生活をつづけている。
おご
そうした人々を、一概に、低級視し、下層の者とみなす人は、心奢れる者である。自ら
が環境よくして、或る地位を得ているからといって、その人がそれだけで秀れているとは
いえない。お互いのこの世の廻わり合せが相違しただけであって、種は同種の鳳仙花であ
るかも知れないのだ。
さげすさげす
人を蔑む者は、その蔑みの心あるゆえに、悪しき種であるかも知れない。いかなる人を
も蔑まず、その想念思想や、行為の誤りを善導するために、自らが善き環境となってやる
ことこそ、人間の愛である。そして改あて、人間神の子の教えの種をそうした人々の心に
播きつづけていってこそ、地上に天国ができやすいのではなかろうか。すべてを善き地に72
するのは、愛という滋養をこの土地々々の上にふりかけてやることである。さすれば、
べての鳳仙花は立派な花を咲かせ、地上に良き種を播いていくことであろう。
す
73 鳳仙花
74
幸なるかな心の貧しきもの
先日或る人がきて、幸なるかな心の貧しき者、天国はその人のものなりーという
聖書の言葉があるけれども、心は豊かにもたねばならぬと私は思っているのですが、この
場合の貧しいというのはどのような意味なのでしょう、と私にきくのであった。
なるほど、心の貧しき者、という言葉を、日本語の文字の意味通り受け取れば、富んで
いない、豊かでない、貧弱というマイナス面の表現に感じられる。そのような心でいる人
が、どうして天国の人なのであろう。そんな疑問が確かに湧いてきたに違いない。
イエス程の聖者が、そんな真理に沿わない言葉をいうわけがない、とこの人はその疑問
の後で思い返し、私のところにたずねてきたというわけである。
私は読書するのに常に文字の奥にある、文字になる以前の心を読む習慣がついているの
で、この言葉にも、私としての疑問は別に起こらなかったが、と前置して、私はこの言葉
のもつ深い意味をこの人に話して聞かせた。
この貧しいという意味は、一口にいえば謙虚、へりくだり、ということであって、普通
いう、貧乏、貧困ということではない。
その人がいかに財があり、地位があり、智識経験があり、能力があっても、いつも、そ
うした誇りをもたず、財も地位も、智識経験も能力も、すべてに自分は未だしの者である、
から
貧しい者である、未完成の者である、という意識があって、心が謙虚に空っぽになってい
る。つまり、常に素直に真理の言葉、神の言葉を容れうる状態になっている心の持主、と
いうことである。
財的に富んだ心、智識経験で一杯になった心、高慢な心でいる以上、新しい教えや、新
しい智識の入る隙もないし、心の深いところから湧き出でくる真理の働く場所もないこと
になる。
イエスはあの頃の新人宗教家で、誤った古い宗教観念を破砕しようと、大説法をしてい
たのであったから、昔の宗教智識や、哲学思想をつめこんだ心驕れる人々を嫌い、謙虚で、
75幸なるかな心の貧しきもの
から
心の空っぽな素直な人を喜ばれたのであった。
それが幸なるかな心の貧しき人の言葉となって現われたのである、と私は話を
ひかりすが
結んで、ふと庭を見た。庭には初秋の陽光の清しさに和して黄ダリヤが咲き、紫ダリヤが
咲いていた。そして、その陰に、ひっそりとつつましく赤まんまの貧しき花が、微風にゆ
れていた。
76
道
78
今年こそは
暖房のよくきいた部屋に暫くいて、戸外の寒気にふれると、顔や手足に沁みこんでくる
冷たい空気が、なんともいえず快い。
冬には暖房が何より有難いが、暖房の部屋にばかりいて、戸外の冷気に触れずにいたの
では、これまた体にも心にもあまりよいものではない。
暖気と冷気とが適当に調和された生活が、人間にとって、一番よい状態といえるのであ
る。そういう点では、日本には春夏秋冬が実によく配分されていて、一年を通して人間の
心身が最もよく調和され得るようになっている。こういう日本の風土には感謝せずにはお
られない。
こういう気温の問題と同じように、人間の精神に関することでも、あまり甘やかされす
ぎた愛情では、立派な人間はできないし、といって、厳しすぎる教育を受けると、これも
かたくなな人間になってしまったり、面白味のない人間になってしまったりする。
そこで、中庸ということが大事であるといわれるのである。資本主義も土ハ産主義も、右
翼も左翼も、何か一方に片寄っているようだと、どうしても大調和な生活はその主義から
は生まれてこない。
大愛というのは、甘いようにみえることもあれば峻厳そのものにみえることもある。そ
の時、その場、その人によって、自由自在にその時、その場、その人に一番必要な状態を
現わすものである。
人類の生き方が、何かに偏して動いているうちは、世界の完全平和はできる筈がないの
で、各国各民族が、自国や自民族、何々陣営というような立場だけで、どのような政策を
講じようと、それは一時の手段方法にすぎない。
ところが現在のように、各国各陣営が、さあ手を組もうと気楽に仲良くなるためには、
たやす
あまりにも主義主張や利害関係に相違がありすぎる時代には、そう容易く中庸に立った政
治政策ができるものでもない。
79 今年こそは
そこが問題なところで、その出来難いところを、各国の政治指導者が、何かその穴埋め
的な方法を考え出さなければ駄目だと思う。その大穴埋めをしてくれるのが、救世の大光
明の働きなのであるが、まだその真理を各国の指導者が理解する時にはなっていない。
こうした指導者たちに真理を知らせるためにも、世界中の想いを世界平和という想いに
統一する、その祈り言である、私たちの提唱する世界平和の祈りを、一人でも多くの人た
ちに実行していただくための、大運動を展開してゆかなければいけない。今年こそより一
層しっかり祈りつづけてゆきたいものである。
80
生きる力
私共の道場の前側一帯が住宅地になるので、三、四カ月前から整地をはじめている。
この丘は畑地と草原なので、様々な草花や雑草が生い繁っていたが、ブルドーザーが毎
日何台つつかきて、みるみるうちに、平らかな赤土の大地に変貌していった。
私たちは、緑美しき昔を懐かしみながらも、住宅難の今日であってみれば、こうした緑
地帯の開発も致し方ないのだ、と思いあきらめていた。
ところがなんと一月もしないうちに、さんざんブルドーザ! で掘りかえし踏みかえした
はだ
赤土のところどころが、再び緑にその膚をかくされてゆきつつあるではないか。この雑草
の種は、あれだけ掘りかえされたどこに隠れていたのであろう。その生命力、生長力の
きようじん
強靱さはただただ驚くばかりである。
81生きる力
それとは話が違うが、朝方国鉄の総武線に乗ると、自分の背丈よりも高い、十貫以上も
あろうと思われる、米穀類の大包みを背負って、各駅で降りてゆく、農家のオバサンたち
ちから
がいるが、その力の強さには全く感心してしまう。これは生活を支えるための、いわゆる
生存のための力なのであろうが、生命力というものは、その生存のためとなると大変な力
を出すものである。
しかし、知性的な人々やデリケートな神経の持ち主は、あまりにその知性や神経に把わ
かんじん
れてしまって、肝腎な生命力を充分に発揮できなくしてしまう。こういう人たちは、一度
雑草的に、生命力をむき出しにした生き方に還える必要がある。といってもどうしてよい
かわからないだろうから、知性や神経に把われる想いを、純朴に祈り心のなかにいれてし
まうようにすればよいのである。その祈りも知性的に納得できる、世界人類の平和を祈願
する、世界平和のような祈りがよいのである。
ごりやくほんい
世界人類の平和を願う祈りは、他の御利益本位の祈り言よりは、知性や神経のデリカシー
を損わずにできる祈り言である。なんにしても生命力を充分に発揮させぬようなよけいな
想念は、無用の長物なのだ。その無用の長物を知性と思ったりしていては、自分も人類も
82
損なってしまうのである。
消えてゆく姿で世界平和の祈りが、どうしてもここで必要になってくるのである。
83生きる力
84
道
ぬかるみ
聖ケ丘へ登る道は、冬になると霜解けがひどく、泥檸になってしまう。そこで石畳を敷
いて歩きやすいようにしたのだけれど、それでも処々にぬかったところができて、足袋や
裾を汚しがちである。
ところが、道として出来ているところを少しそれて、雑木林の中に入ってゆくと、なか
なか興趣もあり、足下もぬかっていないで、楽しい散策となる。
私もはじめは、ぬかった道を歩いていたのだけれど、人に誘われて、その雑木林を通り
ぬけてゆくことにしたのだが、木々の香りがなんともいえず快く、さっさと踏みしめてゆ
く一歩一歩がこよなく楽しいのである。
しかしまだ私たちの他には、誰も正当な道でない雑木林の中を歩いてゆく人がないよう
である。やはり道でない道を歩むのを人々は好まないのであろう。
私は或る日この雑木林を通りぬけながら人と話したのであるが、宗教の道にもこれと同
じようなことが随分と行われているものである、ということだ。
それはどういうことかというと、宗教の教えとしてつくられた道は、本来は自由自在に
各自の生命を生かし切れる道でなければならないのだが、とかくその反対になりがちにな
るのである。宗教指導者が、これが道だと指し示すと、それを固定した、一定した道のよ
うに解釈してしまい、自他の自由自在なる生命の道を、その固定した一定した、狭き道と
思い違って、不自由な人間をそこにつくり出してしまうのである。
神のみ光というのは、宇宙に遍満しているものであって、一定した枠の中でなければ交
流しないというようなものではない。それを一定の枠の中にはめこもうとした宗教指導者
達の存在したことによって、人間は大いなる宇宙神のみ心から、自ずと離れ去ってゆき、
小さな殻の中に閉じこもってしまったのである。
その場所が道でないとはいえ、雑木林の中を通ったとて、誰も損失を受けるものはない。
靴や裾を汚さないばかりか、歩みそのものが楽しいものとなる。それと同じようなことで、85 道
それは宗教の道ではない、この道こそ神につながる道だと説かれ、わざわざ不自由な道
を、心身を狭めて通っている人が、この世の中にはかなりいるに違いない。
自分だけが不自由になっているばかりではなく、その枠の中に他の人を閉じこめようと
する愚かな宗教者が意外と多いのだから、守護の神霊方のご苦労が思いやられる。
神への道は縦横無尽につくられてある道である。人間は本来自由の生命なのだから、そ
の自由自在性さえ発揮すれば、どこからも神のみ心と交流できるのだ。そうした人間の自
由自在性を縛っているもの、それは善悪共なる把われの想いである。その把われの想いを
消えてゆく姿として世界平和の祈りの中に投げ入れて、世界平和の祈りのもつ大光明世界
から、改めて出直してきた時、その人の前に、無磯自在の道が開かれてくるのである。
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