平和を呼ぶ声

五井昌久著
平和を呼ぶ声
– 祈りによる世界平和運動i

序文
過去から今日まで、人類はどれ程平和を望んでいたことであろう。歴史の中では
自己顕示欲のため、和を欲せず、乱を望んでいた人々もかなりあったが、今日では
そういう人も殆んどいなくなっている。
それは今日の戦争が、地球人類絶滅の戦争になる可能性を、充分に含んでいるこ
とを、皆が知っているからである。それでいて、個人も国家も、自我欲望と、自己
カルマ
保存の本能、それに権力維持拡張という業の想念のために、その行為が常に平和の
方向をそれて、争いの方向に向かいそうになってしまうのである。
真に平和を欲するならば、何処の国家も、自ら武力を放棄すべきであるのに、反

1序
対にますます武力を強固にして、常に戦いを意識している状態である。
これは真の平和というものが、どういう心の状態から達成されるのか、というこ
とを知らぬ、無知から起こっているのである。お互いに隙あらば、相手を刺そうとし
ていて、どうして、真の平和が達成されるものか、よくよく考えてみるべきである。
何処の国も言うであろう。「相手が武力を増強しているのに、我が国だけ武力を
捨てるということなどできる筈のものではない」と。今日までの世界観からすれば、
理の当然であって、尤なることである。
ところが、そうした心の状態でいたのではいつ迄も平和は達成されないし、やが
ては、地球人類滅亡の戦争が起こってしまう。痛しかゆしなのである。古代からの
聖者の和の教えを各国指導者たちも知らないわけではないのであろうが、五感の世
界の現実の姿をみると、どうしても、お互いの国が敵と写ってしまうので、お互い
こう
が相手国の武力の隙を窺って、自国の権力拡張を計ろうとする業の想いに負けてし
まうのである。
2
だからどうしても、今日迄の世界観、つまり人類も、国家もすべて物質体なのだ、
という物質人間観、国家観を捨て去って、人類はすべて神の光明波動の現れであり、
神につながる生命体なのだ、という、人類観にならねばならぬ。しかし、それがな
かなかできないのである。
本書では、そういうむずかしい問題をできる限り易しく、人々が行い易いように
書きつづっているので、少しずつ読んでゆくうちに、読者の心境が次第に変ってゆ
き、その宇宙観、世界観が変ってゆくことはまず間違いのないところであろう。
筆者は人類の平和をひたむきに祈りつつ、この書をしたためているのである。
昭和五十年九月
著者識

3序



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世界は一つ…
世界平和の祈りは
易行道浄土冊的法
日本人の平和運動
華積
経極




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5目次

蟻酬沸
 

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人間と真実の生き方
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人間は本来、神の分霊であって、業生ではなく、つねに守護霊、守護神によって守
られているものである。
かこせ
この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念が、そ
の運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去るのであると
いう強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難のなかにあ
ゆるゆるまことゆる
っても、自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづ
けてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の祈りを祈
りつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得出来るものである。
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馬曳くくく触
世界状勢と日本の立場
アメリ力最大のピンチ
早いもので、もう今年は広島、長崎に原爆が落ちて三十年たってしまいました。だが日本人の心
深く、核兵器を恐れる想いは刻みこまれています。その恐れは、アレルギー症状的に、平和利用に
開発しようとしての働きにまで、大きくブレーキをかけています。
原爆を実際に味わった国でなければ、こうも深く恐れを抱くことはないでしょうが、日本では戦
後に生れた人々でも、なんらかの形で、広島、長崎の原爆の恐ろしさを知らされていて、核兵器に
は深い恐れを抱いているのであります。無理からぬことです。
ところが近頃、米国は韓国防衛のためには、核兵器使用も辞さない、という強い発言をしていま
7世界状勢と日本の立場
す。米国としては、ベトナム戦で、事実上、敗戦の憂き目をみたのでありますし、この辺でなんと
か米国の威信を世界に、特にアジア諸国にみせておかなくては、自由主義諸国のリーダーとしての
面目が立たなくなります。
それに共産主義国というものは、こちらが弱味をみせたら、その隙につけこんで、押しこんでく
る、といった傾向があるので、米国はどうしても弱味をみせるわけにはゆきません。
のん
日本国民の呑気な人たちは、ベトナム戦が終って、ああよかった、よその国が共産主義になろう
と、どうなろうと、戦争しているよりは余程よい、とホッと一息しているようですが、これはとん
でもないことで、ベトナム戦が終って、みる間にインドシナの諸国が共産化してくることは、共産
主義指導国の自信を強めることになり、昔からの懸案である、朝鮮統一の方向に歩を一歩進めるこ
とになるのは確実です。
米国は昔からそれを恐れて、なんとかベトナムで勝利を納めようとしたのですが、武力一辺倒の
やり方が失敗して、今日の敗戦をまねいてしまったので、もう後残るは韓国の防衛で、これ以上の
共産主義の侵透を防がなければならない、と必死の想いで原爆を使うこともあり得る、と威嚇の言
葉を出しているのであります。
8

もし韓国が敗れてしまえば、
・朝鮮半島は全く共産圏に入って、米国にとってアジア最大の頼みの
綱でもある日本が、今度は危くなるのです。日本が共産圏に入るようなことがあったら、米国はア
ジアでの地歩を全面的に喪失してしまい、ヨーロッパの信用も失ってしまって、孤立無縁の立場に
立たされ、世界の指導力をなくなしてしまうことになるのです。今や米国最大のピソチということ
なのです。
甘い日本国民の生き方考え方
ということは、日本にとっても最大の危機が迫っているということになるのです。日本は、なん
といっても、米国とは切っても切れぬ仲であります。経済的にも軍事的にも、今日まで、どれだけ
米国を力にしてきたかわかりません。米国も誤ったところや、悪いところが随分ありますが、日本
にとっては今日まで、多くのプラスをもたらしてくれているのであります。
ですから、米国の要請を簡単に断わるわけにもいかないし、また、今後も米国と緊密に連けいし
て世界状勢に対処してゆかねば、それこそ、やすやすと共産主義国の餌食になってしまいます。
自由主義だって、共産主義だって、俺たちは喰っていけさえすればいいんだ、という人々がある
9世界状勢と日本の立場
かも知れませんが、共産主義国になってしまったら、今日までのように国家などより、自分たち本
位にいいたいことはいい放題、やりたいことは自由にやれた、という自分勝手な誤った自由主義の
生き方が一変してしまって、すぺて指導者の指揮のままに動き、いいたいことも、やりたいことも、
全く自由にならぬ、それこそ、今日の生活からみたら、奴隷そのもののような生活になってしまう
ことを、人々は知らねばなりません。勿論そうなれば、軍備もはっきり持たされるでしょうし、嫌
も応もなく、青壮年は兵隊としてかり出されるでしょうし、それでいて、文句など一言でもいった
ら、忽ち、処罰されてしまう、厳重な監視の眼に四六時中みつめられていることになるのでありま
す。
考えてみて下さい。一つの国が共産主義という一つの主義の下に統一されてしまうためには、他
の主義を甘やかしゆるがせにしておくことは出来ぬにきまっております。他の生き方を容認してい
たら、一つの主義の下に統一されることは絶対にありません。
そこで、どうしても人々の自由を縛ることになり、国の生き方にそむく者は厳罰に処されるとい
うような、烈しい政治体制を敷くことになるのです。中国が今日のように統一されるためには、ど
れだけの犠牲と非道とが行われてきたかはかり知れません。しかし、それも一つの主義に国家を統
10
一するために致し方のないことで、昨日の親友が今日の最大の敵として、抹殺されてしまったりす
るのです。それにくらべて現在の日本政府の、国民に対する態度などは、甘くて甘くてかえって国
民を駄目にしてしまうようなものです。日本国民の大方は、現在の日本の危機を単に経済的な危機
と思っている程度で、国家をかけた進むも退くも出来ぬ大変な立場に立たされているのだ、という
ことを少しも知ろうとはしていないのです。
緊張の韓国
危機の前面に立たされている韓国などは、それこそ、北鮮の侵略に備えて、緊張の極にありまし
て、国民皆兵一歩手前のところにきているのです。それが少しく行き過ぎまして、ちよっとでも政
府の批判をしたりすると、忽ち処罰し、共産主義国と変らぬ程の圧力政治を行っており、米国もこ
れに困っているのです。軍事力のことでも、米国が核兵器で応援してくれぬのなら、自分たちで核
兵器の開発をする、と息まいているのであります。
日本はそうした韓国の隣国になっており、米国以上に韓国と密接でなければならぬ筈です。それ
が事実は、米韓の密接さは日韓の密接さの比ではありません。韓国に対する日本の態度が、米国に
11世界状勢と日本の立場
とつて冷淡に見えるのも当然なことです。まして、韓国の運命は、直ちに日本に大きな影響を及ぼ
してくるのですから、米国が日本に向って、もっと真剣に韓国に協力して、北鮮や共産陣営に立ち
向ってもらいたいといってくるのも、米国の立場からすればおかしなことではありません。
どこの国でも、自国が一番可愛いのであり、大事なのであります。ですから、自国ばかりが金を
使い、力を使って、同じような立場の他国がのんびりしていられてはたまりません。米国からみれ
ば、日本はずるく立ち廻っているようにみえるのです。
日本の国民が安保条約のことについて、とやかくいろいろ批判を致しますが、それはあくまで、
自国本位の立場に立ってというより、自分たち本位の立場でいっていることが多いのでありまして、
米国も日本も双方共によいというのでなければならぬのです。
ところがなかなかそういうわけにゆきません。日本は憲法上、正面きった軍備はできぬことにな
っております。自衛隊は軍隊のようにみえても、軍隊ではないということになっております。そこ
で米国のほうでは、なんとか日本に真実の軍隊を持たせるようにするか、自衛隊のままでも、他国
に出兵出来るようにするかを、しきりに日本政府にいってきているのであります。核兵器を含めた
大きな軍事力は米国が、小さな軍事力は日本に、というわけなのでしょう。12
米国にとっては、日本も韓国も、自国の核兵力の傘の中に入れておかなければ、共産主義の侵略
に対して不安でならないのです。そこで、韓国にははっきりと、日本には日本国民の心をおもんぱ
かって、秘密裡に核防衛の傘の中に入れているのであります。
日本の肚はきまっていない
しかしながら、日本国民感情は日本を一歩でも核兵力から遠ざけようとして、政府に非核三原則
というものをつくらせ「造らない。持たない。持ち込まない」という約束をさせているのでありま
す。政府の中には勿論、国民感情と同じように、この三原則を真剣に守ろうとしている人々もあり
ますが、この三原則は実に口だけで、米国の為すがままに、日本への核持ち込みを容認している人
たちもあり、もっと強硬派は、日本自体が再軍備して、自らの手で核兵力を持とう、という人たち
もいるのであります。米国や韓国の肚はすでにはっきり決っておりますが、日本の肚は種々様々に
動きつづけておりまして、どうしてよいのやら、はっきりと自国だけで決定しかねておりまして、
米国の持って来方に対応して、いろいろと動いてゆこうとしているのであります。
米国や韓国がはっきり自力を根底にして、自国の立場を立てているのにひきかえ、日本は、常に
13世界状勢と日本の立場
他国の動きをみながら、米国の力を頼りながらの誤った他力本願で、その場その場のやりくりをし
ている向きがあるのです。自力に徹しているわけでもなければ、真の他力を知っているわけでもな
い、現在の日本の在り方は、心ある者にとっては、危くて見ていられぬ、力弱い生き方なのであり
ます。
日本の国民はここで、しっかりと国民自体が肚を据えてかからなければいけません。米国との安
保条約をつづけてゆく限りは、まず日本が真実に現憲法を守りっづけ、軍隊を持たぬ世界唯一の国
家として、厳然として立ってゆくか、憲法を改正して、はっきりした再軍備をして、時によっては
核兵器生産をも辞さぬ、軍事国として立ち上がるか、のこの二つのうちの一つを、明確に決定しな
ければ、いつまでたっても、国民は自分のことばかり考え、国家のことなどすっかり後廻わしにし
てゆく、利己主義者の集りとなってしまい、あれよあれよ、という間に世界戦争の渦の中に巻きこ
まれていってしまいます。悪いことはすべて政府の責任として、自分たちは国家の運命に対してな
んらの責任を負おうとはしない、現今の国民の風潮では、非軍備にしても、国家を守ってゆくこと
はとても出来るものではありませんが、中には常に国家の運命を心にかけて、国家のためのなんら
かの働きをしようとしている人もかなりおるわけですから、まずその人たちの力を結集して、日本14
のこれからの根本的な生き方を、国民側としてしっかり定めておいて、
う形にしなければいけないと思います。
政府の政策に物申す、とい
国民口人一人は日本の運命に責任をもつ
政府として、何故真正面から、国家は国民全体が守るもので、国民が真剣に国を守る気にならな
ければ、政府の力だけでどうなるものでないことを、はっきり言明して、国民にしっかりと国家を
守る自覚を持たせないのでしょうか。国民も政府もお互いに他人行儀に、政府のほうは国民の世論
を恐れて、いいたいこともいえず、国民のほうは自分たちの責任はまるで考えず、いいたい放題の
ことを政府にいっている、という、共産主義国からみたらまるで馬鹿なことが、平然と行われてい
るのです。こんな態度で、どうして共産主義指導者に統一されて、政府の指導のままに一っになっ
て行動している、共産主義国に対抗してゆけるでしょう。非軍備、再軍備と論議する以前に、この
ことをよくよく考えて、国民全体で国家を守り、国家に地球人類存続のための大きな働きをしても
らうように、責任ある働きを国民一人一人がしなければ、自分自身も国家人類と共に滅びてしまう、
そういう時期をますます近づけてしまうのであります。
15世界状勢と日本の立場
反政府政党や、共産主義などの言葉に動かされるのではなく、自分たち自身で、今日の日本の運
命や世界の運命を深く考えてみて下さい。自分自身の生活は、日本自体の運命と全く一つであるこ
とをよく考えて、心を開いて、こういう重要な問題を、一つ一つの家庭の中で、自分としての答を
出しておく必要が、今の日本国民には必要なのであります。共産主義国と違って、日本政府の方針
などは、国民大半の意見によって、どうにでも変ってゆくのです。
日本は今大変な国家危急の立場に立っており、世界は、日本の運命と共に減亡か進化かの両極端
の状態に追いこまれていることを、何度でも何度でも思いみることが、国民の一人一人にとって必
要なのです。自分は自分、国は国などという考えは、もう成り立ちません。自分の運命は国家の運
命そのものであり、国家の運命は自分の運命そのものであることは、戦争になるかならぬか、とい
う一事によってもはっきりわかることです。これから起ころうとしている大きな戦争を未然に防ぐ
方法は、私たち国民一人一人の生き方にあるのです。なんで政府や政党だけに任かせておいてよい
ものでしょうか。そこでまたぶつかってくるのが、日本は再軍備して、共産主義国の侵略を防ぐ体
勢にするのがよいのか、非軍備で自衛隊ぐらいで通して、絶対平和国として、世界にその平和主義
を徹底させてゆくか、ということであります。16
国を想い人類を想う愛の心
どちらにしても大変なことで、安易な気持で徹底できるものではありません。悪くすれば北鮮と
韓国との戦争の危機が眼の前に迫ってくるので、日本は早急に、米国のいう通り、韓国防衛に、武
力と経済と両面での協力をしてゆくか、武力は絶対拒否して、経済やその他の面でのみ協力してゆ
くか、を決定しなければなりません。政府がひょろひょろした腰つきで、言訳けがましく武力協力
こば
を拒んでいるようではだめで、何がなんでも武力協力はできぬ、それは絶対なる日本の方針である
ことを、肚を定めて米国や世界に向って宣言しなければいけません。
それとも、再軍備に踏み切って、米韓と共にアジア防衛に武力をもって対処するか、この際どち
らかに政府の方針をはっきり割り切って、米国に答えなければいけません。再軍備するには、国民
の三分の二以上の同意を得ての憲法改正の問題があるのですから、共産主義国的の圧力でもかけな
ければ、とてもはっきりした再軍備までには至らぬと思います。(憲法改正について、日本国憲法
では、国会が、各議院の総議員数の三分の二以上の賛成で発議し、国民投票の過半数の賛成で承認
されることが必要になっている。
17世界状勢と日本の立場
この場合、国会で審議される原案の提案権は議員にあって、内閣にはないという解釈をとる者が
多い。なおこのような手続でも改正できないような規定があるというのが通説)
いな
どちらにしても今日になっては、政府も国民も、太平洋戦争の時のように、否、それ以上に、国
と運命を共にする、生命をかけた気持になって、地球の上に立たなければだめなのです。
いのちいのち
生命を捨てざれば生命を得ず、といったキリストの言葉が、今こそ如実に生かされる時なのです。
自分たちだけ苦労せず、なんとか楽な道に逃れようなどという、薄汚れた想いを捨てて、みんな一
にぎ
緒に死にましょう、という気持で、国民が手を握り合ってゆく時が、今ζそ真実に来ているのであ
ります。
天変地変の中で、お互いが助け合って活路を開いてゆくのと同じように、戦争の危機を防ぐのも、
自分たちの生命をかけ、国といい人類という大きなものと運命を共にする、強い決意をもたなけれ
ばいけないのです。
みなさん、まだまだぼーッと自分たちの生活のことだけを想って生きていらっしやるが、自分た
ちの生活など一瞬に吹き飛んでしまう、大戦争の危機と天変地変の危機が、今や正におとずれよう
としているのです。そして、これを防ぎ得るのは、国民の生命がけの国や人類の運命を想う、愛の18
心しかないのであります。日本国民の心に国や人類を想う、愛の心がなくなっていれば、これはど
うしようもなく、日本は滅び、地球人類もやがて滅びてしまうでしょう。そういう時に今はさしか
かってきているのです。日本国民の自分勝手な生き方は、自分のためになるどころか、国家を滅ぼ
し、人類をも滅ぼしてしまうのです。
この際少しでもよい、自分たちの祖国である日本国家のことを考え、人類全体のことを考えて下
さい。日本は自分たちのものであることを、もう一度考え直してみて下さい。なんの考えもなく、
その日その日の自分たちの生活のことだけや、感情を喜こばすことだけで生きていることは、それ
だけ自分の運命を縮め、国や人類滅亡を早めてゆく、マイナスの生き方であるのです。即ち知らず
して悪を犯かして生きていることになるのです。
ずるい自分勝手な日本人
ところで、前のほうで書いてあったと思いますが、自力の生き方と他力の生き方のことです。米
国もソ連も中国も、そうした大国は、すべて自国の力に頼って、自力で自国の権益を守り、拡張し
てゆこうとしております。日本は、真実神仏に全託した他力でなく、米国をはじめ他国に依存した、
19世界状勢と日本の立場
ごひ
人間の業の動きに動かされている誤った他力で生きています。
日米安保条約一つを取ってみても、米国に守ってはもらいたいが、日本が少しでも戦争の危機に
近づくようだったら、米国の戦略も戦術も無視して、米国のやり方に反対する。という今日までの
日本国民の在り方は、他国からみたら、ずるさというか、自分勝手といおうか、本来の日本国民の
心になかった嫌な在り方です。自己の身を捨てても義のために投じた、昔の日本人の生き方が今日
では影をひそめているのです。
現在の日本海はソ連の軍艦ですっかり包囲されていて、制海権はソ連にあります。もし米国の軍
事力が働きかけていなかったら、ソ連は日本にどんな言いがかりをつけてくるかわからないのです。
日米安保条約がなければ、現在の日本人の心がけであったら、それこそ日本自体で強大な軍備をし
なければ、安心して日常生活が送れないことでしょう。
現在の日本人の心には、自力で自国を守ろうとする気もなければ、真の他力に徹する想いもない
のです。ただその日その日を、ふわあふわあ、と送っている人が多いのであります。
米、ソ、中のように自力に徹して生きていれば、どうしても軍事力を強化して、お互いに相手に
対さなければいられません。その道は世界大戦につながってゆくことは必至なのです。皆さんもそ20
うお想いになりませんか。お互いに主義も主張も違い、国益拡張の欲も深いのです。話合いなどで
は、とても真の調和に至るわけがありません。これらの大国が真に調和の道に至るのは、お互いが
神の生命において、兄弟姉妹なのだ、と思いこむ以外にはないのです。しかし実際は、そんな風に
想うわけがありません。米国は別としても、共産主義国は神を否定しているのですから、自分たち
の生命は自分たちの権限以外の何ものでもなく、神のものなどではあり得ません。
生き残る道
調和の御本尊の神を否定している国家や人間は、物質世界に現われている現実しか認めておらぬ
のですから、物質世界から想いを放させ、調和の基の神霊世界の光明を知らせぬ限り、如何なる方
策を用いても、自国の権益を言い張って、調和のために譲ろう、などという気を起こすことはあり
こう
ません。ですから日本国民が彼らに、この現象の物質世界、業の世界から、いくら物申しても、物
質世界の損得の問題が片づかなくては、なんの成果も得られません。
日本のように、米、ソ、中の間にあって、彼らの調和を計るにはうってつけの立場にある国が、
彼らの動きにつれて、自国の生き方をきめているようではどうにもなりません。彼らの動きは、あ
21世界状勢と目本の立場
さんがい
くまで三界(迷いの世界) の業の動きであり、物質権限の力関係の世界なのですから、その波に乗
っていて、どうして彼らの調和を計ることができましょうか。日本は今こそ、彼らのような自力の
生き方を捨て切って、自力でいったとて、とてもこの三大国にかなうわけがないのですから、自力
を一度捨てきって、政府首脳も、国民の指導階級も、そして一般国民も、生命の親である神のみ心
に、すべてを全託する他力に徹した生き方をしてみることなのです。といっても、どうしてよいか
わからないでしょうから、その手はじめに、神への祈りをはじめるのです。自力ではどうにもなら
ないのですから、神様、世界人類を救って下さい、という願いをこめて、’世界平和の祈りを祈って
みるとよいのです。
どちらにしても、もう生命を捨ててかからねばならぬ時期にきているのです。どうせ捨てる生命
なら、神のみ心の中に捨て切って、生命の根源と一つになって、生き直してみたらよいのです。そ
の道の他に、日本も地球も生き残る道はありません。私はその道を神から教わり、祈りによる世界
平和運動として宣布しているのです。他に方法があると思われる方は自己の信ずる道をゆくのがよ
いのでしょうが、もはや今日では、神と離れた人類の道はなくなってしまっていることを、噌日も
早く多くの人々が気づいてくれることを、祈らずにはおられません。22
神のみ心と人類の心とが素直に直結した時には、超超超現実の力が行われて、世界中から、自我
欲望の想いや、戦いの想いが消え去ってゆくでしょう。人類の業想念が神の大光明波動で洗い浄め
られる日の来ることを、私は堅く信じて、今日も一日中、世界平和の祈りを祈りつづけつつ、仕事
をしているのであります。
祈リによる世界平和運動の背景
人間の心には、敵を憎む想いや、相手より自分が優位に立ちたいという想いや本能があればある
程、それが強く働くものです。ましてこれが国家という立場になりますと、どうしても、こういう
個人の業想念が大きく積み重って、他国より自国を優位な立場に置きたいという気持が、強く働い
てくるのです。
それが、米国とか、ソ連とか、中国とかいう、世界の指導国と自負しており、国も大きく武力も
こう
強大な国は、ますます権力欲が旺盛になってくるのです。これは業の世界の在り方で、業の世界を
ぬけ出さぬ限りはどうにもなりません。弱肉強食の動物の世界を一歩もこえぬ生き方で、かえって、
好智があるだけ、動物以上に陰惨な事態をくりひろげることとなるのです。
23世界状勢と日本の立場

歴史は常に武力闘争を繰り返し、今日に至ってなお同様な事態を現出しているのであります。そ
して、昔からの各予言者の言のごとく、地球は滅亡し去ってゆくことになるのです。そういう風に
ゆウかい
幽界には出来上っているわけで、予言者というのはみなその波をみて予言をしているわけなのです。
そこで心ある人は真剣に心配しているのです。世界はこのままではもうどうにもならない、とい
う気持が深く世界を洞察している人々には強いのです。といって、なんの方策も立たないのです。
ここで皆さんにもう一度考えて頂きたいことは、宇宙には地球以上の星がたくさんあるというこ
とと、その星々にはそれぞれの人類が住んでいて、地球など及びもつかぬ文明文化の世界で生きて
いる星々があって、地球を救おうとして、その星の人たちを派遣してきていることです。私はその
事実をはっきり知っており、その宇宙人たちと一つ立場に立って、地球の滅亡を防こうとしている
者なのです。
米国が強大といい、ソ連や中国の力が強いといっても、秀れた宇宙人の科学力の前には、手も足
も出ないのですが、地球人類のほうで、真剣にその援助を頼まなければ、宇宙人も容易に働くこと
はできません。私たちは地球滅亡の根源である武力での戦争というものを防がなければ、どうにも
なりません。そして、各国の本心を開発させるのです。それには、そうした武力以上の調和力が必
24
要なのです。その調和力は神のみ心の中にあるのです。そして神々は救世の大光明として、また宇
宙人の科学力として、私共に働きかけてきているのです。祈りにょる世界平和運動はこういう背景
があって行われているのであります。
私が絶対他力として、自分の肉体身の力を捨てきって、神霊の世界の中に身心を投げ出した時、
よみがえ
私は大きな力として甦り、多くの人々に力と光明を与える立場になることができたのです。日本
が今、他力に徹して、神々のみ心に祈り心で結ばれてゆくならば、武力を制し、天変地変を鎮める
大きな素晴しい力を神々から与えられるであろうことを、私は深く信じております。その一員とし
て皆さん、是非是非世界平和の祈りを祈りつづけて下さい。法然、親鸞の、個人的他力行から、人
類そのものの他力行即神我一体の道が、今日から開けてゆくのであります。
25世界状勢と日本の立場
26
平和と戦争
人類の業
戦争というものがどんなに恐ろしいものであるか、ということは今日までの人類の誰もが知って
いることなのでありますが、それでいて、人類の歴史は戦争の繰り返しであるのは、実に不思議な
ごう
ことです。全く人類の業というものを、しみじみと思わされます。
ごひ
業と申しますと、いかにも仏教くさい言葉のようですが、人類の想念波動の蓄積されたもの、蓄
積されつつあるものの転回が業ということなので、これが平和そのものであり、大調和したもので
あれば、いうことはないのです。ところが、人類は平和を欲し、調和を求めながらも、自己保存の
本能からくる敵対意識に踊らされて、お互いがいつの間にか、争いの業想念波動に巻きこまれてい
ってしまうのです。
一度そうした業想念波動にまきこまれてしまいますと、その波動の渦から脱出することが非常に
困難になってきまして、何事につけても、お互いが疑い合い、探り合うような状態になってきてし
まうのであります。
米国とソ連、ソ連と中国、中国と米国との間柄などは、実にその典型的なものでありますので、
お互いが相手の立場に立って、一番根底の問題にまでさかのぼって考え合わせなければだめなこと
です。しかしお互いが自分たちの立場だけでものを考えている国々なのですから、どうにもこうし
た業想念波動をぬけきることはできません。
小国間だけで争っている分には、決して大戦にはならないのですが、小国間の争いには必ずこの
三大国の介入があるので、どうにも大戦の恐怖が消えないわけなのです。
インドシナ半島の問題で、米国は中国との戦争をも辞さない、という強腰で出たこともありまし
たが、米国は失敗しました。キユーバ問題の時には、米国の強腰が一応成功したようにみえ、ソ連
が引っこみましたが、ソ連と中国とでは、その国の発展状態が違っておりまして、ソ連は政治面に
おいても、科学の発達の面においても、非常に高度な水準に達しており、国民は今のままで、かな
27平和と戦争
り精神的安定を得てきておりますので、為政者が大戦の危険をおかしてまで、米国とせっかちにや
り合う必要がないのですが、中国のほうはそうはいきません。政治面においても、科学面において
も、まだまだこれから進歩発展していこうとする過渡期でありますので、指導者たちは一か八かの
勝負をしても、国民全体の士気を高めなければいられません。それでなければ自分たちが為政者と
して、国民をひっばってゆくことはできません。
ソ連に対しても米国に対しても、どこの国に対しても、少しの弱身も見せられない絶体絶命とい
った立場に立たされているのが、中国の政治指導者たちなのです。
こうしたソ連との相違を勘定にいれないで、ソ連に対すると同じように、中国に対したならば、
米国は失敗するに決っているのです。その上、イソドシナというのは、ソ連に対するキューバのよ
うに離れた国ではありません。中国の隣りです。それにキューバの場合は、米国の咽元にある国で、
あんかん
その国が勝手なことをしては、米国も危くて安閑としていられない、という理由が成り立ちますが、
イソドシナの場合には、中国のほうが危くてしかたのない立場であって、米国にとっては遠いアジ
アの問題です。米国がムキになって腰を入れる正当の理由は見当りません。共産圏から守るのだ、
といっても、それは自分たち陣営の者たちだけが納得することであって、自国自身でものを考える
28
国々は、米国は勝手なものだ、とかえって侵略国あつかいをしてしまいます。
大国の道義的責任
人間というものは勝手なもので、常にお互いが、自分たちの立場を正当づけようとしているので
すが、これが国家となるとよりはなはだしく自己防衛的になりまして、無理な理屈をつけても自国
を正当化しようとします。しまいには、正当も不当もなくなってしまい、ただ自国の立場や利益を
守りたいの一念で、どんなことでもやりかねなくなってきます。
これは実に恐しいことで、個人的な殺人強盗よりも影響が大きいだけに大変なことです。かって
のソ連が日本にとった行為などは、まさにそれに値いします。
米国がインドシナ諸国にとった態度なども、諸国からみれば、ソ連が日本にとった行為と同じよ
うにみえたのではないでしょうか。米国は日本にとっては恩のある国です。ですから日本人の大半
きんど
は、米国に好意をもっております。しかし、米国がもっと大国の襟度(心のひろさ)をもって、ど
この国からみても絶対正当だとみられる政策を取っていれば、米国に対する信頼感は増してくるで
しょうし、自然と敵対する国は少なくなってくるに違いありません。それをいつまでも現在のよう29平




な政策でゆきますと、次第に米国を離れる国が多くなってくると思います。
ソ連などは、米国の少しのミスをも見逃がさないで、国際的政策の手をうってきます。今日まで
何度びも、米国はソ連のそうした上手な政策にのって、味方と思って金品をつぎこんだ国々に裏切
こんじよう
られております。それは、米国が金持の金貸し根性で、小国に金品を出すのに、いつもその利子を
考えているからなのです。無償の愛で小国を助けるのではなく、小国を助ける時には、常に自国の
利害得失を考えて助けているわけで、自国のソロパン通りにゆかぬ時には、なんらかの方法でその
おび
国を脅やかして、その利を得ようとするさもしい心根があるから、それに対する小国の不満が高ま
り、ソ連のよい餌食になってしまうのです。
米国もソ連もともに現在のやり方では、世界平和どころではなく、地球滅亡の最大の責任を負わ
ねばならなくなります。地球を滅亡させてしまわなければ済まないような大戦の危機を、つねに目
前にしながら、それでもお互いが、自国陣営の立場だけで、相手に優越しようとするあらゆる手段
を講じているのですから、どうも世界はやりきれません。
30
利害が共通する問題を取リあげよう
どこの国にでも信頼される政治政策を行うためには、どうしても現状における自国の利害打算を
度外視しないでは行えないのです。現状の利害打算等に把われていては、永遠の平和を築きあげる
ことはできません。これは個人も国家も同じことであります。
ところが、個人では出来る人もあるでしょうが、国家となると、まるで駄目になってしまうので
す。何故かと申しますと、国家は集団ですから、多くの人々の想いが一つにならないとその政策が
行えません。一人の偉人がその善いと思う政治政策を遂行しようと思っても、多数が現状の利害打
算に把われていたら、その政策を行うことは出来ません。
この地球上には、まだ自己の利害打算に把われずに生きている人は、実に数少いのですから、集
団の政策が自然とその集団の現状の利害打算を目的として走ってしまうのは当然のことなのです。
ですから、国家や人類そのものが、永遠の平和を基盤にした生き方をしてゆくことが、いつまでた
っても出来ないでいるのです。
ですから、小国にとっても大国にとっても、一番大事なことは何か、今すぐやりはじめなければ
ならないことは何か、ということを真剣に世界中が考えなければなりません。自国の利害打算をな
くせといっても、それはどこの国にとっても、とうてい無理なことのようですから、お互いの利害31平





関係が共通する問題を、まず第一番に取りあげてみることが必要です。
あんのん
世界中の国々の一番願うことは、自国が傷つかずに、安穏に生活出来てゆくことです。とするな
らば、それを世界の共通の目的としてその政策を行ってゆかねばなりません。しかし、現在の世界
あんのん
では、小さな国が自国の安穏を願っていても、他国からの干渉が必ずあって自分たちの思うように
はゆきません。そこでどうしても、大国の支援をあおがなければならなくなります。ここに至って、
大国であると自国も思い、他国からも思われている国々の世界平和に対する重大なる責任が起こっ
てくるのです。
現在、大国の部類に入るものは、米国、ソ連、中国であり、つづいて、英国、仏国、日本などで
はないでしょうか。とすると、これらの国々が世界平和の運命の鍵を握っているといわねばなりま
せん。そこで、これらの諸大国が、世界の根本問題である人類の完全平和達成の道に入るための、
智恵をしぼりあわねばなりません。それは世界三十八億プラス未来の人類に対する道義的な責務な
のです。
32
真実平和だけを願う会合を開け
米国にしろ、ソ連にしろ、中国にしろ、今日までの行きがかり上、現状の政策を急激に変えるわ
けにはいかぬと思いますが、それはそのままとして、その反面において、真実平和だけを願う会合
を重ねてゆく必要があるのです。お互いにそのくらいの譲歩は、大戦による世界滅亡のことを考え
れば、当然しなければならないのです。それは人間としての当然の良識なのです。そうした会合を
重ねてゆくことによって、意外な大智恵が浮んできて、お互いが傷つかず、お互いの損得が平均す
るような話し合いが生まれてこないとはいえません。やらぬうちから駄目だと思うよりも、一歩で
も平和に近づく努力をするのは、文明人の在り方だと思います。
ことさら
平和というと、すぐ宗教観念と結びつきますが、宗教と殊更に思わなくとも、人類の心は誰しも
平和を望み求めていることは、間違いのない事実なのです。しかし、各国共通の平和への道が見出
せなかっただけなのです。その道をふさいでいたものは、お互いがお互いの利益ばかりを考え、自
国の権力拡張を目指していたからなのです。各国のそうした想念波動が悪業となって循環し、国々
に現状のような政治政策を行わせているのですが、それは私流にいう〃消えてゆく姿〃なのであっ
て、各国の本心のやっていることではないのです。
そこで、それらの今日までの政策とは別に、各国の本心の働きをキャッチした人々による世界平33平





和だけを念願する会合が、つづけられる可能性が充分にあるのであります。
私はそれを祈りによる世界平和運動として、各国に働きかけているのです。
今日までの政策は、あくまで各国の自我欲望の業波動による政策なのですから、こうした政策を
いつまでも踏襲していたのでは、やがて地球は滅亡します。各国の今日までの政策とは全く根底を
別にした、政治政策が生まれ出てこなければ、地球世界は救われません。
今日までの各国の政治の誤りは、地球人類を一つの生命の現れとは考えずに、国家や集団に属し
わけ
たもののように考えていることなのです。どこの国の人間であろうと、人間はすぺて大生命の分
いのもせいめい
生命であって、大生命(神) に属するものです。一国や一集団に属したものではありません。ただ、
その個人個人ボその天命を完うされる場として、その国家やその集団が適当と神々が思われて、置
かれているのであって、本質的には、人間は神、大生命に属しているのであります。
人間は生命において根源を一つに結ばれているもので、自分の国だけが大事で、自分の国が立て
ば、他国はつぶれてもよい、というようなものでないのですが、現状ではどうしても、自国を守る
きゆうきゆう
に汲々としていまして、他国と自国との利害を平均して考えるような国家はまだ現われてはお-
ません。

自国と他国との利害得失が平均してあるような政策が取れるように、まず大国側からならなけれ
ばなりません。それにはやはり、今日の思想を根底から改めなければ駄目なのであります。そうい
う事実も、各国の代表者が平和についての話し合いをしてゆくうちに、自然と心にしみて感じられ
てくるのでありますから、自国内でだけではどんな智恵をしぼり合っても、ぐるぐる廻りで、自己
保存本能の利害得失論に終始してしまいます。
平和に反した想いで平和はつくれない
どこの国の指導者でも、今のままの各国の政治政策で、真実の平和が到来するなどと思っている
人はないでしょう。その場、その時における利益の獲得だけに全力を打ちこんでいるようなのです。
後々のことはお互いが全く五里霧中で、業想念波動にひきずり廻わされて動いているだけにすぎな
いのです。
ですから、折角素晴しい科学力を現わし得ても、それが常に戦争に結びついてしまい、科学がい
つでも戦争の道具につかわれてしまう、悲しい結果になってしまうのです。それは世界各国の指導
者の根本理念が、神のみ心である世界平和に反しているからなのであります。35平




世界平和匹反した想いで、世界平和をつくりあげようとしても、それは土台無理なことです。世
界平和を念願するからには、あらゆる他の想念を捨てて、世界平和一念の心にならなければなりま
せん。それは想念波動の原理で、科学的な原理なのです。第4チヤソネルをひねっていて、第ーチ
ャンネルの映嫁がうつってこないのと同じことで、世界平和なら、世界平和という想念を、それの
みの想念をハッキリ心に映じつづけていなければ、その画面は、わけのわからぬものになってしま
います。そこで私は、瞬時の間でも、例えば歩いていても、電車の中でも、常々どこででも世界人
類の平和を願う、平和の祈りをしていなさい、と人々に教えているのであります。
36
世界平和の祈リのおすすめ
人間の心には、いつでも雑念が浮んでいます。何かしらを想っています。その想うことは、平安
なことは少くて、心配や不平や欲望のことが多いのです。想念というものは、どんな些細なことで
も、自己の運命に影響してゆくものです。ですから、あらゆる想念を、世界平和一念に統一してし
まったら、その人はそのまま平和の使徒でもあるし、自己の心もいつの間にか、平和な心境になっ
てしまいます。
私はその真理をつかんで、あらゆる想念も、運命も、真実に実在するものではなく、消えてゆく
姿なのだから、唯一の実在である神のみ心、大生命のみ心の中に、すぺての想念を入れきって生き
てゆきなさい、といって神がどこにおわすのだか人間にはわからぬのだから、神の完全性の現れで
ある世界人類の平和というものの中に、すべてを入れきってしまいなさい、そうするのには、世界
平和を願う祈り言をエレベーターにしてやることが一番やさしいのだから「世界人類が平和であり
ますように」という祈り言に託して、神のみ心の中に入りきってしまいなさい、といっているので
あります。
どんなに知ったようなことをいっても、肉体人間には、自分の運命をハッキリ知ることも、世界
の運命をどう変化させることも出来ません。肉体人間の肉体観念を、神のみ心の中に入れきった時
に、はじめて、自己の天命もわかってきますし、世界の運命を変化させ得る力も備わってくるので
す。
世界の人々が肉体の存在だけにこだわっていては、滅びてしまうのは必然です。何故ならば、肉
体は必ず滅び、あるいは変化してゆくものだからです。政治も教育もあらゆる指導は、永遠の生命
に立脚した在り方にならぬと、滅亡の時は待ちうけているのです。
37平和と戦争
滅びぬものは永遠の生命なのです。そして、永遠の生命につながっているものなのです。宇宙は
広大無辺です。この広大無辺の宇宙は、永遠の生命の限りない歩みを現わしているのであります。
はず
地球人類もその歩みの一つなのです。永遠の生命の、その法則に外れた生き方をしていては、必然
的に滅びの道に至ります。

世論を真実の平和に結集させよう
ソ連の科学者の一人は、この銀河系宇宙には、太陽のような恒星が千億以上もあり、その銀河系
宇宙と同様な星の大集団は、更に約千億もある、といっています。こんな彪大な宇宙の中に、地球
以外に思考力をもった生物がいないなどと思うのは、それこそ奇蹟的な考え方である、といって、
わら
地球以外に人類のような生物がいない、と思っている人々を喧っています。
これはどういうことかといいますと、現在の地球はもはや、単なる一地球ではなく、宇宙の一環
としての使命をもった地球である、ということなのです。自分たちが好むと好まざるとにかかわら
ず、地球は宇宙の一つの星であることは事実なので、この地球という一つの星は、やがて、宇宙に
ある他の星々と交流し合い、そこに生存する生物と交流することになるのです。それは夢物語では
なく、やがて事実として現われることなのです。私はそういう真理を宇宙人との交流によってよく
知っているのです。
そういう時が近づいているのに、地球の指導者たちが、単に自己の権力を保持しようとして、常
に戦争の恐怖を、宇宙にまき散らしているということは、真理を知らぬ白痴的な生き方なのであり
ます。
今こそあらゆる戦争を否定する政策を各国がとらねばなりません。特に大国は戦争否定の政策に
踏みきる必要があるのです。それにはまず国内の世論を切実に平和を願う世論に統一しなければな
らないのです。それが出来なければ、その国は大国としての価値を失っているのであります。
世論の中に、自国の権威を守るためには戦争も辞せぬ、というものがあれば、どうしても、そう
した威勢のよい言葉のほうに人々はひきずってゆかれます。大国の戦争は必ず大戦争にひろがって
しまうのですから、何事をおいてもこれを止めなければならないのです。
しかしながら、人間の想いの中には、プライドがありまして、この自尊心を傷つけられるなら、
死んだほうがましだ、という気持がありますので、ここがなかなかむずかしいところなのです。
39平和と戦争
大調和精神に生きよう
40
日本の立場から申しますと、只今憲法改正の問題が出ておりまして、自民党系と社会共産系とが、
ハッキリ立場を異にしておりますし、政治問題にあまり関係していない有識者の間でも大きくは二
つに、あるいは改正するにしても、どの点をするかなどについて様々な論があるようです。
憲法となると、国民すべての上にその責任も義務もかかってまいりますので、これは真剣になら
ざるを得ないのですが、一般大衆は意外なほど関心を示しません。関心を示そうにも第九条一つを
取りあげてみても、どちらがよいのかハッキリ自分で割り切るわけにはいかないようなのです。
第九条の軍備を持つことにするかしないかの問題は、すでに自衛隊という軍備に等しいものをも
ってはおりますが、現憲法上では軍備ではないわけです。そこで、どこかの国と国とが戦争をはじ
はけん
めても、国連軍として、その地に派遣される軍隊は日本には現在ないことになっているので、行か
ようせい
な くとも済んでおります。これが正式に軍備を持つ憲法になれば、国連の要請によればすぐにも軍
隊を派遣しなければなりません。インドシナの場合など即座に派遣するようになったであろうと思
われます。
ところが一方、現在のような自衛隊では、独立国としての威信にかかわる、独立国はれっきとし
た軍隊を持つべきで、自国の防衛を米国にばかり頼っているものではない、自分の国は自分で守る
ぺきだ、という改正論があるわけです。米国は勿論その理論に賛成なわけです。そしてそれに反対
なのが、ソ連、中国というわけです。日本を中にして、米国とソ連中国はやはり対立論争をしてい
るわけです。ですから、日本の立場は軍備があるとかないとかいう問題ではなく、国内がもっと何
か一つの目的のもとに統一されていなければ駄目なのであります。技術的なものでなくて、精神の
根底が確固としたものでなければならないのです。
それは何か、核兵器の恐しさを身をもって体験した日本こそ、完全平和達成の旗印のもとに国民
の心を総結集しないで、他になんの方法があろうというのでしょう。世界平和の大悲願こそ、日本
人すべての大目的なのであります。枝葉末節的な言葉に耳をかす必要はありません。完全平和達成
にむかって日本国民の一大結集こそ、世界の運命を神のみ心にしっかりつなぎ得る大光明の道なの
です。そのために、一人一人の世界平和の祈りが実に大事なことになってくるのであります。
世界平和の祈りと平和の科学、この二つの道こそ世界を真に救い得る道なのです。人々は小乗的な
論争を止めて、ただ一念世界平和を祈願する、日本本来の大和の精神に生きるべきなのであります。41平




42
平和を築くもの平和を乱すもの
まさ
動物よりも人間は勝っているだろうか
まさ
人間は万物の霊長である、とは誰でも知っている言葉ですし、人間は如何なる動物よりも勝って
いる存在であるとは、誰しも思っているわけです。
ところが、人間は一体何が万物に勝っているのかということを、はっきり考えて、終始万物に勝
る行動をしている、という人は極めてすくないのでありまして、一般の人々はただ漠然と人間は動
物より秀れた存在であると思っているのであります。
それでは、人間が動物に勝っている要素とは一体なんであるのでしょう。そのことを皆さんと共
に考えて、人類が真実に進んでゆかねばならぬ道を探り出してまいりましょう。この真理を解明し
てゆくことが、世界を平和にしてゆくための重大なることなのです。
人間と動物との決定的な相違を一口に申しますと、動物は本能だけで動かされているが、人間は、

本能を制御する知性(理性) を有っているということであります。この知性は、本能を制御しなが
ら、人類の発展的未来を創り上げていく創造力をもっています。
動物の中にも計画的にみえる生活設計をしているものもありますが、これはやはり本能的な動き
によってなされているのでありまして、人間のように、創造力と、思考力によってなされている計
画ではありません。
これを宗教的に申しますれば、動物は神によって創られたる観巻蠣であり、人間は、神の佛鎧甜
としての存在者であって、みずからの意志と想念によって、自らの運命を創ってゆくものである、
ということになります。
二大本能といわれている、性欲と食欲について考えてみますに、動物はこれを抑えることはでき
ないが、人間はその意志力と知性によって、抑え得ぺき時には抑え得ることができるし、性欲の場
合などは、そのエネルギーをより高度の働きに転化することもできるのです。
ゆえん
これは動物と人間の決定的な違いであって、人間が万物の霊長といわれる由縁なのです。人間は
43平和を築くもの平和を乱すもの
常により高度の生活環境を目指して進んでいる生物で、その進化のために、その意志力、知性、直
感を駆使して、あらゆるエネルギーを、最も有効に働かしめようとしているのであります。
そして最後には大生命そのままに、すべてのエネルギーを自由に変化せしめ、働かしめ、神その
むげ
ままの世界を創り上げようとしているのであります。宗教的にいう自由無磯の世界、完全平和の世

界を、自分たちが欲しさえすれば創りあげられる能力を、自らが有っている存在者なのです。

自己保存の本能の功罪
しかしながら現在では、まだその能力がうち深くかくされていまして、少しの力しか発揮されて
おお
おりません。その偉大なる能力をかくし蔽っているもの、それは一体なんでしょう。
それは動物と同じように人間ももっている、肉体身の自己を保存しようとする、自己保存の本能
なのであります。動物は自己を護るために肉体的に種々な保護の手段方法を、自然にさずけられて
おります。
鋭い礁、鑑った爬、長い鼻、早い蹴、強大な僻騨、鋭い感覚、欝誕猷等々といろいろあります。
そして、そうした自然に備った力を使って、自己を保護し、自己保存のために相手を倒したりする
のであります。
人間はといいますと、最大の自己保存の能力は、考える力なのです。動物の中には虎のごとく、
象やライオンの如く、体力において人間の遠く及ばぬものがたくさんおります。そうした体力や攻
くつぶく
撃力において及ぱぬ相手を、なんなく打ち倒し、屈伏せしめる力を、人間はそのもてる智慧の力、
考える力によって、つくり出したのであります。
それが機械文明を生み出した最初の出発点であったわけです。
さてこれからが、人類の進歩と共に、そうした智慧才覚による、興亡の世界が繰りひろげられ、
生活を複雑多岐にする時代に突入してゆくことになってきたのです。
機械文明が発達してゆくと共に、自己保存の本能からくる、自己防衛態勢は、しだいに大量殺識
の兵器の登場となり、ついに原水爆による軍備となってきたのであります。
動物のもっていない智慧能力が、人間世界に、一方では文明文化の恩恵を創り出しながら、その
一方ではそうした恩恵を一挙に粉砕してしまう、恐るべき兵器を生みなすことになってしまったの
であります。
世界の完全平和の問題は、今日ではいよいよゆるがせにできぬ、緊急を要する問題になってきた45平













のです。地球世界滅亡の危機を胎む、今日の世界情勢にまで、人類の運命をもってきてしまったの
は、何がその主要原因になっているのでしょう。それは先にも申し上げました通り、肉体身を護ろ
うとする、自己保存の本能なのであります。
肉体身の自己を護ろうとする本能が、集団となりますと、国家民族を護ろうとする形になり、軍
備となってくるのです。現在では、軍備を持たない独立国は存在しない、とまでいわれているので
あります。
なん
この肉体身を護ろうとする、自己保存の本能は、神性をすっかり現わしきっている人以外は、何
びと
人といえどもっているものでありまして、この本能の故に、文明文化の華も今日のように開いてき
たのでありますから、一口に善いとか悪いとかいえることではありません。
善いにも悪いにも、普通の心ではどうにもならない問題なのであります。どうにもならぬ問題で
ありながら、どうにかしなければ、地球人類はやがては滅びてしまう必然性をもっているのです。
ですから、この世の表面的な状態をみております人々は、この世は弱肉強食、強い者勝ちの世の
中なのだから、いつまでたっても平和にはなりっこない、と思っているのですが、平和になりっこ
なかったら一体どうしようというのでしょう。その人たちは、きっと自分たちのこの世に在るうち
46
だけ、この世が無事であればよい、ということでしょう。
自分たちがどうあがこうと、この世の中はどうにもならないのだ、自分たちが損をしないように
うまく立廻って生きてゆこう、運命の風にさからわずに、その日その日を楽しんでゆこう、という
気持の人が大部分なのでありましょう。これは肉体身の自己保存の本能からでてくる生活状態なの
で、この人たちを責める何ものもありません。
しかし、少し想いを世界情勢にむけてみますと、そういう生き方では、自己保存にはならない、
自分たちを護る生活にはなっていない、ということがわかるはずなのです。自己を護るからには、

単なる本能的な自己保存の気持を一歩脱けでて、智慧にうったえ、知性的に考えた自己保存の生き
方でなければ、動物の自己保存の本能と同一の軌道を歩いていることになります。それでは万物の
霊長たる人間の生き方とはいえません。
戦争は自己保存の動物的本能から起こされるものなのです。自己を護ろうとする恐怖心が武器を
つくるのであります。動物が牙をみがくのと同じことです。お互いに牙をみがき合って、にらみ合
っている状態、それが現在の世界情勢なのであります。
47平和を築くもの平和を乱すもの
48
明日をも知れぬ地球の運命
ですから、真実に自分たちを護ろうとする者は、やはり、どんなにむずかしそうにみえようとも、
真実の世界平和を創り出す方向に、自分たちの歩みを運ばなければいけないのです。その日その日
の風まかせで、目前の利害関係だけでこの世を渡ってゆこうとするのでは、その人たちの自己保存
の方法は落第なのであります。
その人たちの生活は、砂上の楼閣に等しいからなのです。全く、現代に生きる人たちは、砂の上
に建てられた家に住んでいるのと同じなのです。台風一過、いつ崩れるかも知れぬ、はかない安定
度なのであります。
真実に自己や自己の周囲の者たちを護ろうとするならば、その人は砂上の楼閣に住んでいてはい
けません。本能的な自己保存の気持の上に坐っていてはいけません。その生活態度は、本心の開発
された者からみると、危かしくてみていられません。危い、本当に危い、明日を知れぬ運命なので
す。
私はこれでいいんだ、何も困ったことはないのだ、私には神も仏もいらないのだ、などとうそぶ
いている人の生活は、深い泥沼とは知らずに泥沼に足を踏み入れている人なのです。この人々が本
能的な自己保存的生き方をして、これでいいなどということは、愚かな極みです。動物と人間との
相違を本質的に知らずに生きている人なのです。
本能的な自己保存の生き方をしている世界をよくみてごらんなさい。米ソの対立、中ソの争い、
イソドシナ問題、キプロス島におけるギリシヤ系住民とトルコ系住民の戦い、韓国の騒々しさ、南
米各国のクーデタi、アフリカ諸国の限りなき争い、パキスタンとイソドの住民の争い、イスラエ
ルとアラブ諸国の争い等々。実にどこからでも世界戦争が起こりそうな状態がつづいているのであ
ります。
米ソが少しぐらいの歩みょりをみせたとて、それは世界平和に対する根本的な歩み寄りではあり
ません。その場その時の利害関係でどう変化するかはかり知れない危い歩み寄りなのです。といっ
て、どこの国も戦争をしたいなどと思っているのではありません。戦争に対する恐怖のあまり、軍
備を固め、自国の味方を集めようとして小国に経済的援助をするのであります。
ところが、米ソの両陣営から群小国に手出しをするので、小国の統一がかえって二つにも三つに
も分れて、国内での争いもできてくるのです。49平













米国もソ連も中国も英仏も、すべての国家民族が、世界平和を築きあげる真の立場にみずからを
置かずに、その場その時の目前の利害関係を根本にした平和政策、否、自国防衛策なのですから、
真の平和に世界が統一するわけがないのであります。
個人も国家も民族も、自己保存の本能によって行動している限りは、自己の安心立命も、国家民
族間の真の平和も永久に達成されることはないのです。
ここのところがわかりませんと、世界平和ということを、国家間の問題として為政者たちだけに
任せて置くわけにはゆかぬことになります。
自己保存の本能から、恐怖が生れ、恐怖心が金力をつくるのに懸命にさせ、武力を強めるのに真
剣にさせるのであります。貧乏や病気などにおける個人的恐怖心も自己保存の本能からくるのであ

りますから、個人も国家民族も、すべてこの自己保存の本能を超えてゆかねばならないということ
になってきます。
50
まずあなた自身が真に救われることだ
さて問題の答はこれからなのです。肉体身を護ろうとする自己保存の本能は、人間生命は肉体身
だけのものではなく、もっと、微妙で豊かで美しい本体が真実に存在するのだ、ということを知る

か、信ずるかしなければ超えられるものではないのです。
今日までの人間観では、自己を護ろうとする本能的な行動を超えることはできません。もっとも
自己を護ろうとする本能的な動きがあったからこそ、今日まで人類は生きつづけてきたのであり、
文明文化の開発もなされてきたのである、ということもできます。
それも全く事実です。と同時に地球世界に原水爆のような兵器をつくりだしたのも、お互いが自
己を護ろうとする想いからであることも否めません。
自己を護ろうとする本能は、善の行為ともなり、悪の行為ともなって、今日まできたわけであり
ます。そしてこの本能は、善悪理非にかかわらず、誰の心の中にもあるのでありまして、肉体身だ
けを自分だ、人間だと思っている普通の心では、この本能に振り廻されて生活してゆくことになる
のです。
ですから、個人的な生活においては、なるべくその本能を表面的に出さずに、相手の立場も考え
るようにして生活してゆくことによって、お互いの利害を平均させ、お互いの生活をおかさず、社
会秩序も保ってゆけることになるのであります。いわゆる知性の働きによって、感情を制御してゆ51平













くわけであります。52
こらしたことのできる人々は知性的な人々でありまして、社会の秩序を正している中心勢力とな
っているのですが、そうした生活態度のできない種類の人たちがたくさんおりまして、世の中の調
和を乱しているのであります。それは表面にむき出しに、不調和な自我欲望をさらけ出している動
物そのままの人たちと、表面は紳士の恰好をしていながら、裏面では烈しく自我欲望の悪らっ手段
をつかい、世の中の秩序を乱している人たちとがあります。
その他には宗教的な名目にかくれて、自己の権力欲を充たそうとし、利に踊る知性の低い人々を
あやつって、他の人の自由をおびやかして集団の拡大をなさんとしているものや、愛国の美名にか
くれて、暴力を振う人たちもあります。
個人的な生活を考えても、このように自己保存の本能から生れでてくる、様々な欲望に踊らされ
ている人々が多いのですから、少しぐらいの知性派の正しい行動の人々がありましょうとも、この
社会が無恐怖で生きられ、平安な気持で生活できるということはなかなかできそうにもありません。
ましてこれが、国家民族間の事柄になりますと、なお更にこの不調和な想念は強まりまして、肉
体人間自体の力では、もうどうにも正しい平和な軌道に乗せることはとてもできなくなっています。
りんねりんね
仏教的にいう業の輪廻でありまして、業想念波動が、この地球界に厚い層をなして、輪廻して(ま
わって) おりますので、この業想念波動を突き破るには、それの輪廻の中で生活している肉体人間
の力ではどうにもなしようがないのです。
それはあたかも、泥沼の中に入りこんでいる人が、他の泥沼の中の人を救おうとするようなもの
で、いつかは共倒れになってしまいます。現在の地球世界はそれと同じような状態なのです。
この地球世界の危機を救うには、まず自分がこの業想念波動の輪廻する泥沼を出てしまわねばな
りません。まず自分が真に救われなければなりません。自分が救われるのには一体どうすればよい
とな
のか。それは単なる現世利益を唱導するような宗教で救われるはずがありません。現世利益を称え
るのは、業想念の輪廻の中にいるからであって、やはり自我欲望の泥沼から足がぬけていない状態
なのです。
といいましても、私は現世利益を一切願ってはいけないなどというのではありません。現世利益
を願う想い、自己を護りたい想いを、上手に自然に昇華させて、光明波動、世界平和を念願する、
高い想念に同化させてしまいなさい、というのであります。
53平和を築くもの平和を乱すもの
54
泥沼の世界をぬけ出す
泥沼に足を突っこんだままの宗教観念などは、今日のように地球の運命が危機に際している時代
には不必要なのです。個人も人類も同時に成道する、同時に救われる、高い行為の宗教の道でなけ
ればならないのです。
自己の宗派を拡大しようとするのあまり他の宗派に圧力を加えるような行為に出ている教団があ
ったとすれば、それこそその行為そのものが、世界平和を乱すものであって、昔からの宗教戦争の
流れと同一軌道をゆくものなのであります。インドとパキスタンの回教とヒンズー教との限りない
争いをみればよくわかります。
宗教の妄執ほど恐ろしいものはありません。それは幽界の生物の欲望のとりことなるものであり
まして、神の光明をはばもうとする暗黒想念なのであります。宗教者がこの世の権力を得て何とす
るものでしょう。宗教者の本住の地は常に神仏の世界なのであります。
私は誤った宗教者は、共産主義者よりなお世界の平安を乱すものである、と思っているのです。
それでは業生の泥沼世界をぬけでるにはどうしたらよいのでしょう。まず一番大事なことは、肉
体人間の力では、もうどうにも完全平和にはならぬ世の中なのだ、ということを心にしみて想うこ
となのです。
現在の世界は、米国とソ連の動きによって、どのようにでも変化してゆきます。また今日では、
どんな小さな国の動きでも、世界情勢に影響を与えます。日本だけの動きで、米国やソ連の政治政
策を真の平和運動に変化させることもできるのですが、現在の日本のような、真実の姿を遠く離れ
た、現象世界の利害関係で左右された思想では、とてもだめです。
まして、一人一人が、肉体身の自己や自己の周囲の者だけを護ろうとしているようではとても世
界平和に役立つことはできません。世界が真の平和政策に踏みきらない限りは、地球の運命はます
ます危機にさらされてゆきますので、個人の平安もしたがって乱されつづけてゆくわけです。
そこで、肉体人間としての個人の力では、何事もなし得ないことを、その人なりに考えてみて、
そうだなアと思ったら、自分がどうして赤児として母親の胎内から生れ出たのか、赤児として生れ、
今日まで成長してきた生命の力というのは、一体どこからきたのか、生命は一番大事なものであ
り、自分自身でもあるのに、自分はその生命を得るのに、どんな努力をはらったのか、ということ
をよく考えてみると、肉体人間というものは、一番大事な生命というものを、肉体的にはなんの苦
55平和を築くもの平和を乱すもの
労の観念もなくいただいていることが改めてわかってまいります。
56
祈リから生れる世界平和樹立のカ
さあ、なんとしても重大な思想はここのところなのです。なんの苦労の観念もなくいただいた生
命、そして思考する能力も、五臓六脇の働きも、肉体身の自分が創ったものではなく、肉体身以外
の大きな力からきているという現実。
この現実を改めて知ったとき、どうにもならない今後の自分の運命を、自分の生命の根源づまり
神に全託してもよいのではないかと思うのです。全託するにもしないにも、全託するより仕方のな
い現実なのであります。
そこで私は、生命の根源、神に全託する想念を、人類の最大の願望である、世界平和ということ
にむけていって、それを祈り言にまで高めてゆくことをすすめているのです。それが私の提唱して
いる世界平和の祈りなのです。
世界人類が平和でありますように、の祈り言を、神への感謝と共に自己の現世利益、自己自身の
願望も託して、祈りつづけるのであります。
この世界平和の祈りをしつづけておりますと、業想念波動の泥沼から、知らないうちにぬけいで
て、生命の本源の大調和した大光明波動の中に、自己の運命が昇華してゆくのであり、と同時にそ
の調和した光明波動は、その人の肉体を通して、地球世界の業想念波動を浄めてゆくのであります。
世界人類の平和は、生命の本源である、神のみ心そのものであります。ですから、肉体人間側が、
世界人類の平和を願う想い一念で生活してゆけば、神のみ心がそのまま、この肉体世界に現われて
くるのです。そこで老若男女、身分地位の差別なく、この世界平和の祈り一念の生活に、自己の生
活を切り替えてゆけば、その祈りが、そのまま世界平和樹立の一つ一つの力になってゆくのであり
ます。一般の人たちが、いちいち国政に口を入れることはできません。知らず知らずに国政を平和
の方向にふりむけ、世界情勢を平和の方向にもってゆくのは、こうした一人一人の、世界平和の祈
りの他にはないのです。
一人一人の祈りが、しだいに集団の祈りになり、その祈りの集団がしだいに拡大してゆくことに
よりまして、地球世界を蔽っている、業想念波動はしだいに浄められていき、肉体身の自己保存の
本能が、神の光明にょる、神の守護の力に変化してゆくのであります。神我一体の人類の護り、と
いうことになってくるのであります。57平













これはたんなる理論ではありません。実際の面において多くの奇蹟を現わしつつ、しだいに運動
は拡大されていっているのです。その最もなる奇蹟は、宇宙天使(宇宙人)たちとの交流によって
指導されている宇宙子科学の誕生なのであります。
宇宙人などというと、馬鹿にする人たちがいますけれど、この広い天体の無数の星々がただたん
に一つの星である地球のためにだけに存在しているということがあるはずがありません。叡智であ
る宇宙神が、そんな無駄な、小さなことを考えているわけはありません。星はみな生きているので
す。みなそれぞれの生物によって運営されているのであります。
私どもはそれらの星々の、地球人類の救済の役目を持つ宇宙人との交流に成功し、宇宙人の偉大
なる科学を、この地球界に実用化する指導を受けているのであります。
この宇宙子科学は、すべて祈りの中から生れてくるのでありまして、世界平和の祈りが根底にな
っているのであります。世界平和の祈りの大調和波動こそ、宇宙神のみ心のひびきでありまして、
このひびきに合わせてゆくところに、世界平和樹立の道がひらけてくるのです。世界平和の祈りか
ら生れ出る宇宙子科学、宇宙子科学を推進する一人一人の世界平和の祈り、世界平和の祈りこそ、
個人が人類に貢献する唯一無二の祈り言であるのです。58
平和に徹する勇気
新しい宗教の危機
私は戦争が嫌だ、平和を欲っする、という人は随分ありますが、真実にこの世に平和を来たらそ
うとして、平和の方向にむかって進んでいる人は実にすくないのであります。
平和そのものでなければならぬ筈の宗教者や宗教団体でさえ、口に平和を唱えながら、その行為
の中では、他宗の絶滅を計る集団圧力を加えたり、敵を認めるから敵として現われるのである、絶
対に敵を認めてはいけない、という説法をする口の下から、国の軍備が強固でなければ敵にあなど
りを受けるのだから、軍備を強化して、出来ることなら、自国で核装備をしたほうがよいし、でき
ない立場なら止むを得ぬから、大国の核装備の傘の中にいて、敵対する国があったら核ロケット砲
59平和に徹する勇気
で、その相手を叩きつぶして貰うことが必要だ、というような、軍部そのままのような論を吐く者
さえおります。
自衛隊員が、自衛隊増強論を唱えても、軍備拡張を唱えても、これは一向におかしくはありませ
ん。自衛隊は武器をもって、国を護る役目をもっているのですから、自衛力の拡張を唱えることは
むしろ当然のことです。
しかし、宗教者が敵を認めたり、武力の拡充を唱えるようであっては、宗教の本質を逸脱してし
まいます。宗教者はあくまで絶対平和論者であって、人類の殺傷沙汰を未然に防ぐ方向に人類全員
にな
を導いてゆかねばならぬ天命を担っているのです。
一人の人間が生活してゆきますには、その人の生れた郷土というものがあり、その人の社会環境
というものもあり、そして、その人の住む国家というものがあります。そこで、必然的に郷土愛と
か国家愛とかが、その人の胸のうちにはあるわけです。
自分の郷土の幸不幸、自国の利害得失ということには、どうしても想いを動かさないわけにはゆ
きません。自分の郷土の幸福よりも他郷の幸福のほうにより関心をもったり、自国の利得より他国
の利得により喜びをもったりすることは、余程何かの理由がない以上はあり得ないことです。
60
一番自己に身近かな、自己の利害得失に関係のあることに、人間が重大な関心をもつことは当り
前の感情であるわけです。ですから、そういう当然の感情を無視しての、人間の生き方を説いても、
頭で納得できる事柄であっても、行為としてはついてゆけないことが多いわけです。現在までの宗
教の、しかも正しいとされている宗教の生き方には、自己の利害関係と結びつかない生き方が多か
ったのであります。ところが、新興宗教的な生き方の中には、自己の利害関係に直接結びついてゆ
く生き方が多く説かれてきているのです。
いわく、病気の直る法、貧乏を無くす法等々、現世利益的な生き方です。ところが、これがまた
行き過ぎてしまいまして、宗教本来の道である、神のみ心をこの地上界に顕現する、大生命と小生
命とが真っすぐにつながって、生命が生命本来の生き生きとした光明燦然とした生き方のできるよ
はず
うな、そういう道から外れてしまって、現世だけの現れの世界だけの、常に変滅してしまう幸福だ
けに想いを固着させるような結果に、人々をもっていってしまったのであります。
こういうところから、新しく宗教の危機がきておりまして、自己の現世利益を守るためなら、ど
んな方向に動いてもよいという習慣がつき、その宗教が政治的な方向に動いてゆけば、自分たちも
深い考えもなく、指導者のさし示す方向に、人形のように動いてゆく。たとえ、その方向が宗教の61平







本質に反する方向であっても、或は国家人類の不為になる方向であっても、
には問題ではなくなってくるようなのであります。
それがその宗団の人々62
人類は一つの生命
こういう生き方は過去にも随分多くあった宗教による戦争という方向と全く一致する行き方を示
しているのです。その形が国家護持のための軍備の強化を唱えても、社会共産主義政党との提携に
よる平和論にしても、自分や自分達の集団だけの安全のためのものであって、神のみ心である完全
はず
平和の道に反した、人類はすべて兄弟姉妹なのである、という大道を外れた生き方である限りは、
宗教の本質にそむいた方向であることには間違いありません。
人類を分裂させるような考え、そういう見方は、宗教的というわけにはゆきません。人類は一つ
の生命というそういう根本に起ってはじめて、真の平和運動ができるのであって、その根本をはず
したところから方向をきめますと、どうしても真実の平和の道を逸脱してしまうのであります。
敵があったり、やっつけなければならぬ相手があったりするのではなく、只、神の光明を照しつ
づけて進んでゆく、という道が宗教者にはあるだけなのです。
神のみ心は大調和であり、愛そのものであるのですから、人を憎んだり、敵をつくったりするこ
とは、神のみ心に反することなのであります。しかし、現実の個人個人の生活の中では、この真理
をそのまま現わすことは実にむずかしいことなのです。
一人の人間が社会生活をしてゆく上においては、自己の好むと好まざるとにかかわらず、利害の
相反する相手というものが出てまいります。それには実質的なものと感情的なものとがありますが、
相手がこちらを敵視してきたりすると、どうしていいか困りきってしまうこともあります。それは
一家の中においても、しばしばあることです。
この場合、相手の感情にまともにむかっていっては、どうしても争うことになってしまいます。
こういう時にはどうしても宗教的な祈り心というものが必要になってくるのであります。祈り心に
けんお
よって、相手の想念の波動とこちらのそれにひき出されてくる憎悪とか嫌悪の感情の波を消し去る
のであります。
そういう争いの波をいつまでもそのままにしておいては、遂いには決裂までいってしまいます。
決裂に至らぬうちに、そうした感情想念の波を、祈り言葉の方に流し入れてしまうのであります。
まつと
〃あの人の天命が完うされますように〃63平







私とあの人の想いが調和致しますようにとか、大きく広げては、世界人類が平和でありますよう
に、というように平和の波につながる祈り言葉の中に、そうした想念波動をひき入れてしまって、
神のみ心の中でそういう波を消し去って貰うのです。
これは一つは自己の観の転換方法でもあり、実際には、現在の地球人類の住む世界よりはるか高
次元の世界の大光明波動圏にこの世の波をひきあげてゆく祈りでもあるのです。
64
自己と自己の周囲に平和をつくる祈リの道
その方法を私は、消えてゆく姿で世界平和の祈りという道にして、人々にすすめているのであり
ます。
人間は過去世から何度でも生れかわり死にかわりしているものでありまして、今日ここに現われ
ている生活環境というものは、すべて過去世において行ってきた、その人の想念行為の答として現
われているものであります。これを仏教的にいえば、因縁因果というのであります。
おこな
ですから、自分が善意をもって行ったことでも、相手から悪く思われたり、いくらしてやっても
少しも感謝されなかったり、嫌な相手と一緒に仕事をしたり、結婚運が悪かったり、上役に恵まれ
なかったり、種々と現在の自分の気持にそまぬ事柄がでてきたりします。それはみんな過去世の因
縁の消、兄てゆく姿であって、過去世の自己の想念行為の結果の上に、現在の自分の想念行為が少し
加わって、現在の運命が成り立っているのであります。
そこで、現在自分の上に現われている運命環境は、すべて過去世から現在に至る想念行為の現れ
せい
であって、親の所為でも周囲の所為でもなく、みんな過去世の因縁の消えてゆく姿なのである、と
いうのであります。
わけいのも
しかし、これは消えてゆくに従って、必ず自己の本心の姿、本体の姿、つまり神の分生命であり、
完全円満である筈の、真の人間の姿が現われてきて、その人は自由自在な心境の世界に住むことに
なってくるのです。
こうなるまでがなかなか大変で、徹底的に消えてゆく姿で世界平和の祈りを実行してゆくことが
必要なのであります。自分を責める想いも人を裁く想いも、不幸も災難もすべて消えてゆく姿と想
いこんで、ひたすら世界平和の祈りの中で、自己の本心本体の開発と、周囲や相手の本心の開発を
祈りつづけてゆくのであります。
この世のすべて事物事柄はみな消えてゆく姿であるということを知って、世界平和の祈りを行じ65平







つづけることこそ、自己や自己の周囲を完全円満な平和境にしてゆくことであって、現われくる事
柄や感情を把えて放さないようでは、とても生活改善も平和な生活もつくりあげることはできない
のです。
この方法を拡げてゆくことによって、国家間の対立も民族同志の闘争も、東西陣営の抗争も、す
かんわ
べて緩和されてゆき、それをつづけてゆくことによって、完全平和達成の道がひらいてくるのであ
ります。
現在の環境や立場にばかり把われていて、その環境や立場を掴んだままで、新しい世界をつくろ
うとしても、いつも掴んだ環境や立場がついてまわって、自由自在に新しい世界をつくることがで
きません。
新しい宗教の現世利益の方法も、常に現象の幸不幸ばかりに目をとめさせて置くので、深い永遠
につながる幸福というものに目をやることができなくなってしまいます。習慣というものは恐ろし
いもので、安易な宗教観念のくせがつくと、その習慣になれきってしまいまして、深い広い神のみ
心から次第に離れていってしまうのです。
66
輿理に徹して勇気をふるい起こせ
世界情勢も全くこれと同じことでありまして、現在の自国の立場というものにばかり、目を置い
ておりますので、大きな広い深い眼をもって、自国の将来や、他国の将来を見通すことができない
すいい
のです。いつも、過去から現在に至った現れの世界の推移からのみ情勢を判断してゆきますから、
武力の強さがそのまま国家の強さになる、という昔のままの考えで世界に対しようとしているので
す。そして、武力の対立にょる結果が、どのような悲惨な目に人類を会わせているかということに
は、眼をつむってしまって、現在に処してゆこうとしているのです。
過去の因縁によって起こった戦争の災禍を、また再び同じような因縁の輪廻によってつくり出そ

うとしているのが、現在の国家間の様相なのであります。この因縁をどっかで断ち切らなければ、
地球人類は第三次大戦という悲惨事をつくり出して、滅亡し去ってしまうより仕方のないことにな
ります。
ふる
これには人類が真の勇気を奮い立たさなければならないのです。あらゆる業因縁、業想念を突破
ふるお
する大光明につながる、叡智と大なる勇気とを奮い起こすことこそ、地球人類を滅亡の淵から救い
67平和に徹する勇気
出す唯一無二のことなのです。
それは国を護るために一戦をも辞せず、ということでもなく、共産主義の侵透を防ぐためには小
さな戦争は是認しなければならぬ、というような誤った勇気ではないのです。
神のみ心に直通する心に人間がなること、つまり、人間は生命において一つである、兄弟姉妹で
ある、という真理に徹して起ち上がることであるのです。そこには愛と調和の精神が自ずから湧き
上がってくるのであります。
自国集団のために相手が邪魔である、邪魔だから、武力によって相手の主張を黙らせてしまおう、
というような在り方は、神のみ心に反することは自明のことです。
相手が唯物論であって、神を認めていない国や集団なのだから、神の敵である、これを叩くこと
は神のみ心に反することではない、というような理屈をつけても、それは通りません。何故ならば、
全智全能の神が、もし必要でないと認められたならば、即座にその集団やその国家群を消滅させる
わざ
こともできる筈です。神はあえて、そういうみ業をなさってはおりません。
なと
神のなし給わぬことを、人間の力で成し遂げてよいものでしょうか。それも誰がみてもどこから
みても正当であるという場合には、これも認められましょうが、世界の約半数がその行為を悪とみ68
とめているようなことを、正義の名においてしてゆくことは、神のみ心を冒濱することであること
は、いなめないところでしょう。
そういう正義の押し売りは、人間の感惰的にもゆるせぬことです。ですから、如何なる正義の名
をつけましょうとも、如何なる小さな戦争でありましょうとも、人と人とが殺し合い、地上を汚す
砲火のやりとりは、絶対にこれは正しいこととは受け取れません。
この根本理念をはっきりしておかなければ、人類の歩んでゆく方向は永遠に定まりっこはありま
せん。真実の平和は、如何なる理由によろうと、戦争と名のつく一切のものごとを無くすところか
らはじまり、戦争に結びつくすべての事柄を消滅させることに力を注いでゆくことによって道に乗
り、全世界は神の生命において一なる兄弟姉妹であることを、はっきり悟ることによって、世界平
和の道が完成されてゆくのである、ということであります。
こちら側がそう想っても、あちら側ではそう想わず、月毎年毎に軍備を拡張し、こちら側より武
力が強くなったらどうするのか、そうなってからではもう遅い、世界は共産主義勢力の手に落ち、
我々は自由をうばわれた生活をつづけなければならない、そうなった時の責任を一体誰がもつのか、
という反問があると思います。
69平和に徹する勇気
私も随分それを考えてみました。共産主義の在り方というものは、随分圧制的なものであり、人
間の自由を縛ったものであることを、私も知っております。しかし、こちら側から武力によって相
手の戦意を挑発させ、遂いに戦争になったり、戦争の危機を常にはらみながら、不安混迷の日々を
送っているよりは、神のみ心の愛と調和の中に身を投じて、その行為を実践しつつ、神のみ心のま
まに現われる世界に住しきる覚悟でいるほうが、人間の奥深いところにある本心の満足を得る、と
いう答が私の心の中から湧いてくるのであります。その最後は或は死であるかも知れません。また
は、圧制下における奴隷的不自由さであるかも知れません。それでも結構。私は私の本心の満足の
ために神のみ心のままに生きる決意がついているのであります。
?0
神の大愛を信じきる
人間が殺し合わない、人間が殺し合う機関というものをこの世からなくしてしまう、そういう立
場、もっとつき進んでゆけば、愛しようのない程の悪のようにみえる存在でも、神がこの世に生か
はか
し給うには、神のみ心の大きな計らいによるのである、ということを私は心に沁みて思うのであり
ます。
如何なる悪のようにみえる行為も、救いようのないような悲惨な運命も、みなすべて過去世から
の因縁の消えてゆく姿である、ということを、私はつくづく思います。そして、それだけではなく、
その消えてゆく姿の底から湧き出でてくる本心の光明を私はいつも感じるのであります。
この消えてゆく姿を小さく痛み少なく消してゆくためには、悪と現われ、不幸と現われてくる、
そういう時にこそ、世界平和の祈りの中で神の大光明の中に浸りきって、相手のそして自己の業想
念波動の消減し去ってゆくのをじっと待つのであります。この勇気こそ必要なのであります。
祈りつづけて、神の大いなる救いを待つ、この勇気こそ、キリスト教や仏教が、今日の大いなる
立場を得た原動力なのであり、これから新しく生れ出ずる完全平和のための根となり樹となる大事
な精神状態なのであります。
現象の動きに、いちいち戸惑って、なんだかんだと心を騒がせている生き方こそ、自己の平和を
乱すものであり、枝葉の動きにつれて、根本を常に動かしている国の生き方なども、正しい生き方
とはいえないのです。
神は大光明心です。大愛です。大調和心です。この神の在り方を信じなければいけません。神の
愛を疑いながら、神を呼ぶよりは、神のみ心に全託して、そのまま自己の生活に一心になって打ち71平







こんでゆくことのほうが、その人の永遠の幸福につながる生活です。
神のみ心に全託するようになるためには、日頃からたゆみない世界平和の祈りが必要なのです。
自己の想念の習慣を、世界平和の祈りによって、常に神の大光明波動の中に住まわせる習慣にして
しまうことです。そう致しますと、次第に心に不安がなくなってくるのです。
いつも私が話していることなのですが、人間が赤ん坊と生れ出でたことは、その人にとってあず
かり知らぬことであって、神のみ心によって生れ出でた、というより他に仕方のないことです。
霊的にいえば自分の責任によって、或る定まった男女の間に赤ん坊として生れ出るのですけれど、
肉体的には、自分がなんにも知らぬうちに赤ん坊として生れ、子供として育ってゆくわけで、この
辺のことをしっかり考えてみますと、肉体的には、人間の力は無力に等しいもので、すべては、赤
ん坊の昔から、心臓をつくり肺臓をっくり、あらゆる生きるに必要な器官をつくっておいて下さっ
た、ある力つまり神の慈愛によって、生かされている自分であることが、はっきりわかるのです。
そう想いますと、肉体人間としては、神と離れた人生などというものはありはしないのです。世
界中の誰も彼も、神などあるものかと思っている人でさえも、神の慈愛によって生かされているの
です。
7a
どんなに神を否定している者でも、その本心は神のみ心につながっています。今生か来生か再来
生か、いつかは自己が神の分生命であることを知る時が来るのです。私たちはそうした人たちのた
めにも、神の大光明を照しつづけなければなりません。そういう人たちが多く存在すればするだけ、
世界平和は成り立たないからです。
愛がすべてを癒し、すべてを生かす
無神論者や唯物論者のうちでも、その人の環境によってそうなっていった人もあれば、魂が幼く
て、真理がわかるまでには、生命の経験が少なすぎるためのものもあります。どちらにしても、神
のみ心をこの地球界に現わすためには、そういう想念波動は邪魔であることには違いありません。
だからといって、武力によって抑えてしまったのでは、その形は滅ぼせるかも知れませんが、その
想念波動は依然として残って、また再び異なった形となって神のみ心の現れの妨げとなるのです。
それは業想念波動の現れを、業想念波動の武力で消滅させようとしても、結果は同じことで、業想
りんね
念が輪廻するだけなのであります。
こうした業想念波動は、すべて神の光明波動がまだゆきわたらぬためにあるのですから、世界平73平







和の祈りのような大光明波動でその人々を照しつづけなければ、絶対にその人たちの想念波動を変
えるわけにはゆかないのです。
愛はすべてを癒すのであって、力による消滅では世界は永遠に平和にならないのです。そこで私
‘は、世界平和の祈りに徹した生き方こそ、真実の世界平和をつくり出す唯一の道だと説きつづけて
いるのであります。世界平和の祈りと武力との両面では駄目であることはこの文章でわかって頂け
ると思うのです。
しかも、この世界平和の祈りの道は、祈っている個人個人の幸福をつくりあげながら、世界の完
全平和の道を同時に築きあげてゆく道であるのですから、個人人類同時成道の道であると私は常に
いっているのであります。
しかしながら、この地球世界は、依然として争いに充ちながら進んでいます。日本の立場もやが
てはっきりと示さねばならぬ時が近づいております。
日本の為政者は、平和に徹する真の勇気を持たねばなりません。米国にひきずられることなく、
中国やソ連に威嚇されることなく、日本独自の立場を、しっかり堅持して進んでゆかねばなりませ
ん。?
4
あじやくしんみよケつかき
今日の大臣諸公は、それこそ明治維新の西郷や大久保以上の不惜身命の心で、政治を司どってゆ
むな
かねばならないのです。何故ならば今日こそ、明治維新以上の大変革の時だからなのです。心を空
しくして、地球人類の真の平和の道をしっかり考えて下さい。
それは、日本という形の世界の、島国一国のためであってはいけません。人類すべてを日本と考
えて、そういう根本に立って政治を行ってゆく必要があるのです。そういう大きな立場に日本を置
かないと、どうしても、右と左に心をひきずられて、日本の真の姿が出せなくなります。
枝葉のことで、右に動くようにみえようと左に動くようにみえようとかまいません。只日本の根
本である、大和の心、大調和精神をしっかり自己のものにして進んでいって貰いたいのでありま
す。
人類永遠平和達成のために、日本の立場が如何に大事なものであるか、私共はしっかり心に銘じ
て知らなければなりません。今こそ、肉体の生命をかけて永遠平和達成の勇気を私共ははっきりと
持たねばなりません。
75平和に徹する勇気
76
敵のある平和論と真の平和論
二つの一般論
この世の中には、人間の世界に平和な世界などくる筈がない、と思っている人々と、平和は自分
たちの手でつくるのだ、だから、平和を妨げている、世界平和を乱している悪を滅ぼさなければな
らない、という二つの論が一般論としてあります。
平和な世界など出来る筈がない、と思っている人々には、その場その時々を、自己や自国の損の
ないように、上手に立ち廻っていればよい、自分たちの生きている間だけでも、大きな戦争や災害
がなければよい、そういう生き方をするより仕方がない、と思っている人々と、明日どんな災難が
くるかも知れぬし、いつ大戦争になるかも知れぬ、先のことをくよくよするよりその瞬間を楽しみ、
せつな
一日一日をエンジョイしてゆけばよい、後のことは自分たちの知ったことではない、という刹那享
楽の人々とがあります。
自分たちの手で平和をつくるために悪を憎み、悪を滅ぼさなければいけない、と思っている人々
の中には、共産主義を悪とみて、共産主義を撲滅することによって平和な世界が出来上るのだ、と
思いこんでいる反共主義の人々と、資本家ブルジョアジーが悪の根本であるのだから、資本家とそ
れに組みする者たちを倒し、資本主義を滅亡させることによってはじめて平和な世界ができるのだ、
と思いこんでいる人々とがあります。
アメリカはじめ自由主義陣営の国々は前者であり、ソ連中国をはじめ、社会共産主義の国々は後
者であるわけです。いずれも世界の平和を自分たちの手でつくりあげようとして働きかけているわ
けです。
平和な世界などくる筈がない、と思っている人々はひとまず置いて、平和を自分たちの手でつく
りあげようと思っている、この世に対する前進的な熱意をもっている人々について、種々と書いて
みたいと思います。
77敵のある平和論と真の平和論
78
敵がある平和論
この世に生きている限り、狂人や性格異常者でなければ、どんな人でも、この地球界が滅亡する
ことを望んでいる人はありますまい。望まないけれど、自分たちの力ではどうにもしようがない、
と自分の殻の中にひっこんで、地球界滅亡を防ぐなんの働きもしない人が多いわけです。
ところが前進的な意欲をもった人々は、望まぬことは拒否し、防衛して、望む事態に地球世界を
つくりあげようとします。この望む事態ということが、深い根本的なことに於いては、同一である
わけなのですが、その方法が極端に相違している場合があるわけです。唯神論的な生き方と唯物論
的な生き方、自由主義、資本主義と共産主義、この二つは今のところどうにも相容れない相違であ
りまして、自ずと対立してしまう形になってきます。
宗教精神をもって世を渡ろうとしている人々や団体でも、唯物論共産主義は神の敵であり、悪の
権化として、武力をもってしても、これを滅ぼし去らなければいけない、と主張している向きも随
分あります。米国などはクリスチャソの国でありながら、現に武力をもって共産主義撲滅を計って
いるのであります。
どんなに世界平和を願っていても、どこかに敵というものを認め、相対的な悪というものを認め
ている聞は、その敵なるもの、悪なるものを打破らなければ、世界平和というものは出来上がらな
いので、そこに争いの感情や憎しみの感情が湧き起こり、自然と戦争というものに結びついてゆき
ます。
誤ったキリスト教者は、神に対立して悪魔を認め、共産主義者を悪魔の使いというように思って
いますので、悪魔の使いである共産主義者を滅ぼさなくては、真の世界平和は生れないと思いこん
でおります。神に対して悪魔というものが存在するならば、形の世界の共産主義をいくら滅ぼした
ところで、悪魔はまた別の姿で神の敵として現われることでありましょう。
ですからどのように形の世界に現われている敵や悪を滅ぼしたとしても、心の世界、眼にみえぬ
世界の、神に対立するものを消滅し去らなければ、到底この世は神一元の世界にもなりませんし、
悪の存在、不調和な存在がなくなるものでもありません。
形の世界において敵対して、例え悪の権化とみている共産主義者のすべてを倒したとしても、倒
されたものの身内や身近かな者たち、或いは共産主義者の恩恵を受けていた人々は、倒した側を憎
み怨むことは必然のことです。この憎悪の感情はそのままでは消えることはありません。こうした79敵












憎悪の感情念波は、やはり、光明一元であり、愛一筋であるぺき神のみ心を蔽って、神の世界顕現
の妨げとなるものです。
はっきり申して、米国が神の名をかり、正義の名をもって、たとえ北ベトナムや中国を攻め滅ぼ
したとしても、滅ぼされた国々の人の怨みの念は、いつかは米国を滅ぼさねばおかぬという強い感
情の波をまきちらすことになります。因果応報で、敵対した国を武力で滅ぼしたことにょって、世
界平和が達成されるなどということは、心の世界のことをまるきり知らない唯物的な人々のいうこ
とで、少くとも神のみ名を口にする人々や国家の知らないではすまされぬ真理なのであります。
そういうことが何度でも繰り返されて起こってはいけない、というので、イエスキリストは、右
の頬を打つものがあったら、左の頬をも打たせよ、とか、上着を取るものがあったら下着をも取ら
せよ、とかいっていて、敵対するものは打ち殺してしまえなどとはいっていないのです。
神にそむくものは打ち滅ぼしてもよいのだ、神を信ずるものは、悪を憎むべきだ、などといって
いる人々は、イエスが神殿の道で商売をしている人々の店を、片っぽしからこわして歩いたことを
例にして、キリストでも神を機すものは、打ち叩いて歩いた、というのでありますが、キリストが
店をこわして歩いたのは、神殿は浄いところであって、不浄な行をするところではないことを知ら80
せるために、少し強くその教えを行為にして現わしただけであって、その人たちを殺傷したりした
わけではないのです。
ところが、思想の相違するものや、立場の異なったものを、敵と認めて殺傷してゆくなどという
はず
ことは、神のみ心にもキリストの心にもないことなので、その行為そのものが、神を外れた、神を
機す行為なのであります。
神のみ心は常に大調和であって、争いや殺傷のような不調和な波動は少しもないので、神のみ心
を離れた、人間を肉体身なりと思いこんでいる唯物的な考えの行為が、不調和な争いや殺傷沙汰を
起こすのであります。
ですから唯物論的な社会主義者や共産主義者たちが、敵対心を起こして、殺傷沙汰や争いの想い
をまき散らすことは、これは心が幼い人たちなので、神の愛や、真理を理解することのできない進
化の遅れている段階であって、先覚者たち、つまり、神のみ心がわかり、真理のわかっている人々
が、辛棒強く教育してゆかねばならぬ人々なのです。
それを、神を信じ、神のみ心の正しい行為をしようとしている人々が、そうした幼い魂の進化の
遅れている人々につられて、その人たちの低い段階に想念を合わせて、真剣になって争ったり憎悪
81敵のある平和論と真の平和論
したり、殺傷沙汰を起こしているとすれば、とても世界平和の達成どころか、そのまま人類の進化
は止ってしまって、共に滅びてゆくより仕方がなくなってしまいます。
神を知っている人、神の存在を信じている人は、無神論や唯物論の人よりも、確かに真理に近く、
魂の経験の多い人であるぺきなのに、巷間には、神だ仏だといっている人の中に、意外と唯物的な
人よりも、真理そのものである愛の心にとぼしい人などがあり、無神論や唯物的な人の中に、愛の
深い、人々に尽しつづけている人などもあって、どちらが真実の信仰者であるかわからなくなるこ
ともありますが、言葉で神や仏をいうことよりも、神仏のみ心である、調和の行為、愛の行為をし
ている人が真実の神に近い人であり、真理を行じている人ということになるのです。
自分では無神論者、唯物論者だと思っていても、実は本質は深い信仰者であって、なんらかの過
去世のことや幼い時の事柄で、無神論者のように自分を偽装してしまっていて、自分でそれを気づ
かぬ場合も随分とあるのであります。
ですから人間は永い間にどこでどう変ってゆくかわからぬもので、やたらに人を馬鹿にしたり、
不信感でみたりしてはいけないものなのです。
82
真の平和運動は肉体人間観をこえなけ札ば達成出来ない
先にも書きましたが、悪を憎む、ということは正しい人、信仰家の当然のことであるように思っ
ている人々も多くいるのですが、悪を嫌い、悪をなくそうとする気持は当然なことであり、そうあ
ることによって、この世が善くなってゆくのでありますが、憎むという気持は、その憎しみの感情
というものが、自分自身の心を傷つけ痛める感情なので、うちなる本心、神のみ心を傷つけること
になって、その感情そのものが、神の調和のみ心に反することになるのです。そこで、悪を嫌うこ
とはよいが、憎むという感惰になると、その憎むという感情が、かえって悪になってゆくのですか
ら、やはり憎悪の感情は宗教信仰者にとっては、マイナスの感情であるということになります。
ですから悪を憎むという形の世界平和運動は、真の世界平和運動とはいえないのです。真の平和
運動は、その運動の根本が、平和そのもの、神の大調和のみ心でなければなりません。ところが、
神の大調和そのままの心をもった人は、この世には殆んど存在しないといってよいのです。どんな
悪事をみても、いかなる残虐行為をみても、その行為に憎しみをもたぬ、という人はおそらく僅か
に存在するかしないか、という程であるのです。そこで考えをまとめてみますと、肉体人間の感情83敵












では、真の世界平和運動は出来得ないということになります。宗教的な考えとしてはよいけれど、
そういうことは不可能だ、といわれてしまいます。
そうなのです。肉体人間の感情を主にしては、真の宗教の世界は開かないし、真実の世界平和運
動は成り立たないのです。真の唯神論というものも、真の宗教というものも、肉体人間には何事も
なし得ないのだ、というところから開かれるものであって、肉体人間観が主になっていては、どう
しても中途半端な道しか歩めぬことになってしまうのです。

神のみ心を離れた肉体人間感情を是とするような生き方で、世界平和運動ができるというのは、
明らかに誤りなのであります。この理がわからぬ人には、真の宗教の道はわからないのです。
しかしこれだけの説明では、納得のゆかぬ人が多くいる筈です。これからが私の常に説いている
理論であり、他に説かれていないところの生き方なのであり、平和論なのであります。肉体人間感
情を離れる、ということはどういうことなのでしょうか。これは釈尊にしてもキリストにしても、
くう
老子にしても、みなが説いているところでありまして、空になれというのも全託の心というのも、
無為にして為せ、というのも、みなこの肉体人間感情を超越するためのものであります。
ここまででは昔流の宗教であり、言い易くして行い難い、きわめて出来にくい、むずかしい道で84
ありますし、世界平和運動という広い範瞬の運動に結びつきにくいのです。そこで私の説くような
教えが必要になってくるのです。肉体人間的感情で行ってゆくのでは、どうしても敵を認めるし、
敵と思えば愛せないし、相対的な想いを超えることはできないし、右の頬を打たれたら左の頬をも
打たせる想いにもなれない。ですからどうしても、相対的な悪を憎む式の世界平和運動になってし
くう
まうのです。といって、空の心境や全託の心境にもなれない、とすると一体どのようにすればよい
のか、普通はここまで考えないで、ただ世界が平和にならなければ、戦争は嫌だ、というぐらいの
ところなので、それを運動化している人々は上等な人なのだと思います。そうした上等な人たちで
も、敵を愛する程の宗教心で運動しているわけではないのです。神を否定する人たちを、どこかで
阻害する想いをもっているのです。それは肉体人間の感情としては是非もないことなのです。
そこで、空になれというのでも、無為になれというのでもなくして、肉体人間感情を超越してゆ
き、その心をそのまま世界平和運動としてゆく方法を私が説いているわけなのであります。
宗教宗派の対立もこえる
今まで説いてまいりましたように思想的対立のある平和論では、どんなに愛のある人たちがやっ
85敵のある平和論と真の平和論
ても、思想的な対立のところでつまついてしまいます。そこで、あらゆる対立を超えた生命の本源
の世界、神の慈愛のみ心の中から湧き出でてくる光明波動に真直ぐにつながった人間としての平和
運動だけが、唯神論も唯物論も、宗教宗派もすべてを一つに結び得る世界平和運動となり得るので
す。
唯神論の人や宗教宗派につながっている人たちは、そんなことは誰でも知っている、自分たちだ
って、その心でやっているのだ、といわれると思います。ところが、唯神(心)論の人は唯物論を
目の敵にしているし、一定の宗教宗派に属している人たちは、自己の属する宗教宗派の祈り方や儀
式を最大なるもの、唯一のものとして、他の宗教宗派を自己の属する宗教宗派より低いものとみよ
うとする、ひどい団体では、すべての宗教宗派を邪教視あつかいして、神のみ心の根本である大調
和波動を乱しつづけているものもあります。
その思想やその宗教宗派の行き方が、たとえ誤っていたとしても、それに属する人たちには、そ
の思想や宗教宗派は絶対なるもので、正しさこれに過ぐるものはないと思っているのです。観念的
にでもそう思いこんでいるのであり、或いは思いこもうとしているのです。
と致しますと、片方が正しくて、片方が誤っているとしましても、両方がその思想やその宗教色86
を押しつけ合うようにしたり、正邪を論じ合ったりしていると、両方共に自己の思想や宗教宗派の
波動の外には眼をふさぎ、耳をふさいでしまっている状態なので、壁と壁と押し合っているような
とく
もので、どちらの心も傷つくだけで、なんの得にもならず、まして調和の感情など湧いてくる筈が
ありません。誤ったほうは誤ったまま、正しい側も、自分たちの心の調和を乱したままで、一歩も
世界平和の道開きにはならずじまいになってしまいます。
こんなことでは、国と国では戦争になってしまい、宗教宗派的な間では、国の平和の波を乱しつ
づけて、国のためにも人類のためにもマイナスになってゆくのであります。宗教精神というのは愛
の精神であります。ですから愛と調和ということが一番大事なことなので、自己の勢力の拡張のた
めに、他宗派をけなしつけたり、個人の心の自由を奪って信者にしたりするものではありません。
自己の一挙手一投足が愛の行為にもとらぬものであり、調和を生みなしてゆくものであることを
常に祈りつつ行動してゆくのが、宗教者の生活なのでありますから、その道を外れずに生きてゆけ
ぽ、勢力を拡張させるのも、多くの人々に生命の自由を獲得せしめるのも、すべて神のみ心にある
のであって、肉体人間側のとやかく申すことではないのです。
87敵のある平和論と真の平和論
真の宗教の道が真の平和運動につながる
。oQ
その心をもっと拡大してゆきますと、世界平和をつくりあげるのは、神のみ心であって、肉体人
間側はその道具として、その器として、その場として、素直に神のみ心を行じてゆけばよいのであ
くう
ります。そういう素直な心を空といい、全託といい、無為というのであります。しかしそう素直に
なり切れる人は少いので、私は、自己の生活環境や、対人関係やすべての幸不幸、喜怒哀楽、自他
に関する批判的な想念感情を、すべて一度消えてゆく姿として割り切ってしまいなさい、というの
です。何故消えてゆく姿かと申しますと、人間の本質は、神のみ心そのままの光明波動でありまし
て、肉体人間的な感情想念は無いのです。あるのはただ慈愛と智慧能力でありまして、肉体人間の
もっている、把われる感情やとどこおる想念が無いのであります。
そこで、人間の本質、つまり神のみ心と一つになるためには、空になり全託の心となり、無為の
心となることがどうしても必要なのです。しかしなかなかそうなり得る人はおりません。そこで私
はしご
は、空や無為や全託の境地につなぐ梯子として、すべては過去世から今日に至るまでの神のみ心を
カルマ
外れていた想念行為、つまり業の消えてゆく姿である、と一度、すべての想念感情を断ち切ること
を教えているのです。断ち切るといっても、消えてゆく姿として放つにしても、どこへ消し去り、
放し去ったらよいかわかりません。そこで、それは神のみ心の中で消滅して貰うのです。その神と
はあなた方を生れぬ前から守護しつづげている守護霊、守護神さんにお願いするのです。
と一度はこう教えます。そして更にもう一歩深く広く、人類全般的な悲願である、世界平和達成
ということと結んで、神のみ心は地球人類の大調和、つまり世界平和を願っていらっしゃることは
当然なことで、世界人類が平和になることは、神のみ心のそのままの現れなのだから、人間側から、
世界人類が平和でありますように、と祈ることは、そのまま神のみ心にすっぽり入りこむことにな
る、だから、消えてゆく姿の感情想念を、世界平和の祈りの中に入れて、世界平和の祈りの中に消
し去ってしまうことが大事なのです、と説いているわけです。
それを簡単に、消えてゆく姿で世界平和の祈り、という風に教えているわけなのです。人間は誰
でも感情想念を超え切ることは非常にむずかしいことです。ですから、はじめから感情想念を超え
る空や無為の行為は大半の人にできません。それが消えてゆく姿というように、軽く、世界平和の
祈りの中にもっていって放つことは、割り方容易なのです。理論的にいえば、暗い個人的な感情を、
大きく広い人類愛の祈り言である、世界平和の祈りという光明波動に転換させてしまう、というこ89敵












とにもなるので、今日までの宗教の在り方より、日常生活そのままで楽に自分を赦し、人をも赦せ
る、いつの間にか生命が清々しく軽やかで自由になる、宗教の道ということなのです。
そしてこの宗教の道は、そのままが真の世界平和運動ということになってくるのです。この世界
平和運動は、無理やりに人に強制するのでも、他宗派の邪魔をするのでも、唯物論者を目の敵にす
るのでもなく、世界平和を願うという人類の悲願を、世界人類が平和でありますように、という祈
り言葉にしたもので、祈りという言葉さえなければ、唯物論者でも、何気なく言葉に出せるものな
のです。
90
平和運動には敵が一人もあってはいけない
世界平和運動には、一人だに敵があってはならぬと私は思っております。自由主義も共産主義も、
マホメット教もヒソズー教も、敵対想念という消えてゆく姿の主義主張を超えねばなりません。神
の大調和波動の現れとして、光明波動の現れとして、光明波動そのものとして、真の世界平和運動
があるのです。自由主義も共産主義も何々教も、すぺて現われるべくして現われたものには違いな
いのですから、それを肉体人間感情で消滅させようというのが、戦いのもとになるので、そういう
かなめ
肉体人間感情を超えることが、世界平和運動の第一の要です。
肉体人間感情では、自己の主義主張に反対する人々や国家が邪魔で仕方なくなります。
これからの戦争は、当事国だけの傷では済みません。もし米中が戦えば、必ず日本は巻添えを喰
います。ですから、インドシナ地区の戦争は、解放戦線と政府軍との問題だけではなく、日本自体
の運命にもかかっているのです。それを日本人の大半は、対岸の火事とみて、真剣になって考えよ
うとはしていません。
他国の火事と思っているうちに、意外に火の手の早いこともあるのです。この火事を消しとめる
のは、一にも二にも日本国民の心を一つにすることです。自由主義も共産主義も、何々宗教もあり
ません。世界人類が平和でありますように、という祈り心に主義主張、宗教を超えて一つになるの
です。各自が主義主張を云々することは、大戦争を喰いとめてからでも遅くはありません。
地球が滅びてしまって、いったいどこで自由主義を唱え、共産主義を叫ぼうというのですか。南
無妙法蓮華経も、アーメンも南無阿弥陀仏も、みな神仏のみ心をこの地球世界に華咲かせようとし
て下されたものです。全宗教が一丸となって、地球の滅亡を防ぐのは今なのです。それには先ず人
々の心を世界平和を願う想い一つに統一しなければいけません。統一するには、何か祈り言葉がな91敵












ければなりません。何宗にも何教にも、さしさわりなく祈れる言葉が、世界人類が平和であります
ように、という祈り言の他にありますでしょうか。あったら、どなたでも考え出して下さい。単純
にして一読意味がわかり、その意味は無限に深いのが、この、世界人類が平和でありますように、
なのです。どうぞ皆さん、心を一つにしてお祈り下さい。
92
人間性と平和論
人間性をどうみるか?
人間の性は善か悪か、ということは、哲学的な大問題でありまして、今日まで幾多の人々が両派
に分れて、哲学論議をたたかわせております。
今日までの人類世界の歴史は、性善説に組みすべきところと、性悪説を肯定したくなる部面との
こんこう
両面が混清されておりまして、現象面だけを把えてみていますと、どちらとも断定しかねる状態で
あります。
確かにこの現象世界は、善悪混清の世界でありまして、現れの世界だけをみていたのでは、この
哲学論に終止符をうつわけにはまいりません。しかし、人間の性を善とみるか、悪とみるかによっ93人






て、この地球世界は完全平和に達するか、滅亡するか定まってしまうのであります。
何故かと申しますと、人間の性を悪とみることによって、個人同志は相手の心を常に疑い、国と
国とは、お互いに相手国の真意を探り合い、なかなか信じ合おうとはしないのです。そこでお互い
に軍備を強化して、戦争に対処しようとしているのであります。
個人同志はまだまだ信じ合う場合が随分と多いのですが、国家と国家となると、相手国の中に常
に悪を認めて、それに備えようとしているわけであります。米国とソ連の問などその最も顕著な例
です。
このように、相手国の中に善意より悪意のほうを認め合っているようでは、軍備を強化しないで
はいられません。軍備を強化すれば、必ず爆発することになります。これは人間の業の法則なので
す。
ですから、人間の性が悪であると認めた時には、人間世界は光明を失ってしまい、少しも安心立
命でき得ない世界となってしまうのであります。現在では未だ悪だけとは認めず、善悪混清と思っ
ておりますので、わずかに世界の光明が保たれているのです。
この善悪混清、神性と動物性との相半ばするこの地球人類の運命は、常にこの両面の戦いに終始94
しておりますので、どのような手段、どのような方法をとろうとも、
い、と殆んどの人が思っているようなのであります。
完全平和な世界にはなり得な
良識だけではとどめ得ぬ業想念
完全平和が達成されない、ということになりますと、現在のように核武力が次第に世界中に広が
ってゆく傾向にある時代にありましては、いつかは、この核兵器による戦争が行われて、地球世界
壊滅という方向に動いてゆくことは逃れ得ないことになります。
一度び多額の国費を投じ、長年の苦心の研究の結果でき上がった物を、そのまま使用せずにすま
せるということはなかなかできることではありません。いつかその効果をためしてみたい気になり
ます。その第一段階が、原水爆実験です。その実験が何度でもつづいた後、さて今度はどうなるこ
とでしょう。他国の悪を認めている限りは、遂いには実戦に使用してしまうように追い立てられて
いくものなのです。それが人類の業想念というものなのです。そうした業想念は、単なる良識など
なさ
ではとても押えきれるような生易しいものではありません。
あらわれているこころ
業想念というものは、顕在意識と潜在意識との間をぐるぐる廻っているもので、顕在意識は潜在95人







意識の中にひそんでゆき、ひそんでいる想いは、いつか時を経、縁によってあらわれの意識に出て
くるか、またはあらわれの想いでは意識もしていないのに、突如として行為となって表面に出てき
りんね
たりするものなのです。これを仏教では輪廻というのです。
これは、個人にも国家にも同じような状態で現われるのでして、現在相手に何も悪いことをして
いないとしても、過去になんらかの悪影響を与えていれば、相手の潜在意識にそれに対する恨みの
想いがひそんでいて、何かにつけてこちらの生活を阻害してきたりすることがあるのです。これは
過去を過去世とまで延長してみることが必要なのです。
国家民族的に考えてみれば、国家や民族の歴史の中での感情の問題や利害得失による、憎悪の波
が輪廻しまして、いくら相手国のためにつくしてやっても、なかなか相手国は感謝の想いにならず、
かえって恩を仇でかえすようなことをしたりするようなこともあるのです。
ですから、ちよっとやそっとの恩恵を与えたからといって、相手の人や相手国を自分の意志のま
まに動かそうとしても、とても相手が動いてくるものではないのです。何事にも個人的には過去世
にまでさかのぼって思わなければなりませんし、国家民族的には過去からの歴史を振りかえってみ
なければならないのです。96
これは因縁因果の法則として、その因縁因果の流転の中に生活している以上は、その波動の影響
をまぬがれることはできないのであります。
そういう波動圏を業生の世界というのでありまして、こうした業生の世界に心が住んでおります
間は、善だ悪だというように、この世界の想念波動をつかみ、その場、その時々の行為に把われて、
相手を味方とみたり、敵とみたりしてしまうのです。
ですから、この業生波動の世界観から超越した波動の世界に心をうつさない限りは、人類の住ん
でいるところは、善悪混清の世界で、時によっては善となり、時によっては悪となる人間や社会や
国が現われてきまして、なんでも自己や自国の都合のよいように現われてくるわけにはいかないの
です。それが個人的には争いとなり、国家間では戦争となって他をも我が身をも滅ぼしてしまうの
であります。
悪とハッキリ断定出来るもの
そこで、これが善だ、これが悪だというように、自己や自国本位の考え方でこの世の在り方を定
めていますと、相手や相手国もやはり、自己本位の考え方で相手を判断しますので、利害が相反し、97人






思想が異なってくれば、お互いが相手を悪と見、誤りとみることになってしまうのです。
それは誰がみても、どこの国や民族からみても悪い行為であることがはっきりしている場合は別
と致しますが、善といい悪といっても、お互いの都合次第で善悪の区別をつけてしまうことが多い
のであります。
ここで一番はっきりいえることは、人間のもっている残虐性や嗜虐性は悪である、ということで
す。動物や他人を痛め傷つけて喜ぶ想い、人の肉体を傷つけ、心を痛めつけることに快感をおぼえ、
優越感を味うような、そういう想念は、実に人類の進歩を阻害する最大なものであり、悪とはっき
り断定できるものであります。
自己を守ろうとする、自己保存の本能は、これは肉体身をこの世に存続させるための、致し方な
い本能であろうと思いますが、それさえも超越してゆかぬと、この世界は完全平和の道に進んでは
ゆかれないのでありますので、この残虐性や嗜虐性という悪とはっきり認められる、人間の業想念
を、この人類から追放してしまうことが大事なのです。この悪は、自己保存の本能と結びついて、
戦争という一大悲惨事をひき起こすことになるのです。
98
生命尊重精神の欠乏
自己の瞬間的満足感のために、罪もない小鳥を撃ち殺して、なんらの罪悪感ももたない、という
意識は、そのまま生命尊重という意識の欠乏を物語るもので、そうした意識は自己防衛のためなら、
他人や他国を損ってもたいして心が痛まない、という意識につながっているものであります。
人類だけでなくあらゆる生物の生命尊重ということは、人類が生存してゆく上においての萬止む
を得ない殺傷の他は、いたずらに傷つけたり殺したりしないようにしなければならないのです。そ
ういう生命尊重の上に立っての世界観をもたないと、第三次大戦を防ぐわけにはゆかないことにな
るのです。
アメリカが、殺傷を禁じているキリストの教えを奉じている国家でありながら、共産主義浸透を
防ぐためには、世界の反論をよそに、北ベトナム爆撃をつづけ、多くの人員を殺傷した事実は、ア
メリヵが平和を口に唱えながらも、自己防衛のためとなれば、他国人の生命殺傷などはあまり問題
ではない、という証拠でありまして、他国人の生命が野獣と同様にあつかわれているということに
なります。
99人間性と平和論
これなど生命尊重精神の欠乏を物語るものでありまして、こういう人員殺傷の罪を犯しつつの平
和論などは、神のみ心からみて笑止の沙汰というぺきであります。
それと同時にソ連や中国がとっている、指導者の暴力にょる統一形態なども、生命尊重の欠乏を
示すものでありまして、生命の自由性を犯し縛る、神の意志に反する行為なのであります。こうい
カルマ
う指導者層の在り方は、人間の業としてもっている残虐性や嗜虐性を呼びさましまして、権力をか
さにきての弱い者いじめの形になりまして、かって日本の軍隊の】部に行われたような、肉体的精
神的な残虐行為となって現われてくるのであります。
自己防衛の本能と残虐性嗜虐性とが結びつく時は実に恐るべき、人間わざとも思えない非道なこ
とが行われてしまうのです。今日にしてこの残虐性、嗜虐性を人類からぬぐい去らなければ、人類
の未来は滅亡に至るより他に道はなくなってしまうのです。
100
善悪混清の波動世界をこえよう
善悪混濡の世界は、このまま進んでゆけば、悪の勝利となって、地球人類は滅亡してしまうこと
おの
は、世界情勢をはっきりみつめていると、自ずから肯定せざるを得なくなるのであります。
それでは、これから私たちは一体どうしたらよいのであろうか、ということが問題になるのです。
これではいけない、これでは駄目だ、といってばかりいても、少しも人類はよくなってはゆきませ
ん。私たち自らが人類の進化を促進させ、戦争や天変地変を防がなければいけないのです。その方
法を考え出さなければいけないのです。
その方法は只一つしかありません。善悪混滑のこの地球世界を一度超越しなければならないとい
うことなのです。そんなことはできっこないと誰でもいうでしょう。ところができるのです。でき
るできないよりは、できないではすまされぬ時代に今はなってきているのです。今こそ、地球人類
は生か死かの絶体絶命の境界に立たされているのであります。
老子でも釈尊でもキリストでも、古来からの聖者はみなこの日のために、道を説きつづけてきて
いるのです。ですから必ずでき得ることなのです。でき得ぬことを、大聖たちが説きつづけるわけ
がありません。無為、空、み心のままに、みなでき得ぬことではありません。でき得ることなので
す。唯、人々が地球の運命をあまり甘くみすぎていて、真実に真剣に自分たちをみつめていなかっ
たから、でき得ないと思っているのです。
人間にでき得ぬことを、大聖ともいわれる人々が説きつづけるわけがありません。私はそれを信
101人間性と平和論
じました。そして私は、大聖たちの説かれる通りの道を求めつづけました。私は遂いに、大聖たち
の説きつづけた道を、自分自身の心身をもって体得したのであります。
私の道は、古来の聖者たちと全く同じでありながら、最も今日的な、現在の人々に行い易く納得
くらサ
し易い道として説きはじめたのです。無為といい、空といい、み心のままという、いずれも、人間
の頭脳を駆け巡る想念波動を、神のみ心に全部投入してしまう、ということなのであります。一ロ
にいえば神への全託ということなのです。
神のみ心に入りきってしまえば、全託してしまえぽ、その人はそのまま、善悪混清の地球世界を
超越したことになるのであります。よくよく考えてみて下さい。私たち人類は、何一つとして自分
自身で創ったものはありません。如何にも人類が創ったようにみえましょうとも、その源の素材は
神からきたものなのであります。先ず人間の肉体がそうであり、肉体を生かしてくれている様々な
元素もそうであります。
人間には何一つ私するものはないのです。この肉身のある間、神よりおあずかりしているものば
かりなのです。人間はそれをじっと思ってみなければならないのです。今更神への全託も、み心の
ままにもないのです。はじめからすべては神のものであることを改めて考えてみねばなりません。102
この真理がはっきりわかるかわからぬかに地球人類の運命はかかっているのであります。この真
理を外にして、如何なる思想も、どのような手段方法も世界を救うものとはなり得ません。
その真理を心身をもってわかり得る人を、一人でも多く、一日も早くつくりあげてゆくことによ
って、地球人類の悲惨事は、それだけ小さく少くすむのであります。
神のみ心の中に悪はありません。光明燦然たる真善美のひびきがあるだけです。大調和したひび
きがあるだけなのです。そうしたみ心の中に改めて入りきってしまうこと、これだけが人類の運命
を救い得る唯一の道なのです。
善悪混清の人間の心を、神の大光明のひびきで浄め去って頂き、真善美の心のひびきだけにして
頂くのであります。世界はもはや国家と国家との政治政策ではどうにもならなくなっているのです。
個人個人の神への全託、祈り心によってのみ、その滅亡を止め得、新しい地球人類として、完全平
和に向って歩みを運べることになるのです。
消えてゆく姿で世界平和の祈リーの原理
私はそれを、消えてゆく姿で世界平和の祈りという方法にして、人々に伝え広めているのであり
103人閲性と平和論
r
ます。
この現象の世界は、どのように美化してみようとしても、悪や不幸が眼につきます。人間はすべ
て神の子で、不完全なものはないとか、悪い人はないのだ、といってみても、実際問題としては、
良心のまるで無いような悪い人がおりますし、残虐そのもののような人もおります。
個人個人の心をのぞいてみれば、殆んどの人が、自己本位でありまして、自分を護るためには、
少しぐらいの他人の不幸や不為には、眼をつむって知らぬ顔していなければ、上手な生活ができな
いようになっているのが、現象世界の状態です。
これが神の子の姿なのか、と思わずにいられぬようなことが、しばしばあります。ですからいく
ら自分の心に、人間は神の子なのだ、悪い人はいないのだ、善い人ばかりなのだ、といいきかせて
も、とても自分の心が納得しません。
そこで、私の消えてゆく姿という教えが生れてきたのであります。人間は本来霊身であって、神
の子なのだけれど、地球世界という物質波動の粗い波の世界に住みつくことになって、霊身本来の
あら
微妙な波動だけではその粗い波動の中では生活してゆけぬので、それに合うような波動の体を肉体
さと
身として纒って生活するようになった。そしてその生活になれてくるにしたがって、本来の霊身で104
ある微妙な波動の世界を忘れはじめ、遂いに肉体身だけを人間と思うようになってしまい、神の子
本来の霊妙な波動体と粗い肉体身との交流にギヤップを生じ、それが、業想念波動となって、いわ
ゆるキリスト教の原罪というような形になって、善悪混清の現在の人類社会をつくりあげてしまっ
たのであります。
そこで私は、そうした習慣性の想念を、消えてゆく姿として、祈り心を光の柱として、神の大光
明心の中に昇りきってゆけば、また改めて人間の本来性である、神の子の光明心に還元してゆくも
のである、ということを、私自身の体験として知ったのであります。
私の消えてゆく姿で世界平和の祈りという教えは、私の体験を通して生れ出たもので、観念的な
神の子観とは違うのです。観念的に人間は神の子であると思おうとしても、業想念の壁があります
と、どうしても、実際生活では人間自体を善悪混濡のものとして対してしまっていまして、人間の
本質と業想念とをはっきりわけて思うわけにはゆかないのです。そういう観念論的な神の子観の生
活は、なかなか神と人間とのつながりを、親と子との間のような実観に結びつけることはできませ
ん。
カルマ
神と人間との間柄を親子と同じような親近感にしてゆくためには、その間を邪魔している業想念
105人間性と平和論
を取り去ってしまわねばなりません。そうする一番易しい方法が、怒りも恨みも恐怖も妬みもすべ
ての自己の悪い想いも他人の自己に対する不為な行為も、みんな過去世から今日に至るまでの因縁
因果の消えてゆく姿なので、そうした自他の想念行為を把えたら把えたでよいから、そのまま、世
界人類の平和を願う、人類愛の祈りである、世界平和の祈りの中にその度び毎に祈り入れて、世界
平和の祈りがもっている、救世の大光明の光明波動の中で消し去ってもらう日々を送るようにする
ことなのであります。それが消えてゆく姿で世界平和の祈りなのです。
106
戦争の恐怖と共産主義侵略に対する恐怖
こういう世界平和の祈りの日々を送っていますと、観念論的に人間神の子と思おうとしたり、心
の中からでてくる想いを抑えつけながら、あの人はいい人なのだとか、あのことはよかったのだと
か、無理に善いことに結びつけるようなことをしなくとも、世界平和の祈りの日常生活から、知ら
ないうちに神への親近感が湧き出てくるし、人に対する温かい柔かい愛情がでてくるので、いつの
間にか、人間生命と業想念波動とは別のものであることがはっきりわかってきて、罪を憎んで人を
じねんほうに
憎まずよりも、もう一歩進んだ自然法爾的な人間神の子の実観ができてくるのであります。
人間というものは無理無理そう想わせようとしたり、観念的に自己の心にいいきかせようとして
も、とても心の底から納得させたりしたりすることはむずかしいので、自然にいつの間にか納得し
てゆき、そういう心になってゆくということが大事なのであります。易しくいえば、感情が納得し
てそうなり得るということなのです。
戦争の恐怖というものと、共産主義侵略に対する恐怖というようなものでも、感情的にも体験的
にも、日本人にとっては、戦争の恐怖のほうが、共産主義侵略の恐怖より、はるかに大きいのであ
ります。
ですから、共産主義侵略を防ぐためには、小さな戦争は仕方がない、といういい方をしたりする
と、日本人の大半の心に肯定できない感情のしこりをもたせるのです。どんな小さな戦争でも、戦
争と名のつく事態を、思想的侵略よりも恐怖する感情を、今日の日本人の多くがもっているのであ
ります。
そういう国民的感惰というものをよくよく考えて、日本の政府も米国政府も政治をとってゆかぬ
と、すぺてにちぐはぐな事態が起こってくるのです。
107人間性と平和論
人間性を無視せず人間性を純化してゆく
私は、人間の感情の動きというものを常に考えております。ですから人間の感情に合わぬような
宗教の道をただ単純にすすめてゆこうとは思っておりません。人間は本来神の分生命であり、神の
こうしよら
子であって業生ではない、ということは真実のことでありますが、只それだけで押し通そうとは思
っていません。
はず
ただそれだけいっていたのでは、現在の人間生活には神の道に外れた事柄が多過ぎ、神の子らし
からぬ想いや行いが自他共々にありすぎて、感情的にそのままの教えではついてゆきにくい人があ
くウ
るのです。ですから、釈尊の空の教えでも、老子の無為の教えでも、教えそのものとしてはわかる
が、自分たちにはできない、とやらぬうちから、感情的にできぬと思いこんでしまいますし、少し
はやってみても長つづきしなかったりするのです。
そこで私は、人間の誤った想念行為、つまり業想念を、一度びはっきり認めさせ、それを現在の
ものと固定させないで、過去世のものとして現在に結びつけ、流動性のものとして、消えてゆく姿
と説くのであります。そしてその消えてゆく姿を、神の救済の光明心の中で消し去って頂くよう祈108
るのであります。
消し去って頂くよう祈るのではありますが、これが、世界人類の平和を願う広い人類愛の想いと
結びついて、

己が幸願う想いも朝夕の世界平和の祈り言の中
という歌のように、自己の本心開発と人類の本心開発とが一つの祈り言によって成就してゆくと
いう、そういう形になっているのです。こういう方法にしてゆきますと、私の体験として得た、人
間は神の生命そのものである、という真理を、観念的にではなく、いつの間にか実観として悟って
ゆくのであります。それは、世界平和の祈りをしているうちに、自然に本心を蔽っていた業想念波
動が薄らいでゆき、本心の光明が輝き出し、神との一体観を知らぬ間に体得しうるようになってく
るからなのであります。
人間の感情が自然に純化されてくるということが非常に大事なことで、宗教も芸術もそのために
けいピう
あるのですから、感情に訴えることがよいといって、利己主義的な感情に迎合するような宗教や、
人間の心に醜悪感を浸みこませるような芸術は、真実のものではありません。
善悪混溝の人間世界を、真善美の世界に浄化させ、残虐性や嗜虐性をこの世界から消し去ってし109人






まうために、私たちは消えてゆく姿で世界平和の祈りを、真剣に人々にすすめているのであります。
どうぞこの世界が一日も早く平和になりますように、瞬々刻々世界平和の祈りを実行してまいりま
しょう。
110
武力によらざる力
日本人の付和雷同性
近代の日本の風潮は、アメリカやヨーロッパ式の個人主義が身についてきているように見えなが
ら、封建的な生き方の変形とも思われる、付和雷同の傾向がその生活から消えてはおりません。
日本人の長所として、高く評価されるべき中心帰一の精神。中心帰一の精神とは、本来神のみ心
と一つになって生きてゆく、という精神なのですが、これがいつの間にか、封建的な上位の立場の
者のいうことなら、どんな無理でもご無理ごもっともと、自己を殺して従ってゆくという、自己保
存のための盲従という生き方になって、小さなこと以外は、自身で創意工夫して、新しい社会や、
新しい国づくり、ということを積極的に進めてゆく、という人が少くなってしまったのであります。111武







長いものには巻かれろ式の生き方からは、新しい世界は開けてはゆきません。そういう傾向が日
本にはあったのです。日本に革命が起こらなかった、ということは、そういう日本人の生き方にも
よるのです。
幕末から明治にかけては、対外的な、いわゆる外国の侵略というものを意識しはじめて、日本の
新しい生き方をつくろうという動きが活発になってきて、明治維新というものが起こったわけで、
外国の働きかけによって、潜在していた個人意識が横につながりはじめて一つの大きな力となった
のです。
その個人意識はお互いが、このままいったのでは、外国の働きかけによって、日本は分裂し、外
国の属国となるより仕方がないのだ、という、そういう意識をお互いが持って、一つにつながって
いったわけで、徳川三百年という封建社会が、そこに崩れ去っていったのです。
真の意味の個人主義とは、自分たちが、自分たちの欲望のままに、各自が勝手な自由をほしいま
まにする、ということではなくて、全体を生かすために、個々に分れている自分たちの生命を、各
自各自が他人に命ぜられるのではなく、自己の創意工夫によって磨き上げ、個性を生きいきとさせ
てゆく、ということであって、全体を離れて、個人個人が勝手な振まいをする、ということではな112
いのです。
封建的な生き方のように、上位の者のいうことには、自分を殺して盲従してゆく、ということと
は反対な生き方なわけです。自己を殺した盲従のくせがついておりますと、封建的でない今日の政
治下にあっても、権力のある者のいうことには、つい反論ができないで、おおせの通り、と付和雷
同してしまうのです。個人の運命が、常に強い者の力にひきずられてゆく、という習慣が、日本人
の心からぬけきれないのであります。しかし、この反動的な現れとして、やたらに権力に反抗して
みたくなる人々もいるのです。青年などには、この反動がつよいようです。為政者や権力にやたら
カルマ
に反動的になるということも、これは真実に個人を生かしていない行為なので、業にひきずられて
いる行為となるのです。
個人の運命と人類の運命は一つ
わけいのも
人間というものは、大生命という神のいのちの分生命でありまして、一人一人がみな天命をもっ
て生れ出てきているのですから、一人が真実に自己を磨き上げてゆきさえすれば、自ずから天命が
完うできて、神(大生命) のみ心に叶う生き方ができるのですが、兎角大生命(全体) から離れた、
113武力によらざる力
はず
誤った個人主義になったり、神のみ心を外れている権力、つまり物質世界だけの権力に盲従して生
きていったりしてしまって、天命を完うすることができなくなり、自己も滅び地球をも滅ぼしてし
まうことになりかねないのであります。
ですから、個人が立派に自己を生かしてゆくことが一番大事なことなので、そこを基盤として、
はず
社会国家人類というように広がってゆくのがよいわけです。それでないと、道を外れた為政者や、
カルマ
業のとりこの権力者などが常に出てきて、いつまでたっても、地球世界は立派になってゆきません
し、やがては滅亡してしまいます。
ところが、個人を磨き上げてゆこうとする人は意外に少なく、自己の物質生活を豊かなものにす
るために、学力をつけ、技術を磨き、という人や、自己の肉体の欲望を満足させるための享楽にの
み憂き身をやつしている、という人たちが多いのです。
社会とか国家とか人類とかいうものは、個人の精神や技術の向上によって、立派になってゆくも
ので、個人の品位や人格が低くなれば、それだけ集団の品位や生活は低くなってゆくということに
なるわけで、国の安否や、人類の運命は一に個々人の人格の完成如何ということにかかっているの
です。114
現代程それがはっきり証明される時はないのでありまして、個人は個人、国は国という時代では
なくなっています。ですから好むと好まざるとにかかわらず、個人は全体の運命を考えて行動しな
くてはならなくなってきているのであります。
現在の国家や人類の運命は、過去の時代における個人個人の想念や行為が、ここに答として現わ
れてきているのでして、未来の答は、現在の個人個人の綜合された想念行為によって現われてくる
のです。それが地球世界の完全平和となってくるか、滅亡となってくるか、この二つのうちのどち
らかになってくるわけで、不完全ながら、生存をつづけているという時代はそう長くないことは、
かなりはっきりしたものとなっております。
何故かと申しますと、核兵器や、細菌、化学兵器による大量殺獄時代になってきた現在、しかも
宇宙衛星までも戦争に参加できる時代が来ようという現在、これを使う人間の心が、自国本位であ
のぞ
り、国と国とが邪魔物は除け、という想念であり、恨み憎しみ合っているようなことで、世界が無
事に治まってゆくわけがありません。想念波動というのは、自己の出したものは必ず自己にかえっ
てくるので、お互いが自分勝手な自己本位の恨み合い、憎み合いの想いでいれば、お互いが自己を
カルマ
傷つけ痛めてしまうのです。これは業の法則で、防ぎようがありません。従って、争い合っている
115武力によらざる力
国と国と民族と民族と、お互いが、自分自身が自国や自民族を滅ぼしてゆくことになり、地球の滅
亡というところまで必然的にいってしまうことになるのです。播いた種は自己がこれを刈らねばな
らぬのです。
カルマのが
この業の法則を遁れるにはどうしたらよいか、これは今までの習慣性の生き方を変えることによ
って超越することができるのです。今日までのように、自国を守るためには他国の人員などいくら
殺傷してもよい、という考え方を先ず変えねばなりません。自国がそう想えば他国もそう想うので
あり、お互いの滅亡はそこからはじまるからです。
11s
武力のみで国を守れるか
次に他国が武力を増大したから、自国も武力を増大しなければならぬ、という考え方、これは世
界中が核兵器を持つというところまで進展してゆく考え方です。日本の一部にもこの考えが根深く
あります。共産主義国のやり方というものは、軍備の薄い、力の弱い国に向って侵略をしてくるの
だから、その隙をみせないように、武力を増大しておくべきで、中国が水爆をもった今、日本はい
ち早く、核兵器を持つことだ、それでなければ侵略される危険が大いにある、というのです。
今日までの歴史的考え方からすれば、武力の増強こそ国を守る唯一の方法であったわけで、各国
が武力の開発に力を集め、ついに原爆水爆という武力にまで発展してきたわけなのですが、さて、
この武力競争の果ては、第三次世界大戦という地球最後の日を迎える段階までいってしまいかねな
りんお
いわけです。武力をもってすれば武力に破れ、武力の争いが輪廻して今日に至り、大量殺りく兵器

の出現となったのですから、この悪循環をいかにして超えるかということが問題になってくるので
あります。
それを昔通りの考え方で、相手が武力を増大したからこちらも、という在り方は、甚だ智慧のな
カルマ
い、業の波の通りに動いている考え方で、甚だ勇ましい愛国論的な言辞ですけれども、神のみ心か
らみれば、幼い在り方というより仕方がありません。国を守るには先ず武力という昔風の考え方だ
けに把われないで、もっと力というものの様々な在り方を考えてみる必要があります。国を守る力
というものが武力だけではないということ、兵器の力というものは、破壊する力であって、世界を
平和にする力ではない、ということなどをよくよく考えてみることが大事なのです。
ところが、この世界の表面だけ、現れの世界だけをみていると、武力には武力という考え方が一
応もっともなる現実にそくした考えということになってきます。
117武力によらざる力
平和平和といったところで、相手が戦争を仕掛けてきたらどうするのだ、武力がなかったらひと

たまりもあるまい、共産主義国に侵略されたら、日本は滅亡するよりもっと非道い屈辱の生活を強
いられるのだ、というような論をする人も大分あるのですし、国を愛する者として、尤もな心配な
のです。
では、核兵器を含めた武力をもっていれば、戦争は起こらないのか、といわれても、絶対に戦争
は起こらない、とはいい切れないので、起こっても、日本を滅亡きせずに防ぎ得る、という程度の
答になってくるでしょう。中には武力を充実させておけば、戦争は絶対に起こらない、と自信満々
と言いきっている旧軍人もおります。これはその人が言うだけで、なんの保証もありません。
its
平和をつくリ得る力
ここで武力というものを考えずに、平和をつくり得る力というものを探し出してゆきましょう。
先ず精神の力、という考えが浮んでくるでしょう。精神ということと一つのようですが、宗教の力
ということが想い出されます。最後に平和に団結する綜合的な力、ということが出てきます。
武力でゆこうというからには、これは考えるまでもなく、核武装というところまでゆかねば、現
代の武力というところまではゆかないでしょう。ですから、正式に日本に軍備を持つことをすすめ
る人々は、日本が核武装まですること、国民の大半の気持を、いざといえば空襲も戦禍も辞さない、
というところまでに持ってゆき得る自信をもっていなければなりません。また彪大なる軍費が必要
になり、国民の税金の負担が急増することになります。果してそういうことが可能でしょうか。核
武装までは、なんとか国民の目をごまかしてでも持ってゆけます。しかし、国民の大半が、いざと
いえば、戦争してもよいのだ、というところまで、現在の人々が覚悟をきめられるでしょうか。国
民の大半が、第二次大戦の時のように、国家の運命に殉ずる、という気持になっている時ならいざ
知らず、現在の国民の中に戦争覚悟の態度を持ち得る人がどれ程あるでしょうか。国民に戦争の覚
悟の殆んど無い国家の武力などというものは、如何に核兵器を持ったとしても、当面だけは外国の
侵略を防ぎ得るでしょうが、内部事情は相手に知られるにきまっていますから、その弱点をつかれ
て、うっかりすれば内乱を起こされてしまいます。武力を強固にするからには、戦争覚悟の国民に
仕立上げることが同時になされなければ無意味ということになります。
日本の背後には米国がいて、共産国からの攻撃を防いでくれる、というつもりもあるでしょうが、
いざ戦争となれば、米国にしても、他国の防衛ということよりも先ず、敵国の攻撃のほうに重点を
119武力によらざる力
置くにきまっています。ですから米国が守ろうとどうしようと、日本国内が戦禍をこうむることは、
必然的なことになります。それを恐れる国民が多くいたのでは、戦争をすることが土台無理です。
はっきりとした軍備を持つからには、そこまで考えての上での成算をたてなければなりません。
軍備を拡充すれば戦争は起きないなどという甘い考えで軍備だけ拡充したところで、尤も国民の納
得がゆかなければ、核武装や徴兵制度を加えた軍備の拡充はなかなかできそうもありませんが、ど
うにもなるもんではありません。
また反対に、軍備撤廃の平和運動を叫んでいる人たちの中には、ソ連や中国という共産主義国の
軍備や核武装は是として、米国や自由主義陣営の核武装には、しきりに反対する向きがあります。
米国の核武装は攻撃のためであり、共産国のは守りのものであるから、米国のだけがけしからんの
で、共産国側のはよいのだ、とこの人たちはいうのです。そして日本が軍備することは、米国の配
下となって、共産国に敵対することだからいけないことである、というのです。どうにも片よった
意見で、常識ある人にとっては、実におかしな考え方です。
それから、只単に戦争が嫌だから、日本は軍備をもってはいけない、という思想的な色はないけ
れど、至極単純にこの世のことを考えて、平和論をやっている人々もおります。普通の人は誰でも
120
戦争が嫌であり、常に平和であって欲しいのですが、この世の中は、そう単純に事が運んではゆか
ぬようにできています。
軍備は平和の敵だ、といって軍備撤廃を叫んでみたところで、日本には曲りなりにも、自衛隊と
いう軍備があり、米国の武力が背景にあって、共産国の侵略を防いでいることも事実なのですから、
そういう事情もわからずにただ単に平和、平和といっても、そう簡単に軍備を捨てられるものでも
ないのです。
軍備を捨てるためには、軍備に変るなんらかの力がなければなりません。なんの力もなくて、只
平和が欲しい、平和の世界をつくらなければならぬ、軍備は撤廃すぺきだなどといっていても、誰
も真剣についてはゆけませんし、国家としてもその意見に同調するわけにもゆきません。
想念波動は物質を左右する
そこで私は、武力に変わる力とは何かということを先にも一寸書いておいたわけです。それは先
ず、このまま各国が武力を拡充してゆき、核武装を強化してゆけば、いつか世界は第三次大戦の火
カルマ
ぶたを切ることになってしまうのだから、そうした業波動に変わる、平和な精神波動を各人が蓄え121武







ることだ、ということです。この精神が高まってくれば、それはそのまま宗教精神にまで高まって
ゆき、神との心的つながりを得て、強力なる光明波動を、この地球界にふりまくことになり、戦争
防止の大きな力となる、ということになるのです。
只単なる平和論の人たちはご存知ないかも知れませんが、物質の根源が波動である、と同じよう
に、精神というものも波動なのであります。キリストが、汝の信念が強ければ、あの岩をも動かす
ことができる、と聖書でいっていますが、釈尊時代のバラモンの行者たちは、念力によって、大き
な岩を持ち上げたり、それを降したりして、念力くらべをしていたものです。強い念力によれば、
大きな物質がいくらでも動いてしまうのです。催眠術などで、被術者に、お前の体はもう鉄になっ
た、というような暗示をかけますと、どんな重いものを椅子と椅子を離した上に横になった体の上
に乗せても、全く鉄のようにびくともせず、真っすぐに横になったままでいられるのです。
その被術者が、鉄になったと想いこんでいるから、鉄のように堅い頑丈な体になりきってしまう
のです。人間は想念波動でいくらでも、どうにでもなる、ということの証左であります。そういう
風に人間の想念波動は物質波動を左右することができるのです。
戦争が嫌だから恐ろしいから、平和運動をするのだ、というような弱い想いでいくら運動したと
122
カルマ
ころで、そういう消極的な精神波動では、戦争に向ってゆく業波動を消滅させるわけにはゆきませ
ん。真の平和運動はもっと積極的に、戦争は生命における兄弟姉妹を殺傷し合う行為なのだから、
如何に自国のほうが正義のように見えようとも、戦争をしてはいけないのだ、戦争を神は欲し給わ
ない、というような、神のみ心にまで昇華した、強力な平和精神になって、人々に働きかけなけれ
ば駄目なのであります。
人間はこの世では肉体的に生きておりますから、肉体が傷ついたり死んだり、生活が破壊された
りすることは、嫌でもあり、恐ろしくもあります。ですから戦争は嫌なのです。しかし、真の平和
運動は、そういう消極的な考えは、すべて消えてゆく姿として、祈り心をもって、神のみ心の中に
飛びこんでゆき、人類すべて仲良くあれ、という神のみ心と、世界人類が平和でありますように、
という人類の悲願とを全く一つに結んだ、祈りによる平和運動に、自己の全生活を融けこませてゆ
くことが必要なのです。
祈りによる神との一体化によって、ひびき出された平和運動の光明波動は、自国本位の想念や、
恨みや憎しみによる争いの波動、戦争の波動を、消滅し去る力をもっているのです。これは一人や
二人の人が祈ったとて、眼にみえるような力にはなりませんが、何千人何万人、はては、日本国中
123武力によらざる力
が祈るようになりますと、それは素晴しい平和の光明波動になり、世界中にみなぎる戦争波動を消
滅し去る程の力となってくるのです。
これは、後に宇宙子波動学という科学が出来上がるまでは、理論的に実証してみせることはでき
ませんが、やっているうちに、体験的にわかってくるのであります。よくはわからなくとも、只単
に、戦争は嫌だ、平和がよい、などと消極的に想っているより余程よい、ということは、誰にでも
わかってもらえると思います。
124
一切の敵をつくらない運動
この祈りによる世界平和運動は、自衛隊がいらないとか、軍備を拡張しろとか、そういう、現在
この世的に動いている政治政策とは全く関係がありませんで、新しい未来をつくる根源の波動調整、
ということになるのであります。軍拡運動にしても、唯物論的平和運動にしても、国内的にも対外
的にも反対運動があるわけですが、私共のように、この世の現在の政治政策や、この世的思想には
すがた
なんの関係もなく、只、神のみ心の大調和の相を、この世に導き出すための、平和の祈り、という
ものは、反対する何ものもありません。関心のない人は、なんだそんなものとか、祈りで平和がく
おら
るものか、などと鼻で哩うだけで、積極的な反対運動など起こしようもありません。只その人たち
がやらなければよいだけなのですから。
私共の運動は一切の敵をつくらぬ運動であり、無理やり人をひきずりこもうというものでもあり
ません。縁があって入ってくる人は自然に入ってきて、世界平和の祈りをするでしょうし、今縁が
なくても、後に縁が熟して平和の祈りをすることになるでしょう。
その結果はすべて神のみ心にあるわけで、私共は神のみ心の大調和精神にそって、日々瞬々刻々、
世界平和の祈りを行じつづけているわけであります。
しかし次第に無心の世界平和の祈りの力が、人々にわかってくるにきまっているのです。祈りの
力のわかってきた人が、今は急速に増えてきています。なんにもしないより、なんでもよいから祈
ってみよう、という人たちが、いつの間にか、自分の精神も生活も善くなって世界平和の祈りの力
を真実に信ずるようになってきています。
平和の祈リで平和な生活
のピと
己が幸願う想いも朝夕の世界平和の祈り言の中125武







という心で日々を祈りの生活にしているのですから、この気持だけでも、祈らぬ人より余程平和
で幸せであると思います。自分の病気を直し給え、自分の貧乏を救い給え、と只自己の開運だけを
祈るのではなく、自己の幸せも、世界平和の祈りの中に入れきって、世界平和の祈りの中から、自
己の生活を頂き直してゆく、という生き方は、真実の妙好人の生き方と全く一つのものです。
自分のこともできないで、世界平和の祈りなどとは、という人もたまにはありますが、自分のこ
とができようとできまいと、その人もやはり、世界の運命の中の一人であるのでして、戦争の災禍
や天変地変の災禍億、世界と共に受けなければならぬのです。
それならいっそ積極的に、自分のほうから、そういう災禍を少しでも軽くするような方法があれ
ば、その方法を実行してみたほうが利巧ということになります。
世界平和の祈りとはそういうものなのです。現在、種々の思想の中で、絶対にこの生き方より世
界を救う方法はない、と思いこんでいる人はめったにいるものではありません。いつの間にか、そ
の思想やその運動に入っていって、習性的にその思想やその運動の中を歩いているだけで、絶対と
いう気持にはなかなかなれるものではないのです。
軍備拡張論も、巷間の平和論も、絶対なる真理ではありません。祈りによる平和運動は、すべて126
を神のみ心におまかせして、神のみ心に世界平和の祈り心をもって融け入ってゆく、そして日常生
活は、今まで通りあたり前の生活をしていながら、いつの間にか、その日常生活が、神様から日々
瞬々刻々頂き直している生活ということになってきて、常に感謝の心が、自然と湧いてきている、
という、平和な生活なのです。
感謝も喜びもなく、いつも不平で不満で、そして不安な生活を送っている人々も、この世の中に
は随分といるでしょう。そういう人たちにくらべると、感謝の心で平和の祈りのできる生活という
のは、実に尊い有難いことだと思います。
それから、こうした平和の祈りの生活の中から神の大調和のみ心をそのまま現わした科学力が生
れ出で、宗教と科学との一体化がなされてゆくことによって、武力や軍備力によらぬ、世界平和が
実現されてゆくのです。その日のために、私たちは、日々守護の神霊に感謝をささげつつ、世界平
和の祈りを実践してゆくのであります。
127武力によらざる力
11.8
平和に至る道
真の平和を欲するならば……
今日の世界ほど、平和ということを人々が切望している時代は他にありません。勿論いかなる時
代においても、人間は平和を欲しているのでありますけれども、自己の野望を達成するためには、
平和であってはならない、という時代が、今日までは各国にも随分とあったのです。日本の戦国時
代など、その一例であります。
戦いのない平和な生活のなかでは、武士はなかなか出世はできないし、喰べてさえもゆけなくな
ってしまう、というほどであったからです。明治以降の軍人などの中にも、何かことあれかしと心
待ちしていた人たちもあったのです。今日までは、どのような戦争があっても、運さえよければ、
自分の死はまぬがれて、功績を積んでゆく、ということができたからなのです。
ところが、今日の戦争となればそうはゆきません。戦争関係国はいうに及ばず、地球上の全人類
が死滅してしまうという、原水爆の戦争になってしまうのであります。
現在では、どんな小さな国の戦争行為でも、すぐさま地球人類に影響を及ぼしてゆくのです。で
すから、一ラオスの問題は、単に一ラオスの運命にかかるだけではなく、米国やソ連や中国の運命
るい
にその累を及ぼしてゆくわけです。ですから一指導者や、一国一民族の問題だけを考えて、すぐに
も争いの波を起こしたりすることは、その理由が如何なるところより出ているにせよ、それは人類
の平和を乱す反逆者であり、反逆国であるといえるのであります。
共産主義者撃減という考えが、すぐに武器を持って起つという行為に出るようでは、とてもその
人たちの手に平和の鍵を渡すことはできません。何故ならば、その人たち自らが、平和の波を破っ
ているからなのであります。
.そういう点では、平和の使徒と目されたインドも、もはや、真の平和推進国ではなくなってしま
っています。相手国がこうしたから、こちらは自衛的に立ち向った、という理由がつくにしても、
武器をもって起つことは、一切平和の波を破ることになるのであります。129平





相手がこうしたから、こちらもこうやる、というやり方は、個人でも国家でも、あまり感心した
やり方ではないのです。
自己や自国が平和を欲するならば、如何ような事情があろうとも、平和の波を乱さない心の状態
を持続しなければなりません。口だけで私は平和を欲するといっていたとて、心の状態が平和の波
を乱すものであっては、とても真の平和世界は生れ出でてこないのです。
真に平和を欲するならば、自己が全き平和な心にならなければならないのです。そこに私の提
唱している、消えてゆく姿で、世界平和の祈り、という、神示による方法が生きてくるのでありま
す。
130
権力欲と自衛本能
米国とソ連のやりとりをみていますと、実に双方共が、自分勝手なことをいい合っております。
米国が核実験をやったから、俺のほうもやるのだ、とソ連が実験する。するとまたソ連がやったか
ら自分のほうもやると米国がやる。するとまたソ連が最後の核実験は自分の国がやる権利がある、
という。そして、お互いに、口では、平和のために、平和のために、といいながら、平和の波を乱
す罪を、相手国にかぶせようとしているのであります。
全く子供たちの喧嘩のようなことを、大国と呼ばれる米ソがやっているのですから、実にどうも、
地球人類の運命というものは、危険きわまりない状態に置かれているわけです。
私がいつも申しておりますように、自衛という言葉の下に軍隊を持っていても、自衛という立場
で戦争をしても、戦争をしたことには変りはないのでして、戦火を交じえた双方共に人類を死滅に
追いやる行為をしているということになるのです。
どこの国でも、この戦争は自分のほうから仕掛けたのだなどという国はありません。ソ連でも中
国でも、口ぐせのように、米国が常に自分たちの国を狙っているから、止むを得ず軍備をしている
といい、米国はまたその反対のことをいっているのであります。
どちらが一体真実なのか、どちらも自国のほうが被害者であると思いこんでいるに違いありませ
ん。実際の被害者は、全人類なのでありましょう。
この自衛しているのだという想念は、普通では当然の考えのように思われますが、実はこの考え
ボ実に曲者なのであります。米ソのような大国でも、自衛という名にかくれて、核実験をつづけ、
軍備を増強しているのです。それにくらべると日本の自衛隊など、本当に無理もない自衛隊だと思131平





えるのです。
だがしかし、この自衛隊が果して、世界平和のためのプラスであるかマイナスであるかは、はっ
きりとは誰にもわからないのであります。ただ、私などがはっきりいえることは、神のみ心はそん
カルヤ
な行為の中にあるのではない、ただ、業の波の流れの一つの現れとして、日本もそうしなくてはい
られないで、そうしている、というに過ぎないのです。
カルマ
善いとか悪いとかいうより、業の消えてゆく姿として、自衛隊のような形の軍隊を存在せしめら
れた、ということなのであります。業の波のほうがしなくてはいられないでしているのが、すべて
の軍備なのです。
ですから、私の論は、日本が軍備を持っていいか悪いかなどの問題ではなくて、もっと根本の世
界平和に至る道を説いているのであり実行しているのであります。
個人の行為の問題で、いつも申しておりますのは、怒ってはいけない、妬んではいけない、恐れ
てはいけない、というように、普通の宗教者はいうけれども、それは勿論当然なことであって、怒
ろうと思わないのに、その縁に触れると、自然に怒りが爆発し、妬みの縁に触れれば、抑えても抑
えても妬み心が湧きあがってくる、恐れまいとすればする程、恐怖の想いが出てくるというような132
ことが、人間の心なので、その想いを一体どうしたら直せるか、ということが、そうした人々の願
いであり、その道を示すのが宗教者なのであります。
そうした個人の問題と同じように、世界各国の想念の動きも、そうしたくはないのだけれど、ど
うしてもそうせずにはいられない、というような動きが多いのです。米国でもソ連でも、各国から
の烈しい非難を受けながらも、そうしなければならないという事態は、やはり、したくはないが、
しないではいられない、業想念波の渦に巻きこまれての行為なのであります。
ぎぽん
米ソの首脳者が、どんなに自己を欺隔しようと思っても、放射能の禍を恐れないわけはないので
す。しかし、その恐れを振り払ってでも核実験をつづけずにはいられなかった、という心境は、そ
ういう方法で自国の力を相手国に誇示し、相手国の戦争行為を防こうという自衛本能が、そうさせ
ているのです。
こうした本能は、個人も国家も全く同じなのでありまして、国家となると、その人類に及ぼす悪
影響が大きくなってくるわけです。
権力慾と自衛本能この二つの業想念が重なって、今や地球世界は破滅への一歩一歩を歩みつづけ
ているのであります。それは、単に、米国が悪い、ソ連が悪いという、そういうことではなく、全
133平和に至る道
人類が、生命の根源である、大生命、宇宙神のみ心から外れた軌道を歩いているからに他ならない
のです。
134
人類を正しい軌道にのせる
ですから今は、米国が悪い、ソ連が悪い、中国が悪い、というように、他国や他人を罵っている
時ではなく、いかにして、人類を正しい軌道に乗せるかということが、一番重要な問題なのであり
ます。
今日までの習慣の想いでは、自衛本能は到底なくなる筈はありません。自衛本能のある限り、自
己を守るための武力を持つより他に方法はありません。そういう意味では、個人の家に鍵が必要で
あると同じように、国家にも軍隊が必要だということになってくるのです。
ですから、ただ、いたずらに軍隊はいらない、と叫んだとて、それに代える国家を守る方法がな
い限りは、その叫びは空虚なものになるのです。社会党や共産党が、日本の軍備を否定しながら、
ソ連や中国の軍備はそのまま認めているというのも全くおかしな話なのです。これなどは、自分勝
手な考えから叫んでいる軍備否定論なので、生命の根源、つまり宇宙神のみ心に沿うための軍備否
定でもなんでもない、軌道を外れた業想念の渦の中の一つの動きであるのです。
もっとも、共産党などは神の存在を無視する唯物論の最たるものなのですから、宇宙神のみ心に
沿った行為のできる筈はありません。宇宙神のみ心は、最初にまず、大調和なのでありまして、敵
をみる想念行為の中には、宇宙神のみ心はないということになるのであります。
ここで間違えていただきたくないことは、現在の共産党は全くの唯物論でありますが、共産党員
の中には、唯物論でありながら、なんとなく神の存在を認めるようになってきている人たちもあれ
ば、元来は唯神論的な人なのが、環境のために共産党に共鳴して、党員になっているような人もた
くさんありますので、党そのものと、党員という人格とを一つに考えてはいけないと思います。
それは、たとえば、フォード個人の人格と、大統領としてのフオードの仕事とが、全く相容れな
い場合があるというのと、ほぼ等しいようなものなのだからです。
人間というものは、常にその想念行為が同じ線上で動いているというものではなく、その業想念
波の現われ方いかんでは、高い人格にもなれば、意外に低い心境をみせたりすることもありますし、
また、二、三年前に唯物論であった人が、今年は立派な宗教者であったりすることもあるのです。
人間の本体本心は、宇宙神、直霊、分霊として、神のみ心そのままを自己のものとして存在する
135平和に至る道
のですが、この地球界の物質波動の中で、神のみ心を現わそうとして活動している過程で、物質波
動の緩慢な波に同化し過ぎて、自らの霊的波動を忘れがちになり、神とのつながりの記億が衰えて
いったわけなのです。
あたか
それは恰も裸体でいた人が、様々な衣服を身に纒うようになり、それが習慣になって、裸体にな
ると恥ずかしいとか、不安だとかいう気がする、というようなもので、なにか物質的なものにすが
っていないと、ただ、精神的に神にすがっているだけでは心細い、という心的状態に、今日の人類
の大半が陥っているわけなのであります。
それが自己防衛本能となって、自己の周囲に物質を集め、そうした金品に守られて安心している
のです。そうした想いが地位を求めて争い、国家の権力を増大させようと、軍備を強固にしてゆく
わけなのです。
こうした人類の想念がつづいてゆけば、やがては第三次大戦ということになって、地球人類滅亡
というところまでいってしまうことになりかねないのです。そこで、こうした、神の子本来の軌道
を外れた人類を、宇宙神のみ心に沿った生き方に乗せてゆかなければいけないということになって
くるのであります。136
守護の神霊の偉大なる働き
そうした守護の神霊の立場を、私は霊覚によって知って、あらゆる話、あらゆる文章で守護の神
霊への感謝を説きつづけてきたのであります。そうして今日ではかなり多くの人々が、守護の神霊
の存在を知って、守護の神霊への感謝行をつづけているのであります。
肉体人間のほうで守護の神霊への感謝をつづけていることが、どれ程守護の神霊の守りの力を強
めるかということは、多くの人々の奇蹟の体験となって積み重ねられていっているのです。
この守護の神霊には、個人の運命を守る役目の神霊と、国家を守る神霊、人類全体を守る役目の
神霊というように、その役目が定っているのであります。そして、人類を守る神霊の団体は救世主
団体(救世の大光明)として、人類救済のための大きな働きをしつづけているのであります。
そして現在では、個人を守る守護の神霊も、国家を守る神霊も、すべて、人類救済のために働き
つづける救世の大光明の一員として、活動しようとしているのです。現今の世界状勢の下では、人
類の救済を度外視した、個人の救れというものはないからなのであります。
その場その場の個人利益、つまり、病気が直った、生活が豊かになった、地位が上がった、とい
137平和に至る道
うだけでは、それはほんの一時的な現象であって、一度び核戦争にでもなれば、そうした個人の現
象利益などは、一瞬でふっとんでしまうのです。
ですから、個人を守護している神霊の立場としても、個人と人類とは、同時に成道しなければな
らない、同時に救われなければ、真に自分たちの守っている肉体人間の救済にはならないことにな
ってくるのであります。
既成仏教的な教えからすれば、肉体人間のご利益など問題でなく、魂の浄まりだけが問題なので
ありますから、肉体世界の文明文化の発展とか、肉体人間としての幸福感などより、霊魂の悟り、
本心の開発に百% といってよい程重点が置かれていたのであります。
従って、どうしても、社会人類という横の面に想いを向けるよりも、自己の内部に想いを向ける
ことが多くなり、つい自己の悟りの道だけに専念して、地球人類全体の動きを等閑視してしまうこ
とになりかねなかったのであります。ところが、現実の肉体生活にとっては、この現象の地球世界
の運命は、自己の生活にも重大な影響がありますので、肉体生活の問題と霊魂の問題とを別に離し
て考えることはできなくなっているのです。
この地球世界に縁あって生れてきている以上、地球世界の霊肉共なる発展のために、全力を尽し138
て働くのは、当然なさるべき、神の子、仏子としての立場であるのですから、霊魂の浄まり、
うことのみに想いをとらわれた片寄った生き方では駄目だということになるのであります。
とい
皆さんは世界平和達成の先駆者である
現在のように、地球人類の運命が最後の立場に追いこまれてまいりますと、個人の霊魂の浄まり
のためだけに、のんびり修業している暇はありません。そんなことをしていたら、この地球世界は
終りになってしまいます。
今こそ、霊魂の浄化を心がけている人であればあるほど、世界平和のための働きをなさねばなら
ないのです。世界平和のための働きをすることこそ、その人の霊魂の向上にもなり、地球人類のた
めにもなるのであります。
個人個人を守っていた守護の神霊方も、今日では、そうした生き方に、被守護体である人間をひ
っばっているのです。私のところに病気や貧乏やその他様々な困った事柄をもってきている人々は、
そうした事柄が解決するとそのまま、熱心なる世界平和達成のための同志となって、世界平和の祈
りの宣布に献身しているのです。139平





世界平和こそ、なんにもまして、現在の地球人類のなさねばならぬ大仕事です。この地球世界に
住んでいる人々は、なにごとにも先行して、一瞬一刻を世界平和達成のための働きをしなければな
らないのです。
さてここで、それでは一体どうしたら世界平和が達成されるのか、自分たちはどのようにして日
々を生活していったらよいのか、という問が出てくることでしょう。
そこで毎々私が申しますように、あらゆる自己の想念を、世界平和の祈りの中に投入しなさい、
というのです。この世はすべて想念でできている世界なのです。敵を認める想いや、人を憎んだ
り、恐れたりする想いでいて、世界平和だけを望んでいても駄目だ、何故ならば、そうした想念は
カルマ
業想念であって、世界平和に反する想いであるからだ、というのであります。
そこで、そうした世界平和に反する想念を、これまた世界平和の祈り言の中に入れきってしまう
のであります。
人を責める想いも恐れる想いも、自分を責める想いも、高ぶる想いも、すべて一切合切、世界平
和の祈り言を通して、救世の大光明の中に入れてしまいなさい、というのです。
世界平和の祈りの発せられている根源は、宇宙神の大調和したみ心の中であり、救世の大光明の、146
なにものなにごとをも浄め去ってしまう、偉大絶対なる救済力の中なのであります。
ですから、肉体人間としてのあらゆる想念行為を、一瞬一瞬世界平和の祈りの中に還元して、還
元したところから、自己の生活をはじめればよいわけなのです。それが個人人類同時成道の、最も
易しい行じ方なのであります。
あなた方の守護の神霊は、もうすでに救世の大光明の中で働いているのです。この著書に手を触
れるということだけでも、もう、世界平和の祈りの一員となったという証しなのであります。
救世の大光明の絶大なる光明力も、あなた方の守護の神霊の働いておられる姿も私たちには実に
よくわかるのです。全人類の想念を、世界平和という一念に結集させる先駆として、私たちの世界
平和の祈りが、大きな力を発揮するのです。今や、宇宙人たちの応援も盛んになってきています。
宇宙人の指導による宇宙子科学も本格的になってきました。私たちの地球は私たちの手で救わなけ
ればなりません。私たちが全力を挙げて、世界平和達成のために働いてこそ、宇宙人方も満足して、
大きく援助して下さることでしょう。
私たちはまず、世界平和の祈りの明け暮れの日常生活をつづけましょう。
141平和に至る道
142
世界と個人
大国の横暴
口やペンで、どのように世界平和を唱えようと、いざ自国の利害得失となるや、いろいろと口実
をもうけ、武力をもって他国を侵略する大国の姿を見ていると、ちようど、街の悪ボスの態度を見
ているようで、信用しようにも、どうにも信用出来かねる状態であります。
良識ある個人個人は、こうした国家群のような、不道徳不道義なことは、とても出来るはずがな
いのですのに、そうした良識人を含んでいるはずの国家が、国家という一集団となりますと、まる
で巷の無頼の徒のように、うむをいわさず他国に侵略して、なにかと後の理屈をつけているのです。
ですから、良識人の力は、自国の利得のためには、他を顧みない人々の力に押し流されてしまう
ということになるようです。この事実は、現在までの世界各国がそうであったようですし、これか
らも、そうであるとしか思われないものを含んでおります。第三次大戦が起こっては大変だ、とは、
どこの国の人々でもがそう思っているに違いありません。それなのに、世界の動きは、ともすれば
戦争のほうに戦争のほうにと、世界を運んでゆきそうにしています。
世界大戦は、小国だけの争いでは、勿論起こりっこはありませんが、そうした小国の影には、常
に、自国の権益の拡張、自国の利得への野望をもっている大国が控えていて、それら小国の尻を突
っついて踊らせているのであります。これが大戦の因になるのであります。大国は今までの持てる
ものを失うまいとし、あるいは、どこまでも、自国の権益を拡げようとして争っているのであり、
いずれも自国のみの欲望を、はっきり示しております。
自我欲望が大戦を引起こす
こうした大国どもが、人類世界の指導権を握っているようでは、いつまでたっても世界の平和な
どは望めっこもありませんし、地球の終りもそう遠くないことになります。
ところが、残念ながら、そうした大国が依然として、世界の鍵を握っているのでありますから、143世




r
地球世界の運命が案ぜられるのであります。ですから、大国の野望がなくならぬ限りは、世界の平
和は絶対に来ない、といいきれるのです。現在の世界の大国は、米ソを二大国とし、中国、英、仏
ということになりましょう。これらは、すべて武力をもって、自国の権益を拡張し、あるいは守り
終わそうとしているのでありまして、そのいつれもが軍事力が頼みなのであります。
この姿は、第一次、第二次大戦の頃と、全く同じ姿なのであり、ある一つの動機が起こりさえす
ピつにつ
れば、直ちに大戦勃発という姿なのであります。そして今度大戦が起これば、原水爆戦につながる
ものであり、地球の滅亡は必至なのですから、真実、人類世界を愛する人々は、どうしてよいかわ
からぬほど、案じて暮しているわけなのです。
現在、個人個人の生活がどのように安楽でありましょうとも、一発の砲声が忽ち、全人類を悲嘆
のどん底に陥れぬとは、誰もいい得ないのであります。
各国がいつれも戦争を欲せずして、自ら戦争の様相に巻きこまれかねないということは、いった
いどういう現象なのでありましょう。それは各国が、自国の権益、利得のみを考えての行動に終止
しているからであります。
カルマほんろう
このように、自我欲望の業(誤った想念行為) の波に、各国の政策が翻弄されているうちは、戦144
争を嫌いながらも、必然的に戦争の波に人類を持っていってしまうのです。
カルマ
私たちのように、霊的な体をもっている人々には、人間の想念の波、人類の業の波動が絶え間な
カルマ
く感受されるのですが、現在の人類世界の業の波は、今までいくつか危機といわれている時よりも、
より一層烈しいものなのです。
口やペソでは一口にいいにくいのですけれど、一口にいうと、体中に大地震が起こっているよう
な感じを受けている、とでも申しておきましょう。それほどに、現在の人類世界の想念の波は、少
しの安定もなく、揺れ動いているのであって、表面に見えている不安の様相どころの沙汰ではない
のであります。
世界の平和は大国に任せておけない
ですから、今のように、大国に世界の運命の大半をゆだねていては、人類は滅亡の他はなくなり
ます。人によっては、米ソの話合いが必ずつくのだ、とか、人間同志だから話合えば必ず平和にな
カルマ
り得るのだ、などといっている人がありますけれど、人類が今までに積み重ねてきた業は、話合い
ぐらいで平和になるような、浅いものでも甘いものでもないのです。145世




お互いが相手を敵と見ながら、兵器を造り合いながら、そうした兵器の力を頼みにしての話合い
などは、火薬をもって火事を消そうというのと全く同様なのであって、真の世界平和が出来ようは
ずがありません。といっても、大国の一方があっさり武器を捨てて、俺のほうで武器を捨てたから、
お前も捨てろ、という程、捨身になれそうもありませんし、もし仮りに、米国のほうが武器を捨て
て、さあ、お前も俺と同じようにしろ、とソ連に呼びかけたとしたら、ソ連は武器を捨てるどころ
か、これ幸いと、米国に躍りかかってゆくことでしょう。これはソ連の今日までのやり方が、はっ
きり証明しています。
このような工合に、大国同志でどのような方法をとろうとも、自分勝手の業の想いに充ちている
今日では、どのようにもなりょうがなく、お互いが、すかしたり、おどしたりして、僅かに戦争の
危機を先に延ばしているだけなのであります。ですから、現在の大国の間では、世界に平和をもた
らすことは絶対に出来得ないのです。出来ると思う人があったら、その人は業の法則というものを
まるで知らない人間であるというより仕方がありません。
とにかく、相対する二つの勢力がある以上、世界を大戦争の脅威から救うことは出来ません。そ
こに考えを至さぬ限りは、いかに世界平和のための活動をしようとも、その効果はありません。こ146
の相対する二つの勢力というのは、勿論、米ソとそれに組みする諸国家群であります。この二っの
勢力は、いずれも自我欲望の業想念による力でありまして、神を根底にしての勢力ではないのであ
ります。
この世は神の姿を顕現する場所
ほんとう
この世界は、真実は神の姿を顕現すべき世界でありますのに、幾久しい間、その神の姿を現わさ
ず、業想念の渦巻きの中に、幾多の闘争を繰り返しながら、今日もなお、同じ渦巻きの中に、同じ
誤ちの道程を動きつづけているのであります。そして、そうした業の波は、今や表面に浮び出てき
て、地球界最後の大戦争か、はたまた大天変地異を生み出そうとしているのであります。
人類は今日、自分が神から来ている者であることを忘れ果てているのです。神がすべてのすべて
であり、地球人類は神の姿の分れとして、この地球界に神の姿をうつし出す者であることを、業想
念の波動に邪魔されて、思い出せずにいるのであります。そうして、表面に現われている自分の生
活や、自国の立場だけを考え、神の姿を現わすという主目的を忘れ果てて、あるいは後廻わしにし
てしまっているのです。147世





それならいったい、地球世界を救うにはどうしたらよいのか、われわれ日本人はどういう生き方、
どういう働き方をしたらよいのか、という大きな疑問にぶつかってくるのです。
148
一度自分の立場という考え方を放棄すること
現在の日本人の大半は、自分たちが世界のことを考えたって、どうにもならない、という気持か
ら、自分自身の、自分一家の生活のためだけに、そのすべてをかけているのでありまして、深い考
おもんぱか
え、遠い慮りはないのであります。そして、自分たちが無事に暮せれば、その応援者が米国であ
ろうが、ソ連であろうが、どちらでもよい、と思っているのです。そして少数の人々が、ソ連に組
みしなければだめだ、否、米国に組みしなければいけない、いやいや中立でなければならない、と
いうような論や、実際運動を行っているのであります。
こうした少数者の動きの中には、真実国を思い、人類世界を思って活躍している人々が多いであ
りましょうが、私は、そうした人々の愛国心や、人類愛の心は了承しながらも、一度、そうした立
場のすべてを捨てきらなければ、日本を救い、人類を救うことは出来ない、と思っているのであり
ます。
何故そう思うかといいますと、あちらがよくて、こちらが悪い、こちらが善くてあちらが悪い、
というような相対的な観方、対立した観方や、力も何も持たない中立的立場などというものは、あ
くまで神から観た観方ではなく、業想念から発した観方である、と思うからです。
私は、すべての想念行為や、自らの立場を一度神の世界に返上して、改めて動き出さなければ、
どのような平和運動も、愛国運動も成功することは出来ないと思っているのです。もっとくわしく
申しますならば、現在この地上世界に現われている人類世界の状態や、日本の状態に、心を把われ
こうしよう
ていての平和運動や愛国運動は、業想念の波の中で、業生の世界に自己の立場を置いてなされてい
るのですから、いつまでたっても、その波の中をぐるぐる廻りするだけで、業生の世界を抜け出す
ことは出来ないのです。これは、個人においても集団においても同じことなのであります。
私の提唱する世界平和運動
私の提唱している世界平和運動は、肉体の人間がするのではないのです。業生の世界、業想念に
取りまかれている人間がするのではないのです。こう申しますと、肉体の人間がするのでなくて、
いったいどんな人間がするのだ、という質問が必ずあります。
149世界と個人
私はその質問に対して、はっきりと答えるのです。それは神々がするのである、という答なので
あります。皆さんも、私と一緒によくよく考えて下さい。
米国側について、ソ連に敵対していて、日本淋救われ、世界が救われると思いますか? またそ
の反対に、ソ連に味方して、戦争なくして米国の力を日本から引き離すことが出来ますか? ある
いは、米国にもソ連にも味方せず、中立を護って生きぬいてゆく力があると信ずることが出来ます
か?
なんびと
この間に対して、何人といえど、こうすれば必ず日本は救われるという確信ある答をすることは
出来ないと思います。
要するに、あちら側についたら絶対にだめだから、こちら側につくのだ、いや、どちらについて
も、片方を敵にすることになるから中立でなければいけない、という程度の考えであろうと思いま
す。
この現象世界、現れの世界だけ見れば、このどれかの考えにつくより仕方がないのであります。
そこに、再軍備論が生れ、軍備反対が唱えられたりしているのですが、私は、再軍備も反軍備も、
親米も親ソも、中立も、そんなことは一切問題にしていないのです。150
どちらにつこうと、中立になろうと、そうした現象面だけの働きでは、いずれも大戦争を防ぎ、
天変地異を防ぎ得るとは思えません。大戦争と天変地異を防ぐことが出来なければ、どんな政策も、
運動も、ただ単に時を稼いでいるにすぎない、といわざるを得ません。
こうした時こそ、真の宗教の働きが拡大されなければならない時なのです。いかなる政策も、神
を根底にしていなければだめなのだ、ということが、今ほどはっきりしている時はないのです。
神の姿をこの地上界に全面的に顕現するか、業の自壊作用として地球人類が自滅するか、の二つ
の道が今こそ眼前に人類の答を待っているのであります。もういいかげんな信仰では、とても業の
自壊作用、人類の悲惨事を防ぐことは出来難くなっているのです。
この時に当って、私がしみじみ思うのは、日本が戦争に破れて、戦力を持たない弱少国になった
幸せなのです。何故、今日戦力をもたないのが幸せなのでしょう。それは、日本が自国の戦力に頼
れないことを幸せだというのです。
今、日本に戦力があれば、米ソと同様に、戦力を頼っての世界政策を行うにきまっているからで

す。日本という名は、読んで字の如く、日の本、陽の本、光の本ということであり、霊の本という
ことでもありますので、霊(神) を現わす本源の国ということでもあります。そうした国名が必然
151世界と個人
9
やまとだいわ
的につけられてあるのです。そして一面、大和の国ともいわれ、大和を象徴する国でもあるのです。
そうした国家に課せられたる使命が、今日の状態こそ、一番果しやすい状態になっているのであ
ります。何故かといえば、各国に比べて、丸裸同然な武力なき国となっているからです。肉体人間
の一集団の国家としては、全く戦う力を喪失しているのが、現在の日本国であります。武力をもっ
て独立して外敵を防ぐことは、到底出来ないのが、今の日本の姿です。
皆さんがこうした日本の姿を、しっかり認識した時、肉体人間の日本人としては、どうしても大
国の影響下に動きつづけるより仕方のないことを感じるでしょう。反米といったところで、全国民
が反米になりきることは、出来ません。反ソといったところで同様です。また、中立といっても、
小国だけが手をつなごう、といったところで、大国の利害得失を無視して動き得るほどの力はあり
ません。ただ単なる中立などは、ソ連のよい餌となりましょう。国に力のない限り、大国との条約
等、いざとなればなんの効力もないことは、今まで実際的に味わっております。
さて、こう考えてまいりますと、現象面の働きでは、どうしても日本を救うことは出来ません。
そこで私が声高にいうのはー

日本人全部が、まず真っ先に、日本という国名通り、日の本に還れ、霊の本に帰」せよ、神と一
152
体になれ、本来の使命遂行のために働けー
ということなのであります。
親がなければ子がないように、神がなければ人類は無いのです。神を認めずして、人類が続くわ
カルマ
けがありません。神を認めなかったマイナス面が業となり、今、最後の大戦の姿、天変地変の姿と
なって、この人類世界に襲いかかろうとしているのです。
二大国の上に神を置け
神はすべてのすべての能力です。米国もソ連も中国も英仏も、神によって生かされているのです。
二大国の力を抑え得るもの、それは神より他はないのであります。今こそ、神の真実の力が必要な
のです。今こそ私たちは、神の力を地上界に呼びよせる絶叫をしなければならないのです。
絶対神は、今、幾多の守護神として地上界を観守っております。そしてまず自分を呼ぶ力の強い
国に、そのみ力をより多くそそぎかけんとしております。私には、その神のみ心がよくわかりま
す。神が我が児である人類を、苦痛から救おうとして働いておられる姿が、実にはっきりわかるの
です。神を呼ぶのには、自国だけの幸福を願ってもだめです。世界の幸福、世界の平和を願う祈り153世




がなければ、神はその真実の力を、この地上界に救世の力として発揮しては下さらないのです。
私たちは今、この現象界の二大国や他国に依存する想いをやめて、ただひたすら、ただ一念、神
に対して、世界平和の祈りをするより他に、日本を救い、世界を救う方法がないのだ、ということ
を知らねばなりません。業生の二大国の上に神の力を置くのです。神を頭にいただくのです。
神こそ我が生命、神こそ我がすべて、神こそ我が最大の味方であることを、信じる努力を払うこ
とです。何故ならば、神はあなたの生みの親であり、あなたの運命のすべてであり、人類の生み親
であり、人類の最後の支配者であるからです。
カルマ
あなた方の業は、今消えゆかんとしているのです。日本の業も、世界の業も、今正に消えゆかん
としているのです。しかし、消えゆく業が、烈しい悲惨事を人類に与えてゆくか、神の恩寵によっ
て、明るい平和のうちに消え去ってゆくかは、今、あなた方一人一人の世界平和の祈りによって定
められるのであります。
人間一人一人の背後には、祖先の代表の守護霊と、絶対神の分れの守護神とが、しっかりあなた
方を護っていて、あなた方の本心の光を導き出しているのです。あなた方にとっては、その守護を
信じ、その守護に感謝しつつ、たゆまざる世界平和の祈りをつづけてゆくのが最上の生き方といえ154
るのです。
そして、その祈りの中から、あなた方の、その日その日の最上の生き方が自ずと行じられてゆく
のです。そのことは、私自身、実にはっきりと、日々その効果を味わっているのですから、疑わず
やって下さい。すべての国家の政策も、そうした世界平和の祈りの中から生れてくることを、私は
確信しています。それでなければ、一切の宗教信仰は無意味に等しいのであります。今や、個人は
そのまま国家につながり、人類につながるものであり、それはすべて神のみ心の中にあることを強
く認識しなければなりません。
155世界と個人
156
世界を一つに結ぶ
ピール神父の実践運動
ノーベル平和賞をうけられた、ベルギーの故ジョルジュ・アン・ピール神父が、日本に見えられ
た時、宗教協力協議会での会談で次のようなことをいっておられました。
「… ・.・私にとって一番むずかしかったことは、天の神を信ずる人とまったく信じない無信仰の人
とを結びつけることでした。そこで、私は、一つの目的として、信仰者と無信仰者とが互いに尊敬
できるようにすることを実行しております。しかし、人と人との間にある溝で、最も深い
ものは異宗教者の間にあるものと思います。これを結びつけるには共通点のところで話し合うのが
最も良いものと思われ、天から生を受けた人間である以上、互いに似ており共通点はある筈です。
… …科学万能を信ずる人でも、苦しみ悩みはあります。その点で信者と共通点があると思います。
私の経験によれば、互いの信ずるものが関係ない二人を結びつけるには二、三年はかかる。云々」
といっておられます。
私はこの言葉に全く同感するのです。信仰者と無信仰者とに一線がひかれていたり、お互いの宗
教信仰の仕方が相違するからといって敵対感情をもったりしていることそのものが、世界人類の不
調和の一つの大きな原因であるのですから、ピール神父のいわれたように、信仰者と無信仰者との
相互尊敬、異宗教者間の調和ということがなされなければ、世界人類の平和はとても実現でき得な
いことなのです。しかしながら、信仰者と無信仰者との壁を取りのぞき、異宗教者間の調和をなさ
しめることは、実に実にむずかしいことなのであります。ピール神父はこれを、難民救済の運動に
おいて、二つのもの、異なる思想の協力を実現し得た人なので、お互いの苦しみ悩みを解決するた
めには、思想の相違を超越した協力態勢ができ得ると信じて、実際活動をしておられたわけなので
す。
そういう例はどこの国においてもたくさんあるのですが、これがみな根本的な調和による働きで
なく、その時々のお互いの利害関係による協力なので、その目的が果されると、また元の対立的立157世


0




場に還ってしまうのが通例なのです。
国と国との戦争の場合などは、この最もよい例でありまして、相手国を倒すという一つの目的の
ために、殆んどの人が、自己の思想や立場を一度は捨てて、あるいは捨てさせられて働くわけなの
ですが、これも、その目的が一応済んでしまうと、またばらばらの気持になってしまうのです。日
本などはその顕著な例であります。
ですから、相異なる想念の人間の心を、その場その時の利害関係によってのつながりはつけられ
るにしても、根本的な調和という面でのつながりにまで心を高度に発展させることは、まことにむ
ずかしいことであると思うのです。
ところがこのむずかしいことを、どうしても成就させなければ、この地球人類は滅亡してしまう
より他ないのですから、絶体絶命ともいう立場に人類は追いこまれているのであります。
158
人類愛が世界を結びつける
人間各自がそれぞれ立場を異にし、考えを異にしていても、自分の生命を自由に生かしたいとい
う想いは一つであると思うのですが、自分の自由は欲するが、他人の自由を縛ることはなんともな
い、あるいは気づかない。気づいても相手の自由を許すことにおいて、自分のほうがなんらかの現
象的な損失をまねく、という場合には、そのまま気づかぬふりをして見すごしてしまう。もう少し
上等になると、気づいていて他を自由にしてやりたいと思うが、そうすると自分の自由が失われて
ゆくので、心を痛ませながらもそのままの生活をつづけてしまう、ということになっているのが、
現在迄の人間の在り方のようです。
共通の悩みや苦しみの解決のために協力することには、思想の如何はないと思いますが、その苦
悩が相異なる、例えば、相手の喜びが自己の苦悩となるような場合、これは個人間も、国家間も人
類全般の場合も同じであると思いますが、こうした場合、その苦悩が共通とならないので、お互い
の自由のためにかえって戦争ということにまで発展してしまうのであります。
しかしこういうことは考えてばかりいても仕方のないことなので、ピール神父のように、人類愛
の実際活動をつづけることが大きな必要となってくるので、人類愛の実践活動をしている人の姿は、
また多くの人々の人類愛を呼びさまし、愛の実践活動において、思想を超えた結びつきができてく
るわけなのです。人々の心を一つにする、ということは、なんにしても大事なことなのですが、人
類愛によって一つになってゆくことが、なんといっても大切なことであるのです。159世




Y’結

この人類愛が、世界中を一つに結びつける唯一絶対な行為であるのですが、この人類愛の心が、
ともすると自我欲望の業想念に蔽われてしまって、外へ行為としてでてゆかない、ということが現
在の世界を暗くしている最大のことであり悲しむべきことなのであります。
人間は無信仰者といえど神の子なのですから、心の底に人類愛のない人はいないので、その人類
愛、生命の同一感を蔽っている業想念の自我の想いが、多いか少いかによって、愛の行為の差違が
できてくるのです。こうした業想念を消し去らぬ以上は、人類平和の望みは達せられないというこ
とになったのです。
ピール神父やシユパイッアーのような聖なる人々が多くあれば、その人の動くところ調和した世
界がひらけてくるし、愛を行じようとする人々も増えてくるでしょうが、現今では、まだ、そうし
た聖なる人々は数多くは現われていないのです。ですから、自己の利害を少しも思わず人類のため
に働くということのできる人は少く、烈しい業想念の渦の中から、人類を救い出すということはで
きないのです。
160
宗教信仰の世界に対立感情があってよいか?
かなり秀れた人であっても、思想的対立感情で宗教活動をしている場合がかなりあるのですが、
宗教信仰の世界にあっては対立ということがあってはならぬものです。何故かといいますと、一な
る神から現われている神々の働きに、不調和な対立感情があるわけがありません。そうした調和し
た神々のみ心によって働いている宗教者に、対立感情があるはずがないのです。もしあるとするな
カルマ
らば、それは神を離れた業想念ということになります。ところがみずからは気づかずに、この業想
念の波に巻きこまれたまま宗教活動をしている人々がかなりあるのです。
ピール神父のように、一つ一つの現象の事柄をもって、人類愛の行為を示していた人は、その事
柄をみれば、それが直ちに人類愛の発露であることがわかりますから、ノーベル平和賞を受賞する
ようなことにもなるのですが、その活動が抽象的な精神面だけの場合は、なかなか人類愛の発露で
あることを人々に納得させることがむずかしいのです。
私などは、特別に秀れた人々のためにというのではなく、どのような人にでもやさしくできる人
類愛の行為を、世界平和の祈りとして宣布しているのですが、私のこの意図は、人類の想念をすべ
て世界平和という一つの目的の中に統一してゆこうということにあるのです。そして、この方法が
大神様のみ心と全く合致した状態となって、世界平和の祈りを致しますと、大神様の人類救済の大161世







光明と波長が一致し、祈る人々の体から光明波動が四囲に放射され、自然とその人の心身の状態が
良くなり、その周囲が光明化され、調和してゆくような体験が、平和の祈りを実践している人たち
の間に積み重ねられてきたのであります。
個人や人類の中に対立感情があるうちは、そこに必然的に憎悪や嫌悪の情が湧き上がってくるの
は当然なことで、これが闘争となり、戦争にまで発展してゆくのです。ですからどうしても、人類
の想念を一つの目的にむけて統一させる必要があるのです。如何なる思想感情の相違があろうとも、
そうした思想感情を超えて人々の心がつながり得る目的は一体なんでしょう。個々の事柄の場合は、
ピール神父のように思想の異なった分子の協力一致による成功があったのですが、大きく国家人類
全般の問題の場合は、世界平和を築きあげるという目的以外は、全人類が全く一つの等しい目的を
もって進むということはでき得ないと思うのです。
162
日の丸運動への疑問
日本のある宗教では、日の丸の旗に日本人の心を結集させる運動をやっていますが、この運動の
発端は、共産主義に対抗する意図が大きく働いているのであります。私は日の丸の旗の尊さもその
意義も非常にょくわかっておりますが、現今の日本人の中には、日の丸の旗や天皇制に対して、深
い反感を抱いている人たちがかなりおり、それに同調する考えの人々も多く存在するのです。そう
した多くの反対者を向うにして、強引に日の丸の旗や天皇に国民の心を結集させようとするのは、
あまり上手な統一法ではなく、かえって日の丸の旗の意義や天皇存在の重大意義を損うことになる
のです。
かか
その掲げる旗印の善悪でなしに、多くの反対者の存在を意識しながら、どうして国論を統一する
ことができるであろうか、ということに私は疑問をもつのです。
神はみ心実現にせっかちではない
日の丸の旗の意義や天皇存在の意義、なかんずく天皇存在の意義は極めて深く重大なことなので
すが、現在の日本の現状の中では、そのことを表面に持ち出すには時を得ていないのです。こうし
た問題は、人間が自我の想いで議論すべき問題ではなく、おのずから表面に出てくる事柄なのであ
ります。ですから現在の日本人の想念を一つに統一させるためには、日の丸の旗も天皇も無理なこ
となのです。163世







すべて真理の現れのための運動をするのには、無理押しは禁物です。そして、焦る想い、対抗的
な想い、闘争的な念力は絶対にあってはならないものなのです。この世の中というものは、神のみ
心の働きによって創りなされてゆくものではありますが、神のみ心が、そのまま、ずばりと現われ
てできあがるというようなものではなく、神のみ心は、鉱物、植物、動物、人間というように、山
川草木諸生物となって現われ、そうした種々様々な風物や形象の中で、集散、分裂、和合という働
きをつづけながら、次第にその全き姿を現わしてゆくものなのです。この地上にはじめに造られた
ひびきひびき
物はその波動の速度が遅く、次第に波動の速度の早い物がつくられていって、最後にこの地球界に
存在する、あらゆるものを、統治する役目として、神みずからと全く同じ心と権能をもった微妙な
波動をもつ人類を存在せしめたのであります。
ところが、この人類は、この地球界に住みなれはじめると、いつの間にか、地球界そのものがも
ひびき
つ、物質波動、つまり、神のみ心本来の微妙なる波動から遠い波動に同化してゆき、神のみ心の微
妙なる波動は遂にうち深く隠されていったのでありました。そこで宇宙神は、再びみずからと同じ
ひびき
心と権能をもつ微妙な波動をもつ存在者を今度は、直接物質波動とは接触なく働かせしめることに
なったのであります。これを守護神というのです。こうして守護神は肉体人間として現われたこと164
のある地球人の祖先を浄めて守護霊として育てあげ、守護神、守護霊として、肉体界に住む人間の
援助をなし、宇宙神の地球界におけるみ働き手となってきたのであります。(拙著神と人間参照)
ですから、この地球上に住む人間は、誰でもみな、守護神、守護霊の協力によって、日々の生活
を営んでおられるわけなのですが、そうした事実を知っている人は数少く、自分のことはすべて自
分で行なっているような錯覚をもって、神への感謝など思ってもみない人がかなり存在するのです。
ひびき
こうした人々は、人本来の微妙な波動、光明波動が、この地球界の物質波動に同化しすぎて、守
ひびき
護の神霊の波動を感じられなくなっている人々なのです。この人々を唯物論者或いは無信仰者とい
うのですが、こうした人々の存在が全く無意義かというと、そうではなく、こういう人たちが存在
していて、この地球界の様々な物質構成、日常生活等々に不満不足をもち、その不満不足の想いが、
その不満不足を充たそうという想いとなり、種々様々な研究発見となって、今日の物質文化文明の
華をひらくこととなったのであります。
神様のみ心というものは、深く遠いおもんぱかりをもっておられるので、み心の実現のためには、
各種の手段方法を駆使されているわけなので、いろいろな思想やいろいろな人物が生れでて、ある
時は行き過ぎのようなことをやり、あるいは行き迷うような姿をみせたりしていながら、結末にお
165世界を一つに結ぶ
いては、完全に調和した姿として現われるというようになっているのです。
それでなければ、全智全能である大神様が何故悪い人間を造られたか、不完全きわまりない人間
を造られたか、というような詰問が必ずなされるのであります。
166
神の他に悪魔や悪人は実在しない
宗教信仰者の中で、神の他に悪魔を認めたり、悪人を実在者として認めたりしているようでは、
無信仰者、唯物論者とたいした差異はないことになってしまいます。何故ならば神の全智全能、大
愛を信じないことになるからです。神が全智全能であり、大愛であるならば、悪人などをつくられ
るわけがないではありませんか。神のみ心の中に悪があるわけがないのに、何故神の分生命である
人間の中に悪人というものが存在し得るのでしょうか。この点の解明が、真実の宗教信仰に入る重
大なる鍵なのであります。
実際にこの肉眼で見、肉耳できくところには、悪人は世にはびこり、見るもの聞くもの不完全き
わまりない姿を露呈しております。この地球上に住む人々の中で、この世はこのままで完全だ、い
うことはない、等と思っている人はありますまい。そこに無信仰者が生れ、唯物論者が多く存在す
るわけなのであります。
このように悪人がはびこり、不完全さ不調和さが目立っているこの地球界に、悪人もなければ不
完全な姿はないというのは一体どういうことなのか、と誰しも疑問に思うのです。しかし私は、や
はり悪人も実在しなければ、不完全な姿も実在していない、消えてゆく姿だ、というのです。人間
の眼には悪人とみえるその人は、実は人類が神の光から離れていて生れた無明、つまり光のとどか
なかった闇の部分が、そうした役割をもった人々を通して、悪のように光に照し出されて消えてゆ
く姿だというのです。不完全というのも同じことで、人類の真実の姿が、神のみ心(真理の光明)
が完全に大調和の姿として次第に現われでようとしているために闇が消えてゆく姿に他ならないの
です。
如何なる名人の彫刻でも、美術品でもつくっている最中には完全ではなく、美しく調和している
ようには見えません。しかし、その名人の心の中には、すでに完成された彫刻品があり、美術品が
あるのです。それが次第に現わされてゆくわけなのです。作品半ばの木屑金屑をかぶったままのそ
の彫刻をみて、こんな不完全なものはない、こんな酷いものはないといったら笑われてしまうでし
よう。この人間世界の様相もこれと全く同じことであって、現在の人間の肉眼で見、肉耳で聞けば、
167世界を一つに結ぶ
悪そうにみえ、不完全そうにみききするだけなのであります。
神の生命は永遠であり、人類の生命も永遠なのです。その永遠のうちの一駒だけをみてけなした
り、嘆いたりするのは愚かしきことです。人間は常に神のほうに想いをむけ、神のみ心の完全円満
さを信じ、その大愛のみ心を信じなければいけません。その想いこそ真の信仰心なのであります。
真理の顕現はどうあるべきか
そこまでの信仰心にならないと、他宗派を恨み憎み排撃する想いをもつ宗教信仰者であったり、
無信仰者を責め裁く宗教者であったりしてしまうのです。宗教者が対立的感情をもったり、神のみ
心をみずから分裂せしめるような思想行動をするようなことがあっては、神様に対して全く申し訳
けないことといわねばなりません。
宗教者の心は、あくまで愛に充ち、おもいやり深い日常生活を営む心でなければなりません。し
かし私は、こうした真理を頭ごなしに人々に説法しようとは思っておりません。このような神のみ
ヘヘヘヘヘへ
心と一つになるような想念に誰でもが自然にやさしくなれるようにと私は消えてゆく姿の教えと世
界平和の祈りの実践方法を、神様から教えて頂き、今日一心にその宣布をしているのであります。
168
真理の顕現は、只単なる説法や、強圧的な宗教の押し売りなどで、できるものではないのです。
常識ある人々なら何人も納得でき、そして日常生活そのままで行じられるような、真理顕現の方法
でなければ、今日のような、食生活に忙しい時代の宗教とはなり得ません。
宗派的抵抗もなく、日常生活を損なう恐れもなく、なんら精神の束縛もなく、自然とやすやすと
入り得て、容易に行じつづけ得る真理への道とは一体どんな道なのでしょう。それが消えてゆく姿
と世界平和の祈りの生活なのであります。
宗派争いなどしている時ではない
今日までの如何なる宗教をみても、宗派的束縛か、行的束縛か、精神的束縛か、こうしたなんら
かの束縛のない宗教はありませんでした。教えそのものが真理であっても、それがあまり高度のも
ので、その真理を行じることがむずかしいものであっては一般大衆の宗教とはいえません。また、
いちいち教えに照らして、つい自分を責め裁き、人を責め裁くようになってしまう教えの在り方も、
人間の自由な心を萎縮させ、精神の自由を束縛する方法で感心致しません。
自由自在でありたい人間の願いを、あべこべに教えや行に縛りつけてしまうような宗教の在り方169世







は今日ではもう役立つとは思えません。自分の悟りとか、自分たちの宗派とかいっていては、人類
の心を一つの目的に統一することなど思いもよらないし、人類の心を一つの目的に統一しなければ、
この地球世界は、その思想や在り方の相違する国々の対抗意識によって、遠からず大戦の勃発とな
り、この地球界は絶滅してしまうかも知れないのです。その可能性は充分にあるのです。
ですから、現在の宗教者の第一の目的は、個人々々の救済と共に、人類世界の救済でなければな
らないのです。今時、宗派争いなどをしている馬鹿はありません。宗派などはどうでもよい。神々
の名前などどうでもよい。うちは何の神を頂いているなどはどうでもよい。人間の心が真実人類愛
に目ざめるような指導を各宗教指導者が一心かけてやればよいのです。
それが世界平和の祈りなのです。世界平和を願う想い、そのための働き以外に現在一体どんな働
きが残されているでしょうか。自分たちがどんなよい地位に昇ったとて、如何にお金がたまったと
て、米ソに戦端がひらかれたら、一瞬にすべては灰と化するのです。大戦を未然に防ぐため、天変
地異を起こさぬため、私たちはまずみずからの想念を、平和な調和したものにしなければなりませ
ん。それが各自が何事にもさきがけてなさねばならぬことです。
170
全世界を圏つにつなぐ方法
しかし、幸なことに先程からも申しておりますように、神のみ心は完全円満であり、大愛なので
あります。そして、神の子である人類の心も、完全性のものなのであります。この人類の完全性の
心を、私たちはなんらかの方法で発顕しさえすればよいのです。その方法は一体どんなことなので
しょうか、神のみ心の中に自分たちの想念をよいも悪いもすべて消えてゆく姿として一切お任せし
てしまって、神のみ心の中から改めて、自分たちの生活を頂き直せばよいのです。それは一体どう
するかと申しますと、大神様から発せられている救済の光明である守護の神霊への感謝と共に、大
神様のみ心そのものである世界平和の祈り言をすればよいのです。
大神様の大愛は、人類の運命の行きづまったように見えた時の救いの手として、守護の神霊の大
みろく
集団結による大光明を用意しておられたのです。これがキリストの再臨であり、弥勒の下生であり、
二度目の岩戸開きでもあったのです。
もうむずかしい議論も、面倒な行事も形式も一切いらないのです。日常生活そのまま、現在のあ
なた方の心そのままでよいから、只世界平和の祈りを、その日常生活の中でしつづけて貰えばよい171世







のです。こうしたやさしい行ないならば、どんな小さな子供でも、どんな年老いた老婆でも、やす
やすとやれない道理はありません。もし一つの宗派に入っている人ならば、その宗派そのままでよ
いから、その宗派の唱えごとの後でもよいから、世界人類が平和でありますように、とやって頂き
たいのです。ただそれだけをつづけて下さればよいのです。
全人類の想念を、世界平和を願う想い一念にしてゆきたい。その方法が、全世界を一つにつなぐ
唯一のものであることを私は確信しているのです。
思想を二つにも三つにも分けていては日本が危い。世界が危い。だから、まずそれに気づいた日
本人の中から、世界平和の祈りに想念を結集してゆきたいのです。日本は霊の本の国です。大和の
国です。聖徳太子ではないが、和を以って貴しとなす、です。世界平和の祈りこそ、この聖徳太子
のみ言葉そのものであり、世界人類が等しく望み願っている真理顕現の一大目的の祈り言なのです。
172
世界は一つ
日本自身の根本政策の確立を
世界は一つ、という標語は、東京オリンピックのものでしたが、真実に世界が一つにならなけれ
ば、どうにもならない事態が、次第に地球人類の運命として迫ってきております。
イソドが核爆弾の実験をしたことなども、その一つのことであります。米ソ仏英中と五ケ国だけ
が持っていた核爆弾は、インドが核実験をしたことで、あらゆる国々を核武装をせねばいられぬよ
うな状態に追いこんでしまうことになりかねないからです。
核爆弾の数は、現在でももうすでに、地球人類を全滅させても余りある程の数になっているので
ひあぬ
すが、これが小さな国々までも持つようになったら、いつどこで、どんなはずみで核戦争の火蓋が173世




切られるか、はかり知られぬことになります。
日本では目下核武装に反対しているように見えますが、世界状勢の変化によっては、いつその意
見が変ってしまい、核武装国の方向に進んでしまうかも知れないのです。
世界のどこの国もが、確固たる平和政策というものを持っていない現在の状勢は、全く砂上に築
いた楼閣であって、いつ大混乱が起こるか目も放せません。
こういう時には、他国の動きにばかり目をむけていては危険です。日本なら日本自体のはっきり
した根本的な政策というものを確立しなければなりません。現在の日本の政治には根本の政策があ
りません。その場その場を処理するだけの枝葉の政策しかたてられておらないのです。
日本は根本的には、米英等の自由主義国の陣営の一員としての建前が定まっている、などという
政治家もいるかも知れませんが、そんなものは日本の根本の政治政策ではありません。それこそ変
化変滅する枝葉的政策であります。
西欧陣営も中ソ陣営も、すべて変化変滅しているもので、地球人類の根本の生き方でもなければ、
日本自体の生き方でもありません。それはただ、その場その時々の枝葉的生き方なのです。
そんな枝葉の政治を根本政策だなどと考え違えしていますと、中国が核武装したから日本もしな174
ければなどという、猿まね政策しかできなくなります。日本は常に日本自体の政治政策で他国に伍
してゆかねばなりません。
確固とした根本の建前がありませんと、いつでもふわふわした落ちつかない政治政策になってし
まい、日本の天命を果すことができなくなり、地球人類の滅亡を止めることが不可能になってしま
います。
日本が日本の天命を完うすることができなくなれば、日本という国がこの地球上に存在する意義
が失われてしまいます。
世界は一つ
地球上に幾つもの民族があり、百にも余る国家が存在しているのも、みなそれぞれの天命を完う
するためにあるのであって、お互いが争い合い恨み合ってこの世を渡ってゆくためではありません。
すべて地球人類に神のみ心を現わすために存在しているのであります。それが現状では全く反対で
ありまして、心から和合し合い、助け合っている国家や民族がどれ程あるでありましょうか、それ
みずか
はすぺての国や民族が、自らの天命の何んたるかを知らないからなのであります。175世




何人たりとも、いずれの国家たりとも、この地球を滅ぼしたいものではありません。自分たちが
この地球上に永存したいために、種々と苦心しているのです。自国が永存したければ、他国とても
同じように永存したいのです。自国が裕福でありたければ、他国も同じように裕福でありたいので
す。
ところが、個人も国家も、どうしても、他人や他国のことは、自分や自国とは同じようには考え
られないのであります。どうしても自己本位になってしまうのです。そこから地球人類の不幸が生
れ出でているのであります。
世界は全く一つなのです。他国を不幸に追いやって、自国だけが幸せであり得るわけがありませ
ん。他国を不幸に追いやったその分だけは、必ず自国にやがて不幸として巡ってくるのです。これ
は因縁因果の法則で、個人だけの問題ではありません。国家も民族もやはり同様の法則に支配され
るのです。
世界が完全に幸福にならなければ、一国の幸福ということはありません。幸福そうに見えてもそ
れは一瞬時のものに過ぎません。それは過去の歴史を通してみればはっきりわかることです。栄枯
盛衰夢のごとしとは、あに平家の物語だけではありません。
176
しかし人間というものは、よくもこりずに同じようなことを繰り返すものです。昨日の強国は今
日の強国ではなく、武力で治めた権力は、やがて武力によってくつがえされる、という歴史的事実
をいやという程みせつけられていながらも、やはりその歴史と同じようなことを今日でもやってい
るのであります。
それは昔程表面きった権力欲や武力による現わし方はしていませんが、煎じつめればたいした違
いはありません。いや昔以上に恐ろしい原水爆の威嚇による権力保持の国々があるのであります。
日本は核武装をしてはならない
今日の国家間の権力争いは、直ちに地球世界滅亡のスイッチをひねったと同じことになります。
攻めるも守るも、今日程はっきりと武力をもってしてはいけない、とわかりきった時代はありませ
ん。
敵の攻撃を防ぐためにはどうしても武力を増す必要がある、というならば、中国が米国の原水爆
の威嚇の前に、自国も原水爆を持って対抗する、といっても、これを非難することはできません。
もし非難でき得る国があったら、その国は原水爆に限らず、敵に対するとして如何なる武力の増強177世





もしてはいけないことになります。
日本がもし、中国を烈しく非難でき得る立場をとるとしたら、自らが絶対に武力の強化をしては
ならぬ立場をとってからでないとできないことなのです。何故ならば、敵に対抗して武力を固める
という立場を取っている以上は、やがては必ず原水爆を保有しなければならなくなります。
世界の武力は日増し年増して強化されることは間違いないことで、こうした世界の武力に対抗す
るには、ただ単なる武器や兵力の増強だけでは到底間に合いっこないからです。世界の武力は、好
むと好まぬとにかかわらず、核兵器時代になります。もうそうなりかかっています。その時の日本
の態度が一番大事なのです。
如何なる国々が核兵器を持とうとも、日本は絶対に核兵器を持たぬ、という固い決意が日本の政
府になければ、これは大変なことになります。日本の天命は全く果されなくなります。
それだから、現在からもっとしっかりと根本の在り方を定めておかねばならぬというのです。今

迄も何度でも申し上げておりますように、日本は大和の国であり、日の本(霊の本) の国でありま
す。世界を平和にするための中心となって働かねばならぬ天命を持っております。何がなんでも、
世界の闘争の渦に巻きこまれてはならない、という大決意がありませんと、もし敵が攻めてきたら、
178
それを防ぐためという名目で武力を増強してゆきます。そういう想いがある限りは、限りなく武力
の増強をつづけなければなりません。それはやがて核武装につづいてゆくのであります。
そういう線で軍備を考えている人々が、核武装は絶対にしない、といい切れるものではありませ
ヘへ
ん。それはその場限りの言葉であって、絶対などという強い決意のある言葉ではありません。武力
増強という考えは、現在の一番最高の力である核兵器にまでたどりつくことは理の当然でありまし
ヵル
て、どうしても世界の武力競争に押されて、そこまで行きついていってしまうのです。これが業想

念波動の恐ろしいところなのです。
日本が滅びるか滅びないか、地球が滅びるか滅びないかという時なのです。そうした一時逃れの
言葉や考えで政治家が事を運んでゆくようではたまりません。
日本はあくまで、大調和達成の中心国であり、世界平和樹立の指導国でなければなりません。嫌
でも応でも、日本はそうした天命を持っているのであります。
今日まで核爆弾の悲惨な洗礼を受けたのは日本が唯一の国です。何故日本だけが唯一の原爆洗礼
国となったのか、それはいうまでもなく、日本の天命を日本人にはっきり示すがための神のみ心で
なくてなんでありましょう。179世




こんな悲惨なこんな悪魔的な武器を、絶対に人類に使わせてはいけない、という神の慈愛のみ心
を、いやという程、日本人の心に沁みこませるためであったのです。日本こそ日本人こそ、真に完
全平和を望み、世界平和のために、如何なる武力の威嚇も、武力の誘惑にも把われず、真っしぐら
に、天命の道を突き進んでゆかねば、日本も世界も滅亡の淵に追いやられてしまうのであります。
180
平和世界を築くためには勇気がいる
しかしながら、平和世界を築きあげるということは、個人的にも人類的にも、実に大変に勇気の
いることであって、単に戦争は恐ろしいから嫌だなどというような、弱気からでた平和論では駄目
なのです。真に平和世界をつくりあげるためには、武器を持って戦う以上の様々なる勇気ある行為
が必要なのです。
自分の心に湧き上がる憤満や怒りや恐怖に勝たねばなりません。他から仕向けられる挑発行為や
侮辱にもよく耐え得なければなりません。
昔キリスト教徒が、十字架上の処刑を覚悟で、キリストの踏絵を踏まなかった行為とか、その反
対にあらゆる人々の侮辱に耐えて、あたかも臆病なる人間の如く装っていた大志ある人々の歴史を、
よく自己の行為として為し得るかどうかを、しっかり自分の心に確めてみなければなりません。
それ程の勇気がなければ、軍備反対などと大きな声でいえるものではないのです。ただ単に生命
が惜しいから、悲惨な事態が起こるのが嫌だから、戦争を起こす軍備はしないのがよいのだ、ぐら
カルマ
いでは、とても自国が他国に犯かされる運命を防ぐわけにはゆきません。地球世界に渦巻く業想念
波を、そんな生易しい想いでは、とても防ぎきるわけにはゆきません。各国各民族が持つ権力欲や
物質欲は、それを代表した大国間の戦争行為となってゆくわけで、武力の優劣が、その国家の発言
力や主張の裏づけとなっているのです。
ですから、各国が武力を増加しようとするのです。各国の武力に和して、しかも自国は武力無し
でいこう、というのは、各国の武力以上のなんらかの力がなければなりません。
武力増強よりまず国民を平和精神に結集させよ
軍隊の無い独立国は存在しない、だから日本も確固たる軍備を持たなけりゃいけない、というの
が自衛隊をはっきりと軍隊として、軍備の増強を計るべきだという、憲法改正論者の論議です。
今日の世界情勢からみれば尤もなる議論であり、これを否定するからには、武力以上の力を持ち
181世界は一つ
得る方法を知っている人でなければならないということになります。82
1
軍隊の無い独立国はない、ということは、軍隊の存在が独立国の面目を保っている、ということ
なので、独立国は軍の守りによって独立国たり得るのだ、という意見であるわけです。尤も軍隊の
行進や軍艦の偉容を見ていますと、誰でも国家の存在というものをはっきりと意識してくるから不
思議です。
人間の想念というものはおかしなもので、戦争はしたくないが、国家の権力は維持したい、自国
を馬鹿にされたくない、という想いが強いのです。それがひいては武力の増強ということになるの
ですが、ここのところを為政者も国民も余程考えて事に処さなければならないのです。
オリンピックなどでも、ただ単なる個人の優劣をきめるのなら、あれ程人々が関心をもちません。
自国の選手がどれだけの勝利を得るか、活躍をするかということに重大関心をもつのであり、自国
選手の勝利には心の底から感激するのであります。この感惰は一般人の心であって、どうにもなる
ものではありません。
そういうものを、どこの国の人々でも持っているのでありまして、こういう気持は自国の武力が
強大であることが、誇りでもあり、安心感ともなるということと一つにつながる想念なのでありま
す。
こういう感情想念を、単に技を競う、力を競うということや、武力の増強に対するものでなく、
世界人類の平和のために、自国がこれだけの貢献をした、或いはしている、というような平和世界
建設のための力としての誇りとなし得るような国民運動や、政府の政治政策であったなら、その国
の存在価値はどのように高いものとなるでありましょう。
私は常にそれを叫んでいるのです。ただいたずらに軍備撤廃とか、核兵器廃止とかいっていても、
それは各国の心を打つ程のものとはなり得ないのです。それをいうなら先程も私が申しましたよう
に、自国がすべての軍備を撤廃してでなければ大きな声ではいえないのです。
そういうことをいうよりも先きに、否、同時にでもよい。真実自国が丸腰になっても、一兵の軍
人がいなくとも、世界の武力に和してゆけるという強い信念、逞ましい勇気がなければならないと
いうのです。もし日本が全く軍備がなければ即座にソ連などが侵入してくるかも知れないのです。つ
そして・日本本走おいて、米ソ中の日本争議が起こるかも知れないのです・といって軍備増強卜

したためにかえって、日本が中ソの核兵器攻撃を受ける立場になるかもわからないのです。世
しかしどんな事態が起っても、自分たちの平和を念願する気持は真実の人間の生きる道なのだ・塒
という強い信念の下に国民の気持を世界平和の一念に結集させなければなりません。国民の気持を、
何を置いても世界平和の道を進まなければ、という程の堅い決意にまで持ってゆかずにいて、軍備
増強を否定するだけでは、とても国の安定はでき得ません。
先ず国民の気持を、世界平和を念願する想い一筋に結集する運動を推進し、軍備のことや外交問
題のことは、その後のことにしてゆくことが、民間指導者としての賢明な道であると思います。
184
平和への真の勇気を持つために
現在のように、国民の大半が我が身の幸せだけを追っている状態の中では、軍備撤廃も、平和運
動もあったものではありません。事はすべて徐々に行なってゆかねばならぬので、我が身可愛いさ
ばつ
や臆病な想念の下に、ただ単に戦争を勃発させる軍備の拡張はいけない、というだけでは、戦争も
恐れずに国を守ろうとする軍拡の国家に馬鹿にされてしまうだけなのです。
私は世界平和建設のための根底となる、真の勇気というものを、現在の日本人が直ちに持ち得る
とは思えないので、先ず最初に、そうした平和への真実の勇気を持ち得るための、真理の開顕を、
宗教的生き方の中で人々に教えると共に、直接世論にアッピールする世界平和の祈り言を、多くの
人に実践させる方法を取っているのであります。
ですから、現在の段階の私たちの生き方としては、憲法改正賛成とか反対とか、軍備撤廃とか拡
張とかいう問題は、直接的にはなんら関与してはいないのです。何故かと申しますと、どちらの主
張を致しましても、現在の国民の心理状態のままでは、日本を平和運動の中心国として立たせるこ
とは、とてもむずかしいことであり、どちらの主張をとっても、中途半端なものであって、大国の
陰にかくれて、おずおずとその後に従ってゆくしか仕方のない状態なのであります。
何を置いても先ず、国民全体の気持を、世界平和を念願する、という一念に結集させることで、
そのために私は世界平和の祈りを提唱し推進しているわけなのです。
この世界平和の祈りも、真の意味の愛国者や、人類愛に燃えている人々だけが賛同し、実践する、
といったものでは、国民の誰もついてこられる、いわゆる国民運動にはなりません。
平和運動と宗教運動との結びつき
そこで私は、これを、個人救済の宗教運動とはっきり結びつけたのであります。人間が神の子で
あり、仏子であるとは、光明思想的な宗教に触れた人は誰でも知っていることなのですが、この神
185世界は一つ
の子であり、仏子である人間がどうして、このように不幸や災いにあえいでいるのか、どうしてこ
のような暗黒闘争の世界に住まなければならないのか、という疑問に応えて、この世界平和の祈り
の説明をしているのであります。
こた
一口にこの疑問に応えますと、この世の不幸や災難はすべて過去世からの各人の想念行為による
のであって、神の子そのものである生命体は少しも苦しんではいないし、不幸でもない、不幸であ
おもい
り、災いをうけているのは、各人の想念だけなのである、というのです。
ちなみに、熱睡している時には、その人には不幸感も苦悩も無いのです。といってその人の生命
体はしっかりと生きつづけているのです。ですから、想念が肉体から消え去っている時は、その人
には肉体身としての苦悩は無いことになります。
と致しますと、不幸災難に対する苦悩は、その人自身の生命そのもの、神から直接きている生命
みずか
である自己が味わっているわけではなく、生命エネルギーを元にして、自らが生んだ想念波動が感
じているのだ、ということになります。
いいかえますと、神から分れてきた神の子人間に苦悩があるわけではなく、神の子人間を素直に
この世に表現できなかった、想念波動が苦悩を味わっているということになるのです。186
そこでこの理を利しまして、こうした過去からの想念波動を、一切消えてゆく姿として、今改め
て光明そのものである、大調和精神、つまり、世界人類が平和でありますように、という神のみ心
おの
そのものである人類愛的祈り言の中に入れきってしまう生活をしつづけますと、自ずと悪や不幸災
難という闇黒思想を含んでいた今日までの人間の想念が、いつの間にか、光明思想そのものに切り
替ってしまって、その人もその人の周囲も光明生活になってしまい、不幸災難が消え去ってしまう
のであります。
個人の幸福を作るにも効果ある祈リ
このように個人の幸福をつくるためにも、世界平和の祈りは効果あるものなのです。ですから私
は世界平和の祈りを、個人人類同時成道の祈りといっているのであります。
ことな
世界の人々は、人種民族が如何に異ろうとも、自己の幸せを考えぬものはおりません。個人の幸
せが国家人類の幸せと一つに結びつくというものであれば、正常なる人々は誰でもその道を選ぶこ
とでしょう。ところが、現状では、国家人類のためにつくすことが、かえって自己や自己の周囲の
者たちの不幸をまねくことになる傾向が多いのです。
187世界は一っ
それでは余程立派な人でない限り、これが国家や人類のために善いことであると思っても、二の
足を踏んでしまいます。先ず自分たちの幸福を一般大衆が考えてしまうのが当然なことなのですか
ら、一般大衆が安心して行なえる、国家のため、人類のためでなければ、国民運動にはなりません。
これまでの政治的な民間運動は、どうしても幾多の犠牲者を出さずにはおかなかったのです。そ
しあわ
こで金品に、自己の幸せをもとめる人々は、自己の智慧才覚によって、少しぐらいの不道徳のこと
も、国家や人類のためにならぬことでも、それが法律に触れぬものであれば、平気で行なっていた
わけです。
そして、そうした人々の金力や権力に従う人たちが、表面幸せそうな地位や富に恵まれていたり
することが多かったのです。
そうした智慧才覚のない人々は各宗教に自分たちの幸せの道を求めて入ってゆきました。その人
その人の想い方により、因縁によって人々は各自様々な系統の宗教に入ってゆきます。
キリスト教系統、神道系統、仏教系統(日蓮宗系統、浄土門系統、密教系統等々)、数えればきり
のない程、宗教団体はあります。しかし、どこの宗教団体も、それぞれの祈り言葉がありまして、
こちらが正当でそちらが駄目だ、というような対抗意識がありまして、外国では幾多の戦闘さえ起188

こしているのであります。
私の提唱している祈り言は、そうした宗派争いのようなことは一切ありません。何宗にいようと、
今までどんな祈り言をしていようと、そんなことは一向構まわないのです。
世界人類の平和を願う心と、自己の幸せとを求める想いを一つに結んだ祈り言として、誰でも、
どんな人にでも抵抗を感じさせない祈り言として、最も易しく、念願をそのまま、素直に祈り言と
ヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘへ
して現わした、世界人類が平和でありますように、という言葉であるのです。
世界人類の平和を願う想いをそのまま素直に出した言葉、その言葉が神のみ心と全く一つにつな
がる祈り言となっているのですから、広がらずにはいないのですし、自然と国民運動として発展し
てゆくにきまっているのであります。
189世界は一つ
190
世界平和の祈りは積極的善行為
少数の悪人の力が何故多数の善人を圧追するか
人間は誰でも悪を嫌います。悪人がなければこの世がどれだけ住みよくなるだろう、と誰しも思
います。この世から悪を追放しようという運動もいろいろな形で行われています。
しかしなかなかこの悪といわれる行為は、この世から消え去りません。個人個人を観察してみま
すと、表面的に悪徳行為をしているような人はそう多くはいないのですが、それでいて、人生には
悪がはびこっている感じは消えません。
青少年の不良化の問題にしても、大多数の青少年は普通であって、善は善、悪は悪の常識の下に
その行為のできる青少年たちであります。だがどうも、一部の青少年たちの不良化の影響はこの世
の社会生活に多くの悪影響を及ぼしております。
と致しますと、少数の悪人の力は大多数の普通人の生活を常におびやかしつづけているというこ
とになります。何故そういうことになるのでありましょうか。それは、悪人たちは常に能動的であ
り、普通人は受動的であるからなのです。いいかえれば、悪人たちは、常に悪行為を働きかけてく
るのであり、普通人たちは、常に事なかれ主義で、自分たち一家の安泰だけを守ってゆこうとして
いる、受身一方の人たちだからなのであります。
ちなみに剣と剣との戦いにおいて、片方は人を殺してもなんとも思わぬ人であり、片方は人を傷
つけることを極度に嫌っている人であったなら、その技が同等である場合、或いは後者がいくらか
上手ぐらいの腕前であったなら、この勝負は、殺人をなんとも思わぬ人のほうが優位であることは
間違いありません。悪い人のほうが相手を斬ることに想いが徹していまして乱れませんが、善い人
ちゆうちよ
のほうは、相手を傷つけることを躊躇して想いが統一せず隙ができます。勝負は明らかです。
話は一寸違ってきますが、労働組合の集会などでも、百人に対して五、六人の共産党員がいます
と、組合の集会は大体資本家側になんらかの要求をするためのことが多いのですから、この五、六
人の共産党員が、先頭に起って、烈しい勢いで、この要求貫徹を発言し出します。191世













ル〆
一般の組合は、それ程強い要望はないにしても、心の中では、自分たちの生活が潤おうことは望
んでいます。といって、資本家と争いを起こすことを好んでいるわけでもありません。確固たる想
いが定まらぬまま会合に出ているわけです。
そこへ共産党員の強い発言があります。共産党員は確固たる目的があります。資本主義政策をつ
ぶすためのデモンストレーシ。ンをやることです。一般の組合員と心がまえが違います。
そこで共産党員は烈しい口調で、資本家側の非をあばき、労働者側が断乎として戦うことによっ
て自分たちの地位が優位になることを党員が代りあって論じます。たまたま公正な勇気のある組合
員が争いを好まぬことを説明し、平和裡に資本家側と話し合うことを提唱しますが、一般の組合員
は、卒先してこの発言に賛成演説をする程の能動的な人がいません。その隙にすかさず共産党員の
一人が、その説反対と息まきます。すると、各所に散らばって席を取っていた党員たちが、各所か
ら、反対、反対と叫びます。
そして、今度は再び、自分たちの方法の説明をくりかえします。一人の説明が終るや否や、今度
は各所から、党員たちが、賛成、賛成と、順次に勢いこめて、この説を支持する声をあげます。一
般組合員はその勢いにのまれて、その説明を支持した形になって、あまり気乗りしていない筈の闘192
争の方向に組合の動きが定まっていってしまうのであります。
このように一般の人々というのは、自分たちの目先きのことだけが気になっていて、目先きの事
柄だけを上手にやってゆけばよい、という、社会や国家人類というものとの連関性をもたぬ、孤立
した利害関係だけの生き方をしているのです。それは直接自分たちが悪行為をしているわけではあ
りませんから、心が痛みませんが、社会国家人類という大きなつながりの面から考えますと、そう
した自己主義の生き方は、世の中の悪を助長し、社会国家人類を毒する者たちが、自由にその毒牙
をふるい得る温床の地を与えていることになるのであって、やがては、自分たちの個人生活にもそ
の悪影響が蔽いかぶさってくるのであります。
みずか
自分たちは社会に対して、なんの悪いこともしていない、と自ら思っている人たちの多いこの社
会が、いつまでたっても安心して生活できる社会にならないし、地球人類全般にわたっても、常に
大戦への発展への恐れのある戦闘行為の絶えない状態をつづけております。
今日こそ積極的に善行為を
今日ではもはや、自分たちは悪をしていないのだ、というだけの安易な気持では過ごせない時代193世













になっているのです。悪をしていないではない、積極的な善行為をしなければ生きつづけてはいけ
ない時がきているのであります。
神は大生命です。私共人間は大生命の分れの小生命です。大生命にも小生命にも、悪も不幸もあ
りません。ただ、この生命の流れを妨げる想念行為が現われた時、そこに悪が生れ不幸が生じてき
ます。
宇宙の運行は大生命の流れです。人間の生きている状態も生命の流れです。その流れがとどこお
った時、そこに悪想念が生じたり、病気や不幸災難が生じる原因が生れてきます。いつの時代でも、
この生命の流れを妨げ、とどこおらせる事態が個人にも社会人類にも生じてきては、結果として、
カルマるてん
不幸災難をもたらして消えてゆき、またその繰り返しをつづけてゆきます。それを業の流転といい、
りんお
輪廻ともいっています。
あら
キリスト教でいう原罪というのは、微妙なる生命波動が、地球世界の物質波動、肉体波動の粗い
いわ
波動との交流の際に生じた違和感、つまりズレから起こっているのです。微妙な霊(生命)波動が、
だつきやく
物質波動の粗い生活になじみ、そしてなじみ過ぎてしまって、今度は肉体波動、物質波動から脱却
カルマ
できなくなってしまったところから、業想念というものが生れてきているので、これは、現在の肉194
体人間の智慧や力だけでは、どうにも脱けきることはできないのです。
そこに守護の神霊の活動が用意されてあったので、その守護の神霊の存在に気づいて、人類救済
の働きをしはじめたのが、イエスや仏陀やその他の聖人賢者たちなのであります。
ですからこの地球人類が救われるためには、守護の神霊の力なくしては、どうにもならないので
ありまして、守護の神霊の加護を頼まぬ世界平和などは到底でき得る筈はないのです。それ程に、
カルマ
この地球世界は、業想念波動で包まれきっているのであります。
こうしよう
人間は本来神の子でありまして、業生ではありません。神は大光明でありまして、大調和心であ
り、絶対善であります。ですから神のみ心の現われたところは、必ず光明化するのであり、善行為、
愛の行為、調和の行為が現われてくるのであります。
私は悪いことをしていないからよいのだ、というだけでは、神のみ心である光明心を現わしてい
るわけでも、善行為をしているわけでもないのですから、ただ生かされて生きているだけのことで
みずか
あって、神の分生命としての自らをそこに生かしているとはいえないのです。
おおへめぐカルマ
そういう生命のとどまったような生活状態ですと、人類全般を蔽って経巡っている業想念波動の
渦の中にいつの間にか巻きこまれてしまって、前述の労働組合のような工合に、自分の知らない間
195世界平和の祈りは積極的善行為
に、この人類が滅亡の淵に追いやられていってしまいます。その時になっていくら私に責任はない
といって叫んでみても、もう手遅れなのであります。
積極的に生命を生かすこと、積極的に神のみ心を現わす、愛行為、善行為という光明心を自分の
生活として行ってゆかなければ、その人は悪行為の同調者と同じレベルの人となってしまうのです。
どんな理屈をいったところで、自分が真実の安心立命を得ていないうちに、この地球人類が滅び
てしまったのでは、どうにもなりません。自己の行為にどのような理屈をつけようと、地球が滅び
てしまっては、なんとも致し方ないではありませんか。地球が滅びることなぞ絶対にない、といい
たい人もありましょうが、よくよく眼をみひらいてごらんなさい。滅びないなどといい切れる状態
は地球のどこにもないのです。各国家間の自我欲望の状態をごらん下さい。天変地変のひそんでい
る様相もちらほらとみえるでしょう。
滅びない、滅ぼさない、といい切れるのは肉体人間側ではなく、守護の神霊の側だけがいい切れ
ることなのです。ですから今日程、守護の神霊の加護に感謝し、神のみ心と一つになるような生活
状態を実践しなければならぬ時代はないのです。
196
いのりとはこういうもの
インドシナ、朝鮮半島を間にはさんで、米国、中国、ソ連等の対立、中国の核実験による西欧側
なまやさ
の衝撃などによって、日本の運命も生易しい生き方では、安心してはいられない状態になっていま
す。
今こそ真実に人間が神のみ心の中に入り切って生活してゆかねばならぬのです。祈りにつづく祈
りの日常生活こそ、今日最も必要なる生き方なのです。ところが祈りというものの重大さを知らな
い人が多いのです。祈りというものを、ただ何もしないで坐っているぐらいに考えている人々が多
いのです。
祈りとは生命を正常に自由に働かせるために、それを妨げる邪魔な想念波動を、神の大光明心の
ずもう
中で消していただくことなのです。剣道でも角力でも、拳闘でも、想いが統一しきっていないと、
本来の力がでないものです。試合最中に、想念が種々乱れていたり、打とう打とう、勝とう勝とう
というような、力みがあったりした時は、思うように自己の本来の力がでないで負けてしまうこと
が多いのです。
197世界平和の祈りは積極的善行為
祈りというのは、そういう雑念を、常に神のみ心の中で消し去って、いつでも神から分けられた
生命の自由な働きを保持してゆこうという方法です。その祈り心を、私は、守護の神霊への感謝と
共に、世界人類の平和を想う、人類愛の祈り言の中に入れきってしまう運動にしたのであります。
消えてゆく姿で世界平和の祈り、というのはそういうところからはじまっているのです。心を雑
念で汚しておかないで、いつでも、人類愛の想い、光明波動で充たしておこう、というのが私の運
動の主旨なのであります。
世界人類が平和でありますように、こういう想いを常に心で唱えていれば、少しぐらいの自己の
生活の不満も不幸も、世界人類の平和を念願するという、大きな広い心の中に昇華されて消え去っ
てしまうのです。いわゆる心が大きく広くなってくるのであります。
他の祈り言のように、自己のためだけの願望成就の祈りでは、人間の本質である大光明波動の流
れと一つになるだけの、高い広い立場に自己の想念を昇華させることができません。従っていつま
でたっても、お願い事成就という、神にすがるばかりの想いの渦から脱けられませんので、自己の
本心の神の子の光明心が現われてはまいりません。いわゆる独り立ちができません。世界平和の祈
りき
りは、力むわけではないのに自然と、神のみ心と一つになり得る、高い階層に自己の想念波動がつ
198
みずか
ながってしまって、神のみ心によってさせられることと、自らがなすことが一つになってくる、い
わゆる神の子の本然の想念行為がひとりでに行われるような、安心立命した心境になってくるので
あります。
先頃、鹿児島県の泰平さんという方が、非行少年に逆恨みをされて、ナタと庖丁を左右にもって
迫まられた時、その絶体絶命の中で、ここで死ぬることも過去世の因縁の消えてゆく姿と想い定め、
少年の天命の完うされることを祈りながら、世界平和の祈り言をしつづけているうちに、完全な無
我無心の統一境に入ってしまい、ふと気づいてみると、少年が両手の力もぬけきり、首うなだれて、
愴然と去ってゆくところであった、という体験を白光誌に載せておりました。
この心境正に親鸞が山伏に襲われた時の心境と同じであり、この人の立派さと共に世界平和の祈
りの力の偉大なことの証左でもあって、私もとても嬉しく思いました。
世界平和の祈りの教えに徹しますと、こういう心境になってくるのであります。ですから私は徹
頭徹尾、消えてゆく姿で、世界平和の祈りという教えを根底にして、私たちの同信の人たちが日常
生活を営んでゆかれることを望んでいるのであり、一人でも多くの人が、世界平和の祈りに徹して
生きてゆく生活に切り替えていっていただきたいと望んでいるのであります。
199世界平和の祈りは積極的善行為
ひっぱくせる世界状態と日本
200
日本の状態は、今全くどっちつかずの状態です。経済的にも軍事的にも米国に助けて貰っている
から、中国やソ連の侵略を受けないで、大国並みの生活水準を維持していられるのだ、といわれれ
ば、それもそうですね、それでは米国のいいなりになって、米国と同一歩調でゆかねばならぬ、と
思う人もありましょう。また、隣国の中国と仲良くしないでいて、離れている米国の機嫌ばかりと
っているとは何事だ、米国と安保条約を結んでいることは、中国やソ連を敵としてみていることだ
から、そういう風に日本のほうで中ソを敵とみるなら、必ず中ソは折りをみては米国の手先として
の日本に敵対してくる、日本にある米軍基地は真先きに叩かれるだろうし、その時米国は日本を守
る余裕など勿論ないから、日本を見捨てて中ソと渡り合うだろう、その時の日本こそ本当にみじめ
だ、という説もある。また米国にも中ソにも依存せぬ、自主独立の政治を行うことだ、そのために
は、まず軍備を増強しなければならぬという説、その反対に軍備せずに自主独立せよ、中立地帯と
せよとの意見等々、種々の意見がでているのであります。
このうちの自主独立論や、軍備なしの中立地帯論などが現実的には出来るわけのないことは、政
治にたずさわる者には、はっきりわかっていることで、はっきりした答弁ができるでしょうが、中
国、はじめアジア共産圏との接触をどうするか、米国との縁はこちらで切ろうと思っても、あちら
で切りっこないのですから、無理に切って中国、ソ連との関係を結ぼうとすれば、それこそ経済封
鎖をされるか、もっとひどいことになれば、南ベトナムと同様の状態になってしまいます。
ですから、うっかり社会党や共産党の手に政治を渡すわけにはゆかない、というのです。米国か
らみれば、日本はアジアにおける最も重大な防共の地です。日本が共産圏に渡ったら、米国は自滅
するより他なくなります。それは南ベトナムの重要性どころの騒ぎではありません。
先頃、南ベトナムで米国が真剣になって戦っていたのも、南ベトナムが共産圏に入ると、その次
には日本にもその影響が大きく及ぼしてゆくとみているからです。そこで南ベトナムを関ケ原とみ
て、共産圏の拡大を必死になって喰い止めようとしていたわけなのです。
そこでこの際に、中国と一戦を交じえてもよい覚悟を米軍の首脳者たちはもっていたのでありま
した。
ちなみに、先年のリーダーズ・ダイジエスト誌の記事の中に「中共を阻止するのは今」という題
で、ウイリァム・E ・グリフィス博士という米国の国際共産主義研究担当者との一問一答を載せて
201世界平和の祈りは積極的善行為
います。その中で博士は、「われわれは中共が実戦に使える原子兵器や熱核兵器を持つ前に、これ
を押えるぺきである。それ以後では原子戦争の危険を冒すことなしに中共を押えることは、はるか
に困難どころか、ひよっとすると、ほとんど不可能になるかも知れない」といっており、今なら中
国が全面戦争に持ちこんでくる心配がないから、今やってしまえ、というのであります。これは勿
論、中国の原爆基地を叩いてしまえ、ということなのです。そのためには南ベトナムで米軍ががん
ばりつづけ、少しでも中国が表立ってでてきたら、中国本土を空爆しようというのです。中国が東
南アジア全土を征服し、イソドや日本になだれこむ前に、米国はどんな手段ででも中国を叩くとい
っていたのです。
ですからもし日本が、米国と離れて中国と手をつなごうとすれば、必ず何かの理屈をつけて、日
本は全面的に米国の基地化してしまうにきまっています。米国の共産主義に対する恐怖は実に狂人
じみておりまして、共産主義を防ぐためなら、実際白を黒といいくるめてでも何をやりだすか計り
知れません。
社会主義者、共産主義者ばかりでなく、日本のインテリ層の左傾じみた学者たちは、共産主義国
との同調ばかりを考えていて、米国の恐ろしさを忘れ果てているのです。米国が現在日本に対← て、
202
どれだけの力を持っているかその人たちもよく考えてみるとよいのです。日本が米国の都合の悪い
ことをすれば、いつでも米国は日本全土を制圧することができるのです。それは常に共産主義から
日本を守るためという名目によってです。
それと同じようなことが、ソ連や中国にとってもできるのですが、米国が日本に基地を持って眼
を光らしている現在では、自国の大損害を覚悟しなければ、うかつに飛びこめませんので、侵略し
てくるまでに至っておりません。といって、日本の今の立場は一刻も安心していられるような立場
ではありません。
あんのん
自分たちだけの生活が安穏であればそれでよし、というような自己本位の日常生活を送っていた
のでは、いつどこから国家人類の崩壊がはじまるかわからないのです。
宗教者は祈リ一念に徹せよ
或る宗教家は、共産主義恐怖症の人ですが、中国が原爆を持った今日、日本もそれに対抗する核
装備をすべきである、それでなければ、米国の核装備で守って貰うべきである、と真剣になって説
いております。その人は、三、四十年来、人間は神の子で完全円満である、悪と見えるものも、不203世













幸とみえるものもみんな心の影である、敵とみるから敵として現われるのである、敵も悪もないの
である、みなそれは自分たちの心でつくるのである、恐れるものはみな来るというのが真理である、
というように、神の完全円満の姿を、人間側がそのまま素直に受けついで、この世に平和を現わし
てゆくべきである、と説いている人なのですが、いつの間にか現象面の争いの波の中に巻きこまれ
てしまったらしく、雨が降ったら傘をさす、と同じように、敵が襲ってくるような事態になった今
日、日本が丸腰では侵略されてしまう、早速憲法改正して軍備を持つべきだ、と強く主張している
のであります。そして遂いに、日本ではまだ軍事専門家や政治家でも、表面に出してはいったこと
もない、日本も核装備せよ、という主張をしはじめたのであります。
この光明思想家は、遂いに祈りの本質を忘れてしまったのです。大調和なる神のみ心、完全円満
なる神のみ心が信じられなくなってしまったのです。右の頬を打たれたら、左の頬をも打たせよ、
とイエスはいいました。それはなかなかむずかしいことです。しかし、宗教の道を行く者は、そう
なるべく心がけなければなりません。前述の鹿児島の泰平さんのようにみ心ならばと、白双の前で
も平然と祈れるようにならねばなりません。眼には眼を、歯には歯を、というように、やっつけら
れたらやっつけてやれ、向うが原爆を持てば、こちらも原爆でというような心では、とてもこの世204

は平和にならない、と二千年も前からキリストがいっているのです。
カルヤリんれてんしよう
こういう力には力でという在り方は、業の輪廻転生の姿なのです。世界平和はこんな心の持ち方
では到底できません。古来から今日までの在り方は、常にあっちから攻めてきたから、こっちも防
衛してやっつけた、というような戦争の歴史です。戦争を終結させるのは、原爆や水爆の対抗で出
来るものではありません。核装備することそのものが、敵をみる心であり、敵をやっつけようとす
る心であるのです。敵をやっつけようという想念の中のどこに平和な心があるのでしょう。核装備
しなければ、中国があなどって攻めてくる、とこの人はいうのですけれど、その人のそういう心の
どこに神のみ心があるのでしょうか。光明思想や、敵をみない心は一体どこに行ってしまったので
しょうか。軍事専門家や政治家がそういうことをいうのは、その立場上仕方のないことだと思いま
す。しかし、宗教者がそんなことをいってはいけません。
宗教者はあくまで祈り一念の生活に徹すべきで、軍備力云々などは自己の境界にはないことでな
ければならないのです。まして、日本が核武装したら、中ソがなんとするでしょう。こちらの想い
とは反対に、追いつめられた気になって、かえって一挙に飛びこんでくる機会をつくることになり
はしないでしょうか。神様以外にはっきりこの答のできるものはおりません。私を働かせていて下205世













さる大救世主は、地球世界を救うものは軍備の増強ではない、世界平和の祈りの結集と、それにょ
って生れた大調和科学による超神秘力による他はない、と明言されているのです。私たちはこの大
調和宇宙子科学が実際の力を発揮するまでは、世界平和の祈りの同志を一人でも多く結集せしめて、
大光明波動で世界の動乱を拡大させぬよう、祈りにつづく祈りの生活を積極化していかねばなりま
ん、
日本はあくまで大和の国です。よしや、全世界が核兵器を持ったとしても、日本は核兵器を持た
ぬ唯一の大国として、世界平和を築きあげる中心国にならねばなりません。それが日本の天命なの
であります。
2(}6
易行道浄土門的法華経
人間はみな凡愚
今度大戦が始まれば、それは原水爆のボタソ戦争であることが明らかであり、敵国を滅亡させる
と同時に、自国も滅亡の淵に追いやられる、ということも承知していながら、それでもかつ自国の
目先の利益を守るためには、その戦争さえも辞さないような態度で行動している大国の政治の在り
方には、ただあきれ果てるばかりであります。
それは全く、街に巣食っている何々組と称する暴力団のやり方とあまり相違してはいないのです。
それはアメリカやソ連ばかりでなく、もし日本がそれらの国のような戦力をもち、同じような立揚
に立たされたら、やはり同じような行動をするのではないかと思うのです。207易









、\
ですから、私は米国やソ連ばかりが悪い、とか愚かであるとかいうのではないのです。どこの国
も国民も、現在までのような人間観をもって生きている以上は、善いといい、悪いといい、五十歩
百歩の違いでしかないと思うのであります。
人間というものを、相対的にみ、差別的にみている以上は、自分の利益に反する相手は敵になる
わけで、敵対している限りは、相手もこちらを敵とみて、お互いが力を磨きあって、どちらかがそ
の敵に打ち勝たなくては、自己の権力を伸ばすわけにはゆかないわけであります。
そして、そうした生き方が、個人間でも国家間でも普通とされていて、今日まで来ているのであ
ります。
地上世界の人間は、他人や他国のしたことについてはとやかく批判をし、悪口をいったりします
が、いざ自分や自国がその人やその国と同じ立場に立たされた時に、果して、悪口をいってけなし
つけたその人やその国と、全く異なった善といわれる行為ができ得るでしょうか。私はごく少数の
人以外、大半の人やすべての国が出来得ないのではないかと思うのです。
それは何故かといいますと、人間とは肉体的に存在するより他に存在し得ないと思いこんでいる
人が、この世の大半の人々であるからであります。肉体人間より他に人間というものが存在し得な208
いと思っている限りは、相対的に人間をみ、相対的にものをみるより仕方がないのでありますから、
利害関係の対立する人々や、国々ができるのは当然のことなのであります。
ですから、私はそうした考えを脱却していない人々が、いたずらに他人や他国の悪口をいって、
いかにも自分がその立場に立ったら、もっと他にいくらでも方法がありそうなことをほのめかすの
がおかしい気持になるのです。
肉体生存のためには、どれ程人間が業想念、つまり自我欲望を起こしているかはかり知れないの
であり、また起こさざるを得ないこの世なのであります。
人間観の転換を
普通いう善い人悪い人というのでも、自我欲望が多いか少いかというだけのことであって、自我
欲望という業想念を全く超越しているという人は、はなはだ稀れであるのです。業想念を全く超越
している人なら、自己の利害関係に把われるわけはないのですから、いかなる立場に立っても、自

己個人だけの問題なら、平然として平和裡にその物事を解決してゆくことでありましょうが、そう
した人はごく稀れなる存在であって、一般の基準には出来ません。209易










ところが、こうした超越的心境の人であっても、一度び国家の政治の中心に立って、対外的な交-20
渉の立場に立たされると、自己の日頃の超越的な生き方が出来なくなってしまうのであります。そ
れは何故かと申しますと、国家には多くの国民がおり、国民に選ばれたる政治家たちがいるわけで
あります。そしてその国民の声、政治家たちの考えというものが大きくその中心者に反映してくる
のです。
ですから、その中心者自身が、いくら自我欲望を超越している人であっても、国民や政治家の大
半が自我欲望の想念、つまり他国に損害を与えても自国の権益や利益を守ろうという考えでいるの
でありますから、その中心者の思う通りの外交交渉が出来るはずがありません。
そのように自我欲望という業想念、自己の肉体保存の本能的欲望を超越でき得ぬ人が大半である
地球世界の業想念を超え得ぬ限りは、一人や二人の覚者が出たところで、その国家を神のみ心のよ
うな、正しい国家にすることはできないのであります。
肉体人間というものはおかしなもので、個人個人でつき合っていればかなりの紳士であり、良識
者であっても、それが集団となり、国家となってきますと、長い過去世からのその国家に積み重ね
わざわ
られてある業想念の波に災いされて、その紳士の心、良識を失ってしまい、米国やソ連などのよう
に、小国の立場を無視し去るような業想念行動を起こしてしまうのですから、国と国とのつき合い
というものはむずかしいものなのです。そしてそれが国家への忠誠のように考えて、自己が罪悪感
をもたないのですから、ますます不思議なものです。
このように肉体だけを全人間と思い違えている人間が多い世界がこのままつづいてゆけば、地上
世界はいつまでも個人対個人、国家対国家、民族対民族の利害的対立がつづいてゆき、世界の平和
などは到底実現しそうにもないのであります。
その事実を多くの人々はどうして認識しようとはしないのかが、私には不思議でならないのです。
今日までの人間観では世界は必ず滅亡することは、ものを考えることの出来る人なら誰にでもわか
ることなのでありますのに、何故その事実をはっきり認識しようとしないのでしょう。その事実は
世界の政治家がまずはっきり認識すべきなのです。そしてその認識に立って、人間の在り方、世界
人類の在り方を考えはじめなければ、世界はだめになってしまうのです。
このままではダメになってしまう
人間はこのままではだめなのだ、ということをしっかりと考えようともしないで、いい加減な理
211易行道浄土門的法華経
想論を述べたてて生活している、学者層や指導者層の人たちには、いったい良心というものがある
のかどうかを、私は時折り疑ってみるのです。
この人々は、私たちが、人間は肉体だけにあるのではない、人間とは神の分霊であって、神界、
霊界、幽界、肉体界と、四つの界を通して働いている生命体なのだ、という私の実際に体験し、実
際に知っている事実を述べて、その分霊と守護霊、守護神との協力によって、この地上界に神のみ
心を顕現するのだ、という真理を発表すると、その人たちはなんの根拠もなしに、そんなことは迷
信だ、そんなことは絶対にない、とはっきりとこの事実を否定するのであります。
また、宗教者として人々を指導している人の中にも、この世以外の世界を真向うから否定してい
る人がかなりいるのであります。が、私はその人たちにも、あなた方はいったい、どうしてこの人
類世界が救えると思うのですか、と反問してみたいのです。
現在の段階では、もはや学問理論や観念論ではとても一つの社会さえも救えない段階にきている
のですし、既成の宗教観念では一人の人を救うのでさえも、容易なことではなく、大変な年限がい
るのです。
それからまた私が、大奇蹟の出現によるより他にこの世界は救えない、その奇蹟とは、守護の神212
霊のこの世への物質化と、宇宙人(天使)との提携協力による世界平和なのだ、という説を唱える
よこし
と、知識的宗教者と称する人々は、奇蹟を求むるのは邪まであるといってきたりするのであります。
いたずらに奇蹟を求めるのは確かに邪心であって、神のお喜びにならないところでありまして、
私も時にふれ折にふれては、奇蹟は求めるものではなく、神との一体化によって自ずから起こるも
のであることを説き、常識をはずれず、常識を超える方法を教えているのであります。それが世界
平和の祈りなのであります。
世界平和の祈りの中からは.それはさまざま奇蹟が起こっているのであり、世界平和の祈りによ
る心の安定感というものは、短時日にして、相当深いものが得られているのであります。
私の提唱している世界平和の祈りは、肉体人間の側から考え出したものではなく、大救世主の大
智慧の中から、肉体のほうに、この祈りをひろめることを命じてこられたのであります。私は想念
停止(止観) の修業によって、自我欲望の想念を超えて、大救世主のみ心を自然法爾に行動にうつ
すことが出来るようになっているので、世界平和の祈りが非常に高い祈りであることがわかってい
ごと
たのですが、その効果が日毎月毎に明らかになってきたのを大きな喜びとしているのであります。
213易行道浄土門的法華経
肉体人間にとって絶体絶命の世の中
214
この地球人類が、現在までの人間観では絶対に救われぬことは、肉体人間側にもわかっているこ
と℃あり、神界の側からもはっきりそう示されてきているのであって、地球人類を滅亡から救う最
初で最後の方法は、人間の本源である神のみ心の中に、肉体人間の想念行為のすべてを、一度全部
お返しすること以外にはない、ということなのであります。
何故そうしなければならぬかと申しますと、生半かの信仰ぐらいでは、もはやこの世の業想念を
超、兄、人間同志が利害を超越して手を結び合うまでには、とても導いていくことは出来ないからで
あります。それは米国の例をみればわかることで、代々大統領は深いキリスト信者であり、その周
囲にも幾多のクリスチヤンがいたのであり、いるでありましょうが、今日は衆知のように誤った行
動を起こしてしまっています。これは神と人間とを別々に考えて、神を信仰しながらも、肉体人間
の小智才覚で事を運ぼうとしているからなので、私のいう、神に肉体人間の想念行為のすべてをお
返しして、そこから改めて行動を起こす、という方法ではないからなのであります。
今日の世界は、今日までのような人間観では絶対に救われないということを、今一度真剣に現実
世界の動きや、人の心をみつめて認識してもらいたい、と私は切に思うのです。その事実を正直に
認めない限りは、いつまでもこちょこちょと小智才覚でこの世に処してゆくことが止まらぬものな
のです。今日の世界は肉体人間にとって絶体絶命の世の中であると、はっきり思い定めることが大
事なのです。
真の宗教者の姿
宗教者と称する人々もそうなのですが、今日までの大半の宗教者のように、自我想念というもの
を捨てきらないで、なんのかのと自己の学問知識を振り廻わして、宗教を理論的にわかろうとして
いたり、いたずらに個人的利益や、どちらでもよいような奇蹟を追い廻わさせるような教えをして
いたりしたら、今にいくら悔いても悔い足らないような事態が起こってしまうのであります。
真の宗教者とは、自己の理論と行動とが離れていたり、一般大衆が聞いても、どうにもならない
ような理論を聞かせたとて、それが最高の真理であると独りよがりしているような人ではありませ
ん。神と人間との関係をはっきり知っていて、神のみ心の中にすっぽり入り切っていながら、その
心のままに、どんな低い階層の人間の中にも降りてきて、その人たちのすべてを抱いて、常に神界
215易行道浄土門的法華経
と肉体界とを往きき出来るような人こそ、真の宗教者といえるのであります。
その一番よい手本は、法蔵菩薩(阿弥陀仏) であると思います。「お前たちは私の理論を聞かぬ
から救えぬ」等とは阿弥陀様はおっしゃいません。なんの理論も説法もありません。どんな悪業の
者でも、自分の名を呼びさえすればみな救うてやる、それが出来なければ自分は仏の位につかぬ、
と法蔵菩薩はおっしゃって、そして阿弥陀仏となられておるのです。
それはどういうことかといいますと、人間はすべて神仏の子であって、神仏のみ心の中に自己の
想念を投入してしまいさえすれば、神仏そのままの姿で生きてゆかれるものだ、という真理を理論
的に説いたのでは、一般大衆にわかりようがないと思って、法蔵菩薩の人類救済の念願を通して生
れた阿弥陀仏という、仏の御名を称名するだけで救われるのだ、という簡単、素直な教えにしたの
はうねんしんらん
であります。この教えを日本に最も普及させたのが、いつも申します法然と親鸞なのであります。
この法然、親鸞の教えが今こそ真実に生かされなければならないのです。この教えを実行した時、
おのずひら
そこに法華経の世界が自から開け、神道の神の道が展かれてくるのであります。
216
称名は光のエレベーター
南無阿弥陀仏の称名は、死者にだけ上げるものではなく、自己の頭脳を駈けめぐる小智才覚の業
想念のすべてを、阿弥陀様という大光明の中に投入して、そこから改めて真の人間、真人として生
れかわってこの世に生きてゆく方法なのであります。
はしご
称名は即ち光の梯子であり、光のエレベーターであって、真に称名一念になれば、阿弥陀仏の大
光明の中に、この世においても生きられるのであります。
ですから肉体人間は、どうしてもこうした無我全託の心に一度はならなければ、真の神のみ心も
わからず、神の子の本体が現われてもこないのです。これは何も南無阿弥陀仏の称名に限らないの
ですが、その称名の提唱者の無我の大愛の心が存在しないと、その称名の効果が減じてしまうので
あります。
そこで私は、その称名方法を使って、世界平和の祈りをひろめることを神から命ぜられたのであ
ります。命ぜられたというより、神が私の肉体を通して自然法爾に働かれている、といったほうが
適切であると思います。
からりつわ
いったい私という者がどのような者であるかと申しますと、一口にいえば空っぽの器なのであり
ます。空っぽの器とはどういうものかといいますと、天の理想と地の現実の中間にあって、天の理217易









想(大光明、大智慧)を地上の現実界に、地上的な方法で真直ぐにうつし出すために、天と地の波
動の差を、そこで調和させる器なのであり、場所なのであります。そして一方、地上界の業想念を、
その器、場所を通すことによって、浄め去ろうとしているのであります。
これは天の理想(大智慧、大光明)が縦の線としますと、地の現実が横の線であります。この縦
と横の十字交叉するところに、私は器として場所として置かれてあるのであります。いわば天と地
うかき
をつなぐ濾過器なのであります。この濾過器である私というのは、すでに個人の私ではありません。
地上人類を救済しようとして働いている守護の神霊団、大光明団の協同の使用体なのであります。
それだからこそ私を思いなさい、私の名を呼びなさい、救われますよ、と叫んでいるのであります。
個人の肉体人間には、とても人を浄める力などはあり得ません。このところをお間違いないように
願います。
ais
すべての人が救われるため
そして、そうした私が世界平和の祈りをすべての人々が唱えることを声高々と薦めているのであ
ります。今日、世界平和の祈り以上に、一般の大衆が納得できる祈りはあまりあるものではないと
思います。一読すぐ理解できる祈りの言葉こそ、一般大衆の祈りやすい言葉であると思います。し
かもこの祈りをする時には、その人の想念は私という濾過器を通して、神のみ心の中に入り得るの
ですから、これは実に容易な方法なのであります。喜怒哀楽、妬み、恨み、恐れというような様々
な業想念をつけたままでよい、ただひたすら世界平和の祈りを根底にして生活していさいすれば、
その人のそうした業想念は、私という濾過器を通していつの間にか浄め去られ、その人自体の心も
生活もいつの間にか改善されてゆき、それと同時に、世界平和の祈りの本質である大光明(神のみ
おうそう
心)が、その人の周囲に社会に人類に、その人の体を通して放射されてゆくのであります。往相
すがたげんそうすがた
(道を求める相) と還相(菩薩の相)、救われたい想いがそのまま人を救う光となって還ってくる
のであります。
私は常に、選ばれた人たちだけが救われ、選ばれた人だけが人類のために働くという方法は、今
日の世界においては通用しないと思っていたのです。どんな老人でも、どんな幼児でも、いかよう
に無智と見える女人でも、悪人と見える人々でも、すべてが救われなければ、決して地上天国がで
きるものではない、と思っていたのです。ですから高踏的な理想論や、自分たちだけが出来る行為
を人々に強いて教える方法は、今の世ではとてもだめだと思っていたのです。誰にでも容易に納得
219易行道浄土門的法華経

でき、楽に出来る人類救済の方法はないかと常々思っていたのです。
法然や親鸞も確かにそう想っていたに違いありません。それが浄土門の南無阿弥陀仏となって、
鎌倉時代の不安混迷の一般人の心を安定させ得たのでありました。しかし法然、親鸞時代には出版
活動もなく、交通も不便であって、大きな活動は出来得ませんでしたが、今日ではいかようにも世
界に働きかけることが出来る時代になってきているのです。
今こそ易行道浄土門的法華経、即ち神道が世界中にひろがらなければならないと私は思うのです。
再び申しますが、今日ではむずかしい理論的宗教では人類は救えません。やさしく入れて、やさし
く行じられて、しかも行じてゆくうちに、次々と実証が現れて、そしてその教えが、理論的にも深
い高いものであることがわかってくるような教えでなければなりません。それは私の世界平和の祈
りばかりをいうのではありません。誰方が説いても、そうしたものであることが、今日の宗教の在
り方だと思います。
きヒと
そうした事実もいつかは神がはっきりと実証して下さることでしょう示、私は「天照らす真の光
のごと
り地に呼ぶと我が祈り言は平和の祈り」の生活を世界中にひろめる活動をつづけてゆく他に、なん
の自己の想いわずらいもないのであります。220
くうそくじつモひ
世界人類を滅亡から救うもの、それはただひたすらなる世界平和の祈りによる空即実相の姿より
ないと私は確く信じておるのです。
最後に一言、神は大愛でありますから、神の愛をまず信じて下さい。そして、神の大愛の現れで
ある世界平和の祈りの中に飛びこんできて下さい。それがあなた方を救い、世界人類を救う最もや
さしい方法なのであります。
221易行道浄土門的法華経
222
日本人の平和運動
貧富の差が争いの種
中国の現在は表面的には落ついているように見えますが、昭和四十年から四十五年に行われた文
化革命の余波が未だにくすぶっているようです。中国の文化革命というものの実体は、表面的には
みにくいや
つかみにくいものではありますが、誰の眼にも、権力闘争の醜さ嫌らしさが、いやでもうつってま
いります。
昨日までの高位高官が、紅衛兵の青少年たちにひきずり廻わされ、あげくの果てには自殺して果
ててしまったり、子が親を敵として訴えるかと思うと、死線を共にしてきた親友たちが、互いに責
め合い、仇敵呼ばわりしたりしている様相は、地獄絵をみる気さえしてきます。共産主義の独裁政
はたん
治の破綻を、はっきり現わしているようです。
今まで中国びいきであった人々も、大分興ざめたのではないかと思われます。毛沢東のような秀
れた人がいても、中心に神という生命の実体を置いていない政治は、いつか破綻がくるものでしょ
う。
神を畏敬する気持は、そのまま生命礼拝になり得るのですが、一定の肉体人間や、政治形態への
信仰は、その奥にある神という実体にまで想いがとどいていない限り、どこかでつまづきがきたり、
不完全な状態が現われてきたりするものなのです。
人の生命を国家の名において、平然と殺し得る政治家というものは、現在の中国ばかりでなく、
各国に存在するわけですが、殺し合いをしなければ国家が護れない、という今日までの世界の在り
方が、このままつづいていったのでは、どうしても地球世界は滅びさるより仕方がありません。
しかし残念ながら、世界一の大国であるアメリカが率先して、国家や自由主義防衛という名にお
いて、殺し合いの政治政策をとっているのですから、どうにも困ってしまうのです。
自由主義陣営というのは、共産主義のように、一党独裁の圧政ではありませんので、国民は自己
の生活を自由に楽しむことができます。アメリカ国民はその点、共産主義陣営の人々より幸せであ223日








ることは確かです。それでいながら、常になんらかの不安が彼らの心を襲うのです。
それは共産主義の脅威なのです。アメリカは今は追われるものであり、いつも足下をすくう国々
のあることを警戒しつづけなくてはいられない国になっているのであります。
どうしてそういうことになってしまったかと申しますと、世界中のどこの国にも貧富の差があり
すぎて、貧しい人が多すぎて、貧しさから解放されたい、と願う人々で一杯なのです。
貧しい人々が世界中にたくさんいるようでは、せっかくの自由主義も、本来の自由をその人々が
自己のものにできないのです。何故ならば、金品を少ししか得られない状態では、生活を満足させ
ることが到底できないからです。そこで常に富んでいる人々を羨望し、はては恨みっぽい気持で眺
めているのであります。
同じ人間と生れて、どうしてこうも生活の状態が違ってくるのか、社会が悪いのだ、政治が悪い
のだ、と自分の生き方はそっちのけにして、社会や政治を恨む気持になってくる。こういう人々が
随分と多いのです。
人間は本来は平等であるべきなのですから、そういう不満がでるのも無理からぬところもあるの
かニせヒんじよう
です。人間には過去世というものがあって、過去世における生き方の悪さが、今生のその人の生活224
に現われてきて、貧しい生活になっているのだ、というような真実のことを知っている人は少ない
のですから、現在の生き方や生活状態だけをみて、富んだ人や、政治政策に不満をもってしまう人
が多くでるわけです。
そういう人たちをみて、確に政治が悪いのだ、という気持になった人々のうちの指導的素質のあ
る人たちが、マルクスやエンゲルスの経済論に力を得て、人間の貧富の差を政治政策の面から平等
にしてゆこう、という考えに到達してゆき、今日の社会主義や共産主義が生れてきたのであります
が、これがあくまで、人間の本質というものを知ってつくったわけではなく、肉体人間の現象面の
様相だけをみてつくられたものなので、そこに非常な無理がともなってきているのです。
それはかってのソ連や現在の中国、東ドイッなどの在り方にはっきり現われてきたのであります。
だがしかし、この考え方には、人間に貧富の差があってはいけない、人間は平等であるべきだ、と
思っている人や、貧しい人々をみているに忍びない愛の深い人々に多くの同調者ができて、この政
治政策に世界中を統一した時に、はじめて世界が平和になるのだ、というように思う人々が、アメ
リカはじめ自由主義陣営の国々の政治政策を叩きはじめ、世界を共産主義一辺倒にしてゆこうとし
かくさく
て、あらゆる画策をしているのであります。225日








世界は国家利害で動いている
その中心国がソ連であり、中国であるわけですが、現在は同じ社会(共産)主義国である中ソの
なが
間が敵同志のように仲違いをしているのですから、何々主義という主義だけで世界統一を計ること
が無理であることが実証されているようなものです。
世界の統一というものは、主義主張、つまり何々思想というものが根底にあってなされるもので
はなくて、精神状態の向上、人格の完成というものが主になり、根底に人間生命の源である神とい
うものがあって、はじめて完全統一されてゆくのであり、完全平和が成り立ってゆくものである、
ということがはっきりしてまいります。
共産主義、自由主義というように、一応一つ一つの主義によって、各陣営がまとまっているよう
にみえますが、共産主義の中ソが仲違いしていると同じように、表面的にはハツキリみえませんが、
けんせい
アメリカとフランスにしても、英仏の間にしても、各国の利害打算によって、お互いに牽制し合い、
自国の権益を損じぬように、ということで相手国の腹をさぐり合っているのです。
ですから、自国の損ということがわかれば、昨日の友は今日の敵と、いつならぬともわからない
226
のでありまして、主義主張というよりも、自国の損得勘定から生れる政策にすぎないのであります。
いいかえれば、地球人類の宇宙観、世界観というものが、神のみ心を外れた肉体人間勝手なもの
であって、なんらハッキリした自覚のあるものではない、その場その場の主義主張であり、政治政
策であるということなので、真実の平和世界になり得ないのです。
昨日までの中ソの統一戦線は今日すでに破れ、米ソが接近して中国を共同の敵としている有様は、
自国の損益を計る心は、主義主張よりも優先するもののようでさえあります。とはいえ、共産主義
思想というものを借りて、自国の権益を増そうとする国々の、自由主義諸国への働きかけは、まず
低開発国であるアフリカ、中近東、東南アジアに、各種の方法でなされておりまして、せっかくア
メリカはじめ自由諸国群が、金品を送って開発の援助をしておりますのを、横合いからそれらの国
の意図に合うような方法をもって、援助をしてゆき、それらの国に好意をもたせてしまうのです。
もっともアメリカの援助の仕方にもうまくないところがあるのです。というのは、アメリカ側の
援助は無償の愛ではありませんで、援助の裏には、常になんらかの報いをそれらの国に期待するの
であります。期待するぐらいならまだよいのですが、その援助に対して、相手側も当然なんらの形
でアメリカに報いるべきである、という感情が強く働くのです。227日







こうした想念が、相手国にとっては、金持の高慢というようにみえまして、援助してもらってい
ながら反感を強く持っているのであります。
そこがソ連や共産主義国のつけ目でありまして、低開発国の意向にそうような援助の仕方をして
ゆくわけなのです。そこで、せっかくのアメリカ側の援助も、それらの国々の感謝とはならず、か
えってソ連や共産主義国へ心をひかれていってしまったりするのです。
そういった共産圏の自由主義陣営への喰いこみに対して、アメリカ側も必死に共産陣営への裏を
かく手段方法で、自国陣営に多くの国々をひきこもうとしております。虚々実々の戦いというとこ
ろです。低開発の国々は主義主張より何よりも、自国の利益になる国との交流が大事なのでありま
すから、両方にうまくとり入って、甘い所を吸っている、という国々、国々というより、国々の政
府指導者層があるわけです。
そういう国々の中では、そうした政府指導者層とそれに反対する国民の代表といった人々とが、
これまた両陣営に分れて、常に革命の危機をもたらしているのであります。
そのいずれの争いも、自己や自己陣営の権力を増してゆこうということによる闘争でありまして、
自己陣営の権力増強のためなら、いかなる手段にも出る、というのが現状のようなのです。
228
世界観、人間観を変える必要がある
このように世界の状況をみてみますと、主義主張による争いが表面に現われていましょうとも、
結局は自国や自己陣営の権力の増強が主なのでありまして、各陣営の勢力争いが陰に陽につづいて
いる限りは、大戦争の危機はさけられないのであり、地球滅亡という最後の時もあり得るのです。
ですから、自由主義だ共産主義だというより以前に、人間の心の状態、つまり世界観を変えてゆ
くことが必要なのです。そこに宗教の必要が生れてくるのでありまして、宗教が個人個人の現世利
益だけを主にしているようでは、とても駄目なのです。
宗教の道はあくまで、人間の本心開発、地球人類の使命、神との結びつきということを、主にし
いな
て教えてゆくべきもので、時には現世利益に反するようなことが現われてくることがあるのは否め
ないのですが、この地球人類というものは、大半の人が現世の利益を願っているのでありますから、
現世の利益に反するような生き方には、なかなかつき従ってはゆけないようなのです。そこに真実
の宗教の道のむずかしさがあるのであります。
しかしながら、地球人類の大半が、現世利益、つまり各個人の利益本位、自国や自集団の利害だ
229日本人の平和運動
けを主にして考えて行動しているようですと、この世は必ず戦火によって滅びてしまわねばなりま鋤
せん。
ですからお互いが、少しつつでも自我欲望をひっこめてやってゆかなくては、どうにもならない
のですが、個人はともかく、国家間ではなかなかそうはしていないのです。アメリカと中国などそ
のよい例です。中国が常に真の統一をでき得ぬ状態になっているのは、アメリカにとっても世界に
とっても、ちよっと息のつけるところかも知れませんが、どうもこういう自我のつっぱり合いは、
地球滅亡への道をつくりあげつつあるような具合で、人類にとって寒心にたえないのです。
個人にしても国家にしても、宇宙大生命の一つの働きとして、その立場があるのですのに、大生
さからカルマ
命の大調和の流れに逆って、自己や自国の利益の拡大を計ってやまないという、地球人類の業とい
うものは、思わず吐息がでるやりきれなさです。
だからといって、溜息だけ吐いて落胆していたのでは仕方がありません。人間や国家群の悪口を
いっているだけでもどうにもなりません。また、宗教原理の立派さを、そのままに押しつけても、
現世利益に心をうばわれている人々が、真剣にその道に取り組んでくるわけはありません。
どんな善い教えも、現世利益に反するようでは、多くの人がついてきません。新しい宗教で栄え
ているのは、ほとんど現世利益を看板にしている宗教団体です。
といたしますと、現世利益本位の世界観を、真実の宇宙観に変えてゆくのには、どういう風にし
たらよいかということになります。なんといっても、現代までは、個人単位でも国家単位でも、い
ずれも、自己本位自国本位であるわけなので、利益の相反する個人や国家は、どうしても争い合い、
戦い合わねばならなくなります。それではいけないのだ、と頭でわかっていても、今日までの世界
観では、ずるずるとそういう結末になってゆくのです。
ですから、いくら宗教の道に入ったといっても、その宗教がなんらかの形で、他の宗教と対立す
るものがあるようでは、お互いがその形を守ろうとして、対立し、反撃し合うことになり、宇宙大
生命のみ心である大調和の流れから外れてしまいます。
といって、口先きだけで、万教帰一ですとか、宗教の道はどの道から登っても、頂上は一つです
から、などといっていても、それが真実の大調和精神でいっているのでない限り、宇宙観が正しい
ものになったとはいえないのです。そのくらいのことでは、争いに充ちた対立抗争の波に取りまか
れている、この地球の運命を救うことはできないのです。
231日本人の平和運動
平和の祈リで世界は一つ
232
或る宗教は何々神を本尊として、何々という祈り言をする、或る宗教は何々仏を本尊として、云
々と念ずる、という工合に、幾つも祈り言があり、何体ものご本尊がある、というような宗教団体
の在り方では、その上に超越した大神様がいらっしゃらない限り、宗教団体同志の融和ができにく
いのです。何もご本尊の何々神や、何々仏という神仏同志の対立抗争などありょう筈もないのです
が、何せ、業波動に取りまかれた自己本位の肉体人間がその信者なのですから、お互いに自分たち
の宗団の肩をもつのは当然でありまして、水と水とが融け合うような具合にはゆく道理がありませ
ん。
そこが問題なのです。私のいう、宇宙観を根底から変えなければ、世界の運命は危険である、と
いう理論は、唯物論では勿論だめですが、単に宗教が広がったからそれでよいというものでもない
ということなのです。
この地球界を救済しようというのであれば、宗教団体のすべてが、自宗団のご本尊や祈り言の上
に、あらゆる宗教団体が祈り得る祈り言をおかなければだめなのです。現象世界などどうでもよい、
自分たちは霊界において救われるのだ、という人はさておいて、この地球界という現象世界の完全
平和を望むならば、地球世界を滅亡させたくないならば、全宗教が一つになって、一つ祈り言にお
いて人類の光明波動を一つ流れにしなければならぬと思うのです。
現在世界人類が一体、一番何を望んでいるのでしょう。それはいわずと知れた、世界人類の完全
平和です。現在戦争をしている国々でも、革命騒ぎや、主権争いに明けくれている国でさえも、真
底では平和を望んでいるのであります。戦争によって彪大な利益をあげている事業家たちでも、地
球世界の滅亡を望んでいるものはありません。
ただ、その場その時々の自己利益のために戦争状態を望んでいるようにみえるだけなのです。地
球世界が滅亡してしまっては、元も子もなくなってしまうことは誰しも知っていることだからです。
なんぴと
どこの何人たりとも、地球滅亡を望んでいないのに、各自各国が自我(小我) の想念行為のため
に、地球滅亡の方向に世界を運んでいってしまうのですから、現在の人類は愚かなものである、と
いうより仕方がありません。
世界平和の祈りというのは、この世界の一切の分裂を、世界平和を念願する、祈り心に一つにま
とめてしまおうとして、自然に出来上った祈りです。あらゆる宗教団体も、宗教に関係のない民衆
233日本人の平和運動
も、世界の平和を願う人々のすべてが、その教団にあるそのまま、その生活にあるそのままで、世
界平和の念願を祈り心にまで高めあげればよいので、宗教団体という枠も、唯物論という思想も、
すべてを包んで実行できる一つの行為なのです。
何々神、何々仏ではついてゆけない人々も、世界平和を念願するということには、なんのこだわ
りも必要ないのであります。朝昼晩歩いても寝ていても、また改めて坐っても、どういう姿、方法
でもよいから、一日に何回か世界平和を念願する、世界人類が平和でありますように、と想うこと
によって、世界中の人々の想いが、一つになる瞬間が必ずあるのです。そういう瞬間が二回三回四
回と、つづいた時、世界が宇宙大生命の大調和の光明と一つになってくるのであります。
この祈りは、世界人類が平和でありますように、という一点でもよいと思うのです。世界中が一
つになるには、この想念波動より他にはないのです。何々教も何々宗もありはしません。仏教もキ
リスト教の区別も必要ありません。今、神が欲し給うのは、人類の和であり、地球世界の平和なの
であります。
世界中に大調和の波動をひびかせることがなににもまして必要な現在なのです。それは細かい一
つ一つの現世利益の祈り言よりも、はるかにその個人のためにもなり、国家のためにもなるのです。234
何故ならば、人類の生命の親である宇宙神のみ心は大調和なのであり、そのみ心の世界平和の祈り
をすることは、その個人個人の心が、神のみ心と全く一つになっていることであるからです。
あらゆる祈り言は、神のみ心と一つになるためになされるべきなので、すべての人がこだわりな
く、しかも自己の心が納得して想える、世界人類の平和の願い、ということが、祈り言として現わ
れてきた今は、世界平和の祈りをすることは、人間として当然なことなのです。
あらゆる神仏、あらゆる宗教の御本尊は、この世界平和の祈りを支援しないわけはありません。
再び申しますが、宇宙神のみ心は大調和そのものなのですから、宇宙神の一つ一つの働きである、
各宗団の御本尊が、世界平和の祈りを否定する筈がないのです。
もし世界平和の祈りを否定する宗教があるならば、その宗教は、神のみ心から外れた、神のみ心
を知らぬ宗団であると思います。
私たちは、私たちの会自体の拡大強化を計ろうとしているのではありません。また五井昌久とい
う個人の下に、人々をひきつけようとしているのでもありません。誰でもどこの国々の人でも、抵
抗なく納得でき、世界の想念が、容易に一つになり得る、世界平和の祈りによって、自然と無理な
く、人類の宇宙観、世界観を変えてゆくことを願うのみなのです。
235日本人の平和運動
国をあげての世界平和運動に
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これからの世界は、なんの何某という個人の名をあげるとか、何国という国家という名の下に地
球世界を支配しようというような、地球世界ではなくなるのです。大宇宙に輝く星々が、太陽より
大きな星々が、地球だけのために輝いているわけはありません。そんな誤った考えの時代は過ぎ去
ってしまったのです。
大宇宙の星々は、各々その生活をもっているのです。地球よりはるかに進歩した星々があること
は確かなのです。これからの時代は、まさに宇宙時代なのです。地球は大宇宙の一つの世界として、
宇宙の各星座との調和した交流によって、その生活をつづけてゆくようになるのです。
そういう宇宙観、世界観に立ってこそ、はじめて、小さな自我や自国本位の対立抗争の想念から
脱却できるのであります。大宇宙のたかが小さな小さな地球世界の権益争いのために、尊い生命を
無駄に滅亡させてよいわけがありません。
世界の国々を一日も早く、そうした宇宙観にめざめしめなければなりません。そのためには、本
来大調和国であり、大和の中心国である日本がまず、旧い殻からぬけ出して、世界平和一本で立ち
上がらなければいけないのです。
口先きだけの平和礼讃や、その場限りの平和論などではとても、この世界はおさまりません。国
全体を投げ打って、この地球世界の平和確立に乗り出すのです。そのくらいの気概がなければ、日
本の政治を司どる器とはいえないのです。
このままでいて、米国と中国の仲が直り、ソ連と中国の間が立ち直り、米ソ中の各国が真実の平
和状態になり得ることがありましょうか、ありようがないのです。このままでゆけば、必ずこの三
国の間の戦争はさけられません。それは時間の問題です。
それをさけ得る方法は、この三国の中間に立っていて、智能的にも経済的にも、西欧諸国に劣ら
ない日本国が、世界平和確立のために、国をあげて、世界平和運動に挺身することです。それは現
在の自衛隊を廃止せよとかなんとかいう、共産党社会党のいう平和論などではなく、一軒一軒どこ
の家にでも、世界平和を願う表示がなされ、誰も彼も、世界平和の祈り言、祈り言ができねば願い
言でもよいから、心をこめてしているような状態になれば、自ずから、各国にその状態が知れわた
り、連鎖反応的に、世界の各国で、そうした純粋な平和運動が拡がりはじめるのです。
これは夢でも理想論でもありません。断じて行えば達成される方法なのです。この運動は私たち
237日本人の平和運動

民間人が、中心になってやっていってもよいのですが、政府そのものが、枝葉末節的な外交問題に
把われずに、真っすぐにこの平和運動を支持して下されば、急速に日本中に拡まってゆくのです。
日本中のすべての人が、平和を願っているのであり、世界中の大半が戦争を恐怖しているのです。
日本人が、日本政府が、勇を鼓して、この世界平和運動に踏み出して下さることを、私たちは深く
願いつづけているのであります。
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