如是我聞
一五井先生の言葉一
白光真宏会出版局
幸福になる一番の近道は、一切を神(守護霊・守護神) におまかせすることであ
るQ
2
自分で生まれようと思って生れて来た人間はない。誕生も生育もすぺて神のみ
手の中にある。人聞のすべては神のみ心にある。
3
生死.運命のすべてを神にまかせた時、真実のあなたの天命が開かれる。
4
神の愛は、眼先の幸不幸を問題にせず、根本的にその人を幸福にするのである。
眼先がどうあろうとも、結果において必ずよくなるものであることを信じ、戚謝し
一
二
て時機を待つ者は賢者である。
5
まこと
善なる真なる愛なる神のみ実在。その他のものは、すべて過ぎゆき消えてゆく姿
である。
6
素直! 素直! た父神に素直!
了
相手の肉体人間がいかに見えようとも、相手の守護霊はその肉体人間のために一
生懸命働いている。
こう
「 一日も早くこの人の業が消えて、本心が現われますように」と相手の守護霊に
祈ることである。そうすると相手も浄められ、自分も浄められる。
8
天を仰げ。天からは陽気がいつも降ってくる。
9
天の自分が働いているのだから、こちらは不動心でいればよいのである。
10
今おかれた立場を生かせ。
過去のことにこだわるな。過去はすべて消えてゆく姿、消えてゆくのだ。
12
うつわ
よき器(場所)となれ。よき器とは真理に素直なる者である。
三
四
13
と
この課題を解くことにより、また段が上るなア、と思って、心動かされずに行動
すること。
14
が
自分の立場から見て行動するを「我」といい、他人の立揚をのみ想って行動する
くう
を「愛」という。それさえも超越してすべて神さままかせにするを「空」という。
15
神は大事を与えられる直前に、一見実につまらぬような仕事を与えられ、その人
ため
の素直さ、真剣さを試されるものだ。そうしたことをおろそかにし、拒否するなら
ば、後の大事到来は遥かに遅れてしまう。心すべきことである。
16
人間の本体は天地縦横に働いている神なのである。と信じ行ずることが法華経な
のである。
17
因縁は必ず消える、現われれば消える、と知ることは悟りへの第一歩である。
18
消えてゆくことにも把われなくなった時、神と一体となる刃
19
どんなことでも、自分がやるのではない。天の神がしているのである、と想いつ
づけること。
20
おこ
例え、自分の周囲に起ってくることは、どんな状態に見えようとも、すべて神の
五
六
愛の現れでないものはない、と受けて威謝すること。これが宗教心である。かくし
てすべての動きの中に神の愛を見出し、仏の慈悲を観じ得るのである。
21
ありがとうございます、と拝む心は「このま瓦生命を召されてもよい」という全
託の心である。
差
神さまの愛に人間の愛情を足しましして、なるべく人間が苦しみすくなくて救わ
れてゆくように、というのが私の教えの特長だ。
π
誠実なる行いほど尊いものはない。これが私の信条。言葉や文字でいくらよいこ
とを書いた
璽り言ったりしても、実際に行なわれなければなんにもならない。行いが
ぱんりし
その人のすべてを決定する。「誠実真行万理を識るにまさる」
別
ぶんれいこん
肉体人間だけで、完全四満は望めない。守護神と守護霊とが分霊魂を助けること
によって、初めて完全四満となる。
怨
神様がうまくやってくれるから安心だ、とまかせ切るのが信仰である。
%
祈っている時、あなたの本体は輝いている。雑念は業の消えてゆく姿であるか
ら、気にせず祈りつづけること。
27
雑念が出ても気にならなくなるのが、無念無想である。
七
入
しかし、無我夢中と無念無想とを混同してはならぬ。無我夢中とは業生の動きで
あり、無念無想とは底に真我の光(神)が輝いている姿である。
28
叡智なる神の与え給うものに無駄はない。無駄に見えるのは自分が幼稚だから
だ。すべては神の愛の現われである。すべて都合悪しきことは業の消えてゆく姿な
おんちよう
りと、現象を乗り超えて、その奥に神を観よ。何ものをも神の恩寵なりと信じて、
戚謝し受けよ。
29
まか
無条件で神に委せたといいながら、自分に都合の悪そうなものが見えると、すぐ
不平をいう、それでは神の愛を疑うことになる。神が悪いものを与え給うことはな
い。現象に捉わるるな。必ずよくなるにきまっていると思い返して戚謝せよ。
50
神の支流となれ。神の愛を貰い放しにするな。まず戚謝せよ。禰よりの喜びを個
に与・兄よ。喜びは他に与えれば与えるほど神より流れ来るものだ。永久に神につな
がる道、安心立命の泉ここにあり。
51
「悟るッていうことは、一体どういう状態をいうのでしょうか」
「悟った状態というのは、すべてのことに感謝出来るということですよ」
52
しんえん
自由自在になることが一番いい。或る時は静かさをたたえる深淵があっても、時
どとうほんりゆう
あれば、怒濤さかまく奔流ともなる、という川のような心になることだ。
35
九
一〇
悟って高い境地になれても、そこに止まっていたのでは菩薩にはなれない。その
座から一旦降りて、どんな汚れたなかにも平気で入って生活出来、どんな人とでも
つきあえて、どんな話もきけて、アッバッハーと笑っていられるようでなければ、
やっぱり生悟りだと思う0
54
悟りたい、と思うならば、既成概念をまずすてろ。一杯つまった頭に何をそ瓦い
だって、みなこぼれてしまう。既成概念をまず捨てて、素直にきくことだ。
5
悟りということは平凡な中にある。誠実、愛、素直、感謝、あたりまえのことだ
が、それはみな悟りの現われた姿である。
6
人造の大きな寳石が、本ものの小さな寳石より、人の役に立つ場合がしばしばあ
る。人間も、その寳石のようにちっぽけな善人より、少しよごれていても、大きな
人間のほうが大きな働きをするものだ。
善人こそ、もっと大きく強くならなければいけない。
57
形ばかり坐っていても、心が坐っていなければ、社会の実生活のなかにでて、た
ちまち心乱れてしまう。心が動かずピッタリと坐ることが第一である。
58
祈りというのは、いのちが生き生きと活動することである。いのちが躍動せざる
を得ないのである。だから、ただ座ったま玉で、何もしないということは、祈りと
一一
= 一
いうものをどこか考え違いをしているのである。
59
心の内には神様と一体であると自覚し、外には自然に愛を行なってゆくことが悟
りである。
40
神は行ないのうちにのみ現われる。
41
戚謝はひかり。
42
女性は自分の我ま玉な意見だけを通そうとすると、不幸になります。相手のいう
ことをまずきいてあげなさい。そうすれば相手も自分のいうことをきいてくれます。
昭
水は本源の世界につながっているものです。だから私は水を大切にするのです。
4
もっともいむべき人間は、権力をかさに着て、自分は甘い汁をむさぼりながら、
貧しい人や弱い人をしいたげる人種だ。
45
空とか自然法爾というのは、泣きもしない、悲しがりもしないで、すましている
ということではない。凡夫のようにともに泣き、悲しみ、そして笑ったりふざけた
りするもんだ。それでいて心がカラソと常に晴れている。あの良寛さんをみてごら
ん。
ゴ
一三
一四
46
宗教は偉ぶりたい、権力を得たいという我欲を楽しませるためにあるのではな
い。そうした我欲をはぎとるのだ。だからむしろ宗教の道は苦しいものといえるだ
ろう。たのしみがあるとすれば、それは自分を磨き、自分が立派になってゆくこと
を、神に鳳謝する法悦威あるのみである。
47
自分を楽しませたいときは、映画やテレビを見なさい。しかし、その気持で宗教
に入っては困ります。宗教は本心を開くためにあるのですから。
48
肉体波動を超えて、同時に肉体波動にいなければ、本当の仕事は出来ません。
とかく霊波動になった人は、そうなっていない人を馬鹿にしたり、軽んじたりす
琶
ノ
はず
るけれど、馬鹿にしたり、軽んじたりする心が、もうすでに宗教心から全く外れて
いることだからね。そこはよくよく気をつけることです。
娼
光に住して光に把われず
肉体に住して、肉体に把われぬ
そういう人間になることが望ましい。
駒
幽界、霊界、神界と、すべてのことを知っていて、そして幽界、霊界、神界に把
おくど
われず、一番奥の空の奥処のみ心と、肉体とがピッタジと直結していることです。
51
宗教は口でうまいことをいったり、書いたりすることではない。実際に体であら
一五わL
一六
わすことだ。私は実際に真理を、美を、調和を体であらわしている人、行動にあら
わしている人を尊敬する。
52
お審銭の上に、ノホホンと暮している宗教者は下の下だ。
品
宗教家は清貧に甘んじよ。これは宗教家の心すべき一つの生き方である。
54
人間には「大きさ」つまり寛容ということが必要だ。その徳は生まれつきのもの
もあるが、努力によって、身につけることも出来るのである。思いやりという一つ
の行為からもそうなれる。
茄
宗教に名をかりて、自分の欲望を達成しようとすることは、最も下劣なること
だ。
56
本心開発は霊能者を養成することではない。
訂
なりわい
私がつくづく思うことは、霊修業をするよりも、自分の生業を一生懸命するこ
とのほうが、早くその人を本当に悟らしめ、人格を完全にさせるということであ
る。
58
もし今霊修業をしている人があったらば、謙虚に下座につくことをまず修行せ
よ。そしてきこえてくる、いかなるささやきといえど否定せよ。否定し否定し否定
一七
一入
しつくせ。
59
人はその言葉に戚心するのではない。その人の行ないに鳳動するのだ。
60
かんきよう
今、おかれた環境から逃げようとするな。いやだ、逃げよう、もっといい立場が
磐あるに違いない・とあがけばあがく程自分の苦しみも多くなるし、進歩も澱れ
る。今おかれた環境、立場より他によい環境、立場は自分にはないのである。何故
なら、神さまが自分に必要があってその環境において下さったものであるからだ。
有難く受けて、そう出来なかったら、いやいやながらでもいい、こんなこと必要が
ないな、と思ってもいい。しかし、その環境の中にすっかり腰をすえて、一生懸
命、誠意をつくして、仕事なら仕事、勉強なら勉強をすることだ。そうしている
と、】番いい生き方が与えられる。それが環境を生かすということである。そし
のち
て、後になって、それが必ず、自分に大きくプラスになり、役立ってくるのであ
る。役立たないようなことを神様はさせるわけがない。
あがかず素直に一生懸命やっていると、神様のほうで「よし、この修業は終っ
た」とパッと新しい環境、立場へ出してくれる。
これは私が実際体験したことである。
61
宗教の道は神のみ心を現わすことより他にありません。
62
こんじよう
今生で何もかもやろうとするから、あせって骨が折れる。何生もかけてやろ
う、とのんびりとせよ。
一九
二〇
65
どんなつまらぬ仕事でも、素直にやっていれば、後からよい仕事が与えられる。
64
どんなにつまらなそうに見える仕事でも、役目でも、これは神より与えられたる
使命である、と思って一生懸命おやりなさい。
65
自分では悟っていると思っていない人でも、素晴しい天命が与えられていること
がある。そしてその天命の重大さを自分ではそんなに自覚しないで、その天命を果
しっっある人もある。しかし、やがて時が来て、その天命が、その人の悟りと全く
一致して、パッと開けることがあるものだ。だから、現在の表面だけのその人を見
て、とやかく批評など出来るものではない。
6
行いに出ない祈りだったら、本当の祈りになっていない。祈りとはいのちが生き
ることです。
67
祈りは一心不乱にやるんじゃないんです。一心をグーッとひろげて、一心をなく
してしまうんです。一心を、一つの心じゃなくて、一つの想いじゃなくて、一つの
神、一神にかえるのです。神の心の中に入れてしまうのです。あとは神さまがやっ
てくれるんですよ。
68
自分の業に甘えてはいけない。業に妥協するな。神は光なのだから、常に明るい
心の人を喜ぶ。
一二
二二
69
憂うつそうな顔、暗い心を神さまは最も嫌われる。
70
ありとあらゆるものがみんなそれでいいんだ、自分に都合のいいことでも、都合
の悪いことでも、あ瓦それでいいんだ、ありがとうございます、という心境になれ
ば、それが本当の悟りです。
71
「もし私共が個人指導を頼まれた揚合、どういう心がけでいたらよいでしょう
か」
と先生にお尋ねしたら、
「その人の天命が完うされますように、という祈り心でお受けになりなさい」
とお答えになったo
η
何事も想いつめてはいけません。人を救いたい! 救わなきゃ救わなきゃと思い
つめてはいけない。救うのは神さまで、肉体はよけいなことを思わなくてもいいん
だ。肉体はのんびりとそのまx動いていればいいのです。
絡
思う通りに生きようと思うのなら、まず想いをなくすことだ。
74
想いをためておいてはいけません。
75
私の肉体がどうして神の器として使われるようになったか、というと、素直で柔
二三
二四
和で思いやりが深かったからです。
人を傷つけるくらいなら、自分が傷ついたほうがよい、と小さい時から思ってい
たのですよ。
76
私は主義主張、思想が違おうと、その人の立派さ、偉大さは正直に認める。主義
や思想と、その人自身の人格の立派さとは別だからです。
η
何のお話からだったか忘れたが、
「人間はコセコセしないで、のんびりと大らかであることがいいね」とおっしゃ
った。
78
何年何月なにが起る。という先の予言をすることほど馬鹿なことはない。それ
が善いことであるにせよ、悪いことであるにせよ、人間は善いということに把わ
れ、悪いということに把われてしまう。
そのことはその時になって見ればわかるのです。そうした予言にまどわず、まど
ったらまどった想いを〃世界人類が平和でありますように〃という祈り言に入れ
て、今を現在を一生懸命生きることです。生かすことです。これが宗教の極意なの
ですよ。
四
お役に立ちたい、お役に立ちたい、と思うのはいいことだ。しかし、そのよって
くるところは何か。どこにあるのか、よく考えてみよ。自分を出したい、自分が
… … というところにそれはありはしないか。お役に立ちたい自分もお役に立てない
二五
二六
自分も消えてゆく姿なのである。そういう自分をまずなくすことが宗教の第一歩な
んだ。
まず、自分は下座につくことだ。人に目立たずお役に立つことを心がけること
だ。謙虚で明るく勇気をもってすることだ。そうしていると、自然に神様は役立た
せてくれる。
80
とっさの場合に出る想い、それが大切だと思う。とっさに出る妬みの想い、憎し
みの想い、不平不満の想いが、すぐ消せるように訓練することに心がけることだ。
私自身、とっさの想いがどうなるか、じっと観察しつづけて来たけれど、憎しみ
や妬みや不平不満の心などなかった。実に素直だった。
とっさの想いに本心を現わせるようになるといいんだ。けれど恐怖の想いという
のはなかなか消、兄にくいだろうと思う。そこを、あらゆる想いは消えてゆく姿!
と思って、潜在意識の奥の奥まで、スッカリ洗いざらい浄めてしまうことである。
そうすると、とっさの想いにも、神のみ心が現わせるようになる。
8ー
ヘヘへ
大丈夫だろう、間に合うだろう、だろうというあいまいな言葉は私はきらいだ。
見通しがハッキソついて、大丈夫じゃなければ納得しないし、充分間にあって、余
りがなければ安心しない。時間を待ち合わせるとき、私は時間の余裕を十分から二
十分とって、必ず先に行って待つことにしている。
理
或る病気がちな少女を励まして、
「先生もいろいろなことがあって苦しいこともあるよ。けれどごらん、先生はい
二七
二入
つも明るいでしょう。何故だろう? 先生はね、神様が絶対によくして下さるん
だ、と信じているからだよ」と五井先生はおっしゃった。
銘
まわりの者が病気になったり、苦しがったりしている時、「これは大変だ! 是
非直さなきゃ」と、力んではいけない。
神さまが生かすものは生かすのだし、往生さすものは往生させるのだ、神さまは
愛なんだからその人に悪いようにしっこない、と深く信じることですよ。私の場合
はもう信じるなんていう境も超えているから、どういう場合でも一つも心が動揺し
ないし、今更、動揺する心もない。私は只、神様の光明を流しているだけ。そして
必要があれば体をさすってあげるだろうし、いろいろと慰めてあげる。しかし、た
父黙って祈って光を当てている時もある。これはすべて神のみ心のまま。
そうする時に、神さまの力、神さまの光がそのままズバリと出るのですよ。
84
神様事とか、霊能とか、才能とか、地位とか、そういうものを除外して、裸の人
間になって、なおかつ人格的に立派である、というような人間になることが必要で
す。
衡
反省する心があるというのは、文化人の特性です。
86
神様がほしいのは素直な肉体です。神様のみ心、み光を素直に通せる器です。
87
自分自身としてなすことは、愛深い自分になること、この上もなく優しくなるこ
二九
三〇
と。誰でも優しくされれば嬉しいものです。霊的な力とか、知恵はすべて天から
くるもの、それを受け、人々に分ち与える器となればよいのです。
8
陽気は神のみ心であるから、神は明るい心をよろこばれる。
89
思いやり深く柔和で、暖かな人であって下さい。相手の心を痛めず傷っけない人
であって下さい。
その人の前に座れば、何も云わなくても、暖かく明るくなるようなそんな人に。
たと、兄自分に不利なことをしようとしたり、自分を傷つけ殺そうとするような人
の心さ、兄も、傷つけ痛めてはいけません。何故なら自も他も一体なのだから。
90
あなたの天命は、生れて来ない以前、肉体を持たない人として直霊から分れ
た時すでに、なすべき仕事が決まっているのだ。だからあくせく焦らず、神さまに
おまかせして生きてゆくことだ。
91
個我のわたくし、肉体の私、というのがなくなればなくなる程、その人は立派な
人である。弱い私、善い私、悪いわたし、そういうものはない。
ヘヘへ
いいわたしもいる必要はない。悪い私も必要ない。みんなわたしというのは渡し
わたわた
だから、渡すだけである。天に渡すだけである。わたしを渡し、それで天の心に入
ってしま、兄ばいい。そして光ごと降りてくればいい。そうすると光明体である。光
になることが唯一のことなのだ。
=二
三二
92
自分は只単なる肉体だと思うな。神の生命だと思え。神様が働いていらっしゃる
のだなと思え。神様が働いていらっしゃるのだな、と思えるようになることだ。
93
こう
消えてゆく姿というのは、思いつめてするのではない。自分で業を消そうという
のではない。守護霊守護神の光で消して頂くのです。そのために平和の祈りをする
のです。
94
人間は、どうしても表面に出て働かなければならない時もあれば、どうしても陰
で縁の下の力持ちの働きをして、徳を積まなければならない時もある。
表面に出てはならない時に出ると、折角の徳が積めなくなるし、その人の運命を
みずから地に落してしまうことになる。
95
神の声をきいた、神様に教えられた、ということをよく聞くけれど、自分の潜在
意識、かくありたいという潜在意識の現れであることが多い。しかし、なかなか自
分では潜在意識かどうかわからないから、まず、そうした霊能霊言は一切否定する
ことである。
真実のものであるならば、いくら否定しても、否定してもそれはおのずから全行
為となって、全人格となって、全生活となって現われてくる。1 その木の実のな
るをもって知れi
96
霊能と悟りとは違う。霊能力というのはたまたま肉体要素が、前生の霊能力開発
三三
三四
の修行によって、そうなっているのであって、その人自身の人格の山口回さ低さには無
関係である。とかく、霊能があることによって、そうした才能のない人を馬鹿にし
たり、自分を優位においたり、自分が悟っている証拠であると誤解してしまう。霊
能と悟りとは違うのだ、ということがわからなければ、その人はなかなか悟れない。
97
私たちは新しい世界を創る、業のない世界を創る。光一元の世界を今改めて創っ
ているのだ。今迄の自分は無いものと覚悟して、新しい人間を今自分は創っている
のだ、新しい人類を創るのだーと思うこと。
今の苦しみは過去からつながっている波が、今、現われてきているのだから、そ
れは消えてゆく姿なのだ。
98
霊的な人はどうしても、中間の幽界、霊界のことに把われて、そちらのほうばか
るす
りに興味がいってしまい、現象界の実生活のことがお留守になってしまう。これは
困ります。
また一方、よく宗教家の中で、幽界のことも霊界のことも神界のことも、心でも
体でも知らないくせにして、簡単に「そんなものはない」という人がいるけれど
も、これは間違いです。実際にあるんだからね。
だから、途中のことを知っていて、かつ、それに把われさせず、一番の根源、実
在の世界に人々を導き入れるようにすることが大切です。勿論、自分もそうなるよ
う精進することです。
9
宗教の根本とは、一定の限られた型にはまらぬ、のびのびとした自由な心になる
三五
三六
ことである。
㎜
祈りの中から最善の知恵が授かる。
棚
最悪の状態は、これから善くなるという前兆である。
撹
宗教信仰をしている人は、人を決して責めるべきではない。大きな広い心が大切
だ。自分をゆるし人をゆるし、消えてゆく姿で平和の祈り。
秘
善にも把われるな、自由自在な人となれ。
脳
常に守護霊につながっていけば、直感的に善と悪がわかる。
欄
明るい心、これが運命を開くのだ。
鵬
自分にいやなことを甘受して、突き進み、打ち破ってゆくことが、一番魂が浄ま
るのである。いやなことから逃げようとすればするほど、嫌なことは追いかけてく
る。
柳
信仰というのは行いの中にあるのですから、行いが正しくなければ信仰にはなり
ません。
佃
三七
三八
常に神さまの中を歩いているのだ。
欄
「われは神より来た人である」という信念が祈りである。
佃
人の話は親身になってきいてあげなさい。
人真似をせず、あせらず、じっくりと自分の持ち味を生かしていけばいいのだ。
自分の持ち味は、神のみ心にすべてをまかせる時、一番そして自然に生きてくる。
麗
言葉でいくら偉そうなことをいっても、心がつねに愛にみち、自分をかばう心の
ない、裸の心でなければだめです。
柵
自分をこまかく分析することは止めよう。人聞には長所もあれば欠点もある。欠
点にいつまでもとらわれず、長所をどんどん伸ばすように努力することだ。内観す
ることと、自己分析することとは違う。
悩
自分のやったことをいちいち言訳一しながら、自分をよく見せよう、見せようと
する根性は立派とはいえません。
備
寛容の心を養おう。ひろい心、すべてを受けいれる心。
葡
幸せな時にも感謝を忘れるな。なれてしまうと忘れがち。
三九
四〇
m
神は無限の包容力であり、人間は無限を極限の中に生かす者である。
稲
心をかまえるな。
………
神のみ心には底がない。これでいい、と止まるところはない。自分はこれでいい
みが
んだと思ったら、それで進歩はなくなる。常に常にたゆみなく、自分を磨くようつ
とめなさい。
伽
現象の姿のみをみて、いい悪いと軽はずみに判断するな。一夜あければ、大悪党
が大善人となる場合もあるからである。悪人がそのまま悪人ではない。
捌
ひたすらなる神への回向。たゆまざる自己反省。そうしたあなたの日頃の信仰心
が、いざという時あなたを救う。
擢
愛国心とは、日本一国の利害関係ばかりを考えず、日本がいかに世界人類の平和
と幸福に貢献出来るか、と考え、そのように日本を導いていく心である。
協
想いが清らかで明るくあれば、その人の生命は生きている。
四
潜在意識と表面の意識とが全く一つにならなければ、人間は本当に幸福にはなれ
ない。
四一
四二
協
自分を責めてはいけない。責めては救われぬ。自分をゆるせて、はじめて他人も
ゆるせる。
鵬
祈りとは想いを神霊波動に昇華させることである。
捌
宗教伝道にたずさわる人は、金銭に清らかであれ。お金を是非ぜひ取って下さ
い。といわれて、例えのどから手がでるほど欲しくても「いりません」といえるく
らいでなければいけない。
私がまだ若い頃、病人に頼まれて行ったりすると、お金をぜひ受取ってほしい、
といわれたが「とんでもない、いりません、いりません」と逃げまわっていた。気
がついてみると、ポケットの中に、いつの間にか誰かが入れてくれたのだろう、
お金が入っていた、ということがよくあった。必要なものは神さまから必ず与えら
れるのだ。
協
子供は親のしてくれたことの何万分の一も親に返していないのじゃないか。両親
への最大の恩返しは、世のためにつくすということである。世の為につくした徳は
おの
自ずから両親に、そして子孫代々を潤おしてゆく。
伽
やみ
あなたは光なのである。それなのに想いの手を闇に出す。手を出すから、ヤミの
中にだんだん入ってしまうのだ。光明の中にじっと入っていればいい。しかし、そ
はい
れはなかなか出来ないだろうから、祈りで神さまの中、光明の中に入れ、というの
四三
四四
である。つまり、自分の本体たる光の中へ入ってしまうことなのである。
㈱
たから
勇気は寳なり。
刷
長所と欠点は背中あわせにある。欠点ばかりをつかみ出して、正そうとするとか
邑えって萎縮してしまうから、長所をどんどん伸ばしてゆくようにすることだ。そうす
ると、やがて欠点は長所の中に小さくなって、のみこまれてしまう。私にも欠点は
あった。しかし、神さまにすぺてを捧げ切った時、長所のみが輝いて、欠点は見え
なくなってしまったのだ。人を指導する場合は、特にそういう点を気をつけること
だ。
超
くとノ
宗教というのは、空になったところから初めて第一歩が踏み出されるのである。
協
自分のやることは神さまのすること。自分のいうことは神さまがいう言葉。つね
に神さまと一つであると自然に想えるような心でいられるといい。
刷
ぎんちようりき
何事もそうだけれど、心を緊張させて固くなってはいけません。力むということ
は、やはりそれだけ自分がやる、という「自分」が残っているからです。
搦
人間というのは面自いもので、偉くない人ほど人に偉ぶって見せようとする。本
当に偉い人は自分を見せようとはしないものだ。
四五
四六
鵬
祈りは力んでするんじゃない。ふんわーりと只〃世界人類が平和でありますよう
に… … 〃と祈るのです。肉体の人間には何事もなし得ないんだ、肉体は凡夫なん
だ、神さまよろしくお願いします、とふんわりとおまかせすること。只祈るので
す。祈りに入って祈りに把われず、光に住して光に把われてはいけない。
佃
守護神の姿が見え、声がきこえて、いちいち教えてくれたらなア、と思っている
人があるだろうが、私は普通の当り前が一番いいと思う。
ヘヘヘへ
いちいち守護神の声をきいて、指図されて動くというのでは、ほんものではな
い。神我一体ではない。自分と神とがバラバラに分れている状態である。守護神の
声をきいてその通り出来る時はいい。しかし出来なかった時はどうか。肉体入間は
かえって守護神に把われてしまやしないか、守護神がかえって恐ろしくなってくる
だろう。それでは勇気というものがなくなってしまう。
たとえ、神の声をきいたとしても、それが是非なさねばならないことなら、体が
自然にそう動くのだし、実際の行動になって現われる。
つぐな
自分の行動に責任を持ち、自分の誤った行動はすぐ償いをする、という心になら
なければ、人間として一人前ではない。
自分が自然に行なったごと、或いは云ったことが、そのま玉神のみ心になってい
る、という生き方が神の子の本当の生き方である。
協
人間の一番大切なことは、威情想念に把われない、ということ。把われないとい
っても中に押しこむのではなく、また外に現わして他人に迷惑をかけることでもな
四七
四八
い。そういう想念が出て来たら、すぐ世界平和の祈りの中に投げ入れてしまうこと
である。そこで、あらゆる想念を消えてゆく姿なんだなア、と祈りの中にいれてし
まう。そういう常日頃の修練が必要なのである。
佃
私は楽天家だった。どんなにせっばつまっても、のんきで、楽天的にすべてを見
ていたよ。そうしていると、道が大きく開けたね。
粥
私がいつも思っていることは、神様事をぬきにして、この肉の身このま瓦で立派
な人間であること。人格が立派でなければ何もならない、ということだ。
神秘的な力も智慧も、これは天が与えて下さることで、肉体人間側の方ではあず
かり知らぬことだ。肉体入間側としては、あくまで人格を立派にすることを心掛け
ることだ。人格も立派、その上に神さまからの智慧も力も流れてくるという人にな
らなければいけない。
傾
結婚に夢を求めてはいけない。結婚生活はお互いの魂の磨き合いの場であり、業
を消し合う絶好の場なのである。
襯
自己満足、自己陶酔をしているうちは、本心を開くことは出来ない。
粥
この世で一番いけないことは、執着です。金銭への執着、権力への執着、地位へ
の軌着、土地への執着、子供への執着、等々あるけれど、肉体の自分への執着がす
べての執着の原因なのです。
四九
五〇
肉体的自分を喜ばせたいから、いろんなものに軌着が起る。業の自分を喜ばして
しゆう
くれる人に執してしまう、というわけです。
業なんか喜ばしてくれたってしようがないでしょ。消えてゆく姿なんだから。と
ころがそうでなく、業の自分を喜ばせてくれるものや、業の自分を喜ばせてくれる
人が嬉しくて嬉しくてしようがない。そんな人がその人にとっては善い人であり、
業の自分を喜ばしてくれない人が悪い人になってしまうのですね。
翅
普通、好きとか嫌いとか、善い人とか悪い人とかいうけれど、みんな自分の心で
計っているに過ぎないのです。本当に善い人をよいといっているんじゃないので
す。自分にためになる人を良い、ためにならぬ人は悪い、ということなのです。自
分の利害関係ですべてを見ているからですネ。
そういう心があるうちは、世界は平和にならない。ところがそういう心は、自分
ではなかなかなくせない。じゃどうしたらいいかというとーそういう想いは消え
てゆく姿で、すべてこの世の現れは想いにしろ、何にしろ、善悪ともども消えてゆ
く姿なのだから、消えてゆく姿と思いながら、その想いを世界平和の祈りの中に入
れてしまうのです。救世の大光明で消してもらうのですよ。
これを繰返し繰返しやってごらん。そうすると心がナッパリと光り輝いてくるか
らo
備
こ
因縁の世界は超えなければならない世界である。因縁があろうと無かろうと、そ
の世界を超えて、神と一体にならなければならない。だから、あくまでも自分の言
葉を通して道を説いても、自分の体を通して人を救っていても、それは自分がやる
五一
五二
のではなく、神さまがやらせて下さるのです。
幡
勇気とはあらゆる業想念に打ちかつことである。
帽
「お前の信仰がうすい」とか「想い方が足りない」などという責めるような云い
方を私は教えたことはありません。信仰が薄い、或いは想い方が足りないとして
も、それにはそれだけの過去の因縁があって、そうなっているんだ。それじゃダメ
だと云われたって、そう思っちゃうんだからね。
そこで私は、信仰が足りないという想いも、想い方が少ないという想いも、それ
らはすべて過去世の想い方のカスが今現われて消えてゆくんだなア、と祈りの中に
入れなさい、と教えているんです。人間の本来性には信仰が足りないも足るもない
んですよ。
今、世界平和を祈っているあなたは、神と直結しているんです。
粥
あなたが苦しくて悲しくて、威情想念のはげしい渦巻の中にまきこまれて、世界
平和を祈れない時、神さま! と思えない時、私があなたの代りに世界平和を祈
り、神さまに鳳謝しています。
囎
何もかも全部神さまの中に投げ入れるんだ! ということは絶対の真理だ。しか
し、実際にはそう出来ないからね。そこで消えてゆく姿という教えがあるんだよ。
全託しきれないもの、絶対に信じ切れない自分、それは過去世において神から遠
ざかっていた想念行為が、今現われて消えて行っているんだ。だから、消えてゆく
五三
五四
姿なんだ、と世界人類が平和でありますように! と救世の大光明に消して頂くつ
もりで、祈りの中に入れるんですよ。
私は頭ごなしに、人間神の子、完全円満、肉体なし、物質なし、とは説かない。
肉体人間は罪悪深重の凡夫なんだ、だからその凡夫を平和の祈りの大光明に浄めて
頂いて、神の子の姿を開いて頂くのだ、というやり方をとっています。
消、兄てゆく姿のない神の子観は、なまじ神の子観を知ったがため、人間をかえっ
て不自由な嘘いつわりの多い苦しみの底に突き落してしまう。人間は凡夫なり、と
あきらめ切った底から湧き出る祈り心。祈り心によって自覚させられる神の子観。
それが無理のない一番やさしい楽な救いじゃないかね。
靭
人聞は、私とあなたと彼というように、別々に存在していると思っているけれ
ど、本当は一つなのです。別々にある肉体というのはないのですよ。只、天命がそ
こにあるだけなのです。天命を完うさせる意識があるだけなのです。だから、本当
こ
に自由自在心になるためには、あらゆる体というものを超えなければいけません。
幽体、霊体という意識もなくならなければ、その体につかまって、不自由になって
しまう。
げだつ
体があるという意識を解脱することです。
棚
自分が無いということが一番のんきだ。
齪
人間はみな守護霊守護神によって導かれている。それを私はハッキリと知ってい
る。みなさんは只知らないだけです。しかし、知っていることと、知らないという
五五
五六
ことはそう大して違いはしない。日常生活における一挙手一投足さえも、守護の神
霊によって導かれているのだ、と信じることは、ハッキリ知っていることと同じに
なるのです。
鰯
神我一体になったといって、それでいいのではない。神は無限の進歩である。空
はますます深くなり、叡智はますます輝くのである。
三十代の神我一体になりたての私と、四十歳の時の私とは違う。また五聖者合体
の頃の私と、現在の私とはまた違う。日々刻々私は精進しているし、日々刻々私は
深く大きく、そして広くなっている。
私はどれだけ大きくなるのか、自分でもそれはわからない。だから人が私のこと
がわからないのも無理はない。自分でかんたんにわかってしまうような者では、大
した者ではない。
悩
私には度胸があるも無いもない。度胸というものが無いのです。だからふだんの
時も平常、いざという時も平常、とっさの時も平常そのものなのです。
慨
私の祈りは歩いていても、何をしていても祈っている祈りで、座らなければ、或
いは何か特別しなければ… … といってかまえなければ祈りにならないものではな
い。こう話していても祈っているし、冗談を云っている時も統一しているんだよ。
溺
美と調和が宗教の根本です。形の美、心の美がともにわからないのでは、真の宗
教信仰者とはいえない。
五七
五八
塀
あなたがもし嫌なことを人にきかされたら、なんとこの人はいやらしいんだろ
う、と自分の心の乱れの責めを他人に帰するのではなく、そういう話をきく因縁が
あったんで聞いたんだろう、聞いたことによって、私の因縁も、あの人の因縁も消
えていったのだ、と思うことです。
粥
あなたの生命ではない。神さまのいのちなのだ。
佃
私はお年寄りを尊敬する。生きることは一つの責め、といった詩人がいるけれ
ど、七十歳八十歳まで生きてきたのは、それだけで大変だったろう、ご苦労様と思
うo
㈹
こ
人間は一つのことに凝り固まると、心が不自由になって、態度にも生き方にも、
何か余裕がなくなる。やはり心が自由でないと、この人生をよく生きることは出来
ない。
個
いいわけ
私が一番嫌いなのは言訳。自分が間違ったことをしておいて「これはこうだから
仕方がないんだ」とか「私はまかせてあるんだからいいんだ」というのは言訳です
よ。人がなんといおうと、なんと思おうと、絶対に言訳をしてはいけない。悪く思
われたら思われたでいい。すべて神さまが知っているんです。だから神さまにまか
せておいたらいい。まして自分に言訳をしてはいけない。これは一番悪い。それで
は自分が進歩しません。
五九
六〇
悪かったら「悪かった、神さまごめんなさい、もうしません」とあやまってしま
う
えばいい。そうすれば神さまは「ヨシ愛い奴じゃ」とゆるしてくれるんですよ。そ
こに消えてゆく姿があるんです。
言訳をして「あれは仕方がない。あっちが悪いんだ、私がやったって仕方がない
じゃないの」これはダメ。業をくっつけたま玉だからね。「あっちが現象的に悪い
けれども、私にぶつかってくるからには、私の中に何か業があったんだろうな。二
人の業がぶつかって消えてゆくんだろうな。あ玉早く消えてゆきますように、神さ
ま、世界人類が平和でありますように」とやった時に、はじめて消えるんです。
仕方がない、なんてありゃしない。すべて因縁因果の撮理によって現われてくる
んだから何かやられる時には、こっちがどんなにいいことをしていても、何か中に
過去世からやられる因縁があったんだからね。あ二これで消して下さって、有難う
ございます。ということになれば菩薩心になるわけです。そういうようにならなけ
ればいけませんね。
齪
生命というのは一瞬の休みなく働いているのです。生命は働かないわけにはいか
ない。だから生命を自由に働かせるために、想念の方をグラグラ動かしてはいけな
いのです。想念をグラグラさせておかなければ、生命はすなおに働くのです。想念
をどこに止めておくかというと、神さまの中に、神さま! って世界平和の祈りで
入れてしまって、想いを動揺させないでおくと、生命がより生き生きと自由に働き
出すのです。
悩
持って生まれた度胸のない人でも、信仰心が深くなれば勇気が出てくるのです。
六一
六二
悩
悟った人は自分で偉いなどと云わない。黙って人のために霊している。下積みに
なりながら、人に立てられても立てられなくても、何されても、黙って陰になって
人のために蓋している。そういう謙虚な人が偉いのだ。
備
A は百メート川を十秒で走る。B は十一秒で走るという場合。A が「おれはお前
より早いそ」と云っても、B はそうだと思う。実力がハッキリ現われている揚合、
威張っても他の人が本当にそうだと認める。
しかし、宗教の世界では実力はわからない。宗教の世界で「おれの霊が高い、お
前の方が低い」とか「私は悟っていて、お前は悟っていない」といっても、それは
そういうだけにすぎない。
自分の中に、謙虚な気持が起った時には立派になった、高慢な気持が起ったらそ
れだけ下落したのだ、と思えばよろしい。それが自分を計る適当なバロメーターで
ある。
柔和なる者地を嗣がん、とイエスはいい、高慢は芸の行きどまり、と俗にもいっ
ているように、やはり高慢ではいけない。
鵬
謙虚になれ、といって卑下慢になってはいけない。私なんかだめです、だめなん
です、と心をへこますな。鼻の低いのは隆鼻術で直るだろうが、心の鼻のへこみす
ぎはなかなか直らない。何故なら、自分でいいと思っているし、人も悪いとは思わ
ないからだ。
なぜもっと素直にスーッとしないのか、と時々思う。当り前でいいじゃないか。
六三
六四
当り前に生かされている、自分の実力のま瓦精一杯にやればいい。精一杯以上にや
ろうとするから、くたびれてしまうんだ。精一杯にやって一番いいことは、やっぱ
り謙虚な方がよいと思う。まだ足りないナ、もっとやらなければ… … と鑑せば墨す
ほどいい。
夫と妻の間でも同じこと。蓋せば壷すほどあ玉有難いな、と思って相手が蓋して
くれる。
佃
見せる心が一番いやらしい。私は善人です。私は信仰が深いんです。私は愛深い
んです、と見せられてごらん。糞を見せられているようにいやになってしまう。
私の教の中には、高慢というのもなければ卑下慢もない。素直に裸の心でそのま
玉生きればいい。みんな神さまにやらせて頂いて有難いなア、私がやるんじゃない
んだ、みんな神さまがやって下さるんだ、有難いな、という生き方を失わず、常に
そこから出発していればその人には進歩のみあって、後退とか停滞とかは,な闘。
鵬
一日一日古い自分は消えてゆく姿として、神さまの生命の光を頂き直し、一日一
日新しく生れかわることです。
鵬
からだ
人間はみな光の流れ、大光明の一筋なんです。「体」というのは無いのです。只
仮りの姿として、神の働きを実現するために「私」があり「あなた」があり「彼」
があるのです。
柵
こう
その人が悪いのではない。業にまきこまれてしまうのだ。あいつは悪い奴だ、とい
六五
六六
われる人は、実は業をそこに結集させて、代表的に業を消している役目を荷ってい
るのである。あΣ ご苦労さま、あの人の天命が完うされますように、と祈れる心は
仏の心である。
m
今迄の肉体人問観を解脱しなければ、この世界は平和には絶対ならない。私たち
の運動は、この世界をだんだんよくして行こうというのではなく、全く新しい流
れ、新しい世界を創るのである。
といって、急に創るというのではない。あエ私はこんなにも変っていたのか、と
いうように、知らない間に新しい人問を創り、新しい世界を創ってゆくのです。
麗
三つのさまたげ
e、権勢欲・虚栄心⇔、情欲㊨、物欲(金銭欲)
これらの想いを、まず消えてゆく姿として平和の祈りの中で、神々に消して頂く
ことだ。真実の天命はその後から開かれる。
弼
「私は宗教をやっています」と「宗教」をぶらさげている人から「宗教」をとり
去り、当り前で、それでいい人にしたいと私は思っている。宗教のことしかわから
ない狭い視野の人では、この世界で本当に働けない。
徊
まか
親は子供のことが何かにつけて心配だと思う。お委せしてあるんだから、何も心
配しなくてもいい、というのは真理だけれど、お委せしてあるからこそ、神さまの
み心が心を配るという愛情の形で現われるのじゃないかね。お委せしてあるから何
六七
六八
もしないでいいというのじゃない。そこは間違いやすいところだね。
柵
きんでんぎよくろうゆうゆうせいひん
人間は清貧に甘んじる、という気持が大切だ。と同時に、金殿玉櫻にも悠々と住
めるという心をもつことも大切だ。
備
慧鰹にならなくともいい・自分なりの鵠げまま・清らかで・明るく、柔和で、光
り輝く人になることだ。
榊
汝の敵を愛せよ、ということはむずかしいことだ。うっかりすると自分の都合
で、味方まで憎む人があったりする。自分に都合のいいことをしたから愛する、
というのではなく、例えば自分に不都合なことをした人、自分に不利益なことをい
った人にも、愛の光というものが自然に流れているようでなければいけない。
冊
りようかん
良寛さんの素直さには参りました、と思う。心を磨き、自己を向上させてゆくの
に、自分はこういうようになりたい、こういう人ならばなれるだろう、という目標
をたてて、常にそれに向って精進してゆくというようにすることはいいことだ。
佃
人間というのは、いくらでも偉くなれる。いくらでも進歩出来る。だから素晴し
い。
㎜
人間というものは不思議なもの。本体は光り輝いて、宇宙を自由にかけめぐり働
いているのに、肉体界に来た自分は、そういうような人になりたいと願望する。面
六九
七〇
わこうどうじん
白いものだ。そこに人閲としての進歩向上があるのだろうし、また和光同塵という
こともなされるわけだo
捌
人間には心の中で、善いこと悪いことがちゃんとわかっているんだ。それならば
徹底しなければいけない。善なら善に徹しなさい。悪なら悪に徹底しなさい。そう
すれば真実のことがわかる。
慨
スヅカラカンに心をさらけ出して、そうしても天地に恥じないという人聞になり
たいね。
鵬
仕事をする、しない。仕事をした、しないは別にして、天と地が全くはなれな
い、本心の自分と肉体の自分との間が全く少しの隙間もない生き方というものをし
たいね。
悩
自慢高慢バカのうち。おれは偉いんだ、というヤッは一番バカだと思っていい。
自分で悟った、なんていう人は本当に悟っていないのだ、と思っていい。
商
素直になれ、といっても「ハイ」と出来る人はなかなかない。出来る人はそうい
う心がすでに備わっている人である。だから善い素質、つまり素直とか柔和とか、
剛気とか明朗というものは、今生の自分のものではなく、前生さんの修行の賜物で
ある。
そういうことから、今生は過去世の業の借金返し(消えてゆく姿) と同時に、来
七一
七二
生のために新しく輝かしい貯金をすることである。だから今生がどんなに苦しみ
悩みが多い一生であったとしても、それは大したことではないのだ。どんなに不幸
な環境の中にあっても、どんな貧乏の中にあっても、病弱な体であっても、想いを
きれいにきれいに澄み浄まらせ、本心を輝かすことこそ、最も大事なことなのだ。
鵬
この世で一番の才能は、宇宙の神秘、生命の真、善、美を現わす才能である。
僻
あれも運命だ、これも運命だ、という人がいます。大体の人は、自分が運命の流
れの中に入ってしまって、その流れに左右されているようです。
ところが本当は、自分というものと運命というものは違うのです。運命というも
のは、前生を含んだ過去において作ったものが、今現われて消えてゆく姿だけのも
のなのです。
運命それ自身が今の自分ではないのです。たとえ運命が善かろうと悪かろうと、
今の自分のものではないのです。すべて過去世からの想念行為が現われては消えて
ゆく姿なのです。ですから運命環境が悪くても、それは今の自分が悪いからではな
い。また運命が素晴しくよくても、それは今の自分が善いから、偉いからというわ
ちくせき
けではない。それはすべて過去からの想念行為の蓄積が、現われて消えてゆく姿な
のです。
ですから運命や環境が悪いから、といって今の自分を嘆き悲しみ、責め卑下する
うぬぽ
ことはありません。また運命環境がよいからといって、戚謝こそすれ、自惚れたり
威張ったりしてはいけません。それはみな消えてゆく姿なのです。
では今の自分はどこにあるか。今の自分は神の中にいるのです。神の生命と全く
七三
七四
一つの個性をもった永遠の生命なのです。そして現われてくるものはすべて消えて
ゆく姿。
この信仰に徹すると、生き死にの恐怖不安に把われなくなり、永遠に生きつづけ
る生命がある、という不動心を会得出来るのです。
鵬
人間は誰でも一度はどん底を通るもんだ。その時、どん底の苦しさを恐れて逃げ
ようとすれば、いつまでたっても運命は開かれない。それはちょうど、どうしても
泥んこ道を通りぬけねばならないのに、汚なくなるのを恐れて、他にいい道はない
かと右往左往しているうちに、自分がかえってますます泥んこになってしまうよう
なものだ。
この泥んこ道の他に目的地に到達出来る道はないんだから、少しぐらいの汚れを
恐れず、前進することだ。逃げてはいけない。前に進むことだ。その泥んこの先は
平坦な美しい道がひろがっているのだから。
鵬
どん底の苦しみを暫くの問ジッと耐えていれば、必ず運命はよくなるのです。そ
れには神さまの愛を信じることです。神さまはその人に耐えきれぬ苦しさを与える
わけがありません。しかし苦しくてしようがない時は、私のところにいらっしゃ
い。統一会に出て神さまのお話をきき、口笛や柏手をきいていれば、苦しみをのり
超えられる勇気と明るい心が、自然とわいてきます。
不幸が出て来たら、不幸をそのまま不幸と見ず、これは過去世からの業想念の消
えてゆく姿で、あ瓦これは必ず善くなる前兆だ、と思える心境にまで自分を高める
信仰を持つことです。それには消えてゆく姿で世界平和の祈りをひたすらすること
七五
七六
です。知らぬ問に守護霊守護神、救世の大光明が心境を高めてくれます。
㎜
他人の悪運をなおしてあげる祈り。
「一日も早くあの人の業が消えて、本体があらわれますように、守護霊さん守護
神さんお願いします、世界人類が平和でありますように」と相手の守護霊に祈るこ
とです。
矧
最も悪い時が開運する時である。
齪
明るく大らかであるということは大切ですよ。あまり自分をいじめることはよく
ありません。やりたいことは堂々とやることだ。失敗したら消えてゆく姿、すべて
祈り心で出発した行動をすることです。そしていつまでもあんまりいい悪いと自己
批判をしないことです。大らかに生命をのびのびと生かすことです。
儲
宗教の根本問題は何かというと、肉体の自分がすべてやるんだ、やっているん
だ、という観念を捨てることです。肉体がやっているんだ、という考えのあるうち
は、宗教ではなく、修養です。自分は立派にならなきゃ、自分はこうしなければい
けない、というのは修養なのです。
宗教というのは根源へ、神のみ心の中へ入ってしまうことなのです。肉体的に現
われている自分というものは、一個の肉体の人間ではなくして、神さまの分生命と
して、神さまの大光明の一つの光線として現われて働いているんだ、ということに
なるのです。
七七
七入
だから肉体側の想いでもって、この世界を平和にしよう、というんじゃなく、ま
た悟るというんじゃない。肉体側の想いのなすべきことは、世界平和の祈りで神さ
まのみ心の中、大光明の中に自分が入ってしまうこと。これが一番大事なことで
す。
そうすると、大光明のほうから、本心の自分肉体以前の神霊の自分が、そのまま
肉体を通して現われてくるんですよ。だから肉体側としてはスイッチをひねる役
目、神さまのみ心の中に入る役目をすればいい。それを全託というのです。
悩
個人の誰某というものが、自分であると思っている以上は、性癖とか、その人の
生き方とかいうものに把われて、根源の生命がそのまま流れてこない。だから個人
の誰某というものは、消えてゆく姿として祈りの大光明の中に入れ、大神の光明の
一筋がここに流れてきているんだ、と思うことです。そうすると実に悠々と楽々と
生きられるものだよ。
悩
霊的にわかり始めた時、途中でパッとわからなくなってしまったらどうしよう、
と思うかもしれない。また統一していてそのま鼠意識が戻らなかったらどうしよう、
と思うかもしれない。また道の話をしていて、途中で急にボヤーッとして、わから
なくなって話が出来なくなってしまったらどうしよう、と思うかもしれない。しか
しそんなことは絶対にない。途中でわからなくなることはないし、意識はちゃんと
戻ってくるし、ちゃんと話せることが出来るのである。
自分に与えられた天命は必ず完うされるもの、そう確信してのんびりしていると
いい。
七九
入○
鵬
人間にとって一番大事なものは、いわゆる犠牲精神といわれている愛です。只、
相手の本心を喜ばす、つまり相手の魂を本当に立派にさせる、そうすることに自分
の喜びを見出してゆく、ということです。
研
人聞は自分に不都合な時は愛せない。憎むこともある。しかし、自分に好都合の
時は愛する。自分に不都合な時も好都合な時も、かわらず愛せられなければ、本物
ではない。
酩
人のことばかりを想っていれば、それが自分に返ってくる。
珊
〃消えてゆく姿” は自分が行うことであって、人に押しつけるものではない。
㎜
自分のいい持ち味をそのまx生かしつづけて、立派になってゆくことが一番いい。
細
私が育てたい人は、普通の人でもって、そしていい人。謙虚でしかし本心が明る
く輝いている人。愛深い人。
私は行者にうちの人たちをさせようとは思わない。幽界のことがわかったとて何
になるか。そんなことはわからなくてもいい。現実的に愛と誠にあふれた言行がな
し得る人になってもらいたい、と私は切望する。
蹴
口で説教をするな、体で示せ。
八一
八二
郷
熱狂は危険です。私自身、若い時は熱狂的だったから、危険だということを経験
上よく知っている。一歩踏み違えると、自分自身を破滅させてしまうし、その属す
る団体なら団体をめちゃくちゃにさせてしまうからね。けれど今日までは熱狂的ぐ
らいでないと、その目的が達せられないんだね。そこがむずかしいところなのだ。
しかし、それは今迄のことであって、これからは地味な、静かな運動でなければ
本当の仕事は出来ない。それはその運動の中心者が私利私欲のない人でなければい
けない。けれどそういう人はいないんだね。権力欲というのが常に残っている。宗
教団体においてそうだからね。私利私欲をなくすということがむずかしいんだね。
いやそんなことはない、と思う人がいるだろう。自分個人としては私利私欲がな
く、その主義、運動に挺身していても、その主義、運動、団体に私利私欲というの
が出てしまうのだ。他を排撃したり、他を打倒しようと策動する。だから自分自身
とその行動というものを、よくよく冷静に見つめなければいけない。
剛
地球が亡びては、自分の運命も、家族の幸福もあったものではない。
今という時代は、目に見える世界においても、目に見えない世界においても、地
球が滅亡しそうな様相にあふれている。それは戦争という姿だけでなく、天変地異
という形で現われるかもしれないのである。
今こそ、日々世界平和の祈りに徹しなければいけない。わがま瓦も、自分の楽し
みも、欲望もひとまずおいて、祈りに祈らなければいけない。
祈りは目に見えるものではない。だから、まず霊性に目覚めたる者から祈りの生
活に徹して、その生き方、その人自身の人格、行為によって、人々に悟らしめるこ
八三
入四
とである。
鷹
山に入り、滝に当り、座禅を組むことは、肉体的には苦しいかもしれない。しか
しそれは私にいわせればいとやさしいことだ。はじめからそのつもりでいるし、そ
れのみになるから覚悟が出来てしまう。だから精神的には楽だというのである。
しかし、都会や日常生活の束縛された中にいると、そうはいかない。いつ如何な
る時にどんなことが起ってくるかもしれない。どんなことが身にふりかかってくる
かもわからない。その中にいて、神我一体になろう、悟ろうとすることは、山にこ
もって滝に当ることより、なおつらく、なおむずかしいものだ。
古人はうまいことをいったもんだ。大聖は市井より生ずと。本当にその通り。
鵬
私は想念をなくせとはいわない。なくすことはむずかしいと思うから、想念を転
換しなさい、というのです。その一番いい転換方法が世堺平和の祈りです。
㎜
人の口を一々気にするな。神のみに忠実であれ。
鵬
消えたんだ、消えたんだと思うことは、内なる神性を輝き出すことと同じであ
るG
㎜
人間の肉体はいつか死ぬもの。けれど人聞は生きる限り生きねばならない。生き
ねばならないのなら、一生懸命生きよう。
入五
入六
㎜
明るいことのみを想え。神は明るい心を喜び給うからだ。
釦
生命を生かしている時とはー人の幸せを願っている時、人のために働いている
時。自分の本体を究めようとしている時。自分の天命を完うしようと努力している
時。しかし、この世にはなんて生きている死人が多いことだろう。
躍
いつも神に対するように、人に対することです。
都
キリストは一人ではない。仏陀も一人ではない。すべての人の本質はキリストで
あり、仏陀である。
川
いいことをするのでも「自分」というものがあっては、本当のいいことをするこ
とにならない。自分がきめた「から」「わく」からぬけ出なければいけない。
舗
自己をじっと見つめなさい。澄み切っている自分が真の自分。汚れているもの、
不安動揺しているもの、不明朗なものは、すべて真の自分の前を通りすぎてゆく雲
である。
鵬
偽善者になるな、偽悪者になるな。私はこれだけの者、と裸の自分を現わせ。そ
してもっと進歩したいと努力している、といいなさい。
八七
八入
川
見せかけはいけない。人真似もいけない。自分の個性をそのまま素直に生かす事だ
鎚
業より離れるには、自分の別知酬馴を見ヶめること。
湘
凡夫性がなければ人を導くことは出来ない。
㎜
a んなさわりといえども、本当に守護霊、守護神につながり、神をたたえ、平和
の祈りをしていれば、自然と消える。
劉
否定的な想いや、人に恐怖を与えるような言葉は、それがたとえ守護霊さんから
きたように思えても、その霊感を否定することである。
盟
くとノ
自分の肉体は神の使いたもう器です。空になれば神入り来たるのです。
郷
空になるには、守護霊守護神に一切をまかせることです。
惣
威謝の心はおまかせの心である。
贋
神の働きかけは、必ず守護霊を通じてあるのである。
贋
その人の本当の偉さは、その人の行為を見ればわかる。どんなに立派な理論を説
八九
九〇
こうと、どんなに素晴しい霊力があろうと、その行為に愛が欠けていたら、その入
は聖者とはいえない。
η
悪いことが出て来たら「あ二これで過去の業が消えたんだ、これで必ずよくなる
のだ」と深く思うことです。
躍
心が神さまにつながっているのが、一番幸せです。
圏
心配や悩みは毒素となって身体にたまるが、生命力が下痢や疾に出させて消して
くれる。
㎜
自分の内にある生命は神そのものである。その生命の力を無駄につかうことは、
神を冒涜するものである。
圏
た父ひたすら有難うございます、と神の中へとけこむこと、これが祈りである。
躍
欠点はそのままにしておいて、長所をどんどん延ばせばよい。堂々と生きよ。
鰯
神さまといつも二人。
脳
安心するために宗教に入るのであるから、恐怖を与えるような宗教はニセモノで
ある。
九一
九二
鰯
まかせると心に余裕が出来る。時間にも余裕が出来る。少ない時間で大きな仕事
が出来る。ふつうの人の何倍もの仕事が出来るものです。
鰯
宗教精神とは愛と真と美である。特別に宗教団体に入らずとも、この精神を生か
せばよいのだ。
留
非凡ならんとするより、平凡たれ。
珊
日常、ふつうの生活、平凡な生活を送りながら、全人格から暖かいもの、浄いも
の、さわやかなものが湧き上つてくるようになることです。
圏
愛の祈りは人を動かす。
脚
一人を愛しつづけられる人は幸せだ。
一人を真実に愛せず、
それでいて多くの人をも愛せない人程不幸な人はいない。
多くの人々を愛しながら、
その一人一人を心の底から愛しつづけられる人
そんな人を聖者というのだろう。
卿
小の虫を殺して大の虫を生かす生き方はまだやさしい。
九三
九四
小の虫をも大の虫をも同時に生かす生き方がむずかしい。
躍
人生には悲しいことが多い。だが悲しいことの底には、意外と明るい光が輝いて
いる。
鰯
人間は神に忠実でなければいけない。と同時に自分に忠実でなければいけない。
自分をごまかすな、神の前に裸であれ。
壺心い自分、神の前に恥ずかしい自分であつたらば、それは過去世において神からは
なれていた想いが、今、神の光に照らし出されて、消えてゆこうとして現われた姿な
のであるから、神さまごめんなさい、神さまのお光で浄めて下さい、と世界平和の
祈りとともに神さまにお渡ししてしまうことである。
劉
いかなる苦しみも時がたてば、必ず消えるのだ、と知ることは救いである。
贋
現われて来た事柄、想いをつかまえて、いい悪いと分別しているうちは、心の平
和は得られない。
聞
どんな環境にあっても、平安な心、明るい心、正しい心を貫いていく行為が、あ
なたの運命をひらくのだ。
聞
その道の奥義をきわめた人は、その道のことをあまりしゃべらない。喋々としや
べる人があったら、その道のことをまだよく知らない人といってよいだろう。
九五
九六
廊
人のふりみて我がふり直せ。
いろいろな人問を見ていると勉強になるよ。人の誤った行いや態度を見れば「あ
瓦あんな人間になりたくない」「あ瓦いう失敗は私はすまい」と思う。またいい行
為を見れば「私もあ二いうようになろう」と思う。
瑚
何のお話から出たのか忘れたけれど、
「良寛さんは偉いね」と先生がおっしゃった。
「船頭に船から落されて、波のまにまに浮いたり沈んだりしていた。み心のまま
に、とぷかぷか浮いていたんでしょ。あまり悠々としているので、船頭があわてて
助け上げたら、わざわざ落した船頭に『あなたは私の生命の恩人です、有灘う』と
合掌した話。全く頭が下がる。とっさにみ心のま瓦に、沈むまま浮かぶまま、なんて
なかなか出来ることじゃありませんよ。
とっさの時に、その人のありのま玉の姿が出るね。だからとっさに驚いたら、あ
工私はまだダメだなあ、と思わなきゃね。
黒住宗忠がそうだったね。これからお話か何かしに行くところだったのでしょ。
川にかかった板橋が大きくゆれて、身体がぐらりと傾いた。その時ハッと驚いた、
というんだね。渡り終えて、河原の上に座して、天を仰ぎ『あ瓦天照大神さま、御
心を驚かしまして申訳けございませんでした』とわびたのでしょ。それをみんなの
前で、私は修業がまだまだ足りないと話した、というんだね。
言葉や文字ではなんとでもいえるし、書ける。けれど実際にそれが行なえるよう
にならなきゃ。言ったり書いたりしたら、そうなるまで精進努力しなければなりま
九七
九入
せんね。とっさに出来るように修行することですね。
良寛さんのお話、黒住さんのお話、いいお手本だね」
㎜
もしピスト川を突きつけられたら、いやピスト川でなくてもいい、丸木橋の上を
渡っていて、グラリとしたら、誰でもハッとするに違いない。
しかし、うちの人たちはそのあと〃あ玉これは消えてゆく姿だ、世界人類が平和
でありますように… … 〃と祈るか、とっさに〃こいせんせーい〃と思うでしょう
ね。そして心が平安にもどるでしょう。しかしもう一歩す二んで、例えば、西郷南
洲が雷がそばにおちても平然として立っていたというように、つまり、自分の天命
を全く信じていたから、死ぬ時は死ぬのだ、とびくともしなかったというわけです
ネ。そのように、うちの人たちも、常にそのまま平常の通りで、なんとも心がゆる
がない、動く心がない、というところまで行ってほしい、と私は願っているんで
す。
祈りが深くなってくれば、そうなれます。
矧
肉体というのは、本心の光を地球界に輝やかすために現われているのです。た
だ、肉体の自分、自分、自分という想いがそれを邪魔しているのです。そういう想
いがなくなると、本来はみな如来さまなのだから、如来さまの自分の姿や光がその
ま二現われてくるのです。
鯉
自分を出そうと思わなくとも、ふんわりと自分の座を守っていると、光が出てく
る。意気ばったり、事柄に把われたりするとかえって光を邪魔してしまうから、ふ
九九
一〇〇
んわりと柔らかく、素直に、神さまが自分を使って下さることを信ずることだ。謙
虚な気持で、神さまにおまかせすると、日常茶飯事の当り前の生き方でいながら、
その生き方が光ってくる。
鰯
感謝の想いは光です。
脳
涙を流すにもいろいろあります。悲しい時に流す涙、嬉しい時に流す涙。しか
し、喜びの涙、戚謝の涙、それは光です。
鰯
人間はどこかぬけているほうがかわいい。
鰯
人のうわさを信じてはいけない。
脇
真剣に神を呼べばそこに神は現われる。.ただ神さまを呼ぶ場合に否定しないこと
だ。〃呼んだってだめだ〃という否定する心があっ瓦ら、それは消えてゆく姿だと
思って、否定する想いを否定するのだ。そうすると神はスーッと現われる。
珊
真剣に行じて、余裕を失うな。
珊
美とは威覚以前のひ父きであり、真善美の頂点にあり、神の御心を現わしたもの
である。愛と調和の現れである。
一〇一
一〇二
㎜
美しきものは神の命のひ父きなり。
矧
一番悪そうに見える時、一番どうにもならないようになった時、その時が一番夜
明けに近いのです。いいことが必ずくる前兆なのです。
鯉
苦しみが多ければ多いほど、深ければ深いほど、のちにくる喜びも多くまた深い。
鰯
戚謝されようとされまいと、目立つと目立つまいと、人のためにつくそう。陰徳
ということが大切なのだ。それは天に寳をつんでいることなのだから。
脳
貧乏になろうが、病気になろうが、何があろうが一寸も驚かない。少しは驚くけ
れど、あ瓦これは消えて行く姿だ、と祈り心になりきってゆける。そういう人間に
仕立てあげるのが私の役目です。
朧
何があっても驚かない人問、
何があっても憎しみの出ない人間、
何があっても常に愛深い人問、
そういう人聞になってほしい。
珊
人の話を心からきいてあげられるようになることです。これは大きい人物になる
ための一つの条件じゃないかな。
一〇三
一〇四
鯉
大らかな、ゆったりした暖かい人間になろう。
鵬
この世界がよくなるのも、悪くなるのも、自分が立派になるか、ならぬかだ。
㎜
前生からの想いのくせに厚くさえぎられて、自分の中に光り輝いた素晴しいもの
があるのに、自分も人も気づかないことが多い。しかし、或る機縁によって、突然
そのかくされていた素晴しさが発現される時がある。
だから、その人が子供であろうと、どんな人であろうと、馬鹿に出来るものでは
ない。どんなに偉くなるかわからない。極悪人がすばらしい聖者に変貌する時もあ
る。
或る人に「病気の治る方法」と書いて、先生が手渡された。それには、
「どんな想いが出て来ても、そのたびに神様ありがとうございます。という想い
にみな変えてしまうこと。そうしていれば病気は治る」と書いてあった。
㎝
主よ、主よと呼ぶものばかりが天国に入るのではない。という聖書の言葉がある
けれど、本当の言葉です。
いくら神さま神さまといったって、行いが普通の人以下では何をかいわんやで
す。
愛が深くなければ、才能があろうが何があろうが、それが生きてこない。まナ、
心やさしい人になることだ。
一〇五
一〇六
肥
俺が偉いんだ、という者があったら、それは大馬鹿者。偉い偉くないといったと
て、神さまから見れば五十歩百歩。同じようなもの。地球を宇宙的に見れば、ヒマ
ラヤの高山も、十メートルや五十メートルの山も一寸した凸凹に見えるのと同じよ
うなものです。
脇
うつわが
自分の体は神の光を通す器だと思うこと。相手が病気の場合、我があればあるほ
ど、肉体人間の小さな力になってしまう。自分がやってやるんだ、という時には我
になってしまう。自分で治るかしら、なんて思うこともいらない。どうぞ神様、癒
したま・兄、と神様の中にあずけてしまうことです。自分は気が弱いとか、強いと
か、自分は学問がないとかあるとか、経験がとぼしいとか豊富だとか、そんなこと
じゃない。た父神様のみ光を通すうつわとならしめたまえ、と無心になったら、そ
の人は強いのです。
脳
この世界をよくしようと思ったら、まず祈りに徹することだ。
篇
陰徳をつむことが一番いい、自分の名を出そう、自分を知らせたいというのは最
低だ。
鵬
むしず
神さま、仏さま、と拝みながら人をいじめているようなヤッを見ると虫酸が走
る。そんなのなら、宗教なんか止めてしまって、一生懸命働いて、お金をかせぎ、
まず自分の家族に豊かな生活をさせてやれ。これは宗教以前のことだよ。
一〇七
一〇入
㎜
予感がしたとか予戚しないとか、いうことがあるね。行っちゃいけない予威がし
たからどうしようか、行こうか行くまいか、なんていっている人がいるらしいけれ
ど、およそバカバカしいね。本当に行っていけないものなら神さまはいかせはしな
い。予鳳とかなんとかより、行かれなくなる状態になる。神のみ心というものは、
もっともっと深いところにある。
あたり前でいいんです。行かれなかったら行かなかったほうがいいんだし、人に
会えなかったら、会えなかったほうがいいんだ。だから、ありとしあらゆるものが、
みんなそれでいいんだ、ということになるとそれは悟りだろうね。老子のいう無為
に為せだ。それで一生懸命自分の仕事をするんですよ。サラリーマンは会社へ行っ
て一生懸命働き、商人は一生懸命商売することです。
水をあびたり、山にこもったりして修業をしなくとも、もっと近くに最もきびし
い修業揚がある。それは家庭生活という修業場である。人間は自分に近く親しいも
こう
のに、業をぶつけるもの。業をぶつけても、ぶつけられても、自分も人も痛めるこ
となく、業を消せ、家庭内が調和していけるようになれば、どこに出たって立派な
ものだ。
㎜
「或る会社の社長が、先生に社員へ精神訓話をお願いしたい、といっておられま
したが……」と先生におききしたら、
「私はいかないよ」と即座にお答えになった。「単なるお説教ぐらい効果のない
ものはないよ。お説教なんてみんな聞いていないからね。〃求めよさらば与えられ
一〇九
一一〇
ん、叩けよさらば開かれん〃というように、求めていない人にどんなお話をしても
無駄だ。
会社の経営でも、精神的にやさしくやっても、物質的によくしてやらなければ、
社員は『なんだうちのおやじはケチだ。いい人だけれどだめだ。あれは使えない
よ』ときてしまうからね。ところがバサッと小言をいう時は激しく、ぶんなぐって
も、やるものを他より多くやれば『うちのおやじは話せるよ、やかましいけれど
話せる』というようなものでね。社長なら社長の人格から出てくるもので、社員を
引張ってゆけるようじゃなくちゃね。その人の前に出たら、働かなくてはいられな
い、どうしても怠けていられない、という気がするとかそういうようなのが、体中
からにじみ出てくるようになればいいんだ」
㎜
真理は天より平等に与えられている。教祖や会長となるのも、それは前生の徳の
結果。悟りと教祖、会長という地位が全く一つであれば立派であるが、大体はそう
でない。たとえ立派な真理を説き、それによってたくさんの人が救われたって、そ
れがその人の悟りの程度を示すものではない。悟りとはあくまで自己自身の想念行
為にある。言葉と行為とが一致せぬ生活では悟った者の生活とはいえぬ。まず戚情
を超えることが、悟りへの第一歩である。
矧
どんな人も馬鹿にしてはいけません。その人の中に、どんな立派な素質がひそん
でいるかわからないから。
鯉
気の小さいのを大きくするにはどうしたらいいか。
一一一
一= 一
「守護霊さん守護神さんがついていて下さるんだ、そしてうまくやって下さるん
だ、神さまありがとうございます」とひたすら想うことです。
鰯
学校で勉強するのがこわいから、社会で働くのが嫌だから、宗教信仰団体に入
ろうというのでは、身体が社会生活から浮いてしまいます。
嫌なことから逃げてはいけません。嫌なことから始めなさい。神はあなたの中
にいるのです。嫌だなと思うことを、神さまを呼びながら、必死な想いでなさ
い。そうすればノイローゼなどパッと消えます。
矧
どんな小さなつまらないようなことと思える仕事でもいいから、一生懸命やりな
さい。そういう生き方の中にこそ、平和運動が生きるのです。
鰯
人がうらやましい、自分もあ玉なりたいけれどなれない。環境の相違、才能の相
違で希望が達成されない、というのでノイローゼになる人が多い。自分の環境、自
分の心をまず正直に見つめることです。
鰯
世間にはいろいろの人がいて、いろいろなことをしている。それらの人々には長
所もあれば短所もある。しかし少しでも人類の平和のため、人間の幸福のために働
いている人があったら、その短所欠点を責めず、長所のみを称揚するようにするこ
とだ。人の幸せのために働く、人のためになっている、ということはそれだけで立
派なことだからね。
一一三
一一四
鯉
こ
凝っては思案のほか、という諺があるが、宗教にこっている人というのは困り者
だ。この世のつきあいが出来ない。この世の人々との調和がとれなくては落第生で
ある。私は、この世のことも普通に出来て、しかも中味は非凡なるものを持ってい
るという、そういう人になってほしいと思う。
珊
生命すごやかなるものは美しい。赤ん坊はいのちそのまエに、生かされるままに
生きている。だから赤ん坊はかわいいし、見ているとホッと気持が和むものだ。
生命そのまΣ に生きることはいいことだ。
鵬
信仰ということは、神さまのみ心にまかせ切ることである。これより他に何もつ
けたすものはない。
どんなことが現われようとも、これでいいんだ、神のみ心なのだ、と思えるよう
になることである。しかし、それはなかなか出来ないだろうから、すべて良いこと
も悪いことも、消えてゆく姿なのだ、世界人類が平和でありますように、と祈るこ
とである。これを徹底的に行ずることよりない。
㎜
あまり人のことに気をつかい過ぎて、自分が疲れてしまう人がいるが、そういう
人には図太い神経というのが必要だね。人がどう思おうと、どう云おうと、そうい
うことは一切気にしないことだ。気がやさしい人はそれくらいで丁度いいのです
よ。
一一五
一=ハ
矧
すべては神のみ心である、といって超然としていられることは私には出来ない。
人が病気でもし、生活に苦しんでいるのを見れば、私はその人のことを心配し、そ
の人がどうなったか、財布の中まで察してしまう。
だからといって、心配に把われて、情に溺れているわけではない。心配とか、同
情とかの気持や態度を通して、神のみ心たる愛の光が素直に相手の心に流れ、しみ
こんでいくのを私はいつも観じているのである。
冷淡な仕打ちをするようだけれど、その人を真に愛して、生かしている人。悟っ
ているようでその実、冷淡な人。情に把われているようで把われていない人。いろ
いろな人がいる… … 。愛と情の区別はなかなかむずかしいものだ。
しかし、人は自ずから見分ける目を持っているものである。
蹴
素直、な性質は宝である。
鰯
いやなことは先にやってしまいなさい。
矧
守護霊さんはご先祖の悟った霊で、あなたのおじいさんであり、おばあさんであ
る。
獅
守護霊はいつもあなたと一緒にいる。あなたと一体であり、あなたの神様である。
蹴
背後霊は離れることがあるが、守護霊はいついかなる時においても、あなたを離
一一七
一一入
れず、あなたを見守り導いているのである。
蹴
守護神はいつもあなたの心の動きをじっと見守っている。
珊
戦争は人聞を動物以下に堕落させる。憎しみは良心を麻痺させて、集団的残虐を
しても恥とも思わせなくする。
いかなる時においても、いかなる場合においても、憎みの想いなく、恨みの想い
なく、心平和なる人間になることである。
圏
宗教に入る人というのは、大体気が弱い人が多い。けれど、弱い人にしろ、強い
人にしろ、自我というものがある。神のみ名により、世界平和の祈りの大光明によ
って、その自我をなくせば、弱いも強いもなくなる。
珈
どんなことがあっても、自分の心が動揺しない、把われない、という心にならな
いと、指導者とはいえない。
謝
悪いことを三つしてしまったら、再びしまい、と心に強く思って、積極的に善い
ことを、五つも六つもしていけばよい。そうすれば差引き三つも四つもプラスにな
っている。
失敗したことに、いつまでもクヨクヨしていることは愚かである。
蹴
宗教精神とは犠牲精神である。自分の喜びより先に人を喜ばせ、自分は苦しんで
幡一九
一二〇
も人を楽にさせる。下座につくことが出来ないようでは、宗教心があるとはいえな
い。
弼
生命を生かすとは、置かれた場所で素直に、与えられた仕事を真剣にすることで
ある。
行いと祈りとの二面から、神は現われる。
謝
もし、あなたが人に痛いことを云われた場合、その人はあなたのことを本当に心
配してくれているのだ、と思うことである。
真に愛してくれる人は、甘いことばかりは云わないものだ。
珊
聖ケ丘道場に泊って、恐怖心が出たことを先生にお話すると、先生は、
「神の強い光に会うと、人間の心の中に畏怖心というものが起るものです。修業
時代私にも何遍かそういう時に出会ったことがある。その時は心の中で無声の気合
をかけたもんだ。すると消えるよ。その時、他のことにその恐怖心を転換させよう
と思ってもだめなものだ。だから声に出してもいい。渾心の力をこめて気合をかけ
てごらん。消えるよ。守護神さんが神の強い光に会わして、中のいらないもの、恐
怖心を出して消してくれたんだ。前より強くなるよ。よかったね。ともかく一番い
いことは神さまに全託し切ってしまうことだ。天命がある以上生きるのだし、天命
がなくなったら肉体界を去るんだ。そう思いこむことです」
鵬
愛は忍耐の深さに比例する。
=二
一二二
研
苦しみや悲しみから逃げようとしてはいけない。逃げれば逃げるほど苦しみは追
いかけてくる。前進することだ。自分から進んでいけば苦しい思いをしなくてす
む。いやだ、いやだと思っていればいる程、苦しい想いをする。
鵬
自分の気に入ることばかり得ようとすれば、いつか気に入らないことをやらされ
ることになる。だから気に入らないことでも、それに耐えて、自分にないと思うも
のを進んで求めていくことが、自分をどんどん大きくひろげていくことになる。
調
心を自由にしてくれる人、生き生きと生きられるような明るい心にしてくれる
人。その人に会っていると、自ずから心が柔和になり、正しい道を生きてゆかねば
ならないようにさせてしまう人、そういう人が一番偉いです。
宗教とか信仰とかを教えても、人間をがんじがらめに縛り、不自由にするような
人があったら、その人は真理がわからない人です。「真理は汝を自由になさしめ
ん」なのです。
㎜
宗教信仰をしている人が、無信仰の無宗教の人より立派かというと、そうとは限
らない。宗教をやっていない人でも、やっている人よりズーッと立派な行いをする
人がある。しかし、立派な行いをしていても、無信仰の人と信仰のある人とでは霊
界へ行って違ってくる。自分の行いだけでなく、プラス守護の神霊の救いというも
のがあるからである。
=一三
=西
宗教をやらなくても立派な人があるけれども、宗教をやっている人が同じように
立派であったら、もっといいということなのだ。
訓
やみ
太陽がさんさんと輝いている所には暗はない。それと同じように、心が本当に平
和の祈りでみちていれば、そこに暗いものはよって来られない。災難に会うことは
ない。
認
うちに来る人の中には、私がそうしようと思えば優秀なる霊媒になる人が大勢い
るが、私は人間の自主性を無視して、人間を神の道具扱いにしようとは思わない。
だから霊媒をつくろうとは思わないのである。
調
正直であるということはいいことだ。しかし、正直を見せようとか、正直ぶるの
はいけない。スラッとそのま瓦で正直なのが一番いい。
甜
いかなる理由があろうとも、戦争はいけない。殺し合いは絶対にいけない。
講
私はいつも裸の心で人に接している。てらい、とか、かまえる、ということはな
い。裸の心でいて人に嫌がられないようになるのが、真の教養ある人というもの
だ。
調
悪いものはすべてサタンだから、どんな武器をもってしても倒せ、なんていうバ
ヵな神さまはあるものじゃない。武器をもたなければナタンを倒せない神さまだっ
= 一五
一二六
たら、それは神さまでもなんでもない。ハナカミだ。
鉗
もし自分がやさしい心、愛の心、明るい心、楽天的な、のんきな心を持っていた
ら「あ二私は有難いなあ、幸せによい心を持てて有難いなあ、ますます愛深い私に
なりますように、どうかますます生命かがやく私になりますように」と祈ることで
す。そうするとますます生き生きと明るく生きられます。
認
青空のひ父きにいつも波長を合わせよ。
調
決断に迷う時には心を静め、守護霊、守護神に祈れ。必ず答えを与えてくれる。
しかし目前の利害にとらわれてはいけない。その答えが目前のことにおいて損する
ようなことがあっても、ひらめいた通りに実行せよ。たとえそれが失敗に終ったと
しても、必ずそれは最終的には大きな実を結ぶ。
珈
欠点を直そうとして、欠点だけを叩き直すより、長所をうんと伸ばすことに精力
を集中せよ。すると欠点は自然になくなっている。
謝
叱られても感謝出来るような心を育てよう。叱られるのはその人が自分を思って
いてくれるからだ。
耀
小聖は山にかくれ、大聖は街にひそむ。汚れに住して汚れに把われず、生命その
ま玉に生きられる人は大聖である。
一二七
一二入
硲
肉体をもって守護神そのま瓦の行為が出来る人は素晴しい人だ。
脳
興味本位に宗教理論をもてあそんでしまうことがある。枝葉にばかり流れ、本筋
を見失ってはならない。湘問いかに業より解脱出来るか、いかに愛を行じられる
か、いかにしたら常に明るくさわやかな心でいられるか、に心を注ぎ、想いをつく
し、精進してもらいたいものだ。
謝
先生、といわれた時こそ、自分をきびしく見つめなければいけない。
謝
偉いとか偉くないとかは、人が見ることだ。
脚
嗣ぜ「ウでぼ闘けない。出界平和の祈りで暮している人の運命は決まっているの
だ、悪くなりようがないのだ、よくなるにきまっていると思って、どんなことが現
われても、消えてゆく姿だと思って一生懸命祈ってさえいれば、この世の現象面の
いいとか悪いとかは問題じゃなくなって、いつも心が平安になってゆく。
認
消えてゆく姿というのは、自分が消すのではない。自分が意気ばって消すんだと
思うのは間違いである。それは自我であり、自力である。自分では何も消せない。
消せないところに守護霊守護神が存在する意昧がある。消してくれるのは神の愛の
使いである守護霊守護神なのだ。
一二九
一三〇
謝
自分をおかすものは何もない。自分をおかすものは自分の想いだけなのだ。しか
しその想いも消えてゆく姿なのだ。
副
世界平和一念で生きていれば、守護霊守護神さんがうまくやってくれる。
翻
自分を常に常に磨くことに心がけることです。いくら磨いても、これでよいとい
うことはない。
魏
私は食べなくてもよい、と身を投げ出した。それから私の道、私の宗教は始まっ
たのだ。
人間は一度死んで生れ変らないと、本当の仕事が出来ない。
副
私には悲愴鳳というものはないよ。どんなに切羽つまったような場に面しても、
鼻歌が出てくるような心の余裕がなければ、人として本当の仕事は出来ないね。
珊
いかなる戦争であろうと、それを〃よし〃と肯定することは、神のみ心に反する。
鰯
共産主義中国を、たとえ武力で倒したとしても、そのあとに違った形で対抗する
ものが必ず現われてくる。そのことをアメフカの強硬策を支持する人は考えている
だろうか?
; 二
一三二
本当にアジアが、そして世界が平和になるためにはどうしたらよいか。と、日本
は自国の利益というものを一先ずあずけ、大所高所の見地に立って、すぺてをす瓦
めていかなければいけないと思う。平和ということについて、今、徹底的に考える
ぺきだと思う。
宗教とは裸の心にいかにしてなるか、を習うことである。
粥
子供に次の三つのことをしつけたらよいだろう。
① 人に迷惑をかけない。
② 自分のことは自分でする。そして、
③ 余ったカで人の手助けをしよう。
珊
真理の教えは多言を要しない。
醐
子供がいいことをして、失敗したとしても、親は失敗したことを叱ってはいけな
い。
翫
常に自分をスッキリと割切っていて、一点の汚れもない。清々しい人間でありた
いね。
麗
言葉や文章ではごまかしがきくかもしれない。けれど、その人に実際会ってみ
て、何もしゃべらなくとも、なんて清々しい人だろう、なんて暖かい人だろう、とい
一三三
= 二四
われるようになることだ。
爾
肉体人間が偉い偉くない、強い強くないといっても、五十歩百歩、肉体人間はみ
な凡夫です。
謝
人につくすことだけを考え、行動していると、自分を出したい、と思わなくと
も、周囲が自然に出してくれる。
論
自分が疲れているからといって、対座する人に不機嫌な顔を見せることは間違っ
ている。自分の疲れ、不機嫌は相手の人には関係ないことなのだ。和顔愛語。
論
た父人が善い、ということだけではだめだ。智慧を働かすことだ。
孤
自分の力量以上のことはするな。しかし引受けた以上はやり通せ。それでもやっ
ぱり出来なかったら、正直に〃一生懸命やりましたが出来ませんでした〃とあやま
ることだ。
粥
真の愛国者、真実に人類を愛する者は、社会主義者や共産主義者の考えている革
命をやらない。
左翼運動にしても右翼にしても、自分の家庭における不満、環境への不満、社会
での自分の思うことの満たされぬところからくる不満を、主義運動に転嫁している
揚合が多いが、これでは真実の人類愛運動、愛国運動にならず、やたらに相手を憎
ニニ五
一三六
み、対立を深め、闘争心をわきたたせるだけになる。
調
この世の中で、真実の愛で結びついている者は誰かな。
.夫婦の愛、恋人の愛に
は利害打算があるし、利害が反すれば夫婦といえどボロクソ扱いをするからね。と
いって友情でもなさそうだし… … 、そうだ、母と子。それも子に対する母親の愛だ
けは変らないね。子供がどんなに逆らっても母親の愛だけは変らない。
珊
人間は消極的に引こんでいてはだめだ。「私は年とっているからだめなのです」
「病気だ、私は体が弱い」と心をひっこましていたんじゃ、ますます心が凹んでし
まう。絶対前進しなさい。人問は進むより他に方法はないのです。さがっちゃだめ
だ。前進に前進を重ねてゆくのだよ。そうするとやがて天上界にゆく。
どんどん人のためにつくせばいい。人のためにつくすことで一番大きいことは世
界の平和をつくること。世界平和のために働くということです。平たくいえば、世
界平和の祈りをする人を一人でも多くふやすことです。
孤
本心からみれば、この肉体の生活は一瞬に等しい。本心はその一瞬の間でも、器
である肉体を最もよく生かそう、よく使い切ろうと思っている。だから自分の欠
点、人の欠点を掘じくり出すような生き方をせず、大きく生きることです。
魏
善い人は何故弱いか、コチョコチョこれでいいのかしら、私は悪いんじゃない
か、とわざわざ悪いところばかりさがして、ひねくりまわしている。それより自分
の特長のよい点をどんどん伸ばしてゆくことだ。
一三七
一三八
珊
欠点を掘じくりかえして、人間はよくなるものではない。また、自分の欠点を取
ろう、ぬこうとしても、なかなか出来るものでもない。ぬこう取ろうと自分で思う
ことよりも、神さまのみ心の中に深く入りこんでいくと、知らないうちにぬけてゆ
く。それが遅いようだけれど、一番早い方法である。
謝
肉体の生命が惜しくて世界平和の祈りをするのではない。戦争がた父こわくて世
界平和の祈りをするのではない。戦争によって起る悲しみ苦しみ、痛み悩みを多く
の国の多くの人々に味わせたくないから祈るのである。地球を滅亡させたくないか
ら祈るのである。久遠の生命を顕現させたいために祈るのである。
薦
宗教家には情緒がなければいけないと思う。別の言葉でいえば潤いということだ
ろうか。針金や鉄棒のような心では宗教指導者にはなれない。
魏
この世の中は常に流れ、ゆれ動いている。いずれが正しく、いずれが善である
か、現象の動きだけを見ていてはわからない。だからわれわれは常に道に照らして
見ることである。道とは大調和ということである。世の中が混乱すればする程、こ
の「道」を見つめつづけなければいけない。
研
宗教とか、神さまとかいわなくても、守護神の光をよく現わしている人がいる。
どういう人かというと、明るい人、スカッとした人柄の人である。
翻
=二九
一四〇
お互いに本当のことをハッキリといいあえるような仲でなければ、本当の友では
ふんけい
ない。ヨシ、あいつと一緒なら死んでもいい、という刎頸の交わりが出来る友だち
をつくることだ。
魏
裸の心になることです。そうすれば、勇気も知恵も力もわいて来ます。
枷
職場においては「私の仕事じゃないからそれは知らない」というような狭いセク
ショナリズムに陥らず、職場全体を見る広い目を持つように心がけるとよい。セク
ショナリズムにおちいると、仕事がはかどらなくなる。
謝
名前を出そう出そうとあせるな。そんなことで自分を落してはいけない。必要と
あらば神さまがいくらでも名前を出してくれる。
魏
修行というのは、自分がするのではないのです。自然にさせられるのです。自分
が意気ばって、偉くなろう、悟ろうというのではないのです。勿論、志がなければ
だめですけれど、例えば、何か人のために生きたいとか、自分の生きている間に天
命を完うしたいとか、という熱意を燃しつづけていると、守護霊守護神がその人に適
当な導師のところへ連れていってくれるし、またその人の修練に適している揚所に
運んでくれるし、人に会わせてくれるのです。
だから、まず守護霊、守護神への感謝行をせよ、と私は教えているのです。
謝
一番愚かなのは、自分の力を見せよう、ということですネ。人にたてられたい、
一四一
一四二
人より上位にたちたい、というので霊能力神秘力がほしいという修業は一番愚かで
す。道が誤っているから、自分が大変苦しむのですよ。
ヘヘヘヘヘヘへ
するというよりさせられるのです。自分からなる、というのは宗教の世界ではな
いんじゃないかナ。
謝
正義ということは、調和を導き出すこと、調和の状態を生み出すということで
す。
謝
私のところへ頼ってくる人を、会員だから弟子だからといって、下目に見るよう
なことはしない。私は一人一人を尊敬しているんです。
珊
常識をこえる、常識に把われない、ということは、常識をはずれることではな
い。常識にあくまで足をふまえて立ち、頭は天に達している、という生活態度が望
ましいのである。
謝
自分の業の浮き沈み、自分の業の流れに関心を持ちすぎてはいけない。業の自分
を追いかけることになって、本当の自分からだんだんはなれていってしまう。
出るべきものは出るのだし、出ないものは出ないし、消えるものは消えるのだか
ら、一度それを突き放して、平和の祈りの中に入ってしまうことだ。そうすると楽
になるし、明るくなる。恐れがなくなる。
翻
素直に天の声をきこう。天の声とは人間は孤立したものだ、自分と他人とは別個
一四三
一四四
のものだ、という考えを捨てよ、という声である。
珊
人間はこの世に生きている以上、どうしても損得、利害をもとに考え、行動して
しまうものだ。しかし、そうした生き方では天意のままに生きることは出来ない。
小さな自分という範囲を社会、社会を国家、国家を人類という広い世界にひろげ
て、その立場から改めて自分、社会、国家を考えてみよ、というのである。
珊
平和に徹するには勇気が必要である。武器をもって向って来たから、こちらも武
器を持って迎えうつという態度ではない。真理の道に徹した心、永遠の生命を見通
した叡智が必要なのである。
孤
私は永遠を見通している現実主義者だ。
認
素直な性質を与えられていることは有難いことです。その素直さを更にもっとひ
ろげ、もっと深めることです。何故かというと、その奥に深い.智慧がひそんでいる
からです。それは無為になると出て来ます。大生命である神は、小生命たる人間を
常に生かそう、よくしようと、智慧、力を与えておられるのです。それはまた大宇
宙を動かしている大いなる力であり、智慧なのです。これを改めて頂くことです。
しかし、一遍に無為になれといっても出来るものではありません。〃消えてゆく
姿で世界平和の祈り〃で一段一段と無理なくその心境に達するようにしているの
が、私の指導方法なのです。
珊
一四五
一四六
天の扉を開く鍵は、まかせる、全託することである。肉体人間の力、智慧では何
事もわからない、明日の運命、いや一瞬問先どうなるかわからない。それを知った
としても、どうすることも出来ない。肉体人問は何事もなし得ない、だから神さま
にして頂こう、と神さまにまかせるのである。
孤
どんな貧乏な家庭に生まれようと、どんな病弱な体であろうと、才能がないと自
分で思っていようと、真剣に生きれば必ず芽が出る。私は体験として断言出来る。
一日一日、一瞬一瞬を真剣に生きる人が勝利を得るのである。人間には何かしら必
ず天与の才が与えられているのである。
論
思いつめてはいけない。気を休めることも必要だ。
講
「天が求めている人間像は?」と質問した人がいた。
「天の声に素直に耳を傾ける人」と五井先生はお答えになった。
研
私はこの世に楽しみに来たのではない。神の国を現わす為に来たのである。
認
気力というのは無理に燃やそうとしても、本当には出て来ない。そうではないの
だ。気力は内から自ずと湧いてくるものなのだ。
認
内から気力をわき出させるためにはどうしたらいいか。一つの方法としては、聖
者とか偉人の伝記を読むことだ。出来たらば聖者から直接に話を聞くことだ。さら
一四七
一四八
に、それらに祈りを加えれば、それが最高の方法となる。
謝
一日のうちに、生命をじっと見つめる時間をつくることが必要だ。
謝
時を待つことも大切である。その間に心あせり、うろたえ、思いをいろいろとめ
ぐらせるより、座ったほうがいい。祈ったほうがいい。
槻
今、死を宣告されたら君だったらどうする?
生きている間、人のためになること、人の喜ぶことばかりして、いよいよ死ぬ時
は、いろいろと有難う、私はお先へ行っています、ぐらい云えて、死んでいけるよ
うになればね… … 。
悟ったとか悟らない、とかいうけれど、今いったようなことが出来る人は、悟っ
たといえるだろう。
魏
愛は忍耐なり。
謝
調和を乱す心は、神のみ心をけがすことである。例えば、相手は悪く自分は正し
い、という時、相手が無理難題を吹きかけ、意地悪をして来た場合には「このヤロ
ウ張りとばしてやろう」と思うでしょう。普通では無理もない感情です。しかしそ
れは自分の心を乱したことになるから、自分が損をすることになるのです。自分が
損をするということは、神のみ心をけがすということになるのです。相手がどうだ
から… … というかもしれないけれど、相手とは関係ないのです。自分一個の問題な
一四九
一五〇
のですよ。
相手がどんなに悪い奴でも、いじめてきても、こちらが怒りの想いや、恨みの想
いなどを出したりすれば、それは自分の本心を乱したことになるわけですから、神
のみ心にかなわないのです。それが消えてゆく姿ということなのです。しかし、そ
うした想いは中から押し出されて出てくるので、縁にふれて出てきたら、消えてゆ
く姿だと思って、祈りの中に入れることです。一生懸命なくすように祈ることで
す。
猫
私はこんなに壼しているのに、いくら盆しても霊しても、ひどい目に会わせる、
という人があるとしたら、自分の本心をますます開いてくれるために、守護霊様が
そうして下さるのだ、自分の魂が飛躍して立派になるんだと思って、お祈りなさ
い。
醗
現われてくるのは、すべて過去世からの因縁で現われてくる。今の自分はその人
になんにもひどいことをしていないけれど、過去世からの想いの中には、相手にひ
どくしたことがあったわけ。そうでなければ、相手にひどいことをされるわけがな
い。それは因縁因果の法則なんだ。けれど、それをいつまでも繰返していたので
は、輪廻転生して、いつまでも争いの波がおさまらないわけです。
いかに自分の立揚が悪かろうと、自分の心を乱すことはいけないこと。相手を蕩
つけることはいけないこと。ということがわからないと、本当の世界平和はこの地
球界に出来ないし、本当の安心立命が得られないのです。
謝
一五一
一五二
サッパリとした性質を持った人は、神に戚謝すべきだ。
翻
「先生、これからの指導者は、まず身辺が清くなくてはならないと思うのです
が、指導者がまず心がけなければならぬということは、どういうことでしょうか? 」
「それは寛容の心です」
「その寛容の心というのは、努力によって得ることが出来るものでしょうか? 」
「努力というより、自分が大きくなることによって、開けてくるものなのです」
「大らかな、ゆったりとした人間になるためには、どうしたらいいのでしょ
う? 」
「全く神さまにまかせることです。全託することです。神は愛なのだから神さま
のなさることは絶対に問違いない、と信じ切ることです」
魏
私は若い頃、真理を求めることに熱心だった。道を歩いていても、有難うござい
ます、何をしても有難うございます、一日中、朝起きてから帰るまで、ねている時
も神さま有難うございます、と云ってたよ。今、みんなが〃世界人類が平和であり
ますように〃と唱えているようにね。
「神さま有難うございます」がいっぱいにつまっちゃったんだね。だから蹴飛ば
された時も、思わず「神さま有難うございます」と口から出て来たんだ。他に想い
が出て来ないのだ。体が苦しくても「神さま有難うございます」と思っている。そ
れもわざわざそう思うのではなく、それよりしか出て来ないんだ。
謝
五井先生のまだ修業時代の話。足に大きなおできが出来て、痛みがひどかったQ
一五三
一五四
ラッシュァワーで電車はふくれ上り、人がこぼれそうだった。突然、誰れかが先
生の足をけっとばした。それもおできの上である。しかし思わず出た言葉は「あり
がとうございます」だった。
普通だったら、きっと〃痛い! コンチクショウ〃と思うにきまっている。とっ
さに感謝出来る心は本当に素晴しい、とこのお話を思い出すたびごとに我々も常に
そうありたいと切に思うのである。
細
五井先生の修練時代、頭の中で霊の声がささやいた。
「あなたは、釈迦もキリストも出来ぬことをするのだ、それがあなたに出来るの
だ。あなたは地上唯一の大菩薩なのだ」
五井先生は、そうした声にのりはしなかった。そうした声にのったが最後、ガラ
ガラと今迄の清らかな精進もむなしく失せてしまう。ということは、自分の心の中
に、微塵の汚れ、高慢の想いがあってもいけないということだ。
「私はそんなものではありません。大菩薩であろうと小菩薩であろうと結構で
す。私はただ神のみ心を実行するのみです」
と五井先生はあらゆるそうした囁きを否定しつくされた。
「霊能力が出はじめた頃、こうした霊の声にうかうかとのせられないように、そ
れが守護神のテストであったとしても、のったら失敗なのだ。落第したことなの
だ。つつしむべきは自我高慢の心である」と五井先生はおっしゃっている。
説
私の修業時代にこうしたことがあった。
守護神さんが、目をつぶって大通りを渡れ、というんだ。十三問道路だったけれ
一五五
一五六
ど、自動車はひっきりなしに通っている。けれど守護神がおっしゃるのだから、そ
の通り目をつぶって渡ろうとするんだけれど、どうしても歩道から一歩も足が出な
い。このテストは落第かなと思った。何回も目をつぶって渡ろうとしたけれど、と
うとう渡れなかった。
そうしたら、
「このバカヤロー、誰が目をつぶって渡るヤツがいるか! 目をつぶって渡れる
か渡れないか、よく頭で考えてみろ」と守護神さんにいわれたよ。「常識で考えて
もわかるだろう。常識でわかることは自分で判断する。どうしてもわからない時、
神様のま瓦に動くのだ」
えん
こういう調子で随分役の行者(守護神)にひきまわされたよ。そうした私の経験
こ
から、常識をはずれず常識を超える、という教えが生れたんだ。
編
修業時代にこういうこともあった。
守護神にいろいろ引張りまわされて、まるで嘘八百を並べられたようなことがあ
ったけれど、私はそれに対して一つも不平不満も起らなかった。
或る時、或る人について守護神さんに教えられたまま予言したことがあったが、
見事それがはずれたことがあった。私はその時、かえってシメタ! と思った。こ
ヘヘヘヘへ
れはほんものだと思い山甲”したよ。高級神霊が一々そんなこまごましい予言などされ
ないからね。
だから、私は守護神さんの指導には一つも疑いを持たなかった。もうすべてまか
せてあったからね。私はそのま瓦素直に守護神の言葉を信じていましたよ。つまり
真理に素直だったんだネ。
一五七
一五入
そういう訓練をされたおかげで、これはウソ、これは正しい、と判るようになっ
た。
謝
私の修業時代のこと。有名なる神様の名前で、神示をいろいろと自動書記の形で
書かされたけれど、私はこれを丸のみこみに信じはしなかった。これで神々との交
流をしやすいように、私の体をならしているのだな、と思っただけで、すべてきき
流していたよ。
珊
フェイス誌で〃五井先生白光真宏会の素顔〃という特集を行なったが、その中の
東大助教授の笠原一男文学博士との対談で、笠原博士の「悟りの契機というの
は? 」という質問に、五井先生は答えられている。「私の場合は、太陽を眺めてい
て悟りを開いたわけです。中川の辺を歩いているうちに、なぜか太陽を見たくなっ
て、その場へ座りこみました。するとパーッと囲りの全部が白光になっちゃった。
そのとき、なんじの命はもらったという神の声をはっきり聞いたのです。それから
なんです… … 」
この対談を私は同座していて直接おききしたのだけれど、はじめて伺った気がし
た。〃太陽を見て悟った〃とおっしゃったのは初めて耳にしたお言葉だった。後日
そのことを先生にお話すると、
「そうかい。太陽をジーッと見つめていたら、太陽の中に太陽神が出てこられた。
その姿がみるみるうちにたくさんになり、大きくなって、すべて白光になってしま
ったんだよ。その時否定しようも否定出来ない強い声、ひゴきがした。- お前の
いのちはもらった、覚悟はよいかー〃はい〃と私はその時すぐ答えたわけだよ。
一五九
=ハ○
それから霊的修行が始まったんだ」とおっしゃった。
猫
「道を歩くのも、みんな自分で、この肉体で歩いていると思っているけれど、本
当はそうじゃない」
道を歩きながら、先生がふいにこんなことを、さもおかしそうに笑いながらおっ
しゃった。
「今、誰が歩いていると思うかね」
「」
「私の修行中、道を歩いていると体が急に大きくなって、神様がたくさん入って
一緒に歩いていることがあったり、体がどんどんどんどん伸びて、高い高い処へ行
っちゃって、肉体が歩いている、ということなどいろいろあったよ。だから、私は
肉体で歩いているんじゃない、ということをよく知っているんだ」
そういえば、先生は「体が疲れてくると、足にそのまま歩かせるんだ、頭が痛か
ろうと目が悪かろうと、歩くこととは無関係なんだよ」とおっしゃったことがあっ
たっけ、と思い出した。
謝
– 老母菩薩1
「誠実」これが母より私がもらった精神的贈物です。
「人に迷惑をかけるようなことはしてはいけない」
「人にお金を借りなさんな」
それから、何くそ! という気持も貰ったね。
うちの母親は、足にものすごいハレ壬ノが出来ても、平気な顔をして、その足を
=△
一六二
わざわざ烈しく動かすようにして、働いていたよ。とにかく、死ぬときは病気で死
ぬんじゃない、と思っていた。実に気丈だったよ。病気を病気と思わず、時間がく
れば治るんだし、治らなければ死ぬんだ、と割り切っていたんだね。達観していた
ね。
珊
うちの母親は、私が三十過ぎてからも、訪ねてゆくと、
「サア、足を出しなさい、洗ってやるから」
と、パクッと雑巾をもって来て、私たち息子を縁に坐らせては、足を洗ってく
れた。
「おばあちゃん、いいよいいよ、自分でやるよ」
「何云ってんだよ、お前さんの足はよごれているよ。さあ出しなさい」
まだ小さい子供だと思っているんだね。そうしちゃ、
「うちの息子たちは、まだ私に足を洗わせるんですよ」
と近所の人々に嬉しそうに話していたんだそうだ。それでね、足を洗ってもらう
のも、親孝行の一つだと思って、それからは素直に、ありがとう、って洗ってもら
ったけれどね… … 。
謝
お母さまが昇天なされてから数日たったある朝、先年実母をなくされた市川是清
さんが「先生どうも… … 」あとは何も云わず涙をボロボロポロとおとしたら、先生
も思わず涙をこぼされて「ねえ… 」といわれたきり、しばらく目を真赤にしていら
っしやった。そしてあとで「今迄泣かなかったのに、市川さんに涙を流されたら、
泣けて来ちゃったよ」ともらしていらっしゃった。
一六三
一六四
柵
聖ケ丘道場でのこ法話である。
「夏になると、うちの母親は氷水が好きなんで、よくのむんですよ。ところが私
は氷ものは大嫌いでしょ。そうすると『後生だよ、お前、一寸、一杯のもうよ」ッ
ていうんです。しょうがないから一緒に店に入る。一杯だけでは足りないんだね。
『二杯のんでいいだろう』なんて私にきいて『あN いいよ』というと嬉しそうに二
杯目の氷水をのんでいました。母親というものは年をとると、子供に甘えるんです
ね。その時、そんな母親を見て可愛いいなあ、と思いました。そうすると可愛いく
て可愛いくて、涙が出てきた… … 」そこまでくると、先生は黙ってしまわれた。あ
れと見上げると涙を流しておられたのである。しばらくの間道場のあちらこちらか
ら、す玉りなきの声がきこえていた。
姻
この世で一番の恩人は母親である。子供を産み、育てるということは大変なこと
です。だから私は、どんなに愚かそうに見えても、子供を産み、一人前に育ててい
る母親を尊敬します。
一六五
唱六六
あとがき
によゼがもん
仏教の経文の最初は如是我聞で始まっているという。つまり私はこのように仏様のお言
葉をききました、ということである。そこで私も本書の題名は「如是我聞」とした。
この書に収録した四百余りの「五井先生のお言葉」は、私が五井先生のお側にいて、時
にふれ、折にふれて、五井先生が何気なくおっしゃったお言葉をききとめたものである。
或る時は本部道場への道を歩いている時であったり、電車を待つ間のプラットホームの上
であったり、本部編集室での休憩時間であったり… … 私の胸に深くしみこんだお言葉の数
々である。
はじめ、私自身のために日記帳に書きとめておいたものであるが、何か読者の参考にな
るかと思って、白光誌に毎月「如是我聞」として発表するようになってからは、これはと
思った五井先生のお言葉は記憶し、メモするようになった。
今、読みかえしてみて、改めて五井先生の何気ないお言葉の素晴しさに、心が明るくな
る。全く一つ一つが光りである。そこで、特別に本書は編集するということを止めて、ど
このページを開いても、五井先生の珠玉のお言葉にふれられるようにした。
何か困った時、何か悲しい時、何かつらい時、さびしい時、気持が滅入つている時そし
て、何か心あふれている時、五井先生を思って、指がかかったところをパッと開ける。す
ると、その時あなたに必要な言葉が与えられる。そして、勇気づき、明るくなり、心ひき
しまって、崇高な祈り心につつまれる… … 。
この本はそういう使命を持っている本であると私は信じている。
昭和四十一年十二月十二日
高橋英雄
一六七
馬{ 隔一亀A`_”鼻_一・マ↓ マ↓ ↑L塊串↓ 篇τr訴」諦
「`ー`ー`ー、ー、ー4ー,ー、ー- 、1 ,ー、ーー,ー-ーー、ー、ー、
(
月刊誌白光(びゃっこう)
五井先生ご法話、西園寺昌美先生(後継
者) ご法話、活動報告、体験記などが毎
月発表されています。
A 5判80頁一五〇円(送四五円)
一力年二、三〇〇円(送共)
(
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轟
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