内なる自分を開く


著者(/9/6-19b’0)
刊行にあたって
人間とはいったい如何なる者なのでしょうか。著者の五井昌久先生は、人間は本来、神の分
いのち
生命であり、内に神そのものの力を持っている、と説いています。
五井先生は、大正五年、東京の浅草に生まれ、文学、音楽を学んだのち、第二次世界大戦後、
宗教活動を始めました。そして想念停止という厳しい霊的修行をへて、神我一体を体験されまし
た。「その時以来、私は光そのものとしての自己を観じ、私の内部の光を放射することによって、
悩める者を救い、病める者を癒しているのである」とは、五井先生の言葉です。
やがて、五井先生を慕い、師と仰ぐ人々によって、昭和三十年、白光真宏会が組織され、五井
先生は主宰者として、人間存在の深みに立って、誰もがやさしく、日常生活の中で、神の子とし
ての素晴らしい力を発揮する方法を教導されました。それが、守護霊守護神への感謝行と消えて
ゆく姿で世界平和の祈りの教えです。
第五章の「あなたは創造主」の中で、「神様の世界は完全円満であって、自分は神の子だから、
素晴らしい能力があるんだ、ということを信ずることなんですよ。ところがそういわれても信じ
られないから、信じて行なっている私のような人を信じよう、ということになるわけです」と述
べています。
自分が神の子であって、無限の力を持っているということを信じられる人は、誰にも頼る必要1
はありません。しかし、自分では神の子の力を出せないと思ったら、五井先生のような先覚者の
教えを信じることをお薦めします。五井先生の教えを実践してゆくうちに、人間の存在の深みに
参入でき、人間が神の子であることを実感できるようになるでしょう。そしてやがて、自分自身
を深く信じられるようになり、自分の人生が輝かしいものに変わっていくことでしょう。
本書は、昭和三十年代から五十年代初めにかけて、千葉県市川市にあった聖ヶ丘道場の統一会
で話された講話の中から、人間の本質、守護霊守護神、消えてゆく姿、世界平和の祈り、本心開
発に関するものを選び、編集したものです。五井先生のことを知っていただくために、序章とし
て、「わが人生」という講演録も収めています。
五井先生の教えを実践している人は、本心が開発され、それぞれの個性を生かしながら、常識
を外れず、常識を超えた生き方をしています。
なお、五井先生が望んでいる人間の理想像を知っていただくために詩を一篇、紹介いたします。
2
平成十八年一月吉日
編集部
こんな人こそ
五井昌久
しあわせ
入の幸福を自分のことのように喜び
人の悲しみを自分の悲しみのように悲しむ
とハり
それでいてその喜びに把われる想いをもたず
その悲しみに沈みこむ愚かしさもない
自分のしたどんな善いことにも
他人のしたどんな悪いことにも
いつまでも想いがとどまらずに
何んでも可でも神様が善いようにして下さると信んじきっている
それでいながら
善い事柄ならどんな小さなことでもおろそかにせず
少しの悪い行為をも即座に消し去ろうと努める
心はいつでも青空のように澄んでいて
体中から温かいほほえみが一杯溢ふれている
その心にはいささかの誇る想いもなければ人をさげすむ想いも無い
ただ心の奥底から湧きあがってくる世界平和の祈りの中で
いのち
生命生き生きと生きている

そんな人々が世界中から沢山育ぐくまれてくることを
私は
平和の祈りをしつづけながら願っている
3
目次
刊行にあたって1
序章わが人生ーひたすら人を愛し、世界の平和を願ってl m
第-章人間は神の分生命
肉体人間観からの解脱4
人間はどうして神の子なのか56
神の分霊の人間にどうして業想念が生じたのか
GS
第2章守護霊守護神について
神と人間との関係72
神愛の代行者93
神様に生かしていただくm
守護霊守護神と平和の祈り即
質疑応答聯
・神様にお任せしながら全力を尽くすとは……。23 1
・守護霊守護神がついているのに、なぜ人間は悪行為をするのか?
・人間が死ぬと守護霊守護神は離れるのか? 25 1
・動物にも守護霊守護神が守っているのか? 伽
・守護霊守護神への感謝と世界平和を祈ることは、
124
どちらが先でもいいか? ㎜
第3章消えてゆく姿について
消えてゆく姿の使い方
真の救われと消えてゆく姿
消えてゆく姿で世界平和の祈り
消えてゆく姿の行じ方
136
165
184
176
第4章世界平和の祈りについて
祈りについて94 1
祈りの真髄99 1
神と人と一つになる祈り
質疑応答221
.祈っているのは本心か業生か… … 。刎
208
第5章
神様の世界に入る
統一実修とは何か
本心を開くために
本心を開く励
2G1
239228
あなたは創造主
質疑応答切
・悟りの境地とは… … 。切
・悟っても個性は続くのか?
27G
ブックデザイン・渡辺美知子
爵〉國檎曽①
●東京講演会抄録
10
わが人生
ひたすら人を愛し世界の平和を願って
終戦の前後
私は若い時には今のような信仰ではありませんでした。神様は完全円満で絶対者であり、
宇宙を創り、人を創ったけれど、個別に働くことはなく、いろいろと人間に干渉したりす
まこと
ることはないんだ、という信仰観だったのです。神様は善であり、美であり、真であり、
その極致であるから、自分は神様に近づくために一所懸命、美しい心になり、優しい心に
まっと
なり、勇気のある人間になり、いいことをして人のために尽くして、それでこの世を全う
していこう、という考えでありました。これはまあまあいい考え方です。
ところが終戦になりはじめた頃、負ける手前頃からなんか霊感のようなことが湧いてき
かめあり
た。その頃は日立製作所亀有工場にいまして、放送や音楽を指導していたり、防衛団とい
うのがありまして、工場長のわきにいまして、工場の防衛の伝達をしていたのです。真剣
に一所懸命工場を守っていたわけです。
東方海上より敵一機襲来せり、と放送伝達をしていたのですが、敵機が何機来るかとい
うことがスーッとわかるんです。今ラジオ放送している内容がわかってくる。ですからラ
ジオで放送しているとまだラジオが終わらないうちに、私の放送が全工場に伝わるように、
まるで一つになって伝わっているように、知らない間になってきたんです。
昔のお坊さんが若い頃から坐禅を組んで立派になったのと違いまして、仕事の中で真剣
に働いているうちに、だんだん霊感になってきた。しかし自分では霊感とは思わないんで
す。自分は頭がよくまわるんで、言わないうちにわかっちゃうんだと思っていました。
そして終戦になりまして日立をやめ、音楽のグループを作りました。ところがそれがジ
わが11 人生一ひたすら人を愛し世界の平和を願って
ヤズになり、キャバレーなどで演奏することになったのですが、私はとてもそういうよう
なことはやっていけない、歌う気になりません。それで歌もやめました。それからお金が
入らないので、楽器やレコードなどみんな売って売り食いをしていまして、その売り食い
のお金もなくなってきた。働かざる者食うべからずだから、私は食べなかった。食べなく
て死ぬものだったら食べなくてもいいんだ、神様のみ心ならば、この男に何か仕事がある
ならば、天命があるならばこのまま生かしておいてくださる、だから食べなくていい。こ
れは一燈園の西田天香さんもそうなのですね。食べないで一所懸命、霊修行したわけです。
霊修行といっても人の病気を救いにいったり、いろいろしたわけです。その間に一回勤め
ましたけれど、そうしまして、そうですね、二ヵ月くらいは水だけ飲んで暮らしていたこ
とがあるんです。
ですから、私の体験としましては、人間というものは食べなければ生きられないもので
はない。人はパンのみによって生くる者にあらず、でね。その信念さえあれば、相当長時
間食べなくても生きられるものなのです。それは何故かといいますと、ふつう肉体に五尺
12
何寸と現われている者が人間だと思いこんでいるけれど、そうではない。人間というもの
は肉体に現われている。現われている本体はどこにあるかというと、神様のみ心の中にあ
る。今あの映画(天と地をつなぐ者)の最後に私が衣冠束帯で現われましたね。自分なが
こうこもつ
らなかなか神々しいなあ(笑) と思いました。本当に神我一体の境地になって統一して写
した映画なんです。ですからあの中には、人間がいるんではなくて、神様が本当にいるん
です。肉体の五井昌久じゃないんです。
人間は肉体を持った霊である
こうやって話をする人間は肉体を持っています。しかし話はどこから出てくるかという
と、肉体の頭の中を通ってきますけれども、実は神界のほうから肉体を通って話が出てく
る。ですから私は話をする場合には、今日はなんの話をしようかなどと考えたことはあり
ません。この場に立ちまして口から出てくることを、流れ出てくるままに真理の言葉を話
わが13 人生一ひたすら人を愛し世界の平和を願って
しているわけです。
五尺何寸の人間がここにいるけれど、それは五十年、八十年ぐらいでこの世から消えて
りゆうりゅうしんく
しまう。肉体は焼かれて骨になり、粉になってしまう。そうしますと、粒々辛苦して勉強
し事業をして、お金を残すこともあるでしょう。地位を得ることもあるでしょう。しかし、
八十年くらいで粉になっておしまいだったら… … 、よくそれで平気でいられると思う。唯
物論者の人たちなどはそれでおしまいだと思っている。
この永遠の生命の中で、ちょっと八十年、百年ポコンと現われて、そのままでなくなっ
てしまうようなものだったら、どんなに悪いことをしたっていいから、お金をためて、好
き放題なことをし、食べ放題して、ぜいたく三昧してやっていけば、それですむようなも
のだけれど、それでは中の奥なる心がゆるさない、良心がゆるさない。なにかしら人のた
めに尽くしたい、なにかしら国家や人類のために尽くしたいという気持ちがあります。い
い行ないをしたいというものがあります。それはどこから来るかというと、肉体の頭の中
から来るのではなくて、本心から、神のみ心が良心として現われてくるわけです。
14
本心から現われてくるひびきが、なにか人のために尽くしたい、なにか有益な仕事をし
たいというものが、強烈に働く人と、弱い人があります。強烈にある人は本心がうんと開
いている人なのです。なんだっていいや、自分だけ安全ならいいや、自分だけよけりゃい
い、というふうに自分だけのことを考えている人は本心が包まれている。
何故かといいますと、本心というのは神のみ心の中に入っている。神のみ心というのは、
全人類がすべてその中に一つに包含されています。神とは何か、大宇宙に遍満する満ち充
いつ
ちている大生命である。大智恵、大能力である。絶対者、一なる者である、ということで
す。そこから分かれ分かれになって生まれてきている。
なおび
宇宙神というのがある。その中に人類として現われてくる直毘というのが七つあります。
やおよろず
その他に植物を司る神、動物を司る神、鉱物を司る神、宇宙の運行を司る神々、八百万の
神々と神道ではいっていますが、神々が各々の働きをそこに示して、この宇宙は成り立っ
ているわけです。
大自然と一口にいいます。唯物論者でも自然ということはいいます。ただ智恵もなんに
わが15 人生一ひたすら人を愛し世界の平和を願って
もないものが、自然に動いているんだったらどこかに問違いがあって、地球と太陽がぶつ
かったり、ということになりかねない。星がこの宇宙の中に何億あるかわからない。夜空
を見上げると、浮いているようです。そうした星々が大調和を保ち、均衡を得て整然と動
いているということは、大智恵者の智恵がなくては出来るものではありません。
肉体の人間を考えてみてもそうです。赤ちゃんが生まれる。精子と卵子が結合して、み
こもるわけです。その赤ちゃんを一体誰が育てるのか。肉体の母親が育てているわけでは
ありません。もちろん父親にも出来ません。どういうふうにして育ってゆくのか、その育
てる力は何なのか。そう考えますと、母親になった経験のある人で神を信じない人がよく
あるのですが、私は不思議でしょうがないんです。なんにも考えないで、生まれたからお
めでとうなんていっている。母親は何もしない。ただ食べているだけです。中で自然に育
ってゆく。その力は何なのか、これは第一番に考えなければならない。ああこんな不思議
な力、自分の中に赤ちゃんが身ごもって、これから生まれてくる、ああなんて有り難いん
だろう、神様1 とふつうの人は自然にいいますよ。
1G
霊界は存在する
神様といわなくても、大自然の力に感謝しなくてはいられないものを持つわけです。と
ころが持たない人もある。それを幼い魂というんです。人間というのは生まれ変わり死に
変わりしていまして、皆さんも何遍生まれ変わっているかわかりません。女が男に生まれ
変わったり、男が女に生まれ変わったりしています。その生まれ変わりの体験の少ない人
わけみたま
は霊界のこともよく知らないわけです。分霊の新しいもので、初めて肉体に生まれてきた
ような霊魂もあるわけです。そうしますと、肉体の知識はあるけれども、霊界を全然知ら
ないわけです。記憶にないわけです。だから霊界も知らない、神なんかあるものか、とい
うわけです。
私も昔、若い時は神様は信じていましたけれども、霊界があるなんて信じてなかった。
そんなことを考える必要はない。ただこの世に生まれてきた命を一所懸命生きて、なんら
か人類のために尽くして死ねばいいと考えていた。それでもいいんですが、それだけでは
わが17 人生一ひたすら人を愛し世界の平和を願って
足りなかった。知らない問に私は霊界のことを見せられたりしてきたわけです。ある日、
統一していまして、自然に筆が持ちたくなって字を書いた。「五郎だよ、私はここにいま
す」と戦死した弟が出てきて、そして似顔を描くんです。私が描かされるわけです。その
顔が弟そのままなんです。次に親友が現われてきまして、”渡辺” と自分の名前を書いた。
一緒に書道をやった友だちですから、字のくせをすっかり私は知っているわけです。それ
がそのまま現われてきた。
自然に書いているということは、現実として背後にいることがハッキリと感覚的にもわ
かる。実際に体も使われている。その頃からだんだん霊界というものがあるんだな、人間
というものは肉体だけではないんだな、本当に永遠に生きているんだな、ということが体
験としてわかってきた。それから本格的に霊修行に取り組んだわけです。
霊修行中に、自分の中から声がいろいろと聞こえてくることがあります。神の声として
スーッとひびいてくるもの、絶体絶命そうしなければいられないものとしてひびいてくる
ものがある。それから耳の中に聞こえるような声もある。ふつうそのままでゆくと精神分
18
裂症で病院に入らなければならないかもしれませんけれど、私の場合は命を投げ出してい
ますし、神様も”よしお前の命をもらった” といっている。ですから、なんにもこわいこ
とはない。このまま死んでもいいんだ、死ねば私の天命がこれで終わりなんで、天命があ
る限りは生きているんだ、肉体の生死は肉体の自分が知っていることではなくて、神様の
ほうがご存知なのです。神様がお前はいらない、といえば今日でも明日でも死んでしまう
んだ、神様が必要とすれば絶対生かしてくださるんだ、ということがハッキリ言葉でなく
て心でわかっているんです。
神様との契約がすんでしまった。そうすると自分の体ではない、神様の体になってしま
ったわけです。三十歳がらみの頃です。それからが大変なんです。自分の体ではないんだ
から中からどうしろ、こうしろと命令されるんです。というより体で動かされるのです。
頭の中でなんにも思ってはいけない想念停止の修行です。歩きながらさせられる。
これは何回も話しましたが、表に出てゆく。どこへ行くんだろうな、と思うとダメで、
そのまま元に引き返される。駅の切符売場にくる。どこまでの切符を買うんだろうな、と
19-一一わが人生一ひたすら人を愛し世界の平和を願って
思うとそれもダメなんです。松戸なら松戸と自然に言葉として行動と一緒に出てくる。そ
ういう修行をやりまして、ついにそれが成功したわけです。
ao
神通力を得る
成功して、神々の姿、神界の姿を見て、当たり前の人間に返った。それまでは気違いで
はないかといわれたのですよ。元の自分に返って、しかもいろんな人の心もスーッとわか
る。世の中の運命も見えれば、ああこれはこうなってゆくんだな、とわかる。肉体の頭の
中で何を思ったってわからないと思っているでしょ。誰もいわなければわからないと思っ
ゆうたい
ている。ところがさにあらず、肉体の脳のしわにも記憶があるし、肉体のまわりに幽体と
かこせ
いうものがあって、幽体の中に過去世からのいろんなことが記録されているわけです。そ

れを私が観るわけです。それで、この人はこういう人だとわかるわけです。二人お子さん
を持った人がいれば、お兄さんはコレコレで、弟さんはコレコレでこういう子ですね、と
いうとピタリと当たります。それは当たるわけですよ。親御さんと子供はつながっていま
すから、親を通してわかる。
人間は波で、みなつながっているんです。宇宙も波で全部つながっているのです。地球
の端から端というのはいかにも遠そうですけれど、波でみんなつながっている。チリで地
震があれば太平洋の波が津波となって日本に伝わってくるでしょ。これと同じように波で
伝わっているわけです。親子、兄弟などはより直接につながっていますから、お父さんが
くれば子供のことがわかってくる。
何がわかっているか、というと、幽体というところに、私はこういう女でございます、
こういう男でございます、子供が何人おりまして、長男はこうで、妹はこうでございます
と、チャンと録音してあるんです。それを背負って歩いているんです。それなのに、ちっ
とも悪いことをしたことがない顔をしている。人間だから悪いこともするし、いいことも
するし、いろいろあります。小さな枝葉のことにこだわっていますと、大きなことが出来
ませんから、あんまり枝葉のことにこだわらないで、本筋を通せばいいんですけれども、
わがai 人生一ひたすら人を愛し世界の平和を願って
言葉、想念、行為がみんな記録されている。その記録が、肉体が亡くなる時に、すべてパ
ーッと再現されるのです。よみがえってきて、そこで後悔したり、反省したりするわけで
す。
肉体がなくなってしまうと、霊魂がはなれてしまう。神を全然否定している唯物論者と
いうのは霊魂があるということを知らないんだから、意識が戻ってくれば、自分が生き返
ったと思う。ところが肉体は焼いてしまって灰になっているでしょ、もう行く所がありま
せんよ。妻や子供を自分の肉体だと思って使おうとする。妻や子供のほうでは、自由にな
らなくなるから病気になったりする。だから肺病で死んだ人の家にはずーっと肺病の人が
出たり、癌だったら癌の人が出ます。肉体的遺伝があるかもしれないけれども、それより
も幽界的な波が伝わってくるのです。しかしそうなってしまうのでは困ります。
22
肉体を持っているうちに自己の本体を知れ
そこで私がいいたいことは、肉体を持っているうちに自分の本体を知らなければいけな
いということです。肉体に生きているけれども、実は神様のみ心の中に自分の本心がある
うつまつと
んだ、そしてこの肉体はその本心の現し身なんだ。自分の天命を完うしてゆくためには、
神様の中にある本体が、本体のまま素直に通って生きていけば、悪いことは絶対に起こら
ない、ということを知らなければいけません。
ところがそれがなかなかその通りにいかない。何故かというと、肉体の生活というもの
は、カルマの世界の中で生きているわけですから、この地球世界の中で本当に本体を知っ
ている人はわずかしかいないのです。だから大体の人が盲滅法に歩いていると同じことな
のです。明日のことがわからないのです。未来のことは全然わからない。ただその日その
日を送っている。ですからどこへぶつかるかわからない。お互いがぶつかり合って生きて
いるわけです。
わが23 人生一ひたすら人を愛し世界の平和を願って
そこで私はいうのです。人間にはみんな祖先があります。みんな亡くなっていますけれ
ど、霊界にいきいきと生きているのです。その祖先の中で、一番古い悟った祖先が守護霊
しゅごじん
といって子孫の自分を守っている。その上に守護神といって、神のみ心の中からそのまま
現われている神様がいて、救いの光を放っていて、守護霊守護神として人間を守ってくれ
ているわけです。自分で完全円満な行ないをし、本心のままに生きようと思っても出来る
ものではないから、そこで、守護霊守護神さんお願いいたします、どうか私の天命が完う
されますように、と守護霊守護神におすがりして、中に入ってゆくと、守護霊守護神分霊
として一本に天地を貫いて生きていられる。
そうすると、自分でどう思わなくても、悪いことはよけてくれる。悪い行ないをしよう
まこと
と思ってもできない。それで真の道、美しい道をずーっと生きていくことになるのです。
天地を貫いて大きな人間になる。肉体的には一つも変わりありませんが、大きな大きな人
間になる。
24
霊体は無限に生長する
私も初めは、たとえば前に人が坐ると、相対する人の心が地獄にいるとします、あるい
はその人の先祖が地獄にいたとしますと、私はそれを救うために魂がぬけて落ちてゆくの
です。それはもう大変な気持ちの悪さで、エレベーターの綱が切れて落ちてゆくような気
持ちの悪さ。それでも救おうとするのだけれど、力がないからなかなか救えないのです。
向こうは、明るい所はこわくてしょうがない。だから暗い所にひそんでいる。それを引き
あげてもだめなんです。途中で落ちてしまうんです。こちらもあんまり苦しいから上がっ
てきてしまう。そういうことをしていました。
ところがだんだん大勢の人を救っているうちに、世界平和の祈りの同志が増えてくる。
そうすると、自分の体が、霊体がグーッと大きくなって、広がってしまったわけです。肉
体の五井昌久は小さいけれども、霊体というのはとても大きく広いんです。そうなって私
の前に迷った人が坐っても、地獄へ行くのはなんともない、ただ手を伸ばして上げてくれ
わが25 人生一ひたすら人を愛し世界の平和を願って
ばよい。だから迷った人がすぐ救われるんです。そのまま光を当てればいい。
よく経文の中にもお釈迦様が坐っていらっしゃる、その前に弟子が坐っていると、お釈
迦様の体がパーッと大きくなる。天地を貫いて大きくなる、というのが書いてあります。
それは何かというと、肉体を見ていたものが釈迦の霊体を見るわけです。霊体が大きく広
がるのです。肉体というのは二十何歳を過ぎれば伸びません。肥るぐらいのものです。霊
体というのは自分がいい行ないをすればするほど、ぐんぐん伸びていくのです。光体とい
って、広がっていくわけです。
ハな  
私の光体をうつした写真がありますね。みんなお守りにして持っています。あれは私が
鞄を持って島田重光さんの家の前で立っていたところを、島田さんが写したわけです。と
ころが肉体は全然うつらないで、霊光になっている。今度は逆にある人が警視庁の写真を
分解する所にもっていって、調べていたら、そのうちにヒゲの生えた男の人、私の姿が現
われてきたというのです。だから間違いなく私をうつしたものに相違ない。なのに肉体が
うつらず光になってしまったということは、人問は本来光であるから光になるのが当然な
2G
のです。
びやっこう
白光になるのを邪魔しているのは何かというと、自分だけよくなればいい、自分のこと
こうそうねん
ばっかり思う業想念。霊体のこと、本体のことを思うのはいいけれども、肉体感情の満足、
喜びだけを追っていると、だんだん神様からはなれてしまいます。そこで昔から聖者は、
くうむいとら
空になれ、無為とかいって、肉体に把われている想いをはなそうとしているんです。肉体
に把われていたのではダメだ、といって滝に当たったり断食したり、難行苦行をして肉体
いじげだつ
を苛めることを宗教者はしてきた。肉体の苦痛によって肉体から解脱しようとしている。
ところがそれだけでは救われるわけではない。
神のみ心の中に入ること
一番救われる方法は何かというと、自分の想いが神様のみ心の中にすっかり入ってしま
うことなのです。自分は神のみ心の中にいるんだ。自分は肉体ではなくて神体なのだ、と
わが27 人生一ひたすら人を愛し世界の平和を願って
いうような想いで、神の中に入っていかないと、いくら難行苦行したってだめなのです。
今までそうして修行してきた人が大勢います。それで悟れたかというと、悟れていない。
ぜんじよう
お坊さんが幼い時から坐禅を組んで、禅定に励んできて悟っているかというと、悟ってい
レマり
ない人が大部分。どういうことかというと、肉体を解脱しようと思って肉体に把われてい
いじ
る。難行苦行するということは、肉体を苛めていることなので、それは肉体に把われてい
ることなのです。肉体をはなれようと思って、かえって肉体に把われてしまう。空になろ
うとして坐禅観法する、空、空、空と空のことばかり思う、すると空に把われてしまうの
です。空に把われると自由にならなくなってしまう。こうでなければならない、というも
のが出てくるのですね。
ヒンズー教がある、仏教がある、キリスト教がある、回教がある。いろんな教えがあり
まして、みんな一つの戒律とか、一つの定め、修行の方法というものを決めてしまって、
その儀式、定めを行なわないといけないということになっています。儀式などやる必要は
ないのです。何が必要かというと、自分の本体は神から来ているんだ、自分を神様が生か
28
してくださるんだ、神様に生かされている命をまともに生きましょう、と神のみ心と自分
の心がつながればよいのです。それが行ないになれば難行苦行は何も必要ないわけです、
神と一つになって生きていけば、なんにもおそろしいことはない。
それを何かいいわけしながら、このくらいは人間だからしかたがないでしょ、と悪いこ
とをする。思いきって悪いこともやればやるでいいでしょう。罰を受けますけれど、その
代わりパッとまたひるがえる。いけないんじゃないか、いいじゃないか、と出たり入った
りしている。これじゃだめです。いけなかったら止めればいい、やりたかったらやればい
い、この決意が大事です。お祈りで大丈夫かな、平和の祈りなんかきくかな、そんなこと
を思っていたってなんにもなりゃしません。
マラソンをしてスタートした。走り出してから、これじゃいけないとか後ろばかり振り
返っていたら追いぬかれてしまいます。かける時はひたむきに走る。やる時にはなんでも
まともにやればいいのですよ。そうすれば自然に或る点に到達するんです。私など初めか
ら真剣にやった。人間はいかに生きるべきか、少しでも人に尽くしたい、少しでも国家の
わが29 人生一ひたすら人を愛し世界の平和を願って
ために尽くしたい、人類のために尽くしたい、そればかりでした。
それに私は貧乏の家に生まれ、人に頼らず自分でやってきたことがよかったと思ってい
ます。ですから、私はお金持ちに生まれた人はある点では不幸だと思うんですよ。何故か
というとお金に頼ってしまう、父や母に頼ってしまうから、自分で一人立ちできません。
ちょっと貧乏したり、何か苦しみがあったりすると人に頼ってしまうから、ニッチもサッ
チもいかなくなる。ところが貧乏で鍛えあげられていると、イザとなればどんなことをし
てでも食べていかれると思いますから、驚かない。
私は三つぐらいの時、坊や、といわれると、私は坊やじゃないと思っていた。坊やとい
うのは金持ちの子であって、貧乏人の子はガキだと思っていたんですよね(笑)。自分は
どうやって将来生きていくのか、何をしたらいいのか、考えていました。それをハッキリ
憶えています。それがズーッと続いているわけです。素質といえば素質ですね。しかし若
い時からなる人と、四十になってパッと変化する人と、五十になってから悟りに入る人と
ぜんしょう
いろいろありますから、それは前生の因縁でなるわけです。
30
かこせ
音楽の才能のある人は過去世において音楽をうんと勉強した人で、三歳とか五歳で素晴
らしい天才があります。毎日音楽コンクールでは、たいがいローティーンの人が一等にな
る。どうしてそうなるかというと、それは過去世から一所懸命、音楽なら音楽をやってい
たわけです。前からの積み重ねたものがそこに現われるわけです。私も自分の過去世はみ
んな知っていますが、前から積み重ねたものが現われているわけです。そうみると、こう
なるのは当たり前だと思うのです。
おれ
たとえば八十のおじいさんがいたとする、「俺はもう八十だ、何をやったってしかたが
ない、死ぬばかりだ」なんていわないで、生まれ変わったら素晴らしいものになろう、と
思って一所懸命、文字でも、なんでも勉強する。何かを一所懸命、勉強することです。す
らいしょう
るとそれが来生にうんと役立つ。技術などもみんな過去世からの積み重ねです。心のほう
も過去世からの積み重ねで、神様1 と思える人は前の世からの積み重ねが今現われてい
るわけです。そういうものなのです。
わが31 人生一ひたすら人を愛し世界の平和を願って
自分の幸せと同時に人の幸せを祈る
32
誰も彼も自分が本当に幸せになることを望んでいる。望んでいない人はありません。
「自分の幸せなど思わないで、人類の幸せを願いなさい。自分を犠牲にして人を救いなさ
い」という人があります。言葉としては立派です。けれど、実際問題としてできるかとい
うとできない。自分を犠牲にして人を救うことはなかなかできるものではない。私はそん
なことはいわない。
自分の幸せを思うのは当たり前だ、自分の幸せを思うと同時に、人の幸せを思い、国家
社会の幸せを思い、人類の幸せを思う、世界の平和を願う、というように私はいうわけで
す。常に自分があるのです。自分をなくせといったってなくせる人はいやしない。教祖だ
って立派な人もいるけれど、立派でない人も随分いる。自分のことばかり考える。なんと
かいってはお金をとる。お前の所は因縁がすごいそ、先祖が五代たたっている、これを浄
めるためには五十万円出さなければダメだ。明日の午後三時まで五十万円持ってこい、そ
うすればお浄めしてやる。そういう手合いが随分あるんですよ。五十万ならまだいい、六
百万、七百万というのがあるんです。今頃は金額が上がっているらしい(笑)。神様がお
金で浄めをするわけがない。お金をくれるのは相手が有り難がってくれるのであって、こ
ちらから請求してもらうものではないのです。神様の世界は金なんかではないのです。無
限の富で、どうでも神様は出せるわけです。お金を目当てにするような人に浄められるわ
けがない、大体その人が浄まっていないんですから。自分が浄まっていないでどうして人
を浄めることができますか?
私などは今の映画ではないけれど、病気治しに歩いていました。食べるお金もないんで
すよ。けれど人が困ると一張羅の洋服をあげてしまったりした。帰ってから母親に随分叱
られましたよ。お金をもらうのが恥ずかしくて、お金っていうと逃げちゃうのです。母親
にいわれて、ああこれではいけないなと思ったのです。やっぱりこの世はお金がないと食
べられないでしょ。私は食べられなかったから食べなかったんですが、ところがそういう
ふうでいながら、チャンとお金が入っているんです。いつの間にか洋服のポケットに入っ
わが33 人生一ひたすら人を愛し世界の平和を願って
ている。鼻をかもうと思ってポケットをみると、鼻紙の中にお金が入っている。汚いねじ
ったような紙に入っている時もありました。私がとらないから、知らないうちに、入れて
くれるんですね。上着を着ていない時はズボンに入っているんです。誰が入れたかわから
ないんですよ。
だんだん宗教の形になってきて、市川(千葉県市川市) で始めたわけでしょ。お饗銭箱
を作ってくれたりした。するとみんな音のしないのを入れないんですよ。チャリンと音の
するのを入れる(笑)。チャリンチャリンが大分入っている。すると不思議に決まったよ
うに、私のお浄めが終わる頃になると、誰かしら貧乏な人がやってくる。「実は明日のお
金もないんです。子供が三人おりまして… … 」食べられないことが私にはよくわかります
から「ああ可哀相に、これをあけて持っていきなさい」って奏銭箱をあけて持たしてあげ
る。一日の収入が一遍になくなってしまう。じゃ食べられないかというと左にあらず、午
後からお浄めやらお話に行きますと、そこでチャンとお金を用意してくれているんです。
「お金を… … 」といわれるとこの頃は「有難う」ともらうようになった、心が成長してき
34
たのですね。
お金、お金とあんまりお金に把わているから、お金を拒否したんだ、ということがわか
ったのです。ですから、頂くものは有難うございます、と頂く。だんだんそういう気持ち
になってきた。それだけ偉くなってきたということです。把われがなくなった。まだまだ
少しあるけれども… … 、そのようにしてだんだん大きくなってきた。神様のほうでこれで
ホな り
いいというので、世界平和の祈りを教えてくれたわけです。
世界平和の祈りの誕生
この地上界に、宗教がたくさんあるけれども、みんな各宗派に分かれて争い合っている。
昔の戦争は大体、宗教戦争なのです。神様にそむけば罰があたる、命を取られてしまうと
思うものだから、自分の宗教は絶対にいいと思う。自分の宗教がいい、いやこっちのが… …
というんでぶつかり合い、争う。私の守護神団はそういうことをしていたんではだめだ。
わが35 人生一ひたすら人を愛し世界の平和を願って
宗教は一つにならなければいけない、と思った。一つにするには、今までなかったことで、
しかも誰もが思うこと、思わずにいられないこと、そして祈りまで高まっていないものが
ひらめ
あるだろう、というんで”世界人類が平和でありますように” という言葉がパッと閃いて
生まれたのです。
世界人類が平和でありますように、こんな平凡な言葉は誰でも思います。思うけれども、
祈り言に高めた人はいないんです。簡単明瞭な言葉です。これを祈り言までに高めた人が
一人もいない。世界平和を念ずるのでも違う言葉です。長々しい言葉か、むずかしい言葉
でやる。あるいはお経をいちいち憶えなければならないから、とっさの場合役に立たない。
とっさの場合が大事です。いつでもスーッといえる言葉、それが世界人類が平和でありま
すように、なんです。この祈りを唱えていますと、みんな救われてくる。
よその行者さんがみて、世界平和の祈りを唱えている人の姿が光に包まれている、輝い
ている、というんです。それはそうでしょう。神様方のほうで、これを唱えればそこにわ
やど
れらは宿るぞ、とおっしゃっているんだから間違いない。念仏も題目も呪文も、神界ある
3G
いは霊界とその教祖になる者とが約束して、そこに唱え言ができるのです。
世界人類が平和でありますように、という言葉に反対する人はありません。誰が世界平
和に反対しましょうか。アメリカが戦争しているのも平和のためだ、というのでしょ。そ
んなバカなことはないんだけれど、そうアメリカ人は思っている。世界を平和にするため
には共産主義を倒さなければ平和にならない、だから共産主義をやっつけるんだ、という
わけ。ところが共産主義国のほうでは、資本主義、アメリカ帝国主義を打倒しなければ平
和にならないと思っているのです。打倒しなければならない平和なんてありっこない。お
互いが争い合い、殺し合って平和になるわけがない。それを平和になると思ってやってい
るところが、頭が悪いんじゃないかと思うのです。
こう
一人一人はいい人だけれど、国家となると国の業というものがあって、国を守らなけれ
ばならないと思う。アメリカにもあるし、中国にもありますし、日本にも、どこの国にも
かえり
あります。自分の国を守るためには、他の国や国民を犠牲にしても省みない、という心が
どこの国にもあるんです。そういう心があるうちは世界は平和にならないのです。そこで
わが37 人生一ひたすら人を愛し世界の平和を願って
人はいろいろ考えて、世界連邦を作ろう、世界を一つの国にすれば戦争がなくなるだろう
と、働きはじめている。いい考えですが、なかなか簡単にいかない。個人の業、国家民族
の業というのがある以上、世界連邦にして一つに手をつなごうというわけにいかない。
根本的には、何か一つ、全世界がつながる何かの目標がないとだめなのです。世界人類
が平和でありますように、これを人類共通の祈り、願い言として唱えれば、南無阿弥陀仏
といったって、アーメンといったって、アラーの神よ、といったって、どんな宗教に入っ
ていたって、その宗教の祈りを唱えたって、世界人類が平和でありますように、は誰にも
唱えられます。どんな宗教も、どんな国家民族でも、世界人類が平和でありますように、
ごと
と思わない国はないんだから、それを祈り言までに高めればいいんです。それを私は念願
しているんです。
まず日本から始めているわけです。大分同志も増えましたし、外国にも随分リーフレッ
トがいっています。まず日本の、どこの家の前にも、世界人類が平和でありますように、
というステッカーが貼ってある。どこの会合でも、始まる場合にはまず世界平和の祈りで
38
始める。そういうように唱えておりますと、だんだんみんなの心が一つになってくる。一
つになってきますと、やがてはその波が一つになって渦まき、世界人類が平和であります
こうみょうさんぜん
ように、という言葉の中には神の光明が燦然と輝いているのですから、日本中に広がって
カルマ
ゆくと、戦争をしたい、国を亡ぼしたい、という業の想い、迷いが浄められてゆく。大光
明波動で世界が一つにつながってゆく。
正義より平和が優先する
軍備をしなければならないと思う人もいるでしょう、軍備をしないほうがいいと思う人
もいるでしょう。軍備がどうこうというようになると、両派に分かれて争わなければなら
ない。そういうのは専門家にまかせておいて、われわれの運動は、世界人類が平和であり
ますように、という祈り言の中に国民の心を一つにするわけです。そうしますと、いつの
間にかすべての人の心の中に光明心が入っていって、人をやっつけようという争いの心が、
わが39 人生一ひたすら人を愛し世界の平和を願って
憎悪がなくなってくる。アメリカに中共と戦おうというものがあっても、光明波動でやめ
になってしまう。
アメリカが正義だと思っていることは、中共でもまた正義だと思っている。ベトナムで
もフランスでも、みんな自分のところが正義だと思っている。正義と正義がぶつかって人
殺しをするんですから、正義から出たってそれは悪になる。ましてその正義は自分勝手な
正義なのですから。だからそういう正義を一切捨てて、正義より先に平和を築かなければ
ならない。正義に先んじて平和の祈りをしなければならない、と私は思うんです。
だから皆さん、是非世界平和の祈り一念に結集してもらいたいのです。そして皆さんが
先達となって、世界平和の祈りはいい、向かいの人にも知らせましょう、両隣の人にも知
らせましょう、と祈りの運動を展開していこうではありませんか。お願いいたします。
(昭和43年6月23日東京・文京公会堂にて)
40
(注1) 霊光写真
(注2 )
著者の肉体ではなく、光体だけが写っている。この光体は霊、
幽、肉の三体が三つの輪に見える。中央の光が霊体である。こ
こから光波が出て幽体、肉体が出来ると言われている。
世界平和の祈りとは「世界人類が平和でありますように日本が平和でありますように私達
ゐまリレ 
の天命が完うされますように守護霊様ありがとうございます。守護神様ありがとうございま
す」という祈り。守護霊守護神とは、人間の背後にあって常に運命の修正に尽力してくれてい
る各人に専属の神霊。
41 わが人生ひたすら人を愛し世界の平和を願って

入間は神の分生命
44
肉体人間観からの解脱
わけいのち
人間は神の分生命
人間に一番大事なことは、自分がどこから来ているか、ということを知ることです。た
わけいのち
だ地上界に肉体の人間として生まれているだけなのか、天から神の分生命としてここに生
まれているのか、このどちらをとるか。
唯物論のように、神がなくて、自分だけで生きていく、肉体という物質の人問として自
つゐノもラつ
だくしびカ
分をみるか。人間は神の分生命であって、神様の力をこの世界で現わしてゆく存在なのか。
皆さんは神様を信じていらっしゃるんだし、守護霊守護神さんもわかっていらっしゃる。
だから守護霊守護神に守られて生きている、ということを漠然ながらも感じていらっしゃ
るわけですね。
しかし、長く信仰していらっしゃる方は漠然じゃないほうがいいんです。完全に人間と
いうものは神の分生命であって、神様自身がこの肉体の中で働いていらっしゃるんです。
いのち
言い換えれば、皆さん方は神様そのものなんです。皆さん方を生かしている生命は神様の
ものなのです。生命あってのもの種じゃないけれど、生命があるから生きているのです。
ということは生命が人間なんです。人間の生命があって、形の肉体が動いているわけです。

生命がなくなれば失くなってしまう。
たれがし
そうしますと、何の誰某、何の誰子というものは何かというと、生命体なのです。生命
からだ
の現われ、生命の体です。その生命はどこから来ているかというと神様から来ている。神
様の分生命なのです。
サア、そう考えていきますと、自分はなんだろう、神様の分生命だ、生命なんだ、神様
の生命が肉体に宿って肉体を動かしているんだ、ということです。そうなると、何を考え
45 肉体人間観からの解脱
まつと
たらいいかというと、神様の生命が完うされますように、神様の生命がここに充分に生き
ますように、神様のみ心がこの世に現われますように、となります。神様が自分というも
のになって、自分という体になってここに生きていらっしゃる。だから運命も自分のこと
もすべては神様が知っていらっしゃるのです。もっと身近に話せば、守護霊守護神さんは
みな知っていらっしゃる。それで自分はここに生きているわけ。
4G
苦労をなくすには
神様のままで過去世から生きていれば、この世界はもっと立派なものになっているんだ
けれども、神様の生命であることを忘れてしまった、そういう時期がズーッと続いている
わけです。神の生命ということを忘れて、肉体の人間だ、俺は俺だ、神様なんかあるもの
か、という人がたくさん出来てきて、だんだん神様のみ心を離れていっただけ、マイナス
面がこの世の苦労になっているわけです。
この世の苦労、あるいは天変地異や災害をなくそうとするならば、人間はすべて”ああ
自分は肉体の人間じゃなくて、神様の生命だったんだ”とスーッと神様のほうに入ってし
まえばいいのです。そうしますと悪いものが消えてしまうんです。だがなかなかそうなら
せんだつ
ない。だからせめて、皆さんのように守護霊守護神さんを知った方々は、先達となって、
先がけて神様の中に飛びこんでしまう、神様の生命の中に飛びこんでしまうという生活を
続けていけば、その生活がだんだん拡がっていって、他に影響を及ぼしていくわけです。
だからまず、自分が”私は神様の生命なんだな、神様の生命がここに来て生きているん
だな。ああ自分は神様と一つなんだな、神様がここに生きていらっしゃるんだな。神様の
何の誰子なんだな、神様の何の誰ベエなんだな” というように思う必要があるわけです。
みことみこと
実際に、神道では亡くなりましても戒名をつけない、○○○○彦命とか、○○○○姫命
とかいって、神様の子だということをハッキリ現わしているんです。神道では神の子だと
すえ
いうことをハッキリ現わして教えています。それであとは理屈は言わない。神の商である、
それだけでスーッといくわけです。
47 肉体人間観からの解脱
本当は理屈はいらないんです。”自分は神の生命を生きているんだ、神と人間とは一つ
なんだ、神様はここに生きているんだ。神様有難うございます、本心さん有難うございま
す” と、そうやって生きていれば、完全に素晴らしい世界を創り上げてゆくものなのです
よ。
48
肉体人間はみな五十歩百歩
ところが神様と肉体の人間というものを分けてしまって、神様を高い世界においてしま
って、遠くへ離してしまって、肉体の人間の自分はだめなんだ、とやるわけです。肉体人
間の自分を顕したいとか、肉体の自分がどうやったとか、俺は偉いんだ、俺は馬鹿なんだ、
とかいって、神様を離して、自分というものを別にしている。これは偉いも偉くないもな
いんです。
偉いといったって、偉くないといったって五十歩、百歩で、神様のみ心から考えたら問
 はヨ 
題にならないです。私たちは宇宙子科学を勉強していましょう。宇宙天使からいろんなこ
とを教わります。宇宙天使の世界というのは素晴らしい世界で、思う通りパッと成る世界
なんですよ。それを感じていますから、地球の肉体人間というのはなんと幼いか、と思っ
ちゃった。問題にもなんにもならない、という差があります。いくら肉体人間が頑張って
かな
どうやったって、宇宙人(天使) に敵いっこないんです。
どうしたら宇宙人(天使)と同じようになれるかといったらば、肉体の人間観を捨てる
ことです。肉体がここに現われているけれども、これは、神様の生命がこの世において、
この物質の世界において、本当に愛と調和の世界を創り上げるための一つの道具なんだ、
器であるんだ、ということをハッキリ自覚しさえすればいいのです。そして”神様と一つ
になってこの世をよくしていくんだ、神様有難うございます。守護霊さん守護神さん有難
うございます。よろしくお願いします” というようになりきってしまえば、ズーッと力が
出てきます。それは素晴らしい力になりますよ。それを皆さんが自分の生活の中で体得し
てゆくことが大事なわけです。
49-一一肉体人間観からの解脱
統一と雑念
50
 おヰい
そのためのお祈りでもあり、統一でもあるんですよ。お祈りしたり統一をしながら、い
ここ れヨ 
つも心が自分の肉体のほうに向かっていたんじゃだめなんです。道場へ来て統一をするこ
とは、お祈りをすることは、肉体の自分というものを、神様の生命そのもの、永遠の生命、
光り輝いているもの、完全円満なるもの、そういうものと一つに融けこませることなので
す。
ここ
道場で統一してスーッとして、口笛なら口笛にのり、柏手にのり、ズーッと神様の中へ
こう
入 ってゆく。雑念の起きるのは自分の過去世からの業、今日出てくる前までの業、坐るま
での業がそこに現われて、パーッと雑念になって消えてゆくんで、それは自分ではない。
自分は生命として神様と一つになっているわけです。言い換えれば坐って統一してもしな
くても”自分はいつも神様の生命を生きているんだ。神様が何の誰子となり、何の誰ベエ
となってここに生きているんだ、ああ自分の生命は神様の生命で、この肉体は神様が使っ
ていらっしゃるんだ、神様の生命がここに生きていらっしゃるんだ” とお念仏のように思
うんですよ。そうすると素晴らしい力が出てきます。
怖くもなんともない。恐怖がなくなります。グラグラッて地震が来たってなんでもない。
神様の生命なんだからね。地震より大きいんですから、自信をもってやらなきゃなんない
です(笑)。
神様の生命より大きいものはないんだから、神様の生命の中に自分が入っていればいい
んですよ。この五尺何寸に区切っちゃって、五尺何寸の自分だ、私はこんなだ、と小さく
小さくしている。私なんか体は小さい。けれども霊身は大きい、大きい。無限に大きいん
です。五尺二寸の体など問題にしていないんです。五尺二寸四十キロの体の中にいない。
いつもどこにいるか? 宇宙にズーッと遍満している。広がっているのです。
世界人類が平和でありますように、みんなが幸せでありますように、と宇宙をかけめぐ
って、光り輝いて働いているわけです。皆さんも本当はそうなんです。世界人類が平和で
ありますように、といっている時は、皆さんの霊体は地球ばかりじゃありません。宇宙を
S1 肉体人間観からの解脱
光り輝いてかけめぐっているのです。肉体はボケーッとしているだけ。今日のおかずは何
にしようか。昨日はサンマだったし、今日は少し奢ってひらめにしようか(笑)。なんて
やっているわけ。それはそれでいいんです。それはこの肉体のほうのことです。おかずの
ことを考えていながらも、実は自分は神様の生命をそこで光らせているわけです。
けれどもその根本には世界平和の祈りのような、人類愛の、みんな幸せでありますよう
に、どうかすべてが幸福でありますように、調和していますように、という願い、祈りが
なければだめなんです。そういう祈りがあると、ほかのことを考えながらも、関係なしに
生命はパーッと光っているのです。
ここに来て坐って”世界人類が平和でありますように”とやりながら、鍵をかけてきた
かしら、ガスの火は消してきたかしら… … 、なんて頭の中で思っている。そんな雑念は問
題じゃない。統一して平和の祈りと一つになっている自分のほうが本体で、それは光り輝
いている。ここへ来る時はチャンと神様がやってくれています。心配ばかり出てくる時に
は、守護神さん守護霊さん留守をお守りくださいませ、と頼めばいいのです。「ハイヨ」
52
といって守ってくれますから。大丈夫だから。
“心配
” の効用
大丈夫だけれども、大丈夫、大丈夫と思いながら、心配するのが人間なんですね。それ
は過去世の因縁というか、過去世の習慣の想いなんです。想いの習慣が心配苦労するわけ
です。それはそれで可愛いですよ。心配もなんにもしない女親ばっかりだったら面白くな
いですね(笑)。話がなくなっちゃう。”お暑うございます” “暑くたって何でもないだろ
う、大したことはない”。台風が来ても、”そんなのなんでもない、大したことはない”。
お互いにそんなことをいっていたら面白くもおかしくもない。可愛らしくないですよ。や
つばり心配したり苦労したりすることが可愛らしい。
私だって心配苦労したように見せるんですよ。戸締りしたか、鍵かけたか、鍵は厳重に
しなさい、一ヵ所じゃだめ三ヵ所ぐらいにして… … こうやって教えるわけ。当たり前に当
53 肉体人間観からの解脱
たり前に心配苦労するわけです。それでなくちゃ可愛くないです。「うちの家内がお腹が
痛い痛いと泣いています」って電話がかかってくる。「そんなの心配ないだろう」これだ
けじゃにべもない。ああそれは大変ね、それは痛いだろう。苦しいだろう。祈ってやった
よ、大丈夫よ… … と、こうなれば、一遍、先生が心配してくれたからもう大丈夫だ、と思
う。あんまり初めから心配しなかったら、愛も情もないと思います。やっぱりお互いに心
配していいと思うの。
こうみよう
ただ心配しても、神様がちゃんと守ってくださるんだな、だから大丈夫なんだ、と光明
思想にパッと変えてしまうことです。そうすると、だんだん心配苦労する想いが消えて、
消えて、消えていって、しまいにはあんまり心配しなくなるんです。今度は愛情で心配苦
労したような顔を見せてやる。お互いに向こうに合わせてやる場合もある。そうしないと
相手の心配はとれません。だんだん立派になってくれば、本当の菩薩さんになるわけです。
皆さんは、肉体の人間だと思わないで”肉体に仮に宿っているけれども、自分は神様の
わけいのちいっしょ
分生命なんだ、神様と一所にいるんだ。神様の生命がここに生きているんだ、神様と私は
54
一つなんだ、神様有難うございます” というように生きていらつしゃれば、この世が楽し
くて明るくて、ひろびうとしていて気持ちがいいことになるわけです。
(昭和49年9月8日)
(注3 )
(注4 )
(注5 )
正式名称は、宇宙子波動生命物理学。宇宙天使の指導の下に研究されている大調和科学。
ぎょう
自分の本心本体と一つになるための行。
聖ヶ丘道場。千葉県市川市中国分にあった本部道場。】九九九年三月に閉館。
55 肉体人間観からの解脱
5G
人間はどうして神の子なのか
圃人間は神の子であって、他のすべての生物は被造物であると伺っていますが、動
物にも劣る行為をしても反省しない人間もいます。万物の霊長であるならば何故
そんな行ないをするのでしょうか。
神の子たらしめんとして平和の祈りがある
圏人間は万物の霊長であり、神の子であるということは真理なのです。しかし私た
しんじん
ちの考えている人間というのは、神人、あるいは真の人であって、現在の人類と
いうものは、本当の人にはなりきっていないのです。まだそこまで進化していないのです。
人間神の子というのは、進化しきった時の名称であって、いまだ神の子の姿を本当に現わ
してはいないわけです。人間と動物性が混ざり合っている人間が大半で、平均して人類は
そういう状態です。それで今この宇宙の変化というものは、地球世界の人間を急速に神の
子たらしめんとして、神々が働かれている状態です。
わけみたま
どういうのを神の子というかというと、分霊の自分と守護霊守護神が一つになって、想
念行為をしている。想い、行なっているという状態です。守護霊守護神を離れて、自分勝
しんじんしんじん
手にやっているものは、神の子でも神人でも真人でもないのです。やっぱり動物なんです。
ただ誰も彼も、どんな悪そうに見える人間でも、守護霊守護神は働いていて、神の子の本
質があるわけです。ただ業想念でおおわれている。厚くおおわれているものは動物以下の
働きをするようになる。
何故かというと、考える力とか創造する力とか、計画する力が人間にはありますから、
動物よりもずっと利口に立ち廻れるわけです。それは神の子ではない。神の子の姿が隠れ
ていて、業想念がそのまま現われている。大体、今の人間はそういうふうになっています。
57 人間はどうして神の子なのか
ですから誰も彼もが神の子、というわけにはいかないんです。神の子であるけれども、神
の子の姿を現わしていない人のほうが多い。たまたま現わしていることがあるけれど、ま
ぎょくせきこんこう
た悪魔的なことが現われたりしている。玉石混清で動いています。
それをわれわれの平和の祈りによって、すべてを神の子たらしめんとして「守護霊さん
があるんですよ、守護神さんがあるんですよ。そして守っているんですよ。一つになれば
神の子になるんだよ。だからいつも守護霊さんに感謝しなさい」というように教えている
わけです。そして世界平和の祈りのような、横に広がってゆく人類愛の祈り言を教えてい
るわけです。それでその波動圏に入っていけば、大光明波動のところだから、そこで洗い
浄められてゆくうちに、神の子になってしまうわけです。
ここへ来ている人はその意味では、本当に幸せなのです。ここに来ている人は、今亡く
なっても、必ず霊界以上に行くんです。幽界、迷いの世界に行く人はありません。何故か
というと、守護霊守護神がちゃんとそこへ連れていきますから。亡くなる時は守護霊守護
神が現われて、あるいは五井先生の本体が現われて「あなたの世界はここなんだよ」とち
58
やんと連れていってくれ、霊界へひとまず置いて「ここがあなたの住まいなんだよ」と言
っておいて、今度は、また改めて、修行し残したことがありますから、短気なら短気の想
はら
いを直すとか、嫉妬があれば嫉妬を直すとか、いろいろな欠点を祓うために、修行に出さ
れます。けれども、自分の座はここだ、とハッキリわかっていますし、いいところにあり
ますから、修行に出されても何年かすれば大丈夫ということがわかっていますから、苦し
くない。楽しくなる。
ところがこういう教えにふれていない人は、守護霊守護神も知らない。霊界もなんにも
知らないで逝ったとすれば、自分のその想いのままでその世界へ行くわけです。人が嫌い
もうえいようえい
で、人のために一寸も尽くさない、自分だけのことを考えて、自分の儲け、自分の栄耀栄

華ばかり追っているような人は、誰も人のいない、もう光も何もない真っ暗な、灯も見え
かねぐら
ないような所で、おたおたしている。金集めに興味のある人は、暗い金蔵の中で金ばっか
り数えている。想いがそのまま現われる。
皆さんみたいに、神様のことを思い、守護霊守護神のことを思っていれば、想いのまま
59 人間はどうして神の子なのか
が現われるのだから、守護霊守護神のところに行くわけです。守護霊守護神がちゃんと導
いていくけれども、そのままでいるわけじゃない。やっぱりいろんな癖がありますから、
その癖を直すために修行させられます。
自分のことだけ思うような、人なんかどうでもいい、というような想いがあっても、守
護霊守護神さんと言っていれば、死んだところで霊界の座がちゃんと決められています。
けれどもつともつと幸せになるためには、出来ることなら、守護霊守護神に感謝しながら
も、自分の悪い癖というのはどんどん直していったほうがよい。自分のことだけでなく、
人に愛を及ぼして、社会のために尽くさなければだめなんですよ。そこで、自分の悪い癖
は生きている間にとっておいたほうが得だ、ということになります。
GO
人間はどうして神の子なのか
ちょくれい
人間はどうして神の子かというと、直霊の世界から来ているのです。直霊というのは神
様そのものなのです。宇宙神というのは宇宙の法則です。人類に働きかけているのは直霊
です。その直霊の中から人間は来ているのです。その光がそのまま入ってきている。です
からズーッとつながってきているわけです。
ところが動物というのは、人間のように直霊からズーッと来ているのではないのです。
 は レ
直霊の世界の下に、動物を司る神様がいらっしゃる。同じ場所に『神と人間』では書いて
 はアソ
ありますけれど、実は副としてあるんです。その動物を司る神様が動物を創るわけです。
れいこんばくこんばく
人間は霊魂暁としてありますが、動物は魂醜で創られています。それで動物には創造力も
ない、計画する力もない。創造する力、計画する力の元のエネルギーはどこにあるか、と
いうと、霊の中にある。霊そのものが計画する力の根源であり、創造する力の根源です。
その創造する力、計画する力の根源である神様は、宇宙万般を創られた。宇宙万般を創ら
れたと同じような創造力がそのまま入っているのが、人間なのです。ただいまだ発揮して
いないだけなんです。やがて全部出てきます。
こんばく
ところが動物の中にはそれがない。魂魂はあるけれども、創造力、計画力もない。動物
G1 人間はどうして神の子なのか
を司る神様にはあるけれど、動物の中にはなく、神様がいちいち動かすだけなのです。そ
こんばく
こが違うのです。そこで私はいつも間違いないように、霊魂醜とハッキリ書いています。
ふつうは霊魂と一緒にしていますが、私はハッキリさせるために霊魂魂というように分け
たのです。魂醜は動物にあるけれども、霊は神様のほうにあって、神様が自由に動物を操
ぶんれいこんぽく
っているわけです。しかし人間は操られているのではなく、分霊魂暁の人間と守護霊守護
神とが一つになって、神の子なんです。動物は被造物、人間は自らが創った、自らの守護
神が自分の体を創るのです。大神様が創っているわけではありません。大神様の要素を守
護神が自由に操って、人間の肉体を創ってゆくわけです。
守護神というのは自分と一つなんです。肉体の私がここにいます。五十歳です。この人
は過去世でいろんな修行をして、いろんな人を救ってきた霊魂醜であるわけです。ところ
が青年の頃は何もわからないから、普通の肉体人間だと思って一所懸命やります。そのう
ちハッと気がついて、神様へ全部任せてしまった。何もわからない時は操られているよう
こう
なもので、動物と大して違いはない。業に操られているかも知れない。ところがわかって、
G2
小さい肉体のほうの想いが命を投げ出してしまったでしょ。その時、初めて本当の人間に
ひと
なったわけ。本当の霊止になったわけね。まかしてしまったから、こっちの想いがなくな
った。分霊魂醜の人間観はなくなってしまって、直霊と一体の、守護霊守護神と一体にな
った。大きな立場に生まれ変わった。本心をそのまま現わし得る人となった。
お釈迦様は「我は仏なり」と言った。それはわかったからです。仏というのはほどける
という意味で、肉体の人間だ、人間だと思っていたのが、人間は肉体じゃなかった。守護
霊守護神と一つだった。金星を見てわかったということは、守護神の姿を見てわかった、
ということです。それで心が全部ほどけてしまった。それで「我は最勝最智の如来なり」
ぶっだ
と宣言した。本当にわかれば誰も彼も仏陀となるわけです。仏陀になるということは、守
わけみたま
護霊守護神と肉体の分霊の自分が、全く一つになるということです。神人であるわけです。
守護霊守護神とはなれた自分というものは、あくまでも生まれ変わり死に変わりして、
りんね
業の中を輪廻してゆく。それは高くなったり低くなったりするけれども、考えてごらんな
さい。肉体の人間という考えがなくなれば、神様だけじゃないですか。そうすると神様の
63 人間はどうして神の子なのか
光がこのまま降りてくるんですから、神様になりますわね。それで我欲をなくせ、欲望を
くうむい
なくせ、というわけです。お釈迦様は「空になれ、空になれ」、老子様は「無為にしてな
せ」と言ったんです。そうすると自分がなくなって、自分の本体がこの地上界にそのまま
で現われてくるのです。
そういう人が亡くなれば、往くも帰るも亡くなるも、何もありゃしません。本体の所に
行くんですから。だからそれに近くなれば、みんな高い所に行くに決まっています。
から
ですからこの世において、自分だ自分だという悪い癖をなくせばなくすほど、空になれ
むい
ばなるほど、無為にしてなせばなすほど、その人は立派な神の子、いわゆる神人になるわ
けです。
(注6) 霊と魂醜、生前死後、守護霊守護神、
(注7) 巻末の参考資料の第-図参照。
因縁因果を超える法等、神と人間との関係を明示した本。
64
神の分霊の人間にどうして業想念が生じたのか
わけみたまごうそうねん
圃輪は神の分垂皿といわれます奪つして業相心念と℃つものが生じたのでしさつ
霊体と肉体の生き方のズレ
いのち
圏神様が完全円満で、絶対なる力であるのに、そこから分かれた命にどうして業想
念ができるのか、どうしてそういう世界に悪いことが起こるのか? というわけ
ですね。
それは、人間というものを肉体と限定しているからなんです。人間は肉体ではありませ
G5 神の分霊の人間にどうして業想念が生じたのか
しんたい
ん。肉体は一つの器である。人間というのは霊なる生命である。生命そのもので神体なん
です。はじめ神体であり、それから霊体になり、幽体になり、肉体になるんですね。何段
階も分かれていて、肉体が生まれたから人間が初めて生まれたんじゃないんです。肉体を
こう
まとった時に、初めて業が出来るんです。
げんざい
何故業が出来るかというと、キリスト教では原罪といいますね、肉体が生まれたことが
原罪というんです。本当は罪というんじゃないんですね。何故そうなるかというと、私が
いつもいうように、神体、霊体は微妙な波動で、神のみ心とピタッと一つで離れていない。
微妙な波動がそのまま生きているから、そのまま正しい、完全円満な姿が現われるんです。
あら
幽体の波動、あるいは肉体の波動になりますと、粗い雑な波になってきている。物質とい
こホい
うのは雑ですよ、目に見えないものはズーッと細かいでしょ、目に見えない霊体の世界と
いうのは細かい。それが肉体という粗い波動をまとうと、霊体の生き方がズレてくるわけ
です。
たとえば霊界だったら一瞬にしてアメリヵへでもどこへでも行けるわけです。それが肉
GG
体だったら、歩いたり、飛行機に乗ったり時間をかけてゆくわけです。それだけ遅いわけ
です。だから霊界ならスーッとそのまま神様の力が現われるものが、肉体の世界ではスー
すきまこう
ッと現われないんです。現われる問にスキが出来るわけです。その隙間が業というんです。
むみょう
隙間にいろんな悪い業のようなのが出来てくるわけです。それを無明というんです。明
かりがない所があるわけね。強い光ならパァーッとどこまでも無限に光が照らされるわけ
でしょ。ところが弱い光だと、ある程度まで光るけれども、向こうまで光るためには歩い
ていって光らさなければならないでしょ。その間に闇が続くでしょ。明かりがない空間が
出来るわけですね。そこのところに業が出来るわけです。
時間が必要である
光がないから闇の姿が出来る。その闇が全部消えるためには、神様の光がそのまま通る
時間があるわけですね。時間が必要なわけです。霊体ならヒューッと行っちゃうのに、肉
神G7 の分霊の人間にどうして業想念が生じたのか
体なら時間がかかるでしょ。その時間がかかる分だけが業なんですよ。だから、この世が
悪く見えようとも、どんな間違った世界に見えようとも、やがては神の光がすべて地球界
に通りきってしまえば、もう悪い想いは全部消えてしまうわけですね。その神様の光を早
く通そうと思って、各聖者や宗教家が現われて一所懸命、闇を消すために光を与えている
わけですね。それで光が充満してくる。要するに神様の光が霊体ならスーッと来ているけ
れども、肉体のほうは隙間があるでしょ、そこの所へ霊界から肉体をまとった私みたいな
人たちが、光をあてて闇を消すのを補っているわけです。補う人が多く出れば出るほど、
わけいのち
早く完成する。早く完全な人間が出来る。早く完全な神の分生命が出来るわけですよ。
G8
神の光を届かせるために
もとは神の分生命であるけれども、肉体をまとっていると、そこに隙間の闇の世界が出
来てきて神の分生命の本体がなかなか現われない。そこで早く本体を現わした人たちがみ
ぶつぼさつ
んな、仏菩薩になって、応援してその闇を消そうとしているんですよ。
闇が消えてしまえば、すっかり完全な姿が出来るわけね。そうすると、ああ神様は完全
円満だったな、と初めて出来るわけ。だから元の世界は完全円満だけれども、肉体の世界
は完全円満ではない。何故ならば、まだ光が届いていないから。
ぼさつぎよう
神の光をすっかり届かせるために、聖者賢者というのがいて、菩薩行をしているわけで
すね。皆さんの世界平和の祈りは大光明そのものだから、皆さんの体を通して闇を消して
ゆくわけです。だから一人でも多く世界平和の祈りを祈る人があれば、多ければ多いほど、
早く世界人類が完全円満になるんだ、というわけです。
神G9 の分霊の人間にどうして業想念が生じたのか
畠留守護霊守護神について
72
神と入間との関係
人間と守護霊守護神
しゅごじんしゅこ
この世にはいろんな宗教がありまして、守護神といって教える宗教もありますし、守護
霊といって教える宗教もあります。けれども守護神守護霊の在り方というものを、ハッキ
リ説いたのはうちの教えが初めてだと思うんです。
きよ
私の説いている守護霊というものはどういうものかといったら、祖先の浄まった人、祖
先の中で、この地球に生まれ地球界の経験を積んで浄まって、もう生まれ変わらないで子
孫の守護をしている霊。守護神というのは、地球界に生まれないけれども、神そのままの
佛坐講、要するに、藍跳、ち醸舞の分かれたもので、守護霊の商みの親でもある、と説いて
いるわけです。
守護神というのは一つかというとそうでない。直霊から分かれたそのままの守護神とい
うものと、守護霊から昇華して、守護霊の役目をおえて一段階上がって神になり、守護神
となったものとあるわけです。守護神は本当は一つであるけれども、複数なわけですね。
そこで、人間というのは一体どういうことになっているかという問題ですが、人間とい
うのは、この世界に肉体として○ ○ ○ 子、○ ○ ○ 男としているわけです。これは一人です
ね。一人の人間がここにいるということに、この現われの世界ではみるわけです。ところ
が私どもの目からみますと、一人の人間なんていうものはいないんですね。一人で生きて
いると思っているけれど実はそうじゃない。
いのちなおびぷんれいわけ
どういうことかというと、神の生命そのままの直毘が分かれて、一方は分霊として、分
みたま
霊、魂として、この肉体の中に入ってきて、中といいましたが、これはこの世の言葉にな
ぶんれいこんあら
いから、中といいますが、その分霊魂だけではこの地球界の粗い波を乗り切っていけない、
73 神と人間との関係
ということを大神様はあらかじめご存知だったので、危い時に助けるという形で守護神を
つけたわけです。
わけみたま
内面的には直霊から分霊として真っ直ぐ入り、外面的には守護神としてついて、そして
 た  
守護神が祖先の人を浄めて悟らせ、守護霊として、分霊魂を守らせることにしたのです。
肉体人間がこうやって動いているのは、この自分の頭で考えているだけじゃなくて、大
生命(直霊) からくる生命力と、その生命力を自由に操ってくれて、一番素直に神様のみ
心を現わせるようにという、要するに背後からの力で守護霊守護神として働いている。そ
れで、四者一体になって働いているわけです。
そこで初めて一人の人間が完全に生きていけるわけなんですね。だから肉体の人間は、
守護霊、守護神が働かなかったら生きていけないんですよ。
守護霊守護神がもし離れたとすれば、この地球界に渦まいている業の波に押したおされ
て、そのままだめになっちゃう。守護霊守護神が波がかかってくると、サーサーとよけて
くれる。それでも入ってくるんです。守護霊守護神がよけてくれていて、それで僅かに入
74
ってくる業の波でさえも、オタオタしながら人間は生きているわけです。だから守護霊守
わけみたま
護神として働いている力が九〇パーセント、分霊の肉体側の力というのは、わずか一〇パ
ーセントというところなんです。
それなのに、世の中の人たちは守護霊や守護神のことを知らないで、肉体人間の自分の
力でやっている、おれの智恵がいいんだ、おれの才能だ、とやっているわけですよ。
唯一絶対なる神と守護霊守護神との関係
また、信仰のある人でも、守護霊守護神を全然考えない人がいます。ただ大生命、宇宙
神というものだけに直結でき得ると思っている。神様といえば唯一絶対なる神しかないん
ですね。あとはない、宇宙神だけがある、という考え方でいる宗教もたくさんあるわけで
す。それは間違いじゃありませんよ。けれども、いわゆる一つを知って一つを知らない、
おもてうら
表を知って裏を知らない、右を知って左を知らないという考え方なんです。
75 神と人間との関係
唯一絶対神だけというのは、宇宙神だけが神様であって、神々なんてないんだ、あとは
人間だという形ですね。キリスト教はそういう形を取っているんじゃないですか。それで
神の代弁者として、神の唯一の子として現われたのがイエス・キリストである、というふ
うに説くわけですね。ところが私どもがはっきり知っていることはそうでなくて、宇宙神
は唯一絶対その通りで、宇宙神のみ心、大生命の中の一つの流れとして人間は生きている
なおび
わけですね。その流れの中は実に複雑でしてね、人類の一番元である七つの直霊の分かれ
の分霊魂という肉体界に働きかけてくる力と、私たちは地球に住んでいるから地球人類だ
しめいたっせい
けの話をすると、地球人類の使命達成、神のみ心達成のために応援して働いている守護神
守護霊というものがあって、それは全部、宇宙神の中に入り、宇宙神の中で働いているの
です。宇宙神の外というのはないんです。
生命というのは、人間とか動物とか植物にあるだけじゃなくて、鉱物、石にも鉄にも土
にも生命があるんですよ。ありとしあらゆる現われているものには、すべて生命があって
動いているわけですよ。ですから生命のない所というのは無いのです。いのちが生き生き
7G
と生きているところは全部、大神様の中なんですね。だから生きているものの中で、宇宙
神の外にあるものはない、すべて神のみ心の中にあるわけです。
それなら宇宙神だけでいいじゃないか、というけれども、宇宙神のみ心の深いところが
そのまま現われてきたら、この地球人類は一遍で全部亡びちゃいます。崩れてしまいます。
例えば地球科学でいえば、太陽の圧力とか放射能とか光がそのまま来ていれば、例えば
紫外線だけでも放射されたそのままが人間に当たっていれば、人類は一遍に死んでしまう
んです。ところが幸いなことに、地球を取りまいている大気層があったり、いろいろな層
うか
があるので、その放射能とか紫外線とかをうまく濾過するように、柔らげてくれて、適当
にこちらに恩恵として与えてくれているわけです。それで生きているのですね。
それと同じように、宇宙神の力、エネルギーをそのまま現わしたら、人間は生きていけ
ないんです。そこでそのバランスをとって、光を適当に適当に与えてくれるように、うま
くコントロールしてくれるのが守護神守護霊なんです。それを神々というのです。神道で
やおよろずあめのみなかぬしのかみヘヘヘヘへ
は八百万の神というのです。宇宙神は天之御中主神の名前で現われ、その他、やおよろず
77 神と人間との関係
の神々がおられて、宇宙神の一つの手となり、足となり、あるいは細胞の一つとして働い
すえ
ている神々がありましてね、その神々の喬が地球に現われている人間なんですよ。
○ ○ という人間をズーッとたどってゆくと、イの神があるとすればイの神の直系だ、ロ
の神があるとすればロの神の直系だ、ハの神があるとすればハの神の直系だ、とかいうよ
うになるわけです。そしてそのイならイ、ロならロ、ハならハという神の働きにいろいろ
なものが助けあって、この肉体人間が出来ているわけなんです。だから簡単に神は唯一絶
対である、なんていっているのは、なんにも知らないからです。
78
老子や釈尊は何故神といわなかったか
宇宙絶対者は道であり法則として現われています。水は高い所から低い所へ流れる。電
気もそうですね。暖かい空気は上に昇り、冷たい空気は下に降りる、これはみな法則です
ろロつし
ね、流れです。その宇宙の法則そのものが神様なんです。そこで老子は神とはいわないで
道といった。道にはいろんな道があります。道というのは自分が行なわなきゃならない。
道にはずれたらその人が苦しむんだ、道にはずれないように、法則にはずれないように生
きていかなければならない、というんで、いろいろと道のことを教えたわけですよ。
とら
老子は神といったってしょうがないと思ったんでしょ。そうするとまた神に把われてし
まうと思ってね。自分が善ければいいんだ、チャンとしていればいいんだ、いうことを老
しょうちさいかく
子はいうわけです。その行ないはどこからくるのが一番いいかというと、小智才覚をもつ
て頭の中でこうしたらいいだろう、ああしたらいいだろうと、この決まった肉体の頭だけ
でガチャガチャやっていたんでは、決まった小さなことしか出来ないから、業想念という
ものを、小智才覚というものを全部、道の中に入れてしまえ、というわけね。どういうふ
むい
うにするかというと、無為にしてなせ。
無為というのは何かというと、こうしよう、ああしようと思い巡らすものじゃなく、私
そうたいてき
がいるからあなたが、あなたがいるから私がいる、右があるから左がある、という相対的
なものじゃなくて、すべてを道の中へ入れてしまえ、いわゆる宇宙神の中に入れてしまえ
79-一一神と人間との関係
というんです。自分という想いを全部なくしてしまうと、宇宙神の、要するに道の根本、
一番奥の奥から本当の力が出てきて、その人は自由自在な働きが出来る、神と一つの働き
が出来るんだ、ということを老子はいうわけです。
それで老子は神といわず道といい、道を大といってみたり天といってみたり、いろんな
言葉で説いているわけです。神というと、一つの固まりだと思っちゃうでしょ。固まりを
つかたと
感じさせないように道といって、掴みどころのない自由自在なものに讐えていたわけです
ね。
その頃でもいろんな迷信の神がいっぱいありましたからね。把われるから神といわず、
行ないの中、道の中にすべてを求めたわけです。
釈尊もそうです。お釈迦様は神っていわないでしょ。仏といった。自分の中のもの以外
を考えさせないで、内からつながってこの現われの奥に本当の実在がある、大生命の力が
あるということを知っていました。お釈迦様の頃は、いろんな迷信邪教がありまして、蛇
こりたぐいまつ
を祭って蛇の力を借りてみたり、狐狸の類の力を借りてみたり、動物を祀ったりして、そ
80
れを神だとかなんとかいって拝んだことがたくさんあるんですよ。そんなことをしていて

は人間性の尊厳が失われます。そこで神といわないで、人間自体が大事なんだ、自分が解
だつにくうらねた
脱さえすれば業想念、つまり欲しいとか悲しいとか嬉しいとか恐ろしいとか、憎む恨む妬
むとか、そういう想いさえなくせば、内なる本体の大生命の力がそのまま現われてくるん
ほとけにょらい
だ、それが現われている状態を仏の状態、如来というのです。
ざぜんくう
そういうようにならなきゃいけないというんで、坐禅などさせて空になれ、要するに業
しずちんこん
想念のいろいろ乱れている想いを鎮めるわけです。神道でいえば鎮魂というんですね。想
くあノ
いをしずめて澄み切って空になりさえすれば、仏様が、大生命の力がそのまま中から現わ
うちもよお
れてきて、内催しにいろんなことが出来るんだ、と教えたわけですよ。
じんぼんてん
そう教えながらも神といって、霊魂のことや守護神のことを教えています。それで梵天
たいしゃくたもんてん
とか帝釈、多聞天とかいっているでしょう。守護神ですね。やっぱり認めているわけです。
くしつ
主としては空というものを説いていたけれど、やっぱり言葉としては、守護神のことも説
いているわけです。
81 神と人間との関係
イエス・キリストと天使群
82
イエス・キリストはどうかというと、人間の肉体というものがすべてを邪魔しているん
はりつけまっさつとら
だから、といって自分の肉体を礫にかけた。それで肉体を抹殺して、肉体に把われている
カルマむざいほう
うちはだめなんだ、肉体の業というものは自分が代わりに払ったから、お前たちは無罪放
めんせんげん
免されたんだ、と無罪宣言をしたんです。それで人間は神の子なんだ、ということです。
そうすると弟子から見れば、イエスがキリストであって、神の独り子である、そのイエス
しょくざいみな
の 晒罪によって、自分たちはイエスの御名を通して神様に救われていくんだ、という形で
一人の中心者を出したわけ。永遠の中心者をイエス・キリストとして出したわけですよ。
各宗によっていろんな教え方をしているわけです。しかしこれを総合して考えてみます
と、やっぱり唯一絶対者と守護神守護霊というものが、常に救っていることは間違いない。
イエスの場合でも守護神が随分出てくるでしょ。大天使とか天使とかいうのは守護神の
ことですからね。大天使ミカエルとかガブリエルとかいますね。大天使ミカエルはイエス
の守護神ですが、イエスを守っていろいろ援助してくれていたわけです。
守護神でも、要するに個人だけを守っているような形の守護神もあれば、大きな意味の
人類の運命を守るために或る人について働いている守護神もあるわけですよ。だから人類
的な働き、国家的な働きという大きな働きをしている場合には、守護神がたくさんついて
いるわけです。私のところには神々が一杯いるわけですから、神々がいろんな話もし、お
浄めもするわけです。
ですから守護神というのは複数で、しかもその下に守護霊をつけて、守護神守護霊とし
わけみたまようい
て働いているわけね。そして分霊の働きを一番容易にたやすく苦労なくさせようと思って
わけ
いるわけです。宇宙神の中にある自分なんだ、大生命の中にある自分なんだ、大生命の分
いのち
生命として働いている自分なんだ、ということをハッキリ知らせようとして、一所懸命働
いているのです。
83 神と人間との関係
人間神の子を自覚するまでには
84
守護霊守護神はいつも起きていて、夜、肉体人間が寝ている間に浄めているんですよ。
守護霊の働きの大変なことといったらないですよ。肉体の人間はバカですからね、一秒先
のこともわからないんですから、向こうから見れば幼い幼い子供みたいなものです。それ
を守っている。そしてこの子供がいうことをきくわけじゃない。こっちへいけばいい、こ
うしろ、といっても聞こえるわけじゃない。普通の人はね。いうことをきかないで向こう
へ行っちゃう。しょうがないな、と思ってポンと病気かなんかさせて止めておいて、業を
出させておいて、正しいほうに向けてゆく、ということをしている。だから病気をしたり
貧乏をしたり、いろんな不幸災難にあったりすることは、すべて正しい永遠の生命の法則
にのせるために、守護霊守護神がそういう業を消すために出しているわけです。そして永
かんとく
遠 の生命を得させる、観得させるのです。そして初めて、人間が神の子になるんですよ。
だから人間神の子、完全円満なんたって、実はそうなるためには大変な苦労がいって、
大変な消えてゆく姿をやらなきゃ、人間神の子完全円満なんかならないんですよ。それを
やすやすと人間神の子完全円満、病気はない物質はない、なんて簡単にいったって、そん
なこと出来っこないと私はいうんだよ。それは言葉のあやであって出来やしない。
それだから守護霊守護神にすがって”守護霊さん守護神さん、いつも守ってくださって
まつと
ありがとうございます。世界人類が平和でありますように、私どもの天命が完うされます
ように” っていう思いで、自分が神の子1 なんて威張るんじゃないんです。謙虚な想い
で”こんなぼんくらな自分たちもまともに生かしてくださってありがたいなー、神様に守
られて生きているんだな、ありがたいなー、ああ少しのご恩返しでも出来れば幸せだ” と
思う。それにはどうやったらいいか。”世界人類が平和でありますように”と祈ることが、
自分で出来るただ一つのご恩返しだから”世界人類が平和でありますように” と感謝の思
いで世界平和の祈りをするわけですね。
自分が偉いから世界平和の祈りをするんじゃなくて、自分たちが神々に助けてもらい、
こうやっていい教えをきいていられる、ありがたいな、このご恩返しにせめても、という
85 神と人間との関係
気持ちで「世界人類が平和でありますように、ついでに私の病気も治してください」と、
こうやればいいんです。もう病気を治すのはついでなんですよ。貧乏を直すのもついでな
んです。本当は永遠の生命が現われる、永遠の生命いわゆる神のみ心の中に自分がすっか
り入りこんでしまうことが天命なんです。一番大事なことなんです。ついでに病気を治し
てもらって、ついでに貧乏を直してもらったりする。ついでなんです。
8G
想いがいかに体や運命に影響を与えるか
それが今の人たちはついでじゃなくて、一番先に貧乏を直してもらう、病気を治しても
らうんですね。それもこの世に生きている間は無理もないんですよ。けれど本末転倒して
いるんです。永遠の生命の法則にのれば、病気も貧乏もサーッと消えちゃうんです。
それをあべこべに病気をつかまえて、病気を治してくれ、貧乏をつかまえて貧乏を直し
てくれ、とやるからなかなか直らない。”病気も貧乏もすべて、神様のみ心が、自分の生
命を永遠の生命につなげてくれるためにやってらっしゃるんだな、ありがたいなあー”と
本当に思えば、消えちゃうんです。
新聞にこういう話がのっていました。二匹の猿を別々に動けないようにして、電気ショ
ックをかけた。一匹には自分で手を出せば電気ショックを止められるようにしてある。片
方はもう絶対に止めることが出来ないようにしてある。それで電気で衝撃を与える。そう
すると、片方の猿は苦しいから、そのたびにショックを止めることを覚えた。もう一匹は
逃れられないからしかたがない。観念しちゃってる、かわいそうにね。人間のためにしょ
うがないからね。それを続けて何日かたったら、一匹の猿が死んでしまった。胃だかに穴
があいて胃潰瘍みたいな状態になって死んじやった。どっちの猿かというと、ショックを
自分で止められるほうの猿だった。要するに、ショックを止められる猿は、ショックが来
ると止めてその衝撃から逃げられるけれど、また電気ショックが来やしないか、といつも
恐れながら脅えながらいた。それで胃潰瘍かなんかになって死んじゃった。片方はもうあ
きらめちゃって、しょうがないや、なんか自然の作用だって… … 。猿とはつらいもんです
87 神と人間との関係
よ、まったく(笑)。この猿のほうは死なず、長生きした、というわけなんですね。
人間でも動物でも、恐怖の想いを持つ時にはそれだけ体が弱っちゃうんだ、もうしょう
がない、逃れられないものとあきらめちゃって、まかせた心境になると、体は痛まないん
だという動物実験をしたわけです。人間はもっと感情が激しい、想いの動きが激しいから、
もっと顕著に現われるわけです。そういうもんです。だから人間の想いがいかに病気を悪
化させ、また病気を作っているか、不幸を作っているか、いかに運命に影響を及ぼすか、
それがこの実験ではっきりわかるんです。医学的な証明なんです。
88
イライラ、プンプン、メソメソをなくす方法
それで私たちの教えていることは、その恐怖する想い、イライラする想い、妬む想い、
ユつロづ
恨む想い、その他いろいろな想いがあります。心を乱すような想いを、一切どこかになく
さなければ、人間の運命は不幸になっていく。幸福にならない。その想いをどこになくそ
うか。世界平和の祈りの中へ入れてなくしてしまおう、というんです。
今日一番必要なものは何かといったら、世界人類が平和になるっていうことなんです。
誰も彼もが一番欲していることです。そこで”世界人類が平和でありますように” という
想いの中に、自分のいろんな妬みも恨みもつらみも、つらみなんてあるかないかしらない
けれど、そういうのをみんな入れちゃうわけですよ。そうすると観が転換する。想いが転
換して、私は世界人類の平和を願っているんだな、っていう明るい光明の心になってくる
わけです。
世界平和を願っているのは神様のみ心なんですよ。だからみ心の法則にピタッと合うわ
けなんです。”世界人類が平和でありますように” という時には、自分の想いが宇宙神、
大生命の法則に乗ることになるわけ。レールからはずれて動けなくなった汽車が、元通り
にレールの上に乗って走り出すのと同じなんですよ。ですから、病気をしていようと、不
幸をしていようと、喧嘩していようと”世界人類が平和でありますように” と思った時は、
もう神様のみ心の中に入っているわけです。法則に乗った、道に乗ったわけです。だから
89 神と人間との関係
それを続けていけば、ズーッと道に乗りつづけていくでしょ。
ところが人間は浅い考えをもっているもんだから、ちょっと世界平和の祈りをして、ち
ょっと病気が治らなかったり、貧乏が直らないと、世界平和の祈りをやったって、病気は
治らない、世界平和より自分の病気のほうが先だ、自分の貧乏のほうが先だ、なんていっ
て、折角乗ったレールからまたはずれてしまう。それでまた考えて世界平和の祈りをやり
ましょう、なんてやる。しばらくするとまただめだってはずれてみる。
折角天国行きの汽車に乗ったのに、なかなか着かない、と途中下車する。一台乗りおく
れてから、しょうがないと後から来た汽車に乗る。また途中下車して、まだ着かないとや
っているのと同じですよ。乗りっぱなしなら、先にスーッと目的地に行っちゃっているの
いん
に、乗ったり降りたりしている人はなかなか着かない。それじゃだめ。乗ったら最後、因

果とあきらめて(笑)、世界平和の祈りの汽車に乗ったんだから必ず平安に目的地に着く
はらす
んだから、生きるも死ぬも五井先生と一緒に行きましょう1 と肚を据えて乗っていれば、
何も自分でオタオタ動かなくたって、ちゃんと目的地まで運んでくださるのですよ。それ
90
でも心が不安だったら、ああこれは過去世の因縁の消えてゆく姿だな、と思うのです。
救われちゃう
うちへ来て一番喜ぶことは”消えてゆく姿” という教えです。「今のあなたが悪いわけ
じゃない、過去世の因縁が光に照らされて消えてゆく姿として現われているんだから、そ
れを世界平和の祈りの中へ入れちゃいなさい」というんで、消えてゆく姿と世界平和の祈
ゆる
りでみんな赦しちゃうでしょ。そうすると自分が赦されるんです。ああ消えていく姿だっ
たのか、ああそれじゃ私が悪いんでもあの人が悪いんでもなかった。ああよかった、助か
った、と思うんですよ。
おこ
助かったと思うと、フーッと心が楽になるから病気も何も治ります。怒りたいのを我慢
したり、モヤモヤしたのをこらえていたのが、スーッと消えていくんです。こらえている
のが一番いけないんです。必ずどこかで出るからね。だからそれを現わさないで、人を傷
91 神と人間との関係
つけず、そして自分がこらえないで消してゆく方法が、
いう方法です。世界平和の祈りの中に入れてしまうと、
消えてゆく姿で世界平和の祈りと
消えちゃうんですよ。
(昭和39年3月15日)
92
(注8) 巻末の参考資料の第2図参照。
神愛の代行者
自分を二つに考える
守護霊守護神さんと本心について話してみましょう。
昔、禅宗のお坊さんに、「本心さん、本心さん」と、常に本心に呼びかけて生活してい
た人がありました。そこで自分を二つに考えるといいと思うのです。肉体に附着して、肉
体生活の中で生きている自分というものと、神界から肉体界まで通して生きている自分と
いうものと、二つにハッキリ分けるといいんです。
神界から肉体界までズーッと通している自分が本心、本体であるのだけれど、肉体界に
93 神愛の代行者
生きている便宜上、肉体の波動圏の中で、肉体の常識の中でわれわれは生きているんだ、
というふうに考えるといいんです。それで肉体界のほうはすべて消えてゆく姿。やがて七
十なり八十なりになると肉体は消えてゆきます。消えない肉体というのはありません。現
えいこう
われたものは必ず消えます。ところが本心というものは永劫に消えない、永遠の生命なん
です。その永遠の中で、肉体界という界があって、そこでわれわれは生活するわけです。
肉体界の自分というものだけでは、業に蔽われているこの世の中を渡っていくわけにい
かないことが神様にはわかっておられるので、直霊から分かれた救いの光の守護神を肉体
界の援助としてつかわし、祖先の古い霊魂を守護霊とし、人間の運命を守ることになさっ
た。そして、直霊ー分霊としての本心と守護の神霊と、外と内と両面から肉体の人間を生
かそうとして、神様は働いていらっしゃるわけです。
だから誰にも頼らないで、自分自身で生きていこうと思えば、本心をいつもいつも思う。
自分は本心なんだ、神の生命なんだ、本心さん有難うございます、と本心を出してゆくこ
とです。本心が現われるとどういう姿になるかというと、愛の心と調和の心と誠の心、美
94
の心と勇気という要素がスッキリ現われてくる、ということです。ところが全部現われき
っている人はありません。たまたまちょっと勇気が現われたり、ちょっとたまに愛が現わ
れたりしていますが、これは損するから止めようなんて、愛が時々しぼんだりして、愛す
るということでも、自分の身を捨てて愛するということは、なかなか出来ないですね。
若い人、いわゆる家庭生活もなんにもない人、自分一人の人は、人のために命を投げ出
すことが出来ます。ところが家族が出来て、妻があり、夫があり、子供があると、夫や妻

や子供を捨てて人のために命を抱げ出すなんてとても出来ない。それが出来なければだめ
こく
だというけれど、それはなかなむずかしく、そうしろというのは酷な話です。
守護の神霊方が代行してくださる
わけいのち
そこで守護霊守護神という神様が身代わりになって、分生命の人間の出来ないことをや
つてくれるわけです。そして本心をだんだん現わしてくださる。だから常に守護霊守護神
95 神愛の代行者
さん有難うございます、といって守護霊守護神さんと一つになっていれば、自分で出来な
いことを代わってやってくださる。たとえば、人を愛することでも忘れていますね。いつ
でも人を愛する心でいっぱいだという人もありますけれども、大体は自分のことを思うほ
ひま
うがいっぱいで、たまたま暇になってきて人を思ったりする。さびしいから人を思う
それは愛することではない。人間は自分本位ですから、やっぱり自分になってしまうので
す。私はそれでいいと思うんです。
自分より人を愛せ、といったって、お互いが自分より人を愛せればいいけれど、自分が
自分より人を愛し、相手が相手自身だけしか愛していない、ということにでもなると、片
寄ってしまいますからね。だから、やっぱり自分を愛し、自分の家族を愛し、自分の子供
を愛するということは当たり前です。自分のことを愛していいんです。ただつきつめてい
きますと、自分も他人も、自国も他国もみんな神の国では一つなんだということに行きつ
きます。が、なかなか行きつかない。行きつくまでに相当長い年月がかかるわけです。人
間が進化し、宇宙天使のように進化していくために長い年月がかかる。今はその過程にあ
9G
るわけです。
そうすると、神に頼らず、守護霊守護神に頼らないで、自分で本心を出そうというのは
むずかしいわけです。ですから、出来ないところ、足りないところを「守護霊守護神さん
じんちゅう
お願いいたします。私はなんにも出来ません。肉体人間の私は罪悪深重の凡夫で、実践し
ようと思っても、つい迷うから出来ません。どうかよろしくお願いします」というへりく
だった気持ちになって、守護霊さん守護神さんに任せるんです。
頼まれや可愛いもので、人間でも頼まれれば、窮鳥も懐に入らば… … というようにかば
ってくれる。まして守護霊守護神さんは守るために来ているんですから、守護霊さん守護
神さんといえば想いが近づくので、より守り易くなるんです。それで危ないところを助け
てくれる。また力をかしてくれるのです。
たとえば、ある人のことを思っている。けれど二〇パーセントしか思えない。ところが
守護霊さん守護神さんよろしくお願いします、と頼んでいると、自分の守護霊守護神のほ
うから向こうの守護霊守護神に力をかすわけです。肉体の自分は二〇パーセントの力しか
97 神愛の代行者
ないけれど、守護霊守護神のひびきが五〇パーセント加わるから、合計七〇パーセントも
向こうに力がゆくわけです。
肉体人間は力が少ないのだから、守護霊守護神という神界霊界の力ある方にお願いしな
がら、日常茶飯事を一所懸命、自分の家のために尽くし、会社のために尽くし、自分の持
ち場持ち場で一所懸命やればいいわけなんです。そして世界平和の祈りをしていると、自
まつと
分の天命も完うされてゆくし、他人の天命も完うされる力にもなる。世界人類がやがて一
つになって、平和運動するということになるわけです。理想をすぐ現実に引きおろし、現
実化しようと思うといけない。
インテリ知識階級の人にはよくあるんですが、神様にすがるということが恥ずかしい気
がする。自分が無知のような気がしてくるわけです。だから心の中で思うけれど、表面き
って神様とはいえないわけです。
何も人にいうことはないから、自分の心の中ではいつも守護霊守護神に頼って、自分の
現象の行ないを人に頼らなければいい。現象の行ないは自分で一所懸命やっている。ただ
98
心の行ないで、自分に出来ない、手の届かないような愛の行ないや勇気の行ないなどは、
神様にお願いする。そういう生き方をすれば恥ずかしくはありません。
生活は無理なく自然に
だから私はいつもいいます。無理をしたんじゃいい行ないは続かない、無理をしないで
当たり前に、自然に行なえるような生活をしなさい、と。それが私たちの宗教の根本なの
です。自然な行ないをしながら、良いことが出来るのは何かというと、祈りによる平和運
動です。「世界人類が平和でありますように」この一連の祈りというのは光ですから、自
分の体からパーッと光が地球上にふりまかれるわけです。
世界人類が平和でありますように、というのは神様のみ心なんです。みんなが調和して、
みんなが仲良くして平和であれ、というのは人類の親様である神様のみ心です。それを人
間側が受けて、世界人類が平和でありますように、と祈るんですから、神様の心と人間の
1神愛の代行者
心が一つになるわけです。そういう立場にたって生活をしているんですから、悪かろうは
ずがない。しかもやさしく理解できる言葉ですから、本当に光が放射されてゆく。こうい
う祈り言葉の中に入って、しかも日常生活を当たり前にしてゆくと、なんにもわからず、
日常生活だけのことで暮らしている人とは、雲泥万里の差が出てきます。ですから皆さん
は幸せな方々です。
皆さん方が例えばこれから霊界にいらっしゃっても、霊界ではいい立場がいつも待って
います。またおばあちゃんが祈っていなくても、娘さんや息子さんが祈っていますと、そ
のおばあちゃんはいい所へ往くのです。それは不思議です。何故かというと、子供さん、あ
るいはお孫さんが祈っている光が広がってゆく、いわゆる徳ですその徳によっておじ
 れ  
いちゃんおばあちゃんが、ちゃんといいところへ往かれるのです。それが「みたままつり」
なんです。ズーッと昔の先祖まで、子孫の祈りの光に乗って、いい所へ往かれるわけです。
皆さんの祈りというのは、先祖のためにも、子孫のためにも、人類のためにも、絶大な
る効果を発揮するのです。やがて自分の本心がそのまま開いて、日常茶飯事、なんにも苦
100
労せず良い行ないが自然に出来る、愛も自然に深くなる、ということになるんです。
(昭和48年8月26日)
自分の体が大きくなっていると思えばいい
一番簡単に守護霊さん守護神さんが自分の味方として感じるには、自分の体が大きくな
っていると思えばいいんです。自分が五尺何寸としますと、その二周りも三周りも周りを
取りまいて守っていてくださる、というように感じるのが一番いいと思います。
ここに自分がいると周りに守護霊さんがいる。またその上に守護神さんがいてズーッと
自分をかこって、守護霊さん守護神さんの光の中に自分が生きているんだ。どんな暗闇を
歩いていても、どんな危ない所を歩いても、ああ守護霊さん守護神さんが周りを取りまい
ていて、守っていてくださるんだ、というふうに思うと楽ですよ。実際に誰も彼も守られ
ているのです。
101 神愛の代行者
いと
守護霊さん守護神さんからみれば、あなた方はみんなわが子なんです。”愛しの我が子
よ”という具合に現われてくる場合もあります。ですから守護霊さん守護神さんはみんな
じいばあ
魂の親であり、魂のお祖父さんお祖母さんであると考えてください。
霊力が欲しいとか、神様の姿をみたいとか、霊界のことを知りたいとかあまり思います
と、かえって足許が乱れまして、日常茶飯事、当たり前のことをやらなくなってしまうの
です。この世の常識の世界の勉強をしながら、常識の世界の生活をしながら、お祈りに励
んだほうがいいと思うのです。あまり神霊の世界のことばかり考えると、どうしても足が
地上から浮いてしまって、この世を逆立ちして歩くようになる。だから本当は三六〇度変
わらなけばいけない。それには大変な修行がいるのです。
三六〇度変わるというのは、今まで肉体が主であって、肉体の人間であると思っている
者が、お祈りによっていつの間にか、自分さえも意識しないうちに、神霊の体になってい
るということです。そうしないとわざわざ断食してみたり、滝にあたってみたり、わざわ
ざ肉体をいじめてみて、肉体を蔑視しようとするわけです。そんなことをすると、体をこ
102
わしたりしますから、当たり前に、自然に知らないうちに悟ってゆくということが、私ど
もの祈りの方法なのです。
おぼ
繰り返しますが、きょう憶えておくことは、守護霊さん守護神さんは自分の体をズーッ
と大きく取りまいて歩いているんだ、自分が歩いている時は、守護霊さん守護神さんが自
分を抱えて歩いてくださるんだ、ということ。それを信じれば信じるほど守護霊さんの守
りが強くなります。そう思って歩いてください。
あと何か悪いことが出てきたら、それは過去世の因縁が消えてゆく姿。守護霊さん守護
神さんといったって、なんにも悪いことが一つも出てこないわけじゃない。悪いことや嫌
いなことがあっても、それは過去世の因縁が神様の力で消されていくんです。その人に一
番都合のいいように過去世の因縁が消えてゆく姿となっている。うまく守護霊さんが消し
てくださるんだから、何が出てきても、自分にとって一番いい状態として出てきているん
だ、軽く出してくださるんだ、というふうに感謝して、守護霊守護神さんと一体になって
生きるということが大事です。(昭和48年12月9日)
103 神愛の代行者
段階をつなぐ守護霊さん守護神さん
104
人間といいますのは、神様の一番もとの世界からこの肉体の世界まで、何十段階という
段階があり、その段階をいのちの力が通って肉体まで来ているんです。ふつうキリスト教
で天なる父といって絶対者を呼びますが、絶対神のところまでいくには、大変な修行がい
り、大変な浄まりが必要です。
実際は宇宙の唯一の神様と一つになっているんだけれども、なかなか一つになった実感
がわいてこない。そこでその間に守護霊さんがあり、守護神さんがあって、大神様との間
をつないでくれるわけです。だから、われわれが肉体をはなれてまずどこへ行くか、どこ
の段階にゆくか。肉体のすぐ近くの幽界に行くか、あるいは霊界へ行くか、神界まで行っ
てしまうか。それは日頃の自分たちの信仰によるわけです。
全く神様と一つである、守護霊さん守護神さんと全く一つであると思いこんでいて、い
つも守護霊守護神と同じような想いで生きていれば、守護霊のいる世界、守護神のいる世
界へ行ってしまうわけです。
近頃は、物がなくなることばかりこわがっています。石油がなくなったらどうしよう。
紙がなくなったらどうしよう。どうしようどうしようと思うけれど、実は、肉体の自分が
どうしようと思うより先に、神様のほうで、その人の徳に従って、ちゃんと決めてあるの
です。誰々は一生の間にどれだけお金を使える、とか誰々にはどれだけのものを与えてあ
る、とか決まっているんです。だからあわてて、競馬、競輪をやってもうけようとか、宝
くじでかせこうとか、いっぺんに金もうけをしようということは、仮にパッと百万でも千
万でも金が入ったとしても、一生の問に八十年なら八十年の間に入るものを、いっぺんに
途中で前借りしてしまうということなのです。
宝くじに当たると、いかにも助かった気がするでしょう。しかしそれは前借りなんです。
そうするとこれはあとで減っちゃうわけです。平均してくるものが来なくなってしまう。
それで、前借りして、これはもうかったと思いますね、そう思うから、友だちにもやって
しまう、ぜいたくもしちゃう。ちゃんとかせいで入った百万円と、宝くじで入った百万円
105 神愛の代行者
とでは使い方が違うと思うんです。
りゅうりゅうしんく
粒々辛苦してかせいだ百万円なら、大事に使います。宝くじや競馬で入ったお金だった
ら、パッパッと使ってしまう。無駄使いしちゃう。前借りして使うんだから、後から来な
いのです。そうすると、晩年になって減ってしまうのです。
一番いいのは、必要なものが必要な時に入ってくる、平均したお金や物の入り方が一番
いいんです。あんまりだぶついていたら困りますよ。私たちは皆さんに物を頂きます。下
さった方に悪いけれど、まわりに配ります。配給所になるわけです。自分だけ貯めておい
たらそれは大変です。物に殺されちゃう。頂くものは有り難く、その物をうまく使い、生
かします。要するに感謝です。
たとえば自分がやっと食べられても、食べられない人より有り難い。人よりちょっと余
っていたら、ああ人より余って有り難い、なんでも物を大事にして、物に感謝すること、
これが一番大事です。それは守護神さんと自分の徳と合わせて出来ているものです。
物と同じように、この世を去って往く世界も決まっているのです。決まっているけれど
lOG
も、決まっていて決まっていないのです。自分の肉体の現象の力で出来るのが二〇パーセ
ントある。あと八〇パーセントは潜在意識で決まっている。二〇パーセントの中で、守護
霊さん守護神さんとつながって、守護霊守護神さんの力でもって運命を変えてもらうわけ
です。ですから一応決まっているが、さらにいい所へ行きたいと思ったら、守護霊守護神
さんとピタリ一つになって、スーッと上へ行けばいいわけです。
守護霊守護神への感謝が生死を超える
死ぬことがこわくなくなるにはどうしたらいいかというと、守護霊さん守護神さんとピ
タリとつながって、自分の行く先は守護霊さん守護神さんがうまく決めてくださっている
んだ、というふうに信ずることです。それがたゆみない守護霊守護神への感謝行として行
なわれてゆけば、そのままいつでもピタッと一つになっているわけです。そういう気持ち
で生きていれば、生きることも死ぬことも、なんにもこわくなくなるのです。
107 神愛の代行者
一番人間の心を支配するのは、死ぬことの恐れです。だけど一番楽なことは死ぬという
ことなんですよ。病気で苦しんでいるより死んだほうが楽です。ところが死のうと思って
もなかなか死ねるものじゃない。また自分で勝手に死んだら地獄へ行ってしまいます。だ
から死ぬことを楽にするためにも、日頃から守護霊さん守護神さん有難うございます、い
つも守っていてくださって有難うございます、という素朴な感謝を毎日続けていけば、一
番その人が幸せになるのです。
もし重病人の人がいたら、慰めるのも物などでなく、いつも神様の話をなんとなくして
あげることです。どこへ行ったって守られていますよ、こうやって寝ていても神様が守っ
ていてくださるし、たとえあの世へいっても守っていてくださる。いつだって神様が守っ
ていてくださるんだから、ということを聞かせていれば、それが一番の功徳になると思う
んです。
何か一つ質問があったらしてください。
108
歯医者さんは、歯が痛むのは歯がくさるのを知らせるためだ、といいますが、精圃神的な悩み、苦しみ、この世の悪い現象があらわれた場合、病気治療と同じよう
に、どうしてそうなったのか、とその原因を考えたほうがいいのでしょうか? それとも
それは消えてゆく姿と思って何もさぐらないほうがいいのでしょうか?
歯の痛みの時は自分でどうしようとか考えないで、専門の歯医者さんにまかせて圏しまうわけです。精神の場合は、どこにその精神の痛みの原因があるのか表面の
意識をさぐっただけではわからない。さぐってさぐって奥のほうへ入ってもわからない。
それこそノイローゼになってしまう。だからお医者さんと同じように、専門家に任せない
といけない。どういう専門家がいいかというと、守護霊守護神さんというお医者さんに任
せてしまうんですよ。
「自分ではよくわかりません。なんか過去世の間違ったことであるに違いないけれど、
今自分でいくらさぐってもわかりませんから、どうか守護霊さん守護神さんよろしいよう
にお願いします」といって、守護霊守護神さんに任せちゃう。それで「ああこれは過去世
109 神愛の代行者
の因縁の消えてゆく姿なんだな、守護霊さん守護神さん、お願いしますよ」と、任せて任
せきりにしちゃうんです。そうするとその精神の痛みはなくなります。それでしかも、潜
在意識の録音盤に入っていかないわけです。
自分でやりますと、長い間その原因を探っていてノイローゼになる人が多いんです。そ
ぜんしょう
れで結局わからない。一つの原因があります。それはズーッと奥深くて、前生のまたその
前生、過去世までズーッとつながっているんです。
たとえば母親を恨む悩みとか、夫婦の間のいさかいとか、表面に出たのは大したことは
ないんだけれども、ズーッとたどってゆくと過去世の原因になってしまう。しかし過去世
のことはみんなわからないわけです。それは守護霊さん守護神さんはよくわかっているか
ら、そういう専門家の守護の神霊にお任せしてしまうことです。それは歯の痛みを、歯医
者さんに任すと同じなのです。(昭和48年12月16日)
iio
(注9) 白光真宏会の先祖供養の行事。のちに「歴史の浄め祭」に発展した。
神様に生かしていただく
守護霊守護神が体を動かしている
人間はふつう誰でも肉体が自分で動いていると思うでしょう。それはとんでもないこと
で、肉体がこうして動いていることは、守護霊、守護神が肉体を動かしていることなんで
す。
心臓を自分で動かせるものじゃないし、肺臓よ動け、といって動かせるものじゃない。
五臓六臆は全部、自分が知らないのに働いていてくださるんです。それと同じように、人
間のこの世の生活というものも、自分でやっているように思うけれど、実は神様のほうで、
ii1 神様に生かしていただく
その人の過去世の業にてらして、ふさわしいように生かしてくださるわけなのです。
いいかえますと、今こうして生きていらっしゃる皆さんを初めすべては、過去世の因縁
因果のその集積として、その結果として今の環境があり、今の身分があり、今の智恵才覚
があるわけなのです。それで現在はどうしているかというと、神様の力(智恵も才能も)
がそのまままっすぐに降りてきているわけなのですが、その神様の折角の智恵才覚を、過
去世の業因縁、間違った想いが覆ってしまって生かしていないわけなのです。
そこでお釈迦様は、本当に悟るためには空にならなければいけない、と説かれたのです。
小智才覚で想いが乱れる。それを自分だ自分だと思っている。その自分だ自分だという想
かり
いをなくせ、空っぽにしろ、と坐禅観法を教えたわけです。おれの智恵だ、おれの才覚だ、
おれはこうだというのは邪魔なんです。それを無くして空になりますと、毎日、瞬々刻々
流れてきている神の智恵や才能がそのまま現われてくるわけなのです。
それがわかると世の中はいいんだけれど、それがわからない。わからないから国と国と
だま
でも、お互いがにらみ合い、疑い合い、今に騙されやしないか、攻められるんじゃないか、
112
きょうほん
というんで軍備増強に狂奔したり、策戦をねって政治をするわけです。本当はそういうこ
とは必要ないんです。ところが人類の大半はわからない。
そこで神様はいろんな聖者を出して、小智才覚はだめなんだよ、いつも神、仏があなた
方を守って、あなた方の生命、あなた方の生活を保障しているんだから、そのまま任せて
まか
おきなさい、と教えた。空の鳥を見よ、というイエスの言葉があります。播かず刈らず倉
に収めず、けれどちゃんと育っている、養っているということなんですよね。そういうと、
「そんなこと言ったって、俺が考えなくちゃ何も出来ないじゃないか」という。俺がやら
なきゃ、というけれども、俺がやるんじゃなくて、神様のほうからやると”俺が、私が”
といっている何層倍の力、成果がそこに現われてくるのです。
神様に生命を投げ出す練習を
神様に生かしていただく
皆さんは肉体でやろうやろうと思いなさんな。肉体の智恵、力でやるんだ、ということ
113
は一切捨てて、この世に生まれたのは神様が生んでくださったんだから、生活するのもあ
の世に行くのも、みんな神様がやってくださるんだから、神様にすっかり任せましょう。
しかも祖先の悟った霊の守護霊さんが守っているし、また守護神さんも守っていらっしゃ
るんだから、みんな神々にお任せしましょう、といって全部投げ出しちゃうんですよ。
投げ出す練習をしなきゃいけない。そうすると一〇〇パーセント投げ出さなくても、五
〇でも六〇でも投げ出すと、それだけの力が倍加されます。
肉体的に力んだら駄目なんです。何でもかんでも神様にやっていただく。この肉体は神
こう
様の器ですからね。人類が四十億ある。それが全部神様の光の器なんです。それを業の器
にしちゃっている。黒雲の器にしているんです。それを神様の器に変えるために、世界平
和の祈りがあるわけです。
にちにちしゅんしゅんこっこく
世界平和の祈りを日々、瞬々刻々やっていますと、自分の身体が神様の器に変わると同
時に、そのまま光の放射体になって、地球世界に光を放射していることになるわけです。
われとも
だから、いつでも常に常に、自分が生きているんじゃなくて”神、我と倶にあり”、神
114
様が自分たちを生かしてくださっているんだ、いつでもいつでも守護霊、守護神さんが守
っていてくださるんだ、左の足を一歩進めるのも、守護神さん、右の足一歩歩むのも守護
神さん、手を振るのも守護神さん、なんでも守護神さん守護霊さんがやってくださるんだ、
と思うことです。
天命が完うされますように、という祈り
これは自分ばかりじゃなくて、相手に対しても他人に対しても、守護神さんがいらっし
ゃってやってくださっているんだな、今、あの人は悪いことをなさっていらっしゃるけれ
ども、あれは過去世の因縁が消えてゆく姿として現われているんで、一日も早くあの方の
過去世の因縁が消えますように、守護霊さん守護神さんよろしくお願いします、というよ
うに思うことです。
罪は罪、悪は悪です。しかしそれはあくまで過去世のものが悪いんで、過去世の因縁の
115 神様に生かしていただく
消えてゆく姿で、今のその人じゃないんです。今のその人は神様の子です。みんな神様の
子なんですよ。
でもこの世の中には、神様の子ではない、悪魔の子みたいなのがいるでしょう。それは
過去世の因縁が悪魔の顔をさせて現われている。それを悪魔だと思ったら、この世は悪魔
になっちゃいます。あっ悪魔が消えてゆくんだな、消滅してゆくんだな、それは中の守護
霊守護神さんが悪魔を引き出して消してくださっているんだな、どうか早く悪い姿が消え
ますように、そして一日も早く神様のみ心である、あの人の魂が光り輝きますように、言
ごと
い換えれば、あの人の天命が完うされますように、そういう祈り言にかえるわけね。私ど
もの天命が完うされますように、あなた方の天命が完うされますように、すべての天命が
完うされますように、世界人類が平和でありますように、という祈りになるわけです。本
当に真理を知ると、自然とそうなってゆくわけです。そうやって生きていきますと、何事
もうまくいくことになるんです。(昭和48年4月-日)
11G
守護霊守護神と平和の祈り
一人の人に守護霊三体
守護霊、守護神のことを本当に知りますと、これほど力強いことはありません。皆さん
は耳にたこが出来るくらい聞いていると思いますが、もう一遍念を押しますと、一人の人
には必ず守護霊が三体(主守護霊と副守護霊二体) 守っているのです。これは間違いもな
いことです。
ふつうキリスト教では神様といいますと、全智全能の創造主、創り主の神様だけが神様
だというように思います。その中継はイエス、あるいはマリアさんということになるんで
117 守護霊守護神と平和の祈り
すが、実は唯一神の創り主の神様が、いろいろに分かれまして、各守護神になっているわ
けです。それで一番先に分かれた守護神さん、大神様のそばの守護神さんがうんと力が強
いわけです。そして円型のピラミッドみたいになってズーッと下がってゆくわけです。
霊界、幽界に近くなると、だんだんひびきが弱くなってくるんです。だから新しく守護
神さんになった人は、一番初め神様が守護神さんにした神様よりは力が弱いわけです。皆
さんにどういう神様がついているかは別として、一番若い守護神さんでも、世界平和の祈
りをして、いつも大神様のそばにいると、これは強くなるわけです。
118
守護霊さん守護神さんの位があがる
皆さんが一所懸命、平和の祈りをしますね、守護霊さん守護神さん有難うございます、
くらい
とやっていますと、守護霊さん守護神さんの位が知らない間に高くなっていくんです。位
が高くなると、それだけ力が強くなるんです。力が強くなると、肉体の自分が守られやす
いということになるわけです。
よく守護霊守護神がついていて、どうして泥棒するんだ、という人がいますが、業が消
えてゆく姿としてはっきり出てしまうのです。そこで、はたから一所懸命祈ってやれば、
一人で守れないものでも、はたから守ってやることが出来るわけです。
そういうわけで、常に守護霊守護神さんと一体になって平和の祈りをしていれば、守護
 こく
霊守護神さんも得をするし、肉体の自分も得をするわけです。それをしっかり胸の中に入
れておいてください。
肉体をもっていれば五十歩百歩
皆さんはおとなしい、謙虚な方が多いから、自分なんか大したことはないと思っている。
ところがこの世の中で、大したことだと思っている、たとえば総理大臣になった人でも、
何々博士になった人でも、大した違いはないんですよ。宇宙天使の宇宙の神霊の力なんか
119 守護霊守護神と平和の祈り
と比べたら、この世の中で一番偉そうな人でも問題にならないんです。この世の中で一番
素晴らしい発明能力のある人でも、向こうから比べればほんの一番端っぽを感じたぐらい
なのです。一番愛の深い人というんでも、向こうからみれば一番愛の薄いのより下、とい
うくらいのすごさなんです。
うえした
だから上ったって下ったって、肉体を持っている以上は、五十歩百歩ですから、自分は
ダメだなんて思わないで、自分には守護霊さん守護神さんがついているんだ、神霊と協力
して一所懸命、私も立派になるし、守護霊守護神さんのためにも尽くし、守護霊守護神さ
んにも守っていただこう、というんで、守護霊守護神さん有難うございます、世界人類が
平和でありますように、と祈るわけです。
120
宇宙人も働き出している
世界平和の祈りは自分のためでもあり、国のためでもあり、人類のためでもあり、宇宙
のためでもあるわけです。もう今は地球だけの世界ではありませんからね。宇宙全体のこ
とを考えないと、この地球は滅びるわけです。宇宙の中の地球という観念で生きない以上
は、絶対に地球は亡びます。
そこで神様は私たちを使いとして遣わして、平和の祈りを宣布し、平和の祈りの大光明
波動にのって、宇宙人が働きやすくなって、だんだん現われてくるわけです。われわれに
宇宙子科学を教えるために働いていらつしゃいますけれど、宇宙子科学だけではなくて、
いろんな形の面で働きかけてきています。
宇宙の神霊の力と一つにならなければ、いくらどんな理論をいったって、この地球の世
界は救われない。社会主義がいい、共産主義がいい、何々主義がいい、といったってそん
なもんじゃ、いつでも相手がありますから、相手が自分のいうことを聞かなければ、これ
をやっつけたくなっちゃう。これでは平和はいつまでたってもやってこない。
軍備を持たなければ国を守れないとか、こうしなきゃ守れないというようなものでなく
て、アメリカもソ連も中共もどんな軍備を持っても手も出ない、というような、そういう
121 守護霊守護神と平和の祈り
素晴らしい大きな力、科学力が現われて、地球人と手をつないで治めていかないことには、
地球はもういけません。
神様は「そうする」とおっしゃって、現在、本当に実行していらっしゃるわけですよ。
(昭和51年1月18日)
122
質疑応答
亘神様にお任せしなが皇力を孚き-」なー… でしー
お任せというのがなかなか出来ないですが、お任せしたつもりで、どこまでお任圏せしたか判断に苦しむわけでしょう。
お任せというのが単刀直入にわかる方法は、あらゆるものに感謝できる、ということで
す。たとえば人にぶたれても、”有難うございます”。損をしても”有難うございます” と
いうように、あらゆるものを”有難うございます” と受けられるようになれば、これはお
任せなのです。
そこに基点をおいて判断するとよいでしょう、あらゆるものに有難うございます、とい
123 質疑応答
いながら、日常茶飯事のことを一所懸命やる。勉強なら勉強を一所懸命やる。会社の仕事
なら仕事を一所懸命やる。置かれた立場で一所懸命働く、活動するということです。
まか
だからお任せなんて簡単、観念論的にお委せというのではわからないわけです。だから
観念論的に考えない。文章上でお任せと書きますけれども、受け取ったほうはお任せとは
まか
どういうふうにお委せの状態になるか、ということは自分で研究するわけです。それでア
ドバイスをすれば、”有難うございます
” という境地に自分がなりきれば、それがお任せ
だということになります。
124
圃守護霊守護神さんがついているのになぜ人間は悪い… するのでしー
たと
圏讐 えていうなら、水を飲みたくない人がいるとします。しかし水を飲まないと体
が弱る、と人が思っても、無理やり口をねじあけて飲ますわけにいかない。食事
でもそうです。食事をとらないとその人は弱ってしまう、食事をとれ、といっても、食べ
たくない、という人の口を開けさせて、食べさせるわけにはいかない。それと同じように、
のつし
守護神さんが後ろから守っているのだけれど、業想念が深くて、厚くて、いくらアドバイ
スをしても、ひびきを伝えても伝わらない。人間側がわからない、という場合があるわけ
です。
守護霊守護神が一所懸命守っている。しかし守られているのを知らないから、全然ふり
むこうともしない。そうするとやっぱりお陰がないことになります。守られていながらお
陰のない人は、せんじつめれば、要するに自分の運命はすべて自分が創るんだ、自分の行
ない、自分の想いが自分に返ってくるんであって、誰のせいでもない。善くなるのも自分
のせい、悪くなるのも自分のせい。あらゆることは、自分の一挙手一投足、自分の想い方
ひとつによる、ということになります。(昭和49年2月24日)
人間が死んだ場合、自分を守ってくださっていた守護霊守護神は離れていくもの圃でしょうか?
125 質疑応答
固ズーッと続いて守っています。それでちゃんとその人に都合のいいような相手を
 ない 
選んで、いろいろと指導してくださるわけ。村田正雄さんの『霊界通信』の通り
126
です。
画動物にも守護霊守護神がいらつしゃるのでしー
固動物にも守護霊がちゃんとついて守っているんです。ただ人間の場合と守り方が
違うのです。
ばく
面白い話ですが、飼い犬や飼い猫、あるいは鳥などは、飼う人の肉体の魂波動と合うも
のがその人のところにくるんですね。だから主人が病気になるところを、身代わりに飼い
犬が病気したり、飼い猫が病気したりすることがずいぶんあります。それから可愛がって
いたご主人が死んじゃうと、すぐ犬や猫が死んじゃうことがあります。醜波動が似ている
んで主従になるんです。それこそ因縁因果で飼い犬になったり飼い猫になったりするんで
す。だから飼い犬や飼い猫を可愛がるのは当たり前なんです。
ばく
だから動物といって人間から離れたものに考えているけれど、魂的にみれば同じような
ものなのです。だけど霊的にみると、人間は神の分生命であって、万物の中心のものだけ
こんばく
ど、動物というのは魂醜で霊という形じゃないんです。
れいこんばく
人間は霊魂醜として肉体に来ている。そして神界から霊界に守護神がいて、霊界から幽
界にかけて守っている守護霊をさらに守っています。ところが、物質波動としての人間、
つまり肉体は、動物と同じなのです。同じ立場なんですよ。人間は万物の霊長だというの
は、どこがどう違うかというと、本心のほうが神霊の神様の世界から、霊の世界、幽の世
界、肉体の世界とつながっていて、自由意志があり、創造力もあるわけです。
人間はまっすぐに神様とつながっている分生命なのですが、動物は神様に操られたまま
なのです。幽体も肉体も神様に創られ、神様に操られたままである。人間は自分の本心が
自分を動かしているわけです。そして肉体のほうの自分で勝手に作った想念波動で、神霊
の自分の本心の在り方を邪魔しているのです。それが業想念です。そして自分で不幸にな
127 質疑応答
っているわけです。それを過去世の因縁の消えてゆく姿と私はいうわけです。
動物のほうには自由意志がなく、神様に創られ人類の想念波動を受けて、動かされてい
る。そこが違うんですが、醜の世界においては人間と同じなのです。だから人間が肉体人
間として、肉体のことばかり思っていれば動物と同じだし、動物よりも低くなる場合がず
いぶんあるわけです。
人間が万物の霊長として動物を食べていますが、神様が許しているわけじゃありません。
神様のみ心をこの地上界に現わすために働くことによって、動物が人間の肉体に昇華する
ということでは許されるのです。神様のみ心を現わすことがなくて、ただの肉体人間とし
ての人間であるならば、動物などを食べるのは悪です。豚を食べようが牛を食べようがそ
れは悪行為になるわけです。人間本来の使命を何も果たさないで、肉体人間の自分勝手な
生き方をしていることは、人殺しと同じように罪悪なのです。
それが許されるのは、神様のみ心の中にある自分、神様と一つの自分が自分の本心をこ
の地上界に現わすための働きをするからです。そのことによって、動物を食べても許され
128
るわけです。しかし、許されるといっても、動物を食べる場合には、その動物の天命が完
うしますように、と祈らなければいけないんです。世界平和のための働きを、動物は人間
に同化して果たしているわけです。そういう意味で、動物に感謝しながら食べれば一番い
いわけです。
うまいや、まずいや、とただ自分の肉体の満足を得るために食べているのだったら、神
の意志に逆らっていることになる。すべてのことをただ肉体の満足を得るためにのみやっ
ているんであったら、あらゆることが悪ですよ。だから人間は肉体だけだという唯物観念
だけでは、生きていることがそのまま多くの業を積んでいることになる。ですから、つね
に、どんな人でも、人間は神の分生命であり、神様から与えられた使命を完うするために、
天命を完うするために、この世に生きているんだ、という観念がないといけないのです。
それをキリスト教などでも実にハッキリいっている。サタンの使いよ、とかいっている
こうそうねん
んですね。私たちはサタンとか悪魔とかはいいません。自分の業想念といいます。自分の
想いが勝手に自分の悪い運命を作り出しているし、人類の悪い運命を作り出している。人
129-一一一質疑応答
類を本当に平和にするためにはどうしたらいいか、っていうと、自分の想いがいつも人類
の平和を願う想いで、いつも神様のみ心の中にいさえすれば、やがては世界は平和になっ
ていくわけです。そういう人間を一人でも創らなきゃいけないというのが、この世界平和
の運動の趣旨なのです。
130
圃擁鋸灘鱒纏翼鑓葬詰譲,.ろ..で.究
圏そ ういうことにこだわらなくていいです。守護霊さん守護神さん有難うございま
す、といってからでも、世界人類が平和でありますように、とやってもいいので
す。ただ、世界平和の祈りの祈り言葉の中では、誰にでも、神様というのをあまり感じな
い人でも、自然にやれるように「世界人類が平和でありますように」と先に出ている。そ
の後に守護霊さん守護神さん、と出しているけれど、世界平和を祈っている時には、もう
守護霊さん守護神さんに感謝していることですから、同じことです。だから二度いってい
いんです。
守護霊守護神への感謝は、一回や二回でなくて、つねに守護霊守護神への感謝をしてい
るような心境が大事なんです。そうすると危ないところでも、パッと助けてくれるという
形になるわけです。
肉体の人間では何事もなし得ない。守護霊守護神がいて、つねに肩代りしてくれたり、
力になってくれて立派になっていくわけですからね。私がいろいろなことを教えたり、わ
かったり、浄めたりするのは、守護神がやってくれているんであって、肉体のほうでやる
のではありません。
いのち
肉体人間には何事もできない。肉体は命がなくなったら灰になっちゃうもんでしょ。た
だ道具として、場所としてこういう顔をして現われているけれども、この顔の人が、この
口がしゃべるんじゃないんです。口は機械的に動くだけであって、中の守護神のひびきが
動かして、しゃべっているわけです。それがどこまで深い深いところから、高い高いとこ
ろからくる言葉か、あるいは横っちょの浅いところからくる言葉かで、その人の人格とい
131 質疑応答
うつわ
うものが違ってくるんで、肉体というのは器です。どんな偉い人でも、イエスでもお釈迦
さんでも、みんな肉体は器なんです。
人間の本体は何かというと、神であり霊なんであって、その器を使って神界から動かし
ているんですよ。神界からスーッと動かしている人は立派なんだけれども、神界から動か
そうとしているのに、途中に業想念があって、または途中から他の生物がヒュッヒュッと
きて動かそうとしたり、迷った人に動かされたり、そういう波を受けている。完全にN H
KならN H K が聞こえてくればいいけれども、どこからでも他の波長の波が入ってきて、
波動が乱れてしまってウジャウジャいっている。そういう状態が今の人間なんです。
それだから、いっぺん消えてゆく姿だと思って、神様の中へ入ってしまって、あらため
て神様の高い深い力を、智恵を内から出してもらう、こういうのが私の教えなんですね。
それを私が一番初めに実行してみたら、やらない前の人間よりズーッと立派になりました
から、それでいいというわけです。
現在のようになる前は、私も何もわからなかった。人の話の内容を聞いて察することは
132
できましたが、見えないものは見えなかったのです。今になってみれば見えなくたってみ
んなわかっているし、聞かなくても内容がわかる。普通の人は、肉体の目でしかわからな
いんだから、会わない人のことなどわかりっこないですよね。ところが会わない人だって
わかります。あなた方が私に尋ねようとする人のことは、あなた方の口からいわれないう
ちから、どんな人だかすぐわかってしまいます。どうしてわかっちゃうのか。肉体が見て
いるわけじゃありません。私の肉体の目では遠くにいるみなさんの顔付きもよくわかりま
せん。だけどわかっている。何がわかっているかというと、中の力がわかっている。中の
力とは何かといいますと、直霊であり、守護神である神の力がそれを見るわけです。中の
心眼でわかるわけです。肉体の目で見るんじゃなく、神の目、もっとも微妙なる波動の中
から向こうを見ているからわかるわけです。そういう人たちにやがてみんながなるわけで
す。そういう人が世界各所にいるわけです。
肉体だけに把われていない。もっと広い広い、もっと本質の人間として生きるような世
界が必ず来るに違いない。必ず来るんです。私たちがそこにいるんだからね。それだから
133 質疑応答
皆さんも成るに決まっている。ただ時間の問題です。そうすると、宇宙人のように素晴ら
134
しい人間になるわけです。
(注10 )
(注1)
村田正雄氏(一九〇六年〜一九九四年) 滋賀県生まれ。(株)コロナ電機工業元社長。白光真宏
会元副理事長。著者の提唱した祈りによる世界平和運動に挺身し、多くの悩める人々を救った。
『私の霊界通信』(全五巻)『空飛ぶ円盤と超科学』『宇宙人と地球の未来』『霊界に行った子供達』
などの著書がある。
教義「人間と真実の生き方」。巻末参照。
¢
消えてゆく姿について
13G
消えてゆく姿の使い方
みないつか正覚は得られる
しょうがく
お釈迦様が正覚ということをいいましたが、どういう程度の悟りであるかというと、す
げだつ
っかり解脱し切って、人間は肉体ではない、神そのものである、仏なのだ、自由自在心で
あるということをハッキリ心に悟り、しかも態度に現わせるようになるという悟りなので
す。ただ頭だけでそういうものだとわかる程度では正覚ではない。頭でわかって体でわか
って、すべてが神のみ心をそのまま現わし得る、そういう境地になることを正覚というの
です。
だから悟りといっても段階はたくさんありまして、昨日失敗してしまった、ああしまっ
た、もう再びしまい、今度はこうするんだと思って、その次には失敗しなかった。それも
一つの悟りですね。酒を飲んで乱行してしまう、酒はいけない、止めよう、といって酒を
止める、あるいはタバコを止めた。それも一つの悟りです。短気だった、それがやさしく
なる、怒らない、これも悟りですね。そういう悟りは宗教をやらなくても、普通の当たり
前の生活をしていてもたくさんあるわけです。それも悟りだけれども、一番根本の悟り、
人間は神の子であり、神そのものである。肉体はその一つの現われである。つまり生命力
そのものだということがわかって、そして行なえるようになったということが正覚なんで
す。ですから正覚を得るということは並大抵なことではなく、一生かかって、いくら修行
しても正覚まで行かない場合が多いのです。しかしやっているうちには必ずそこに行くの
です。
誰も彼もがみんな神の子であり、神のいのちそのものですから、やがては解脱して神の
子そのもの、神のいのちそのものになるわけです。誰も彼もが自由自在心になるのが決ま
137 消えてゆく姿の使い方
なんしょう
っているんです。それが何生かかるかわかりませんが、みんな正覚を得ることになってい
るのです。大神様のみ心の中では、その人が分生命として肉体生活を始めて、最後に神の
み心に入りこんで、神のみ心の中で一つの個性を持って働くという所へ来るまでの大きな
定め、大きな決まりは決まっているのだけれど、その間の小さないろんな事柄は、自分の
思い方、生き方によっていくらでも変わるということなのです。
138
不断の努力が全託の心境を生む
そこで正覚を得るためには全託という心境になるのが一番いいんだけれども、全託の境
せっさたくまぎょう
地になるためには、いろいろと努力し、切磋琢磨し、修養して、行を積んでやっていく必
要があるわけです。努力をしなければしないだけ自分が苦しむのです。例えば千なら千の
こう
業があったとする。それを自分が一所懸命修養し、磨いて、少しずつ少しずつ出して消し
てゆく、そのうちには千がなくなってしまう。ところが自分を少しも切磋琢磨しない、修
養もしない、反省もしない。人間の運命はどうやろうと決まっているんだ、それが本当に
そこまで分かりきっていればいいけれど、いい加減に、自分をごまかすためにやっている
場合には、千なら千の業が一遍にドサッと出てくる。これではたまりません。こらえられ
るものではない。そういう大きな苦しみをなめることになってしまう。修養といい、努力
ふため
といい、真剣な生き方というのは、業があって、それを巧みに、うまく、人の不為にもな
らない、自分の不為にもならないで、きれいに消していけるようになるわけです。それが
うまく出来る人は、真剣な生き方をした人、いのちをよく生かした人、いい生き方をした
人ということにもなるわけです。だから正覚を得るためには、得ることは決まっているの
だけれども、相当な努力がいる。
今日もテレビを見ていたら、日蓮宗のお坊さんが一年の三分の二ぐらいこもって荒行し
て、出てきたところをやっていましたが、なんのためにあんな馬鹿なことをするのか、と
思う人があるだろうけれど、修行のためにやっているわけです。ところがその修行でも、
本当に自分で悟りたいと、自分の魂を磨くためにやっている人もあるし、信者さんの手前
139 消えてゆく姿の使い方
はく
見せるためにやる人もある、自分を偉く見せよう、箔をつけるためにわざわざ苦しんでや
る人もある。同じ荒行をしたって、違うわけです。片方は素晴らしくなるだろうし、片方
は変なマイナス面、業をつけてきて、幽界のヘンな生物なんかをつけて帰ってくる人もあ
るわけです。だから荒行などをした後で、とても人間が悪くなる人もあるし、とても立派
になり、本当に磨かれてくる人もある。いろいろありますが、しかし、修行しようとする
その気持ちはやっぱり大切です。
140
自分を磨くにも方法がある
一生を通して一所懸命、自分を磨くということはとても大切なことです。自分を磨かな
いで生きていく人よりは、自分を磨いて生きていく人のほうが立派になるに決まっている。
しかし磨くといっても磨き方がある。わざわざ自分をいじめて、それで磨いていると思う
人もあれば、全託だお任せだといって、本当は全託の心境でもないのに自分をかばうため
に、全託のような恰好をして、もう運命は決まっているんだ、何やってもいいんだ、これ
でいいんだと、大きなことを言って生きていく場合もある。しかし、どちらも悪い。自分
をいじめるのも悪いし、自分の業を認めないでそんなものはないんだ、いいんだ、という
のも間違っています。
うちの教えならば、自分の悪い性質、自分をいじめる想い、人をいじめる想いを素直に
素直に、消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中に入れてしまって、大きな大光明の中
の一人として生きていくわけです。消えてゆく姿の教えを行ずる場合には、だからいつも
そこに反省が伴っているのです。いつも言うけれど、”ああこれは悪いことだ、自分をい
じめてはいけないんだな、人をいじめてはいけないんだな、ああこれで消えてゆきますよ
うに、世界人類が平和でありますように” と反省して悔い改める。そして再びしまいと思
う。そういうようになることが消えてゆく姿の教えなのです。それで消えてゆく姿で世界
平和の祈り、ということが人々を立派に導いているわけです。
141 消えてゆく姿の使い方
“消えてゆく姿
” はかくして誕生
142
“消えてゆく姿
” という教えがどうして生まれたかといいますと、一例にS 教団をとり
ましょう。S教団では”肉体なし、物質なし、病気なし、人間は神の子であって、完全円
やみ
満なのである” と説いた。実際、実相の世界の中には病気もなければ不幸もない、暗も何
もありません。みな神のいのちで光り輝いているわけです。しかし、肉体波動の中に入っ
てしまうと、微妙なる生命波動と肉体の粗い波動とがうまくマッチしない。どうしてもそ
こに、すっかり一つになるまでには時間のズレが生じます。だから貧乏も出れば、病気も
出れば、不幸も出るし、悪い想いも出るわけです。実相の世界にはないけれど、この世と
しては病気もあれば、肉体もあるわけです。悩みもあるわけです。
そこで心が縮んでいる時、病気などしている時「肉体はないんだ、病気はないんだ、罪
はないんだ、人間は神の子だ」とパッといわれると”あっそうか、本当だ” とハッと一時
かつ
に 喝を入れられたように悟りが開ける、病気を克服したりすることがあるのです。ところ
がそれに慣れてしまうと、嫁が肺病で寝ていたとする。「肉体はないんです。病気はない
んです。病気でない人が何故寝ているんですか」と姑に言われたら、嫁さんは寝ていられ
ません。いやでも起きなければならなくなる。それで体をますます悪くして、とりかえし
のつかないことになってしまう、ということが随分あるんです。真理としては病気もない
んだし、肉体もないんだし、すべては神のみ心の中で光り輝いているのだけれども、現実
のこの現われている肉体の世界では、病気もあるし不幸もあるわけです。ですから”無い
無い” ということは、ある時は喝になるけれど、ある時は人も自分もダメにしてしまうこ
とになるんです。
本当に光り輝く生活だけを教えたようなのですが、それがあまりに高すぎたから、人間
の想いがついていけない。それでどうしたかというと、現象面を見て、現象は心の影だ、
病気をしていると「お前の心が悪いから」、家庭が調和していないと「夫を拝まないから、
妻を拝まないから… … 」「お前の心が悪いから不幸になる」等々、お前の心が悪い、悪い
と責めたわけです。肉体無し、物質無し、現象無しと説かれたけれど、そう思えない、出
143 消えてゆく姿の使い方
来ない。出来ない上に悪いものがある。サァ、肉体はないのにどうして病気をするのか、
病気は無いのに何故病気があるのか、不幸がない世界なのにどうして不幸があるのか、と
悩んでくる、迷ってくるわけです。そうして責めてしまう。ブツブツが出ていればブツブ
ツ言う心があるからだ。肺が悪ければハイと言わないから。鼻が悪ければ祖先に素直でな
いから鼻がつまる。頭の髪がなくなってくるのは神に遠いからだ。坊主は神に遠いわけで
す。神ではなくて仏に近いというわけです。そういうように責めてしまう。
折角、人間は神の子で完全円満で、病気も不幸もない、いい人間がもとの世界の人間な
んだと教えた。光明思想ですね。ところが「病気はない」「ハイッ」といって治る人が千
人に一人。初めての時は治る人があっても、二度、三度病気すると、そうはいかない。
「不幸はないのである」「ハイ」と目覚める人もあるでしょう。しかし、それも万人に一人
でしょう。直らない、目覚めない人もいる、凡夫ですからね。その人たちはもだえ悩むわ
けです。その上にまた「お前の心が悪い」と責められるわけです。それはS教団ばかりで
はなく、T教団でもそうだし、他の新興宗教でも既成宗教でもほとんどが「お前の因縁だ」
144
「心の持ち方が悪い」といいます。
そうなると、人間は神の子なのだか、悪い子なのだかわからなくなってしまう。完全円
満なのに、悪はない、というのに、お前の心が悪いというその悪い心はどこから出てくる
のか、光明だけなのにどうして闇があったり悪があるのかしら、と迷ってくるわけです。
そうしたことを私は見ていて、これではいけないんだな、どこかに橋渡しをするものが
なければいけない、何があったらいいか… … 、それが消えてゆく姿なのです。
業の消滅を早める
人間は完全円満であり神の光明であって、光明燦然として病気も不幸もないのが本当な
んだけれども、肉体波動というものと霊妙なる生命の源の波動というものとは、あまり片
あら
方が微妙で片方が粗すぎて、粗い波の中に微妙な波が入ってくるから、どうしてもそのま
まなじむのに時間がかかる。本当は完全なんだけれども、物質の世界で完全になりきるた
145 消えてゆく姿の使い方
めには長い長い時間がかかっている。その今途中なんだ。言いかえればトンネルを掘って
いて、掘りあげれば向こうは光明燦然とした光の世界なんだけれども、掘っているうちは
みまくら
泥をかぶったりして、よごれてしまっている。真っ暗でもって、どうしてこんなに暗いん
だろう、どうして暗いんだろうと言いながら掘っているわけです。だけれどそれはあくま
で完全に掘り上げるまでのものであって、かぶっている汚れは消えてゆく姿なのだ、汚れ
たら洗えばいい。洗ってまた掘りつづければトンネルは掘りあがって、光の世界に出て、
もう再び汚れなくなるのだから、それまでの消えてゆく姿なのだから、自分が悪いんでも
人が悪いんでもない、消えてゆく姿なんだ。しかし実際に人に迷惑かける行ないは悪いで
すね。人に迷惑をかける人がいたらこれは悪い人になります。
しかし、その人の生命が悪い、その人の実体が悪いんじゃなくて、その人の想い方、や
り方が悪いんだから、それは消えてゆく姿なんだ。自分のことも同じです。だから消えて
ゆく姿と思って、ああ再びしまい、あの人にもさせまいと、あの人の天命が完うしますよ
うに、どうかあの人が真人間になりますように、神の子になりますようにという祈りをす
14G
る。それが自然に世界平和の祈りに通じます。だから自分の悪い想いも、人の悪い行ない
もみんな消えてゆく姿にして「世界人類が平和でありますように、私どもの天命が完うさ
れますように」と言って神様にお願いしながら、神様の中に入れてしまうわけです。私ど
もの天命という中には、私の天命も人の天命も入っています。私どもの天命が完うされま
すように、神様ありがとうございます、ということになりますと、光の祈り言の中に悪い
想いがみんな入っていく。したがって、この肉体世界の不完全なる人間が苦しみ少なく、
その完全になる時間を早めていけるのです。それが消えてゆく姿で世界平和の祈りなんで
す。
宗教の極意とそのまま
ところが、消えてゆく姿をいいことにして、なんでもかんでも消えてゆく姿なんだ、何
やったってみんな消えてゆく姿なんだ、酒飲もうと女と遊ぼうと、そんなもの気にするこ
147 消えてゆく姿の使い方
とはない、やりたいことをやりなさい、なんていうことになったならば、それは宗教以前
になってしまう。宗教どころではないです。
もしうちの講師がそういうことを説いたとしますと、新しい人はマゴマゴしちゃいます
よ。宗教で、こうしてはいけない、ああしてはいけないということばかり教わっていたの
が、何やってもいい、と言われますと、何かボヤッとして赦されたような気がして安心も
するし、いい気持ちになって、自分が切磋琢磨して、一所懸命修行して、自分を磨こうと
思っている求道心、神様を求める気持ちがなくなってしまうのです。何も磨くこともいら
なければ、世界平和の祈りもいらなくなってしまうのです。
あ1何もしなくたっていいんだ、このままでいいんだと思うわけです。ところが宗教の
極意というのは、本当はこのままでいいのです。
ヘヘヘへ
宗教の極意の、そのままというのは神のいのちそのままという意味なのです。業の自分
の間違った想いをそのままにしておけ、という意味ではない。これをよく間違う。そのま
までいいんだ、という教えは昔からよくいっています。それは神のいのちそのまま、仏の
148
いのちそのままで、それにつけ加える何ものもないんだ、生かされているまま感謝して生
きるという生き方なのです。そのままという時には、悪い想いとか暗い想いというものは
ヘヘヘへ
なくなっている、無いそのままなんです。神のいのちそのままというのには汚れがない。
光り輝いているそのままなのです。それを、業をつけたままの、悪い想いをつけたままの
自分でいながら、そのままでいい、それでいいんだということは、悪を認め、間違いを認
めて自分の身につけたままで、トンネルを少しも掘らないで、トンネルの泥をいっぱい塗
って、そのままでいいんだそのままでいいんだ、とやっていることと同じで、汚れた上に
さらに真っ黒に汚れをつけていることで、いつまでたっても明るくなりません。そのうち
に魂がこごえてしまいますよ。
あの人に悪い、この人に悪い、と悩んだりしている時「そのままでいいんだ」といわれ
ゆる
ると、赦されたような気がして気が大きくなり”ああ、よかった、安心しちゃった” と思
う。ところが借金がうんとあったりしたとします。そして早く返してくれと催促されたり
しているとする。「出来ない時は出来ない、それも神様のみ心だ、そのままでいいんだ、
149 消えてゆく姿の使い方
そのままでいいんだ」と言われると”ああよかった、私は借金を返そうと思って一所懸命
働いて、少しでも返そうと思っていたが、そのままでいいって講師から聞いた。ああそう
か、出来る時は出来る”と安心します。そしてその人は助かった気がして、自分を責めな
くなります。その人はそれで一応はいいとします。ところが相手はどうでしょう。お金を
返しもしない、言い訳もしない、誠心誠意もみせない、何もしないで「えー、いつか出来
ますよ。出来る時には払いますよ」と嘘ぶいていたのでは”あの人はなんて人だろう。借
金していて、ぜいたくをしている。一寸もあいつは良心がないじゃないか” と思います。
まわりの人はみな悪感情を持ちます。
その時は、そのままでいいんだ、といわれて救われたような気がするけれど、日がたつ
につれ、一所懸命働かないんだし、借金を払う努力をしないのだから、借金が返せるわけ
がありません。そうするとその人はニッチもサッチもいかなくなって、しまいにどうなっ
てしまうのか。その人の運命は閉ざされてしまうことになります。
150
消えてゆく姿を正しく行じよう
ゆるこう
消えてゆく姿の赦しの教えにしても、業のままに、自分がただ単に慰められるために、
自分の気まま勝手を赦すために、自分で赦したりするのだったら、宗教をやらない人のほ
うが余程いいです。大工さんなら大工さんを一所懸命やる、商売なら商売を真剣にやるほ
うがいいことになるのです。
宗教というのは、根本的にはやっぱり自分の本心を開くために、自分を見つめて、一所
懸命努力するところに道の尊さがあるわけです。しかし、あまり宗教信仰をしている人た
ちが、あんまり自分を見つめすぎて、あんまり自分をいじめすぎているので、そのいじめ
ている想いではやっぱり駄目だから、私はそれでは救われない、悟れないとわかって「自
分を責めてはいけませんよ、人を責めてはいけませんよ、みんなそれは過去世からの業の
消えてゆく姿なのですよ。消してくださるのは誰かというと、守護霊守護神さんだし、消
していただくにはどうしたらいいかというと、世界人類が平和でありますように、と祈っ
151 消えてゆく姿の使い方
はしご
て、その祈り言を梯子にして神様の大光明の世界で消してもらうんですよ」と説いている
わけなのです。
自分の中の悪い想いも、人の悪い行為も、肉体の自分の力ではどうにも出来ないから、
それは神様に消していただきましょうと、自分の悪い想いも自分の悪い行ないも、人の悪
い想いも人の悪い行ないも、神様、どうぞ一日も早く消してくださいませ、世界人類が平
和でありますように、とするのが世界平和の祈りなんです。ですからこういう時には常に
反省があるわけなのです。ああこれはしてはならないことだった、とすぐ反省があって、
そこで自分を責めないで、過去世の業が現われて消えてゆく姿だったのだ、消してくださ
ったのだ、ということになるのです。それが人の場合には、あの人がしているのは前生の
業でやっているのだから、私たちも一所懸命、応援して消してあげましょう、とそれで
「消えてゆく姿で世界平和の祈り」をするわけです。
だから悪を赦したり、間違いを赦したりしているわけではないのです。誰が見たって、
常識でして悪いことは悪いのだし、間違ったことは間違っているのです。それをうっかり
152
すると間違いをそのまま赦したりしてしまう。気をつけなければいけません。宗教をやっ
ているからただ安心しているのではなくて、常に切磋琢磨して、しかも神様に全部お任せ
する。神様は悪いようにはなさらない、神様は愛なんだから悪いようにはなさらない、と
かえり
全託して、自分としては一挙手一投足いつも省みながら、本当の意味の消えてゆく姿を行
じながら精進してゆくことです。それによって、人間は立派になってゆくのです。
“このままでいいのか


このままでいいんだ、という教えは今までも承ってきましたが、安心するにはこ
圃。書いいとちより外にないと思っているので喜のままの生活以外にし
ようがないという意味は、現在の生活というのは今しているんじゃない。過去のいろいろ
な業想念行為というものが、消えるために現われておるんだ、つまり影であるんだ。だか
153 消えてゆく姿の使い方
ら自分でどうしようこうしようと言ったってしようがない。過去の因縁性であるんだから、
仕方がないんだからこのままでいいんだ。自分のどうにもならない事柄に対して、これは
過去の影なんだから申し訳ないけれど仕方がない、といって自分を赦す。また人の行ない
を見ても、あれもやっぱり過去世の因縁のためにああやっているのだから、これを赦す、
というふうに理解、承知しておったのですが、間違っているでしょうか。
154
圏あ る面では本当です。しかし、今の質問のままでは誤解があるといけないからい
いますと、「消えてゆく姿」というのは、あくまでこれはいけないんだ、という
否定があって”消えてゆく姿” なのです。人間は神の分生命であり、光明燦然たる存在、
完全円満なのであるから、神がすべてのすべてであるから、神のみ心以外のものはすべて
“消えてゆく姿” なのです。だから神のみ心以外の想いが出てきたら、ああこれは間違っ
ているんだ、と否定の心が出てきます。ここから消えてゆく姿が出発しているのですよ。
例えば青酸カリは飲んだら死にます。青酸カリが入っている水だとわかれば飲まないでし
よう。青酸カリだからいけないな、いけないなと飲む人はありませんね。これはハッキリ
しています。けれど過去世の因縁の消えてゆく姿の場合には、今の現われている想い、行
為は仕方がないんです。これは抑えようがない、現われてきてしまうのだから、しかし、
その時が一番大事なのです。
ああ、それでいいんだ、仕方がないんだ、消えてゆく姿だからどうしようもないじゃな
いか、と何もしないでいると、これは現われてきたことをそのまま認めたことになります。
怒りっぽい性質だ、妬みっぽい性質だ、盗みをする習癖があるんだ、前生の因縁で仕方が
つか
ない、と思うだけでは、ただ認めたことで、消えてゆきません。認めたことは掴んだこと
と同じなのです。仕方がないじゃないか、と掴んでしまうのです。そうすると過去世の因
縁が消えないで、そのままとどまってしまうのです。その上にまた現われてくるから積み
りんねてんしょうげだつ
重なって、ぐんぐん増えてゆくことになる、輪廻転生してしまうのです。これでは解脱で
きない。
そこで私はそういうことではなく、ここに過去世の因縁が現われてきた場合「ああこれ
155 消えてゆく姿の使い方
はいけないんだな、しかし過去世の因縁で仕方がなかった。ごめんなさい、すみません。
こう
これからは同じことを二度としません」と自分の本心にわび、人にわびる。それで一つ業
が切れますよ。さらに「私の想いの中に悪い想いが出ませんように、悪い行ないをしませ
んように、人も悪いことをしませんように」と祈る。再び戦争がありませんように、とい
うのと同じです。「どうかみんな平和になって、みんな本当に神の心が現われますように、
どうか神様お願いします。世界人類が平和でありますように、日本が平和でありますよう
に、私たちの天命が完うされますように」と守護霊、守護神さんへの感謝の心と敬虔な気
持ちで祈ることによって、”消えてゆく姿” が成就するのです。こうしますと、すぐ悔い
改めが出来ているわけですし、再び自分はしない、青酸カリ(業)を飲まないで、神の心
の中へやっちゃったわけです。そこで初めて消える。光の中で消してもらうわけなのです。
きゅうせ
消えてあとに何が残るか、というと、世界を救おうと思って働いている神々の救世の大
光明が、入れ替わりに入ってくるのです。世界平和の祈りをすると、業が消えたと同時に
えこう
光が入ってくる。業と光を交換するわけです。そこに回向が生まれる。そうすると今まで
15G
の業が一まわり消えるわけですが、業というものは過去世からずっとあるから、何遍も何
遍も出てきます。ですから繰り返し繰り返し回向を続けていると、だんだん正覚に近くな
ってくるのです。そういう努力が必要なのです。
過去世の業が消えてゆくにしたがって、光が入ってくるから、それにともなって富もく
るでしょうし、健康も与えられるでしょうし、幸運もやってくるのです。それが消えてゆ
く姿の教えなんです。
“出てくるものは出せ
“と教えられたが… …
今まで講師の方から教えられたことでございますが、我々の日常の想念行為は過園去世の因縁の現われである、これは仕方のないことであるんだ、だから例えば、
腹が立った、あるいはお酒が呑みたいな、という欲望が起きてきた時、これはいけないと
言って抑えるのは想いを溜めてしまうことだからいけない、出したほうがいいんだ、のび
157 消えてゆく姿の使い方
のびとした生命、生き生きとしている生命を抑えてしまうことはよくない。だから過去の
業の映ってくるそのままをやったらいいんだ、というふうに教えられました。
もう一つは、守護霊守護神というのが絶えずついていて、本人のためによくないと思う
ことは、守護霊守護神がやらせない。だからあえてやるのはその場において悪いように見
えておっても、必ず本人のためにいいのだ、というのです。
例えば、デパートに行って高価なものを取りたくなっても、守護霊守護神がついておっ
て取らせない働きがあるというんですね。もし取ったとしたならば、その報いを受ける。
みんなの前で恥をかかせられる、警察に引っ張っていかれる、ひどい目にあったことで今
後そういうことはしまい、という大きないい結果になってくるんだ、だから我々は結局、
守護霊守護神が常に離れないで導くのであるから、遠慮なく思い切ってやりたいことはや
ったらいい、とこういうふうな教えを聞いたのですが… … 。
158
その講師の言うことは半分本当です。しかし一知半解です。宗教も何もやらない囲人、あるいは他宗の人たちがその話を聞いた場合、”ああこの思想は危険だなあ”
と思いますよ。「やりたいことをやってしまうだろう、これは宗教でもなんでもない」と
言うでしょう。
やる者はやるようになっている、やらない者はやらないんだ、ということは本当です。
泥棒する因縁がなければ泥棒しないかもしれない。しかし、それは自分でわからないじゃ
ないですか。とにかく過去世の因縁というものがあって、八〇パーセントその因縁に流さ
れている。二〇パーセントこの世においてそれを修正することが出来る力があるんだ、と
私は説いています。その二〇パーセントの力は知性と素直さなのです。それが感情の爆発
や、欲望を抑制したりする。私は本当は抑えろとは言わない。やりたいことはやるつもり
で、出かかった時にこれを平和の祈りに入れちゃいなさいとか、気分をほかにかえなさい
と転換させてしまう。
業をそのまま出しちゃうのでは当たり前。抑えたのではこれもいけない。人間は難しい
159 消えてゆく姿の使い方
ですよ。抑えもしない、そのまま出しもしない、出す手前で消えてゆく姿にしなさい、と
教えているんですよ。出す手前で消えてゆく姿に、と何遍も言っているのです。抑えては
いけない。出したほうがいいんだ、いいんだ、出るようになっているんだ、出せ出せとい
うんで、お前なんか憎らしい、とやってしまったらハタが迷惑します。どうしたらいいか
というと、その真ん中で消えてゆく姿にしなければならない。なぐろうとする、ああ、し
かしこれはいけないんだ、世界人類が平和でありますように、と心を変えれば、怒りでも
フッとなくなってしまうんですよ。だから気分を換えると、表面近くまできても出ないん
です。そうすると抑えたよりもいいし、叩いたよりもよくなるわけです。
例えば千なら千の力で出てくるものを抑えたら千がたまってしまう。では千をそのまま
出してしまったら気が晴れるか、といったら晴れやしない。なぐってしまったら悪い気が
するんだから。また自分がそれで晴れたとしても相手が迷惑します。ところが出ていく時、
消えてゆく姿だ、神様助けてください、世界人類が平和でありますように、と祈ったり、
あるいはどうかこの想いを消してくださいというふうに、先輩の道友の誰かにすがったり
1GO
する。そこで浄めたりしてもらって消えてゆきます。そうすると千が千消えないかもしれ
ないけれど、五百なり三百になって消えてゆくわけです。そうすることが一番中庸の道な
のですね。
常識良心を土台に
質問した人は悪いことが出来る人でないから、赦されたほうが安心するでしょう。それ
に年取っているからいい。しかしもし若かったら、四十ぐらいだとしますと、赦されてい
るうちに、それになれてしまうから、習慣ついてしまって、やりたいことをやってしまう
ことになるでしょう。私が修行中、二十代の終わり頃でしたが、ある心霊交流会に出てい
ました。真っ暗にした部屋に大勢いるのです。そして坐って統一するのです。その時、相
当霊能的になっていたのですね。隣に娘さんが坐っていた。すると「隣に坐っているのは
未来のお前の妻なんだから、手を出して握ってみろ、握ってしまえ、握ってしまえ、握っ
1G1 消えてゆく姿の使い方
たら決まるのだから」と霊的にささやかれて、さらに手を動かすのです。私は考えた。い
われた通り素直に手を握っちゃおうかと考えた(笑)。しかし後で恥をかいたら大変だ、
と思案しているうちに、知性的に”ああこれは常識ではそんなことをしてはいけないんだ、
絶対いけない” と必死になって動く手を押さえつけた。そうすると「ヨーシ及第1」とい
うわけです。ああよかったと思ってね。神様がためしたのです。そこで握っていたら、現
在の私はなかった。握ったらそれでおしまいになってしまう。
そういうこともさせるのです。ですからあくまで常識良識を土台にして判断してゆくこ
とが必要なのです。
もう一つの質問の、守護霊守護神がついているから、やらせることはみんな守護霊守護
神がやらせているんだ、ということでしたが、大きい意味ではそうなのです。しかし普通
常識の話にすると、守護霊守護神がついていてやらせるのなら、吉展ちゃん殺しも守護霊
守護神がやらせたのか、十七歳の少女が夫を殺しちゃったのも守護霊守護神がやらしたの
か。そうだとしたら世間の人はその教えは邪教だと思うでしょう。神様が殺人をさせるわ
162
けがない。わかりきったことです。だからそういうことを言っていいか悪いかということ
は常識の世界のことです。それがわからない人は常識をもういっぺん勉強しなければだめ
です。
守護霊守護神はあくまで守っているけれども、肉体側の想いが業でへだてられているか
ら、距離が離れてしまっていて、守りが届かない。肉体人間の想いも業が厚いと届かない。
そこに私たちのような宗教家の存在が必要なのです。「先生、助けてください」とくると、
バーンと柏手を打つと、業がフッと消えて守護霊守護神とつながるのです。そしてまた業
が出てきて離される。業に巻きこまれてしまう。そこで私のような存在が必要なのです。
あるいは友達が集まって祈ったりして助かるわけなのです。そのために聖ヶ丘の統一会と
か各地の座談会に余計出たほうがいいということになるのです。守護霊守護神の存在を知
らせたり、それをへだてている業想念を取ってくれたりする人を導師というのですが、そ
ういう人が必要なわけです。
導師はいつも謙虚な心と真摯なる努力、それに澄んだ知性が必要なのです。なるがまま
163 消えてゆく姿の使い方
ではありません。知性は常に澄み切ったものに磨いておくことです。
『神と人間』にも書いていますが、守護霊守護神が守っているんだけれども、あくまで
肉体人間が主体であって、守護の神霊は後から応援するのだ、と書いてありますね。幅跳
びをするのでも、自分で跳ぶのです。それを背後の人が持ちあげたり、跳ばしてくれたり
したのでは面白くもなんともない。自分でやるところに面白さがある。自分が一所懸命、
人事を尽くしてやって、それで守護霊守護神に加勢をたのむ、そうすると助けてくれる。
まつと
三者一体になって、自分のもてる力を充分に発揮できる。天から与えられた使命を完うさ
せてゆくことが出来るわけです。そこに消えてゆく姿の教えがあったり、世界平和の祈り
があってうまくいくのです。
全託とかお任せとかというけれど本当の全託になるためには大変な努力、精進がいるの
です。真剣なる修行があるのですよ。
(昭和41年2月10日)
1G4
真の救われと消えてゆく姿
薄い信仰では救われないか?
信仰が薄いから救われない、ということはありません。神様のほうでは、人間はみな自
分の子なのだから、薄いとか厚いとかいうことを問題にしてはいない。どんな人でも救う
のです。
みだ
「いかなる悪も弥陀の光を消すことは出来ないんだ」「阿弥陀様の光を消すほどの悪は
しんらん
ないんだ」と親鸞はいっています。それと同じように、どんな人でも神様は救うわけなの
です。
1G5 真の救われと消えてゆく姿
信仰の薄い人も救われているのです。ただ救われていることを自覚しないだけで、信仰
の厚い人は救われていることを自覚する。どうして信仰が薄くても救われるかというと、
本来人間は神の子なのですから、救われるも救われぬもない、初めから救われているので
す。
ところが宗教をやっている人はそれがわからないのです。救われてない、救われてない、
つか
真理を掴まえよう、掴まえようとやっている。天へ上ってゆくならいいけれど、横にいっ
さんがい
てしまう。それで三界(肉体界・幽界・霊界の下層) の業想念の中で、これでなきゃいけ
ない、それでなきゃいけないとぐるぐる廻っている。これじゃだめなんですよ。消えてゆ
く姿がないからね。
1GG
消えてゆく姿という教えを通ること
天地をつなぐ光の輪が縦にまわっている。それだけがあって、横の波はみんな消えてゆ
く姿なのです。横の三界の業想念は消えてゆく姿とやっていると、縦の光の輪だけになる
のです。だから消えてゆく姿がないと、いくら宗教をやっていても、求めれば求めるほど
苦しくなってゆく。
信仰のなかった時分のほうがよかった、ああ宗教に入らなきゃこんな苦しい想いには会
わなかったのに、宗教をやったばかりに、こんな苦しい目に会った、という人がよくあり
ます。それは何故なのかというと、本当のことを知らないからです。その宗教の先生とか
先達の人が、本当のことを教えてくれないんですよ。それでやたらに自分を責めることば
かり教える。まだ信仰が足りないとか、まだそれじゃだめだとか… … 。
そうすることは自己否定だから、これは業想念なんです。どうせ否定するならば、全部
否定しなければいけません。肉体人間というものはダメなものなのだ、と。いつも私がい
うように、肉体人間は偉いといったって、偉くないといったって、悟った悟らないといっ
たって、信仰が厚い薄いといったって、大した違いはないんだ、そんなものは。大したこ
とではないです。
167 真の救われと消えてゆく姿
肉体の人間は単なる消えてゆく姿で、やがて肉体はなくなっちゃう。あるものは何かと
いうと、縦横を貫いている生命の光、神様の子である光だけなんです。問題はどこにある
かというと、神様の光、天から流れている光の中に、自分が入りさえすればいいわけなの
です。入ることを教えなければならない。そのためには、いっぺん消えてゆく姿という教
えを通ることです。
1G8
消えてゆく姿をやらないとわからない
信仰が薄いという自分も、苦しんでいる自分も、どうしたこうしたという自分も、みん
な消えてゆく姿で、本当は無いのです。現われては消えてゆく。自分の本体は何かという
と、神様の子なんだ、縦からずーっとつながって続いている神様の永遠のいのちです。永
遠に光り輝いているいのちなんだということが、消えてゆく姿をやらないとわからないん
ですよ。
なまはん
大概の宗教では、自己否定が極限にいかないのです。生半かなのですね。生半かの自己
否定だから、たとえば家族を捨てて山にこもったり、家庭のことを省みないで、宗教団体
のために働いたり、ということをやる。自分の財産を全部教会にあげたって、それは自己
はんぱ
否定にはならない。中途半端なことです。中途半端なことをするなら、やらないほうがい
いです。ところが中途半端なことをやるような因縁にやっぱりなっているんだね。これは
むずかしいですよ。
初めから信仰の深い人はいいです。そうじゃなくて、これでもダメだ、まだダメだダメ
だとやっている人は、とても苦しいです。私の信仰はダメだという人や「神様はあるんで
すで
すよ、神様は完全円満で、あなたはもう既に救われているんです」といわれ、そんなこと
はない、私は救われてない、という人もあります。それは信仰が薄いわけです。しかしそ
れは前生の因縁でもって、その人として仕方がない。五井先生を信じなさいといったって、
信じられない人は信じられない。信じられないから悪いとか、いいとかいう問題じゃない。
その人の因縁だから仕方がないですね。
1G9 真の救われと消えてゆく姿
いっぺん仕方がないとあきらめる
170
因縁因果の波というのは、いっぺん”仕方がない” とあきらめるより仕方がない。本当
に仕方がないんだから。たとえば五尺しかない背の人がある。私は五尺一寸になりたいと
いったって、五尺より伸びなきゃ仕方がないでしょう。仕方がないことがあるんです。仕
方がないことは仕方がない、とあきらめて、そのあきらめの中から出ていかなければなら
ないのです。
それをたとえば、自分が甘いものが好きだとすると、人にも甘いものを食べさせようと
する。自分がこれを好きだとすると、人にもこれを得させようとする。人の因縁因果の世
界を知らないから、自分の波の中に引きこもうとする。そうすると、それがいいことがあ
っても、かえって向こうは余計なことをするな、ということになる。それで恨まれるんで
すね。
そこで私はそういうことは絶対しないようにしているのです。向こうさんのおっしゃる
通り、向こうさんのやりたい通り、さあおやんなさいっていう。そして黙って光を当てて
いる。そうするとそれが間違っていれば、元の正道に戻ります。だから私は、お前さんの
信仰が薄いからダメなんだ、お前さん、私を思わないからダメなんだ、といったことはな
いのです。私がこんなに思っているのにお前はわからないのか、なんていわないですよ。
滅多にいわない。
何故いわないかというと、因縁があるからです。それがわからないと宗教信仰の救いは
成り立たない。
業そのものが救われることはない
なんにもわからないのに、人をめちゃくちゃに宗教に入れる人があります。五人入れれ
ばお前が救われる、とか、人数を増やせばお前の功徳になるとか、まだその宗教がいいん
だか悪いんだかわからないのに、なんでもかんでも無理無理人を引っ張ってきて入れちゃ
171 真の救われと消えてゆく姿
う。入れられた人は災難ですよ、入ったら抜けられない。その人がまた何人か入れるだろ
うから、鰻のぼりに数は増えるだろうけれども、救われている人は一人もない。
何故救われないかというと、自我欲望でもって人を入れるのであって、本当に救おうと
思っているんじゃないのです。自分のことだけ考えている。自分という立場がなくならな
ごう
ければ、宗教の真の救われにならないのです。いつも自分がある。いつも業のほうの自分
があり、業の自分でなんでもかんでも考えている。救われるんだって、業の自分が救われ
たいと思っている。
業は救われません。業は消えてゆく姿なんだから、救うにも救われるにも、消えてしま
うんだから、業そのものが救われるということはないのですよ。業は消えてゆく姿。救わ
れるということは、業が消えてゆく姿ということがわかりさえすればいいのです。私の話
をよく聞き、本を読んでいるという人たちは、大体救われている。何故救われているかと
いうと、消えてゆく姿を知っているからです。こう苦しむようになっても、こんな情けな
い心が出てきても、どう貧乏になっても、それはみんな消えてゆく姿なんだ、と知ってい
172
ますから、どんなに苦しいように見えても、それは表面の心であって、中の心は本当に苦
しんじゃいません。中では救われているんだということを自覚している。あとは時が流れ
るに従って自分の苦しみが減ってゆく。また波がかかってきても消えてゆく。
悩んでいるものは消えてゆく姿
人間は神様の子で、誰も彼も迷っている者は一人もないのです。病気の者も一人もない
んです。貧乏な者も一人もないんです。ところが貧乏であるというのは、自分の業想念が
貧乏なんです。業想念行為が苦しみであり、病気なんです。その業想念を消えてゆく姿と
いって、離している人には病気がない。私などでも、年中痛かったり、熱が出ることもあ
れば、いろいろあるんですよ。けれど病気じゃない。病んでも病まず、なんでも出来ます。
吐いたってそれは消えてゆく姿、消えてゆく姿さえも思わない。そんなものはなんでもな
い。問題にならないです。自分の本当の心とはなんの関係もないんです。それがわかると
173 真の救われと消えてゆく姿
すごいです。
悩んでいるものは消えてゆく姿なんです。あるものは神様のみ心だけ。神様のみ心がそ
のまま生きているんだから、悩もうと悲しもうと、そんなものは知ったことじゃないです
よ。勝手に悩ましておけばよい。勝手に苦しませておけばいい。ただ、他人が苦しんでい
るのを「業が消えるのだから、勝手にすりゃいい」というのでは、ダメですよ。
自分の場合は、ああ悩んでるな、消えてゆく姿が悩みの姿で消えてゆくか、苦しみの姿
つか
で消えてゆくか、貧乏の姿で消えてゆくんだなあ、とやっていれば掴まえていないから、
自然に消えてゆきます。それでこちらは世界平和の祈りをしていればいいんだから、なん
でもない。消えてゆく姿というものを、ちゃんと見られたら、そのままで消えていっちゃ
うんです。
消えてゆく姿というのがやはり根本です。あるものだと思ったらいけないです。現われ
たものは消えないものだと思っているけれど、そんなことはない。現われたもので消えな
いものは一つもない。もう全部消えてゆく姿。
174
消してくれる神々がいる
どうして消えてゆく姿というのが実際に効果があるかというと、消してくれる神々がい
るんです。それが世界平和の祈りの神々なんです。救世の大光明がスッパリと「引き受け
た」といって、消してくれるんです。だからこっちは守護霊さん守護神さん有難うござい
ます、といっていればいいんです。世界人類が平和でありますように、と思っていればい
いんです。そうすれば、あとは勝手に消えてゆくんですよ。
消してくれるのは守護霊守護神、救世の大光明が消してくれるのです。だからまかせて
おけばいいです。それがお任せなのね。
(昭和34年7月4日)
175 真の救われと消えてゆく姿
17G
消えてゆく姿で世界平和の祈り
消えてゆくもの、消えないもの
消えてゆく姿の消えてゆく、というのは、何が消えてゆくかというと、肉体界に何遍も
生まれ変わって積んだ因縁因果が消えてゆく姿なのです。しかし、永遠の生命、神様のみ
心、神様のいのちからそのまま現われている真理は、永劫に消えない。
ホネこレロ
永遠の生命の中に現われている場合は、それは真であり善であるから、いっこうに消え
ないわけです。
悪い因縁も現われては消えてゆきます。いい因縁も消えてゆきます。みんな消えてゆき
ます。本来因果として善、真というものは残ります。だから徹底的に消えてゆく姿をやっ
て、全部いいも悪いも消えちゃうかというと、悪いものは全部消えますが、本当の善なる
ものは消えないのです。そのまま永遠に残るわけです。
消えてゆく姿が本当に出来れば、残るものは神のみ心の善なるもの、真なるもの、美な
るものだけです。だからいい世界が出来るわけです。
初めから善は続いている
どうして、悪いほうだけが消えてしまって、いいものだけが残るかというと、神様とい
うのは、永遠の生命で、完全円満なんです。完全円満というのは、富も智恵も美もみんな
兼ね備わっているということです。完全円満なる生命は永遠ですから無限です。初めから
善は続いているわけです。
どうして、因縁因果の悪というもの、善というものが現われてくるかというと、人間が
177 消えてゆく姿で世界平和の祈り
わけいのちあまくだ
神様の分生命として、この肉体界に天下ってきますね、肉体をまとった時から生じたもの
が業因縁なんです。善悪のまざったものなのです。それは有限なのです。
片方は永遠だけれども、他方は有限、人類が肉体に生まれてきてからのものだから、有
限です。これはどんな悪業因縁を積んでいようと、消えてゆく姿を観じつづけてゆけば、
そして世界平和の祈りをしていれば、その中でどんどん消えてゆくわけです。
必ず消える時がある。それは一生かかって消えるかも知れない。あるいは十年で消える
人もあるでしょう。あるいは一生、霊界へ行ってから消す人もあるでしょう。みなやがて
は必ず消えてしまうのです。熱心にやればやるほど早く消えるわけです。
消してくれるものは何かというと、守護の神霊、つまり祖先の悟った霊である守護霊と、
直霊から分かれた守護神が一体になって、業をどんどん消してくれるわけです。
光明波動で消してくれるのです。いいとか悪いとかは何かというと、みんな波動になっ
て幽体に伝わっているわけです。録音されているのと同じようなものです。その録音がグ
ルグル廻っているわけです。その録音を肉体界の想念の中で、グルグル廻していたんでは
178
これは消えないのです。そこでどうしても祈り言が必要です。
私はいいことをした、だからいい報いがあるだろう、私は悪いことをした、悪いことが
来るだろう、などとやっている想いを、みんな消えてゆく姿、神様有難うございます、と
いって世界平和の祈りの中に入れます。
入れると平和の祈りは天から来ている、神界から来ている大光明波動だから、グルグル
りんねてんしょう
と三界を輪廻転生しているものが、ぐーっと上にのぼってゆく。そうすると天の光の中に
入っていき、吸いこまれるようにどんどん消えてゆくわけです。
消えてゆくと同時に大光明が入ってくる
実際に消えてゆくと、どういうことになるかというと、神様の生命というのは初めから
光ですから、完全円満ですから、その光がそのまま入ってゆくのだから、業因縁が消えて
ゆくと同時に、大光明がどんどん入ってくるわけです。だから祈りつづけてゆけば、知ら
179一消えてゆく姿で世界平和の祈り
ないうちに神の子の人間の姿が現われてくるわけです。消えてゆく姿をやっていれば、悪
いものは全部なくなって、いいものだけが残ってくる、とこういうことになっているので
す。
どうして、いいものも悪いものも消えてゆく姿にしろ、というかというと、いいもの、
たとえば、私はいいことをしている、あるいはいいことを前にしたから大丈夫だ、という
シマリ
ように、いいことに把われてしまうわけです。把われてしまうと、いいことも執着になっ
て悪になるわけ。だからその把われを消してしまうために、いいことも悪いことも消えて
ゆく姿というわけですね。
消えてしまうと、本来の善なるもの、本来の美なるもの、本来の真なるものがそのまま
現われてくるということなんです。
:1
うちの教えの極意です
だから消えてゆく姿で世界平和の祈りさえしていれば、必ずよくなります。これはうち
の教えの極意なんですよ。
ふつう宗教の場合には、お金がなくなるのも、病気になるのも、夫に別れるのも、子供
に死なれるのも、みなお前の因縁だから因縁をはらわなければいけない、そのためにはこ
れだけのお金を用意しろ、とか、いいことをしろ、とか、信徒をふやせ、とかいうわけで
す。それには一面の真理がありますけれど、それだけではしようがない。年中、そうした
ことに追い廻わされなければならない。年中、因縁だ因縁だと追いかけられてしまうので
す。因縁がこびりついて因縁がとれない。
それでいつも他動的に、人に救ってもらわなくちゃならないという気持ちになっている。
ところがうちではそうでなくて悪いものが現われてくる。不幸が現われてくる。災難
が現われてくる。それはみんなたしかに過去世の因縁だけれども、現われては消えてゆく
181 消えてゆく姿で世界平和の祈り
姿なんだ、悪いことがあるたび、病気になるたびに因縁がどんどん消えてゆくのだ。消え
てゆくにしても、消すところがなくてはダメだから、どこへ消したらいいかというと、神
様のみ心の中へ消しなさい。神のみ心といっても見えないし手にもふれない。しかし神様
のみ心の現われている姿はわかる。世界が平和になること、みんなが大調和してみんな仲
よくなるということ、神様は愛なんだから、みんな仲よくなれ、という神様のみ心の中へ
消せばいい。
観を転換させてしまう
どうやれば神のみ心の中へ消せるかというと、こちらから、世界人類が平和であります
ように、みんなが仲よくなりますように、そういう想いを出して、それを祈り言に高めて
いけば、神様の心と一つになるんだよ、消えてゆく姿、消えてゆく姿、神様どうか世界人
類が平和でありますように、という祈り言の中へ入っていけば、自然に神様のみ心の中へ
182
入って、悪いものがどんどん消えてしまうんだよこう説くわけね。
これは、お前の心が悪いから、こうなったのだ、お前の因縁だ、とただ責められるより
は、因縁も消えてゆく姿と、祈りのほうへ変えてしまう、観を転換させてしまうことは、
今までやっていないことなのです。
こういうやさしいことがわからなかった、ということは、その人たちがわからなかった
のですね。心がせまかったのですね。
善に把われている、信仰に把われているから、ただ責めるようになってしまう。消えて
ゆく姿というのは、軽い気持ちでやっていても、やっているうちに、本当の平和の祈りが
出来てくるわけです。
(昭和42年10月23日)
183 消えてゆく姿で世界平和の祈り
184
消えてゆく姿の行じ方
徹頭徹尾、消えてゆく姿
人間は病気を恐れてはいけません。貧乏も恐れてはいけません。
病気になる、貧乏になる、ということは過去世の業の想いがなるのです。その過去世の
業因縁が現われて消えてゆくのです。恐怖心が毒素になりはしないか、不幸の種になりは
しないか、という想いも、業で、消えてゆく姿なのです。いろいろな形でもって、神様が
消してゆくのです。
病気になった、過去世の因縁が消えてゆく姿だ。貧乏になった、ああこれは過去世の因
縁が消えてゆく姿なんだ。怪我をした、それは大きなものが出てくるのを、小さく消して
くださったんだ、というふうに思う。思いながら、いや、しかしまたなりゃしないか、ま
た今度はひどくなりゃしないか、とこう思う。消えても消えても出てくるんじゃないかな
あ、なんて思う。いつになったら善くなるんだろう、とこう思う。これは恐怖の想いでし
ょ。その恐怖の想いも出てきたら、それも消えてゆく姿なんです。
何が出てきても、自分の神性、完全円満性を否定する想いは全部消えてゆく姿なのです。
高慢の想いも消えてゆく姿、卑下慢、卑下して自分はだめだと思う想いも消えてゆく姿、
みんな消えてゆく姿でして、消してくれるのは誰かというと、守護霊守護神さんです。守
護霊守護神さんがそういう想いを幽体からみんな消してくれているんだから、ああ守護霊
さん守護神さん有難うございます、と思いなさい。それで、世界人類が平和でありますよ
うに、と祈りが始まってもいいのです。
185 消えてゆく姿の行じ方
完全円満な姿が現われてくる
18G
どこから始まっても、後先はどうでもかまいませんから、世界平和を祈るような思いに
わざわい
さ えなれば、禍変じて福となります。病気になったために世界平和の祈りをする。すると
病気は消えていって、完全円満な自分の姿がそこに現われてくる。禍を転じて福と為すと
いうか、パッとひっくりかえるのです。
たとえば相撲で、向こうから押してくる。上手な人は押してくる力を利用して、相手を
投げると、相手はひっくりかえってしまう。合気道がそうですね。消えてゆく姿という想
い方はそれと同じなのです。
病気は無い、肉体は心の影である、といっても、みんな達人ではないのだから「無い」
ではわからない。いっぺんは現われてくるのだから「無い」と言えるのはお釈迦様のよう
にならなければ言えない。私も「無い」ということはよくわかるのです。無いのです。こ
の肉体は影なんです。ここに現われているのは、みんな過去世の因縁の影です。本当は真
実は光り輝いている。光体です。あの霊光写真のような光なのです。
ところが考えてごらんなさい。私がここにいて、光だけがあって、光の中から言葉が出
てきたら、こわくて一般の人は近づけませんね。やっぱり肉体の世界にいる場合には、肉
体の姿をしていなければね。観世音菩薩というのは、相手が女の人なら女の人、男の人な
ら男の人、老人には老人、芸者さんには芸者さんの姿をして現われる、というお経があり
ますね。そのように、神様はいつでも説法するのに、説法される人にふさわしい姿をして
現われるわけです。私は皆さんにわかるように、わかりやすい話をするために現われてい
る。一般大衆を相手にするのだから、大衆を相手にしてむずかしい学問の話をしても、哲
学の話をしてもわかりません。
これ以上のやさしい教えはない
消えてゆく姿の行じ方
私のわかりやすい話というのは「消えてゆく姿」なんです。現われている状態、あなた
187
が今たとえば、どんな悩みのどん底にあろうとも、どんな苦痛のどん底にあろうとも、そ
れは過去世の因縁の消えてゆく姿、必ず消えてしまうんだ、全部消えてしまうんです。消
えてしまうということを認識して、守護霊さん守護神さん1 ってつながりなさい。世界
平和の祈りをやりなさい。そうしていさえすれば、消えてゆくんだただそれだけなん
です。実に楽なんですよ。そんなこといったってやれませんやれませんという想いも
消えてゆく姿。苦しくなると反抗してやらない人もあるかもしれない。しかし最後に苦し
くなるとやりますよ。
私にはそんなむずかしいこと出来ません、出来ないですよ、という人がいます。それは
まだ余裕があるからです。その時は出来ません、と言って離れていって、一年か二年する。
そうすると、どうにもならなくなってくる。そうすると今度はやるんです。いやが応でも
「助けてください、先生」とやってくる。「じゃ五井先生と思いなさい、私が引き受けてや
る」ということで、世界平和も抜かしてしまって、五井先生だけで結びついて、それから
だんだん世界平和の祈りをするようになってくる人もあるのです。
188
自分で消すのではない
苦しくてどうしようもなくなれば、必ず守護霊さんが連れてくるんです。それで消えて
ゆく姿をやらせるんですよ。消えてゆく姿というのは、自分が消すのではないんですよ。
よく間違えて、自分がいき張って消すんだと思っている。コンチクショウと思って消そう
と思うのですが、なかなか消えない。あれ邪魔だから消しちまえ、なんていうのではない
のです。自分で消すのはそれは自我です。あるいは自力というのです。自分で消せるよう
ならば、みんな悟れて楽なもんですよ。自分で消せないところに、守護霊守護神がいて、
神様の愛が本当にそこでわかるのです。
この世というものは、自分ではなんにも消せない。自分で消すものは一つもないです。
みんな守護霊守護神が消してくれる。たとえば短気の想いがあるとする。これを消さなき
ゃ消さなきゃ、消そうと思っても、思うそばから出てくる。恐怖でも同じです。恐れまい
恐れまい、恐怖してはいけない、いけないと思っていると、よけいに恐ろしくなってくる。
189 消えてゆく姿の行じ方
そういう経験がありますね。それは自我なんです。力みというんです。よほど強い人をの
ぞいて、ふつう一般の人では消すことは出来ない。そこで私は、消してゆく姿ではなくて、
消えてゆく姿というんです。決して消してゆく姿とはいっていません。消えてゆく姿なの
です。
190
知らないうちに変わってゆく
ただ黙っていれば消えるんですよ。恐怖心があるとしても、それを眺めていさえすれば
消えるんだけれども、眺めていられない。恐怖の中にとりこまれてしまう。とりこまれて
もいいんですよ。恐怖が出て結構、出たらそのままにしておいて、かまわずひたむきに、
世界人類が平和でありますように、世界人類が平和でありますように、とやるんですよ。
それが間に合わなかったら、五井先生、五井先生、五井先生とやるんです。そうすると、
知らないうちに想いが、五井先生なら五井先生、世界平和なら世界平和のほうへ、神様の
ほうへ昇っていきます。そうすると恐怖がだんだん、だんだん薄れていって、消えてゆく
のです。人間というのはそういうものなんですよ。
人間の生き方としては焦ってはいけません。世界平和の祈りを祈っている人の運命は決
まっている。この祈りというのは最高の祈りなんだから、人類が平和になるということは、
神様のみ心だから、世界平和の祈りの中に入ったら、その人は悪くなりようがないのです。
必ずよくなるに決まっている。だからもうよくなるに決まっていると思って、どんなこと
が現われても焦らないで、悪いことが現われたら消えてゆく姿と思って、一所懸命祈って
さえいれば、知らないうちに、現われてくるものがどんどんいいものに変わってゆくわけ
です。
そのうちに、いいも悪いもそんなこと問題ではなくなってしまうのです。この世の現象
のことは問題ではなくなって、いつも心が平安になることだけを目ざしてゆくようになる
わけです。
191 消えてゆく姿の行じ方
㊥世界平和の祈りについて
194
祈りについて
いのち
祈りというのは生命をひびかせる、生命を充分に生かす、ということです。生命を充分
に生かせば、何事もなし得るわけです。ですから、祈りなんかしたって何が出来るか、と
いうのはおかしいんです。神様こうしてください、とお願いする。そういう小さな願いご
とと祈りを間違えていると、祈りで何事も出来ないじゃないか、なんていうようになる。
人間の生命は本来、神の分生命です。だから神様の中、神様のもとに、自分たち一人一
人の生命があるわけです。それが分生命で、この世で働いているわけです。生命のひびき
と肉体になってからの想念のひびき(私は想念波動といいます)とは分かれ分かれになっ
ている。生命のひびきを土台として、想念波動が起こるわけですが、生命のひびきと想念
波動とは全く別の方向に行ってしまっている。そこに因縁因果の不幸が起こるわけです。
神様の生命のひびきそのままならば、地球世界の人間は幸せになるべきはずなんだけれど
もね。
そこで祈りの方法をもって、想念波動を生命の本源のところに統一させよう、一つにさ
せようというわけです。世界人類が平和でありますように、という祈り言葉を通して生命
の本源に想いを統一させる。世界を平和にしようという想いが誰の心にもあるわけだし、
一番わかりやすい。だから神様のほうでわかりやすい言葉を使ったわけです。
世界人類が平和でありますように、という祈り言葉を唱える時には、神々の光がその唱
えた人の身体を通して地球界にふりまかれるから、世界人類が平和でありますように、と
祈りなさい。と神様のほうから私にいってきたのです。それでこの祈りを始めたわけです。
大分前のことですが、講師の塚本清子さんが、葛飾八幡宮のお祭りの時おまいりしたの
ですが、何も願うことはないから、世界平和の祈りをして、石段をおりてきた。そしたら
易者のおばあさんが追いかけてきて「あなたのうしろに素晴らしい光がある」といったん
です。塚本さんは守護神の話をきいていますから「守護神さんが守っているから、光があ
195 祈りについて
るでしょう」といったら「いや、そういうんじゃない、もっともっと素晴らしい光が輝い
て守っている」とそのおばあさんにいわれた。それで塚本さんは、ああこれが救世の大光
明かとわかったわけですね。世界平和の祈りをしていると、自分を守っている守護神さん
以外に、もっとさらに強力な光がその人の身体を通して輝く、という実証ですね。
これは当たり前の話なんです。もともと人間は神の分生命であって、神様のみ心の中に
たい
いる光の体です。だから光が出ているのは当たり前です。皆さんが世界平和の祈りを通し
て、自分の想いをすべて神様に全託してしまうと、皆さんは光そのものになるんです。光
そのものになるということは、本来の人間に還る。神の子の自分に還ることです。世界平
和の祈りを祈りつづけていると、いつの問にか神の分生命そのものに還る、あるいは直霊
まで行くかもしれません。
祈りを根底にして、元の力としてその場その場で、自分の職場において、学校において、
家庭において、あらゆる仕事に向かっていく。そうすると必ずうまくいく。祈り心で生き
ていけば、世界は必ずよくなるのです。政治家が祈り心でやれば政治もうまくいく。この
19G
うわつら
一番大事な祈りを忘れてしまって、上っ面のことばかりで右往左往している。それは神様
を離れた想い、小智才覚で働いているから、砂上の楼閣を造るようなもので、やってもや
っても崩れてしまう。そういうことをしてたんじゃ今に、この地球界は滅びてしまうわけ
です。それで神様は「砂上の楼閣のような動き方をしないで、もっと腰を据えて、神様の
み心の中に入って仕事をしなさい。それには世界人類が平和でありますように、という祈
り言葉がいいから、この祈りをしなさい。そうすればあなた方の心はいつも本心の中に入
っていて、日常茶飯事あらゆることが、すべて神様のみ心の通りに動いていくから、そう
しなさい」と教えてくれた。だからこの祈りをひろめていけば、理屈がわからなくとも、
知らないうちに祈っている人は立派になっていくわけです。
祈りを新しく始めた人でも、古く始めた人でも「世界人類が… … 」といえば、その時は
もうチャンネルをひねったようなものなのです。テレビのチャンネルでもそうでしょう。
強くひねろうが、弱くひねろうが、チャンネルに合わせてひねれば、映ってきます。スイ
ッチを入れて、チャンネルを合わせればいいのです。新しい古いじゃなくて、素直に、世
197 祈りについて
界人類が平和でありますように、と祈ればよいのです。いくら古くたって、素直でなけれ
ばダメなんです。素直に世界平和の祈りの中に入れば、新しい古いじゃなくて、光がその
人を通して地球界にふりまかれるわけです。
(昭和48年6月17日)
198
祈りの真髄
祈りの生き方
宗教の運動というものが、一宗一派に把われていますと、この地球はいつまでもよくな
りません。あらゆる国の、あらゆる民族の、本当に神様のわかった人、本当に真理のわか
った人たちが寄り集まって、地球を救うという時代に、今はさしかかっています。
ですから自分の会だけが大きくなればいい、と会員数を三百万だ五百万だ、と誇ってい
るような行き方というものは、道にはずれてゆくわけです。人類愛にみちている、本当に
人間を愛する人たちが、上に立って働かないことには、神様が働かない。だからこの地球
199 祈りの真髄
は滅びるということになります。
われわれの行き方はどういうのか、というと、一にも二にも世界人類の平和を祈ること。
おのさちのごと
己が幸願ふ想いも朝夕の世界平和の祈り言の中
この和歌の通りなのです。自分のうちの幸せも、病気が治ることも、貧乏が直ることも、
商売繁昌することも、すべて世界平和の祈りの中に入れて、世界平和の祈りがもっている
大光明波動によって、自然と自分たちが浄められて、その浄められた順序に従ってよくな
ってゆく。
病気が治りたいから平和の祈りをする、貧乏が直りたいから平和の祈りをする。それも
初めの二、三年は結構です。だけど本当に平和の祈りの意味がわかってきたならば、病気
が治りたいという想いも、金持ちになりたいという想いも、地位が上がりたいという想い
も、すべて平和の祈りの中にとけこませる。神のみ心がお金持ちになるほうがいいのなら
ば、お金持ちにしてくれるでしょう。病気がすっきり治っているほうがよければ、すっき
200
り治してくださるでしょう。地位が高いほうがよければ、地位を高くしてくださるでしょ
う。それは神様(守護神様) のみ心なんです。
病気になって、その苦しみの中から魂が立派になることもずいぶんあります。ですから
病気をすることは必ずしも悪いわけではありません。過去世の因縁の消えてゆく姿として
病気するかもしれない。あるいは人の想いを受けて病気するかもしれない。どういう形で
病気するとしても、病気になったらなったことがいいんですよ。病気をしている間に何か
を悟る、魂が錬磨される、ということが大事なんです。
そこで、病気も貧乏も、あるいは友人知人から悪く思われたりすることもいい行な
いをして、人のために尽くしたのに、かえって恨まれたりする場合がありますーすべて
過去世の因縁の消えてゆく姿として、いろいろと現われてきます。そう現われた時が大事
なんです。自分の生活にいやなことが現われた、そこが一番大事なのです。
201 祈りの真髄
祈っていることと現われてくることとは別問題
202
生活にいいことばかり現われるなら問題はないけれども、いやなことや悪いことが現わ
れてくる。現われてきた場合に「なんだ、信仰してたって、なんにもならない。祈ったっ
てなんにもならないじゃないか」と、それを宗教に結びつけてしまうのは間違っています。
宗教は宗教だし、祈りは祈りなんです。現われてくる貧乏や不調和というのは、過去世の
因縁の消えてゆく姿なんです。現在、祈っていることとは関係ないのです。
現在祈っているということは、自分の想いが現在、神様の中に入っていることなんです。
世界人類が平和でありますように、と祈っていて、神様と一体感が出来ていましょう。け
れども、今、現われている病気や不幸というものは、過去世から今までたまっていた想い
が、つまりさんざん録音しておいたものが、そこに現われてくるわけです。だから、今、
祈っていることと、現われていることとは別問題。
統一をしている。すると雑念が起こってきますね。雑念というのは過去の蓄積されたい
うんな想いで、それが現われてくる。祈っているのは今なんです。今は、世界人類が平和
でありますように、神様有難うございます、という想いが神様の中にピシリと入っている。
ところが雑念はどんどん出てくる。だから統一してないんじゃないかと思う。統一はちゃ
んとしているのです。雑念は統一の光に引き出されて、どんどん消えてゆくんです。
だから、いかに雑念が出ようと、坐って統一していることと雑念とは別なのです。これ
がわかると一番いいですよね。今、どんな雑念が出ようと、あるいはどんな悪い運命が現
われようと、それは今の責任ではない。今の自分は、世界平和の祈りを祈って、神様のみ
心の中に入っている自分なのです。神との一体化をなしとげている自分なのです。それで
現われてくる悪いもの、病気も不幸も災難も、それは過去世の因縁が現われて消えてゆく
のです。それだけ悪いものが減ってゆくわけです。悪いものが減る状態として現われてく
る。
借金をしていると、借金は返さなければなりませんね。借りたものを返さないわけには
いかない。だから返す。返せば借金は減ります。お金が減ったから損したーそんなこと
203 祈りの真髄
はありませんよね。返したんだから、それだけさっぱりしたわけでしょう。あと余ったお
金は自分のお金だ。それと同じように、今、現われてくる悪いものは、過去世の因縁が消
えてゆくのだから、借金を返しているわけです。最後に残るものは、神様と一体化、神と
人間が一つになった姿、光明燦然たる自分だけなのです。どんなものが現われてきてもい
い、消えてゆく姿はどんどん消えてゆく。最後に消えきった時に残るものは、光明燦然た
る天国がそこに現われるのです。それをやりとげようと、われわれは消えてゆく姿で世界
平和の祈りという運動を展開しているわけです。
ゴチョゴチョ頭の中で考えて、ああしなければいけない、こうしなければいけない、と
ただ右往左往して飛び廻っていても、それはなんにもならないんです。
肚をすえ、しっかり大地に腰をすえる。神様は愛なんだから人類を救わずにはいられな
い、救おうと思って守護霊守護神を遺わしている。あるいは老子も孔子もお釈迦様もイエ
スさんも、みんなそのために現われている。そういう大聖の教えのひびきをわれわれが受
けとって、さらに現代的につけ加えて、みんな力を揃えて人類を救っていこうじゃないか。
204
じょうどう
人類を救うということは、自分を救うということと同じです。個人人類同時成道、という
ようにわれわれはしていこうじゃないかーこれが私どものやり方です。
たまみ
瞬々刻々の魂磨きを
体をきれいにするために、お風呂ずきの人は毎日入っていますが、身体を流すより魂を
洗うほうがもっと大事なのです。身体のほうは三、四日お風呂に入らなかったりしても大
あか
したことはない。けれど魂のほうは毎日磨いていないと、どんどん垢が積もってしまう。
もう私は悟ったからいいなんて、怠けていたら、どんどん積もってしまう。だからつねに
つねに瞬々刻々、自分を磨かなければだめなんです。いっぺん光をみたからいい、とか、
くコつ
いっぺん空のような気持ちになったからいいなんて、とんでもない。瞬々刻々磨くことで
す。
よく話しますけれど、黒住教の黒住宗忠神人に、私はいつも感心するのです。宗忠は講
205 祈りの真髄
演会に行く途中、川にかかった丸木橋を渡ったというんです。そしたらグラグラッと橋が
揺れたというんです。そしてアーッと思ったんですね。それでも落ちないで無事に川を渡
った。そして渡りきってから河原に土下座して、天照大神におわびするんです。アーッと
思って、自分の中の天照大神を驚かし、恐れさせて傷つけた。こんな申し訳ないことはな
いとおわびした。それが自分だけでおわびするんじゃないんですよ。講演会に来た信者さ
んに、”自分はまだ至らないもの” とあやまったというんですね。ちょっと驚いたという
ことだけでね。いい話でしょう。素晴らしく偉い人なのに。いつも感心するんです。
どんなに地位が高くなっても、自分の魂が立派になったと思っても、つねに自己反省し
て、ただ自分の消えてゆく姿のものをつかんじゃいけませんよ。ああこれは消えてゆく姿
だったな、これは消えてよかったな、これでますます自分は光ってゆく、というふうに、
悪いことを虚栄心でなくて、ハッキリとつかまないといけない。
ふつう宗教の場合には、光明思想が完全にわかっていなくて、間違っていることがある
のです。いいことばかり掴もうとする。ところが現象面では、自分の中にはいい心と悪い
20G
心とありますし、この世界には善いことと悪いこととありますから、どうしても両方掴ま
なければ生きていけないわけです。だからハッキリ両方を掴んでいいんです。自分の中の
悪いもの、人の中の悪いもの、あいつ悪い奴だとみてもいいのです。だけれども「あの人
の悪い想いは、今、現われて消えてゆくんだな、どうぞ守護神さん、早くあの人が立派に
なりますように」、また自分に対しても同じように「自分が立派になりますように」とつ
ねに、より立派になり、きれいになることを願いながら、世界平和の祈りで、朝、昼、晩、
瞬々刻々、一瞬一瞬を磨きに磨いていく。
きれいな玉になって毎日をすがすがしく送る。自分を磨くことが世界人類のためになる
のです。そのような磨きに磨かれた人が多くなればなるほど、自分の肉体を通して大光明
波動が、地球、宇宙に拡がっていくわけです。そうすると悪いことをしようとしても出来
なくなるし、戦争しようという想いもなくなるし、だんだん世界がよくなっていくのです。
(昭和48年6月10日)
207 祈りの真髄
1′
神と人と一つになる祈り
行なうことが一番
ひゃくちいっしんじっこうせいじつしんこうはんりしまさ
百知は一真実行に及ばす、誠実真行万理を識るに勝るこれは私が若い頃、守護神か
らもらった言葉です。行なうことは聞くことよりも読むことよりも大事だ、ということで
す。行ないが一番だというわけです。
ところがふつう一般の人々は、祈りということを行ないのうちに入れていないんです。
ハぼロ 
祈りなんか、祈ったって、とすぐそういいます。祈りというのを知らないんです。世界宗
教者平和会議に出ている連中がそう思うんですから。ところが一番大事なのは何かという
と、祈りなんですよ。
いのちの
祈りというのは生命を宣り出すということです。生命が生き生きすることが祈りですか
ら、樹木などー松や杉などが立っています。それは祈りの姿そのままなんです。その祈
ねがごと
りを知らないで、ただ願い言だぐらいに思っているわけです。万巻の書物を読み、話をい
くら聞いても、祈りがなければ宗教の道に入ったとはいえないわけです。
宗教には祈りが根本の問題で、宗教で祈りがなく、ただ理屈だけ言ったんじゃどうしよ
うもないわけです。感謝しなさい、とただ言われても感謝の行をしなければならないのと
同じように、宗教の道は祈りが根本にあって、祈りから始まって祈りに終わる、というも
たんてき
のなのです。それを端的にいったのが浄土門の浄土宗や浄土真宗の教えです。南無阿弥陀
仏一辺倒、寝てもさめても南無阿弥陀仏、唱名念仏すべきものなり、あなかしこといいま
す。そういうのが宗教の根本なわけです。南無妙法蓮華経でも意味は違うけれども、行じ
方は同じです。
そういう唱名とか祈りのない宗教はないんだけれども、いつの間にか祈りはどこかへい
209-一一一神と人と一つになる祈り
っちゃって、ただものを知ろうと思うのです。神界はどうなっているんだろう、霊界はど
うなっているんだろう、そんなものを頭で知ることばかり考えるわけです。いくらアメリ
カやイタリアのことを聞いたって、実際に行って見てくるのと聞くだけとは大分違うんで
す。行けばじかに感じるわけです。たとえば食べ物が一番わかる。りんごの味はどうか、
酸っぱくて甘くて… … といくら聞いてもわかりませんね。食べるとすぐわかる。
それと同じように、祈りというものもやってみないとわからない。ところが皆さんはも
うさんざんやっていらつしゃる。古い人は二十年以上もやっていますね。祈っていると理
屈ではわからないけれども、知らないうちに心が感じ、体が感じて祈りの世界が本当にわ
かってくるわけです。
おじいさん、おばあさんだと言葉に出せないんです。祈ってどうですか。ええ、いい気
持ちです。いいって、どんな気持ちです? ええ、いい気持ちなんです… … 。まあそんな
ところで、言葉ではいい現わせないけれど、体ではわかっている。ところが、若い人たち
やインテリというか知性派の人は頭で知りたい。どうしても頭で納得しないとだめなんで
210
すね。それは勿論いいけれども、心と身体が納得すれば一番早いわけです。
知性派の人で考えなければならない人は考えてもいいし、いくら本を読んでもいいし、
いくら話を聞いてもいい。ただそれを実行していかないといけませんね。宗教の道は何か
というと、まず祈りの実行です。祈ると本当にわかるんです。わからないことがわかって
くる。
自然と神のみ心と一つになる
百知は一真実行に及ばず1 百知ることは一つの実行に及ばない。その一つの実行の一
番いいことは、根本は祈りで、祈り心にのせて日常生活を運んでゆくことです。神様有難
うございます、これは祈りなんですよ。神への感謝は祈りです。神様有難うございますと
いう祈り心を根本にして、日常茶飯事を一所懸命やるわけです。神様への感謝を長くのば
して、人類の安心立命を願って出来上がったのが「世界人類が平和でありますように」で
211 神と人と一つになる祈り
す。
世界人類が平和でありますように、というのは、すべての人に代わっての祈りです。す
べてが平和でありますように、すべてが幸せになりますように、とすべての人の幸せを願
うのが世界平和の祈りでしょう。神様のほうからは、みんなが平和で、みんな仲よくやれ
よ、というのが神様のみ心でしょう。それに応えて、こちらは、世界人類が平和でありま
すように、といって神様のみ心の中に入ってゆくわけです。ですから自ずから神のみ心と
人間の心とが一つになるわけです。自然になるのです。そうすると天地一体になる、神我
一体になる。理論的でもなんでもなく、当たり前の言葉として天と地が一つになる。
言葉というのは面白いんですよ。ナムカラタンノウトラヤァヤァといっても、オールシ

ヤナベーロシャナア… … という呪文みたいのをいっても、効きめはありますが、言葉とし
ては何をいっているんだかわかりませんね。意味がわかりません。ところが世界人類が平
和でありますように、というのはわかります。子供でも誰でもわかります。ですから意識
が反抗しないんですよ。なるほどなあと思って潜在意識にもズーッと入ってゆくわけです。
212
表面の意識が反抗しないために潜在意識にズーッと入っていっちゃう。神様につながって
ゆくわけですよ。ナムカラタンってなんだい、南無阿弥陀仏はまだまだ先祖代々いわれて
いますし、非常に広くひろがっていますから、まだいいけれど、それでも南無阿弥陀仏っ
てなんだい、と思う人が随分あります。ですから意識が反抗しない祈り言葉が、一番深く
簡単に通ってゆくんです。
それを神様のほうでも考えて、一番わかりやすい、世界人類が平和でありますように、
という言葉にしたわけです。
みんな平和であれ、みんな仲良くしろよ、と光をパーッと下さっている。そこへ世界人
類が平和でありますように、とこちらから願ってゆく。そこで自ずから一つになり、自ず
から大光明が入ってくるわけです。それに加えて、私が神界と約束してありますから、な
おのこと、世界人類が平和でありますように、という時にはそこへ大光明が来ているわけ
です。
213 神と人と一つになる祈り
何気なく祈りましょう
214
ただ祈る時に、自分がそんなことをいったって、私なんか、といってやっていれば、そ
れだけ光が入るのは少ないです。だから無心に無邪気に、先生がそういうんだからそうだ、
みんな先輩方がそうやって安心立命しているんだから、それをしましょう、と、それこそ
理屈なしに、世界人類が平和でありますように、といっていれば、一〇〇パーセント光が
来るわけです。その人に最もふさわしい光が来るわけです。そうするとその光明によって、
まわりに集まってくるいろんな迷いの波や先祖や縁者などその人にまつわる業想念が浄ま
っていくわけなのですよ。だから何気なくでいいんですよ。居眠りしながらでもいいんで
すよ。夏は団扇を使いながらでも、冬はこたつにあたりながらでも、ストーブにあたりな
がらでも、あるいはテレビを見ながらでも”世界人類が平和でありますように” とやって
いればいいんです。
私は若い頃、よく母親と二人で夜お祈りしていました。母親は念仏を唱え、私はその後
ろで統一しているんです。母親は南無阿弥陀仏と居眠りしながらやっている。「早く寝な
さいよ、眠いなら寝たらいいだろう」「お前さんこそ先に寝なさい。ナムアミダ… … 」。そ
れでナムアミダやっちゃ居眠りしてんの。それが楽しい。居眠りしながら南無阿弥陀仏を
やっている時の母親の嬉しそうな顔ったらなかったのです。極楽往生しちゃっているんで
す。
本当に往生する時は全く楽に往っちゃいました。九月十六日に亡くなったんだけれど、
お昼のご飯を食べ終わって「ああ、おいしかったね。有難うよ、ご馳走さま」といって、
ポンと倒れて、それでおしまい。ちゃんと食事をしてから往ったの(笑)。生きている間
にいっていました。「私はね、ここにホクロがあるだろう(口のそばにホクロがある)。一
生食べはぐれはないんだよ」と(笑)。食べはぐれはなかったのでしょう。お昼のご飯を
食べてから往生したんですから(笑)。しかも神界からお迎えが来て、ズーッと天高く上
ってゆきました。それは何故かというと毎日、寝ても覚めても唱名念仏でもって、年中、
阿弥陀さんの中にいるわけでしょう。何をするんでも阿弥陀様でしょう。南無阿弥陀仏、
215 神と人と一つになる祈り
南無阿弥陀仏… … 。だからいやでも応でもいい所へ往きますよ。
自分の魂の位置
皆さんは守護霊守護神さん有難うございます。世界人類が平和でありますように、って、
人類愛の心を開いて、いつも守護霊さん守護神さんに感謝しているでしょう。だから守護
霊さん守護神さんの位置にまでいかないわけがないんですよ。守護霊さんのところに必ず
いくわけです。そこは霊界ですから、幽界にいくわけはないのです。守護霊さん守護神さ
ん有難うございますと感謝していることは、そのまま自分の魂の位置がそこにあるという
ことです。
「霊界なんかあるもんかい。死んだら死んだで、そんなのあるわけがないよ。肉体だけ
だよ、この世は」なんていってりゃ、その人が死んだら、その人には肉体の世界しかない
わけですから、往った先がないわけです。自分で無いと思いこんでいるんですから、真っ
21G
暗な中で動きようがない。あるいは人の体へ自分のものとして住むか、どちらかしかない
わけです。
皆さんのように守護霊守護神さんが守ってくださる、神様はいらっしゃる、と思いこん
でいらっしゃる方々は、もう間違っても地獄にはいかない。守護霊守護神さんのところへ
往く。もしうんと悪いことをしてて、地獄へ往かなければならないような業を背負ってい
たとすれば(大体死ぬまでに浄まってしまいますけれども)、それでも守護霊守護神さんを思
いつづけていれば、やっぱり守護霊守護神さんのところへいっぺん上がるんです。それで
お前は過去からこういう悪いことをしているから、いっぺんこの業を浄めなけりゃならな
い、サァいっぺん修行に行こう、というんで修行場へ行かされます。しかし、何年かすれ
ば、守護霊さんのところ、いい世界へ往くことがわかっているから、同じ修行していても
楽なわけです。もう一丁磨けばいい、もう少しやれば、高い処に上がる、というので励み
があるわけです。いつまでたっても救われるのか救われないのか、わからない。どうなる
のか、皆目見当がつかないというのが、一番厭なわけです。まかり間違って、業を一杯背
217 神と人と一つになる祈り
なんしょう
負っていて、何生もやらなければならない人でも、守護霊守護神が肩替わりしてくれて、
うまくやってくださるんだから、安心してください。
からだからだ
皆さんは大体きれいな体が多いですね。体といっても肉体の体のことをいっているので
はありません。霊体のことです。肉体身だって普通よりは波動がズーッと細かいんです。
なんの祈りのない人よりも微妙なんですよ。光の感受性が強いわけです。だから、ご安心
なさって、世界平和の祈りをいつもいつもなさっていればいいわけです。
218
祈りは天変地異を防ぐ
一番大事なことは、地震があろうと、何があろうと、そんなものはあればあれでいいん
だ、ちゃーんと神様が助けてくれるんだ、とお思いになればいいし、大体地震はないよう
に神様がしてくれているんです。これ私が自分でいうのは厭だけどね、天変地異の波も含
こう
め地球の業っていうのが体にもろにかかってくるの。それを私の体で浄めて、それが疾に
ささ
なったり、咳になったりして消えてゆくんです。私は自分の体を献げているから「地震は
ない」と言い切っているわけです。
地震や天変地異や戦争を防ぐためには、やっぱり世界平和の祈りを皆さんが祈って、世
界平和の祈りの大光明の波で天変地異になる、戦争になる暗い波を消してしまえばいいわ
けです。調整してしまえばいいわけです。まず私がさきがけて体を張ってやりますから、
皆さんも世界平和の祈りを一所懸命やって、戦争や天変地異がないようにしましょうよ。
台風でも地震でも防げるんです。神様が助けてくれるんです。この光明霊団の中には龍
神さんがたくさんいるんです。龍神さんは台風を担当していますので、ちょっと頼むと、
変えてくれます。力がある人が頼めば聞いてくれます。だから皆さんが大勢でお願いすれ
ば聞いてくださる。聞いてくださるというよりも、地球が汚れているからいろいろな悪い
ことがあるので、それが浄まれば何も悪いことはないんですよ。
まがごと
そこで皆さんが、天変地異や戦争やいろんな禍事が起こるかわりに、皆さんの光でもっ
まがごと
てそれを浄める、代理をすればいいのです。わざわざ禍事さん来なくてもいいんですから、
219-一一一神と人と一つになる祈り
私たちが代わりにやりますからって浄めればいいわけです。台風さん来なくてもいいんで
す、私たちが代わってやりますから、と浄めればいいわけですね。
人間の心が正しければ大体悪いことはないわけです。今まで正しくなかったから、神様
を離れた間違った想いで生きていたから、いろんなことが起こるんだから、今からでも遅
くないから、いい心を出して、明るい心、正しい心、光を出して地球を大掃除すれば、悪
いことがなくて済む。それは原理なんです。ですから、それをおやりになればいい。
私はまず体をはって、すべてをはって先頭に立ってやりますから、皆さん協力してやっ
てください。(昭和48年9月3日)
220
(註12 ) 昭和45年10月、京都において開催された世界宗教者平和会議。
の一人として出席した。
著者は、この会議に日本の代表
質疑応答
祈っているのは本心でしょうか? また守護霊守護神に感謝しているのは、本心圃こうしょう
でしょうか、業生のほうでしょうか?
祈る本体は本心です。自分のいのちそのものが祈るのです。祈るということは、圏いのちが開くということですから、本心、本体というものは、光り輝いているも
のですから、本心がこの世において、よけいに開いて働けるということです。
こうしょう
この世の中は業生にみちていますので、業生の波に押されて、縮まった働きしか出来な
いわけです。それが祈りによって、本心が開き、大きく働けるということになるのです。
もっと言いかえれば、祈りによってこの世に働いている本心の光が、天の光とつながると
かんだん
いうことです。そうすると間断なく天の光が流れてくる。それによって働きが大きく出来
221 質疑応答
る。自分の持って生まれた天命が完うされるのです。
本心がそのまま立派に働けるのだから、祈るのは業生が祈るのではなく、本心が祈るの
です。守護霊さん守護神さんに感謝するのも本心がするのです。だけれども、実際問題と
しては、やがては業生である想念も、本心も一つになって祈ってしまうわけです。
だからよく言うでしょ。雑念がいくら起こったって、祈ればいいんだ、もう気がなくた
って「世界人類が平和でありますように」と祈っていればいいんだ、と言うでしょ。気が
ないほうが業生。力が入らない、いい加減にやっているのが業生のほうです。だけど実は、

業生がやろうとやるまいと、本心のほうは、いのちが宣り出している。いのちが働いてい
るということは、祈っていることなのだから、本心は常に祈りつづけている。そこへ業生
の自分が、ああ祈りなんてしょうがないけれど、よくわからないけれど、五井先生が言う
からやってみよう、ってやっているわけです。
そうすると、やっているうちに、だんだん本心の光が外に出てきて、業生の自分が消え
てゆくわけです。するとだんだん真剣な祈りになってくる。知らない問に、いつの間にか
222
祈っている、という形になってくる。
いつの間にか祈っている、というのはどういうことかというと、自分の霊身を離れた業
生がなくなってきて、知らない間に想いが本心と同化しているから、ひとりでに祈りが出
てくる。だからいつでも祈るのは本心なのです。感謝するのも本心なのです。
本心を開くために、私なら私のような人が出てきて「祈りはこういうふうに、世界平和
の祈りをしなさい。そうすると消えてゆく姿が一日も早く消えてゆくんですよ」と教えま
すね。そうすると、本当かウソかわからないと思いながら、いい加減な気持ちで祈る。そ
れは業生なんです。業生が消えてゆく姿として祈っているのです。そうすると知らない間
に、業生が本心と一つになると、業生はなくなり、この世の肉体の想いの波も、本心の波
と同じになって、光り輝いてしまうわけです。
そうすると業生も本心もない。
223 質疑応答
(このあと、ある男性から体験談が報告されている。それは
私は、本当に心から世界平和の祈りが祈れるものだろうか、本当に祈れたら素晴らしいものだ
が… …という思いから、聖ヶ丘道場に通うようになりました。今日は統一会に参加しましてから、
丁度四年目になる記念の日でございます。
はら
この三月に二回目の錬成会を受けましたあと、自分が家で祈っております時、グウーッと肚か
ら、うなるような、肚の底から”世界人類が… …”という祈りが出てきているのに気づきました。
おやおや今までと違うそ、と頭のほうで考えております問も、肚のほうで祈りがひびきわたっ
ているのです。我ならぬ我が祈っているような気持ちでおりました。祈りを止めて食事をしなが
らでも、どこかで祈っておりました。これが本当の祈りだ、とわからせていただきました。
今まで、本当の祈りだとか、本当の祈りでないとか、そう思っていたのが間違いだと思い、世
界平和の祈りというのは、光そのものだから、空念仏であろうが、肚の底から出なくても、とに
くどく
かく”世界人類が平和でありますように”という祈りを祈っておれば、無限の功徳があるんだ、
とわからせていただき、今までの肩が張ったのがとれ、楽になりました。
224
というものであった)
(昭和41年7月14日)
225 質疑応答

本心を開くために
228
神様の世界に入る
人間の実体は神界にある
人間は神界にもいれば霊界にもいれば、幽界にも肉体界にも同時に住んでいるのです。
この真理はなかなかわからないでしょうね。肉体にはこの五感の目しかありませんから、
これに映るもの以外のことはわからない。
ところが実際には、物を叩けば音がしますね。いろいろな音がする。この音には聞こえ
る音と聞こえない音とあるわけです。犬などに聞こえても人間には聞こえない音もありま
す。犬を呼ぶ笛がありますが、これを鳴らしますと、人聞には聞こえないけれど、犬には
聞こえる。そういう音のひびきが実際あります。
色でも見えない色と見える色とがあります。そのように、科学の世界においても、見え
るものと見えないもの、聞こえるものと聞こえないもの、というのがあるわけです。この
見えるもの、聞こえるものというのはみんな波動なのです。波なんです。波が聞こえ、波
が見える。テレビを見れば一番わかりますね。
現在は、各家庭にテレビジョン受像機がありますね。放送局で放送するものが、何十里
何百里離れていてもテレビに見えてくる。アメリカであったことでも見え聞こえてくる。
何が見え、聞こえてくるかというと、波動が映ってくるわけです。音の波動、光の波動が
マッチして映ってくる。実体はどこにあるかというと、テレビ局にある。
それと同じように、人間の実体は神界にあるわけでして、それがだんだんと肉体界に映
うつよ
ってきているわけです。それでこの世の中は現し世というのです。けれど肉体界に映る問
に、いろんな階層があります。霊界にもたくさんの階層があります。幽界にもたくさんの
階層があります。それらのいろいろな階層を通って肉体界に映ってゆくのです。だから真
229 神様の世界に入る
ぜんしょう
っ直ぐ映れば神様の姿がそのまま映ってくるのだけれども、人には前生もあれば、前々生
かこせ
もあれば、ともかく過去世というものがあり、過去世でいろんなことをしておりますから、
その蓄積されたものが幽界にもあるし霊界にもあるわけです。それが重なって映ってくる
のです。
ひゃつこう
初めはきれいな白光の光で、光が発せられているんだけれども、途中でだんだんいろん
な色がつきまして、要するに業がつきまして、それが肉体界に来る。そうすると、神様も
わからない、肉体の他にはなんにも感じないような肉体人間になってしまうわけなんです。
そのままでいたんじゃ神様の世界はいつまでたってもわからないわけです。そこで一遍、
元へ返さないと、本当の人間の姿がわからない。
230
徐々に空になる
そういうことを聖者の皆さんは思いまして、お釈迦様は空になれ、といったわけです。
くうから
空になってなんにも思うな、空っぽになると、初めて本当の仏の姿がわかるんだ、といい
ました。イエスさんは、全託しろ、全託すれば本当の神の姿がわかるんだ、といいました。
むい
老子さんは、無為にしてなせ、何をしよう、どうしようこうしようと思うんじゃない、そ
ういう小智才覚を捨てたところで、初めて本当の姿がわかるんだ、といっています。聖者
は誰も彼もみんな、肉体の想念知識を捨てることを教えているわけですよ。
何故そうするかというと、やっぱり本体を現わすためには、現われている肉体のほうを
まずきれいにしなければ、本当の姿が映らないからです。そこで空になれ、というんです。
くうつ
私は、空になれといっても、なかなか空になれない、あんまりむずかしすぎる、という
ことがわかった。私は想念停止という修行をして空になりました。空になったけれどさん
ざん苦労してなったんで、ふつうの家庭をもった人にはとても出来るものではない、とい
くたつ
うのがよくわかったわけ。一遍に空になるなんてむずかしいから空になるのも徐々になれ
ばいいから、それでは消えてゆく姿ということにしよう、ということになった。現われて
くるあらゆる出来事、病気でも不幸でも災難でも、いやな想いでも、それはみんな過去世
231 神様の世界に入る
たま
において溜った横の波が現われて、消えてゆこうとしているのだ。それで消えてゆく消え
てゆくと、どんどん消してゆくと、しまいには本体の光だけ、光明波動だけが残るんだ、
と教えるわけです。
光明波動を余計に現わすには、常に神様の中へ入っていなければだめだ、自分の想いが
いつもいつも神様の中へ入っていれば、愛と調和の神様のみ心の中に入ってさえいれば、
早く消えてゆく。従ってどんどん光が充満してくる。
232
神のみ心に波長を合わせる
つか
神様の中に入るといっても、掴みようがありませんね。それで神様の意志である、神様
のみ心である地球の平和ということ、大調和ということ、そういう調和の波の中に入れば、
神様の波に入ったと同じだから、それに、神様のほうで、世界人類が平和であれ、とおっ
しゃっているんだから、こちらは、世界人類が平和でありますように、という気持ちで、
神様のみ心の波長に合わせようというので、世界人類が平和でありますように、という言
葉が出来たのです。
だから、われわれが”世界人類が平和でありますように” という時には、神様のみ心の
中へ入っているわけです。しかもそれにつけ加えて、守護霊さん守護神さん有難うござい
ます、神様有難うございます、という感謝の言葉があります。感謝の言葉をもって神様の
み心の中へ入っちゃうんです。そうすると天と地がつながるわけです。
くいつ
空になれとか、全託しろとか、なんとかいわなくても、消えてゆく姿で世界人類が平和
でありますように、と思っていると、知らない間に自分の想いが、神様のみ心と一つにな
ってゆく。そうしますと、いくら横の波の過去世の因縁が現われてきても、現われどんど
ん消えてしまいますから、残るものは神のみ心がそこに残っている。そうすると個人の幸
せもそこから生まれてくる。同時に世界の幸せもそこから生まれてくる。だからあまりと
やかく理屈をいわないで、ただひたすらに”世界人類が平和でありますように”という想
いで生きてさえいれば、いつの間にか自分も幸せになります。安心立命します。
233 神様の世界に入る
安心立命が個人の最大の幸せ
234
個人の一番の幸せというのは、お金があるのは現象的には幸せですけれども、安心立命
するということです。どんなことがあっても恐ろしくない。どんなことがあっても心が乱
れない。そういう境地になるのが一番いいわけです。
どんなにお金があっても、病気になって、明日死ぬかもしれない、といったら、オドオ
ドしますでしょ。だから一番いいのは、どんなことがあってもオドオドしない人間になる
ことです。そうなるためには常に神様のみ心の中へ入っていなければならない。世界平和
の祈りをやっていますと、いつの間にか神様が自分を包んで守ってくれている、という実
感が出てくるんですよ。守られているという実感が出てくる。そうすると、自分が安心し
ていつも悠々と生きられるようになるんですよ。
自分の幸せがそこに生まれてくる、それと同時に、世界人類が平和でありますように、
という人類愛のひびきが地球にふりまかれるわけです。人類の幸せに貢献することになり
ます。それを大勢の人がやっていれば、知らない間に世界の波が、争いの波が平和の波へ
変わってゆくわけです。祈る人が多くなればなるほど早くなるわけです。そういう運動を
しているのは私どもの会が初めてです。
単純だが深い内容
世界人類が平和でありますように、という当たり前な平凡な言葉を祈り言葉にしている
のはどこにもない。頭を使いすぎて、他のいろんな祈り言葉をやるわけですよ。ところが
この世の中は、現われとしては単純な、有難うございます、と思うことが一番いい。感謝
することが一番いい。ところがその有難うございますというような、当たり前の易しいこ
とをやりたくないんですね。人間というのは、インテリになればなるほど、当たり前のこ
とをやりたくない。なにかむずかしいことをいおうとする。
むずかしいことを易しい表現に現わすことが出来れば、その人は達人です。文章にして
235 神様の世界に入る
も、うまい文章家は現わし方は易しく現わす。読んでいてもすぐわかるように、しかも内
容が深くある。うまい短歌でも、詩でも、俳句でも、みなそうです。単純にして中味が深
い。だから本当の宗教というものも、単純にみえるけれど、中味は深い。
世界平和の祈りは単純そうにみえますけれども、中味がズーッと深いんです。この教え
は深い深い中味なんだ、しかも易しく出来るんだ、ということを皆さんが念頭において、
ひたすら世界平和一念で生きれば、否でも応でも幸せになります。もう理屈はいりません
ね。理屈は消えてゆく姿です。
23G
他力、自力も超える
他力でやっていて、自由に自分がやることは矛盾しないか、という人がいましたが、初
めっから神様から流れて分けられた命だから、他力といえば他力なんです。ところが自分
おの
がお祈りで神様の中に入ってしまうと、他力も自力もなくなっちゃうんですよ。自ずから
動く、自分がやりたいと思う行ないと、神様がやらせたいと思う行ないとが全く一つにな
って、それで行なわれるようになるのです。ですから、やがては自分の思うまま、なすま
まに行なうことが、すべて神のみ心になってゆくというようになるわけです。
私でもそうです。やりたいと思うことは神様がやること、やりたくないと思うことは神
様がやりたくないこと、そういうふうにズーッと何十年通ってきているわけです。皆さん
もやがてそうなるわけです。そうなるためには、ひたすらなる世界平和の祈り、ひたすら
祈りの中へ入ってゆく。それを根本にして、自由にやりたいことをやっているわけです。
ぎょくせきこんこう
今までは玉石混清で、業と神意識とがまざっていたものが、だんだん神の意識だけで行
なえるようになるんです。自然になるんです。わざとやる必要はありませんよ。これは神
がやったことかしら、業かしら、なんてそんなことをやっていたら生きられません。業も
神意識もありゃしません。そんなこと考えないで、世界平和の祈りを根本にして、やりた
いことをどんどんやる。世界平和の祈りをしながら泥棒をするやつはないですからね。ど
うしたっていいほうになっていきます。
237 神様の世界に入る
世界平和の祈りを根本にして、自分の思うまま堂々と自由にやればいいんです。それで
自分をだましてはいけませんよ。それぐらいいいや人間だからというのは、いわゆる業の
人間ですから、消えてゆく姿にしなければいけません。自分をごまかさない。もし間違っ
たらゴメンナサイって、心の中で神様におわびして、それでやり直せばいい。これぐらい
仕方がない、とかいって、自分をごまかすことが一番いけないことですよ。それでは絶対
悟りになりませんから。そのつもりで、どうぞひたすらに世界平和の祈りをおやりくださ
い。
(昭和47 年5月21 日)
238
統一実修とは何か
統一の基本
ふつうは、統一といいますと、自分の想いが一つのところに集中すること、精神集中と
考えられるのですが、私どもがいっている統一というのは、そういうのではありません。
人間というものは、本来神の分生命である、神の大光明の光線の一つが現われているの
だ、ということが私どもの統一の基本になっています。
そこで統一とは、と説明すると、神様の生命の中に自分が入ってしまう、神様にすべて
をまかせる、ということです。
239-一一統一実修とは何か
いつ
統、というのはすべるという意味です。一なるものにすべての想いをまとめる、すべて
は一であるということです。
そういう意味から、仕事に没頭すればそれは仕事に統一したことになるけれども、それ
は単なる仕事の統一であって、大神様、大生命の中に自分が入ったわけではないのです。
私どものいう統一というのは、大神様のみ心の中にすべてが入りきってしまう。いいかえ
れば、自分の本心の中に、あらゆる想いが入っていくということなのです。そういうよう
になるために修行するのが統一実修であり、この実修会なのです。
そこで、統一実修会でどういう気持ちになったら統一という状態か、という質問があっ
たわけですが、人間というものは大神様から来ているけれども、神の光と自分の想いとい
うものは別々になっているのです。
生命がここに働いて、心臓や肺臓などが自然に動いている。統一した調和した状態で動
いているわけです。ところがまた別に、働いているのを眺めている自分があります。ああ
今日も心臓さんがご無事で働いていらっしゃる、なんて健康の時には思いません。ところ
240
がちょっと悪くなると、ああ心臓がどうかしたのか、胃がヘンだな、という想いが出てく
る。
この状態は、統一して働いているものから、想いが別に分かれている。そして、どうし
たんだろう、どうしたんだろうと思う。このどうしたんだろう、こうしたんだろう、とい
う想いは誰にでもあるのですが、その想いが統一をさまたげている想い、分裂している想
いなのです。生命の流れと想いとが分かれている時には分裂しているのです。そこで”消
えてゆく姿” という教えがあるのです。
たとえば、自分は悪いことをしているんじゃないかしら、今の想いは悪いんじゃないか
しら、自分はいいんじゃないかしら、あいつはバカかしら、利口かしら、あの人はいやな
人だ、こちらはいい人だ、と思う分別心、思慮分別する想いがあります。そういう想いが
ある時には統一がなってない状態です。しかし実際には生命がそのまま働いて、心臓も肺
臓も動き、頭も活動しているから統一している状態であるわけです。統一している状態と
いうのは、また生かされている状態でもあります。
241一統一実修とは何か
人間というのは、いつも統一している状態の自分と、統一から分裂している想いと二つ
が同時にあるのです。そこでどうしたらいいかというと、この二つに分かれているものを
一つにすることです。
心臓が動いているのをいちいち思いわずらう、肺が動いているのを思いわずらう、自然
に働いているのを思いわずらう、そのような想いの側に自分を入れてしまったら、それは
病気の状態です。それを逆に、思いわずらう想い、こうしちゃいけない、ああしちゃいけ
ない、どうだこうだという想いを、生命がそのまま働いている側に入れてしまえば、統一
した状態になるでしょう。
生命を乱す想い、生命をアレコレと思案する想いは分裂の状態だから、その想いは消え
てゆく姿だよ、と私はいうのです。憎らしい、妬ましいという想い、思慮分別する想いが
勝手に分裂しているのですから、それをなくせばいいわけで、昔は(今でもやっています
くしつ
が)、空といって、坐禅観法して空になる練習をしたのです。空観というのは統一の修行
です。
242
業想念を救世の大光明が消してくれる
その分裂している想いを、私は”消えてゆく姿なんだ” といっているのです。消えてゆ
く姿をいつまでも掴まえて、悟ろう悟ろうと思っても悟れるものではない。憎らしい憎ら
しいと思ったら憎らしいが消えない。ああこれじゃいけない、いけないと思ったら、いけ
ないが消えない。悪い悪いと思ったら悪いものが消えない。思うのは過去世の因縁が展開
されて思ってしまうのだから、思うのは仕方がない。自分はだめだなと思うこともあるだ
ろう、あいつは嫌なやつだなと思うこともあるだろう、こうしたらいいかああしたらいい
かと思い迷うこともあるだろう、その想いは想いのままでいいけれども、分裂した想いの
ほうにそのままついていってしまったのではダメなのです。分裂した想いを消えてゆく姿
にしなければだめです。
ああこれは統一している自分を乱す消えてゆく姿なんだなあと思う。しかしどこへ消せ
ばいいか。消す場所がない。そこで、祈りの中に消しなさい、というのです。世界人類が
243一統一実修とは何か
平和でありますように、という人類の平和を願う大きな大きな人類愛の中に消しなさい。
その人類愛の想いの中には何が働いているかというと、救世の大光明、大救世主の光が働
いているのだから「世界人類が平和でありますように」という祈り心の中に、この消えて
ゆく姿の想いを入れなさい、ひっかかった想いも大光明の中に入れてしまいなさい、とい
うのです。
それを繰り返し繰り返しやっていると、いつの間にか救世の大光明と自分の本心の光と
じねんほうにむい
が全く一つになって、業想念がだんだん消えて、しまいに、自然法爾に、そのまま無為に
してなせるようになるんです。それは完全なる統一、正覚といいます。仏の境地です。思
いわずらうことが何もなくなって、そのままスッスッと生きていて、人のためになり間違
いのない行ないが出来るようになれば、それは仏の境地です。
しかしその境地までは普通ではなかなかいかない。なかなかいかないといっても、そこ
まで行かせなければしようがない。全部が仏にならなければ世界平和にならないのだから、
仏の境地にまでいかせなければいけない。いかすためにはどうしたらいいかといえば、た
244
ゆみなくたゆみなく消えてゆく姿で世界平和の祈りをして、いつもいつも救世の大光明の
ほうに、広いひろーい無限大の大光明のみ心の中へ、自分の消えてゆく姿の想いと、それ
につかまっている想いをみんな入れなさい。繰り返し繰り返し入れなさい。
それには何も坐って統一している時だけではなく、あらゆる機会に大光明の中に入れる
練習をしていれば、いつの間にか消えてゆくのです。
その一番やさしい方法は、自分一人でするのではなくて、この聖ヶ丘道場のような場所
に坐って統一する時には、救世の大光明の光が能動的に天から送られてくるのです。そし
て業想念、思いわずらう想いをバーッと光で消してくれるわけです。ですから、こういう
所で統一するとよけいに早く浄まっていくということです。
統一した状態と雑念
統一した状態というのには、いろいろな種類があります。例えば坐っていて、雑念が起
245-一一統一実修とは何か
こってくる。雑念が起こるな、起こっちゃいけないんだな、起こるな… … 世界人類が平和
でありますように… … なんて統一している場合がありますが、そうした場合に統一してい
ないかということです。ああ雑念が起こっちゃいけないんだな、と思うだけではまだだめ
なのです。雑念が起こっちゃいけないんだな、ああ消えてゆく姿だ、世界人類が平和であ
りますように、と思った時には、それは統一しているのです。
いくら雑念が起ころうと、自分は統一していないんじゃないか、と思おうと、思うまい
と、そのまま世界平和の祈りをしている、光の中に入っている、私の口笛をきいている、
柏手をきいている。その状態になる時は統一している状態なのです。
自分の本心が光り輝いている。つまり統一している自分がある。ああ雑念が出てくる、
これでは統一していないんじゃないか、だめじゃないか、という時は本心からちょっと首
を出している状態。しかし、消えてゆく姿だ、世界平和の祈りをすればいいんだ、と思い
返した時は、首をひっこめて、本心の中に入っている。瞬時でも、一分でも二分でも統一
している状態になる。
24G
それからまた雑念が起こってくる。だめだなあ、私は統一していないんじゃないか、足
がしびれてきたなあ、私はだめだなあ、だめだなあとやっている。でも平和の祈りをしよ
うと一所懸命やる。しかしまた雑念が出てくる。だめだ、だめだとやっている。
要するに、聖ヶ丘で(あるいはお祈りのテープで)統一実修をしている時は、口笛のひび
きが聞こえてくる。ああいい音だなあ、小鳥のようだなあ、いいなあという時には本心の
中に入っている。そうやって繰り返すわけですね。
ですから、雑念が起ころうと、だめだなあという想いが起ころうと、それはかまわない
のです。想いがいくら出てもいいから、世界人類が平和でありますように、という祈りの
 なお 
中に入る。あるいは口笛の中に入ってしまう。その時には、もう統一している状態です。
もともと統一している自分を再発見する
分裂しては統一し、分裂しては統一しているように見えるけれど、実は分裂するもしな
247-一一一統一実修とは何か
いもない、初めから統一しているのです。統一していなければ、肉体の働きがバラバラに
なってしまうわけです。心臓が動き、肺が呼吸し、胃腸が働き、血液が体中をめぐってい
ます。それはいのちそのままが動いて統一し調和しているからです。だから統一していな
い人間はないのです。
もともと統一している自分を自覚する、再び発見する、そのために坐るわけです。統一
実修をするわけです。本心、本体は神と一つに決まっているんだから、本体の自分を再発
見することなのです。再発見するためには、やっぱり本心の働きを邪魔している業想念を
なくさなければいけない。それは世界平和の祈りの中へなくせ、といっているわけです。
だから、いくら雑念が出てきても、それはかまわないのです。統一している自分とは関
係ないのだから、雑念が出たら出たで、放っておけばいい。けれど放っておくことは出来
ないわけです。癖ですから、どうしても雑念のほうに傾いてしまう。把われたら把われた
でいいから、すぐまた世界平和の祈りをする。あるいは私の口笛の中に入っていく。そう
すると、その時は統一した状態になるのだし、再発見したことになるわけです。それを続
248
けてなれてくると、スーッと統一できるようになります。
ところが、統一実修会でいつも坐っていても、過去世からズーッと統一というものにな
れている人と、過去世では統一をあまりしなかった人とある。勿論、救世の大光明の神々
と因縁があって、皆さんは集まってくるのですが、過去世において、あらゆる仕事をした
けれど、統一の修行はあまりしていなかったという人もあるわけです。そういう人は、な
かなか統一が出来ないような感じがするわけです。また過去世で統一の修行をしたけれど、
何かで失敗して、もうこんなことはゴメンだ、と強く思った人なども、なかなか統一が出
来ない感じがするわけです。
ひとつき
過去世からのつながりで、一月でスーッと統一できる人もあるし、統一したと感じる人
もある。ある人は一年たっても二年たっても、十年たっても、雑念が起こっているような
気がする。それは過去世からの練習によるわけです。
たとえば、今生で十年も二十年も坐っている人がある。しかし、なかなか或る境地に到
達しない。ところが或る人は過去世からみると、何百年何千年やっているかわかない人も
249-一一一統一実修とは何か
あるわけです。
前生で百年やり、今生では三十年もやっている。百三十年間ですね。片方は、今生では
一年かもしれないが、前生をプラスすると三千一年かもしれない。そうすると、今生で三
十年、五十年やったとしても、三千一年やっている人のほうが経験が曲豆富で修練されてい
るから、上達が早いのは無理がないですね。そういったわけで、個人個人にはいろいろな
差があるわけです。
しかし、救世の大光明は差別しないで、そのまま同じように光を与えているのです。た
だ自分たちの修行の過程などで、勝手に差をつけているわけです。では差をつけなければ
いいじゃないか、自分で統一していると思いこめばいいじゃないか、という質問が出ると
思いますが、そう思いこめないのです。ここがむずかしいところです。
250
消えてゆく姿の教えを有効に使う
自分は神の子なんだ、といわれたから、神の子なんだ、と思いこめばいい、というけれ
ど、ハイ神の子です、とは思えない。それは何故かといいますと、やはり、過去世からの
習慣の想いがあるからです。その習慣、想いのくせを変えない限りだめなのです。
例えば、自分は前に胃腸が弱かった、という想いがありますと、ちょっとお腹が痛いと、
あっ私は胃腸が悪いんじゃないかしら、とすぐ思う。その想いのくせ、習慣を変えないう
ちは胃腸の弱さは治らないでしょう。「胃腸も肺臓も何もかも神様に任せたんだ、みんな
神様のみ心のままになさしめたまえ」とお任せしてしまえば、悪くなくなってしまう。け
れどそこまでなかなかいかないわけです。現われてくるものは、すべて過去世のものが消
えてゆく姿なのだ、守護霊さん守護神さん有難うございます、世界人類が平和であります
ように、とやって、習慣をだんだん変えていくことです。
A さんならA さんという人が、自分は統一できないな、できないな、と思っているけれ
ど、年中お山(聖ヶ丘) に来て、統一しているということは、実は統一している自分がわ
かっているんです。ただわからないと思おうとする想いが一杯あるのです。これは前生の
251-一統一実修とは何か
関係です。問題はその思おうとする潜在意識もまぜた想いがなくなるまでなのです。
ヘへ
はたから、なんだそんなことを思って、統一しているじゃないか、といったって、自分
はしていないと思う時は統一していないのです。ところが、していないという想いも、や
がて消えてしまって、知らないうちに、ああこれでいいんだ、という感じが出てくるので
す。
各人、全部統一の状態が違います。しかしあらゆる人が、ここに坐っている時は統一し
ているのです。ただ雑念は消えてゆく姿として出てくるだけです。足のしびれも、肉体の
痛みも、みんな消えてゆく姿として出てくるだけで、実際は統一しているわけです。とい
うことを認識するように努力する必要があります。それは自力というのではなく、努力す
るということで、当たり前の常識的な努力はしなければいけない。雨が降っても風が吹い
ても、統一会に出席するということは、それがそのまま努力であり、その状態は統一して
いる状態です。
統}会に行って統一しようかな、座談会に行ってお祈りしよう、という時には、もうす
252
でに統一している状態なのです。何故かというと、神のみ心に入ろうと思っているので、
本心からそれていた今までの想いが、スッと本道に入るからです。
雑念が出ても、なんでも、そんなことは問題じゃない、ということを認識してください。
(注13 ) 祈りの中に入るということは、
けることです。
祈ることであり、口笛の中に入るということは、口笛に耳を傾
253-一統一実修とは何か
254
本心を開く
何が出てきても動揺しない
宗教の一番大事なことは、現象的な病気が治るとか、貧乏が直るとか、ご当人にとって
は大事なようにみえますけれど、それよりもつと根本的なことは、何事があっても驚かな
い、何が出てきても動揺しない、という心境になることです。
何故そうなることが一番大事かというと、人間というものは、この現象の肉体界だけの
生活をするんじゃなくて、幽界でも霊界でも神界でも、永遠の生命が何億万年、無限億万
ながら
年、無限期間生き存えていくわけです。ですから肉体人間として肉体にいる問だけ、今生
の五十年、八十年だけが、病気がなかったり、不幸がなかったりする、それでいいってい
うものじゃないんですね。過去世から背負っている借金、業です。その間違った想いの現
われのものが、不幸や災難として現われたとしても1 過去世に積んできたマイナス面、
業というものは必ず現われなければならないものなんです。それがいつ現われるか、どう
いう形で現われるか、ということなんですよね。
たとえば百万円なら百万円の借金があったとする。百万円の借金をいっぺんに払えとい
われたら、七転八倒の苦しみですね。ところが一万円払ったり、千円払ったり、五百円払
ったり、少しずつ払ってしまえば、知らないうちに返してしまう、そういうものなんで、
犯した罪、罪というとおかしいですけれど、間違いですね。過去世において犯したことが、
なんにも自分を罰しないで(自分で自分を罰するのですけれど)自分を痛めないで、それで
消えてしまうということはないんです。犯したものは自分で払う、借りた借金は必ず自分
で返さなくてはならないように出来ているわけです。その返し方が大事なのです。
255 本心を開く
宗教の極意を正しく知る
25G
それを宗教に入ったから、過去世に犯した業も何も払わないで、返さないで、まけても
らって、一生安楽で暮らすということはないんですよ、絶対に。そういう入り方だったら
宗教に入っても何にもなりません。いかなる事態が起こっても、病気が来ようと、災難が
来ようと、どんなことが起ころうと、心が動揺しない、ああ私は神様に守られているから、
一番いい立場で現われているんだな、というふうに観念できるようになることが、宗教の
極意なんです。
あらゆることが有り難く受けられるということが宗教の極意であって、単に病気が治っ
たり、貧乏が直ったりすること、それだけがいいんじゃない。そういう宗教の極意にふれ
て、そういう道に入って、自然に病気が治る、貧乏が直って、仕事が栄えてゆくのなら、
それはまことに結構なんです。ですから初めに現象利益が目当てじゃなくて、本心の開発
が目的で現象利益が自然に伴っていくという、そういうのが私の教えなんです。
こう思えば本心は開く
しかし実際問題としては、病気が治りたいとか、貧乏が直りたいとか、家庭が調和した
いとかして来る人が多いわけですね。そういう場合は、遠くの人でたまにしか会えない人
だと、すぐご利益があるんです。それで縁が深くて、ああこの人は一生ずっと一緒に平和
の祈りの会をやっていくな、というような人は、チョコチョコご利益を与えないで、本心
開発のほうが主目的になるんですね。それは離れませんからね。長い間かかってもいいわ
けなんです。その代わり、本心が深く開いていく、そういう導き方をするわけです。チョ
コッと来てチョコッと来なくなるような人は、案外パーッと利益を与えられる場合もある
んです。それは何故かというと、会う因縁が少ないからね。一回か二回しか会えないと、
その場でパッと与えることがある。だから現象利益がチョコチョコ与えられるのもいいけ
ども、チョコチョコ与えられない場合には、ああ私の本心を本当に深く深く開くために、
神様が導いてくれるんだ、とそういうふうに思えばいいんです。そうするとますます本心
257 本心を開く
が開いてくるんです。
何につけても、現われた事柄に対して感謝の想いが出て、一寸も動揺しなかったという
気持ちになることが大事なんです。それが根本でないと宗教へ入ったことが、なんにもな
らなくなる。宗教へ入った、病気が治った、ご利益があった、ただそれだけで、それが有
さいせん
り難いと思っているんだったら、それはなんていいますか、取り引きなんです。お饗銭を
あげているからご利益があるのは当たり前だ、ぐらいな神様との取り引きです。そういう
もんじゃなくて、神様のほうでは、神様のみ心に合う、神様のみ心に波長が合うことによ
って、その人が本当の富を得、本当の幸せを掴む。その仲立ちをして導くのが宗教家であ
るわけです。
258
すべては本心開発に伴って向上
だから、私の宗教はあくまでも本心開発が主であって、本心開発に伴って病気が治り、
不幸が直る。本心を開発すればどういうことになるかというと、この世の生活は勿論、安
心立命します。安心して生きられる。それからあの世へ行っても、霊界へ行っても光明燦
然と生きられる。永遠の生命を得るわけです。神様のみ心をちゃんとわかって、永遠の生
命が光り輝いて生きられる、そういうようになる教えをするのが、私の教えなんです。
それが一番広くひろがりますと、世界人類が平和でありますように、みんなが幸せで、
みんなが真実の平和な世界を作りますように、そういうふうに導いていくわけです。
だからといって、病気で苦しんでいる人に、そんなものはなんでもないっていうんじゃ
ないですよ。病気で苦しんでいる人があったら、さあどうぞいらつしゃい、病気も治りま
すよ、とそうやって教えて結構。貧乏で苦しんでいる、あるいは家庭不調和で苦しんでい
る人があったら、サァいらっしゃい、家庭の不調和も直りますよ、仕事もうまくいきます
よ、と導いてもいいわけです。
ただこちら側としては、あくまでも本心を開発していくように導いてゆくわけです。そ
の場でチョコッと病気が治ったり、チョコッと貧乏が直ったりすることを本願としていな
259 本心を開く
いわけですね。本心を開く、本心を開いていくに従って、貧乏も直り、家庭も調和してい
しりそ
くという導き方をしてゆけば、もう不退転といって、いっぺん入ったら退かない、動揺し
ない宗教信仰になるわけです。そういうふうに私は導いております。
(昭和42年6月26日)
2GO
あなたは創造主
本ものとニセもの
いつもいいますが、人間というものは、簡単にいえば二つになっているのです。なんの
たれがし
誰某という自分と、本心本体、神そのものである自分という、二つです。どちらが本もの
であるかというと、神様である自分が本ものです。
よく、人間は神様になれっこないとか、人間だから仕方がない、といいます。しかし本
当の人間というものは、神人というものは、神と全く一つなんです。ということは、この
世の中に現われているものの中で、神様がお創りにならないものはないんです。本当のも
2G1 あなたは創造主
のは全部神様がお創りになった。それに神様の生命エネルギーを人間は持っていますから、
こう
そのエネルギーを使って人間が創ったものがある。それは何かというと業なのです。
神様の中には、悪いものは一つもあるわけはない。神様は全体で、完全円満、大調和で
す。人間はその神様の分生命だから、調和そのままなんですよ。ところが実は、この世の
中というものは、悪はあるし、不幸災難もあるわけです。
どうしてそうなっちゃったのか。それは人間が肉体に入ってきてから、神様の力を忘れ
てしまったのです。自分の本体を忘れてしまったのです。そして自分は肉体の人間だ、五
尺何寸の人間だ、私とあなたは違う、AとBとは違うというふうに、みんな別々に考えて
いるわけです。今でもそうでしょ。みんないのちが通い合っていることがわかりません。
形が別だから、あの人と私とは違うと思っています。ところが底を探りますと、みんな一
ついのちに結ばれています。そこであらゆる宗教は、みんな人間は兄弟姉妹だと、みんな
一ついのちに帰一するわけです。みんな神様のみ心の中にあるわけです。そういうことが
わからないとだめなんです。
262
わかっていることの得
ここに五井昌久という肉体があります。肉体の私は皆さんと同じようです。皆さんより
微妙です。皆さんの心がわかったり、運命がわかったりしますから、普通の肉体より上等
は上等なんですけれども、やっぱり肉体は肉体です。ですから肉体は一つの道具なのです。
本当の五井先生は何かというと、神界にいるわけです。本当の皆さんはどこにいるかとい
うと、やっぱり同じ所にいるんですよ。神界にいるんです。神様の中にいるんです。それ
が皆さんはわからない。私はわかっている、その違いなんです。
とくそん
わかっているということは、大変に得なことです。わからないということは、大変に損
なことなのです。自分に十億も百億ものお金があるのに、財布の中に千円しか持っていな
いと、千円だ千円だと思って、小さく細かくケチケチ使うわけです。実際は百億持ってい
るのに、知らないから千円しか使えない。ところが私は無限億万円持っていることを知っ
ているんです。だから平気なんです。お金にも把われない、なんにも把われない。
263 あなたは創造主
たと
お金に讐えたけれど、力にしても能力にしても、素晴らしい力、
す。けれど自分は知らないで、少しの能力しかないと思っている。
せないんですよ。あると思っている人は出せるんです。
能力を持っているので
思いこんでいるから出
2G4
無限の能力がある
どっちが本当かというと、あるほうが本当なんです。何故ならば、人間の本体は神だか
ら、神様のいのちをそのまま持っているんだから、いくらでもいくらでも、出せば出るん
です。天にありますから、引き出せばいくらでも出てくるんですよ。それを引き出さない。
自分はもうこれきりでダメだ。チョボチョボと出して、それでもって、私はダメですダメ
です、私は出来ません、ってなんでもかんでも、やらないうちから出来ません、とか、や
りもしないで出来ません、といっています。案外、やれば出来るんです。
戦争中、力のない女の人が空襲の時、いくらでも力を出しました。戦争中はいろいろ苦
しい想いをして、寝る時間も寝なかったり、食べるものもあまり食べなかったり、それで
いて、今以上、力仕事を平気でしていたんです。ところが今は食べるものはたくさん食べ
て、栄養はたくさんつけて、充分に寝ていながら、昔よりズーッと力がないんですよ。な
いんじゃなくて出さないんです。
かんきゅう
一旦緩急、事あると力が出てくる。事があると力が出るということは、力があるという
だお
ことで、出し惜しみしている。出し惜しみじゃなくて、力があるのを忘れているんです。
自分に能力、才能、力がある、智恵もあるということを再び思い出すために、お祈りする
んです。自分は神様の子であり、神様の分生命である、ということを思い出すために、一
所懸命お祈りするわけです。
どういうものがお祈りかということを説明すると、本当は千億万の力がある、素晴らし
い力があるということを忘れている。何が忘れさせているかというと、自分の肉体にまつ
わる想いなんです。肉体のほうにある想いがダメだダメだと思うんです。だからこの想い
をどんどん毎日毎日神様のほうへ入れていく、それもお祈りの言葉にのせて入れておきま
2G5 あなたは創造主
すと、邪魔がなくなる。邪魔がなくなるに従って力がどんどん出てくるわけです。
ハだど
斎藤秀雄さんでも、私の所へ来た時には、唯物論者から抜け出して、ちょっと心霊科学
などをやっただけでなんにも知らないわけですよ。知らないから力がない。ところが私の
所でだんだん研究して、自分の力を開いていったわけです。なんにもなかったのが霊能が
出てきた。絵がかけないのが絵がかける、字もうまくなる、すべてが向上してくるわけで
すね。ないものだったら向上しっこないでしょう。あるから向上するわけです。それは斎
藤さんばかりじゃない、誰でもみんなあるんですよ。
皆さんはおそらく、百万の力があったとしても、出しているのは、たった三か五なんで
いっぱし
すよ。百万分の三か五ぐらいの力しか出していないんです。それで自分は一端やっている
つもりなんです。
2GG
自分自身をまず信ぜよ
そこで一番いいたいことは、神を信ずるとか、五井先生を信ずるとかいうことより先に、
自分自身を信じること。これが先なんです。自分自身には力があるんだ、自分は神の子な
んだ、自分は神の分生命だから、悪いことがある道理がない。あったとすれば神様とはな
れていた時、過去世の自分の想いが消えてゆく姿として現われているんで、知らない前の
業が現われているんで、神様を知って、自分が神の分生命だと知ったその日からは、本当
は業はないんです。それを信じなければいけません。
神様の世界は完全円満であって、自分は神の子だから、素晴らしい能力があるんだ、と
いうことを信ずることなんですよ。ところが信じられないでしょ。そういわれても信じら
れないから、信じて行なっている私のような人がいます。先覚者という、先にわかった人、
ああ神と自分とは一つであるということがわかって、能力が発揮できた人、能力が出た人
を、ああこういう人がいるんだな、それじゃこの人のいうこと、やることを信じよう、と
こういうことになるわけです。
自分で自分の力を信じられる人は、誰も頼ることはない。自分で生きられるわけです。
2G7 あなたは創造主
自分の中の神様を出せばいいんだからね。結局、我を信ぜよ、とか宗教を信じろ、という
のは、各々の自分の中の力を出させるために、宗教団体があり、教祖だとか、会長だとか
があるんです。自分自身でどんどん力が出せれば、誰もいらないんです。自分でやったら
いいんです。
自分では出せない、と思ったら、じゃ五井先生を信じよう、五井先生のいうことは間違
いないことだから信じよう、と信じればいいんです。
まず第一番に自分を信じる、ということなんです。自分が神の子であって、無限の力を
持っているんだ、ということを信じることがまず第一なんだけれども、出来ないから先に
力を出した人を信じる。その生きてきた道を信じる、その人の書いたもの、その人のしゃ
べることを信じて、ああそうなんだ、自分はやっぱり神の子なんだな、神の分生命なんだ
な、もしここに不幸や病気や災難が現われているとするならば、それは過去世の因縁が、
神様の子であることを知らなかった時の想いが、神様を離れていた時の想いが、現われて
きて消えてゆく姿なんだな、とこう思うんです。
268
自分の中からいいことばかり出す
皆さんは世界平和の祈りを知っていますね。だから自分が罪を作っているとか、自分が
悪いことをしているとか、ということを一切帳消しにしなければいけません。
もし誤って人を恨んだとするならば、ああそれは過去世の因縁がここに現われてくるん
だから、ああ申し訳ない、そんな心を起こしちゃいけないんだ、神様有難うございます、
どうかあの方の天命が完うされますように、とパッとかえてしまう。悪い想いが出、悪い
行ないが出るその時に、即座に、神様にあやまっちゃって、世界平和の祈りの中に入って
しまう。そうやって、常に常にいいものばっかり、いいことばっかり、自分の中から出す
んですよ。
悪いことはどんどん消えてゆく姿にして、あとはどんどんいいことばかり思う。自分が
なりたいようなこと、人がなってもらいたいようなことを思うのです。一番なってもらい
たいことは、世界人類が平和であること、自分の天命が完うされることです。それを皆さ
2G9 あなたは創造主
んは気がつかないで、知らないうちに、世界人類が平和でありますように、日本が平和で
ありますように、私どもの天命が完うされますように、といって、一番自分の望むことを
唱えているわけです。
それが毎日毎日、朝、昼、晩、歩いていても、電車に乗っていても、お便所の中でも、
食事の時でも、いつでも、世界人類が平和でありますように、とやっていますでしょ。こ
れはただ事ではない、大変なことなんですよ。大変に徳を積んでいることなんです。
あなたは創造主
何故かというと、人間は神様の子で、自分自身が創造主なんです。自分の運命を創るの
は自分なのです。誰も他の人が自分の運命を創ってくれるわけじゃないんです。自分の運
命はすべて自分が創るんです。どんないいことも、どんな悪いことも、みんな自分が創っ
たことで、ただ、ここに悪いことが現われてきた場合には、過去世の因縁として、これを
270
自分の中に入れておかないで、消えてゆく姿で世界平和の祈りの中へ送りこんでしまえば
いい。
だから悪が現われたり、不幸が現われたり、自分の中にいやな想いが現われたら、過去
世の因縁として、パッと切りはなさないといけない。それで消えてゆく姿にして、お祈り
の中へ入れてしまう。今の自分はいいことばかり、明るいことばかり、真のことばかりを
思うんです。その一番最上のいいことが、
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私どもの天命が完うされますように
という言葉に現われている、そういう想いなんです。
コトバは即ち神なりき。だからそれを言葉に現わすと、言葉通りの運命が自分に現われ
てくる、こういう簡単な原理です。あまりむずかしいことはないんですよ。
人間が立派になるのも、運命がよくなるのも、あまりむずかしいことはない。ただひた
271 あなたは創造主

すら、ひたむきにたゆみなく、倦きないで、世界平和の祈りをしつづけていれば、必ずよ
くなるに決まっています。
ほうねんしんらんなむあみだぶつ
それは法然、親鸞が南無阿弥陀仏といえば必ずその人たちはいい所へ行く、といって教
えたのと同じであって、それがもっと現代的にわかりやすく、しかも意義がハッキリとと
れるように説いているのが、世界平和の祈りなんです。ですから、この道をまっすぐ進ん
でいきましょう。
272
(注14) 明治37年、東京に生まれる。大正15年中央大学商科卒業。おでん屋の皿洗い、菓子屋の配達小
僧を経て、商社、メーカー、十数社を創立。病弱のため、医師に見離されたこと数回、死んで
地獄の苦しみを体験、また天国に行き、菩薩界の修行の厳しさを教えられ、再びこの世に戻さ
れた。宗教と科学を一つに結ぶ祈りによる世界平和運動にただ一筋に挺身。昭和59年、昇天。
著書に『霊験巡講記』がある。
質疑応答
圃悟蓬地とちのはぎつ状態でしξ か-

霊界が見えたり、神界が見えたりすることとは全然別に、それはまた別の話で、
心は明るく、柔かく、澄んでいる。心がスッキリしている境地が悟りなんです。
今日、嬉しい嬉しい、ああこんな嬉しい時はない、といい、あくる日になると、ああさび
しいさびしいさびしい、なんていうのではだめでしょう。平均して、いつでも、今日も明
日もあさっても、心がスーッと澄んでスッキリしていることです。
たまたま何か想いが出てきても、それがスーッと消えてゆく姿で通りすぎてしまう。あ
らゆる厭なこと、嫌いな想い、暗い想いは、本心の前を通りすぎてゆく影にすぎない。
273 質疑応答
うつるもの自ずうつりておのず消ゆ己れは澄みてた.・ひそかなり
という私の歌があります。スーッと通りすぎていくだけ。それをやらなきゃだめです。
何か不幸や悪いことがありますと、想いのほうは乱れますね。子供が怪我した、アーッと
誰でも思います。何か悪いことがあればサッと乱れますよ。しかし、それは本心が乱れる
んじゃなくて、想いがとたんにおびえている。おびえているのは想いであって、本心はシ
ッカリしているのが、自分でわかってなければだめです。本心はおびえていない、という
ことが自分でわからなけりゃだめですよ。
274
想いを神様の中に入れる練習を
ああ想いが乱れているな、それは消えてゆく姿だな、とひょっと本心のほうで思って、
そのまま流していく。悪いことがあったとたんには、誰でも驚くと思うんですよ。それは
かつかいしゅう
それでいいと思う。ある日、勝海舟が刺客に襲われるわけです。が、それを無事しりぞけ
た。それである人が「勝先生は誰に襲われても、ちっとも驚かないんですね」といったら、
「いやそんなことはない。俺はびっくりしてふるえ上がっているんだ」っていった話があ
ります。やっぱり勝にしたって、誰にしたって、どんな剣客だって、大勢の人間に襲われ
れば、とたんはびつくりしますよ。だけどすぐ立ち直ってしまう。それは俺は強いんだ、
と思いますわね。だからしっかりします。誰にも負けないと思うから。
皆さんは神様の子なんで、本心は神様なんです。ああ私たちは神の子なんだ、というふ
うに本心の中に入ってしまえば、初めは驚くけれど、すぐ立ち直る。古い話だけど、二十
何年前に空襲がありましたね。B 29が飛んできます。初めブーッと警報がなりますと、驚
きあわてます。そのあと、何分かすぎるとみんな落ち着いちゃって、ちゃんと防空態勢に
向かった。
初めは驚くでしょう。それは仕方がないけれども、第二段階にはすぐ立ち直って、神様
の中に入っちゃう。想いが神様の中に入って、神と一体になるという、そういう練習をす
275 質疑応答
る必要がありますね。その練習をするにつけても、
く姿で神様の世界にはいいこときりしかないんだ、
る練習をすることが第一番だと思うんですよ。
すべて有り難いんだ、みんな消えてゆ
有難うございます、というように思え
27G
圃悟っても個肇つものは続いているのでし-つ窄
個性はいつまでも存続します。ただ広がってきます。個性というのは、色でいえ圏ば 赤系統の人もあれば、青系統の人もあれば、黄色の人もある、というように七
色の色合わせみたいなものです。別の言葉でいえば、イの神様の系統もあれば、ロの神様
の系統もある、ハの神様の系統もある。そういう個性です。
柔かい柔軟性をもって生きていく人、厳しい生き方をする人、面白い生き方をする人と
いろいろありますね。やさしい人もあります。速いスピードで歩く人もあれば、ゆっくり
しながら、ちゃんと思うことをなしとげている人もある。みんな個性ですよね。
要するに高く上れば上るほど、マイナスのほうがなくなってくるわけです。個性はいつ
もあるのです。個性をもったまま神界で生きているんです。
もつといい例をいいますと、皆さんがそこに坐っていらつしゃる。だけど同時に、神界
霊界でちゃんと働いているんだ、ということをいつも思いなさいよ。そうすると、亡くな
る時に気が楽ですよ。肉体の私よ、さようなら、霊界の私よ、こんにちは、っていけばい
いんですから(笑)。そういうもんなんですよ。だからなんにも恐いことはないんです。
こわいから祈るのではない
私ども世界平和の祈りをして、なんとか地球をつぶすまい、地球を存続させて立派なも
のにしようと思うのは、自分たちがこわいからじゃないんです。自分たちは霊界へいけば
いいし、神界へいけばいいんでしょう。往く先がちゃんとわかっているんだから、いつ地
震があっても何があったとしても、ハイさようなら、と向こうへいきゃいいんだから楽な
277 質疑応答
もんです。だから自分たちのためだけにするんじゃないんです。世界のすべての人のため
にするんです。
世界には悟らない人がワンサといるんです。神界も霊界も知らない人がワンサといるん
です。そういう人たちは大地震が来たり、天変地異が来たり、戦争が起きて、つぶれたり、
殺されたりしたら、大変苦しむ、阿鼻叫喚です。そうしたことが少なくなるように、われ
われは世界平和の祈りの運動をしているわけです。だから皆さんも自分のことを恐れるこ
とはありませんよ。そういったってまだ恐ろしいんだよね、実は(笑)。この間も地震が
あったでしょう。少なくともうちの古い人はビクビクしないと思います。グラグラとくる
と、五井先生1 という。グラが止まりますよね。パッと思うことはとても助かることで
す。
何が来ようとちっとも恐くない。そこでたとえば、もし肉体が亡くなるものであったら、
それは向こうの世界の自分に帰ってゆくだけだから、なんにも心配ない。それは自分ばか
りじゃありません。自分の親にしろ、子にしろ、兄弟にしろ、何にしろ、みんな向こうに
278
いらっしゃるんだから、亡くなった人があっても、ただ悲しんでいるだけじゃいけません。
「うちの母もあちらへ帰って、あちらでやるんだな、父もあちらへ帰るんだな、どうかあ
ちらの世界で、本当に明るく生きられますように、天命が完うしますように」と祈ってく
ださい。
真理がわかれば楽なもの
天命というのは、この世もあの世も通してありますから、天命が完うされますように、
といえばいいわけです。そういうようにのびのびと大らかにこの世を生きながら、しかも
世界平和の祈りの運動をドンドン広げていけば、この世はやがてよくなります。あせる必
要はなんにもありません。どうせやるのは神様のほうでやるんですから、救世の神様のほ
うで、皆さん方を使ってやるんです。皆さんを直接使うというより、守護霊守護神を通し
て、皆さんに力をつけるわけです。
279 質疑応答
皆さんは真っ直ぐには直霊とつながっているし、外面的には守護霊守護神が応援してく
る。その真理が本当にわかれば楽なものです。人間は動物と違いまして、自分で自分の運
命をどうにも出来るんです。動物はそうはいきませんよ。殺されれば殺されたままでしょ
う。動物が守護霊さん守護神さんなんていわないんだから。いっているかもしれないけれ
ど、あんまり聞かない。
人間は自分の想いでどうにでも出来るんですよ。動物は自分の想いで運命を変えるなん
て出来ませんね。人間だけはいくらでも変えられるんです。大変な違いです。そういう特
典、特権というものを持っている。だから人類は有り難いんですよ。ですから人間は動物
を一所懸命可愛がってやる必要がありますよね。
人間と生まれたことの幸せをしみじみ感じて、守護霊守護神さんに感謝しながら、世界
  おソ
平和の祈りを祈りつづけてゆけば、教義を実践していけば、この世でもあの世でもその人
は必ず幸せになります。
(昭和49年3月4日)
280
(注15) 人間と真実の生き方。巻末参照。
2$1 質疑応答


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です