信仰と直感


者の(1916~1980)
著者の色紙
私たちの考え
私たちは、人間とその生き方については次のように考え、実行しております。
こうしようわけみたま
『人間の真実の姿は、業生ではなく、神の分け命(分霊) であって、つねに
祖先の悟った霊である守護霊と、守護神(大天使) によって守られているもの
である。
この世の中のすべての苦悩は、人間の過去世から現在に至る誤った想念が、
その運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
いかなる苦悩といえど、現われれば必ず消えるものであるから消え去るので
あるという強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困
難の中にあっても、自分を赦し、人を赦し、自分を愛し、人を愛す、愛と真と
赦しの言行をなしつづけてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつね
に想い、世界平和の祈りを祈りつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得
できるものである』
《世界平和の祈り》
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私たちの天命が完うされますように
守護霊様有難うございます
守護神様有難うございます
信仰と直観目次
3
私たちの考え
宗教信仰者の在り方について
宗教信仰の二つの方向
神の愛と栄光
宗教心の出発点
真の宗教心
十字架について
信仰心について
101 83 70 52 37 24 7
4
信仰と信行
理性と直感力
理性と信仰について
宗教活動の在り方
人間神の子観と凡夫観

181 165 152 136 119
装偵・笹本悦子
5
宗教信仰者の在り方について
大衆の悩みは何か
私は毎日二百人近い人に会って、浄めたり、相談に乗ったりしているのですが、初めて来る人の
中には、生老病死の四苦のうちの、生きること、つまり生活苦の相談と、病苦の相談いわゆる病気
を癒してもらいたい、という相談が圧倒的に多く、老苦、死苦、つまり、老人になり、死んでゆ
き、死後はどうなるか、というような相談は比較的少いのです。
まして神と人間との関係、人間の本体の問題、精神生活の問題という重大なる問題を掲げてくる
人は、私の著書を読んでから来る人以外は、僅少なのであります。
これは何処の新宗教でも例外は無いと思われます。
7宗教信仰者の在り方について
この例から見まして、この地上界の人間は、現在の生活の安定、打開、発展以外には、頭や心を
使わない人の方が多いように思われます。
これらはすべて眼に見え、耳に聞こえ、手に触れる、いわゆる五感に感覚する以外の世界を問題
にしていないということであって、唯物主義者とあまり変りはないのであります。
永遠の生命の探究、神と人間との関係について、真剣に突き進んでいる人は現在まだ数少いよう
ですが、こういう人たちに会うことは実に楽しいことであって、そういう人たち無くしては、この
世界が、真実の世界、大調和の世界になることは絶対に出来ないと思われます。しかし現在ではま
だそのような人を多く望むことは理想といわなければなりますまい。
ですから私は初めての人には、そのままその人の相談にだけ答え、或いは病苦打開の浄めをして
やるだけで帰して、説法くさいことは一言もいわぬことにしています。何故なれば、その人たちの
差し迫った生活の窮状は、そうした説法を受け入れる心の余裕をもっていないからです。
あなたの心が悪いから、あなたの生活が神仏の道に適っていないから、等ということを、最初か
らいい出すようでは、とても一般大衆の生活相談者にはなれません。人を見て法を説けでありま
す。
8
私は相手のいうなりの言葉を聞き、霊覚による適当な現実打開の道を教え、黙って、守護の神霊
こういんねん
と肉体身との交渉をさえぎっている業因縁の波を浄め、守護の神霊と肉体身との交渉をし易くして
やる祈りをしてやるだけで、言葉の説法は殆んどしないのであります。
ところが二回目三回目の来訪になりますと、自然と相手から私に法の話を聞くようになり、或い
は私の本を読むようになって、神のこと、霊界のことなどが知りたくなって来るのです。
これは浄めによって魂が自然と開いてきて、肉体身以外のこと、俗世界以外のことに想いが通う
ようになるからなのであります。
そのうち、生活苦が、そのまx苦にならず、病気があまり心に掛らなくなり、いつの間にか運命
が展けてゆくようになっているのが、現在迄私のところに来ている人たちの状況です。
真実の自由と誤った自由
そして今度は一歩進んで、他の人の為になろう、国家社会人類の為になろう、
から湧き上がってくるようになってくるのです。
私のところに来る殆んどの人が、そのような状態をたどってゆきます。
という気持が自ず
9宗教信仰者の在り方について
ところで人間は常に自由でありたい想いをもっていることは誰でも知っています。それは根本的
むげじざいしん
には無擬自在心(とらわれのない心) になりたい、業因縁、業想念から自由になり、本心のまxに
活動したい、という想いなのであり、事実そのようになれば、あNだ、こうだ、という想念すべて
が無くなり、行動そのまx本心の自由自在になるのであり、神仏そのま」の光明活動になるのであ
ります。
しかし、この世的にいわれている自由というのは、欲しいと思うものが手に入り、したいと思う
こうそく
生活が出来、他人の何者にも拘束されない、という自由、いいかえれぽ、自分の慾望のまxになる
生活が出来る、という自由であって、それは他人の生活との関係とか、国家社会との関係とは一応
ヘへ
ぬきにした自由であり、すべて物質に依存した外部的自由であって、外部の変化によっては、一挙
に不自由になつてしまうような、自由なのであります。
しゆんかん
こうした自由も瞬間的には、伸々とした生命感を感じ、幸福を感じるのでありますが、これは永
遠の生命へのつながりによって起ってくる、生命の自由感ではないのですから、その次の瞬間には
不自由な境界に変化してしまうものなのであります。
10
現在の政治と理想の政治
ところが、一般大衆は、このような自由を、幸福生活と考えているのです。そして、世界各国の
現今の政治は、この一般大衆のこのような幸福を創り出すことに懸命になっているのであります
しせい
が、大半の政治家は、こうした一般大衆の幸福を創り出す線にまでも、施政することが出来ず、自
分たちのそうした幸福を獲得することに窮々としている有様なのであります。
いせいしや
永遠の生命の探究とか、真実の人間性の探究等とは、何処の国家の為政者も、今のところ全く縁
遠い感じなのであります。
しせいたんきゆうかか
国家の施政が、その根本に、永遠の生命の探究、神と人間との関係開発等の問題が掲げられて行

われるとするならば、人類の進化発展が、如何に急速に行われるであろうかは、論を侯たないこと
であります。
ぐたいてき
しかし、どうも、今のところそのような傾向はどこらかの国家にほの見える程度で、具体的にな
るのは、まだまだ先遠いようであります。
そうりよかじきとう
私のいうことは、日本の中世のように、僧侶が朝廷や、幕府の中にあって、いちいち加持祈疇に
11宗教信仰者の在り方について
にぎ
よって、政治を左右し、大きな権力を握った、というような、そうした形をいうのではないのであ
ります。
国民一般がそうした方向、つまり永遠の生命の探究をしなければ国家に申し訳けないというよう
な心的状態になるような政治、もっと具体的にいえば、神仏の生命つまり、愛と真を、この世の中
で生かし切らなければ、国家に対して申し訳ない、と国民が自ずから思えてくるような政治をする
ようになること、そうした政治家が国を治めるようになることを望むものなのでありますが、今
は、到底その段階ではありません。
12
宗教者の現実行動の在り方
そこで、私たちが、今為しつNあるような、在野の宗教活動が、どうしても必要になるのであり
ます。
それは既成仏教のように、高飛車に、仏の世界を説いたり、因縁因果、諸行無常を説いたりする
ことではなく、キリスト教の人々が、常に行っている社会施設の拡充、貧しい人々への生活的援
助、それらの職業斡旋等々に加えて、真実の祈りによる神との一体化の指導であります。
生活改善の指導をしながらの、神仏のお話でなけれぽ、今の世の一般大衆を真の救いに導き入れ
ることは出来ません。
現在までに、そうした生活改善の実践指導に身を挺しながら、うまずたゆまず、神の道を説きつ
ゴけてきた先人宗教者に、私は深い敬意を払っております。
行動のない、口だけの説法者が、いつの世にでも多くいるものでありますが、そうした説法者に
よって、大衆の心を一層唯物思想に近づかせることを私は恐れるのであります。それは保守系の政
治家の、愛と智慧とにとぼしい政治が、国民を左翼主義の線に一歩一歩と近づかせていることと同
じであるからです。
現実生活の改善と、精神問題の探究とが同時に行われるような指導がなされなければ、現代の人
々を、正しい道、真理の道に乗せることは出来難いのであります。
ですから新宗教々団の人々が、信者の寄附を集めて、さながら自教団の権力を競い合うように、
金のかかった豪華な教会の建築に懸命になっているのを見ると、実に情け無い気がしてくるのです。
建物の豪華さで自教団の権威を示し、信者を引きつけようとする愚かさは、実に唯物論者、無宗
わら
教者の啖いものであって、宗教の権威を地に落すもの以外の何ものでもないのであります。
13宗教信仰者の在り方について
人を集合せしめるのには、道場や集会所が必要であることはいうまでもありませんが、それは広
い場所と、適当な建築物があれば足りるのであって、何億という高価な建築物を建てる必要は無い
のであります。
じねんほうに
それがもし、自然法爾的に、奇特な信者たちのみが、自分たちの方から、深い喜びをもって捧げ
てくれたものなら、これはどのような豪華なものが建っても仕方がないかも知れませんが、現在私
ヘヘヘヘヘへ
の知っている範囲の新宗教団体の建築物は、殆んどが、信者に命令的、或いはむさぼり取り又は哀
願的に申し込んで出させているものであって、心から喜びに充ちて寄附している信者は、少数の者
しかいないようであります。
14
真の宗教者は自他一体観の持ち主
宗教者とは、個人個人の苦悩を我が苦悩とし、社会人類の問題を自らの問題として、その中にお
いて、いかにその苦悩を浄め、その問題を解決しようと、寝食も忘れて働きつぼけなければいられ
ないような、愛情の持ち主、自他一体観の持ち主であらねばなりません。
そうした深い愛念の持ち主が現今のように、住むに家無き人多く、働くに職無き人多き、貧しき
社会の中で、ひとり超然と豪華な建築物を、自己の掌中に置き、高価な自家用車に身をそらして生
活していて、心が痛まないということが、私には不思議でならないのです。
そして又更に不思議なことに、そうした事実を知っていながら、それをいささかも批判しようと
さくしゆ
はせずに、何度でも寄附させられ、搾取されながらも、そうした宗教教団を離れ得ないで付き従っ
ている人々の多いことであります。
けなやゆ
これでは、共産主義の人々が、宗教をぼろくそに財し宗教信者を椰楡するのも、無理からぬこと
と思われます。
こんなことで、地上天国が出来る等と思っていたら、その人たちは、馬鹿も、底の知れない馬鹿
だと思います。
もしそうした新宗教々団の人々が手を取り合って、そのような無駄金を、社会事業の面に使った
ら、これはどれだけ社会一般の新宗教に向ける眼を、明るくさせることでありましょうか。それ
は、寄附した人々の行為が生かされることにもなり、一般の人々に宗教への眼を開かせることにも
なるのであり、共産主義化を防ぐことにもなるのであります。
こうした現実面への働き掛けが、地上天国建設への第一歩にもなるのであって、自分たちだけが
15宗教信仰者の在り方について
救われよう等という小我の想いが、いくら寄り集まっても、地上天国への前進は絶対に出来得ない
のです。
日本における宗教の混迷は、こうした誤りから起っているのでありましょう。
神仏の問題は、直接この現象世界の問題でもあるので、神仏への信仰が、社会国家の精神的、物
質的両面の利益と、なんら関係のない独自なものであるということはありません。
ですから、宗教信仰というものが、自分たち団体だけの利益である、ということは誤りであるわ
けなのです。
宗教精神とは、小我(自分だけの想い)が大我(自他一体心・人類的我) に融けこむ為のもので
あるので、その現実面の現れが、社会愛、国家愛、人類愛となるのであります。
そうした根本的なことを忘れ去って、自分たちだけの救れを願っているようなことでは、その教
団も、その信者たちも、真実の救れに入るわけには参りません。
自分たちの求道精神が、自然と他への救済に働きかけてゆく、それは物質面、精神面のどちらの
面であるかは問いませんが、他の苦悩を黙って見過してはいられない、という菩薩心が湧き起って
くるようでなけれぽ、真実の宗教精神でも、信仰心でもありません。
16
物質面、
ます。
形の面への働きかけが、社会事業となり、精神面での働きかけが、祈りとなるのであり
人の為に祈れ、それが愛行
自分は物質的には、どうにも人様のお役に立ち得ない、と思う人は、ひたすらその人々の守護の
神霊に心の中で、”彼の人々の天命が一日も早く全うせられますように”と祈ってやることです。
その祈りが真剣であればある程、その人々の現在の苦悩として現われている、過去世からの業因縁
の、消え去ってゆく時間が早くなるのであります。
愛情の深い人の中には、”社会の人々があんなに苦しんでいるのに、私ぼかりこのような幸せな
生活の中に安住していてよいのか、このまxでは申訳ないのではないか”等といっている人が時折
りありますが、これは業因縁への執れでありまして、その人がそうして想い悩んだとて、苦悩して
いる人々にはなんらの利益にもならぬばかりでなく、その人自身、折角過去の善因による幸福を、
他人の業因縁の波をひきよせることによって、消し去ってしまう結果になるのです。
これは宗教心ではなく、愛情が宗教心を曇らしてしまっている、ということになり、神仏から自
17宗教信仰者の在り方について
らを離している想念行為となるのであります。
何故ならば、宗教心とは、この世の業想念の中にあっても、その業想念に把われず、神仏の中
に、自己の想念を合体させることなのでありまして、業想念を把えて、歎き悲しむことではないの
であります。それは、自己の場合も、他人の場合も同じなのであります。
いかに他の人々が苦悩にさいなまれていようとも、自己の幸福生活は、やはり幸福生活なのであ
ります。この幸福生活は、自己が、過去世において、正しい生き方をして来た報酬でありまして、
そのまx素直に甘受していてよいものなのであります。もし、その幸福生活を放棄するとするなら
ぽ、自分がその生活を捨離したことによって、他の人々と手を取り合った幸福生活が出来る、とい
う目算があってのことでなければならぬと思います。
自分が自らの幸福生活を放棄しながら、その放棄したことが、他の人々の幸福の為になんらの役
にも立たず、自らは不幸の生活に没入し、他の人々はそのまxの苦悩の生活をつゴけるというので
あれば、これ程馬鹿気た行為はありません。
愛情の深い、しかし真理を知らぬ人々の中には、こうした行為をしている人が、かなりあるので
す。
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それは、只単なる感傷というものであって、真理から生まれた行為ではないのであります。
現在の恵まれた生活は、そのまΣ形の上において変更させることはなくとも、日々想いを苦悩に
さいなまれる人々の上に馳せて、自らを悩ませているとしたら、その人も、なんら益なき行為の為
に、自らの幸福を放棄した、真理を離れた人というべきです。
この現象世界は、常に業想念行為、つまり因縁の現われては消えてゆく世なのでありますから、
そうした波に把われて、ひき廻されているようでは、とても真実の宗教信仰者とはいえないので
す。それは自他の区別はありません。自分のことにでも、人のことにでも同じであります。
宗教生活と社会生活を一致させよ
社会事業や、物品によって、形の上からの救済をすることも、浮き上がっている、その人々の業
想念(因縁) の波を、形の世界を整備することによって、消し去ってゆく、愛の心の現れなのであ
ります。医者が薬品や手術等々によって、病人の苦痛を和らげてやることも、同じ理であります。
こうした方法によって、形の上において救われた人々は、人間の愛念、神の心を自ずから感じる
ようになるものです。
19宗教信仰者の在り方について
ですから、こうした形の上の行為も、神仏の姿をこの世の人に示す為には、非常に重要なことな
のであります。
ところが、仏教者の中には、この世の生活の物質的向上等は、教えの彼方に投げ出してしまっ
て、只、内面生活の向上、空世界への探究だけを行為させる教えだけで、平然としている人々があ
りますし、又、新宗教の中には、現象世界の現実生活を全く無視した、その宗派宗派独自の教えの
枠の中のみの生活を強い、一般社会の生活と一線を劃したような、いいかえると、一般社会の生活
の中では浮き上がってしまうような、片輪的人間を創りあげている向きもあるのであります。
各民族がお互いに譲り合い、教え合って、民族の特色を生かしたまN、人類が一つにつながらな
ければならぬ、という世にあって、人類を一つにつなぐべき使命を、最も深く持っている筈の宗教
人が、この現象生活無視の態度を取ったり、他の社会人と一線を劃したような独善的な生活態度を
しているようでは、宗教者の使命が、一体何処にあるのか、疑われてまいります。
こんなことでは、唯物主義を否定しながら、現象的現実生活においては、唯物主義者の行動的社
会愛に、一歩も二歩も譲らなければならなくなり、現代の知的青年層の熱情をひきつけることは到
底不可能になってまいります。
20
先日も或る宗教雑誌に、仏教哲学者の某大家がキリスト教と仏教の比較をしながら、仏教はキリ
スト教を中に入れることは出来るが、キリスト教は仏教を中に入れることは出来ない、というよう
な言葉で、仏教は、キリスト教より深く大きい教えである、という含みを持たせたことをいってお
りました。しかし、その前か後か忘れましたが、今の世の人々では、この世は到底善くすることは
出来ないのだから、今の人間が皆死んでしまって、後から生まれてくるものに任せたらよい、とい
うような、言葉は大分違っているかも知れませんが、まあ、このような意味のことをいって、平然
とした態度をしているようでした。
私はこの一言を見て、この人は有名な人だけれど、仏教の悪い癖を大分に身につけた人で、これ
ではとても、キリスト教の社会に対する愛の働き掛けには及ばない、と、つくづく思わされたので
ありました。
そんな放言を平然としているようでは、仏教学がいくら深かろうと、それは単なる知識であっ
て、神の深いみ心は、この人には判っていないのであろう、と思われたのです。
現実の形の世界の進化発展、社会国家の形の上での向上を表面に立てての、精神運動でなけれ
ぽ、この世の一般大衆が、真実の宗教精神を体得することは出来難いし、血なまぐさい革命という
21宗教信仰者の在り方について
ようなことも起り兼ねないのであります。
22
仏心を現わす世界平和の祈り
私たちは、現在のところ物質面に全然余裕がありませんので、そうした形の面への働き掛けが出
来ませんが、現在出来得る宗教者は、直ちにそうしたことの実行をすべきであると思います。
私たちはそうした物質面の働き掛けの出来得る日までは、この世の人たちの心の中から、あらゆ
るものへの把れを放たせる教えをつ黛けて行くつもりでおります。それは、この世に現われている
人間の想念の中には、神の心(仏心)と、業因縁の波による欲望執着の想念とが、入り交じってあ
るのであって、神の心(仏心) は、本来からあるもの、実の心、本心であるのだから、未来永劫、
消ゆることなく輝いている、いわゆる太陽のようなものであり、業想念は、人間が物質界(肉体界)
に来てから生まれたものであり、叢雲のように、現われては消え去るものであるのだから、いかな
る運命や、想念が、その人の前に現われて来ようとも、それは時間が経てば消え去ってゆくもので
ある、と観じて、只ひたすら自己の本心、神の中に自己の想念を投げ入れてしまいなさい、自己の
本心では想い難いだろうから、自分の肉体の背後に厳然として存在する守護の神霊の加護(絶対に
瞬時の休みなく加護をしている) に感謝する想いだけで生活してゆきなさい。そうすると運命の苦
悩も、想念の誤りも、いちはやく消え去ってゆき、あなたの生活に太陽(本心) が輝き出てくるの
ですよ、と教え、もう一歩進んでは、世界平和の祈りの中に、全想念を投入することを薦めている
のであります。
こうした生き方の中から、精神の安定が自ずから出来てくるし、それにつれて、いつしか、生活
の安定もついてくるのであることを、幾多の夢例のもとに、確信をもって示しているのでありま
す。(白光昭和31年12月号発表)
23宗教信仰者の在り方について
24
宗教信仰の二つの方向
ご利益信仰と本心開発の信仰
宗教信仰をもった人は、この世でもかなり多いのですが、その宗教信仰のあり方が、いろいろあ
ります。大きく二つに分けますと、肉体人間としての御利益信仰と、人間の本体本心をつきつめ、
神との一体化を成就しようとする深い生き方との二つであります。
この深い生き方には又他力と自力という二つの方法があるわけです。御利益信仰の方は勿論他力
本願ですから、殊更にいうことはありません。といっても、御利益信仰の人の中にも、かなり本心
開発の信仰の方に動きかけている人もありますので、かっちり二つに分けるというわけにもゆきま
せん。
しかし仮りにはっきり二つに分けて考えてみましょう。日本ばかりでなく、世界中の人々の信仰
あつとう
の状態をみてみますと、御利益信仰の方が圧倒的に多いようですが、これは住んでいる地球が物質
であり、肉体が物質を土台にして生活しているのですから、仕方がないともいえるのです。
観音信仰をはじめ、狐狸や蛇や犬猫を祭っての御利益信仰は、神様のほうに自分のほうが昇って
ゆくのではなく、神様を自分のほうにひきよせて、そのお力を得ようとするので、宗教本来の本心
の開発とは、全く関係のないようにみえますが、物質地球の人類は、こういうところから入ってゆ
かないと、なかなか神様の実体に近づいてゆくことができないのです。
眼にも手にも触れない、神様という存在、それでいて、祖先の歴史からずっと信仰しつづけてい
る神社仏閣、というものの神秘性、力の弱い肉体人間は本能的に、そうした神社仏閣や眼にみえな
い大きな力にすがりつこうとしてしまうのです。そういう力にすがりついて、はじめてほっと一息
つく、という状態が今日までの御利益信仰としてつづいていまして、本心開発の為の神仏信仰の人
々より、はるかに人員が多くいるのであります。
病気の快癒、貧乏からの脱却、不幸災難の消滅等々、肉体人間としての生活を苦しくする状態を
ぬけ出でようとして、肉体人間以上の力にすがろうとする人間の気持は無理もありませんので、観
25宗教信仰の二つの方向
音信仰や不動信仰がはやるはずです。ですが、それが人間以下の幽界の動物などにすがろうとする
想いは、人間の存在を低い状態にひき下げてしまうことで、観音様とか不動様とか御大師様とかい
う、神仏や聖者賢者の霊にすがって御利益を得ようとするのとは違うのです。
26
祈りの対象が問題
神仏や聖者賢者の霊にすがってゆく場合は、その名を想うだけで、高い境地のひびきがおのずか
ら漂ってきます。ですからこちら側が、その高いひびきに乗ってゆけぽ、祈らぬ前より、その人の
想念波動は高いものになってゆきます。御利益信仰の人々は、唯物論的な人々より、気の弱いよう
な人が多いのですが、この祈りのところへくると、気の強い唯物論者より、強い明るいものを自分
の心の中からひびかせているのです。
ところが祈りの対象が、狐狸やその他の動物霊やいかがわしい幽界の生物などである場合は、い
つの間にか、その低い波動に巻きこまれていって、たとえ、その場、その時の御利益はあっても、
人格が次第に低劣になってゆくのであります。何故と申せば、常に人間以下の低劣な波動に、自分
の波動を合わせているのですから、当然そうなるわけです。
人間の運命は、その人の想念の在り場所のいかんによって定まってゆくので、人を恨み、妬み、
おとしいおもい
陥れようとするような想念でいつもいたら、その人は低い階層の人となってしまいます。祈りの
対象が低い階層のものであれば、その人が低い階層に落ちてゆくのは理の当然といわねばなりませ
ん。
あが
釈尊の時代から今日に至るまで、世界中に低い幽界の生物を神々と崇めての御利益信仰がありま
したので、お釈迦様などは、自分の外のものに力をかして貰うというような信仰を廃して、自分の
うちなる仏を外に現わすように指導なさったわけなのです。そしてその行の一つとして坐禅観法が
生まれたのです。
眼に見えぬ力はみな神の力というように思って、幽界の生物を神として崇める信仰は、人間の進
化を止めてしまって、人間を動物以下のものにしてしまいます。いくら地位や財宝があっても、そ
の人の心に愛がなく、自分の欲望だけで生活しているような人は、真の人間というわけにはゆきま
せん。真の人間は神の子なのですから、神本来の愛の心に充ちていなければなりません。自分の欲
望達成のために、幽界の生物を神と崇めて御利益を得ているとしたら、自分たちだけの力で、自分
たちの欲望を達成している唯物的な人と少しも変るところがありません。
27宗教信仰の二つの方向
ですからそういう態度は、真の宗教の道の人ということにはなりません。やはり祈りの御本尊は
たと・兄御利益本位のものであってでも、常識人が神仏と崇め、聖賢として崇めているものでなけれ
ば、その人の魂がいつの間にか、動物以下のものになっていってしまうのです。
28
わなにご用心
ですから既成宗教でやっている人より、新興宗教に入っている人の方が危険であるともいえるの
です。新興宗教には、既成にはない新しい道があり、人々に御利益を与える率も多いと思われます
わな
が、間違うとそのまま地獄の住人になってしまう恐ろしい罠があるのであります。
既成宗教の浄土門などは、南無阿弥陀仏一辺倒ですが、その唱名念仏には法然上人以来の救れの
実績がありまして、念仏をすることによって、心が落ちついてくるものです。いろいろのこの世の
苦労も、念仏一念の方に自己をもってゆけば、その人の心は明るい落ちついたものになります。又
坐禅観法にしても、その坐った時間だけは確かに心の落ちつきを得ることになります。
しかし新興宗教の方は、先ず現世利益を前面に持ち出してきます。病気が治る、貧乏がなおる、
ふせ
不幸災難を防げる等神仏の力で御利益を得る、ということを主目標にしております。そしてそれが
そのまま人間の救れになるというように説いてゆくわけです。
ごと
そして大半の宗教は自宗団の唱え言や、行事によって救われるということになっているわけで、
昔からある観音様やお不動様などより強力な神仏の力がその宗団宗団に働いている、というので
ほとけ
す。そして、新興宗教は仏教の人間内面の仏を表面に現わそうという行や、絶対他力である念仏行
より、派手に宣伝的に人々に働きかけ、一人でも多くの信者を増やそうとしているのであります。
広く浅くやってゆくわけです。
ところが近来では、仏教の既成宗教的な在り方も、新興宗教の現世利益的な在り方も、もうそれ
だけでは、どうにもならない運命が地球世界に襲ってこようとしているのです。
個人救済プラス人類救済でなければ
大国と大国、小国と大国、小国と小国の争い事は、今や世界中に起っておりまして、一個人の現
世利益なども、一寸した悟りなども地球を救う力にはならなくなっているのです。現在、世界の何
処かに本格的な戦争が起れば、この影響は全世界の運命に及んで、一国だけ平気な顔をしてはいら
れないのです。
29宗教信仰の二つの方向
ですから個人的な現世利益も、救れの観念も、そうした世界の波を消してしまう程の力がない
と、他の人々と同じ状態になってしまうのです。
現在の宗教は、もう個人救済ということだけではなく、人類救済ということにならなければ、そ
の存在価値がなくなってしまうのであります。それに加えて、地軸が傾いているといわれている地
球にいつ天変地変が起るかも判らない、ともいわれておりまして、この両面で今や地球人は、今日
までの生き方ではもうこの先の地球の運命を好転させることはできないのです。人類が神のみ心の
中に入りこんでしまって、神のみ心の通りに生きてゆく、という神人一如の生活にならなければ、
地球人類の運命はこれで終ってしまうことになるのです。
もう宗教には二つの方向はなくって、神との一体化という一つの方向よりなくなってしまってい
るのです。個人的な現世利益だけでは個人人類同時の救れの状態にはゆきませんので、個人的な現
世利益で入ってもよいけれど、それが神我一体の方向に突き進んでゆかなければ、その個人利益は
或る時間だけのことになってしまうのです。
そこで個人的現世利益で宗教に入っても、いつの間にか人類救済の光明波動の心になっていると
いう方向に向っているようになる方法が必要になってくるのであります。それが世界平和の祈りな
30
のです。これは毎度々々申していることであり、私の教えの中心なのですが、人間が現世の利益を
望むことは止むを得ぬことですが、そのことが、人類の幸福と何んのかかわりもなかったり、かえ
ってその幸福を妨げるようなことであってはなりません。世界平和の祈りは、寝ても覚めても二十
四時間プラスアルファ世界人類の平和を神に願っているのであり、神の愛のみ心以外の方向には想
いを向けないのであります。
さちのごと
“己が幸願ふ想ひも朝夕の世界平和の祈り言の中
“という歌の境地までゆかなくても、神様のみ
心、つまり愛と美と善と調和というような心以外は、自分が自分をいじめることも、人をなじるこ
とも、現われてくる不幸災難もすべて、現われては消えてゆく姿、ということにして、ひたすら、
世界人類の平和だけを祈りつづけてゆくのです。そう致しますと、いつの間にか自然に、祈る人は
己が幸の歌の心のような立派な境地になってゆくのであります。
私の教えは、現世利益を排除してはいません。しかし現世利益に想いを把われたままでいること
を承認してはおりません。現世利益から宗教の門に入っても、いつかは神との一体化の心になる、
世界平和の祈りになってゆく方向を指し示しているのであります。
31宗教信仰の二つの方向
徹底した神との一体化の道
32
イランが石油の力を背景にして、武力では問題にも何んにもならない米国に対抗して意気ごんで
おりますが、そのやり方があまり面白くありません。面白くないどころか、街の暴徒のやるような
人質作戦で先ず対抗しているのです。それもその先頭に立っているのが、イスラム教の中心者であ
り、国際法をはっきり破ってやっているわけで、米国が怒るのは当然のことなのです。
武力の弱い小さな国が、米国のような世界一の大国に向ってゆくのには、何らかの方法が必要で
しょうが、人質作戦のような人道に反する行為をしてはいけません。しかも中心者が、宗教者であ
るということが尚更にいけないのです。宗教者というのは、あく迄大調和の方向に人々を向わせね
みずかカルマ
ぽ ならぬのに、かえって自らが神の子の座を下りて、業の世界の争いの波の中に、暴徒と同じよう
な人道に反する行為を、世界に示したことは、ホメイニ師という人が、本ものの宗教者ではない、
という証拠なのでありましょう。兎に角困ったものです。
東南アジアの争い、アラブとイスラエルとの問題等に各種の争いのつづいている間に、米国を相
手に、四つに組んで争おうなどという馬鹿気た国が現われては、世界はいよいよ危険だと、いう気
が強くしてくるのです。
一体こういう世界の状態を、誰がどうして直してゆくのでしょう。米国ですか、ソ連ですか、中
国ですか、ヨーロッパ諸国ですか、それとも私共日本人の手によってですか。どの国が先頭に立っ
ても今日までのやり方では、世界を調和したものにしてゆくことはできません。今日までやったこ
とのない方法でやってゆくより仕方がないのです。それは徹底した神との一体化なのです。一体化
などという生意気な口をきくより、もう神への全面降伏といっていいか、神以外の存在を認めな
い、という気持に人間がなることなのです。肉体人間の世界を神様に明け渡してしまうことなので
す。
神様に明け渡してしまって、それから、改めて神の子にして頂き、神のみ心のままに動いてゆく
のです。その時はじめて、人間以上の力が自然と働いて、地球人類の運命が開かれてゆくのであり
ます。私は宗教をやっています。神様を信じます。とただそんな安易な信仰ではなく、神の力の中
に自分を叩きこんでしまう。神様に自分のすべてを一度おかえししてしまう。そういう気持になっ
てゆかねばならないのです。
こんな強いことをいうと、そうしなけれぽいけないような気はするけれど、とてもそこまではゆ
33宗教信仰の二つの方向
かない、という人が多くいるでしょう。私は勿論そのことを承知しています。しかし、もう神力一
本でゆかなければ、この地球世界は救いきれないところに来ているのですから、何んとかして神様
の力を全面的に頂いて働かなければ、どうにもならないのです。
消えてゆく姿で世界平和の祈り
そこで、毎度毎度申しますように、「消えてゆく姿で世界平和の祈り」ということになるのであ
ります。
消えてゆく姿、というのは、この世に現われてくる、想いも現象も、不幸災難も、すべて、過去
こんじようふ
世の人間の想念行為が今生の縁に触れて現われ、現われれぽそこで消え去ってゆくのであります。
消え去ってゆく、といいましても、こちらで、その想念行為や不幸災難に想いが把われて、それを
掴んだままでいたのでは、消し去ることはできません。ところが普通の人はこの消え去るものを消
そうとはせずに、把え、掴んで、嘆きつづけたり、怒りつづけたりしているのです。
もう自分に必要のないもの、あってはいけない、自他を傷つけたり、不幸にしたりする想念行為
を、人々はどうしていつまでも掴んでいるのでしょう。それを私は、あっさり、過去世から今日に
34
至る、誤てる想念行為の消えてゆく姿と断ちきって、祈りの中に入れきってしまうことにしたので
す。祈りも、ただ神様こうして下さいなどという、弱い訴えの祈りではなく、神様の本願であり、
人類のすべての悲願でもある世界完全平和を願う、世界平和の祈り言の中に入れきってしまうので
す。
人類世界の平和は、勿論神様のみ心そのものなのですから、人類側から、改めて、その願いをも
って神様のみ心に飛びこんでいけば、神様のみ心と人類の想いとがぴったり一つにつながって、そ
の大光明のひびきの中で、過去世からの誤てる想念行為の因縁は、消え去ってしまうのです。そし
て改めて、世界平和の祈りという大光明波動だけが、人類すべての上にひびきわたることになるの
であります。
ふわっと気楽に祈って下さい
これはすこしもむずかしいことではなく、日常茶飯事の、今日までの生活様式そのままでよいの
ですから、南無阿弥陀仏と念仏を唱えると同じように、瞬々刻々、世界平和の祈りを唱えつづけて
ただ
ゆくだけなのです。但しこの世界平和の祈りには、守護の神霊への感謝の想いが常になければなり
35宗教信仰の二つの方向
ません。
守護霊様、守護神様ありがとうございます、という言葉がその中心になって、この世界平和の祈
りは唱えつづけられてゆくのであります。人類、守護の神霊、大神様と縦に一直線につながって生
命が光り輝く、これが世界平和の祈りなのです。
きんちよう
この祈りは特別力んでやることも緊張してすることもいりません。ふわっと、気楽な気持でやっ
てよいのです。そうしているうちに、祈り一念の心が表面にも次第に浮きあがってくるのでありま
す。何んにしても今日からは神様の中に人間が入りこんでしまって、神の力で肉体が自由に働いて
はかはか
ゆかれるようにならねばいけないのですし、そうなるように、神計らいに計られているのでありま
す。(昭和5年2月号発表)
36
神の愛と栄光
不思議でならないもの
私は神様を思うと、まず第一に不思議だなあ、と思います。不思議で不思議でどうにも不思議で
だい
ならないのです。大は太陽のような大きな星の存在から、目にもふれない小さな虫まで、何一つ神
様の息のかかっていないものはないのですから驚きます。
太陽といっても銀河系の太陽の他にもまだ幾つも同じような立場の存在もあるし、それにともな
う何十億の星があるのでして、その彪大さには唯唖然とするほかはありません。どういう仕組でこ
の宇宙がくずれずに調和しているのか、何の用があってアミーバーのような生物たちが生まれでて
いるのか、そしてそういうことを不思議だなあ、と考え神様の存在に愛と感謝をもちながら、地球
37神の愛と栄光
世界でその生活を続けている人間たちや、とにかく実に複雑多岐な世界がくり広げられているわけ
です。その根源であり中心である力は、神様と呼ぽうと、大自然と呼ぽうと、人類には計り知れな
い能力をもった絶対者なのであります。
私などが会いもしない人の心や運命がわかったり、他人の運命を改善したりすると、不思議な人
だ、神様のような人だ、としきりに不思議がられ、それが愛情となったり、尊敬信頼となったりし
て、私を取り巻く会ができたわけですが、私はこれからも、神様の愛と栄光を現わしてゆくことに
なるのですし、神様のみ心のままに働かせていただくわけです。その神様の力は、皆さん一人一人
の中にも働いているのでありますから、神様の力が自分の中で充分に働かれるように、神様と離れ
くう
た自分の想いというものを、少しでも少なくしておくとよいと思います。空という境地にならない
までも、常に神様を敬い尊び、神様のみ心のままに自分たちは生かされているのだ、ということを
心に銘じて生きてゆくことが大事なのです。
この肉体人間の、自分自身の力でなしうることは何一つとしてないのです。その事実を人間はは
っきり知らなければなりません。まず第一にこの肉体自体からして、自分自身で作りえたものでは
ないからです。それなのにどうして、この肉体人間を自分自身のものと思いこむことができるでし
38
ようか。本当に人間というものを考えてゆけば、まずそこのところでぶつかってしまいます。自分
というものははたして何んだろう、誰が一体父母を通して、自分というこの肉体人間をつくったの
だろう、とそこまでは一寸した人なら想いがゆきます。そして、まず第一番に不思議だなあ、と思
うのです。それから後は不思議百出となるのであります。しかし、普通の人は物質的な地球の生活
に追われて、そのやりくりで余り深いことを考えずに、日々を過してしまうのであります。
自分たちの頭で、飛行機やテレビや数々の創造や発明発見をしてきた人間も、大したものです。
しかし、そういう頭脳や能力をこの人間に与えた力は、いったいどこからきているのでしょう。人
間にそういう力を与えられた能力者こそ、驚くべき存在者といわざるをえません。それなのにどう
して無神論の人たちがいるのかと思うと、これも反対の意味で不思議でなりません。
物質生活を進歩させた科学文明
この人たちに言わせれば、神様がいればこの世の中は、もっと楽で幸せのわけだ、みんな自分達
の力でやってゆかなければ、この世の中は成り立たないよ、というようなことを言って、自分達の
利害関係のために力を尽してゆくのです。現在では肉体人間として生まれてきている、それ以前の
39神の愛と栄光
ことは考えようとしない習慣がついてしまっているのでしょう。人間に与えられている智恵能力
は、当然人間自体のものであって、他の誰からも与えられたものではない、という全く手前勝手な
考えで落ち着いてしまっているのです。
確かに神様がいらっしゃるにしては、この世の世界には、苦しいことや悪いことが多すぎます。
全智全能の神様が、どうしてこんな苦しいつらい人間世界をつくられたのでしょう。だから神様な
どはいないのだ、というのが、神様に背を向ける大方の人たちの想いなのです。一寸した信仰家で
は、そういう風に言われると、答に困ってしまいます。
しかし、自分自身はやはり神様の存在を信じて、信仰を続けてゆくのでありますが、そういう人
たちの力は、物質的には無神論の人たちよりも大体において弱いようです。ですから、自分たちの
ことだけを考えて、この世の生活を突き進んでゆく人や、この世における自分たちの物質的幸せを
より多くつくりだそうとする国家などが、この地球世界の指導権を握ってゆくようになってしまい
ます。現在もそういう傾向にあり、釈尊やキリストのみ心は、なかなか表面的にはっきり現われて
はきませんで、自我欲望の世界、弱肉強食の世界が続いているのです。
イソド等はそのよい例で、釈尊をはじめ古代から宗教信仰によって、その生活を営んでいる人々40
が多いのですが、宗教信仰的な観念にかたよっているために、物質世界の発展に力を注ぐことが弱
く、なかなか西欧諸国のような物質文明の発展がなしとげられないでいるのです。何故そうなって
しまうかというと、物質的世界の便利さよりも、精神的な満足感のほうにどうしてもひかれる長い
間の習慣を大半の人が身につけてしまっていて、例え物質的に不便であっても、宗教の戒律を守っ
てゆくほうを人々が選んでしまっているからです。またそれをよいことにして、為政者や上流階級
の自分勝手な人たちが、自分たちだけの快楽を楽しんでしまっているのです。
そこへいくと、アメリカや西欧諸国は、多くの人々が物質文明の発展を願い、物質世界の便利さ
をより高度にしてゆこうと働いているのです。そして、その人々は自分たちのそうした生活のため
には、宗教の道をはずれても余り気にしない、そういう生き方をいつの間にか身につけてしまって
いたのです。
誤った宗教観念は迷信と同じ
この二者の勝負は、この物質に支えられた地球世界においては、明らかなる差異を示してまいり
まして、物質文化の発展を阻害するような事柄であっても、宗教的な戒律に従って、生活をしてゆ
41神の愛と栄光
くイソドやそれに類するアジア諸国は、物質文明の発展のためには、次々と宗教の戒律を打ち破っ
てきたアメリカや西欧諸国の物質的生活から、はるかに貧しい苦しい生活に陥ってしまっているの
です。そして、そうした物質生活の困窮を援助してもらおうと、日本などに農業や工業の技術指導
を頼み、その上財政上の援助も頼んでいるのです。
地球上の生活は、次々と変化してゆきます。古代では考えられもしなかった物質的大発展を現代
はとげているのであります。それなのに、旧態依然たる宗教の戒律にしばられて、その生活の改革
ができずにいるようでは、世界の物質文化の発展にともなった生活から、おいてけぼりされるのは
当然です。発展途上国とか、後進国といわれている国々は、その国家や民族の古さとは関係なし
に、確かにこの地球世界の後進国となってしまって、他の国々からいろいろと援助を受けなけれ
ば、成り立ってゆかないような国家になってしまっているのです。
ですから、宗教の戒律に把われている国々は、一度その戒律を、現代の地球世界の生活状態と照
らし合せてみるとよいのです。他の国々の援助を請いながら、自分たちの精神的満足だけで生きて
いるようなことは、実に自分勝手な不調和な生き方だと思います。尤も秀でた為政者や指導者たち
は、国民を昔の宗教的戒律の自縛からときほぐそうとして、働いたらしいのですが、宗教的戒律や
42
昔からの習慣に把われている民衆の心を開発してやることができないでいるらしいのです。牛を神
の使いとして尊ぶあまり、牛がゆうゆうと道路に寝そべっていたら人間のほうがその牛に場所をゆ
ずって、他の道を通っていったり、一つの河を聖なる河として食事に使うにも、顔を洗うにも洗濯
をするにも、すべてその河でやっていて、衛生のことなど一切心にかけないという風だったり、文
明諸国からみたらどうにもがまんのできない事柄がたくさんあるのです。
そういう状態ですから、文明開化した国々が世界の先頭に立ち、そうした後進国は他の国々の援
助のもとに国の運営をおこなってゆくのであります。このような古い宗教観念で動いている国々を
みてきた知的な人々の中では、かえって、神や宗教を捨てて、唯物科学的に働きだしている人が意
外と多いのです。誤った宗教的生き方は、神々にとっては非常に迷惑なことで、どうしてもこうし
た宗教観念を改めさせねばならぬと、思っていらっしゃるのです。
一方では物質科学の発展で、地球世界が一度に灰になってしまう程の核爆弾が造られてしまい、
国と国との利害や感情のゆき違いで、一瞬にして地球滅亡という悲惨事がおこりかねないのであり
ますし、一方は神を思いながらも、それが迷信のために、世界の発展を妨げております。
43神の愛と栄光
原点にかえろう
44
どちらにしても、このままでは地球世界は滅びてしまいます。地球に住んでいる人類としては、
何としてでも地球を滅ぼすわけにはゆきません。地球を滅亡から救うためには、感情の面でも、経
済面の苦しさの面においても、ちょっとやそっとの忍耐をしてゆくのは当然のことです。それがで
きないで、お互いが自分勝手なことばかりいっていたのでは、しかたがありません。
こういうことは、毎回私が申していることなのであります。もうどう考えてみても、地球上に人
類が誕生してきた原点にたちもどって、地球の今後の運命を考えださなければ、地球上の大悲劇を
さけるわけにはゆきません。この原点にかえるということは、この文の冒頭で述べましたように、
神様という存在が不思議でならないという素直な驚きに人間の心がたちかえることなのです。神様
の不思議な力を畏れるのあまり、すぐにいろいろの戒律をつくったりしていた昔の風習を、そのま
ま行ないつづけているような、神様のみ心の本質をはずれた迷信では、勿論困るのです。
神様の存在が不思議であり、この宇宙の万般がみな不思議である、ということによって、ただ畏
れたり、自分たちを小さな者として神から遠くはなして行動していたりするだけですと、前から書
いてきたような宗教的戒律に把われて、昔からの風習で現代の物質文明の成果から遠ざかって生活
してゆくような、おろかな生き方をするのでは駄目なのです。神様が不思議であればあるほど、人
わざ
間は神様のその不思議なみ心やみ業の中にとびこんでゆかなけれぽその不思議な力はいつまでたっ
ても、人間と遠くはなれてあることになってしまいます。
神様は神様、人間は人間として、全く別の存在と思っているようなことでは、神様の不思議さが
わかってゆくわけがありません。神様の不思議さを少しでも解明してゆくためには、神様のみ心の
中に入るより他に方法はないのです。
宗教と科学の与えた恩恵
宗教に把われている人々や国々が、科学的知識がなかったり、文明文化の遅れた国や社会に住ん
でいたりするのは、神様の力を畏れてばかりいて、実は自分たちがその不思議な力をもつ大生命の
分生命であるということを、考えようとしないので、その不思議な力が自分のものとして、入って
こないのです。そこへゆくとかえって、唯物的な人達のほうが、自分の生命力を創造力として発揮
して、様々な科学をきり開いてきたのであります。
45神の愛と栄光
その人達は、神の力として、生命のあることを信じているわけではありませんが、生まれた時か
ら自然に育っている考える力を増大させて、自分たちの物質的生活を向上させることに真剣にとり
くんできたのであります。
神と呼ぽうと呼ぶまいと、与えられた生命は、物質的法則にのってさえゆけぽ、この物質界では
その働きを遂行してゆくのでありまして、その働きを生かすように真剣に努力してゆけば、自然と
知識、能力は増大してゆくのであります。そしてその人たちの物質科学は、今日まできたのであり
ます。
例、兄ば、電気の発明でもラジオやテレビや電話等々、またジェット機や人工衛星の完成など、皆
物質の法則を極め、それにのっとって完成していったのであります。そこには勿論、精神的な働き
も大いになされたのでありましょうが、これが神様、神様と呼んで突き進んできたというものでは
なく、その人たちの意識においては、自分たちの能力ですべてがなされた、と思っているのです。
物質科学者にとっては、この世の現象面に現われている物質や事物の変化の中から、変りなく働
いている法則を見出し、その上に立ち、それを基本にして、発明発見開発をおこなってきたのであ
りまして、昔流の宗教信仰のように、外の神にすがって、神々の力を借り、事を成しとげようとし
46
ているのとは大いなる違いを示しているのです。そして、物質的生活が主になっている現代の地球
の支配権は、そうした科学を背景にした人々によって握られているのであります。
ですから、すべてを肉体人間の力でやらねぽならぬと思い、肉体にまつわる知恵、知識を増大さ
せている人々が、社会で重要視され、神の力にすがってゆくような宗教観念の人々は、低めにみら
れてしまうのであります。中近東諸国の迷信ぶりをきいた人は、宗教をはなれてゆきたくなるのも
無理はありません。現在の地球人類が、結構な物質文明の恩恵に浴していられるのも、今日までの
科学者の勉学努力のたまものであることは、間違いないことなのであります。
それにひきかえ、正しい宗教信仰の道を進んでいる人たちの力が、どれだけ人類に恩恵を与えて
いるか、ということは科学者たちの働きの成果がはっきり現われているようには目立っていないの
です。
確かに表面的に現われている成果からみますと、これは問題にならぬように思われます。はなは
どれい
だしい貧富の差の改善、奴隷制度の廃止、人間生命の尊重、等々昔とは比べものにならぬほど、現
代は人間尊重の時代になってきています。これなどは、正しい宗教信仰の広く拡がってきている証
拠であります。もし、昔のような人間観だったら、日本などアメリカや西欧諸国のために、皆奴隷
47神の愛と栄光
にされていたことでしょう。それを考えても宗教が人々の心を感化してきた行跡もばかにならぬも
のです。
しかし、このぐらいでは宗教で世界が救われるなどとは、とてもいえません。といって、物質科
学の成果が功罪合まじっていて、ついには、核爆弾の誕生ということになってしまって、地球の運
命を非常に危険なものにしてしまったのです。どちらを向いても、地球の運命は明るいものではあ
りません。
48
神の愛と救い
神様は愛なのですし、地球人類は自分の子供であり、弟子でもあるのですから、救って下さるに
は違いないのです。だがどうも、現代の様相からみていて、このままでは救われそうもありませ
ん。個人々々の信仰のあり方によっては、救れを意識している人もありますけれど、人類が救われ
る、ということになると、それを確信的に肯定する人は甚だ少ないのであります。人類が救われる
にしては、あまりにも国と国との利害対立の争いが、はげしすぎて、神様の愛の入りこむ隙がなさ
そうに思えるのです。
物質世界が法則で動いているように、神の愛も法則にそって働かれるのであります。ですから、
愛の法則をはずれているような国と国との争いには、その光明を放射することはできないのです。
そこでここに仏、菩薩、いわゆる天使の出現が必要なのです。私は、その天使を守護神、守護霊、
今日ではそれに加えて、宇宙天使(宇宙人) の存在を説いて、これらの天使と宗教信仰深き人々と
の協力によって、業の闇に光明を放射することが必要だと力説し、私たちも真剣にその行為に献身
しているのであります。
今日までも、神々はいろいろの形で人類を救っているのでありますが、人類はその愛をあまり感
じていないのです。そしてかえって、無神論のような人がふえてきたのであります。そのようにな
ることは、神様は初めからご承知なので、最後の段階になりますと、神様の救いがまざまざとわか
るような救い方で、地球人類を救ってゆくのであります。
何故私が、いつも地球人類と書くのかと申しますと、人類は地球の他の各星々にも多数存在して
いるからです。そして、最初に生まれた星から、古い順に宇宙神そのままのみ心にまで成長してい
ったのであります。そして、そうした先輩のうちから選ばれた方々が宇宙天使として、現在は地球
の進化向上のために力を尽しているのであります。
49神の愛と栄光
私のところなどへは、科学の知識を流し込んでまいりまして、物質科学では及びもつかない超越
した科学を、教えにきているのです。
いよいよ神がこの世に姿を現わされて、正面きって、人類救済の手を差しのべる時代となってき
たのであります。地球人類の知恵、能力における科学の発展も、たいしたものだと思いますが、先
輩星の科学力は、地球科学など問題にならぬほど進んでいるのであります。そのいい例が、空飛ぶ
円盤と呼ばれている存在であります。地球のジェット機のスピードも遠く及ばない速さ、そして縦
横自在に飛び廻れる敏速さ、一箇所にとどまっていられる能力等々、ジェット機よりも秀れた面が
非常に多いのです。ああいう円盤流の科学が使われている星々が、現実にあるのですから、地球人
類も、神の救済の愛に真剣にすがってもいいわけです。
私たちは現実にそうした星々の人類と接しているのですから間違いありません。もう、地球人自
体では地球の滅亡を救えぬ時に至っていることは、この地球の状態をよくみつめてみれば、かなり
はっきりわかることです。しかし、愛そのものである宇宙神が、この人類の滅亡をそのままほおっ
ておくわけがありません。といって、抽象的な救い方では、地球人類は神の存在をはっきり感じま
せん。どうしてもはっきりと、神のみ心をこの地球界に現わさなければなりません。神のみ心が、
50
はっきり現われれば、悪や不調和は消え去ってしまいます。悪や不調和が消え去る時にどのような
状態で消え去るかということは別にして、その後は地球世界に地上天国が生まれてくるわけです。
そういう時を深い宗教信仰と、大調和科学によって、人類と神々とが一体となり、つくりあげてゆ
くわけです。
その日のくることを信じて、私どもは祈りによる平和運動を根本にして、働きつづけているので
す。(昭和52年9月号発表)
51神の愛と栄光
52
宗教心の出発点
宗教心とは何を指すか
この世の中において、宗教心の全く無い人という者が、果して何人存在するであろうか、という
ことを私は時折り思うのです。宗教心とは簡単にいえぽ、良心を発露させる心ということができる
からです。
ひようぽう
いかに無神論を標榜し、唯物的生活に終始していても、その人に宗教心のかけらもないといいき
ることはできません。なぜかと申しますと、良心は神のみ心の現れであって、狂人以外の人々の誰
の中にも存在する心であるからなのです。
ただ、その良心がどれだけ業想念、迷いの想いに蔽われているか、あるいは良心の発露が少いか
によって、その人の宗教心の高低が定まるのです。宗教心とは神のみ心、つまり、慈愛の心、真善
美を現わすことであるからです。ところが普通はこんなことを申しません。神といい、仏といっ
て、神仏を信じ仰がなければ、その人に宗教心があるとはいわないのが常識のようです。
ですから、どんな宗教団体にでも入会していて、どんな心の状態でいても、神様、仏様といって
いたり、神社仏閣詣りをしている人々が宗教信仰者といわれているのです。さて、どちらが真実の
言葉でしょうか。神様仏様と神仏を讃仰しながら、良心の光が強く輝いているような人は、勿論真
実の宗教者であるし、立派な人格者であるのですから、こうした人は問題の外にしておいて、神仏
のことは言葉にも筆にも現わさずにいて、その良心が輝いている人と、神様仏様と常にいいなが
ら、その行為において、真善美に反し、愛にもとることをしている人と、一体どちらが神に近いの
でしょう。
宗教を堕落させる宗教心なき信仰者
例えていえば、ある新興宗教団の信者のように、その団体に入会させるために、相手の迷惑を何
らかえりみることもなく、毎日のように強迫的言辞で、入会をすすめている人々や、神様神様とい
53宗教心の出発点
いながら、やたらに人の悪口をいったり、人をさげすむ行為をしたりしている人々と、別に取り立
てて神仏のことをいわないのに、常に困っている人たちの為に骨身惜しまず尽している人とのどち
らが、神のみ心に適っているかということを考えれば一目瞭然です。
神のみ心を隠す最大のマイナスの心は、自我欲望です。自分自分と、常に自己の欲望中心の想念
行為です。それは金銭欲、権力欲、その他欲と名のつくすべての想念行為がそうなのです。そうし
た欲望を、宗教の名を借りて達成しようとしている人々が、どれだけこの世の中には多いことであ
りましょう。
私はこうした宗教信仰者と称する人々に会う度びに、宗教の堕落が嘆かわしくなるのです。宗教
信仰とは、言葉でとやかくいうことではない。その人の想念行為が、神のみ心の愛と調和にどれだ
け適っているか、そうした道を突き進んでいるかによって、その深さ浅さを云々でき得るものであ
って、どんなに上手な言葉で神仏を説いたところで、その人の声に出る言葉の中に、その人の宗教
心があるのではないのです。
上手に文章を書いた、うまいことをしゃべった、と、自分の書いたり話したりしたことの成果に
満足していることは、宗教心とはなんの関係もないことで、自分の心が愛の光で一杯になってい
54
る。愛さないではいられない。人の為を思わないではいられない。理論や理屈で思うのではなく
て、人の喜びと自分の喜びとがいつも一つになっている。人の悲しみと自分の悲しみとが一つにな
っている。そういう実感が愛の心であって、これが宗教心の発露であり、世界平和を祈る心でもあ
るのですが、もう一歩進むと、そうした愛念にも把われない、澄みきった心でいて、そうした愛念
さえも消えてゆく姿として、祈り一念の心、神のみ心の中に住んでいられる程になってくるので
す。しかしこれは宗教の極意であって、誰もがそうした心境にこの世でなれるものでもないのです
じねんほうに
が、窮極は、何もの何ごとにも把われず、自然法爾に、神のみ心のまま、生きる生命そのまま生き
てゆくということになり、その生き方が、すべての人々の為になってゆく、ということになってく
るのです。
こうした心境になると、良心にも悪心にもそんな区別の全くない、大調和した想念行為になって
くるわけなのです。すべては消えてゆく姿、ただ在るのは神の生命、神のみ心のみということにな
っているのです。
宗教の世界というものは、我欲の無い世界であるのですから、いたずらに神様仏様といったとこ
ろで、それが自己の我欲達成のためにいうのであったら、これは宗教心の蔽われている業想念であ
55宗教心の出発点
って、自己を磨くことにはなりません。ですから、現世利益だけをいつまでも求めている新興宗教
の信者は永劫に、真実の宗教心を発露することはできないわけですが、守護神の慈愛というもの
は、いつまでもそうはしておかないもので、いつかは、そうした現象利益だけではおさまらぬ想い
が心の底から湧いてきて、もっと高度の宗教団体にいつかは導かれてゆくものなのです。
56
いちがいに無信仰だとけなせない
私のところへくる人々でも、はじめは現象利益だけを求めてくる人が多いのですが、いつの間に
か、本心の開発、真実の人間の発現の方向に想いを向け変えてしまっているのです。守護霊、守護
神はその人に一番必要なものをまず与え、それから徐々に真実なるものを発現させてゆくように導
いておられるのです。
ですから、どんな善い道であっても、相手が気のすすまぬ場合は、無理にすすめてもだめなの
で、ある時期を待つ必要があるのです。それは相手の守護の神霊が知っておられることなので、相
手の守護霊、守護神に相手の本心開発を願っておきさえすれぽよいのです。
現在は無神論者、唯物論者と見え、全く宗教を無視しているような人で、実は内部に深い宗教心
を持っている人が、たくさんあるのです。ただ、まだ時期が来ないので、内部の宗教心が、表面に
神仏信仰という形に現われて来ないだけなのです。しかし、そうした人は、現象利益だけで宗教信
仰している人よりは、余程に、良心的な行為をしていて、人のためや社会のためにつくしている、
愛の深い人が多いのです。
ですから、いちがいに、あれは無信仰だと人をけなしたりすることはできないのです。そのけな
している人より、けなされている人の方が後には深い宗教信仰者になり得ることがあり得るからで
す。
宗教心の出発点は二つある
宗教心の出発点は、自己の本体を現わしたい、本心を自由に発現させたい、という想いにあるの
ですが、その現れ方が、ある人々は、自分たちの日常生活がより善くなるように、あるいは病気や
貧乏や地位がよくなるように、という現象利益的な想いから出発しているような現れ方をし、ある
人々は、神仏を知りたい、自己の本体を知りたい、と直接宗教の核心に触れてくる人々もあるわけ
です。
57宗教心の出発点
これはどちらから入っても、その人々に定まった入り方なので、よい悪いということはできない
仕方のないことなのです。既成宗教の人々の中では宗教は現世の利益を求むるものではない、とい
いきっていたりするむきもありますが、それは人間の心を知らない人のいい分であります。この地
球界の人類の中で、現世の利益を全く求めない人などは、ほとんどないといってもよい程で、そん
なことをいっているから、宗教と日常生活とがばらばらになってしまって、かえって神仏と人間と
を離してしまう結果になってしまったりするのです。そして、真実の宗教精神から全く離れたよう
な新興宗教を生む結果となってしまったのです。
現世利益、現象利益を求めるのも、根本は自己の生命の自由、本心、本体の自由なる発現を望ん
でいることからなので、本人たちはその時はその真理に気づいていないだけなのであります。
58
神のみ心の中には唯物論者も無神論者もない
それと同じように、無神論、唯物論を叫んでいて、その線に沿って行動しているような人が、実
は自分たちが果して根本において何を望んでいるかを知らないでいるのです。その人たちも宗教信
仰者と等しく、自己や社会や、人類の生命の自由、人間の本心、本体の自由に発現でき得る、神の
世界を望んでいるのです。ただ、それが形が変って現われているに過ぎないのです。
神が大生命であり、人間はその分生命であることの厳然たる事実の前には、無神論も唯物論もあ
ったものではないのです。その人たちは神というところを、自然といっているだけで、生命という
ものを無視し、自然を無視し得る人はこの世に一人も存在し得ないのであります。
ですから神のみ心の中には、無神論者も唯物論者も何もない、ただ神の子の人間が認められてい
るばかりで、後のすべての想念行為は、神の光が現われれば、その場で消えてゆく姿となるのであ
って、遅かれ早かれ、神のみ心の現れだけの世界が、やがてこの地球界にも実現されることは間違
いのないことであるのです。
無神論者、唯物論者が、なぜ神を認めず、物の世界にのみ執着しているのでありましょうか。そ
れは、肉体の人間というものに、神を離れての独自の力があると思いこんでいるからなのです。何
事も肉体人間の力で切り開いてゆけると思いこんでいるところに、この人たちの不幸があるので
す。自分がこの世に在ることは親があってのことだ、ということを忘れ果ててしまった人が今の世
には多いように、親の親の親である、大生命の存在に気づかずに、しかもその大生命の恩恵を瞬時
も休みなく受けつづけているということに気づかないでいる不幸な人がこの人々なのです。
59宗教心の出発点
肉体人間への不信感と自然や祖先への感謝
宗教心の出発点は、根本においては自己の本心本体を自由に現わしたいというところから起るの
ではあるのですが、現れの面としては、肉体人間としての自己への不信感から湧きあがってくる場
合と、親や祖先、自然への感謝の気持そのものが出発点となっている場合の二つがあるようです。
私などはその両面であったようです。
肉体人間としての自己への不信感という場合には現象利益を求めての人と、直接心の安心立命を
得たいという場合とがあるのですが、共に、現在の自分ではだめだという、自己否定の心が働いて
いるわけです。自己否定のない人は、自己否定の想いがでるまでは宗教の門には入り得ないと思い
ます。
感謝の気持の強い人は、その心そのものが自他一体観であって、自分だけの力ではできないこと
を他からして貰っている、という他人や祖先や自然に対する心の交流の常にできる人なので、自己
否定が直ちに他との一体観、神仏との一体観になっているわけで、幸福な人であるのです。本当に
感謝の想いの強い人はいつも喜びがあって、心を明るくしていられて幸せな人だと思います。感
60
謝の想いは、自分を幸せにすると同時に他を喜ばせ、神のみ心を輝やかすことにもなるのでありま
す。
人間にとって、感謝し合う心は尊いことでありますし、真理が自然に現われ、神のみ心がおのず
と現われる大事なことであります。何事に対しても不平不満の多い人は、その人みずからが不幸の
禍の中に入っていってしまう人です。自我欲望が多すぎると、つい何事にも感謝ができず、不平不
満をいうことになるのですし、そうした想念は、神への道を自分で遠ざけていってしまう波を起し
ているのですから、神とか仏とかいう前に、まず自我欲望を少くするように心掛けなければならな
いのです。これが修養というものなのですが、自我欲望の強い人々はなかなかこの修養する気持に
もならぬ人が多いのですから困ったものです。
宗教精神に反する行為
宗教心への出発点にもゆかぬ人々がまだまだなかなか多いこの人生で、一体どうしたらこの世の
救いが実現できるのか、世の宗教指導者の等しく頭を悩ますところであるのです。そして、宗教信
仰者と称しながらも、一般の信仰のないと思われる人々よりも、もっと低劣な想いの人々、頭が狂
61宗教心の出発点
っているのではないかと思われる人々が、かなり存在するのにも困りものです。こんな人々が多い
ことによって、新しい宗教というものが、知識階級から馬鹿にされ、ひいては宗教そのものが誤り
考えられてしまうのです。
人に強制されたから入会した、義理ある人からすすめられたから入った、脅かされて怖いから入
ったなどという宗教信仰入りは、どうも感心致しません。現象利益を求めての宗教入りでもよいか
ら、求めるものをはっきりさせて入ることが大事です。私の会では無理強いして入れることを絶対
に止めています。宗教というものは、あくまで、その人自身の自由な想いによって求めるものであ
って、他の強制で入れるようなものではありません。守護の神霊は常に各人の背後にあって、その
人の本心開発のために、一番必要な手段を取っているのですから、各人の守護の神霊の一番働きや
すいように祈っていてやることが大切なのです。
人をたくさん入れれば、自己の立場がよくなるというような想いで、無理に入会させるなどはお
よそ宗教精神に反することなのです。はじめは強制されて入ったものが、今度は自分の立場のため
に人に強制してゆくという、悪循環をたどってゆく、昔の軍隊で古兵が新兵をいじめ、いじめられ
た新兵が古兵になるとまた新しい兵隊をいじめた、という、権勢欲にかられた行為がつづけられて
62
いるわけです。
欲望で入ってもいつしか本心開発に向っている
宗教の道にあっては、どんな欲望でも、その欲望をあおってゆくようなことは絶対にしてはなら
ないことなのです。たとえ種々な欲望で入ってきても、その欲望をいつの間にか消し去ってやっ
て、本心の開発、神のみ心の発現の方向に想いをむけかえてやるのが、真の宗教指導者の役目なの
であります。
病気や貧乏やその他の不幸を切りひらこうとして宗教入りする人が、新興宗教に入る人の中では
一番多いのではないかと思います。私のところにもこうした人々が多いのですが、これらの目的で
入会してきた人々が、いつの間にか、道ひとすじを求めてきた人たちと、同程度の心境になってく
るのですから面白いのです。私はどちらからきても全く区別することはありません。みんな神の子
あらわれのこころ
であり、本心開発のためにきていることに違いはないのです。ただ、その人自身が顕在意識で知っ
ているかいないかに過ぎないのです。
入ってくる時はどんな想いの形でもよいが、何年かやっているうちには、本心開発の道、神の子
63宗教心の出発点
の本体を少しつつでも開いてくるのでなければ、宗教に入った甲斐はないわけで、現象利益だけを
与えられて、それで満足しているようでは、いつまでたっても、神の子の姿を発現することはでき
ません。
宗教の本質は、神と人間との一体観、他と自己との自他一体観というところにあるので、いいか
えれば、大調和精神、世界平和精神を体得することであるともいえるのです。
唯物論、無神論の人々が、たとえどのように善い人であっても、その人々は、常に肉体人間とし
ての相対観で人生をみていますので、お互いの利害、これは個人社会人類の別なく、相対する利害
の前では、どうしても争いの想念行為で結末をつけねばならなくなります。なぜかといえぽ、この
人々にとっては調和し得る中心点がないからです。いいかえれば、相対したものを調和させる絶対
者がないのですから、お互いがお互いの力の争いによって、その結末をつけねばならないことにな
るのです。
これは唯物論者、無神論者ぼかりでなく、世界平和の祈り一念からすべての行動を起し得る人の
他は、なまなかの宗教精神では、相手の我欲の波にひきずりこまれて、遂いに怒ってしまい、腹立
たしくなってしまって、好まぬ争いに巻きこまれていってしまうのです。
64
これは個人も世界も同じことです。
い業想念の渦が動きだすのですから、
いのです。
国家となり人類となりますと、個人間のおよびもつかぬ烈し
余程深い宗教心がないと、この渦からぬけ出すことはできな
どんな想いで入ってもよい世界平和の祈り
そこで私は、宗教心の出発点からみ仏になるまで同じ態度で進めばよい、という宗教の道をひら
いたのです。それが世界平和の祈りの会なのです。
この道は、どこから入ってきてもよい。現象利益の面からでも、道を求める面からでも、神秘力
を欲っする面からでもよい。そうしたすべての想念を、世界平和の祈りの中に、すっぽり入れてし
まえぽよい。世界人類の平和を祈り、日本の平和を祈り、自己や自己の周囲の天命の完うを祈り、
そして守護の神霊への感謝で結ぶ祈り言の中に、自己の善悪あらゆる想念を入れ切って、その祈り
の中からでてくる生活を、そのままうけてゆけばよい、という道なのであります。
すべては神のみ心の現れであり、それは完全なるもの、円満なるものである。不完全不円満なる
もの、不幸なるものは、すべて神のみ心の現れによって消え去ってゆくものである。だから神のみ
65宗教心の出発点
心である世界平和の祈りの中に自分がすっぽり入っていれば、自分自身も神の子本来の完全性を発
揮できるし、世界人類平和達成の道にそのまま一役買っていることになる。というのが、私の世界
平和の祈りの主旨なのであり、実際にそうなってゆくのであります。
この道が嘘であれば、神の存在も嘘ということになり、神の絶対性は失われてしまうのですが、
神が実在して、生き生きと働きつづけていることは、私が体験として実際に知っていることであ
り、宗教を深くやった人は、誰でも知っていることであります。
66
神は唯一絶対、悪や不幸不完全はすべて消えてゆく姿
一方で神のみ名を称え、一方で業想念世界の波動を相手どって争い心を起しているようでは、と
ても世界人類が平和になることはありません。神は唯一絶対であって、他に在るものなし、という
大信念の下に政治を行い、政策を行うのでなけれぽ、国家や世界の経論を行うわけにはまいりませ
ん。
いかなる暗黒も、どのような悪も不幸も、謀略も、すべて消えてゆく姿なのです。なぜならば、
神の他に在るものなしが真理なのであって、神の他の悪や不幸が実在するわけはないからです。ぞ
れは神の姿、神のみ心が、この地球界に完全に現われるための、一時的な現象であり、人類の気づ
いた人々から、神のみ心にすべてをゆだねる全託の行為をしてゆけば、必ずこの世の不完全の姿は
ついには、消え去ってゆくのです。
消えてゆく姿をつかんで、とやかくいっていることは、神の姿を現わす邪魔をしているようなも
のです。っかんだり把われたりしたら、その想念を自分で消そうとせずに、すぐさま世界平和の祈
りの中に入れてしまい、世界平和の祈りがもつ大光明によって消してもらうのです。世界平和の祈
り一念で生活していると、いつの間にか、自分と世界平和とが一つになってきて、神我一体の境地
が開けてくるのであります。
平和の祈りの世界にはなんらの抵抗、対立がない
世界平和の祈りの世界にはなんらの抵抗がありません。抵抗のあるのは業想念の世界なのです。
私たち肉体入間は確かに業想念の世界、善悪入交じった世界に生きています。この善悪混交の世界
の中で、悪をなくし、善のみにするのはどうすれぽよいのでしょうか。善が悪にぶつかってゆけぽ
よいというのでしょうか。この世界は横につながっている世界です。
67宗教心の出発点
ですから、いつでも横に向って、相手と対しているわけで、善と悪とは常にぶつかり合わなけれ
ぽならなくなります。こうした状態が、いつの世でも闘争が絶えない不安混迷の世界にしてしまっ
ているのです。悪と対抗している善は、やはり横の波動である業想念といわなければなりません。
そうした横の波動の善悪相対の世界を一度び捨て去らないと、絶対善である神のみ心が、真直ぐ人
間世界にひらいてこないのです。
人間の想いというものは、全くややっこしいもので、なかなか神そのものの調和した心にはなら
ないのです。そのややっこしい人間の理念で、こちらがよい、あちらが悪いとやっているから、い
つまでたっても世界平和などできっこないのです。
だから私は、一度ひと思いに神様の全責任にしてしまって、自分たちの想念行為を全部神様に返
上してしまえ、というのです。そうすれば、人類はもともと神様の中から出てきた者なのですか
ら、神様の責任において、人類を浄化してくれるに違いないのです。そうした踏み切りがつかぬた
めに、人類はいつまでも争いつづけ苦しみつづけているのです。
大神様は、各守護の神霊として、各個人各国、各民族、人類を守りつづけているのですが、今日
ではそうした守護の神霊が一つに集合して、救世の大光明として、地球人類の最後の仕上げをしよ
68
うとしておられるのです。
この救世の大光明が、私には、世界平和の祈りという、自分が救われると同時に世界人類の救済
にもなるという、しかもやさしく行じられる教えを提唱させたのであります。
もう今日の時代では、この救世の大光明の絶大なる救済の光を受けなければ、とうてい地球世界
を破滅から守りぬいてゆくことはできません。もはや肉体人間の自力を捨てて、救世の大光明にす
べてをゆだね、大光明の光に照らされつつ、日常生活を送る時代となってきたのです。それが世界
平和を祈る日常生活なのです。(昭和35年10月号発表)
69宗教心の出発点
70
真の宗教

♂L・
誤った宗教の害毒
新しい宗教といわれるものの害毒は、各国において起っておりますが、先日南米ガイァナで起っ
た集団の自殺の記事には驚かされました。教祖が自己の癌で死期の近いのを知って、多くの人たち
を道連れにしたかった為かどうか、そこのところははっきり致しませんが、この人民寺院と呼ばれ
る宗団の様子がおかしいので、調査に来た米国の下院議員やその他の人々はそこの狂信者に射殺さ
れ、その果て、教祖をはじめ九百名もの信者が集団自殺を遂げてしまい、死から逃がれようとする
人々にも、無理に毒薬を飲ませて殺してしまった、という邪教そのものの新興宗教団体がありまし
たし、イタリヤで自分には宇宙人がついているという教祖が、信者たちを強制的に断食させたり、
無理な行動をさせて、死なせてしまったりした事件など、数えるとかなり多くの邪教的な宗団が各
国に存在するようでした。
大体宗教というものは、神と人間との一体観を得ようとしてはじまっているわけで、神から分け
られた人間の生命の自由をこの世において満喫し、神の理念を現実世界の出来事として現わそうと
してはじめられたもので、宗教をはじめたために、人間の自由が縛られ失われてしまうような宗教
の在り方は誤っているのであります。
新興宗教ばかりではなく、既成宗教の仏教やキリスト教などにしても、解釈の誤りから、邪教的
になっている向きもありますし、回教のように、戒律に縛られて、文明文化の進展をはばんでしま
う宗教もあります。ユダヤ教信者のように、神に選ぼれた民族意識が根強く、他との調和に欠けて
しまって、他からうとまれてしまう宗教もあります。既成宗教としては、ユダヤ教、キリスト教、
回教というようにいろいろと分れてきてはいますが、そのいずれもが、自己の宗教を最大のものと
して、お互いが一歩も譲ろうとはしていません。そこに暗黙のうちの戦いが行われていまして、ア
ラブとイスラエルのように領土問題を表面に立てて、お互いの宗教の権力争いになっているような
ところもあるのです。
71真の宗教心
日本にも数多くの宗教団体がありますが、誤った教えをしている宗団もかなりあるのではないか
と思います。
72
肉体の生活の中だけに生きていない
既成の宗教にくらべて、新しい宗教団体の在り方は、はっきりした現世利益を示す宗団が多いよ
うです。入団すれば、病気が直る、商売や事業がうまくゆく、といった具合です。病気直しも商売
繁昌も結構ですが、神様を、常に自己欲望の達成だけに利用して、神様や人間の本質を少しも知ろ
うとはしない、宗教入りというのは、唯神論でも唯心論でもなく、唯物論と同じように、限定され
た現世の生活だけのものになってしまっています。
それでは永遠性の神の生命というものが、人間の生活の中に生きてきませんので、真の宗教の道
に入ったとはいえないのであります。人間というものは、この肉体生活の中だけで生きているもの
ではない、永遠の生命として肉体にも生き、幽体にも霊体にも神体にも生きているものである、と
いうことを知ろうとして、精進努力してゆくのが、宗教の道なのだと、いうことを勉強してゆかな
ければならないのです。それでなければ、その場その時々の肉体生活は救われることがあっても、
永遠の生命そのものが自由自在になることはありません。
ところが、霊性や神性というものは奥の世界、高い、深い波動の世界で働いているもので、この
肉体の五感で感ずることができませんので、つい、肉体生活の浮き沈みにばかり気を取られて、肉
体生活の幸福だけを追ってゆこうとするのです。肉体生活の幸福というと、先ず肉体の健康、次に
物質の豊富さ、権力の拡充といったように、この肉体生活の自由な動きを拡げる、ということにあ
る、と多くの人は思っているのであります。
死後の世界は存在する
この肉体生活には、最後に死ということがあるのでして、どんなに幸福そうにみえていても、死
に直面しますと、そこでその幸福は消えてしまうわけです。どんな物質的富有さも、権力の座も、
一瞬にして無に帰してしまうわけです。無に帰してしまうだけならまだよいのですけれども、事実
は、その無の後で、大変な苦悩や不幸が待ち受けていることがあるのであります。
それはどういうことかと申しますと、肉体の死の後の永遠の生命、つまり霊魂の波動の場が、そ
ういう苦悩や不幸を持っていたということなのです。それは肉体という場は離れてもその人々の生
73真の宗教心
命は消滅してしまうものではなく、肉体の他の階層でまた生きつづけてゆくという事実なのであり
ます。こういう事実を知っている人もかなりあるのですが、一般には知られておりません。神の在
り方や永遠の生命の原理も知らないで、ただいたずらに死後の生活の存在を知りますと、肉体の生
活が苦しいと、その死後の世界に逃避したくなりまして、自殺する人などが多くなってしまいま
す。自分の生命の生き方、想いや行動をどのようにすれば、どのようになる、という生命の法則を
知ってからでないと、死後の世界の存在を知ることも危険なことであります。その為に神様は一般
の人々には、はっきりと死後の世界の存在を知らせなかったのかも知れません。
しかし死後の世界は厳然として存在するのでありまして、生命の法則の通りに動いているのであ
ります。生命の法則はどのように動いているかと申しますと、大調和の方向に向って動いているの
であります。
宇宙の星々が、お互いの立場を保って、その存在を確立しているように、小さくは生物の肉体
が、諸機関の調和した働きによって、その肉体を保っているように、すべての存在を確立させる為
の根本的な生き方が生命の法則なのです。この法則を無視して、ただ肉体生活の幸福のみを追究し
てゆくことは、肉体離脱後のその人の生命の働きを苦しくし、不幸なものにしてしまうのです。
74
百尺竿頭一歩をこえよ
宗教学者や、死後の世界を知らぬ神官や僧侶などが、この肉体世界における心の在り方だけを説
いて、肉体生活の幸福を物質的欲望を超えることによって得さしめようとしていますが、物質的欲
望を超えるということが、肉体をもった人間にとっては、なかなか大変なことで、常に宗教的心と
かつとう
の葛藤を起してしまうのであります。
かつとう
そして、その葛藤の末に物質的欲望に打ち勝った人を秀れた人として人々は賞賛するのでありま
す。しかし心の勝利を得た人は大方は物質的には貧しい生活で耐えるようになって、家族はみじめ
な生活をするようなことになってしまうのです。しかし、自分ではそこまでできなくとも、そうい
う道を進もうとすることによって、自分の宗教的良心を満足させている人や、良心と物質欲との闘
いを、高度な文章や説法で説いている宗教学者方の在り方に共鳴して、知識欲を満足させている人
々もあるのです。
知性派の人々は特に実行より、知識欲の満足という生活を好んで、宗教に対したりしています。
だがこういう人々は、一たん苦難にぶつかりますと、精神がオロオロしまして、頭で考えるより実
75真の宗教心
行でゆこうと、体ごと生活にぶつかっている人より、みじめな境涯になってしまうことが多いので
す。
とに角、肉体人間としてしか、人間生命はないのだと思っていて、いくら宗教的道を進んでいっ
ても、常に頭の中でのぐるぐる廻わりで、知識欲をなだめているより仕方がないのです。百尺竿頭
一歩を越えよ、という宗教的在り方を実行しなければ、それ以上の進歩はその人たちにはあり得な
いのです。
百尺竿頭一歩を越えるということは、今日までの常識を飛び越えてしまえということなのです。
といって非常識になれといっているのではありません。常識を大きく拡げる、今日までの常識を超
えるということなのです。
誤った霊能
今日の常識では、人間とは、肉体をもったこうした形の存在、肉体が死ねぽ生命もなくなってし
まう、と思っているわけです。しかし真実は肉体が消滅しても、生命つまり霊魂は、永遠に生きつ
づけるということで、この考えまで常識を拡げ、超常識と今日の眼でみれば言われるであろう、宇
76

宙観に起って、すべての事件事柄を処理し、判断してゆかなければ、地球人類は滅亡してしまうの
であります。
しかしここに、非常に危険な落し穴があるのです。それは誤った霊能ということなのです。誤っ
た霊能というのは、真の神、つまり、大生命であり、宇宙の法則そのものであり、すべての創造を
司る、絶対者である神と人間との間に、人間の肉体を自由にして自分たちの楽しみにしようとして
いる、様々な幽波動の中で生活している生物を介在させてしまうことなのであります。
私の説いております、守護神、守護霊と言うのは、肉体人間と、絶対者である神との間を素直に
つなげる為に働いておられる神霊方のことでありまして、人間に永遠の生命を知らせ、大神様の働
きの一役をすべての人々が受け持っているのであることを、自覚させるように教育してくれる善
神、善霊のことなのです。
ところが、誤った霊能者の上に働く幽界の生物は、大神様と肉体人間との間を引き離してしまっ
おぎな
て、肉体身をもたぬ自分たちのマイナスを、人間の肉体を利用して補い、その肉体で様々な快楽を
むさぼろうとするのであります。肉体人間の存在しかはっきり知らない、しかも我欲の為だけに神
を求めているような人々の想いは、こうした幽界の生物に波長が合ってしまうので、こうした人間
77真の宗教心
を幽界の生物は喜んで使うのです。そしてその使われる側の中心者が、あたかも真の神にすべてを
教わるかのごとく得々として、我欲で神を求める人々を弟子として引き廻わすのであります。こう
した幽界の生物は、肉体波動に近い波動をしていますので、肉体波動の動きがよくわかりますか
さわり
ら、肉体生活の運命の未来を予言したり、肉体にまつわっている障擬を、それが自己より力の弱い
さわ
ものであれば取りのぞいて、自己の力を示したりするので、障りによる病気が直ったりするので
あが
す。そこで人々は、こうした肉体人間にはできない能力を、神の力として、神様として崇め、その
中心者は神の使いのように思ってしまうのであります。
しかし、この神様は、大生命につながっている存在ではないので、いつかは更に強い幽界の生物
に負けてしまって、肉体人間ごと不幸に陥ってしまうのです。
さい
先に書いた米国の新宗教団体人民寺院など、その最たる見本で、幽界の強い生物の力で、幽界に
引き寄せられてしまい、信者の殆んどが自殺を遂げてしまったのであります。自殺といってもこれ
は、幽界の生物に殺されてしまったというべきなのです。いわゆる死神につかれたといわれている
部類です。
大神様、絶対者につながっていない宗教というのは、実は真の宗教ではありませんで、それは肉
78
体人間の我欲と、幽界の生物との遊びとがマッチしてできあがったもので、末は不幸になるにきま
っていますし、死後の世界での修業もまた大変なものとなるのであります。
いつも申しますように、真の宗教というものは常に大調和の方向に向っているもので、他との争
いや、不調和な状態で、自己の幸福を生み出すものではありません。もし他との争いの想いや、不
幸な不調和な状態が起った場合は、すべて過去世から今日に至る、神のみ心を離れた誤った想念行
為が、消えてゆく為に起った事件事柄であると思って、世界平和の祈りの中で、神々の光明によっ
て消し去って貰いなさいと、私は説いているのであります。
霊肉共なる救れ
肉体世界に生活している人間というものは、病気が直ったり、貧乏から脱去したりすれば、それ
だけ肉体生活が自由になったということで、現象の生活は幸福になってきた、ということになるの
でしょうが、病気が直ったり、貧乏から脱け出したりした方法が大事なのでありまして、その方法
いかんによっては、今後は前よりひどい病気になったり、再び一家心中でもしかねないような貧乏
になったりすることがあるのです。
79真の宗教心
それは、その病気の個所を直す為の強い薬を使ったことによって、他の個所が冒され、一時の病
気恢復で後には前よりかえって広範囲のひどい病気になってしまったりすることがあったり、貧乏
を脱け出す為に他の人々を騙して金品を得たりしますと、貧乏以上の苦難を身心に受けることにな
ります。
また宗教的に病気が直ったり、貧乏から脱け出したりする場合にも二種類ありまして、病気が直
ったり、貧乏を脱去したことが、そのまま神の愛と大調和のみ心と一つになってなされた場合に
は、まことにおめでたいことで、霊肉共に救われたことになります。
ひようい
しかし、病気の直った原因を霊的に観ますと、幽界の生物の葱依によってなっていた病気を、そ
の生物より力の強い生物が押しのけて、自分がその肉体身の主導権を握ってしまうことがあるので
ひようい
す。そう致しますと、その病気は一時は直ったようにみえますが、新しく葱依した幽界の生物にそ
の人間の肉体身は自由に動かされて、或る時は前よりもひどい病体になったり、精神がおかしくな
ったりします。貧乏からの脱去も同じことで、そのつきものが、金をもった人に想いの波をかけ
て、金を出させたり、商売人なら、その店で買いたくなるように客を呼びよせたりして、一時は味
方をしますが、元来が自己の快楽の為に愚依している生物なのですから、その肉体身に興味がなく
80
なると、ぽいっと突き放してしまいます。そうしますと、その肉体人間は、本来その人の徳として
金品が入ってきたのではなく、いわぽ借金のような形で入ってきた金品でありますので、忽ちその
金品は無くなり、以前に増した貧乏な不幸な生活に陥ってしまうのであります。
自然に神と一体化させる
それもその筈で、神からの富は途中で幽界の生物にさえぎられて、その肉体人間にとどかないの
です。とどかないというのは、肉体人間のほうで真の神の愛に呼びかけないで、自己の物質欲で幽
界の生物にすがってしまったのですから、是非もないことです。
どんなに宗教的にみえても、自我欲望を捨てさらなけれぽ、神との一体化はできません。しか
し、なかなか自我欲望を全部捨てきるということはできにくいので、私は自分で欲望を捨てようと
りき
力まないで、素直に神様に感謝するつもりで、世界平和の祈りを唱えつづけなさい、と説いている
のであります。自分の意志力で我欲を捨てようとしてもそれは大変なことなので、自分の意志力
は、世界平和の祈りを祈りつづけるというところにもっていって、病気が直りたいも、貧乏から脱
け出たいも、自分の心を清く正しいものにしよう、などというすべての願い事は、そのままでよい
81真の宗教心
から、そのままの心で、世界平和の祈りを祈りつづけなさい、というのです。そう致しますと、日
常生活はそれぞれの環境のままで、いつの間にか、自我で力むのではなくて、自然に神への感謝が
強まり、自然と神との一体化がなされてゆくのです。そう致しますと、病気も直ったり、貧乏から
のんき
脱け出られたり、いつの間にか、自分で嫌な自分の想いなども、消えてしまって、呑気な大らか
な、楽天的な自分になっているのであります。
宗教的な戒律や習慣性で、無理な常識外れの行いをしなければならなかったり、自分の心の自由
をうぽわれてしまったりするのは、誤りなのですから、あくまでも、調和な方向に自分の想いがむ
いてゆくように、神をはじめあらゆるものごとに感謝のできる人間になるように、それさえも忘れ
て、世界平和の祈りをつづけてゆくとよいのであります。
82
十字架について
十字架は犠牲精神の現れか
ト字架といいますと、すぐにイエスキリストを思い出します。イエスと十字架、キリスト教とト
字架というものは、切っても切れぬもののように思われています。
“己が十字架を背負いて我れに従え
” と聖君ではいっていますし、キリスト教の祈りは、十字を
切ります。
十字とト字架はキリスト教のシソボルとなっています。
さてそこで、この十字や十字架というものについて、キリスト教の人たちは、どれだけその真理
を知っているかが疑問なのです。
83十字架について
はりつけ
十字架を思い出すと、すぐイエスの礫の姿が浮んできます。悲哀の想いが、人々の胸を締めつけ
ます。そして十字架とは処刑の道具であり、犠牲の象徴であるように自然と想われてきます。イエ
スの後にも多くのキリスト教者が十字架による処刑を受けているからなおさらに、十字架と犠牲精
神とが一つにつながって想われてくるのです。
果して、十字架とはそうした処刑を現わすものであり、十字とは犠牲精神を現わしたものである
のでしょうか。
私の解釈は、そうした意味も含まれていないわけではありませんが、もっと深い高い、真理のシ
ソボルを十字とし十字架としているのであります。
“己が十字架を背負いて我れに従え
“確かに神様のみ心の中に入るのには、十字架を背負って入
らなければ入れません。十字架なしで、神のみ下に参ることは到底不可能なのです。
“それでは私たちもイエスや多くのキリスト教者のように、恐ろしい目に会わなければ、救って
は貰えないのでしょうか”と純真な信徒たちは心寒い想いがすることでしょう。
しかし私は、不可能なのです、で、すべての話を打ち切ってしまうわけではありません。私の話
はこれからが本題に入るのです。
84
正に確かに十字架を背負わなければ、神のみ心と一つになるわけにゆかないのですが、この十字
架を、私は多くのキリスト者のように、自己犠牲の意味にとっているわけではなく、真理の解明と
して受け取っているのであります。
十字とか十字架と云うものは、何もキリスト教だけのものではないのです。真の宗教者はどのよ
うな道から入りましょうと、この十字の真理、十字架の真理を、自己のものとしないわけには参ら
ないのです。
イエスと十字架とキリスト教徒
十字とは縦と横の交叉です。いわゆるクロスです。十字架とはその中心を示しているものです。
イエスの処刑の姿は、イエスが完全なるキリストとして、十字そのものに成り切ってしまった姿な
のです。
キリストとはイエスそのものの名前ではありません。キリストとは真理ということであって、イ
エスがその真理そのものに成り切った時、イエスキリストの誕生がそこに在ったのであります。
カルマ
ですから、イエスが、人類の業を自己の肉身に代えて、十字架上に礫になった時に、イエスはそ
85十字架について
のままキリストと成り得たわけなのです。
イエスの肉身による大犠牲は、宇宙の真理を身をもって地球人類に説法したわけなのです。その
無言の説法は、地球人類に多大の感銘を与え、地球人類の大きなプラスとして残されてゆき、多く
のキリスト信者が生れ出でたのであります。
ところがその反面、イエスの大犠牲精神による処刑の悲惨事が、人々の心に悲哀の想いを深く刻
みこんで、イエスのような犠牲によらなければ、自分の救れも人類の救済もでき得ないのだ、とい
うような、自己犠牲の想いと、この世の人類世界、地の世界を悲哀に充ちた暗い世界と思いこんで
しまうような、神のみ心を離れた想念波動が、キリスト者の間からふりまかれていったのでありま
す。
今日までのいつの時代でも、自己の良心に恥じる行為の平気ででき得る人々の方が、信仰心の厚
い良心的な人々よりも、常に優位な立場を、この地球世界では取り得ていて、イエスのような神の
み子といわれ救世主といわれた人でさえ、ああした悲惨な最後を遂げているのですから、それは無
理もないことなのです。
今日のようにあらゆる信仰の自由を許されている時代(或る国々ではまだそうではありません
86
が) に生れ合わせたことは、実に有難いことだと思います。
一般大衆の自由が極度に束縛されていた権力政治の時代に生活していたキリスト者、キリスト者
とは真理を行ずる者という意味ですが、こうした人々の生活の苦しみは、無信仰の人々のとても考
えられない程のものだったと思います。ですから、どうしても、この世を極端に暗い嫌な世界と思
いこんでしまい、自己の幸福はあの世の天国において充たされようと思ったのでありましょう。そ
うした信仰心が、各国において教えを広める為には十字架の礫をも恐れぬ勇猛心を奮い起させてい
たのであります。
その時代時代においては、この世の生活を否定するような生き方も仕方がないとは思いますが、
この世をあまりにも暗く汚れたものと思い過ぎてしまいますと、どうしてもそうした暗いみじめな
想念波動が、この地球界に更に蓄積されますし、自己の運命の波をも暗く重いものにしてしまっ
て、神の光明を受け入れ難くしてしまうのであります。
ところが封建時代の昔からくらべたら比較にならぬ程、個人の自由の許されている今日でも、い
まだに、そうした暗い重い雰囲気を、キリスト教信者はもっているようなのです。そうした暗い雰
囲気は、自己を責め裁き、他を責め裁く、というような形に変化して残っているのであります。
87十字架について
かたく
犠牲とか犠牲精神とかいうことが、一歩本道を外れると、自他を責め裁く想いになったり、頑な
に自己を主張する、というような妙な変化を起しやすいのです。そして、自己をこの世の面では不
幸にしていってしまいがちになるのです。
犠牲精神というのは確かに、人類進化の為に大きな働きをするのでありますが、常にその行為の
はりつけ
裏には悲哀の感情が含まれてくるのです。十字架に礫られているイエスの姿をみて、誰が一体歓喜
を湧き上がらせることでしょう。誰の心にも悲哀の想いが走り去るのです。
キソグオブザキソグスという映画を観た時、イエスの受難の姿、大犠牲の姿に、私たちはむせび
泣きつづけたものです。イエスへの感謝と共にイエスを憐れむ想いが観衆の心に湧きあがってきた
のであります。例えそれが俳優の演技であっても、そうなのです。
まして、自己の身寄りや、知人の中にそうした犠牲の姿をみたならぽ、果して人々はどのような
感情を抱くことでありましょう。恐らく悲哀の感情で深い心のもだえを抱くことでしょう。
88
十字の真意
十字架とつながる犠牲の想念を、私は十字の真の意味の解明と共に人類にプラスする光明想念に
変化させてしまおうと思っているのです。
この世の物質は、人間の肉体をまぜて、すべて縦、横、厚み、の三次元でできております。そこ
でこの世のことを、三次元の世界というのですが、近頃ではこの三次元に時間を加えて四次元とい
っている人もあります。
この物質の世界は、只単に物質だけで動いているわけではありません。物質自体は動かす力が働
きかけていなければ活動するわけにはゆきません。人間の肉体もその例外ではありません。霊魂の
ぬけた肉体が何んの活動力もない死物となるのは誰でも知っています。
人間をはじめ、すべての物質を活動せしめている力は一体何処からくるのでありましょう。この
力は大生命の十字の世界からくるのであります。
それでは十字の世界とは、どういう世界なのでありましょう。それは、陰陽の大調和した世界、
プラスとマイナスの全く調和している世界をいうのです。いいかえれぽ、宇宙神のみ心の中をいう
のであります。
現在私たちの研究しております、宇宙子科学によって説明致しますと、宇宙神のみ心、宇宙子科
学の言葉で云えば、宇宙心ですが、この宇宙心は、み子宙神の最初の働きかけである、宇宙核を通し
89十字架について
て、縦に天地を貫いて輝いているのであります。
この天地を貫いている宇宙心のひびきは、七つの宇宙核を根幹とし、縦横の働きとして、宇宙一
杯に生命波動をひびかせているのであります。この生命波動の一番最初のひびきを、宇宙子科学で
は宇宙子と名づけていまして、この宇宙子には活動しているものと静止しているものとがあり、い
ずれもプラスとマイナスがあるのです。この両方のプラスとマイナスの宇宙子が結合したり、分離
したりして、この地球界の科学で解明されている、陽子、電子、中間子などといわれる微粒子を形
成するのであります。その間の段階は十七段階といわれています。一つの微粒子の中にある宇宙子
の数は、実に驚く程の数でありまして、数字の桁数は二百桁以上何百桁もの数字を並べる程のもの
なのであります。
こうした微粒子によって原子ができ、分子細胞組識ができて、私たちの五感に触れる物質が現わ
れるわけなのです。そして一方では、活動している宇宙子の働きは、私たちが、霊と呼び或いは精
神と呼んでいる働きの面となり、物質化されている宇宙子と調和して、その物質、つまり肉体の働
きをなさしめるのであります。
こうして、精神と肉体との調和した人間ができあがるのであります。
90
ところが、この宇宙子の調和が破れますと、そこにすべての不調和が生じてきまして、病気や不
幸という、運命上の欠陥が現われてくるのです。それはあたかも、電流がまっすぐ流れていれば、
ショートしないですむのですが、その途中に何等かの障害物があると、そこでショートしてしまう
ようなもので、精神的宇宙子と物質化された宇宙子との交流を、さまたげる想念波動がなければ、
完成された人間がそこに在るわけなのです。
ここにおいて、十字の重大な意義があり、十字架の深い意味がでてくるのであります。
十字とは大調和のシンボル
先ず、精神的宇宙子を縦とし、物質的宇宙子を横の働きとします。何故精神的宇宙子を縦とする
かと申しますと、精神的宇宙子は、そのまま宇宙核につながり、宇宙心につながっているからであ
ります。そして、物質的宇宙子は、はじめは精神的宇宙子と同じように、宇宙心、宇宙核につなが
っているのですが、その活動をはじめて、或る拠点拠点にまできますと、各自横の働きとして、横
ひろがりに働き出すのです。そして、常時、精神的宇宙子の縦から働きかける光によって、その活
動力を補給されつづけて、その活動をつづけるのであります。
91十字架について
人間の場合、物質としての肉体がここにありますが、この肉体は、霊的精神的宇宙子の絶え間な
い補給によって、その存在が保たれているのです。そうした宇宙子の活動を、生命の活動といって
いるのです。
宇宙は、五感に触れない神界霊界から肉体人間の世界まで、すべて縦と横の十字交叉によって活
動しているのであります。その十字交叉のつながりを総体的に観じますと、丁度碁盤の目のように
なっているのです。といって、この現象界でみているように、碁盤の目が肉眼に見えているわけで
はありません。そういう働きになっているというのです。そして、縦の働きは陽であり、横の働き
を陰であるとしているのです。陽は精神的な働きを示し、陰は物質的な働きをするのですが、すべ
て陽は陰によってその働きが生かされ、陰は陽によってその働きができるようになっているので
す。このことは昔からいわれていることであり、この現象界でも、すべてそうした状態が示されて
いるのであります。
この陰陽の絶対調和しているところは、宇宙神のみ心の中であり、宇宙子科学的にいえぽ宇宙核
の中なのであります。宇宙核の中から、精神的宇宙子の陽の生命が縦にその働きかけをはじめ、物
質化すべき宇宙子の陰の生命が横に働き出すのであります。
92
人間の場合、肉体的に見れば、男性が陽であり、女性が陰でありますが、精神的要素からみます
と、男性が陽で、女性が陰であると、はっきり割りきることはできないのです。
キリストのいった、自己の十字架を背負いて我れに従え、という言葉は、表面的には、自己の肉
まつさつ
体的な利害関係や欲望を、すべて抹殺して我れに従え、という犠牲精神の強調でありますが、もっ
と奥底の真意を探りますと、自己が持っている業因縁の想念波動を、縦横十字の大調和精神の中に
入れ、その十字架を背負って、我れに従わなければ、神の国には住めない、ということなのであり
ます。大調和精神を強調している言葉なのであります。私などは、そういう真理を、もっと易しく
簡明にして説いているのであります。それが、すべての業因縁は、救世の大光明、神の慈愛の中で
消して頂けるのだから、すべての悪も不幸も誤った想いも消えてゆく姿と思い、そうした想念で、
今度は世界平和を念願する、人類の想いを代表した、世界平和の祈り、という祈り言の中に入りき
ってしまいなさい、と説いているのであります。
ですから十字とは大調和のシンボルであるのです。そして、その十字の中心、いわゆる十字架の
中心に、自己の想念を置くことが、完全なる自己の救れとなるのであり、人類すべての想念を、十
字架の中に入れきってしまうことが、世界人類の絶対平和を樹立することとなるのであります。
93十字架について
守護の神霊との一体化なくして自己完成はない
あらゆるものごとの完成は、すべて、縦横十字の調和、陰陽の和合にあるのでありますから、殊
更に宗教とか神様とかいわなくとも、そうした原理を忠実に実行している人は救れに入れるわけな
のです。只、今日のように、個人は社会と密接なるつながりがあり、社会国家は、人類すべての動
向を度外視しては生きられない時代になってきますと、個人だけの救れのみでは、まだ足りない、
ということになってくるのです。自己完成がそのまま、世界人類の平和を来たらすものでなくては
ならなくなってくるのです。
その為には、どうしても、個人の生命の親でもあり、人類をこの地球界に誕生せしめた、宇宙神
はじめ守護の神霊とのつながりを、しっかり自己のものとしなければならないのであります。
神様といわなくとも、宗教がなくとも、個人の救れはある、と先程は申しましたが、神の存在を
信じない人が、実際生活の面で、何人何事とも調和して生きてゆくということは、絶無に近いこと
ではないかと思います。
調和というのは、不平や不満が想念の中にはありながらも、争うことが嫌な為に、その不平不満
94
を底に押しこめて、表面上仲良くするということではないのです。また、自己をみじめな立場に置
いて相手を立てる、ということでもないのです。相手も自分も心の底から喜び合えて、和してゆく
のでなければ、調和ということはできないのです。
こうした調和の生活というものは、現在の地球世界のように不完全、不調和の波動の蔽っている
人類世界では、自己の天来の素質の善さというだけでは、至難なことであるのです。そこで、どう
ヘへ
しても自己の想念の調和精神とのずれを、訴えたり、投げ出したりする、誰かが必要になってくる
のです。それはどうしても、同じ地球世界の、いわゆる肉体人間では駄目なのです。
そこで、知らず知らずのうちに、自己の心の底でしっかりしたつながりを持つ、大生命神のみ心
の中に、自己の想念を流しこんでゆくことになるのです。神の無限の調和の供給がなけれぽ、如何
カルマ
に秀れた天来の善なる素質をもっていても、地球世界の業因縁波動に汚されずにすますことはでき
ないのです。
まして、そうした天来の善なる素質というものは、神のみ心とのつながりが素直になされている
霊魂塊の証左なのでありますから、神の存在を信じない人が、完全なる人格を現わし得るわけがな
いのです。この場合の神は、宇宙神でも守護の神霊でもよいのですが、守護の神霊との全きつなが
95十字架について
わけみたま
りのない人が、完全なる人格者と成り得ることはありません。何故なれば、守護の神霊と分霊魂の
自己との一体化によって、はじめて人間は完成することに定まっているからです。
96
犠牲精神も自他を生かす方法で
さて今度は、十字架の表面上に意味されている犠牲精神のことですが、私もこの犠牲精神という
ものは、人類を平和にするためには、実に大事な精神であると思うのですが、この犠牲精神が、人
々に悲哀の感情を抱かせるような現れ方をしたり、人類世界に悲哀の感情を伝達するような、想念
の在り方でなされては、プラスとマイナスが半々になってしまい、調和世界、平和世界を築きあげ
るためには、あまり感心できないことになってしまうのです。
ですから、この犠牲精神が、人々に暗い陰や、悲哀の想念波動を投げかけないような、生かされ
方をした場合には、神々の喜び給う精神となるのであります。
生命はすべてにおいて平等でなければなりません。他人の生命が大事ならば、自己の生命も神か
ら預かっている大事な生命です。その大事な生命を、他の為に痛め傷つけ、殺してしまうようなこ
とをしては、これは片手落ちになり、平等精神にかけることになります。
自己の生命を生かす為に、他を犠牲にするのは勿論いけないことにきまっていますが、自己を他
の犠牲にするのも同様といわねばなりません。
そこで、この犠牲精神を、他をも自己をも同時に生かしてゆくようにつかう方法が必要となって
くるのです。宇宙神の在り方は、すべてのものを生かしきるということにありますので、あらゆる
ものが、お互いに生かし合うということになるのです。ですから、真実の生き方の中には、犠牲に
なることも、犠牲を必要とすることもないのであります。
しかしながら今日までの地球世界は、不平等そのものの現れ方をしていましたので、誰かが、犠
牲になって、地球人類の不平等を正さなけれぽならないことになっていたのです。その最大の犠牲
者がイエスであったのであり、大小様々な犠牲者がこの世に生れ出でたのであります。
ところが、この犠牲者の中でも、その犠牲者自身も、その犠牲を最もなる喜びとしていたものも
あり、その犠牲によって、神の栄光を地上に輝やかし得て、人々の心に光を与えたものもあるの
で、犠牲という言葉からくる暗さは伴なわないのであります。その意味では、イエスの首うなだれ
た十字架の姿を、キリスト教のシンボルとしているようなやり方は、真理に添わないことになるの
です。同じ十字架を背負っていても、光り輝く十字架を、明るい希望に充ちた顔をしたイエスが背
97十字架について
負っているというようなものが、真理を現わす十字架像であると思います。
98
今日から世界平和を象徴する十字架をとれ
もう今日からは、暗い十字架のイメージはいらないのです。真理を現わす、光明燦然たる十字架
こそ、世界平和を象徴する十字架であるのです。天のみ心を地に現わすための、縦横大調和の中に
入り切る運動こそ、今日最大の救世運動となるのです。
古いものや、古い教えは、新しいもの、新しい教えの中に融けこんで、新しいもの、新しい教え
の支えとなってこそ、その古いものや、古い教えが永遠性を保ってゆくのです。時代は刻々と移り
変ってゆきます。古い教えを古い教えのままで、行おうとしても、到底行えるものではありませ
ん。イエスも釈迦も老子をも、すべて現代の中で呼吸させなければ、そうした聖者の生れ出でた必
然性が失われます。科学の世界では、常に過去の実績を土台として、その土台の上に、新しい発見
を積み上げてゆくのです。ですから、科学は年毎に素晴しい進歩を遂げていっているのです。それ
に比べて宗教の世界の進歩は、実に遅々としています。
それは一体どうしてなのでしょう。それは宗教の世界は、科学の世界のように、先人の教えを土
台にして、新しい教えがその上にプラスするものを積みあげてゆくということが勘く、常に先人の
教えが、最高峰にそびえ立っているからなのであります。
先人のやったことを、後の者が、又繰り返えして経験してゆき、遂いには、先人の経験し得た実
績にまでゆきつけずに倒れてしまうことが多かったのです。それでは、いつまで経っても先人の教
え以上に進歩してゆくことはできません。
宗教もやはり科学の世界のように、先人の発見の上に新しい積み上げをしてゆかなければなりま
せん。イエスや釈迦や老子の上に、現代の在り方を積み上げてゆかねぽなりません。私の宗教とい
うのは、そうした各聖者の等しく頂点としたところに、宇宙子科学という、未来の世界をつくり出
すに絶対に必要な科学の実績をつけ加えているのであります。
宇宙核、宇宙子の発見、縦横の真理の、言葉だけでない、実際応用面での発見こそ、今日までの
如何なる宗教の面にもなかった一大進歩なのです。今日ではもはや説法だけの宗教では用が足りま
せん。個人だけの救れでは足りません。どうしても個人人類同時成道の宗教でなければなりませ
ん。それが今日、世界平和の祈りの教えとして拡められているのであります。
“世界平和祈るは神のみ心のひゴきにあれぽ祈るたのしさ

99十字架について
全く世界平和の祈りの中に、
ることになるのであります。
個人のすべての想念を入れきってこそ、個人も世界も同時に救われ㎜
信仰心について
何を信ずるのか?
今ここで改めて信仰心について説くのも、おかしなようなものですが、真実に深い信仰心の人
は、意外な程に勘いものなのです。
信仰心というのは、一体どのような心なのかというと、これが判っているようで、案外判ってい
ないのです。
信仰心といえば、信じ仰ぐ心ということになりますが、その信じ仰ぐ対象は一体何か、といえ
ば、神だというのでしょう。ところが、ここが問題なのです。一口に神を信ずるというのですけれ
ども、そもそもこの神という存在がどんなものなのか、ということを知らない人が多いのです。
101信仰心について
神とは一体何なのでしょう。自分の御都合次第のことをお願いすれば聞きとどけてくれるとい
う、非常に便宜主義な存在なのでしょうか。
病気を直して下さい、貧乏を直して下さい、と願えぽ「はいよ」と、すぐにも、その不完全を直
してくれる力なのでしょうか。新興といわれる宗教信仰者の大半が、このところがはっきり判って
いないで、信仰だ、信仰だ、といっているように私には思われるのです。
既成、新興のいずれにしても、信仰の対象は神仏に求めていることは間違いありません。しかし
ながら、この対象となる神仏への導き方が問題なのでありまして、何々の神、何々仏という、信仰
の対象となる存在を、宇宙心のみ心に外れたような導き方にしてしまってはいけないことなのであ
ります。
以前にも書いたことがありますが、信という字はどのような意味を現わした文字かといいます
ことば
と、人と言とが一つになってできている文字です。人と言とが一つになっているということは、人
と言とが調和している一体になっているということで、言と人とが離れずにあることです。これは
実に大事な意味をもっているのです。
はじめことばことばことば
太初に言ありき、言は即ち神なりき、と聖書にありますし、言は即ち光なり、ともいわれていま
102
ことば
すように、神ははじめに言として現われております。そしてその言は光のひびきであるわけです。
ですから神は光のひびきとして存在しているわけです。
そうした宇宙に充ち満ちている光のひびきが神でありますし、その光のひびき、即ち生命の律動
によって生きとし生けるものが生かされているのであります。
信仰をはき違えてはいけない
そして、人がその光のひびきと全く一体になった姿、大生命の光のリズムと一つになった姿を信
という文字が現わしているのであります。
ですから、信仰というのは、そうした光に充ちた大生命のリズムに合わせた生き方をいうのであ
ります。信じ仰ぎ、というのは、そうした神と自己との一体化の姿を仰ぎ、そして信行してゆくこ
しる
とでありまして、そうすることによって人々の真実の生き方が、この地球界に印されてゆくわけに
なるのです。
こう考えて参りますと、種々な宗教団体の信仰のあり方が、果して、こうした真理に沿った神仏
観であり、生き方であるかが疑問となってくるのであります。
103信仰心について
私は神仏の存在を信じております、信仰しております、といって、各自が縁のある宗教団体に入
って、それぞれの方法で、自己の信ずる神仏への道を選んでゆくわけなのですから、それで結構な
リスム
わけなのですが、そうした神仏への道が、大生命の律動に沿った道であるか、どうかということ
が、その人の生涯を決定してしまうし、死後の世界への道をも定めてしまうのであります。そし
て、その個人の生き方は、知らず知らずのうちに、人類全般の運命にも影響を与えているというこ
とになっているのであります。
それはどうしてかと申しますと、この宇宙の生きとし生けるもの、在りとしあらゆるものは、す
べて、宇宙神、大生命の光のリズムによって、生かされており、存在しておるのであり、人間はそ
うした万物の中でも、霊長といわれているように、この現れの世界において、神のみ心の中心者と
して、万物を統御してゆく役割をもっているのです。
宇宙神、大生命の大調和のみ心、み光を、この世において、実現せしめるのが、人間本来の天命
なのであります。
そうした根本原理を知っていないと、兎角宗教信仰の道が、手前勝手な、自己本位の在り方にな
ってしまって、単なる病気直しのお願いや、御利益のお願いだけを、信仰だなどとはき違えてしま
104
うのであります。
宇宙神は唯一絶対でありますが、その働きとしては、様々な神々として分れて働かれているわけ
なのでして、その神々というのは生命の光をそれぞれの役目によって働かしめているのでありま
す。そうした神々の分生命が、この世でこうした人間というような姿で生活しているわけです。で
すから、この分生命である人間が、神々の生命の働きと、真っすぐにつながった、そのままの生き
方をしていさえすれぽ、自分も幸せになれるし、人類の為にもなっていることになるのです。そう
さわり
した神とのつながりが障碍なくできるようにと、自己の想念行為を神の方に振り向けておくことが
信仰の道であるのです。
常に守護の神霊への感謝を
いつも申しておりますように、宇宙神は法則の神としての姿と、救済の神としての姿とで働かれ
ていまして、法則の神としての在り方は、宇宙神ー直霊- 分霊としてあるのであり、救済の神
としての在り方は、守護神ー守護霊、としてあるのです。片方が生命そのものの在り方として、
法則のまま動いてゆくのでありますが、精神生命そのものは微妙な光の波動でありますので、物質
105信仰心について
界にその生命を働かせるためには、物質界の粗い波動との間にギャップができるのであります。そ
カルマ
のギャップが業として、この世での生命そのままの動きというものの邪魔になるわけなのでありま
す。といって、物質界が、精神生命と同じ微妙であったら、この地球界は成り立ってゆきません。
精神生命の微妙な縦の働きと、物質生命の粗い横の働きとが全き十字交叉になって、宇宙神のみ
心がこの地球界にも完全に現わされることになるのです。
カルマ
そこで、そのギャップの業を消し去るために、守護神、守護霊という存在が必要になってくるの
カルマ
であります。この守護の神霊は、そのギャップである業波動を消し去る為に瞬時も休みなく働いて
カルマ
いるのでありまして、この世における、病気や不幸や災難などは、人々の業波動を消し去るため
の、守護の神霊の光の放射によるのです。ですから、いかなる不幸や災難があっても、自己の想念
を神の方に向けきっていて、過去世からの業想念波動が今神のみ心によって浄め去られてゆくので
ある、という、信の心になっていることが大事だと私はいうのであります。そういう信の心になっ
ていさいすれぽ、必ず、その病気や不幸、災難は、かえって後には、その人の大きな幸せを招来す
ることになるのであります。
現在の如何なる環境をも、有難し、と受ける心になることが、信仰心の一番大事な在り方であっ
106
て、病気を直してくれ、貧乏を直してくれ、というような想いは、宗教信仰の初歩としては、当然
なことではありましょうが、少しく深くなってきますと、我ながら幼い信仰心だと思えてくるもの
なのです。
そういう、信仰への反省というものは誰にとっても必要なことと思います。
すえ
宇宙神をはじめ、神々のみ心というものは光り輝いているのですから、その喬である人間の心も
光り輝いた明るいものでなけれぽなりません。不幸な想念を抱いたまま、病気の想いを抱いたま
ま、悪いと思う想念をもったままで、神様、仏様といっていたとて、真実の信仰にはなりません。
そうした神のみ心に反する環境や想念は、抱いたままでよいから、それごと全部、神の大光明のみ
心に入りきってしまわねばなりません。それを全託というのです。
ところが、この全託行はなかなか一朝一夕ではできませんので、私は、消えてゆく姿という言葉
をつかって、消えてゆく姿で、世界平和の祈り、というように、今ある想念、今ある環境が、知ら
ず知らず神の大光明波動に切り替えられてゆくような祈り方を、教えているのであります。観の転
やみ
換による、暗と光の取りかえっこというわけです。
こうして、常に消えてゆく姿で、世界平和の祈りをやっていますと、いつの間にか、信の心が深
107信仰心について
くなってきまして、自己の環境に対する恐れがなくなり、人に対する嫌悪の情や自己に対する不信
感などもなくなってくるのであります。
神仏というのは、何も、神社仏閣だけにいらっしゃるのではありません。人間各自の心のうちに
も存在し、形の背後にも存在しているのであります。ですから、何処にいて、どんな格好をしてい
ても、守護霊様(祖先の悟った霊) 守護神様(直霊の分れの守護の神)ありがとう存じます、と祈
っていれば、守護の神霊は、その人々を守り易くなって、大きな災難になるべきものも、小さく消
し去ってくれることができるのでありますし、次第に宇宙神のみ心そのものとも、波長の合うよう
な立派な人格にその人を仕上げてくれるのであります。
そういう意味でも、世界平和の祈りは、守護の神霊への感謝を含めた、人類の平和祈願でありま
すから、効果が大きいのであります。
108
生命の流れは常に新しい
この世はすべて波動で成り立っているのでして、精神波動と物質波動の調和によってこの世は完
成してゆくのです。精神波動にしても、物質波動にしても、常に新陳代謝しているもので、古い波
動を把えつづけていては、新しい波動の巡ってくるのを邪魔してしまうことになります。その新し
い波動というのは何処から生れてくるかといいますと、宇宙神のみ心の中から生れてくるのであり
ます。
その最初の波動を出すところを、私たちの宇宙子科学では宇宙核といっているのであり、その波
動の最小単位を宇宙子と呼んでいるのであります。
精神波動にしても、物質波動にしても、古くなりますと、汚れてくるのでありまして、本来の働
きができなくなってきます。それは地球科学の細胞の説明でも同じことです。細胞が古くなるか
ら、老衰現象が起るのであります。
精神波動でも全く同じことで、宇宙核の中から絶えず、宇宙子の補給を受けていないと、精神活
動が汚れてきて、理非判断ができなくなって、人類の迷惑にも気づかず、原水爆実験をつづけてゆ
くようなことにもなってゆくのです。
理性が曇るのも、直感が鈍るのも、すべて、宇宙子波動の新陳代謝がうまくできていないからな
のです。そこで、常にその新陳代謝をうまくやるように、人間の想念はいつでも宇宙核の方にむけ
ておくことが大事なのです。宇宙核といっても普通の人には判らないので、神様の方に想いを向け
109信仰心について
て置く生活が大事だというのです。
神様といっても、只漠然と想うのでは通じ方が悪いのです。そこで、自分に一番身近い感じで、
しかも神様のみ心に近い存在である祖先の悟った霊、つまり守護霊さんに想いをむけるとよい、と
私はいっているのです。守護霊さん、守護神さんありがとう存じます。こうした感謝行は、常に自
さわ
分と神霊との一体化になっていまして、宇宙神のみ心が、碍りなく自己の分生命の方に流れてくる
ことになるのです。
病気や貧乏やその他の不幸な事柄から、宗教信仰に入る人が多いのですが、そうした不幸な状態
は、守護の神霊が、その人々に神との一体化の道を知らせる為になさせるのでありまして、神の存
在を知らず、信仰心の全く無いままで、この世の栄華を誇って、一生を終ることの不幸さは、この
世における病気や貧乏を如何程したとしても、神の存在を信じられる境涯になれた人の何層倍もの
不幸であるか計り知れないのであります。
こんなことをいうと、唯物的な人は、何をいっているのか、この世が幸せであれば、後のことな
どどうでもよい、というでしょうが、私のように、この世のこともあの世のこともすべて知ってい
る者にとっては、神への信なくして死んだものの不幸は、その人自身だけではなく、人類全般の不
110
幸を招来するものである、と嘆かわしくなるのです。
世界平和の祈りの運動
実際に死んでみれば判るのです。しかしながら私のやっている世界平和の祈りは、そうした唯物
的な人々をも含めての、心の平安を祈っているのでありまして、信ぜぬやつはほうっておけ、とい
うのではありません。
一人の不信仰者もない世界、それが即ち世界平和につながる道なのです。神の存在を信ぜぬ者の
平和運動などは、土台がないのですから成り立つわけがないのです。
原水爆禁止運動で、原水協の中の共産分子が、米国が原水爆を持つことは、彼等は戦争煽動者だ
から反対だが、ソ連中共が原水爆を持つことは、平和論者だから賛成だ、というようなことをいっ
ていましたが、これなどは、全くの手前勝手で、何処のどの国が持とうと、原水爆のような超破壊
兵器は、この世に必要はないものです。原水爆ばかりでなく、如何なる兵器も必要でなくならね
ば、世界平和は成り立たないのであります。
私たちの運動は、徹底した祈りによる平和運動なのでありまして、形の世界の平和な状態は先ず
111信仰心について
精神の面、想念の世界の平和を確立することにある、ということが最初の出発なのであります。
祈りとは、大生命との一体化の為の科学的な方法なのです。単なるお願いごとや、念力の行では
ありません。神の大調和なみ心と、人類の心とが全く一つになるように、私たちは人の心の波動
を、神の調和した微妙な波動に波長を合わせる運動をしているわけです。
それが世界平和の祈りなのであります。この運動は、私たち肉体をもった人間と、神霊との協力
による運動でありまして、それが一つになって救世の大光明波動を、この地球界に放射しつづけて
いるのです。
この運動には、守護の神霊の他に、宇宙人たちの大きな応援がありまして、ここに宇宙子科学の
誕生をみたのであります。見ずして信ずる者は幸なり、という時代から、見ずして信じ、信じて遂
いに見えざる世界を見える世界にまで波長を合わせることに成功した、ということになってきたの
です。
愛と調和の道
宗教と科学とが一つになってきたわけです。見ずして信ずるということは、宗教の道を進もうと
112
する人々の、是非なさねばならぬことですが、その信の心が、全託にまで深められることは並大抵
のことではないのです。そこで、宗教者のいう理論は判るが、それを実行することはとてもむずか
しいということになってくるのであります。
しんせんヘへ
信ずるという心には、その深浅の差が非常にありますので、信仰心と一口に申しましても、びん
ヘへ
からきりまであるということになります。そこで私がこの文章のはじめの頃から申しておりますよ
うに、信仰心というのは、宇宙神のみ心のひびきに、自己の想念をそのまま合わせることである、
というのです。
しかしながら、宇宙神のみ心のひびきというのが一体どういうように現われているか判らない、
という反問があると思います。そこで宇宙神のみ心は、調和であり、愛であるから、調和した心、
愛の心を各自の行いに出していることが、信仰心だということになるのであります。
ですから、宗教団体でありながら、他の団体や人々に対して、闘争するような、他を叩きつぶそ
うとするような行為をしている団体や人々があったら、その団体は、他に如何なる善い教えがあろ
うとも、その不調和な言動によって、宗教信仰の団体ではないと断言できるのです。
宗教信仰の道は、一にも二にも、愛と調和でなけれぽなりません。愛といっても調和といって
113信仰心について
も、ただやたらに、人の非を見すごしたり、業想念に妥協したりすることではありません。自己の
心の中に、相手を責め裁く想いや、相手を叩きつぶすというような想念を持たぬ、相手の本心の開
発を心から願っての批判や、叱声であれば、その人やその団体を生かすことであるから、調和精
神、愛の心に欠けるものではないのです。
おの
この区別は自己の想いをみつめてみれぽ、自ずと判ってくることで、世界平和の祈りのような、
神愛と人類愛とが一つに結ばれている祈り心の中からは、自然法爾的に、そうした深い調和の行為
や愛の行為が現わされてゆくのであります。
114
人類を正しい軌道にのせる
世界平和の祈りのような深い信の心、愛の心から出発した行為の中から、自ずと宇宙子科学のよ
うな、宗教と科学とが全く一つになって現われた、超越的科学が生れ出でてくるものでありまし
て、宗教の世界が、いたずらな説法を重ねている、という巷間の批判を超えた、現実世界の大きな
プラスを、この地球世界の人類の眼のあたりに繰りひろげてゆくのであります。
この事実は次第に世界の人々に判然としてくることなのであります。地球科学で巨億の富を費や
して研究しながら、未だにはっきりとしていない、電子や中間子の先きの微粒子波動の実体が、私
共の深い信の心、全託行から生れた宇宙子科学の研究によって、逐次判然としてきているのです。
宗教信仰心のない人々が、神の存在を否定して、すべてのことが今に科学で判ってくるさ、式の
安易な説をしていますが、神を信ずる気持もなく、神との一体化の道を極めもせずに、何んで、神
の実体である、宇宙自然の姿が判るわけがありましょう。宇宙自然の運行は、すべて、宇宙神のみ
心のひびきによってなされているのであり、私共人類の一人一人の運命も、宇宙神のみ心、自然の
法則のままに運ばれてゆくのであります。
私共人類が蒙る災害や不幸というものは、すべて、宇宙神のみ心、自然の法則に外れた想念行為
が、自然の法則の軌道に戻されるために、つまり波動の調整のため起ってくる災害や不幸でありま
して、私はそれを業想念波動の消えてゆく姿である、といっているのであります。
腕でも足でも、その骨が外れた場合には、その骨を、元の位置に直さねぽなりません。そして、
直す時にはどうしても苦痛のともなうものです。人類の上にふりかかっているようにみえる災害や
不幸というのも、恰度そうしたものなのであります。
ですから、人類をはじめ、どんな生物も、自然の法則に乗って生きてゆかねば、生きることはで
115信仰心について
きないものであり、生かそうとする自然の力が、軌道を外れた生物に働きかけると、それが恰かも
災害や不幸というような工合に現われてくるのです。
自然の法則というのは、つまり宇宙神のみ心であり、軌道外の生物を、自然の法則の軌道に乗せ
ようとして働く力が、守護の神霊の力である、ということになるのであります。
唯物論的な人々は、常に宗教信仰というものを馬鹿にして、科学科学といいますが、科学という
のは、宗教が、内面的に神を把握しようとするのとは反対に、現象面、外面から、宇宙神のみ心の
動きを掴もうとする方法なのです。
116
深い宗教信仰心の尊さよ
ただ、宗教では神仏といい、科学では、自然の法則といっている相違があるだけなので、人類の
目的は全く一つなのです。宗教信仰を馬鹿にする人も愚人であると同じように、科学精神を馬鹿に
する人も愚かなる人であるのです。
人間は、その定められた各自の才能の下に、それぞれの天命を持っているものであって、それが
宗教面直感面にむく人もあれば、科学面に向く人もあり、また、宗教面(直感面)と科学面(分析
面) とを共有している人もあるのであります。
どちらの面からいってもよいのですが、自己の進む道に深い信の心を持つように心掛けることが
大事なのです。信なき行為は、如何なる面においても、成功することはおぼつかないのです。
私共は、宗教信仰の面から入って、遂いに地球科学を超えた宇宙子科学、波動科学の領域に突入
したのでありまして、宇宙子科学の中では、宗教信仰と科学知識とが、全く一つに結びついている
のであります。
ようや
今日まで地球科学で判然としなかった、微粒子波動の奥の世界が、漸くはっきりしてきたのであ
ります。宇宙子科学によれば精神と物質の在り方、精神とは何か、物質とは何かということが、実
にはっきりと判明してくるのであります。
肉眼に見えざる世界が、肉眼で見え、五感で感じられるようになる時、見ずして信じつづけた、
古来からの宗教信仰者の尊い功績が、すっかり明るみにうつし出されるのです。人類が求めに求め
つづけていた宇宙の神秘が、宇宙神のみ心が、かなり深い奥まで、地球人類にも知らされる日が、
やがては訪れるのであります。そして、それと共に地球人類の全き平和もそこに樹立されるのであ
ります。これは単なる夢物語ではありません。古代からの聖者賢者や深い信仰心の持ち主たちの、
117信仰心について
その信の心のひびきが、今、
深い宗教信仰心の尊さよ。
私たちの手によって見事に華開こうとしているのです。
118
信仰と信行
神と人との一つの心
信仰という言葉は、神仏をあがめ仰ぐということで、主義や主張を信ずるという場合にはつかっ
ておりません。信仰心即ち宗教心というようになっております。大体信という文字は、神のみ心の
にんべん
ひびき(言) と人(イ) とが一体になっている、という文字でありまして、神のみ心を信ずるとい
う意味なのであります。
ことば
何故かと申しますと、言は即ち神なりき、と聖書にもありますし、言は光なりともありますよう
に、光のひびき(言)が神の本質なのであります。そして、その光のひびきをそのままこの世に現
わすべき役目をもっているのが人間なのでありますが、それが実際はそのようになっておりません
119信仰と信行
で、神のみ心つまり光のひびきを、非常ににごらせてこの世に現わしてしまっているのが、現在の
人間なのです。
そこで、本来の神の子の人に還えるためには、どうしても信の心そのものになっていなければな
らない、そのためには、神のみ心をあがめ仰ぐということが必要になってくる、人間の想いを神の
み心に合わせていれば、つまり信仰していれば、自然と人間の本心が開発されてきて、神の子人間
の姿がそこに現われてくる、というので、信仰心の大事であることを、種々の聖者が説いているわ
けなのであります。
ですから真実に人と人とが信じ合うということは、その言葉の意味から照し合わせても、お互い
が神のみ心を現わし合っていることによって信じ合えるのであって、自分勝手な我欲を現わしあっ
ていて、信じ合うなどということはできないのです。
神のみ心を一口で申しますと、愛、光明、誠意、調和、勇気、柔和等々でありまして、そうした
心がでている時は、その人が神のみ心を現わしていることになります。人と人とが信じ合う時に
は、必然的にこうした神のみ心を現わしている時に信じ合えるのであって、これに反する想念行為
を現わした場合には、不信の感が生じてぐるのであります。
120
悪漢たちがすぐ仲間割れしてゆく映画などがよくありますが、悪い想いの人たちの信頼などとい
うものは、その場その場のお互いのご都合主義によるものでして、真実の信の心でのつき合いでは
ないのです。そこですぐに仲間割れしたり、裏切ったりするのです。
信の心というものがこのように神のみ心の現れなのでありますから、真実深い信の心になるため
には、その心の本源である神を仰ぐという想いに常になっていることが必要なのであります。
ところが、あがめ仰こうとする神というものは、姿形のはっきり現われているものではありませ
ん。そこで、あがめ仰ぐ対象物として、神殿とか仏像とかいう形あるものを人間側が造ったわけで
す。そういう形あるものを通して、神のみ心に通じようということになるのです。そしてそれがも
っと現実的な対象として肉体をもった人間、つまり宗祖とか教祖とかいうものをあがめ仰ぐことに
よって、神のみ心に通じるということにもなってきたのであります。
信仰の人・信行の人
しかし、そういう対象物を必要としないで、自分の心が直接無形の中にひびきわたっている神の
み心に通じるように、常にひとり静かに祈っている人たちもあるのです。
121信仰と信行
このような信仰心のあることが、それと判る人々とは違った形で、信を行じている人々もおりま
す。それは無神論者と見え、唯物主義者と思われる人々のなかにあるのです。
それはどういうことかといいますと、先程も申しましたように、神のみ心は、愛、光明、誠意、
調和、勇気、柔和等々である、ということであります。
こういう心をその行為に現わして生活している場合には、その人は信の心の人であるわけです
が、これは信仰の人ではなく、信行の人というわけです。この人たちは人間の他に別に神という存
在を認めているわけではないので、神を仰ぐというような気持はありません。従って信の心はあっ
ても、信仰の心はないのです。
これを逆に信仰をしているような立場の人に当てはめてみますと、形の上では神を仰いでいるよ
うにみえながらも、実は、自己利益、現世利益のためだけで、神に助力を求めている、という人々
も多くなるわけで、この人々は、愛の心が深いわけでも、光明心が厚いわけでも、誠意、勇気、調
和等の心が深いわけでもない、只、神にすがっていれば、自分たちの生活が安泰になれるという、
自己本位の気持で宗教の道に入っているわけで、真実の信の心から出ている信仰心ではないのです
から、その信の心を人々のために活用しようという気持もないのです。
122
一方は形の上では、宗教信仰者に見え、一方は無神論、唯物主義者にみえますが、果してどちら
が信を行じているのか、ということになりますと、考えざるを得なくなります。
主よ、主よ、というだけで救われるのではない、とキリストがいっていますが、ここのところを
いったものでしょう。
その欠点と長所を示せば
無神論、唯物主義者といわれる人々のなかにも、真実に人間として立派な人がおります。愛の心
も誠意もあり、勇気もあります。只一番その人たちの欠点となるものは、調和の精神に欠けている
ことと生命の根源に対する感謝の想いがないことです。
自分たちの思想に対抗するものを倒さなければ自分たちの世界が樹立できぬ、という、そういう
考え方と、自分たちの心のなかにある、愛とか誠意とか勇気とかいう想念は、生命の根源から自然
と湧き上がってくるものであって、自分自身の脳裡でつくりあげたものではない、ということを知
らぬ無智との二点の誤りが、世界平和をつくりあげる為の決定的な欠陥となっているのでありま
す。共産主義者たちが、官憲の厳重な監視のなかで地下にひそみ、或いは獄門の苦痛に耐え、あら
123信仰と信行
ゆる不自由を忍びつづけて主義のために活動しつづけてきた、ということは、キリスト教信者たち
が、断圧のなかで生命を賭してその信仰心を貫徹していった、あの偉大さに匹敵するものと思われ
ます。
両者共に、自分たちの進む道だけが、人類の幸福を築き上げる道だと信じきっていたからに違い
ありません。
こういう人たちと現在の宗教信仰者というものとの差を考えますと、その信の心には大分の差の
あることがわかります。生命をかけても、どんな苦痛に耐えてもその信の心を変えない、というこ
とは並み大抵のことではありません。
自分や自分たち一家だけの幸福を考えての生活態度では、その道がたとえ宗教信仰の道であって
も、生命がけの信仰というまでの強固な信にはとてもなることはできません。この人たちにとっ
て、自分や自分一家の安泰ということがすべてであって、国家とか社会とか人類とかいう問題は、
自分の心の範疇にはないからなのです。いわゆる真実の信の心が薄いのであります。
新興宗教の信者のなかにはこうした人が多いのですが、もしこの程度の人々が、宗教の道にも入
らず無神論の生活をしていたとしたら、もっともっとこの世の進歩は遅れてしまうでありましょ
124
う。宗教の道に入っただけが、この人たちにとって、一歩の進歩であるというわけです。
私のいう信の心というのは、あくまで、神と人との一体の心ということで、これは神とか仏とか
いう対象を求めなくても、自己の想念や行為のなかに、神のみ心と等しい心が現われていることを
もいうのでありまして、信仰と信行と区分けしているのです。ですから、信仰があって信行のでき
る人が一番よいことになるのです。
無神論唯物主義者の人たちがせっかく、立派な生活態度を示しながらも、自己の生命の根源であ
る大生命(神) を仰ぎあがめる想いがないぽっかりに、神のみ心の一番根本である大調和というこ
とが判らず、この世を相対的な世界とばかり思いこんでいて、自己の思想に反対の人々を敵として
けつじよ
みる過ちを犯してしまうのであります。これは信仰心の欠如していることによる誤った考えなので
す。
この現れの世界は確かに相対的な世界であります。勝者があれば敗者があり、強者があれぽ弱者
があることも事実です。しかしそれはすべてが常住のものではありません。常に変化変滅してゆく
現れの世界のことです。こういう変化変滅し、消え去ってゆく姿のみを把えての思想や政策では、
真実の人類の幸福は生れません。それは生命の根源の世界に根ざしている思想でも政策でもないか
125信仰と信行
らです。どんなに立派な人が現われ、どんなに理想的な思想をもってしても、生命の根源から生れ
出た知慧能力であり、神のみ心からそのまま流れ出てきた政治政策でなければ、この世界の真実の
平和は生れてはきません。
これはひとり無神論者、唯物論者のみにいえることではなく、唯神論者や宗教信仰者に対しても
いえることなので、米国の指導者たちはみな一応宗教の教えを受けた人々でありながら、自国の利
害に関することとなれば、他国民を虐殺することなどなんとも思わずできるのですから、真実の信
仰精神というものにはなかなかなれないものであることが判ります。南ベトナムの問題など、人間
こう
の業の深さを思い知らされます。
126
真実の信仰精神に生きなければ関門は通れない
信仰というものは、神と人との一体化の道でありますが、神と人との一体化ということは人間は
生命において一つのものである、ということにもなるのです。神と人との一体化ということと人間
の生命はみな一つである、ということの両面が判るような信仰にならないと人類の真実の幸福はこ
ないのですが、これがとてもむずかしい。しかしいくらむずかしいといっても、そこまでの信仰に
ならないと、真実の信じ行う、信行の生活が生れてこないのです。この信仰と信行とが一つになっ
た生活ができないうちは、地球人類の運命は常に滅亡のふちを歩いているということになり、世界
人類が安心して生きていられる日は、永久に来ないということになります。
今日の世界はもう嫌とかできないとかいう段階ではなく、どうしても或る関門を通りぬけなけれ
ばならない、という時になっているということは私は何べんも申しておりますが、今日の生き方
は、今まで歩んできた道をそのまま歩いてゆけばよいのだ、という時ではないのです。今日までの
生き方がたとえどのように立派なものであっても、その道を進んでゆくだけでは、世界人類の滅亡
への歩みを変えることはできない。世界を滅亡から平和へと一転回させるのには、自らも今日まで
の生き方から一転回しなけれぽならないのです。
それは今日までも真実の信仰に生きていたという人は別ですが、この世の大半の人はどうしても
とうしゆう
今日までの生き方を踏襲していったのではだめなのです。南国に住んでいた人がそのままの服装で
北国の厳寒に耐えてゆけるか、ということです。耐えてゆく為には、その体を次第に厳寒に適する
ように変えてゆきつつ、寒さを防ぐ服装をつくっておかねばなりません。
現在宇宙の運行は、それと同じように変化してゆきつつあるのです。それは春から夏になり、夏
127信仰と信行
から秋に、秋から冬になるのと同じようにその変化は決定的なものなので、人間側がその変化に合
わせてゆくよりしかたがないのです。今日までの歴史がこうだったから、どうしてもこうゆくより
しかたがないのだ、というように、戦争を肯定するような動きもあるのですが、相手が攻めてくる
準備をしているから、こちらも攻めてきたら戦えるような態勢になっていなければならない、とい
って軍備競争をしているような、今日までの歴史の繰り返えしのような悪循環をしていたならぽ、
この地球は遂には原水爆で滅びてしまう段階まで突っこんでいってしまいます。
宇宙運行の変化というものは、宇宙全般の波動が変化してゆくことで、その影響で地球の波動も
変化してゆくのです。この変化に従って、地球を取り囲む自然状態も変化してゆくし、人間自体の
体、これは見えている肉体ばかりではなく、波動そのものが自然と変化してゆくのです。そこで物
質波動もその変化変滅、つまり消えてゆく姿が急速に現われては消えてゆくようになってきている
のです。それが気象状態の変化とか、精神的にも肉体的にも種々様々の病気の発生となり、狂人沙
汰の国際状勢を生み出したりしているのであります。ですから人間側が、今日までの生き方でこの
さから
世界を生きてゆこうとしますと、宇宙運行の変化に逆うことになって、遂には滅びてしまわねばな
らなくなってしまうのです。この宇宙運行の変化は、地球人類の階層が一段と高まるためのもので
128
あって、
す。
その真理を知って、それに合わせる生き方にしてゆきさえすれぽ、有難いこととなるので
守護の神霊の働きを知る人は少い
そういう生き方を指導するために、各人の守護の神霊たちは、様々な方法で陰からの助力をして
いるのでありますが、その真実を知っている人は甚だすくないのです。私はその事実をよく知って
おりますし、私の役目の一つはそうした守護の神霊の働きを多くの人々に知らせることでもあった
ので、まず「神と人間」という本を書いてその事実を知らせることに努めたのです。
今こそ、守護の神霊の働きを是非共知らねばならぬ時代なのです。守護の神霊の加護なくして
は、人間がこの世に生きていられぬ事実をはっきりと知らねぽならない時なのです。
個人を護る神霊、国家民族を護る神霊、人類全般を護る神霊、それらの神霊の一つに結集した大
光明を救世の大光明というのです。そしてそれに加えて、地球よりはるかに秀れた高い階層に住す
る他の星の人類、私たちはその人々を宇宙人或いは宇宙天使と呼んでいますが、それらの天使が、
種々と私たちに智慧能力をさずけてくれているのであります。
129信仰と信行
こういう五感に感じぬ波動の世界からの援助を信ずることが大事なのですが、これはやはり信仰
の無い人々にはできないことなので、無神論唯物主義の人々が、どのように立派な人でも、そのま
までは、新しい世界を築きあげる中心の役目を荷うことはできないのであります。
これからの世界は、肉体人間と神霊との深い交流によってのみ発展し進歩してゆくのであって、
その他のいかなる方策も、世界平和達成のためのものとはなり得ないのです。自分たちの現世利益
を願う想いを一歩進めて、世界人類の平和を念願するという信仰心に、みんながなって下さるよう
に願わずにはいられません。
130
日本は平和精神に徹すべきだ
歴史は繰り返されるのだから、滅ぼしたものは滅ぼせ、攻めてくるものがあったら攻めかえせば
えいこせいすい
よい、栄枯盛衰はこの世のつきものである、というような考えを、いつまでも持っていてはいけな
りんねてんしよう
いのです。こういう考えを一掃しない限りは、業の世界の輪廻転生をつづけてゆかねばなりませ
ん。
米国とソ連中共が常に対立をつづけておりますし、ソ連と中共がこれまた対立しています。とく
に米国と中共との対立は、いつ大戦になるか計り知れない凄味をもって世界をおびやかしておりま
す。
中共が原爆を持ったということが、米国を極度に焦らだたせ、隙があったら自国のやり方が正当
化される理屈がついたら、一挙に中共の原爆基地を叩こうとしている気運が確かに米国にはあるの
です。中共の核基地を叩いた後はどうなるか、世界大戦になる可能性が多分にあります。それを恐
しつよう
れながら、しかも執拗に中共を誘い出そうとして米国は動いております。
こうした米国の動きにつれて日本がどう動き出すか、これが問題なのです。佐藤首相は絶対に敵
をつくるようなことはしない、あくまで日本は平和の方向にだけ動くといっていますが、そうした
首相の考えを甘い考えだ、一日も早く憲法改正して軍備を増強しろ、という軍国主義的な人たちも
いますし、宗教者のなかでも、中共の核爆弾に対して日本も核装備してこれに対抗しなけれぽいけ
ない、力には力だと叫んでいる人もいます。
政治家のほうが、敵をつくるような動きをつつしんで平和の方向にだけ働くといっているのに、
逆に宗教者のほうが、核装備をしろ、といっているのですから、困った宗教家もいるものです。も
し日本が中共と開戦して爆撃し合ったら一体どういうことになるのでしょう。こちらが核装備をし
131信仰と信行
たからといって、中共の原爆攻撃をよけられるわけではありません。只報復爆撃をするだけであり
ます。例え米国が助けてくれたとしても、中共の爆撃を防げるわけではないのです。
もし中共が五発の原爆を日本に落したとする、日本も五発落すとする。日本はこんな小さな島国
です。中共は彪大な大陸です。その痛手は問題になりません。それに加えて、中共は国を挙げて一
つ目的に集中しています。日本は思想が分裂している上に、ぜいたくな生活になれています。気構
えにおいてもとても問題になりません。あらゆることで、戦争となれば日本は中共の敵ではありま
せん。これからどんなに多くの税金を取り立てて、喰うや喰わずで軍備に狂奔しても、中共だけの
軍備ができるわけでもありません。ちなみに米国の国防費は十八兆で日本の国家全予算の六倍にも
なります。その米国と四つに組んで渡り合おうと意気ごんでいる中共なのですから、日本は破滅あ
るのみです。
日本に核装備をすすめている宗教者は、一体こういう現実問題を考えているのでしょうか。遠い
見通しのないことを、いかにもそれだけより道がない、というような意気ごみで主張していること
は、実に困ったことだと思います。
それから右翼的な人々この宗教者もそうですが、天皇を元首にすることと、軍隊をつくることと
132
を、どういうものか一緒にしたがる傾向をもっています。天皇制の確立と軍備とを一つにして持ち
だすと、天皇と軍隊とが常に一つであるような気がして、再び昔の軍国主義になりそうで、しかも
その責任が天皇に負わされるという状態になりそうです。天皇がとんだご迷惑ではないかと思いま
す。
なんにしても、日本は世界平和の中心になるように天命づけられているのですし、大和というこ
とが日本の本質なのですから、日本がやたらに敵をつくるような行動をしてはいけないのは理の当
然であります。
世界平和だけを叫びつつけよう
メンノ
国家の面子ぐらいのことで、相手を傷つけ、自らが滅んでいくぐらい愚かなことはありません。
これが仮りに、日本が勝って中共が滅んだとしても、そんな戦を神が喜び給うわけがありましょう
か。お互いが一っ神の生命を分けられて生きている人間同志です。理屈をつければどこの国にでも
正しそうな理屈がつきます。お互いが正義をふりまわして、相手国の人間を殺し合うようなことを
平気ですることそのものが、もう正でも義でもないのです。
133信仰と信行
日本が過去において太平洋戦争に突入したのは、止むに止まれぬ事情でああなってしまったので
す。しかしそれは日本の業因縁の消滅となって戦敗れたのであります。日本は敗れたことによっ

て、民主国日本として新生しました。日本が真実の大和の国として起つために神意によって、その
邪魔となる過去からの業因縁を消滅させられたというよりしかたがありません。
中共、ソ連、米国等々勝ち残った国々は、日本程徹底した業因縁の消滅はしていません。その業
因縁をどのようにして消滅させてゆくか、神々はこの点を非常に考えられているのです。業因縁は
必ず消滅されねぽなりません。ただ、最もすくない痛みによってこの消滅を計るのが、国々を護る
守護神の役目でもあり、人類を守護する神々の役目でもあるのです。
中共は過去の日本の立場に今立たされております。両面に敵或いは敵になりかねない国、米国と
ソ連の重圧を受けております。米国は正に今にも飛びかからん様相を示しております。米国からみ
れぽ、中共が次々と共産主義の魔の手を伸ばしているということになりますが、いずれもその立場
においては相手が悪く見えるのです。
その間にはさまって、日本は何を好んで、世界大戦の片棒をかつぐ必要がありましょう。世界大
戦は最悪の業因縁の消し方です。神々はそんなことを望んではおりません。中共はまだ日本の敵に
134
なってはおりません。中共を敵とみて核装備でもすれば、ソ連も忽ち敵となります。米国と親密に
なるために、中共ソ連を敵とする必要はありません。軍備以外のことでいくらでも米国のためにな
ることもできます。
米国のためにも、ソ連、中共のためにもそして世界人類のためにもなる方法があることは確かな
のです。それはお互いを戦わせないことです。そのためにこそ日本は国家の全力を拳げてもよいの
です。それが日本の天命なのです。日本人が一丸となって、世界平和だけを叫びつづけるのです。
世界平和の祈りに結集するのです。あらゆる仕事のあらゆる政策の根本に世界平和の念願をはっき
りさせるのです。人類守護の神霊はこの運動に大きな光をそそいでいるのです。信仰と信行とを全
く一つにして私たちは世界平和の祈りの大結集のために、活動しつづけるのです。日本がまず神の
とりで
光明の砦となるのです。
皆さんどうぞ神の大愛を信じて下さい。神は決して人類を見捨て給うことはないのであります。
135信仰と信行
136
理性と直感力
理性派、直感派
人間には本来、理性の力と直感の力とが備わっております。そして、理性と直感の適当に融合さ
れている人と、理性力は強いが直感力は弱いという人、直感力は強いが、理性の働きが弱い、とい
う人等、いろいろ存在します。
理性の強い人というのは、一口にいって、考え深い人で、一つ一つの物事を常に深く探究してか
ら動き出すといった形になりがちです。ですから、物事をなすのに、敏速果敢というわけにはゆか
ぬかわりに、間違いも少いということになります。石橋を叩いて渡る、とか、石橋を叩いてばかり
いて、いつ迄も渡らないとか、いわれている人はこの部類の行き過ぎた人で、理性が強いというよ
り、真の理性を臆病という業で、くらまされている人といえるかも知れません。
真の理性というのは、天の理を知る性格ということで、天理を悟って物事を成す、という、人間
の尊い一つの資性であるのです。しかしこの人間世界には何事にも、真理をそのまま行ずる、とい
カルマ
うことを妨げる、業の想念がありまして、理性派の人の場合には、臆病とか、怠惰とか、引込み思
案とか、陰気とかいう、業想念が、天理につながる道をふさいでしまいがちなのです。そして、常
に人の後塵をはいした生活や、暗い陰気な生活に終始してしまったりするのです。
ですから、こういう人達には、受身から積極的に転ずる、直感力が必要になってくるので、常に
直感力を増すことにつとめ、臆病とか、怠惰とか、引込み思案とか、陰気とかいう業想念を一挙に
打ち破って、真理に直進する道が必要になってくるわけです。
やす
一方何事も直感的に、直情的に物事をなす人は、兎角失敗をし易いようです。物事の成り行き
おこな
や、人と人とのやりとりなどを、冷静に判断して事を行うのではなく、自己の感情にまかせて行っ
たり、一つのひらめきで行ったりしてしまうので、兎角の失敗があるわけです。しかし、その直感
通りに事が運べば、すべて、敏速果敢に事が成就して、何事もすっきりと整理されてゆきます。
ですから、この理性と直感とがうまく融合されている人が一番良いように思われますが、こうい
137理性と直感力
う人は、理性と直感が融合されてはいますが、その両方の力が弱い場合が多いのです。理性力も直
感力もそう強力ではないために、かえって両方が融合されている、ということで、ちょっと大きな
問題にぶつかりますと、一人では処理してゆけぬ、性格的な弱さをもっている場合が多いのです。
理性力も強く、直感力も強い、ということで両方が融合されていれば、これにこしたことはない
のですが、理性力の強い者は、ともすれぽ、直感力を無視し、直感力の強い人は、理性力が働くこ
とを、優柔不断として、拒否し勝ちなのであります。
理性的な人といい、直感的な人というのも本来からのその人の持ち味なのですから、その根本的
な持ち味をどうしろといったところで、これはどうしようもないのです。ただこの持ち味を充分
に、この人生で生かしきってゆくということが大事なのであります。この各自の本来性を充分に生
カルマ
かしきってゆけば、それでよいわけなのですが、これがなかなか業の想いに邪魔されて、本来性を
充分に生かすことができないのです。
カルマ
業の想いを消していく
カルマごうそうねん
ですから、人間が立派になるためには、この業の想い、つまり業想念を消し去ってゆかねばなら
138
ぬのです。私は常に業想念というような、新しい読者にとっては聞きなれない言葉をつかっていま
こう
すが、それをわかり易く説明しますと、業の想いということです。業というのは、人間が神の分け
いとな
命として、物質世界の地球という場において、人間としての生活を営もうとした時からの、原因結
果、原因結果として捲き起こされてきた、人類自体、人間自体の想念や行為の渦、つまり、想いの
波や行為の集積のことなのです。そこで、業には、善業というものと悪業というものがあるわけで
す。善業とは、人間が神の分け命であるという本来性をそのまま現わした時の行為でありますし、
ちどん
悪業とは、神の愛や調和という本来性から離れた、肉体人間として、物質世界の遅鈍な世界の波動
を現わした行為をいうのであります。この悪業は、神の愛や調和の精神を離れて、肉体人間として
の自己だけをかばう想いで、各自が奪い合い、争い合い、憎み合い、妬み合う行為なのですから、
人類世界を暗い住みにくい世界にしてしまったのであります。
人間はこうした悪業を恐れるのあまり、業というと、善業のほうを忘れて、悪業のみを想ってし
ごう
まうわけです。そこで業という言葉は恐ろしかったり、いやらしかったりする悪業の意味として、
多く使われているわけです。
139理性と直感力
新しい人間観で新生を
140
人間は私が常に申しておりますように、肉体に生れてきた時が、そのはじまりではありません
みしよう
で、肉体未生の神霊の世界におります時に、すでにその生命は、肉体人間の及びもつかない、微妙
で幅広い働きをしているのです。
こうしよう
ですから私は、人間は神の分け命であって業生ではない、と申しているのであります。人間は肉
体側からみれば、一層六、七十セソチ、五、六十キロの肉体の中にすべてがあるというように思っ
ておりまして、天地を貫いて働いている神の分け命の自分があることはわかっていないわけです。
これは肉体以外に現在の人間の五感では感じられないのですから、無理からぬ話ですが、それでは
いつ迄たっても、人類の進化はありませんばかりか、遂いには滅亡の危機にさらされてしまいま
す。
この地球人類の滅亡を救うのは、どうしても、自己が肉体だけの人間ではない、神と一つにつな
がった、自由自在に働ける神の分け命なのだ、ということを信ずるように自己の想いを向けてゆく
より仕方がありません。全く現在の人類は、自我欲望の渦の中で、各自各国が、自己や自国の有利
な生活のみを考えて、勿論他人や他国の幸せも考えないわけではなく、他人や他国を救う愛の行為
も少しはしているわけですが、なんにしても、根本が自己のためであり、自国の優位のためであり
ますので、大国は大国なりに、小国は小国なりに対立抗争の渦に捲きこまれていってしまうので
す。
そのいい例が、いくら原爆実験が地球人類のためにマイナスになるものである、と各国が口をす
なんた
っばくしていっても、核爆弾をもっている国々は、次々と何度びもその実験をくりかえしています
し、持たざる国は我れも負けじと、核爆弾をつくることに懸命になっております。イソドなど、一
億の餓死者をよそに、核爆弾の実験を遂いに成し遂げてしまっているのです。
常識的な眼でみれば、核爆弾をもった、そうした行為が、地球人類全員の首を自らしめつけてい
ることである、ということは実にはっきりわかることなのですが、各国共に、眼先きの力関係の優
位を得ようと、自らの首をしめるようなことを平気でやってのけているのです。
そうしつ
天理を知る理性というものを、各国首脳者は半ぽ喪失してしまっている形なのです。といって、
彼らは天の声を聞く、いわゆる直感力にも非常にとぼしいのであります。
自我欲望で理性をくらまされ、神の声を聞く直感力にもとぼしい人達に、この地球世界のイニシ
141理性と直感力
アチブを取ってもらっていて、いったい地球の運命はどうなるだろう、と案ずるのは、少し眼の明
いた人の大半の危惧でありましょう。
えいち
今や地球人類の悪業の渦は、神の叡智の人類への流れを、全く阻止しようとしているのです。こ
のことを地球人類誕生のその頃よりすでに今日あることを知っていられる神のみ心は、その昔よ
り、聖者賢者を、つかわして、地球人類に神の叡智を取りついでいたのであります。そのため今日
まで地球人類の運命は壊滅せずにいたのであります。しかし今日は、それら聖者賢者の働きにもか
かわらず、遂いには地球人類の運命はどうにもならぬ破局に次第にひきこまれてしまっているので
す。
142
強い理性と鋭い直感力の融合のために
今こそ、強い理性と、鋭い直感力とが融合した大政治家、大指導者を、各国がもたねばならぬ時
なのです。やがてはそういう時がやってくるでありましょうが、その日のためにも、人間の一人一
人が、自己の理性を生かし、直感力を充実させて、少しでも、社会国家人類といった大きなつなが
りのための働きができるようになっていなければならないのです。
そのためには、どうしても祈り心が必要になってくるのです。今日まで、毎回祈りについて書か
なかったことはありませんでしたが、今日は特に祈りについてくわしく書いてみたいと思います。
こう
本来の資質が理性力にある人も、また直感力にある人も、その理性力や直感力が業の波で曇らさ
れていたら、折角の神のみ心もこの世に現われることができません。理性力が石橋を叩いても渡ら
なくなるようになったり、直感力がひとりよがりの、おっちょこちょいの行為になったりしたので
は、どうにもなりません。そういう傾向が現在あるのですから、各自の理性力や直感力を曇らせな
いように、各自が気をつけなければいけません。
自分たちが、地球人類の運命を損うような歩み方をしながら、各国指導者の悪口をいったり、や
たらと政治に文句をつけたりしていたのでは、ますます地球人類の運命を危うくしてしまいます。
狭い範囲で物事をみてはいけない
日本なら日本の運命を考えてみてごらんなさい。日本のようになんら天然資源のない、他国にそ
の九〇%以上を依存している国家にとって、一番大事なことは、各国との調和であります。どこの
国にでも悪く思われないような生き方をしなければならない国の状態になっています。どこの国と
143理性と直感力
でも、争ったり、言い合ったりすることは、そのまま即座に日本の経済にひびいてきたりする恐れ
があるのです。
先日、米国大統領が日本を訪れて、いろいろと日本首脳部と話し合いをしたようですが、なんと
いっても米国は、現在は日本にとって大事な国でありまして、勿論自分勝手なところもありましょ
うが、深い事情も知らずにいたずらに悪口をいって、敵視したりすることのできない国であります。
その米国に正面から立ち向ってゆくような、革新系(社会共産) の政党が、日本の政治を握った
ら、いったいどうなるかといいますと、米国は先ず経済面で、日本が米国と手を組んでゆかなけれ
ぽ立ちゆかないのだ、ということを嫌という程知らせる行為に出ると思います。石油が高くなると
か、入らぬとかいう一事でも、日本の経済はがたがたしてしまうのに(大半の石油は産油国から直
接入るのではなく、米国系企業の手を経て入ってくるのです)小麦とか大豆とかいう、日本にとっ
て必要度の多い食糧をはじめ、多くの輸入品を制限されたりしたら、現在の自民党政府の政策のま
こう
ずさどころではない、経済的大恐慌が日本に起こってしまって、日本は一挙にどうにも立ってゆけ
おちい
ないような状態に陥ってしまうと思うのです。それは火を見るより明らかなことです。
そういう大事なことを考えないで、保守政権をくそみそにいう革新政党の言葉に乗って、保守政
144
たん
権から革新政権への乗りかえを考えるような国民が多くなったら、日本の運命も全く暗澹たるもの
になってしまいます。
国民の一人一人は自分たちという、狭い範囲で物事を思い、利害得失を考えていますと、遂いに
は国家をつぶし、人類壊滅の道への協力者となってしまいます。現在の保守政権は確かに国民の要
望を充たしてくれぬところが多いのですし、不満に思うことも多いのです。しかし、世界各国を見
渡してみて、日本より幸せだ、という国がどれだけあるでしょう。
イソド、パキスタン、アラブ、イスラエル、タイ、ベトナム、こうならべてみて、日本より幸せ
な国とは思えません。そういう国ばかりならべるな、ヨーロッパ諸国には日本よりよい政治を行っ
ている国がいくらでもある、とおっしゃる方があるかも知れません。私は世界中の国の内情を知っ
ているわけではありませんからはっきりわかりませんが、中には日本よりよい国政を行っていると
いう国があるかも知れません。あるだろうと思います。
あるという事実を知っていらっしゃる方は、そのよいところを、政府に進言したらよいのです。
まさつ
ただし、他国との摩擦の多いような政治政策は駄目だと思います。
ただ私は、日本の政治が、米国との協調から急に社会共産圏側にと転換していったら、今あげた
145理性と直感力
米国のやり方だけではなく、諸方に大きな摩擦が起ってきて、日本が駄目になるだけではなく、こ
の地球世界全体が駄目になってしまうと思うのです。
みひら
日本の人々は、大きく眼を瞠いて、日本と世界の情勢とをみつめていただきたいのです。
人間に与えられた、真の理性と真の直感を今こそ、はっきりと自己のものとして活動させねばな
らぬのです。そこに祈りの必要さ大事さが浮き彫りされてくるのであります。祈りこそ、今日最大
のなさねばならぬ行なのです。
146
想念意識の切り替えが必要
たびたび申しておりますように、人間は肉体だけではなく、肉体は人間生命がこの地球世界にお
うつわ
いて働くための、器であり場である、真の人間とは生命そのものなのである、ということを思い起
こして下さい。神の分け命であるこの人間生命を臓さず汚さず生きることが、人間にとって一番大
事なことなのでありますが、人間はこの地球という物質の法則に縛られている世界で生きるため
に、好むと好まざるとにかかわらず、物質波動に影響されて生きてゆかねばならぬ、状態になって
きてしまっているのです。
人間の生命の働きが、この地球世界の物質波動に同化して、肉体人間として、今日まで長い歴史
を生きてきましたが、今日では、地球の進化にともなってその物質波動にもかなりの変化が現われ
てまいりまして、今日までの物質波動より、一段微妙な波動の世界に近づいてきたのであります。
その現れが、ジェット機から、宇宙ロケットというようなスピード化となり、普通の顕微鏡から
電子顕微鏡にというように、微細なる世界への突入ということにもなり、あらゆる面で、幅広く、
奥行きが深い世界になってきました。
それなのに、大半の人間の意識だけは、相も変らぬ物質偏重の想念でありまして、物質の奥の精
神や霊性の人間というものをみようとはしないでいるのです。そこで、祈りが是非共必要であると
いうのです。物質世界に執着している想念意識を、人間生命の本来の世界、神霊波動の世界に切り
替えてしまうのが祈りであります。巷間の人間は、祈りを単なるお願い、と思っているようです
が、祈りとは、頭脳に去来する想いを、生命の根源の世界に昇華させて、臓れも汚れもない、純白
の生命の流れを肉体人間としての自己に流し入れてくる、そういう行なのです。
大宇宙神を、大生命と呼ぶように、宇宙隈なく生命の流れがゆきわたっているのであります。そ
して、大生命の奥から無限の働きが各星々やその空間になされてゆくのです。その無限の働きの根
147理性と直感力
幹に神々の存在があって、大生命(大宇宙神) の叡智のままに、大宇宙を完全なものに創りあげて
ゆくのであります。人間はその大生命の分け命であることはたびたび申し上げておるのですが、分
ちよくれい
け命の基の大生命の人類としての働きの根幹を私共は直霊と呼んでいるのでありまして、この直霊
は神そのものなのであります。
ですから、人類はそのまま神に直結しているのです。その真理を、どうしても人間は、肉体とい
う物質体の内側から生命の働きがなされているように思えて、素直に受け取れないでいるのです。
人間は肉体であって、肉体に制約されたものであって、神のように自由自在な存在ではない、とい
へだた
う人間の想いが、いつも神と人間との隔りとなってしまって、神の力をまともに受けることができ
なくなってしまっているのです。
148
神の光を肉体から放つために
こんばく
祈りというのは、こういう神と人間との隔りをなくすためにするのであります。分霊魂魂として
肉体頭脳を駈けめぐる想念を神そのものである直霊の座まで昇華させ、直霊の光明の中で浄めに浄
める行が、祈りなのです。この祈りを常につづけておりますと、肉体と直霊(神) との間の隔りが
いつの間にかとれてしまいまして、神の光が肉体から放たれるようになるのであります。
祈りの中でも小乗の祈りと、大乗の祈りとがありますが、私の提唱し実施している世界平和の祈
りは、大乗の祈りでありまして、小乗的想いが、自然とこの大乗の祈りの中に昇華してしまってい
るのです。
世界人類が平和でありますように
この一行に示されているように、個人の願いが、世界人類という、広い範囲にひろがって、個人
と世界人類とは全く一つに融け合ってしまうのであります。
そして、次の一行の、日本が平和でありますように、という祈り言で、日本、つまり、祖国日本
ひもと
と、霊の本という、人類の根源の世界と個人との融合がなされるのであります。三行目の、私たち
の天命が完うされますようにという願いの言葉でも、只単に個人の幸福を願うという小乗的なもの
ではなく、小乗を大乗に昇華させた、神の使命を達成させ給えという祈り言なのです。
あとは、守護の神霊への感謝でありまして、この感謝の想いがなくては、この世界平和の祈りは
くんとう
成り立たないのであります。私が守護神の厳しい薫陶によって、今日の霊覚を得、人間誰の背後に
も、守護の神霊は守りに守りつづけていられるのだ、ということを、実観として体験したのであり
149理性と直感力
ますが、この地球世界を守りつづけ、より一層の人類の進化を計るためには、肉体人間と、守護の
神霊との緊密なる一体化が必要なのです。その一体化実現のためには、守護の神霊への感謝の想い
を持ちつづけ、世界平和の祈りを根底にした生活を、多くの人々がなしつづけてゆくことより他に
方法がないのです。
真の理性でよくよく考えてみても、肉体人間の考えだけで、この自我欲望の渦に巻きこまれてい
る人類を、平和そのものの人類にしてゆくことはとてもできない、ということがわかります。
人間性悪説ではありませんが、人間の業というものは実に強いもので、頭で欲ぽるまいと思って
も、そうした損得の場になると、欲が頭を持ち上げてきたり、怒るまいとしていても、怒りが爆発
してきたり、妬みの渦に巻きこまれてどうにもならなかったり、肉体側から人間をみれば、人類は
最後には悪業のおもむくまま滅亡してゆくとしか考えられなくなるのです。
真の理性ではっきりそのことを認めたら、今度は真の直感に走るべきで、真の直感は、守護の神

霊への感謝を基にした、世界平和の祈りの中から、自ずと湧き起ってくるのであります。
ですから、真の理性で事を為すにも、真の直感で事に当るのも、すべて、守護の神霊との一体化
によって、なされることになるのでありまして、守護の神霊への感謝なくして、人類の今後の進化150
はあり得ないのです。
人類は今日までの唯物思想の欠点をよく噛みしめて、地球滅亡を防ぎ、地球人類の進化を計って
わら
ゆかねばなりません。今日からは、神が存在しないなどという唯物論は喧うにたえぬものになって
きます。大宇宙の進化は、たゆみなくつづいてゆくのであります。地球人類がその進化に取り残さ
れては滅びるより仕方がないのです。今こそ真の祈りをもって、地球人類の進化を促進させてまい
りましょう。
151理性と直感力
152
理性と信仰について
迷信くさいもの
宗教信仰というと、理性派の人は、すぐ迷信ということと結びつけ勝ちであります。世界各国ど
こにも迷信的な行為が行われておりますが、やっている当人たちは、実に真面目な真剣な気持ちで
やっているのです。
中近東諸国などには、日本人や欧米諸国の人からみれば、馬鹿馬鹿しいような、迷信行為が、国
の定めのようにして行われております。
回教徒の国のように、どんな大事な仕事があっても、きまりの祈りの時間になれば、一斉に仕事
を止めてしまって祈りに入ってしまったり、九番目の月には、夜明けから日没まで、飲食すること
もタバコを吸うことも、つばきを呑みこむことさえも禁じられている、という断食の月のようなこ
ともあります。また一生のうちに、必ずメッカに行かねばならぬことになっており、その為に必死
になって貯金をしたりしていますが、メッカまでは往復の長い砂漠があったりして道のりが困難
で、途中で病気になってしまったり、行方不明になったりしてしまったりする人が多かったのです
が、それでもメッカへの巡礼をしたことだけで、人々は満足していたというのであります。それに
メッカまで、這ってゆく、という話さえあります。
アラブ諸国にはインシャーラという言葉がありまして、アラーのみ心に叶えばという意味で、借
金の催促にいっても、インシャーラといわれると、それ以上催促ができません。イソシャーラとい
えぽ、神のみ心だから、ということで、その言葉を押しきっては何事も出来ないのです。こんなこ
とは、日本人からみれば、実におかしな話です。
インドの牛を神の使として大事にする話も、迷信くさく、道路に牛がいれば、みなただよけてゆ
くだけで、牛を除けようとはしないということですし、ガンジス河の浄めのように、洗濯や入浴が
わりにした汚れた水を飲んで、その水につかって浄まるという行事など、その人たちにとって信仰
なのでしょうが、私たちから見れぽ、迷信というより他はないということが多々あります。
153理性と信仰について
日本などでも、難病になると、狐がついた、狸がついた、といって、その人を火であぶったり、
棒などで叩いたりして、ついている狐狸を叩き出す、といった迷信が未だにつゴいているところが
あるといいます。何処そこの神社に詣れば学校が受かるとかいって、入試期には神社が大繁昌する
ということが、近頃はますます増えています。理性家の人たちからみれば、迷信に過ぎません。
154
理性と直感
はず
理性のある人々は、常識を外れた、非常識なこともしませんが、常識を超えた奇蹟が行われる超
はず
常識な行為もできません。常に常識を外れぬよう、人々に馬鹿にされぬような生活をつゴけている
わけです。こういう人たちは、生活に破綻を来すことも少ないのですが、奇蹟的な進歩や開運をす
ることも少いのです。いわゆる変哲もない生活をつゴけてゆくわけです。
ところが、宗教信仰に走ってゆくような人々は、理性より直感に重きを置きまして、不思議なこ
わら
とや、奇蹟を求めつゴけます。そこで理性派の人々に嘘われるような迷信も随分と生れてくるので
すが、時には真直ぐに神のみ心とつながりまして、大きな奇蹟を生むこともあるのです。
人間には理性がなくては勿論困りものですが、直感的な信仰心というものもないと、困難な事態
にぶつかると、進むも退くも理性だけではどうにもならなくなってしまうことが起きてきます。こ
ういう時、信仰心を強めて、直感的に前に進むということによって、,難関を突破することができる
ものです。ですから、理性だけに片寄っても、直感だけに片寄っても人間の生活はうまくやってゆ
けないのです。
理性派の人々に望むこと
そこで、理性と直感をうまくまぜ合わせて、真の宗教信仰を自分のものにしてゆくことが必要に
なってくるのです。
理性派の人々は先ず、大自然の不思議さ、生命の不思議さということを、じっくり考えてみると
よいのです。人間の理性で考えられる範疇は一体どのくらいあるでしょう。ほんの僅かしかない、
ということが、大自然や生命の神秘を考えていると、自然と判ってきます。
自分の生命は何処から来たのだろう、理性でこれを判断することはできません。簡単に両親から
来たのさと少しも不思議に思わないのでは、これは理性の判断ともいえません。そんなこと深く考
えてもみないよ、考えたって判りっこないもの、というのでも理性のある人とはいえません。
155理性と信仰について
とも角、不思議なことです。と生命誕生に対して、頭をひねるところから、人間の理性というも
のの働きがはじまるのではないでしょうか。そういう不思議は不思議として、自分の肉体生活に現
われてくる事件事柄を、常識の範囲で処理してゆく、というのが、普通の理性をもった人であるわ
けです。
しかし、いつ迄も現われてくる事柄だけを処理して自分の生活をしていれぽよい、というので
は、人間の進化はそこで止まってしまいます。不思議と思うその範疇に喰いこんでゆこうとして、
頭をひねって進んでゆくのが科学者で、そういう科学者の前進で、不思議と思われていたいろいろ
の事柄が、いつの間にか常識化してきているのが、現代の状態です。
ところが、科学者の真剣な努力の前にも、まるで歯が立たないような不思議さをもっているの
が、やはり生命の働きなのです。生命の働きのどれ一つとってみても、現代科学で割り切れるよう
なものではなく、奥底の不思議さにつながってゆくのです。
人間の内臓や諸器官が、頭でいちいち指図しなくとも自然と活動していることは、これは人間の
理性の範囲を超えていることで、いつでも不思議さを残している状態です。こうした不思議さは生
命そのものの中にあるので、生命の実体をつかまない限りはいつまでも残るわけです。
156
理性を超えた信仰心
そして、こうした不思議さがある限りは、宗教信仰というものがなくなることがないのです。理
性で判断できぬことは、神秘として、宗教の世界で求めるより他に方法はありません。宗教の世
界、つまり神仏というものは人間の窮極の行きつく先で、この道を突き進む為には、理性を超えた
信仰心より他にないのです。
ですから常識で判る範囲は理性で割りきってゆき、理性の判断を超えた不思議さは、信仰心をも
って求めつゴけてゆくことが、人間の進化にとって必要な方法であるわけです。そして、その不思
議さの中心ともいえるものが、生命の存在なので、人間そのものも全く不思議な存在ということに
なります。しかし人間というものが存在するので、その不思議さも感じることができるので、人間
がこ玉に存在する、というところからすべてを出発させなけれぽなりません。
人間は生命である、としますと、肉体人間から生命がぬけ出でてしまいますと、肉体としての人
間はそこで終ってしまいますので、肉体人間としての人間をみる限り、人間の生命は終った、と思
うわけですが、実は、肉体をぬけ出でた生命は、幽体、霊体、神体という肉体より微妙な波動体の
157理性と信仰について
中で生きいきと生きつづけているので、
ことになります。
人間は肉体身から他の階層に移って生活している、という旧
心霊科学の存在
ところが、肉体人間の理性としては、肉体の死をもってして、人間の終りと思ってしまうので
す。後は理性を超えた信仰の世界のこととなってしまいます。理性の延長でもあり、信仰心の一つ
の現れでもある、というような状態に、心霊科学、という分野があります。理性の限界である肉体
の死というものにぶつかった時、理性が背伸びして彼方の世界をのぞきみるような一瞬がありま
す。心霊科学というものは、そこから生れるのか、宗教信仰の一つの道として生れるのか、どうや
ら両面をもっているようであります。
心霊科学の実験で、足踏みして後退してしまう理性派と、一歩踏み出して、信仰者との境をちぢ
めてゆく人々とがあります。心霊科学というものもなくて、自然と宗教信仰の道を進み、神仏の存
在、霊界の存在を素直に信じて生活している人々はそのまx幸せなのですが、常識界のしかも知性
わら
派イソテリは、こういう人々をかえって救われ難い無智な人として、膿うのです。
学者やイソテリには、自分の肉体頭脳で見定めないものは、一応否定しつづけて、直感的には、
一歩も進めないのです。狐や狸につかれている、といってその病人を叩いたり、火あぶりにしたり
する迷信と、神仏の存在や霊界の存在を信ずる信仰とを一つにして考えられてはたまりません。
中近東諸国の迷信的生活では、文明文化の発展が進まないのは尤も、これは知性派インテリの言
う通りですが、イソテリが神仏の存在や霊界の存在のほうに一歩でも二歩でも進んでゆかないと、
この地球界は、相対的な世界のまx武力闘争で自らを滅ぼしてしまいます。これは現在の米ソの対
立の様相をみていれば、自ずから判ることです。
もう今日では、理性を超えた、真の宗教信仰の世界に飛びこまなくては、どうにもならなくなっ
てしまうのです。その真実を多くの人々に知らせるにはどうしたらよいのか、と一歩進化している
人々は、いろいろと手をつくしているのであります。
心霊科学もその一つの道ですが、心霊科学の実験をみないでも、神仏や霊界の存在を信じ、人間
は神の生命から分けられてこxに存在しているものであって、神のみ心なくては一瞬たりとも生存
していられないものなのである、ということを人々に知って貰うことが、地球を救う一番の早道な
のです。それが宗教信仰の根本の心なので、人間が理性に束縛されないで、生き生きと生きられる
159理性と信仰について
道なのであります。
160
生命を先に考える
肉体というものが、人間生命の一つの現れであって、肉体の他に体が幾つも存在していて、生命
のまΣ に働きつゴけているのだ、ということを、体験として知っている私たちの心からみれば、肉
体人間としての範疇でしか働けない理性というものに縛ばられた人生などは、間違いの少ない生活
方法のようにみえて、実は、人間の進化を妨げている生き方といえるのです。
人間は先ず肉体というものより、生命というもののほうを先に考えて、生命を大事にするという
ことを実践しなければなりません。国家や社会や未来の為に、肉体を捨てて尽した人々が尊び崇め
られるのは、肉体を生かしたからではなく、生命を生かしたからであります。社会や国家人類の為
に肉体身を投げ出して尽したということは、その人が、生命そのものとして働いていたことで、そ
うした行為によって、国家や人類は今日まで栄えてきたのであります。
それは戦争に肉体身を投げ出した軍人たちを、いかにも無駄死をした、というように言う人々が
おりますが、その人たちが肉体を投げ出したことによって、国家の面目は保ち、その民族が他民族
に馬鹿められずにすんでいるのであります。その人たちの肉体は若くして滅んでしまったのです
が、生命は国家や民族という大きな範疇の中で生き生きと生きつゴけ、その働きが、霊体の生活に
なってもひきつゴき、明るい光り輝く生活をつくりつづけてゆくのであります。それが理性的に生
きるというので、国家や民族の為より、先ず自分の肉体保全の方に力をつくしていたならば、かえ
って生命も生きず肉体も滅びてしまうことになるのです。
理性と直感のかみ合せを上手に
肉体をもったこの社会で生活している以上は、肉体生活をないがしろにして生活するわけにはゆ
はず
きませんので、どうしても肉体生活を守るということが主になります。それには肉体界の常識を外
れぬ理性の下に生活してゆく必要があるわけですが、しかし、それでいいのだとそのやり方一つで
生きていっては、先程から申しておりますように、人類の進化はこれ以上はなされなくなり、やが
て相対的な国家民族間の争いで自らの地球を滅ぼしてしまうのです。
そこに宗教信仰の必要があるわけで、神と人間とを一つにつなげ、人間本来の神の子の姿をこの
世に現わしてゆく大事な道となってくるのであります。理性の後は直感がなければならぬのです。
161理性と信仰について
直感とは、理性に頼らぬひらめきで、一瞬にして物事事柄を把握してしまったり、自己の運命の道
を定めてしまったりすることです。
そこでその直感が神の子である自分からくるものでなければ危険です。潜在意識から湧き出てく
る想いを直感と誤って事を運びますと、その直感によって自他を傷つけてしまうことがあります。
直感を重視する為には、どうしても正しい宗教の道が必要で、神のみ心と一つになる練習を常日頃
からしていなければなりません。
それが信仰であり、祈りの生活となるわけです。真の祈りがなければ、直感を頼った生き方は理
性的な生き方まり危険です。理性的な生き方には危険が少ないのですが、そのかわり、自己の進歩
も、人類の進化に役立つ積極的な行為もできません。
理性と直感とをうまく噛み合わせて生活してゆくことが人間にとって必要なのですが、その根本
は、どうしても祈り心が大事になってくるのです。祈りというのは、不安や恐怖や自他を傷つける
想いを、みな神様のほうにお預けして、神様から分けられている生命を、さまたげる想いのない、
そのままの力で現わす方法なのです。生命を生き生きと現わす方法といってもよいでしょう。
162
人間になくてはならぬ祈り
ですから祈りは人間になくてはならぬ方法なのです。私はこの祈りを、世界人類の平和祈願とい
う人類愛の想いを素直に現わした、世界平和の祈りという祈りにして人々にすxめているのであり
ます。
神様の親心と人間の親を慕い敬う愛の心とが一つに結ばれる祈り、それが世界平和の祈りです。
日々瞬々世界平和の祈り心で生活していますと、その人の行為がすべて理性で判断しても誤りでな
い、しかももっと高度な広い範疇の働きとなって現われてくるのです。
今日の世界情勢の中で、理性だけでは、理性を踏み破った無謀な武力行為に対抗できる筈がない
のです。アフガニスタンの状態がまさにその事実をはっきり現わしています。
何んでもかでも神様神様とどこの神社にでも現象利益を願って歩く信仰者より、理性家でいなが
ら、理性の範疇を一歩超えて祈りの世界に飛びこんでゆくような人のほうが、早く真実の祈りが判
るはずですし、神の実体を把握することができるのです。
理性派の人が自己が善しと判断して飛びこんでゆけば、そこから退くことは殆どしません。それ
163理性と信仰について
は自分の頭脳が納得して進んだ道だからです。私の会の人たちにも理性派と思われる人々が随分と
おります。
ともあれ、理性派でも直感派でも、これからは、世界平和の祈りがなくては、自分を生かし、国
家を生かし、人類を生かしてゆくという生活はできないのです。
164
宗教活動の在り方
新しい宗教の輩出
太平洋戦争の敗戦後、急激に増えたのが新しい宗教であります。神道、仏教、キリスト教の三大
宗教で代表されていた、日本の宗教界に、急速に、様々な形の新しい宗教が生れてきました。
新しい宗教といっても、いずれも、神道や仏教やキリスト教の教えや、そのいずれかをミックス
したものであったり、そこに精神科学の在り方をいれたりしたものですが、既成の宗教のように、
のんびりとおっとり構えているものではなくて、実に積極的に布教活動をしているのです。
その大半は病気直し、貧乏直しのように、現世利益を主としたものですが、中には精神的暴力で
信者獲得をしているものもありました。そして、それらの成果はすさまじく、既成宗教の信者数を
165宗教活動の在り方
はるかに上廻るものとなっております。
尤も、キリスト教はちょっと別にして、神道でも仏教でも、新しい宗教団体のように、がっちり
横につながって、皆が力を合わせて布教活動をしているのとは違って、時たま神社仏閣にお詣りす
るということや、葬式やお盆とか、お彼岸とか、回忌毎にお参りする、という程度で、宗団側から
布教活動や信者獲得活動をするということが殆んどありません。ですから新興宗教のほうが活動力
が強くなるのは当然なことです。
キリスト教を別に考えたのは、日本でのキリスト教活動は、カトリックもプロテスタントも、昔
から神道や仏教などと違って、かなり活発に布教活動をしていましたし、病院をたてるとか、社会
施設をつくるとかいう社会活動にかなり重点を置いておるからです。
先日テレビで或る有名な禅宗の坊さんが、対談をしていましたが、自分たちは自分でも出来もし
ないことを、人にすすめたりすることはしないで、自己の悟りを深めてゆき、自然に人々が、その
悟りに同化してゆくような在り方をしている、というような意味の話をしていました。対談してい
る相手は、その坊さんの話にまるで心を打たれた風もなく、自分たちとたいして違わないんだな
あ、と感じていたようでありました。
166
私がその坊さんの悟りの程度を霊察していましても、神霊の世界との交流も全くできていない、
普通人と大差はないように見受けられました。若い時から坊さんという立場で、坊さん一通りの修
行をし、老年になっても、坊さんとして定められた、坐禅観法を形なりにやってきて、それでよ
し、と自分できめているような心の状態でした。三界に住んでいる形だけのお坊さんという感じで
した。
仏教の坊さん方にはこうした人がかなり多いようで、真実悟りの道を歩いている人でも、行動的
に、社会や人々に働きかけてゆくという人は少いようです。仏教では自己完成が主で、人々への働
きかけは従のようにみうけられます。その点キリスト教では、社会や人類の救済活動と自己の救れ
とを、全く一つのこととして、社会を善くする活動即自己完成というようになっているようです。
教主のイエスさんが、天使として人類救済を目的として天降ってきた方なので、その弟子たちであ
る信者は自然と隣人とか社会人類とかいう想いが根本的に胸の中にあるのです。キリスト教信者の
中には知識階級の人や社会主義者などが割り方多いのはそういうわけなのです。
また反対に保守的政治家や実業家の中に、仏教信者が多いのは、現実社会で体を張って、それぞ
れの地位を築く活動をしてきて、内面的に自己をみつめる機会がなかったので、或る年令になる
167宗教活動の在り方
と、今度は自己の心の中を時折りのぞいてみるようになり、
れを抱くようになり、仏教信者となっているのです。
釈尊や、昔からの上人などの悟りに憧鵬
宗教団体の唯物論社会運動
ところで、新しい宗教の布教活動のことですが、布教活動の成果を得て、その教団がいくら大き
くなっても、知性派の人々はそれをもって、その教団の人類救済活動とは思わないのです。それは
只単なる、自己の教団の拡張運動に過ぎず、なんら人類社会のプラスになっていない。新旧を問わ
ず現在の宗教家は、社会人類のためになんら積極的な働きをしていない、と、知識人やジャーナリ
ストに、宗教者はいわれ通してきたのであります。
そういう声が常に宗教者の耳に聞えますので、これではいけないと思った新旧の宗教者の一部
は、手を取り合って、人類社会のための集団的働きかけをしよう、と思いたち、平和運動の会合を
世界各地に度々もって、なんとか、世界のために働こうと立ち上がったのです。
現在種々な形で、こういう集団が働いております。ベトナム戦争反対運動、人種差別への反対運
動とか、様々な反対運動を展開しているのでありますが、なかなか建設的な意見や方法がみつかっ
ていないのであります。
ところが、そういう運動をやっているうちに、表面に現われた問題にばかり気を取られて、いつ
しか心の問題から、その運動は外れてきてしまったのです。宗教者の運動というより、唯物論的な
社会改革運動のようになってきてしまったのであります。これが非常に問題なことなのです。
個人にしても、国家民族にしても、大きく人類そのものにしても、すべてその個人、その国家民
族人類そのものに、その運命の責任はあるのでして、例えその運命が悪い運命であったとしても、
現われている事態そのものだけを正したとしても、その運命の根源から、そうした悪い運命の波を
カルマ
浄め去ってしまわない限りは、何度びでも、同じような悪い運命が現われてくることは、業の必然
なのであります。
ですから、宗教者が唯物論者と同じように、表面に現われた問題だけを解決しようとして、その
相手方を攻撃したり、物品の援助をしたりすることは、宗教心の隣人愛の一種ではありますが、宗
教者としては、この隣人愛の行為の奥にある神のみ心を忘れてはならないのです。宗教老というの
は、あく迄、神のみ心をこの地上界において実現することでありまして、人間そのもの、人類その
ものがもつ、生命の働きを神、大生命と直結する、正しい法則に乗せきる働きをすることが、天命
169宗教活動の在り方
として荷せられているものなのであります。
はじめに出てまいりました、禅宗の坊さんのように、自己の悟りを深めて、自分に接する人々
が、自然と悟ってゆく、というような生き方は、確かに現在のように、地球人類の運命が、破滅の
方向に烈しく動いているような時には、悠長な気がして、ついてゆく気がしないのは行動派の人々
ばかりではありませんでしょうが、だからといって、個人や人類の悟りをぬきにして、地球人類の
運命を修正しようとしても、それはとても無理なことなのです。
170
厳然たる事実を忘れないこと
個人にしても、国家民族にしても、人類そのものにしても、それぞれ古くからの過去があるもの
でして、個人ならば、過去世からの業想念行為、国家民族として、或いは人類としては、その過去
きの
からの歴史の推移の中に、今日の運命と現われる、因子が積み重ねられているのでありまして、昨
うきよう
日今日の原因結果というような短い間の想念行為で各自の運命が決定しているのではないのです。
イスラエル、アラブの争いにしても、歴史的にわかっているだけでも二千年からの想念行為の積
み重ねなのであり、その奥を探ってゆけば、どこまでその根は古いものであるか計り知れません。
べつし
また、白人と黒人との人種差別、そして、黒人蔑視の問題にしても、個人や国家民族の貧富の差
の問題にしても、古い古い過去からきている問題なのでありまして、少しぐらいの愛念や、力つく
で納得させるというような、甘い問題ではないのです。
そのすべての根源は、人類が、神から分れてきている生命体であるのですから、神から分けられ
た生命がもっている能力によって、自分たちの運命を創りあげてゆくのである、という厳然たる事
実を忘れてはいけないのですが、いつしか忘れ果てたところから起こってきているのであります。
人類は神の分生命であり、各個人、各民族いずれも神の生命において兄弟姉妹なのであるという
事実を知り、その根本が、神の生命の調和の働きにあるという真理に目覚めてきての働きでなけれ
ぽ、いくら形の世界で、人類愛や隣人愛の働きをしているように見えたとしても、その活動は、ど
こかに不調和の影を残し、片方には都合がよいが、片方には都合が悪いというような結果になって
ゆくのであります。
宗教者が、あまりに形の世界の悪や不調和不平等の世界に突っ込んでゆきますと、ついその表面
の現れの面にだけ気を取られてゆきまして、人間が、神のみ心によって働いているのである、とい
う大本の在り方を忘れ、肉体身の自分たちだけの考えの下に、行動を起こしてしまうようになるの
171宗教活動の在り方
であります。これは全く、唯物論者の在り方と同じでありまして、神も祈りもない、物質面と、物
質面に附属している精神面という、表面的な形の世界だけの活動になってしまうのです。
そこで、宗教者の口から、神や祈りに頼って、
じ言葉が飛び出してきてしまうのであります。
一体何ができる、というような唯物論者と全く同
172
過去世プラス今生のたし算
私ども宗教者から、神を取り除き、神に直結する祈りの行を取り止めたら、一体何が残るのでし
ょう。宗教者の残骸が残るだけなのです。それならその人々は宗教者などという名をやめて、唯物
論者としての自己を打ち出して活動をすべきであります。唯物論者が、形の世界の物質面の幸せを
主にして活動してゆくのは、これはまたこれで意義のあることなのです。日本にも、自由主義者と
共産主義者との対立があって、お互いに相手の欠点を突き合って、火花を散らしているのも、大き
な観点からみれば、人類の進化を生み出す一つの神のみ心であるかも知れないのです。
カルマ
人類の業の厚みというものは相当なものでありまして、神のみ心がこの地球界に現われるのを大
カルマ
きく妨げているのであります。ですから人類が余程、神のみ心深く入っていないと、業(業想念波
動) に巻きこまれていって、正しいと思ってやっていることが、いつしか、神のみ心の中心である
調和の波に粥れてしまっていて、業想念の知慧能力だけでやっている状態になってしまいます。
どんな正しそうにみえることでも、肉体人間的な相対世界の知慧能力で行っていることは、必ず
相対的な相手方があるのでありまして、片方によいことは片方に悪いという結果が生れてきて、調
和ということから外れてしまうのであります。
表面に現われてきている事態が、いかに片方が善く、片方が悪く見えましょうとも、過去世から
の因縁因果、原因結果からみれぽ、表面上の善悪とはまた異なった状態がでてくるのです。過去世
プラス今生の計算が、現在の答となって、人々や国家民族の上に現われてきているのです。
勿論表面に現われている悪を正し、弱く正しくみえるものを救ったとしても、救う側の心の中
に、神のみ心の調和に合する心がなければ、只単にその場、その時の現れを正しただけで、奥にひ
そんでいる真実の原因結果には手をふれていないので、また再び同じような悲劇が、個人にも、国
家民族にも人類そのものにも、現われてくるのであります。そして業想念の輪廻はそのままつづけ
られて、人類の生命の光ある、正しい働きが、次第に蔽われてきてしまうのです。
173宗教活動の在り方
神のみ心によって運営されている宇宙
174
この大宇宙はあく迄、神のみ心によって運営されているのであり、地球はその宇宙の一つの星と
して、神の分生命である地球人類の智慧能力にその運命を任かせられているものであります。神の
み心に任かされているのでありまして、神のみ心を離れた肉体人間の勝手に任かせているのではな
いのです。
人類が神のみ心を心として、地球世界の運命を創りあげてゆくのが本道でありまして、この道に
はず
外 れれば、この地球は滅亡してしまうのであります。その滅亡への道を現在地球人類は歩みつづけ
ているのであります。今この地球人類の滅亡を防ぐ道は、人類本来の正しい道である、神のみ心と
の一体化を計って、地球世界の運営に当らなければならない、という一事あるのみなのです。
神のみ心を離れ、神のみ心と直結する祈り心を忘れた、肉体人類としての知識や能力だけで行う
ことは、それが如何に愛に充ちているようにみえましょうとも、その愛は神のみ心そのものの愛で
はなく、一方的な片寄った愛、深い真理からくるものではない、業の波に把われた情的愛の行為に
なってしまうのであります。
宗教者は神のみを求めるものです。神のみ心と一つになることのみを求めるものです。これはキ
リスト教も仏教も新しい宗教も同じなのです。その神を求める心が自ずと横に働いて、人類愛にな
り隣人愛になるのでありまして、こうした人類愛、隣人愛の行為こそ、地球人類の滅亡を救う力と
なってゆくのであります。
ですから神を根底に持たない、或いは神を離れてしまった、肉体人間的愛情から出ている行為
は、どうしても狭い、一方的な行為になってしまって、大きな調和の世界から逸脱してしまうので
あります。例えば、個人間の愛情の恋愛や親子の愛にしましても、肉体的愛情からの行為ですと、
どうしても本能的になりまして、お互いが自己の本能を満足させ、自己の我欲を主としてのやりと
りになりますので、神の愛である調和が欠けてまいりまして、争いや憎み合いの想いが出てきてし
まうのであります。
ところが、お互いを神の子として、守護の神霊によって結ばれた間柄であることを信じていさい
すれぽ、お互いが、相手の神霊を尊重して、相手のために尽すというように、自然となってくるの
であります。これは多くの実例がありまして、事実なのです。
175宗教活動の在り方
進化の道は限りがない
176
大体この大宇宙は無限の進化をつづけておりまして、或る調和が完成しますと、そこにまた少し
く不調和が生じ、その不調和を調和させるために、更に大きな進化をつづけて、更に大きな調和を
完成する、というようになっております。それは大は宇宙星辰の間においても小は物質の微粒子の
中においても、そうなっているのであります。
地球人類も宇宙世界の一員なのですから、宇宙と同じように、限りない進化をつづけているので
あります。肉体的に考えましても、アミーバ!から、人類にまで進化してきたという、ダーウィン
の進化説をそのまま受けてみましても、内面的精神的な進化ということがまだ残っています。
古代の人類は、天象のこと、地震、暴風雨、その他肉体人間の出来ない範囲の出来事は、すべて
わざ
神 のみ業として、恐れおののき、種々の儀式を行い、その儀式に縛りつけられていましたし、自己
に備わっている創造力をあまり使えず、不便に甘んじて生活を送っていましたが、次第に内面的能
力にめざめ、創造力を駆使して、現代のような科学万能の世界にまで、文明文化を開き、人類生活
を非常に便利にしてきたのであります。
今日では肉体的の進化が、精神的進化にまでたどってきたのでありますが、この精神の進化は、
一部は神に通ずる進化ではありますが、大部分が、物質に附属する精神の進化になっているので
す。これではやがて、限りある物質の欠乏の時期に至ったり、その物質、つまり領土的なものも加
えての争奪戦になって、大戦争を起こしたり、天変地変になったりして、滅亡してしまうことにな
ります。
そこで、どうしても、嫌でも応でも、地球世界を滅亡させないためには、第三の大きな進化を促
進させなければいけない、ということになるのです。それは物質に附属する精神の進化ではなく、
神のみ心に直結する精神の開発進化なのであります。
第三の大きな進化期
ダーウイソの進化論はさておいて、私どもは人類が、地球に生れたことを、人類の最初の誕生と
は思っておりませんで、人類は地球に生れる以前に、様々な星の世界に生れて、それぞれの文明文
化を先に開いてきたものであると思っております。そのように広範囲に考えられる人類は、神霊波
動の奥の世界から、肉体波動の現在の地球人類のような人類まで、その進化の度合において様々な
177宗教活動の在り方
階層の世界に住んでおります。
そして、地球人類は、いよいよ肉体人間の波動の世界から、神霊波動の世界のほうに、大きな進
化を遂げなければならぬ段階になってきているのであります。
ですから、歴史的に今日までたどってきたような、物質主体の、こうした三界の波動の中での進
展はもうあり得ないのです。物質科学が、核兵器にまで発展してきて、人間の想いが相対的な世界
から超越しない限りは、お互いが自己や自国を防衛するための戦争をせざるを得なくなる事態が差
し迫っていますし、また一方では地球の地軸が、宇宙の進化に伴って大変動してゆく時期になって
おりますので、地球人類が、今日までの物質地球の波動に合わせた生き方をしていては、地球の変
動についてゆけなくなり、滅亡するより仕方がなくなってくるのであります。
どちらにしても、地球人類は今日までのような唯物的な生き方をしていたのでは、どうにもなら
ないので、表面に現われている不平等の是正や、弱者救済の働きぐらいでは、共に滅びてゆく、と
いうことになってしまうのです。今日からの真の世界平和運動は、神のみ心に直結した、宇宙の進
化に合わせて行われる平和運動でありまして、只単なる戦争拒否とか、平和を欲っする、といった
たぐい
類の運動では、とても地球滅亡を救うことはできないのです。
178
宇宙の波に合わせる活動
ですから、地球に人類を誕生せしめた最初から、宇宙神は、各神々に地球の守護を命じ、各守護
神は、古いみ魂から順次、守護霊として、各個人を守る役目を仰せつけたのであります。

人類は、内側から観れぽ、宇宙神、直霊、分霊として神につながり、外側から観れぽ、肉体人
間、守護霊、守護神として、直霊への結びつきを楽になさしめているのです。そしてどうしても、
大宇宙の進化に遅れぬような仕組みになっているのであります。
そこで、私は、人間は神の分生命なのであるから、そのことを信じ、常に守護の神霊への感謝を
こんばく
忘れず、世界平和の祈りをしていなさい、そうすれば、守護の神霊が、あなた方の魂塊にまつわる
業想念を浄め去って、肉体人間から、神霊人間として、大きな進化をさせて下さるのですよ、と説
いているのであります。
そういう大事な時に至って、宗教者が、世間の声に踊らされて、唯物論者まがいの、神も祈りも
わざ
忘れたような、行動に出てゆくことは、神のみ業の大調和活動にもとることであるのです。神のみ
たい
心は常に大調和活動に向って進まれているのですから、私ども人間は神のみ心を帯して、調和に向
179宗教活動の在り方
かい前進してゆくべきなのです。
よみ
如何にその場、その時正しそうに見えましょうとも、調和を破る行動は、神のみ心の嘉し給わぬ
ところです。米国がベトナムに武力介入した結果がよくその事実を明らかにしています。米国とし
ては共産主義者の世界制覇阻止のためにベトナムに軍事力を投入したのでありましょうが、共産主
義の善し悪しを別にして、敵を憎み、敵を殺傷しようとする、その心の中には調和の影もありませ
ん。共産主義が悪ければ、神のみ心がいつかは、この主義を消し去ってゆくでしょう。私どもは、
そういう現象の現れの面だけに把われて、右往左往することなく、すべての運命を神のみ心に全託
して、世界平和の祈りの下に、その場、その時々に処してゆくことにしているのです。そして憎し
みの想いや恐怖の想いが出たら、それは神のみ心を離れている想いの消えてゆく姿として、守護の
神霊への感謝と共に、世界平和の祈りを祈りつづけていけばよいということを信じて、日々の生活
をしているのであります。
180
人間神の子観と凡夫観
二つの生き方
この地球界の人間は、一体神の子なのか、凡夫なのか、神の子としての自覚を強めながら生きて
いった方がよいのか、凡夫観に徹底して生きていった方がよいのか、人間というものをつきつめな
がら生きている人々は、どうしても、神の子観と凡夫観のこの二つの相異ったような生き方につい
て考えざるを得なくなってきます。
人間は神の子であって、本来完全円満なものなのだ、という観点に立って、さて自己をみつめ、
人類の姿を眺めますと、どうも甚だ神の子的でない自己や人類が眼についてきます。どうにもやり
きれないような自我の想いや不完全、不円満な姿が心にしみついてきます。
181
この現れの世界をみていますと、どうひいき目にみても、神の子的な姿ではなく、業生の罪悪深
重の凡夫の姿が溢れてみえます。個人々々の間でも、好き嫌いや憎み妬みの想いが多く、自己の感
情を乱す者は忽ち嫌いになり、自己の利益に役立っ者は好ましくなってきたりして、すべて自己の
感情本位、利益本位になってしまいます。
国と国との間もそれと同じことで、自国の立場を守るためには、如何なる手段方法をも講じよう
とします。それが今日の原水爆戦争の脅威となってきているのです。
個人的な感情としては、常に何か前途に不幸なこと、悪いことがありはしないか、と病気や災害
などの不運な出来事を予想しては、心配苦労しているのであります。
私も少年の頃は非常に感受性の強い子でありまして、世間の感情の波というものを、常に感受し
ていましたので、心が常に不安定で、何か自己の上に不幸なことが襲いかかってくるような気がし
ていました。ですから、家を出掛けている時には、家に帰ったら家が焼けているのではないか、と
いう不安な想いが起ってくるのです。そして、もう心の中で焼けているに違いない、ときめてしま
ってその時の心構、兄をしながら帰ってきて、焼けていないとほっとする、とい
うように、先に先に
と悪いことを予想しながら、心で悪いことに対処する心の準備をしていたものでした。182
それでいて、神仏の存在は堅く信じていたのですが、神の愛というものは、個人々々の生活を守
ってくれるものとは思ってもいなかったのでした。しかしながら、そうした少年の頃の臆病さは、
かえってそれを克服しようとする意志を湧きあがらせて、真実の宗教者としての道に起ち上がらせ
たわけなのです。
人の想いの波を受けすぎる人は、ともすると臆病になったり、気分が変化しやすくなったりし
て、心の安定性を欠くことが多いようです。ですから巷間の行者さんなんかには、人格不円満な、
気分屋さんが多いのです。
人の想念の波動や、世の中の波を受けやすいということは大変なことで、余程心を立派にしてお
かなければ、苦しくてかないません。どんなに人の想いを受けても、世の中の凄まじい波動を受け
ても、平然として、安心立命していられるためには、これから私が申し上げることを実行して頂く
より他に方法がないと思うのであります。
人間神の子という生き方
ところで、今迄申しましたように、人間は神の子なり、完全円満性なりといい切るには、どうも
183人間神の子観と凡夫観
あまりにもこの現象界の姿は汚れ過ぎておりまして、頭の中では神の子なりと認識しながらも、社
会生活に一歩足を踏み入れると、忽ち業生の仲間入りしてしまうことになってきます。
このように、人間神の子という実際行動に入るには容易なことではないのです。頭で一寸想うこ
とと、実際行動として実行することとは、大きな開きがあるのです。そこでうっかりすると、口ば
かりの、偽善者的な行動をしてしまうことになりかねないのです。
人間神の子だ、人間は完全円満だ、といくら口やペンでいってみましても、その人の実際の行動
が神の子らしくなく、不完全なものを多分にふくんでいましては、かえって、人間神の子の完全円
満性を傷つけ損ねてしまいます。人間神の子とか、完全円満だということは、いたずらに口でいう
ひとりで
ことではなく、各人の行動の中に自然法爾的に現われてくることなのであります。そこのところが
なかなかむずかしいのです。
それではいっそのこと、神の子だなどとはいわずに、人間は罪の子なのだ、罪悪深重の凡夫なの
だ、というところに根抵を置いて生きていった方が、より現実的であり、謙虚な生き方でもあって
よいのではないか、と思ってみたりします。この考え方の方が、知性的な人たちには受けるので
すがた
す。何故かといいますと、この現実の生活は、どうにも動きのとれない不調和不完全の相で展開し184
ているのがこの人たちにははっきりわかるからなのです。この現実の眼や耳で確めたこの世界の姿
は、どうしても罪悪深重の凡夫の集りがつくり出した世界のように見えるのです。それは一寸考え
てもわかりますように、戦争をしたくないのにお互いに武器をつくり合い、滅びたくないのに、滅
亡に至る核兵器の生産に血道をあげているという様相は、何んといっても、神の子のやることでは
ありません。
こうした眼に見え、耳に聞える事実の上に立って物事を考える習慣を、インテリ層というものは
もっているのですから、インテリ層即ち知性的な人々は、人間神の子観より、凡夫観の方により真
実なものを見出すわけなのです。
凡夫観に徹するのも容易ではない
さて、こうした罪の子、罪悪深重の凡夫観で、この世界をみつめてゆくことに致しましょう。こ
の考えの方が、人間神の子だ、といういつも胸を張って、自分を昂揚してゆこうとする生き方よ
り、気楽で地道でいいような気がするのですが、実は、この罪の子観、罪悪深重の凡夫観に徹底す
るのは容易なことではないのです。
185人間神の子観と凡夫観
自己が罪の子であり、罪悪深重の凡夫であれば、他からどんなに馬鹿められようと、さいなまれ
ようと、自己が罪の子で悪いのですから仕方がないと諦めて頭を垂れていればよいわけなのです
が、そうはいきません。「何を、馬鹿にするな」とか、「こんなひどい目に会わせて」とかいう、反
擾心や怒りの想いが必ずといっていい程湧きあがってきます。
それは罪の子観、罪悪深重の凡夫観に徹していない証拠なのであります。自分を罪の子と認め、
人類を罪悪深重の集りと認めていたとしたら、どんなことをしてもされても、罪の報いであって致
し方のないことなのですから、ひたすらに神に詫びつづけ、み仏にすがって生きてゆくことだけし
か方法がないわけなので、自己が怒ったり憤ったりすることはないわけです。パウロや親鸞のよう
になりますと、流石に偉いので、その観に徹していまして、遂いに罪の子や罪悪深重の凡夫の境地
を脱しきって、神の子、仏子の姿を、はっきり自己の姿としてしまったのであります。
しかし普通の人の信仰心ぐらいでは、なかなかここ迄の境地にはなれないのです。かえってあべ
こべに、罪の子だから、罪悪深重の凡夫だから、怒ったり妬んだりするのが当然なので、そうした
想いを超えられぬからこそ罪の子であり、罪悪深重の凡夫というのだ、という人もあるでしょう。
そういう観点に立っての罪の子観、凡夫観は、これはもはや宗教心以前の考えで、一度び宗教の186
道に入った人は、こういう考えに定着していてはいけないのです。
次第に駄目になっていってしまうのです。
いけないというより、その人が
行き着くところは一つ
人間神の子観から入っても、罪の子観から入っても、宗教の道というのは、神仏と一つになり得
る道であり、人間の本心、本性の開顕される道なのであります。
どちらからいっても、肉体にまつわる小さな我れというものを、大きな我(神仏) に融けこませ
てしまう道を宗教の道というのです。
人間神の子の考えと、罪悪深重の凡夫という考えとは全く相反するように見えるのですが、行き
つくところ全く一つのところなのであります。
どうして神の子と罪の子が同じなのか、と問われる方があるかも知れませんが、神の子と罪の子
が同じであると私はいうのではありません。神の子観でいっても、罪の子観でいっても、真実徹底
してその考えを実行してゆけば、等しいところに到達するというのです。だが、その考えを人類の
幸福というものに至らしめるためには、只、観念的に人間神の子といったとて、罪悪深重の凡夫と
187人間神の子観と凡夫観
いっていたところで仕方がありません。その観念を実際面の生活に生かして、人類の理想を実現せ
しめなけれぽ何にもなりません。
私はその道について、その方法について説いてゆきたいと思っているのです。
188
今のままの肉体人間観では神性発顕は不可能
人間神の子観でゆくなら徹底して神の子になりきる方法を行じなければいけません。神の子の人
間が人と争ったり、怒ったり、恐れたりしたのでは、おかしな話になります。
神のみ心は大調和であり、愛であり美であり真であります。そうした神のみ心を実現してゆく者
が神の子であるわけです。愛にそむき、美にそむき、真から外れていては、神の子を口にする資格
はありません。ですから、只単に人間神の子だといっているだけでは、とても真の神の子を現わす
ことはできないのです。
人間は本性は神の子であることは間違いないことなのですが、その神の子の真性をこの世におい
カルマ
て現わすことがむずかしいのです。この地球界には、神の子の真性を蔽う、業生の想念波動、つま
り罪の子的、罪悪深重的波動が厚い層をなしてあるのですから、そうした想念波動を消し去らなけ
れば、神の子の真性が現われることはできないのです。
この世の個人的争いも、国家民族間の争いも、すべてこの罪の子的罪悪深重の凡夫の想念波動の
変滅の姿として行われているのですから、どうしてもこうした想念波動を消し去らねば、神の子人
類の姿はこの世に現出されてはこないのです。
そこで今度は、罪の子的、罪悪深重の凡夫観の側に立って、この人生をしっかりとみつめます
と、自己をはじめ全人類のこうした業想念は、自分たち肉体人間ではどうにもならぬ業生なので、
どなた
誰方か、この業生の渦を超えた御方に救って頂かねば、人類は永劫にこの業生の輪廻の中を変滅し
てゆかねばならない。どうぞ尊き御方様お救い下さい、という形で、み仏の慈愛にすがってゆく、
という生き方、キリスト教的にいえぽ、イエスやマリアの御名の下に神様に救いあげて頂くより方
法はないという、謙虚な信じ仰ぐ姿となってくるのです。
ですから、神の子人間観に立っても、罪の子人間観に立っても、どちらも、今のままの肉体人間
観では、真性の発現も、救れの道にも到達できないことになります。どちらの面から入っていって
むな
もよいが、一度びは肉体人間の自己の力を無しとして、空しくして、霊性の自己の中に飛びこんで
ゆくことをしなくてはならなくなるのです。
189人間神の子観と凡夫観
世界平和の祈りで神生する
190
人間神の子という時は、一躍真性の我れの中に入っていうことであって、肉体人間の現在の想念
行為の中の我れをいうのではありません。また、罪の子人間という時には、肉体人間として生れて
きている過去世からの業因縁生の我れをいうのでありまして、神の子の真性をいうのではありませ
ん。
そこで私が常に説いておりますことは、人間は真性としては神の子であり光明心そのものである
が、この地球界の物質世界に神のみ心を現わすために、ひとたびはその物質の波動に同調した個々
の肉体波動として、この世界の建設に当っていたので、その物質波動と真性の霊波動との周波数の
カルマレ
開きが、業波動として、神の子人間の現れを損ねているのだから、その周波数の開きからくる欝波

動 を、業生の、罪の子或いは罪悪深重の凡夫としての、しかもその波動はもう現在の人類には不必
要なものとして、神のみ心の中にお還えししてしまいなさい、神のみ心に入る方法として世界平和
の祈りをなさい、といっているのであります。
人間は真性としては神の子なのですが、現れの面としては、業生に蔽われているのですから、真
実は神の子なのだが、罪悪深重的な凡夫の自己も、想念の中には共存しているわけなので、その事
実をはっきり認めて、罪の子的自己を神のみ光の中で消し去って貰わなければ、神の子としての自
己だけがそこに残るわけがないのです。
この世が神の世として現われるためには、世界が大調和な姿を現わすためには、罪の子や罪悪深
重の凡夫は必要ないわけで、必要のないものはいつまでも把えていても仕方がない。必要のあるの
は神の子の入間の方なのですから、その神の子人間だけを残せばよい。
この考えは理の当然のことです。ですから、一度は神の子人間と罪の子としての自分とを二つに
分けてみて、この二つをまた一緒にして、その一緒にした自分を、世界平和の祈りの中に投入して
しまい、改めて、神のみ心の中から生れ変った神の子としての自分になって、日常生活をしてゆけ
ばよいわけなのです。
運命を狂わす”把れ”
この方法を私は、消えてゆく姿で世界平和の祈り、というように教えているのであります。何故
消えてゆく姿というかと申しますと、この世の現れの姿はすべて変滅してゆくものなので、永劫に
191人間神の子観と凡夫観
存在しているものは一つもないのです。肉体人間などは勿論、或る時間経過で消えてゆく姿となり
ます。また、どんな想念でも自分が把えつづけていない限りは、いつかは消えてしまいます。しか
し、自己が把えつづけている限りは、そうした想念の波動は輪廻しつづけてゆくのです。
人間世界の運命を狂わせるものは、この把れの想いなのです。人間がどんな物事にでも把われて
いる限りは、その人は自由にはなりません。人間は常に限りない自由を求めているのですが、何か
に把われてしまうばっかりに、その自由を狭ばめてしまうのです。
個人も国家人類も、この自由を求めているのですが、お互いがお互いの自由の範囲でぶつかりあ
って、かえってお互いを一そう不自由な状態にしてしまっているのです。米国やソ連やそうした紛
争に巻きこまれている世界の各国が、常に心を痛めつづける不自由な状態に自分たちを置いている
のであります。
全く罪悪深重の凡夫そのままです。彼等が自己や自国の勢力というものに把われつづけている間
はこの紛争状態は解決できる筈がありません。
そこで、その罪悪深重の各国の姿をも含めて私たちの一人一人が、消えてゆく姿で世界平和の祈
り、というように、その罪の子の姿にも把われつづけずに、神の慈愛、救世の大光明のみ光の中192
に、自己と世界人類の業想念を共に含めて、消し去って頂く祈り言をしつづけることにしたのであ
ります。
世界平和の祈りというのは、こういう意味で神様から示された祈り言なのです。
幽界を浄める平和の祈り
現在の世界は幽界に蓄積されていた業想念が、一度に肉体世界に現われ出ようとしているところ
なのです。地獄がそのままこの世界に現われ出ようとしているともいえるのです。幽界には過去世
からの恨みや嫉みや怒りや恐怖や、争いや様々な業想念が一杯つまっているのです。その業想念が
一度に現われたらいったいどういうことになるでしょう。この世には地獄そのままの大悲惨事が顕
現されることになってしまいます。
そうなってからではもうどうにもなりません。私たちの運動は、そうした地獄絵を肉体世界に現
わさぬうち、幽界に大光明を当てて消し去ってしまおうという運動なのであります。
肉体世界、眼に見える世界で、いくらどんな運動をしても、幽界に蓄積された業想念波動を消し
去るわけにはゆきません。テレビの放送が誤った放送をされそうな時には、どうしても、放送局と
193人間神の子観と凡夫観
話し合ってその放送内容を直さなければいけません。受像機をいくらひねくりまわしても、その内
容を変えるわけにはゆきません。
それと同じことで、肉体界だけを問題にしている人たちは、幽界や霊界の存在を知りませんの
で、すべての不幸や災難が、肉体界だけに原因があるように考えるか、或いは不可抗力のこととし
て諦めてしまうかしています。ところが私たちのように眼に見えぬ世界、五感を超えた世界の波動
をはっきり感じられるものにとっては、肉体界の出来事はすべて神霊幽の三界から送られてくるこ
とをよく知っております。
愛や美や誠意はすべて神霊の世界から送られてくる波動であり、恨みや怒りや妬みや恐怖は、す
べて幽界から送られてくる波動であることを私たちは知っているのです。ですから、幽界の波動さ
え浄めて置けば、神霊界の正しい波動だけが肉体界に現われて、この地球世界は平和な美しい世界
となるのであります。
194
人間とは何か
みなさんは、肉体をもっております。そして、この肉体の中にすべてがあると思っております。
ところがいつかはこの肉体は滅びてしまいます。すると、この自分というものは一体どこへ行って
しまうのでしょう。大体肉体をもつ以前の自分は一体どこにいたのでしょう。こういう問題にぶつ
かると、まるでわからない、というのが、心霊のことを知らない人々の大半なのです。
人間というのは肉体という固った物質体ではないのです。自然科学の研究でも、もはや物質はす
べて波動からできているという説になってきて、物質というものは肉眼で見ているような固定した
ものではないのだ、ということになってきているのです。まして人間のような、思考力のある智慧
能力の備わった生物が、不自由な固った物質体であるわけがありません。肉体というのは、生命波
ひびき
動の一つの現れであって、生命というものはあらゆる微妙な律動をもつ、光明なのであります。
さわり
そして、その生命が何んの障磯もなくひびきわたっているときには、調和であり、平和であるわ
けで、そこに少しでもさわりができると、生命の働きがゆがんでくるのです。そのさわりというの
どんじゆう
は、幽界や肉体界の様々な鈍重な波動に、そのひびきを妨げられた時なのです。
ですから、生命のひびきを自由にひびきわたらせるようにすることが大事なのです。いいかえれ
ば、心に何んのわだかまりもなく、自由に素直に伸び伸びと、自己の生活をしてゆければよいとい
うことになるのです。
195人間神の子観と凡夫観
いちいち他の人の波動に妨げられては、自己の自由を失ってしまうような、そんな弱いことでは
この世界は駄目になってしまうのですが、事実はそうなりつつあるのです。
どんな邪魔な波動も消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中に入れきってしまう生活をするこ
とが、今の人々にとっては一番大雰なことなのです。
196
祈りとは神のみ心に波長を合わすこと
もし自分が不幸な苦しい立場にあったら、その不幸な苦しい立場の自己の想念波動を、なくして
しまうか、変えてしまわねぽなりません。そうしなければ、いつまで経っても、その不幸な苦しさ
は形を変えてもその人を離れずにいるのです。
そうした今までの想念波動を消し去って、新しい正しい想念波動、光明波動に変えてしまう方法
が、祈りなのです。そしてその最高の祈りが、世界平和の祈りなのであります。
歩いている道が間違っていたら、道を変えて歩かねば、目的地に着きません。それと同じことで
す。自分が不幸であり、人類世界が不安な状態にあるのは、自分の想念が、人類の想念が誤ってい
る波動であることに違いはないのです。その波動を正すこと、これが、自己を救い、人類を救う唯
一の為すべきことなのです。
人間が神の子として生きるか、罪の子として生きるかは、自己の発する想念によるのです。想念
波動を正しくすること、これが自己を幸福にし、人類世界を平和にする最も大事なことであるの
は、私たちにとって当然として考えられるのです。
世界平和の祈りは、大神の救世のみ心にょる、救世の大光明によって為されているのですから、
私たちはこの救世の大光明に波長を合わせればよいのです。その合わせる方法が、世界平和の祈り
言なのです。その祈り言の仲立として先達として、私が柏手を打ちつづけているのです。
世界平和の祈りをしながらも、不幸なことや嫌な想念がでてくることがいくらもあります。しか
しこれは過去世からの永い間の幽体に蓄積された業因縁の現れの消えてゆく姿なのですから、その
時は一心に神の慈愛を信じるようにして、祈りつづけてゆくことです。
罪の子の人間、罪悪深重の凡夫としての人間は、今や急速に消え去ろうとしているのです。その
消えてゆく姿の後から、神の子の本質が、はっきりと現われ出でてくるのです。
神の子人間を主にしてもよし、罪の子人間を主にしてもよいが、共に世界平和の祈りの中に祈り
197人間神の子観と凡夫観
入れて、世界平和の大光明の使徒としての自己の生活を、改めて頂き直してゆく心がけが必要なの
です。
祈れ、祈れ、祈れ、世界平和の祈りを祈りつづけよ。私はいつでもこの一言を皆さんに申し伝え
るつもりでいるのです。
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