人類の未来

五井昌久著
人類の未来

物贋文明より霊文化へ
著者
ぜ磐手弟霧9
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序文
人間は誰しも、自己の安泰を望み、国家や人類の平和を希求している。しかし事
実は、次第に地球という世界に、人類が住みにくくなってくるような状態になって
きている。
それは人類自体が自ら、住みにくくしている、ということと、大宇宙の一環とし
て、地球の進化ということが、自然になされてゆくので、人類も地球の進化に従っ
て進化してゆかなければ、生きられぬ、ということになってきているからである。
地球世界というのは、人類を頂点に数多の動植物、鉱物によって成り立っている。
人類がいくら智慧をしぼったところで、動植物や鉱物の力をかりなければ、何事も1
なし得ない。すべては、地球に存在するすべての調和によって運行されているので
ある。
ところが、人類の文明文化の発展と、何度びかの戦争で、地球の調和は非常に損
われてしまったのである。この地球の調和を回復させない限りは、地球人類の運命
は悲惨なものになってゆくのである。
地球の調和を成し遂げる第一歩として、先ず人間の心自体を調和の方向にもって
ゆかねばならない。人間の心自体が不調和でいて、地球の調和などといってもどう
にもならないことである。
自国の権威を保つために、武力を増大するなどということは、今日の世界では、
愚かしいことである。自己も自国もたゆみなく調和の方向に進んでゆかねばならぬ
のが、今日の状態なのである。
この本も、これからの人類が進むべき道を、調和といい、平和という易しい言葉
でさししめし、説きつづけているのである。頭で理屈をいくら知ったところで、自
2
分が立派になることも、人類が進歩することもない。自分自体が調和した行為を日
常生活で実践してゆき、平和な心をひびかせつづけてゆくことによって、神のみ心
に人類が到達してゆくのである。この本はそのことを世界平和の祈りという祈り言
を中心にして説いているのである。
昭和四十九年七月
著者識
3

目次
物質文明より霊文化へ
地球人類の未来
現代と奇蹟
宇宙人と地球人
新しい世界を創る
宇宙人と世界平和の祈り
生命の本質について1医師の疑問に答えるー
生命の教育
すべては大調和に向って進んでいる
神秘的なごとごと
16014312610891735639237 1
悪心・善心・宇宙心
祈りと念カーソ連の超心理学研究からー
予言に惑うな
平和世界誕生の源泉ー超能ヵブームへの警告i
228 212195177
装偵有沢豊由
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人間と真実の生き方卿
v》関》い`の」凡~1~ ~ へρ”し’》v、A




ハ〃㍉ノ幅
わけみたまごうしようしゆこれいしゆごじん
人間は本来、神の分霊であって、業生ではなく、つねに守護霊、守護神によって守
られているものである。
かこせ
この世のなかのすぺての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念が、そ
の運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去るのであると
いう強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難のなかにあ
ゆるゆるまことゆる
っても、自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづ
けてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の祈りを祈
りつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得出来るものである。
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地球人類の未来
超越的存在への憧憬
近頃はテレビに映画に、超越的な存在者、或いは超越世界の物語が、なかなか多く放送され映写
されています。例えていえぼ、忍術映画だとか、心霊的映画、また宇宙物語、とかいう類です。
これをただ、面白おかしく聞き過ごし、見すごしてしまえば、それまででありますが、私はこう
した作品が多く現われ出したことに対して、非常に興味を持っているのです。
何故かといいますと、一つには、こうした作品に接した人々が心の中に、地球世界以外への関心
どうけい
を持ち出すことと、超越的存在者(神秘力) に対する憧憬の想いが湧き起るということで、二つに
は、こうした作品が多く現われ出たことは、大衆が自分たち肉体世界の平凡なる力以外の何ものか7







あかし
の強力なる力を求めている、という証である、ということを知ることができるからであります。
私は現在の人類世界が、この肉体だけを人間だと思っている以上は、絶対に人類は大調和世界に
なることはない。つまり、個人に貧病老死の苦痛なく、国と国とに争いの想念のない世界はできな
い、と思っているのであって、唯物論者たちが、いくら、こうすれば世界が平和になると叫びつづ
け、その線に沿ってその主義を実行しつづけたとしても、世界のためにプラスになるとは考えてお
りません。また一般大衆も、深い理由はわからないとしても、現在様々な主義主張があるけれど、
そうした主義主張の実行で、果して世界が平和に成り得るだろうかという疑問より先に、人類は常
に現在のように争いをつづけながら生きてゆくより仕方のない者だ、と思っているようなのであり
ます。
実際、現在の世界人類の大半が、世界の永久平和を願望しながら、そうした世界、地上天国ので
きることを信じてはいないのです。
それは、現在までの歴史の歩みから推測して、人間の我欲がなくならない以上、人間同士の争い
はまぬがれぬと考え、そうした我慾は、人間の心から永劫に消え去ることはないと思っているから
なのであります。であるから、いくらどのような主義主張で、どのような政策を行おうと、この人
8
類世界が、心から調和し、和解しあってゆけるものではない、と思っているのであり、また一方、

個人生活の面でも、貧病老死の苦悩がなくなることはない、と自分たちの心を推し計って、そう定
めてしまっているようであります。
それでいて、誰もが心から、世界平和、個人の生(貧)病老死への超越を願っているのでありま
す。ここにおいて、大衆は超越人を待望し、超越世界への憧憬の想いを抱くのであります。それが
戦前は、ヒットラーを出現させ、ムッソリー二を育て、東条、松岡に雷同したのであります。これ
は英雄待望の心であったのです。しかし現今では、このような英雄ではもはや心もとなく、人間能
力をはるかに凌駕した超人を待望し、超越世界(宇宙世界) に心を馳せて、想いをまぎらしている
のであります。大衆はその体験と直感力で、肉体世界の人類だけでは、この地球世界に真の平和を
もたらすことはできない、と思っているのです。しかしながら、過去からの習慣になっている唯物
的考え方、つまり五感に感ぜぬものはない、という考え方からして、神とか、霊人とかいう方向に
ばくゼん
は、その人々の考えは向わず、ただ漠然と超越人とか、超越世界とかを夢みているのです。それが
我が国においても外国においても、この世の人間、あるいはこの地球世界を超えた世界を画いた映
画や演劇、または小説となって現われてきたのです。9







映画「禁断の惑星」
10
先日も私は、「禁断の惑星」という外国映画を観たのですが、それは人類が現在よりもっとずっ
と科学的に進歩している未来の話なのです。その頃の人類はすでに様々な星と交通のできるように
なっている、ということがまず説明されていて、科学的に非常に秀れた性能をもつ、光の速度より
速く走れる宇宙機に、多数の宇宙探険隊が搭乗して、ある惑星に着陸することになるのですが、映
画は、この惑星における出来事を画いているのです。
この映画の惑星には、その頃、地球から行ったある博士と、その娘の他には人間はおらず、博士
は一度びは、探険隊の着陸を拒否するのですが、探険隊が強引に着陸してしまったので、止むを得
ず、その惑星の状態を説明し、様々な科学機械を示すのですが、その科学の進歩は地球人類の及び
もつかぬものであり、その科学機械装置は、太古にこの惑星に居住していた或る生物の智嚢から生
れたものであるというのです。そしてその生物は神に近い智嚢をもちながら、ある不思議な力に襲
われて全滅してしまったと語るのです。そう語りながら博士は恐ろしそうに顔をゆがめつつ、自分
たちの仲間が次々と死んでいったのも、その不思議な力によるのだ、といい、その恐るべき力が、
君たちの上にも襲いかかるような気がする、と隊長たちにいうのでした。
映画は、博士のいうように、探険隊員が次々と眼に見えぬ怪物に殺されてゆき、それが透明なゴ
リラのような怪物であることがわかるのです。そして結末として、その透明な怪物は、博士の潜在
意識下に在る悪魔的想念が、そうした怪物になって、自己の学者的地位と、娘とを護ろうとして、
自己の学問を侵略しようとする者や、娘を奪おうとする者に対して襲いかかっていったのだ、と結
んであるのでした。映画の中で作者は、知能が進むに従い、悪魔的想念も、その知能に正比例して
強大になる、といっており、人間はあくまで人間であって、神にはなれぬものである、と結論して
おります。
これは、科学の進歩によって、人類がかえって、原水爆による恐怖を味あわされていることに対
ひゆ
する比喩でもあるのでしょうが、人類一般も、この映画の作者のような考え方をしているのではな
いかと、私は思ったのでした。
どうして、戦が起るのか
人類の心に…潜む自我欲望、他人より先に自分が得をしたい、他国よりよい位置に在りたい、とい11地






う想いは、なかなか根深いもので、その想いが、個人間の争いを生み、国家間、民族間の戦いとな
ることは明らかであります。
この想念が消え去らぬ以上は、個人の平安も、国家民族間の平和も真実のものではあり得ませ
ん。如何なる協定も、条約も、双方の欲望利得の均衡が保たれている間だけのことであって、永劫
のものではありません。しかも慾望にも多い少いがあり、ソ連のように、世界を自分の統一下に置
こうとしている国もあり、自民族だけが無事平安でいられればよいという小国もあります。
小国の自民族だけの平安を保とうとしている小さな慾望さえも、大国の理不尽の欲望の前には武
えそらごと
力で踏み破られている現在なのですから、世界の平和等は、今のままの人類の考え方では絵空事で
す。
現在一つの大国の野望を抑えているのは、片方の大国の武力が第一の力なのですが、その一国
が、相手国の野望を真正面から抑えようとすれば、たちまち原水爆の世界戦争となってしまうので
ありますから、この地球世界の人類は、今、右するにも左するにも動きのとれぬ状態に置かれてい
るのです。直接国家の政治にさえも、たずさわっておらぬ一般民衆は、いったいどうしたら、世界
平和に尽すことができるのでありましょうか。12
個人の想念が世界の運命をつくる
先程から申しておりますように、国家民族間の自我欲望が、世界を不安動揺させているのであり
ますが、この国家民族の自我欲望というものは、いいかえれば、個人個人の自我欲望の大きな集積
であるともいえるのです。
個人個人の想念というものは、そのまま宇宙世界を、波動となって循環しているものであり、そ
の想念が寄り集って、人類世界の運命ができ上がるのであります。ですから、皆さん一人一人の想
念は、必ず大なり小なり、人類世界の運命に影響しているのであります。
自分と世界とはなんの関係もない、等と思っているのは、とんだ思い違いなのです。皆さんの一
人があいつをやっつけてやろうという想いを出せば、それは世界の心に、害心を一つ加えたことに

なるのであります。従ってどんな些細な想念でも、それを消え去るものとして打ち消さぬ以上は、
人類世界の想念波動の中に記録されて、そうした想念が、やがて、重なると人類世界の運命となっ
て現われてくるのです。
13地球人類の未来
14
想念と肉体
普通、一般の人々は、人間とは肉体であると思っているのですが、実は皆さんの思っている人間
は、想念の波動の一つ一つの集積なのであります。肉体は単に、その想念集積場所に過ぎないので
す。そうした個別の想念集積所(肉体)が集合したのが国家であり、世界なのであります。
よく考えてごらんなさい。人間は、自分が動こうと思って肉体が動き、しゃべろうと思って言葉
をしゃべるものであって、何も思わぬのに体が動き出し、口がしゃべり出すということは、特異な
人間(狂人と霊能者) 以外にはありません。想いが肉体を動かしているのがはっきり致します。そ
うしますと、想念が主人公で肉体は場所或いは器であるといえることになります。と致しますと、
想念が人間で、肉体そのものは人間の容れ物ということになります。
これは普通一般の人々の考えをたどってゆくと、こういう結論になるというのであって、私自身
の考えは、もう一歩先にあるのであります。それは、肉体を動かしている想念さえも、真の人間で
はなくて、真の人間の一つの働きである、というのです。この理を知らぬ限り、どのようなことを
しても、真実の世界平和も、個人の安心立命もできないのです。
人間自身の本体を知らないで、世界の平和も、人類の平和も、個人の平安もありよう道理があり
ません。ですから、ギリシャの大哲ソクラテスは〃汝自身を知れ〃といったのであります。
想念を発しているものは?
さて、では想念を発しているのは想念自体ではなく、いったいなんなのでありましょう。それは
生命と呼ばれているエネルギーであります。エネルギーというのがおかしければ、ある力でありま
す。この力がなければ、生物のすべては動くことができないのです。
なんだ生命か、等と思う人があるかも知れませんが、生命の力こそ、この人類を動かすすべての
力であります。この人類世界は、生命と呼ばれる不可思議なる力が根本になって動いているのです。
生命とは何か、何人もこれに対して確たる答はできないのであります。何人も明らかにすること
のできない生命と呼ばれる力が、人間世界に必要な、すべての力の原動力となっていることは何人
も否定することはできないのです。想うこと、考えること、知識を吸収すること、五臓、六膀を活
動させていること、等々すべて生命力が根源になっているのです。ここに考えを至さないで、この
ことを出発点にしないで人類の運命の問題をとや角いったところで、根本的な解決ができようはず
15地球人類の未来
がありません。
生命とはいったい何なのか、生命とはいったいどこから来たのであるか、人類の指導者たちが、
謙虚な心になって、まずこの根本の問題に立ち向い、この解明をしながらの世界政策でなくては、
とても人類世界の平和は望めるものではありません。
生命が肉体を去れば一人の人間は肉体的の死を遂げます。人類全体から生命が去れば、肉体人類
は直ちに死滅します。こんなわかりきった事実を、人類は実は、はっきり認識していないのです。
認識がはっきりしていれば、何故最大の関心を、肉体界を去った生命そのものに向けようとはしな
いのでしょうか。一人の生命が去るということは、やがて今現存する人類のすべての生命が、肉体
を去ってしまうということであります。三十数億の今この地球上にある肉体人間は、百余年の間に
は、すべて死骸となり、それらの生命はどこへか立ち去ってしまうのです。
このような最も重大なことには、さして関心を持たず、ただ単に今現われている肉体世界の幸不
幸、利害損得だけに重大関心を向けているこの肉体人間という者を、皆さんはおかしな者である、
とは思われませんか? 百余年後には、今生存しているあなた方のすべてが、この肉体世界にはい
いな
なくなってしまうのです。たかだか百余年間の否平均六、七十年間の、幸不幸、利害損得が、いっ
16
たいなんだというのでしょう。
真実の問題は、実はその先にあるのであり、その生存期間中の内面生活にあるのだということを
指導者も大衆も殆んど知らないのであります。
生命こそ真実の人間であり、生命こそ真の存在者である、と私ははっきり言明致します。そうし
た生命の行方を一向に探究しようとせず、肉体の死によって、その個人の生命も消滅し去ったとい
うような浅薄な考え方で、世界に真実の平和を築こうと思ったり、人類の真理を表わそうとしたと
て、でき得る筈のないことは明々白々であります。ですから私は、生命の探究さえしないで、世界
人類の政策を考えているような人々の寄り合いである現陣容では、地球世界は滅亡するより仕方が
ないと思うのです。

私がここではっきり直言したいことは、世界の平和はこの生命に対する飽くなき探究によって、
肉体世界以外の世界、幽界、霊界、神界(他の星の世界も含む) となんらかの方法によって、連絡
し、生命の本源(神) の能力を自己に加え得た者たちの手によってのみ成功し得る、ということな
のです。それは自然科学的方法にょるか、心霊科学的にょるかは、どちらででもあると思います。
否、どちらもが交流しての結果であるとも思います。
17地球人類の未来
18
世界を救い得る者は
生命は、個人としても永遠のものであるということ、肉体を離れても他界において個人として永
遠に働きつづけているものであり、同時に、神の中に住んでいるものであることを知った者の活躍
こそ、この地球世界を救い得る最大の力となるのであります。
何故ならば、先程から申しておりますように、この肉体世界の人間を、生命(霊、神) の一つの
働きであると観ずることなく、ただ自我欲望の満足を得るためのものであると誤解し、生命の探究
をさておいて、現れの世界の幸福や、見せかけの平和の道を堂々巡りしているような、智慧薄き人
々の集団から、真実の平和も、神の理念も現われることはないからです。真の神の働き、神の理念
を知らずして、その姿をこの地上界に現わすことはできるものではありません。
自分の中に自己中心の欲望をもちながら、他の力が専横であるといって、自己の強力な力で、他
の専横力を抑えたとしても、それは決して平和の様相ではありません。これは個人にも世界にも通
ずることであります。
他の力の専横を抑える力は、絶対無欲な、純粋そのものの力による他はないのです。そうした純
むげ
粋無磯の力によって、世界が統一された時のみ、真実の世界平和ができるのであります。現在の世
界各国の様相の中に、そうした純粋性、無欲性を見出すことはできません。
そのような絶対無欲、絶対純粋なる心を持つ国はこの地球世界の何国なのでありましょうか。私
は残念ながら、この地球世界にそのような国は見当らぬと答えるより仕方がありません。
絶対無欲、絶対なる純粋性、絶対なる愛、絶対なる統一、私はこれを、生命の根源である神に求
めるより他の方法を知りません。
我々の先人の生命は、肉体を離れて、肉体より微妙で自由なる活動のでき得る他界において、大
生命(神) のみ心により近づいて活躍しているのであります。私は、生命の行方を探究して、他界
の存在を確め、この地上界の肉体生活を我々より先に終えて、神により近い智慧能力を身につけて
いる諸生命(祖先霊守護霊)と、大神の直接の分れとして働いている諸々の神々、私のいう守護神
たちの存在を、直接把握、または直観して、地球世界に向き直った肉体人間こそ、救世の使徒たち
であると確信するものなのです。
地球人類が、大国の活動にだけ任せて、そのいうがままに動いているようではいけません。武力
なき国家民族、資力なき国家民族こそ、地球人類の救世国、救世民族となり得るのです。どうもが
19地球人類の未来
D
いても、外面的には他の大国に従属するより仕方のない、ということは、もはや内面的にのみ活路
が開け得る、ということになるのであって、内面の世界、神界につながる唯一絶好の機会なのであ
ります。日本などは、さしづめその機会をもつ国の一つであります。
日本こそ、内面の世界(神界)を祈りによって把握し、心霊研究によって、他界を発見し、その
力を十二分に応用しなければならない国なのであります。
人間は自己の内部に神の国をもつ老なのです。人間の生命は内部の神の国から、肉体世界に流れ
ことわり
出ているものなのです。人問が肉体だと思っている以上、この理がわかりません。肉体は人間の器
なのです。人間の働く揚所なのです。
20
神を信じ世界平和の祈リを捧げよう
その理を知るためには、心霊研究によって、肉体世界をすでに離れている人間たちの、種々様々
な状態を知ることがよいでしょう。また、それよりもなお一層よいことは、直ちに私のいうことを
素直に受けて、自分は神の生命の分れて来た者であって、神のみ旨のままに、この地上界における
神の使命を果しに来ている者である、ということを信じ、自己の心の内部の神に向い、自己の天命
まつと
の完うされることを、常に祈念し、併せて、自己の天命を果させるための守護として神より来てい
る祖先霊(守護霊)、守護神への感謝をつづけてゆくことなのであります。
大生命(神)なくして、小生命(人間) の存在はありません。そんなわかりきった原理がわから
なくなったところから、人類世界の悲劇は始まったのです。
あなた方一人一人の現在の運命も、世界人類の現在の運命も、すべて、人間の想念行為が、神を
忘れたことから起り、神の理念を離れたことから起っているのです。
カルマ
それを無明から生れた業というのです。この業想念の働きは、人間自身が、人間とは肉体なの
だ、人間とは自我欲望があるのが当り前なのだ、と思っている以上は、消え去ることなく循環して
ゆくものなのであります。
】度び、はっきりこの業想念を否定する想いになり、自分は神から来ている者である、神の使命
をこの世において果すために来ているのだ、自分は神様(直霊) に使われているので、そのような
妄想念は無いのだ、と、ひたむきに、自己を守っている守護の神霊にすがりつき、感謝しつづけ、
規われてくる如何なる悪い事態も、自己から発する悪想念をも、過去の誤りの消えゆく姿として、
そのこと、その想いに把われず消し去ってゆくべきであります。把われたら把われた想いも、また
21地球人類の未来
消し去ってゆくのであります。そこから自己の平安が生れ、その平安から真の世界平和の祈りが生
れ、世界を救う救世主の働きが容易になってくるのであります。
22
現代と奇蹟
事実を見つめて
地球人類は今日まで、様々の大災害によって幾度か全員滅亡寸前にまで立ち至ったことは、種々
の古書に著されているところでありますが、今日はまた、地球人類だけの智慧才覚では到底滅亡を
防ぎ得ない最大の窮地に追いこまれているのであります。
この事実は、真剣に人類の運命を考えている程の人なら誰しも肯定し得る事実なのですが、さて
この危機をどうしたら乗り超え得るかという問題になりますと、いずれ甲乙しがたい観念論、理想
論になってしまっていて、実際問題としては、どこからどう手をつけてよいか、皆目見当のつかぬ
ような状態になってしまっているようであります。23現




ある人は政治の貧困を歎き、ある人は宗教の無力に慨歎し、またある人は実際的には、ソ連首脳
部が先ず実行しなければでき得ぬ理想論的平和策を稻々と述べたてていたりしています。
現今の政治や宗教の無力、無策を歎くのも悪口するのも結構ですが、自分自身になんらの実行方
法がなくして歎いたり悪口したりしているのは、犬の遠吠のようなもので、実際には世間の人々の
心を陰欝にするだけで、なんらの光明化にもならぬと私は思うのです。また自身には自身の理論と
して立派なものがあるとしても、その人自身やその人の周囲の人々の力では、如何ようにも成し難
い理想論をふり廻わして、この理論通りにソ連や米国がやりさえすれば世界は平和になるのだ式で
も困ると思うのです。
何故かと申しますと、理想論はきっと立派な方法に違いないと思いますが、その理想論を実行す
るのは、自分自身や、自分の国家ではなくして、他国や他国の首脳部であったりするのでは、とて
もその理想論は実行されそうもないからであります。
例えて申しますならば、核兵器の国連管理問題のようなこと、あるいはその手前の核兵器実験禁
止問題にしても、小国がいくら騒いでみたところで、米国とソ連という二大強国の自国防衛の立場
にその問題が利益しない場合は、とてもその提案を受け入れる筈はありません。
24
肉体人間というものは、常に深い洞察力とか、永劫につながる考え方よりも、その場、その場の
自己防衛や自己利益で動きやすいものであって、これは国家としても同じことなのです。ですから
米国首脳者の立場に立ってみると、真実の深い宗教心になっていない限りは、ソ連が世界制覇の野
望をもっていると見ているだけに、ソ連のやり方の一つ一つに対して大きな疑念を抱き、その申出
や行動の裏を裏をと考えざるを得なくなるのです。そして、如何なることであっても、ソ連の下風
については、米国の国威が損われ、世界の信頼を失うに至る、と考えているのであります。
そうした考え方が、ソ連から申出ても、すぐには核兵器の実験を止めるわけにもゆかぬ原因とな
るわけで、ソ連と米国の業想念、つまり、ソ連の欲望、米国の恐怖心を取り除かぬ限りは、地球人
類の平和は永劫に来ないという結論になるわけです。
ソ連と米国に欲望と恐怖心という業想念、それに現在のような対抗意識がある以上は、各国が如
何なる名案を提出しても、それはその時々に幾分の明るさを示すだけで、根本的な世界平和とは、
その軌道が違っているのです。
人類が今日までのような肉体人間として生きている限りは、永劫に平和は来ないと私は明言でき
るのであります。その理由は、個人は個人で他との相対意識で生きていて、個人個人の欲望を離れ
25現代と奇蹟
ることはできないし、
す。
国家は国家で、各国家間の自己防衛の考えから離れることはできないからで26
肉体人間では駄目なのだ
今日の肉体人間が、どのように口で立派なことをいいましょうとも、自己の利得よりも他の利得
に対して、心の底から喜びの声を挙げ得る人が幾人あることでしょうか。国家間も同じことであろ
うと思います。
私は常にこの事実を真剣に考えていたのです。そして結論として、私を含めて、全人類の大半の
こんちゆうぽんぷ
人々が、自己本位にしか生きられないのだ、罪悪深重の凡夫なのだ、という考えに落ちついて、肉
体人間として人類が生存する限りは、個人も世界も救われることはないのだ、ということがわかっ
たのであります。
ここのところが、個人としても人類としても一番大切な考えどころだと思うのです。ここのとこ
ろを真剣に割り切らないと、いつまでもその人は、宙ぶらりんで生きてゆかねばならぬのです。
肉体としての人間、つまり肉体人間には、なんの力もないものだ、ということを、はっきり認識
し得ないと、折角宗教の道に入っても、また自己の脳裡の業想念の知恵や知識を、あたかも神から
きた知恵の如く考逡いして、その知恵や知識を振り廻わして、宗教以前の世界、三界(無色界・色界・欲界)
に舞い戻って、その三界のぐるぐる廻わりを、真実の智慧の世界と思いこんでしまったりするもの
なのであります。
同じような言葉であっても、同じような行動であっても、その人が神仏の世界から言葉を発し、
おの
神仏のみ光の行動をしているか、業想念の世界、三界の言葉や行動でことをなしているかは、自ず
からはっきりとわかるものなのです。
その見分けは、やっぽり、自己の肉体想念のすべてを一度否定したところ、肉体人間は駄目なの
くらワ
だ、罪悪深重の凡夫なのだ、と捨て去った、いわゆる空になったところからはじまらぬとわかり兼
ねるのであります。
ですから案外に知識の皆目ない田舎のお婆さんなどが、素直に神様にすぺてを投げ出して、大智慧
の行動をしたりする場合があるのです。これはそのお婆さんが、自己の想念を神様にすべてお返した
ことによって得られた智慧なのであります。この世においてあまりに知識をつめこんだ人は、かえ
ってその知識才覚が多いだけにその知識才覚(肉体想念)を捨てかね、いわゆる馬鹿になりかね27現




て、真実の智慧の湧きあがりを抑えてしまうものなのですが、そうした人が一度馬鹿になりきっ
て、神にすべてを投げ出した時こそ、パゥロ(キリストの使徒) の如き大智慧者となり得るのだと
思います。
これは個人だけではなく国家にも当てはまることであって、ソ連や中共や米国がそのようにすれ
ば、世界は忽ち大平和の道に突き進んでゆくのであります。しかしこれは、先程から申し上げてい
る理想論であって、私自身や日本国自体がやるのではないのですから、いうだけにとどめて置くよ
り仕方がありますまい。
宗教と奇蹟
さてここで、本題の現代と奇蹟ということに話をすすめてゆくことになります。
宗教者が奇蹟を説きますと、必ずといってよい程、学者や知識階級と目されるある種の人々が、
わら
その奇蹟を説く人を哩いものにしようとするのであります。そしてその尾にふれて唯物論的なもの
の考えよりできない人々が、その宗教や、その奇蹟的事実を迷信者のたわごとのごとくいいふらす
のが通例のようであります。28
宗教信仰や心霊治療で難病が治ることなどは、私たちの間では、さして奇蹟的なことでもないの
ですが、こうした事実も、現今の学者や知識者と称される人々の大半は馬鹿にしたような口調で否
定しきってしまうのであります。しかし近頃は二、三の医博やその他若干の医学者たちが、先頭に
立って宗教信仰や心霊治療による難病平癒の事実を、はっきりと宣明しておられるのは、実に結構
なことだと思っております。
既成宗教特に仏教が一般大衆にとって魅力をすっかり失ってしまっているのは、そうした宗教家
たちが、観念論的や学問的に仏教を説いているだけで、祖師たちが現わした奇蹟の面をすっかり抹
殺し去っているからなのであります。
宗教には奇蹟が必ずともなうもので、宗教信仰によって奇蹟が生れぬようならば、その宗教信仰
へいじようしんこれみちくれない
は本ものではないのです。真実の宗教人とは、平常心是道であり、花は紅、柳は緑、眼は横に鼻は
ヘヘヘヘヘヘヘヘヘへ
縦に、というあたりまえの生活の中にいて、あたりまえの行動をしていながら、常に普通人から見
たら奇蹟的な成果を得ている人なのであります。私が常に申しているように、常識をはずさず、超
常識の生き方ができるようになるのであります。
現代ではもはや、単なる常識的な生き方では地球世界を死滅の道に追いやるだけなのです。普通29現




なら常識とは、他人より自己をかばい、他家よりも自家の利益を考え、他国の利より自国の利を考
える、という考え方や行動であり、病気になれば医学にだけに頼り、常に自己の身体や生活を、あ
れやこれやと心配して生き、人間は肉体だけに生きているもので、他界などは有るか無いかわから
ないと死の間際まではあの世のことを考えず、人間の世界は肉体の人間だけによって動いているも
のであるとし、肉体人間の周囲には常に眼に見えぬ霊魂たちが、あるいは守護し、あるいは迷って
負担になっているものである等ということは考えたりしない認識の仕方をいうのでありますが、さ
てこんな常識で、果してこの世が救われるでありましょうか、絶対に救われっこはないのです。
また既成の宗教のように、釈尊やイエスやその他の祖師たちの教えを、奇蹟というものを度外視
して説いていて、果して人類が救えるでありましょうか。善い教えを聞けば、成程その時は気持よ
く、涙の出る程有難くなったりすることもあるでありましょう。また経文を読み、讃美歌を歌った
りすれば、確かに一瞬は心が俗界を離れ、読まぬよりは、歌わぬよりは善いことであろうと思いま
す。
30
大奇蹟を生まぬ以上は
しかし、それによって、真実の救われに入れる人が全人類のどれ程あるでありましょうか。この
地球人類を取りまいている業想念は、そのような力弱い善事では到底どうにもならぬ程強力な波を
もって、人類を破滅の淵に追いこもうとしているのです。
それは、国と国とがお互いの利得のための政治をやっている現状から考えて、積まれに積まれて
しまった業想念(妄念)をはっきりみつめれば直ちに判明することなのであります。
どのように上等な説法も、どのように自己を慰める芸術も、そこに超常識的大奇蹟を生まぬ以上
は、地球人類の破滅を防ぐことはできないのです。説法も結構、芸術も勿論結構ですが、まず一番
根本の問題は、地球人類の破滅を防ぐ、という一事でなければなりません。
そう申しますと、浅薄な人々は、各国に核兵器さえ使用させぬようにすれば、まず人類の破滅は
まぬかれる、というように考えたりするのですが、事実はそんな生易しいものではないのです。
核兵器を使わなくとも、ソ連のように平和攻勢という手もあるのです。日本がソ連の膝下に組み
敷かれた時、日本人は全く自由を奪われた国民となることを、ハンガリアの経験に照してよくよく
考えてみなければなりません。この平和攻勢の後は、また再び大国間における強力なる兵器争いと
なるのは必定なのであります。
31現代と奇蹟
物事を一時逃がれ的に考えるくせを日本人はもっていますが、一時逃がれ的のものの考えは、遂
いにはその人や、その国を必ず破滅させてしまいます。
今こそ、永劫につづく日本の平和、世界の平和を真剣に考えなければなりません。そこで私は、
今日までの常識では駄目なのだ、と声高々と叫んでいるのです。
常識的な外的生活の中にいて、すべてが超常識にならねばならぬ、今こそ、大奇蹟をこの地球世
界にもたらさなければならぬ、と私は近頃は特に強調しているのであります。
大奇蹟がなければこの地球世界は救われないのだ、ということが今日程切実に思われる時はない
のです。それは病気が治った、貧乏が立ち直った等という小さな奇蹟ではなくして、今日迄の常識
的世界観が、底の底からひっくりかえってしまうような超常識、大奇蹟の出現でなければならぬの
です。
破滅か地上天国の出現か
地球世界は今や、破滅か地上天国の創設かの二つに一つの時代になってきているのであります。
このことをはっきりと認めないといけないのです。
32
神示はいかなる霊覚者にでも、地上天国のできることを知らせてくれています。しかし、その地
上天国のできるまでには、地球人類の大半の死滅を予言しているものが、かなり多いのでありま
す。私も地上天国のでき上ることを確く信じております。だが、その前に起る甚大なる損失を肯定
するものではないのです。自分たちだけが救われることで満足ならば、私たちや私たちの周囲の者
は救われるにきまっております。何故ならば、私たちは、如何なる不幸も災難も過去世の因縁の消
えてゆく姿であり、その業因縁の消え去った時、真実の自己、神の子の真性が自己に現われるの
だ、という真理を知っておりますし、常に守護の神霊が身近で守っていて下さることを、いずれも
体験として知っております。
ですから、何事が起っても、一般の人々のように、あわてふためいて、泣いたり騒いだりは致し
ません。ただ一心に守護の神霊のみ名を呼び、世界平和の祈りの中に運命を託してしまうでしょ
う。もしこうした想念で死んだ場合には、必ずよりよい他界に誕生することを私たちはもう数多く
の人の体験で知っておるのです。そう致しますと、私たちはこの世を去っても、この世にとどまっ
ヘヘへ
ても、どちらでもよいのであります。その心境には幾分の相違はありましょうが、とに角、あびき
ヘヘヘへ
ようかんの巷にさまよう心境の者はいないのです。それはたゆみなき世界平和の祈りの効果であり
33現代と奇蹟
ます。
このことは、私たちの問題でありまして、人類全体の心境ではないのです。ですから私は、もし
やの場合に、人類の一人でも多くの人が、苦悶の果てに死ぬようなことのないようにと、心の底か
ら願っているのであります。この地球人類の犠牲者を一人でも少くしたい。私の願いは、この一点
にかかっているといっても過言ではないのです。
大奇蹟は出現する
そのためには、一日も早く私の願っている大奇蹟がこの世において起ってくれることが大事なの
であります。その大奇蹟とは何か、それは、度々申しておりますように、宇宙人の出現による超越
力との協力であり、神霊の肉体化、つまり神霊がそのままの姿を肉体界に現わして、超現実力を現
わして下さることの二点にあるのであります。
これは二つのことであって、実は一つのことであるかも知れないのです。いいかえれば、業想念
かた
で固まっている大国たちの力以上の力の出現であります。現在の地球世界には米ソを抑える力はあ
りません。米ソを抑える力が出現しない以上は、米ソの業想念が遂いには正面衝突して、各国の業
34
想念ともぶっかり合って、世界は取りかえしのつかぬ事態に突入してしまうに違いありません。
その超越力を私は願っているのであります。私が願ったというより、宇宙の星の人々が、地球世
界の無軌道ぶりを見るに見かねて、少しでも平和の地が地球世界にできれば、我々がそこに降りて
その地を根拠地として、その地の人と協力して超大力を振おうと、私たちの世界平和の祈りに感応
して、あちらから通信してきたのであります。超大力といっても地球世界のように武力ではありま
せん。如何なる武力をも抑え得る科学力であります。その科学力を私たちと協力して発揮して地球
世界の平和達成に協力しようと申出てこられたのであります。
地球世界には今までは真実の平和の地がどこにもなかったのでしたが、私たちが神示による世界
平和の祈りをはじめたことにより、次第に私たちの周囲の雰囲気が浄まり、平和な気が満ち充ちて
きたのであります。私たちは他のどのような行事をしているわけでもありません。各自が各自の職
業や仕事にたずさわりながら、根底の心として世界平和の祈りを行じつづけているだけなのであり
ます。
〃世界平和祈るは神のみ心のひびきにあれば祈るたのしさ

なご
という短歌の心を心として、同志たちは和やかな自由な気持で、世界平和の祈りをしているので
35現代と奇蹟
す。中心者の私は、空即実相の姿で、印を結び、柏手を打って、ひたすら個々人の浄めと地球世界
の業因縁の消滅の行をやっているのであります。
おも
大神様のみ心は、大愛であることを皆さんは常に憶っていて下さい。そしてその大愛のみ心は各
守護神として、皆さんの運命を守り、国家民族の運命を切り開く大いなる力となっていることを知
っていて下さい。
まな
大神様は厳然として存在されます。また守護神は、様々のみ姿で慈愛の眼ざしを人類にむけてお
られます。そしてあなた方の祖先の悟った方々は、あなたの最も身近かなところで、守護霊として
必ず護っておられるのです。
この事実は、多くの人々が確認しておられる事実なのですから、あなた方は自己の運命に臆せず
世界平和の祈りを唱えつづけて、堂々と生活していって下さい。
36
あなたの祈りが地球人類を救う原動力
わら
迷 信といって畷う人がいたら啖わしておきなさい。その人たちも必ず近いうちに、守護の神霊の
存在を認めざるを得なくなります。時期は近づいているのです。この時期をより近くし、人類の損
ヘヘヘヘヘヘへ
失を少くするために、あなた方の世界平和の祈りの応援をお願いします。
自己の運命の改善と同時に、人類の運命を開いて、遂いには地上天国を完遂させる祈りである、
世界平和の祈りをこそ、今日の日本人が気を揃えてやらねばならぬと思うのです。
世界人類が滅びて、なんで個々人の運命がありましょうか。個人の生活は世界人類という、大き
な輪の一環であるのです。個人個人の生活の動き、想念の波は、直ちに世界人類の運命に関係し、
世界人類の動き、国家の動きは、個人の運命をどのようにでも変化せしめ得るのです。
はず
今こそ、今日までの常識を超えて、しかも常識を外れず、超常識の生活に生きなければならぬ時
代になってきているのです。この世が破滅の一歩手前にきているということは、過去世からの業想
念の波が、すべて表面に浮び上がってきているからで、この業想念が自然運行の法則通りに動きつ
づけていったら、全人類滅亡という悲惨事になってしまうのですが、そうしたことは大神様の大愛
が各守護神のみ働きとして、救世の大光明として、地上界に働きかけ、最少限度にとどめ得るよう
になっているのです。そのみ働きが、今こそ全面的にこの地球界に働きかけてきているのでありま
ヘヘヘヘヘヘへ
す。そのみ働きが私には世界平和の祈りの運動をなさしめ、救世の大光明を、この世の人の五感に
感ぜしめるような形において働き得さしめようとしているのであります。
37現代と奇蹟
あら
物質はすぺて振動数の粗い波動であります。そして五感にふれぬ幽質、霊質は逐次振動数の微妙
になっている波動でありますが、振動数が微妙になるにつれて、その光の度合が強くなってゆき、
遂いには大光明といわれる、大智慧、大愛の働きとなるのであります。
常識の頭脳では、この粗い物質的波動をのみ、実在として認識していたのでありますが、科学の
進歩は、今や電子学から波動学にまで突き進んで、常識の幅を急速に拡大したのでありますが、一
般の人々は未だに依然として、物質が固定した実在であるという観念を離れ得ずにいて、しかも科
学性科学性と科学性に頼っているのであります。これは実におかしなことであります。一般大衆の
認識範囲より、自然科学の方向は数等倍先に進んでいるのでありますのに、一般大衆は科学性に信
頼しながら、実は今の科学をはるかに遅れた認識の世界に生活しているのです。それを私たちは内
面の祈りの世界から、大光明波動である神の実在を、一般大衆の認識の世界に顕現せしめ得ようと
いうのです。
この大奇蹟は必ず今に実現するのです。その時こそ、地上天国への第一歩なのであります。それ
を実現せしめ得る原動力こそ、世界平和の祈りなのであります。このことを改めてはっきり認識し
て下さることを皆さんにお願い致します。
物質文明より霊文化へ
文明文化の方向を変えよ
今日の物質文明の発展を、藤原時代、鎌倉時代の人々が見たら、いったいなんというでしよう。
ただあれよあれよと口を開いたまま、驚嘆の眼をしばたたくだけでありましょう。藤原、鎌倉時代
はおろか、明治、大正時代に世を去った人々が見ても、驚き呆れる程に、今日の物質文明は発展し
ているのであります。
原子力の活用を最頂点として、ジェット機をはじめ、各乗物、家庭におけるラジオ、テレビ等、
有線、無線の縦横の活用、精密なる機械設備等々、人間生活が今日程便利になった時代は、一般の
人々の知っている歴史には未だかつてなかったのであります。39物









ところが、こうした物質文明の進展は、常に戦備というものが、その原動力となってなされてい
るのです。そして物質文明の最頂点と目されている原子力の発展も、兵器としての研究からはじま
っているのであり、その恐るべき兵器は、今や、地球破滅への恐怖を世界人類のすべての人々にま
き散らしているのであります。
さてこう考えてまいりますと、物質文明というものは、各国や各ブロックが、自国や自己陣営の
利益のためのみの研究による進展では、どうしても相手国や相手陣営を倒すという目的にょる成果
となってしまい、その成果は戦争ということになり、人類は自己の智慧や知識によって、自らを滅
亡させてしまうことになるのです。そして現在は、その不安の最も大きな時代となっているのであ
ります。
ですから各自の生活が便利になったという喜びの裏に、各自が滅亡してしまう、という強い恐怖
の想いが、人類全般の上に蔽いかぶさってくるのであります。便利を喜ぶというより、もう物質文
明の便利さになれてしまった人々は、もはやそうした喜びの心もなく、ただ人類滅亡の恐怖におの
のきながら生活しているという状態になっているのです。
文明生活の喜びは瞬間瞬問であり、人類減亡への恐怖は根深く心の底に横たわっているのであり
4R
ます。物質文明、物質文化の時代はここにおいて、なんらかの方向に道を変えぬ以上は、人類の喜
びとはならず、人類滅亡の淵への絶望観に人々を追いやってしまうのであります。
ここまで考えを進めますと、もはや今日の世界では、今日までのような文明文化の進展を、その
ままの状態で放って置くわけにはゆかない時になっているということになってくるのです。それで
はどういう方向に今日までの文明文化が道を変えてゆかねばならぬかという問題になってまいりま
す。
それは人間の側の考えによって変ってゆくというのではなく、必然的にすでに道が変りつつある
のです。その道とは、物質科学から精神科学へ、精神科学から心霊科学への進展という道なのであ
ります。そして最後には、神霊の出現による神霊文化ともいうべき文化の発展ということになって
くるのであります。これは肉体人間の智慧、知識によるのではなく、私共肉体人間に常に見えざる
指導をしておられる守護の神霊の力によるものであって、宇宙神の自然の動きの現れなのでありま
す。
さてここで、人類は今日まで何故救われの道に入らなかったか、何故地上天国を創りあげること
ができなかったか、ということについて神示による解説をしてまいりましょう。Q1物









何故人類は地上天国を創リ上げ得なかった?
42
いつも申し上げますように、人間は肉体だけの生命を生きているものではなく、幽体、霊体、神
体という各種の体をもって生きているものであります。大神様は、はじめにご自分の体、体という
もとい
より光を各種に分けられ、そのうち、人間の基を七つの光として働かされたのであります。この基
ちよくれい
の光が、私が直霊と呼んでいる人類世界に働きかけられている神の姿なのであります。そしてこの
こんにく
七 つの直霊が一方では、分れ分れた光となって、いわゆる分霊となって霊界を創り、魂塊となって
肉体人間となってゆき、一方では、そのまま分れて、そうした肉体人間となった分霊魂を守護して
大神様のみ心を地上界に現わすための、守護神という援助の光となり、分霊魂から浄めあげた守護
霊をつくりあげていったのであります。(神と人間参照)
こうした七つの直霊と七つの守護神とが、一方は生命の働きとして、一方はその生命を自由無磯
に人類世界に働かせる役目として、人類創始以来今日まで働きつづけているのであります。そして
その中心には大神様そのままの現れとしての大光明、いわゆる救世主が輝きわたっておられるので
あります。
そして、その他様々な守護神が種々様々な姿形で、そうした中心者の働きを助けて、宇宙の運行
を司り、宇宙の運行に沿った人類の歩みを助けているのであります。
こうした組織仕組の元に、この人類世界は歩みを運んでいるのですが、この人類世界というのは
先程申しましたように、神、霊、幽、肉という四つの界が切っても切れぬ縦のつながりとなってい
る世界でありまして、単に肉体世界だけを考えていて運行されてゆくようなものではないのです。
一人の人間がこの世に生れ、そして去ってゆくというのにも、守護神、守護霊をはじめ、太陽や
星との深い関係によってなされているのであり、大きな宇宙の運行にも関係づけられているのであ
ります。
人間は最初から今日のような肉体人間として生れてきたものではなく、神界において生活し、霊
界においても生活し、そして今日この地球世界に、幽体をまとって肉体人間として生れてきたので
あります。
いつも申しておりますように、神界や霊界に生活している人間は、光そのものであり、その働き
は微妙な速度をもってなされているのであって、自他の個性的区別はありながら、自他一体観をも
って働いているのでありますが、肉体は物質体であって、その体は粗雑であり、その体を生命(霊
4$物質文明より霊文化へ
魂)がまといますと、本来の光の速度が急速に落ち、その働きの速度が遅鈍となって、自と他の生
命の流れが速やかにゆかなくなり、自と他の一体観が失われてゆくのであります。
しかしながら大神のみ心は、そうした物質界にもご自分の分霊をして、ご自分の姿をそのまま顕
ひとた
現なされようとしておられるので、一度びは、そうした肉体人間が、自と他を離し、各自が自己や
自己につながる者たちを守る生活に入ってゆくことも承知なさった上で、かつ地上に神界、霊界と
同じような、いわゆる地上天国をつくり上げようとなさっておられるのであります。なさっておら
れるというより、大神様のみ心はそのまま神界においては、実現しているのであって、それがこの
地上界に現われる時間の経過だけがあるのであります。
必要だった時間の経過
そこで神霊の世界から天降ってきた人類は、一度び物質界の法則の下で生活することになり、個
々の生活を確立するための、自己保存の欲望をもちはじめたのであります。この神霊界と地上界の
働きの速度の違いということが、この肉体世界の業想念、いわゆる無明といわれるものの発生にな
っていったのでありますが、この自他を離した、自己確立の本能が、自己の権限をひろげ、自国の
44
権益を増そうとして、様々の発明、発見を成し遂げ、この地球人類の今日までの物質文明文化の進
展となってきて、原子力という大なるエネルギーの発見となり、電力や光の活用ともなり、ジェッ
ト機あるいは人工衛星という素晴しい速度をもって走り得ることにも成功したのであります。
これがもし、はじめから地球人類が自他一体観をもち、自も無く、他も無い調和した生活からそ
の地上生活をはじめていたら、自他が競い合う、いわゆるお互いの力や知識を磨きあう張りがなく
ひら
そのままの生活を感謝し合っているので、今日のような物質文明の華は恐らく展けてはいなかった
ものと思われます。たとえていうなれば、昔のように京大阪へ江戸(東京) から歩いていっても、
なんの不平も不足も起らないとしたら、いつまでたっても歩いて行く生活をしつづけていたであり
ましょうが、そうした生活に満足しない想い、人よりも自分が先んじて何かしたい、というような
想いが、種々な発明発見となっていったのであります。
ですから、物質世界に、肉体人間として、人間生命が天降ってきて、一度びは肉体人問になりき
って、神を離れ、自他を離し、肉体人間というものの力に依存しきり、その立場に腰を据えて、肉
体人間世界の進展を考えて行動していった人類の在り方は、やはり神の叡智によるものであったの
です。しかしながら、今日では、もはやそうした肉体人間観から生れた物質文明の時代は終結をつ
45物質文明より霊文化へ
げねばならぬ時になってきているのです。それは先程から申し上げている通りなのであります。
今日まで、幾多の聖者の出現によっても、人類が物質文明文化、すなわち科学が素晴しい進歩を
遂げたような工合には、精神文化、霊文化の華が開かなかったのは、まだ精神文化、霊文化の華開
く時代にはなっておらなかったからであって、そうした聖者の力が弱かったからでも、そうした聖
者の出現の必要がなかったわけでもないのであります。すべてのことはこの世においての時間の経
過が必要なのであります。
4s
現在こそ霊文化の開花期
ところが今日こそ、物質文明の終末であり、霊文化の華開く時となってきているのであります。
もはや五感に触れる物の面からの科学的探究は、原子、電子、微粒子、波動というように、眼にも
手にも、いかなる顕微鏡にもうつらない波動の世界に突き当って、その先に一歩も進み得ない状態

になってしまっているのであり、国家対国家の対立も原子兵器を先頭に立てて対峙したまま、もう
対立の状態でいる限りはどうにも身動きならない、動いたら地球人類の破滅という、絶体絶命の立
場に各国共、追いつめられているのであります。それをお互いの国家が、わしのほうが善で、おま
えのほうが悪だと、お互いの理屈をいい合っている、いわゆる政治戦争をしているのです。ところ
が、そうした国家群より、もう一歩高いところから見れば、お互いがもはや時代遅れの、物質人間
観、肉体人類観の、相対界に想いを置いて、自己の主張を遂げようとしているので、善悪の標準の
違いこそあれ、どちらも真善ではなく、人類滅亡に至る自我欲望、自己保存の業想念なのでありま
す。
自己保存の業想念は、長い肉体人間生活においては、今日では潜在意識の奥のほうに入ってしま
っていて、本能と呼ばれる分野に入ってしまっているのであって、少しばかりの精神的要素、信仰
的要素では、この本能を超えることはできないのです。この本能を超えることができない限りは、
人類には戦争の危機は永劫になくならないのであります。何故ならば、自己保存、自己防衛の想念
があるからこそ、敵があり、相手があるのであって、自己と相手との利害が相反すれば、必然的に
そこには争いが起ってくるのです。これはどうにもならない長い肉体生活の習慣的想念であり、肉
体人間を神から離していた無明から生れてきた大きなマイナスの面なのであります。
この自己保存の本能は、今日までは今まで申し上げておりましたように、まだまだ物質文明文化
の進展に役立っていたのですが、今日以降は、プラスの面が次第に僅かになり、マイナスの面だけ
47物質文明より霊文化へ
が大きく目立ってくるのです。

それは現在の米英、ソ中の原子兵器による対峙が如実に物語っているのであって、これに匹敵す
るプラス面はどこにも見当らないのであります。
こうした肉体的自己保存、自己防衛の本能を超え得ずしては、兵力と精神力を頼りにしての強硬
政策も、一歩譲っての譲歩政策も、どちらも戦争を防ぐことにはなりません。強硬政策にでれば、
必ずどちらも引くに引かれず、大惨事を繰りひろげるでしょうし、片方が譲歩してでれば、片方は
ヵルそ
図に乗って侵略政策をつづけるでありましょう。これは人間の業の流れをみつめ得る人なら、何人
にもすぐにうなずかれることなのであります。
これは必然的にこうなるようになっているのであって、人類が今日までのように、人間は肉体に
のみ生きているのである、という想いを改めざるを得なくなってくるのであり、真剣に一途に人間
の本体の神なることを探究せざるを得なくなるのです。
これは肉体人間のほうからするのではなく、守護の神霊のほうから、必然的にそうならねばなら
ぬようにしむけているのであります。今からは肉体人間が霊人間の本質を現わさなければならなく
なる、そのために科学の眼は、もはや自然科学、物質科学の面から、心霊科学の研究に各学者の眼
をむけさせてきているのであって、米、英、仏等では心霊科学の研究に自然科学畑の学者が多数参
加しているのであり、日本でも次第にそうした科学畑の人たちの眼がむけられてきているのであり
ます。顕微鏡ではみられぬ世界の存在に一歩足を踏み入れたことは、物質文明文化から、霊文化ヘ
へんせん
の推移変.遷の第一歩なのです。
人間が肉体だけに生きているのではない、幽界霊界という他界にも生きいきと生きつづけている
のであり、肉体に在った時の想念行為が(注ー恨めば恨まれ、傷つければ、傷つけられるというよ
うに)そのまま自己の運命となって現われている世界である、ということが科学的証明によってわ
かってくると、今日までの自己保存、自己防衛という考えが、根底からひっくりかえって、肉体
界と霊界とをつなげた世界に生きる自己保存、自己防衛となってくるのであります。
こうした自己保存、自己防衛というものは、肉体の自己保存、自己防衛とはまるで考えが違って
きて、肉体の自己だけを守ればよいというような浅いものではなくなってきます。つまり、自己の
想念行為を、明るく清らかに、恨みや妬みや憎悪等々の業想念からぬけだした、平和的な愛と真の
ものにすることである、という真理を、理論や説教で聞かされるのとは別な、実感として感じさせ
られるのであります。
49物質文明より霊文化へ
ところが、実感として感じましても、人間の業想念というものは、実に根深いものでありまして
抑えてもはらっても、その波からぬけ出でることがなかなか至難なのであります。そこに私の説い
ている、消えてゆく姿と、守護霊守護神にすがり任せるという教えがでてくるのでありますが、そ
の前に、自然科学と心霊科学の中間に位すると思われる精神科学という問題にふれてみたいと思い
ます。
50
精神科学と宗教
精神科学という学問は、人間の心というものを幾重にも深く深く分析してゆき、人間の心の底に
ひそんでいる想念を、表面にひきだしてくる学問研究であります。人間には表面に現われている普
せんざい
通意識(顕在意識) と底にひそんでいる潜在意識があるということは、皆さんはすでに先刻ご承知
のことなのでありますが、精神科学という学問の上からは、潜在意識の奥底にひらけている霊意
識、神意識というものは、あまり説いていないのであります。
私は、この潜在意識というものを、幽体に記録されている想念行為として説いているのでありま
して、表面意識から流れこんで録音されたものも、霊意識、神意識から流れ入ってくる真理のひび
きも、共にこの幽体に蓄積されているものである、と霊覚によって知っているのであります。
これを精神科学の学者は、神とか霊とかいう説き方をせずに、ただ表面意識から次第に奥にむか
って潜在意識を探ってゆくので、いわゆる精神分析学になってゆくのであり、宗教の面とは一線を
劃しているのであります。精神科学医は一人の病人なら病人にむかって、次々と問を発し、相手の
無意識に出す言葉をつかんで、潜在意識を探ってゆき、相手の病気の原因である想念のしこりを解
き放ち、病気を治してゆこうとするのです。ところが病人のほうは、大体、自己の心の底の秘密を
探られるのが嫌なので、なかなか精神医の問に乗ってこず、医者と患者とが、あたかも闘うが如き様
相を呈することがあるようです。この方法は非常に時間が掛かる割合に効果が薄いのであります。
こうした精神科学の分野は、政治にも戦争作戦にも応用されているのですが、底に絶対者として
の神を認めているわけではないので、どうも中途半端なところにあるようです。この精神科学、精
神分析の方法を、それと知らずにあるいは、はっきり知って行っているのが、各新興宗教でありま
して「おまえの病気は、これくこういう心の現れだ」「君が貧乏なのはこのような心を持ってい
るからだ」「あなたがあのような不幸な目にあったのは、あなたの心の中にこんな想いがあったか
らだ」等々の昔風にい、兄ば、因縁因果説、今風にいえば、心の法則ということにして、精神分析的
51物質文明より霊文化へ

に宗教を説いているのです。一
こうした宗教的精神分析は、底に神を説いているのですから、学者たちの単なる精神分析よりは
よいわけなのですが、底に神を説かれての精神分析の方法は、一歩誤まると、自己の心を裁き責
め、他者の行動をいちく非難し責め合うような地獄の心を起さしめるものとなるのです。
唯物論的物質科学が、一方に人類の生活の便宜を与えながら、一方人類絶滅の科学兵器をつくっ
て、そのま二では、差し引き重大なマイナスとなってしまうような行き方になってしまったと同様
な誤りを、霊文化への第一歩ともいうぺき精神科学的な精神分析指導が、今や冒しかかっているの
であります。
52
霊文化への第一歩
霊文化とは、いわゆる神のみ心の展開による大調和の生き方が示されることであって、業想念を
分析して、人々の心を痛めつけるような指導方法をなさしめることではないのです。
因縁因果を説くのでも、心の法則を説くのでも、人間の今日までの心は、こうしたものであった
のだけれど、人間の本体というものは実は神そのものであって、自由自在なる大智慧、大光明をも
つものであるのだ、ということを知らぜるための前提のようなもので、指導される側が、そうした
方法に心がひっかかってしまうような教えをなすべきではないのであります。
例えれば、月を差す指のようなもので、月を差した指だけをいつまでもみつめさせて、月のほう
に一向に眸がゆかぬような教えをしたのでは、その教えがかえってマイナスになって、人間がお互
いの欠点を探りあい、お互いの病気や不幸のある度びに、あの人の心の中に何かの間違いがある、
と責め合う想いが自然と湧きあがってきてしまうのです。
そこで私は、この因縁因果説も、心の法則も一度は認めさせながら、それをさし示した指を、月
(神) のほうに集中させるように、病気も不幸も貧乏もすべて過去の神を離れていた想念行為の消
えてゆく姿なのですよ、と月をさす指を消さしめて、それと同時に、消えてゆく姿を想う時に、あ
なたのうちにある神の姿、本心が輝きでてくるのですよ、ですから、ひたすらその業想念を消して
いて下さる、守護霊、守護神に感謝しつづけなさい。そうすれば、自己の心の業想念にも、他の人
の業想念にも把われず、自分の心を赦し、人の心も自ずから責めさいなまない、愛と赦しが自然と
行われ、お互いの心の中の神性が、いつの間にか輝き出てくるのですよ、と説いているのでありま
す。
53物質文明より霊文化へ
ここまで考えてまいりますと、宗教者が因縁因果説や心の法則を説く時には、余程深い愛の心を
もって、現在のその人を責めるような言動は絶対に吐いてはいけないと思います。指導者側に責め
る心や、高慢な心があったら、けっして因縁因果や心の法則で、相手に対してはいけないのです。
それは唯物科学者の兵器と同じことになるのですから、よくく気をつけなければならないと思い
ます。
ある年の秋に関東地方を襲った台風では、宗教をやっているいないにかかわらず、大分水浸しに
なった人々がありましたが、私のところにきている人で被災した人は、実に明るい平安な心で、そ
の災害に対していたのです。それは、すべての現れは、その人の過去世の因縁因果の消えてゆく姿
で、それが消えてゆくに従って、その人の本心がより輝やかになってゆくのだ、真実の神性が現わ
れるのだ、そのために常時背後に守護の神霊が護りつづけておられるのだから、その人々が再び立
ち上がれぬような目には絶対にあうことはない。ただ、ひたすら守護の神霊への感謝と、世界平和
の祈りをしていればよいのだという教えをうけていたからであります。
ですから、被災の翌日尋ねてきた人の明るい顔といったら、まるで絶大な幸福でもつかんだ時の
ような顔で、私に感謝し、何があっても平安な気持で過ごせた自己に感謝していたのでありまし
54
た。それにくらべて、精神分析的心の法則や因縁因果をつかんでいる人々は、こんな不幸にあった
のは、いったいどんな心の現れなのか、自己のどこに欠点があったのかと、まるで泥棒に追い銭の
ような、消えてゆく業を追いかけているような、罪の観念、自己を責め裁く想いに取りつかれてい
るのでありました。
人間はあくまで、自己を赦し、人を赦し、自己を愛し、人を愛して生きてゆかねばならぬもので
その一番最良の方法は、消えてゆく姿と、神への感謝の他にはないと思います。霊文化の進展は次
ていけい
第に急速になり、神霊の出現、宇宙人との提携による神科学(すべてを生かす科学) の発達となっ
てくることでしょう。それまでの私たちの生活は、ただひたすら世界平和の祈りによる、人類の業
想念波の浄めに終始していればよいのだと思うのです。
55物質文明より霊文化へ
56
宇宙人と地球人
宇宙人の存在を確信し確言する
近頃は宇宙人に関する著書や談話が、そこごこで出版され、話されるようになりましたが、いっ
たい宇宙人という者が実際存在するのかどうなのか、存在したとしたらどのような形で存在してい
るのか、ということが非常に問題になってまいります。
ただ単なる著書や談話であったならば、小説や空想として聞き流されてしまうでありましょう
が、欧米においても日本においても、かなりの人々が、空飛ぶ円盤と呼ばれている宇宙船を見てい
るのでありますから、ただ単なる空想とか小説とかいい切れないものを含んでおります。しかしな
がら現在では、宇宙人の存在を肯定する人々は世界でも数の知れた人数でしかありません。
私はどちらの部類であるかと申しますと、今更申し上げるまでもなく、宇宙人の存在を確信し、
確言している者であります。
死後の霊魂の存続の問題でも、古くから種々と論議されてきていますが、現今では科学的にも霊
魂の存続が認められてきていて、かなり多くの霊魂存続論者、死後の世界の存在を信ずる人々が各
国に存在するのでありますが、それでも文明人類の何パーセソトでしかありません。宇宙人の問題
や宇宙船のことになりますと、霊魂存続者のパーセソテージよりなお更に少い数しか、存在肯定者
はいないようであります。
しかもこの存在することを肯定している人々の中にも何種類もの肯定の仕方があるのでありまし
て、肯定者だからすべて一つにつながっているというものではないのです。
この肯定者の中の大きな二つの分れは、唯物論的に、心霊や心の動きの重要性を問題にせずに、
宇宙船をただ単なる秀れた科学力によって生れた物的存在と見、宇宙人をこの地球人と等しい範曙
の肉的(物的)存在者として見ている人々と、心霊的な面から宇宙船や宇宙人を考察しようとして
いる人々とであります。
私は勿論宗教者であり、心(神)霊主義者でもありますから、後者の立場に立っております。と57宇






ころが後者の立場の中にあっても、宇宙人や宇宙船の存在や、その人々の出玩を、漠然たる興味で
待ちのぞんでいる者たちと、宇宙人に会うには宇宙人に会うだけの心構えがなければならぬ、宇宙
人とは神霊と等しい霊位に在る者であるから、地球人もそうした霊位にまで自らを高めて置かなけ
ればならぬ、それでなければ、単に興味本位で宇宙人に出会ったとしても、なんの役にもたたない
し、かえってマイナスになるかも知れぬ、世界平和のためには地球人類の力だけではどうにもなら
まこころ
ぬから、宇宙人に援助をしてもらいたい、という世界人類の平和を心から願うその真心で、宇宙人
と交流したい、という念願の人々とがあるのです。
私たちのグループは後者であることはいうまでもありません。
なぜ宇宙人のぼうから手を結んできたか?
さてそれでは、宇宙人と地球人とはどのような相違点をもっているのでありましょう。まずその
ことから話してまいりましょう。私が宇宙人のことを講演会で話したり、郎潅認にちらほら書きは
じめた頃「先生の教義の消えてゆく姿の教えや、守護の神霊への感謝は実によくわかるし有難いみ
教、兄だか、何故先生が宇宙人のことなど書いたり話したりなさるのか、実に残念なことだ」という
ような意見が出てきたり、「宇宙人のことは先生の方便による教えでしょう」といってきたりしま
した。実際に宇宙人のことなど私がいわなくとも、消えてゆく姿と守護の神霊への感謝、日々の浄
め、統一会、等々、世界平和の祈りを根元にしたこれらの方法で、同信の人たちは、みるみる幸福
になり、安心立命の心境に近づいてゆくのであり、その人々の他への善い影響力も相当な力になっ
てきているのですから、それだけを通していっても、宗教者としては立派に真実の道を歩いている
わけなのです。
それなのに何故宇宙人のことなどをいいはじめたかと申しますと、これは肉体人間の側からいい
はじめたのではなく、宇宙人のほうから、私たちに縁を結んでこられ、種々と交流しはじめたから
なのであります。
宇宙人のほうから何故縁を結んでこられたかと申しますと、私たちの世界平和の祈りの光の波が
ひびき
宇宙人のもっている心の波と全く等しい律動であったから、自ずと一つに結ばれたのであります。
宇宙のすべての存在はひびきなのであります。それが光のひびきであるか、業想念波動、光の未
開発のひびきであるかなのであります。
地球世界は未開発の人間の住居でありますので、光と業想念(光の未だとどかぬ範囲) との混交59宇






した世界なのであります。光と闇とがはっきり形の世界で分れていれば、これまた問題はないので
すが、形の世界には光と闇とが入り交じって現われているので、地球人間の想念行為にも、光(神
カルマ
の心)と闇(業) とが入り交じってくるのです。そこでなかなか調和した世界、平和なる世の中が
現われてはこないのであります。
この光と闇の混交を、光(真実)は光、闇(虚偽)は闇とはっきり分け、そして光を闇のほうに
照し出し、その光明によって閣を消し去ってゆく方法が、すなわち祈りなのであります。
全想念を常に神(光) のほうにむけること、これが祈りなのです。そして私の唱えている世界平
和の祈りとは、その祈りを祈ろうとする時にすでに、その人がどのような業想念をもっていようと
こころ
も、その人の意はもう世界人類という広い範囲にひろがってゆき、その広い範囲を手分けで守って
おられる守護の神霊の光明の中に知らぬ間に入っていってしまうのです。世界平和の祈りをしよう
とした時にはすでにその人は個我の想いの人ではなく、人類的な人、世界人類大に広がった人にな
っているので、世界人類大の守護神の光明を自らも受けること演できるのであります。そして世界
人類大の光明を自らが受けたということは、自己の肉体という器を通して、また改めて肉体的世界
人類にむかって光を放射しているということにもなってくるのです。
60
これをもっと簡単にいえば、世界平和の祈りは守護の神霊団体の結集した大光明なのだから、世
界平和の祈りの中に自己の想いが入ってゆけば、自己の業想念は勿論、世界人類の業想念(暗)を
消し去る偉大な力を発揮するのだ、ということになるのであります。
もともとこの世界は神のみ心によって現わされた世界なので、悪いことのあろう道理のない世界
なので、悪いように見えるのは、神のみ心がまだはっきり現わされていない、つまり神のみ心の未
ヘヘへ
開発のところが悪や不幸のようなあがきを見せて消えてゆく姿(開発されてゆく姿)なのでありま
す。
こうした開発の仕事、神のみ光を放射する役目を、私たちは世界平和の祈りと消えてゆく姿の教
えによって、日常茶飯事の間も行じつづけておるわけなのです。
興味本位を一切捨てよ
こうした生き方が、神の子、光の子としての生き方と認められるのは当然でありまして、私ども
の心の波はそのまま宇宙人の神霊的な光明波動と合致して、世界平和の祈りのグループを通しての
宇宙人の地球人類援護という約束が成立したのであります。
61宇宙人と地球人
宇宙人と真実の交流を求めるならば、興味本位の想いを一切捨てなければなりません。名誉欲や
権威欲も一切捨て切ることです。ただただ、宇宙人と等しき心の波長となるべき、深い心、高い
むな
心、つまり自己を空しくした想念にならなければ駄目なのであります。
私たちは宇宙人を興味本位で眺めたことはありません。名誉欲や権威欲で宇宙人の我らへの交流
を求めたこともありません。
私たちははじめから神霊との交流によって働いているのであって、私はこの肉体のまま神霊その
ものでもあるのです。ですから今更宇宙人でなくとも、神霊の物質化による援助でもよいと思って
いたのであります。
ところが今日のように宇宙人との交流をつづけておりますと、肉体人間と神霊と宇宙人とこの三
者の協力がなければ、この地球人類が絶対に救われないということがわかってきたのであります。
もっとくわしく申すと、肉体人間(物質界)を主体として、神霊界と神霊界そのものの物質化と
いうべき星の世界、つまり宇宙人との三者の協力ということになります。
宇宙人と地球人の相違
62
では地球人間と宇宙人(星の人類)とはどのように相違するのかといいますと、宇宙人は神霊が
そのまま物質化している存在であるので、物質宇宙人は即座に神霊に還元することができます。し
かし地球人間は、神霊がそのまま物質化しているのではなく、神霊の微妙な波動から、幽質(幽体)
あら
の波動にひびきを粗くし、そして物質というもっと粗い波動になって、肉体人間となってきている、
つまり四段階(くわしくいえばもっと多くの段階) になっているのです。
あら
宇宙人が神霊の微妙な波動を幾分粗めただけで物質化(真実は幽質化) できるので、すべての点
において地球人類より、はるかに自由自在な存在なのであります。
こう申しますと、地球人間のすべてが、宇宙人にまるきり劣るのかといえば、そうではなく、こ
の地球世界にも、宇宙人と同等の、いわゆる宇宙人並みの肉体的の現れ方をしている人たちがある
のです。イエス・キリストや釈尊はそうした人たちであったのであり、今日でもそうした人たちが
何人かは存在するのであります。そして、これからも修行次第では、宇宙人並みになり得る人たち
がまだまだたくさん存在するのであります。
これからは、自らを宇宙人だとか、宇宙人と会っているとか、宇宙人の通信を受けているとかい
う人々が、次々と現われてくるでしょうが、その真偽は、その人自身の人格の高さや、その団体の
63宇宙人と地球人
正しさ清らかさによって判別しなければなりません。
やたらに宇宙人のことを口にしていても、その人の想念行為が低いものであったり、輝きのない
ものであったら、その人のいうことは、虚偽であるか、背後の霊魂のいたずらかに違いありませ
ん。それは霊能者の場合も同じであって、もし、そうした低い想念行為に感応して出現してくるよ
うな宇宙人であったら、そのような宇宙人と手を握っても、地球人類は救われようもありません。
私たちの求め、交流している宇宙人は、釈尊よりもイエスよりも秀れた霊位の宇宙人であるので

すから、生半かの立派さや、善良さでは、波長が合うわけがないのです。と申すと私たちが自分賞
めしていると思われる方もあるでしょうが、私たちは自己の想念行為を、すべて世界平和の祈りの
中に投げ出して、その世界平和の祈り(神のみ心) の中から改めて生れてきているのであるので、
自分賞めも、他人賞めもない、そうした業想念とは関係のない世界から働いているのです。
賞める想いも賞められる想いも消えてゆく姿、恨む想いも恨まれる想いも消えてゆく姿、善いに
つけ悪いにつけ、すべての想念行為を消えてゆく姿、と消し去ってゆく教えの中で生活している老
たちに残る姿は、本来のみ仏の姿、神の姿でしかありません。
消えてゆく姿の中に立って行動している者たちの日常生活は、そうした教えを知らぬ人たちとは64
把われる想念において確かに相違する筈です。
肉体をもった人間は、如何なる人でも、必ず多少の業想念はあるものです。ですからその業想念
くねフ
を絶対に出してはいけない、といわれても、いきなり空になれといわれても、なかなかそうなれる
ものではありません。かえって自分を痛めたり傷つけたり、自己の想念を抑圧したりしてしまいま
す。そして偽善者になりかねないのです。
くう
ところが宇宙人の超人力は、地球人類のなかなか成り得ない空の境地から発現されるのでありま
くう
す。空の中から宇宙船も生れ、空の中から超科学的能力が生れてきているのですから、地球人類の
くう
科学者も、空の境地から改めて科学者としての仕事をしてゆかないと、いつまでたっても、相対的
軍事的科学の成果よりあげられず、ついには自らの科学力で地球を滅ぼしてしまうのであります。
くうくう
話がここまでまいりますと、空にはなり得ないし、それかといって空の境地からでないと、宇宙
人並みの超科学は生れない、ということになって、いったいどうしてよいかわからなくなります。
全託精神が空
そこで神への全託ということが生きてくるのです。神はすべてのすべてであり、全智全能であり
65宇宙人と地球人
ます。この神の全智全能力を心の底から信ずることが、そのまま全託精神になってくるのです。神
の全智全能力を信じ切った時、そこに肉体人間的なんの不安、なんの不審があるでしょうか。人間
は神からきている、神の子であることは、宗教的な人はみな肯定し得る事実であります。
くら
この全託精神こそ、仏教で空といわれている境地と等しい心なのです。しかしながらこの全託精
神になり得る人が、また、この地球人類には稀なのですから、実に始末が悪いのです。こうなると
くヒフ
理論的にはわかりながら、空にもなれず、全託にもなれぬ悲哀を地球人類は永劫に背負わされてゆ
きそうです。
そこに、消えてゆく姿と、守護神、守護霊への感謝の教え、それに世界平和の祈りが、はっきり
と浮び上がってくるのであります。
消えてゆく姿という教えのいったいどこに無理があるでしょうか。肉体人間の居城である肉体そ
のものも最後には消えてゆくのです。その最後には消え去ってしまう、肉体にまつわる種々様々な
想念を、何故いちいち把えて悩み怒ることがあるのでしょう。すべては消えてゆく姿です。
そしてこの消えてゆく姿の底には、永遠の生命.霊なる人間が輝やかに生きいきと生きているの
ちよくれい
です。私はそれを本心とか直霊とかいって説いていて、その本心を肉体をもったままで発現し得る
66
ようにと、個人くの業生の想念行為を消し去るために肉体と密接なつながりをもつ守護霊の存
在、それからもっと高度な強力なる存在としての守護神の在り方を、私の体験によって、説いてい
るのであります。
一度に全智全能の神のみ心にまで飛び上がれぬ一般人のための、守護霊、守護神への信仰は、キ
リスト教のイエスやマリヤ、仏教の観音信仰をもっと、各自の身近かに感じさせるように説いてあ
るのです。
ただ単なる消えてゆく姿では虚無的な諸行無常的な匂をもちますが、その底に光り輝いている神
仏、守護霊、守護神の姿を画き出すと、禍変じて福となす式の光明思想になるのであります。
私はこの地球人類はすべて凡夫である、という思想から教えを発しているのですから、無暗やた
らに光明思想を振りまわしているわけではないのです。
一度は自己を凡夫の位置にしっかり据えておいて、その凡夫の業想念を、消えてゆく姿として世
界平和の祈りの中、守護神霊団のみ心の中に投げこんでしまう方法を教えているので、自分が悪い、
他人が悪い、自国が悪い、他国が悪いという想念も消えてゆく姿として扱っているので、自分を責
め、他人を裁く想念行為が無いのであります。もし脳裡に浮び、行為に現われたら、それも消えて
67宇宙人と地球人
ゆく姿として、守護の神霊に詑びる想いで、世界平和の祈りをしてしまえばよいのです。
く フ
こうして、常に業想念の自己を、神霊のみ心の中に投げ入れていると、いつの間にか、空や全託
と等しい境地に自己の心が昇華してしまうのであります。
68
宗教的カルマは地球平和を遅らす
私たちはそうした祈りの生活を日々の行としてやっているので、すべての想念行為は、守護の神
霊の中、本心の中、世界平和の祈りの中から発現されてくるということになるのです。
すべての宗教は、自我(小我) というものを捨て去り、真我の自己を発現させるべき教えなので
ありますのに、今日までの各種の宗教を観じていますと、自我(小我)が形を変えて入れ代わるだ
けでありまして、小我が消え去ったわけでも、真(神)我を発現したわけでもない境地を堂々めぐ
りしているものがたくさんあるのであります。
ひどいのになりますと、その宗教に入ったためにかえってマイナスになる場合ができます。金星
そこ
の長老の言によると、地球人の宗教観念はかえって真性を損ねる宗教的カルマとなって、地球の進
歩を遅らせかねない、といわれています。
はず
宗教に入って、常識外れの言動をするようになる人々がいますが、私は特にそれをいましめてお
はず
ります。常識を外れずに常識を超えることが、宗教の門に入った人の生き方でなければなりません。
日常生活が一般人そのままで、なんの奇異なる点なくして、霊能力、神秘力に秀れている、とい
うようになることこそ、宗教者の目的であります。真実神とのつながりを自覚し得たならば、なん
の巧むことなく、自然法爾的に常識を超えたる、超人力を発揮でき得るのであります。
わら
そうでないと、宗教者が増えれば増える程、唯物論者の物喘いを買い、知性ある人々の宗教心を
傷つけてしまうのです。恐るべきは唯物論よりも、宗教的カルマであるのです。
現今は、正しき宗教者と、神のみ心を体した科学者との協力が非常に要望される時代なのです
ヘヘヘヘへ
が、宗教者が科学者におもねって、枝葉のことに頭をむけたり、分析的にものをみたりするようで
すとそれは宗教者の堕落であります。
宗教者はあくまで、すべてを神に全託した境地から、全行為をなすべきで、少しの自我欲望があ
ってもいけないのです。そうした境地でなければ、宇宙人との協力による地球人類の平和、宇宙平
和への働きはできないのです。
69宇宙人と地球人
70
個々の悟りと世界人類の平和実現
私は一方で一般大衆の指導に全力を傾け、一方で世界人類の祈りによる平和運動を推進している
のですが、この小乗的に見えるいき方と、大乗的に見えるいき方とが、実は全く一つの面、同じ方
向にむかっている方法なのであります。
それは世界平和の祈りによる、天への昇華と、天からの地上への救済とが、同時に行えるような
おリモうげんそう
教えであるのです。往相と還相とが同時に現われる教えなのであります。

この教えには、なんらむずかしい理論はありません。ただ、神への全託に想念をもってゆかせる
ための、やさしい方法があるだけです。すべて宗教の教えは、月(真理)を差す指でしかありませ
ん。
その指にだけ心を向けさせるような、むずかしい理論や、利による方法は、いつまでしても、弟
子たちの心を神(真理) のみ心に合致させるわけにはゆきません。
要はその人々が、神のみ心の中に飛びこんで、神の子としての想念行為で、この世の生活をして
くれればよいのでありますから、その方向にむかって、全宗教者が心を合せて進まぬと、地球人類
は宇宙全体からあきられてしまいます。もっとも宇宙人は決して、馬鹿にしたり、あきたりはしま
せんが、宇宙人に大きな負担を掛けることになるのです。
皆さんは、常に本心と業想念を区別して生活することであります。本心と業想念とをはっきり区
別していないと、なかなか進歩することができません。
業想念は消えてゆく姿、消えてゆくに従って本心(神のみ心)が輝やきだすのである、という真
理を想いの中に深く沁みこませることが大事であります。
凡夫を一ぺん捨て切って仏になる、神の子になるというのは大変すぎて普通ではできないのです
から、そういう名論は知識として頭に入れて置き、凡夫のままで、凡夫の業想念のままで、消えて
ゆく姿として、本心の中、守護の神霊の中、世界平和の祈りの中に飛びこむ日常生活をしつづけて
下さい。
宇宙人の高い心とひびきを等しくでき得る一番やさしい教えは、消えてゆく姿と世界平和の祈り
であります。これは金星の長老の言葉ですから間違いありません。この事実はそう遠い将来でなし
に、必ずはっきり示されますから、どうぞ私の著書を読んでおられる方々は、頭だけで納得してい
ないで、早速日常の行為の中に、消えてゆく姿と、世界平和の祈りを根元にした生活をして下さ71宇






い。
72
この教えは、貴方自身や貴女方一家族を救うと同時に、世界人類を第三次大戦や天変地異から救
済する最もやさしい、実行しやすい教えであると私は確信しているのです。
こうしてペンを取っている私の中で、金星の長老が愛に充ちた柔和な顔をして、輝やく微笑で立
っておられるのを皆さんにも見ていただきたいものです。
新しい世界を創る
古い殻をぬぎすてて完成への道を進む
「古い皮袋に新しき酒は汲めない」とイエス・キリストはいっていますが、本当に、古い教えを
そのままにして、現代に実行させることはむずかしいことであります。イエスはその時代において

古い迷信に充ちた宗教の中から、真理を教える新しい宗教の道を、生命を賭して切り開いた聖者で
ありました。
イエスは道を説きながら、つくづくと嘆じたことでありましょう。それは、古い教えをこわさず
に新しい教えをひらいてゆくむずかしさであります。
古い悪い習慣を打破して新しくよい道をきりひらいてゆくことは、どんなことによらず非常に困
73新しい世界を創る
難なことであります。しかし、古い悪い習慣をそのまま打ち捨てて置いたら、個人も社会も人類も
やがて滅亡してしまわねばなりません。人体における細胞が刻々と新しく変化してゆくように、個
人や人類の古い習慣も、刻々と新しく変化してゆくべきもので、その新しい変化を止めようとすれ
ば、その個人も組織も、不調和不完全になって倒れていってしまうのです。
神様のみ心の中には、人類世界の完成された姿が、はっきり画かれているのでありましょうが、
その姿ボ、形の世界、現れの世界に現出されるのには、それ相当の時間経過が必要になってくるの
であります。そして、その過程に現われている諸々の事態や姿が、不完全不調和な姿となって、私
どもの眼にうつっているわけなのです。
このように、この世界は変化変滅しながら完成への道を突き進んでゆくのですから、時代の推移
に従って、あらゆる現れの面に、変化した事態が起ってくるのは当然なことなのであります。そう
した変化の姿を、ひき止めようとあがけばあがく程、そこには争いや乱れが起ってきて、古い時代
と新しい時代の相剋となっての悲惨事が巻き起こされてくるのです。小さくは親子の問、嫁姑の間、
大きくは人類世界の思想的問題、もっと大きくなると、地球と他の星との思想の相違となってくる
のですが、この最後の問題は徐々にお話してゆくことに致します。
74
ズ.
この悲惨事は、ユダヤにおけるイエスの十字架上の受難となったり、様々な宗教者、科学者、思
想家等の数々の受難となって現われていったのでした。そして現代では、地球人類すべてが一様に
受難を蒙らざるを得ない境に立たされているのであります。
人体の血液が休みなく循環しているように、宇宙のすべてが止まりなく循環しているのです。そ
の循環を止めれば、その人体は破壊し、その宇宙は砕けてしまうのです。すべて自然の流れのまま
に運行せしめなければ、人類の滅亡は必然的にやってくるわけなのです。
魂的習慣と肉体的習慣
ただ問題になってくることは、古い思想事柄がみな悪くて、新しい思想事柄がすべて善いのかと
いうことであります。これはとんでもないことでありまして、新旧の思想事柄の中には善悪混交し
ており、古い思想事柄がみな悪く、新しい思想事柄がみな善いものであるなどということはないの
です。
私の申し上げたいことは、行く雲、流れる水のように、神のみ心の流れ、宇宙自然の流れに乗っ
じねんほうに
て、自然法爾的に人類は進んでゆかねばならぬ、そうすれば、神のみ心、神の叡知の中からおのず75新







からなる智慧才覚が生れてきて、神のみ心に叶った、自然の法則に沿った人類世界の運行ができて
くるのだ、ということなのであります。
人類世界がどうして今日のように混迷した、不調和な争いに充ちた世界を現出しているかといい
ますと、人類が神のみ心を知らず、宇宙の運行の法則を知らず、己れよがりの生き方や、政治政策
を行なっているからなので、その生き方は、古い悪い習慣を把え、新しい悪い思想につかまり、と
いうように、新旧の誤った、宇宙の法則にはずれた道にみずからを乗り入れてしまっているからな
のであります。
神のみ心にのっとり、宇宙の運行の法則に従っていさえすれば、古い善きものはそのままに生
き、新しき善き道はますますひろがって、地球世界の完全調和が達成されるのでありますが、これ
が肉体人間の業想念の習慣が消え去らぬ以上はとてもでき得ないことなのです。
人間の習慣というものは、全く恐しいもので、すべてはこの習慣性で動いているといっても過言
カルマ
ではないようです。この習慣性のことを宗教的には業と呼んでいるのであり、私は常に業想念とい
っているのであります。そしてこの習慣というものは、魂的な習慣というものと、肉体的習慣とい
うものの両面がありまして、いずれも、古い過去世からの習慣なのでありますので、一朝一夕でこ
76
の習慣を変化せしめることはできないのです。
この魂的な習慣にしても、神のみ心、み光そのものが直接働いている、いわゆる業想念でない直
覚的な光の流れとでもいうような本質的なものもあり、幽界の様々な思想想念を受けて、それが習
慣性となっているものもあります。また肉体的な習慣というのでも、前の前の世からの肉体的波動
が再び三度び固体的肉体となってきているのですから、そうした過去世からの習慣も伝わってきて
いるわけで、今生だけのものではないのです。しかし、おおむね肉体の習慣は、物質的な、動物的
な、自己保存の本能となっているのです。
さて、こうした魂的な習慣、肉体的な習慣といった、習慣の流れをそのままつづけている限り
は、魂と肉体の習慣性の争いになって、魂と肉体の不調和状態が起り、病気や不幸が起ってくるの
です。これは、個人も人類も同じことなのであります。
ところが、一度定められた宇宙の運行は、なんらの変更もなく行なわれてゆくのでありますか
ら、このような習慣性に縛られている間は、個人も人類も、一つの枠の中をぐるぐる廻りしてい
るだけで、この宇宙の法則通りの運行から次第に軌道がはずれていってしまうのであります。そし
てはずれきった時は、即ち地球人類の破滅となり、世の終りとなってしまうのです。
77新しい世界を創る
78
宇宙法則の軌道からはずれている
この世の中では、やれ資本主義だ、社会主義だ、共産主義だ、というように、各組織がお互いの
主義主張をいいはって、争いあっていますけれど、これなどは実に馬鹿気たことで、破滅にむかっ
ている枠の中でのいい合いに過ぎないのです。お互いに宇宙法則の軌道をはずれた者同士が軌道を
はずれていることを知らずに、俺のほうが真理だ、いや俺のほうだと、向うみずに汽車を走らせて
いるようなもので、どうも危いことこの上なしというべきなのです。
こうした過去世からの個人や人類の習慣性に嫌気がさした人々の中には、過去の習慣性をぬけで
ようとする動きをするものがでてくるのです。そして、その習慣に極端に反擾する者は、過去世の
唯物論者が、物質界を極度に蔑視した神秘主義者になったり、神秘主義に反擾を感じた者は、極端
な唯物論者になったりするのです。資本主義や、帝王制度の反擾者が、社会主義、共産主義者にな
るようなのも、数多くあるのです。
しかし、これらの人々も、過去の習慣を打破したように見えても、実は、右から左、左から右へ
行ったように、やはり宇宙法則をはずれた小さな枠の中での業が転回しているにすぎないのです。
真実に古き善き道を生かし、新しき真理の道を生かす者は、どうしても、この宇宙法則の流れの
中に、すっぽりと入りこんでいなければ計り知れない神のみ心の動きに同調してゆくことはできな
いのです。神を離れた肉体人間の人類の頭脳などというものは、実にお話にならぬ程の、小さな知
恵才覚しか持ち合わせていないのです。
一度肉体人間の世界から想いを放して、宇宙の様相を眺めてごらんなさい。銀河系の宇宙だけで
も、どれだけ彪大でありましょう。そうした宇宙が無限にくりひろげられており、しかもその宇宙
がすべて、秩序だった法則の下に運行されているのです。その運行を司どっておられる者、それは
いったいどんな偉大な智慧を持ち、どのような驚嘆すべき能力をもっておられる方なのでしょう
か。考えるだけでも、その御方に頭を下げずにはおられぬことでしょう。
その御方は、地球人類が今日のような混迷に陥ることは先刻ご承知で、時代時代に応じた守護
神、守護霊を遣わされて人類救済の各聖者を助けられて働かされておられるのです。そして今日で
は、守護の神霊の大協力による救世の大光明として、肉体人類の間近に光をふりそそいでおられる
のです。
79新しい世界を創る
宇宙の法則とは?
80
宇宙の法則は絶対に曲げることはできません。法則を曲げてしまえば、宇宙の秩序は乱れて、混
とんとしてしまいます。といって、宇宙の法則に乗って生きなければ、地球人類は滅びてしまいま
す。ところが、地球人類には、今日まで積み重ねてきた業想念の波が多すぎて、とても宇宙の法則
の波に乗るまで、心が浄まり高まることはできません。
宇宙の法則を一つ例にとれば、絶対調和ということです。絶対なる調和なくしては、宇宙法則の
波に乗ることはできないのです。社会主義者、共産主義者が、絶対調和の心の波を出し合っている
でしょうか、全く否といわなければなりません。日本の政治家たちが、米国の政治家が、ソ連中共
の政治家が、己れの如く人を愛する、絶対調和の心の波を出しているでしょうか。否々といわざる
を得ません。
それならば、如何なる人々が絶対調和の波を出しているのでしょうか、科学者でしょうか、宗教
者でしょうか。まず宗教者が絶対調和の心の波を出してみせねばならぬ役割にあることは、言を要
しません。
レ:ミゼラブルのミリエル僧正のように、人々に食も宿も断わられつづけてきた前科者のジャン
パルジャンを温かく迎えて泊めてやり、しかもその恩義に逆いて、盗もうとした銀の燭台さえも与
えて、役人の縛から逃れさせてやることができるでしょうか。また日本の白隠和尚のように、自分
になんのかかわりもない赤ん坊を、お前の生せた子だと、ひどいののしりとともに、押しつけら
れ、それを素直に受け取り、寺を追われても平然として赤ん坊を育てていたというような、あんな
自然法爾な無擬な心になれるでしょうか。今日の宗教者の中では、その境地に達している人は、ほ
んの僅かな人でしかないと思われます。
常にそうした境地でいなければならぬ宗教者が、自己の立場や権力を守ることに汲々としていた
り、敵を想定して一方の政党に組したり他宗派の人々を悪魔呼ばわりしたりしているのですから、
現代は全く末法の世といわれてもしかたがありません。
現代は、もはや、声に出る言葉や、文章による真理の説法だけでは駄目な時代になってきている
のです。あらゆる業想念が表面に浮ぴあがって来ていて、地球人類を破滅にまでもってゆこうとし
ているからです。今日では真理の言葉と同時に、その真理を実行にうつすことが大事な時なので
す。その真理の言葉の主なるものは、絶対調和、地球世界の大平和ということなのです。この真理
81新しい世界を創る
にはずれたものは、如何なる巧妙な言や筆をもってしても、
も、宇宙の法則の流れに乗ることはできないのです。
また社会事業、社会施設をもってして82
宇宙法則の流れにのれるやさしい方法
ところが、肉体人間の自己の力では、とうてい宇宙法則の流れに乗れない人々をも、容易に乗せ
でくれうる場所が現われたのです。それが世界平和の祈りなのであります。真実に人間の心をのぞ
いてみたら、絶対調和の心の持ち主は、殆んど見当らないのです。たとえ十人や百人のそうした人
々があったとしても、それだけで地球人類が宇宙法則に沿って、地上天国を実現せしめ得るもので
はありません。そこに救世の大光明、守護神霊の結集した救済大光明が絶対に必要になってくるの
です。法則は曲げられないが、法則の軌道の流れにまで地球人類を持っていって下さることは、守
護の神霊の力をもってすればできるのです。
地球人類は、今日では単なる個としての地球ではなくなっているのです。宇宙の一員としての立
派な使命をもつ地球人類となってきているのです。それなのにいまだに、ソ連が中共がとやってい
るのです。資本主義も共産主義も、それらはみな消えてゆく姿なのです。いくら力と力で押え合っ
てみたところで、お互いが傷つくだけで、人類の誰の得にもなりはしないし、誰の救れにもなりは
しない。そんなつまらぬ思想争いをやっていることは馬鹿気きったことなのですけれど、これも業
想念波の一つの消えてゆく姿で、現われて消えてゆかなければしかたのないものなのでしょう。
ですから私たち世界平和を祈る者たちは、米国もソ連も中共も、神のみ心をはなれたあらゆる思
想も、ただ地球人類の前を通り過ぎてゆく影に過ぎない、消えてゆく姿に過ぎないと思っているの
です。そうした古い習慣の殻は速やかに脱ぎすてねばなりません。自国の思想を通すために相手を
押えねばならぬような習慣は、過去の地球人類のものであって、これからの新しい地球人類の思想
でも習慣でもないのです。
一つの目的に想念を集める
消、兄てゆく姿である業想念にばかり把われていた、過去からの習慣を直すためには、いったいど
うしたらよいのでしょう。それは一つの目的に想念を集中すればよいのです。その一つの目的とい
うのはなんでしょう。宇宙の法則の軌道に乗るための一番必要なもの、絶対調和の心、世界平和の
願いでなければなりません。そしてこの心には、現在までやってきた、自力的な方法ではとてもな
83新しい世界を創る
れっこないのです。自力的でできるのなら、もうすでに多くの人々がそう成っていなければならな
いのです。
その事実を大神様は、はじめからご承知なので、守護神霊を一場に集合させて、救世の大光明と
しての働きをなさり、人類を危機から救おうとなさっていらっしゃるのです。そしてこれは必ず成
功するにきまっているのです。何故ならば、神は絶対なる智慧であり、権能であり、神の他にある
ものなし、であるからです。
私は昔からあった悪魔といういい方を好みません。神だけが唯一絶対なる存在者であって、すべ
てはみな、神のみ心の中で生きているのであります。悪魔などという神を離れたものが存在するわ
けはないのです。ただ、悪魔のように見える、地球人類のみずから出した業想念が、光に照らし出
されて消え去ろうとしている姿があるのです。それは悪魔というような、神と対立して存在する実
在ではないのです。
人間はどんな人でも、嫌なところがあるものですが、その嫌なところはすべて消えてゆく姿であ
ひと
って、その想念所業を把えつづけていさえしなければ、本来性の神の子、霊止の姿だけになってく
るのです。
84
ひと
人間は真実は霊止であって、霊の働き、神の働き場所なのです。それが、この地球界の物質界に
ひと
物質的、動物的肉体波動と合致して生活しはじめたので、霊止と物質的動物的な波動との間という
意味で、人間というようになったものと思われます。文字というものは面白いもので、必ずその意
ゴツドグツド
味が現わされているものなのです。外国語でも必ずそうなっているものです。GOD (神) GOO
D (善) のゴッドとグッドは実によく似ています。片方は神で、片方は善しですから、同じ意味を
もっています。大体こうしたものなのです。
ですから文字をみていますと、その本質的なものが実によくわかるのです。それはさておき、人
間が、このままの人間で生活していたのでは、業想念波動によって、それこそ悪魔に負けたような
状態になってしまいます。
ひと
そこで、人間がその動物性、物質性をもったままで、一度、本来の霊止(人) に還元しないとい
げないのです。その還元するためには、どうしても独りではできないので、援助の役目にある守護
の神霊の力にすがって本来の姿に還元するということになってくるのです。その事実を今までの人
々は、あまりよく知らなかったのです。
85新しい世界を創る
守護の神霊ぬきで個人人類の完成はあリ得ぬ
86
真実のことをいえば、守護の神霊と分霊の合体によってはじめて、人間が地球世界の平和達成と
いう天命が果されることになるので、守護の神霊を考えないでは、個人の完成も、人類の完成もあ
り得ないのであります。
この各自の守護の神霊が合体して働きはじめたのが、救世の大光明というので、こうなって、は
じめて本格的な人類救済の大きな働きができてくるのです。
この働きに各自が参加できるのが、私の説いている世界平和の祈りの行なのです。この世界平和
の祈りは、全く大光明につつまれているのでありまして、この事実は実行している人々の等しく語
り合っているところであります。
神と人間とは別々のものであるという考え方、神の下僕というような考え方、神は一神であって
神々といういい方はない、という考え方等の誤った殻をぬぎすてて、神は一神にして多神、しかも
人間の内部に直霊、分霊として在り、外面的には守護霊、守護神としてあって、すべて神一元の営
みなのだ、という考え方で、すべての行動をしてゆかぬと、折角の救世の大光明のお働きを邪魔し
てしまうような結果になります。
ですから、一度は肉体人間として、凡夫の自分として、肉体人間の自分には何一つまともなこと
はできないものであると思いを定め、すべてを世界平和の祈りを通して、救世の大光明の中にゆだ
ねてしまうようにすることが、一番やさしい自己完成、人類完成の道なのであります。
今日までのあらゆる業想念的悪習慣を、すべて世界平和の祈り一念の日常生活に変えてしまうこ
とによって、そこから自己の新しい世界の確立もでき、地球人類世界の大平和達成の新しき道もひ
らけてくることは確実なのであります。何故ならば、世界平和ということは、絶対調和のことであ
り、絶対調和とは神のみ心そのものなのですから、世界平和の祈りは、神のみ心そのものなので
す。世界平和の祈りには、神のみ心が感応することは当然なことであります。そして、個人という
ものは人類のうちの一部なのですから、個人の平和と人類の平和とは全く同時に成立されるのも理
の当然というべきなのです。
祈りの運動の光明力
こんな汚れた世界が平和になることはない、とある一部の人々はいっていますが、平和になるこ
$7新しい世界を創る
とはない、と思っている想念の人には永劫に平和が来ることはないでしょう。それは「汝の信ずる
如く汝になれ」というキリストの言葉のように、信ぜぬものは成就できないのは真実だからです。
しかし、思わぬこと、信ぜぬことが成就できぬとすると、この世の大半が、世界平和達成に不安の
心を抱いているのですから、そうした大半の人の理念で、とても世界平和は成り立たないことにな
ります。それでは折角の世界平和の祈りの誕生も何もならぬことになってきます。
ところが幸なことに、そうした不安をもつ想念というものは、やはり消えてゆく姿であって、業
想念なのです。この業想念は、世界平和の祈りのもつ大光明によって、消え去ってゆくものなので
す。そこのところが、実に大事なところでありまして、今日までの宗教のように、信ぜぬ者たちは
神から遠のくのではなく、信ぜぬ者たちまでも浄め去り、救われてゆくのが、救世の大光明の働き
である、世界平和の祈りなのであります。
この祈りの運動は、嫌がる者たちを無理やりに入れたり、おどしつけて仲間にしたりするのでは
なく、すべて自分たちの自由意志で祈りの運動に参加しているのです。そして、祈りに参加した人
たちは、おのずと自己の運命の開拓ができてくるし、同時に他への救済の光を投げかけることもで
きてくるのです。
εβ
古い習慣性は浄め去られる
救世の大光明の中に、自己を投じた人は、その時から人類救済の菩薩行をしつづけているという
ことになるのです。世界平和の祈りを唱えはじめた人々の中には、過去において、種々様々な悪業
をしてきた人もあることでしょうが、そうした過去の誤ちは、すべて救済の大光明に浄め去られる
のであります。
ですから、たとえ、世界平和の祈りをしながらも、過去からの習慣的業想念所業を現わす人々が
あったとしても、それは、やはり、現在つくりつつある業想念ではなくして、過去の業の消えてゆ
く姿であるとして、赦し合ってゆくようにすべきなのです。そして、お互いがお互いを愛し合い、
まこと
赦し合って、愛と真の世界を着々と築きあげてゆかねばなりません。
世界平和の祈りの運動は自己が救われると同時に、人類世界の平和を達成してゆく運動なので、
この運動の中には、いささかの不調和も不完全もとどめておくべきではないのです。ですからお互
に不調和、不完全が見えたとしたら、お互いの祈り心で消えてゆく姿と見合って、なお一層その人
々の天命の完うされることを祈りつつ、世界平和の祈りをつづけてゆくようにすることが大事なの
8g新しい世界を創る
です。
肉体人間は完全ではありません。そうした肉体人間の不完全性をいつまでも掴んでいてはいけま
せん。肉体人間の不完全性は、そうした業想念諸共に、繰り返し繰り返し、世界平和の祈りの中に
入れきってゆくようにするのです。
ひと
神は永劫の大光明、業は消えてゆく姿、人間はこの地球世界に、神の子の霊止の本性を現わして
ゆくために働きつづけるのであります。それが地球人類すべてに荷せられた天命であるのです。
一日も早く人各々がその天命を完うせられますよう祈りつづけずにはおられません。
9A
,
宇宙人と世界平和の祈り
世界人類の不安と苦悶
ソ連と米国の軍拡競争は、宇宙大に拡大して、人工衛星競争となり、遂いにソ連が先んじて人間
を乗せた人工衛星に成功しましたが、これに負けじと、米国も人間人工衛星に成功し、ソ連の軍拡
に追いついた形になりました。
両国の人工衛星への熱意が、真実平和達成への念願から出たものなら、これに越したことはない
のですし、世界人類のすべてが、両手を挙げて歓喜の声を放つところなのですが、両国の真意は不
こじ
幸にして、真実の平和達成のためではなく、お互いの権力の誇示と、戦力の増大のためのものであ
るのですから、全く地球人類は不幸なものだといわなければなりません。91宇










武力と武力のせり合いでは、平和世界ができる筈がないことは、昔からその失敗をくりかえしつ
づけていることなので、誰にでもわかりきっていることなのですが、米ソ共に、昔からの習慣の業
想念の波に乗せられて、すべての政治政策を行っているのですから、武力と武力では戦争の危機は
カルマ
さけられない、と思いつつも、その業の軌道をそれることはできないまま、今日の軍拡に至ってい
るのです。
例えソ連の世界制覇の野望がはっきりしたものであっても、米国がそれに対して、自らも人間を・
殺りくする兵器を持って立ち向うというような態度を取っては、どうしても、騎虎の勢いで原水爆
戦争はさけられなくなります。
そこに米国や西欧陣営の苦悶があるわけなのです。米国や西欧側が、もし丸腰でソ連に対した時、
果してソ連のほうも武器を捨てて手を握ってくるかどうか、これは未知数のことなのであります。
仮りに米国西欧側が武器を先に捨てて、ソ連と手を握ろうとした場合、ソ連側が武器を持ったまま
でいたら、忽ちソ連の世界制覇は成り立って、世界は共産政権の手にすべて握られてしまうことに
なります。
その時の恐怖を想うと、米国の共産主義者でない平和主義者たちも、いたずらに米国よ武器を持92
づな、と叫ぶわけにもゆかなくなってくるのです。米国民の中では、共産主義者に国をゆだねるな
らば、敢えて戦争も辞さぬという気分が濃厚であったそうです。
共産主義は無神論です。神を畏れぬ人々の指導の下に世界の政権が握られた場合を想うと、米
国民ならずとも、世界の宗教心のある人々は、自ずと恐怖心が湧いてくるのです。そこで、MRA
のように純粋な平和運動であっても、共産主義を敵として、絶対に一線を劃しているのであります。
こう考えてまいりますと、武力と武力の対抗の愚かさもわかりながら、といって、武器を捨てき
るまでの決意はつかぬ、というのが、現在の米国西欧側における最も平和主義者である人々の心で
あろうと思われます。
平和はどうしたらなるか?
さて、そこで、地球人類はいったいどうしたら、世界が平和になることができるか、と痛切に考
えずにはおられません。世界の実力は現在は米ソの両国が握っております。米ソの権力を無視して
は何事も行えぬのが実情であります。
にら
そして、その米ソは、武力を拡大しながら睨み合っております。ちょっとしたはずみで、米ソの
93宇宙人と世界平和の祈り
原爆が世界中に落されるかもわかりません。実に地球人類は風前の灯ともいうべきなのです。
武器を持っても持たなくとも、この地球人類の運命は、このままの状態では、闇夜と同じことな
のであります。人類の運命を好転させるのにはいったいどうしたらよいのでしょう。ここで考えな
くてはならないことは、地球人類が今日のように、こんな悲運な境界に置かれるようになったのは
いったいどういうことが原因なのでしょう。まずそれを考えてみなければなりません。原因がわか
らなければ、それを直す方法も考えられません。
ふりかえって考えてみますと、人類の歴史は、闘争の歴史のようなところがあります。科学の発
展も、軍備目的をもってなされたことが、逆に人類の運命に役立つようになった向きがたくさんあ
ります。こうした科学の進歩を、戦争とは全く関係なしになしとげるようにならなければ、人類の
平和は成り立たないのですが、まず人類の根本的な思想の誤りを直さない限りはそれは無理という
ことになるのです。それは恰かも、米国にソ連に先んじて武器を捨てなければ、世界平和は成り立
たない、と説いても、今の立場では絶対に武器を捨てるわけにはゆかないのでもわかります。
地球人類の思想の誤りはいったいどこにあったのでしょう。まず最大の誤りは、人間が神と離れ
て存在しているものだ、という認識なのです。人間は神のみ心の中にあって生活しているという、94
一番根本的なことを忘れ去った時から人類の不幸は始まっているのです。そして、今日までその尾
をひいていて、今や正に地球人類壊滅の瀬戸際まで追いつめられてきてしまったのです。
神はすべてのすべてなのであります。神なくして人類の存在は無いのです。神を離れて自己とい
うものがある、と思っている人間は、その想念だけ、自らの存在を消滅してゆくのです。ですから
共産主義が世界を制覇するようなことがあったら、その瞬間にこの地球人類は消滅してしまうので
あります。神のみ心を離れ切った存在は、この宇宙にその居場所がないからなのです。
人間の生命は神からきていることを忘れてはなりません。神の生命がその人間に存在する限り、
その人間は生存していられますが、神が生命を召しあげた時、その人間の存在は無くなってしまう
のです。それなら何故無神論がこの世に多く存在しているのか、という質問がでることと思われま
す。答は、この世に存在するあらゆる人々の中で、真実の無神論者はいないのである、というので
す。その人の生命ある限り、そこには神の存在があるのです。(それは肉体の生命ばかりではあり
ません)生命は神なればなり、なのです。
神の生命によって生きている人間が、何故神と離れた自分勝手な行動をするのでしょう。それは
カルマ
古い昔からの習慣の想い、つまり、業の波に左右されてしまっているからなのであります。
95宇宙人と世界平和の祈り
カルマから人類を解放すること
96
個人を救い、人類を救うのには、武器を持つな、持たすな、というより先に、一番根本の癌であ
る慧食から人類を解き放つことに専心しなければならないのです・黒げ波動の中にいては・ど
の ような偉大な政治家が出てきても、世界戦争はさけられません。アイクやケネディのような立派
なクリスチャソの人々でも、戦争の方向に向ってゆく世界の運命をどうにもならずに苦悩しました。
地球世界を蔽っている、神(光)を離れた闇の想い、業想念の波動を、一日も早く光によって融
かしきらなければ、どのような政治政策を取っても人類は平和にはならないのです。
さて、この運動をいったい誰がやるのでしょう。アメリカの大統領がやるのでしょうか、それと
もソ連の首相がやるのでしょうか。とても駄目です。それは神を信ずる人々の一人一人がやるので
あります。
地球人類を滅亡させないために、第三次大戦を未然に防ぐために、皆さんの一人一人が、人類の
業想念波を消滅させる、神のみ光を世に放つ、世界平和の祈りの運動を、是非ともやらなければい
けないのです。やらなければ世界と共に自分たちも滅亡してしまうのです。
カルマ
今日の政治政策は、すでに業の波の残がいによって行われているのです。新しい世界は私たちの
一人一人の祈りの結集によって開けてくるのです。
世界平和の祈りが持つ光明の塔は、今や厳然として、地球界に光を放っているのです。皆さんの
↓人唱人が、その大光明の光の中に世界平和の祈り言をもって入りきり、自らが光明の使徒となっ
て、自らの周囲に平和の光を放つのです。
世界の政治は、今や人類の一人一人が行わなければならぬ時となっているのです。一人一人の世
界平和の祈りこそ、平和達成の大いなる力となるのであります。
〃世界平和祈るは神のみ心のひびきにあれば祈るたのしさ
“,
なのであります。各国人が祈り言をもって神のみ心に入ることは、神のみ光が、その人を通して
地球世界に光明を放つことになるのです。
よくく考えてみて下さい。今日の状態では、個人くがどのように世界の政治政策に口出しし
ようと、思想的に根本的な相違をもつ米ソ中の対立は絶対に解けそうもありません。米ソ中の対立
の解けない限りは世界の壊滅は時間の問題となります。
そう致しますと、肉体人間の頭で、いくらどのように考えても行為しても、この世界は駄目にな
97宇宙人と世界平和の祈り
るということは、かなりはっきりしています。
そこで】度、肉体人間の自己の力などという中途半端なものは思い切って捨て去ってしまうので
す。どこへ捨て去るかというと、世界平和樹立の光明の塔の中に捨てきってしまうのです。それよ
り他に方法は絶対にありません。
神のみ心は地球世界の平和を確立することにあるのは当然のことですし、人類の念願も平和世界
をつくるということが、最大の念願です。ですから、神のみ心と人類の心が、この世界平和の祈り
を仲立ちにして、すっきりと融け合うわけです。誰でも容易に自己の業想念を消滅させ得る方法で
あると同時に、世界人類に平和をもたらす光明運動ともなる、世界平和の祈りこそ、全く今は生れ
なくてはならぬ絶対条件の下に生れ出でた祈り言なのであります。
98
空にならねば宇宙人との交流は不可能
先日来から、私たちが日頃から申しておりました、宇宙人との交流が、急速調で進展してまいり
まして、私たちは不眠不休の状態で、この交流にたずさわっております。私たちの世界平和の祈り
が、遂いに、宇宙人の地球界への援助を具体的に進展させ得るまでの、光明波動の地盤をつくり得
たわけなのであります。
先頃村田正雄氏が、宇宙人との交流を「空飛ぶ円盤と超科学」という本で出版しましたが、あの
宇宙人たちがこの地球界にしかも私たちの身近かにその姿を現わす日が近づいてきているのです。
この地球界はもはや地球人だけで平和達成することは不可能になっているのです。そこで神様は私
に世界平和の祈りを教えて下さり、この祈り言によって、神のみ力が、はっきりこの地球界の平和
達成のために現わされるようになる、とお示しになっていたのでありました。
みずか
世界平和を実現するために絶対に必要なのは、自分自らの平和の心なのです。自分自身が乱れた
心でいながら、世界の平和を望んだとて、それは無理なことなのです。ですから世界の平和を念願
する者が、敵をつくって、相対的な世界の想いでいたのでは駄目だということになります。
宇宙人の世界は、実に微妙な波動の世界で、平和そのもの、光そのものの世界であります。私た
ちが宇宙人と交流していて、一番大事なことは、想念に乱れがあってはならない、ということなの
くのワ
であります。宇宙人は、ごとごとに、空にならなければいけない、空だ、空だ、と常にいうのです。
なんの想念があっても交流はできにくいのであります。
ですから、いたずらに自分たちの行動を宣伝しているようでは、宇宙人との交流はできないと思
99宇宙人と世界平和の祈り
います。宇宙人が地球界と交渉を持とうというのは、地球人類に平和をもたらす援助者たらんとし
ているからなのです。
宇宙人は面白半分、興味本位の人たちの前に出現する必要は毛頭ないのですから、その点、地球
くう
人側の真剣な態度が必要なのです。空の心というのは、これは宗教的にも一番大事な心なので、仏
教では、この心境に至ることを最大なものとしております。
私は幸にも、想念停止の練習を長い間やらされて、なんの想念も出さずにいられる状態になって
いますので、宇宙人の心の波とは全く一つに合致できますので、その点になんの苦労もいりません
わざ
が、普通の人たちにとっては、宇宙人との交流は目下のところ至難の業だと思います。
100
宇宙人の援助なしでは地球界は救われぬ
宇宙人との交流には、必ずその人の波動の調整がなされなければならないのです。宇宙人の微妙
な波動と一つにならなければ交流できないのですから、大変なのであります。
現在の地球人類の危機を救うためには、どうしても地球人の目醒めたる人々と宇宙人との協力に
よらなければならないのです。私たちは長い間、世界平和の祈りをしつづけながら、今日の来るの
を待っていたのであります。
あらゆる業想念は消えてゆく姿であって、永遠に消え去らぬものは、神の子人間であり、光その
ものの人間であるのだ、というのが、私たちの不変の信念でありまして、その信念の下に、消えて
ゆく姿で世界平和の祈りという教えが生れ出たのであります。如何なる不幸も災難も、恨みも怒り
も妬みも不安も、すべての自他の想念を、消えてゆく姿として、世界平和の中に入れきってしま
い、世界平和の祈りの大光明波動の中から、改めて自己の生活を頂き直すのである、という光明一
念の私たちの生き方は、そのままで、人間を救い、悟らせてゆきますが、それだけでは、世界人類
全体に教えの広まるまでには、すでに世界人類は滅亡してしまうかも知れません。そこで、どうし
ても、大きな平和の力で、戦争にこの世界を持ってゆこうとする、業想念波動を一挙に消滅し去ら
なければならないということになります。地球人類のうちで、いったい誰が、今日の世界状勢を一
挙に平和なものに変え得ることができるでありましょうか、何人にも出来得ぬことは、何人にも即
座にわかり得ると思います。
ここで、どうしても、神の力、神の大光明波動にょる働きかけがなければ、どうにもならないと
いうことがはっきり言明出来るのです。101宇










神の大光明波動は、世界平和の祈りとして、世界中の業想念波動を消滅し去ろうとして、各個人
の肉体を通して働きかけていますが、一方、いよいよ、宇宙人の地球への来援となって、本格的な
働きかけとなってきたのであります。
先生の世界平和の話には非常に感銘を受けるが、どうも宇宙人の話はかえって教、兄のマイナスに
なるのではないか、と或る人々からいってきたりしていましたが、これは実際にそうなってきてい
るのですし、宇宙人の援助なしでは、地球世界は絶対に救われない、というのが私の心からの想い
なのですから、これからは、ますます宇宙人についてのことが、知らされてゆくことと思います。
XO2
世界平和の祈りの重大さ
宗教の話というと、心の問題だけで、この世の問題とは別のことのように思っている人々もあり
ますが、宗教的生き方というのは、この世もあの世もすべての世界において、立派に生きぬく、と
いうことでありまして、この世の平和達成ということは絶対にゆるがせにできないのです。
世界平和の祈りという私の教えを実行している人は、この世を去っても、あの世の世界では立派
な生き方ができるので、何もこの世に執着する必要がないのですから、この世が原水爆で滅亡し去’
っても、霊魂の世界で平然と生きてゆけばよいわけなのです。しかし、この世に存在している限り
は、この世の平和を唯一無二の事として、平和運動のために全力を挙げて働くことが、天命を完う
する道であるのです。
そこで、世界平和の祈りがますます大事になってくるし、地球世界を救うためには、どのような
努力をしてもよいと思うのです。
さてまたここで宇宙人の話に戻りますが、宇宙人の偉大さというものは、地球人間の及びもつか
ないもので、その科学力と霊力というものは絶大なものです。村田氏の空飛ぶ円盤の本をみてもお
わかりのように、地球人類が今頃人工衛星の成功で酔いしれているのに、宇宙人の世界では、一瞬
にして、金星から地球に飛来できるのですから、その科学力の大差が如実にわかります。
宇宙人というと世人は、全く仮空のものと思ったり、頭の大きい胴体の小ちゃい、奇妙な生物を
想像したりしていますが、実はとんでもない思い違いで、神そのものといった感じなのです。
私たちが、守護神といっている、そういう階層に宇宙人は住んでいるのです。宇宙人と交流して
いると、一人一人の人間の心の在り方が、どんなに人類世界の運命を決定するか、がはっきりわか
ってきます。全く、自己の想念が自己の運命を決定するのです。人間は神の光の律動と、想念の波
XO3宇宙人と世界平和の祈り
動とによって出来ているのでありまして、自己の想念波動が、神の光のリズムと一致していさえす
れば、その人の運命は立派な優れたものとなるのですが、この地球界の人々の想念は、おおむね、
神の光の律動を離れていて、自分勝手な業想念波動の中で住んでいることが多いのです、それでは
地球人類の運命がよくなるわけがないのです。
みずか
私はよくその真理を知っていますので、まず自らの想念波動を、神のみ光の中にすべて投入して
しまう練習をしたのであります。そしてそれに成功した時、私は宗教者として、自己の道を確立し
たのであります。
X44
波動(気) の再認識
宇宙人との交流の時、交流メソバーに対して、宇宙人は、五井先生は、空そのものだ、全く空だ、
くうどくモん
私たちと等しい微妙な波動だ、といっていましたが、私は神から、空独尊、という神名をもらって
いたのです。世界平和達成のため中心となって働く私自身に、平和を妨げる業想念波動があった
ら、とてもこの運動は成り立ちません。私は言葉で人に道を説くより、全人格で人を照すという方
法を取って、今日まできています。
もう今日では、単なる法話は、その時の感激だけで、それ程その人々の魂を浄め去ることはでき
ないのです。ですから私は、黙っていても相手の霊魂を浄めてしまう、光明波動を伝えることに重
点を置いているのです。統一会などはその最もなる例なのです。
波動というものは不思議なもので、言葉でしゃべらなくとも、自然と相手に伝わってゆくので
す。普通には雰囲気といわれているものなのでしょう。私から伝わる光明波動は非常に強力で、千
人近い人々に一様に伝わってゆくのです。
宇宙人と交流する前などは、部屋中が霊気に充ちくてきます。その霊気は普通の霊的でない人
にでもはっきり感じられる程の強力なものです。ところが次第にこちらがその霊気になれてきます
と、こちら自体の波動が、宇宙人の波動に近づいてきますので、殊更に強い気の違いを感じなくな
ってくるのです。
昔から気ということは大事なこととされていましたが、宇宙人との交流がはじまってからは、こ
の気について改めて、その大事さを知らされたものでした。私などは長い間に、霊的訓練がなされ
くヒうくラ
ていたので、空の境地にもすぐになれたのですが、たやすく空になれない人は、やはり世界平和の
祈りの中に入っていて、平和の気そのものになることが大事だと、しみじみ思われます。
195宇宙人と世界平和の祈り
自己を世界平和の祈りに没入せよ
1Q6
寝ても覚めても世界平和の祈りで生活していることは、自己の生活の向上にもなるし、世界平和
達成のためにもなることだとは、宇宙人との交流が盛んになってきて、いよいよ確信されてきまし
た。
宇宙人というと、何か近頃になって現われてきたもののようですけれど、実は遠い昔から宇宙人
は地球世界に関心を持っていたのです。というのは、地球世界というものが出来た当初に、地球世
界の浄めに天降ってきたのはやはり宇宙人であったのです。
日本古事記の天孫降臨でもそうですし、イエスや仏陀なども、宇宙人の中から天降ってきて、地
球人類救済の任に当った天使たちだったのであります。
宇宙人たちから見れば、地球世界の平和が達成されなければ、宇宙全体の調和が出来ない、とい
うことになるので、是非とも地球人類を平和にする援助をしなければならないことになっているの
です。
宇宙人という言葉の嫌いな人は、守護の天使群といってもよいのです。私たち世界平和の祈りの
使徒は、神のみ心を自分たちの心として、人間と真実の生き方を自己の行為として、世界平和の祈
り一念で生きぬいてゆかねばなりません。
私たちは、すぺての業想念を世界平和の祈り言の中に入れきってゆく生活を、いよいよ真剣にし
てゆかなければならぬと思います。地球人類の運命は私たち自身の運命です。私たち一人一人が真
剣に世界平和を祈らないで、世界の現指導者たちにだけ、その責任を負わせようとする愚かさを冒
かしてはいけません。
一に二に三に世界平和の祈りをつづけましょう。宇宙人はしっかり私たちに援助の手を差しのべ
ております。
XO7宇宙人と世界平和の祈り
1Q8
生命の本質について
医師の疑問
ー先頃の新聞の夕刊に、ある医大の教授をしている医博の記事がのっていました。それを要約
しますと、こういうことでした。
「医者は病気を治し病人を生かすのが仕事である。だからあらゆる手段をとって病気を治そうと
する。しかしここでいつもこれでいいのだろうかという疑問にぶつかる。というのは、放っておけ
ば死んでしまう脱疽などの時、医者は手足を切り取って、その人の生命を取り止めるし、骨盤に癌
が出来たので、骨盤から下を切りとってしまい、うまく何かで上体の内臓を支えて生かす。そうし
た人々はそんな状態でありながら生き延びている。そう云うことを実際に施行し又見聞すると、ζ
うまでして人間は生きていなければならないのだろうか、と常に思う。こういうことは宗教の分野
に入るだろうと思うが、宗教家の方々にこの疑問を解決して頂きたいと思うのである。」
こういう医博の言葉に対して、五井先生はどうお考えになりますでしょうか。これに関連して、
生命の本質ということについてお教え下さいー
読者からこういう問が出されていますので、この間にお答えしてみたいと思います。
現在の地球人間の考えの中で、一番問題になる根本的な欠陥は、人間生命というものは、肉体そ
のものの中にあって、肉体そのものでもある、という考え方なのであります。ですから肉体の死と
いうことが生命の死ということである、と思いこんでいるのです。
生命に対する、こうした根本的な思い違いがある限りは、人類から病苦や貧苦や死苦というもの
がなくなりませんでしょうし、この医博が味わっているような、医師としての苦しい疑問にぶつか
るわけなのであります。
まだその時期にならないためなのでしょうが、今の医学は、肉体の病気の症状は取りあつかって
いますが、生命そのものの流れとか動きとかを取りあつかう学問にはなっておりません。
ところが、病気というものはすべて、生命の流れ、生命の動きを阻害された時にはじまり、その
109生命の本質について
阻害を取りのぞこうとしての生命自体の働きが、いわゆる症状となって現われてくるのでありま
す。私はこの症状を消えてゆく姿という言葉で説明していますが、この症状が起らない前に病気を
治してしまう、つまり、生命の働きを妨げるなんらかの邪魔を、病気の症状として現わさない前に
ヘヘへ
取りのぞいてしまうことができれば、問のようなむごい状態で人間がこの世に生きつづけるような
ことはなくなるのです。
たぐい
それは現在の予防医学などの類ではありません。もっとく深い生命自体の本質を知って行われ
る医学でなければなりません。医学もやがてはそこまでくるに違いありませんが、現在の段階では
まだく未知のことが多すぎて、現在の予防医学の範囲で進んでゆくか、精神医学という、精神分
析療法でやってゆくか、肉体の手術といった方法で、その病状だけを取りとめておくかしながら、
生命の本質を探究してゆくことでありましょう。
すべての、生命というものが、永遠性のものであって、肉体身というものは、生命の一つの現れ
でしかないのだ、という真理を知らなければ生命を生かす医師としての価値が少いと思います。医
老はみな宗教精神を根底にして医学の勉強をし、患者に当らなければならぬと思います。
110
永遠の生命の探究
宗教というものは、神と人間との一体化を知るために、神の存在を先ず信じてから追求してゆく
わけですが、この神という言葉を、永遠の生命という言葉に置きかえて、永遠の生命を探究すると
いうことになれば、それはそのまま科学の分野に入ってゆくわけなのですから、根本においては宗
教も科学も一つ土台の上にいるということになるのです。
第一に生命の尊重という医学者の心というものは、それは純粋に宗教精神なのであります。何故
ならば、生命そのものは神からきているのであり、その生命を尊重することは、神を尊重するとい
うことと一つであるからなのです。ですから医学者の中には敬震な宗教者がかなり多くいるのであ
ります。
大体人の病気を治したい、人の苦しみを救う仕事に自分がたずさわりたい、と思う心はそれがす
でに宗教精神なので、そうした精神で医学にたずさわった人々なら、必ず、口に神ということをい
おなくとも、宗教的な人ということができるのであります。
問題提起の医博などは、非常に良心的な、宗教的な人なのだと思います。自分で宗教に関心がな
111生命の本質について
さそうに思っている人が、意外と宗教的だったり、宗教くといっている人々が案外と宗教精神、
っまり愛の精神に欠けていたりするものですから、人は口先や、見かけだけではなかなかその真実
の心はわからないものです。
神だ仏だといっていることと、宗教精神とが一致しないことがよくあるもので、宗教団体に入っ
ている人、かならずしも宗教精神の深い人とはいえないのです。それは、宗教とか神様というもの
を、生命の本質つまり永遠の生命と一つである自覚にまで高めようとする意識などはまるでなく、
ただ単に、自分や自分の周囲の現世利益にだけ結びつけて考えている人たちの、神詣りや宗教団体
入りしている向きが大分あるからです。
宗教者というのは、神と自分との一体化を目標にして精進し、自己の生命の本質、本心開発に向
って突き進んでいる人たちのことであって、それが直接自分の仕事に対して打ちこんでいる様相の
中に、そうした真理探究の姿があることも多いわけです。
112
疑問に対しての私の考え
ここで前記の医博の問に対しての私の考えを述べることに致しましょう。
私の考えの根本は、人間は神の分け命であって、永遠の生命性をもっているものであるというこ
とであります。そして、この永遠の生命は、各種の世界に種々な形を創りなして、その形の中で、
自己のドラマを画き出してゆくものであって、やがては、すべての分け命が、大生命、神のみ心そ
のものである大調和の真の姿を、この地球界にも画き出してゆくのである。ただ、大調和の姿が画
ヘへ
きだされる過程にあっては、種々様々な、汚れやしみができるので、その汚れやしみをぬぐい去る、
いわゆる消えてゆく姿、消してゆく姿としての苦痛のようなものが現われるけれど、それも生命自
体にとっては、単なる消えてゆく姿であって、生命自体のマイナスにはならないものなのである。
だから人間が、消えてゆく姿的な業想念波動のほうに自分の想念を置いておくか、消し去ってゆく
ほうの生命自体のほうに自己の想いを置いておくかによって、その人の運命そのものが違ってくる
のである、とこう考えているのであります。
手術によって生命は取り止めたが、不具者となってその醜い姿体を人眼にさらしながら生きてゆ
かねばならぬ人々と、手遅れで手術もできずそのまま死んでゆく人々、また手術はしたが不成功に
終って死んでしまった人々、等々、種々な運命をたどる人々があるわけですが、いったいどの人が
幸せであったかというと、誰も彼も病気になって、こうした苦しみにさいなまれること自体、肉体
113生命の本質について
的な眼からみれば不幸であるといわねばなりません。
また、そうした人々と直接関係のあった人々は、人間の不幸というものを眼のあたりみて、慨嘆
せずにはいられなくなります。人生というものはなんという不幸に充ちているものだろう、そんな
考えが浮んできます。
人間を肉体身自体と思っている限り、こうした不幸感は何度となく味あわされます。人間は肉体
身ではない、永遠の生命そのものである、永遠の生命が、肉体身を現わし、幽身と現じ、霊体とな
り、各種の経験を経てゆくものである、ということを真実に知れば、そうした不幸感はなくなって
くるのです。
また、多くの人々がその真理を知れば、現実にそうした不幸な姿が現われなくなってくるので
す。しかし現在ではまだその段階になっていません。そうした現在においては、医学をはじめ広い
範囲の科学を急速に進歩発展させるより、この世の不幸を少くする方法はありません。悪い個所は
切断してしまって、肉体生命を保つという程度の医学では、とてもこの世の不幸をなくすことはで
きません。
悪い症状だけを抑えようとする医学の方法は、もはや前時代的なものになりつつあるのです。悪
114
い症状ではなく、病気の原因そのものを取りのぞくことこそ、これからの医学でなければなりませ
ん。それにはやはり生命の本質というものを深く探究してゆくことが必要になってくるのです。
宗教的にいえば、手術の結果、不具者になって生きつづけるのも、手術をせずに死んでしまうの
も、みんなその人その人の過去世からの業因縁によるのであって、そうした苦痛を過去世の因縁の
消、兄てゆく姿として、祈り心の中に入れてしまうことによって、その人の生命の働きを妨げていた
想念波動、つまり邪魔が取りのぞかれてゆく、ということになるのです。
医学的にいくら症状の個所を手術したとしても、その人の生命自体の邪魔を取りのぞいたことに
はならぬので、その人には今度は、手術をした後の苦痛が、病気の症状のかわりにつづいてゆくわ
げなのです。そこのところは現在ではどうしても宗教によって救済しなければならないことになっ
てきます。宗教心の深浅によってのみ、その人の苦痛の在り方が相違してくるので、その人が祈り
一念の深い心境になり切った時には、その人の肉体身に対する苦痛はすっかり取れきってしまうで
ありましょうし、その人の周囲の人々までにも、永遠の生命の輝きを知らせてゆくことでありまし
ょう。
115生命の本質について
医学と宗教心
116
たた
如何なる悪い事態が起っても常に、その事態の中から、神を称える気持、生命の輝きを打ち出し
てゆける程の宗教心になることこそ誰人にとっても必要なことであって、いつも生と死の間に立た
されているような医師の場合には、この心構えが特に必要であると思うのです。
宗教心のない医者などは、これは全く論外なことだという時代にならぬと、医学は生命の根本に
立っての治病には当たれないのであります。
いつだったかのリーダーズダイジェスト誌に、米国の白血病で死んでゆく一少女の話がのってい
ましたが、この少女は非常に信仰心が強くて、死の間際にも神を恨まず「ねえ、ママ、あたしは病
気がなおるようにずいぶん一所懸命お祈りしたのよ。でも、いまわかったわ、神様はあたしをなお
そうとしていらっしゃらないのね。神様はあたしを呼んでいらっしゃるのよ」といって、天国の状
態を見ながら死んでいったのです。
白血病というのは非常に体が痛むのだそうで、痛んでは注射、痛んでは注射というように麻酔注
やわ
射 で苦痛を和らげながら生きながらえてきたのですが、遂いに死んでいったわけです。そんな苦痛
の中でもこの少女は常に信仰心を失わずにいたわけで、この少女のような信仰心がなかったら、ど
んなにか心の苦しみが烈しかったことでしょう。信仰心がこの少女の苦しみを大きく救っていたこ
とになるのであります。
このように、医学と宗教心というものがぴたりと一つになっていれば、この世の病苦はどれ程少
くなるかわかりません。医学や科学を排撃する宗教者もおかしいが、宗教を馬鹿にしている医学者
もおかしいのであります。
宗教も科学も本来、神の叡智の現れとしてあるのでありまして、宗教も科学も共に愛の心を基盤
にして立っているものであります。宗教は直感が主でありまして、その直感を知性が助けてゆくの
であり、科学は知性が主となり、直感がその助けをしてゆくものであります。
そして、宗教は心の面から現象面の幸福を現わしてゆくものであり、科学は現象面を捉えて、心
の幸福をもたらしてゆくのであります。このことは何度でも私が説いているところなのですが、重
ねて説明したわけです。
そのように考えて、宗教と科学との一致点を見出して共に協力して、この地球人類の永遠の幸福
のために働いてゆかねばならないものだと私は考えており、実行しているのであります。
117生命の本質について
肉体がこの世に存在している価値
118
前記の医博のような立場に立った場合は、その患者に医師そのものが、宗教心を教えこんでゆく
ことが必要でありましょう。現在の科学的な見解では、なんとも解決のつく言葉はみつかりません
で、自分の想っている真実のことをいったら、世間的に医師としてのさしさわりのある言動となっ
て、その医師の立場がなくなってしまうことと思います。
不具者になってまで生きる程、肉体がこの世に存在している価値があるのか、といいますと、世
の人々も首をひねらざるを得なくなります。手術で不具になった人ばかりでなく、小児麻痺だのカ
リェスだのの不治の病で生きながらえている人、老人になって寝たっきりで若い者の手足まとい
になっている人、悪いことばかりしていて親兄弟に世話をかけ、世間の人々にも嫌がられながら一
向に善くなりそうもない人等々、肉体人間的にだけみれば、本当は死んだほうがその人が楽になっ
てよいのだ、死んでくれたほうがみんなの迷惑にならない、というような人々がこの世には随分と
あるわけです。
こんな人々でも果して生きてゆく価値があるのかどうか、医学で生きながらえさせるほうがよい
のかどうなのか、全く常識的な頭で考えると、いっそ早く死んでしまったほうがよい、というのが
いつわらざる一般の考えだと思います。ただ普通の人は口に出さないだけなのです。
私たちの宗教的な考え方から致しますと、この肉体世界に人が生きているのは、個人的には自己
の生命(魂) の経験を積むためと、過去世からの業因縁を消七去ってゆくためのものであり、人類
的には、神のみ心の大調和世界を、永遠の生命の一つの場として、この地球界にも実現させるため
に、この世に生きているわけなのであります。
ですから、自己の眼にも人の眼にも、苦しみと写っているような状態も、その人の過去世の因縁
の消えてゆく姿であり、同時に、生命の経験を積み重ね、そうした生命の経験によって、地球人類
の大調和世界実現のための働きをなさしめるために、自分の本心がしていることなのであります。
本心というのは神のみ心そのものであり、一人の人間としては、本心開発のために守護の神霊の働
きが重要な部門をしめているのであります。
人間は本心は神のみ心そのものでありまして、この肉体世界のような、物質波動の世界に住みつ
きますと、その物質波動に同化して肉体世界の住人になるために、どうしても一度びは、本心のひ
あら
びきである霊波動の微妙なひびきを、物質世界の粗雑い波動に合わさなければ、この地球界に住み119生








つけないことになるのです。
そこで、本心波動、霊波動が、そうした微妙なひびきの世界から、粗雑な物質波動のひびきの中
に、その波動を変化させてくる、つまり天降ってきているわけで、どうしても、両面の波動がぴっ
たり一つに同化するためには、或る時間経過が必要となってくるのであります。その時間経過の過
程が現世の様々な苦悩となって現われてゆくわけなのであります。
それには各種の個人差がありまして、この世の苦しみの多い人と少い人とができているのです。
これはすべて、過去世からのその人その人の想念波動によってなされているのでありまして、現世
で苦しみの少い人は、前世では、現在苦しんでいる人と同じような苦しみをなめてきて、はじめて
現世で苦しみ少い生活のできるような業波動の少い人になってきたのかも知れないのです。
しかしいずれも永遠の生命である自己の本質を現わしきるための苦しみとしては、とるにも足ら
ぬ苦しみに過ぎない、と守護の神霊はいっているのであります。
120
無心の愛の祈りのみ必要
私なども、病苦貧苦あらゆる不調和に悩む多くの人々と接しつづけてきているのですが、医者の
味わう以上の苦しみを私自身も常に味わいつづけているのです。何故かと申しますと、患老という
ものは、医者に奇蹟を求めは致しませんが、宗教者の私には絶えず奇蹟を求めるのです。医者の見
捨てた病人でも先生には治せる、と思う人もありますし、医者などにゆかなくとも五井先生だけを
頼っていればよいのだ、と思っている人もあります。癌も肺病も即座に治ると思ってくる人もある
のです。
病気ばかりではない、貧乏も家庭の不調和も、事業のやりくりも、すべて先生に祈ってもらえば
直る、と思ってやってくるのです。
幸いに奇蹟はかなりの高さで起っているのですが、宗教の極意というものは、置かれた立場にお
いて、如何なる困苦があろうとも、不平不満や、恨み妬みのでない心境になることなのでありま
す。それは前記のアメリカの一少女に学ぶべきことであります。
不平や不満を持ちこんでこられた場合、宗教者の私は相手の心の不満や悲嘆というものを、じっ
と受け止めながら、神と一つの心になって、相手の本心の開発を祈りつづけるのです。口から出る
言葉の説教より、相手の業想念波を消し去る光の波動を相手に送ることが大切なのです。世界平和
の祈りは愛の祈りでありますし、大光明波動です。世界平和の祈りを根底にした無心の愛の祈りだ
121生命の本質について
けが必要なのであります。無心とは、どうなるだろう、こうなるだろうというような想念波動の無
い心です。
業想念の烈しく現われた後には、相手はかえって深い宗教心に導かれてゆくものなのです。親し
い者の死とか破産とかいう、窮極のところを通りぬけると、その人たちは、業波動がそれだけ大き
く消えて、本心の開発を促進させることになるのであります。ただ業想念波動が大きく消え去る時
に処する、指導者側の態度が、非常に大きく相手に影響してゆくわけで、不幸にあったために急に
信仰を失ってしまったとか、逆に唯物論者になりきってしまったなどというような場合、勿論その
人そのものの業想念のためではありますが、指導者側の牧師なり僧侶なり、教祖などの指導が完全
でなかったといえるのであります。
私などもそういうことで随分苦労していますので、問の医博の心情などとてもよくわかるので
す。ただわかるだけでは困るので、そうした苦悩のない世界に一日も早くこの地球世界をしてゆか
ねばならぬと思いつづけているのであります。
そうした私の願いに神は答えて下さって、宇宙子波動生命物理学を指導していただくことになっ
たのであります。
122
世界平和の祈りから生れる科学
実際に宗教というものは、あくまで心の問題が主でありまして、現象利益は従になるものなので
あります。現世利益ばかりを追う宗教は、どうしても宗教の本質から離れ、生命の本質を蔽いかく
してしまうようになりがちです。
ところが、この世の人々は、先ず現世利益を主にしてゆきます。現世利益の伴わない宗教という
のは、信者の数がへってゆきますし、現世利益を喧伝する宗教団体は信者の数を増していっていま
す。現世利益のあるのは勿論結構ですし、私も私のところにくる人々には現世の利益も与えたいと
思っているのですが、現世利益を追わせる生き方をさせますと、本心の開発が遅れて、業想念波動
の、つまり三界のやりとりにだけ終始してしまいます。宗教の本質である大調和精神とか、愛の精
神などがどこかへいってしまいまして、独善的な自己本位の不調和な生き方をしてゆく想いの習慣
がついてゆきます。自分たちの生き方だけがよい、と他の人のやり方のすべてに反対するという片
輪的な不調和な生き方が自然と身心についてしまうのであります。
私はそうした生き方を嘆かわしく思っていましたが、私自身の世界平和の祈りがよいといって123生








も、これを現世利益的に宣伝して人を集めようなどという心は起りません。現世利益はあくまで科
学的な方法でやり、その根底に宗教心を持たせる生き方が一番よいと思ったのであります。それが
神のみ心と一つの想いでありまして、世界平和の祈りの私たちに、前人未踏の宇宙子波動生命物理
学の完成を許されたのであります。宇宙子波動生命物理学は世界平和の祈りという、純粋なる宗教
心から生れ出でた科学なのであります。あらゆる悪も不幸も過去世の業因縁の消えてゆく姿とし
て、すべての想念を世界人類の平和の祈りに投入しきった時、宗教と科学とが全く一つに成った新
しい科学が生れ出たのであります。宇宙子波動生命物理学の完成によってのみ、前記の医博の嘆き
も、生老病死の人間の苦悩もすべて解決されてゆくのであることを私は堅く信じているのです。宗
わるいこと
教的には世界平和の祈りによる業想念消滅、科学的には宇宙子波動の解明とその効用ともいうべき
宇宙子科学の実現、この二つが一つになってはじめて地球人類の永遠の平和が達成されてゆくの
であります。
皆さんは、世界平和の祈りの意義というものを、是非とも深く考えてみて下さい。世界人類が平
和でなければ、私たち個人の平和は絶対にありえないのです。世界のどこかに戦争の絶えない状態
だの、いつ天変地変が起るかわからない状態のままで、人間の心が平安でいられるでしょうか。異124
変のきざしは不安を生み、人間の不安、不調和の想念はまた異変を生んでゆくのです。そうした人
間全体の不安不調和の想念のすべてを消し去ってゆくのが、大救世主を先頭に立てた世界平和の祈
りなのです。皆さんの世界平和の祈りには、イェスが釈迦が老子が、そして各神霊や聖者が、その
上に宇宙天使の大きな力が応援していて下さるのです。そのことを心に深く銘記していて下さい。
125生命の本質について
126
生命の教育
学校教育はこれでいいのだろうか
人がこの世に生れてきて、十五歳になり二十歳になり三十歳になり四十歳になる。喰べて着て遊
んで、そして学問をして就職する。やがて結婚をして、親となり祖父となり祖母となり死んでゆく。
人によってその生活環境はそれみ\ 異なっていても、生れてきて死んでゆくということにおいて
は何人たりとも変りはない人生なのであります。
この地球世界にいったい人類は何をしにきたのでしょう。なんの目的もなく意志もなく、肉体人
間という生命体が、突然に生れ、そして、増加してきたのでしょうか。自分自分がそれぐ勝手な
生活をして、百歳にも満たずに死んでゆく。それで一人一人の人生は全部終了してしまう。それだ
けの生活にいったい何の意義があるのでしょうか。
善いことをした、悪いことをした。そうした一人一人の人間の行為も、死んでしまえばそれまで
であって、その人自身が悔むことも喜こぶことも、死を境にしてすべて無くなってしまう、という
ことで、人間は真実の満足が得られるものでしょうか。
現代の世相をみていますと、幼稚園から大学まで、入試入試で親子共々追いまくられ、ただただ
学校へ入るだけで、幼年期から青年期までの一番大事な期間を、その時々の試験問題を頭で覚えこ
もうという、永遠の生命からみてなんの関係もない、その時ばったりの記憶力の練習で過ごしてし
まっている状態です。
そして大学へ入ると、ひと先ずほっと安堵して、何か解放感を覚えて、今まで遊べなかった分を
一斉に取りかえそうとする。破目をはずして遊びたい気分になる。しかし、期末期末のテストがあ
るから、その時だけはまたまた、頭にだけ積め込む勉強をはじめる。
人間にとつて最も大事な問題である、人間は如何に生きねばならぬものか、ということも、人類
とはいったいなんのためにこの地球世界に生れ出たものなのか、という大切なことも、学校では一
切教えてはくれないのであります。学校で教えることは、生活の技術的なことであり、生徒のほう
127生命の教育
は一日も早くこのつまらない学問の縛りから脱げ出たい、という気持で一杯なのです。これは勿
論一般論で例外はいくらもあることですが、一般的にみると、こういう工合になっております。
人間はいったいなんのために学問をするのか、学問知識をつけて学歴をつけて、よい就職をし、
この世でのより高い地位を獲得する為にするのでしょうか。それも確かに必要ではあるでしょう、
しかしそれだけでよいのでしょうか。そこがはっきりしていないことが、人類が真実の平和生活を
つくりあげられない、大きな原因なのであります。
人間にとっても人類全体にとっても、一番大事な問題を何も教えないでいて、枝葉のことばかり
教えこむことより、根本問題を先ず教えて、その根本問題を中心にして、枝葉末節的な学問技芸を
教えこむようにしない限りは、立派な人間はそう育ぐくまれてゆくわけはないし、従って人類が真
の目的にそった生き方をしてゆけるわけもないのです。
128
三つの根本問題
それでは人間及び人類全体の根本問題とはいったいなんなのでありましょう。
それは、この肉体人間に宿っている生命、いいかえれば、肉体人間としてここにこうして現われ
でいる生命の本質というものは何なのか、
人間生命というものは、いったいどこからきて、どこに行くのか、
地球人類がここに生活している目的はいったい何であるのか、
この三つの大きな問題を根本にしての教育があり、人生観がなければ、地球人類の進化はいつか
は止まってしまい、滅亡の淵に追いやられてしまうことは必然であると思うのです。
この重大な三つの問題をなおざりにしておいて、人間を教育しようと思っても、人類の平和を築
き上げようとしても、肝心な根本の思想が確立していないのですから、善い教育ができよう筈もな
いし、人類が真実の平和世界の軌道を進むわけにもゆかないのは理の当然なのです。
現在どこの国でも問題化している、青少年の不良化も、前述の三つの根本問題を世の大人たちが
真剣に考え、その道に向って突き進んでゆくようにしないことには、到底解決できないことであり
ます。
この三つの問題は、個人的には懸命に探究している人々がおりますが、各国家が、国の教育方針
としてこの問題に取り組んでいない現在は、教育機関の総体的な地位を占める、国家の認可してい
る学校教育が、この重大な根本問題には一歩も手を触れられぬ状態になっております。
129生命の教育
そして民間の宗教団体が、各自思い思いの方法で、この問題の片鱗に触れて、個人個人の人生観
を永遠の生命の道につないでゆこうとしているのであります。しかしこれはあくまで科学的なもの
ではなく、直感的な分野に頼っていますので、宗教というものに触れない人々にとっては、なんの
関係もないことになります。
130
生命の神秘の探求で生命礼拝の教育を
個人生命と永遠生命とのタテのつながりというもの、個人と人類とのヨコのつながりというもの
を、もっとはっきりさせることもこの三つの問題との関連性によってなされるわけなのですが、こ
れが、テレビの受像機を置いて電気を通じ、ダイヤルをひねれば自ずと画像がうつり、声が聞えて
くる、と同じように、各学校がテレビの受像機がわりになって、こうした講義をすれば、嫌でも応
でも、学生の心にはこうした講義の内容が入ってきます。幼稚園生や小学生には、まだ唯物論も唯
神論もありませんので、講義の内容がそのまま入ってゆきます。幼少の頃に覚えたことは意外と根
深く心にしみておりますので、大人になってもその事柄が、運命を左右するような決定的な作用を
することがあるものです。
そこで、幼少の頃から青年に達するまで、生命の問題を講義し探究してゆくような傾向をつけて
ゆけば、生命の浪費をしたり、他人や他の生物の生命をいたずらに傷つけたりするような人間は自
然といなくなってゆくのであります。
これは、欧米諸国でやっている、教会での日曜礼拝などよりは、もっともっと深いものでありま
おの
して、単に宗教的に神を説くというようなことではなく、生命そのものの探究によって、自ずと、
生命礼拝の思想になるように、科学的な知識をもって、教育してゆくことが大事だと思うのです。
宗教的なことだけでは、世の大人たちの中には無神論や唯物論者がたくさん存在しますので、そ
ういう教育に反対する人が、スムーズに教育ができにくいと思います。そこで、教育の仕方はあく
まで科学的でなければいけないと思うのです。
世の中には宗教精神をもった科学者もかなりおります。そうした人々の科学の話は巧まずして宗
教精神が温れてくるので、科学的な講義を聞きながらも、生命の神秘に対して、敬震な気持を生徒
たちが抱くようになるのは必然的です。
こういう教育は、幼稚園、小学校からやらねばならぬことで、必須科目としてやるべきなので
す。これは民間団体がやったのでは効果は砂いので、あくまで国家がやらなければなりません。
131生命の教育
根本問題の解決に国家は主力を注げ
132
ところで、こういう提案を私が致しましても、おいそれと国家が受ける状態にはなりませんでし
ょうし、人間にとって重大な根本問題ということでも、これだけでは抽象的であってわからない
し、それが一番わからない問題で科学的にも判然としていないのだから、教育のしようがない、と
いうかも知れません。
私も実際にそうだと思うのです。だからこそ判然とするような方向に学者や教育者をむけてゆか
ねばならないのです。自分自体を支えている生命そのものがどこから来たもので、どこへゆくのか
ということもはっきりしない、人類の目的もはっきりしない。そんな根本問題をはっきりさせずに
いて、国家の政治だとか、人類の指導だとかいうことがよくいえると私は思うのです。
そういうことは民間の宗教者が勝手にやればよいことで、国の政治をあずかる者や、人類世界の
乎和をあつかう国連の担当者は一切あずかり知らぬことだ、では、国家や人類の首脳と目される人
々の人格を疑わざるを得ません。
人間や人類にとって一番大事なことは、国や人類にとって、一番責任の軽い民間の宗教者にやら
せておいて、枝葉末節的な当面の政治政策だけを自分たちがやればよい、というのは、これは全く
反対なことではないでしょうか。実に面妖なことであります。
人間にとって最も大事なものは生命であることは論をまちません。生命がなければ人間はありま
せん。生命があってそこに生活が生れ、国家や人類の存在があるのです。そういう生命の存在を探
究するのに、国家や人類が何故全力を挙げて当らないのでしょう。
肉体が最初にあって生命が生れたのでないことは誰でも知っています。大自然の中に生命エネル
もろもろ
ギーがあって、諸々の生命が生れ、肉体人間という存在もそこから生れ出たものです。その生命の
実体を探究する学問に費す経費は微少であって、世を破壊する兵器に費す経費が莫大であるなどと
いうことは、実に正気の沙汰ではありません。
人間生命が肉体の中にだけあるものなのか、それとも肉体が死滅した後々までも存続するものな
のか、また、肉体未生以前の生命は、どのような形で存在したものなのか、こうした問題が判然と
すれば、お互いに相手国を敵とみて兵器を競い合うなどという愚かなことをする必要がなくなりま
す。
神とか仏とか霊とか幽とかいう名称をつかわなくとも、大自然の生命の流れの一駒一駒の在り方
X33隼命の教育
として種々と探究してゆけば、無神論、唯物論の人々でも抵抗を感じないでしょう。
それには国家にとっても、人類全般にとっても研究費というものがいります。兵器にかける費用
は惜まないが、そうした経費は惜しんで与えない、というのは世界の政治家たちがいずれも、顛倒
妄想の人々といわねばなりません。こういう昔ながらの悪癖が世界の政治家の心を占めている限り
は、地球世界はやがて滅亡に至るより仕方がありません。何故ならば、そういう国家や人類は根の
あらし
ない木のようなもので、強い暴風雨がくれば倒れてしまうからです。砂上の楼閣ともいえましょう。
134
宇宙船の建造よリ身近かな生命の探究を
人類の偉大な科学する智慧を、何故ゆるぎない人類世界創設のためにつかわないのでしょうか。
科学は人類のためになっている、という人がいるかも知れません。なっていることは確かです。し
かし、それは現象面の僅かな利益のためでしかありません。
そうした智慧を何故永遠の生命と個々人の生命との関連にむけてゆかないのでしょう。少しの人
の力で、それも僅かの費用で、そんな重大な研究をしようとし、させようとしてもそれは遅々たる
歩みに過ぎません。心ある科学者はそれを嘆いているのです。
大宇宙の中心はやはり生命エネルギーです。大宇宙はそのまま大生命体として生き生きと活動し
ているのです。月や金星や火星を目指す宇宙船の建造も結構です。しかしもっと身近でもっと安価
で、もっと重大な根本問題である大宇宙の生命と人間生命とが、一つにつながる、一つにつながる
ということは、大宇宙の神秘の中心的なことがわかる、ということです。そうした大事なことが、
この肉体をもった人間自体を通して判然としてくる科学の研究方法があるということです。ヨガの
行法なども禅宗の坐禅などもその宗教的なやり方の一つです。
そうしたことを宗教という名を借りずに、科学の研究としてやることが必要なのです。そういう
方面に個人の団体でなく、国家が音頭をとって、科学者を中心にしてやることを必要とするのです。
科学者が中心になってやらなければ、一般の人たちは納得を致しません。その費用はあくまで国
家が負担するようにするのです。個生命の探究と大自然大生命の探究ということに国家が本腰をあ
げられるように、私たちは宗教の面から人々を導き、宗教と科学との一致点をつくりあげることを
心懸けているのであります。
私たちにとっては、人間生命とは肉体にのみあるのではなく、各種の体をもって活動しているも
のであることは、当然のことと思われています。私など体験としてよく知っているのです。そして
135生命の教育
この地球人類というものが、この地球世界の物質波動の中で、大宇宙の大調和の一環として調和世
界を創りあげる大目的のために生存しているのである、ということもよく知っているのでありま
あら
す。宗教的にいえば、神のみ心を地に顕わすために、この肉体人間として地球界に住んでいる、と
いうことになります。
そして、一人一.人の人間それぞれに天命がありまして、その天命を果し切るまでは、何度びでも
地球世界に生れてきて、やがてその天命を果すと、他の界や、他の星の世界に移住してゆくのであ
ることも知っております。
しかし、これは宗教的な体験でありまして、科学的に説明するまでにはまだ至っておりません。
ところが、私どもが神のみ心を地に顕わすための世界平和の祈りの運動をつづけておりますうちに
宗教と科学との一致点をはっきり打ち出せる、宇宙子波動科学という科学の智慧を大生命、直接に
は宇宙天使によって教えられはじめたのであります。
これはそのままが大調和科学でありまして、調和の心の波動のないところに生れ出ない科学なの
です。この科学の生れた目的は地球世界を大調和させる目的で生れ出たのでありますから、それに
たずさわる人々は、いずれも調和した心的波動の持ち主でなければなりません。
136
ひびき
世界平和の祈りを祈りつづけていた私たちの心の波動がそのまま大調和科学の原理と一致したの
であります。一口に科学科学といいますが、科学の出発点は宗教と同じように、直感的な創造力で
ありまして、科学の開祖たちは、直感力、創造力の秀れた人々であったのです。
真剣に取組んでほしい生命の問題
人生を同じように歩いていながら、宗教者として立つような人は、その生命のひびきを、心の問
題として取りあげて、内面的に深く掘り下げて神のみ心にまで達しようとするし、科学者として立
ぼり
つような人は、自らの生命のひびきを外的な大自然や物体に結びつけて、大自然や物体の分析解剖
によって、この世に直接役立つような分野のものとする。しかし、両者いずれも生命のひびきをと
らえて活動することにかわりはないのです。
生命のひびきを内に向って探究してゆく宗教者も、外に向って探究してゆく科学者も、いずれも
根本的には、大宇宙(神) のみ心に深く入ってゆこうとしているのであります。
宗教者や科学者として立っていない人々でも、どちらかいずれかの想いを多少なりとも持ってい
るものなのですが、その日その日の収入を得る生活のために、表面にははっきりとそうした気持が
X37隼命の教育
浮き出てこないのであります。
ですから、国家や人類の指導者たちが、生命という問題を表面に打ち出して、何にも増して、生
命の問題を考えるということを指導していったら、世界は急速に明るい方向に変化してゆくことで
ありましょう。
誰も彼も生命を問題にしていない人はいないのです。ただそれが肉体という生命だけを問題にし
ているところが駄目なところなので、永遠の生命としての生命、大宇宙大自然の生命というものと
の連関性としての、個々の肉体生命というものを、はっきり考えさせるようにしてゆくことが大事
なのです。
個々の肉体生命が実はその底深いところにおいては全く一つのものなのである。親子の生命が全
く一つに思われることがあるように、誰も彼もが、生命においては兄弟姉妹なのである、というこ
とを、科学的にも宗教的にも教えることができるのですから、各国、あげてこの問題に力をそそぐ
べきなのであります。
それから宗教的にいう、因縁因果の説を、科学的に説明できるような研究も必要であるし、想い
の波動の在り方の研究も科学的にできることなのですから、こういう研究も必要なのであります。
138
人間を使って、大自然の在り方、大生命の流れというものを、かなり深く研究することもできる
のですから、やることがたくさんあります。科学の眼を外にばかりむけず内に向けよというわけで
す。逆に宗教の眼を内にばかり向けず外にも向けよ、ということもできます。
宗教家が、個人の悟りにばかり眼を向けていて、社会や人類の問題を冷然とみているのもどうか
と思いますが、近頃は大分、社会人類という大乗的な立場に眼を向けている宗教者も多くなってま
いりました。
ところが、これがまた行き過ぎてしまって、宗教者が唯物論的になってきまして、心の問題をよ
そにして、社会改革とか、政治問題とかいう、外面の問題だけに力を集中しようとしている傾向も
でてきております。
宗教者はやはり、あくまで心の問題が主でありまして、心の問題を主点にして、そして、大衆の
利益にも力を貸してゆくということでなければ本末転倒してしまいます。
人類の使命
宗教も科学も政治もすべて、大宇宙神のみ心(法則) をこの地球界に顕現するためのものなのでX39生




すから、すべて大宇宙の法則に乗ってゆくということを心がけなければなりません。
宗教者や科学者は政治家を助け、政治家は宗教者や科学者の研究発展を助けるようにしてゆかね
はず
ばならぬのですが、宗教者にしても科学者にしても、その本道を外れた人々がありますので、この
見分けをすることが大切なのであります。
その見分け方を一口にしていえば、その行く道が調和に外れているか外れていないか、調和であ
はず
るか不調和であるか、ということなのです。調和の道を外れているものは、宗教と科学とを問わず
これは人類の使命に反するものなのであります。
何故ならば神のみ心は大調和心であり、宇宙万般はみな調和にむかって進んでいるからなので
す。しかし、そうおっしゃるけれど、この世の中は不調和そのもののような状態がたくさんあっ
て、宇宙は調和に向って進んでゆくようにはみえないが、という人もあると思います。
この現象界は確かに不調和そのものに見える点がたくさんあります。動物たちの弱肉強食などそ.
の最もなる例です。その他地震や暴風雨や洪水や種々とあります。
しかしこれらはみな過去世からの、いいかえれば生物が発生してきた頃からの未発達な生命体の
その生命要素を交流し合う様相のひきつづいて行われている状態でありまして、生物が進化してゆX44
くに従って、そういう状態は消え去ってゆくのです。地球人類はまだそういう状態の消えきらぬ生
物体なのでありますが、地球人類の中でも、もうそういう未発達の状態をぬけきって、調和そのも
のになり切ってしまった人々がかなり出ているのです。聖者賢老といわれた人々はみなそうなので
す。
ですから私どもがすべて聖者賢者と同じような想念波動をもつようになれば、私どもの眼に現在
触れておりますような、弱肉強食の姿も、天変地異も全く無くなってしまうのであります。進化し
た星の世界はそういう羨ましい状態が現実としてあるのであります。私たちに宇宙子科学を指導
していて下さる宇宙天使というのは、そういう進化した星の世界の住人なのであります。
そういう世界には、地球人類の想像もできないような、超越科学が完成されておりまして、どの
ような形にも現われ得る、まるで忍術を地でゆくような科学力を備えているのであります。テレビ
で子供の時間によくやっている宇宙人のやるようなことが真実に科学的にできるのであります。
そういう宇宙人に私たちは、日々科学の智慧をいただいているのです。これは文章で喋々すべき
ことではなく、やがて何年かの後には、実現させての上説明したいと思っています。
そういう私たちの宇宙子科学はそれは実現した上でのことでありますが、現在の地球の不安混迷
141生命の教育
を一日も早く救うためには、先程から申しておりますように、地球人類の使命は、宇宙大霊の大調
和のみ心を地球界に実現するための働きであるのでして、すべての力を調和の方向に進ませてゆか
ねばならないのです。これは国家や人類の指導者の何をおいてもやらなければならないことで、科
学も宗教も教育もすべてそこに重点を置いてやってゆかねばならないのです。
私はそれを世界平和の祈り、という行為にして宣布しているのであります。すべての悪や不幸は
過去世の未発達だった頃からの因縁の消えてゆく姿である。だからその消えてゆく姿を、宇宙神の
み心そのものである、大光明そのものである世界平和の祈りの中に、日々刻々入れきって生きてゆ
きましょう、と説いているのであります。それが個人個人の誰にでも容易にできる人類の使命達成
の道なのであります。
142
すべては大調和に向って進んでいる
弱肉強食の世界
この地球世界の生物は、そのすべてが、強いものが弱いものを抑えて生きている、いわゆる弱肉
強食の世界であります。
動物の世界は勿論ですが、人間の世界でも、個人といわず国家民族といわず、そのすべてといっ
てよい程、金力、武力、智力等々、あらゆる力の差によって、その位置すべきところが定められて
おります。
「あいつは俺より余程頭が悪いのに、あんなよい地位に上がっている」などという言葉をよく聞

・きますが、総体的に観て、なんらかの力の差が、その人たちの地位の差になったことは間違いあり
143すべては大調和に向って進んでいる
ません。それは単に学問的な頭の差ということより、人間全体としての力の差が、その二人の間に
はあったに違いありません。
力といっても計算的に現われたものばかりを力というのではなく、計算的には現われ得ぬ、人格
的な魅力や、国家や民族的な魅力なども、人間の力の一つであるわけですから、そうした力も、そ
の人やその集団の地位や権力を高める力ということになるのです。
ですから、会社や役所に同年代から勤めはじめて、その人は一生懸命やっているつもりなのに、
他の者が先に地位が上がってしまうような場合、自分は彼よりすべての能力において勝っているの
にと、口惜しく思うものですが、やはりそこにはなんらかの力の差があったのです。それは彼が上
役へのこ気嫌取りの上手なためだ、としても、そうして上役に調子を合わせてゆける能力というも
のを、彼が持合わせていたことが、彼の力になったわけです。
国際間の問題でも、現在の米ソと日本との国際的地位というものは、明らかに米ソのほうが上位
にあります。この地位の高低はなんの力によるかと申しますと、いうまでもなく、金力とそれによ
うて生み出された科学力であり、それによって強められている武力にあります。
今のままで推移してゆきますれば、米ソと日本の国際的地位の差は、いつまでたっても現在の状
144
態と大差はないと思われます。日本の力が米ソと均衡を保つためには、金力と科学力とを増大させ
て、武力を強くしなければならない、ということになります。
武力による勢力の均衡ということの是非はさておいて、武力において、日本が米ソと力の均衡を
保ち得るか、というと、この先、何年たっても、武力において均衡を保ち得るとは思われません。
と致しますと、日本はいつまでも、米ソどちらかの第二陣的存在として存立してゆかねばならぬの
か、と心ある人は嘆かざるを得ません。
弱肉強食の動物的本能は、大国と小国との間に好むと好まざるとにかかわらず、日々行われてい
るわけであり、小国の抑えに抑えている憤癒は、いつ爆発せぬとも限らぬ状態になっております。
小国の憤慧の激発は、どちらかの大国の感情をゆさぶって、地球最後の戦争にと突き進んでゆくか
も計られないのであります。
日本などは、その点非常に恵まれた形で、大国との関係を保っていますが、こんな安易な自己保
存的な生き方をしていますと、小国の憤懲や大国間の感情のもつれのあおりを喰って、第二次大戦
以後漸く本格的な復興をみた国土を、今度は跡形もなく壊滅させてしまわぬとは限らぬ事態に立至
るかも知れないのです。
145すべては大調和に向って進んでいる
ですから日本は、現在の安易な平和観を打ち捨てて、世界各国の真実の平和を保たせる大きな第
一歩を打ち進めなければいけないと思います。自国だけの繁栄を願っての政治政策や、個々の会社
や、個人個人だけの安泰を願うだけの生き方などは、自分や自国が、進んで争いを求めるわけでは
へき
ないけれど、自己本位の人間性の悪癖のために、弱肉強食の動物的本能に左右されている、大小各
国の、争いや憤怒の想いの波に巻きこまれてしまわざるを得ません。
この世の中の、すべての勝敗は力によって決定せられることは事実なのであります。そしてこの
世界は、常に勝敗を競い合っているのであります。動物の世界と同じように、勝つか敗けるかを
めど
目途として、科学の研究もすれば、武力の増強もしているのであります。ところが今日ではもはや
勝敗を競うことは、それがそのまま、地球人類の滅亡を意味することになっているのです。
勝敗を競うのはスポーッの世界だけでたくさんなのが、今日の世界情勢なのです。個人個人はみ
なそのことを知っているのです。しかし、国家となると、そうした明らかな理論さえわからなくな
ってくるのです。弱肉強食の動物的本能のためなのです。
強いものが弱いものを抑えて、自分の意のままにする、という動物本能を超えたところから、真
実の人間の生活が生れるべきであるのですが、人類は古代から今日に至るまで、依然として、こう
146
した動物本能にふり廻わされつつ生活しているのであります。
生命尊重の風潮が高まったが
ただ人類には、考える力、創造する能力が備わっておりますので、そうした本能的な生き方をし
てはいけないのだ、という思考の力が働いたり、本能を神のみ心と同化させ、人類すべての福祉の
ためにという、神性から湧き出ずる愛の力から生み出された、宗教活動や、科学活動が、今日のよ
うな文明文化をつくりなし、昔とはくらぶべきもない人権の尊重という、神界の心の現れである、
人間生命尊重の風潮が高くなってきたのであります。
文明文化の発展と、人間生命尊重という思想は、実に人類が、あらゆる動物とは全く相違する霊
長的思想なのであります。人間が神の子である、という一つの証拠なのであります。
ところが、いざ自己と他との利害関係の対立ということになりますと、自を捨てて他を立てると
いうことがなかなか出来難いことになり、力と力の競い合いということになってきます。これが国
家と国家ということになりますと、そこに戦争というものが起ってくるのです。
もうそうなりますと、人権の尊重も、人間生命の尊厳もありません。自国が勝つためのあらゆる
147すべては大調和に向って進んでいる
武力を行使して、自国の存立を守ろうとするのであります。それまで潜んでいた、弱肉強食の本能
が湧然と湧き起ってくるのであります。人間が動物と全く同じ境界に自らを突き落してしまうので
す。
このように表面的にみてまいりますと、人類は到底、弱肉強食の本能、自己保存の本能には勝て
ない、だから、地球世界には完全平和な世界など出来上る筈がない、という結論になってきそうな
のです。
聖者の出現は何を意味するか
しかし私は、そういう結論は出したくないし、また、出さないでも済む方法を知っているのであ
ります。それが世界平和の祈りなのであります。拙著をはじめて読む人などには、ただこうぽつん
と世界平和の祈りといってもわからないことでしょうから、順を追ってこの説明をしてゆきましょ
う。
人間というのは、実に複雑にできているもので、一口に人間といいますが、その心の種類は数知
れないのであります。虎とかライオンとかいいますと、その形の差も少いし、その性格的なものも
148

その差異はあまりないようです。ところが人間となりますと、姿形は他の動物と同じように、そう
すがた
たいした差異はありませんが、心の相というものには、非常に数多くの種類段階があります。
姿形だけが同じだからといって、釈尊やイエスと強盗や殺人犯人などを、同じ種類に入れてよい
ものでしょうか。釈尊やイエスといわなくとも、シュバイツァー博士やヘレンケラー女史のような
聖者と低劣極まる詐偽漢とが同じ種族ということができましょうか。そのことをよくよく考えて下
さい。
同じ人間という種族の中に、これ程の大きな差異をもつものを一つにして入れてあるということ
は、いったいどういうことなのでしょう。釈尊などは、人間を十種類(仏・菩薩・縁覚・声聞。天
上・人間・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄) に分けて説明していますが、私は、人間という一種族に釈
尊、イエスの高さから、強盗殺人犯という低劣なものまでの、数知れぬ種類があることそのもの
に、私は人類が無限の進歩を遂げつつあるものであり、現在は急速にその進歩がなされようとして
いるのである、という証明が成り立つと思うのであります。
人類世界に、釈尊やイエスをはじめ数多くの聖者賢者が出現していることは、現在人類全般が、
弱肉強食、自己保存の本能の動物的な生き方にふり廻わされているように見え、人類の精神進歩は
X49すべては大調和に向って進んでいる
もう駄目なように思われていますが、実は、そうではなく、それは人類が進歩しきっていない過程
の姿であって、各聖者賢者たちのような心に必ず人類全般が成り得るのだ、ということを示してい
るのであります。
一人の人間が達し得た境地というものは、必ず誰も彼もが達し得る道なのであります。それは科
学の普及と同じなのですが、心の問題は、科学が普及される時間より、非常に多くの時間が必要な
のです。
人間が、神性をそのまま発現して、自我欲望を超えた神のみ心を、この世界に発現した、いわゆ
る聖者賢者という人は、一人や二人ではなく、今日までにかなり多く存在したのでありますから、
その人たちのたどってきた道や、その人たちの心のひびきが、今日の世界にひびきわたっているこ
とは確かなことなのです。
想念と波動
普通の人たちは、肉眼や肉耳で見たり聞いたりしたことだけが、本当のことと思っていますが、
この世界のひびき(波動) の中で、肉眼や肉の耳で、見たり聞いたりすることは、ほんの僅かなも
150
のでしかないのです。ちなみに、肉眼で見える、いわゆる可視光線というものは、どの程度の波動
であるかというと、三九〇ミリミクロソから七八〇ミリミクロソの間の波長という、今の科学でわ
かっている波動の種類、波長のうちの、取るにも足りぬ程の僅かな部分なのであります。
ですから普通の人は、この世界を流れている波動の取るにも足りぬ僅かな部分を見たり聞いたり
して、他の大半の波動の流れを〃無い〃と簡単に片づけてしまっているのです。
地球の科学は現在非常に進んできていまして、ラジオやテレビのように、空間を流れている波動
を利用しまして、遠くの状態を、眼前に再現することができるようになってきていますし、眼にも
耳にも触れぬ種々な波動を捉えて、地球世界の生活を、より便利に、より価値あるものにしようと
しています。しかしその反面、この宇宙を流れている波動の利用の仕方一つで、他人の想念を、自
分の思う通りの想念に変化せしめることのできる方法が、現在ソ連の科学陣によって考えられてい
る、ということで、この方法が完成して悪用されたら、ソ連の思い通りに世界人類が動いていって
しまうかも知れないのです。
それ程、この宇宙を流れている波動というものは、利用価値の広く高いものなのであります。皆
さんの一瞬】瞬の想念というものも、この宇宙をそのまま波動となって流れているのでありまして、151す




調










同じような波動は次第に大きく一つになって、その想念波動を出した人にも、同じ想念波動をもつ
各国の人々にも、感応してゆくのです。
それは恰も、電気に感電するのと同じ原理なのですが、人々にはわからないだけなのです。電流
は物質的な流れであり、想念波動の流れは精神的なものですが、いずれも法則的には等しいものな
のです。
遠くにいる人の想念が、自然とうつってきたり、噂をしているとその人が現われたりすることは
よくあることです。それは想念波動の流れの交流にょるのです。雰囲気などというものも、すべて
その人やその場の想念波動を感じることをいうのです。
霊能的な特殊な人は、普通人の感じない想いを感じたり、遠隔地の人の様相がわかったり、人の
心の中がわかったりするのですが、それはどういうことかと申しますと、普通の人の体、この体と
いうのは、科学的にいうと、電流が流れている磁場のようなもので、電流を想念の流れと置きかえ
て考えてみますと、普通の人は、この磁場が、三重の円ぐらいの広さだとして、この人の想念の流
れは三重の円をぐるぐる廻わりしながら、他の人の磁場へ伝わってゆくのに、霊能的な人の磁場は
五重にも八重にも大きく広がっていまして、この人の想念の流れは、普通人の想念の流れより、急
1sa
速に他の磁場に、自己の想念波動を伝えるのであります。そしてこの反対に、他の磁場の想念波動
をも、急速にキャッチするのであります。
そこで、普通人のまだわからぬことを、いち早く知ったり、世の中の出来事や、人の運命などを未然
に知ったりするのです。従って他の人の想念波動の影響も受け易いということになるのであります。
自分の出す想念に責任を持て
個人個人の磁場(肉体幽体)を巡っている、想念波動の流れは、或る時間経過を経ますと、必然
的に、その人の運命として現われたり、肉体的変化として現われたりするのでありますが、普通人
には、それが現われてみなければ、その事実がわかりません。ところが、霊能的な人には、現実に
現われるより前に、想念波動の流れを掴んでいますので、予知的に現われてくる事実がわかるので
あります。
これは、宇宙万般のことは、波動から成り立っている、という原理を知れば、自ずから了解でき
るのであります。自分の出している想いの波は、瞬時にして、自分の磁場を巡って、宇宙に流れて
いるのだ、ということを知ることが、今日以後の人間の生き方の第一歩となるのであり、宗教と科153す




調










学をつなぐ第一歩でもあるのです。
自分の出している想念波動に責任を持たぬということは、すでに自分の運命というものを放棄し
ている姿であって、その人が如何なる悪い運命に成ろうとも、すべてその人自体の無知によるので
あります。宗教的な因縁因果の説はこの理を説いたものなのです。
これからの知性的な生き方というものは、第一に、自己の発した想念波動に責任を持つというこ
みずか
とであらねばなりません。自ら、自分は弱いのだとか、自分は駄目なのだなどという想念を出しつ
づけたり、その反対に、自分だけが偉いもののように人を抑えつけたりしながら、自分の運命を善
みずか
くしようとしても、それは自然(生命)の法則に反しているのですから、自らを痛めてしまうだけ
なのです。暗い想い、自己否定の想念、不幸や災難や、自己の無力を嘆く想念、他人を恨み、誹誘
する、不調和な想念等はすべて、生命の法則、すぺてを生かし切るという原理に反する想念波動な
ので、宇宙の運行を阻害し、地球人類の運命を悪化させてゆく想念波動なのであります。
科学的にいえば、自分の生命の磁場を汚すと同時に、地球の磁場、ひいては宇宙の生命の磁場を
汚すことになるのです。こういう真理をしって、この真理を生かすことに、これからの宗教の道も
科学の道も開けてゆくのです。
154
自己の生命の磁場(肉体幽体)が汚れますと、それを洗い浄めようとして、生命の本源から強い
力がでてきますので、その強い力に押されて、汚れが外部に出されてゆきます。この汚れが取れて
ゆくに従って、生命が輝いてゆくわけですが、この汚れの取れてゆく姿が、肉体的にいえば病気の
症状であり、運命的にいえば、不運や貧乏ということになるのです。そういう姿を私は消えてゆく
姿といっているのであります。生命そのものは永遠に生きいきとしているのですから、想念波動を
常に生命の本源と一つにしていれば、常にその人の磁場は生きいきと輝いているわけで、そういう
人を神人とか覚者とかいうのであります。こういう人々は、生命の輝きが強い、いわゆる生命力が
強いので、他の人々の磁場に生きいきとした力を流れ入れさせるわけで、多くの人々に善い影響を
ヵルヤ
与えるのです。こういう生命力そのものの力こそ、弱肉強食の業の力の消えてゆく姿的の力ではな
く、真実の力、大調和世界をつくりなす力なのであります。
自然は常に調和に向って進んでいる
この世が現在、いかにも悪や不幸に充ちていて、自我欲望の力の争いの場所のように見えていま
すが、実はこうした姿は、業想念波動が、常に大生命力の光に浄められていて、消えてゆく姿とし
155すべては大調和に向って進んでいる
て一瞬一瞬の現れが連続して現われている世相なのです。
この真理は科学的にも証明されているところなのでして、この世の物質を構成している原子の世
界でも、常に調和を保とうとして活動しているのであります。それは原子核を取り巻く電子の動き
によっても示されています。原子の中の素粒子たちも常に安定を求めて活動していますし、また、
原子の中にも安定した原子と不安定の原子がありまして、不安定な原子は常に安定を求めて動いて
いますし、分子同志も常に調和を保とうとして活動しているのであります。
小は原子の世界から、生物の細胞分子、宇宙の自然現象、台風から地震に至るまで、すべて、調
和を成し遂げようとして活動している状態なのであります。
台風や地震が何故調和のためのものであるかという疑問が出ると思いますが、台風というのは、
いわば冷い空気と温かい空気とが調和しようとして起る事態なのであり、温かい空気が冷たい空気
の中に流れ入って融合しようとする時の空気の流れが台風となるのであります。台風自体は、好ま
しい状態ではありませんが、台風自体が人類に被害を与えぬものであれば、この結果は、人類にと
ってプラスになることなのです。ですから、台風というような現象を起さずに、空気の浄化ができ
その調和が計れれば、人類はプラスだけを得る、ということになるのであります。
156
地震の場合でも、大地の不調和、ひずみを調整するために起る現象でありますので、これも土地
の調和を計って起る現象であるのです。そこで台風の場合と同じように、地震による被害がなけれ
ば、その事態は調和に向っている事態であるといえるのです。
そこで人類は、台風なくして台風にょるようなプラスを、地震なくして地震によるようなプラス
を得ることを考えなければいけないと思います。
大生命波動に合わせよう
これも私の説いております、万物も精神現象もすべて波動の交流によって変化してゆくという説
の通り、すべての波動を、大自然現象の根源である、大生命波動(宇宙神のみ心) に合わせてゆく
ようにすれば、何もの何事も大調和されてゆくのである、というのです。
この大生命の力、大生命波動を、地球人類が自由に使えるようになれば、たちどころに、この地
球界に弱肉強食の姿は消えて、大調和世界が誕生するのであります。
その最大の道は、人間一人の想念波動を正しいものにしてゆくということなのです。正しいこと
にするというのは、人間生命の磁場である、肉体幽体を常に浄めておくということなのでありま157す




調










す。浄めて置くということはどういうことであるかと申しますと、肉体幽体という、生命の働き場
所、いわゆる生命の磁場に、自分や他人や世界人類を不幸にするような、暗い想念や、恨みや怒り
や、恐怖や、妬心や、自他の幸福を否定するような想念、つまり、自分は駄目だ、人類は駄目だと
いうような想い等々の想念波動を、いつでも洗い流しておいて、磁場をきれいな、輝いたものにし
ておこう、ということです。
この方法はどうすればよいか、それが祈りなのであります。祈りのうちで最も広い範囲に効果の
あるのが、世界平和の祈りなのであります。自己の想念波動を、世界人類の平和を願うという、人
類愛の想念に高めて、宇宙神のみ心の中に、守護の神霊の光明の柱を援助として昇華してゆくのが
世界平和の祈りなのであります。
世界人類の平和ということは、宇宙神のみ心そのものの現れを意味するのであります。何故なら
ば、宇宙神は絶対なる大調和そのものであり、宇宙の森羅万象、すべて宇宙神の大調和のみ心の中
にあるわけなのです。
ですから、私ども人類が、その想念波動を、宇宙神のみ心そのものである、世界平和の祈りの中
に入れきってしまうことは、取りも直さず、そのまま大調和波動を、そこに導き出しているという
158
ことになるのであります。
現実に、世界平和の祈りは、救世の大光明波動として、宇宙に充ち充ちておりまして、地球世界
の生命の磁場の汚れを、その大光明によって着々と洗い浄めつつあるのであります。
自己保存の本能、自我欲望、弱肉強食という、動物的な本能から起る業想念波動を、そして、そ
うしたすべての力を、大生命の大調和の力にすり代えてしまうために、私たちは、一瞬のたゆみな
く、世界平和の祈りを行じておるのであります。
日本のように、金力において武力において大国に劣る国家こそ、金力にも武力にも勝る、祈りに
よる大調和力を自国のものとしなければなりません。
現在の世界の金力と武力による権威力を、世界平和の祈りによる、大調和力によって、一日も早
く、地球世界から消し去らねばなりません。それは米国やソ連自体のことをいうのではありませ
ん。全世界を現在蔽っている業想念波動の消滅をいうのであります。
真理に目醒めたる人々は、いち早く起って、宇宙波動の浄化であり、地球人類の業想念波動の浄
化運動である、世界平和の祈りに参加して下さい。世界平和の祈りは、あなたの心を自由になさし
ヵルマ
め、世界人類の運命を、業の手から、神の手にお還えしするでありましょう。
159すべては大調和に向って進んでいる
160
神秘的なごとごと
神霊との交流三題
あまり神秘的なことや、霊的のことを書いていると、読者たちがつい、花は紅、柳は緑とか、眼
は横に鼻は縦にというような、当り前の生き方、つまり、一歩一歩足下をみつめて道を進んでゆく
という、宗教者の正当な歩み方にあきたらなくなってきて、一挙に悟りが開けるような気がして、
霊的体験の方向に進んでゆこうとしてしまう。そして、霊現象に興味を持ちすぎ、神界ならぬ、幽界
の生物にほんろうされて、取りかえしのつかぬことになってしまったりすることがあるものです。
そこで私は、私の本を読み、私の話を聞いて下さる方々が誤りなく正しい生き方、正しい宗教の
道を進んでゆかれるように、充分に気をつかって、書いたり話したりしているのであります。そし
で、その根本の教えが、消えてゆく姿で世界平和の祈り、ということになるのですが、今日は少し
おもむきを変えて、神霊の世界や幽界の話を書いてみようと思うのです。実は先日、熊野の那智の
滝に参ってきて、ふとその気になったからなのです。
先日或る人が、那智の滝の前で写した写真を持ってきて私にみせるのです。もっとも数年前に講
師の斉藤秀雄さんが、その方の案内で那智参りをしてき、非常な霊体験をしてきていますので、私
えん
も一度那智へ行かねばならないな、と思っていたのでした。那智の滝は、私の守護の神霊である役
おつぬぎよう
の小角が行をしたことで有名になっている滝なので、遅かれ早かれ一度は行かねばならないところ
だったのです。
そこで、その方の差し出す那智の滝の写真を手に取ってみると、その瞬間、那智の滝の主神であ
ごんげん
る、飛竜権現さんが、すうと私の霊体に統一してきたのです。そして、「何年も前からお待ちして
いる。是非近いうちにいらっしゃって下さい」とおっしゃるのであります。そういえば、その写真
の方から、何年も前から、「先生、那智は先生ゆかりの地ですから一度まいりましょう」と誘われ
でいたのであります。
その写真の方は、ご自分もなんとなく気づかれてはいたようでしたが、飛竜権現さんの伝言を私
161神秘的なごとごと
にきかせていたわけなのです。そういうことは随分とあるもので、数年前の話、明治天皇が西郷南
洲翁とお二人で、私の背後に立たれて「明治神宮に一度詣ってもらいたい、使いを出すから」と
或る日おっしゃられたのです。その頃から、明治神宮の宮司の甘露寺さんが、そのお嬢さんは以前
から私どもに見えておられたのですが、急に私に親しみをみせられて、「是非一度明治神宮にきて
下さい。私がすっかりご案内する」とお嬢さんに伝言してこられ、私は一昨年の菖蒲時に娘たちを
ともなって神宮にお伺いし、一日丁寧なおもてなしを受けたのでありました。勿論私は明治神宮内
しようげ
のもろもろの障碍を、人に気づかれぬように浄めていたのです。その時、明治陛下と西郷翁の喜ば
れた顔がはっきり浮ぴあがってまいりました。その後、甘露寺さんとは親しくおつき合いしており
ますが、甘露寺さんの天皇家に対する素直な忠誠心は実に快いものでした。伊勢神宮に近年再度参
拝してまいったのも、この関連性によるものなのです。
やはた
また、これは二十年ほど前のことですが、私が市川市新田の松雲閣道場から離れ、八幡に新居を
構えた時の話ですが、どこか市川近くに、安くて手頃の家はないかと探し歩いていましたが、ふと
八幡の八幡様(葛飾八幡宮) の神社の前にさしかかりますと、神社の奥から、はっきりした八幡様
のお声で「貴方の家は、八幡に取ってあるから、他をみる必要はない。八幡だけを探しなさい」と
162
聞えたのです。私はその足ですぐ八幡近辺を探し、現在の家が見つかり、もう二十年も住みつづけ
ておりまして、何一つ不足なく、家内など、広からず狭からず、静かなところでいて、買物にも便
利だ、と、もう建ってから四十年近くもなる家ですが、毎日喜こんで住まわせていただいておりま
す。
こうした神霊との交流は書いていたらきりのないほどありますが、私どもの生活は、常に神霊の
世界から見守られ、或いは見つめられているものでありまして、一つの事柄、一つの出来事という
ものも、肉体界だけででき上がったり、起ったりするものでは決してないのであります。
那智の滝にて
ところで、那智の滝の話ですが、飛竜権現様の折角のおまねきなので写真の方の案内で、早速出
かけることにしたのでした。私の旅行はどこへ行っても、必ず会員さんとの対面や講演会がつきも
のですが、今回だけは、全く那智の滝だけを一つの目的として出かけたわけなのです。
紀伊勝浦の中ノ島というところで一泊したのですが、その夜中から朝の九時頃まで三月だという
のに、まるで台風襲来のような烈しい風雨で、常識では、この海の中の離れ小島の旅館から、船に
163神秘的なごとごと
乗って岸につくのはとてもおぼつかない、と思われるほどでしたが、九時過ぎた頃、風雨ともにぴ64
1
たりと止んで、みるみる青空がひろがり、島山の緑も生きいきとし、岩山もすっかり洗われて、な
んともいえぬ、さわやかな風光になってまいりました。私の霊眼には昨夜来の風雨をもたらしたの
は、私たちを迎えるための那智の主神を助けて働いている黒竜の浄めの働きだったのが、うつりま
した。私の神社や霊所巡りには毎回こういう浄めの働きが行われるので、案内の方も娘たちも、ま
たお浄めがありましたね、と当然のことのようにいっていました。
那智につきますと、大きな杉の木立も霊気に充ちております。石段を昇って落下する滝の前に立
はくはつ
っや、飛竜権現の竜体が、白髪白髭の老翁の姿に変り、破顔して私を迎えているのです。そしてそ
かしわで
の後に、勝浦で風雨の浄めをした黒竜の艶やかな姿がありました。私は印を結び柏手を打って、神
霊との交流を終え、那智の滝を辞してきたのでしたが、滝行半ばで亡くなった人々や、滝に願を掛
けている人々が、私の霊体の中で、暫く浄めの行をしておりましたが、やがて皆浄まって私から離
れてゆきました。案内してくれた人の話では何度でもこの滝にまいっているけれど、今日のように
水量が多く雄大な滝の姿はみたことがないということでした。
ここで、想い出しましたのは、ナイヤガラ爆布の大白竜のことでした。あの大白竜の使命はアメ
リカ、カナダを中心に地球そのものを浄める働きをもっておりましたが、この那智の滝の竜神の働
こんばく
きは、個人個人の魂醜の浄めを主にして働かれているということで、全く行場としては、最適なと
ころであるのは確かです。
くうおくど
空の奥処の話
ここでいよいよ本題に入るのですが、私が皆さんに申し上げたいのは、この世の中には、五感に
あふこころ
触れる、つまり眼に見え、耳に聞え、鼻にかぎ、手に触れ、意に感じる、という、そういうものだ

けではなく、六感以上の限りない波動のひびきで充ち充ちているということです。そして、そうい
こくらげ
う感覚を超えた、つまり空の奥のまた奥のと、老子講義で私が書いた奥の奥の世界に宇宙神のみ心
の中心が存在するのであります。釈尊の般若心経は、そういうことをいっておられるのですが、一
般の人にはわかりにくいでしょうから、私は五感に感じる世界、つまり普通の世界から、六感以上
の世界、幽界や霊界や神界の世界、そして宇宙神のみ心の中心の世界ということを、わかりやすく
書いてみようと思うのです。
宇宙神というのは、すべてのすべてであり、在りとしあらゆるものの原動力であり、生命の本源で
165神秘的なごとごと
あり、大自然運行の原理原則でもあります。キリスト教的にいえば絶対者です。この絶対者は、絶
対者そのままで、すべての働きをなさるわけではなく、種々様々な形に分れて、宇宙の諸々の存在
アメノミナカヌシノオオカミやおよろずのかみ
活動や現象活動をなさるわけで、これを日本の神道では、一神である天御中主大神から、八百万神
としてその働きを現わす命名がなされているのであります。一即多神なわけです。そしてこの神々
の分け命として、人類が存在するわけで、人類は神の子といわれるのです。
神には大自然の運行を司る神から、各星々を司る神、金星なら金星の、地球なら地球の運行を司
る主神という方があるのでして、ヨガなどでは、地球の主神を、地球霊王といっています。そして
その下に種々の霊的存在者がおりまして、人間の守護の神霊と事々に連絡を取って、この地球界に
宇宙神のみ心をはっきり現わそうとしておられるのです。
X66
進化の道、調和の道
ところが大宇宙というものは、無限でありまして、宇宙神のみ心も無限に働き、無限の開発進化
をしてゆかれるのでありまして、地球世界も今開発進化の途上にあるのであります。すべての物事
は、完成されるまでは未完成なので、地球の大調和状態が完成されていない現在、地球の人類も物
事も不調和、未完成であるのは当然なので、今悪と現われ、不幸災難と現われ、誤りであるように
現われていることも、ただそのこと、その人、その国のみの悪や不幸災難や不調和を取りあげて、
あげつらっていても仕方のないことなのです。それはすべて完成への途上での現れの姿でありまし
て、未来の大きな完成はそうした、私流にいえば、消えてゆく姿によって、完成の姿が現われてく
るのであります。
ですから人間は、悪や不幸や災難にばかり想いを把われていては、とても進化してゆけないの
で、積極的に善の道を大調和への道を突き進んでゆくことが大事なのです。たとえて申しますなら
ば、戦争になることのみを恐れて、相手国の軍備の増強に合わせて、自国も軍備の増強をするとい
うような、悪に対して悪をもってする、というような在り方では、とても、地球界が大調和の方向
完成の方向に向うことはありません。
いかに相手国が軍備を増強してこようとも、自国はひたすら、この地球界の文明文化の向上、人
類の進化のための、科学的な発達、精神の向上を目指して進んでゆく、というようにしてゆかなけ
れば、人類進化がなされるわけはないし、地球世界の永遠の平和などというものが達成されるわけ
がありません。
167神秘的なごとごと
お互いが自国を守ろうとするのあまり、地球を滅亡の方向に持ってゆく必要がどこにあるのでし
ょう。お互いが、自国の天命を信ずる勇気がないために、地球滅亡の危険を承知で、人類殺りくの
おろ
武器をつくり合っているのであります。愚かしきことこれに過ぎるものはありません。この地球上
に目本なら日本という一つの国が成り立っている以上は、その天命の存する限りは、滅びに至るこ
とは絶対にありません。もし日本の有する天命が、もう日本という国としてなくなってしまってい
るなら、どんな軍備を増強しようと、日本は滅びてしまうでしょう。
そういう根本のところに心を置いて、為政者は国の政治を行わねばなりません。日本はあくま

で、日本(霊の本) の国であり、大和の国でありまして、その天命はこの地球界に大和(大調和、
平和) をもたらすことにあります。こういう天命に根源を置いて進んでゆかぬ限り、常に他国の動
きにのみ想いを把われて、他国が軍備を増強すれば、自国もと思い、多くの国が核装備をすれば、
日本もと心を思い煩わすことでしょう。
そんなことではかえって自国を滅亡に追いこんでしまうのでありますから、政府も国民も確固と
して自国の天命を信じて生きねばならぬのです。日本には大調和世界をこの地球界につくり出す天
命があることを、政府がまずはっきり信じて、国民にその真理を知らせるようにしなければなりま
16$
せん。
自国の天命に命をかける覚悟がなくては、何をやっても、すべてうまくゆくことはありません。
日本も地球滅亡の一役を買ってしまうことになります。天命を信じて人事を尽せであります。日本
は他国の動きに幻惑されることなく、自国の天命の下に生死をかけてゆきましょう。
調和をめざす宇宙の叡智
ところで、宇宙神のみ心は無限の進化をつづけ、すべてを大調和してゆこうとなさっているので
ありまして、このみ心が、宇宙の在り方に現われておりますし、大自然の運行にも現わされている
のであります。私ども地球人は地球だけが大事でありまして、無限数ある星の一つ一つにも宇宙神
のみ心の働きがあるのだということを忘れています。
大叡智である宇宙神が、地球よりはるかに膨大である星々を、ただ単に地球の美化のために飾り
つけておくようなことをなさるわけがありません。各星々にはそれぞれ主神があり、諸神善霊がそ
れぞれの天命を果して働いておられるのです。宇宙神のみ心を心とした主神方が大宇宙経論のため
に、常に光明波動を交流しあっておられ、その下につかれる諸神善霊がそれぞれの持ち場でそれぞ169神







れの働きをしているのでありまして、竜神の働きというのはすべての流れを司どり、浄化作用の働⑳

きをしているのでありますので、水に縁のあるところには、大なり小なりの竜神の働きがなされて
いるのであります。海にも河にも、湖にも池にも井戸にも、白竜、金竜、黒竜、青竜などそれぞれ
の持ち場での働きをされるので、天気の状態などにも、竜神の働きがなされているのです。
すべては、宇宙に大調和をもたらすための働きなのでありまして、台風なども、台風そのものだ
けをみれば、被害甚大で困ったことのように思われますが、宇宙の運行や地球生物存在のためには
大きなプラスになっているのです。ですから台風がなくても、それだけの浄化の働きを人間の側で
することができれば、台風が起る必要がなくなってしまうのです。イエスにしてもヨガの大聖者に
しても相当の聖者になれば、祈りによって風雨を止めることができる、ということがよくいわれて
いますが、これは事実でありまして、その大聖の浄めの力によって、風雨によって浄めるだけの働
きを、代ってするわけなのです。そこで風雨が止むということになるのです。
それほどの大聖にならなくとも、多くの人々の真心こめた祈りによっては、天候を左右すること
ができるのです。それは、多くの人々の祈りの力によって、大自然の浄めがなされるからなのであ
ります。その理でまいりますと、地震などでも、多くの人々の祈りによってさけることができると
いうことになります。何故かと申しますと、この大地にしても、根本は波動によって成り立ってお
りますので、波動によって成り立っているということは、あらゆる素粒子は、粒子でもあり、波動
でもある、という科学の原理によって明らかなので、科学的な解釈でもあり、霊的な観方でもあり
ます。祈りによる人間の心の光明波動、命の正しいひびきによって、波動から成り立っている地殻
が正しく矯正されてゆくから、地震によって矯正してゆく必要がなくなるのであります。
宇宙とか、大自然とかいうと、無知なる人々は、単なる物質存在とか、物質的動きとか思ってい
るようですが、宇宙の運行や大自然の成り立ちは、すべて、神霊の働きによってなされているので
ありまして、単なる物質的存在でも、物質の動きでもないのです。
これは私などのように、常に神霊の世界との交流で働いているものには当然も当然も、普通の人
が呼吸していると同じぐらい自然の想いなのであります。
この大宇宙は、宇宙神を中心として、各主神、諸神善霊の組合せや段階が厳密になされておりま
すので、私どもが自然の働きだとか、それは自然になるのさ、という、そういう自然という状態は
こうした諸神善霊の働きによって、そうした状態が起っているので、唯物論者のいう、単なる偶然
や智慧も意志を持たぬ動きとは全く違うのです。171神






ζ
一定の定まった宇宙の法則とか自然律とかいうのでも、みな宇宙神や神々のみ心によってその法
則が保たれ、自然律が保たれているのでありまして、引力と名づけ、斥力と名づけ、或いは原子の
諸活動と科学的に解明されても、原子の活動そのものが、神々の働きによるのであります。
五感で感じる世界では、この地球そのものも、人間というものも、みな物質とみえるのですが、
実は、地球にしても人間にしても、ただ単に五感に感ずる物質体だけではなく、六感以上に感じ
る、つまり五感に感じるより微妙な波動圏の何重もの重なりによってなされているもので、これを
私は人間は肉体の他に幽体、霊体、神体というものを纒っており、同時に各階層において生きてい
るのである、といっているのであります。
必要な想念の純化
神界、霊界、幽界と一口にいいますが、この各界ともにまた幾つもの階層がありまして、細かく
分けたら数えきれぬほどのものです。そして、幽界なち幽界の或る階層だけにしか住むことができ
ない生物がたくさんいます。その生物は勿論人間の五感ではみえぬ生物たちです。その生物たちは
人間というものに非常に興味をもっていまして、折あらば人間の幽体にもぐりこんで、人間と同じ
X72
ような生活をしてみたい、と思っているのです。そこへ人間のほうで、その生物たちと同じような
下等な想念、つまり不純な性欲、虚栄心、権力欲、物質欲等々の、人間の高貴性から離れた想念を
出しつづけていますと、いつかその想念の波に乗って、人間の幽体の中に入ってきて、自己の欲望
とはれんち
を遂げようとするのです。すると、まるで人間ではとてもできぬような、破廉恥の行為を平気でし
たりするのです。神の子である真の人間性が、それらの生物の波動でかくれきってしまうのです。
ですから人間は、常に自己の心を浄めるための祈りをすることが必要なので、人に知られぬから
といって、いつも下等な想念で心を汚していてはいけないのです。人間の生活は常に種々な波動を
受けていますので、時折りは様々な下等な想念も出てくることでしょうが、出てくる度びに、これ
は消えてゆく姿と思って、神のみ心の高貴性のほうに想念をむけ変えるとよいのです。それが即ち
消えてゆく姿で世界平和の祈りという方法なのです。
人間だから下等な想いが出ても仕方がないなどと思ったら、とんでもないことで、人間は本来神
の子であり、生物中最高の存在者なのです。ただ長い間の習慣性によって、下等な想念が蓄積され
てしまっているのです。そこで私は、そういう想念はすべて過去世からの神のみ心を離れた想念が
消えてゆく姿として現われてくるのだから、消えてゆく姿と思って、世界人類が平和でありますよ173神







うに、と人類すべての平和を念願する高貴な想いの中に自己を入れてしまいなさい、そういう善い
習慣に自己の想いを変えてゆきなさい、と説くのであります。
人間は最高の神のみ心から、光明そのものの生命波動が、霊、幽、肉と伝わって流れてきている
のですから、常に蓄積された想念エネルギーを、神のみ心のほうに向けつづけて、神のみ心と同化
した想いで、自己の生活をしてゆけば、その人の生活は神界の生活と同じような善いことのみの現
われてくる生活となるのであります。人格も高貴なものとなるのであります。そういたしておりま
すと、幽界の生物のつけ入る隙もないので安泰の生活ができるのです。
その他に幽界には、この世で誤った生活をして地獄に落ちている霊魂や、いまだ自己が死んで幽
界にきていることを知らない人々などがおりまして、神の光をくらまして、神から遠く離れている
ひようい
人々の肉体に愚依したり、人は好いが、神の真理を知らぬ幽体の波動圏の広い人々に愚依したりす
るのです。これもやはり、神のみ心のほうに常に想いをむけていさえすれば、なんでもなく済んで
しまいます。そこで、私は守護の神霊の存在を説き(拙著神と人間参照)常に世界平和の祈りを
し、守護の神霊への感謝をつづけていれば、愚依される恐れはない、と説いているのであります。
174
人格を磨くことを主に
それから、宗教的な人で、やたらに霊能力を欲しがる人々には、人間の想いを見すかして、人の
想いを当てたり、種々と予言したりして、人々を恐れさせ、あたかも自らを神のようにみせて得意
がっている幽界の生物の愚依があったり、この世で行を積みながら、人格の低劣のため、幽界から

上がれない行者上がりの霊魂が、この肉体使いやすしと喜こんで、その人に愚いて様々な奇蹟を行
あが
い、人々に崇められる地位になったりすることもあります。しかし、こういう立場で教祖や指導者
になった人々は、自己の人格の高貴性で、そういう地位が与えられたのではないので、やがてはそ
の霊能力も衰え、愚依した生物や行者の喰い物にされて、哀れな末路となってゆくのであります。
そこで、宗教に入って、神秘な世界に興味を持つのは結構なのですが、まず自己の霊性の開発、
本心の開発を主にし、常に人格を磨くことを心がけての上で、神秘な世界の研究をすることが大事
なのです。
いつかくせんきん
ただ一獲千金のようなつもりで、いちはやく霊能力を得ようとすることが一番危険なことなので
す。まず自己の人格を磨くことを主にし、高い祈りの生活(世界平和の祈りのような) をつづけ、
175神秘的なごとごと
人々のためにつくすことを実行してゆくことが必要なのです。そうしていれば、神のほうで、その
人には霊能力が必要だと思われれば、守護の神霊の計らいで、自ずと霊能力がついてくるのであり
まして、これはすべて他動的に賜わったというような方向でゆくほうがよいのです。・私なども人格
完成と、人類のために自己を投げ出す、ということが主でありましたが、今日のような霊覚を得て
いるのであります。
何事も驚ることが最もいけないことですが・宗教の道は・百百の織馨大事でありまして・
まことまこころ
一瞬一瞬を真の心で祈り、誠心をつくして日々の生活をしてゆくことが大切なのです。
人間は常に神のみ心の中で生活しているのが真実なのですから、常に神のみ心の中に祈り心で入
つてゆき、そこから日々の生活を新しく頂き直して生活してゆけば、その人はついには大成するに
定まっているのであります。
皆さん、日々守護の神霊に感謝し、天地に感謝し、空気に水に食物に感謝して生きてゆきましょ
う。感謝の生活こそ、神々の喜び給うところであります。
176
悪心・善心・宇宙心
自己保存の本能
人類の世界は、常に相対的戦いに終始して、不幸や災難をつくり出しているのでありますが、こ
の個人と個人、集団と集団、国家と国家というような、相対的な争いの根本を為しているものは、
自己保存の本能からくる、自我欲望の想念なのです。
自己保存の本能があるので、肉体的自己を保っていることができるのですから、この本能そのも
のは悪ではありませんが、自己を守るために相手を傷つけ損うということが、悪となるのでありま
して、これが自我欲望であり、その想念から発する、不調和波動がこの地球を乱す要因となるので
あります。
177悪心・善心・宇宙心
ベトナム戦争なども、アメリカの自国本位の想念と、北ベトナムやソ連や中共という共産圏の国
々の、自国本位の想念とのぶつかり合いで起っているので、戦場となっている、ベトナム人こそ、
実に悲惨な立場に置かれていて哀れ極まりない状態になっているわけです。
右の側からみれば、右に理屈があり、左側からみれば、左側に理屈があるので、お互いに、自国
や自集団の想いを通そうとしている間は、戦争の状態はなくならないのです。そして、人間同士の
殺し合いがつづくのです。
先日もベトナム戦争についての、討論会がテレビでありましたが、一人の女性が、各先生方の理
論的説明をききながら、そんな理論やイデオロギーの問題より、毎日多くの人々が爆弾で死んでゆ
く、そういう悲惨な状態を終わらせる方法だけに討論を集中してもらいたい、と烈しい声でいって
おりましたが、全く、理論よりもイデオロギーよりも、現実の戦争状態を終結させることが第一で
あることはいうまでもありません。
しかしながら、現実の戦争状態はお互いの自我のぶつかり合いから生れておりますので、お互い
が自我をひっこめない限りは、その状態は終らないわけで、世界の良心の声も未だに両陣営の自我
こう
を減少させてはいないのです。これが業というもので、理論や討論や抗議で消滅するようなもので
178
はなく、神の大光明によって消滅していただくより方法がないのであります。
客観的立場からみれば、全く馬鹿ではあるまいか、という程、なんの得にもならぬのに、自国の
軍人を死に追いやり、他国の人間を殺傷し、土地や物資を多数破壊し、地球を傷つけ、世界中に不
安をまき散らしている戦争の状態というものも、当の国にとってみると、背に腹はかえられぬ、と
いう問題であるらしいのです。
そんな犠牲をはらってまで得なければならぬものは、いったいどんなものなのでありましょう
メソツ
か。米国にとっては、面子の問題が、第一になっておりましたが、ベトナム戦争のはじまりにおい
ては、共産主義勢力を、自国の近くまで侵透させないで、遠いアジアにおいて、撃退してしまおう
と思って、ベトナムが選ばれたわけで、ベトナムにとっては、因果という他はありません。ベトナ
ム国民は主義争いの犠牲者というわけになります。しかし現在米国が引き上げて一応表面的に大き
な戦いはなくなっておりますが、まだ平和になったわけではありません。
さから
共産主義国が、ソ連でも中共でも、権力政治で、中心権力に逆ったものは、忽ち闇にほうむりさ
られてしまう、という、個人の自由の極限されたものでありますので、神のみ心の自由性からみれ
ば、誤った政治ではありますが、こういう思想が悪いからといって、これに武力で対立するのも、
179悪心・善心・宇宙心
神のみ心に合致するものとはいえません。これを敢えてした米国が、ベトナム戦争で、国内の人心
も不安動揺し、世界各国からも非難の眼をむけられたのをみても、米国のやり方が、間違っていた
ということがよくわかります。
米国が自国の利益に執着するあまり、他国の犠牲をかまわず、自国を守るうとした失敗であった
のです。自我欲望の失敗ということになります。
一方北ベトナムも南ベトナムとの話合いによって和合してゆけばよかったのを、武力によって決
しようとして、解放軍と計って戦争を巻き起こしてしまったので、これも主義に把われたための失
かえウ
敗であり、自国の利のみを考えて、他国の利を顧みなかった、愛の欠乏による誤った道であったの
です。とに角、自己や自国や自民族を守るのは勿論結構ですが、その自己保存の想いが、自己本位
の想いに傾いた時、地球の調和を破り、宇宙の運行に逆う、誤った道、悪の道を歩むことになって
しまうのです。
180
何が善で、何が悪か?
地球の調和、宇宙の運行に逆う行為を、私は悪と呼び、宇宙心のままをうつした行為を、私は善
と呼んでおります。宇宙の心は、常に調和に調和にと向っておりまして、不調和な事態が起これば
直ちにまた調和の方向に力をそそいでゆきます。それは小は素粒子の世界から天体の星々の運行ま
で、すぺてそうなっているのであります。
地球は宇宙の心をうつした一つの星であり、人類は、天地の和合によって生れた大生命の分生命
であります。ですから、地球自体も人類も、宇宙の心の調和を目指して進んでゆかねばならぬもの
で、今日のように個人の我や、国家の我で、宇宙の調和を乱して生きているようなことは、悪行為
という他はありません。
たと・兄、一つの集団にとっては正義であったとしても、その集団の行為が、他の集団を敵として
殺し合いを演ずるようであったら、その小さな正義とみえる在り方も、宇宙的にみれば、悪行為と
なってしまうのです。
私がいつも申すのですが、強盗殺人のような誰がみても悪い行為であり、当人も悪と承知してい
るような場合は、これを処分することは、宇宙の心の調和を乱すものを消し去ったのであって、調
和を乱すことにはなりませんが、主義や宗教の在り方が間違っていたとしても、これを敵とみて、
争い合うということは、そこに争いという不調和な波が起ってまいりますし、たとえ客観的にみて181醤








じゆんぼう
誤った主義や宗教であっても、その主義や宗教を遵奉する人々にとっては、その主義や宗教が絶対
なのでありますから、それは敵対する相手を恨んでまいりますので、不調和が重なって、到底宇宙
の心の大調和の波と同調することができにくくなります。
そこで、たとえ相手が誤っていても、対立する想念でそれに対することなく、自己が宇宙心と同
調した善の心になって、善とは調和そのものの心ですから、そうした心になって、そういう心の立
場から相手に接するようにすることが大事なのです。そこにいつも申す、祈りが必要になってくる
のです。
世界人類が平和でありますように、という祈り言葉は、自己を大きな広い立場に置くためにも、
是非共必要な祈りなのであります。
善と申します時、親鸞のいった「善人もて救わる、なお悪人をや」という言葉を想い出します。
親鸞の善人とは、積極的な悪行為はしていないが、神仏のみ心の調和の心には遠い〃自分は悪いこ
とをしていないのだから、神にも仏にもすがることは必要ない〃というような、おごった気持をも
っている人のことで、宇宙心とは離れた心の人なのです。人間は常に多くの犠牲の上に生かされて
いるのでありまして、自分は何も悪いことをしたことがない、などといえるようなものではありま
182
せん。
一瞬の間でも、虫も殺さぬ、ということはできないので、知らずして犯している罪は数限りな
くあるわけなのです。そのために常に神への感謝や、すべての物事への感謝が必要なのでありま
す。そういう感謝や反省のない人を「善人もて」の善人に親鸞はたとえているのであり、その対照
しよく
の悪人は、その反対に自己を悪とみて、常に反省し、贋罪の気持でいる人をいっているのです。
宇宙のみ心をそのまま行為として生きている真の善人というのは、なかなか数少ない存在なので
す。そういう善人になるために、祈りの行が大事なのであります。
宇宙の中の地球
宇宙にはいくつもの星座があり、数多くの星があります。そして、宇宙心の大調和の心は、次々
と星々の世界を調和した世界に仕立上げていっているのです。そして現在は、地球人類が完成され
てゆく順番になっているのです。
しかし、地球という物質体が出来上がり、そこに肉体を纒った人間が生れ、本来の霊質の地球や
カルマ
人間が、物質体になったためのマイナスが、いわゆる業といわれ、原罪といわれる、人類の不幸、183悪








災難の元となる波動なのであります。これも大宇宙の無限のひろがり、無限の進化の一駒としての
在り方でありまして、霊質が一度び物質体となり、そして物質体をもったまま、しかも霊質と同じ
ような働きのできる状態にまで進化してゆくことになるのであります。
その途上に今はあるのです。この地球人類もそういうわけで、宇宙心のみ心そのままの生き方が
やがてはできる時がまいりまして、はじめて地上天国ができ上がるのですが、その途上の今日では
不幸や災難が、霊質と肉体とのギャップの現れとして、出てくるのです。それは個人にも国家、民
族にも現われてまいりますが、この不幸や災難を肩代りして下さる、守護の神霊が、私たちの背後
にあって、出来得る限り、不幸災難を防いでいて下さるのです。
ですから、肉体人間側としては、常に守護の神霊に感謝しつづけて、自己の想念を、不幸や災難
の波の中から、光明波動の中にうつしかえて置くことが必要なのです。そう致しますと、守護の神
霊が守り易くなり、不幸災難はより少くなってくるのです。国家や民族の場合も同じことであり、
どれだげ多くの人が、守護の神霊への感謝で生きているかが問題になってくるのであります。
大宇宙というものは、無限の進化を遂げつつ、運行されているもので、地球なら地球という星
が、物質体として、肉体人間が住むようになる以前には、種々な生物が、肉体人間の住むまでの地
184
ならしとして生存していまして、現在迄もそのまま生存している生物もたくさんあるわけです。そ
して、またその以前、地球が物質化する以前は、物質波動とは異なる、微妙な波動の世界に地球の
本質は存在していたのであります。
この世は波動で出来ている
いつも申しますように、この世の中は、すべて波動でできておりまして、その波動の世界には、
数えきれぬ程の各種の階層があり、物質的地球も、肉体人間もその階層の一つの現れであるわけで
す。ですから大宇宙の中には数限りない波動の世界が繰りひろげられていて、只今の地球世界は、
物質地球、肉体人間としての現われ方をしており、この肉体人間という姿の中において、進化をつ
づけているのです。
そして、この肉体人間は、肉体人間個人として生きているようにみえますが、実は、各種の波動
の世界から、プラスになる波動もマイナスになる波動も種々と干渉してきているのであります。大
体肉体人間自身が、想ったり考えたり行為したりしている、そのエネルギーは、そのまま、波動の
世界を経巡っておりまして、他の同じような波動をひきよせて、またその肉体人間にかえってき、
185悪心・善心・宇宙心
その人の運命となって現われてまいります。それが因縁因果の波と仏教でいわれていることなので
す。
土台、この肉体そのものが、やはり、原子、電子、微粒子と奥に入りますと、波動になってしま
いますので、精神も肉体も波動である、ということができるのです。そこが一番考えなければいけ
ないところで、五尺何寸という確固たる物質体にみえる肉体も、常に変化変滅し、波打っている波
動からできているという科学の証明は、この辺で、人間の宇宙観を根本的に変えなければいけな
い、という時期にもはや立ち至っているということを明らかにしているのです。
てんどう
釈尊が人間は顛倒夢想している、つまり、逆立ちしているのだ、といったのは真理でありまし
て、肉体が人間ではなくて、霊なる人が肉体波動として、この地球界に現われている、ということ
なのであります。いいかえますと、真実の人は神仏の体でありまして、宇宙の微妙な波動の世界に
あまくだ
いて、この物質地球界を進化させるために、肉体人間という粗い波動の世界に天下ってきているの
である、ということなのです。
ところが、現在の肉体人間は、肉体世界だけを実在とみていて、他の波動圏のことも、神霊の世
界、人間の本体の世界のことも全く知らずに過しているのです。これでは、この地球世界がこれ以
186
上の進化を遂げることはできず、ただ単に物質文明文化を今日まで栄えさせた、ということだけで
滅亡していってしまうのです。
それでは大宇宙を主宰している、宇宙神(心) のみ心に合致しないことになります。宇宙神のみ
心は、あらゆる波動の世界を進化させてゆくご計画なのですから、進化というのは、その波動圏に
住みながら、神のみ心そのものの高い広い微妙そのものの波動圏にも行き来できる心をもつように
なることなので、アメーバーから種々進化して動物になり、人類にまで進化してきたこの進化を、
たてよこ
今度は心の世界の進化にむけかえてゆく、ということで、物質の世界と心の世界とが縦横十字に大
調和して、神のみ心が全き姿をそこに現わされることになるのであります。
神と一体化への道
ここで標題の善心、悪心のことに話を戻しますが、善心というのは、こうした進化と合致する方
向に向っている心、悪心とはこうした進化を阻害する心ということになります。前に申し上げたこ
とがありますが、物質というのは肉体人間の五感で感じる世界にだけ存在するのではなく、あらゆ
る階層の波動の世界にも、物質波動はあるのです。よく霊覚者が神界を霊視して、山川草木を観た187悪








やしろ
り、社をみたりしますが、そうした形は、勿論地球世界の物質とは異なりますが、物質波動である
ことは間違いないことで、ただ、波動の質が異なるということなのです。
たてよこごばん
この大宇宙は、縦横縦横と碁盤の目のような波動の組合せになっていまして、簡単にいえば、縦
波動が精神、横波動が物質ということになります。しかしこれは最も簡単にいっただけで、そんな
単純なものではなく、精神が生れるのも、物質が生れるのも、実に複雑な働きによって生れ出てく
るのです。その根本は宇宙心の働きにあり、そのみ心を体した神々の働きにあるのです。
私どもの研究している、宇宙子波動学では、この間の科学的説明を細かく、数式と図式によって
説明できるのですが、今まだあまりくわしい発表する段階ではないので、時折り、その片鱗を説明
してゆこうと思います。
ですから、人間は、肉体人間としてここに生活しながらも、実は他の波動圏においても働いてい
るのだ、他の波動圏とも交流しているのだ、ということを考えに入れておかねばならぬのです。
そして、常に高い深い波動圏に、自己の想念をむけていて、高い深い智慧、能力を流し入れても
らうようにすることが大事なのです。精神状態にしても、常に神のみ心の中に想いを入れるように
していれば、高い明るい状態が持続してゆけるわけで、悲観したり、落胆したりするような弱い心
1$$
にならぬのであります。ノイローゼだの精神病だのにならぬためにも、いつも、自分は守護の神霊
に守られているのだ、という確信のもてるように、たゆみなく世界平和の祈りをしていて、神との
一体化を計ってゆくのがよいのであります。
神との一体化への道は、守護の神霊への感謝行にはじまり、感謝行に終るということができま
す。守護の神霊への感謝行と、世界平和の祈りこそ、最も善なる、そして真なる行為なのでありま
す。私など、神様ありがとうございます一点ばりで、今日になったともいえるのです。
調和の心
つく
いつの世でも自分はあまり人に尽しもせずに、やたらに人の悪口をいい、会社や社会や政府など
の悪口をいいつづけている人がいますが、これ程気の毒な人はおりません。不平不満が多け2τば多
はず
い程、その人は自らの徳を減らしているのでありまして、宇宙の法則を踏み外している人なのであ
ります。
前に申しましたが、大宇宙の法則は、常に大調和に向ってゆくのでありまして、不平不満や、自
ぺつ
他を責め裁き、蔑視したりすることは、大調和に逆行することなのです。政府の政策が間違ってい
189悪心・善心・宇宙心
るとしても、やたらに不平不満の想いで、政府の悪口をいったとしても、傷つくのは自分自身なの
です。政府の政策を正すことは結構なのですから、虚心坦懐に、明るく堂々とおやりになったらよ
いのです。
すべて、自他を傷つけ損うことなく、自己の信ずる道を突き進んでゆくべきなのであります。自
分でやれば、とても出来そうもないことでも、人が出来ないと、責め裁く、という人もいますが、
つまらぬ心の人です。
人間にとって最も大事なのは、調和の心です。大宇宙の法則が大調和に向っていると同様に、人
間の心も常に調和していることがよいのでありまして、調和を促進させる想いを善心、調和を乱す
想いを悪心と思って、善心を出すよう、善心を出すように、祈っていることが大事です。
私が常に申しておりますように、悪心が出たら、これは過去世の想いの消えてゆく姿と思って、
いつまでもその悪心に把われていないで、その嫌な想いともども、世界平和の祈りの中に、入れき
ってしまうことを勉強して下さい。その繰り返しによって、あなたの心は光明燦然たるものになっ
てくるのです。
善悪の問題では、面白い話があります。190
家内の友人が、アフリカのザイール(旧名コソゴ) から帰国しての話ですが、ザイールあたりは
教育がまるでゆきとどいていないで、日本人なら、小さな子供でも数えられる数でも、なかなか数
えられないし、文字を読める人も少いので、郵便配達夫もいない、ということです。
そして、善悪の感覚が日本人あたりとはまるで違っていて、或る白人が、ワイシャツをとられて
訴えたところ、裁判所の判決が実に愉快なのです。どういう裁判が下されたかといいますと、「あ
なたはたくさんワイシャツを持っている。こちらは一つも持っていない。だから多く持っているあ
なたが、持っていないものに一枚あげても、たいした問題じゃあない。あげなさい」というので
とうやま
す。これでとった人は罪にもならず、これにて一件落着という、遠山裁きそこのけの判決が下され
た、ということなのです。
実に共産主義そのものの在り方で、人の物をとるという、私どもがみれば悪と思われる行為も、
水に流されてしまって、多く持っている人が、持たぬ人に分け与えぬほうが悪のようになってきて
しまいます。もっとも日本人の私の知人にもそれに似た人がいて、借りた金を催促に来た人に向っ
て、「私は今貧乏そのものなのに、お金持ちのあなたが、なんで無い私からお金を取ろうとするの
か」と息巻いて、お金を貸したほうがあたふたと帰ってしまった、という話もあります。しか
191悪心・善心・宇宙心
しこの人はお金が出来た時たくさん利息をつけて貸主に返済していますので、コソゴの話とは少し
違います。
こんな話をきいていると、善悪の基準をどこに置いてよいかわからなくなってきます。その人そ
の人の良心と智慧や知識によって、その善悪を感じる意識が異なってくることは事実なので、一概
にその場の成り行きだけで善悪を定めることはできません。
私はそうした善悪にはあまり把われぬことを人々に教えております。そうした枝葉末節的な善悪
を問題にするより、もっと根本的な善悪の問題のほうが大事なのです。あまり小さな善悪にこだわ
っていますと、人間がこせこせした狭いつまらぬ人間になってしまって、広い大きな働きのできぬ
人間になってしまいます。
192
自分を肉体身に限定するな
如何にも善人ぶって、やたらに人を責め裁いている人間程、鼻もちならぬものはありません。広
い大らかな心をもって、「自分を赦し、人を赦し、自分を愛し、人を愛し」て、自他共に責め裁か
ぬ、愛深い人聞になることこそ必要なのです。
先程も申しましたように、自分の気づかぬところで、人の心を痛めたり、人の不為になることを
していない、とはいい切れぬので、常に守護の神霊への感謝の想いで、そうした罪けがれや誤ち
を、守護の神霊の光明で消滅していただくよう祈っているとよいのです。
そうしたことすべてを含めて、世界平和の祈りが生れているのですから、朝に夕に想いの際をみ
ては、世界人類が平和でありますように、と祈り、守護の神霊への感謝をつづけるということによ
って、どこの国にいっても、どんな人種に出会っても、その国、その人種に同化して、愛の交流が
できることになるのです。
自己を五尺何寸の限られた肉体人間とみてはいけません。そうみることそのものが悪への第一歩
なのであります。肉体に執着した想い、物質に把われた想いを、すっぱり消し去った時に、宇宙の
み心につながる善の心そのものの行為が、その人の日常生活に現われてくるのであります。
なんにしても、現在は大変危険な時代です。地球滅亡の危機を感じずにはいられぬ時代です。こ
まぶかよ
うした時代は、やがてくる光明世界の直前の闇の世界ともいえます。この真深夜の闇を一日も早く
光り溢るる夜明けとするためにも、私ども自らが光明体となって、突き進んでゆかねばなりませ
ん。
193悪心・善心・宇宙心
本当に小さなどうでもよい善悪は、すべて消えてゆく姿として、自他の天命、国家や人類の調和
を祈りつづけてまいりましょう。善に把われることも悪の生れる道となるのでありますから、すべ
てを神のみ心のなし給うところと信じて、不幸や災難や悪とみえる事態事柄がでてきたら、過去世
の因縁の消えてゆく姿として、素直に世界平和の祈りの中に入れきってしまいましょう。そして大
きな善心の光明燦然たる光の中で生活してまいりましょう。
194
祈りと念力
ソ連の超心理学研究
先日、S ・オストランダー、L ・スクロウダー共著の「ソ連圏の四次元科学」という本が、訳者
の照洲みのる氏から贈られてきたので、早速読んでみました。
ソ連は、宇宙開発に力をそそいでいる一方、こうした超心理学の分野にも、国家予算として八十
億近くの金を出して、その研究を進めているのでありました。
精神や心の問題というと、修養団体や宗教家の分野として、今日まできておりましたし、事実日
本などでは、国家として、心霊科学的な研究や超心理学的な研究には、何一つ力をそそいでおりま
せん。精神の問題を非常に重大に考える日本で、かえって心の問題がなおざりにされ、唯物思想の
195祈りと念力
国家であるべきソ連が、心の問題に年間八十億近い研究費を出しているということは、実に考えさ
せられるところです。
この超心理学の研究は、いったいどのようにしているかといいますと、権威ある科学者の厳重な
科学的監視の下に、種々な測定器や撮影機を使ってなされているのでありまして、心の問題や四次
元世界の問題の研究でありながら、宗教的な信仰というような形は全くないのであります。
日本などでは、霊能力というと宗教的の方向にむかいがちで、霊媒による四次元世界の探究、い
わゆる心霊科学の研究には、ほんの僅かな科学者しか顔を出しておりませんし、国家としては、ま
るで関係をもっておりません。
どんな研究にも財源が必要ですが、七十億も八十億もの研究費をつぎこんでまでも、その開発に
向って進むという、ソ連の超心理学への打ちこみ方は驚くべきです。
超心理学の研究というのは、どういう研究なのかと申しますと、テレパシー、日本語でいえば、
精神伝達とでもいいましょうか、の研究開発、その中には催眠術も入っています。オーラの研究、
オーラ撮影機で、ガンを発見したともいわれています。それから、指を眼の代りにして物をみる、
という実験で、六人に一人は指で物が見えるようになる、といっています。その他種々とあるので
196
すが、宇宙開発と、軍事にもESP、超能力を使おうとしています。
唯物論の国が、多くの霊能力者を育てあげて、その霊能力を、国家目的に使おうとしているなど
とは昔では考えられないことです。
恐ろしい遠隔催眠術
ここで特に申し上げたいことは、催眠術を加えたテレパシーのことなのです。科学機具を使って
そうした霊能者をたくさん養成しているということは、これは大変なことなのです。テレパシーと
普通いいますと、人の心を読み取ったり、自分の心を、距離をへだてている人に伝えたりする、特
殊能力である、と簡単に考えられていますけれど、その中に催眠術が加わっているということにな
ると、これは非常に考えさせられる事態になってくるのであります。
それは、術者は他人を自分の意志でどうにでも操れるからです。この本の話の中で、ダソスを
している婦人に、術者が離れた距離から、「睡くなる、睡くなる」と念力をかけますと、婦人は突
然、ばたりと倒れて睡入ってしまい、また術者が違った念力をかけますと、その通りに動いてしま
う状態が書かれてありましたが、これは術者の想念が、婦人の脳波を自分の想い通りに動かしてし
197祈りと念力
まうということです。
日本のテレビ放送でも、催眠術者が四、五人のゲストに術をかけますと、その想念の通りに動き
「司会者の服をはがせ」と命じますと、競って、司会者の服をはがしにゆき、司会者が逃げ廻わる
シーンがありましたが、私はその時、こんなことがはやったら恐ろしいことだと思ったものです
が、ソ連は、それを、国家がやらせているのであります。
そうした催眠術者を大量に養成して、他国の人々をソ連の想い通りに行動させたらいったいどう
なることでしょう。これは実に恐るぺきことです。被術者は、術者が殺せといえば、なんの良心の
かしやくもゆうちよ
呵責もなく殺すことでありましょうし、死ねといえば、なんの躊躇なく死ぬことでありましょう。
一人の術者でも大勢に念力をかけられるのです。それ渉大量の術者がいて、国家目的として、こ
の催眠術を応用したら、かけられた国の人はたまったものではありません。ソ連が八十億近い国家
予算を、超心理学の研究に出しているのは、この研究結果が、国家利益のために大いに役立つとい
めどうなつ
う目途があってのことで、この催眠術に力を入れていることも肯けることなのです。
人間のかくれた心の力を発見することは、その事自体は必要なことでもあり、有意義なことで
す。原子力の発見が、平和利用のためには有用なことに違いないと同じことです。
198
ところが、これが爆弾に使えぱ、やがては地球滅亡ということにもなりかねない恐ろしい武器と
なるのです。テレパシー、催眠術も自国防衛、自国の権威拡張のために使えば、原子力と同じよう
なことになってくるのです。
人間の体や心にかくされている力というものを発見し、これをこの世的な仕事の上に発揮してゆ
く時、それが正しい使い方であれば、人間は素晴しい進化を遂げてゆくでありましょうし、逆に自
分勝手な使い方、不調和なつかい方をすれば、人類滅亡の方向に、人類は突き進んでいってしまう
のであります。
人間の体や心にかくされている能力というものを開発するには、スポーッでなされる場合もあり
ますし、宗教的な修業によってなされる場合もありますが、国の仕事として本格的に科学として、
体や心のかくされた能力を開発してゆく方法は、ソ連がはじめてではないかと思います。ヨーロッ
パやアメリカでもその研究はなされていましたが、国の仕事としてなされていたことはないように
記憶します。
馬鹿げた念力競争
199祈りと念力
ソ連のこうした研究で恐ろしいことは、宗教とか神とかいう観念が根本にまるでないことで、開
発された力が、自国に有用であれば、他国の損失を顧みず、その実践をつづけてゆくであろう、と
いうことです。この力は原爆や水爆と違って、表面的に攻撃をしかけるというのではなく、相手に
わからぬところから、相手に迫ってゆくことができることであります。
私が常に、物質も精神もすべて波動によってできている、と申しておりますが、全く、超心理学
の研究をすれば、すべてが波動から成り立っているという事実がはっきりわかってまいります。波
動でありますから、お互いに影響しあうことができるのです。そして念力の強いほうが、弱いほう
を抑えて、自己の想念のままに相手を動かし得ることになるのです。
人の一念岩をも徹す、という言葉のように、実際に、人の想念で、物質が動く実験もなされてい
るのです。
物質には物質波動、精神には精神波動というものがありまして、というより波動そのものが物質
や精神を形成しているのでありまして、その根源はこの世よりもっと深い世界、つまり四次元から
無限次元に至る世界にあるのです。
AならAという人が何か想う、ということは、想おうとするエネルギーがあり、そのエネルギー
200
が想念波動となって、他の人の或いは物体の磁場に働きかけるわけで、その働きかけるエネルギー
が強ければ、相手はその想念の想う通りになるわけで、物体などでも想念波動で動かすことができ
るのであります。これを私ども宗教者としては、その想念波動を強めたり、コソトロールしていた
りするのは、その人の背後に働く霊人である、というのですが、唯物科学者の実験では、その波動
だけを捉えて測定するのであります。
昔、印度のバラモンの人々は、こうした働きを呪術として、盛んに念力争いをしたもので、一方
が念力で岩を宙に浮き上がらせると、片方がその岩を下に落そうとする念力をかけ、どちらの念力
が強いかを争ったり、片方が火を起こせば、一方が水を湧き上がらす、というように、念力くらべ
をしたものでした。そこには宗教本来の神仏の姿はなく、あるのは、人間の念力と魔界からの働き
くロフ
かけがあるだけだったのです。そういう姿をみて釈尊は、何もの何事にも把われぬための、空の修
業を弟子たちにさせたのです。自己の念力に誇りをもっているような心の状態では、とても肉体界
幽界を超絶した神仏の世界に想いがとどくはずがないからなのです。
げどう
そうしたバラモソ外道の在り方が、現在科学に取り上げられ、超心理学の研究として、国家とし
て手にかけているのですから面白いものです。現在大きく研究しているのはソ連ですが、中国でも
201祈りと念力
近来同じような研究をはじめたといいますし、本来自国のほうが先に手がけていた米国がおめおめ
とソ連だけにその研究を一人じめにさせて置くわけがありません。超心理学の研究は、やがて世界
中で手がけることになり、原水爆競争に代って、世界中が念力競争になってゆく恐れが多分にある
のであります。
神仏のみ心を根底に抱け
神の生命エネルギーを使いながら、神を存在させない唯物主義の国が、想念波動を駆使して、自
国の想いのままに世界を動かそうとする時、お互いに唯物主義の国同士、或いは宗教はあっても、
宗教は現世の動きと全く関係をもたぬと思って、唯物主義的な動きをしている国々の、想念波動の
ぶつかり合いによって、世界にいったいどんな結果が起ることでしょう。
精神波動の調和がこわれて、そこに不調和な精神波動が巻き起ってくることは必然です。直接人
体の破壊にくるか、天変地異というような形でくるか、とにかく恐ろしい事態になってくるでしよ
う。
私はソ連に超心理学の研究がなされていると聞き、送られてきた本を読んで、いよいよ恐ろしい
202
時代に入ってきたなあ、とつくづく思ったのです。
神の存在しない精神いじりは、全くこわいものです。人間の自我を調和し、コソトロールしてく
れる叡智のない四次元いじりは、深い知識のない者の幽霊いじりのようなもので、一度手をつけは
じめると、ひけなくなり、深く入るにつれて、その階層のとりこになってしまい、正常の常識世界
にもかえれず、神を認めていないのですから、神の大光明の世界へもいけず、国家や人類共々、そ
の始末に手を焼くようになってくるのであります。
しかし、その過程においては、眼の不自由な人々が指先を眼の代りにして、文字や色をみたりす
ることができるようになったり、病人が暗示によって治ったり、地下資源を探りあてたり、犯人を
捕える手助けになったり、遠くにいて人の危険を救ったり、種々と効果もあるのです。
ですから、この科学が、根底に神のみ心を抱いて進めていけるなら、どんなに安心で、どんなに
頼もしい科学となるだろう、と思うのですが、現実はそうではないのです。
ヨーロッパや日本でやっている、心霊現象というのには、霊媒の背後に、常に霊人がついていま
すし、現象をつかさどる霊人たちもおりまして、自然と高い神々の階層につながっていることがわ
かりますので、安心していられますが、ソ連の超心理学の研究は、霊能者の背後に霊人を認めてい
203祈りと念力
るようには思えません。もっとも唯物論の国柄ですから、肉体人間以外の霊人を認めたら、唯物論
そのものが変ってゆかざるを得なくなるでしょう。
とにもかくにも、ソ連の心霊現象は被術者が神や霊人を認めたとしても、術者や、国家のほうは
あく迄唯物的なもので、様々なエネルギーの力としてみているので、神のみ名においてなされてい
るのでないことは確かなようです。私どもにとって、なんといってもそこが淋しいところであり、
ねね
心配の種でもあるのです。
造物主や絶対者という、人格的な神を認めないことは、宗教の世界でくらしているものにとって
は、実に不思議なことなのですが、唯物論者にとっては、造物主や絶対老である神を認めるほうが
不思議な頭だ、と思えるのでしょう。
超心理学の研究のテレパシーの開発の中では、遠隔思念というものがあります。これは日本の宗
教の中でも、病人を治す場合などにつかっております。しかしソ連の実験の中では、相手を術者の
想い通りに動かす遠隔思念をしているのですから、国家として、この使い方を、自国を優位に立た
せるためのものにした場合には、前にも書きましたが、やはり恐ろしいものである、と私は思うの
です。
204
仮りにAならAという国が、Bという国の飛行機を空中において落そうとすれば、もはやロケッ
トも大砲もいらないのです。一人の霊能者で足りなければ、何人もの霊能者を使って、「パイロッ
トは睡る、乗員は睡る」と遠隔思念で暗示をつづければ、パイロットも乗員も睡ってしまい、その
飛行…機は墜落してしまうにきまっております。
この調子で、遠隔思念的に様々な暗示をかけていたら、どこの国家も常に不安に追いこまれ、地
むか
球は乱れに乱れてしまいます。これが一国でなく、多くの国々がこの状態で他国に対ったら、世界
はそのまま地獄絵になってしまいます。
祈りと念力は別のもの
私は昔から念力の恐怖ということを説いていますが、宗教をやっている人でも、祈りと念力を混
同して考えている人が多いのでありますし、教団側の話や出版物にも、祈りを念力と同じように説
いているところもかなりあるのです。
例えば、必要な時にお金が入ったり、家が出来たりするのにはどうしたらよいか、という答の中
で、「もし百万円ほしいなら、もうすでに百万円さずかったと思って、百万円さずかってありがと205祈




うございますと、常に思いなさい。・そうすれば念の力で百万円集つてくるL といったり、家がほし
いなら、自分の必要とする家の図面を書いて、「もうすでにこの家が自分にさずかっているのだ」
と強く思いなさい、そうすれば心の力で家がさずかる、というように、念力を強めて、念力によっ
て、自己の欲っするものを得る、という方法を教えているのです。そしてこの方法があたかも神へ
の信仰であり、祈りでもあるような思い違いをさせてしまうのであります。
これはとんでもないことなのです。念力はあく迄、肉体人間自身の自我でありまして、神への信
仰でも、神の援助でもありません。そういう方法によって自己の望みが叶ったとしても、それは信

仰の勝利ではなく、我を通しただけでありまして、その場は得をしたように思いますが、一生の間
に得ることになっていた富を、一時の念力によって前借りしたようなもので、後になってその分だ
け運命の中で返済しなければならなくなります。
そんな方法で富を得ることは、宗教の道でもなんでもなく、唯物論式の在り方に他なりません。
まと
真実の神のみ心は、人間が肉体身を纒いながらも、その肉体身を超越して、神のみ心と一つにつな
けんげん
がり、神のみ心を、この地球界において、顕現し得ることなのであります。
いくら、その場その時々に利益を得たようなことになっても、神のみ心とのつながりによって、
206
こうしよう
その結果があったのではなく、肉体人間の自我で得た成果では、ただ業生の中をぐるぐる廻りす
るだけで、なんの進化もありません。かえって業生世界の渦を濃くして、地球人間滅亡の一役を買
ってしまっているに過ぎません。
よくよく考えてみて下さい。現在の人間の想いでは、先ず自分や自分の家族がよくなることが一
であり、自己の属する国家が得することが二でありまして、他人や他国の幸せはその次の段階であ
り、非常に関心の薄くなることなのです。
ところがそれでは、世界の平和はまいりません。他人より自分を愛し、他国より自国を愛す。当
然なことのようですが、この当然がそのまま実行されている限り、地球世界に争いは絶えず、やが
ては地球が引きさかれるような事態になってしまうのであります。
そこに宗教の世界があるのです。今まで書いてまいりましたように、四次元世界の探究、人間の
体や精神のかくされた力の開発にしても、自分本位、自国本位に考えて実行すれば、他人や他国の
幸福を無視した、凄まじい戦いの様相を呈します。念力合戦の状態を想像してみて下さい。これこ
そ真の戦いというべきでしょう。
そういう姿をこの世からなくすために釈尊が現われられたのです。何故バラモン時代の姿を、科
207祈りと念力
学の名において再現し、地球世界の混乱をさらに深い、冷たいものにしてゆかねばならぬのでしょ
う。テレパシーも催眠術も、自他の幸福のために扱われている間はよいのですが、自己の優位のた
め、自国の利益のためということになってくると、原水爆と同様の恐怖を世界に呼び起こすのです。
人間のあらゆる能力の源泉はいったいどこからきているか、ということを謙虚に考えようとはせ
ず、発見し、開発しては、自分たちの都合のよいように使おうとする、神への不遜さ、神のものを
神へ返そうとはせず、すべて私視し、自己本位に扱うことによって、如何なる運命が人類にかえっ
てくるか、これは明白なのです。
208
能力の源泉を考え直せ
私どもは、すべての能力の源泉が神のみ心にあることを、はっきり認めております。肉体世界に
も四次元世界にも、無限の奥の世界から主なる神のみ手は差しのべられています。その手の一つは
守護神であり、守護霊であり、宇宙天使でもあります。私はその事実を身心をもって知っておりま
すので、何事をやるにしても、謙虚に神のみ心に沿って行うべく常に祈り心をもって行っておりま
す。
肉体人間を主にして、あく迄、自分たち肉体人間の能力であり、その開発であって、他の何者の
助けを借りているものでもない、というような思い上がりで、四次元世界のことや超心理学の研究
をしている唯物的考えとは全く別に、祈りによる無限次元開発の歩みを、私たちはつづけてゆきた
いと思います。
人間は神のみ心において平等なのである。すべての人々が真の幸福を得るためには、この地球世
界に、不安や不調和の波があってはならぬ、と私たちは常に思っております。そういうところに、
国家と国家が、催眠術によるバラモン合戦でもはじめられてはたまりません。
へこうしよう
私どもは一人でも多く、この業生の渦の中から抜け出て、神のみ心の中で「世界人類が平和であ
りますように」の祈り言を唱え、神の大光明を身心にあびながら、人々にその光明を伝えてゆきた
いものです。武器の争いも念力の争いもない、ひたすらなる平和の祈りこそ、神のみ心をこの地球
界に顕現する唯一の道と私は深く思っているのであります。・
すべての不幸や不調和、自分や他人の心の中に起る、間違った想い等々は、すべて過去世の因縁
の消えてゆく姿であって、消えてゆくにしたがって、本心の輝やきが現われてくる、だからひたす
ら、救世の大光明につながる世界平和の祈りを祈りながら、日常茶飯事にも、人々のために尽して
209祈りと念力
こうしようりんねてんしょうたい
ゆこう、という私どもの運動は、業生の輪廻転生の波を超越した、神のみ心を体した生き方なので
す。
他人を自己の膝下に組み敷く生き方は、ちょっと愉快な生き方で、権力欲の満足にはなります
.が、それは滅びに至る道です。自他共に幸福になる道、個人も人類も同時に幸福になる道、これは
世界平和の祈りの実践によって、その土台が築かれてゆくのであります。
あなたあなた
是非とも、世界の情勢の悪化を防ぐ、光明波動の宣布者として、貴方も貴女も、真の祈りの生活
をつづけていって下さい。
如何なる念力も、平和の祈りの大光明を組み敷くことはできません。念力には念力で対さず、ひ,
たすらなる平和の祈りによって、神々への感謝によって対して下さい。それがこれから盛んになる
であろう念力合戦を超越してゆく唯一の方法なのです。
祈りは神のみ心の大光明波動であって、自と他のぶつかり合う波動ではない。人々の調和をもた
らすひびきであります。だから、他を圧伏せしめる念力といえど、大光明波動に会えば、そのエネ
ルギーは消滅し、調和したものになるのであります。
これは今日迄の社会に生きていても同じことがいえるので、他人の恨みや不調和な想いを受けた
210
場合、これは念力と同じなのですから、これを嫌な気持で受けないで、あの人の守護神様ありがと
うございます、あの人の天命が完うされますように、世界人類が平和でありますように、と祈って
いれば、いつかその人の想いは浄化され、恨みや不調和な想いは消え去ってゆくものなのです。
これからは正に祈りなくては生きてゆけない時代になってきそうです。真に神のみ心を知らずに

-おられない時代に到達してきている感じです。今日迄のような単なるお願いごとではなく、真
実、神と人間とが一つになって地球世界を進化させてゆく、そういう時代に今は一歩踏み出してい
るのであります。
211祈りと念力
212
予言に惑うな
こわいものみたさ
こわ
人間の中には、怖いもの見たさ、という癖をもった人や、やたらと未来のことを知りたがる癖を
もった人が、かなりおります。日本沈没という映画が大入りだったり、大予言などという本がたく
さん売れたりするのは、そういう想いの現れなのです。
そういう映画や本を観たり読んだりすることも、ただ単なる参考にしたり、単なる興味でみたり
するだけならよいのですが、その映画や本が画いている、未来の不幸が、あたかも現実のように、
観衆や読者側に想えてきたりすると、これは大変な不幸なことといわなければならなくなります。
人々は、社会国家の運命は勿論のこと、自分たちの運命でも、他動的に運ばれてくるものという
ような考えでいる人が多いのですが、とんでもないことで、運命というものは、自分たちのことは
勿論のこと、社会国家人類すべての運命が、自分たち一人一人の人間の想念行為の集積であること
を考えなければいけません。
日本沈没という映画も、大予言という本も私は興味がないのでみておりませんが、人々があまり
に評判にして、私にその真偽をきいてまいりますので、人々からきいたその概略をもとに話をして
いるわけなのであります。
大体この宇宙というものは、様々な波動の和合によって保たれているものなのです。その波動に
は、根本となる大生命波動、いわゆる光明波動です、その大生命波動のエネルギーを根源の力とし
て、そこから種々様々な波動世界を画き出しているもので、こうして私たちが肉体をもった、物質
りこうしゆうさん
波動の地球世界も、ただ単に固定した物質世界ではなく、種々様々な波動の離合集散によって、運
行されている世界なのです。
そこのところがわかってこないと、自分の運命も社会の運命もすべて他動的に押し寄せてくるも
のだ、というような間違った考えになってしまいます。
213予言に惑うな
予言が事実ではない
214
この世の根源は、「神、光あれ、と言い給いげれば光ありき」というように、神のみ心によって
できている世界です。神のみ心がすべての生命のエネルギー源になって、すべての世界ができてい
るのです。そしてその神の生命エネルギーを使って人間は、自分たちの世界を創造してきたわけで、
あいはんこんこう
そ のつくりあげた世界は、神のみ心と、み心に相反する世界との混交したものになっています。
人間同士の心が不調和になればなる程、この世界は、神のみ心から離れてゆき、今日では、地球・
世界は戦争か天変地変で滅亡するのではないかと騒がれ、種々な地球滅亡の予言がでてきているわ
けなのです。
この地球を滅ぼすも滅ぼさぬも、よくよく考えてみれば、人間自体の心の持ち方によるというこ
とがよくわかってまいります。すべての予言は、人間の想念の波をみて、その結果を画き出してな・
されるもので、動かし難い事実としてなされるのではありません。予言がなされたから、必ずその
事実が現われるというものではないのです。
最も恐ろしいことは、人類の未来の不幸な予言を、自分たちの心にいつまでもとどめておいて、
そうした不幸な波の中に、自分たちの想いの波を同化させてしまうことなのです。
人間の運命は、その人自体の想念波動がつくりあげるものなので、人類全体の運命は、一人一人
の想いの波の集積によってできあがってきます。ですから、一人一人の人間が、未来に対し、暗い
不幸な運命を予測して生活していれば、自然と人類は、不幸な運命をつくりあげていってしまいま
す。
過去において集積してきた、暗い不幸な運命の波が、予言者の心にうつって、大予言のような本
になってきたのですが、その暗い波動に把われて、その上にまた暗い不幸な想念波動を人々が集積
していったら、それこそ、予言は実現してしまいます。如何なる予言といえども、予言は単なる予
言であって、事実ではありません。過去の想念波動の集積です。ですから、過去のそうした想念波
動をどこかで消し去ってしまえば、その予言はくつがえってしまうのであります。
そういう導き方をするのが、真の宗教の道なのです。それこそ、すべて消えてゆく姿で、ただ実
在するものは、神のみ心のみなのであります。私ども人間が、神の子として、神の分け命として、
神とつねに一体になっている気持で生活していることが大事なので、その生き方が祈りの生活とい
うことになるのです。215予





地球の未来歪決定するもの
21a
消えてゆく姿で世界平和の祈りの生活というのは、そういう生き方をいうのであります。過去か
ごと
ら の暗い想念、不幸な想念波動を、すべて消し去ってしまうようにと、祈り言にのって、神の大光
明の中に入りこんでしまうのです。神のみ心は大調和ですから、不幸や災難があるわけがありませ
ん。ですから、神界では、完全調和した世界ができあがっているのでありまして、争いや不調和な
…様相は皆無なのです。そして、神界ではすでに調和した人類が生活しているので、理想社会がそこ
に実現しているのです。その姿がそのまま素直にこの世に顕現されれば、この世も天国浄土となる
のですが、この地球世界は業想念の波で蔽われていまして、神界の人類の未来図が、そのまま素直
に現われてくることを妨げているのであります。
そればかりでなく、幽界に蓄積されている人類の業想念(不調和な想い)が地球人類滅亡の姿を
画き出していまして、霊能者たちの予言となって現わされたりしているのです。
ノストラダムス(一五〇三年〜一五六六年) の大予言には、一九九九年の七月人類は絶滅する、
といっているようですし、他の予言者たちも、古くから、地球の未来の大災事を予言しています9
それはいずれも、幽界に蓄積されている、人類の業想念波動をみて、天変地変や、戦争などの災害
を予測したのでありましょう。ですから地球人類が、今日までの想念のまま、その世界観を変えな
いで生活していくならば、その予言通りにならぬとはいいきれません。
しかし、神界には、旧約聖書のイザヤ書に示されたような、ライオンと羊がともに遊んでいるよ
うな調和した世界ができているのであり、つねに温暖な、美しい草花の咲き乱れる極楽浄土の姿も
未来の人類のものとして画き出されているのであります。
どちらの世界を現実世界のものとするかは、】に現在の地球人類一人}人の双肩にかかっている
のであります。神界の姿に一歩でも近づいた世界をつくりあげたいなら、少しでも不調和な想い、
愛のとぼしい想いなどを消えてゆく姿として、たゆみなく、祈り心を通して、神のみ心に近づくよ
うにしなければなりません。現在のあなた方一人一人の想念波動が、未来の地球の運命を決定する
のです。不幸な予言に把われることなく、明るい希望に充ちた想いで、世界平和の実現を祈りつづ
けてゆくことが大事なのです。心の持ち方一つで、未来の運命を善くも悪くもできるのです。
こうそうゑおさ
ちなみに私の若い頃、或る骨相観の人が、私の頭を抑えて「ああ大変だ、君の頭は両側が張り過
ぎている、これはやがて狂人になってしまう。君は狂人になってしまう」というのです。私はその
217予言に惑うな
頃一心に宗教の道を進んでいまして、神ということが大分わかりかかってきていましたので、そう
いわれても、少しも恐怖の想いは起りませんで、かえって、私の骨相は普通人と違っているよう
だ、そんなら普通の人より悟りへの道が早く開くかも知れぬ、しめた、と心のうちから勇気が湧き
上がってきたのを覚えています。
そして、その通り、私の思った通りに狂人にはならず、普通ではなかなか到達できぬ境界に、三
しんさん
十代で到達してしまったのです。その間、普通人が味わったことのない苦労辛酸があったことはい
しんさんつら
なめません。しかし、はた目では苦労辛酸とみえることも、私にとっては別に苦労でも辛いことで
もなかったのであります。
そのように、暗い不幸な未来が、霊能者や予言者の眼にうつっていようとも、その当人の心の持
やみ
ち方一つで、暗を光明に、不幸を幸福にしてゆくこともできるのです。まして、地球人類という大
むざん
きな立場を、無惨に滅亡させるようなことを、神がなさるわけがありません。一人一人の運命を守
護の神霊がお守り下さっているように、救世の大光明は総力をあげて、地球人類の進化を助けよう
としているのです。
2↓8
地球救済の光明
人類は神の子です。そして、神は愛そのものです。なんで、地球の救済に手を差し延べぬわけが
ありましょう。正に救世の大光明は地球救済のために諸手を差し出しているのです。
きゆうせ
世界平和の祈りは、救世の大光明と地球人との一体化のために生れてきた祈りです。世界平和の
ゆうかい
祈りのあるところ、必ず救世の大光明は輝いているのであります。幽界に蓄積されている不幸災難
の不調和な波動を、私どもは救世の大光明の光明波動で、消し去ってしまわねばなりません。幽界
の業波動が消え去った時、神界の未来図が、この世に実現してくるのであります。それが地上天国
であり、大調和科学を駆使して創りあげた進化向上した文化の国なのであります。
この大宇宙には無限ともいえる程の星があります。この星々はそれぞれの世界をもっておりま
す。それは地球のような人類の住んでいる星もありましょうし、全く異なる生物の住んでいる星も
ありましょう。そしてまた、神そのままの非常なる進化を遂げた星もあるでしょうし、動物以下の
生物の住んでいる星もあるかも知れません。地球はそうした星の一つで皆さんおなじみの人類が
住んでいるわけです。
劉9予言に悪うな
神界、霊界、幽界、と一口にいいますけれど、大宇宙のいったいどこに、そういう世界があるの
か、と思われる方がたくさんいらっしゃると思います。この大宇宙には、人間の五感で感じている

星辰と、五感を超えた、いわゆる望遠鏡にも見えぬ星辰とがあるのです。それはこの地球も同じこ
とであります。
この眼に見えぬ世界にも、浅い世界と深い世界がありまして.,これがまた幾段階にもなっている
のです。神界にもこういう段階はありますし、幽界にもあるのです。
そして、絶対神というのは大生命そのものであり、無限の智慧、無限の能力、つまりオールマ
イティであるのですが、その力は、一度に発現されるものではなく、その中心となって働く神をは
こじき
じめ、様々な神々として、それぞれの力を発揮して働かられるのであります。古事記にはそういう
神々の働きの状態をその名としてそれぞれに現わされているのです。
神界における神々の働きは、神界にそのまま画かれて、地球人類の完成図もでき上がっているの
ですが、それはあくまで、肉体波動の奥の世界にでき上がっているので、肉体波動に近い幽界波動
の邪魔があっては、素直に神界の完成図は肉体人類の世界に現われることはできないのです。
22Q
運命を今から創リかえよう
神界といい、幽界といえどずべて波動の世界でありまして、神界は光明波動そのものの世界、幽
界は、様々な欲望の世界であります。神々はこうした実情をよくご存知ですから、自ら肉体界に天
ぶつぼさつ
降って、仏菩薩となって、真実の生き方を人類に教えたり、様々な浄めの方法で、幽界の欲望の波
を浄めたり致して今日に至っているのであります。
人間は肉体という固った動きの鈍い生物が人間だと思っているのですが、実は、光り輝いた無限
能力をもった光明波動であることを、一日も早く多くの人々に知らせなければいけないのです。
善いにつけ悪しきにつけ、この肉体界は眼に見えぬ世界の影響によって生活しているのです。神
界の光明波動か霊界の波動か、それとも幽界波動をすっぽりかぶって生活しているか、それによっ
て、自己の運命がきまってくるのです。
ただここで人類にとって有難いことは、神々が人類の進化を助け、地球滅亡を防こうとしている
きゆうせ
ことなのです。人類を救おうとする神々の救世の大光明は、日々強力なその救済の力を発揮してい
るのであります。ですから、人類のほうから、神のほうに想いを向けていさえすれば、神の救済力221予





は、まともに人類の運命の修正に働いて、人類は救われてゆくのです。
地球人類が、神界の完成された未来を、この地上界に実現するか、幽界の滅亡図をここに画き出
すかは、人類自体の想念行為そのものによることになるのであります。ここで忘れてはならないこ
とは、人間の精神も肉体もすべて波動として宇宙の中で、自らの波動圏をつくっているのでありま
して、固定した精神でも、固定した肉体でもありません。人間自体の意志力で、天にも地にも、右
にも左にも、自由に活躍できるのが、私たち人間の本質だということです。
そこのところをじっくり想いみまして、自分自体の運命も、社会国家人類という共同体の運命も
今から創りかえてゆけばよいのです。もう過去に把われることはありません。過去にはどうだった
からだとか、人間というのは神とは違うのだからとか、人間だから仕方がないとかいう、そういう
自己否定の想いをすべて、世界平和の祈りの中に投入しきって、私どもの人生を生きつづけなけれ
ばいけません。
今の自分の想念が、自分の運命をつくり出しているのであり、社会国家人類の未来を画き出して
いるのである、という事実をしっかり心に思い定めて、これからの一日一瞬というものを無駄に過
してはならないのです。222
過去をふりかえるな、愛と調和の心で生きよう
ぎわけつじよう
要は自分を含めた、地球人類が滅びるか滅びぬかの瀬戸際なのですから、一心決定して、日々の
生活に立ち向かうのは当然のことです。何にしても、想念波動の大事さを身に沁みて下さい。自分
の想念をつねに明るい未来に向け、神を愛し、人を愛する、愛と真心の生き方に決定して下さい。
如何なる不幸災難の予言といえど、心に暗さを持たず、不幸の観念をもたぬ愛一念の人として皆
さんが生活していれば、不幸災難の予言はすべて、当たらぬ予言となってしまうでしょう。これか
らの一日一日が大事です。過去の事柄はすべて、もはや消えてゆく姿の側に入ってしまっているの
です。過去において、いかに不幸の念を持とうと、如何に悲哀の想念をもとうと、たとえ争いの想
いでくらしていたとしても、今日からのその人の想念行為が、世界平和の祈り一念で、明るく愛に
充ちていたら、たとえ過去の消えてゆく姿が現われたとしても、それは軽いものですんでしまいま
す。未来の自らの運命は、あくまでこれからの自己の想念行為がつくるのでありますし、社会国家
人類の運命も、自分たち一人一人の想念行為によってつくられてゆくのであります。
皆さんは暗い不幸な予言に想いを把われてはいけません。そうした予言もすべて消えてゆく姿と
223予言に惑うな
して、世界平和の祈りの中に投入して生活してゆくことが大事なのです。人間は神の子です。そ
して神は人間の親様として、守護の神霊を人間の身近かにつかわして下さっています。そうした神
の愛がなんで人間を見捨てなさるでしょう。ただ人間の側が、神にそっぽを向いていることによっ
て、人間の運命は暗い不幸なものになっていってしまうのです。
すべての人々よ、ここではっきり神のほうに想いを向けよう。神からいただいた心を体を、すべ
て神のみ心のまま働かせよう。神のみ心は光明心であり、愛であり、調和であります。
そうした神のみ心を端的に現わしているのが、世界平和の祈りです。ですから私たちはすべての
想いこめて、世界平和の祈りを祈りつづけ、日常生活を明るく、愛深く生きてゆけばよいのです。
未来の幸せはそういう人たちのものです。そういう世界平和の祈りの同志が増えれば増える程、地
球人類の未来は明るくなり、暗い予言はみな消しとんでしまうのであります。
224
宇宙創造の原点にかえる
ここで大宇宙発生の原点にかえって考えてみましょう。大宇宙神のみ心がすべてを創り出すとい
ニとば
うことです。「神光あれといい給えければ光ありき」のように、神のみ心によって、み言によって
すべてが生れてくる、ということは、神の他に何者、何事をもつくり出すことはできないというこ
とです。
そして人間は神の子である、ということで、神のみ心の延長であり、神の創造力を受け持たされ
ているわけです。と致しますと、神と等しい創造がなされるわけで、悪いものや、不幸なものをつ
くり出すわけがないはずなのです。ところが、この人間の世界に不幸や不調和な姿が多く、災難も
随時、随所に起っております。
これはいったいどうしたことなのでしょう。わかりきったことです。人間が神のみ心の方向に、
その創造力をむけずに、神のみ心を遠ざかる方向に進んでいったからです。神のみ心を遠ざかる方
向というのはどういうことかと申しますと、神のみ心の中では、人類は全く一つのものなのであり
ますのに、人間各自が、そして国対国、民族対民族が、お互いに一つにならずに、各人、各国家、
各民族が、お互いに相反する方向に、自己の利益を求めて動き出してゆき、神のみ心を分断してし
まったので、神のみ心の調和した創造力が、そのまま人類の創造力とならなくなってしまったので
す。いわゆる人類の心が、神のみ心を遠く離れて、神を離れた勝手な世界をつくり出していってし
まったのです。
225予言に惑うな

これでは、やがて、神のみ力が人類に働きかけられなくなって、年を経れば滅亡してゆくにきま
226
っています。何故ならば、神のみ力のとどかぬところは、すべて無であるからです。
ですから人類が、真の平和をつくり出し、幸せな世界を築き上げたいなら、先ず第一に全想念を
神のみ心のほうに向けかえなければならない、と私はいうのです。人類の生命の基であり、創造力
の源泉である、神のみ心に想いを向けずにいて、不幸災難の予言に驚いていたとてなんになるので
しょう。
もう今日では、肉体人類だけでは、この地球世界を救い出すことはできなくなっているのです。
ちなみにイスラエルとアラブの争いを、世界はいったいどうして救うというのです。一時の休戦は
あっても、両者の調和ということは、現在の国連のあり方では、絶対にでき得ないと思います。米
ソのことも、中ソのことも、米中のことも、一つとして、肉体人類だけで、完全な調和に達成する
ことはあり得ないと思われます。
肉体人類としてできない、としたら、その穴埋めを誰がやるのでしょう。それは私がつねに申し
ていますように、守護の神霊の援助によるより仕方がないのでありますし、そのためにこそ守護の
神霊は、私どもの背後に昔から控えていたのであります。
各自の守護の神霊と、そうした守護の神霊をも含めた、救世の大光明、つまり大宇宙神の地球人
類救済のための、救世の大きな力が、私ども地球人類の進化向上を助けて下さるのであります。そ
のためには、宗教的にも科学的にも政治的にも、すべての働きの中に、種々な偉大な人物も生れて
けつじようせんぷ
くるのであります。私どもはそのさきがけとして、一心決定して、世界平和の祈りの宣布につとめ
ているのであります。
227予言に惑うな
228
平和世界誕生の源泉
時代は刻々と変化している
戦前、戦中、そして戦後から今日に至る日本の変化は、大変なものであります。戦中から急に今
日の世界に飛びこんできた、横井さんや小野田さんは、日本のあまりの変化に、驚きあきれて、暫
く呆然とした日々を送っていたに違いありません。
その変化の根本的な原因は、大きな意味、小さな意味といろいろな意味を加えて、社会や学校の
しんとう
教育にあるといえます。それは、米国の政略による働きかけと、ヨ! ロッパの風潮の急激な浸透に
よって、古くからの日本の善き風潮も悪しき風潮も、次第にその色を変えていったのであります。
学校教育の男女共学制をはじめとする著しい変化、民主主義という名におぶさった無差別的な権利
の主張の横行する社会構造等に、戦前では考えられもしない、自分勝手な自由の享受に明けくれる
世界が開けてきたのです。
しかし変化はこういう悪い面ばかりでなく、善い面としては、自己の意志表示が出来ず、常に想
こ も
いを内に籠らせていた女性群が、自己の意志をはっきり現わせる、明るい素直な態度を示せるよう
になったことや、貧富の差が少くなり、各自がかなり個性を出して生活できるようになったことな
ど、未来の進化への道が開かれているようです。
戦前戦中と今日との変化を一口に言いますと、形式主義的に傾いていた生き方が、一挙に実益主
義的な生き方になったことと、義務が権利より先行していた風潮が、権利が義務に先行する風潮に
変ってきた、ということであります。
ところで、こういう変化より更に重大なる変化が、今日になって起りはじめており、ますますそ
の変化は大きく広がってゆく傾向になってゆくと思われる様相があるのであります。
さつりく
それは、物質科学の発展が核兵器という、大量殺獄兵器を誕生させたことにより、物質科学の今
後の進展に疑問を持つ人々が、精神科学の面に想いを向け、精神の動向を深く探究しだしたので
す。暗示力とかテレパシーとかいう精神の作用は、いわゆる超能力として、近頃は日本でも、テレ
229平和世界誕生の源泉
ピなどで毎日のように放映されるようになってきたのです。
精神科学のはじまりは、ヨーロッパではなかったかと思いますが、アメリカ、ヨーロッパの民間
で発展してきたものが、ソ連では、国家の研究として、膨大な国費を使って、研究実験をつづけて
おります。
230
物質偏重から精神活用へ
わら
日本でも、人々は半ば嘘いものにしながら、テレビなどでその実験を放映しておりましたぶ、先
日来日した、イスラエル人のユリ・ゲラーのカナダにいて、日本のこわれた時計を直したりスプー
ソを自由に曲げたりする念力にはびっくりして、精神の力というものを見直したものですが、私は
きぐ
こうした力に非常に危惧の念を抱いているのです。その前後して、関口淳君という一少年が、後向
きになって、二つでも三つでも同時にスプーソを放ると、前に曲がれ、後に曲がれ、くにゃくにゃ
になれ、と淳君のいう通りの形に即座になってしまったりしたのです。淳君はその他に、針金をい
くつも持って、それを放り上げる時に、花の形になれ、飛行機の形になれと、いいますと、針金は
淳君の言う通りになって下に落ちてくる、とお父さんの手記に書いてありました。
それがまた面白いことに、淳君のスプーソを曲げるのをみていて、真似ていた少年たちの申で三
十人もの少年が、スプーソ曲げが出来るようになり、そういう超能力の出来事が、エスカレートし
て、次々となされているというのですが、これは正しい心の在り方を知らずになされているのです
から、実に危険なことなのです。
そして更に人々が驚いたことは、クレスキソという人がテレビで行った奇蹟であります。それは
暗示で人々の肉体を自由に動かしたり、現実には見えていない空飛ぶ円盤を多勢の人に、同時に実
在する如くに見せたり、テレパシーで、手紙の内容を当てたり、金庫の鍵をあけたり、種々と超能
力ぶりを発揮してみせたのです。
あのように、連日テレビで精神活用による超能力状態をみせたりしておりますと、そういう素質
のある人々は、中の力がひき出されて、多くの人々が超能力を発揮するようになってまいります。
それは、関口君のスプーン曲げをみている少年たちの中から、いつの間にか三十人もの超能力者を
生み出していったことでもよくわかります。
へんちよう
いよいよ世の中は、物質偏重主義の時代から、精神活用の時代に入ってきたことがこうしたこと
でよく窺えます。第二第三のユリ・ゲラー、クレスキン、関口淳が現われてくることは確実なこと
231平和性界誕生の源泉
で、やがて世の中は、念力によって、物質を或る程度左右できることなど、当然のことと思うよう
になってくるでしょう。
今日まで、物質の陰にかくれていた、精神というものが、はっきり表面に現われてくる時代に今
やなりつつあるのであります。だがそうした精神活用時代がきたからといって、物質偏重の時代よ
り、ずっとよくなったのだ、と手ばなしで喜こぶわけにはゆかないのです。
232
超能力ブームの危険性
物質の力から精神の力にこの世の動きがうつったとしても、それはやはり相対的に働く力に過ぎ
ません。念力が他の人に働いて、他の人の自由を奪ったとしたら、奪われたその人は、奪った人の
どれい
奴隷のごとくならざるを得ないのです。以前にも書きましたが、テレパシーで人の心に念力を働か
せることを、誰もなし得るようになれば、お互いに自己の通りに相手を動かそうとする、念力合戦
になってしまいます。
物質万能の社会も困りますが、精神万能になって、誰も彼もが、念力で事をなそうとするように
おの
なれば、どうしても自ずから、この世は念力と念力の対立抗争になって、お互いが一瞬も想いをゆ
るめられぬ、不安混迷の生活を送らなければならなくなります。
これは全く神のみ心に反することなのですが、人間同志に相対的な想いがあり、自己保存の本能
がある限り、自己の利益を先ず第一に考え、自己の利益に反するものを排撃する想念がでてくるこ
とになり、それはそのまま念力合戦につながる道になるわけです。
いんさん
爆弾と爆弾との破壊戦争という表面きった戦争が、今度は、精神と精神の戦いという、陰惨その
ものの戦いになってくるので、もうそのままでは、どうにも救いようのないものになってしまいま
す。
物質万能の科学から、精神を重視する科学の道に入ってきたことを、手放しで喜こべぬのは、こ
うした理由によるのです。
物質主義にしろ精神主義にしろ、その底に、愛と調和の精神が強く働いていないことには、どち
らを取っても、人類の滅亡はまぬがれません。要は、神のみ心にしっかりつながった、愛と調和の
精神で生活してゆく人が、多くなってゆくことによって、真の平和世界はつくられてゆくのであり
ます。
物質主義にしろ、精神主義にしろ、調和に欠けた生き方をしていては、真の世界平和を生み出す
X33平和世界誕生の源泉
道を歩いているということにはなりません。調和に欠けた精神主義者という人をよくみかけること34
2
とくとく
がありますが、相手の話はまるで聞こうともせず、自分の精神主義だけを得々と語ったりしていて
この人といたら一時間もせずに、こちらが疲れきってしまうという人です。
物質にしても、精神にしても、これだ、というように、しがみついている、執着しきっている、
というようだと、神のみ心の自由自在なひびきを曇らせてしまうことになるのであります
神との交流がまず第一
ムずい
精神と一口に申しますが、精神というものも、物質つまり肉体に附随した精神もありますし、幽
体に附随しているものもあります。人の一念岩をも通す、というのは幽体と肉体に附随している念
力であります。私の申し上げたい精神というのは、肉体にも幽体にも把われない、神のみ心の中か
ら働きかけてくる精神であります。これはすべて、愛と美と調和のひびきであります。
肉体の自己のために働かせる精神作用ではない、念力ではない、神の完全なみ心から働きかけて
くる精神こそ、真の世界平和に役立つ精神なのです。
この世の人は、肉体的に働くのも、精神的に働くのにも、すべて自己や自己の周囲の者のためと
いう、一つの把われがあって、働いています。しかし、真に世界平和を願っての働きは、自己のた
めも、周囲のためも、一先ず捨てきって、神のみ心のままに働く、という大上段の構えからの働き
なのであります。
捨てきるということが、なかなかむずかしいので、世界平和の祈り、というような、人類愛の祈
り言の中に投げ入れて、神様のみ心から改めて頂き直す、という気持で生きてゆくわけなのです。
自己に附属した、物質でも精神でも、神のみ心の中に全部融けこませた時に、その人は相対的
な、業生の嵐に巻きこまれている人ではなく、神の子そのものの人になっているのであります。そ
の人はもう、単なる精神で働いている人ではなく、神のみ心そのもので働いているのです。
神と縦の交わりがなく、ただ単に横に働く精神波動で、この世を建て直そうとしても、それは相
対的なものになってしまい、いわゆる念力合戦になってしまうのです。先ず縦に昇ってゆき、神の
あまくだ
み心と交流して、そこから天降ってきて横に働くのでなくては、真の世界平和の働きはできないの
です。
とうてい
この世に存在している、肉体自我をそのままにしていての精神活動だけでは、到底、真の平和運

動になり得ませんで、相対的な争いの種をそこごこに蒔き散らしてしまうことになるのです。
235平和世界誕生の源泉
ですから超能力ブームに世の中がなってくることは、物質主義からみれば、唱段の進歩のように
みえますが、私どもの眼からみれば、かえって恐ろしい状態に地球世界を追いこむような気がして
くるのであります。
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愛と調和が根本
人と人とが愛し合うこと、国と国とが調和すること、愛と調和が現実の生活に実践されてゆかな
ければ、物質主義にしろ精神主義にしろ、世界を真実の平和世界にすることはできないのです。人
間世界の基本的生き方は、あくまで、愛と調和でありまして、如何なる理由づけがありましょうと
も、愛の行為、調和の波を乱すようなことがあっては、真実の平和世界を切り開く道ではないとい
うことになります。
自国が利益を得るために、他国を不調和な状態に追いこむようなことがあってはならぬのは勿論
のことですが、他国がその国の利益のため、こちらの調和を乱してきた場合、こちらが、それに応
じて、武力や念力で、これに対抗するようなことになれば、これは不調和を更に拡大してしまっ
て、他国の業の波の中にこちらも巻きこまれてしまうことになります。こういう姿が、現在迄の歴
史の姿でしたが、これからこれでは地球滅亡のほうに近づいてしまいます。
ここのところが非常にむずかしいところで、他国が侵略してくるのに、何も防備せず黙っている
のか、という反問がくるわけです。自国防衛のための戦争であっても、戦争は戦争であって、原水
爆時代の今日では、危険この上もないので、武力の抗議は絶対にしてはならぬことなのです。
ということになると、ソ連式に国家予算で念力、テレパシーという超能力を開発して、武力を超
える念力の戦いを展開するか、ということになります。国を挙げての念力ならば、確かに武力以上
の力があるに違いありません。相手に念力をかければ、相手がこちらの想う通りに動いてしまうの
ですから、相手の武力がかえってこちらの武力として使えるようになってしまいます。それでは、
相手が如何に強大な武力の国でも、こちらが負けることはありません。念力というのは国を挙げて
の総力的力として使えば、大変な力を持つことになります。しかしあくまでこれは相対的な力であ
りまして、相手側もまたすぐ念力開発、テレパシ;の開発に力を入れてくるでしょう。
武力にしろ、念力にしろ、相対的力関係は常に戦いにつながってしまうのです。そこでこうした
物質的な力や、肉体に附属する精神の力というものでない、調和そのものの力が必要になってくる
のです。
237平和世界誕生の源泉
そんな力がどこにあるか、と人々は問うでしょう。あるのです。私どもはその力を身に体して知
つているのです。それが即ち神の力なのです。神の愛の力なのです。
念力から起ってくる超能力、奇蹟力は、肉体、幽体の範囲において働く力なので、どうしても相
対的になってしまいますが、神力というものは、調和した力ですから、すべての人々のために働く
力となります。
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祈りの道の開発を
こんなところで、大上段に神の力などと持ってこられては、どうにもならぬ、といってこられる
人もあるかも知れませんが、神とか神の力とかいうのは、ただ単に言葉だけのものではありませ
ん。モーセが紅海を切り開いたり、イエスが盲の眼を明け、いざりを立たせたりしたように、如実
に現実世界に働きかける力なのです。
相手を睡らせたり、自分の自由に行動させたりする、そういう相手の自由を抑える念力のような
力ではなく、こちらも相手も、共に平安になり幸せになる、そういう状態をつくりあげる力が神の
力なのです。その力は愛のひびき、調和のひびきなのであります。
その神の愛の力を、はっきりこの世に働かし得るのが、祈りなのです。祈りにつぐ祈りの行が、
神の力をこの世に充分に発揮し得る唯一の方法なのであります。
ソ連が国家の方針として、国の膨大な予算で、テレパシーや念力の開発につとめているように、
日本なら日本が、国を挙げて、祈りの道の開発をしつづけたとしたら、国内は愛と調和のひびきで
充ち充ちてゆくことでしょう。念力の開発が、武力に劣らぬ、国を守り相手国を抑え得る方法であ
る、という事実が立証されようとしている現在、それ以上に絶対力というべき神力への祈りの道が
真実に開けたならば、その国家は安泰そのものとなりますし、他国にとっても実に幸せなこととな
るのであります。
人間というものは、いつも申しますように、肉体ではなく、神界から肉体界にまで働く、霊なる
生命のひびきなのです。人間とは生命そのものともいえるのです。この人間生命は、神のみ心の深
いところから、神界、霊界、幽界、肉体界という様々な階層に働いているのでありまして、この階
層は細かく分ければどのくらいあるかわからぬ程のものです。
そして一人の人間が、肉体人間としてこの地球界に存在する時は、肉体を主として働いておりま
すので、肉体生活の良し悪しを一番問題にして働くわけなのです。
239平和世界誕生の源泉
それはそれで勿論当然なことですが、肉体生活を良くするにしても、生命の源である、神のみ心
を離れては、智慧や能力である生命のたゆみなき供給が行われなくなりますので、常に神のみ心と
交流しておく必要があるのです。
現在迄の生活はそれがあまりなされていないので、個人的にも、国家や社会的にも、不幸災難が
多いのであります。折角の科学の智慧も、最後は、人類絶滅の、破壊兵器の誕生というようなこと
になるのも、神のみ心と人類の心とが離れすぎているからなのです。
そして、物質科学から精神科学へと研究を向け変えていっても、やはりそれも神のみ心と交流し
てのことではなく、自分たちや、自国の優位な立場をとるための研究実践でありまして、真実の世
界平和、調和した世界をつくり出そうとしての研究実践ではないのです。
テレパシーや念力の研究でも、その研究は未だ、幽波動の階層のものでありまして、次元の低い
働きのものなのであります。霊界の波動、神界のひびきを、そのまま肉体界にひびきわたらせるよ

うな研究なら、他人の自由を奪ったり、他人を自己の我の想いのままに自由に動かしたりする筈は
ありません。自他共に自由に喜こび合える、調和しきった世界をくりひろげる、そういう状態が現
おれてくるわけなのです。
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それが念力の研究でなく、祈りの道の実践なのであります。祈りとはいのちが自由に伸び伸びと
働ける方法なのでありまして、その方法は、自己の肉体や幽体にまつわる、種々様々な想念波動を
すべて神のみ心の中で消していただいて、改めて、神のみ心の光明そのままの生活を頂き直す、と
いう方法なのです。
祈リの実践こそ平和の源泉
念力を研究し錬磨すれば強くなり、上達してゆくと同じように、祈りも、祈りつづけ、実績を重
ねつづけてゆきますと、上達してゆくもので、次第に短時間で、神のみ心と一つになり得るように
なるのです。
達人になりますと、一瞬にして神との一体化がなされ、常人には及びもつかぬ、奇蹟を行うので
きぐ
あります。そしてその奇蹟は人に危惧感を抱かせたり、危険がともなったりすることのない、光明
溢れた状態がともなうものなのです。
真実の平和世界の誕生というのは、こうした神との一体化が、多くの人たちになされた時にはじ
あて成就するのであります。戦争も天変地変も、すべて人類の神との一体化によって、未然に防ぎ
241平和世界誕生の源泉
得るのであり、人類の真の幸福もそこから生れてくるのです。
心焦って、危険のともなう念力の成果を得ようとしてはいけません。念力には常に自我欲望がと
もなうものです。人に勝ちたい、何々を得たい、そういう欲望は、真の世界平和のためには不要の
ものです。人間世界を不調和にしている、人間各自の業想念、自我欲望というものを、神のみ心の
中で消滅していただいて、神のみ心そのものの光明心でこの世を渡ってゆく、そういう生き方をす
ることによって、本来の神の子の姿が人類に顕現され、真実の平和世界はでき上がるのです。
自分を愛し、人を愛し、社会を愛し、国を愛し、人類を愛する。そういう神のみ心と一つに通う
愛の心で生活することができるようになるのが祈りの道なのであります。
私どもの提唱する消えてゆく姿で世界平和の祈りの実践は、最近急速に同志が増えていっており
ます。
世界人類が平和でありますように、という人類愛の言葉ではじまる、この祈りは、老若男女、誰
にでも一読胸に沁みる言葉です。この祈りの中に、人間の希求をすべて託して、私どもは祈りつづ
いかれたきよわ
けてゆくのであります。怒りの想いも妬みの想いも、気弱な想いも病気の想いも、恐怖の想いも、
すべて祈り言葉の中に入れきって守護の神霊への感謝の言葉で結ぶ時、その人の肉体はもはや単な
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る肉体ではなく、神の器として、神のみ心の場として輝きわたっているのであります。
霊眼でみれば、世界平和の祈りをする人の肉体は光で蔽われているということです。それはお互
い同士がいうのではなく、全くこの祈りとは関係のない、霊能者がいうのですから疑う余地はあり
ません。私どもからみれば、やはりそのように見えるのです。
真に世界平和をつくらんとする者は、世界平和の祈りに徹して、祈りの実践をつづけながら、自
己の置かれた立場で、働いてゆくことによって、大きく広く光明がひびきわたってゆくのです。そ
たぐい
れは念力で人を自由にするといった類のものではなく、人の知らないうちに、多くの人々が、光明
のひびきにつつまれて、光明波動で、幽体、肉体を洗い浄められているのです。
世界を救う最大の生き方、それは正に世界平和の祈りを根底にした生き方に他ならないのであり
ます。
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