不動の心

不動の心
五井昌久講話集5
白光真宏会出版局

刊行のことば
宗教信仰においては聞くということは大事なことである。録音テープにおさ
めた二十数年前の五井先生のお話を聞き直して、お話が今でもいきいきとして
心にせまってきて、魂の高まるのをおぼえる。ただ録音技術未熟のために、テ
ープとして再生し、皆さんにご紹介することは不可能である。そこで、テープ
より文字におこし、文章として、それもなるべく話し言葉に忠実に再録して、
ご紹介することにしたのが、この講話集である。
このお話によって、読者の皆さんが安心立命し、明るく把われない心で、こ
の人生を生きいきと生きて頂けるよう切望して止まない。
2
目次
宝を積む5
神さまの念願1
人は神の化身53
人間は光です98
世界平和の祈り四
神のみ心の中に入る
159
装偵有沢豆由
3







人間と真実の生き方㎝

人間は棄神の鍵あっ蕪箸箋つねに霧霧ξ て 
守られているものである。㎜
カこせ
この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念が、
その運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去るのである
という強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難のなか
ゆるゆるまことゆる
にあっても、自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦しの言行をな
しつづけてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の
祈りを祈りつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得出来るものである。

口一職一
宝を積む
昭和33年4月13日市川商工会議所
目に見えないおかえしの方がいい
宝を積む
世界というものも、人類というものも、自分の身近かに感じるようにならなければいけませ
んね。世界人類が平和でありますように、これは自分が平和でありますように、という気持が
入っているのです。自分が金星に住んでいるわけでもないし、木星に住んでいるわけでもない。
地球世界に住んでいる。だから、まず地球世界が平和にならなければだめですね。
この太陽系の星の中では、地球が一番進歩がおくれている、というのは本当だと思うのです。5
金星の世界、或いは火星の世界では競争心がないのです。感情を自分で制御できる、自分の
感情を想いのままに扱うことが出来るのです。感情に溺れないわけです。あのヤロウ憎らしい
などと思わない、これは欲しいなどと思わない、そんなことは何も思わないで、自然に行動し
て、道にかなっている、そういう世界なのです。神界もそうなのです。霊界もそうなのです。
肉体界と幽界だけですよ、なんだかんだ騒々しいのは。
金星なんかというのは進化した世界ですから、相手をやっつけようとは思わない。征服しよ
うなんて思わない。業の感情がないのです。ところが地球人間の世界は業の感情がいっぱいな
のです。あのヤロウ人の顔を汚しやがった、とか、あんなに親切にしてやったのに、仇でかえ
した、とんでもない奴だ、とかよくあるのですよ。私、あの人のためにしてやったのに、あの
人は私の悪口をいっているのです、といって泣くんですよ。泣いたって始まらないです。

いいことをして、且つそれでも仇で返されるのは、こちらはいいことをして徳を積んでいる
上に、それだけまた業を消してくれているのですよ。いいことをして、それを仇で返してくれ
6

宝を積む
ることはよけいに徳をつむことになるのです。いいことをしてお返しが来ちゃったら帳消しで
すよ。これをしてやったと思う、あの人のためにしてやったと思うのですが、してやったので
はないのですよ。させてもらったのです。何故させてもらったかというと、してやったことが
そのまま業が消えてゆく姿なのです。
光が出ていったのです。その上、かつ向うが悪口いってくれるのですから、業を背負ってく
れるのです。有難いことに、ドソドン業をひろってくれるのです。悪口をいわれるたびに本心
が出てくるのですよ。いわれるたびに業がへってくるのです。そういう考え方をしなければだ
めです。自分は向うのためにしてやって、お返しが悪いものであったらば、それだけ自分の業
がへったと思いなさい。目に見えるものでお返しされるよりも、目に見えぬお返えしのほうが
よほどよいのです。これを天の蔵に宝を積むというのです。
目に見える宝をもらうよりも、目に見えぬ宝が余程いいんです。目に見えぬ宝はすごいので
すよ。やがてこれは返って来ます。だから自分でもって、これだけしてやったなどと、ケチな7
考えを起こさないで、もう出来る限りのことをしてやりなさい。返ってくることなど考えなさ
るな。いいことをした時には、人の為にした時には、そのまま自分の業が消えています。自分
の本心が光り輝いています。
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人のために働けば働くほどいい
これをつづけていけば、ドソドン本心は光り輝いて来ます。大きくなります。いいことをす
ればする程、その人の霊体は光が増してくるのです。大きくひろがって来ます。光がよけい出
ているからです。人間というのは霊でしょ。霊体から出ている霊の光というのは決った形では
ないのですよ。霊体はいいことをすればするほど大きくなる。なぜ大きくなるかというと、神
界から光がよけいに入るからです。
私が浄めの柏手を打ちます。ふだんはそう大した音は立ちません。大きな業があるとビュー
ッと光がよけい入って来ます。午后三時のお祈りの時は柏手を打ちますが、この時の柏手はも
宝を積む
のすごく鳴りひびきます。なぜひびくかというと、大勢の業を浄めるからです。大勢を一ぺん
にやるとパッとひびくのですよ。ものすごい光が出てくるのです。
人のためによけい働けぽ働くほど、その人の光は増してくるのです。私がこれを始めて十年
になりますけれども、その始めと今では全く能力が違うのです。なぜ力が違うのか。こんなこ
とをいう人がいました。「五井先生に来てもらうと、うちの神さまみな取られちゃう、五井先
生がみな吸い取っちまう」そんなケチなことをいっている。結構じゃないですか。実際にその
通りなのです。私がいきますと、向うは喜んで協力するでしょ。神さまは人間みたいに、いち
いち歩かなければ来られないものではないんですがね。
そのように一人が救われ、二人が救われ、十人が救われ千人が救われると、守護霊なんかは
みな喜んで味方になるのですよ。だからますます光が強くなるんです。だから皆さんが、一人
のために尽したという時には、自分一人より大きくなる。三人に尽した時には三人分大きくな
る。十人に尽せば十人分大きくなる。千人に尽せば千人分大きくなる。そのようにだんだん光が9
増してくるのです。だからいいことをするということは、その人のためにするのではなく、自
分のためにするのです。
あなたの為にしてやった、してやった、と思うのは、それだけマイナスと思いなさい。して
やった、してやった、こんなにしてやった、というと、有難味はうすくなっちゃう。それをお
為ごかしというのです。要するに、天の蔵に宝を積む、陰でやっている、そういう心が宗教心
なのです。
自然法爾。生かされたままで生きている。ただ有難い、神さま有難いなあと思う、南無阿弥
陀仏と思うだけです。そのままで生きていることがよいのです。
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神さまの念願
昭和3年4月13同市川商工会議所
真理があまり高過ぎると
神さまの念願
とうそう
人間、自我の想いを通そう通そうと思っていると、闘争ばかりしなければならない(笑) し、
あんまり実相完全円満、悪はないんだ、病気はないんだ、物質はないんだ、というように無い
こうしよう
無いづくしでゆきますと、この現われている世界では完全でなく、業生のほうが多く、誤った
ほうが多いのだから、完全完全とあまりいわれますと、今度はなんといいますかね、自分が悪
いと逆になってくる。本来は完全円満でなければならないものが、何故そんなに悪い姿を現わ
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しているのだろう、どうしてなんだろう、というように考えて、人間は完全円満なんだ、神の
子なんだ、悪いものはないんだ、という真理が”真理の目玉よ降りて来い、お前があまり高す
ぎるから、この世の申は暗いのだ”という詩がありましたが、真理があまり高すぎ、現象の自
分が低いと、その間にギャップが出来ます。
人間神の子の真理は素晴しいです。しかしあまり高すぎて手が届かない。いくら跳び上って
も落っこっちゃう。小野道風の蛙は何度目かで跳び上って、柳の枝にとびついたけれど、人間
のほうは跳び上れない。途中で落っこっちゃう。そのうちにしまいにいやになっちゃって、こ
れはダメだ理想論、観念論であって、これでは人間は救われないんだ、というようになって逆
に悪はあるのだ、業はあるのだ、この世の中は因縁因果で出来ているのだ、皆業生なのだ、罪
の子なんだ、となってくるのです。
スターリソではないけれど、少年のとき神学校に入ったのです。説教を聞いて神さまのこと
おこ
を教わったのだけれども、教えを説いている人たちが、神さまの行ないを現わしているわけで
iz
神さまの念願
はなくて、言葉だけだった。現わしきれなかった。なぜ出来なかったかというと、神さまの光
が物質界におりて来た時に、物質界をきり刻んだそのきり屑が一杯たまっている、つまり業生
というものが善悪混瀟で出来ているものだから、いくら神さま神さまといっても、悪のほうが消
えやしない。それで罪の子だくといっている。いっている人が同じく罪の子で、罪の子が罪
の子を罪の子だといっていたのでは、どうにもならない。罪が積み重なっていってわけがわか
らなくなっている。そこでスターリソはそんなバカバカしいことをいっているよりも、この現
実の世界をよくしなければならない、というので、共産主義者になってしまったのです。
“消えてゆく姿
” という教えが出現したわけ
いっぺん完全円満の教えに入っても、自分だけ完全円満になることは出来ない。また世の中
を見ていると、終戦のどさくさまぎれのあのひどい状態、大体日本が負けて、あれだけの人が
死んで、原爆が広島と長崎に落ちてたくさんの人が死んだ。そのことそのものがもう完全円満
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ではないですよね。赤ん坊に生れた時から貧乏の家に生れた人は貧乏です。金持の家に生れる
人は金持です。才能があって生れる人は才能があり、才能のない人は才能がなく生れる。こう
いうように世の中の現れだけを見れば、みな不完全なのです。だから完全円満で罪も無いの
だ、不完全もないのだといいきると、そこに現象とくい違いが出来て、天と地をつなぐ柱も、
階段もなくなってしまう。それでどうにもならなくて、やっているうちについに、悪いほうに
いって、悪を認めるほうに行ってしまう。現実の罪悪観を認めるほうへ行ってしまう。
罪悪観を認めると、この世の中は完全円満ということはなくなっちゃって、自分の力、努力
で社会を改善しなければならない、という考えにくるのです。だから共産党の人たちが全部始
めから唯物論者であるかというとそうでない。唯物論の人もありますよ。しかし一度宗教を通
って来た人がかなり多いのですよ。現象の悪を認めてというより、見えるし、聞こえるし、も
うどうにもならなくなって、結局それを認めてしまうのです。神さまは完全円満でなければな
らぬのに、全智全能でなければならぬのに、なぜこの世の申はこんなに悪いのか、神さまなん
14
神さまの念願
ていうのは、人間にいい行ないをさせようと思って、取引き的にただ神さまがあるんだ、とい
う教えをしたのではないか、という疑いが出てくるのですよね。
そこで消えてゆく姿という教えが出来たんです。消えてゆく姿には、この世に現われている
ものはすべて完全円満なのだ、という根本真理があるのです。
この世の中はすべて神さまの世の中であって、不完全なものはない。神さまは大光明、絶対
者です。絶対なる愛、絶対なる能力でしょ。絶対なる能力の中から生れた子供である人間が、
不完全であるわけがない。というところまでは生長の家の教えです。悪もない罪もない病気も
ない、と生長の家ではいったけれど、それだけではこの世の中は通用しない。通用しないから
業の人間をつかむ。完全円満といっておきながら、どこからか業の人間を引き出し、お前の心
が悪いからこういう状態になるのだ、病気になるのだ、運が悪くなるのだ、とやったんです。
私は喘息の病気なんですが、いかがでございましょう。お前は窃盗の心があるから喘息になる
のだ。肺病になった。お前は暗い心を持っているから、素直にハイといわないからだ。という
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ように、どうしても一ぺん業生の人間をつかまえないと、この世の説法にならない。
神さまは完全円満である、これは説法にならないのです。講師がいらなくなっちゃう。そこ
でどうしても業生の人間をつかまえて、お前の心の影なのだよ、と心の法則を使う。それは因
縁因果ということです。お前の子供が道楽するのはお前の心が悪いからだ、お前が貧乏してい
るのは、お前の中に貧乏する種があるからだ、というようになる。これは生長の家。
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消えてゆく姿とは
私のところではそうではなくて、本来、人間は神さまから来ている神の子であって、神の分
霊であって、完全円満なのだ、絶対悪はないのだーそれは心の中、いいですね。言葉に出る
のは何かというと、悪のように現われているものは、過去世から現在に至るまでの自分の誤っ
た想念、神さまの子であることを知らなかった、自分は業の子であり、因縁因果の子である
こう
と、神さまから離れてしまった想い、離れただけ業になって自分が苦しんでいる。苦しんだの
神さまの念願
が潜在意識に残って、病気に現われて消えてゆく、貧乏に現われて消えてゆく、消えていって
しまうと、今度は本当の神さまの光が現われてくるんだよ、と説いたのです。
業因縁というものをどんどん消してくれるのは誰かというと、祖先の申で霊界へ行ってさん
ざん修業して悟った人である守護霊である。守護霊が業を消してくれている。守護霊で足りな
い時には、もっと上の直霊から分れた守護神という光が応援してくれて浄めてくれるのだ。だ
から人間側とすれば何を考えたらよいかというと、守護霊さん有難うございます、守護神さん
有難うございます、といって常に守護霊、守護神様に感謝しながら、現われてくる病気も不幸
も、災難もすべて業の消えてゆく姿なのだよ、それだけ思っていればよい、というのが根本な
のです。生長の家とどっちがいいと思いますか。
心の中の悪をつかみだすのは真理に遠い
生長の家では私の教えは生長の家と同じだと思っている。根本的に違うのです。いろいろ心17
の法則などで責められて、本当は神の子なのに、どうして病気しているのか、神の子が病気す
ることはないじゃないか、というふうに講師に叱かられる。四十度の熱を出してウーウーうな
っている人に、あんた神の子じゃないですか、何故病気しているのですか、すぐ起きなさい、
といったって、高熱があってふらふらしていて立てる道理はないでしょう。本当は熱が出て、
中にある毒素をとかしているのです。毒素というのは、誤った想いがたまりたまって、妬みや
怒りや恨みや焦りの想いがたまって物質化すると毒素になるのです。その毒素が固ってゆくと
心臓や肺臓やすべての内臓諸器官を押えちゃって、働かせなくなる。そうすると、命の力、自
然治癒力が働いて、熱を出し、毒素をとかしてやわらかくして、それで下痢になり、疾になり
して出してしまう。その作用をメシヤ教では浄化作用といっている。これが消えてゆく姿なん
ですね。
それを病気すると、神の子が何故病気をするのか、病気はないのだから、床をたたんで立ち
なさい、てなことをいうのですね。自分がそう思うのはまだいいけれども、人にそれを持って
18
神さまの念願
ゆく。たと・兄ば嫁と姑の場合などは困るのですよ。嫁さんがねている。すると姑が、「この人
の間違いがあるからねている」これは生長の家ばかりではありませんよ、天理教でもそうで
す。同情しないのです。それで変な目でにらんで”ああこの人は弱い人だ、ここで働きたくな
い心があるから寝ているのだ”というわけです。嫁さんのほうじゃわざわざ寝たくて寝ている
わけじゃない。潜在意識ではわかりませんよ。現実では体がつらくて、仕方がなくてねている
わけです。これを責めに責めぬくわけです。責められて嬉しい者はない。そうすると嫁さんは
姑さんを憎むというわけです。そこで喧嘩になっちゃう。今度は姑さんが病気になる。すると
“それみろ、あんただって病気するじゃないか
“ということになるのですよ。
お互いが病気したり、不幸になると、いたわるのじゃなくて、人の心の中をさぐり合って、
心の中の悪をつかみ出し、これみろ、ほれ見ろ、と悪をほじくり返して見せるのです。お前の
心が悪いから、といって悪をつき出して見せつけるような教えは、本当の教えではない。
19
20
神さまの念願、神さまのこころ
何故、本当の教えではないかというと、神さまは完全円満である、愛である。神さまの中に
さば
は責める心も裁く心もないのです。人間に己れの姿を映さしたのだから、完全に地上界に自分
の姿を映し出そう、地上に世界平和をつくろうと思う念願が神さまの心なのです。神さまはそ
れぼかり思っている。それで守護神をつくり守護霊をつかわしているのです。
大神さまというのは、大親様という場合には愛がまじって守護神も含まれているのです。
せいめい
ふつう大神さまという神さまは、生命説として、生命の法則として、生まれれば生きてゆく、
高いところから低いところへ流れてゆく、というような法則で生きているわけです。生命の法
則と業の法則と同じなのです。同じ軌道を通っているんですからね。
赤ちゃんが生れますと、初めは純真無垢です。命そのままです。命そのままに動いていま
す。おっぽいが欲しけれぽおっぱいを飲む。ただ何もなくて動いています。何故、目的もなく
神さまの念願
動いているか、大人は目的もなく動いていることはないでしょ。何もない時は動かないです
ね。それで動いているとしたら気違いでしょ。大人は何か目的があって動くのです。赤ん坊は
目的がなくて動いています。何が動いているかというと、命がそのまま動いているのです。大
人になると、命がそのまま動かなくなっている。命を業想念がくるまって動いているのです。
赤ちゃんの時は命そのままです。しかし知恵がありません。物を覚えませんよ。生れたばか
りの赤ちゃんが英語のリーダーを読んだ、なんていうのを聞いたことがない。なぜ読めないの
か、それは光が小さいのです。天から来ている光が小さく出ている。そして小さく生きている。
光が小さい代りに業も入って来ない。それが二才になり、三才四才、十才十五才になると、光
がだんだん大きく映し出されてくる。映し出されると同時に、業というものが光に比例して多
こんこう
く出てくる。その中には記憶もあればいろいろある、善悪混瀟した業想念が出てくるのです。
少年から青年になるほど、わがままにもなり、自分勝手なことが出てくる。そして還暦ぐらい
になると、だんだん光が小さくなる。しまいに玉の緒がきれてあちらの世界へ行ってしまう。21
霊界のほうへ光が吸われていっちゃうのです。だんだんふくらんでいって、そしてヒューッと
しぼんでゆくわけです。子供に返ってくる。八十になるとただになっちゃうんだね。だから八
十をすぎれば大もうけですよね。そこで赤ん坊の時から、お腹の中にいる時から、いい話をき
き、いい音楽を聞き、いい清めの場にいたり、すべて魂の浄まるような世界においておくとよ
ろしいです。するとお腹の中の子供がよくなる。胎教といいます。
22
お説教ではなく幽体を浄めるのです
地球人間がよくなるためには、肉体の人閥にいくらお説教してもだめなんです。浄めの光が
必要なんです。浄めの光は何をするかといいますと、幽体幽界の波を浄める。命の光というの
は神界から流れ、霊界に伝わり幽界に来て、肉体界に来ているのです。幽界の波が神さまの光
を邪魔しているので、真直ぐに入って来ないで、善悪混溝の世界になってしまう。そこで幽体
幽界を浄めるわけ。幽体を浄めてしまうと潜在意識が浄まってくる。ちょうどテープレコーダ
神さまの念願
レコ ド
ーみたいに記録させている。そのレコード場を浄めている。その浄め方を教えているのが私な
のです。
どう教えているかというと、あなたの心の中に、怒りの想い、妬みの想い、怨みの想いが起
ったら、それは消えてゆく姿と思いなさい、というのです。ああ消えてゆくんだく神さま有
難うございます、守護霊さん守護神さん有難うございます、世界人類が平和でありますよう
に、というように、悪い想いが起った時、逆に悪い想いをそのまま流し出してしまって、あと
に世界平和の祈りのような神さまを思う想いを入れてしまう。そうするとチェンジするわけで
す。悪いものがうつり変ってしまう。
業を引きもどしてはいけない
ところがふつうの場合は、怨み心を出します。あいつは憎らしい奴だ、殺してやりたいと思
います。そうすると、ああこういうことを思ってはいけないのだ、自分はそんなことを思っち23
やいけないのだ、自分はなんと悪い人なのだ、宗教をやりながらどうしてこう恨みの心が起る
のだろう、どうして妬みの心が起るのだろう、どうしてこんなに恐怖の心が起るのだろう、と
いう風に、今度は自分をいじめてしまうんです。そうすると、潜在意識から幽体から肉体に現
われて折角、消えようとするその業想念を、またつかんで引きつり戻してしまう。その上に、
また自分をいじめる業想念を出すのです。それでいっぱい溜めちゃうんです。そんなことをや
っている宗教はだめですよ。そんなのだったら宗教がないほうがよい。自分をいじめないほう
がまだいいです。
善い人が自分をいじめるために、この世の中は割り方、悪い人といわれる人がどうしても盛
大になってゆく。いいような人は貧乏したり、苦しんだりしている。それはやり方がわからな
いから、そして神さまの仕組をちっとも知っていないからです。神さまというものは完全円満
なのですよ。あくまで完全円満なんだ。天照大神の分霊、天之御中主大神の分霊なんだ。すべ
て神さまの分霊なのです。神さまのままに生きている。中にもいれば上にもうしろにも守護霊
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守護神としてついている。神さまだらけなのだけれども、ここに悪いものが現われているのは
どういうことかというと、過去世からの神さまの子でなかったと思う想い、神さまというもの
を知らなかった、神さまのことを思わなかった想いが、現われて消えてゆくのだから、全部消
えてしまえば、完全円満が地上世界に現われるのです。
モーセの神さま
神さまの念願
今迄の宗教はそうしないで、減らすのではなく、増やしている。お前の心が悪いから、とい
わない宗教はありませんよ。どんな宗教でもこうしなければならないくというのですよ。こ
の間、モーセの「十戒」という映画を見ました。モーセの神さまは”われはありてあるものな
り” で大神さまです。これは私の解釈ではカルマと神さまと合体しているものを神さまといっ
ているのです。だから神さまは罰をあてますね。たとえば、イスラエルの子供を皆殺してしま
おうとエジプトの王さまが思う。そうすると逆に、自分たちの子供がみな死んじゃうんです
25
ね。ああいうのは業の想いが返って来ているんです。自分で自分を罰しているんです。それが
神さまの罰であるというふうに現れるのですね。そうしないとわからないからね。だからモー
セの神はとてもこわいですよ。
勿論、奇蹟も見せます。紅海の水がパッと割れて、イスラエルの民はみなそこを渡ってゆく
のです。民が渡りきり、追いかけて来たエジプトの軍隊が渡ろうとすると、海は元に戻り、み
な溺れ死んじゃうんです。イスラエルばかりひいきにして、エジプトにひいきしないのです。
ところがイスラエルの民がいい人かというとそうでない。あの映画をみているとよくわかるの
です。いい人はモーセと二、三の人であとはみんな自我欲望のかたまりです。エジプトも自我
欲望のかたまりなのです。それなのに、モーセ一人がいるために、神さまがモーセに味方し
て、エジプトがあのように負けてしまうのです。モーセ一人に負けちゃう。
ところがモーセの祈りによって大奇蹟を見せられ、救われたイスラエルの民が、神さまの住む
というシナイ山にモーセが一人でお祈りにいって、しばらく待たされると、もう不平不満を起
26
神さまの念願
して、モーセなんかだめだ、モーセの神なんかだめだ、といって、木や何かを集めて家を作
り、偶豫を作っておまつりし、飲んだり食ったり騒いだりして、大遊ぶに遊ぶのです。神さま
をすぐ忘れちゃうのです。一度ならず三度も四度も大奇蹟を見せられて、自分たちは救われて
こつちよう
いるのに、まだ神さまを信じないのです。愚の骨頂みたいなのです。救われたイスラエルの民
族もエジプトの連中も、五十歩百歩でちっとも違わない。業想念のかたまりなんです。業想念
のかたまりであるイスラエルの人たちも、一度救われるけれども、神にそむいた者はみな死ん
さから
じゃうんです。とにかく自分に逆う者はみな殺しちゃうんです。そういう大威力を見せても、
救われはしなかった。
神の罰では救われない
モーセのようなすごい人がいて、神通力をもってやっても、神の罰では人は救われなかっ
た。それが今でもズーッとつづいているんですよ。神の怒りとか神の罰とかいうように、神さ2?
まは罰を与えるようになっている。そう教えている。間違ったことをすればすぐ罰を与えるよ
うになっている。そこで生長の家が出たのですよ。生長の家が出て、罪はないんだ、不幸はな
いんだ、神の子であるものが不幸であるわけはない、病気があるわけはない、無いんだくと
いった。これはいいんです。それで一旦は救われるんですよ、罪は無いというからね。ところ
が罪がないことが、先にいったように、今度は責め道具になっちゃったんです。
「消えてゆく姿」というのは殆んど説いてない。それに守護霊守護神を説いていない。それ
でこの現象の世界は依然として悪いでしょ。そこで神さまは私のような者を遣わして説かし
た。人間は完全円満であることは間違いないのだ、神の子であることは間違いないのだ。ただ
ただ
今迄の宗教があまりに人を責めすぎた、糾しすぎた。生長の家は罪が無いといいながら、心の
法則というものをもって来て、お前の心が悪いと説いた。お前の心が悪いからと責めるとき
は、もう罪を認めている時なのですよ。だから非常に矛盾しているのです。そこでみなひっか
かってしまう。古い講師なんかでもみな引っかかっている。それで苦しんでいる。盲信してい
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る人もありますよ。完全円満と心の法則とがバラバラで一貫していない。
現われるとエネルギーは消える
神さまの念願
それを私は、消えてゆく姿なのですよ、と説いた。あなたはこの世にいる限り、過去世の業
ぽんのうそく
を消して生きているのだから、業想念を消しながら世界平和の地上天国をつくるのだ、煩悩即
ぽだい
菩提なのだ、というのです。煩悩を土台にして、菩提が出来るのだ、地上天国ができる、とこ
ういうのですね。悪い姿があるからそれが土台になっていい姿が生れるのだ、というのはどう
いうことかというと、悪い姿が現われてくることによって、それが消えてゆくのであって、現
われなければ消えないのだ、一ぺん奥にあったものが現われて消えてゆくから、従って申から
いい姿が現われてくるのだ。消えてゆくから現われるのだ、無いのじゃないのですよ。言葉と
して出す場合は”無” いのではない。真理としては「無い」のです。真理としては、神は完全
円満であって、悪いものはないのです。
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まこと
神界においても、霊界においても、悪いものはないのです。これは真理なのです。真のこと
なのです。しかしこの肉体界においては悪いものはあるのです。あるのだけれども、一旦、こ
の現象世界に現われると、それが消えてしまってなくなってしまう。消えて消えてなくなって
しまう。どんな借金があっても、どんくどんく払っていけばなくなるに決っているのです
よ。それと同じようにみな消えてゆく姿なのです。あるものは何かというと、神さまの光だけ
しかない。完全円満の姿きりしかないのだ、という教えにした。
そうすると責めることがないのです。病気になっている人があります。お前は完全円満なの
に病気している、ということもない。お前の心が悪いから病気をしている、ということもな
い。「ああこれは過去世の因縁の消えてゆく姿なのですよ、今よくなりますよ、今、熱が出て
いるのは、悪い想いが、業が物質化して、毒となったものを熱に出して消しているのだ。それ
は神さまの援軍なのだ。守護霊さまが援軍して援助しているのだから、ああ守護霊さま守護神
さま有難うございます、と思いなさい」これは楽でしょ。責められないのだから。
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悪い自分も人もない
神さまの念願
大がい私の所へ来る宗教をやった人は、私は悪い人間でございます、子供がとても悪いので
す、みな私が悪いからです、といってくるのです。あなた、何悪いことをしたの? と私は聞
くのです。あなたはそんなに悪いわけはない。何の悪いことをしたのです。いえ私一生懸命や
っているつもりです。どうして悪いと思うの? いえ病気になったからです。あなたが病気し
たのですか? いえ私が病気したわけじゃないのですけれど、子供が自然になっちゃったので
す。じゃどこかあなた悪いの? と私聞くんです。いやわからない、でも他の宗教ではお前の
心が悪いから、お前の因縁が子供にかかってお前が悪いからだ、といわれるんです、というの
ですよ。何も自分ではわかりはしない。人が悪いというから、悪いといわないと私の所へ来て
申訳けないと思って、さぞかし私がお前が悪いというかと思って、いわれない先に、自分でも
って悪い悪いという。そのくせ、自分で悪いと思っていない。
31
実際わからないんだもの。一生懸命子供を愛し、やっているのに、子供が悪くなっているの
です。どこが悪いかわからない。わからないけども、人にいわれるから悪いといわなけれぽい
けないような気がして、自分をいじめている。そんなバカなことはありませんよね。そこで
「あなたは悪くないのだよ、過去世の宿縁(親鸞がよくいう宿縁です)因縁が現われて、子供
が不良になるという姿に現われて、あなたの業を消してくれているのだ、子供の業を消してい
るのですよ。だから消して下さっている守護霊守護神さんにお礼をいいなさい。ああこれで消
えてゆくのだ、守護霊さま有難うございます、守護神さま有難うございます。この不良のよう
に現われていることによって、私の罪も子供の罪も消えてゆくのだ、有難うございます、と思
いなさい。それだけでは足りないから、心をもっと大きくするために、そんな細かいコチョコ
チョしたところに把われないために、世界人類が平和でありますように、といいなさい。世界
人類の平和という大きな希望の中に、大きなひろがりの中にあなたの想いが入ってゆくでし
ょ。子供が悪い悪いと思っている想いも、自分が悪いくと思っている想いも、みな世界平
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和の祈りの中に入ります、
す。
神さまの申に入っちゃいます。そうやりなさいL とこう教えるので
知らないだけ
神さまの念願
私の教えを結論すれば、要するに、自分の申で右往左往している想い、自分が自分がも、自
分がいい自分が悪いも、人が悪い人がいいも、そういうものはすべて消えてゆく姿なのです。
自分も人もないのです。これはみな消えてゆく姿です。自分と現われ、人と現われている、相
対的に現われているものは、みな消えてゆく姿。一つの神さまの方便で相対的に現われてい
る。二十何億に現われているのだけれども、太陽の光線が分かれているように、二十何億は神
さまの命が方便的に分れている。分れて働かないとこの地上界は出来ない。本来は、お前がや
っていることも、自分がやっていることも同じことなのですよ。自分が宇宙なのです。人も宇
宙なのです。それを知らないだけなのです。33
知らないので、悪い自分があったり、いい自分があったり、自分の手柄だったり、人の手柄
だったりそのように思うのです。そういう想いはすべて消えてゆく姿。これはなかなかむずか
しいのですよ。自分という想いがもう消えてゆく姿なのです。私の財産なのだ、という想いが
消えてゆく姿なのだ。みな神さまのものなのです。肉体人間の自分のものは何もないのです。
何故ないかというと、命というものは、お金を払ってもらったものではないのですよ。私は十
円で命を買ったなんてことはないですよ、命はただなのです。ただでもらった命なのです。着
物なんかは人が作ってくれる。働く能力はどこから来たか? 神さまから来ているのです。た
だでもらった命に、働く能力も神さまから来ているのです。その能力を使って金をもうけた
り、家を造ったりするのだから、すべて神さまから来ているのではないですか?
すべて神さまから来ているのだ、ということを忘れちゃって、自分の力で働いたと思ってい
る。私が汗水たらして働いてためた金を、あの泥棒が持っていきやがった、あのヤロウ殺しち
ゃえ、とこう思うのです。自分が自分がと思っているからそうなのだけれど、ところが自分と
34
神さまの念願
いうものがなかったら、何んでもないのです。また自分がないような人ならとられない。自分
というものがあると、自分が自分が、自分が働いたと思っている。
自分と人とがあまり分れすぎた考え方をする人はいけないですね。といって、自分のものは
自分のもの、人の物は自分の物、とやってごらんなさい。自分と人とはないのだから、人のも
のは自分のものだ、ちょっと米が足りないから、隣りから持って来て。というのは業のほうの
自分なんだね。人と自分はないのです。命が一つなのです。ただ形が分かれているだけです。
それがわかると世界平和はいっぺんに出来るのですよ。
崩れる自我欲望の固り
ソビエトとアメリカがあって、今度はソビエトにアメリカが完全に負けましたよね。何故負
けたかというと、ソビエトが先手を打って原爆の実験禁止を声明したでしょ。それは作戦に違
いないけれども、みごとにパッと手を打った。王手飛車取りですよ。アメリカがあわてちゃっ
35
て、自分も禁止するといったのでは、ソ連に従ったことになるから、それも出来ない。それで
俺は禁止しないと頑張っています。完全に負けです。王も飛車もとられちゃっている。アメリ
カは、自分の力はすごい、人口も多いし、金もあり、科学者もたくさんいて、自分のほうがす
おご
こいんだ、と奢り高ぶっていた想いを、いっぺんにソビエトにパソとやられたんですよ。神さ
まがソビエトを使っているのですよ。アメリカをうんとやったのかも知れない、業の自壊作用
といって、業が自然にこわれたかもしれない。どちらにしても、作戦上、政治的に完全に負け
た。
日本というのはぬえ的存在というのです。要するに、アメリカ側かと思うとアメリカ側でも
ないような気がするし、ソビエト側かと思うとソビエト側でもないような気もする。どっちで
も得をするほうにつこう、というのです。余計お金をくれて、味方になりそうだからソビエト
につこう。今、ちょっとソビエトが景気がいいでしょ。これでずい分社会党がふえたと思うの
です。ソビエトが景気がよさそうだ、今迄アメリカアメリカと思っていたが、どうもソビエト
36
神さまの念願
についたほうが得だ、というのが出てくる。自民党なんかも動揺しているんですよ。ソビエト
ががっと出て来たから何か社会党におべっかを使ったりしている。そうすると申共におべっか
を使ったり、ソビエトにおべっかを使おうという人がたくさん出て来る。
何がそうさせるかというと、自我欲望なのです。自分を守ろう、自分たちだけを守ろうとす
る想いが左右に動くのです。なんにもないのです。強いほうにつこうというだけ。ところが強
いほうというアメリカさんでも、ソビエトさんでも、それは今まさに崩れようとする残骸にす
ぎない。消えてゆく姿にすぎない。まさに消えていこうとするアメリカの業、まさに消えてい
こうとするソビエトの業に、日本がつかまってどうなりますか。どっちにつかまったって、右
手でアメリカ、左手でソビエトをつかんでも、両方ともに崩れゆく姿です。左が出っぱった
り、右が出っぱったりしているけれど、両方ともに崩れんとする姿なのですね。何故ならば神
さまを離れている。
37
神さまからはなれている
38
どうして神さまを離れていることがわかるかというと、神さまと同じ想いならば、本当の深
い信仰ならば、敵をやっつけようと思う想いがあるわけはない。アメリカが原爆をつくったか
らソビエトもつくる。ソビエトがつくったからアメリカもつくる、というようにシーソーゲ

ムで、相手を敵と見て、敵を作って、相手をやっつけちゃおうという想いが、神さまの想いで
ないことは明らかです。そういう想いをごま化しごま化しして祈ったって、神さまが聞くわけ
がないですよ。神よ、世界を平和にならしめ給え、と祈ったって、片方で武器を作っていて
は、どうして神さまが、よござんす、というでしょう。それは「十戒」の中のイスラエルの民
と同じですよ。折角いっぺん救われてもガチャソとやられちゃいますよ。
神さまを本当に信じているものならば、すべてみ心のままになさしめ給え、といってアメリ
カが全部武器を投げ出してごらんなさい。私は武器を投げ出します、とアメリカとソビエトが
神さまの念願
一緒にいえば、世界はいっぺんに平和になるのですよ。ところがそんなことは絶対にない。何
にら
故かというと、業想念がやっているからです。それで睨み合っている。
今、とにかく片っ方が原水爆禁止を一時声明しましたけれど、片っ方が応じない。そのうち
に日本に核兵器が入って来ます。アメリカに借金があるのだから、アメリカがいえば、ハイと

いってもらいます。業の中に捲きこまれているのですよ。今の日本の政治家というのは、全部
業の中に捲きこまれている。それで世界平和といったってだめですよね、原水爆実験反対とい
いながら、核兵器をもらうかもしれない。そういう状態でどうして大義名分が立ちますか。だ
から日本というのは、いっぺん全部業想念を捨てなければだめですよ。それは政府にいったっ
てわかりはしない、自分を守ることに窮々としているから。自分の政府を守ろうとしているの
だから、だめですよ。自分を否定しなければ。
神さまにすがりきること
39
自分の肉体というもの、業想念をいっぺん捨てきっちゃって、神さまーッと本当にすがらな
ければだめ。
神さまーッ、あなたにすがって私は亡びるものなら亡びましょう。あなたにすがって、食べ
られなくなるものなら、食べられなくても結構です。すべてあなたにすがりますって、すがり
切らなければだめですよね。モーセの十戒の映画の話になりますが、モーセがイスラエルの民
を大勢引っぱってエジプトを脱出します。エジプトの軍隊が追っかけてくる。ところがすぐ先
は海、後ろは軍隊、舟も何もないのですよ。どうにもならないでしょ。その時、モーセは本当
に神を信じているんです。「何を騒ぐ、神は必ず我の味方である」という信念を持っている。
そうすると海が割れてくるのです。そして通れるのですが、私はあれは本当だと思うのです
よ。神さまを本当に信ずるならば、本当に出来ると思うのです。
からしだね
イエス・キリストもいってました。辛子種ほどの信仰があれば、山に向って海に入れ、とい
えば、山が動いて海に入るのだ。人間は神さまがなければ生きていかれないのだし、神さまは
40
すべての味方なのですね、神さまを握ればどんな顛難も越えられるのだ、とそのように教えて
いる。それは本当なのです。それがわからない。何故わからないかというと、目の前のことば
かり考えているからです。神さまのほうでは、自分の命を分けて人間を分霊として作った時
に、すでに自分の姿を全部この地上界に現わそうと考えているのです。始めに神さまがちゃん
と考えて創ったものを、神さまにも間違いがあると思うのですよ。大体、神さまだって、在る
のかないのかわからない、見たこともないという。けれど、毎日見ているのですよ、みな自分
がいることは神がいることなのです。毎日毎日、神さまを自分に見、夫に見、子供に見ている
のです。見ているのに、神さまを見たことはないというのですよ。おかしい。私たちには実に
おかしい。
神さまの念願
神さま以外に何もない
神さまは宇宙に充満しています。自分の申にもい、人の中にもい、植物の中にもいて、すべ41
ての申に生き生きとしているでしょ。生命なのだから年中見ている。それを見たことがないと
いう。神さまの手にふれない、という。手にふれているのです。自分の子供の手を握った時に
は、神さまを間接に握っているのです。自分の友だちの手を握った時に、神さまを間接に握っ
ているのです。自分の物をだいた時は神さまをだいている。それを知らない。
神というのは全知全能なのです。すべてのすべてなのです。ありてあるものなのです。全部
が神さまなのです。それなのに、神さまの外に何かあると思っているんです。神さまの外に何
もないのですよ。自分は神さまの分霊なのだ、それなのに自分は神さまの分霊でないと思う。
神さまは全知全能でないと思う。そういう想いが業になるのです。それが迷いになって、不幸
のように現わされてくるのです。
だから神さま神さまくといつも思うのです。神さまだけではわからないでしょ、そこで祖
先の亡くなった人が悟って守護霊として守っている、そして守護神を通して神さまにつなげて
くれるのだから、守護霊さま有難うございます、守護神さま有難うございます、といつも思い
42
なさいというのです。ああうちの悟ったおじいさん、先祖のおばあさんといったっていいので
す。そうするとその想いが守護霊守護神と伝わって、大神さまの中へ入っちゃうのですよ。そ
れを常に常に繰返していれば、自分の想いが神さまの中へ入っちゃう。ただまだそれだけでは
足りない。自分勝手な気がする。それで”世界人類が平和でありますように、日本が平和であ
りますように、私共の天命が完うされますように”と祈る。
天命を完うするために
神さまの念願
私どもの天命を完うせしめ給え、という祈りは大きな祈りなのですよ。天命を完うするため
には、必要なものはみな与えられることになっているのです。必要なものが与えられなけれ
ば、天命が完う出来ないのです。家も力も金も、天命を完うするために与えられるのです。
そこな
天命を損うために与えられる金もあるのですよ。それは業でむりむりとったお金です。百万
円の宝くじが当ったら、その場で気違いになって死んじゃったというのがあります。競馬で大43

儲けしたら、その明くる日はもうすってんてんになっちゃった、というのがあります。そのよ
かね
うに苦労しないでいっぺんに貰った金というものは、すぐなくなります。金、金、金って金ば
っかり思っていると、金は入っても、それは業の想いだからなくなります。業は消えてゆく姿
なのです。
業の想いはすべて消えてゆく姿なのです。消えないものは何かというと、神さまだけなので
す。だからお金を貰おうと、着物を作ろうと、すべて神さまから頂いた神さまのものなのだ、
神さまが下さったのだ、神さまが引き受けて下さったのだ。そういうふうに思っている金や物
はなくなりません。もしなくなったら、もっと増えて来ます。何故ならば、神さまのものなの
だから。
だから神さまを一〇〇パーセソト思うのです。一〇〇パーセソト思えば、自分は神さまの分
霊なのだから、その分霊の光がそのまま現われて、自分の世界が完全になるに決っているんで
すよ。それを昔から聖者がみな叫んでいる。
44
しつかい
そうなんだく、自分の中に仏さまがいるんだよ、悉皆成仏なんだよ、ことごとくみな神さ
ま仏さまなんだよって、お釈迦さまはいっている。キリストは、汝のうちに神は在るのだ、神
の国は汝の内にあるのだ、といっている。私はそれではまだわからないから、汝の内に神さま
うし
が分霊としてあるのだ、分生命としてここに神さまがあるのだ。後ろには守護霊守護神として
守っているのだから、内も外も神さまだらけなのだ、それがわからない想いは業の想いなのだ
から、それは消えてゆく姿なのだよ、神さまなんかあるのかなア、という想いは業で、消えて

ゆく姿なのだ。ああこんなに苦しいのに助けてくれるのかなア、ああそう思う想いが業の消え
てゆく姿なのだ、すべて神さまを否定する想いは業想念なのですよ。神さまを否定したら、消
えてゆく姿と思うのです。
神さまの念願
自然法爾の親鸞
消えてゆく姿だけで足りないから、守護霊さま守護神さま有難うございます、というので妬
す。それでも足りないから世界平和の祈りをやるのです。なんでもかんでも、自分の想いをす
べて神さまの中に投げ出すのですよ。全部投げ出して、消えてゆく姿だけやって、神さま有難
うございます、神さま有難うございます、と思う想いだけがあればよいのです。しまいに神さ
から
ま有難うございます、という想いもなくなっちゃう。まるっきり空っぽになっちゃう。何もな
くなっちゃう。ただ神さまの動かされるままに動いている。
自然法爾というのです。親鸞の得意な言葉です。親鱒さんは前生の女性に対する因縁があっ
て、親鸞さんと生れかわって僧侶として初めて結婚もしたし、自分にそぐわないような不肖な
子が出来た。しかし親鸞はそれをみな業の消えてゆく姿と思ったのですよ。みな過去世の私の
業の消えてゆく姿なのだ、しかしそれは自分で消すんじゃないのだ、自分で消すことの出来る
あみだ
ものじゃないのだ。阿弥陀さまが消してくれるのだ。だから南無阿弥陀仏、アミダさま有難う
ございます、といって、アミダさまの中に全部入っちゃった。
親鸞は、貧しいのもそれもいい、病気するのもそれもいい、何もすべてそれは自分のすると
46
神さまの念願
ころでなくて、自分の業が消えてゆくだけなのだ、消してくれるのは誰かというと、アミダさ
まなのだ、アミダさまが全部消してくれる。丈夫は丈夫で結構、病気をしたとしたら、アミダ
るざい
さまと一緒にゆくのだから、病人は明るくなっちゃう。流罪になって越後へゆきますね。流罪
になるから幸せなのだ、京都にだけいれば京都だけしか浄まらない、流罪になれば流されたと
ころが浄まる、アミダさまの光がそこにもみなぎりわたるのだ、という想いで行ったんです
よ、そしたら地頭はじめみな弟子になって、越後が光明化されましたね。
アミダさまのおはからいのままに、神さまのおはからいのままに、素直に動いていったので
す。自然法爾なのです。そうすると行く先行く先、全部光明化されたのです。しかも亡くなっ
た後、親鸞というと、ああ偉い人だ、親鶯を思うだけで、親鶯の本を読むだけで、なんだか心
が清まってくる。それは法然も同じですよ。良寛さんも同しです。
聖者というものは行ないをしたことが偉いのです。いくらうまい言葉をいったってだめで
す。言葉だけではない、行ないをした。良寛さんなんか教えなんかないでしょ。ところが良寛
47
さんがいたということを聞くだけで、
有難いなア。
胸がスーッとします。ああこんないい人がいたんだなア娼
仏のはからいのまま生きた良寛さん
前にも話したけれど、私は感心してしまうのです。良寛さんがどんな偉い坊さんか一つため
してやろう、というので、船頭が良寛さんを船にのせておいて、うしろからパッと突き落した
のです。良寛さん川の中に落っこっちゃって、多分、南無阿弥陀仏といったのだろう、そのま
まで浮いてゆくんだね。何もさわがないでフワフワ浮いているんです。それをみて船頭驚い
て、水中から助け出して、船に上げた。ああ良寛さん申訳けありませんでした、あなたがこん
な偉い坊さんとは知らなかった、申訳けないって謝った。そしたら良寛は「ああ有難うござい
ました。あなたのおかげで命が助かった。あなたは仏さまで、有難うございます」と自分を落
した船頭にお礼をいったというのです。素晴しいでしょ。
神さまの念願
百の説法も問題にならない。どんな説法もこの行ないにはかないません。何故かなわない
か。おまかせでしょう。ふつう突き落されれば騒ぎますよ。ところがそのままなんだ。死ぬも
のは死ぬのだ、仏さまのおはからいで生きている自分なのだから、このまま死ぬ定めならば死
ぬだろう。生きる定めならば生きるだろう。それでフワくフワ〈浮いている。その素晴し
い心境では助けないではいられませんよ。それで助けられた。
助けられてからが面白い。ふつうの人だったら、お前なんで突き落した、ということになる
でしょう。ところがあなたに助けられて、有難うございます、と、ちゃんと落したのを知って
んのに、あなたに助けられて、とお礼をいうのですよ、すごいでしょ。落される何かの縁があ
って落されたのです。因縁でもってどうにもしようがない。神さまの思召しなのです。助けて
くれたことが恩なのです。落されて死ななければならないものを、助けてくれて、なんてこの
かがみ
人は仏さまの代理だと思ったのです。その従順さは鑑にすべきです。
ふつう一般を見渡してごらんなさい。ちょっと自分の気に入らないことがあると、あのヤロ
49
1気に入らないヤツだ、自分の気に入らない人は、みな相手が悪いのです。そういう気に入ら
ないことをなんでもなく許すなんてものじゃない、感謝しちゃったんです。ちょっと出来ませ
んね。そういう心境が仏さまの心境であり、神さまの心境であるわけです。良寛さんも法然さ
んも親鸞さんもすごいですよ。
50
すべて祈りの中で生活するように
そういう宗教信仰にならなければだめなのです。それは何かというと、消えてゆく姿なの
だ、悪いものはないのだ、ということを本当に心の中で思っていることです。みな神さまに生
かされているんだから、神さまが生かしてくれるのだ、間違った生かし方をするわけがないの
だ、自分の前に不幸の姿が現われてきても、それは過去世の因縁が消えゆく姿なのだ、どんな
に自分の中に怒りの心が出て来ても、迷いの心が出ても、それは消えてゆく姿だ、どんなに自
分に仇をする人があっても、それは消えてゆく姿だ。みな消えてゆく姿で、あるものは仏さま
神さまの念願
の慈悲だけが光り輝いているのだ。そういうのを本当にやったんですよ。本当に実行したから
偉いのです。
あんなことを先生はいうけれど、一つ試めしてやろう、なんて鉄棒を持って待伏せしてはい
やですよ。コツソとやられて私のびると、皆さん困るから、私をのばさないで下さい。この間
も誰かに聞かれた。先生ピストルをつきつけられたらどうしますか? さあオレは逃げるだろ
うといったんです。まだやったことがないから、命あっての物だね、というので私は逃げちゃ
う。或いは逃げないかもしれない。しかしそういっておいて逃げたらおかしいでしょ、だから
先に一段下げて、逃げちゃうことにして返事しておいたのです。先生が良寛さんのように落さ
れたらどうします? アップアップやるかもしれない。やってみなければわからない。やらな
いかもしれない。それは神さまのおはからいだと思うのです。そう意気張ることはないけれ
ど、良寛さんや法然さんや親鸞さんの境地にならなけりゃだめですよ。
その境地に一歩でも二歩でも近づいてゆくことです。始めからそうなりません。過去世の業51
があるから、いっぺんになるわけにはいかない。それは練習に練習しているうちに、スッとな
ってくるのです。やはり修業がある。努力がいりますね。こうしてはいけない、ああしてはい
けない、という戒律は私の教えには一つもないのです。何があるか、ただ世界平和の祈りをす
るだけなのです。
悲しみが起ったら世界平和、怒りが起ったら世界平和、恨みが起ったら世界平和、病気にな
ったら世界平和。すべては世界平和の祈りの中で生きているのです。
のごと
病める人病みたるままに先づ祈れ世界平和の神の祈り言
かみごと
迷ひ心迷へるままにまつなさめ世界平和を祈る神言
という歌の通り、すべてが世界平和の祈りの中で生活している。そうすると世界平和だけし
かなくなっちゃって、自分の想いがその世界平和の祈りの中へ入っちゃうんですよ。そうして
よくなった人がたくさんあるのです。
52
人は神の化身
昭和3年4月24日東京割烹女学校
人は神の化身
迷いの想いの中にいてはいけない
人間は神の子であって、完全円満なるものです。けれど、不完全な想い、不完全な肉体をと
らえ、その中に住んでいて、人間は完全円満だといったってダメなのです。
迷いの申に住んでいて、貧乏な想いの中に住んでいて、不幸な想いの中に住んでいて、戦い
わけみたま
の想いの中に住んでいて、恐怖の想いの中に住んでいて、私は神さまの分霊といっていても、
業想念の三界の渦の中にいるだけです。
53
他人と自分を比較して、俺とあいつとでは、オレのほうが偉いだろう、こういうような想い
の中に住んでいて、オレは神の子だ、なんていってもダメなのです。それは相対の世界なので
す。
私のいうのは、他人と相対的にくらべる想いとか、自分がだめだとか他人がだめだとか、不
幸だとか病気だとかいう想いから離れた心が神さまの子であり、完全円満だというのです。
そのようになるにはどうしたらよいかというと、いっぺん、この世に現われている自分の生
活、環境、想い、或るいは人類の環境、想いを全部否定しなきゃダメです。否定するにはどう
はんにやしんきよう
したらよいか、般若心経では、無い無い無い、と迷う心もない、迷う心も無いと思う想いも無
い、その亦心もない、というように無い無いづくしでいって、繁だ、というんですね。繰殿避
くうくうそくぜしき
空.空即是色、色は即ち空なんだ、空から本当の光が光ってくるんだ、というように教えてい
るのです。
それを私は無い無いづくしでなく、消えてゆくづくしにして、教えているんです。みな消え
54
人は神の化身
てゆく、何が消えてゆくかというと、不幸なものはみな消えてゆく。貧乏も病気も不安も恐怖
も、みな消えてゆく。何故消えてゆくかというと、この世の中は神さまだけしかないから、そ
して、人間は神さまの子なんだから悪いものがあるわけがない。
あるわけがないけれど、ここに現われているのはどういうわけかというと、これは人間が神
さまの分霊であった自分を忘れてしまって、肉体の産物である、地上界の産物である、という
想いがくせになってしまって、何万年、何十万年とたってしまって、だんくその想い癖が積
重なってしまって、肉体の人間という神さまから離れた、別のものが出来てしまった。
もう罪の子だと思うな
本当は、神さまの命の光の光線なのです。それを霊体という体で包んで、仕事をしていたわ
うつわ
けです。それが地球界に降りて来て、肉体界に降りて来て、肉体という衣をまとって、器をま
とって働き出した時に、人間は別々だという形の中に入った。形の中に入ってとらわれた時に、茄
神さまから離れた想いが出た。何故出たかというと、形は自由になりません。自由に動けませ
んね。神さまは自由です。形があると自由に動けないので、人間というものは、別個の存在に
考えられて来た。神さまは天にあるかもしれない、しかし人間の中にあるとは思わなくなって
しまった。
そういう想いが積み重なって来て、原罪というものが出来た。聖書のアダムとイブの原罪と
いうのはどういうものかといいますと、人間は神さまとは別のものだという形の世界、物質の
世界に入ってしまった、その想いが原罪というのです。
自分がやることは自分がやること。自分がすべてで、自分だけしかない。神さまがやってい
るのでなく、自分の肉体の想いですべてやっているのだ、というように決めてしまった。それ
がズーッとつづいてしまった。そこでイエスキリストが現われて、肉体の業想念を全部背負い、
十字架にかかって、サアお前たちの誤った考えはなくなったんだ、お前たちが罪だ罪だと思っ
ている原罪というのは、神さまから離れた想いで、私が背負って、十字架にかけて、もうない
56
んだから、これから以後は、もう罪の子だなんて想いなさんな、と教えたのです。
ところがなかく本当のことがわからない。そこでいろいろな宗教家が現われ、いろいろ説
いているんだけれど、まだわからない。
私はどういう風にしたかというと”消えてゆく姿”と守護霊守護神というものを使ったんで
す。
善も消える悪も消える
人は神の化身
この世の中は神さまだけしかないんだ、神さま以外のものが他にあったら、相対的な世界で
ぬけられないんですよ。アメリカとソビエトが力を競い合っているように、いつまでたっても
安心の世界は出来ない、戦いだからね。片一方が武器を造れば、片一方はもっと造る、また造
ればまた造る。相対的で生命の交りがない。生命が横に流れていない。しかも縦にも流れてい
ない。縦の生命の流れと横の生命の流れの頂点が調和していないからいけないのです。
57
人間は神の子なんだ、完全円満なんだ、だけじゃ相対の世界をぬけ出せない。何故かという
と、この世の申が不幸だからね。しかしこの不幸な世の中というものは、やがて消え去ってし
まって、神の姿そのままが現われてくるんだ。何故消えてゆくかというと、神さまだけしかこ
の世の中にはない、完全円満な姿きりしかないからなのです。これが根本にならないと、入間
は救われません。
ところがこの世の中の大半の人は、人間は不幸なものだと思っている。善悪混交のものであ
って、しかも悪の想いのほうが強いのだ、というのが多い。これが性悪説。片一方は性善説、
人間は本来善なるものだから、この世の中はみな善なんだ、誰でも善いんだ、というように思
う説。両方とも半端なんですね。
人間というのは善でも悪でもないのです。善い人間とか悪い人間とかいうけれど、善いとい
あいたい
うことも、悪いということも、地球界の相対する形の世界においては、消えてしまうんです。
善も消えるんです、悪も消えるんです。だから昨年、一昨年善いことをしたから、昨日善い
58
ことをしたから、今日は悪いことをしてもいいだろう、なんていうのはないのです。昨日の善
い事と、今日の悪い事はまた別なのです。
ほんぜん
昨日まで泥棒を働いて、強盗をしていたとします。しかし、今日翻然と眼が覚めて、神さま
ゆる
にすべてを投げ出して、ああ申訳けなかった、神さまお赦し下さい、私は今日から真人間にな
ります、といって、パッと神さまの申に入り、一つになった想いになれば、昨日までの悪は全
部消えてしまう。
イエスと共に天国に入った泥棒
人は神の化身
消えてしまうけれど、消えてゆく過程として、それまで撲られた人も盗まれた人もあり、恨
まれてもいるでしょう。だから過程としてその人は少しは苦しみます。苦しみますけれども、
その人の本当の心は苦しみはしない。自分のやったことはみな消えてゆく姿、と思っているの
だから、いくら打たれても、恨み返されても、懲役になっても、ああ自分の犯した罪だから、
59
とあきらめますよね。そうすると、これは消えてゆく姿として、この人を傷つけることは出来
ない。
どんな大悪党であっても、どんな殺人犯であっても、本当に目覚めて、神さま! って神さま
の申に入ってしまったならば、神さまに全てを投げ出してしまったならば、首をきられても、
死刑になっても、この人は悔いないです。ああこれでいいんだ、私の罪は消えてゆく姿なんだ、
私の本体は神さまの中にあって、神さまにみんなお預けしたんだ、というんだから、首をきら
れたって、この人はちっとも悔いない。
そういう人は首をきられていったとすれば、天国にゆきます。イエスキリストが礫になりま
したが、隣りに泥棒が一緒に礫になりましたね。その泥棒がイエスさんに「私を助けて下さ
い」といった。イエスさんの中に全部投げ出しちゃった。そしたら、一緒に天国へ行ったとい
うんですよ。何故かというと、自分の想い、業想念というもの、自分と神さまとは別々のもの
なんだ、自分は自分なんだ、というような高慢な想い、間違った想いがそのまま神さまの申に
60
人は神の化身
入って、消えていってしまった。そうするとこの人は罪のない人なんだ。それがイエスキリス
トの十字架の秘密なんですよ。
十字架の秘訣
十字架というのは抹殺という意味でもあるし、縦の神さまから来る命の線と、横の人間同志
の命の流れとが合体したことをいうんです。その中心にイエスがはりつけになったのです。そ
れで皆の罪けがれを抹殺したんです。浄めたのです。それを私たちは今やっているわけなんで
す。
「私は苦しいんです、どうしたらよいでしょうか」と来ます。「よし、私のことを思いなさ
い、私が引受けてあげますから」といって柏手を打つ。そうすると光が向うへ入ってゆく。向
うでは先生が引受けてくれたから、ああ有難いとなる。
船戸さんじゃないけれど、私がいなければ1 別に威ばるわけじゃないですよ1 破産しち
61
やったかもしれない、婿さんを追い出したかも知れない、喧嘩したかもしれない。神さまく
といったって、なんだか思いにくい。ところがこういうように居ますと、五井先生といって、

ここに来る、何か訊きたいところはきける。そして訴えると、自分の中にある悩みの想いが私
のほうに移って来ちゃう。向うはサッパリするんですよ。これは誰でも経験がある。背負うの
は私なんですよね。
ああ先生が代りに心配してくれるから大丈夫だ。そういって気が楽になる。気が楽でないの
はこちらだけです。「あなたの会社は大丈夫」って一言私がいいますよね。しかしもしつぶれ
たとなると、五井先生がああいったのに潰れたじゃないかって、私に文句いってくる。神さま
のほうは眼に見えないのだから、恨まれても平気ですよ。「ハイ治るよ」といって、病気で死
んだとすれば、先生は治るといったじゃないか、といって来ます。
じみつき
「ああもう直きょくなる、三月で良くなる」と私がやっていますね。すると向うじゃ、”あ
あ有難い、よくなるんだ” と心が楽になる明るくなる。本当は三年もかかる人が、あと三月、
62
人は神の化身
あと二月、あと一月とこうやって嘘いって、元気づけている。そうすると”先生まだよくなら
ないか、まだ良くならない” って私がだんく恨まれてくる。
最後の本当のものが出かかってくる頃には、先生はさんざん恨まれてしまう。恨まれるけれ
ど、向うじゃ、先生が大丈夫といったから大丈夫と思って、一家心中でもするところが、先生
の言葉にすがって生きてゆく。
一人の人で渡れない川に橋をかける役目なんですよ。私が向う岸とこちら岸との間に体を横
たえて、皆がこれを渡ってゆくんですよ。大丈夫だ大丈夫だといっている申に、時間がたっち
ゃうと、大丈夫になってしまう。そういう言い方も大分するんですよ。
そうすると向うは時々恨むんですよ。うっかりすると方々中に行って悪口をいう。「先生言
ったけど当りやしないよ」「当らないんだ、あの先生は」なーんていうんです。当らない当らな
い、といいながらまた来るんです。「ことによるともう少し行かないと駄目かなア」「もう少
し行かないと… …」さんざん悪口を方々中いっちゃってから、最後には救われるんです。「先
63
生、おかげさまで救われました」「救われまして有難うございました、ヤッと芽が出ました」
というんですよ。悪口をさんみ\ いったことを忘れちゃっている。私はつまらないですよね、
これは十字架なんですね。
本当に死ぬか生きるか、という瀬戸際の病気があるんです。どうかなこの寿命は? とみる。
じようみよう
人間には第一の寿命、第二の寿命、第三の定命とありまして、第一の寿命は越えることも出来
る。第二の寿命も信仰によっては越えることも出来ます。第三の定命はいくらどうやってもダ
メなのです。第一と第二の寿命は信仰によって助かることがあるんです。この人は心がゆるん
だら死んじゃうな、と思いますと「ヨーシ、大丈夫」と私がやるんです。先生が大丈夫といっ
たから大丈夫、と本当に受けてくれればいいんだけど、先生がそういったってダメだろう、と
家族なら家族が思う。そういう想いが重なるとダメになってしまう。先生が大丈夫っていった
のに、死んじやったじゃないか、とくるけれど、こちらは愛の心で、ヨーシ死んだ時には、私
は恨みを買おう、引受けようと十字架にかかって「大丈夫」っていうんですよ。
64
その大丈夫というのは大変な大丈夫なんですよ。うまくいけば大丈夫にひっかかって、パッ
と渡っちゃう。ここに小川がある。跳べない、とべないと思っている、いや大丈夫、とぺる、
とべる、いってヤーッととばしてしまう。素直に、ああ先生がいったんだから、大丈夫、と思
、兄ば跳んじゃうんですよ。それで跳んだ人がたくさんあるんです。それが奇蹟というんです。
想いを神さまの世界に
人は神の化身
いくらイエスの衣にさわっても、信仰のない人はさわらないけれど、治らない人もある。イ
エスキリストは全部の病気を治したなんて、そんなことはないんですよ。信じない人は治らな
いや
い。汝の信仰汝を癒せり、というんですからね。やはり信仰というのは、すがる心が強ければ
強いほどいいんです。
何故、強ければ強いほどよいかというと、人間の運命というものは、自分の想いが決めてい
るからです。人間の運命は想い一つなんです。その想いが神さまの世界にいっているか、地獄
65
の世界にいっているか、悩みの世界にあるか、によって決まるんです。怨みの心でもって生き
ている人というものは、怨みの心で年中不平不満であるんです。だから地獄におちる。
神さま! といって年中神さまのことを思っている人は、神さまの光の中にいるから、自ず
と光が流れてきて、自分の心は明るい。病気でねていようが、世界人類が平和でありますよう
に、私たちの天命が完うされますように、守護霊さん守護神さん神さま有難うございます、と
いつも思っている人は、同じねていても心豊かです。天国の住者です。ところがいつ死ぬだろ
う、生きたい、死にたくない、とオロオロとすがるところもなくてうろたえている人は地獄で
す。
ピソピソしていても地獄の人はたくさんある。病気でねていても天国の人はたくさんいます。
そのように想いというものが、常に神さまの中にありさえすればいいんですよ。どういう方法
でもよいから、神さまの申に想いを引きこんでしまう宗教家がたくさん出なければダメなんで
す。
66
運命は開ける
人は神の化身
ところが今迄の宗教家は神さまの中にまっすぐに持っていかないんですよ。「神さまを想い
なさい、神さまは在るんですよ、神さまは愛なんですよ」といいながら、おどかすんです。
「お前が信仰しないと罰が当る」「拝まないと罰が当る」「会に入って出たら罰が当るぞ」「お
前の病気はお前の心が悪いんだ」というんですよ。「お前の子供が不良になるのは、お前の心
が悪いんだ」というのは神のみ心ではありません。業の心なのです。業の中に入った人間(宗
教家、指導者)が業の中から、業の人間に向ってそういっている。そんなものは救いにはなら
ないのです。それは宗教家の言葉ではないんです。
本当の宗教家というものは「神さまは愛なんだから、あなた方は絶対に救われているのだ。
あなた方が悪いんじゃないんだ。悪いものなんかありはしないんだ。この世の中は、善も悪も
ないんだ。皆この形の世に現われてくるものは消えてゆく姿なんだ。全部消えてしまうと、本67
当の地上天国がここに出来るんだよ」というのです。何故地上天国が出来るかというと、神さ
まは完全円満で、神さまだけしかいないから。神さまの光がそのまま素直に映ってくれば、地
上天国が出来るのは当り前なんです。邪魔しているものは何かというと、人間の想いなのです。
良いんだとか悪いんだとかつまらないような想いが、神さまの姿の現われるのを邪魔している。
だから一ぺん、全部、良いことも悪いことも神さまの中にお返ししなきあなりません。自分
の短気な想いも、妬みの想いも、不安の想いもすべて神さまの申にお返しする。お返しするに
はどうしたらよいかというと、神さま有難うございます、というよりないんです。神さま神さ
ま神さま、もう寝ても覚めても称名念仏すべきものなり南無阿弥陀仏、という形で、神さまの
中に全部投げ出す。そして一生懸命自分に与えられた仕事をしている。そうすると、ちゃーん
と自分の運命は開けてゆく。運命が開いてゆくだけでなく、自分の心が開いてきて、本当は憎
むべき人でも憎まなくなる。
68
神さまは悪にも関係している
人は神の化身
ああしてはいけない、こうしてはいけない、という戒律では今は役に立たない。モーセの十
戒じゃないけれど、みんな知っているんですよ。姦淫しちゃいけない、悪いことをしちゃいけ
なん
ない、僧んではいけない、殺してはいけない、そういうわかりきったことを今更いっても何に
もならない。昔ならいざしらず、今の人は頭が進んでいます。教育があって知識がすすんでい
ますから、ああしちゃいけないなんていうことは、およそ下らないんです。
大体、宗教をやろうとするとか、道を求めたり、修養をしようとする人はみな良心の開けて
いる人です。開いているから、ああ自分がだめなんだから神さまにすがりたい、自分の力じゃ
だめだから神さまにすがりたい、といって皆来ている人なんですよ。そういう良心の開けてい
る人に向って、だめだダメだということは何にもならないんです。私はこの話は随分するんだ
けれど、ここが大事なところなんです。だから、いけないくの戒律なんて要らないと思う。
69
戒律なんかあるべきものではなくて、戒律をこえなくちゃ本当の宗教にならない。

戒律を超えるにはどうしたらよいかというと、良いも悪いもひっくるめて神さまの申にまか
せる。もし悪いことが現われて来たら、それは神さまが消してくれたんだ、奥に潜んでいる、
幽体の奥に潜んでいる悪いかたまりを、少しつつ少しつつ、病気にし貧乏にし、短気な想いに
し恐怖の想いにし、表面に浮き出させ、表面から光にして消すようにして下さるのです。それ
はみな神さまがしているんです。
業というものは、神さまが創ったんじゃないと思う人もある。神さまが創ったんではないけ
れど、神さまが業には働いてないと思う。人闘の悪い心がやったものであって、神さまとは関
係ないと思っている。ところがそうではない。いいですか。悪というものは神さまに関係ない
んじゃないんですよ。神さまは悪の時にも働いているんですよ。この世の中には眼に見える悪
というものはたくさんあります。悪魔的な存在がたくさんあります。それは神さまと全然離れ
たものだと思ったら間違いです。全く離れたものだということになると、悪魔というものと神
70
人は神の化身
というものが相対的になります。神の光もあるけれど、悪魔もこんなに強いじゃないか、それ
じゃ神さまと悪魔とが喧嘩して、もしかしたら、神さまが悪魔に負けてしまわないか、という
考えが出てくる。神さまに全信頼がおけない。悪魔のほうが勢力があればそっちのほうに着い
ちゃいます。人間の想いというのは勢力のあるほう、自分の利益になるほうに付くんですよ。
その時救われるほうへ付くんです。
しゆうわい
代議士や役人などが収賄してはいけないのは決っているんです。公明選挙がいいに決ってい
る。ところが、公明選挙など出来っこない。何故出来ないかというと、競争だから、点の取り
っこだから、金を使わなければ誰もやってくれない、お酒を飲まさなきゃ、食ぺさせなきゃや
ってくれない、ということでしょう。公明選挙をやってきた人は数えるほどしかいない。ほと
んど不公明選挙にきまっている。何故決っているかというと、自分が出たいくだから。神さ
まが自分を使って下さるのなら、使って下さるのだ、使って下さらなければどうやったって使
って下さらないんだ、他に天命があるんだ、ということがわかってくれば、そんなに自分を出7i
してくれくなんてやらないですよ。
ほうぼう
乞食のように方々中拝み廻って、行ったことのないようなところに行って、拝みます、頼み
ます、とやっている。宗教団体の大きいところがあると、信仰も何もないのにそこへお参りし
て、手を握ってくるんですよ。するとそれを上手に利用して、宗教団体はまた大きくしようと
する。そういうのが宗教だと思ったら、とんでもない閥違い。そんなのは業の消えてゆく姿。
頼むほうが業ならば、頼まれるほうも業なんです。この人は善いから助けてやる、というのは
別ですよ。そうじゃなくて、票をかせぐために宗教団体と手を組む。宗教団体のほうは自分の
勢力を増すために政治家と手を組む。こんな腐った政治がどこにあるか。そういうのは業想念
の消えてゆく姿で、天命も何も知らない。そんな政治では亡びるに決ってます。
72
悪が不必要になった時”消えてゆく”
そういうのが今の世の姿です。ところがこういう悪い心、間違った心は、神さまと全然関係
人は神の化身
ないかというと、あるんです。いつもいいますが、山があった、そこにトンネルを掘らないと
どうしても通れない、というので一生懸命トンネルを掘る。掘っていれば泥をかぶります。し
まいには穴があいて、トンネルが出来ますね。掘っている時に泥をかぶる、その泥が悪なんで
すよ。土を掘って掘りぬいてゆくのは神さまなんです。神さまの光が闇の申を通ってゆく。通
ってゆく時、その働きによって悪と見えるようなものも出てくる。しかしこれはやがては消え
てゆく姿で消えてしまうと、やがて光明燦然とした光の道が出来るわけなんですよ。だから神
さまと関係ないんじゃなくて、すべて神さまが関係している。だから悪が必要ない時には、神
さまが働いて消してしまうのです。
いかなる貧乏の姿も、いかなる病気の姿も、いかなる自分の短気の姿も不満の姿も不足の姿
も、そう思う心もみんな神さまが消してくれるために出している。わかりますか。前の世から
カルマ
前の世から人間の中に潜んでいる業想念、神さまから離れた想いを、神さまから近よって、消
している姿が、今のこの世の悪なんです。不完全なのですよ、それでなけれぽ神さまが完全円
73
満だということは成り立たないんです。神さまは善だけつくって、あとのものは神さまじゃな
い、ということはだめなんです。みんな消えてゆく姿。消してくれるのは誰かというと神さま
の大光明なのです。
神さまの大光明が守護神となり、或いは守護霊をつくり上げ、光を投げかけて悪を消してく
れる。その悪はどこから出たかというと、過去世からたまっていた神さまから離れた想いから
です。たまっていたけれど、奥にあって現われなけれぽ悪だか善だかわかりません。人とつき
あっても表面だけでは善い人か悪い人かわかりませんが、つきあっているうちに、その人の悪
い処が出たりしてくるんですね。それと同じように、中に潜んでいる人類の業というものを表
面に浮き上がらせているのが、今の姿なのです。
74
霊界幽界の波を感じやすくなっている時代
前から積ってきた業が今表面にすっかり浮び出て、今まさに消え去ろうとしている。本当の
人は神の化身
神の姿が現われて地上天国が出来上る前だからこそ、切羽詰ったどうにもならない最後の最後
みたいな姿が出ているんだ、と私が説明するわけです。そのために、今、素晴しく光が働いて
いる。守護神の力が猛烈に働いている。ですから昔はたとえば、合掌にしても、額から光が出
る、鼻もやはり霊の光が出るところだ。口からも霊気が出る、それで両手を合わせると霊気が
出るから、合掌を額のところまでもっていけば、みな光が寄って出る。というように教えた宗
教もあるのです。ところが今はそんなことをしなくとも、このままで霊気がうんと働いている。
ずうっと昔は、肉体が持っている波動が霊体が持っているものと比べると、波の速度が大分
違っていたのです。ところが今は、肉体の波と霊体の波とほとんど違わなくなってしまった。
ということは、肉体が昔と今と一寸も進歩してないじゃないかというけれども、実は大進歩し
ているのです。本当は非常に鋭敏になってきている。それで非常に霊媒現象が多くて、行者さ
んなどがたくさん出ている。ちょっと統一すると何かわかったりする。そういう時代になって
来ている。そこに業想念や低級霊魂が働いて、いろんな予言をしたりしている。
75
新興宗教が多くなったでしょう。ちょっとした行者さんがみな教祖になってしまう。それは
霊界の波を感じやすくなり、霊界の波を感じ易くなっているから、幽界の霊魂だの、自然霊と
こりたぐい
いった狐狸の類の想いがかかりやすくなっている。かかりやすくなっている人がちょっと祈っ
て、何かわかった、ものが視えた、聞えた、当て物が出来た、というのでもって、すぐ教祖に
なって、お前の先祖がたたっているぞ、何か上げないとお前の家はだめになるぞ、とこうやる
んですよ。それで油揚をあげたりお米をあげたりする。これが治ったら一万円出さないとダメ
だ、てなことになるのです。ところが本当の宗教者はそんな予言はしない。
あなたのところがどんな悪かろうと、それは業の消えてゆく姿、人間は神から来ているもの
だ、神の分霊である、ということを知らせる人でなければ、本当の宗教者じゃないんですよ。
何故ならば、この世の中が不安なのに、人間の心を乱して不安にしている上に、ほら天変地変
があるぞ、ほら戦争があるぞ、今、俺のところに来なければお前たちは救われないそ、なんて
いうようなことをいうのは、その人たちを不安に陥れ、ますます人類を不安にして、不安の想
76
いを多くさせるからです。そこで私たちが現われて、消えてゆく姿を説いている。
大光明が働いている祈り
人は神の化身
こう観ていますと、守護霊守護神の働きがものすごいんです。大光明です、光が満ち満ちて
いるんですよ。だから世界平和の祈りをやりますと、誰がやってもそこの処が光っています。
どんな人が世界平和の祈りをしようと、その時は輝いている。世界平和の祈りをやる人は、大
体私の話を聞いているか、私というものを通しているのです。私というのは肉体ではありませ
ん。直霊の神である私です。神である私ということは、あなた方も神の子であり、神なんです。
  
只業想念が邪魔をして、鼻っかみじゃなかろうか、なんて思うんですね。神さま/ って全部
神さまにまかせてしまって、神さまと一つになり、そして降りてきたような、それは私ばかり
でなく他にもあるはずです。みなさんもそうなりつつあるんです。
そうなる一番良い方法は何かというと、世界人類の平和を祈る想いなんです。何故祈る想い
7?
がよいかというと、世界人類が平和でありますように、ということは神さまのみ心でしょう。
この地上界が天国になることは神さまのみ心なのです。世界に戦争があったほうがよいなん
て、神さまは想ってはいません。神さまは平和のほうがいいんです。大調和だし統一体なんで
すから、すべてのすべてなんです。完全円満なんだから平和であることは、神さまのみ心の現
れなんです。だから、世界人類が平和でありますように、と想う心は神さまの中に入っている。
わかりますか。世界人類が… …と思う時にはもう神さまの中に入っちゃっているんです。とこ
ろが今迄誰にも自信がない。世界平和っていったって、と思うんです。
けれど”ハイ、私が神さまとつながって、世界平和の祈りを神さまがやれといって、私にや
らしているんだ。世界平和の祈りを唱えれば、必ずここに大光明が輝き出るんだぞ”と私が明
言しますよね、それで私がいろんな奇蹟をやって見せます。いろんな病気が治ったり、不幸が
治ったり、知らない間に心が豊かになったりしますからね。そうするとそれを信じます。信し
た心でやりますから、世界平和の祈りの中にズーッと入ってゆく。信じて世界平和を祈る人々
7s
人は神の化身
がだんだんく多くなると、みんなの想いが伝わっていって、祈りを知らされた人が知らない
間に世界平和の祈りの中に入ってしまう。だから、私のことなどを全然知らない人がした祈り
と、ここにつながっている人の祈りとは全然違うのです。
はしごうっわ
何故違うかというと、梯子だんがないからです。五井先生という器があって、それを梯子だ
んにして登ってゆくんです。船戸さんじゃないけれど、神さまというのは五井先生だと思って
いる、それで自然に神さまの中に入ってしまう。世界人類が平和でありますように、というの
は私の肉体を梯子だんにして登ってゆくんですよ。或いはエレベーターでもあるんです。とこ
ろがこういう器がないと神さまの中へいかれないんですよ。
逃げないで責任をとる
今迄の宗教家というものは、自分のことを想いなさい、なんていう人は殆んどない。自慢を
して、白分を見せようとして、自分は儲けようとして、私にすがればいい、その代り一万円よ
79
こせ、というんじゃだめなんです。そういう人は大がいそうなんだ。自分を想いなさい、助け
てやる、というのはみな金取り主義なんです。立派な宗教家といわれるような人は、自分のこ
とを想いなさい、なんて誰もいわないのです。何々の神を想いなさい、天照皇大神を想いなさ
い、イエス様を想いなさい、観音さまを想いなさい、そういって神さまを想わさせたのです。
自分ということはいわないんです。ここは大事なところなんですよ。ところが何々の神という
ちゆうしよう
のは抽象的なんですよ。つかみどころがない。天照皇大神といったってちょっと掴みどころが
ないでしょう。イエスキリストは、本当のクリスチャンにはイエスはふさわしいからよいけれ
ど、ふつうイエスキリストといってもイエスは今いないから、掴みにくいでしょう。稲荷大明
やしろ
神といったっていないから、つかみにくいでしょう。それでお社にしたりしている。
神社は木で造った概やす。この概げ内に神さまが宿るくらいなら、この神秘不可思議なる肉
体の中に神さまが宿らないわけがないでしょう。よく考えて下さい。お社は木で造ったもので
す。木より肉体の人間のほうが偉いに決っている。木で造ったお社の中と、肉体の人間の中と、
80
どっちに神さまが宿るかっていうんですよ。わかりますか。
今迄は自分の責任を逃れる人もある。或は自分というとなんだか自慢気だから、遠慮して、
天照皇大神とか、あの神社を、とかいうんですよ。それでわざく像を造って、お社に置いて
拝ましたり、自分は神主みたいにやっているだけなんです。そうすれぽ責任は自分にはないや
やしろ
ね。その社の中の神さまにある。或いは像にある。或いは祈っている本人にある。お前の信仰
が足りないからということになる。そうやって逃げられたんですよ。ところが今みたいに、激
しく業が出て、今にくびれそうになっているのに、そんなことで逃げてはしょうがない。そこ
で、サァ私のことを想いなさい、五井先生を想いなさい、というのが私の教えになって来たん
です。
人は神の化身
五井先生を思いなさい
私のことを想いなさい、五井先生を想いなさい、こんなことはふつうじゃいえないんですよ。81
これは大犠牲でないといえないんですよ。五井先生を想いなさい、といって向うが想うたびに
お金が入ってくるなら、私は邸が建っちゃうね。ところが想ったって想ったって、夜中の三時
に想ったって五時に想ったって、私は一銭にもならないんだから。一銭にもならないことをや
る程バカなことはないでしょう。想いというのは伝わってくるんです。おなかが痛い、五井先
生っていえば、おなかの痛いのがこっちへ伝わってくるんですよ。頭が痛いっていえば、頭の
痛いのが伝わってくるんです。憎らしいといえば、憎らしい想いが伝わってくるんです。波な
んだから伝わってくる。伝わってくるものを報酬なんか受けないで、サァ私のことを想いなさ
い、ということはなかなかいえない。
ひとの道、というのはお振替えというのをやりました。それで病気を治す時に、お振替えッ
て教祖のほうに病気の想いを返しちゃう。ところが振替料というのが要るんです。振替小切手
(笑) か何か。何か包んで出すんです。私の場合には、朝でも晩でもいつでも想っても、いち
いち今日は一回想いましたから、今日は二回想いましたから先生ッて送ってくる人はないんで
82
人は神の化身
すよ。こっちは想いっ放し、想われっ放しなんですよ。みんな伝わってくる。その上で、みな
想いなさい、と想わせることは、これは十字架なんです。
何故、この固有名詞の五井先生なんていって想わせるかというと、想いやすいんですよ。神
さまに伝わりやすい。それは高慢だ、という人があったら、その人はやらなくていいんですよ、
想、兄ば必ず利益がある。利益があるのは向う。私のほうは無利益。想えば想っただけ助かる。
ああ先生にまかせたから大丈夫だ、そうすると破産の手前でもなんとか助かる。たとえば破産
しても、あああと大丈夫だと思う。それは本当は私が受け合わなくても大丈夫なんですよ。人
間の運命というのは必ずよくなるに決っている、神さまさえ想えば必ずよくなるに決っている。
何故ならば、神さまは完全円満なんだし、人間は神さまの子なんだから、絶対に悪いことなん
かありっこないんですよ。悪いことなどというのはみな消えてゆく姿なんだ。
ただそれだけじゃわからない。それで五井先生を想いなさい、とやるんですね。想うでしょ
てんか
う。すると責任の転嫁ですよね。いっぱい詰まっている自分の想いを、私のほうに渡しちゃう
83
からね。すると気が楽になる。ふつうの人でもそうですよ。向うが、うちの姑はこれこれで、
うちの嫁はこれこれで… … と愚痴のいいっ放し。こっちはああそうですか、と聞いているんで
す。さんざんおやじの悪口か何かいっちゃって、いうだけいうと向うは気が楽になる。うっか
り「そいつは悪いですね、あんなの貴女のおやじさんですか、ダメですね」といったりすると、
逆に怒っちゃったりする。
これぞ菩薩行
たた
人間は想うだけのことをいいたいんです。貯めておけないの、貯めておくと病気になったり、
不幸になったりするから、いいたい。いえる相手の人はどこにもいるというわけでもない。ふ
つうだったら嫌ですものね、またあの人は愚痴をいって、隣りのお婆さんが来たら逃げような
んて思う。ところが私の場合は逃げもかくれも出来ない。道場にいるから。ああ来たな、と思
って、愚痴をああそうかくと聞いている。本当に聞いたって聞かなくたって私のほうはいい
84
人は神の化身
んです。
「ああさっぱりした。先生が聞いてくれて有難い」といって帰ってゆく。そうすると気が晴
れてその日一日愉快。ところがこっちに想いはみんなかぶってくる。
たとえば電話がかかってくる。「五井先生、実はうちの子が四〇度の熱がでまして」「ハイ
大丈夫ですよ」ってこっちはいうんです。大丈夫というからには大丈夫の責任をとらなければ
ならないでしょう。はじめ電話がかかってくる時なんか、いやな気持なんです。こっちはお浄
めしている。霞話がかかってくる。「先生、ちょっと」と呼ばれるでしょ、「実はうちの子が
四〇度の熱が…… 」といわれた時はギョッとするですよ。次の瞬間にわかりますから「ハイ大
丈夫」という言葉が出るけれど、その瞬間というものはなんともいえない嫌なものです。また
「先生、手形が今日どうしても割れなかったら破産なんです」という電話がかかってくる時の
嫌なことってないです。手紙もそうですよ。
何か悪い人が来て「今日は」といった時、ああと思いますよ。「ああ大丈夫」と次には思い85
ます。その瞬間のいやなことが連続しているけれど、瞬間のひっくり返し、ひっくり返しがわ
かるからいいんです。
「大丈夫」という一言で熱が下っちゃう。そういう責任は誰がとってくれるかというと、神
さまと肉体の五井先生の連盟なんでね。肉体のほうと霊のほうと連盟して「大丈夫」というん
です。だから大丈夫といった以上は大丈夫なんですね。ズーッとそうやって来ている。それで
みんな安心している。
こんなこともあります。ある結婚の相談を受けた。駄目だといったのですが、よくみるとも
う結ばれてるんですね。だめだといったって結ばれていてどうにもならない。どうしても許さ
なければならないでしょう。だめだ、といったらよけいだめになる。そこで「よし、なんとか
助太刀しましょう」ってことになる。さあ結婚して、うまくいかない。案の定どうにもならな
くなっちゃう。そうすると「先生がいいっていつたじゃないか」とくるんですよ。いいなんて
いいやしないんだ。向うが実際上に結婚しちゃってるのに、いいも悪いもないでしょう。しょ
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人は神の化身
うがないから、いいというんです。けれどその時にはもう私は責任を負うのです。文句をいっ
て来た時に、本当のことをいったんじゃ身も蓋もないから、ああそう、それはいけないね、と
応援するんです。朝から晩までそうなんですね。
このような人が在るということは大切なことです。たくさん出来たらいいと思うんです。そ
うすればこの世界の業の想いというのは、パッパッと消えてゆきます。私と同じような想いで、
私と同じような教えをしている人がたくさん世界中に出てごらんなさい。業想念はその人が背
負って消してしまいます。私のような人がだんく増えます。身をもって身を投げ出して皆引
受けてくれるんですから。それを菩薩行というんですね。
短気な私、気の弱い私を祈りの中に入れる
皆さんの中でも古い人は、いろいろ相談されると「世界平和の祈りをしましょう」って世界
平和の祈りをする。要するに世界平和の祈りの申に入っちゃって業がみな消える。だから肉体8?
の人がいなくてもいい。世界平和の祈りを皆に宣伝して、祈ってもらえば世の中はだんく光
明化してゆく。何故ならば、もう一度いいますが、神さまの御心は世界平和を願っている、世
界平和そのものが神さまの御心なのです。今日も「オール読物」に宇宙人とのなんとか、とい
うのが書いてありました。やはり宇宙人はいいことをいっているのです。嘘じゃないと思うん
ですけど、宇宿人はとに角、平和ということを一番望んでいるというんです。
平和ということはただ言葉ではだめなんです。心からの平和ということが一番望ましい。・び
から平和を望んでない者は誰もないんです。だけど業想念で平和になりゃしない、と否定して
いるんですよ。貧乏な人がいます。貧乏になれちゃうと、馴れるというと変だけど、貧乏に切
りきざまれて心がしぼんでしまって、私みたいな者は幸福にはなれはしない、私みたいな者は
金持になれっこない、という風に思っているんです。短気な人は私の短気は治らない、性来短
気だって威張っている。気の弱い人は、私は気が弱いですから、どうせ弱いから、とやってい
る。自分で勝手に自分を神さまから離して弱い者にしているんです。弱い者にしている想い
88
は、自分じゃ離せない、自分で離せないから、その離せない想いごと、そのままこの身このま
ま、世界人類が平和でありますように、と神さまの御心の中に世界平和の祈りで入っていって
しまう。そうやっていると、いつの間にか、弱い自分も、短気な自分も、不幸な自分も、貧乏
な自分も、病気の自分も、みな世界平和の申に入って溶けてしまうんですよ。
私のところに来まして、祈りをしてますと、気の弱い人が随分強くなる。鼻柱が強くなるん
じゃないですよ。気が明るくなってくる、明朗になって顔色が変ってくる、美人になってくる。
艶がよくなってくる。そういうようにだんだん変ってくる。何故変るかというと、世界平和の
祈りは神さまの御心だからですよ。世界平和の祈りより良い祈りはないんですよ。
人は神の化身
神のみ心と一つになる
いろんな宗教にいろんな祈りがあります。ナムカラタソノートラヤアヤアというもありま
す。南無阿弥陀仏もあるでしょう。南無妙法蓮華経というのもあるでしょう。いろんな祈りが
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あるけれど、その祈りの意味を本当に知っている人は少いんです。意味を知らないでただ祈っ
ている。だから本気になれはしません。○○ (言葉不明瞭) の人でもお経を読んでいますね。
年申聞かされるんだけど、なるたけ早く終らせようと思ってネ、時間が三十分も一時間もかか
るでしょう。早くいわないと仕事にならないんですね。ご飯は食べっぱなしでやらなきゃなら
ないでしょう。片づけなきゃならないでしょう。意味も何もわかりやしませんよね。ただ早く
片づけちゃおう、今日は三十分かかるところを十五分でやりましょうなんてね。やりさえすれ
ばよいと思っている。そんなので何になりますか。自分をごまかしている、お経という名を借
りて、ただ自己満足をしているだけなんです。自分の頭を満足させているだけであって、本当
に神さまの申に自分が入っているわけじゃない。
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私どもの天命が完うされますように
90
人は神の化身
という祈りは、わかるもわからないもないんだ。はじめからわかりきった言葉なんだ。だか
ら考える余地がない。余地がないということは、世界人類が平和でありますように、という時、
祈りの中に自分が、想いが入っている。本心の中に入っている。神さまの御心の申に入ってい
るんですよ。こんなにやさしい祈りはないんです。
こんなやさしい祈りを何故今迄しなかったか。今迄もやつた人があるかもしれない。しかし
「世界が平和であればいいなあ」だけでは、やっていたうちに入らない。いいなアじゃだめな
んですよ。神さまの御心の中では、世界人類は平和であるんです。その御心の中に跳びこんで
しまう。こんな簡単な言葉で祈りを教えているのはないんです。
南無阿弥陀仏よりわかります。南無妙法蓮華経よりもわかります。どんなお経よりもわかり
ます。
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
91
私どもの天命が完うされますように
守護霊様、守護神様、神様有難うございます
こんなわかりやすいのはない。ちゃんとお礼まで入っている。お礼いわれちゃあ、神さまの
ほうでも出さないわけにはいかないんですよ。先にお礼しちゃったほうがよいですね。それで
特に守護霊守護神に感謝をするわけです。そうするとそのまま、その人の心、想いは神さまの
申に入ってしまう。それをいつでもやっているんですよ。といって、いつも世界人類が平和で
ありますように、と口に出していう必要はない。心でいちいち唱える必要もない。わかります
か、こういったところが大事なところですよ。心で年中唱えていなければならない、と思って
いると、何か事務をやっている時、ソロバソをはじいている時に間違ってしまいます。世界人
類が平和でありますように、という想いをいつも抱いている。いつも守護霊守護神に感謝して
いる想い、こういう想いが心の申に一杯になるんですよ。一杯になると、そのまま何も想わな
いでも、世界人類の平和をここから(胸のあたりをさして)奏でてる。そういう人は歩いてい
92
ても、中から光が出ている。何故ならば世界人類の平和を祈る心は神さまの御心だから。
この問もS さんが自動車と塀との間にはさまっちゃった。その時に平和の祈りをパッとした
んですよ。歩いていても、ねていても、いつもしているんです。そうしたらなんでもなかっ
た。あとで考えたらその狭さが人閥の肉体が入るよりズーッと狭かったというんです。或る娘
さん、小さい子だけど、火箸か何か、眼の中に突きさしちゃった。五井先生! といったそうだ
けど、突きさしたけれどなんともない。本人もケロケロッとしている。物理的に突きさしたと
ころに傷あとでも残りそうなものなのに、どこにもない。そういうことがあるんですよ。
植芝先生、五井先生の極意
人は神の化身
世界平和の祈りを唱える心、想いはこの三界の業生の世界、三次元世界を超えて、四次元の
無限次元の世界に入って、神さまの御心の中に入ってしまうから、怪我をするわけがないんで
すよ。
93
合気道の植芝盛平先生などは、無限次元の中に入っちゃった。宇宙と一つになっている。宇
宙と一つになっているから、五尺ぐらいのおじいさんですけど、いい若い者が三四人集ってい
くら押しても、全くびくともしない。ニコニコ笑っている。そしてヒョッとやると若い者がみ
んな飛んでしまう。木刀でもって集団でかかっても、ヒョッとやるだけでみなヒャーッと飛ん
じゃう。そういう方なんですよ。何故そうなるかというと、自分が宇宙と一つだからです。自
分が宇宙だったら、宇宙より大きいものはないからね、自分は肉体ではないんだから、神さま
の御心の中に入っちゃう。神さまを打てるわけはないでしょう。縦、横、厚みを超えた中にい
るわけです。いくら打ったってそこにいないんです。ところが目には肉体は見える。見えるけ
れど、そこにいないんだ。宇宙と一つに融けちゃっているから。だから打ったって、打ってゆ
くほうの自分の想いで自分を叩いてしまう。
想いというのは、なぐろうとする想いはなぐられる。敗かそうとする想いは敗かされる。だ
からいくら強いボクシングのチャソピオソでも、最後には敗けるでしょう。チャンピオソの座
94
人は神の化身
から落ちます。なぐろうと想えば、宇宙をグルッとまわって自分に返ってくる。宇宙そのもの
の人に打ってゆくんだから、先生がヒョッとやれば自分の力でもってすっ飛んでいってしまう
んですよ。そういう風に出来ている人が植芝先生なんですね。
私はどうしているかというと、剣道もやったことはない、合気道もやったことはないでしょ
う。何もそんな鮮かなことをやったことはないんですが、向うから悪い奴が来る(私にはそれ
が見えないんですよ)と私はそっちへはいかない。知らない間にスーッと反対のほうに出ちゃ
う。そしてひょっとふりむくと、後から来た人がそっちへ廻った。悪い奴に恐喝されて蕃口か
何か盗られている。それはどういうことかというと、私には盗もうとする心の波の中にいない
から、その人と合わないんですよ。合わないからスーッと反対の方向にいってしまう。窓ガラ
スが落ちて来たことがある。その時私はなんとなくよけたら、パターッと落ちてきた。人道と
車道とあって、車道を歩いていて、うしろから車が疾走してくるのを知らない。しかしなんと
なく人道に上った。そのそばを猛烈な勢いで車が走りすぎた。瞬間瞬間なんでもなく変ってゆ
95
く。自然になっている。私を害そうとするものは向うにいってしまう。それが私の生き方なん
です。
宗教紙を読んで、あいつ生意気なことをいっているから、やっつけちゃおうなんて人もある
んですよ。私は「ああそうですか、そりや結構ですね、よいですね」って聞いている。聞いて
ばかりいるんだから、向うはやっつけようにもやりようがない。「君の意見を聞かせよ」「私
はあなたに申上げる必要はありません」喧嘩になりませんよ。これを無手勝流というんです。
そこは合気道だと思っている。そうしたことを眼にも鮮かに、肉体で見せる方が植芝先生。
その極意は何かというと、入間は肉体ではない、人間はみな神の子なんだ、宇宙なんだ、自
分がそのまま無我になれば、天御中主神と一つなんだ、創造主、神さまと一つなんだというこ
と。それを身を以って体験して現わしていらっしゃるのが植芝先生。
私は宗教的に説きながら、運命としてそれを現わしている人なんですよ。そういうわけで、
皆さんでも出来るんです。そういうことでは人間は謙遜することはありません。それは卑下に
9G
なります。人間は神から来た者です。神の化身なんだ。化身がまだ現われていないんですね。
神さまそのものが八百八神に分れて、ここに来ているんですよ。みな神さまなんだ。神さまの
子なんです。それを遠慮しちゃって、自分は肉体でどうにも出来ないと思う。どうにも出来な
い人間なんてないのです。自分は神の子なんです。といって、神の子だくと借金するのも平
気な顔で返済もしない、というのでは、これは業の子です。そういうのではない。神の子であ
ればあるほど、神の分霊であればある程、愛の心がある筈です。神は愛なんだから。
神は愛なり、光なり。
人は神の化身
97
98
人間は光です
昭和3年5月3日東京割烹女学校
人間は光です
人間というのは、ここに肉体があるんだけれども、実はここにあるのではなくて、光が流れ
くう
て来ているんですよ。純粋な無念無想というか、空といいますか、そういう状態で光そのもの
になっているわけです。だから常に自分が光にのって、光そのものになって動いているわけで
す。植芝先生はそうなんです。光そのものだから、業の肉体はないんですよ。
肉体が立っていますから、肉体だと思って、向うはぶつかってくるけれども、光だから打て
人間は光です
ないんですよ。形があるけれどもない。そういう人にいくらぶつかっていっても駄目です。ち
よっと見ると、遊んでいるみたいでしよう。八百長みたいにわざとぶつかっているように見え
るかもしれませんが、かかってゆくほうは一生懸命汗を流している。汗を流してわざと出来る
ものじゃないですよね。一生懸命打っているんだけれど、どうしようもない。どうしてかとい
うと、そこに植芝先生はいないんです。私が見るとよくわかる。肉体なんかありやしない、光
があるだけですよ。宇宙にひろがっていますから、いくら打ったって無駄です。住んでいる次
元、世界が違う。
くう
それと同じように、人間は空になって、我欲がなんにもなければ、本当は光そのものになっ
ている。だから、不幸というものも、事故というものも、病気というものも、貧乏というもの
もぶつかって来ない。何故ぶつかって来ないかというと、事故でも病気でも貧乏でもみんな業
想念なんです。カルマなんです。
業想念というのは何かというと、自分は神さまの光であるなどと思ってもみない。人間は人
99
間で、肉体だと思っている想いがもとなのです。その業想念の波の中で生きているから、業想oO
1
念がぶつかると、怪我をしたり、貧乏になったり、或いは病気になったりするんです。ところ
がそこをぬけ出して、神さまの中に全部入っている人は、光そのものになっているわけです。
或いは光の波に乗せてもらっているわけです。業があると業をつかんでいるわけです。業と業
とは仲がいいから、つかまれてしまう。業のままでいたら、怪我をするか、悪いことをされる
かするんですけど、それが、五井先生という名前を通して、咄嵯に光の中に入ってしまうと、
業は消えてしまうんです。業が離れちゃう。
幸福をつかむ方法
この世の申で幸福をつかむにはどうしたらいいかというと、光の波に常に乗っていることな
んです。或いは自分が光になってしまうことです。光そのものになればそれは覚者というんで
す。植芝先生がそうですね。そうなってしまえばいいんだけど、なかなかそうなるには大変で
人間は光です
す。例えば植芝先生のような人が、宇宙と一つになればいいんだ、やってごらんなさい、とい
うけれどどうやっていいかわからないですよね。植芝先生は遊んでいるみたいにやっているか
ら、それをそのまま真似してみよう、なんてやったら、木刀で撲られちゃう(笑)形を真似し
てもだめです。
宇宙と一つになるには、何生かけた前の世前の世から修行に修行を重ねて来た人が、また今
生でうんと修行して、それでああなるわけです。名人達人を超えた超人、神の化身というんで
すね。神さまと全く一つになっている。全く一つになっているから、神さまを打つわけにはい
かないです。神さまというのは宇宙にひろがっているのだから。それは光そのものになってい
るということと同じです。
ですからお弟子さん達も随分長いことやっている人がたくさんあります。みんな術として、
技としては出来ますね。しかし植芝先生のように鮮やかにはいかない。何故出来ないかという
くう
と、技ではないからです。すっかり空になって、神さまの中にすっかり入ってしまっている。
101
アメノミナカヌシノオオカミ
天御中主之大神というのは、宇宙そのものという意味です。宇宙大に拡大しちゃう。宇宙大に
拡大するというのはどういうことかというと、自分の想いがまるっきり無いということ。恐れ
もなければ、なんにもない。なんにもない人は宇宙大に拡大しているんです。宇宙になってい
る。宇宙は空ですから打ちようがないんですよ。
それをいうんだけど、なかなかそうならないでしよう。そこで私はどうするかというと、観
世音菩薩の働き、いわゆる自分が身に替えて、みんなを救い出そうという働きをしているわけ
なんですよ。
自分が光になって、さあ五井先生といいなさい、世界平和の祈りをしなさい、そうすれば咄
嵯でも救われる、と説教しているわけ。
光の波に乗せてもらう
この世の中が地上天国になるにはどうしたらいいかというと、みんなが光になるか、自分が
102
人間は光です
光になりきれなかったら、光の波に乗せてもらうのです。
この間、面白いことがありました。お母さんがお腹が痛くて痛くてしようがなかったので
す。すると、小岩のほうの四つか三つぐらいの女の子が、五井先生を呼べばすぐ直っちやう
よ、というんですよ。そしたらお姉ちゃんが、呼んだら、どのくらいかかって先生くるかし
ら、という。五井先生、光に乗ってくるんだから、すぐ来ちゃうよ、とこういうんです。三つ
四つの子ですよ。何もお説教なんか聞いちゃいませんよ。けれど知っているんです。何が知っ
ているかというと、その子の魂が知っているわけです。
本当に光に乗ってくるのです。いみじくも本当のことをいうんですよね。だからつねに光の
波にならなければだめなんです。光の波になるにはどうしたらいいかっていうと、常に神さま
を思うことです。
ところが神さま! ってどこにいるのかわからない。わからないし、つかみどころがない。そ
こで五井先生なら五井先生という名を通して、キリスト教の信徒がイエス様、というようにイ鵬
エスのみ名を通してというような形で、神さまの中に入ってゆくわけですね。私は梯子段で
す。天と地をつなぐ梯子段が私なんです。だから皆さんは、黙って梯子を登っていけばいいん
ですよ。五井先生五井先生五井先生五井先生って登っていくんです。
咄嵯の場合、狼がやって来た、虎がとんで来た。その時、五井先生! ていうと、スーツと天
から綱が下ってくるから、それにつかまって上にあがってゆくわけです。すると下を狼や虎が
かすってゆく。だから常に神さまの名前を呼んでいるということは、常につながっているとい
うことなんです。
この五井先生というのは、自分で話すといいにくくてしようがないけど、この肉体はここに
あるけれども、無いんです。あるんだけれども無い。みんなも同じで、あるんだけども無い。
ただ見えているだけなんです。人間の目に見えているだけなんです。
ところが、そんなことをいっても、あるじゃないかっていうんですよ。あるにはある。目に
見えているようにある。だけど実際にここにあるわけじゃない。ただみんなの目にふれている
104
人間は光です
だけなんです。
みなさんも、いつもいうけれど、ここにいい顔をして坐っているんです。悪い顔をしている
人はいないけども(笑)坐っている人というのは、実はここに坐っているわけじゃないんです
よ。これは光の波と業の波がまじって、大体、光の波が多いですよ、こういう所へ来る人はね
(笑)波が幾筋も幾筋もここに来て、ここに止まっているんです。いいですか。光と業の波が
混ざったものが、ここにみんな来ているんです。
そうすると、こちらから大きな太陽よりもつとすごい光から波が、皆さんのほうへずーっと
入ってゆくんです。言葉とともにね。こうしゃべっている時に、業が混っている皆さんの光の
波の中に、もう金色に輝いている人もあるけれど、輝かない人もあるでしょう。金色の光、あ
るいは白光の光がサーっと入つてゆくんです。すると、光の波がきれいになってゆくんです。
だから声の言葉を聞こうと聞くまいと、居眠りしたっていいんですよ。どうぞご遠慮なく(笑)
心は聞いている。ということは、光の波がここに来ているんです。そして掃除しているわけで鵬
す。ビューっと光が入っていって、きれいにするんです。そういうものなんですよ。06
1
自分は肉体と思ってはいけません
ですから、みなさんは肉体と思っちゃいけないんですよ。人間は肉体である、という観念か
ら一日も早く脱却しないと、本当の地上天国は出来ないんです。
人間は肉体じゃない。何かというと、霊なんです。光なんです。光線なんです。太陽があっ
て光り輝いている。明るいですね。しかし光線は光線としては見えやしないです。しかし光線
はある。それと同じように、みんな光の波が天から来ているんです。
それを肉体というものの中に把われていて、肉体のほうばかり見ているから、ああじゃな
い、こうじゃない、というふうに太陽の光を否定してしまうんですね。神さまから来ている人
間の自分の力を否定しちゃって、否定しただけ汚れているわけです。だから人間というのは、
勝手に苦しんでいる、ということになっちゃうんですよ。
人間は光です
ところがみんな間違えて、私は今までかつて、生れてからこの方、悪いことをしたことがな
い、という人がある。ちっとも悪いことをしていないのに、私は不幸なのはどういうわけか、
神や仏があったら、こんなに私を不幸にするわけがない、自分は悪いことをしたことがない、
というのです。
悪いことをしたことがない、というのは誰がきめるのか。
悪いことの一番の根本は何かというと、自分は神から来たものである、ということを否定す
る考え、神と自分とは一体であるという考えを否定しちゃって、神と人間とは別なもんだ、と
わけみたま
いうように思うことなのです。これが根本悪なんです。神から分れた光線なのだ、神の分霊な
んだ、ということをはっきり自覚しない以上は、それだけ悪なんですよ。
それを否定していて、神も仏もあるものか、という。そういう時には、もうすでに地獄の心
なのです。そういう想いを持ちながら、神さまに助けてもらおうと思うんですから、度しがた
いですね。お金を下さったり、お米を下さったりしている人の悪口をいうのと同じなんです。斯

天の恵み、地の恵みで生きているのです。神というのは天にもあるし、地にもあるわけでしょ08
1
う。天地縦横に光り輝いているのが神さまで、その中から、人間が生きるすべての原料をもら
っているわけです。
もらっているくせにして、神さまはないッていうんですよ。唯物論者はどうかしてるんじや
ないかと私は思うんです。神さまを否定する人はどこか頭が少し狂っているんです。神さまな
くてあんたどうして生きているのか。俺、いのちで生きてる。いのちは誰からもらったの。親
おや
から生れてきた。その親はどうしたの、うーん親の親だろう、親の親はどこから生れたの、親
おや
親だって(笑)だから私もおやおやという(笑)それじゃその親の親の親はどんなんだ、親の
親の親の親だ(笑) 一番元はどうなんだっていったら、知らないという。それは自然だという
んです。
科学者と宗教者
人間は光です
自然という言葉は便利なんです。そういえば何か解決ついたような気がする。物が上から下
に落ちる。どうして落ちるのか、重力、引力の原理だ。引力って何、わかりやしない。何にも
わかりやしないんだ。言葉をつけただけであって、発見しただけであって、なんにも本当のこ
とをわかっているわけじゃない。ところが科学でさえも、物質というものは原子であり、電子
であり、素粒子であり、それを探ってゆけば波動なんだ、というんですね。
科学がそこまで来ているのに、科学的科学的といっている唯物論者は、波である人間を否定
しちゃっているんです。それでやっぱり物質だ、物質だと思っている。そして物質の利益のこ
とばっかり考えている。まず肉体のことを想い、物質のことばかり想っている。それで神なんか
無いっていう。ところが進んだ科学者というのは、みんな神を否定していないんです。神の力
を認めているんです。ただ神といわないで、不可知なるもの、不可思議なるものといっている。
科学は目に見えるほうから探ってゆく。そして物質というものはすべて波動から出来てい
る、というところまで来たんですね。さてこの波動はどうなっているのか、わからない。波動㎜
ってなんだかわからない。今にわかるだろうと思って一生懸命研究している。
宗教者というのはどういうかというと、目に見えるものは一切否定しちゃった、五官という
ものを全部否定したところから始まっているのです。肉体の人間、物質の人間というのは何を
しようたって何も出来ない、駄目なんだ、自分の智恵では身の丈一尺を加え得んや、とイエス
がいいましたね。自分の力では一尺の身長も延ばせない、何も出来ない、爪さえ伸ばせない。
自然に伸びてゆくのです。自然というのは自分の力ではないんですよ。そのようにすべて一度
物質の人間を否定したところから宗教が始まる。そして神さまがわかってくる。直観的にパッ
と把握する。
肉体とか物質とかいうものを、いっぺん全部否定しちゃって、それから統一したり、祈った
りして、内観的に神というものをパッとつかむのです。ああ神さまはひびきなんだ、光なん
だ、とつかむ。
110
人間は光です
ことだま・柏手・光
はじめコトパ
太初に言あり、ああ神さまはコトバなんだ、アオウエイ、という五十音の言葉からなって
る。コトバは何か、即ち光である、というわけです。五十種類の光があるわけなんですね。ア
の光、エの光、オの光、ウの光、イの光、とあります。みなさんはそうした光の一つの光線で
コレパコトタマ
す。光が流れて来ている。光は即ち言葉である。そうして発声されたものを言霊というんで
す。この間、植芝先生がなさったのが言霊です。アオウエイーとやったでしょ。あれがお浄め
になる。
かしわで
私は初め、オームといってお浄めしていたことがあるんです。柏手をやらないで、おさすり
みたいのことをやっていたことがあるんです。オーといって、ムウーで止めるんです。そうい

うお浄めをした。オーというとパっと相手の愚きものがとれちゃう。そうすると病気が治った
りする。それはとても派手ですよね。小さな家でオームなんていってたんじゃ、みんな気違い
111

だ(笑)と思うでしょう。それでオームでなくなり、自然に柏手になって来たんです。
柏手というのは言霊と同じなんです。光なのです。光が流れて言霊となる。アといえばアの
光が流れてくる。オといえばオの光が流れてくる。ウといえばウの光が流れてくる。オの働き
の人、ウの働きの人、エの働きの人もあれば、イの働きの入もあるわけなんですね。アカサタ
ナ… … という働きの人があるわけなんです。それは光だからね。自分が動く度に、歩くたびに
光が流れてゆくわけなんです。それがわからないといけない。
人聞は光なんですよ。右に動けば右に光が流れてくる。自分が動くところが光の流れなんで
す。だから自分が光を流して歩くわけなんです。光がうまく調和してゆくところに地上世界が
出来るんです。それを光明燦然、大光明世界というんですよ。どんな宗教家でも光明といわな
い人はないです。光といわない人はない。みんな光なんです。霊というのは光のことをいうん
です。それが五十音あって、うまく組合わさってゆくと、地上天国が出来るんです。
112
地上天国が出来るには
人間は光です
地上天国が出来るのは、ただ、救って下さいくというんではだめなんです。自分が光にな
らなければならない。自分はアの働きであるかも知れない、オの働きであるかもしれない、イ
の働きであるかもしれない。そんなことはどうでもいいんです。自分を光り輝かすためにはど
うしたらいいかというと、いつも自分の中で、あれはいけない、これはいけない、病気になり
ゃしないか、不幸になりゃしないか、という迷いの想い、業の想いをいっぺんなくさなければ
ならない。それをいつもいっているんです。
なくすにはどうすればいいかというと、神さまの中に入っちゃうこと。ところが神さまは見
えないから、どうしたらいいかといえば、神のみ心である世界平和の祈りをしなさい、とい
う。世界平和の中に想いが入ってゆけば、自分が光になって来ますから、幸福になるというわ
けです。だから幸福になることは簡単なんです。そんなに努力はいらない。滝にあたって、水m
を浴びて、山に籠って、断食して、なんていうことはもういらない。今更間に合いません。私
のような人が出て来たんだから、そして世界平和の祈りをしなさい、と神さまがいっているん
だから、世界平和祈りさえすれば自分が光になってくるんです。業の想いがなくなってくる。
業の想いさえなくせばいいんですよ。特別のことをすることはないんです。人はつまらない
こと、考えたって仕方がないことを考えるんですよ。あした天気かしら、雨かしら、あしたに
なればわかるじゃないか(笑)傘やさんなら考えなきゃいけませんよ(笑)今年は雨が多いか
しら、晴天が多いかしらと考えて、傘を仕入れたりしなければならないでしょう。よく聞かれ
るんですよ。先生、あさって雨でしょうか、その日になりゃわかる(笑) これは絶対間違いな
いから。そんなことを心配しなくたっていいんですよ。
たとえば、今、傘を持っていないとします、外では雨が降っているとします。ああ雨だ、帰
るまでに止むかしら(笑) よけいなことよ、そんなことは(笑)その時になればわかる。雨な
ら雨でいいじゃないですか、天気なら天気でいいでしょう。今、考えれば雨がやむか、という
114
とそんなことはないですよね。止みっこない。止むも降るもみ心のまま、なんてやったら止ん
じゃいますよ(笑)雨が降っていても、私が帰る頃は大概天気になっちゃう。この間も、私は
一人濡れてもいいけれど、みんなが帰える時に雨がやんでいればいいな、と思ったけれどそう
はいかない。
雨さん風さんご苦労さん
人間は光です
雨は降れば降るでいいんですよ。自分が宗教の会に入っていて、うちの宗教の会のときには
必ず雨が降らないんだ、と威張る人がある。ところが生憎と雨が降ったりするんですよ。そう
すると言い訳がつかないでしょう。そういうことをいうんじゃないんです。言い訳のつかない
ことをいっているのは高慢だから、わざと雨を降らしたりして、神さまに思い知らされるから
ね。そういう高慢の想いじゃない。
雨降らば雨の心になりぬべし聞

風吹かば風に融けて生くべし116
という私の歌がありますが、雨が降れば雨の心になって、雨さんご苦労さんでした、何か降
る因縁があって降るんでしょう(笑)なんかの為に降っているんですよ。神さまは無駄なこと
をするわけがないんだ。風が吹けば、風さんご苦労さん、風速二十五メートル吹いて、さぞか
しくたびれるでしょうね(笑)という心になれば、ヤァ有難うって風のほうでやんでくれます
よ。そういうふうに、呑気になるんですよ。楽天家になるんです。
むしやこうじさねあつ
武者小路実篤という人は、楽天家の第一人者ですね。なんでもかんでもいいほうに考えてい
る。面倒くさいことは考えないことにしているんです。苦労性の人より楽天家のほうがいいで
とく
すよ、得ですよ。同じ一軒の家に住んでごらんなさい。苦労性の人は苦勇ばかりしているか
ら、楽天家は平気な顔をしているからね(笑)苦労はみんな苦労性のほうにいっちゃって、楽
天家のほうは楽天のほうばかり受持っちゃうのです。だから苦労することはないんですよ。
必ず神さまのお役に立つと決っている
人間は光です
なにがし
この世にナンノ何某として生れた時でなく、なんの魂として生れた時から、地上界が出来た
時から、最後の地上天国というのは決っているんです。神さまの経輪として決っている。だか
ら、自分はなんの魂であって、何に生れ、何に生れ、何に生れ、何回目かしらないけれど、必
ず神さまのお役に立つもんだと、こう思っていればいいんです。
今、皆さんが生きているのは最後かもしれません。もう生れ替らない最後の人も大分あるわ
けです。最後には必ず天命を完うするんですよ。それは自分で完うするとか何んとかというん
じゃなくて、神さまのみ心が完うさせるのです。自分でやろうと思うことはいけません。自分
でやろうと思うのは我なんですよ。肉体のほうで勝手に思うんだから。ところが神さまのほう
では決めてあるんです。
大正五年十一月二十二日に私という者が生れるということは、もう決っているんです。それ
11?
でこういう仕事をするのも決っている。決っているんだけど、決るまでわからないんです。私118
てんじようてんがゆいがどくそん
はオギャーと生れた時、天上天下唯我独尊ってやらなかったんですよ(笑)先生がお生れにな
った時、何か奇蹟があったでしょう、なんてきく人があるけれど、私は生れた時、立って歩い
た憶えもなく(笑)我は光なりといった憶えもないんですよ。なんにもない。親はそんなこと
思っていなかったらしいですよ。貧乏そのもので稼ぐのに忙しくて(笑)あたり前に生れて結
わき
構なんです。イエスさんの誕生でも、あとから作ったかもしれない。お釈迦さまだって、腋の
下から生れたっていうんでしょ。そういうのは聖者というもの、自分の先生というものを偉く
見せたいから、いろんな話が伝わるけれども、当り前に生れて当り前に育った人が偉くならな
いと面白くない。
当り前の生れ方をして、当り前に育って、当り前に生きながら、ただひたすら神さまの中に
“神さま、どうかみ心のままになさしめ給え、どうかわが天命を完うせしめ給え、神さまの仕
事のために私をお使い下さい”といのちを投げ出していさえすればいいんです。”神さまのた
人間は光です
めに使って下さい、天命を完うせしめ給え” でも同じですよ。”わが天命を完うせしめ給え、
神さま有難うございます”それだけの想いでもいいんです。なんでもかんでも、自分が生れた
意義をあらしめ給え、ということを祈りさえすればいい。
天命を完うするためには、貧乏になったほうがいい場合もあるんですよ。それで苦労して、
いろんなことをおぼえて、それで天命を完うするかもしれない。或いは大病に大病を重ねて、
はい
その果てに、天命の道に入るかもしれない。そういうことはこちらではわからない。こちらの
ほうで、何年何月に何をして、何年何月に何になって、何年何月にどうする、なんてことをい
ったってしょうがない。そんなふうになりゃしない。だからつまらないことです。
教育の一番の根本
なんでもかまわないから、自分が神さまの子であることを悟ることが、大事なんです。みな
さんがお母さんだったりお父さんだったり・お祉外さんでお樫炉さんである場合、孫や子供に囎
いうことで、何が教育の一番根本かというと、あなたは神さまの子なんですよ、ということで20
1
す。神さまの分霊というと子供にむずかしいから、
「神さまから生れて来た子なんだよ。お父さんやお母さんは神さまからあんたを預って、こ
こに生んだんだよ。だからあんたは神さまから預っているだけなんだよ。本当はあんたは神さ
まの子なんだよ。だから神さまのために働かねばだめだよ。神さまのために働くというのはど
ういうことかというと、多くの人のためになることだよ。一生懸命、人のために思って、思い
やりがあって、それで生きてゆくことが、一番神さまのみ心に合うんだよ」
そういうように簡単に教えてやれば、信仰がわかっちゃう、宗教がわかっちゃう。ところが
そうじゃないんだ。お前偉くなりなという。偉くなるというのはなんだかわからない。それな
のに、偉くなんなけりゃダメだよ、お金持になんなけりゃだめだよ、金さえあればバカでも旦
那だよ、なんてね(笑) そういうんでしょう(笑) 金さえあればバカでも旦那っていう言葉を
聞いたことがあるでしょう。偉くなるということは、ふつうでいえば、地位が高くなって、総
理大臣になりゃ偉くなったと思う。本当はそういうような偉さじゃない。
この間も植芝先生と二人で話していたんだけど、私たちの世界では、大臣などというのは肉
体人間が作ったもので、問題じゃないんです。何が問題かというと、神さまと一つになるなり
方が、全く一つになること、これが問題なんです。それ以外に問題にすることは何もないんで
す。神さまからずれていればズレているだけマイナスなんです。不安があればあるだけマイナ
スなんです。恐怖があればあるだけマイナスなんです。憎しみがあればマイナスなんだし、怒
りがあればマイナスなんだし、嘆きがあればマイナスなんだ。とにかく、心がスッキリ晴れば
すず
れと、凍やかに澄みわたっていなければ、本当は神さまと一つじゃないんですよ。
人間は光です
菩薩の心
ところが残念ながら、前の世から前の世から、神さまを離れた行いをしたり、想いをした人
がこの世界に来ているんです。それでなければこの世に来ていないんだから。あちらで凍しい
121
顔をしているわけです。特別の人は、ああ苦しんでいて可哀そうだ、人が苦しんでいるから助2
1
太刀にいこうッて、菩薩としてここに降りてくる。だから肉体に生れている人の中でも、菩薩
として、本当は生れ更らなくてもいいのに、この地上界で苦労しなくてもいいのに、わざわざ
自分から好んで地球のために救いに来ている人もたくさんいるんですよ。それから生れたくも
ないのに、無理やり生れさせられ、ぎゅうぎゅう苦労させられて磨かれている人もある。二種
類あります。自分の心に聞いてみるとわかります。
自分はどうかな、と自分で聞いてみるといい。どういう人が菩薩かというと、まず人のこと
を考・兄てしまう。人が苦しんでいると見ていられないのね。人が悲しんでいると共に泣き悲し
んで、見ていられないで助けてやりたい、というような心のある人を菩薩という。そしてそう
いう心を菩薩心というのです。
自分だけ儲けたい、先生どうか儲けさせて下さい(笑)千万円儲かったら一割はおろか(笑)
なんてそういうのがあるけど、くれたことないですよ(笑)言葉だけでそういいます。それは
人間は光です
菩薩じゃない。ボサだ(笑)くれれぽまだ菩薩にしてあげますけどさ(笑)言葉だけくれちゃ
って、お礼はのちほど、さようなら(笑)で来なかったりして。いやあるんですよ。
たとえば儲けるにしても、儲けた金は社会のために使おうとか、人類のために使おうとかい
う心が胸の中にあって、それで一生懸命働いている人もあります。方々の慈善事業や社会事業
に出したりして、働いている人もあります。そういう心は菩薩心ですし、その人は菩薩である
かもしれない。だから事業家はうんと儲ければいいんですよ。どんどん働いて、どんどん儲け
て、そしていいことにどんどん使えばいいでしょう。
日本が世界一の金持になったって、少しもおかしくない。金があることが悪いことじゃない
んですからね。金があったほうが貧乏よりいいんです。何故かというと、いろんなことが出来
ますからね。人を救うことも出来ます。金があることが悪いんじゃなくて、金持が悪いんじゃ
ないですよ。金持が自分のためだけ、自分の道楽のため、自分のためだけに使っているから、
金持でなくて鼻持ちがならない。だけども、金があって、どんどんまいて、みんなを救うなら鵬
金持は立派なもんですよ。214
金を持っていて、地位があって、それで心が高ければこれは一番立派でしょう。そういう人
てんりんしようおう
を転輪聖王というんです。だからお金があることが悪いんじゃない。お金を儲けることが悪い
んじゃないけれども、中の心持ということが大事なんです。心持が社会のためとか、人類のた
めとか、人のためとかいうことが、つねにつねに心の中になければだめですよ。その人のた
め、という想いが神のみ心なんです。人類のため、というのが神のみ心なのです。
いい人というだけでは足りない
ところがそれだけじゃまだ足りない。何故足りないかというと、共産党の人などをみると、
とてもいい人が多いんです。人のため社会のためと思っていますからね。選挙の候補者公報な
どを見ますと、ああいい人だなと思ったのは、(共)と書いてあったり(社)と書いてあった
りするんです。共産党や社会党の人には立派な人、いい人がいるのですが、それだけでは足り
人間は光です
ない。その理由は神さまがないからです。
自分が過去世において、さんざん人をいじめたり、苦しめたりして地獄におちて、地獄で苦
かわ
しんで、ああ生れ更ったら人のために尽さなければだめだ、と思い、どうしても人のために尽
そう、社会のために尽そう、と思って生れ更って来た人があります。そうすると、その人に
は、なんでもかでも人のために尽したくてしょうがない心がある。それで人のために尽すんで
す。手段を選ばないで人のために尽す。片方のために尽すために、片方をぶん殴っても持って
ゆく。ねずみ小僧次郎吉じゃないけど(笑)そういうような場合もある。それは善とはいわな
いでしょう。
それと同じように共産主義などというのは、その人はいいように見えるのですよ。片方を殴
かた
って調和出来なくて、片方から奪い取って、片方へやろうというんでしょう。そういう心は片
はんぱ
半端の心です。ソピエットがいい例でしょう。ソビエットは社会主義になって、共産主義まで
まだいかないんだけど、人民のため、とかいっている人たちが上にたてば、やっぱり一番獅灘鵬
しているし、威張っている。片方は黒パソをやっと食べられるような人民階級があるでしょ。26
1
そうかと思うと、自家用車を乗り廻し、ウオッカかなにか飲んでやっているのもあるでしょ。
階級がやっぱり出来ちゃっているんです。平均していないんです。本当の調和じゃないから平
均しない。
上と下との差がとてもすごくて、下の者はうっかりすると首をきられちゃう。同じような地
位にいる人たちが、勢力がなくなると、うっかりすると首をきられてしまう。どこかへやられ
ちゃう。年中、戦々競々としている。夜ねるのもねむられないだろうと思います。そういうよ
うな所もある。何故そうなってしまうかというと、神さまにつながっているんではないから、
神さまの本当の調和という、真実の世界を造ろうとしているんじゃなくて、業のほうにまきこ
まれて、前生の因縁で人を救う立場、というとおかしいけれど、社会のことなどを考える立場
になっている。
物質的肉体的には平等にはならない
人間は光です
そういう人たちが神さまにつながれば、実行力はあるんだから、とてもいい仕事をすると思
うんです。うちの斉藤秀雄さんなどそういってましたね。あの人は共産党でした。何か支部長
をやっていたんでしょう。何んか人を救いたいという気持、社会のためにという気持は十分に
あったんだけど、神さまがわからないうちは、ほかの方へほかの方へと走っちゃって、人を憎
んだりして豚箱へぶちこまれたり、そして肺病になっちゃったんでしょう。いろいろあって、
こんど心霊を知って、神さまへつながって来たら、まるつきり変っちゃって、ちゃんと観世音
菩薩が書けるようになっちゃったでしょう。それで斉藤先生といわれ、喜ばれて、ニコニコし
ていればいいんでしょう(笑) 大変な違いですよ。
警官に追いかけ廻わされているのと、みんなに喜ばれているのと大分違うでしょう。どこが
違ったかというと、神さまとすがっただけなんですよ。やっている行為は同じようなことなん
127
ですよ。社会のためと思ったんだからね。28
1
共産党員の人たちがみんな悪い人じゃないけど、生き方を知らない。一番根本のものを知ら
ないんです。
わけみたま
神さまから人問は来ているんだ、人間は神の分霊だよ、みんないのちにおいて平等なんだ、
すべては神さまから来ている神の子なんだ、ということがわからない。平等ということはいう
んですよ。つまり肉体的に平等、肉体のいのちにおいて平等だと思っている。ところがそうい
うことはない。どんな地上天国が出来ても、肉体的に平等になることはありませんよ。
背の小さい人もあるでしょう。高い人もあるでしょう。太った人もあるでしょう。痩せた人

もあるでしょう。平等にして分けたらどうだろう、と相手の肉を削いでこっちへついだら(笑)
ということがあるでしょう。共産党の考えている平等というのは、いわゆるそうしたもので
す。そこまでゆくと、社会主義になって共産主義にならなくとも、やっぱり平等でなく不平等
になってくる。
それは当り前なんですよ。この世の中というのはピラミッド型に出来ているんだからね。ど
うしても段がつくんです。考えてごらんなさい、平等ってことはありっこないですよ。どんな
に考えてもこの地上界、肉体の世界というものは平等にならないんです。それを平等にしよう
というところに間違いがある。
神さまの平等
人間は光です
神さまのいう平等というのは何かというと、自分の役目を果してゆく、自分の課せられたる
役目、天命を果してゆく。足の天命の人もあるでしょう。指の先の天命の人もあるでしょう。
手の天命の人もあるでしょう。目の天命の人もあれば、頭の天命の人もある。目と鼻がどっち
が偉いっていうことはない。目は上にあるから鼻より偉いといったら、眉は目より上にあるか
らまた偉い、頭の毛はなお偉い、ということになるけれど、何がなくても困りますよね。だか
ら各々が自分の立場立場でもって、全力を尽せるような、迷わないでやれるような、そういう伽
世界が出来れぽいいですね。
恐怖がなく、苦しみがなく、楽しく楽しくその場その場の与えられた職場を守ってやってゆ
けるようになれば、これは地上天国ですよ。今はそうじゃないでしょう。働いても恐怖がつね
にある。食えなくなりゃしないか、という恐怖もある。病気になりゃしないか、という恐怖も
ある。原爆水爆の戦争になりゃしないか、という恐怖、或いは天変地変が来やしないかという
恐怖もある。そういうように、一生懸命やっていても、年中、恐怖が満ちているんですね。そ
ういう世界では、共産主義がいくらどうやっても、ソビエットがどうやっても、年中恐怖が去
らないんだから、天国にはならないんですよ。ただ形が変っただけなんです。そこで共産主義
はだめだということになるんです。
残されたのは何かというと、神さまにつながる政治、神制政治、神権政治といってもいいけ
れど、神さまの政治が行われなければだめなんです。この神さまの政治がやがて行われる時が
来る、もう間近いのです。もうじき神さまの世界の第一段階が出来るんです。それで皆さんは
130
その神さまの国の住人なんです。
私が動けば光が進む
人間は光です
神さまを思っていらっしゃる人は、神さまの国に住んでいるんです。神さまを思わない人は
神さまの国に住めない。それは亡びるより仕方がない。業はみんな消えてゆくんです。
今、業想念のかたまり、いわゆるキリスト教的にいえばサタン、悪魔というのが、私たちの
働きを邪魔しようと思って、さかんに来ているんですよ。家の中にいる場合には、もう光り輝
いているんです。随分楽なんです。一歩出ると、グーっと業想念が来るんです。頭の方へ来
る。肩の方へ来る。非常に当って来るんです。たまたまフツとなることがあるけれど、私は平
気な顔をして歩いています。統一会で祈っている時なども、すごく当って来ます。しかし神さ
まは光なんです。いくら囲が濃くても、ぶつかってくれぽぶつかってくるほど、業の方は早く
消えちゃうんです。それだけ早く世界平和が出来るから、いくらでもぶつかっていらっしゃ皿
い、という気持なんです。32
1
皆さん方でいえば、どんな貧乏が来ようと、どんな病気が来ようと、どんな不幸のようなこ
とが来ようと、来れぽ来るほど早く消えてゆくんです。自分の光が射してゆくんだからね。光
の方へ業が寄ってくれば早く消えるんだから、どんな貧乏が来ようと、どんな病気が来よう
と、そんなものはこわくない。それは消えてゆく姿なんですよ。私は年中、朝から夜中から、
二十四時間プラスアルファそれをやっているんです。消してゆく方なんです。光の進軍なんで
す。私が動けば光が動く、そうすると闇は消えてゆくんですよ。そういう世界に生きているわ
けです。
皆さんもそうなんです。個人個人、光なんだから、光の波にのっていつも歩いていればい
い。ああ我は光なり、と思ったっていい。ああ光の子なんだ、と思ったっていい。ああ自分が
歩いている時は、神さまの光が流れているんだなアーと思ってもいい。ああ有難いな、神さま
有難うございます。世界人類が平和でありますように、と自然に世界平和の祈りが出てくるよ
うに、自分が光になっていなければだめなんです。
光体の五井先生
人間は光です
もうなんにも思うことはない。そんなこというけど先生は、と思う必要はない。そう思った
ら、それは業の消えてゆく姿。神さまの子である、自分が光の子である、ということを否定す
る想いが出たら、それはみな消えてゆく姿。神さま有難う… … 何にも有難くないじゃないか、
という想いが出て来たら、それは消えてゆく姿。世界平和なんて祈ったってしようがない、と
思ったら、それも消えてゆく姿。
さっき或る女学生が来て、世界… というとなんだかおかしくなっちゃう。だから世界平和っ
てい・兄ないというんです。それじゃ五井先生って呼べる? ときいたら、五井先生は呼べるっ
ていうの。じゃ五井先生! って呼びなさい、同じだから。と教えたんだけれど、どっちだって
かまやしない。世界平和の祈りというのは私がやっているんだからね。私というのは肉体のこ鵬
からだこうたい
とをいうんじゃないですよ。肉体ではなくて光体、光の体が世界平和をやっているんです。そ
れが肉体の五井昌久という器を通って流れてゆくんです。
ところが光体の五井先生といったって、ふつうの人は見えやしませんね。霊眼の人には見え
ます。霊光写真がありますね。光が私なんであって、それを写したから光の写真が出来たんで
す。写真よりこの方が(ご自分をさして)余計に本物なんです。けれど本物より写真のほうが
ききめがあると思っている人があるんじゃないかな、どこかに(笑) こうやって柏手を打つ
と、光そのものが出ているんだからね。光の写真よりもこの方が効果があるんです。つい間違
いますよ。
ふつうの人には肉体に見えるけれど、肉体じゃないんです。光そのものなんです。ただ光か
ら言葉が出て来ちゃおかしいでしょう。なんだかテレビジョンか何かを見ているようで変だか
ら、やっぱり肉体というものがある。
134
神は光、人間も光
人間は光です
神に似せて人間は造られた、人間の形と神さまの形と同じだというでしょう。元は神さまの
光は光だし、人間も光なんです。形に現われれば、白髪の老翁になったり、天照大神さまにな
ったり、いろんな形になっていまさね。こちらへ現われて来ているのが人間の形で、神さまは
人間の形と同じなんですよ。大神さま宇宙神というのがもし形を現わすとすれば、同じ形。と
ころが形というものに限定されましょう。形は無限じゃないですね。そこで大神さまは形に現
われないで、守護神が形に現われるんです。
かつ
大神さまそのものは、いまだ曽て形に現われたことはないのです。モーセの十戒ではないけ
れど、”我はありてあるものなり”と声だけが聞えたのですね。ふつうの人が光の中から声が
出たらびっくりしちゃうですよ。モーセは浄まっていたから、びっくりしないけれど。ヨハネ

の黙示録というのが新約聖書にあるでしょう。キリストが現われます。目は利き剣の如く、と135
いうのでしょう。平れ伏してしまいます。神さまそのものが年中現われてごらんなさい、話を
聞くどころのさわぎじゃないですよ。ハーッなんて、うしろへ下がって、この部屋から飛び出
しちゃう(笑)
あまり本物が本物に出たら、居られません。太陽なら太陽がもっと近づいて来て、目の前に
くら
出てごらんなさい。それこそ目が眩んじゃって盲になっちゃいます。太陽よりもっと強い光が
目の前に現われたら、それは目があいていられませんし、仕事が出来ません。何日も何日も出
来ないでしょう。そんなことではいけないので、みんな一つの形に現わしたりして、防壁にし
て、少しつつその人に必要なだけ光を出すんです。相手によって、この人は一〇% でいいんだ
とすると、一〇% の光を出す。この人は一〇〇%なら一〇〇%出すかもしれない。だから世界
人類が本当に幸福になる時、業想念をいっぺんに消す時がある。そういう時には、大光明が一度
に出ると思うのです。そういうものなんです。ちょっと咳が出ますぐらいのに、一〇〇%光を出
したら、肉体がなくなっちゃうものね。それでは困るんで、少し出して毒素だけ消すんです。
13G
植芝先生のはなし
人問は光です
この間も、植芝先生ではないけれど「五井先生はもう一人一人の病気なんか直すのを止しな
さい」というんですよ。「そんなもの斉藤さんやいろんな人がいるから、そういう人たちに委
せてしまいなさい。ちょっと力をつけてやればいいじゃないか。先生は大きい仕事だけなさ
い」とこうおっしゃるんです。ところがそう出来ないんですよ。
私の役目は、個人個人の病気も直さなければならないし、個人個人の運命指導もしなければ
ならないし、いろいろ相談にのって、いい子だいい子だといわなければならない。忙しいけれ
どそれをやらなければならない。ところが本当のところからいげば、病気なんか放っておいた
って、直る時は直るし、死ぬ時は死ぬし、本当は放っておいたっていいんですよ。しかしそれ
じゃやっぱり私の気持がすまない。それで私は毎日、いい加減にしないで一人一人やっている
のです。塒
面倒くさいから束にしておいて(笑) ビューッてやったらいいじゃないか(笑) やっぱりや381
ってもらう方は何だか効き目がないような気がしますね、実際、効き目は一人一人のほうがい
いんです。同じ光を与えたんじゃいけないんだから、みんな違う光があるんだから、一人一人
やりますよ。八十五ぐらいか九十か知らないけど、よぼよぼのお爺さんになるまでやりましょ
う。だけど、植芝先生の考え方では「そんなの勿体ない」というのです。大きなことだけやり
ましょう、というけれど私はズーッとやってゆくつもりです。
植芝先生は光になることを教えている先生です。みんなが光なんだ、わしがそうじゃない
か、とこういっているんです。自分は宇宙と一つなんだ、だから敵は無いんだ。宇宙に敵はな
いじゃないか、と簡単におっしゃるけれども、これは大変なことなんです。そうなりなさい、
と見本を示している。私がこうなったんだ、だからみんなもなれるんだ、必ずなれるんだ、と
いうことを見せていらっしゃるわけ。
手をとって彼岸に渡す宗教家
人間は光です
五井先生というのは、ニコニコ笑って冗談ばかりいってるでしょう。だから近よりやすいん
です。手をさわったって、膝さわったって、髭をいじったっていいんですよ(笑) けど植芝先
生の髭はちょっといじれないでしょう(笑) 私のは子供が来て、鼻でもつまめる。まあ観世音
菩薩という形になっているから、どんなに身近く来て、何を訴えても怒られそうな気がしない
んです。何いったって怒らない、というようなものを持っている。そういう役目なんです。そ
れで近寄ってくる。近寄ってくるうちに、始めっから光になるんじゃなくて、光に乗せられ
る。そして天国にいかせるんです。何べんも何べんも天国のきれいな所へ連れてゆくうちに、
自然に光になっちゃう。天国の光で洗濯して、きれいにする。だから洗濯爺さんなんです。ク
リーニング屋なんですよ。
今の世の中、末法の世というのは、そういう宗教家が必要なんですね。ところが今までの宗㎜
教家というのはそうじゃないんですよ。こういうことをしちゃいけないから、こうやりなさい410
って教えるんです。道を教えてくれるだけなんです。あすこに燈台があるから、あすこまで泳
いでゆきなさい、というんです。それで泳いでゆくんだけど、泳ぎ方を知らないんですよ。泳
げない。途中までで、ぶくぶくともぐっちゃう。私は、さあ、あすごだよ、という。さあ行こ
うって、私が泳いで連れてゆくんです。それでこの島でちょっと休もう、お前休んでな、とい
って私はまた他の島へゆく。それでまた向うの島へ行く。また元のところに来て、さあ行こう
よって連れてゆくんです。そういうように、途中休ませちゃ連れてゆく、休ませちゃつれてゆ
きして、遂いに彼岸に渡っちゃうんです。
ふつうの宗教家はそうじゃなくて、ここだよくと向うでいっているんです。先生どこだ?
とやっているうちにぶくぶくくともぐっちゃう。今日もヨガの人が来たけど、二年間やった
けど病気も画らなかったし、どうもうまくない、というんです。何故うまくないかというと、
自分でこういう呼吸をしなさい、とやらせるんだけど、呼吸というのは教えたってわかるもん
人間は光です
じゃないんです。やっていてもなかなか出来ない。そのうち疲れ果てちゃうんですね。こうや
るんだよ、というだけなんだから、中に入って教えてくれるわけじゃない。ところが私は中に
入って教える。みんな気がつかなくても、魂の中に入って導いてゆく。
一緒に泳いで島へ連れていって、ちょっと預けておき、みんないろんな島へ連れていって、預
ける。その島に、私じゃなくて、斉藤さん、村田さんのような人がだんだん出て来て、先生は今
日お忙しいから私が代りにやりましょうッて、泳ぎの達人がたくさん出てきて、みんな彼岸に
渡しちゃうというのが、私のやり方なんです。末法の世界ではそうしなければだめなんですね。
自分一人でやれる方法は何かというと、世界平和の祈りなんですよ。世界平和の祈りをして
いれば、知らない間に彼岸に往っちゃうんです。大きな船が出て来て、それに乗り、スーッと
向うの岸へ渡っちゃう。世界人類の平和を祈っていると、天国に昇ってゆく梯子が出来てく
る。自分じゃ気がつかない。ハッと気づいた時には、天に昇っている。そういう祈りが世界平
和の祈りなんですよ。
141
142
世界平和の祈り
昭和3年5月3日東京割烹女学校
世界平和など祈れないという人に
世界平和の祈りというけれど、自分の身の振り方も出来ないのに、世界平和なんて、そんな
でかいことは考えられない、と人によっては云うんですね。そんな人は自分のことも考えられ
ないんだ。今、食べるのに困っているのに、世界人類の平和を祈る気持にならないッていう。
世界人類の平和を祈る気持にならなければ、その人はいくらもがいても、明日の米はないんで
す。それは一家心申をするより仕方がない。何故かといったら、世界人類の平和の中に、自分
世界平和の祈り
の平和も入っているのです。自分の平和も祈れないならば、これはどうしようもないでしょ
う。道は開かない。
手取り早く、行者に頼んだほうがいいと思うでしょう。行者はこの世的に力のある幽界の集
団に頼むんです。頼むと、キツネの集団のようなものが出て来て、たとえばそば屋のおかみさ
んが、一生懸命行者さんに通って、どうか商売繁昌くといっていると、その集団は通りかか
ったお客を引張るんです。手招きするんです。通る客、通る客を無理に引っぱって店に入れち
ゃう。それだからその家はなんだか繁昌してくるんです。繁昌するんだけど、キツネに借りが
出来ちゃうのです。この借りに利息がうんとつくんです。そうすると儲けたよりも余計とられ
るのです。
高利貸から借りて一時商売繁昌さしているだけであって、もう全部とられることになる。そ
れであげないと貧乏になって、だんだん客が入らなくなってくる。あげればあげるほど、なお
あげさせられる。それで自分の魂が開けたわけじゃないんですよ。神様に魂がつながったので蜘
はなくて、高利貸に替ってるだけで、資金がふえたんじゃなくて借りでもってやってるような4
1
ものなんです。それに気がつかない。お店はだんだんはやらなくなってくる。はやらなくなっ
てくると、前に借してあるから返せく、と集団のほうでいい、利息をつけられてどんくと
られる。それで最後に店もダメになるし、魂もだめになっちゃう。そういうのがあるんですよ。
ご利益信仰ですぐ儲かったからいい、というんじゃない。私にはそれがよくわかるんだけれ
ど、人がそうやっているのを止めるわけにはゆかないから黙っていることが随分あります。そ
ういうケースがたくさんある。
私は現象ご利益のことなどは一切いわない。どうか商売繁昌させて下さい、と頼みに来て
も、ああいいですよ、というけれど、私は商売繁昌のことは全然考えていない。商売繁昌する
ようにッて柏手を打つわけじゃないんですよ。間違えちゃいけませんよ。本心の開発を願って

祈っているんです。本心がだんだん開いてくると、そこにいい人が惹きつけられて、減らない
お金が入ってくる。自分に与えられる金が入ってくる。この場合は、一度よくなってくれば、
世界平和の祈り
ずーとよくなります。そのかわり暇がかかるかもしれない。けれど最後には本心が開いてくる
と同時に、仕廓もよくなってくる。それでなかったら私はごめんですよ。
先生ああいうけど、自分が祈ってもきかないもんだから、あんなことをいって(笑)私は一
年たっても商売繁昌しない、なんていう人があるかもしれないけど、そういう人はそういう人
でいいから、その人におまかせするけど、私のほうは商売繁昌頼まれようと、病気直しを頼ま
れようと、そんなことは全然考えていないんです。ただこちらから光を送って業を浄める。業
を浄めてく消してしまう。それだけなんです。業がなくなる人は必ず病気も直るだろうし、
商売も繁昌するだろうし、貧乏もなくなる。
前の世から会っている
それで面白いのはね、皆さんこの世で始めて私に会ったように思うんですね。ところがそう
ではなくて、前の世でも前々の世でも、前前々の世でも会っているんです。神崎きみ子さんの鴎
文通だけしているお友だちが関西にいらっしゃるんですが、その人に神崎さんから白光誌やら416
本が送られているそうです。その人が私の写真を見た。そうしたら涙を流して、五井先生には
前生から非常にお世話になっているから、是非お礼に伺うんだ、というんで、昨日、その方が
見えたんですよ。そしたら、先生! って涙を流して”前生からいろいろ長い間お世話になりま
して、また今生でお目にかかって、またお世話になります” こういうわけなんです。普通でい
ったらおかしいでしょう。前生なんてないと思う人には、まだ会っていないのに、本を見たば
かりで、前生から… … なんていう挨拶をしている、それで自然に涙が出てくるんですね。前の
世でお互いに親しかったわけなんです。そういうことがわからない人でも、皆、親しい知り合
いなんです。
うちの斉藤秀雄さんは七八百年前に、私の親しい弟子だった。私は今生では四十一才と何ヵ
とし
月なんですよ。斉藤さんは十二、歳上なんです。横関さんになると二十四歳上なんです、みん
たつどし
な辰年でして、私が一番小さい辰年なんだけど、一番年寄りなんです。
古い魂新しい魂
世界平和の祈り
この世だけの年令というのは、あまり当てにならないんです。この世だけの年令でゆくと、
八十の人が六十の人より偉くなけれぽならないし、六十の人は四十の人より偉くならなければ
ならないんだけども、そうはいかない。何故いかないかというと、前からく前からくズー
いのち
ッと伝わって、それで一つの命なんです。
わけみたま
ある命が神さまから分けられて、分霊となりますね、それが生れ変り死に変り、生れ変り死
に変りして、今生にあるんです。なん度生れ変っているかわからない。たくさん生れ変った人
もあるし、僅かしか生れ変らない人もある。或いはこの間分霊となって生れた人もあるわけで
す。だから直霊そのものの、光そのまま受けた分霊がある。そうかと思うと分霊の分霊もあ
る。その分霊から分れた分霊の分霊もある。この現代に、同じ国に生れていても、古い魂もあ
れば新しい魂もある。147
古い魂はなんべんもく何べんもく生れ変って、非常に神さまのことをよく知っているん48
1
です。知らないうちに知っているんです。何故かというと経験が深いからね。また一方、一生
を唯物論者で終って、神さまなどなんにも思わないで死ぬ人、しかも頭のいい人というような
人があります。そういう人は生れ変りが少ないんですよ。分霊の分れの一番端の一番小さい分
霊がこの世に生れて来たような人がいるんです。そういう人は、神さまとの連絡が少ないでし
ょう。経験がないから神さまなんて感じられないんです。いい人であっても神様が感じられな

いんです。そういう人たちが生えぬきの共産党員みたいになっているんです。
神さま!と思える人は幸せ
今生で生れて来て、たとえば頭が悪そうに見えても、才能がなさそうに見えても、神さまの
ことが本当に思える人は、真実に幸せな人ですよ。東大を出た秀才であって、官吏になって、
うらや
大臣になったというような人を羨むことはない。たとえば皆さんの子供さんたちが、才能がな
世界平和の祈り
さそうに見えたり、頭が悪そうに見えても、本当に神さまがわかるように仕向けてやることで
す。神さまのことを本当にうんと教えてやる。新しい魂であっても、子供の時から教えれば、
神様神さまって吹きこんでいるうちは、その潜在意識に入りますから、やがては神さまがわか
って来ます。
さっきもいいましたが、小さい子が、先生は光に乗って来るんだ、ということをはっきりわ
かっている。わかっているということは、その子の魂が非常によくわかっているわけなんです
よ。古い魂なんです。大体、私の話がわかる人、私のところへ寄ってくる人というのは、古い
魂なんです。そうでないとこういう教えはわからないんですよ。唯物論者のインテリと称する
頭だけでやっているグループに入るかも知れない。或いはご利益宗教の、拝めば利益があっ
て、病気が直る、お金が儲かる、ただそれだけでもって、進歩してゆかないかもしれない。同
じ信仰をしているといっても、そのやり方によっては、魂の度合が随分違うんです。
149
われらが大看板
150
世界平和の祈りというのは大看板なんです。世界平和の祈りを根本に立てて、しかも世界平
和の祈りの原理をハッキリ説いている宗教というのは、他に今ないんです。これは誰が説かせ
ちよくれい
て いるかというと、大神様が説かせている。大神さまのひびきが、五井先生という直霊が申心
になってやっているわけなんです。それが世界平和の祈りなんです。他のどんな祈りでも、な
んか訳がわからないところがあったり、パッと入りにくいところがあるんです。しかし世界平
和の祈りというのは非常に入りいいんです。
それで、これが明治の時代にやったんじゃだめなんですね、徳川時代でもダメなんです。第
一、徳川時代に日本で、世界平和の祈りなんて出来っこないでしょう。明治の頃でもそうです
ね。ところが日本が戦争に負けてしまって、武器もなんにもなくしてしまって、丸腰になって
しまって、なんにもなくなったところで始まったのです。そのために、私を明治元年あたりに
世界平和の祈り
生まないで、大正五年に生んでいるんです。一番働きいいような年にしてある。四十代という
のが一番働きいい時でしょう。それで私を使って、世界平和の祈りを唱えさせている。
使っているのは誰かというと、直霊の五井先生、直霊というのは自分の本体なのです。今ま
での宗教では直霊の五井先生というようなことはいわないんですよ。みんな、エホバの神なら
いなり
エホバの神とか、天照大神とか、稲荷大明神とか八幡大菩薩とかいう神さまの名前で、神さま
うしろ
が出て来て、白髪の老翁が出て来て、背後にたって教えてやらせるんです。
生長の家、メシヤ教、心霊科学
すみよしのしおつちの
生長の家は住吉大神つまり塩土神という神さまがやらせている。谷口雅春が私のことを想い
なさいとはいわないんです。それはいえない。それは谷口雅春のところへ救ってくれ、といっ
て来ても、じかに行かれちゃ困るんですよ。そういう役目ではないんです。あの方は、教えを
説いて書物にして、宗教を知らない人に、百科辞典みたいにやさしく説いて、宗教に入らせる151
人なんです。非常に大きな役目なんですよ。病気は直るよ、といいながら宗教の方へ引張って512
ゆく。ハイ貧乏は直るよといって宗教の方へ引張ってゆく。みんなを宗教の方へ入れる、唯物
論から神を知らせる大きな役割なんです。そういう役割をもって谷口雅春という人が出て来
かしら
た。新興宗教といってももう古くなっているけれど、新興宗教の頭というのが大本教です。大
なおわに
本教は出口直という人が神示を受けて、出口王仁三郎という人が道を開きました。いろんなこ
とを説いた。しかも心霊的な磨きをかけたんです。そこから心霊主義が出て、霊能者がたくさ
ん出たんです。大本教から出た人で有名な人といえば、谷口雅春とメシヤ教の岡田茂吉、それ
から浅野和三郎、心霊科学といって心霊現象を研究した。
谷口雅春という人は、あらゆる宗教を一つにまとめようとする運動をした。クリスチャンサ
イエソスもやれば、メソタルサイエソスもやれば、キリスト教も神道もいろんなことを説い
て、生命の実相を出して大きく道を開いたんです。岡田茂吉という人は人間の体から光が出る
てのひら
んだ、掌をかざせぱ光が出ていって、体の中の毒素をとかし、浄化させて、体と霊とが両方と
世界平和の祈り
も一ぺんによくなるんだ、といってやった。実際にきいたんです。
私は心霊科学の中にも入っていた。岡田茂吉のところへも入った。生長の家にも入って、講
師になった。他にもいろんなところへいっていますけれど、いろんな教えをみんな通って来
た。それで、これだけじゃ足りないよ、足りないだろう、という題が出た。生長の家の場合、
足りすぎちゃって、あんまりいいすぎちゃった。全部の人に宗教を知らせよう、神さまを知ら
せようというんだから仕方がない、そういう運動だし役目なんですよ。それで分霊の私が身を
もって守護神に体験させられた。それが「天と地をつなぐ者」に書いてあるわけです。さんざ
ん修行させられて、ああ人間というのは肉体じゃない、しかも神の分霊だけではない、直霊と
一つの神さまそのまんまだ、ということを身をもって体験させられたのです。生長の家は言葉
で教えるだけで、実際、体験する方法はないんです。神想観といったって、そんなこといきゃ
しないんだからね。それで私は守護神に連れてゆかれ、ふり廻わされた体験です。
153
私の役目
154
さて、お前の役目は何か、と守護神、直霊からひびいてくるものは、自分の想いを全くなく
わけみたま
して、この世の想いを全部なくして、神さまと一つになる。神さまの申へ分霊の自分の想いを
全部投入して、直霊そのものになれ、ということなんですね。それで直霊の中に全部入っちゃ
った。直霊そのものになった。そして降りて来たわけです。普通の人は分霊があって、直霊が
あるんだけど、分霊と直霊の聞に業がいっぱいあって、つながらないんです。分霊が入ってゆ
かないんです。自分は肉体だ、自分自分という業想念があるもんだから入れない。私は守護神
の応援を得て、想念停止をして、空になって入っちゃって、神そのものになって来た。それは
役目ですから出来たんですよ。
み んなはなかく直霊と一つになり、神と一つになれない。私だけの苦労をしてもなれない
でしょう。私の苦労というのは前の世のく前の世のくからのもので、さんざん修行をし
世界平和の祈り
て、死ぬより苦しい修行をして来た人なんですこの人は。この分霊はね。それでついに直霊と
一つになったでしょう。それを普通の人がそのままやったんでは、なんぺんも生れ変ってやら
なきゃ追つかない。それでこれではいけない、ただ神さま! っていったんじゃ神さまの申に入
っていきながら、五井先生を想いなさい、と思わせ、分霊じゃなくなっちゃったんだけど、直
霊と分霊と分ければ、分霊の私のほうへひょっと入れちゃう。分霊の私が直霊のところへ持っ
ていっちゃう。それで洗って来る。斉藤さんなら斉藤さんという人は五井先生くと思ってい
から
るでしょう。それで常にこっちに入ってくる。年中入って来ているうちに、空っぽになること
が出来るようにさせられちゃったわけですね。それで空っぽになった。空っぽになれば直霊が
とスーッと入れますからね、そのまま使ったんです。で今使っている現状なんです。だから私
と兄弟になったわけです。
これは斉藤さんだけでなくて、村田さんもそうなんです。だんくみんなそうなってゆく。
ありとあらゆる人がそういうふうな形になってゆく。五井先生の直霊というのは、あなた方の燭
直霊と同じなんですね。直霊はお前も私も無いんです。我があるわけじゃない。自我がなんに56
1
も無いんだから、神さまのところへゆく。だから私の体を通って、私の器を通って、五井先生
の直霊へ行こうと、自分が真直ぐ行こうと同じなんです。イエスがイエスのみ名を通して神さ
まのところへ入れ、イエスのみ名を通さなけりゃ入れない、と教えたのは原理があるんです。
何故かというと、イエスさんというのはキリストになったでしょう、直霊と一つになったわけ
です。神我一体になった人です。だからイエスのみ名を通して、イエス様くとこう行くわけ
なんです。そこで私は私の器を通さしてゆくわけなんです。
神のみ心の中に入る道
だけどそれを始めからいうと、五井先生というのは肉体があるでしょう、なんだ天狗になっ
て、とみえるから、時期が来なかったので、ただ守護霊さん守護神さんていいなさい、と教え
たわけなんです。それでも同じなことです。というのは、みなさんの守護霊、守護神という人
世界平和の祈り
は、五井先生という直霊と一つになっているんです。中心に五井先生という直霊があって、そ
こへ守護神、それから守護霊というようになっている。申心に私のマルがあって、みなさんの
守護神の高い位の人がくっついて、その下へ守護霊がくっついているんです。だからどっちで
もいいんです
咄嵯の場合、呼ぶと、光の波に乗ってしまうわけです。守護霊さんでは間に合わない気がし
たら、五井先生! とやればいい、世界平和の祈りをやれば一番いい、意味もわかりやすい。と
ころが、お腹が痛い、とか電車にひかれそうになったり、自動車にはねられそうになった時、
世界人類が… … なんてやっていては間に合わないでしょう。五井先生!といった方が早いでし
ょう。咄嵯に呼べる方法が一番いいですね。
だから今から、世界平和の祈りをするのは勿論だけど、咄嵯の場合には、五井先生! って呼
んで下さい。かまいませんからね。そうすると必ず神さまへ行きます。これは高慢でいうんじ
ゃないんですよ・もういわなければならない時期になったんです・もう時期が来たんです・そ研
れで私がだんくはっきりいい出して直霊のほうから、斉藤さんやなんかにいわせている形で
す。それで山(市川市中国分の土地)が会のものになったんです。そこで統一会も本格的に出
来るし、いよいよ宇宙人との対面も近くなって来ている。ということは、宇宙人がここに来て
いるんです。そして金星人と会いましょう、とかなんとかいう時には、金星人のほうから私の
体を借りてしゃべっているんです。
158
神のみ

・し

の中に入る
昭和3年5月1日市川商工会議所
神のみ心の中に入る
前の世の因緑
(金子一子さんのお話があったのを受けて講話は始まった)金子さんはご利益で来たわけじ
ゃなく、前生の縁がありまして、妹さんの紹介で来ました。ところがその妹さんの方がなかく
来なくて、金子さんが毎日来ている。それで理事になって、いろいろ会を助けてもらっている
わけです。
縁というのは不思議なもので「縁は異なもの味なもの」というのは恋愛のことばかりじゃな靭
いのですよ。なんだってそうなのです。こうやって集っていらっしゃって、話を聞いたり、話60
1
し合ったりすることは、みんな前の世の縁なのです。だから私に会って、私の教えがいいとい
う自覚が出来た時は、もう救われているのです。
自覚が出来て来ないと、ちょっと縁に触れただけだと、一遍どこかを廻って、方々中散歩を
してきて、三年たち五年たちしてまたやってくるということもあるのですよ。私が教えを広め
てから約十年になりますが、初めに来た人が今迄続いているかというと、必ずしもそうでない
のです。一、二年来ていて、そのままいなくなってしまって、やがて五、六年たってまたやっ
てくるという人はたくさんあるのです。一旦離れた人が必ずまたやってくることが不思議なの
ですね。方々中廻ってやってくる人と、初めからそのままずーッといる人とでは、ずーッとい
る人の方が前の世の縁が深いのです。これは前の世の因縁の話なのですよ。
前の世の因縁でも、私は前の世でもやっぱり宗教家でしたが、その時に、私にいろいろ物を
くれたり、供養をしてくれて、私の方が恩になったような感じの人もあるのですよ。そういう
神のみ心の中に入る
人は、私の教えがあまりわからないようで、そむいたような格好をしてみせたり、文句をいっ
てみたりしても、それでも私の方で一生懸命丁寧にしてやるのもあるわけです。それから、前
の世で私に救われて、本当にとことんまで救われたような人もあるわけです。その人は私に会
った時から、なにか私に全部尽さなければならないというような感しがして、一生懸命尽す。
これはあに私ばかりじゃなくて、すべてそうなのです。ですから、この現象の世界、現われて
いる世界というのは因縁因果で廻わっているのです。そこで良いことも悪いことも、今現われ
ているのは、前の世の因縁の消えてゆく姿というのです。
かりかし
前の世の因縁で、借があれば返さなければならない。貸があれば取らなきゃ… … そうでもな
いけれど、貸があれば許してやれば余計徳をつむのですがね。気安く出来る人と出来ない人
と、なんだか与えたくて仕方がない人とか、或いは貸した金をどうしても返してくれない人と
いろいろあるわけです。そういうように、前の世の因縁がぐるくぐるく廻ってくるので
す。借りたり返したり、前の世、前々の世の因縁で動いているということをもっぱらいうのを
1si
小乗仏教、小乗宗教というのです。
162
宗教が打算的ではいけない
仏教の言葉に”三界は唯心の所現”という言葉がありますが、三界というのはこの世のこと
です。それを説いているのはR会などです。七人導けば自分が救われるとか、自分の望みが叶
うなんていうのは、これは実に打算的なことです。宗教としては最もいやな教え方なのです。
宗教というのは、自分の心に悪い欲望がなくなる、自分が我欲から離れて、三界の想いから
離れて、自由自在に神と一つになり、仏と一つになるというものでなけれぽならない、そうい
う道なのです。他の新しい宗教も同じでしょう。何人この宗教に入れたら、お前にご利益があ
るぞ、というようなソロパンをはじくことは、この世のことであって、宗教の世界の言い草じ
ゃないですよ。ご利益とかご利益じゃないとか、そんなものじゃないのです。魂と魂が結ぽれ
いのち
てゆく、命が交流する。一旦会った場合に、あッこれなんだ、と直感的に思って、直感的に入
神のみ心の中に入る
って来て、何をやるんだかわからないけれども、魂が喜んでゆく。だんだん知らないうちに魂
が浄まってゆく。魂が本当のことを悟ってゆく。そういう道なのです。
大体私のところへいらっしゃる方は、ご利益でいらっしゃる方もあるけれども、そうじゃな
くて「神と人間」を読んだ、白光誌を読んだ、ああこの人だというんで訪ねてこられる。そう
いう人が多いんです。近頃はますますそれが増えてます。病気を治してくれ、貧乏を直してく
れ、という人ばかりじゃなくて、貧乏を直してくれ、病気を治してくれ、というのもいいので
すよ、それで縁にふれてやっているうちに、知らないうちに病気のことも忘れ、貧乏のことも
忘れ、ただ道のためにひたすら尽している、日々精進する、というふうにだんくなって来て
しまいます。必ずみんななりますけれども、初めから病気も災難も何もなくて、ああこの教え
はいい教えだと入って来て、そのままスーッとゆく人は幸せですよね。この世の苦しみを初め
からこえている。それは前生の因縁がいいんですよ。
163
親麗と唯円
164
しんらんゆいえん
こういう話があるんですよ。親鸞という人がいますね。そのお弟子に唯円という人がいて、
たんにしよう
歎 異抄を書いています。その歎異抄に出ているのですが、親鸞が唯円にいうのです。
「お前は私のいうことをなんでも聞けるか」勿論、とても信仰厚い弟子ですから、
「なんでも聞きます。お師匠さまのおっしゃることならなんでも聞きます」と答えたんです。
「本当になんでも聞けるか、なんでも出来るか、私のいうことをなんでも守るか、なんでも
やるか」こう念を押すんです。いやにお師匠さん念を押すなと思ったけれど、
「はい、なんでもやります、先生のおっしゃることならなんでもやります」
「それじゃ、お前これから人を殺してこい」というんですね。
「先生それは、それだけは私は出来ません、人を殺すなんて出来ません」
「そうだろう、お前がどうして人を殺せないかというと、お前の中には、人を殺す因縁がな
神のみ心の中に入る
いんだ、お前の宿縁としては人を殺すようなこと、人を痛めるようなことが出来る性分じゃな
いんだ。そういう風に生まれついているんだ。だからお前がいくら私のいうことをきくといっ
ても、それだけは出来ないんだ。人間には出来ることと出来ないことがある」そういうように
いわれた。
悪いことをしてしまうのも、それは宿縁でしてしまうのだ。いいことをしようと思いながら
も、宿縁があっていいことが出来なくて、悪いことばかり、人の困るようなことばかりしてし
まう。人を殺そうと思っても、憎らしいと思っても、人を殺せない因縁の人にはどうやったっ
て人を殺せないんです。人間というものは、前の世からの、過去世からの宿縁によって定めら
れているんだ。わかりますか、これよく聞いておいて下さい。定められている。だから人間が
どうじたぽたしようと、騒こうと、前の世の宿縁のままに動いてゆくより仕方がないんだ、と
親鸞はいうんです。そこから他力になってゆくんですよ。
そうでないと思うならぽ、自分が好きなようにやってごらんなさい。やっぱり運命の渦の申鵬
にまきこまれて、そこから動きがとれないのだ、それが肉体を持っている人間なのだ。これは
私が親鸞から引きついでいうんです。
人間というものは肉体の業想念の中にいたのでは、どうやってもこうやっても自分の運命を
変えることも何も出来ない。前の世で決まった運命のままに、翻弄されていってしまう。そこ
に仏さま、阿弥陀如来が必要なのです。神さまが必要なのです。人間が一旦、肉体人間という
ものはダメなものだ、どうやろうとも、前から決まっている、定まっているものなのだ、とい
うことに本当にあきらめがつかない以上、その人は救われることはない。いくら滝にあたろう
ごり
と、水垢離をとろうと、絶食をしようと、その人が悟れるわけじゃない。そういう自力の行で
悟ろうと思っても悟れるわけじゃなくて、悟れる人はそうしなくても悟れる。
神さまの世界に打算はない
いうまち
さんざん色街遊びなどをしても、或る時パッと翻然と目覚めて悟る人もある。子供の時から
166
神のみ心の中に入る
坊さんになっていて修行していても、最後まで悟れない人もある。それはどういうことかとい
うと、前生の因縁なのです。過去世の因縁なのです。因縁因果の波の中をどうしてもぬけられ
ない、というのは、小乗の教えです。それをR会などはもって来て、先祖が迷っているからお
経をあげなければだめだ、とか、先祖の罰が当っているとかいうんです。会に入って七人導け、
十五人導け、大勢の人を連れて来なければ救われない、とこういうんです。
それはとんでもないことで、何人も導かなければ救われないどころか、そんなことで救われ
るわけじゃない。どうしてかというと、ぐるぐる廻っている因縁の波というものは、因縁を掴
んでいる以上は、その中から救われることはないのです。導かせようという想い、それは打算
でしょう。打算というのは神さまの世界にはないんです。打算というのは業の世界の人間の世
界きりないのですよ。だから打算で、七人導こうと十人導こうと、それで救われるわけじゃな
い。何故救われないかというと、その人の想いは業想念の中をぐるく廻っているだけだから
です。同じ業の渦の中を廻っている。業の申にいながら、いくらお経を読んだって、いくら人卿
を導いたって(本当の世界へゆくのが導くことだけれど、本当でないところへゆくのは導くの618
ではない) いくらその会に入会させたって、それで救われるものではない。業の申から抜けて
ないのだから、同じことです。
業からぬけるためには
そこで私はどういうかというと、親鸞のいったように、肉体人間としては、いいことをする
ことも、悪いことをすることも、その人に定まっている宿縁なのだ、過去世の因縁なのだ。だ
もが
からいつまでも腕いていないで、宿縁なら宿縁でいいから、それはみんな本当のものではな
い、三界の想念だけであって、本当のものではない。本当のものは、神さまの子である人間な
のだ。神さまとか仏さまというのはどういうのかといったら、大光明であり、完全無欠であり、
自由自在であり、絶対なるみ心なのです。悪なんてあるものではない。善悪を超越した大光明
なのです。善そのもの、美そのものなのです。だからその分霊である人間が悪いことがあるわ
神のみ心の中に入る
けがない。
それなのに、この世の申はこんなに悪くて、自分達の心が悪いのはどういうことかという
と、それは過去世からの因縁つまり、人間が神さまの子であるということを忘れてしまった、
その肉体的な想いから始まって、だんだんだんだん積み重ねられた神さまから離れた想いが、
更に積み重ねられていって、人間個人個人が全部別に思われ、命と命とは違うものに思われ、
他人と自分とは別なものに思われてきた。そういう想いが神さまとの間をますくへだててし
まって、人間はその渦の中にまきこまれてしまった。それが因縁因果であり業因縁です。そう
いう業因縁を自ら創ってしまった。
創ってしまった渦の中にいたのでは駄目なのだから、その渦は渦としてかまわず、神さまに
すがっちゃいなさい、というのです。それは親鸞のいう南無阿弥陀仏と同じなのです。もう肉
せきがく
体人間はどうにもならないのだから仕方がない、法然上人のような素晴しく頭のいい、碩学と
いわれる人がさんざん修行しても修行しても、まだ悟ることが出来ない、救われたという感じ㎜
が起らない。それは肉体の人間として修行しているから、いくらやってもだめなので、最後に1

阿弥陀さまにまかせて、阿弥陀さまの中へ自分の命を全部投げ出した時に、初めて救われた。
また人を救うことも出来た。
だから業想念の渦の中から、一ぺん脱け出しなさい、脱け出すにはどうしたらいいか、とい
ったら、神さま神さま神さま神さまと年中、神さまを思いなさい、ところが神さまを思う想い
を邪魔する業想念がある。神なんか思ったって駄目じゃないかしら、或るいは神さまといいな
がら、人をいじめる心がある、人を恨む心がある、物をほしいと思う心がある、欲望がある、
神さまを慕いながら、神さまを思いながら、神の子人間であるということを聞かされながら、
しかもまだ自分の申には妬む想いもあれば、憎む想いもある。
現われれば消える業想念
どうしたかというと、それは消えてゆく姿なのだよ、妬む心が起った時には、消えてゆく姿
神のみ心の中に入る
なのだよ、神を否定する想いが起った時には、それは業が現われて消えてゆく姿なのだよ、恨
み心が起った時には、恨み心が現われて消えてゆくところなのだよ、悲しみの心が起これば、
それは因縁が和合してここに現われ、それで消えてゆくのだよ、ただあるものは神の子である
光輝く自分だけなのだよ、もっと奥へいけぽ大神さまがそこにいらっしゃるんだよ、というん
です。
だから、ひたすら神さまく神さまく神さまぼかり憶念しながら、現われてくる自分に不
都合なこと、他人にも不都合なこと、すべて不都合なこと不完全なことはみんな消えてゆく姿
なのだ、と思いなさいというんです。そうすると潜在意識の中にたまっている業想念、幽体の
中にたまっている業想念がどんどん出て、現われてはどんく消えてゆく。ああこれは消えて
ゆくんだく神さま有難うございます、神さま有難うございます、とやっていると、神さまの
光がますくつながってゆく、天と地がつながってゆくわけです。
業想念がどんく消える、新しくいい想いがどんく入ってくる。感謝の想いが入ってゆ罵
く。そうすれば、しまいにはその人がよくならざるを得ないというんです。
それをもっとやさしく、あなたの業想念を消してくれるものがあるんだ。それは何かといっ
たら、祖先の悟った守護霊さんであり、直霊から分れた守護神さんであるんだ。だから守護霊
さん守護神さん有難うございます。いつもいつも業想念を消してもらって有難うございます、
有難うございます、といっておれば、いつも想いが守護霊さんに伝わり、守護神さんに伝わ
り、大神さまに伝わってゆくのだから、知らないうちに業想念は消えてゆくんだ、という理論
になってゆくのです。
心が嬉しくなってくる
この教、兄を聞いた人がいつの間にかよくなってゆく、今迄暗いさびしい人が、いつの間にか
明るい勇気のある人になってゆく、にがい顔をしていた人が、いつの間にかニコニコした柔和
な人に変ってゆく、というようになるわけです。金子さんはなんか宗教をやりたくてしょうが
i7z
神のみ心の中に入る
ない、なにか道を求めたくてしょうがない、神さまを掴みたくてしょうがないのだけれども、
神さまはどこにいらっしゃるのかわからなかった、仏さまはどこにいらっしゃるかわからなか
った。それで霊友会などに入ったりした。やっているうちに金子さんの本心というもの、或る
いは守護霊がどうしてもそれじゃ満足しなくなってくる。そこで探し求めていて、前生の因縁
で私に会った。会ったとたんにパッとわかるんですね。心と心がわかるんです。それで、毎日
来なければいられなくなってしまう。そのうちに知らない聞に安心立命してゆくわけです。
金子さんのみならず、誰でも知らないうちになんだか心が明るくなってくる。なんだか心が
楽しくなってくる、なんだか元気が出てくる。そういうことが多いんです。
たいがい初めは淋しい暗い顔をして、私の所に来るんですよ。今にも泣きそうな顔をしてく
る。私に会うととたんに泣いちゃう。そうすると私が手拭いを出して、さあ涙をふきなさい、
涙をふいてあげる。なんだか嬉しくなって涙を流す。それを拭いてあげて慰めてあげている。
あまり説教もしないんですよ。ただポンポソと柏手をたたいている。叩いていると、私の肉体恥
を伝わってくる光の流れが、向うへ流れてゆくわけです。そして向うの業想念をきれいに掃除714
してゆく。少しずつ少しずつ掃除してゆく。
みんな大人みたいな顔をしていたって、子供のようなものですよ。私に涙を拭いてもらった
とたん、スーッと顔が明るくなっちゃう。それで帰りには明るい顔になって門を出て行く。た
いがいそうなんですよ。一日に三人や四人泣かれないことはないです。中尾ひでさんみたい
に、毎日泣いている人もあるんです。他にもいます。なんだか涙が出てくる。誰が泣くかとい
うと、それは魂が喜ぶのです。自分の本心も喜ぶし、守護霊さんも喜ぶし、守護神さんも喜ぶ
し、先祖のまつわっている迷った想念が消えて、きれいな真実のものが出て来ますから、喜び

の涙なのです。業が涙と共に消えてゆくものだから、帰りには明るい顔になる。それが二回来、
三回来、四回来ているうちに、そんな説法を聞くわけじゃないのに、知らないうちに、きれい
になってゆく。ですから浄めというのは大事なのです。
お浄めの大事さ
神のみ心の中に入る
はら
浄めというのは何かというと、光が業想念を被うことです、きれいに掃除することです。だ
から私はクリーニソグ屋、洗濯屋だというんです。パンパソと柏手を打って、光を送り、業想
念をきれいにして「ハイ出来上りました」「ありがとうございました」と帰る。洗濯された人
は、なんだからきれいになって気持がきれいになるから、顔もきれいになる。
「神と人間」に、想念以前のひびきと書いてありますが、想いを出す前のひびきというのが
あるんです。それは神の光なのです。神の光がみなさんの体の中へ入ってゆく。体というのは
肉体もそうだし、幽体もそうだし、霊体もそうです。神体もあるのですが、神体というのは霊
体として働くから、人間は三つの体をつけている。その三つの体が同時にきれいになるので
す。神さまの世界の光が神体から流れてきて、霊体へ入り、幽体に入って浄め、肉体まで浄め
てゆく。
175
肉体が浄まるということはどういうことかというと、幽体というのは潜在意識の場ですから、76
1
潜在意識の汚れた部分をきれいにしてしまう、そうすると幽体が透明になって来て、その人は
柔和になり、運命もよくなってくる、病気もよくなる、ということになるのです。その役を毎
日毎日やっているんです。
お浄めの作業の連鎖反応
ところがこれは私ぼかりやっているんじゃないのです。私と年中会っていて、年中この柏手
を聞き、お浄めを受けている人は、その人自身も光を実に受けやすくなってくる、光の波を受
けやすくなってくる。そうすると、その人が汚れた人と会う場合、その人の光が汚れた人の中
に入ってゆく。その汚れた人は自然にきれいになってゆく。そういう作用を起すんです。連鎖
反応のようなものです。私に年中会っている人は光の波が感染してゆくんです。だから知らな
い間にみんなが光明化してゆくんです。
神のみ心の中に入る
それで私のところに長い間いる人なんかは電車に乗っていますと、自然と世界平和の祈りを
やっていますね。祈っていなくても本当は光がひびいているんですが、それをより以上強くひ
びかせるには(わざくそう意識しなくても)どうしたらいいかというと、世界平和の祈りを
やるんです。そうすると、自分の業想念の想いが世界平和の祈りの中へ入ってしまって、光そ
のものになっちゃうんですよ。だから電車の中では目をつぶって、世界平和の祈りをしている
といいんですよ。そうしますと、神さまの世界、平和な世界の光がそのまま流れて来て、前の
人、隣りの人、車内全部にみなぎってゆくんです。ですから世界平和の祈りをした人と、同じ
電車に乗った人は幸せですよ。知らない間に浄まっている。
その人たちは知らないですよ。肉体人間というのはぼんくらだから、やってもらっているこ
とを知らないんです。ところが後の守護霊さんはちゃんと知っている。必ずこれは恩返しをし
ます。浄められた人は浄めてくれた人に恩返しをするようになっている。守護霊さんがするの
です。恩返しなどどうでもいいんだけれど、守護霊は義理がたいのです。それで必ず恩を返す堺
のですよ。いつも守護霊さんにたくさん恩を着せておくと、それだけ恩返しされちゃうんです78
1
よ。一つでもその守護霊さんが、こちらを守ってくれるような形になるんです。
それはさておいて、世界平和の祈りをしているということが、自分が光明体になってしまう
ということです。大体、本来、人間は神の生命なのですから、神の分霊、神の子なのです。あ
にイエスキリストだけが神の子じゃない、お釈迦さまだけが神の子じゃない。全部が全部神の
しんとう
子なのです。全部が全部神の子だという教えが神道なのです。神そのものでもあるというのが
神道です。だから植芝先生ではないけれど、自分は神がかりじゃない、ということになる。
神がかりというのは、うしろに誰かがついて喋らせるのです。そういう神がかりのほうがい
いと思う人があるんです。私のところに来て「あああなたはこうなりますよ」といわれると
「先生、どうしてわかるのですか、お祈りもしないでどうしてわかるのですか」と私をにらみ
つけるのです。「ちゃんとあなたの中に書いてあるんだよ、それはこうすればいいことなのだ
よ」と教えるんです。けれど何か物足りなさそうなんですね。
柏手は光のひびき
神のみ心の中に入る
私が冠をかぶって、衣を来て、何やら呪文を唱えて、それでやおら向き直って、いかめしい
目をして「今、神さまに伺ったら、お前の運命はこれくしかじかである」とやれば「有難う
ございます」とお賓銭も自然におきたくなっちゃうんだけれども(笑)私はそういうような芝
居がかったことが大嫌いな性分ときているんですよ。或る人がいって来たんですよ「先生、こ
れじゃもうかりませんよ」何だかあんまりあっさりしているからね。千円置こうとするのを五
みす
十円でよしちゃうかもしれない。だから先生は白い着物を着なさい、それで御簾の中に入りな
さい、その前に巫子さんみたいなきれいな女の子を二人ぐらいおいて、それで御簾の中から声
を出すのだと。「近うよれ」とやりゃあ、これは儲るよ(笑)そうやって教えてくれた人もあ
る。
かしわで
それから「先生は柏手を叩きますね、いくつ叩いても、一つ叩いても三十たたいても料金が179
同じゃいけない、一ついくらと決めたらどうか」とわざく教えてくれる人もありました。と80
1
ころが本当はあんまり叩かれないほうが、その人はいいのですよ。うんと叩かれる時には、何

か愚きものがしているとか、その人の運命に間違いがあるように見えてくる時に、パソパン
くと叩かれるんですよ。そして運命として現われてくる業想念を、一遍に払うんです。そう
すると、死ぬような大怪我をするのが小さな怪我で済む、というようになるのです。いつもこ
ういうふう(手をひろげたり、合掌したりの形) にして、ただ光だけを送ってもらっている時
は、まず無事安泰と思えばいいですよ。打明け話をすればそういうわけなのです。
私がいつも柏手を打っている人に、打たないで祈る時は、向うがきれいになっているから、
スーッと光をただ送るだけ。先生は今叩いてくれなかった、先生は今日くたびれているんだろ
う(笑) なんて思うかもしれないけれど、実は反対なのです。年中会っていて、だんく・深く
なってくると、柏手も叩かないで、あっさりしています。きれいに私の中に入ってくる。光の
波の中というより、光の玉の中に入りきっちゃうのです。
私が手をひろげて祈っている時などは、どういうことかというと、私という肉体があるわけ
じゃないのです。光の玉があるだけです。大きな光の玉の中へみんな包んでいるんですよ。光
の中へ入れちゃっているんです。ところがあんまり業想念がついていると、光の申へ入って来
ないのですよ。入れないのです。そこでピユーッと払うのです。それで光の中へ入れる。神主
へい
さんがご幣を振ったって、あんまり効果はないのです。悟った人がすれば別ですよ。光になら
なければダメなのです。
神の子だということがわかるまでは救われない
神のみ心の中に入る
光になるということが、人間の一番根本なのですよ。人間は光なのです。太陽のような輝く
光なのですよ。みんな光が満ち満ちているんだけれども、残念ながら自分が光であることを知
らないんです。自分は業想念の三界の、肉体の人間だと思っている。
肉体の人間だと思っている以上は、思いこんでいる以上は、これは救われない。どんな知恵181
があろうと、どんな知識があろうと、どんなに金を持っていようと、どんなに地位が高かろう812
と、どんないい行いをしていようと、それは救われには入れない。
いい行いだけをしていれば、いいというものじゃない。いい行いというのは、前にもいった
ことがあるけれども、過去世の囚縁によって、つまり過去世でさんみ\ 悪いことをしてきて、
死ぬ聞際にさんぐひどい日にあって、また地獄まで落っこちて、そこでひどい目に会うか
ら、ああ悪いことをしたからこうなったのだ、私は生れかわったら、いいことをしなければな
らないんだ、もう悪いことはしない、いいことをしょう、と思いこんで生れかわってきた人
は、いいことばっかりするんです。
しかしそれだからといって、神さまがわかっているわけではない。いいことばかりして、助
けたりするけれども、それだけでいいというんじゃないのです。それだけでいいのならば、神
も仏もいらないんです。これは大事なことです。いいことをしている、というだけではまだ足
りない。それは前生の因縁でお返しをするために、いいことをしているんだからね。それは三
界のこと、業想念の中のことなのです。それだけじゃまだ足りない。
何が足りないかというと、人間の本体が神から来ているんだ、神さまの子なんだ、というこ
とがわからない以上はだめなのです。神の子だということがわかるまでは、本当の救われに入
らない。
いい人だけでは足りない
神のみ心の中に入る
共産党などにもとてもいい人がいる。いいことをしています、人も救っています。だから、
神さまくといっている人よりも、いい人間がいっぱいいるということが、ずい分あるわけで
す。ところがそれだけでは、本当の善さにはならない。何故善さにならないかというと、神さ
まを知らないで、ただいい行いだけの在り方だけだとすれば、いいことをしたつもりで、悪い
ことをしているかもしれないのだ。
いいですか。いいことをしたつもりで、人を救ったところが、人に金をやったところが、か鵬
えってその人が悪いことをしちゃう、お金をもらったけれど、安易になって、それで悪いこと84
1
をして、地獄におちてゆくかもしれない。ただ自己満足のために、人を救っているかもしれな
い。いい行いはしているように見えるけれども、実は自己満足なのです。自己の心が満足する
ために、人に物をやったりする。それで自分はいいことをしたと思う。
片方の人にいいことをしたことが、片方に悪いかもしれない。共産党のやり方なんかそうで
すね。この人たちのためによくする、といって、片方を敵とするでしょう。そうすると相対的
な敵をつくるわけですね。調和じゃなくて、敵をつくっているわけ。だからいいことではな
い。片半端になっちゃう。
だから、いい行いをしているから、いいというだけじゃないのです。まだ足りないのですよ。
ここはとても大事なことで、これは質問が出てくるところです。
前生の因縁的にいいことをするんじゃダメなのです。前生の因縁とか、三界の肉体の業想念
を捨てて、その上で、いいことをしなければダメなのです。それにはどうしたらいいかという
と、一遍、肉体人間じゃだめなのだ、神さまーといって、世界平和の祈りにのって、神さま
の中に入りこんでしまって、神さまのほうから、自ずから、自然法爾、ひとりでに、いいこと
が出来るような、力まないでいいことが出来るような、力まないで行動が出来るような、そう
いう人間にならなければ、それは悟った人間とはいえない、悟りの道じゃないんですよ。
言葉でする心の交流
神のみ心の中に入る
これはとても大事なことなのです。それで私の日常生活はどうかというと、私は何も思って
ないのです。毎日、何も思ってないのです。朝来ると「お早うございます」とやっています。
お昼になれば「やあごんにちわ」とジーッと顔を見ています。私が顔を見ているから、向うじ
ゃ「何、先生見ているんだ、私のどこかに何かついているかしら」なんて思っているかもしれ
ない。なんにも見ちゃいないんです。何も見ていないで、何をしているかというと、黙って浄
めているんです。鵬
私が顔を見ているから「私、きょう顔がきれいだから、先生見とれてるわ」なんて(笑)そう
じゃない。顔を見て見とれているわけじゃない。「きれいだね」なんて誰かにいうけれども、
ごめんなさい。しかしきれいとか、きたないとか、あまり問題になっていない。何を見ている
か、この目で見ているわけじゃなくて、奥の目で、ジーッと向うを浄めているだけです。ただ
黙って見てたんじゃ向うが煙ったかろう、と思って、冗談をいったり話をしたりする。
この声の言葉で冗談をいったりなんかしていますが、それはそれでいいのですよ。ただおと
りなのです。ハッキリいうとね。「先生あんなことをいって、じゃもう先生と話すのよそう。
つまんないわ、先生本気じゃない」
ところが大体、人間なんていうのは、本気で話していないんですよ。どうでもこうでもいい
ことなのですよ、「雨ですわね」見りゃわかる。「風が吹いていますね」さわりゃわかる。だ
けどもさ、そういわなければ、なんだか変でしょう。わかりきっているのですよ。そこが肉体
生活、なかなか面白いところですね。
186
神のみ心の中に入る
落語にもありますよね、「いいお天気ですね」「見りゃわかるじゃないか」「雨ですね」
「いわなくたって降ってるのはわかるじゃないか」これでは喧嘩になるでしょう。だから「い
いお天気ですね、雨ですね」というのに本気でいっちゃいないんだ皆は。ただ言葉として何気
なくいうんです。その何気なくいうところに、言葉ではなくて、奥のものが、お互いになごも
うとする。調和しようとする、お互いが調和してくるんです。
「いいお天気ですね」「そうですね」といった時に、言葉が楽しいんじゃない?「雨ですね」
「いやな雨ですね」なまじっか宗教をやった人は、雨も尊いんだ、なんていっちゃってね。
「そうですね」といえばいいものを、なんか偉ぶっちゃって「雨もありがたいんじゃ」これじ
ゃ喧嘩になっちゃうでしょう。
言葉はいかにも悟ったような言葉だけれども、それは言葉だけであって、本当の人間の心の
交流ということを知らないのですよ。「いやな雨ですね」といわれたら「そうですね」といっ
たらいいじゃないか。そういえば、相手と同化するんで、心が結ばれるでしょう。その人は自餅
分の心が通じたわけだ。「いやな雨です」といって、雨のことを気にしているわけじゃないん8
1
だ実は。「いいお天気ですね」といったって、別にいいお天気にこだわっているわけしゃない
んです。ただ人間の心を交流させる一つの手段として、いうんですよね。みんなそうなのです
よ。そうして心が結ばれてゆくんです。
この世の中で、必要な言葉だけを選んでやってごらんなさい。一日、口をきくことがいくら
もないから、「めしだ」といわなくたって、めしは出てくるでしょう。「ただいま」といわな
くたって帰ってくるでしょう。いうことありゃしないですよ。サイレントになっちゃうよ。し
ゃれたことをいってみたり、冗談をいってみたり、なんとなく言葉をいうことによって、それ
で和むでしょう。それと同じなのですよ。
私も、きれいになったとか、背がのびたとか、髪の形がいいとか、爪がのびているとか、い
ろんなことをいうけれども、本当のところ、そんなことはどうでもいいんだけれども、いうこ
とによって、その言葉をあやにして、言葉を縁にして、心がスーッとつながってゆくんです
神のみ心の中に入る
ね。顔を見なくたっていいですよ。実際は奥の目で、神さまの目で見ているんだから、顔を見
なくたっていいんですよ。「こんにちわ」といって来たら、ジーッとしていればいいようなも
のだけれども、それでは向うが変になるでしょう。だから顔を、いかにも親しそうに見て、そ
れで「きれいになったね、今日は特にきれいだね」なんていうんですよ。すると途端にいい気
持になります。そうすると先生が好きになりますね。好きになれば、心が交流してくるでしょ
う。光の波が余計入ってくるんですよ。
いわないほうがいいかというと、いったほうがいいのです。お世辞じゃないかもしれない、
本当の時もあるんだからね。いわれたほうが気持がいいでしょう。只いい方をうまくいうんで
すよ。
想いが大事です
声に出る言葉というのは大事なのです。だけど声に出る言葉が重要ポイソトではないです。㎜
声に出る言葉が、この運命を支配するわけでもなければ、一番重大なものでもない。
一番重大なものは何かというと、この申にある想いなのですよ。申の想いが光に満ちている
か、柔和そのものであるか、調和しているか、それが一番大事なのです。
言葉でもってチャラ〈お世辞いったって「お子さん、きれいでございますわね」といった
って、うちの娘のほうがきれいなんだ、あんなの汚いや、なんて思いながら、言葉だけは丁寧
にいったって、そんなのはダメなのですよ、それでは和まない。何故、和まないかというと、
心の中では反対なのだから。
あのヤロウくと思いながら、言葉だけとりつくろっていっているのは、偽善というので
す。「神さまは有難いんでございます」といいながら、実はちっとも心の中で有難くないんだ
よね。心の中では、神さまって本当に有難いのかしら、と思っている。思っているけれども、
宗教家に、神さまは有難い、と思え、といわれているから、仕方がないので、神さまは有難い
んだといっている。それはやっぱり偽善なのです。
190
神のみ心の中に入る
私の教えているのはそういうんじゃない。声に出る言葉で、神さま有難うございます、とい
え、と教えているわけじゃない。声に出る言葉で世界平和の祈りを教えているわけじゃない。
声に出るより前に、想いを光にするんです。
想いを光にするにはどうしたらいいかというと、光を邪魔している業想念、つまり怒りとか
妬みとか、不安とか恐怖とか恨みとか、そういう想いを世界平和の祈りの中へ持っていっちゃ
うのです。いつもいつも持っていっていれば、知らない間に業想念が消えていってしまって、
世界平和の祈りがもっている大光明がこの申に入ってきて、一体になるのです、神我一体にな
るんです。自然に神さまと自分が一体になる。そうすると想いがいつもいつも輝いているわけ
です。
心中に汚いものがなければ
そうすれば言葉でどういうことをいったって、向うへ光がしみて入ってゆくわけです。「あ皿
ああの方はいい人だなLと相手はなんとなく思うわけです。だから私がたとえばおならの話を912
したって、糞の話をしたって、あんまり汚く聞えないですよ。何故汚く感じないかというと、
こちらに汚いものがないからよ。自分の心の中に汚いものがなければ、向うに汚くひびかない
のです。きたないものを一杯つめておいて、いかにも言葉だけで、有難いんでございます、と
やったってダメなのです。みんないい人で、みんな神さまの子で、みんな美しくて、といった
ってダメなのです。
それは偽善、自己欺隔というのです。自分をごまかしている。いつもきたない想いが中では
出ているけれど、それを出すまいくとしているでしょう。きたないものが一杯つまっている
のに、口先だけではいいことをいうでしょう。そうすると、きたないものが外へ出ないで、つ
まっちゃって、ますくきたないものが出てきて、つまっちゃって、しまいにはふん死します
よ。病気になるか、不幸になるか、耐えられなくなる。だから宗教を生じっかやっている人に
は偽善者が多い。
形の世界心の世界
神のみ心の中に入る
宗教をやっている人に限って偽善者が多い。人に偽りを見せている。それではダメなので
す。自分を偽り、人を偽っちゃダメなのですよ。悪いのは悪いで結構。そのまま出せるような
立場がほしいんです。
ようじ
そこで昔の人達は、武士は食わねど高楊子という教育でしょう。笑いたくても笑わない。夫
と妻が一緒に出かけたくても、世間の目がうるさいから、夫なら夫が先に五分位い先にいって
いるんです。そうすると妻があとから五分位い遅れていくんです。自分の町から遠くはなれて
から、だんく近づいてる。手は握りたいんだけれども握れないんです。誰かに見られちゃい
けないから、三歩ぐらいさがって「ねえあなた!」とやっている。こんなのでは面白くない。
実際には手を握りたいのだから。こんなに離れて妻と夫でしょう、誰に遠慮があるものかとい
うんです。193
そうかと思うと、お姑さんがいるところにお嫁にゆく。お姑さんに気兼ねに気がねをして914
「あなた」も; 口もいえないんですよ。お姑さんがいる時には、全然離れているような顔をし
てやるでしょう。そういうのは本当の姿じゃないから、どこかに業想念がたまるのですよ。嘘
をやっているのだから、そういう生活がズーッと続いていたの。
親のいうことはなんでも聞け、というんだね。なんといわれても親のいうことを聞かなくち
ゃいけない、夫のいうことを聞かなくちゃいけない。だから自分のいうことは全然いえないの
ですよ。詰りに詰って、業想念がいっぱい詰っている。それでつまったまま死んじやったりす
る。詰りきって死ぬんですよ。業が一杯つまって重たいんだから、地獄にいきますが、それが
今、若い人たちに生まれ変って来ている。
そこへもって来て、いいたいことを云いなさい、自由なんだよ、と教えられたでしょう。女
の人は云いたいことを云うだけ云います。それで男が女だか、女が男だかわからなくなっちゃ
った。やりたいことをやりすぎて、ロカビリーみたいになっちゃった。というのはどういうこ
神のみ心の中に入る
とかというと、前生において、あんまり封建的に抑えられに抑えられ、ギューギュー詰にされ
ていた。それが「いいよ」といわれたので、パーッと出て来ているんですね。
その姿だけ見ていると、ああ今の若者は、本当に礼儀も何も知らない、ということになりま
す。お茶をもってくるのに、昔の人だったら、お茶をおいて、坐って障子とかふすまを開ける
でしょう。今の人は立ったまま足で開ける。どっちがいいかというと、形の上では坐って開け
るほうがいいでしょう。しかし形だけ見たのではわからない。心の中はスッキリとしていて、
本当に素直になっていて、形の上もよければ一番いいです。ところがそうやった人が姑さんに
なってごらんなさい、お嫁さんが来た時”私の時はこうやったのだ、私はこんなは姑に仕えて
きた、この人は仕えない、私の時はく” といって嫁さんをいびってくいびりぬくのがある。
それならばいわゆる小笠原流にやったことは何にもならないですよ。足でやったっていいです
よ。
形の世界よりも心の世界が大事なのですよ。それを心の世界をおいてしまって、形の世界だ
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けをやったのが今までの日本なのです。日本の教育なのです。そこで今、修身教育反対をして96
1
いるでしょう。しかし私は修身教育反対しゃないんですよ。間違えちゃいけませんよ。反対じ
ゃないけれども、昔のようなやり方ではだめだ、押しつげただけじゃだめだというのです。自
ずからやらせなけれぽね。
知らないうちに、その人の感情が純化されていて、その人の魂が純化されていて、知らない
うちに目上を尊敬している、そのように自ずからなるようなそういう生き方をしなければだめ
ですね。そういう生き方をするための今、一段階です。今まで押えに押えられていたのが、パ
ーンとはねのけられて、一挙に自由になり、いきすぎちゃって、右の方ヘズーッと寄っていっ
たのが、左の方へ揺れもどって行きすぎた。それで今度は中庸をゆくような生き方が出来る時
が今なのです。これからなのです。


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