老子講義

老子講義
五井昌久


序文
空の中から
ぽっかり姿を現わし
永遠の生命をそのま玉生きる
真の自由人老子
道を説きながら道を超え
光に佳して光にも把われぬ
空々寂々空寂々
自由無硬にして無為
1序文
その心
測り知れず深く
果しなく広く
その力
時空を超越して魂をゆさぶり
宇宙の根源に人間を直結させる
2
今老子我がうちに在り
無限のひyきをもって我れに迫る
この詩のように老子こそ、神人であり、真の自由人であるのです。今日の自由主
義とか民主主義とか云うものは、老子の在り方からみれば、雲泥万里の相違があり
ます。
真の自由を得たいならば、どうしても、老子の説きつyけている無為の道に徹し
きらねばなりません。人が無為の生き方に徹しきった時、真に自由無擬、自由自在
心として、天地を貫く生き方ができるのです。
私は現代の知識をうとんずる者ではありませんが、人類匿界を今日のように存在
すがた
せしめている、宇宙の根本の相、生命の根源の力の方には想いをむけず、只単に枝
葉として現われている現象の姿のみを把える、学問知識にはあきたらないものなの
です。
頭脳知識で、いちいち考え考え生きなければ、この人生が生きられぬと思いこん
でいる現代の知性人たちにとって、最も必要なのは、この老子の生き方なのです。
現代人はあまりにも枝葉末節的なことに把われ過ぎて、一番大事なことを忘れてい
るのです。
その一番大事なものごとを、老子は光り輝く言葉で、説き釆り説き去っているの
であります。私はそうした老子の言葉を、どのような立場の人にでも判り易いよう

3序
にと、私流に噛みくだいて解釈しているのです。
この老子講義が、読む人の本心の開発に役立ち、宇宙根源のひ讐きを直覚できる
人になって下さったら、幸いである、と思っている次第なのです。
昭和三十八年十月
4
著者識
目次
序文
講義のはじめに
第第第第第第第第
八七六五四三ニー
講講講講講講講講
無名は天地の始めなり… (第一章)

聖人は無為の事に処り… (第二章)
吾、誰の子たるを知らず、

帝の先に象たり…
天地は不仁なり… (第五章)

=
一三

(第四章) … … 三〇
その身を後にして身先んじ… (第七章)
ごと
上善は水の若し… (第八章)
虚を致すこと極まれば… (第十六章)
聖を絶ち智を棄つれば… (第十九章)
三九
四八
五八
六七
莫5
第九講
第十講
第十一講
第十二講
第十三講
第十四講
第十五講
第十六講
第十七講
第十八講
第十九講
第二十講
第二十一講
やぶ
弊るれば則ち新たなり… (第二十二章)
失ある者には失に同じくす… (第二十三章)
あやう
独立して改まらず周行して殆からず… (第二十五章)
無棄人…無棄物… (第二十七章)
八五6
九四
無極に復帰す… (第二十八章)
自ら知る者は明なり…
大道は氾として左右すぺし…
(第三十三章)
(第三十四章)
大象を執りて天下に往けば… (第三十五章)
上徳は徳とせず是を以て徳有り… (第三十八章)
昔の一を得たる者… (第三十九章)
上士は道を聞いて… (第四十一章)
道は一を生ず… (第四十二章)
… ・: 一〇三
= 二
一三
三〇
一四〇
三〇
一さ
一三
一二
一空
天下の至柔は天下の至堅を馳鰐す… (第四十三章)……… 二9
第二十二講
第二十三講
第二十四講
第二十五講
第二十六講
第二十七講
第二十八講
第二十九講
第第第第
重士± 不
講講講講
ごと
大成は欠くるが若くなれども… (第四十五章) 三〇
戸を出でずして以て天下を知り… (第四十七章) 一三〇
おさ
学を為むるものは日に益し… (第四十八章) 二三〇
聖人には常の心無し… (第四十九章) 二四〇
生を出でて死に入る… (第五十章) 二究
やしな
道これを生じ、徳これを畜い… (第五十一章) 二究
天下に始有り、以て天下の母と為る… (第五十二章) … … 二六八
我をして介然として知ること有らしむれば…
(第五十三章) … … 二七七
知る者は云わず、云う者は知らず… (第五十六章) … … … 二八六
其の政悶悶たれば其の民は淳淳たり… (第五十八章) … … 二九五
つかしよく
人を治め天に事うるは商にしくはなし… (第五十九章) … 三〇五
大国は下流なり… (第六十一章) 三言7
第三十四講
第三十五講
第三十六講
第三十七講
第三十八講
第三十九講
第四十講
第四十一講
第四十二講
第四十三講
第四十四講
第四十五講
第四十六講
無為をなし無事を事とし… (第六十三、六十四章) … … … 三二五
いにしえおさ
古の善く道を為むる者は… (第六十五章) 三四二
大なれど不肯に似たり… (第六十七章) 三五二
きそ
善く士たる者は武わず… (第六十八、六十九章) 三さ
吾が言は甚だ知り易く… (第七十章) 三主
知りて知らずとするは上なり… (第七十一章) 三益
民、威を畏れざれば大威至らん… (第七十二章) 三九〇
かん
敢に勇なれば則ち殺し… (第七十三章) 三九九
民、死を畏れずんば… (第七十四章) 四〇九
人の生まるるや柔弱なり… (第七十六章) 巴九
天の道は弓を張るごときか… (第七十七章) 四二九
天下の柔弱なるは水にすぐるはなし… (第七十八章)… … 四三九
大怨を和すれば必ず余怨あり… (第七十九章) 窒O
8
第四十七講小国寡民… (第八十章)
第四十八講谷神は死せず… (第六章、十章)
装偵多田栄二
(太平洋画会)
四六〇
四究

9


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~ 触酬》「》》喩亀A」~ 》》》》
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人間と真実の生き方
人間は本来・神の鱗審あって・菊筆はなく、つねに霧轍、羅襯によそ守
られているものである。
かこせ
この世のなかのすぺての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念が、そ
の運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去るのであると
いう強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難のなかにあ
っても、自分を礁し人を磁し、自分を愛し人を愛す、愛と難ど醜しの言行をなしつづ
けてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の祈りを祈
りつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得出来るものである。
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講義のはじめに
老子という人程不思議な人はいない。何時生れて何時死んだのか、どんな書物を読んでも、はっ
きり書いてあるものはない。孔子よりもはるか昔の生れであるように書かれてあるかと思うと、孔
子と同時代にも存在していたようだし、もっともっと後年にも生存していたような事実も伝わって
いる。
或る説では、八十二才で母の胎内を出た、という、超現実的なことも云われている。これは要す
るに、老子が人間の形としてこの世に存在していた期間の自由自在な掴みどころのない現われ方が、
種々の伝説となって伝わってきているのであろう。
最近その老子が、私の霊体の中に合体してきて、今日まで全くと云ってよい程判らなかった老子
すがえすがた
の相がはっきりしてきたのである。老子の相を一口にして云えば、永遠の生命そのまΣの人である、
U講義のはじめ7y4s
ということである。
永遠の生命が時折り、忽然として人間の姿を現わして道を説いた、という、そういう云い方でし
か老子の出現を説明しようがないのである。
空々寂々、空寂々、自由無磯の生命の流れをそのま」現わして道を説いた老子の姿が、今私の心
の中で生き生きと輝いている。そこで私は老子の心を序々に伝えてゆきたいと思い立って、このペ
ンを取ったわけなのである。
老子の言葉を一章から八十一章まで伝えていたのでは大変なので、抜き書き的に説明してゆきた
いと思う。
12
第一講無名は天地の始めなり・…..
道徳経第一章
ノキハレスズノニノやハトスズノあハナリハナリ
道可レ道、非二常道⑩ 名可レ名、非二常名刈無名天地之始。有名万物之母。
ユシテソトノヲステソトノヲノハユシテニスヲジクフヲ
故常無欲三以観二其妙↓常有欲三以観二其徴鱒此両者、同出而異レ名。同謂二之
ひハナリ
玄⑩ 玄之又玄、衆妙之門。
〔読み方〕
道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず。無名は天地の始なり。
みきよう
有名は万物の母なり。故に常無以て其の妙を観んと欲し、常有以て其の微を観んと欲す。此の
ことびん
両者は同出にして名を異にす。同じく之を玄と謂う。玄の又玄は、衆妙の門なり。
近頃の人は漢文の苦手の人が多いので、こうした漢文調は載せたくないのですが、やはりこうし
13無名は天地の始めなり
た原文調を載せて、
最初の
それから説明にうつらなければならないと思い、一応載せて置きます。
14
道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず。
という言葉は有名な言葉でありまして、誰の言葉かは知らないが、そういう言葉があった、と記
憶している人も多いことでしょう。
これはどういう意味かと申しますと、老子の根本義である、自由自在性、無磯自在の生き方、在
り方を、単的に現わした言葉なのです。生命というものは本来自由自在に、生き生きと活動できる
ものであって、一つの道というものがつけば、その道以外には活動できなくなってしまう。また、
何の誰々という名がつき何々会という会名がつけば、その名の範囲に縛られてしまって、本来の
生命の自由自在性が出せなくなってしまいます。人間の本質は生命そのものであって、自由無擬に
何事でもなし得るように出来ているのでありますが、一つの道という定まったものを掴んでしまう
と、その道がどのように立派なものであっても、その道に心が把われてしまい、本来の自由自在性
が縛られてしまいます。また名にしても同じことで、何の何某という名がつけば、その名の範疇
でしか生命が働かなくなってしまうものです。
人間というものは、そんな窮屈なものではない、何もの、何ごとにも把われぬ存在であって、い
ささかでも把われがあれば、真の道はかくされてしまい、真の名は、その本性を輝かさなくなって
しまうのであります。
老子という人は、把われを最も嫌った人なので、老子の教えのどこをみても、生命の自由自在性
を説いております。
この人生を生きてゆきますには、法律のようなものもあれば、宗教の道というようなものもあり
ます。しかし、法律の原則論に把われ、宗教の道というものに把われきっているような人の頑迷さ
ていとん
不自由さは、この世のよどみない流れを停頓させ、生命の生き生きとした美しさを汚してしまいま
す。
宗教の道というのは、神のみ心の現われたところをいうのでありますので、これが道だと指し示
したときには、もうその道は、神のみ心の自由性を失っているのです。これが道だ、という道は、
言葉や文字でいうべき道ではなくして、その人その人の真心から自然と現われた行為の中にあるの
15無名は天地の始めなり
で、道そのものは変化自在なものなのです。
ですから、言葉そのもので、宗教の道を押しつけようとするやり方は、誤った道学的の在り方で
おのずか
神のみ心の深い味わいを無くしてしまうのです。各人が自ら行じて、それが自然と神のみ心に叶
うている、という生き方こそ、道がそこに現われているのであります。
そういう生き方を常の道、真の道というのです。
名にしても同じことで、この世に生れ、この世の組織の中に生活していますと、種々と名をもつ
わけですが、そうした現われの名というものは、実は真実の名ではなく、現われの奥に、その人や、
その組織の真実の名がかくされているのです。その名とは、天命というものなのです。天命の一つ
の現われが、この世の名として現わされているのですから、現われの名の方にばかり気を取られて
生きている人は、真実の名を現わすことはできない、つまり、天命を果すことはできない、と老子
は云うのであります。
is
無名は天地の始なリ。有名は万物の母なリ。
無名というのは、宇宙万物を創りなす根源の力、相対的な何もの、何ごとも現われ出でぬ以前の
すべての働きの根源の創造力そのもののことであります。相対に現われぬ根源の力であり、絶対な
る生みの力でありますから、何ものもその力に対して名をつけることはできません。
この創造力、絶対力、宇宙に充ち充ちるものを、人類がはじまってから、宇宙神とか、大生命と
か、絶対者とか、創造主とか、道とか、種々と名をつけたのであります。
無名といっても、こうして文字に書き、言葉に現わせば、もう、無名という名がつき、言葉にな
るのですから、人類が、すべての根源の力を説明するためには、どうしても仮の名をつけて呼ばな
けれぽならなくなります。そこで私は、単刀直入に神と呼ぶことにしたいと思うのです。
神は天地の始めである。ということは、天地は神の中にあり、神の一つの現われであるというこ
とであります。天地と申しましても、私たちが、この肉眼で見ております、青空とか大地とかいう
より、もっと深い、もっと奥の霊的な天地があるのでして、その霊的な天地が、この肉眼に見える
天地とも現われ、人間内部にも、天地或は陰陽として、その働きをしつ黛けているのであります。
た欝、神という名がつくと、その神という名によって、その形をすぐ想燥したくなりますし、神
の道というような、一つの型をつけたくなるのが、人間のくせであります。そこで老子は、神とか
17無名は天地の始めなり
絶対者とか云わないで、無名という、把われることのない表現の仕方にしたのだと思います。
この無名が、何々という名をつけてきますと、これは無名ではなく、神そのものではなく、神の
現われとしての存在となってくるのです。そして、霊的な微妙な波動としての存在から次第に粗い
波動の存在、つまり物質的な現われに変化してくるのであります。
ですから、名がつくと、つまり有名になって参りますと、それは万物を生みなしたことになり、L
万物の母なりということになるのであります。
こ」に一つずつの瀞雌と鰐就とがあるとします。この布巾と雑巾とは、その名がついた時に、そ
の役目が定まってしまっているのです。一反の木綿の布地が、その布地そのものとしては、布巾に
使われるか、雑巾に使われるか定まっていませんが、いざ人間の側で、これは布巾に、これは雑巾
にと定めてしまうと、その反物は、その定められた名の通りになってしまうのです。
すぺてそうしたもので、名がつけば、その名に縛られてしまうのですが、人間はその名を湖っ
て、神のみ心そのものの中に入りきって、神即ち無名と一つの働きに合体することができるものな
のです。
ではここで、次の言葉と関連して説明してまいりましょう。18
ゆえじよりむみよウゐきよう
故に常無以て其の妙を観んと欲し、常有以て其の徹を観んと欲す。
ことげん
を異にす。同じく之を玄と謂う。玄の又玄は、衆妙の門なリ。
此の両者は、同出にして名
常無というのは、無名即ち神そのもののことであります。その神そのものの中に、妙々不可思議
なる絶対力というか、大智慧というか、大能力というか、そうした、妙なる実在の姿を観ることが
きより
できるのであり、現われとしての天地の中に、徳(とりで) つまり差別の姿を観ることができるの
であります。しかしこの両者は全く一つの実在の姿であり、現われの姿であって、名を異にしてい
るだけである、と云うのです。そして、どちらも、之を玄という。つまり、霊妙不可思議なる、あ
らゆる能力を含んだ実在、即ち神そのものであり、神の現れの姿である、というのであります。そ
して、その玄と老子がいっている、霊妙不可思議なる実在は、どこまでも深く、どこまでも広く、
無限大にして、無限小ともいえる大能力であって、森羅万象ことごとく、この大能力、絶対力の中
から生れてくるのである、というのであります。
実際に、神というものについての説明ぐらいむずかしいものはありません。こうして文にしてゆ
19無名は天地の始めなり
くと、どうしても眼に見える言葉として書かねばなりません。神そのものは人間の眼に見え、手に
触れるものではなく、無限の広がりをもち、また無限に小さな姿ともなり得るのであります。です
から、神を説明する場合には、.どうしても現れの姿を通しての説明になってしまいます。哲学者
などが、神を説こうとして、実にむずかしい、云い廻しをしてゆき、しまいには何が何んだか、
読む側にはさっばり判らず、只、何んとなく知識がついたような自己満足をしている、といった工
合になってしまうのです。
老子が、無名と云ったり、玄と云ったりして、説明している苦心がよく判ります。玄という言葉
くろうと
でよく使われるのは、玄人という言葉であります。玄人というのは、その道の達人ということを云
ったものであって、その道にかけては、至妙至高の力をもっている人をいうのであります。玄とは
そういう意味の言葉なので、神はあらゆる部門の最高至高の存在である、ということなのでありま
す。すべての力は神のうちより現われているのであって、人間が、我れという小我があるうちは、
がくラ
神の実体を知ることはできません。そこで、我を捨てた空の姿になった時、神のみ心深く入り得る
くコフくぼフくう
ことになるのであります。その空も老子によれば、浅い空、深い空というのがあって、どこまでい
っても行きつけぬ、深い深いものであるというのです。ao
第二講聖人は無為の事に処り……
道徳経第二章
天下皆籔美之憂美、懸酬,巳。皆籔善之衡善就不葛,已・旗有無相無
難泳相鹿、長紅相軌、高孔相風・音画相私・前衡相脇・匙燐聖ん・豹無為
之罫多不言之聾万物伽.而テ不焦。もテ鵬.不レ胤・海.而テ不レ織・功脚.弼
ヲレヲヲテルノピヲ
不レ居。夫唯不レ居。是以不レ去。
〔読み方〕
たこ
天下皆美の美為るを知れば、斯れ悪のみ。皆善の善為るを知れば、斯れ不善のみ。故に有無
かくあいしたが
は相生じ、難易は相成し、長短は相較し、高下は相傾き、音声は相和し、前後は相随う。是を
にんぶつおこ
以て聖人ほ、無為の事に処り、不言の教を行う。万物作りて而して辞せず。生じて而して有せ
なたの
ず。為して而して侍まず。功成りて而して居らず。夫れ唯居らず。是を以て去らざるのみ。
21聖人は無為の事に処り
この章は、一ロに云うと、聖人というものは、相対界を超えた、無為の境涯にいて、すべての物
事、事柄に把われない。自分の為したことも誇るわけでも、気にするわけでもない。どんなに自分
が力をつくして為し遂げたことでも、その功にもその仕事にも執着するわけではない。そこに存在
しながら、存在しているということが、人の心に兎や角の非難を起させないでいて、その人たちの
心の中に存在し、その場所にも永遠に存在している。

というような、自由無磯、自由自在心の持ち主であると聖人の心境を説いているのであります。
すがた
美という感覚があれば、醜悪という感覚がその相対の相としてあるのでありますし、善というも
のがどういうものかを知るということは不善ということが、その対照的にあるということになりま
す。この章の「是を以て聖人は」のところまでは、すべて相対世界の説明になっているのです。有
に無、難に易、長いに短い、高下、前後というように云っているわけです。
この章の中で、一番大事な言葉は、無為ということであります。一体無為とはどういうことなの
でありましょう。巷間の言葉に無為徒食というのがありますが、老子の無為は、そんな何んにもし
ないで徒らに喰べている、生活しているというのではありません。
老子の研究家の中には、老子を消極主義者である、消極思想家である、というように解釈してい
22
る向きもありますが、これはとんでもないことで、老子は消極とか積極だとかいう、そういう境界
くうくコくユノ
をすっかり超越し切った、空の空の又その奥の空のというような、大生命の根源からこの世に働き
かけていた、神人そのものであったのです。
じねんにうに
ですから、説くこと為すこと、老子のすべては、自然法爾に、ひとりでに、これをしようと考え
ヘヘへ
てからするのでも、これはしまい、と思ってしないのでもなく、老子の一挙手一投足、一言一句が、
光となって、対する人に放射され、万物の上に投げかけられるのであります。
大生命がそのまま躍動している、というのが老子なのです。そうした老子の在り方が、私には実
によく判るのです。何んというか、口にも筆にも現わせぬ、烈しく強い生命力というものを私は老
子の波動から身心に沁みて感じているのです。
これをしなければいけない。こうして、ああして、ああやって、というのは、この世の一般の人
々の在り方でありまして、聖人の行為というものは、自己の肉体身の頭脳で兎や角考えて行うので
はなく、神霊の界で定まったことが、瞬時にして、肉体身を通して行われてゆくのであります。こ
れを無為にして為すというのです。
いのち
肉体身にしても、心臓も肺臓も、胃腸もいちいち働かそうとして動かしているのではなく、生命
23聖人は無為の事に処り
すごやかなる限り、自然の活動として動いているのであります。人間の想いもその点同じであるべ
きなのですが、いつの間にか、そうした肉体的諸機関の在り方と異なってきてしまったのです。
もし、人の想いが、心臓の上にばかりあれば、心臓の動きは、かえって不調になるでしょう。肺
も胃腸も、肝腎も、やはり同じことです。正調の時は、そうした諸機関に想いがかかることがない
のです。
心というのも全く同様なのですが、人々はそうは思っておりません。頭でいちいち考えて、心を
働かせて、事に当らねばならぬ、と長い間思いこんできているのです。そこで、頭脳にある知識経
験の範囲で、種々と事を処してゆくわけです。そして、それが人間の当然の在り方だとされている
のであります。
ところが、老子に限らず、古来の聖賢というものは、殆んどが、頭脳知識に頼ったり、こちょこ
ちょ頭をひねって考え考え行為するような態度を否定しているのであります。
どうしてそういうことになるのでありましょうか。それは老子の云うように、肉体頭脳の小智才
覚では、この相対界の苦の境界を人類がぬけ出ることができないからなのです。
そんなことを云ったとて、この肉体の頭で考えて行わなけれぽ、どうにもしようがないではない
24
かと普通の人は思うのであります。そこで老子は、聖人はと云っているのです。凡夫と聖人という
のは、そういうところに、根抵からの差があるのです。
凡夫にはどうにもならないことが、聖人には何んでもないことなのです。この無為の生き方にし
ても、生半可の悟り方で、如何にも無為の境涯に住みきっているような恰好で生活していますと、
時折りぽろりとぼろが出まして、あの先生、日頃偉そうに云っていなさるが、あんなやり方をして
も、やはり無為の行為なのかなあ、というような、凡夫以下の行いをしてしまったりすることがあ
るものです。
無為の事に処リ、というのは、全く人間最高の生き方なので、そう容易なことではありません。
そこで、どうしてそういう生き方ができるかという疑問が起るのが当然なのであります。
種々と頭脳で考えて計画して、あの人にはこう対し、こういう仕事にはこういう方法で、とその
場その時々を処してゆくからこそ、間違いなくこの世に生活してゆけるのであり、地位の高上も、
富有な生活も、すべて日頃からの計画性によって為されていったものである、何も考えず、計画性
も無くて、この人生を生きてゆくなど、とんでもないことだ、と無為の話などすると、かんかんに
怒る人さえあります。25聖









私たちは、何も聖人などになる必要もないし、なれる筈もない。だからそんなむずかしい教えな
ど真っ平だと云う人もあるでしょう。
昔でもそうでしたでしょうが、現代では実にこの老子的な無為の生活のできにくい時代になって
きているのであります。文字で読んで、頭で判って、心で楽しんでだけいる人が、老子の研究家の
中には沢山いることと思われますが、老子というのは、文字にこうして残っている言葉そのものよ
りも、文字以前の、老子そのものの生命の動き、光明波動の流れというものが、大事なのでありま
すが、普通では、こうした真実のことは判りようがありません。私は幸にして、そうした生命の流
れとしての老子、光の放射体としての老子を、はっきり知っておりますので、こうして、老子の講
義を、文字にして書いておりましても、とても、もどかしくて、皆さんに、どのようにして、老子
すボた
の本当の相が判ってもらえるかと、しばしぼ、ペソをとどめる始末です。
すがた
詩集「いのり」や序文にも発表した老子という詩などは、一番単的に、老子の相を現わしている
ものだと思っているのですが、こうして散文体にして説明してゆきますのには、なかなか容易なこ
とではありません。長く書けぽ長く書く程、老子が判らなくなるようなことでは困りますし、と云
って、一つ一つの言葉の意味も説明しなくてはいけないとも思います。
26
この無為という言葉一つ把えても、この無為という言葉の無限の奥へのひろがりと、果てしらぬ
現象界への永続性とは、とてもペソでは書き現わせぬものです。
ところで、凡夫がこの無為の境地になるためにはどうしたらよいか、の説明をしてゆくことに致
しましょう。凡夫が無為の境地になるためには、やはり、神の存在を信じ、神の大愛を信ずる、と
いうことが最初の出発点になるわけで、この信仰心から、全託へと一歩歩を進めてゆくことが、無
為の境地への道なのであります。
無為という言葉を、あまり聞きなれない人は、無為とは、色即是空、空即是色の、空即是色の境
地だと思えばよいのです、これは拙著「愛・平和・祈り」を参考にして下さい。
むもい
人間の運命を複雑にしたり、乱したりするものは、人間各自の想念に他なりません。不幸も悲哀
も怒りも妬みも、それはすべて人間の想いの波動がそうした感情をひき起すのであって、人間自体
に不幸や悲哀があるのではないのです。
熟睡している時に、その人に何んの不幸感や悲哀感がありましょう。睡っている時は、その人の
肉体はそこに存在しながらも、その人の想念は、その人の肉体を離れているので、その人に何等の
感情も起らないからなのであります。
聖人は無為の事に処り
とすると、想念さえ、悲哀や不幸の波の中にいなければ、人間には悲哀も不幸もないということ
くユノ
になるのです。そこで、仏教では、そうした想念をすべて無くしてしまう空の境地になる練習を主
として行わせたのであります
人間というものは、常に私が申しておりますように、この肉体そのものではありません。肉体は
人間の心のひびきの一つの現れに過ぎないのです。人間は肉体の他に種々の体をもっているので
ありますことは、心霊研究をした人ならすぐにも判ることなのですが、そうした枝葉のことよりも、
人間は大生命(神) の中で生きている光明心(体)そのものであって、想念に把われさえしなけれ
ば、自由自在に、己れの欲っする通りの世界を自己の周囲に現わすことのできる存在者なのである、
ということを知ることのみに専念した方が、短時日で本心を開発することができると思うのです。
くりくう
そこで、仏教では空になる坐禅観法をするのであります。みなが空になり切って、空の境地から
光明心がそのまま現われて、この世で生活するようになれば、この世はそのまま神界になってしま
うのでありますが、それがとても容易なことではないのです。そこに、祈りという行為が必要にな
ってくるのであります。祈り心をもって、自己の全想念を、神の大愛のみ心の中に投入し切ってゆ
くう
く日常生活をしてゆきますと、そこに巧まず、苦しまずして、空の境地に近い心境になってゆく
くひ
のであり、その境地に熟達してきますと、自然と、空の境界に住めるようになり、無為に為す式の
素晴しい生活がその人の前にくりひろげられてゆくのであります。
ですから、はじめから無為というような、高い境地を目指すより、世界平和の祈りのような、自
己と人類同時成道という、,容易にでき得る、神界からの救いの光明に乗って、日々の行為をしてゆ
き、時日を経て.自然に無為にして為す、という高い境地にまで至るほうが自然の在り方である、
と私は思うのであります。世界平和の祈りの日常生活からは、みなぶすべて、老子の無為の境地に
まで、いつの間にか高まってゆくであろうことを、私は信じているのであります。
29聖人は無為の事に処り
30

第三講吾、誰の子たるを知らず、帝の先に象たり
道徳経第四章
遮鵬.而嚴々或不熱漏.号傷”万物之宗噸幽二菊鋳鵤二菊聾私噌瓦聾臥二
其堅灘.号饒函叡”・吾不レ知二誰之藩塾帝之聾
〔読み方〕
道は轡して夢朧うれば・或は奪ず・灘として万物の宗に似たり。鰹の鋭を搬き、其の
轡解く・其の光を和し・鋒の野剛ず。夢して存す轟る擾たり。吾誰の子たるを知
ていせんに
ら ず、帝の先に象たり。
漢文などというものは、実にむずかしくて、読むのも面倒な、という人も随分あると思います
が、漢文には漢文でなくては味わえぬ気品があり、格調も高く、宗教とか道とかの講義には、もっ
ともふさわしい気が致します。老子の言葉など、何も訳さなくとも、このまま読んでいれば、それ
で心がすっきり澄み切ってくるのです。
ところが現代人は、文字から受ける影響には、甚だ鈍感になっていますので、やはり、頭脳的な
理解を欲っするわけです。直感的に心で良否をきめることより、頭脳知識で、理解した上で良否を
定める習慣がついたのが、現代人の特徴であるのかも知れません。
そこでこの章の解釈ですが、この章は、道というものを体得した人の在り方を説いているのです
が同時に、老子その者の実体をも語っているのであります。一節つつ解釈してゆきましょう。
ちゆうもちみ
道は沖にして之を用うれば、或は盈たず
ちゆりみ
この沖という言葉は、盈たざること、即ちむなしい、というように使われている解釈が多いので
すが、老子のこの言葉の中には、単なるむなしさというような浅い意味ではない、深い意味がある
くうから
のです。仏教の空という言葉が、只の空っぽとか無いとかいう意味ではないのと同じように、言葉
の世界や形の世界では計れない、つかんでつかめるようなものでも、把えて把えられるようなもの
31吾,誰の子たるを知らず,帝の先に象たり
ちゆう
でもない、ということを沖という言葉にして表現しているのです。
そこでこうした道というものは、これを用うれば、云いかえれば、道即ち神の生命の働きを現わ

そうとすれば、これで充分だ、これで一杯だというように、限度のあるものではない、盈たないも
のであるというのであります。
次の節の
32
えんに
淵として万物の宗に似たリ。
たんそん
湛 として存する或るに似たり
しんえん
という二節は、いずれも、万物の根源たる、道の、計り知れない深淵さと、深い静かさとを現わ
し、その深さ静かさの底にある或る偉大なる力を感じさせる、という意味が書かれているのです。
そこで、この二節の中間にある言葉は、そうした道を治めた人々の生き方は、かくなければなら
わこうどうじん
ぬ、という教えになっているのであります。巷間にも知られている、和光同塵という言葉がこの中
に出てきているのですが、順を追って説明して参りましょう。
くじふんとちり
其の鋭を挫き、其の紛を解く、其の光を和し、其の塵に同ず。
其の鋭を挫き、というのは、道を治めた者は、自己の才智や能力を、あらわに出さずに、自己の
鋭さを見せぬようにして、それでいて、種々な紛争や、出来事を、糸をとくように解決してゆかな
ければならない。その為には、自己が神の光明に輝いていても、その光明をやたらに人々に当てる
のではなく、その人その人に応じた光りにして対応しなければいけない。即ち柔かい和やかな調和
ちり
した光明を常に心身から放射するようにして、どんな塵の中にいるような汚れた人々とでも、同じ
ような立場に立って和してゆかなければいけないという、つまり和光同塵の教えが説かれているの
であります。
私なども、同信の古い人たちによく云うのですが、自分が判っているからといって、教えを乞い
にくる人を下目にみたり、押しつけがましい説教をしては絶対にならない。いつも相手の立場や、
ヘヘヘヘへ
相手の心になってあげて、深いおもいやりの心で、新しい人々に接しなければいけない。道を求め
てくる人は、はじめから道そのものを求める形では来ないで、現象の利害関係だけを表面にしてく
る場合もあるのだけれど、その奥の心では、道を求めてきているのだから、表面に現われている現
33吾,誰の子たるを知らず,帝の先に象たウ
象の利害関係のことにも耳を傾けてやらなければいけない、というのであります。
或る一つの道から悟りに入った人は、その道だけを人々に押しつけようとしますが、人に押しつ
けがましくした場合には、その道はもうすでに真の道ではなくなっているのです。何故なれば、そ
の道は相手にとって、甚だ迷惑な窮屈なものであり、想いがその道に反抗するようになるからであ
ります。
道とは神の生命の働きそのものであり、すべてがその中にあり、すべてを容れ得る無限大の心で
あるのですから、何人といえども容易に入り得ないような道などというものは決してないのであり
ます。ですから、道というものは人が押しつけるものではなく、すでにその道に乗っていることを、
各人に知らせさえすればよいわけなのであります。
人間というものは、誰も彼も等しく神の子であり、神の分生命でありまして、生命そのもの
に変りがあるわけはないのです。それが、この人生では、高下優劣があることになってしまってい
ます。何が、人々に高下優劣という区別をつけさせたのでありましょうか、それは神から分れてき
ている生命そのものがしたのでもされたのでもないのであります。
おもいひびぽ
すべてそれは、人々の想念の波動によるのであります。自己の生命の働きを妨げるのも想念なら、
34
他の生命の働きを妨げるのも想念なのであります。ですから私は常にすべての想念を祈りによって
神のみ心にお還えしして、神の分生命そのものになって、この世での天命を完うしようと云いつづ
けているのであります。
そうした真理を、実によく体得しているのが、我が老子なのであります。
そこで、最後の節の説明にうつりますが、実にこの言葉の素晴しさというか、凄さというか、老
子の面目躍如たるものがあります。
吾、
ていせんに
誰の子たるを知らず。帝の先に象たリ
この節で、老子は道のことを吾と云っております。うっかりすると、吾という言葉を道のことの
みを云っているように解釈してしまいますが、それなら、道は誰の子ならむ、とか、道は誰の子な
われ
るかを知らず、という筈なのですが、道と云わずに吾と云っているのであります。
何故、道を吾と云ったのでありましょうか、このところが、老子の物凄さなのであります。老子
は、私が前にも書いた中で、永遠の生命の現われそのものの人である、と云っておりますが、実に
35吾,誰の子たるを知らず,帝の先に象たり
老子は、永遠の生命そのものの代表者として現われた人であるのです。ですから、この章でも、自
己を道そのものと一つにして説いているのであります。それが、道と云うところを、吾と云わしめ
たのであります。
我れは神と一つのものなり、ということなのであります。この確信、否、確信などという言葉は
老子には不必要です。信などという心よりももっと根本である、当然のことなのであります。
老子にとって、道とは自己自らなのであって、自らが神の大生命に全く一つになりきっている存
在者なのであります。ですから、道と老子とが離れてあるものではなく、老子が道であり、道が老
子なのであります。
その当然の心が、道を吾と云ったのであり、吾、誰れの子たるを知らず、と云って、神そのもの
であり、絶対者そのものの現われである、と云っているのであります。そうなると、その項の帝の
せんに
先に象たり、という言葉も当然そうあるべきなのであります。
帝乏はここでは天帝の意味であります。天帝とは、中国でいう、天の中心者のことでありますが、
その天の中心者として在るものより先に在るのが、吾であり、道である、というのですから、老子
の凄さが知れるでありましょう刃
36
そのように道はすべての根源である、というのが、老子の言葉なのです。あらゆる事象あらゆる
事物に先立って道があ・った、どいうことは、道即ち絶対者(宇宙神) のみ心であり、宇宙神のみ心、
み働き、それが道であるのでして、宇宙の運行のすべてが、その道に乗って動いているのであります。
そうした宇宙の運行は、宇宙神の大叡智によって運行されておるのでありますが、この宇宙神の
み心は、宇宙神そのものの直接の働きとしてなされるのではなく、各大神そしイ.、その大神の各系
統の神々神霊によって、運営されているのであります。
日本の古事記に出てくる神々のみ名は、みな、そうした働きにつけられた名なのでありますし、
人格的にみれば、人格的な神としても現われているのであります。
中国でいう天帝なども、宇宙神の一つの働きにつけた名でありまして、絶対者という意味ではな
さき
いのです。そこで、老子は、道は帝の先にすでに存在した之云っているのであります。そして、老
子も、道と共に生れ出でた存在者であったのです。
ですから、老子を、この世に赤子として生れ出でて、種々と修業して、悟道に入った人のように
解釈しようとしましても、何等そうした老子に対する事蹟的なものが皆無なのであります。
釈尊でもキリストでも、孔子でも、有名な聖者たちは、その多少にかかわらず、種々の生い立ち
37吾,誰の子たるを知らず,帝の先に象たり
の記的なものや、たどってきた足蹟が語り残されたり、書き残されたりしているものです。
ところが老子に限って、一つとして筋の通った歴史的な物語りはないのです。どうしてそういう
ことになっているのでしょう。老子という人は、普通の人のように肉体身の両親の下から生れた肉
体人間ではなくして、はじめから霊体の人であって、時により場所によって、突如として出現し得
る神人であったのです。私の内部で、老子は自らそう語っているのです。
ですから、老子が、吾は道なり、と云っても無理のないことであって、歴史的に肉体人間として
生れてきた釈尊が、我れは最勝最智の仏なり、と云いきっているのをみれば、勿論当然なことなの
であります。
私は前にも申しましたが、私の働きの中に老子が突然合体してくるまでは、老子の本などまるで
読んでいなかったのですが、老子が合体してきてからは、老子そのものの在り方が、実にはっきり
とよく判ってきているのであります。世には不思議なことというものは数多くあるのでありまして、
自己が納得しないからといって、その不思議を否定し切ることはとても出来ないことである、と改
めて思ってみるのです。そういう、私なども、唯物的な目から見れば不可思議なる存在者の一人な
のでありましょう。
38
第四講天地は不仁なり……
道徳経第五章
ハナリテヲスレハナリテヲスレハ
天地不仁。以二万物一為二御狗殉聖人不仁。以二百姓一為二鯛狗㌔天地之間、
レナオノニシテセイテヅナレパスカルニヲ
其猶二稟篇一乎。虚而不レ屈。動而愈出。多言数窮。不レ如レ守レ中。
ゴトキカ
〔読み方〕
みじんすうくなひやくせいすラく
天地は不仁なり。万物を以て翻狗と為す。聖人は不仁なり。百姓を以て翻狗と為す。
そなおたくやくくついよいよしぱしはきゆラ
天地の間は、其れ猶藥箭のごときか。虚にして屈せず。動いて愈出ず。多言なれば数窮
もゆりし
す。中を守るに如かず。
みじんすうくひやくせいすラく
天地は不仁なリ、万物を以て鋼狗と為す。聖人は不仁なリ、百姓を以て鋼狗と為す。
39天地は不仁なり
天地は、自己の意図をもって、ああだ、こうだと理論立てて、万物を生かしおるものではなく、
自然の動きそのままに、万物を生かしたり、殺したりしているのである。完から仁たらんという想
すうく
いをもって運行されているわけではなく、万物を御狗(翻狗というのは、草を結んで犬の形にしたもの
で、神を祭る時に供えたものです。この蜀狗は神を祭る場合には、きわめて丁重に取扱われるが、祭が終って
しまえば、用済みになって、路端に打ち捨てられてしまうのです。) のように扱っているのである。そのさ
まは恰も、不仁の在り方のようにみえるのである。その天地と同じように、聖人も自ら手をさし
伸べて、百姓を救おうとはせず、自然のままに打棄ておく、その態度は仁とはみえぬ、不仁そのも
のの態度である。というのが、この説の表面的にみた大意ですが、この言葉の奥にある老子の教え
は、天地はいちいち人間の頼みに応えて、万物を生かしたり殺したりしているのではない。自然の
法則の下に、その法則のままに天地の力は運行されているのである。天地そのものに何等かの意図
があり、自我意識があって、宇宙の運行にたずさわっていたら、宇宙神の総体的な活動の線から漏
れてしまって、法則を乱してしまう。宇宙の法則を乱してしまったら、すべてのものの統一が乱れ
てしまって、この世界は滅茶滅茶になってしまい、かえって万物の存在を危うくしてしまうのであ
る、だから天地そのものには、宇宙神の心から離れた勝手な情愛などはない方がよいのである、と
40
いうのです。
全く、天地に自我の想いがあって、自己の好き好みによって、万物に処するとしたら、これは大
変なことになってしまいます。雨が降るも風が吹くも、天地そのものの心がするのではなく、すべ
て自然の法則によって行われてゆくのであります。この自然の法則というものは人類にも当然当て
はまってゆくのでありまして、憎めば憎まれる、叩けば叩かれる、というように、自らの発する想
念波動が、他の同様の波動と交流して、自らに同じような事柄となってかえってくるのであります。
ですから、自分の運命はすべて自分でつくり出すものであって、自分の不遇を他の人の所為にし
てしまったりすることは実に愚かしいことなのです。
自己が如何に他の人の為に尽くしているように見えても、その行為をその人が喜こんでくれぬ場
合は、その行為がまだ真実その人の為を思ってしているのではないのか、或は、自分がその人に、
過去世から余程借り分があったかする場合なので、ますますその人の為に尽くすか、その人の天命
の完うされることを祈ってやるかすることが大事なのであります。また人類そのものの運命でも、
人類そのものの想念が、人類の運命をつくっているので、天変地変なども、人類の想念行為によっ
て起されるものなのです。
41天地は不仁なり
そのように、宇宙の法則や、想念波動の定まりというものは、どうにもならぬものなので、自己
の運命を直そうとするならば、宇宙の法則に自己の想念行為を乗せてゆかねばならないのです。宇
宙神のみ心のひびきに、自己の想念波動を合致させてゆくことが、宇宙法則の軌道に乗るというこ
となのであります。
そこで聖人というのは、どういう生き方をしているかと申しますと、天地の在り方と同じように、
自己の我の想いで、人々に兎や角とお節介をするのではなく、自然のままに、自己が動いているの
であります。ですから、百姓があくせくと働いて苦しんでいるのを見ても、自然のみ心が自己を動
かさなければ、そのまま動かずにいるのです。そうした姿を凡夫がみれば、不仁の姿に見えること
でありましょう。
聖人にはすべての人の生きてゆくべき道筋が見えていまして、各人各人の業生を果させながら、”
真実の神のみ心をその人々に知らせ、悟らせる天命を持っているのであります。
宇宙法則の運行から外れている人々を、その軌道を外れたままの状態で、その場その場の苦しみ
を救ってやっていても、とてもいつまで経っても真の救われに達しない。だから各人がその置かれ
た立場立場で、自然と業生からぬけ出せるように、本心開発の教えをするのが聖人の存在する価値

となるのです。
じねんにうに
聖人自らは、自らの想念を空にし、無為の生き方の中で、自然法爾的に、人々に接してゆくわけ
です。自然法爾の生き方の中には、宇宙神のみ光が輝きわたっているのですから、聖人が生きてい
ることそのものが、人々のプラスになるのであります。
一見して不仁のように見える生き方の奥底には、大きな仁の姿が輝いているのです。
天地の間は、
たくやくくついよいよ
其れ猶彙箭のごときか、虚にして屈せず、動いて愈出ず。
たくやくヘヘへ
豪箭というのは、鍛冶屋のつかうふいごのことで、天地の間は丁度このふいごのようなもので、
ふいごは中が空っぽの箱であって、動かせぽ動かす程中から風が出てくる。中が空っぽなのに、風
がつきることなく出てくる。天地の間の道というのも、そのようなもので、空のように虚のように
見えるけれども、その力はつきることもないし、出せぽどれ程の力のあるものか計り知れない。
天地の力は実に無限である。というのであります。
43天地は不仁なり
しましまし
多言なれば数窮す。中を守るに如かず
44
天地はそのように無限の力をもっていて、出せばいくらでもその力が出るが、その力は常に宇宙
の法則に乗って出されているのであり、やたらに出せるだけ出しているというようなものではない。
ところが人間は、自分に少しでも力があると、それをやたらに出してみたくなる。一寸知ったこと
おしやぺり
で も、誰彼なしに、その知識を発表しようとする。そのように多言の行為をしていると、しば
しば自らを窮地に陥れてしまう。そんなおしゃべりな生き方はあまり感心したものでない。だから、
天地のように計り知れない力をもちながら、その場、その時々に即応した力を出してゆくようにし
なければいけない。つまり中庸の道を守って生きてゆかなければいけない。
と老子はこう云っているのであります。老子のこの中を守るということは、実にむずかしいこと
でありまして、中を守れる人間などというものは滅多にいるものではありません。尤も老子の説い
ているのは、いつも聖人は、といって、聖人相手の説法なのですから、老子の説法を一般の人にそ
のまま直訳して判らせようとしても、どだいそのことそのものが無理なのであります。私はそこで、
老子に至る道、聖人に至る易しい道を説きつづけているわけなのであります。
中庸の道というのは、孔子もよく使っている言葉ですが、人間というものは、どうも、右か左か
に片寄り過ぎる傾向をもっていまして、中を守るという生き方ができにくいのであります。
この章の主なる意味は、天地が自然の法則のままに運行しているように、聖人も自我を没却して、
宇宙神のみ心のままに、自然法爾に生きているものである、と説いているのでありますが、その自
おのずか
然法爾の生き方は、自ら、右にも左にも片寄らぬ、あらゆる業想念を超越した把われのない心で、
中を守って生きられることになる、という点に、この章の重点を置いているわけです。
日本の政治などでも、保守系でなけれぽ、共産社会系というように、考えられて、中を守る政治
家などは、一人として、政治の舞台には立てぬような状態に置かれています。
どうもこの地球世界では、右だ左だと、景気よく自己主張している人の方が、何んだか頼り甲斐
のあるような気がしまして、そうした業想念波を超越した世界から、この世の救いに起とうとして
いる、真人の声などは、なかなか耳に入ろうとはしないようです。それは丁度、老子が、聖人は百
すうく
姓を傷狗のように扱って不仁に見える、と云っていると同様に、すぐに、こうだ、ああだと手をさ
し伸べて、その人々に直接利益になるような処置を取ってやるようなことを、本心開発の道を説く
人々はあまりしないからなのであります。
45天地は不仁なり
すうく
私たちの在り方は、なるべくは、すべての人々を鋼狗のように扱わずに、すべての人々に直接利
益を与えながら、しかも、その人々の本心開発に役立ち、世界人類の天命開顕にも役立つ方法を提
唱宣布しているのであります。それが世界平和の祈りとして誕生しているわけです。
祈り一念から生れ出でる生活こそ、右にも左にも傾かぬ、中を守る生活になってゆくのでありま
す。何故ならば、祈りという行為は、自己の全想念を、神のみ心の中、つまり自己の本心の中に投
入してしまう行為だからであります。神のみ心の中に投げ入れてしまった自己は、もう業想念波の
中に生活する自己ではなく、自然法爾的に、神のみ心から生活を頂いた自己になってしまっている
のであります。ですから、瞬時といえど祈り心で生きている人々は、老子のように、祈りという行
為さえも超越した神人とまでは勿論参りませぬが、意外な程容易に、聖人の行なっている行為に近
い行ないができるようになってゆくのです。
中を守るというような行為は、現代のように社会国家の状勢が複雑になっている時代ではとても
でき難いので、中を守るなどという言葉を先にもってこないで、先ず中を守れるような心の状態
に、自然に成り得る道を先ずつけてやることが必要です。
その道が、世界平和の祈りの道なのです。世界平和ということは、これは勿論大調和そのもので
46
ある、宇宙神のみ心と全く一つのひびきをもっておりますので、人類等しく望むところであり、右
にも左にも片寄らない、中を守る道となるのであります。
祈りによる世界平和運動こそ、真の中庸の道なのです。ですから、あまりむずかしく理論的にど
うだ、こうだと、聖人の教えを考えるよりも、祈り一念の生活に自己の生活を乗り入れてしまった
方が、すべての聖人の教えが生きてくるのであります。
老子の教えなど、原文のままで直訳していたら、読んでも聞いても、ああそんなものですかね、
しかし、私等にはどうにもなりませんわ、というわけで、自己の生きてゆく道の参考にもならない
ことになってしまいます。
そこで私は、老子のいわゆる、高い深い教えを、ずうっと程度の低いところに、一度引きさげて、
その示さんとする道に、自然に合致してゆく、易しい方法として説いているわけなのであります。
天の理想と地の現実を縦横十字に結び、その中心に起って、私たちは生きてゆかねばならぬので
す。その道が中を守る道というのです。そしてその最も易しい方法が、世界平和の祈りなのであり
ます。
47天地は不仁なり
48
第五講その身を後にして身先んじ……
道徳経第七章
ク( ツノノククツシ命ハテノルヲ, ぜ昌クスヲ, ハ
自生↓ 故能長生。天地所二以能長且久一者、以三其不二是以聖天長地久。
ハ昌シテノ, ソジ昌ツテノヲスズヤチ轟ノキヲ昌クスノヲ
人、後二其身一而身先、外二其身一而身存。非レ以二其無”私耶。故能成二其私噸
〔読み方〕
ひさよかゆえんものなが
天は長く地は久し。天地の能く長く且つ久しき所以の者は、其の自ら生ぜざるを以て沸故に
ちようせい
能く長生す。
ここあとみさきわたくし
是を以て聖人は、其の身を後にして身先んじ、其の身を外にして身存す。其の私無きを以
わなくし
てに非ずや。故に能く其の私を成す。
よゆえん
天 は長く地は久し。天地の能く長く且つ久しき所以の者は、その自ら生ぜざるを以て、故に能く
長生す。
天地が悠久だということは、天地には自己というものがなく、無為であり、無心であるからであ
る。天地というものは、自分で天としてあろうという想念があるわけでもないし、地として存在し
たくてしているものでもない。天地が天地としてあるのは、宇宙神のみ心が、そうあらしめてある
が故にそのようにあるのであって、自分の存在を主張して、他に自己を示そうとする自我というも
のは全くない。
宇宙神のみ心を離れた自己というもののない天地は、宇宙神のみ心のままに、宇宙神と共に存在
するのである。そこで天地には時間的な終末というものがなくて、悠久であると云うのであります。
この世の人間が、何か思いあまって、心配事があって、くよくよしている時は、広々とした天を
仰ぎみていると、自己という小さな存在がいつの間にか、悠久の営みをつづけている、無限に広く、
無限に深い天の心に吸いこまれていって、自分自らも、天のように、深い、広々とした心になって
きて、この世の俗世界の煩悩から暫くは離れ住んでいる想いになってくるのです。
明治天皇の御製の
49その身を後にして身先んじ
浅みどり澄みわたりたる大空の広きを己が心ともがな
のような心になってきます。
そして、大地の大きな恵みを想ってみると、大地の無私なる大愛がしみじみと感じられて参りま
す。大地は人間から何等の報いも受けないでいて、人間に必要なあらゆる物を、生み育ててくれて
いるのです。
天地の深い広い心は、巧まずして、誇りもなく、自己主張もなくして、人間たちを、その慈愛の
心で抱きつづけていて下さるのであります。
そういう天地を創りあげて下さった、宇宙神の大愛を思いますと、人間が小さな損得にもいちい
ち眼に角を立てあって、いがみ合っているさまは笑止に耐えぬことなのです。
今日この地球世界が、各国に分れて、自己の国土を拡げあおうと、武器をもってお互いに威嚇し
合っている様子などは、天地の無為無欲なる心とは全く反対の、神のみ心を離れた行為なのであり
ます。
そこで次に、50
ここ
是を以て聖人は、その身を後にして身先んじ、
非ずや。故に能くその私を成す。
その身を外にして、身存す。その私無きを以てに
というような聖人の生き方を、すべての人々がするようにしなければならないのであります。
と云って、この原文のままでは、皆さんにお判り難いと思いますので、ここで、この節の説明を
致すことにします。
前節の天地の生き方を人間がしていますと、その生き方のできる人を、聖人と呼ぶのであります。
さて、天地の在り方を人間がすれば、どういう在り方になるのでしょう。
聖人はその身を後にして、身先んじ、と老子は云っております。これはどういうことかと申しま
すと、普通の解釈でいきますと、自分のことはすべて後廻わしにして、他人の利益を先にしてやる、
という生き方である、とこのような説明になるのであります。ところが実は、只単にそうした普通
の解釈を老子の言葉に当てはめたのでは、折角の老子の教えが死んでしまいます。その身を後にし
て、身先んじとは、現象に現われている、この肉体的な自分というもの、肉体的の自分の利害とい
うことを後廻わしにして、真実の自身、霊なる自身、つまり、宇宙神の分生命としての自身という
51その身を後にして身先んじ
ことを主にして、先んじて生きなければいけない、という、深い意味があるのであります。
天地が悠久なる生命の現われであると同じように、この人間も悠久なる永遠なる生命の現われな
のであり、永遠の生命そのものでもあるのであります。その永遠の生命が、人間の霊身として、各
人に分れて、地球をも含めた宇宙世界で、永遠の生命、つまり宇宙神のみ心の現われの為の働きを
しているのです。
そして、その霊身の働きの一つの枝として、肉体身を現わし、この物質世界の営みもしているの
であります。その真理を忘れて、肉体身だけを人間と考えはじめたところから、この世の乱れが生
じたのであり、今日の不幸災難というものが生じているのであります。
聖人という者は、そうした真理を知っていますので、霊身の自身を主なる存在として、肉体身の
自己を後廻わしにした生活をしてゆくのです。霊身を主にして生きていれば、肉体身の生活の方は、
自由自在に整ってくるのであります。

その身を外にして身存す。その私無きを以てに非ずや、故に能くその私を成す。
この言葉は、今までの説明ですでにお判りのように、その身を外にしというように、肉体身とい
うものを、心の外にして、先ず霊身から伝わってくる心の通りに動くことが大事なのであります。
52
霊身というのは、神のみ心のままに動いているものでありまして、丁度、天地のように私無きもの
なのです。-そこで、霊身のまま、私流に云えぽ、本心のままに行動しておりますと、その身が、安
住していられ、立派に生存していることができるのであります。仏教的に云えば、自由自在身心と
なるのです。
そうなりますためには、どうしても、習慣性となっております、肉体身本位の在り方を改めて、
つまり、その身を外にして、肉体身の自己というものをひと先ず考えずに、霊身(心)本心のまま
に生きる練習をしなければならないのであります。
老子のようになってしまっていれば、はじめから霊身でこの世に来ているのですから、この説法
のような生き方は至極当然なことでありましょうが、普通人には、肉体身の自己を先ず外にして生
きるということは、なかなか一朝一夕でできることではないのですが、能くその私を成すのには、
自分が真人として大成するには、むずかしくても何んでも、老子の云うような生き方をしなけれぽ
ならないのです。
この宇宙世界というものは、それはそれは無限に広く、無限に深いのでありまして、地球のよう
な存在が、無数にあるのであります。近頃急速にこの地球界でも、宇宙への関心を高めておりまし
53その身を後にして身先んじ
て、その目的意図は別と致しましても、米ソの宇宙船競走などは、実に結構なことなのであります。
ほつ
今日では、地球は地球といったように、他の星の世界と全く没交渉でくらしてゆくということは、
もはやナンセンスになってきている時代なのです。
宇宙のあらゆる星々は、お互いに影響し合って生存しているのであって、地球なら地球が単独で
生存しているのではないのです。それは、地球世界の国々が、自分で気づくと気づくまいとに関わ
らず、お互いに影響し合っていると同じようなものなのです。
時代が進むにつれて、人間の視野も次第に広くなってゆきます。その昔のその昔は、日本一国の
中でも、お互いの国々が独り自己の領土の中だけでくらしていて、他の領土のことはあまり知らな
かりたものが、今は日本一国のことはおろか、米国ソ連はては、アフリカ各国のことにまで関心が
及んでいるのであります。
そうした心の広がりは、今や宇宙全般にまで及んでゆく、第一歩を踏み出しているのです。人に
よりますと、地球界のことの収拾がつかぬのに、宇宙が何んだ可だと騒いでいるのは馬鹿々々しい
と云っている人もありますが、その人は地球界と、宇宙全般との関連に全く無知な人なのでありま
す。
54
今日では、日本にとって米国の動きは一挙手一投足でも重大な影響がある、と同様なことが、宇
宙全般の動きと地球の運命とに当てはめることができるのです。
老子や釈尊やイエスなどは、そうした原理をよく知っておりまして、そうした原理の下から、そ
の教えを説いているのであります。宇宙人のことなどいうと、何んだ宇宙人など存在するものかと
一口でけなし去る人もおりますが、宇宙人の存在などは、実に確たるものでありまして、私たちは
常に交流し合っています。釈尊などはその真理をその教典に説いているのです。
もう、地球界だけの存在とか、この肉体世界しか人間の住いがないなどという愚かなる考えから、
いち早く多くの人々が脱出して貰わねばならない時だと思います。
そういう真理が判らないと、老子などの説いていることが、唯の理想境であるようにしか受け取
れず、私たちにはそんなむずかしい教えは実行できないさ、と安易に投げてしまいかねません◎
老子の教えも釈尊やイエスの教えも、実は、実際に行なえる教えなのです。しかし、今日までは、
まだ宇宙の運行が、地球人にそうした真理を実行させるに非常な困難をともなうような波動になっ
ていたのでありまして、今日までに聖人のような行為のできた人は、実に偉大な人であったと思い
ます。
55その身を後にして身先んじ
ところが、今日では、宇宙の運行が、地球の位置を宇宙神のみ心の中心に目段と高め上げてくれ
るように運行されてきているのでありまして、そうした運行の下では、今日まで地球上の強い勢力
となっていた、悪のような姿、私のいう業想念波動が、急速に消されてゆくのであります。そして、
宇宙神のみ心に合致した正しい心的波動をもった人々や集団が、非常に働き易い立場に浮び上がる
状態に自然になってくるのであります。
その一つの働きかけが、宇宙人、宇宙天使の地球界への援助の手となって現われてきているのです。
この世はすべて波動の世界です。宇宙法則から外れた波動をすべて宇宙法則の軌道に乗せかえる運
動が今こそ活澄に行なわれることになるのです。
老子の教えなどは、実に、宇宙法則の軌道をそこに指し示して、さあ人々よ、乗るまでには少し
は苦労もあるだろうが、その苦労を超越して、宇宙法則の軌道に真っすぐ乗れ、その軌道はどうい
う軌道かというと、こういう軌道だ、と云って、数々の教えを説かれているのであります。
肉体身のその身を先にしていたのでは、いつまで経っても、宇宙法則の軌道には乗れません。そ
の身を後にし、その身を外にし、先ず本心開発の道を先にしてこそ、個人も救われ、この地球界も
救われるのだ、老子は今も私の中にいてそう云っているのであります。
86
そうした行為が最も自然に容易にできる方法が、世界平和の祈りなのです。肉体界の諸々の悪や
不幸や誤ちはすべて消えてゆく姿、宇宙法則の軌道は、世界平和の祈り言の中に敷かれてあるので
あります。そのことをよくよく含味して下さい。
57その身を後にして身先んじ
58
第六講
ごと
上善は水の若し・….
道徳経第八章
シノバクシテヲハルあムおシュハタハ
上善若レ水。水善利二万物一而不レ争。処二衆人之所τ悪。故幾二於道℃ 居善
バクフルバクバクバクバククバクレ
地。心善淵。与善仁。言善信。政善治。事善能。動善時。夫惟
ハヨシ
不レ争。故無レ尤。
〔読み方〕
ピとじくおもか
上善は水の若し。水は善く万物を利して争わず。衆人の悪む所に処る。故に道に幾し。居は
せいちよのりじんえんげんしん
善く地。心は善く淵。与うるは善く仁。言は善く信。政は善く治。事は善く能。動くは善く時。
そただとがめな
夫れ惟争わず。故に尤無し。
もかヒくピと
上善は永の若し。水は善く万物を利して争わず。衆人の悪む所に処る。故に道に幾し。
上善というのは、最上の善ということであります。その最上の姿は水の姿である、というのです。
どうして水の姿が最上の善の姿かというと、水は善く万物の為になって、そして何ものとも争わな
いからである、というのです。
水が万物を利しているということは、一寸考えても判ります。この世の生物で水のおかげを蒙ら
ないで生きていられるものはありません。生きるという根本的なことがそうであると共に、あらゆ
る機会に水は人をはじめ万物を利しているのです。
そのように万物を利しているばかりでなく、何ものとも争うことがないのでありまして、四角い
器には四角く、丸い器には丸い姿となって、その場その場にすっかり和しているのであります。
しかも水は、常に高いところに止まっていることはせずに、低いところ低いところと、自らを一
にく
番低いところにおこうとしているのです。衆人の悪むところとは、人々の嫌がるところ、つまり低
い地位ということです。そうした水の姿は、実に道に近い、神のみ心に近いというのであります。
そこで、そのような水の心で人間がこの世に処していったら、どのような行ないとなってゆくか、
ということが、次の節に述べられているのです。
59上善は水の若し
居は善く地。心は善く淵。与うるは善く仁。
ただとがめ
時。夫れ惟争おず。故に尤無し。
言は善く信。政は善く治、事は善く能。動くは善く60
居は善く地。というのは、その人がいる場所はすぺて善くなってゆくような、そういう人であり
たい。それは丁度、水が地をうるおすように、自然の姿のままで、何処にいても、如何なる地位に
あっても、人々を善化してゆく人でありたい、という意味であります。心は善く淵というのは、淵
というのは深さとか永遠性とかを現わすためによく使われる言葉なのでありまして、心は深く澄み
透っていて、永遠性を現わしているようでありたい、というのです。
与うるは善く仁。という仁には、日本的に云えぽ、無我の愛であり、寛容であり、慈しみであり、
叡智の行であるというように、一つの仁という言葉の中に、あらゆる美徳を含めてあるのです。完
全なる人格を表現するために、この仁という言葉が使われているのです。
ですから、そうした仁の心で人々に接したいものだ、というのが、この与うるは善く仁というわ
けです。
言は善く信とは、言葉は虚言であってはならない、常に信用の置ける真実の言葉でなければいけ
ない。あの人の言葉には嘘いつわりがない。あの人の言葉なら絶対大丈夫だといわれるような真の
ものであり、道に叶った言葉でなけれぽいけない、というのです。
ひと
信ということばは、・にんべんに言と書かれてありますように、人の言そのものをいうのです、人
ひひ
というのは、霊の止まるところ、日(光) の止まるところという言葉で、神霊波動のそこに止まっ
て働く者をいうのです。現在一般に人間といわれている者と真実の人といわれている者とは、同じ
ことに使われていますが、実は厳密にいうと全く同じ者ではないのです。
ひと
人とは、神霊波動そのものが、そのまま働いている姿につけられた言葉であり、人間とは、神霊
波動(光)と業想念波動(迷)との混合された者につけられた名称なのであります。ですから、人
間は次第に浄められて真実の人となってゆくわけなのです。
あしゆらひと
そこで釈尊などは、天人、人間、阿修羅などという人の境界にそれぞれの名称をつけているので
あります。
そこで信という言葉は、真実の叔の言葉、舞どは声に出る言葉だけではなく、想念そのものの灘
ぽことばことばことば
動も言というのです。言葉とは言のひびきの枝葉に及んでひびいている時につかわれるのです。
ことば
そうした言(言葉) は、信という文字になって、信という文字が、そのまま、神霊波動そのもの
61上善は水の若し
ことぱゆと
のひびきとして、真実の人の言という意・床をもつのです。そういうわけで信という言葉は実に大事
な言葉となるのです。老子はこの信をますます善いもの、善い言葉として、人々に伝えなければな
らぬと云っているのであります。
もまつりごと
政は善く治。政は善く治めなければならないということは当然なことですが、善く治めるとい
うことは、老子在世の昔から、今日に至るまで、実にむずかしいことなのでありまして、後には名
政治家と称えられている人でも、その人の在職中には、後に挙がった名声程に、その時代の人に賞
め称えられたわけではないようです。
まつりごと
善く治まる政を行なう為には、為政者に私心が少しでもあってはならないのだし、常に天の声、
神のみ心と一つになって行なわなければならないのです。老子の云う、道に沿った行為のできる人
でないと、真実の政治は行なえないのです。
現在の世界中の政治家にこのことを当てはめてみて、当てはまる人が、果して何人あるでありま
しょうか。私心を全く去って、神のみ心そのものの政治を行なっていれば、その国は平和になり、
栄えてゆくにきまっているのですが、今日のように世界状勢が複雑になっていますと、余程の偉人
であっても、世界各国の各種の想念波動に妨げられて、神のみ心のままの政治を行うことは容易な
62
ことではないのです。
個人が無我になることはまだ易しい。個人が神のみ心そのままに動くことも、精進次第ででき得
ることです。しかし、神のみ心のままを、政治に実現せしめることのむずかしさは、他の何事にも
比べられないむずかしさであろうと、私には思われます。
この善き政治の出現は、もう少し先の将来にゆずることに致して置きましょう。老子の言葉を実
行にうつすためには、まだまだ世界中がその時機になっていないのです。
事は善く能。とは、事を為すのには、その能力を善く生かして、無駄なことをしてはいけない。
善く能力を生かして事に処すれば、誰でもその人を大事にしてくれる、というのです。本当に、
自分で自慢たらたら自己宣伝をしないでも、その人が善く能力を生かして働いていれば、自然とそ
の人は重く用いられるのであります。要するに常にその道、その道の実力を養って置くことが肝要
である、と老子は云いたいのです。
動くは善く時。如何にこま鼠のように動いていても、その働きが時に叶わなけれぽ、無駄働きに
なってしまいます。どんな有能な人でも、時を知ってその能力を現わさなければ、かえって身を危
うくすることさえあるのです。
63上善は水の若し
世界平和の祈りにしても、これが、法然親鸞時代だの、戦国時代に唱えたとしても、一向に効果
がないばかりではなく、その主唱者は恐らくは馬鹿者扱いをされるか、邪魔者扱いされるかして、
殺されかねません。
人と時と処とが三相応しないと、物事は完成されないのです。古い昔から聖者賢者が沢山出てお
りながら、人類が根本的には救われていない、ということは人があっても、時と処とが、合致しな
いので、根本的な救われが成就しなかったわけです。
ところが、現代こそ、地球人類の運命は最後の土壇場に来ておりまして、絶体絶命の立場に追い
こまれてきているのです。滅びるか全き救われの道に入るかの、両極に起たされているのです。
ですから、今こそ、人と時と処の三相応の姿が必ず成就するのです。何故なれば、神は大愛です。
地球人類を最後の苦しみのまま、滅ぼし去るわけはありません。今日こそ真実の救われを地球人類
は体得しなければ生きられなくなっているのです。
ただとがめ
では、最後の、夫れ惟争わず、故に尤無し。ですが、水は争わない、だからとがめがないのだ、
と同じように、人も争う想いが無くなって、真に平和の心になれば、すべての善き行為がその心か
ら生れ出でて、とがめも誤りも出てはこない、と結んでいるのです。
64
実際に、争う想いの少しでもある人は、真の平和論者とはいえないし、老子のこの章のような生
き方はとてもでき得ないわけなのです。自己を完全な人格にする最初の出発であり、最後の心でも
あるのが、平和なる心であるのです。
平和な心が根底にあって、そこからすべての善徳が生れ出でるのであって、平和の心が根底にな
いと、一つの善徳を積んでも、どこかでその善徳を崩してしまう、不徳をしてしまうものなのです。
ですから人は何んにも先んじて、平和な心を養わなければならないし、争う想いを無くしてしま
わねばならないのです。
自分の行為が正しくて、相手の行為が悪いのだから、自分が怒るのは当然だというような場合が
随分ありますが、私のようにその人その人の過去世からの想念所業の判るものからみれば、その時
には、確かにその人の方が正しく、相手方が百%悪いとしても、過去世からのお互いのやりとりを
通算してみれば、正しいと思っている方にも、悪いところが沢山あったので、相手方がその人に悪
く当ってくる理由も随分とあるわけなのです。
個人同志のやりとりも、国家や民族同志の争いなどでも、その場その時だけのものではなく、過
去或いは過去世の歴史的な諸事情の下に、今日の争いも生れてくるのであって、現在正しいからと
65上善は水の若し
いって、現在正しい方が全面的に正しく、現在悪い方が全面的に悪いとはいえないのです。
また、主義や主張にしても、その主義主張が表面的には国を汚し、人類を乱すように思われるこ
ヘヘへ
とでも、実は国や人類の業想念を奇麗にするための大掃除による、種々のほこりが立っている姿か
も知れないのです。
人類が神の子の真実の姿を現わすためには、どうしても、浄めが必要なので、人類の大浄化作用
のために、現在は、各種の面妖な思想や、行動が起っているのであります。
そうした間違った思想や行動をみますと、正しい心の人々は、つい腹立たしくなるのでありまし
ょうが、そこで腹を立てたり、争いの想いを起こしたりしたら、その人自身も、神のみ心から離れ
ていることになります。そこで私は、すべての想念を先ず、世界平和の祈りの中に入れて、そこか
ら自分の想念行為を頂き直して、生活してゆきなさい、と人々にすすめているのであります。大事
な大事な平和の心を養う最大の方法は、やはり世界平和の祈りを根底にして生きる生活方法よりな
いのです。老子の一見むずかしそうな教えも、平和の祈りの中から行じる習慣をつけますと、意外
な程易しく実行できるようになるのです。66
第七講盧を致すこと極まれば……
道徳経第十六章
ス3卜, マレバル3卜7 シピレドモテル7 ソハスレドモスノ昌ル9
致レ虚極、守レ静篤。万物並作、吾以観二其復弔凡物芸芸、各復二帰其根⑩ 帰レ
ニトヲフトヲフトルヲヲフルレパヲヲリニシテナリレバ

根日レ静。是日二復命叩復命日レ常。知レ常日レ明。不レ知レ常、妄作凶。知レ常
ルルレ.ハチナ9 ナレパチナリナレパチナリナレパチナリナレパチシスルマデヲカヲ
容。容乃公。公乃王。王乃天。天乃道。道乃久。没レ身不レ殆。
〔読み方〕
倉よせいあっおこもつ5く
虚を致すこと極まれぽ、静を守ること篤し。万物並び作れども、吾以て其の復を観る。凡そ
物は叢叢すれども、お留の其の概に復帰す。根に帰るを静と印う。是を衡劔と臥う。復命を常と
印う。肇知るを隙と印う。常を知らざれば・隷り捧して雛り・糊を知れば穿・穿れ
ば馨穿咳公なれば葎王なり。王なれぽ乃ち天な久天なれぽ乃ち遣なり・道なれば乃
あやみ
ち久し。身を没するまで殆からず。
67虚を致すこと極まれば
虚を致すこと極まれば、
あつ
静を守ること篤しo
68
普通一般に使われています虚という言葉は、むなしいという意味に使われていますので、虚言と
うそごと
いえぽ嘘言であり、虚栄といえぽ、むなしい栄であり、飾り事であります。虚色、虚無、みんなむ
なしいという意味を現わすことに使われています。
ですから、うっかりこの虚の字を見ますと、真実でないもの、むなしい言葉のような気がして、
この言葉の真実の意味をはき違えてしまいます。
ヘヘヘへ
虚の真実の意味は、むなしいはむなしいでも、人間の自我欲望の想い、小智才覚の想いを、むな
くう
しくする、という意味でありまして、その点は、空という言葉と等しい意味をもっております。
くラ
ただ、空といいますと、そのものずばりと云い切って、空の段階などというものを考えることが
できないものです。ところが、虚といいますと、虚を致すこと極まれば、と老子が云っております
ように、虚の心境には段階があることを感じさせます。
くコ
己れをむなしくする、というむなしくする程度が極まった時に、空と普通云われるその心境と一
くユノ
つになったという感じがします。ですから虚を致すこと極まれば、即ち空なり、と考えてもよいの
だと思います。
こんな言葉の詮議はどちらでもよいのですが、読む人にそんな疑問が出はしないかと思って一言
しておくわけです。しかし、実際には、私が老子に心の中で云われたように、空にも深い浅いがあ
るのですから、虚と空とを一つに考えてもよいのでしょう。
あつ
そこで、この虚を致すこと極まれぽ、静を守ること篤し、という意味の説明に入りますが、自己
の自我欲望や小智才覚の想念を全くむなしく致しますと、その人の心境は、静かに澄みきってきて、
あつ
如何なる事件事柄にも、その想念が乱れることが無くなってくる、つまり静を守ること篤し、とな
るわけなのです。
真実に自分の小我というものが無くなり、自己や自己につらなるものの損得感情というものを超
えて、虚の心境になっていれば、何もの何事にも驚かず周章てず、静を守っていられるわけです。
おこふくうんうんおのおの
万物並び作れども、吾以て其の復を観る。凡そ物は芸芸すれども、各其の根に復帰す。
ヲんうん
草木が春になれぽ一勢に芽を吹き、勢が芸芸、つまり生い茂り盛んになるように、万物は一定の
69虚を致すこと極まれば

さが
時期になると、各自がその性に従って、現われ、成長し、やがて老い朽ちて、その姿を本源の世界
に復してしまう。どのように一時この現われの世界で栄えているようにみえても、すべての万物は、
その各自の根である、本源に復帰してしまうものである。万物の本源とは大生命の中であるが、各
自の根とは、大生命が植物なら植物という色分けをした本源のことで、植物がこの地球界にその形
を現わす源の生命のひびきのことをいうのです。
草木などが一つ一つの小さな種の中から、見るも美しく或いは雄大なその姿を現わしてゆくさま
をみていると、一体あの種の中にどのような仕掛けがしてあるのかと、不思議に思わぬ人はないと
思います。
種の中に存在する植物の生命のひびきが、大地に含まれているその生命を育てるひびきに調和し
て、あのような立派な美しい姿を現わすのであります。
植物ばかりでなく万物すべて、各自の根源の世界にひそんでいた生命が、この世に現われる律動
(ひびき)を起すことにより、そして、その生命のひびきを、この世に現わす助けをする様々な生
命のひびきによって、この世の繁栄がなされているのであります。
しかし、そういう各自の繁栄は、どうしてもやがては再び本源の世界に復帰しなければならない
70
ものだ、と老子は云うのです。そして、
いふくめいい
根に帰るを静と日う。是を復命と日う。復命を常と日う。
と云っているのです。
根つまり、本源に帰ることを静というと、老子は云っております。老子のいう静というのはどの
ようなことをいうのかと申しますと、自己という想いの少しもない。本源から離れた動きの少しも
ない、いわゆる想念波動というものの一切ない境地をさして云っているのです。もっとはっきり申
すがた
せば、大生命が、一つ一つの生命波動として活動をはじめようとするその元の相を静というのです。
そしてこの静の状態になった時に、これを復命、命に帰った、命の源と一つになったというので
す。そしてその復命を常と日う、と老子は重ねて云っているのです。常というのはどういう状態か
といいますと、普通この世でいっております常識の常とは大分違っております。尤も、この世の常
識という言葉は、実は、この常という言葉の真実の意味から出ているのでありますが、今日では、
地球世界の一般人の誰れでもが肯定できる事柄をとらえて常識というようになっております。71虚









老子の云っておりますこの常というのは、この世の常識などより計り知れない深いところの本源
世界の心の在り方を云っておりますので、一寸判り難いかと思います。最初の、虚の境地から出て
くるのが常の心なのでありますが、一口に云うと、宇宙神のみ心を心とした、宇宙心の法則にその
まま乗って生命波動をひびかせ得る境地を常というのです。
72
めいいゑだなきよう
常 を知るを明と口う。常を知らざれば、妄りに作して凶なり、常を知れば容る。
こうした常の心境を知っていることを明という。明というのは、読んで字の如く、あきらか、明
るい、ということで、闇がない曇りがない、迷いがない、というのであり、神の心の光明そのもの
ということであります。
そして、常を知らないと、妄りに種々様々なことを想ったり行なったりして、凶を生んでゆくの
じねんほうに
です。これは私がいつも説いておりますように、神のみ心の自然のままに、いわゆる自然法爾に、
カルマ
自分の行為ができるようになると、業想念行為が生れてこないし、業の波動で、自己を乱し、人を
傷つけ、国を損ない、人類を不調和にするようなことはないのです℃
次の常を知れぽ容る、という言葉のように、
い者になるのであります。
常を知れば、何もの何事も容れ得る自然の心と等し
すなわ
容るれば乃ち公なリ。公なれば乃ち王なリ。王なれば乃ち天なり。天なれば乃ち道なリ。道なれ
あやう
ば乃ち久し。身を没するまで殆からず。
〃容るれば” から〃道なりグまで、すべて神のみ心の状態を指していますので、そのような神の
み心と一つになっていれば、久遠の生命を得ることができるし、肉体身をもっていても、その身が
危うくなったり、困ったりすることがない、というのです。
公なり、王なり、天なり、道なり、と種々の言葉をつかっておりますが、これはすべて虚を致す
くロノ
こと極った心境、即ち空になり切った心、つまり神人としての心の世界を云っているのであります。
ちなみに公という字は、おおやけ、という意味につかわれています。このおおやけという言葉は、
自己がない広い立場をいうのであります。自己を広い立場の中に融けこませている人を公人という
のです。ところが現代のというより、いつの世でも、この地球界の公人というのは、真実のおおや
73虚を致すこと極まれば
けの立場で事に処している人が砂ないのです。汚職まではしなくとも、いつでも目己という立場を
持しながら、自己という立場を主にしながら、公人の仕事をしている人が殆どなのであります。
各大臣をはじめ、役所の人々が、自己を公の中に融けこませきって仕事をしているとは、思われ
ません。自分に当てがわれた仕事を一生懸命やっている、という人は沢山あるでありましょうが、
真実の公とは、そのぐらいの心境ではないのです。自己の生活とか、自己の立場とか、そんな想い
の一切ない、空になり切ったところに、この公という心の立場ができてくるのであります。
公的な立場とは、実はそのように深いものであるのですが、現代の公的といわれる立場にある人
に、そうした深い公を教えてもとても無理でありましょうから、私流に、すべての自己心を、清え
てゆく姿として、祈り心の中に入れて、仕事をしていったらよいと思うのです。そしてその祈り心
は、やはり、世界平和の祈りのような、全く公的な祈り言の方がよいのです。
次の王という字でも、王の上の横線は天を示しているのですし、下の横線は地を示しているので
す。そして、天地の間に十字がありまして、この十字が天地を支え大調和させている形になってい
るのです。
この意味を簡単に申しますと、天の理念を地に現わす為には、人が、縦横十字、つまり、理想と
?4
現実を調和させ、精神問題と物質問題とを融合させてゆく能力を持っていなければならない。そう
した能力を持っている人を、王というのであります。ですから王になるためには、そうした能力を
もった人、神の叡智を自己のものとした神人でなければなり得ないのです。その王たるべき人が、
単なる世襲でなったり、権力欲でなったりしているのですから、世界が乱れるわけなのであります。
このようなわけで、虚を致すこと極まった人は、公にも王にも天にも道にもなり得て、その身は
安泰であると云うのです。
ところで、老子でも孔子でもそうなのですが、こうした昔の聖賢の教えは、こういう心境になれ
ばよい、そうならなければならぬ、というのですが、惜しいかな、そういう心境になる方法が書い
てないのです。書いてあっても、それは容易にはできにくい方法なのであります。そうした聖賢は
おのずか
その人の人格の光そのもので、自ら弟子たちを浄めて、自然とその道に達するように仕上げたの
でありましょうが、後世の書物となると、そういうわけには参りません。
そこで私のような立場の人が現われて、そうしたむずかしい原理を易しい方法で成就できる方法
ヘヘヘヘへ
を教える必要があったのです。消えてゆく姿で世界平和の祈り、という方法がその易しい方法なの
であります。75虚









第八講聖を絶ち智を棄っれば……
76
道徳経第十九章
チヲツレパヲスチ, ツレパヲス昌チヲツレパヲツル=トノ
絶レ聖棄レ智、民利百倍◎ 絶レ仁棄レ義、民復二孝慈弔絶レ巧棄レ利、盗賊無レ有。此
ハ晶ヲクナレドモトヲニムヲスルハシヲキヲナクシヲナクセンヲ
三者、以為、文不レ足。故令レ有レ所レ属。見レ素抱レ僕、少レ私寡レ欲。
〔読み方〕
聖を絶ち智を鯉つれば、殿稗百倍す。仁を絶ち義を棄つれば、民、孝慈に微す。珊を絶ち利を棄
おも
つれぽ、盗賊有ること無し。此の三者は、以為えらく、文なれども足らずと。故に属する所有らし
あらぼくすく
む。素を見わし撲を抱き、私を少なくし欲を寡なくせん。
こう
聖を絶ち智を棄つれば、民利百倍す。仁を絶ち義を棄つれば、民、孝慈に復す。巧を絶ち利を棄
つれば、盗賊有ること無し。
老子の根本を貫いている生き方は、普通いわれる修養などとは、まるで異っています。普通の求
道者が、こうしなければならない、と思っているような事柄とは、殆んど逆説的な教え方を、老子
は常にしております。
この章なども、聖とか智とか、仁とか義とかいう、誰でもが、尊い生き方であり、そうなりた
い、と思うような生き方を、老子はかえって棄てなければならないと云っているのであります。
智を棄てろ、巧利を棄てうというようなことは、普通でもいう人もありますが、仁とか義とかと
いう、真人の行きつくべき、最高の境地、最高の行為をも棄てろ、と云うのですから、一体どうい
うことなのかと思ってしまいます。
そして、そうすることが、かえってすべてが善くなることなのだ、と云っているのですから、老
子の説は判らない、と云う人が多くいるのも無理はありません。
しかし、そこが老子の老子たるところ、老子が並々ならぬ大聖者であり、神人そのものであると
いう証拠でもあるのです。
老子の根本の心は、前にも説いてありますが、無為にして為す、というところにあるのでありま
して、大生命、宇宙生命の動きと、肉体人間の動きとが、分裂し、分離しているような生き力を、77聖









あくまで否定しているのであります。
仁とか義とかいう、人間最高の境地さえもそうなろうと望む想いがあるようでは、宇宙生命、宇
宙の心に相対して自分があることになるので、それではいけないというのです。如何なる高い境地
カもい
でも、立派な理想でも、そうなろうという想念があるうちは、そう成り切っていないのだから、そ
こにはそれだけのマイナス面がでてくる。義の心になり切り、仁になり切っていれば、今更義とい
うこともなければ、仁ということもない、聖と云うことをいうことも、智を云々ということもない。
存在するそのままで存在し、たずさわった仕事そのものに融け切っていればよい。そうすれぽ政治
家は素晴しい政治が執れる、従って民の利は百倍するというのです。そのように、そのままの生き
方ができれば、すべてが孝慈をつくし、盗賊なども無くなってしまう、というのであります。
こう説いて参りましても、何んだかさっぱり判らない、と思う人が殆どであろうと思われます。
老子というのは、全く、宇宙神のみ心そのものを、人類にそのまま直通させた道を説いておりま
すので、宇宙神のみ心と相対するような想念を徹底的に否定し切っているわけです。実に深い深い
奥底の在り方、大生命そのものの在り方を、小生命である人間にもでき得るのであることを強調す
るわけなのです。
78
大生命に直通して、生きつづけている、小生命である人間が、何をもって、大生命の完全性を、
自己と離して観ることがあるだろうか、こうしなければいけない、ああしなければならぬ等という
こと自体が、もう宇宙神と自己とを、自ら引き離してしまっている証拠なのである、というのです。
無為にして為す、ということは、こういう心から云われているわけなのです。宇宙神のみ心の完
全性を信じていさえすれば、何をくよくよ、こちょこちょ想いを動かすことがあるのだろうか。老
子のように、宇宙神のみ心と全く一つになっていて、永遠の生命そのものに成り切っているような
神人には、この世の人々の小さな心の動きがおかしくてならぬのでしょう。
実際に、宇宙神のみ心の中に自己をすっかり融けこませてしまい、永遠の生命の流れの中を自由
自在に活動し得る境地になっていますと、殊更に、何をしよう、どう生きよう、などという気持は
起らないのです。生きているそのまま、生かされているそのまま、自己があるそのままで、生き生
きとしているのであります。
この世にこうして現われている自分、何や可と想いを巡らす自分というものは、そういう自分が、
ぽつんと、神から離れてあるのではなく、宇宙神、直霊、守護神、守護霊、分霊魂(肉体的自己)
として、この世に存在しているのでありますので、肉体的自己の自分が何や可と想いを巡らすより
79聖を絶ち智を棄つれば
先に、宇宙神のみ心の方が、永遠の生命の流れの先々までを観極めて、その人々の生きる道をはっ
きりとつけておるのであります。
ところが、この世の人は、その真理を知らないものですから、知らないというのは、頭で知って
いても行わなければ知らないと同じなのです。ですから、宇宙神のそうしたみ心をつい離れてしま
い、宇宙神のみ心と自己の心とを分けてしまって、自分の心で種々と想い巡らしてしまうのであり
すがた
ます。そこにこの世の不幸や災難というものが生じてくるのです。人間の真実の相というものを知
らないというものは、どうにも仕方のないものなのです。
すがた
聖者賢者という者は、人間の真実の相をその人、その人によって、その深浅はあっても知ってい
すがた
たのであります。中でも老子は実に実に深く人間の真実の相を知り、宇宙神のみ心の中に入りきっ
ていたのです。そのことが、老子のどの言葉を一つとってきても、はっきりと判ります。
ですから老子は、他の聖者のように、細かい心遣いの教えをしないで、深い根本的なことのみを
説きつづけているのであります。あまり深い教えというものは、うっかり読むと、とんでもない誤
解をしまして、老子の教えを消極的な教えだと思ったり、虚無的な教えだと思ったりしてしまいま
す。
80
老子の教えの根本は、宇宙神のみ心のままに生きよ、ということで、積極的とか消極的とか、
々的とかいう、為にしよう、という想念を一切切り捨てることを教えているのであります。
おも
此の三者は、以為えらく、文なれども足らずと、
すく
私を少なくし欲を寡なくせん。

ぞくあらぼく
故に属する所有らしむ。素を見わし撲を抱き、
上述した聖智、仁義、巧利の三者は、人の世を開く為にはなるけれども、まだ足りない、という
のであります。どうして足りないかというと、聖智にしても仁義にしても巧利にしても、その人や
その行為に、人々の心を属させる、執われさせる、そういう形がそこにできてしまう。もっと易し
くいいますと、聖者になってみたいな、智者になってみたいな、仁義の人になってみたいな、とい
う心を、人々に起こさせる、聖者、智者、仁者、義人というものに憧れを抱かせ、そういう一つ
一つの形に人の想念を執われさせることになる。
だから、そういう人々に把われの想いを起こさせるようなものではいけない。例えそれが、どの
ような善い行為であってもそうなのだ、というのであります。
81聖を絶ち智を棄つれば
もとあら
それなら、一体どういう生き方をしたならばよいのであろうか、というと、素を見わし、つまり、
何一つ飾りのない、心に何んの想念もない、生かされている生命そのままを現わし、僕な素直な生
き方をすればよい、というのです。
くヲ
その生き方は仏教的にいえば空の境地ということになるのですし、私のやってきた生き方で説け
じねんほうに
ば、想念停止後の自然法爾の生き方ということになるのでありますが、そういう生き方ができるよ
うになるのは、私の経験からしても大変なことなのです。そこで老子はこの章の最後には、そうい
すく
う生き方をする為には、私という自己を少なくし、欲を寡なくせん、というように、無くせとはい
わず、少なくしろ、と言葉を緩和しているのであります。
老子の云いたいことを結論的にいいますと、生かされた立場を、自然の在り方のようにそのまま
生きよ、ということで、小智才覚をめぐらすようなことは勿論、善悪を間わず、頭脳で想念を走ら
じねんほうに
せてはいけない、自然法爾でゆけ、というのです。
その教えの根底には、宇宙神のみ心は完全なのだから、宇宙神のみ心のままに動いていることが
一番人間を完全に生かす道なのだ、という心があるのです。
そこで頭脳の想念をめぐらさなければ、一つとして物事ができぬではないか、という疑問が、普
82
通人の心には起ってくるのですが、私の体験からしますと、肉体人間の想念をめぐらさなくなった
時に、はじめて、神智のままの生き方ができ、神のみ心のままの歩みがその人にはじまるのだと、
はっきり云いきれるのです。
頭脳にどんな想念が去来しようと、それはすぺて過去世の因縁性の想念の消えてゆく姿なのであ
つて、その想念が、現在自分として生きている生命そのもののひびきではないのです。生命のひび
きというものは、丁度心臓や肺臓が、頭脳想念を駈け巡らさなくとも、自然に動いているのと同じ
ように、そのまま自然の行為となり、自然の想いとなって行為されてくるものなのです。
幼児が誰に教わらなくとも、口を開いて乳房を吸ったり、自然に掌を開いて物を掴むというの
も、生命のひびきが、自ずと行動となってきているのであります。人間というものは、いくら成人
しても、根本はそうした生き方をすべきものなのですが、種々と外面的な干渉の結果、生命のひび
きそのままの生き方を損ねてしまい、生命そのままのひびきと、頭脳想念とが相反するような生き
方を習慣づけてしまったのであります。
聖者とか賢者とかいう人たちは、生命のひびきそのままの生き方のできた人で、生命のひびきそ
のままの生き方のできにくい人程生きてゆくのに苦悩が多くあるか、人格が低劣であるかするので83聖









あります。
そこで今度は、老子の説を私が、もっと現代の人々にも近づける為に言葉をつけ加えますと、老
子のいう聖智仁義巧利を絶つ程の心の在り方になる為には、一度に到底そのようになれる筈のもの
ではないのですから、ひとまず、生命そのままのひびきを、本心と致しまして、本心そのままの生
き方をするのには、どうしても、頭脳を去来する想念が邪魔になります。そこで、頭脳を去来する
想念のすべてを消えてゆく姿として、宇宙神のみ心の中にその瞬間瞬間に祈り言を通して入れてし
まう練習をすることにするのです。明日の仕事のこと、これからの計画のこと等々、すべて一度は
宇宙神のみ心の中に入れきることにして、入れきった後で、今度は行為として現われた場合には、
その行為をすれぽよい、ということにするのです。それを私は、消えてゆく姿で、世界平和の祈り、
という祈り言に結びつけて説いているのであります。何や可と想いわずらう想念はすべて消えてゆ
く姿と思うと、心が静かになって、生命のひびきがすごやかになるのです。そうして遂いには老子
の説く無為の生き方のできる人間になってくるのであります。
84
第九講
やぶ
弊るれば則ち新たなり……
道徳経第二十二章
レバチシレパチシメパチツルレバチタナリナケレメタケレパウツツテの
曲則全。柾則直。窪則盈。弊則新。少則得。多則惑。是以聖人、
イテヲルノトヲハサニラカナリラトセニラカナリヲワニリ
抱レ一為二天下式鱒不二自見殉故明。不二自是殉故彰。不二自伐刈故有レ功。
ヲヲおシレハニシクフコトレパチシレハ
不二自務⑩ 故長。夷惟不レ争。故天下莫二能与レ之争噸古之所謂、曲則全
ナヲソヤニクシテサソノきヲ
者、豊虚言哉。誠全而帰レ之。
〔読み方〕
きびすなわまがなおくぽみやムあら
曲れば則ち全し。柾れば則ち直し。窪めぽ則ち盈つ。弊るれぽ則ち新たなり。少なければ、
まどここもついつしきなみずかあら
則ち得。多ければ則ち惑う。是を以て聖人は、一を抱いて天下の式と為る。自ら見わさず。故
ぜあきぬここうほこ
に明らかなり。自ら是とせず。故に彰らかなり。自ら伐らず。故に功有り。自ら衿らず◎ 故に
そただよコないわゆるまがあに
長し。夫れ惟争わず。故に天下能く之と争うこと莫し。古の所謂、曲れば則ち全しとは、豊虚
85弊るれば則ち新たなり
かえ
言ならんや。誠に全くして之を帰さんのみ。
86
すなわまがくぼあらやおすく
曲れば則ち全し。柱れば則ち直し。窪めば則ち盈つ。弊るれば則ち新たなリ。少なければ則ち得。
まど
多 ければ則ち惑う。
まが
曲れぽ則ち全し、柾れば則ち直し。という言葉でこの章がはじまっていますので、老子の教えを
消極主義の教えと解釈している人々は、この章で、老子がはっきりとその主義を表明しているよう
に思い勝ちですが、私は、老子を依然として消極主義者などとは思ってもみないのです。
曲れば則ち全し、という言葉を、木に例えて説いている人がいまして、鄭葭な木は、有用な材と
して、伐られて使われるが、曲った木は用いにくいとして使われず、そのまま樹木としての生命を
まつすぐ
全うし得る。人もこのように、真直に自己を出していれぽ、世には目立って役立たされるが、苦労
や、危険が多い、しかし、常に控え目控え目にして自己主張をしないでいれば、目立たないかわり
に、その生活が安全である、というような、自己を守ってゆくための消極主義と解釈しているので
すが、私は老子をそのような消極主義を教えている聖者とは思っていないのです。
曲れば則ち全し、柾れば則ち直し、(この柾ればというのは、身を屈っするという意味です)と
いう二つの言葉は己れの正しさや、己れの立派さを、人に示そう示そうとすることのみに把われず
腰を曲げることも、身を屈っすることも、相手次第、その時次第で自由にできる、何事、何ものに
も把われぬ如何なる形にも、地位にも、物質にも一切把われぬ、心の自由自在性を説いているので
あって、自己の身を守る為の消極の道を説いているのではないのであります。
老子の言葉は、すべて生命の自由自在性を根本にして説かれているのでありまして、単にこの世
の身を守る消極主義を説いているような、小さな教えをしているわけではないのです。
窪めぽ則ち盈つ、弊るれば則ち新たなり。少なければ則ち得。多ければ則ち惑う。という言葉も、
すべて、その自由自在性から自然と生れてくる態度を説いているのであります。
老子にとっては、窪むことも、盈つることも、弊るることも、少ないこともそんな表面上の形の
ことは、どちらでもよいのです。ただ常に大生命から流れてくる自己の本心を惑わさず生きてゆく
ことが、大事であると説くのであります。
ただし、すべてが多い場合、それが学問知識でも物質でも、その多いということは、相当その人
が立派な人であっても、その多いことによって、惑いが生じ易いので、多ければ則ち惑うと云って、
弊るれば則ち新たなり
多いことには充分に心を用いなけれぽいけない、といましめているのです。,
やぶ
この言葉の中で、私が最も心をひかれる言葉は、弊るれば則ち新たなり、という言葉なのです。実
に善い立派な、真理の言葉だと思うのです。私の消えてゆく姿、という教えは、この弊るればを、
易しく柔らかく説いていることになるのです。
やぶ
この現象世界は、常に古いものが弊れて、新しいものが生れ出でてゆくところなのです。いつま
でも古いものに把われていると、新しいものが生れ出ずる邪魔になって、宇宙の運行を妨げること
になるのであります。
古いものがたとえ、素晴しい善なる事柄であっても、その事柄が古いままでいることは絶対にない
ので、古いそのままに執着していてはいけないのです。
毎度宇宙科学の話をもってきますが、宇宙科学の原理によりましても、電子や中間子や陽子とい
う、つまり微粒子といわれる地球科学の現在最終の現れより、十七段階も遡った、宇宙の根源の
微粒子である宇宙子は、常に新たに宇宙心の中から放出されているのでありまして、古い宇宙子は、
次々と役立っては消滅してゆくことになっているのであります。
宇宙子というのは精神的な波動となっているものも、物質的な波動となっているものもありまし
て、この精神と物質の調和によって、この地球世界も成り立っているのです。この精神と物質の
しんちんたいしや
宇宙子は、常に新陳代謝しているのでありまして、瞬々刻々古いものと新しいものとが代ってゆ
くのであります。この原理を知らないで、いつまでも古い自己や事物に把われていると、その古
い自己なり事物なりを消し去る為に、新しい宇宙子が次々と宇宙心から送りこまれて参りまし
て、嫌でも応でも、新陳代謝させられてゆくのです。
そのように、古い自己の習慣性、古い事物への執われの想念波動が、消されてゆく姿として、病
やぶ
気や不幸や、国と国との間では戦争などという、弊れる状態が起ってくるのであります。
私はこれを消えてゆく姿と人々に教えているのであります。弊れること破れること、滅びること
消えてゆくこと、すべて新陳代謝の原理によるのでありまして、そのことを、恐れる必要はないの
です。それは常に自己なり、人類なりを高め深めて、真実の神の子と成し、神の世と成すための神
のみ心であるからなのです。すべての人々が、永遠の生命にそのままつながり得て、滅せず傷つか
ずの真(神) 人としての誕生を、神々は願っているのであって、その為に救世の大光明という地球
人類救済の大きな慈愛の力が、現在地球界に働きかけているのであります。
弊るれば則ち新たなり、実に実に善い言葉です。ただ、私の行っている方法は、この弊るる時に
89弊るれば則ち新たなり
人々の受ける衝激を、最も砂ないものにしたい、と思ってはじめられたものでありまして、この方法
が、この世に現われてくる悪も不幸も病気も不調和もすべてそれは過去世からの神のみ心を離れて
いた想念波動の誤りの消えてゆく姿なので、消えてゆくに従って、真実の神人である自己や人々が
生れてくるのである、という教えとなっているのであります。そしてその消えてゆく姿だ、という
想いをもって、直ちに、世界人類の完全調和を願う、世界平和の祈りの中に、飛びこんでゆきなさ
い、世界平和を祈りつづけることを生活の根底にして生きてゆきなさい、と教えているのでありま
す。
カルマ
こう致しておりますと、古いものと、つまり過去世からの業想念波動と、新しく生れ出でてゆく、
本心そのものの自己とのずれが救世の大光明のみ光によって、巧みに消されてゆきまして、心痛ま
ず傷つかず、そして恐れの想いが勘なくして、自己や人類の新陳代謝が完成されてゆくのであります。
ですから、皆さんは、悪や不幸や病気や災難などを恐れる必要はないのです。すべてはより善い
あなたの環境が生れ出ずるためのものであり、あなた方が立派な人格を生みなしてゆく為のもので
あるのですから、このことをしっかり心に刻みこんで、世界平和の祈りを祈りつづけて生活してい
って下さればよいのです。
9Q
私の中の老子は、強くこの真理の言葉を、くりかえして告げています。
是を磐聖人は、一を抱いて天下の式と為る・齢最わさず・故に明らかなリ・自ら建と芋・
モたに
故に彰らかなリ。自ら伐らず。故に功有リ。自ら騎らず。故に長し。夫れ惟争わず。故に天下能く
なあに
之と争うこと莫し。古の所謂、曲れば則ち全しとは、堂虚言ならんや。誠に全くして、之を帰さん
のみ。
聖人という者は、一を抱いて天下の式、つまり範となる。この一とは、宇宙神のみ心そのものと
いうことでありまして、宇宙神のみ心と一つになっていますと、自己を、自意識で世間に現わそう
という必要もない。自己主張をすることもない。聖人は宇宙神のみ心と一つになっているのだから、
慰灘貯そのまま生きていることによって・自己の天命が.齪.ら行われてゆくのである・そうい
う心境になっていると、すべての事柄が鏡にうつるように明らかになってくるのである。
だから、尚更に、自ら是と思う自己是認することの必要もなけれぽ、自己を誇ることもない。そ
うするとますます、功を積んでゆくことになり、人と争うことも無い。そういう聖人にみんなが成
91弊るれば則ち新たなり
れば、天下に争いは起らない。
いにしえ
古にも云われていたが、曲ることも真直になることも、自由自在にできるようになると、天命
を完うすることができるのである。全く自由自在の心というものを、自己のものとすれば、全し、
うモごと
という言葉は、虚言ではなかった。人は、こういうように自由自在心を得て、天命を果して、この
世の肉身というものを、宇宙神のみ心の中にお還えしすればよいのだ。
と老子はこの章を結んでいるのであります。文章というものは、その真意を知ることがむずかし
いものです。まして、老子のように、永遠の生命そのもののように成っている人の言葉は、その表
面だけを聴いていると、その聴いている人の心の在り方や、心境の程度に従った理解となるのであ
りまして、解釈する人の悟りの高さが大事となるのであります。
現在私たちのように、この世に生存しておりまして、月々このように文章を書き話をしておりま
す者の文章や言葉でも、聴聞する人の心境如何によっては、まるで違ってくることもあるのですか
ら、昔の人の残した言葉の解釈のむずかしさは、云うまでもないことなのです。
私がこうして老子講義をしておりますと、私の心の中で、老子が、しきりと、解釈の手伝いをし
てくれて,いるのです。他の誰が、どのような解釈をしようともかまわぬ、わしは、そんな意味の
92
ことを云った覚えはない、と云うのです。ですから、種々と老子講義も出ておりましょうが、私の
老子講義は、私の心境と老子の心とが、全くぴったり一っになって、ここに解釈されてゆくのです
から、どうぞそのおつもりでお読み下さい。
私はこの老子講義を書きながら、老子の深さ広さには、毎々頭を下げつづけておるのです。偉い
むげ
とか偉くないとか、そんな段階的な言葉をはるかに超えた神人、大聖者老子、無擬自在の老子、こ
れからの私の全生涯を、老子は、何や彼と、その生命力をぶっつけて、指導してくれることになっ
ているのです。
老子は、はっきりと生きているのです。その豊かな生命力、その烈しい気醜は、私の世界平和の
祈りの道の大先達として、無くてはならぬ大きな存在となっているのであります。
キリストに、釈尊にそして老子によって支えられている世界平和の祈りの大運動が急速に拡まっ
てゆくことを私は確信しているのです。
93弊るれば則ち新たなり
94
第+講失ある者には失に同じくす…・-
道徳経第二十三章
ハナリニハヘヲハヘヲヵスツゾハシキコレナリスラ
希言自然。故瓢風不レ終レ朝、縢雨不レ終レ日。敦為レ此者。天地。天地尚不レ能レ久。
ルヲンヤテヲヤニこスルニハアルこハジクシニアルこハジクシニアルニハジクスニ
而況於レ人乎。故従二事於道一者、道者同二於道噛徳者同二於徳噛失者同二於失叩
ジクスレパニァルモノモシムルコトヲヲジクスレパニアルモノシムルコトヲヲジクスレパニァルモノモシムルコトヲ
同二於道一者、道亦楽レ得レ之。同二於徳一者、徳亦楽レ得レ之。同二於失一者、失亦楽レ得レ
ヲレパヲリルコトゼ
之。信不レ足、有レ不レ信。
〔読み方〕
浮誠は自然なり。故に離灘ぽ韓セ繹えず・騰罵は日を終えず。騒か雌をかす者ぞ。荒轡なり。
あたしか
天地すら尚久しきこと能わず。而るを況んや人に於てをや。故に道に従事する者は、道ある者
しつ
には道に同じくし、徳ある者には徳に同じくし、失ある者には失に同じくす。道に同じくすれ
またこれまた
ば、道あるものも亦之を得ることを楽しむ。徳に同じくすれば、徳あるものも亦之を得ること
しつ
を楽しむ。失に同じくすれば、
こと有り。
失あるものも亦之を得ることを楽しむ。信足ざれば、信ぜざる
きげんひニうあう
希言は自然なリ。故に瓢風は朝を終えず、
あた
地すら尚久しきこと能わず。
しゆううたれこお
騨雨は日を終えず。執か此を為す者ぞ。天地なり。天
きびんまれことにことに
希言は自然なり、というのは、希言とは読んで字の如く、希なる言ということです。希なる言と
ことば
は、もっと云いかえると、言が表面に現われていない、表面に現わさない、言が無い、或いは不言
ということでもあるのです。
すがた
そうした表面にはっきり現われない、いちいち自己を現わさない相を自然というのであります。
にわかあめすがた
ところが、瓢風いわゆる大風でも、畷雨でも、一時は烈しくその相を現わしますが、一日中吹きつ
づいたり、二日も三日も降りつづいたりすることはありません。
こうした瓢風や瞭雨などは、誰れが吹かしたり降らしたりするのかと云いますと、天地である、
というのです。天地のような大きな広い、無限と思われる力がやっていることでも、あまりに烈し95失












い現わし方をしますと、そう永つづきはしないものなのです。
老子はこの節ではこう云っているのであります。そして、それでは永つづきする現わし方や現わ
れ方はどうしたらよいか、ということを、次のように述べているのであります。
96
しかいわ
而るを、況んや人に於てをや。故に道に従事する者は、道ある者には道に同じくし、徳ある者に
またこれ
は 徳に同じくし、失ある者には失に同じくす。道に同じくすれば、道ある者も、亦之を得ることを
楽しむ。徳に同じくすれば、徳ある者も亦之を得ることを楽しむ。失に同じくすれば、失ある者も
亦之を得ることを楽しむ。信足らざれば、信ぜざることあリ。
この節を解釈致しますと、次のようになるのです。
天地すら烈しい現わし方をしますと、久しく現わしていることはできないのですから、まして人
間が、そのような自己表現をしていましたら、とても、この世での調和を保つことはできません。
そこでどうしたらよいかと申しますと、道にある者には道に同じくし、とあるように、道即ち、
正しい生き方、宇宙神のみ心に乗った生き方をしている人に対しては、自分もそれと同じような生
き方でその人に対さなければいけない。
また、徳ある者には徳に同じくし、という風に、その人の心の在り方と等しい心の在り方で対さ
なければいけない、というのであります。
老子の説法は、他の章と同じように、実にむずかしいことを、平然と云ってのけているのですが、
こう平然と云われる教えを、はいそうですね、と頭で受け止めても、なかなかそうなり得るもので
はありません。
道に在る者が、同じ道でありまして、そう高い境地にいる人でなければ、何んとかその人の心境
と同じ心境で対することができましょうが、自分より高い境地の道を歩んでいる人ですと、これは
どうも一つ心で対処することはできそうにありません。
老子の教えは毎回申しますように、聖人君子に対しての説法でありますので、聖人君子の心の状
態まで行っておりませんと、教えられて、胸のすくような魂の快感は覚えますが、実際には実行で
き得ない気がするのです。
しかし、老子の境地に普通人が行きつくことはできない迄も、老子の指し示している道を発見し、
道の初歩や一歩二歩は、誰でも歩ゆむことはできるのです。ですから、老子の教えはむずかしく
97失ある者には失に同じくする
てとても私たちにはできそうもないなどと、はじめから諦めずに、少しつつでも、老子の指先に
まね
すがって、真実の道を歩ませて頂きましょう、という気持で、やれるだけのことを真似ていったら
よいと思うのです。
人間の心というものは面白いもので、やろうと決意してやりはじめると、自分ではとてもできそ
うにもないと思うことが、意外と次第にできてゆくものなのです。スポーツでも、技術でも、たゆ
まず修練していますと、いつの間にか初歩の頃とはまるで見違えるように、その道で立派になって
ゆくのです。
これは心の問題にでも云えることで、修錬しつづけ、磨きつづけてゆけば、一月二月、一年二年、
自分で気づかぬうちに、心のトレーニングができてきて、人から見ると、何んとあの人は立派にな
ったろう、と思われるようになるものです。
私の会の人たちでも、平和の祈り一念の心の修業をつづけているうちに、やらぬ前とは見違える
程の高い心境になっている人がかなり存在するのであります。ですから、相手が道に秀でた人であ
れば、その人の説を素直に聴聞する気になって、その説を拝聴していれば、老子の云う、道を同じ
うすることになるわけであります。徳を同じうする、ということでも、その人の徳の高さを慕い敬
98
う気持でその人に接していれば、その人はその気持を喜んでくれて、その人を愛してくれるものな
のです。
きじめ
私たちでも、真面目に話を聞いてくれる人をみると、自分と全く一つ道の人として、その人を愛
し、その人の存在することを喜びとするのです。
誰にでも愛され敬われる、一番必要な心は、素直な心であるのです。素直な心の人は誰とで
も調和できて、そして自然と、道に叶ってくるし、徳をも積んでくるのです。私などが今日の心境
になり、今日の立場にあるのは、頭が良かったからでも、才能があったからでもなく、只、素直な
心をもっていた、という一つの美点の為だったのです。
素直という心は、道を極めるためには、得難い、大事な心なのであります。神様は素直な心の人
を一番喜んで下さるのです。
そこで今度は、失に同じくすれば失ある者も亦之を得ることを楽しむ。というところの説明を致
しましょう。前に説明致しました、道ある者とか、徳ある者、というような偉い人、秀でた人との
接触の方より、失敗したり、貧乏したり病んだりしている、いわゆる失意の人に対する方が、対し
易いと人々は考えられるでしょうが、失意の人或いは欠点のある人に対する程むずかしいことはな
99失ある者には失に同じくする
いのです。
これは、只素直な心というだけでは駄目なのでありまして、相手の心の状態を見抜いて、相手の
心に合わせてゆく、洞察力がなければなりませんし、深い愛の心がなければなりません。
そこで、そうした観察力、洞察力を養い、深い愛の心を自己のものとするにはどうしたらよいか、
ということが、こうした人々に対処する根本の問題になってくるのであります。
只素直な良い人でありますと、訴えたり、愚痴ったりするのを、その人と同じ想いになって、悲
しみの心で聞いてやっていることでしょう。そう致しますと、相手の人の心は訴えたり愚痴ったり
つち
することによって、幾分心は晴れては参りますが、そうした訴え癖や、愚痴りぐせが培かわれてし
まって、その失意に自己を陥れた、自己の欠陥に気づかずに、そのまま魂の高上を阻止してしまう
ような生き方の人になってしまいます。
そうした人々が、繰り返えし、繰り返えし、素直な善良なその人に、愚痴り訴えつづけますと、
カルマ
ついには、素直な善良な人の方が、かえって、相手の業想念の波の中に巻きこまれてしまって、自
分自身の生活や心の状態を乱されてしまうことになり、折角、失に同じくするという、老子の真理
の教えがかえって仇となってしまうのです。
ioo
こうした場合、こちらが素直でない、心に自己本位の想いのあるような人の方が、その人の愚痴
の波に巻きこまれず、いい加減にあしらってしまうので、損をみないで済む、という結果になるも
のです。
そこで私は、失に同じくするということが全くむずかしいことである、と云うのです。失意の人
を慰め力づけるために、相手の心と同じ立場に立ってやることは、老子の云う通り善いことであり
ますが、慰め力づけるこちら側が、相手と同じ業想念波動の渦の中にいてもいけないし、相手の想
念とは全く離れた想念の状態でいてもいけないのです。
こちら側は常に、守護の神霊を含めた、自己の本心の立場に自己を置いて、相手の失に同じくし
なければいけないのです。自己の本心の立場というのは、神のみ心の中です。神のみ心の中には、
愛も智慧も力もすべて含まれているのです。
そうした本心の立場から、自然と口に出てくる言葉で相手を慰め、相手を力づけてやるようにし
ていますと、相手の業想念波動(迷いの想い) に同化されることなく、相手の業想念波動を浄め去
る光明波動が、自己から相手に伝わってゆくのであります。
そうした本心の立場に自己を置くのには、どうしたらよいかと云いますと、祈り心一念というこ
101失ある者には失に同じくする
とになるのであります。その祈り心というのも、他人の平安を祈り、大きくは人類の平和を願う、
世界平和の祈りのような大きな広い祈り心がよいのです。
世界人類が平和でありますように、という祈りと共に、相手の人の天命(神が定められた使命)
が完うされますように、という深い愛の心のひびきが、非常な効果をもつのであります。
相手のその場だけの失意を柔らげてやっても、それは相手の天命を完うさせるための、たいした行
為にはならないのです。相手のその場その場の失意を慰めるということよりも、もっと根本的な、
相手の天命が完うされて、その人が、真実の人として、この世の生涯を完うし、あの世での働きも
し易くするような、そういう深い愛の心が大事なのであります。
そうした深い愛の心というものは、いくら相手の業想念を受けても、その業波動に巻きこまれぬ
大光明に輝いているのであります。只単なる相手への同情心などというもので、失意の人に対する
ことは、自己にとっても、相手にとってもプラスになることではありません。信足らざれば、信ぜ
ざること有り、と老子が結んでいるように、相手の神からきた天命を信じてやり、人はすべて天命
を持ってこの世に生れ出でてきたのであることを、自己も知り、人にも知らせてやらなけれぽなら
ないのです。信とは神の大愛と、人々の天命の完うを信ずることであるのです。
102
第十一講
あやう
独立して改まらず周行して殆からず……
道徳経第二十五章
リテシダ乎テ昌ズタリタリシテマヲシテカヲシテス
周行而不レ殆。可三以為二独立不レ改。有レ物混成、先二天地一生。寂号蓼分。
ノトラノヲシテニフトヒテシテガヲフトニヒトニヒト
天下母ゆ吾不レ知二其名崎字レ之日レ道。強為二之名一日レ大。大日レ逝、逝日レ遠、
逃旦風・娩進花元花塩九鎖亦九・, 域屯有二四大爺.玉風瓦二焉・ん
リユハリニハリニハルニ
法レ地、地法レ天、天法レ道、道法二自然幻
〔読み方〕
こんせいせきりようあらたしゆうこうあや5 。独立して改まらず。周行して殆から物有りて混成し、天地に先だちて生ず。寂たり蓼たり
なぺわれそこれあざないしこれ
ず。以て天下の母と為す可し。吾、其の名を知らず。之に字して道と日う。強いて之が名を為
いせいえんはんせいだい
して大と日う。大に逝と日い、逝に遠と日い、遠に反と日う。故に道も大なり、天も大なり、
いきしだいしかいつおのつと
地も大なり、王も亦大なり。域中に四大有り、而して王は其の一に居る。人は地に法り、地は
103独立して改まらず周行して殆からず
のつとのつとのつと
天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。
ion
せきりようあらたしゆうこうあやう
物有りて混成し、天地に先だちて生ず。寂たり蓼たリ。独立して改まらず。周行して殆からず。

以 て天下の母と為す可し。
物有りて混成し、という物は、この世でいう物質的な物でないことは勿論ですが、さてそれをど
うして説明してよいかというと、これが実にむずかしい。天地に先だって生ず、という根本的な存
在なのですから、これを一口に宇宙神と云ってしまえぽ一番簡単でよいわけなのですが、宇宙神だ
というまでに、種々の説明を加えた方が、知性的な人や、知識欲に燃えている人たちには、その根
本的な存在である宇宙神のみ心がかえって判り易くなってくるわけなのです。そこで、この老子講
義などは、老子さんが様々な言葉で、この根本的な存在(大智慧、大能力)を表現しようとしてお
りますので、説いていてまことに張合があるわけなのです。
せきりよう
この天地に先だって生じていた物というのは、寂たり、蓼たり、というように、音もなく、形も
姿もなく、それでいて、在りとしあらゆるものをうちに含んでいる、いわゆる混成しているものな
のであります。そしてそれは、他の何者何事に頼ったり、力を借りたりするものではなく、頼ろう
にも、力を借りようにも、その物は絶対なる一であって、その物の他に、何物何事も存在していな
いのであります。天地に先だって存在する物なのですから、当然そういうわけです。いわゆる独立
独歩なのです。
しかもこの物は、どのように動こうと、どのように行こうと、決して危ういこともなけれぽ誤ち
もない物なのであります。ですからこの物を天下万物の生みの親、つまり天下の母と為す。という
のです。
現代の言葉で云えば、創造主とか、造物主とか、絶対者とかいうのでしょうが、老子は次の節で
は、種々な言葉でこれを現わそうとしているのであります。この節の中で、私が一番心をひかれる
あやラ
言葉は、周行して殆からず、という言葉なのです。私はこの老子の一言で、私の現在説いている光
.明思想というものが、やはり間違いのないものであることを更に確信したのであります。
この天地に先だって生じていた物は、天下の母なのです。この物、大能力は、周行して殆から
あやう
ず、つまり、どのように巡り、どのように歩もうと殆くない、誤りがないということなのです。殆
あやう
くない、誤ちのない大能力から生み出された、人類をはじめ、すぺての存在は、やはり、殆くない、
105独立して改まらず周行して殆からず
誤ちのない、完全性の存在だと思わなければなりません。ここにはっきりと光明思想の道が示され
ているのです。
ですから私は、この世が如何に悪いように見え、不幸や誤りに充ちているように見えようとも、
それは、真実に存在するものではなく、宇宙神のみ心が未だ、はっきり現われきっていない姿であ
り、宇宙神のみ心、み光がすっかり現われきってしまえば、消え去ってゆく姿であるというのです。
それで私は、簡単に、すべての悪も不幸も、誤った想念行為も、消えてゆく姿である、消えてゆく
に従って、本心の光がよりはっきり現われてくるのである。と説いているのであります。
106
あざないしこれせいこれ
吾、其の名を知らず、之に字して道と日う。強いて之が名を為して大と日う、大に逝と日い、逝
えんいき
に遠と日い、遠に反と日う。故に道も大なリ、天も大なり、地も大なり、王も亦大なリ。域中に四
いつのつとのつとのつとのつと
大 有リ、而して王は其の胴に居る。人は地に法リ、地は天に法リ、天は道に法リ、道は自然に法る。
この節では、天地に先だって生じていた物について、老子さんは、自分は、その物の名前は知ら
ない、と云っているのです。ただ自分の方から、字して云うと、道と云う、強いて之に名をつけれ
ば大と云う、といっています。
全く、絶対者はすぺてに先立って存在しているのであり、すべての生命を内に有っているのであ
ヲち
りますから、絶対者の中にすべての生物の運行があるのです。ですから絶対者、大生命の一筋一筋
として、人は絶対者をみつめたり、眺めたりしているわけです。そこで、自らの生命の源を湖って
ゆけば、絶対者の心にじかに触れ得るわけなのですが、湖っても湖ってもなかなか、絶対者の懐に
触れることはできないのです。何故かというと、大生命の一筋の自己というものがあって、その小
生命意識、つまり自己意識があって、大生命の懐を探ろうとしても、小生命としての自己の分野だ
けしか、絶対者の在り方が判らないのです。
そこで老子は常に、無為にして為せ、と云って、自己意識のない、無為の生活を説いているので
す。老子そのものは、無為にして為して、絶対者(大生命) の懐深く入りきっている人であるので
すが、その老子にしても、絶対者の名を知らずと云っているのです。
絶対者につけられた名は、すべて人類の側からつけられたものであって、現在は神と云ったり、
如来、仏と云ったりすることが多くなっているわけです。老子は、その名を道と云っているのです
が、大とも云い、逝とも遠とも、反とも云っているのです。
107独立して改まらず周行して殆からず
これはすべて、その意味をもって、絶対者に当てはめてあるのです。ちなみに、大という字の説
明をしてみますと、大の横の一は、天地が分れぬうちの、天地が合体したまま含まれている一なの
でありまして、その一の上に人が乗っている形になっています。人とは毎度申しますように、霊の
止まっているところであり、陰陽合体の姿であります。もっと深くいえば、すべてが、そこに止ま
っている姿なのであります。天地が未だ分れていない以前の一の上に人が乗っている、その人とい
ひと
うのは、この肉体をもった人間のようなものではなく、人間の根本である人(霊止)なのであります。
ひと
それも只の霊止、霊人ではなく、天地が未だ分れぬ以前の一の上に位する人なのであります。
この人の姿は、現代流に云えば、宇宙神の姿ということになります。そしてこの宇宙神の姿を、
最も簡にして要を得た文字に現わしてみると、この大という字になるのです。ですから、老子が、
宇宙神の名を大と云う、といったのは実に当を得た説き方であって、流石は老子だなア、と思わざ
るを得ません。
せい
この大が、種々な運行をはじめますと、逝ともなり、遠ともなり、反ともなるのであります。故
に道も大なり、天も大なり、地も大なり、王も亦大なり、ということになるのであります。これを
もっと判り易くいうと、道も天も、地も王も、これすべて、宇宙神の現われである、というわけで
108
いつ
す。そして、域中に四大有り、而して王は其の一に居る。人は地に、地は天に、天は道に、道は自
のつと
然に、それぞれ法っている。と老子は結んでおります。
この大、つまり宇宙神の現われとして、大きなものは、人と道と天地である、と云って、人は宇
のつと
宙神の現われのうちの四つの大きなものの一つとしているのであります。その人は地に法っている、
のつと
というのです。地に法るというのは、今更説明するまでもありませんが、地の法則によって生かさ
れている、ということであります。そして、地は天に、天は道に、道は自然に、という工合に、そ
れぞれ関連した立場立場の法則によって存在しているというのです。
これはみなそれぞれが、それぞれに益しあい、それぞれの法の流れに沿って、宇宙神のみ心を表
現してゆくわけなのでありまして、宇宙神のみ心は、すべてを生みなし、そして育ぐくみ、包み、
ラち
しかも、その存在、その存在の中にも、その生命力を生き生きと働かせしめているのであります。
これを、宇宙科学的な説明にして申しますと、宇宙神のみ心が、宇宙核というすぺての物を生み
なす場となり、その宇宙核の中から、森羅万象、すべての生きとし生けるもの、在りとし在らゆる
ヘへ
もののうちに、その根源となって働いている、宇宙子というものを、生みなし、活動せしめている
のであります。109独















宇宙子の中には、精神的な宇宙子と物質的な宇宙子とがありまして、この離合集散によって、万110
物が生れ、万物が育ち、変化してゆくのであります。
うも
ですから、宇宙神のみ心は、すべてを包みながら、すべての中に在る、ということになるので、
あらゆる世界は、宇宙神のみ心の動きそのものでできている、ということになり、真に存在するも
のは、宇宙神のみ、ということになるのであります。
噸人の人間がこの地球界に生を受け、こうして生活しているのは、普通、人といわれる肉体の姿
をした人間だけが生きているのではなく、森羅万象が、一人の人間として生きて、生活しているわ
けなのであります。
これを易しく申しますと、一人の人間がこの世に生れてくるのには、先ず、父母を必要とします。
そして、父母を通して流れてくる養分を必要とします。この父母を通してくる生命要素及び肉体要
素は一体どこからくるかと申しますと、天地自然の中から、種々な形となって現われている、神の
み心からくるのであります。
それを知ることが、人間が人として生くる為の知識でなければなりません。この根本のことをな
ひと
おざりにしておきますと、いりまで経っても、人間は立派になりませんし、真実の人、つまり霊止、
神の分生命の存在者とはなり得ません。
如何なるこの世の知識がありましょうとも、こうした根本の、万物の恵み、神の恩恵に対する感
いつ
謝の気持がなければ、その人は、万物の霊長であり、四大の一である、真人というわけにはいきま
せん。それぼかりでなく、そうした知識から生れた生活は、やがてはその人を滅ぼし、延いては人
類滅亡の一役を買っている、ということにもなるのであります。
ソ連がかつて、その業の本性を現わして、人工衛星からロケット爆弾を地球の何処へでも自由に
落せるようになった、と発表していたのをみると、如何に、人間の根本というものを知らぬ、愚か
なる人々の知識ほど恐ろしいものはない、と思わされます。
地球人類は先ず、人間とは如何なるものかということを先ず知ることに努めなければ、自らの生
命を自ら滅亡させてしまう愚を為してしまうものなのです。
そこで私は、その愚かさを消し去る為に、こうした老子講義を書き、世界平和の祈りを実践し、
宣布しているものなのであります。
111独立して改まらず周行して殆からず
112
第+二講……無棄人……無棄物……
道徳経第二十七章
善往編轍逃善言慰二毅糞善諏不レ鳳二簿騒善蹴翼関鍵菰不レ勇臥・善
バクシテモカヲクヲテハニクフヲニシこクフヲ
結無二縄約↓而不レ可レ解。是以聖人、常善救レ人。故無二棄人℃ 常善救レ物。
ニシヲフトニハナリハナリ
故無二棄物叩是謂二襲明殉故善人不善人之師。不善人善人之資。不レ
パノヲレパセノヲモナリトイニフヲフト
貴二其師輔不レ愛二其資噛難レ智大迷。〔是謂二要妙ご
〔読み方〕
ぜんこラてつせきかたくゼんけいちゆうさくぜんべいかんけんもちべ
善行は轍 無く、善言は暇髄無く、善計は簿策を用いず。善閉は関鍵無くして、而も開く可
けつじようやくとようみよういここもつ
からず。善結は縄約無くして、而も解く可からず。〔是を要妙と謂う。〕是を以て聖人は、常に善
く人を救う。故に甕無し。常に善く物を綴う・故に諜無し・慰を齢職ど謂う・故に善人は
不善人の師なり。不善人は善人の聲なり。其の師を髄畔ず、其の聲を愛せざれば、轡なりム購
も大いに迷う。
てつせきかたくちゆうさくぜんぺいかんけん
善行は…轍 無く、善言は暇謎無く。善計は矯策を用いず。善閉は関鍵無くして、
じようやくと
ず。善結は縄約無くして、而も解く可からず。〔是を要妙と云う。〕
而も開く可から
真実の善なる行いというのは、車が道を行くのにその跡を止めないように、自分の心に善行をし
たという誇りを止めるようなものではないし、人々の眼に華やかに知られるような在り方でもない。
そうした善行のように、善い言葉も、その言葉が、少しでも自分を傷つけ、人を損うようなもので
あってはならない、というのです。
私もよく云うのですが、どんな立派な聖者の言葉を人に話すのでも、相手が他のことに忙しい時
とか、その日はそんな話は聞きたくもないというように、気分の曇りきっている時などに話してみ
ても、少しも相手の為にならぬばかりか、相手の気分をかえって損ない、その聖者の言葉に、反感
を持ったりするもので、その相手の反感の想いで、またこちらの心も曇らされたりして、双方共に
損をするようなことが多々あるものです。
113無棄人…… 無棄物
ですから、どんな善い言葉も、時を得て話さねばならぬし、相手をみて話さねばならぬのです。
それに場所柄をみて話す、ということもあるわけです。
はじ
善計は簿策を用いず、というのは、最も善い計算は、いちいちそろばんを弾いてやるようなもの
たいこユ
ではなく、大綱をみて、つまりすべてを見通して、その揚その時だけの損得を超越してやらねばな
らぬ。それは計算ぼかりではなく、あらゆる計画は、みな根本をよく見定め、枝葉の利害打算を問
題にせずにやらねぽならぬ。そうした深い心から出てくる計算や計画が善計というのである、とい
うのです。
ぜんぺいかんけん
善閉は関鍵無くして、而も開く可からず、これは、善い戸締りは、何もかんぬきを使ったり、鍵
を使ったりしなくとも、誰も開けることはできぬようなものである、と同じように、人の心も、
常に用心深く、相手に心の中を見せまいとしたり、都合の悪い相手から遁れようとしたりする、心
にかんぬきや錠前をかけて置くような生き方をしなくとも、自らの心が宇宙法則(神のみ心) に叶
ってさえいれば、どんな相手にでも、みすかされて悪い想いも無いし、自分の心に踏みこまれて傷
つけられるようなことも無い、というのであります。
善結は縄約無くして、而も解く可からず、というのは、善い立派な結びつきというものは、縄で
114
縛ばって置くように、種々と細い条約付きで結びついているような、そんなあやふやな結合ではな
く、何んの縛りも、何んの誓約もなく条約が無くても、争いごとができたり、利害損得のやりとり
で、その結合が解けてしまうような、そんなものではない、心と心との全き交流なのだ、というの
です。
こうした生き方を、精妙なる生き方、奥深い在り方というと老子は云っているのです。
しゆう
是を以て聖人は、常に善く人を救う。故に棄人無し。常に善く物を救う。故に棄物無し。是を襲
めいしたつと
明と謂う。故に善人は不善人の師なリ。不善人は善人の資なリ。其の師を貴ばず、其の資を愛せざ
いえど
れば、智なりと雌も大いに迷う。
聖人というものは、前述のような生き方をしているので、善く人を救うことができるのである。
だから棄人無しなのである、というのですが、この棄人無し、ということのむずかしさは、これは
とても並大抵なむずかしさではありません。
どんなに自己にとって不都合な人でも、如何なる醜悪な人でも、悪人でも、見棄てないで救うと115無







いうことの大変さは、私など嫌という程体験させられています。
近親者とか、どうしても因縁的に救わねばならぬ知人などなら、嫌な性癖の人でも悪人でも、狂
人でも、棄てることはできませんが、そうした深い知人でなければ、あまり面倒だったら見棄てて
しまうのが普通人です。
ところが聖人ともなれば、その人がいては、自分の体の自由を損われ、自分の行動にも、限度を
定められてしまうような、自分の生活にとって、全く不都合きわまるような、しかも離せば離せる
ような人々をも、見棄てることなく救う、というのです。
自己に俺ってきた人は誰も彼をも、救いあげる、ということを考えると、皆さんは、ぞっと
する程の愛の厳粛さを感じられることでしょう。真の愛の行為は、とても生やさしいものではあり
ません。あの人は善い人なのに困っている、可哀想だから救ってあげよう、とか、私を好いてくれ
ているから救ってあげよう、などというのは当前の行為なのです。
ああ
これは小説の話ですが、ユ!ゴの、憶々無情の中の、ミリエル僧正が、一晩泊めてやった恩も忘
れて、僧正を殺して銀の燭台をうばおうとした、ジャソバルジャンを官憲の手から守ってやり、盗
んだ燭台をそのまま与えて旅立せる、という、ああした行為こそ、老手の云う聖者の行いであろう
116
と思います。
こうした行為の人には、どうしたら成れるかと申しますと、やはり深い空の境地、老子の無為の
境地にならぬとできないのであります。
ところが毎度申しますように、深い空の境地とか、無為の心境にはなかなかなれません。そこで、
少しぐらい愛の行為をしたとか、人を救ったとかいうことで、自分を高く評価したり、高慢になっ
たりしたら、とんでもないことだと思います。老子のいう無棄人とか無棄物とか云うのは、こうし
よう、ああしようと思ってする愛行為でも救済でもなく、このくらいしてやったからよい、私はこ
たぐい
んなに愛が深いなどという類のものでもありません。
じねんほうに
無為の底から、深い空の奥から、自然法爾に行為となって現われてくる、愛の行為であり、救済
の行為なのです。ですから、聖人には、人を愛しているという想いも心にとどまっていなければ、
人を救ったという想いも止まっていないのです。
常に想いはすみやかに流れてゆくのであり、心は澄みきっているのであります。ああしよう、こ
うしようではなく、想念と行為とが全く一つになって、自然に、世の為になり、人の為に役立って
いるような天意に叶う動き方のできる人、これが聖人と云われる人なのであります。
117無棄人… … 無棄物
こう考えて参りますと、私共は、少しぐらい人の為になったからといって、自分を誇らしく思っ
たり、役立たぬ人をいやしめたりしてはいけないと思うのです。老子の云う、無棄人の境地になる
ためには、自己をすべて、宇宙神のみ心の中に投入し切って、はじめて成り得るのですから、少し
でも自己の想念がある愛行為、善行為であったらぽ、自己のある部分だけは、その愛行為、善行為
からマイナス分として差引かなければなりません。自分が自分が、という想いは、その分だけ、宇
宙神のみ心から離れている想いなので、宇宙神のみ心がそのまま流れて、自分の全行為になるのだ、
という真理を知れば、自分がした、という、神と自己とを離す思いが消え去って、無為にして為す、
という境地になるわけなのです。
しかし、そうなることが実にむずかしいのですから、実際問題としては、自分のあらゆる想念を、
一度は、神のみ心の中に祈り言をもってお還えしして、自分の想念行為を改めて頂き直すことがよ
い、と私は云うのであります。その祈り言は、自分と全人類とを一つに結んでしまい、宇宙神のみ
心と全人類の願いとを一つに結合させる、世界平和の祈り言がよいと私は云うのです。
世界人類が平和でありますように、という祈り言は、易しい言葉の中から、無為にして為す、そ
おのずか
の境地と一つのひびきが、自ら伝わってくる、素晴しい唱え言なのであります。宇宙神のみ心
118
と自己の心とが全く一つにつながる祈り言、それが、世界人類は平和である、という、宇宙神のみ
心と、世界人類が平和でありますように、という人類の心とを一つにつないだ、世界平和の祈り言
なのであります。
ですから私共は、自分たちの善行為に誇らず、謙虚な気持で、世界平和の祈りの中に、自己の全
生活を投入して、むずかしい無為の行いを易しく為し遂げてゆくのであります。
無棄人、無棄物の行いのできる人を襲明の人、つまり明に入った人、神のみ心深く入った人、と
老子は云っています。そしてその次に、故に善人は不善人の師なり、不善人は善人の資なり、其の
いえど
師を貴ぽず、その資を愛せざれば、智なりと錐も、大いに迷う。と結んでいます。
善人が不善人の師であることは、誰しも肯ずけることですが、不善人が善人の資である、とい
うことは、一寸肯きかねる人もあるでありましょう。だが、ここが老子の教えのやはり根底にある
ことでありまして、この世に現われているものは、何一つ、宇宙神のみ心に無いものはない、とい
う深いところからでている言葉なのであります。
善人というものが、不善人のあることによって、どれだけ自己が磨かれてゆくことであろうか、
不善人は、善人をますます、深い善人にする資料である、と云うのです。全く物事、事柄を、すべ
119無棄人…… 無棄物
てこのように考えてゆけば、自己にとって不都合なことは、何一つ存在しないことになるのです。20
1
自己に不都合と見える事柄は、すべて、自己の人格を磨き高めてくれる、資料であるわけです。如
何なる智者といえども、自己の前に不都合な、事件事柄を認めているようでは、大いに迷わなけれ
ばならぬというのであります。
すべてのものを棄てぬ、という心の第一歩は、自己の環境に現われてくる、すべての事件事柄を、
すぺて善し、とみうる心境になることなのです。その心境になる易しい方法が、私の常に云う、消
えてゆく姿で世界平和の祈り、という生き方になってくるのです。
現われてくる、すべての想念も、事件事柄も、みんな過去世の因縁の消えてゆく姿である、消え
てゆくにしたがって、自己の神の子の本体がそこに輝かに現われてくるのである、という教えは、
やがては、老子の云う、無棄人、無棄物の境地に入り得ることになるのであります。
この要妙の境地に入る為の易行道である世界平和の祈りの道に、この老子講義を通して、多くの
人々が入って下さることを、私の中の老子も切に薦めているのであります。
第+三講無極に復帰す……
道徳経第二十八章
知駕聾も駕聾為二天篤磐盈天下.筑常徳海離・復二胤於嬰辱知駕翰
甑鄭舞為二天蔦些数天下些常徳喬善復二脇於無聾知駕聾缶駕辱
ルノトレパノレチリテス昌ズレ.( チル} 7レパヲ
為二天下谷叩為二天下谷鴨常徳乃足、復二帰於撲殉僕散則為レ器。聖人用レ之、
チルトこハシクコト
則為二官長殉故大制無レ割。
〔読み方〕
ゆうしたになたになじようとく
其の雄を知りて、其の雌を守れば、天下の難と為る。天下の難と為れぽ、常徳離れずして、
鐸に復帰す・其の白きを知りて、其の黒きを守れば・天下の式と歳る・天下の式と胤れば・
常徳蕊わずして、無極に復帰す・其の栄を知りて・其の磐守れば・天下の谷と歳る・天下の
なすなわぼくきこれもち
谷と為れば、常徳乃ち足りて、撲に復帰す。僕散ずれぽ則ち器と為る。聖人之を用うれぽ、則
121無極に復帰す
かんちようなたいせいな
ち官長と為る。故に大制は割くこと無し。
122
ゆ5 し粍になじようとくえいじ
其の雄を知リて、其の雌を守れば、天下の難と為る。天下の難と為れば、常徳離れずして、嬰児
なたが
に 復帰す。其の白きを知リて、其の黒きを守れば、天下の式と為る。天下の式と為れば、常徳式わ
ずして、無極に復帰す。
ゆうしたにな
其の雄を知りて、其の雌を守れぽ、天下の難と為る。其の雄というのは、勇気に充ちた、明るい
男らしい知性に秀でて積極的な、ということで、知りてという意味は、ただそういう心を頭で知っ
ているというのではなく、心でしっかりそうした態度を持っている、ということです。

そういう心を自分で持っていながら、しかも雄の反対の雌即ち、女性的な柔和な静かな、そして

謙虚な、ものを育ぐくみ育てる愛情を湛えているような心を守っていれば、天下の難と為る、とい
うのです。天下の錨というのは、天下という大きな言葉が上についていますから、底知れぬ深い心、
何人何ものをも容れ得る大寛容ということで、そういう大人物になり得るということであります。
そういう、天下の錨のような大人物になれば、常徳離れずして、嬰児に復帰す。つまり、神のみ
心そのもののような徳をそのままの行為として、赤児のような、自然に任せきった無邪気で素直な
伸び伸びとした心でいられる、というのです。
次の、其の白きを知りて、其の黒きを守れば、天下の式と為る。と申しますのは、其の白き、こ
の白きというのは、白は純潔の象徴であり、清らかさであり、様々な光の交流し合って澄み徹った
光であり、聰明そのものの心ということなのです。そういう心を自己のものとしながら、黒きを守
る。つまり、黒とは闇のことであり、光のとどかぬ未開地のことであり、愚かなる無智なる、真理
に暗い人々のことなのであります。
この地球界は、老子が老子として中国に存在していた古い昔から今日に至るまで、未だに、宇宙
神のみ光のとどききっていない、未開発の人間の住んでいるところなのです。いわゆる神の子、仏
子の本心、本体がはっきり現われきっていない世界なのです。いわゆる白光に輝きわたった世界で
はなく、凡愚の世界、黒の世界なのであります。
こうした凡愚の世界、黒の世界にあっては、純白そのものの心、高い真理そのものの心をむき出
しにしていては、人々との交わりができません。人々との交わりができねば、社会人類の為に働き
たくとも働くおけにもゆきません。一人高くそびえ立っていて、孤高の人になってしまい、政治政
X23無極に復帰す
策などとれるものではありません。24
1
そこで老子は、其の白きを知りて、黒きを守れ、黒い世界、凡愚の世界の生き方に順応して、自
己も凡愚の一人となって、すべての人々の生き方を自己のものとして、社会人類の為に働けぽ、多
くの人々から、あの人は、自分たちの心をよく知っていてくれる、物判りのよい、しかも私心のな
い立派な人だ、自分たちの味方なのだ、ああいう人物にあやかりたい、と云って、その人を敬慕し、
天下の範としてその人の感化に知らず知らず浴してゆくことになるのである、と教えているのであ
ります。
人間の心というものは、おかしなもので、あの人は立派な人だなあ、と思っていても、その人の
平常の態度が、あまりに自分たちと離れ立派に見えすぎると、どうも自分たちとは境界が違うと思
って、近寄りがたくなったり、あんな立派なことは自分たちにはとてもできない、とはじめから諦
めてしまって、自分たちの模範にしようとは思わなくなってしまうのです。水清けれぽ魚住まず、
の言葉通りなのです。
たが
白きを知り、黒きを守る生き方として、天下の範(式)となれば、常徳志わずして、無極に復帰
す。と老子は云うのですが、この無極に復帰す、という言葉は、実に大変な言葉なのです。無極に
復帰す、という言葉のもつしーんと静まりかえった、空の奥の又奥の、と私が老子という詩で書い
た、あの深い深い、どこまでも深い、真理の光の放射を湖って湖って、窮極のところ、無の極地に
復帰する、というのですから大変なことなのです。
無の極地、無極とは宇宙神のみ心の根源なのです。ですから無極に復帰す、ということは、宇宙
神のみ心そのものに成りきった、ということなのです。
これは、老子そのものの本住のところを示しているようです。実際に自分が住んでいるところで
むくう
なけれぽ、このように説くことはできません。無とか空とかいう言葉は、宗教用語としてはかなり
つかわれていますが、無極に至る凄さ、空に成り切る為の過去世からのたゆまぬ精進というものは、
文字だの言葉では、その実を伝えることは全く至難なことですが、もう少しくわしく説明しますと、
この肉体波動の世界を深く深く奥に入りますと、霊光の世界に突入します。その霊光の世界に入り
切りますと、またその奥にもっと深い光明世界が開けてきます。そうした光明世界は何段階となく、
奥に奥にとひろげられてゆくのです。そうした奥の奥の奥底に、深い空の世界、無極の世界がある
のです。
宇宙科学で毎度申し上げる、宇宙核の中の世界なのです。宇宙万物の生命波動の生みなされる根
125無極に復帰す
源の世界、それが無極なのです。光とか光明とか申しますと、普通この物質界の可視光線、太陽の
光線とか電気の光とかを、どうしても想像しがちです。ところが、宗教的にいう光とか、光明とか
申しますのは、この肉眼の感覚では感じられない光なのでありますが、肉眼より少しでも微妙な霊
眼になりますと、そうした光や光明が感じられてくるのです。霊眼とか霊感覚と申しましても、こ
れがまた実に幾段階もの階層がありまして、その深浅の差が非常に多いのです。
ですから霊眼、霊感と云われる人々の光明世界の把握にしても、入口の光明世界と深い奥の光明
世界との差異が、各人によってあるわけです。
この世の人々が、肉眼で感じ、触覚で感じている光にしても物質にしても、すべては素粒子の運
動をそれと感じているのでありまして、すべては波動の現れなのであります。
地球の科学は今日非常に進んでいまして、昔はただ細胞分子の集りとだけいわれていたような生
体物体が、今日では、細胞分子は原子から成っている、その原子は原子核と電子から成っていると
云い、原子核は、陽子と中性子によってできているものであるとし、陽子や中性子の他にも、中間
子というものが存在し、その中間子にも、ハイペロン、K中間子、パイ中間子、ミュー中間子など
というものがあり、その他ニェートリノだの光子などという素粒子なども発見され、すでにアルフ
126
アー、ベーター、ガンマーの各放射線や宇宙線をはじめ、素粒子の世界で発見されたもの何十種類
という程になっているのです。
普通私たちが電気と云っているものは、電子の流れであり、光と云っているものは、光子の波動
なのであります。そのように、この地球科学で発見されているものも、もう直ぐにでも、霊眼、霊
感で感じられる光明波動のひびきを発見しそうなところに迫ってきています。いずれも自然界の波
動のひびきであることには違いないのですから、やがて一つのつながりとして証明される日がくる
のであります。
この可視光線と不可視光線とのつながりがはっきり証明されますと、今まで宗教的にだけ説明さ
くとノ
れていた光明世界とか、空や無の世界の説明が科学的の証明のもとに説明されるようになってくる
のです。私共はそうした科学を、宇宙人の指導の下に日々やっているのであります。宗教的にいう
光や光明世界というのは、精神的なものが主になっていますが、精神的な光といえど、やはり科学
的な証明がつけられるものなのです。それは宇宙科学で教えられた宇宙子の存在によって証明され
てくるのです。宇宙子には、精神的に働く精神宇宙子と、物質的に働く物質宇宙子とが、はっきり
区分されていて、ここが地球科学と異なっているところなのです。
127無極に復帰す
そこで、老子の云う無極のことでも、自然の奥底、宗教的にいえば、宇宙神のみ心から、すべて
の宇宙子が波動として働きを開始する根源の世界である、と説くわけなのであります。無極の説明
はこのくらいに致しまして、次の説明にうつりましょう。
128
じよく
其の栄を知りて、其の辱を守れば、天下の谷と為る。天下の谷と為れば、常徳乃ち足りて、撲に復
きなさな
帰 す。模散ずれば則ち器となる。聖人之を用うれば、則ち官長と為る。故に大制は割くこと無し。
其の栄誉を知り、繁栄の中にいながらも、辱かしめを受けていた頃の、まだ人の長とならなかっ
た低い地位の頃の自己の謙虚な心がけを忘れず守っていれぽ、天下の谷となる。いわゆる大人物と
なる。そういう人物になれぽ、神のみ心の徳が充分で、僕、つまり木の元、云いかえれぽ、生命の
根源の素直な世界に復帰するのだ。素朴な、本のままの姿というものは、他のものとつぎ足して使
ったり、他のものの材料として使うわけにはゆかないが、種々の器の元として使うことはできる。
人間的に云えば、人の下役に使われるには人物が大きすぎて使われぬ。
聖人が、こういう生き方をすれば、百官の長となる、と老子は云っているのです。そして結びの

言葉として、大制は割くことなし、と云っていますが、この言葉は、このように宇宙神のみ心の根
源の世界から、そのまま生れ出でているような人物は、細かい下役的な仕事をさせられることはな
く、どうしても、中心人物となってしまう。その最たるものが君主であって、君主が存在するだけ
で、すべてが大調和してゆくのであって、君主が分割的な仕事をすることはないのだ、と老子は云
っているのです。
世の中には、種々様々な才能がありながら、常に人に使われているような人もあれば、のんびり
とゆったりしている、別にこれといって特別の才能がありそうもないのに、常に人の頭に立ってい
る人もあります。
ですから、特別な才能が無いからといって悲観したり、自分で不器用だからと、自分に見きりを
つけたりすることはありません。常に、自分の想念を、宇宙神のみ心の中、生命の根源、つまり、
世界平和の祈りの中に投入しつづけて、自己の現在の環境を素直に生きぬいてゆけば、宇宙神のみ
心の中から、光明波動がその人の肉体身に流れてきて、何んともいわれぬ魅力のある人間になって
くるのであります。天命を信じて、人事を尽くせ、天は自ら助くる者を助く、という言葉をよく噛
みしめて、生きていって下さい。
129無極に復帰す
130
第+四講自ら知る者は明なり……
道徳経第三十三章
ルヲハナリヲルハナリツゐハサヲツハシルルヨトヲハメリヒテア
知レ人者智。自知者明。勝レ入者有レカ。自勝者強。知レ足者富。強行
ハリルハノヲハシシテルビハシ
者有レ志。不レ失二其所一者久。死而不レ亡者寿。
〔読み方〕
めい
人を知る者は智なり。自ら知る者は明なり。人に勝つ者は力有り。自ら勝つ者は強し。足る
こころざしあ
ことを知る者は富めり。強いて行う者は志有り。其の所を失わざる者は久し。死して亡びざ
いのちなが
る者は寿し。
めい
人を知る者は智なり。自ら知る者は明なリ。
めい
と老子は、智と明ということを使いわけております。人を知る者が智で、自らを知る者は明だ、
というのですが、智というものと、明という境地とを、老子はどのように区別して考えていたので
しょう。この文章では、人を知り、自己を知ることの大事なことを説いているので、人と自、智と
明とを、特に区別して話しているわけではありませんが、老子の心には常に、人を知ることより、
自己を知ることの方がむずかしく、しかも深い境地であると思っているので、自然と、智と明とい
うように言葉に区別ができたのだと思います。
めい
どうして明の方を智という言葉より上位においているのでしょう。

先ず、智という言葉を説明してみましょう。智という文字は、日の頭に知という字がついており

ます。日というのは毎度申しておりますように、霊という言葉と同意義なのでありまして、霊或い
は本源の光、または本心、本体とも云えるのであります。
智という文字は、本心、霊、つまり日を下にして知が頭についているのです。これはどう解釈す
るかと云いますと、本心で知る、霊覚的に知るというのではなくて、頭で知る、頭脳知識で知る、
頭脳に残っている体験で知る、というように、頭で知るということを現わした文字なのであります。
頭で知ることは勿論悪いことではありませんし、普通はみな頭で理解し、頭で知るのでありまし
131自ら知る者は明なり
て、頭で理解する能力の弱い人を、馬鹿める習慣を人間は持っております。人と附き合って、相手
をよく理解するということも頭のよい人、智の発達した人でないとできません。

一寸自分を賞めてくれたり、何か都合のよいことをしてくれたりすると、その人をすぐ立派な人
だ、善い人だ、と思いこんでしまったり、自分をたしなめたり、自分に都合の悪いことをされると、
すぐに相手を悪く思ったりして、その人の真価というか、真実の人格というようなものを、理解す
ることのできない人は、智に欠けた人というのです。
そこで老子は、人を知る者は智なり、と云っているのであります。ところが、人を知るのは智で
もできるが、自己を知ることは、頭で知ろうとしても、とてもできることではない。想いを静め、
心を深めて、じっと、生命の本源の世界にまで入ってゆかないと、つまり、無とか空とかいうよう
な深い境地に入ってゆかないと、真実の自己と、現れの自己との区別をはっきりつけて、真実の
自己、大生命の分生命である自分というものを知ることはできない。
めい
そういう境地になることを明というのだと説いているのです。明というのはどういう意味かと申
よう
しますと、明という文字を縦に二つに分けますと、日と月ということになります。日は陽であり、

いん
月は陰であります。この原理は誰でも知っておられることでしょう。
132
プヲスマイナスめい
一との大調和の姿を示したのが、この明という文字なのです。日も日の陽つまり十と、月の陰・
月も肉体人間の手のとどかぬ、高い高いところにあります。高い高い、深い深い、奥の奥の世界、
すがた
自然の本源の世界における、大調和の相を明という文字は現わしているのであります。
みじん
ですから、明の境地というのは、宇宙神のみ心の中に入りこんだ境地、微塵も自我、小我の無い
境地、澄み極った心境のことをいうのです。真実に自分を知るということは、このようにむずかし
く、大変なことなのであります。真実の自分を知りはじめますと、すべての想念行為が正しくなり、
自由になり、他人の言に左右されたり、地位や物質や情愛で動かされたりすることが無くなり、神
のみ心のまま、本心そのままの行為ができるように、次第になってくるのです。
智の場合にも、只単に智といわずに、明智とか叡智とかいうことがありますが、これは頭だけの
智ではなく、神のみ心からでてきた智ということを表現しているので、この明という文字は非常に
尊い文字であるわけです。
さて次に
人に勝つ者は力有リ。自ら勝つ者は強し。133自








とあります。この辺はあまりくわしい説明の必要はないと思いますが、一通り説明いたしましょ34
1
うo
老子の云う通り、人に勝つには力がいります。これは勿論腕力ばかりではなく、あらゆる能力の
ことであります。力の無い人が、陰で人の悪口を云ったり、偉そうなことを云っている程、鼻もち
ならぬものはありません。自分を偉く思わせようとして、やたらに地位の高い人や、著名な人々の
名前を持出し、さも親しい知己のような話をする人がありますが、これ程、自分の低劣さをみせる
行為はありません。
人に勝つには、何んといっても力が有ることが第一なのです。それは国と国との間でもそうなの
です。実力も無いのに、やたらに強国に向って嫌がらせをやるような態度は、あまり感心できぬの
は、佃人関係と同じことです。国の実力というのは武力ばかりをいうのではありません。個人の利
害を先ず第二にしても、国を守ろうという心で、国民が一致団結しているような国があったら、武
力が無くとも、その実力は権威あるものとなります。日本人もそういう国民になりたいものです。
私はそうした実力を、世界平和の祈り一念という国民運動にして、つけたいと思っているのですQ
世界平和は武力では決して成就せぬのは明らかなことです。武力に代わる力、そうした力を、私は
世界平和の祈りの運動によって日本のものにしたいと思っているのです。私たちのやっている宇宙
科学の実践は、その大きな力になることは間違いないのです。
このように、人に勝つには力ですが、自分に勝つには何が必要なのか、老子は、強し、と云って
いるだけなのです。これは、前に自ら知る者は明なり、と云っていますので、自分の欲望、業想念
行為に勝つには、明の心境になるに越したことはありません。
明の心の現れとしては、あらゆる欲望に負けぬ強い意志力が生れてきます。明の心境から生れ
カルマ
た意志力というのは、自然法爾に生れてくるので、如何なる業の誘惑でも、どうにもならぬ程、底
強いものなのです。それは、単に意気張っていたり、耐えているようなものではなく、さらりさら
りと何気なく、業の誘惑を超えてゆく、というような自由無擬の強さなのです。真実に自分に勝つ
ということは、容易なことではありません。あらゆる業想念波動を超える程の強い意志力は、やは
り明といわれる程の心境にならぬと現われぬことなのでしょう。
足ることを知る者は富めリ
135自ら知る者は明なり
この言葉は、よく云われる言葉なのですが、人間の欲望というものには限りがありませんで、金
が出来れば地位が欲しくなり、地位が高くなれば、もっと高くなりたくなり、最高の地位につけば、
いつまでもその地位に止まりたいと、種々と権謀術策をして、心の休まる暇がありません。
ですから、足るを知るということは、実に大事なことだと思うのです。どんなに貧しい生活をし
ていても、その貧の中で満足して、心を休んじていられる人は、富んでいるも同じ心の余裕という
ものがあります。安心立命していられます。想念を常に物質世界の中に置かずに、神のみ心の中に
入れきっている人は、如何なる環境にいても、足ることを知る人であり、心富める者なのでありま
す。何故なれば、神は無限の富者であるからです。
iss
ここるざしあ
強 いて行う者は志有リ。
さん
これは、自らが思い立った道を、どのような困苦があろうとも、努力研鐙して突き進んでゆく人
は、その道に志有る者であって、必ずその道は成就するというのであります。
実にその通りでありまして、天命がその仕事あるいは、その道にある者は、どんなことがあって
も、その仕事、その道を成就するものなのです。ですから、自己の天命を信じて、その場、その時
々の環境立場に全力を挙げてゆくということが大事なのです。
各人にはすぺて天命があるのですから、その環境立場が嫌だから、と云ってすぐに遁げ腰になっ
たりしていては、自己の天命を完うすることは到底できるものではありません。何事にも全力を挙
げてぶつかってゆける人こそ志有る者として、神は天命を成就させるのであります。
其の所を失わざる者は久し。
其の所というのは、単なる場所とか、地位とか、役職ということではなく、真理の所、老子流に
云、兄ば、道に立っていれば、道を見失わなければ、ということであります。今日的に云えば、神の
み心の中にいれば、ということです。
どんな高い地位にいようと、どのような立派な住宅に住んでいようと、それは久しいものではあ
りません。この世だけの地位とか、住いとかいうものは、この世だけのものであって、いくら長く
つづいたとしても、この世だけのもので、百年とはつづきません。
137自ら知る者は明なり
この久し、という言葉は、この世だけの時間を云っているのではありません。道にそって生きて318
いる者の永遠性というものを云っているのであります。それは次の
いのちなが
死して亡びざるは寿し
という言葉と関連しているわけです。
死して亡びざる、ということは一体どういうことでありましょう。
唯物的な考え方からすれば、肉体が死ねば、生命は亡びたことになります。ですから、唯物的な
人が、この言葉を解釈すれば、死して亡びざるとは、何かこの世に自己の仕事や、善行を残してい
った、そうした仕事や善行が、長くその人の名をこの世にとどめておくであろう、ぐらいの解釈し
かつきません。
ところが、死して亡びざる者は寿しというのは、そんな浅い言葉ではないのです。
死んでも亡びない、ということは、肉体が死んでも、生命は生きているのだ、という真理を知っ
ていることなのであります。肉体が亡びたら自分の生命はもう無いのだ、と思っているような人
は、死んでも亡びない人ではありません。肉体が無くなっても、生命は霊体を纒って生きつづけて
いるのだ、ということを知るまでは、丁度夢の世界を迷い歩いているように、様々な妄想の中をさ
まよい歩くのであります。生命が死んだ生活をつづけるわけなのであります。
肉体人間というのは、あくまで、生命のひびきの一つの現れにしか過ぎないので、真実の人の
姿は幾通りの世界をもつくっているのです。その現れの姿の一駒の肉体というもののみに掴まっ
ていて、この肉体世界だけしか、人間の世界は存在しない、というような浅薄な人間観では駄目な
のだ、と老子も云いたいのであります。
何もの、何事にも心を乱さず、如何なる利害得失にも迷わず、永遠の生命の大調和のひびきを、
その想念行為に現わしてこの世を生きぬいてゆくのには、やはり、自らを知る明の境地に立ってい
なければなりません。
なユ
明の境地というものは生やさしく入り得るものではありませんから、その明の境地への入口であ
る、祈り心をもって日常生活をすることが大事であります。祈り心のうちで最も高い広い祈り心は、
世界人類が平和でありますように、という世界人類の平和を願う祈り心であると、私は確信してい
るのであります。
139自ら知る者は明なり
140
第十五講大道は氾としてそれ左右すべし……
道徳経第三十四章
大遮濫.今菊鵡二左奪万物怖々勝も.而.不レ臥・功廊.不二各奪衣勧.万
物↓而不レ為レも。〔常無欲〕耶レ飾ヅ於小℃ 万物帰”之、而不レ為レも。耶一忽テ撫7九。
テノニルワワサひクスノヲ
以三其終不二自為”大、故能成二其大叩
〔読み方〕
はんぺこれたのしかな
大道は氾として其れ左右す可し。万物之を侍み、以て生じて而して辞せず。功成りて名を有
いひなぺ
せず。万物を衣被して、主と為らず。小と名つく可し。万物之に帰して、主と為らず。名づけ
て大と為す剛し。其の綜に麟げ大と為さざるを以て、故に能く其の大を脚す。
大道は氾としで其れ左右す可し。
大道というものは、大きく一つに固まったようなものでも、広がって固定しているようなもので
もなく、水がひろがりあふれ充ちていながら、右にも左にも自由に動き得るように、右にも左にも
動くこともできれば、左右に分けることもできるし、また、縦でも横でも自由自在に動き得るもの
なのである、というのです。
たの
万物之を特み、以て生じて而して辞せず。功成リて名を有せず。
万物、つまりすべての生物は、この大道の力によって生じているのだし、生育し生かされている
のであるが、道、今の言葉で云えぽ、宇宙神は、万物に対して、生命力を与えながら、その生育や
繁茂を阻止したり、邪魔だてしたりはしないで、自然の力に任かせておくし、万物の方も、これだ
けで結構です、というように、その生命力を辞退したりはしない。また、神は万物に生命力を与え、
万物それぞれの分野において、生命の歓喜を味あわさせるような、素晴しいことをしながらも、そ
の名を高めようとしたり、誇ったりはしない。
141大道は氾としてそれ左右すぺし
万物を衣被しで、主と為らず。小と名つく可し。
142
大道即ち宇宙神のみ心み力というものは、実に不可思議で、愛に充ちているものであります。人
類から、山川草木、獣類、鳥魚虫類に至るありとしあらゆるものに、それぞれの形を創り成し、色
彩を与え、生命力を輝かせていながら、各自を各自の主人公にさせて、自身は何処かにひっそり
としていて、自分はお前たちの主人だぞなどと云って、万物に命令したりしはしない。それでは一
体何処にひそんでいるのだろうか、と考えてみると、万物それぞれの内部にいて活動している生命
そのものだと云える。そこで、道というものは、小と名づけてもよいのではないか。
とこういう説明になるのですが、現在のように、科学が進んで参りますと、老子の云う、小と名
つく可し、という言葉が、実に当を得ている言葉だということが判ってくるのです。
何故かと申しますと、万物、あらゆる生物も物体も、現在の科学によれば、炭素Cとか水素H と
ちつ
か 、酸素0 とか窒素Nとかいう、多くの元素によってできていることが確実に判ってきていますし、
その元素はまた、電子や中間子など種々の微粒子によってできている、ということも判ってきてい
ますし、私共の宇宙科学では、もっともっと微少な宇宙子によってできていることも判明していま
す。
こうした微少な存在に働いている力が、道の力つまり、神の力であるのですから、
小と名つく可し、と云った老子の言葉は流石である、と感嘆させられるのです。
道のことを、
万物之に帰して、主と為らず。名づけて大と為す可し。
この節は、前節とは全く逆に、名づけて大と為す可し、となっております。
万物は前節でも述べたように、道の力によらないで生じているものも生育しているものもないの
ですから、従って、万物は大道に帰一していることになります。それなのに、大道は自らをすべて
の主宰者なりとして現わすことをしていないのです。
どこからどう考えても、大道は万物すぺての主宰者であり、生みの親であり、育ての親であり、
すべてのすべての力の源であることがはっきりしているのですが、大道は自ら我は主宰者なりと
名乗りでられない。人間的に考えれば、これだけの力を持ち、すべての生命の流れを自らの手中に
握っていながら、自分を表面的に現わすことをしない、ということは、そのみ心が、どれ程広く、
143大道は氾としてそれ左右すぺし
どれ程大きいのか、計り知れないものである、と思わざるを得なくなります。
何んという広大なみ心なのだろうなア、と驚嘆しながら、大空を見上げれば、果しない大空に、
数知れぬ星を散りばめて、その星々を、一つの法則の下に、その処を得さしあている、その大きな
み姿が仰ぎ見られるようで、全く老子のいうように、大と為す可し、と云わざるを得なくなります。
道とは全く、限りなく微少にして、限りなく宏大なるものであります。聖人とは、この道のよう
に、自らを現わさず、生命そのものを素直に自由に生かしきっている人のことをいうのであります。
そういう人は、神と離れた想念で私は偉いのだ、私は悟っているのだ、私は皆の為に働いているな
どと、自分の存在を人に知らせようなどとはせず、自ずと相手から称えられ、感謝されるものなの
です。
144
故に能く其の大を成す。
ということになるのです。大というのは、大道即ち宇宙神ということになりますので、
うのは、宇宙神のみ心に近い行為のできる人のことをいうわけなのです。
聖人とい
私はこの老子講義をしながら思うのですが、老子が、神のことを、道とか大とか云って説いてお
りますが、道とか大とかいう言葉で、神を説くことは、実に賢明なことであると思っているのです。
何故かと申しますと、神という言葉で絶対者を説きます場合に、神というものが、自己とは全く
かん
懸け離れた存在に思われてきたり、何か常に自分の行動を監視していて、自己の自由を縛っている
ような気がしたり、或いは一寸でも間違いを起すと、すぐにも罰を与えられたりするような、そん
な畏怖の気持で対してしまう場合が多いのです。
ところが、絶対者(神)は、人間に対して罰を与えるようなことは一切していないし、それでい
て、人間と離れたところに存在しているものでもない。常に人間の内部にあって人間を生かしてい
るものであり、また外部にいて、人間の存在を助けているものでもあるのです。
内部にあって人間を生かしている、というのは、どういうことかというと、その人その人の生命
として働いているし、頭脳、内臓等々の諸機関として、その肉体活動を為さしめている、というこ
とです。
外部にあって助けているとは、太陽や地球自体の存在をはじめ、空気や水や食物そのものとなっ
て、人間の肉体を維持せしめている、ということであります。
145大道は氾としてそれ左右すべし
ですから、神の力は、人間の内にも外にも充ち充ちていて、人間を今日のように存在せしめてい
なにか
るわけなのですが、それでいて」何可と、人間に命令したり、要求したりはしていないのです。
神は只、生命の法則として、自らの定めた法則の通りに、宇宙を運行し、人類の運命を定めてい
るのであります。人間が病気になり、不幸災難にあったとしても、それは、絶対者たる神が罰を与
えたわけではなく、人間自体が、・生命の法則や、宇宙運行の法則を外れたことによる、病気であり、
不幸災難であり、天変地異であるのです。
ですから、絶対者、大生命を、神と教えるよりも、老子のように、道というように、自然運行の
ナがた
相として教えて、その道に乗って生きる、道に沿って行為することを教えた方が、かえって、すべ
ての人に真理が判り易くなるのではないか、とさえ思えるのです。
釈尊が、絶対者の姿を、神と云わずに、如来とか仏とか、云って、人間自体の解脱しきった姿と
カルで
一つにして教えたことも、絶対者大生命のみ心と、人間の業の想念との混交するのを防ぐためであ
ったのです。
よく、神が何故こんな業想念の多い人間を創ったのか、などという質問を受けますが、この質問
などは、まさしく、絶対者、大生命の法則と、人間自体の業想念とをごたごたにして考えているこ
146
とによって起る疑問なのであります。
絶対者宇宙神は、あくまで、大生命そのものであり、宇宙生命の法則なのであります。いわゆる
道なのです。人類に命令もしなければ罰もあたえない、人類の主人公だと名乗ってもでない、宇宙
万般の法則(さだめ)そのものなのです。
老子の云う道そのものなのであります。道は極微、微少にして、宇宙大に宏大無辺なのです。大
きくは、大千世界、大宇宙のあらゆる存在に処を得さしめ、人類はじめ、あらゆる生物の中に極微
の宇宙子、原子となって、生命の運行をなさしめているのであります。すべてを、生き生きと、生
かしきっているのです。
人類は、只、その道に乗って生きればよい。道に沿って活動していればよい。道とは宇宙法則で
あり、生命の法則であるのですから、宇宙法則の通りに生きれぽよい、生命の法則に沿って生きれ
ぽよい。
ところが、この道が判らない。宇宙法則、生命の法則が判らない。その無知によって個々人の不
幸となり、人類滅亡の極みにまで、地球世界を運んできてしまったのであります。
宇宙法則とか、生命の法則とかいうと、何んだか余計むずかしくて判らなくなりそうですが、老
147大道は氾としてそれ左右すべし
子のように道と云って説明するとかえって判りよさそうに思えます。
みち
道(法則) には先程から申しておりますように、宇宙子電子原子の法則もありますし、人の道と
いうように、人間の生き方を示す道もあります。老子は常に聖人の生き方を説いておりますが、聖
人の行く道を少しでも真似て生きていれば、少しつつでもその人の人格は立派になるに違いありま
せん。ただ、道即ち法則の神だけでは、人間なかなか道に乗れませんので、私は宇宙神とは別に守
護神、守護霊という救済の力を説きつづけているのであります。
老子は人の道を説きますのに、よく水についてその道を示していますが、水のように、一つの形
に把われず、どんな立場にも自由に入り得て、その場その場で処を得た生き方のできることは実に
立派なことであるのです。
すがたはん
大道は氾としてという氾という言葉でも、やはり水の相を云っておりますので、水は自由自在な、
相手によってどうにでも動き得る悟りの姿そのものということになります。
人間の道を指し示すのは、あに水ばかりではありません。雲の姿でも、風の姿でも、鳥や、草木
の姿にでも、人は学ばんとすれば、何処からでも、どのような生体物体からでも、自己の正しい道
を発見し得るのです。
148
科学者などは、常に、あらゆる自然の動き、生体物体の動きに注意を向けていて、自己の学問を
深めようとしているのであります。宗教の道でも科学と同じことで、自分の一挙手一投足、他人や、
ビじめ
あらゆる存在の動向を注意深く観察して、自己の善き生き方の手本とするような謙虚な、真面目な
生き方が必要だと思います。
道は到るところにある、という言葉がありますが、道を神と置きかえてみますと、神は到るとこ
おわ
うに御座す、のであります。それはあらゆる生体物体の法則としておわす、のであって、その神を
まじめ
見出すのは、人間側の真面目な努力と守護神、守護霊への感謝行によってなされるのであります。
私は私の道を、宇宙神の根源からの分れである守護の神霊の導きによって見出したのであります。
そして今日、私は私の道をまっしぐらに進んでおります。その道は、世界平和樹立への道であり、
世界平和の祈りの道であるのです。
世界平和の祈りの道は、そのまま老子の云う大道であり、宇宙神のみ心そのものの道であったの
です。世界平和の祈りの道は、極少なる宇宙子の存在を知り得、大宇宙法則の重大な一つの鍵を握
り得たのであります。大道を左右する陰陽の道、陰陽合体して現わるる大道の道、それは極少な宇
宙子の世界にも当てはまるのです。老子やますます偉大なりであります。
149大道は氾としてそれ左右すべし
150
第十六講大象を執りて天下に往けば……
道徳経第三十五章
ワテヲユケパイテシテアヲナリらバハマルヅルハロサひシテレ
執二大象一天下往、往而不レ害、安平大。楽与レ餌、過客止。道之出レロ、淡乎其
シレドモヲヲルニケドモヲラクニフレパカラクス
無レ味。視レ之不レ足レ見。聴レ之不レ足レ聞。用レ之不レ可レ既。
〔読み方〕
たいそうとゆゆしかあんへい把いがくじくわかくとど
大象を執りて天下に往けぽ、往いて而して害あらず、安平大なり。楽と餌とは、過客止まる。
いたんこそあじわいこれみこれき
道の口より出つるは、淡乎として其れ味無し。之を視れども見るに足らず。之を聴けども聞く
もちつぺ
に足らず。之を用うれば既くす可からず。
たいそタとゆゆしか
大象を執リて天下に往けば、往いて而して害あらず、安平大なリ。
ひや
大象というのは勿論、大道つまり神のみ心ということの比喩であります。何故大道を大象に例、κ
て説いたかと申しますと、大きな象は百獣の王といわれるライオソや虎でさ、兄も恐れて道をさける
程のお鶴からなる権威を持っています。しかも象というものは、ここで老子の例えている大象は、
遠いアフリカあたりの象ではなく、中国の隣国である印度象であることは当然なことであります。
印度象というのは、その性質は非常に温厚で、自分の方から他の動物に攻撃しかけることは致し
ませんが、それでいて、他から冒されない、悠々たる態度を持し、強い権威を備えています。
ですから神のみ心を動物に例えて云えば、大象をもってくるのがやはり当を得たものであると思
います。
大象を執りて、つまり、宇宙神のみ心を自己の心とし、大道を歩んでいるものは、往いて而して

害あらずで、どのような環境にあろうとも、どのようなところを往こうとも、如何様なことをしよ
うとも、決して自分を損うこともないし、他から害されることもない、というのであります。
自分を損うこともないし、他から害されることもないのですから、安平大なり、つまり安心この
上もないし、天下太平の生き方ができるというのです。
151大象を執りて天下に往けば
じくわかくいたんこあじわい
楽と餌とは、過客止まる。道のロよリ出つるは、淡乎として其れ味無し。
152
楽というのは、音楽だけのことをいうのではなく、すべての華やかな歌舞伎曲や遊びごとのこと
をいうので、眼や耳を通して感情を楽しませてくれるごとごとをいうのです。餌というのは、口を
通して楽しませてくれる食物やすべてのものをいうのであります。
そうしたものは、人々の心をひきつけて、そこに心をとらえてしまうが、老子が道の話をする場
合には、淡々として、何んの虚飾もなく話をするし、聞く人に調子を合わせて話すようなこともし
ない。人間として行なってよいことや悪いことを、はっきりと云うのだから、当然のことであるけ
れど、どうも聞いている方には耳ざわりがよくないし、歌を聞いたり踊りをみたりするような表面
あじわ
的な面白い味いが無い、というのであります。良薬は口に苦しというところであります。
近頃の宗教団体の中には、人生はエソジョイすべきものだというので、ダソスパーテーなどを盛
んに開いたり、スポーツで信者を引き寄せたりする、老子の道とは全然反対なことを行なっている
てん
向 もあります。信者を増やす為なら、道に反するような、口当りのよい言葉を平気で云って括とし
て恥じない宗教者もいますo
こうして毎月老子講義を書いていますと、老子が、如何に深い奥底から道を説いているかが判り
ひゆ
ますし、老子が常に人間の最も深い高い生き方を巧みな比喩で説いているかも判ります。しかし老
子の言葉を字義通りの解釈にしてゆきますと、どの章でも、とても私たちにはできそうもない、と
いうような慨嘆を読者からききそうな気がします。そこで私は、老子の深いとても普通人にはでき
そうもない、この章で老子が云っているように、表面的は面白味や味わいもなさそうな、むずかし
い、しかも断乎とした真理の言葉に、普通人にも易しくできる、易しく昇ってゆける、光の柱を立
てまして、老子講義としているわけであります。
みきもちつ
之を視れども見るに足らず、之を聴けども聞くに足らず、之を用うれば既くす可からず。
という言葉は全く同感でありまして、道といい、真理の言葉というものは、言葉で聴いても、形
で見ても、みなそれは、大道の片鱗でありまして、道そのものというのは、自分が行なってみて、
はじめて、その効用がはっきりするものなのであります。
音楽や舞踊などは、聴いたり見たりすること自体が楽しいのであり、食事はそれをロにすること
が喜びなのであります。しかし、道そのものは、自己が行なわなければ、その効用はないのです。
153大象を執りて天下に往けば
老子は今までの各章で、種々な深い心の在り方、真人としての生き方を説いてきておりますが、
どんな深い真理の言葉も、それが行為として現われなければ、すべて足らずなのであります。
老子そのものが説法の人ではなく行為の人なのであります。行為の人といっても、自らが政治に
たずさわるとか、事業に手をつけるとかいうのではなく、宇宙神の光、道の在り方を自己の存在そ
のものによって、人々に認識させた神人なのです。神の光そのものなのです。
道というもの、真理というものは、何も超特別な行為の中にあるのではなく、平々凡々たる日常
茶飯事の中にあるのであります。例えていえば、日々こうして私共が生活していられるのは誰の
おかげか、と云いますと、先ず肉体の諸機関がそれぞれの分野において、その定められた働きをつ
づけているからであります。そう致しますと、私共をこの地球界に生かしていて下さるのは、自分
自身の肉体の諸機関であります。そうなりますと、心臓さんありがとうございます。肺臓さんあり
がとうございます。腕さん足さん、すべての筋肉さんいつもつつがなく働いていて下さってありが
とうございます。
という感謝の心が湧いてでても、これは不思議ではありません。当然の心の在り方であります。
ところが、そんなこと当り前の話だ、今更云われなくとも知っている、と鼻の先であしらって、自
154
すく
分の肉体の諸機関に感謝する人は極く砂ないのです。
たんこあじわい
淡乎として味無し、というところなのでしょう。次に感謝しなければならぬのは、水であり空気
であります。水が無ければ生きられないし、空気がなければ生きられないのですから、自由に水が
得られ、何んの代償もしないで空気を呼吸していられることは、何んと感謝しても感謝したりない
あじわい
程の有難さです。しかしこれも、淡乎として味無しで、そんなこと誰でも知ってらあ、と簡単に
片づけられて、感謝の想いを抱く人は砂ないのです。
こうしていちいちありとしあらゆるものごとを取り上げて考えてみると、何一つとして感謝せず
に受けられるものは無いことがはっきり判るのですが、これが生れた時からの眼に見えぬ、手に触
れ得ぬ自然界からの贈りものなので、殊更礼を云う気にならぬのであります。
そこでこうした物事を一纒めにして、ここはこうして生かされていることは神のみ力によるのだ
から、常々神への感謝の心で送りなさい、と宗教者は教えるわけなのです。
こうした教えは、面白味も甘味もないので、面白おかしく、その場その時々を楽しませてくれる
娯楽の方に人々の想いはひき寄せられるのであります。そして神信心に心をむけるような人でも、
お祈りすればすぐにも病気が直るよとか、貧乏などはすぐふっとんでしまう、というような、口当
155大象を執りて天下に往けば
りのよい、調子のよい宣伝文句のうまい宗教団体の方に、お詣りをすることになるのですが、これ
は老子の時代でも今日の時代でも中国でも日本でもその他の国々でも、たいして変りのない人の心
なのであります。
老子はそうした人間の心をよく知っていたのですが、自己の教えを引き下げて教えるようなこと
は絶対にしないで、大生命の根源につながる人間の生き方を説きつづけているのであります。
おのずか
ですから老子の言葉には、自らなる高い格調がありまして、原文のままで読んでも、ひとり
でに心が高まり深まるような、そうした気持になるのです。自然に浄められるからでありましょう。
老子が老子として在世中に直接教えを受けた人は、老子の声に出る言葉そのものより、言葉以前の
光のひびきによって魂を高められていたに違いありません。
私など、霊的にいつも老子と一緒にいるのですが、老子の光のひびきの烈しさと云おうか、強さ
と云おうか、一瞬にして、如何なる業想念をも打ち破ってしまう、その光明波動には、只々敬意を
表しているばかりでありまして、文字に現わし、言葉に現わしていることのもどかしささえ感じて
いるのです。

大象を執りて天下を往けば、というこの章のはじめの言葉のように、老子は正に大象なのであり
156
ます。老子は大象の中から地球界の救済に現われ、これと思う人々を大象の中にひき入れて、その
人々を大象そのものとして仕立上げようとしているのです。
私などもその一人として、光明波動の老子が私の霊体に合体してきて、肉体身の方の私までもそ
のまま大象の中にひき入れてしまったのであります。老子合体のその時から、神界の私も、肉体界
の私も、全く大象の中の働きとして、何等の差異もなくなって、この地球世界を、光明遍照の世界
に高めあげる大神業を成し遂げる為の働きをつづけているわけなのであります。
神界の自分と肉体界の自分とが全く一つになって働き出す時、その人の力は偉大な働きとなって
現われるのです。そうした神我一体の人を創りあげてくれるのが、老子であり、釈尊であり、イエ
スであり、各守護の神霊の方々なのであります。
皆さんは、老子が昔の昔中国にいた聖者であった、という想いを捨てなければなりません。老子
は今救世の大光明の中で、その烈しい強い光明波動を皆さんの一人一人に送りこんでいるのであり
ます。
老子は生き生きと生きているのです。大道の中心に立って、房々とした白光の白髪をなびかせて、
皆さんの心の中をじっとみつめているのであります。
157大象を執りて天下V’往けば
あじわたんこあじわいな
・淡乎として味無き言葉を、深い味いとして心に沁みて受け止めているかな、そうした人々が何人
あるかなあ、、とじっとみつめているのです。
老子の言葉は凡にして深く、深遠にして、しかも日常茶飯事の行ないの中に行為し得るのであり
ます。
つぺもち
大道は言葉そのものではない、之を用うれば既くす可からず。之を行為として現わした時に妙々
として人々の心を打ち、人類の道を光り輝かせるのであります。
先ず自らの肉体身に感謝せよ◎ 大地に水に空気に感謝せよ、すべてのものへの感謝行を第唱にし
て、自らの第一歩を踏み出し、第二歩を踏みしめてゆく、という平凡にして非凡なる感謝行の生活
を、老子講義を読まれる方は先ず第一にして頂きたいと思うのであります。この感謝行の中から、●
神との一体化が巧まずして為されてゆくのです。
理論的に哲学的に頭をひねくりまわすより、感謝行の生活から、理論を生み出し哲学を打ち出し
ていったらよいと思うのです。行為は何ものよりも大事です。行為のない理論は死物です。
老子は行為の人であり、私も行為をもって尊しとしている一人であります。感謝の行為と愛の行
為こそ、この地球人類を平和にする基本的な行為です。
158
そして、この感謝の行為と愛の行為とを一つにしての行為が、世界平和の祈りなのであります。
世界人類が平和でありますように、という祈り言葉と、守護神、守護霊への感謝の言葉、これこそ、
やがて世界平和を導き出す、大事な大事な祈り言なのであります。
老子講義の時に何故いつも世界平和の祈り言を出すかといいますと、この世界平和の祈りの中心
者の一人は老子そのものでもあるからなのです。
このことはやがてはっきり現実的に現わされてゆくことでありましょう。私共は手をたずさえて、

大象を執りて、天下を往こうではありませんか、そうすれば、往いて而して害あらず、安平大なり、
なのであります。安平大なり即ち世界が平和になるということなのであります。
159大象を執りて天下に往けば
第+七講上徳は徳とせず是を以て徳有り……
道徳経第三十八章
ハトセヲテヲハハツヲテシバクシテスコトシテおスルコトハシテヲ
上徳不レ徳。是以有レ徳。下徳不レ失レ徳。是以無レ徳。上徳無レ為、而無二以為殉下徳為レ之、而
リテニスルコトハシテヲシテニスルコトハシテヲリテあスルヨトハシテヲケレバズルコトチゲテヲ
有二以為弔上仁為レ之、而無二以為鴨上義為レ之、而有二以為幻上礼為レ之、而莫二之応噛則撰レ腎
クニユヒテヲルユヒテヲルニヒテヲルニヒテヲルニレハノニシテ
而扮レ之。故失レ道而後徳。失レ徳而後仁。失レ仁而後義。失レ義而後礼。夫礼者、忠信薄而乱之
ナロバニシテナリヲテハリテノキュラノキュリテノニラノニ
首也。前識者、道之華而愚之始也。是以大丈夫、処二其厚噛不レ居二其薄↓処二其実嚇不レ居二其華叩
ニリテヲルヲ
故去レ彼取レ此。
〔読み方〕
じようとくここもつあかとくここもつ
上徳は徳とせず。是を以て徳有り。下徳は徳を失わず。是を以て徳無し。上徳は為すこと無く
もつセめこれもつためあじようじんこれな
して、以て為にすること無し。下徳は之を為して、以て為にすること有り。上仁は之を為して、
らつじようざゐじようれい
以て為にすること無し。上義は之を為して、以て為にすること有り。上礼は之を為して、之に応
161上徳は徳とせず,是を以て徳有り
なすなわひじかかつ
ずること莫ければ、則ち腎を撲げて之に拐く。
しかのちのちじん
故に道を失いて而る後に徳。徳を失いて而る後に仁。仁を失いて而る後に義。義を失いて而る
はくしゆゼんしきはなぐはじめここ
後に礼。夫れ礼は、忠信の薄にして乱の首なり。前識は、道の華にして愚の始なり。是を以て大
をうすおじつをはなおかれさ
丈夫は、其の厚きに処りて、其の薄きに居らず。其の実に処りて、其の華に居らず、故に彼を去
これ
りて此を取る。
isa
とくもつあかひしな
上 徳は徳とせず。是を以て徳有リ。下徳は徳を失わず。是を以て徳無し。
一口に徳といいましても、上徳つまり最高の徳もありますし、下徳もあります。上徳というのは
どんな徳かと申しますと、徳を積もうと思って徳をするのでもなければ、徳を積んだと自分で思っ
ているわけでもない、自然と行為に現わした物事事柄が、徳になっている、そういう行為を上徳の
行為というのであります。
下徳というのはどのような徳かと申しますと、その人の行為が、いつも徳を積みたいとか、徳を
残したいとかいう、徳という行為に自分の心が離れずにいて、徳の行為をしている、といった徳の
ことをいうのです。そういう下徳というものは、徳の行為をしながらも、それが純粋の意味でいう
徳ということになっていない、というのであります。
なもつなもつ
上徳は為すこと無くして、以て為にすること無し。下徳は之を為して、以て為にすることあリ。
ひとりで
上徳というものは、人為をもってするのではなくて、自然法爾に行為しているものであって、上
徳の人にはその徳を何かに利用したり、どうしようというような自我の想いがでることがない。
下徳は、徳の行為をしても、その徳を自分の為に役立てようとする作意をもつことがある。
なもつな
上仁は之を為して、以て為にすること無し。上義は之を為して、以て為にすること有リ。上礼は
ななすなわひじかかつ
之を為して、之に庫ずること莫ければ、則ち膏を捜げて之に拓く。
上意の仁というものは、この行いをしても、その仁を自分の為に役立てようとか、仁の行為をし
たことによって人に感謝されようとかいう、さもしい心は無いが、義というものは、それが上意の
163上徳は徳とせず,是を以て徳有り
義であっても、その行為によって、自分の心の満足を欲っしたり、何等かの報酬を期待したりする
れいれい
こともある。まして、礼ということになると、上意の礼にしても、自分の礼に対して、相手が礼を
ひじかかけんか
失っするような場合には、腎を撰げ、つまり、喧嘩腰で相手にぶつかってゆくようなこともある。
というのです。
164
じんしかのち
故に道を失いて而る後に徳。徳を失いて而る後に仁。仁を失いて而る後に義。義を失いて而る
後に礼。弁れ礼は、忠信の薄にして乱の齢なリ。前識は、道の華にして慰の嬬かリ。是を以て大
あつをうナじつをはた
丈夫は、其の厚きに処リて、其の薄きに居らず。其の実に処リて、其の華に居らず、故に彼を去リ
これ
て 此を取る。
この節は、人の生き方を、道そのまま生きることを最高の生き方として、道そのままを生きられ
ぬものは徳を、徳を失ったら仁を、というように、道、徳、仁、義、礼、というような順序に人の
生き方を説いているのでありますが、礼については、忠信の薄にして乱の首なり、と孔子の教えを
受けた人が聞いたら気持を悪くするようなことを、はっきりいっているのであります。
忠信の薄というのは、忠というのは、中心に帰一する心のことで、只単に主君に忠とか、主人に
忠とかいうだけのことではなく、もっと深い深い意味のある言葉なのであります。中心に帰一とい
いますと、今日の人々の中では、戦争中や戦前の指導者たちの、自分勝手な言葉のように思ってい
る人々もありますが、実はそんな薄っぺらな言葉ではなく、宇宙の中心に帰一する、一つになると
いう言葉でありまして、宇宙の中心に帰一するためには、人は自己の中心である本心に帰一すべき
なのであります。
本心と申しますのは、宇宙神のみ心、つまり道と一つに通っているものでありますので、本心に
帰一致しますれば、神と一つの心になれますし、道そのものの生き方のできる人になるわけであり
ます。ですから忠という言葉は大事な言葉であるのです。信というのは、前篇にも書きましたよう
ことぱ
に、人と言とが一つになっている、言は神なりきでありますので、神と人とが一つになっている真
実そのものということで、信心というものは、真実そのものの心、神と一つの心ということであり
ます。
そういう、忠信の心の薄く浅くなった時に、為政者や、指導者たちが、これではいけないと思っ
て、形の上からでもよいから、人間同志が尊び合うようにという気持で、礼を交じえ合うように指
165上徳は徳とせず,是を以て徳有り
導したわけなので、礼というものが起ってきたその時代そのものに、もう乱のきざしがあり、世の
乱れのはじまりであったのです。
むい
老子はそのことをいっているのであります。老子の根本は無為ということでありまして、形の上

でも心の上でも、ああしようとか、こうしようとかいう、人為を用いることを善しとはしなかった
はず
ので、如何なる時の老子の言葉でも、無為に外れた行為を低いものとしているのです。
そこでこの節でも、道、つまり神のみ心そのものの行為、無為にして為し得る行為を最高の行為
ヘヘヘへ
としていて、その無為に少しでも何かがつけばその何かのつき工合によって、次第に低い行為とし
ていったわけです。徳、仁、義、礼という順序でもそういう老子の心の現れなのでありますが、
今日の人には、徳と仁と義の区別はむずかしいことと思いますので、老子はこのように深く心の状
態をみつめていたのだ、という、老子の人格の一つの現われ方として心にとめておいたらよいと思
います。
前識は道の華にして愚の始なり。というのは、前識というのは、事前に事を知ろうとする想い、
易しくいえば知識のことであります。知識というものは、道そのものではなく、道に咲く花のよう
なもので、知識を競い合うことは華々しくて華やかではあるが、そうした知識に酔いしれていると、
166
はずぐ
それがいつの間にか、本道を外れていってしまい、愚の始めになってしまう、というのです。
ですから、大丈夫というもの、真人というものは、そんな薄っ.へらな境界にはいないで、光の厚
い、本心の座、道のままの処に住しているもので、どんな華やかそうにみえようとも、すぐに散っ
てしまう花の座に想いを遊ばせず、神のみ心の実の成る処に常住いるのである、というのでありま
す。
みずか
老子は、自らが無為に住しておりますので、無為から自然に行われる行為を尊しとしておりまし
ヘヘヘヘヘへ
て、どうしても、うちもよおし、自然に行為されてくる事柄に対して、いちいち頭脳でとやかく分
析してゆくような知識欲というようなものや、知的な頭脳的な遊びを高く評価していないのです。
ここのところは実にむずかしいところでありまして、無為にして為す程の境地になってもいない
のに、やたらに知識をけなしてみたりすることは、世の為、人の為にもならないし、自分の為にも
ならぬことであります。無為に成り切り、空になりきった人のみに、知識を云々することができる
のでありまして、凡夫がやたらに、知識や智慧を無用視してはいけない、と私は思っております。
無為の境地になっていますと、わざわざ頭脳智で考えて行為をしないでも、自然に深い智慧の行
為が為されてゆくのですから、自然法爾の行為、神もよおしの行為を止めて、人間智で考え直して
ユ67上徳は徳とせず,是を以て徳有り
行為する必要はありません。道そのものの行為が、頭脳智で一度止められてしまいますと、頭脳智
の中には、習慣的に小我の自己や自己の周囲の利害を打算する想念がありますので、その想念がど
うしても、神のみ心そのものの流れを阻止してしまって、その行為を凡人の行為にしてしまうので
す。
ここのところを充分に考えてみて、この現代においては、知識はいらぬなどということはできぬ
ことでしょうから、あらゆる頭脳智を一度祈り心の中にいれ切ってしまうことを私はすすめている
のです。
老子にとっては、いつも申しますように、一番深いところ、一番高い境地だけが問題なので、そ
れを引き下げて道を説こうとはしていないのです。そこで私が、この深い境地、高い境地を、知ら
ぬまに自己のものとしてゆけるように説いているのであります。
確かに老子の徳や仁の境地を、礼というところまで引き下げてしまいますと、深い高い心の世界
の問題が、形の世界で、心を離れてもできる状態に、つまり偽善的な行為にしてしまう始末になっ
てしまいます。ですからつい形の世界だけですましてしまい、形式的な儀礼の交わりが行われてゆ
くようになってしまうのです。
168
今日の青少年の一部のように、全く礼を失した行為を平気でしているよりは、形の上ででも礼
が行われているほうがよいにきまっていますが、形式的な礼だけで、本心から出ている行為の甚だ
勘い社会をつくってしまってもこれは困りものなのです。
老子の教えをそのまま持ってきても、なかなか実行できる人はいないので、一服の清涼剤のよう
な気持で、老子の教えを読んでいる人もあるわけですが、私はこの老子の教えを、清涼剤だけで済
ませず、今日の社会における生き方として実行できる教えに直して説くわけなのです。
上徳の行為ができねば下徳の行為でも、下徳の行為ができなくとも、義の行為を人々はしてゆき
おのずか
たいと思います。形式的な礼儀の行為をしないで、自ら礼に叶っている、そういう人でありたい
ものです。
老子は徳と仁と義とこう分けて説いてはおりますが、私共はこうした言葉を一つに致しまして、
神のみ心として、本心の発露として、想念行為に現わしてゆきたいと思います。あまり高い境地ば
かりを目指しておりますと、なかなかそこまで行きつかなくて、自分自身がかえって情けなくなっ
て、道を求めることに疲れてしまいます。そこで私は、すぺての想念行為を消えてゆく姿という言
葉にしてしまい、その消えてゆく姿をひっさげて、常に常に神のみ心に飛びこんでゆくことを教え
169上徳は徳とせず,是を以て徳有り
ているのであります。その飛びこんでゆく方法が祈りでありますし、その祈りの最高の心が、世界⑳
1
平和の祈りであるのです。世界平和の祈り即ち道であり、上徳であるのです。
第+八講昔の一を得たる者……
道徳経第三十九章
昔之勧㌘,者。充御一,騎轟畿二,以曝概鶴二,以舞徐飾房毎万紘織二,場缶侯玉
侮L,勝為二天あ昏知臨”.蚤.鰺、天鏡器攣、檸愈.磯地舞扉餐、梓二麗舞、神簸廓籔.ト
スス
驚.辱、谷舞翼,叢.蟻、万物幾鍮.、醤.聾、侯王幾貴藁、態.騒,舞.
テシキヲシトギパテキヲストヲテハヲウトレズヤテシ中ヲス昌トナルカ
以レ賎為レ本、高以レ下為レ基。是以侯王、自謂二孤・寡・不穀幻此非二以レ賎為7本耶。非乎。
ヨサソトスレメヲシセトシテタノトシテクナルワノ
故致二数輿一無レ輿。不レ欲二球壕如レ玉、落落如7 石。
〔読み方〕
灘」。を得たる都。梵生。を得て磐溝丸慰生。を得て磐騎文襯は」。を得薦て簿・
嫌生。を得て磐響、覆は夢得て塊垂ミ肇は.穿律て悌て蓼の郎と漸る・鰹の葱
を殊せる竺。なればなり。琵海きこと無ければ・醤群く纂けんとす・鍵て麟きこと171昔







たぽさおそひらしんもつれいなまさおそやたにもつ
無ければ、将に恐らくは発かんとす。神以て霊なること無ければ、将に恐らくは歓まんとす。谷以
ろなまさおモつほんムつもついなまさおそ
て盈つること無ければ、将に恐らくは蜴きんとす。万物以て生きること無ければ、将に恐らくは
るつこうおうもつきこヨなまさおそつまづゆえとヨといやもつ
滅せんとす。侯王以て貴高なること無ければ、将に恐らくは歴かんとす。故に貴きは賎しきを以
もとな鹿かひくもつもといなこれもつこうお5 みずかこきこくいこいや
て本と為し、高きは下きを以て基と為す。是を以て侯王は、自ら孤・寡・不穀と謂う。此れ賎し
もつもとなあらゆえすラよいたよなろくろくたヨごと
きを以て本と為すに非ずや。非なるか。故に数輿を致さんとすれば輿無し。球壕として玉の如く、
らくらくいしピとほつ
落落として石の如くなるを欲せず。
いつ
昔の一を得たる者。
は一を得て以て盈ち、
せるは一なればなり。
いっやずしん
天は一を得て以て清く、地は一を得て以て寧く、神は一を得て以て霊に、谷
こうおうていなそ
万物は一を得て以て生き、侯王は一を得て以て天下の貞と為る。其の之を致
172
昔の一を得たる者。というのは、永遠の一を得たる者という意味です。永遠の一というのは、大
すがた
生命ということでもあり、あらゆる力、あらゆる能力権能をもっている一であり、種々様々な相で
すぶた
現 われている、万象万物のそれぞれの相で現われぬ以前の、全能の一である、易しくいえば、宇宙
神のみ心そのものということであります。
一といいましても、現在では種々なる物事事柄に使われていますし、一の次には二というように、
数のはじめの言葉として使われていますが、老子が昔の一といっている、この一というひびきの物
凄さというか、素晴しさというか、心身を圧する全能の力というか、深い深い深い深い、いくら探
っても探りきれなく深く、高く、高く、高く、その高さ極まりない透徹した無限永遠の底に輝きわ
たる光そのものであることを、私は心の底から感じるのです。言葉というものは不思議なもので、
いっているその人の心の高さ深さが、聞く人の心にそのままひびいてくるものです。
老子のいう一たるや実に、宇宙神のみ言葉そのものとして私にはひびいてくるのです。そうした
やす
深い根源の一を得ていると、天は清く、地は寧く、神は以て霊に、というのでありますが、神は以
て霊に、ということが読む人にはどういう意味か判らないでしょうから、説明致しましょう。
こん
ここでいう神というのは、宇宙神というような意味の神ではなく、魂という意味なのでありま
しやくそんじん
す。釈尊なども、霊魂のことを神といういい方をしています。ですから、神が一を得て霊にという
のは、根源の力を得て、はじめて霊魂としての自由自在性を得るのだというのです。

谷は一を得て盈ち、万物は一、つまり大生命につながっていることによって生き、侯王は真理を
173昔の一を得たる者
得て以て、天下の貞、即ち基範となる。こういうように、それぞれの生き方在り方を正しくするの
は、みな根源の一につながっているからである。一なる宇宙神のみ心によるのである、というので
あります。
174
やすまさひらまさ
天以て清きこと無ければ、将に恐らくは裂けんとす。地以て寧きこと無ければ、将に恐らくは発か
んとす・搬以て霊なること無ければ・醤恐らくは嬰んとす。谷以碁つること無ければ、将に

恐らくは端きんとす。万物以て生くること無ければ、将に恐らくは減せんとす。侯王以て貴高なる
つまず
こと無ければ、将に恐らくは彊かんとす。
さまさ
天以て清きこと無ければ、将に恐らくは裂けんとす。ということは、実に真実のことでありまし
て、この地球上の天変地異は、すべて天の汚れが一の力によって浄められるときに起るものであり
ます。天の汚れというのはどういうことかと申しますと、この地球界の主宰者は人類なので、人類
の想念波動によって、どのような光明界にもなり、地獄絵ともなるのです。人間の一人一人の発し
ている想念が汚れたものであれば、地球界はそれだけ汚れるのであります。そうした人類想念の汚
れは、地球界をつつんでいる天をも次第に汚してゆくのであります。
この汚れがあまりにひどくなりますと、一の力、つまり大生命の力が、この汚れを払うために、
それまで働いていた以上の力をそそぎこむことになるのです。そう致しますと、その汚れが一瞬に
カルマ
して払われまして、その様相が、いわゆる業波動の消えてゆく姿、として、大天変地異となるので
あります。
さやすひら
これが、将に恐らくは裂けんとす、なのであります。地以て寧きことなければ恐らくは発かんと
す、もやはり同じ意味でありまして、この災害を防ぐためには、人間側が、天変地異に先んじて、
みずか
自らが一の中に自分たちの想念波動を入れきってしまわなければならないのです。これが祈りなの、
であります。そしてこの祈りの最高の方法が、世界平和の祈りなのです。世界人類が平和でありま
すように… … この祈りこそ、人類が一を得る最上の方法なのであります。
しんまさや
神以て霊なること無ければ、将に恐らくは欺まんとす。この神ということは先にも申しましたよ
うに霊魂ということでありますが、もっと深くいえば、地球世界の人類の五感に触れない様々な生
命体、守護の神霊をも含めたものともいえます。
この守護の神霊といえども、守護の神霊単独で働いているのではなくて、一なる大生命の力を得
175昔の一を得たる者
て、人類守護の任に当っているのであり、その神通力を現わしているわけでありますから、大生命笛
1
即ち大霊から流れてくる霊光が絶えてしまえぽ、その働きができなくなってしまうのであります。
この守護の神霊の働きを自由になさしめ、祖先や縁者の霊魂の働きを易くするためには、肉体人
間側が、常に祈り心一念の生活をしていることが必要なのです。何故祈り一念の生活が必要かとい
いますと、祈りというのは、人間の想念を、生命の根源、つまり老子のいう一の中に常に入れきっ
ている姿をいうのでありますから、人間が霊そのままの姿になっているわけです。従って、人類全
体の業想念波動の中にいても、本来の神の子の姿そのもので生活していられるのです。そこで、そ
うした光明的なひびきは、守護の神霊の働きと一つのひびきとなり、守護の神霊の働きを楽にし、
.
諸々の霊魂の光明化にも役立つのであります。
みまさつ
谷以て盈つること無ければ、将に恐らくは蜴きんとす。以下すべて、一を得ることによって、そ
れぞれの本来の働きができるのであり、一の力が働かなくなれば、すべてはその働きが消滅してし
まうものである。というのであります。
故に貴きは際しきを以て説と為し。高きは智きを以て墨ど為す。是を鵬て騰封は、麟㊧延・穿・
不職と軸甲つ。此れ晦しきを以て本と為すに非ずや。罪なるか。故に甥輿を致さんとすれば輿無し。嚇
ろくろくらくらくほつ
録録として玉の如く、落落として石の如くなるを欲せず。
このように、すべての存在は一なる大生命、永遠の生命によってなされているのであるから、貴
いぞいや
ということも、賎しいということも(この賎しいということは、心の問題ではなく、位のことであ
いや
ります。) 一の現われであって、貴い位の人は、賎しい位の者を以て、その本として、差別をつ
ひくいや
ける心をもたぬようにし、高きは、下きをその基として、貧富の差をもって賎しむような想いをも
ってはいけないというのです。
こか
だから侯王ともなれば、自分のことを、孤つまり、みなしごであるとか、寡、徳のすくない者で
あるといったり、不穀、稔りのない、ふしあわせの者である、というような、号をつけて、自分を
いや
低く置いているのであります。こうして、自分の想いを低いところに置いて、賎しい者や貧しい者
の生き方を手本としているのである、といっているのです。
であるから、一つの乗物なら乗物をみるのに、一つ一つの車をはずしてみて、これが乗物かとみ
れば、そこには乗物の形が崩れて無くなってしまうように、一なる大生命の表現である、すべての
177昔の一を得たる者
存在を、これは輝いた玉のようだとか、これはごろごろころがっている石ころのようだとかいうよ
うな差別をつけてはいけない。
例え、形の上や生活の上で、貧富や貴賎の差はあるとしても、その形の現れをみて、軽蔑視の
想いや、差別した想いでみてはいけない。すべては生命においては兄弟姉妹なのである、と老子は
いっているのであります。
この章で老子のいわんとしていることは、すべてが、大生命、永遠の生命に帰一していさ・兄すれ
ば、この現れの世界は大調和しているのであるが、この帰一する想いに欠けれぽ、その欠けた分
だけが、不調和、不完全になり、その者、その事柄、その存在に欠点ができてくるのであり、遂い
に消滅してしまうのである、というのです。
老子が中国に存在した頃からそうなのですが、地球人類は、この一の恩恵を忘れ、一の偉大さを
忘れ果てているのであります。勿論個人としては、この一、つまり宇宙神のみ心を自己の心として
生きている人もあるでありましょうが、一度び人類国家社会としてみますとき、確かに、人類は一
に対する感謝の想いに欠けているのであります。
すべての現れの根源である一なる力を、自分自身の心から離してしまった時には、老子のいう
ins
さひら
ように、天地も万物も、裂け発かれ、滅してしまうでありましょう。
現在の地球世界は、その根源の一から離れきってしまうかどうかという危機にあるのです。それ
はどうしてかと申しますと、あらゆる人々、あらゆる国々が、現れの存在である肉体人間の自己
というものにのみ把われ、その肉体人間の集団である国家というものに執着して、根源の一なる存
在、大生命から与えられている、割り当てられたる富や力を、自分たちの方により多く奪い取ろう
としているのであります。これは、一なる存在の定めたる宇宙法則の軌道をそれた生き方でありま
して、一を得ざる心の状態であるのです。一を得ざる状態になれば、どのような事態が起るか、老
子は、生くることなければ、恐らくは滅せん。といっているのであります。
根源の一の中から出てくる力ではなく、一を離れた力をもってして、如何なる資産を積もうとも、
如何なる権力の座にいようとも、それは根源の力の働いていない、数であり座であるのですから、
恐らくは滅せんで、いつかは消滅してしまうものなのです。
現在の地球世界の情勢は、前記の通りの状態でありまして、根源の力を離れた数の偉力を誇り、
仮の姿の地位に執着しているのであります。
宗教も科学も、昔の一を得なければその道は生きません。永遠の生命の流れをみきわめる明智が
179昔の一を得たる者
なければ、地球人類を救う道とは成り得ません。
それにはどうしても、人為によってつくられた神を捨て、仮りにつくられたる数をも捨てなけれ
ばなりません。そうした過去のすべてを捨てて、無為なる生活に帰えらなければなりません。
その方法が、世界平和の祈りなのです。世界人類が大調和している、根源の一なるみ心のままな
る生き方を希求し熱願する、世界人類が平和でありますように、という祈り言にすべての自己の想
念を投げ入れて、投げ入れたところから再び、自己の生活を感謝で頂き直さなければなりません。
それが真の信仰であり、一を得たる者の姿です。真に一を得る時、その人の宗教もその人の科学も、
それは人類の平和に役立つ宗教となり科学となるのであります。
180
第+九講上士は道を聞いては……
道徳経第四十一章
主鍛導軌霧琴皇興導沸薇.沸ら.下b瞬導九、多む・諏多不レ尼二坊
胤癒。驚言罫之・明薯レ晦進髪レ馬夷薯細上磐各太暑属広磐レ禽
辱幕為レ秘質暑レ秘大九舞隅毒晩庵杢幕薦大象無壕隷.無レ名・謬巡
クシテツス
善貸且成。
〔読み方〕
ごとな
上士は道を聞いては、勤めて之を行わんとし、中士は道を聞いては、存するが若く亡きが若く、

下士は道を聞いては、大いに之を笑う。笑わざれば、以て道と為すに足らず。
故に馨に蓉り。慰は騰きが趨く難は撃暮文費道籍の麹丸上徳は谷の窟く
蕊は騨蓑ま癬は足らざるが謝く灘は儲き義く鑑は轡義く禁は騨《
181上士は道を聞いては
蒼は騨なり・釜は鐸なり寿離無形なり・道は野て名無し。夫れ響纂く讐て旧
かな
且つ成す。
ピとなピと
上士は道を聞いては、勤めて之を行わんとし、中士は道を聞いては、存するが若く亡きが若く、’
下士は道を聞いては、大いに之を笑う。笑わざれば、以て道と為すに足らず。
上士というのは勿論志の上等の人、上位の心の人という意味ですが、そういう人は、道を聞く乏、
どのようなむずかしい行為でも、勤めてこれを自己の行為に現わそうとするが、中士は道を聞いて
も、判らないところでも、判ったような顔をしてみたり、頭では理解しながらも、なかなか行為に
現わそうとする努力をしなかったりする。それは道に対する信というものがあまり深くないからで、
この人たちにとっては、道というものが、自分の都合次第では存在するようにも思えたり、存在し
ないものに思えたりするのである。ところで下位の人になると、道を聞いては、そんな道などとい
うものが存在するものかというように、大笑いに笑いとばしてしまう、というのであります。
そして老子は、そういう下級の人に大笑いされないようでは、道というには足りない、といって
いるのです。こういうところは、老子の時代も今日の時代でも少しも変っていません。今日の宗教
者がいくら口をすっばくして神の存在を説き、神の道を説いても「そんなものあるものか、神様が
あるのなら、何故こんな不公平な世の中を造ったんだ。口惜しかったら、こんな苦労しなくとも楽
に食えるような世界をつくってくれ、あなたたちのいうような、神の道なんていうのは、私たちに
は用はないよ」などという人々がかなり多いのであります。
老子は神の存在ということと、神のみ心の在り方というものを、ここでは道という言葉だけで説
いております。そして、この道ということが判るのはむずかしいことなので、そうやすやすと理解
できるものではない。だから、現象世界の利害得失のみに追われているような、下級な志の者には
理解しがたく、そんな話を聞いたって、一文の得にもならない、と馬鹿にされて大笑いされるもの
なのだ、道というものはそんなものなのだ、といっているわけです。
実際この世の大半の人々は、利害得失ということが、先ずその想念の先に立つのでありまして、
宗教信仰をしているような人々でも、自己の現世的な利益を保証して貰いたいが為の信心であった
りすることが、多いのであります。
ですから老子のいうような上志の人は実に妙ない人数しかないのではないかと思われます。しか
183上=ヒは道を聞いては
し、信仰の最初は中志の人であっても、その信心をつづけてゆくうちに、いつの間にか上志の人と84
1
同じレベルの心境に到達している人々が、世界平和の祈りの同信には非常に多く存在するのです。
そこでたゆみなき信仰ということが大事になってくるのであります。
神などあるものか、それよりは飯だ、というような下級な想いの人々でも、医者に見放なされた
病気などになると、溺れるものは藁をも掴む、というように、神信心に想いをむけることもあるの
ですから、現在下級のように見えている人でも馬鹿にしてはならない。人はみな神の光のひとすじ
なのだ、と私は常にいっているのであります。
話がすこし横道にそれましたので次の解説にうつります。
故に建言に之有リ。明道は騰きが幾く、進道は魁ぐが麗く・興購は熱の鎧く・上徳は谷の驚く・
醗は騒驚《広徳は足らざる錘く建徳は儲き象く・舞は瀧るが如文大方は麟無く・
たいなだいおんきせいたいしよラ
大器は晩成なリ。大音は希声なリ。大象は無形なリ。
ひく
道というものは、前節のように、志の低い者には判りにくいもので、昔の真理の言葉に、道の種
おしえ
々な現れに対して、次の訓戒がなされているのである。といって、老子は次の十二の訓をしている
のであります。
くらごと
明道は昧きが若く、とは、真理の道というのは、自我欲望の想念があると、その自分の醜い汚い
姿を、あまりに明らかに照し出される道なので、どうにもその道を歩いてゆくことが恐ろしいよう
な気がしてきて前に進む気がしない。それは丁度、暗い道を歩むのが恐ろしいのと同じように、歩
み進むことができにくいのだ、ということなのです。
しりぞピと
進道は退くが若く、とは、神のみ心に向って進んでゆく道は、この世の利害得失をひとまず離し
て進んでゆく道なので、進んでいるうちに、人の為にこの世的な損失をまねいたり、一般の常識人
が、おおむね打算的な生き方をしていて、社会の地位を築いてゆくので、打算を外にした良心的な
生き方をしていると、この世の物質的生活水準が、同年輩の人々より低くなり勝ちになってくる。
真実は神のみ心に向って進みつづければ、やがては、そうした水準をはるかに突きぬけた立派な生
活ができるのだけれど、暫くの間は、どうも進道はかえって、退くように、人々に遅れを取るよう
に思われてくる、というのであります。
いるいごと
夷道は類の若く、夷道というのは、平らかな道、平和なる道ということですが、この平らかな道
185上士は道を聞いては
つむぽるい
は、類の若く、類というのは、紬のような縣のでこぼこの多いものをいうのでありますから、一読816
すれば、平らかな、平和な道は、でこぼこの道のようだ、という、へんてこな解釈になってしまい
ます。
ところが真実の解釈はそうではなく、平らかな平和な道に出るのには、やすやすと簡単にそうい
う道に出られるのではなく、多くのでこぼこ道、難儀な道を通ってこなければならない。それは自
分自身の心の中にある、種々様々な不調和な想いもそうであり、社会生活における数多くのやり取
りにおいても、でこぼこの生活がどうしてもできてくるのです。
ですから平らかな平和な道というのは、でこぼこの道を通り越してはじめて出られる道なのであ
って、でこぼこ道を当然のこととして生活している人より以上に、でこぼこ道に耐え得る気力とい
うものが必要なのである、ということなのであります。
ごと
上徳は谷の若く、とは、最高の徳は、谷のように深い心で、如何なる水の量も水の力をも受け容
れるものであるというのです。
じよくピとむよく
太白は辱の若く、太白というのは極めて白い或いは、潔白ということですが、この太白は辱、つ
まり、汚れている、黒くみえるというのですから、一読しただけでは恐らく意味が判らないだろう
と思います。潔白が汚れと同じだということがあるはずがありません。
それではどういう意味なのでしょう。それは、太白のつまり真白な心の人、白光に輝くような
人は、自己の心の清らかさ、潔白さをいちいち人々に知らせようなどはしません。かえって、汚れ
けがれた、辱多い人のような、人目に立たない、ひっそりとした生き方をするものである、という
のが、太白は辱の若くというわけなのです。
ニうとくごと
広徳は足らざるが若く、ということも、やはり同じような意味で、広い徳をもった人は、謙虚で
あるというのです。
けんとくりすピと
建徳は愉きが若く、というのは、高い確固とした徳は、華やかに人眼をひくような現わし方はし
ないで、隠にかくれた行為と七てなされるので、それは恰も、盗みでもするようなひそやかな態度
である、というわけです。
しつしんシわごと
質真は楡るが若く、これは、真理に通じた人は、自由自在な心をもっているので、時と処と相手
とによっては、その態度をどのようにでも変化させることができる◎ それは丁度安い染物が色変り
しやすいのに似ているし、軽薄な人物の利害得失でその節操を変えるのに似ている、というのです。
しかし覚者は、その根本が神のみ心と一つなのですから、その変化の様は常に社会人類の為に役立
187上士は道を聞いては
つのであります。
ぐう
大方は隅無く、大器は晩成なり。これは有名な言葉ですが、一通り説明致しましょう。
すみ
もっとも大きなもの、宇宙には隅がなく、大器つまり大きな製作品、宇宙神からいえば、宇宙そ
のものとか、小さくいって地球といったものは、そう簡単に完成するものではなく、長年月かかる
ものである、ということを、人間にふりかえて考えると、大きな人物というものは、そうやすやす
とできるものではなく、その人物が大きければ大きい程、完成するのは晩くなるものだ、というの
です。だから、大人物たらんとするものは、あまり四角四面に纒ってしまわないで、すべてのもの
を容れ得る大度量をもつようにすべきだ、そういう大人物になるには長い年月かかってもよいの
だ、ということなのであります◎
ぬいおんきたいしよう
大音は希声なり、大象は無形なり。大音というのは神のみ声、神のみ心のひびきということで、
宇宙を鳴りわたっているひびきのことです。こういう大きなひびきは、なかなか聞きとめることが
まれ
できない。聞きとめ得る人は実に稀である。そして大きな現象というものは、これは把えようとし
ても把え得るべき形が無いのである、というのです。
真実に宇宙神のひびきをそのまま聞き得る人は実に稀であるし、宇宙神の現れを、そのまま
188
形として把え得ることはできません。聞き得ず、把え得ないのであるけれども、そのひびきが、す
べての根源となってひびきわたっていることは間違いない事実なのであります。
道は職れて名無し。弾れ唯道は善く欝して且つ成す。
道は隠れて名無しというのは、道というものは、すべての根源の働きであり、大生命そのもので
あるけれども、何処にどうして存在するのか判らない、掴みようも把えようもない。彪大そのもの
でもあり、微少そのものでもある。従って特定の名をつけようがない、というのです。
そかみずか
夫れ唯道は善く貸して且つ成す。道というものは、そのように自らを表面に出すのではなくて、
宇宙の星々といい、人類といい、動植物鉱物というように、あらゆる存在、あらゆる元素にその力
を貸し与えて、それで自らを完成させようとしているのである、というのであります。
真人というものはこの道、大生命のように、自らを表面に打出そうとしないで、常に社会人類の

福祉の為、宇宙人類すべての平和の為にその有てる力を貸し与えるような生き方をすべきである、
と説いているのであります。
189上士は道を聞いては
老子のこの言葉のように、私共も自己の利害得失を消えてゆく姿として、世界人類すべての平和
を祈願する、世界平和の祈りの中に投入しつくして、この地球世界の生涯を生きつづけてゆきたい
ものであります。
190
第二+講道は一を生ず……
道徳経第四十二章
ハズヲハズヲハズヲハズヲハヒテヲクヲテスト あ
道生レ一。一生レニ。二生レ三。三生二万物刈万物負レ陰而抱レ陽。沖気以為レ和。人之所レ悪、唯孤・
ナリルニパテストユハハジテヲシテシハシテヲシテズハフルモヘントスヲナルハ
寡・不穀。而王侯以為レ称。故物或損レ之而益、或益レ之而損。人之所レ教、我亦教レ之。強梁者、
トノヲニテサソトノひ
不レ得二其死鱒吾将三以為二教父叩

〔読み方〕
いっいんおエユいぜ
道は一を生ず。一は二を生ず。二は三を生ず。三は万物を生ず。万物は陰を負いて陽を抱く。
もゆうきなにくこかみこくしかおりこうしよつな
沖気以て和を為す。人の悪む所は、唯孤・寡・不穀なり。而るに王侯は以て称と為す。故に物は
そんしこヲまま
或は之〃損じて而して益し、或は之を益して而して損ず。人の教うる所は、我も亦之を教えんと
きようりようユさおしえ
す。強梁なる老は、其の死を得ずと。吾将に以て教の父と為さんとす。
191道は一を生ず
いっ
道は一を生ず。一は二を生ず。二は三を生ず。三は万物を生ず。
192
道は一を生ず、というと、道というものが、一の生みの親であるという風に考えられて、この一
というのが、絶対なる一、大生命としての一ではないのか、と感違い致す人もあるかと思いますが、
これはそういう意味ではなく、大宇宙に充ち充ちている大生命の表現をここでは道といったのであ
り、その宇宙に充ち充ちている大生命が、万物を生みなそうとする力を働かしめるために一なる宇
宙の心つまり宇宙心として、絶対者の一としてその生みの力を結集したということであります。
ですから、ここでいう道という宇宙神の力が、まだ宇宙に充ち充ちているだけで働き出さぬ状態
の表現であり、働き出そうとして力を結集させた状態を一といっているのだと解釈してよいわけで
す。
プヲスマイナス
こ の一が二を生じたということは、㊥e 陰陽を含めた絶対なる一が、㊥とe、陰と陽の、二つ
の要素を生み出したということであります。これはあくまで生み出したのであって、一が二に分れ
て、本来の一が二に形を変えて無くなってしまうというのではなくて、絶対なる一の中で二つの分
れた働きになったということなのです。
絶対なる一というものは、無限の縦と横、無限の㊥e をうちに持った宇宙心であります。この宇
宙心の働きを二つに分けますと、縦と横、陽と陰、㊥とe ということになります。この原理を一か
ら二を生ず、というのです。、
宇宙心というのは、宇宙科学的に申せば、宇宙核を通して天地を貫いて働いているのでありまし
て、宇宙大の一から、電子や中間子、否もっと微少なる宇宙子の一にまで働いているのであります。
もっといい方を変えますと、絶対の一なる宇宙心のひびきは、最も微少なる縦なる働き、活動し
ている宇宙子の一にもそのひびきを伝えていると同時に、横なる静止している宇宙子の一にも働い
ているのであります。しかしその働きかけ方は、絶対なる一そのものがそのまま働きかけるのでは
なく、絶対なる一は、根源的な無限大の二として、縦横、陰陽、㊥e の働きの二つに分れて働きか
けるのであります。
ですから絶対の一なる宇宙心は、大小無限の数をうちに有するのであり、それらの活動力の源泉
として存在しているのであって、実際の働きは二と分れた宇宙心のみ心によってなされるのです。
あめのみなかねしのおおがみたかみむすびの
神道などでは、絶対の一なる宇宙神(心)を天御中主大神と称え、二なる宇宙心を、高御産巣日神、
かみむずぴの
神産巣日神というように、一神の次ぎに陰陽二神の名をつけております。そして次ぎに、三神の名
193道は一を生ず
をあげているのであります。・94
1
この陰陽二神は、宇宙大の陰陽から、電子、中間子、宇宙子の極微の陰陽㊥e の中にまでその働

きの権能を有つのです。しかしながら、この陰陽、㊥eが如何なる力をもつとしても、その働きを
別々な形でしているうちは、宇宙世界には、何事、何物の変化も表現も行われないのです。この二
なる原理が、この二神の働きが相互に働きかけた時、そこに三が生じるのであります。三が生じて、
はじめて、この宇宙世界に宇宙神、つまり道、絶対なる一のみ働きが表現されてゆくのであります。
これが、二は三を生じ、三は万物を生ず、というのであります。これは只単に地球世界の物質の
ことのみをいうのではなく、宇宙根源の世界、つまり、神界から肉体界までの、すべての世界を通
しての真理なのです。
宇宙根源の世界、神界というものは、絶対者の一なる心の中にあるのでありますが、二神、三神、
五神、七神というように、先ず最上の段階が七神に分れておりましてこれが各自七つの段階に分れて
各種の宇宙運行の働きをなしているのであります。
これが宇宙科学でいう、宇宙子のような極微の世界にも、同じような法則として、同じような働
きとして現われてきているのです。宇宙科学では、七を一つの纒まりとして、七の二乗の四九をそ
の次の纒まりとしているのであります。
さぱめ
この点、神々の在り方と、宇宙子の組合せや働き方は全く等しい定理によってなされているのが、
実によく判ります。宇宙科学の法則に合わせて、神々の宇宙運行の在り方を考えますと、神々のみ
心が科学的な姿となって判ってくるのです。
ちゆういんお
万物は陰を負いて陽を抱く、沖気以て和を為す。
万物はすべて陰陽の原理、㊥e の交流の原理によって生じております。つまり、万物は陰を負い、
陽を抱いているわけです。しかし陽といい陰といい、㊥e といっても、陽中陰あり、陰中陽あり、
というように陽の中にも陰があり、陰の中にも陽があるのであり、㊥の中にもマイナスがあり、e
の中にもプラスがあるのであります。
人間の構造はそのもっとも複雑なものであって、神のみ心のままの人となって、この地球界で生
活してゆくのには、余程深く、宇宙法則の真理を知らねばならぬのです。いわゆる宇宙心の在り方
を知らなければならないのです。
195道は一を生ず
それはどういう心かというと、沖気以て和を為す、と老子はいっているのであります。沖という
もゆう
のは、和するとか、やわらぐとか、虚しいとか、いう言葉でありますが、老子は私の心の中で、沖

気というのは、自然の心そのままということであって、人心に当てはめていえば、自己を虚しくし
た、自然の気と合致した心をいう、といっています。
これをやさしくいえば、陰陽、㊥e、縦横という相反する性質のものが、宇宙心の法則にのった
そのままの在り方で交流し合い、交叉し合い、融合し合い、離合集散し合うことが、大自然の調和
なのであり、その姿が、沖気以て和を為す。というのであります。
196
にくこかあこくしか
人 の悪む所は、唯孤・寡・不穀なリ。而るに王侯は以て称と為す。
これはどういう意味かと申しますと、人の嫌がることは、孤独で淋しい生活であったり、物質や
すく
地位的に恵まれぬ、すべてに恵まれることの寡ない生活だの、何をしてもうまくゆかない生活だので
みずか
ありますが、王侯となりますと、かえって自ら、人々の嫌がるようなそうした状態の名を自分の号
として称えております。
どうしてそんなごどをするかといいますと、王侯ともなれぽ、実際的にはすべてに恵まれていま

してその号とは全く反対の生活をしているわけです。そうした恵まれた自分の状態に慣れ親しんで
しまっていると、恵まれない社会の人々の心が判らなくなってしまいます。そこで、常に貧しい恵
まれない社会の人々の上に自分の心が及んでいるように、常にその人々のことが気がかりになるよ
うにと、自分の号にそうした恵まれない貧しい状態を現わす号をつけて、自らの反省にしているの
であると同時に、自らの心の中で富と貧と幸と不幸という相反するものの調和を計る指針としてい
るのであります。
故に物は或は之を損じて而して益し、或は之を益して而して損ず。人の教うる所は、
きようりようまさ
教えんとす。強梁なる者は、其の死を得ずと、吾将に以て教の父と為さんとす。
我も亦之を
この世界というものは、すぺてにおいて相反するようにみえるものの和合によって成り立ってい
るのでありますから、物質にしても何にしても、損する者があれば得するものがある。益したと思
っているうちに、いつの間にか損をしている時もある。そういう状態を人は常に自他の生活の中で
197道は一を生ず
教えられている、というのであります。老子のいいたいことは、この表面に現われていることを土918
台にして、だから、損だとか得だとか、幸だとか不幸だとかいう、そうした現象面にだけ把われな
いで、もっと奥底の生命自体の在り方、宇宙神のみ心に合わせて生活してゆくことが必要なのだ、
といっているのであります。
きようりよう
そして最後に、強梁なる者は死を得ず、といっているのです。強梁なる者というのは、自己の力
に慢心している者、つまり、自分の権力や利害のためには、どんな手段でも構じ、神をも天をも畏
れぬ者は、死を得ず、という極端な言葉で、こうした心をたしなめているのであります。こうした
生き方をしてはいけないということを、教の父、教の最大のものとしてゆこう、とまでいっている
のです。
世の中には、人間の在り方というものを、少しも考えずに、只、肉体身として存在している自己
の金力や地位力や権力のみに頼って、神の大調和精神を全く離れた生き方をしている人が、かなり
あります。そうした力が通用しているうちは、御当人は鼻高々と生きておりますが、真理を知って
いる者の眼からみると、実に気の毒な、哀れな人に思えてくるのです。
それは何故かといいますと、その人が慢心の日々を重ねてゆくに従って、その人の苦悩に充ちた
未来の姿が濃厚に現われてくるからなのであります。
その人は死を得ることができない、と老子がいうのは、死を生命の安らぎ、という意味に取って
みますと、肉体滅後のその強梁なる人の死、つまり肉体の消滅は、死後の世界における暗黒苦悩の
生活がそこに画かれつづけてゆくのであって、少しの安らぎも、安穏も見出すことができないので
す。
死後の世界は、自己の想念のままの世界が即座に繰りひろげられてゆくのでありますから、神を
も畏れず、肉体世界の自己の力のみに頼って、人を圧迫しつづけたような想念の波が、そのまま、
自己の運命として、その人の生活に還元してくるのです。
その人の肉体界での生活は、神より流れてくる生命そのものの調和した力をもってしたのではな
く、肉体界のもつ物質力や地位力、腕力や武力によってなされていたのですから、そうした力の通

用しない死後の世界においては、まるで無力の痴れ者として生活しなければならないことになるの
です。
こうした原理を知ることこそ、何んにもまして知らなければならぬ、最大の教である、教の父と
為すべき真理である、と老子はいっているのであります。199道





実際に、この地球世界では、神仏の力というより、武力や金力の方が、優位をしめているように020
まつすぐ
みえ、世界は武力や金力によって抑えられているようにみえてはいますが、神のみ心が、真直に地
球界に現われてくる時代になりますと、死後の世界と同じように、生命の法則の大調和精神に反す
れば反する程、その人やその国の運命は損われてゆくのであります。
やがてくる時代は、神の力の偉大さが、如何にこの世的な金力や武力という権力に勝るかという
ことを、はっきり地球世界に証明する時代となるのです。それは今日までのあらゆる聖者賢者の言
葉であり、宇宙科学完成の暁の真実の姿でもあるのであります。
第二+一講天下の至柔は天下の至堅を馳膀す……
道徳経第四十三章
ハスヲデテキロリルコトルキユヲテルルヲ
天下之至柔、馳二騎天下之至堅殉出二於無τ有、入二於無7間。吾是以知二無為之有7益。不言之教、
ハナリプロトニ
無為之益、天下希レ及レ之。
〔読み方〕
しじゆユしけんちていかんいわれここ
天下の至柔は、天下の至堅を馳駒す。有ること無きより出でて、間無きに入る。吾是を以て無
えきふげんおしえこれまれ
為の益有るを知る。不言の教、無為の益は、天下之に及ぶこと希なり。
しけんちていしじゆう
天下の至柔は、天下の至堅を馳騎す。

天下で一番柔らかく、素直で柔和な水のようなものは、天下で最も堅いもの堅固なものでも、馳
201天下の至柔は天下の至堅を馳騎す
ていく
駒即ち支配し駆使することができる、というのであります。
老子の話の中には、水に讐えて道を説くことが、実に多くありますが、実際水というものは、柔
みずか
和で素直で、どんな器にでも自由に自らを合わせ調和させることができるし、どんな谷の底にでも
下りることができる、水の心というものには、自分というものが全く無く、その場、その時々の相
手の状態に合わせて、どのようにでも自分の形を変えることができるのであります。
それでいて、一度び自然の勢いに乗れぽ、如何なる堅固なるものでも自己の支配のままにするこ
とができる、それはどうしてそのようなことになるかというと、自らの立場というものも、自分の
形というものも、自分の在り方というものも、一切の自分というものから解き放たれた、柔らか
な、素直な、自然そのままの天命によって動いているからなので、相手により処により、時によっ
て自由自在の活動ができるのである、というのです。
202
有ること無きより出でて、間無きに入る。
ところで水は一体どこから生れてくるのか、どのような状態で水が現われでたのか、というと、
現在では水は解◎ で、水素原子二個に酸素原子一個の組合せによってできる、と科学的に答える
わけですが、この答だとて、実は判っているようで、判っていない答なのです。
何故かといえば、それでは水素はどうしてできて、酸素はどこにあったのかと突っこまれると、
そこまではどうも、と頭をかいてしまいます。それ以上の答は私共のやっている宇宙科学での答に
なってきますが、宇宙科学の答にしても、最後には一番の大元の宇宙神の在り方ということになっ
ヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘへ
て参りまして、やはり、有ること無きより出でて、ということになります。
この有ること無きより出でた水は、如何なるところ、どんなところにでも、隙間のないようにみ
える鉄石のようなものの中にまでに浸透することができる、というであります。
ヨれ
吾是を以て無為の益有るを知る。不言の教、無為の益は、天下之に及ぶこと希なリ。
この節はこのような水の在り方をみていると、無為にして為す、ということが如何に有益である
これ
かが判る。不言の教えや、無為にして治めるということの有益なることは、天下に之に及ぶことは
ないのではないか、という意味であります。203天














ところで、この不言の教えとか、無為とかいうことは、文字で読んで一応判ったような気が致す
ことでしょうが、この言葉の奥の深さというものは無限なのであります。
不言の教えということは、只、言葉砂なくとか、何もいわないとかいう意味ではありません。大自
然はいちいち言葉に出して、人に教えを説くということは致しませんが、その自然の一齢一髄、一
瞬一瞬の動きや現象の姿の中で、宇宙神のみ心の在り方を人類に知らせているのであります。大自
然の教えというものは、その一つ一つの現象となって現わされてゆくのです。
そうした大自然の教え、宇宙神のみ心を人間が現わすとすれば、その人の全人格が、その人の日
常茶飯事の行為となって、他の人に光を及ぼす、・というようになるわけです。
殊更に説教くさい教えを説かなくとも、自ずと人々がその人を慕い敬って、その人の生き方を真
似してゆくような人がいたら、その人は不言の教えを実行している人なのであります。
ですから、不言の教えを実行している人は、大自然の生き方と軌道を一つにした生き方のできて
いる人であるわけです。只黙って坐っているだけでも、人々の心を温め、人々の心に勇気を与える
ような光明化した人こそ、不言の教えの人であり、真人というべき人なのであります。
無為については度々お話しておりますが、実際には無為にして為すなどということができるもの
204
なのであろうか、という疑問を抱く人が随分あると思います。
無為ということを間違えて考えて、人に目立つようなことは何んにもしない方がよいのだと思い
こんで、あたら有能な人が、何んにもしないでその一生を終ってしまうようなこともあるのですが、
無為というのは、そんな消極的な教ではないのです。
これをしよう、あれをしようと考えつつするのではない、ということは、この肉体の頭脳智に頼
って為すことは、することが小さくて、たいして人の役に立つことはできない、ということなので
す。
何故かと申しますと、肉体人間というものは、只単なる先端の現れであって、人そのものでは
ないということなのです。人の生命というものは、肉体身を先端として、奥深くずうーとつながっ
ているものであって、その一番深いところは、宇宙神のみ心の中なのであります。
あら
ですから、肉体身として現われている、一番粗い波動の現れ、一番速度の遅い波動の現れだ
あら
けを自己そのものと思っていますと、その自己だけに想念が集中していますので、その粗い波動、
ちどん
スピードの遅い、遅鈍な在り方の中で、その範囲、その中だけの知識や智慧で思慮分別して、自分
の生き方や人の生き方を判断するわけですから、どうせたいしたことができる筈がありません。小
205天下の至柔は天下の至堅を馳騎す
さな、こせこせした生き方や考え方しかできないのは理の当然です。
それは丁度、世界というものの全体を知らない未開の国の人が、その国のしかも山奥の小さな土
地だけの生活より知らないでいて、それだけをすべてとして他を顧みないでいるとしたら、その人
の智能程度は非常に低いものであることはあたりまえのことです。
人というものの全体を知っている真人や聖賢の眼からみますと、人というものが肉体身だけの者
だと思っているような人々の在り方をみていると、丁度そうした未開人の生活をみているようなも
のにうつるのです。
真の人の姿というものは、肉体身だけを人とみているような、そうした低い段階のものではなく、
自由自在心をもつ生命そのものの存在者なのです。
人間生命の働きの段階は、それは非常に数多くの段階がありまして、肉体身のしかも、自己の利
欲だけに想いを集中しているような人は、そうした最も低い段階の住者でありますが、人の為を想
い、社会人類の為を想って行動しているような人でも、肉体界だけが、人間の世界だと想っている
はず
限りは、自己の肉体頭脳智だけで行動するのですから、宇宙のみ心の大計画から外れてしまう行為
をしばしぼすることになるのであります。
206
右翼の人左翼の人、何々主義と標諺して社会活動をしている人々の中には、自分自身の利害関係
を度外視して、犠牲的な生活の中で行動している人も随分とあるわけです。しかし、そうした善と
想われるような行為であっても、人間の本質本体を知らずに行動している、いわゆる、神からみた
無智の行為となることがあるのです。
人間の行為というものは、この肉体頭脳智で考えているうちは、どこかに抜けた、宇宙神、大生
命のみ心から外れた行為となってしまうことが多いのです。
ですから、各自の集団が、自分達の思想行為こそ、社会を善くし、世界を安定させる、と各自が
想って、その活動をしているのですが、その各自の行動が、お互いにぶつかり合ってしまって、宇
宙神のみ心の根本的な在り方である大調和を乱す争い事になってしまうのであります。
そこで老子は声を大にして、無為にして為せ、無為にして治めよ、というのであります。肉体の
頭脳智に頼っている以上は、無為にはなり得ません。無為になるためには一度肉体頭脳智を何処か
に無くさなければなりません。私はその方法を世界平和の祈りをもってしなさい、というのです。
この地球界に住みついていますと、肉体身の頭脳ですべてを思考し行為するような習慣がついて
しまいます。そんなことは当り前のことじゃあないか、頭で考えないで一体何処で考えるのか、と
2Q7天下の至柔は天下の至堅を馳騎す
いう反擾がすぐにこだましてくるようですが、そこが、永遠の平和を地球人類にもたらすかもたら
028
さないかの境目なのです。
肉体人間的な考えで、この世の中が、争いの一切無い、病気や貧乏人の姿の無い世界になると思
いますか、なるとしたらどのような方法でしたらよいのでしょう、と問われたら、一体何んと答え
ますか。それは判らない、と答えられることでしょう。確かに肉体人間の頭脳智では判らないこと
なのです。
判らないけれど、誰の心にも世界平和ということと、人間の世界に老病貧苦の悩みの無い日の
来るのを待ち望む心はあるのです。ただ、どうしようもないので、そのことについてあまり深く考
えずに、その日その日の行動をしているだけなのであります。
それは肉体身の頭脳では判りようがないのです。そこで古来の聖賢はみな、肉体智を捨てよ、空
の心になれ、といい、老子は無為の道を根本の教として説いているのであります。
ところが人間は、頭脳で考えないでどうして行動ができようか、ということにひっかかってしま
うのです。それは無理もありません。肉体身の頭脳の他に考えの湧いてくるところなどありはしな
いと思いこんでいるからなのです。
しかし、私がいつも申しておりますように、人間の体というものは、大きく分けて、肉体身、幽
身、霊身、神体というように四つに分れております。それは七つの名称をつけて、七つに分れてい
るといってもいいし、細かく分ければ数限り無く分れているのであります。
ですから、あらゆる体から智慧が湧きいで、あらゆる階層の知識もあるのであります。肉体身は
先程から申しておりますように、一番鈍なる体なのであります。そこで肉体頭脳にまつわる知識や
想念を、肉体身より微妙なる体のどこかの頭脳に一致させてしまえぽ、肉体身の頭脳で考えるより
微妙な考えが湧いてくるのであります。普通イソスピレーションというのは、人の肉体身以外のど
こかの階層の頭脳波動から肉体頭脳に伝わってきた智慧なのであります。
この智慧を一番奥深いところ、神体より伝わるようにするためには、やはり祈りの中に自分の想
念を一度全部投入してしまうことがよいのであります。そしてその智慧も世界人類の完全平和に役
立つ智慧であり、そして力であるためには、世界平和の祈りのような、そのものずぽりの唱え言が
ことば
適当なのであります。言は即ち神なりきでありまして、こうした祈り言の中からでてきた智慧であ
り行為であるものが、無為にして為せというところとぴったり一つのものになってくるのでありま
す。老子の道に至る方法は世界平和の祈りなのであります。
209天下の至柔は天下の至堅を馳騎す
第二十二講
ごと
大成は欠くるが若くなれども……
道徳経第四十五章
大庇都レ畔モ匁廓ガ菊凪不レ鑑。大臨舞レη絶瓶中ガ葛凧不レ筋。ラ大直為レ凪、大琢為レ批、大辮都レ講。躁
テパテパナレパルノト
勝寒、静勝熱。清静、為二天下正岨
〔読み方〕
おいせいかピとウたいえいむなビとニリなわ
大成は欠くるが若くなれども、其の用は弊きず。大盈は沖しきが若くなれども、其の用は窮ま
たいちよくくつこひせつぺんとつごとそうかんせいせい
らず。大直は屈の若く、大巧は拙の若く、大辮は訥の若し。躁勝てば寒、静勝てば熱。清静なれ
せいな
ば、天下の正と為る。
かビとつ
大成は欠くるが若くなれども、其の用は弊きず。210
大成というのは、大きく出来上がっているということですが、人間でいえば大人物、宇宙的にい
えば、宇宙の運行そのものということです。
こうした大きなものは、普通人からみますと、その全体が判りませんので、どうもどこか人間的

にいえば、その行動にふに落ちないところ、納得のゆかないようなところがある。宇宙的にいえば、
宇宙の運行や自然現象には、大智慧大能力である神のやることにしては、完全でないところがある
ようである。
-何故かといえば、神の力にどこにも欠けたところが無いならば、その神から生れでた人間という
ものが、もっと完全にできている筈である。怒りや妬みや憎悪や恐怖や悲哀の感情などというそう
いう不完全な感情が起るものではない。
だから神そのものも完全でないと思う。そう思う方はまだよい方で、だからすべては神の力によ
って成っているなどということは嘘言だ、というように、神のような大きな存在、宇宙の永遠の法
則はかえって欠けたところがあるように思われる。
従って神のみ心をそのまま現わしているような大成した人物は、常に生命の永遠性を根本にして
自己の生活をしているので、普通の人のように、その場その時々の幸不幸だけしか考えぬ者からみ
211大成は欠くるが若くなれども
れば、その態度が荘洋としていて、どこか抜けているようにみえる。・12
2
しかし実際は、その働きは素晴しいものであって、いつまでもつきることのないものである。と
いうのであります。
たいえいむなごときわ
大盈は沖しきが若くなれども、其の用は窮まらず。
大盈というのは、大きく満ちているもの、大海とか大空とかいうように、大きく広く満ち充ちて
いるもの、人間でいえば、奥底知れない深い心、計り知れない叡智を秘めているような人物は、あ
まり大き過ぎて深過ぎて、一見頼りないような、むなしいような気がしてくる。だがその働きはき
わまることのない程大きなものなのである、というのです。
たいちよくくつごとこ, せつごとぺんとつごと
大直は屈の若く、大巧は拙の若く、大弁は訥の若し。
大直というのは、天地を貫いている心という意味で、宇宙の法則の通りに真直ぐに、宇宙神のみ
心を現わしていて、いささかの曲がったところもない。ところが、天地を貫いているような大きな
こる
心は、どちらへ転んでもたいしたことのないような、小さな事柄には、関心がないので、相手のい
うままに通してやってしまう。しかし、小さな人間からみると、大直の人物が、たいしたことでも
ヘへ
ないと思う事柄でも、たいした一大事のような気がして、むきになって相手につっかかってゆき、・
自分の小我を通そうとする。
そして、そういう態度が勇気のある正しい行為であるように思っている。そして、そういうこと
にあまり本気にならない大きな人物に対して、不満な気持を起し、あいつは大人物のように聞い
ていたけれど、何んという意気地のない男だ、あんな相手に屈服して、相手のいう通りになって、
見そこなった、という工合に、大直の人を甘くみてしまうのである。
大直の人には、何々主義、何々主義というような、一方に偏した主義主張というものは無い。だ
から、どちらの主張にも反対しないで、そうか、そうかと聞くかも知れない。そういう態度も、一
ヘヘヘヘヘヘへ
方に偏した小人物からみると、背骨の無い、弱気の人のように見える。そこで大直は屈の若く、と
いうのであります。
こうせっ
大巧は拙の若く、というのは、最も巧みに出来ておるものは、一見すると拙い作品に見えること
213大成は欠くるが若くなれども
があります。それは絵画でも彫刻でもそうであります。文字などでも、児童が書いたような筆法の14
2
文字が名筆だったりすることがよくあります。
しろうと
大いに巧みな芸術というものは、自然の深い心を現わしていますので、素人の浅い観賞眼では、
なかなかその善さが判らないで、かえって、浅い色彩のけばけばしたような絵画などに眼を奪われ
たりするものなのです。
ですから真の巧拙を見分けることは、余程その道に熱心な人か、自然の運行に無心で処してゆけ
るような人でないと、なかなか見分けることができにくいのです。
これは人間の真価に対しても同じことがいえまして、真理に徹したような人が、小才のきいた人
々からみると、拙い生き方をしているように見えて、馬鹿にしたい気がしてきたりするものです。
大愚と称した良寛などは、実際は神のみ心をそのまま現わして生きた、童心そのものの人でした
が、普通人からみれば、実に愚かな極みのような生き方をしていた人です。
子供と鬼ごっこをして遊んでいて、鬼になって眼を閉じていて、皆が帰えってしまっても、いい
よ、という声がかからなかったので、そのままいつまでも眼を閉じて、いいよの声のかかるのを待
ちつづけていた、という話や、筍が床下から伸びてきて、床を貫いてきても、床をつきぬいたまま
しらみ
伸びるに任かせていた、という話や、衣にたかっている風を可愛がって、その数をかぞ・兄ては、に
こにこしながら、また衣にたからせておいた、という話など、実に現代人からみたら愚かそのもの
のようでありますが、こうした生き方の根抵にある生命観というものは、大巧そのものであったの
です。
ビと
こういうのは、大巧は拙の若しの見本でしょう。といって私は、植物を伸び放題にしておいたり、
じねんほう
着物に風をたからせておくことがよいというのではありません。その底に流れている良寛の自然法

爾の姿に、大巧の見本をみるのであります。
とつピと
大辮は訥の若し、これは、よくいわれることですが、訥辮の人の真実性が、雄辮の人より聴衆の
心を打った、ということのもっともっと深いところをいっているのです。
大辮というのは、声に出す言葉で雄辮をふるうことではなくて、その霊身から大生命のひびきを
ことにことぽ
人々にひびき伝えるような人の言なのであります。私が常に声帯を振動させてでる言葉だけが言で
ことは
はない、声に出る言葉以前のひびきが、真実の言である、といっていますが、心のひびきが真実の
ことば
言なのであります。
ことに
いいかえますと、言とは生命の振動そのものであり、光明波動そのものであるのです。そういう
215大成は欠くるが若くなれども
言葉を常にひびかせている人を大辮の人というので、いたずらに自己の想念波動を声に出してしや16
2
ぺりまくることが、真の雄辮というのではないのです。
この大辮の人が意外と訥辮であったりすることがあるものですが、その人の言葉が例え訥辮であ
っても、その人の心身から発する光明波動は、周囲を照り輝かすのです。ですから、言葉のうま
さ、まずさだけで、人の真価を計ったりしてはいけないのです。要はその人の人格的雰囲気を直感
的に感じ得る修練を、人々はしていなければいけないのです。そういう直感を養っておくと、自然
と神のみ心も判ってくるし、人格の高下、行為の善悪も判ってくるのです。
表面的な服装や態度、表面的な言葉や行為に迷わされず、真実の人そのものを知ることに努める
ことが大事なのであります。
モ, かかんせいねっせいな
躁勝てば寒。静勝てば熱。清静なれば、天下の正と為る。
いのも
躁勝てば寒、というのは、人の真性というものは、表面静かであってしかも生命生き生きと働い
そうそう
ているという状態なのでありまして、いたずらに躁がしく騒いでいる、躁騒しく踊り廻り、走り廻
わり、主義主張を喧伝し合っているという状態は、人の真性の現われていない状態である。つまり、
生命の光が輝いていない状態であって、寒々とした空虚なものを感じる。黒々とした影が踊り廻っ
ているようなものである、というのであります。
そうごむな
実際に、いたずらに自己主張をしたり、大言壮語した後の空しさ、騒がしく遊び廻った後の寒々
とした心境などは、多くの人が味わったり、味あわされたりしていることです。
おもいしず
その逆が、静勝てば熱でありまして、人間の頭脳を駈け巡っている様々な想念の波動を鎮めて、
静寂そのものの心になると、神道的にいえぽ、鎮魂致しますと、生命そのものの働きが非常に活発
になりまして、光明燦然としてくるのです。静勝てば熱なのであります。
どうして静が勝つと光明が輝き出るのかといいますと、生命の本質は光そのものであり、熱でも
ひびき
あるのです。生命の働きは光の波動なのであります。私たちの宇宙科学では、生命の最初の波動を
宇宙子の働きといっているのです。
生命は生き生きとしています。その生命の働きを生き生きと光そのものとして活動せしめるため
には、人間の頭脳を駈け巡る想念波動を静め、生命の働きを業想念波動で蔽わぬようにしなければ
なりません。
217大成は欠くるが若くなれども
くり
その為に宗教では、空になることの修業をしたり、鎮魂の為の行をしたりするのであります。想18
2
念を鎮めるということは実に大事なことなのです。
清静なれば天下の正となる。清というのは勿論清いということですが、清は清いという意味だけ
さんずい
ではなく、本質そのものという意味があるのです。何故かと申しますと、勃は水です。水が青であ
る、と書かれているのが清です。水の色が青であることは、水の本質です。そして水が青く澄んで
いるのは清い姿です。
そこで本質が静かに澄みきって現われていれば、これはまさしく天下の正となるのであります。
ですから、世界中の民族がそして個人個人が自己の本質を現わして生活をしていさえすれば、世
界は平和になるにきまっているのです。ところが、個人の本質も民族の本質もそのまま現われてい
るというわけにはゆかないのであります。
どうして、個人も民族もその本質を現わすことができないのでしょうか、それは、本質を隠して
しまう業想念波動が、頭脳を駈け巡っているからなのであります。個人個人の頭脳を駈け巡る、肉
体身の自己を防衛しようとする動物的本能は、各民族の動きに影響し合いまして、躁勝てば寒、と
いう寒々とした心の状態を各国家民族が味わいつづけているのです。
そこでどうしても、清静為らざれば、世界平和は成り立たぬということになるのであります。清
静なるためにはどうしたらよいか。それは祈り心で日常生活をしつづけるより方法はないのです。
祈りとは業想念波動を静めて、神のみ心の光明波動の中に自己が入ってゆくことであります。自己
の神の子としての本質を光り輝やかす為の方法であります。静を勝たせるための方法です。そして、
その方法の最高の在り方が、世界人類の平和を祈願する世界平和の祈りであるのです。
219大成は欠くるが若くなれども
第二+三講戸を出でずして以て天下を知り……
道徳経第四十七章
海島」凡、偽知二天} 喬穿晦場見二天導蜘臨.弼灘.麹.弥宅舞曳・喬辞知・
シヂヲカニシテサル
不レ見而名、不レ為而成。
〔読み方〕
戸醇でずして、悌て天下を知り、庸を響ずして・以て天道を見る・其の貯つるこ舞謬
れば其の知るこム弥少なし。燈を悌て聖人は、行かずして知り、見ずして稽らかに、紺さずして
脚る・
よケうかが
戸を出でずして、以て天下を知り、臆を窺わずして、以て天道を見る。
220
よう
戸を出でずしても、傭、つまり窓から外をうかがわなくとも、天下を知り、天の道を見ている、
ということは一体どういうことなのでありましょう。一歩も外出しないでどうして世界の動きが判
り、少しも窓から外をみることをしないで宇宙の運行が判るのでありましょうか。
現今ではラジオがあり、テレビがあり、新聞や雑誌や様々の図書がありますので、一歩も外出し
なくとも、世界の状勢や宇宙の運行が少しは判るのでありますが、老子の時代において、どうして
判ることができたのでしょう。普通人にとっては、到底考え及ばぬことであります。
ところが、実際に聖人はそういうことができたのです。それはどのようにしてできたかと申しま
すと、肉体の眼や耳をもってしたのではなく、心の眼をもち、心の耳をもってそれを為し得たので
あります。
普通の人は、実際にその肉眼で見、肉の耳で聞いたことでも、誤って認識することが多いのです。
現在日本における重要問題である、憲法改正の是非についてや、中共承認問題等でも、改正論者の言
論を聞けば、それが尤もなことに聞えてくるし、改正反対論者の言を聞けば、これまた尤もと肯いて
しまう。中共承認についても、承認論をとうとうと述べられると成る程成る程中共を中国と承認す
るのは当然であると思うが、また中共不承認、台湾政権こそ中国なりという説を聞けば、それも尤
221戸を出でずして以て天下を知り
だと思つてしまう。2
2
というようなことが、非常に多いのであります。何故そのようなことになるかと申しますと、普
通人にはなかなかその根本の理非善悪ということをしっかりつかむことができないので、表面的な
理由の是非によって考えを動かされてしまうからなのであります。
聖人というものは、常に根本の真理をはっきり知っておりますので、外面的などのような正当化
された理論を聞かされようとも、根本真理に反することには、想いを動かされることはないのです。
そのことを反面から説明しますと、聖人にとっては、外面的な如何なる見聞も必要のないものであ
って、常に自己の内面からの指示本心の声によってのみ、善悪理非を判断するものなのであります。
よひ
そこで、戸を出でずして、以て天下を知り、傭を窺わずして天道を見る、ということになるのです。
いいよいよいよいよすく
其の出つること弥遠ければ、其の知ること弥少なし。
聖人は自己の本心の命ずるまま行為するのですが、凡人は、その本心から離れた業想念で、あれ
やこれやと小智をしぼり、見聞を広めようとします。ところがそうした小智才覚で広めた見聞とい
うものは、ますます本心を遠ざかることになり、宇宙の根本真理、人類の神性開顕の道から次第に
離れ、神のみ心を知ることがますます砂なくなるのであります。
この節はそういうことをいっているのです。
是を以て聖人は、行かずして知リ、
あきな
見ずして名らかに、為さずして成る。
これは前節の、戸を出ずして、と同じことでありまして、聖人という者は、宇宙神のみ心をその
ままに生きておりますので、宇宙万般あらゆるひびきを観得しているのです。ですから、行かずし
て知り、見ずして明(名) らかに、為さずして成るのであります。
こういう聖人の心の状態というものは、普通人には到底計り知れないことでありましょうから、
こういう心の状態について、くわしく説明致しましょう。
人間というものは、実に不可思議なる存在でありまして、ここに肉体として存在しており、種々
と想い巡らしているこの人間だけが全存在ではありません。全存在どころか、ほんの先端の現れ
でしかありません。凡夫というものは、この肉体人間だけを人間の全存在だと思いこんでいるので
223戸を出でずして以て天下を知り
すから、眼先の事柄だけしか判りようがありません。

ところが真実の人間というものは、この肉体より数等倍も秀れた機能を有つ体が幾層にも奥に奥
に存在しておりまして、奥にゆくにつれて、微妙この上ないものになってくるのであります。
なおび
そしてその一番奥の存在が宇宙神のみ心の中心にある直霊ということになるので、この直霊が神
そのものということになるのであります。ですから人間心の一番奥深いところは神そのものとなる
のです。そしてそうした神そのものの働き場所を神界というのであり、次第に霊界、幽界、肉体界
と、その働きのひびき(波動)が遅鈍になってくるのであります。
聖人というものは、常にこの直霊の方からのひびきによって、その働きをなしておりますので、
肉体のほうでとやかく想いわずらわなくとも、小智才覚を働かせなくとも、永遠の生命に立脚した、
深い正しい真理そのままの判断ができ、働きができるのであります。いわゆる霊覚によってすべて
の働きを為してゆくのであります。
むい
こうした状態を、無為にして成すという心の状態というのです。直霊からのひびきをそのまま何
さまたくう
等の阻げもなく、この肉体界にひびかせ得るということは並大抵のことではなく、仏教の空の状態
に成り切ったところからでなくてはできないのであります。
224
くりしりよあんぺっ
こうした空の状態、無為の心を乱すのが、いわゆる思慮分別なのであり、小智才覚なのでありま
す。ここで一番問題なのは、思慮分別なしに物事をしたら、うまくゆきっこないではないか、とい
う一般の人の想いなのです。
先にも申しましたように、人間の頭脳というものは、肉体だけのものではなくて、肉体とはくら
ぶべくもない、霊体、神体の頭脳があるのです。こうした高度の頭脳の働きも、肉体頭脳の方が常
に休みなく働きつづけていますと、その高度のひびきを伝えることができないのです。いいかえま
すと、肉体頭脳の波動が、直霊のほうからのひびきとは無関係に想念の働きをつけていますと、肉
体の働ける範囲の、狭い浅い判断や行為よりできなくなって、永遠の生命、宇宙の大きな流れに沿
ってゆけるような働きはできないのです。
肉体頭脳の思慮分別、小智才覚は直霊のひびき、神のみ心の正しい伝達には邪魔になるのです。
深い広い働きをもつ直霊のひびきと浅い狭い考えよりできない肉体頭脳の働きとでは到底くらべる
すべもありません。
それが凡夫と聖人の相違なのであります。人間が肉体頭脳の働きというものにばかり重点を置い
ている限りは、この人類に宇宙の神秘を解明する知慧は開かれません。人間が肉体頭脳の働きだけ
225戸を出でずして以て天下を知り
でよいと思っている間は、人類世界の苦悩はつづいてゆくのです。
神のみ心がそのまま、直霊のひびきがそのまま肉体身の言語動作となった時こそ、その人は、戸
を出でずして天下を知り、為さずして成る聖人となるのであります。
聖人の心の中では、神のみ心の縦のひびきと、人間世界の横のひびきとが、ぴったり十字交叉し
ていて、神のみ光が、その中心点から人間世界の横のひびきの中に. その光明波動を放射してゆく
のです。ですから、聖人がただそこに存在しているというだけで、この人類世界の光明となるので
あります。
聖人にとっては、この世の見聞なぞは問題になりません。口先や、手先の働きなどは嚇それは単
なる枝葉のことに過ぎないのです。
聖人の中でも、俗に小聖と大聖と分けて考えられていますが、大聖ともなりますと、俗人そのま
まの市井の生活の中にいて、凡人そのままの立場にいながら、その身からあらゆる世界に光明を放
っていることもあるのであります。
聖人というのは、今日かなり多くある霊能者そのものではありません。霊能者でそのまま聖人た
る資質をもっている人もありますが、予言力があることや、人の心が読み取れるということだけで、
226
その人を聖人ということはできません。
凡人から大聖の間には多くの階層がありますので、霊能力だけによって大聖とみるような愚かし
い想いをもってはいけないのです。神の声を聞いて人を指導しているという人の中にも、その人格
が極めて低劣な人もありますので、聖人というものと、いわゆる霊能者というものを一応区別して
考えてよいと思うのです。
肉体世界から、直霊の世界、神界に至るまでには、無限とも思われる異なる波動の世界がありま
すので、神の声によって行為しているといっても、それが単なる低い霊魂の声であるかも知れませ
さはんじ
ん。要はその人の日常茶飯事の行為と、その人の指導によって、どれだけの人が真実の安心立命の
境地に入り得ているかということにあるのです。
みずゐ
老子あたりになりますと、霊魂の声とか、神の声によってその行為を成すというのではなく、自
みずかみずか
らがすでに神霊そのものなのであります。自らの声が神の声であり、自らの行為が神の行為である
のです。
一挙手一投足神のみ心そのままなのであります。ですから神の声を聞くなどというように、神と
自分とが離れているのではないのです。
227戸を出でずして以て天下を知り
世の中には、人にない神秘力を欲っして宗教入りする人が随分ありますが、宗教の道に入るのは282
何も神秘力を得ることが目的ではありません。本心開発が目的であり、神と人間との真実の関係を
知ることが目的であります。その目的が達した時に、真実の神秘力が発揮されるのです。
てんとう
本末を顛倒していると、幽界の低い生物のとりこになってしまい、人を迷わすつまらぬ教をした
りするのであります。
大聖とは老子の如く、神我一体の人であって、宇宙法則そのままに生きている人なのであります。
宇宙波動を事細かく知っていて、自由自在にその波動をひびかせ得る人、それが大聖なのであり
ます。そういう大聖には普通人にはとてもなりません。そこで私は、凡夫が聖人になれる方法を神
から教えられたのです。それが消えてゆく姿で世界平和の祈りなのです。
肉体人間の頭脳を駈け巡る全想念を無くした時には、神のみ心そのままが、光明燦然とその人の
頭脳に入ってきます。神のみ心そのままが入ってくれば、その人の肉体はそのまま神の器でありま
す。業想念の器ではなくなります。
そこで私は、肉体頭脳にでてくる想念のすべてを消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中に投
入してしまい、改めて神のみ心のひびきとしての行為としてしまうことを教えているのであります。
くケくり
一度に空になるのを、消えてゆく姿として、徐々に空の状態と同じように、業波動と光明波動との
入れかえをしてしまうのであります。これが凡夫にできる聖人の道なのであります。
229戸を出でずして以て天下を知り
おさ
第二+四講学を為むるものは日に益し……
道徳経第四十八章
ムルぞノハヲ ツムルモノハヲニズジテワジテルヨユシテシルハサニルモノハヲユテス
為レ学日益、為レ道日損。損レ之又損、以至二於無為ゆ無為而無レ不レ為 。故取二天下噛常以二無
フピテハノニラテルニヲ
事崎及二其有事哨不レ足三以取二天下⑩
〔読み方〕
がくおさひまみちおさひそんこれモん洩たモんもつむいい亀
学を為むるものは日に益し、道を為むるものは日に損ず。之を損じて又損じ、以て無為に至る。
もいななゆえてんかとつねぶじもつそゆうじお

無為にして為さざるは無し。故に天下を取るものは、常に無事を以てす。其の有事に及びては、」
もつてんかとた
以て天下を取るに足らず。
学を鵜むるものは日に盆鰻道を鵜むるものは日に撮ず・
230
老子の説き方には、反語的なものが多くありまして、老子の本質を知りませんと、誤った解釈に
なるか、浅い常識的な解釈になったりしてしまいます。
おさま
この節なども、学を為むるものは日に益し、というような表面的にみれば当然のようないい方を
していながら、実は学問すればする程それだけ知識が益し、利益になるという、この日に益し、と
いう言葉の中に、一般人の考え方とは全く反対の思想があるわけであります。
えき
老子にとって、この日に益し、は後々の説に出て参りますように、その人にとって真実の益にな
るわけではなく、益になるようにみえているだけだ、ということになってくるわけなのです。その
おさ
反対に、道を為むるものは日に損ず、といっているわけで、表面的な言葉とは全く反対な内容があ
るのであります。
之を損じて又損じ、

以て無為に至る。無為にして為さざるは無し。
おさ
道を為めれば為める程、表面的には損を重ねてゆくようにみえるが、
為に至る世界が開けてゆくのであると老子はいうのであります。
損を重ねてゆくところに無
231学を為むるものは日に益し
おさモん
学問を為める益というものを低くみ、道を為める損の方を高くみる、という老子の思想の根本は32
2
一体どういうところにあるのでしょう。学問というものは、為め修すればする程その人の知識を増
してくれ、その人の社会的な地位を益してくれます。
おさ
ですから、学問を為めて損することは、この世的な考えからすればないということになります。

尤も老子も、日に益すといっているのですが、これは一般の人々はそう思うであろう、といってい
おさ
るわけなので、老子自身は、学問を為めること自体をその人を益することとは思っていないのです。
何故かといいますと、外からばかり知識を入れるということは、大生命、宇宙本源から湧き出て
くる大なる能力、叡智を外からの知識が止めてしまうからなのです。
ここのところに老子の根本思想があるのでありまして、人間自体が、自己の本質を知ることを先
にしないで、いわゆる無為に達する道を歩むことを先にしないで、この世的な枝葉のことしか教え
ない、学問ばかりいくら為めても、根本的な益にはならないのだ、というのであります。
それにひきかえ、道を為めていて、この世的な生活環境では損を重ねていくようにみえようとも、
おさ
無為の世界に達し得た時には、この世的な枝葉末節的な学問を、如何に多く為めたと自負する人々
がどのように沢山集まったよりも、それは比べるべきもない深い広い、偉大な行為のできる人にな
っているのだというのであります。
無為にして為さざるは無し、になるのです。無為の境地になれば、どのような智慧も、どのよう
な力もでてくるのでありまして、その場その時、必要に応じた能力が、無為の世界、宇宙根源の世
界から流れでてくるのです。根源世界から流れてくる智慧能力は、この世的な学問知識の比ではな
いのです。これは私自身体得しているところで、老子のいう通りであるのです。
モん
ところが、この無為の境地に達するまで道を極めることが大変なのであります。確かに之を損じ
モん
て又損じなのでありまして、この世的な利益に反することが沢山でてくるのです。それはどうして
かと申しますと、この地球世界は、宇宙本源のひびきを、そのまま真直ぐ伝えているわけではなく、
ゆが
曲り曲って、歪んだ姿で写し出されているのであります。

.その曲り歪んだこの世界で、道を求め、道を極めてゆくとなりますと、曲りへきては支っかえ、
歪みどころへきては道をはばまれたりしまして、その度びごとに損ずるのであります。道というの
は、宇宙本源のひびきに、そのまま波長を合わせた生き方をいうのでありますから、本源のひびき
からそれた波長にぶつかりますと、そこで通じ合わなくなって、この世的な損失をうけるわけなの
であります。
233学を為むるものは日に益し
イエスをはじめ幾多の聖なる人々正しい人々が、多くの苦難を受けたのは、こういう理によるの
34
2 れ
いり
です。そこでこの世的に怜倒な人々は、そうした宇宙本源のひびきに自らの心の波長を合わせる、
道に生きることは後廻わしにして、この世的に役立つ学問知識を得ることに力をそそぐのでありま
す。そして、この世的には、日に益してゆくのです。こうした生き方も無理からぬことであると私
は思うのですが、老子は絶対にそういう同情を致しません。あくまで、宇宙本源世界のひびきを、
この世の道として、その道に照して、すべてを計るのでありまして、枝葉末節的なおもんぱかりを
いささかもしないのです。
何故そういう態度にでているかと申しますと、枝葉末節的なその場その時々の生き方に同情など
していたのでは、いつまで経ってもその人々の本心は開発されませんし、地球世界はいたずらに、
業想念波動の波のまにまに浮き沈みしてゆくことになり、遂いには、その歪みや曲りを癬磁引るた
めの宇宙神の光のひびきによって、人類滅亡の危機にまで至ってしまうからなのであります。
いしんここが実にむずかしいところでありまして、真理のまま、道に少しの異心も抱かず生きるという
にく
ことのでき難い地球世界にあって、どうしたら道に沿って生きてゆかれるか、ということに私は心
を砕きつづけて、消えてゆく姿で世界平和の祈り、という容易な道を見出したのであります。
さて、この章末尾で老子は、
故に天下を取るものは、常に無事を以てす。其の有事に及びては、以て天下を取るに足らず。
といっていまして、道を求めて如何に損を重ねようとも、無為に達すれば、天下を全く治め得る
者になり得るといっているのであります。
ヨと
政治を行う者は、事が起ってそれを上手に纒めたということを誇りにするようではいけないし、
事が起り得るような政治を執っていたのではいけない。事の起らぬような、常に無事太平であるよ
うな政治を執れるのが、無為の世界に至った人の政治である、というのであります。
いき
これは全くその通りだと思うのですが、現在では理想論の域を出てはいません。そうありたいが
出来ない、というのが大方の意見であろうと思います。現在の世界の政治界の中で、無為の境地に
達し得て、宇宙根源世界のひびきをそのまま伝え得る政治家は、一人も存在しない、と私は思うの
です。
地球世界はまだそこまで光明化していないのです。大聖が世界の中心に起って政治を行い、社会235学











教育を行うというのには、この地球世界は、まだまだ多くの浄めを必要とするのであります。浄め
て浄めて浄めきって、宇宙根源の生命波動が、曲りなく歪みなく、この地球世界に伝わってくるよ
うな状態にならないと、如何なる大聖といえども、中心に起って指揮を取るという状態にはなり得
ないのです。
そういう大聖を中心者としての世界政治が行われるようになる為には、人類の一人一人の浄化が
必要になってくるのです。神々は、人類一人一人の浄めの為に、病気や不幸災難という、この世的
には神のみ心のマイナス面であるような、いわゆる消えてゆく姿的な状態を現わしつづけています
が、この消えてゆく姿を、如何に本心開発と結びつけてゆくかということが、宗教者の重要課題な
のであります。
おさ
道を為めて、損じつづけてゆくことも、無為の世界、宇宙神のみ心の中に入りきってしまうまで
に至ればよいのですが、道を極めようとする途中で、あまりにこの世的な損失が多いので、この世
むむ
的な利益のある方向に向をかえてしまう人も大分あると思います。
自分は大丈夫だけれど、妻子の為に、という人々もあるでありましょう、自分が正しいと思って
も、上役のいうことを通さなければ、会社や役所を止めなければならぬ、止めたら妻子の生活が即
236
座に困ってしまう、ということなど、この世には随分とあることであります。
こんな場合心の正しい人は、実に困りきってしまうと思うのです。そういう時にはどうしたらよ
いのだろう。私にもそういう相談が時々あります。しかし私は、長いものには巻かれろ式の教え方
はしません。しかしといって、あなたの正しさをそのまま通しなさいともいいません。この世の出
来事は、すべて消えてゆく姿だから、その場その時の正不正に想いを把われさせていてはいけない。
その場その時々の上役の不正と見える事柄も、大きな眼からみれば、真実の正しさがやがて現われ
てくる為の一つの消えてゆく姿なのだから、あなたは、上役の業が一日も早く消えますように、上
役と私の天命が完うされますように、という祈り心になって、世界平和の祈りをしつづけなさい、
と教えているのです。
無為の境地という心境になりますと、善にも悪にも、光にも闇にも一切の把われの想念が無くな
ってしまうのです。そこで道を求めて、やがては無為の境地に達せんとする人々は、やはり、善悪
の想念にあまり把われ過ぎてはいけません。その場で悪行為に見えることも、実は、神のみ心が、
悪の根源を根絶やしにしようとして、その場に浮び上がらせて消してしまおうとしているのかも知
れません。
237学を為むるものは日に益し

折角神のみ光りで消してしまおうと思って現わしたものに取っ組んで、悪だ不正だと騒ぐことは、38
2
かえって大きな神の計画からすれば、その正義観が邪魔になるかも知れません。神々の大きな広い
み心から現わされることは、肉体人間の眼からすると、ある時は悪に、ある時は闇にみえたりする
ものであります。
ですから、如何なる現われに対しても、想いを乱したり、把われたりしないような、心の修練こ
そ、道に沿って生きる為には大事なことであるのです。
おさ
老子はそうした自由自在心に至る、無為の道を説きつづけているわけで、道を為めて損が重な
り、利に走りたくなったら、時々は利に走ってもよいではないか、ただし、その行為を消えてゆく
姿として、世界平和の祈りのような大乗的な祈り心の中に入れきってゆく必要はあるのです。
そうしないと、折角登った山道をまた降ってゆくようなもので、何度でも登り直さなければなら
なくなり、かえって損失が多くなるのであります。人類は誰も彼もが、やがては老子のいう無
為の道、仏教の空の世界に昇りきらなければならないのです。どうせ登るものなら、後戻りしない
で、一度に昇り切ったほうがよいのです。そうすれぽ、何度でも重ねて苦しむ必要がないのです。
そこで私はすべての苦悩も悪想念も、みんな消えてゆく姿だから、自己の本心の座である世界平和
の祈りの大光明世界に、そうした想念をすべて投げ入れつつ生きてゆきなさいとすすめているので
あります。
239学を為むるものは日に益し

240
第二+五講聖人には常の心無し……
道徳経第四十九章
あハシノテノヲストナルハトシヲナルモトセソヲナレパナリナルハトシヲ
聖人無二常心殉以二百姓心一為レ心。善者、吾善レ之、不善者、吾亦善レ之。徳善 。信者、吾信レ之、
ナルモトセソヲナレパナリノルヤ のトシテニノスノヲバグノヲハ
不信者、吾亦信レ之。徳信 。聖人在二天下嚇激敏為二天下一渾二其心鴫百姓皆注二其耳目叩聖人皆
ニスヲ
抜レ之。
〔読み方〕
せいじんつねこころなひやくせいこころもつこころなぜんものわれこれぜんふぜんもの
聖人には常の心無し。百姓の心を以て心と為す。善なる者は、吾之を善とし、不善なる者も、
われまたこれぜんとくぜんしんものわれこれしんあしんものわれまたこれしん
吾亦之を善とせん。徳、善なればなり◎ 信なる者は、吾之を信とし、不信なる者も、吾亦之を信
とくしんせいじんてんかあきゆうきゆうてんかためそこころにごひやくせいみな
とせん。徳信なればなり。聖人の天下に在るや、敏獄として天下の為に其の心を渾す。百姓は皆
そじもくモモせいじんみなこれがい
其の耳目を注ぐ。聖人は皆之を孜にす。
せいじんっねここるなひやくせいここるもつこころな
聖人には常の心無し。百姓の心を以て心と為す。
つねめいいと
この常という言葉は、常を知るを明と日う、と第七講にも説かれておりますように、本来は宇宙
はず
神の深いみ心のことでありますが、この心を人の心としてみますときには、道に外れぬ高い深い心
の状態ということになります。
ところがここでは、その常の心が聖人には無いといっているのであります。これはどう考えたら
よいかといいますと、道に外れぬとか、高いとか深いとか立派だとかいう、一定した心が無い、と
ひやくない
いうのです。それでは一体どういう心があるのかというと、百姓の心を以て心と為す、と老子は申
しておるのであります。
百姓とは今日の言葉で申しますと、一般大衆とか民衆とかいうことになります。ですから、聖人
には、自分を立派にみせようとか、自分の心を落すまいとか、汚すまいとか、いう心も無ければ、
聖人というような定まった心もない。只、一般大衆の心を自分の心としている、というのでありま
す。
241聖人には常の心無し
ぜんわれこれぜんあぜんわれまた
善なる者は、吾之を蕃とし、不善なる者も、吾亦之を善とせん。徳、善なればなリ。
242
善なる者を善とするのは当り前のことですが、不善なる者も吾亦之を善とせん。というのは、
普通の常識では判らないと思います。そこで老子は、徳善なればなり。といっているのであります。
徳善なればなりとは、どのようなことをいうのかと申しますと、徳という言葉は、道という言葉
と組み合わせて、道徳と呼ばれておりますように、道そのものを現わし、宇宙神のみ心そのものを
現わす心の状態をいうのであります。
道という言葉を、大宇宙万般の法則とすれば、徳とはその道を、この人類世界に行為として表現
してゆくことであります。いいかえれば、道徳とは宗教心そのものだといえるのです。
徳とは即ち宇宙根源の心を、人類の心として表現した言葉なのです。この文字を分解して解釈致
してゆきますと、一番上の十は宇宙根源の縦の心と横の心の大調和した十字でありまして、これは
ちよくれいいちれいしこん
大 霊或いは直霊ということなのです。その下の四は、神道で、一霊四魂といっております。四魂を
現わす四なのであります。四の下に一があってその下に心があります。これを綜合しますと、一霊
四魂の一つに調和した心ということになるのです。左のぞ(ぎょうにんべん) は歩むということで
すから、この大調和した心の歩んでいる歩み、つまり、行為ということになるのであります。
じつそうしん
ですから、文字そのものも、宇宙神のみ心を心とした実相心のことを徳という文字で現わしてい
るということになります。人の実相心、本来の心は善なのでありますから、徳善なればなり、とい
うことになります。
以前にも申しましたように、老子は光明思想家なのですから、人の性は善なり、宇宙は大調和し
ているのである、ということをよく知っていたので、不魯なる者も善なり、とみることができるの
ですQ
しんわれこれふしんとくしん
信なる者は、吾之を信とし、不信なる者も、吾亦之を信とせん。徳信なればなリ。
この節は、前節と同様に解釈すればよろしい。善が信という言葉に変っているだけで、
な老子の心を現わしているからです。
同じよう
てんかあきゆうきゆラてんかそにごひやくせいみなじもくそそ
聖人の天下に在るや、款々として天下の為に其の心を渾す。百姓は皆其の耳目を注ぐ。聖人は皆
243聖人には常の心無し
がい
之を揉にす。
244
きゆケきゆう
款々というのは、呼吸をひそめるとか、あつまる、一つにするというような意味であります。聖
人はこの世にいて、どういう生き方をしているかというと、呼吸をひそめ、天下の為になる宇宙要
素を一つにあつめて、人類救済の力を強力なものにしながら、しかもその心をはっきりと外に現わ
こんとん
さず、さながら宇宙がまだ活動をはじめず、ただぼうっと大きく渾沌としているような状態で、物
事事柄に処している。それでいてその力は天下人類の為に非常に役立っているのであります。
それにくらべて百姓即ち一般大衆というものは、耳をそばだて、眼を皿のようにして、利害損得
の問題に追いまわされている。聖人はそうした百姓の心を馬鹿にしたり、そうした百姓の生活から
超然としているような態度はみせず、百姓の心をそのまま自分の心としながら、しかもその百姓の
せいちようじゆんぼく
心に流されず、幼児が無邪気に笑っているような、いささかの汚れもない、清澄な純朴な心でこの
世に存在しているのである。と老子はいっているのであります。

聖 人と凡人とは全くその起っているところが相違するのです。どういう風に相違するかと申しま
すと、聖人の起っておりますところは、この現象の世界ではなく、宇宙神のみ心の中、つまり、実
相そのままのところに起っているのであります。
へんめりつねな
ところが凡人は、すべて、現象の変滅常無き、私流にいうと、消えてゆく姿を把えて、それを実
けポ
在とみて生活しているのです。金が増えた減った、地位が上がった下がった、病気をした、怪我を
した、生れた死んだ等々、その瞬間、年、月、日という時間経過の中で、変じ滅してゆく、実体の
ないものごと事柄にその想念のすべてを把えられているのであります。
私が常に申しますように、人間は宇宙神のみ心の中にその本住の地を置くものでありまして、そ
の生命波動が、神、霊、幽、肉というように、その波動を変化させて、種々な現われ方をしている
のです。聖人はその事実をはっきり知っておりまして、自らの心は常に宇宙神のみ心と一つのとこ
ろに置きながら、その想念波動を、対する人々によって、変化させてゆくのであります。
れいぜん
ですから、聖人だといっても、親しい人々の不幸災難に対して、冷然とすましこんでいるわけで
はありません。親や知人の死に会えば、凡人と同じように、悲しむこともあるでありましょう。
それはおかしい。聖人は永遠の生命を知っているのであり、肉体の死というものは、生命現象の
単なる一つの変化でしかないのに、悟りきっている筈の聖人が、肉体の死を悲しんだり哀れんだり
するのはどうかと思う、という人がいるかも知れません。
245聖人には常の心無し
ヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘへ
そういう人がいることを知っている老子は、そこで、百姓の心を以て心と為す、といっているの462
であります。聖人がもし、親の死にも知人の死にも、冷然とした態度でいるとしたら、その聖人に
しんきんかん
対して、人々は果して好意を寄せるでありましょうか。親しみや、親近感を抱くでありましょうか。
ことはな
私は恐らく、何かその場にそぐわない、異なる離れた感情を抱き、この人は別の世界の人だという、
よモまそちか
淋しい外々しい感じを抱くことでありましょう◎ 人間の感情というものは、どうしても自分と近し
い波動の人に親しみを感じるものでありまして、たとえ立派な人であっても、自分に離れた感じの
人には、近寄りたいとは思わぬものなのです。
そこで聖人は、心は宇宙神のみ心の中に置きながら、想念波動を百姓の心に波長を合わせ、相手
やその場の状態に応じて、種々と変化した現われ方をするのであります。親に死なれれば誰しも悲
しみます。それが一般人の心であります。聖人はその一般人の心に想念を合わせて、自らも涙をこ
ぼすのであります。しかし、この涙はわざとらしい涙でも、芝居じみたものでもなく、真実の涙な
のであります。涙を流しながら、その想いの中に把われているわけではありません。その親や知人
の肉体的変化が、その人たちの永遠の生命の働きの為に、よりよいものであるのを祈っているので
あります。
その場やその人たちの想念波動に波長を合わせながら、その人たちの永遠の生命に、宇宙神のみ
光をそそぎこんでいるのが、聖人の心の状態なのであります。
凡人の涙は、死者の消えてゆく姿の業波動に波長を合わせて泣く涙でありまして、その想念は汚
れているのです。同じ涙を流すのでも流しかたによってこのように違うのです。
なまさと
生悟りの人の中には、親や知人の不幸災難に対しても、死に対しても、その悟りの状態をみせよ
うとするのあまり、涙一つこぼさず、平然とした態度で、人は必ず一度は死ぬものです、死ぬ時は
死ぬがよく、生くる時には生くるがよしなのです、等と笑い顔でいったりしていることがあります。
ここのところがむずかしいところでありまして、涙をこぼすこぼさぬの問題ではなく、その場そ
の時その人々の想いの波に合わせて、しかもその人々を浄めるということが悟った人の天命なので
ありますから、人々の想念波動と異なる波動でその場にいたのでは、その人が悟った人である意義
がなくなってしまいます。
しゆつけ
一人出家すれば九族救わる、という言葉がありますが、これは一人の人が出家、つまりこの業生
の世界を脱出して、神のみ心の中に住んでいれぽ、その光明波動が、九族の人々にまで伝わってい
って、その人々までも救うのである、ということなのです。このように自分が悟りの境地に入ると
247聖人には常の心無し
いうことは、そのことがそのまま人々に光を与えることになるのであります。
そこで、人々に光を与、兄る状態というのはどういう状態であるかと申すと、先ずその人々の想念
波動にこちらから想いの波長を合わせなければなりません。人々が悲しんでいる時は悲しんでいる
波長に合わせ、波長を合わせたところに自らの光明が流れ入ってゆくのであります。
それを独り自分だけが、人々の波動と異なる波のままでいて、その人たちに光明波動を流し入れ
るわけにはゆきません。ですから私はそうした態度の人のことを生悟りの人というのです。真実の
聖者とは、百姓の心を心とする人なのであります。
和して同ぜずなのです。悟っているようで悟っていない人。平凡そのままで悟っていない人。
平凡そうにみえて悟っている人。自己の悟りの段階を知って、一層精進している人。凡夫そのまま
の聖者。聖者の風格そのままの聖者。道を求める人、道に達した人。人間の世界というものは実に
しんしんし
面白い、興味津津として尽きぬものがあります。老子の言葉はいつも同じようでいて、妙趣心に沁
みて参ります。
248
第二+六講生を出でて死に入る……
道徳経第五十章
デテワルあロロニリイテクせノヨユリレノゾ
出レ生入レ死。生之徒、十有レ三。死之徒、十有レ三。人之生、動之二死地噛亦十有レ三。夫何故。
テナリノヵスワキヲシククスルヲハニハコワテモこヲヲモクズルノヲモ
以二其生レ生之厚鴫蓋聞、善摂レ生者、陸行不レ遇二兇虎剛入レ軍不レ被二甲丘命兇無レ所レ投二其角噛虎
ククノヲモシトルルノヲレノゾテナリノキヲ
無レ所レ措二其爪剛兵無レ所レ容二其匁叩夫何故。以三其無二死地一也。
〔読み方〕
せいいしいせいとじゆ5 さんおしとじゆ, さんあひL鴨せい, ビしもゆ
生を出でて死に入る。生の徒、十に三有り。死の徒、十に三有り。人の生、動いて死地に之く
またじゆ5 さんあそなんゆえそせいいあつもつけだきよせいせつ
もの、亦十に三有り。夫れ何の故ぞ。其の生を生かすの厚きを以てなり。蓋し聞く、善く生を摂
ものりくこユじこあぐんはいこラへいこうむじモつのとうとこるなとら
する者は、陸行に兜虎に遇わず、軍に入りても甲兵を被らず。兜も其の角を投ずる所無く、虎も
モつめおところなへいそやいにいところなモなんゆえそしちなもつ
其の爪を措く所無く、兵も其の双を容るる所無しと。夫れ何の故ぞ。其の死地無きを以てなり。
249生を出でて死V’入る
生を出でて死に入る。
また
の、亦十に三有リ。
ととゆ
生の徒、十に三有リ。死の徒、十に三有リ。人の生、動’いて死地に之くも50
2
生を出でて死に入る。というのは、生れ出でて死んでゆく、という風に解釈すればそれでも間違
いではありませんが、もっとくわしくいえば、人間は、生命の本源から一人一人の生命と分れて、
げんしようかいいとた
この現象界の生活を営むことになるので、この生命の本源から分れ出でてくることを、生を出でて、
ゆうかい
といっているのであります。この現象界というのは、あに、肉体界ばかりではなく、幽界も霊界も
やはり現象界なのであります。
人間生命が、この現象界の肉体に生れ出でていることは、すでにそこに死という現象のあること
もはっきり決定されていることなのです。そこで老子は、この生から死への肉体生活の期間におけ
る四種類の生き方を説明しているわけなのであります。
せいと
一つの生き方を生の徒といっております。この生き方はどんな生き方かと申しますと、生命本来
ちようじゆまつと
の在り方に素直に生きて、肉体を粗末にあつかわず、自分自身を大事にして生きぬき長寿を全うし
たような生き方でありまして、こういう人は十人のうち三人はある、というのです。
しと
二つ目の生き方は、死の徒というのでありまして、生命本来の生き方にそぐわぬ生き方をして肉
わかじに
体身を弱め、若死をしてしまうような人で、これも十人のうち三人はある、というのであります。

三つ目は、人の生、動いて死地に之くものという生き方で、これは、しないでもよい乱暴な無茶
しりよみんべっ
なことをして生命を粗末にあつかい、いたずらに死地におもむいてしまうような、思慮分別のない
しようどうてき
衝動的な生き方の人で、これも十人のうち三人はある、というのです。
これらはいずれも、生死をもっている人たちなのであります。
弁れ佛の鍵ぞ・其の生を生かすの隣きを磐なリ。
とら
何故そういうことになるかというと、その人たちが、いずれも、肉体身に把われていて、肉体身
きどあいらく
にまつわる欲望や喜怒哀楽に想いをうばわれていることが厚いからなのであるというのです。
前述の三つの生き方のうちでは、第一の生き方が一般人としては最も上等な生き方なのであり、
善い人といわれ、立派な人といわれる分野の人ではありますが、老子の眼からみれば、そのくらい

の生き方では、とても立派などとは誉められない生き方なのであります。251生








何故かといいますと、そうした生き方の人でも、肉体身にまつわる様々な想念があって、生命を52
2
くしこ
自由自在に駆使できるわけではないし、死を超えて生きつづけ得る程にはなっていないからなので
あります。
肉体身に把われる想念が少しでもあるようならば、その人は死を超えて生きている人ではなく、

やはり生死を有って生きている人ということになり、神のみ心をそのまま現わし得る、大調和の人
ということはできない、と老子は思っているわけなのです。
老子の人間観というものは、非常に高度なものでありまして、少しぐらい善いことをしたとか、
精神的にも肉体的にも他に秀れている、というような、相対的な優越などは、あまり問題にならな
ロこんていいのでありまして、その人が如何に、宇宙神のみ心そのままの生き方をしているか、大自然の根抵
に働く、法則にはっきり乗り切った生活をしているかが問題なのであります。
老子にとっては、ロ先や筆先の哲学的説明や、宗教的説法などは、どうでもよいことなので、そ
みずか
の人自らが、大光明に輝きわたっているような人であることを願ってい6のであります。
書いてあることがとっても立派で為になるので、この人は余程秀れた聖者である、と思って会い
にゆき、深くつき合ってゆくうちに、書いているものとは程遠い凡夫であったりする場合がずいぶ
んとあるものです。書いたりしゃべったりしていることと、その人とがあまり相違するようでは、
その相違の度合だけ、その著者なり説教者なりは、神のみ心を離れてしまっているわけで、その人
じかいおこた
の損失は大きいわけなのです。私なども自戒おさおさ怠りなし、であります。
けにきよせつりくじこはいこうへいこうむじつの
蓋し聞く。善く生を摂する者は、陸行に兜虎に遇わず、軍に入リても甲兵を被らず。兜も其の角
やいばいそとこるつめお
を投ずる所無く、虎も其の爪を措く所無く、兵も其の刃を容るる所無しと。夫れ何の故ぞ。其の死
もつ
地無きを以てなリ。
それでは、どういう人を老子は望んでいるかというと、この節の人のような人にすべての人がな
ることを望んでおります。
せつ
自分が聞いたことだが、善く生を摂する者、つまり、大生命の根源に直接つながっていてその生
命は大生命そのままの流れとなって伝わってきているような人は、無の境地にも有の境地にも、そ
もようえつ
ういうなんの境地などというのを超越してしまっているので、肉体の有る無しにかかわらず、生命

が生き通しているので、今更生れ更わるとか死ぬとかいうような、そういう肉体界だけにとどまっ
253生を出でて死に入る
ている想念はさらさらない。だからそういう人には死というものがないG
54
2

そこで、こういう形の世界を超えて、生命そのままの流れになってしまっているような人は、山
じこあじ
路を歩いていても兜虎にも遇わない。兇というのは、野牛に似ていて、その色は青く、その皮は堅
きん
くて甲を造るによく、一本の角があって、目方が千斥もあるといわれ、その角で人をひっかける危
険な動物の名ですし、躍はご存知の彪です。こうした危険な動物にも避わないし・また趣つたとし
じいだ
ても、兇はその人になんの敵意も抱かず調和してしまって角をひっかけてくるどころではなく、大

人しくまつわりついてくるし、虎も爪をたてるどころではなく、小猫のように馴れ親しんでしまう、
というのです。
かんかさ
そういう人は、軍に入っでも甲兵、つまり武装することもないし、戦争に参加して、干父を交じ
やいぱ
、兄ることもない。たとえ、兵がよってきても、その人には双を向けることはできない、というので
あります。
どうしてそういう状態になるかと申しますと、その人はすでに大生命と一つになっているし、神
のみ心の奥に入りこんでいるのでありますので、神のみ心は大調和そのものであり、悪もなければ
敵もない。争いもなければ、病もない。生命そのものの輝きだけなのでありますから、傷ついた
り、死のような状態をまねいたりすることがないわけになるのです。
そしちなもつ
其の死地無きを以てなり、なのであります。老子さんはそんなことおっしゃるけれど、それは理
想であって、現実にはそんな人がありよう筈がない、といわれる方もたくさんありましょうが、こ
しんじん
れ程に徹底した神人という者は、滅多に存在するものではありませんが、これに類することは、宗
教的に深くなった人にはちょいちょい実現していることなのです。
私などでもたびたびそういう状態になることがあります。一つの例をとりますと、戦後のことで
すが、その頃は黒人兵の馬鹿な人がかなりいまして、日本人をおどして金銭をまきあげたりしてい
ました。或る晩私が新宿を歩いていまして、右側の人道を歩いていたのを、なんの気もなしに左側
の人道に歩をうつして五六歩歩いて、ひょいと右側の人道をみると、前方からやってきた黒人兵二
人に私の後から歩いてきていた男の人が首をしめられ、金品をまきあげられていました。私がそこ
を歩いていたら、私がやられていたところなのでしょう。その頃の私は想念停止の練習がまだまだ
つづいていた頃なので、全く空の境地でそのまま歩みを運び去ってしまったわけですが、そのよう
じねんほうに
に自然法爾に行動しでいることが、大生命の光の流れと一つになっていますので、自己の生命の働
きにマイナスになるような出来事には一切出会わさぬようになってゆくのです。
255生を出でて死に入る
こういうことは、素直に神のみ心に入っている人々には往々あることなのですが、これが徹底し56
2
てそうあるような心の状態になることは大変なことなのです。大変なことではありますが、老子は
人々の誰もがこうした心の状態になることを望んでいるのであり、自らもそうなり得ている神人な
のであります。
ですから、誰も彼もがこうした心の状態に遂いにはなり得るのでありますし、なり得るよう
に、守護の神霊方が、人々を導きつづけているのでありますが、そうした心になり得ぬ人々が、少

しぐらいの心境の相違で、私のほうが偉いのだ、あの人のほうが立派なのだ、等と、人と心境を比
きく
較し合って、喜んだり、なげいたりしているのであります。
こがいしき
老子あたりからみれば幼い人たちだと思われることでしょう。人間に個我意識があるうちは、と
てもこうした心の状態にはなり得ませんので、私は、すべての想念は消えてゆく姿だ、といってい
るのであります。
自分とか相手とかいっているのは、相対世界のことなのですが、形の世界はすべて相対界であっ
て、絶対界は形の姿としては見当りません。そこで人々はどうしても相対界からぬけ出し得ません。
私のほうが、あなたのほうがとやっているわけであります。
ここのところが、なかなか老子のいうような心の状態に踏みこみ得ないところなので、どうした
ら、そうした絶対界の人として生活でき得るか、という問題が残るのです。そこで私は、私たち人
ぜいせいめいしようせいめい
間は、大生命の分れである小生命であって、お互いにさかのぼれば、大生命の根源において一つに
結ばれているものである、ということを認識することを教えているのであります。私たち人間は、
大生命のみ心をお互いが天命として分け合って成就してゆくことに決まっているのであります。そ
かか
れは肉体身としては生れ更わり死に更わりして成就してゆくことになるのでありますが、一人一人
もとちよくあい
の生命の元においては、お互いの守護神としてはたまた直霊として、光の交流をし合っているわけ
なので、私といいあなたといっても、大生命の光明をお互いに交流し合っている仲なのであって、
相対的なようにみえても絶対者において結ばれている私とあなたなのであります。
人々はこうした真理を知ることが大事なのです。こうした真理が自然と判るように、私は、消え
てゆく姿で世界平和の祈り、というように、現象世界のすべての出来事および想念波動を、すべて
ゆうごり
消えてゆく姿として、世界平和の祈りという絶対界のみ心の大光明波動に融合させてゆく方法を実
践しているのであります。
私はこうした方法によって、無理なく容易に、老子のいう、大調和した神人に多くの人々を達せ
257生を出でて死に入る
ti
しめようとしているのであります。
t

258・
やしな
第二+七講道これを生じ、徳これを畜い……
道徳経第五十一章
リワヒヲヅクリヲスヲワテハシルハピテヲバヲキキレ
道生レ之、徳畜レ之、物形レ之、勢成レ之。是以万物、莫レ不二尊レ道而貴7徳。道之尊、徳之貴、夫
クシテニズルコトニヲリおジヲヒヲジヲヂヲシヲシワヒヲフワジテシヂセ
莫二之命↓ 而常自然。故道生レ之、徳畜レ之、長レ之育レ之、亭レ之毒レ之、養レ之覆レ之。生而不レ有。
シテシテマジテシテセヲヲト
為而不レ侍。長而不レ宰。是謂二玄徳弔
〔読み方〕
みちこれしようとくこれやしなものこれかたちいきほいこれなこれもつばんおつみちたつととくたつと
道之を生じ、徳之を畜い、物之を形づくり、勢之を成す。是を以て万物は、道を尊びて徳を貴
なみちたつととくねりとモこれめいなつねおのずかしかゆえみちこれ
ばざるは莫し。道の尊き、徳の貴き、夫れ之に命ずること莫くして、常に自ら然り。故に道之を
しよりとくこれやしなこれちようこれそだこれていこれどくこれやしなこれおほしよりしかゆり
生じ、徳之を畜い、之を長じ之を育て、之を亭し之を毒し、之を養い之を覆う。生じて而して有
なしかたのちようしかさいこれげんとくも
せず。為して而して侍まず。長じて而して宰せず。是を玄徳と謂う。
259道これを生じ,徳これを畜い
道之を生じ、
やしないきおい
徳之を畜い、物之を形づくリ、勢之を成す。
260
道でも、徳でも、物でも、勢でも、宗教的に一口でいえば、神様のみ心とか、神様のみ力とかい
ってしまえば、それで説明は済んでしまいますが、老子は神という言葉をつかわずに、神のみ心、
み力を、各種の角度からいい現わしているのであります。
中でも老子は、道と徳という言葉を一番奥底の深い言葉として使っております。この章では、道
やしな
を万物を生ぜしめる根源の力という意味で使っておりますし、その万物を畜う力として徳を使って
おります。道徳の力をして、万物が生育し、誤ちなく各自各種の生活生存を為し得てゆくのである
きほん
ことを説いているわけですが、その道徳を基盤にして、物質的な要素がすべてを形づくり、勢い、
つまり各種のエネルギーの働きによって、万物がそれぞれの存在活動をなしえてゆくのである、と
いっているのであります。
ただ神といわず、囎羅麟に自然ともいわず、導罐物勢というように・万物を譲発展せ
し め展開せしめる根源をこのように分割して説明してゆくところは、現在の科学の在り方の根抵に
なっているような気さえいたします。
たつと
是を以て万物は、道を尊びて、
なおのずか
莫くして、常に自ら然リ。
たつとなたつとたつこそこれ
徳を貴ばざるは莫し。道の尊き、徳の貴き、夫れ之に命ずること
たつとたつと
このように、道や徳は、万物を生成発育させて下さっているのだから、道を尊び徳を貴ばざるも
のはいない。誰も彼も、何物もすべて、道や徳の力に尊貴の念をもっている、というのであり
ます。
どうして、道がそのように尊く、徳が貴いのかといいますと、道でも徳でも、誰に命ぜられた
からといって、その行為をしているのではなく、命ずる何者もないのに、自らが自然に、万物を生
成発育させているのであることが、その尊貴に価するところなのである、というのです。
命ぜられたからする。なんの理由があるからする、というのでは、その理由があることによって、
その尊貴さはマイナスされてしまう、ということがその裏の言葉にあるわけであります。ここのと
ころが、老子の無為の思想の根本のところであります。
次の節では、その老子の思想がはっきり現わされているのです。
261道これを生じ,徳これを畜い
故に道之鑑陵徳之を醸・之を長じ之書て・之を騨し・之毒し・之を灘之を畢・
しかたのしかさ
らけんとくいじて而して有せず。為して而して特まず。長じて而して宰せず。是を玄徳と謂う。

26?
この節で灘、という言葉と馨、といゲニつの同じような言葉がありますが・藝のほうは力
たくわ.、、、、ぐしな
を畜えておく、という意味のあるやしなうであり、片方の養うは、成育させる、畜えた力を育てあげ
ヘヘヘへ
た 方向に使ってゆくという意味をふくめたやしなうなのであります。
老子といわず、漢文をよくする人は、このへんの言葉の使い方に実に気を配っておるようですが、
今の人にとっては、そんな細かいことどうでもよいではないか、といいたいところです。
それから、之を亭し、之を毒し、とありますのは、之を高く、平らかにし正しく、之を育てる、

ということで、毒という字は育てる、という意味なのです。
そこで、この節を解説致しますと、道というものが万物を生じせしめ、徳がこれをやしない、育
てあげ、生長させてゆくけれども、生んだからといって自分のものにするわけでもなければ、立派
になったからといって、これを頼みにするのでもない。どんなに成功し、どんなに偉大になっても、
こうなったのは、みんな自分たちのおかげなのだ、というような恩きせがましい気持もなく、自分
が頭になってそれらを自分の思うままにしようという気持もない。全く、養い育て、立派にするだ
けに、自分の力をそそぎこんで、そのお返えしを受けようなどという気持が少しもない。こういう
げんとく
気持を玄徳というのだ、といっているのであります。
玄徳というのは、このように一番深い深い、根源のみ心の在り方のことをいうのです。
親子の間でも、師弟の間でも、友人間でも、あらゆる対人関係において、こういう玄徳の心が現
われていたら、どんなにこの世の中は美しく住みよいものになることでありましょう。
報いを求めぬ愛の心は尊いものです。だが報いを求めぬ、ということだけでも、今の人々にはな
かなかできがたいことなのであります。
それは個人の間ででも、国家間においてでも、現今ではほとんど、こうした愛は行じられており
ません。個人の間ではまだしも、国際間においては、実に報いを求めぬ愛行為が欠けております。

自己の為したことについて、なんらかの報いを期待したら、それが金銭的なことでなく、相手の
むい
喜びをさえ期待したら、その人の愛行為は、無為ではなくなるのです。無為から生じた行為でない
場合には、必ずといっていいほど、その人は期待はずれの結果を、いつかは受けてしまうのです。
263道これを生じ,徳これを畜い
その反対に自分がいつしたのかすっかり忘れ果てていたような愛行為が、相手にとっては終生の鋤
喜びとして、心を温めている、というようなことが、よくあるものです。
宇宙神のみ心そのもののような、玄徳の心にはなかなかなり得ませんでしょうが、さらりとした
愛行為のできる人間に、一日も早く多くの人々がなっていったら、どんなにかこの世の中が明るい
ものになるでしょう。
私はそうした道に入るのには、やはり、祈りによる心の浄化より他に方法がないと思っているの
です。
かめぐ
人間というものは不思議なもので、思わなくともよいようなことが、次から次へと頭脳を駈け巡
ひそ
り、一体こんな想念は、頭脳の中にどんな風に潜んでいたのかなあ、などと思ったりするものです。
頭脳を駈け巡る想念というものほど、あてにならぬものはありません。人間を立派にするという
より、人間を混乱させる要素のほうがよけいふくまれているのが、頭脳を駈け巡る想念波動です。
けんおえはな
それは、心配、不信感、嫌悪、不安定、等々、頭脳を駈け巡る想念は、得てして、神のみ心を離れ
たものが多いのです。
自然の美や、無心なものにひかれている時の輝くような瞬間、愛の心に触れた時の喜び、それ
しず
らの心の状態は、頭脳を駈け巡る想念波動からくるものではなく、そうした想念がどこかに鎮まり
かえった時に、本源界の生命の光が、そのまま伝わってきたことによる輝きであり喜びであるので
すが、玄徳の心というものは、そうした輝きや喜びを、瞬間的に味わうようなそういう心の状態で
もなく、そうした本源世界そのままが、常の状態としてあるので、特別に輝きを感じ、喜びを感じ

る、という境地をもはるかに超えているわけです。
ところが、そんな心の状態には、普通人ではとてもなりえません。そこで私は祈りによって知ら
ぬ間に玄徳の心に近づけるような方法をお伝えしているわけなのです。
まつと
世界人類の平和をひたすら祈り、自分たちの天命が完うせられることを祈りつづけるような、世
界平和の祈りの心の状態というものは、今すぐ世界人類が平和になるものでもなく、自分たちの天
命が完うされるものでもないのですから、祈りの効果を焦り求めるような状態にはなりません。た
だただ、神への感謝を根抵にして、自己の業想念を、救世の大光明の中に投入して、心臓や肺臓が、
自分がなんの思いわずらいをせずとも、自然にその働きをしていてくれるように、自分の想念行為
も、自然と、神のみ心そのままの想念行為になってくるように、自然と玄徳の心になってくるよう
に、というのが、この世界平和の祈りの心の状態なのです。
265道これを生じ,徳これを畜い
それは無為にして為す、という老子の根本思想の世界に、祈り言をもって、昇りきってしまう方
6
2
法なのであります。現代の人たちには、玄徳の心といっても、無為といっても、空といっても、そ
の心の状態の素晴しさはわかっても、自分自身では、とてもとても達し得ない境地だと、はじめか
らその境地に昇ろうとする意志がないのです。
ですから、あまりそうしたかけ離れた境地になることを、はじめからすすめたとて、とても無理
なことなので、私はそうした素晴しい境地を、一応、老子や釈尊やイエスの言葉で示しておいて、
そういう境地になれば素晴しいのだ、あなたも人類も共に本心のままの生き方のできるのは、一人
でも多くの人が一日も早く、そうした境地になることなのだ、だがしかし、そういう境地には一朝
せぽ
一夕でとてもとてもなれるものではない。だから私が世界平和の祈りという、エレベーターをここ
に用意しておいたから、ひとまずこのエレベーターにお乗りなさい。あなたの知らぬ間に、高い境
地に昇ってしまいますよ。
という風に世界平和の祈りをすすめているわけなのです。
あなたの為にしてやったのだ、という愛行為も、あの国の為にしたのだ、という国と国との交流
も、誰の為でも、どこの国の為でもない。みんな自分の為であ
り、自国の為であるのです。生命
はすべて一つの源からきているのです。元を正せば、みんな一つの生命なのです。ただ一人一人が
本源を等しく枝葉として異なる使命をもって生れ出でているだけなのです。
本源の等しい使命というのは、宇宙世界の完成ということであり、その一つとして、地球世界の
完全平和ということなのであります。宇宙の星々はすべて連関して動いております。人間もそうし
た星々と同じように、だれもかれもが関連して動いているのであります。自分だけがよけれぽ、自
分だけが困らなければよいなどという生き方は、万物の生き方としては無い生き方なので、そうし
うモ
た生き方は虚構の生き方なのです。生きるのではなく、生命が死んでいる状態なのです。生命が生
き生きと生きている状態というのは、自分の生き方が常に、宇宙全体の運行に調和している生き方
なのであります。
それを知るためには、身心をもって、世界平和の祈りを行じつづけてゆくことが、最大の早道で
あり、最もやさしく効果ある方法なのであり、宇宙神へのご恩返えしでもあるのです。世界平和の
祈りは、宇宙神のみ心の中に自己の想念がすっかり入りこんで一つになってしまう祈りなのであり
ます。
267道これを生じ,徳これを畜い
第二+八講天下に始有り、以て天下の母と為る……
道徳経第五十二章
天翰レ始・篇鰍天蔑聴籔其鉢場飢二其孔露勤其爵復轟謡薄”デ島不レ臨・。蟄二菊
ヲズレパノヲセキノヲセメノヲバレルヲヲヒトルヲヲフトヒテノヲ
党の閉二其門画終身不レ勤。開二其免↓ 済二其事一終身不レ救。見レ小日レ明、守レ柔日レ強。用二其光剛
スレパノニシスコトノヲヲフト
復二帰其明噛無レ遺二身狭殉是謂二襲常幻
〔読み方〕
てんかはじめあもつてんかははなすでモははしもつモヒしすでモニ
天下に始有り。以て天下の母と為る。既に其の母を知れば、以て其の子を知る。既に其の子を
しまぬモはにまもみはつあやラ
知って、復其の母を守れば、身を没するまで殆からず。
モおゐさそもんとしゆうしんきんそぜひらモことなしゆうしんすく
其の党を塞ぎ、其の門を閉ずれば、終身勤せず。其の党を開き、其の事を済せば、終身救われ
しようみめいいじゆタゑもきよういそひかりもちそめいあくきみわざわい
ず。小を見るを明と日い、柔を守るを強と日う。其の光を用い、其の明に復帰すれば、身の映を
のこなごハしゆラじよラい
遺すこと無し。是を襲常と謂う。
268

天下に始有リ。以て天下の母と為る。既に其の母を知れば、
ぼつあやりまた
って、復其の母を守れば、身を没するまで殆からず。
以て其の子を知る。既に其の子を知
天下に始有り、という始とは、老子流にいえば道であり、キリスト教的にいえば、創造主(造物
主) であり、普遍的ないい方をすれば、大生命ということになります。
この道であり、創造主であり、大生命であるものは、天地万物を生みなしているのであるから、
天下の母ということができる。というのであります。
さあ、これからの文章が問題なのであります。
既に其の母を知れば、以て其の子を知る、ということなのです。実際に既に其の母を知ってしま
えば、この人類の悩み苦しみはすっかり消えてしまうのですが、この母である、道であり、大生命
である、宇宙神のみ心というものを、知りつくすということは、今日では殆どの人がなし得ぬこ
となのでありまして、この大生命の法則の一部分を知り得た宗教者や科学者が、自己の体験や自分
の学識を、世の人々に知らせ得るだけなのです。
269天下に始有り,以て天下の母と為る
秀れた宗教者や科学者でも、その程度なのでありますから、一般の人々にとっては、この天下の702
母を知ることは容易なことではないのです。
そこで、一般の人々が、天下の母である大生命のみ心を知る為にはどうしたらよいか、と申しま
すと、実に平凡な言葉のようですが、自己の置かれた立場や環境を、すべて神のみ心によって置か
れた立場や環境であるとして、素直に感謝の気持で受けて、その場その時々を真剣に生きてゆく、
ということなのであります。
この立場や環境が、たとえどのように自分に都合の悪いようなものであっても、その都合の悪い
はず
事柄や辛い出来事は、みんな過去世における、宇宙神のみ心に外れた想念行為の現われ、つまり自
己の誤った所業の因縁因果が、神のみ光によって消されてゆく姿と思って、祈り心でaを送ってゆ
くことが、そのまま、天下の母である宇宙神のみ心の中に入って生きていることであるのです。
頭脳的に理論的に道を知ろうとすることより、自己の一時一瞬の想念行為をも、すべて祈り心、
感謝の心で、日々の行為として生きてゆくことのほうが、母の心を体験的に知り得ることになり、
実際問題としてその身心の徳となるのであります。その真理を私は消えてゆく姿で世界平和の祈り
として、人々に知らせているわけであります。
母である、道、大生命のみ心を知ることは、その子である人類及び万物の在り方を知ることであ
る、と老子はいっているのですが、今も申しましたように、頭脳で理論的に知ろうとしても、なか
なか母の心は判るものではありませんから、子である人間のほうから、母のみ心の中に飛びこんで
しまう方がよいのであります。これが消えてゆく姿で、世界平和の祈りなのであり、祈りによる全
託行であるのです。
そう致しますと、自然と母のみ心が子である人間の方に伝わってきまして、母のみ心が随時随処、
その場その時においてはっきり判ってくるのであります。この境地が進んできますと、いわゆる神
我一体といわれる境地になってくるのです。
ぼつとう
頭脳的理論的に母を知ろうとするのには、奥深い科学的学問に没頭しなければ、とても知り得る
ものではありません。今日の科学ではまだまだ母のみ心のほんの一部分を知っただけで、半ばにも
達していません。そうした今日の地球科学でも、その学問にたずさわっている人は、それこそ寝食
を忘れてそれぞれの学問に献身しているのであります。
その点、宗教的な全託行で、天下の母を知る方が、一般人にとっては容易であろうと思います。
私たちは、そうした宗教的な祈りによる全託行、つまり世界平和の祈りによって、母のみ心につな
271天下に始有り,以て天下の母と為る
ちくじ
がり、天下の母のみ心を、宇宙科学という、科学の学問形式によって、逐次知らされつつあるので捻
2
す。天下の母即ち宇宙法則を地球人類全般に知らせるためには、宗教的な現わし方だけでは駄目な
のであります。やはり、どうしても、人類が頭脳的に理論的にそして実際面に応用でき得る、科学
方式によって、一般に知らせ得なければ駄目なのであります。
私たちは今、宗教の祈りから生れた科学の道に立って、天下の母の心を地球人類に知らせようと
して、真剣に活動しているのです。
母を知ることと、その子を知ることとは、一つの道なのであります。老子のいう、
あやう
既に其の子を知って、復其の母を守れば、身を没するまで殆からず、は全くその通りでありまし
て、宇宙法則の万般を知ることは、そのまま人類の深い神秘が判ることであり、人類の在り方がす
っかり判れば、宇宙法則がそのままはっきり判ってくることなのであります。
人間の細胞組織や、原子や電子のことが判っても、その力を、原子爆弾のような、核兵器に用い
るようでは、これは、その母を守るのではなく、宇宙法則の最大の重要な問題である、宇宙の大調
和を破るものでありますから、その母を傷つけるものとなるのです。母を傷つければ、子である人
類が傷つくのも理の当然であります。
天下の母である道、即ち、宇宙大生命の創造の法則、進化の法則、
り、科学でなければ、その身を守ることはできないのであります。
大調和の法則を守る宗教であ
其の餅を慰ぎ、其の門爵ずれば、繋灘ず。其の舞を開ミ其の事を浄せば・繋響れず・
小を見る醸昏喚柔を守る農ど・う。其の光を用稜其の明に復帰すれ嘆身鍵藻すこ
しゆうじよう
と無しo 是を襲常と謂うo
だふさだ
其の莞を塞ぎ、という免ということは、穴という意味をもっていますので、ここでは、眼や耳や
口という、見たり、聞いたり、しゃべったりする機関のことをいうのであります。こういう諸機関
ふさ
を塞ぎ、というのは、真の人間は肉体の眼や耳や口で、見たり、聞いたり、しゃべったりすること
で満足していてはいけない。そんな人間の入口のところに想いがひっかかっていてはいけない。そ
んなことでは人生に疲れてしまって、真実の生き方ができるわけはない、終身救われることがない。
だから、そういう入口にある想念の門を閉ざして、奥の奥の深い奥にある真実の心を見出さなけれ
ばいけない。それは、眼にも耳にも想念にも触れないような、微妙なひびきではあるが、五感に把
273天下に始有り,以て天下の母と為る
だみさ
われる想念を鎮めて、即ち其の党を塞ぎ、其の門を閉ざして、想念を深い奥に入れきってしまう。短
2
くう
つまり、空の境地になってしまう。
想念を深く鎮めきると、大生命のひびきが、じかにひびいてくる。宇宙科学式にいえば、小さな
小さな、微妙きわまりない宇宙子の動きが判ってくる。この心を明というのだ、と老子はいうので
あります。
そして、この明の心になり、柔軟な柔和な自由自在の心になれば、この心は、宇宙神、大生命に
じかにつながっている心だから、何もの、何ごとにも負けぬ、強靱なものになるのである。そうい
う大生命の光を用い、そのような明の境地に復帰し、復帰しとは、人は本来、神そのものの生命で
あり、明そのものの心をもつものであるのに、業想念波に踊らされてその本心を見失っているわけ
なのであるから、明の心になることは、本心に復帰したということになる。
そんな心の状態を保っていれば、未来永劫身心わざわいを残すことがない。襲常というのは、こ
ういう心の状態をいうのである、と老子はいっているのであります。
老子解説者のしばしば迷うことは、老子の言葉には、一見消極的な生き方をすすめているような
説き方に見られがちな、言葉がありますが、私は常に、老子は消極をも積極をも超えた、無為の在
り方を説いているのであって、老子の思想を、消極とか積極とかに限定してしまってはいけない、
というのです。
あさ
この章でも、母を守る、とか、塞ぎとか閉ざすとか、柔を守る、とかいうような守勢の言葉をつ
かっていますが、この言葉は、単なる消極ではなく、無為の心になりきって生れてくる行為なので、
天地を貫いて作用する、大能力となって、現われてくるのであります。
実際は、こういう無為の生き方のできる心の状態になった人でないと、はっきり、そうなんだ、
と老子の言葉に全幅の肯定を為し得ない、と思うのですが、実際にあらゆる想念に把われず、自己
の気というものが、奥の奥の奥底に入りきってしまう、つまり、大生命のみ心の中に入りきってし
まうと、いわゆる霊覚という状態になりまして、五感や六感を超えた超越心で、事物事柄に当れる
ようになり、この世の人々にとっては、不思議だ不可思議だ、というような事柄が、なんでもなくで
きるようになるのであります。
そういう風に、父であり母である宇宙神のみ心のままの生き方が、そのままその人の行為となっ
て現われてくることが、既にその母を知ったことになるのでありまして、自分の行為がどうだ、人
の行為がどうだ、などと、現われては消えてゆくような想念行為の波には把われぬ心の状態になっ
275天下に始有り,以て天下の母と為る
ているのであります。端
おのずかこと
霊覚と霊能というのは自ら異なるのでありまして、霊覚とは、老子のいう無為になりきった
人の神秘力をもった生き方であり、霊能とは、神秘力や不可思議な能力はあるけれども、無為の心
の状態になっていないので、自己のそうした能力を、自分自身の欲望達成に使っていて、天下、人
類の為のものとはしていないのです。
ですから、単に霊能力がある、不思議なことのできる人、というだけで、その人を霊覚者とみた
り、悟った人と思ったりしてはいけません。
そこで、どうしても老子講義のような、深い教えを知る必要があるのであります。老子の教えは、
常に奥義を説いているのでありまして、特殊な能力の発現や、神秘力を説いてはおりません。それ
うわ
でいて、神秘力が自ら現われる生き方が説かれているのであります。その真理は、文章の上べ
だけを読んでいたのでは判らないのです。文章の上だけでは、むずかしいことを説いている、とか、
そういう風に自分の行為を守ってゆけばよいのだなあ、ぐら。いにしか思わぬ人もあるわけですが、
おの
老子の言葉はその一言一句が、神のみ心の光を帯びて読む人の本心を自ずと開いてゆく程の力をも
っているのであります。
第二+九講我をして介然として知ること有らしむれば……
道徳経第五十三章
ムレ・ハヲシテトシテヲルコトク昌ヲナカラソ2トヲレルハダラカナリル昌ハムヲダスレパパ〆シ( ダ
大道甚夷。是畏。而民好レ径。朝甚除、田甚蕪、倉甚使二我介然有サ知、行二於大道↓惟施
シシヲピヲキニリヲフトハザルヵナニ
虚。服二文繰↓ 帯二利剣↓ 厭二飲食↓ 財貨有レ余。是謂二盗奄⑩ 盗奄非レ道也哉。
〔読み方〕
かいぜんあたいどうただななめこおそ
我をして介然として知ること有らしむれば、大道を行くに、惟施なからんことを是れ畏る。大
たいしかたみこみちちようじよでんぶくらむなぶん
道は甚だ夷らかなり。而るに民は径を好む。朝甚だ除すれば、田は甚だ蕪し、倉は甚だ虚し。文
さいあくりけんおいんしよくあとりこいとうこあら
絵を服し、利剣を帯び、飲食に厭き、財貨余有り。是を盗誉と謂う。盗穿は道に非ざるかな。
かいぜんただななめこおそ
我をして介然として知ること有らしむれば、大道を行くに、惟施なからんことを是れ畏る。
277我をして介然として知ること有らしむれば
かいぜい
私がもし介然として、介然としてというのは、暫くの間とか、変化せぬさまとか、気にかかるさ782
まとかいう意味で、介然として知ること有らしむれば、という風になりますと、小智才覚とか、把
われた私智慧とかいう意味になってきます。
そこでこの意味を通して解釈しますと、私がもし小智才覚で生活していたら、自分が大道を歩い
ているのに、この生き方は善い生き方かしら、この道をいったら誤りではないか知らなどと、いつ
もいつも、道を誤りはしまいか、人を傷つけはしまいかとおそれながら生きてゆかねばならないこ
とだろう。
という意味になります。
たい
大道は甚だ夷らかなリ。
ぬみこみち
而るに民は径を好む。
大道というものは、甚だ平らかであり、平和な調和した道なのであり、少しの誤りもある筈のない
道なのである。今日流に申しますと、神のみ心のままに生きてゆく道は、安心立命の道であり、不
幸や不調和の起りようのない道なのである、ということになります。
それなのに国民というものは、神のみ心に任せきった、いわゆる大道に沿った生き方をしたがら
こみち
ないで、兎角に、つまらない枝葉の現われに把われてしまって、大道をそれて、径に入りこんでし
まうものである、というのであります。
もようじよでん` くらむなさいムく
倉は甚だ虚し。文繰を服し、朝甚だ除すれば、田甚だ蕪し、
とうこあら
リ、是を盗奄と謂う。盗奄は道に非ざるかな。
りけんあ
利剣を帯び、飲食に厭き、財貨余有
政治家や役人たちが、自分たちの周囲だけに気を取られて、そこだけを住みよいようにし、自分
ゼいたく
たちだけが贅沢し、自分たちの政務が取りやすければよい、というようだと、国民の田畑が荒れ果
から
てているのも、倉が空っぽになっているのにも気づかずに、遂いには内乱を起してしまいかねない。
そのように、これらの人たちが、徒らにきらびやかに飾りたてた衣服をつけ、きれいに格好のよ
い剣を腰にさげ、御馳走を喰べ飽きて、食事に対して少しの感謝も無く、有り余る財宝を積んで得
はな
々としている様子は、まるで盗人が盗んだ財宝を華のように飾り立てているのと同じなので、これ
を盗苧・すなわち・盗んだ華という。この齢苧は、大道を外れること甚だしく、人の道ではないの279我


















である。80
2
と老子は厳しく役人たちをいましめているのであります。
人間の世界というのは、いつの時代でも、どこの国でも、あまり変らないもので、老子にいわれ
たこの言葉はそのまま、今日の政治家や役人たちにも当てはまるものです。
老子は非常に小智才覚で生きることを嫌っておりますが、人類がまだ大道に乗りきっていない今
日までは、どうも小智才覚で生活している人々の方が、この世的には上等な生活を営んでいるよう
なのです。ここのところがなかなかむずかしいところで、どうも人間というのは、その時々の損得
の方に想いが向いてしまい勝ちなもので、永遠の生命につながる、真実の生き方をつづけてゆくこ
とは、並大抵のことではできないのです。
しかし、想いを鎮めて、よくよく自己の本心をみつめ、人々の運命をみつめてみますと、どのよ
うに、その時々がよさそうにみえましょうとも、大道を外れた小智才覚で得た地位や財宝は、やが
ては崩れ損じてゆくものであることが、はっきり判るのであります。
現われの世界は、すべて消えてゆく姿であることは誰でも判ることです。すべての事物事柄は、
変じ滅してゆくのであり、諸行無常であることは、人間が生れてそして死んでゆく、ということが
決定的なことであるのですから、判らぬ筈はないことです。
ところが、先のことはどうでもよい。現在が幸せで、現在がうまくいっていればよいのだ、とい
にく
うのが、一般の人々の考えなのですから、人間は救われ難いのです。
小智才覚ではいけない。人間智慧では真実の平安をつかむことはできない、といくらいわれても、
一般の人々には、それでは一体どうしたらよいのか判らないのです。
小智才覚ではとても安心立命できないのだし、神智というものは、小智才覚を捨てきった時に自
ずと湧いてくるものであることは、そういう境地に成った人には、よく判ることなのですが、普通
では判らないのです。無理もないといえば無理もないことなのですが、無理がないでは済まされな
い時期が、この地球人類の前に次第に近づきつつあるのですから、このままでは困るのです。
今日まで老子や釈尊やイエスや様々の聖者方が、口をすっばくし、身をもって教え示してきたの
ですが、地球人類は、未だに神智で生きているのではなく、依然として小智才覚、人間智慧がその
主流となって生活しているのです。
ですから、この人間智慧、小智才覚をどうしたらやさしく、神智にかえることができるのか、と
いう方法がないとどうにも一般大衆の安心立命の生活ははじまらないのであります。
281我をして介然として知ること有らしむれば
この方法が祈りなのでありますが、この祈りもただ自己の生活や心身の安全だけを願うような、肌
2
昔流の願い事では駄目なのです。祈りというのは、人間智、小智才覚を、すべて消えてゆく姿とし
て、神のみ心の中に入れきってしまうような祈りでなければなりません。
それでなければ、老子の導き入れようとしている境地には、いつまでたっても入るわけには参り
ません。私はその真理をよく知っておりますので、小智才覚を、世界平和の祈りという祈り言の中
に融けこませて、いつの間にか、神のみ心、神智とすりかえてしまう方法を教えはじめたのです。
小智才覚を、世界人類の平和を祈る、人類愛の想念の中に自然に入りこませ、この人類愛の想念
おの
波動が、実はそのまま神のみ心であり、神智の湧きいずるところである、ということを自ずと体得
させてゆくのが、消えてゆく姿で世界平和の祈りなのであります。
老子講義がいつも世界平和の祈りと関連して説かれているのは、老子講義をそのまま字義通りに
解釈するだけでも、或る種の人々にとっては想いが浄まり、生きる力となるのでありますが、一般
の人々にとっては、それだけでは、教えが高いところにありすぎて、どうにもその教えにつかまり
ょうがないのです。
老子の説く大道が、或る種の悟道に達した人にだけしか光を及ぼさないのでは、折角老子講義が
残された意味が薄くなります。老子講義はやはり一般の人々の光となって世々を照らしてゆく必要
があるのです。
人はみな神からきたものです。大道は人の生くる道です。ですから、大道を外ずれた生活をして
いる者は、真実の人の生き方をしていないということになります。人の生命が神からきているもの
である限りは、神のみ心のままにその生命を生かしてゆかねばなりません。
老子は神という言葉はつかっていませんが、この章では大道という言葉で、神のみ心のままの生
き方ということを示しています。老子は大道そのまま生きていた神人です。大道を歩んでいながら、
小智才覚でその道を確かめようとしたりすると、大道を外れて小さな枝葉の道に迷いこんでしまい
ヘヘヘヘヘへ 
ます。そこで老子は常に無為にして為せといっているのであります。ああしょう、こうしょう、こ
れがいい、これは悪い、といちいち自己判断をするものではない。無為にして為せである、という
のです。無為にして為せ、とは蟹識ということと同じことです。すべてを神のみ心に任せきって、
その日その時を感謝で生きるということで、その間に小智才覚をはさむ想念の隙がない生き方なの
であります。
それが口でいうように、そうたやすくできないので、私は、消えてゆく姿で世界平和の祈りとい283我


















う方法で、無為の行為と同様の行為をするような道に人々を導き入れているのです。
はず
老子にいわせれば、大道を外れた生き方をしながら、財産を残し、美衣美食にふけっているもの
とうこ
はみんな盗穿なのであります。それは何故かと申しますと、神の生命は神のものであって、人間の
私すべきものではないのです。人間が大道を歩いていれば、それはそのまま神の生命を生かしきっ
ているのですから、どのように富んでいようと、どのように財宝があろうと、何等盗脊ではないの
ですが私利私欲で得た財宝は老子流にいえば、すべて盗んだ華であるのです。
この盗穿の生活をしている人々は、この世の生活を終えた後のあの世の生活、そして再びこの世
かわ
に生れ更ってきての生活と、この盗んだ華の代価を支払う生活をしつづけなければならなくなるの
です。
それは、神の生命は常に浄め澄ましておかねばならぬものなので、汚れた分だけはどうしても浄
化せしめなければいられぬように、大自然の摂理はなっているからなのであります。
そこで老子はどの章においても、道を外れるな、大道をゆけ、徳行の生活をせよ、といいつづけ、
現象世界の一瞬一瞬の楽しみのために本道を忘れてはならぬと説きつづけているのです。
現象世界の、その日その日は勿論大事であります。大事でありますからこそ、その日その日の生
284
こみち
活が、大道を外れぬように、小智才覚の枝葉の生き方でないように、径に迷いこんだ生活でないよ
さわウ
うにして、永遠の生命を汚れなく障碍なく生きてゆかねぽならないのです。
うそ
先のことを考えるより、今日只今の生活がうまくゆくなら、少しぐらいの虚言をついても、自己
本位の生き方をしてもよい、というより、いつの間にかそんな生活が身についてしまっているのが、
現今の一般人の生き方となっているのですし、国家間でもそんな生き方をつづけているわけですが、
そんな誤った生き方の慣習から一日も早くぬけ出してしまうことを人間は考えなければいけません。
一人一人の人間も国家人類も、小智才覚の業想念波を乗り超えて、真実の人類の生き方をしてゆか
ねばなりません。
時は今です。今日こそ是非共、悪い誤った慣習を脱出しましょう。その為にこそ、消えてゆく姿
で世界平和の祈りが生れたのです。
老子も人類世界がいち早く業想念波を光明波動にかえてゆくよう尽力して下さっているのです。
285我をして介然として知ること有らしむれば

笙二+講知る者は云わず、云う者は知らず……
道徳経第五十六章
鉱巻不レ雪㍗茜巻不レ知。塾二蜘施↓陽二菊防納蜘恥菊鉱軸鰍二菊絢哨机駕光嚇聞野菊騒殉匙識二玄臥叩
カヲテシムカヲテンズカヲテスカヲテスカヲテクスカヲテウクスニ
不レ可二得而親叩不レ可二得而疏幻不レ可二得而利幻不レ可二得而害叩不レ可二得而貴叩不レ可二得而賎哺故
ルノト
為二天下貴叩
〔読み方〕
しものいいものしモだみさとえいくじみんと
知る者は言わず、言う者は知らず。其の兇を塞ぎ、其の門を閉ぢ、其の鋭を挫き、其の紛を解
やわちりどうこれげんどういえしたぺうとぺ
き、其の光を和らげ、其の塵に同ず。是を玄同と謂う。得て親しむ可からず。得て疏んず可から
りぺがいぺなつとぺいや
ず。得て利す可からず。得て害す可からず。得て貴くす可からず。得て賎しくす可からず。故に
きな
天下の貴と為る。
286
にみさ
知る者は言わず、言う者は知らず。其の免を塞ぎ、
やわちウげんどうい
其の光を和らげ、其の塵に同ず。是を玄同と謂う。
とえいくじあんと
其の門を閉ぢ、其の鋭を挫き、其の紛を解き、
知る者は言わず、言う者は知らず、とは、よく使われる言葉ですが、真実に深い学問を修めた人
は、やたらに喋々とその学問についてしゃべりまくることをしませんし、神の道を深く知っている
者は、やはり、やたらにその道を相手かまわず説くようなことは致しません。
あまりよくその道のことを知らない人のほうが、一寸でも道の片鱗にふれると、自己の知識を人
に知らせ、自分の偉さを示したくて仕方なくなり、誰にでも構わず、その話をしては楽しむ、とい
う形になりやすいのです。
宗教の道を行として体得せずに、知識として知ろうとする人の中には、言う者は知らずという中
に入る人が多くおります。宗教の道というものは、言葉として知らせるものではなく、その全人格
へだた
をもって知らせるものなのですから、人格と言葉とがあまりに隔っていますと、その人がしゃべれ
ばしゃべる程、この人は真実のことを何も知らないのだなあ、と相手の人に思われてしまいます。
私が若い頃、トルストイの本を盛んに読んでいまして、話の度びにトルストイはね、というよう
287知る者は云わず,云う者は知らず
ちようちよう
な調子の時がありました。たまたま、トルストイ研究の専門家に、喋々とトルストイの話をしてし88
2
まい、後でとんだ恥ずかしい思いをしたことがありました。それ以後私は、余程確信をもったこと
以外は、知ったかぶって話さぬようになりました。いい経験だったわけです。
宗教的知識というものは、種々と本を読んだり、話を聞いたりしますれば、誰にでも一応はつ
いてまいります。しかし、その知識の内容を現実生活に現わしてゆくことが大変なので、その教え
をそのまま行為に現わしてゆくことが道に乗っているということになるわけです。この道に乗り、
み心のままを行じているような人は、自分のほうから道の話をしかけてゆくというより、相手に尋
ねられて、ぼつぼつ話はじめるというような人が多いのですが、話し出せば、その話は自分が実際
おの
に行じているところなのですから、迫力もあり実もある話になり、自ずと人を感動させ得る程の力
をもっているのであります。
これは宗教ばかりでなく、あらゆる学問の分野においてもそうではないかと思います。ですから
だふさと
老子は、其の党を塞ぎ、其の門を閉ぢ、というような言葉で、やたらに、人から聞いたこと学んだ
こと、耳から眼から口から、いわゆる五感で知ったことや、想念の世界、つまり、六感で感じたこ
とを、すべて真実と思って人々に話したり発表したりせぬよう、一度五感も六感も閉じてしまって、
くじかび
五感や六感で知ったり味わったりしてできた、自分の知識や感覚から生れた、才気を挫き、華美な
よそおと
想念や装いを解き、あの人は知識才能に秀でているのだなあ、とても偉くて、光が強すぎて、我々
やわ
は近づき難い、というように、人に思わせぬように光を和らげ、一般大衆と全く同じように、平々
ちり
凡々の人間として、あたかも塵あくたと同じような目だたぬ存在として生きてゆくことが大事だ、
という説法をしているのであります。
げんどう
そして、そういう風になった人を玄同の人というのだ、といっているのです。そこで、この玄同
というのはどういうことかと申しますと、玄というのは、以前にも説明しましたように宇宙神のみ
心の一番深いところ、奥底のことでありまして、私共の宇宙科学的にいえば、宇宙核の中というこ
とになります。
すべての存在の一番奥のところでは、すべての根源が一つに存在しているわけで、ここのところ
から、次第に種々様々な生物、存在として分れてくるわけでありますが、これが只単に植物だ動物
だというように分れてくるわけではなく、宇宙核から中心核、宇宙子核というように分れ、その宇
宙子核から各宇宙子が、その数、角度、流れというように、それも精神的なものと、物質的なもの
とに区分されながら、分散し集合し分散し集合して、発展していくわけで、その間に現在の地球科
289知る者は云わず,云う者は知らず
学で研究されている、電子や中間子や中性子や陽子などの存在があるわけなのです。90
2
こうした微粒子群が様々な波動となって、宇宙の運行ともなり、鉱物や植物や動物や人類として
発展してゆくわけなのであります。
老子のいう玄同とは、こうした宇宙神のみ心の奥のところでは、すべてが一つである、というこ
とで、そういう一体観をそのままこの現象の生活の中で現わし得ていることをいうのです。
えしたべうとぺぺ
得て親しむ可からず。得て疏んず可からず。得て利す可からず。
いやきね
可からず。得て賎しくす可からず。故に天下の貴と為る。
ボいたつと
得て害す可からず。得て貴くす
このような玄同の境地にある人というものは、親しもうとして、その人の心の奥に入ってゆこう
としても、普通の人のように、その人の心の在り方がわからなくて、なれ親しむことができない。
うとうと
といって、何んだ、’というように疏んじようとしても、何か心がひかれていて疏んじることもでき
ない。この人を利用して自分の為にしようとしても、どんな利益の話にも乗ってこないし、やっつ
けてやろうと思って、種々と手だてをくわだてようとしても、思うようにはゆかない。だからとい
ってこのような人は、あなた様は尊い人で、立派な人で、有難い人で、というように、あがめたて
いやいや
ても、別に何んという変化を現わすわけでもないし、賎しめようとしても、どうにも賎しめること
ができない。であるから、こういう人は天下の貴い人である、ということになるのである。と老子
はいうのであります。
凡人とみれぽ凡人と見え、貴人とみれば貴人と見える。貴人とみて、尊とんで話してみると平々
凡々とした話をする。凡人とみて話しかければ、凡人ならざる光明が感じられてくる。何んともつ
かみどころがないが、いつの間にか相手の人々の心の汚れがとれているし、何か得難いものをその
人から受け入れた感じがしてくる。といった人が、玄同の境地になった人なのです。
この世の中には、権力の座にいたり、或る高い地位を与えられていることによって、偉い人なの
だな、立派な人なのだなあ、と思われている人々がありますが、一たん、その権力の座や高い地位
から降ろされてしまうと、凡人よりももっと始末に悪い低人格を現わす人がおります。
そういう人は権力の座にいた時や高い地位にいた時には、さぞかしその地位を利して、自欲をほ
しいままにしていたのであろうと思われます。
かえせ
宗教者の中などにも、神の名を借りて、信徒の弱点につけ入り、金品をまきあげている似非宗教
291知る者は云わず,云う者は知らず
者のあるのをよく耳にしますが、どうにもやりきれない嫌な思いがします。凡夫である、と自分で2%
も思い、人々もそう秀でた人とは思っていないような人の中に、意外と魂の高い立派な人がおりま
すし、自分で、自分の魂の位が高いのだと思いこんでいる人で、この世の生活態度の全然駄目な、
他人に迷惑ばかりかけているような人もいます。
そうかと思うと、魂の位は高いのだが、神霊界のことばかりに興味をむけていて、折角天命をも
って生れ出でてきた、この肉体世界の生活を、まるでおろそかにしている人もおります。肉体世界
に生を受けてきたことは、どのような人でも、肉体世界の為に何等かの貢献をするためにきている
のであって、肉体世界の生活に怠惰であってよいわけがありません。
宗教をやっている人の中には、えてして、神秘的なことばかりに興味をもっていて、霊魂をみた
り、神霊の世界や幽界の様相をみたりすることだけに想いをひかれ、一般の人々との交際ができな
くなってしまう人がいますが、これはこの世に生れた人としては困りものなのです。神秘にひかれ、
神霊界の在り方に興味をむけたりすることは、宗教の道に入った人としては当然なことではありま
ぽにん
すが、.それはあくまで、この肉体界に基盤をもってなさねばならないことで、この肉体界から足を
浮かして、宙ぶらりんの状態で、ああ、神様の姿を拝した、光明世界を観た、神の声を聞いたなど
と、そうした神霊現象ばかりに把われていたのでは、この肉体世界の生活が崩れてしまい、折角神
あだ
霊界に開かれた道が、かえってその人の仇になってしまいます。

老子が常に無為にして為せ、といっているのはここのことなのです。どんなに神様を求めていて
も、それが何等かの興味であったら、それはもう純粋に神を求める態度ではなくなるのです。神を
求める想いは純粋でなければなりません。自己の本心(仏性)開発の為にこそ神を求めるのです。

無為にして為せという老子の言葉の通りに生きていれば、自ずと自己の本心が開発され、やがては
玄同の境地になり得るのです。

しかし、そこまではなかなかなり得ないのですから、神を求むるのあまり、神の姿を観る興味や
光明世界を観ようとする興味も時には、得難い経験を積むことにもなり得るので、致し方ないものと
みこ
して、そうした体験をした後には、今度はそういう観るという興味を超えて、神のみ心を行為とし
て現わす、という生き方に入ってゆかねばなりません。興味にばかり把われて、興味の後ばかりを
みずか
追いかけ廻わしていたならば、それは宗教心と全く異なる方向に自らを運んでいってしまいます。
誰でも深い境地に入りきるまでには、種々様々な神霊現象や幽界現象を味あわされます。だが
みずかけんげんしや
そこで、その現象に想いが把われてしまうか、そうした想念を超えて、自らを神のみ心の顕現者と
293知る者は云わず,云う者は知らず
して、この世の生活を生かしてゆくかによって、両者の存在価値はまるで異なったものになってし
924
まうのです。
老子はそうした真理を実によく知っていますので、神霊現象のようなことは殆んど説かずに、一
直線に神のみ心の深い奥底に人々を導き入れようとしているのであります。
善いことにも悪いことにも、すべての事柄に把われさせないように、把われの元である想念波動

を、どこかへ消し去ってしまおうとして、無為にして為せ、というのであります。
神といえば、神に把われる、仏といえば仏に把われる、そこで、想念行為と直結している道とい
う言葉で、人間の生き方を説いているのです。道といえば、神に姿を求めるような把われ方はしな
いからなのです。
すべての把われから解放された時、人間ははじめて自由自在の身になり得るわけです。その一番
やさしい方法、消えてゆく姿という言葉をつかって、神の道に導き入れているのが、私の説いてい
るところなのです。
笙二+ 一講其の政悶々たれば其の民は淳淳たり……
道徳経五十八章
ノタレパノタリノタレバノハタリハノルハノナリスカヲンヤノヲレキカ
其政悶悶、其民淳淳。其政察察、其民欠欠。禍今福所レ侮、福分禍所レ伏。敦知一一其極↓ 其無レ正
モリトモルトヘルコトノニニノワデハニシテセエシテヤニシヲ
耶。正復為レ奇、善復為レ妖。民之迷也、其日固已久 。是以聖人、方而不レ割、廉而不レ劇、直而
セアリテカサ
不レ騨、光而不L耀。
〔読み方〕
モまつウごともんもよたみじゆんじゆんまつりごとさつさつけつけつわざわいあく
其の政悶悶たれば、其の民は淳淳たり。其の政察察たれば、其の民は欠欠たり。禍は福
ニみたれさよくせいなせいまたな
の筒る所、福は禍の伏す所なり。敦か其の極を知らんや。其れ正無きか。正も復奇と為り、善も
またよサなぽことすでひさここもつほヲかつれん
復妖と為る。民の迷えること、其の臼固に已に久し。是を以て聖人は、方にして割せず、廉にし
けらちよくしかがや
て劃せず、直にして騨せず、光ありて耀かさず。
295其の政悶々たれば其の民は淳淳たり
まつりごともんもんじゆんじゆんさつさつけつけつ
其の政悶々たれば、其の民は淳淳たリ。其の政察々たれば、其の民は欠欠たり。
296
政治を執る場合、その政治がすっきりととれない状態で、あの分野もこの分野もどういう風な政
治をとったらよいのか、というように政府が悶々として、悶え苦しんでいるような時には、人民は
かえって国を憂い、国の為に純僕な気持になって働こうとする。その反対に、政府の政治のとり方
が細かいところにまで眼がとどき、明らかにすっきりと政治を行っていると、人民の方は、すべて
を政府にゆだねきって、国を思う気力が薄らぎ、安易な気持で日々を送ってしまい、自分たちの力
が次第に欠けてきてしまうものである、というのであります。
わざわいよ
禍は福の俺る所、
またような
善も復妖と為る。
たれ
福は蝸の伏す所なリ。敦か其の極を知らんや、其れ正無きか。
ヨたな
正も復奇と為リ、
この現象界における禍福というのは、それが永遠につながる禍福というのではない。禍がそこに
現われた時には、それは消えてゆく姿として消え去るべくして現われてきたもので、その奥には、
福が待っているのであり、福がそこに現われてきた場合には、その陰に禍が伏していることが多い
のである。その禍福はいつになったら、その転換を止めるのか、この世の中の人の誰もがその限界
を知らないのである。
それでは、この世の中には、正しいこと、定まったことが無いのか、というと、確かにこの世の
正しいということ、定められたようなことも、時には奇となってしまう。奇というのは、正常でな
い、定められた通りでない、よこしま、いつわり、珍らしい、ということですから、正を外れると
いうことです。
またようなヘヘへ
そして善も復妖と為る。というので、善といつても善という形が、いつの間にか、ばけてしまっ
て、人の心を縛ってしまったり、人を傷つける道具になってしまったりする。というのであります。
この世の中というものは、全く変化変滅しているものでありまして、正が必ず正ならず、善がそ
のまま常に善であるとはいえないのです。
禍福も正邪善悪も、この世の現れだけでみますと、いつその状態が変化するか計り知れないの
であり、いつ正と呼ばれたものが邪と呼ばれ、善と思われていたものが悪と現われるか判らないの
です。
297其の政悶々たれば其の民は淳淳たり
大臣、長官となるような福が現われたかと思うと、その地位に立ったばかりに、暴漢に襲われて
928
不慮の死を遂げるという、禍にあったりすることもあり、思わぬ大金が入るという福がころげこん
できたと思うと、その金が元で、精神に乱れが出て、遊び好きな人間になり、遂いには金にも家族
にも見放されてしまう、という禍を生み出していくことなど、随所にあります。
そうかと思うと、貧しい家に生れ、正式な学校教育を受けられないで、各職場を転々としたよう
な禍多き人生の経験がかえって幸して、その経験を生かした大衆小説を次々と書いて、遂いに有名
作家となったような人も、かなりおります。
さいわい
発明家とか、芸術家、実業家、宗教家などには、禍に幸されて、その道を極めていった人がたく
さんあります。

確かに、禍は福の椅る所、福は禍の伏す所なり、です。ですからこの人生においては、その時々
の禍福にいつまでも想いを把われていてはいけないのです。禍も福も私にいわせれば、すべて消え
てゆく姿であって、どのようなことも永遠のものではありません。永遠につながるものは何か、と
いうと、真の祈りあるのみなのです。
祈りとは、いのちの本質を現わしてゆくことで、常に自己の想念感情を、神のみ心の中にお還え
ししながら、日々の生活をつづけてゆくことです。
神のみ心を自己の心として生きてゆく状態が、いのりの状態です。祈りとは形の世界で合掌し、
すわ
形の世界で坐る、というだけのものではありません。
真の祈り心は、いつでも永遠につながっているのであって、禍福、善悪という変化変滅してゆく
なよく
状態の奥底に住んでいる、この章で老子さんがいっている、極に住んでいる心です。
ですから、禍福はあざなえる縄の如し、という禍福の変換の、そうした消えてゆく姿の極を知る
くうそくぜしき
ためには、祈り心一念の他には方法がないのであります。真の祈り心は、そのまま、空即是色の心
となるのです。
この世における、禍福、正邪というもののみに想いが把われていますと、常に禍福、正邪という
ものに自分の想念がふり廻わされていて、真実の人の在り方を自己のものとすることが永遠にでき
なくなってしまいます。
国と国との関係などは全く禍福に把われきったものでありまして、自国に禍するものや事柄は、
すべて悪とし妖とみるのであり、自国に益するもの利する事柄は、これすべて正とし善とするので
あります。
29y其の政悶々たれば其の民は淳淳たり
しかしシ
米国然り、中国ソ連また然りです。ですから、米ソ、米中、中ソの各国のやりとりをみています
と、お互いのいい分が全く正反対なのでありまして、他の国からみれば、どちらが正でどちらが妖
かは、全く見当がつきません。そこで他の国はまた、自国に都合のよい国の方の意見を正として認
めてゆくわけなので、神のみ心からみて、どちらが正しいのか妖なのか、また、どちらも正しくな
く妖なのか、さてどういうことになるのでしょう。
人間は、自己の立場に把われ、自己の利害を離れきれぬ心の状態のままでは、決して永遠につな
がる、神のみ心と真直ぐにつながる行為ができないのです。そういう想念から生れ出ている正邪感、
善悪感というものは、やはり、その人やその国の立場からみた正邪感、善悪感を超えるわけにはゆ
かないので、真理というわけにはゆかないのです。
真理をそのまま、この世の行為に現わしてゆくにはどうしたらよいか、次の節の、民の迷えるこ
ゑことすで
と、その日固に己に久し、なのであります。

まことすで
民の迷えること、其の日固に已に久し、
しかがや
にして蝉せず、光ありて耀かさず。
もつほラかつおんけけちよく
是を以て聖人は、方にして割せず、廉にして飼せず、直
ほうかつ
それでは聖人は一体どのような生き方をしているか、というと、方にして割せず、四角いものは
はず
四角、丸いものは丸い、というように、天地の理法に外れぬ生き方をしていながら、その生き方が、
四角い角で他人を傷つけたり、人の立場を損わせたりすることはない。自己は正しい生き方をしな
がらも、正しくない生き方をしている人を、そこにいたたまれぬような立場に追いこんだり、恥ず
かしくて顔も上げられないような想いにさせるようなことはしない。それでいて、いつしかそうし
た不正の人々を正しい生き方に導き入れてしまう、というのであります。
れんけいしかつ
廉にして劃せず、直にして騨せず、というのも、方にして割せず、ということと同じような生き
れん
方で、廉はいさぎよい、欲がない、正しい、という意味で、かどとか、すみ、とかいう意味でもあ
ります。そこでこの意味は、すぺての欲が無くて、正しく、いさぎよい生き方なので、角があって、
けい
人々を劃す、劃すというのは、やぶる、そこなう、ということですから、その角のあるところで、
人々を傷つけはしないかというと、そうはしない、というのです。

直にして騨せずとは、真直ぐで天につながっている生き方をしているのだから、自己のほしいま
まに、自由に伸び伸びとしていながら、その自由さが、無軌道な、だらしのないひろがりかたはし
301其の政悶々たれぽ其の民は淳淳たり
ていない。人の分野を乱すようなだらしなさが無い、というのであります。02
3
かがや
光ありて耀かさず、というのは、自己は天に住している心境なのですから、光明燦然と耀く程
のひびきを放っているのですけれど、その光を人々に判るような耀かせ方はしないで、自然にム々
の心に沁みこむような生き方をしている、というのです。
この世の中には、光を放つ程の心境でもないのに、如何にも光明燦然というような顔をして、人
々に道を説いている人もありますが、老子などは全くこの反対を説いているのであります。
例えどのような真理の道でも、あまり高過ぎて、人々には手もとどきそうもないように説いたの
では、人々はその教えについてゆきようもありません。ですから、誰にでもすぐ手がとどいて、
すぐに行えるような道にして、説かねばなりません。高い道を一度低い道にして説くということは、
道に把われていてはとてもできるものではありません。自己の住んでいる高い立場を下まで降りて
きて道を説くことができぬようでは、とても、光ありて耀かさず、というようなことにはゆきませ
ん。
国民を迷から目醒めさせる為には、光ありて耀かさず、というような人々がたくさん出て、大衆
の中で生活していてくれれば、いつの間にか多くの人々が、真理の道を踏み出すようになるのです。
私はその道を世界平和の祈りの道として、宣布しているわけなのです。誰も彼もやさしく入
れる大衆的な道でありながら、入ってみると光明燦然とした道であったというのが世界平和の祈り
の道なのであります。
道は一度に遠くにはゆけぬもので、道は近くにあって、しかも永遠にまでつながっているものな
のです。最も身近かにある道は、家庭調和の道でありながら、それはそのまま世界平和の道でもあ
るのです。
世界平和の祈りの道は、自己の偉さを喧伝する道ではありません。各自各自が、自己の想念を、
世界人類が平和でありますように、という人類愛の祈り言の中に、静かに穏やかに入っている、と
いう道であります。
世界平和の祈りの道は、神のみ心と人の愛とをつないでいる道です。世界人類が平和であります
ように、という祈り心が出ている時その人は、どのような凡愚の人であっても、光明に耀いている
のです。

世界平和の祈りの道から、どれだけの人が、老子に賞でられるような聖なる人となってゆくであ
ほまれ
ろうかと、私は心ひそかに楽しみにしているのであります。人に目立つことをするのが人の誉では
303其の政悶hたれば其の民は淳淳たり
ない。目立たずひそかにいても、その人の心に世界平和の祈りが常に絶えることなく湧き出でてい04
3
るような人こそ、世の誉なのであります。
つか
第三+二講人を治め天に事うるは畜にしくはなし……
道徳経五十九章
メヲフルハニシクハニレナリヲテクスクスフヲネテムトヲネテメパヲチシルコトクセケレパ
治レ人事レ天、莫レ若レ齎。夫惟畜。是以早復。早復、謂二之重積ツ徳。重積レ徳、則無レ不レ克。無レ
ルコトクセチシルコトノヲケレパルコトノワシテツヲツヲハシテナルヲブト
不レ克、則莫レ知二其極殉莫レ知二其極噛可二以有”国。有レ国之母、可二以長久幻是謂二深根固抵舶長
ノナリ
生久視之道。
〔読み方〕
おさつウしよくしなモただしよくここあくムくこれ
人を治め天に事うるは、沓に若くは莫し。夫れ惟音なり。是を以て早く復す。早く復す、之を
いすなわよよな
重ねて徳を積むと謂う。重ねて徳を積めば、則ち克くせざること無し。克くせざること無ければ、
すなわそきよくしななたもぺたも
則ち其の極を知ること莫し。其の極を知ること莫ければ、以て国を有つ可し。国を有つの母は、
べこれしんこんこていいちようせいきゆうしみち
以て長久なる可し。是を深根固抵と謂う。長生久視の道なり。
305人を治め天に事うるは薔にしくはなし
たたしよくみくなそしよくしつや
人を治め天に事うるは、奮に若くは莫し。夫れ惟奮なり。是を以て早く復す。
306
つか
人を治め、とは政治をするということですから、政治をするにも、天に事える、即ち、天命を完
うするにも・繋蕃である・それはもう唯難けといっている程だ。というのですが、この撃
いうのは、俗にいうりんしょく、けち、ということとは勿論違うのです。みだりに消費しない。ひ
かえ目にする、ということでありまして、役所で人を使うにしても、無闇やたらに仕事をいいつけ
たり、無理なことをさせたりするような、荒つかいはしないし、税金などでもやたら重税をかけた
り無理無体に取り上げたりはしない。役所の設備でもすべて質素にして、無駄な消費をさせないよ

う にするし、対外的な政治関係でも、自国を誇大にみせかけたり、飾り立ててみせたりするような
派手なことはしないで、万事ひかえ目にして政治を取ってゆく、というようにする。また個人とし
ての天命を完うする道も同じであって、自我欲望を満足させるために、立身出世主義になって、小
智才覚をしぼり、東奔西走したり、上役の機嫌を取るための種々の苦労をしたりして、生命エネル
ギーを浪費させたり、様々の遊びにふけって天与の力を無駄遣いしたりしないで、そういう外界の
浮き沈みや、遊戯に溺れる想念を控え目控え目にして、ただ天命の完うされることを祈っている。
私流にいえば、消えてゆく姿で世界平和の祈りをしていれば、国家としては、神のみ心に叶った立
派な国家の姿を現わすことが早くなるし、個人としては、天命を完うして正覚を得ることが早くな
るのである、というのであります。
早く復す、之を重ねて徳を積むと謂う。重ねて徳を積めば、
すなわきょくな
ざること無ければ、則ち其の極を知ること莫し。
すなわよ
則ち克くせざること無し。克くせ
しよく
そのように畜の生き方をしていると、無駄な精力、エネルギーを使わないので、天命完うの為の
必要な道にエネルギーがそそぎこまれる。そうすると、天命が降ってくる生命の根源の世界、つま
り宇宙神のみ心は光明燦然とした力の源なのですから、その天命に叶った生き方にだけ生命エネル
ギーを使っているということは、生命エネルギーを浪費しないばかりではなく、かえって根源の世
界からの光明を吸収して、重ねて徳を積む、という結果になってくる。このように徳の消えないう
ちに重ねて徳を積んでゆけぽ、その徳即ち人格智慧能力は、ますます磨かれていって、何事も為し
得ないことのない程になってくる、そういう人格になってくると、その人の極限の力は計り知れな
307人を治め天に事うるは奮にしくはなし
くなって、誰にも、その人の智慧能力の限界が判らなくなってくる、というのです。
なたもぺたも
其の極を知ること莫ければ、以て国を有つ可し。国を有つの母は、
ニていちようせいきうし
固抵と謂う。長生久視の道なリ。
しんこん
以て長久なる可し。是を深根
308
個人でいえば、その人の智慧能力の限界がどこまで深いのか計り知れないようなら、どのような
相手でも立向かうことはできないと同様に、国家の宅とも、その力の極根がどれ程のもの踏ある
か他国に判らないようならば、他国から侵かされるようなことは絶対にないし、国民もそういう政
おの
府の力を信用して国内も自ずと治まってゆくので、国家は安泰である。従って国家も保ってゆく道
しんこんこてい
は、長久である。こういう生き方を、深根固抵というのだ、というのです。この深根固抵とは、横
てい
に 広がる根と、抵つまりたてに入る根との二つの根が深く固って樹木を倒れることなく栄えさせる、」
という意味で、縦横に働く神のみ心を完全に十字に交叉させ調和させている人や国家は永遠に安泰
である、というのであります。・・-5
. : 〉・
そしてこの道は、長生久視の道である、というのです。長生久視とは、一口にいえば、長く世に
生存し、いつまでも見ている、ということで、久視とは、長時間まばたきもせず物をみている、と
いうことです。
しかし、老子の言葉はそうした表面的な意味ではなく、久遠の大生命の奥の奥までみつづけられ
る道を長生久視の道といっているのです。
老子は道を説くのに、肉体人間智だけで判るだけの言葉で道を説いているのではなく、人間の本
質である霊性をもって観じ取らねば、その深さの判らぬような、言葉のひびきで道を説いているの
ですから、肉体智だけで文字を読んでいますと、この世だけの浅い解釈よりできません。その点を
よく考えて、心を澄ませて原文を読まなければなりません。
ちなみに、老子の老というのは、奥深い体験からくる、智慧能力の秀れた人格高潔な人に対する
尊称でありまして、中国の紅卍字などでは、宇宙神の人類救済の中心として現われた神に対して、
老祖と呼んでいるのであります。禅宗の和尚は年令に関係なく老師と呼ばれているのでも、この老
の意味がよく判ります。
ですから、何等人格を磨くことなく老いていった人などは、真実の意味では老人ということはで
よわい
きないのですから、齢を重ねるにつれて深い生命観をもつように心掛け、人格高潔な人にならなけ
309人を治め天に事うるは畜にしくはなし
ればなりません。10
3
しよく
老子の説く、沓の教えなどは、実によくこの原理を説いているのでありまして、生命エネルギー
を無駄遣いせず、浪費せぬように常に心掛けて、人類の進化の為に使うべきである、というのであ
ります。
生命エネルギーは、個人の進化、国家人類の進化の為にこそ使うべきであって、個人の享楽や、↑
国家の権力欲の為に無駄遣いすべきではないのです。
生命エネルギーこそ、宇宙神から分け与えられている最高至高のものでありまして、すべての智
慧能力は、この生命エネルギーから生れてくるのです。私たちはこの生命エネルギーの最少の単位
を宇宙子と呼んでいるのであります。
ですから人間は、常にこの宇宙子の新陳代謝を計っていなければ、老廃した宇宙子が一杯になっ
て、生命エネルギーが、宇宙心から流れてくるのを妨げてしまいます。そう致しますと、それが精
神宇宙子であれば、精神状態が悪化して、想念波動が光明を減じてゆき、人格が低下してしまった
り、精神的病気になったりしますし、物質的宇宙子であれば、肉体的な病気になります。
そこで人間は、常に生命エネルギーの根源である神に想念をむけている、いわゆる祈りが必要で
ある、というのです。神とか祈りとかいわなくとも、生命エネルギーを常に人類社会の為め、自己
の人格や肉体の練磨の為に使っていればよいのであります。
つかしよくしな
この原理を老子はよく知っておりますので、人を治め天に事うるは、畜に若くは莫し、といって、
生命エネルギーを無駄遣いせぬ、有用に使うということが、何んにも増して、大事であると説いて
いるのであります。
是を以て早く復す、というのでも、疲れがすぐ恢復するなどという浅い意味ではなく、大生命、
宇宙神のみ心に早く還えれる、早く神我一体になれる、といっているのです。
老子のこの言葉にこの世の人々は、真剣に耳を傾けなければいけません。金品を損じ、地位を捨
てたとしても、それは再びこの世において得る機会はあります。しかし、生命を損じ、生命エネル
ギーを浪費した場合には、その浪費した分の恢復には、この世だけでは到底でき得ません。この世
とあの世とを通しての大変な苦労の末でなければ恢復し得ないのです。
この世において、不幸災難にさいなまれている人の多いことは、多くの人々が生命エネルギーを、
道の為に有意義につかったのではなく、物質欲、権力欲、性欲等々の業想念波動の渦に巻きこまれ
て、生命エネルギーを浪費していたからに他ならないのです。金品の浪費はまだよいのですが、そ
311人を治め天に事うるは畜にしくはなし
れには必ず生命エネルギーの無駄遣いがあるのです。この無駄遣いが、仏教でいう・轍鯉鞍盤げ原12
3
因になるのであります。
りんね
この輪廻の波動界を超越することを、復すといい、復源ともいうのです。ですから生命エネルギ
ーの浪費をせぬことが第一なわけです。生命を生かせとか、生き生きと生きる、ということは、生
命本来の生き方をせよ、ということで、無駄に生命エネルギーを費いやさぬことをいうのです。
時折り私がいうことですが、生きているということは、只この世に肉体的に生存していることで
はありません。肉体的に生存している期間がいくら長いとしても、それだけで生命が長生きしたと
いうことにはなりません。生命は生命の法則に乗って、生き生きと生きていた時だけが、真実に生
命が生きている時間でありまして、その他は死の時間ということができます。
生命の法則というのは、大宇宙すべてに関連している法則でありまして、老子はこれを道といっ
ております。この道に乗ることが、生命を生かすことになるのであり、大宇宙神の意志に沿うこと
なのであります。
,
生命の法則に乗りきりますと、神我と個我とが全く何んの妨げもなく一つになりきっている状態
わとも
になりますので、自分の外に神をみるという感じではなく、神は我がうちにお座す。我れ神と倶な
り。我れは神なり。ということが実観として思われるのです。思われるなどというよりもっと一つ
になってしまうのであります。
それでは生命の法則に乗りきるためにはどうしたらよいかということになります。それには先ず、
本心を汚すあらゆる想念行為を無くしてしまわねばなりません。
そういう業想念を無くす為には、そうした業想念がいつまでたっても、人間にはつきまとうもの
こう
であるというような考えを捨てねばなりません。人間は業の固りだとか、人間はどうせ欲望を無く
すことはできないのだ、とかいうように、悪業想念を肯定してしまってはいけません。それでは本
心が表面に顔を出すわけにはゆかなくなります。
本心を表面に出す為には、どうしても業想念を消えてゆく姿として、固定したものでないと、は
つきり想い定めないといけません。すべての悪も不幸も、欲望想念も、すべては現われたら消えて
しまうのだ、という考えになって、その消えてゆく先を、世界平和の祈りのような、大生命の目
的であり、人類すべての大目的である祈り言の中に入れきってしまうのです。それを消えてゆく姿
で世界平和の祈りと私はいっているのであります。そこではじめて、老子のいう生命エネルギーを
浪費せぬ生き方が容易にできてくるのであります。
313人を治め天に事うるは蛮にしくはなし
第三+三講大国は下流なり
道徳経第六十一章
大臥者下瀟。り天下之必。り天下之粘ω 牝齢坊レ胤ナル,脇レ牲、勝レ齢ナル辮孔。.卜,梅大臨燐孔ブ小臥嚇貼
ルヲハテレパニチワルユニハリテテリハリテシテヲルハギスルニネハソレヲ
取二小国司小国以下二大国哨則取二大国司故或下以取、或下而取。大国不レ過レ欲三兼二畜人鴫小
ハぜスルユリテエソトニレハノヲスルニナルハシクスルコトツ
国不レ過レ欲二入事7 人。夫両者各得二其所7欲。故大者宜レ為レ下。
ベシ
〔読み方〕
ぬいこくかリコこうひんひんしずもつぼか
大国は下流なり。天下の交なり。天下の牝なり。牝は常に静かなるを以て牡に勝ち、静かなる
もつくになもつしようこくすなわり
を以て下ることを為す。故に大国は以て小国に下れば、則ち小国を取る。小国は以て大国に下れな
としこうかやしな流
ば、則ち大国に取らる。故に或は下りて以て取り、或は下りて而して取らる。大国は人を兼ね畜下
はつかほつそほつおのおの
わんと欲するに過ぎず。小国は入りて人に憂んと欲するに過ぎず。夫れ両者は各其の欲する掴
うよろくだ
所を得。故に大なる者は宜しく下ることを為すべし。鋤
ニうひんひんぼかもつ
大国は下流なリ。天下の交なり。天下の牝なリ。牝は常に静かなるを以て牡に勝ち、
もつな
以て下ることを為す。
蒙なるを珊
大国は下流なり、天下の交なりというのは、大国というものは、川に讐えれば下流のようなもの
であるというのです。何故下流かといいますと、大国には下流のように、流れに乗ったあらゆるも
のが流れ寄ってくる、すべての流れが集ってくる、天下の交わりは大国において行われる、という
のであります。
あたひんととゆ
そして、大国の本来の在り方は、恰かも牝つまり女性のように、常に静かで、受け入れ態勢を備
えている。しかもこの女性は天下の女性なのであって、天下のあらゆるものを受け入れて、その受
け入れた物事を浮ぐくみ、また新しくよりよいものとして生みなしてゆくのである。そこでげ即ち
男性のように能動的に働きかけてくるあらゆる国々も、この大いなる静けさに勝つことはできな
い。この大いなる静けさを持つことによって、すぺてを受け入れ、すべてと交流し得る立場になり得
ているのであり、下手に出れば出る程、相手国が尊敬することになるのである、というのでありま
す。
老子のこの言葉は、老子のおられた昔の中国各国に対していっているのでありますが、これは真
理の言葉でありまして、今日の世界にもそのまま当てはまるのです。しかし今日の世界の大国であ
る米国やソ連が果してこの言葉の通りのものでありましょうか。残念ながら老子の心を離るること
甚だし、といえる今日の大国の姿であります。
こじ
米国にしてもソ連にしても、常に自国の強大なる力を誇示することに懸命で、その力を根本にし
て、小国に対し、自国の意図するところを押しつけよう押しつけようとしているのであって、小国
自体の真の幸せの為の協力ということは陰にひそんでしまっているのです。
ですからいくら大金を使い、如何にも力を貸してやっているように見えましても、小国側は少し
の感謝の色もみせず、かえって反抗思想を強めたりしているのであります。
米国の南ベトナムに対する在り方など、そのもっともなる失敗の現われでありまして、金力人力
をつぎこんでいながら、遂いには自分たちで押し上げた同国の首脳者からも、手出しを拒否される
ような事態に立ち至っているのです。
ソ連の東独政策にしても、西ドイツにくらべて非常に悪政なので、東独の住民は生命をかけて西
独に逃げていく者が多かったようです。米ソいずれも、自国の利益に能動的であって、小国の心を
317大国は下流なり
ひん
受け入れるという寛容なる心、老子のいう、天下の牝となる心が無いからなのであります。もし米
ひんいつくおのずか
ソに天下の牝なる心があり、母親のように小国を慈しむ心があれば、天下は自ら安泰となるの
ですが、現実は全くこの反対なのでありますから、この世は末法の世であり、地球の運命全く危う
し、ということになるのであります。
318
すなわ
故に大国は以て小国に下れば、則ち小国を取る。小国は以て大国に下れば、則ち大国に取らる。
やしなほつ
故に或は下リて以て取り、或は下リて而して取らる。大国は人を兼ね畜わんと欲するに過ぎず。小
つかそおのおのうよる
国 は入リて人に窟えんと欲するに過ぎず。夫れ両者は各其の欲する所を得。故に大なる者は宜し
く下ることを為すぺし。
大国が小国の心を入れて、小国の為に寛容につくしてやれば、小国は自然とその大国の下につい
て、大国の手足のようになってゆくのだし、小国は大国に従っていれば、自国の天分が完うされて
ゆくのだから、大国は下って、小国を自由にすることができ、小国はやはり下って、大国の援助を
受けることができる。
大国は自国の力が余っているのだから、他国の為にその力を貸してやって、他国の尽力をしたい
のだし、小国は大国の下について、大国の援助の下に、自国の安泰が得たいのだから、両者がその
欲っするようになるためには、先ず大国は下になるべきなのである、と老子はいうのです。これは
国ばかりのことではなく、個人個人の人間についても同じことでありまして、大人物はどうしても
他人や社会国家の為になるようにできているし、小さい人物は、大人物の下で働きたいものなので
す。
大体大人物なる者は、自分は大人物なのだというような格好は致しませんで、平常は礼儀も正し
いでしょうし、いちいち人の頭を抑えつけて上に出ようなどとは致しませんし、謙虚でもあり柔和
でもあり、平凡そのもののように見えるかも知れませんが、時至るとその大いなる能力が表面には
あいちよう
つきりと出て参るものなのです。俺は偉いのだ、大人物なのだと、自己をしきりに吹聴するような
人間に大人物はいたためしがありません。
来客があれば、何んでもその来客の話を聞いてやっていて、自分の話を聞かせることを先にする
かて
ようなことがなく、それでいてその人の一言一句は相手の心の糧になる、というような人は、やは
り人物というのでしょう。
319大国は下流なり
私のところにも種々な人が参りますが、私に会うなり、先生のところにはどんな有名な人が来て20
3
おりますか、私は常にこれこれしかじかの人たちと会っております、私は何々何をしております馬
こういう運動もやっております、とやたらに自己吹聴をする人がいました。
その人の会った人というのは、名だたる有名人ばかりなのです。それもいかにも親しそうに何々
君などと呼んだりしているのです。私はその人の心根が哀れでもあり、おかしくもありましたが、
その人のその心境では何を言ってもかえってこちらを悪く思うだけのことで効果は無いと思ったの
で、私のところには貧乏な人や病気や不幸で困った人ばかりきていまして、有名人などは誰も参
りませんし、おつき合いもしておりませんよ、といっておきましたら、その人は、さもがっかりし
たように、ああそうですかといって、私の話など聞く気もないように早々に帰えってしまいました。
こういう人は先ず今生では、とても真実の道に入り得ない人だと思います。相手がどんな人物に
せよ、自分の方から尋ねていった場合は、その人に何等かの用があるにきまっております。それな
のに、相手の話は一切きかずに、自己吹聴だけして帰えるような人は、人間の一番低い常識さえわ
きまえていないのですから、今生ではとても見込みがないと思うのです。謙虚さのまるでない人に
は、真実の心の進歩はありません。進歩があったとしたら、それは枝葉末節的な技巧的なものだけ
でしかありません。
老子はこういう人を一番駄目な人と思っていたようで、常に謙虚さと、技巧的でない生き方を説
いているのです。
老子は水を例にとるのが好きなようです。この章でも川を例にとっていますが、全く、川の流れ
のように、人間も自然な生き方をしなければなりません。上流の水は必ず下流に流れ寄ることは自
然の理であります。常に上流にいようといくら心掛けても、その人が上流にいる期間はいくらでも
ありません。忽ち下流にと流れていってしまいます。
よよ
そこで老子は、上流にいるを宜しとはしないで、下流にいるを宜しとしているのです。下流は大
海につながっています。大海である宇宙のみ心につながっているのが下流の姿です。
常に下にいて、如何なる上流の重みにも耐え、どのような汚れにも耐えてゆく力を養うことこ
そ、人間の最も偉大なる生き方なのであります。
大海即ち宇宙神のみ心の間近かにある下流に例えられる人物こそ、それが大海に近ければ近い
程、上流の重みを全面的に耐えねばならぬのであり、上流からのチリあくたを身心に受けねばなら
ないのです。それを受け得られぬような人物は大人物とはいえないし、大国ということもできない
321大国は下流なり
のです。
232
もく
現在でも、大人物と目される人物は存在すると思います。しかし、真の大国と目される国が一体
存在するでありましょうか。米国もソ連も中共も英仏も、老子流に当てはめたら、大国というには
到底無理なことです。
さて日本はどんなことになるでしょう。現在では形の上でも力の上でも、そして心の上でも大国
いまいま
というに未だしも未だしです。小国意識も無く、大国意識も定かならぬ日本の現状を、このままに
しておいてよいものでしょうか。小国になるならなり切る、大国になるならなるべき方向に勇気を
振って向ってゆく、そのどちらかにしなければ、日本はあらゆる国々の信用を無くしてしまいま
す。今回(第二十回) の国連総会における椎名外相の演説など、現在の日本の中途半端な気持をは
っきり現わしています。
国の政治政策がこんな中途半端なものであることは、国民の気持が中途半端である現われの反映
なのです。中途半端と中庸の道とは似たような言葉ですが、全く違います。
日本の国民はこの中途半端な気持を捨て切る運動を起こさなければいけません。老子のいう下流
そだ
に下って、世界の汚れを一身にひっかぶって、そして世界を育て直さなければいけません。
真理の言葉はいいかたこそ違え、不変なものです。十字架を背負って我れに従え、といったイエ
スの言葉も、下りて以って取り、という言葉も、その根本の心においては等しいものなのです。
やすた
私たちは、上流にばかり自己を置いて、易きを取りて自己を失うより、下流に起って本心を開発
することの方が大事なのであります。自己の本心を現わす為にも、日本の本体を顕現するために
も、国民の一人一人が、易きを盗んで憂いあり、というような詩人の言葉のようにならぬよう、下
流に起って生きぬける力を養ってゆかねばなりません。
つか
真理の十字架は現在はっきりと世界平和の祈りによって示されております。米ソに事えて小国た
かやしな
らんとするか、徹底すればそれもよし、人を兼ね蓄わんとする大国となるか、日本の行く道は二つ
やしな
に一つしかないのであります。人を兼ね畜わんとする国が、自分たちのその日その日の安泰だけを
思う、上流に起った気分でよいわけがありません。世界平和の祈りは宇宙神の大海に最も近きにお
いて結ばれている下流の祈りです。私共が世界平和の祈りをする時、大海の大光明は私共を通して
全流域に流れ入るのです。私たちは個人の運命をすべてこの祈りに投げ入れて、世界人類の本心を
開顕する天命をもっているのです。自己の、日本のそして世界の天命を完うさせる為の世界平和の

祈りを、静かなるを以って牡に勝ち、という老子の言葉のように老子と共に祈りつづけて下さい。
323大国は下流なり
それが唯一無二の世界平和達成への道なのであります。
324
第三+四講無為をなし無事を事とし……
道徳経第六十三章
〃六十四章
海二無撫醜無塾臨二集先窮狗一.怨,幽、霧移陽熱駕拓薫二九於轟美毛難
与鎗二於屡苓大嘉・総二於墨匙量ん総不レ静九・旗騰二莞晃軽誌幾レ信・急
ズシヲテスヲオシトヲニニシキコト
必多レ難。是以聖人猶難レ之。故終無レ難。
盈・易私蓑舞帯薩易レ覧鶴・・奪奮於蓉勢於和乱合包急
ルハルニルニ
も二於毫薦九層之住憩二於累為重之鴛於足鴨象即々執糞乞・曳鮎レ奄,麹
レ悔、卸繕、疵レ鍮、民之偽翼農二嵐聾,..賦レゐ・奥縄姑け,婚貼無二臨.蚕蕊聖
ん餌講筑。歪即二鉾得之些鉾湾犠・衡一衆人之鉾糠隷”万物之自鐸而不二醜齢
〔読み方〕
うらみむくとく
無為を為し、無事を事とし、無味を味う。小を大とし、少なきを多しとす。怨に報ゆるに徳を以
325無為をなし無事を事とし
モやすきはかだいさいいおこさいかたセ
てす。難を其の易に図り、大を其の細に為す。天下の難事は、必ず易に作り、天下の大事は必ず細
ついなよモけいにくしんすくなたいおこ
に作る。是を以て聖人は終に大を為さず。故に能く其の大を成す。夫れ軽諾は必ず信寡く、多易
かえなおなんおお
は必ず難多し。是を以て聖人すら猶之を難しとす。故に終に難きこと無し。
やナじやすいまきざはかやすもろや5 やすぴさん
其の微なるは…散じ其の安きは持し易く、其の未だ兆さざるは謀り易く、其の脆きは破り易く、
みだおさごうほうご,まつきゆうモ, ,てなこれいまぞすこれいゑ
九層の台易し。之を未だ有らざるに為し、之を未だ乱れざるに治む。合抱の木も毫末より生じ、
るいどせんりこうモうかはじ
も累土より起り、千里の行も足下より始まる。
とものこれりしななゆえやぶとなものこれやぶ
為す者は之を敗り、執る者は之を失う。聖人は為すことなし。故に敗るることなし。執ること
ゆえ,しなたみことつ調ほとんしこうや5 おわり
なし。故に失うことなし。民の事に従う、常に幾ど成らんとするに於いて、而して之を敗る。終
ほつほつえがたたからこれやメはじめすなわ
を慎むこと始の如くなれば、則ち敗るる事無し。是を以て聖人は欲廿ざるを欲す。得難きの貨を
離ず。戦ぱざるを戦び、榊避げ避ぐる所に衡す。以て競糎の計駕を轍けて磯レて磯て漸さず。
註… … (老子の書の原本によっては、第六十三章と六十四章の各節が入り交じっているので、六十
三章と六十四章とを一つの章として解説することにした。各節が前後していたとしても、老子の説
いている根本には一向差し支えがないからである。)
326
りらみむく
無 為を為し、無事を事とし、無味を味う。小を大とし、少なきを多しとす。怨に報ゆるに徳を以てす。
にかいおこさいおニ
難を其の易に図リ、大を其の細に為す。天下の難事は必ず易に作リ、天下の大事は必ず細に作る。
この章は無為の生き方が聖人の根本的な生き方であることを説いているのです。
無為を為し、という最初の一言によって、後の言葉のすべては解決されるわけなのですが、無為
を為しだけでは、普通の人には判りかねますので、老子は種々と言葉をついやしているのでありま
す。
今までの各章にもありますように、老子の教えの根本は無為であり、それによって現われ出ずる道
をそれぞれ説き明かしているわけなのでありまして、この無為ということが心でも体でもはっきり
判ってまいりますれば、他の如何なる生き方も自然に行じられてくるのであります。
そこで、無為を為しという言葉の意味を説き明かしてゆきたいと思います。無為とは一言にして
ため
申しますと、為にしない、ということなのです。何をしよう、かにをしよう、というように、肉体
人間の頭脳でとやかく想いめぐらさないことが無為なのです。そう致しますと、無為を為すとは一
体どんなことをするのかという疑問が当然起ってまいります。
頭脳で考えないで一体何ができるのであろう、普通の人はこう考えるのが当り前であります。こ
327無為をなし無事を事とし
はず
こが凡夫と聖者との違いであり、道に乗った人と外れている人との相違なのであります。
凡夫は当然のように、この肉体をもった人間を唯一無二の人間と想っています。しかし聖人は、
人間とは生命そのものであって、肉体は一つの生命の道具であり、生命の現われる一つの場所であ
ることを知っております。それは頭で知っているのではなく、事実として承知しているのです。
そして自己という一つの生命の流れは、奥深いところから、浅い狭いところまで、無限の段階に
おいて働きつづけているのであることも知っているのであります。
ですから、浅い狭い肉体頭脳という場所だけを経巡っているような想念や知識をいくら振り廻
していても、大宇宙の法則に乗り切ることはできない、大宇宙の法則に乗って生きてゆかなけれ
ば、この狭い肉体世界での生き方さえ正しく行じてはゆけない、と自らの体験で昔からの聖者たち
は知っていたのです。
くう
そこで、老子は無為と説き、釈尊は空と説き、イエスは神のみ心のごとく、といって全託を説い
くう
ていたのであります。無為を為し、空になり、全託の境地になりますと、肉体頭脳と奥深い大宇宙
の根源の心、つまり宇宙神のみ心とが一つにすっきりとつながりまして、宇宙神の智慧や能力が、
そのまま肉体頭脳の智慧能力となってまいりまして、超越的な力を発揮してくるのです。
328
聖人とか達人とかいう人たちは、皆こうした超越能力をもっていたのであります。それ程になら
なくとも、人間が真剣に物事にぶつかった時には、瞬間的に想念が統一して、日頃は出もしない力
くほノ
がでてきたり、超越した能力がでたりしてくるのです。これも無為や空の境地に瞬間だけでもなっ
たことになります。
地球人間がいつまでも宇宙の法則に乗らずにいたら、いつかは滅び去ってしまいます。ですか
ら、出来るも出来ぬもない、絶対に宇宙法則に乗らねばならぬ時がくるのです。その為に古来から
各聖者が肉体頭脳の小智才覚に溺れずに、奥深い神のみ心に波長を合わせうと説きつづけていたの
であります。
こま
老子はそうした無為の生き方を細かく説いております。無事を事とし、無味を味わう、という言葉
などは、うっかりすると、実に平凡な消極的な言葉のように聞えてしまいますが、この世の中が平
和で無事であること程有難いものはないのです。自己の働きをみせたい人々は、無事平穏であって
はっまらない、天下に何事か起ってくれた方が、自分の力を発揮できるし、人に立てられる身分に
もなれる、というので、世の中をかきまわしたくて仕方がないのです。国家などでもそうで、世界
に何事かが起りつづけていないと、自国の経済政策が成り立たない、というような経済組織になっ329無










ている国々が意外と思う程多いのであります。そうした国々が中心になつて、いくら平和を叫んで
30
3
いたところで、どうにも平和の道が開きようがありません。皆さんも眼をみひらいて、世界の国々
の政治状態をごらんになつて下さい。老子のいう、無事を事とし、無味を味わう、ことの如何に大事
であるか、という真実の深い意味がはっきり判ってくると思います。
小を大とし、少なきを多しとす、というところでも、すぺては根本が大事であり、はじまりが大切な
のである、という根本原理を大切にすることを教えているのであります。この章中一番有名な言葉
は、怨に報ゆるに徳を以てす、という言葉であります。この言葉はキリストの汝の敵を愛せよ、と
いう言葉と全く等しい真理の言葉でありまして、この言葉だけを何べんでもくりかえして唱えてい
れば、業想念の消滅にどれだけ役立つか計り知れません。
こんにちうらみ
今日、一体何処の国が怨に報ゆるに徳を以てしているでありましょうか。徳を以てしているよう
に見える国が、その心の中では常にその徳を自国の利益にふりかえようとしているのが眼に見える
ようです。個人でも全く同じことで、怨に報ゆるに徳を以てすることができぬまでも、怨みも怨ま
れる姿も、みんな過去世の因縁の消えてゆく姿だ、ぐらいには是非思ってもらいたいものでありま
す。
こうした真理を行じた人の話などを時折り聴聞致しますと、涙がでる程感激致します。真理は光
であり、神のみ心そのものだからなのです。
なん
難を其の易に図り、以下の節は、すべて、どのような大事でも難事でも、そのはじめは、易々た
ささい
る出来事や些細なことによって起ってくるのであるから、そのはじめの、易々たること些細なこと
を重大視して、おろそかにしてはいけない、また大事を為すには、小さな細かなことが大事なので
こま
あるから、その小さなこと細かなことに充分心を入れてやらねばならぬというのであります。
ついなよモけい据くしんすくなたい
是を以て聖人は終に大を為さず。故に能く其の大を成す。夫れ軽諾は必ず信寡く、多易は必ず難
多し。是を以て聖人すら襟之を鑑しとす。故に織に難きこと無し。
であるから、聖人は大事を為そうというような気持で物事を運ばない。一瞬一瞬の動きそのもの
が無為の動きなので、どんな小さな動きでも宇宙法則にのっとっている。
字宙法則に乗っている動きというものは、小はそのまま大につらなっているので、何んでもない
小さな事をしているようにみえながら、力んだり気張ったりせず、余裕充分の動きのようにみえな
331無為をなし無事を事とし
がら、いつの間にか大を成している、というのであります。32
3
けいだく
世の中には軽諾つまり軽受け合いする人がかなりいますが、こういう人は相手に自分を善くみせ
たい、悪く思われたくない、という気持が働いているか、その事柄の真実をはっきり見極める深い
心がないかなので、そういう人は人に信用されることがすくないし、大事を成すことはできない。
やず
それから何事もやすやすとできると思い勝ちな人は、物事がうまくゆかないで、難を受け易い、聖
人のように智慧能力の人に秀れた人でも、軽受け合いをしたり、物事がやすやすとできるような返
事はしないものである。
何故ならば、この世の中には、そう軽々と受け合えたり、やすやすとできるような事柄はそうあ
るものではないからなのである。その現われている事柄はたいしたことではなさそうにみえていて
も、それから発展してゆく未来の出来事がどれ程のものであるかは、凡人には計ることができない
やさけいだく
が、聖人にはそれを計ることができる。だから、どのような易しそうな事柄にでも軽諾はしないの
である、そういう態度で生活しているから、聖人にはむずかしいということがないのである、とい
うのであります。
気の良いといわれる人の中には、軽受け合いをして後で困っている人がよくあります。軽く受け
合ったのはよいが、実はその掛け合い事が意外とむずかしいことであったりして後にも退けず、先
きにも進めず、どうにもならなくなって依頼人から信用を落してしまうなどという馬鹿をみます。
また人によりますと、やたらと人を紹介したり、無闇と結婚の世話をしたり、それも無理進めの
ような工合にしたりする人もあります。結婚の世話をすることなど勿論悪いことではありません
が、それにはそれ相応の相性とか調査とかをしての話であって、直接何も知りもせずにやっている
人があります。結婚など双方の運命を決定するような重大な事柄なのですから、深い智慧をもって
世話をせねばならぬものです。人の良さがかえってその人のマイナスになってはたまりません。す
おもんぼか
ぺては深い慮りをもってやらねばなりません。そうした深い思慮というのは何処から湧いてくる
かと申しますと、守護の神霊のみ心から湧いてくるのであります。そこで私は日々刻々守護の神
霊への感謝と、人々(世界人類) の平和とを祈りつづけながら生活してゆこうというのでありま
す。
ぐずじやすいヨひざはかもろび
其の安きは持し易く、其の未だ兆さざるは謀り易く、其の脆きは破リ易く、其の微なるは散じ易
おさごうまつこうほうるいど
し。之を未だ有らざるに為し、之を未だ乱れざるに治む、合抱の木も竈末よリ生じ、九層の台も累土
333無為をなし無事を事とし
よリ起リ、千里の行も足下よリ始まる。
334
国家の種々の難事も、その難事にならぬまだ安らかな時に、その処置や方策を取っていれば、難
事にぶつかってからその対策を取るより、ずっと楽に国家の安泰を保ち得る。
セざ
そのように、国のことにおいても個人のことにおいても、大きな難儀になる兆しがみえてきた場
モち
合にいち早く、その措置を取るようにすれば、その措置はそう深く考えなくとも取りやすい。国家
わざわいもろ
に対する禍とか反乱の兆しなどでも、その反乱の組織がまだ脆い時は破りやすいし、その微々たる
時には散らしやすい。
みに
このように難儀が大きくならないうちに、素早く措置してしまうことを、未だ乱れざるに治む、
というのである。合抱の木、つまり両手で抱える程の大木でも、はじめは、わずかな萌芽(毫末)
から生じているのであるし、九階建の大建築も、その台は平らな土地の上に先ず置かれるのであ

り 、千里の道を行くのも足下の一歩から始まるものである、というのであります。
こういわれますと、そういうことは誰にも判りきっていることで、今更いわれるまでもない、
という人もあるでしょう。しかし老子のいうようなこういう生き方や政治がとれるのは、深い智慧
と勇気と、先見の明がなければなかなかできるものではないのです。
現在の地球人類のどこの国々も、其の安きを持している国はありません。乱れざるに治めている
たぐい
反対に、乱れなくともよいのに乱している類の政治政策が多く行われているのであります。
南ベトナムの政治政策などは、正にその典型的なものといわねばなりません。国と国とのやりと
きざセざ
りでも、争いの兆しがみえはじめた時に、直ちにその争いを静める手を打つべきで、その兆しがは
っきり外面的に現われ出してからでは、それを治めるのが大変に困難になってきます。
モち
どうして直ちにその措置が構じられないかといいますと、各国共に、自国の権益とか利益という
ものを少しでも多く得ようとして、その国の政治政策を行っている、或いは為政者たちが、自己の
権力の座を長く保とうとして、国家や人類の永遠の平和につながる道を見出す心の眼を開いていな
い、自我欲望で真理の眼がくらんでしまっている、ということなどで、安全なうちにその措置を構
じる深い智慧や、先見の明が湧いてこないのであります。
九層の台も、千里の行も、自分たちが一層ずつ積み上げてゆかねばならぬものであり、一歩一歩
みずか
の自らの歩みによってなされるものであるので、武力によって他国の積み上げたものを奪い取った
り、謀略をもって他国の領土を我がものとするような国々があってはならないのです。
335無為をなし無事を事とし
なや5 とうしなやぶと
為す者は之を敗リ、執る者は之を失う。聖人は為すことなし、故に敗るることなし。執ることな
36
3
ほとんやぶつつし
し、故に失うことなし。民の事に従う、常に幾ど成らんとするに於て、而して之を敗る。終を慎む
これほつたからとうと
こと始めの如くなれば、則ち敗るる事無し。是を以て聖人は欲せざるを欲す。得難きの貨を貴ば
みくたすあえ
ず。学ばざるを学び、衆人の過ぐる所に復す。以て万物の自然を輔けて而して敢て為さず。
自分の力で何事かを成し遂げようとする者は、力みがあったり、焦りがあったりして、自らその
とら
事柄を破ってしまう、またその仕事や事柄に執われの想いのある者は、その仕事や事柄を失ってし
まう。
りな
であるから、何事かをしようしようと力んでやってはいけないし、物事事柄に執着する想いがあ
ってはいけないというのです。聖人というのは、何事も自己の肉体人間としての力で為そうと想う
じねんほうに
ことはない。自然法爾に、宇宙法則の波に乗った、本心の座から為してゆくので、宇宙法則の動き
と、自己の想念との間に、少しの隙間もずれもない。何事を為すにも、肉体頭脳における想念だけ
が、これをしよう、あれをしようというように、宇宙法則や本心から離れて、先走りするようなこ
とはない。為すぺき時には、本心そのままの行為となって現われるので、本心と離れた想念はな
く、本心を離れた行為もない。こういう生き方を無為の生き方というのだ、こういう生き方をして
みずか
いると、その為すことに対して力みもなければ、執われもないので、自らの為したることに落度も
なければ失敗もない。それにひきかえ、一般の人々というのは、何事かを為すのに、始めは勢いこ
んで、意気さかんにやっておりますが、その仕事がもうすぐ終ろうとする頃になると、つい気がゆ
るんで思わぬ失敗をしてしまう、というのであります。
どうしてそんなことになるかと申すと、始めは慎重にしかも意気さかんに仕事をしております
が、前半にあまり力をそそぎこんだり、気力をつかい過ぎたりして、どうしても終りまで一貫した
力や智慧が出てこないで失敗するのであって、終りになっても始めのように、慎重でしかも気力を
こめてやらねばならぬのであります。それには、やろうやろうというような自己意識が作用しては
いけない。肉体人間としての自己の力でやろうと思うようではいけない。生命の本源から流れてく
る、自然の智慧や力のおもむくまま事を運んでゆけばよいのである。人間というものは、肉体にあ
る智慧や力だけを頼っていてはたいしたことはできない。肉体の奥の奥にある宇宙法則を司どる本
じねん
心本体の方から自然に潅れ流れてくる能力をもって事は処さねばならぬ、と老子はいっているので
す。
337無為をなし無事を事とし
ほつ
聖人はどのようにして、そういう無為の道を行じているかというと、欲せざるを欲す、と老子は38
3
先ず云っております。
欲せざるを欲す、というのは一体どういうことをいうのでしょう。老子の言葉には凡人を迷わす
ような言葉が随分とありますが、この言葉なども、こう聞いただけでは、その深さが一寸判りませ
ん。
普通人の欲する物事は、金品だの高い地位だの才能だの、といった工合に、何か自分自身の現在
の生活を潤おす物事であります。しかし聖人は、そういう普通人の欲するような物事は欲しない、
というのです。ここのところまでは、誰でも判ります。しかしその後の、普通人の欲せざるもの
とは何なのか、また、欲せざるものを欲す、ということは一体何を欲しているのか、ということに
なりますと、一般的な知識では判らなくなってくるのです。
欲せざるということは、一般の人々では、現象的に欲しいものが一杯で、そこまで想いがゆきつ
かない、という意味でありまして、聖人は一般人の欲するような、現象的な、いわゆる消えてゆく
姿式の物事を欲しないが、一般の人々の想いのとどかない物事、つまり、生命の根源の在り方を欲
する、ということなのであります。生命の根源に自己の想念を統一しているためには、現象世界の
物事事柄に把われているようなととでは、とても不可能なのです。そこで聖人は、生命の根源の在
り方を自己のものとする為に、現象の物事事柄の一切を欲しない、把われない、という心境になっ
ているのであります。
宗教者で霊力のあるような人々がいて、種々と普通人のでぎないようなことをしてみせたりして
いますが、その神秘的にみえる事柄が、果して、老子のいうような、生命の根源にその人の想念が
統一してなされているのか、或いは、そうした宇宙神のみ心の中から出てくる能力ではなくして、
幽界の波動を利用して、逆にいえば、幽界の生物に利用されて、不思議なことをやってみせている
のか、一体どちらであるのか判りません。
もしその神秘力や霊能力が、老子のいう欲せざるものを欲する心境から出てきたものであれば、
それは常に相手の心を明るく勇気づけるものであり、その人たちの心からこの世の現象的な利害得
失に把われる想念を消えさらしめる程のものでなければなりません。
そうした神秘力や霊能力が、相手を利害得失の想念で縛るようなものであったら、これは幽界の
生物にあやつられているものとして、普通人以下の低級なものと見なさなければなりません。
たからとうとたから
ですから老子は、次に、得難き貨を貴ばず、といっております。得難き貨とは、金品財宝は勿
339無為をなし無事を事とし
とロフと
論、普通人のもたぬ能力ということも含まれております。そういうものを貴んで、そういうものに如3
あこがれるようでは駄目なのだ、そんなことではとても、立派な人間にはなれない、聖人賢者とい
たすあえ
うものは、学ばざるを学び、衆人の過ぐる所に復す、そして、万物の自然を輔けて敢て為さない、
というような行為のできる人々のことをいうのだ、といっているのです。
学ばざるを学び、というのは、この世の学者先生たちから、書物や経験によって教えられた、い
わゆるこの世的な学問ではなく、この世の人から学ぶことのできないことを学ぶ、というのです。
それはどういうことかと申しますと、この世とかあの世とかいうように、現象として現われてくる
波動の世界を脱去した、実在の世界、宇宙神のみ心の中から、直接に学び取る、ということなので
あります。
大生命の根源界こそ、人間をも含めた大自然を運行させている、大能力の湧きでているところな
ので、その根源界に、自己の想念波動を昇華させきってしまえば、根源界の能力がそのまま自己の
ものとして現われてくる。そういうこの世で学べないことを学ぶことによって、衆人の気づかな
い、想いのとどかない、高い深い世界に住むことができるのである、そういうことになると、肉体
じねんほりと
側の自分が、どうしようこうしようと想わなくとも、自然法爾に、大自然の運行に沿った行為がで
たすけんげん
き、大自然の運行を輔け、人類をして、宇宙神のみ心を顕現せしめることのできるような道に導き
入れることができるようになるのである、といっているのであります。
実際老子のいうように、この世もあの世もすべて、現われては変化変滅してゆく波動の世界なの
です。こういう消えてゆく姿的な在り方に想いが把われている時代は、やがて去ってゆくのです。
そして、老子のいう聖人賢者の世界が、一般の人々の世界として開かれてゆくのであります。現在
の個人個人の生き方も、世界各国の在り方も、只単に消えてゆく姿を追い求めている、夢想の世界
なのです。私たちは一日も早くこの夢を破って、真実の人類世界を築きあげなければならないので
す。それはやはり、消えてゆく姿で世界平和の祈りという行為をしてゆくことが大事であります。
341無為をなし無事を事とし
第三十五講
いにしえおさ
古の善く道を為むる者は……
342
道徳経第六十五章
古之驚〃蒙、撒二駒”、ス.、辱擁二鋳儀。、む・民之臨移些,蓉籍饒レ鑑.断国
スルナリ
之購・,ゑ捗籍寓国之憾簸露両為剛亦隻・,難二楷丸鳥細㈲二玄篠玄鎗き変・
スレドモチルユ
与レ物反 、乃至一一於大順↓
〔読み方〕
.蓑
善く道を鵜むる者は・以て民を明らかにするに踊ず・撰に以て器を鐘せんとするなり・
殿の治め撃は、其の婁き齢てなり・故魯を以て国を治むるは・国の瞭なり・智を以て国
を治めざるは、国の禄なり。常髭の嚢が知れば・懇環なり・静く難を知る惑を藩と
いはんすなわたいじゆん
謂う。玄徳は深し、遠し。物と反すれども、乃ち大順に至る。
い翫え
の蕃く道を撚むる者は、以て民を明らかにするに踊ず、糧に以て之を慰にせんとするなり。
この文章をみますと、ありゃあ、ありゃあと思う人が多いのではないかと思われます。老子さま
ともあろう聖人が、民を治める為には、民を利巧にしないで愚かにして置け、とまるで、権力を一
身に握って、自分の思うまま、民百姓の労力をしぼり取つていた、昔の悪国王や、悪大名のよう
なことをいっているように思われる文章だからです。
老子講義をしている学者の中には、この老子の文章をそのまま直訳して、
いにしえの真に道を修めた人は、政治をなす場合、人民を賢明にしようとはせず、むしろ反対
ぐまい
に、人民を愚昧にしようとしたものである。人民の治めにくいのは、人民に知識が多いからであ
る。
といった工合に訳しているのであります。そしてその後の文章も表面の意味そのまま訳している
のです。こういう意味を老子が説いていたとするならば、その老子はたいした人物ではありませ
ん。そんな老子を私は尊敬しようとは思いません。
人民を愚昧にしておくために知識をつけさせない、知識をつけさせないことによって国が治まる
343古の善く道を為むる者は
などというやり方が、道を修めた政治家のやることであったら、道を修めることなど、人類の進化
4
3
にはマイナスになることになります。
おのずか
人間には自らなる知識欲というものがあります。知識を求める想いがあることによって、人
類は進歩してゆくのであります。そして、人類が或る段階の進歩を遂げてまいりますと、この現象
界の現われの世界だけを根本とした学問知識ではだめなのだ、ということが判ってくるのです。そ
してそこに至ってはじめて、枝葉末節的に知識というものを一度びさっぱり捨て去って、深い根
ぼく
源世界に入りこんでゆく、つまり大生命のみ心に対する朴なる心、素直なる心になってくるのであ
ります。そうした素直な心になってきた時に、人類の大進化に役立つ、大智慧大能力が地球人類の
上に現われてくるのです。
老子さんはその真理をはっきり知っておられたので、枝葉末節にこだわり把われる学問知識とい
うものを否定されているのでありまして、大生命の法則を知る智慧知識を否定されるわけがありま
せん。
そこでこの章を老子の真意に照らして解釈致しますと、
古の善く道を修めた者は、政治上の細かい事実や事柄を人民に明らかにしようとはしない。何故
しないかというと、政治というものには、根本的にはしっかり定まった原理があり、行き方がある
こまごま
けれども、細々した枝葉の政策には、一瞬一瞬にも変化してゆくような事態が常に起りがちであ
る。そうした細々した変化をいちいち国民に明らかにしていたのでは、,国民の間で百論百説が入り
乱れて、国内の空気が動揺してしまう。国民のなかには、その立場立場で、右をとりたいもの、左
をとりたいもの、中をとりたいもの等、種々様々であって、いずれも自己の利益になるような政治
政策をとってもらいたいものである。そこでついに国家の政治の根本を忘れてしまい、国家にとっ
ては枝葉末節的な政治に対して、種々と知識をつけ、知恵をしぼっての百論百説が生れてくる。
しよう
こうなっては政治の掌に当るものは政治がとりにくくて仕方がなくなり、常に国民に足をひっば
られていて、遂いには国を滅ぼしてしまうようなことになる。だから、そういう細々した政策に対
する知識を与えずに、国の向ってゆくべき道、人類等しく通らねばならぬ宇宙法則の大道のみ多く
説いて、後はその大道にのっとって国民は進んでゆくべきであることを教え導かなければいけな
い。それは表面的には国民を愚にしたようにみえるが実は、宇宙大生命に朴ならしめているもので
あって、国民すべてが真の智慧者になる方法なのである。
と老子はいっているのであります。表面に出ている文章だけでみると、この老子の深い心が判り
345・古の善く道を為むる者は
ませんから、真の老子の心が判っていないものには、老子講義は只単なる字義の解釈だけに終って
しまって、現在の人々の心の糧、道しるぺとはならないのです。

ぞく
故に智を以て国を治むるは、国の賊なリ、智を以て国を治めざるは、国の福なリ。常に此の両者
かいしセよげんとく
を知れば、亦楷式なリ。能く楷式を知る。是を玄徳と謂う。玄徳は深し、遠し。物と反すれども、
すなもやいじゆん
乃ち太順に至る。
と老子がいっているのは、
枝葉末節的な、この世だけの自国や自分たちだけの幸福をつかもうとする知恵や知識に把われる
想いを政治家がもち、そして国民にもそういう想念をもたせているようでは、その為政者は国の賊
と同じである。また反対に、そういう枝葉末節的な現われの現象世界の利害関係だけに把われるよ

うな知恵知識から離れた脱け出た政治政策で国を治めていれば、それは国の福となる、というので
あります。
びんとく
そしてこの両者の優劣を知っている者は、模範的な人物である。こういう人物を玄徳の人という
のだ、というのです。玄徳というのは、宇宙根源の智慧に達している状態から現われる行為であっ
て、それは深い深い智慧能力であり、永遠の生命そのままの生き方なのである。
こうした生き方は、現象的にみれば、この世に反したようにもみえ、物質的にみた個人や国家の
利益に反したようにみえるけれど、それは大順に至るものである。つまり、大生命の源と一つにな
っている生き方なのである、というのであります。
この世のなかをみていますと、実際に老子のいう通りでありまして、国民に種々の枝葉的知識が
ついて、世論世論といって政府がつつかれてばかりいたら、せっかくやりかかっていた政治方式も
そのまま通すわけにはゆかなくなり、いつも右に左に揺れ動いていて、安定した政治というものが
とれるものではありません。
米国などそのいい例でありまして、国民の世論というものに政治がしっかり握られているのであ
りまして、その世論というのは、これまた、地位金力を持つ一部のものに握られ、あやつられてい
るのであります。
そこで、政治家としては、人類の平和の為にも、国の真実の安泰の為にもやりたくないような政
治政策でも、そうした世論に押しまくられますと、やらざるを得なくなってしまうのです。やらな
397古の善く道を為むる者は
ければ自分のポストが危くなってしまいます。8
北ベトナムへの爆撃続行などは、その見本のようなものです。世界の良識は絶対にその行為を非
なりと認めているのですが、なんとか言訳しながらやっています。そして次第に自国の味方を減ら
してゆくのであります。味方をしようにも、世界の良識に対して、味方のできなくなるような状態
に他の国を追いやってしまうのです。
それと反対にソ連のように、老子の言葉を表面的に解釈したような、すべてを明らかにせず国民
を愚かにした政治をして、共産主義を押し通そうとする政策も、真理に反するのであります。例え
あら
そうしたやり方で一時の勝利を得たとしても、その勝利は、天意に非ざる行為によって行われたも
ひりじよう
のですから、その勝利の分の何増倍かのマイナスとなって、その国に現われてくることは必定なの
であります。
何事も天意によってなされねばなりません。神のみ心に反したことをして、いかに利益を得たよ
うにみえても、それは消え去ってゆく泡のような利益なのです。
老子は常にそれを説かれているのです。
神のみ心に無いような知恵や知識をいくらつけたところで、それはますます神のみ心を離れてし
まうばかりであって、それは滅びの門に至るのである。だから、一度はどうしても、そうした知恵
や知識を捨て去って、愚の世界に還えるべきだ。愚の世界と思われている素直な純朴な世界は、神
のみ心がそのまま真智となり生き生きとした行動となる道であって、大生命の法則に乗り切った世
界への展開となるのである。
おのずか
と老子はいうのであり、その愚とも見える世界に入りきった時に、無為の行為が自らできてく
るのであり、自由自在心の世界がひらけてくるのであります。
おのずか
しかしながら、私が先程も申しましたように、人間には自ら、知識を求める想いがあるので
あり、それが人類の進歩をもたらしていることも事実なのでありますから、はじめからなんの知識
すく
も求めない、知識を求める想いの勘ない人ばかりでしたら、やはりこの地球世界はだめになってし
まいます。
知恵知識を求める想いを持ちながら、しかもその求める知恵や知識が、現世利益的な、人の心を

毒するような知恵知識から脱け出して、大智慧大能力につながる、人類に真の進化をもたらすもの
であることこそ必要なのです。
そうした道に入るためには、逆説のようですが、いったん治めた知恵や知識をすっかり捨てきっ
349古の善く道を為むる者は
ぐまい
た愚昧とも思える素直な心にならなければ駄目なのであることを老子は説くのであります。そうい
う心境になった時、はじめて現在迄修めた知恵知識が生きてくるのです。
古い皮袋に新しき酒は汲めない、とキリストが申しているように、自分の心に現在迄の知恵知識
をつめこんでいて、新しい知識を得ようとしても、以前の知識が邪魔をして容易に頭に入ってこな
いものです。
私共の宇宙子科学の研究でも、文学や音楽方面の知識しかない私や、国文科出身の昌美をつかっ
てはじめられたことなど、かえって既成の学識が新しい科学の受け入れを反擾することを危ぶんで、
宇宙天使のほうからなされたことなのでありましょう。現在では私共が逆に地球科学の学問が少し
ずつ判ってきていますし、研究員の科学や数学の専門家たちが、宇宙子科学の原理が判ってくるに
っれ、今度は今までの地球上の学問が大いに役立ってきているのであります。
人間は常に既成の学問知識に把われていてはいけません。既成の学問で自己の心を把えています
と、決して大きな進歩は致しません。一度修めたものは常に常に忘れ去って、新しい道を突き進ん
ミよしんたんかい
でゆかねばなりません。自己の学問知識に把われず、他の人の学問知識を虚心坦懐に受け容れる心
境は、純朴な心であります。そういう純朴な心を何事においても示し得るようになることを、老子

のみならずあらゆる聖者が説いているのであります。
ぐとく
親鸞が自己を愚禿と称したり、良寛が大愚といわれたりして尊敬されていたのも、こうした純朴
な心が尊いのであり、人の生き方の根本であることを、みんなが知っている証左なのであります。
351古の善く道を為むる者は
352
笙二+六講大なれど不肖に似たり
道徳経第⊥ハ十七章
ウヲナレドモタリレニレナリニタリエシナヲパシイヵナノタルコトニリシテワ
天下皆謂三我大似二不肖鱒夫惟大。故似二不肖司若肖、久 其細也夫。我有二三宝↓持而保
ヲゐクニクあクテヲノトナリあクナリナリニクシテヲレ
之。一日、慈。二日、倹。三日、不三敢為二天下先哺慈。故能勇。倹。故能広。不三敢為二天下先司
旗髄二器辱念房繍昂残.卜舞働島鴨.卜舞働.,島毎.卜蓼・丸翫戦.貼晦紫.貼畢
シシスレバ
ニワソトヲテヲレパナリヲ
天将レ救レ之。以レ慈衛レ之。

〔読み方〕
あしよういそたたもしよひ
天下皆我を大なれども不肖に似たりと謂う。夫れ惟大なり。故に不肖に似たり。若し肖なら
さいいわじいわ
ば、久しいかな其の細たること。我に三宝有り。持して之を保つ。一に曰く、慈。二に曰く、
けんいわあえなじよゆコよ
倹。三に曰く、敢て天下の先と為らず。慈なり。故に能く勇なり。倹なり。故に能く広し。敢て
よきもようじすまさすまさ
天下の先と為らず。故に能く器長を成す。今に慈を舎てて且に勇ならんとし、倹を舎てて且に広
おくすモじすなわ
からんとし、後るるを舎てて且に先だたんとすれば、死せん。夫れ慈以て戦えば則ち勝ち、
かたまさこれまも
守れば則ち固し。天将に之を救わんとす。慈を以て之を衛ればなり。
以て
みしようにいモただもしよう
天下皆我を大なれども不肖に似たりと謂う。夫れ惟大なり。故に不肖に似たり。若し肖ならば、
さい
久しいかな其の細たること。
天下の人々は皆私(老子) のことを、大人物だが、何んの才能も技能も無いように見える、とい
うつわ
うけれど、聖賢や大人物という者は、その器が大きいということで、大自然の能力が自然と大きく
こまこさ
入ってくるので、自分自身が種々と才能を示したり、能力を細々と現わしたりする必要がないの
ぼうばく
だ。大きい能力というものは、普通人の眼には、唯荘漠としていて、何をしているのか、どうなっ
ているのか判らない程、広く深く久遠の先までゆきつく働きをしているのであって、その場その
時限りのような小智才覚や才能ではない。だからその場その時々で、その働きが際立って見えるよ
うなことがない。そこで人々は、そういう人物をかえって才能や技能のない不肖の人と同じように
みてしまうのであろう。もし私がその場その時々に際立って見えるような、才能力を示していた
353大なれど不肖に似たり
ら、私は久しい間何んという小さい生き方しか出来なかった小人物であったか、ということになる54
3
のだ。
老子はこういっているのでありますが、普通の常識ではこの真理がなかなか判り難いことと思い
ます。一般常識としては、人に目立つ程の才能や技能のある方が、社会の為にもなるし、自己の地
位の上がる率も多いわけですが、老子からすれば、それくらいの才能技能は、小さな働きしかでき
ない、というのです。それは何故かと申しますと、肉体をもったこの人間というものの智慧能力
は、常に大自然(神) の方から流れ入ってくるのでありまして、そうした根源の力がより大きく働
いているか、小さくしか働かないかということによって、その人の能力の広さ深さ、ということが
定まってくるのです。ですから、いくら、肉体頭脳や肉体的力としての知恵才覚や才能技能をもっ
ていたとしても、常に根源の力が広く大きく流れてきていない者は、その知恵や技能が、その場、
その時々の小さな働きしかできないのであって、そうした知恵や技能に頼っている限り、根源から
の流れロの方に向ける想いが次第になくなってきて、肉体頭脳に蓄えてあっただけの知恵才覚が、
やがては枯れ果てて、自己の知恵才能の衰えとなってしまうのであります。
そこで老子は、そういう、やがては枯れ果ててしまうような知恵才覚に頼っているような想いの
者には、深い大きな仕事はできないのだから、そういう知恵才覚に頼る想いを捨て去って、宇宙根
源の方に想いを向けていると、大きな深い智慧能力が、つきることなくその時、処によって現われ
てくるのだというのです。
それは頭脳に蓄えてあった知恵能力などとはくらぶべきもない、広く深く大きいものなのであり
まさ
ます。その事実は私も体験としてよく知っておりますから、老子の言や将に真なりといつも思うの
です。
いわじいわけんいわな
我に三宝有リ。持して之を保つ。一に日く、慈。二に曰く、倹。三に曰く、敢て天下の先と為ら
ゆうよきちよう
ず。慈なり。故に能く勇なリ。倹なリ。故に能く広し。敢て天下の先と為らず。故に能く器長を成
すまさすまさむくすまさ
す。今に慈を舎てて且に勇ならんとし、倹を舎てて且に広からんとし、後るるを舎てて且に先だた
そすなわかたまさ
んとすれば、死せん。夫れ慈以て戦えば則ち勝ち、以て守れば則ち固し。天将に之を救わんとす。
ま も
慈を以て之を衛ればなリ。
我に三つの宝がある。それはどんな宝かというと、慈と倹ということと、敢て天下の先とならな
355大なれど不肖に似たり
い、ということである、と老子はいうのです。
げん
慈というのは、舷画と書くのが本の字でありまして、玄という字が二つ並んだ下に心という字があ
るわけです。遡という文字はこの老子講義で二度程説明致しておりますように、奥の奥の深い深い
根源の心を現わした文字でありまして、この玄の二字が二つ並んでいて、それが一つの心の上に置
かれています。これはどういう意味かと申しますと、深い根源の心が一応陰陽に分れ、そして一つ
の心になって、この慈という文字になっているわけで、陰陽の大調和、あらゆる心の大調和の心、
っまり、宇宙神の大調和のみ心の現われを、慈という文字で現わしているわけなのです。ですから
この慈という心は、深い愛の心、いつくしみ、神、み仏の心という意味になるのです。
こういう心を、老子は第一に持ち保っている、というのであり、第二に倹、倹というのは、精神
的にも物質的にもつつましさ、ということ。第三の敢て天下の先と為らず、とは、自己の知恵能力
を頼んで、天下の先頭に立とうとするようなことはしない、ということであります。
慈の心は神のみ心そのままの心であるから、いざとなれば真の勇気を湧き起すものであり、つ
っしみ深い心で、常に物質も貯え、力も充分に蓄積されているので、自然とその働きは広範囲にひ
ろがってゆく、そして自己の知恵能力を誇って、天下の先に立とうとするような、欲望をもたぬ心
356
であるから、誰もがその大きな心にひき入れられて、自ずとその下につくようになり、どんな多
とうかつ
くの人々をも統括できる長官となることができるのである。
しかしそれと反対に、慈を捨てて勇ならんとし、慈を捨てて自己の立場を広げようとし、後から
ゆくことをやめて先に立とうとするようなことがあれば、その人の生命や真実の働きは死んでしま
う。肉体的にも死んでしまうことがある。
それで、慈をもって戦えば勝っにきまっているし、守れば守るでその守りは堅固である。何故か
というと、天(神)がこういう人を必ず救ってくれるからである。それは慈即ち大調和の心がすべ
まも
てのマイナスからその人を衛ってくれるからである。というのであります。
老子の言葉は常に個人の道標ともなり、国家民族の生き方の手本ともなるのです。
慈を捨てて勇ならんとし、倹を捨てて広からんとし、などというところは、米国やソ連や中共そ
の他現在の大半の国々に是非共聞かせたいところであります。
ぱんゆう
世界人類の真実の平和の道を開くのは、戦わんとする蛮勇ではなく、慈の心なのであります。慈
の心を中心とした、つつしみの心、他国を先に立て、自国は後から従わんとする心であります。譲
り合いの心のとぼしい今日の世界各国から真の平和の生れ出でないことは当然なことなのです。
357大なれど不肖に似たり
譲り合うには、大きな国、力のある国が先ず先に譲り、小国側がそれに和してゆくということ
58
3
で調和がなされてゆくのであります。ところが事実はそうでなく、大国が力にものをいわせて、小
国を自国の意に従わせようとしているのです。

自国か天下の先に立とうする、いわゆる権力欲というものは、飽くことを知らぬ欲望でありまし
て、少しでも他国に頭を抑えられると、我慢ならぬという想い上がった心なのであります。
小国は力がありませんので、我慢に我慢を重ねているわけですが、これもついには我慢しきれな
くなって、爆発するでしょうから、我慢の度の勘ない大国が、小国の立場を想いやって、その政治
政策を行ってゆくべきが、真の国家のなすべきことなのです。
自国の利に反する行為をする国は、すぺて悪なりときめつけてしまう金持根性の想い上がりを捨
てぬ限りは、現在の大国は真っ先に滅びの門に至ることでしょう。老子の言葉は現在の国々の指
導者層にも、実に当てはまる痛切な言葉なのです。
老子の言葉は、個人にとっても国家にとっても大事な一言一句でありまして、日本の指導者層な
ども、その時々の利害にばかり迷わず、永遠の生命につながる深い眼をもって、国政に当たらなけ
ればなりませんo
日本が太平洋戦争にまでひきこまれ、敗戦のうき目をみて苦難の年月を経てきたのも、日本国民
全体の想い上がりの心によってなされたので、再びそうした道を踏みはじめぬように大いなる自戒
が必要なのです。
大国の誤った行き方をそのまま是認している大臣諸公もいるようですが、そういう方々に老子の
真の言葉を噛みしめて味わって頂きたいと願うのです。
敵に勝たんとして、こちらが先に攻めてゆくような、慈を捨てて勇を取るような生き方や、つつ
ましやかな謙虚な生き方をすてた、自分や自国を天下の先に立てようとする権力欲にかられた生き
方は死の道をたどるものであって、慈を中心にして生きてゆく道こそ、戦っても守っても、自らを
滅ぼすことはないのだ、と老子は言い切っております。どうしてそうなるかと申すと、慈を以て之
まも
を衛ればなり、といっております。
老子のこの根本思想は一体どこからでているかといいますと、宇宙神のみ心、大自然の法のまま
の生き方をしていることが、自らを生かし、他をも生かす最大にして無二の生き方なのである、と
いうことなので、いわゆる無為の生き方の中に、慈の生き方が現われてくるのであり、慈の生き方
をしていれば、宇宙神のみ心がそのまま現われてくるので、宇宙神のみ心、慈の心はそのまま大調
359大なれど不肖に似たり
和なので、あらゆる不調和な想念波動は、その光明波動にふれると忽ち消滅してしまうのでありま60
3
す。
何故そうなるかといいますと、この世もあの世も、すべて生きとし生けるものは、宇宙神のみ心
ほず
によって生かされておるのでありまして、宇宙神のみ心を外れては生きられぬものなのであります。
宇宙神のみ心は大調和そのものであり、慈の心なので、その心の中に住んでいるものは滅びること
はないのです。ですから、その心に反する生き方、争いの想いや権力欲等々の不調和な想念波動
は、一時はその存在を誇っているようにみえても、消減し去らなければいられぬものなのです。何
故なればそんな想いは神のみ心の中にはないからなのです。
老子の言葉も、世界平和の祈りも、その真理を知っているところから生れでているのでありまし
て、神のみ心そのままの言葉であり、行為なのであります。敢て天下の先と為らず、とも、世界平
和の祈りは、人類すべての心の中から、やがてはほとばしり出ずる力となって、世界完全平和を樹
立させる道となってくるのです。
第三十七講
きそ
善く士たる者は武わず
道徳経7第⊥ハ十八章
〃六十九章
タルハワクウヲクツハセクウルヲメルガレヲウルワトヲウウルワ
善為レ士者不レ武。善戦者不レ怒。善勝者不レ与。善用レ人者為二之下一。是謂二不レ争之徳⑩ 是謂二用レ人
トヲウストおナリ
之力殉是謂レ配レ天。古之極。
〔読み方〕
よおきそいかよもちこれ
善く士為る者は武わず。善く戦う者は怒らず。善く勝つ者は与せず。善く人を用うる者は之が
しもなこれあらそいこれもちいはいいいにしえ
下と為る。是を争わざるの徳と謂う。是を人を用うるの力と謂う。是を天に配すと謂う。古
きよく
の極なり。
たきモ
善く士為る者は武わず、といいますのは、立派な将士というものは、武力を誇ったり、武器を競
361善く士たる者は武わず
い合って、争いを求めるようなことはしない、ということです。善く戦う者は怒らず、というの62
3
は、軍の将士というものは、戦力としてあるので、戦争がその仕事であるように思う人があるかも
知れないけれど、真実に善い将士というものは、戦争をすることをその仕事と思うようではいけな
い。相手が仕掛けてきたからといって感情的になって、腹を立てて戦うようではいけない。いつい
かなる時でも怒りの心を持って武力を振うのではなくて、常に国や人々の平和を維持してゆく為に
自分たちの膏在が必要である、ということをはっきり知っていなければいけない、というのです。

そして、善く勝つ者は与せず。ということになるのです。善く勝つ者は与せずには、善く勝っ者
は、いたずらに武力を振って相手を叩きつけるのではなくて、武力というものを平和な心慈愛の心
の中に一つに融合させ、相手を敵として認めるようなことをせず、全く一つの道から分れてきた同
じ生命体として感じているということで、現在の国家群の政府や軍隊のよく心すべきことだと思う
のです。
もち
善く人を用うる者は之が下と為る。これは第六十一章の「大国は下流なり。……故に大国は以て
小国に下れば、則ち小国を取る」という意味と全く同様のことを、個人の立場に置きかえていって
いるのでありまして、国家にしても個人にしても、上位に立つ者は、常にその地位や力を誇ったり
利したりせずに、小国の為に役立つように、下位の者の力になるように働いてやることである。そ
つかおのずか
うすれば、自ら小国は大国につき従ってくるし、下位の者はよくその人に仕えてくれるものであ
る、というのです。
こおいこれいにしえ
是を争わざるの徳と謂う。是を人を用うるの力と謂う。是を天に配すと謂う。古の極なり。
こういう生き方を、争わざるの徳といって、自己の勢力拡張を目指して働いたり、争ってまで自
国の権力を示したりするようなことをしなくとも、自然に人が従ってき、他国の信頼が集ってくる
徳を積んでいる生き方になっているのである。そして人を用いうる力ともいえるのである。
こうした心を、天に配するといって、天の心と全く一つになっている心というのであって、古代
から人の生き方の極意とされているのである。
と老子はいっているのであります。
ヲリシテテヲレルトシテテメヲクレヲウルニ
用レ兵有レ言。吾不二敢為サ主而為レ客。不二敢進7寸、而退レ尺。
老子道徳経第⊥ハ十九章
ヲウクニクウニククユク
是謂二行無レ行、撰無レ曹、拐無363善









ル昌シトハシナルハシトスル圃リヲシトスレ.ハヲドウガ7 昌ゲテヲウルトホ・ハムハ
・ツ
レ敵、執無ツ兵。禍莫レ大二於軽一レ敵。軽レ敵、幾喪二吾宝司故抗レ兵相加、哀者勝 。
〔読み方〕
もちげんあえしゆなかく
兵を用うるに言有り。吾敢て主と為らずして、客と為る。敢て寸を進めずして、尺を退くと。
ゆこうはらひじつといわざわいかろ
是を行くに行無く、撰うに腎無く、扮くに敵無く、執るに兵無しと謂う◎ 禍は敵を軽しとするよ
たかろほとんああわれ
り大なるは莫し。敵を軽しとすれば、幾ど吾が宝を失う。故に兵を抗げて相加うるときは、哀む
者は勝つ。
364
第六十七章、六十八章と共に、慈の心の尊いことを説いている文章であります。宗教的にみて、
一体戦争というものをどうみればよいのか、これは非常に問題でありまして、昔からその宗団を護
みずか
る為に、宗教者たちが自ら武器を執って戦った例もたくさんあります。日本でも僧兵などといっ
つわ
て、武士そこのけの強者も随分いたようです。
その国の事情や、その時代の様相によっては、この肉体世界への執着を、すっかり脱皮していな
い限りは、無抵抗で生きぬいてゆくということは、並み大抵のことではなく、宗教者といえども、
武力の渦中に巻きこまれざるを得なかったのであります。
太平洋戦争の時なども、日本人の心ある人たちは、最後まで戦争反対の為にその力を尽したよう
ですが、いざ戦争になってしまってからは、自分も国民の一人として、国家の行く所に従って、戦
争に協力という形になって働くことになった、ということもあったので、根本的には戦争は反対だ
が、国家を護るということになると、その時の状態では戦わざるを得なくなるというのが、今日ま
での状態だったのです。
老子はそれをどういうように説いているかといいますと、吾敢て主とならずして、客と為る。敢
て寸を進めずして尺を退く、敢て攻めるようなことをせず、守ることをするといっております。こ
にらひじ
れは行軍していても、戦争をするのだというような殺気が無く、棲うに醤無く、つまり、この野郎
にく
というような怒りの気持がなく、相手を敵とみる悪しみもなく、自分たちが殺し合いをする兵隊だ
というような殺意が無い、というのであります。
禍は敵を軽しとするより大なるは莫し、というのは、敵の兵力を軽視する、という意味ばかりで
は無く、相手を馬鹿にする、下目にみる、というそういう軽くみることは、最も禍の大きなものと
なる、というのです。相手を小人物とみたり、小国とみてあなどったりする態度は、確かに相手の
てセがいぞうお
敵嚥心をあおって、こちらに憎悪の感情を抱かせ、意外と強い力を出させる原動力ともなるので
365善く士たる者は武わず
す。6
3
アジァペつし
米国や西欧人の一部が、黒人や亜細亜人を蔑視したり軽んじたりしてきた、その反感は、黒人や
アジア
亜細亜人の意識の中に潜在的に隠されていて、いざとなると爆発しかねない様相を示しています。
先日も中国へ行ってきた人の話で、中国人は、戦争は天がさせるのではなく、米帝国主義がして
いるのだ、といって、誰も彼もが徹底的に米国を憎んでいて、その憎悪の感情が、その愛国心を
より一層かり立てて、個人の幸福のすべてを国の幸福達成の為に捧げつくしている、ということで
ありました。
アジア
米国の一部の亜細亜人軽視の態度が、中国を遂いに本格的な共産主義国に追いこみ、第三次大戦
への恐怖を巻き起しているといえるのであります。
アジア
一方では非常に明るく親切な人柄をもっている米国人が、たまたま亜細亜人軽視の気持をもって
いるぽっかりに、米国人のその善さを大きく損ってしまっているのは、正に老子のいうように、敵
を軽しとすることより起っている禍なのであります。
それを、軍事力兵力だけを軽視しない、という風にもっていってしまっては駄目なので、そこに
米国の生き方の誤りがあるようです。
ほとん
そういう生き方によって、幾ど吾が宝を失う、と老子はいっています。その言は今米国にはっき
アジア
り現われていまして、米国の亜細亜における絶大なる味方である日本においても、米国の政策に反
対する人々が、次第に大くなってきているのであります。
ああわれ
故に兵を抗げて相加うるときは、哀む者は勝つ、という言葉のように、例え戦をつづけていると
しても、慈の心をもって、その戦にのぞめば、無闇と殺傷を犯さなくとも、相手との和合ができ
て、戦が止まるのであります。武力で叩いて叩いて、俺のいうことを聞かなければ、なお叩くそ、
というのでは、決して平和はもたらされません。
戦うことはお互いの人民の為にも不為であり、天意にもそむくことであるから、という気持を表
面に出して、相手の望みを聞き入れながら交渉してゆく、という態度でなければ、相手がとうてい
話合に応ずることはあり得ません。
米国のように、共産主義を恐るるのあまり、自国の主張に少しでも反対するものに敵意を抱くよ
きんど
うでは、とてもいけません。大国の襟度をもって、広い心で、先ず小国の気持をじっくりと聞いて
やる態度こそ、北ベトナムの気持を柔らげ、中国の敵意をそぐ唯一のことであると思われます。
あわお
哀む者は勝つ、の老子の言葉は正に至言でありまして、敵国の人間なら何百人殺そうとなんでも
367善く士たる者は武わず
ない、というように爆撃しているのでは、これはとても駄目です。
北ベトナムには北ベトナムの立場があるのだな、中国には中国の立場があるのだな、という慈愛
の心があって、はじめて公正にその国の在り方がみられるのであって、すべてを自国の立場に合わ
せて考えるような、心の狭い、身勝手なことではいけないのです。
共産主義を恐れるなら、その最初に、どうして共産主義が各国に拡まってゆくのか、ということ
を探究し、共産主義の拡まらないような政策の指導をすればよいので、共産主義の拡まってゆく根
源をないがしろにして、ただ共産主義はいけない、共産圏の拡大を防げといって、武力に訴えてい
るようでは、世界の国々は、そういう指導者にはついてゆけないのです。
かんしよう
米国がどのように武力制圧を致そうと、共産圏は次第に拡がっています。武力干渉がかえって反
米主義をさそい出し、共産主義圏への足がかりとなさしめているようでさえあります。
そこのところが非常に問題なのでありまして、日本の政治なども、只単に米国への妥協ばかりで
なく、世界人類の平和達成の為の、真理の言葉を、米国の痛いところに触れてもかまわぬから進言
するようでなければ、とても立派な国にはなり得ません。
現在は好むと好まざるとにかかわらず、共産主義圏のことを考えずにはいられません。中国が共
368
産主義国だから、米国や台湾政府の義理合上、正当なつき合いはできない、といってみたり、敵国
あつかいをしてみたりしているようでは、日本の立場は次第に無くなってしまいます。
日本国にとって、今程強い勇気の必要な時はありません。真理を現実に実行する深い勇気をもっ
て、大調和世界達成の中心となるべき天命をもつ国家として、どこの国々とも交際をしてゆかねば
ならないのです。
軍備が増大すれば、それだけ国家の守りは安泰だというような、愚かな考えの時代はとうに過ぎ
去ってしまっているのです。
そこな
老子のいう聖人君子は武力をもっても、軍隊をもっても、その武力や軍隊を、人を傷つけ損わせ
る方向には使わぬような、立派な生き方ができたのでありましょうが、現在の地球人類の国々の政
カルマ
治家には、そのまねは恐らくできません。武力をもち、軍備をもてば、そのもっただけの業想念を
必ず撒き散らします。戦う気持が濃厚になります。
その意味で中国が原爆をもったことは、非常に困ったことです。しかしそれだからといって、そ
れに対抗する為の核装備を日本がすれば、日本が本格的に中国を敵と認めたことになり、中国の敵
意をあおることは確かです。日本が核装備すれば、中国ソ連は日本を狙わぬというのは、甚だ甘い考
369善く士たる者は武わず

えです。70
3
すべては真理に根抵をおいて考えるべきでありまして、その点老子をはじめ、釈尊やキリストの
言葉をよく噛みしめて、個人も国家も進んでゆかねばならないのです。
そういう為にも、この老子講義を書いている意味があると思うのであります。
お互いが相手国の立場に立って、ものを考えるようにすることが大事なことなのですが、こちら
は相手の立場を考えても相手はこちらの立場を考えずに押してくる時は、どうすればよいのか、と
いう問題が残ります。しかしそこからが老子のいう道に乗っている人か、乗らぬ人かの違いが現わ
れてくるので、道に乗った人は、そんなことに想いをわずらわされずに、あくまで真理である和の
心のまま、調和した心のまま事を運んでゆくのであります。もし調和を乱す想いが出てくれば、こ
れは消えてゆく姿として、祈り心の中に入れつつ、真理の道を進んでゆくのです。さすれぽ真の平
和は必ずそこから生れてくるのであります。
第三+八講吾が言は甚だ知り易く……
道徳経第七十章
ガハダクリダシイククルコレシクウコトあリニリレツルコトヲテヲラ
吾言甚易レ知、甚易レ行。天下莫二能知↓ 莫二能行而言有レ宗、事有レ君。夫唯無レ知。是以不二我知司
ルヲナレパチシヲテハテヲクヲ
知レ我者希、則我貴 。是以聖人、被レ褐懐レ玉。
〔読み方〕
やすやすとなよなにんそう
吾が言は甚だ知り易く、甚だ行い易し。天下能く知ること莫く、能く行うこと莫し。言に宗有
くそとうと
り。事に君有り。夫れ唯知ること無し。是を以て我を知らず。我を知る者希なれば、則ち我貴易
かつきいだ助熾
し。是を以て聖人は、褐を被て玉を懐く。

手やすなよな信
吾が言は甚だ知リ易く、甚だ行い易し。天下能く知ること莫く、能く行うこと莫し。勧

この節は言葉の通りでありまして、自分の教えていることは、誰にでも判り易いことであり、題
3
行い易いことである。それなのに、天下の人々は、こんな判り易いこと、こんな行い易いことを、
知らないでいるのだし、行ってもいない、というのであります。
実際に老子の言うことは、道に沿った言葉であり、人として当然なことを教えているのでありま
すから、そのまま判るのであり、そのまま行えるようなものなのですが、人々は判ろうとしないの
であり、行おうともしません◎
ごう
ここのところが、人間の業のしからしむるところなのでしょうが、何んとも人生指導のむずかし
いところなのです。世界平和の祈りの運動などでも、一言にして判ることなのですが、判り易いば
っかりにかえって、何んだ世界平和運動かというような、空気の中を歩いていて空気の恩恵を感じ
ないような、そんな気分で人々は見過してしまうのであります。
人間は正直がよいのですよ、とか、人間は素直さが第一です、とかいう言葉でも、全くその通り
であり、人間にとって一番肝心なことなのでありますが、そのまま当然過ぎて、聞き過ごしてしま
うのです。
人間にとって、学問知識も勿論必要なことなのですが、それよりも前に、人間にとって当然行わ
なければならないような、普通のこと、素朴な行いを、幼年の時から、もっと自然に教えこむよう
にすることが大事だとしみじみ思います。
正直、素直、勤勉、誠実、柔和、勇気、相手に対する思いやり、こういう基本的な心の持ち方を
おろそかにした教育などというものは、その社会やその国家、ひいては人類全体を幸福にする方向
にもってゆくことはできません。
かた
しかし、そうした基本的なことは、昔の修身教育のように、形どうりの、きまりきった表面的の
面白味のない方法でやったのでは、かえって逆効果になってしまいます。
みずか
教師や指導者たちが、自分自らの生活態度の中で身を以て教えこむというような生き方が必要
なのです。言葉と実際がかけはなれているようなやり方は、かえってマイナスになります。教育者
や指導者の子供が、案外出来が悪く成人していったりする話をよくききますが、これはその親達の
言葉と行為とのずれに対して、子供たちが反感を抱いての結果だと思われます。
私たちが子供の頃から、小説や映画で感動して、立派な人間になろうと決意したことが何度びも
あります。小説や映画は、その主人公たちが、行動を通して、人間の基本的生き方を示してくれた
から、その全人間的動きにこちらが感動させられ、そういう人間の行為を自分も見ならおうと思う
373吾が言は甚だ知り易く
わけです。
ですから、人間教育の根本は、教育する側の行動が眼に見えるような、そういう教え方や話し方
でなければ人々をひっばってゆくわけにはゆかないのです。
大きくなった新興宗教などは、例外なしに眼に見えるような現世利益的説法で人々をひっばって
ゆくのでありますが、高度な宗教では、そういう現世利益の話ができずに、唯人としての基本的な
生き方に忠実であることを説くわけで、直接現世利益と結びつかないことが多いわけです。
ところが老子となりますと、人間の基本的な生き方を、もう一段上の方に上げまして、そういう
基本的な心が生れてくる、いわゆる無為の方に心を一致させることを教えているわけなのでありま
す。
人間は生れようと思って生れてきたのでもなければ、死のうと思って死ぬのでもない。そういう
じねんにうに
生死の根本に思いを致すと、人間は自然法爾に、無為にして生れ出で、あの世に去ってゆくという
ことになります。大宇宙の一齢の働きとして、この肉体界に生れ出でることもあれば、霊界や他の
星々で働きつづけることもある。それはすべて肉体頭脳で計りきれぬことであり、肉体頭脳をはる
く げ
かに超越した大生命の大智慧によってなされている。即ち、無為という、仏教でいえば空という、
374
他の言葉でいえば、全託という、そういう、肉体力を全否定したところから、そうした大生命大智
じねん
慧能力が、自然と湧き出でくる、という、極めて当然なことを、老子や釈尊や、その他聖者といわ
れた人は皆言っているのであります。
それを老子は、無為にして為せ、といっているわけで、こうしろ、ああしろというのならむずか
しかろうが、無為にして生きろ、というのだから、何等むずかしいことはないだろう、というのが
老子の言葉なのですが、さて、それがそういう習慣から離れてしまって、何をするにもいちいち頭
をしぼって考えなければ生活してゆけなくなってしまっている地球界の人々にとっては、無為にし
て為す、という、こういう易しいことがかえってむずかしいことになってしまって、老子はむずか
しいということになってしまったのです。
実際深い根本的な考えからゆきますと、現世利益だけが得られるような教え方や生き方は、その人
の真実の生き方、真実の世界に住む為には、実に面倒なむずかしい道にひっぽりこんでしまうこと
になるのでありますが、老子のように、甚だ知り易く、行い易い、肉体人間自身には何んの力も無
い、すべてのガは無為の方からきているのだ、大宇宙、大自然の中から湧き出てくるのだ、という
教え方、生き方の方が、そのままスウッと、真実の世界に住みつくことになるので、ずっと易し
375吾が言は甚だ知り易く
く、ずっと近道なのでありますが、
だと私も時々思ったりするのです。
その真理がこの世の中の人にはなかなか判らない。困ったもの76
3
きみきモうおん
言に宗有リ。事に君有リ。夫れ唯知ること無し。是を以て我を知らず。我を知る者希なれば、
とうとかつきいだ
ち我貴し。是を以て聖人は、褐を被て玉を懐く。

言に宗あり、というのは、言には元がある、それを現わせしめる根本法則がある。つまり宇宙法
ことば
則の流れの根元から、法則に乗って言というものが出てきているので、現象的な生活の中からや、
ことば
事物の動きにつれて勝手に言が出来上がったのではない。また、事に君有りで、何事を為すので
も、その事柄の中には、ちゃんと定まった、宇宙意志というものがあるのであって、只やたらに、
自分勝手に、自分の損得だけで、事を運んでしまってよいようなものではない。そういう真理を誰
も知らない。

またそういう真理を知らせようとして来た私だけれど、そういう真実の私を知る者は希れにしか
ない。だから、こういう私のような存在は尊い存在といわなければならない。ちなみに聖人という
ものは、大体、金殿玉楼に住み美味美食に明けくれているような老ではなく、貧しい衣服をまとっ
ているけれども、心には輝く玉を抱いているのである。
というのであります。
人間というものはおかしなもので、この世に現われてくる様々なもの、地位も金銭も物質も、そ
して喜びも悲しみも、時間の経過に従って、みんな消えていってしまうし、変化してしまう。そう
いう消えてゆく姿を、あたかも実在のように思い、いつまでも変化もせず消えてゆくものでもない
もののように、しっかりつかんで放そうとしない。
政治家たちの地位争いや、区会議員や都会議員などという、頼まれても面倒で嫌なような役目で
も、自分から自分を売りこみ、しかも悪いことまでして、その地位を得ようとしているのをみる
と、どうにもその愚かさ加減に、人間の業想念の哀れさを感じて、どうぞみんなの天命が完うしま
すように、少しでも真理の開いた人間になりますように、と祈らずにはいられなくなります。
まして、少しの金を得る為の、強盗殺人者などの話などは、全く真理を知らぬ者の、現象世界に
ひっかかった想念のみじめさというものを、はっきりとみせつけられて、一日も早くみんなが真理
に醒めるようにと願う想いがますます切実になります。
377吾が言は甚だ知り易く
この世界は変化変滅する世界なのであり、消えてゆく姿の世界なのだ、ということを、世界中の㎎
3
人々の心の中にしみこませなければ、この世界が平和になるわけがありません。
消えてゆく姿を、消えてゆく姿とはっきり見極めることができるようになると、はじめて、現わ
れの世界の変化変滅に想いが把われなくなります。
世界の指導者たちが、心を平静に保って、この変化変滅の様相をしっかりとらえて、各国の政治
政策を行ってゆけば、現在のような大戦直前のような姿は消え去ってしまうのですが、なかなかそ
うではなさそうです。私など以前から、中国の国連加盟を、日本などが推進してさせるべきだ、千
二百万の台湾を国家とみて、六億以上の人口をもつ中国を国家とみなさず、国連にも入れぬなどと
いうことは、どちらの国が善い悪いということを別にしても、正当な取扱いでない。中国がもし悪
い国なら、それこそ是非とも国連に入れて、各国で善い方向にむけるよう話合の努力をつづけるべ
きである、との説を唱えていましたが、現在では、中国が国連に入っていないばかりに、米国など
も、どうにも話合いのつけようがなく困っておりますし、困るばかりではなく、世界中の平和を乱
す因になっています。
ですから、個人的には別として、対国家間ともなれば、あいつは悪い国だから附き合うな、附き
合えばこっちも悪くなってしまう、というような、青少年の友達選びのようなことを言っていたの
では、とても世界平和をつくり出す役目は果せません。
もっと想いを無為にして、世界中が附き合うようにすべきであり、そうして例え損するようなご
はず
とがあっても、宇宙法則の運行に外れていた過去の生き方が、それだけ消えてゆく姿となったのだ、
と思ってゆくより仕方のないことなので、目先き勘定の国家の損得で、国家間の附き合いをするよ
うでは、いつでも消えてゆく姿を気にし、変化変滅の波に左右されて、日本なら日本独自の生き方
ができなくなってしまいます。
日本は今日程、老子の言う、知り易く、行い易い、無為の道を根抵にしての政治を行わねばなら
ぬ時代はないのです。無為の道の奥から、日本の真実の生きる道が、はっきり開けてくることは必
定なのです。
何故なれば、すべては大宇宙の法則の中で生かされているのであり、神のみ心は大調和のみ心な
ので、神のみ心に託せた、大調和の道に治った生き方から誤りが生れる筈がないからなのです。
あまり種々と頭をひねくり廻わして、他国の腹の中をさぐりつづけなくとも、神のみ心、無為の
おのずか
道に入って政治を行っていれば、自ら、日本を日本たらしめ、中国を中国たらしめ、米国を米
379吾が言は甚だ知り易く
国たらしめる生き方が、容易にできてくるのであり、大調和世界、平和な世界の道がはっきり開け
830
てくるのであります。その日の一日も早く来らんことを願って、私たちは消えてゆく姿で世界平和
の祈りの運動をますます推進してゆこうではありませんか。
第三十九講
じよう
知りて知らずとするは上なり
道徳経第七十一章
知.荊..寡卦・, 鳶知秘,…嬉充唯癖病・舞不レ痴・,聖ル不レ痴・,燐二轟”病、舞不レ痴・,
〔読み方〕
へいやじようへい
知りて知らずとするは、上なり。知らずして知れりとするは、病なり。夫れ唯病を病む。是を
以て癒あらず。聖人は癒あらず。其の癒を斑むを以て、是を以て癒あらず。
知リて知らずとするは上なリ知っていることでも知らないような態度で、人々に接することは
なかなかむずかしいことです。
知っていることは、ひょっとした時につい言葉に出てしまったり、その態度に現われてしまうも
のなのですが、上等な立派な人という者は、学問も見識も高いものをもっていながら、人々の話を
381知りて知らずとするは上なり
ぽじめ
よく聞き、人々のやっていることに少しの口出しもせず、真面目な態度で見ていて、当然自分の方
がその話の内容もその仕事の事柄も、大きくは宇宙観についても、話している人や、仕事をしてい
る人たちよりも、ずっとよく判っていながらも、判らないような態度で、素直にまともに、その人
々に接している、というのであります。
これはできそうでできにくいことです。知っている事柄には、つい口出ししたくなるのが人情で
まじめ
して、つい自分の見識をみせてしまいがちです。それを素直に真面目に聴聞したり見聞したりして
いて、その態度の中に、私は知っているのだが黙っているのだ、というような偉ぶった態度を少し
も持たぬ、というのが上等な立派な人であるわけなのです。その反対に、

へい
知らずして知れりとせるは病なりの人の方がこの世にはたくさん存在するわけです。俗にいう
へ ヘヘヘへ
知つたかぶり、のことですが、これは一つの病気であり、欠点である、というのであります。
とくとく
ところがこの世の中では、知らないことでも知ったようなふりをして、得々と演説してまわるよ
うな人が、意外に地位や権力や、金力を得てしまうようなことが多く、知ったことでも知らないよ
うに、自己を現わさない、いわゆる立派な人の方が有名にならないでいたりするのです。
政界に乗り出そうとするような人には、知らずして知れり、とする人が多いのでありまして、自
分が出さえすれば、必ず政治が善くなるようなことを言う人も随分あります。
こういう人は、一つ知っていることをあたかも十も二十も知っているように話したり、知らぬこ
とでも決して知らぬとは言わずに、知ったような顔をして肯いていたりするものです。見る人から
ヘヘヘへ
見ればすぐに判ることなのですが、一般の人々は、こういう、いわゆるバッタリの人をやれる人と
か偉い人とか思ってしまって、代議士に選んだりしてしまうのです。
人間というものはおもしろいもので、自分で知ったような判ったようなことを言いつづけている
うちに、自分自身をも騙してしまいまして、事実はたいして判ってもいないのに、もう深く判って
しまったように、自分自身も思いこんでしまうのです。そうするとそれで自信がつきまして、自分
は深い洞察力があり、実行力もある人物であると、自分に信頼感を抱いてくるのです。
そう致しますと、その態度に自信からくる落ちつきというようなものが備わってきまして、堂々
たる人物らしくなってくるのであります。
ところが真実は、そう智慧も知識もあるわけではなく、自己偽購からきた自信なのですから、一
寸むずかしい問題にぶつかってきますと、心が乱れてきまして、その本質がはっきり表面に出てき383知












てしまうのです。
こういうような、自己偽隔とその時々の運勢とに乗って世に出た人たちは、やがては必ず地に落
ちる運命になってしまいまして、老後は悲惨な生活になってしまったりするのであります。
ですから老子は、知らずして知れりとするは、心の病気だ、大きな欠点だというのです。そこで

へいやへい
夫れ唯病を病む。是を以て病あらずというように、そのような欠点に対して、常にその欠点に

対して気を病んで、反省してそういう態度がなくなるように、自己偽購の想いが無くなるように、
気をつけていれば、そういう欠点は知らないうちに無くなってゆくのだというのであります。
くらま
自己偽隔ということ、本心を隔すということ程、大きな病はないのでありまして、すべての不幸
いんぺい
や災難は、自己偽購、本心の陰蔽というところからはじまるのです。
知ったかぶりなどは何んでもなさそうに思えますが、知らないことを知ったように見せようとし
たり、聞かせようとしたりするのは、まだよいのですが、自分自身が、知らないことを、知ってい
るように思いこんでしまったりすることが一番危険なのであります。
かえウ
よくよく自分たちの想いを顧みまして、つきつめてみますと、実はほんの少ししか知っていない
ことなのに、自分ではあたかも、その全貌を知ってしまっているように思い違いをしていること
が、よくあります。
ちゆうちよ
ですからそれに気づいたら、躊躇なく、自分は今まで、そのことについてよく知っているように
思っていたが、実は本当はあまり知っていないことに気づいた、というように、真実の自分の気持
をすぐ人に話して、自分の気持を、知っている範囲の立場に立て直すことが大事なのであります。
この世のことも、人間のことも、あまりよく知っていないのが現在の人々なのですが、一般の人
々は、この世のこと、人間のことを知りきっているような態度で生活しています。ところが、知っ
ていることは、ほんの僅かなことで、この世のことも人間のことも、判らないことだらけなので
す。
一般の人々が知っていることというのは、男性と女性が結婚することによって、赤ん坊が生まれ
る、赤ん坊は次第に生長して大人になってゆく、大人になれば、人類の一員として、社会の一員と
して、家庭生活を営み、社会国家や、人類との連けいにおいて、一家を支えてゆく、というような
ことであって、あとたいして深いことは知っていません。
こまか
人間や宇宙に対する細いことは、科学者という特定の人たちの学問研究によって探り当てたとこ
385知りて知らずとするは上なり
ろを、話に聞いたり、書物で読んだりして知ったような気になっている、というに過ぎません。
86
3
そして、そういう科学者のいうことは相当深いところのことのように思っていますが、実はその
すがたすがた
学問研究の奥地でさえも、真実の宇宙の相、人間の相からすれば、やはりほんの浅いところの研究
成果でしかないのです。
現在の人間の大半は、人間は肉体にしか存在しないと思っています。しかし実は、人間というも
のは、肉体の他にも各種の体を纒って生活しているのである、肉体世界という範囲の他に、種々な
人類世界が存在するのである、という真理を知らないでいるのです。知らないでいながら、肉体生
活の他に人間など存在するものか、とあたかも知りきっているような口ぶりで言う人々もあります。
それから、宇宙の星々のことでも、この五感の眼でみた星というものを実在とみているのであり
ますし、地球科学的に種々と研究し検討した結果で、何処何処の星には生物が存在し得るわけがな
い、というような結論を出したりしているのでありますし、私共のように肉体世界の他の世界のこ
とをはっきり知っていたり、他の星の人類との交流に明けくれていたりするものからみれば、実に
老子のいう、「知らずして知れりとするは癒なり」と思わず言いたくなるのです。知らないことは
知らないのですから、今のところは判らないでよいのです。知るように判るように懸命に研究して
ゆけばよいので、そうすれば自然とはっきり判ってくる道に行き当ってくるのであります。そうい
う態度を科学的な態度というのであります。
上等な科学者は、判らないことは、はっきり判らないといい、自分たちの研究結果だけで無いと
か、実在しないとか断定ナるようなことはしていません。常に自分たちの研究上の欠点を見つけ出
そうと苦心をはらっているのです。そして、常に先に先にとその研究の成果を伸ばしてゆこうと努
力しています。
聖人は慰あらず・其の癒を貯むを以て、是を以て慰あらずこのように、聖人というもの立派
な人格者という者は、自己の心に欠点の起らぬように、自己の心が病まぬように、常に本心の座に
想いを入れているので、心が病むことが無いのである。と老子はいっております。
ここで一寸私自身として言いたいことは、この章のはじめの、知りて知らずとするは上なり、と
いう謙虚な態度はまことに結構なのですが、この言葉に把われてしまいますと、言わなければなら
ない立場の人が言わずじまいで、結果を悪くしてしまうこともあるのですから、言うべきときには
じねをほうに
言い、言わざるときには言わず、という、自然法爾的な無為から生れてくる言葉や行為になること
が必要なのであります。
387知りて知らずとするは上なり
聖者たちの教えにでも、あまり =口葉そのものに把われてしまうと、教えがあるためにかえって人蹴
間の官由自在性を失わしめてしまいますから、この点に注意することが必要でありまして、要は、
如何なる言葉も行為も、常に本心から溢れでてくるもので、業想念の感情からするのではない、と確
かに自分自身で判るようにすることが修行の要点であると思います。
あの人が等ここで一言してくれ・ればなあ、と思う時に、その人が謙虚さのあまり発言せず、その
会議がつまらぬ方向に動いてしまうようなことがよくあるものですから、善い人、謙虚の美徳をも
つ人程、時に当っては断乎として自説を通すというような勇気も必要なのであります。
その点」現在の日本の外交というものが非常に働きが足りないと思うのです。何故もっと自国の
信ずる方向に向って、確固たる発言をしないのかと思います。日本は大和を基とすることは聖徳太
子以来定まっております。現憲法でも同じことです。その点ではっきりした確信をもたなければ、
こくぜ
知りて知らずも、知らずして知るもありません。まるで駄目なのであります。日本の国是というも
のを内閣がもっとしっかりつかんで外交の掌に当らなければ、外国の政策のままにずるずると深み
にはまっていってしまいます。
相手が聞くきかぬは相手のことであって、こちらの気持をはっきり相手に聞かせなければ、相手
はこちらの真意がつかめません。
その時の都合次第で、日本の平和に徹する道を曲げてはいけません。レ」の道は日本の悲願の道で
もあり、天から定められた道でもあるのです。
米国はアジアを知らずして知れり、としているのです。米国は病んでいるのです。中国やソ連が
病んでいる以上に米国は病んでいるのです。中国の病も米国の病も、当事国はそれを知らないので
す。自国の病がどれ程の重症であるかを知らないのです。それをはっきり知らせるのは日本国をお
いて他にはありません。
日本人全員が世界平和創設の道に、今こそ結集しなければなりません。政府の外交政策のやりよ
いように、真の平和政策を遂行してゆけるように、国民の心を世界平和一本に集中させなければい
けません。その為の私共の世界平和の祈りなのであります。今日までの如何なる聖者もすべて世界
の平和を願っています。今日こそ地球の壊滅か大平和の達成かという二つに一つのぬきさしならぬ
時に立ち至っているのです。眼前の利害得失に把われず、地球人類永遠の平和の基を今日はっきり
築きあげねばなりません。消えてゆく姿で世界平和の祈りの大事さを、今こそ心身にしみて感じて
下さい。そして心を揃えて世界平和達成を祈りつづけようではありませんか。
389知りて知らずとするは上なり
おそ
第四+ 講民、威を畏れざれば大威至らん
道徳経第七十二章
レバレヲヲソカレシトスル胃卜, ワルカレウ2卜1 7 クルレワワデワレヲテ
民不レ畏レ威、大威至 。無レ狭二其所7居。無レ厭二其所7生。夫唯不レ厭。是以不レ厭。是以聖
ハヲリテヲワサラシテヲシトセニリテヲルヲ
人、自知不二自見司自愛不二自貴司故去レ彼取レ此。
〔読み方〕
たろいおそ鹿いいせまなモいいと
民、威を畏れざれば、大威至らん。其の居る所を狭しとすること無かれ。其の生くる所を厭う
ないといとみずかあら
こと無かれ。夫れ唯厭わず。是を以て厭われず。是を以て聖人は、自ら知りて自ら見わさず。自
たつと
ら愛して自ら貴しとせず。故に彼を去りて此を取る。
民、威を畏れざれば、大威至らんこの威という言葉は、神のみ心、神の権威、宇宙の法則とい
うことで、神のみ心、宇宙の法則を無視して生きていれば、自然と神のみ心から離れ、宇宙の法則
39Q
を粥れてしまって、人間神の子でなくして、粟想齪の子として生活していることになってしまいま
す。
ところが、人間は誰でも、何人たりとも、神のみ心を離れ、宇宙法則の外にいては生きてゆけ
みずか
ぬようになっています。人間自らは気づかずにいても、常に神のみ心は人々を真実の道において生
かそうとして、瞬時もなく御光を流れ入れしめているのでありますが、人間側が、神のみ心の方に
少しも想いをむけず、自分勝手につくりあげた妄想である、生命を汚す方向に想いをむけ、行動を
はず
すすめていますと、いつの間にか、宇宙の法則をはるかに外れた軌道を進んでいることになり、神
のみ心を遠く離れた世界に住みつくことになってしまいます。それでは生命全体の調和がとれにく
くなりますので、神はより一層のみ光を強くその人の方に放射することになります。これが大威至
らんであります。
大威が至れば、その人は急激に強い光を受けるのですから、肉体が参ってしまったり、その人の
霊体を曇らせている業想念波動が、急速に浄化される作用として、この世的には不幸と見え災難と
みえる運命がその人を見舞うのであります。
この世に人が生きておりますのは、大生命とは関係ない個人が生きておるのではなく、あくま
391民威を畏れざれば大威至らん
で、大生命の一つの働きを司る小生命として生きているのでありまして、その法則を無視して自分
勝手な生き方をすれば、いつの間にか大生命の光の流れから外れてしまいます。
ですから、如何なる人でも、大生命(神)のみ光の恩恵に感謝せず、神智を畏れず、これを無視
した生き方をすれば、必ず大威が至って、嫌でも応でも苦悩の末に、大生命の分生命である人間と
いうことを自覚させられるようになっているのであります。
その真理を知らない人々が、過去世の善因や祖先の余慶によって、今生の生活環境がよかった
り、才能に恵まれていたりすると、あたかもその幸運を、現在の自分の力として他の恩恵を一切無
視し、神仏さえも自分には不要のごとく、思い上がっている人や国家があります。
どうしてそんな風に思い上がることができるのでしょう。人間にとって、一番最初の資本ともい
うべき生命というものを、一体その人は自分自身がつくったものとでも思っているのでしょうか。,
そして、その生命を肉体人間として、すくすくと成長させてくれた、天地間のあらゆる要素に対
し、その人々は何んの感慨ももたずにいるのでしょうか。正に民、威を畏れざれば、大威至らん、
.
です。
392
ないと
其O居る所を狭しとすること無かれ其の生くる所を厭うこと無かれこの世の人たちは大体に
おいて、その環境に対して、不平不満が多過ぎます。そういう不平不満があってはいけない、とい
うことをこの文はいっているわけなのですが、そういう言葉を嫌がる人々が多くいて、この世の生
活は、そういう環境に対する不平不満があって改善されてゆくのであり、何も不平不満もいわず、
改善運動も起こさなければ、いつまでたっても人間生活の向上はあり得ない、ということでありま
しょうo
しかし、よく考えてみて下さい。常に自分の環境に不平不満をいっている人をみて、他の人がよ
い気持でいられるでしょうか。まして、先輩や上役たちが、そういう人に好意をもつでしょうか。
そのように自分個人の環境について不平不満をいう人は、その環境を改善する手助けをしてくれる
人を失ってしまうのです。真実の改善運動をする人は、自分個人の不平不満があってするのではな
く、人々の為に或いは大衆の為に、自分の身を捨てて立ち上がるのであります。
しかし、それよりもっと上等な生き方は、自ずと各人の環境が改善されるような、法則に乗った
生き方を、自己も行い、人々にも教え得る人です。そういう生き方を老子は説いているのでありま
す。
393民威を畏れざれば大威至らん
いと
それには先ず、自己の置かれた環境を嫌がる想いをなくし、この世に生きていることを厭うよう934
な気持をなくすように自らがするのであり、人々にもそうなるような道をひらかなければいけませ
ん。次の
モみずかあら
夫れ唯厭わず。是を以て厭われず。是を以て聖人は、自ら知リて自ら見わさず。自ら愛して自ら
たつと
貴しとせず。故に彼を去りて此を取る
というようになることがよいのだと老子はいうのであります。
これはどういうことかと申しますと、聖人というものは、どのような環境に置かれても、どのよ
いや
うな立場にいても、そういう環境や立場を少しも厭がらず、素直にその環境や立場を生かしてゆく
のであります。ですから誰からも、どこからも厭がられるわけはなく、文句をいわれることもあり
ません。
人間が、その環境や立場というものに、何かと不平不満や文句があるのは、自分というもの、つ
まり小我の自分というものがあるからでありまして、どういう意味でそういう厭な環境に置かれた
り、やりにくい立揚にたたされたりするのか、ということを知らずに、ただ、全体を離れた自分と
いうものの見地から、その環魔や立場をみているからであります。
聖人という者は、自分というものが、どういう意味でこの地球界に生活しているのか、自分とい
う生命は、何処からきて何処へゆくのか、自分の本体というものは如何なるものなのか、というこ
とをよく知っておりますので、わざわざ自分をこの世で有名にさせたり、人に目立つようにさせた
りする必要がないのであります。
あら
何故自分を知っていると、自分を見わす必要がないのかといいますと、聖人は自分がこの世に生
きているのは、大宇宙神の意志の一部を現わす為であることを知っています。全体の一部であるこ
とを知っているのであります。ですから、大宇宙意志のままにすぺての運行が為されているのであ
はず
り、大宇宙意志を外れた想念も行為も、それは単にその瞬間瞬間現われては消えてゆくものである
ことが判っております。そういう真理が判っておりますと、どのような環境も立場も、すべてが大
宇宙意志によって為されているということになるのです。ですから、聖人はいつでも、大宇宙意志
と一体になって行動しておることになり、大宇宙意志を離れた自分個人の想念や行為などあろう筈
がありません。そこで自分の小我で自分を現わそうという必要が無くなるのであります。
凡人というものは、これができずに、常に宇宙意志と離れた自分というものの、知識や想念、つ
395民威を畏れざれば大威至らん
まり小智才覚によって動いてしまうのです。小智才覚によって現わし得た自分というものは、本道
はず
から外れたものなのですから、大宇宙の意志につながっていないので、泡沫のように現われてはす
ぐ消えてしまうのです。
人間は大宇宙意志によって動いている場合が多ければ多い程、その人の価値が高いのであり、そ
の人の行為は光となって、自己を永遠の生命の一筋として生かしてゆくことになるのであります。
396
たつと
自ら愛して自ら貴しとせずということは、聖人は自分が宇宙神の光をそのまま現わしているこ
とを知っています。ですから自分を愛し敬することは、宇宙神を愛し敬することと同じであるとい
うことになります。そういう確信は何人よりも強いのであります。しかし、自分を愛する心が強い
からといって、自分を貴い人間であると誇るような心も態度もないのです。
じねんほうに
文 章にすれば、こういう説明になりますが、実はこういう説明をする必要もない程、自然法爾に
そういう生き方になっておるのであります。
釈尊が我は仏なり、といっておりますが、こういう大宣言をしていても、別に自己を誇ってそ
ういっているのではなく、当然のこととしていっているわけなので、そこには驕慢な想いがあるわ
けではないのです。
イエスが、非常な権威をみせて、人に神の道を説いていますが、これなども、自分を神の子とし
て高く評価して、いいかえれば嘩を愛する心で、道を説きつづけたわけです・欝を愛するとい
うのは、何も肉体人間の自分を大事にするというだけのことではなく、自己の生命をよりよく生か
す、ということに真実の意味があるのです。
私の説いております、自分を愛し、人を愛しということでも、自分の生命をよりよく生かす、神
の子としての自分自身を恥かしめないように立派な生き方をすることをいうのでありますし、人を
愛すというのでも、やはり同じ意味があるのであります。
自分の生命をよりよく生かす為には、どうしても生命の働きを邪魔している、把われの想いをど
こかで消し去らなければなりません。善いにつけ悪いにつけ、想いが把われてしまっては、心も体
いのち
も働きにくいのです。私の歌に《誤ちを悔ゆるはよけれ悔いのみに生くる生命は愚かしきもの》と
いうのがありますが、一たんしてしまった行為を、私が悪いのです、悪かったのです、といつまで
も悔いていることは、生命の光を消していることであって、少しのプラスにもなりません。自分を
いじめているのであり、神の光を汚していることになります。
397民威を畏れざれば大威至らん
善いといわれる人にはこういう人が多いのです。宗教をやっているような人にも、自分をいじめ98
3
て、それで良心に忠実なように思い違いしている人もあります。あくまでも本筋は自分の生命を生
き生きと生かすことにあります。自己としてここに現われている生命を、大生命の宇宙意志に合わ
せて、生かしきることが人間としての立派な生き方となるのであります。
そういう意味から、自分を愛し、人を愛すということが大事なことになってくるのです。老子が
いみじくも、聖人は自らを愛し、ということをいっていますのに、私は全く同感しているのです。
カのずか
真実自分を愛せるような人は、自ら、人をも愛せるので、自分を高ぶってみせるようなこと
たつと
はありません。真実自分を愛していないで、自分の肉体的なものをのみ愛している人が、自分を貴
しとして、自分を誇らかに人に見せようとするのです。
そこで聖人は、彼を去リ、此を取る。つまり、宇宙神のみ心を外れたような生き方を取らず、宇
宙意志そのままの生き方を取るというのであります。これを単に驕慢の生き方と謙徳の生き方とい
うように簡単に説いている人もありますが、そういうことでもあるのです。
第四十一講
かんすなわ
敢に勇なれば則ち殺し
道徳経第七十三章
ナレパユヂシナレパユヂカスノバハバムカヲソヤノヲヲテバ
勇二於敢一則殺、勇二於不敢一則活。此両者、或利、或害。天之所レ悪、敦知二其故司是以聖人、猶
シトスヲみシテワクチシテワクジシテサラリトシテクルハトシテニシテ
難レ之。天之道、不レ争而善勝、不レ言而善応、不レ召而自来、繹然而善謀。天網恢恢、疎而不

レ失。
〔読み方〕
かんゆうすなわあかんゆういほく
敢に勇なれば則ち殺し、不敢に勇なれば則ち活かす。此の両者は、或は利、或は害。天の悪む
たれなおこれかね
所、敦か其の故を知らんや。是を以て聖人は、猶之を難しとす。天の道は、争わずして善く勝
おのずかたんぜんはかてうもラかいかいモ
ち、言わずして善く応じ、召さずして自ら来り、繹然として善く謀る。天網は恢恢として、疎
うしな
にして失わず。
399敢に勇なれば則ち殺し
かんけうい
敢に勇なれば則ち殺し、不敢に勇なれば則ち活かす。
400
一口に勇敢といわれていますが、敢というのは、思いきっておこなうとか、おしきってなすとか
いう言葉であります。勇というのは一般的には、いさましいとかおおしいとかいう風に解釈されて
いますが、これも勿論誤ちではありませんが、実はもっともっと深い意味のある言葉なのです。
よ  
勇という文字は、上が繭という文字であり、下が力という文字であります。雨という字にLをつ
とう
けますと、通という字になります。この通という字は、とおる、いたる、かよう、つらぬきとお
へ 
る、と意味であり、みちともよまれます。この通と繭とは似かよった意味をもっておりまして、天
に通ずる道という意味があるのです。雨という字を字典にはマスメの名とも書いてあります。マス
メとは、縦横の十字の無数にゆきかっているさまで訪りまして、大きく宇宙法則の調和したはたら
すがた
きのさまです。これは陰陽の交叉、プラスマイナスの調和という、真理の相であるのです。そうい
う意味をこの文字はもっているのであります。
すがた
ですから勇という文字はマ田力という意味のない文字でにないので、天の大調和した相の中に、
この地球世界の人間の力をもって飛びこんでゆくということでもあり、又、神のみ心の真実の働き
が、この人間の心にすっきり伝わってきて真実の力となった、ということを現わした文字でもある
のです。
こう考えて参りますと、老子のいわれていることが実によく判ってくるのです。老子がこの章の
最初にいっている、敢に勇なれば則ち殺し、という言葉と不敢に勇なれば則ち活かす、という二つ
の相違が当然のこととして判って参ります。
勇ということが、天の大調和した相の中に力をもって飛びこんでゆくことであり、その力は神の
み心、大宇宙の法則の自然的な流れとして、人間に伝わってきて真実の力となったということであ
じ ん
れば、その真実の力が、宇宙法則の流れに沿って自然に働けばよいことであって、敢えて、思いき
って行ったり、押しきってなしたりする、いわゆる敢行するというようなことをする必要はないの
で、敢に勇なればかえってそこに人々を殺してしまうようなことになってしまうのでありますし、
じねんにうにロ
その反対に不敢に勇であること、つまり自然法爾的な勇をもって事に当たれば、すべてが漕かされ
てゆくというのであります。
こういう思想は、老子の根本を成しているものでありまして、老子が如何に大宇宙の法則のまま
に生ぎきっていたかがよく判ります。401敢









普通では勇敢なる行為といって、人に出来ないような行いを敢えてしてゆくことを称えておりま02
4

すが、真実の言葉としては、勇気ある行為をこそ誉むべきで、無理におし通さんとするような意味
を含んだ、押しきってなす勇敢という行為には、自分をも人をも殺してしまう大いなる危険が蔵さ
れているわけなのであります。
個人的には暴にもってするに腕力をもって当ることや、国と国とが軍事力をもって対決するよう
みずか
なことは、勇気ある行為のように見えますが、実は相手をも自らをも傷つけ痛める行為となるので
す。
かな
国家の為に勇ましく敵に当って突き進んでゆく軍人の姿は、勇ましくも亦悲しき姿であります。自
国の為に他国人を殺傷し、自分も亦傷つき倒れることもある、という軍人の姿は勇敢の一言につき
ます。この勇敢さは、あに軍人その人がつくり出しただけのものではなく、国家の政策そのものが
つくり出して、その国民たちを、その政策の犠牲者としてその立場に置いてしまっているわけなの
です。敢に勇なれば則ち殺し、という言葉がそのまま当てはまります。
どのような事情がありましょうとも、そういう勇敢さを国家がつくり出すべきではないことは老
子の言がそのまま当てはまるのです。
ところが現在の地球人類の在り方からすれば、個人と個人との間においても、社会国家人類とい
う集団の生き方の中にも、敢えて勇ならざるを得ないような状態がかなり多くあるのであります。
不敢に勇という状態ではいられないような事柄が次々と起って参ります。
勇敢な行為の人々がいなければ、世の中が治まらないような状態が、あまりにも多くありますの
で、世の中は勇敢なる人々を賞賛して止まないのです。哀しむべき現状といわねばなりません。
武力をもって悪者を退治するテレビのシ1ンや、敵軍を粉砕する映画を観たりしますと、誰で
も胸のすくような痛快な気分になります。これは正義が悪に勝ったという気持と、自分たちの安全
が得られたという快さとの二通りの気持であるのですが、この気持は一面当然なことであり、正常
なことであると共に、自己保存の本能の働きの恐るべき一面をも含んでいるのであります。
何故かと申しますと、正義を愛する気持は当然なことであって、神のみ心に反することではあり
ませんが、これが国家のこととなりますと、自国を守る為には、どのような手段でも敵を打ち負か
さねばいられぬ気持になって、原水爆使用をも辞さぬということにつながってくるからなのであり
ます。
自国は常に正義であり、相手国は常に不正であるというお互いの考え方は、こういう自己保存の
403敢に勇なれば則ち殺し
本能の中から生れてくるのです。この本能に打ち勝つことこそ、人類のこれからの根本ともいうべ04
4
き課題なのであります。
勇敢か、不敢の勇か、老子は次の節で、
にくたれ
此の両者は、或は利、或は害。天の悪む所、敦か其の故を知らんや。
にく
といっていますが、老子自身は、はっきりいずれが天の悪む所、っまり神のみ心に合わぬ生き方
かを知っているのであり、いずれが利であり、いずれが害であるかも知っているのであります。
なおこれかた
是を以て聖人は、猶之を難しとす。天の道は、争わずして善く勝ち、言わずして善く応じ、
おのずかたんぜんてんもうかいかいそ
ずして自ら来リ、輝然として善く謀る。天網は恢恢として、疎にして失わず。
召さ
聖人にはすべてが判ってはいるけれど、勇敢と不敢の勇との利害を人々が知ることのむずかしさ
をも、判るのであります。むずかしいとは判るけれど、天の道というものは、やはり、争わずして
善く勝ち、声の言葉で言わないけれど、すべての要求によく応じ、よく応じさせることもできる。
おのずか
又殊更誰を招くということはないが、誰も自ら来り、紳然、つまりゆるやかに、あっさりとして
いながら、深い計らいが自然と行われている。そして、天の網はすべてを大きく包み容れていなが
ら、その網の目は、すべてを失うことはない。
というように、天の道というものは、敢えて行うというのではなく、自然とすべてが行われてゆ
くというものである、だから人間も天の道のように生きねばならぬ、という結論を老子は述べてい
るのであります。
これからの時代は、地球世界が、今日までの次元から一段と飛躍した次元に住まねばならなくな
るのです。これは人間の好むと好まざるとにかかわらず、宇宙の運行がそうなっているのでありま
して、今日までの生き方をしている限りは、いつか地球人類は滅び去ってしまわねばならぬことに
にず
なるのです。それは大宇宙法則から、すっかり外れてしまうからであります。
自己保存の本能というものが、真実の自己生命を守ろうとする本能として働くのではなくて、自
己の肉体身をのみ守ろうとしているのでは、それは自国のみを守ろうとする形として働くのであっ
て、宇宙大生命の意志である、共存共栄という形にはどうしてもなってゆかないのです。
今日の米ソ中共、イソド、パキスタソ、アフリカ諸国や東南アジア諸国等々、何処の国と国との
関係においても、自国中心主義であって、他国の救済の為に、自国の損失をも顧みないなどという
405敢に勇なれば則ち殺し
ことは、ほとんど無いのであります。06
4
それどころか事実は全く反対で、自国の為なら他国の損失など敢えて顧みない、という国家が殆
どなのであります。
米国がベトナムで戦っているその真意は、ベトナム人の為でないことは勿論であります。
米国自身の共産主義の恐怖を払いのける為のものであって、他国の為というのは、そのつけ足し
の想いに過ぎないのです。
これは何も米国のみではなく、ソ連も中共も英国も仏国もそして日本も、すべての国々が、自国
の為の防衛というのが九十九%でありまして、あとの一%の想いで同調国の利害を考えているに過
ぎないのであります。
もし中共やソ連が、日本と米国とを同時に攻撃した場合、米国の防衛力は、自国の為にどれだけ
の力をつかい、日本の為にどれだけの力を使うでしょうか。日本の為に力を使うというより、自国
の防衛力を固めるための或る時間をかせぐ為に、日本を防衛するというに過ぎないのではないでし
ょうか。果してどうでしょう。
日本がかりに軍備力が強大だとして、日本とその同盟国とが、同時に大敵に襲われたとした時、
しかも原爆のような強力な爆弾で襲われたとしたら、一体どれだけの軍力をその同盟国の為に使う
でしょうか。やはり同じようなことになるでありましょう。
もつと
尤も原水爆戦争となれば、どちらも滅亡ということになるのですから、自国も他国もなくなって
しまうわけです。自己保存の本能というものを、肉体を超えた高次元のものとしない限りは、どう
しても自国本位になり、自国を守る為の戦争ということになってくるのです。
そういうように、今日までの思想や政治政策では、地球世界は早晩滅亡するより仕方がないこと
になります。その事実を人類ははっきり認めなければいけないのです。
老子の言うように、争わずして善く勝ち、言わずして善く応じ、召さずして自ら来るような、そ
ういう人間に一人一人がならねばなりません。
その為には、肉体というものが人間ではなく、生命そのものが人間なのであることを知ることが
必要なのです。人間生命そのものが、或る一定期間、肉体という波動体を纒っているというのが、
この地球人類の姿なのですが、生命そのものが人間であるということを知りますと、現在の肉体と
いうものが、そのままで高次元の波動に昇華してゆくのです。いいかえると、人間の他の体である
霊体幽体という波動体に肉体が極度に近づいて、同等に近い微妙な波動体になり得るということに
407敢に勇なれば則ち殺し
なるのであります。
08
4
そう致しますと、今日までのように、肉体人間というものに執着しなくなって、肉体を超えた永
遠の生命というものを主体にした生き方に変化してくるのです。肉体人間というものに執着しなけ
れば、死ということを恐れなくなります。死が恐ろしくなくなれば、他国人を殺してまで、自国を
守らなくとも、もっと自然の姿で、自由に自国独自の生き方ができてくる筈であります。
そうなれば、もう現在の国家というようなわずらわしい枠をはずして、もっと自由な伸び伸びと
した形で、人類が平等につき合ってゆけるということになるのです。
そうなる為の最初の段階として、各国人民が想いを一つにして、世界人類の平和を願わなければ
ならないのです。それが世界平和の祈りなのです。世界平和の祈りを基本にしなくては、地球人類
はもう一歩も先に進むことはできないのであります。
第四+二講民、死を畏れずんば……
道徳経第七十四章
民諏鼻死・奈既レ憲..”ち・麓罵。.藍死而幽爺煮吾徐二執霧.,琴設馳。.暮”
スレリテニスヲウリテニルトレリテニルれナリルコトルヶノヲ
司殺者一殺。夫代二司殺者一殺、是謂下代二大匠一翫坦夫代二大匠一劉者、希レ有レ不レ傷二其手一 。
〔読み方〕
これおそもおそないかんたみおモ
民、死を畏れずんば、奈何ぞ死を以て之を催れしめん。若し民をして常に死を畏れしめて奇を
ばなとのりこれえたれあえしさつしやモ
為す者、吾執えて之を殺すことを得ば、敦か敢てせんや。常に司殺者有りて殺す。夫れ司殺者にん
代りて撃是を譲寧て野ると警ぎ恭殴奪て野る者纂の手を讐る穿鮒
まれを
こと希なり。死

民・死を躍れずんば・葎ぞ死を以て豪憐れしめん・姻
これは政治家にむかって説いている言葉でありまして、一般の人への言葉ではありませんが、政
10
4
治家や国家への指針としてこの章を説明して参りましょう。
政治家にとって、一番恐ろしいことは、人民が死ぬことを恐れずに、政治に反抗してくること
で、こうなると、如何なる刑罰に処するとも、どのような弾圧をしようとも、その反抗を抑えるこ
とはできません。
殺しても刑に処しても、その志をつぐものが後から後から現われて、到底その力を抑えきれず、
遂いには大きな革命というような事態になりまして、為政者の方が敗北してしまうことになりま
す。
こういうように人民が反抗してくるのは、何か必ず政治的な欠陥があるからであります。例え
ば、重税を荷しているとか、地位の高いものだけに得があって、下のものにはすべてに苛酷であ
る、とか、自由を縛られているとか、そのままゆけば、他国と戦争にでもなりかねないとか、とに
角自分たちや国家そのものが危機に向ってゆくような実感がしてきますと、いても立ってもいられ
ぬ焦燥感にかりたてられ、こんな状態なら、死んだってどうだってかまわぬ、いっそひと思いに生
命をかけて、と政治に反抗するという形になってくるのです。
ですから政治家は、
と老子はいうのです。
人民をして、そういう心の状態に追いこむような政治をとってはいけない、
もな
若し民をして常に死を畏れしめて奇を為す者、
しさつしや
常に司殺者有リて殺す。
とらたれおえ
吾執えて之を殺すことを得ば、敦か敢てせんや。
政治が悪くて、人民を死を畏れぬまでに追いつめてしまうようでは困るので、常に善政をしい
て、人民がこういう政治の下になら、いつまででも生きていたい、というように、生きる楽しみを
与える政治を行っていて、それでも不正をしたり政治に反抗するような者がいたら、これを刑罰に
処したとしても、誰もこれをいなむものはいないでこの処置を当然のこととしてむかえるでありま
しょう。
おの
それは司殺者、即ち天(神) の法則にそむいたものが、自ずとその生を断ってゆく、その天に代
って、天のみ心そのまま行っている政治が、その生殺を握っているのだから、これは自然と人民が
納得してしまうのであります。
411民,死を畏れずんば
天の理法は調和であり、その調和をこの世において現わしてゆくのが、真の政治家なのでありま
す。ですから調和ある政治をして、人民に生きる喜び、生きる張合をつけているということは、天
の代理者としての政治を行っているということになります。そういう政治下において行われた死
刑の執行というものは、大自然の法則にそむいて滅びる、というのと同じ意味合いになるので、そ
れは許されるのである、というような老子の言葉なのであり、次に、
412
しさつしや
夫れ司殺者に代リて殺す、
あまれ
傷 けざる有ること希なリ。
たいしようないな
是を大匠に代りて蜥ると謂う。夫れ大匠に代リて斬る者は、其の手を
しかしながら、そのように天に儲つて司殺者となり得るような政治家は嶽であって・殆どの政
治家が、自分では天に代ってやっている気でいながら、どこか政治に不備があって、天のみ心その
まま、大調和の法則そのままの政治を行い得ていないのであります。そこでそういう政治家は、
だいく
大匠即ち、立派な大工の棟梁、もっと深くいえば、宇宙神のみ心に代って生殺の権を握り得る程
の人物ではないので、いつかは、自分の手を傷つけ、自分を滅ぼしてしまうのである、と老子はい
っているのであります。
この老子の講義は、どこの国のどんな政治家にもあてはまる言葉でありまして、自己の権力欲の
満足のために、政治家になろうなど思うものではありません。政治家になることなどは、実は人民
の大犠牲者として起つ、という程の大愛の心でなければならないので、名声をかち得たいとか、権
力欲の満足のためだというのだったら、これ程馬鹿気たことはありません。
ところが、この世では、こういう馬鹿気た人たちが多くいて、多額の金を使い、法にそむくよう
なことを平気でして、それで犠牲者になろうというのです。面白い人の心です。
政治家というものは、宗教者と同じことで、自我というものを、すべて、天にお還えしして、天
の理法そのものとなって、はじめてなり得るものであり、権力欲だの、金銭欲だのが少しでもあっ
てはならないのです。
そういう天の理法をマイナスする想念波動があればある程、その政治家の生命は汚れるのであ
り、その汚れをはらうために、いつかは大変な苦労をしなければならなくなるのであります。
かな
口先でどんなうまいことをいっても、心が天の理法に適っていなければいけないので、大変な413民
,







御修業であるわけです。そういう真理を知らずに、権力欲の妄念にかられての政治家志願者たち14
4
を、羨ましい気持でみている人たちもあるのですから、世の中は変なものです。
しかし、この地球上に肉体人間として生れてきている者は、完全な人格をもった人というのは、
まれ
ほんの希でありますので、この地球上の人たちに完全を望むのは酷でありますが、国政を指揮し、
人を指導する、政治家や宗教者、教育者などは、常に完全を望んで、進歩向上してゆく道に立って
いる人たちでなければなりません。
世界が今どんな苦難の道に立っているか、日本の今後がどのように困難な歩みをしつづけなけれ
ばならないか、そういう状態を冷静にみつめてみたならば、進んで国政に当ろうとするのには、不
惜身命ともいうべき、余程の勇気と、天与の智慧能力がなければ、できるものではありません。
アメリカの運命を担う、ジョソソン大統領などは、どれ程苦悩に充ちた日々を送っていることで
しょう。もしジョンソンが、平然として、現在のアメリカ政策をつづけているとするならば、余程
の愚者というべきでしょう。
そんなことは決してないと思います。アメリカとしては、最善をつくす為の必要悪として北ベト
ナム爆撃をつづけ、各小国への武力干渉をつづけているのでありましょうが、それが最善への道な
のであろうか、ということを、何度びも何度びも考えてみる必要があるのです。
他国の領土や物資や人員を侵し、破壊し、しかも自国の有為なる青年を多数殺して、しかもそ
れが果して最善への道なのであろうか。私共宗教者の心には、どうしても納得できないしこりが残
るのです。共産主義の侵透を防ぐには、これしか道がないのだ、とアメリカも云い、日本の或る人
たちもいっていますが、果してそうなのでしょうか。もし宗教者の中で、平気でそんなことをいえ
る人があったら、その人は真実の宗教者ではありません。
はず
殺す勿れ、ということと、大調和ということは宗教者の根本的な生き方です。その根本を外れた
生き方を、自分自身が手をくだしてしないとしても、当然のこととして認めるということは、私共
にはとてもできないことです。
日本の佐藤首相なども、調和を基本とする人なので、こういう点では非常に苦慮しているようで
す。アメリカとの同盟国として、アメリカの政策にあまり兎や角云いたくはないし、といって、心
から北爆に同調する気にはなれないし、日本を再び戦争の渦に巻きこみたくはないし、政治の中心
に立っていると、責任のない人たちが、はっきり言えるようなことも、なかなか言いにくいことに
なるので、政治家というのは大変だなあ、とつくづく思うのです。
415民,死を畏れずんば
アメリヵ政策を支持する人たちは、日本は北爆でアメリカを責めるが、それは片手落ちだ、北べ164
トナムが、ベトコソの後押しを止めれば、アメリカも北爆をやめるし、アメリヵは無条件交渉をい
っているのに・北ベトナムが条件をつけて受けないのだ、日本人は少し感傷的になっている、大き
な戦争を防ぐ為の小さな戦争は止むを得ない。
というようにいっていますが、そういう考えもあるのだろうが、とまでは思っても、そうだそう
だ、アメリカの政策は尤もだ、と賛成する気になれぬのは、どこかに、アメリカの政策に無理がある
からなのでしょう。アメリカにしても日本にしても、中共にしても、人民の心というより、人間の
本心を納得させない欠陥がその政治政策にあるのだ、ということは確かなことです。
人類の大半が納得して、少数の者翫ちだけが反対する、というのなら、その世界政策は今の世界
では善しとしなければなりませんが、賛成反対が半々ぐらいで、しかも賛成側が、何か心にうしろ
めたいような、言いわけしたいようなものを持っている、というのでは、これが天のみ心に適った
真理に沿った政治政策である、とは言い得ないと思います。
地球世界を滅亡させない為に、アメリカも中共もそして日本も、真実に底の底まで、その政治政
策をつきつめて考えて、現在の政治政策としては、これ以上天意に沿った方法はない、というまで
に至らなければ、その政治政策はいつかは行きづまって、その為政者は滅び、その国家は変貌せざ
るを得なくなります。
只単に共産主義の侵透を防ぐ為とか、帝国主義の侵略を抑えるためとかいうだけで、天意にそむ
さつりく
く殺識や、謀略をしてもよいということにはならないのです。
老子はそのことを「夫れ大匠に代りて斬る者は、其の手を傷けざること希なり」といっているの
でありまして、各国の政治家たちが、今こそ、真剣に自分の心をみつめ、自国の在り方をみつめ
て、自分の心に我欲がないか、自国の生き方に自分勝手なところがないか、とよくよく考えてみる
時なのです。それでないと、自分の手を斬るだけではなく、遂いには地球自体を滅亡させてしまい
かねないからであります。
政治家程むずかしい仕事はないと、しみじみ思い、政治家諸公の働きに感謝しながらも、どうも
その行き方が危なっかしくてみていられないような、心落ちつかぬものを感じます。老子など、中
国の昔に生活していて、常に中国の政治家たちの行いをみつめながら、やはり危っかしくてみてい
られず、老子道徳経を残してゆかれたのであろうと思われます。
要は政治家でも宗教家でも、教育者でも人の上に立ってゆく天命を持った人は、普通人の何層倍
41?民,死を畏れずんば
も、自己の心をみつめることをしなければならぬので、少しでも天意にそむく想いをもたぬよう、
行わぬようしなければなりません。そういう態度が祈りなのであり、その方法として、祈り言葉が
生れたのであります。
私はそれを消えてゆく姿で世界平和の祈りとして提唱し、すべての想念行為は過去世からの因縁
の消えてゆく姿、その消えてゆく姿を世界人類の平和を願う祈り言葉の中に投げ入れて、神のみ心
に同化して頂き、再び自分の想いの中に、自分の行いの中に、光り輝くものとして現わして頂くよ
うに、と願ったのであり、それが叶えられているのであります。
人間は常に観の転換を行うことが大事でありまして、その転換は神の大光明の中ですることが必
要なのです。それが祈りであり、その祈りを人類の大目的と一つにしたのが世界平和の祈りなので
あります。世界の政治家諸公も夜を日につぐ世界平和の祈りの中から真実の天意に沿った政治を行
って下さるよう、祈らずにおられないのであります。
418
第四+三講人の生まるるや柔弱なり
道徳経第七十六章
マルルヤナリノスルヤナリズルマナリノスルヤスムナルハナリナル
人之生也柔弱。其死也堅強。万物草木之生也柔脆。其死也枯槁。故堅強者、死之徒。柔弱
私生之徳㏄ 匙燐、兵弧巽貼不レ脇。木弧ヒハ貼蜘。強九ルハ処レ札、柔弧ルハ処レL。
– 〔読み方〕
じゆうじやくけんきようそうもくじうぜい
人の生まるるや柔弱なり。其の死するや堅強なり。万物草木の生ずるや柔脆なり。其の死す
こかうけんきようとと
るや枯槁す。故に堅強なる者は、死の徒なり。柔弱なる者は、生の徒なり。是を以て、兵強けれ
おおお
ぽ則ち勝たず。木強ければ則ち共る。強大なるは下に処り、柔弱なるは上に処る。
じゆうじやくじうぜいけんきよう
人の生まるるや柔弱なリ。其の死するや堅強なリ。万物草木の生ずるや柔脆なリ。其の死する
こニうけんぽよう
や枯槁す。故に堅強なる者は、死の徒なリ。柔弱なる者は、生の徒なリ。
419人の生まるるや柔弱なり
人が生まれたての赤ん坊や幼児の時は、その肉体は柔らかく弱々しい。だが、その人が年老いて20
4
死ぬ時になると、その肉体は堅くなり、こわばってしまっている。万物や草木もそれと同じように、
生ずる時には柔らかく脆いようであるが、その終りの時になると、枯れてしまい、かさかさになっ
てしまう。
そういうように、堅くこわばってしまったものは、もう死んでゆくものであって、柔らかく柔軟
であるものは、生の徒、いわゆる生き生きとしているのである。
というのであります。実際その通りでありまして、幼児や乙女の肌は、何んともいえず柔らかく
快いものですが、屍や死に近い老人の体は、かさかさと、ひからびていて、決して気持のよいもの
ではありません。
草花や木々についてもやはり同じことがいえます。花の蕾の愛らしさや、花片の柔らかい感触な
どは、自然の生き生きとしたいのちの輝きを、そのままこちらに伝えて参ります。
大自然の生命が生き生きと働いている姿は、柔らかく伸び伸びとしていまして、決してかちかち
した固ったものではありません。
人間の心というものも、そうしたものでありまして、柔軟性のある自由自在な心であればある
程、生き生きとした、大自然と同じ働きができてくるのでして、こちこちと固った動きのない、ひ
からびた心では、生き生きとした大きな働きはできないのであります。それではいのちが死んでし
まっていると同じようになってしまうのです。
そういう理が判らなくて、いたずらに、ただ形にはめようとして教育したり、政治を行ったりし
たのでは、真実の立派な人間は生れてこないのであります。宗教の在り方などもそうしたもので、
形にはまったような宗教理論を押しつけたとしても、それは、きまりきった堅い理論なので、人々
の胸に生き生きとした真理のひびきとして伝わってゆかないのです。生き生きとしているというこ
とが、何事にも大事なのでして、生き生きとしている為には、その人なり、その教えなりが、柔軟性
のある、自由自在なもので、どこからでも人の心に、そのひびきが伝わってゆくようなものでなけ
ればなりません。
是を以て、
処る。
兵強ければ則ち勝たず、
おお
木強ければ則ち共る。強大なるは下に処リ、柔弱なるは上に
421人の生まるるや柔弱なり
どの章をとってもそうですが、老子の言葉は、人意による強大化ということに否定的です。兵力
242
を強めるなどということは、勿論人意的なものですから、そのことを善しとはしていないのは明ら
かです。
そこでこの節も、兵強ければ則ち勝たず、といっていまして、普通人が考えているのとは反対の
ことをいうわけです。
兵力を強めなければいけない、軍備を増強して、あわよくば米国の力を借りて、核武装をしてし
まわなければ、といっている階層が宗教家を含めて日本にも存在しているのですが、そういう心の
状態を老子は全く否定しているのであります。
兵強ければ則ち勝たず、という言葉は、はっきりそれを表現しているわけです。兵弱ければ則ち
勝たずなら普通の言葉なのですが、兵が強いのに勝たないのだろうか、この言葉だけを表面にみれ
ば、首をかしげる人も多いことでありましょう。
兵が強ければ表面的には、一時勝つことはあるでしょう。しかしそれは完全勝利ではありませ
ん。いつかはもっと強い相手が出てきて、敗れてしまわねばならぬことになるのです。これは因果
の法則でありまして、個人的にいっても、叩くものはやがて叩かれ、人をしいたげるものは、やが
みテかみずか
てしいたげられることになる。これはすべて心の理法でありまして、自らの想念波動は、いつか自
らに帰えってくるのであります。
兵力が強くなるということは、相手をやっつける想念波動が強くなったことであって、それはや
がては自国に帰えってくるのは当然の天地の理法なのです。
ですから老子は、兵強ければ則ち勝たず、つまりいつかは敗れる時がくるのだ、というのであり
ます。このことは実に大事なことでありまして、この事実をおろそかにして国政を計っても、その
国政は滅びに至る道をつくり出してしまうものなのです。
今日までの歴史はすべて、その事実を証明しているのでありまして、自国の方が正しいのだから
そんなことはないといっても、それは自分たちの方で思うだけで、相手は決してその正しさを肯定
しませんで、自分たちの方こそ正しいのだと主張するのであります。
人間同志が、自分の方をかばい合う気持でお互いの正義を主張し合っても、それはお互いに真実
の正義ではないのです。どうしてお互いが正義でないのかと申しますと、お互いが他を責め裁い
て、憎悪の感情で対決しているのでありますから、もうそういう想念そのものが、天地の理法と反
している、大宇宙の心、つまり大調和の心に反しているわけで、どちらも正義ではないというので
423人の生まるるや柔弱なり
す。鈎
4
どういう事態にありましょうとも、調和を乱す心の状態とか行為とかいうものは、宇宙法則に反
していますので、人意で計る場合には、その人や、その国の心の動きが調和を基底にしているかい
ないかによって定まるのです。
そのことを老子は単的に、兵強ければ則ち勝たず、といったのであります。

木強ければ則ち共る。この共るは折るという言葉に老子はつかっています。これは誰でも知っ
ていますように、柳に雪折れなしの反対でありまして、堅くしなやかでないものは、ぼきりと折れ
てしまいます。
こういうようなわけであるから、強大なる者や国は、謙虚に下座についている。
㌧或は下にい
て、小さな者、弱いものを支えていてやるようにすれば、強いものも弱いものも共に調和して生き
られるのである、と老子はいっているのであります。
ところが現実は全くこの反対でありまして、強大なるものや国が上におり、小さな力の者や国が
下にいるのであります。これは、この地球世界がやがては滅亡してしまう、という形なのでありま
す。
こういう現実を私たちは憂えずにはおられないのです。私が老子講義を書き出したのも、釈尊で
もキリストでも老子でも、すべての聖賢は、みな調和を説いているのであり、日本の聖徳太子など
たつと
も、和を以て貴しとなす、といっておられるのでありまして、調和を根抵にしない政治政策は、す
ぺて駄目であることを、老子の言葉として説きたかったからでありますQ この調和を根抵にした政
カルマ
治政策をとるためには、人為ではどうしてもでき得ないものを、この地球世界の業波動はもってい
るのであります。
そこで、無為にして成せという、老子の主張が生きてくるのです。人為的に考えている以上は、
相手が武力をもって、こちらに敵対するから、こちらも武力で応じよう、というように、すべてを
相対的に考えて、絶対というものを忘れ果ててしまうのであります。
なにぴと
我々は何人といえども、絶対者、大生命から生れ出ない者はいないのです。絶対者大生命の中で
は、誰も彼も一つの生命なのであります。一つ生命の流れとして生きているのであります。
人間にとって、最も大切なこういう根本的な考えを忘れてしまっていては、人間が完全になるわけ
がありません。地球世界の平和などとてもくるわけはありません。
そんなことは理想論さ、などという人があるなら、あなたは地球世界がいつまでも、このままの
425人の生まるるや柔弱なり
ような世界、いつかは滅亡し去ってしまうような、こんな不安定の世界でよいというのですか、と
246
反問したくなります。
人間は常に進化してゆくものです。今日は愈々高次元世界への進化を果すべき時代を迎えている
のです。高次元世界への進化の為には、今までの旧い習慣の考え方で人類の行方を計っていたので
は、どうにもならないのです。
今日のためにこそ、古代から幾多の聖賢が現われて、現実世界ではできそうもない、理想論のよ
みずか
うな道を説いてきたのであります。イエスキリストなどは、その道の為に、自らの肉体を十字架に
かけてしまっているのです。
大宇宙が一瞬の休みなく動きつづけていると同じように、地球人類の動きにも休みはないので
す。一歩一歩、一日一日大進化の階段にむかって進んでいるのであります。人間はその事実に気づ
かずにいるのです。もしその階段に足を掛け得ない方向に、人類が進んでしまえぱ、地球は滅亡し
去ってしまうのです。
くう
地球人類を滅亡させない方法、それはもはや人為による方法の中にはありません。釈尊のいう空
の境地の中から、老子のいう無為の世界の中にこそ、地球人類大進化の鍵があるのであります。
老子の言葉をきいていますと、その一言ご言が、すべて、普通人の考えの反対のようにきこえま
す。老子は偏屈なひねくれ者のようにさえ思える言葉が随分とあります。しかしその言葉のすべて
が真理の言葉であるのです。私にはそれが判ります。
今日の米国の政策のまま、中共の政策のまま、世界が進んでいったら、一体どうなるでありまし
ょうか、どんなに善い方向に考えようとしても、最後には武力の決戦、核兵器による悲惨な結末よ
り考えられません。
米国と中共の間にはさまった、自主性のはっきりしない今日の日本の外交など、世界的には小さ
どとう
な動きでしかありません。地球世界の業想念波動は、そうした小さな動きをも含めて、狂乱怒濤の
渦を巻き起して、地球界を呑みこもうとしているのです。
そうした怒濤を超越した波動世界に、地球世界をひきあげなければ、世の終りとなってしまいま
す。それにはどうすればよいのか、人間の心を高次元の世界にひきあげるより他に方法はないので
くう
す。それが空になること、無為にして成す、ということになるのであります。
その方法を私は、もっと易しく説き明かして、消えてゆく姿で世界平和の祈り、という方法にし
はず
ているのであります。今日までの低次元波動、つまり宇宙法則に外れた、自我欲望の想念波動を、
427人の生まるるや柔弱なり
そしてその現われた状態をすぺて消えてゆく姿として、ただひたすら、世界人類の平和を望む想念
に切り替えてゆくのであります。
自分の心にどのような悪い想いが現われても、どんなに相手が悪くでてこようとも、それはすべ
て過去から蓄積された想いの現われとして、その想念を、世界人類の平和を望む、人類愛の想い、
大光明波動につながる光の波動として転換させてしまうのであります。
こうした日頃からの瞬間瞬間の観の転換により、いつの間にか人々の心は、今日までの業想念波
動をはなれて、高次元波動つまり、宇宙法則の流れである、大調和波動の世界に昇華してゆき、地
球世界を壊滅から救い出すことができるのであります。
その合言葉が、世界人類が平和でありますように、なのであります。もはや武力拡張の世界でな
いことを、人々は一日も早く悟らねばなりません。今日こそ聖者賢者の心を一人一人の心として、
理想を現実にしてしまう、世界平和の祈りの生活に切り替えてゆこうではありませんか。
428
第四+四講天の道は弓を張るごときか……
道徳経第七十七章
天之遊、鈍獲オレ鑑回引乎。臥魯拠レ為、㍉急駒レゐ。㍍レ余魯撫レゐ、福レ匙者裕レゐ。天之遣、拠”有
ゴトキカ
傘而裕二不墨人之遮、貼不レ篤・糞不墨蒙二有魯諺あ余・場聾天} 噛有道線.,匙
ヂハシテシチマリテシテヲレルカセワスコトヲヲ
以聖人、為而不レ侍、功成而不レ処。其不レ欲レ見レ賢耶。
〔読み方〕
なおこれ
天の道は、其れ猶弓を張るがごときか。高き者は之を抑え、下き者は之を挙ぐ。余り有る者は之
を損じ、足らざる者は之を補う。天の道は、都鎌ダ損じて、不足を禰勢。人の道は、則ち鴛らず。
ありあまるたれ
不足を損じて、以て有余に奉ず。敦か能く余有りて、以て天下に奉ぜん。唯有道者のみなり。是
たのこうなしかおけんあら
を以て聖人は、為して而して侍まず、功成りて而して処らず。其れ賢を見わすことを欲せざる
か。
429天の道は弓を張るごときか
なお
天の道は、其れ猶弓を張るがごときか、
を損じ、足らざる者は之を補う。
高き者は之を抑え、
ひくあ
下き者は之を挙ぐ。余リ有る者は之340
つる
天の道というものは、一体どのようになっているかというと、弓を張る、つまり弓に弦を張ると
ゆるゆつかゆはず
きは、弓を弛めている時と反対に、上にあるべき附というところが下に向い、彊が上に在るように
なる。それは、弓材の外に向って轡曲突出している中央部を、外から逆に内側におしつけて、強い
て反対側に轡曲させて弦を張るのでそのようになるのである。そうしなければ、弓が強くならない
こおひく
のである。そのように天の道も、高い者は之を抑え、下い者は之を挙げるようになっている。そし
て余り有る者は之を損じ、足らざる者は之を補うようにできているのである。と老子はいうのであ
ります。
老子にいわれるまでもなく、確に宇宙の法則というものは、山上の水は下に向って流れてくるの
であり、下の草木は、上に向って伸びてゆくようになっているし、天上に水分が有り余ればこれは
雨となって地上に降ってきて、水分の足らざる地上をうるおすのであり、地上の水分は常に上に上
じょうはつ
にと向って蒸発しているのであります。
原子科学の説明によれば、原子の世界では、常に一つの原子の中で、電子が飛び出してイオン化
すると、即座に有余っている他のイオン化した原子の電子がその原子の中に入ってくる。そして、
各原子の安定性を計っているようになっている、というのです。原子の世界では、余りあるものは
不安定な状態なので、常に足りないものに補給することによって、その安定を得るようになってい
る。余れるものと、足らざるものとのお互いが、お互いを必要として、この原子世界、大きくいえ
ばこの宇宙の調和が保たれ、そして発展してゆくのであります。
天の道というものは、そういう道なのでありますが、
しか
人の道は、則ち然らず。
ん。唯有道者のみなリ。
不足を損じて、
ありあまるたれあまりあ
以て有余に奉ず。敦か能く余有リて、以て天下に奉ぜ
この文のように、人の道、つまりこの人生においてはそうではない。天の道の反対に、足らぬ生
活を補おうとして、一生懸命に働いている者たちが、政府に税を払っていて、昔流にいえば、王様
や将軍や大名たちに、一生懸命働いても足りないような低収入の人たちが、捧げものをして奉仕し
4鋭天の道は弓を張るごときか
ていて、王様や将軍や大名たちは、有り余った上のぜいたく三昧をしながら、その上取り立てるよ
342
うなことをしていたのであります。現今では、そういう非道なことは次第に無くなってきまして、
政府の高位高官の人たちが、国民の税金を自分のものとして、ぜいたく三昧するようなことは許さ
れなくなってきております。こういうことは、人間性が次第に高くなってきている証拠でありまし
ょうo
世の中が悪い悪いとはいいながらも、時代が進むにつれて、人間生活は、だんだん平均化されて
きておりますし、あまり馬鹿気た貧富の差が無くなってきっつあるのは事実です。
しかしまだまだ天の道の、有り余るを損じて、不足を補う、という程、はっきりと道を行じてい
る者は甚だ砂ないのであります。こうした道を行える者は、道を真実に知っている者だけでしかな
い。と老子はいっているのです。
是を以て聖人は、
か。
なたのおけんあら
為して而して特まず。功成リて而して処らず。其れ賢を見わすことを欲せざる
そういうわけで、聖人というものは、道そのものであり、道を真実に知っている者でもあるか
ら、わざわざ道を行うというような心の努力を払わなくとも、聖人の歩ゆんでいる道そのものが天
おのずか
の道と一つであって、自ら人類の為、国の為、人の為になっているのである。
聖人は常に無為にしてなしているので、自分のしたことで人類や国家や人々が大いに助かったと
しても、自分が好んで指導者の位置につこうとも、政府の高官になろうとも思わず、といって、自
じねんほうに
然にそうなればなるでもよし、というように、自然法爾に生きているのであり、功績があったか
ら、その功績だけの代価の地位を得たいとか、その功績を誇って人々に現わしてみたいなどとい
う、常人の考えとは全く異なっていて、天意のままの動き方をしているのである。
と老子は説いているのであります。
全く聖人の境地というものは、誰しもあこがれるところでありますが、なかなかそういう境地に
はゆきがたいのです。
そういう境地に入る為の第一歩は、自分の肉体身というものは、自分自身のもののようではある
けれど、実は、大宇宙進化の一つの器であり場であって、自分自身の勝手に出来るものではない。
どんな人間でも、すべて宇宙神のみ心をこの世において現わす、という天命をもっているもので
433天の道は弓を張るごときか
あって、宇宙心によって動かされているものである、ということを信ずることなのであります。こ34
4
の信ができませんと、なかなか天の道に沿って生きてゆくことはできません。
まと
私共が纒っておりますこの肉体身というものは、どんな立派な人であっても、どんな高位高官の
人でありましょうとも、自分自身でつくり得た人はありません。自分自身は勿論その両親にさえ判
らぬ、不思議なる作用のうちに、形づくられ生み出だされてきたものであります。
その事実を考えますと、肉体人間の最初の出発点から、与えられてきたものなのであることが判
ります。誰方かは判らぬが、大きな生命という力によって与えられてこの世に出てきた、というこ
とは、誰でも納得できます。
この与えられて生れ出たということを忘れて、自分の体は自分自身の自由だというところから、
人類の間違いがはじまっているので、この考えを、与えられて生かされているのだ、という元の考
えに直さないことには、この人類の運命は駄目になってしまいます。
はず
つまり、天の道によって、自分たちは生かされているのであって、天の道を外れれば、やがては
滅びてしまうものであることを知らねばならないのです。
老子さんは、そのことを何度でも何度でも繰りかえしていっているのであります。私共が普通は
当然なことと思っている、男女の結合による赤児の誕生も、一才から二才、二才から三才と次第に
肉体も精神も成長してゆくこと、苗を植えれば、米が成るということや、知らずに空気を吸って生
きていることや、数えれば、数限りなくある当然のようにみえる、有難い不思議なことどもによっ
て、人間は成長し生かされつづけているのだ、という、一番大事な根本のことを、人間は忘れかけ
ているのであります。
老子さんは、そうした忘れかけたことを、はっきり人間の心に甦らせようとして、聖人は
聖人はと、聖人の話をきかせて下さるのです。聖人といいますと、自分たちは及びもつかないと思
いますけれど、実は、聖人が一番当然な普通の道を歩いているのでありまして、普通の道を歩いて
いると思っている一般人の方が、実は道でない道を歩いていることになるのであります。
ですから釈尊などは、人間は夢幻の道を歩いているのだ、といっていて、人間の肉体身のみに想
いをかたむけきっているのを、正そうとしておられたのであります。
こう考えて参りますと、自分自身といっている自分自身は、大きな生命の一つの分れとしての自
分であって、大生命の一つ一つの働きを分担してこの世の生を送っていることが判ってきます℃
はず
そうした天命を完うするために必要なのがこの肉体身なので、大生命の道に外れた生き方をする
435天の道は弓を張るごときか
ことは、それはそのまま、その人の生命を損じてゆくことになり、その人の肉体身にまつわる自我346
の満足と反比例して、生命は次第にその光を失ってゆくのであります。そして、その肉体身の滅し
た後には、光無き生命は暗黒世界をさまよい歩くことになってしまうのです。
そうした状態を私共は霊覚によってよく知っております。ですから老子さんの言うことが実には
っきり判ります。人問というものはどうしても、老子や釈尊やイエスのいっているような道を通る
ようにしなければならないもので、それでなければ滅びの道に至ってしまうことになるのでありま
す。
個人だけではありません。国家も人類もすべて、やがては天の道をこの地上界の道として生きて
はず
やかなければならないので、それは時間の問題なのでありますが、外れた道から、天の道に乗りか
えることが、長い間の習慣の想いを超えなければならないので、なかなかむずかしいことになるの
です。
くう
その乗りかえる方法が、老子の無為であり、釈尊の空であり、イエスのみ心のごとくならせ給え
なのであります。私はその方法をもっと人々に判り易く、行い易いものにするために、消えてゆく
姿という言葉をっかって、天の道に直接つながってやく、世界平和の祈りという、人類愛の祈り言
を、その後にもってきておるのであります。
皆さんが自己の生き方を決定しようという時、或は国家の在り方や、人類の在り方を見極めよ
はず
うとする時には、その生き方が天の道に叶っているか、天の道に近いか、それとも外れているか、
遠いかを見定めて、その決断をするとよいのです。
現象の現われている損得だけで物事を定めてしまってはいけません。個人にしても国家の生き方
にしてもそうであります。現われている損得だけを追いまわしていると、いつも心が不安定で、安
心した生き方ができません。
この世では、天の道そのままを生きるのは並大抵ではありませんが、どうにも仕方のない時は、
過去世の因縁の消えてゆく姿なのだと割りきって、世界平和の祈りの中で、天の道と人の道とのギ
ャップをお詑びして、心新しく再び天の道をそのまま行えるように、少しでも天の道に、大調和の
道に近づいて生きるように心がけてゆくのが賢明なのであります。
天の道というものを繰りかえして申し上げますと、一口にいえば、すべてを調和させる道、余れ
るは足らざるに、足らざるは自然に充足してゆくような、和を以て尊しとする道であります。
平和をつくる為に相手を叩きつぶすのだ、というような方法は、決して天の道ではありません。
437天の道は弓を張るごときか

お互いの生命をすごやかに明らかに生かし合えるような、そういう生き方を個人個人の間でも、国
と国との間でも行えるようにならなければ、天の道ではありません。
国と国とが常に敵視し合っているようではとても天の道はこの地球界には参りません。この日本
は、先ず卒先して、日本の周囲に敵視し、敵視される国々をつくらぬようにすることが大事であり
ます。日本は米国とも中国とも違うのであります。日本には日本の天命である、大和の道が古代か
ら伝わってきているのであります。米国のまねごとや、中国のまねごとをして、現象をごまかして
はいけません。その為にも私共は祈りによる世界平和運動にますます力をそそがねばならないので
す。
438
第四十五講天下の柔弱なるは水にすぐるはなし
道徳経第七十八章
ノナルバシグルハリむムルヲバシユクル トテナリノキヲテルコレヲチョジハ
天下柔弱、莫レ過二於水鱒而攻二堅強一者、莫二之能勝4 以三其無二以易ウ之也。弱之勝レ強、柔之勝
タクシテルハヲシクウロトニハウクルヲツイノトクルヲヲウトノト
レ剛、天下莫レ不レ知、莫二能行而故聖人云、受二国之垢噛是謂二社稜主噛受二国之不祥唖是謂二天下王鱒
ハシノ
正言若レ反。
〔読み方〕
じゆうじやくなしかけんきようこれよまさな
天下の柔弱なるは、水に過ぐるは莫し。而も堅強を攻むる者は、之に能く勝ること莫し。其
やニた
の以て之を易ること無きを以てなり。弱の強に勝ち、柔の剛に勝つは、天下知らざるは莫くし
セあかこれしやしよくしゆいあしよう
て、能く行うこと莫し。故に聖人は云う、国の垢を受くる、是を社稜の主と謂い、国の不祥を受
いせいげんはんごと
くる、是を天下の王と謂うと。正言は反の若し。
439天下の柔弱なるは水にすぐるはなし

天下の柔弱なるは、水に過ぐるは莫し。而も堅強を攻むる者は、
やぶ
て之を易ること無きを以てなり。弱の強に勝ち柔の剛に勝つは、
行うこと莫し。

之に能く勝ること莫し。其の以
440
天下知らざるは莫くして、能く
この章は前章にひきつづいた文章でありまして、柔弱なるものは堅強なものに勝る、という老子
一流の生き方を示しているのであります。
老子は常に水をもって柔弱なるもの、自由なるものとしておりまして、その文章の中に何回とな
く水の例えをひいております。
この章も水の例をかいて、どんな堅い強いものも、水を痛めたり、斬ったりすることはできな
い。それはどうしてかというと、水は柔弱なるものの最たるものであるからだ。だから、何ものも
これを破ることはできない。
柔和なるものが強剛なるものに勝つことは、天下に知られていることだが、人々はその原理を行
うことはしない。
といっているのであります。
確かに人々は、強くなろう、人々に勝るものになろうとして意気張りますが、水のように柔軟に
まさ
自由な人間になろうとは致しません。なろうとはするのでしょうが、その想いの中に他の人に勝り
たいとか、人々に自己の存在を示したいとかいう、他のものに把われる想いがありますので、そこ
のところで、想いが堅くなってしまいまして、心の柔軟性が失われてしまいます。
一度心が何かに固まりますと、もう水のように自由ではなくなり、より堅いもの、より強いもの
に打ち負かされてしまいます。
近頃の日本の柔道がそのよい見本であります。柔道の極意は、柔よく剛を制す、又は柔よく剛を
和す、でありまして、老子の教えそのままなのですが、近頃の日本の柔道は剛道になってしまってい
まして、力の強い者、目方の重いものが勝つ、というようになってしまっています。先頃亡くなら
れた、柔道そのもののような三船十段もいたく歎いておられたようでありました。
ですから、どこか強いものがあり、堅いものがあれば、どうしても、より強い者、堅いものに負
けてしまうのです。そこで、どこにも固まりのない、どこにも強いもののない心になりますと、如
何なる強い者も、剛なるものも堅いものも、これを打ち負かすわけにはゆかない。丁度水を斬って
も、水はどんなことをしても斬れるものではないのと、同じ原理になってくるのであります。
441天下の柔弱なるは水にすぐるはなし
この原理は如何なる場合にも応用できるのでありまして、国際間の交流にも絶大なる効果がある
のでありますが、現代の人々及び国家はこの原理を常に我がものとして生きることをしていないの
です。
政府が少しでも外交関係で弱腰になれば、政府なにをしている、というように世論が政府を押し
上げてゆきます。アメリカなども確かにそうでありまして、政府そのものの政治というより、国民
の強がりの気持の反映として今日の武力による外交政策が生れ出てきたのだと思われます。
国民一人一人の強がりの想いというもの、自分の国家を強いものにしていたいという想いは、窮
極は戦争行為というものに結びついていって、世界を滅ぼす基となってしまうのです。太平洋戦争
に突入時の日本国民の中にもこの強がりの気持がみなぎっていましたし、現在の米国、中国ともに
この強がりが国中に充ちているようで、非常に危険な状態であるわけです。
真実国家を愛するならば、自国が如何にこの地球世界の完全平和の為に役立ち得るか、というこ
とに重点を置くことでありまして、自国の権威を示す為にすることは、これは愛国心に似て非なる
ものであるのです。
老子の申されるように、柔和は強剛に勝るのでありまして、一度び強剛の道に入ってゆけば、

あくまでもその強さを増してゆかぬことには、他に制せられてしまうのであり、いつかは倒れてし
まうのでありまして、柔和の道のような安らぎの心境にはなり得ないのです。柔和の道は一見弱そ
うに見えるのですが、老子は弱の強に勝ち、といっているのでありまして、弱そうに見えていて
も、それが和を根底にしているものであれば、遂いには強はその弱とみえるものにつき従ってくる
のであります。
真の平和運動というものは、そういうことをしっかり知った上で、為されるべきもので相手を倒
しての上で、相手を抑えつけての上での平和運動などというものはあり得ないのです。常に敵対す
るものを武力によって滅ぼしつづけてゆく平和運動などというものは、永遠に平和を破りつづけて
いる運動というべきなのです。
故に聖人は云う、国の撒を受くる、是を禄稜σ主と謂い、国の説禰を受くる。是を天下の王と譜
はんごと
うと。正言は反の若し。
であるから聖人は、国の垢、つまり国のすべての嫌なこと不潔なこと不浄なこと、不名誉なこと
443天下の柔弱なるは水にすぐるはなし
しやしよく
などを、一身に受ける人、これを、社稜の主と謂う、といっている。社稜というのは、社は土の神
しよく
を祀り、稜は五穀の神を祭る壇、国家は土穀をもって人を養うので、国家の意味につかわれている
のです。
ですから国の垢を一身に受ける人を国家の主と謂うのであり、国の不祥を受くる人を天下の王と
謂う、といっているのです。
国の主というのは、国王であります。国王といいますと、絶大なる権力を持ち、己れの意の如く
国民を動かす、というように思われますが、真実の国王というのは、これとは全く反対で、国民の
罪とがを、国内の不浄や不祥を一身に受ける十字架上の人のことなのであります。
あらゆる罪とがや嫌なこと不名誉なことは、すべて力をもって自己から追いはらおうとするの
が、世の権力者のよくやることですが、王というのはそういうものではない。弱者のようにそれを
身に受けるものなのだ、というのですから、真実の言葉は全く、この世の常識とは反対に聞えるわ
けです。
この老子の言葉が正言であることを、はっきり身をもって示した人がいます。それは終戦時にお
ける、日本の天皇でありました。

終戦時の天皇が、単身GHΩ にマッカ:サーを訪れ、この戦争の責任は全部自分にある、政治家
にも軍部にもあるのではない。自分がすべて命令したのだから、自分だけが戦争の責任を受けるべ
きだ、どうか自分をどのようにでも処分して貰いたい、と御自分の身を差し出されたのでありま
す。
この我欲のない大きな広い心というものは、とても権力欲で成り上がったような、政治家にはで
きるものではなかったでありましょう。
これは何度でも話にもしましたし、書いたりもしましたが、全くこれ程、真理をはっきりと身に
現わして示された方を、私は現代の人の中で見たことも聞いたこともありません。
古代中国に住んでいた老子が示した、真実の天下の王たる人格者を、日本の天皇の全人格の中に
はっきり見せられたことは、実に日本人としては有難いことであり、日本人全体が天皇のみ心をカ
ガミとして生きてゆかねばならぬところであるのです。
普通なら、自分の知らぬうちに軍部や政府が戦争をはじめてしまったので、自分は仕方なく後か
ら承諾した。(真実はそうだったのですから)、そんなことをいって自分をかばったりしたいのが人
情なのでしょうが、日本の天皇はそんなチャチなことはなさらなかった。大愛そのもののみ心で、
445天下の柔弱なるは水にすぐるはなし
自己を捨て切られたのであります。
真理そのままを身心に現出なさったのです。この事実は、何ともかとも感激せずにはおられな
い、清澄な神のみ心がそのまま私たちにひびき伝わってきます。
天皇の真理そのままの行いが、マッカーサーを感激させ、天皇の立場は安全になり、戦前とはく
らぶべきもない、自由な御身分になられたのです。
天皇の日頃からの人格というものは、強いというより柔和ということがぴったりと致しますし、
弱々しい感じさえします。しかし、一たん事に当れば、即座に生命を投げ出し得る真の勇気の持ち
主でもあられたわけです。
真理をそのまま行じられること程強いことはありません。常に真理を行じられるような心境にな
れるように、これが人間にとって一番大事なことなのです。枝葉のことはその境地からどのように
でも対処することができます。
老子講義は、どの章を取りましても、この人間にとって一番大事な真理を行ずる道を説いている
おニな
のであります。ですから私共の日常茶飯事の生き方も、常にこの真理に自然と照されて行ってゆく
ということにならなければならないわけで、只単なる強がりなどは、自己の生活を損うだけなので
446
す。
明治維新のことを私は時折り思ってみるのですが、勤王派にも佐幕派にも日本の未来を見通して
その行動を定めていた立派な人々が多くいたのですが、その反面、只その場その場の現象の動きに
把われて、自己保身に窮々として、かえって自己の身を滅ぼしていった人々や、ただやたらに強硬
意見を吐いて、やたらに反対派の人々に双をくわえていった人々なども相当いたのであります。
こういう強がりやには、識見のあった指導者たちは随分と困らせられたようです◎ しかし天の運
は明治維新を成功させ、現代日本の姿になったわけですが、これからの日本は、日本だけではあり
ません。地球世界全体が、明治維新どころでない、大転換期に立たされているのであります。
老子のいう真の道が真実にこの地球世界に確立される時が近づいているのです。柔和なるもの地
をつがんということになるのですが、今日のように、相手を抑えつける力の強い者が地球の運命を
握ぎっているようでは、とても駄目なのです。
肉体人間という殻をぬぎすてて、生命そのものの人間に脱皮しないと、この地球世界を完全平和
な世界にしてゆくわけにはゆきません。現在もっている人生観というものを、もっと深い宇宙観に
してゆかねばなりません。
447天下の柔弱なるは水にすぐるはなし
老子の言うように、正言は反の如し、で、人間は肉体だという観念で長い間生活してきた地球人48
4
類が、一遍に肉体人間という想念の習慣を脱ぎすて、真に生命を生かす道に、想いを切り替えるこ
とはむずかしいことです。
しかし、永遠の生命より、肉体生命の方を重要視していますと、かえってその肉体生命の方も滅
びの道に入っていってしまうのです。それは肉体生命を守ろうとするための、力と力のせり合いの
世界の現況がよく示しております。
永遠の生命に立脚した人類の生き方は、肉体生活をもよりよく生かしてゆくのであります。それ
以外に今後の地球の運命の進路はあり得ないのです。
老子講義は、今日の人類こそ、よくよく味わい噛みしめて、自己の生き方としてゆく道の書なの
です。
私はそれを噛みくだいて易しく判りよく、今日流の言葉で説明しているのであります。只、老子
の道に達するには、あくまで、今日までの生き方の否定がなされねばなりません。否定なくして
は、この道にはっきり踏み入るわけには参りません。その否定の言葉を、私は、すべては過去世か
らの誤った想念行為の消えてゆく姿である、としているのです。そして道(神) への全託の祈りと
して、人類の大目的である世界平和を表面にかかげ、消えてゆく姿で世界平和の祈りとしているの
であります。老子講義の単なる字義の解釈なら幾多の先輩がしておりますが、私の講義はあくま
で、実際に道に乗り得る方法を、老子講義解釈として述べつづけているわけなのであります。
449天下の柔弱なるは水にすぐるはなし
450
第四+六講大怨を和すれば必ず余怨あり
・道徳経第七十九章
聾蒼姦㍍二余怨露.襲.隷蕎舞曳・襲左多而不動一於葬有籔舞無籔
ヲハシニスニ
レ徹。天道無レ親。常与二善人畷
〔読み方〕
梵綴を秤すれば、必ず翻綴葎り。鉛がぞ以て善と為す剛けんや。慰を以て聖人は、だ鄭を軒り
てつつかさどしんくみせけいつかさど
て人に責めず。有徳は契を司り、無徳は徹を司る。天道は親無し。常に善人に与す。
たいえんわよえんいずくぺ
大怨を和すれば、必ず余怨有リ、安んぞ以て善と為す可けんや。
ユら
国 家や民族の間でも、国家内の政治の問題でも、他国家や他民族に大きな怨みを買っていたり、
人民にひどい政治をしていて、人民に怨まれていたりする場合は、いくらそれらに和解しようと思
ってやっていても、どうしても、それまでの怨みは消えきらないで残っているので、その政治が善
ということにはならない、というのであります。
日本と韓国との問題などでもそうでありまして、昔の日本の在り方に間違っていたところがあっ
て、韓国(朝鮮) の人々は、ひどい目にあっていたことがあったので、今日日本の方でいくら下手
に出て、仲良くやってゆこうとしても、なかなか昔の怨みの想いが消え去らないで、何かとうまく
ゆかぬことが多いのですが、こういうことは国際間では沢山ありますし、国内においても昔の政治
の不備の余怨はいつまでも残っております。
この問題は前の内閣のやったことで、現内閣の落度ではない、といくらいったところで、国民に
とっては、どの政党の誰が首相になろうと同じことなので、前のつづきとした政府の落度を責め
るわけです。ですから、少しぐらいの善政をしいても、以前の落度と相殺されて、真の善政を称え
られる程にはならないものなのです。
是を以て聖人は、
けいせけいつかさど
左契を執りて人に貴めず。有徳は契を司リ、
てつつかさど
無徳は徹を司る。
451大怨を和すれば必ず余怨あり
ところが聖人というものは、左契を執りて、左契を執る、というのは、昔は貸借の契約をなす場2

合、二つに割った契(割符で、契約の証拠) の中、債権者は右の契(割符) を執り、債務者は左の
契を執った。従って、左契を執るとは、借り主の立場を執ることであって、為政者が民に対して債
権者の態度をとらないこと。ですから、聖人は、国民を下眼にみる政治をとるのではなく、自分が
国民から借りのある立場、いいかえると、真実の民主主義的立場をとって、自分たち政府の立場と
いうものを、すぺて、国民の立場の向上の為になるように置いて政治を行う、ということをしてい
るわけであります。
為政者の側に、これは国民の為にしてやるのだ、というような想いがあれば、国民は何んとなく
反擾したくなりますが、そういう想いの全然ない、自分の天命を果させて頂くという、謙虚さが当
然の態度として現われているような政治の在り方であれば、大怨を国民に抱かれることもなけれ
こと
ば、大怨を和する(この場合の和は糊塗すること)というような、そんなその場限りのことでなく、
過去の政治とは全く別のものである、という、安心感を国民に与える、無為の心から生れた新しい
政治となってゆくわけなのです。
そこで、そういう政治態度でいれば、自分の方も国民を責めぬかわりに自然と国民に責められる
ようなことはなくなる、というのであります。
徳の深い人は、常に個人としては人と、政治家としては国民と真実に和してゆくのであり、徳の
無い人は、徹底的に自己本位の政治をとり、その為には、どんな重税を荷しても平気でいるような
悪政をしいてしまう、というのです。
しんくみ
天道は親無し。常に善人に与す。
しかし、天の道、つまり神のみ心というものには、誰々に特別親しくする、というような個人的
な心はなく、定められた法則の通りに働くのだから、天の道に叶った、大宇宙の法則に叶った人々
に大きな力が働きかける。天の道に叶った人というのはどういう人であるかというと、愛深く常に
調和した心をもち、調和した道をきずきあげようとしている人である。そういう人を真の善人とい
うのである。だから、天道は、常に善人にくみする、というのであります。
善人といいますと、親鸞の話にあります、「善人もて救わる、なお悪人をや」という言葉にひっ
かかります。善人でさえ救われるのだから、悪人が救われるのは当然である、というわけですか
453大怨を和すれば必ず余怨あり
ら、この場合ではうっかりすると善人と悪人とが立場が反対になってしまっています。
ところが、この場合の親鸞のいう、善人というのは、親鸞の立場は、この地球界の肉体人間は、
すべて罪悪甚重の凡夫である、キリスト教的にいえば、人間は皆罪の子である、という、そういう
立場で人間を観ています。
ですから、自分は罪を冒かしたことはない、悪いことはしたことはない、自分は善人だと自負し
にくみ
ているような人は、真理を知らない、救われ難い人である、と観るわけです。そして反対に、常に
自分の想いの中や行いの中に悪を認めていて、私は悪い人間だ、こんな悪い人問は、とても自分だ
けでは救われっこない。何か大きな力におすがりして救って頂くより仕方がない、と思っているよ
うな人は、救済の光明である、阿弥陀様の方にその想念を向けることが真剣である。だから、阿弥
陀仏の光明波動が余計に入ってくる。自己を悪人と思っている想いが、かえって阿弥陀仏(神) の
救済の光明の道に自己を運びこんでゆくので、救われ易い、ということになるのです。
ですから、自己を悪い人だと思っているような人の救われたい念願は一途な真剣なものがあっ
て、自己のやることには間違ったことはない、と善人ぶった、何ものも助けも自分にはいらない、
と思っている人より、神仏へのつながりが強い、ということになり、親鸞のいう、善人でさえも救
454
われるのだから、悪人はなお救われ易い、という話が生きてくるのであります。
本当にこの世の中には、自分のやることは何んでもよいことだと思って、少しも自己反省しない
人があります。そういう人は、神の存在を説いても、信仰をすすめても、私には神様などいりませ
わら
ん、私は私だけの力で沢山です、などと、信仰の話を鼻の先きで哩っていたりします。
ところが、実際は、自分自身がこうして生命体として生きていることそのものが、神の恩恵であ
ることを考えないという、甚だしい思い上がりは、神霊の側からみれば、実に救い上げにくい存在
であり、人間の一番根本原理である、人間は神(大生命) の子(小生命) であることを知らない困
った存在なのであります。
この章で老子のいう善人は、真実神のみ心、天の道を知って行っている人のことであり、愛と調
和、つまり真善美の行いのできている人のことであるのです。
個人でも国家でも、一番困ることは、思い上がっている個人や国家なのであります。自分は正し
いんだ、強いんだ、偉いんだ、というように思い上がっていますと、つい他人や他国家他民族を下
眼にみて、自分が救ってやろう、自国の力だけが世界を救うんだ、というような工合になってきて
他人や他国から嫌がられてしまいます。
455大怨を和すれば必ず余怨あり
おのずか
真実に正しい人、強い人、偉い人というのは、自己の想念や行為が、自ら、天道に叶ってい
て、その人の行くところ、その人の行うところ、常に光に充ち、調和の雰囲気がひびきわたってい
る、というような人でありまして、只腕力が強い、武力がある、というだけでは、これはとても駄
目であります。
この章のはじめに、大怨という言葉がありますが、個人も国家もこの大怨の種をまいてはいけな
いのだし、まいたらこれを苅りとらねばいけません。
過去にまいた大怨の種を忘れて、こんなにしてやっているのに、何故あいつは、又はあの国は、
こちらに感謝しないのだろう、というように思ってはいけないのです。
それは自分はしらないでも、先祖がまいていたかも知れない。又は過去世において、その大怨の
種がまかれていたかも知れません。国家にしても、自分が政治をとってからは、そういう種をまか
ぬとしても、前代、前々代の人がまいていたということはあるわけです。国家とか政治とかいうも
のは、ずっと永い時代にわたって、継続されてきているもので、大怨を、その場の都合によって、
ごまかして和したようにみせても、そんなことでは、とても、真実に和解になるものではないので
す。

日本の韓国、朝鮮、中国問題や、米国のベトナムや中共問題等々、大怨をごまかし政策で和そう
とするようなことでは、とうてい駄目なのですから、真実心の底からの和解、有徳は契を司りと
か、聖人は左契をとるとかいう、態度にならないと、世界平和への道は遠いどころではなく、地球
破滅という方向に向いていってしまいます。
そんなことをいっても、相手がそうしてこなくては、こちら側としてはできぬではないかという
かも知れませんが、お互いが相手は相手がといっていたのでは、もう間に合いません。
より高い立場と自分で思っている方から、和解してゆくことこそ大切なのであります。老子は常
に大は小の下につくことを説いております。
米国と中国ソ連が、お互いに老子の言を生かして行動したならば、いかに善き世界が生れてくる
でありましょう。しかし、それは今のところでは夢想に過ぎません。そこで他国のことを云々する
より、先ず日本自体が、真実に天の道に沿った生き方をしてゆくことが大事なのであります。
近代の日本の政治家には、確たる信念に欠けている人が多いようです。昨日と今日では議会の答
弁が違ってきたり、人によっては話す内容が正反対であったりすることが時折りあるようです。
日本の政治家は、常に日本はどうあるべきかを、しっかり肚にきめて、政治を行わねばならぬの
457大怨を和すれば必ず余怨あり
で、外国からいわれたり、背後の権力者から押されたりして、自己の肚がぐらぐらゆらぎつづけて8
いるようではいけません。どうして自己の心がゆらぐかといいますと、その人の信念というもの
が、天道、つまり神のみ心に照し合わせて生れてきているものではなく、自己の身分や、自己の所
属している政党の動きに把われているところから生れているので、その時々の損得勘定によって、
その行き方が不安定になってくるのであります。
その場その時々の動きに左右されて根本の生き方を動揺させるような政治家ばかりでしたら、日
本の運命も淋しいものですが、そういう政府を、より確信をもった、世界人類の完全平和達成の為
に、日本の使命を果さしめる政府にするためには、私共民間の国を憂い、世界人類の平和を切望す
る人々が、一つの生き方になって、政治の後押しをしてゆかねばならぬと思います。その一っにな
る方法は、世界人類の完全平和達成という線を崩してはなりません。真実の世界平和こそ、天の道
であり、神のみ心でもあるからです。
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
すべての天命が完うされますように
こういう祈りの心こそ、日本を真実の日本たらしめ、日本が世界平和達成の先達として、世界各
国の信望を荷ってゆけるように、唯一無二のものとならしめるのです。
老子講義の一章一章にどうしても、こういう言葉を書かずにはいられないのは、老子の心が、常
に天の道をこの地球界に現わしたいという、切実なるひびきを私に伝えてくるからなのでありま
す。
枝葉の想いに把われず、脇道にそれずに、私共日本人は、ひたすら、世界完全平和達成の道を只
一筋に進みつづけてゆかねばならないのです。
459大怨を和すれば必ず余怨あり
460
第四+七講小国寡民
道徳経第八十章
ムロテスルコヲイムヲシテソジヲヲクヲモリトズルシ
小国寡民。使乙有下什二信人一之器加而不甲レ用。使三民重レ死、而不二遠徒殉錐レ有二舟輿剛無レ所レ乗
ニモリトシズルヲムヲシテビテヲイヲシトシノヲかシノヲソジノニシムノヲ
レ之。錐レ有二甲兵嚇無レ所レ陳レ之。使二民復結レ縄而用7之。甘二其食唖美二其服画安二其居画楽二其俗明
ミエチルマデニセ
隣国相望、難犬之声相聞、民至二老死嚇不二相往来頑
〔読み方〕
かみんじゆうはくき, つ
小国寡民。人に什伯するの器有りて、用いざらしむ。民をして死を重んじ、遠く徒らざらし
しゆうよいえどちんまた
む。舟輿有りと錐も、之に乗ずる所無し。甲兵有りと錐も、之を陳ずる所無し。民をして復縄を
あまびきよ
結びて之を用いしむ。其の食を甘しとし、其の服を美とし、其の居に安んじ、其の俗を楽しむ。
たみあい
隣国相望み、鶏犬の声相聞えて、民、老死に至るまで、相往来せず。
この章は、表面的に解釈致しますと、老子が如何に消極論的な人物であるかの感を抱かせます
し、解釈する人によっては、老子の消極道徳論の締くくりの章であるとしております。ところが老
子の本質を霊的にはっきり知っております私などの心には、この章でさえも、老子が消極論を説い
ているとは思えないのです。そこでこの章も私流に解釈してゆきたいと思います。
老子のこの言をなした頃は、周朝の衰退期であったと思われますので、いわゆる戦国動乱の時代
けんぽう
であって、各国各人が、自国や自己の利の為に、権謀術数、あらゆる方法手段を用いて、自国や自
己の欲望を満たそうとしていたのでありまして、大国はますます大ならんとして小国をしいたげ、
才智あり武力ある個人は..主に高く用いられんとして、謀略をすすめ、武力にて他を侵すことをす
すめ、諸国万民が、一日として安穏に日を送ることのできぬような時代であったのです。
老子はそういう人間の心の状態をひどく憂いて、そういうように、個人は自己の権力や地位の為
に動き、国家は自国の権限を拡大しようとしてのみ動くようでは、ついには、個人も国家も共に倒
れてしまって、天の心を地にうつすことはできない。国家も個人も一日も早く、そういう心の状態
を脱去してしまわねばならない。それにはどうしたらよいかというと、このような国家の状態にす
ればよい、というのが、小国寡民の理想なのであります。老子の人々に教えたいのは、自我欲望の461小



権力や、虚栄心を捨て去って、無為の心境になり、天のみ心をそのまま鏡にうつすように、地の世
62
4
界に樹立することなのでありまして、老子の教えには、積極性とか消極とかいう、そういう人間の
方で勝手に考えてやるような方法はないのです。その時とその処とによって、或る時は超敏速に積
極的に、或る時には、眠ってでもいるかのように動かない、超消極的に行動する、というように、
じねんほコに
無為の心から自然法爾に現われる行為を、この地上界で現わしてゆくのであります。
ですから、この小国寡民の理想境にしても、只一つの説明の仕方であって、これが老子の根本思
想というわけではないのです。では、少しつつこの章の意味を解釈してゆきたいと思います。
じゆうはくぽ
小国寡民。人に什伯するの器有リて、用いざらしむ。
てんたん
これは、国も小さく、民も妙ないということは古代でもそうであったが、各自が無欲括憺で、その
分に応じて働いていて、安心し満足していた。それが少しでもその国を大きくし権力を強めような
どと計ると、ついには今日のように他国に手を出し、他国を侵すようになり、お互いが苦しみ合
い、傷つけ合うようになる。だから小国寡民で満足していれば、その民の心は清浄で、安らかであ
り、天の心そのもののように純朴である。みながこういう心でいると、たとえその中に、十人百人
分の智慧オ能がある者がいても、その者を用いるところがないから、お互いが競争し合って、欲望
を拡大させてゆくようなことがない。というのであります。
うつしゆうよいえどいえど
民をして死を重んじ、遠く徒らざらしむ。舟輿有リと雛も、之に乗ずる所無し。甲兵有リと錐
ちん
も、之を陳ずる所無し。民をして復縄を結びて之を用いしむ。其の食を甘しとし、其の服を美と
し、其の居に安んじ、其の俗を楽しむ。
このように国が自然に治まっており、民に欲が無く清浄であれば、こういう国でいつまでも天寿
を完うしていたいし、何も好んで遠く他国へいって、生命がけで利益を得てくる必要もないので、
舟や車があっても、これに乗ってゆくこともなし、甲兵があっても、これを使って戦うこともな
ひた
い。だから、古代にやっていた約束ごとの縄を結んで文字の代わりにしていた頃の想いに浸りなが
ら、悠久の天地の流れを楽しみつつ生きていると、貧しい食事でも、非常に有難く美味に感んじら
れるし、粗末な着物でも、美しいものに思えるし、その住居も風景も、すべてのものが、有難く尊463小



く、俗のようにみえる生き方そのものの中に、
と老子は言っているのであります。そして
大生命の輝きがみえてくるのである。
464
隣国相望み、
けいけんこえあい
鶏犬の声相聞えて、民、老死に至るまで、相往来せず。
と、お互いが自国の生活に満足して、他国に干渉する気持もなく、隣国の鶏や犬の鳴声をききな
がらも、他国に行きたいとも、他国がどうのという気持にならないで、老死に至るまで、自国だけ
に満足しきって生ききってゆく。
というのです。
現代の人がこの文を読むと、何んだつまらない教えだなあ、そんなことでは何の進歩もないし、折
角の教育も教養も何にもなりはしない、そんなつつましやかな、旧式な生き方などは僕はごめん
だ、ということでありましょう。
私も実は、これだけでは、老子も案外つまらない、と思うのであります。ところが、中国のこの
時代に生きていたら、心ある人は、こういう生き方に、深く賛同したのではないかと思われるので
す。それはあまりにも、国と国との権力争いが強く、絶え間ない戦争の被害で民は一瞬の安心もな
かったようだからです。日本の戦国時代などもそうで、どんなささやかな生き方でもよいから、穏
やかに安心して生活してゆける、そういう状態を万民が望んでいたのではないかと思われます。
教えというものにも、常にその時代という背景があるのでして、釈尊の教えをそのまま、イエス
の教えをそのままで、今日の人が実行できるものではありません。その教えの根本に流れる真理
を、今日の時代にあてはめて生かしてゆくということにその意義があるのでありまして、老子の教
えをそのまま、今日行えるかというと、到底そのまま行えそうもありません。
それに老子講義といっても、老子その人の思想の上に、後々の人の思想が加わって、老子の思想
をゆがめたり、又は、根本思想の深いところまで考え及ぱず、浅く解釈して、その人流に書きかえ
て伝えてきたかも知れないのです。
聖書にしても、仏典にしても、みなそういうことがいえるのです。しかし、あくまで老子は老子
であり、聖書は聖書、仏典は仏典でありまして、これは尊く有難いものなのであります。
老子講義のこの章にしても、この表面に出ているところでは、老子が消極論の人であるようにと
られても仕方のないようなところがあります。
465小国寡民
しかし、私のように、老子の生命にじかに触れているものにとっては、老子の無為に徹した心の
強烈な生命波動は、とても消極どころの騒ぎではありません。
人類の大進化を推進してゆく強く烈しい光のひびきをたてているのであります。老子が人々に教
えたいことは、人間は、生命の源にかえれば、素晴しい力がでてぐるのであるから、生命波動から
離れた、肉体組織だけの、知恵だの力だのと騒いでいたのではいけない。そうした肉体だけの知恵
や力は、人間の本質的智慧や能力からくらべたら、それはものの数ではない。何万分の一、何億分
の一しかの力しかないのだ。ということを教えたいのであります。
そこで、人間の想念を、素朴純粋であった古代思想に一度還えして、古代の生活を善しとみる心
にしてから、改めて、もう一歩源に入って、大生命つまり天の心の中にすっぽり入りきった無為の
状態になって、この地球世界をやり直した方がよい、それでなければこの地球世界は滅亡してしま
う、といっているのであります。
実際、今日の世界をじっとみつめておりますと、老子の在世していたといわれる中国の時代と、
その国家間の間柄はそう相違してはいないようです。
大国同志はお互いに、自国の権力の拡大にやっきとなり、権謀術数の秘術をつくしております
466
しのポ
し、小国は小国同志でお互いの権威を主張し合い、争い合っており、国内では鏑をけずる主導権争
いをやっております。
昔と今日とでは、文明文化において格段の開きがあるというだけで、想いの世界では、少しの変
りもない、主導権争い、自我欲望の争闘の世界なのであります。
老子の時代より地球が狭くなったというだけで、その心の世界は変りばえしていないというの
は、人間の生き方の根本に狂いがあるからに違いありません。
その狂いはどこからきているかというと、元と枝葉とを転倒して考えた生活を、国と個人もして
いるというところから生れています。釈尊にいわせれば、転倒妄想しているのが、今日の人類の生
き方となつているわけです。
この転倒妄想の夢をさまし、逆立ちの生活を正しい立ち方にし直してやらなければ、地球人類に
これ以上の進化は望めぬことになり、地球世界は終末をっげることになります。今日の世界状勢は
正にその様相を呈しているのであります。
老子の小国寡民の理想も、その一つの教えなのです。小国寡民の質朴清純なる生活を、今日の各国
がとり得たならば、忽ち世界は平和になることでありましょうが、これは今となっては単なる理想
467小国寡民
論となっておりまして、この理想論を逆にして、小国寡民ではなく、世界一国、世界を地球人類と68
4
いう一つのものに纒めあげてしまわねば、今日のゆきがかりは止まるところを知らぬ権力闘争の場
にこの地球世界をしていってしまいます。
もはや、小国寡民にもどることは不可能な時代なのですから、世界人類完全平和達成の為には、
地球人類という大きな立場に立ち、小国寡民の精神をもって、働いてゆくことが必要なのでありま
す。
無欲になり切ることができなかったら、むしろ、大欲にまで自己や自国を昇華させて、地球人類
めん
の一人として、地球人類の一国としての価値を自己や自国に植えつけて、枝葉の小さな権力欲や面

子の問題などは、どちらでもよいことにして、ひとまず、争い合わず、世界が一つに手を握る方
向に、人類の想念をむけていったらよいのではないでしょうか、その為の世界平和の祈りを私共は
しているわけなのであります。
第四+八講谷神は死せず
道徳経第六章
〃第十章
第六章
ハ七ヲゥトヲゥトトシテクスルガウレパヲセ
谷神不レ死。是謂二玄牝司玄牝之門、是謂二天地之根殉綿綿若レ存用レ之不レ勤。
〔読み方〕
祭裕は死せず。是を躍糎と講う。刻糎の門、是を天地の概と謂う。織織として存するが蓑く、溢
きん
を用うれば勤せず。
第十章
ツニイテヲクカヲソカルルコトニシヲシテヲクタラソカシテヲクカラソカシヲメナ
載二営魂而抱レ一能無レ離乎。専レ気致レ柔、能嬰児乎。灘二除玄覧↓ 能無レ疵乎。愛レ民治
ヲクカヲソカスコトシテクヲソカニシテクカラソカルコトジヲウヲジテ
レ国、能無レ為乎。天門開闊、能為レ雌乎。明白四達、能無レ知乎。生レ之畜レ之。生而不
セシテマジテセヲウト
レ有、為而不レ待、長而不レ宰。是謂二玄徳司
469
〔読み方〕η
4
よはねもつにじゆうニえいじゑいはくみいつ
営塊に載つ。一を抱いて能く離るること無からんか。気を専らにし柔を致して、能く嬰児たらん
にんらんてきじよしおさよなてんもん
か。玄覧を瀞除して、能く疵無からんか。民を愛し国を治めて、能く為すこと無からんか。天門
かいこうしめいはくし琴これ、芒な
開闊して、能く雌為らんか。明白四達にして、能く知ること無からんか。之を生じ之を畜う。生
なたゆもようさいぼんとくい
じて有せず、為して待まず、長じて宰せず。是を玄徳と謂う。
老子講義は類似した章が多いので、あまりに似通った章は略して、第四十七講で一応終わりに
したわけなのでありますが、読者からの要望により、省略した章の中から、第六章と第十章を取
りあげ、この二つの章の解説をもって最終講義とすることに致しました。
〔第六章〕
こくしんげんびんい
谷神は死せず、是を玄牝と謂う
こくしん
この谷神というのは、谷は最も低く深いくぼみでありまして、陰の形をしており、陽の形をして
いる山に対し、山の気を受けて、その存在を意義あらしめております。
けんびん
ですから、谷は女性を現わすものであります。こういう形で神が現われますと、これを玄牝とい
うのです。玄とは大宇宙の一番深いところという意味でありますし、牝とは女性を現わしますの
で、一番深いところにある女性、ということになります。
こくしん
そこで、谷神とは、万物を生成せしめる神ということになります。老子流にいえぱ、万物生成の
原理、つまり道であります。谷神は死せずというのは、そのような万物を生成せしむる神は永遠の
生命であって、あらゆる生命をつくりつづけ、育てつづけてゆくのである、といっているのです。
玄嬉
牝奮

門、
いめんめんどとこん
是を天地の根と謂う。綿綿として存するが若く、
きん
之を用うれば勤せず。

しんえん
このような、深遠なる虚にして静なる、易しくいえば、大生命の深い深い生命生成の中心、宇宙
こん
子波動科学式にいえぽ、宇宙核の生れいずるところの玄牝は天地の根、天地の根源であるという
めんめん
のであり、綿綿、’細長く絶えずつづいている。いいかえると、形にも音声にも出でず、生命波動と
して永遠につづいているというのである。この永遠なる生命波動と一つになって、この生命波動の
ままに働いていれば疲れることがないのである。と老子はいっているのであります。
この章を単的にいいますと、大生命の根源である神のみ心と一つになっていれば、永遠の生命と
471谷神は死せず
一つの生き方となるのであって、その人は生命輝かに生きることができて、疲れることがないのでη
4
あるということになるのです。
〔第十章〕
ゑいはくみいつよにな
営醜に載つ。閏を抱いて能く離るること無からんか。
営醜というのは、営々として迷いつづけている暁、つまり幽体人間、肉体人間というので、そう
いう迷いに充ちた人間の住んでいるこの世界では、唯一絶対なる一、神のみ心を離れずに生きてい
たらいかがなものであろうか、というのであります。老子は一という言葉をよくつかいますが、全
はず
く唯一絶対なる道、宇宙心を外れずに、宇宙心の動きのままに動いていることが、人間にとって一
番確かなる生き方なのであります。
もつば. 岬んらんてきじよよし
気を専らにして柔を致して、能く嬰児たらんか。玄覧を糠除して、能く疵無からんか。民を愛し
おさよなてんもんかいこうよしめいはくよ
国を治めて、能く為すこと無からんか。天門開闘して、能く雌為らんか。明白四達にして、能く知
ること無からんか。
気を生命の根源(神のみ心) に統一していると、想念が他に散ることがないので、気力が充実し
てきて、小さな自己として意気張ることもなく、堅くなることもなく、赤児の体のように柔らかく
自由に、心身が動くことができる。だから、そのように気を専らにして柔を致したら如何であろ
うo
心を洗い浄めて、奥深い眼をもって、すべてみわたしたらどうであろう。そうすれば心に一つの
疵もなくなるであろう。
民を愛し国を治めて、人為的な作意をもたぬようにするのがよいのではないか。
天に通ずる心の門を開いて、神我一体となって、神通力を得ながら、先ばしって物事をしない
で、女性のように受動的な行為をしていたらよいのではなかろうか。
心が明白にして、何事も明らかに見極めていながら、何事も知らぬような態度でいたらどんなも
のであろう。
というように、人間の為すべき一番よい態度はこれこれではないかと説き明かしているのであり
ます。
473谷神は死せず
これやしななたのさいガんとく
之を生じ之を畜う。生じて有せず。為して待まず。長じて宰せず。是を玄徳と謂う。
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やしなはぐ
大生命というものは、すぺてを生みなし、之を畜いながら、自身のものとしようとはせず、育く
みそだてても、これに何をしてもらおうと期待するわけでもない。すべてが成長しても、これを主
宰して、自由にしようとするのでもない。これを玄徳というので、こういう奥深い徳を、各人各人
が自己の生き方としてゆかなければいかぬ。というのでありまして、そうなる為には、又元の説法
に戻って、一を抱いて離るることのない生き方が第一なのであります。
老子の説いておりますところは、全章がすべて、無為にして為すということでありまして、大宇
にず
宙の法則、大生命の根源から外れてしまうような、小さな肉体人間的生き方をしていたのでは駄目
である、と説いているのであります。
はず
ところが問題はここにあるのでして、人類はもうすでに大半が大宇宙の法則を外しかけて生きて
はず
いるのです。このままいけば. 道を外れきってしまうに違いないのです◎ 道を外れきってしまえ
ば、人類として生きつづけてゆくわけには参りません。人類の形をした、全く異なった生物として
生きてゆくか、滅亡してしまうかする他はないのであります。
といって、現在の生き方を急速に転換することは、殆どの人にとって不可能に近いのです。ζ
ういう現実の中では、真実人類の運命を憂うる目醒めた人々も、どうにも手のほどこしようがな
く、身近かな者たちに道を伝えるだけに止まっているのです。
老子や釈尊やイエスの高い深い教も、現実世界を急速に道に乗せるわけにはゆかないので、どう
しても、時をかけて人類の向上を目指すより仕方がありません。
だが、その時があるでありましょうか、地球人類滅亡の危機は刻々と迫っております。老子が現
代に生きていたならば、一体どういう方法をとられるでしょうか、口や筆だけで無為の教えを説き
つづけるでありましょうか、恐らく否でありましょう。口や筆先だけで現在の人類を救うことはで
きません。あまりにも危機が迫り過ぎております。
老子には普通人の考えているような自己というものがありません。自己が無いということは、自
己の能力が無くて、他人の言葉や行為に動かされてしまう、というのではありません。
神のみ心、み光がそのまま霊身肉身を通して、大光明となり地球人類全般にひびきわたってゆ
く、そういう人が、自己を無にした人、無為の人というのであります。老子はそういう人です。
そういう老子ですから、その人がこの世に存在するというだけで、この世はそれだけ光明化する
475谷神は死せず
のです。ですから、老子のような人が現在この世に存在していれば、人類は確かに大きなプラスに
なります。
果して老子は過去の人なのでしょうか、現在も生きつづけている人なのでしょうか、私は、はっき
りと老子が現代に生きつづけていることを知っているのであります。それは、言葉や文章の教えを
主として生きているというだけではないのです。生き生きと私たちの中に生きつづけているのであ
ります。
私は老子の光明体をしっかり私の中に同化させています。老子の教えの無為の道を、はっきり自
己のものとした人は、誰も老子の光明体と一つになっているのです。もっとつっこんで言えば、老
子をも含めた大光明波動の中で生きていることになるのです。
老子は無為の人であり、大調和の人であります。それはそのまま、この世の平和達成の為の先人
であります。その老子が光明体となって、私共の世界平和の祈りの運動の中で、その光明力を発揮
させているのです。
私共が世界平和の祈りを祈る時には、そうした老子の光明力をも含めた、人類救済の為に働いて
来られた、諸神善霊の大光明力が、地球隈なく放射されるのであります。
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世界平和の祈りをする私たち肉体身は、大光明波動を地球人類に放射ゴる、一つ一つの場となっ
くタ
ているのです。老子のいう無為、釈尊の説く空の境地には急速になり得ぬ人々も、世界平和の祈り
言によって、大光明波動の器となることは容易なのであります。こうした容易な祈りの運動が、人
類の波動調整の役目となり、暗い誤った人類の波動を光明波動で浄め去ってゆき、大宇宙法則に人
類の心を乗せてゆこうとしているのです。
道にしっかりと乗せてゆく、そういう道筋を世界平和の祈りがつけてゆくのであります。一人一
くロノ
人の人が、自己の修業で、空になり、無為になってゆくのは大変なことであり、急速にできること
ではないのは、誰しもが思うことであります。
無為への道、空への道に至る、そういう道筋をはっきりつけて、しかも容易に行きつかせるそう
いう方法が無ければ、この地球人類は到底救われるわけにはゆかないのです。
老子が現代に肉身として存在したら、やはり私と同じことを考え、同じような祈りの道を発見し
たことは間違いありません。何故ならば、私の発見した世界平和の祈りの道に、老子は天界から天
降ってきて、私の大きな力となってくれていることからしても言えることなのです。
私が度々申しておりますように、私がこの老子講義を書きはじめたのは、ひとへに老子御自身の
477谷神は死せず
援助によるのでありまして、私のペソを走らせるのは、老子その人であるのです。これは心を鎮め聡
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て、この老子講義を読む人には、はっきり判ることなのです。
私はここで改めて、老子の光明体に感謝の想いを捧げ、今日までこの老子講義を真剣に読んでい
て下さった方々にもお礼を申し述べるものであります。(了)



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