魂が大きく開く時


聖ヶ丘講話シリーズ刊行のことば
ひじりがおか
聖ヶ丘講話とは、市川市中国分にある聖ヶ丘道場統一会でなさった五井昌久先生のお話である。
お話のあと、先生ご指導のもと世界平和の祈りを全員でするのだが、祈り言葉を単純に心の中で唱
えつづけることによって、想いを世界平和の祈りに統一する実修をした。
お話はたいがいは質問に応えてなさったもので、これから続々と刊行される聖ヶ丘講話には、質
疑応答で終始する本も当然出てくる。質問もさまざまなら、お話の内容も多岐にわたっていて、ご
く身近の問題から、ひろく世界の平和や宇宙の問題、霊界や死後の生活のこと、永遠の生命の覚醒、
霊性開発という本質的な問題、またご自分のことなど、きわめて親切に、わかりやすくまた面白く
答えて下さり、人間とは何か、いかにして解脱して自由の心にいたれるかを、うまずたゆまず説い
て下さっている。なお、聖ヶ丘道場での講話以外のお話も聖ヶ丘講話として収録した。
平成三年一月
1
目次
魂が大きく開く時
きた
時は来れり
世界平和の大眼目に結集しよう
新しい世界を創る
永遠に続く人類のために
祈りの生活に徹しよう
104 96 79 51 26 7
2
正しい生活をするためには
想いはいつも浄らかに
神様のこと
祈りと感謝行
世界平和の祈りについて
あなたが救世主
装領笹本悦子
210 183 166 145 127 113
3
私たちの考え
4
私たちは、人間と真実の生き方について次のように考え、実行しております。
にんげんほんらいかみわけみたまごうしようしゆこれいしゆごじんまも
『人間は本来、神の分霊であって、業生ではなく、つねに守護霊、守護神によって守ら
れているものである。
よくのうにんげんかこせげんざいあやまそうねん
この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念が、その
うんめいあらきときおこすがた
運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
くのうあらかならききさ
いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去るのであるという
つよしんねんぜんねんおここんなん
強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難のなかにあっても、
じぷんゆるひとゆるじぷんあいひとあいあいまことゆるげんこう
自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづけてゆくとと
しゆこれいしゆごじんかんしやこころおもせかいへいわいのいの
もに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の祈りを祈りつづけてゆけば、
こじんじんるいしんすくたいとくでき
個人も人類も真の救いを体得出来るものである』
せかいへいわいの
世界平和の祈り
せかいじんるいへいわ
世界人類が平和でありますように
につぼんへいわ
日本が平和でありますように
わたくしたちてんめいまつと
私達の天命が完うされますように
しゆこれいさましゆごじんさま
守護霊様、守護神様ありがとうございます
いのこいせんせいしんかいやくそくごといの
この祈りは五井先生と神界との約束事で、この祈りをするところに
かならきゆうせだいこうみようかがやじぷんすくせかいじんるいこう
必ず救世の大光明が輝き、自分が救われるとともに、世界人類の光
みようかだいちようわぜつだいちからはつき
明化、大調和に絶大なる力を発揮するのです。
5私たちの考え
魂が大きく開く時
その人の真価がわかる時
人生には、雨が降る時もあるし、晴れる時もあり、嵐の時、雪の時もあり、いろいろな
変化があります。だからまた人生が面白いとも言えるのですが、神様事をしているから、
いつもいつも穏やかで、いつも幸福ばかりで現象面にいいことが常にあるか、というとそ
うはいかない。しかし、肝腎かなめの時は、必ずよくして下さるんだという信念をなくし
てはいけません。
こう
その人が一生において持っている業というものがあるわけです。業というのはどういう
7魂が大きく開く時
ことかというと、神様から離れている想い、自分は肉体人間なんだという神様から離れて
いる想いです。その想いが完全に消え去ってしまうまで業はあるわけですから、それを細
かく消すわけです。
雨風がひどい嵐のような時、この聖ヶ丘まで神様のお話を聴きに来、統一に来るという
ことは、それだけ家の中で安穏にしているよりは、雨に濡れるし寒いし、側から見れば楽
じゃないです。ところが来ているご当人は側から考える程大変だと思わない。神のみ許に
来るんだ、光の中に入るんだ、自分は道をまっしぐらに進んでいるんだ、と心の中で燃え
ているものがありますからね。側から見ればご苦労なことですね。
しかし、当人が大変だろうと思おうと思うまいと、それだけ業を消してくれているわけ
です。大変だなあ、と側から思われる状態に自分がいることは、自分が知らないうちに業
が消されているわけなんです。
だから自分では大変だと思わないような心境にいながら、常識の世界で側から見れば大
変だなあという状態に置かれているということは、本当は有難いことなんです。そういう
8
ものの考え方で人生を渡ってゆくといいと思いますね。
自分に不利不都合な状態が現われた時こそ、人間の真価が発揮されるのです。
自分に不利な状態、不幸な事柄、つまらない嫌だなあと想うような状態が出た時に、あ
あこれで業が消されていくんだな、自分が浄まっていくんだなと思うことが必要なのです。
あるいはそんなことを問題にしないで、只祈り心の中に入りきっているのもよい。そうい
う時にこそ、ハッキリと自分の本心が開いてくるのです。またそういう時にこそ、その人
の真価がわかるのですよ。
普通、有利な時、良い時には”有難うございます” は誰にでも出来る。ところが、有利
でない場合に、ああこれでいいんだな、有難いなあ、と思うような人間にならなきゃ駄目
かんなんしんく
ですね。そういう人間にするために宗教もあれば、いろんな銀難辛苦というものがあるん
です。
魂が大きく開く時
9
逃げてはいけない
それを嫌だ嫌だと逃げていたら、いつまでもいつまでも報難はついてまわります。人間
のが
が不幸から逃れよう、病気から逃れよう、貧乏から逃れよう、逃れようと思っている時は、
いつまでも追っかけて来ます。心が本当に「ああこれでいいんだな、すべてはみ心のまま
なんだな」というところまで入っていかない限りは、何時までも何時までも追いかけられ
ます。
それは何故かというと、神と人間というものは、離れているもんじゃないんです。神様
はうちにあって、人間とはピッタリと一つについているものなんですよ。神様がうちの中
から全部をやって下さっているんだ、ということが本当に実感となってくるまで、それま
で修行がつづくわけです。
「ああ自分は神のみ心によって成されているんだ、神のみ心のままに動いているんだな」
ということが、わざわざ思うのではなくて、自然に中から出て来て、そこになんの疑惑も10
こう
なければ、わだかまりも何も無い、そのまま生きていられるようにならなければ、業なん
て無いんですよ。そこまで必ず行かなければならないし、誰も彼もそこまで必ず行き着く
ロつしろ
ように、守護神守護霊が後からコントロールしているわけです。
そこで早く到達させようと思えば、何ていいますか、業想念のひどい現わし方をして消
しちゃうかも知れない。これはゆっくりやったほうがいいと思えば、ゆっくりと消してく
れるかも知れない。それはその人の守護の神霊のやり方(守護の神霊にもいろいろ本質的
な違いがありますから) によって違うけれども、自分に不利なような状態、病気のような
状態、不幸のような状態、貧乏のような状態が現われた時こそ、本当に自分の本心が大き
く開発されていく一番大事な時なんです。
それを間違えて、安易に自分は楽な生活が出来るんじゃないか、安易にものを考え、安
易な幸せを求めていく。安易な幸せを求めているうちは、絶対に幸せになりません。
何故かというと、この人生というものは、この肉体の生活だけじゃなくて、いつも言う
けれど、永遠の生命なのです。無限の生命。無限と言わなくても、例えば千年と考えても、
11魂が大きく開く時
この五十年、百年の生涯よりはずっと長いです。一万年はもっと長い、十万年はそれよ
りも長い。百万年百億年… … そういう長い長い生命を生きているのだから、肉体生活の五
十年や百年、全然苦しみ通しに苦しんだって大したことはない。
だから私達がこう見ていて、あああの人はかわいそうだな、もっとなんとか早く助けて
やりたいな、なんて思っても、守護神のほうから見れば「大したことはありません、この
位の期間が何ですか」と言うんです。
永遠の生命に合一するまで
肉体側から見ていると、かわいそうで早く何とかしてあげたい、と思うわけです。しか
し大きな永遠の生命の目から見れば、そうでしょうね、考えてみると、百年苦しんだって
一瞬でしょうからね。そりゃ肉体のほうから見れば大変だと思う。無理もないでしょ。肉
体生活というのは五十年、百年ですから、その目で見れば五十年どころではない、五年間
だって大変だ。長いと思う。ところが無限億万年という目から見れば、百年なんてなんで12
ギヤツプ
もないということになる。神々の心から見たものと、肉体側から見たものでは差異がとて
はなはうなず
も甚だしい。そこでどうしても肉体の目で見ては、神々のやっていることが肯けないこと
が随分あるんです。
こんなにいつまでも苦しみを与えておいて、何故早く人類を救わないか、とか思うわけ
です。そこに唯物論が出てくるわけなんです。本当の世界が開けるまでは、どうしても肉
体の人間観がなくなって、人間というものは永遠の生命だなあ、ということがみんなに判
るまでそれは続くのです。
そこで私共のやり方というのは、一日も早く、人間は霊なるものなんだ、肉体というも
はかな
のは一瞬の停いものなんだ、肉体の生活の幸せだとか喜びだとか、嬉しいとかそんなもの
一瞬の夢に過ぎないんだ、ということを知らせたいわけです。それをお釈迦様もイエスも
言っています。あらゆる聖者はそれを知っていました。
十八だ二十だ、きれいな娘だなあ、と言っていても、三十年五十年たって、なんだあの
娘がバアさんになって… … 六十七十になったらきれいも汚ないもありゃしない。何がひび
13魂が大きく開く時
くかというと、心の善さだけ。
もりり
結婚でもそうです。美人だと思って貰った。初めのうちはきれいだなあ、と見ているか
も知れない。しかし奥さんとして迎えた場合に、いつまでもきれいだなきれいだなと旦那
は見ちゃいない。誠を尽くしてくれる人、自分の都合のよいように一生懸命尽くしてくれ
る人を、ああいい人だなあ、自分の妻はいいなあと思う。はじめの一年や二年は見ている
かも知れないが、どんな美人だってだんだん見あきてしまう。何が残っていくかというと、
心のひびきだけ。自分に尽くしてくれるな、という愛の想いだけ、本当の愛だけひびいて
くるんですよ。そうなると、顔形も問題じゃなくなってしまう。
何が幸福かというと、愛の心、相手を思って相手のために尽くす、相手のために尽くし
たいという想いだけが相手にひびいてきて、ああいとおしい人だなあということになるわ
けなのです。だから肉体の現われている姿というものは、あまり大したもんじゃないです。
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肉体に依存していては真実を得られない
肉体に依存している間は人間は駄目なのです。肉体の生活をよくしたい、肉体の幸福を
味わいたい、肉体のなんとか、それが肉体肉体と思わなくても自然にそう思っているわけ
です。そういう長い間の癖があるから、その癖がなくならない限りは、その人の苦しみは
つづくんですよ。
くロつくロつ
だから肉体観念をなくすために、仏教では空になれ、空になれという。老子でいえば、
無為にしてなせ。いちいち肉体のことを思い煩うな、野の鳥を見よ、とイエスが言ったわ
けです。何を食わんと思い煩い、何を着んと衣のことを思い煩うや、と言っています。
現われている肉体の生活の幸福とか不幸とか、喜びとか悲しみとかそういったものを追っ
ている以上は、宗教観念じゃないのです。そんなものは消えていく姿、やがて消えます。
どんなきれいな人であろうと、どんなに頭のいい人であろうと、どんなに財産があろうと、
百年たてばいなくなってしまう。
15魂が大きく開く時
ここで百年たったら、肉体界には誰もいないのですよ。いいですか。ところが永遠のつ
ながりで皆さんは五井先生にもつながっているし、皆さん同士はつながっている。
肉体を離れた時のことを考えてみて下さい。宗教的に何もなければそれでもうおしまい。
つなが
みんなてんでんバラバラになってしまう。ところが永遠の生命として五井先生に繋っている。
救世の大光明の中に繋っている。そういう人は肉体を脱いで霊の世界で光り輝いて、お互
いに交流し合い、喜び合って働けるのです。それが約束されているわけですね。そういう輝
いた世界のほうが長いのです。永遠に続く。この肉体の生活は永遠につづくものじゃない。

私共は何を為すべきか
そこで私共は何をしなければならないかというと、人類のために、神のみ心が現われる
ために、神のみ心が完全にこの地球世界に現われるために、自分が生まれてきたんだ、自
分は神様のみ心の一つの光線なんだな、神のみ心を成就するために自分はこの世に生まれ
てきているんだな、ということを深く深く、若い人も年取った人も思わなきゃいけないで16
すね。
せがれ
ましてある年令になって、今までいろんなことをやった、伜に嫁が来る、娘は嫁に行く。
自分はもういいんだというような人は、それこそ真剣に全部を捨てて、神のみ心を現わす
仕事をしなければならない。世界平和の祈りを念じながら日々行じていることが、神様の
み心をそこに現わしていることなんです。
自分は楽しみに生まれてきたんじゃないんだ。楽しみに生まれてきたと思っている人は
不幸です。みんな手分けで神様のみ心を地球界に現わすんだ、と世界平和の祈りの中に入っ
ているような人達は、肉体観念はなくなってもいいですね。
肉体観念の幸せ、肉体世界の幸せということをひとまずおいて、神様にそれはお任せし
ておいて、自分は世界平和の祈り一念で生きればいいんだな、というところまできてもい
いと思いますし、今日来ていらっしゃる人はみんなそうです。この雨風の中をやって来る
ということは容易な信仰じゃない。熱烈なる燃えている信仰心がこの雨風の中を、ここま
でやって来させるんです。それを私は有難いと思ってます。
17魂が大きく開く時
不幸な状態になった時が魂の一番開ける時
また繰り返えすけれども、自分の生活の中に、不利な状態が起こった時、不幸な状態が
起こった時、あるいは病気になった時、貧乏になった時、そういう時が一番魂が開けてい
る時なんだ、と認識することですね。それをみんなに教えて上げて慰あ励ましてあげるこ
とです。
こう
業がある限りは出てくる。ある業は必ずはらさなければならない。それじゃないと本心
ふた
が現われてこない。写真を写すのにも、レンズに蓋をしてあったら写せない。蓋を取らな
ければ写せないし、シャッターを開かなければ写らない。開く時には動きがあります。動
揺があるんです。それと同じように、この世の中でもって、本心、神様のみ心を現わすた
はら
めには、神様のみ心を邪魔している肉体的な業想念というものを祓わなければならない。
業想念が祓われるまでには、病気もあるだろうし、不幸もあるだろうし、いろいろなこと
があるけれども、ある度毎に、消えてゆく姿として消えてしまって、本心がどんどん光っ18
てくるんだから、あった時こそ、ああ神様有難うございます、世界人類が平和であります
ように、という祈りに切り換える必要があるわけです。
そうすれば、どうしようどうしようと思い煩うんじゃなくて、どうしようもこうしよう
もない。神様がよくして下さるに決まっているんだから、神様有難うございます、という
感謝の心に入れてしまえばいい。そうすることによって、どんどん自分の本心が開いてき
て、自分の天命が完うされていくわけです。
中和剤の役目
昔は優しく優しく只慰めて、いいわいいわと引き受けている時には、みんなが立派にな
ヘへ
らなかった。しんが入ってなかった。
ところがイエスが合体し、老子が合体し、私が激しく厳しくピシピシと言い始めてから、
皆、実に輝いてきた。本心が開いて甘ったれじゃなくなってきた。
宗教というものは厳しいもんなんだ、いのちを光らせるんだ、本当に人生を渡るには厳
19魂が大きく開く時
しく生きなければ駄目なんだ、ということがわかってきた。それでもって離れていったか
というとそうではない。ますます先生を慕うようになり、信じてくれるようになった。そ
してますます立派になっていくんですよね。
それをみて私はつくづく思った。只甘やかしたんじゃ駄目なんだとね。
ところがこの肉体の五井先生というのは甘いのです。ああ気の毒だな、苦労させちゃか
わいそうだな、そういうふうにすぐ思ってしまう。雨の中を来て、着物を汚しちゃ気の毒
だ、濡らしたら大変だってね。着物を汚したって濡らしたって、着かえればいいんだから、
大したことはないんだ、いのちは買えないんだけどね。すぐそう思う。余計なことだと思
う。それは私の欠点だと思うんだね。すぐ相手の現象的な損得というか、そういうことば
かり思うことがあるんです。ああしては気の毒だな、あんなに疲れさせちゃ気の毒だな、
ご苦労かけちゃ気の毒だな、とこういうふうに思うわけ。
例えば勤労奉仕してもらっても、毎日働いていらっしゃって、会社に勤めている人もい
るのに、土曜日早く終わった時に勤労奉仕、肉体労働させちゃ気の毒だなと思う。これは20
本当に余計なことだと思うんですよ。余計なことだと思いながら、思うような性格になっ
ているんだね。肉体の私のもっている持ち味っていうのはそんなもんなんですよ。
神々のほうはそうじゃない。ピシーッと激しくやってくる。五井先生の本体のほうは厳
しく烈しいです。そうするとこの肉体のほうでかばって、その方法にしちゃ激しすぎるか
らこうしましょう、とかいうわけ。
守護神守護霊でもそうなんですよ。大概の場合、守護神というのは、自分の子供子孫を
早く悟らせたい早く立派にしたいというので、一生懸命導く。そのために激しく浄化作用
というか、魂の浄めの際も激しくやってくるわけです。私は見るに見かねて「そりゃあん
まりひどすぎる、もう少し柔くしたほうがいいだろう」と言って私のほうから意見を出す
わけですよ。じゃ先生がおっしゃるなら、と中和させてくれたりしているのです。だから
私はいつも神々と皆さんとの中和剤になっている。
ところが本当は中和したほうがいいのか、苦しみがあってもそのまま出したほうがいい
のか、というと、ズバリズバリと神々のやり方をそのまま通したほうが本当は早く立派に
21魂が大きく開く時
なると思うんです。だから、私は中和しながらも、レベルをだんだん上げている。例えば
神は二十の線で行こうとする。私がまあいいじゃないかと五位で妥協してゆく。神々が三
十でやりましょう。いやあ十五でまけてくれ。四十でやりましょう、いや三十でまけてく
れとやってきた。それが近頃は神々の線に近くなった。神々が直接くるのと私がやるのと
が殆ど差があまりなくなってきた。皆さんが立派になったからなんですよ。本心が開発さ
れるのが早くなってきたわけです。どんどん立派になっていく証拠なんです。もっともっ
と立派になれば、ピッタリと一つになって、このまま守護の神霊あるいは神々、五井先生
の本体のいる所をズバーッと出すかも知れない。そうなればしめたもの。
22

前にも話したことがあるけど、ラヒリマハサヤの師であるババヂというのは老子のこと
です。中国からインドへ渡り、インドではババヂという名前で現われていたわけです。そ
のババヂが、ある日弟子達と焚火を囲んで、いろいろ話していた。その時、急に燃えてい
る薪で弟子をひっぱたいちゃうのです。「ああ先生、なになさいます」と言うと「お前は
本当は焼け死ぬ運命を持っている。これでまけといた」と言うんです。弟子は火傷をした
でしょ。それでも火で焼け死ぬよりは火傷位で済むほうがいい、というんでビシャーと撲っ
たのですね。
それはそれは大変な愛だと思うんですよ。その愛がこの肉体の五井先生にどうしても出
来ない。
守護神守護霊はそれと同じやり方をするんです。思い切ってやるんです。それを見るに
ぼうぐい
見かねて、私がそこを止めるわけです。例えば、燃えている棒杭でぶんなぐって一遍でやっ
てしまうのを、一寸手を火傷させたり、足を一寸火傷させたり、少しずつ分けてやってく
れ、というふうに私は頼むわけ。
ところがビューンと撲っちゃうと一遍に済んでしまうんだが、ひどくても一回で済んだ
ほうがいいか、長くかかっても少しずつや(.たほうがいいか、その間をとっていつも私は
考えています。一遍にこれをやろうか、長くかかってこれをやろうかというわけ。
23魂が大きく開く時
一遍のほうがいい場合もあるし、長くかかってやったほうがいい場合もある。これがむ
ずかしい。それは守護の神霊と私との話し合いなんです。あの子はどうしよう、この人は
どういうふうにやろう、とやっているわけなんです。
それでつらい時がとてもあるんですよ。「先生、黙っていて下さい、教えないで下さい。
こちら(守護神) でやっていますから、どうぞ本当のことを言わないで下さい」と頼まれ
ると、言ったらそれが崩れるから言えない。相手が苦しんでいても黙って見ていなければ
ならない。「先生どうなのでしょう、この子の病気は? 」とか「この不幸は? 」と尋ね
られても「大変ね、祈ってるよ」しか言えない。本当のことを言えない辛さってないです
よ。ジーッと辛抱してるわけ。やがてそれは解決がついてきますね。そうするとその人は
一段上に上がるわけです。
だから、肉体の五井先生っていうのは、知らないうちにこうなったんだけれど、大変な
役目だなと思います。
向こう(天) はいいよ、思った通り光を当てればいいんだから。神様なんて楽なもんだ。
24
そんなことを言って怒られるかな。仲立ちをするのが大変だ。だからイエスが十字架に
かかって仲立ちをしたんですよ。肉体というものは大したことはないんだ。大事なのは霊
なんだということを知らせるためにね。
肉体の五井先生というのは、毎日はりつけになっているわけですよ。いろんなことがあ
るし、来ている人が大勢いるわけ。目に見えない人がどれだけいるかわからない。それが年
中くる。それをうまい工合にやる。だから十字架にかかったまま私は口をきいているんだ。
あい
縦に神から天地を貫き、横は人類のはりつけとなって立ち、合を取っているのです。で
すから皆さんが立派になればなる程、本心が開発されてくればくる程、この肉体の五井先
生は楽になるわけです。
皆さんがだから、世界平和の祈りを一生懸命になって祈り「ああみんな現われてくるも
のは消えてゆく姿なんだな、みんな善くなるに決まっているんだな、世界に必ず神様のみ
心が現われるんだな」というふうに祈りつづけてくれれば、私は楽なのです。お願いしま
すよ。(昭和38年1年25日のお話)
25魂が大きく開く時
26
きた
時 は来れり
宇宙人との交流始まる
おととい(二月二十二日) の晩に素晴らしいことがありましてね、肉体の五井先生が大
分変わったんです。ということはどういうことかと言いますと、二人の娘がいましてね、
急速に素晴らしい霊能を発揮しまして、それで私がついていて、寝るのも寝ないで毎晩徹
夜で何日間も修行しまして、大体修行が出来上がったのですね。どういうことをするかと
いいますと、宇宙人との交流をやるんです。今まで村田さんが中心になってやっていまし
て、村田さんと斎藤さんや勝山さんが感じている。それだけではやっぱり駄目なのです
ね。村田さんが駄目だというのではなくて、村田さんはわかり切ってやっている。自分が
あんまり親しくなりすぎてやっているものだから、他の者には理解出来ない。だから一般
の人にも宇宙人のことをわかりやすくさせなければ駄目でしょ。そこで神様が二人の女性
を選びまして宇宙人との交流をはかることになったのです。この間から宇宙人との交流が
修行させられながら始まっているのです。
ずーっと前から始まっているんですけれど、具体的に誰の目にもハッキリと、高橋さん
でもね、高橋さんなんていうのは、霊的にものを感じないほうなんです。当たりまえのタ
イプでしょ。そういう人にまでも感じるような、そういうやり方なんです今は。
くサつ
ところがそれが厳しくて厳しくて、とても厳しいんです。もう一切空にならなければ駄
目。甘えなんか一切許さないのですよ。一切の妥協を許さない。今までの五井先生という
のは甘い人なんです。愛情過多だもんだから、ああこれは甘やかしたな、と思う程甘やか
したり、ああこれは叱ったほうがいいかな、と思っても叱らないというようなやり方をし
てきたわけです。ところが時代が切迫しまして、天下分け目というか世界は今まさに崩壊
27 時は来れり
寸前なのですよ。
皆さんはハッキリわからないから平気なんだけれども、業想念の様相を見ていると今ま
さに危機一発というところです。一発始まると必ず亡びてしまうのです。そういうのは幽
界の様相として在ります。それでは駄目でしょ。折角五井先生が現われた意義も、皆さん
がこうやって世界平和の祈りを祈っている意義もないのですね。そこで今まで五井先生が
いたわりながらやってきた、ところが、五井先生がそのまま急に厳しくなって、そんなも
のは! とやられたんじゃおかしいでしょ。そこでさきおとといか、突然に現われた人が
あるんです。藤井さんの家で宇宙人との交流をやっているんですが、二人の乙女に予言が
出ているんです。
それはどういうことかというと、イエス・キリストが五井先生の中に同体となって、五
井先生となって、世界平和のための働きをするんだ、という予言です。尚悦子さんがそれ
を神界でハッキリ見ているんです。
神界の五井先生がいましてね、そこヘイエス・キリストが立っていて、こちらから私が28
昇っていって(その時私は祈っていたのですね) イエスと一つに合体して、神界の五井先
生の中に入って働く、というのを見たんです。その一時間位あと、宇宙人の波動が現われ
た。それはものすごいんですよ。普通こういう「気」になっていますね。あんまり感じな
いでしょ。そうするとスーッと素晴らしく密度の細かい霊波動がくるんです。それは高橋
君にもわかる波動なんです。それがくると二人の女性が、歯の根も合わず震え出すんです。
私はその前に合図して祈っているんですね。こっちは馴れ合いなんですから、知らぬが仏
で、仏は知っているのですが(笑)知らぬはこの娘たちで「ああきたな」と思っている。
スーッと霊気が誰の肉体にもわかるように流れてくるのですよ。すると途端に二人は震え
出すんです。それで霊がかりになって、手をひかれて宇宙人の前に行って、いろんな口を
きく練習をしたり、交流ですから言葉で出さなければ駄目ですから、言葉で出してみたり、
字で書いてみたり、それから二人はまだ普通の女性で、甘えん坊で、お母さんやお父さん
に甘えてばかりいて、何も苦労をしていない純真な娘でしょ。いい娘です。いい娘じゃな
ぜんしようこん
ければ選ばないんだから。それに前生というのがものすごい。まだ言わないけれども、今
29 時は来れり
じよう
生としては、私と同じようにやっぱり一つの癖があるわけでしょ。それを取るためにいろ
んな訓練をさせられた。
悦子さんに至ってはものすごい。これは言えません。すごい苦労をさせられて、昨日で
その苦労は大体完了した。「お前達はよかったな、もうその苦労がすべて終了した」と宇
宙人からの伝言がありまして、その苦労が終わって、本格的な働きをするわけですね。
霊波動の話だけれど、宇宙人が来ますと、自然に鉛筆をもって書いたりね。はじめは体
が固く手が震えたりして、とっても書けるもんじゃないんですよ。それを私が祈ったり、
口笛で応援したりしながら、だんだん今はちゃんと書けるようになった。あと目を開けて
書けるようになればしめたもの。それは時間の問題(三月三日現在、目をあけて書いてい
る) 言葉でもはじめは口だけを開けて聞こえないのが、ちゃんと声が出てきてしゃべれる
ようになった。方々に心霊会がありますけれど、あんなのは楽なんです。宇宙人というの
は高級神霊ですからね、イエス以上の人が随分いるんだから、そういうすごい処からの波
動だから、しかも出て来ているのがイエスや五井先生と同格の宇宙人なのです。だからバ
30
イブレーション(波動) が微妙なんですね。それを受けるに大変なんです。
こちらが粗い波のところにごく微妙な波が、そのまま一つになるというんでしょ。
イエス・キリストの再臨実現
で、宇宙人が出てくるというので待っていたら、宇宙人のほうから五井先生と握手、と
伝言が出てきたわけですね。五井先生がそのまま自分でしちまえばそれで済んじゃうけど、
それじゃ他の人に客観的にわからない。他の人に見せるために、悦子さんだの千恵子さん
を使ったり、いろんな人を使って、高橋君だの藤井さんだのそういう人に見せて、客観的
にこうなったんだ、本当にそうなったんだって見せなきゃ駄目でしょ。それでわざと私に
握手するからというので、床の間に神という軸がかかっているところに行った。そうしま
すとね、イエスがサーッと抱きついてきて、体をゆすって喜び、スーッと私の中に入った
のです。私が床の間から降りてきた時には、もう変貌してしまっていた。その時イエスそ
のままになってしまった。そしたら悦子さんだの千恵子さんだのがびっくりして恐がって、
31時は来れり
「五井先生がいなくなっちゃった。ああ五井先生がいなくなっちゃった。いやだ、イエス
様はいいけど、五井先生がいなくなっちゃ困る」って泣き出しちゃった。高橋君は男だか
ら平気な顔をしているけどね。慰めるのに骨が折れてね、それでその晩からイエスと五井
昌久と合体しまして、その翌々日から、浄めが全然変わったわけです。
来た人は知っていますけど、今まで柏手を叩いていたのが、柏手を叩いたら光が強すぎ
てみんな溶けちゃうんですよ。只手をスーッと伸ばしただけでもって、さわりのある人か
らパッとさわりが出ちゃうんです。腰が痛いという人に、スッと手をやるとサッと直っちゃ
うんです。そういう形で第一歩を踏み始めたわけです。
私は前から考えていた。病気などを、世界人類を救うという私が、いろいろ何日も何日
もかかって直してもしようがない。そんなことをやって何になるかと思った。そういうこ
とをいつまでも私にさせていないで、必ず変わることがあると思っていた。そしてこの間
はある娘の魂の入れ換えなんていうのがありまして、その時にはものすごい力が働きまし
た。ところが今度はイエスがそのまま入ってきたら、光がその時以上に強くなって指導の
32
時など全然柏手を打てないのです。村田さんなどは、手をかざすだけで「お1熱いですな、
熱いですな今日のは」(笑) その位な光なんです。霊気というものは面白いもので、
熱い光とスーッと心の奥までしみ通って静かになる光と、その人によっていろいろと感じ
方が違うんですね。とにかく光がものすごい。手をスーと動かしただけで、パーッと熱く
なるような光なんですよ。だから昨日は三百何十人来てますから、一人一人出来ません。
四、五人並んでお浄めするのです。その波動をみんなが各人感じるんですよ。力が全然違っ
てきた。
その次の悦子さんの予言には、とにかくみんな手をスーッと動かすだけで盲人は目を開
き、いざりは立ち、病者はたちどころにいやされる、ということになっているんです。そ
れでまずその力の片鱗を先に見せておいた。見せておかないと宇宙人との交流にいろんな
練習がありますから、その時に困るんですね。
33 時は来れり
救う立場に立て
そこで今度は本部道場の三時のお祈りの時、二階の編集室で霊気がまたサーッときたん
です。みなガタブルなんです。それで始まったのだけども、編集室じゃ汚れてるんですね。
やっぱり人が入ってきていろんな想いがあるから駄目なのです。一遍やりましたけれど。
そこで隣の部屋に霊気がものすごくきて、悦子さん、千恵子さんが飛び込んでいった。私
もスッ飛んでいった。そしたら私の写真がかかっているところから、霊気がパーッと出て
くるんです。そこに宇宙人がいるんです。それはものすごい霊気なんです。そこで交流を
しましたが、後でうんと苦しんだのですよ。それは何故かというと、そこの部屋には何て
いいますか、人間の想いが一杯あるわけです。いろんな人が行きますからね。するとこれ
は駄目だというのです。この部屋にあるもの全部片づけろ、即刻にやれ、というんです。
やらないと二人がうんと苦しむでしょ。それはもう峻厳そのもの。一片の個人的な情など
というのも問題にしないんです。甘ったれた想いなど一遍にスッ飛ばされちゃう。これに
34
はこの肉体の五井先生もどうしようもないんです。
それはそうでしょ。大神様の命令で全部が結集してきているんですよ。宇宙人が結集し
てる、守護の神霊がみんな結集している。だから甘やかしたのは今までのこと。これから
は甘くないよ、と言うんです。やだね。私は甘やかしたくてしようがない。ところが甘や
かしちゃいかん、と言うんです。そんなことでは世界が亡びちゃう。お前達も亡びちゃう。
世界が亡びお前達が亡びるのがいいか、甘えるのがいいか、とくるんですよ。ものすごい
んです。「我欲は一切ならん。我の想いなんか自分が損するだけだ。甘やかしてくれるこ
とはいいことじゃない。今まではいい。今まではみんながこうやって集まって、五井先生
に親しんで、みんな心がなごんでつながったからそれはいい。しかしこれからはそれでは
亡びてしまうのだ、みんなが本当に世界を救う立場に立たなければならない。少なくも世
界平和の同志というものは、甘えに来るんじゃないんだ。世界人類を救うために来たんだ。
みんな前生からいえば菩薩級なんです。世界平和の祈りでこのように集まっている人は全
部、自分で知らないけれども、おばあさんであろうと、おじいさんであろうと昔から人を
35 時は来れり
救うため、人類を救いたいと思う念願で生まれかわり死にかわりしてきた人達なんです。
それをこの世の業のためにわからないで、甘える立場になっているけれども、実は甘える
立場ではなくて、人を救う立場なんだよ、世界人類三十億を救うということは、宇宙が平
和になることなんです。三十億を救うための自分達なんだ、ということを心にしみて想い
なさい。甘えなんか一切いらんよ。そんなもの何になる。一時のものではないか。そんな
ものは吹っ飛ばせ」とイエスが宇宙人と二人で、声を合わせて言うのです。
五井先生もしようがない。「しかし今度はそうはいかないんだ。今度は厳しく本当に自
分を見つめて、自分の中に甘えがあったら、甘えを世界平和の祈りで消す。怒りがあった
うぬぼ
ら怒りを世界平和の中で消す。不安があったら不安を世界平和の祈りの中で消す。自惚れ
があったら自惚れを世界平和の祈りの中で消す。自分の中のあらゆる業想念を自分でもっ
て、世界平和の祈りの中へ入れなさい。自分で入れなければ駄目だぞ。今までさんざん口
が酸っぱくなる程五井先生から教わったのだから、もう言葉として教わる必要はない。だ
から自分達で世界平和の祈りの中へすべて入れなさい。自惚れも駄目、不安も駄目、嫉妬36
も駄目、甘えも駄目、そんなものは一切消えてゆく姿。これからは世界が変わるのですよ。
まるで思いもよらない程変わるのです。思いもかけない程変わるのです。
今までのような世界に、人間がいくら生きたって何にもならん。今までの地球人類が何
になるか。虫けらのようなものが生きていて何になるか。そんなものはいらない。死ぬな
ら死ね」とこう言うんですよ。厳しいんです。「この貧弱な地球人類なんかあったってな
くたっていいんだ、もう一遍全部やり直したほうがいいんだ」と言うんです。「しかしそ
れでは折角の神様の愛もなくなるし、みんなが折角やってきたのに何にもならないから、
あなた方世界平和の祈りに集まっている人達が、まず先頭に立って、自分達から甘えとか
自分の想いというものを全部捨てて、世界人類を救う立場に早くなりなさい」とイエスも
言うんですよ。それでいろんな前生をみんなまわりの人に教えてました。
人間は厳然たる神の子である
イエスさんというのは、本当の平和をつくりに来たんであって、ただ今日が平安であっ
37 時は来れり
て今日が何もなくてよかった、それでいいなんていうことを思って来たんじゃないんです
ね。何事があってもいいんだ、病気があろうと不幸があろうと災害があろうと、そんなこ
いのち
とは問題じゃない。魂、いのちが本当に生き生きと、生命あるがままの神のみ姿に、神の
いのち
子としての生命がそこに現われる。それが最上なのですね。うまいもの食べたからいい。
いいものを見たからいい、いい着物を着たからいい、そんなことではない。と言ったって、
職業的に着物を売る人もあるし、美容などをやる人もあるでしょう。それはそれでちゃん
とやっていける。しかしみんなが偉くなる時にはもうお金もなんにもいらないんですよ。
自然に神のほうからくるんですよ。
宇宙人の世界というのは、何も金をはらって買ってゆくわけじゃないんですよ。欲しい
ものがそのままくるんです。自分の使命を達成していれば、欲しいものはみんな与えられ
るんですよね。だからあくせくと金儲けのためにやる必要はないのです。ところが地球人
類はお金を儲けたり食べたりしなきゃならないでしょ。そこにギャップがあるんです。そ
れだから宇宙人なら宇宙人の姿、心がそのまま出たのでは、要するに神霊の心がそのまま
38
出たんでは地球人類が救われない。そこの仲立ちとしてこの五井先生がやっぱりいるわけ
ですね。だから宇宙人がそういうように厳しく言っても、イエスが厳しく言っても、五井
先生という人はその中間に立って、厳しいことはしませんよ。やっぱり今まで通りの五井
先生の形をとるけれども、中味としては違うんだ。わかりますね。だから皆さんは何でも
いいから、消えてゆく姿で世界平和の祈り、消えてゆく姿で世界平和の祈りと、自分の中
のあらゆる平安を乱す、人の平安を乱すそういう想いはみんな一切無いものにしなきゃ駄
目ですよ。それで全部消えてゆく姿にしなきゃ駄目ですね。〈聴衆の中で一人が霊障で苦
しみ出した。「ハイ止まれ」という先生のお言葉で、ピタリと止まった〉。ああいうように
止まっちゃったでしょ。すべてはそうなんです。
人間というものは神の子なんだから、何者にも犯されることはないのですよ。いいです
か。何か愚いたからフラフラする。何がきたからフラフラする。そんなバカなことがある
わけがない。神の子に愚きものなんかあるわけがない。神の子が愚きものするとは何ごと
いのち
だ。神の子は厳然として生命が輝いているんだから、幽界の低いものにつかれて、フラフ
39 時は来れり
いのち
ラと自分の生命を占領され動かされるバカがどこにいるか。厳然たる神の子なんだからね。
神様がやる場合は別ですよ。神様がやればどんなことをしたって出来るけれども、想いに
惑わされて、想いのままに動かされるなんて、そんなバカな貧弱な人間があるわけがない
のですよ。それを在ると思っている想いが駄目なんです。
こないだうちの娘達の修行などがすごいんですよ。言語に絶する。私は普通はやさしい
んだけれども”そんなことでなんだ、お前は神の子じゃないか、お前はなんだ” というよ
うな調子でいちいちぶんなぐられて、それで修行させられた。そうさせられたから今は立
派になってきて、男にも劣らない素晴らしい気力を持ってます。だからやっぱり甘やかし
ては人間は育たないね。だけど愛というものがあるからね。厳しくしながらも、その人の
愛を感じる。そういうやり方でなければ駄目です。只いたずらに自分を見せるために叱っ
たんでは何にもならないんですよ。本当に愛して、本当にその人を立派にするために、心
から叱かる言葉なら、その人が生きるんですよね。自分の偉さとか立場を見せようとして
やるのなら、やらないほうがいいのですよ。そこが非常に微妙なのです。優しくすること40
はいいけれども、甘やかしてはいけない。叱ってもいいけれど自分の我があって叱るなら、
叱らないほうがいい。こういうことなんですよ。そういうことをイエスさんは言ってます
ね。
一切を五井先生にまかせよ
イエスの力はすごいですよ。さっきの出来事でわかったでしょ。千恵子さんが神霊群と
の交流をして疲れて倒れちゃう。そこへやっぱり隙をねらって愚きものみたいのがやって
くるのですね。イエスと合体した五井先生が手を出して、ハイ右の手を出しなさい、左の
手も出しなさい。つかまりなさい。私はその娘から遠く離れて手などつかめないのですよ。
ハイ起きなさい。スーと手をあげると、スーと起きてしまう。そういうように直っている
んです。だから皆さん何もこわがることはありません。愚きものがあっても先生が手をスー
とやればとれるんだし、病気があったらスーとやれば直るんだ。
では皆さんは何を思えばいいかというと、自分の生活なんか一切五井先生にまかせてし
41 時は来れり
まいなさい。あらゆることをまかせなさい。私は全部引き受ける。そしてあなた方がやる
ことは、消えてゆく姿で世界平和の祈り、迷いが出たら、甘え心が出たら、不安が出たら、
短気が出たら、自惚れが出たら、それはみんな世界平和の祈りに、ああこれは私じゃない
んだ、これは消えてゆく姿なんだ、世界人類が平和でありますように、ともう心の底から
思わなきゃ駄目です。心のどん底から想わなければ自分が損しちゃうんですよ。神の子永
遠の生命をここに現わすために、私達は生きているんです。ただこの地球世界のくだらな
い楽しみをしたり、人に甘えたりするために生きているんじゃない。
みんな肉体を持っている、肉体の波に惑わされてわからないけれども、もう永遠に光り
輝いているものなのですよ。それがだんだんとわかってきているわけです。頭でもわかっ
てくることは大きいことですよ。それはやがて実際にわかることですね。
一切の甘えを捨てよ、自惚れを捨てよ、不安を捨てよ、怠惰を捨てよ、というんですね。
何に捨てるかというと、世界平和の祈りの中に捨てればいい。必ずよくなります。離れて
いてもみんなで見ています。ということは救世の大光明の中には守護の神霊が、もう素晴42
!
らしい人達がたくさんいるんです。中心になっているのは五井先生です。こういう肉体を
持っているけれども、もうすでにおとといから私はまるっきり変わりました。やっぱり少
し肉体の観念がありました。ああかわいそうだなあ、とこう思うんだけれども、そういう
想いではいけないんです。愛する想いでなければいけない。愛する想いはかわいそうとい
うのではないんだ。愛するということは向こうを本当に生かさなければ愛したことになら
ない。かわいそうかわいそうって、自分が悲しんで向こうが悲しんで、それで何になるか、
けなげ
かわいそうではないんだ、みんな健気なんだ、どうかこの人の天命が完うしますように、
というのであって、そのかわいそうかわいそうという想いの中に、自分が入って、自分も
泣き向こうも泣いてたんじゃ、これは今までの地球人類を一歩も出ない。宇宙人の世界と
いうものはものすごいんです。
それであなた方は何をやるかというと、心の平安だけを願いなさい。祈りの心の平安、
いかなるものにも心が動かされない不動心ですね。宇宙人は科学的な面で素晴らしいので
あって、その科学で応援してくれるから、それは心配しなさんな、只心の平安がないと、
43 時は来れり
くロつく つ
宇宙人が働けないから、空になる練習をしなければ駄目だ。空になる練習はもう初めっか
ら五井先生が教えているわけですね。消えてゆく姿で平和の祈り、消えてゆく姿で平和の
祈り、なんでも消えてゆく姿で平和の祈りその一点ばり。他のことは一切いらんですよ。
あらゆる想いは消えてゆく姿なんだ、ただ平和の祈りだけがそこにあるんだ。
業が一つあっても駄目

“我はただ空即是色天地に世界平和の祈り声充つ

という歌があるでしょ。あれと同じでもって、光だけがそこにあればいい。そういう自
分達にならなければならない、と宇宙人とイエスが合体して言うんです。
とにかく皆さんが考えている世界と、まるっきり違う世界が出来るんです。地球世界が
今とはまるで問題にならないくらい違うようになるんですよ。だから私が前から言ってい
るでしょ。超、超、超現実的なことがこの地球界に行なわれるんだ。そのことが現われる
ためには、やっぱりどうしても宇宙人が出なければ駄目なんですね。今まで出たとかなん44
とか言っていますが、全部うそですよ。宇宙人が、姿を現わしたことはない、と言うので
す。霊的にはみんな交流したけれども、宇宙人が肉体の姿を現わしたことは一つもないよ、
霊的な人が霊的に姿をみて肉体と思い込んだのです。だからいろんな本が出ているけれど
も、それは全部そうした考え違いなのだ、とハッキリと宇宙人の司令が言ってました。そ
れで、五井先生と緊密なる提携をして、世界人類の平和達成のたあに努力する、それは必
ずなる、と言うんですよ。
平和になるということは、今までの業想念が全部なくなると言うことですよ。よく考え
て下さい。今までの業想念が全部なくならなければ平和にならないんです。一つでもあっ
ては駄目なんですよ。全部なくすんです。全部なくすのは何かと言ったら、こちらからす
れば祈りです。世界平和の祈りですよと、宇宙人のほうでは言う。「あなた方がやるのは
世界平和の祈り一念で心を平安にすれば、自ずから光が方々へ流れていく、自分達宇宙人
としては科学力を持ってやる。だから緊密なる協力をしてやりましょう」と握手したわけ
なんですよ。
45 時は来れり
こロつ
今は人類が始まって以来の最大の転換期です。第七劫に入っているのですから、この機
会を逃してしまったら大変です。この機会に自分が立派にならなきゃ駄目です。神と一つ
にならなければ駄目ですよ。神と一つになれるんだから。なれないと想っているだけだ。
神様はなんだか遠い処にいるようでしょ。神様は自分の中にあるんです。だから絶対にな
れる。私はなっているんだから。私は波動調整はいらないんです。とっくの昔知らないう
ちにやらされちゃった。宇宙人がやるつもりなら、みんながいやだと言ったって、辛い厳
しい修行をやらせますよ。
そこで私が言うんです。本当に地球を平和にするためには、それをやらされるかも知れ
ませんよ。絶体絶命に立たされるわけですよ。それでは大変ですしみんな出来ませんよ。
そこで、それをやらされる前に、世界平和の祈りの中にあらゆる業想念、あらゆる欲望、
甘えも、みんな世界平和の祈りの中へ入れてしまいなさい、と言うのです。だから甘くな
いよと言うのです。もう厳粛ですよ。宇宙人は妥協してくれないのです。それをやられる
よりは、少し位自分のしたいことをしなくたって、怒りたいところを怒らなくたっていい46
でしょ。その位のこと問題じゃない。だから皆さんは世界平和の祈りばかりをやっていな
さい。そうすれば自然に光明体になるでしょ。
皆さん方には古い人もあるし新しい人もあるけれど、いつも光明一元いわゆる平和の祈
りをしているんですから、その中へ入ってさえいれば、一遍に波動調整をやらなくても済
むんです。一遍にやられないように私は頼んでいるのです。宇宙人の諸兄よ、あまり宇宙
人並みに扱ってくれるなよ、今のところは穏やかに願います、と私が仲に立って言うわけ
ですよ。でも向こうは私が言えば止めてくれるんです。ただし遅れてしまうわけです。だ
から悦子さんの修行でも十三時間ぶっつづけではねえ、あんまりすごいから途中でみかね
て、ちょっと柏手を打って止めたんですよ。私がやれば止めることは出来るんです。だけ
ど止めたんじゃまたどこかでやることになる。だからしようがないでしょ、神様がやって
ることですから、止めないでやるだけやらしたのです。昔の私だったら、とてもかわいそ
うでかわいそうで、自分の方が先に泣いちゃうけどね、もう泣かないんです。私はもう泣
かんぜん
きません(笑) もう天命を完うせしめたまえ、ですよ。遂いに敢然として乗り越えたから、
47 時は来れり
もうそれはなくなってしまった。大成功したわけです。
だから悦子さんがぶん廻わされた気持ちになれば、少し位の苦しみはなんでもないと思
います。本当によくなることは目に見えてるんですよ。
世界は必ず平和になる
世界平和の祈りというのは急速に世界中へ広がる、という予言が出ていた。もう急速に
広まるんです。それは広まらざるを得ないですよ。そういう時期にきてます。だから今ま
では準備段階。これからは実行段階。だからみんなが一致協力して、世界平和の祈りをや
りましょう。それは自分のためでもあるんですよ。世界人類を救うということは、あなた
のお家も救うんです。何故お家を救うかというと、原爆が一発落ちれば、家などすっ飛ん
じゃう。みんな駄目になっちゃうんですからね。だから世界平和のために働くことは、自
分の家も助けることなんです。これを間違えてはいけない。なんか世界と自分とは離れて
いるようだけれど、密接でもって離れていないのです。ですから戦争が始まったら一瞬に48
して世界は吹っ飛びます。
それを宇宙人が心配して助太刀にきているわけですね。私の方が願ってますからね。助
太刀にきて、五井先生と緊密なる提携のもとに、と言うんですよ。イエスさんと言うのは
金星から来た天使なんです。私も実は金星から来ているんです。向こうでは兄弟なんです。
宇宙人というのはすべて私のような人なのですよ。そういう人が応援して立派にしようと
言うんだから、なるに決まっているんですよ。世界は平和になるに決まっている。だから
現実的に少し位偉いとかなんとかいったって問題じゃない。私達の想っている偉い人とい
うのは、もう超々々々々現実的な力を持っているんです。そのものすごい力を持った人達
が集まるわけです。宇宙人を含めてですよ。
私は昔は、私達位の人達が地球界にたくさんいて、その人と手を組んでやる、と謙遜的
に言ってたけども、そうじゃないんですね。みんなこの世界平和の祈りの中から生まれて
くるんです。世界平和の祈りの中から聖者がたくさん生まれてきますよ。いいですか。八
十になったって聖者になることは出来るんだし、幾つになったって聖者になれるんですか
49 時は来れり
ぢね。昨日の自分が愚かであっても、明日の自分は聖者になれるんです。だから自分が愚
かなどと思うことはない。自分は駄目だなどと思うこともない。駄目な想いも消えてゆく
姿で世界平和の祈りだ、ということになるわけですね。それでは今日の統一会は終ります。
有難うございました。(昭和37年2月26日のお話)
50
世界平和の大眼目に結集しよう
θ
とら
形に把われるな
うやま
一番大事なことは形でなくて心の問題です。心がいつも明るく素直に神様を敬いながら、
人々と親しみながら、楽天的な気持ちになって、要するに神様の愛を信じて、神様に全部
まかせて、悠々と自分の天命を完うしてゆけばいいのです。自分の置かれた立場で一生懸
命やっていけばいいわけです。
形の問題は二の次です。神棚がなければいけないというもんじゃない。仏壇がなければ
いけないというもんじゃない。あればあるでいい、なければないでいい。神棚がなければ
51世界平和の大眼目に結集しよう
神様が降りて来ない、そんなに神様は不自由ではない。神様があんな小っぼけな神棚のみ
にいて他にいない、そんな馬鹿なことはないでしょう。そうかと思うと、人が亡くなった
から神様を拝んじゃいけないだろう、忌中とかいって、神棚に白い紙をはって、神様を拝
まない。そんな馬鹿なことがあるかっていうんだ。そういう下らないのが形式に把われた
ちようず
というのです。神様の前に出るのだから、うがい手水に身を浄め、というのはいいけれど、
とつさ
それは心の問題であって、忙しい時にそんなことをやっていられないでしょう。咄嵯の場
合、神様に助けてもらう時、例えば難船などして今にも沈みそうな時に、うがい手水に身
を浄めるなんて一体どうやる(笑) そんな馬鹿なこと出来ないでしょう。実用向きじゃな
い。そういうのは信仰じゃない。形に把われている。心が真っ直ぐ神様につながっていれ
ばいいのだから、うがい手水に身を浄めなくてもいいのです。
あめのみなかぬしのおおかみヘヘヘへ
先日の交流会で、天之御中主大神、いわゆる宇宙神が出て来まして、私がことだまを唱
えまして、それからいろいろ交流をやったのです。一回終わって次に続くのですが、皆が
疲れたから一先ず休んだ。私は始める前から実はお便所に行きたかったのです。だけど昼
52
食が終わったらすぐ始まっちゃたでしょ。行く間がなくて忘れちゃった。それで壇上で交
流会をしたのですが、みんなくたくたになったから、時こそ至れり(笑)、おしっこに行っ
て来る、と便所へ行っちゃった。
今まで天之御中主がここにいたのにね(笑) たちまちおしっこにゆく五井先生が出ちゃっ
たのですね(笑) それでいいんです。それが自由無擬無磯、自由無擬(笑)役目が済めば
かしこ
それはそれでいいのですよ。何もいつも神官の恰好をして畏まっていなければいけないと
いうことはない(笑) そんな堅っ苦しくては長持ちがしない(笑) だから厳粛な時は厳粛
がいいし、優しい時は優しいがいいし、我が家に帰って”Aユ戻ったぞ、夕飯はまだか” な
んてやったんじゃね(笑) 話にならないでしょう。自分の夫にお灯明をあげてしまったら
がか
(大笑) しようがないでしょう(笑) だからそういうのを神愚ったというのです。そうい
うのではないのです。
53世界平和の大眼目に結集しよう
安易に流れてはいけない
私に五者合体した。お釈迦様、キリスト様、老子様といったら地球界最高の宗教者です。
だからものすごいのです。魂的にみたらものすごい。だからお釈迦様が合体してここに現
われている時には、高橋君や藤井さんのように感じない人が、非常な圧力を感じたらしい。
まだお釈迦様ともなんともいわないうちですよ。厳粛なる光の波動がダーッと伝わってゆ
くのです。非常に厳粛な感じがして、なんとも身がしまる想いだった、と感じたわけです。
お釈迦様はそれほどに素晴らしく、厳粛な人です。すごく霊魂の大きな人ですね。神様で
す。そういう人達が合体してきても、私は別にどうっていうことはない。何故かというと、
くロつ
私に何もないからです。空だから。これ(肉体) は場所です、世界平和を創る場所でしょ。
だからどんなに偉い方がいらっしゃっても、ハイいらっしゃった、さあ、一緒にやりましょ
う、ということになるわけですね。何故か、なんにもないからです。考えてごらんなさい。
おそ
自分がなかったらどうですか。何もないから遠慮することもなければ畏れることもなけれ
54
おそ
ば、何もないでしょ。畏れる自分がどこにあるのか。遠慮する自分がどこにあるのか。何
もないじゃないか。何もないものが遠慮することはないでしょ。そのままでしょ。おしっ
こが出たくなったら出しに行ったっていいでしょ。出ちゃいけないのなら止めてくれれば
いいだろう(笑) だから私は仕事が済んだから平気な顔をしておしっこでも行っちゃう。
ところがまた逆に、昨日は本部の二階の編集室の隣の交流室で、宇宙人との交流をやっ
ていたわけです。一回終わった、まだつづきがあるのですよ。おしっこの話ばかりをする
んじゃないけれど、やっぱりまたおしっこが出たくなったんだね(笑) で行こうと思った
けれど、私は自由に降りたり昇ったり出来るけれども、その交流場所は神界になっている
ところでしょ。他の人まで私につられてが降りて、人がたくさんいたところに行くとまた
汚れがつくんですよ。だから私は我慢しようかなと思った。だけれどいいや、みんなの勉
強のために行ってやろうと思って行ったら、私がゆくとやっぱりみんなもつられるわけで
す(笑) 次々と降りていった。そうすると私はみんなが上がるまでは上がれない。みんな
全部浄めて、それで波長をまた元の神界に合わせて部屋に送らなければならないでしょ。
55世界平和の大眼目に結集しよう
それでないと交流室が汚れてしまうのです。それで二階へみんな上げて、最後に私が階段
ふすま
を昇りまして、襖の所で外との波を絶縁させて、そしてはじめたのです。それくらい厳粛
なものなのですよ。
ここがむずかしいところなのですね。要するに仕事中は仕事に専念する。神様事に限り
ません。どんな仕事でもその仕事をやっている時には、それに真心をこめなければ駄目で
す。仕事中に他のことを考えたら、それは消えてゆく姿なんだ。どんな仕事でも。仕事に
専念するその真心が、天に通ずることなのです。まして神事などはなおのこと、その時は
神事一念です。只私のように何もなくなっていると自由自在なんです。いくら汚れがつい
てもそのまま消えますからね。私自身はいいんだけれど、やっぱり他の人はそうはいかない
でしょ。だから浄めて上がるわけ。そういうような違った二つの場合があるわけですね。
我は只空即是色
把われてはいけないけれど、安易に流れてはいけない。神様を敬わなければならないけ
56
れど恐れてはいけない。親しまなければいけない。この二つのことがあるわけです。明る
くてもいいけれど、おっちょこちょいじゃいけないというのも同じですよ。それがわかり
ますね、それを上手にならなければいけない。うまくやるためにはどうしたらいいかとい
うと、やっぱり自分の想いで判断がつかないのだから、神様の頭は宇宙大に大きい、それ
からくらべればこの人間の頭など小さいもの。スピッツの頭と大して変わりない。なけれ
ば困るからあるようなもので、大したものじゃない。仮にあるものなのだから、あるもの
たま
はあるままにあらしめて、この中に溜っている、いわゆる業想念、自分の想いというもの
をすべて世界平和の祈りの中に入れてしまって、世界平和の祈りのほうから改めて自分の
くうそくぜしき
想いとして出てくるものでなければ駄目なのですね。それが空即是色なのです。自分だ、
私はこういう考えがある、私はこういう性質だ、私はこういう癖がある、というそんなも
のはどうでもいい。そんなものは何にもなりはしない。そういう想念でやってゆく以上は、
今の世界がそのまま進んでゆくのです。ケネディやフルシチョフがやっているそういう世
界的政策になるのですよ。岸さんがやり池田さんがやっている、当たり前の今までの通り
57世界平和の大眼目に結集しよう
の世界政策になってゆくから、やがては戦争で終わりになるんです。それでは世界がつぶ
れてしまうので、神々が宇宙人が応援に来て、ここに本当の世界が開ける第一歩を踏み出
すわけなんですよ。それにはやはり、
我はただ空即是色天地に世界平和の祈り声充つ
くロつくロつ
という歌の境地になることです。我というものは空なんだ、空にならなければ本当の自
分が出てこないんだ、神様のみ心の自分が出てこないんだ、自分の実体が出てこないんだ、
ということをハッキリ認識しなければ駄目ですね。
空に達する道
はしご
空になるのはむずかしいから、普通には(達人になっていれば別です) 梯子として消え
てゆく姿なんだ、自分がこう思うという自分の想念は、消えてゆく姿なんだ、というんで
世界平和の祈りの中に入ってしまって、寝ても覚めても世界平和の祈り言を心の中でやっ
ていて、世界平和の祈り言の光の中から出てくる想い、パッと行動させられる行ないでい58
きなさい、そうすると、それは神様のみ心に叶っていますよ。それをやって失敗してもか
まわないんだ、世界平和の祈りをして失敗しても、それは経験としてやるんだからかまわ
ない。それはわざと早く消えてゆく姿を現わしあているのかも知れない。だからなんでも
いいから世界平和の祈り一念でおやりなさいね。
く つ
それが慣れてきますと、空と同じことになる。何も自分で考えない。さっさっさと自然
に行動出来る。私が修行中に何も考えないで電車のキップを買ったようなものです。自分
がなくなると自然にパッと行動が出来るようになる。それが一寸もおかしくなくなる。そ
れから浮ついた我の想念の自分じゃなくて、本当の自分になるんです。
島田ゆうさんの霊界通信にもありますけれど、肉体の方は火葬場に持っていかれて焼か
れる、ゆうさんは霊界にいまして、肉体を焼く日に守護霊が見に連れてゆくのですね。火
葬場は業想念が一杯満ちているわけです。そこへ降りてゆくのは苦しい。そこで五井先生!
というと光が流れてきて、そこが浄められる。そしてある老人がいて、縁があって助けて
くれ、というのです。浄めて帰るわけなのですが、その時自分は帰る時でも五井先生! と
59世界平和の大眼目に結集しよう
思ってスーッと五井先生のところへゆくわけですよ。それで浄あてもらう、という記事が
あるんです。そうすると五井先生というのは、肉体界だけにいるのではありません。幽界
にもいれば霊界にもいれば、神界にもいる。そしてどこの世界にも五井先生! と呼べば
いけるのです。亡くなった先で呼べばそこへゆくのです。五井先生と呼べば五井先生が必
ず出てくる。どこにでも生き通しにいるんです。それはあに五井先生ばかりじゃないので
すよ。皆さんもそうなのです。
皆さんも神界にいる
皆さんも肉体にいると同時に、幽界にもいれば霊界にもいれば神界にもいる。だから皆
さんはどこの自分を出したらいいか、というんですよ。肉体にクチャクチャと執着してい
る自分をいつも出しているのがいいか。幽界で迷っている自分を出したほうがいいか。霊
界神界のきれいに光り輝いた自分を出すのがいいか。それは自分の心次第、想い次第です。
さてそれにはどうしたらいいか。60
幽界というのは迷いの世界です。幽界にも階層があり、上のほうは相当いいのだけれど
も、下層は暗黒界です。そんな幽界の迷った自分を出していいのか。霊界の輝いた自分、
神界の輝きわたった自分を出すのがいいか。これは自ずからわかります。
霊界神界は自由自在です。神界になっては全く自由自在です。自由自在の自分を出した
ほうがいいでしょ。それならどうしたらいいかというと、いつも神界のことを思えばいい
でしょ。「ああ自分は神の子で神界にいるんだ」とこう思う。神界にいるためにはどうし
たらいいか、といったら世界平和の祈りをしていれば、その時には自分は神界にいるんだ
から、いつも世界平和の祈りをしなさい、と言うのです。そうすると、神界の自分がそこ
しやべ
に現われてくると、自然に喋っていても、肉体の自分の頭でいつも考え考え喋っているも
のが、スーッと神界からの言葉でもって喋れるようになるんですよ。神界あるいは霊界か
らの言葉で喋れるようになれば、その言葉が寸鉄人をさす、というか、人を納得させ、人
チャ ム
を魅力する、そういう言葉になってくるわけです。行ないもそうなってくるんですよ。あ
あ、あの人はなんて明るい、いい立派な方だろう、とこういうことになるんですよ。
61世界平和の大眼目に結集しよう
五井先生は神界でもどこでもいるというのが五井先生の専門ではなく、皆さんもそうな
んです。それでなければ人間は神の子だ、ということは嘘になってしまう。何もあに五井
先生だけが偉いのじゃないのですよ、間違えちゃいけませんよ。ただ先に私はそうなった。
要するに神界から地獄の底まで全部わかりきって、全部見通していられる人間になったわ
けでしょ。一人の人間がなったいうことは、誰でもなれるということなんですよ。専売特
許じゃないんです。だからどんなに真似したっていいんです。皆さんが五井先生になるこ
とはかまわないんです。
そういうつもりで「自分はいつも神界にいるんだ、ああ神界の自分がこんなことをして
は恥ずかしい」とやるでしょ。神様が変な恥ずかしいことをすればおかしいでしょ。
神様が不平不満を起こしてはおかしい。神様が妬んじゃおかしい。神様が怒ってはおか
しい。神様が泣き言をいってはおかしいでしょ。そういうように、いつも「ああ自分は神
様なんだな、神界にいるんだな、そうするとこんな小言はおかしいな、この不平不満はお
かしいな、この威張り根性はおかしいな、この妬み根性はおかしいな」とこう思わなけれ62
ばならないでしょ。しかし思ってしまったら、ああそれは消えてゆく姿だな、ということ
になるでしょ。それで消えてゆく姿で払えば、神界の本当の自分がそのまま現われてくる。
だから自分のやっていることがおかしいな、と思えるような人は立派なんだよ。自分のやっ
ていることは少しもおかしくない、なんでもかんでも自分の言うこと、やっていることは
いいんだ、私は偉んだ、と神様事をする、そのようなやり方では駄目なんです。
自然法爾
神様のことをするのは自ずから自然にやります。威張るわけじゃなし、高ぶるわけじゃ
なし、当たり前の姿で当たり前に行なえてくるんですよ。やはり、自分に現われてくる行
ないが、ああこれはいけないなこれはいいとか、反省する想いは絶対に必要なんですよ。
反省が何もいらないというのではないんですよ。反省しながら一瞬にして、ああ悪かった
とわかったら、消えてゆく姿だなと、五井先生とか平和の祈りとか自分は神の子だ、とい
う想いに変わるのです。そうすると、その神の子の自分の姿がそこに現われてくる。真実
63世界平和の大眼目に結集しよう
のものが現われてくる。
人間は本来神界にいるのだから、本住の地は神界なのだから、神界は光り輝いている完
全円満なのだから、それが真っ直ぐ現われてくれば、いい世界が出来るに決まっているの
ですよ。いい世界にしないのは、自分が勝手に肉体の想いで、あるいは幽体の想いでガタ
ガタくだらない、ちっぼくさいことに把われて、それでああじゃないこうじゃない、自分
は偉いんだ偉くないんだ、相手が馬鹿だ自分がいい、とかくだらないことを言っている。
これは邪魔するだけです。だから消えてゆく姿なんです。わかりますね。
消えてゆく姿、すべては神界の自分の光り輝いたものがここに現われてくるんだ、と思
うんですね。それを一々そう思っていちゃ面倒くさいから、消えてゆく姿で世界平和の祈
り、といって祈り言の中に入れてしまうわけです。そうすると知らない間に、自分の本当
の神様の姿がそこに現われてくるわけなんです。神様の姿がそこに現われてくれば、今度
は諸神善霊がそれこそ、お釈迦様でもキリスト様でも老子様でも、みんな現われて自分の
応援をしてくれるわけです。そうするとますます力が強くなるわけです。64
全託と感謝
この五井先生も、はじめからこんなに力を持っていたわけではありません。はじめは一
青年、なんだかやせこけた青年でしたよ。それがいつの間にこうなったんでしょう。いつ
の間にかこの教えが出来て、いつの間にこうなったんだかわからない。何月何日にどうなっ
たか、というのもわからない。今度の変貌はハッキリ記してあるからわかりますけれども、
いのち
こうなって来た経過はわからないんです。一番わかるのは、神様にさあ私の生命を使って
いのち
下さい、どうか神様のままにお使い下さいって、パッと投げ出して「お前の生命はもらっ
た」「ハイ」と言ったきり、それが第一歩。それだけで始まった。それだけであと何にも
ない。全託しますって投げ出しただけなんです。そして後は文句言わなかった。
首を締められても、頭を締められても、何されても、道の真ん中で立往生させられても、
なんでもなかった。雨がどしゃぶりでも悠々と歩いてもなんでもなかった。夜じゅう歩か
されてもなんにも不平を言わなかった。痛いところを蹴飛ばされてもなんとも言わなかっ
65世界平和の大眼目に結集しよう
た。有難いと思ったんだ。足が痛くてしようがなくて、はれてしまっていた。それで混ん
だ電車に乗った時に、ガーンと痛いところを蹴飛ばされたのですよ。その時なんと言った
かというと、有難うございます、と心の中に出て来たんだからね。そこなんですよ。そう
するとそれは神様の心なんです。全然悪いものを認めてないのだからね。
いのち
そういうように自然になった。その一番最初は何かというと、神様に生命を捧げます、
くロつ
どうぞお使い下さい、と投げ出したわけですね。投げ出した時にはもう自分は空になった
わけ、自分がなくなったわけでしょ。そうすると、小我の自分がなくなったことは、神様
の自分がそこに現われたことでしょ。さあ神様は使いやすいや。こんなに使いやすいもの
はない。何でも言う通りにきくんだから。右行けといえば右。左といえば左。前へ進めと
いえば前へゆく。首を締められれば締められたままでいるんだから。雨に打たれれば打た
れているんだから。死ねっていえば死ぬでしょう。それまでに全託しちゃったでしょ。素
直といえば素直です。過去世の因縁といえばそうなのですが、そうやったわけでしょ。そ
れを私は一人でやった。目に見える人は誰も応援しない。それで想念停止の修練をやって
66
こうなったわけでしょ。
そこへゆくと皆さんは友達はたくさんいるし、先輩はたくさんいるし、先生はここにい
るし、危くなれば先生! といえば先生が助けてくれる。これはもうはっきりしているん
です。だから皆さんは楽なんですよ。私からくらべれば楽なんですね。だから皆さんはす
べて悪いことは消えてゆく姿で、自分は神の子だったんだなあ。何か災難があっても、あ
あこれは過去世に積んだ悪いものが消えて、いよいよ自分の本当の姿が現われてくるんだ
なあ、有難うございます、とこういうふうに生きるのです。
感謝の心がなかったら駄目です。人間は感謝の心が一番大事ですよ。何をされても有難
いんだなあ、という気持ちが一番大事なんです。
これから本当の人間を育てる
これから肉体の人間の御機嫌などをとることを一切私は止めますよ。そんなことをして
何になるか。ただその人の本心が開くために、その人が本当の人間になるために、本当に
67世界平和の大眼目に結集しよう
神の子の姿を現わすために、私は懸命に努力しますよ。そのためには甘やかしたほうがい
い時には甘やかすかもしれない。愚痴を聞いてあげるほうがその人の魂が開く場合には、
ああそうかね、と聞くかもしれない。しかしそうでない場合には、このバカヤロー、と怒
鳴りつけちゃいますよ。そういうようになりました。だから怖いんだか、優しんだか自分
自身にもわからない。怖い時にはうんと怖いし、優しい時にはうんと優しい。それがいい
んです。今まではみんなが本当に消えてゆく姿で平和の祈り、という道をつけ、開いて、
そして今度はその道の中に入って来た。相当に出来てきたから、幹部のいわゆる古い人達
はもう消えてゆく姿さえもいらないのだからね。とたんに空にならなきゃ駄目。パッと空
になれるような修行をしなければならないと思うのです。
そこで私は、宇宙人が現われて、少しあの二人の女性に手がかからぬようになったら、
幹部の再教育をしようと思っています。ビシビシと尻をひっぱたいて(笑) 鍛え直そうと
思っている。今まではたががゆるんでいた。だから鍛え直して本当の人間にしようと思っ
ている。どこの宗教家が見ても、唯物論者が見ても、どこから見ても、ああ五井先生のお
68
弟子は立派だなあ、といわれる人間に全部しようと思っている。ああでもない、こうでも
ない。なまこのような、なめくじのようなフニャフニャしたものは、いたってしようがな
い。みんな叩き直そうと思っているのです。覚悟はよいか(笑) ってなことになるんじゃ
ないか(拍手)。
愛するということは、その人の本当のいいものを、いい持ち味を出さなければ愛するこ
とにならないんですね。その人の愚痴を聞き、業想念を聞いて、ヘイヘイ言ってたんじゃ
それは愛することではなくて、弱虫ということです。だからその人の長所、持ち味をズバ
リと出すように、私はこれからやることにしました。そうすればみんな立派になります。
怒鳴りつける時には怒鳴りつける、優しくする時には優しくしますから、どうぞそのおつ
もりで、みんな張り切って下さい。
皆さんが真祈りの中心であり先達
いいですか、皆さんが世界三十億を救うんですよ。胆に銘じて下さい。皆さんが三十億
69世界平和の大眼目に結集しよう
を救う先達なんですよ、世界平和の真祈りの中心なんですよ。自分達が救われるんじゃな
くて、自分達が救いに立つのです。皆さんの過去世をみれば、みんな相当なものです。そ
あくた
れなのに、この世の垢や芥がついてヘナヘナなんかしたのだけれども、実はヘナヘナした
人間など一人もいないのです。みんな神の子なのです。みんな前生において修行に修行を
積んだ人間が集まっているのです。それでなければこの祈りのことがわからないんですよ。
五井先生がわからない。少しでもわかるということは、過去世において修行を積んだ賜物
なんですね。修行を何も積まない人間は、唯物論者のようになって、神がいないとか、霊
はないとか、くだらないことをいってのさばっているんですよ。少しでも修行を積むと神
様がわかるし、霊のことがわかるんです。
だから皆さんは幸せな人達です。世界人類を本当に救うための第一歩を踏み出す時に、
五井先生と共に手をつないで、世界平和の祈りが出来るということはなんたる幸せよ、と
老子は言うのである(笑)。
70
生きるということは厳しいもの
老子はいいことを言って下さる。私ともどもハイとかしこまって謹聴してしまう。老子
は私の中に合体してきて、お前を指導する、というんだからね。だから指導されちゃおう
と思って、私ともども小言を言われているのであります。わかりますね。
皆さん子供さんを育てるのでも、只叱ってはいけませんよ。本当にその子を愛して、そ
れで叱りなさい。叱って死ぬなら死んでもいいんだ。そんななまくらで生きているのなら、
死んでもう一遍霊界でやりなおして、肉体に生まれ更わって来い。そういうつもりで子供
はく
の教育をしなさい。そしたらその気醜に打たれて子供もしゃんと直るから。家出されちゃ
大変だ、死なれちゃ大変だ、と思うことはない。そんなことで親たるものどうするか。そ
んな人間などいくらいたってしょうがない。何遍でも生まれ更わって来い、と老子はこう
いうのです。
なまくらで五十年七十年生きたって何にもならないんですよ。それは死んでるのも同じ。
71世界平和の大眼目に結集しよう
生きているというのは、生命がピンピン生きていること、生命が光り輝いて、それで生活
していくことであって、ぐたぐたしているのは死んでいることと同じだから、いっそのこ
と、バッサリ死んじゃったほうがいい。そうすればやり直しがきくから。なまくらに生き
ているからやり直しがきかない。死んでいるのと同じような生き方をするなら、=遍死に
切っちゃって、もう一遍生まれ更わったほうがいいのです。幽界でビシビシやられ、=言
もなくやられ、それでギリギリ一杯のところで、ああこれは悪かった、これではいけなか
ったと生まれ更わったほうがいいんですね。
生きるということはそれ程厳しいことなんですよ。今まで皆さんはそういう話を五井先
生からきかなかった。しかし生きるということは厳しく、一分一秒もゆるがせに出来ない。
その厳しさに耐えて、自分を見つめて自分を鍛え上げてゆくことこそ、魂の本懐であるし、
本心開発の一番の近道です。それを昔の禅宗の坊さんや宗祖というものは、厳しく指導し、

山に籠もったり滝にあたったりして修行した。それを五井先生は消えてゆく姿で世界平和
の祈りというやさしい教えにして導いて、今日まできたのです。それで今日からは消えて72
からし
ゆく姿に世界平和の祈りを含めた中に、少しピリッと辛子をきかせて指導いたしますから
ね。
空からすべてが生じる
五井先生という人は非常に正直な人です。いつも真っ裸で、サーッと自分を投げ出して
いる。だから悪いことは悪い、善くなったことは善くなった、と自分でハッキリ認めちゃ
うからね。普通の人は中心者ともなると、老子に叱かられたなんて言わないです。ちよっ
と気取らなきゃならないでしょう。叱かられても叱られなかったようにやってなきゃなら
くロつ
ないけれど、私は正直なものですから、汝の空いまだ浅し、と言われたのが胆に銘じた。
何を言ってやがんだこの野郎、と思ってね(笑) と思ったとたんにスーッと空が深くなっ
て、不退転の心がますます深くなってきた。
一寸位悟ったから、自分が一寸位偉くなったからって、鼻を高くしていたら、ガーンと
老子に杖でぶんなぐられますから、そのつもりでいて下さい。偉い自分などあったら駄目
73世界平和の大眼目に結集しよう
だ。偉い自分も偉くない自分もないのですよ。貧弱な自分もなければ、強い自分もない。
じやくじやく
そんなものは空々寂々空寂々だ。それがわかった時に本当の偉さが出てくる。
偉いとか偉くないとかいうのは、自分で決めるんじゃなくて、はたが決めるんです。自
分で自分は偉いんだろう、自分は少し偉くなったか、そんなことを思っているような貧弱
な心では、偉くならない。わかりますね。自分は人より偉いんだ、聖者なんだ、なんて思っ
ている人があるかも知れないけれども、五井先生というのは、偉いんだとか、聖者なんだ
とか、思ってもいない。みんな神様のほうから言ったり、人が言ったりするんですよ。こ
のことは、胆に銘じておきなさい。老子もそう言うんですよ。
この間も宇宙人と交流してましたら、みんなが五井先生になる日は、って出てきた。そ
の次に、近いけれど、と出てくるかと思っていた。そしたら甚だ遠いけれど、と出てきた。
その時に私は、ああ五井先生というのは大変だなーと思っちゃった。そう言われたからに
は、自分が誰よりも偉くなくちゃ困るでしょ。もし五井先生が偉くないと神様を馬鹿にす
ることになるからね。74
私は一体何を思っているか
くエノ
一番いいのは空になることです。自分というものがなんにもなければ、何を言ったって
いいじゃないですか。神様が言うんだからね。質問が出たら速やかに答える。何が何して
なんとやら、物が物してものとやら、これは浪花節よ(笑) こんな呑気なことを言ってい
るのは何にもないからです。自分の話がうまかろう拙かろう、自分がどう思われようこう
思われよう、そんなことを思ったら駄目ですよ。自分がなくなること。自分がなくなりも
しないで、形の上だけ真似したって駄目です。
私事がなんにもなくなってごらんなさい、一番強い。ここに坐っている五井昌久という
人は何を一体思っているのでしょう。
世界人類が平和でありますように!
世界人類を、地球世界を救わなきゃあならない!
75世界平和の大眼目に結集しよう
そう思いこんでいるんですよ。
世界人類が平和でなかったら、俺が生きている価値がないんだ! そればっかり思って
いる。他に何にも思ってない。
世界人類が平和でありますように
みんなが幸せでありますように
永遠の生命がこの地球界に現われますように! そういうことだけ思ってる。
他に何にも思ってない!
何にも思ってない! それを胆に銘じなければ駄目。枝葉のことはどうでもいい。世界人
類が平和であるということが、もう只一条の大眼目ですよ。その中にすべての平和、みな
さんの日常生活の平和は全部含まれている。
世界人類が平和でなくて、自分の家庭があると思う馬鹿がいるか。世界人類がつぶれて
自分の生活がどこにあるか。ありはしない。世界人類が平和でありますように、世界人類
が平和でありますように! それを絶叫するんです。76
世界人類が平和でありますように
宇宙人の方々、どうか応援して下さいよ
いのち
と生命をかけて、心から絶叫しなさいよ。その他に何もないでしょ。自分の家庭はその
中にある、世界人類の中にある。みんな世界人類の一員です。くだらないゴタゴタは全部
捨てなさい。夫がいいも、妻がいいも子供がいいも、そんなことはどうでもいい。技葉の
ことはどうでもいい。今が一番重大な時です。地球世界始まって今程重大な時はない。
人類が生きるか死ぬか。生きることは五井先生が保証する。保証するけれども五井先生に
いのち
協力して、世界平和の祈りを、生命をかけてやらなければ駄目なんだ。
地球人類を救うために宇宙人は必ず現われます。宇宙人は素晴らしいんですよ。世界平
和の祈りの中に現われます。宇宙人が姿を現わしたことが、地球世界が平和になる第一歩
です。これは私が確約します。それからもう一つ確約します。
皆さんの運命は私が引き受けた! この世からあの世まで全部引き受けます。必ず永遠
の生命が光り輝くように私が引き受けるから、皆さんは世界平和の祈り一念でやりなさい。
77世界平和の大眼目に結集しよう
私が引き受けた。私というのは全部の神々が入っている私ですよ。いいですね。どうぞそ
のつもりで。(昭和37年3月
18 日のお話)
78
新しい世界を創る
相対の世界に幸福はない
この世の相対的な争いの波というのは、労働組合と資本家側の対立が一番代表的なもの
ですね。労使の対立が大きくわかれますと、アメリカとソ連との対立ということになるわ
けなのです。
私は昔、中央労働委員会というのがありますが、そこにいたことがあったのです。です
から労働問題については、私は割合くわしいのです。神様のやることというのは面白いで
すね。神様事をやるからには、初めっから宗教家になり、坊さんや神主さんになってすれ
79新しい世界を創る
ばいいようなものだけれども、それでは世間がわからない。反対側のことがまるっきりわ
からないわけです。ところが神様がわざわざ労働組合の闘争の真っ只中、共産党や社会党
の渦の真っ只中に放りこんで、いわゆる左翼というのはいかなることをやって、どういう
戦術があり、どういう心持ちでいるのか、というものをハッキリ見せられ、労使の対立様
相をまざまざと体で見、感じてきたわけです。
そこで私は、現象の相対世界においては、労働組合というものも必要だと思っているの
です。労働組合があったことによって、資本家側、経営者側の横暴というか一人よがりと
あえ
いうものが是正されてくるわけです。そして低賃金で喘いでいたような、食うにも食えな
いようないわゆる働く者達が、幾分ずつでもよくなっている。神様事をぬかしまして、こ
の世界が相対の世界でそのまま進んでゆくとするならば、労働組合というのは非常に大事
なものです。だから神様事を押しつけようとか、一方的にこうしなければならない、とか
いう考えは私にはないんです。現実的にハッキリ目でみて、ああこれではいけないなあ、
と突きつめて突きつめて、最後まで突きつめて考えて、この相対の世界では駄目なんだ、80
ということが私は身にしみてわかっているのです。だからといって、こんなの駄目なんだ
と、相対世界を急速に、バーンと変えようというような気持ちはないんですよ。
だから労働組合の幹部がさかんに画策したり、労働者がストライキをやったりすること
も、ああもっともなことだ、と思う一面もあるのです。片方の経営者側というのは、いい

人はいいですよ。悪い人も随分いるんです。自分達だけ足らふく食って、芸者買いなどし
て遊んじゃって、それで自動車を乗りまわすだけで、使用人を顎で使っていたということ
が随分あったわけですよ、今まではね。雇人をまるで奴隷のように、低賃金をやればいい
というような感じで使っていた、というようなことが随分あったわけです。紡績女工の悲
哀なんていうのが随分ありまして、低賃金で売られて来たような女の子が働いていたわけ
です。そんな女工さんを使って、足らふく食って、遊び放題遊んでいたというような実業
家というのが、随分あったわけですよね。労働組合が出来たことによって、だんだん是正
されてきて、かなりよくなっている。だから非常にバランスがとれてきて、私は相対的な
世界では結構なことだと思うんですよ。だけれども行き過ぎるとまた困るんです。
81新しい世界を創る
人間というものはいろいろ経験しておくといいですよ。実に役に立ちます。私は労働組
合の経験もありますでしょ。それから文学的な経験もあります。詩人ですからね、私はも
のを書ける経験がある。雑学ですからいろんな本を読んでいる。系統立てて読んじゃいな
いけれど、猿飛佐助から、ドストエフスキi、トルストイまで、英文学や日本の大衆文学
など一通り読んでいるのです。今の若い人が知らないような言葉もうんと知ってますよ。
音楽もちょっとやってますからわかります。いろんなことを経験して、身体に染みこんで
知っているんです。だから半端な答はしないんです。いい加減にそんなもの駄目だ! てな
ことは思わないんです。
経営者側の立場も私はよく知っています。経営者側を応援していろいろ教えております
からね。労働者側の立場もよくわかる。だから、相対的世界の中には幸福はない、という
ことがよくわかるのです。労働者側には労働者側の立場が必ずある、経営者側には経営者
側の立場が必ずある。だからお互いに立場がある場合には、その場は折り合うけれども、
また次の場合には争うわけです。それが大きくなると、アメリカとソ連の立場になる。82
人類の一人という立場に立て
アメリカの気持ちがよくわかる。ソ連のいい分はよくわからない、けれども、ソ連には
ヘヘヘ
ソ連の立場があって、向こうではそれんがいいと思っていうんですから。このシャレきか
なかったな(笑) はたから見れば明らかに悪いことがわかっているようなことでも、その
人がその渦の中に入りますと善悪がわからなくなるんです。自分が悪くないと思うんです。
これは実に不思議なものですよ。公平な目でみればソ連のやり方は実に卑劣だし、全く陰
険きわまりない。悪いに決まっています。ところがソ連側の共産圏に立ってみれば、悪く
ないように見えるんです。だから日本の共産党はソ連のやっていることが悪くなく見えて、
アメリカのやっていることが全部悪く見える。あのように色眼鏡をかけたら何もわからな
い。
というように、善い悪いにかかわらず、相対的の世界においては、誰でも自分の置かれ
た立場に味方します。だからどんな理屈があろうとも、それは一応の理屈であって、本当
83新しい世界を創る
に世界が平和になるための理論ではないわけです。しかしこの世の中に住んでいますと、
誰も彼もが一応自分の立場をもっているわけです。資本家側の立場にいる人もあるでしょ
う。あるいは労働者側の立場にいる人もあるでしょう。あるいは奥さんという立場にあり、
旦那さんという立場にある、学生という立場にある。いろんな立場がありまして、その立
場においてものをいうわけですね。そういう立場でものを言っている以上は、その人達の
本当の幸福は成り立たない。ではどういう立場でものを言えばいいか。それは大きな人類
の中の自分は一人なんだ、という立場に自分をおかないと、これからの世界はもう駄目に
なっちゃうのです。
ある職場の立場、ある地位の立場、そういう立場でものを言っている場合には、一向に
本当の平和は出来ない。だからあの人も人類の一人なら、この人も人類の一人。私も人類
の一人だというように、大きな人類的立場からものを見るようにしないと、この世の中は
いつまでたっても大調和しない。ということは、労働争議などをみていると実に明らかで
すよ。だから立場を変えてみれば片方がいいし、片方が悪い。だからそういう立場を一切84
なくす。奥さんと旦那さんの立場でも、奥さんの立場から見れば、旦那が悪くなる。旦那
の立場からみれば、うちの家内が悪いとなる。ということになって喧嘩があるわけ。親子
でもそう。だからそういう立場がある限りは絶対駄目なのですね。どんなに自分がいいと
思っても、百パーセント自分がよくても駄目なのです。向こうからみれば悪く見えるので
すからね。だからそういう立場を一切捨てることを、これから心ある人は心がけないと駄
目なのです。そういう運動が世界平和の祈りの運動なのです。
一応今まである自分の立場というものを捨てて、それを世界人類の中の一人という人間
の立場でものを見、ものを言い、ものを行動していくということにしなければダメなんだ、
というのが私の根本的な考え方なのです。他のことはさておいて、人類の中の人間という
ことを考えて、その考えからすべてを始めていきましょう。枝葉のことはそれに附随した
ことでやっていきましょう。というのが世界平和の祈りの運動なのですよ。
85新しい世界を創る
貴方達のやっていることは
そうした人類的な立場から自分が動いておりますと、知らぬ間に自分が大きな人間になっ
てゆく。小さな家庭の主婦であった、おばあさんであった、おじいさんであった、只単な
る旦那であった、只単なる社長であった、という人達が、只単なる人達でなくなって、人
類の一人の人間、神の子の人間としてよみがえってくる。生命が生き生きとしてくるので
すよ。それが世界平和の祈りの功徳なのですよ。
「あなた方はどういう立場での宗教なのですか、とよく聞かれるのですが、よくわから
ないからどう答えたらいいでしょうか」と今さら聞きにくる人があるけれど、わからない
わけはない。
「私達は、自分の立場というものを一応祈り言をエレベーターエスカレーターにして、
はしご
梯子にして、世界人類の中にお還えしして、世界人類の平和を願うのですよ。そういう運
動なのですよ。
86
私共は自分では出来ないものですから、自分ではどうやって人様のために尽くしていい
かわからない、世界平和のために尽くしていいかわからない、お国のために尽くしていい
かわからないものですから、一先ず自分の生活などというものを祈り言に代えまして”世
界人類が平和でありますように” という念願の中に全部入れております」
「するとあなた方は自分の幸福というのは思わないですか? 」
「いや、勿論、自分の幸福も思うし、自分が幸せになることを願っております。しかし
それさえも、世界平和の祈りの中に入れております」
とこう言ってごらんなさい。ああ、このおばあさん見かけによらず立派なもんだ(笑)
ということになるんですよ。何も人に賞められなくたっていいけれども、神様に賞められ
さえすればいいけれどもね。だから何もわからないことはないんですよ。あなたのやって
いらっしゃることはなんですかと聞かれたらそういうことなんですね。
こんな簡単で、いい運動はどこにもない。おじいさんでもおばあさんでも子供でも出来
る、こんな平易なやさしい世界平和運動はないのです。
87新しい世界を創る
人間の考え方を変える
今日もラジオで、立教の総長の松下さんが、アメリカに抗議を申し込んだことを話して
いたけれども、アメリカは構わずまた原水爆の実験をやろうとしているのでしょう。全然
日本の抗議を受けつけない。受けつけないわけです。向こうでは資本家閥があり、いろん
な産業がありまして、いろいろな動きがあるわけです。それで一寸でもソ連に抑えられた
りすると、経済が崩れてくるのです。だからいつでもソ連より優位に立たなければならな
いのだから、人類のこと、外国のことなどは考えていられない。自分のことだけしか考え
られないからです。
まず自分のことが先なのです。アメリカはアメリカのことが一番先なのです。アメリカ
の経済を破壊してはならない、というのが先なのです。だから人類の問題などもっともだ
と思っても、はねのけるわけです。そういうことはもっともだなと思うのですよ。日本が
抗議すればもっともだと思う。ああもっともだもっともだ、と言ったって踊っているよう88
なものですよ(笑)。
言葉だけで言ったってしようがない。既定の事実、政治方針で決まってしまっているの
だから、いくら他から言ってきてもやることはどんどんやってしまう。だからいくら言葉
で抗議したって、アメリカでもソ連でもやるのですよ。
しかし抗議しないよりしたほうがいい。そういう世論があるんだぞ、と言えばいくらか
良心に恥じるから、三回やるところを二回になるだろうから、抗議するほうがいいだろう
けれど、根本的な解決じゃないのです。根本的になくなるわけじゃない。それは何かとい
うとアメリカ自体の考え方、ソビエト自体の考え方を直さなければ駄目です。というより
も人間一人一人の考え方を変えなければ、世界人類は平和にはならない。平和になるどこ
ろか亡びてしまうようになっているわけです。
そこで私達がまず立って、人間の考え方を自然に変えてゆきましょう、無理に一遍に変
えろと言ったって、長い間何万年何千年ズーッとつづいた人間の想いというものは、幽界
に渦をまいて流れていますから、一遍に自分だけ変えようと言ったって、変わらないので
89 新しい世界を創る
すよ。自分だけ変えようとむちゃをしたって、自分が傷つくだけですから。
いうのがありまして、流れに逆らったって駄目なのですね。
一つの流れと90
流れを新しく創る
L
そこで私達はどういうことをするかというと、流れを新しく創るのです。今までの流れ
はそのままにしておいて、流れのままにやらせておくと言ったって、やっているんだから
仕方がない。流れているんだからね。そこで私達はその流れとは別に、新しい世界、新し
い思想の世界を創るのです。それはどういうことかというと、みんなが自分の想いを世界
平和の祈りの中に入れて”世界人類が平和でありますように” という祈り言の中に、全生
涯をかけてゆく、自分の幸福をかけてゆく、という新しい世界です。
今まではそういう世界はなかった。私達のように徹底していないのです。世界が平和で
あればいいな、と思うことは思う。世界平和のために働きたいと思うことは思う。しかし
思うだけでやらないのです。思うこととやることが別々なのです。世界が平和であります
ように、とたまには思いながら、片方じゃ喧嘩をやっている。赤旗を立てている。鉢巻き
をしている、というやり方でしょ。それでは思うこととやることが違いますよね。
そこで私達のは思うこととやることが同じこと、世界人類が平和であるという念願があ
るわけです。その念願の通りに動くわけですよ。その動き方が何かというと世界平和の祈
りなのです。寝ても覚めても、いつでもいつでも世界平和の祈りの中で、自分の生活をし
てゆく。そうすると思うことと行動することが一つになるわけです。
ところが世界平和の祈りをしながらでも、腹が立ってくる。人の悪口を言いたくなって
くる。たまには嘘も言いたくなる。いろいろ癖が出てくるわけですね。そこに救いの言葉
がある。
消えてゆく姿で平和の祈り
それは「みんな消えてゆく姿なのですよ。過去世の因縁が消えて、そこで悪い言葉にな
り、悪い想いになり、悪い行ないになったりして消えていって、真の姿のあなた、神の子
91新しい世界を創る
のあなた、光り輝いたあなたが出てくるのですよ」という教えがありますね。だから世界
平和の祈り一念でいいわけです。
世界平和の祈り一念で生きていて、それで間違った想いが出てきて、間違った行ないが
出てきたら、”あっしまった、これは消えてゆく姿なんだな” と言いながら、また世界平
和の祈りの中に入れてゆく。そうやっていますと、すべての想いというのは癖なんだから、
長い間の癖が新しく開かれた世界平和の祈りの道の中に、どんどん入ってゆくわけです。
悪い想いが光の想いにどんどん変化してゆく。ある年限がたちますと、人によって違いま
すよ、業の深い人もあれば、浅い人もあれば、すべてのことにおいて善いけれども、この
一つだけが深い業になっているものもあれば、いろいろあるわけです。そういう業因縁に
よって違うわけだけれども、祈りつづけておりますと、いつの間にか、自分の知らないう
ちに、明るい人間光の人間になってゆくわけです。そういうのが世界平和の祈りでしょ。
この世の中は相対的に見て、私とあなたがいい悪い。アメリカとソビエトがいい悪い。
日本とアメリカがいい。そういう立場の考え方をしていたのでは駄目なんだ。人類の中の92
一人の人間であり、人類の中の一つの国であり、一つの民族である。みんなもって生まれ
た自分の天性を生かして、人類のために奉仕をするんだ。(神様と言わなくたっていいです
よ) 人類のために自分達はここに生きているんだ。人類の一人として生きているんだ。人
類の一つの民族として生きているんだ。人類の中の一つの国として生きているんだ。国と
か民族とか一人とかいうのと別に、人類は離れてあるのではないのだ、ということを胆に
銘じておかないと、この世界は滅びるんだよ、ということを私は言いたいのです。それを
簡単にいえば、只世界平和の祈りをやりなさい、消えてゆく姿で、世界平和の祈りをする
ことですよ、ということなのです。
自分一人あるのみ
あの世というのは、有って無く、無くてある。この世というのも、有って無く、無くて
ある。本当のものではない。本当に在るものは、宇宙神只一つなのですよ。宇宙神という
光が只一つあるだけです。唯一絶対、それだけしかないのです。その絶対の光の分れがこ
93新しい世界を創る
こに来ているだけであって、実在するものは宇宙神なのです。
逆に言いかえますと、宇宙神から分れて自分がここにいますね。そうすると自分の他に
人がいるわけではないのです。みなさんがこうやっているけれども、実はそれは自分が見
ているのであって、自分がいなければ無い。この自分の目だって手でふさげば見えやしな
い。眠っていれば何もわかりはしない。と同じように自分がいなければ何も無い。我ある
が故にみんながあるのでしょ。そうするとこの世の中であるものは、自分だけなんです。
自分只一人がある。宇宙神の中の自分が一人あるだけなのです。いいですか。ですから善
いことも悪いことも、誰の責任でもなく自分の責任なのです。だから自分が偉くなるより
仕方がない。自分の心を正しく、神のひびきと一つにすれば、自分の前に現われてくるも
のは、すべて神のみ心が現われてくる、みんな神の光明になって現われてくるわけです。
だから自分の前にどんな悪い人が出てこようとも、それは自分のものなのですよ。自分
のひびきがそこに現われている。現われてきたことに文句を言うより、自分に文句を言っ
たほうがいいけれども、何にもならないから、消えてゆく姿にして、世界平和の祈りの中
94
に入れてしまいなさい。
私はあの人のためにしてやった、あの人にこんなことをしてやった、というけれども、
そんなことはありゃしない。あの人もこの人もありゃしない。自分のために尽くしている。
尽くしたことは自分にいいのです。憎めば自分が損なのです。
他に人があるわけじゃない。自分だけがあるんですよ。あの人のために尽くした、あの
人のために祈った、なんて生意気なことを言うな、と私は言うのです。あの人のために尽
くすも、あの人のために祈るもありゃしない。自分のためにやっている。自分が祈りその
ものになればいい。
いちいち人と比べてみたりする人がありますが、比べる必要も何もありゃしない。自分
が立派になること以外に何もないのです。そうするとこの世もあの世も無い。在るものは
神一人。宇宙神の光があるだけということになるのです。(昭和37年4月15日のお話)
95新しい世界を創る
96
永遠に続く人類のために
自分をなくすこと
人間というものは、自分というものが無いのが一番いいのです。自分の名誉がどうとか、
自分の欲望がどうとか、というものが無いと、何を言われても平気のへいちゃ。お前首切
るぞ、はいどうぞ、お前これだから罰が当たるぞ、はいどうぞ、とこういうわけね。何に
も無いものが恐いわけがないでしょ。自分があるから恐いのです。自分があるから死ぬこ
とが恐い、病気が恐い、貧乏が恐いでしょ。自分が無いものが何が恐いか、そうでしょ。
病気も恐くない、死ぬことも恐くない、なんにも恐くありませんよ。そういう境地になら
なければ駄目でしょ。
そこでもし恐いものがあったとすれば、恐い想いを”世界人類が平和でありますように、
私共の天命が完うされますように” というような祈りの中に入れてしまえば、その恐さは
いふ
消えます。やっぱり人間は無畏怖、無恐怖、不退転、不動心、そういう心境にならなけれ
ば駄目ですよ。自分が自分がと言うと、自分が自分が、と言っているだけ恐いのです。
だから普段威張っているような人が、案外いざとなると臆病なんですよ。ガタガタガタ
ガタあわてちゃって、普段やさしいような人が案外いざとなると平静になって、いや大丈
夫でございます、と落ち着いている。だからあんまり普段威張らないほうがいい。私は威
張っているのではなくて、当たり前のことを言ってるんですよね。自分が威張るっていう
ことは、自分が低いのに自分を見せようとして、俺はこうだ俺はこうだ、というから、バ
ランスがとれないで、はたからみると可笑しいんですね。
97永遠に続く人類のために
聖者達が結集しないわけがない
私など想った通りのこと、やっている通りのことを言うから、ちっともおかしくない。
当たり前なんです。そうでしょ。”世界人類が平和でありますように! 世界人類が平和
でありますように、どうかみんなが世界平和のために結集しますように” こういうだけで
しょ。何も無い。こういう立場から威張るんだからなんでもない。
この間も言いましたように、世界人類が平和であるということは、過去の過去の歴史を
さかのぼ
ずうっと遡った聖者達が、みんなそう思っているんですね。お釈迦さんもそう思ったでしょ
う。キリストさんもそう思ったでしょう。すべての人が、世界人類が平和であるように、
地球世界が平和になるために、教えを説いてきているのですね。今までに地球世界が不和
になって、喧嘩しろって教えた聖者はいないんです。そんなのは聖者じゃない。悪者なん
です。悪者っていうのはあるか無いか知らないけれどね。だから今まで生まれた聖者とい
うのは、みんな地球世界の平和というもの、完全平和というものを目指して、教えを説き
98
にきているんです。そしてこの肉体界に生まれて、また、あちらの世界へ行ったわけです
ね。そういう聖者達が”世界人類が平和でありますように” だけを大眼目として、突き進
んでいる人のところに、集まって一緒に結集してやらないわけがない。分かりますか、
世界人類が平和でありますように!
地球世界が平和でありますように!
こうして、これだけを唱えている立場の者のところにですよ、各聖者が居眠りして、黙っ
ている奴はないんだ。”そうだそうだ、その通り、あなたの言う通り私達もやりましょう”
と、来るのは当たり前でしょ。そんなことはいささかも不思議ではありません。
キリストが来ようが、釈迦が来ようが、老子が来ようが何の不思議もありません。分か
りますか。私は大言壮語しているんではありません。みなさんは、地球世界の中に住んで
いるんです。地球世界の一員ですよ。地球世界が平和でありますように、ということだけ
を願目にして、それだけのために生きている人のところに参加しない聖者がいたら、そん
な聖者は糞たれ聖者だ! あらゆる宗教家が、あらゆるすべての人間の幸福を願う者が、
99永遠に続く人類のために

世界平和のために結集しないという馬鹿なことはありません。見ていてごらんなさい、誰
も、彼も、みんな世界平和の祈りをやらなけりゃならなくなりますから。何も一介の五井
昌久なんて肉体の人間などどうでもいいんだ。こんな肉体なんか、どうでもいい。いいで
すか、個人なんかどうでもいい。世界人類が平和でありますように、という、大きな大き
な光の柱の中に、みんなが結集して働けばいいんですよ。
100
人類が永遠に存続するために
そういう心をみんな持って下さい。個人なんかどうでもいい! どうせ個人の肉体なん
かなくなります。個人は全部なくなります。地球世界はずーっと存続しなければならない。
永遠につづかなければならない。地球人類というのは永遠につづかなければなりませんね。
永遠につづく地球人類のために、私達が八十年九十年棒に振ってもいいんですよ。いいで
すか。苦しみに苦しみぬいて、全部苦しんでも、地球人類の永遠の生命、何千年何万年、
何億年、何兆年何十兆年、ずっとつづく地球人類のために役に立ったとするならば、これ
に過ぎたる本懐はありませんね。
かくかく
そういうために働いた人は、霊界において、神界において赫々たる栄誉を得るんですよ。
地球人類の平和のために、肉体の生活の五十年、八十年は短かいですよ。夢の間です。
わけなく過ぎます。どんな美味いものを食べても、どんないい着物を着ても、これはわけ
なく過ぎていきます。やがて死にます。肉体はせめて、生きている間に、世界人類平和の
ために、少しでも働くほうがいいのですよ。
それを私は、”世界人類が平和でありますように” という祈りさえしていれば、皆さん
がそのままの生活を送っていて、しかも皆さんの病気も治り、不幸も直りながら、世界人
類の役に立つんですよ、ということを教えているんですね。そういうことを腹の底に据え
ておきなさいね。
これからいろんなことを言う人がいると思います。何だ五井なんて奴が、世界平和をな
んとかと言って威張っている、と言ってきたって、あなた方の信念が強ければ大丈夫です
よ。
101永遠に続く人類のために
いいですか、五井昌久という個人は、もうおりません。五井先生という人は、世界平和
のためだけに生きているんです。他になんにもありませんから、そのつもりでみんな協力
して、世界平和の祈りをやって下さいね。
寝ても、覚めても世界平和の祈りをやりますと、自分の霊体がどんどん光り輝いてきま
す。
宗教は趣味ではない
宗教は趣味ではありませんよ。宗教を趣味にしている人はやめた方がいい。宗教という
ものは、自分の生命を磨くためにあるのです。魂を磨くためです。世界人類の魂を磨くた
めに、あなた方が先達として、魂を先に磨くのです。いいですね。宗教は趣味ではありま
せん。遊び事ではありません。生命をかけたものです。生命をかけた、生命を捨てるといっ
ても、肉体の生命を捨てるという意味でもないんですよ。生命をかけるということは、す
べてを投げ出して、生命を磨くことです。102
神様と一つになる運動が宗教の運動です。神様と一つになれば、必ず世界は平和になり
ます。それを私が話をしに来、あるいは実行して見せに来たんです。
ここにはイエスもいます。釈迦もいます。老子もいます。金星の長老もいます。弥勒如
来もいます。みんな光り輝いてここに一緒に働いています。だから私はいつも落ちついて
いるんですよ。皆が結集してやっていることを知っているから、何も恐くない。
皆さんのうしろにも、ここについている大光明の神々が、みんなついて守っています。
一人一人をみんな守っています。どれだけいるかわからないですよ。神々はみんな、皆さ
んを守りつづけに守っていますから、あなた方が世界平和の祈りをやっていて不幸になる
ことは絶対にない。それを固く信じて下さい。(昭和37年4月8日のお話)
103永遠に続く人類のために
104
祈りの生活に徹しよう
戦争の危機はらむラオス
アメリカがいよいよラオス問題で派兵しましたね。一般の人達はなんでもなく見過して
いるけれども、相当重大な事件なのです。うっかり中共が手を出せば、ラオスが発端になっ
て世界戦争が始まりますね。噴火口は方々中にありまして、一つが噴火するとそれにつれ
てズーッと噴火してしまうような状態が、今の世界状勢なのです。そこでラオスへの派兵
というのは重大問題だというのです。
しかも新聞にも書いてありますけれども、飛行機がどこから飛び立ったかというと、日
本からも飛び立っている。それを政府の人達は知らないのでしょ。爆撃機じゃなくて輸送
機だからいいですよ。安保条約の条項に、日本政府と事前協議をして、それから軍事行動
を起こすことになっているわけですね。ところがいざ戦争だ、という時、”さあいかがで
しょう” と話し合った末、飛行機が飛び立って間に合うわけがない。その条項そのものが
バカバカしくて話にならない。だからアメリカの軍隊が日本に基地をもっているというこ
とは、アメリカが戦争に入れば日本も当然その渦中にまきこまれるということになるわけ
です。これは揺がせに出来ない事実なのですよ。要するにアメリカがアジア方面で砲火を
交じえなければならない時には、日本も出兵しなければならないような立場にある。出る
も出ないもない、日本にある基地から飛び立つ飛行機が邪魔だ、と敵方が思えば攻撃して
くるわけです。ですからいつ日本が空襲されるかわからないんですよ。
だけど日本の皆さんは、というと私が外国人のような気がするけれど(笑) あんまり感
じていない。ラオスがなんとかで困まったわねえ(笑) アッ殺しがあった、こっちの方が
重大(笑) ところが新聞の第一面の記事の内容というものは、大変なもので心ある人はぞっ
105祈りの生活に徹しよう
とすることが多いでしょう。そこで社会党系や共産党系は、日本からアメリカの基地をな
くしてもらいたい、というわけです。それにも一理はあるんですよ。しかし社会党や共産
党が本当に日本のためにやっているかというと、社会党はまだしも、共産党はソビエトの
ためにやるわけでしょ。それに社会党が同調すると、いつの間にか共産系にひきこまれて
いって、ソビエト系になってしまうわけですね。これがむずかしい。
今日本にあるアメリカの基地から、哨戒機が原爆を積んで飛んでいるのですよ。もし頭
がポーッとして間違って落としたら、それでおしまいなのです。一時一分一秒に世界壊滅
の危機がある。今かも知れない、次の一瞬かも知れない。毎日毎日原水爆戦争になる危機
がつづいているんですよ。それをみんな知らない。宣戦布告をして戦争が始まるかという
と、さにあらず、誤まってボタンを押してしまって、核爆弾が一発どこかに落っこちた。
サアやられたと復讐戦をやるというようなことが、無きにしもあらずだし、そうなるだろ
うという軍事評論家の予想もあるんです。科学的データによってね。
ケネディさんばかりではありません。司令官が頭が狂わなくても、一兵卒が狂えば本当106
の大戦争にならないとは限らない。そういうような大変な時期なのですよ。私は新聞を読
みながら、テレビを見ながら大変だなと思っているのです。
まず世界人類の平和を祈れ
幽界ではそういうことは行なわれているのです。地球を亡ぼしてしまうような情景が、
絵にかいたように出来ているんです。ロハ幽界のフィルムには映っているけれど、肉体界の
スクリーンにはまだ映写されていないわけですよ。それを救世の大光明の神々は、世界滅
亡というフィルムを平和の祈りで修正し編集しているのです。その修正が間に合うか、合
わないうちに出てくるか、そのどっちかなんです。
だからいつも言うけれど、私事などどうでもいいと思うのです。夫がどうあった妻がど
うだ、息子はどうっていうことは一先ずおいても、後で間に合うのです。世界が亡びると
いうのは後で間に合わないのです。もうそれでおしまいになるんです。息子も妻もヘッタ
クレもない。一夜明けたらおしまいになるんです。
107祈りの生活に徹しよう
ともかく少なくも二、三年は手前勝手なことは止めにしてもらって、世界人類の真の平
和だけを願ってもらいたい、と心から思いますよ。本当に心から切に切にお願いしますよ。
自分のことはさておいてもいいと思うんだ。誰も彼も二、三年がどうということはないん
だ。しかし、世界は二、三年が待てないのです。
私達の目で見ると、幽界の様相がどんどん映ってくるのです。それを守護神の団体が修
正しながら天変地変があるのをパッと消す。すると天変地変にならないで小さく済んでゆ
く。戦争がありそうなのが小さく済んでゆく。皆さんの平和の祈りにのって働いておられ
る神々が、それを消して下さっているわけです。だから一瞬一刻も平和の祈りがなければ
世界はもたないですよ。地球世界なんかなくたって、自分なんかなくたっていいと言うの
なら、その人はそれでおしまいなのだから結構ですけれど、本当に世界人類が平和でなけ
れば、自分達の肉体生活はつづかないわけです。そういうことを皆さんが、胆に銘じて思っ
てもらいたいですね。
己が幸願う想いも朝夕の世界平和の祈り言の中
108
という私の歌がありますね。自分が幸福でありたいし、自分が平和でありたいのは、誰
だって願っているんだ。しかしそれさえも世界平和の祈りの中に入れていれば、世界の平
和と同時に、自分の幸福も出てくるんですよ。世界人類の中に自分があるわけですから、
自分の幸を願うというよりも、世界人類の平和を願うという大きな愛の心のほうが、自分
の平和が早く出来るわけなのです。一それをつい忘れてしまって、自分が自分がと、自分の
驚」
ことばっかり、自分の満足ばかり考えている。それでこの世の中が成り立つと思っている
のかね。自分の満足など一先ず平和の祈りの中に、死ぬ気で生命を投げ出す気で、思い切っ
て平和の祈りの中に入っていかなければ駄目です。そこに初めて自分の心の平安も出来れ
ば、世界人類の平安も出来るんです。
祈り一念に徹底する
皆さんは世界平和の祈りの中に入っています。幸せですよね。そんなことを考えもしな
い人がどれだけたくさんいるか。皆さんは私と一緒になって、世界平和の祈りをして、そ
109祈りの生活に徹しよう
の平和の祈りの大きな力をみんなに知らせたく思っていらっしゃるわけですね。思ってい
ながらも、いつの間にか世界平和の祈りがどこかへいっちゃうんですよ。自分だけの幸せ
とか、自分自身が満足することに懸命になってしまって、満足しないと嫌になってしまう。
自分の想いの満足ばかりを追いかけていたら、その人は非常に不幸な人です。何故なら、
自分が満足しようという想いの中には、満足はないのです。欲望はどこまでいってもある。
神のみ心は絶対なものでしょ。それは完全円満で、あらゆる力を持ち、あらゆることが出
来るわけです。そこまでに人間はなれない。大神様と一つにはなかなかなれやしない。な
るためにはあくなき精進が必要です。精進して精進して、自分というものが全部なくなっ
て、何もなくなった時に、初めて自由自在な神のみ心そのままの自分が出来上がって、な
んでも自分の思う通りになるわけです。
ところがそこまでいきもしないで、自分が満足したいという想いがあったらば、中途半
端になっちゃいます。それだったら世界平和の祈りなど全部止めて、自分の満足のために、
自分の力・能力をもって・フルに体をぶっつけてやればいい・「それでなかったらば全部世110
界平和の祈りで、神様のみ心の中に死ぬ気で入れちゃって自分の心がどんなに苦しくても
悲しくても、世界平和の祈りの中に入り通しに入らなければ駄目です。ボ
今は滅びるか救われるかのどっちかです。中途半端な時代ではないのです。中途半端の
宗教など成り立たないのです。中途半端な宗教なんか止めなさい、と言うんだ。そんなも
の止めてしまって、唯物論者のように、自分の力で人を押しのけてどんどんやったほうが
いい。どっちかにしろって言うんだ。やるならやるで全託して、神様の中にしゃにむに、
なんて言ってもどんなに苦しくても、胸がかきむしられても、血を吐いても平和の祈りの
中に入っていかなければ駄目だ。どっちかだね。
御利益信仰だけで足りる人は御利益信仰にいくがいい。私のやっているのは御利益を与
えることだけが本筋でなくて、本心の開発、自分の魂が本当に神様と一つになって何の不
安もない、安心立命の生活がそこに築きあげられるような、そういう導き方をしているわ
けです。それに附属して御利益がどんどん出てくる。自分の満足も出てくる。想いの満足
じゃないんですよ。宗教的法悦というのでも、間違えて、自分の想いが満足したから有難
111祈りの生活に徹しよう
い、嬉しいとやる。想いの満足なんて業想念なんだ。業想念で満足したり嬉しがったり、
悲しがったりするのは駄目なんです。そういう業想念を超えたところに本当の宗教がある
んです。それを私が説いているわけですよ。
宗教というのは、どんなに悲しい想いや、辛い想いがあろうと、その想いのままジーッ
と辛抱して祈りの中に入っていくんです。入ってゆくに従ってズーッと消えてゆくのです。
それが宗教の生活なのです。やはり自分の運命というものは自分が築くのだから、自分が
しっかりしなければ駄目ですね。自分がしっかりして神様の中へ入っていくのです。世界
平和の祈り一念で何があろうと祈るんだ、どんな辛いこと悲しいことがあってもなんでも
祈り祈り祈りつづけなければ駄目ですよ。そうするとパーッと開けます。それ以外に救わ
れる道は絶対にありません。それで救われなかったらもう一遍やり直してくるより仕方が
ないですよね。(昭和37年5月20日のお話)
112
正しい生活をするためには
宗教者に勇気が必要
この現実の日常生活をしておりますと、どうしても嘘を言わなければならないこともあ
るし、上長にこびたり、お世辞をつかったり、あるいは気に染まぬことをしたり、いろい
ろと神様のみ心に叶わないような現われ方の仕事が多いわけです。そうすると、宗教の道
に入るためには、どうしても現実世界の日常生活から離れて、宗教信仰生活だけに入ろう
というような考え方が、昔からあるわけです。昔は出家してお寺に入って、坊さんになっ
て暮したわけなんですね。ところが現代社会におきましては、そういう生活はだんだんな
113正しい生活をするためには
くなってきているわけです。
お坊さんばかりが増えたら、この世界に農業をやる人もなくなれば、工業に従事する人
もなくなれば、事務をとる人も、商売する人もなくなってしまいます。従って国が滅びて
しまうわけです。だから宗教信仰だけの生活ということは出来難いわけです。それで神の
み心に叶った正しい生活をするためには、やっぱり日常生活の当たり前の社会生活をしな
がら、神様のみ心と一つになってゆくということになるのです。
宗教一本で進むという特別の天命を持った人もたくさんいるわけですが、そういう人は、
社会生活の中で働いているうちに、知らないうちに宗教生活一本になってゆく、というこ
とになっているのです。
現実生活から逃避することはいけません。どんな事情があっても、いわゆる社会の一員
じねんほうに
として生活しながら、それで自然法爾に宗教一本になってゆくなら、それがいいと思うん
です。
よく遠方から”私は宗教生活がしたい。だから先生のところに置いてくれませんか
” と
114
手紙がくるんですね。それは駄目なんです。現実生活の嘘もいわなければならない、方便
もきかせなければならない種々な立場の中にいながらも、その立場を超えて、いやな世界
の中に飲み込まれないで、汚れないで、超越してゆくということが、大変大きな修行で
す。
昔のようにお寺に入ったり、教団の中に入って、それだけでやってゆくような生活とい
うのは、その人を立派にしません。かえってマイナスが多いです。
えど
稼土(汚れた世界) から逃れたいといって、自分だけ逃れたって善いようなものではな
いんですよ。やっぱり汚れた社会の中にいて、その社会、世界を自分達の行ないによって、
だんだん正しい清らかなものにしていく、という勇気がこれからの宗教者は必要なわけで
す。
幸福生活の秘訣
人間はとかく自分で、自分はこういうふうにやってゆくんだ、というように枠を作り、
115正しい生活をするためには
そして一応生きてゆくのだけれども、実はその通りに殆どならないんですね。
若い時、私も音楽家か小説家かどっちかになりたいと思って、文学の勉強をしたり、音
楽の勉強をしたりしていた。本当のステージ歌手なら歌手として立とうとすると、度胸が
いいのに、詞を忘れたり、曲がわからなくなったりしてしまって、試験に失敗してしまう
んです。それで歌を教える指導の方に入ったのですが、それが人々の心の動きを知る上に
もよかったし、いろいろなことを覚えてよかったのです。それが今、役立ってますね。お
浄めに(笑) 歌を唱っているでしょ。
声楽の発声法を勉強しましたから、発音の仕方がわかるから、話をするにもよくひびき
ますね。お浄めをしていても、光が流れてきてもやっぱり声がきれいなほうが気持ちがい
い。それで何のために声楽を勉強させたかというと、今思えばそういうわけなんです。だ
からやったことは無駄にはなりませんでした。しかし専門家として立たなかった。そうい
うものなのですよ。
音楽家の才能がないのに、好きだから音楽家になろうと思って音楽学校に入ろうとする116
人がいます。自分では善いと思っていてわからないんです。それでもやりたい。自分にそ
ういう天命がないのに、その道を通そうとすると、苦労に苦労を重ねて終生あせりとか劣
等感とか卑下感に悩まされ、不遇の地位に置かれるわけです。そこで一番いいことは、守
護霊守護神にまかせることです。
いつでも守護霊守護神が守っているんだ、守護霊はもうすぐ側についていて、守護神が
その上にいて、いつも一直線に大神様につながっているんだから、守護霊守護神のみ心の
ままに、ありがとうございますというように、守護霊守護神への感謝の心で生活していけ
ば、必ずその人はよくなるに決まっている、とこういうふうに教えるわけなんです。
守護霊さん守護神さんお願い致します。私共の天命が完うされますように、という気持
ちで、心のおもむくままにやることです。それでやりたいと思ったことをやってみる。と
ころが守護霊がそれじゃないという場合には、止めさせます。そして違う方向へ導く。例
えばある先生につこうと思って行こうとする途中、誰かに会って、こちらの先生へ行きな
さいとすすめられたので、こちらの先生へ行った。するとそっちの先生がよかった。とい
117正しい生活をするためには
うように、知らないうちに守護霊守護神が導いてくれるんですよ。
いつも神様と二人つれ
弘法大師も、同行二人といっていますね。人間は一人で生きているのではない、いつも
二人つれなんだ、二人つれというのは神様と一緒という意味ですね。神様と一緒に歩いて
いるのだから、自分の我の想いでとやかく悲しんだって駄目なんだよ。神のみ心のままに、
神様に全託した境地から歩いていけばいいんだ、ということになるんですよ。それをこの
小さな我の想いで自分をはかって、自分はこういう者だから、こういう才能があるから、
とか想うんだけれども、その才能は本当は自分の才能ではなかった、ということが随分あ
るわけです。もっと違うものがあるわけなんです。
だから子供さんを見ていてもわかります。いろんな才能が中に入っているけれども、遅
くなって現われる人と、早く現われる人とあるんです。それで早く現われた才能が本当かっ
ていうと、そうじゃない。例えば音楽なら音楽の才能があるように見えた。が中には絵を
118
画く才能の方が深くあったけれど、底に潜んでいるわけなのです。そうすると音楽だけが
出てくるわけね。うちの子は音楽がうまいからってやらせようとする。私が見ると、その
子は音楽よりも絵を画く方がずーっといいんだがな、と思います。それで絵を画く方がい
いでしょ、とすすめるわけです。私のような人にきけば、教えてくれますけれど、そうで
ない場合がある。
人間の目で見ることと、神様の目で見ていることとは大部違うんです。どっちが正しい
かということは、言わずと知れたこと、神様の目の方が正しいに決まっている。
宇宙神が救ってくれるのではない
大神様(宇宙神) というのは一つです。唯一絶対だから大生命でしょ。宇宙のすべての
力です。その力がすべてに働いているけれども、細かい指図、指導というのは宇宙神その
ままがやるわけじゃなく、宇宙神としては生命として分生命としてここに来ているわけで
すよ。人間各自各自が自分の天命をもって生まれてきていて、その天命を果たすために、
119正しい生活をするためには
宇宙神より生命を自分にまかせられているわけです。だから自分がやらなければ駄目です。
自分のことは自分でやらなければならないし、自分のやったことは全部自分が責任を負
わなければならないような立場に置かれているわけです。それが自由主義というのですね。
大神様がいちいち、お前こうしろ、ああしろと指図するわけではない。大神様はエネルギー
の源泉、大生命だから、生命を分け与えたわけです。人間は分けられた生命をもって、生
命の力いわゆる資本力、能力をもって、いろいろとやっていくわけなんです。
ところが今、きれいな生命がそのまま流れていれば、大神様のみ心のままにいくわけな
んですが、過去世に何遍も生まれ更わって、長い生涯、何千年何万年何億年という分け生
命としての流れがあるわけなんです。その中で輪廻転生して悪いこともし、善いこともし、
いろんな経験を積んできて、そして今日に至っているのです。だから誰も彼もきれいな生
命そのままではないわけです。癖がついているわけです。それでその癖のままにどうして
も動いていくわけなのです。だから正しい道にいくためには、過去世から今までつけてい
た悪い癖、習慣(これを業という) をなくさないと、神様のみ心を本当に現わすわけには120
いかないのです。
そこで救世の使者として、守護霊(祖先の悟った霊) がついている。その上に直霊(神
様) の分かれた守護神がついていて、それが何段階にもなって守っているわけです。そし
りつしろ
ていちいち後から、こうやったほうが善い、こう言ったほうが良い、と教えるわけなんで
す。素直な人はそのままスーッスーッと動けるのですよ。しかし素直でない業因縁を持っ
ている人があるんです。これは習慣の想いの蓄積の相違なのです。
素直な人は神様のみ心にすぐ入れるわけです。そしてスーッと運命が変わっていくわけ
です。素直でない人は強情で、自分の力でやりますけれど、自分の力が尽きてしまう時が
ある。そういう時にひどい目にあうわけなのです。ところがひどい目にあうまではわから
ないわけなんです。
私達のしている世界平和の祈りというのは、素直に神様の中に入らない人までも救わな
ければ駄目だ、神様の光の中に導き入れなければ駄目だ、と思っているわけなのです。皆
さんが世界平和の祈りを致しますと、その光が素直でない人のほうまでも入ってゆくわけ
121正しい生活をするたあには
なのです。素直でない業が、祈りの光明でだんだん消えていって、知らないうちに素直に
なってくるということなのです。
122
守護の神霊が助けてくれる
今までの宗教というのは、自分の神性が発揮されますように、本心が開発されるように、
と大体自分が主体なんです。だから光が遠くまで及ぼされない。個人個人になっちゃって
いるわけなんです。ところが世界平和の祈りというのは、個人個人ではなくて、全部が一
丸になって大きな光、救世の大光明とつながり、横に肉体を通り幽体を通って広がって、
世界人類にズーッと光明が流れてゆくわけなのです。信じようと信じまいとそんなことに
関係なく、光が流れてゆく。深く信じる人の方が早く本心を開発するけれど、信じない人
のところにも、太陽が万物を万べんなく照らすように、救世の光明がいくわけなんです。
そういうのが平和の祈りなんです。
その元は何かというと、やっぱり守護霊守護神への感謝なのです。守護霊さん有難うご
ざいます、守護神さん有難うございます、いつも守っていて下さって有難うございます、
という感謝の中から、救世の大光明の中にみんなが入ってきたわけなんですよ。だから私
は、いつも守護霊守護神への感謝を忘れてはいけない、と言うのです。
大神様がすぐ助けてくれるわけじゃないんです。大神様が助けてくれるような気がして
いますと、非常に間違ってくる。神様は全智全能で完全円満なのに、どうしてこんな悪や
不幸に満ちているような世の中を創ったんだ、どうしてこんな悪い人間を創ったんだ。こ
の世を神様が創ったというのなら、スーッと直したらよいじゃないか、とこういう文句が
出るんですよ。これは誰でも考えますよね。キリスト教ではこれが盲点ですよ。もっとも
そのためにイエスがいて、身代わりになり、お前さん達の罪は消えているんだ、とこうい
うことになるんですね。だからイエスの御名さえ言えばいいんだということになるけれど
も、イエスさんのことを思えない人も随分あるわけですよ。またお釈迦様を思え、と言っ
ても思えない人もあるわけです。その人の因縁によってお釈迦様、と思ったり、イエス様、
と思ったり、あるいは思わない人もあるわけです。そうすると思わない人は救われない、
123正しい生活をするためには
ということになっちゃうんですね。思わない人のほうが多いかも知れない。ということは
救われない方が多いということだから、やがて人類は滅亡してしまうでしょ。そこでそう
いう考え方では駄目だと思うのです。
イエスさんを思わなければ救われない、お釈迦様を思わなければ救われない、というよ
うな考え方ではなくて、誰も彼もが救われるという考え方。どうしたらいいかというと、
業というもの、悪い習慣の想いを取ることが必要なわけですよ。取るのは誰がするかとい
うと、大神様がやるのでもなければ、イエスさん一人でやるものでもなければ、お釈迦様
一人でやるんでもない。皆さん一人ずつを守っている守護霊守護神が全部集まってそして
大光明になった、いわゆる救世の大光明が人類を救うのです。この大光明の中には、イエ
スさんもいればお釈迦様もいれば、老子も来ていれば、聖者は誰でも来ている。そういう
光が流れていくのだから、信じようと信じまいと、やがては皆信じなければいられないよ
うな奇蹟になって、現われてくるわけです。
そこで悪い人間は消えてゆく姿だ、と私が言うのはどういうことかというと、自分自身124
神様から自由な生き方を許されている。自由にお前達が生きなさい、と大神様から生命を
もらったわけ。例えば親が資本家で子供がたくさんいたとする。子供にみんな資本を分け
て、サアどんな店でも勝手におやりなさい、と親元から出されたわけです。一生懸命やっ
て金持ちになる人もあれば、貧乏して脱落してしまう人もあるわけです。それは自分の自
由でしょ。それと同じように、この地球人類にも自由に使いなさい、と力を与えられてい
る。自由に使ったのだけれど、大半がうまくいかないできたわけですね。うまくいってい
ぜんこう
る面もあるし、うまくいかない面もあるわけです。善業も積んだけれども、悪業も積んだ
わけ。その悪業を浄めてくれるのは誰かというと、守護霊守護神なのです。
大神様は全智全能だから、はじめからそうなることはわかっています。そこで直霊から
守護神が分かれ、その守護神によって浄められた分霊が守護霊となり、守護霊守護神と協
力して、分生命、子孫を守り、子孫の業を消していっているわけです。人類を救うのは守
護霊守護神、救世の大光明なんですよ。生命の源は大神様宇宙神の流れとして来ている。
二段構えでないと、この説明はつかないんです。それだから分霊の自分と守護霊と守護神
125正しい生活をするためには
と直霊の四つが一つになって、初めてまともな神の子の自分が出来上がるんだよ、と説い
ているのです。
そこで、今現われてきている悪も不幸も、病気も災難も、それは過去世でもって神様か
ら離れた想いが現われて、消えてゆく姿なので、その業さえつかんでいなければ、自分は
大神様の中に入ってしまうのだよ、というわけですね。間違った軌道を走っているのを、
守護霊守護神によって直してもらって、大神様の中に入れてもらうわけですよ。それで守
護霊さん守護神さん有難うございます、世界人類が平和でありますように、という祈り言
になっている。その祈り言の中に入ってゆくと、知らない間に輪廻転生する業から脱け出
してしまって、苦楽混合の三界を超えて、神のみ心の中に入ってしまう。そうすると自由
自在になってくるわけなのです。そういう教え方が私の教えなのです。
(昭和37年5月10日のお話)
126
想いはいつも浄らかに
記憶は想いの波の蓄積
人間というものはどうして生きているか。肉体が食べたいと思って食べ、動きたいと思っ
て動いているわけですね。ところが動きたいという想いはどこから出てくるか。ああして
やりたい、こうしてやりたい、ああしたいこうしたいという想いは一体どこにあるのでしょ
うね。昨年の何月誰に会った。一昨年誰に会ってどうした、といういろいろな経験があり
ますが、記憶していることは僅かです。
皆さん、去年一年のことを振り返ってごらんなさい。憶えていることがどれだけありま
127想いはいっも浄らかに
すか。去年の一月一日何をしたでしょう。二日に何をして三日に何をしたでしょう。日記
を書いている人は別として、大体忘れてしまっているんじゃないですか。わずか大きな出
来事、心に刺激のあった出来事だけ憶えている。そうするとあとの憶えていないのは一体
どこにいるのでしょ。面白いですね。どこにあるかわからない。昨年の出来事はどんなに
なってしまったのでしょう。
とにかく三十の人だったら、三十年間のこまかい出来事があるわけでしょ。一体どこに
あるのでしょうね。それでいてヒヨッと思い出すんですね。十五年前に会った人がある。
全然忘れている。その人に会うと「今日は、どこかで会ったことがありますね。どなたで
しょ」「ソレソレあの時の、中学の時のボクだよ」すると「アアあんたか」ということになっ
て、だんだん思い出すでしょ。その想いというのはどこにしまってあったのでしょう。
想いというのは肉体の物質の中に入っているわけではない。想いというのは何かという
と、波なんですよ。波が記録されているのです。今この話が録音されていますね。音波が
うつってゆくわけですね。波動をキャッチしているわけです。それと同じように、肉体の
128
他に幽体というものがあって、そこにみんな蓄積されているのです。生まれた時の波から
今までズーッと一切。あるいは生まれた時以前、お腹にいる時から、お腹に入る前、幽界
霊界にいる時、前の世のこと、みんな記録されて波となって溜っているわけです。だから
五十才の人がいますと、五十年間のあらゆる事柄、一挙手一投足までもれなく全部記録さ
れて波となって、自分の体の中にあるんですよ。体というのは幽体ですね。肉体と同じ組
織になって幽体というものがある。その波の中に蓄積されているわけです。そしてある人
に会うと、グルグル廻っているものが、ああ誰だったかな、という時にズーッと底からひ
き出されてくる。何年前の想いがひき出されてくる。そしてあの人だったと思うわけです
よ。それは幽体の波の中に記録されているわけなのですね。それが今生だけでなくて、
前の世も前の世も、その前の世も、生命が分霊として地球界に出て来た初めからズーッと
記録されている。それが今現われてくるわけです。
129想いはいっも浄らかに
消えてゆく真理の使い方
だから今行なっている行ないというものは、今行なっているように見えるけれども、実
は前の世からのズーッとの想いが、現われて消えてゆく姿だと説くのです。
例えば短気なら短気の波をもった人があるとする。それがカーッと出ちゃうでしょ。バ
ンとなぐっちゃう。すると前に溜ったものが一つ消えたわけですが、それだけで全部消え
たというわけじゃないんですよ、消えてゆこうとして現われたのです。ところが普通は消
えてゆこうとして、現われた波を掴まえちゃって、しまったと思うかも知れない。なんと
かごまかすかも知れない。エエイ、こんなの俺の性質だ、とごまかしちゃうかも知れない。
すると、そのごまかした想いがまたまわって幽体に入ってくる。消えたのではなくて、ま
た元に戻って幽体に入る。自分で消さないのだから、俺の性質だからしかたがない、と自
分で認めてしまうんだからね。
逆に、ああしまった、私はこんなことをしちゃって、どうしてあんな心を出すんだろう、130
私は駄目だ、なんて私は悪いんだろうと嘆く。嘆くと、私はどうしてこういう想いを出す
んだろう、という想いをまた掴んでしまうわけでしょ。短気なら短気、嫉妬なら嫉妬、恐
怖とか不安の想いとかを欄んでしまう。折角消えようとするのに、掴んでまた、私はこう
いうもんだ、と録音しちゃうわけ。折角一つの想いが押し出されて消えたんだけれども、
つまり縁にふれて消えたんだけれども、また新しいものを同じ量だけ加えてしまうのです
よ。
そうすると輪廻転生で、幽界の波の中をグルグル廻っていて、いつまでたっても悟れな
いわけなのです。そこで聖者賢者が出て、助けていたわけです。あるいは自分としては守
護霊守護神がいて、守護霊守護神がたまった業を、夢などで一生懸命出して消してくれる。
だから録音されたものがそのまま録音されているわけじゃなくて、守護霊守護神が消して
はくれています。けれど自分自身としては何も消していない。
そこで仏の教えというのは、〜現われて来たものはすべて過去世のものが消えてゆくのだ
から、善いにつけ悪いにつけ、ああ消えてゆく姿だと思って、それを世界平和の祈りの中
131想いはいつも浄らかに
に入れてしまいなさい、神様のみ心の中に祈り言を通して入れちゃいなさいというわけで
す。入れますと、それだけ減ったわけですよ。怒りなら怒りの想いを、ああ消えてゆく姿
だな、と世界平和の祈りの中に入れちゃうと、その想いは消えるわけですよ。妬みでも恨
みでもどんな想いでもどんどん消えてゆく。
だから現われてくる想いや事柄を、消えてゆく姿としてどんどん世界平和の祈りの中に
入れていますと、悪いものは消える。いいものは改めて増加して光になって還ってくるわ
けです。だからいいも悪いも消えてゆく姿で世界平和の祈りの中に入れていると、悪いも
のはどんどん消えてゆくし、いいものは倍加して幽体の中に入ってゆく。すると幽体がし
まいに光に満ちて、平和の心に満ちて来て、神のみ心で一杯になるわけです。幽体の波が
スッカリ浄まった波になる。その浄まった波というのは神様の波と同じだから、肉体をもっ
たままこの世で生活しながら、仏様のような菩薩様のような、いい人になるのです。そう
いうことを皆がやれば、自ずから世界は平和になるのだよ、と教えているわけです。その
祈り言というのは”世界人類が平和でありますように” という大きな広い心、人類愛の想132
いです。だから自分の我の想いが、世界人類が平和でありますように、という大光明に変
わ.て、小さな自分がいつの間にか大きな大きな自分に変わ.てくるので蔦レ
例えば八十のおばあさんがいるとします。大抵の場合は、八十というと働いていないわ
けですね。うちではお嫁さんをいじめているのが関の山なんだ。おばあさんには悪いけれ
ど(笑) 失礼ですが、男の人は年を取ってくるとだんだん立派になる場合が多いのです。
それは社会でもまれて、いろんな勉強をしなければならないでしょ。二十の青年よりも、
四十五十六十になるとだんだん立派になり、貫録がついて磨きがかかってくる。顔なども
年とってから立派になる人が随分ある。
肉体的醜さをカバーするものは
女の人は、うちの人は違います、別ですよ(爆笑) 大体において、おばあさんになって

くると、だんだんいやらしくなってくる。十九、二十の若い花も董じらう乙女は、見てい
ても気持ちがよい。美人であってもなくても、花の盛りを見るような気がする。三十にな
133想いはいつも浄らかに
り四十五十六十になってきて、只生活にあくせくしている人は、だんだん色も黒くなり、
搬はふえてくる(笑) しみは出来てき、髪は薄くなり、何だか知らないけれど、渋皮みた
いになってくるのですよ(笑) 梅干ババア、提灯ババアというのがあるでしょ(爆笑) ど
うして提灯ババアというかと思ったら、搬が横に出来るから(大笑) だんだん醜くなるの
です。これは本当の話ですよ。私、正直なもんですからね(笑)。
その醜さをカバーするのは何かというと、心の美しさなのですよ。年をとって、精神修
養をしない人は顔がだんだん醜くなります。ところが精神修養をし、神様のことを想い、
人の幸せを想い、いつも人のためを想ったりしていると、雛なら搬一本が光ってくるので
すよ(笑) 皆さんの搬なんか光っているんですよ(笑)話はなかなかうまいやね(大笑)。
魂の輝きが自然に顔や姿に現われてくるのです。そうすると同じ搬がよっていても、顔
が渋茶色になっても(笑) その渋茶色の中から光が出てくるのですよ。渋茶色なりに光明
燦然としてくるのです(笑)。
鼻が低いとか丸いとか、眼が細いとか口が大きいとか、そんな顔の造作ではなくて、中
134
から溢れてくる、というものが自ずから出てくるのです。だからよく見ると頂けない顔だ
けど、なんともいえない善い顔の人がいますよ。魅力のある感じのいい人だなあ、という
人がいますね。そういうように中から出てくる雰囲気で年をカバーしなければ駄目ですよ。
ですから中味が立派な人は、見ていてとても感じがいいのです。
東大の教授で末広厳太郎という人がいました。中央労働委員会の会長でしたが、五尺に
満たない小男で、悪口を言っているんじゃないですよ、顔も猿のようなのです。しかし内
容があるでしょ。学問知識もある、人格も立派です。だから徳田球一など共産党の猛者連
中の体の大きいのを相手にして、やり合うのだけれども、厳として犯しがたい素晴らしい
迫力があって、立派な感じがするんです。昔総理大臣だった、犬養毅という人はやっぱり
小さい人だけども、なんともいえない立派な顔をしています。それは内容なんです。
そういうようにだんだん内容が出てくると、この顔や姿が立派になるんですよ。だから
内容が一番大事です。そこで年寄りが今更数学や英語や学問を勉強しても間に合わない。
一番内容をつくる早道はやっぱり祈りです。神様のみ心の中に入って、すべてを神様にお
135想いはいっも浄らかに
委せして、神様の光で自分の体を年中洗っている、という生き方をすることが、一番内容
を光らせる大事なことだと思うんです。”神様、有難うございます。世界人類が平和であ
りますように” と祈っていれば、知らないうちに光で洗濯されているんですから、立派に
なってくるでしょう。だから祈りは大事だというのです。
要するに、自分の中の波動を変えればいい。想いの波が変わって光になっていけば、自
分が立派になるわけです。
この世は浄い波と汚れた波の混交
この世の中はすべて波動です。今、宇宙人と交流して、宇宙子科学を勉強していますが、
すべてが波動である、ということが実によくわかる。村田さんや尚悦子さんが交流して一
生懸命、宇宙子科学の根本原理を図面に画いたり計算などして書いています。それがみな
波動なのです。こういう波動がこうなる、こういう波動が三角になる、円になる、という
ように科学的に数学的に宇宙の波動をこの地球界に現わす原理を教わっている。136
円盤は実際に存在します。その空飛ぶ円盤が、この地球界にうつってくるにはどうした
らいいか。こういう波になって、こういう波を伝わって出てくるんだ、という根本原理を
書いているんです。それをこちらが会得して、物なら物で機械を組み立てて波動を合わせ
ると、そこに円盤が現われて来るというふうになるわけなのです。つまり波動を誘導すれ
ばここに現われるんです。宇宙人が現われるのもそうなんですよ。波動の問題なのです。
宇宙人の波動に合わせるように、この雰囲気を作れば、そこに現われるわけ。
この聖ケ丘というのはどういうところかというと、ここは光の波動で大調和しているの
です。光の柱が金星までつづいているのですよ。ここなら円盤でもなんでもそのまま邪魔
物がないから楽に出る。波動を選ばなくてもそのままうつってこられるのです。宇宙人も
サーッと現われられるのです。そういう状態に今なっているわけです。
何故か、ここへは世界平和の祈りだけで皆さん来ています。個人指導と違って統一する
つもりで来ているわけです。だからここは浄まり切っている、こんなきれいなところはな
いんです。聖地、本当に聖ケ丘なんです。だから宇宙人は時期さえくれば、ここに現われ
137想いはいっも浄らかに
る、というんです。これはハッキリしたことなのです。
この地球世界は、光の波動もあれば、あのヤロウこのヤロウ、あいつをやっつけよう、
アメリカをやっつけよう、ソビエトをやっつけよう、中共がなんだ、というような想いの
波動が一杯ある。戦いの波動が一杯あるでしょう。汚れた我欲の想いの波動で満ちみちて
いる、交差しているんです。それを私達の世界平和の祈りが(祈り心は光の波動ですから)
光の波動で汚れた波を浄めているわけです。
統一は光の波に合わせること
統一の時、皆さんは目をつぶっているからわからないけれど、私が手をいろいろに振っ
たり、口笛を吹いたり、声を出したりしているでしょ。あれはみんな光を出しているんで
す。いろんな波動に変化させているんです。印を組んだりしますね。光の波動を出して宇
宙へ送っているわけです。例えばここに一人の人がいる。その人の体というものには、あ
る拠点がある。神界があるんです。要するにその個人の生命波動が流れてきている所があ138
る。それを本心の座、本住の地というんです。そこから流れて来て、ここにうつっている
わけです。真っ直ぐに流れてくれば、皆仏様のようになってしまうんだけれども、光の波
を横の過去世の想い、あるいは先祖などの想いで汚しちゃうわけです。汚した所へ、また
人類の悪い波が来て汚す。だから光と汚れた波とが混合して、ここに出てきているわけな
んです。
そうすると、私がこちらから口笛を吹いたりしていろんな波に光を送り、汚れた波を掃
除しているわけですね。皆さん一人一人を掃除している。するとだんだんきれいになって、
神界の光だけがそこに現われてくるわけです。自分がいつの間にか愛深い人になり、優し
い人になり、立派な人になっていくのです。だから皆さんがこう座って、世界人類が平和
でありますように、と祈っていると、神様の方から光を送ってみんなをきれいに浄めてい
るわけです。
だからここに来て座っていることは、どれだけ得するかわからない。何百万何億万円と
いう金銭に替えられない程、得なのです。ところがここに座っているのはただでしょ。電
139想いはいつも浄らかに
車賃だけですものね。私はお金をとることは嫌いで、出すことは好きなんですよ。だから
リーフレットでも無料で配っているでしょ。ここに座っていることは金銭にかえられない。
こう
知らないうちに何百年分の業が浄まっていくのです。それがあとでわかります。
世界平和が出来る時に、自分達は浄まってよかったなあ、ということがよくわかる。宇
宙人や円盤が現われた場合に、ああ浄まっていてよかったなあ、この仲間になれてよかっ
たなあ、ということがハッキリわかる時がくるんですよ。
宇宙人の世界は波動がとてもきびしい。一つの汚れがあっても交流は出来ません。肉体
にまつわるいろんな想いは駄目だ、というのです。それをなくさなければ宇宙人と交流出
来ない。とってもやかましいんですよ。波動を汚すと一遍に叱られます。そばにいる人達
は年中です。それほど波動、想いの波が大事なのです。
平和の心境が世界平和をもたらす
どうしたらよいかというと、やっぱりいつもいつも平和の祈りの中に入れていけば良い140
のです。歩いていても平和の祈り。御飯を食べていても平和の祈り。わざわざ”世界人類
が… … …” と食べなくてもいいんです。平和の祈りの想いで食べそして歩く。例えば気持
ちがクシャクシャとしてきたら、平和の祈りを唱えればいい。ふだんは平和のお祈りをし
ているか、守護霊さん守護神さん有難うございます、と感謝しているか、有難うございま
すだけでもいいんです。そういう平和な心境でいつもいられるようにしなきゃいけないわ
けですよ。
平和な心境が平和を創る一番最大事なんです。自分の平和な心というのが、世界平和を
もたらす一番のもとなんですよ。自分の心が平和でなくて、世界平和は出来ません。とこ
ろが普通の場合は平和でないことが多いわけです。家へ帰ればいろんなゴタゴタがあるし、
商売すれば嘘もつかなきゃならないことになるし、いろいろあるわけです。それは過去世
のものがありますし、この地球界の汚れた波があるから、あるのはあるで仕方がない。だ
からそういう想いが出た時、平和の祈りをするんです。
ああこんな想いが出たな、これも平和の祈りの中に入れましょう”世界人類が平和であ
141想いはいっも浄らかに
りますように” と祈って勘弁してもらう。また出たら、また勘弁してもらって平和の祈り
に入れる。失敗してもどんな想いが出てもかまわず平和の祈りをしながら、日常生活を送
ればいいわけです。
それを今までの宗教では、悪い想いを出しちゃった。あるいは失敗をすると、いちいち
自分で何の心のあらわれか、どんな心が現われたんだろう、と面倒くさい。そんなことは
一切いらないから、何か自分の気に染まないことが出たら、平和の祈りを余計にすればい
いわけね。平和の祈りが出来ない場合は、有難うございますでも、五井先生! でもいい。
神様のほうへ想いを向けてしまえばいいわけ。それで年中年中消していると、だんだん完
はじ
全になってくる。初めから完全なんかなりっこないんだからね。元始めは完全なんだけれ
ども、それが汚れているからね。その汚れを全部消すためには、やっぱり平和の祈りをす
るとか、神様のみ心に入るとかしていると、自然に本当のその人の持ち味、天性のいいも
のが出てくるわけですね。
だから波動の調整、想いの波を立派にすることによって、自分の霊性も開発されるし、142
顔や姿も立派になる。
暗い波は必ず消える
かか
ところが一番むずかしいことは、想いが一杯懸っている場合、他人の想いが愚っている
ときもあるし、過去世のものがドーッと急激に出てくる場合もあるんですよ。立派になる
手前に一つの段階を上がる場合に、非常に困難が起こってきたり、いろいろな嫌な想いが
出たり、悪いことが出てくるんですよ。今までいい心境だったのに、どうしてこんな、と
思う位に悪いものが出てくる。その時が一番大事なんです。その時は一歩ものすごく上が
る時なんです。躍進の時なんです。その時に一生懸命やるんです。平和の祈りが出来なかっ
たら守護神さん守護神さん守護神さんって呼んでもいいんです。守護霊さん! と一生懸
命感謝してもいいです。五井先生五井先生! と呼んでもいいんです。想いを神様のほう
へ神様のほうへ向けるんですよ。
守護霊、守護神の守り方のすごさってないですよ。年中年中守っているんです。どうし
143想いはいっも浄らかに
たらこの魂の子を一番立派に出来るだろうか、と守りきりに守っている。
それなのに肉体側のほうは知らないんですよ。だからこっちで(肉体側)守護霊さんあり
がとう、守護神さんありがとう、と年中交流していれば、いつでもどんなに暗い波があっ
ても、守護霊守護神を呼びつづけていれば、必ずこの波はなくなります。業があって駄目
だっていう人はないんですよ。どんな業だって守護霊守護神を呼びつづけていれば、必ず
一つにつながります。心がパ1 ッと開ける時がくる。だからいつも守護霊守護神に感謝し
なさい、と私の教えの発祥の時からそう説いているわけです。
守護霊、守護神への感謝と、今はそれにつけ加えて世界平和の祈りをしているわけです。
だから世界人類が平和でありますように、と願いながら守護霊守護神への感謝をいつもつ
づけていますと、自分の想いの波がいつの間にか立派な波になってくるんですよ。それを
私が常に常に説いているんです。だから心の波が大事なんです。想いの波が大事だという
ことを、しっかり胸に秘めて、想いの波をいつも浄らかに浄らかにしてゆくことが大事で
す。それには祈りが大事だということなのです。(昭和37年6月25日のお話) 144
神様のこと
守護霊守護神と大神様の関係
本心と守護神、守護霊と大神様というお話をしようと思います。
肉体の人間というのは波動が粗くて、微妙な波動を感じ難いものなのです。例えば此処
にいて、遠くのアメリカならアメリカに知り合いがいるとする。するとその人はどういう
ことを思っているか、ということは少しもわからない。離れていればどうこう心配になる
わけですね。ところが私達になりますと、心の眼で見れば、ああ、あの人は心配ないとす
ぐわかります。だから別にどうこう思わなくても済んでしまう。それは何かというと、私
145神様のこと
達は微妙な波を持っているから、どんな微妙な耳に聞えない、目に見えないものでもパッ
と感じてわかる。
普通の場合、肉体感覚の五感というのは、目に見えない耳に聞えない手にふれなかった
ら、全然わからないんですよ。それでどうしたろうこうしたろうと思うのが肉体人間でしょ。
そうするとその五感の世界の運命というのは一寸もわからないわけ。それをわからせてく
れるために、肉体の方にわからなくても、目に見えない耳に聞えない手にふれない世界の、
いろいろな想いの波をうまく処理してくれて、肉体生活を維持してくれているのが、守護
霊守護神なのですよ。
守護霊というのはいつも言うように、祖先の悟った魂、守護神というのは、肉体界に生
まれないではじめから守護神として直霊から分かれているのです。守護霊がだんだん魂の
子供肉体人間を救っているうちに、いろいろ人に尽くして人を救っていると、守護霊の格
も上がりまして、古い守護霊から守護神に昇格してゆくことも随分あるのです。守護神の
中でも肉体界に生まれて守護神になっている霊が随分今頃出ています。世界平和の祈りの
146
会員の中には、今まで守護霊だったのが守護神になったのが随分あるのです。どんどん守
護神になってゆく。そういうわけで守護霊守護神が守っているわけです。そうなると大神
様との関係はどうなるか、というと、
普通の場合、人間の一人の個人について守っているのは、守護霊が一体、守護神が一体
ついているわけですね。それに副守護霊といって、祖先の人や関係のある人が、仕事の面
を受け持ってついている。大体四体ついて守っているのです。個人専属の守護霊守護神が
いるわけです。そして人類を救済しようという守護神がいるのですが、それが集まって救
世の大光明になっているわけです。
そこで守護霊守護神がいろいろ守っているけれども、守りきれない波がかかってくる場
合もあるんです。肉体の方が前生からいろんな悪いことをしたりして業を積んだとします
ね。あんまり積みすぎると守護霊守霊神がいくら光を送っても光が入らないんですよ。守
護霊がお前こっちへ来い、と言ったって逆のほうへ行っちゃって、どうやっても駄目な場
合がある。それで分霊の方に苦労させたり、病気にさせたりして、だんだん業を消してゆ
147神様のこと
くわけなのです。ところが幸いにして、守護霊守護神が光を送って動かせる場合があるん
ですよ。そういう人達が本当の宗教に入ってくる。
誰でも業のない人はありません。けれども守護霊守護神の光がまだ肉体に通ってくるわ
けです。通ってくるために動かされて、五井先生、というのがいるな、世界平和の祈りは
いいな、行って見たいな、というように来る。あるいは誰かに誘われて何だかわからなく
て来てみる。あるいは病気だから来て入る。あるいは貧乏だから来てみる、というように
理由の如何を問わず引っぱられて来るわけなんですよ。
皆さんは直接世界平和という大神のみ心を宣言したところへ来ているわけです。世界平
和の祈りをすれば、直接世界人類を救っていると同じような効果を上げている菩薩行をし
ているという所へ皆さんは知らないうちに導かれている。それは守護霊守護神と自分の間
の距離が近いのです。要するに業が割合少ないという意味ですね。割合ですよ。なかなか
どうして業というのは何億年か知らんけども、長い間積っていますから、肉体人間のこち
らの想う通りにはなかなかいかない。守護霊守護神が一生懸命守っているんだけれども、148
想う通りの生き方は出来ないんですよ。けれども何か心の奥では安心しているような、私
は大丈夫なんだな、救われているんだなあ、というような安心した気持ちがあって、それ
がふつふつと湧いてくる。あるいはいつも安心したものが心に湧いている人もある。随分
いるんです。しかし生活に困るとか病人があるとかいうんで、現象面は不安だけれども、
不安の中でも、大丈夫なんだ大丈夫なんだという心が湧いてくる。そういう人もいるでしょ。
ささや
守護霊守護神が大丈夫だぞ、守ってるぞ、というふうに囁くのがわかるわけなんです。そ
れで不安ながらも大丈夫だ、という気がするわけなんです。いろいろ段階はあるけれども、
とにかく不安が消されているのですよ。それは守護霊守護神の守りが強いからなんです。
救世の大光明に加わり守りが強まる
どうして守りが強くなったかというと、肉体人間との間の距離が離れていたのが、やっ
とこさっとこ連れてきて、救世の大光明の団体の中に入ってきた。そうすると救世の大光
明の光がサッと入って、業想念をどんどん消してゆくわけ。自分のほうでは、世界人類が
149神様のこと
平和でありますように、とどんどん上に上がってゆく。大光明が消してゆく、自分が上が
る、とだんだん一体になってゆく。業想念が知らないうちに浄まってゆく。そうするとま
すます、守護霊守護神が守りやすくなってくるわけですね。だから言い換えますと、個人
には守護霊守護神がついていて個人を守っているにしても、それだけでは守り切れないと
いう時に、救世の大光明にふれてくるわけです。そうすると救世の大光明の人類を救う光
が、守護神と一体となってその業を消してゆくのですよ。その間に病気も出るでしょう。
貧乏も出るかも知れない。しかし平安な気持ちがここに湧いてくるわけです。しまいに業
を消しとげてしまえば、神我一体のような、なんの不安もない安心立命した生活がそこに
出てくるのです。
すき
守護霊守護神は本当に一瞬の隙もなく守っているんですよ。
こういうこともよくあるんですよ。ある人は自分の家で働いている。業が一杯出てきて
苦しいが、なんとかして私のところに来ようと思って来る。苦しいんだけれども我慢して
来る。本部道場のそばまで来るとどうにもならなくなって、バタンと倒れてしまう。それ
150
で私のところにくるとお浄めして治る。そういうことをまた何遍も繰り返して何年もかかっ
てスッカリ治ったような人も随分ありますよね。
それはどういうのかというと、守護霊守護神が守っているけれども限度がある。守護霊
おお
が汚れてきちゃう、守護神が汚れてきちゃって、光が業想念に蔽われきってしまう。もう
どうにもならない。これじゃ共倒れになって死んでしまう。だからもう仕方がないから、
やっとこさっとこ道場へ連れてくるわけです。連れてくるのが精一杯で、さっと守護霊守
護神は浄まったところ、もっと光の強いところヘパッと入ってゆくわけ。肉体の私のほう
ヘバトンを渡しちゃうわけ。そうすると私が抱えて大光明を私の体を通して送る。元気に
なってくる。それを何遍も繰り返していくうちに、業がだんだん薄くなって今度は一人立
ちが出来る、というようになるんですよ。
守護霊守護神というものはこのように直接守っているもんです。
守護霊守護神を説いていないところは、神様有難うございます、というように神様にす
がる。神様ってなんだかわけがわからなくて神様にすがっている。なんだか救ってくれる
151神様のこと
バイブレ シヨン
ものは神様だというように思うわけ。ところが実際には大神様は、すごく微妙な波動、
もっとも大きい波動もあるんだけれども、両方兼備えた無限の奥なんです。これは言葉で
は言えないけれども、そういうところにいるものはなかなか波動が合わないんですよ。業
がありすぎるとね。だから守護霊さんといって、一番祖先の身近な悟った人に頼んで、バ
トンタッチで渡してもらわないと、なかなか救われない。それで信仰しても一寸も安心し
ない。いつもあくせくしているような気持ちでいるという人がいますが、それは本当の信
仰ではないからです。本当の信仰に入ると、表面の直り方は徐々だけども、中の心がだん
だん落ち着いて、人柄が変わっていく。光が充満してくるわけですよ。それで私は、いつ
も守護霊さん守護神さんを想いなさい、というのです。
守護霊守護神を想えば、守護霊守護神は自分の手が足りなくなれば、もっと強い光へ送
る、救世の大光明へ送ってくるわけです。それで皆さんのように、ここへ来ているわけな
んですよ。
152
守護神は全能力か
この間、妻がきくのですよ。
「神様というのはオールマイティー、無限の力で全智全能ね。守護霊さん守護神さんと
いうのは無限の力ではないのですか。苦しいと自分で守り切れないで、あなたにすがらな
きゃ直らなかったり、成就しなかったりするでしょ。そうすると守護霊守護神というのは
オールマイティー全能力じゃないのですか」
これは面白い質問なのです。守護霊守護神は全能力じゃない。オールマイティーは宇宙
神だけなのです。宇宙神が全能力、無限の力、無限の愛、無限の智慧なんですよ。しかし
その無限の処には外から直接はつながれないんです。中には大生命よりの分生命分霊とし
てあるけれども、その生命は自分が大生命宇宙神より託されて、宇宙神はつまり間断なく
生命を与えているだけで、その生命を守護霊守護神と三者合体でもって、天命を完うして
ゆくわけなのです。そういうように創られている。だから大神様! と言ったってそれ以
153神様のこと
上はくれないんです。
宇宙神は直接個人に干渉せぬ
宇宙神というのは、地球だけを見ているんじゃなくて、金星も見てれば火星も見てれば、
じか
すべてを見て、すべてのところへ光を送っている。宇宙神が個人個人の願いで個人に直に
出てきたら、それこそ光が強すぎて死んじゃいます。宇宙神の大神様は肉体の生命なんて
問題じゃない。生命そのものが問題なのです。生命をよく生かすことです。生命をよく生
かさなければ、肉体なんかなくなっちゃったほうがいいくらいでしょ。
だから大神様の生命が法則の通りに動いていけば、悪いことをしたものはすぐ死んでし
まう。ちよっとあんな野郎憎らしい奴だ、と思ったらポンと撲ぐられちゃう、というふう
にパッパッと変わってくるわけですよ。幽界や霊界がそうなのです。思ったことがすぐそ
の場で返ってくる「悪いことを思えばバーンと悪いことが、自分の身に振りかかってくる。
そういうように出来ているのです。154
肉体の方は波が粗いところだから、即座には出ないで時間がたって出てくるわけ。後か
ら出てこようとするものを、守護霊守護神が一生懸命浄めて、自分の霊身に振りかえて肉
体の人間を救っているわけなのです。わかりますか。だから守護霊守護神は肉体の人間と
は切っても切れない仲なんです。それで常に守護霊守護神と感謝していなければ、肉体の
人間は損なわけなのです。肉体人間の自分だけでは絶対にやっていけないのです。
普通、大神様が直接個人にタッチすると思っているけれども、大神様がすべての人の言
うことを聞いたとすれば、人間はまだ幼稚で自分勝手のことを言うのですから、この世は
混乱してしまいます。アメリカと日本と戦争をした時には、日本はアメリカイギリスをやっ
つけて下さい。日本を守って下さい、というわけでしょう。アメリカのほうじゃ、また神
様に願って日本をやっつけよう、とお互いが自分側を勝たせようと思って祈った場合、神
様は一体どっちに味方したらいいのかしら。そういうことは出来ない。味方をするのでは
なくて、日本が戦争に負けたことは、日本の業が現われて消えたわけ。現象的にはアメリ
カの方が物量が多かった、科学力が秀れていた。というもので決済がついたわけでしょ。
155神様のこと
大神様の干渉ではないんですよ。自分達の業の関係でもって負けたり勝ったりした。
勝ったアメリカはどうかといったら、今原爆戦争の脅威で一番ふるえています。宗教的
な想いがあるから、播いた種は刈らなければならないと思っているから、やがては自分に
ふりかかってきやしないかと、戦々恐々としてソビエトを敵と視て、あくなき核爆発実験
をやっている。自分で自分を恐怖に落とし入れている。業で苦しんでいるわけ。
ですから病気を直すのでも、貧乏をよくしてくれるのでも、すべて大神様の干渉ではあ
りません。業がきれいになってきて貧乏が直る。あるいは病気が治るということもある。
皆さんは本当の幸せを掴んでいる。永遠の生命を光り輝かしてくれるところに入ってい
る。「その代わりチョコチョコと病気を治さないかも知れない。チョコチョコと金持ちに
してくれないかも知れない。あるいは治すかも知れない。そんなことは問題じゃないので
す。生命を光らせる、魂をきれいにさせて守護霊守護神と一つにさせて、その人の生命の
世界を完全にさせようというのが私達の運動なのです。それでみんな完全になれば、世界
人類が自然に否でも応でも完全になるでしょ。156
だからその一番初めとしては、分霊の自分と肉体の自分と守護霊守護神と、業想念をそ
の間に入れないで、完全に一つにしようと思っている。それで光り輝いたものにしようと
思う運動なんです。そのたあに救世主が先頭に立って、救世の大光明が働いているわけで
す。それでみんなが守護霊守護神と一つになって光り輝けば、世界人類はよくなりますよ。
光り輝いた人の側にいけば、そばに行った人がまた光り輝くんですからね。
大生命の出現
二、三日前霊修行に預かっている尚悦子さんが家へ帰って、家の業をみんな背負ってき
て苦しんだ。あまり苦しむから祈っていた。そうしたら大生命が現われたわけね。神道で
しせいせんてんろうそ
は天之御中主大神、紅卍字では至聖先天老祖というのです。宇宙の中心の神様が現われて
きた。いつもは統一会で光として現われているが、光が形になって現われた。どういう形
で現われたかといいますとね、やっぱりおじいさんなんですね。おじいさんというのはど
ういうことかというと、永遠の生命を現わすわけなのです。老子様でもおじいさんですよ
157神様のこと
ね。その老子様よりももっと永遠の生命に近くて、生命的にとても年寄りなんです。
現われた人はなんと、中国の言葉に白髪三千丈というのがあるでしょ。それが、白髭が
サーと長い長い長い。どこまで行っても見えない。すそがわからない。雲のように棚引い
てダーッと長いのですよ。そういうおじいさんが現われた。うちの妻が一生懸命、かわい
そうだと祈っていた。そうしましたら「みどり(奥様の御名前) の要請によって参ったぞ」
と言って現われて浄めた。それで尚悦ちゃんは大生命からじかに光を貰って直っちゃった。
それはすごい。今でも目に浮ぶ。あごひげが伸びてどこまでも棚引いて雲のよう… … なん
ともいえない深い尊い姿です「われは天之御中主大神、又の名を至聖先天老祖」と言って
現われた。宇宙の中心の指揮者が現われて、光をくれましたけれど、そりゃすごい。その
日からは今度はまともに現われてきているんですよ。
今まで統一会の時だけそういう形ではなく、光そのものとして現われて、みんなに光を
送っているんですよ。みんなはいつでもその光をもらっているわけです。だけど個人に形
のような姿で現われたのは初めてなんです。158
くのつくサつ
老子さんというのはものすごい、といつも私は賞めていますね。永遠の生命だ、空の空
くういのち
のまた空の、と言っているでしょ。霊の年令生命の古さからいけば、金星の長老より古い
し年が多い、永遠の生命の代表者なのですね。しかし、老祖が現われた時は、老子よりも
もっともっと先の、どこまで行ってもどこまで行っても尽きない生命なんですよ。こりゃ
すごいのが現われたなあ、老子よりもっとすごいのは誰かしら、とジーッと見ていたんで
す。そしたら紅卍字でいう至聖先天老祖、神道でいう天之御中主大神だった。形にすれば
白髭が雲のように無限の長さで伸びている。白髪をスーと垂らしている。これは大ロマン
チックですよ。だから詩に書こうと思っているのです。大神様は滅多に現われないけれど、
そういう形で現われるわけですね。
皆さん個人個人を守っているのは、守護霊守護神ですが、守護神が守り切れない時は一
生懸命私を呼ぶわけです。そうするとこちらが助太刀に立つんです。守護神に頼まれた時
はどんな時でも、どんなことをしていても、ハッとそのほうを思わなければならない。だ
から私の頭(肉体の頭ではない)は大変なんです。いつだって寝ていたって光を送って浄
159神様のこと
めています。だから思ったほうがとくですよ。先生お気の毒だから、暑いだろうから、私
一人だけでも呼ばなければお楽だろう、なんて思う人があるけれど、そんな先生じゃない。
この肉体を使っている大神様は無限の光明力だから、先生と呼ぶところにはどこへでも現
われる。だから皆さんが救って下さい、と言っている時は、白髪の長い髭のおじいさんが
現われると思っていればいいですよ。もう少し若いほうがよかったら、こっちを思いなさ
い(爆笑) 若いほうでも年寄りでもどちらでも(笑) やっぱりご老人というのはいいです
よ。年を取ったら有難いと思ったらいい。私も六十ぐらいになって白髪になったら、グーッ
と髭をのばそうと思ってね(笑)誰かに一々磨いてもらって(笑) 腰元なんかつけて、髭
元だね(笑) 老人になって髭を生やしたいのは無理ない。やはり永遠の生命の現われで髭
をのばすのだ、ということがわかりました。
分霊と宇宙神との関係
次に分霊と宇宙神との関係はどうなっているかというと、宇宙の中心者がそのまま働く160
のではなくて、分かれ分かれになって役目として、一つは人類に働く神様、一つは畜類に
働く、一つは山川に、一つは草木に働く、といろいろ分かれるわけです。人類に働くのが
七つの直霊として働いた。これにはみな神様の名があるのですが、面倒くさいから名前を
つけないのです。それで只七つの直霊というのです。七色の光ですね。その中から分霊が
出るわけです。各分霊にいろいろの光がまざっているのだけれども、アならアの光の強い
分霊とイの光の強い分霊、ウの光の強い分霊というわけになるのです。直霊からすぐ出た
分霊は古いわけです。そこから分かれ、またそこから分かれてだんだん新しい分霊になっ
てくるわけですね。それで古い分霊というのは、やっぱりものがわかるわけなんです。永
遠の生命に近いからいろんなことがわかる。皆さんのように平和の祈りがわかるような人
は古い分霊なのです。古い生命の人なのです。そうでないと話がわからないんですよ。
それよりも現世利益ですぐ病気を治してくれたほうがいいとか、理屈などどうでもいい
からチョコチョコと利益を与えてくれたほうがいい、というようになっちゃうのですよ。
皆さんのようにこの暑いのにお山に来るのは、やっぱり古い魂だからです。
161神様のこと
そこで、直霊から分かれた分霊があって、それがまたいろいろに分かれ、七つの光の要
素が少しずつ入って、アならアの光が一番強く入っている人もあれば、イならイの光が一
番強く入っている人もある。そのようにして分かれ分かれてきている。そして一番強い光
を中心にして七つの光が調和していれば、その人は完全になったわけなのです。ところが
完全に調和していないのですね。分霊が出来て、物質波動の中の未開の世界を切り開いて、
神のみ心を現わすために皆さんは来ているのですね。地球界は未開なんですよ。それを切
り開いている最中なのです。だから私がよく言うでしょう。トンネルを堀っているのだ。
そうすればどうしたって泥をかぶる。かぶるために汚ない顔をしている。それを自分では
洗うひまがない。真っ暗闇だから堀るので一生懸命なんですよ。そこで守護霊守護神が一
生懸命洗ってくれているわけです。洗おうとしているのに、肉体人間のほうがチョコチョ
コ動くから洗えないでしょう。だから守護霊さん守護神さん有難うございますと、想いを
向けていると、守護霊守護神が洗いやすくなるのです。それでもなお自分達で洗い切れな
い時は、五井先生! と言って救世の大光明にくれば、大神様が先頭に立って洗ってくれ
162
るわけです。
陣頭指揮に立った宇宙神
分霊というのは、肉体人間の中心ではあるけれど、分霊だけでこの肉体人間が完全にな
るのではなく、守護霊守護神と土ハ同作戦で完全になってゆくのだ、とこういうわけです。
それを助けているのが救世の大光明で、今こそ天之御中主大神又の名至聖先天老祖が先頭
に立って、老子さんもいればキリストさんもいれば、お釈迦様もいれば、金星の長老もい
れば、弥勒さんもいればみんな集まったものが働いているのです。宇宙の中心の神様が来
ているのだから、すべてはその中にあるわけです。だから老子が来ても当たり前というの
は実にハッキリしている。老子さん、なんて簡単に言うけれど、老子さんの偉さなんて計
り知れない。その計り知れない素晴らしい大生命から直接来たすごい神霊よりも、もっと
すごいのが大神様、だから宇宙の奥は計り知れませんよ。
この地球世界は宇宙の一員です。それで未開で未完成です。それを完成させようと思っ
163神様のこと
て、みなさんが守護霊守護神と土ハにここに来ているのです。それを手伝うために救世の大
光明といって、老子などがみな集まった大光明が五井先生という名前でここに来ているわ
けです。それで地球界を完全にしようと働いているのです。働いているみんなの一致した
唱え言が”世界人類が平和でありますように”という世界平和の祈りなのです。
世界平和の祈りをすると、地球世界は完成に早くなるわけです。と同時に自分達の業も
消えてゆく。自分達の業が消えてゆくというのは、世界人類の業も消えてゆくというわけ
です。光が世界にばらまかれるわけです。金星というのは、今地球人が理想を持っていま
すね、その理想論を達成しているのが金星なのですよ。もっと大きな理想を達成している
星がまだあるわけなんです。その星の宇宙の一番中心に神道でいう天之御中主大神という
神様がいらっしゃる。紅卍字では至聖先天老祖、阿弥陀様というかも知れない。阿弥陀様
は二つに分かれていますからね。一つは救いの菩薩行をする阿弥陀様と、大神様の現われ
の阿弥陀様と二種類の働きをしています。いろいろな名前があるわけですね。とにかく大
生命というわけです。大生命の中心です。それが今救世の大光明の中に働きかけてきて、164
大光明を統合して働いていることを、ハッキリ見せられましたから、みなさんは大安心し
て、宇宙神がそのまま助太刀しているんだ、と思っていいわけです。生命力をたくさんく
れているのです。
皆さんのやることは守護霊守護神に感謝していて、世界平和の祈りをしていればいいの
です。守護霊守護神への感謝を根幹にしていれば、自然に皆さんの生活はよくなるし、世
界人類のためにもなるのです。(昭和37年7月23日のお話)
165神様のこと
166
祈りと感謝行
すべては自分の責任
人間は生まれ更わりを何遍もしている、だから祖先というけれど、それは自分ではない
か、という質問がありました。
自分が祖先かというと、祖先の中に自分もいます。何遍か祖先になって生まれてきてい
ますからね。だから祖先の中に、自分が何人かいるわけです。しかし祖先というのは自分
自身ではありません。やっぱり祖先は祖先で違うものです。もっと深くいえば、全部自分
です。もっと深くいえば自分一人きりないんだからね。けれどそういう言い方じゃなくて、
当たり前の言い方をすれば、自分であった祖先が何人かいるけれども、しかし祖先が全部
自分というわけじゃありません。祖先と自分はやっぱり違います。
かか
それで祖先が迷っていて、自分に愚ってくる、とよくいうけれど、それは違うんですよ。
自分の中にある想いを、業を消すために、神様が想いが愚ったというような形でもって、
消してくれているわけです。だから何ものも愚るものはありません。
祖先の迷いが愚ってきたとか、言いますね。そうではなくて、自分の想いが消えてゆく
姿として現われて来ているんですよ。自分の想いが消えてゆく姿として現われて、消えて
しまって光り輝いてしまえば、祖先が迷ったもへったくれもありませんよ。みんな光り輝
いてしまいます。それで一人出家すれば九族救われるというのです。
出家ということは悟るという意味なんですよ。いわゆる肉体の業生の世界を出てゆく、
せかい
業生の家を出てゆくというのが出家なんです。坊主になることが出家したんじゃないんで
す。皆さんは出家している人が随分あるわけです。業生の世界をぬけ出てゆく、火宅の世
界を出てゆく、それは悟ったというわけです。そうすれば九族が救われてしまうんだ、と
167祈りと感謝行
いうのです。だから先祖が迷ってるもへったくれもあるもんですか。みんな自分の責めで
す。わかりますね。そういう責めさえも、その因縁さえも、それは消えてゆく姿で、世界
平和の祈りの中でみんな神々が消して下さるんだから、すべて神々に全託して、世界平和
の祈り一念にやっていれば、自分も救われる。祖先の迷っているというのも救われるわけ
です。
祖先の業で自分が苦しんでいる、祖先のバカヤローが、俺を苦しめやがって、と思う人
が随分あるんです。そういう言い方をするから、そんなことはないんだ、自分の苦しむも
せい
のはすべて自分のものです。自分のことは自分の責任です。人の所為ではない、と私はい
うのです。どんな苦しみがあっても、人の所為のように見えても、それは人の所為ではな
く、自分の所為です。そう思わないと宗教の道ではないんですよ。善いことは自分がやっ
てやったんだ、私がやってやったからあの人は善くなった。悪いことはあいつがやったか
ら、あいつの所為だ、というのでは、全く反宗教的、宗教精神ではないのです。
168
“利助の赤ん坊
” を見て
この間、久し振りにダイヤルをひねったら、テレビで”利助の赤ん坊” という映画が出
ぱんじゆん
てきて、見たのですよ。何だろうと見ていたら、伴淳という東北弁の面白い俳優が出て来
て、利助役をやっているのですね。
満洲で終戦になって、捕虜になっちゃうわけですね。ばかみたいな人なんだけれど、善
ひと
い人なんですよ。それでおなかの大きい女に親切にして、おしめなどを作ってやったり、
いろいろ親切にしてやった。そしたらその女は赤ちゃんを生んで、そのまま死んじゃうの
です。その女が「利助さんがとても親切だから、あの人にまかせれば赤ちゃんを必ず育て
てくれるから、利助さんにまかせて下さい」と言って死んじゃったのです。
炊事班長ですが、捕虜収容所の中だから、何にもないでしょう。自由もきかない。そこ
へ赤ん坊を預けられちゃう。死んだ人が預かってくれというんだから、預からなきゃいけ
ない、と思ったわけね、善い人なんだね。それで預かって、捕虜収容所の中で一生懸命育
169祈りと感謝行
てるのです。それがとてもいいんですよ。頭なんか一寸もよくないのに、行ないが全く神
様の行ない。神様と言っているわけでない、信仰もなんにもあるわけじゃない。ところが
その行ないがそのまま神様なんですよ。ああいうのを見ていると、本当に有難くなる。神
様神様といいながら、人を怒鳴りつけたり、いじめたり、ずるいことをしている人がたく
さんいるんです。人のあらばかり見て、欠点ばかり責あていて、人のやることなすことに
小言を言っていて、それで神様神様と口で言ってたって、神様は笑いますよ。そんなの信
仰でもなんでもないんです。
自分を愛で一杯にしなさい
利助さんていうのは、口では神様ともなんとも言わない、自分の子供じゃないのに、嫌
ですよって普通なら預かりませんよ。自分だけでも苦しいのに子供を預かって、一生懸命
育てて、寒いのに寝るまも寝ないで育てるのです。男の人がおっぱいもないのにね。おっ
だま
ぱいがあれば騙せるけれど、騙す手がないんだものね。それでもって育てている。私は涙170
ぐましくなっちゃった。私は、ああこういうのは本当の神の子だなあと思ってた。行ない
にあらわしているんだからね。
口でいくら神様を説いたって、神様神様と言ったって駄目ですよ。本当のものは自分の
行ないにある。私が一番嫌なのは、神様神様と言いながら、人のあらばっかり探して、小
言ばっかりいっている人。自分がどれ程偉いと思っているのか。偉くもなんともない。小
言を言った時、それだけマイナスです。愛でいうなら別ですよ。この人は言わなきゃ立派
にならない、言おう、というのは別です。自分の感情で、自分を偉く見せたくて、人のや
ることなすことみんな気に入らないで、それで人に小言ばかり言っている人がありますよ。
そういうのは下の下です。そんなものは信仰でもなんでもありゃしない。
愛でもって、ああこの人が立派になりますように、と言って涙をのんで小言をいう。そ
れはすばらしい立派な小言です。それは愛の言葉なんです。このバカヤローと言ったって
愛なんです。だけれどそうじゃない。自分を高く見せたい、自分を一段上に置いといて、
人を下目に見たいと思って、小言ばかり言っているようなのは本当に下の下の下の下。
171祈りと感謝行
時々そういうのを見るんですよ。なんという態度だろうこの人は、と情けなくなってく
る。小言を言ったって、怒鳴ったっていい。このバカヤロー出ていけ、と言ったっていい。
この人を立派にしたくて涙をこらえながら言っている小言は、相手の胸にこたえますし、
立派になりますよ。だから自分の感情がいらいらするから、それで小言をいう。口では神
様神様と言ったって信仰でもなんでもない。利助の爪のあかでも飲んだほうがいい。愚者
のような人が、そのまま受けて、自分の立場で出来ないことのようなことをやってのける
のですよ。愛でなければ出来ない。赤ん坊は自分が育てなければ、どこへもいかれやしな
いのだから死んじゃう、というんで、自分が育てるわけです。出来ないことです。普通だっ
たら出来ないことをやるわけですよ。その愛情のよさってなかったですよ。そういうのを
見ていると、神様ともなんとも言わないけれど、あの人は神様の行ないをあらわしている
な、いい人だなあ、こういう人が多く出れば、世界が平和になるなあ、と思った。
だから皆さんは、神様と言ってらっしゃる方だし、平和の祈りをしている方だから、少
なくとも自分の感情で、人に小言を言わないようにして下さい。感情で人を押えつけない。172
自分がいらいらするから人を怒るなんていうのは、いらいらすることが業なんだからね。
それを向こうの想いが葱って来たなんてことはない。向こうの想いが愚って来てイライラ
して小言を言うなんて、そんなら、誰かの想いが愚ったらみんなイライラするか。五井先
生はどうするんだ。みんなのいろいろな想いが愚ってくる。私はイライラしたことがありゃ
しないですよ。小言を言ったって、大声で叱ったって、すぐ後でニコニコとする。それは
感情で言わないからですよ。みんなもためしにやってごらんなさい。感情でもって、この
バカヤローと言って、あとでニコニコッと出来たら偉いから。そういう練習をしてごらん
なさい。小言を言うんだったら、ガガガガーッと言っても後で優しくニコニコッと出来る
ような小言なら、大いに言って下さい。
愛がこの中に一杯あって、行なう行ないなら、小言を言おうと優しくしようと、それは
すべて神様のみ心だから、向こうをよくすることは出来ます。だけども愛がないくせに、
自分の感情だけで怒っておいて、それで怒ったことを人の責任にする。あいつが悪いから、
あれの想いが私にうつってきたんだ。そんなバカなことがどこにあるか。そういうのは言
173祈りと感謝行

いわけにすぎない。だから、柔和なるもの地を嗣がん。明るい優しい愛の心で充満した自
分がいなければ駄目ですよ。いつでも愛が深くなきゃ駄目ですよ。
どんなことにも感謝出来るように
怒ろうと思っても一遍こらえなさいよ。あ、これが消えてゆく姿なんだなあ、ああこれ
は消えてゆく姿なんだな、世界人類が平和でありますように、あの人の天命が完うされま
すように、自分の天命も完うしますように、そういうふうに祈れば、これは両方の天命が
完うするでしょ。人の責任なんかで全然ないんですよ。自分の中に出てくるものは、全部
自分の責任。相手にぶんなぐられて腹が立っても、自分の責任です。こっちに理があって、
向こうに理がないでぶんなぐってきても、ぶんなぐられた場合には、自分の中に何かぶん
なぐられるものがあるんですよ。向こうに代わって、中にあるのを神様は消して下さるん
だ。悪い人のように見せて消して下さるんだ。その時、ああこれで私の業が消えたんだな、
有難うございます、なぐって下さって有難うございます、というようになれば本物です。174
私もそうやってここまでなったんです。
だから、皆さんもあらゆるどんな迫害を受けても、どんな自分に都合が悪いことがきて
も、相手が悪いんだと思う心を捨てて、ああ自分の中のものが消えたんだな、ああ消して
下さって神様ありがとうございます、と言えるような人間になって下さいよ。お願いだか
ら。それが世界平和の祈りの同志に一番望むところです。私はそればっかり望んでいる。
ああみんながそうなって下さればいいな、と思うんですね。
それが宗教家のくせに、教祖でもって、弟子のやったことにはみんな腹が立つ。いいこ
とは自分が知恵があるんだ、わしは大したものだ。それで悪いことが出ると、あの弟子が
悪いんだ、あいつがやったんだ、俺は知らん、あいつが勝手に考えたとこういうふうにや
るんですよ。
そういうのは宗教家の風上にもおけない。そういうのがたくさんいます。そういう教祖
は今に全部なくなります。
175祈りと感謝行
神の世界が本当に現われる時には
神様の世界が本当に現われる時には、おまけがなしですよ。一寸でも心を動かしたら、
パッとやられるけれど、皆さんは、ああごめんなさい、とか、消えてゆく姿、とかいえば
それを消してくれて、赦してくれます。守護霊守護神がいますからね。だけれども、本当
に一日も早く神様と同じような人間になるためには自分が本当に幸せになるためには、あ
らゆるものをすべて赦す気持ちにならなければ駄目です。あらゆるものに感謝しなきゃ駄
目。自分の都合のいいことに感謝するのは誰にでも出来る。お金が足りない時にお金をく
れた、ありがたいな、あの人は神様だ、っていうかも知れない。お金が足りない時に盗っ
ていった奴は、あのヤローこのヤローと思うでしょ。お金が足りなくて、食うに食えない
時に盗っていかれた時、ああ神様、私にもっともっと素晴らしい力を与えて下さるんだ、
有難うございます、とこういうふうに思うことです。なかなか思えないけれども、思える
ようになるべく努力しなければいけませんよ。176
思えなかったら、思えないでいいから、ああ思えない業が消えますように、世界人類が
平和でありますように、って投げ出すんですよ。神様の世界が地球世界に現われて、平和
になる時にはおまけなし。自分の中の心がすっかりきれいになる。きれいにきれいに洗い
,
落として、本当に輝く白光にしなきゃ世界平和にならないんですよ。必ず守護霊守護神、
救世の大光明がしてくれます。してくれますけれど、してくれる波に、自分が乗らなけれ
ばいけませんよ◎
ああ五井先生がああいうことをおっしゃって下さった。私はそれに一生懸命になりましょ
う、という心になればいいんですよ。そういう心になればスーと心境が上がります。
一切の業を浄め去るために
神様はだんだんおまけをしなくなりますよ。光一元の愛一元の白光に輝く心。高慢もな
ければ卑下慢もなければ、人をやっつける想いもなければ、そういうものが一切なくなっ
て、ただ有難うございます。神様有難うございます。こうして生かして頂いて有難うござ
177祈りと感謝行
います。みんなが平和でいて有難うございます。どうかみんなの幸せが一日も早く来ますよ
うに、みんなが愛に満ちますように、有難うございます。こういう心になり切るように、神
様は働いています。だから余計なものは、どんどんはぎますよ。わかりますね。だから何
か辛いことがあったら、辛いことがある程「ああ神様は私を愛していて下さるんだなあ」
とこう思わなきゃいけない。これは昔から言われていることだけれど、改めて私はそう思
います。
辛いことがあればある程、あとは必ずいいから。おできが一番わかります。痛くて痛く
てしようがない絶頂になると、破れてうみが出てくるんですよ。うみが出たらしめたもの。
もう治っちゃう。一番痛い時は一番治る時ですよ。それを一番痛いところ治るところで注
射を打ったりして止めてしまう。そうするとまた中へ入っちゃって、折角努力しで出そう
と思って、中の力が働いて出そうとしているのに、注射で止めちゃうから、また中へ入っ
ちゃって、今度は違うところへ出てしまう。いつまでたってもおできが治らないんです。
出るものは出すのです。一番痛い時にそのまま祈りながら我慢していると、パッと破れま178
す。内臓へいったら大変な病気になるような毒素が、どんどんおできで出ちゃう。そうい
うふうになる。おできばかりではありません。全部そうです。下痢でもそうです。下痢を
恐れなければ、ああこれによって中の毒素が消えていって、私の体の中はきれいになった
んだ、きれいに掃除されたんだ、ありがとうございます、という気持ちでいますと、下痢
するたびに体がよくなります。私がこうなる前につづけざまに下痢ばかりしてました。し
かし私はちっとも恐れなかった。ああ神様ありがとう、私の体がすっかりきれいになると
いうふうに思ったんですよ。そうするときれいになっちゃいます。体もよくなります。灯
から現われてくるものすべてのものに、恐れないで、みんな神様がやって下さるんだなあ、
ありがとうございます。私の魂を磨いて下さるんだな有難うございます。私を愛して下さっ
て、私に力を下さるためにこうやって下さるんだなあ、有難いな、という心になってもら
いたい。それが宗教の極意ですよ。そうすると本当に神様と一つになってしまう。
自分の中にごもくたを置いといて、神様と言ったって、これは駄目です。こもくたを神
様の中へ入れなきゃいけません。自分の悪いところは悪いで認めていいんですよ。誰でも
179祈りと感謝行
肉体界にいる限りは、悪いことはあるに決まっているんだから。この地球界というのは大
変な波なのだから、悪いものがあるにきまってます。あってもいいから、あったままで、
と私が言うでしょ。あるのをなくしてじゃなく、あるのを持ったまま、自分でそれを認あ
て”ああ私はこういう悪いところがあったんだなあ、どうか神様これを一日も早く消して
下さいますように” といって神様の中へ、世界平和の祈りで入れちゃうわけですよ。そう
すると世界平和の祈りの大光明が消して下さるわけ。
180
欠点を認めて消えてゆく姿に
自分で自分の欠点を認めなきゃ駄目ですよ。やっぱり欠点を認めて、ち
、やんとハッキリ
正直に認めて、神様に消してもらうんですよ。そうすると消しやすい。認めないというこ
とは、消えてゆく姿がないからです。自分が高慢なら高慢としましょう。その高慢を認め
ないで、自分は高慢じゃないと思っていれば、ホラこれは消えないですよ。自分は高慢な
んだな、自分は臆病なんだな、自分は短気なんだな、というように思うでしょ。思ってそ
れを消してもらうために”神様、どうぞ一日も早くこの想いが消えますように、世界人類
が平和でありますように、私の天命が完うされますように” と神様の中に入れば、神様の
ロつ
ほうで消してくれるわけです。わかりますね。それを倦まずたゆまずやることです。病気
で消してくれるか、貧乏で消してくれるか、人間関係で消してくれるか、とにかくいろん
なことで消してくれるわけですよ。だからあらゆるもの、あらゆることに感謝しなきゃい
けない、ということになるわけでしょ。それが宗教の極意です。
私は責あているわけでも何でもない。私の教えは人を責めていない。自分も責めていな
い。一人も責めていない。消えてゆく姿だ、と赦している。ただ消えてゆく姿というもの
をはっきり掴まなければ駄目。自分で悪いところを掴まえるのですよ。それで消えてゆく
姿にしなければ駄目です。いい加減にごまかして、悪いことを言いながら、またしながら、
消えてゆく姿なのよ、というのでは業の中をぐるぐる廻りしているようなもの。それでは
消えやしませんよ。消えてゆく姿って、神様の中に入れなきゃ、神様が消して下さるんだ
から「消えてゆく姿なんだな、世界人類が平和でありますように」と神様のほうへ持ってっ
181祈りと感謝行
ちゃう。そうすると神様が消して下さるのです。(昭和37年9 月24 日のお話)
182
世界平和の祈りについて
想いということ
人間には想いというものがあります。そして一日中何にも想わないで生きている人は、
一人もいないわけです。
人間の想いというものは、実は波になって流れているのです。この世界に生きておりま
すと、肉体という形が動いて生きているように見えますけれども、実は生命の光の波と想
いの波とが、混合して生きている。だからここに○ ○ ○ 雄、○ ○ ○ 子というものがいます
と、それは肉体がここにあるように見えるけれども、実は波が現われているんですね。
183世界平和の祈りについて
この波にどういう波があるかというと、微妙な波もあれば、うんと大きい波もあり、粗
雑な波もある。いろいろあるわけです。それがまざり合ってこの肉体になっているのです。
私がよく、神体、霊体、幽体、肉体と四つに分けて説いておりますね。実際は四つよりもっ
と数が多いのですけれども、大別して四つに分けています。これがどういうようになって
いるかというと、神体というのが一番微妙な自由自在な波、光の波です。それが霊体になっ
て少し粗くなり、幽体になってもう少し粗くなって、肉体になるとずっと粗くなる、とい
うふうに教えております。
この肉体の波というのは、普通は肉体同士では波を感じ合わないわけです。只目で見た
場合に、ああここにいたな、耳で聞いた場合に、ああ聞こえるな、というわけなのです。
ところが目で見なくても、例えば私が目をつぶっていれば、皆さんがいるかいないかわか
らない。わからないながらも何かいるような感じがする。例えば電車に乗っていまして、
目をつぶっている。するとなんだか見られているような気がするな、と目を開けて見ると、
前の人がじーっとこっちを見ていた、ということがよくありますね。それは何を感じてい184
るかというと、見ているという向こうの想いの波を、こっちが肉体で感じないように思い
ながら、何かしら感じているわけなんです。
肉体は粗い波動ですから、微妙な波動を感じないんですけれども、それでも幾分ずつは
感じる。その感じの鋭敏な人を霊能者とか、いうわけです。霊能者というのは、そこに肉
体がなくても、遠くに離れていても、ああ誰か思ってるな、とか、ああ誰か来るな、とか
感じたりする。ああ今日は何かいいことがあるらしいな、悪いことがあるらしいな、と感
じたりする。何を感じるかというと、運命の波、やっぱり波動を感じるわけですよ。ある
いは人の気配、雰囲気を感じるわけです。感じるのは何かというと、波を感じる心がキャッ
チする。自分の想いが、想いの波に感染してくるわけです。
そこで、この世の中は肉体がありながらも、実は想いの波が生活しているんだ、という
ことになるんです。私達はよく波がわかりますから、こうやって生きているけれど、みん
な何も知らない。うちの人達はいろんな話を聞いていますから、波のことや、想いが大事
だということを知っています。普通想いのことを知らない人達は何も知らないで生きてい
185世界平和の祈りについて
るのです。それで知ったようなことを言っているんですが、実は、いろいろな波が取り巻
いて、自分が行なっていることが、本当は自分が行なっているんじゃなくて、業想念、間
違った想い、神様を離れた、この世を亡ぼそうという波が、自分に感応して来て、自分の
行為になっているんだ、っていうことがわからないんですよ。
まず自分の中の業をなくすこと
例えば日本とアメリカと戦争をして、トルーマンが原爆を落とすか落とさないか、大統
領だから裁断したわけですね。落とせ、と命令を出したわけでしょ。そして原爆を使った。
その場合トルーマンの頭の中を支配しているのは何かというと、日本をやっつけてしまお
うという想い、もっと深く、人類を亡ぼそうとする想いが、波動が伝わってきて、トルー
マンに原爆を使え、というふうに感んじさせるわけね。声で聞くわけじゃないけれど、知
らないうちに落としちゃうのですね。
それが今の原水爆の発端ですね。今世界中を恐怖に陥れているのがその原水爆の実験で186
しょ。実験だからまだいいんです。本当に使った場合はどうなるか、ということは人類の
おび
非常に脅えるもとになっているわけですね。その一番発端は誰かというと、トルーマンで
しょ。トルーマンがやったことは人類の大変なマイナスになるのですよ。トルーマンがや
らないとしても誰か使うのだけれども、トルーマンがその役割を仰せつかってしまったわ
けですね。それで、原爆を最初に広島に落とした飛行士のことが、本か新聞かに書いてあ
りました。日本の亡霊に悩まされて、悩んで気違いのようになってしまって、今度は自分
が逆に原爆実験をやっちゃいけないという運動をやっていますね。そうするとアメリカで
は気違い扱いにして、精神病院に入れたりいろいろしたわけですが、今商売しているとか
書いてありました。
この飛行士などは、まさに自分が原爆を落とした、ああ悪かったなあ、と良心がとても
悪いと思っているわけ。悪いと想っている波のところへ、日本の亡くなった人の恨みの想
いがいって悩ましたわけです。本当に自分は悪いんだ悪いんだと思っているわけです。と
ころが落とした人は命令で、絶対絶命でやっているんですから、悪いながらも大したこと
187世界平和の祈りについて

はない。落とすように命令したほうが悪いわけでしょ。一番悪いのは誰かというと、トルー
マンということになる。ところが、トルーマン自身が悪いんじゃないんだ、これは原爆を
落としたために、最少の被害ですんだんだ、とこういうのですね。盗人にも三分の理、と
かしやく
いうんで、自分をかばうため、良心の呵責をかばうために、自分が悪いことをしたんじゃ
ないんだ、原爆を落としたために、かえって地球人類が、また日本が被害が少なくて済ん
だんだ、とこういうふうに言うわけです。それも一理はあるんです。しかし、その場の戦
争の災害が少なかったということよりも、原爆を最初に使ったということが、大きく人類
にひびいてくるわけですよ。
このままでいけば、やがて原水爆戦争にならないとも限らないし、いつ間違って原爆を
落とさないとも限らない。そういう波があるわけです。誰も戦争を欲しないし、誰も本当
は人を殺したいなんて想っていないし、現実的な表面の心では誰も彼もが、戦争も喧嘩も
したくないのですよ、特別な人を除いては。
人類の大半が戦争も喧嘩もしたくないんだけれども、喧嘩したり戦争したり、原水爆を
188
使ったりしなければならないようになっているのは、一体何がそうさせるかというと、人
間一人一人の中にある、あいつをやっつけたい、自分が優位に立ってあいつよりのびてゆ
きたい、下目に見たい、シャクな奴だぶんなぐってやりたい、殺してもやりたい、憎らし
い奴だというような、毎日毎日、一瞬一瞬の、日頃の想いが、幽界に一杯溜っているわけ
なのですね。それがどんどん出てくるわけですよ。人間が神様のみ心に正しく素直になっ
ていて、いつも明るい朗らかないい気持ち、涼やかな気持ち、美しい気持ちを出していさ
えすれば、業想念はないのだけれども、ズーッと長い何千年何万年という昔からの、そう
いうマイナスの想いが一杯人類の地球の上に溜っているわけです。地球世界が業想念で覆
われているわけなんですね。その業想念がちょっとかかってくると、戦争がしたくなる。
しようかい
例えば、原爆を積んでいる飛行機が哨戒していますね、その飛行士の頭の中にスーッと、
落としちゃえ、という業がくると、パッと落としてしまうかもしれない。あるいは敵が来
たような錯覚を起こしたり、精神が錯乱したらパッと落とすかも知れない。そういうもの
は、その人自身の罪というよりは、みんな人類総体の持っていた、いろんな間違った想い、
189世界平和の祈りについて
神様から離れた自分勝手な想いが、溜まっているものが縁にふれては出てくるわけなん
です。そこで、一番大事なことは、自分の中にある業想念、神様を離れた間違った不平不
満の想い、あいつをやっつけたいという闘争の想い、差別をして自分を優位にして、人を
見下そうとする想い、そういういろいろな業想念を、まずどこかになくさないことには、
世界平和は出来ないと私は思うのです。各自各自の業の想いを、どこかになくしてしまっ
て、この地球を覆っている波をきれいに浄めてしまわない限りは、いくら赤旗を振ろうと
白旗を振ろうと、どういう運動を起こそうと、世界の戦争はあると、私は思うんですね。
そこで私が提唱し出したのが、世界平和の祈りなんです。
自分の中にある悪い間違った想いも、世界人類が持っている想いも、みんなひっくるめ
て、世界人類が平和になる、という大祈願の中に、光の中に入れてしまう。そして光の中
で、神様のみ心の中で消してしまおう、地球人類を取り巻いている業想念を、神様の大光
明で消してもらってしまおう、という運動が世界平和の祈りの運動なんです。だから想い
の在り方ということを、私は一番大事にしているんですよ。190
想いはすぐ対立抗争する
人類三十億はみな神様の子として生まれた人間なのです。そして各々天命をもっている
のですから、神様のみ心をそのまま自然に現わせるような方向に進んでゆけば、お互いが
お互いを侵しあわないで、やっつけ合わないで、みんなが自由に生きられる世界が必ず出
来るんです。神様の世界では出来ているのです。それを、あいつより偉くなりたい、あい
つが憎らしいという想いでもって、お互いがガチャガチャやっている。国と国とがガチャ
ガチャやっている。そういう想いが一杯あるわけです。
今度、インドネシアでスポーツのアジア大会がありましたね。インドネシアという国は
中共や共産国と仲がいいわけなんですね。台湾政府というのは、中共から見ればないわけ
です。イスラエルなどという国もいわば敵なわけ。それで兎に角中共などの顔を立てるた
めに、台湾の出場を阻止したりしてもめています。あのように、他の国の波、共産主義の
波が懸ってくると、本当はやらないほうがよいことでも、自分でやらなければならないよ
191世界平和の祈りについて
うに思えて、やってしまうわけです。そうすると、折角若い人達が楽しんで、国と国とが
本当に楽しんで手を取り合ってやろうとする、きれいな、清浄なスポーツの活動まで、政
治的に汚れてしまい、業想念に汚れてしまって、政治の道具になっちゃうわけですね。そ
れは何故かというと、インドネシアが国威を宣揚して、自分の国を大きくしたい、権力を
得たいというものが、スカルノ大統領をはじめみんなあるわけですよ。そういう自我欲望
の想いが、折角のきれいなものを汚してしまうのです。
あに
それは豊インドネシアばかりでなくて、インドのような平和主義のような国にもあるわ
けですし、日本にも勿論あります。日本がインドネシアの立場になれば、やらないとは限
らない。日本だからやらないか、というとそうでもないかも知れない。
例えばインドネシアに派遣されている選手団の団長がいます。団長は大会に参加して競
技したい。本国の会長の方では参加しないほうがいいという。片方は片方の立場でやらな
いほうがよい、現地のほうは選手がやりたいやりたいという、自分もやらないにしては気
持ちが悪いというんで、やるという立場。もうこんな小っぼけなことでも、想いが二つに
192
分かれている。だから人間の世界、想いの世界というのは面倒くさいもんで、例えば小さ
な簡単な一家の場合でも、お嫁さんと姑さん、子供と親、兄弟でそれぞれ、俺の考え、私
の考え、お前の考えというふうに、考えが違っちゃって、想いが別々になっているわけで
す。だから自分が善なんだ、自分が正しいんだ、自分が正義なんだという想いを、お互い
が主張し合っていて、平和になるかというと、それでは平和はあり得ないんです。
一番大きな目的に想いを結集せよ
今までは、正義の戦いだ、正しい想いだ、私の想いは正しいんだ、とお互いが主張し合っ
ていた。ところが、甲から見れば甲が正しいし、乙から見れば乙が正しいし、丙から見れ
ば丙が正しいんです。みんな自分のやっていることが正しいように見えるのか、自分をご
まかしているのか知らないけれど、自分が正しいと思っちゃう。だから正義と正義が戦っ
て戦争になっちゃうんです。
共産圏から見れば、ソビエトが人類を掌握して、政治をとれば一番いい政治がとれる、
193世界平和の祈りについて

と思うわけです。自由主義国家群から見れば、アメリカがトップに立って、自由民主主義
で政治をとれば、必ず平和になると思うかも知れない。両方が正しいと思っているわけで
す。どっちが真実正しいんだか、本当はわからないでしょ。只正しい正しいと両方が言い
合っている。問に立ったものは、どちらが正しいかわからない。
みんな自分をかばいたい想いがあるのですから、自分の見ているもの、考えているもの
は正しいとする。人の見ているものは間違っているとする。こういう見方で今までの政治
や運動が行なわれてきたのです。人間というのは自分をかばう想いで一杯になっていまし
て、自分ばかりかばいたい、自分の立場ばかりよくしたい、とそればかりをお互いがして
いるのです。
そこで私の考えているのは、自分が正しいとか人が悪いとか、そういうことを言い合っ
ていたら、いつまでたっても平和にならない。一家の家庭の中でもそうで、嫁さんと姑さ
んの場合でも、嫁が正しいと言っても、姑が私が正しいと言っても駄目なのです。どちら
も聞けば一分の理があるのですからね。親子でも兄弟でも、どっちが正しいか本当はわか
194
らないのです。だからどっちが正しいとか悪いとかいうことは一先ずおいて、一番大事な
ことはなんであるかというと、世界人類が平和になることなのですね。これが一番望まし
いことなのです。そこであらゆる想い、あらゆるものをすべて、一番願うところの中に入
れてしまえ、というのが、世界平和の祈りの運動なのです。世界人類が平和でありますよ
うに、私達の天命が完うされますように、という二つの大眼目です。個人的な願いや幸福
は、天命が完うされますように、という祈りの中に入れ、世界のことは世界人類が平和で
ありますように、という祈りの中に入れてしまう。日本のことは世界の中に入っているか
らいい。全部の想いを大神様の大光明の中で洗い流してもらって、改めて神様のみ心とし
て自分達は生きていきましょう、毎日毎日瞬時瞬時白紙になって、神様のみ心の中に入っ
ていきましょうというのが世界平和の祈りなのですよ。
こういう運動をしない限り、いつまでたっても世界は平和にならないし、家庭も平和に
ならない。だから自分がいいとか悪いとか自己主張を一先ずおいて、要するに神様のみ心
の中に委せなければいけないのですよ。
195世界平和の祈りについて
自分で自分がいい自分がいいと言っても、本当にいいのだか悪いのだかわからない。日
本がいいと言っても日本がいいんだかわからない。アメリカがよくてソビエトが悪いと言っ
ても、それもわからない。ソビエトがいいのかというとそれもわからない。そういうもの
は一切神様より知らないのですよ。神様のみ心のみが知っている。自分達は色眼鏡で見る
のだからどっちがいいかわかりません。そこで私はすべてを神様のみ心の中に入れちゃい
なさい、そして私達の想うことは何かというと”世界人類が平和でありますように、自分
わざ
達の天命が完うされますように” と神様のみ業がこの地上界に完全に現われるための二つ
の眼目を一生懸命想って、そして守護の神霊に感謝しながら生きてゆくと、それこそ一番
正しい第一段階の生き方であると、私は教えているわけですね。
世界平和の祈りは一宗一派ではない
この世界にはあらゆる宗教があって、自分の教えを宣伝している。ところがあらゆる宗
教というのは宗派なのですよ。みんな自分の祈り方があって、その仕方をやっているわけ196
です。世界紅卍字というのがありますね、働いている神様は本物なのですよ。祈り方はど
ういうのかというと、むずかしい祈り言を唱えるわけです。それにむずかしい教えがあり
まして、漢文で書いてあるのです。日本の人達は漢文で憶えなければならないわけです。
それで、世界人類が一つになりますか、と私が言うわけなのです。ところが依然としてむ
ずかしい祈り言を唱えながらやっているわけなのです。むずかしい祈り言を唱えても他の
外国人にはわからない。中国人だけがわかるようなのを唱えていて、一般大衆がついてく
るわけがない。それが私にはわかるのです。
それと同じようなことを、どこの宗教でもやっている。すると一宗一派になってしまう。
自分達しかわからないのは一宗一派なのですよ。南無阿弥陀仏でも南無妙法蓮華経でも、
ナムカラタンノトゥでも、アーメンでも、そのグループにしかわからぬ唱え方は一宗一派
です。
世界人類が平和でありますように、という祈りは誰がわからないでしょうか。誰にでも
わかる。世界中がわかるでしょ。言葉だってわけがない。英語に変えればいい、スペイン
197世界平和の祈りにっいて
語に変えればいい。ドイッ語、フランス語… … に翻訳すればいい。それだけの話でしょ。
“世界人類が平和でありますように
” だけでいいのだから、あとの”私共の天命が完うさ
れますように” というのは、どんな言葉で言ったっていいですよ。自分が幸せになります
ように、と思ったっていいし、その国の人々の気持ちに一番当てはまる言葉を使えばいい
のだから。要するに想いが”世界人類が平和でありますように” という祈り言に乗りさえ
すればいいのです。そしてお経の代わりにして唱えるわけです。これは一宗一派ではない。
これを一宗一派だという人がいたらバカです。色眼鏡で見ている。
自然に宗教的極意の生き方が出来る
“世界人類が平和でありますように” と思わない人はない。”世界人類が平和… … ” と
思うと、自分の小さな嫁さんがなんだ、息子がなんだということよりも”ああ世界人類が
平和なんだな、世界が平和にならなければいけないんだ” と思うと、心が明るく広やかに
なってくる。広々としてくる。それは想いの方向を神様のみ心の中に入れたからです。人198
間の想いの波をうまく使って、神様の大み心の中へ入れちゃったから、いい気持ちになっ
てくるわけです。
他の統一行をやったり、お経をやっていた人で、この平和の祈りに初めてふれた人があ
ります。そして統一が出来なかった人が”世界人類が平和でありますように” と祈るとスーッ
と統一した、という話を随分聞くんですよ。それは何故かというと、世界人類が平和であ
る、ということは大神様のみ心だからですよ。地球人類がみな手をつなぎ、宇宙が手をつ
なぐことが神のみ心に違いないでしょ。大神様のみ心がそのまま現われているのが、世界
人類が平和である、ということなのです。それをこちらのほうから言うから”世界人類が
平和でありますように” という願い言になるのですよ。”世界人類は平和である、地球人
類も平和である” と大神様のほうでは言っているわけです。人間側から言えば”平和であ
りますように” と願うわけです。”平和である” “平和でありますように” と大神様のみ心
と人間側の願いが一つになって、光り輝くわけですよ。大神様は絶えず肉体の各々に光を
与えている。肉体のほうが”世界人類が平和でありますように” と祈ると、光を縦に受け
199世界平和の祈りについて
つつ横に広げてゆく。神様は縦に肉体に来ている。世界人類というのは横の広がりですか
ら、縦と横とが十字交差した真ん中で、中庸を得た生き方となるわけなのです。それが世
界平和の祈りなのです。何もむずかしい勉強をしなくとも、ロハ”世界人類が平和でありま
すように” と祈っていることによって、自分が中庸を得ている、立派な宗教的極意の生き
方が出来るというのが、世界平和の祈りの生き方なのです。
こんなにやさしく、誰にでも出来て、しかも人類的で一宗一派でない教えなどというの
はどこにもないんですよ。こんなやさしい教えを教えてくれた神様というのは、素晴らし
い神様です。だからどんな宗教が出てても、世界平和の祈りが本当にないところは、一宗
一派だと思います。
祈りは簡単な言葉で
S 教でも世界平和の祈りをしています。”愛の光が流れ入って、なんとかで… … 平和に
なる” とかいう長たらしい文句なのです。誰の胸にもピタッとくるものじゃないんです。200
観念的な祈り言葉を世界平和に結びつけただけなのですね。頭でやろうとするからピタッ
とこないのですよ。私はそんな頭を使っていない。観念じゃないのです。世界平和の祈り、
と断わらなくたって、世界人類が平和でありますように、と言えばすぐわかる。アッサリ
とそのものズバリです。
言葉は即ち神なりき、だから、世界人類が平和でありますように、という言葉の中で神
様のみ心が生きてくるわけです。神様のみ心がそのまま働いている。世界人類が平和であ
りますように、というと、神様のみ心がパーッと光ってくるわけなんです。言葉というの
は大事なんですよ。言葉というのは声に出る言葉じゃありませんよ。想いが大事なんで
す。
ああ、あの人が立派になりますように、と想ったら、愛の光がパーッと輝く。世界人類
が平和でありますように、という時にはパーッと大神様の黄金色が輝くわけです。言葉は
即ち神なりき、即ち光なりき、なのです。
神様は常に動いて止まらない。宇宙に充満している生命であり、形に現われるとすれば
201世界平和の祈りについて
白髪白髭の老翁であるけれども、宇宙に充満している光だから、それに波長を合わせれば
いい。神様のみ心に合わせればいい。神様のみ心は何か、一番願っていることは何かとい
うと、世界平和になって、立派に神様の心を現わしてくれることです。何にもまして、世
界が平和になることを願っている。家庭が平和になることも願っているわけですよ。家庭
の場合は一先ずおいて、まず世界人類が平和にならなければ、原爆が落ちてくるか、大天
さんたん
変地異が起こります。折角苦心惨憺して肉体を作ってきたのに、一発か二発で終わりになっ
てしまうのでは、神様のみ心も水の泡でしょ。といって神様のほうでは滅びないように出
来ているわけです。
地球が戦争になったり、天変地異に見舞われないようにするために、世界平和の祈りを
祈れば、神様の光が宇宙に遍満するし、地球にパーッと横に流れていって、業想念を浄め
るから、世界平和の祈りをやりなさい、といって命令っていうとおかしいけれど、私に教
えてくれたわけですね。そこで私は”世界人類が平和でありますように” という簡単な言
葉を唱えたんですよ。いつ唱えはじめたかわからないんです。202
面白いことに、私の教えというのは、何時始まったんだか、いつ世界平和の祈りが始まっ
たんだか、皆目憶えていないんですよ。知らないうちに消えてゆく姿を教え、知らないう
ちに世界平和の祈りを唱えている。普通は立教何年とかお祝いをやるんだけれど、教えを
立てたのがいつだかわからない。無限億万年前に教えが立っているんですよ。それが今現
われて来ただけ。ただその取り次ぎをこの肉体がしているだけですよ。
正々堂々と平和の祈りを宣布しよう
“世界人類が平和でありますように
” という世界平和の祈りにすべての宗教の宗祖が結
集したわけです。この世界平和の祈りに、すべての宗教が集まるようになっている。各宗
教、各国が全部世界平和の祈りをやらなければならなくなりますよ。絶対になる。それを
私は断言します。そうしない限りは、この地球は滅びてしまうのです。だからみんなが平
和の祈りをしなければならないのは、最も自然なのです。
何の宗教に入っていてもいい、天理教に入っていようと、仏立講に入っていようと、生
203世界平和の祈りについて
長の家に入っていようと、何をしていたっていいから、世界人類が平和でありますように、
と祈りなさい、と大神様がおっしゃっているんだから、祈ればいいのです。それで、その
宗教に入っていてもつまらないから、世界平和の祈りだけでいいなと思ったら、その宗教
を止めればいいんだし、別に止めうとも言わないし、止めなさんなとも言わないし、それ
は各々自分達の勝手なんですからね。
だから皆さんが、世界平和の祈りを宣伝する場合にも、
「世界平和の祈りを祈りなさいね。祈りのリーフレットもあります。パンフレットもあ
ります。白光が出てますよ」と渡してあげればいいわけです。それでその人が会に入ろう
と入るまいと、そんなことはどうでもいい。世界平和の祈りさえやってくれればいい。御
飯を食べる前でもいいから、一日に一回でもいいから、世界平和の祈りをおやりなさいま
せ、とすすめて下さい。本当は、みんな世界平和のためにやるんだから、一日に一回位は
世界が平和になるように思ったっていいではないか、お前達の義務だぞ、と言っていい程
のものなのです。204
一銭もお金がかかるわけではないし、ただリーフレットを貰って、世界人類が平和であ
りますように、と祈りましょう、と言うだけで、ただ祈ればいいのだから、両方土ハに重圧
もかからないし、重荷にもならない。だから正々堂々と、天下晴れて世界平和の祈りをし
なさい。今は大変な時なんですよ。世界平和の祈りをして下さい。世界平和を思って下さ
い、とリーフレットでもパンフレットでも配って、どんどんすすめていいと思うのです。
そうすれば、自然にみんなが立派になると思うんですね。
何も会に入れようとか、何々しようとかサラサラ思っていないんです。
業は減るに決まっている
おど
嚇かされると、よくふらふらする人がいます。手相や人相を見て、悪いことを言われた
といって、大丈夫かしら、とすぐ思う。一体なんのために宗教をやっているんですかね。
なるものなら、人相や手相を見なくたってなるのですよ。手相を見られたから今更なるわ
けじゃないんです。人相見て言われたから急に病気になるわけでもない。なるべきものは
205世界平和の祈りについて
なるようになっている。そのなるべきものをならないように、私が一生懸命祈っているわ
じゆう
けですよ。皆さんも一生懸命平和の祈りをしているわけ。そうすると十怪我するものでも
一だけで済む。神様のほうでしてくれるわけです。
そりゃそうでしょ。皆さんの想いが神様の中に世界平和の祈りで入っているんだから、
大光明によって業が消されているんだから、必ず業は少なくなっているに決まっているん
ですよ。神様のみ心の中に入っていて、世界平和の祈りを祈っていて、祈らない前より悪
いなんていうことがあるわけがない。悪いのだったら、あらゆる信仰は全部駄目になりま
す。世界人類が平和でありますように、と祈っていることは、大神様のみ心の中にすっぽ
り入っていることです。すっぽり入っていることだから、世界平和の祈りを祈っていて、
祈らない前より悪いなんてことは絶対にないのです。もし祈っていながら病気が現われた
り、不幸が現われたりするならば、それは以前に溜まっているものが、そのまま現われる
ならもっと強く現われるのが、大光明に洗われて薄くなって、チョコチョコと小刻みに現
われて消えてゆく姿なんですよ。それを間違えてはいけません。206
理論的にも考えてごらんなさい。世界人類が平和でありますように、という愛の心で思っ
ていて、自分が悪いはずがあるかというのです。この世は想いの世界です。正しい想いを
出していて、愛の想いを出していて、それが悪く帰ってくることはありません。それでも
なお悪く帰ってくるように現われてくることは、前に溜まっている業が軽く軽く済んで、
消えてゆく姿なのです。それを心の中から想わなければ駄目ですよ。祈っているけれど悪
いことばかりある、というのじゃありません。祈っているからこそ、少なく済んでいるん
です。
世界人類が平和でありますように、という広い高い立派な祈り言をしながら、悪いこと
が増えるわけが絶対にない。減るに決まっている。それをしっかりと心の中に入れておく
ことです。
神の目的と人間の願望とを一つに結ぶ
新しい宗教などでは、祈りというのは、自分が只救われたいような祈りが多いんです。
207世界平和の祈りについて
ところが私達の祈りは、勿論自分が救われたいと思わない人はないんですよ。誰だって自
分が救われたいに決まっている。しかしその自分の救われを、小さな枝葉の現象利益だけ
の救われじゃなくて、現象利益も含めた本心の開発、本当の救われまでもってゆく祈りな
のです。それと同時に、世界人類を救う、人類に光を送る祈りが、世界人類が平和であり
ますように、という祈りなんですよ。
そこにはなんの我欲もなければ自我もないんです。自我欲望がみんな消えてゆく姿になっ
てしまうわけです。わかりますね。世界人類が平和でありますように、という想いの中に
悪いことがあるわけがない。家内安全、商売繁昌じゃ自分のことだけだろうけれども、世
界平和の祈りは世界人類の幸福と平和を祈ることなのだから、悪いわけがない。これ以上
のいい教えがどこにありますか。世界人類が平和でありますように、と思うことほど高い
立派な想い方はないのだよ、と大神様はここに来て言っています。
世界人類が平和でありますように、という言葉につけ加えて、私共の天命が完うされま
すように、どうか神様のお役に立ちますように、と祈ることです。天命が完うするという208
ことは、自分が貧乏ばかりしていたら天命が完う出来ないだろうし、病気ばかりしていた
ら天命が完う出来ないかも知れないから、天命が完うするために必要なように、神様がし
てくれるわけです。だから病気を治して下さいというよりも、天命が完うされますように、
と言ったほうが病気が早く治るんです。ということは、なんでもかんでも、神様のみ心の
中に入ってしまえばよいのです。神様のみ心の中に入るのでも、何々の神と呼んだのでは、
神様にもいろんな名前がついていますから、うちの神様のほうが力がある、いやうちのほ
うが… … と神様喧嘩になります。それじゃいけないから、私は目的を持ってきたわけです。
世界人類が平和でありますように、という目的を神様のみ心と一つにしてしまったのです
よ。世界人類が平和でありますように、というのは、もう神様の名前と同じです。神様の
目的だからね。
神様の目的と人間の目的とを一つに結んだのが、世界平和の祈りなのです。
(昭和37年8月27日のお話)
209世界平和の祈りについて
210
あなたが救世主
追いこまれた人類
現在の世界を見廻してみますと、世界が一つにならなければ、みんなの心が平和な心に
ならなければ地球は滅びてしまう、という段階にきたわけです。どんな人が見てもそう思
わざるを得ない。
アジア、アフリカ諸国の小さな国、大国だけが悪くて小国には業想念がないかというと
さにあらず、小国は小国で自分の権力を主張して、自分の国威を高めよう広めようとして
いる。何か意気張って、偉さを見せようと肩肘をはって背伸びをして威張っている。そう
いう様子を見ていると、子供が”僕は強いんだ” とか”ボクのお父ちゃん偉いんだぞ” と
言っているのと丁度同じです。実に幼ないかぎりと思うんです。こういうことでは絶対に
世界は平和になりっこない。しかしまだそういう時期なんですね。
小国は小国で自国の勢力を拡張し合い、大国は大国で科学戦ですね。原爆水爆の実験を
したり、宇宙船を飛ばし合っている。宇宙船というものは、本当は世界の平和のため、宇
宙の平和のたあに作られるべきものなのですけれども、アメリカやソビエトを見るという
と、そうではなく、自分の勢力を拡張しよう、自分の力を世界に宣伝して、世界を自分の
膝下に組み敷こうとしてやっているわけですね。それであらゆる科学力を動員し、お金を
動員して、科学兵器を作り、宇宙船などを作っている。だから軍事費というのに一番膨大
なお金を使っているんですね。だから宇宙船が出来上がったことは、一面では大いに喜ぶ
べきことでありながら、多いに悲しむべきことでもあるわけです。人工衛星から一寸操作
すれば、亡ぼそうと思えばわけないです。だから一寸どこかで火がつけば、バッと一遍に
大戦争になってしまいます。人工衛星から攻撃をかければアメリカなどつぶそうと思えば
211あなたが救世主
わけない。ソビエトもつぶそうと思えばわけないです。しかしそれをやればお互いがつぶ
れてしまいます。そういう時代になってきております。
現代というものは、もうにっちもさっちもいかない。皆の心が平和にならなければどう
しても滅びてしまうところに追いこまれていくんですよ。そういうことは神様の御心でわ
かっておりますから、昔からいろいろな聖者を出して、こういう心にならなければいけな
い、こうしなければいけない、というように、いけないいけないづくしできたわけですね。
お釈迦様でもお釈迦様以前は戒律が厳しくてあらゆる戒律があり、虫を殺してもいけない
というふうに言っていた。それでお釈迦様が少し戒律をゆるめたわけなんだけれども、仏
教でもやっぱり戒律が多いのですね。それでだんだん、こうしてはいけない、何々しては
いけない、ということでやってきたわけです。ところがこうしてはいけない、ああしては
いけないと言われても、この地球界に生まれてからの習慣の想い(つまり業ですね) でそ
れがなかなか出来ない。
212
今までの宗教観念を捨てよう
一番問題は、自分の肉体生活をかばうということです。人間の喜怒哀楽、すべての欲望
というものはどこから出てくるかというと、肉体人間の自分としての生活を保護しようと
する欲望から、業が生まれているわけなのですよ。そこでお釈迦様でもキリストでも、肉
体というもの、肉体生活というものを離れて、超越して魂の国に住まなければ駄目だ、と
いうことを盛んに説いているんだし、そういう行をさせているわけなんです。
くロつくロつ
お釈迦様でも空になれ空になれ、と言うんだし、キリストも神の国を見つけ出せ、と言
うんだし、すべて内在する神、いわゆる霊なる自分を見出させようとして、肉体生活にこ
びりついている想い、肉体生活を守ろうとする想い、自己保存の本能と私は呼んでいるけ
れども、そういう本能から超越させようとして、宗教が今日まできているわけなのです。
ところがそれをあまり真正面からやると、心の善人は痛んでしまう。本当にお釈迦様の教

えはもっともだな、イエス様の教えはもっともだな。「上着を奪るものがあったらば下着
213あなたが救世主
も与えよ、右の頬を打たれなば左の頬も打たせよ」本当にそのくらいの平和な気持ちがな

ければいけないんだな、と思います。思いますけれども、実際問題として、上着を奪るも
のがあったら、下着もやるというほどの人もいないです。上着を奪られたら怖いと思って
逃げるか、ぶんなぐってしまうか、どっちかです。サアサアどうぞと下着もやる人はいな
いです。というように、思っているけれども、なかなか出来るものではありません。そう
いうんでしょ。
まず自分を省みないで人のために尽くせ、と言っても、自分を省みなければ人のために
尽くせない。夫が他人のために尽くしたとしても、妻が夫に反対では、そんなに人のこと
ばかりやって、うちのことはどうするんですか、ということで夫婦喧嘩になります。そう
すると妻も子供もやっぱりお父さんは駄目だ、人はいいけれども自分の家のことは一寸も
見やしない。人から有難いと感謝されるからやるけれども、自分の家の者からは感謝され
ないから一寸も家のことはやりゃしない、というように、家族から非難されます。だから
これが真理だと思ってもなかなかやれないのです。214
いい教えを聴けばきくほど自分が苦しくなってくる。真理はこうなんだけども自分とし
ては出来ないんだ、ああ自分は駄目なもんだなあ。人間というのは駄目だなあ、というふ
うに、駄目だ駄目だというような心が多くなりまして、それで駄目だと言って否定するよ
うな想いが、今度は宗教の根本のように間違って考えられてくるわけです。
くりつ
お釈迦様が教えたのは、人間はみんな仏性があるんだ、だからそれを磨き出し空の境地
げだつ
になれば、何も把われないもの、解脱したもの、いわゆる神の子の姿が現われてくるんだ、
ということです。イエス様も自分の内の中に神があるんだ、だからそれを出せばいいんだ、
というふうに各々説いているわけです。
只お釈迦様は坐禅観法をしたり、自分で中の仏を出すような修行をさせたわけですね。
イエスさんは、自分を十字架にかけてイエス・キリストのみ名によって救われる、という
ように導いてきたわけですね。仏教の中でも真宗のように浄土門は、南無阿弥陀仏と阿弥
陀様に救われるんだ、称名念仏していれば救われるというように、阿弥陀様をもってきて、
そこにすがってゆくようにしたわけです。そういうようにして救いの道を明らかにしよう
215あなたが救世主
としたんだけれども、なかなかそれがむずかしい。それで悪い人は面倒くさくてそんなご
ぜいたく
とをやらないでもって、どんどんこの世の贅沢をする。この世ではどんな悪いことをして
も、法にさえふれなければ良心に恥じないで済む、どんどんお金もうけもするし地位も高
くなっていく。いい人はいい人でもって、宗教に掴まってしまって、自分を悪い悪いと責
める。あるいは人が悪い悪いと責めていく、というように今日まできたんですよ。まだ時
代がこなかったわけですね。
人類の業想念を全部浄めなければ
ところが今は人を責めたって自分を責めたって、どうしたって駄目なんです。どういう
道から入っても、地球人間の業想念の波動を全部変えなければ、全部ですよ、全部変えな
い限りは地球は亡びてしまう。どこかに一寸寄付した、それで済ましちゃおう。個人に一
寸よいことをしたから、それで良心が満足する。そんなことでは救われない。一寸でも人
にお金をやった、いいことをしたからそれで救われるか、そんなことでは救われない。そ216
んな小さな善では救われない。根本からの善行為、根本からの行ないが改まらないと、要
するに業想念波動が地球世界からすっかり姿を消す、すっかり消滅しない限りはこの地球
人類は救われないわけです。そういう瀬戸際にまできてしまった。
例えばいい人が十五億いたとします。反対にあと十五億が平気で悪いことが出来るとし
ます。いや半分どころではない、八十% 普通いう善い人間がいたとしても、戦争は防げま
せん。天変地変も防げません。戦争の波というのは、いい人悪い人の問題じゃない。ケネ
ディさんだっていい人だし、フルシチョフだって個人とすればいい人かも知れない。しか
ごう
し国の業人類の業に巻きこまれますと、一寸した位のいい人なんか問題じゃなくなっちゃ
うんですよ。パーッと波がかかってくると、例えばソビエトが何々をしようとする、とい
うデマでも入ってくる。そうしたらアメリカはすぐ戦時体制を敷き、すぐ迎え撃とうとす
る。この間も最前線のレーダーが故障したということがあった。アメリカでは原爆を積ん
だ飛行機が一勢に飛び立とうとしたんですよ。もう一寸報せが遅れたら戦争が起こったか
も知れない。そういうことがあったわけです。
217あなたが救世主
今はアメリカでもソビエトでも中共でも、みんないざとなったらすぐ世界大戦にもって
いくような体制が出来ているわけです。その危機を延ばしているだけです。そういう立場
でみんな待機しているわけですよ。相対しているわけです。だから一つの火が入れば、パーッ
と大きな火に燃え上がってしまう。だからいくら善意の人が八十% いたって駄目なんです。
そういう笠呈思じゃ駄目なんです。ちょっと人を愛した位のものでは、くどいようですが駄
目なんです。そしたらどうしたらいいか、結論的にいえば全世界人類の業想念というもの
をきれいに無くさなきゃ駄目です。
肉体界というものがあります。そのまわりに幽界というのがあるわけ。幽界というのは
汚れた想いが一杯溜まっているところです。その上に霊界というのがあり神界があるわけ
です。霊界神界というのは浄まっていて、神様の光がそのまま入っているところで、幽界
にくると、今まで過去世から蓄積されていた肉体を守ろうとする想いが、一杯あるわけで
す。それが黒雲となって渦まいている。この幽界の黒雲の波を受けて肉体の生活が行なわ
れている。そしてまた肉体生活の波を受けて幽界が出来ているというように、ぐるぐるぐ
218
るぐると肉体界と幽界とを廻っているわけです。それで幽界にあるものが肉体界に現われ
てくる。
もっとやさしくいえば、自分が子供の時に親を恨んだ想いが一杯あるとします。それは
自分の幽体に溜まっている。そして幽界をぐるぐる廻って、自分と幽界とをぐるぐる廻っ
ているわけですよ。それがある時何かの縁にふれると、親と喧嘩したりする。というふう
に現われてくるわけなんです。
過去世で想ったことは何処にあるかというと、幽界に一杯詰まっている。今想ったこと
は何処にあるかというと、肉体界で想うけれどもすぐ幽界につながっていく。幽体がくっ
ついているんだからね。だから幽界には悪い想いと善い想いがこっちゃにあるわけです。
それが肉体界と幽界をぐるぐる廻っている。だから肉体界だけのことを考えたのでは、絶
対にこの世は幸せにならないんです。肉体界と幽界とを共に含めて考えて、そこが業想念
の場として考えないと駄目なんです。
219あなたが救世主
一番尊い一番善なる行為
220
普通の場合はそれを肉体的によくすればいい、と肉体的のことばかり考えているわけで
す。口かしそれでは肉体的に善いことをしたってそんなものは世界を救う程にはならない
わけです。そこで私の運動はどういうことかというと、幽界つまり業想念の波のあるとこ
ろですが、その業想念を光の波動で全部浄めてしまおうということなのです駅大掃除して
光一元になれば、幽界の光の波が自然に肉体界に入ってくるから、お前善いことをしろ、
こうしろと言わなくても、知らないうちに自分の心が改まってきて、善い行ないが出来る
ようになるわけです。
例えば、ケネディならケネディ、フルシチョフならフルシチョフが、戦争をしようとい
う時に、ああそれはいけないことなんだな、世界は平和でなければいけないんだなあ、と
フッと思わされる、そういう光の波が入ってゆくわけですよ。アメリカにでも中共にでも
ソビエトにでも、あるいは小さな国々にでも、戦争にもっていこうとする不調和な波があ
るのです。だから何にもまして一番大事なことは、そういう不調和な波を消す運動なんで
すよ。消す運動はどうしたらいいかといったら、肉体が一々ケネディに会って、それはい
けません。なんて誰でも言えっこないんだし、言ったって聴いてくれません。聴いたって
それを実行してくれるわけではない。フルシチョフのところに行って、お前戦争はいけな
い、と言ったって、何にもなりゃしない。肉体の頭でいくら言ったって、肉体人間はバカ
なんだからわかりはしません。そんなことじゃなくて、幽体や幽界に溜まっている汚れを
中からまず浄あて澄さなきゃ駄目なんですよ。波を改めなきゃ駄目なんです。だから何に
もまして一番尊い、一番善なる行ないは何かというと、大神様のみ心、宇宙神のみ心の平
和の心、大調和の心、み光を世界中にふりまくことなんです。それが現代において一番大
事なことなのです。
小さな悪なんかその中に吸いこまれちゃうんです。例えばいつも言うんだけれども、嫁
さんが姑さんをいじめても、姑さんが嫁さんをいじめてもそんなことは僅かです。そんな
ことは小さなことだと神様は言うんだね。右手でいじめながら、左手で世界人類が平和で
221あなたが救世主
ありますように、と祈っている人は実際問題として随分多いわけです。私は嫁をいじめた、
悪いな、なんだか気がとがめるから、世界平和の祈りで勘弁してもらおうと思って、世界
人類が平和でありますように、と姑は姑で、嫁は嫁で祈っている。それでもいいんですよ。
姑が嫁をいじめ、嫁が姑をいじめる悪よりも、世界平和の祈りをするほうが大きい善だ、
と言うのですよ。だから神様はくよくよするなと言うのです。小さな悪をほじくり返すこ
とはいらないから、持った想いはそのままでいいから、世界平和の祈りを一生懸命祈れ、
かか
とこう神様はおっしゃる。人間は枝葉の小さなことに拘わったら、ますます小さくなって
しまう。そのうちに亡びてしまうから、まずまず世界人類を亡ぼさないことを一番先にし
なきゃ駄目だというのです。そうやっているうちに、世界が和やかになって、幽界が
きれいになってくれば、いつの間にか自分のほうがきれいになってしまうんですね。だか
らまず、
“己が幸願う想いも朝夕の

世界平和の祈り言の中” 222
という歌がありますね、自分の幸、自分の一家の幸を思う想いも含めて、
平和の祈りの中に入れてしまいなさい、と教えているわけですね。
守護の神霊への感謝行から始まる
かまわず世界
それで私の初めの教えというのは守護霊守護神の加護と感謝ということでした。守護霊
さん守護神さんがいらっしゃって、守っていらっしゃるから、絶対にあなた方は不幸なこ
とはないんだ。守護霊守護神の加護を感謝しながら生きていれば、守護霊守護神が守りや
すくなるから、例えば大怪我をするところを小さい怪我で済ましてくれる、と言って守護
霊守護神への感謝を第一段階として教えた。それで守護霊守護神としっかりとつなげた。
その守護霊守護神はどこにつながっているかというと、救世の大光明、宇宙神の人類救済
の光につながっているわけです。救世の大光明はどこに来ているかというと、ここへ来て
いるわけです。そうすると守護霊守護神だけでは助けられないような場合、大きな救済力
が救世の大光明から働いていって、助かるわけです。だから皆さんが、世界平和の祈りに
223あなたが救世主
入って、私に会った時、もう運命は変わっているんです。今までの運命と五井先生につな
がった時とまるっきり運命が違っているんだ、ということをよく認識することですよ。皆
さん全部は守護霊守護神に連れてこられている。だから世界平和の祈りを一言でも唱える
気持ちになったということは、その人の運命は変わったことです。どういうように変わっ
たかというと、暗の世界から光の世界に入ったわけです。
第一段階として守護霊守護神への感謝をしたでしょ。それから世界平和の祈りが始まっ
たでしょ。世界平和の祈りをしていると、今度は宇宙人が、星の天使達が応援に来たわけ
です。はじめ薄っすらとしていたのが、だんだん濃くなり、遂いに姿を現わすというとこ
ろまできた。そうすると霊眼の人にはよく見えてきた。もう殆ど肉眼に近く見えてきた。
姿を現わすのが先かと思ったら、そうじゃなくて、要するに、姿を現わして何か言ったっ
て、皆さんだけがわかることであって他の人にはわからない。なんだ集団催眠にかかって
いるんだ、とか言われてしまうわけです。みんな新しく生まれた宗教というと、眉に唾を
つけているんですからね(笑) ところがうちの教えは新しく生まれたんじゃないんです。224
世界平和、大調和というのは昔の昔からある宗教の根本理念なのですから、今更生まれた
んじゃなくて、姿を変えて現われただけなんです。それで皆さんが世界平和の祈りをして
いると、みんなの想いが祈りの大光明の中に入っていくわけでしょ。祈り心でみんなの心
がだんだん光に満ちてきたので、宇宙人が現われやすくなった。そしてもう少しで現われ
るという寸前になって、姿を現わしてもジャーナリストに追いまわされ、騒がれて迷信だ
なんて言われるといけないから、それより先に本当の力、実力をみせたほうがいい、目的
を達成する力を現わすほうがいいというんで、宇宙子科学という形で現われてきたのです。
それで適する人達が集まって今勉強研究しているわけです。
宇宙子科学とは
どういうことを勉強しているかといいますと、宇宙は波動であり、すべて万物は波動で
成り立っている、というんです。地球科学では物体を小さく割ってゆくと、分子になり、
分子を割ると原子になり、原子を割れば電子や陽子や中間子になる。私は科学者じゃない
225あなたが救世主
んだけれど、この位のことは誰でも知っているんですね。陽子、中間子となってその奥が
波動だという波動説になっているのですが、そこで止まってしまって、先はわからないん
ですね。ところが宇宙子科学というのは地球科学をはるかに超えた、宇宙神の心のほうか
ら画いてきているのです。
宇宙神のみ心は宇宙心として働く。宇宙心は何かというと光の波動なんです。そして縦
横十字に天地を貫いて、いわゆる宇宙神の奥の段階からこの微粒子、原子、分子にいたる
まで貫いて働いている。この机の中、マイクロホン、この茶碗の中にもみんな宇宙心が働
いている。みんな宇宙神の心が働いていないものはないんです。かびにも、切った木でも、
石炭にも生命が働いているんです。只精神波動、精神の働きというものが少ないんです。
言い換えますと、人間というものは精神波動が一杯ある。物質の波と調和して完成して
いればいいんだけれど、そういうように出来ている。それで猿になり、獣類になり、鳥に
なり、昆虫になり、魚になってゆくに従ってだんだん精神波動が少なくなって、物質波動
が多くなるわけです。そしてやがては鉱物になっているわけです。精神波動が少ないほう226
が下等と言われる生物になり、植物や鉱物になる。だんだん精神波動が多くなるにつれて
高等的になり、人類のようになるわけです。ところが地球界の人類なんて、人類のうちで
は高級ではないんです。学者が偉そうなことを言うかも知れない。けれど宇宙の人類から
見れば、まだまだ幼い弟なんですよ。「幼い弟妹達よ」と言うんだからね。この幼い地球
人を救うために、協力しようと宇宙人が現われて宇宙子科学を教えはじめたのです。
宇宙子科学というのは何かというと、全部波動説です。宇宙心が宇宙核というものになっ
て中心に働くわけです。宇宙核の中から中心核が出、中心核から宇宙子核、そして宇宙子
核から宇宙子という波動になっている、核がそれぞれ七つずつあって入れ替わり入れ替わ
りして、精神波動と物質波動がありまして、それが上手く混ぜ合わさって進んでいくわけ
です。その段階が十七段階あるというんです。今その第一段階を教わり、第二段階へ移っ
たころなのです。理論宇宙子学なんですね。その図面が今ここにありますが、百二十畳あ
るんです。これ一杯にいろんなことが書いてあるんです。図面を開けば光がバーッと交差
するんです。
227あなたが救世主
この図の中には大生命の根源が画いてあるのです。これから第二段階がすべて画かれて
第十七段階まで画くんですけど、そのうちにはここ一杯になっちゃうと思うんです。理論
的に画いたわけだけど、宇宙心のそのまま直接の現われというのは、理論が理論じゃない
んです。この図面を画いたことによって、天の理念が地にうつったのです。だから出来上
がったと同じなんです。宇宙子科学が本当に使える日、完成する日がうつっているんです。
まだ第二段階ですからあんまり大きいことは言えないけれど、天の理念が地にうつったわ
けなんです。今までの宗教というのは只あなたはこうこうしなきゃ駄目だよ、こうしなさ
い、ああしなさいと説教するだけ。今はそんな時代じゃない。実際に行なえることが出来
なきゃ今の時代は駄目なんですよ。それで世界平和を祈る会の宗教は何かというと、宇宙
人と協同で、救世の大光明が働いて、宇宙のすぐれた人類の智慧をお借りして、科学力を
もって、世に問うわけですよ。その第一歩が印されたわけです。ちょっと愉快なんですよ。
今までさんざん苦労したでしょ。これでもって人類が救われる第一段階の口火が開いたん
ですからね。一寸うれしいですよ。第二段階第三段階とどんどんやっていけばいいわけで228
すね。
そうすると波動と波動を合わせれば、空中からパッと食物が出来るとか、例えば、不調
和な人がいたとする。波を送ると想いをパッと調和させる。そういう波動があるんですよ。
心をパッと変えてもらいたいとか、悪い人はパッといい人にしてもらいたいとか、みんな
が待望しているでしょ。そういうことがやがて出来るんですよ。そういうものが科学力で
出来るんです。
みなさんはかけがえのない同志
一方でもっては宗教的な祈りの力で光を送ってゆく。皆さんが世界平和の祈りをしてい
ることは、救世の大光明が自分の体を通して横に流れて、地球世界全部に光をふりまいて
いるのです。だから皆さんの世界平和の祈りは実に大事なんですよ。皆さんの世界平和の
祈りが宇宙人の働きを楽にさせる。五井先生の働きを楽にさせるわけです。だから皆さん
は私にとってはかけ替えのない同志です。皆さんが救世主なんです。一人一人が救世主な
229あなたが救世主
んです。一人一人が世界を救うんです。それを忘れてはいけません。一人一人が救世主、
という自覚を持って下さい。救世主が嫁さんをいじめていたんではしようがない(笑) やっ
ぱり救世主とおだてられちゃ、少しは立派にならなければならない。
「自分はこの世の中に必要な者なんだ、この世の中になくてはならない者なんだ、自分
一人が欠けたら、この世の中は救われないんだ、だから自分の心を大事にして自分を立派
にしなきゃならないのだ」という自覚を持たなきゃね。自分なんか一人位いたっていなく
たって、どうだっていい、という調子じゃ駄目なんですよ。自分がどんな惨めな環境にあ
ろうと、病弱であろうと、どんなに貧乏であろうと、そんなことは一切、過去世の因縁が
ひとりでに消えてゆく姿として現われているだけだから、今の自分にはなんの関係もない
のです。それをみんな間違えてしまうんです。
今、貧乏である、今病気である、今不幸である。そうすると、今の自分が間違って、今
の自分が不幸なような気がするんです。そうじゃないんだ。今の自分とは違うんです。過
去世の波が本心の前を通り過ぎてゆくだけなのです。今の自分とは違う。世界平和の祈り230
を聞いて、お祈りをしているあなた方は、神の子であり、菩薩であり、天使であり、救世
主なんだ。今不幸だ、今病気だ、今なんだかんだといっているものは、消えてゆく姿なん
ですよ。過去のもの、済んじゃったものが、現象に現われて消えていくんだから、掴みさ
えしなければそのまま消えてゆく。では自分は何を掴んでいればいいか。神様だけを掴ん
でいればいい。「ああ自分は神の子なんだな、自分は天使なんだなあ、自分はこの世に、
世界平和の祈りのために来ているんだなあ、世界を平和にするために来ているんだなあ」
というように本当に思って、世界平和の祈りの中に入ってくれればいいんですよ。そうす
ると現われているものが、どんどん日を経るに従って消えていきます。すると菩薩の本体
が現われてきて、何ものも恐れない光一元になる生活が出来るようになるんです。
それを今までの宗教というものは、自分の欠点や不幸を掴んじゃう。私があんな想いを
したからこんなになっちゃって。あの因縁がこう来て、ああ来て、とやっている。そんな
もの掴んでどうするのか。また掴むことを教えているんだからね。お前の心が悪いから、
お前が夫を拝まないからそうなったんだ、というんですね。なってしまったものを今更拝
231あなたが救世主
)
んだって間に合わない。また拝みはしないんだ、恥ずかしくて。大体自分の夫や妻なんて
拝めるもんじゃない。やってごらんなさい。「只今帰りました。奥様有難うございます」
(笑) 片方は「お帰りなさい、旦那様有難うございます」(笑) バカバカしくてやってられ
ますか。拝み合うのは本当の姿だけども、合掌しなくてもいいですよ。心の中で「わが夫
は神の子だ、有難うございます。」と拝めばいい。そう心の中で思えば、自然に優しくな
ります。形だけやっているとしまいに面倒くさくなって、ありがとうありがとうと、合掌
の手を上げたり下げたり(笑) 何が有難いものかね。私はそういう形だけが嫌いです。や
るんだったら心の底からやらなきゃ駄目ですよ。形だけをやっていると、いつの間にかそ
れだけでいい、とごまかしてしまう。形は心から現われてこなければ真実ではありません。
うちの教えというものは裸になること。裸になって業想念があればあるでいい。貧乏、
病気、不調和があったらあったままでいい、と私は言うのです。楽なもんですよ。お前こ
うしてはいけない、というんではない。思ったままそのまま、世界人類が平和であります
ように、と入った時にはそれだけ消えている。自分でわからなくともいいんです。それだ232
け消えたんだ、と先生がいうのだから確かです。やがて日を経るに従って、ああ消えていっ
たんだなあ、ということがよくわかります。昔の自分、三年前の自分、一年前の自分と今
の自分を見ると、まるきり違っている。そういうように自然になる。
世界平和の祈りというのは、本心の中に入っていく、自分の本体、神の心の中へ入って
ていくのだから、神の心の中に年中入っていれば、業想念はいつの間にか消えていきます。
これは当然無くなるんですよ。そういう教えをしているわけ。
と共に、宇宙人が援助に来て救世の大光明と共に、宇宙子科学を教えてくれるわけです。
これが出来上がるためには、皆さんの世界平和の祈りが非常に必要なんです。一人でも多
く世界平和の祈りをすることが、宇宙人の働きを楽にするんだし、光を宇宙中に振りまく
大きな助けとなるのです。私一人ではいくらやったって駄目ですよ。少数の人がやったっ
てしようがない。みんながやることが大切なんです。
今に世界中が世界平和の祈りを必ずやります。その先達として先駆として、皆さんが貧
乏にも耐え不調和にも耐え病気にも耐えて、世界平和の祈り一念で生きて下さることが一
233あなたが救世主
番大事だと思うんです。それが世界平和を創る一番の根本なのです。他の人がやるのでは
ありません。自分達がやるんです。私が指揮をとりますから、みんなが一生懸命祈って下
さればいい。合唱は大勢なら大勢ほどきれいです。三十億の世界平和の祈りの大合唱をし
なければいけません。(昭和37年10月14日のお話)
234


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