高級霊は上機嫌

ハイスピリット
高級霊は
上機嫌
じょうきげん
五井昌久著

著者(1916~1980)
私たちの考え
私たちは、人間とその生き方については次のように考え、実行しております。
わけみたまごうしょう
『人間の真実の姿は、神の分け命(分霊)であって、業生ではなく、つねに
祖先の悟った霊。てある守護霊と、守護神(大天使)によって守られているもの
である。
この世の中のすべての苦悩は、人間の過去世から現在に至る誤った想念が、
その運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
いかなる苦悩といえど、現われれば必ず消えるものであるから、消え去るの
であるという強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな
3
ゆる
困難の中にあっても、自分を赦し、人を赦し、自分を愛し、人を愛す、愛と真
と赦しの言行をなしつづけてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつ
ねに想い、世界平和の祈りを祈りつづけてゆけは、個人も人類も真の救いを体
得できるものである』
《世界平和の祈り》
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
,
てんめいまっと
私たちの天命が完うされますように
守護霊様有難うございます
守護神様有難うございます
4
徹頭徹尾平和の祈り… … … … … … ・・… ・… … … … ・… ・・…
100
運命は変わる● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ■ ● ● ● ● ● ● 9 ● ● ● ● ● ● ● O ● ● ● 9 0 ● ● ● O ● ● O ■ ● O ● O ■ ● ● ● ● ● ● ● O ● ●
93
自分の心を調和させよう
76
最大限に生かされる■ ● ● ○ ● ● ● ■ ● ● ● ● ● ● ● ● ■ ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ■ ● ● ● ■ ● ■ ● ● ● ● ● ● ● ● ● ・● O ● ●
60

ノレ

ノレ
損してまるまるとくする生き方… … … … ・… … ・・
53
自己を信頼せよ● ■ ● ● ■ ● O ● ● ● ● ● O ● ■ ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ■ ● ■ ● ● ● ● ● ● ● O ● ● ● ■ ● ● ● ● ● ● ● ● ● O ● ● ● ●
43
家庭調和の鍵… … … … … ・… ・・… … … … … ・… ・… … ・… … …
29
積極的に善をなせ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● O ● O ● ● ● ● ● ■ ■ ■ ■ ● ● ○ ■ ● ● ■ ● ● ● ● ● ● ・O . . ●
17
_■口」」凸,、
同イ
毅皿





● ● 9 σ ● の■ ● ● 9 ● 9 ● 9 ● ○ ● 9 ● ■ ■ ● 9 ● ■ 9 ■ ● ■ ● ● ● ● ■ ■ ● ● ● O O O ● ・● ● ● 9 ● . O ●
7


5
祈りの姿とその功徳
自分の本体を思い出す
169 154136
6
神の法則にのる
装頓笹本悦子
ハイスピリットじょうきげん
高級霊は上機嫌
いい人といわれる人の弱さ
“どうして善人といわれる人、神仏を求めているような人が、この世で不幸になって、神や仏を求
めない人、ガムシャラにやっている人が幸福なのか”という質問をする人がよくいます。大体良心
的な人や、人生というものを真面目につきつめて考える人は、人を押しのけて金持になった人や悪
いことをしながら、地位の上がっている人等を憎み妬む傾向をもち、自分自身をいじめ、さいなみ、
そして悩むことが多い。
このような俗にいういい人、とはどういう人であるかというと、今迄は、いちいちああしてはい
けない、こうしてはいけないと自分を反省し、何をするにも一寸でも曲っていると思い切って踏み
高級霊は上機嫌
7

きれぬような人をいったわけです。けれど私の教えの中では、こういう人をいい人とはいわないの
いのら
です。何故かといいますと、自分の生命の自由をせばめていて自分の生命を生かさないからです。
神様神様といいながらも、神様のみ心を生かさない。神様のみ心を生かすというのはどういうこと
わけいのら
かというと、自分は神の分生命だから、自分の生命を自由にのばして、生き生きと生きている、把
われなく自由にのばしてゆくのが、神様のみ心なのです。だから神様のみ心に叶うためには、生命
を自由にのびのびと生かさなければだめです。
ああしては悪い、こうしては悪いと自分ばかりいじめたり、狭い気持で人を批判したり、そうい
うのがいい人ではない。いい人とはいわないのです。ただいい人のように見える人です。何故かと
いうと、自分を傷つけるからです。人を傷つけることもいけないけれど、自分を傷つけることもい
ゆる
けないことです。それで私は、自分を愛し人を愛し、自分を赦し人を赦しという教えをしているの
です。いつも自分というものを先に入れているのです。
8
ハイスピリットは上機嫌
英語に面白い言葉があるのですよ。イン・ハイスピリッツという言葉があるのです。ハイスピリ
ットというのは、高級霊ということなのですね。イン・ハイスピリッツで上機嫌という意味になる
のです。ですから上機嫌ということと高級霊魂ということとは、英語では同じなのですね。
上機嫌で、いつも明るく朗らかな人はハイスピリットなのです。私はその英語を一寸見て、面白
いなあと思ったのですよ。
いい人がはじめ反省しています。やることやることをいちいち、これは神のみ心に叶わないので
はないか、仏の道に叶わないのではないか、人の道にはずれていないだろうか、といちいち反省し
ている。それは一寸いいことのように見えるけれど、反省というのは、ああ悪かったなとかえりみ
て、パッと改めればいいのですよ、悪かったな、悪かったなとふた月も三月も悪かったを繰り返す
のは、これは愚かです。悪かったを楽しんでいるみたい(笑) それは一遍でいい。”しまった、こ
れからもうやるまい、消えてゆく姿”とやって、それからいいことをどんどんしてゆけばよいでし
ょう。それを大概のいい人というのはくどくどしている。あんまりくどくどしい(笑)人にもくど
くどいうのは嫌われるし、自分にもくどくどいってはいけません。女の人は特にそうです。それは
非常にばからしい。悪かった、と思ったらそれは一ぺんでいいじゃないですか。それで消えなかっ
たら、世界平和の祈りの中に悪かったことを入れてしまうのですよ。〃しまった、もう再びすまい。
高級霊は上機嫌
9
ごめんなさい、世界人類が平和で… … “と祈りに入ってしまって、観の転換をするのです。明るい
方、上機嫌のハイスピリットの方に持っていってしまうのです。すると気持が明るくなる。
要するに朝から晩まで気持が明るいということは、汚れが少い、業が少いということなのですよ。・
10
自他の想念感情に把われないこと
自分にどんな理屈があって、どんなに自分がよくて相手が悪くても、またどんなに悪い環境にあ
っても、上機嫌でなければだめなのですね。不機嫌になること、怒ること、暗くなることは一切消
えてゆく姿なのです。いつも気分を明るくしている。誰があっても、あああの人はなんて明るくな
んて気持のいい人だろう、と相手にいい気持を与えなければね。それは顔の問題ではありません。
器量が悪くても、とても明るい人がいます。その人に会うと、なんだか心が暖かくなって、ニコニ
コしてしまう、何べんでも会いたいという人がいます。器量がよくても、会って暗い感じがすると、
なんだかあの人に会うと、暗い憂うつな気持になるという人がいますよ。感じが暗い、それは本当
はハイスピリットじゃないんだな。
そとずらうち
ハイスピリットになるには、あくまで上機嫌でなければならないのです。それで外面がよくて内
ずら
面が悪いということがありますが、そういう人は半ハイスピリットだ(笑)内面がよくて外面が悪
い、というのもありますね。それはどっちもだめです。内も外もよくなければ、本当のハィスピリ
ットにならない。ということは、とらわれがない、とらわれをなくすということなのです。どこに
いても把われがない。そういう人が一番偉い人。把われがあればあるだけ、それが善であっても、
国家を憂う想いであっても、人類を憂うような想いであってもだめなのです。人類が人類がといっ
て、人類の幸福を想っている人があります。それでもいつも暗い顔をしている人がある。暗い顔を
しているだけ、人類のマイナスになるのです。それを知らないで、人類が世界が、日本が… … とや
っている。それでは何にもならない。
想いがすべてを決定する
想いがすべてを決定するのだから、人間一人一人の想いが、明るい上機嫌か不機嫌で暗いかによ
って、簡単にいうと運命が決まるのですよ。それをむずかしく学者方がいっていますが、根本をい
えば、明るく機嫌がいい、どんなことがあっても気分がこわれない。どんなことがあっても自分の
心が暗くならない。自分の心が怒りにみちない。いつでも明るくやわらかく朗らかになっていられ
11 高級霊は上機嫌
る。そういう心が一番大切なのです。それが神様のみ心なのです。だから神、神と外へ求めたって
本当は仕様がないのです。天にまします、でなく、わが内にまします神様。その神様はどういう形
であるかというと、明るく柔かく慈愛にみちているわけです。
神様神様といいながら、人をやっつけたり、自分をいじめたり傷つけたりするのは、神様の心に
反します。自分を痛めるのも、人を痛めるのも神様のみ心に反するのだから、明るい上機嫌でいな
ければいけない。それにはどうするか、不機嫌をなくすればいいんです。ところがみな不機嫌ばか
ヘヘへ
りをつかまえている。「私はなんだかシャクにさわって」といっています。さわったのがさわりな
のですから、これをどこかへもってゆく、つまり、神様の中にもっていって処理してもらうのです。
不機嫌という感情をつかまえてはいけませんね。しかしつかまえてしまったら、つかまえたなり、
世界平和の祈りの大光明の中に入ってしまうのです。
12
お互いが相談相手になろう
光が自分の中に輝いているのだけれども、本心の光の中に入るのには自分が弱すぎる。どうして
も業に囲まれて怒りなら怒り、不安なら不安の中に入ってしまう。本心の自分の中に入れば消えて
しまうのだけれど、本心の中に入れない。出て来る業想念にふりまわされてしまう。そしたらば、
本心が大きく出ている人のところにもってゆくのです。”どうしましょう” ってね。そうするとそ
こで消えてゆきます。それだけ光って来るわけです。それをお互いにやればよいのです。それで足
りなかったら私の処にもってくればいいのですよ。そうすればポンポンと柏手をうって、ニコニコ
と笑われてしまい、それで消えてしまいます。あれもこれもいおうと思って来たのが、先生の前に
坐ると、みんな忘れてしまう、何もいうことがなくなってしまう、とよくいいます。口でいわなく
てもいいの。てすよ。ただ神様の光を浴びにくればいいのです。
お互いが相談相手になることも、ある時は素晴しく悟ったような気がして、なんでも相談に来な
さい、という心になるが、次の日はしょんぼりしてしまって、昨日の相談相手の人に相談している、
ということがあるでしょう。ある時はよくて、ある時はダメだというのでは、本当のハイスピリッ
トではないのですが、この肉体の世界は業生の世界ですから、業想念がお互いにうつって来るので、
迷っても仕方がないのです。波なのですから。今台風が来ています。私の右腕がねじれるように痛
い。しかし痛いと思うだけで、柏手をうつ時は平気です。このように私にも波がかかって来るので
す。だれにも人類の想いはかかってくるのです。それが自分の中の業とマッチ(合)して、引出さ
13 高級霊は上機嫌
れて来て、不安になったり、怒りの想いが出て来たりするのです。
14
今の自分は神様だけを想っている
ところが自分がそうなるのではないのです。自分が怒っているわけでもなければ、自分が不安に
なっているわけでもなければ、自分が妬み心になっているわけではないのです。自分がヒステリー
になるわけではない。ヒステリーなどになるのは、人類のどこかにヒステリーという業の想いがあ
ります。それがヒューッとかかって来て、自分の中の業が引出されるのです。するとあたかも自分
がやっているような気がする。
ですから第一歩として、自分の感情想念と輝いている本心の自分とが、ハッキリニつにわけられ
ればいいのです。〃今さかんに業が出て来ている。しかしこれは消えてゆく姿”というように思え
ればしめたもの。あとは時間の問題です。”ああ私の本心は輝いているのだ、業が今消えてゆくの
だ、業は何時間で消えるか、何日で消えるかな”そんな気持でいれば楽です。その間に、二つや三
つ子供を殴ってしまうかも知れないけれど、それはおまけで仕方ない。
消えてゆく姿の教えがないうちは、私はこんなに信仰しながら、どうしてこんなに怒りっぽいの
だろうとか、恨みっぽいのだろうとかこうやりますね。しかし神様を想っている自分と怒ったり妬
んだりしている自分とは違います。不安がっている自分とも違います。それは消えてゆく姿なので
す。今の自分ではなく、過去の世において出していた波なのです。その波が現われて消えてゆこう
としているのです。今出している波ではない。今出している波(想念)は神様! と思っているの
です。それを今神様神様と思いながら、自分の悪いことをつかんでいる。そして私はダメだ、あの
人はダメだとやっている。
いつも上機嫌な本当の自分をつかめ
あの人はダメだとか、自分はダメだとかいうのは、今のものではなく、前の世からの想いの消え
てゆく姿なのでしょう。それをダメだ、ダメだと想いを出す。出しているということは、業をつか
んで引寄せていることですよ。バカなことです。そう教えるのがあたかも宗教だと思って、お前の
心が悪いのだ、と今迄の宗教はやっていたのです。それははじめはいいのですが、それに心が習慣

づけられ、慣れると、人を見るとあの人はああだからああだ、あるいは自分の一寸とした悪を見て、
ああこれは… … とやる。いちいち面倒くさい。自分や人をいじめてばかりいる。だから家の中が暗
15 高級霊は上機嫌
くなる。上機嫌でいるべきものが、あの人はあの心が悪い、私の心が悪いのだと悪ばかりつかまえ
て、みんなを暗くさせて不機嫌にさせてしまう。それで神様、神様とやったって、そんな神様は何
にもならない。それでは神でも仏でもない、業想念です。
悪をつかんではダメ。悪はまちがった想いの消えてゆく姿。実在するものではない。ですから本
当の自分だけをつかめばよい。本当の自分とは何か。上機嫌の自分です。明るい自分、柔和な自分、
光り輝いている自分です。その他の自分はあるべきものではない。消えてゆく姿の自分なのです。
これを徹頭徹尾想うことです。
けが
自分の心を機すもの、自分の心を不安にするもの、自分の心をヒステリーにする、自分の心を妬
み心にさせる、それらはみな消えてゆく姿です。只本心の前を通りすぎてゆくだけなのです。通り
すぎてゆく間、神様の中に、世界平和の祈りの中に入っていればよいのです。そうすると、あとで
明るく晴れやかになって、”ああ私はよかった”と思う、だからいつも本心と業想念とをわけてい
ることです。通りすぎてゆくと思っていると、だんだん光が大きくなって、宇宙大に光り輝くよう
になります。そしていつも上機嫌でいられるようになるのです。
16
積極的に善をなせ
人間は初めから神の子
物質科学の発達、あるいは人間の精神的生長によって、この世の中はだんだんよくなってゆくと
誰でも思っていますね。しかし、この世の中は、だんだんよくなってゆくというのではないのです
よ。変なことをいうようだけれど、同じ形が進歩して、だんだんよくなるというのではないのです。
この三界(現象) の世界というものと、天国というものとは全然別なのです。違うのです。とい
うことはどういうことかというと、一日増しによくなるというのではなく、はじめからいいのです。
これが法華経の極意、神道の極意なのです。
人間というものは初めから神様の子で、はじめから汚れもなければ、病気も貧乏も悪いこともな
17 積極的に善をなせ
いものなのです。本当はそういう世界なんだけれども、それがこの地上界にうつし出されてくるた
めに、形の世界にうつし出されてくる過程として、完成への過程として、悪いように見えているだ
けなのです。だからこれからよくなるのではなく、消えてゆく姿です。消えてゆくものに把われず、
どんどんかまわず消えてゆくものは消えてゆくとして、こちらは世界平和の祈りで神のみ心の中に
入っていさえすれば、いつのまにか悪いものは消えていって、いいものが現われてくるのであって、
今改めてよくなるのではないの.てすよ。今あらためてよくなるのであるとすると、私のようなダメ
なものが、神の子のようないいものになれるわけがない、とこういうようにやってしまう。”私の
ような”というのがあるんです。その私のような、というのは業の方であって、あなた方自身では
ないのですよ。それを間違えてはいけません。
私自身でもそうであったのです。私は子供の時から病弱であった。だから小学校一年の時、半分
も学校へ行かれなかった。ちょっと風が吹けば息がつまって苦しくなっちゃう。行けなかった。だ
から私のような、とすぐそう思ったね。私のような弱いものは、おとなになったらどうしよう、ど
うして生きていったらよいだろう。あまり金持の家の息子ではないからね。おとなになることを心
配したんです、子供心に。それがどうしたもこうしたもありはしない、ス!と守護神の導きでこう
18
なってしまったでしょう。そういうものなのです。いい見本です。それが先祖代々巨万の富をもっ
た家の一人息子だったら、何も偉くない。その点、お釈迦様よリイエスキリストの方が大変でした
ね。
お釈迦様は王族の出で、さんざんしたいほうだいのことをしてさ、お釈迦様に悪いけど(笑)も
ういいかげんなところで出家したのだから、それは楽だけれど、イエスさんはなんにもしないでス
ーと来たからね。そこでイエスさんの方が大体人気があるのですよ。お釈迦様は遠いところへ行っ
てしまって、イエスさんの方が近いところにいる気がするのです。それは自分たちと同じ苦労をし
たというね。自分たちと同じ庶民の子だというのが、とてもみんなの共感を呼ぶのですね。
神に素直なこと
そのように私たちの世界は、お釈迦様と違って、庶民の子の貧しい生活の中から立ち上ったわけ
ですね。何が私をそうなさしめたかというと、向う(天) からいえば守護神がやったことですが、
こちらからいえば素直ということです。なんでもかんでも素直に一生懸命、いいことをしようと思
った。
19積極的に善をなせ
それで私の一番やりたいと思ったことは、自分は力もない体もよわい。どうしたらよいか。私は
人にやさしくすることだけ出来ると思った。私の出来ることは、力がないのだし、お金はないのだ
し、だから何が出来るかといえば、人にやさしくすることだけが出来ると思った。徹頭徹尾、私は
日本一世界一やさしい人間になろうと思ったのですよ。だからありとあらゆることに、やさしく人
のためになるようにやった。
朝起れば近所のところをズーと掃いて、水をまいてしまった。十才位の時からね。そのようにな
んでも人の手数をはぶいてやろう、人のためになろうと、それで一番小さいこと、はき掃除からや
ったですよ。これをやっていると近所の人はほめてくれますよね。「ああ五井さんのところのせが
れは、なんていいせがれでしょう」とほめてくれる。いいことをするとこうやってみんながほめて
くれると、子供心にうれしいね。それでますますいいことをする。なんでもやさしく人のためにな
いのら
ることだけを、私は考えた。それだけやっていた。それである時、神様に生命を捧げたでしょう。
私の生命をさしあげますから、どうか世界人類のために使って下さい、とさしあげたら、ういやつ
じゃと、ポンとハンコをおしてくれたわけです。パッとあげてくれたでしょ。
それであとできいてみた。どうして私のようなものをこういう役目につけて使って下さるのかと、
20
守護神にききましたらね。そしたら「お前の一番いいことは素直なことだ。お前のような素直な者
はいない」というのですね。真理に素直、善に素直だったのです。それだけなのです。私がこうな
った原因は、神様のみ心にかなったこと、素直にいいことをした、良心のささやきに素直だったと
いうことだけなのですよ。何も特別なことはありゃしない。
やさしいですよそんなこと。金がかかることでないのだから。素直にいいことをすればいいのだ
から、ところが一般の人は、電車なら電車にのっていますね。年寄りでくたびれている人がのって
来た。かけさせてやろうなと思っても、なんだか恥しいような気がして、よしたりするのですね。
そういうことは随分経験があるのではないですか。私はそんなことはしなかった。おばあさんがむ
こうの方にいると、「おばあさんおばあさん、ちょっとちょっと」とよんでかけさせた。一例です
がいいことをするのに積極的だった。もうあっさりとやる。いいことはすぐする。思ったことはす
ぐする。
いいことが素直にパンと出来るような人になるためにも、世界平和の祈りをしていますと、神様
の方から自然にさせられるのですよ。自分の想いと神様の想いが一つになって、神我一体自然法爾
になるのです。ひとりでにパンと動くのですよ。ひとりでにパンとやったことがみないいことだと
21 積極的に善をなせ
いうことになってくるのです。そういう風になるまでには、消えてゆく姿つまり悪い想い、
ことがたくさん現われて来ます。
いやな
22
自分を責めない
ちょっとしまった、失敗しちゃった、ということがたくさん出て来る。出て来るけれどそれは消
えてゆく姿であって、今のあなたが悪いことをしたわけでも、失敗したわけでもなくて、それは消
えてゆく姿として現われているのですよ。だから自分を責めることはいっさい要りません。
昔の宗教は自分を責め、人をせめた。ああ私はこんないい教えを教わりながら、なんていつまで
たっても立派にならないのだろう、悪いことばかりしているのだろう、私はダメだ、とこういうよ
うに思う。それはね、今のあなたが悪いことをしているのではなくて、過去世からの因縁が消えて
ゆく姿として、自分の前に現われてくるのですから、自分が悪いのでもなんでもありゃしない。
止めようとしたって止められないものがあるからね。実際止めようと思っても止められない怒り
もあれば、妬みもあれば恨みもあれば、恐怖もあるのですよ。私は神様のことを一生懸命教わって
いながら、どうしてこんなに恐怖心がおこるのだろうと思う人があるでしょう。想うけれども出て
来ますよね。いくらいけないいけない、と思っても出て来るものは出て来る。そこが私の教えの根
本なのですよ。
こうそうねん
業想念の強さということを私はよく知っているのです。迷いの強さを私はよく知っているもので
すからね、だから業想念が出て来たことを、とがめたりすることを絶対にしないのですよ。
お前の信仰が悪いから、と絶対にいわないのですよ。「ああそれは仕方がないよ、今のあなたが
悪いのではないんだよ。あなたの過去世の因縁がそこで消えるために出て来て、まちがった行為に
なったりした。これは消えてゆく姿で、あなたが悪いのではないのだよ、あなたは自分をせめては
いけませんよ。それは消えてゆく姿なのだから、今度はまちがわないように、世界平和の祈りをや
りつづけながら、改めて行いをしなさい」とこうやってゆくでしょう。そうすると、間違った行い
をしてもそれはゆるされるのですよ。自分が自分を赦さないから、自分が立派にならないのですよ。
自分で自分を赦さない以上は、絶対に立派になりません。
誰が神様の子である自分をせめる権利があるか。神の子をせめる権利はだれにもない。わかりま
こう
すね。いや業をせめているのだといったって、業は消えてゆく姿だから、せめてもしようがないで
しょう。だから自分をせめないこと。そこで私の教えは、自分を愛し自分をせめない、自分を赦し、
23 積極的に善をなせ
とあるの.てす。
24
どうして自分を赦しと教えるか
どうして自分を赦しという教えが出て来たかというと、今迄、立派な宗教家が何千人と出ている
のに、この世界はこの人間は、こんなに救われないのかと、私が行き悩んだのですよ。どうして救
われないのかと、行き悩んだすえにパッと気がついたことは、ああみんな自分をせめているからだ、
と思った。私は自分をせめる力が強かったからね。ああそれは自分をせめてはダメだ、まず自分を
第一番に赦さなければダメだ。赦さなければならないけれど、自分が悪い場合に赦せないでしょう。
としたら本心と業想念をわけなければダメだと思ったのですよね。
本心は神の子であって光り輝いているのだ。悪いことをしたりいたずらしたり、恐怖したり、人
をいじめたり自分をいじめたりするのは、業想念なんだ。ああそれは消えてゆく姿だ、本物ではな
いのだ。それは消えてゆく姿でどこかに放り出せばよいのだけれど、放り出すところがない。どこ
へやったらよいかとさがしているうちに、守護霊守護神をみつけたんだよね。ああ守護霊守護神の
中へ入れてしまえばいいんだ、もっと広くいうと世界平和の祈りの中へ入れてしまえばいいんだ、
というわけで業想念を世界平和の祈りの中に全託してしまったのね。
そうするとボラ自分の本心が現われてくるでしょう。素裸になって本心になるのです。業想念と
いう着物をつけているのだから、業想念という着物をぬぎさえすれば、光り輝く自分の本心が出て
くるのはきまっているのですよ。これはもう理論的なものなのです。これを私がやって自分がなっ
た。
ぞこで訂分をせめてはいけませんよ、自分を赦さなければいけませんよ、自分を愛するというこ
とは、自分をゆるすということと同じことなのだ、自分は神の子なんだから、自分をせめてはいけ
ない、自分をゆるさなければいけない、悪いものはいっさい消えてゆく姿なんだよ、消す先はどこ
にあるかというと、アメリカでもソ連でもない、世界平和の祈りの中に入ればいいのだよ、と世界
平和の祈りをさせているわけです。
平和の祈りさえしていればよい
おうそうげんそう
それは親鸞の南無阿弥陀仏と同じなのですよ。南無阿弥陀仏が往相から還相、菩薩行になって世
界平和の祈りになったのです。だからみなさんは、世界平和の祈りさえしていれば、自分の業想念
25積極的に善をなせ
のことなど思わなくていいのです。知らない間にいい人間になります。
私などは若い頃は、短気でしようがなかったのだから。それがなくなってしまった。消そうも消
すもない、なくなってしまった。悪いくせというものが、全部なくなっちゃったのです。そういう
ものなのですよ。そこでうちの会の人たちは、斉藤さんでも村田さんでもみんな悪いものはどんど
んなくなってしまっているのです。
自分でもって、ああ自分はダメだ、こうしなければ、というのではないのですよ。世界平和を祈
って、統一をやっている間に、知らないまに、悪いくせなどというものがなくなってしまうのです
よ。
酒のみが知らないまにのまなくなったり、タバコのみが知らないまにタバコがやまっちゃったり、
怒りっぽい人が直ったり、知らないうちにそうなっている。ということは、業想念が消えてしまう
ということです。何が業想念を消すかというと、世界平和の祈りの中に働いている守護の神霊の絶
大なる光明が、消してしまうわけなのですね。それが五井先生という名前で、ここにあらわれてい
るわけですね。だから皆さんは世界平和の祈りが、急場の場合まにあわない時があったら、先生!
といえばいいのですよ。すると光がパッとそちらへ行きますから。それは、ウソもかくしもなくそ26
うなのです。
だけどバカな人たちがいましてね。世界平和の祈りというものを、個人の肉体の五井昌久の祈り
だと思っている。”世界人類が平和でありますように” というのだから、その言葉からして、個人
の祈りなんてありっこないでしょう。個人の祈りなら”なんとか自分がなりますように”とやるの
でしょう。世界人類が… … というのは個人の祈りであるわけがないでしょうね。それを個人の祈り
だと思っているような人がいるのです。
世界平和の祈りというものは、個人がですよ、世界人類の中にとけこんで、宇宙神の中にとけこ
んで、はじめて光り輝いて出て来る言葉なのです。それを私は代表的にやってしまって、私の中に
こう世界平和の祈りが実っているわけ、光り輝いているわけですね。そこで皆さんが五井先生とい
うものにあって、五井先生の中に入っているからね。みなさんが何気なく”世界人類が… …”とや
っても、個人の祈りでなく、世界人類の祈りそのものになってくるのですよ。ここで(体を指す)
うか
濾過してゆくわけ。五井先生というものの中で、濾過して消えていって世界平和の祈りになってゆ
くのです。個人のものでなくなってゆくのです。
それを個人が世界平和の祈りをやっていると思ってはいけません。世界平和の祈りを思った時、
27 積極的に善をなせ

自分の頭の中でそんなに深く思わなくとも、その人はすでに救世の大光明のエレベーターにのって、
世界平和の光り輝く中に入っているのだ。世界人類のために働いているのだ、という信念をもって
下さい。もつように自然になりますけれどね。世界平和の祈りというのは、そういうものなのです
よ。
28
家庭調和の鍵
永遠の生命を知る
私の宗教の世界では、ご利益を求めてくる人もこばまず、いらっしゃいといっていますけれど、
病気直しだけで終りになってはいない、貧乏なおしだけで終りになってはいない。そういう相談事
はそのまま受けておりますけれど、本当は本心を開発して、その人が死んでも死なないような生命、
永遠の生命を自分のものにするよう教えている。
永遠の生命とは、この肉体があってもなくても、肉体がなくなったあと死後の世界でも、自分の
かくとくかくら
個性をもって永遠に光り輝いて生きてゆける。そういうことですね。各自が覚得し覚知することを
教えるわけです。
29 家庭調和の鍵
ここにいらっしゃる方は、みな知らない間にそうなっている。永遠の生命を知っています。他の
人よりも死ぬことをこわがりません。
この世の人は死ぬのがこわくて、お金をもうけたりいろいろ策動したり、人をだましたりしてい
るのです。ところが死ぬことがこわくなくなりますと、従って貧乏がそうこわくなくなり、病気が
そうこわくなくなり、すべてあらゆるものがこわくなくなってくるわけですね。こわいということ
ヘへ
は、死ぬことがこわいことなのです。あとはくせなのですね。消えてゆく姿としてのくせ、前の世
前の世からのくせなのですね。
何か肉体がなくなるというのはこわいという、くせをもっているわけです。だから頭の中で、人
間というものは肉体がなくなっても、永遠に生きているものであって、霊になっても何段階にも進
化してゆくものなのだ、ということがわかっていながらもですよ、業想念の方では、ああこわい、
ああおそろしいと、本能的な恐怖がありますね。しかしそれは消えてゆく姿なのですね。今迄のく
せ、たまりにたまった業想念が現われてくるだけであって、自分自身がこわがっているわけではな
い。あらわれてくるものが消えてゆくだけで、本当にその人がこわいのではないのです。
そういう人はどういう風にわかるかというと、ああこわいな、けれどああそうじゃない、これは
30
消えてゆく姿だと思うし、世界平和の祈りの中に入れればいいんだと思って、世界平和の祈りの中
に入れるのです。そういう風にパッと切り換えが出来る。例えば恐れの中からも妬みの中からも、
恨みの中からも、すぐ切り換えが出来るようになっていれば、これは上等なのです。パッと本心の
中に入れる。そういう練習を皆さんがやっているわけだし、私もそう導いているわけなのです。
それをやっていますと、自然にかわってまいります。只簡単にダメだダメだといっても、業想念
の幅はあついのです。
ある人は、例えば他の点ではとてもいいのだけれど、いかりの想いだけがズーと深いという人が
いる。金放れもいいし、気っぷもいいしサッパリしていいけれど、あの人は怒りぼくて、という人
がいるでしょう。それだけが深いというのね。それから他のことはきれいだけれど、妬みが深くて
しようがない、という人もある。いろいろあるわけです。
いい人悪い人というが
一つことを深くもっている人もあれば、薄いけれどね、ズーとすべてのことに業がかかっている
人もある。業というものは、いろいろのかかり方をしているものでね、単純にいいとか悪いとかい
31 家庭調和の鍵
えないのですね。
例えば自分に利益のある人はいい人のように見えるのです。お互いが話し合って、お互いに利益
しあっている。精神面にも物質面にもですよ、利益しあっている時は、あの人はいい人だ、あの人
はいい人だといっているのです。ところが一朝かわって、他の人と結んで、こちらが利益がなくな
ったりすると、あいつは悪いやつだ、私とつきあっていて今あんなにまあ… … とやるわけですよね。
ですからいいとか悪いとかいうのは、本当にその人の心の善さを見ていうのではなくて、自分の利
害関係で、いいとか悪いとかいうのですよね。それであの人はいい人だ、悪い人だというのです。
それは業想念だけをとらえているものであってね、本当の心をみているわけでない。本当にまと
もにあの人はいい人だということは、自分に対して悪い行い、自分に不利益であってもですよ。あ
ああの人はいい人なのだと、思えるようにならないと、一人前ではない。
ところがこの世の中、地球に住んでいる人は、おおむね自分のためにならない人が悪い人、自分
のためになる人はいいと、こうなっている。なんだか変なものですよね。上の世界から見ていると
おかしなものですよ。自分のためにならないというのは、果して自分のためにならないということ
なのか、なっていることか、わからないのですね。32
親しい者にこそ業をぶちまける
例えば自分をいじめる夫なら夫、妻なら妻があったとする。そうすると自分のためにならない妻、
自分のためにならない夫というものは、現象のあらわれの日常生活でもって、ためにならないけれ
ども、魂の世界の訓練のためには、どれだけためになっているかわからない場合が多いのですね。
さんざん悪い夫にいじめられたため、魂がズーと深まって来て、なんでも赦してしまったり、本
当の宗教をつかんで、立派になれたりする、そのハシゴになってくれる場合があるのですね。そう
かんぜおんぼさつ
すると、そのいじめてくれた夫なり妻なり、子供なりが、観世音菩薩になってくるわけですね。
だから宗教の極意というものは、あらわれてくる自分の都合の悪い相手、都合の悪い環境という
ものを、すべて「ああこれは自分のためのものだ、自分の魂をみがく、自分が本当に立派になるた
といし
めの一つの砥石なのだ、菩薩なのだ」と見られるように訓練をしなければならないのですよ。
ならないのだけど、現実問題としては、なんだいこの野郎! と思ってしまうわけですね。やな
やつだ、うちのやつは、というようになってしまうのですよね。
夫が帰って来る。会社から出る時はいい気持。家のそばまで来るとがぜんいやな気持になって、
33 家庭調和の鍵
帰る気がしなくなってしまう。
“おう、めしだ
” (その仕草に一同大笑)ということになってしまいます。奥さんとは一言も口を
きかないで、客が来るととたんに愛想よくなるのが、よくあります。
これはどういうことかというと、わがままなのですね。自分の妻とか夫とかいうものは、一番身
に親しいものです。親しいものに自分の業をぶちまけて、消してもらいたいのですよ。夫は妻、妻
は夫が一番親しい。子は親が一番親しい。自分の業をぶちまけて、消してもらいたい。それでもっ
て、憎くもなんともないのに、わざとそうやってやるのですよ。そうするとウマウマとその作戦に
ひっかかってしまうのですよ。夫なら夫と一緒になっておこってしまう。その次が大切です。
「ああこの人は私を信じてくれるものだから、私の処に来て消してもらおうと思って、ふんまんを
ぶちまけているのだな、ああかわいい人だな」(笑)と思えるようになればしめたものだけれど(笑)
なかなかそこまでいかないでしょうからね。だからその時は、ムカッとして来てもしかたがないか
ら、あとで冷静になった時に、先生の話はいつもそういう話だったな、さっき夫がガチャガチャい
ったのも、妻がガチャガチャいったのも、みんな消してもらおうとしていったのだから、その業想
念も私のイライラした想いも、みんな消えてゆく姿なんだなあ、って世界平和の祈りの中に入れて34
ゆくのですね。そうすると、パーッとやったことによって、妻の業も夫の業も消えてゆくのですよ。
そこに消えてゆく姿の偉大なる力があるのです。
消えてゆく姿がわからなければダメです。消えてゆくという教えがなかったら、やりっぱなしで
すよ。あの奴はにくらしい、だけですよ。それがつもりつもって、離縁ということになるのですよ。
この世の中に離縁沙汰のことがたくさんあるのです。
現在、人間の生きている姿としては、神の心、光と業想念がまじっている。混合している。それ
を全部神の子とみてしまって、神の子だからみんなよくなければならないというのでね。それでき
めてかかって、結婚しようとしたり、夫を見たりしてはダメですよ。
例えば宗教家で(行いはいざ知らず) いいことを説く人がいます。そのいい言葉にひっかかって、
あの人は立派だな、ああいう人のところへお嫁にいきたいと思うかも知れない、いざ結婚してごら
んなさい、災難だから。せめられてばかりいるから。そんな人ばかりがいるとは限りませんが、お
おむねお前の心が悪い、と年中せめられてしまうことになります。ちっとも愛してくれやしません
から。
35 家庭調和の鍵
業を最も消し易い夫婦の間
36
口ばかりうまいような宗教家は、本当に愛情はないですよ。言葉ではいうけれど、私は別ですよ、
間違えないで下さい(大笑)。
本当に口でうまいことをいう人は、よくない場合が多いのです。口は責任がないから、いくらで
もいえるから。本当に偉い人、いい人というのは、自分の家の人にも親切です。自分の妻にも子供
にも親切で、ゆきわたっていますよ。本当に自分の子供にも妻にも親切で、しかも他人にも親切な
らこれは本物ですよ。自分の妻や子供には不親切.て、他人にだけは親切だというのはね、どういう
心のあらわれかといいますと、それはよその人はお礼をいうからですよ。そとの人にちょっとして
も”ああ有難う、あなたはご親切で”とほめられるでしょう、いい気持になる。うちの連中はお礼
などいいませんから何をしてやったって。月給をもっていったって「少ないわね」(笑) おこずか
いをあげると「ちえ、これっばかり。よそのお父さんは一万円くれる」なんていいだすのですよね。
決して子供とか妻とかいうものは、親とか夫にそう感謝をあらわすものではない。心の中では感
謝していますが、表面にあらわさないのですね。あらわさないものだから、旦那様の方はいやなん
ですよ。”おれはこんなに汗水たらして働いているのに、いやな想いをして働いているのに、うち
ではちょっとも感謝してくれない”という風に想うのです。でもよその人にやるのですよ。例えば
千円のチップをやっても「アラ!」(大笑いの為話が一寸とぎれた)とてもよろこんでくれる。私
はやったことはないのですけれどね(笑) いやね、向うはただでもらうのですから、何も奉仕しな
いでもらうのだから、よろこびますよ。ところが妻になると、一生懸命うちのことをやっているわ
けです。だから当然の報酬としてもらうわけですね。その中で旦那さんもたべているし、旦那さん
の服も入っているし、いろんなものが入っている(笑)当然の報酬ですから何もお礼などいわなく
たって、当然の給料をもらうと思うからね。〃少ないわね” (笑)ということになってしまうのです
ね。
夫の方も妻に月給を出すのを、そんなに威張る必要もないけれど、もらう方も当り前だと思わな
い方がよいですけれどさ。これがうまくゆくといいんだけれど、これがなかなか親しい間というも
のは、業想念を消し合う間だから仕方がないのです。
それで大体において、今迄の家庭生活というものは、夫と妻というものは、業想念を消すために
一緒になっていることが多いのです。お互いの過去世の業を消すために、わざと合わないような男
37 家庭調和の鍵
性と女性を配し、そこでガチャガチャと砥石とやすり等でもみあって、そして消してゆくのですね。
そういう風に大体出来ているのですよ。だから私が霊覚で見ても、百点の結婚なんてほとんどな
いです。九十点の結婚もとても少いですよ。みな五十点か六十点。ひどいのになると三十点ぐらい
のがありますよ。三十点でもしようがないですよ、消えてゆく姿だから。前の世におけるものが、
夫と妻となり擦りあうのが一番これは身にこたえます。他人にやられるなら会わなければいいのだ
ものね。いやな奴なら会わなければいい。夫と妻なら会わないわけにはいかないもの。毎日会わな
きゃいけないもの。いやだ嫌だと思いながらも会わなきゃいけないでしょ。そうするといやだ嫌だ
と思いながら、いやだと思う中で磨きあわなければしようがないでしょう。いやなものをいやでな
いようにしなければならない。
38
いやでないようにする方法
いやでないようにするには、どうしたらいいか。サア、そこでもって悩んだ末に神様にすがるわ
けですね。で変な神様にすがるとお奏銭だけとられちゃうけれど、しかしうちあたリへ来れば消え
てゆく姿がありますからね。
“ああそれはお互いの業想念が消えてゆく姿で、神様が一番早くね、あなたの業想念を消して下さ
ろうと思って、そういう夫をあなたに配したのですよ。そういう妻があなたの処に来たのですよ。
だからあなたはお互いにいやなことがあればある程、それは一日も早く業想念が消えてゆくのだか
ら、本当は感謝しなければならない。しかしあなたがまともに感謝するということが出来ないだろ
うから、ああこれは消えてゆく姿なんだなあと思いながら、世界平和の祈りの中に入れてしまえば、
業想念を消しながら世界人類の平和を願う祈りによって、光り輝いてゆくのだ”
とこう私は教えているのです。
想いをつかまないこと
ぼんのうそくぼだい
これが煩悩即菩提というのですね。煩悩という悩みがあるために、菩提心がそのままひっくりか
えって現われてくる。そういう風に私はやさしくやさしく説いているのですよ。だから皆さんは知
らない内に煩悩即菩提をやっていて、悩みがあっても悩みが悩みでなくなってくる。悩みがかえっ
て楽しみになってくる。ホラ来た又消えてゆく姿(笑)どれだけ出来るか試してみよう、なんてね。
今度は遠征しちゃって他の家のも引受けてしまったりする(笑)
39 家庭調和の鍵
だから結局人間というものは、想いというもの、つらい想いというものを、いつまでも掴まえて
いなければつらくないのです。どんな悲しいこと哀れなことも、いつまでも掴まえていなければ、
これは苦しくない。長く掴まえているからノイローゼになってしまうのです。だから掴まえている
ものを、どんな悪いものでも、どこかへ消してもらえばいいのですよ。ところが今迄消してもらえ
るものがなかった。消してくれる場処がなかった。ところが世界平和の祈りというものが出来た。
そういういい祈りが出来た。わけなく業を消す祈りが出来たから、そこへもっていけばよいわけで
すね。
それでも世界平和の祈りが思えない時があるのですね。業想念がかぶってくると、世界平和も何
も出ない時があるらしいですよ。みんないって来ますから、そういう時はどうしますかときかれる。
そしたら五井先生! それもいえなかったらバカヤロi! でもいいからいえというのですよ、か
まわないから、なんでもいいから出しなさい。みんなの中には世界平和の祈りも入っていれば、五
井先生も入っているのです。バカヤローでも何でも、いう時は必ず私のことを思うのですよ。これ
はもう、瞬間に思っちゃうです。無理に想おうと思うと想えないからね。なんでも反対でもわあー
と思えばいいのですよ。そうするとやったあとで消えますからね。するとあとでサーと光が入って
40
ゆく。だからどういう現わし方でもよいから、業を掴み放しにしていてはいけない。業を掴み放し
にしないで、お互いに友達同志があったら、友達同志で消しあってもらう。友達がなかったら五井
先生にぶっつけてくる。私をどんなに恨んでもいいし、悪口をいってもいいですよ。謝らなくたっ
ていいから。
なん。てもいいからぶっつけてくればいいのですよ。私が、ハイヨと受けてあげますからね。そう
いう風に業想念を掴まえないこと。掴んだら掴んだでいいからそれを放つこと。それが宗教の一番
の根本です。
それで空になる一番のやりいい方法は業想念をどこかへ入れてしまうということ。それが世界平
和の祈りなんですよ。
世界平和の祈りは光り輝いている祈りです。言葉は即ち神なりきで、光なのです。この世には神
の光のひびきの、言葉もあれば、業想念の黒雲のような変なひびきもある。それが変な音楽、文学
などになって出てくる。しかしそれさえも世界平和の祈りの中で消えてゆく姿なんだね。
悪いように思われている世間の有様さえも、消えてゆく姿なのですよ。悪いことにも把われては
いけませんよ。この世はなんて悪い世の中だろう、私がいくらやっても悪い世界だ、とこう思うで
41 家庭調和の鍵
しょ。そしたらそういう風に否定する想いも消えてゆく姿なんだから、それも世界平和の祈りの中
に入れてゆくのですね。
なんでもかんでも徹頭徹尾世界平和、世界平和で世界平和の祈りの中へ入れておきますと、世界
平和… … と思うだけで、自分の想いが世界の中に大きくひろがってゆくのです。自分だけ、自分の
家族だけ、と小さく固っていたのが、大きく世界人類という中にとけこんでゆくのです。小さい自
分から開放されて、積極的な大愛行を知らぬ間に行じていることになるのです。知らぬ間に霊性、
本心を開発し、神のみ心を家庭生活を通してやさしくあらわしていけるようになるのですよ。
42
自己を信頼せよ
1 天命を信じて人事をつくせi
天命を信ずる事が第一
人事をつくして天命を待つ、という言葉がありますけれど、私は「天命を信じて人事をつくせ」
といっていますね。各人には必ず神から授けられた天命があるのだから、天命をまず信じて、自分
がこの世に生れて来ている以上は、神のみ心がここに現われているのであって、自分は神から頂い
た天命を果さなければ死なないんだ! というような固い決意ですね、そういう信仰をもって、天
命を信じて人事をつくすのですね。それを天命を信じないで、いちいち暦を信じたり、方角を信じ
たりしたのではしようがないでしょう。そんなものはなんでもないではないですか。いくらでもこ
えることが出来る。天命を信じることが第一。
43 自己を信頼せよ
それこそ、汝の信じる如く汝になれ、というように、自分が天命を固く信じていれば、必ず天命
が果されるのですよ。だから「私達の天命が完うされますように、有難うございます」だけでもね、
その人は立派になっていきます。天命を信じることが第一番。
天命がこの世で終れば、あの世で天命を果すのですからね。またあの世でいい位置にゆくわけで
すよ。そういう風に、何か臆病.てない、明るい勇気りんりんとした、のんきな人にならなければダ
メなのですね。

守護神は明るくてのんき
大体、神様のみ心というのは、明るいのですが、守護神に皆さんは大体直接あっていないですね。
私は守護神には、毎日いろいろな守護神に会っているのです。年中口をきいたり、話しあっている

のです。それは実にのんきだから、実に明るいです。大らかですよ。春の陽のようですよ。暖かく
たいとう
て柔かくてね、時によればはげしいけれどね。まことになんともいえない、春風駝蕩でいいもので
しゅんれつ
すよ。峻烈な時もあれば明るい時もあればで、のんきです。どんなむずかしいことをやったって、
のんきなものです。こちらでいえば鼻唄まじりですよ。しかめっ面して、国家人類が大変だ! と
やってはいないですよ。こんなことをやっていては人類がつぶれちゃう、これじゃ国家が亡びる、
と悲愴な気持でやっていないです。のんびりとしています守護神は。明るい顔で働いていますよ。
そういうものなのです。
立派になればなる程、明るい顔でどんな困難にあってもニコニコと生き働けるような、そういう
人間にならなければダメですね。
今まさに肉体の生命が終るような時でも、ニコッ、と笑っていられるようなね、そういう人間に
ならなければね。
いつもいつも人の欠点ばかりさがして、ああじゃない、こうじゃないというような、そういう宗
教は、この世からもういらないのですね。それは宗教的カルマというのです。宗教をやりながら、
人を責める心が倍加したり、自分を責める想いがたくさん増えたりするような宗教だったら、そん
な宗教は一切やらない方がいいですね。それは宗教でもなんでもない。それは精神科学というので
あって、お医者様にまかせておけばいい。それは宗教家の領分ではないですよ。
宗教家は人間の心を安心立命させて、明るく柔和な、しかも勇気のある人間をつくるのが、その
役目であってね、人を責めることを教えるのは、宗教家の役目ではないのですね。
45 自己を信頼せよ
子供の勇気を出してやる
46
だからよくあるのですが、親が子供をつれて来て、
「先生、どうかこの子を叱ってやって下さい。これは勉強しなくて困るのですから、どうか叱って
やって下さい」なんていって連れて来る。それで私は、
「いい子だ、いい子だね、うんとのんびり遊びな」なんていっているものだから、お母さんの方が
困って連れて帰っちゃうけれどさ。大体子供を叱ってやって下さい、と連れてくるのが間違ってい
るよね。叱ってどうするのか。叱るのではない。その子の勇気を出してやらなければね。
出来ない子がいたとすればね、本当は人間はそんなに違うものではないのですよ。五十歩百歩そ
う違うものではない。ただもって行き方が悪かったりね、いわゆる環境の相違とかね、いろいろな
状態で出来る出来ないができてくるのですね。
何かしら数学によわい子は国語がうまかったり、作文に弱い子は音楽がうまかったり、いろいろ
得手不得手があるのですね。なんでもかんでも全部出来るなんてのは少いですよ。だから一番いい
点をみつけてやればいいですね。数学も出来ない、国語も出来ない、作文も出来ない、何も出来な
くても体操のうまい子がいるかも知れない。そしたらオリンピックに出せばいいのだから(笑)優
勝するかも知れない。なんでもかんでも悪いけれど、包丁使ったら名人だ、というのもあるでしょ
う。そしたら料理屋の板前にすればいい。土を掘るのばかりが好きだったら、そっちの方をやれば
いいでしょう。それを商売とか仕事とかいうものは、何か事務的にきれいにやっていれば、出世し
たような気がしているからバカバカしい。事務やるなんて誰だって出来るよ。誰にも出来ないよう
なことをやればいいでしょう。
ところが今頃はね、子供があると、いい所へ、とにかく一生くびにならないようなところにつと
めさせて、二十五になれば結婚して生活出来るような二万円位もらえるようにしておいて、そんな
ソロバンをはじいてみんな就職をやっている。そんなケチな根性どこから出て来るのかと思う。
サつ
人間は神様が必要あってここに産んでいるのですよ。神様が知っているのだから、人間の親がろ
くなことを考えないで、大きい人をちっぼくさい枠に入れちゃってね、就職させて月給とって、ま
あ親の手からはなれて無事に二人だけやってくれればいい、大体そういう考えでしょう。自分に迷
惑をかけないで、無事に生きてくれればいい、とこう思うわけですよ。それでは細長い青白いのば
かり出来てしようがないじゃないですか。
47 自己を信頼せよ
何がそれで新しい国が出来るものですか。毛沢東を見てごらんなさい。中共を礼讃しているわけ
ではありませんよ。共産党を礼讃するわけではないが、毛沢東あたりをごらんなさい。中国のあん
なでかい国を、麻の如く乱れていた国を、てんやわんやの大騒動の国を、日本はこんな小さい、中
国はこんなに大きいのですからね。それをあれだけのものを引張ってですね、中共を作り上げたの
でしょう。中共はどんな悪いことをしたか、するか知らないけれど、毛沢東の勇気というかね、な
んというか智慧というか逞ましさというものには、感嘆これ久しうしますよね。むずかしい言葉を
使ったけれどさ(笑)舌を噛みそうだった今(笑)ああいう勇気ね、中共は悪い、なんとかは悪い、
とコつ
と悪口ばかりいっていないでね、指導者達の不屈不撹の精神力というものは、大いに日本人は学ぶ
べきですね。あんな広漠たるところで何億という人民を一つにまとめて、一つの国を打ち建てて行
こうというようなすごい勇気、本当に偉いと私は思います。そういう勇気がない奴がね、こちょこ
ちょ文句をいっているのですよ。日本人の中ではそんなに勇気ある人は少いでしょう。みんなコソ
コソコソコソなんか長いものにすがって生きたらいいと思っている。この肉体生活に。
48
やりたいことをやらせなさい
肉体生活に食べただけで生きたって、何にもなりませんよ。わが天命を果すために来ている。人
間は天命を果すために来ているのだからね。生命を投げ出してかかれば、どんな仕事だってある。
私はつとめがなかったら商売すればいいと思うよ。ゴミ拾ったっていいじゃないですか。何拾った
って自分で生きてけると思ったらいくらでも生きられる。それを先輩達や親達があんまり小さい心
で計るからダメなの。どんな才能があるかわからないですよ。
私なんか幸いにして五男坊に生れた。だから親を見る責任はなかったのです。だからお前達はな
んでも自由にやれ、なんでもやれ、お前さえ立ってゆけばいい、てね。それはよかったね。親がか
まってくれなかったばっかりに。十三ぐらいから家をとび出し、よそへ行って苦学力行した、そん
なことをいうと威張ってるようだけれどさ、そうやって苦学して親の金なんか一銭ももらわなくて、
なま
十三ぐらいの時から自分で働いて、こうなったでしょう。生じっか親がかまってくれないばっかり
に、なんでも思いきったことをやったですよ。やりたいことをやったですよ。そしてこうなった。
だからケチョケチョしないで、やりたいことをやらしてごらんなさい、子供達に。そうしますと、
偉くなります(笑)
いけないいけない、あれやっちゃいけないこれやっちゃいけない、とやるから、みな小さくなっ
49 自己を信頼せよ
てしまう。天命は決っているのです。右から行ったって左から行ったって、どうやったって天命は
もうきまっているのですよ。だから天命を信じてその子にまかせてしまって、やらせてごらんなさ
い。十代二十代でさんざん道楽の限りをつくすかも知れない。その代り三十代になって、それが経
験になってパッと金もうけするかも知れない。文士なんかみてごらんなさい、みんなではないけれ
ど落第した人や、大学中退した人が多い。あるいは小学校しか出ていない人もいます。
50
神から来た自分の力を信ぜよ
松本清張さんなんか学歴は小学校だけでしょ。吉川英治さんも小学校だけ。小学校だけがたくさ
んあるのですよ。何故かというと、小学校だけだからよけいにたくさん勉強しますよ。必ず大学に
入らなければいけないものではない。小学校出たから一生懸命やってあれだけになった、というよ
うに、天命さえ信じればね。自分を信じさせることです。自分の力をね。それは、自分は神から来
ているのだから、必ず立派になるにきまっている、ということを子供の心の中にしみこませなけれ
ばいけない。
学校でちょっとぐらい、1や2ぐらいもらったといって、いちいち叱っていたのではしようがな
いですよ。学校の成績が悪いことだけで、子供が悪いと思っているのだからね。私は親の相談を受
けていて情けなくなっちゃうの。
「この子は出来ませんで、出来ませんで、だめな子で」何がだめなことがあるものか。学校が出来
なくてどこがダメなのか。そんなバカなことがあるものか。学校が出来なくたってどこかに才能が
あるのですよね。全部ダメでも音楽だけいいかも知れないものね。だからね、大工さんになったっ
とうりょう
て、棟梁になれば大棟梁になるのですからね(笑)ちっとも違わない。だからそういうように勇
気りんりんとした子供を育てなければダメですよね。だから皆さん親御さんはね、今日は教育講座
みたいなものだけど(笑)親御さん達がもっと勇気をもたなければダメ。自分の天命を信じるので
すね。
自分は天命があってここに生れて来たのだ。だから子供にも天命があるのだから、この天命は果
されるにきまっている。どうかわが子達の天命が果されますように、天命が完うされますように、
世界人類が平和でありますように… … … と心からパーと放してしまうのですよ。それで放せなかっ
たら五井先生! と思えば、私がいつもちゃんとやっていてあげますからね。そういう想いで、の
んびりとおやりなさい。
51 自己を信頼せよ
これからね、私は先に釘をさしておくのですが、これから就職や入学がたくさんある(笑)そう
すると「どうか先生、この学校に入れてやって下さい」と来るからね。それをいわれると困るから
先に(笑)今のうちに釘をさしておくのです。
しかし相談することはいいですよ。ちゃんと私が、これはこうと教えますが、根本的にはこうい
とく
うように思いなさいよね。細かいことは、私は誠心誠意相談にのります。ああそれはこっちより得
だから、それになさいってね。個人指導ともなれば、こっちへゆくと月給が少くなるからこっちの
方が月給が多いからって、そう教えますよ(笑)講演会になれば、そんなケチなことは教えないで
す(笑)講演会では大きいことをいい、個人指導では細かいことを教えますから、そのつもりで使
いわけていらっしゃって下さい(笑)
52
マルマル損してまるまるとくする生き方
勇気と信仰
人間に一番大事なのは勇気であり、信仰なんですね。信仰というのは何かというと、人間は神様
わけいのち
の分生命である、ということです。人間は一人一人すべて神様の天命をもって生れていないものは
ないのです。それは赤ん坊で死ぬ天命なら天命でいいのです。それはその親の浄めのために来たの
ですね。わかりますね。だからどんな子でも天命をもっている。天命以外のことは出来ないのです。
だから天命を信じなければいけませんね。それで天命を信じて人事を尽すのです。
天命を信じるとはじめて心が豊かになります。ゆったりとします。そうすると自然に仕事に力が
入るのです。何をやっても。それを自分で勝手にきめちゃうからね。自分で勝手にきめて、だめじ
53 マルマル損してまるまるとくする生き方
やないか、とこういう風にね。だからノイローゼが多いですよ、近頃。昔はね、ノイローゼなんて
言葉はなかったし、神経衰弱ってのはあまりなかったですよ。神経衰弱とかガンとかね。あまりな
かったです。ところが近頃では、ノイローゼいいにくいね(笑)神経衰弱をおそれるのあまりね、
神経衰弱になっちゃう。ガンをおそれるのあまりガンになってしまう。今迄そんなに病気はなかっ
たの.てすよ。考えてごらんなさい。近頃ですよ、なにかといえば病気じゃないかと思う。何見ても
病気の宣伝ばっかり。テレビだって、アレは薬の会社でもっているみたい。それで歌でくるから困
っちゃう。歌をおぼえちゃったりしてね、歌が頭の中に私でも入っている(笑) そういうように宣
伝がきくでしょ。まあ薬屋さんは薬を売る方がいいですよ。しかしあんまりおそれちゃいけません
よ。ガンになるガンになる。四十過ぎたらガンがこわいとかね。なんでもね、一寸何かカチカチと
するとガンだと思う。「先生、ここに固りが」固りがあったって必ずガンとはきまったものではな
いじゃないですかね。みんなガンにする。一寸頭に来て痛いと、神経衰弱になりやしないかと思う。
バカバカしくってしようがないですよ。

永遠の生命の覚得以上のものはない
それは何故かというとね、あんまりにも肉体の生活に執着してね、この地球世界の生活に執着し
すぎているのですね。宇宙は広いのですよ。地球なんか第一回のはじまりなんだから、これからい
ろんな星を歩かなきゃなんないんですよ。星から星にね。そうですよ。星から星へ歩いてゆくんで
すよ。みんな悟っちゃ上の星へゆきね、また悟っちゃ上の星へゆき、また悟っては上の星へゆきま
してね、無限に進歩してゆくんです。その第一番の足がかりの地球世界でもって、ゴタゴタしてい
たのではしようがないですよ。
地球なんていうのは、これらの星の世界から見ればね、一番未発達なんですよね。この未発達の
さかだ
ところで、まだ卒業出来ないようではしようがないでしょう。逆立ちしたって卒業しなければなら
ない。それなのにみんな逆立ちも出来ないで、くっついているんですよ。本当におかしい。
私おかしいと思うのはね、肉体というのは八十年ぐらい、長くて九十年ぐらいでなくなるでしょ
う。九十年ぐらいわけないですよ。本当にまたたくまですよ。前に震災というのがありましたね。
関東大震災、ついこの間のような気がしたら、もう四十年位たっているでしょう。私は小学生だっ
たからね。でいまだにこの間のような気がする。もう約四十年たっている。三十年四十年たつのは
わけないですよ。みなこうやって顔を会わせているけれども、ああこの人もいなくなった、あの人
55 マルマル損してまるまるとくする生き方
もって、ああいく年たった、四十年たった、というぐあいに、そんなことすぐですから、そうする
と肉体のなくなるのはわけない。いくらガンバッたって九十年、そうすると九十年でしょ。
宇宙の生命というのはね、永遠ですよ。永遠といってもわかんないから、何億万年か何兆万年か、
何兆億年か、とにかくズーとつづくのですね。すると何兆万年の九十年といったらどうです。どっ
ちが長いですか。何兆億年の中の九十年、そのために生命をすりへらしてね、生きてゆくバカがあ
るものですか。何兆年の中の九十年。九十年全部損だっていいじゃないですか。九十年まるまる損
してね。この肉体世界、今生でまるまる損してもいいのですよ。まるまる苦しんでもたいしたこと
はない。まるまる苦しん。て、そして永遠の生命を得るほうがよっぽどいいですよ。
56
まるまる苦しむつもりになれば
まるまる苦しむつもりになんなさいよ。まるまる全部苦しんでもいいと思うとね。そんなに苦し
かないからね。みんなもうかっちゃう(笑)なんでもちょっとしてくれりゃ、有難いな、あの人が
してくれた、有難いな、金が入った、ありがたいな、うまいものをたべた、ありがたいな、とこう
思いますよ。全部ないと思ったら、無一物だと思ったらね、まるまる苦しんでもしかたのないもん
だ、と思えばね。ちょっとでもいいことがあればうれしいです。
子供でもなんでも、夫でもそうですよ。夫がしてくれなきゃなんないもの、妻は仕えてくれるも
の、子供は孝行してくれるもの、なんてきめてかかっているからね。してくれないとシャクにさわ
っちゃうのだけれど、どんなにされてもいいもんだ、と思ってごらんなさい。夫は自分に何一つつ
くさなくても、自分がつくしっ切りにしてもいいもの。子供のためには一生やってやっていいもの。
というようにきめちゃうのですよ。そうすると全部悪いことはないのだからね。
ちょっとしてくれるとね、全然つくしてくれないと思った子供がですね、例え千円でもくれりゃ
ね、ああありがたい、なんて有難い、とこう思いますよ。全然愛してくれない夫だと思っているの
にね、たまたま”お前大丈夫かい、元気かい” なんていわれたら、ありがたいと思うもの(笑)
もらわないつもりでいたお金が入ってきたら、うれしいですよ。私なんかみんなからお金をもら
うつもりなんか一つもない。でね、何か”先生、いろいろと有難うございます、子供がなんとかで、
本当にこれは… ・:”といってもってくるとうれしいですよ。”ああもうかった” と思っちゃう(笑〉
もらうつもりがないんだもの。もらうつもりがないから、くれたものが本当に有難い。”あのヤロ
ー一万円ぐらいもってこなければならない奴だ、さんざん恩をきせたから”と思っている処へ、千
57 マルマル損してまるまるとくする生き方
円くれたってうれしくない。ケチなヤローだ、と思っちゃう(笑) だが幸いなるかな、心の明るき
もの、ではないけれどね。
だからね、私なんかなんにももらうまい、と思っているから、もらったものがうれしい。くれた
ら本当に有難い。”あああの人はありがたいな、ああ特別親切にしてやろうか” そうまで思わない
けれど(大笑)… … だからものをあんまりあてにしなさんな、ということ、全然あてにしないでね、
自分だけが奉仕するつもりで生きるのですよ。そうするとみんなもうかっちゃう。全部もうけだか
ら。資本がないのだからね。
全部奉仕しても当り前
そうでしょう。大体資本はないのですよ。もとは神様から来ているのですよ。もとはただなのに、
もらうことだけたくさんもらおうと思っているから、欲張っている。もとがただだから、自分はた
だだから、奉仕だけすればいいでしょ。全部奉仕してもあたりまえなんです。そう考えて下さい。
私なんか初めから奉仕するつもりで来たんだから。
全部奉仕して、自分のことは何にもいらないから、さあ全部が平和になりますように、みんなが58
よくなりますように、一人一人がみんな幸福になりますように、といって生命を張ったでしょ。も
う張っちゃったら最後ですよ。もうあとは苦しいことはないんだから。いつ死んでもいいんだから
ね。
投げ出しているでしょう。だから人のしてくれることはみんなうれしい。小さな子供がアメ一つ
くれても、ああありがたい、と思っちゃう。そういうようになっちゃう。
みんな感謝になってしまうのです。だからわざわざ感謝しようと思わなくたってね、自分が無一
物、要するに空だ。空になりさえすれば、みんな有難くなる。空の心境になったら、全部が全部有
難いのですよ。
だから感謝が一つ出来たら、少し空に近くなった。もう一つ出来たらまたまた近くなった。もう
一つ出来たら、いよいよ神様だ。そういう風になります。そういうような生き方をしましょうね。
59 マルマル損してまるまるとくする生き方
60
最大限に生かされる
守護霊守護神を考えなかったら
この人生というものは、守護霊守護神を考えなかったら、神様といったって云わなくたって、別
にどうってことなく、決っただけにしかならないのですよ。決った運命が決ったようになるだけで
す。だから運命は決っているわけですよ。ところが本当は守護霊守護神がいて運命を変えてくれる
わけです。
人間の運命というのは、上と下が決っているわけです。四角の運命なら四角の大きさが決ってい
る。Aという人はこの四角の中で生きる。Bという人は丸の中で生きる。それは小さな丸かも知れ
ない。小さな四角かも知れない。とにかく決っているわけですね。この決った中で最大限が決って
いるのですね。でその中でもって運命を最少限の運命で生きることも出来れば、最大限に一杯に生
きることも出来るわけですね。それが運命の変化です。
本当は十だけ生きられる運命を持っていながら、自分の行ないが悪いために、一か二のこんな小
さくしか生きられない人もあるわけです。大体が最大限に生きている人がいないのです。最少限に
みな生きているわけです。それを最大限に生かしてくれるのが、守護霊守護神なのですよ。
守護霊の指導ぶり
しつしろ
守護霊守護神が背後についてくれて「ああそっち行っちゃこんな小さくなっちゃうよ、そっち行
っちゃだめだよ」といって、その時はつらくても、例えばタバコならタバコを止めるのがつらいと
します。私はタバコも酒ものまないから、この間の元旦に、私は今年から酒を止めるといって来た
人もあるし、タバコを止めるといって来た人もあるけれどね。じゃ私は何を止めようかといったの。
人を愛することを止めようかといった。あとないんだもの。欲しいものがないでしょ。タバコもの
まない、酒も飲まない。御飯も食べられなければ食べないでいいと思っているからね。そうすると
止めるものはないですよ。だからタバコを止めるという苦しみがこっちにはわからない。だけど苦
61 最大限に生かされる
しいらしいのです。酒止めるのも苦しいらしい。一生懸命止めようと思うのですね。ところが止め
られない場合がある。止められないと守護霊の方じゃ、これはどうやっても止められないといって、
ポンと病気にしたりしてね。病気で苦しましちゃって、その間酒なんか飲めなくなっちゃって、飲
まさないわけですね。その間に酒の味が変っちゃって苦くなって飲めない。酒の味も忘れちゃって
飲めなくなっちゃった、とこういうのがあるんです。そうすると病気という苦しみだけ与えられる
わけですね。
いのら
酒を飲んでいたのでは、生命にかかわるから、こいつをチョンと病気にして、少し酒を止めさせ
てね、それで酒ぐせを治させちゃう。そういうこともあるわけです。あるいは商売がどんどん繁盛
おご
してゆく。そのまま繁盛してゆくとこれは驕り高ぶってしまって、心が曇ってだめになっちゃうか
ら、一遍こらしめのために貧乏させちゃって、それで=遍貧乏の中でお金の有難さとか、人間の愛
情の有難さを知らせるために、バーンとぶんなぐっちゃって貧乏させちゃって、そしてその人の心
を練る、という場合もあるわけですね。だから守護霊守護神は只単に甘くて、ハイヨ、いいよハ
イハイ、といってやっているだけじゃない。バーンとやって要するに試みにあわせてね、それでそ
の人を練磨するということも随分あるわけですね。それでみんな信仰したりしても苦しんだり、貧62
乏したりすることもあるわけです。しかしそれは何も守護霊が悪いことをするわけでも、守護神が
悪いことをするわけでもなくて、その人の業想念を
はから
う計いごとなんですね。
一日も早く浄め去ってしまおうという、そうい
あなたの中にキリストが再臨する
この地球世界では、神様を信仰している人が随分あるわけです。随分あるけれども、一生懸命神
様といいながらも、随分不幸な人がいますね。それはどういうことかというと、守護霊守護神の愛
というものがわからないから、守護霊守護神の存在さえも知らないのです。キリスト教では人間が
死んでしまえば、キリストが再臨するまでそのまま霊界でねていて、それで再臨した時一緒に生れ
更ってくるのだ、とそんなことを説いているのもあるのです。そんなバカなことはありゃしないね。
亡くなったらすぐ向うの世界で働かなくてはならないしね。向うの世界があって、向うの世界へゆ
くわけですよね。そういうように決っているのですが、それを知らないキリスト教の人達はそうい
うことをいっている。
イエスさんが再び生れ更ってくるとこう思っている。ところがキリストの再臨というのは、イエ
63 最大限に生かされる
スが再び生れ更ってくるというんじゃなくて、キリストというのは真理ですからね。真理が、真実
の姿がいろんな人に現われてくるわけね。それがキーストの再臨なのね。みんな真理を現わす、み
んな神の子の姿を現わすということが、キリストの再臨なのです。
あまてらすおおみかみ
それから天の岩戸開き、というのがありますね。天照大神という神様があります。神様の働き
の名前です。しかしみんな各人の中に天照大神があるわけですよ。それは光ですね。心の中に天照
大神、神様があって、その神様が開くことが天の岩戸開きというのです。だから自分が悟ってしま
ったことは、自分の天の岩戸開きだし、人類が悟ればそれが人類の岩戸開きなのですね。それをな
あめのみなかぬしのみこと
んか向うの世界のような気がしてね。天照大神なんていうとなんだかわけがわからない。天御中主
命といったってなんだかわからないでしょ、神道以外の人は。そのように古事記の話など自分に遠
いような気がしているような人が随分ある。ところが実は自分達の姿なんですね。自分達の姿を神
様の名前でみんな現わしているわけです。
自分にどれだけ力があるかそれはわからない
わけいのら
それで皆さん方は、一番始め出来た神様の分生命なのです。それで中にはみんな天照大神をもっ
ている。只天照大神を出さない。みんな業想念、自分というものを我でもって、肉体人間の欲望な
どでもって覆ってしまって、中の神様を出さないのですよ。それであれがつまんない、こいつがつ
まんない、あいつは嫌だ、こいつは嫌だ、といっているわけなんですね。いやだいやだとか、つま
るとかつまんないとかいっている。
いい人になると自分はダメだ自分はダメだ、とよくいう。私はいい人と称する人が”自分はダメ
なんですよ自分はダメですよ”というのは甚だけしからんと思うのですね。自分はダメだと誰が決
めるのか。ダメだかダメじゃないか実際にはわかりゃしないのね。自分の中にどれだけ力があるか、
自分では知らないのです。突如として力が出て来るからね。
私でも若い時はね、何になるかわかりゃしなかった。音楽を勉強したりしてたけれど、一体何に
なるかわからないのですよ。しかし自分がダメだとは思わなかった。はたから見れば実際何も特別
出来るわけでなし、何もわからない。ところが中に現在になるような力があったわけでしょ。あっ
たけれど二十代じゃわからないのですよ。平平凡凡たる青年。この間も親戚に行きましたら、古い
写真が出て来ましてね、いやな顔をしているの(笑)吾ながらいやな顔をしている。なんだこのう
らぶれた青年は、と思ったら自分なの。全く見られたものではなかったから、誰にも見せなかった
65 最大限に生かされる
けれどね。霊能者が見ればわかるけれど、前にも古い写真があって、村田さんに見せたのですよ。
この平凡な青年は誰ですか、というので、私だといったら、全然違うというのですね。今の私は二
十代の私と全然違うわけなのです。片方は単なる真面目な一青年。
66
真実の自己を発見して
どこでどう変るのでしょう。自己を発見したからなのね。本当の自分を発見するとにわかに人間
が大きくなっちゃう。
大概の場合は、肉体人間としての自分なんだね。背が五尺何寸でね。鼻が高かったり低かったり
大きかったり小さかったり。そういう人間、それが自分だと思っている。ああ自分は英語が出来な
いからダメだ。自分は数学が出来ないからダメだとかね。自分は貧乏な子だからダメだとかね。自
分は気が弱いからとかなんとかいってね。自分はダメだとこう思っているのね。ところがそういう
自分というのは、消えてゆく姿の自分であってね、過去の過去世からの足跡が、ここに現われて、
自分のような顔をして収まりかえっているのですよ。
ここにこうやっていますね。これは過去の人間が坐っているの.てす。もう済んじゃった人間がこ
うやって坐っているのです。これは過去のことなのです。いい方がおかしいけれど、過去のことが
今現われて来ている。もう神界で済んだり幽界で済んだことが、してしまったことが、今ここに現
われて実際にみな顔を突きあわせているような気がするのです。
過去の波が現われている
例えば今貧乏で悩んで悩んでいる姿をしているような人がいるとしますね。それは実はもうとっ
くに済んじゃっているのです、私の目から見れば。過去の波が現われてここにいるだけなの。もう
済んじゃった。それで皆さん方の本当の姿というのは、もう出来ちゃっている。世界平和の祈りの
中に入っちゃった時出来ちゃって、後から現われてくる。それは必ず現われてくる。
米粒をまきました。未来には沢山の米になって必ずみのります。それよりもっと確実にね、未来
の姿があなた方の中にあるのですよ。
いいですか、ここにいるあなた方で、貧乏な人もあるでしょう。病気で苦しい人もあるでしょう。
いろんな悩みがある人もある。あるいは悟れない悟れないと思っている人もあるでしょう。あるけ
れどもそれは過去のことなのです。ここにいるあなた方はみな過去です。あなた方の本当の姿は、
67最大限に生かされる
未来のものに現われているのです。そこで予言というものが出来るのですよ。
68
三十年前に今の私に会っていたということは
私に三十年前にもう会っていたという人がいます。会った先生というのは、こういう現在の顔を
しているというのです。三十年前というと今私は四十四だから三十ひくと、まだ少年ですよ。勿論
ひげなど生えちゃいない。三十年前もう会いましたと霊眼で見ているわけでしょ。その三十年前に
肉体の先生にあえば、十五、六の子供ですよ。ところがその人は肉体には会っていないで、霊眼で
あった。で私に会って、ああ先生、昔先生に三十年前にお会いしました、というようなことなので
すね。何年前に会ったというのはザラにいるのです。
そうすると子供の時の先生にあったというのではなくて、もう三十年前にはこういう姿があった
わけなの.てすね。地球界にですよ、こういう姿が現われるべくなっていたわけですよ。ひどい人に
なると”先生有難うございました。先生には前生から並々ならぬお世話になりました”もうこの姿
がちゃんと決っているわけだ。
だから皆さんがうらぶれた顔をしている人はいないけれども(笑)仮りにあったとしても(笑)
それは過去の姿であってね。未来のあなた方は意気颯爽とした、光明燦然としたあなた方なのです
よ。それがわかってくると何も心配苦労がない。そんなもの放っておけばよいのだから。勝手に消
えてゆくのだから。そういうものなのですよ。そこで予言なんかが成立つのですよ。
予言がなぜはずれるか
予言はある程度あたるのですよ。只悪い予言はなぜ当らないか。私達が当らないようにしている
のです。
例えば天変地変があるぞ、というのが前から随分ありました。何月何日天変地変、大地震とね。
その度毎に、私は「そんなものはない!」「そんなものはない」といっていたでしょ。五井先生が
無いというと恐怖がなくなっちゃうのですよ。それは何故かというと、光がスーとゆくからね。幽
界に出来ているのが消えちゃうのですね。だから人間の運命でも「ない」といえばその人はなくな
っちゃう。
“うちの娘は来月大病すると占者にいわれました
” “そんなものはない”というとなくなっちゃう
ですよ。幽界にあったものが、パンとやられれば消えちゃうからね。出て来たってちょっぴりしか
69 最大限に生かされる
出て来ない。
70
大信念が必要
‘大信念というのが必要です。人間には大確信というのが必要ですよ。自分には不幸はない。ない
ぬヘヘへ
ならないに決めちゃえばいいのだけれど、只自分だけでないといったって、あるから”ない、ある
かしら” (笑)大概そうよ。一寸外だけやってみるの。生長の家をやっている人はそうですね〃悪
いことを思わなければ悪いことは来ない。いいことを思えばいいことが出る” ってね。いいことが
ありますように、私はいいこといいこと、私はいいんだ私はいい私はいい。なんてやっている。そ
んな意気張ってはくたびれちゃうものね。それで一寸悪いことが出ると、思ったってダメじゃない
か知らと思ってしまう。そういうような浅薄な思い方じゃないのです。
・自分は神から来ている生命だから、神は円満完全なのだから、自分は完全円満に決っているのだ、
もし不完全なものが出て来たら、それは過去世の間違いが現われて消えてゆく姿なんで、私は一寸
も間違っていない∵ という素晴しい信念にならなければダメですね。
心明るければ運命開く
それには「ない」じゃなくて、消えてゆく姿がつかなければダメですね。みんな実際にはいろい
ろと悩みがあるんだからね。病気もあるし不幸もあるし、いろいろあるわけです。それがパッと消
える人もあるし、消えない場合もあるのだからね。ないというのじゃダメなんで、ああここに現わ
れている災いも不幸も、いやな想いも、人をいじめる想いも自分をいじめる想いも、それはみんな
消えてゆく姿なんだ、もうすぐに消えるんだ、あるものは神の子の自分だけなんだ、ということで
しょ。置き換えなければダメ。おきかえると自分の心がフーと明るくなればなる程、早く自分の運
命が開いてくるのですよ。自分の心が明るくならなければ絶対に運命は開かないのです。
自分だけでは明るくなれないから、こういう統一会なんかに来て、先生の気持のいい話をきいて、
こういう柏手をきいて、それでスーとして帰ってゆけば、それだけ明るくなるのが早いです。だか
らいい話をきくというのはいいですよ。
ところがえてして、悪い話や悪い映画ばっかり見たくなっちゃってね、悩みに悩んで死んだ小説
を読んだり、いくらやってもよくならない小説が好きなのです。みんな、やっぱりどこかに自分を
71 最大限に生かされる
いじめるという想いがあるのね。それで泣いてみたり悲しんでみたりすることが好きですよ。
音楽だって日本人は悲しい音楽が好きです。それも消えてゆく姿としてきけばいいですよ。ああ
こういう想いがあってこういう音楽に会うんで、ああこれをきいて消えてゆく姿なんです。そうい
う風に思っていればいいのですね。だからどんな場処にあっても、どんな立場にあってもね、いつ
でも悪いもの、自分の気にそわないもの、或いは人類の気にそわないもの、すべての不調和のもの
は、みんな過去のものが消えてゆく姿としてあるんですね、そういう目にあったらば、早速消えて
ゆく姿でもって、世界平和の祈りの中に入っちゃうのですよ。
世界平和の祈りというのは、神様の大光明なのだから、その中に入っちゃうのだから、世界人類
が平和で… … という時は、光のエレベーターにのっているつもり.ていればいいのです。
72
祈っている時必ず光に包まれている

世 界平和祈る忽ち祈り人の姿光につつまれてあり
という私の歌があるんですが、それはどんなに悪いことを想っていても、自分がどんな業想念に
つつまれていても、あのヤロウいやな奴だ、アイッは死んじまえばいい、と思っていてもですよ、
世界人類が平和でありますように… … といったらば、自分は光につつまれているのか、とこういう
質問がありました。
どんなに悪い想いが片方で出て来ても、世界人類が… … という想いがあれば、それは光につつま
れているのです。光につつまれているけれども、自分の中の光と守護霊守護神の外の光と救世の大
光明と、ぴたっと一つにならないと安心しないのです。やっぱり揺れているような気がするのです。
ところが世界平和の祈りをやっていると、中のものが世界平和の祈りをやるんだから、外の救世
の大光明と内なる光と合体してゆくわけ。合体してゆく内にだんだん光がひろがってゆくでしょ。
そうすると中にある業想念がだんだん減っていっちゃうのですよ。そうするとなんか安心立命した
ね、心から、ああ私は救われているんだなあ、ということが、貧乏なら貧乏なりに、病気なら病気
の中で、ああ私は救われているんだなあ、私は神の子なんだな、ということがはっきりわかってく
るのです。
だからやらなければダメです。どんな悩みの中にあっても、どんないやな想いの中にあっても、
貧乏の中にあっても、病気の中にあっても世界平和の祈りをしていれば、その人の周囲はズーと光
につつまれているのです。これは間違いもないことですよ。だから安心して世界平和の祈りをやれ
73 最大限に生かされる
ばいいのです。
74
自分の幸も人類の平和も一つの祈り言で
世界人類が平和でありますように… … とやるのだもの。こんな大きい人類愛の想いはないでしょ。
世界人類が平和でありますように、私の家業が繁昌しますように、一体どっちが大きいでしょ?
世界人類が平和でありますように、私がよくなりますように、どちらが大きいでしょう? 世界
平和の方が大きいでしょう。
世界というのは、個人とつながっているのですね。アメリカとソビエトが一寸はじまれば個人も
亡びてしまうのです。だから世界人類ということと個人は同じことなのです。
世界人類の平和というものは、個人の平和なのですね。個人が平和にならなければ世界は平和に
ならないし、世界人類が平和にならなければ、個人が本当に平和になることはないのですよね。
そこで”世界人類が平和でありますように”という時には、自分の平和もそこに入っているわけ
です。だから世界人類が平和でありますように、だけでよいのだけれども、それじゃね小さい方の
自分が気が済まない。家のことも願わなければつまらない、と思う心があるから、そこで”日本が
平和でありますように、私共の天命が完うされますように”と私はくっつけている。それで守護霊
さん守護神さん有難うございますって、それじゃなんか物足りない、南無妙法蓮華経をつけた方が
よい、それじゃつけなさい。南無阿弥陀仏をつけてもよい、ナムカラタンノトラヤーヤ!でも、な
んでもつけなさいというの。
世界平和の祈りをしたら、あとなんでもつけたらいい、安来節でもなんでもつけたらいいと思う
のですよ(笑)なんでも好きにつけたらいい。実際は同じことだから。
75 最大限に生かされる
76
自分の心を調和させよう
人間の生れ更り
人間がこの世の中に肉体をもって生まれておりますね。この生まれている姿というのは、今はじ
めて生まれたわけではないのです。ここにいらっしゃる方は、何遍もいろんな生れ更りの経験をへ
て幽界のことも知っていれば、霊界のことも知っている。肉体界のこともなんでも知っている。と
いうようないろんな生れ更りをしてきて、そしてここに現われているわけです。
らよくれい
初めに神様即ち、人類の神様、直霊があって、そこから分れて来た分霊が、霊界を通り幽界を
通り、肉体界に人間として来ているのだけれども、同じ直霊からいくつもいくつも分霊が出ている
わけなんですね。それで分霊同志が、同じ分かれたものだと非常に親しいわけなのです。
それが、何遍も何遍も生れ更ってくる場合に、分霊がそのままの光で、例えば前生においてAと
いう名前だった人が、そのまま変身して違う名前で生まれてくる場合もあれば、ABCまざって、
今度は混合体として、一つの肉体として生まれてくる場合もあるし、それからAならAが分裂して、
AがABCD になって、三つも四つにも生まれてくる場合もあるわけなのです。一卵性双生児なん
ていうのは、それがもっともハッキリした姿なんですね。つまりAならAというものが、二つに分
かれて来た形、これが一卵性双生児になるわけなんです。だから生れ更り、といっても、これには
いろいろありましてね。
神様、守護神の方の、いろいろな考え方で、こうやった方がいい、ああやった方がいいと、生れ
更りしてゆくうちに、最後には自分の分霊というものと、守護霊守護神とが一つになってしまう。
神我一体の境地になってくると、もう再び生まれ更ることもなくなって、神界で働く。その時その
人は守護神でもあるし直霊でもある。全部が綜合してしまうわけ。そうなった時に如来という。そ
れがそのまま又この世に出て来て働く場合には菩薩という。そういう風に出来ているんです。
「イブの三つの顔物語」より
77 自分の心を調和させよう
昨日、ある人から小説的な心霊物語の本を「先生、是非読んで、こういうことはどういうことか、
御説明をお願いします」と貸りた本があるんですね。それは面白いんですよ。
「イブの三つの顔」という、リーダーズダイジェストから出ている本(リーダーズダイジェスト名
著選集)でそれにはどういうことが書いてあるかというと、一人のイブという女性がいるわけなの
です。もう結婚して子供さんもある。その人が頭が痛くてしようがなくて、時々意識がなくなって

しまう。そうすると人格が少し変ったりする。それで夫が医師に診せにいくわけなんです。お医者
さんの方も軽いノイローゼぐらいに思っていた。ところがだんだんわかって来たことはこのイブホ
ワイトという人の処に、三つの人格が現われてくるんです。
イブというそのご夫人(戸籍にのった名前の人)はおとなしい、陰気のようないわゆるあまり自
分を出さない、いつもこらえて我慢して静かに世を送っているような人なのです。ところがこのイ
ブホワイト夫人に、イブブラックが突然に出てくるんですよ。そうするとイブホワイトは昏睡状態
なのだから、何も意識がないんですね。全然意識がない間、イブブラックというお転婆な陽気な、
歌もうたえば踊りもおどる、というコケティッシュな女性の性格になって、どんどん動いてしまう
わけなんです。その人は地味な人だから洋服もあまり買わないのに、ブラックが現われてくると、
78
どんどん借金しても派手な洋服を買っちゃって、町中に出てゆく。そうすると夫がお前どうした、
そんな服買って、僕の財政はそんなに豊かじゃない、どうした、と小言をいうわけ。と「私は知り
ません」知らないわけです。その人は昏睡しているのだからね。他の人格がのりうつってやってい
るわけでしょ、だから自分は全然責任をもてないわけです。
そういうのを精神分裂というわけなんですけどね、普通にいえばそういうような状態になってし
まう。そしたら今度はとても知性的な、ものわかりのいい夫人が現われて来たりしてね、この三つ
のものが交互に現われてくるのです。それでお医者さんが二人でかかって、精神分析をした。医者
のところへ年中いって、いろいろ診断をうけながら、働いているのです。それでしまいには、夫と
別れて暮してみたりしていても、なかなか治らないわけなのですよ。
それが最後に夫と別れてしまって、今度は新しい男性と結婚するのです。する時既にだんだんこ
の三つの人格が統合されていって、ある時、縁にふれてパッと三つが一つに混合して、今度はまた
別な新しい人格として、生れ変る。生れ変るといっても、この肉体のままで生れ更って、新しい人
格の婦人が出来てくるわけです。それで前の夫とは離婚して新しい男性と結婚するのですけれどね。
どうやら今のところうまくいっているのです。現在うまくいっているかいないかは別ですよ、その
79 自分の心を調和させよう
時うまくいっていると、その小説には書いてあるのです。これは事実の小説なんですね。
80
あなたも混合霊体?
これはどういう状態かというと、お医者さんが書いた本なのだけれども、果してどういうものな
のかよくわからないわけです。それを私が解釈すると、それは本来はA ・B ・Cと三つに分れて霊
界にあったものが、生れ更りをする前に、混合して、混合霊体となって、この肉体に入って生まれ
てくるべきであった。ところが、どうしたはずみか、バラバラになっちゃって、混合しないうちに
生まれてしまったわけです。しっかり霊魂が一つになりきらないうちに生まれて来たわけです。だ
から肉体になった時から三つあるわけなん.てすよ。三つの要素があるのだけれど、はなればなれに
なって、とにかく真中のが、そのまま育ってきたわけです。ところがある縁にふれて片方がひょっ
こり顔を出す。又ある縁にふれて片方が顔を出して、今度は三つの人格がバラバラになってしまっ
たわけね。それで最後には、おそまきながら、一つの人格になって来たわけなのです。
それがうまくいけば、三つのものが一つになって、しかも完全になって、一つの要素や二つの要
素だけよりも、三つの要素が人格的に巾が広く、立派な人になって生まれて来ているのです。最後
に三つの人格が統一して一つになった場合、その夫人というのは、とても立派な夫人になるわけな
んですよ。だから初めから三つの要素が一つに渾然一体としていれば、それは混合霊としては立派
なもので、非常に立派な夫人が生まれているわけなんです。
皆さんがここに、一人としていらっしゃるでしょ。けれどこの中には混合霊(混合霊というとお
かしいけれど) いろんな霊魂がまざって、三つも四つも五つもまざって、一人の人間になっている
人もあれば、前にはうんと大きな霊体だったのが、今度は半分になって生まれてきている人もあれ
ば、三分の一になって生まれてきている人もあるわけなんですよ。”やだな、おれ三分の一の方か
な〃(笑)心細いな、なんていうことになるかも知れないけど、皆さんが例えば今生で無名で年を
取ってしまって、この世的にはあまり仕事もしなくて、そのまま凡々と暮して来た、という場合が
ありますね。しかしその人が前の世でも無名で何もしなかったかというとそうでなく、前の世では
有名な、非常に働いた、歴史にも残るような人物であったかも知れないのです。
歴史上にもう知れ渡ったような大きな人物が、今度生れてくる時は、いわゆるその魂の修練のた
めに、わざわざ二つに分れ、三つに分れて別々な生活を体験するために、別々に分れて生まれて来
ている場合もあるのです。そうすると別々にわかれた者同志は、お互いに仲がよかったり、あるい
81 自分の心を調和させよう
は仲が悪くても一緒に常に住んでいるような、そういうことになるんですよ。
82
人間その複雑なるもの
人間の世界というのは複雑でしてね、肉体が一つあるから一人だと思っていると、とんでもない。
五井先生なんていうものは、何かというと、いろんな種類がまざっているんです。渾然一体と全く
一つの人格になっている。だから私がこうなる前に、人相観がいましてね、私の所にちょいちょい
来まして、それで自分で相を観て、これはどうにもならないと思う人を私の所によこすのですね。
こうなりたての頃ですよ。それが私の人相を観て、先生は全く相反するものが一つになっていると
いうんですね。いわゆるおでこならおでこの相と顎なら顎の相とが本当は相反する相で、こういう
相の人はないんだそうですね。合わないんだそうです。それがちゃんと合っているっていうのです
ね。その他いろんなことをいってましたけれど、そういう風に二つも三つも四つもの者が一つにま
ざって、完全に一つになるというわけなんですね。
そこで皆さんが、まだ不完全だとしますね。相反する気持が一杯あるとね。自分はいいことをし
たいのに、何か人をいじめたい気持ばっかり出てくるとか、自分はやさしい言葉をかけたいのに、
行いとしては強い言葉が出ちゃうとか、いろいろそういう風に自分の心に相反することがあるわけ
です。自分ではこうしたいと思うのに実際行動としてはそう出ない、という場合がありますね。そ
れは自分が調和してないわけなんです。いわゆる前の世でもって合わさって、この世に二つなり三
つなりのものが混合して生まれて来た場合に、まだ調和されてないわけね。今のイブの物語じゃな
いけれど、イブの物語はハッキリ現われたからおかしかったのだけれど、そういうのが一つ一つの
別々な人格として現われないで、渾然一体としながら、しかも別々な行いをする場合があるのです。
自分の心を調和させること
人間は、本当は調和体であるべきものが、調和しないで自分の心の中で、いろんな想いが戦い合
って争っているというのがあるでしょ。皆んな誰にもね。それはやっぱり霊魂が合わさって生まれ
て来ているんです。合わさって生まれて来ているのだけども、完全に一つになり切らないんですよ。
ところがもっともっと深く考えると、人間というものは宇宙神において一つなのだし、直霊にお
いては一つなのだし、完全に一つの生命なのですね。体がこう分かれ、すべてが分かれていても一
つなのです。一つの生命なのだけれどもそれが複雑なんですよ。この働きの場合には一つの人間で
83 自分の心を調和させよう
ありながら、二つも三つもの者が入って、働いているわけなのです。そこで一番大事なことは何か
というと、自分の心を調和させる、自分の心を統一させること、過去においていろんな想いをして、
いろんなことをした霊魂達が集まって一つになっているからね。
皆んな必ず混合霊になったり分裂霊になったり、いろいろと転生して来ているわけなんです。だ
ヘヘヘヘへ
から何か大きな仕事をするような人程、へそ曲りだったりつむじ曲りだったり、変な裏表があった
りするんです。片方じゃとてもいいことをしていながら、片方じゃ残虐なことをしたりね。ヒット
ラーとかムッソリー二なんていう連中はみんなそうですよね。とても深い愛情と非常に残虐な相反
するものがあったりする。いろんな要素がまざっているからそうなのです。調和されてないものだ
から善い所が出るととても善いけれど、悪い所が出ると目もあてられないようなというのがいるで
しょ。仕事はうんとするし慈悲も深いし人の面倒をよくみるけれども、もう女問題にかけちゃ大変
悪いとか、そういうのがたくさんあるじゃないですかね。そういうのは皆混合霊なのです。たくさ
ん寄り集ってて調和されてないと、もう不調和な姿が出てくるわけです。

どうしたら調和するか
皆さんも、胸に手をあてて、よく考えられまして、ハテそういわれると思い当る。私はこうしよ
うと思うのに、こっちでこんなことをする、右の手を動かそうとするのに左手が動いてしまうよう
にね。心が二つにも三つにもわかれて、いつも悩む人が大分あるでしょう。では混合霊がどうした
ら調和するかというと、一なる神様の中に自分の想いを全部入れてしまえばいいのです。そうすれ
ば神様の方で自然に調和させてくれるでしょ。それが守護神への感謝なのです。すべて守護神の統
率のもとにあるわけですから、どんなに分霊が入って来て混っても、十混ったって、三十五十混っ
たって守護神がちゃんとみているのです。責任は守護神の方にあるわけです謁だから守護神さん有
難うございます、よろしくお願いします、といえば、守護神の方でうまくやってくれるのです。そ
れに加えて、世界人類が平和でありますように、という祈り言をすると、この祈りは世界人類さえ
も平和になる祈りだから、世界人類とつながる自分の心の中だけが平和にならないわけがありませ
ん。これは原理なのです。
だから世界平和の祈りをすると、世界人類のためになると同時に自分のためにもなるわけですね。
自分の調和を築き上げる、自分が統一体になって、すべてのものが統一出来る、というような心に
自然になるわけです。そういう面から考えても、世界平和の祈りは素晴しい。昨日もその本を読ん
85 自分の心を調和させよう
でいて、やっぱり世界平和の祈りの処までいかなければだめだと思った。消えてゆく姿でもって、
世界平和の祈りが一番すごい。
86
人間は神自身の分れたもの
消えてゆく姿、というと、どんなに統合しようと分裂しようと、それらはみんな消えてゆく姿で
す。あるものは一なる神様だけです。唯一神から現われた自分なのだから、自分達の天命が完うさ
れますように、と祈れば、いくら三つも四つも七つも八つも集って来たって、みんなそれが統合さ
れて、一つの生命の働きとしてここに働くのです。その生命の働きとして働いたものが、何かとい
うと、世界人類が平和であるための働きであるわけなのです。
地上天国を築く神様のみ心が、この地球世界に現われるために、一人一人が現われているのであ
り、生れて来ているのです。
さっきの混合霊の話ではないけれど、例えば前生において、Aという者が一番余計に働いたとす
るのですね。B ・Cは余計に働かなかったとする。いいことをしなかったというか、いい思いをし
なかった。そうすると、A ・B ・Cがまざって統合されて生まれて来た場合、今度はBならBの番
になって、Bが余計に働くような中心になるような、そういう場合もある。或いはCが中心になっ
て働くというような場合もある。これが渾然一体として調和してゆく姿がこの人間の生まれてくる
姿なのです。
いろんなのがまぜ合さったり、離れたりしながら、それで肉体界に生れては調和して、又帰って
いく。そうやっているうちに、だんだん霊と物質とが調和されていって、最後には地上天国が出来
るのです。そのために何遍も何遍も生れ更ったりするんですよ。だから一朝一夕で神様が物質界に
現われて、すぐ調和してしまうなんていうことはないわけですね。
そういういろんな神様が、人間というのは神様ですからね。神様自身の分れたものなのですからね。
神様自身も分れてしまうと、大神様として一つで働けないのです。
神様は絶対なる力だけど、大神様として一つとして働いたのでは、相手が何もないから、自分を
一遍うつし出すために、地球の物質界を作り、物質界に自分の姿、形なき姿なきものをうつし出し
たわけなのですよ。それで地に這うものや魚だとか鳥だとか作った。それではまだ足りないでしょ。
最後に自分の姿に似せて、自分の権能、自分の力というものを分けて創ったのが人間なのです。人
類なのです。それで地上界というものの物質的な波動に合わせて、肉体という波動を作って、この
87 自分の心を調和させよう
肉体界が出来たんですよ。その中にすっぽりと神様が入っているわけなのです。
88
あなたは救世の大光明の一光線
皆さんも神様の分れた生命が入っているわけですね。動物は違うのですよ。動物は創られたもの、
指導権が全然ないのです。動物は考えるということがない、本能のままに動いているだけでしょ。
人間は考える、考える力というのは神様の力なのです。だから神様の力がそのまま入って考えてい
るわけです。それで神様が物質という肉体の中に入って、いろいろに分れて、生れ更り生れ更りし
ながら地球界を作っていったのです。神様がそのまま地球天国を創ろうとしているのです。その一
つ一つの分担をみんなが受持っているわけなのですね。それが共同して受持ったり、分れてやった
り、いろいろするわけなの。てすよ。
だから考えてみると、大光明の一つの光線として、みんながあるのです。一人一人が光線なので
す。それが一本で来る場合もあれば、三本、五本とまざって来る場合もあれば、前にうんと太かっ
たから、今度は半分にしよう、三分の一にしようという風に分れて働いている場合もある。そう考
えてくると、自分と子供、あるいは友達と仲のいいこともわかるし、仲の悪いこともわかるし、い
ろいろの因縁因果の波の仲が、よかったり悪かったりすることがわかるのですよ。兄弟姉妹であっ
ても仲の悪いのもあれば、他人であってもとても親しい他人もあるし、親子であっても仲の悪い親
子もあれば、他人なのに子供のように可愛いいものもある。といろいろあるでしょ。それは前の世
るいじ
からのことだし、魂の類似で、前に一緒だったものが分れてくれば、どうしたって親しいですよ。
そういうように出来ているわけなのです。実に複雑綿密に出来ている。よくもまあむずかしく作っ
たものだ、と思うくらい人間はむずかしい。
神意識を出そう
ここに五十才の人がいたとします。赤ん坊の時はものを考えないかも知れないけれど、二つ位に
なればもう考えますね。とにかく二つ位から五十才まで、考えたり記憶したり行動したりするわけ
ですが、それはみんな潜在意識の中に、録音テープに録音されると同様にごまかしようなく入って
いる。自分で気づこうと気づくまいと、深く深く入ってしまっている。だから人間というものは、
この世に肉体として生まれた時の想いから、更にさかのぼって、太古の人間が神であり、神である
ことをわかっていた時の想いからすべて潜在意識に入っていて、顕在意識にまで波動が積み重なっ
89 自分の心を調和させよう
てあるわけなのです。それが折にふれ時にふれ、表面に出てくる。潜在意識は悪いことばかりある
わけではないのです。最後の一番奥には何が入っているかというと、神意識、人間は神であったと
いうところまであるのです。
精神分析で分析してゆくうちに病気が治ったりする場合がある。しかしそれは意識のほんの表層
だけしか出来ない。三十年も五十年も百年もつづければ、神様の意識まで達するかもわからないけ
れど、一人の患者にそんなにやっているわけにいかない。せいぜい一、二年しか出来ない。五年も
十年もやっていたら疲れてしまう。精神分析の医者は真剣勝負ですからね。ノイローゼの人がくる
でしょ。何かきくのですね。すると向うではいうものかと黙っている。何きいてもいわない、とい
うことになると、しようがないから催眠術をかけて眠らせて、それでいわせたりする。すると今度
は催眠術をかけられるのを嫌って逃げたり、まるでお医者さんと患者とは喧嘩なんですね。患者の
方は逃げようとする。医者の方は審こうとする。闘争ですよ。それに金もよけいとられるでしょ、
長くつづきっこないですよ。先生と患者と同数いなきゃならないものね。大体二十九億全部病気な
んだから(笑)医者の方まで病気なんだからしようがない。
潜在意識をめくったって、一寸ばかりしかめくれないのです。ところが何重にも何重にもなって90
最後の世界には神意識になっている。神意識から途中では動物意識のようになってね、殆んど半人
半獣のような世界もあったわけなんですね。いろいろな世界があった。だからこの一番奥の最後の、
神意識を出さなければだめなのです。それが出て来ない以上は、世界が平和になるわけはないし、
地上天国は出来ないのです。そこに宗教の世界がある。
世界平和の祈りで潜在意識を浄化しよう
それを私は簡単にやっている。すべて現われていくものは消えてゆく姿なんだ、というのはそこ
なんですよ。でどんどん消えてゆく姿にして、世界平和の祈りの中に消していってしまう。どんど
ん引き出しては消し、引き出しては消す。そうするといくらあっても、一瞬一瞬消してるんだから、
精神分析でその時だけ消すんじゃなくて、二十四時間プラスα、いつでも消してるわけですよ。そ
うするとどんどん消えてゆくわけね。それも只消えてゆくのではなくて、消えてゆくに従って、消
す方が救世の大光明ですから、一遍に厚いものが消えるんですよ。例えば精神分析では一だけのも
のしか消えないものが、世界平和の祈りをしていると、十が一遍に消えてゆくのです。そうすると
最後の神意識が出てくるわけですね。自分の本心が現われてくるわけです。本心と守護神守護霊と
自分の心を調和させよう
91 軸
の一体化が出来るわけです。
悟る、正覚を得るということが、祈りの世界から入ればかなり簡単に出来るわけなのですね。ま
して世界平和の祈りのような、すごい光の祈りから入ると、如来様になることが、かなり簡単に出
来るわけです。多くの人が仏菩薩になれるのです。
ですから潜在意識をきれいにしない以上は、世界人類は平和にはならない。個人も平和になりま
せん。世界平和の祈りの大光明で、人類、個人の潜在意識を浄めて頂きましょう。
92
運命は変わる
昭和3年5月2日
寿命も変る
運命というものは変わります。寿命も変わります。
じようみよう
いつもいいますけれど、第一の寿命、第二の寿命、第三が定命といって、第三の定命になりま
すと、私がどう祈ってもだめなのです。ところが、第一、第二の寿命は変わるのです。
易者にみてもらった、霊能者にみてもらった、三人にも四人にもみてもらったけれども、みんな
誰も彼も死ぬというけれど、先生いかがでござんしよう、とやってくる人があります。みるとやっ
ぱり相当危いんです。十中七八だめだけれど、まだ残っている、よしやってみよう、といって助か
93 運命は変わる

る場合が多いんですよ。柴田和通先生もその一人なんですね。(*足心道という健康法を創立した人)
ということは寿命も変わるということです。定命は変らないけど、寿命といっているものは、変
わります。ということは、どんなに易者にいわれようと、運命判断師や霊能者に”お前は危い”と
いわれようと、それだけでへこたれてしまってはだめだ、ということなんです。誰が何をいおうと、
定命でない限りは変るんだから、まして人間の運命、幸や不幸、病気だのというものが、直らない
わけがないんです。
運命は変わるのです。運命というのは、大体どういうことかというと、例え話をすれば、丸い行
き方をする人は丸、三角の人は三角なんだ、四角の人は四角なんだ、わかりますね。そういう風に
決まっている。ただ四角の大きさが決っていない。丸の大きさが決ってないんです。それを自分で
勝手に人間が決めてしまって、自分なんていうものは駄目なんだ、自分なんて才能がないからどう
やってもダメなんだ、と勝手に思っている。勝手に思っていれば、思った通りになるんですよ。
本当は、前生の因縁、過去世の因縁として、一度は決ったように見えている。それが姓名になっ
て現われて来るんです。生まれた時に名前がつきますね、と同時に可愛い手相もついていますね。
そのように一度びは決ってくるけれども、それは変わらない運命じゃなくて、変わることなん。てす。94
「神と人間」にも書いておりますけども、私も名前でさんざんいわれました。五井昌久とい
うのは、
かく
ふつうでいえば、総格が十九画、熊崎式でいえば二十画。昌久というのは十一画でいいんだけれど、
井と昌と合わせると十二画。十二画は凶悪数だというのです。十九画も二十画も凶悪数なのです。
陰陽が熊崎式でいえば奇数、偶数、偶数、奇数。ふつうの姓名学でいうと、偶数、偶数、偶数、奇
数でね、ダメなんですよ。どこを探してもいいところが一つしかない、とさんざんいわれたんです
よ。
三十で死んじやうとか、何をやっても途中までゆくけどもダメだとか、頭はよいけれど運命はだ
めだとか、孤独の相だ、とさんざんけなされたんです。今、孤独どころの騒ぎじやない。年中、先
生、先生といわれて、毎日たくさんの人と会ってます。これが孤独だったら、孤独じゃない人なん
てありやしない(笑) だから、姓名学というのも、当てになるようでならない。
どうしたら変えられるか
あと
一応は前生の因縁として決っているから、うまい人がみれば、後から振りかえって、ああいわれ
たて
た通りになったというのを盾にして、それで運命が決っている、姓名学が当るというのは間違いな
95 運命は変わる
んです。変えることが出来る。
どうやったら変えられるかというと、強力な運命を修正する人、光の強い人に援助を頼むことで
す。守護霊さんという、祖先の悟った神霊、或いはその上の守護神につながっていますと、守護霊
さんが私みたいな人に頼んで、こちらから強力な光波を送って直しちゃうわけです。そういう風に
なっているんです。どんなにお前はダメだといわれようと、いくら貧乏であろうと、そんなこと悲
観することはなにもない。
霊能者では、当てものをする人はたくさんいるんですよ。当てるのならわけないです。私、本当
のことをいおうと思ったら全部当っちゃう。お前はネ来年の三月に死ねよ、なんていったってしよ
うがないでしょう。私は出はじめの頃はみんないった。
ふたつき
「私はもうこういう男にいじめられています、どうしましょ」「ああそいつはネ、二月たつと電車

に礫かれて死ぬよ、心配すんな、何月何日に死ぬから」「ああそうですか」本当にその人死んじゃ
うんです。いわれた人はびっくりして、あの五井っていう先生はすごいそ、死ぬことが当るんだか
ら、生かすことも当る(笑)大丈夫だといえば大丈夫だと思うでしょ。そういうように、浮んでく
るもの浮んでくるもの、みんなパッパッといった。
96
一家の名前を出しなさい、ハイって名前を書いて持ってくる。あああなたのところにはろくな子
が一人もいない(笑) この子だけがいい、あとはダメだ全然(笑)育てるの無駄だから止めなさい。
そんな調子でいったんです。いわれた人はがっかりしちゃいますよネ。そうなると、いいといわれ
た子だけ可愛いがっちゃって、あとはどうせ駄目なんだから、お前なんか駄目なんだ(笑)
お前だめだという教え方をしますと、一家を調和させるんではなくて、乱しちゃうんです。これ
はいけないと私はすぐ思いまして、そこを卒業しました。直霊と一体になって、神様と一体になっ
て、本当に今の私が出来上りまして、もうそんなことをいいませんよ。私が修行中にやっていたよ
うな状態で、五十になっても、六十になっても、七十になってもそのままの状態で、一向に進歩し
ない霊能者がたくさんいるんです。
たた
お前には先祖が崇っている、二十一日間護摩を焚いて祈疇しなければだめだ、それには三千円必
要だ、出せば直してやる、とかいうことになっちゃう。商売になっている、当てるだけじゃだめな
んですよ。当てられたってしようがない。出るものは出るでしょう。ふつうならば、なるべき運命
はなるでしょう。
97 運命は変わる
運命的人生から天命的人生へ
98
だから当ててもらったって、当ててもらわなくたって、その時が来ればわかるんです。今ここで、
雨になるかしら、風になるかしらって騒いだって、一時間たって雨が降るものなら雨が降るだろう
し、風になるものなら風になるだろうし、それを当てられたってしょうがないでしょう。そんなも
のはなんにもならない、防ぎようがないんだから。本当の宗教家というのは、強力な力を入れて、
それで直すのです。イエスさんはそういうことをやったんです。しかも人類全般を直していこうと
いう考え方なんです。
そういうわけで、柴田和通先生はいまだ健在で活躍しているでしょう。お弟子もたくさん出てく
る。そうするとお弟子の人たちが、五井先生という人がいるからって、私のほうへみえる。私に会
うとお弟子の運命が変わってゆく。
柴田先生が一人助かったために、谷梅安さんが一人助かったために、あとの人がみなつながって
助かってゆくんですよ。そのあとに話がありまして、私に八〇%だめで、二〇% のいのちだといわ
れた人が三人あった。二人はそのままはなれちゃって、一人の人は私のところへ来た。そしたらそ
の人は元気になって来たというんですね。それはどういうことかというと、やっぱり光が流れて入
っていった。
ということは、運命は決まっているようで決まっていない。ということなんです。だから運命は
変わる。
よくきく人がいます。「運命というものは変るもんでしょうか、変らないもんでしょうか」そこ
で私は答えます。肉体人間側からすれば変るんだ、天の神様からみれば変らない、決っていると。
運命が決っているという考え方すれば、人間というものは救われるに決まっているんだ、今に神と
一体になって、神さまの仕事をするに決まっているんだーこういう風に考えればいいのです。
つまり、始めは運命は変るもんだ、といって入っていって、相当になったら、自分の役目がはっ
きりわかって来たら、運命は決まっているんだ、天命として自分に授っているんだと、肯定的に考
えたらいいですね。二通り考えたらいいんです。
99 運命は変わる
100
徹頭徹尾、平和の祈り
昭和3年6月7 日
お浄めの実証
宗教というのは、只単なるお説教ではなくて、実証でなければならない。たとえば私が浄めた人
は、亡くなる場合でも、必ず楽に霊界へゆく、いい顔をして逝かれる、と私が言明したとしますと、
その言明が実際に現われなければなんにもならないんです。
私が今迄浄めた人でもって、或いは写真だけで浄めた人でも、苦しんで死んだ人は一人もないん
です。亡くなった場合でもみんな楽に、顔が本当に笑みこぼれるようにいい顔をして、亡くなって
いるんです。
二、三日前にも、私の家内の姉が亡くなりました。原子病なんです。広島に原爆が落ちたあと、
すぐ広島に帰って、水道の水を飲んだんですよ。その時はわからなくて、四、五年ぐらい前から少
しお腹が痛み出して、だんだんお腹がはれて来たんです。肝硬変という病名をつけられたんですが、
私がみた場合、原子病なんですね、それで私たち夫婦と一緒に住んだほうがいいと思って、自分の
ところに呼び一緒に住みました。お医者さんは、もう一と月とは持たない、もう二、三日したら亡
くなる、もうじきだというんです。
ところが二、三日が四年延びちゃった。ちゃんと起きてご飯を食べたり、それに割と痛みがなく
・て、お腹だけはふくらみました。水をぬく、またお腹がふくらむ、また水をぬくというようだった
んだけれど、そんなに苦しみなく生きたわけです。それでつい二、三日前亡くなり、今日お葬式だ
ったんです。けれど私は出るわけにいかないでしょう。こうやって会がありますからね。横関さん
に代って午前中お葬式をしてもらったのです。
このお姉さんは信仰家じゃないんです。神さまってことは一つも思ってるわけじゃないです。神
さまにすがるのはなんか恥しいような感じがするんです。神様を否定しているわけじゃないけれど、
唯物論者じゃないけれども、神さまに病気を治してもらうことを願ったり、何かお願いをしたりす
101徹頭徹尾,平和の祈り
たぐい
ることが恥しくて、神さまなんて呼べない人がよくあるんです。そういう類の人なんです。人間
012
はとってもいい、誠実な人なんだけれども、奇蹟があることを知らず、奇蹟というものを絶対信じ
ない人なんです。
誠実さは買われるけれども、神様を全然知らないんだから、ふつうではそんなに楽に往生をする
わけがないんですよね。ところが私の所にいましてネ。亡くなって、その死顔がとっても安らかで、
お化粧をしないのに紅をさしたように、ニコッとしたようないい顔して亡くなっているんです。そ
れで私が観ますとね、霊魂は霊界のかなりいい所へ往っているんです。神界、霊界、幽界とありま
すが、ふつうだと幽界の下のほうより往かないわけなんです。それが霊界の相当のいい所へ往った
んです。それが形に現われて、顔がニコッとしたような、紅をさしたようなきれいな顔になってい
るんですよね。
浄めてありますと、自分で信じようと信じまいと、現象の心で信じようと信じまいと、チャンと
逝くべきところへゆく、いい所へゆくという証拠になって、私は安心した。私は本当は心配してた
んです。亡くなってから迷っちゃしようがない、迷わないだけしてあげよう、と祈ってたんです。
もう命がないことはわかってましたからね。十年前から私は寿命がないことはわかってました。
一番初めその姉に会った時、気の毒だけれど四十八まで持たないそこの人は、と家内に話したこ
とがあるんですね。その時その人はピンピンしていたんですよ。それを私忘れていたんです。近頃
になって家内が「姉さんが危い、もうダメかしら、あなたがネ、今でもおぼえてるけれども、四十
八歳が止まりだよ、持たないよっていったけれど、本当かしら」といったんで思い出したんです。
本当に四十八歳で死んじゃった。しかしその当時みたその人の霊魂の高さと、私と一緒になって亡
くなった高さとでは、まるっきり違う。雲泥万里の相違なのです。
私は生き死にはどっちでもいいから、ただいいところへやってやりたい、どうかいい所へ往きま
すように、と祈ったんです。それでちょこちょこ浄めてたんです。そうしましたらもう雲泥万里の
差の所へいった。さっき横関さんがお葬式から帰って来たら、横関さんに一緒について来て、ニッ
コリ笑って有難うって私にお礼をいっているんです。今になって本当の私がわかったわけ、それを
喜んでいるんです。そういう風に浄めてあるということは非常に素晴しいことなんです。
医者や薬を敵にしてはいけない
浄化している人間の業想念が、毒素になって体にたまりますネ、それが現われて消えようとする
103徹頭徹尾,平和の祈り
のが病気の症状なんです。西洋医学ではそれを一辺押えて、出さないようにする。だから痛みも止
まります。それで一時よくなる。けれども根本的に治ったんじゃなくって、現われた症状を押えた
だけなんですね。押えて奥へひっこめるわけです。宗教でいえば、怒っちゃいけないよ、お前は怒
るからいけないんだ、と押えると、怒るまい怒るまいと忍耐して怒らない。いいことですよね。し
かしたまりにたまると、今度は爆発するでしょう。それと同じように西洋医学では押える、それも
愛で押えるんだから、悪いというんではない。一つの方法なんだからね。東洋医学は食物を調節し
おぎ
たりして、押えるんではなく、足らないものを補なったり、中のバランスをとったりして薬も飲ま
せる、どっちも特長があるん.てすね。長所もあれば短所もあるわけ.てす。
霊治療をする人たち、メシヤ教じゃないけれど、まるで医者を敵のようにして、医者にかかるな
らみてやらん、てなことをいっておどすんですね。薬を飲むからお前の病気は治らなかった、薬を
飲んでいるから毒素がますます増えて悪くなった、とこういう。そういうこともいえるんだけれど
も、癌で痛い痛いといっている時に、痛みを止めてやりたいのは、やっぱり人間の愛ですわね。そ
ういう場合に注射を打って痛みを止めてやる、ということも一つの愛でしょうね。自分の子供や妻
や或いは夫が、痛い痛いといっているのに、ああそれは消える姿ああそれは消える姿なんていえな
104
いでしょう。まあ消える姿ならまだいいですよ、生長の家式に、病気は無い、肉体は無い、無い無
いなんていっちゃいられませんよね。そういう時に応急手当として注射を打って、痛みを止めたり
するのも愛情でしょうね。
ところが観音教や他の教えでは、注射をすると毒素がますます増えて、体が悪くなる、というん
です。それも全然でたらめじゃない、一理あるけれども、そういういい方は病人をいじめることに
なるんです。やっぱり痛い時には痛みを止めてやりたい、これが愛情です。人間の愛の心が西洋医
学にもなり、東洋医学にもなり、宗教の治療にもなり、いろんな形で現われているんだから、やた
らに、お医者さんをけなしたり、薬をけなしたりすることはいけないんです。それで私は幹事心得
の中で、医薬をみだりにけなさぬ事、と書いたのです。
神様は自由意志を尊ぶ
けなしがちなんです。何故かというと、宗教的になっている人は、お医者さんにかからなくても、
神様!といってお祈りしておりますと治るんですよね。そのために自分と同じ心境でない人にまで
も強いるんです。それは強制ということになって、あまり神様のみ心にかなわないんです。神様は
105徹頭徹尾,平和の祈り
強いることを好まない。己れの生きる道をそのまま生かしながら、知らない間に業を消していこう
というのが、神様の行き方なのです。そのために守護霊や守護神を遣わして、うしろからうまく調
整調節しているんですよ。そういう生き方を神様はさせているわけなんです。
たいがい自分がやっていること以外は、けなすんです。創価学会じゃないけど、自分の所へ入ら
なければ罰が当る、出りゃなお罰が当る、でしょ。ああいうように人に強制をして、人を強制的に
自分に従わせようとすることは、神様のみ心にかなわない。いいですか、もし神様が強制的に皆を
従わせていいものなら、悪人と思われる奴は皆殺しちゃいますよね。神様は絶対力なんだし、無限
の力なんだから、もし強制していいものなら、えいっ! ったら悪人はパッとみえなくなって善人だ
け残る。そういうことになるでしょう。ところがそういう風にはしません。
何故しないかというと、人間の自由意志というものを尊重しているんです。ですから立派な宗教
になればなる程、人の意志を尊重して、人に強制したり、強引にすすめたりはしないんです。だか
らどんないい教えでも、どんないいことでも、強制をして無理じいにやらせるようなことは、私は
好まない。何故好まないかというと、人間の意志は自由なのだから。
家庭においてもそうです。良人が妻の自由を縛ったり、妻が良人の自由を縛ってはいけない。た
106
だし、自由を縛るのと、業をそのまま野放しにしておくこととは違うのですよ。たとえば子供がそ
ふら
こに川があるのを知らないで、どんどん歩いていって、川の端に行っちやって、今にも落こちそう
になったら、パッとぶんなぐっても、引張り戻して助けなきゃならない場合もありますね。身投げ
をしようとする人がいた場合、ああ自由にまかせて(笑)ああ飛びこんだ(笑)なんていうわけに
いかないでしょう。それは人間の愛だから、どうしたって止めるでしょう。そういうわけで、自由
を縛ることと、向うの業をうまく消してやることとはまた別なんです。
私のやり方
私のやり方は、すべて向うの自由意志を縛るんではなくて、自由意志をそのままにさせながら、
業だけをきれいに消してゆく方法をとっているんです。だから一人一人に説教などあまりしません。
個人面接した場合に、あなたの心はこうだからこう直しなさい、とか、こうだからこうしなさい、
なんていわないんです。何故無駄かというと、業が録音されているように、ぐるぐる廻っていて出
てくるんだから、これを押えて、いわせまいとしたって無理なんです。やらせまいとしたって無理
なんです。それは消えて行く姿として現われるんだからね。
107徹頭徹尾,平和の祈り
しま
ただ現われた場合、たとえば、失敗った、と思いますね、あいつ恨んじまった、しまったと、こ
う思うその時、しまったしまったばかりをつづけて行って、それで消えてゆく姿を知らなければ、
それは録音機にまた吹きこまれるんです。いけないという想いが吹きこまれて、折角出て来たのに
また違う形になって、また悪が吹きこまれるわけなんです。自己否定という形になって録音される。
私の場合はそうじゃなくて『人間というものは神様の分霊であって、神の子なんだから本来悪が
あるわけがない、本来不幸のあるわけがない、本来病のあるわけがないんだ。それでも病が現われ
ているのは、或いは不幸が現われているのは、悪い想念が現われるのは、神様てある人間というも
のを忘れてしまった過去世の想いが、業になって現われて、病気になったり、不幸になったり、か
んしゃくになったり、妬みになったりして、現われて消えてゆくんだ』とこういうんですよ。
ああ消えて行くんだって見ていりゃいい。平気な顔をして、鼻唄で消えてゆく姿を見られればい
いんです、本当は。ところがそうはいかないでしょう。把われますね。そこで把われそうになる想
い、なんて悪い自分だろう、或いはあいつは悪い奴だと思う想い、そういう想いを思った時に、神
様のほうに持っていっちゃう。守護霊さん守護神さん有難うございます、とか、世界人類が平和で
ありますように、というように、善のほうに、光明のほうに持っていっちゃうんです。災を変じて
108
福となすんです。
業を呼びもどさない
消えてゆく姿というのがなければ、この世の中はもう暗黒です。録音がぐるぐる廻りっぱなしで、
この世の中はいつまでもよくならないんです。ところが、あッこれは消えてゆくんだというと、ス
ウーッと向うのほうへ流れていってしまう。呼びもどさないからね。そして神様のほうへ持ってゆ
く、世界平和のほうへ持ってゆくから、どんどん業は消えてゆく。片一方では神様の光が入って来
てん
て、光明の録音がされる。だから善悪がさかさまになっちゃうわけですね。禍転じて福となる。転
かいふく
禍為福で、パッパッとひっくりかえってゆく。悪いものが出た時、悪い想いが出た時、不幸が出た
時に、もうそれはすでに良いものが入っていて、本当の姿が現われてくる。光が出てくる。
いいかえれば、悪といい、不幸といい、病気といい、妬みといい、恨みといい、怒りといい、そ
ういう業想念は神様の光が追い出してるわけなんですよ。神様の光に追い出されて、外へ外へ、潜
在意識から先へ追い出されて表面意識へ現われ、行為となって現われてゆくわけ。現わすものは何
かというと、神様の光なんですよ。
109徹頭徹尾,平和の祈り
神様の光が追い出して、業は追い出されて消えてゆくんです。それをまた掴んで、自分のほうへ
引戻そうとするのが普通の人間のやり方なんです。昔の修養というのはそうです。いちいち反省す
る。反省は結構で、反省がなくては困る。悔改めをする、それも結構だ。しかしかえりみすぎちゃ
って、知らないうちに業の中へ入っちゃうんですよ。自分は悪いものだ自分は悪いものだに入って
ゆく。人間というものはだめなものだくくに入って行く。それは本心というものと業想念とい
うものと区別がついてないからですよ。
本心は神の子である、神の分霊であって光明燦然としているものである、ということがわからな
いんです。わからないためにこの世界があまりよくありませんからね、堕落する人が多いし、
自分勝手なことばかりする人が多いからね、人間の世界は悪いものだという性悪説が生れたんです
ね。それで人間はダメだくと思う。
だめだくといっているうちは、だめなんです。だめなものは何かというと、それは神様と離れ
た人間の想いなんです。神様を離れている想いはだめなんです。神様と一つになっている想いは愛
なんですよ。何故なれば神は唯一なんです。一つなんです。一つなるものが守護神に分れ守護霊に
分れ、或いは分霊として何十億に分れているわけです。この元をただせば一つの神様の中にあるわ
110
け◎
肉体の人間と霊体人間は違う
人間というものは分れているけれども実は元は一つなのです。アメリカ人であってもイギリス人
であっても、ロシヤ人であってもみんな元は一つなんです。けれど現れとしては二十何億に現われ
ているんです。幽界にも何十億ある、霊界にも何十億ある、そういう風に神様の光が分れている。
神様の光が分れているのがわからないで、地上の肉体の世界ばかり見ている人たちが、神様を離れ
てしまって、神様である人間を忘れてしまって、業想念を作ったんですよ。それで今の姿になって、
あなたと私は別なんだ、向うとこっちは別なんだという風に、全然別個に考えた。いわゆる相対的
に物を考えた。ところが本当は相対的というのは現れの世界だけであって、霊の世界、魂の世界に
おいては相対じゃなくて絶対なのです。絶対から出ている光なのです。
太陽から光線が出てますね。その光線をみて、ああ光線は別々だとは思わないですね。太陽から
出ている太陽の光線ですね。人間は神の子人間なんです。それを神というものを忘れて、肉体人間
というものになってしまった。私は人間と書かないで、いちいち肉体人間、肉体人間と書いていま
111徹頭徹尾,平和の祈り
す。何故肉体人間と書いているかというと、肉体人間と霊の人間とは違うからです。肉体人間とい
12
うのは物質なんです。霊の人間というのは霊妙不可思議な、物質を超えたひびきなんです。光なんー
です。光の体なんです。それがわからないと、いつまでたっても人間はよくならない。皆さんがこ
ういう風にいらっしゃって、年中私と話をしたり、浄められたりしていますと、いつの間にか肉体
から霊体に化してゆくんです。
柏手は本体のひびき
この柏手を聞いて、ただの音と思う人は、本当はどうかしてるんですよ。この柏手が物の音であ
るか、霊的なひびきであるか、わからないということは、業が深いということです。何故かという
と、物理科学的に、力学的に考えて、私が両手をひろげる巾がこのくらい(肩のはば以内)で、こ
の小さな手で、これだけの音の大きさ、力が出るわけがない。力を入れようがないでしょう。手も
突っばってはないんです。誰でも真似してやってごらんなさい。神様が働かない以上はこういう音
(実際に柏手を打たれる) は出ないんです。私は力んでいません。力などまるっきり入れてない。
力を入れているとしたら、一日に三百人も朝から晩まで柏手を打っていたら、大概じゃないけれ
ど、手が千切れちゃいますよ。どこからエネルギーが来るかというと、いわゆる光体から、太陽の
ような元の光から流れてくる。その流れてくるひびきが私の統一体を通って、向うへ流れてゆく。
その時、私の両手が動くだけなんです。通ってゆく瞬間に動くだけだから、私は自然でいいんです。
いいですか、皆さんの体からも光が出ているんです。何故光が出ているかというと、皆さんの本体
は光体だからなのです。光の体から流れて来ている。
いいかえれば、細かい微妙なる、ふつうの光の速度よりもっと早い速度で流れているものが、肉
あら
体界の粗い波の中をくぐって、そしてすっと向う(相手) へ入ってゆく。何故そのままじかに、光
から光へと伝わらないかというと、肉体という媒体がないと向うの肉体へ通すことが出来ないんで
す。出来るけれども効果が少ないんです。そこで肉体の粗い波をいっぺん通って、向うの中へ入っ
てゆくんです。
くだ
この肉体は管のようなものですね。パイプですよ。光がパイプを通って、向うのパイプへ入って
行くわけです。パイプで皆つながっているからね。そういうために私のこの肉体があるんです。と
ころが肉体にみえるけれども、本当はこれは肉体じゃないんです。霊体なんです。だから霊能者が
みれば、私がこうやってたら見えやしないです。ひびきがここにない。ひびきを無くそうと思った
113徹頭徹尾,平和の祈り
ら無くなる。なんにもなくなってしまう。皆さんだってそうですよ。
“統一
“ということがありますね。統一とはどういうことかというと、自分の肉体というものをな
くしちゃうことなんですよ。統一すると肉体が無くなるんです。どうして無くなるかというと、肉
体が出している波動が消えちゃうんです。霊の波動に還元し、細かいひびきになっちゃう。肉体そ
のままで細かいひびきになっちゃうと姿が消えちゃうんです。午前十時と午后三時に集団の祈りを
やっています。本部道場の二階に私がいまして、二階から柏手を打つんですよ。その時の柏手の音
というのは物凄い。ふだんの数十倍のすごいひびきなんです。それを長くやっていますと、体が消
えてなくなりそうなんです。それであんまり長くやらないんです。
皆さんが統一をしておりますと、肉体的人間というより霊的人間になる。非常に感受性が強くな
る。運命の危険なども避けることが出来るようになる。守護霊や守護神の注意がすみやかにわかる
んですよ。頭でパッとわかるかどうか、それはわかりません。自然にパッとさけられるように、危
機というものをさける力が強くなる。
たとえば放射能というのがありますが、放射能の波というのはやっぱり物質の波ですから、放射
能を受けてもあまり感じなくなるとかね。要するに住んでいる次元が違ってくるわけです。肉体の114
世界にいながらも、自分の住んでいる世界は霊界になっちゃうわけです。
れば、不幸がそれだけ無くなるんです。
そういう人がたくさん出
光の波の中にいる
皆誰も人間というものは肉体だと思っているんです。いくら私の話を聞いても、相当長い期間つ
めこんで聞かされないと、人間は物質だと思っています。そういう観念はなかなか消えるものじゃ
ない。お腹が痛い、なんかなりはしないか、と瞬間的にそう思うですよ。頭が痛い、ああ病気と、
とこう思います。ところが私どもの世界では、頭が痛くたって、腹が痛くたって別に病気だと思う
ことはないです。波がかかって来て消える姿だと思っているんです。現れすべて波だと思っている。
私のは波動説です。科学でも今は波動説でしょう。私はすべて波だと思っている。波にも汚れた波
と光の波とがある。光の波の中に自分が入っていれば、汚れた波に感染しないから、自分は病気に
もならないし、病気になったとしても、すぐ消えてしまう、すぐ治ってしまう。
普通だったら、これだけの労働を朝からやっていたら疲れ果てます。”先生大変ですね、お疲れ
になりますでしょう”と皆ききます。それは若干疲れます。しかし大して疲れちゃいません。これ
115徹頭徹尾,平和の祈り
は三百人やろうが、五百人やろうが、一万人やろうが同じです。ただ時間がないから出来ないだけ
16
ですよ。そんなに疲れはしません。何故疲れないかというと、疲れるというのは物質の波動なんでー
す。その波を超えてましょう、だからいくら物質の波がぶつかって来ても、スッと光の波の中へ入
る。降りちゃ上り降りちゃ上りしているわけです。ということは、物質の波、肉体の波の中にいな
がら、いつでも光の波の中にいるわけです。
だから皆さんも、人間というものは光なんだ、太陽と同じような光なんだ、ということをいつも
頭の中に思わなければいけない。光が小さいか大きいかは別として、自分は光の体なんだ。だから
お腹が痛もうと、頭が痛もうと、どこが痛もうと、痛んだということは、病気ということは、過去
世の因縁が消えてゆく姿なんです。自分の本体はいつも光なんですよ。
業の消えてゆく姿
さっきもある人が”自分の心がまだ足りないから、こうなるく” っておっしゃるから”それは
違う”といったのね。自分が悪いからこうなった、ああなったじゃないんです。ところが普通の宗
教では”あなたが悪いから子供がこうなった” “良人が悪いから妻がこうなった”というんだけれ
ども、それは嘘なんです。悪いものは皆消えてゆく姿、今のその人が悪いわけじゃないんですよ。
今現われている不幸というものは、今現われている悪い想い、感情というのは、今つくったんじゃ
ない。間違えちゃいけません。
たとえばお米を食べるとすれば、それは去年作った米ですよ。今作って、今食べるわけじゃない
ですね。自分の目の前に現われる時には、もう過去のものが現われる。それと同じように、人間の
想いというもの、今現われている環境,というもの、それは今作ったものではなくて、過去世の因縁、
過去世の想いの波が今ここに現われて、その人の環境になっているのです。だから今現われている
環境をとやかくいったって始まらないでしょう。食べちゃったものを、お前こんなもの食べちゃっ
て、といったって、あとは出るだけの話です。食べたものは出る、これは原則なんです。
やったことは必ず帰ってくる、これは原則です。だから今の不幸とか今の喜びとか、今の悲しみ
とか今の想いとかいうものは、今あるように見えるけれども、それは消えてゆく姿としてこの世に
現われただけであって、今作ったんじゃないんですよ。いいですか。それをよく頭にしみこませて
下さい。今、作ったんであれば、その人を責めることが出来ます。お前が悪いんだって。ところが
過去において行った想い、お互いの想いがそこでぶつかって喧嘩になり、争いになるんです。
117徹頭徹尾,平和の祈り
だから争った場合、或いはいじめられた場合、こちらは全然悪くなくてもそうなった場合、それ
は今、その人が悪口をいったように見えるけれども、悪口をいわれているこちらの方が、過去世に
おいて人をいじめた波が今自分に帰って来ているところなのです。それでいじめられるんですよ。
だから今のその人が悪いわけではなく、またいじめられている人が悪いわけでもなく、それは神様
をはなれたお互いの想いがそこでぶつかって消えてゆく姿なんですよ。わかりますね。そういうの
が本当の宗教というんです。
人間は神の子なんです。みんな神様なんです。神代なんです。神代から始まっているのだから、
神代のことを説くのが神道です。初めから日本では人間は神の子なんだ、神だといっているわけな
のです。それが今改めてハッキリ説かれているのです。ですから私の話していることは、神道らし
く話さないけれど神道なんです。法華経なのです。法華経を超えて神道なのです。それをやさしく
説いているのです。
人間は神の子なんだ、光明燦然としているものだ、悪は無い、なんていったらば、もうお前の心
が悪い、心のかげだよ、なんて心の法則は一切いらないのです。それがあったら人間は神の子でな
くなって、悪魔の子にさがっていくのです。ところが宗教はみなおかしい。
118
お前は神の子だ、光明燦然としているんだと、教えていながら、お前が悪いとこういうのです。
お前が悪いというのは一切いらないのです。お前が悪く見えるのも、私が悪く見えるのも、すべて
みんな過去世の因縁が現われて、消えてゆく姿で、今のその人は悪くないんだ、という見方をしま
せんと、本当に人間の世界は幸福になりません。
消えてゆく姿と見られないと争いはつづく
そういう悪をみつめて、消えてゆく姿と思わないで、悪をいつ迄も把えているようになれば、ア
メリカが悪い、ソビエトが悪いでしょう。日本も悪ければ中国も悪い。この世の中は悪いものだら
けですよ。この世の中でいいものはありません。この間もある新興宗教の大教祖が「軍備がなかっ
たから、韓国に馬鹿にされて竹島なんかとられる、軍備というものは国を守る権威であって、軍備
がそのまま戦争と直結することはない」というような説をといているのです。私はそれはおかしい
と思うんだ。もし逆に軍備がうんとあったならば、韓国が竹島をとったり、文句をいった時に、戦
争になるだろうと思う。恐らく日本人は短気だから黙っちゃいないだろうからね。それこそ大戦争
の口火になるかも知れない。
119徹頭徹尾,平和の祈り
そういうことはどっちがどっちだかわからないことでしょう。それを自分だけの考え方で、軍備
210
がもっと強かったら、韓国に馬鹿にされないんだ、という言い方は非常に危険だと思うですね。折
角、平和憲法が出来て、折角、日本は原子爆弾にやられて無一物になって、真実の日本、平和日本
が出来、世界の中心になる日本が出来るという瀬戸際になって、世界戦争の危機を出す必要はない
でしょう。
この世の言葉はいくらも反対がいえるんです。社会党なら社会党のいい分もありましょう。自民
党なら自民党でいい分がありましょう。そのような相対的考え方、悪を認めている考えは、どうに
も言葉が出るんです。ソビエトが原爆や水爆を持っています。ミサイルも持っています。日本なん
か一ぺんにつぶせるような力を持っています。日本に軍備がたくさん出来れば、面倒だって日本を
つぶすかもしれない。いざ戦争になれば、アメリカの片腕である日本をバアンとつぶして、それか
らアメリカへいくかもしれない。そういう考え方もあるでしょう。逆に軍備がないから馬鹿にされ、
ソ連に無血上陸されて、ソビエトがどんく入って来て、日本の共産革命をするかもしれない。ど
っちも無いといえません。
敵なんて無い
そういう風な相対的な、肉体的な、この世的な考え方をしておりますと、どっちにしていいかわ
からないんですよ。実際、軍備をしたほうがいいんだか、しないほうがいいんだか、さっぱりわか
らない。アメリカは味方でソビエトは敵だ、どこが味方でどこが敵だという考え方ではなくて、そ
ういう敵なんてないんですよ。敵なんて思う想いも消えてゆく姿、敵のように現われているのも消
ふためふためふため
えてゆく姿。アメリカがもし日本の不為なら不為なところは消えてゆく姿。ソビエトが世界の不為
ムためムためふため
であるならば、その不為なところは消えてゆく姿。中国が不為であるなら不為なところは消えてゆ
く姿。
みんな神様が必要あって出来ているんです。神様が全然必要がなくて、出来ているなんてことは
ないんだから、みんな神様が創ったんだからね。そうでなかったら、神様と悪魔が対立して、いつ
までたっても人間の世界はよくならないんですよ。ところがちゃんと、地上天国が出来る、という
大予言があるんです。出来るんでなく、私どもの目ではすでに出ている。出来ているのをこの地上
界に現わすのが、肉体人間の役目なんです。
121徹頭徹尾,平和の祈り
肉体にいるこの人間たちが、アメリカは悪い、ソビエトは悪い、日本の政府は悪い、共産党は悪
い、社会党は悪い、といって悪い悪いづくめで、ただ息まいているだけではだめなのです。軍備を
しなかったから韓国に馬鹿にされたんだ、という考え方もあることはあるんですよ、軍備をしよう
とするからソビエトや中共が狙うんだという考え方もある。このようにどうにでも考えられる、や
ってみなければわからないことを、いかにも自分の説がいいようにいうのはおかしい。まして宗教
家が軍備を持てくなんていうのは、実におかしい。
その同じ人が、戦争に負けて、平和憲法が出来た時には、これは神様がアメリカをして作らしめ
た憲法であって、これこそ神のつくられた平和憲法だと云った人が、今度はひっくりかえって、今
頃になると、あれはアメリカによって作られた間違った憲法である、だから憲法を改正しなければ
ならないという風に云うんですね、云いたい放題で責任がない。
だから私どもが教えるのは、現象的な憲法がどうだの、軍備がどうだのということではないので
たいせい
すよ。そんなことを云ったって、どうにもならない。実際は大勢で動いているんです。それを、こ
れはいけないとか、いいとかいうのはもう遅い。そんな時代ではないんです。いけないも、良いも
ないんだ。出たら消えてゆく姿、本当の神の姿じゃないんだから、人間は神の子なんだから、神の122
み心から離れたもの愛から離れたもの、誠から離れたもの、善から離れたもの、美から離れたもの、
そういう想いは、全部消えてゆく姿。徹頭徹尾消えてゆく姿。在るものは何かというと、神様のみ
心だけなんです。
神様のみ心はどう現われているか
神様のみ心はどういうように現われているかというと”世界人類が平和でありますように、本当
の日本の姿が現われますように、一人一人の人間の天命が完うされますように”ということでしょ
う。そのみ心をこちらが受ける時に、ああ守護霊さん有難うございます、守護神さん有難うござい
ます、神様有難うございます、という御礼と共に、世界平和の祈りになってゆくんです。そうする
と、自分の想いが業想念の中からぬけ出しちゃって、神様のみ心がどうの、何がどうの、そんなこ
とじゃないですよ。軍備をすればよかった、しなかったがよかった、どうすればよかった、ああす
ればよかったッてことは末梢的なことで、いってもいわなくても同じこと。なぜ同じことかという
ごう
と、業というのはぐるく廻っているんで、軍備をするのならするようになっているし、いじめら
れる時はいじめられるようになっているし、動いて押えようがないんですよ。日本がいくら叫んだ
123徹頭徹尾,平和の祈り
って、日本は今アメリカの力に押されている。自衛隊をつくるまいくといったって、アメリカが
つくれ、といえばどうしても作らなければならない立場に置かれている。ミサイル基地がいらない
といったって、要るといったって、アメリカのほうでつくれといえば作らなければならない立場に
置かれている。日本は自分一人で今、立ってはいけなんです。外国の力を借りなければ、日本は独
立出来ていないのです。
そういう日本人の立場というものは、現象的に見れば、実に哀れなものなんですよ。哀れな立場
で、いつまでも哀れな顔をして、ただ犬の遠吠えのように吠えて、アメリカはダメだ、ソビエトは
駄目だなんていっても、そんなものはなんにもならない。そういうのは業の日本の姿.てあって、本
当の霊の国、日本の姿じゃないんです。霊の国、日本の国の姿というのは、徹頭徹尾平和の祈りで
すよ。只一つ平和の祈りです。平和の祈りをしながら、もし亡びるものならば、神も仏もないんだ
から、亡びたらいいんですよ。生きているだけ無駄です。それは悪魔の国なんだから。
124
祈りをせよ、と教えているのは大神様
心から平和を祈りながら、それで亡びるということは絶対無いんです。なぜ無いかというと「平
和の祈りをしろ」と教えているのは大神様なんです。大神様の働きとしての救世主が「平和の祈り
をしろ。それだけしかないんだ。お前たち人間の想いを平和の祈り一本にもってゆけ。職業も日常
生活もすべて、世界平和の祈りの中から始めなさい。そうすれば日本が世界の平和の本当の中心に
なれるんだ、それが日本に課せられたる使命である」とハッキリいっている。「そうやってさえす
れば、お前達の地上界の肉体の力だけじゃ足りないから、守護の神霊を現わして援助する。宇宙人
を現わして援助させる」という言葉を大神様のほうから云って来ているんです。それは間違いもな
いことなのです。それが間違いであるならば、他に方法は何もない。平和の祈りが叶えられないな
らば、あとは亡びるより仕方がない。
本会の使命私どもの使命
私どもは亡びないことを信じています。私など肉体が亡くなったってなんでもありません。ちゃ
んと向うに場所があるのだし、わざくこっちへ来ているのだから、なんでもありません。
世界平和の祈りによって、地上界の肉体界の幸福もはかり、これを亡ぼさず、しかも霊界の姿、
幽界の姿も幸福にするという、すべての世界に神様の世界がそのまま現われてくるという。最後の
125徹頭徹尾,平和の祈り
末期状態が今なのです。ということは、反対にすれば神様が現われてくるということです。
亡びるか、生きるか、この二つに一つしかないのです。しかし、生きるということは確認されて
いるのです。それを私が大声でいっている。
「世界は平和になるんだ、地上天国は出来るんだ。出来るためにはどうしたらいいかというと、世
界平和の祈りの中にすべての想いを持ってゆきなさい。怒りの想いも、悲しみの想いも、すべての
想いを世界平和の祈りの中に投入しなさい。何があっても”世界人類が平和でありますように” と
やっていなさい。今から死ぬまで、肉体がなくなるまで祈っていなさい。そうすればあなたは必ず
救われる、それを私が保証する」
神様が私を通していうわけです。他にないのです。そう教わってから、反対の理論も考えた。ど
うしたらいいのだろう。アメリカと提携してソビエトと喧嘩するのがいいのか。ソビエトと提携し
てアメリカと喧嘩するのがいいのか。それとも、アメリカともソビエトとも手を継ぐ方法があるか
しら。ありっこない、何故ないかというと、アメリカの行き方とソビエトの行き方は違います。お
互いがオンリー・ワンで、一番上になりたいのです。自分が下座について、さあ日本さんお立ちな
さい。私があなたの靴の紐を結びましょう。なんてアメリカはいわない。ソビエトが、さあアメリ
126
カさん、どうぞあなたが先にたって私が従いましょう、なんていわない。みんな自分が親分になり
たい。
こう
人間というのも同じです。みんな社長になりたい。大臣になったり、上になりたいーそれは業
なのですよ。アメリカは世界で一番実権を握りたい、ソビエトはソビエトで実権を握りたい。今、
日本だのインドだの中国など、実権を握るわけがないでしょう。世界で一番になれっこないことは
わかっているから、世界一になろうと思わない。しかしもう少し実力が出来てくれば、世界一にな
りたいと思うのですよ。それは人間の欲望であり、業想念の中に生きる人間の常なのです。そうい
う業想念に向って、いくら話しかけをしたところで、五十歩百歩です。
もし話しかけをするならば、地上界の肉体人間には及びもつかない力、アメリカもソビエトも及
ばない、そういう絶対力も持って、どうですソビエトさん、アメリカさん、手を継ぎませんか、私
が仲に立って手を継がせるから、さあ継ぎなさい。といわなければならない。地球界の力よりもっ
と素晴しい力、絶対力というのは何かというと、地球以外の宇宙の星の力です。宇宙人の力を借り
ない限りは、或いは守護神がそのまま現われて来て、力を発揮しない限りは亡びるのです。この白
光会の使命として、私どもの使命として、宇宙人と提携して日本を真実の日本にせしめ、地球界を
127徹頭徹尾,平和の祈り
真実の地上天国にせしめるという、約束が出来ているのです。その約束を果そうと思って、
は一生懸命祈り、お山(聖ケ丘のこと)で統一したり、いろいろやっているわけです。
私ども
128
ひたむきに世界平和を祈ること
それがだんく実現してくるのです。実現してくることになっています。その応援のためにも、
皆さんは世界平和の祈りをひたむきにやることです。ねてもさめても称名念仏すべきものなり、と
いうように、世界人類が平和でありますように、日本が先になったって、世界があとになったって
どうでもかまいません。世界人類が平和でありますように、だけでもいいです。なんでもいいから、
そのような想いをいつでもしていることです。自分の子供がいい成績になりますように、と思うな
ら、その想いを抱いたままで、世界人類の平和を祈ればいい。自分の病気が治りたいと思うなら、
治りたいという想いを持ったままでいい、世界人類の平和を祈ればいい。あなた方がちっぼくさい
自分とみるとするならば、見えることそのことが消えてゆく姿なのです。自分の心が悪く見えるな
らば、悪く見えるそれが消えてゆく姿なのです。本来の自分というものは、神様の中にいるのです。
このことを私は口を酸っばくしていうのです。何故いうのかというと、私自身が体得したからで
す。私はこの肉体にいるけれど、肉体にいるのではないのです。神様の世界の中にいるのです。だ
からこんな偉そうなことをいうんですよ。神様を何も知らないで、こんな偉そうなことをいったら、
誇大妄想狂といって、気違い病院行きですよ。それが正気なのです。正気でいっているのです。何
故かというと、云わなければいられない。ということは出来るということなのです。私のいうこと
が実現しなければ、世界は亡びるんですよ、他に方法なんかありはしないのだから。
迷ったままでいいから祈るのです
唱え言はどんなことでもいいです。業想念をつけたままでもいいです。自分の心が浄まってから、
自分の心に不安がなくなってから、自分がもっと偉くなってから世界平和の祈りをしましょう。な
んていうのはとんでもない間違いですよ。そんな想いではいつまでたってもよくならない。自分の
想いが迷いに満ちたままでいい。否定の心のままでいい、病気の想いのままでいいから、そのまま
で”世界人類の平和”を祈るのですよ。これが私の教えている一番の根本なんですよ。
ふつうはそうではありませんね。神棚を拝むのでも、口をすすぎ、手を洗い、きれいな格好をし
て拝むのでしょう。誰かが死んだから、神様がけがれるからといって、神棚に紙を貼る、そんな馬
129徹頭徹尾,平和の祈り
鹿なことってありますか。それは迷信です。いいですか、神様は人間の汚れでけがれるようなもの
じゃない。人間の悪い想いだとかそんなもので、神様が汚れてたまるものか。そんな神様ならいら
ないんだ。ただ不遜な心を起してはいけないというんで、そのようにやるんだろうけれど、どんな
汚れの想いを持っていったって、神様が汚れることはないのです。どんな悲しみの想いを持ってい
しんらん
ったって、神様は泣きはしないのです。神様というのは絶対力なのです。親鸞がいったように、い
かなる悪も弥陀の本願(神様の心)を妨げ、けがすことは出来ないのです。
神様が汚れることはないのです。どんな悪をもっていっても、どんな迷いをもって行っても、ど
んな悩みをもっていっても、どんな相談をもちかけても、神様が困ったりなどすることはありませ
ん。だからどんな迷いの想いでもいい、どんな汚れた想いでもいいから、そのままで神様! って、
神様の中へ入ってゆくんですよ。それと同時に、世界人類が平和でありますように、という祈りで
入ってゆく。そうすると汚れたものがだんくなくなってゆく。きれいになってゆく。それは何故
しんらんほうねん
かというと、光の中へ入ってゆくからです。それが親鸞や法然の教えなの。てすよ。それを私がもっ
と具体的に、法華経にまで高め、神道の教えにまで高めて教えているのです。
ですから私が悪いからだめです、私の心は小さいから、私の心はみにくいから、なんていってい130
ることはないのですよ。いいですか。みにくい心そのままで結構。どうせ肉体の人間がそう立派な
わけがない。それは相対的に生きているからね。一つも悪い心を起さない、なんていう人はどこに
もいませんよ。すっかり自分が浄まったら、心に何もなくなったら、それから神様! そんな馬鹿
なことはない。そんなら祈らなくたって、初めからいいんだからね。汚れているからこそ、神様の
中へ入ってゆく。自分がだめだからこそ、神様にすがるのです。だめでない人間がすがってどうす
るの?
私自身は変なことをいうようだけれど、神様ともいわない。何故かというと、こちらに何もない
から。この肉体を神様に貸しているだけなんだ。だから私は世界平和も神様も何もいわない。ただ
話をし、ただ柏手を打ち、ただ正座している。ただ光っているだけ。何故かっていうと、神様がそ
のまま働いているから、皆さんの場合は、想念をなくすことが出来ないのだから、それが出来ない
わね。だから想いを持ったままで、世界平和の祈りの中にとびこめば、私と同じになってしまう。
何にも無いと同じです。神様だけがあるのです。
神様以外にいない
131徹頭徹尾,平和の祈り
この世の中には、神様だけしかいないのです。神様のみ心だけしかないのだけれど、それを知ら
32
ないで、み心の他に、悪だの不幸だの悪魔だのがあると思い、悪いもののほうに自分が入ってゆくー
から、入っただけ自分が汚れるのです。
どんなに自分に悪い心が出ようとも、どんな病気が出ようとも、どんな不幸が出ようとも、その
ままで神様の祈りの中へ入ってしまうのですよ。そうすると神様のほうで消してくれるのです。そ
れが南無阿弥陀仏なんですよ。神様を機す悪はないんだから、自分は悪のままでいいから、神様の
中へとびこむのです。そうやっているうちに、だんだん神様が消してくれます。知らないうちに、
きれいな心になって、きれいな心境になってゆくのです。それを私が教えているのです。
じようふ
神様以外に何もないのです。人間をみていて、みんな人間が神様に見えて来たら、それは常不
きようぼさつ
軽菩薩です。法華経に出ていますね、あなたは仏様だ、あああなたは菩薩様だって拝んで歩いた
お坊さんがいたんですね。そう拝まれた人が、何!オレが菩薩であるものか、このヤロウッて石を
ほんとう
ぶつけるのです。ぶつけられると逃げながら、あなたは仏様です、あなたは菩薩です、と真実の人
間の姿を拝んだというのです。お釈迦様の前生ということになっています。そのように、人間その
まま神様! って拝めるようにならなければいけないんですよね。ところが、あんなヤロウ神様なも
んか、嫌なヤロウだ、なんていうことが多いです。顔をまともに見ては神様だとは思えない。
は消えてゆく姿の方を見ているんです。いつまでたっても神様のほうを見ない。
それ
相手の守護霊さんを見る
そこで私は、相手をみる場合、どういう風にさせるかというと、その人の肉体を見ないで、その
人の背後にいる守護霊さん守護神さんに、有難うございます。どうかこの人の天命を完うせしめ給
え、と祈らせるのです。たとえば息子が不良でしようがないとすれば、神様って拝めませんね。そ
したら息子のうしろの守護霊さん有難うございます。息子の天命を完うせしめ給え、とやるんです。
夫なら夫が道楽者だとする。夫の守護霊さん、ああご苦労様ですね、こういう業の固りをよく守っ
て下さいまして有難うございます、とやるんです。そうすると知らないうちに相手の守護霊と自分
の守護霊とが一つになります。一つになると、守護霊の力がその夫なり子供なりの中に働いて、業
を消してゆくんです。
夫がやらないとするならば、子供がやらないとするならば、妻がやらないとするならば、自分だ
けでいいから、世界平和の祈りをするのです。その祈りをする時に、その迷っている夫、迷ってい
133徹頭徹尾,平和の祈り
る子供の名を呼んで、そのうしろの守護霊さんに頼むんですね。そうしますと、いつの間にか立派
になります。必ず立派になるからそうやるんですね。
私のは易行道なのです。先生そういうけれど、とてもむずかしい、という人がいます。むずかし
いって云えばなんだってむずかしい。人間悟ろうとするのはなかくむずかしいですよね。けれど
も一番やさしいのです。だって悩みをとってから拝めというんじゃないんですものね。悲しみをも
って、汚れを浄めてから拝めというのではないからです。汚れたままでいいんだ、、病んでいるまま
でいいんだ。病んだら病気がなおりますように、と祈りながらでいいんだ、そのままで世界平和の
中へとびこめば、世界平和の光明が、そんなもの問題にしなくて消してくれるのだ。だからそれを
信じておやりなさい。そう教えているんです。
これが出来なくても、そんな出来ない者は! とはいえないのです。私は情けない立場でして、
そむ
いくら逆かれても、どうされても、それを救わなければならないんです。その人にどうしても真理
を知らせなければならない役目を持っている。このバカが/ と放り出すわけにはいかないのです。
どこにいても、どこへ離れようと、どんなにしようと、いっぺん私に会ったらば、それを救わなけ
ればならないのです。ところがみんな会うことになるのです。これはだからなかく大変な役目な
1
んです。というのは神様が大変なのですよね。しかし人間は神様の子なのだから、神様が絶対に救
わなければいけない。全部救うために、守護霊を遣わし、守護神を遣わしているんです。だから救
うのは当り前なのです。救われるのは当り前なのです。ただ消えてゆく姿ということを本当にわか
れば、みんな救われてしまうのです。
135徹頭徹尾,平和の祈り
136
祈りの姿とその功徳
昭和34年7月26日
命がそのまま現われていること
神という言葉を使わなくても、仏という言葉を使わなくても、生命をそのまま業想念、つまり我
欲、迷いにわずらわされないで、生き生きと生きていけば、それは祈りの姿なのです。
たとえば山野に木が茂っています。草が生えています。木というものは、そのまま何ものにも煩
わされないで、すくくと延びています。天まで届くかと思われる杉などたくさんあります。そう
いのら
いうのは生命がそのまま生きている姿、祈りの姿なのです。
草花が野原に咲いている、道端に咲いている。人間がいって、肥料をやるわけではありせん。自
然にそのままに、素晴しい花が咲くわけです。
誰も踏みこんだことがないアマゾン流域に、素晴しい花が咲いている。花壇にあるような花では
ない、もっともっと素晴しい花が咲いています。この間テレビで映していました。与えられた命が
そのまま美しく自分の天命を完うしているわけです。そういうのを祈りの姿というのです。
何かお願いすることを祈りと思ったら、、それは間違いです。お願いは念力です。ひどいのがあ
ります。神さまに願をかけて、何か助けたまえと祈る。それを祈りだと思って願うのですが、その
願いが叶わないと、あの神はニセ神だ、と文句をいう、神さまにケチをつける者がいます。それは
自分勝手であって、神さまの知ったことではないのです。
祈りというのは自分の本心が発現すること、自分に与えられたいのちが、そのまま硬りなく現わ
れてゆくことなのです。
祈りの姿がそのままに現われるためにはどうするかというと、自分の頭の中でグルぐ廻ってい
る業想念1 あれがほしい、こいつが憎らしい、妬ましい、地震が怖い、大事が怖い、貧乏が怖い、
病気がおそろしいーそういう恐怖とか不安とか妬みとか、怒りとか、様々な欲望、自分を守りた
いという欲望に把われず、消えてゆく姿にして祈りにかえることです。
137祈りの姿とその功徳
自己保存の本能という、咄嵯に自分を守りたいという本能が人間にはあります。なくてはならな
い本能なのだけれど、あまり過度になっています。過ぎますと、自分を害する者、自分に損を与え
る者、利害関係に反する者が、みな敵に見えて来ます。ですから常に不安を持っている。不安な気
持というものは、いのちを損ねるものなのです。
たとえば「チチキトク」なんて電報が来ますと、今までなんでもなかった心臓がドキドキして、
とたんにご飯がたべられなくなってしまう。胃の活動が弱くなってしまう。何が心臓をドキくさ
せたかというと、アッと思った恐怖というか不安というか、心配というか、そういう想いがさせる。
胃を痛くさせる。
ヘヘへ
ですから、心配とか、不安、恐怖とか、妬み怒りとかいうものが、中の働いているいのちの働き
ヘヘへ
を阻害しているわけです。いのちの活動が素直になされている時には、肉体が完全です。運命も完
さわ
全なのです。想いが凝りになって、働きを邪魔してしまうわけです。
ヘヘへ
そういう想いからぬけ出せばいい。想いといのちそのものと離せばいい。
命のままが現われていることを、本心が現われているという。その本心の大きな所が神さまとい

うわけです。宇宙神の大生命から分れてきた小生命が、私どもです。だから小生命の与えられたい
138
ヘへ
のちをそのまま出せば、みんな幸福になるし、人を損わないで、みな完全になるわけです。
自己本位の願いを達成することは祈りではない
それを邪魔しているのが、自己保存の本能で、自己を守りたいために、みんな敵にする。大きく
なると、民族なり、国家なりを守りたいために、自分に反するものに敵対する。アメリカとソビエ
トがそうです。昔、日本とアメリカがそうだった。そして戦争をして、負けたのは日本、負けたか
ら、神も仏もないものだ、という人が随分ありました。
日本が勝ちますように、と神社におまいりした、お寺にお参りした。国民が全部総力をあげてお
参りしているのに、どうして負けたんだろう、神も仏もないじゃないか、という論がありました。
そして無神論になって、唯物論になった人がたくさんあるのです。
それは祈りということを全然知らなくて、自分の勝手なことを願ったからです。どういう願いを
したか? 敵をやっつけ、相手を殺したってなんだってかまわない、敵を倒して自分のほうが勝と
う、というのでしょう。
神さまは人類の神さまです。すべてのすべてなのです。神からすべて分れて来たから、アメリカ
139祈りの姿とその功徳
人もイギリス人も中国人も日本人も、神さまからみれば自分の子であるわけです。その神さまが、
神さまといったから片方だけを支持して、云わない向うを殺してしまう、なんて、そんな馬鹿なこ
とをするのだったら、すべてのすべての神さまではありません、平等ではありません。
日本人も戦勝を祈りました、アメリカ人もキリスト教だから、アメリカ人も戦勝を祈ったでしょ
う。結局そういうものは、お互いの業想念です。お互いの業想念で自分を守ろうとする、自分の願
いを達成しようと思って祈った。人数からすれば、むこうのほうが多かった、こっちは少なかった。
武器やお金からすれば、アメリカやイギリスの方がたくさん持っていて、こっちはなかった。だか
ら、祈りというのではなくて、念力が五分五分としても、物質的には向うが多かったから、多いほ
うが勝つのは当り前です。だから日本が敗けたのは当り前なのです。祈りでもなんでもなかった。
140
今の時代こそ本当の祈りが必要
つの
今 、アメリカとソビエトは角つき合わせしている。話合いをするといったって、自分の勝手なの
だから、自分の利害関係を考えて、損がいかないなら妥協しよう、とお互いに思っています。です
からこれは話合いは尽やしません。表面つくように見えたって、完全についていない。ソビエトと
アメリカは敵対しながらの話合いなのだから、本当に仲よくなるわけはない。
一番大きな国と国とが、いつまでたっても仲良くなりっこないとすれば、小さな日本の国はどう
したらいいのか。日本など武器がありません。安保改定で、分割するかどうかわかりませんけれど
も、またそういうことがあったとしても、アメリカに勝るものではない。ソビエトや中共にも勝て
ません。国民の金をしぼりとったって、武器ではとてもかないません。そうすると、アメリカなら
アメリカの云う通りに動かなければならないようになります。だから敵を常に見ているわけです。
中共は敵だ、ソビエトは敵だ、敵ばかり見ていて、敵より武力があればその場で勝つかもしれな
い、勝ったって仕様がないんだ、また敗けるから。勝ち負けは業想念だから、勝ったり負けたりす
る。それで戦争につぐ戦争で今まで来たわけです。
こんど戦争があれば原子爆弾、水素爆弾だから、世界が全滅してしまうほどのものに、なって来
ているわけです。そこで今度は、今までのお願い主義、念力ではなくて、本当の祈りが必要です。
本当の祈りというのは、業想念、争いの波、恐怖の波、自分を守ろうとする波、敵を見る波、そ
ういう波を消してしまうわけです。
人間の世界にはそういう波が満ちみちています。一人では何にも出来ない人が、三人五人と集り、
141祈りの姿とその功徳
労働組合になると、力が出て来て、日頃おとなしいような人が鉢まきして、資本家を倒せ! とや
る。三人五人寄ると烏合の衆というのか、付和雷同というのか、大きな力になってくる。それは業
想念の集りが大きくなるから、それだけの力を持ってくる。相当、破壊力が大きくなるわけです。
その逆をいえば、本心を明らかにする祈り、神さまと思って神さまの中に入っている、世界平和
を祈る人たちが多くいれば、世界人類が平和でありますように、というのは神さまの心で、神さま
にとって人間はみな自分の子ですから、子供と子供とが喧嘩しているのを、喜んでみているわけが
ない。みんな仲よくなるように、と思っている。そして本当に自分の心を現わしてくれますように、
というのが神さまのみ心なのです。神さまのみ心がそのまま現われたのが、世界平和の祈りなので
す。ということは、神々が世界平和の祈りをする人の所へ集ってくる、ということです。それを私
は神さまから教わったのです。
142
光が充満している祈り
霊眼でみていれば、世界平和を祈る時には、神は光輝いて集っていらっしゃる。ですから聖ケ丘
は光輝いています。見える人には見える。宇宙人の姿だってみえるのです。光輝いたものが集って
くる。
神さまの流れは外部的には、守護霊守護神といい、内部的には分霊、直霊といっています。中を
さぐれば本心が開いてくる。守護霊守護神につながっていれば、外部的に見える神々が現われてく
る。
本心をさぐれ、本心をみつめよ、といっても、お前は神の子なのだ、仏の子なのだといっても、
業想念の妬みとか恐れとか怒りとか、真理を否定する想いがあるから、肉体もあるし、なかく神
の子というのがわからないです。完全円満がわかりません。そこでどうしても、外から神さまとい
うことを教えてもらわなければならない。
そこで「祖先の悟った霊が守護霊になって、後で守っているんですよ。その上には神さまそのも
のから分れた守護神が守っているのです。守護霊守護神と天高くつながっていって、宇宙神につな
がっているんだ。その守護霊守護神の力によって、本心を覆っている業想念、自我欲望を浄めても
らう、守護霊さん!と自分の想いが守護霊の中に入ってゆくと、守護霊の光と自分の内部の光とが
こう
つながってくる。つながってくると業が切れて、切れ目が出来て、天からの光が中に入ってくる。
中に入ってくるに従って、本心がずーっと開いてくるんだよ」
143祈りの姿とその功徳
こうやって教えているのね。そして世界平和の祈りをする。
1岨
想いを転換せよ
世界平和の祈りをするということは、日常茶飯事のつまらない考え、愁いたり悩んだりしている
ゴタゴタした想いが、世界人類が平和でありますように、と思うと、いつの間に自分の想いが祈り
言葉の中に入っていって、世界平和の祈りの中で消えてしまうのです。要するに想いの転換.てす。
業を神さまのほうヘパッと転換してしまう。
これは科学的な方法なのです。
人間というものは、一度に二つのことは思えない。一辺に、南と東と思えません。入りまじって
は思えるけれど、一度には思えない。
大体人間はいつも頭の中でゴタゴタと思っている。たとえば怒りの想いが出たら、その想いが出
たままで、世界平和の祈りの中へ入るなら入れますね。不安が出てくる。地震がグラッと来たら”あ
あ五井先生!”とみんないうもの。そうするとなんだか不安がなくなってくる。
この間の島田重光さんの話じゃないけれども、子供が自動車にひかれたッて電話がかかってきた。
とたんには思えなかったけれど、その次には、五井先生がこの中にいる。ということがわかって、
なんだか落着いてきた、ということです。というのは、五井先生が自分の中にある、世界平和の祈
りがこの中にあるものだから、それで大丈夫だ、という気がしてくるわけです。そしたら案の定、
大丈夫だった、ということだった。或いは、咄嵯に五井先生と思えて、安心する人もある。
それはどういうことか、というと、想いが不安の中に入っていかないような練習をして、癖がつ
いているわけ。
不安の想いとか、怒りの想いとかいうものは、いつでも世界平和の祈りの中へどんどん入ってゆ
くから、いつの間にか、自分の幽体の中に積みこんである業想念というものがなくなってしまう、
いつの間にか消えてしまう。それで幽体の中に、光が満ちてしまうわけです。光が幽体にいっぱい
詰まれば、幽体というものと霊体というものが同じになってしまうのです。そうすると業想念が入
ってゆく隙がなくなってしまう。
入って来たらパッと光になって消えてしまう。たとえば皆さんが、五井先生! と思いますね、
おなかが痛い五井先生! 頭が痛い五井先生! 夫が乱暴です五井先生!とやると、それはみんな
私に来るんです。私がそれを全部幽体に積みこんだら、私は明くる日はフーフーいわなければなら
145祈りの姿とその功徳
ないでしょう。
十年もやっているけれど、私はそうは一回もならない。何故ならないかというと、私の幽体とい
うものはないのです。幽体と霊体と一つになってしまっているから、咄嵯に消えてしまう。あんま
りくる時は一度に消えないから、一日か二日か熱が出ることがあるけれど、それも滅多にはない。
そのようにサッサッサァと消えてゆく。現われてすぐ消えてゆく。
皆さんもつねに世界平和の祈りで、いつも光の中に入っていますと、業想念をためておかなくな
る。ためておかなければ、どんどんなくなってゆく。
ドブ川はどうして汚れているかというと、ドブ川には流れというものがないからです。流れない
で、たまっている。たまり水からどんどん汚れてゆく。しかし山の川などはきれいに澄んでいる。
流れが早いから。流れが早ければ早い程きれいになってゆく。
そういう意味で、想いをためておいてはいけないです。それが良い想いであろうと、悪い想いで
あろうと、たまったら流れが止まってしまうのです。止まれば汚れてしまう。そこで想いというも
のを、常に流しておかなければいけない。どんどん流しておく。
だから、あのヤロウこのヤロウと思ったら、世界人類が平和でありますように、と祈って、あの
146
ヤロウこのヤロウを祈りの中へやってしまう。ああ恐ろしい、と思ったら、恐ろしいと思う想いを、
世界平和の祈りの中に入れてしまう。
神さまはなんでも知っている
お金が欲しいと思ってもですよ、百万円どうしてもほしいと思ったら、百万円も世界平和の祈り
の中へ入れてしまうのです。そうすると、世界平和の祈りの中から、その人に与えたほうがその人
のためになるものなら、与えるし、与えてためにならないものなら与えてくれないのです。
神さまは、自分より先に、肉体人間より先に、その人になくてならないものは、ちゃんと知って
いるのですよ。ところがみんなは神さまはなんにも知らないと思っている。
神さまは中にもいるし、外にもいらっしゃる。もう全部なのですから、声で神さまと呼ばなくた
って聞えています。大きい声を出さなければ聞えないのではなくて、神さま、と思えば、聞えてい
るのです。思わなくたってわかっている。向う(神様) のほうが先に知っているんだから。向う(神
様) の力で生まれてきたんだからね。
私にも、しっこくく云う人がいる。人がいようがいまいが、かまわずに云っている人もある。
147祈りの姿とその功徳
云わなくたってわかっているんだから、一ぺんでたくさんだ。だからそういう人には”ああわかっ

た” と云っちゃう。
ヘヘへ
ましてや宇宙に満ちみちているいのちというものは、このままわかっている。自分と同じものな
のだから、わかりきっているわけです。だからお願い、ということは本当は必要ないのです。わか
っているんだ。この人には何年何月何日にいくら与えて、何月何日にはいくら引いて(笑) ちゃん
と考えているのです。ちゃんと神さまのほうで考えているのだから、委せておけばいいものを、委
せきれないのですね、それが業なのです。だから委せられない想いも出て来たら、それも世界平和
の祈りの中へ入れてしまいなさい、とこう云うのです。
今迄は、世界平和の祈りのようなものがなかったのです。神さまというけれど、神さまがどこに
いるかわからない。宇宙に満ちみちているというけれど、どう満ちみちているかわからない。満ち
ヘヘへ
みちているいのちというのはわからないの。てすよ。
やしろ
それで観音像とか、お釈迦様の像とか、或いは神社という社に神さまがいるとして、拝んだわ
けです。それでは今や間に合わなくなった。生きた動いた社が必要になった。みんなお社なのです。
そこで頼めばいい。口をきいてくれます。
しかし本当をいえば、口をきいて返事をしてもらう必要さえもないんですよ。やっぱり返事した
ほうがみんなが安心すると思って、返事はするけれど、返事なんぞはどっちだっていいんだ。その
人になくてならないものは与えてくれるし、その人が一番いいようにゆくわけなのです。
練習をして下さい
だからお願いというよりも、自分の天命が完うされますように、世界人類が平和でありますよう
に、日本が平和でありますように、という想いを強く持つのです。その練習をする。そうすると、
その人の運命が自然自然のうちに、天命を完うしてゆくような運命になってゆく。
思わぬお金が入った、と云ったって、飲んじゃったり、競馬にいったりして、足を出したりして
(笑)宝くじが当って、気違いになった人もある。思わぬお金なんか入らないほうがいい。なくな
ったと思ったら自然に現われてくる。現われたと思ったらまたなくなって、又現われる。そのよう
に知らない間にお金も循環してゆくようにすればいいのです。けれど過去世の業があるから、それ
とんやおろ
が全部消えるまで、そうは問屋が卸さない。
たまく叶えられて、たまく叶えられなかったりするわけです。それは業があるから。業の消
149祈りの姿とその功徳
えてゆく姿として、苦しみもあるわけです。しかし、やがて全部業というものは消えてゆくものな
510
の。
てす。
何故かというと、人間は神さまの子だから、完全円満なのだから、その人間が迷ったり困ったり
するわけがない。わけがあるというのは、それは過去世の業が消えていないからです。
それはふつうの場合は、貧乏に現われている業がある。病気に現われている業がある、とすると、
それを掴んでしまうのです。それで私は貧乏だ、いつになったら金が入るのか、私は貧乏だ、と年
中唱えているので、貧乏のほうが喜んでしまう。そして住み心地がよくなってしまうわけです。
だから貧乏を掴んではだめだ、と云う教えがあるのだけれど、どこへ放していいのか教えてくれ
ない。どこへ掴んだものを持っていって処理していいかわからない。もって行き所がない。それは
神さまの中に入れろ、といっても、神さまがどこにいるかわからない、探すけれどわからない。そ
れで持っていけないのです。
貧乏は世界平和の祈りの中へ持っていってしまいなさい。病気は世界平和の祈りの中へ持ってい
ってしまいなさい、それで足りなかったら、五井先生! といえば私が引受けます。みんな引受け
る、というのだから、こんな楽なことはないですね。
ぐち
愚痴を誰かに聞いてもらうと、フッと心が晴れるものですよね。それは業が消えるからです。自
もんもん
分一人で悶々としていますと、とても苦しい。親しい友人に、実はこれくでとお話すると、聞い
ているほうは大変(笑)けれど聞かしちゃうと、録音がこっちから向へ移ってしまうのと同じです
から、こちらは消えてゆくし、楽になる。聞かれたほうは明る日病気になったり(笑) いくら聞か
しても病気にならない私の所に聞かせるわけね。私聞いてあげます。時間を限りましてね。五分と
か十分とか。
けれども、この私に云わなくとも、世界平和の祈りの中へ自分で入れてしまう練習をするといい
ですよ。なにか云いたいことは世界平和の中へ入れちゃうんです。クチャクチャクチャ、世界人類
が平和でありますように(笑)とやると、世界平和の祈りの中で消えます。一番よく消えます。
本心の開いた姿
世界平和の祈りというのは”世界人類が平和でありますように”という時には、想いが世界平和
の光の中へ入っているのだから、貧乏も不幸も、みんなその中に入っているのです。それをつづけ
てくやってゆくうちに、いつの間にか、心が明るくなってくるのです。これは間違いのないこと
151祈りの姿とその功徳
なのです。みんなやって出来ることですからね。
512
なんでもかんでもいいから、ごたく思う想いを世界平和の祈りの中へ入れてしまう。自分の天
命が完うされるために、祈りの中に入れてしまう。そうすると本心が開いてくる。
本心が開いた姿を祈りの姿というのです。
世界平和の祈りは、だから方便でもあるし、真実でもあるのです。初めは方便的にやるんだ。そ
れが真実になってしまう。何故かというと、世界平和の祈りというのは神々がここに輝いているか
らなのです。
祈りには二つの効用がある。一つは観の転換、想いを変えてしまう用。一つは世界平和の祈り自
身が光輝いているのだから、業想念がそのままそこで消えてしまうという用。この二つが同時に行
われている。
それで世界平和の祈りの中へ入ると、今度は世界平和の祈りがあべこべに自分の中へ入って、自
分はもっと広くなってくる。どんどん広くなって、上等になるわけです。世界平和の祈りを一遍す
ると上等になる。もう一遍すると、また上等になる。うんとやっているとごく上等になってしまう。
本当に極上になると、自分の想いが何もなくなってしまう(笑)
人のことばかり思っている、人のことだけしか考えられないような人は、極上なのですよ。自分
のことばっかり考えて、人のことはなんにも考えない、人など死んでしまってもかまわない、とい
うのは極悪者。
ですから、想いを溜めてはいけません。想いをためない練習をすることです。それが祈りという
のです。
153祈りの姿とその功徳
154
自分の本体を思い出す
昭和34年7月
人間の真実は神界にある
真実は、人間は因縁因果を超えた世界にいる。ここに何百人いらっしゃるか、この人たちはすべ
て神さまの世界に自分の本体があるんです。Aという人も、Bという人も、Cという人も、Dとい
う人もみんな神さまの世界に籍があるわけで、神さまの世界に全部いるんですよ。その全部いるん
だということが、神道の教えなんだし、法華経なんですね。
ごうかあんのん
衆生が業火に焼かれる時があっても、あなた方は安隠なんだということ。あなた方が神の子だっ
ていうことを知っていることが安隠なんです。自分は神さまの世界にいるんだ。神界に住んでいる
ものなんだ、ということが、本当にわかった人が、身は安隠なのです。どうしてかというと想いが
神さまの世界に入っているから、神さまの世界に入っているものが、業火に焼かれるわけがないん
です。神は完全円満ですから、神は絶対なる智慧、大能力者ですから、大能力者の世界に入ってい
るものが、身を損うことはないんです。
ところが実際問題とすると、現象の世界というのがあります。要するに実相としてはみな神界に
れいこんばく
いるんだし、神さまの子なんだけれども、自分の想いは地上界に来てますネ。霊魂塊としては地上
界に、人間としてここに来てます。地上界に人間として来ている以上は、やはり地上界の法則とい
うものがあって、その法則の中にまきこまれて生活しているわけですね。これを三界という。三界
は唯心の所現という言葉がありますね。生長の家ではよく使っています。
むく
この世は想い通りになる世界なんだ。自分が悪い想いを起せば自分に悪い報いが来るんだ。自分
が良いことをすれば良い報いがくるんだ、というわけです。これは嘘かというとやはり本当なんで
す。本当だけれども、そうなると、お前が今苦しんでいるのはお前のせいじゃないか、お前が貧乏
しているのはお前のせいだ。お前の勝手なんだから好きになさい。お前が病気しているのはお前が
悪いんだからお前の好きにしなさい。オレの知ったことじゃない、ということになるわけですね。
155自分の本体を思い出す
それでは宗教が役に立たない。
この地上界というものは、幽界もそうだけれども、霊界も入りますが、この三界は自分の心の現
れなのだけれど、私流にいえば消えてゆく姿なんだね。あくまで現われているものは、みんな消え
てゆく姿。消えないものは何かというと、神界に住んでいる自分、自分の本体だけは永劫に消えな
い。光輝いている絶対無欠な、絶対完全円満なるものなんだ。ところが絶対無欠な完全円満なもの
だけれども、これが世に現われてくると、それが不完全になる。何故、不完全になるかというと、
今いってきたように、この世はすべてひびきである。この物質も細胞もひびきである。物質波動も
ひびきであるし、心の動き、想いもひびきなんですね。
物質に現われたひびきは粗い波なのです。粗い波になると、眼に見、耳にきこえてくる。その粗
い波になる以前の波の世界があるわけです。物質として見えない世界があるわけです。それは何か
ゆうかい
というと、幽界であり、霊界であり、神界だという。絶対なるスピードを持った、無礫自在なひび
き、どんな微妙なひびきも出せるという早さのひびき、それが神界なのです。その神界がそのまま
ではなにも無いわけ、人間的にいう進歩も発展もない。
156
今はプロセスの段階
一番始めに人間が出来たのではなく、鑛物が出来、植物が出来、魚類が出来、いろいろな動物が
出来て、それから人間が出来たんですね。それはどういうことかというと、始め神界には神界とし
ての人間の世界もあれば、動物の世界もあれば、植物の世界もあれば、山川の世界もすべてあるの
です。けれどもこの人間の眼でみるようなものではない。その世界が完全なんです。調和した世界
なのです。これが地上界に完全に写し出された時が、地上天国というんです。それは写し出される
ことに決っているんです。何故ならばここに元があるから。今は元にあるものが、ちゃんと地上世
界に写し出されるプロセス過程なのです。時がまだ来ていない。来ていないけれども、最後は写し
出されることになっている。
守護霊さんのお働きの一つ
いつも私がいいますけれども、一生懸命トンネルを掘っているのです。始め浅い時にはそんな砂
もかぶらない、泥もかぶらない、明りがうしろに見える。だんく掘って掘ってゆくと、うしろも
157自分の本体を思い出す
見えなくなる。前も見えなくなる。まっくらになって来ますね。どんどん掘ってまだ掘っていて、
今はどういう時期かというと、もう最後で、掘り上るところなんです。しかし掘り上る先はまだ暗
くて見えない。うしろのほうはまっくらで、泥をかぶっちゃって見えない。もうどうしていいかわ
からないようにこの眼では見えるんです。トンネルの真中じゃなくて、トンネルのはじに来ている
んだけれども、土がいっぱいかぶさっている。自分はまっくろけになっている、もう前も後も見え
ない。あ\なんという嫌な世の中だろう、なんという住みにくい不幸な世の中だろう、ということ
になる。
実は、トンネルはもうじき貫通される、掘り上れるんだけれども、この肉体の人間だけではくた
びれちゃった。もう気力がつきちゃってヒョロくしているわけなんだ。今の状態がそうなんです
よ。それで早く掘り上げなければ飢えてしまう、とか、凍えてしまうという時代なんだ。そこでど
ういうことが行われなければいけないかというとー
自分の本体を思い出さないといけない。自分は本当は神の子だったんだ。明るいところに住んで
た、自由に動ける身分なんだ、身体なんだー
ということを思い出さなきゃならない。想い起させるために、自由自在な守護霊守護神がトンネ
158
ルの外に住んでいるんだから、肉体の外にいて、トンネルの上から、ホラ孫や、お前や、私はここ
にいるんだよ、明るいところにいるんだよ、神さまの世界にいるんだよ、お前がこっちさえ向けば、
私がうしろから、上から掘ってやるよ、と一生懸命応援しているんだ。ところが聞えない。守護霊
の声、守護神の声が聞えないんです。もうくたびれてもいるしね。
そこで守護神が特殊な宗教的な人、特殊の体を持った人を育てたんです。そして守護霊がそうい
う人のところへ連れてくるわけです。あなた済まないけれど、うちの孫がここにいる。どうか知ら
せてやってくれ、とこういうわけです。そうすると私なら私のところへ来ます。
私の役目
私は本当はトンネルの中へ入らないでいい身分なんだけれども、トンネルの中へわざわざ入って
いって〃オイ、お前さん実はこれこれで、お前さんがネ神さまのことさえ思えば、もうトンネルは
開くんだよ。お前さんのまわりはもう守護霊守護神が守っているのだから、祖先が援助してくれて、
向うから掘ってくれるんだから、お前さん、もう一息掘んなさい”と教えて、向うのほうから掘っ
てくれていることを知らせる役目が、私たちなんです。
159自分の本体を思い出す
それで私は知らせに来ている。教えられたら、あ\そうか守護霊守護神が守ってくれているのか、
私の本当の姿は神さまの世界にいる神の子だったのかと、そう自分がわかって来ますと、元気がつ
きます。勇気がつきます。”あ\向うから守護霊守護神が掘っているのか、よし、守護霊守護神さ
ん有難うございます”と掘ってゆくわけ。そうすると、向うの掘ったのと、こっちの掘ったのが合
わさって、バーッと光が出る。トンネルをくぐって出たところが、地上天国なんですよ。そういう
風に出来てるんですね。だから辛棒が肝腎なんですよ。辛棒が肝腎。それを私たちが一生懸命教え
ているわけなん。てす。
私が一生懸命やってますね、そこへ病気なら病気の人が来ます。”先生! 世界平和やっていれ
ば直るっていいましたでしょう。まだ直りません。いつ直るんですか、いつ直してくれるんですか
?” と私に文句をいう。”もうじきだよ。なんとか世界平和やってなさい、私も応援してるから”
“先生、応援して下さるくって、まだ直りやしないじゃないですか

と文句をいってくる。それで私は弱いですよ、直さなければならない立場なんだからね。どんな
文句をいわれても、どうやっても、お前来るな! っていえばそれまでだけれども、損はないんだち
っとも、お前なんか来るなっていえば、それで気が楽になるんです。けれどもそれをいったんじゃ、
160
役目が成り立たないでしょ。救わなければならないんだからね。救う立場というのは辛いですよ。
どんなに文句をいわれたって、あ、お待ちなさい、もうちょっとだく、たとえば十年かかるもの
でもそういっているうちに、十年たっちゃいますよ。
あなたはだめだ、十年たたなきゃ救われない、といったらもう死んじゃいますよ。ウソも方便で、
あ\大丈夫くといっているうちに、十年ぐらいたっちゃう。わけないです。それで救われちゃう
んですね。
先生、まだですかくと恨まれても、なんでも、私が、いや大丈夫くといって黙っているわけ
なのよね。前から掘ったり後から掘ったり、手伝ったりして掘っている。そのうちにパッとトンネ
ルが開いて、光がさしこんでくる。そうすると、あ\先生有難うございましたッていうの。
さんぐ悪く思われて+年、なんだ五井先生なんか当るものか、何してる? って、さんざん文句
いわれた末、ろくなお審銭もくれないでさ(笑)文句いったのをスッカリ忘れちやって、先生有難
うございます。お蔭さまでという。おかげさまで、なんていうのはいいほうで、さんぐ待たせや
がって、御礼なんかいうものか、なんていうのもあるかもしれない。
おこ
年中、私は怒られているんですよ、だから世界中で一番弱いのは私だ、というの。お母さんはど
161 自分の本体を思い出す
んなに子供が我侭をいっても、お前出ていけ、勘当だ!なんてなかくいえないですね。いったら

最後だと思うからね。何か文句いわれても仕方がない。なんとかなだめたり、すかしたり、恨まれ
たりしながらお金をやったりしています。親は弱いです。その親が頼みに来るんだから、こっちは
オヤオヤです(笑) そういうのを菩薩行という。
よく聞いて下さい
自分の立場というものだけを考えているのは、一番低い立場なんです。いいですか、耳をよくほ
じくって聞いて下さい。自分だけのことを考えているのが、一番貧弱なんです。子供や妻のことを
考えるのはその次。それから隣りの人や向いの人を考えるのは又いい。もっと大きくなると、日本
のこと、世界人類のことを考えてくるんですね。
だんく魂がひらいてくると、だんく明りがさしてくると、人のことが心配になってくる。日
本のことが心配になってくる。世界のことが心配になってくる。世界のことも、日本のことも、隣
りのことも心配にならない。心配になるのは自分のことだけだっていうのが大体。
始めは、私の病気が、私の貧乏が、私の不幸が、とこうやってくる。そうすると私が「あ\よご
ざんす、私が引受けます」と簡単にいうでしょ。ポンポンと柏手を打ちます。光が入りますからい
い気持になる。そうすると、何がきくんか、偉いんだか偉くないんだかわからないけれども、と思
いながらやってくる。やってくるうちに、だんく自分の業がきれいになってくると、光がスーッ
と真直ぐ入ってくる。その光の入り方が、だんく太くなってくる。そうすると本心が開いてきて、
頭でわかるんじゃなくて、心がわかる。
頭でわかるのと心でわかるのと、二通りあるんです。大体、女性はカンが発達しているんです。
だから直感的にわかってくる。わかったあと、先生有難うございますッて、涙をポロポロこぼして、
先生に会ったのはもう地獄に仏でございます。有難うございます、とやっているんですよ。嬉しく
て仕方がない、というのが、一ト月ニタ月たつと、この頃、ちっとも嬉しくありません(笑)うち
の子がこうで、夫がこうでって又やってくるんです。波なんです。高くなったり低くなったりする。
だんく波の幅がなくなってくると、文句をいわなくなる。
男性はわかるのが遅い。理屈ぽいんです。とくと考えてみるんですね。考えながらやってくるん
ですよ。考えたすえにわかると、今度は嬉しくなって、離れません。理屈ぽいけれどわかるとよく
なる。
163自分の本体を思い出す
頭が先にわかって心がわかってもいいし、心が先にわかって、あとで頭で理解してもよろしい。
どっちでもようございます。けれど、人間というものは神の子でもって、本当はもうけがれのない、1
汚れのない、浄らかな、自由自在なものなのだ、ということだけは、うんと潜在意識に叩きこんで
おくといいですね。
自分が病気なら病気でいる、貧乏なら貧乏でいる、或いは悩んでいるとします。けれど”自分と
いうものは神さまの中にいるんだ。神さまの子で、完全円満なんだ”ということだけを、いつもお
念仏みたいに思っていればいい。そうするとどういう効果があるのかというと、想いが常に神さま
の中に行っているから、それだけ光がこちらへ(肉体の方)差し込んでくる。
自己保存の本能
人間は二元的に出来ています。神の子である人間と業の子である人間と二つある。動物的本能が
ありますね。その本能の一番厚いものは、自己を守るというものです。自分の肉体を守りたい、相
手をやっつけても自分を守ろうとする。自己保存の本能とよく私がいいます。自己を守ろうとする
ところに、喧嘩が起る。なぐってくればなぐっちゃいます。それが国と国なら戦争になるんだから
ね。
自己を守ろうとする想いがあるから、戦争が起る。ところが上の方(天) へ行けば、ソビエトも
アメリカも日本も中国も、みんな一つのものなんです。中国なら中国を守っている神々、日本なら
日本を守っている神々、アメリカを守っている神々、英国を守っている神々というのがあるんです
くにとこのたま
よ。各国に守護神があります。それを日本流にいえば国常魂というのです。
高いところでは一つになって、神々は手を握って、どうしたら喧嘩をさせないですむかしら、と
神々はみな考え合っているわけなのです。ところが神さまの使いであるべき宗教家が、実は宗教の
争いをやっているわけですね。キリスト教でも宗教戦争というのがたくさんあったです。宗教戦争
の少いのは日本だけですね。日本では殆んどありませんでした。ところが外国ではたくさんある。
自分の権力を守ろうとする。いわゆる自己保存なんです。
自分をあざむかない生き方
自分を守ろうとするのは動物本能なんです。そういうものはすべて消えてゆく姿です。消えてゆ
く姿というのはどういうことかというと、この世に神さまの子として自分が生れてきましたね。そ
165自分の本体を思い出す
して肉体人間になります。肉体人間になりますと、さっきのトンネルのたとえではありませんが、
穴を掘りますと、掘った泥はもう必要ないんですよ。泥は外に放っぽり出せばいいでしょ。いらな
いんです。泥をそのままおいといたら、生き埋めになっちゃうでしょ。ところが今の人達は、自分
の掘ったどうの中で生き埋めになっている。墓穴を掘るっていう言葉があるようにね。
今までの宗教ではみなそうなんです。短気を起しちゃいけない、短気を直すんだ。短気を起すこ
とは悪いことだ、妬み心を起すことは悪いことだ、人をあざむくことは悪いことだ、嘘をいっては
いけない、喧嘩をしてはいけないーそんなことは一年生だって誰だって知ってますね。今までの宗
教は「いけない」「いけない」ばかり並べたんです。
いけないんだといわれても、いけないからと思っても、消えてしまうものじゃないんですよね。
短気じゃいけないくといったって消えるものじゃない。どういうことになるかというと、いけな
いということは、外へ出て来ちゃいけないということでしょうね。外へ出ちゃいけない、中へ押し
こまなきゃいけない、ということですね。
よく頭のいい、立派な生き方をしているような人が、案外、中をみると悪い場合がたくさんある、
偽善的な生き方をしている場合がたくさんある。立派そうな人が案外死んでみると、地獄へ落っこ166
ちていたりするんです。何故かというと、自己の本心をあざむいている。自らをあざむいている。
夫に仕えなきゃいけない。姑に仕えなきゃいけない、嫁には仕えなきゃいけない、こうしちゃいけ
ない、ああしちゃいけないって、自分の心をギューッと押しつぶしている。それで外へ行っちゃニ
コニコしている。それで死んじゃう。
過去の因縁を考えなければ
業がない人じゃない、業があるのに押えただけなんだからね。だから亡くなりますと、それが原
子爆弾が破裂するように、バーンと現われちゃう。自分で地獄を作っちゃうわけでしょ。今までそ
ういう生き方を教えられて来た。それは修身なんですね。私はそれではダメだと思った。
生長の家では、肉体は心の影である、ということをいっています。肉体に現われるものすべて、
心が現わしているのだ、というのは本当のところもあるし、嘘のところもある。私のような小さい
人(五尺二寸か三寸で十一貫ちょっと)細い人は、定めし心が細かろう(笑)相撲とりのように大
きな人は、定めし心が広かろうーそんなことはない。
肉体が心の影というのが全部本当ならば、六尺豊かなアメリカ人やイタリア人などに、日本人は
167自分の本体を思い出す
かないっこない。みんな向うは心が広くて、こちらは狭いのか、そんなことはないでしょ。全部が
68
本当じゃない。真理のところもあるけれども、真理でない場合もある。それはどういうことかといー
うと、前生の因縁なのです。
すべて現われてくる運命は、心の影に間違いない。しかしこの世だけの心の影ではない。心では
なくて想いの影というのが本当なんだ。この世だけの想いではなく、前の世、前の世の過去世から
の想いがつもり積って、この世に結果として現われてくるのです。だからこの世でどんないい人で
も、悪い運命があるかもしれない。どんな悪い人でもいい運命を持っているかもしれない。大体そ
うでしょ。
お金持は必ず皆いい人かというと、そうでもない。美人はみんないい人かというと、そんなこと
はない。美人より美人でないほうがいい場合もある。美人なんかこのくらいいわれてもいい、かま
わない(笑)先生はきっと私のことをいったなんてね(笑) そういうわけで、この世だけで決めよ
うとすると、はなはだ間違ったことになる。決めてはいけません。
神の法則にのる
昭和36年5月18日
人間は生れ変る
「神と人間」にも書いてあるように、人間世界には七つの直霊が色分けになって分れてきている。
使命、天命があってそれぞれ大神さまから分かれているんです。その直霊の中に、本当は自分はい
わけみたま
るわけ。しかし働きとしては、分霊となって霊界を通り、幽界を通り、肉体界に来ているわけな
んです。
あら
どういう風に来ているかというと、神界が無限に微妙な波動とすれば、霊界はもう少し粗くなる、
あらあらか
幽界はもっと粗くなる、肉体界はもっと粗くなる。仮りに肉体界、幽界、霊界、神界と分けている
169神の法則にのる
けれど、本当は何百段階にも分かれるのですが、そんな面倒くさいことをいったんでは、時間ばか
りたっちゃいますから、私は四つに分けている。これは仮りの分け方です。
肉体界は粗い波動の現れなのでして、この波動の世界の生活を終ると、少し微妙な幽界に戻って
行く。そこでまた修行しては、また肉体に戻ってきたりしているわけね。そしてやがては霊界、神
かわ
界に行って、再び生れ更らないで、指導者になるわけなんですね。
かわごんべいたろべいかわ
一つの肉体というものが生れ更るというのは、権兵衛が太郎兵衛になって生れ更る場合、花子が
かわかわ
菊子になって生れ更る場合、つまり一つの魂がそのまま生れ更る場合もあれば、一つの魂がいくつ
かわ
にも分れて生れ更る場合もある。三郎が五郎の中にも、二郎の中にも、一郎の中にも入って、分裂
して生れてくる場合もある。それから三郎がいる、五郎がいる、四郎がいる、そういうものが、全
部混ってなんの誰兵工として生れてくる場合もある。混合霊というのね。
かわかわ
このように、種々の生れ更りがあるのです。そしてそういう生れ更りを誰も彼も経験しているの
です。
かわかわ
分裂したり、結合したり、いろいろして生れ更り生れ更りしているわけです。単純な性格の人が
かわ
ありますでしょう。それは大体一つの魂が一つに生れ更っているので、単純な性格になっている。170
また、表はこう裏はこうで、横にいったらこうで、という複雑な性格がありますね。そういう場合
には、混合霊になって複雑になっているわけですね。簡単にいえばそういうこと。
かわ
そのように同じ生れ更りでも、いろんなものがあるのです。ちょっとした霊能者が「あなたは前
かわ
生でこんな人」と簡単にいうことがある。何の誰兵衛の生れ更りと簡単にいうけれど、本当か嘘か
ーこの中にいる人でも、大名のお姫さまだったりすることも随分あるんです。それで今はどっち
にしても霰くちゃ婆さん(笑)
人をみる眼をもつ
肉体の生活を見ていると可笑しいね。私はおかしくてしようがない。きれいな乙女が、ずうっと
見ていると、お婆さんになっている。肉体のきれいだとか、醜いとかいうことがあるけれど、中身
のきれいなほうがやっぱりいいですよ。たとえば「名前は○ ○ です」「ああなんてきれいな美しいお
嬢さんでしょう」「いえそうでもありません。鼻は低いし… … 」(笑)写真を見るとすごく悪いのね。
私は時々それをやっちゃうんです。
私は心を見ていっている。そうすると写真とは違う。だから写真を見ないほうがいい、と私は時
171神の法則にのる
々いうのです。
心が美しい場合でも、今生としてはまだ顔にまで現われてない場合があるんです。まだ途中でも
って、半分ぐらい現われているんだ。だからどこかしら美しいところがある。だから顔に騙される
な(笑)顔や姿だけでは本当の人間はわかりません。普通の場合、じいっと見てたり、話をしたり、
つきあっていると、その人の本当の善さが出て来ますね。だから人間ちょっと逢って褒めたり、ち
けなけな
よっと逢って脆したりするのは、止めたほうがいいですね。あとで褒めたものを肥さなきゃならな
けな
いし、慶したものを褒めかえさなければならないし、ややこしくなってしまうし、あとでとても恥
ずかしいものだから、なるたけじっと観察してから、物をいわなければだめですよ。静かな観察力
というものが必要なんですね。
そういう観察力はどこから出てくるかというと、やはり祈りの中から出て来ます。祈りの中から
出てくるものは、へんに人相の悪い人に逢っても、いい感じがする場合もあるんです。そしてその
人がよかったりする。
ところが人間の肉眼というものは、顔、形とか姿とか、地位とかを見ますから、それに把われる
んです。しかしそれは二の次の問題です。心もいい、顔もいい、姿もいい、地位もいい、それが一
172
番いいに決まっている。前生の因縁が余程いい人であって、大体においては、
せられるから、いろいろあるわけです。
いろいろの経験をさ
心の美しさが形に現われる
そこで誰にでもいい、自分にもいい、人にもいいということは、心が優しい、ということです。
愛の心が充満している。どんなことも愛せる、どんなことも赦せる。一番いいのは、いつもいうん
だけれど、思いやりの深い人ではないでしょうか。思いやりが深くて、いつどこで逢っても暖かい、
なんていい感じのする人だろう、という感じのする人がいいんではないですかね。
そうすると、顔も姿もなくなっちゃう。感じだけが残ってくるんですね。霊界なんてそうです。
感じだけだものね。私たちは名前なら名前を聞く、名前を聞かなくても、誰という時には、その人
の感じがパーッと伝わってくるわけです。心がパーッと入ってくるわけ。だから美しいと感じる。
或るいは嫌だと感じる。
結婚の相談の時に一番困る。片方はすごい美人で、片方は美人でない場合がある。ふつうだった
ら美人をもらいたいに決まっている。ところが美人でないほうが、人が好いということがある。そ
173神の法則にのる
の時の返事の辛さよ(笑) この世でそれが幸いか不幸せか知らないけれどーたとえば美人でなく
生れたとしますね。いくらお化粧してもしようがないから、諦めちゃうんですね。肉体のことは一
先ず諦めて、それこそ祈り一念になって、心をうんと美しくすると、その美しさがだんだん顔に現
われて来ます。心を善くしたからといって、鼻がクッと高くなったりはしませんよ(笑) だけど現
われてくるんです。なんとなく。現われるけれど、時間がかかるんです。現われるけれど、時間が
かかるんです。時間がかかっているうちに死んじゃうかもしれないけど(笑) そしたらあの世でい
いですよ。ずうっと永遠につづいている。永遠につづいているんだから、そんなに急ぐことはない

てすよ。
美容法の一番いいことは、心を柔和にして、安心立命の生活をしておれば、知らないうちに、顔
にも姿にも現われてくるんですよ。女の人ばかりではありません。男の人にもあります。たとえば
社員でいるうちは貧弱だった人が、重役になったらなんとなく貫禄がついてきた、というのがある
でしょう。なんとなく重役なら重役らしい恰好になってくるんですよ。あれはやっぱり心が重役に
なってくるからよ。不思議なものですよ。そういうものなんです。
それを地位の問題でなくて、心の問題でくれば、それは自然に姿形に美しく出てくるんです。そ
174
れは永遠に人を魅きつけてゆくわけです。想いは必ず姿に現われるんです。現われるけれども時間
がかかる。それを間違えちやって、すぐ現われると思う人がある。思うことは現われると思って、
家が欲しいと思った。「家が欲しいく」と思ったらすぐ家が現われるだろう、と思ったって、そ
んな簡単なものじゃないんですよ。
時間がかかる
肉体は心の影、と生長の家では教える。思った通りに心の影だからすぐ肉体に現われる。ブツブ
ツが出来ると、お前は不平があるからブツブツが出たんだ、となっちゃう。そういうようないい方
は、本当に浅はかないい方なんで、そんな簡単なものじゃない。長い間かかって現われるんですよ、
すべて長い間かかるんです。だから長い間かかってもいいつもりにならないといけません。
まか
長い間かかってもいいんだ、すべて神さまにお任せしたんだから、という気持になると、早くな
る。神さまの想いというのは逆だと思えばいいです。
焦れば遅くなる。のんびりすれば早くなる。本当ですよ。それは不思議なものです。そういう風
に出来ているんです。
175神の法則にのる
本心に任せていない、神さまに任せていないだけ遅くなる。すべてがそう。任せるとそれで済ん
76
だようなものですよ。神さまの中に、自分の全生命、全生活を投げ出して任せてしまうと、もうそー
の人に不幸はないんです。チョコチョコと現われてくるものは、みな過去世の消えてゆく姿であっ
て、必ず近い将来、本当に完全円満な姿が肉体界に現われてくるわけなんです。そういうものなん
ですよ。それは実に面白いから。
法則にのっただけ幸福になる
ふつう神さまくといっているけれど、本当は大神さまをいっているんではないんだ。大神さま、
宇宙の唯一神というのは法則なんですよ。大生命だから、これは負けてくれやしませんよ。大生命、
宇宙の運行なんていうのはまけてくれたらおかしなものになる。「今日は少しみなが頼むから、沈
むのを少し遅らして沈もうじゃないか」と太陽が考えちゃったとすると、みな狂っちゃうでしょう。
「ちょっと上から下に落ちるのを止めようじゃないか
」なんていったら困るでしょう。
そういうように、大神さまのみ心というのは変らないんです。法則の通り。それから離れただけ
自分の不幸があるんだし、法則についただけ幸福があるんだし、それは決まってることなのです。
私たちのいっている神さまは何かというと、守護神なんですよね。いつも人類を守護している神さ
ま、仏教的にいえばいわゆる観世音菩薩だね。観世音菩薩というと、あの形の観世音菩薩ばかり思
うから、守護神とか天使とかいったほうがいいんですよね。それが人類の運命を常に変えてくれて
いるわけ、宇宙の法則に乗せてくれようとしているわけ。だから守護神さんと頼めば、そのまま頼
んでおきさえすれば、つながってさえいれば、向うの都合のいいように、自然のうちに、ちゃんと
法則に乗せてくれるんです。
法則にのれば、それはたとえば1 大阪行きの汽車に乗れば、大阪に行くと同じように、目的地
に行くわけです。だから法則に乗りさえすればいい、乗せてもらえばいい。それを自分で乗ろうと
焦ると、自我が出てきて苦しくなる。だから守護霊守護神に乗せてもらうんだ。それで法則に乗る
一番いい祈り言は”世界人類が平和でありますように”という祈り言だ、と私は教えているわけな
んですね。そういうわけです。
177神の法則にのる


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です