聖ケ丘講話
質問ありませんか?
五井昌久
個人指導中の著者(1916~1980)
刊行のことは
ここに収めた問答は、昭和3年から昭和43年の間、東京会場や市川聖ケ丘道場での統一会(話と
祈りの会) で、五井先生が会員さんから出た質問にお答えになったものの一部で、問答第一集であ
る。いろいろな問答を読んでゆくと、五井先生のお教えもよくわかってくると同時に、五井先生の
お人柄にじかにふれたようで、いつの間にか心が平安になってくる。
なるべく話し言葉に忠実に再現すべく努めた。五井先生のお声はハイバリトンの明るいお声で、
歯切れのよい話しぶりであった。東京の下町生れのアクセントがあるが、ユーモアたっぷりで、楽
しく面白く神さまのお話しをして下さった。
昭和63年1月
私たちの考え
私たちは、人間とその生き方については次のように考え、実行しております。『人間は本来、神
わけみたまごうしょう
の分霊であって、業生ではなく、つねに守護霊(祖先の悟った霊である)、守護神によって守ら
れているものである。
この世の中のすべての苦悩は、人間の過去世から現在に至る誤った想念が、その運命と現われて
消えてゆく時に起る姿である。
いかなる苦悩といえども、現われれば必ず消えるものであるから、消え去るのであるという強い
信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難の中にあっても、自分を赦し、人
を赦し、自分を愛し、人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづけてゆくとともに、守護霊、守護
神への感謝の心をつねに想い、世界平和の祈りを祈りつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体
得できるものである』
《世界平和の祈り》
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
てんめいまっと
私たちの天命が完うされますように
守護霊様有難うございます
守護神様有難うございます
目次
問問問
121110
神さまは罰を当てるといいますが
霊覚者になるための条件とは
国家の犠牲になって死んでゆく場合と只個
人的の死の場合と違いがあるか
最近、わけのわからない病気がふえている
2926
問問
21
問問43
狡明観音とはどういう知竪日さま?
人類の平和を祈っていて自分の子供のこと
を思っちゃいけないかしら
方位方角、姓名学について
「天と地をつなぐ者」の中で、先生は釈尊か
ら宝珠を二つと榊の葉五枚頂いていますが、
その意味はつ
7 問13
1412
問5 地上天国が出来たら台風、地震はなくなる
問問問8
76
232119 18
のですが
問14 聖ケ丘の土地が浄まって光っているという
33
ことは
問15 娘に祈りをすすめたいが、娘はキリスト教
のですかつ
猛暑極寒は業想念と関係ありますか:・:・
宇宙神と如来とは同じですか9
生れ変りたいと希望したら生れ変れるので
すか
問9 キリストとお釈迦さまとの違い
2423
36
問問間問問問問
22212019181716
なんですが
41
キリスト教徒のいう神の啓示とは
人生の目的はなんですか
消えてゆく姿について
想いを祈りの中に入れるとは9
空とはどういうことですか
死んだらどこへ逝くのですか?
亡くなると今やっている想いがわからなく
なりますか?
65 61575351464443
問問問問
26252423
職業によって業を背負いますか?
守護霊さんは変りますか?
どうしたら大きい働きが出来ますか:: :
雑念ばかり出てダメだなアと思ってしまう
696766
のですが74
問27 見ざる聞かざる云わざるでいいか78
問28 消えてゆく姿とキリストの瞳罪とが同じに
問問
3029
問問問問問問
403938373635
感じますが8 問41
守護霊は霊界にいっても同じか90 問42
対人関係の場などで、祈りが出て来ないの
ですが93
問3ークラシック音楽とジャズ等について::: 髄
問32 キリストを信じた人だけが永遠の生命を得
られるといいますが
問3 消えてゆく姿とこのままでいいんだという
問鈎
ことの関係
99
想いを抑えてはいけない、
いわれましたが
出したらいいと
109 106
問43
問襲
神を敬して神を頼まず、とはm
想いが苦しんでいるだけとはm
宇宙法則とはどういうこと鵬
霊力と霊能力の違いについてお教え下さい:獅
難産で生まれて来ました囲
あなたの会の生き方、運動はどういうもの
ですか?ときかれたら㎜
労働組合運動に加わっている主人の悩み::鵬
世界人口が60億になり食糧が不足するとい
う統計がありますがm
何ものにも侵されない自分になるにはどん
な道を進めばいいか? 班
神によって生かされている尊さと昇天する
意義深さについてm
問45 幽界を迷うということは業想念の輪廻転生
を指しているのか
問46 この世の思慮分別はどの程度必要か:::
問47 よい人とはどういう人をいいますか:::
159158156
問48 神さまにお任せする心と肉体人間の力と:: 励
問49 一つの偶像、一つの教えというものがあって
問問問問問
5453525150
註
は自由自在になれない、とは
自分をいったん捨てるということは:::
夢について
お墓をどう考えますか
相性がいいとか悪いとかいいますが
母親の子供教育について
186180176174170167161
装偵笹本悦子
ホ
問1 先生の自叙伝”天と地をつなぐ者”を読んだのですが、狡明観音という聞きなれない観音
さまの名前が出て来ますが、どういう観音さまでしょうか?
答けものへんぢに夜とかくのは、この世は今、けもののような世だというわけです。みんなが
自分のためだけに、自分が食べる生活をするために、自分の国を守るために… … ただそれだけでも
あかつきって、お互いに噛み合っている獣のような夜だというのです。その夜を暁に変えようとして、夜
明けにしようとして現われている観音さまなのです。その観音さまがここにうつって働いているわ
けなのです。それが別名五井先生というのね。
くうどくそん
それから私が神さまからもらった空独尊という名前があるんです。空独尊昌久佛というんです。
から
空っぽになるのが一番尊いんだ、という号をもらっているんです。
狡明観音というのは観音さまの働きの名前です。夜明けに必要な役目なんです。夜が明けて来て
朝になれば、私は帰ってしまうかもしれない。
じんじうぽうむナこりつ
阿弥陀さまというのは、宇宙神のことをいうんですね。尽十方如来、無碍光如来ともいう。ビル
シャナ佛ともいう。天之御中主命ともいう。お釈迦さまが悟った時、やっぱり宇宙神と同じになる
んですね。向うへいっちゃってそれで阿弥陀さま、法身の阿弥陀さまと一つになって、また肉体へ
7
かえられた。阿弥陀さまが法身にもなるわけね。阿弥陀さまと狡明観音は同じなんです。阿弥陀さ
まが菩薩行するために来ると、狡明観音になる。
それで勲沢さんのお母さんが、生きるか死ぬかの時にそれをみたわけです。道場のお浄めの部屋
に狡明観音の像がありますね。熊沢さんのお母さんが病気が治って道場にみえた。それで首がフッ
と動いたんですって。向けさせられたんですね。「あっ私に現われたのはこの観音さまだ。この観
音さまだ」ってお母さん喜んじゃってね「あ㌧不思議、あ㌧不思議」ってやってるんですよ。面白
いでしょう、こういうの。私は阿弥陀さまと思ってた、というの。阿弥陀さまでも間違いではない。
阿弥陀さまが救いに働いた形が、狡明観音。
観音さまというのはいろんな形に現われるんだ。ただ私のところで働いている名前は狡明観音。
佛像の形になって、道場にあるけれども、佛像が偉いという意味じゃないですよ。働かなきゃだめ
なんだからね。その働きがこっちへうつって来て、五井先生って形。だから五井先生って個人じゃ
ないんです。観音さまってのも一つのものじゃない。
観音さまは形は一つでしょう。.だから一つかと思えばさにあらず、三十三身に変化するというで
しょう。どんな形でも現われる。たとえば女人が救われんと欲すれば女人に現われるとか、武士と
8
いえば武士に現われるとか書いてありますね。どんな形にも現われられるということは、どういう
なお
ことかというと、向うの心になって現われるということ。病人なら病人が治してもらいたいという
時には、可哀相に、苦しいだろうという想いになって、そこに現われて治すわけです。貧乏の人が
来ると、あ㌧気の毒だなと、その気の毒な想いと共になって現われる。短気なら短気の人には、こ
の人は気の毒だとその心を汲んで現われる。すべてその人の心の中に入って、その人の想いになっ
て救うのを観音行というのですね。
それを高みにいて「お前の信仰が足りないから、お前は救われないんだ。お前もっと信仰しろ」
といって威張っている。「お前の心が悪いからお前の病気は治らない」なんていって威張ってい
る。そんなものは観音さまでもなんでもないですよ。ニセ観音なんだ。教祖になって威張りくさっ
た恰好しているのは、観音さまでもなんでもない。神のみ心がなんにもわからない人なんです。
神さまというのはどこへでも入ってゆく。子供なら子供の中に入って、子供が飴が欲しいといえ
ば飴やるんです。抱いてもらいたいといえば抱いてやるんです。誰でも向うの心になって救うのを
観世音菩薩というんです。だから観世音菩薩はたくさんあるんですよ。肉体界にもいらっしゃる。
或る時は普通の人が観世音菩薩になるんですよ。あの人は可哀相だなアと自分の身を割いて助けた
9
りしたら、その人は観世音菩薩です。何故かというと向うの心になったからね。
向うの心と一つになって救えば、それは観世音菩薩です。あなた方だっていつでも観世音菩薩に
なれるんです。向うの心を観ずればいいんだから、観じてその通りにして救えばいいんですから。
だから宗教家が高みにいて、でっかいお堂の中にいて、ごく最新型の自動車にのって、ふんぞりか
えっているのは宗教家ではない。そんなものは商売人ですよ。大きなお寺の和尚さんで、金ばかり
もらっているのもそうだろうし、新興宗教の教祖なんかみなそうだ。
本当に人が困っているのを見て、あ㌧可哀相だなと思ったら、自分だけがいい家に住んで、うま
い物食べて、自動車に乗ってすまして、信者どもよ、てなこといって暮せるわけがない。気が痛ん
で、私なんかお歳暮もらっても気が痛むんだから。本当はもらったほうがいいです(笑)幹事の人
がお歳暮を集めているのを、私チラチラと見るんです。そうすると気が痛んでね。あ㌧あの人二百
円か三百円とられるのかな、出したくない人もいるだろう、なるたけ出したい人の所にだけもらい
にいくように、と思っている(笑) それでそれを見ると顔が赤らんじゃうんですよ。あ㌧あの人月
給一万二、三千円じゃないかな、こっちがやりたくなったりなんかして。向うは先生にご恩になっ
てると思って持ってくるでしょう。それを受けなきゃ又悪いですよね。
10
出すということは、天理教のいい方じゃないけど、出せばやっぱり自分の業がそれだけお金と共
に出てゆくのです。だからそれはいいけれどもさ、貰うほうになってみれば、向うが気の毒になっ
ちゃって。ある人はいいですよ。どうも私はお金のことになると気が小さくなって、ソッともらっ
たりしているんですよ。そのくらいで丁度いいんですよ。お金のことは遠慮して遠慮して、向うの
こと思いやって、向うの財布がへらないようにへらないようにと思っているくらいで丁度いいんだ。
ほかの人はそうじゃない。向うさまのことは考えないんだ。自分の財布ばかり考えて、それで二
十何億の建物をたてたり、何億という建物をたてているでしょう、あ㌧いうのを宗教家だと思うと
情けないんです私。いつも神さまが嘆いているんですよ。大神さま、救世主が嘆いてますよ。みん
なが食べるに食べられないでいる。失業者はたくさんある。学校出たけれど就職しない人が八〇パ
ーセントある。そういう大変な時に、教祖といって、前生の因縁がよかった為に、やっぱり前生で
徳を積んでいるんですね、前生に預金があるだけで、かまわず、人のふところから、本当に貧しい
人が救われたい一心で一所懸A。oあげるもので、贅沢三味して、自動車を二台も三台も買って、大き
な御殿を建てて、のうのうと暮しているという心は、あ㌧なんという情けない心だろう、と神さま
は嘆いてますよ。
11
それ程、今現われて来た人はダメなんです。本当に偉い人は貧しい生活をしたり、地下にひそん
で一所懸命、人を救ってますよ。世の中には偉い人はたくさんいるんだと思うんです。偉い人とい
う程、あまり売り出さないんですよ。しかし本当に世界が救われる時、地上天国が出来る時は、そ
ういう隠れた偉い人がたくさん出てくると思うんですよ。それでサアとみんな手をつないで、救い
に立つと思うんです。世界平和の祈りをやっていることは、もう人を救っていることになるんです。
12
問2 あのう人類のことを思っておりますと、自分の日常生活にかまけているのが、何か悪いよ
うな気がしちゃって… … 自分の子供のことを思ったら悪いかしら、学校の成績を気にしちゃ悪いか
しら、羽織が一枚欲しいんだけれど、買っちゃ悪いかしら… … なんて思うんですけれど… …
答そんなことありません。それはかまいませんよ。羽織買ったって、コート買ったってそれは
かまわない。自分の金で買うんだから。そんなにケチケチ小さくなる必要はない。自分のやりたい
ことはやったらいい。それと同時に世界平和の祈りをもって、人類の為に尽さなければいけません
ね。
ちつ
私 に働いている神さまは、小ちゃくさいことは一寸もいわないです。小さい垢を掘り出そうと思
ってないんです。人間は肉体に生れている以上は、完全じゃないんだ、欠点があっていい、そんな
ものとがめる必要はない。欠点なんかどうでもいいから、世界平和の祈りをして、まず人類を救わ
なきゃならない。第三次大戦を防ぐ、天変地変を防ぐ、そうしておいてから、細かいことやったっ
ていいです。
まず先に一番大きいことをやらなきゃいけない。自分の欠点なんかいいから、あったままで世界
人類の平和、世界平和のほうへ持っていってしまう。そうすると世界が本当によくなる。細かいこ
とはあまり気にしないほうがいいですよ。細かいことはどうでもいいとはいいません。いいません
けれども今問題になることは、世界が人類が亡びやしないか、ということが一番問題になるんです。
今、予言がたくさんあるんです。今日もある宗教家が予言していました。マリヤの予言といって
ねもう何年には亡びちゃう。人類の四分の三は亡びちゃうというようなことをいっている。この間
もイギリスの宇宙人と交渉している団体があって、やっぱり何年間には地球が亡びてしまうってな
予言をしているんです。予言しないのは私だけなんです。
何故亡びちゃう、という予言をしないかいうと、幽界では地球は亡びるような様相を現わしてい
るけれども、亡びないようにするために来ているんだから、だから亡びるという予言はしないんで
13
す。私がいるうちは亡ぼさないと思っているんです。私がここに生れている以上、人類を最少限度
の傷で喰い止めようと思っているんです。だから協力して下さいね。(以上昭和3年12月25日統一
会より)
14
間3 方位方角というのはあるんでしょうか? 姓名学とはどういうものなのでしょうか?
答これは「神と人間」にも書いてありますけど、方位方角というものもあるんです。どういう
ふうにあるかといいますと、昔からそういう学問があります、積みに積まれて来たわけです。それ
ほうおか
でみんなの想いに、そういうものはあるもんだ、方を犯せばダメなんだ、というような想いがズー
ッと培われて来て、想念の中にいっぱい入っちゃったわけです。それだから自分で気づこうと気づ
ほうい
く まいと、東洋人の想念に、方位を犯せば悪いんだという想いがあるんです。波の中にね。だから
全部否定しちゃって、方角も絶対大丈夫だという信仰になってしまうと、方角なんていらないんで
す。方位をおかそうが、方角をおかそうが、そんなこと問題じゃないんですね。
本当の深い信仰になれば問題じゃない。ところが本当の深い信仰になり得ない場合があります
ね。たとえ生きても死んでも大丈夫なんだ、みんなすべて神任せなんだ、というところへ来れば、
ノ
方位方角も問題じゃありませんそんなの。けれども普通の場合は方位方角というものが、人類の
想いとしてあるから、それでひっかかるんですよね、たとえば家を建てるという時、方位方角をみ
てもいいでしょう。しかし私にきく場合には、私がその想いをちゃんと変えてあげますから、方位
方角もいらないんです。それで私がそれはいけないよっていう場合もあるんですよ。私が浄めても
その人の想いの中から消えないと思う場合にね。
たとえば家相が悪いといわれた、それで私が大丈夫ですよ、といいますね。それで一旦納得して
帰っていったけれど、また他の人に「ありゃ家相が悪い、ダメですよ」っていわれます。方位が悪
いっていわれます。又その悪いものが入りますね。そうすると想いがなかなか消えないんですよ。
それならばいっそのこと、そんな家に住まなくたって、もっと方位のいい所へ住んだほうがいいで
しょう。良いといわれたほうがいいからね。「先生、結婚式やるのにいつがいいでしょう?」「そり
こよみ
ゃ暦のいい日がいいでしょう」と私はいいますよ。
何故そういうかというと、良い日のほうがみんなが良い日だと思うからね。みんなの想いがどう
せ同じことなんだから、良いといわれたほうをやったほうがいいでしょう。そんなことでいい争う
必要はないでしょう。
15
だから方位や方角も気になったら、それはちゃんとみなさい、気にならないなら結構ですよ、っ16
て私はいうのです。
本当は、悟りの境地からいえば、方位も方角もそんなの問題じゃないです。東と思えば東、南と
思えば南だというのと同じでね、自分の思った通りなんだから、方位も方角もいらないんです。そ
こまでの信仰になればいいですね。
皆さんの場合には私に聞けば大丈夫ですよ。私がハイ大丈夫っていった場合には大丈夫です。そ
れでなお不安だったら止めなさい。
信仰も何もない人に、だから「方位や方角なんかないですよ」なんていうわけにはいかないです。
さわ
障ることもあるんですから。
それよりもこわいのは、建った家に亡くなった人がいるとかね。要するに古い家を買った、そこ
に迷った死んだ人がいるとか、地所に死んだ人がいるとか、いう場合ですね。そういう場合はなる
たけ避けたほうがいい。もう買ってしまったら、五井先生に頼むんですよ。そうすれば私が浄めて
あげます。浄めちゃえば大丈夫です。
わざわ
いかなる災いがあろうとも、すべてそれは福にかえるんだ、というのが宗教の極意です。どん
な災いがあろうと必ず福にかえる、煩悩即菩提だという想いがあれば、なんにも怖いことありませ
んよ。どんな災いがあっても平気の平左だ。パッとひっくりかえって来ますからね。だからそう
いう気持になることが一番宗教としては大事です。そこまでならなきゃだめですよ。
いちいち方位をいわれビクビク、方角でビクビク、地所が悪いビクビクしてたんじゃね。生きて
ゆくのに恐怖心が多くて困ります。
どんな災いが出ようと、五井先生につながっていれば絶対に福にかえるんだ、という全託の気持
があれば、もう方位も方角も姓名学もいらない。少なくとも、私に会った人たちには方位も方角も
いりません。なんにも関係ないです。姓名学も全然必要ありません。悪いといわれても関係ありま
せん。
姓名学なんていうのはいろんな見方がありまして、片方でいいというのが、片方では悪いという
んだから。熊崎式でいいというのを何式じゃ悪い、また何式では何んだ、といろいろありまして、
どっちがいいかわからない。折角名前を直して来たら、他の姓名学者に悪いといわれる場合もある
んですよ。だから姓名学なんざどっちでもいいと思うんです。
ただ権兵衛だの太郎兵衛だの、馬五郎だの牛五郎だのとつけられたら、変えてもいいですよ。豚
17
松なんて付けられたら困るから、そりゃ変えてもいいですよ。あんまりきれいじゃない名前は変え
てもいいけども、当り前の名前をわざわざ悪いといわれたからといって変える必要はないと私は思
うのです。変えたって同じだから。
心配だったら、赤ちゃんの名前はちゃんと姓名学でつけてもらったらいい。それで安心出来ます
からね。
私は随分名前をつけています。私は霊感的に、あ\この子は優しい子だから、こういう名前が合
うとパッとわかるんですが、それで名をつければ楽なんですよ。しかしこの世の中にはお節介な奴
がいますからね、ちょっと姓名学をかじったくらいで、字画が悪いとかいうんです。そういわれた
んじゃその人また気持が悪くなるだろうと思って、私は霊感的にその子の魂に合う名前をつけなが
ら、しかも字画も陰陽もなにも全部みんな考えて、それを足しまして付ける。だからどこへいって
も悪い名前とはいわれないですね。そういうように気を配っているんですよ。
(以上昭和34年1月1日の統一会より)
18
問4 「天と地をつなぐ者」を読みました。一六九頁にお釈迦さまが出て来られて五井先生に如
意宝珠かと思われる珠と、それより小さい珠と二つの珠を授けられていますね。それとお榊のよう
な葉を五枚下さったとありますが、この一一つの珠とお榊の葉はなんなのでしょうか。
答如意宝珠をもらうということは、自由自在になった、何にも把われることがない。要するに
解脱したんだという証拠なんです。卒業免状みたいなもんですね。もう一つの珠は光を与える珠で、
光を与える役目になったということで、その光を発する珠なんです。
榊というのは浄めの葉です。五枚というのは要するに五つの神さまという意味です。神さまの浄
めという意味、そういう役をするんだという言葉なんです。
問五つの神さまというのは?
答私は五井ですから、五神が中心になってここに現われて、働いているわけね。そのまわりを
大勢の神さまが取りまくわけです。アイウエオの働きという意味です。要するに中心という意味な
んです。それで五枚なんです。
問5 地上天国というものが出来たら、台風とか地震とかなくなるんですか?
答そうです。地上天国だという時は、台風もない、争いもない、地震もない、すべての人の心
19
を痛める何ものもない、という時なのです。さてこうやってこの現象界をみていて、世界の様子を
みて、日本の様子をみて、個人個人の様子をみると地上天国なんか出来そうもない。そこで、普通
ではそんな地上天国なんか出来ないという説が多いんですよ。ところが出来るんです。何の力によ
って出来るかというと、守護神守護霊の力によって出来る。それに宇宙人の力が加わるわけです。
そして出来るのですよ。
この地上界の肉体人間だけでは絶対に出来ません。肉体人間だけではとても自分たちの業想念を
消して、地上天国を作ることは出来ませんよ。そこでどうしても助太刀が要るのです。それが守護
神であり守護霊であり、宇宙人なんです。その助太刀の神霊たちと手をつないで、この地上界に降
りていただこう、というのが世界平和の祈りの大眼目なんですよ。
消えてゆく姿で世界平和の祈りをやっていれば、自分は安心立命します。だんだんやってゆくう
ちには、怖いことはなくなって来ますね。だんく自分が不動心になっていくし、偉くなっていき
ます。そして自分の周囲によい影響を与えますよね。しかしそれだけでは足りないんですよ。人口
が多いから、二十何億あるからね。そこで、目のあたりに光り輝くものがパーッと現われるような
大奇蹟を見せなければ、本当の世界平和は来ないですよ。それを右と左にやってるわけです。
20
片一方ではこの教えによって、世界平和の祈りで、あらゆる業想念、怒りも妬みも自分をいじめ
る想いも、人をいじめる想いも、すべて世界平和の祈りの中へ全託しちゃって、消してもらってし
まう。世界平和の祈りの中に投げすてて、救世の大光明で消してもらうわけです。それと同時に、
宇宙人に降りてもらって、宇宙科学でもって地上の戦争や天変地変を防ぐ、地上の業想念を浄める
という、二つの働きをするために、世界平和の祈りをやっているんですね。
だから地上天国が出来た時には、暴風雨もなければ、地震もなければ、争いも飢えもないという
ことになるんですね。それは理想世界であって、現実にやがて現われる世界なんです。必ず現われ
るんです。そのために世界平和の祈りが出来ているんですよ。
問6 殺人的な寒さとか暑さとかは、業想念と関係ありますか?
答人間が生きてゆくのに都合の悪いことは、全部業想念なんですよ。業想念の波の現れなんで
す。業想念波がなくなれば、いつも快い生活が出来るわけなんです。だから地上天国が出来るまで
は、今の世界というものは、このままでゆけばやっぱり地軸が傾く、ではないけども、天変地変が
あって崩れてしまう、とかいうものが幽界には随分多いんですよ。多いんだけど、世界平和の祈り
21
の大光明で随分消しているんです。この間もイタリーの兄弟が、核爆発があって世界が亡びてしま
う、ということを予言しましたね、それでイタリー人の中で自殺した人もあるというような話を聞
きました。しかし私は「そんなことあるもんですか、明日になればわかるよ」とそう云ったけど、
そんなものありゃしなかったね。
地球が亡びてしまうなんていう予言が、これからもたくさん出ますけれども、そういうことは絶
対にありません。地球が亡びるなんていうことは絶対にありません。けれど、うーんと暑くなった
り、うんと寒くなって、とても住み難くなったりすることはあり得ます。けれどそれさえも消えて
ゆく姿として、早く表面に現われないで、幽界だけで肉体界に現われないうちに消してしまおうと
するのが、世界平和の祈りなんです。救世の大光明の働きなんです。
いわゆる人類の受ける被害を、最小限度で防ぎ止めようとして、世界平和の祈りの神さま方が現
わけみたま
われているんですよ。皆さんはその神さま方からつながっている分霊なんですから、みんなが世
界平和の祈りをやることは、この地上界を天変地変から救い、業想念の波の災害から救う大きい力
なんです。それを認識して下さい。
22
問7 大日如来とか無磯光如来というのは宇宙神と同じでしょうか?
答宇宙神の一つの働きが何々如来でありますから、宇宙神と如来というものは別に考えたほう
がいいと思います。
宇宙神というのは唯一神で、一つです。一つだけれども、宇宙を創る場合に、いろんな働きに分
れるのです。分れた時にいろんな神さまの名前がつくんです。働きの名前がつくわけですね。
宇宙神は一つですけども、働く場合には一つで働くわけではありません。いろんな形で現われて、
何々の神、何々の神、というふうに働くわけです。日本流にいえば、イザナギ、イザナミノミコト
があったり、天照大神があったり、スサノオノミコトがあったり、月読神があったり、国常立之大
神とか高御産巣日神とかいろいろある。一つの働きの名前なんでず。だから宇宙神がそのまま宇宙
神の姿として働くことはないんです。宇宙神はつねにいろんな神さまに分れてゆくわけです。
問8 私たちが亡くなりまして、もういっぺん生れ変りたいと希望した場合には生れ変ることが
出来ますか?
答そうですね、生れ変ることは出来ます。出来ますけれども、守護神がその希望よりもっと強
23
く、他に展開したほうがその人の天命が完うしたほうがよいと思われる場合には別です。しかし本
人が強く希望することは実現します。汝の信ずる通り汝に成れでね。
でも希望は容れられるけれど、希望通りにはなりません。ということは、その人の業想念のいろ
んな形がありますから、自分ではわからないけれども、神さまのほうではわかっている業想念があ
りますから。それで本当に自分の業想念がなくなりますと、自分の希望というものが、神の願い、
神のみ心と一つになっちゃうんです。そうなると別に希望することがなくなるんですね。本当に悟
ると、自分が希望するんじゃなくて、自然に願望が成就してゆく道が開けて来るんです。それが悟
りなんです。如来というのはそういうことなんですよ。(以上昭和35年8月6 日の統一会より)
24
問9 イエスキリストとお釈迦さまの違いについて教えて下さい。
から
答 イエスさんは神のみ心を伝える空っぽの人です。天使ですよね。お釈迦さまは難行苦行して
悟った人です。イエスさんは悟った悟らないというんじゃなくて、天使が(金星にいた人なんだか
らネ)地球を救うために派遣されてきたわけね。だからはじめから神さまの使いなのです。でイエ
スのいった言葉は神さまの言葉なんです。
あの頃イエスなどは新興宗教の最たるものですよネ、ユダヤ教のこりかたまった人たちにいうの
だから、余程激しい言葉でいわないと通じないんです。「あなたそうしちゃいけませんよ」では通
じないんですよ。激しい言葉でいわないと向うがピンと来ないから、激しくいわせたのね。どうせ
はりつけ
三十そこそこで礫になっちゃうんでしょ。そういう運命だから、たくさん激しくいったほうがい
いんですよ。そういう役目なんです。エレミヤという人がいますね、旧約聖書に出てくる預言者で
すが、エレミヤ哀歌という章があります。エレミヤは自分が嫌だというのに、神さまが使うんです。
しまいに異国で殺されたというんですよね。可哀そうですよ。エレミヤはいいたくない。いいたく
ないのに、どうしてもいわされてしまう。私は誰もそういうようにはさせたくないのですね。自由
意志でもってやらせたいと思うんですよ。自由意志なんだけれど、自分の表面では望んでいないよ
うに思えても、中ではとても望んでいるということがあるんですよ。そうすると中のものが出てく
るんです。神さまは中のものの通りに使うんです。そういうこともあるんです。
おもて
だから表の心と中の心とが一致しないといけませんよね。表面で思っている心と中とでは違う
場合、表面の心は消えてゆく姿いちいち表面の心は中の心はどうだ、とやってたんでは面倒だ
から、すべて中の心も表面の心も、いいも悪いも、世界平和の祈りの中に入れて、世界平和の祈り
25
を祈りながら、自然に行うことを”よし” とする。それがたとえ失敗であってもね。
「あ㌧失敗した。しかしこれは消えてゆく姿、どうしてもこれをやらなきゃならなかったんだな、
これはもう再びしまい」というふうにやってゆく。そして失敗する場合でも、なるべく人に迷惑を
かけないような失敗をする。自分だけが損するような失敗のほうがいいでしょ。失敗でもそういう
失敗に変ってゆくわけね。
26
ばち
問10 神さまが罰を当てるといいますが、本当でしょうか。自分が悪いことをして、その悪いと
いうことを知らない場合に、神さまはどういうふうにするのですか?
答神さまが罰を当てるのではないんです。そもく神さまの観念というのが、今迄は違ってい
た んです。
神さまというのは、造物主、創造主であって、すべては造物主によって創られた、という感じな
んですね。ところが私たちの考えはそうじゃないんです。人間の肉体は造られたものだけれど、肉
体の中にある霊魂というものは、造られたものではなく、神さまから分れたものなのです。
造られたものと分れたものは違う。私は分霊といいますね、神そのものの分れがここに来ている、
すえ
みな神さまの分れ、神々の商というのです。大神さまが人間をパッパッと造ったわけではありませ
んよ。神の分れの神々が肉体を造っているんですよ。神々の何々ノ神という商があなた達なのです。
ですから自分達が自分達を造ったんですよ。だから造った責任は自分にあるわけでしょう。
みそぎ
自分の中のものが間違ったことをすると、自分の外のものを罰するのではなくて、要するに襖
をするわけです。喫をする時に、病気が現われたり、不幸が現われたりするわけです。罰するわけ
でもなんでもないんです。
自分に汚れたものが一ぱいつきますね、そのついたものを洗うわけです。魂についたものを洗う
わけです。その時、変動がくるわけね、自分で悪いことをしたことを知らなくても、中の霊は神な
んですから、その神の光が走って、邪魔なものをどけてゆくわけです。たとえば部屋がありますね、
ゴミがたまります。年中気がつく人はチョコく払うから、あまりホコリがたちませんね。年中掃
除してふいていれば、きれいです。ところが汚くなったのを知らないで「きれいだく」といって
いると、うんと溜ってしまいます。しまいには目につきますネ、そして叩き出すと、パーッとすご
いホコリが出て大変なことになるというわけなんですよ。
そういうわけですから、神が人間を罰するということはありません。直接には大神さまは肉体に
27
関与しないんです。神々八百万ノ神々が、自分を救ってくれる。神々の中には守護神もいれば
守護霊もいれば、分霊の自分もいるわけです。だから人間は神の子なんですよ。ただそれが判らな
いと、肉体だと思う想いが牢乎としてぬけない。いくら”お前さんは神さまの子で、光なんだよ”
といわれても、どうも肉体のような気がしちゃうのね。
肉体のような気がするけれど、実は肉体というのは、一つの現れにすぎなくて、神さまというの
は光そのものなのですよ。それで神さまは誰かというと自分なんです。だからお釈迦さまは神さま
ほとけ
とはいわないけれど、仏を出せ、仏性を出せといった。自分を磨けば、自分の中から仏さまが出
てくるんだよ、みんな佛さまなんだ、自分は佛子なんだ、山川草木悉皆成仏すべてのものは仏
さまなんだよ、と教えたわけなのね。
誰も罰しやしない。罰するのは自分の行いが消えてゆく姿として消えてゆく時に、病気になった
り、不幸になったり、罰せられたような形になるわけ。肉体の世界では、相対的にはわからないも
のだから、悪いことをしたら刑務所に行くようなことになるわけです。
外から罰せられてゆく、内から光が出る時に、自分の業が崩れてゆく。その時に不幸みたいなこ
とになるわけです。だから年中、神さまの中に入って、神さまのみ心と一つになって神さまの
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み心というのは自分の本心でしょう、自分の守護霊守護神を通して、自分の本心の中に入っている
と、光がいつも出ていますから、汚れたものがチョコッと出て消えちゃう。
だからだんく魂がきれいになると、ふっと悪い想いをしてもすぐ現われる。その代りすぐ消え
ちゃいます。ですからチョコく出たほうがいいですよ。チョコく病気をするような人は案外、
長生きしたりするんです。全然、病気をしない人がポックリいったりすることもあるというわけ。
年中、お風呂に入るみたいに、魂を磨いていれば、小さなことはあっても、大きな不幸は無いと
いうことなんですよ。
問1 霊覚者になるための条件というのはなんでしょうか。五井先生はどうして霊覚者になれた
のですか
答素直ということですよ。素直に神さまにお任せなさいといったら、ハイお任せしましょう、
といって任せただけです。生命を捨てざれば生命を得ず、といって、肉体の生命というもの、自我
欲望というものをなくさなければ、本当の自分は現われない、と聖書でいうんだから「あ㌧そうだ
ろう、ハイ生命をあげます」とやっただけなのです。全部、神さまに任せちゃったんですね。これ
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は素直ですよ。これは素質なんですよ。私はそうしたのよ。しかし他の人にはそう出来ないかもし
れない。私としては「ハイ生命を捨てます。どうか人類のためにお使い下さい。どうか人様のため
にお使い下さい」とパッと投げ出したんです。想いの中で、パッと神さまにあげますから、とやっ
ただけです。そのあとは、そんなことは思わない。あとは一所懸命勉強して、一所懸命仕事をして
いた。そうすると=遍、逆立ちしたんです。百八十度ひっくりかえって、逆立ちして歩いた。とい
うことはどういうことかというと、雨が降っても傘をささず、十里の道も遠しとせず、いつものん
びりくと歩いているような姿。食べなくてもいい、睡らなくてもいい、というような時があった。
常識の世界とはまるっきり逆なことをやったんですね。
ふつうは三度三度、ご飯を食べて、毎晩ねて、遠い所は電車に乗って、というんでしょう。雨の
日には傘をさして、という生き方をするわけです。私は神さまのほうに任せきってしまった。あと
は自分が無いんだから、雨が降ろうが風が吹こうが、平気で、雨がザーッと降ったって平気、風が
吹こうが平気、目を宙にして歩いていた。向うから知った人が来て、こっちを見たって知らん顔。
この世の人間には全然用が無いんだもの。あの世の人しか用が無い。ああいうのは実際、気持が悪
いよ。今頃になると嫌だなと思う。
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私はそういうやり方をしたけれど、私から後に来る人は、そういうことをさせたくないんですよ。
そこで、ただ生命をあげます、というんではなくて、私が中間にたって、目を宙にして歩くのは私
でたくさんだから、私が代りにやったんだから、もう結構だから、真似をしなくていいから、その
ままいきなさい、そのまま普通の生活をしながら、だんく知らないうちに、自分の仏性を出して
ゆくようにしてあげますよ、というわけで、世界平和の祈りが出来たんですね。
世界平和の祈りというのは、今までの肉体の人間が神性を開発する、霊性になるための一つの梯
子なんですよ。世界人類が平和でありますように、私どもの天命が完うされますように、という想
いで、いつの間にか肉体人間が知らないうちにどんどん上っていって、往ったり来たりしているう
ちに、神さまの光になってしまって、中の本当の仏さまが出てくるわけ。
私の場合にはそういう梯子はなかった。お師匠さんがいないんだからね。ともかく自分でやるよ
り仕方がない。だから自分が梯子になったり、エレベーターになったり、自分自身でやったわけ。
だから目を宙にして歩いたような常識はずれなことをしたわけです。
ところが私のような人がいて、世界平和の祈りがある場合には、常識をはずれることはないんで
すよ。当り前のことをして、当り前に、直感的に開いてくるんです。若い人たちは特別なことをや
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ろうと思いなさるな。「先生もやったんだから、俺も目を宙にして変な靴をはいて歩いてみたい」
なんて思ったりすることはないよ。
当り前のほうがいい。目は横に、鼻は縦に、柳は緑、花は紅、というのと同じで、平常心是道で、
普通がいいんです。普通のままで、知らないうちに三百六十度ひっくりかえって、神性が開かれて
くるほうが余程いいですよ。そういうように皆さんがなるように、私が一所懸命、皆さんの代りに
祈っています。
いや
私、今ふり返ってみて全く嫌だもの。たまくそういう人が来ると「ああこれは大変だなア、一
人じゃ出来まいし、私が助太刀するんだけれど、骨が折れるな」と思います。私に骨折らせまいと
思ったら、当り前の生き方をしてくれればいい。世界平和の祈りをして、与えられた仕事を一所懸
命していれば、私が中から知らないうちに変えてあげます。
一ぺんになるのは大変ですよ。私は霊的な人をいろいろ扱ってみてそう思います。霊的な人ほど
骨の折れるものはないから。こっちがくたびれちゃう。なるべく穏やかに、お静かに立派になって
下さいよ。お願いするよ。
当り前の生活をしながら、世界平和の祈りをして、いい行いをしていると、知らない間にパーッ
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と変ってきます。あせらないほうがいいです。あせることが一番悪いことですよ。
ひ
問12 個人が病気になって死ぬとか、自動車に軽かれて死ぬとかという場合と、戦争の犠牲にな
って死んでゆく場合、或いは集団で災害にあって死んでゆく場合とか国家の犠牲になって死んでゆ
くような場合とがありますが、どういう違いがありますか?
答個人で死ぬ場合には、個人の波だけで死ぬんですけれど、国家的、集団的な、たとえば大地
震に会って死んだとか、戦争で死んだとかありますね。たとえば長崎に原爆が落ちて皆死んだとい
うのは、個人の業を含めて、国の業を消してゆくわけなんです。そうすると罪一等を減じられて、
業がズッとへって、たとえば個人で死んだら下の段階に行くのが、上にゆくんですよ。そういうこ
とになっている。
守護霊がそういうふうにしたほうがいい、と思うと、守護霊がそこに集める。長崎で原爆でやら
れなくても、個人的にその人が死ぬ運命にあるわけネ。病気なら病気で死ぬ運命にあるんです。だ
けど同じ死ぬなら、罪一等を減じられたほうがいいと、そこに集められて、個人の業と国家の業を
一緒にして消してゆくのです。だから国のために死んだとか、国の犠牲になって死んだとかいうの
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は、個人的に死ぬよりは、ズッと霊界の地位はよくなるんです。そういうもんなのですよ。
特攻隊の人が死んでゆくでしょう。あれなんか本当に国に捧げています。中には嫌だなアと思っ
ていった人もあります。そうするとその人は神界にはいかないんです。いっぺんそういう想いの世
界にゆくけれど、やはり国家のために死んだから、しばらく幽界で浄められてゆくと、パッと上に
あがります。
だから死に方にも二段階も三段階もあります。亡くなる時には、ゆうゆうと神さまに感謝して、
世界平和の祈りを祈りながら亡くなれば、その人は悪い所には絶対いかないですよ。世界平和の祈
りはこの世に生きていて役に立つし、死んでからも役に立つんです。
それは何かというと、世界人類という、大きな絶対界と同じようなものでしょ、地球としては絶
対界と同じような想いで死んでゆくんだから。「コトバは即ち神なりき」というのは、想いもそう
なんですよ。ことばというのは想いなんですから、光がことばで、光から想いになって、想いが言
葉になるんです。想いは言葉なんです。話す言葉もことばです。だから姦淫しようと思えば姦淫し
たと同じだ、とイエスがいいますね。思ったことはみんな現われてくるんです。
ことばは即ち創造主なんだね。そこで悪い想いをした時には、その想いはすぐ世界平和の祈りの
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中に入れて消してしまいなさい。消えてゆく姿だなアと思って、祈りにかえてしまいなさい、と私
はいうわけです。悪いものをそのまま認めていますと、潜在意識に入って、運命になって現われて
くる。だから、あのヤロウ、嫌な奴だな、やっつけてやろうかな、と思った時に、そのまま思った
ままでいると、いつかやっつけることになるんですよ。その時やっつけなくても、どこかでやっつ
ける。そうすると自分がやられるわけ。
思った時には、これはいけないな、消えてゆく姿だな、世界人類が平和でありますように、その
人の天命が完うされますように、とやると消えちゃって、あべこべに光が入ってくる。
いつでも私たちの教えは、煩悩即菩提といって、悪い想いが出た時にすぐ光にかえる祈りをする
わけね。それを年中やっていれば、いつの間にか自分が光一元になってくるから、いいことをやろ
うとか、やるまいというのではなくて、自然にいいことをするようになっちゃうんですよ。だから、
世界平和の祈りを一度でもやって、こういう会に入ってやる習慣がついていることは、皆さんもう
大変な得なんですよ。
こんなに易しくて、すぐ心が明るくなるような教えというのは、他にはないんですよ。みないじ
められるんですよ。お前の心が悪いから、お前の心を直して出直せ、ということになるでしょう。
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大概そうなるわけ。出直したんでは間に合わないから、出直さないでやらせようというのが私の教
え。
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問13 最近、わけのわからない病気がふえているようですが、どういうことでしょうか?
答いろんな病があるようですね。医学が発達すればする程、病気の数が増えるでしょ。昔は無
かったような病気がね。いろいろ名前がついています。
病気というのはどういうことかというと、やはり想いの煩いなんです。想いの波が過去世からの
想いの縁にふれて、合体して、毒素になってくるわけです。結核菌は毒素を食べて生活するので、
結核菌が悪いというより、毒素そのものが悪いんですよね。そうすると結核になる。だから結核菌
だけを殺したから直るというものではない。毒素の元を直さなければだめね。
元はどこから来るかというと、想いから来るんですよ。だから病気を直すためには、お医者さん
にかかるのも結構だけれど、自分の想いの波を直さなければ、また病気をするし、不幸にもなって
くるわけね。
お医者さんにかかり、薬をのみながら、何をしてもいいと私は思うんですよ。ただ想いの波を直
すことをしなければ、いつまでたってもその人は本当の平和にはならないんです。
想いが直るにはどうしたらいいかというと、やはり神さまのみ心の中に入るわけね。ところが昔、
原始的な時には、今でも黒人の部落では祈祷や踊りをおどって治療している。ああいうのを宗教と
思っている人があるんですね。お祈りというと加持、祈祷みたいに、太鼓や鐘を叩いたりしている
のだ、と間違っている。そんなことはないんですね。ああいうのはお祈りというわけにはいかない。
ただ単なる願いごとです。私のいっているのは、お願いじゃないんです。病気を直すにしても、貧
乏、不幸を直すにしても、お願いごとじゃないんです。自分の想いを本体の中に入れるわけ。守護
霊、守護神に消してもらうわけですね。光を蔽っている闇の想いを光の中に入れて消してしまう。
そういうのを祈りだと私は言うんですね。そう教えています。
ふつうでは、お祈りというと、なんだかお願いごとみたいに、鐘を鳴らして、五円ぐらい入れて、
五円で惜しいから一円入れて、病気が直りますように、ポンポンーあれで直るつもりでいる。あ
ヘヘへ
れはつもりだけなんですよ。あんなことをやらなくても直るんです。そういうのは祈りでも宗教で
もない。
宗教というのは、自分が神の子である本心を現わす道なのです。その道は何かというと、やはり
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祈りより他にない。祈りとは何かというと光の中に入ること。光とは何かというと、神さまの本性
だから、人間の本体だから、光の中に入ることが一番いいわけです。
一軒の家でも、太陽があまり入らない家は病気が多いといいますね。南と東が開いている家は光
が入っているから、いいわけです。そういうように、光を入れるようにしなければだめ。心の中に
神さまの光を入れなければだめね。それが祈りなんですよ。
今まではあまり光が入ってなかったんですね。中に潜在して、要するに中の病気が多かったんで
す。医学も発達していませんし、そういうこともわからなかったからみな、短命だったんです。昔
は五十というとお婆さん。今では老婆とはいいません。中年ですよね。若いとはいえないけれど。
としま
七十ぐらいにならないと老婆といわないです。小説でみると、昔は二十二、三だと中年増というん
です。それだったら今の娘はどうでしょう(笑)それは寿命が短かかったからね。たいがい五十で
死ぬんです。ところが今は七十、八十でしょ。それだけ長くなってきた。
それはやっぱり生き方がいいからですね。いろいろの恩恵に浴して、辛い仕事もしないように、
たとえばかがんで、冷たい水道で洗濯していたのが、電気洗濯機で出来るようになった。それだけ
体は楽ですよね。歩いてトコトコ行かなければならないものが、電車に乗るようになった。だから
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昔より体を使っていないわけですよね。むちゃくちゃに使わないからいいんです。背丈が伸びてき
たのもそうですよ。何故伸びて来たかというと、やはり想いを使わないで、我慢してきたのが、割
り方我慢しないで済むようになった。労働もあまりしなくてね。それでひょろくと伸びて来たん
ですよ。
それだけ今は、実際良くなってきているんですよ。それは何故かというと、光が、神さまの応援
がとても激しく動いているわけなんです。発明でも電気が出来た、飛行機が出来た、そういうのは
みんな神さまのほうから光の波動が来て、それで考え出すことなんですね。
こう
その反面、業のほうの暗い想いのほうからも考えが出てくるわけ。それが原爆や水爆になってく
るわけなんです。それは発明する想いを追い出す力を持っているわけです。
光が進軍して闇が消えてゆく姿のゴタゴタが、国際紛争だとか、人間の病気だとか不幸だとかに
なるんですよ。だからちょっと辛抱していればいいんですよ。辛抱しながら、一所懸命世界平和の
祈りをしていれば、光の中に入っていさえすれば、辛抱しているだけで済んじゃうわけなんです。
光が闇に負けることは絶対ない。光がただ進んで行けば闇は消えるんです。闇が光に対抗してく
るというのはないでしょう。光が進めば闇は消えます。それと同じことです。神さまのみ心を現わ
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し
せば、自分の不幸は消えてゆくんです。
かんまん
ただ肉体の世界は緩慢でしょ。神さまがパッと現われることが、肉体の世界ではなかなか出てこ
ないんですよ。だから神さまのみ心に入っても、平和の祈りをしていても、今すぐパッと現われて
くる人もあるし、徐々に緩慢に直ってゆく人もあるわけですね。だけどやがては、どんな人も必ず
幸福になることに間違いありません。
世界平和の祈りをしていて、不幸になることは絶対ない。不幸になるように見えるのは、消えて
いらじ
ゆく姿として、一時不幸に見えるけれど、あとは必ず幸福になるということは確実なんですよ。私
は長い体験でよく知っています。一時はどうなるか… … 。あの人は病気でどうなるだろう、という
時にサッと直っちゃうんです。あの会社はどうなるだろう、もう手形もきれない、どうにもならな
い、という時にパッと助かったり、潰れてかえってよくなったり、とにかく押しつまってくると、
必ずよくなる。
闇が深くなってくると、明け方が近いと同じように必ずよくなる。だから辛抱して平和の祈り一
念に生きてゆくことが大事だと思いますね。
辛抱しなければいけませんよね。ただ何もしないで、消えてゆく姿をやっていればすぐ出来ちゃ40
うとか、世界人類が… … といえばパッと病気が直って、パッとお金が入ってくるーそんなもので
はないんですね。そういうように思いがちなんです。やっぱり辛抱が肝腎だということですよね。
問14 聖ヶ丘の土地というものは、浄まっていて、光があるというのはどういうことですか?
答年中、大勢で祈っている場所というのは、自然に浄まるんです。何故かというと、霊団の光
が余計に入ってくるからです。それで土地が浄まるんです。
のらのら
だからたとえば悪い想いを持っていた人が住んでいた家というものは、後々までもその土地は暗
い濁ったものなんです。そこで私たちは方角とか何とかいうより、その土地が汚れている、前に住
んでいた人達の想いが汚れていると、土地を買いたいんですがと相談された時、止めなさい、その
土地はダメですよ、ということがあるんです。
聖ヶ丘は、世界人類が平和でありますように、と世界平和だけなんです。外のことは何も考えて
いない。世界平和の祈りだけで使っているわけです。世界平和の祈りというのは救世の大光明です
から、その光がそのまま聖ヶ丘では輝いているわけです。天と地をつなぐ柱が立っているのと同じ
です。光の柱が立っているんです。皆さんが聖ヶ丘に来た時には、光の柱の中に坐ってお祈りして
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いるのと同じなんです。ですから聖ヶ丘に黙って坐っているだけでも浄まるんです。
ですから常に自分の家でも世界平和の祈りをしている、そういう人達が住んでいれば、その家は
輝きますよ。霊眼の人が見れば、皆さん方の家というのは、ふつうの家よりも光輝いていると思う
んですよ。
毎日の生活の中でも、皆さんが光り輝くためにはどうしたらいいか、平和の祈りをしていれば、
へ
平和の祈りをしている器である肉体は、輝いているわけですよね。ただ前生の因縁というものがあ
りますから、平和の祈りをつづけていても、全部、すっかり光になりきるまでは、過去世の因縁が
出て来て、病気になることもあるでしょう。たまたま不幸が出てくることもあるでしょう。しかし
世界平和の祈りをした人としない人とでは、天と地の差があるんです。
世界平和の祈りをしていれば、同じ業が出るんでも、少しつつ出てくるわけです。光のほうが強
まとも
いからパッと消えますからね。光がない人は真正面にうけるけれども、光の強い人は十が三という
ふうに縮まりますからね。そういうわけで業想念がつまっていても、世界平和の祈りをしている人
は、現われてくる場合にはズーッと軽く済んでゆくわけです。それが運命の修正っていうんですよ。
だから、いつでも何んでもいいから、世界平和の祈りをして、自分の心を安心立命させて、光り
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輝・かせておけば、
とになるんです。
その人も幸福になるし、知らない間に世界人類の為に尽しているんだ、というこ
問15 うちの子供にも世界平和の祈りは素晴しいから祈って、といいましたら、うちの子はキリ
スト教なんですが、世界平和の祈りは一宗一派の祈りだっていうんです。私たちは聖書の予言を信
じてやっているんだから、といって世界平和の祈りにも見向きもしないんですが、私は親としても
是非祈ってもらいたいと思っているんです
答無理にすることはありません。親子でも、兄弟姉妹でも、親戚でも無理に入れる必要はあり
ませんよ。根本は同じなんですから。実際に、キリストがここに現われ、仏陀が現われてくれば問
題なく、入るも入らないもへったくれもないんですよ。無理無理に子供だから入れ、夫だから入れ、
というやり方はだめです。それは人の自由を縛るからね。
私の教えの一番の根本は、自分を赦し人を赦しでしょ、自分を愛し人を愛しというんですよ。自
分を赦し人を赦しというのは、責める心で自分の教えに従わせようというのではありません。
が
どんないい教えであっても、自分の我で引き入れようとすれば、それは神のみ心ではないんです。
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我ですからね。そのままスラスラッとしてたらいい。自分が世界平和の祈りになっていれば、知ら
ない間に、ちょっと言葉が出た時に、向うも求めていた時にピタッと合って、さっと入ってくるん
ですね。
やっぱり言葉だけですすめて、無理矢理に入れようとすると、そこに無理があるわけです。だか
らいくら親子であっても、向うはキリスト教がいいと信じているわけだから、それは信念が強いん
だから、それは結構ですよ。別の道から行ったっていいと思うんです。無理矢理に引っぱりこまな
くたっていいですよ。
44
問16 神の啓示を信じてるっていうことは、それはどういうことなんでしょうか?
答ああそれはキリスト教の予言がありますからね。それはそれでいいじゃないですか。私は他
の宗教をやっていてそれを固く信じていれば、それはそれでいいと思うんですよ。それはいい悪い
の問題ではなく、その人の行く道だから仕方がないですよ。女に生れてきたら女だし、男に生れた
人は男でしょ。当り前ですよね。それと同じように、こういう道を進もうと思っている人は進むん
です。それは行き止まりまで行かない限り、途中で入ってきても、またひっくり返っちゃいます。
そこで私は隣近所に住んでいても、親戚縁者であっても、言葉としてはいわないです。だから皆
さんも言葉で無理無理入れてやろうというようなことは必要ありませんね。嫌でも応でも入ってく
るに決まってんだから、というように私は思っているんですよ。
世界平和の祈りの中に入らないことはないんです、絶対に。全部が世界平和の祈りでなければな
らないんだから、これは必ず最後には入って来ます。無理に入れようとすることは間違いです。そ
れは我です。どんな愛情からであっても無理無理やっちゃいけません。
子供さんの学校の成績がいいとか悪いとか、というのがありますね。無理無理に勉強さしたって
ダメです。向うが自然に勉強したくなるようにもっていかなきゃいけませんね。宗教の場合でも同
じ。自然に世界平和の祈りの中に入りたい、五井先生に会いたくなるように、みんなが向けていか
なきゃだめ。
それにはどうしたらいいかというと、自分が立派になることですよ。お母さんならお母さん、お
父さんならお父さんが、前のお父さんよりも、前のお母さんよりも、世界平和の祈りの会に入った
ら、あ㌧なんて立派になったんだろう、見違えるように良いお父さん、お母さんになった。あ㌧こ
の教えならいいんじゃないか、というようにして入って来ない限り、本当の導き方とはいえないで
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すね。
私は人の自由を縛ることは一切しないことにしたんです。人の自由を縛ったら絶対ダメです。力
で入ったら人情関係、義理関係で入ることがあるかもしれない。しかし長続きしませんわ。結局、
去年入ったって、再来年入ったって同じになっちゃう。かえって再来年入ってサーッとくるほうが
早い場合があるんですよ。いっぺん間違った道でもいいんです。仕方がないんです。それで間違っ
たとわかるまでは間違ったことがわからない。そうでしょ、それまではダメですよ。その代り壁に
突き当った場合に、この人はパーッとよくなります。途中で止めたんじゃまだ名残り惜しくて、ま
だあのほうがよかったってそう思いますよ。
潜在意識、幽体の中に悪い想いを溜めまい、という方向に私は向けてるわけですよ。だから途中
でもって強引にひっぱり入れるようなことは、必ず逆に戻るからそれはダメ。もっと自然にいかな
きゃ、自然に素直にすーすーすーといくという、そういうような生き方を私はすすめているわけで
す。(以上S 35 ・7 ・28 の統一会より)
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問17 私は一一度大学受験に失敗し、三度目に目的の大学に入りました。大学で勉強してゆくうち
に、人間の生きる目的がなんであるかということがわからなくなってしまったんです。それで結局、
無我の境地になることが目的だ、ということがわかって来たんですが、そうなると、こんどは、自
分が学校で勉強していることが何の為にしているのか、わからなくなって来たんです。どうしたら
よろしいでしょうか?
答それは無我でもなんでもないんだね。無我であるならば、自分の環境が学校へ入って学問を
する環境にあれば、そのままそれを生かして学問してゆくものです。無我というのは、自分の我が
無くなることなんだから、これがどうだ、あ㌧だって考えるうちは無我でもなんでもないわけなの
ね。
人間の目的は何かというと、置かれた環境は神さまが置いて下さったんだと信じて、その場で一
所懸命いのちを生かしてやること、これより他にないですね。なんでも一所懸命やるということが
人間の目的です。
それをもっと詳しくいえば、神さまのみ心をお互い二十何億に分れて、この地上界に花咲かせる、
神さまのみ心を現わすために、自分は生れてきているんです。神さまのみ心を現わすためには、そ
の場に置かれたら一所懸命、真剣にやらなければだめなのです。便所掃除の役に当ったとする。こ
47
いのら
んなつまらないことっていうけども、やる事柄がつまってもつまらなくてもいいんです。生命を一
所懸命に生かす、一所懸命働くというのが、神さまの目的を達成する第一段階なんですね。それが
わからないと、どんな理屈をいってもだめです。
学問の殿堂、大学に入ったら、学校の勉強を一所懸命やる。商売をしているんなら商売を一所懸
命やる。家庭の主婦なら主婦の仕事を一所懸命やる。そうすることが神さまのみ心なんです。
神さまのみ心というのは、観念の意味で頭でもって、あっちこっちと兎や角するんではなくて、
頭も体も一緒です。一緒に一つのことにぶつかってゆくわけですよ。ぶつかってゆくのに手の届か
ないところにぶつかってゆくのではなくて、自分の置かれた環境をそのまま一所懸命やる。それ以
外にないですね。
そうすると、知らない間に、たとえば誰かに会って”君そんなことをしているのか。こっちへい
らっしゃい” って引っ張られたり、或いは誰かから”それは駄目だから、こっちにしろ” っていわ
れ心が動いて、そちらへ行ったり、その場その場で自然に心が動いてゆく。それでやってゆくわけ
ですね。
置かれた環境がどんなに悪かろうと、又心が動いて行ったところが悪かろうと、そこで一所懸命
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やるんです。一所懸Aoさえやっていれば、必ずその環境を突破して、目的にだんだん近づいてゆく
んです。一所懸命やらないで理屈ばかりいっている人が、一番愚かですね。理屈ばかり頭でこねま
わしていて、ちっともその与えられた環境で一所懸命にならない人、そんな人ほど愚かなものはな
い。神さまはそれを一番嫌います。
す
神さまが一番好いている人は、どんな環境でも一所懸命やる人ですよ。一所懸命やるということ
は、求めていることなんです。商売が嫌いだとしても、商売の環境に置かれたら、商売を一所懸命
やる。それがどうしてもその人に適さなければ、また違うところに行くようになります。私なんか
自分がいい体験をしています。
ホ
私は終戦後に何をやったかというと、音楽を勉強したから、音楽をまずやった。しかしジャズバ
ンドみたいのでなければ食べてゆけなくなってきた。そんなものいやだから、パッと捨てちゃった。
どうにも嫌だから止めた。それで失業しながら病人のお浄めなどしてみんなを救って歩いてました
ね。その場合には一銭も金なんか貰いやしなかった。ところが知らない間にポケットにお金を入れ
ておいてくれたりしたので、まあ食べられていった。そのうちに、中央労働学園に勤務するように
なった。
49
三池争議の斡旋を中央労働委員会でやっていますが、藤林さんや中山伊知郎さんがやっています
ね、藤林啓三さんと一緒に私いたんですよ。労資協調の斡旋をしていたんです。社会主義と共産主
義の真只中で、私は神さま主義でしょう。私は文句も何んにもいわなかったんです。与えられた環
境は神さまから与えられたんだと思って、一所懸命やっていました。つまらない労働争議の統計を
書いたり、労資の協調のことを書いたりしてたんですよ。唯物論の真只中に唯神論の最も唯神論者
がいたんです。そこで唯物弁証法など唯物論のいろんな学問を勉強しましたよ。だから唯物論のこ
ともよくわかった。そういうものですよ。
自分の一番嫌な、反対のところへ行っても、そこでもやっていた。けれどジャズバンドなんか嫌
だったから、死ぬ想いで出ちゃったですね。神さまは置いておかないですよ。放り出しますよ。そ
ういうふうに飛び出した。だから嫌な時には、パッと飛び出すことも神さまがやるんだ。やっぱり
ジーッと忍ぶだけ忍んでなきゃだめですね。いやな環境でも一所懸命やってると、神さまは必要な
きゃパァーンと出さしちゃうですよ。何かの方法でね。そういうもんなんですよ。
いのら
人間の目的を達成するためには、置かれた環境で一所懸命、生命を生かしてやってゆくこと。そ
うすると、知らない間に目的を達成する、神さまの使命、天命を完うする道に知らないうちに入っ50
てゆくんです。それ以外に神さまの道に入る方法はありません。
問18 消えてゆく姿の教えをききまして、実行しておりますが、次から次へと出て来ます。前の
ものが消えないで戻ってくるんでしょうか。消えてゆくんだくと今のまま想いつづけてゆけばよ
ろしんでしょうか?
答同じようなものが出て来たとしても、それは先に出て来たのとは違うものなのです。だんだ
ん消えてしまいます。根本的にすべてこの現れの世の中は、すべて消えてゆく姿なんだ、というこ
とをハッキリと自分で認識していますと、どんな悪いことも全部消えます。それであと残るものは
完全円満な神さまのみ心だけです。
消えてゆく姿1 だけでもってスーッと消えてゆく人はいい、それは達人だからね。そこまでな
かく出来なかったら、やっぱり祈り言の中に入ってゆくのね。それも出来なかったら、先生!
って呼んじゃうこと。それも出来なかったら、ジーッと我慢しているか、いろんな方法があるわけ
です。しかし根本は消えてゆく姿です。そう思っていれば戻って来ません。
世界を平和にするのは、今迄の中でゴタゴタやっていては、どんないいことでもだめです。いっ
51
ぺん、悪いものは悪いものとして、新しく造るわけです。新しい世界を造るためには、悪いものを
全部掃除しなければ新しい世界は出来ないでしょう。それで悪いものをドンくドンく神さまの
中へ運ぶわけですよ。だから自分たちは、自分の悪いものも、人の悪いものも、全部神さまの中へ、
世界平和の祈りで運んでゆく。どんく大掃除するわけです。運んでゆくと、常に流れてくる光が
そのままひろまって、世界が本当のいい世界になると、こういうわけなんです。
それを今までの教えは、教えられたほうが間違って、自分を責め、自分は悪いことをしないほう
がいいんだ、いいことをしなきゃなんない、とか、あいつが悪い、あれを良くさせなきゃ、とかい
って、自分の我でもって良くさせようとか、良くなろうとかいったから、いつまでたっても自分と
いうものがある。自我をなくせくといいながら、自分を偉くしたりするんでしょう。だからいっ
しようが
ぺん、全部捨てきらないと、本当の大我にはならない。いつも小我です。でしようがないってい
うの(笑)
世界平和の祈りの中に、全部捨てきることを、それで私は教えているんです。
(以上S ・35 ・8 ・1 の統一会より)
52
問19 想いを祈りの中に入れるとは、どうすればいいのですか。
答人間に不幸があったり、病気があったり、争いがあったりする原因はどこにあるかというと、
想いの中にあるのです。人間の想いがお互いにぶつかり合うわけですね。今、幽界に悪い想いがい
っぱい溜っていて、黒雲のようになっている。その黒雲が流れてきて、肉体界に現われて
くると戦
争になり、天変地変になり、個人としては不幸になるわけです。この想い、私は業想念といいます
が、これをどこかにやってしまえば、人間は初めから神の子なんだから・神の備鯛A脳だから・神さ
まのほうからいつもく光が流れてきているんですね。だからこの業想念さえなくせばいい。
どうやってなくせばいいかというと、神さまの中に入れればいいわけですね。けれども大神さま
というのは、誰も掴んだ人がないわけです。神さまがどういうのかわからない。そこで人間には各
人先祖がいるわけですね。ずっと古い祖先がいるわけです。なんべんも生れかわって悟った祖先が
たくさんいるんですよ。その祖先が守護霊として守っているわけですね。その守護霊の上には神さ
まから分れた守護神がいる。観音さまとか普賢菩薩とかいう名で働いている人もあるし、いろんな
守護神がいるわけです。
それでまず想いを守護霊さんの中に入れてしまえばいい。守護霊さんに肩代りしてもらう。「守
53
護霊さん有難うございますL といって守護霊さんにわたす。守護霊さんが自分が背負いきれなくな
りますと、守護霊が守護神のほうに想いをわたすわけですよ。要するに守護神の光が入ってくるわ
けです。そうすると全部消えてゆくわけなんです。そういうふうにやるのですね。
私はそれをもっとうーんと広めて、自分自身も自分の業が消せるようにと思って、今度は人のた
めに祈る、隣りの人だとか向いの人だとか祈ったんでは大変だから、世界人類というような、広い
意味で、世界人類の平和を祈る大愛、大きな愛の心に変えたわけです。自分の不平不満がある、自
分の病気がある、そういう悩む想いを、或いは怒りの想い、妬みの想いをかまわず”世界人類が平
和でありますように” という大きな愛の心に変えてしまって、その愛の心の世界平和の祈りの中に
入れちゃうわけなんです。それで”世界人類が平和でありますように” という言葉の中に”日本が
平和でありますように”という言葉の中に”私どもの天命が完うされますように” という言葉の中
に、そして守護霊さん守護神さんへの感謝の祈りの言葉の中に入れてしまうわけですよ。
そうするといつの間にか、自分の想いが世界平和の祈りの中に入って、世界平和の祈りがもって
いる、神さまの大光明の中で消えてゆくわけなんですね。世界平和の祈りをしていると、気持がよ
くなる、病気が治ってしまう、不幸が直ってしまう、安心立命してゆく、とこういうことになるわ54
けなんです。
全託です。全託だけども、ただ任せなさい、神さまに任せなさい、といっても、任せる所がない
でしょう。どうやっていいか方法がない。南無妙法蓮華経といっても意味がはっきりわかっていな
い。南無阿弥陀仏といってもなかくはっきりしない。そこで世界平和の祈りならわかります。あ
㌧私は世界人類の一人として世界の平和を祈っているんだ、というと、自分もまぜて人のためにや
っていることになる。そうすると心が喜ぶんです、自然に。潜在意識も喜ぶわけです。喜ぶと喜び
は光だからv 神さまのみ心とマッチするわけなんです。だから世界人類の平和を祈るような大きい
祈り言が一番大事なんですね。
普通の場合、南無阿弥陀仏というのは自分が助かりたい、それだけでしょう。勝手な想いなんだ
よね、自我欲望と同じです。南無阿弥陀仏といっても、自分が助かりたい、自分だけが助かりたい、
というんだ。南無妙法蓮華経にしたって、みなそうですよ。それは言葉が生きないのですよ。とこ
ろが世界平和の祈りというのは世界平和の祈りそのものが、全部を助けたいという意味でしょう。
“世界人類が平和でありますように
“というのは自分のことだけを思っているんじゃない、世界人
類の平和を願っている。言葉にもうハッキリ現われている。言葉は即ち神なりき、といって、言葉
55
そのものは神さまの光なんですよ。”世界人類が平和でありますように” というと、もう平和の光
がそこにあるわけなんです。神さまの平和の光が。その中に自分個人の想いが入ってしまうから、
一人の人間がバーンと世界中に広がってしまうわけですよ。だから力がうんと違うわけです。
理論的にいえばそうなんです。実際的にいえば、世界平和の祈りをすれば、救世主を代表とした
救世の大光明が光り輝いて、自分の背後に来ているわけです。神さまを呼ぶと同じなんです。世界
人類が平和でありますように、といった時には、大きな光が、神々がそこに集って来るんです。
世界平和の祈りのような、やさしい誰にでもわかる、子供にでも、お年寄りにでもわかる言葉の
ほうがやっぱりピンとくるわけですね。あまりピンとこない言葉というのは、何か有難くないです
ね。意味がわからないからね。
それで世界平和の祈りの中の大光明の中には、自分の祖先の悟った人がたくさん入っているんで
す。だから祖先としては自分の子孫が救いたいから、一所懸命救ってくれるわけです。それだから、
世界平和の祈りをすれば自分も救われてゆくわけで世界平和の祈りというのは、全守護霊守護神が
集まっているところなんですよ。
今までは、念仏なら念仏一つのものだけなんです。南無阿弥陀仏といえば浄土門の人たち、南無
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妙法蓮華経といえば日蓮宗、アーメンといえばキリスト教、というふうに分れてしまって、相対的
に「南無阿弥陀仏なんかきくものか」「南無妙法蓮華経なんかなんだ」「アーメンがなんだ」という
ように皆反発する心があるわけです。みな分れ分れです。”世界人類が平和でありますように” な
ら誰も反発しない。題目の人でもお念仏の人でも、世界平和はやれますね。そういう意味で世界平
和の祈りはいいわけです。
くニノ
問20 空というのは一体どういうことですか?
くコつ
答空という状態は、普通の人にはわからないんですね。体験した人でなければ空という状態は
くコつ
わからない、何故かというと、空というのは何もないんだ。何もない、からっぼというのですから。
なんの業想念も、なんの想いもない。普通、歩いている時など、何も思わないということは出来な
いでしょう。何も思わないで、ひとりでに動いて、ひとりでに食べて、ひとりでに生きているとい
くロつ
う、そういう状態が空の状態なんですよ。しかもそれが当り前の人間のように見えるのが空の状態。
ところがそんなふうにならないでしょう。
そこで空になるためにどうしたらいいかというと、一つの目的を持たなきゃならない。たとえば
57
真言宗などでは阿字観とか、月などに向って瞑想して、その中で空になるとか。あるいは、南無阿
弥陀仏や南無妙法蓮華経をとなえて、その中で空になるとか、何か目標をつかんでゆくわけですね。
ところが往々にして空になる途中で、想いがなくなる途中で、幽界にぶつかります。幽界が何層も
あるから、空っぽになりかかっていますから、いろいろな波がかかってくるんですよ。通ろうとす
る時、ひょっと感染されてしまう。そこで変なものが「われは何々の神であるぞ」とか「何々の仏
である」とかいって出てくるんですね。そうなりますと、変な行者みたいになったり、精神異常の
ような形になるんですね。
やこ
だからお師匠さんもなくて、一人で空の練習をしていると、時々野狐禅というような間違った悟
り、いわゆる狐つきのような形になってしまうことが多いんです。ほとんどそういうことになる。
そこで統一修行をする場合にはお師匠さんが必要なわけです。ちゃんと幽界も霊界も見え、すべて
くうかん
が見える、すべてが感じられるお師匠さんの下で、空観をしないと危険なんですよ。私は一人でや
さにわ
ったんだけれど、自分で審神したりいろんなことをした。いろいろなことをいうのですよ。「お前
は地上唯一人の大菩薩だ」とかいわれるけれど、何も把われなかったです。そうしてしまいにこう
なった。それで私がいるから大丈夫だけれども、皆さんに”消えてゆく姿” を教えているんです。
58
自分の家で統一していても、どんなことが見えても聞えても、どんな状態になっても、それはみ
な消えてゆく姿であって、そこに把われない、世界平和の祈りだけがそこに鳴りひびいているーそ
ういう状態があればいいわけなんです。それが空の状態。
空というのは空そのままではないんですよ。空で何もなくて、坐っているだけでは仕様がないで
すからね。お釈迦さまだって喋ったし、キリストだって喋って行なっているでしょう。私も喋って
いる。それはどういう状態かというと、自我欲望、自分というものがなくなった状態なんです。我
というものが全部なくなって、神さま、仏さまのみ言葉、み力、み光がそのまま流れて来て、この
くうそくぜしき
人(自分のことを指して)ならこの人の行動になる。こういうのが空の状態。それは空即是色とい
うのだね。踏が磐なる。本当の姿になって現われる・「己れの欲するところに従って灘を越えず」
じねんほうにこううんりゆうすい
とか、自然法爾とか、行雲流水という状態になる。自分が歩くことがもう善である。自分が喋る
ことが光である、自分が行うことがすべて人を救う状態になる、ということが空即是色なんです。
そうなるためには一人で坐っては危ないから、こういう統一会があるんです。
それで私は皆さんが統一する時には、柏手を打って応援し、変なものが来た時には祓っています。
皆さんが一人一人ここに来る時には、祖先の中の悟った人も来るけれども、悟らない迷った人も来
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るわけなんですよ。その人たちは皆さんと一緒に救われたいんだね、それにこっちから光を当てて
救うわけです。それで皆さんは救世の大光明にのって、スーッと上ってゆくわけなんです。それを
くうそくじつそう
度重ねてやっていると、本当の空と同じような、色即是空を通りこした空即是色、空即実相の姿に
なってゆくわけなのですね。
全託ということは空になったことです。全託すれば空になる。それで全託の方法が世界平和の祈
りなんです。ですから、皆さんが世界平和の祈りをやっている時は空と同じです。空即是色になっ
た状態、いわゆるそのまま皆さんのやっていることが神さまのみ心だ、ということになってくるわ
やさ
けですね。それがこの統一会では易しく出来るわけなんです。
問只今のお話ですと、この場所に来なければダメなように感じるんですが、遠くにいるものは
どうしたらよろしいんでしょう?
答離れていてはダメだということではありません。私のこの体がいたほうがなおよろしいとい
うことです。
世界平和の祈りをやっていれば、新潟県にいようと、九州にいようと同じなんですよ。離れてい
る場合にはよけいに慕う気持が強いのです。離れている人のほうが「五井先生!」と強く思うので
60
すよ。不思議なものでね。毎日会える人は「明日会えばいいや」(笑) と思って、少しごまかしち
ゃうから。差し引きすると、遠くにいて、会いたいけど会えない、という人の想いと、年中、会え
るからいいや、という人の想いでは、会えない人の想いのほうが強いんです。丁度うまく出来てい
るのよ。神さまは公平です。
結局、距離の問題じゃなくて、想いの問題なんです。想いが純粋に思っているか、純粋でないか
ということです。近くにいたって純粋に思わなければダメですよ。「先生そんなこというけれど、
本当かしら嘘かしら、先生は時々嘘いうから」なんて(笑) これじゃなかなか想いはまっすぐ届か
ない。
私は思うんですよ。邪教に入った人があったとすれば、邪教でもいいから、一所懸命やったらい
いですよ。そうするといつの間にか一所懸命やった、その熱意が神さまに通じて、知らない間に抜
け出すんです。自分の想いがそこを満足しなくなるからね。
問21 死んだら、皆どこへいくんでしょうか?
答死んだ後の世界というのはたくさんあるんです。この世にアメリカもあれば日本もあればい61
うんな国があります。それから住んでいる階層がたくさんある。大工さんもあれば左官さんもあれ
ば、政治家もあれば実業家もある。それと同じようにたくさんの世界があるんです。
悪いことをすれば地獄におちる。焦熱地獄というのもあります。針の山のようなものもあるのだ
からね。しかし普通の場合、ゆくところはどこかというと、自分が魚屋さんをやっているとすると、
亡くなると同じように魚屋さんをやっている世界もある。大工さんなら大工仕事を幽界でやってい
る場合もある。
自分の想いによって変ってゆくんです。たとえば痴癩玉の多い人、怒りっぽい人は怒りっぼい人
たちが集まっている世界にゆく。おしゃれな人はおしゃれな人ばかり集っている世界にゆく。そう
いうように自分が日頃思っている想いの世界にゆくんですよ。普通の場合は。要するに、自分の心
に照し合せばいいんだ。そういう世界がたくさんあるんです。
最後になると、この体も無いんです。あって無い。必要なら出てくる。必要でなければ何も無い。
光だけが流れてゆく。要するに太陽の光のような光が流れて、形にもなれば、自分の思う通りにな
る世界があるんです。そういう自由な世界になっちゃう。
皆さんはどういうところにゆくかというと、自分の想いを持っていてはだめなのですよ。自分の
62
想いは割いてみると、人間にはわり方汚ないものもあるわけです。汚ないものがあれば汚ないもの
の混ざった世界に行くわけですよ。そこで、私がすべての想いを、どんな悪い想いも、自分を責め
る想いも、人を責める想いも、嫌だこうだという想いも、みな世界平和の祈りの中に入れておきな
さい、というのは、世界平和の祈りというのは、光り輝いた神さまの神界だから、世界平和の祈り
をしながら死ねば、それは神界に行くんですよ。必ず行くんです。それをいうんです。
自分の想い、小我の想い、個人的な想いというものをやはり一切捨てないと、本当に楽々と本当
に悟りの世界、神界というところには行かれないんです。そこで世界平和の祈りというものを乗り
物として行けば、そして亡くなれば、いい世界にゆく。地獄なんか絶対に落ちないし、今迄やって
いたことをそのまま繰返えすようなことをしないわけです。パーッと高い所へゆく。エレベーター
に乗ったようなものですよ。だから”世界人類が… …” という時には、天国行きのエレベーターに
乗ったと思えばいい。
それであとをつづけていれば、神さまのほうで上げてくれる。守護霊のほうで上げてくれて、一
番住みやすい所にポンと置いてくれるわけ。そこでまた働くことになるわけね。
死後の世界も数限りなくあります。死んだ時の状態が一番影響が大きい。たとえば八十で死んだ
63
とする。七十九歳まで悪いことをしていたとしますね、それで亡くなる間際に、世界平和の祈りを
教わって「あ㌧今までは悪かった。消えてゆく姿だった。世界人類が平和でありますように」と本
当に思えば、それはいい処にいってしまう。場所が決まってしまいます。ただし、やったものが少
し残っている場合がありますね。残っただけは払わなければならない。払わなきゃならないけど、
うんと力が出ているから、場所が高いところに行って、払うのが楽に払える。
やはり払わなければならないことは、払わなければならない。けれど、低い所にいて、いわゆる
金も持たないでは払えないでしょう。ところが世界平和の祈りをやっていると、うんとお金持にな
くらい
ったと同様に良い位につくわけです。いい位につくと力がうんとあるわけだから、払うものが楽
に払えるわけなんですよ。人殺しをしても何をしても、一寸も報いを受けないというわけではない。
わけではないけれども、自分の悟りの所に行っていると、報いを受けても、軽くなんでもなくなっ
ちゃうわけです。たとえば、私なら私のところに、人の想いが一人や二人や三人来たって何でもな
いでしょう。千人二千人来たって何でもない。ところが悪いけれど、皆さんのところに一人や二人
幽霊が出て来たら、ひっくりかえってしまうでしょう。それと同じように、力がついちゃうと、来
たものがなんでもなく、何にも感じなくなっちゃう。そういう意味です。
64
世界平和の祈り一念でいつもいれば、生きても死んでも、肉体がなくても有っても、
迷わなくなって、安心立命していられる、ということになるわけですね。
どっちでも
間2 亡くなりますと、今やっている想い、過去の想いがわからなくなるのでしょうか?
答全然わからなくなります。わかっていながら離れていることもあるんです。この世に生れて
くる時は、誰もが全然わからないですね。けれどあの世ではわかる人とわからない人と両方あるわ
けです。
わからせる場合にはわからせておいて、それを参考にさせる。こういうことがあったから、こう
いうふうにしてはいけない、とわからせる場合、参考になる場合にわからせるわけです。わからせ
ることが参考にならない場合にはわからせないんです。
こちらでは全然わからせないんですね、だけども、今迄見たこともない人なんだけれど、あった
ことがあるような感じの人だとか、ここに前も来たことがある、というようなことが時々あります
ね。それは前の世のことを思い出しているわけです。
65
問23 職業によって業を背負うのが違うことがありますか?
答そういうことはありませんね。職業なんていうのはみんな消えてゆく姿ですからね。職業に
貴賎はないと同じように、職業はどんなものでもかまいません。肉屋さんや屠殺業の人はみな地獄
へいくかというとそうではない。
問たとえば判事や検事みたいなのは人の業をうんと受けますか?
答判事の場合はそうではないでしょうが、検事の場合は恨みを受ける場合もある。そういう人
こそ宗教がないといけないですね。宗教があって、消えてゆく姿があって、世界平和の祈りをして
いれば、どんな想いが来たって消えてしまいますから。想いをよこした人が縁にふれて、かえって
これが澤まってゆきますからね。だから禍がかえって福になります。だから皆さんの場合は、どん
な職業であろうとも、そんなことは一切かまわず、世界平和の中に消えてゆく姿として、みな入れ
てしまえば、それはみな消えてゆく姿で皆さんは楽々と体が楽になります。
要するに、自分の想いというものが自分の地位も決定しちゃうわけなんです。だから想いが全部
なくなっちゃえば、世界平和だけになれば、神さまの想いと同じだから一番高い所にゆくわけです
よ。高い所に行くためにも、或いは人を救うためにも、世界平和の祈りが必要だというわけです。
66
想いが決定するんだから。(以上S 35 ・8 ・25 の統一会より)
問餌守護霊さんは変るのでしょうか?
答正守護霊は変らないんです。副守護霊というのは変ります。その人の心境によっても変るし、
その人の役目、働く仕事によっても変ります。だけど一人だけは絶対変らないんです。
たとえば悪いことをしている人がありますね、そうすると、その霊魂が低級だとか小さいとかは、
なかなか判断がむずかしい。悪いことをしているから、その人の魂が小さかったり、低級かという
と、そうでも無い。
いいように見える人が案外、魂が小さくて、という場合があるんですよ。これは肉眼ではなかな
かわかりませんね。うんと悪い奴がパッとある時目がさめて、いい仕事をすることがある。悪人が
変って素晴しい人になることがあるしネ。善人のように見えている人が、いざとなると案外悪かっ
たりするので、なかく判断に苦しむんですよ。私などの場合はすぐわかりますけれどね。
霊魂の大きさというものと、浄まっている姿というのとは、また違うんです。霊魂が大きいけれ
ど汚れが多いという人もある。これは思いきったことをします。霊魂が小さくて、小さいなりに浄
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まっている人と両方ある。その霊魂の大きさに従って、守護神の大きさが比例しているわけです。
光の配分が多い人と少ない人とあるというわけですね。少ないけれど、スッキリ光をそのまま現わ
している人と、多いけれど光を業に覆われて現われてない人とあるわけですよ。それは神さまが初
めから決めてあることなんです。
だから守護霊の大小なんて考える必要はないから、魂が小さかろうと大きかろうと構わないから、
自分はまっ直ぐ守護霊守護神の中に入って、世界平和の祈りをしていれば、自分のもって生れた天
はた
命というものが果されてゆくわけです。いくら精進して、世界平和の祈りをしても、総理大臣にな
る資格のない人は、総理大臣にどうしてもならないんです。音楽家の資格のない人は音楽家になら
ないとか、決まっているわけなんです。これはもう仕方のないこと。天命が決まっている。だから
守護霊守護神の大きさでなくて、自分がいかに素直に神さまの中に全託し得るか、全部全託した人
は素晴しい。半託か三分の一託かしらないけれど、そういう人もあるわけですね。
宗教やりながらも、それによって自分の持ち味が少し出るか、大きく出るかの違いになってくる
わけ。わかりましたか。
68
問25 どうしたら大きい働きが出来るのでしょうか。
答「私」というものがなくなればなくなる程、その人は大きい働きが出来る。大きくなります。
一人の私というものが二人の中に入り、三人の中に入り、世界人類の中に入ってしまえば、世界人
類ぐらいの大きさになるわけでしょう。そうならなければだめですよね。だからいつも自分のこと
ばかり考えて、自分一家の幸せ、そればかりやっていたんでは、それっきりになっちゃう。ところ
が世界人類が平和でありますように、みんなが幸せになりますように、といっていれば、ズーッと
ひろがっていって、光が大きくなるわけですよね。天から流れてくる光が多くなるわけです。
私どもがそうでしょ。直霊と一つになって、こういう形になりました。なった当初は、なったは
なったけれど、光としては弱いんですよ。まだそう救っていないでしょう。小さいんです。ところ
が十人を救い、百人を救い、千人を救い、だんく多くなってくると、救われた人の光もまた入っ
てきます。相手の守護神も入ってきます。それに従って、だんく大きくなってくる。救えば救う
ほど、自分は大きくなるわけです。
自分のことくとやっていれば、自分のことだけに小さくなって、ちっぽけな人間になっちゃう
んです。
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だから本当に自分を愛するのならば、人のために尽さなければならないんです。本当に自分を愛
することは、多くの人のために尽すことですよ。何故なら自分が本当に大きな人間になるからです。
ちっぽけな人間ができるより、大きな人間ができたほうがいいですからね。人の為に尽して、体は
かえってやせたりするかもしれないけれど、魂として光がスーッと余計入ってくるから、大きくな
ってくる。いうなれば、守護霊守護神が多くついてくるということになるわけ。一人の人を救えば
その人の守護霊守護神の力も加わってくるんだからね。大勢の人を救えば、余計に神々が入ってく
るわけです。そうすると自分はうんと大きくなってくる。
自分をなくすということは、一番大事なんです。生命を捨てざれば生命を得ず、で自我のあるう
ちは自我しか生きられない。自我がなくなって、本当に本心の座に入れば、本心というのは神の姿
なんだから、光がいくらでも無尽蔵に入ってきます。そういうもんなのですよ。
自分があるうちは、欲しいものでもなかなか入ってこない。これが欲しい、あれが欲しいと自分
のことばかり思っていると、なかなか入ってこないですよ。私みたいに自分というものがなくて、
人のことばかり思っている、世界人類のことばかり思っている、皆が幸せになるように思っている。
そうすると、服が汚れちゃったなあ、もう一着ぐらいあってもいいかなあと思うと、すっとその翌
70
日、服の生地なんか送ってくるんですよ。あ㌧靴が破れたなアと思うと、あくる日「先生、これお
足に合いましょうか」と持ってくるんですよ。
それはもう不思議なくらい、即日即刻来るんですよ。神さまのほうから注文するんですね。「ち
ょっと届けてやって」すると「え㌧かしこまりました」と持って来てくれる(笑)今の所は欲しい
ものはこの土地(聖丘のこと) だけですからね。あとは無い。
本当に面白いですよ。土地なら土地が欲しいなと思っている。金は無いんです。そうすると、い
つの間にかお金がポツポツ集まって「先生、いつもお世話になっていますから」とくれるのね。私
は昔、恥ずかしくて「結構です」とことわっていた。この頃は結構といわないんです。ちゃんと座
蒲団の下に入れちゃうんです(笑) それを集めて、へそくりになって、長い間溜まると、土地が一
つ買えるんですよ。
なるたけ皆さんに寄付してもらわないで、自分に集ったものでやりたい、というのが私の精神な
のね。足りない時は頼みます、といいますから頼みますよ。「もう私は手ばたき(所持するものを
使いはたして空手になること) で一銭もありません、どうぞ皆でやって下さい」という時やって下
さい。座蒲団の下に入れたもので買える時は買いますから。あと買えない時は斉藤さんなんかにい
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わせますから。その時はいくら寄付しても結構です。千万寄付したっていいけど。そういうのはそ
ちらさんの勝手で、私は出来る限り自分のものでやります。そういう精神だから、また金も集まる
だろうと思うのですよ。(笑)
自分は出さないで人にばかり出させて、自分はいい家かなんかに住んで、自家用車に乗っている
ようなことは、私には出来ないんですよ。だから私も手ばたきしますから、皆さんも一所懸命やっ
て下さいね。今ちょうどだからお願いしておきます。
どうしても、あと買う所が三口あるんです。隣りは私買っちゃったんです。だからもう大丈夫で
す。あと九百坪ぐらいあるんです。あと一反歩ぐらいのものはかき集めれば買えそうなんです。だ
けどあとは買えないんです。ところがどうしても買うことに決めてありますから、もし買う時は「み
なさん!」といいますから、その時はパーッとくれなくてもいいけれど、お願いしますよ。
これは世界平和の殿堂ですよ。殿堂が六百坪や七百坪ではしようがないですよ。千何百坪できま
すからね。ここに一万人集まってもいいような所を作ろうと思っているんです。
着々と神さまの計画で出来ますけれど、これ(道場のこと)だって小さかったのが、だんく大
きくなったんですからね。これは皆さんのお蔭ですよね。土地ないと建てられないでしょ。国鉄で72
ここ一帯を買いに来ているらしいんです。買われちゃってはしょうがないから、買われないうちに
買うことに決めちゃったんです。やがては皆さんの上に寄付が廻るかもしれませんけれど、寄付し
ろといったって、いくらしろなんて絶対にいいませんから。好きな人はするし、好きでない人はし
なくていいというわけです。
話がそれましたが、そういうわけで、まず自分が与える。”与えよ、さらば与えられん” だから、
金ばかりじゃありませんよ、愛をまず与える。人を救うことが自分の魂が大きくなること。光が入
ってきて、自分が幸福になること。富がどんく増えることです。あまり金のことばかりいうと天
理教と一緒になっちゃうからね。天理教祖だって、何も金が欲しくていったわけじゃないんですよ。
自分のものを裸の心で全部神さまの中に入れれば、神さまのほうから、すべて頂けるんだよ、と教
えたのね。それをいいことに、教団側が、金をあげろ、屋敷をあげろ、ということにしちゃったわ
けです。それは教団側の間違いです。私のところでは絶対にそれをしませんからね。
まず第一に愛を与えること。人々を救うこと。それに一番いいことは、平和の祈りを皆に教えて
やることが最大の功徳だと思います。(以上S37 ・2 ・1の統一会より)
73
間26 私は統一実修を受けていながら、霊的に見えも聞えもしない。雑念ばかり出てしまうので
す。すべての想いを世界平和の祈りの中に投げ入れよ、と教わるのですが、何か残ってしまうので
す。それでだめだなアだめだなアと思ってしまうのですが、どうしたもんでしょう。
答お裁縫を一つ憶えるのにも、タイプを習うのにも、ちゃんと出来るようになるのには、三年
五年はかかるのです。石の上にも三年というように、長年練習しなければうまくなりません。それ
と同じように、世界平和の祈りの中に、自分の想いを入れるということも修練がいるんです。ミシ
ヘヘヘ
ンを習うことなど誰でも出来るかもしれない。しかし、自分の天命が完うされる、いのちが本当に
ヘヘへ
生き生きと輝く、神さまのことを本当にわかる、永遠のいのちという、大事な大事なこれ以上大事
なことがない、というようなことを、三年や五年や八年やって出来るとか出来ない、とかいうこと
がおかしい。わかりますか。
永遠の生命、無限の年限の生命の歩みが光り輝くための道を行じるのに、三年や五年や八年やっ
て出来ないということで、悲観することがおかしい。悲観したらその悲観したことも、消えてゆく
姿なんだ。出来ないなア、だめだなア、私はだめなんだなアという想いさえも、消えてゆく姿とし
て平和の祈りに入れて、繰返し繰返しやってゆくわけです。そうすると知らないうちにも祈れるよ
74
うになります。
或る時間が来ると必ずそうなります。パッと火がともる。あなたももうじきです。あなたが初め
ていらっしゃった時と今とでは、まるっきり今のほうがいいんですよ。自分でわからないだけ。
トンネルを掘っていて、もう掘り上る、という時でも中に入ると、真暗でわからない。それでも
続けてどんどん掘っていくと、薄くなって、なんかホノボノ光が出たな… … アアパツと光るのです。
それと同じようにもう一寸です。
要するに努力と辛抱、忍耐が肝心です。といってわざわざ辛抱しなくたって、時間が立ちます。
もう道にのってしまったのですよ。
大阪行きの汽車に乗った。まだかまだかまだかまだか汽車の中を走り廻っていても何んにも思わ
ないで寝ていても同じ時間につきます。まだかまだかと思ったって、何んとも思わなくたって、同
じ時間につきますからどうぞご安心を… …
汽車に乗って、列車の中をトコトコ歩いて前まで行って、機関車でつっかえますから、また折返
して歩く、それを大阪に着くまで繰返していたら、その姿を見て、人は笑うでしょう(笑)あの人
何をしているのかしら、と思うでしょ。
75
悠々と寝ているか、或いは平和の祈りをしているか、本でも読んで落着いている姿とどっちがい
いでしょう(笑)
確信とか自信というものは、自然に湧いて来ます。
実をいうと、何年にここに入って、何年には或る悟りに達する。悟りにはたくさんの階層がある
んですよ。一回悟ったからそれでいいか、といったら大間違い、一回悟る、また悟る、また悟る、
いつ
いつまでも段階があるのです。だから面白いのです。或る悟りの段階に来るのは何日。またその次
の悟りに来るのは何年、と決まっているんです。だから焦ろうと焦るまいと、駈け出そうと駈け出
すまいと同じなんですよ。駈け出したかったら駈け出したっていいんです。只人が笑うだけですか
ら(笑)落着いて悠々としているほうが立派に見えます。
「私もさんざん悩みましたが、悩んでも悩まなくても同じでございます。平和の祈りさえしてい
ればいいんですよ」といえるようになればしめたものです。そういう時期がくるんですよ。
今のあなたのような質問は、そういう方が随分いらっしゃるから参考になります。ああいう質問
は無邪気でないといえませんよ。
人間というものは神さまのほうで決まっているんです。決まったものが現われるのです。だから76
やるべきことは何か、といったら、自分の想いを神さまの中へさえ入れておけば、”私の天命が完
うされますように” と祈っていれば、いやでも応でも自分の天命が開くのです。余計やればやる程
早く開くのです。けれど、余計やるか、やらないかも決まっているのです。
そういうと「それじゃ努力しようという気持がなくなってしまうんじゃないか」という質問が出
るでしょう。そういう気持がなくならないようになっているんだ。(笑)何んだかわけがわからな
くなってくるでしょうが… …
けれど、やっぱり努力するほうがいいと自分で思わなきゃいけない。なるに決まっているんだけ
れども、一所懸命努力したほうがいい。それじゃないと面白くない。
拳闘の試合でも、片方は負けるに決まっている(笑)けれどリングに上った以上やらなければい
けない。負けても勝っても試合することがいいんです。お金も入ってくるしね。
マラソンや短距離競走の時でも、いつも優勝するのは或る人に決まっているでしょうが、一番ビ
リになる人でもやっぱり出るんだものね。それで一所懸命かける。あわよくば一等にならないかと
思ってね。ところがあわよくならないんだ(笑)実力の差で一番の人は大体一番になる。そういう
ふうになっているけれども一所懸命走る。だからビリでも一等でもいいから、一所懸命やることが
77
りトさ
いいわけですよ。無理無理一等になろうと思うと肺がつぶれちゃいますから、力むことはないけれ
ども、努力することは必要です。(以上S38年7月の統一会より)
78
間27 見ざる聞かざる言わざる、つまり諸々の不浄を見ず、耳に不浄をきかず、というようなこ
とがありますが、先生のみ教えをうけたまわるようになって、これに疑問が出ております。見ざる
聞かざる言わざるでいい場合もありますけれど、いわなきゃならん場合も起るんじゃないかと思う
のです。例えば、人が危険にさらされている。その時に何気なしに「危い!」っていう声が出ます。
これは神さまの声じゃないかと思いますが、しかし大変失敗する時がある。かえって先様の気持を
害するようなことがある。こういう場合どうしたらよろしうございましょうか?
答昔からいわれていることですが、見ざる聞かざる言わざるということはどういうことかとい
うと、見た想いに把われず、聞いた想いにとらわれず、いった言葉に把われず、すべてのものにと
らわれないことがいいのだ、ということです。大体、道とか宗教の教えというものは、すべて想い
が把われないということを主にしているわけです。想いが把われなくなると、神さまからそのまま
くる行いが出来る。
この世の中では、テレビ、ラジオはいつもいろんなニュースを報道している。どこどこで強盗が
あった、火事があった、殺人があった、と嫌なこと暗いことをきくまいと思ったって聞えてくる。
新聞を見れば、誘拐があった、事故があった、アメリカがどうだこうだ、見まいと思ったって見え
てしまう。ともかく、見ざるも聞かざるもありゃしない。今は、文明文化が発達して、マスコミと
いうものが発達してますと、こちらが好むと好まざるとにかかわらず、強制的に見せられる、聞か
される、いわされる。だから見ざる聞かざる云わざるというのは、本当はいいかもしれないけれど
も、実際問題としては適用しないわけです。
そこで、私は見てもいい、聞いてもしかたがない、いってもしかたがない。しかし、あらゆるも
のはいいことであれ、悪いことであれ、それは消えてゆく姿なんだから、その想いに把われていて
はいけない。いくらいい言葉をいって、それに人が感動したとしても、それにいつまでも把われて
いたんじゃ進歩がないんだし、また悪い言葉をいっても、しまったと思って「しまったしまった、
私はなんて悪い人間だろう、なんでこんなことをいったんだろう」といつまでも把われていたんで
は、それはかえって業が積もるんだから、いってしまった悪いことはしかたがないから、「あi悪
かったな、これは消えてゆく姿なんだ、もう再びいいますまい、ああこれで業が一つ減ったんだ」
79
というふうに思いながら”世界人類が平和でありますように、あの人の天命が完うされますように”
というようにいいなさい。
そういうように想いが出た時、想いに把われそうになる時に、それを消えてゆく姿として、平和
の祈りの中に入れさせてしまうような教えに転換させたんです。
それはどうしてかというと、私は昔とても短気でしてね、ものすごい感情家だったんです。私は
大体、本質は芸術家ですから、いいものはいい、悪いものは悪い、嫌なものはもう我慢出来ないよ
うに嫌だったりね。青年の頃はそういう性質をもっていました。だから、これじゃいけないな、こ
ういうことじゃいけない、なんとかしてこの短気を押え、この感情に敗けないようにしなきゃいけ
ない、というような気持が随分強くありました。なんとかして立派になりたい、感情に把われない
人間になりたい、愛一念の人間になりたい、と思いつづけていたわけです。それで聖書も読めば、
仏教の経典も読んだり、宗教の書、修養書など手あたり次第に読んだり、坐禅観法をしたりいろん
なことをやったのです。そのうちに、把われまい把われまいとしたんじゃ、かえって把われるんだ
なということがわかったのです。短気だから短気をなおそう直そうだけじゃだめなんだ。感情に把
われちゃいけない、把われちゃいけない、というと恐怖心が起ってしまう。それではだめなんだか
80
ら、どうしたらいいかというと、把われを消してくれる何かがなければいけない、それを見つける
ことだと思った。それは神さまだと思ったのです。
短気が出たら出たでいい、臆病が出たら出たでしかたがない。感情が激する時はしかたがない。
その時はどうしようもないんだから、そういう時に、ああこれは消えてゆく姿だな、ああすべてこ
の世に現われているものは、みんな変化変滅していく。常時そのまま変らないものは一つもない。
みんな変っていく。自分はだめだ、だめだと思っているうちは、だめだ、いけないという業がまた
入ってくるわけですから、いたずらにだめだだめだと思うより、いけなかったな、しまったな、と
思ったら『あッこれは消えてゆく姿だ、どうか神さま消して下さい、一日も早く消して下さい、ど
うかあの人の天命が完うされますように、私の天命が完うされますように、世界人類が平和であり
ますように』順序はどうでもよいから、そういう祈り言にして、神さまのみ心のなかへ、想いをど
んどん送りこんでしまうのです。
神さまは完全円満なんだし、善なんだし、大光明なんですから、神さまに消せないものはないわ
けです。善いものは善いものでそのまま生きるし、悪いものはそのまま消えてゆく。だから善悪と
もども神さまの中に送りこんで、消してもらう。そういうふうに自然に教わったわけです。それで
81
消えてゆく姿で世界平和の祈りという教えが出来たわけです。
そこには見ざる聞かざる言わざるもない、こらえるもなければ、我慢するもない。ああ消えてゆ
く姿なんだなあ、ありがとうございます、世界人類が平和でありますように、私がますます立派に
なりますように、愛深き私にならしめたまえ、とか、いろんな言葉で自分の願望をつけ加えてもい
いから、みんな神さまの中に入れてしまうわけです。すると、神さまのほうで、その人に一番適当
な生き方をさせるのです。
ざいあくじんじゆうしんらんだかっ
肉体をもっている人聞というものは、罪悪深重の凡夫でして、親鸞がつくづく、心は蛇蜴の如
ぼんぷ
くなり、罪悪深重の凡夫だ、と嘆いたのがよくわかる。もう相当悟りすましたような立場にいても、
何やかやといろんなことがひっかかってくる。まして一般の人はひっかかり通しなんです。何かし
らに心が把われている。だから肉体を持っている人間というものは罪悪深重の凡夫だ、ダメなもの
だ、ということがわからないとだめなのです。
いつもいっていることですが、心臓を動かすことも、肺臓を動かすことも、肉体の頭では出来得
ない。心臓の止まった死骸に向って、心臓よ動けといったって動かない。肉体から魂がぬけたら、
どうしようもない。自分のことも人のことも何事もなし得ない。だから、肉体をもった人間という
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ものは無力なものだなあ、ということがハッキリわからないと、悟りにはいかないのです。自分で
なんとか出来るんだ、という想いがあるところからは、本当の悟りも生れてこないし、安心立命も
生れてきません。
肉体は不完全だからです。不完全なものがいくら力んだって、完全になりっこはないのです。だ
から不完全な肉体というものを、一度、肉体人間じゃどうしようもないんだな、とあきらめる。さ
てそれでは、なし得るのはどなたかいうと、守護霊さんであり、守護神さんであり、大神さまであ
るわけです。
そこで、守護霊さん守護神さんお願いいたします。世界人類が平和でありますように、私共の天
命が完うされますように、と素直に自分では出来ないことを、みんな神さまに差しあげてしまう。
それがいいことも悪いこともですよ。よいことはオレがしたんだ、悪いことは人のせいだというの
じゃない。善いことも悪いことも自分ではなし得ない。
いのら
肉体の人間として生れてきたその前から、分け生命として分かれてきた時からの因縁、想念や行
為がまわりまわって、今日ある肉体の生活として現われている。ですから、今日ある姿は、今つく
ったものではなく、今の自分が作ったものでもないのです。
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今食べたものが今すぐ栄養になるのではなく、ある時間がたって栄養になってくる。それと同じ
ように、あらゆるものは、過去世からズーッとつながってきて、今現われてくるんで、今いいこと
を想えば将来に現われるんです。
今、自分の想念が悪いとする、自分の生活が悪いとする、環境が悪いとする、体が悪いとする。
それは過去世からつながってきた、原因結果がそこに現われて、病弱に現われているのかもしれな
い。気が弱く現われているのかもしれない。短気に現われているかもしれない。貧乏な環境に現わ
れ、不幸な環境にあらわれているかもしれない。しかし、それは今の自分そのものじゃないのです。
過去世からの自分の想いがそこに現われて、消えていこうとしているんですよ。
それを掴まえて、私がいい悪いとか、立派だとか立派じゃないとか、悲しいとか憎らしい、とや
っているわけです。過去世のものが流れて来て、現われてくるんだから、いくら掴まったって、現
われてくるものは現われてくるんです。結果として現われてくる。だから現われた結果に把われた
ってしょうがない。
今の自分はどうしたらいいかというと、今思ったこと、今やったことが後の自分の運命を良くす
るか悪くするかなんですから、今までの悪い想いのくせ、悪い環境があるその上に、私はだめなも
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んだ、私の環境はなんて不幸だろう、私は病弱だ、とつかんでいたら、また悪い同じ波が重なって
しまう。その想いの波からぬけなければならない。ぬけるためには、それに把われてはいけない。
想いに把われてはいけないわけです。そこで、空とか無為とかいうのです。見ざる聞かざる言わざ
るもそうなんです。
しかし、そういうことをいっても、なかなか普通の人には出来ないから、ここに現われてきたも
のは、過去世の因縁の結果として出てきたもので、現われたら消えるんだから、今消えてゆこうと
しているのです。そして神さまが処理して消してくれるんですよ。だから、現われたら、ああこれ
は消えていくんだな、と消す先を神さまのなかへ持ってゆく。神さまといってもどこにあるかわか
らないから、人類の一番の目的であり、願いである”世界人類が平和でありますように”という言
葉に働く大光明圏、救世の大光明のなかに、祈りの言葉とともに持っていってしまうのです。
守護霊さん守護神さんお願いします、と持っていってしまう。すると、ハイヨ引受けたと、もと
もと人は完全円満なんだから、その悪いと思っている想いを、みんな消してくれるわけです。そう
すると、それだけ消えちゃうわけです。
それだけ消えると未来に現われる悪いものが減ってくるのです。
85
ああこれは消えてゆく姿だな、自分はこんな悪い想い方のくせや、行いのくせがあるけれども、
こんなわがまま、こんな怒り心があるけれども、それはみんな消えていったんだな、あ、出てきた、
けれど消えたんだな、また出た。消えたんだな、と世界平和の祈りと共にやっているうちに、どん
どん減って、未来へ向っては悪いものが出て来ない。
未来へ向ってこんど出てくるものは何かといったら”世界人類が平和でありますように”という
ような尊い人類愛の想いが、そこにいっぱい、あふれ出てくるわけです。愛の想いは完全円満なの
だから、完全円満な姿がだんだん出てくるわけです。
消えてゆく姿で世界平和の祈り、というのを、つづけて実行していればしているほど、その人の
現在の心も明るく輝いてくるし、未来も完全になってきます。しまいには絶対完全な人間になるの
です。
たいがいの場合、それを、いくら教わっても自分はだめなものだ、しゃくにさわる、とか、こん
な不幸になって、こんな貧乏になって、こんな病弱になって、とこういうように思う。思うなとい
っても、思ってしまうのだから、しかたがない。思うのも因縁因果なので、思うように出来ている
のだから。86
だから、思ったら、すぐその場で、ああ先生に教わったのはここだな、と、消えてゆく姿だ、世
界人類が平和でありますように、神さまお願い致します、と素直にやると、それだけ減ってゆくの
です。
私の教えは、実にやさしくて、人をとがめるわけでもなければ、自分をとがめるわけでもない。
人間を自然の姿に還えそうというわけです。
自然の姿は何かというと、春になれば芽がふき花が開き、夏になれば緑しげり、明るく太陽に照
りはえる、というように自然に運行しているものです。肉体の生命もみんなそのように自然に運行
しているんです。
その運行を自然にさせないものは何かというと、神さまからはなれた想いなんです。その想いが
勝手に自分の運命を作っている、神さまの次元としての運命と、自分の想いで作った運命とが、別
々になっちゃっている。だからみんな神さまにまかせて、消えてゆく姿で、世界人類が平和であり
ますように、とやっていけば、だんだん自分勝手な想いが消えてしまって、光一元の生命そのもの
の自分と、生れかわってくるわけです。
生命一元の自分になりきってしまえば、なんにも悪いことは出て来ない。把われることもなくな
87
ってくる。そうすれば、その人は平和になります。
一人の人間が本当に平和になれば、その影響は地球界に及ぼします。宇宙に及ぼすのです。そう
いう人が多くなれば、世界はいやでも平和になるのです。
その先達として、皆さんが世界平和の祈りを一所懸命やっていらっしゃるわけなんですね。だか
ら、皆さん一人}人が平和な気持になれば、それだけ世界平和に役立っているんです。自分が平和
な気持にならなければ、世界平和に役立っていないのです。もし平和な気持がなかったら、ますま
す、一生かけて、二生かけてもいいから、消えてゆく姿で世界平和の祈りをやりつづけるのです。
必ず平和な気持、平和な心が、得られます。
88
問28 先生のおっしゃられるところの、消えてゆく姿ということと、キリストの贈罪、愛である
十字架の血のあがないということとが、私にとってピッタリしていると思えるのですが、先生のご
意見はいかがでしょうか。
答消えてゆく姿という言葉はやさしいけれど、本当は同じです。ただ血のあがない、というと
こわくなってしまうでしょ。十字架を背負いて我に従え、なんていわれるとなんだかこわくて、は
りつけになりそうな感じを与えるから、私はそういう言葉を使わないで、消えてゆく姿といってい
る。
言葉というものは不思議なもので、消えてゆく姿というのは、こわくなくやさしいかわりに、厳
いけにえ
しさがないように感じるのですね。十字架を負いて我れに従え、とか、汝は犠牲となれ、とかいう
言葉はとても厳しく激しく魅力的でいいんです。だけど凡夫にはちょつとこわいでしょ。ついてい
けないで、逃げ出したくなる。
ところが、本当は自分を全部犠牲にした人が、一番立派な人なのです。イエスキリストな大犠牲
者です。
犠牲精神というのは、一番立派なのです。人類のために、私のいのちも、私の体もすべて投げ出
して、自分が仕事をしたいんだ、では、これは自分なんだから犠牲でもなんでもない。自分もへっ
たくれもないんだ。サアどうぞみ心のままにお使い下さい、すべてを投げ出せることがいい。
み心のままにお使い下さい、といった以上、どうされようと、下僕にされようと、土方にされよ
うと、捕虜になろうと、殺されようと、捧げた以上、それはみ心のままなんだ。ところが、私は先
生のために捧げます、み心のままに捧げます、キリストのために捧げます、とかいったって、自分
89
の想いが通らなければ、カーッとなる。そんなのは、犠牲でも、捧げているんでも、なんでもない。
本当に、全部捧げるということは、どんなになっても捧げるんです。そこで首を切られようと、
捧げたものだから結構だ、というところまでくるんです。イエスはそう説いたのですけれど、私は
そういうことをいったのでは、あまり激しすぎるからいわないのです。
やさしい言葉で『消えてゆく姿なんですよ、すべて現われたものは消えてゆく姿。消えてゆくに
従って、本心が現われてくるんですよ。だから、あらゆる苦難も、あらゆる病気も、あらゆる不幸
も、あらゆるいやなことも、相手の悪いことも、自分の悪いことも、みんな、ああこれは消えてゆ
く姿だ、過去世の因縁が消えてゆく姿なんだな、これによって私の本心も開き、あちらの本心も開
き、世界の本心も開いてくるんだな。ありがとうございます、世界人類が平和でありますように、
日本が平和でありますように、神さまありがとうございます』と説いているのです。
そうすると、やわらかく、それでしかも自然に心がやすまってくるんです。しかし、根本は自我
欲望をスッパリ捨てきる、すっかり神さまにお返えししてしまうというところにあるのです。
90
問29 守護霊さまは、霊界、幽界にいっても、現世と同じ方ですか?
答霊界に行くと変ります。守護霊さんはしりぞきます。しりぞくということは分霊魂と一緒に
なってしまう場合があるのです。次元が一つ高くなって、守護神が直接守る形になります。それで
私は守護神守護霊と分けているのです。ハッキリ分けている宗教は他にありません。
私は、祖先の悟った霊を守護霊、神の直霊から分れた救いの光を守護神と、この二つに分けてい
る。だが守護神のなかにも、守護霊が昇格して、守護神になったものもあります。けれど、一々そ
ういうと面倒になるから、簡単に二つに分けているのです。
人間の世界ほど面白く、不可解な、神秘な、奥の奥の奥のあるものはありませんね。肉体の人間
がこうやって生きていて、オレが偉い、お前がバカだ、なんだかんだやっているでしょ。そんなも
のは吹けば飛ぶようなものです。
いかにも地球の文明文化はすばらしいような感じがするでしょう。ところが、子供の程度にすぎ
ないのです。その文明文化のなかで、原爆をかかえ、水爆をかかえて、金科玉条として、武力で他
国を制圧しようとか、守ろうとか、思っている。愚かしいものは地球人類なんです。その愚かしい
ぬ
波のなかから脱け出なきゃだめだ。脱け出る人が多ければ多いほどその愚かしさはなくなるわけで
す。それで脱け出るために、私たちは消えてゆく姿で世界平和の祈りをやっているんです。
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そうすると世界観がまるで変ってくる。今はどうしても、地球の業、やったらやっつけなきゃい
けない、という想いがあるでしょ。なんとなく人を恨んだり、憎んだりする想いがある。そういう
想いの波のなかで右、左している。本当の宗教をやった人だけが、そこを脱け出られるのです。
自分が、自分が、と思っている時は本当の宗教になっていないんです。本当の宗教心というのは、
自分がなくなるんです。本当に自分がなくなるんです。そして、内催しにスーッと自然にやってゆ
くことが、人のためにもなり何かしら人を生かしてゆくようになるのです。そこまで皆さんは必ず
行くのです。
自分が働く、とか力まなくても、神さまは自然に自分を使って下さるんです。神さまというのは
自分の本心です。本心が自分をチャンと完全な働きをなさしめるです。それを肉体のほうの自分が
やろうやろう、とすると、うまくゆかないんです。そこで私は、世界平和の祈りのなかからすべて
をやりなさいというのです。
力むのじゃなくて、自然にやるんです。そこがなかなかむずかしい。言うは易く行うは難し、で
すが、習うよりなれよ、で祈りになれ親しんでいるうちに、自然に、自分が威張るということがな
くなり、自然に親切にし、自然にいいことをし、自然に明るくなり、自然に安らかになる。みなぞ92
こまで高まります。(以上S 40年3月の統一会より)
問30 世界平和の祈りは、どんな所ででもどんな時でもいいと教わっておりますので、お祈りを
させて頂いておりますが、肝心の対人関係とか、仕事の問題とか、いろいろ社会的に貢献が出来る
ような立場にある時にサッパリお祈りの言葉が出てこないのです。どうも自分のお祈りというのは
本物じゃないんだな、というふうにいつもいつも反省しておるんでございますけれど、自分の精神
状態がどんなものであるか、ということをおききしたいと思います。
答そういう方は随分あると思います。例えば心のひまな時には祈れるけれども、仕事をしてい
るとか、交渉ごとをしている時には祈れない、ということですね。
実際問題として(想いが交渉事なら交渉事の中に入っていますから、無理ないことです。そうい
う場合には、入る前に、守護霊さん守護神さんお願いします、有難うございます、だけでいいと思
います。それで仕事に入っていけばいい。
ただ、自分で祈ってないように思っている時でも、実は深い祈りの状態の時があるのです。これ
は自分ではわかりません。だから、常の祈り、常に常に祈っている祈りが、そういう時に効果を現
93
わすんだ、と思って差支えありません。
交渉事をしている時は、ああいったらこういわなければならない、なんて考えているから、なか
なか祈れませんね。しかし、達人になれば、そんなこと考えなくても、必要な言葉や態度が自然に
出てくるのですが、なかなかそこ迄はいかないでしょう。だから日頃の祈りがいつでも役に立って
いるんだ、と思って下さい。
電車にのっている時、お手洗いなど、一番ひまですよ。一番統一するんじゃないかな。ひまな時
は、どこでもいいから祈ることです。そして仕事をしている時は、精密な仕事をしている時などは、
その仕事に統一没入しているから、そこに日頃の祈りが生きてくるわけです。そう思って下さい。
94
問31 いつかの先生のお話に、バッハの音楽は神界からのひびきと伺ったように思います。それ
でジャズなどは業想念的音楽と私は思うんでございますけど、バッハの音楽をきいている時には、
やはり神界のようなところに私共はいるんでございましょうか。もしそうだとすれば、なるたけジ
ャズなんかきかないで、音楽をきくんだったら、バッハのような音楽をきいたほうがいいように思
いますが、いかがでしょうか。
答そこのところが問題なのです。私は若い頃音楽をやっていたでしょう。クラシックだけがい
いと思って、ジャズ排撃論者だった。それでそういう論文を書いたこともあります。
ところが、今、ひろく深く考えて見ますと、ジャズはジャズでまた必要なんですね。流行歌は流
行歌、何んとか節は何んとか節で必要なのですよ。
クラシック音楽のベートーベンやバッハなどをきく。そのほうがいいと、自分で納得する場合は
それが一番いいと思うのです。自分はそれでいいのです。ただいろいろ波があって、軽音楽をきき
たい時もあるし、三味線をききたい場合もあるし、ギターをききたい時もある。その時々の変化で
すね。ですからそう固く思わないで、ききたい時には、なんでもきいたらいいと思うのですよ。
只、子供さんとか他の人に「お前、クラシックをきけ。ジャズなんかきいちゃだめだ。そんな汚
れたもの」なんていうと「おやじよけいなことをいうな、お前だって若い時があったろ」なんて、
かえって余計なことをいわれてしまう。
どっちがいいとか悪いとか、いうことになれば、クラシック音楽のほうがいいです。けれども、
この世にはジャズの世界もあれば、流行歌の世界もあるのです。だからきいている時は、愉快な楽
しいものを、その中からくみとればくみとったほうがいいと思うんです。
95
ビートやロカビリーやツイストなど、見ているのはあまり好きではないですけれど、それは私が
嫌いなんであって、好きな人はそれで発散させるからいいと思うんですね。
ものの考え方なんです。そういうものがあるから悪くなるのか、なかにあるものがそういうもの
に引き出されて、そして消してもらっているのか、どちらかというと、中にあるものが、消えてい
って、ひどい野獣的な行為にならないという率も多いわけです。
それは自分自身はバッハをきいたほうがいいです。しかしこの世の中に現われているものを、こ
れはいけない、これはいけない、というようにはいえない。「神と人間」にも書いてありますが、
自分が良い本を読んでいるからといって、人が低級な本を読んでいるのをみて”なんだお前は、そ
んなもの”というのでは、心がせまいのです。
善悪をあわせのむ、というような、その人はそれで消えてゆく姿をやっているんだな、というよ
うな、大きな赦しの気持というか、大きな気持でみてやって”どうかその人の本心が開きますよう
に”と見てあげればいいと思うんです。そうすると、心が広くなって、この世の中が、どんなこと
も悪いようなものも、みんな生きて来ます。
そういう意味で、私は共産主義などのことも思うのです。放っておけば、共産主義は必ず侵略し
96
てしまって、全世界を共産主義化してしまう、というふうにアメリカは恐れている。侵略されるな
ら、その前に叩いたほうがいい、と爆撃しているわけでしょ。そういう考え方は非常に心の狭い、
大きな国のやることではないと思う。武力に訴えるようなことではなく、もっと大きな気持で、武
力以上の他の方策をとればいいと思うんです。
子供の場合などならいいですよ。しかし、それを国がやるとなると大変なことになる。だから、
やっぱり、一人一人の人間が大きな広い気持になることが、国の動き、人類の動きを平和にする、
ヘへ
大きなもとだと思うのです。
自分はこれが正しいんだと思います。実際正しいとします。片方は悪いとします。だけど、自分
は正しいんだ、相手が悪いんだ、とやっていれば、悪いほうも”何いってやんだい、おれだってし
かたがないんだ” と喧嘩になるんです。悪くてもよくても、善と悪とが争うことになります。とこ
ろが悪はやがては消えてゆく姿なんです。こちらが、祈って、本心の中に入って、向うに同調して
いるように見せながら、光を入れていけば、やがては悪も消えてゆくのです。
ホ
アメリカも同調したような恰好をして、中共やソ連と話合って、いろいろと交渉しているうちに
は、向うも同化されてくる。また、それだけの力がなければ、大国としての権威はないのです。話
97
し合ったらだめだ、何しちゃだめだ、ただやっつけてしまえ、というのは、小さな小さな、成り上
りの国のやり方であって、アメリカあたりがやるのではおかしな話です。
もっと広い心で話しあって、こちらの力を向うに自然に知らせればいいんですよ。そういう方法
が出来ないかと思うんだが、アメリカには出来ないんだね。
また元へかえるけれども、私どもの世界平和の祈りの運動が大きくなればなる程、知らないうち
に、武力が使えなくなる時代が来るのです。それには、まず個人としては大きな気持になって、人
の悪を責めることなかれ。間違っていることがあったら”一日も早くあの人の天命が完うされます
ように、消えてゆく姿が早くなくなりますように”と祈ることが必要だと思います。
個人においても、世界人類においても、いけないいけないだけで、あいつが悪い悪いだけでは、
世の中はよくなりませんし、子供も家庭もよくなりません。相手の中に同調していて、しかも自分
の光を相手に与えて、その光に相手を同化させるぐらいの力を持たなければいけない。それが大き
な人物であり、大きな国であります。
個人としては大きな人物になることです。それには、世界平和の祈りをして、みな消えてゆく姿
で”あ㌧あの人の天命が完うしますように、世界人類が平和でありますように” という一筋の道に、
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自分も相手も自然に入れてゆくようにすることです。(以上S40年4月のお話より)
*….中共とは今の中華人民共和国、当時日中国交がまだ開かれていなかった。
問32 バイブルの中で、キリストを信じた人だけが永遠の生命を得られるんだ、ということをイ
エスさまがしきりに説いておられますが、そうだと、クリスチャンだけが永遠の生命を得られると
いう不公平なことになると思うのですが、この点お教え下さい。
答キリストを信ずれば永遠の生命が得られる、ということは本当です。ただイエスを信ずれば、
というのとは違うのです。真理を現わす、神のみ心そのままを現わした時そこにキリストが現われ
るわけです。イエスが真理を現わしたからイエスキリストなのであって、皆さんが真理を現わせば、
例えば中村キリスト、斉藤キリストなんて、いろいろ出るわけです。みんなキリストばかりになれ
ばしめたものです。ですからキリストを信ずれば、永遠の生A
oが現われるということは間違いない
ことです。ただイエスという肉体を信ずれば、というように感違いすると困る。肉体がなくなった
ら信じようがないです。ですからキリスト真理を信じるということです。
わけいのら
真理とは何か、簡単にいうと、人間は神の分生命である、しかし想念の世界において生れかわり
99
死にかわりするけれども、本心は光り輝き自由自在なものなのだ、ということです。それを信ずれ……
ば、信じただけで永遠の生命を覚得したことになるのです。というけれど、信じることがむずかし
い。”見ずして信ずる者は幸なり”という言葉がありますが、私は見ずして信じたほうです。
私は大体、二十何才まで、霊界があるとか幽界があるとか全然思わなかった。霊媒には随分会い
ましたが、くだらない感じがするのですね。暗い変な妖しげな顔をした人が多いのです。私は知性
的であり、直感的なのです。両方がうまくまざっているのです。ですから変な霊媒のお婆さんでも
馬鹿にしない。人のいうことは素直にきくのです。素直にきくけれども信じはしないのです。大体
妖気のただよったようなお婆さんだったから信じなかったのでしょう。やっぱり人格が高潔で立派
な人がいえば信じましょう。湯川秀樹がいったから本当だろう、小泉信三がいったから本当だろう、
というようになる。ですから人格というものが大事なのですね。いつも明るく正しいあの人がいう
のだから本当だろう、という人間にならなければ信じないわけです。
少年から青年期にかけて私が会った人たちというのは、あまり上等でなかったのかもしれないけ
れど、幽界のことも霊界のことも信じなかった。そんなことに関係なく、神の存在は子供の頃から
信じていた。宇宙大自然の不可思議なる動きは、何か叡智ある存在が動かしているにきまっている、
ということは信ずるとか信じないとかいう言葉でなく、信じていた、思いこんでいたのです。ここ
に人間が生きていることは神さまによって生かされている、と思っていたし、神さまから生命を与
えられて生きているということを、何んの不思議も、なんの疑問もなく思っていました。そういう
ように思っている人は随分います。けれど反面そう思えない人が随分います。
神を信じているというのにも二通りありますネ。青年時代の私は、神さまは人類に力を下さり、
生命を下さっている。しかしあとは関係ないんだ、という信じ方。つまり、神は完全なる理想像で
あって、神さまから生命が来たことは間違いない、万物は神によって成っていることも間違いない
けれども、この人類を、自分自身を立派にするには自分の努力以外にない、と思っていたのです。
自分が一所懸命努力し、自分が一所懸命勉強することによって、神さまのみ心をここに現わすこと
が出来るのであって、神さま神さまとすがっていれば神さまが助けてくれる、なんて私は全然思っ
ていなかった。だから自分でなんでもかんでも一所懸命やらなければ、と思って、実行していまし
た。それだけでは足りないのだけれど、それが非常によかった。
その考え方に加えて、いざとなれば、神さまは絶対に正しいものの味方をして助けてくれるんだ
ということが加わり、法則にのりさえすれば神のみ心そのままを現わすことが出来るんだ、という……
ことが加われば、なおよかったけれど、なかった。だから、若い時は随分けんかもしました。自分
が正しいと信ずることは、上役であろうがなんだろうが、ぶつかっていって、くびになるのを覚悟
でもって、刺し違いするくらいな気持でぶつかっていった。そういう激しいものがありました。
それが守護霊守護神の存在がハッキリわかってから、ずっと優しくなった。「なんだ、自分がや
っているのも自分がやっているんじゃなくて、うしろの人(守護霊守護神) がちゃんとやってくれ
おか
ているんだな」ということがわかったから、自分自分というのがなんだか可笑しくなった。けれど
も、只神さまにすがって、自分は何も努力しないで、神さま神さまって神さまにすがっているよう
な人間は愚かなもので、意気地がない者だと思うのです。やはり自分で努力して、要するに人事を
わけいのら
つくすことによって、天命が初めて開く、或いは自分は神の分生命である。だからこの天命を果さ
なければこの世を終るわけにはいかないんだ、というように天命を信じてそして一所懸命人事を尽
す。とにかく、人事を尽さないことには神のみ心は開かないのです。
神秘力が現われる、或いは奇蹟が現われるということは、ニッチもサッチもいかない、一所懸命
やってもどうにもこうにもならない、絶対絶命だというところまで一所懸命やった時に、パーッと
開くのです。それを安易に苦労もしないでご利益があるというような気持だったら、一生ご利益が
102
ありません。
何故かというと、この地球の人間として生れてきている以上は、肉体人間として一所懸命、自分
の全力を尽してやることがどんな商売をやってもいいのです。商売をやろうと芸能をやろうと、何
ヘヘへ
やろうと、そこにいのちをかけてやっていることが、やはり尊いことなのです。”何やろうと” と
いったって、強盗やスリをやってもいいということではありません。普通常識でやっていいことは、
ヘヘへ
いのちをかけてやってゆくことが大事なのです。
これは当り前の言葉なのだけれども、宗教をやろうとすると、自分が努力もしないで、只神さま、
仏さまとおまいりしたりして、すがってゆく、というようになる。それなら宗教などないほうがよ
い。そうではなくて、自分は一所懸命やっている、しかし弱くてどうにも出来ないとか、何か足り
ないものがあるなアと足りないものを足して頂こうと、入ってゆく形。これは本当の神さまに通じ
ていくのです。
自分で精一杯やっても、みんな足りないのです。肉体人間では何事もなし得ないんだ、けれど一
所懸命やっていることが立派なことなのだな、ということがわかると、そこにはじめて神への道が
開けるのです。「ああ肉体人間じゃ何事もなし得ないんだな、神さまがわが内にあって為さしめ給瑠
うのだ」ということなのです。そこまでくると本当の信仰になるのです。それを私はすすめている014
わけなのです。
肉体人間として一所懸命やる、ということに肚がきまって努力していて、しかも幽界や霊界がわ
かってくればいいでしょう。怠けて頼ろうという気があったらば、幽界を知り霊界を知ることが、
かえって災いになるのです。うまい工合に奇蹟が現われないか、なんかうまいことがないか、なん
てばかり求めていると、一寸、幽魂の声をきいた。うまいことおだてられて、いい気持になって乗
っていくうちに、変になってしまう場合があるのです。何か声が聞えたり、見えたりする必要はな
いんだ、そんなことをしなくても、一所懸命肉体の生活をしながら、神さまの中に入っていれば、
中から直感的に神の智慧がわいてくるのです。「ああ神さまと一緒だな」とか「自分の運命は大丈
夫だ」ということが自然にわかってくる。永遠の生命というものを自然に覚得していくようになる
わけです。
外から何も感じる必要はない。中から感じてくればいいのです。内から湧いてくるというものが
ある。智慧や力がわいてくる、という形になってくるのが一番いいのです。
永遠の生命を得る、ということはやはり自分が感じなければ、話でわかるというものではない。
初めからわかる人は素質です。それからあとは話でわかるというより、素直ということです。素直
に人の話をきいているとわかってくるんです。だから相手にわからせようといくら努力しても、相
手にわかる素質がなければわかりません。ですから言葉でわからせるよりも、祈ることです。わか
らないということは、真理を業想念が厚く覆っているからなのですから、業想念を払うための世界
平和の祈りをして、その人の天命が完うするように祈っていると、光が入って行って、自然に業想
念がとれます。そうしますと、向うでかえって質問して来たり、こちらがなんとなくいったことが
すぐわかってくるようになるわけです。
だから、言葉でわからせるということは二の次として、祈りで光を与える。世界平和の祈りの大
光明を与える、流しこんでやるということが、永遠の生命を悟らせる第一だと思います。
あまのじやく
なかには、わかってもわからないような顔をしたり、いったりする場合もありますね。天邪鬼と
いうやつです。それは親子とか夫婦とかの場合に余計そうです。妻が一所懸命うちへ来ている。夫
は知らん顔をして、五井先生の五の字もいわない。それでいてわかっていないかというとそうでな
く、いつの間にか本などを読んでいて、妻よりハッキリわかったりする場合もあるのです。
親しい仲には負けたくない、夫が妻に負けたくない、というのがあるのですよ。それがわざとわ
105
からないような恰好をしているけれど、実はわかっている、ということがありますから、言葉でお㏄
1
おいかぶせるように、いいきかせるような言葉.つかいをすると「何いってやんだい」ということに
なるんです。言葉でいうよりも、祈りのひびきでもって、光明を流しこんであげるのが第一です。
それから向うがとけてきて”とけて流れてノーエ” じゃないけれど(笑) とけてきたところへいえ
ばスーッと真理が入っていきます。そういうわけです。(以上S 40 年12 月のお話より)
ヘヘヘへ
問3 このままでいいんだ、という教えは今迄も承わってきましたが、安心するにはこのままで
いいというより外にないと思っているのです。このままの生活以外にしようがないという意味は、
一つは度々教えられるように、現在の生活というのは今しているんじゃない、過去のいろいろな業
想念行為というものが、消える為に現れておるんだ、消えるんだ、つまり影であるんだ。だから自
分でどうしようこうしようといったってしようがない。過去の因縁性であるんだから、仕方がない
んだからこのままでいいんだ。自分のどうにもならない事柄に対して、これは過去の影なんだから
申訳けないけれど仕方がない、といって自分をゆるす。又人の行いを見てもあれもやっぱり過去世
の因縁の為にああやっているのだから、これをゆるす、という風に理解、承知しておったのですが、
間違っているでしょうか。
答ある面では本当です。しかし、今の質問のままでは誤解があるといけないから、いいますと
「消えてゆく姿」というのは、あくまでこれはいけないんだという否定があって〃消えてゆく姿”
なのです。人間は神の分生命であり、光明燦然たる存在、円満完全なのであるから、神がすべての
すべてであるから、神のみ心以外のものはすべて”消えてゆく姿”なのです。だから神のみ心以外
の想いが出て来たら、ああこれは間違っているのだ、と否定の心が出て来ます。ここから消えてゆ
く姿が出発しているのですよ。例えば青酸カリはのんだら死にます。青酸カリが入っている水だと
わかれば飲まないでしょう。青酸カリだからいけないナ、いけないナと飲む人はありませんね。こ
れはハッキリしています。けれど過去世の因縁の消えてゆく姿の場合には、今の現われている想い、
行為は仕方ないんです。これは抑えようがない、現われて来てしまうのだから、しかし、その時が
一番大事なのです。
アーそれでいいんだ、仕方がないんだ、消えてゆく姿だからどうしようもないじゃないか、と何
もしないでいると、これは現われて来たことをそのまま認めたことになります。怒りっぽい性質だ、
妬みっぼい性質だ・盗みをする習癖があるんだ・前生の因縁で仕方がない・と思うだけでは只認め柳
たことで、消えてゆきません。認めたことは掴んだことと同じなのです。仕方がないじゃないか、
と掴んでしまうのです。そうすると過去世の因縁が消えないで、そのままとどまってしまうのです。
りんねてんしよう
その上にまた現われてくるから積み重なって、ぐんぐん増えてゆくことになる、輪廻転生してし
げだつ
まうのです。これでは解脱出来ない。
そこで私はそういうことではなく、ここに過去世の因縁が現われて来た場合「ああこれはいけな
いんだナ、しかし過去世の因縁で仕方がなかったのです。ごめん下さい、すみません、これからは
同じことを二度としません」と自分の本心にわび、人にわびる。それで一つ業が切れますよ。更に
「私の想いの中に悪い想いが出ませんように、悪い行いをしませんように、人も悪いことをしませ
んように、再び戦争がありませんように」というのと同じです。「どうかみんな平和になって、み
んな本当に神の心が現われますように、どうか神さまお願いします。世界人類が平和でありますよ
うに、日本が平和であ.りますように、私たちの天命が完うされますように」と守護霊、守護神さん
への感謝の心と敬虔な気持で祈ることによって、「消えてゆく姿」が成就するのです。こうします
と、すぐ悔改めが出来ているわけですし、再び自分はしないと、青酸カリ(業) はのまないと、神
の心の中へやっちゃったわけです。そこで初めて消える。光の中で消してもらうわけなのです。
108
消えたあとに何が残るか、というと、世界を救おうと思って働いている神々の救世の大光明が、
入れ替りに入って来てくるのです。世界平和の祈りをすると、業が消えたと同時に光が入ってくる。
えこりつ
業と光を引きかえにするわけです。そこに回向が生れる。そうすると今迄の業が一まわり消えるわ
けですが、業というものは過去世からずっとあるから、何遍も何遍も出て来ます。ですから繰返し
繰返し回向をつづけていると、だんだん正覚に近くなってくるのです。そういう努力が必要なので
す。
過去世の業が消えてゆくにしたがって、光が入ってくるから、それにともなって富もくるでしょ
うし、健康も与えられるでしょうし、幸運もやってくるのです。それが消えてゆく姿の教えなんで
す。
問糾今迄講師の方から教えられたことでございますが、われわれの日常の想念行為は過去世の
因縁の現れである、これは仕方のないことであるんだ、だから例えば腹が立った、或いはお酒が呑
みたいな、という欲望がおきて来た時、これはいけないといって抑えるのは想いを溜めてしまうこ
とだからいけない、出したほうがいいんだ、のびのびとした生命、生き生きとしている生命を抑え鵬
てしまうことはよくない。だから過去の業の映ってくるそのままをやったらいいんだ、というふう10
1
に教えられました。もう一つは、守護霊守護神というのが絶えずついていて、本人のためによくな
いと思うことは、守護霊守護神がやらせない。だからあえてやるのはその場において悪いように見
えておっても、必ず本人の為にいいのだ、というのです。例えば親鸞上人の話で唯円房に「私が人
を殺せといったら殺すか」といったら「殺せません」といいました。すると親鸞が「殺すべき宿縁
があれば百人でも千人でも殺す、殺すべき因縁がなければ命ぜられても殺せない」と答えています。
そうすると例えばデパートに行って立派なものを取ったとすると、守護霊守護神がついておって
取らせない働きがあるというんですね。もし取ったとしたならばその報いを受ける。みんなの前で
恥をかかせられる、警察に引張っていかれる、ひどい目にあったことで今後そういうことはしまい、
という大きないい結果になってくるんだ、だから我々は結局守護霊守護神が常にはなれないで導く
のだから、遠慮なく思い切ってやりたいことはやったらいい、とこういうふうな教えを私は聞いた
のですが… …
答その講師のいうことは半分本当です。しかし一知半解です。宗教も何もやらない人、或いは
他宗の人たちがその話をきいた場合、「ああこの思想は危険だなア」と思いますよ。「やりたいこと
をやってしまうだろう、これは宗教でもなんでもない」というでしょう。
やる者はやるようになっている、やらない者はやらないんだ、ということは本当です。泥棒する
因縁がなければ泥棒しないかもしれない。しかし、それは自分でわからないじゃないですか。とに
かく過去世の因縁というものがあって、八十パーセントその因縁に流されている。二十パーセント
この世においてそれを修正することが出来る力があるんだ、と私は説いています。その二十パーセ
ントの力は知性と素直さなのです。それが感情の爆発や、欲望を抑制したりする。私は本当はおさ
えろとはいわない。やりたいことはやるつもりで、出かかった時にこれを平和の祈りに入れちゃい
なさいとか、気分をほかにかえなさいと転換させてしまう。
業をそのまま出しちゃうのでは当り前。抑えたのではこれもいけない。人間は難しいですよ。抑
えもしない、そのまま出しもしない、出す手前で消えてゆく姿にしなさい、と教えているんですよ。
出す手前で消えてゆく姿に、と何べんもいっているのです。おさえてはいけない。出したほうがい
いんだいいんだ、出るようになっているんだ、出せ出せというんで、お前なんか憎らしい、とやっ
てしまったらハタが迷惑します。どうしたらいいかというと、その真中で消えてゆく姿にしなけれ
ばならない。なぐろうとする、ああしかしこれはいけないんだ、世界人類が平和でありますように、m
と心をかえれば、怒りでもフッとなくなってしまうんですよ。だから気分をかえると、表面近くま
で来ても出ないんです。そうすると抑えたよりもいいし、叩いたよりもよくなるわけです。
例えば千なら千の力で出てくるものを抑えたら千がたまってしまう。では千をそのまま出してし
まったら気が晴れるか、といったら晴れやしない。なぐってしまったら悪い気がするんだから。ま
た自分がそれで晴れたとしても相手が迷惑します。ところが出ていく時消えてゆく姿だ、神さま助
けて下さい、世界人類が平和でありますようにと祈ったり、或いはどうかこの想いを消して下さい
というふうに、先輩の道友の誰かにすがったりする。そこで浄めたりして貰って消えてゆきます。
そうすると千が千消えないかもしれないけれど、五百なり三百になって消えてゆくわけです。そう
することが一番中庸の道なのですね。
質問した人は悪いことが出来る人でないから、ゆるされたほうが安心するでしょう。それに年取
っているからいい。しかしもし若かったら、四十ぐらいだとしますと、赦されているうちに、それ
になれてしまうから、習慣ついてしまって、やりたいことをやってしまうことになるでしょう。私
が修行中二十代の終り頃でしたが、或る心霊交流会に出ていました。まっくらにした部屋に大勢い
るのです。そして坐って統一するのです。その時相当霊能的になっていたのですネ。隣りに娘さん
112
が坐っていた。すると「隣りに坐っているのは未来のお前の妻なんだから、手を出して握ってみろ、
握ってしまえ、握ってしまえ、握ったらきまるのだから」と霊的にささやかれて、更に手を動かす
のです。私は考えた。いわれた通り素直に手を握っちゃおうかと考えた(笑) しかし後で恥をかい
たら大変だ、と思案しているうちに、知性的にああこれは常識ではそんなことをしてはいけないん
だ、絶対いけない、必死になって動く手を押えつけた。そうすると「ヨーシ及第!」というわけで
す。ああよかったと思ってね。神さまがためしたのです。そこで握っていたら、現在の私はなかっ
た。握ったらそれでおしまいになってしまう。
そういうこともさせるのです。ですからあく迄常識良識を土台にして判断してゆくことが必要な
のです。
もう一つの質問の、守護霊守護神がついているから、やらせることはみんな守護霊守護神がやら
せているんだ、ということでしたが、大きい意味ではそうなのです。しかし普通常識の話にすると、
よしのり
守護霊守護神がついていてやらせるのなら、吉展ちゃん殺しも守護霊守護神がやらせたのか、十七
才の少女が夫を殺しちゃったのも守護霊守護神がやらせたのか。そうだとしたら世間の人はその教
えは邪教だと思うでしょう。神さまが殺人をさせるわけがない。わかりきったことです。だからそm
ういうことをいっていいか悪いかということは常識の世界のことです。それがわからない人は常識14
1
をもう一ぺん勉強しなければだめです。
守護霊守護神はあくまで守っているけれども、肉体側の想いが業でへだてられているから、距離
がはなれてしまっていて、守りが届かない。肉体の人間の想いも業が厚いと届かない。そこに私た
かしわで
ちのような宗教家の存在が必要なのです。「先生、助けて下さい」とくると、バーンと柏子を打つ
と、業がフッと消えて守護霊守護神とつながるのです。そしてまた業が出て来て離される。業にま
きこまれてしまう。そこで私のような存在が必要なのです。或いは友達が集って祈ったりして助か
るわけなのです。その為に聖ケ丘の会とか各地の座談会に余計出たほうがいいということになるの
です。守護霊守護神の存在を知らせたり、それをへだてている業想念をとってくれたりする人を導
師というのですが、そういう人が必要なわけです。
導師はいつも謙虚な心と真摯なる努力、それに澄んだ知性が必要なのです。なるがままではあり
ません。知性は常に澄み切ったものに磨いておくことです。
“神と人間
” にも書いていますが、守護霊守護神が守っているんだけれども、あくまで肉体人間
はばとび
が主体であって、守護の神霊は後から応援するのだ、と書いてありますネ。巾跳をするのでも、自
分でとぶのです。それを背後の人が持ちあげたり、とばしてくれたりしたのでは面白くもなんとも
ない。自分でやるところに面白さがある。自分が一所懸命人事を尽してやってそれで、守護霊守護
神に加勢をたのむ、そうすると助けてくれる。三者一体になって、自分の持てる力を充分に発揮出
来る。天から与えられた使命を完うさせてゆくことが出来るわけです。そこに消えてゆく姿の教え
があったり、世界平和の祈りがあってうまくゆくのです。
全託とかおまかせとかというけれど本当の全託になる為には大変な努力、精進がいるのです。真
剣なる修行があるのですよ。(以上S ・40年
12月のお話より)
みやもとむさし
問35 宮本武蔵が「神を敬い神を頼まず」といっていますが、どういうことでしょうか。
答他の人もそういうことをいっていますね。どういうことかというと、神さまは自分のうちに
いますから、自分が誠心誠意、全力を挙げていれば、頼む頼まないではなく、神は現われてくるわ
けです。ところがなかなかそこまでいかないのです。いざ病気になった場合、頼まないではいられ
ない。いざ生死の境になったら、神さまといわざるを得ない。そうしなければいられないものを人
間は持っている。
115
神は自分のなかにあるんだけれども「神さま」といって自分のなかに呼びかけるのは、呼びにく
わけみたま
いから、それで外に姿をかりて、神さまとよぶわけです。自分のなかに、分御霊、守護霊、守護神
とつながっています。つながっているから、ほんとうは呼ばなくても現われるわけだけども、呼ん
だほうが自分の意識が強く感じます。神さまと一つであることが強くなります。
呼びたくない人は呼ばなくてもいいけれども、呼んだほうが力つく場合がずいぶんあります。い
ざとなった時は呼ばずにはいられません。よほどすごい人でも、最後には呼ぶと思うのです。だか
ら素直に神さまありがとうございます。といってもいいし、本心さん(自分の本心ですネ)ありが
とうございます、本心さんお願いします、といってもいい。しかし、それだけだと、なんだか感じ
がピンとこないから、守護霊さん守護神さんありがとうございます、といって、こちらから大いに
頼んだほうが、人間の感じとして、守られていると感じやすいというわけです。
むさし
武蔵は神さまが自分のうちにあるんだ、ということがわかっていたのでしょう。ということは、
人間は形ではないという意味において、自分のうちにあるのです。自分が形であると思っているう
ちは、自分のうちにありません。やっぱり外から取巻いて下さっている形です。神さまが天に在る
形です。
116
自分が形ではないということが自覚出来た時に、はじめて自分のうちにあるということが自覚出
来るのです。自分の形を感じているうちは、自分の内にあるのだ、と観念的にいい、思うだけで、
なかなかそうだ、と自覚出来ません。そこで神さまありがとうございます、といって、祈りの世界
で神さまにつながっていく、心の世界でつながっていくわけです。心というのは天から自分のなか
に映ってきているのですからネ。
形の世界を考えれば、やっぱり素直に神さまありがとうございます。守護霊さん、守護神さんあ
りがとうございます、と思ったほうが素直でいいと思います。
問36 昭和三十九年十二月号の白光の「世界は同つ」という題のこ法話の中で、先生が『この世
の不幸や災難はすべて過去世からの各人の想念行為によるのであって、神の子そのものである生命
おもい
体は少しも苦しんでいないし、不幸でもない。不幸であり、災いをうけているのは、各人の想念だ
けなのである』と書いていらっしゃいますが、苦しんだり災いをうけたりするのは想念だけである、
というのはどういうことでしょうか?
答この世のなかの苦しみ、不幸というものは、何が不幸なのか、何が苦しみなのか、というと、117
肉体にまつわる想念が苦しむのであり、想いが不幸なのです。いつもいいますが、眠っている時に
は、どんな病人でもどんなに貧乏な人でも、想いがそこにないから、全然なんでもない。それでも
生きています。心臓も肺臓も動いているから、ねているということは死んでいることではありませ
ん。生きているけれども、想いが消されている場合には、なんの苦しみもない、貧乏もない、病気
もない、なんの考えも感じもない。しかし、想いがよみがえると、病気があり、貧乏があり、苦し
みがある。つまり想いが不幸を感じ、想いが病気をし、想いが貧乏を感じるわけです。想いが勝手
につくっているのです。生命体そのものはそういうことに関係なく肺臓を動かし、心臓を動かし、
いろいろな活動をしているわけです。
お釈迦さまはインドのカビラ城の王子でした。若い頃いろんな遊びもしたし、楽しみもした。と
ころがちっとも楽しくない。そしてある時病人を見せられ、老人を見せられ、いろんな不幸なこと
を仙人によって見せられたわけです。それで、「ああこの世はいやだな、どうしたらこの世の苦し
みというもの、老人になって醜い姿をさらす、病人になって醜い姿をさらす、貧しいこと、老いる
こと、病気のこと、死ぬこと、そういう苦しみからのがれることが出来るか」といって家を出て、
修行するわけです。118
そして悟りをひらいたことはどういうことかというと、想いが苦しくなければ苦しくはないんだ、
いのら
ということがわかったのです。人間の苦しみは何かというと、想いが苦しんでいるんであって、生命
いのち
そのものは苦しんでいない。生命そのものは仏なのだ、生命そのものの流れは仏の姿なんだ。だか
くニフ
ら、坐禅観法をして空になって、その想いから解脱しさえすれば、その人は光り輝く人であって、
貧乏でも苦しくない、病気でも苦しくない、ということを悟ったわけです。
お釈迦さまはそこで坐禅観法、今いう祈りを教えたのです。そしてなかの仏を出せ、想いが邪魔
するのだから、想いをすべてなくし、消してしまって空になればいいんだ、と終始一貫”空”を説
いたのです。
そして、どうしてその想いというものは、そのような境遇になり、いやな想いとして現われてく
るのかというと、過去世の因縁がめぐってきて、今の苦しみになり、今の不幸にもなり、幸せにも
なり、いろいろの境遇にもなるわけですけれども、それはあくまでも業生の世界のことであって、
どんなに幸せそうに見えても、どんなに不幸そうに見えても、それは実際にあるものではないのだ、
過去世の想いの波が伝って来ているのだ、(お釈迦さまは消えてゆく姿とはいわないが)だから、
その想いにさえ把われなければ・人類は不幸ではないのだ・ということなのです。m
それを私は、今、現われてきているものは、過去世の因縁が現われて消えてゆく姿なのだから、
消えてゆくんだと思い、消えてゆくにしたがって、本心が現われてくるのだから、本心そのものの
自由自在性が現われてくるのだから、消えてゆく姿に把われなさんな、といっている。
この世のあらゆる出来事、自分の想い、人の想い、そういうものに把われなさんな。しかし、把
われなさんな、というと把われてしまうのが人間のくせだから、把われるのもしかたがない。把わ
れたら把われたでいいから、その把われた想いを消えてゆく姿として、世界平和の祈りのなかにい
れてしまいなさい。
世界が平和になり、みんな完全円満になるというものは、神さま、仏さまのみ心そのものなのだ
から、世界平和の祈りのなかにいれば、神さまのみ心のなかにはいったと同じなのだ。神さまのみ
心のなかにいれば、人間は本来神の子であり、仏であるのだから、その大光明波動が自分に伝って
きて、潜在意識も顕在意識も大光明波動のなかにはいって調和した波動になるから、やがて、消え
てゆく業の姿もなくなって、光り輝く人間になって、みんな誰も彼も仏になるんだよ、と親切克明
に説いているわけです。
結局、想いにわずらわされなければいいわけです。ところが、全世界を見渡しても過去世の想い
120
にズーッと把われているのです。軍備を増強しなければ国の権威はない、武力がすべてだ、その力
でもって、相手に優越感を抱いて、圧迫していけば自分の天下だ、とこう思っている。そういう想
いをくつがえさない限りは、世界は平和になりません。相手より優位にたって、相手を武力でもっ
て下に見ることが自分の国の権威を高揚することだということになるならば、向うも向うで見たい
のだから、そういう想いが充ち充ちている間は絶対に世界は平和にならないし、やがて亡びてしま
》つ。
ホ
相手を敵とみる、そういう考え方が自分を不幸にしているわけです。中共は敵だ、共産主義は敵
だ。敵だ敵だと見れば、そう見られたほうはいやでも敵になりますよ。* 9頁参照
そのように思うくせがあるわけです。それが古い古い過去世の昔から個人にはみんなあるのです。
そういう想念のくせがなおらない限りは、世界は平和にならない。世界が平和にならないのは、お
のおのが、みんな自分のなかに平和にしないものを持っているのです。その平和にしない想いをな
くさなければいけない。お釈迦さまは虫さえも殺してはいけない、と教えています。イエスも、右
の頬を打たれたら左の頬をも打たせよ、上着をとるものがあったら下着をも与えよ、と教えている
のです。右の頬を打たれたら相手の左の頬をなぐってしまえ、上着を取られたら、向うの上着も取
121
ってしまえ、などといわないのです。
212
人間が全然出来ないことをしろ、というのではその人は偉くもなんともない。しかし、お釈迦さ
までもイエスキリストでも、世界で一番偉い人だと各国の人々が思っています。その聖者がいうの
ですから間違いはないに決まっています。それを聞くだけは聞くけれどもやろうとはしないのです。
やれば出来ます。やれば出来ることをしないのは何故かというと、過去から集積された想いの癖が
そうするのであって、それが自らを不幸にしているのです。
そこで私は新しい世界観をつくらなければいけない、というわけです。どういう世界観かという
と、人間は生命輝くものであって、神の子であって、完全円満であって、何も悪いものはないのだ。
悪いものがあるというのは、悪があるという想いが悪いものを作っているのだ。その悪いものがあ
るという想いを消さなければならないけれども、長い間の集積でなっているからなかなかそう思え
ない。そして実際悪いものが現われているし、悪いものを認識する想いもある。だから今すぐ悪い
ものはないんだ、人は完全円満だなんてすぐ思えないでしょう。ではどうしたらいいかというと、
その思えない想いが出て来た場合、あいつは憎らしい奴だと思った場合、自分は駄目だと思った場
合、それはすべて消えてゆく姿だと思って、世界平和の祈りのなかにいれなさい、と繰返し繰返し
話をしているわけです。(以上S 41年4月のお話より)
問37 宇宙法則というのはどういうことでしょうか。
答宇宙法則というのは根本は大調和ということです。調和にむかって進むことは宇宙法則にの
ったことです。怒りの心でぶつかってゆく、相手を怨む、相手を憎む、或いは嫉妬する。そういう
ものは自分がいかに正しくても宇宙法則に外れているのです。
自分が正しいことをしている、相手が悪いことをしている。だからあいつは憎らしい、あんなや
つはこの世にいる必要はない、殺してしまえばいい、と思ったら、その人の行いは正しくても、そ
の想いは正しくない。宇宙法則に外れている。いかに自分が正しい立場にあっても、怒りを発して
想いを乱したら、自分の・30が乱れます。自分の心を乱すということは、宇宙法則に外れたことなの
です。
宇宙法則にのるということは、いつも心がスッキリと青空のように晴れやかであるということで
す。自分の心も、人に与える波動、いわゆる雰囲気も調和しているということが大事なのです。
口ではいうけれど、なかなかいつもそういうようになりませんね。そこで、自分が正しいのに、
123
相手が悪いのだ、このヤロウがいるからこの世の中は悪いのだ、あんなヤツは死んじまえばいい、214
とたまたま思います。思った場合に”しかし、これは消えてゆく姿なんだ” と思って、世界平和の
祈りに切りかえるわけです。世界平和の祈りをすると、どんな人でも宇宙法則にのることになるん
です。どうして宇宙法則にのるかというと、世界が平和になることは神さまのみ心だから。神さま
のみ心がそのまま宇宙法則なんです。ですから、世界人類が平和でありますように、と思えば、自
分の中の消えてゆく姿の想いが起っても、それは神さまのみ心の中で、大光明の中で消されてゆく
わけです。
自分の中にいろんな想いが起ります。想いを起すまいと思ったら、かえって苦しくなってしまい
ます。ところが普通の宗教では、悪いことを思ってはいけない、怒りの想いを出してはいけない、
妬みの想いを出してはいけない、ずるい心を起してはいけない、臆病な想いを出してはいけない、
というわけです。いけない、いけないばかりで、どうしたらいいかわからないのです。
そこで私は、どういうかというと、地球界にいる人では、怒りも出るでしょうし、妬みも出るで
しょうし、怖れも出るでしょうし、いろいろな業想念が出るにきまっている。出てくるのがいけな
いのではなくて、いけないのは初めからわかっているのだから、いけない想いを神さまのみ心の中
で消してもらう。み心の中で消してもらうにはどうしたらいいかというと、世界平和の祈りをなさ
い、といって、消えてゆく姿で、世界平和の祈りにしてしまうわけです。
あんまり、これじゃいけないくと想うと、自分がせまくなって縮こまってしまいます。もちろ
ん、間違ったことも思うのだから、これはいけないと思ったら、いけないと思うのが正しいのであ
って、いけないと思ったら、それを世界平和の祈りの中に入れて、そして神さまに消して頂く。そ
うするといつもいつも宇宙法則にのっているわけです。
問38 霊力と霊能力の違いについてお教え下さい。
答霊力と霊能力とを間違える人がいますが、人の心がわかったり、当てものをしたり、運命の
予言をしたりするのを、霊力と解釈していますけれど、それは霊能力なのです。一つの能力なので
す。霊能力がすぐれている人が人格が高いかというと、そうでないのです。ところが霊力のすぐれ
た人は人格が高いのです。霊力というのはいいかえれば、霊の光、根源の光です。神のみ心の光が
強い人がやっぱり人格が高いのです。
たとえあてものをしたりすることがうまくたって、それが偉いということにはならない。そんじ協
よそこらの行者はみんな当てものがうまいですよ。財布の中にいくら持っているか、なんてチャン
216
とわかるんです。なぜわかるかというと、肉体波動のそばにいる幽界の生物が、幽界と肉体界と波
動が近いから、透して見えるのです。ところがズーツと高い所にいる神さまは、わざわざそんな低
い所を見ない。その人がいかに生きるべきか、どうしたらその人を立派に出来るかということを見
るわけです。わざわざ降りれば見えますよ。けれどそんなことは必要ないから、高い所からその人
に光を当ててやる。そしてその人に力をつけてやる。
ところが低級の霊能者というのは、力をつけてあげるのではなく、その人に出来ないことをチヨ
コチヨコと教えて、相手を屈服させて、自分の支配下におく、子分にしているのです。
霊力が強くて、霊能力の素晴しい人もあります。霊力が強くても当てものなどわからない人もあ
ります。ですからこういうことがいえるのです。信者が一杯いる教祖があながち偉いとはいえない。
普通の人でいい影響を社会的に或いは周囲に与えている人がいます。その人は霊力があるわけです。
霊力というのは要するに人格の立派なということで、そういう人が偉いのです。いくら当てものが
うまく、これをこうやれば儲かるといって当って儲かったとしても、それを教えた人は神さまでも
なんでもない、偉いのでもない。勿論そういう当てもののようなことも出来て偉い人があります。
祈りつづけていて、霊能力が出て、人の心が分ったり、予感、予知力が出来たりする人があると
します。そうした神秘力が得られたといって、いばってしまってはだめなのです。そういうことで
はない。人間の立派さというのは何かというと、人格が立派になることなのです。いつもいいます
が、おのずから和んでくる。おのずから人の心が優しくなってくる。その人と一緒にいると、おの
ずから勇気が湧いてくる。何か親しい懐しい気持が出てくる。そういう力を持つことが霊力が強い
ということなのです。人に与える好影響が強ければ強い程霊力が強いんです。
「お前の息子さん、三年先に大病するよ、気をつけろ」といわれて、二年たった、あと一年だ、ど
うしようくと私にききにくる人が随分います。これはいい影響を与えていません。三年間脅しつ
づけたんだから、悪い影響しか与えません。わかっていたって、いわないで知らん顔していて、し
らないうちに霊力で光を与えていて、だんだんその大病なるものを大病でなくなるようにやってお
おど
いて、やがて現われた時に救ってあげる、という人のほうがいちいち予言して、威かして自分の力
を示そうなんていう人より、ずっと立派ですね。”神と人間” には簡単に書いてありますけれど、
よくわかるように書いてあります。
皆さんは霊能力のある人よりも、霊力の立派な人格のすぐれた人になることです。人格がすぐれ
127
ていると同時に、霊能力があればそれに越したことはないのです。それを間違えてはいけない。だ、28
1
から霊能力だけを磨こうとして、統一などしてはいけない。人格を立派にするために祈るわけです。
人格が立派というのはどういうことかというと、愛が深いこと、調和した人間であること、勇気
があること、簡単にいったらそういうことです。そうなるように全力をもって近づかなければいけ
ませんね。
問39 孫が無事生れまして、有難うございました。実は難産でございまして、赤ん坊のくびに騰
の緒が二廻りもまきついて生れました。でも先生にお浄めして頂きましたので、無事誕生出来たこ
とと感謝致しております。やはり難産というのは過去世の業の消えてゆく姿でしょうか?
答人間の世界において一番神秘的なこととされるものは、赤ちやんの誕生です。それだけ見て
も、肉体の人間以外の大きな力があるということがハッキリしているわけです。その大きな力はた
だ自然とか、ただ宇宙とかいう形でなくて、大智慧、大能力のぞなわった力が働きかけているとい
うことは事実です。大智慧、大能力のないものの働きかけであるとすれば、唯物論者が思っている
自然という働きかけだけでは理解できません。赤ちゃんが母親のお腹にある時から、チャンと脳細
胞が出来、神経細胞が出来、すべてのものが整っている。これは大智慧、大能力の働きと解さなけ
れば理解しようもありません。これは一つの法則によって大智慧、大能力の法則によって動物は動
物、人間は人間とハッキリ区別されて生れてくることになるわけです。
その生んでくれる力というものは、実に大したものです。人間はみんな赤ちゃんだった。そして
お腹に入る以前もあるわけです。そうすると肉体人間として生れて来た一番最初から、大きな力、
神さまの力で生かされているということはハッキリしていることなのです。
ところがこの同じ神さまの力で生れ出、生かされていながらも、片方は楽々と生れる場合もある
し、今のお話のように、騰の緒が二重三重に首を巻いたりしながら生れてくる場合もあるし、いろ
いろ難産の場合もある。或いはチャンと正常に生れればいいのに、正常に生れないで障害を持って
生れる場合もあります。いろいろな生れ方があります。
それはどういうことか。大体において、難産で生れてくるような子供は立派な子が多いのです。
物心ついていない赤ちゃんの頃に、業を出してしまって、体が弱かったり、子供の頃の病気がちだ
ったりすることで、かなり大きく業が消滅して、後が楽々と生活して行ける、そればかりでなく、
社会人類のために働ける、立派にやっていける要素になる、ということが多いのです。ですから相
129
当立派になった人、社会人類の為に働いたという人の中には、生れ出る時に難産だったり、或いは310
病弱な子であったりした場合が多いのです。病身だったりする場合に、かえって、過去世の因縁と
いうものを小さい時にかなり払っておいて、本当に働ける時に、業に禍いされないで働けるという
場合が多いのです。
ですから皆さんの中に、もしお腹の中に赤ちゃんがいて、それで難産で生れた場合には「ああこ
の子はこんな難産をして、さぞ悪い子じゃないかしら」と思わないで、あべこべに「難産して生れ
たんだから大きな業を消したんだ。この子は必ず立派になる」と思って下さい。生れ方が悪かった
から悪いということはないのです。(以上S41年5月のお話より)
問40 あなたの会の生き方、運動はどういうものですか、ときかれた場合、どう答えたらいいで
しよう。
答”己が幸願ふ想ひも朝夕の世界平和の祈り言の中” これがうちの会の一番の主旨であり、生
き方なのです。ふつうの場合は、自分の幸せを願うことと国家や社会人類の幸せを願うこととは、
全然はなれていまして、大体が自分のご利益のことだけを願う、あるいは自分の精神が深まるとい
うことだけを願うんであって、世界人類の幸せなど願いはしないんです。国家や社会人類のことを
一所懸命やる人は、政治家であったり、思想家であったり、違う範囲なんですね。
おのさら
私どもの会のやり方というのは、己が幸、つまり自分の幸せを願う想いがそのまま、世界平和を
願う想いと一緒になっている。それが祈り言にまで高まっている。個人人類同時成道といって、個
人と人類が同じ道で成仏するという、個人と国家と人類がはなれていないんです。一つにつながっ
ている。こういうのは他の会にはないんです。他の会でははなれてしまっている。
個人の幸せは個人の幸せ、国家社会のことは国家社会のこと、というようにはなれている。しか
も、国家社会あるいは人類のことを思って活動しますと、家庭が破れてしまう。家庭を一つも省み
ないというようになって、家庭生活が悪い人が多くなる。それではいけないと思います。
私は始めから国家とか人類のことばかり思い、幸せを願っていました。それでどうなったかとい
うと、個人の幸せと国家社会の幸せというものは結びつくもんだ、個人の幸せが即世界人類の幸せ
でなければいけない、ということに到達したわけですよ。それを祈り言にまで高めて、今の運動が
出来たわけなんです。これをしっかりと胸の中に入れておいて下さい。
個人と国家と人類とははなれているもんじゃないんだ、同一なんだ、ということなんですよ。こ鋭
がい
れが大事なことなのです。大概の生き方というものは、個人と国家社会人類というものがはなれて
いて、国家とか人類はとにかくとして、自分が救われたい、というんです。ところが実際問題とし
て、自分が本当に救われるということは、国家や人類が救われないと成就しないんです。個人だけ
が救われるということはないんです。経済的にも軍事的にも、国家間の紛争があればたちまち個人
の生活の平安は乱れてしまう。
悟りを開いて、肉体の生活から超越してしまえば、他の問題で自分が迷わされることはない。し
かし、そういう人は、今度は国家や社会や人類のことが心配になる。国家や社会人類のために働か
なくてはいられなくなるんです。だからやはり、国家や人類が本当に幸せにならないと、悟りを開
こうが開くまいが、本当の安心立命にはならないわけです。だから、国家社会人類を幸せにすると
いうことが、そのまま自分の幸せでなければならない、自分の幸せがそのまま国家人類の幸せでな
ければならない、ということなんです。それを同時にやっているのが、世界平和の祈りなのです。
こういうことを、深く心の中に入れておいて、他の教団とか人に聞かれた場合に、うちはこうい
う運動なのです、とキチッといってもらいたいですね。うちの人たちはみんないい人ばかりで、心
のやさしい謙虚な人が多いものだから、ベラベラと向うにしゃべられると、そうですかど聞いてば
132
かりいる。納得は一つもしないけれど、いいまくられてしまうような形がある。だから、うちの教
えはこうなんです、とキチッといえるものがなければならない。
キチッといえば、聞いた人はそんなバカなという人はないんです。国家というのも人類というの
も個人が集って出来ているんで、個人がなくて国家も人類もありませんからね。
一番大事なのは個人なんです。自分なんです。自分自身なんです。自分自身が立派になることは、
やはり国家や人類のためになることです。自分がだらしなくなれば、社会、国家人類のためにマイ
ナスになるわけです。それをしっかり胸の中に入れておいて下さい。
問41 主人が労働運動に加わっているのですが、五井先生の調和の教えと労働運動組合運動は正
反対なので、主人は悩んでいるらしいのです。どうすればよいかお教え下さい。
答革新系の労働組合というのは、資本主義打倒運動で、相手の迷惑かまわずやるというような
運動は本当はよくないんです。しかし、その前に、資本家が資本家の利益のためだけに、労働者の
生活を無視して、安く使えばいい、というような形で自分たちが儲けましたね。それが一番悪いわ
さくしゆ
けなのです。資本家が自分だけむさぼって労働者を搾取したということは悪いことなんだけれど、313
労働者が団結して、資本家をやっつけようとして、自分たちだけの利益を押しつけるのも悪いこと
なのです。悪いことと悪いこととが循環しているわけなのです。
両方共によくないけれど、そのよくない曲りくねった世界に生きているんだから、自分だけ真直
ごうごう
ぐに生きて行こうと思っても生きられません。郷に入らば郷に従えで、自然に曲って生きてゆかな
ければ生きられません。
しかし曲って生きていきながらも、曲った道をきれいにすることは出来ます。同じ曲った道にし
ても、汚れきって曲っているよりも、曲りながらもきれいなほうがいいでしょう。
そこで社会党や共産党の労働組合の運動の中に入って、自分の利益にもなるので、運動をしてい
るが、心が痛むという質問ですね。そういう時には、世界平和の祈りを祈りながら、どうか天命が
完うしますように、みんながやがてはチャンと調和して、こういう活動をしなくても済むような人
間になりますように、神さまどうかお願いします、世界人類が平和でありますように、と平和の祈
りをしてゆけば、同じ曲った汚れた中に入っていても、汚れた道がきれいになってゆくのです。
この世の中は、絶体絶命のように真直ぐにいかれない。だからみんなが間違ったことでもやって
います。やっていてもいい気持ではない。けれど間違ったことをやらなければ、自分は生きていけ134
ないということになる。間違ったことをやりますが、やりながらもその道を浄めてゆかなければな
らない。そのために祈りがあるのです。あまりきれいごとで、間違ったことを一切しない、私は真
直ぐ生きます、ではこの社会は生きられません。自分や自分の家族が常に苦しんでしまう。俗化し
ながらも、出来る限りは正しい道をゆく。出来ないことは仕方がない。守護霊守護神にお願いしつ
つ、祈りでもって浄めてゆく。そうしないといけませんね。
ホ
私はこうなる前に、中央労働委員会という労使の仲裁機関ですが、そこで労働問題の勉強をして
いました。労働雑誌の編集をしていました。静岡県では賃上げ闘争が何件あったとか、首キリ反対
の争議だった、とかそういうデーターを扱ったりしていた。それで共産党のこともよく知っている
もさ
んです。徳田球一にも会っているし、労働問題の猛者に随分会っています。そういう連中は連中で
一所懸命やっている。これがいいと思いこんで、自分の身も省みないでやっている。悪い人間じゃ
ないんですね。ところが道が間違っちゃっているのです。どんどん行くと崖から落ちてしまう道な
のです。それを知らないでワアワアとやって進んでいく。道を間違っているのを知らないで、みん
なのためと思っている。
そういう中にいましたから、やっぱり赤旗をふって、賃上げ闘争をしなければならなかった。私
135
は音楽家でもあるし歌を教えていたから、デモ行進の一番先頭にたって労働歌を歌って歩かなけれ316
ばならなかった。仲間に入っているから、いやでも応でも先頭に立たなければならなかった。
それで何を私は思っていたかというと、どうせ誰かがやるならば、私が歌をうたって先頭に立っ
ていたほうが、やっつけちゃえ、やっつけちゃえと思っている人がやるよりいい、と思った。それ
で先頭にたって祈りながら歩いた。「神さまこの人たちを助け給え、どうか平和にならしめ給え」
と祈っていた。
あなたのご主人が、その労働運動の場の中で「世界が平和になりますように、どうか、こういう
事態が一日も早くなくなりますように、みんなが平和で安定して生活出来ますように」と祈ってい
れば、それだけその職場の波がきれいになります。だから汚れた世界がいやだから、オレは死んじ
ゃうとか、こんな世界にいられるものか、というのではだめなのです。
会社の経理をやっているとします。税金のやり方が悪いから、二重帳簿を作っている社会がずい
ぶんあります。自分が二重帳簿をつける係だったとする。不正なことをしているから、いやでしょ
うがない。ところがそれをやらなかったら会社がたたない、という場合に、会社を止めるか、不平
をいわないか、どちらかにしないといけない。不平をいうのだったら止めればいい。その会社にい
る限りは、その仕事をしなければならない。それなら不平をいってはいられないわけです。そうし
た場合その仕事の中で「こういう状態がなくなって、今にすっきりといい会社になりますように」
と祈りながら仕事をすればいいんですよね。それでもいやだったら止めればいい。
よく会社につとめながら、自分の会社の悪口をさんざんいっている人がある。そんなにいやなら
止めればいいじゃないか。いやだいやだといいながら、そこにいる必要はないでしょう。悪口いい
ながら給料をもらっているバカなことはないですよ。そんな卑怯な人間になってはいけない。その
会社につとめている以上、悪口をいってはいけない。自分の置れた環境は神さまが置いて下さった
環境だと思って、一所懸命働かなければいけません。
自分のつとめている会社の悪口を聞くぐらいいやなことはありませんよ。そういうのを聞くと、
私は、ああこの人を使ったらダメだと思います。自分の会社の悪口をいっちゃいけない、と同時に、
自分の旦那の悪口、妻君の悪口をいっちゃいけない。いうならば別れたほうがいいです。ハッキリ
したほうがいい。悪口をいいながら一緒にいるのはいけません。
今度は夫婦の話になりますけれど、どうせ縁あって夫婦になり、親子になったんだから、ああこ
れは深い縁だから、どうか天命が完うされますように、欠点がうんとある男だけれども、これも私
137
に欠点があるんだから、ぶつかって消えてゆく姿なんだ、と平和の祈りをすればいいんだけれど、318
旦那の悪口をいいたい放題いっている奥さんがいます。それなら別れちゃえばいいのに、これまた
未練があって別れないでいる。おかしなことです。
やっぱり縁があって一緒にいるのだから、会社にしても、親子にしても、夫婦にしても、仲良く
したほうがいいですね。仲良くするために一所懸命努力しなければいけない。努力しても努力して
もダメだったら、止めなさいよ。これは会社でも夫婦でも同じこった。
努力しても努力してもダメなら止めて、新しい生活をしていけばいい。いるからには悪口をいい
なさんな。ここの所をハッキリしないとダメです。
われわれは日本に住んでいるんだから、日本をよくしなけりゃあならない。以前のように、日本
ホ
なんかダメだ、なんてだんだんいわなくなった。アメリヵも中共もきびしいでしょ。イスラエルは
もっときびしい。それでだんだん日本の悪口はいわなくなった。日本がいいことがわかってきたか
らね。だからいいけれど、もし悪いとしてでも、日本に生れたからには、日本のためにつくさなけ
ればならない。
縁あって置かれた環境で、一所懸命やれない人間は、どこへ行っても、霊界へ行ってもだめです。
あの世へ行っても苦しみます。だからどんな所であろうと、置かれた環境は神さまが自分を磨くた
めに置いて下さったんだ、有難うございます、といつもいって、一所懸命出来る限りをやるんです
よ。そうすると、あ㌧これはここの修行は終った、いい所へやりましょう、といってパッといい所
へ神さまがやってくれるんです。
一番いいのは、どうか神さま、私の生命をお使い下さい、とパーッと生命を投げ出せるような、
そういう気持ならば、神さまは「うい奴じゃ、よしこれを引上げてやる」とパーッと引上げてくれ
る。私などそうでした。当り前の平凡な青年、気がきくぐらいの青年ですね。それが神さまに生命
を投げ出した。とたんにパーッと変っちゃった。まるっきり変ったんですね。
一番大事なものを神さまに捧げればいいんです。生命ほど大切なものはないのだから、地位とか
メンツ
面子とか、立てるとか立てないとか、そんなつまらないものはみんな神さまに捧げちゃえばいいん
ですよ。それだけ偉くなるんです。私などそれが実に明らか。これは自分のやったことを話してい
るのです。生命を捨てざれば生命を得ず、で、新しい生命をもらったのです。そうすると、青年の
肉体の五井昌久はいなくなって、神さまの五井昌久がパッと現われた。
これは誰でも出来るんですよ。自分のものなんだと惜しがっているからいけない。私のものなど㎜
一つもありません。みんな神さまからもらったものです。カイザーのものはカイザーに返せ、神の410
ものは神に返せ、とイエスもいっているでしょう。生命は始め神さまのものだったんだから、神さ
まに返してごらんなさい。そうするとパーッと変ります。
神さま、生命をあげます、といっても、神さまから”生命はもらった” といわれたら、ちょっと
待って下さい、まだ幼い子がいますから、という人がありますでしょう。ですから、少しつつでも
いいから「すべて神さま有難うございます。神さまから生命をいただいて、ちっともご恩返しをし
ていませんから、どうぞ少しでもお役に立ちますように、じゃパンフレットを配りましょう、白光
誌を配りましょう。世界平和の祈りをやりましょう」それでもいいと思います。
少しでも神さまのお役に立つように、神さまにお返しするように、神さまにご恩返しするように
すれば、必ずよくなります。それは私がやったんだからね。それで出来た。そして性格も変りまし
た。自由自在になった。若いうちはなんでもかんでも間違ったものを正さなくてはいられないもの
を持っていた。喉笛にくらいついても、それを正さなければいられないものがあった、すごく激し
おうよう
い気性だったんですね。それがグルッと変って、ズーッと鷹揚になってしまった。あああれは時期
がくればなおる、とジイッと見ている。味方になりながら少しつつなおすようにしている。そうい
うふうな余裕が出てきたわけです。
みなさんの知恵も力も、すべて神からきているんだから、神さまと一体になっていればいい。そ
のためには、常に神さま有難うございます、守護霊さま守護神さま有難うございます、といつも神
さまと交流している、そういう心境でいれば何事でもなし得ます。
問42 昭和七十年になりますと、世界の人口が六十億になり食糧が不足する、ということが統計
に出ていると学者がいってるそうですが、神さまのほうでこれを自動的に調整するものかどうか、
その点いかがなものでしょうか。
答人口問題というのは大変な問題なんですね。しかし、七十年になると六十億になるという学
者の計算の通りになるかどうかわかりませんよ。
神さまのほうで神はかりにはかり給うて、ちゃんと食糧は不足しないようにしてくれます。人間
のほうでバタバタ自分であがかなければ神さまのほうでしてくれるんです。神智が人間に働いて、
質で量をカバーする食物などが発見されるでしょう。神の愛を信ずることによって人類は生きつゴ
けられるのです。m
たとえば泳ぎの出来ない人が、水の中に落ちたとします。バタバタもがくから沈んでしまいます。
ところが泳げる人はスーッと自然に浮いてしまうのです。それはバタバタしないから、水の心をち
ゃんと知っているから、自然に水に同化していくから浮くんです。
神さまのみ心もそうです。神のみ心を知っている人は、神さまにまかせてあるからバタバタしな
い、悠々としている。神さまの心、つまり神さまは愛であり、人間をみんな見守っていて下さるん
だ、神さまのみ心によって人間は生きているんだーーと知らないと、神さまなんかあるものか、神
だってどうにもなりゃしない、とバタバタと騒ぐわけです。それで業の海の中に沈んでしまうんで
す。ですから神のみ心を知らず勝手にもがけば沈む。それが現在なのです。
神さまは愛だから、みんな仲良く世界が手をつないで、各々の天命が完うするようにと、神さま
は思っていらっしゃる。それなのにお互いが喧嘩し合っている。個人同志もさることながら、国家
と国家は常に疑い合い、争っています。ソ連にしろ、アメリカにしろ、中共にしろ信用なんか絶対
にしてない。お互いが常に疑って軍備を増強してゆくわけです。神さまの愛を知らないからです。
人口問題でもそうだと思うのです。人間は神によって生かされているんだということを知れば、戦
きが
争もなくなれば、飢餓もなくなるし、天変地変もなくなるんです。しかし神さまの心を忘れている
142
わけです。そこで戦争も飢餓も天災もあるわけです。
大体地球界にきている人は、みんな本心は神界にあるけれども、分霊として、末の末まで小さく
分れてきているから、神のみ心に近い人が来ているのではなく、中途半端の人が生れて来ているわ
けです。それでこの世でもっていろいろな修練をして、魂を磨いて天へ昇ってゆくわけです。地球
界に現われた人には神界から天降った人は少なくて、幽界、あるいは霊界の下のほうから来ていて、
ガチャガチャやっているわけです。だから神さまのみ心が本当にわかっていないわけです。そこで
神さまのみ心がわかっている天界から天降ってきたような人が聖者、賢者になって、いろんな教え
を説いているのです。
世界平和の祈りがそこで生れたのです。神さまの光が祈りをした人の体を通して、世界人類にひ
ろがって世界人類を浄めるんだから、一人でも多く祈れば、一日も早く世界が平和になるんだ、と
いう教えをしているわけです。
この世で世界平和の祈りをしながら魂が浄まってゆけば、本来が神さまであり、神の子なのであ
り、神さまの中にいるんだから、神のみ心が自然に現われてくるわけです。枝葉の想いが出ている
こんばく
だけなのです。霊は神そのもので、魂醜として低い人と高い人とがあるのです。低い人とは汚れた413
想い、自分勝手な想いを持っているから低いのです。それが世界平和の祈りをして消えてゆく姿を414
やっていますと、いいことも悪いことも、みんな消えてゆく、あるものは神の光だけなんだ、どう
ぞ世界人類が平和でありますように、神さま有難うございます、というふうに常に神さまのみ心の
中に入っていれば、汚れたものがなくなってしまうでしょ。そうすると知らないうちに魂が軽くな
って浄まってくるわけです。
ですから来た始めは幽界からきたかもしれないけれども、この世を去る時には、もうその人はき
れいな体になって、神界へゆくわけです。あるいは肉体界を去らないまでも、この世で年をとって
きた時には、すばらしい心境になっているかもしれない。
人々をそういうふうにするために、一人でも多く平和の祈りをさせなければいけないと思います。
そのために皆さんが新聞を配ったり、白光を配ったり、いろいろしているわけです。縁あって、世
界平和の祈りに集った皆さん方は、一所懸命平和の祈りを人々にすすめて、一日も早く世界を平和
にするために努力しないといけないと思います。
大体、肉体の人間というものは、親鸞上人がいうのではないけれど、罪悪深重の凡夫なのです。
自分と同じに人のことを想う、自分の子と同じように人の子を愛そうと思ったって、思うことは思
えるけれど、なかなか実際問題としては出来ない。
海で遭難して、板切れが流れてきたとする。一人だけの目方なら大丈夫だけど、二人つかまると
沈んでしまうという場合、ハイあなたお先に、と人に板をゆずって、自分はプクプクといく人はな
い。本能的に人を押しのけても、自分だけ助かろうとする人が多いわけ。九十%がそうだと思う。
中にはあるかもしれないけれど、滅多にあるもんではない。
この世の中の生活でも、やっぱり自分のほうが先に助かろうと思っている。それによって自分た
ちは立派に生きるんだから、それはそれで仕方がない、と私は思う。仕方がないんだけども、それ
だけでは世界がよくならない。
たとえば間違ったことをしたとすれば、あるいは愛に乏しい行いをしたとすれば「ああごめんな
さい、私は過去世の業によってそのようになりましたけれど、今度一所懸命愛深い人になりますか
ら、なにとぞ愛深い私にならしめ給え」と祈って、世界平和の祈りをしていると、前には愛がなか
ったのが、とても愛が深くなってくる。しまいには、自分のことは思わないで人のためにつ
くせる
ような、そういう人間になってゆくわけです。
いっぺんに急いでやろうとすると、理想主義になって、かえって自分をいじめたり、人をさばい
145
てしまったりする。いい人で、社会運動をして人のためにつくしている、しかし自分の家は貧乏で、
奥さんから恨まれ、子供から恨まれている人が随分あります。それではいけません。折角、縁があ
って近くにいる人をないがしろにして、遠くばかりをやっていることは、神さまのみ心ではありま
せん。
まわ
やはり自分の身の周りをやることが必要なんです。身のまわりをよくしながら、しかも人のため
につくせる。それは法施といって、法、道を施す、世界平和の祈りの教えをみんなに知らせること
が、自分もよくなりつつ、別に大した資本もかからず、労力もかからなくて、人のためになる。そ
ういうふうなことを神さまは私を通して説かしたのです。だから皆さんは自分の家庭の仕事を一所
懸命やりながらも、世界平和の祈りをしていらっしゃればいい。そうすると自分もよければ、人も
いいわけです。
キリスト教が今日まで発展してきたのは、犠牲精神が非常に貢献してきたわけだけれども、キリ
スト教を信奉し伝道するために、首を斬られたり、礫になったり、惨殺されたりしてきています。
これは、いい悪いの問題ではなく、時代的にキリスト教が発展するために、そういう歴史を辿らな
ければならなかったのですけれども、やっぱり今の目で見れば、あまり嬉しくありませんね。
146
自分の兄弟なら兄弟、あるいは親、あるいは子がキリスト教だからといって、礫になったら、そ
れをみている肉親は非常に情けないですよ。そういう情けない想いを親類縁者に与えることは、時
代的には仕方がなかったけれど、私はあまりいいとは思わないのです。現代の教えとしては、自分
も痛めず、しかも人のためになるという、そういう生き方が必要なわけです。そこで生れたのが、
消えてゆく姿で世界平和の祈りというやり方なのです。
問43 何ものにも侵されない自分になるには、どのような道を進んだらよろしいでしょうか。
答簡単にいうと「我」をなくすことです。この世に現われている肉体の自分、幽体の自分とい
ヘへ
うものをないものにするわけなんです。あるものは仏である自分、神の子の自分です。神の子の自
分というものは、神さまそのもののみ心で現われているから、神をはなれた自分というのはないわ
が
けなんです。そうすると神をはなれた肉体の自分というものは、即ち我なわけですよ。その我がな
くなっちまえば何ものも恐れないし、自然な姿でスーッと生きていられるわけなんですよ。
が
ところがその我をなくすことはなかなかむずかしい。そこで私はあらゆる日常茶飯事の出来事の
中において、その我を少しつつ消していく方法を説いているわけです。なにか自分の気に入らない瑠
ことが現われてきたら、ああこれは過去世の因縁の消えてゆく姿。いやな人間が現われて、自分が
さんざん尽しているのに、向うでぶつかってきたりするのがあります。その時、過去世の借金が消
えてゆくんだ、自分の業が消えてゆくんだ、というようにすべてあらゆる面で起った嫌なこと、不
幸なこと、そういうことをすべて消えてゆく姿と観じるわけです。そして世界平和の祈りの中で、
守護霊守護神に全部お返ししてしまう、すべての想いをお返ししてしまう。そうすると自分の中の
業が消えていって、自分だ自分だと思った肉体の自分が、いつの間にか神の子の自分に変ってくる
わけです。
そうなるに従って、恐怖の想いも少くなり、怒りの想いも、いらだちの想いも少くなり、妬みや
憎み恨みの想いもだんだん少くなってくる。しだいしだいに少くなってきて、しだいしだいに神の
子の姿が現われてくる。そういう方法を私はとっているわけです。
本当はズバリと、肉体も何もないんだ、すべて神のみ心の現れなんだ、自分というものはないん
だ、とパッと投げ出してしまえばいいけれど、それは理想論であって、なかなかできないのです。
それがそのままできれば、昔からお釈迦さまが出たり、キリストが出たりして、真理を説いている
んだから、みんな立派になりそうなものだけれど、できないわけです。お釈迦さまとかイエスさま
148
とか、法然、親鸞とか弘法とか道元とか、立派な人はできたけれども、ふつうの人にはできないわ
けなんです。できない人たちのために、法を説きに現われたのが私なんですよ。
くうむいが
どう説いたかというと、空になれとか、無為になれとかいわないで、我を捨てうともいわないで、
が
現われてきた出来事の中で消えてゆく姿という言葉を使って、我をなくさせてゆくわけです。消え
てゆく姿で世界平和の祈りを長い間やっていると、いつのに間か、全然やらなかった自分と、やり
始めてからの自分では、まるっきり違った、浄まった脱皮した人間になってくるわけです。
あ
だから焦せらないで、一生かけてやるつもりで生きてゆけばいい。パッと悟ったつもり、パッと
脱け出したつもりでいましても、また次の段階にゆくと、壁にぶつかってしまうんですよ。ああ俺
は立派になった、なんにも把われなくなった、なんてある時は思うんです。しばらくたって、何か
業想念が出てくると、それにひっかかってしまって、できたと思ったけれど俺もだめだナ、できな
かった、と反省するわけです。悟ったつもりでできなかった、ということが何遍も何遍も繰返えさ
れる。繰返えされていくうちに、いつの間にか何ものにも把われない自分になってゆく。そういう
ものなんです。
人間の世界というものは、やがて誰も彼もがみんな神の子の姿を現わし、みんな仏の姿を現わす幽
時がくるわけです。その時が地上天国なんです。そうなるまで、やっぱり自分たちで努力してゆか501
なければならない。
メンソ
あいつは私の面子をたてなかった、俺に黙ってやった、私のいうことをきかなかった、というよ
うに、いつもいつも俺、自分というものがあるわけです。その自分というものがなくなれば一番い
いんですよ。自分をなくすためにはどうしたらいいかといったら、一所懸命すべては消えてゆく姿
なんだ、自分も人もないんだ、すべては神のみ心が現われているんだ、という風にひろいひろい心
になる。
ホ
それで私はよく錬成手帳に書きます。「寛容の美徳を備えよ」宗教をやっている人というのは、
寛容でゆるしの心が多いし、とてもおだやかな人と思うでしょう。ところがある面では広い心にな
るんですけれども、教えなら教えに把われると、狭い心になってしまうんです。自分の道というの
を決めてしまいますと、その道に叶わないものは、みんなバカに見えちゃったり、だめに見えたり
するんです。
ところがそうでないかもしれない。あんなのだめだと思っていた人が、案外三年、五年たってス
ーッとすばらしく伸びてゆく場合もあるわけです。だからだめな人間はないんで、まだ縁にふれな
いとか、機縁が熟さないとかいうことなんです。あいつはバカだ、頭が悪い、ときめつけてはだめ
なわけです。
それから先輩が後輩をみて「あの人はこんなことが出来ないのか」といつも腹が立ったりする場
合もあるわけです。たとえばうまいバオリニストが、へたくそなバイオリンを聞いて、しょうがな
いなと思うのは無理ないでしょう。けれどもう一歩立派になると、大きな目、広い目で、「自分は
長い間やってきてわかったけれども、ああまだわからないんだな、よし一日も早くわからせるよう
にお祈りしてあげましょう。あの人の天命が完うされますように、あの人の叡智が開きますように、
本心が一日も早く開きますように」という愛の祈りをしてあげればいいわけです。それを頭ごなし
に「そんなのまだわかんないの」と小言をいったんじゃ、身もふたもなくなってしまいます。みん
なお互いがわからないで大きな力にすがってくるわけですから、やっぱり愛の心、ひろい心、寛容
の美徳をもって、面倒くさくてもいちいち説いてやる、ということになるわけです。
問鱗人間が神によって生かされている、という尊さと、
して昇天するその意義深さをお話し願いたいと思います。
人間が肉体界における義務をおわりま
151
答肉体は一つの現れなんだ、とか、本当の人間性、人間の生命が現われた一つの形が肉体なの521
であって、肉体は実在じゃないんだ、といくら説いてもなかなかわからない。何故かといいますと、
肉体という衣をピッタリとまとっていまして、肉体の中にすっかり入りこみ、肉体の中で考え、肉
体の中でものをたべ、働いている感じですね。ところが実はこれは粗雑な一つの波にすぎないんで
す。
万事はみんな波動なのです。ここに机があります。これは木で出来ています。木はいろいろな元
素で構成されています。元素は原子で出来ています。原子は電子と陽子で出来ていますね。陽子は
素粒子によって構成されています。素粒子は字の通り粒子であると同時に、波動でもある。結局波
動の現れがこの形になっているわけです。みなさんの肉体も波動なのです。心もやはり波なのです。
噂をすれば影とやらで、誰々がなんとか、というとその人が来たりするでしょ。それはその人の波
を感じるわけですよ。万物はすべて波動なのです。
あら
ただ精神波動と物質波動があるわけです。簡単にいえば微妙な波動が精神波動で、粗い波動が物
質波動なのです。肉体というものは粗い波動なのです。幽体は肉体より微妙になり、霊波動はそれ
よりもっと微妙、神霊波動というものはもっと精妙微妙です。人間というのは、微妙な波動から粗
い波動にまで広い範囲で現われてくる。微妙な体を何重にもまとって、肉体界にいるわけです。今、
肉体肉体と肉体ばかりのことを思っているけれども、実は肉体の波動の現れを終えますと、今度は
幽体なら幽体に、霊体なら霊体にゆく。
いいかえると、神さまの世界があって、神さまのみ心から生命の光が流れてきている。それが肉
体界まで届いて、肉体の波動を作っているわけです。その光が肉体をはなれて幽体まで行っちゃう
と「死」ということになる。また幽界から霊界のほうへゆくと、幽界もなくなってしまう。霊界か
とど
ら神界のほうへゆくと霊界もなくなっちゃう。というふうに光が来ている所、光が停まっている所
があるわけです。
とど
今みなさん方は光が肉体に停まっているわけです。生命の光が肉体にとまっている。そこで働い
ているわけです。だから肉体の人間が自分だと思っているわけです。肉体の人間が死んでしまうと
いうことは、生命の光が肉体をはなれることです。霊線というのが後頭部にありまして、その霊線
がきれて、光がはなれてしまうと肉体がパタッと倒れて死んでしまう。そうなると、肉体の自分が
まずなくなっちゃう。しかしなくなったんじゃなくて、本体は天のほうにあるわけですね。他の微
妙な体のほうに移動してゆくわけです。今度は霊体の中で生きている。だから肉体が死んだからつ塒
て「人間」が死んでいるわけじゃないんです。永遠に生きているわけです。無限に進歩して生きて514
いるのです。
それを肉体だけと思う癖が長い間ついているのです。毎朝おみおつけを食べなきゃいられない人
は、おみおつけを食べなきゃいられない。タバコをのんでいる人は知らないうちに、パッパッとす
っている。全然無意識にのんでいますよね。あきらかに癖です。そのように人間は肉体だという想
いの癖がついているわけです。それをお釈迦さまとかイエスさんという聖者は「人間は肉体じゃな
いんだ、神のみ心なんだ、生命なんだ、光なんだ」というわけです。それで説明するんだけれどわ
からない。私たちだとよくわかる。そういう世界をよく知っているわけ。村田さんも霊界通信に書
いています。肉体をはなれたけれど、霊界で生きている人を書いています。あのように霊界には霊
界の生活があって生きているわけ。そこでこちらの世界でもってあらゆる苦しみをなめたり、修行
したりして、魂がきれいになっていると、いい所へいくわけです。
りんねてんしよう
肉体をぬけて幽界へ行ったり、霊界へ行ったりします。それも輪廻転生の世界なんです。しか
し輪廻転生しない、生き通しに生きている本当の世界があるのです。それはどこにあるかというと、
神さまのみ心の中にある、自分の本心が神さまの生き通しの生命にありながら、肉体の波動のほう
はグルグル廻っていることを知っているということになれば、これは菩薩。ある時は肉体へ行って
人のためにつくす。ある時は幽体へいって迷っている人を救い、ある時は霊体へ行って光を放つ、
というふうに、尽している自分を知っている人になれば菩薩さま、あるいは仏さまになるわけね。
皆さんも今は気がつかない、あるいは気がついている人もあるけれども、知らない間に世界のた
めにつくしているのです。世界人類が平和でありますように、といつもいつも世界のことを思い、
人類が平和であるようにと祈っている。それは大勢の人のことを思っているわけですね。それは愛
の行為です。愛の行為をすることを菩薩行というのであり、常に人のためにつくしている人を菩薩
というのです。
皆さんは、いつも世界平和の祈りをして菩薩行をしているわけですね。だから、この肉体の小さ
な自分にいるように思うけれども、知らない間に、実は人類という大きな広い世界に生きているわ
けです。だからそういう広い心を持っていれば、肉体をはなれても霊界のいい所へ行くわけです。
想いが常にどこにあるか、どこに住んでいるのか、肉体界のみに住んでいるのか、あるいは神さ
まのみ心の中に住んでいるのか。神さまのみ心の中に住んでいれば、自由自在に生きられる。生き
て肉体にいても自由自在、死んであちらへいっても自由自在。肉体にこびりついていれば、肉体に莇
いても自由自在じゃないし、死んだ世界ではまた不自由な波の中に閉じこめられてしまう。すべて516
が自分の想いによってきまりますね。だから、想いをいつも神のみ心の中において、明るく人のた
めに尽して生きていれば、その人は自由に生きられる。これはお話でなくて事実がそうなんです。
問45 仏教では「諸仏無我」といいまして、我を認めておらないように思えるのですが、また霊
魂不滅説も否定しているように思えるのですが、先生のおっしゃる幽界を迷うということは、業想
念が輪廻転生することを指しているんでございましょうか
答お釈迦さまは霊魂不滅を説いています。幽界とか霊界とかいう言葉は使っていないけれども、
そういう世界のあることを説いています。間違った仏教者が霊魂がないとか、この世だけのことを
説いているのです。
こんばく
それから生れかわるというのは霊そのものではなく、魂暁が三界をぐるぐると輪のようにめぐっ
て生れかわる、輪廻転生するわけです。肉体界、幽界、霊界の下層が三界で、霊界の上層から神界
へ行ってしまうと、もう生れかわらない。もし生れかわるような場合には、菩薩として人類救済の
ために生れてくる。人類救済のために生れてくる人は比較的少なくて、大体輪廻転生して、その中
で本心を開いてゆくという、そういう生れ方をしているわけです。
ところがこの世の中で、世界平和の祈りのような人類愛の祈りをつづけていますと、いつの間に
か自分が菩薩に変ってゆくわけです。業生の自分として生れてきたんだけれども、その業生の自分
は神さまの光の中に全部消されてしまって、知らない間に菩薩の心になり、菩薩の体になって生き
ている、という人がたくさんいるわけです。
人間は肉体としては凡夫だから、凡夫でいいんだけれども、凡夫の自分ということがわかります
と、凡夫の自分、肉体の自分では何事もなし得ないんだから、神さまのみ心に従って、神さまのみ
心の中に入り、自分の天命を完うしてゆこう、という気持になります。そして、神の秀心の中に入
ることを行じていますと、いつのまにか凡夫の自分がなくなってしまって、菩薩の自分、神の子の
自分がそこに現われてくるのです。ですから輪廻転生しながらも、いつのまにか神の本性を現わし
てゆく。輪廻転生の中に本心を現わすということが、消えてゆく姿で世界平和の祈りなのです。輪
廻転生の中で悪業を巧みに善業にかえて、それを天に上る梯子にして、神界に上ってゆくわけです。
その方法が世界平和の祈りなんです。
157
問46 この世の思慮分別はどの程度必要でしょうか。
答やっぱり自分で考えるだけ考えたほうがいいですね。それでどうしようもない時に、一所懸
命祈りなさい。そうすると必要なことがひらめきます。
頭があるんだから、考えたり勉強したり知識を吸収したりすることは必要ですよ。これを間違え
ヘヘヘへ
ちゃいけませんよ。まかせるといって、なんにもしないというのはまかせたことではないのです。
人事を尽して天命をまて、という言葉があります。私は天命を信じて人事を尽せといいます。この
世に生れたからには、必ず天命があるんだ、ということを信じて、一所懸命人事を尽さなければい
けない・そうすると、どこからどう”う天命が生れてくるかわかりません。
考えることもそうです。考えるだけ考えなければいけない。考えつめたら、ああこれはもう自分
で考える範疇じゃないなア、と神さまにスパッとまかせる。守護霊さん守護神さんどうぞよろしく
って、スパッとまかせてしまう。考えもしないでまかせたってダメですよ。何かテストがあった。
考えないで神さまにまかせておいた、では何も出てきやしません。やっぱりこれはどうだった、あ
れはこうだったと考えているうちにピシッと閃めく。一所懸命やっているうちにピーンとひらめい
てくる。
158
だから人事を尽さないとだめですね。人事を尽さないで神さまにまかしたって何も閃めいてこな
いし、わかって来ない。
問47 “汝善き人なり” という錬成手帳にお書き下さる場合、どのへんまでおまけして、よき人
とおっしゃって下さるんでしょうか。
答善き人というのは、やっぱり愛の深い人のことです。自分のことしか考えないで、いつも人
の立場を思いやるとか、人のことを考えられる人。それから人を暗くしない、その人に会えば、な
にかと慰められる人、なんとなく明るくなる人、なんとなく力になる人とかいう人も、いい人のほ
うでしょう。それからあまり嘘のない人、裸の心の人、虚飾で飾っていない人、そういう人もいい
人だと思います。善き人といってもいろんな範囲でありますけども、少しでも人のためになれる人
はやっぱりいい人だと思います。
それからもう一つ。ふつういい人といわれて、あまりよくない場合があるのは、自分をあんまり
いじめるからです。自分をいじめる人ははたからみていい人でいいんだけれども、神さまからみて
いい人でない場合があるんです。だから、あまり自分をいじめない、自分を責め裁かないで、人も
159
責め裁かない、常に明るく人のためにつくしていられるような人は、いい人といえるんです。少し601
でも人のためになる人を善い人と定義づけましょう。
人のためにならない、その人がいるためにまわりが暗くなってしまう、その人が入ってくると家
中が暗くなっちゃう、そういうのはいい人といえません。悪いことをしなくても、世の中を暗くす
るだけでも悪い人です。ですから世の中を明るくする人はいい人です。簡単にいうとそういうこと
ですね。
問48 神さまにおまかせする心とか、自分で努力するとかいうことは、肉体人間のカがどれだけ
入っておりますでしょうか。そういう信のカも守護霊さま守護神さまのお力なんでしょうか。
答自分を立派にしようとか、人のためにつくそうとかいうのは、守護霊守護神を含めた本心の
現れですから、守護霊守護神の力といってもいいんです。そして常に肉体の自分というものの損得
を考えて行う時は、それは業なのです。三界を流転してゆく輪廻転生の想いですね。それを超越し
た時、それはすばらしい神さまのみ心と同じになるのです。
自分を立派にしよう立派にしようというのは、神のみ心がそこに現われて、立派にしようという
形で、立派であれという心が、今度は転化されて、立派になろう立派になろうと現われてくる。
ということで、守護霊守護神の心でもあり、本心の心でもあるということです。
問49 如是我聞の「一つの偶像、一つの教えというものがあっては、自由自在になれない」とい
うこの要旨について巾広くご指導下さい。
答一つの偶像一つの教えに把われていては、自由自在になれないという意味ですね。それはど
ういうことかというと、どんないい教えでも、こうしなければならない、とそれにしがみついてい
ると、人間がとても狭くなって、他のことが容れられなくなっちゃうんです。他との融合が出来な
くなっちゃう。
この世の中は偉い人ばかりいるんではなくて、凡夫の世界です。ですから自分だけがぬきん出て、
これだと思っていますと、ふっう一般の人と差が出来すぎてしまいまして、その人だけが浮いてし
まうんです。孤高ということになる。
じゆんぼう
それは私のとらないところでね、自分は立派な教えを遵奉し、立派な行いをしながらも、しか
も立派でない人とつき合える、立派でない人のやり方も、ああそれもしようがないな、業がこれだ瑚
けあるんだから、とか、ああいう環境だからしかたがないとか、同情が出来る。しかもそれに融合612
しながら、その人たちを引っ張りあげてゆくそういう心が大事なんですね。
自分だけが高ければいい、というのではだめだと思うんですよ。テレビを見ていましたら、ある
坊さんが話していました。人のことは省みない、自分だけが立派になることが宗教に徹することで
あって、自分だけ磨けばいいんだ、ということを話しているんです。それも一理あるんです。自分
を磨いて磨いてゆくことが、他にも及ぼすから意義があるんですけども、そのお坊さんのいい方だ
と、聞くほうがわからないですよ。
自分のことだけ思っていればいい、他のことはまずおいて、というふうに聞くほうには聞えてし
まう。もっと深い意味でいったんだけれども、聞くほうにわからないと、誤解することになる。そ
れでは説き方が足りない。私はなるたけ聞くほうが誤解しないように、くどいくらいにわかりやす
く説いているんです。
自分が立派になるためには、まず、なんの誰某として赤ちゃんの時から五十才まで生きてきた、
その自分というものを捨てなければだめなんです。肉体世界に生存して、肉体生活のいろんな習慣
をつけている自分というものがそのままいたんでは、偉くなっても大したことはないのです。だか
ら自分というものを一遍捨てないと、どうしても本当の自分が現われない。お茶碗のふたをしてい
て、お茶をのもうというようなもので、ふたをあけなきゃ飲めないでしょ。
ふたをしておいて、これを自分だ自分だと思いながら、この自分をはなさないで、偉くなろうと
思っても、中味も出てこなければ外からも入れないんです。
自分というものをパーッと裸で捨ててしまって、天のみ心だけで生きるということが大事です。
くう
それが空になれとか、無為にしてなせとかいうんです。ところがそれがなかなか出来ませんでしょ。
そこでなにか出てきた時には、ああ消えてゆく姿だなあ、ああこれで少し本心が現われたんだ、あ
あ消えてゆく姿だナ、とやっているうちに、スーッと本心が開いてしまう。それを教えているわけ
です。
観音像なら観音像があるとする。そればかりに把われていたらそれは偶像になってしまう。観音
さまの教えがあっても、自分の魂を磨くもので、自分の本心、あるいは守護霊守護神を”観音さま
“
といって、観音さまにうつし植えて、観音さまの姿として現わす、という形で祈っていれば、それ
は偶像になりません。
そういうふうに、形の世界の観音さまなら観音さま、形の世界のお釈迦さまならお釈迦さま、お瑠
宮ならお宮という形をみていて、いくら祈ってもそれは偶像になってしまう。その形の中に、自分
の本心、自分の守護霊守護神をうつし植え、観音さまとうつし植えて「ああ神さま有難うございま
す、守護霊さま守護神さま有難うございます」という形でやれば偶像でなく生きてくるわけです。
それから一つの教え、たとえば世界平和の祈りをしなきゃならない、祈りはいい、これはわかり
ますね。そうすると、誰かと話しをしていても、世界平和の祈りをしたい、時間がきたわけね、と
ころが向うは話をしている。「今ネ、私お祈りの時間だからちょっと帰って下さい」といったら、
もし大事な人だったら腹がたちますよね。そういう時には時間をゆずってもいいから、世間の交り
をすることです。時間をずらしたっていいし、その時ぬかしたっていいし、自由自在にやらないと
狭い心になるし、世間との釣合いがとれないわけです。
だからどんないい教えであっても、それに把われていると、心が把われちゃって自由にならない
わけです。教えというものは人間の心を自由にして、本心が開くとともにしかも人類のために尽せ
るようになることが、うちの教えでしょ。教えというものに把われてしまって、自分を不自由にし
てしまって、どこに出かけるのも出かけられない、人と話すことも話せない、平和の祈りをしなき
ゃ、勿体ない、あんな人と話しているより平和の祈りをしなきゃ、というんで、今日は留守ですっ
164
て断っちゃう。これでは単なる肉体の自分だけです。
人とつまらない話をしていても「ああそうですか」この人の天命が完うされますように、とやっ
ていれば、その人に光が行きます。向うはただベラベラしゃべっていても得をするわけです。あち
らも生き、こちらも生きてくるわけです。そのうちにその人のおしゃべりも止まっちゃうかもしれ
ませんよ。
そういうふうに、会う人会う人の中に教えがしみこんでゆくようにするためには、自分が教えに
把われていたんでは、その人は人のために働くことは出来ません。自分を慰めているだけです。だ
から教えを自分の中にしみこませて、魂そのものにしてしまうんです。そうするとすべてが生きて
くるわけです。いつでも心が自由自在になること、把われがなくなるということが、宗教の極意だ
ということを知りながら、教えを行じてゆくことが一番いいことです。
これは女の人に多いんですが、自分が権力があって人が集まる。お金持で人が集まる。そうする
と、人を集めたことで自分がたてられる。私は偉いんだと思って、講師の人など問題じゃないよう
な人がいます。それは宗教的の悟りの道にゆくかというと、絶対にいかないです。それが、ああそ
うじゃないんだ、私がするんじゃなくて神さまが、守護霊守護神さんがこういう役目にして下さる鵬
んだ、ということになるとスーッと救われるけれど、私が私が、といううちは救われない。
こんなに大勢導いた、だから先生はさぞかしほめてくれるだろう、と思うと、先生はほめない。
かえって欠点を直せ、というと、怒っちゃって、なんだといってはなれていったりする人があるん
です。こんなのは全く救われない。
どんなに人を集め、人を救ったように見えようとも、オレが偉いんだ、オレがオレがとやってい
る人はバカだと私がいうんです。よくよく考えてごらんなさい。
自分が自分がというけれども、自分で生れたわけじゃない。お父さんがありお母さんがあって生
れた。しかしお父さんお母さんが作ったわけでもない。神さまの生命がここに現われて、脳なり、
心臓なり肺臓なり、みんな作って、こう現われているんです。それをあたかも自分の体は自分が作
ったように、自分は勝手に自分の力で生れてきたように思ってしまう。それで自分は偉い偉いと思
ってしまう。一番はじめの、神さまからきた生命だということがわかっていさえすれば、自分が偉
いとか、自分がなんとか思いやしません。自分は偉いんだ、自分は才能があるんだ、といっている
人は、壁にぶつかって、ガチンとやられて、またやり直ししなければならないですね。
人を導きながら、人のために働きながら、しかもそういう立場において下さって有難いな、神さユ
66
ま有難うございます、私がこういう立場におかれ、人様のために道を説かされていられるのは有難
いなあ、有難うございます、というふうに常に常に感謝しているような、謙虚な心だったら、その
人はうんと偉いんです。そういうようにならないといけませんね。
肉体の自分に把われてもいいけれど、この肉体はすべて神さまから頂いているとか、預かってい
るとか、受身の形になっていれば、感謝はいつも出てくるし、自分が偉いなんて思わないです。そ
ういう生き方をするのが、本当の宗教者の生き方です。
問50 今、先生がおっしゃいました自分を一たん捨てるということについてくわしくご説明下さ
いませ。
答この肉体に現われているものは、ただ単なる現れなんです。本当の人間というものは神界、
霊界にいて、光り輝いているものなのです。それが本体です。肉体というのは映画のスクリーンに
うつしよ
映っているんです。この世を現世といいますが、映っているんです。映しているほうが本当の自
分なのに、映っているほうを本物と思っている。テレビでも、坂本竜馬なら竜馬がそこにいるよう
な感じがしてきます。あれと同じで、ズーッと長い間つづいている、生れかわり死にかわりして、617
うつしみ
それが本物だと思っている。ところがそれは現身、映っているんです。現われている。
現わすほうが本物なのに、現われているほうが本物だ本物だ、といってたんではしょうがない。
ところが、本当の自分はどこにいるかわからないわけだ。肉体に現われているものが本物だ、と思
くロつ
っているうちは、本当の自分を探してもわからないんです。そこで肉体の想いというものを一度空
にする、という意味で、禅宗では坐禅観法をして、自分の肉体にまつわる想いをなくそうというわ
けね。また他の宗教宗派では滝にあたったり、断食したり、難行苦行して肉体から想いを去らせよ
うとしているわけです。
私はそんなことをいうのではない。肉体はこのままで現われて有難いんだから、このままでいい
わけ。そこで、いつも想いを転換して肉体ばかりにまつわっている想いを世界平和の祈りという祈
りによって、神さまの中へ守護霊さん守護神さん有難うございます、と想いを転換してゆくわけで
す。世界人類が平和でありますように、という広い範疇の中に自分の想いを入れてしまうんです。
そうすると、肉体がありながらも肉体に把われていないで、いつも想いは世界平和の祈りの中に
入っている。人類愛の祈りの中に入っている、ということになる。すると自分だけをわざわざ空に
なってなくそうとしなくとも、自分に把われている想いがだんだん少くなってくるんです。想いが
168
いつも小さな自分の中に入らないで、大きな広い人類というものの中に入ってゆくのです。入って
ゆくとそれだけ自分がなくなってゆくわけです。
とにかく、自分というものに把われている以上は、救われることはないんです。悟りの世界へも
いかないし、あの世へ行ってもいい所へいかない。この世でもあまり安心立命しない。天に自分が
ある。地上には現われている自分がある。現れにしがみついていたら、本体に届かない。現れの自
分から離れて、天なる自分のほうに入ってゆけば、天の自分は現わすほうですから、現われている
自分もきれいになってゆく。天なる自分は現われている自分を自由に出来る。地上の自分は天の自
分を自由に出来ないんです。
自由に出来る本体の中に入ってゆけば、自由自在になる。不自由な自分にしがみついていれば、
不自由になってしまいますね。そこで肉体の自分に把われないで、本体の自分に入りなさい、とい
うのです。本体といってもわかりにくいでしょうから、神さまといい、守護霊守護神さんといって、
この中に自分の想いを入れてしまう。それを行いに現わせば”世界人類が平和でありますように
“
という祈りの行になるわけです。
祈りの行の中に自分が入ってしまうから、この不自由な自分に把われている時間が少くなるわけ
169
です。それだけこちらが自由になるのです。710
みなさんは裸の心でやって下さい。神さまにみられても恥ずかしくない。「どうぞ神さま見て下
さい。足りないところはたくさんあります。しかし私は一所懸命足りるように勉強しますから、一
所懸命浄めますから、どうぞ長い目でみて下さい」という気持で裸の心でやればいい。この肉体界
にいる限りは、どこかしらに欠点があるに相違ない。神さまは百パーセント理想的な立派な人間に
なれ、とはいわないんですよ。なれっこないと思っているのだから、欠点があるけれども、私は一
所懸Aoやっています、欠点を直すように、反省し自分が立派になるように一所懸命精進しています、
ういと
そうやって裸でみせればいいんですよ。そうすれば「愛い奴じゃ、汝神の愛し子よ」と神さまは引
き上げてくれます。偉そうに、出来ないことも出来るように、自分をごまかしたりかくしたりして
いると、バシャッとやられますよ。
問51 明け方老婆の生首の夢をみました。一所懸命統一してお祈りをしました。昨夜国分寺の原
っぱを夜道ですが、歩きました時、生首そっくりの老婆とすれ違いました。その時とても妖気を感
じました。夢で判断することはおかしなものでしょうけれど、始めてそんないやなものをみたもの
で…
答それはたしかにうしろに誰か慧いていたのです。けれどそれさえも消えてゆく姿と思って、
平和の祈りへ入れていけばなくなってしまいます。夢をみたら、それにひっかからず、ああこれは
過去世の因縁が消えてゆくんだというように思って、守護霊さんに感謝して平和の祈りの中に入れ
て下さい。観を転換させることです。過去世の因縁を守護霊さんが夢に現わして消してくれるんで
す。さめれば消えてしまうんです。折角、守護霊さんが消して下さるんだから、ああこれで消えて
ゆくんだな、大丈夫なんだな、というふうにしてお祈りの中に入れてください。それが正夢と思わ
れようとなんでも、消しちゃったほうがいい。現実に出ないで消えてしまいます。
人間の肉体の世界というのは、神さまのみ心を現わすと同時に、過去世の因縁を消してゆく場な
のです。だから、生れてからこのかた、五、六十才になっていて、悪いことが一つもなかった、な
んていう人は一人もおりません。なにかしら不幸があったり、悪いことがあったりするんです。し
かしそれは悪いことではなくて、過去世の借金をどんどん返している姿なんです。だから本当はす
べていいことなんです。
たとえば借金があったら、そのままでいたら苦しくてしょうがないです。少しぐらい苦しくても
171
返してゆく、しまいに全部返した場合には、なんともいえないいい気持です。返されたほうも喜ぶ712
し、返したほうも気持がいい。それと同じように、過去世のことはどこで借金をしたかわからない
けれど、守護霊守護神のほうで少しつつ、その人がこらえられる程度に、病気にして現わしたり、
不幸にして現わしたりして、どんどん消してしまうんです。そして魂がきれいに磨かれてこの世で
働く。
この世で魂がすっかりきれいになると、あの世へ行った時はすばらしい高い所へ行くんです。こ
れは昔からのいい伝えで、本当のことなのです。だからこの世において、いかに生命を洗濯してゆ
くか、生Aoがいきいきと働けるようにするか、過去世の業を浄めておくかが大事なんです。
そこで、どんなことが現われてきても、ああこれは過去世の因縁が消えたんだな、これによって
私の運命はよくなるんだな、私の魂はますます磨かれたんだな、というふうに感謝にかえてゆくわ
けですね。そうするとどんどん魂が開いてきます。
私がいつもいうせりふなんだけれども、この世でどんなに長生きしたって、百才ですよ。百才な
んていうものは宇宙の運行からみれば、ほんのわずか、一瞬です。過ぎてしまえば一瞬です。今、
五、六十になった人が、過去をふり返ってみれば一瞬です。ああ長かったナなんて思わないです。
過去の辛いこともみんな楽しい思い出。あああの時はよく乗りこえられてきたな、オレも満更でな
かったな、とか思って、自分でかえって辛いことでさえも楽しい想い出になるんです。想い出とい
うものは僅かの短い感覚なんです。だから百年なんていうものは、本当をいえば短かいんですね。
宇宙の永遠の生命というものは、何億年、無限億万年ですから、その中の百年など一瞬です。で
すから本当は五、六十年まるまる苦しんだって、たかがしれている。無限億万年苦しんじゃったら
大変だもの。千年苦しむより、百年苦しんだほうがいいですね。この肉体界というのは、業をとる
ために非常にいい場所なんです。肉体界でいかに苦しみがあろうと、一瞬すぎれば、時間がたてば
忘れられる。それからうんと痛い場合には気絶してしまう。そういうようにフッと助かる抜け道が
あるわけです。
悪いことをしたらすぐ現われて、すぐ苦しめられちゃうわけではないんです。時間があるわけ。
その間に善いことをすれば、不幸がズーッと和らいでくるわけです。そういう肉体界といういい環
境におかれているわけなんです。
それで肉体界に生れないで、幽界で人間にもならないで、動物ともつかず、なんともつかない生
物がいっぱいいるんです。幽界には肉体界に人間として生れられないで、霊界にもいかれない、幽
173
界で迷って、折があらば馬鹿な人間にとっついて、その体を借りて浄まろうなんていうのがずいぶ74
1
んいるんです。それにくらべると、肉体の人間として生れてきて、そこであらゆる苦しみがあって
も、苦しみによってどんどん業を消してゆく、そういう立場は実に楽です。限度があるから。ある
点までくれば必ず消えちゃうんです。
幽界の生物で、幽界でゴソゴソしているのはいつまでたっても消えない。だから肉体の人間に生
れたことは得難いことだ、人身得難し、といってその有難さも感じて、少しぐらい不幸や嫌なこと
があっても、ああこれは消えてゆく姿だな、これによって私は天命が完うされてゆく、私の本心は
開いてゆくんだな、私の行く霊界はいいんだな、というふうに思って感謝して下さい。
問52 お墓の問題ですが、心霊科学でいろんな解釈をされていますけど、キリスト教のほうでは
お墓について違う解釈をしているようです。五井先生はどのようにお考えでしょうか。
答お墓というものは故人をしのぶもので、お墓がないと魂が迷うということはないんです。た
だみんなが長い間そう思っています。東洋人なかんずく日本人は長い間そう思っています。墓がな
ければ… … という想いが強くなって、墓がないと迷うというような形になっている。けど墓があろ
うとなかろうと、こちらがお経をあげたり、亡くなった人の天命が完うするように祈ったりしてい
ればいいんだけれど、その場所がありませんでしょ。仏壇だけでいいんだけども、お墓というのが
慣例的に出来ている。それでお墓にいって祈ることはいいことだと思うんです。
でもお墓がなければ絶対だめだ、ということじゃないんです。墓にきている霊魂というのは迷っ
ているのが多いんです。肉体を去ったら、霊界がないと思っている人が死ぬと、墓へきているわけ
です。悟った人などは墓にはいません。はかない最期をとげた人(笑)がいる。
立派な霊というのは自由に霊界で働いているんで、肉体よりズッと立派な人です。肉体をまとっ
くらい
ていますと、働きが自由でない、霊体だけだと自由です。同じ霊魂の位だったら霊体のほうがズ
ーッと自由です。そういうものなんで、墓には迷った人だけがくるんです。
墓がなければいけない、というもんではないんです。ただ慣例をわざわざ破ることはありません
からね、墓があっても大地が足りるうちはいいけれども、今に人口が増えていったら、墓地なんぞ
とれませんです。墓地をこわして家を建てるようになる。ボチボチそういう傾向があって(笑)、
墓地を売って食べているお寺もある。
大体、生きているほうが先なんで、死んだ者は死んだ者に葬らせよ、とイエスもいっているけれ
175
ど、霊界のことは、ただ墓地を作ったりする形の上だけじゃないんです。真心、祈り心があれば、
墓地なんかなくたって、仏壇だけで間に合います。仏壇がなくったって間に合います。だから墓地
があるとかないとかに把われることはないと思います。
ただあるものを、わざわざ家庭の調和を破ったり、世間との調和を欠いてまで、うちは墓地なん
かいりませんよ、とわざわざいうことはない。みんなと調和するためにあったらあったほうがいい
と思うんです。要するに真心ですね。仏壇があっても、ちっとも水もお茶もお線香もあげない。放
ったらかしてある仏壇ならないほうがいいです。墓地はあるけれども、お墓まいりをしたことがな
い、なんていうんならお墓などないほうがいいです。そうでしょ。あるからにはやはり真心こめて
やらなきゃいけない。
176
間53 易でよく、この人とこの人は相性がいいとか悪いとかいいますけれど、それは本当なんで
ございましょうか。それは永久にそういう関係があるんでございましょうか。
さるねみ
答申年生れの人とか子年生れの人とかありますが、あれはあてにならないと私は思います。巳
とらさる
・寅・申が一緒にいたら大変だとか、いろんなのがあります。そんなバカなことはありません。巳
の人が何人いるかわからない。寅の人も申の人もどれだけいるかわからないでしょう。みんな性質
たつ
が違うんです。たとえば私は辰年です。私と同じ辰年の人が何人もいるわけです。みな同じ性質か
というとそうではない。私と全く違った人がいます。
四柱推命学という学問がありますが、それさえはずれることがあります。斉藤秀雄さんと同じ生
年月日の人がいるんです。斉藤さんは小柄で骨体美のほうでしょ、片方は重役形でふっくらしてい
る。性質は斉藤さんが気が短かいほうで、どんどん先にいくほうの人、片方の人は社長ですが、の
んびりとゆったりとした人なのですよ。まるっきり違います。
大体、相性といっても性質なんで、短気の人と短気の人と結婚したらぶつかっちゃいます。片方
は短気で片方は受けてたつ。そうですか、ニコニコッと私が悪うございました、とフンワリとして
いれば喧嘩になりません。
ちょうどタンスの引き出しと、たな板の口とはピタッと合うわけです。陰と陽です。片方は出て
いて、片方は凹んでいて合うわけです。両方出ていたらぶつかっちゃいます。そういうわけなんで
すよ。辰年生れの人とかいうのは当てにならない。生れた時刻、その両親の生年月日と時刻までみ
なければね。そこまではわかりませんでしょ。ですからあまり把われないほうがいいですね。
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守護霊守護神の気持を体して、自分でピタッときたらいいと思わなければいけない。常識的にい78
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いと思い、祈ってみて直感的にいいと思ったら、結婚をすすめればいい。それで苦労するなら、ど
こへ行っても苦労するんだからね。いくら相性でみたって、何したって、結婚で苦労する因縁があ
れば、誰を選んだって苦労します。またその苦労が悪いんじゃなくて、苦労することによって魂が
磨かれるんだし、その人たちが立派になるということなんです。年頃のお子さんを持っていらっし
ゃる方はあんまり相性に把われないほうがいいです。
東大を出て、秀才で未来がうんとよくて、家柄もよい、という青年がいても、明日海へ行って死
んじゃうかもしれない。交通事故で死んじゃうかもしれない。わかりませんよ。ところが地方の名
もない大学をやっと出た、それでも社会に出たらバリバリやって、丈夫で長持ちするかもしれませ
んよ。
学歴とか家柄とか、器量とかでは幸福というものはわかりません。よく「先生、百点の結婚はあ
りませんか」ときく人があります。百点満点の結婚が出来る人だったら、生れなくたっていいわけ
です。この世の中というものは、苦労しながら前生、過去世の因縁を消しながら、しかも神さまの
み心をこの世に現わしてゆく所なのだから、苦労がないなんていうことは絶対にない。どんな苦労
があっても、そんなものは消えてゆく姿で、じーっと耐え忍ぶようになるために宗教をやるわけな
んです。
宗教に入ったら相性などあまり気にしないほうがいいですね。相性がよくないからといって、折
角のいい縁談を逃がしちゃったりすることもあります。相性というより、性格が合うか、趣味が合
うか、生き方が合うか、ということにしたほうがいい。片方は宗教を一所懸命やりたい、片方はお
金だけためればいい、というんだったらこれは合わない。
要するに、人間はあまり臆病じゃいけないということです。どうせ生れてきて、せいぜい百年と
は生きないんだから、まるまる苦労したって百年だ、あるだけの業を全部消し浄めて、あの世へい
きましょう、という形で、今生を一遍捨てた気になってやると、かえって、この世でも来生でもい
いと思うんです。そのくらいの覚悟があったほうがいいくらいなんです。
あまりその場その場をよくしよう、一日一日が幸せで… … そればかり思っていると、人間が小さ
くなって、つまらない人間になります。そういう人間を神さまは作っているわけじゃないんですよ。
いのら
神さまは自由自在で、生命をいきいきと生かせるような人間を作っているわけなんです。それを自
分たちで勝手に自分の運命を縛ってしまうわけです。719
親が子供を縛る場合もずいぶんあります。親はあんまり子供をしばらないで、子供の自由にさせ
かな
ておいたほうがいい。ただ肝心要めのこと、人に迷惑をかけちゃいけませんよ、嘘をいっちゃいけ
ませんよ、とか当り前の正しいと思うことだけを根本から教育しておいて、あとの小さい細かいこ
とはみんな子供自身にまかしたらいいと思います。あなたの息子を信じなさい、とかいう唄がある
けれど、信じてやるんです。
あまり目の前の幸福ばかり追わないで、する苦労はしましょう、と積極的に未来の運命をひらい
てゆくような気持になって、少しでも人のためになるような、そういう人間に育てあげなきゃいけ
ませんね。自分だけが一生うまくいけばいいんだよ、人のことに手を出すんじゃないよ、などと教
え方をする親があるとすれば、その人の子供は伸びません。従って人類は進化しません。
少しは冒険心がなければね、人のために尽して、それで自分もよくなるというような、自他共に
よくなるという生き方を子供さんには教えることです。そうすると立派な人間になります。
ユ80
間54 テレビでチビッコ天使という番組がありまして、何千メートルも高い所から落下傘で飛び
降りるんですが、その時アナウンサーがそこにいた子供たちに「やりたいですか」と聞いたら、み
んなやってみたいと目を輝やかせたんです。お母様方が一人として自分の子供たちがやるといった
ら、いいといわない。危険だからだめだと反対なんです。その時咄嵯に考えたんですが、一人だけ
の子供ですが、したいといったらさせたいと思いました。どうしてかというと、何千メートルの高
い所から落下傘で降りるのは、とても恐ろしいと思いました。その瞬間本人の孤独感、恐怖、淋し
さを可哀相であるが味わさせたいと思いました。が薄情なのか、と反省して弱い気になりましたが、
後で考えて崩すという気持にはならなかったんです。そういう時、世の母親方の教育法と比較して、
私だけがそう思ったということが恐ろしくなって迷っておりますが、母と子について、近きより遠
きに及ぼせというお話と関連してお話して下さいませ。
答なかなかそう思える母親はいませんよ。偉いと思います。中江藤樹の母みたいだ。一遍子供
の運命にまかせて、それこそ守護霊守護神を信じてやらせてみようという、そこで鍛えてみようと
いう心は、やっぱりいい心だと思います。いい心だけれどなかなか出来ないんです。
ただ無謀に子供にしたい放題させる母親がいますが、それはダメです。鍛えてみようという気が
あれば、案外大丈夫だと思う。ですからそれはそれでいいと思います。あなたの守護神さんがそう
から
思ったのです。それが伝わってきたんです。甘くすることは楽だけれど、辛くすることはむずかし811
いですね。まして子供など甘くしたいばかりですよね。きびしく教育したいという人はやはり偉い821
人だと思いますよ。本当の意味で子供を愛しているんだと思います。うまく、きびしくしたり甘く
したり、母親がきびしくしたら父親がかばうとかしたらいいでしょう。父親がきびしくて母親がか
ばっていると、子供はお父さん嫌い、父コンプレックスになってしまいますし、ますますお父さん
の立場が悪くなってしまいます。母親というものはお腹の中から育てていますから、少しぐらいき
びしくても、母親にはあまり反抗しないのです。父親はいつもいませんから、きびしくすると反抗
しちゃいます・まして男の子だとなお更です・傲糞肇で・悪いことをしたらピシ・とやる・ピ
ほ
いことをしたらうんと賞めてあげる、そうやれる母親がいたら、それは賢母だと思います。
愛というのは、相手のためだけを願ってすることなのであって、自分が楽しもうとか、自分がよ
く思われようというのではなくて、「自分」というものがすでになくなってしまって、相手と同化
してしまう、相手そのままになってしまうということなんです。
人間というものは本来、神の中で一つのものなのです。神さまのみ心の中で全部が一つのものな
んです。もともと一つのものなのだから、一つになるのが当り前なのに、自分の業というもの、自
分の肉体にまつわる自我というものがあるから、相手と自分とバラバラにはなれてしまう。それが
愛することによって相手と同化してしまうわけです。相手と同化すると、自然とこちらのいうこと
を相手はきいてしまうし、自然といいことができるわけです。
愛というものは相手から奪うものではなく、相手に与えてしまうのです。母の胎内に生命が芽生
える。赤ちゃんが日毎月毎育ってきます。これは愛です。母親はそのまますべてを子供に与えてい
るわけです。自分が食べた略のがみんな胎児の栄養になるわけです。そして生れ出てくる。この頃
はミルクをのませることが多いけれども、おっぱいをのませますね。与えっぱなしに与えている、
母親の純粋な愛が本当の愛だと思うのです。
母親の愛でもってすべての人に対すれば、それは問題なくこの世の中はよくなるんだけれど、こ
おろ
の世の中はそうは問屋が卸さない。自分の赤ちゃんを愛するように、他人を愛することはとても難
しいです。難しいから、私はそこに「消えてゆく姿」という教えをしているのです。
自分を本当に愛すると同じように人を愛さなければいけないけれど、この社会はそれがなかなか
できないようにできている。それは本当のことではない、真理としてはマイナスであるわけです。
その出来ないところを、ああこれはいけないんだけれども、消えてゆく姿として、守護霊さん守護
神さんよろしくお願いします。私の肉体としては、あの人と私と同じように愛することはできませ
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んから、どうか神さまお願いしますーーって神さまにその分だけおまかせしちゃうわけです。ずる
いようだけれど、それでゆるしてもらうわけです。そうすると自分を痛めないですみます。しかも
守護霊守護神に祈るから、守護霊守護神が相手へ力を貸します。肉体の自分では何もなし得ないか
ら、自分についている守護霊守護神さん、代りにあの人を愛して下さい、とこういうわけです。そ
のために守護霊守護神がいるわけです。
肉体の人間だけではこの地球は存続しません。人間は完全円満、神の子にならない。それが守護
霊守護神と一つになると、立派な神の子を現わすことができるわけです。だから自分が出来ないこ
とは、守護霊守護神さんお願いします、とまかせていいわけです。それをいかにも自分で出来そう
にしてやると、自分のように人を愛せるとごまかしていると、自分の家は困ってしまっても、人の
家に金をあげて助ける。しかし妻や子供が、うちのお父さんはなんだ、よその家ばかりで、ちっと
もうちのことをしないじゃないか、と家庭争議がおこって、自分の家がだめになってしまう。
真理を百%実行することはできないのだから、たとえ少しでもいい、五% でも十% でも人のため
に尽すということが大事なのです。私はそのように真理を引き下げてきているのです。自分を慕っ
てくる人はとても可愛い、全然慕ってもきやしない人を助けで、慕ってくる人には何もしない、と
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いうことはできませんね。やっぱりどうしても自分に身近かな人を愛することになります。それで
は本当はいけない。自分を慕ってくる人も慕ってこない人も同じように愛さなければいけないけれ
ど、肉体を持っている以上はできないのです。出来るのは守護霊守護神さん、神さまです。ですか
ら、これだけは出来ません、あとは神さまよろしくお願いします、と守護霊守護神にまかせてしま
うことです。その代り、世界人類が平和でありますように、という祈り言でそのマイナスを補うわ
けですよ。それが私たちの生き方です。無理したら家庭争議が起きます。
宗教的になる人は、自分の力だけでは出来ないというので、神さまにすがるわけです。そういう
人は目覚めた者、進歩した者です。やがては今の人間が立派になると、守護霊守護神と全く一つに
なって生きるわけです。合体して生きる。そうすると、もっともっと自由自在に生きられて、何事
もなし得るのです。今、肉体をもっていて自由自在にならない。歩くのだって少ししか歩けないし、
鳥のように空中を飛べるわけでもない。肉体も心も自由にならない。その自由にならないところを
守護霊守護神が助けて、カバーしてくれるわけです。援助してくれている。そういうように人間と
いうのは出来ているのですから、素直にそれを信じたらいいと思います。(以上S 43年12月のお話
より) 麟
〈註>
7頁… … 「天と地をつなぐ者」m頁参照。
8頁… … 体験記集「新しい朝」28頁参照。
14頁… … 五井先生が最初に出された著書、教えの根本を説いている書。巻末図書広告参照。
41頁… … 白光真宏会本部道場のあるところ。
49頁… … 「天と地をつなぐ者」41頁参照。
塒頁… … 「天と地をつなぐ者」81頁参照。
鵬頁麗頁… … 中華人民共和国のことで、この当時まだ国交が回復していなかった。
励頁… … この頃五井先生ご指導の錬成会が開かれ、一人一人に霊位と常時想念の場を示した図と
五井先生のお言葉が書かれた錬成手帳が授けられた。
鼎頁… … 村田正雄著「私の霊界通信」第一巻〜五巻まで当出版局より刊行されている。
堺頁… … 前白光真宏会副理事長、故人。童話集や体験集が昭和63年に刊行される。
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