行雲流水

行雲流水五井昌久著
自光出版
著者(1916~1980)
負癬櫛
β了9



匁閣
著者の色紙
目次

の六
ふるさと
十年
25221914 9
家庭
3835333028
7
母の念仏と蓮如のこと
野良猫と生命
師走に思う
祈りつつ書きつつ
私の六十年
近頃の夏と昔の夏
人間と動物
天のなつかしい人々に会う為に
.
1
国家も個人も確たる目的をもて
まず世界平和の祈りを
人類よ早く泥沼から上がろう
宗教と政治
83807571
天然現象と祈り
世界はいったいどうなる
祈りについて
959288
祈り




69
梅雨時
花の心に
青葉若葉の候
内緒話
春になっ
黄菊

て菊


J心
555250474543
つつじの花
健康第


月一岸
うた
かなかなの詩
6664625957

41
2
日本の本心を世界に知らせよう
真の政治を生むために
嘘を言わぬ政治をする為に
話合いから祈り合いに
日本人の誇をもて
日中国交樹立について
114 111107104101
ベトナム和平について田
世界平和の祈りこそ皿
カンボジアとベトナム捌
日本の本心を世界に知らせよう… … … 捌
国を割ってはいけない捌
99
本心に還えろう
今こそ新しい科学の道へ
人間のよい心を拡げよう
いのち
生命を生かそう
146 143141139
本心に還えろう
153 151149
137
神愛を自己のものにしよう
宗教の本道を外れるな
光明思想で生きよう
3
いのち
生命もい
年のはじめに
らぬ名もいらぬ
157
4
誕生と父母の恩
168 165162159
カルマ
権力という業
親王様ご誕生
真に勇気ある者の歩む道
世の中を公平にするために
いのち
生命もいらぬ名もいらぬ
子供を育てること
181 178175172
折りにふれて
ヨ ーロッパに旅して
196 193191187
権力欲
204 201198
185
正月に思う
あじさいの花に想う
総理大臣の重大さ
日本人の心
日本の在り方
装丁・山口くすえ
(創元会運営委員)
ぜ磐手彌霧9
嚢饗勲訂o曇う凡
日木グ平励ゼ診ク署ようら
穿7 太奪裟尋め妻う〜
々遷。蛋夢り.霊乞ぎΩ署
ぐ穫繧考奮うご訂毒
劣姦
邑㌔、」㌔、、、、
♂ 人間と真実の生き方



わけみたまごうしようしゆこれいしゆごじん
‘ 人間は本来、神の分霊であって、業生ではなく、つねに守護霊、守護神によ

‘ って守られているものである。
かこせ
‘ この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念
‘ が、その運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去るので

あるという強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困
ゆるゆるまことノ
1 難のなかにあっても、自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦
(
蔦.鞍租饗讐轄ザ罎『籍舞縄簾
来るものである。
}
雷1、、。… =、e= =宝、、「、’ 、、、、、、、
私の六十年
ふるさと
ふるさと、という言葉は、なんともいえぬ懐かしさをもった言葉だ。母という名が、
慕わしさ懐かしさを感じさせると同じように、ふるさと、という言葉はなつかしい。
ところが、東京生れの東京育ちという人々には、このふるさとの実感がない。ふる
さとにはやはり、山川草木がないと、その名に似つかわしくないのである。ふるさと
には、自然のもつ情緒がいるのであろう。
その点私は東京の浅草生れという、自然の情緒には程遠い、人間だけが生活してい
るような町に住んでいて、しかも越後というふるさとをもっている幸せにある。
9ふるさと
その越後の私のくらしていた村も、近来大分風光が落ちてきたようだが、私の心の
中には、山も川も美しく澄んだ、昔のままのふるさとなのである。小川で顔を洗い、
口をそそいだそういう記憶もありありと残っている。ふるさとは昔のまま動かずに、
変化せずに、私の心の中に生きているのだ。
それにひきかえ、東京は走って走って走りぬいている。少しの休みもなく、変化に
変化をつづけて、ますます自然から遠のいてしまっている。人間のふるさとではな
く、人間の溜り場として、文明という名の中でこったがえしている。私の夢がいつも
越後をふるさととしてあるのも無理からぬことなのである。
ところで、もう一つ、最も大事なふるさとを私は知っている。それは神様方が住ん
でいらっしゃる、神の世界なのである。その世界こそ、私たちの一番大事なふるさと
なのである。私は常にそのふるさとに還えり、そしてまた、この地上の世界に戻って
働いている。ふるさととこの世とを往き来しながら、人間の幸せになる道をつくり出10
そうとしている。
それは単なる観念の世界ではない。実在する世界なのである。誰も彼もみんながも
っている大事なふるさとなのである。そしてみなさんも、心の中では知っている世界
なのである。
このふるさとがなければ、皆さんはこの世に生れ出てもいなければ、地球世界とい
うものもない。こういう大事なふるさとを、大半の人は忘れ果て、今にも壊滅しそう
な地球世界にだけすがりついている。
みなさんの祖先の方々は、今この大事なふるさとの神々様のみ心にそって、子孫で
あるあなた方を救おうと懸命になっている。その代表が守護霊さんとして、あなた方
の背後にぴったりくっついて守っておられる。
このふるさとは、祈り心によって往き来できるところで、神様への感謝の心で祈り
つづけていれば、常にその心は、この神界の住人でいられるわけで、大事なふるさと
11ふるさと
はその人のものなのである。
話が少し堅くなったので、また柔かい話に戻そう。ふるさとといえば、どうしても
祖先を想い出す。祖先の中で一番懐かしい人は、父母である。なかんずく、懐かしさ
まさ
慕わしさにおいて母に勝るものはない。
私は今でもちょいちょい母を想い出す。私の場合、まるで一緒に住んでいるような
感じでいるのだ。それは母が私の霊団にいて、いつも私の背後にいるからである。
私の母は血圧が高かったせいで、夏になるといつも暑い暑いと暑がっていて、氷を
飲まぬ私に悪がりながら、氷を私にせびったものであった。今では光り輝やく霊人で
まぶた
ある母だが、私の瞼にはやはり生前の背中の丸い小さな老母がうつってきて、うまそ
うに氷水を飲んでいる。
私の母は律気そのもののような人で、他人にお金を借りたり、世話になったりする
ことが嫌いで、「人様にお金を借りるのではないよ」という言葉が強く私の耳に残っ12
ている。この母、実に気丈な人で、或る日街のやくざの若者が二人、一人は日本刀、
一人は短刀で喧嘩をはじめ、もみあいの末、ガラス戸をこわして私の家になだれこん
できた。その時、母は二人のそばに近づき、大きな声で、
「素人の私たちに迷惑かけて、それで男かえ、ガラス代を弁償して、さっさと帰えん
なさい」
と二人の襟がみをつかまんばかりにした。その勢いにさすがに若者二人も驚いて、
平あやまりにあやまって、弁償金を置いて、こそこそと立ち去ってしまったのである。
というようなこともあった程だが、ふだんは大きな声一つ立てず、常識人そのもの
の人であった。宗教は浄土真宗で、常に南無阿弥陀仏で、私と全くよく心が通い合っ
ていた。この母は心のふるさとの私にとっては第一人者なのである。
皆さんには、きっとこういう母なり父なり、祖父なり祖母なりあるはずだから、
一番大事なふるさとのこ祖先方に、世界平和の祈りをささげて、共に地球人類を守っ
13ふるさと
ていただくようお願いして置いたらよいと思うのである。(昭和48年8月)
14
れんによ
母 の念仏と蓮如のこと
私の母は浅草生れだが、母の祖父は越中の出で、代々浄土真宗の信者であった。母
ヘヘヘヘへ
の口ぐせは、あなかしこで、私が真剣に統一行をしている時も、私とならんで、あな
かしこ、なむあみだぶつ、を唱えていて、毎夜どちらが先に床につくかわからなかっ
た。空になる統一行と、南無阿弥陀仏の唱名と、どちらもが純真に坐っているのであ
った。
その時の母のあなかしこは、実は蓮如上人の言葉で、私たちのような光明思想に至
るまでの、現象の肉体人間のはかなさを説き、後生のための善き生き方を阿弥陀様に
全託することを説いておられる文章の最後の一行である。
それが私の耳には、あなかしこと、南無阿弥陀仏だけがはっきり聞えて、後ははっ
きりしなかったのであるが、やがて次第にはっきりわかってきた。それは私のほうが、
はっきりその文章を知ったからであって、母の言葉がはっきりその文章を唱えていた
というのではなかった。母の心は、あなかしこと南無阿弥陀仏だけで満ち足りていた
のである。
蓮如上人は、室町時代の僧で、真宗本願寺七世存如の子として京都大谷に生まれた
人だが、真宗中興の祖といわれたぐらい、真宗の発展には功績のあった人である。
他教団の度重なる迫害と、貧しさ極まる生活に耐え、真宗の教えを大きくひろめた
あたい
ことは、特筆に価しよう。
私の母は蓮如上人のことなど少しも知らず、ただ、ひたすら南無阿弥陀仏に救いと
15母の念仏と蓮如のこと
られて、七十三歳で昇天したが、その最後の日の天界の華やかさは、霊眼の人々には
っきり観じられたようであった。私がその日不思議だと思ったのは、南無阿弥陀仏一
ヘヘヘヘヘへ
筋の母の昇天が、多勢の神々天使のあまつのりとで迎えられたことであった。念仏の
極致が神道の極致と一つになっているのかも知れない。それとも、私の大光明霊団の
いはい
中心が神道的であったからかも知れない。後に母の位牌を仏壇に納めようとしたら、
私の神は、神棚に納めることを、私の兄に命じていた。
神霊の世界には、いろいろと肉体人間にわからぬことが随分とあるもので、それを
いちいち説明してくれぬのが普通である。ともあれどんな信仰の仕方をしていても、
真心そのもので行っていれば、その人は必ず救われるということは事実である。
あしたこうがんゆうぺはつこつこしよう
朝の紅顔、夕の白骨である肉体人間は、常に後生のために、自分の心を神界のひび
きに合わせて置くことが必要である。その一番易しい方法が世界平和の祈りなのであ
る。あなかしこ、あなかしこ。16
合掌
参考のため、蓮如の文章をここに掲載しておく。
それふしようすがたしちゆう
『夫人間の浮生なる相をつらつら観ずるにおほよそはかなきものは、この世の始中
じゆいちごまんざいにんじん
終まぼろしのごとくなる一期なり。さればいまだ万歳の人身をうけたりといふこと
ぎようたい
をきかず、一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。我
やさき、人やさき、けふともしらず、あすともしらず、をくれさきだつ人は、もと
あしたこうがんゆうぺはっこつ
のしつく、すゑの露よりもしげしといへり。されば朝には紅顔ありて夕には白骨
むじよう
となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなごたちまち
こうがんとうり
にとち、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃季のよそほひをう
ろくしんけんぞく
しなひぬるときは、六親春属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべ
やがいよは
からず。さてしてもあるべき事ならねばとて、野外にをくりて夜半のけふりとなし
17母の念仏と蓮如のこと
はてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あはれといふも中々をうかなり。されば人
ろうしようふじようこしよう
間のはかなき事は老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心に
かけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせ、念仏まうすべきものなり。あなかしこ
あなかしこ』
18
この文章を読んでいると、肉体人間の生活が実に哀れではかないものに思えてく
る。肉体人間でない、滅することなき人身というものがどこかにないかと、さぐらず
にはいられなくなる。それは阿弥陀様のみ心の中より他にない。一般的宗教の言葉で
いえば、神のみ心の他はないのである。
神との一体化ということを、先にかかげて、現われてくるすべての不幸や災難を、
過去世の因縁の消えゆく姿、としていくと、そのまま光明思想になるのである。
(昭和48年9月)
野良猫と生命
こんわく
うちの野良猫は、いまだに親娘二匹が健在で、時折り孫を生んでは、私共を困惑さ
せているが、又しても娘の方が子猫を三匹生んでくれた。
ふみ
生めよ殖えよ地に充てよ、は聖書の文句としては結構だが、度び重なる御出産で
は、飼主ならぬ宿貸し主の方は、その度び毎にその処理に頭を痛める。
我が家には、八年も前から正当なる飼犬の権利を主張しつづけて、一歩も譲らな
い、うるさ形犬のスピッツ「リリー」が存在するので、猫族は座敷に上がりたくても、
家の敷居をまたぐことさえもできずに、裏口で食糧をねだりつづけている次第なのて
19野良猫と生命
ある。
ところで、生まれ出た小猫というものは、いつの時でも、何んともいえぬ、あどけ
なく愛らしいもので、先を争って母猫の乳房を我がものにしようとして、手? 脚をぽ
たつかせているのは、いつまで見ていても飽きないのである。といって、そのまま放
ほんろう
って置いたら、我が家の庭は野良猫の天下になって、一人子のリリーは猫族に翻弄さ
れてしまう。
妻にも老母にも、ここが頭の痛いところで、折角生れ出た生命が、むざむざ滅びて
しまうような捨猫にもできず、どうしましょう、と私に相談する始末となるのである。
家庭調和の相談や、病気や貧乏の訴えならば、相手が人間のことなので、何んとか
その相談にのることもできるし、対処する方法もあるが、相手が動物となると、これ
が却って困りものなのである。
とつおいつ思案の末に、いつものように、誰かに貰ってもらおうということにな
20
り、その誰かを物色することになって、一応けりがつきそうなのであるが、私共の
ように、多くの知人をもっているものは、何んとか、その度び毎に動物の生命を尊重
した方法で、解決することができるが、そうでない人には私共のように笑い合いなが
らの困り方ではなくて、真剣に悩んで困惑しつくしてしまう人たちもあるときいてい
る。
猫ならぬ人間に仇する形になってしまう鼠でさえも、あの真黒な愛らしい眼をみて
いると、とても殺す気にはなれない。といって、殺さねばならぬ立場の人も沢山いる
のである。ここのところが、実に生命尊重のむずかしいところであるのだが、事これ
が人間の場合にあてはめた場合、殺すよりは殺される方がまだましである、という人
うなつ
のでてくることは肯ける。それ程生命というものは理屈を超えて大事なものであるこ
とを誰にも感じさせるのであるが、自国の権威保持の為なら、何十人でも何百人でも
一度に人間を殺傷し得るという、そういう感覚の持ち主に人々をさせてしまう、国家21野





とか民族とか主義とかいうものを私は不思議でならない気持でいるのである。私の提
唱する世界平和の祈りの運動というのも、そういう不思議な想念波動を、すっかり消
し去って、真に愛一念の地球人類に生れかわらせようとする運動なのである。
(昭和41年6月)
22
祈りつつ書きつつ
三、四年前迄は、一日、六、七百人の人に面接して、読書の時間や原稿を書く時間
は、すべて夜という日課を重ねていたのが、今日では、講師の人たちや幹事の人たち
が、それぞれの分野で人々に接してくれているので、どうやら原稿を書いたり読書し
たりする時間が朝からとれることになった。
これは実に有難いことで、昼間の明るい日ざしの中で、庭の青葉のそよぎを時折り
みながら原稿が書けるということの喜びは、こういう苦労をしてみた人でないとわか

らないことであろう◎昼間人々に接し疲れて、夜更けて原稿を書く、というのは、眼
にも体にも大分負担がかかるものである。
地球を蔽っているカルマの波を浄める、祈りの行と、どうしても私でなければ役が
いくしゆうあん
果せぬ対人、対社会の関係だけでも、まだまだたくさん仕事はあるが、呈修庵の庭に

停って、池に遊ぶ鯉をみながら、原稿の構想ができる時間があることで、書きたいこ
と、いいたいことが次々と浮かんでくる。じっくりと構えて長編の宗教小説を書こう
か、と思ったりもしている。
こうして聖ケ丘の霊気に浸りながら、森を渡る風の音や小鳥の声に心を遊ばせる一
時刻を、私はこよなく有難く思う。人間にとって静かな時というものは大事なもので23祈







じやくじよう
ある。人間は静かな静かな寂静の世界に、時折り住んでみなければいけない。どんな
に周囲が騒がしくとも、寂静の世界に住めるのは、祈りの行である。祈りの世界には、
寂静も光明もあるのだから、祈りにつぐ祈りによって、自己の心が、大宇宙の中心の
心に合致してゆくのである。
騒音の生活の中での祈りは尊いが、時には聖ケ丘のような霊気に充ちたところや、
山や海といった、大自然にじかに接し得るところでの祈りも大事である。
私は呈修庵で祈りつつ、書きつつ、人間は常に大自然の心になって生きることの大
切なことを想っていた。大自然の心とは、祈りの生活から自ずと悟り得る心なのであ
る。(昭和46年9月)
24
私の六十年
かんれき
この十一月は、私の六十回目の誕生日であり、みんなが道場で還暦祝いをしてくれ
るそうである。
一歩一歩神のみ心のままに、この世界を歩んでいるうちに、いつのまにか六十年の
年月を重ねていたわけである。近頃の私は、地球世界の大きな業波動を浄めるため、
呈修庵に篭りっきりで、統一を続けているのである。
家内とは時折り電話で話合うが、今日の電話では何を思ったか、次のようなことを
云っていた。25私




「先生は還暦、私ももう五十五歳、ふりかえってみると、お互いに人々が幸せにな
ることだけを祈り続けてくらしてきて、精神も肉体生活もどうやら救われた形になっ
てきた人も随分とありますわね。今日まででも、幾分世の中のために尽したことにな
るのでしょうね。それもそうだけれど、それにもまして私が幸せだと思っていること
は、人柄も考えも、趣味も私と通じ合うし、愛が深くてやさしくて、素直で勇気のあ
る人と一緒にくらしていられることね、ホホホホ… … 」といかにも楽しそうに笑うの
である。
私を大神業実践のために、この世に出してくれた父母は、何にしても第一の恩人で
あるが、この妻は、私が平凡な一青年から、霊覚者になる時機の最も霊的に危険な時
に、自身の生活のすべてを投げうって、狂人にもまこう私の片腕となってついてきて
くれたのであるから、父母についでの第二の恩人であることには違いない。
私たちの結びつきは、大神業実現のための同志的結合なのであろうが、私たちの生
26
活の中では、そうした定められた堅苦しい状態は少しもない。お互いがお互いの考、兄
を自由に言い合い、お互いのなすべきことを自由に行なっているのである。それでい
て、二人の行き違いというものは少しも現われてはこない。このへんが神業ともい、兄
るのであろう。
かつてノイローゼで生死を危ぶまれた女性や、私の膝の上でキャラメルを貰って、
お浄めをうけていた幼女などが母になって、次ぎ次ぎと赤ちゃんを抱いてみせにきた
りする日が続いている今日、会員さん方の暗い運命をもった人々の夜明けも、必ずく
るのである、と私も家内も共に信じているのである。
(昭和51年1月)
27私の六十年

家庭
私は一生一人で神様ごとをして、自分の家さえ必要ないと思っていた。しかし、神
様の方のご都合で、妻をいただき、家もいただき、立派な娘までお預りして、それこ
そ全く相性ぴったりの男性が娘のパートナーとして現われ、あいついで二人の孫娘が
誕生して、若い時には思いもかけなかった楽しい家庭ができあがってしまった。
私が神様のお仕事をするのには、この環境が一番いいと神様が思われてのことであ
ろうが、私にとっては、思いもかけない幸であった。人間の運命というものはわから
ないもので、幸せなマイホームばかり夢みて、仕事は適当に処理して社会をわたって
ゆこうとするような人が、意外とうまく家庭生活ができず、淋しい生涯を送ってしま
ったり、私のように自分の生活というものを、すっかり捨てきって、他人や社会国家
人類といったことばかり考えて、行動してきた者が、温かい幸せな家庭生活を続けさ
せていただいていたりする。
といって、自分のことばかり考えて、自分本位の生き方ばかりして来た人間が、物
質にも富み、家庭生活も幸せになっているということもあるのだから、人の運命は過
ごんじよう
去世から今生に至る生き方を通算して、細かく見極めなければ、その答がでてはこな
い。
もっとも、過去世のことなど普通の人には判りようがないのだから、一般の人々
は、先ず自分の行いを、神様のみ心である愛と調和にかなうように、努力して生きる
ことが大事なのである。すべては、神様のみ心によってなされているのであるから、
人をうらやんだり、さげすんだり、とやかくけちをつけたりしないで、世界平和の祈

29家
りを根本にした、人類愛の生き方を実行してゆくことが、その人の幸せに通じる道と
なるのである。
私は、神様から戴いた幸せな家庭のことを、感謝しながら、一人でも多くの人々
が、幸せな家庭を作れるよう祈らずにはいられない。社会国家人類のために尽すこと
と、家庭の幸せが成り立ってゆくことは、両立し得るものである。(昭和52年2月)
30
師・
走掌

思、つ
師走になると、毎年のように、月日の経つのは早いものだ、という同じ言葉が繰り
返される。全く一年という年が、あっという間に過ぎてしまう感じである。
この一年の間に、宇宙はどれだけ進化し、地球はどんな歩みをしてきたものか、誰
にもはっきりわからない。宇宙や地球はおろか、自分の歩みさえ、はっきりわからな
い。
公務員は役所に勤め、会社員は会社に通い、商人はそれぞれの商売を営んでいたこ
とには違いないのだけれど、その一歩一歩がどれだけの人間としての価値をもち、人
類の一人としての生きがいをもっていたか、はっきりわかっている人は少ない。
しかし、有難いことに、私たちの同志は、何をおいても、神との一体化を行じてい
る世界平和の祈りを、祈りつづけてきたことは、はっきりしている。
この世界平和の祈りは、神々の人類救済の場をつくり出す祈りなので、私たちの祈
りのひびきは、神々の喜び給うところなのである。祈りの同志の皆さんは、何はさて
おいても、今年も一心に世界平和の祈りをしてきたことには違いないので、意義ある
尊い日々を送ってきたことになるのだ。
31師走に思う
神々は、現在人間の五感に触れぬ形で働いておられるけれど、やがては、人間にも
はっきりわかる姿で、働かれるようになるのである。ただそうなる手前に、幽界の生
物たちが、神々や宇宙人のまねをして、肉体人間をたぶらかそうとして働きかけてく
るから、その点を気を付けて、ひたすら世界平和の祈りをしつづけるとよいのである。
ゆうずう
神様ごとというと、無闇に堅くなってしまって、まるで融通のきかない人間になっ
てしまうことがあるが、神様のみ心は、愛であり、その愛は思いやりとして現われて
いることが多い。だから、思いやりの深い人間になることは、神様のみ心をそれだけ
現わしていることになる。神様のみ心の中には、愛の他に、美もあるのだから、山や
川や樹木や花々の美しさに、心をひかれる時間もあってよいのだ。だから、神様神様
と心を堅くしていないで、自由に美しさを満喫してもよいのである。
師走のせわしい中にあっても、愛と美を自由に、行じられるように、祈りの中から
神の心を会得してもらいたいものである。(昭和52年12月Ψ 32
近頃の夏と昔の夏
今年の夏はとても暑い、と皆汗だくの真赤な顔をしてやってくる。確かに今年の夏
は厳しい暑さだ、とは思うが、クーラーなどかけておくと、かいていた汗もいつの間
にかひいてしまう。
せんす
それにくらべ昔の暑さときたら、かけ値なしのそのま二の暑さで、扇子やうちわぐ
らいでは汗のかわくひまもない。やっと扇風機が出てきた頃でも、扇風機に顔をつけ
るぐらいにしていなければ、とても涼しくなったなどとはいえない。
ところが、そういう暑さの昔が恋しい時がある。暑さのあまり外に出て、お互いに
33近頃の夏と昔の夏
うちわを使いながら、蚊を追い払いながら、近所の人たちが、いつの間にか寄り合っ
て、くつろいだ話に花を咲かせ、夜空の星の輝きにロマンチックな想いになったりし
あおがや
ていたことや、その頃はわんさといた蚊の襲来をよける為の青蚊帳の存在など、何ん
となく情緒のある風情であった。
私が特に昔の夏の想い出としていることに、暑がりやの母に、「一杯だけだよ」と
念を押しては、氷水を飲ませてやったことである。その母も昇天して二十年以上も経
って、昔の夏は終ってしまい、今では明るい電燈と冷房装置で、情緒をまるで無くし
てしまった、有難さ半分、不足半分のような夏を毎年送り迎えしているわけである。
人間の世界というものは不自由なもので、自然のま玉に生きようとすれば、労働力
ばかり必要でいて、不便であり、発展もしないが、自然を上手にきりひらいてゆけば、
文明文化の発展を伴って、今日のように便利この上もない世界となる。しかし今日の
世界からは、次第に情緒が失われてゆき、人間の自然性がマイナスされてゆく。34
どちらがよいとくらべようもないけれど、こうなるように、神のみ心が配慮なさっ
ていて、いったんはやはり今日のような世界がつくられてきたのであろう。やがて
は、自然と人間が全く調和する世界が生れてくるのであろう。神様ありがとうござい
ます。
ともあれ、暑い夏も過ぎようとしていて、朝晩カナカナの声や、時折もう銑の声が
してきている。(昭和54年9月)
人間と動物
先日来毎日ニュ1 スを賑わした、
かのづざんじんやじ
千葉県鹿野山神野寺のトラの脱走事件で、動物に35人




対する人間の考え方がいろくとはっきりしてきた。
動物を只人間の見世物的にみて、人間に都合が悪くなれば殺してしまえばよい、と
まあこれは極端な言い方になったが、動物を愛するのではなく、人間の興味本位だけ
で側におく、或いは見にゆく、という人たちと、人間と同じように愛し、その生死を
人間なみに考えて、脱走したトラを射殺せずに獲えてもらいたい、と願っていた人た
ち、と大きくは二つに分れて論じられていた。
人間側の常識から言えば、人間側に危険がない限りは傷つけずに獲えてもらいたい
し、人間に被害が及ぶようだったら、射殺してもらいたい、ということなのである。
私なども常識的に考えて、射殺するだの、獲えるのだのという以前に、こういう猛獣
は専門家にまかせて素人が興味本位で飼わないで貰いたい、ということで、人間は高
い立場から猛獣たちに自由な生き方をさせてやるべきだ、と思うのである。
ところで普通の家庭では、滅多に猛獣を飼っている家もなく、飼っているのは犬猫
36
や小鳥ぐらいなもので、それでさえも世話がやけるし、気を使うことが多い。我が家
にもアイヌ犬の美幌号という中型犬が、自分が主人のような顔をして住んでいる。
犬というものは人なつこいが、自分の願いが通ると、どこまでも通してくるので、
主人がわが、適当に、叱ったり、叩いたりして、このわがま二を是正してやり、主人
の言うことをよくきく犬にしてやらなければ、次第にあつかいにくい犬になってしま
うものである。
我が家でもそうならぬようにと、家内によく言うのだが、家内は、「私には叱った
り、叩いたりはできませんよ。目にあまらぬわがま玉なら、そのま玉させておきまし
ょうよ。」ということで、何んの芸もできない上にいつも家内に遊んでもらいたいと
せがむ。その上困ったことに、音に対して非常に臆病で、雷鳴でも花火の音でも、少
し大きい音がすると、まるで敵でも襲ってきたようにあばれ廻わる。それをいちく
家内がなだめて静めることになるのだが、これなど、はじめは家内を自分に引きつけ37人




なら
たいためにやっていたようだが、ついには、それが慣い性のようになってしまったの
だ。
他の家の犬をみると、たいがい少しは芸もするし、主人の言うことをよくきいてい
るようだが、みな適当に叱ったり、叩いたりして教育しているのであろう。我が家は
夫妻共に犬の教育は駄目なようである。(昭和54年10月)
38
天のなつかしい人々に会う為に
盆太鼓なつかしき人みな天に
という私の俳句が、家内をはじめ幾人かの人から、よい句で胸に沁みます、とほめ
みたままつり
られた。もうじきにくる三月拾六日の御霊祭の日には、この句のなつかしい天の人々
が、皆さんの側に降りてきて、世界平和の祈りの大光明の中で一つになって輝やきわ
たるのであるが、あの世に往ったから、誰でも、先に往ったなつかしい人々に自由に
会えるというものではない。
あの世に往っても、地獄のような場にいたり、自分勝手に唯物的な生き方で一生を
送った人たちのように、常に自分の感情で自分を縛りつけて生きてきた人たちは、そ
の想い通りの、不自由な狭い範囲でしかくらせないので、どんななつかしい人があの
世にいても、それがたとえ父母であろうとも、自分の方から会いにゆくことはできな
い。
もしあの世でなつかしい人々に自由に会いたいと思ったら、やはり肉体身として生
存しているうちに、自分勝手な想いだけではなく、他人や社会国家を愛して、その為
に働く気持をもっていなければいけない。自分の想いが、常に他人の為に役立つよう
39天のなつかしい人々に会う為に
な動き方をしていれば、それだけ心がひろがり、自分の動きがそれだけ広い範囲で働
けるのである。
皆さんのように、世界平和の祈りのような、人類愛の光明波動の中で生活している
方々は、肉体身を離れても、文字通りの昇天で、自由にあの世で、なつかしい人々に
会えるのである。
だから、心はいつも広く、思いやり深い、愛深い行いを、この世にいる間からつ父
けてゆかなければならないのだ。(昭和5年3月)
40
aウ㊦
黄菊白菊
近頃大分、体調もよくなってきたが、まだ外に出られる状態ではない。そこで、側
近の人が鉢植えの小菊を五つ鉢ほど窓のところへ置いてくれた。花好きの先生が外に
こころつく
出られず、木の香や花の香に親しむことができないであろうから、という心尽しであ
る。
黄菊白菊そのほかの名はなくもがな、と誰かの句にあったけれど、黄菊白菊は勿論
よいけれど、エソジ色の小菊もいいし、変り色の花もいい。その小菊達をみている
と、実に可愛らしくて、体の苦しさを忘れてしまう。どんな花もみんな可愛く美しい
43黄菊白菊
が、むこうから出むいてくれて私を慰めてくれる花はなおさらに可愛い。
こうして私が小菊の愛らしさに、心をとけこませている間にも、日本の政界でも、
アメリカの政界でも火花を散らして、権力争いを続けている。
師走という月は、誰も彼もが想いのせわしい時であろうが、政治家のしかも、重要
ひま
な地位にある人たちは、一時も心休まる閑がないであろう。私の書いた「老子講義」
を読んでいる政治家も何人かいるのだけれど、こんな時にどういう風に老子の心を、
自分の心としているだろうか、などと思ったりしている。
私のように神様にすべてをささげてしまって、心の中でああだ、こうだと思うよう
なことが、一切なくなっていると、常に宇宙全体のひびきの中で、生かされている自分
じねんほうに
というものを感じて、ただく自然法爾に、その日その日を送っているだけである。
いくしゆうあん
今年は呈修庵にこもりっきりで、直接会員の人たちとお目にかかってはいないが、
講師の人たちからの相談で、間接指導のようなことになっている。しかし、神々の光44
明は、日毎月毎にみなさんの力を増大させていることが、はっきり判っているのであ
るo
どうぞ皆さん、今年も悔なく、世界平和のお祈りの中で、年を越して下さるよう、
お願いするものである。(昭和51年12月)
春になって
呈修庵にこもっている私のところには、次々と皆さんからの花が贈られてくる。鉢
植もあれば盛花もある。昔なら四季によって、花が異なっていたのだが、近頃は温室
で育てられているので、秋の花が春見られることも普通になっている。
45春になって
私の部屋には、パラも咲いていれば、シクラメソも咲いている。私はそうした美し
い花にかこまれて、地球の業の消滅に専念している。美しい花の姿に比べて、人類の
業の嵐のすさまじさは大変なものである。当人の私はすべては神のみ心と受けてたっ
ているので、心の動揺はないが、妻や側近の人たちの心配は、時折は生死の境のよう
にみえる苦しみをユーモアを言いながら、耐えぬけている私の姿が、やっぱり普通人
とは全く違ってみえるようだが、時には涙をこぼしたりしていることもある。
苦しみを越えながら、欧米旅行も何度もしたし、国内の講演もしてきたし、今日で
たび
も日曜度の統一会には必ず出席して、お浄めをしてきているのである。
今年も春が近づいてきて、庭に明るさがましてきた。もうこの辺で、こういう肉体
的の苦しみは、神様にとっていただき、より大きい仕事に向いたいと思っている。
厳寒を耐えぬいてきた梅の木が、庭のあちこちに、白い花や、紅の花を咲かせ始め
かれん
ている。あの可憐な梅の木のどこに、あの強い力があるのであろうか。梅は神のみ心46
のまま、また美しい花で自分の身を飾るのである。
私も梅の木に負けないように、私の心のひびきで、
いものである。
この人生を照しつづけていきた
(昭和52年3月)
青葉若葉の候
ぱしよう
青葉若葉の輝やくこの頃になると、私はいつも芭蕉を思い出す。
〃あらたふと” のあの句が今更のように胸にしみてくるからである。まいった、ま
いった、とその句の素晴らしさに参りきっている私なのである。芭蕉のことは、以前
も書いているので(「神への郷愁」参照)、ここであらためて書こうと思わないが、た47青





かが十七文字の中に万言をついやしても現わし得ない、天地自然の深い調和を表現し
きっているのには、全く恐れ入ってしまうのである。
私も詩人、歌人のはしくれとして、長い間創作活動をしているが、芭蕉の句の素晴
らしさにぶつかると、参ってしまうのである。
宗教的な詩や和歌の中には、芭蕉も入り込めぬ私の世界があるのだけれど、世間に
通用するものとしては、芭蕉ほどの作品はない。一生の間に芭蕉の句に追いついてみ
たい気もするのである。そこで、一年程前から句作もしはじめてみたのである。
天地自然の調和の美は、今更詩や和歌に表現しなくとも、そのままで人の心を深め
てくれるものであるが、詩や和歌に表現すると、その美がますます生きてくるから不
思議である。
しかし、その詩や和歌も芭蕉のように、よほどすぐれたものでないと、かえって、
その美を失なってしまう。詩や和歌のへたな作品は、その人の日記のかわりはよいけ48
れど、他人に見せた場合、その人から自然の美をうすめてしまうことにもなりかねな
い。その点、芭蕉のような人が一人いて、よい作品を残してくれたことは、日本人に
とって大きな幸せといわなければならない。それは、芭蕉のみではなく、菊池先生や、
ぼくすいもきち
牧水、茂吉等々の素晴らしい歌人の存在したことも同様である。
あらたふと青葉若葉の日の光、に代表されるような自然の美しさ、尊さを春夏秋冬
味わえる人間というものはありがたいものである。
そういう人間が、食べる、着るというような本能だけを生活として生きているよう
だったら、生命を純粋に生きている動植物に劣ってしまうのである。
神様はご自分を、見るものと、見られる側との両面に分けてつくられ、人類を見る
側の代表として存在させている。人類が山川草木という自然の姿をじっくり観賞し、
味わってくれなければ、人類をつくった意味がはなはだしく減少する。神のみ心であ
る愛と美と調和を、人間がよくよく味わい、自からも実行していってもらいたいと、
49青葉若葉の候
神々は望んでいるのである。そういう意味で、
(註菊池先生とは、
学の師である)
.-.


52

5

)
真の









0
菊池知勇といって短歌誌「ぬはり」社の主宰であり、五井先生のかつての文
50
内緒話
神様が治そうと思われれば、どんな病気でも、たちどころに治ってしまっているの
だが、私の場合など病気のような状態で、地球の業を消し去ってゆく、天命をもたさ
れているのだから、神様はこの病気の状態を、治してしまうというわけにはゆかな
い。病気のような状態の消滅しさるのも、その天命を果すある時間は、かかってしま
うのである。
さいわいというか、私には他にも色々の天命があるので、一つのことにだけに、か
かわりつづけているわけにはいかない。この病気の状態も、やがて消滅し去るにきま
っているのである。だがしかし、その間の肉体の苦しみは、自分一人で、耐え忍んで
ゆかねばならない。
かんだん
私の身体の状態というと、昼夜を分たず、間断なく疾がわき上ってきて、息をつめ
てしまうのである。そこで必然的に咳をしつづけて、その疾を排除することになる。
だから身体中の皮膚も骨も筋肉も常に休まされることがないので、身体中が苦しみつ
づけている、という訳である。それはそれでいいのだが、一番困ることは、毎月の白
光への短歌や俳句の作品発表である。この数年間、咳のために足が不自由なので、一
いくしゆうあん
歩も呈修庵を出ることなく、呈修庵にこもりっきりで、日々祈っている次第なので、51内


短歌や俳句を詠むのには、生活の変化もなく、その主題になる風光を求めにゆくこと
もできず、これにはいささか困りきっているのである。
今までは、なんとか詠みつづけてきたが、このへんで、足も咳も治って、散歩にで
も行けるようにならなければ、作品がマソネリズムになってしまう。
神様もこのへんで、私の天命に加勢して下さって(呵々)、疾を一度に癒してもらい
かつぼ
たいものである。大分長く家こもりしていたので、大手をふって、大地を闊歩したい
願い切である。(昭和52年6月)
52
梅つ
雨・
時r
毎年梅雨時になると、皆が一様にいやな季節ね、と話し合う。ところが私は、梅雨
時を特別いやだとも思わない。宗教家の気取りで云うのではないけれど、私にとって
は、梅雨時も夏も冬も、日本の季節は皆有難いと思っている。
日本の春夏秋冬は、少しはいやなところもあるだろうが、それに対処しながら生活
していれば、いいところだけが心に沁みてきて、生きていることの喜びを感じさせて
くれる。特別に神仏を思わなくとも、日本の自然の姿には、四季それみ\ の美しさを
人間に感じさせるものをもっている。梅雨時をいやだなあ、とぽつんと梅雨時だけを
四季の中からはなして思わないで、一年の中の一つの自然の変化、と思うと、湿度の
高い、気温に変化の多いこの梅雨時も、いやなものだけではなくなってくる。
梅雨時でなければできない植物もあるだろう、高い湿度をいやがられながら、知ら
ぬ問に他の季節のためになっていることもあるのである。
あじさい
庭に出て紫陽花の花をみていると、この季節でなければ、出せないであろうと思わ
53梅雨時
れる微妙な変化を、その花の色は見せている。
神様のみ心は、高く広く深く、様々な姿、形に、あるいは色彩、音色にその働きを
現わされているが、どの一つを取ってみても、人間の力ではとうてい及ぼないことば
かりである。私は、心の底から、神の偉大な力を知っているので、すべての物事、事
柄に感謝せずにいられないのである。どうしても感謝できないようなことは、過去世
の因縁の消えてゆく姿として、平和の祈りの中で、神々に感謝しているのである。
この原稿を書いている二階の部屋に、何とも云えない、柔かい涼しい風がはいって
くる。その瞬間は湿度も何もない風さん有難うと思っている時なのである。
(昭和52年7月)
54
花の心に
緑や花のきらいな人は、まずいないだろうが、私は特に草木や花が好きである。樹
木をじっと見つめていたり、庭の花々を見て歩いたりしていると、私の背負っている
天命の重大さも忘れはてて、全く美の世界に統一してしまう。
花の中でも梅や桃や桜のような小さな花が好きであるが、先日人が持って来て花瓶
しやくやく
に生けて下さった、十輪以上の右薬の大輪を見て、思わず目をみはり、息をのんでし
まった。
けんらんごうか
何という絢燭豪華な姿なのであろう。梅や桃のけなげなつつましい美しさに心を取
55花の心に
けんらんこうか
られていた私も、この絢欄豪華さには、小さな花々のもっていない美しさを充分に満
喫させられたのである。小さな花は小さな花のように、大きな花は大きな花のよう
に、それぞれの特長を生かして、それぞれの美の世界をそこに描きだすのである。
人間もそれと同じようなものであって、やさしい心の人もあれば、強い心の人もあ
る。やさしい心が愛の心となって現われ、強い心が勇気となって現わされれば、その
世界は美と真実の世界となって、人間社会を立派にしてゆくのであるが、これが裏返
じあん
って、やさしさが弱さとなって何事にも引込み思案になってしまったり、強さが粗暴
な暴力となってしまったりすると、これは大変なことになってしまう。
花にはそのような裏はなく、常に自分の天命のままに生きている。人間はこうした
自然の中から、真理を学びとって、愛と誠の人として生きてゆくよう、心がけなけれ
ばならない。その簡単な方法が、世界平和の祈りなのである。
(昭和52年8月) 56
うた
かなかなの詩
ゆうぺひぐらし
かなかなの声は不思議な叙情をもっている。夕は蝸と呼ばれて、街や村の灯に愛
あかつき
情のひびきをそえ、暁には、人の心の奥底までさわやかにする声で鳴いている。
その声は、この物質界の声というよりも、神霊の世界からひびいてくる音楽のよう
に聞える。
地底では数年も生きているというこの蝉は、地上に出るとわずか一、二週間で命を
終えてしまう、という。そのわずかの期間に、人間の心に深い感銘を与えて去ってゆ
くのである。
57かなかなの詩
人間の中にも、生きていてもらっては家庭や社会の迷惑になるばかりだ、という者
もあれば、このかなかなのように、自分で知らないうちに、この短かい生涯を人間に
役立ってゆく生物もある。
ぜいたく
人類は全く贅沢な環境におかれている。生命を生かす食物をはじめ、空気や水等々
を恵まれているほかに、草木の花々の美しさを味わえ、鳥や獣を愛する感情をもって
いることなど、創造力を与えられているのに加えて、他の生物にはみられない神の恩
恵をうけている。
もつとわけいのち
尤も人間は神の分生命であり、神の子なのであるから、神に愛されるのは当然なこ
とであるのだろうが、それなら神の子のように、神の国である地球世界に、神のみ心
を現わしてゆくべきである。しかし現在は、神のみ心どころか、サタソの心のような
争いに充ちた不調和な世界がくりひろげられている。人類は一日も早く、こういう誤
った世界を改めて、神のみ心の愛と調和の世界をつくりあげてゆかなければならない。
58
私共はそのための先がけとして、祈りによる平和運動を展開しているのである。今に
多くの人々が知らずして何時のまにか善いことを行じているかなかなのような生き方
ができるように、世界平和の祈りの中から、神の子人間が真実に現われてくることに
なるのである。そうなるようにわたしどもは益々精進努力しなければならない。
(昭和52年9月)
彼ひ


おみなえし
桔梗、りんどう、女郎花、秋咲く花は楚々たる風情がある。
な花もあるが、春の花に比べて、もの静かな感じである。
大輪の菊のような豪華
59彼
九月には敬老の日があって、みんなの心に改めて老人のことが浮かんでくる。私な
どもその老人に近づいてきているのだけれど、老人などというのは、他の人のことの
ようにしか思えない。だからといって、老人に関心がないのではなく、大いに関心が
ある。
それは、死後の世界のあることを老人たちにこそ是非知ってもらわなければならな
いからだ。この月にはお彼岸もあることだから、あの世についての話を一寸しておき
たい。
いのち
生命というのは、何時も私が話しておるように、肉体だけのものではない。肉体が
消滅した後でも、いわゆる彼岸にあって生きとおしているのである。彼岸とは、肉体
の人間から見て彼方の岸であって、今日流の言葉で言えば、幽界、霊界、神界という、
肉体の五感では感じられない世界である。
この世界は、好むと好まざるとにかかわらず、肉体の死後は誰しも往かねばならぬ60
ところである。往かねばならぬところなのに、死後の世界などあるものか、と浅はか
な経験や知識で、彼岸の生存を否定していた人たちは、彼岸で生きていながら、自分
の心が肉体界の他の世界をないと思い込んでいるので、その世界にいながら、その世
界に住めずに、真暗闇の中にいすくんでいる形になってしまうか、生き返えったと思
って意識想念が自分の親しい人の肉体にしがみついてしまったりするのである。こう
さわり
いう人たちがいると、その子孫や親類縁者は、その障にたえかねて病気したり、災難
にあったりしてしまうのである。だから、子孫のためにも親類縁者のためにも、老人
になったら、彼岸の実体を知るように勉強しなければいけないのである。
秋風が吹いてくると余計にそういうことが想われる。
(昭和52年10月) 岸
61彼
62
健康第一
ちんちようげ
三月四月というと、花の季節。梅が咲き、沈丁花が香り、いよいよ桜の花が咲きは
じめる。空の明るい季節である。
ところが病床にある人たちにとっては、この明るい空の下の花々を観賞することも
できない。ただ一筋に健康になることを望むだけである。
私などは、瞬時たえ間ない身体の痛みに耐えつつ、原稿もかき、色紙も書き、手紙
の返事や、赤子の命名に忙がしい。一部屋にこもっていて、庭先にさえ出られないけ
れど、幸に、一週間一ぺんの統一会には、神様が出させて下さる。
私のは、世界人類病? で疾や咳にせめられ続けていても、心はますく光明に燃・κ
ながわずら
ているが、普通の人たちにとっては、病床の長患いは、とても耐、兄がたいことであろ
う。大病になってみて、あらためて健康のありがたさが判り、健康でさ、兄あれば、貧
乏も不遇も何のその、と思うのである。
ともあれ、人間にとって、健康第一、健康第一としみじみ想うのである。
何にしても、健康になる秘訣は、お祈りの中に病の想を入れきってしまうことであ
る。祈り一念で生きていれば、たいがいの大病にも耐えきれて、再び自由な身体にも
どれるものである。現在健康の人たちも、健康を守って下さる守護の神霊に感謝しつ
づけて、現在の環境を生かしてゆくことを望むものである。
(昭和5年4月)
63健康第一
64
五月
五月五日は男の子のお節句である。我が孫は三人共に女の子であるので、特別五月
くさふ
の節句を祝うことはしないが、五月というのは、樹木も草生も緑が生き生きと輝いて、
実に明るい元気に充ち充ちた月である。
人間の大半は暗い月より、明るい月を好んでいる。いつも生きくと明るい気持で
いたい事が人間の本質だからである。
ひは
桜の花につ父いて、いろくな花が咲きつ父き、青葉若葉が、陽に照り映えている
五月の季節の中で、世界の様相が、どう地球の危機を巻き起こしそうに動いていても、
自分たちまで暗い落ちつかない気持で生活することはない。現在の世界の様相は、過
去からひきつ黛いて現われているものなのだから、私たちは今日只今からでも、明る
い神のみ心に叶った愛と調和の心を持ちつ父けてゆくことが必要なのである。
五月のようなこんな陽気のよい、恵まれた季節の中で、めそくと生活のぐちを言
い、世界状勢の動きに想いを沈ませておく必要はない。季節に合わせて、生き生きと
明るく日々の生活を送ってゆけばよいのだ。その助けとして、世界平和の祈りを祈り
つ父けてゆけば秋になっても、冬になっても、明るく生き生きとしたま玉の生活を、
私たちは送ってゆくことができるのだ。そして私たちの祈りのひ父きが世界中に平和
の波をひろげてゆくことになるのである。
(昭和5年5月)

65五
66
つつじの花
側近の人たちが、「今庭はつ瓦じの花ざかりですよ。先生、庭にお出になれるとよ
いのですが」と今日も言う。
そう言われなくとも、庭に出てみたくて仕方のない私なのだが、何せ頭から足の先
まで、業の波を受けて、痛みつづけているので、なかく階下にも降りてゆけない。
しかし、今朝は思い切って、庭に出てみた。まあ、何という庭の明るさなのだろう。
眼にふれるところ、つNじの紅と、草木の緑で、何とも言えぬ調和した美しさであ
る。
人間の世界にこうした植物がなかったら、どんなに淋しく、頼りなく、生きている
ことさえ、はかなくなってしまいそうである。そう思うと、つ玉じの紅に庭木の緑
に、心から頭を下げるのである。
人間にとって、何一つとして感謝せずにいられぬものはないのだが、人々はつい感
謝の想いを忘れている。朝のめざめから、夜中の睡眠の二十四時間プラスアルファー
人間は大きな力によって生かされている。その大きな力は、人間が生きてゆくために
必要な全てのものを与えて、何くわぬ顔をしていられる。
私たちは、その大きな力を神様と呼んでいる。つ瓦じの紅の中にも、草木の緑の中
にも、小鳥のさえずりの中にも、大きくは青空の中にも大地の広がりの中にも、この
大きな力は働きつづけておられる。この恩恵をだまって見過しているようでは、人間
の前途は永くはない。
人間の一日は、神様ありがとうございます、の一日である。私たちは、そうした神
67つつじの花
への感謝の心とともに、神のみ心でもあり、人類の悲願でもある地球の平和のために、
世界平和の祈りを祈りつづけているのである。
(昭和5年6月)
68
祈りについて
人類よ早く泥沼から上がろう
私の誕生を祝って下さる、会員の方々が、聖ケ丘道場に充ち温れ、折柄の青天温暖
の神の祝福と共に、平和の気が四方にみなぎっていた、十一月二十二日が過ぎてしま
って、またたくまに、新しい年を迎える。
私たちはこの新しい年への第一歩を、どんな気持ちで踏み出していったらよいので
あろう。世界人類完全平和達成の道は、一体どのようにして得られるのであろう。瞬
々刻々の平和な気持は、誰しも得られるのであるけれども、神の大調和のみ心の中に
自らがすっぽり入り、その光明波動を絶え間なく人々に放射し得る人間になり得るた
71人類よ早く泥沼から上がろう
めの、私たちが一瞬といえども欠かしてはならぬ行は一体どのような行であろう。
その行がすなわち世界平和の祈りなのである。世界平和の祈り心なくして、この業
生の現われとみえる地球世界に、人類の平和を築きあげることは、如何なる宗教とい
えどもなし得ないことなのである。
それぞれの宗教宗派のいずれも、その教は神仏のみ心を現わしているものであり、
人々の心の糧になるものに違いあるまい。しかし今日の地球世界の様相は、ただ単に
個人の心の慰めや、小乗的な安心立命では、如何ともなしがたい、重大な危機に立っ
ているのである。
じようどう
私の常に申し上げる、個人人類同時成道という、そういう姿になってゆかねば、個
人も人類も多くの苦難を積み重ねてゆかねばならなくなる。人類が苦しみ喘えいでい
る時、個人の自己だけが安心立命していると、平気でいられるものではない。人類の
苦悩を自らの心に感じぬような人は、とても安心立命の境地になり得る人ではない。
72
そんな人はとても高い境界には昇り得ない。
人類の苦悩を自らの肌身に感じながら、しかも、安心立命の境地に昇り得るような
人が多く出現することを神は待ち望んでおられる。世界平和の祈りは、そういう人を
自然につくり得る大乗的な祈りなのである。
世界人類が平和でありますように
こういう当然であり、なんでもなさそうにみえる言葉の奥底に、神と人間との一体
感が大光明波動となってひびきわたっているのである。人間に対する神の愛と、人間
が完全に向って上昇してゆく悲願とが、この易しい祈り言葉の中で、全く一つになっ
て輝やいているのである。
人間はともすると易しい言葉というものをおろそかにしようとする。「ありがとう
ございます」という人間社会にとって最も大事な感謝の言葉でも、易しい当然すぎる
言葉なので、ないがしろにしてしまい、その言葉によって奥底から引き出されてく73人












る、自然や万物と人間との一体観を、無視してしまおうとする。神や万物に感謝する
「ありがとう」という言葉がどれだけ大切なものであるかを、人間は忘れてしまう。
世界人類が平和でありますように
という祈り言葉は、その言葉が誰にでもわかり易く、自然と口に出てくる言葉なの
で、人類すべての人々の祈り言葉として、最も適当なものとなるのである。この世界
平和の祈りは、神への感謝の言葉と共に、この地球界の泥沼的三界を超える大光明の
エスカレーターなのである。
泥沼の中に自らを置きながら、どんなに善さそうな案を述べ、物質波動の中を走り
廻ったとしても、あがけばあがく程自分たちの体は泥中に沈んでいってしまうのであ
って、到底天上に達することはない。何よりも先ず先に祈り心を光の柱として、泥
中から足を脱け出し、自由自在に駈けめぐれる体になって、物事をしてゆかねばなら
ない。この泥沼的三界を先ず超えるためにも、瞬々たゆみなき世界平和の祈りをつづ
74
け、心身自由自在になって、はじめて、戦争なき天変地変なき、平和世界をつくるス
タートを切ることができるのである。
私たちは、この世界平和の祈りを根底にして、すべての物事に処しているのであっ
て、祈りなき世界の動きとは全く別の新天地の中に住んでいるのである。再び誤てる
歴史を繰りかえさぬために、私たちは神との一体化の中で私たちの一歩一歩を運んで
いるのである。(昭和46年-月)
宗教と政治
戦後の日本の政界には、宗教界からも何人かの人々が乗り出して、国政に参与しよ
75宗教と政治
うと致しました。公明党のようなものは、別に宗教者というのではないので別外に致
しまして、その宗教者たちのほとんどが、政界に入ってみて、自分たちの宗教的考え
が、何一つとして受け入れられないのを痛感したのではないかと思います。
政界入りした人々よりかえって、野にいて教えを説いている宗教者の教えのほうが
大臣諸公に宗教精神を目ざめさせて、幾分なりとも政治の浄化ともなっているのでは
ないかとも思われるのです。保守政党の政治家には、意外と思われる程、それがたと
え形だけであっても、神仏や祖先に心を寄せる人が多いのです。ですから、それを行
なう行なわないは別と致しましても、宗教者の中に自己の師を有っている人、或いは
有とうとしている人がかなり存在するのであります。
ところが、宗教者が政党人として、自分たちと肩をならべるという形になります
と、代議士諸公や大臣諸公たちは、この宗教者を素人あつかいしまして、その言を入
れようとはしなくなるのであります。ここが人間の心の面白いところでありまして、76
遠くからみていればほれぼれするように見とれている富士山でも、頂上まで登ってし
まうと、岩だらけのただの山にみえてしまって、遠くでみていた時の心にしみるよう
な富士山の美しさは見失われてしまうのです。
こんなところから考えてみても、宗教者自体が政界に入って、政治に関与すること
が、宗教者のプラスにも政治家のプラスにもならぬということは、現在迄の時点では
かなり明白になっています。
次には、宗教者や宗教団体が、直接政治にくちばしをいれる、ということなのであ
りますが、政治家には政治家としての姿勢もあり、今日までの種々のいきさつや、こ
ちらには説明できない、各種関係とのやりとりがありまして、それが正しいと思うこ
とでも、すみやかに行うことのできない場合も随分とあるのです。
宗教者の側のいい分が正しいとしても、宗教者は為政の局外者であって、理想を一
直線に押しすすめてゆけばよいのですし、政治の責任を負う必要はありませんが、政
77宗教と政治
治家はその責任を全面的に負わねばならぬ当事者であり、天の理想を実現するには、
地球上の対内的、対外的両面共にあまりにも入り組みすぎていて、直接的にことを運
ぶわけにはゆかず、宗教者のいい分は了承してもなかなか実行できぬ立場になってし
まいます。今日迄の種々のいきさつをすっぽりとすてて、正しいことに耳を傾け、そ
のまま実行にうつせる、ということは余程無我の大人物でないとできないのです。
こういう大人物はアメリカの首脳にも日本の首脳者にも存在しません。戦争を止め
そうな格好をみせては、また忽ち北爆を強めたり、世界の大半がベトナム戦争の早期
メンツ
終結を望んでいるのに、依然としてアメリカの面子にこだわり、力の政策をつづけて
いたり、国内の経済勢力に押されて、保護貿易に踏みきった、ニクソン大統領の人物
には、あまり高い点はつけられません。平常な良識で考えれば、黒白のはっきりわか
っている事柄でも、自己の立場を守るために黒のほうをとってしまう人たちが、現在
の各国の首脳陣にはあまりに多すぎます。78
そこで宗教者の使命というのは、直接政治家に政策についての意見を述べて、政治
を動かすこともよいけれども、やはり本質は、立派な人物を各界に育てあげ、大人物
たる政治家を一人でも多く育成することに力をいれ、国民の多くの人々に、神と人間
との関係を教え、神の愛により人間は生かされているのだということを知らせること
にあるのだと思います。神との一体化によってのみ、天の理想を現実世界に実現する
こうち
ことができるのでありまして、神のみ心と離れた政治政策がいかに巧緻なものであっ
ても、世界平和をこの世にもたらすことにはならないのです。
そういう真理を知らせるためにこそ、真の宗教者の存在が必要なのでありまして、
ただ単なる宗教精神で政治政策や経済政策に頭を入れても、それは根本的な世界平和
にはつながってゆかないのです。
私たちの祈りによる世界平和運動は、宗教の本質を最もわかりやすく、自然に体得
できるためのものであり、その行為がそのまま、世界平和達成につながってゆくもの
79宗教と政治
であるのです。
(昭和46年3月)
80
まず世界平和の祈りを
五月は緑の月というが、全く初夏の緑林の色は、なんともいえぬ快さを、人間に感
じさせる。花を観て心が和み、緑林を渡る風の音に自ずと自然に同化してゆく人間と
いうものは、やはり本来が大自然の一部であり、宇宙大生命のひびきの中で生かされ
わけいのち
ている分生命であることに違いない。
青葉若葉の照り輝やく中で、ぼんやりと青空の中に心を融けこませている一時刻を、
快いと思わぬ人はいないであろう。だがこういう一時刻さえももち得ないで、食に追
われ、戦火に追われつづけている人々が、イソドにもパキスタンにもイソドシナにも
中近東にもたくさんいるのである。
衣食足りて礼節を知る、という、衣食ともに足りず、礼節はおろか、この世に生き
つづけることがせい一杯の人々が、否、生きてゆけない人々が、この地球世界には、
まだまだたくさんいるということを、新聞やテレビや、実際に見聞してきた人たちか
ら知らされると、聞いているこちらの心まで暗くなってくるのである。
日本人の自分たちが、直接どうにも手の出しようのない、東南アジアや中近東やイ
ソド、パキスタンの悲惨な状態に、私たち日本人はどう対処したらよいのか、と私に
訴えてくる人もいる。宗教的にいえば、この世に生まれてくるのは、過去世の悪因縁
を消滅させながら、しかも神のみ心の愛と調和の世界を、この世に築きあげてゆくの
であるから、過去世において悪因縁を積んでいれば、その積んであった因縁だけ、こ
の世で支払ってゆかねばならぬ、ということになる。しかし、そう想うだけでこちら
81まず世界平和の祈りを
の心が満足するわけがない。といって、現象的に救いの手を差し延べることができな
い。できたとしても僅かの救済金や、救済物資を送ったりするだけで、ほんのその場
限りの援助である。私たちは宗教者として、物質的な援助とともに、その人たちの業
因縁消滅のための祈りをすることが大事である。
すべての人々の苦しみ悩みが一日も早く消滅されますように、という愛の祈りが、
やがては、世界人類が平和でありますように、という大きな広い立場の祈り言になっ
て、今日の世界平和の祈りが生まれ出たのである。私たちは現われてきた現象の不幸
や災難にあまり把われず、現われてきた物事は、すべて消えてゆく姿として、ひたむ
きに、たゆみなく、世界平和の祈りをしてゆくことが必要なのである。人の不幸をみ
て、自分まで不幸の波の暗い想いになることは、あまり上手な生き方とはいえない。
人の不幸災難の波も、自己の不幸災難の波もともに消滅させてゆくのが、世界平和の
祈りである。82
あらゆる暗い状態を、消えてゆく姿として、大光明波動である、神の救済のみ心の
中に融けこませてゆくのが、世界平和の祈りである。このことを堅く信じ、前記の人
々からみれば、はるかに幸せである、自分たちの生活に感謝しつつ、私たちは日々瞬
々、世界平和の祈りの生活をつづけてまいろうではありませんか。
(昭和46年5月)
国家も個人も確たる目的をもて
目的をもたぬ人間というものは、とかく迫力に欠ける。つねに気力が充実していな
いからである。たとえその目的が金儲けであったとしても、その目的に集中している
83国家も個人も確たる目的をもて
人の気力は充実しているし、迫力もでている。
しようことたぐい
この人生をなんの目的もなしに、仕様事なしに生きている、という類の人々は、人
間としての魅力もなければ、面白味もない。
あいつは金儲けばかりに熱中していやがる、とかあの男は地位ばかり追っかけてい
ぎがい
るとかいって、他人のことばかりこき下しながら、自分はなんの気慨もなく、怠惰な
生活を送っている人程つまらぬ人間はない。金儲けでも地位の向上を計ってでもよい、
一つの目的のために真剣に生きていることはよいことである。その目的の善悪はまた
別の問題である。
個人でもそうであるが、国家でもまたそうである。中国が非常な迫力をもって、他
国に対しているのは、中国を米ソに負けぬ国に仕立て上げようとする指導者層と、中
国や共産主義のために尽くすことを唯一の目的としている人民の真剣な生き方による
のである。
84
個人の自由より、国家目的が優先する、ということは、いかにも不自由なことのよ
うだけれど、個人の自由を、麻薬や賭事につかったり、情事や虚栄心を充たすことに
つかったりする、悪への自由にひきずられている人々より、生き甲斐のあることでは
なかろうか。
日本や欧米の自由主義が、人間の秩序を乱して、動物の圏内に人間をひきずりこん
でゆく傾向を、近頃ますますはっきりさせてきた時、中共や北ベトナムをはじめ共産
圏の、人民の気力というものを、共産主義指導の圧制というものをぬきにして考え
て、自由主義国家群の人々も充分に研究しなければならぬ問題だと思うのである。
日本などは戦前は、天皇に帰一ということで、一つの目的がはっきりしていたが、
今日のように、天皇という存在に統一性がなくなってしまったことで、国家も国民も
一つの目的を失ってしまったようなのである。
単なる経済成長などということでなしに、国家としての大切な目的を、この際日本85国













政府ははっきりさせないと、国民も、その場あたりのふらふらした生き方で、生きる
ということに腰が坐っていないことになってしまい、小智才覚だけでこの世を生きる
しようにん
小人や、怠惰な日々を送るふぬけのような人間を多くつくってしまう。
幸い日本には聖徳太子の昔から、調和を目的とするということが、はっきり示され
ているのだから、その大調和ということを国家の目的として、腰を据えて、この大目
的に向って突き進んでゆけばよいのである。すべてはこの大目的を中心にして成し遂
げられてゆくのである。
国家が、はっきり目的をそう定めて、すべてがその方向に進み出せば、国民も知ら
ず知らずにその方向に向ってゆくもので、要は国家がその方向をはっきり示すことが
大事なのである。大調和という目的はどこの国に対しても遠慮する必要もないことな
のである。
私はそういうように国家の歩みが定まってゆくことを願って、民間の運動として、86
祈りによる世界平和運動をすすめているので、「世界人類が平和でありますように」
という祈り言葉にまず日本人全員が結集して、平和の雰囲気の場をつくり出すことを
実践しているのである。
心の問題は、今ソ連の科学陣も本腰を入れて研究しているので、心の問題では先輩
であるべき日本が、想念や心の問題を放っておいて、目先きだけの国家の発展を願っ
ているようでは困りものである。
大調和、世界人類の平和ということを、まず心の問題として把えて、世界平和の祈
りを日々瞬々刻々、国民の多くができるように、国家目的の一つとして実践してゆく
よう、政府指導者は考えてみるべきである。(昭和48年6月)
87国家も個人も確たる目的をもて
ss
祈りについて
米国、ソ連、中国という三大国と、日本や英・仏・独というような、それにつづく
国々、低開発国といわれる国々、世界中にはいろいろな国があるが、そのいずれも
が、自国本位であることには変りがない。
自国の利害得失を考えずに、他国のためにつくす、という国があるとは、現在のと
ころでは考えられない。国家がある以上は、自国家の利害得失を第一に考えるのは、
当然なことである、と現在の人間の常識では考えられるからである。
ところが、国家が自国本位であるということは、この世界が常に対立抗争の中にあ
るということで、地球の平和は到底達成されるとは思われない。現在の各国家の為政
者は、神という名を知ってはいても、神のみ心をこの世に現わそうというのではな
く、肉体身をもった自分たちの国家を守ることが、唯一のことで、他国のために何か
することでも、それが自国のなんらかの利に返ってくることを計算してやっているこ
となのである。
宇宙のすべてが地球のためにある、という自己本位の考え方からくる宇宙観はその
まま、すべては自国のためにある、という国家観になって、お互いが相手国を自国の

利益に資したいと思っていて、それに反すれば敵意を抱くのである。これはそのま
ま、対立抗争の現在の世相になっているのである。
個人にしてもそうであって、神は自分の利のために存在するのであり、自分の利得
のために神にすがりつくのであって、神のみ心を現わしてゆくのが自分だ、という考
えになっている人は少ない。神が最初にあって、自己は神の子として、神の働き手の
89祈りについて
一人として、この地上界に生を受けているのである、という、真理を知らないで生活
をしている人が多いので、この世が自分勝手な不調和な世界になっているのである。
そして、その真理を知らせることが本意である筈の宗教者の中にも、現象の浮き沈
みや、国家間や社会の動きの、その動きに把われて、神を無視したり、祈りをないが
しろにしたりする宗教者がいて、そういう宗教者が、社会に名声をもつ宗教学者だっ
たりするのでは、宗教の本質がこの世に現われてくる筈がない。
この世もあの世も、神の光のひびきと、人間の想いの波動との混交して現われてい
るところで、精神波動と肉体波動という波動が基になっているのであることは、もう
科学的にも証明されてきているので、その波動を正しくしないで、出来上がっている
国際関係や、社会の事象だけに把われていても、それは消えてゆく姿だけを捉えてい
るようなもので、どうにもならないのである。
この世に現われていることは善悪共に、過去の想念波動の消えてゆく姿として現わ90
れているので、過去の現れを捉えて、いくらどうせいこうせい、といっても、どうに
もならぬし、どうにかなったとしても、それで元が直ったわけではないので、調和し
た世界をつくるための助けにはならない。そこで私は、元である波動の世界を正し
くし、神のみ心の大調和世界をそのまま、この世にうつし出せるようにと、祈りを強
調しているのである。
祈りとは自己のいのちを神のいのちと直結させる、神のみ心に自己の想念を入れき
って、自己の本心を輝やかす、ということで、世界の平和を祈れば、世界の本心の大
調和が輝やき出る、ということになるのである。
そういう祈り心を基本にして、そこから諸々の事柄を行なってゆけばよいので、祈
り心なくしてはどんなことをやっても真実の成功には至らない。
まして、宗教の道に入っているものが、祈りを軽視し、神をないがしろにして、よ
いわけがあるまい。私はすべての行為にさきがけて、祈りを先行させるべきであり、
91祈りについて
祈り心そのままで、すべての行ないをするものである、と強調したいのである。
(昭和48年7月)
92
世界はいったいどうなる
八月になると、広島、長崎の原爆被爆時のことが、また生々しく想い出されてくる。
あれから二十九年になるが、未だに被爆者は次々と死んでいる。家内の姉などは、家
内や母たちと被爆の中心地に住んでいたのだが、四五日前、皆ではかって、田舎に疎
開して、一度は助かったのに、その翌日爆撃後の様子を見にきて、被災地の水道の水
を飲んだのが元で、十年以上たって被爆者同様の状態で昇天していったのである。私
は私の近辺にそういう人をたくさん知っている◎
わざわ
家内は何んの禍いもなく、今日も無事で働いているが、日本人の誰も彼もが、原爆
というものに、平然とした気持でいられぬのを、只単なる臆病などとはいっていられ
ぬ必死なるものを感じるのである。
確かに外国の人たちは、原爆被爆国である日本ほど、切実な恐れを原爆に抱いてい
ないかも知れない。しかし今は、二十九年前とはくらぶべくもない大量の核爆弾を各
国がもっているのである。
米ソ英仏中という核兵器を益々高度な破壊兵器として使おうとして、日夜研究して
いる国と、インドのごとく、一億の餓死者を傍に、他国の援助物資を頂きながら、核
兵器の開発に急いでいる国もあり、イスラエル、アラブというように核兵器製造一歩
手前という国々もある。
米ソ英仏中のごとく、お互いに牽制しあいながら、各国の反対を押し切って、核実
93世界はいったいどうなる
験をつづける愚かしさはどうであろう。地上であれ、地下であれ、地球における核実
験は、自分たちの住まわせて貰っている、地球を自ら滅ぼすことである、という子供
でもわかりそうなことが、どうして国家の政治となるとわからなくなってしまうので
あろう。
こんな愚かな国家の歩み方に、日本もひきずりこまれてはたまらない。核兵器をつ
くらなければ、日本は滅びてしまう、というなら、そんな世界に未練の残る日本でも
あるまい。滅びても結構だと思う。そんなことで滅びるなら神も仏もない世界なのだ
から、日本人の住むに値しない地球である、といえるのだ。
我々はあくまでも、宇宙の法則である、大調和の原則に沿って、兵器にしろ精神力
にしろ、破壊の方向に使われるものには、想いを向けず、ただひたすら、世界平和の
祈りのひびきの中で、神仏のみ心が真直ぐこの世に現われて下さることを、待ち望む
のみなのである。(昭和49年9月)
94
天然現象と祈り
今年は世界的に天候不順で、この夏は米国の或る州やアルゼソチソのように、四十
かんばつ
五度以上の暑さが続いたり、中国、東南アジア、東アフリカのように旱越になったり、
ヨーロッパは長雨と冷夏というような工合であり、日本などもかなり変化した気候で
ある。
どうも戦争の波がちらついたり、こうした気候不順が続いていて、地球世界の人間
の心配は絶えることがない。どうしてこんな気候が続いたり、地震の心配があったり
するのだろう。戦争のことは、人間自らの心得違いであることははっきりしているが、
95天然現象と祈り
地震や天候のことは、その原因ははっきりつかめてはいない。だから、その対処する
方法が考えられていない。学者によっては人口増加で大気中に炭酸ガスが多くなり、
それが天候不順の一つの原因であろう、といっている者もある。それは確かにこの地
球を取り巻く様々な状態が、地球人にとっては悪い方に変化していって、いろくと
地球人類を住みにくくしているのである。
地球人類は、科学の学問によって、昔とは較ぶべくもない生活の便利さを得ている
が、その科学の教えが、公害になったり、大戦争の恐怖を自分たちに与えてしまった
りしている。
ここでよくく考えなくてはならないことは、人間の根本的な宇宙観である。人間
という者は、単なる自然の力によってこの世に生れ出ているものであり、神とは全然
別個の世界にいるものであって、人間が神になることは不可能なのである、というの
か、それとも常に私が申しておるように、人間は神の子であって、常に神との一体観96
をはかっていれば、自由自在にすべてに調和して生きていけるものであるのか、とい
う二つの宇宙観である。
前者の考えでは、次第に人類は天変地変と戦争とによって亡びてしまうであろうこ
とは、少し自然のことを考え、世界状勢をみつめていれば、はっきりわかってくるこ
とである。しかし、私たち光明思想家が、説きつづけているように、人間神の子観の
生活を自分たちのものにしていけば、神は絶対者であり、大宇宙を調和させている存
在者であるのだから、自分の生命の分霊である人類を亡ぼすことはないという真理で
ある。
だから人類の一人一人は、その個人のためにも、人類社会すべてのためにも人間神
の子の実体を示して、生活してゆかねばならない。
この世の中は、人類の想念の波でできているのであるから、人類が今日のように神
をはなれた物質宇宙観でいる限りは、だめなのである。そこで、何よりもまず、神と
97天然現象と祈り
人間とが一体であるという宇宙観に立って、自分たちの生活を、神の愛のようにして
ゆかなければならない。
そのための世界平和の祈りであって、世界平和の祈りによって、今日までのように、
神のみ心をはなれた不調和の想念波動を消滅して下さる守護の神霊や宇宙人の光明心
と一体になって、生きてゆかねばならないのである。
朝夕情緒そのもののようにないているカナカナの声を聞きながら、私は深い神の愛
を感じつ二、一人でも多くの人が、世界平和の祈りを祈って下さることを念じている
のである。(昭和5年9月)
98
日本の本心を世界に知らせよう
真の政治を生むために
今年もいよいよもう十二月、一九六〇年の最後である。

いつの年でも師走というものは、心忙わしく何とはなく落ちつかない月であるが、
今年も世界中がそわそわと落ちつかぬま』に、平和に対する何んの目算もなく暮れて
カルマ
しまいそうである。人間世界の哀れさは、木枯に吹き散らされる枯葉にも等しく、業
の風の吹き荒ぶま」に、かさこそと地上界の流転の旅を経巡るものであるのだろう
か。世界中が熱望する平和という状態が、只、言葉や文字の画く美名だけとなって、
うつろ
業想念活動の中を、空に流れているのは実にうら淋しいものである。101真









なにびと
アメリカ大統領が誰に変ろうと、日本首相が何人になろうと、絶対平和という立場
に自分たちを置いて立ち上がらない限りは、やはり業想念波動の不調和世界を超越し
た政治を取ることはできない。ところが残念なことに、アメリカも日本も、現実の政
治情勢は、敵を見ない絶対平和という立場に、自分たちを置くことのできない状態に
あるのである。そこで、やむを得ず、国際共産主義に対する力関係の強力軍備体制を
しいている。そして、これに対抗して国内の社会主義者、共産主義の集団がソ連、中
共と手を組んで、この体制を切り崩そうと活動している。これが現実の政治情勢であ
る。
共に平和を願いながら、平和を崩す敵対行動をしなければならないこの地球人類の
ほんろう
状態は、業想念波動の旋風に醗弄されつくしている哀れきわまりない状態なのである。
一体これでい玉のであろうか。有識者は一様にこうした状態に首をかしげ、眉をひそ
める。しかし何等の名案も浮んでこない。為政者自体には勿論現在以上の智慧も実行
102
方法も浮ぶわけはない。何故ならば、今日までの流れの継続を一日一日と片づけてゆ
かねばならぬので、今日までの、政治態勢や国際情勢を無視して、一度に跳躍し、業
想念を超えた政治を取ることなど思いもよらぬし、思い至っても実行することは不可
能なのである。
政治の当事者というものは、その立場上、あまり飛躍した行動はできないものなの
だ。そこで、現在の世界の状態を変化せしめ得るのは、現在政治に一切たずさわって
いない無色の者たちでなければならない。業想念波動のしきたりなどで政治を取って
いる限りは、地球世界は滅びるより仕方がない。そこで、どうしても今日までの政治
のしきたりなど一度水に流した、業想念波動をすっかり捨て切った、絶対平和の立
場、つまり、神のみ心の中にすべての想念行為を全託した立場に立っての、世界平和
の祈り的立場から、あらゆる行為の出発をしなければ駄目なのである。
その行為こそ、宗教の本質的行為であり、真の政治であるともいえるのである。
103真の政治を生むために
私たちはそうした真の政治体制のできる日のためにも、世界平和の祈り一念の日常
生活をしてゆかねばならぬと思っているのである。(昭和35年12月)
104
嘘を言わぬ政治をする為に
嘘を平気でいえなければ、政治家にはなれぬ、というのが、一般国民の常識になっ
てしまっていることは、なんといっても、日本の政治のために哀しむべきことだ、と
いって、この常識をくつがえせる程の政治家が、まだ出てきていないのだから、こう
いわれても止むを得ない今日の状態である。
こういう国民常識を破る手はじめとしては、先ず議員の選挙の方法やその状態を第
一に改めなければなるまい。違反行為をしなければ、余程実力のある人や有名な人以
外は、とても当選しないような今日の状態の選挙方法では、違反をしないで出るほう
が無理というものである。
まして、名もない新人など、いくら人物が立派であろうと有能な人であろうと、最
大限に自己宣伝をしなければ、一回五分位のテレビ放送での、規定の金額での静かな
宣伝だけで、どうして当選することができよう。一万票も集めるのにそれこそせい一
杯である。だからどんなことをしてでも、票集めに奔走する。自然勇み足になって選
挙違反を止むなくやってしまう。
心正しい有能な人は、自分が政界に出れば、これこれこうしてという深い智慧があ
っても、そんな方法で自己宣伝をしてまで出馬することなぞ、良心的にもプライドの
上でも、とても出来っこない。そこで、人格高潔な有能な人は政治家にはなれぬこと
になってしまう。国家的大損失というべきなのである。105嘘











一体政府の選挙法や選挙体制を考え出す人々は、自分たちだけでも、違反行為を絶
対にしないで済むと思っているのであろうか。時折り政府のお偉方でさえ、違反行為
で、運動員が取調べを受けたりしている程だから、一般の候補者が違反しないで、選
挙にのぞむことの無理であることが、はじめからわかっているのではないだろうか、
違反の摘発を受けた者が運が悪いのだ、で済ましていられたのでは国民のほうがやり
きれない気持だ。
何故こんな政治家となる第一歩のところから、嘘をつかせなければならぬような政
治体制にしておくのか、こんな体制に政治のはじめの段階でしておいて、嘘をつかぬ
政治をしようというのが土台無理な話である。何かもっとすっきりと誰でもが、実際
に金を使わず違反なしで議員になれる方法を考え出して貰いたいものである。
これが政治家は嘘つきでない、という印象を国民に与える出発点なのである。その
次には大臣諸公が、首相をはじめとして、自己の椅子に恋々としない、すっきりとし106
た心で、私心を公の仕事に捨てきった態度で政務にたずさわって頂くことである。そ
ういう政治家が揃ったら、国民の品位も自ずと立派になってゆくのであろう。
国民と政治家がお互いにプラスし合うようになることは、別に夢ではないのである。
先ず国民より少しは兄であるぺき政治家のほうから、自己の心を正しく立派にしてゆ
くべきなのである。(昭和45年2月)
話合いから祈り合いに
先日テレビの討論会で、学生と政治評論家たちとが話し合っていたのですが、これ
がまるで討論にも話合にもならぬ、革命派学生の一方的な怒声に終始してしまったの
107話合いから祈り合いに
です。
それも、評論家たちが、保守派の人たちなら兎も角も、皆左翼陣営の人たちで、政
府批判、四次防批判の話をしかかるのですが、この革命一本槍の学生たちは、自分た
ちの味方であるべき筈のこれら評論家の話も、一言話しはじめると、自分たちへの非
難と誤解して、話の内容には耳も傾けずに、その人たちを反動あつかいにして、集団
で罵倒するのです。
評論家の人たちは流石に大人で、そんな罵倒にも興奮せず、政府を倒すにしても、
革命を起すにしても、戦争反対、軍備反対という根本で一致している多くの人々と手
さと
を握ぎって事を起さなければ駄目なのだ、と論すのですが、学生たちは、自分たちの
言葉にすっかりのぼせ上がっていて、憎しみに充ちた声で、その人たちに怒声をあび
せつ父けていて、遂いに何んの話合も行われずに、討論会は終ってしまったのです。
この学生たちの幼稚さというものは、一つの物をねだったら、それを自分のものに
108
するまで、てこでも動かない幼児のような態度で、革命という言葉のとりこになって
めしい
自ら酔いしれ、周囲がまるで見えない心の盲た青年たちなのです。
こういう心の盲たものは、この青年たちばかりではなく、大人にもいるのですが、
こういう不調和そのものの人たちはそう多くいるわけではないので、常識をもった大
半の人たちは、まず互いに話合う、という習慣をつける必要があるのです。自分だけ
がしゃべりまくっていて、話合ったなどと思わず、お互いが相手の話を聞く、という
態度になることによって、そこに調和の雰囲気が生れてくるのです。自分の意見を通
すために、相手を抑えつけるような語調では、たとえその場はその人の思うようにな
ったとしても、相手の心に、その人を恨む想いが残っていて、いつかは逆の目にあう
ものです。どんな嫌な言葉でも、相手と話合っている以上は、相手の言葉をある程度
は聞くという、寛容の心がないと、この世に争いの波を助長するようなことになりま
す。
109話合いから祈り合いに
またそれ以上の心境になると、祈り合いの生活が生れてきます。常に自分に対する
人を、神の分生命として観る、という習慣をつけてゆくと、いつでも、自分の周囲が
和の波に充ちているようになります。私は常にどんな嫌な人に会っても、その人の守
護の神霊を観じて、守護の神霊に対して話をし、その人の業の波は消滅してゆくもの
と、祈り心一念でいるわけです。そうしないと、つい、嫌なその人の波をまともに受
あなど
けて、怒りの想いや、侮りの想いなどが出てきてしまいます。
そこで、私は世界を平和にし、戦争や天変地変を無くすためには、自分自身が、祈
り心で生活し、この世を祈り合いの世界にしてゆくことが大事なことであると思うの
です。
現在では、会の青少年諸君が先頭に立って、相手の神性をみつめる祈り合いの生活
をするようになり、世界平和の祈りの宣布につとめているのであって、実に有難いこ
とだと感謝している次第なのです。110
祈りこそ、この争いに充ち、混乱した世界を正す、根本的な行いなのです。
(昭和卿年3月)
日本人の誇をもて
近来の中共をみていると、指導者をはじめ国民全般が、自国の在り方に非常に確信
をもっているような、他国に対して物おじしない生き方をしているように見受けられ
る。
イギリス人やフラソス人の自尊心の高いのは、誰もが知っているところだが、アメ
ほこり
リカ人なども、自国の在り方に高い誇をもっている。そういう欧米人が近来の中共に
111日本人の誇をもて
対して、辞を低くしているように感じられるのは、一体どんなところからくるのであ
ろう。
それは、個人の気まま自由を許さぬ共産主義政策の政治の圧力があるとはいえ、自
民族の尊厳を守るという強い意識が、国民の生活に濫れていて、国民全体の中に毅然
とした態度がおのずから生れ出でている、ということが第一の要素である。民族の尊
厳を堅持しようという意識と、国を守りぬこうとする愛国心とが、中共の国力を高め
ているのである。
一転、目を日本に向けてみた時、我々はそこに何をみるであろう。愛国などという
言葉すら忘れた、自己主義の想いのままに、自己の生活のみを享楽しようとする大半
の国民の姿をみるのである。
自己の生活のみに心を奪われた、国や民族というものを忘れ去ったような人々がい
かにこの国には多いか、思わず心が寒くなる想いがするのである。
112
自民族のみを高しとする、選民思想もどうかと思うが、現在の日本人のように、な
んらの国家目的ももたず、民族としてのなんらの誇をもたぬ精神的流浪者が多くては、
中国民族の鉄のような民族意識を背景にした愛国的行動に及ぶわけもない。
日本人全体に現在、第一に欲することは、世界に大調和をもたらすための和の民族
である日本人の、その調和の心を国家目標として、そうした日本人の天命に誇をもっ
てもらいたいということなのである。
日本人として日本国に生活している以上、日本を愛し、日本のために働く、という
心を持たぬということこそ、不思議な心で、すべての国民が自己の生活のみに把われ
ていては、国家も国民もともに滅びてしまうことは理の当然である。
経済の向上も勿論結構であるが、なんのために日本という国が存在するのか、自分
はなんのために日本人としてこの世に生存しているのか、ということを、もっと真剣
に考えてみてもよいのではないか。
113日本人の誇をもて
日本はあくまで調和を旨とする天命をもっている。今日までの白人コンプレックス
を捨て去り、日本人はその調和達成のために、自己の生活を生かしきってゆくべきな
のであり、そういう人の多くなることを私は世界平和の祈りをしながら、思いつづけ
ているのである。(昭和47年7月)
114
日中国交樹立について
この世界には、時の流れ、世の流れというものがあって、正とか悪とかいう区別な
しに、現われる時には現われ、消える時には消え、結ばれる時には結ばれ、結ばれぬ
時には結ばれぬ、ということがある。
もちろん
日中の国交の樹立でも、結ばれる時が来て、自然と結ばれたので、その間勿論周、
田中首相をはじめ、日中多くの人々の多大の努力があったのだが、その根本をなすも
のは、世の流れ、時の流れだ、ということを強く感じさせる。
どんなに躍起になって成就させようとしても、時が来ねば、いかに正しいことでも
あやま
成就しないし、時の流れに乗れば、過ちとわかっていても成就してしまうものである。
日中の国交樹立に、中国が共産主義国であるから反対である、と思っている人がか
なり存在するが、その人たちも、時の流れ、世の流れということをよく噛みしめて、
共産主義中国と交流しても、日本が共産主義にならぬよう、日本の本質を失わぬよう
に、日本の人々に、日本の本来の姿を説き明かしておくことが大事である。
ただやたらに反共の声を挙げて、日本を二つに割ってしまうことは、実に危険なこ
とで、日本は、種々な生き方の人が混っていても、日本人の本質としては一つであ
る、というようにもってゆかねばならぬ。
115日中国交樹立について
要は日本を種々な思想で二分三分してしまうことがいけないので、表面的には分れ
ていても、本質においては一つなのである、ということを、みんなに知らせなければ
ならぬ。日本は神霊の加護を受け易くできている民族なのだが、今の日本人はそれを
忘れている。日本人は、あく迄、大和の民族であり、この世界を調和させる役目をも
って生れ出ている民族である。
天命がそうなっているのだから、やがては必ずその天命が真実に現われてくるの
だ。表面に現われた出来事で=凪二憂していないで、日本の天命達成を祈ることであ
る。時の流れ、世の流れに乗って様々な消えてゆく姿的出来事、事柄が現われてくる
が、それも来るべき平和世界誕生の一駒一駒なのである。
時の流れ、世の流れに逆わず、消えてゆく姿として現われたものを、うまく早く消
えてゆくように、世界平和の祈りをこそ祈りつづけるべきなのである。
(昭和47年1月) 116
ベトナム和平について
ベトナム和平の成立は、世界中をほっとさせた。戦争当事者である、米国も北ベト
ナムも、サイゴソ政府も革命政府も、誰だって、戦争をしつづけたい者は一人もおる
まい。当事者ならぬ我々の肩の荷も少しく降りた気さえする。
米国にとって何一つ得のいかなかったベトナム戦争。何故そんな戦争に米国が踏み
こんだのか。はっきりいえることは、共産主義の滲透を、アジアで喰いとめなければ、
米国を頼りにしている民主主義国家群に顔向けができないし、米国の威信が落ちる。
威信が落ちるばかりではない、アジアの勢力が共産主義国でしめられてしまっては、U7ベ









やがて真正面に米国に共産主義侵略が行われてくる。
そういう不安恐怖が、ベトナムの武力介入になったことは論をまたない。結論をぐ
っと縮めて申さば、米国への共産主義の働きかけを、ベトナムで叩いて、米国にまで
向けさせまいと思い、そのためになら、彪大な軍事費をつかっても、大きな兵力を繰
入れても惜しくはない、と思ったのである。
米国為政者の頭には、ベトナム人の幸福など殆んど浮かんできてはいなかったので
あろう。それでなければ、もし共産主義者を武力でベトナムから追い出し得れば、米
国に組みするベトナム人によってベトナムの平和が保たれることになるのに、枯葉作
戦などという物凄い爆撃で山林や田畑を焦土と化し、あらゆる農産物が長い年月育つ
ことの不可能になるような、食糧危機が眼に見えるような攻撃の仕方はしなかったと
思うのである。
勝っても負けてもベトナムは焦土と化してしまうのである。そして米国本土はなん118
ら痛むところはないのだ。そんな一方的な戦争なのだから、世界の世論は、共産主義
嫌いの人たちでも、北ベトナムを善とし、米国を悪とみたのであり、かえって共産主
義勢力を助長してしまう結果になってしまうのである。
北ベトナムは米国に一発の爆撃もしていない。していないというより出来る実力は
ない。それなのに米国は共産陣営に対して、第二次大戦の総爆撃量の三倍半、広島へ
落した原爆の四百五十発分もの爆撃を行ったのである。
如何に共産主義が敵だといっても、共産主義を行うものは人間なのである。その人
間を自国の都合のために一人でも多く殺してしまおう、という米国為政者の心は一体
人間の心なのか、サタンの乗りうつった心なのか。これがキリスト教信奉の国とあっ
ては、宗教もやりきれたものではない。
そうはいっても米国には善いところもたくさんある。日本ばかりでなく、後進国の
大方は、米国によって救われている面も相当あるのだから、悪口ばかりもいっていら
119ベトナム和平について
れぬが、このベトナム和平を契機として、サタソの乗りうつったような米国の姿を、
再び現わさないでほしいのである。
私たちの平和の祈りは、米国が真のキリスト教国の姿を、常に現わし得るように
「米国の本心が現われますように」と祈らねばなるまい。今の米国には真の祈り心を
こそ必要とするのである。そのために私たちの祈りによる平和運動が、米国において
広まってゆこうとしているのである。
米国が手を引いても、ベトナムが直ちに真の平和に到達するものではない。サイゴ
ソ政府と革命政府、または北ベトナムの政治的争いは、小さな戦をつづけつつ深刻な
様相を呈してゆくのであろう。しかし、米国が再び手を出すことをしないように、我
々は祈りつづけなければならぬのである。(昭和48年3月)
120
世界平和の祈りこそ
アラブ、イスラエルにまた戦火が燃えあがり、世界中が騒然となってきた。ベトナ
ム戦争が表面上は終ったが、イソドシナ全体の戦いの渦はまださかんに巻きひろがっ
ている今日、アラブ、イスラエルの憎悪にみちた対決が、中近東の地をまさに焼きつ
くそうとしている。地球人類の持つ業の火は果して地球潰滅にまで燃えひろがってゆ
くのであろうか。
ベトナム戦争の陰に米ソ中あり、中近東戦争の陰にも米国とソ連の力が厳然として
働いている。大国は陰にいて、小国の業をかき立て、小国は血まなこになって、自国121世








防衛の刃をふるう。しかもどこの国も世界の平和のためだという。
米ソの武器は小国の戦火を煽り、そして、その米ソがまた火消しの役にも廻ってい
る。なんとも実に面妖奇怪な地球人類の心ではある。こんな人類の心を波動的にみれ
ば、地球の調和波動を乱す、不調和そのものの心といわねばならない。
えんこん
アラブとイスラエルの戦いは、歴史的な深い怨恨にその根があるので、言葉の上で
の、どんな説得も効果はない。お互いに少しの譲歩をして、一時的に戦争をおさめて
も、お互いの怨恨が消えたわけではないので、いつでも一触即発の状態でいるわけで
ある。アラブには世界の石油資源があるので、一つの場所での戦いとすましてみてい
るわけには、どこの国もいかないのだ。そこで、各国とも重大な関心をよせるのだが、
ひいきがわ
米ソのように、お互いの贔負側に武器を与えて戦いを有利にさせようという、方法し
か浮かんでこない。これではますます平和に遠くなる。
そういうことに加・兄て、地殼の変動による天変地変という恐れもある。もう肉体人
122
間の力ではどうにもならないところに、地球の運命は立ちいたっている。この事実
を、人々は眼を見開いてみつめるがよい。果して自分たちの力で、戦争を防ぎ、天変
地変を喰い止めることができるのか、その時になってからでは遅いのである。今、即
刻考えねばならぬ問題なのだ。
私は率直にいう。神の力なくして、地球の存続はゆるされない、そういう時機に今
はなってきていると。守護の神霊との一体化によって、人々の精神と地球の物質波動
とを、宇宙の正しい波動に合わせる働きをすることこそ、現在、人々がなさねばなら
ないことなのだ。その方法が世界平和の祈りなのである。
世界人類が平和でありますように、と真剣に人々が唱える時、救世の神々の光明波
動が、地球の乱れた波動を正しいリズムに乗せて下さるのである。私たちはそのさき
がけとして、日夜、祈りの生活をつづけているのである。
祈りなくして、人類の平和は絶対にこないということを、私は明言しておく。私た
123世界平和の祈りこそ
ちは何にも増して、世界平和の祈りを祈りつづけ、平和の力、神々の力を地球に導き
出すのである。神々ははっきり私たちの上に生きいきと働いて下さるのだ。私はその
事実を、肉眼でみ、肉耳できく以上に知っているのである。(昭和48年12月)
124
カンボジアとベトナム
カンボジアに革命政権が生れたし、南ベトナムも、革命軍の全面的勝利に終った。
カソボジアは六年、南ベトナムはなんと三十年、絶え間ない戦火の中で、国民は不
安混迷の生活をつづけ、逃げ惑っていたのである。
その間の資源や人的被害は大変なものである。
もし、仮りに、米軍が軍隊や軍事資金を送らず、中国、ソ連も資金や武器弾薬を送
らないでいたとしたら、いったいどうなっていたであろう。恐らく、ほんの短期間の
戦争で、どちらかの勝利が決まり、あとは単なるゲリラ活動で終っていたのではなか
ろうか。
はけん
自由主義と共産主義との覇権争いが、大国間にも小国の間にもつ黛けられて今日に
至っている。その覇権争いの犠牲が、ベトナムであり、カンボジアである。
自由主義には自由主義の立場があり、共産主義には共産主義の立場や言い分があ
る。私たちは宗教者なので、神を認め、人間の自由性を認めている、自由主義の立場
に立っていることは勿論である。
た父真の宗教者というものは、自己の立場を守るために、武器弾薬をもって、相手
を殺傷するというようなことはしないものなのである。だから、米国の立場を理解は
するけれど、この三十年来、ベトナムでとったような、米国の軍事介入をよいことと
125カンボジアとベトナム
とくえ
は認めていない。結局この三十年の間に、米国もベトナムもなんの得を得たというの
であろう。大量の物資と大量の人間の犠牲という結果がそこにあっただけであり、世
界中の人心の不安をかき立てただけであったのである。
ソ連や中国も武器弾薬の援助を革命側にしていたのであるが、米国のように正面き
って、軍隊の投入というようなことをしなかったので、世界の大半の人々は、米国だ
けがベトナム戦に介入したような印象を受けているので、米国が非常な悪役を買った
工合になってしまっている。
イソドシナが共産主義圏に入ってしまうと、アジアが次第に共産主義化し、米国が
世界から追いつめられる立場に立ってしまうと思って、ベトナム戦争に米国が介入し
たのであろうが、結果は米国の武力をもってしても、武力ではイソドシナの共産主義
を追いはらうことはできなかった。

武力だけで世界の覇を握ぎろうとするのは、もうすでに過去のことなのである。武126
力以外の力、すなわち、調和の力がなければならない今日なのである。
南ベトナムにしても、カンボジアにしても、政府要人や権力者たちの私利私欲とい
うものは相当なものらしく、一般国民の困苦欠乏の生活を外に、自分たちは結構な生
活をし、私財を貯えるのに窮々としていたようなのである。
そんな愛情に欠けた、不調和な生活態度を、為政者たちがとっていて、なんで国家
が治まってゆく筈があろうか。不平不満は国内に満ち、革命軍や、共産主義側に.組み
するものが増加していったのは当然の帰結である。そういう根本的な問題の解決がな
されずに、ただいたずらに武力をもって、革命軍を攻め立てたとて、どうして勝利を
得ることができようか。米軍首脳陣の、ベトナムというものへの読みの浅さと、武力
に頼り過ぎる高慢さからきた失敗なのである。
私ども日本人がこ』でよく考えなくてはならないことは、最後の勝利は、国民の真
に国を愛する心と調和の心にあるということである。ベトナムのようにカソボジアの
127カソボジアとベトナム

ように、はたまたインドのように、上層と下層との生活の差が、天と地程も開いてい
て、その生活様式を少しも変えようとしない、愛情の欠乏こそ、共産主義侵透の最も
なし易い国の状態なのである。
幸い我が国は、上層下層の差というものが今日では殆んど無いといってよい程のも
ので、中産階級といった生活の人々が多いのである。そして、インドシナやインドの
さくしゆ
ように、為政者たちや、政府要人たちが、国民の税金を搾取しているということも殆
んどなく、為政者たちが、眼に余るゼイタクをしているという姿も見受けられない。
国民が不平不満をいえばきりがないが、今ここで、自由主義側と、共産主義側との
武力戦が行われたら、世界はどうなってゆくか、ということを考えてみる必要があ
る。ベトナムでは中国やソ連が直接武力介入しなかったから世界戦争にならなかった
かなめ
が、米国にとっても、中ソにとっても世界の要のように重要な日本を各自が自分の味
方にしないではいられない。ソ連も中国も、日本をなんとかして、現在の米国一辺倒
128
を変えさせようと、あの手この手と運動しているに違いない。
常に問題にされる日米安保条約は、日本国民の調和の心が多いか不調和の心が多い
かによっては、あって恐ろしく、無くて恐ろしい、というものになってしまうのであ
る。
米国にしても、ソ連、中国にしても、どんな上手なことをいったとしても、要は自
国が一番可愛いのであり、自国の防衛が一番大事なのである。日米安保条約があっ
て、日本の空も海も米軍の武力が守っている、ということは、ソ連や中国にとって、
日本にはやたらに手は出せない、ということになり、確かに日本の守りになっている
のであるが、もし仮りにいざ戦争という時には、米国の前線基地として、日本が先ず
一番に核攻撃を喰うのも確かである。そういう核戦争になっていたら、米国にとっ
て、日本の守りなどは二の次ぎ三の次ぎで、自国の守りと、敵への先制攻撃に全力を
挙げることであろう。日本は悲しくも一番最初の犠牲国となって、滅亡し去ってゆく
129カンボジアとベトナム
であろう。そうなることは眼に見えていることである。
だから、そうならないうちに、日本の国内で自由主義だ、共産主義だなどといって
いないで、全国民の心を平和一筋に結集させる、大調和運動がなされなければならな
いというのである。私どもは、これを祈りによる世界平和運動として実践活動をして
いるのである。国民の中で、なんだかんだと不平不満をいい合い、反政府運動をした
りしているが、核戦争で日本が滅亡してしまうことを思えば、そんなちっぽけな不平
不満など吹っ飛んでしまう。今日では一にも二にも核戦争の起こらぬような運動に日
本の働きをもってゆくことが必要なのである。自由主義も共産主義も、核戦争の前に
は、なんの問題にもならぬことなのである。
日本を救うものは、主義運動ではなくて、平和の心そのものなのである。平和をつ
くる根本は、神のみ心にあるのだから、私は祈りによる平和運動をこの三十年来実践
し続けているのである。(昭和50年6月) 130
日本の本心を世界に知らせよう
マレーシアのクァラルンプールにおける、赤軍派の米大使館占拠事件は、世界中
に、日本人への不信感をまき散らすことになってしまった。何回かの赤軍派のこうし
た行動は、世界における日本人の信用を、かなり下落させてしまっているのである。
狂人じみた赤軍派の在り方が、そのまま日本人全体の在り方とは勿論思わぬにして
なんどき
も、日本人というのは、いつ何時、赤軍派のような無謀なことを平気でやりかねない
人種である、と思い違う人も、世界にはかなりできていると思う。こうした事件を契
…機として、ここのところ、日本人の信用がかなり落ちて来ていることは事実である。
131日本の本心を世界に知らせよう
日本人全体にとっては、口惜しく残念なことであるけれど致し方がない。
そこで、こうしたことを逆に考えて、日本の世界に対する態度が、世界中から好感
をもって迎えられるようなことを、次々としていったら、赤軍派のまき散らした日本
人不信感を打ち消してしまう、大きな日本人信頼感が打ちたてられてゆくのではなか
ろうか。
その方法として、貧困の国々や、なんらかの被災国への金品の援助もよいであろう
し、科学や技術の指導をしてやることもよいであろう。日本人が日本人だけのことを
考えているのではなく、常に世界の人々の幸福を考えているのだ、ということを、世
界に知らせつづけることが必要なのである。
その根本になる、世界が平和で、平安であれ、という人類の希望を、日本人全体が
一つ心になって、世界中に宣布することを実行したら、前記の様々な援助行為も大き
く意義づけられてくるであろうし、外国における日本人の失敗も大分緩和されてくる132
であろう。
そのためには、国家と民間と協力して、各家毎に、世界平和を祈願する言葉を印刷
したものを貼附して、日本人のどんな家でも、世界平和を祈っている、ということを
自然と外国に知ってもらうと共に、外国にある、政府機関や商社や、各日本人家庭で
も、同じような印刷物を貼附してもらう。またそれと同時に、国家の行事や各会社の
行事のはじまりには、必ず世界平和祈願の言葉を唱えるようにする、ということを実
行すれば、世界中が、日本人の本心が、世界の平和を願い、平安を願うことを中心に
している、ということを知るようになると思うのである。
私はそのために、個人でその運動をはじめ、現在では祈りによる平和運動として、
多くの同志が真剣にこの運動に取り組くんでくれているのである。この運動が、日本
国家そのものの行ないとしてつづけていけるようになれば、本当に有難いことだと思
っている。
玉33日本の本心を世界に知らせよう
なんにしても、日本は世界の日本観を、赤軍派的に見られぬように、一日も早く、
世界平和政策を、世界に示さなければいけないのである。(昭和50年10月)
134
国を割ってはいけない
年が新たまっても、世界は相変らず各地で争いの波が絶えない。
イランで人質騒動があって、米国をはじめ各国に異常な興奮を巻き起こしている時、
その隣国のアフガニスタソに、革命軍を後押ししてソ連軍が数万の兵力で侵略してき
ている。
ベトナムへ米国が兵力を送って、あのベトナム戦争が長くつづき、多くの人員が殺
傷された、その恐怖がまだ世界中に残っている時に、今度はソ連がアフガニスタソに
その牙をむき出してきている。ソ連はかつて、侵略の実績をもっている国なので、自
由陣営の人ばかりでなく、社会主義の国々まで、眼をみはってソ連の次の行動をみつ
めている。
日本にとっては、米国には戦後大きな恩義をこうむっているし、みじめないじめ方
よこぐるま
をされたことも少ないが、ソ連には何一つ恩義をうけていないばかりか、常に横車を
押されている感じで、ソ連が兵を出したなどと聞くと、ぞっとする想いになる。
日本にとっては、現在一国単位で国際問題に口を出すことはできないので、常に米
国との相談つくで日本の立場をつくってゆくより仕方がないのだから、日本人があま
り米国の悪口はいわぬ方がよいと思う。
何んにしても一国が分裂していると、アフガニスタソのように、ソ連のような侵略
を受けてしまう。一国は常に一つに統一されていないと、現在の国際状勢からみて、
135国を割ってはいけない
いつ侵略されてしまうか判らない。その点日本は貧富の差が少なく、中流階級が多い
ので、共産主義に易々と侵されてしまうようなことはない。しかし、自由陣営の自民
党などが、国政を外に、自分たちの地位や立場にばかり眼をやっていると、それがそ
のまま売国行為になってしまうから、気をつけなければいけない。
兎も角私共は一月も二月も三月も四月も、世界平和の祈りを中心にして、世界中に
平和のひびきをひびかせつづけてゆくことが大事なのである。
(昭和5年2月)
136
本心に還えろう
今こそ新しい科学の道へ
アラブの石油問題で、日本の物価は急上昇し、日本経済はどうなってゆくか、と誰
もが案じ、今更のようになんの資源をも持たぬ日本という国の運命を想いみたのであ
るが、三木特使の派遣以来、日本へのアラブの態度が好意的になってきて、どうやら
しゆうぴ
愁眉を開いた形になってきた。これで大丈夫というのでは勿論ないが、最悪の状態を
まぬかれたことには違いない。
しかし、ここでよくく考えてみなければならぬことは、日本のようになんの地下
はつげん
資源をも持たぬ国は、特別な科学力を発顕して、様々な資源を自らの力でつくり出さ
139今こそ新しい科学の道へ
なければいけない、ということである。
キリストが空中からたくさんのパンをつくり出したように、物質からエネルギーを
得るというのではなく、大生命の本源から、エネルギーの大本から、物質などという
ものを通さずに、エネルギーをひき出し、自らの力で物質を生み出す、という、そう
いう科学力を生み出してゆくことが絶対に必要なのである。
限りある物質、限りあるエネルギー源では、いつかは地球は滅亡してしまうより仕
方がなくなる。地球を滅亡させるのが、神のご意志とは思われないので、なんらかの
方法で、地球を存続させることができるようになっているに違いないのだ。
私はそういう神の意志を信じて、現在の地球科学とは別の方法で、新しい科学を生
み出さそうとして、ここ十年来、同志と共に、研究しつづけている。今日のように、
いよいよエネルギーにも物質にも追いこまれてきてみると、あらゆる科学者が、どう
しても、私たちの考えているような、一見夢物語と思われるような道に、夢でもよい140
から一度手をつけてみてもよいのではないかと思う。
大きな発見や発明は、常に夢物語のようなところからできるのである。日本のよう
なおさら
に資源のとぼしい国は尚更にこういう道に踏みこんでゆくべきではないのか、と私は
思うのである。(昭和49年2月)
人間のよい心を拡げよう
四月は進学や、入学がきまって、子供たちは新しく出発する月である。大人たちも
その子供につられて、自然に心や体が動きだしてくる。
もっとも四月は花の季節であり、温暖の季節であって、心が温まり、明るくなる月
141人間のよい心を拡げよう
である。こんなよい季節になってまで、過去の悪い事柄ばかりほじくり返していない
で、未来のよい種をさがしあて、育ててゆくことが社会国家としても、個人としても
必要なのである。悪い事というのは、全て削り取らなければいけないものであるが、
良いことというのは、力を注げば注ぐほど、ふくれあがり大きくなってゆくものであ
る。過去におこった悪いことばかりに、目を注いでいたら、人間の心から良いことに
向かってゆく心を少なくしてしまう。悪いことを削り取るより先に、良いことを大き
ちまなこ
く育ててゆき、自然に悪いことが育たぬようにすることがよいので、血眼になって、
悪いことばかりをさがし出そうとすることは、人類の進化を止めてしまうマイナスの
方法である。
人間は本来神の子であるのだから、その本来性を現わすように努めることが大事な
のであって、その現れを妨げる業想念所業を消し去ることに努めればよいのである。
本末転倒して人間を悪魔の子のように、追いつめてゆくことは、間違いもはなはだし
142
いのだ。
子供を育てる場合など、常によい面を引き出してやることが必要で、悪い面はさら
りと消し去ってやるとよいのである。マスコ、ミの世界などでは、この社会の悪いこと
のみを大きく取り上げすぎるが、良いことの方も大きく取り上げてもらいたいもので
ある。(昭和52年4月)
いのち
生命を生かそう
私の誕生日は十一月二十二日で、
謝の気持で一杯である。
皆さんから毎年お祝をして頂いている。いつも感
143生命を生かそう
第一に大神様への感謝、そして各神々、守護の神霊への感謝、それに自然をはじめ
生きとし生けるものへの感謝。私の生活はこうした感謝の気持を根底にしてつ父けら
れている。それが祈りによる世界平和運動として、大きく広がっているわけである。
この世に生を受けたからは、如何なる人でも、天命をもって生かされているので、
たとえ赤児で昇天してしまったものでも、それはそれなりに周囲への働きかけをして
いるのである。まして、成人までになっている人々は、自分の心の持ちようで、いく
らでも、自分に与えられた生命を生かしてゆくことができるので、自分という肉体の
から
殻の中に閉じこもっていて、その中でだけの幸福を得る為の生命にしてしまったりし
てはいけない。
生命は自分でつくったものではない。天地から与えられたものである。神は自分の
おけいのち
分生命である人間を肉体世界で生かす為に、空気や水や植物や、人間に必要なあらゆ
るものを与えているのである。人間が分生命であるということは疑うことのできない
144
ことで、人間がこの地球界に住むということは、この地球界に神の世界をつくりあげ
てゆくということである。
神は人間各自に天命を与えて、地球界にも神の理念を現わしてゆこうとしているの
である。それはこの八十年百年という一生だけのものではなく、何生もかけての天命
達成になるのである。私が現在のように、皆さんの先達として光明世界に皆さんを導
いているのも、過去世からの精進努力によるのであるから、皆さんもそのつもりで、
自分の天命を完うされるようにと守護の神霊に祈ってゆく必要があるのである。
この世の生活にはいろくと辛いことや嫌なことが多いけれど、それはみな過去世
からの業の消えてゆく姿であって、消えるにしたがってその人の光明が輝き出でてく
るのであるから、それを信じて、世界平和の祈りを祈りつづけていって貰いたいので
ある・(昭和53年1月)
145生命を生かそう
146
宗教の本道を外れるな
私はテレビの宗教の時間は、かかさずみているが、聖書や仏典の中で、聖者たちが
生きいきと働いている状態にはいつも胸を打たれる。しかし現代の学者先生方が、字
句や事柄を説明しはじめると、途端にその聖書も仏典も急に色あせてくることが多い
のに驚くのである。
学者方には何んでも学問としての組立てによって人々に伝えてゆく常識になってい
るのだろうが、宗教の道だけは、学問仕立にしてしまうと、その道が色あせて死んで
しまうのである。
イエスがイエスと呼ばれようとイエズスと呼ばれようと、ヨハネがヨハネスと呼ば
れようと、そんなことは道を求める人にとってはどちらでもよいことなのだが、学者
先生方にはそうはゆかず、そういうまるで枝葉のことに一生かけてしまうような人が
できているのである。
それから私もいささか同感したのであるが、モ1 セやイエスやモハメヅドは三悪人
である、とテレビの対談者の二人がすっかり共鳴して語りあっていたことがある。そ
れは、こうした三人の教祖がいて、自分の主張する教えこそ真理であって、これに反
する道は神のみ心にそむく道だ、そこに人類の不幸が生れてきたのだ、というように
説いているので、弟子や信者たちは、教祖方の説く道にそむいている人々を憎みさげ
すむ想いになった。この世に憎しみや恨みや争いの渦がひろがってきたのはこの三人
が出現した為であると。これは真実にそう想っているわけではなく、逆に説けば、こ
んなふうにもなる、というような軽い調子でいっていたのであるが、私は全くそうだ、
147宗教の本道を外れるな
と想ったのである。
イエス・キリストの教えなど全く真理そのもので、一読して心が浄まるような言葉
なのであるが、これを逆にとると、そういう真理にそむいて生活している者たちは、
みな神への反逆者だから、それらの者を滅ぼしてしまわねば神の国はできあがらない、
というように、それらの反逆者への憎悪の想いが、キリスト信者の心に燃えあがって
くる、ということも事実なのである。
神の道の正しさを求めるのはよいのだけれど、ユダヤ教にしてもキリスト教にして
も、自分たちの教えに反する者を憎み、しりぞける、という想いは非常に強いのであ
る。まして、マホメット教ともなると、それが確固としてぬきがたいものになってい
て、他の宗教との少しの妥協もなかなかできずに、常に戦争の導火線になっているの
である。
宗教の道は本来、大調和への道なのである。この大調和の道を崩して、憎悪と争い148
の道をつくり出してしまうようであるなら、その宗教はもはや宗教という名で呼ぶに
ふさわしくない道なのである。既成宗教の人々は、その点よくよく考えて、その宗教
の本道を歩いてゆくように心がけてゆかねば、宗教団体がある為に、世界は滅亡して
しまうというようなことにもなりかねないのである。
その為にはどうしても、世界平和の祈りのような大調和への祈りが必要になってく
るのである。(昭和54年4月)
本心に還えろう
四月五月六月という月は、一年中で一番良い季節だと思われているが、時折り暑い
ヨ49本心に還えろう
日と寒い日が入り交じったり、風雨が烈しくなったりして、折角の良い季節を乱して
ゆく。
美しい花々、生々した緑の草木、あらとうと、芭蕉ではないけれど、有難い気が自
然にしてくる。こういうよい季節をいつも保ってゆく為には、人間の心が調和しきっ
つかさど
てゆけばよいのだ、と神様はおっしゃる。自然を司っているのは大神様から分れて働
いていらっしゃる神々で、風雨のことなどは、竜神さんの働きによるのだ、と肉体人
間的に言えば、そういう答がでてくる。
人間は本来、神の分生命なので、自然の働きを司っている神々や、竜神様とは一つ
の生命なのだから、人間の心が本来の働きをしていれば、人間の思うような、調和し
た快い年月がこの地球界にもつづいてゆくわけなのだが、人間の心は本心から離れた
物質波動の方に肉体的な動きが把われて、神々の働きを妨げるような状態になってし
まったので、神々はそれを調整しようとして働かれる。すると、暴風雨や地震などの150
ようにその調整までの不調和が現われてくるのである。
ここで肉体人間側のできる、神への奉仕は、こういう不調和の波を神々の手助けを
して、少しでも早く消し去ってしまうことである。自分たちが速やかに本心そのもの
の人間に立ちかえることこそ、現在の人間に課せられた使命なのである。
その使命を果す一番易しい方法が、消えてゆく姿で世界平和の祈りなのである。ど
うぞ瞬々実行して下さい。(昭和54年6月)
神愛を自己のものにしよう
先日或るお医者さんから、孫が聞いてきた話であるが、
かわい
そのお医者さんが可愛がっ
151神愛を自己のものにしよう
て、いろくと人間の言葉を教えたりしていたオームが、或る期間から急に、人の言
葉の真似もしなければ、嬉しそうに家人の方に身をよせたりしなくなってしまった。
お医者がふと気付いたのは、どうやら家に赤んぼうができてからのことらしい。そ
う思って、赤んぼうをあやしてからオームの方を見ると、オームは奇妙な声で鳴きは
じめたりするのである。そこでお医者さんは、これは赤んぼうへの嫉妬からかもしれ
ないと、それからは赤んぼうをあやしながら、オームの方にも愛情の目をむけて、い
ろくと話しかけたりした。二三日すると、オームは又もとの愛らしい態度になっ
て、家人と話し合ったりするようになった、という。
近頃よく聞く話だが、植物も人の愛情のかけ方によって、育ちがよくなったという
のだから、動物や植物も人間と同じように愛情を感ずることは事実なのである。
人間の世界では、愛情は実に大事なものであって、愛情によって人間の世界が、保
たれているといっても過言ではない。
152
国際間なども、愛情が大切だが、それにプラスする何かが大きく世界の運命を握っ
ているような感じがする。
それは経済力なのか、権力なのかとにかく、自国中心の利害得失というものが、愛
かん
情以上の力をもっているのだから困りものだ。しかし神の愛は、人間間の愛情をはる

かに超えた大きな力をもっているのだから、私たちは、まず神との一体化をはかる祈
り心から自分たちの生活をはじめなければならない。(昭和謎年7月)
光明思想で生きよう
若いうちは、歳月の経つことにあまり気をとられぬが、次第に老年になってくると、
153光明思想で生きよう
歳月が非常に短かく、早く経ってゆく気がしてくる。
ひら
今年こそ、来年こそ、と地球人類の運命が展けてゆくことに期待をよせていながら、
いつの間に五年、十年と経ってきてしまっているが、地球の運命は、相変らず滅亡の
危機をはらんで、いたるところで国際間の争い状態がつゴいている。
昔は、一人の人間は、自分のことだけ考えて生活していれば、それでよい、と思っ
て生きていられたのだが、現今では、人類の動きと個人の動きとに、はっきりしたつ
ながりができてきて、米国の動きもイランの動きも、中国の動きもソ連の動きも、す
べて日本人である一人の人間の生活に影響してくる。石油の問題を考えれば、実には
っきりしている。
私たちが新しい年を迎えて、今年に期待をかける為には、大きな動きの波のかぶっ
てくるのを待っているより先に、自分たちの方から、明るい善なるひ父きを送ってゆ
くことが必要なのである。154
自分たちの幸福は、自分たちが、いかに、国や人類に対して、光明のひ父きを送る
かによって、つくられてゆくのである。個人なくして国家や人類はなく、人類国家な
くして、個人は存在し得ない。
すそわ
国や人類から幸福のお裾分けを貰おうとするさもしい根性をさらりと捨てて、自分
たちの生活の中から、国家や人類を平和にしてゆく光明のひ父きを送ってゆくよう、
今年はみんなで是非共実践してゆかねばならない。
世界人類が平和でありますように1 (昭和5年-月)
155光明思想で生きよう
いのち
生命もいらぬ名もいらぬ
年のはじめに
今年のはじめに先ず心からお祝いしたいのは、皇太子妃が昨年十一月に決定し、本
年の四五月頃には式を挙げられるという明るいニュースである。
あまり明るい話題のない近頃の日本にとって、このニュースは素晴しく明るいニュ
ースである。何んといっても皇太子は日本の希望であり輝やく星である。皇太子妃の
問題は一人皇太子殿下のみの問題ではなく、国民全部の運命がかけられているともい
えるのである。それは、皇太子などには何んの関心もない、ましてその妃が何処の誰
であろうと、自分には一向関係がない、と思っている人々にとっても実は重大な関係
159年のはじめに
があるのであることは、後になって必ず判ってくるのである。
私は今回の皇太子妃の決定は、内容的にいって、非常に素晴しいものであったと思
っている。どういうところが素晴しかったかというと、第一に皇太子ご自身で、自己
の妃を定められたということと、皇太子ご自身の直感力というものが非常に秀れてお
られたということである。第二に天皇をはじめ皇族や宮内庁関係の人々が、昔からの
きさき
型にとらわれず、民間から妃を選ぶことに同意なさったことである。
私は皇太子妃が、皇族や貴族である必要はないと思っていた一人であるが、美智子
さんのような、頭脳も容姿も容貌もそして健康も霊位もそろって上々の女性が、庶民
の中に育ぐくまれていたということを奇とするものであり、そうした女性が皇太子の
眼前に期せずして現われたことは、何んといっても神意に他ならないと思っている。
将来の日本の中心者となるべき皇太子の婚約者が、旧い殼を破って定まったという
ことは、日本国自体の前途も、唯物論者たちには旧い型と思われる、天皇中心のまつ160
りごとを行じながら、しかも旧い型を超えた新しい政治形態に突き進んでゆかんとす
る型見本のような気がするのである。
これからは日本の政治も、世界の政治も、すべて神界のみ心のま瓦に行われること
になってゆくのだが、そうなりきるまでには、並々ならぬ大変な出来事が起ってくる
ことに、業想念(幽界) の世界ではなっている。そうした業想念の波動は私たちが世
界平和の祈りの同志を一人でも増しつ玉祈りつ父けて消し去らなければいけない。
光り輝く縣戴空の、円形のピラミッドの最高の中心者は、一体どのような人がなる
のであろう。私たちはそれが天皇であることを望んで止まないのである。
(昭和34年1月)
161年のはじめに
162
誕生と父母の恩
毎年この十一月号には誕生に関することを書いているが、私の誕生日が十一月二十
二日であるので、ついそうした文章になってしまう。
まさ
霊界への往生と、この世への誕生とは、人間の二大行事であって、これに勝る行事
はない。誕生も往生も共に祝事であるのだが、普通人の考え方からすれば、誕生は祝
事であっても、往生の方は祝事とは考えていない。
さて、往生のことは又の機会に書くことにして、今は誕生のことについてペソのむ
くまま何か書いてみよう。
一人の人間がこの世に生れる為には、いかなる人でも、父母の肉体を必要とする。
父母がどのような人柄の人であろうとも、そこから生み出されてきた人間は、父母を
最大の恩人と思わなければならない。何故なれば、この世に誕生することは、その人
にとって、その人の魂にとって、重大なる進化の道になるからである。
人間の本質は霊魂である。その霊魂がこの世とあの世との生れかわりをつづけて、
種々な経験を積み重ねてゆくうちに、肉体界にありながらも、その本質である神性を
すっかり顕現出来るようになり、あの世をもこの世をも照り輝やかし得る聖なる人間
となり得るのである。
頼みもしないのに勝手に俺を生んだ親に対して、何が感謝だ、という人たちが今の
世には現われてきているけれど、そうした文句をいう人間たちでも、あの世とこの世
の生れかわりをつづけなければ、いつまでも幽界の下の方で地獄の苦しみをつづけ通
していなければならない。
163誕生と父母の恩
なんと文句をつけようと、肉体に生れでてこられたことは、その人間にとってのプ
ラスであっても決してマイナスでないことは、心霊問題にくわしい人なら、誰でも知
っている事実である。この肉体世界の環境がいかに苦しいものであっても、その人に
とっては、肉体に生れてきたことは、マイナスではなくして、大きな進化の一こまな
のである。
私は私をこの世に送り出してくれ、今ははや神界で働いていられる私の生母に対す
る感謝の想いを忘れたことはない。
私の母は私の恩人であると共に、私を通して神の道に入れた人々の恩人でもある、
とひそかに思ったりして、涙ぐまれる時さえあるのである。
この世に今ある無しにかかわらず、父母への最大の感謝行は、自己が神とのつなが
りを、はっきりさせて、自分がこの世に存在することが、この世の人々にとって、何
らかのプラスであるような生き方をすることである。その最もやさしい方法は、私の164
提唱している世界平和の祈りであるのだ。
こくう
私は晩秋の虚空の中から、この世に光りを送りつづけている聖なる人類の祖先たち
と、輝やかな心の交流をつづけながら、私の四十三回目の誕生日を、この地球界の上
で迎えようとしているのである。(昭和34年1月)
親王様ご誕生
しんのう
皇太子と美智子妃との間に親王様がお生れになった。実におめでたいことである。
心のねじれた人以外は、国民の誰でもが心からお祝い申上げずにはおられない。庶
民の中から選ばれた皇太子妃として、美智子妃の存在は日本国民は申すには及ばず、
165親王様ご誕生
外国諸国にも大変な人気を呼んだようであるが、新しい皇室の在り方の根本として、
皇太子明仁親王によってなされたこのご結婚は、今回いよいよ親王様ご誕生として大
きな実を結んだ。
これは実に素晴しいお目出度であるのだ。今日までは、すべて皇室という格にはま
ったしきたりによって何事をも運ばれていて、それが中味のともなわぬ慣例によって
いたものが多かったのだが、皇太子によって最も悪慣例であった皇室結婚の在り方が
破られ、未来の天皇は皇室と民間人との結合の中から生れ出でることになった。これ
は全く劃期的なことであって実に喜こぼしいことなのである。
高貴な魂というものが、何も天皇家や貴族だけにあるのではないのに、何故今日ま
で、一般庶民から皇后を選ばれなかったか、ということは、心ある人の不審の種であ
へだ
り、天皇と国民とを隔てている大きな垣でもあったのだが、今日はその大きな誤りが
是正され、遂いに新しい血統のいわゆる天皇家(天)と庶民(地)との本格的天地の
166
結合がなされて、その大調和の中から新しい親王様がお生れになったのである。
肉体人間としての地位や階層を重要視していた古い考えから脱去して、真実高貴な
なるひと
る魂の結合による、天皇家の真の姿の顕現は、明仁親王、徳仁親王とつづくこれから
の日本の姿の中から必ずなされるものと私は固く期しているのである。
ちなみに、美智子妃の背後には光明皇后が、徳仁親王の背後には聖徳太子が、ぴっ
たり一つになって守護なさっておられるのが私には、はっきりとわかる。このこと
は、この方々の未来の働きがすでに予定されているともいえるのである。
天皇の真の姿、真のお役目は、肉体的観察だけでは到底わかるものではない。すべ
ては霊的観察によらねばならぬ。肉体の天皇が、真実の天皇の姿を現わされる時代が
次第に近づいてきていることを、私は徳仁親王のご誕生によって感得しているもので
ある。(昭和35年4月)
167親王様ご誕生
168
真に勇気ある者の歩む道
私のように、次から次へと絶え間ない仕事をもっているものにとって、一年という
期間は、実に短かく感じられる。一月の巻頭言を書いたのもついこの間のように思っ
ていたが、もう四十五年の一月になってしまう。
昭和生れの人が、四十五才になる今日では、大正元年の生れが、どうやら老人の部
に入ってゆくことになる。私の歌の先輩が、五十才になった時の歌に、老い呆けて、
というような文句があったことをおぼえているが、大正生れの私たちにとっては、五
十代では老い呆けてとはまだまだ縁が遠い気がするが、昨今の十代二十代の若者たち
へだた
とくらべると、遠い時代の距りを感じずにはいられない。人間は常に進歩している筈
なのだが、私たちの青年時代と、今の若者たちとの間に、どれだけの進歩があっただ
ろうか、と考えさせられずにはいられない。
この頃の青年は、自己顕現欲が非常に強く、なんでもかでも、安易に物事を深く考
えようともせず自己主張を貫こうとする傾向が多い。それも一人一人ではできずに、
集団の力をかりてやるくせがある。私たちの頃は、先ず、自己の内面をみつめること
を主にして、やむにやまれぬ気持になると、外に向って発動させていったもので、一
たん発動して外に向ったら、生命を賭しても後には退かぬという、強い気魂をもって
いた。しかもそれは衆を語るのではなく、単独で、大きな強い勢力に向っていったも
のである。
それが個人的願望の主張は恥かしくて外に出さないで、これは正義だ、と突きつめ
て考えた末に外に向っていったのである。これが恥かしがりやの気弱な人は、結局何
169真に勇気ある者の歩む道
事にも堪え忍んで、内弁慶的になり、妻や子供に強く当ったりしていたものである。
その点、近頃の秀れた若者たちは、自己のことも国家や社会のことも、何事にも恥
かしがらずに主張できる、実に善い傾向をもってきている。こういう秀れた青年たち
をみると、やはり進歩してきているのだなあ、と思うのだが、全学連のように、自己
をみつめることをせずに、ただ、表面的にカッコイイ思想の波に踊らされているゲバ
連中や、ゴーゴー族、深夜族のような、自己の本心も国家も社会もなにもなく、ただ
瞬間的快楽に身を持ち崩してゆく青年男女の多くなっているのには、身の縮む想いが
するのである。
いかなる時代においても、善い面と悪い面とが、人間生活の中には出てくるのだけ
れど、今日のように、人間の悪い面が、社会に宣伝され、人間の踏みしめて歩くべき
大地が根底からぐらついているような時代は少ないのである。
この悪を消滅させ、善を伸長させるためにどうしたらよいか、というと、宇宙の法
170
則である、調和ということを、何事にも主体にしてゆくよう、政府や民間の指導者が、
等しく唱導してゆくことである。調和を主体にせずしてなんの主義主張であろうか。
調和を損う思想や主義主張は、すべて宇宙の大法則を乱すものなのである。
やから
自己の主義主張を宣伝するために、他を傷つけ損うことを意に解せぬような輩は、
指導者としても、人間としても、低級というべきなのだ。まず自己の心内の調和を計
り、国家社会のための活動に向うことこそ、人類の進歩に役立つ、尊い道となるので
ある。そのための真の勇気こそ、神に祈って与えて頂かねばならない。
私共の仲間の青年たちは、ひたすら神に、愛と勇気の与えられんことを祈りながら、
大調和運動である、祈りによる世界平和運動を、学生たちや青年層に呼びかけ、地道
なる活動をつづけている。いかなる者とも争わず、しかも厳然たる権威をもって、私
共の青年たちは活動しているのである。私共の運動は、腕力によらぬ、祈りの力によ
って、悪や過ちを消滅させてゆく真の勇気ある、平和運動なのである。(昭和45年-月)
171真に勇気ある者の歩む道
172
カルマ
権 力という業
天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらない。といった福沢論吉の言葉と
は全く反対の想いを大半の人々はもっている。それは人の上に立ちたいという想いで
ある。たとえ一人の人でよいから、自分の自由に動かすことのできる人が欲しい。常
に自分を上に立てて従ってくる人が欲しい。
中にはそんな想いの全然無い人も勿論あるけれども、大半の人は、誰かに立てられ
たい、誰か従ってきてほしい、と思っているのである。学校での先輩、会社での上役、
宗教団体での先達、代議士、大臣ともなれば勿論いうことなしである。この想いは、
大小問わず、権力欲の現れに他ならない。
権力欲とは、自己顕示欲の拡大したものである。自己を顕わしたいという想いは、
個人や社会の進歩の原動力ともなって、あながち、悪い想いである、とのみはいえな
いが、これが権力欲というようにその欲望が強められてゆくと、自己や自国の権力を
振おうとして、他人や他国との調和を破ってしまうのである。それは現在迄の世界の
歴史がよくこのことを物語っている。この世界に権力欲というものが存在する限り、
地球世界の平安は絶対に来ないといってもよい、といって、現在迄の世界観で生きて
いては、この権力欲というものがこの世界からなくなるとは思えない。
それではこの世界は永遠に救われないかというとそうではない。何故かというと、
この世界には神の慈愛のみ心が働いているからである。調和そのもの完全円満そのも
のの神のみ心が、一瞬の間もなく働きつづけているからである。私はその救済の力
を、守護の神霊の大光明波動といっているのである。
173権力という業
人類が神の救済の力を信じず、人類自体だけの力で、この世界に平和を築きあげら
れると思っていたら大間違いである。人類の業に蔽われた想念行為だけでは、到底地
球世界を救うことはできないのだ。それは権力欲という一つの問題だけを取り上げて
も、どうにもならないことではっきりわかるのである。
その場、その時々の救われは、物品や政治手段によってできるかも知れない。しか
し、人類の権力欲や自我欲望や闘争心などは、人類自体では消滅させることのできな
い業の波動である。それを自分たちの力でできると思い上がっているとしたら、人類
の破滅は時間の問題となるであろう。
地球人類の救われは、まず根底に神の人類救済の力を信じ、常に世界平和の祈りを
神に捧げながら、人類の業の波動の消滅を願いつづけ、その場その時々に自己の力を
結実させてゆくことによってなされるのである。
神と離れた肉体人間としての力みなどは、本質的な人類救済にはなんら力のないも174
のなのである。神と人類とが一体になった地球世界の進化こそ、地球人類の完全平和
達成の道となるのである。その方法が世界平和の祈りなのである。祈りとは単なる願
い言でも、依頼心の発露でもない。人間の本質的な力をあますことなく発揮するため
に、神と一体化する方法なのである。消極的にみえながら、最も積極的な方法が、世
界平和の祈りを根底にした地球人類救済の働きなのである。(昭和46年2月)
世の中を公平にするために
世の中には、人の為によくつくし、人柄もとてもよい人なのに、一家に病人が多か
ったり、不幸なことが時々出来たりする人があります。その反対に自分勝手で、ガメ
175世の中を公平にするために
ツイ人なのにお金持で、家庭にも余り不幸災難がなく、暮している人もあります。ど
うしてよいことをしている人が不幸であったり、病気であったりして、悪いことを平
気でできるような人が、陽気に派手に暮していられたりするのでしょうか、と質問し
てくる人がよくあります。
本当に神様がいらっしゃるのに、この世は不公平にみえるような、そういう状態が
あるものです。神様は、人々に公平に愛をふりまいていらっしゃるのですから、よい
ことをする人は、神様のその愛の上に又自分のした愛行が重なって、当然一家が幸せ
な生活を営めるはずです。しかし実際の社会は、その反対現象の方が多くみ、兄ていま
す。どうも不思議なことです。
人間の生活をこの世だけのものとしてみれば、こんな不思議なことはありません。
何故ならば、神様にとって、すべてが自分の子供であるべき人間に、そんな不公平な
生活を与えているからです。それだけならば唯物論者ができるのも無理からぬことで176
す。
そこで仏教でいう過去世の因縁ということが生きてくるのです。もし人間の世界に、
過去世というものがなく、生れかわりというものがなかったら、この世ほど不公平な
所はなく、神の愛などとても信じられません。すべては、人間の考えるままに、この
社会を公平にしてゆくより仕方ありません。そこで、社会主義や、共産主義が生れた
わけです。
ところが、社会主義や共産主義にしても、その人々の能力の差によっては、その収
入や地位が違ってきます。すると根本は、各人の能力や体力がまず問題になってきま
す。そういたしますと、人は常にその能力や才能によって、その地位や立場を争わな
ければなりません。それでは何時まで経っても、人間の心に真に平和な心は育ちませ
ん。それは、個人と個人との対立であり、国家と国家、民族と民族との対立ともなっ
て、やがては地球人類はお互いに亡ぼし合ってしまいます。
177世の中を公平にするために
しかし、神様は厳然として存在し、人類を愛しつづけていらっしゃるので、やがて
は地球人類に真の平和をお与え下さるに違いありません。しかし、そのためには、人
間の一人一人が過去世からの神のみ心を離れていた業因縁を消滅させなければなりま
せん。各人が過去世の因縁を消滅させた時、はじめて公平なる社会が現われるので
す。そのための祈りの日々であり、そのための消えてゆく姿で世界平和の祈りの誕生
でもあるのです。(昭和51年10月)
178
いのち
生 命もいらぬ名もいらぬ
私の好きな西郷さんを、高橋英樹主演で放映されるというので、楽しみにその日を
待っていた。命もいらず名もいらず、という題名で、西郷さんの若い時から最後の日
までの映画だったが、私の好きな英樹と、大好きな西郷さんとが一つになって、西郷
さんの心をひしひしとこちらに伝えてきた。
命もいらず名もいらず、ただ天命の全うされることを願って、事に当っていた神我
一体の西郷さんが、実に立派で美しく、何度びとなく私を感動させた。純真な心と深
かがみ
い愛情、何事も恐れない勇気、それでいて物質欲も名声欲もない謙虚な心。人間の鑑
のような西郷さんなのだ。
もしこれだけの人間が現代の政府の中にいたら、日本のあり方もずい分と立派にな
っていただろうが、現在ではまだそれに近い人物すら政界に現われていない。
しかし、西郷さんのような人はめったに現われる人ではないので、西郷さんのもっ
ている立派さの中の一つでもよいから、自分の身につけておくよう精進する必要があ
るだろう。
179生命もいらぬ名もいらぬ
尤も、西郷さんは救世の大光明の中で働いていて、常に私たちの身近かにいるので
あるから、こちらの想いようでは個人的にも何かと助太刀して下さると思うのである。
誰でも初めから立派になりきれるものではなく、道にのって精進努力することによ
り、立派になってゆくのである。西郷さんにしても、月照上人への友愛で心中をはか
り、月照は死んだが、西郷さんだけが生き残った。こうして死んでも甦がえってしま
うのだから、自分は天命によって生かされているのである、と悟って、人物が更に大
きくなっていったのである。
人は誰でも天命によって生きているのだが、皆はそれを知らない。世界平和の祈り
の人たちは、祈りによる世界平和運動によって、この地球界に平和を築き上げること
が、自分たちの天命であることを知っている。実に幸せなことである。
(昭和52年1月)
180
子供を育てること
暖冬異変で桜の花も二度咲きのような状態で、私たちを楽しませてくれている。こ
ういう美しい自然の季節とかかわりなく、人間の心は、日日心配苦労で過している。
最も身近な心配、苦労は、子供たちの運命のことである。
子供を育てることで、必死懸命になっている親御さんと、すべては神様まかせとい
ったように、子育てにあまり気を使わない人とがあるが、近頃では後者が殆んどなく
なり、子供の中にのめりこんでしまっているような、母親が多くなっている。
おしえ
私も二人の孫を持つようになって、子供を育てるには、口先きだけの宗教的な教で
lf,1子供を育てること
は駄目だなあ、と身をもって味わっている。
親たちにも、子供たちにも、みな守護神さんがついていらっしゃるのだから、肉体
人間側の両親や祖父母たちが、いたずらに心をわずらわす必要がないのだが、そこが
むずかしいところで、心配しないつもりでいながら、いつの間にか、想いが揺れてい
るような場合が多いのである。
もつと
尤も今日のように、大学受験はおろか、幼稚園に入るのにも、受験をするという騒
ぎなのだから、昔のように親たちは呑気にかまえてもいられないわけである。
しかし、いくら心配しても、運命はきまっているので、どうにもならない。やはり
神様に子供たちの運命をお任せして、祈り心で子供たちの世話をしてやるより仕方が
ないのである。そこで私は、子供のことが心配になるのは無理ないけれど、心配の想
いをいつも子供たちの天命が完うされますように、という祈り心の中に入れきるよう
にしていて下さい、そうしているうちに、いつの間にか子供への心配も次第に少くな182
ってきて、子供の明るい幸せな未来をいつも心に描けるようになってくるのですよ、
と説いているのである。
何をするにも神への祈りを中心にして向っていって頂きたい、と皆さんにお願いす
る次第である◎ (昭和54年5月)
183子供を育てること
折りにふれて
ヨーロッパに旅して
米国を歩いてきた眼でみると、ローマでもパリーでも、スイスでもロンドンでも、
道路の幅が問題にならぬくらい狭い。ジュネーブで、街の風景が一望に見渡せるとい
う山に、自動車で登った時、まるで一方交通しかできそうもない曲がりくねった道
を、登り下りの自動車で行き交うのには、全く驚き入ってしまった。
考えてみれば無理もない話で、ソ連を除いたヨーロヅパの面積は、北米合衆国一国
の面積よりはるかに小さいのだから、ヨーロッパ諸国がアメリカ並みの広い道路をつ
くっていたら、他の土地へしわ寄せができて、どうにもならなくなるかも知れない。
187 ヨー口ッパに旅して
そういう点で日本とよく似ている。
しかし、日本と似ていないところがかなりある。それは、ローマでは商店もデパー
トも昼休みが長くて、午後四時にならぬと店を開かないし、ロソドンでは五時になる

とどこの店も閉店になってしまう。会社が五時に退けるということは、日本にもある
が、商店が午後の開店が四時からだったり、午後五時に店を閉めてしまう、というこ
とは、殆んどないのではないかと思う。
ドイッにゆかなかったので、ヨーロヅパ全部とは勿論いえないが、私の観た限りで
は、ヨーロッパ人より日本人のほうが総体的に働き者である、ということはできそうで
ある。資本者階級と労働者階級との相対的な対立はあるけれど、両者共に確かにヨー
ロッパの人々より働き者である。その何よりの証拠が、日本経済が世界第二位に躍進し
ていることである。ただその躍進の成果が国民の福祉のために役立っているか、とい
うと、その点いささか疑問になってくるのは、これは政府の責任ということになる。
188
パリでもロンドンでも、レストランは八時からでないと夕食にはならないのである。
その夕食が、ピアノや軽音楽の伴奏によってなされるのであるから、楽しいことは実
に楽しいのであるが、食事の終わるのが、十時過ぎになってしまう。ちょっとゆっく
りしていれば、十二時ぐらいにはすぐなってしまう。
聞くところによると、ヨーロッパ人は食事に非常な時間をかけるのは、どこの家庭
でも常識であるらしく、日本のように、食事の時間が十五分か二十分で、すぐにテレ
ビにかじりついてしまう、ということはないので、食事の時間には種々の話題に花を
咲かせるのだそうである。私が実に意外に思ったことは、米国でもそうだったが、ヨ
ーロッパでは、テレビへの関心が一般的に低くて、日本のように長屋住いでもテレビ
を持っている、というのとは大分相違している。ちなみに、一流のホテルで、テレビ
を掛けたが、どうやっても、画面が写らなかったという程、テレビに関心が薄いので
ある。
189ヨーロッパに旅して
とにかく、ヨーロッパはどこかじっくりと落ちついている感じであるが、これから
はき
躍進しようとする覇気がみられない。英国などやはり老大国というか、夏でも背広で
ネクタイをちゃんとしめて、洋傘を小脇にかかえている紳士の姿に、英国の歴史がほ
うふつとして感じられる。バッキソガム宮殿での近衛兵の交替の様子をみようと、各
国人の集った中にいた時でも、宮殿と英国民とのつながりの中にある、親近感という
ものに、大時代の古い感覚を感じさせられた。しかしかつて日本にもあったそれ以上
の深い皇室と国民とのつながりが現代の日本から失われてゆくことを、私は心淋しく
思っていた。
ローマでのバチカソ宮殿への感想とミケラソジェロのことは後に書くとして、私の
心に一番快い想い出を残してくれたのは、たった一日のパリーの想い出だが、ルーブ
ル美術館でのルーベソスの画に接した時の強い感動であった。このこともこの短い文
章では書けないので、また後にゆずることにする。(昭和45年9月)
190
正月に思う
さざんか
暮から正月にかかる頃は、山茶花の花が我が庭を飾ってくれる。梅や椿もその美し
さをこの庭に見せてくれるのだが、肝心かなめの人間の方が、汚れきっていて、まと
もな国政を行なえずにいる。
私の庭を訪れてくる人などは、汚れの少ない人の方が多いが、世間で活躍しようと
して動き廻っている人達が、いつのまにか汚れの多い人になってしまっている。代議
士や、大臣の一人一人に会ってみれば、いずれも頭もいいし、良識もあるのに政治の
場に帰ると、子供でもやらないような馬鹿気た行為をしたりする。
191正月に忠、う
保守党は保守党で、革新は革新で、それぞれに主張があるのに決まっているのだ
が、その主張を自党本位にしないで、国家の運命を明るくしていく方に向けてもらい
たいものだが、何時も国民は、保革両方から裏切られてしまう。
十二月に両陣営にとっても非常に大事な選挙がすんで、勝負はさておいて、ほっと
一息して今後の国政のあり方を、あらためて考えてみる心の余裕の持てる時間があた
えられたことと思う。この新らしい年には、是非とも真実に国家本位、国民本位の政
治を作りだしていってもらいたいものだ。
私たちは、ただひたすら人類の心の浄まるよう、世界平和の祈りを祈りつづけてゆ
くものである。(昭和52年-月)
192
あじさいの花に想う
いくしゆうあん
特別の祈りで、こ二数年来、週一回大道場の統一会に出るほかは、呈修庵の一室に
閉じこもったきりの私を、何んとか楽しませようとして、側近の者たちが、庭に咲い
ている花や会員さん方から頂いたりした花々を、花瓶に入れて、私の側に置いてくれ
る。私は無類の花好きなので、どんな花でも有難い感じがしているが、今日は又庭に
咲き残っていたというあじさいの花を持ってきてくれた。
あじさいの花は人間でいえば中年の感じがして、可愛らしいという感じではないの
だが、今花瓶にさして私にみせてくれたあじさいは、庭でみる時とはまるで違った、
193あじさいの花に想う
実に愛らしい感じがしたのである。色も形も私の心に沁みこんでくるように可愛いい
花に思えたのである。
こうして見ると、あじさいを中年のような花と言い切ってしまうことは間違いで、
あじさいにも、こちらの見ようやその場の環境においては、いろくな姿に見えるも
のである。
人間同志でも、国と国との関係でも、その時々やお互いの利害関係や感情の在り方
によっては、おやっと思うような変化が見えるもので、早急に相手を一定の形に決め
つけてはいけない、と今更のように思うのである。
日本のように、米ソという大国の中間帯にあって、両国の世界一への重要な力とな
る国の在り方は、世界平和のための中心となるのだから、軽々しい動きはできないの
である。
国というものは、個人個人の集りによってできているものであるから、国民一人一
194
人の生き方は、国の運命に関係するのである。自分たちの利益のために、国の利益を
損なうような生き方をすれば、それはそのまま亡国の生き方となるのであって、自ら
も滅亡してしまうのである。国民はよくく真実を認識して、自分がどういう生き方
をすれば、国のためになるか、をよくみきわめなければいけない。
何んにしても、日本は世界平和をつくる中心となる国なのだから、国民の一人一人
が世界平和のためになる働きをすることが大事なのである。
そのためには是非とも、世界平和の祈りを中心にして生きるべきなのである。
(昭和54年8月)
195あじさいの花に想う
196
日本人の、い
たいふういつかきんもくせい
魔風一過の窓をあけると、庭の方から、金木犀の快い香りがしてくる。これからは
萩に見ほれ、菊の花の立派さに心を打たれる日がつぼく。
十月十一月というと、一年のうちで、一番よい気候の時ではないかと思う。選挙が
終って少し落ちついたが、これからも今までと同じような政治がつ父くわけで、大臣
が誰になろうと、そう特別の変りばえのすることはあるまい。
もつと
尤も革新派が政権を取れば又別の話だが、当分そういうことはあるまい。政治が悪
い、政府が悪いといわれつ父けながらも、大半の国民の生活を中流だ、と国民側に言
わせているところなどは、世界の中では、まあよい方だといわなければなるまい。
中近東諸国やアフリカ諸国のように、文化も遅れ、貧富の差も烈しいところからみ
れば、日本の国は有難い国である、というべきである。勿論文句をいえばきりはない
が、国というのは自分たちが支え育ててゆくものなのだから、自分の方から、金も力
もなるべく出さぬようにして、国の方からやって呉れることだけを望んでいるようで
は、とてもその国は成長してゆかない。
しかし幸なことに、日本人の生れながらの素質が、働きもので、仕事早いようにで
きているので、マスコミや、革新派の政府への不平不満にも、いかにも同調している
ようにみえてもそうではなく、文句言い言い、自分たちは常に真剣に生きている。
勿論中にはなまけものや、不平ばかり言っている分子もいるけれど、日本人大半の
ヘヘへ
国民は、いわゆる、まじめな性格の人々で、貧乏をのぞむものはないがあまり高望み
をしてはいないのである。自分の国家を悪くばかり言っているようでは、決してその
197日本人の心
国家がよくなるわけではない。私たちは、た父ひたすら、世界平和の祈りを祈りなが
ら、その日その時々を大切に過しているのである。
明るい心と感謝の心、これは昔からの日本人の特性なのである。
(昭和54年1月)
198
権力欲
大平さんにしても、福田さんにしても、日本人の中でも、いずれも秀れた人格や知
識才能をもった人たちである筈なのだが、総理大臣などという席に坐ると、どういう
わけか、権力欲のかたまりのような人間になってしまって、自己の権力を守ることに
全力をそ二いで、国の安否も、国民の希望をも、すっかり忘れ果てたような行為に集
中してしまっている。
かくさく
誤った自己の行為を、何んとか正当化しようとしていろくと自らの心の中で画策
して、国民の一般の眼でみて、その行き方は誤りである、とはっきり判っていること
にも、自己の眼をつぶってしまって、みようとはしないで、自己の願望成就の方に一
心を集中してしまっている。
大体代議士になり、大臣になろうとする人々は、愛国心も勿論あるであろうが、人
一倍の権力欲がないと、物心両面の大変な苦労をして政界に打ちだすことはしない。
それが何々長となり大臣となり、果ては総理ともなると、その権力欲が愈々強くなっ
てくるのである。
吉田さん以来今日まで、権力欲の少い総理というのは、鳩山さん以外にみたことが
ない。しかし、その権力欲が同時に国を優位にする歩みになっていれば、まあ、言う
199権力欲
ことはないのだが、今日の大平、福田等の争いなどは、子供にも等しい勢力争いのよ
うにみえて、国にとっても実に困ったことだし、国際的にもみっともないことであ
る。
当人たちにとっては、何か言うこともあるのだろうが、先ず第一に保守系の政党に
国民の多くが票を入れているのは、日本は社会主義や共産主義ではいけない。何んと
いっても保守系の無難な政治体制をこそ望んでいるのだ、ということで、現在のよう
な自民党の内紛には、身ぶるいする想いである。
一つであろうと、二つに分れようとそれはよいが、日本の中心政党は常に社会主義
すき
や共産主義のつけ入る隙のない政党であって欲しい、と想う人は国民の大半の人なの
ではあるまいか。そういうことを念頭に置いて、それからの自分たちの権力欲にして
ほしいものである。(昭和54年12月)
200
総理大臣の重大さ
また花菖蒲の咲く季節になった。呈修庵の菖蒲は、明治神宮に咲いていたものを、
かんうじ
甘露寺さんから分けて頂いたもので、菖蒲の季節になると必ず、明治神宮の甘露寺受
長さんが、毎日のように私の心に浮んでくる。
九十歳を過ぎて昇天された懐かしい懐かしい老翁である。甘露寺さんは、天皇の侍
従であったり、明治神宮の宮司であったりして、天皇様とは深い関係があり、自然と
そういう形のお役目を過ぎてこられた方である。素直な純朴な魂の澄み清まった方で、
私とは心がぴったり一つになっていた。
201総理大臣の重大さ
しゆつさく
こういう風に、自然にあるがままにお役目を果され、そこには何の術策も、嘘いつ
わりもなく生きてこられた甘露寺さんと、政界で活動する政治家諸公の心の差のあま
へだた
りにも隔りがあるのには驚いてしまう。
それというのは、過労で急に入院された大平首相の大変さである。短時日のうちに、
各国を廻って重要会談をして帰国すれば重要な来客が待っており、内閣に坐れば山積
わずらい
の重要な仕事、党内にむかえば、対人関係での心の病、精神も肉体も一瞬として休ま
る閑もない忙しさで、これでは過労で病院入りするのは当り前で、つくづく同情して
しまう。
こんな大変な仕事を、どんな気持で引受けられたのか、本人の本当の気持を聞いて
みたいものである。国の運命を一身に背負い、国民の期待に鞭打たれ、身心共に極度
しか
に働かせつづけ、而も国民からよく思われることが少い。それで国の政策がまずくゆ
き、国の運命が傾くようなことがあったら、それこそ、安泰で生きてはいられぬよう
202
な立場に立つ、いわゆる大犠牲者ということになるのだ。
ごと
この大犠牲者の仕事を、我れも我れもと、現象界の損得事のように騒ぎ立てて、代
議士になり、大臣になり首相になろうとする。どこか本質から外れた、我欲の匂いが
してくる。甘露寺さんがもっていたような自然さ、素直さは今の政治家諸公には全く
見られない。
しかし、それでは国民も国家も困るのである。自然で素直で、それでいて政治政策
に東奔西走できる、誠の人、真の大犠牲者を政治家の中に欲っすること切なるもので
ある。(昭和5年7月)
203総理大臣の重大さ
204
日本の在り方
梅雨時になると、毎年そうであるが、秋のように薄寒い日もあれば、急に真夏のよ
うにふけどもふけども汗が落ちてくるような日もあって、みんなが口小言をいいなが
ら、いつの間にかいろいろの花が咲き終って本格的な緑一色の真夏になってしまう。
暑い暑いといっても日本の真夏は、何処かの国のように四十度も五十度もあるわけ
ではないのだから、いざといえばルームクーラーなしの省エネルギーで暮せるほどで
ある。
日本はその四季が示しているように、その社会生活には極端な立法も、忍耐そのも
こうそく
のでなければやっていけないような拘束もない。それは、政府の在り方が社会、共産
主義のような極端な政治体制をとっているわけでも、帝国主義的独裁体制をとってい
るわけでもなく、どの首相のもとでも、国民にとってはかなり自由な生活しやすい状
態を保たせてもらっている。
今回の解散総選挙も、国民が新らしい危険性を選ばず、自民党の大勝に終った。総
理大臣の問題は、誰がなっても、現在の在り方と大差のないものであろうから、国民
はあまり政府をいじめぬようにしながら、自分たちの希望するところを内閣に進言し
ていったらよいのである。
その国の自然のように、例えば日本の四季のように、日本の状態は極端な在り方を
選んではいない。国内関係でも、国際関係でも、調和を旨として行なわれている。そ
ついしよう
れが取りようによっては、おせじ笑いや、追従笑いのように思われることもあって、
利害にさといずるい国民のように思われたりすることもある。しかし、次第に日本の
205 日本の在り方
真価がわかってきて、日本がつき合っていても危険性のない国であることが、わかっ
てくるであろう。そのためにも、世界平和の祈りを、世界中にひろめるよう、一日も
早くしなければならない。(昭和5年8月)
206


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