空即是色 般若心経の世界


序文
く つ
「宗教は空になってはじめて始まる」とは五井先生よりよくお聞きした言葉である。
かいしや
仏教の経典の中で、般若心経ほどあらゆる宗派の人々に膳灸されているお経はないであ
ろう。それ故このお経の解説の本も、どの経典の解説より多く出ている。
このお経の中心をなしているのは空の思想である。空という心境は実際、空になった人
でないとわからないもので、学問的に空を説いても無意味である。特に色即是空、空即是
色と二つつづく色と空とがどう違うのか、という点になると、皆目不明となる。
五井先生は先に「空」を中心とした般若心経の解説と、空にいたるまでにいかにすれば
よいか、その方法を「新しい般若心経の解釈」で世に問うた。「空」の心境を自己の内に
深く深くきわめられた先生は、聖ケ丘道場のお話において、しばしばその真実と、その境
1
地に至らなければならない意義を強調、そしてその境地にいたる方法を、われわれにつね
に明示しておられた。
今日ここに、般若心経の中心テーマを空即是色一点にしぼり、只単なる言葉や文字の解
釈ではなく、日常生活の中で空になる方法を語りつくして下さった講話を集めて、一冊の
本とした。
空に関心を持ち、真実の宗教心の開示たる空の心境に至らんと精進される人々に、この
書は絶好の指針となり、道標となり、刺戟となると信ずるものである。
平成六年一月
高橋英雄
2
「般若心経」全文
まかはんにやはらみつたしんぎよう
摩詞般若波羅蜜多心経、これをつづめて、般若心経という経文は、わずか二百六十六字
しやりほつ
から成り立っています。これは、釈迦牟尼仏が、十大弟子の一人舎利弗に対して、観世音
さと
菩薩が深い最高の統一に入って、正しい覚り、つまり正覚を得た宇宙観、人間観を説いた
ものです。
かんじざいぼさつぎようじんはんにやはらみつたじしようけんこうんかいくうどいつさいくやくしやりししきふいくうくう
「観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五藏皆空。度一切苦厄。舎利子。色不異空。空
ふいしきしきそくぜくうくうそくぜしきじゆそうぎようしきやくぶによぜしやりしぜしよほうくうそうふしようふめつふ
不異色。色即是空。空即是色。受想行識。亦復如是。舎利子。是諸法空相。不生不滅。不
くふじようふぞうふげんぜこくうちゆうむしきむじゆそうぎようしきむげんにびぜつしんいむしきしようこうみそくほうむげん
垢不浄。不増不減。是故空中無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼
かいないしむいしきかいむむみようやくむむみようじんないしむろうしやくむろうしじんむくしゆうめつどうむちやく
界。乃至無意識界。無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。無智亦
むとくいむしよとくこぼだいさつたえはんにやはらみつたこしんむけいげむけいげこむうくふおんり
無得。以無所得故。菩提薩埋。依般若波羅蜜多故。心無呈磯。無呈硬故。無有恐怖。遠離
いつさいてんどうむそうくきようねはんさんぜしよぶつえはんにやはらみつたことくあのくたらさんみやくさんぽだいこちはん
一切顛倒夢想。究寛浬樂。三世諸仏。依般若波羅蜜多故。得阿褥多羅三貌三菩提。故知般
にやはらみつたぜだいじんしゆぜだいみようしゆぜむじようしゆぜむとうどうしゆのうじよいつさいくしんじつふここせつ
若波羅蜜多。是大神呪。是大明呪。是無上呪。是無等等呪。能除一切苦。真実不虚。故説
はんにやはらみつたしゆそくせつしゆわつぎやていぎやていはらぎやていはらそうぎやていぼうじそわかはんにやしんぎよう
般若波羅蜜多呪。即説呪日。掲諦。翔諦。波羅掲諦。波羅僧掲諦。菩提薩婆詞。般若心経」
3
,
〔訓読文〕
かんじざいぼさつじんはんにやはらみつたぎようときうんかいくうしようけんいつさいくやくど
「観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行じし時、五繭皆空なりと照見して、一切の苦厄を度し
しやりししきくうことくうしきことしきすなわくうくうすなわ
たまえり。舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ちこれ空、空は即ち
しきじゆそうぎようしきしやりししよほうくうそうしよう
これ色なり。受想行識もまたまたかくのごとし。舎利子よ、この諸法は空相にして、生ぜ
めつあかきよまへこゆえくうなかしきじゆ
ず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず。是の故に空の中には色もなく、受も
そうぎようしきげんにびぜつしんいしきしようこうみそくほう
想も行も識もなく、眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もなく、
げんかいないしいしきかいむみようむみようつないしろう
眼界もなく、乃至意識界もなし。無明もなく、また、無明の尽くることもなし。乃至、老
しろうしつくしゆうめつどうち
も死もなく、また、老と死の尽くることもなし。苦も集も滅も道もなく、智もなく、また、
とくうところもつゆえぽだいさつたはんにやはらみつたよゆえこころけいげ
得もなし。得る所なきを以ての故に菩提薩唾は、般若波羅蜜多に依るが故に心に塁擬なし。
けいげゆえきようふいつさいてんどうむそうおんりねはんくきようさんぜしよぷつ
里擬なきが故に恐怖あることなく、一切の顛倒夢想を遠離して浬藥を究寛す。三世諸仏も
はんにやはらみつたよゆえあのくたらさんみやくさんぽだいえゆえしはんにやはら
般若波羅蜜多に依るが故に、阿褥多羅三貌三菩提を得たまえり。故に知るべし、般若波羅
みつたじんしゆだいみようしゆむじようしゆむとうどうしゆいつさい
蜜多はこれ大神呪なり、これ大明呪なり、これ無上呪なり、これ無等等呪なり。よく一切
くのぞしんじつこゆえはんにやはらみつたしゆとすなわしゆといわ
の苦を除き、真実にして虚ならず。故に、般若波羅蜜多の呪を説く。即ち呪を説いて曰く。
ぎやていぎやていはらぎやていはらそうぎやていぼじそわかはんにやしんぎよう
翔諦、掲諦、波羅翔諦、波羅僧掲諦、菩提薩婆詞、般若心経」
4
空即是色- 般若心経の世界◎ 目次
序文
般若心経・全文

高橋英雄
九八七六五四三二
空即是色の世界に生きられる
空の極意
てんどうむそう
なぜ顛倒夢想なのか?
自分をおかすものは何もない
けいげ
いのちの自由自在性ー心呈磯なし
天地の通りをよくしよう
解脱と全託
把毒は
わじ
れめ
をか
はら
な悟
てつ
ばて




1アラi6gi48iz8zooq2 59 36 IO 3 1
十質疑応答
空と無と謝の違いについてゆ
闇の夜になかぬ烏の声きけば93
空、無想、無作の意味は? 97
うつるものおのずうつりておのず消ゆ
己れは澄みてただひそかなりーの意味
把われる祈りとは? 。2
2
祖先の因縁で自分が苦しむことがあるのか?
iq8
zo7
iqo
装丁- 小山忠男
空即是色般若心経の世界
一、空即是色の世界に生きられる
色即是空、空即是色について
しきそくぜくう
今朝、テレビで有名なお坊さんが、般若心経のお話をしておりました。丁度「色即是空、
くうそくぜしき
空即是色」の解説でした。
ここは般若心経の中でも、一番大事な箇所です。般若心経というのは、簡単にいいます
かんぜおんぼさつじんはんにやはらみつた
と、或る日、観世音菩薩が深般若波羅蜜多、つまり深い統一に入りました時の悟りの言葉
なのです。というよりお釈迦さまの悟った言葉が般若心経という経文になっているわけで
す。仏教の一番の極意、根本思想が「色即是空、空即是色」という言葉で表現されていま
す。
そこでそのお坊さんの話ですけれど、こんなことをいっておられました。
世の中の人間は、明日のいのちさえもわからない。自分もこの講義が終われば、自動車
がお迎えに来て、自動車に乗って帰えるのだけれど、明日のいのちはわからない。明日の
いのちがわかっている人は一人もいない。自分のいのちが自分でわからない。
というところから般若心経を説いているのです。明日のいのちが一人もわかっていない、
というわけではありませんで、わかる人も随分あるわけです。
人間は自分がわかった範囲しかわからないわけでして、そのお坊さんは謙遜しているの
でしょうけれど、自分がわからないから、誰も彼もわからないだろうといっているわけで
す。ですから、人の運命がわかったり、前途がわかったりすることは絶対にない、と思い
こんでいる。そこで、明日のいのちも、一分一秒先のこともわからない、というわけで
す。
ぼんぷ
明日のいのちもわからない、ということは凡夫なのです。凡夫の考え方から般若心経を
H空即是色の世界に生きられる
説いているのだから、その真髄がわかるわけがない。
しきくうことくうしきことしきそくぜくうくうそくぜしき
色は空に異ならず、空は色に異ならず、色即是空、空即是色という説明を、ふつうのお
しきくロつ
坊さんの説明は、色というのはあらわれている物のことです。それはみんな空なんだ。空
ゆう
と同じなのだ。その空というものは物と同じなんだ、だから空にして有なんだ、空は有な
うわつら
んだ、というのです。これは浅い浅い上っ面の話です。
ざぜんかんぽう
空というのは、仏教の極意の言葉でして、坐禅観法をするのは、空の心境になるためな
のです。ところが空になることが実にむずかしい。食うや食わずで山に入り、滝などにあ
くうくうじやくじやく
たったり、坐禅をくんだりするのだけれど、空にならない。空々寂々にならない。大体、
つか
空というものがわからない。空というものは、言葉にもいえなければ、掴むことも出来な
い。その空が物と異ならない、と説明しているわけです。
私の説明ではー
ここに現われているもの、例えば机というものは、無いところから出てくるわけなので
す。
肉体の人間が生まれます。肉体の人間は両親があって生まれてくるわけですね。その両
親はどこから出て来たかというと、それぞれの両親から出て来ている。そのまた両親はど
こから出て来たかというと、それぞれの両親から出てくる。そうたどってゆくと、どこま
でいってもはてがないわけです。すると一番最初はなんだったのか、無いところから生ま
くロつ
れて来たということになるわけでしょう。空の中から生まれて来たとこういうわけです。
空というものは何もないわけではない。私どもの考えでは空というものが実体があるわけ
なのです。仏教で説きますと空で、実体はないことになっている。空の中に無い。空の中
にただ現われてくるものがあるような説明をしているわけです。
かみ
空というものを神といってしまえば、話は簡単です。神さまから生まれて、神のいのち
わけ
がここに流れてきて、みんなが生きている、みんな神の分いのちだ、とこう簡単に説けま
じん
すが、仏教では神という言葉をそういうように使わない。仏教では「神」といっています。
じんかみ
霊魂のことを「神」と表現していまして、絶対なる神というようには説いていない。そこ
でまた空にまでくるんだけれども、空から先がどうにも説明にならなくなってしまう。先
・3空即是色の世界に生きられる
くロつ
がないのですよ。それで空の悟りに導くことがむずかしい。説いている人がほとんど空の
悟りになっていないのだから、ましてや説かれている側が空になるわけがないのです。わ
からないんだから。
空というのはどういうことかといいますと、わかりやすくいうと、自分の想いが全くな
たいが
くなってしまうこと。自我、自我欲望、個人という自分が全部なくなって、大我、大生命、
いわゆる大神さまの中に溶けこんでしまった人を空の人というのです。
ヘへ
空になってしまうと、今度は空の状態から生まれてくるもの、ものというのは、机とい
うものもあるし、肉体もあります。そして、もの、あるいは出来事というものがはっきり
わかってくるのです。この話は一番の極意の話だからむずかしいと思うけれど、きいて下
さい。
宗教も信仰も何もなくて、ごく当たり前に生きている人、悟りも何もしない人の見てい
ヘヘヘへ
るもの、机でも、お米でも、人間でも、肉体でも、すべてのものというものと、空になっ
ヘへ
てしまってから見るものというものは、同じ形でも内容が全然違うのです。
14
く つ
お坊さんや学者方はそういうことは説かない。それは自分がわからないから。ただ空に
なれ、という。空というのは何かといったら、自我欲望をなくすこと。そこまではいい。
そし
それから先の心境がわからない。祖師と呼ばれるような人はみんな知っています。大覚者
なま
という人も知っている。だけどふつうの生じっかのお坊さんでは、空の境地がわからない
わけです。
くうそくぜしきヘへしきそくぜくうヘへ
だから空即是色と現われてくるものと、色即是空のものとは同じだから、唯物論者につ
ざぜんかんぽう
っこまれちゃうわけです。「それなら、どうしたらそうなるんだ」「坐禅観法で、坐れば
いい」「坐ってどうやって食ってゆくんだ。坐っていて食えるか」「いや立っていても、
じようじゆうざが
歩いていても、坐った境地になれ、常住坐臥、空の心境になれ」てな、すれ違った問答に
なってしまう。
常住坐臥、歩いていても空の心境、坐っていても空の心境、仕事をしていても空の心境、
などというようになれるためには、大変な修行があってもなれないのですよ。そこが一番
大事なところ。なれないようなことをいくら説いてもだめです。この教えはよい教えだ、
・5空即是色の世界に生きられる
般若心経はいい教えだ、といわれたって、自分が出来ないようなことを説かれても、聞い
たほうは、頭では成る程、成る程と思っても、実際には出来ないや、とやめてしまう。

法則の神と救済の神
そこで私がこれから徐々に説くのは、出来る方法なのです。
空になった人から見たもの、世界というものはどういうものか、これを先に説明します
肉体があります。これは物質です。肉体は動物か神の子か。肉体的にみれば動物です。
虎だって、犬だって猿だって、同じ組織になっている。肺もあり、腸もあり胃もある。そ
うすると、これは単なるもの、物質か、肉体か? ふつうの宗教のない人の目から見れば、
これは単なる肉体です。ところが本当にわかった人から見れば、肉体ではないのです。光
の波と自我欲望のカルマというものがまざったものが、肉体に現われている。だんだん浄
ひかりいちげん
まり、悟りに近づけば近づく程、その肉体の波は光一元になってくる。しかしふつうの人
r6
こうそうねん
は光の波と業想念の波がまざって肉体となっている。
それが統一会などに来て、想いを神さまのほうに全部捧げてしまう。全部投げ入れてし
だいこうみよう
まうと、神の大光明のほうから光が流れて入って来て、知らない間に業想念をきれいに浄
めてくれるものだから、統一(祈り)したあとなどは、光一元になって、きれいな心にな
り、きれいな魂になり、きれいな体になって帰るわけです。
く つ
しかし、今までの仏教の説法では、神さまは説けない。説けないで、ただ空までで止ま
ってしまうから、あとがどうにもならない。空になることによって、自分の中の仏性、仏
さまというものが現われてくるんだ、と説いていますね。自我欲望、小さい肉体の自分が
自分ではないとわかってくると、本当の自分、本源の自分、仏さまが現われてくるんだよ、
とお釈迦さまはそう説いているわけです。
何故、お釈迦さまは神さまということを説かなかったか? お釈迦さまの頃には、迷信
はちゆうるい
邪教がたくさんありまして、蛇などの爬虫類とか他の動物とかを神さまにして、神さま神
さまと拝んだような邪教がたくさんありまして、それはインドばかりではなく、どこにも
17空即是色の世界に生きられる
あったわけです。そこで念力というものが出たりしたんです。そこでお釈迦さまは、いっ
ぺん神さまというのをなくしてしまって、絶対者、要するに造物主という形も全部なくし
て、自分の中で自分の心で悟る方法を教えたのです。
自分自身が仏なんだ、神とはいわないけれど、要するに、神から来ているいのちなんだ。
こう
だからいのちを覆っている業というもの1 自分勝手な想い、自我欲望1 をとりさえす
れば、本当の自分が出てくるんだ、と教えて、他からくる神の力とかいうものを説かなか
びしやもんたいしやくてん
ったわけです。だけどお釈迦さまは全部知っていた。毘沙門、帝釈天が守っている、とか、
守護神のことはすべてお釈迦さまは説いていますね。守護神がみな守っている、というこ
とを随分説いている。
お釈迦さまが何故絶対神を説かなかったか? 私からいわせれば、絶対神を説いてもな
んにもならないからなのですよ。どういうことかというと、要するに法則の神、絶対者を
説いても、その絶対者そのものが、そのまま法則にのって働いているんだから、絶対者さ
ん! て拝んだってどうしたって、実はそんなもの関係がないわけなのですよ。本当に人
18
間を助けてくれるのは守護神です。守護神がついて、人間の運命を変えてくれるわけなの
です。唯一絶対者が変えてくれるわけではない。唯一絶対者の大生命というのは、宇宙は
じまって以来、地球界が出来て以来、決まった定まった通りに動いているわけなのです。
.
一.饗腰もまけがないのです・いいですか・宇宙の運行というのは・」.念.風まけがない
のです。ズーッと決まったまま動いているのです。それをまけてごらんなさい。
或る時、月と太陽が相談した。太陽が神さまに「神さま、私は朝出るのがいやだから、
夜にして下さい」月が「私はもう夜出るのはいやだから、たまには朝にして下さい」と頼
んで、月と太陽が代わって出たなんて話はきいたことがないでしょう。片方で「雨を降ら
せたまえ、雨を降らせたまえ」と拝むかもしれない。片方は「天気にして下さい」って拝
むかもしれない。念力の強いほうをきいたとすれば、決まったものがなくなってしまう。
この宇宙の運行が乱れてしまうでしょ。そこで大神さまというのは、全然変わらない。法
則のままで動いてゆくわけなんですよ。
そこで法則の神さまの法則を曲げるのではなくて、神さまの法則のまま、神さまのみ心
Ig空即是色の世界に生きられる
のままに動いていれば、この人類は今のような不調和な状態、戦争が起こりそうな状態、
天変地異が起こりそうな状態に、この世界は絶対にならなかったわけです。
ところが微妙な波動の神さまのみ心の中から生まれた人間は、はじめは微妙な実に微妙
な波動で、こんな体ではなくて、霊身で、アメリカへ行こうと思えば、パッとアメリカに
行く。どこへ行こうと思えば、パッと行けるようなそういう体だったわけです。それが地
かんまんあら
球界の肉体界という世界に、波動を緩慢にして、粗くして住みついたわけなのです。そう
するといつの間にか、その粗雑な波になれてしまった。今でもこの世の人間は、たとえば
いい着物を着て、いい家に住んでいた人があるとします。或る機会から、きたない生活に
なったとします。そこできたない生活になれてしまうと、ポロを着ていても平気になって
くる。戦争中に、今まできれいな着物を着ていた人が、もんぺをはいて、きたないなりを
した。それでみんながそうするから、みんな平気になって、きたないなりでも平気になっ
てしまったでしょ。あれと同じように、本当は微妙な自由自在な体をもった人間なのだけ
れど、それが肉体界という、粗い波の中で地球界で生活しはじめて、それが長い間なれて
しまうと、粗い波の地球のこういう物質の世界が本当の世界だと、だんだん習慣で思って
しまったりして、自分でもってだんだん自己限定をして、自分でもって、これっきり出来
ないんだ、というふうにしてしまって、今の地球人間が出来てしまったのですからね。こ
の地球世界では、自分と他人とは全然関係のない、つながりのない赤の他人なんですね。
ところが元を正せば、いのちの世界では一つにつながった、いのちの分かれなんです。
空をわかるために
誰も彼も兄弟姉妹、物質の肉体が離れてしまったから、利害関係が対立しまして、他人
も自分も、自分のことを守ることで精一杯。自分のことだけ守ることを考えてしまった。
ヘヘへ
そのようになれてしまって、今の、この戦争が起こりそうな世界が出来てきているわけで
す。それを直さない限りは世界が平和にならない。そこを直そうとして働いているのは、
ゆいいつしん
宇宙神、絶対者、唯一神ではなくて、唯一神から分かれて、そういう役目を持たされた守
護神なのです。
2・空即是色の世界に生きられる
いつもいうけれど、一人一人に祖先の悟った霊の守護霊がいるし、神さまの分かれの生
命、絶対者の分かれの光明の守護神がついていて、一人の人間を一生懸命守り、それから
大勢をも守っているわけです。各守護神、守護霊が一つになって、世界人類を守ろうとし
きゆうせだいこうみよう
ているのが救世の大光明。いわゆるみんなが集まって人類を救済しようという神さまの愛
念が、守護神の団体になって今、働いているわけなのです。
だから大神さまそのものが働いているという意味ではない。大神さまは片方としては大
生命として、小生命、いろんな生命を与えてみんなを生かしている。決まった法則のまま
に生かしている。神さまがそのまま現われてくるまでは不完全ですね。その不完全を補う
ために、守護霊守護神というものが派遣されていて、手が足りないな、手助けをしてやろ
う、荷物が重いから持てないな、持ってやろう、として助けてくれているのです。それが
守護霊守護神なのですね。ところが今の仏教者は守護霊守護神を説かないんです。あんま
り説かないで、ただ「仏になれ」とか「空になれ」とか説くわけです。しかし、守護霊守
ざぜんかんぼう
護神の助けがなくて、空になどなれるわけがないのですよ。坐禅観法しても空になんかな
れっこない。説いている人もなれっこない。
そこで本当の般若心経をわかるためにはどうしたらいいか、というと、やっぱり守護霊
だいはんにや
守護神の力を借りて、大般若という般若の智恵、神界の智恵の中に入らないうちは、この
中は神の世界だということがわからないのです。そこに祈りが必要になってくるのです。
その祈りというものを、お坊さん方は、お願いだと思っている。お祈りというと、家内安
全、商売繁昌、どうかご利益がありますように、というのが祈りだと思っている。それは
お願い事なのです。
いのちの
本当の祈りというのは、いのちを宣言する、命を宣りだす、いのちをそのまま現わすと
いうことです。そこで祈りが必要なわけです。祈りはいろんな方法があるけれども、どう
したらよいかというと、私が一番初めに考えたのは、守護霊守護神さんに感謝する祈り
“守護霊守護神さん有難うございます
” だった。こっちは一日の三分の一は眠ってしまう
のに、守護霊さん守護神さんは寝もやらず、必死になって守って下さっている。有難うご
ざいますという感謝です。これから私の宗教は始まっています。それからその感謝だけで
23空即是色の世界に生きられる
はなくて、もっと自分の想いを拡げて、世界人類のために、世界人類が平和でありますよ
うに、日本が平和でありますように、というような大愛、慈愛の想いにまでひろめるよう
にしたわけです。それで世界平和の祈りというのが出来上がったわけね。
自分が悪い、ダメだと、いい悪いとコチョコチョ思っているうちは、人間は心が開けな
いのだから、そういう想いを全部、守護霊守護神さんにまかせてしまって、大神さまの光
の中に入れてしまうわけです。自分がだめだとか良いだとか思っているうちは、大神さま
はず
から外れているのです。心臓がちゃんとなんでもなく動いている間は、心臓のことは何も
思わない。肺のことも思わない。なんにも思わないで働いています。結局、故障が出た時
に、今日はどうかなって、思うわけでしょ。それと同じように自分が神さまのみ心のまま
に働いている時には、なんにも思わないですよね。スースー働いているわけです。ところ
がちょっと自分が間違った、法則に外れたりすると、どうかな、大丈夫かな? 大丈夫じ
ゃないかな? あいつは悪いかな、こいつは悪いか? なんてだんだん思い出すわけでし
ょ。だから、自分がだめかな、とか悪いかな、とか思う心があるうちは、もう法則から外Zq
れているというのです。神さまのみ心の大慈愛の法則から外れているのです。
自分はいいかな、悪いかな、不平不満がある、いろんな批判がある時には、もう神さま
のみ心から外れているんだから、その想いを守護霊さん守護神さん有難うございます、と
いう心をもって、世界人類が平和でありますように、という大きな祈りをするわけです。
そうすると、その想いが守護霊守護神さんの柱を通って、神さまの中に入ってゆくわけで
す。そこでちゃんと軌道に、神さまのみ心にのせてくれるわけです。こういうのが祈りな
んで、それを私は大きな、世界平和の祈りという祈りにしてやっているわけなんですよ。
空即是色の真意
そこで話が前に戻りますけども、守護霊守護神さんにそうしてまかせて、自分の本体の
中に入ってしまうと、さあ今度は何が出てくるかというと、自分が思いもしないのに、自
然に物事が出来てくる。自分が考えもしないのに、パッといい智恵が出てくる。自分が書
こうと思わないのに、スッといいものが書けてくる。いおうと思わないのに、いい言葉が
zg空即是色の世界に生きられる
じねんほうに
出てくるーというふうに、自然法爾に、ひとりでに、神さまの智恵、自分の本心の能力
が出てくる。そしていろんなことが出来る。それが空即是色なんです。
くう
空になると(空になるってパッとなるんではない) 守護霊守護神さんに助けていただく、
力を借りて空になるのだけれども、そうすると、今度は、実在界の真の神さまのみ心の、
本心の中から出てくる能力が、フルにあふれてくるのです。それで何をやっても、自然に
よくなってゆくようになってくるわけです。
私のやり方が悪い、向こうが悪い、これはダメだ、ああだこうだといっている想いで、
ぐるぐる廻っているうちは、いつまでたってもぐるぐる廻っている。それを守護霊守護神
の光にのって、神さまのみ心の中に入ってゆきますと、「ああ今日あっちへ行ってみたい
な」と行く。そこでもって効果がある。今日はあそこへ行こうかな、スーッと行く。何気
なく歩いている自分が、必要な人と会う、というふうに、自然に自然に、守護神さんが使っ
て下さって、本体、本心の力をそこに現わしてくる。そうすると、それが空の状態と同じ
になりまして、空即是色の空から生まれてくる、光り輝く生き方、自分のためにもなり、
i6
相手のためにもなるような生活が自在に、そこから現われてくるのです。それが空即是色
で、般若心経の極意なのです。
お釈迦さまはそれを悟ったわけです。ところが今のお坊さん方はそれがわからなくて、
ヘへくうヘへ
今ここに現われているものも、空になってから現われたものも、同じように考えていて、
みんな仮の姿、仮の姿だと、ただいうだけなのです。この世の中には、仮の姿の現われ、
消えてゆく姿だけで現われてゆくものもあれば、実在界の姿がそのまま現われているもの
もある。それを般若心経で説いているわけなのです。皆さんは、世界平和の祈りをして、
守護霊守護神に感謝さえしていれば、自分の想いがいつの間にかきれいに洗われて、空即
是色の空の心境にいつの間にかなるわけです。
また
空の心境というのは、いっぺんなったからいい、というものではなくて、空の奥の又奥
ろうし
の、私が「老子」という詩にも書いてありますが、ズーッと奥の奥の、奥の空があるんで
すよ。どこまで行っても果てしないような空というものがあるのです。というのは、実在
の姿、大神さまの姿というのは、神のみ心というのは、深くて深くて、入っても入っても
2ア空即是色の世界に生きられる
入りきれない深さ、無限の悟りの段階があるわけです。だから面白い。私は悟った、これ
でいい、というのではないのです。悟っても悟っても、奥の奥があるような、そういう深
いものが大神さまのみ心です。
それは深い深いものですよ。光の老子が私の霊体に入って来て、老子によく教わったけ
くヒつ
れども、老子の空なんていうものは物凄い。永遠の生命がそのまま流れているようなもの
ですよ。言葉ではわからないし、説明できません。今、老子講義を書いてますが、その深
い老子の心を皆さんにわからせるには、どう表現したらいいか苦心しています。
また
空の空の又空の、その又空の又空の、というわけで、深い空があるのです。その空とい
うのは、自我を滅却して滅却して、すべてを滅却する。ふつうの場合、自我を滅却すると
いうと、社会のためとか国家のためとかとなるでしょう。愛国者という形になります。し
かし国家のために尽くさなければならなくなると、今度は、敵が出てくる。そういう尽く
し方ではまだ神のみ心に叶わない。世界平和の祈りによって、人類が地球世界が平和にな
るたあに、いのちを投げ出してやる。
i8
宇宙人の世界、霊の世界
この太陽系宇宙の中に、金星なり、火星なり、他の星があります。またもっと上級の星
があり、宇宙の平和があるわけです。その宇宙の向こうにまた宇宙があるのだから、その
また向こうの宇宙の調和があるわけで、果てしなく宇宙はひろがっているわけです。
私たちが働いている中で、太陽系宇宙の中で、今、金星が一番すぐれているんです。ま
ぎれもなく、金星には素晴らしい人が住んでいる。この地球人類と、格段の相違のある人
が住んでいる。悟りを開いた人たち、仏陀やキリストのような人たちばかりが住んでいる
のです。それより上はないと思いますね。ところが、金星よりも、またもっと素晴らしい
星がありまして、金星にいろんな資料を送って来たりしています。そのまたもっと上のと
ころがある。果てしなくひろがってゆく、素晴らしい宇宙なんですよ。だからどこまで偉
くなってもいいんですから、皆さんは有難いですよね。どこまで行っても止まるところは
ありません。
29空即是色の世界に生きられる
こうやってみていますと、この世界には、まだ神さまということも、なんにもわからな
いでいる人間が生きている。生まれて七十、八十になって死んでしまう。それでおしまい。
一寸も疑問を起こさない人がいますね。生まれて食べて、働いて、死んじゃうわけですよ。
「何? 霊魂? 神さまなんかいらないや、そんなもの。ふつうに食べて生活していれば
いいじゃないか」っていう人がたくさんいる。そういう人が年をとって、七十になり八十
になり、サア心細くなってくる。若い者たちに、早くじいさん、ばあさん死なないかって、
こういわれてしまう。みんなからは嫌われ、それで自分は行くところがわからない。そし
てそのままおしまいになってしまう。肉体に執着して、死にたくない、死にたくない、と
やっている。若いうちを全然無駄に過ごして来たから、最期になると苦しみます。
こういう人たちがどれだけいるかわからないんですよ。私たちが話をしても「霊魂?
バカな、そんなもの」なんていう。バカなっていったって、自分で知りもしないで、バカ
もへったくれもないでしょ。
私はいつもいうんだけれども、バカな、と否定していえることは、自分が全部、世界中30
をくまなく見て歩いてなら”ない” と否定も出来るかもしれませんが、自分が日本のはしっ
こにいるだけで、宇宙人がいないとか、霊魂がないとか、自分がなんにも探してみないで
“無い
” なんていうことは、これは実に非科学性であって、バカのバカの大馬鹿の骨頂な
んですよ(笑)。あるというのは、その人が実際に見たんだから、他の人が無い無いといっ
たって、その人にとってはあるのでしょう。それは否定できません。
霊魂なんてない、昔の話だ、などという人をみると、私は可哀想だと思う。死ぬ時は騒
ぐだろう。死んでから、なんにもない野原を自分一人でふらふら歩いて、どこまで行って
も自分の行き先がないのだから。本当に唯物論者の死んだ先は哀れですよ。いい行ないを
して、いい人であったとしても、守護霊守護神と離れているのですから、無いと否定し切っ
ているから、現われないのです。自分だけで野原を歩いている。行けども行けども野っ原、
林の中、田んぼの中、なんにもない。そういうところばかり歩いてゆくのですから。それ
でこりてこりて、はじめて助けを呼ぶ。そして最低の線から修行させられるのです。
3・空即是色の世界に生きられる
守護霊守護神はピッタリついている
守護霊守護神さん、あるいは神さまにつながっていると、亡くなる時はスーッと自分の
魂の行くべき所へ行くのです。守護霊守護神(大体、守護神)がお前のゆく所はここだ、と
連れていって、自分の安住の地を定めてくれるのです。定めてくれて、サア修行なら修行
が始まる。始まっても、いつでも帰る所はこういう所だという安心があるわけです。だか
ら一生懸命働いて、この修行を終えるとそこに帰れるわけですね。
だから、この統一会で一度ズーッと上に上ってゆく。神界へ一遍上ってしまいますと、
たとえば亡くなってから、霊界でいろいろ修行をしても、行く先はちゃんと神界にあるの
さが
です。だからここで統一して、或る境涯に来ますと、それから先は下らないのです。だか
ら安心立命が出来るのです。
皆さんのように、守護霊守護神を呼んで世界平和の祈りをいつもして、守護霊さん守護
神さん有難うございます、と思っていますと、想いは守護霊守護神にピッタリつながって
32
いますから、いつでも守っていますから。守護霊に守られているんだから、守護霊に感謝
しながら、現われてくる病気とか不幸とかは、それは本心を早く顕し、真実の人間に早く
こう
するための病気であり、不幸であり、貧乏なんですよ。これによって、業が消えてゆくん
だな、これによってますます私はよくなるんだな、守護霊さん守護神さん有難うございま
す、というように感謝するんです。そうすると、傷が少なくて早く済むのですよ、と私が
いっているわけです。
私は断言します。守護霊守護神はピッタリくっついています。私には形で見れば形で見
えます。波で見れば光の波に見えます。一人の人にふつうは守護霊が三人必ずついていま
す。それから守護神がついています。だから守護霊さん守護神さん、と呼んでいれば、必
ず守られます。呼ばなくたって守られています。けれど呼ばないと守られにくいのです。
想いが離れていますから。だから、守護霊なんかいない、守護神なんかいない、なんてい
う人には、守りたくても守りようがない。
唯物論者や神さまも何も思わないで成功している人があるでしょ。あれはどういうこと
33空即是色の世界に生きられる
かというと、自分自身が前生で徳を積んでいるからなのです。人を救ったり、お金をみん
なに撫いたり、随分徳を積んでいるから、その徳が減ってなくなってしまうまでは、いい
加減なことをしながらも立派になっているわけです。ところが徳がなくなってしまうと、
一度にペタンコになってしまいます。それは守護霊守護神の加護でやっているんではない
からです。
一方、今生でもって働けど働けど我が暮し楽にならざり、というように、働いても働い
てもなんにも残らない。人のために尽くしても少しも喜ばれない、という人は、過去世に
おいて徳を撒かなかったんです。それがめぐって来て、借金を返すように、いくらやって
も楽にならないんです。しかし、借金を返し終わってしまえば、あるいは、人のために尽
くしつづけていれば、やがてスーッと入ってくる。お金ばかりではありません。物でもな
んでも入ってくる。
だから、自分の前に現われてくる、どんな病気も不幸も苦難も、これはみんな過去世の
消えてゆく姿で、今、本心を守護神さんがどんどん現わしてくれているんだ、有難うござ
います、と素直に思っていることが大事なんです。皆さんは本当に幸せだと思う。みんな
守られていることがわかっている。ところが唯物論者、無神論者の人は守られていること
は全然知らないんですよ。自分だけで生きていると思っている。だから困るのです。調子
のいい時はいいですよ。調子の悪い時はどうしていいかわからなくなる。守られているこ
とがわからないんだから。それはとんでもないこと。自分一人で何が出来るか。いつだっ
て守護霊守護神がやっていてくれるんです。
それがわかっていることが、一番大事なことです。世界平和の祈りと共に、いつも守護
の神霊に感謝すること。これを欠かさずやらなければいけない。(昭和37年6月17日)
35空即是色の世界に生きられる
36
二、空の極意
把われをはなすために
今日は次のような質問が来ていますので、これに答えながら、お話をすすめましょう。
「或るお坊さんの般若心経解説の中に”肉体は虚無をはなれない。虚無は肉体をはなれ
ない。肉体はそのまま虚無であり、虚無はそのまま肉体である… … すべてが虚無だという
ことは、それ等が生ずるものでもなく、滅するものでもなく、汚れもせず、浄くもならず、
増しもせず減りもせん、ということである。だから虚無の世界では肉体もなく感覚も想念
も、意欲も自由もない… … 従ってかつて経験した世界もない。盲目的本能もなければ、本
能の尽きることもない。また老死もなければ、老死の尽きることもない。苦悩もなければ
安心もない。安心もなければ修行もない。知ることもなければ得るべきこともない。本来
何ものもないからである。真理を求める上種はこのような徹底した智恵によって、心にこ
だわりがない。こだわりがないから恐怖がない。恐怖がないからあらゆる迷妄邪悪な観念
からはなれて、永遠にして静寂なる境地が得られるのである” と説いていらっしゃるけれ
ど、先生の解説をお願いします。
それからこのように説かれた人は、この世を去ってからどういう世界に行くのか、また
このように説かれた人に従った人たちの死後の世界はどういう所でしょうか」
という質問ですが、みなさんも般若心経というのはご存知でしょうけれど、般若という
のは深い智恵、大智恵という意味です。ですから般若心経というのは深い智恵の本当の教
えというのです。お釈迦さまが観世音菩薩の形になって説いていらっしゃるんです。それ
には何が書いてあるかというと、ナイナイづくしなんです。
悩みもなければ、悩みを生ずることもない。肉体もなければ、肉体の生ずることもない。
37空の極意
あらゆることの現われはすべてないのだ、とすべて、無い、無いなのです。今の質問の中
では虚無と書いていますが、そういうように普通のお坊さんは説くわけです。ナイナイづ
くしになりますから、仏教をやっている人とか、お坊さんの中には虚無主義の人が多いで
す。すべてこの世は仮の姿で、無いとか虚無なんだとかいうと、何する気力もなくなって
しまう、目的がなくなってしまう。無目的、虚無ですね。そういうふうに説きますと、生
きている張り合いもなければ、何もなくなってしまう。
無だ、虚無だといわれて、ハッと思って悟りに入る人は滅多にあるもんじゃなくて、今
とロリ
度は虚無に把われてしまって、ないものなら何をしてもかまわない、どうしたっていい、
ああ生きていくのは面倒くさい、なんて自殺したりする形になっていきやすいのです。と
ころがお釈迦さまはそういう説き方をしたのではないのです。
人間の想いから把われをはなすために説いているわけです。この現われている姿は、五
官に現われている肉体も事柄も、想いもすべてそれは本当のものではない。仮の姿である。
いわゆる虚から生まれた無である。むなしい所から生まれているのだから、それはないの
38
だ、ないものに把われていることはない。色は即ち空である。空は即ち色である、と普通
説きます。けれど私はそう説いていない。
どういうふうに説くかというと、ここに(現象界に)現われているものは色というので
ヘへ
す。そして色はものと解釈するわけです。そこで色即是空というのは、現われている五官
いつぺんくう
で見えているものは一遍空にしないと、空と断じ切らないと、本当のものが現われてこな
い。だから目に見えるもの、耳に聞こえるもの、鼻にかぐもの、すべてこの世に現われて
いるものは空なんだ。そして空だと断じ切った時、はじめて本当の光り輝くものが現われ
る。五官に感じられ、六感に感じられるものはすべて空なんだ、それに把われてはいけな
い。あるものではなく、あるように見えていて、空なんだ、と空と断ちきって、それに把
われなくなると、空の奥に神仏の実体があるので、空から本当のものが現われてくる。空
から現われてくるものが本当の光であり実体なのだ、そこで色即是空、空即是色と並べて
あるわけです。五官六感に現われている色(ものごと)を空と断ちきって、空になったと
ころから今度は実体の光即ち色が現われてくる。こういうことで、同じことなら、何も二
39空の極意
つ並べることはないのです。
40
単なる虚無の中に光明はない
ところがお坊さんは、ここに現われている姿、形も事柄も空なんだ、虚無なんだ、そし
て虚無は即ち物であり、現われである、とこう説くのですね。これではなんのことを説い
ているかわかりゃしません。把われを放すことよりも、何も生きてゆく意義がなくなって
しまう。生きてゆく意義もなくなれば、目的もなくなれば、何のたあに生きているのか、
何のために人間があるんだかサッパリわからない。
虚無なんだからなんでも虚無なんですね。そういうふうに説いていますと、実相がない
んだから、実体がないんだから、みんな虚無から出ているんだから、虚無が現われて形の
姿をしているだけですから、すべてがそういうことになります。
肉体がなくなって、霊界へ行った時には何もないのです。真っ暗な虚無の中を、虚無の
あらしが吹きすさんでいる。虚無といったって実際はあるでしょ。あるんですよ、実際は。
そこで何が現われてくるかというと、虚無、光のない闇がそこに現われてくるんです。だ
から闇の中をトボトボ虚無だ、ないんだ、何もないんだ、虚無虚無って歩いている。のま
ず食わずで歩いている。のむものも食うものも何もない所を歩くようになるんです。だか
らそれを本当だと思って教わった人は、みんなお師匠さんのさ迷っている世界へついて行っ
てしまうわけです。虚無の世界、まっくらな闇の世界へついてゆくより仕方がない。
そういう教え方をすることは、お釈迦さまのみ心に反すること甚だしい。そういうのを
ヘへ
ものを知らないのに知っているふりをする、自らを智者と思っている愚者というんです。
知らなければ知らないでいいのです。知ったふりをした学者、お坊さんというのは一番先
に地獄へ落ちる。
色即是空、空即是色も形に現われていることだけを説くから、結局虚無になって、この
世は何もないんだ、肉体もなければ何もない何もない、ないないといっているのです。何
もない、と思うものがそこにあるじゃないですか。思わせるものがあります。生命もあり
ヘヘヘへ
ます。それをただないないといっただけでは、なんにもなければどうしようもないでしょ。
4・空の極意
そういうことをお釈迦さまほどの智恵者が説くわけがない。
この世界には永遠の生命が神界から霊界を通して、この肉体界に現われている。ところ
が肉体界に現われるまでに、私がいつもいうように、霊界もあれば幽界もある。幽界とい
うのは光明波動と暗黒波動が両方混合している所なのです。それが肉体に現われてくるわ
け。だから肉体というのは玉石混清して、生命の実体もあれば、仮の姿の肉体人間が幽体
の想いで作った想念波動の世界もあって、まざっている。ですから玉石混清の汚れた石の
ほう、肉体人間が作ったほうのすべてをなくせばいいわけです。
しかし、なくせといってもむずかしい。それだけでは困るから、選り分けることです。
そこで私たちは、玉石混清をそのまま消えてゆく姿として、世界平和の祈りで神さまのみ
心の中に入れてしまうわけです。神さまのみ心の中で自然に分けてもらって、汚いものは
消してもらっていい光だけ出てくるようにするわけです。
42
般若心経の真理
本当の教えというのは、ナイナイづくしではなくて、神さまは光り輝く大光明であって、
わけいのち
大光明波動の分生命が人間であるというのです。しかし肉体の人間というのは、神の分生
命であるということを忘れてしまって、幽体あるいは肉体で作った想いの中で生きている
のです。想いの中で生きている。その想いというものは無いというわけです。しかし無い
といったって、実際問題として肉体が現われてあるんだから、想いがないといったって、
想いはやっぱり現われている。だから無いのではなくて、現われている。現われているん
であって、実体ではないわけです。だから、現われているものは、現われて消えてゆく姿
なのです。
そこで、その現われている肉体のほうに、あるいは肉体から発生した出来事に、すべて
把われないで、把われたら把われたでいいから、消えてゆく姿にして祈り心の中に入れて
しまいなさい、と私は説いているのです。そうすると入れかわって実体だけは残ってくる。
43空の極意
生命の実体だけがそこに残って、いわゆる空即是色になるわけです。
色即是空の色は虚無である。形のある現われているものはみんな虚無である、これはい
いですね。だからそれに把われてはいけない。虚無と思ったらそこにまた把われるわけで
すよ。だから把われたら把われたでいい。それは消えてゆく姿として平和の祈りの実体の
中に入れます。そうすると、実体のほうは神さまそのものだから、入れてしまえば虚無を
取っちゃうんだから、空即是色になる。空の中から現われてくるものが本当の人間であり、
本当の光である。実体が現われてくるんだとお釈迦さまは説いているわけです。
それを仏教学者というのは、みんな色即是空も空即是色もまぜて、虚無なんだ、ないん
だ、ここに現われているというもの、色というものはないんだ、とただそれだけなのです。
ないんだ、なんてそんな無責任なことはない。それなら、殺したって無いんだから、何
にもないものなら殺されたって何したって悪いことはないでしょ。人殺しがどうして悪い
のか、なんにもない虚無ならば殺したってなんだって、虚無じゃないか。虚無だ無だと説
いている坊さんを殺したって、虚無ではなんにも悪くない。ないのだから、殺したことも
44
ない。そういうことになるわけです。そんなバカなことをいって、この世に通用するわけ
ではない。それは間違えて伝えているだけなのです。
この世の罪や悪や間違った想念所業は要するに神さま、仏さまから現われて来ているも
のではなくて、肉体人間が勝手に作ったものなんです。だからそれは実体の中にはない。
しかし無いっていっても分からないから、一度現われの世界に座を下して、一応そういう
ものを認めて、認めると同時に過去世の因縁の消えてゆく姿として、神さまの中へ入れて
しまいなさい、と私はすすめているわけです。そして祈りの中から、神さまと直通して神
さまの光だけを間断なくつぎこんでおくと、間違った肉体人間の想いのほうはどんどん消
えてしまう。それが本当の色即是空、空即是色なんです。般若心経の真理は色即是空、空
即是色を明らかに説きあかすことにあるのです。
体で知ることが大切
質問のお坊さんのように、そういう真理がわかっていないで、色即是空も空即是色も同
4ラ空の極意
じにして、虚無だ虚無だ、ないんだ無いんだとやっているのです。そういうお坊さんたち
が霊界へ行ってごらんなさい、みんな闇夜の中をさぐって歩かなければならなくなります。
したがってそのお坊さんたちについていった人も同じようになってしまいます。
日本の或る有名な博士がいました。学問の深い人で、非常に物のわかった哲学者で哲学
界では相当な人です。その人は、茶碗がここにあると、これは寂滅の世界から来ているの
か、寂滅が茶碗を生むのか、茶碗が寂滅を生むのか、とか、見るものと見られるものとが、
どうのこうのというように、種々と哲学的に説くのですが、それが常に、現われの自己の
頭脳智で説いているだけで、本当のことがわかっていないから、ぐるぐる茶碗の周りをま
わっている。真理の周りをまわっているだけなのです。ですからいまだに悟ってはいませ
ん。あちらの世界へ行っていらっしゃるのに悟っていない。相当に有名な学者でも悟って
いる人は少ないです。実際に行なっているお百姓のおじいさんおばあさんのほうが悟って、
学問的に深いように説いている坊さんや学者という方々が悟っていないのです。
頭でわかったような気がしている。それから先に進もうとしない。とびこんでいかない。
46
本当に霊界や神界のわかった人の話をきかない。ただわかったような気がしているだけな
のです。そういう人たちは死んでからあわてる。だからうちあたりへ来ていらっしゃるお
坊さんとか神官の方などは偉いのです。みんな自分はここまで来た、これ以上は本当に体
験した人に教わろう、というような謙虚な気持ちで来ているでしょう。ですからそういう
方々はぐんぐん伸びていきます。
今までの学問につけ加えて、本当のことがわかるわけです。学問の文字からうけただけ
のものでもって人に説くのは、あまり感心したことではありません。小智才覚になってし
まう。それそのものが空を知らないことなのです。学問で有名だからその人は偉いのでは
あら
ないのです。たくさん本を著わしているから偉いのでもない。内容が問題なのです。本当
にわかった人の書いたものと、わからない人の書いたものとでは全然違います。
老子の本でも随分いろいろな本が出ています。この間も手紙が来ていました。自分はも
う宗教を何十年もやり、老子もいろんな講義で読んでいる。しかし、みんな註釈文のよう
で胸を本当に打つものがなかった。ところが五井先生の書いた『老子講義』を読んだら、
47空の極意
ビシッと胸を打たれて、本当にこの人はわかっているな、ということがよくわかった。有
難い、という手紙が来ています。そういう手紙がチョイチョイ来ます。相当やった人がみ
んなわかる。何故わかるのかというと、私が神界や霊界を知っています。その知ったこと
をそのまま説くのだからわかるわけです。
赤をみせて、これが赤ですよ、といえばみんな赤だとわかります。それを紫を持ってき
て、赤ですよ赤ですよ、といったって、紫に見えるけれど、オレの目の錯覚だろうか、と
思って本当に信じませんね。そういうもので本当のことをいえば胸にピンとひびくのです。
ですから神界なら神界、霊界なら霊界を本当にわかった人が説くことがほんとうの教えで
あって、神のみ心がわからない人が説いたのでは、かえって道を外させてしまうことにな
ります。
48
霊障というもの
もう一
れいしよう
つの質問「霊障の病いと長いこといわれてきましたが、どういうものなのでしょ
うか」という問いに答えましょう。
霊障というのは、迷った想念が肉体にかかり、おぶさっている状態をいうのです。余計
に荷物(迷った人の想い) を背負ったようで、そこだけ重いわけです。それが頭に来れば
頭が変になるでしょう。肺へ来れば肺病になるでしょう、というようにさわっている。そ
れが霊障というのです。
どうしてそのようなことがあるかというと、自分の肉体などない、死んだ後の世界など
あるものか、人間は肉体があるうちが生きているので、肉体がなくなれば死んでしまうの
だ、無になるのだ、死んだ者に魂などあるものか、と思って死にます。要するに、いかに
も仏教を説いているようだけれど、そういう人は唯物論者で、実は何も知らない、本当の
いのち
ことは何も知らない人が死にますと、死んだら生命がないと思っているのに、実際に生命
があるでしょう。想いが返ってくるのだから。そうするとああ俺は死ななかったのかと思
うわけです。じゃ生きかえったのかナと思う。けれどもう肉体はないわけです。幽体があ
るけれど肉体はない。だから体は肉体感覚とは違うわけです。なんだかしっかりしないん
49空の極意
だナ。そうすると思い出すのはどこかというと、自分が昔住んでいた所とか、親しい人と
かを思い出すのです。それでスーッと親しい人の所へ来るわけです。自分の妻なり夫なり、
子孫なりの所へ来るのです。そして一緒にくっついてしまうわけです。くっつかれた人は
重くなってしまう。そういうのが何人もあれば大変です。重態になるわけです。
私たちがそれを見ますと、ああ誰々がいるな、というので気合をかけたり、柏手を打っ
たりして浄めるわけです。ところが執念深く何十年来もついているのは、一遍や二遍では
とれない。うっかりとると、その人まであの世へ逝ってしまうことになるのです。だから
少しずつ少しずつはなし浄めてゆくのです。新しくついたものなら、パッと浄まります。
そういうものなんですよ。
あの世のためにもなる生き方
だから私はよくいうのです。この肉体に生きている間は何もしなくてもいいから、あの
世へ行ってまで人の世話かけるな。あの世へ行ってまで世話かけるのが一番いけないこと
うo
いのち
です。この世でなんにもしなくていいから、せめてあの世にも生命があるんだナ、死んで
も生命があるんだナ、という気持ちをもって、守護霊さん守護神さんにすがっていなさい、
というのです。
守護霊さん守護神さんにすがっていれば、何事もしないどころではなくて、すがってい
ることそのものが、この世に存在する意義があるわけです。守護霊守護神につながってい
るような人は、何かしら人のためにしなければいられないのです。自然に人に親切にした
り、ニコニコしたり、ああなんて感じのいい人だナって思われて、この世の中に、やわら
かい雰囲気、温かい明るい神さまのみ心をふりまいてゆくわけですから、人のため、世の
ためになっているわけです。
おじいさんおばあさん、あるいは病人で何か事柄としては出来ない人もありましょう。
そういう人たちは、一生懸命守護霊守護神にすがりながら平和の祈りをしていれば、平和
の祈りをしていること、守護霊守護神に感謝していることそのままがこの世のためになり、
あの世のためになるわけです。だからそういう生き方をしなさい、と私は説くわけです。
5・空の極意
真理の追求と現世利益
大体私がこの世に出て来たのは、むずかしい昔の教えをみんな易しくして、わかりやす
く行ないやすくしようと思ってなのです。宗教には二通りあるのですよ。真理を知らせて、
永遠の生命を知らせる教えもあるし、現象利益で、病気を治したり貧乏を直したりするほ
うばかりに片寄っているものとあるのです。
この世の中では嘘をいわなければならない人もあるし、真理としては真っ直ぐにいかな
ければならないのに、真っ直ぐいけないこともあるでしょう。例えば、嫌いな人が隣家に
住んでいるとします。嫌で嫌でしようがなくても、会いたくなくてしようがなくとも「今
日は」と挨拶されたら「今日は」といわなければならない。話をしたくなくとも、話しか
けてこられれば話をしなければならない。そうすると嫌だ嫌だと思うのが内にたまります。
これは毒素となります。だけれども隣の人に会って、知らん顔して逃げちゃうわけにはい
かないでしょ。そのように、この世の中は自分の思うままにいかないのです。自分の思う
う2
ままにいかない世の中で、しかも心が明るく心が正しく生きることはむずかしいです。
わけいのち
別の例をとれば、人間は神の大生命から分かれた分生命である、だからみんな同じ立場
で同じように生きなければいけないと思います。自分の家はお金がある、隣の家はとても
貧乏だ、食うのがヤットコサとすると、平等にしなければならないといって、半分ずつに
して貧乏の人と同じになって暮すかといったって、そんなことは実際に出来ない。自分に
縁のある人には親戚でも、弟でも妹でも、持てるものは平均してやるのが神のみ心かもし
れない。しかし実際問題として、同じように分けろ、といったって不可能でしょ。
夫が分けようとしても妻が勿体ない、子供がそんなこと、といって止めるにきまってい
る。夫なら夫が悟ってみんなに分けてやろうと思っていても、妻が惜しがって止めること
ひつじよう
は必定です。そうすると家庭に不和が起こって、神のみ心は調和であるのが、家庭内にイ
ザコザが起こってしまう。そのようにこの世の中では真理をそのまま実行することは出来
ないのです。そのように出来ている。
下着をとるものがあったら上着をも与えよ、右の頬を打つ者があったら左の頬も出せ、
53 空の極意
というイエスの教えがあります。それは無抵抗の教えで真理の教えです。しかし実際には
出来ない。真理をそのまま実行することが出来ないと結局、みんな偽善者になってしまう。
表面的にはいかにもやっているような顔をして、神さま有難うとやっているけれど、実際
の行ないとしてはやっていないわけです。だから精神的には常に良心と現実が葛藤してい
いのち
るわけです。だからいつまでたっても悟れるようにならない、生命が自由にならない。そ
れではいけません。
また他方、現世利益のほうになりますと、病気を治すために神さまに頼む。貧乏を直す
ために頼む、そうすると実際にお金がもうかるかもしれない。病気が治るかもしれない。
しかし、いつも誰かに頼って、心がずるいことばかり考えているわけです。永遠の生命を
出すのではなくて、何かいつも御利益だけを貰いにいく、御利益のために神さまを信仰し
てゆく。そういう打算的になるわけです。これは唯物論と同じこと。
いのち
現世利益ばかり願っているということは、魂が立派にならないことです。生命の力が増
さないのです。いつもうまい汁を吸おうとしている。その場その場ではいいかもしれない
けども、その人の魂の面から見れば、マイナスになり、やがて必ずそれを返さなければな
らない時が来るのです。例えば自分が一つのものしか得られない因縁を持っているとする。
それを神さま(守護の神霊ではない、幽界の生物が応援してやってくれる) に頼んで10貰った
とすると、9というものは自分のものではない。借りなのです。借金ですから、いつか必
ず返さなければならない。一遍に取られるかもしれない。そういうことをしていたのでは、
いのち
自分の生命が自由に生きられない。いつも借金して生きているようなものです。だからそ
ういう教えも半端だということになります。
真理の教えも行なえて現世利益も出てくる
私はどういうことを考えたかというと、本当の真理の教えもそのまま行なえ、しかも知
らない間は御利益もある、ということを教えなければならないと思った。さんざんたずね
のごと
たあげく、私のやったことは何かというと”己が幸願う想いも朝夕の世界平和の祈り言の
中”という歌にもありますように、自分が本当に幸せになりたいと思ったら、世界人類の
55空の極意
幸せを願うのが一番いいんだ、世界人類の幸せの中には自分も入っているんですから、自
分の幸せを願うなら世界人類の幸せを先に祈りなさい。そうすると人のために尽くしたわ
けですから、世界人類の平和のために自分の想いを捧げたわけだから、その想いは返って
くるのだ。だから与えよさらば与えられん、で先に自分から与えて、世界人類が平和であ
りますようにと願うと、自分のほうに返ってくる。
返ってくるものは何かというと、それは借金ではなくて、自分が働いた報酬として病気
も治り、貧乏も直って返ってくるわけです。まず与える。与えるといってもお金を誰に与
えていいかわからない。だから、祈り心を与えなさい、世界人類に祈り心の奉仕をしなさ
い。世界人類が平和でありますように、と祈った時には、自分がそれだけ奉仕したことに
なる。自分がそれだけ働いたことになる。天の蔵に宝を積んだことになる。やがてその宝
が自分に必ず返ってくる。
繰り返すけれども、自分が幸せになろうと思えば、世界の平和を願いなさい。祈りなさ
い。そうすれば自分が幸せになると同時に、その祈り心が世界平和のたあにもなる。とい
56
うことは自分が意義ある生き方が出来るわけです。そうすると現世利益も出てくるわけで
す。世界平和を願うという広い人類愛の心だから、それは真理が現われている。それでい
てしかも自分の利益にもなる。
それに加える方法として、いやなことや悪いこと、自分の悪い想い人の悪い想いも、す
べて過去世の間違った想いの消えてゆく姿であって、消えてゆくに従っていいものが現わ
れてくるんだから、一日も早く消えるようにと願いながら、世界平和の祈りの中に入れて
こう
ゆくと、祈りの中に入れたことによって、自分の業が消えると同時に、世界のためになる
光が地球上に自分の体を通してふりまかれる。だから自分もいいんだし、世界人類にもい
いんだ、しかも深い真理も自然にわかってくる。こんなに簡単でやさしくって、しかも真
理を教えながら現世利益もあるという一挙両得の教えはない、と説いているわけです。物
質面も恵まれてくるし、心の問題としても心がとても豊かに明るくなり、勇気が出てくる
というふうに私は説いているわけです。
それは私が神界霊界の素晴らしい姿も、幽界の姿も肉体の姿も知っているし、貧乏な生
57空の極意
活の人も知っているし、金持ちの生活も知っているから、いくらでも自由に説けるわけで
す。ところがただ学問だけで説いている人は、学問のことしかわからない。キリスト教の
牧師ならキリスト教しかわからない。聖書によらなければ救われない、キリスト教に入ら
なければ救われない、他は一切駄目。そんなことをいったら仏教の人はどうなる、マホメッ
ト教の人はどうなる、他の人は救われませんよ。キリスト教だけに入れ、といったってそ
れは無理なのです。
この世の因縁因果がありまして、キリスト教にはどうしても入れない人もある、また仏
教に入れない人もある。ところが世界平和を祈るということに入れない人はない。世界人
類が平和でありますように、と想わない人はない。何教であろうとそれは思えるわけです。
そこで私は消えてゆく姿で平和の祈りを説いたのです。これが即ち色即是空、空即是色な
のです。自分が悟ろうとして昇ってゆく姿、自分がよくなろうとして昇ってゆく姿と、人々
を救おうという姿とが一つの祈りの中で、一つに統合されて実現されていくのです。それ
が世界平和の祈りなのです。(昭和42年1月2日)
5$
三、なぜ顛倒夢想なのか?
般若心経の極意
肉体の人間が病気をして苦しんでいる。病気をする、貧乏をする、不幸だ、というのも
まぼろしてんどうむそう
本当は夢、幻なのです。般若心経では、顛倒夢想してといっています。ひっくりかえって
さか
いる、逆さまの想いをしていることが、この世の姿なんだというのです。
つまり真実のことを逆さまに見ているために、この世が不幸であり、生老病死に恐れを
なして、死ぬことが恐ろしい、病気になること、貧乏になること、不幸になることはみな
恐ろしいんです。ところが、それは逆さまの想いであり、夢のような想いなのです。これ
59なぜ顛倒夢想なのか?
がわかった人が”悟った人” というわけです。
さか
なぜ夢のような想いであり、逆さまの想いであるかというと、いつも私がいうように、
わけみたま
人間というのは、本体が神さまの分霊なのです。そして神さまというのは完全円満なので
いのち
す。完全円満なる神さまの分けられた命なんだから、真実からいうと、本当の姿には不幸
や病気や貧乏や不調和なものがあるわけがないのです。あるわけがないのに、この世の中
もうそうむそう
にはある。しかしそれは妄想、夢想です。逆さに思っているわけなのです。
本当は、人間は地上に生きているわけではないのです。地上でこうやって生きている。
肉体の中に入って、いいだの悪いだの、不幸だの幸福だのといっている姿は、本当は過去
の波が写って来ているだけなのです。もうフィルムにとって、今、映写機でスクリーンに
写しているところなのです。
ねた
それが病気だったり、不幸だったり、あのヤロウ妬ましい、恨めしい、という姿なので
す。今、スクリーンに写し出されているけれど、それは今の姿ではなくして、過去の誤っ
いのち
た想い、自分が神さまから来ているんだと思わなかった想い、自分は神さまの分け命であ
60
る、という真理がわからなかった過去の想いが現われているのです。
ですから、今たとえ、どんな大病をしていようとも、どんな貧乏をしていようとも、ど
んな不幸な姿でいようとも、それはあなた方の病気でもなければ、あなた方の貧乏でもな
ければ、あなた方の不幸でもないんですよ。これがわからないといけない。これは般若心
経の極意なのです。
それはどういうことかというと、今のあなたのものではない、ということです。昔の、
神さまから離れていた時の間違った想いが、波のように現われているだけなのです。今の
あなた方は世界平和の祈りをしている。”世界人類が平和でありますように” という、神
さまのみ心の中に入っているわけです。神さまのみ心の中に入っている想いというのは、
病んでいる想いでもなければ、不幸な想いでもなければ、貧乏な想いでもないのです。
今日はここのところを十分に話しましょう。
今思っている姿は今のことなのです。だから、
“世界人類が平和でありますように
6・なぜ顛倒夢想なのか?
日本が平和でありますように
まつと
私たちの天命が完うされますように
守護霊様守護神様有難うございます”
と祈っている姿は、神さまのみ心の中に入っている想いです。神さまのみ心の中に入っ
ているということは、神さまは完全円満な大智恵、大光明なのだから、そこに不幸や不完
全があるわけがない、ということです。
それなのにお祈りしながら、かつ「不幸になりゃしないか、天変地異が来やしないか、
嵐はどうか、子供はどうか、貧乏はどうか」とまだ思う。その想いは今の自分の想いのよ
うな気がしますね。ところがそれは、今の自分の想いではなくて、過去の波が今、頭の中
を通りすぎてゆくだけなんです。本当にあるんではないのです。過去あるいは過去世にあっ
たもの。そのあったものが頭の中を通りすぎてゆくだけなんです。
それが消えてゆく姿なのです。みんな本当のものではないから、消えてゆく姿なんです。
本当のものは消えないのです。
6z
わけみたま
本当のものというのは、神さまのいのちなのであり、神さまの分霊であり、完全円満で、
みんなが愛語し、みんなが楽しんで、みんなが明るく、なんにも悪いことを考えないで生
きられる人間が、本当の人間なのです。
それなのに、今の常識の考え方というのは、悪も不幸も貧乏もみんなあるように思い、
敵があるように思っている。そう現実の姿として見えますが、それは本当の姿ではなく、
消えてゆく姿なのです。過去世において、神さまから離れていた想いが「敵がある」とか
「自分を守らなけりゃならない」とかいろいろ思って、積もり積もり重なった想いが、幽
きざ
体に刻みこまれていて、その波が自分の頭の中に現われてくるだけなのです。そしてそれ
は現われれば消えてしまうのです。必ず消えてしまうのだから、ある時間だけ現われてい
るだけなのです。
ところが人間はそういう不幸、病気、戦争というものは実際にあるもんだと思っている。
しかしそれは実際にあるのではなくて、ちょうどヌクリーンに映っている映画のようなも
ので、映してしまえば消えてゆく姿なのです。けれど映してから消えたのでは大変でしょ。
63なぜ顛倒夢想なのか?
それも大戦争や大天変地異があってから消えたのでは、肉体世界はなくなります。そこで
つか
神さまが守護神を遣わしているんです。
きゆうせだいこうみよう
救世の大光明となって、大神さまがこの人類を救おうと思って、過去において間違った
想いを積み重ねた、幽界の姿を消してしまおうと思って、大救世主という名で大光明とい
う神々の強い光が、今地上界に働きかけているんです。その一つというか、本当をいえば
全体の働きなのだけれども、その働きが世界平和の祈りなのです。それを私たちは祈って
いるわけです。
だから世界平和の祈りをすれば、どんな悪いものが現われてこようと、大したこともな
く消えていってしまうのです。
ましてあなた方はもう守護霊さん、守護神さんのことはわかっている。世界平和の祈り
のこともわかっている。そのわかった人たちが一生懸命やってさえいれば、自分の運命と
こう
いうものは勿論のこと、世界人類の悪い業というものも消えてしまうのです。
ゆめまぼろし
何故消えてゆくかというと、それは真実にあるものではなく、夢幻だからです。しかし
64
ゆめまぼろし
夢、幻だといってもわからないから、それはそのままにしておいて、奥のほうに入って、
神さまのみ心に入って”世界人類が平和でありますように” と祈るのです。これさえやっ
ていればいいんです。この世の現象は、勝手に好きな時に消えてゆくのです。
てんどうむそうむみよう
顛倒夢想、あるいは無明といいますが、仏教では、この人類が不幸になったのは無明か
らだ、無明が始まりなんだ、というのです。
無明を破る方法
あやみ
無明というのは何かというと、明かりがない、闇という意味です。明かりがないから不
幸になったというわけです。その明かりはどこから来るかというと、神さまの中から来る
のです。
その無明を破る方法は何かというと、神さまの中へ入る、大光明の中へ入るより仕方が
さんがい
ないわけです。それを大光明の中に入らないで、三界(迷いの世界) の無明の中にいて、
てんどうもうぞう
顛倒妄想した逆さの想いの中にいて、良いとか悪いとかいっている。今までの修養とか宗
6うなぜ顛倒夢想なのか?
教とかいうのは、みんな三界の中に入ったままなのです。
むみよう
「お前の心が悪いから」といえば、それは三界です。無明の中です。「お前の心が悪い
から、直さなきゃだめだ」「お前が夫を拝まないからだめだ」「夫が妻を拝まないからだめ
だ」「夫を立ててないからだめだ」と”… … だからだめだ” という叱り文句、小言、”こう
しなければならない” というやり方、修養は、やらないよりはいいに決まっているけれど、
てんどうむそう
逆の場合もずいぶんある。それはあくまでも顯倒夢想した人間を、実在とみて、迷いのあ
る、不幸のある、悪い心を持っている人間、悩みを持っている人間を、そのまま実在だと
みて、「お前が悪いからこうしなきゃいけない」「ぶつぶついうからおできが出来た」「そ
の家にいたくないから痔が悪くなった」ということになる。
三界という迷いの中で教えているわけですが、迷いの中でいくら教えてもだめなのです。
迷いの中で、心をよくしようと思ったってよくならないんです。一段や二段は上ります。
こう
しかし天上界までは上れません。何故かというと、いつも業を追いかけ業に追いかけられ
るからです。
66

深い深い闇の中で、小さなローソクの灯ぐらいをつけたって、向こうのほうは見えやし
ません。懐中電灯の灯でも見えません。太陽のような明るい光が届かなければ、すっかり
やみ
は見えませんし、闇はとけません。太陽が出れば闇は全部とけてしまいます。
ローソクや電灯の灯ぐらいでは、そこだけは明るいかもしれないけれど、他は明るくな
い。その上、電灯はきれることもある。ローソクは消えることもある。いくら修養して、
一生懸命ローソクをつけても、ローソクはだんだん消えていって、やがてなくなってしま
う。つまり限度があります。
消えない光とは何かというと、太陽の光です。太陽は消えません。曇ったって、雲の向
こうで光っています。ですから、太陽の光にならなければだめなんです。そうしなければ、
世の中は救われないし、自分たちも救われないのです。
いつも太陽のように輝いていなければ、自分もこの世も救われないのです。それを今ま
での人は、太陽のように光らせないで、ローソクのような灯をちょっとつけてみたり、電
灯を一つつけてみたりして「これが悟りだ、こういうふうにしなければいけない」という
67なぜ顛倒夢想なのか?
ねた
のです。つまり、「お前の心が悪いから、よくしなければいけない」「お前は妬みがある
コつコリ
から妬みを直さなければだめだ」「恨み心を捨てなければだめだ」とか「恐れる心がある
から、恐れるものはみな来るから、お前は不幸になる」といわれます。
すると逆になって、気の弱い善人という人は「私は恐れる心があるから、不幸が来るに
決まっている」「私はどうやっても恨み心がとれないから、だめな人間だ」「私は短気で
しようがない。ああ一生だめなんだ」というようになってしまうのです。皆さんも経験が
あるでしょ。
さかごうてんどうむそうさんがい
そういう教え方は、三界の顛倒夢想した、逆さまの想いの中の、業の中のやり方であっ
て、それでは救いにはならない、と私はいうのです。これは私がさんざんやってきた末の
発言です。
ではどうしたらいいかというと、そういう三界のだめだ、だめだという想いは、みんな
わけみたま
消えてゆく姿なんだ。人間は神の子で、完全円満なる分霊なんだから、悪いことがありよ
うがない。病気なんかありようがない、不幸なんかありようがない、貧乏なんかありよう
68
ヘヘヘへ
がない、妬み心も恨み心もありようがないんだ。あるというのは、今あるのではなく、
今”神さま/ ” と思っている自分にあるのではなくて、前の世㍉前の世からの想いがたまっ

て、今出ているのです。借金したものを、今借金を返しているんだ。返しさえすれば減っ
てゆくわけです。返すということはどうすることかというと、神さまの中へ入ってゆくこ
とです。そうすると神さまが返してくれるのです。
「守護霊さん守護神さん、世界人類が平和でありますように」とやっていると、神さま
のほうから、光明というお金が降ってきて、借金をどんどん返してくれる。
そういう教えを私はするわけです。
信仰心が深いということは
さんがい
自分の心の限度の中に入っていて、自分の常識の中へ入っていて、この三界の苦しみに
満ち、戦いに満ちている、争いに満ちている、不調和に満ちている想いの中に入っていて、
いくらその中で、いいとか悪いとかいって、ぐるぐる廻っていても、解決にはならない。
69なぜ顯倒夢想なのか?
「私は隣の人に何かやった。貧しい人にちょっとお金をやった。だから私はいい人間だ」
なんていうのは、人を助けたのだから、何もやらないよりはいいけれども、そんなのは
しようぜん
小善というのです。
いい人、と自分で思いこんでいる人がある。「自分は生まれてこの方、悪いことをした
ことがない」という人がいます。「私はいい人間なんだ。仏さまも拝むし、神さまも拝む、
ぜん
いい人間なんだ。それなのにうちの嫁はなんという人だろう。お膳もろくに片づけない。
しゆうとめ
年中外へ出てばかりいる」こういう姑はたくさんいます。自分だけ偉くて、自分だけ信仰
深くて、自分だけいいんです。そして他の人はみんな自分より偉くないように思っていま
す。
こういう人はずい分います。これはとんでもないことです。肉体の自分というものが、
いいと思っている想い、悪いことをしたことがないと思っている想いは、もうすでに悪い
しまつ
のです。高慢の一番始末におえない想いなんです。こういう想いを持っていると、どうし
しゆうとめ
ても相対的にものを見る。あまり頭のよさそうな、よく出来る姑さんのいる所へは、お嫁
に行かないほうがよろしい(笑)。やれ雑巾のしぼり方が悪いだの、やれほうきの持ち方
はし
が悪いだの、それこそ箸の上げ下ろしにまで文句をいう人がいる。自分が一番いいと思っ
ひと
ているんだから、他人が悪く見えてしようがないのです。他人が悪く見えて、他人にいち
いち小言を言うようなその心が、もう高慢でだめなのです。
いのち
人間はみな平等なのです。生命において、みんな平等なのだから、肉体の人間が相手の
しゆうとめ
肉体の人間に小言をいえるわけがない。姑さんだから、お母さんだからといって、嫁さん
や娘さんに文句を言えるわけがないのです。文句を言うのは、神さまのみ心において、神
さまがいわなければならない。神さまがいわない以上は、人間が文句を言えた義理じゃな
いのです。自分だって悪いのだから。それを自分が一番いいと思っている。
「私は神さまも拝んでます。仏さまも拝んでます。成田山へも行きます。お不動さまへ
も行きます」というのですが、成田山へ行こうが、お不動さんへ行こうが、そんなことは
問題ではない。自分で自分を慰めているだけなんですから。自分の心を慰めているだけの
信仰などだめです。それは信仰でもなんでもない。それなのに「私は信仰しているから」
7・なぜ顛倒夢想なのか?
とか「お前は神も仏もわからないじゃないか。私は信仰していい人間なんだ」といって、
お嫁さんをいじめたりするのがずい分あります。自分がよくてお前はだめだ、という想い
がもうすでに、神さまのみ心ではないのです。
その一番肝心なところがわからないのです。人をさげすむという一番悪い想いを持ちな
がら、自分は信仰が深いと思っている。それは間違いです。耳の痛い人もあるかもしれな
いけれど、本当なのです。人をさげすむ心があって、信仰が深いと思ったら、とんでもな
いことです。
あが
本当の信仰が深いというのは、神のみ心において、みんなを崇めるという状態です。神
の子としてみんなを崇める心がない以上は、戦争は絶えませんし、喧嘩も絶えません。
「私は信仰が深いけれど、あれは信仰がないから……」というのは嘘です。そういう心は
高慢な心です。それは神のみ心からみれば、みんな消えてゆく姿なのです。自分より信仰
が浅そうに見える人、自分よりだめに見える人、自分より貧乏な人、不幸な人、みんなそ
れは消えてゆく姿なのです。
もし自分が、他人を恨む心もなければ、貧乏でもない。金も相当にある、地位もある、
病気もしない人であれば、「ああ本当に私は有難いなア」と思って、神さまに感謝しなが
ら、みんなの幸福も祈ってやればいい。そういうふうになれば、それは神の子です。神の
子が現われたわけなんです。
「自分は相手より偉いんだ」「自分は誰よりもいいんだ」というような想いがあったら、
その想いだけ消しなさい。いいも悪いもありゃしない。それは消えてゆく姿です。本当に
悟った人というのは、神の子というのは、いいも悪いもありません。「あいつはバカで、
おれは利口だ」なんて思っていません。
たとえば「あいつはだめだな」と瞬間的に思う時があったら、「ああ、それは消えてゆ
く姿だな。あの人は神さまの子が今現われてないんだから、現われるように、どうか守護
霊さんお願いします」と何故、祈ってやらないのかと思う。そういうように祈らなければ
いけないのです。
73なぜ顯倒夢想なのか?
業のくらべっこ
ところが今までの宗教からゆくと、そのように出来ない。悪いものを見るからです。意
地の悪い奴、いやなヤロウというのは消えてゆく姿です。「あいつよりオレの方がいい。
くロリ
あいつはだめだ」それも消えてゆく姿です。そう思いがちです。いい人でもたいがい較べ
こう
てみます。他人と自分を較べてみるのは、業の較べっこをしているんです。業なんて較べ
たって同じことです。大して違わない。
そんなことではない。業というのは、みんな消えてゆく姿で、実際には無いのです。あ
るものは神さまの子としての兄弟姉妹なのです。人間は互いに神さまの子としての兄弟姉
妹、という心にならない以上は、地球界は終わりです。と一口にいうけれど、これはなか
なかむずかしいことです。
「先生にああ言われたけれど、まだあの人をよく思えないんです。私はよっぽど悪い人
間で、業が深いんですね」と思うからね。それも消えてゆく姿なんだけれども、そう思い
74
がちなのです。そこで私はそう思わせないように「人を恨む心がある、人をさげすむ心が
ある、しかしその心も消えてゆく姿なんだ」と教えているのです。
相手をいつも「いやな奴だな、あいつ。先生に言われたから、いい奴に思おうと思うけ
れど、やっぱりいやな奴だ」と思うことがありますね。そこで「いやな奴だな、消えてゆ
く姿だ、世界人類が平和でありますように」とやるんです。あるいは「あのバカヤロウが、

世界人類が平和でありますように」と思って、バカヤロウと思い、いやな奴だと思い、蹴
とばしてやろうかと思う、想いを持ったままでいいから、世界人類の平和を祈る祈りのほ
うにひっくりかえるのです。
初めはなかなかむずかしい。だんだんやっていると、いやな奴も何もなくなっちゃって、
ただ気の毒だとか、あの人が立派になりますように、という祈りが自然に湧いてくるので
す。そうなればしめたものです。それは菩薩行ですから、菩薩になるのです。信仰もそこ
までいきませんとね。
こやしんこ
おしん粉屋の新香と同じです。お新香だけじゃ栄養にならないでしょ。もっと栄養価の
乃なぜ顛倒夢想なのか?
高いものを食べなければいけない。新香ばかり食わせるのが新興宗教(笑) そうでもない
けど。私は新香ばかり食わせないで、ご馳走も食べさせようとしているんです。神さまの
大光明のご馳走を。それが世界平和の祈りなんです。
だから少しぐらい善いことをしたって、威張ることもなければ、悪いことをしたって嘆
くこともないのです。もし悪いことをしたとすれば、それは過去世の因縁が悪いことをし
たことによって、消えてしまったのです。だから、あッしまった、悪いことをしてしまっ
た、申し訳ない、と「申し訳ない」と思わなければだめです。
それを「これはいいことを覚えた。先生がみんな消えてゆく姿だと教えてくれた」とい
うわけで、隣の家の物を盗んで来ちゃって「お前どうしたんだ」「これは消えてゆく姿だ」
(笑)。しかし、これは消えてゆきません。何故かというと、悪いということを認めてい
ないからです。消えてゆく姿を認めてないからです。
悪いことをして、また再び悪いことをするということは、消さないでまた悪いことを持っ
て来たわけだから、だんだん積み重なってしまうのです。「悪いことは消えてゆく姿」と
76
いうのは、「再びしない」ということなのです。
たとえば間違って、青酸カリを飲んでしまったとします。そして助かったとします。さ
て再び青酸カリを飲みますか? 死ぬつもりでなければ飲まないです。何故かというと、
青酸カリは毒だということがわかっているからです。悪い想い、悪い行ないは毒なのです。
ぼさつ
毒であることがわかった人が、菩薩の道へ入る人なのです。
消えてゆく姿ということは、この現象世界に現われてくる、すべてのことにあてはまる
ことで、善、悪ともに消えてゆくのです。そしてあとに何があるかというと、神さまの絶
対善。相対的な善ではなく、絶対的な善がそこに現われてくるのです。だから善も消えて
ゆく姿なのです。
おととし
善も、いいことも消えたということでないと「私は去年も一昨年もいいことばかりだっ
た。今年もよくて、昨日までいいことをしたんだから、たまに悪いことをしても、プラス

マイナスで減りはしないだろう」なんて、うっかりすると思う。それではだめなんです。
たとえば、去年うんと商売して儲かったから、今年は休もうか、ということはないでしょ。
77なぜ顛倒夢想なのか?
儲ける仕事はいつも儲けていなければ、マイナスになってしまいます。それと同じように、
昨日やろうが、おとといやろうが、どんないいことをしようと、今日悪いことをすれば、
それが全部ひっくりかえって悪いことになってしまうのです。そこで私がいうのは「いい
ことも悪いことも、みんな現われては消えてゆく姿なんだ」ということです。
常住坐臥の祈りを
悪いものも現われなければ消えないとすると、これも大変です。どれだけ悪いことがあ
るかわからないですから。
「現われれば消えるというけれど、先生、私は今後どれだけ現われるんですか」と聞き
に来る人もあります。それは現われる前に消すのです。幽界で消す方法が一番いい。肉体
界に現われないうちに消す方法です。それはどうしたらいいかというと、世界平和の祈り
じようじゆうざが
を常住坐臥、ねても起きても、便所へ行っても、顔を洗っていても、電車の中でも、どこ
でもいいから、いつも声を出して”世界人類が平和でありますように” とやらなくていい
78
から、心の中に、いっぱいしみこむように、世界平和の祈りをやっていることです。
やっていると、肉体界に現われるものも、幽界で消えてしまうのです。たとえば大怪我
みつきよつき
をして三月も四月も入院しなければならないようなものが、かすり傷で治ってしまう。そ
のようになるのです。だから、世界平和の祈りにすべてを切りかえるのです。
くロリ
いいとか悪いとか、向こうと相対的に較べていてはだめです。相手を見てはだめ、敵で
あると、敵とみているうちは、敵になるからです。けれど一度は敵とみてしまいますね。
かこせ
過去世からのクセで、自分と相手は他人だ、みんな他人だ、と思います。ところがさかの
ぼってごらんなさい。みんな兄弟姉妹なんです。もっとさかのぼれば、神さまの中に入っ
てしまうのです。それなのに他人だと思う。
ところがそれは長い間のクセで、また肉体の自分を守る方法として仕方がないんです。
自分の家族のほうが他人の家族より可愛いのは当たり前です。自分を可愛がるように出来
ているのでして、それはそれでいいのです。
そういうものが肉体の生活です。とするとその愛情も消えてゆく姿なんです。真理の愛
7gなぜ顛倒夢想なのか?
というものは、自分の子も他人の子も同じにみます。この理論をそのまま実行しようとす
ると、天と地がつながらない。真理がそのまま降りてくれば、
「神の愛は平等である。お前の子供も隣の子供も、まわりの子供もみんな同じなんだ。
平等に愛さなければいけない」とやられます。
それはやっても出来っこない。私も出来やしない。そのために個別に人間は現われてい
るのです。この人間の常識の頭では出来ないけれど、神さまの頭では出来るのです。
肉体の人間では、自分の身内のほうが他人の身より可愛いんだから、宗教家がどういお
うと、私は私の子供が可愛いんだ、私の妻が可愛いんだ、私の弟が可愛いんだ、というこ
とになります。そうすると理想というものは、この世界では、肉体の人間の頭では成就し
ないんです。他の国より自分の国のほうが可愛い。自分の国より他人の国を可愛がって、
他の国のことばかりやっていれば、自分の国はつぶれてしまいます。だから肉体としては
自分の国を守り、自分は自分の家を守るように出来ています。だから肉体としては、いつ
も相対的なんです。いつも相手があるんです。相手と自分といつも競争をしなければなら
80
ない。自分の国と他の国とがいつも競争している。だから肉体の人間の頭では、自分の一
家と他人とを区別するのだから、平等の愛にはならないのです、絶対に。日本人が日本を
アメリカより愛するのは当たり前でしょ。それを理想としては、日本の如くアメリカを愛
さなければならない、と思うかも知れないけれど、実際には出来やしない。それを私はよ
くわかっているのです。
そこで天と地を、天の理想を地の現実に結ぶ方法を考えているのです。
肉体の人間の考え方でいけば、自分を守るのは当たり前、自分の家族を守るのも当たり
前。けれどそれではどうしても世界はよくならない。みんなが平等の愛にならないんだか
ら。ああ、これではもう肉体の人間じゃだめなんだ、と手をあげてしまうんですよ。「肉
体の人間では世界なんか平和になりっこない。自分の心に照らしてみればわかる」と。
ききん
たとえば同じ飢饅の時、自分の息子には食べさせても、隣の息子には食べさせないかも
知れない。百万人が百万人そうだと思う。自分の子を捨てても、他人の子を救おうなんて
まつおうまる
いうのは、人類二十何億人かのうち、百人もいません。昔、松王丸なんていうのがありま
81なぜ顛倒夢想なのか?
した。主君のために自分の子供を犠牲にする。あんなことは出来やしません。またやった
ら世間がごうごうと非難します。そんなこと滅多にあるもんじゃない。
だから肉体の人間では、自分と社会の、小さな範囲だけでも平等の愛情は通わないんで
す。出来ないんですよ。まして世界の人類ということになったら、それは出来っこない。
自分の国を愛し、自分の民族を愛するのは当たり前だから。それはそれでいいんです。そ
れが悪いというのではありません。理想家はそれが悪いというのです。しかし理想はその
ままでは現実にはならない。
肉体の人間には何も出来ない
そこで天と地の真ん中、理想と現実を真ん中で成就させるためには、どうしたらいいか
というと、この肉体人間はだめなんだ、ということをまず思わなければいけない。
「肉体の人間というものは単なる器でもって、みんな消えてゆく姿なんだ、自分を守ろ
うとする想いも、人を憎もうとする想いも、相対的に考える想いも、みんな消えてゆく姿
8i
なんだ。ああ、みんな消えてゆく姿なんだ。世界人類が平和でありますようにLと、自分
の頭の中の想念行為を、全部なくすために、世界平和の祈りの中にみんな入れてしまうの
いた
です。そうすると、神さまのほうから、守護霊、守護神のほうから、その人の心を傷めず、
相手を傷めず、うまい具合に調和して、うまくやってくれるのです。
たとえば自分は一日に百円いるとします。どうしても百円なければ生きられない。向こ
うは全然ないとします。向こうへ五十円やればいいんだけれど、五十円やったら両方とも
食べられなくなってしまう。そうするとやりようがない。全部百円向こうにやるか、自分
が百円で食べるか、どちらかでしょ。そうなったら、どうしても自分は生きなければなら
ないから、隣を見過しても、自分は百円で生きます。
そういう時に「ああ、これは自分じゃどうにもならないんだ。世界人類が平和でありま
すように。どうか隣の人をお救い下さい。どうぞ神さまお願いいたします。守護霊さん、
まつと
守護神さん有難うございます。私どもの天命を完うせしめ給え、隣の人たちの天命を完う
せしめ給え」というように祈るのです。そうすると、向こうのどこからか、五百円も六百
83なぜ顛倒夢想なのか?
円も、一万円も十万円も持った人が助けてくれるわけです。
何故かというと、神さまは無限だからです。無限の富、無限の愛、無限の智恵で、神さ

まがいくら出しても絶対に減りゃしないのです。だから神さまの中から出してあげればい
いんです。神さまの中から智恵を貸してあげ、神さまの中から物質を出せばいいのです。
そうする方法はどうしたらいいかというと、それは世界平和の祈りなのです。
肉体の人間がどうやったって、本当の平和は出来っこない。本当の安心は出来っこない。
どうしたら自分も安心し、隣の人もお向かいの人も安心し、この国が安心され、あの国を
安心させられるか、というと、世界平和の祈りの中へ自分の想いを全部入れこんでしまっ
はい
て、入りきりになると、神さまのほうから、あの人にもよくし、この人にもよくし、あの
国にもよくし、この国にもよくする、というように、みんな富が分配されるのです。そう
することによって地上天国が出来てくるのです。だからどうしても一度、この肉体人間は
だめなもんだ、ということを思わなければだめなんです。それを私は一生懸命、説いてい
るのです。
84
ほうねんしんらんなむあみだぶつ
それを他力というのです。法然親鸞がやった南無阿弥陀仏なんです。
平和の祈り”という現代で一番やさしい教えにしているのです。
それを私は”世界
祈りの中にすべてを投げ入れる
から
それで私はどこにいるか、というと、天の理想と地の現実をつなぐ真ん中に、空っぽに
なっているのです。そして「世界平和を祈りなさい」とみんなに教えているのです。皆さ
んがお祈りすると、この空っぽの肉体を通って、スーッと神さまの中へ入ってゆくのです。
そうすると、神さまの光が流れ入って来て、自分の体を通して横にひろがり流れてゆくの
です。
皆さんが空っぽになりさえすれば、世界平和の祈りの中へ自分の想いを全部入れてしま
いさえすれば、自分もよくなるとともに、その周囲が必ずよくなるのです。ですからまず
自分というものをいっぺん捨てなければいけないわけです。それは昔からいわれているの
くりつ
だけれど、「空にならなきゃだめだ」といいながら、空になる方法を教えてくれないんで
8うなぜ顛倒夢想なのか?
す。
くうざぜんかんぼう
昔、偉い坊さんがたくさんいました。「空にならなければだめだ。ただ坐れ。坐禅観法
して、空になる練習をしなければだめだ」というのです。「お師匠さん、どうしたら空に
なれますか」「カーツ/」と怒鳴られるだけです。しかし、今、この忙しい世の中で、い
つ戦争が始まるかわからない世の中で、ただ坐ってばかりいられません。商売もしなけれ
ばならないし、お勝手もしなくてはならない。そこで私はどういっているかというと、お
洗濯をしながらでも、煮物をしながらでも、お芋の味をみながらでも「世界人類が平和で
ありますように、この味噌はしょっぱいか。この煮つけは甘いか、世界人類が平和であり
ますように」と祈っていればいいんだ、というのです。
いつでも世界人類の平和が、自分の中で鳴っている、そういうように思うのです。坐ら
なければいけないというものではないのです。いつでも、世界人類が平和でありますよう
に、と祈っているのです。それはやっぱり統一なのです。そうしていると、いつの間にか
中身がだんだん、だんだん変わってくるのです。今まで、憎らしい、憎らしいと思ってし
86
サつコリ
まうのを、なんとかして憎らしい想いをなくそうと思って、「恨むまい、恨むまい」と思
っている人が、世界平和の祈りをやっていると、知らない間に、憎らしいとか恨めしいと
こう
かがなくなっちゃって、「あの人もかわいそうな方なんだ、業に包まれているんだ。あの
業が消えますように、あの人の守護霊さん、守護神さんお願いします」というふうに、自
然に愛の心が湧いて出るのです。
何故、自然に湧いて出るかというと、世界平和の祈りというものは、神さまのみ心なん
はい
だから、自分の想いが神さまのみ心の中に入って、神のみ心と同じようになって、今度は、
自分の心から流れる。そうすると自然に人が愛せるようになるんです。あの人が憎らしい、
なんて思わなくなっちゃう。湧いて来てもスッと消えてしまいます。
本当に消えてゆく姿がわかってくると、妻と夫が喧嘩しそうになった時- 夫が会社で
ムカムカしたことがあって、我慢して帰ってくる。そして妻は自分のいう通りにしてくれ
ない。「このヤロウ/ 」と思ってきても、消えてゆく姿ということがフッと浮かぶと、
「このー」であとはなくなってしまう。喉あたりまで出て来て、消えてしまうのです。
87なぜ顛倒夢想なのか?
はじめはチャンチャンバラバラやる。その次はチャンぐらいやる(笑)。その次はこの
辺(喉元) で消えてゆくんですよ。バカバカしくなってしまう。みんな消えてゆく姿なん
じねんほうに
だから、はじめっからやるまい、というふうに自然になってくるのです。自然法爾に、ひ
とりでに良い行ないが出来るようになってくるのが、世界平和の祈りなんです。そしてそ
れがやがては世界人類を救う祈りになるんですよ。
大平和実現のために
この間、レバノンにアメリカ兵が、ヨルダンに英国兵が上陸しました。それについて日
本政府は、国連で何をいったかというと、査察団として国連の兵隊をアメリカの兵隊に代
きやつか
わらせればいいだろう、という案を出した。がそれはソ連に却下されました。けれどその
案を見た国連総長から「日本からも一つ査察団を出してくれ」と要請されたのです。する
と日本は「憲法上、また実質上、そういう海外派兵が出来るようになっていないから、ご
めんこうむりたい」と断ったのです。変な話ですね。アメリカ兵を引っ込ませるために、
88
国連各国が代わりに出兵させればいいじゃないか、といっておきながら、自分のところの
兵隊を出さないわけでしょう。実際、日本は軍隊などありゃしないんだから、出せやしま
むていけん
せん。そういう宙ぶらりんなことをやっている。そういうのを無定見というのです。いい
出しっぺなのに自分はやらない、というのは本当におかしな話です。
これは日本人でなくともよくあるんだ。ああすりゃ、こうすりゃいいじゃないか、みん
なが金出せばそれぐらい出来るじゃないか、と、みんなにスッカラカンお金を出させてお
いて、自分は出さない。それと同じことを日本はやったのです。全く国際間の信用はゼロ
です。それは政府が無定見だからです。どうして無定見かというと、何にも方針がないん
です。ただ他人の鼻息をうかがいながら、政治をやろうと思っている。誰がやってもそう
です。誰がやっても「自分の肉体の人間はだめなんだ、神さまに全部まかせなきゃだめな
んだ」と、それこそ神のみ心の霊感をいただいて、神智でもって政治を行なわなければ、
絶対だめなんです。岸首相だって信仰がないわけじゃないだろう。けれどいいかげんなの
です。
89なぜ顛倒夢想なのか?
アイゼンハワーはクリスチャンです。岸さんよりよっぽど信仰があります。アイゼンハ
ワーのまわりにもクリスチャンがたくさんいます。いながらもやはり小国の自由を奪うた
めの兵隊を出しています。何故かというと、いいかげんな信仰だからです。全部神さまに
まかせて「ああ、生きるも死ぬも神さまにまかせて」と霊感でやっているんじゃなくて、
自分の頭の中で、考えを絞り出してやっているわけなんです。敵とみていますから、あれ
ぐらいのことしか出来ないのです。そういヶものはいくらやってもだめなんです。日本ば
かりでなく、どこでもだめなんです。ですからこのまま放っておくと、世界は破滅するよ
り仕方がない。
そこで大平和実現のためにはどうしたらいいかといったら、今までの考え方を全部捨て
なければだめです。人間の頭で「ごまかしてればどうにかなる」という、ごまかしの考え
方、ごまかしの生き方、ごまかしの人生観、人間観というものを、全部変えて、
わけみたま
「人間というものは肉体ではないんだ。人間というのは神の分霊であって、神さまが全
部知っているんだ。だから世界を救うためには、自分たちが全部神さまの中へ入りこんで
しまって、改めて神の光として、この地上界に君臨しなければだめなんだ」という考え方
になるのです。そのやり方の一番やさしい方法は、世界平和の祈りなのです。
世界平和の祈りをしていると、自分の想いが全部なくなって、光が全部入ってきて、そ
れが宇宙全体、地球全体に放射されるんです。そうすると戦争しようとする考えも変わっ
てくる。いろいろ変わってくる。それともう一つは、宇宙人が助けに来る。宇宙人が降り
て来て、守護神が降りて来て、我々と手をつないで横暴なる大国を押さえてくれるーそ
ういうことにもなるわけです。(昭和3年8月2日)
g・なぜ顛倒夢想なのか?
四、自分をおかすものは何もない
いけないいいではない
この世の中には、本当はいけないとかいいとかはないんです。ふつうの人はすぐ、これ
をやってはいけない、あれはやってもいい、とかいいますが、いけないいいではなくて、
やる時にはやってしまうんです。わかりますか。そこで私は消えてゆく姿という教えを説
いているのです。
いけないとかいいとか言ったって、やってしまうのですよ。そこで親鸞さんや法然さん
が、あれだけ学問もし、修行をした人が、いけないいいじゃなくて、それは仕方がないん
こういんねん
だ。業因縁なんだ。その業因縁を自分ではとれないから、阿弥陀さまにあげちゃった。そ
れが世界平和の祈りでもあるのです。いいですか。いけないとかいいではなくて、そうなっ
てくるのですよ。それを今までの宗教家がよく知らないのだ。それでこれをやってはいけ
ない、あれをやってはいけない、お前はいけない、とこう言っていた。私はそこをよく知っ
ている。いけないいいの問題ではなく、現われてくるものは現われてくる。消えてゆくも
のは消えてゆく。うつるものはうつる。それはすべて神さまのみ心、自分の本心が現われ
るためのものだから、どんなふうに形が悪く出ようと、善く出ようと、有難いのだと
こういうのですよ。わかります?
いけない、いいがあっては有難くないですよ。やっちゃいけないことをしてしまった。
自分はだめだと思うでしょう。どんな悪い行ないが現われても、どんな嫌なものが自分に
現われても、出て来ても、それはいい悪いではなくて、そうなっているんだから、ああそ
れは消えてゆく姿だ、だから有難いんだ。
消えてゆく姿自体が有難いのではない。消えていったあとから、本心が出てくるから有
93自分をおかすものは何もない
難い。雪が降ってじめじめしたけども、お天気でお日さまが出て来た。ああ雪のあとお日
さまが出て有難い。くもりのあとは有難い。必ず晴れるわね。雨が降ってもあとは晴れる。
雨ばかり降っていたら大水になってしまうからね。それで晴れた時に有難いと思うでしょ。
雨が降れば必ず晴れることは決まっているんです。だから、晴れたら晴れたで有難い。く
もったらくもったで有難い。雨が降ったら降ったで有難い。溺れたら溺れたで有難い。そ
こなんですよ、そこが宗教の極意なんです。
私は、どんな苦しいことが来ても、ふつうでいえば嫌いなことが来ても、なんとも思わ
ない。なんにも思わない。来るものは来る、とさえも思わない。来たものはみんな受けて
いる。逃げようなどと一つも思っていない。嫌もいいも、なんにもありはしない。そこま
でいかないと、だめなんだ。そこまでゆくと五井先生になる。今、首を切られても有難
い、というところへくるのが一番。いいことがあったから、先生有難い。悪いことがあっ
たら、先生ちょっとだめだなア(笑) 消えてゆく姿を出さないでくれ、なんていうのがあ
るけれど、循環してくるのだから仕方がないのですよ。だから私は前のもの、過去世のも
94
のを責めようと思わない。どんなにヘンな業をもって来ても、このバカヤローって責めは
しない。仕様がないなアと思ったって、これは消えてゆく姿なんだからね。それによって
消えてゆくだけ開いてくるのですよ。また何か出てくれば、また開いたんだから、また出
ればまた開いてくるのです。だから悪いものが出てくることは消えてゆくのだから有難い
んですよ。
悪いものを積んでゆくのでは有難くないですよ。消えてゆく姿というものがあると、す
べて有難いということになるんですよ。消えてゆく姿がないと、何かみじめになってしま
うのです。自分がみじめですよ。またまたこんな心を起こしちゃった。また把われちゃっ
た。なんて私はだめなものだろうーとなる。生長の家式に無いというのだったらね。と
ころが消えてゆく姿なんだから、消えてゆくに従って、どんどん本心が現われてくるのだ
から、有難いんですよ。だから貧乏しても有難い、病気をしても有難い、へんな嫌な感情
が出ても有難い、怒りの想いが出ても有難い。
95自分をおかすものは何もない
すべてが有難いになる
念を押しますが、怒りなら怒り、貧乏なら貧乏が有難いのではありません。消えてゆく
んだから有難いのです。借金をどんどん返してゆくんだから有難い。また、借金が一つへ
った、借金がまたへった、ああ、だんだん自分の借金がへって有難いなア、これで本当の
姿、本心が現われるんだな、とこういうのだからね。そこまで来ることが極意なのです。
それをみんな目ざしている。
ところが今まではただ言葉だけだった。ところが現在は、私のような人がいて、「サア
引き受けますよ」といっているんだから、有難くないことがあったら「先生有難くない」っ
て、ここへぶつかってくればいい。そしたら有難くしてやるからなんだって(笑)。そう
いうふうにやればいいでしょ。だから何があったって、驚くことはない。どんな嫌なこと
があっても、瞬間です。一日か二日か三日。一ヵ月か二ヵ月、一年か二年か三年か五年か
十年か、大したことはないです。ジーッとしていればいいんだから。過ぎてごらんなさい、
q6
大したことないから。
最後の死ぬ一瞬に「ああ、よかったな、神さまが迎えに来ていて有難いなあ」だったら、
今までのことは全部消えてしまいます。八十歳で死ぬとして、七十九年十一ヵ月三十日何
時間苦しんでも、最後の最期の一瞬に、弥陀三尊が迎えに来て、守護神さんが迎えに来て、
サアいらっしゃい、いい所にゆくんですよ、といって、連れていってくれれば、それで有
難いもの。そういうもんなんですよ。あとの過去なんかどんなに苦しんでも、なんでもな
いですよ。今、苦しんだことを思い出してごらんなさい。皆さん、苦しいですか? 苦し
かない。なんだか楽しいような気がしてしまう。「ああ、よく私はあれをぬけて来た。私
も案外偉いんだなア」なんて思うでしょ。
人間の本性は善で、光明だから、どんなに辛い想いを思い出しても、思い出した時には
辛くないのです。思い出した時にはみんな美化されてしまうのです。どんなに自分をいじ
あた奴でも、思い出して憎らしいというより、ああ、ああいう人もあったなア、あれによっ
て私も磨かれたなア、ぐらいになってしまうんですよ。みんな美化されてしまう。人間の
97自分をおかすものは何もない
性は善で光明なんです。
インテリなどがよく、これをやってはいけない、いい。あいつが悪い、これがいいとやっ
ている人がある。それをやっているうちは絶対に悟れないことを保証します。そんなもの
はみんな消えてゆく姿ですよ。だから、のん気に、明るく、その日その日を感謝で生きて
ゆく、という基本的な言葉になってしまうのです。
世界平和の祈り一念で生きていれば、守護霊守護神さんがうまくやってくれるのです。
自分にあんまり関心を持ちすぎると、つまり自分の業、想いに関心を持つと、業の浮き沈
み、流れに関心を持ちすぎて、本当の自分ではなくて、業を追いかけて、自分はどこだ自
分はどこだ、とだんだん真実の自分から離れていってしまう。そんなものはどっちでもい
い。出るべきものは出るし、出ないものはでないし、消えるものは消えるんだから、一度
突っ放してしまって、世界平和の祈りの中に入ってしまうのです。そうすると朗らかにな
るし明るくなるし、恐れはなくなる。
何があっても怖くない。何があっても怒らない。何があっても嫌でない。なんでも来い
98
1 そういう気持ちにならなきゃだめよ。何が来たって自分を犯すものは何もないのだか
ら。自分を犯すものは自分の想いだけしかないんだ。
自分に想いがなかったら、なんにも犯されない。そのつもりでいて下さい。
(昭和3年3月27日)
99自分をおかすものは何もない
100
五、いのちの自由自在性
けいげ
心 匝圭磯なし
本当の自由
人間がここに生きています。何が人間を生かしているかというと、いのちです。いのち
があるから肺臓が働いている。いのちの力で心臓が働いている。いのちの力で頭が働いて
いる。ということは、唯物論者、唯神論者にかかわらず誰でもわかります。それを神さま
の力で心臓が働いている、というと唯物論者には、そんなものあるもんか、自然に動いて
いるんだ、という形になります。しかしいのちの力で働いている、といわれますと、これ
は誰でもそうではない、という人はありません。だから唯物論者に話す場合には、いのち
ということを持ち出すのが一番わかりやすいんですね。
いのちがここにあって自分が生きている、だからいのちがなくなれば肉体は消滅する、
すこ
ということは唯物論者でもわかるわけです。さて、そのいのちをそのまま肉体に健やか
に、さわりなく生かしておくにはどうしたらいいか、ということが問題になってくるわけ
です。
いのちが真っ直ぐに、いのちそのままに動いていれば、心臓も丈夫ならば、肺臓も丈夫、
頭も丈夫なわけです。そうすると、いのちを健やかに、そのまま生かしてゆくにはどうす
るか、ということが祈りの問題に結びついてゆくわけ。いのちが自由自在に動いていると、
そくさい
どこも悪くなくて無病息災で生きるわけです。少しでもいのちがそこなわれると、病気に
なったり、不幸が出てくる。それは信仰、無信仰、唯心論とか無神論を度外視して、誰に
でもわかることです。医学上でそうなんですから。いのちを健やかに自由自在に生かして
ゆくためには、いのちの自由自在性を阻害するもの邪魔するものを除外すればいいわけで
す。いのちがあるがままに生きているのを邪魔すると、人間の自由自在性が奪われて、い
… いのちの自由自在性
のちは不自由になり、病気になったり不幸になったりする。
今の政策を初め、すべてのやり方というものは、いのちの自由自在性ということではな

くて、我、肉体の我欲の自由になりたい、欲望をそのまま達成したい、自分の肉体の欲望
のままに自由になりたい、というようなことを「自由だ」と思っている。ところが欲望と
いうものは、いくら満たしてもきりがないし、肉体の自由というのはいくらやったって自
由になりっこない。肉体がパッと飛んでゆくわけではないし、食べたいと思ったら、目の
前にその食べものが瞬間出てくるわけではない。不自由な中で自由を求めながら、肉体が
生きているわけです。ですから肉体自身の自由ということは、いくらやっても自由にはな
らないわけなのです。
消えたり現われたり、どこでもパッパッと行けるようになれば、自由自在性になるわけ
ですが、それが出来ない。出来ないために人間はいろいろ発明しまして、飛行機が出来た
り、自動車や汽車が出来たりした。発見発明によって、人間はその自由性をだんだん延ば
しています。ところが、いくら発明し、いくら飛行機をつくり、ジェット機をつくり、宇
IO2
宙船を作っても、やっぱり肉体は自由自在にはならないのです。どこかしら縛られている。
だから肉体の自由自在性を求めている限りは、いつまでたっても欲望のきりがなく、利害
得失で、人と争うこともあれば、戦争になるようなこともあるわけです。
本当の自由というのは、肉体の自由ではなくて、いのちの自由なのです。肉体が縛られ
ていても、いのちが自然に自由に動いているという、そういう形へもってゆくのが、宗教
なのです。いのちの自由自在性を見つけ出すのが宗教の道なのです。唯物論の場合は、肉
体の自由自在性、肉体生活の自由自在を求めて、科学技術を駆使し、動員して実現してゆ
こうとする。ところが宗教の門というのは、そうではなくて、内から、中からいのちの自
やうみ
由自在性を求めてゆくものなのです。ですから、身は病んでいようが心は病まない、膿が
どろどろ出ていても身は病んでいない、という心境になってくる。そしてなりきると、膿
も出なくなれば病気もなくなれば、不自由なものがなくなってくるのです。そこまでゆく
道があるのですよ。
io3いのちの自由自在性
祈りとはどういうことか
その心境にゆくまでにいろいろな方法があるわけです。念仏もあるだろうし、お題目も
あるだろうし、坐禅もあるだろうし、キリスト教の祈りもあるでしょう。山へこもったり
していたこともあるだろうし、いろんな修行方法がとられているわけです。私は、ではど
ういう方法でもってゆくかというと、やはり祈り一念の生活というものを持ち出したわけ
です。
祈りというのはどういうことかというと、いのちをのりだす、いのちを自由にする、い
こコつ
のちそのままになるということです。肉体という物質にこだわらない、あらゆる事物に拘
でい
泥されないで、とらわれないで、いのちがそのまま自由自在に動く世界、そういうものに
なるのに、祈りという方法が必要なのですし、祈りそのものが、自由自在性なのです。
だけど普通の場合は、祈りというものは、ただお願い事のように思っています。病気を
治して下さい、商売を繁昌させて下さい、不幸がありませんようにーこういうのが祈り
ioq
だと思っている。これは祈りではない。祈りにいたる道程ではあるけれど、祈りそのもの
ではない。祈りというのは、いのちをそのまま出して、物質に把われない、あらゆるもの
に把われないいのちが、そのまま現われて生きている、という姿が祈りの姿なのです。木

や草がいのちそのまま生えている、自然の法則のままに生きている、そういう植物は祈り
の姿だと私はいうのです。
人間にはいのちそのままの働きを阻害するものが出て来た。それは何かというと想いな
のです。いのちは微妙な波で、光の波動です。いのち即光なのです。その波動が微妙に動
いている。肉体というのは物質的波動で出来ています。いのちがその物質的波動を動かし
ているのだけど、いのちを度外視して、物質的なものに自分の想いがいってしまって、物
質のほうへどんどん把われていった。そうすると、いのちというものを考えないで、肉体
というものを考えてしまうわけです。肉体のことばかり考えてしまう。肉体は普通、一メー
ター六七十、せいぜい大きくてニメートル、体重は四十貫(一五〇㎏) ぐらい、その体の
範囲でのみしか動けなくなってしまうわけです。
・05いのちの自由自在性
いのちというものは宇宙に充満しているものだし、永遠のものだし、光り輝いているも
のなのだけれど、それをズーッと小さく小さく狭いものに固めてしまう、固定観念が出来
て、それだけの範囲、範疇でしか動けなくなってしまうのです。そこで宗教の道というの
は、五尺何寸、六尺何寸、何十貫かで生きている、一歩一歩しか歩けないという肉体の人
間から、自由自在にどこへでも行けて交流できるような人間に、磨きをかけていこうとい
うわけです。その方法として祈りがあるわけなのです。
何故祈りをするかというと、肉体にまつわる想い、人間というのは肉体だ、五尺何寸の
人間だ、とこう思っています。その肉体だという想いを、まず肉体ではない想いの中に変
えないといけません。そうしないと自由にならないからです。たとえば茶碗を持っている
とする。持っている持っているという想いがあったら、持っている茶碗にいつもとらわれ
ているわけです。これを放せば把われてない。そういうふうに、肉体観念からはなれると
いうことを、祈りという方法でやるわけです。そこで実際にどういうふうにやるかという
と、神さま神ざまと言ってもいいんです。神さま有難うございます、神さま有難うござい
io6
ます。それ一点張りでもいいんです。私はその方法でこうなったんですから。
神さま有難うございます、私のいのちをどうぞ神さまのものですからお使い下さい。人
類のためにお使い下さいーって投げ出したのです。自分というものを投げ出したから、
自分はなくなった。自分の想いというものは全部神さまの中へ入れてしまったから、ただ
有難うございます、有難うございます、という感謝の想いだけになった。だから神さまは
使いやすいから、そのままいのちが現われて来たわけです。
だからどういう方法でもよいから、自分の想い、肉体にまつわる想い1 自分は肉体の
なんじよう
人間だという想いがしつこく付いているんですよ。何生かけて生まれ変わり死にかわりし
ていますから、自分は肉体なんだ、肉体なんだ、という想いが、わざわざ肉体だと思わな
くても見えますし、食べているし、肉体の生活をしているから、肉体だという想いがあっ
て、五尺何寸きり生きられないわけ。だから肉体人間という想いを、まず捨てなければな
らない。ところが捨てなさい、と言ったってなかなか捨てられるものではありません。そ
こで、日頃からの訓練で、瞬時瞬時、一瞬一瞬の訓練で、いつの間にか肉体観念がなくな
・。7いのちの自由自在性
るような想い方が大事なのです。
IO8
すべての想いを消えてゆく姿にして祈りの中へ入れる
そこで私は、肉体にまつわっているすべての想い、肉体世界に現われてくる良いことも
悪いことも、すべて消えてゆく姿だと言うのです。消えてゆく姿として世界平和の祈りの
中に入れてしまう。神さまといってわかるけれど何か掴みどころがない。内にある神さま
といっても掴めない。そこで目的を持って来たのです。目的は何かというと、世界が平和
になることです。これが一番の目的なんです。人類がここに存在しているということは、
みんなが仲良く、大調和してこの地球世界をよくしていこう、みんな平和な世界にしよう
と思って、みんなこの地球に生まれているわけです。この世界を荒らして、戦争にしよう
などと思っている人は誰もいない。みんな平和になって、みんな仲良くして、みんな気持
ちよくお互いが助け合って生きていこう、という心が世界中誰の心にもあるわけです。誰
の心にもあるということは、神さまのみ心がそうだということです。
大生命の中から小生命として自分たちが出てきているんだから、小生命が仲良くするこ
とは大生命の望むことに決まっている。大生命即神さまですから、神さまと呼ぶのもいい
けれども、神さまは見えない、だからどこへ行っていいかわからない。そこで神さまのみ
心である大平和、大調和が現われるために、世界人類が平和になることが一番いい。世界
ヘへ
人類が平和になることがみ心であるし、神さまの目的でもあるし、人類の目的でもあるか
ら、”世界人類が平和でありますように” で自然に、神さまと人間の心が全く一つになる
わけですよ。そこでそこへ持って来た。
肉体にまつわる喜怒哀楽、すべての想いを消えてゆく姿として、世界人類が平和であり
ますように、と祈って神さまのみ心の中に入れてしまう。世界人類が平和でありますよう
に、という時は、神さま神さまと呼んでいるのと同じなんです。しかも目的がハッキリし
ているから、自分の心が納得するわけです。
人間というものは、自分の想いが納得しないと、気が入らないのです。これをやればい
いんだと言っても、納得しないとやる気にならないのです。世界人類が平和でありますよ
・・9いのちの自由自在性
うに、というのは納得するとかしないではなくて、反抗を呼ばないのです。ああいいな、
おれには出来ないかもしれないけれど、やっていて無駄はないな、じゃやってみよう、と
はじめは本気にならないけども、世界人類が平和でありますように、という言葉そのもの
が、大きいひびきをもっているから、はじめは、私は今病気を治したいんだ、家庭を調和
させたいんだ、私は今貧乏を直したいんだ、世界人類どころの騒ぎじゃないと思いながら
も、世界人類が平和であるということは、何か自分の生き甲斐であるような気がしてくる
わけ。世界が平和になることをみんな望んでいるんだから、内心では望んでいることだか
ら”世界人類が平和でありますように、なんでえ
” といいながらもやっていると、知らな
い間に、肉体にまつわる、自分の生活にまつわるいろんな想いが、少しずつ少しずつ世界
平和の神さまのみ心の中に、光の中へ吸いとられてゆく。どんどん吸いとられてゆく。
すると知らない間に、去年の自分より今年の自分のほうが、なんか心が明るくなってい
る、貧乏は貧乏だけども、病気は病気だけども、心が明るい。心が前とは全然違って来て
いる、というようになってくるわけです。それがやっているうちに、病気が治ってくる。
IIO
貧乏が直ってくる、というようにだんだん、だんだんなってくるのです。だから現象の利
益はまずさしおいても、心の中が神さまのみ心である光のように、明るく明るくなってく
るのです。それを祈りというのです。心が明るく明るく、神さまのみ心と同じようになっ
てくれば、いのちがそのまま生きているわけです。いのちがそのまま生きていることは、
祈りの姿なのです。祈りそのままの姿になるわけです。
そこで私は他の言葉を言わないで、世界人類が平和でありますように、日本が平和であ
まつと
りますように、私たちの天命が完うされますように、と言ってから、みんなを守っている
守り神さまである、守護霊守護神さま有難うございます、という感謝の想いで結んでいる
わけです。守護霊守護神さま有難うございます、ということと、世界人類が平和でありま
すように、ということは同じことなんだけれども、並べて言っているわけです。全部まと
めて言わなければならないものじゃない。世界人類が平和でありますように、だけでもい
いんです。その”世界人類が平和でありますように” という想いで、神さま有難うござい
ます、でもいいわけです。どういう言い方でもいいけれども、そういう神さまのみ心が現
IIIいのちの自由自在性
われているという目的の中に自分を入れるのが、自分の想いが争わないで、反発しないで
一番出来る方法だと思うのです。
祈りというのは、いのちをそのまま現わすことなのだし、祈っていればいのちがそのま
ま現われて来て、神さまのみ心である、いわゆる神の子である自分が、そのままだんだん
と現われてくるわけですよ。
とらわれがなくなること
人間が神の子であることは間違いないんです。大生命の分かれである小生命であること、
これも間違いもないこと。誰だって生命体であると思わない人はないんだし、生命の謎は
まだ解明されておりませんが、いのちがここに生きているということは、誰もが疑わない
すご
んだから、いのちが健やかに生きるためには、いのちが自由に生きるためには、やっぱり
とらわれがあってはいけない。
人のことを言っちゃいけない、いけないと思っていると、スッと言ってしまったり、お
II2
茶を運んでいて、こぼしちゃいけない、いけないと思っていながら、こぼしちゃったり、
字を真っ直ぐ書かなければいけない、真っ直ぐに書こうと思っても、曲がってしまう。皆
さん記憶があるでしょう。練習の時にはサーサーッと書けるのに、清書で出すんだとなる
と、ブルブル手がふるえたりする。何がその人の手をふるわせてしまうのか。心がふるえ
るんですよ。想いがとらわれているから、いのちが自由に動かなくて、手がにぶってくる。
へた
私は字が下手で下手でしようがなかった。大きい字はサアーッと書けるんだけれど、小
さい字を書いたら、ごちゃごちゃになる。下手だと思いこんでいたから。ところがこうなっ
て(本心と一体となって)から下手も上手もそんなことは問題じゃない。神さまのみ心のま
まだから、どんな字だって、曲がったって、右へ曲がろうが左へ曲がろうが、はみ出そう
が、そんなこと知ったこっちゃない(笑)。書くがままに書いているでしょ。だから光が
サーッと入っている。今、手なんかふるえません。いくら労働した後でもふるえません。
りつま
それに書くのが速いこと速いこと。速くてふるえないで、上手い字が書けるんですよ。と
いって威張るわけではないけど、人がほめてくれるから、私も自分のことをほめるんです
・・3いのちの自由自在性
よ。私は人にほめられたら、自分でもほめることにしているんです。字でもそうです。な
ボクシングすもう
んでもそうです。相撲をやろうと、拳闘をやろうと、あらゆることにおいて、心にとらわ
れがあったらだめなんです。そのとらわれをなくすことが宗教の道だし、それが祈りなん
ですよ。
いのちがそのまま生きていることが、一番いいわけです。いのちそのまま生かすために
は、肉体にとらわれ、想いにとらわれ、言葉にとらわれ、うまくやらなきゃいけない、こ
しりよふんべついつべん
うしなきゃいけないという想いを、思慮分別を一遍なくすことです。そうしない限りは、
その人はその道の達人にはなりません。それで宗教の道、祈りの道というのは、すべてが
達人になる、立派な人になるためのものなのです。
何をやっても、誰にでも負けない者になるためには、やはりとらわれがなくなることで
す。だから私は、とらわれになるようなことは一切言わないことにしているのです。今ま
でのあらゆる宗教には、大概とらわれがあるのです。こうしてはいけない、というものが
きた
あるから。お前さん短気じゃいけないよ、気が弱くちゃいけないよ、恐れるものは皆来る。
ii4
で恐れたら大変だよ、病気になる、病気になると思ってたら、病気は来るんだよーこう
やられるでしょ。気の弱い人はますます恐れちゃう。臆病な人は恐れます。ああ私は恐れ
た、だから私はガンになる、ガンになるに違いない… … 。人間というのは変なもので、い
けないと言われると、余計そうしてしまうものです。お菓子屋の子供はお菓子は年中食べ
られるでしょ。だからお菓子をみたってつまみ食いをしないですよ。もう年中食べられる
からおかしくて(笑)。それと同じように、自分がいつでもいつでも充足して、神さまの
み心がいっぱい入って充満しているんだ、自分は神の子なんだ、なくてならぬものは与え
られるんだ、自分に必要なものは与えられるんだ、というように思っていると、がっかり
しなくてもいい。利益を求めなくても、ちゃんと自分に与えられるんだ、という心が宗教
心なのです。
自分は神の子としてここに生まれているんだ、神のいのちとしてここに存在しているん
だから、自分になくてならないものは、必ず神さまが与えて下さるに決まっている、とい
うふうに思っていると、あわてないですよ。騒ぎもしない。
115いのちの自由自在性
努力は一生懸命します。私たちの仕事というのは、人に世界平和の祈りをすすめて、み
んなが明るい、自由自在な人間になって、少しでも世界人類の平和のためになる人を創り
たいということです。そういう運動をやっているわけです。ですから建物のあるなしにか
かわらず、本の出る出ないにかかわらず、一生懸命やっているわけです。一生懸命やって
いることが、みんなの心を打って、道場の建物も大きくなるし、本もたくさん出てゆくよ
うになるわけです。
116
前進よりない
自分に生かされているいのち、自分を生かしているいのちに、利害関係ということはあ
まり考えないで、いのちが置かれた立場でそのまま、なんでもかんでも一生懸命すること
です。これは当たり前で、簡単なことだけれど真理です。一生懸命やっていれば、やっぱ
り把われがないことになるのです。これやったらうまくゆくかしら、この結果がいいかし
ら悪いかしら… … 。物事をはじめてしまってから、結果がいいか悪いかというのはおかし
い。一番嫌なのは、結婚してしまってから、この結婚よかったでしょうか、悪かったでし
ょうか、と尋ねられること。いいも悪いもありゃしない。もう踏み出してしまったんだか
ら、もう前に進むより仕方がないではないですか。
赤ちゃんを産む時は、産むより絶対しかたがない。ひっこみはつかない。赤ちゃんは産
まなければならないんだ。嫌だから、辛いからといって、後もどりは出来ない。赤ちゃん
がだんだん小さくなってしまって、なくなっちゃうというわけにはいかないでしょう。産
み月になったら、産むより仕方がない。絶対に前進よりない。ただ一筋しかないわけです。
しりぞ
人生万般、みんなそうです。前へ進むより仕方がない。人間は退くことは出来ないのです
よ。ところが、逃げれば逃げられると思う。ところが運命でもなんでも逃げられないので
す。覚悟しなければならないですよ、みんな(笑)。
一旦、この世に生まれてきたら、死ぬまでは生きてなければならない(笑)。そうでしょ、
寝っ放しというのはいけない。いくら催眠薬をのんだって、ねっぱなしにはならないです
よ。目が覚めます。だから、生まれてこの世に生きている以上は、生きなければならない。
・・7いのちの自由自在性
∠ノ
生きなきゃ。それは引っこむことが出来ない。痛いところがあったら注射で痛みを止めま
す。だけどやっぱりまた痛みは出てくる。果たさなければならないことは、どうやっても
出て来ます。それは逃げられない。お産と同じだと思いなさい。
こうしょう
業生を果たしながら、消えてゆく姿をやりながら、しかもその消えてゆく姿を通して、
世界人類の平和を創る神のみ心を現わしてゆくわけです。二通りの生き方があるわけです
が、消えてゆく姿を現わしながらも、それをうまく利用して、神のみ心を現わす。そうい
う人は素晴らしい。神界なら神界へそのまま逝けます。実際そうやっていれば、亡くなれ
ばそのまま神界へゆくわけです。そういうように出来ている。
いつもだめじゃないか、ああじゃないかこうじゃないかとやっていてごらんなさい。い
くらたっても進歩しないから。一遍やってみればいいでしょ。やってみて悪ければ失敗し
ます。失敗すると、これはいけなかった、とわかるから。そしたらまた改めて戻ってやり
直せば、次は失敗しないでスーッと通ってしまう。そうすると片方は、悪い事、間違った
しま
事はしないけれど、いい事もしない。もう一方はパーッとやってみて、ああ失敗った、と
118
いって後退するかもしれないけれど、次にはズーッと前に進んでしまいます。だから思い
きって、やることはやってみなさい。因縁がなければやりはしないから。人殺しをする因
縁がなければ絶対に人殺しをしません。わかりますか。だから恐れないほうがいい。
やるべきことはやるのです。やらないことはやらないのです。男性にいくら赤ん坊を産
め、といったって、これは絶対不可能。・そういうもんです。絶対のきまりがあるわけで
す。運命というものは、すべてその人の過去世の因縁因果によって動いているのだから、
悪いことにならない人は、悪いことになりっこないのです。それで救われるようになって
いる。
人は救われるに決まっている。この世で救われることになっている人は、ここへ来てい
ますからね。世界平和の祈りをするような立場になった人は、絶対に救われている。救わ
れたことをはっきり自覚しているわけです。世界人類が平和でありますように、という祈
りに加わったということは、もう自分が救われているということを、自覚していることで
す。知らないうちに自覚させられている。だから恐れないで、すべてを恐れないでおやり
119いのちの自由自在性
なさい。
大体、宗教信仰をするような人は、気が小さいことが多い。信仰のない人は、神さまに
すがらないで、自分でガムシャラにやるんです。それで力があるのだから、或る所まで来
るのですよ。しかし或る所で壁にぶつかる。そこでガタッと落ちてしまう。ところが宗教
信仰をするような人は、神さま神さまってすがるような人は、大体気が弱くて、何かにす
がらないではいられない。自分だけでは不安でしようがない。それですがる。すがるまで
は、ガムシャラにがんがんやる人より弱いのです。ところが、神さまのことがわかり、そ
して神さまの道に入ると、今度は立場が逆になって、うんと力がついて、ガムシャラにや
る人よりずっと強くなる。その力というのは神さまの力なのです。自分の本心が開けるか
らです。今まで、臆病だった人が臆病でなくなる。気がしっかりしてくる。というように
なってくるのです。
みちただひとすじ
大体気の優しい人がすがったり掴まるんだから、つかまったら今度は、この道只一筋、
さが
自分の生きる道だと、引くも退るも出来ない、絶対前進しなければいけないんだ、という
120
ように覚悟を決めちゃうんですよ。
しゃればいいのです。
それで、世界平和一念なら世界平和一念でやっていらっ
みんな世界平和を祈るようになる
ほか
こないだも私は言いました。これがだめだと思ったら、他を廻っていらっしゃい。ほう
ぼうじゅう廻って、やってみればいいんです。やってみて、ああ、ここもだめだ、あそこ
もだめだとわかったら、また帰っていらっしゃい。そしたら今度は早いです。これっきり
ちゆうちよ
ない、と思うんだから。だから躊躇しないほうがいいですよ。お友だちが「五井先生はだ
めよ、そんなもの」と言ったらば、止めてもらったらいい。どんどん他へ廻っていらっし
ゃい。何も、拝みたおして、入ってもらう必要はないのです。いいですか。是非入って下
さいな、って拝み倒して入るようなそんなケチな神さまではないのです。
みんな自分たちが救われるんだから、自分たちが救われるのに、救ってやろうというの
にそれを生意気なことを言って、どうでも救われたくないのなら、勝手にどこでもいって
121いのちの自由自在性
苦労して来い、と言ってやったほうがいいです。拝み倒して入ったって、そんなものろく
なことはない。それは覚悟しなさいよ。拝み倒して入ってもらうほど貧弱な宗教ではない
のだから。皆さん、そのつもりで自信をもって下さい。必ず、全世界が世界平和を祈らな
きゃならなくなるように決まっている。これは私が断言する。だから、お世辞いいながら、
是非入って下さい、一遍いらっしゃって下さい、いらっしゃって下さい(笑)。嫌だいや
だと言うのに、そんなことまでして、来てもらう必要はないんですよ。向こうで、どんな
ことしても連れていって下さい、ああよし連れていってあげるー威張る必要はないけど
さ(笑) 1 そのくらいの調子でいい。
人を増やしたいの一念で、無理無理押しつけたり、無理無理引っぱって来たってしよう
がない。守護神さんが頼む場合には、嫌でも応でも来るからーみんなここへ来る場合、
守護神さんが”ああ先生に会いたい、世界平和の祈りの仲間になりたい” というんで来る
のです。ですからスラスラッと来ます。中には”私はなんにもわからないで来ました” と
いう人が随分います。”途中でお会いしまして、この人が来いというから来ました。なん
122
だかちっともわからない。なんでしょう、ここは” なんて(笑)。そういう人には、私は
びやつこう
だまって浄めておいて”白光を読んで、またいらっしゃい” といって白光誌をわたします。
白光を読めばわかりますからね。そういう人は守護神が連れてくるから来られる。そして
そういう人が案外熱心になったりするのです。
ホセ
斎藤秀雄さんのように、はじめ霊光写真を見せられて、来たわけでしょ。霊光写真を斎
藤さんに見せた人は来ないんだ(笑)。そんなもの、縁だからね。先に入る人と、どうせ
入るに決まっているのだけれど後から入る人と、一生、肉体の五井先生に会わないけれど、
世界平和の祈りをやる人と、こう三段階にわかれている。みんな全部やるに決まっている
んですよ。これは断固として全部やる。生きとし生けるもの全部、世界平和の祈りをやら
ないではいられないのです。やるに決まっている。ただ肉体の五井先生に会うか会わない
かは別問題。だから皆さんのように、早く会って、早くわかった人は、万万歳ですよ。も
う安心しちゃって、今日から枕を高くしてねて下さい(笑)。ああこれはいいことを聞い
た。しめた、坐って祈らなくても、枕を高くしていればいいんだから、ねながら祈ろう、
買23いのちの自由自在性
なんてね。朝寝をして祈り、昼寝をして祈り、夜は早く寝て祈りーそれだって同じこと
よ。心の中に世界平和の祈りがあればいい。だから悠々としていなさい、ということよ。
iz4
生きるも死ぬも決まっている
私が言いたいことは、人間生きるも死ぬのももう決まっているし、行き先も私に会った
らいい所へゆくに決まっているし、地球が亡びようとどうしようと、皆さんだけはいい所
にゆくに決まっているんです。だから皆さんは救ってもらおうではなくて、救いに立つ立
場なんです。皆さんは死んだって生きたって、神さまのみ心の中にいます。今、全部がこ
こで亡くなったって、みんな神界、霊界へ行きますから、絶対安心していていい。それは
自分たちはもう救われているんです。救われていることを自覚しているのです。だから安
心していらっしゃいよね。
“ああ自分はもう救われているんだ
” と思って、今度は救いに立つのです。「世界平和
の祈りをやるといいですよ。とても心がやすらぎますよ」と自分の体験を通して、パンフ
レットでもリーフレットでも、白光でもいい、みなさんにあげたらいい。こちらが誠意が
あると向こうがついてくるんです。それも決まっているんだ。本当のことを言うと、みん
な決まっているんだよ。だからのんびりしていればいいんです。ところがのんびりしよう
と思ったって、のんびり出来ないように決まっている人はのんびりしやしないから(笑)。
もうしゃべるだけ無駄のようなものよ(笑)。でもしゃべることも決まっているんだから
(笑)。のん気なものでしょ。このくらいのん気になったらいいです。
あくせくすることぐらい馬鹿なことはありません。といっても、あくせくするのも決まっ
ているんだから(笑)。だから決まっただけあくせくしたら、もうあくせくしなくなるか
ら、決まっただけしましょうね。それだけでものん気になります。それを教えるために、
神々は来ていらっしゃるんです。
やはり決まった一つの過程があるけれども、心のほうは変わるのです。守護神が中から
変えます。そうすると決まったように見えていて、しかも、いいように変わってくるわけ。
悪いようには絶対変わらない。それだけおぼえておいて下さい。皆さんのように世界平和
izgいのちの自由自在性
の祈りをしている人は、サーッと飛躍するのです。だから安心していればいい。そのよう
にのん気になると、病気も治ってしまいます。神経衰弱なんか治ります。のん気な人に神
経衰弱なんてないですよ。
どうせこの世の中を生きてゆくんだから、いのちを生かし切るほうがいい。のん気になっ
て生かし切るほうがいい。ああじゃないかこうじゃないかと思いあぐむ想いを、世界平和
の祈りの中に入れてしまって、日常生活をそのままやっていけばいい。そうすると、前の
そのままと、今のそのままとは全然違ってきて、心がズーッと開いてくる。すると人も寄っ
てくる。いろいろ面白いこともある。明るい話題もある、というように飛躍してゆくわけ
です。
とロリ
一番いけないことは把われ。よくなろう、よくなろうともがきなさんな。もがかなくたっ
て、世界平和の祈りをしていればよくなるに決まっているから。よくなろう、よくなろう
こう
ともがくと、もがくことが業になるからそれで苦しむわけですよ。ですから「ああ私は世
界平和の祈りをやっているんだから、救われるに決まっているんだ」と思って下さい。二
i26
年たつか五年たつか、十年たつか三十年たつかしらないけれども、救われるには決まって
いるんです。一日たつごとに救われてゆく。病気の人などは一日ごとに治るに決まってい
すご
る。いのち健やかになるんだから。世界平和の祈り一念でいいんです。あとはなんにもい
らない。ふつうの当たり前のことをやっていればいい。(昭和37年9月24日)
*註白光真宏会前副理事長、故人。祈りによる世界平和運動に挺身、
『霊験巡講記』『仲の悪い仲よしさん』等がある。
東奔西走した。著書に
・27いのちの自由自在性
12$
六、天地の通りをよくしよう
何も考えないことよく考えること
くうむい
宗教の極意に空とか”無為にしてなせ” という老子の言葉があります。無為というのは、
じねん
こうしようと思ってするんじゃない、ああしようと思ってするんじゃない。そのまま自然
ほうに
法爾に無為にしてなせ、ということです。
どういうことが空であり、どういうことが無為にしてなすことなんだろう。自分がしよ
うと思わないで出来ることがないじゃないか。自分が考えるからこそ出来るんだ。だから
自分が何も考えないで出来ようがないじゃないか、と思うわけですね。
それは本当に人間というものをよく知らないからです。人間を本当に知ってくると、肉
体の中に現われてくる想いというものー頭の中でゴチャゴチャと思う。ああ今日はよい
天気だろうか、雨が降りはしないかしら。今家で誰がどうしているだろうか、とこう思う。
いのち
そういう想いと人間の生命がそのまま法則に従って動いていくものとは違うんですよ。
例えば、今ここで話をきいているから、何も思いませんね。だけど普通の場合は、家を
出ると、家はどうなったろう、ガスに火をつけっぱなしで来たかしら、どうかしら、と今
思ったってどうしようもないことを思っているわけです。
人間はどうしようもないことのほうを余計に思っているんじゃないですか。例えば来年
子供が高校へいくんだけども、今どうしようと思ってる。今とやかく思ったってしようが
ない。
必要な時にその活動を開始すればいいわけでしょ。だから大体頭の中の想いのほうは、
本当の実体の身になるものが出てこないで、かすばっかり出てくる。それなのに考えなきゃ
しかたがないと思っているわけ。
買29天地の通りをよくしよう
ところが達人になりますと、老子までいかなくても、相当な人になれば、一日中いちい
ちガチャガチャ思わなくたって、そのままでスースーと生きられるようになる。それはど
いのち
うしてかというと、生命の力というのは自然に働いているからなんです。
心臓が自然に動いているように、肺臓が自然に動いているように、胃腸が自然に動いて
いるように、自然に動いているんです。心臓の鼓動を自分で決めるわけにはいかない。肺
を自分で動かすわけにはいかない。大生命の力が小生命になって動かしているわけです。
だからあらゆることが、本当は自然に動くのが原理なんですよ。大神の生命の法則にのっ
あたか
て動いていくわけ。その原理を知らずに、恰も自然に動いているんじゃなく、自分で動か
さなきゃ動かないような感じがしている。
子供なら子供の教育は、こうしなきゃ、ああしなきゃ、というわけで、あんまりかまい
のばな
すぎて弱くしちゃったりする。かまった人が善くなるかというとそうでもない。野放しに
放っておいても、丈夫になってピンピンしている子供もあるし、お金をかけて栄養だ栄養
だとやっていても、弱い子もあるわけです。人間が一々頭で考えて育てていいものならば、
i30
そうして育てた子供は必ず丈夫になって、必ず偉くならなければならないけれども、野放
しにしたほうが丈夫になる場合があるし、それが多いかもしれない。そうすると頭で考え
てガチャガチャやったことが、果たして良いことか悪いことかわからないでしょ。だから
この頭で考える想いというものと、人間の本然の姿、いわゆる大生命から来ている生命の
動きというものとは違ってくるんです。
こう
しかし本当は違っちゃいけないんです。けれども人間が違わせちゃう。それを業という
んですよ。神の法則として動いている大生命の流れからはずれたことを、勝手にやってい
るのを業というんですよ。
大生命の至上命令に忠実か
そこで、宗教というのは、その流れをはずれて勝手に動いている想いを、一遍大生命の
法則の中に入れる。どうしたら入るかといったら、まかせるよりしようがないでしょ。
自然に朝起き自然に夜ねむる。何時にねむろう、何時に起きようと、いかにも自分で寝
131天地の通りをよくしよう
て自分で起きているような感じがするけれども、起きるのなんて、スーッと自然に目が覚
めるんですよ。自然にねるんです。あんまり把われて、ねようねようとしていると、かえっ
てねむれなくなっちゃう人が随分あります。だから自然に動いて、自然にねているような
形、自然に心臓が動き、自然に肺臓が動くと同じように、人間の考えも自然に湧いてくる。
それを自然法爾というんですよね。無為にしてなせ、ということもそうです。自然に行動
が行なわれてくる。しかもその行動、智恵はその時最も適したもので、人をも自分をも生
かしている、というようなことになる。
普通ですと、何も考えないで出来るとは思わない。ところが私の体験ですと、今もズーッ
とそうなんだけれども、しようと思わなくとも出来るんです。
普通うしろに目がある人はいないでしょ。ところが私はうしろにもあれば横にもある。
うしろから誰が歩いてきたかわかるんです。遠くのほうで想っている。誰が想っているの
かわかる。どうしてわかるか。私の肉体の眼は近眼です。前のほうに座っていらっしゃる
人の顔があんまりよく見えないぐらいです。ところがわかる。
i32
昔修行中、歩いていると、うしろから誰がくるかわかる。だから突然振り向いて”やあー
しばらく” なんてやられるから向こうはびっくりしちゃうんですよ。遠くに駅がある。す
ると電車から誰が降りてくるかわかるんです。それで落ち合って”ヤアまってたよ” なん
てことになるんです。向こうは知らないんだからびっくりしますよね。
どうしてそういうことが出来るか、というと、無為にしてなせ、なのですよ。
地球科学で電磁場というのがあります。つまり電気が流れるとそこには必ず磁場と電場
が生じるのですね。それと同じように人間の想いというのは、幽体という磁場つまり想い
の波の流れる場所があって、そこに想いが一杯あるわけです。肉体にも磁場があり、霊体
の磁場も神体の磁場もあるわけです。
神体の磁場というのは、ズーッと大きく宇宙に広がっているのです。そうすると神体の
磁場で大生命からの光が流れて、それが働きとなるわけです。それが霊体を通り幽体を通
り肉体にスーッと流れてくれば、神のみ心がそのまま伝わっているわけです。神さまの行
ないが素直にそのまま出来るのです。それが霊体まではくる、幽体でもってクチャクチャ
・33天地の通りをよくしよう
と思っていると、想いが一杯つまっているから、光が入って来ないんですよ。光が屈折し
てしまう。ズレちゃう。そうすると幽体肉体に溜まっている、詰まっている想いが出て来
て、無為にしてなさないで、ああしよう、こうしよう、といつもいつも思い巡らしながら
やっているトンマな生き方になる。
この自分の幽体で思っている想いを、神サマーって神さまの中へ投げ出しちゃうわけね。
そうすると、想いが守護霊守護神の霊体神体を通して、自分の神体の中に入っていく。神
体に入っていくと、いうなれば穴があくわけだ。通りがよくなる。すると神体の磁場で行
なわれている命令が生命の動きが、スーッと肉体まで通っていくわけです。
そうなると、例えば歩いていて知らないうちに左に一歩踏み出したら、うしろをものす
ごい速さで自動車が通りぬけて行った、とか、会いたい人がある。何となくこっちの道を
行きたいな。スッと行くと、会いたいと思う人にパッと会っちゃう、というようなこと。
三人の人に会いたい。しかし一人一人会っていたんじゃ時間がない。ところが、A の所も
B の所もC の所も行かないで、用のない、D の所へゆくと、なんのことない、D の所へAも
134
B もC も来ているじゃないですか。そこで三人の用が一遍に足りてしまう。そんなことを
随分したことがあります。
くムノ
空を飛びこえて前進する世界平和の祈り
そういうふうに、自然に行なったことが普通の人間がやる何倍もの力になって現われて
くる。のんきに自然にやっていることが、すばらしい力になって現われてくる。それはど
ういうことかというと、自分の想いが全部神さまの中に入って、神のみ心のままに、とい
うんでまかせているでしょ。”どうぞ自分の肉体でもなんでも全部お使い下さい、み心の
ままに” と全部自分の想いをなくしてしまう。それが空というんだね。すると肉体幽体の
ゴタゴタしている小さなチッボケな働きの想いではなくて、大生命、大宇宙の動きと一つ
の働きの力がズーッと入ってくるんですよ。
りき
自分が自分が、自分がやるんだ、自分の力で… … と力むと、天からくる力、神と通じて
いる穴をふさいでしまう。どうぞおまかせします、と開くと、大生命から要するに実相か
135天地の通りをよくしよう
ら光が肉体に流れてくる。そうすると、人がわからないようなことも全部わかってくる。
くコつ
要するに神秘力があらわれてくるわけです。それを無為にしてなせ、自然法爾、空ってい
うんですね。だから空なんてむずかしいものじゃない。何も坐禅観法しなければ空になれ
ない、というものじゃない。
空というと、何もないような気がするでしょ。何もない、というのはどういうのか。或
る雑誌に、神道の人が仏教の禅をけなしているんです。禅などをやっているとみんなタヌ
キ坊主になってしまう。何故かというと、空になれ、なんて坐禅をしているけれど、空に
なんかなりっこない。何もなくなることはないんだ、そんなこと出来ないじゃないか。だ
からみんなタヌキ坊主になっちゃって、変な坊主がたくさん出来るんだ、というようなこ
とを書いている。それを見て、ア! 一知半解なことをいうな、と私は思った。
自分が出来ないからといって、人も出来ないもんじゃない。出来る人があるかもしれな
い。自分に出来ないことを、人も出来ない、と思うのが浅はかなんです。
く つ
禅の空というのはどういうのかというと、肉体のほうの想いが何もなくなることなんで
i36
くうそくぜしき
す。一度、自分の想いを全部放棄してなくなって、無くなりっぱなしになると、空即是色
になるんです。
しきそくぜくうヘヘへ
色即是空の色というのは、ものという意味です。本当の姿と偽の姿とがまざっているも

のです。その色が即是空で空になると、今度は空の中から、空即是色になって、空は即ち
光なり。色が本当の姿の現われだけになる。神さまの智恵、本当の働きがスッと出てくる
んですよ。空になって自分の想いを全部投げ出した途端に、大神さまの光がそのまま入っ
てくるんです。パッとひらめいてわかる場合もある。今すぐひらめかなくたって、やがて
だんだん現われて、いつの間にか、自然法爾に神のみ心のままに動いている自分になるか
もしれない。そこで、色即是空、空即是色と二つつながっているんです。
やさ
その一番いい易しい方法は何か、というと世界平和の祈りなんです。
何故世界平和の祈りがいいかというと、世界平和の祈りというのは、自分のことを思っ
ているんじゃない。世界が平和でありますように、みんなが平和でありますように、大調
和しますように、という想いが”世界人類が平和でありますように” という祈りでしょ。
・37天地の通りをよくしよう
大神さまのみ心というのは、世界人類が平和であることです。神のみ心が現われるとい
うことは、世界中のありとしあらゆる生物がみんな調和して生きること。それが大神さま
の大調和の姿が現われることです。つまり世界人類が平和になることは、大神さまのみ心
そのままが現われていることなんですよ。だから”世界人類が平和でありますように” と
祈ることは、大神さまと一つになるということなんです。今にだんだんわかってきます。
くロつ
“世界人類が平和でありますように
” と人類愛の深い広い心になると、空になったと同
おうそうげんそう
じなんです。空をとびこえて、空即是色なんです。往相(大生命に昇っていく姿)と還相(神
さまの光と共に菩薩行として帰ってくる) が一つになってしまう。それが世界平和の祈りな
んです。
だから空、空というと、いかにもむずかしそうだし、無為にしてなせというとむずかし
そうだけれども、神さまのみ心の中に全部入っていさえすれば、それは空即是色で、無為
にしてなせということと同じになるわけです。自然に自分のやったことが神さまのみ心に
叶った、神さまがそのままやっていることになるというんですよ。それはどうやったらい
z38
いかというと、世界平和の祈りをそのままつづけていると知らない間になってくるのです。
見ようと思わないで見られる状態
私が今のように悟った時には、世界平和の祈りも何もなかったでしょう。どうしたかと
いうと、”神さま、どうか私のいのちをお使い下さい” ってパッと投げ出したわけですよ。
いのちびやつこう
その時”お前の生命は貰った” と天からひびいて来て、自分が白光になっちゃったでしょ。
それからさんざん苦労したんだけれどね。私は中心でやる立場になっているから、いろい

うな苦労を嘗めないと、みんなの苦労がわからないから、苦労したんだけれど、それで今
になって来た。
今の状態はどういうのかというと”無為にしてなせ” です。右へ行こうと思って行くん
しやべ
じゃない。左に行こうと思って行くんじゃない。喋ろうと思ってしゃべるんじゃない。見
ようと思って見るんじゃない。それなのにスッとわかる。
例えば、本部でお浄めしています。十人位前に坐っています。その人たちの想いも全部
・3g天地の通りをよくしよう
わかる。それに電話がかかってくる。電話をかけてくる人の波もわかる。あちらの部屋で
ホに
話していることもわかる。全部わかっている。横関さんが電話をきいていて「先生あの:」
「ああそれはこれこれこうしなさい」もう終わったとたんに私は答えを出している。どう
してわかるか。
肉体の人間の頭では、一人と話をしたら精一杯で、側から何かいわれると、”うるさい
一寸だまっててくれよ。順々にやってくれ” なんてなるでしょ。聖徳太子が何人かの話を
一遍にきいた、といいますね。やっぱり聖徳太子は無為にしてなしているんです。神我一
体になっているわけ。だから何人いたって、話をきかなくったってわかる。
そういうようになるにはどうしたらよいか、というと、”いのちを捨てざれば生命を得
ず” というイエスの言葉を私は好きですが、自分の想い、肉体のいのちというものを、すっ
かり神さまの中に投げ入れちゃうと、神さまの大きな想い、大きな光、大きな力がスーッ
と入ってくるんです。
みんなは肉体という、あるいは幽体という想いでもって、縮まって、小さく小さくなっ
iqo
ている。それで生きている。ところが人間は本当は神の子です。神というのは無限の宇宙
の生命でしょ。その中の自分なんだから、どこだって自由に行けるじゃないですか。光が
流れてくるんだから、宇宙に広がっているわけです。宇宙に広がっているんだから、何だ
ってわからなきゃならないんです。それがわからない。
ピンからキリまで
この頭で考えないで何が出来ますか、なんて文句をいってくる人がありますよ。頭で考
えないでどこで考えるんだ、ってね。「お前のその現われている頭で考えるんじゃないん
だ。お前さんはこんな小ちゃな頭だと思っているんだろう。本当の人間の頭はこんなのじゃ
ない。宇宙大に大きいんだ」とこういうわけね。いわれても何だかわけがわからない。だ
けどだんだんわかってくる。
ということは、肉体の頭はこんな小さそうに見えるけれど、その中には脳細胞が六千億
あるといわれておりますね。それを広げると、宇宙大にひろがるんですよ。
・4・天地の通りをよくしよう
原爆のウラニウムというものは、ごく小さいものでしょ。それが爆発するとものすごい
エネルギーが出る。世界が吹っ飛ぶようなでかいエネルギーが出る。人間の体はウラニウ
ムよりもずっと大きいです。そしていろんな元素が入っている。ウラニウムの何万倍何兆
倍あるかわからない大きなもんですよ。これを原子爆弾のように爆発させてごらんなさい。
一遍でもって地球は吹っ飛んじゃう。一人でその位のエネルギーを持っているんです。す
ごい破壊力を持っているんです。ということはその逆に、素晴らしい有効な力も持ってい
るというわけです。
原子力がそうでしょ。破壊の爆弾に使えば人類を滅亡させてしまうけれども、有効に使
えばすごいエネルギーを出す、素晴らしい動力源になる。
だからあらゆるものは、どんなものでも、使いようによって、善くもなれば悪くもなる。
火でもそうです。火がなければこの人生は生きていけない位大事でしょ。ところが火事に
なっては大変です。水もそうです。水がなかったら困るけれど、あまって溢れて流れたら
大水になって困っちゃう。
i4z
人間もそうです。人間程使いようによって困るものはありやしない。世界を亡ぼすのも
人間ですし、世界平和を築くのも人間です。
人間、と一口にいうけれど、動物よりも劣った低級な低劣な者もいるんですよ。そうか
と思えば、人類を救おうという人がたくさんいます。差が甚だしいです。どこで線を引く
か。一般大衆の当たり前に生きている人が真ん中とすれば、上、下が甚だしく違うでしょ
う。そういうふうに善くなればどこまでも善くなるし、悪くなれば動物よりも何よりも、
犬畜生よりも劣るもの凄く悪いものになるんです。
○ ○ 某とかいうのが出ていますね、真犯人だとすれば、犬より劣った奴だ。殺しておい
て身代金を取ろうというんだからね。ああいうものが人間のうちにいるわけだ。そうかと
思えばヘレンケラーなど、ああいう立派な人がいます。釈尊だってイエスだって、みんな
立派でしょ。釈尊、イエスといわなくたって、立派な人がたくさんいます。
そうすると、人間というものは、自分のやり方によってはどこまで上に行くかわからな
い。どこまで下がるかわからない。みんな自分の責任になるわけです。自分というのは、
143天地の通りをよくしよう
人類全部に責任があるわけ。人類全部のことは自分に責任があるのです。
だから少なくも宗教をやろうという人は、この一般の中央のレベルより上へ行かなきゃ
いけないですよ。上へ行く方法は何かというと、やっぱり肉体の人間というものを一遍捨
てなきゃだめです。肉体でやっているんだ、私の頭でやってるんだ、というそういうもの
を捨てなきゃだめ。
りき
力まない生き方を
ボクシング
私、よくスポーツの話をするけども、拳闘などでも、ノックアウトしたいなんて意気張
ると、体に力が入っちゃってうまくいかないんです。ところが何にも思わないで、スーッ
と出したものが当たると、ノックアウトしちゃう。日頃の練習の成果が自然に出たからで
すね。野球でもそうです。狙ったら打てない。打ってやろうなんて力む時は打てない。と
ころが自然に打っているとホームランが出る。それは日頃の練習によりますよ。よるけれ
どもその場でいちいちこうやろう、ああやろうというんじゃなくて、自然にスースーとやっ
144
たものがうまいことになるわけ。
相撲でもそうです。よくアナウンサーが、私ねバカじゃないかと思うんだ、勝って土俵
から相撲取りが帰ってくるでしょ。「今日は何関どういう手で? 」「なんの手だかわかり
こわいろはなしべた
ません」(低い声色を使ったのでみんな大笑)無理ですよね。相手は話下手のところへもって
きて、しかも汗をかいてハアハアしているところでしょ。どういう手で、たって咄嵯にや
るんだからね、どういう手で投げようもヘッタクレもありゃしない。きくほうがバカです
よ。日頃の修練が自然に巧まずして出ていくわけ。巧んだ時にはだめなのです。
今まで組み手が悪かったのに、今度二本差しになった。よく知ってるでしょ、何でも知っ
てるんだから(笑)。優位になった時に負けちゃうのがあるじゃないですか。何故優位に
なったのに負けるか。心がゆるんで、しめた、これでこう投げてやろうなんて思うから、
心に隙が出来る。だから負けちゃうのですよ。日頃の練習がそのままさわりなく通ってい
れば、とてもいい成績が出るのに、ひっかかるとだめなんです。
ですから人間の普通の生活でも、頭でいちいちこうやろう、ああやろうとひっかかって
互4ラ天地の通りをよくしよう
いると、ひっかかったその時だけ、いのちの光、流れがとまってしまうのです。スムース
に流れない。だからうまくいかないんですよ。いつもいのちが素直にスースーと流れてい

るようにするにはどうしたらいいか、というと、我が生きるは、私が生きているんじゃな
いんだ、自分が生きているのは神さまが生かしてくれているんだ、自分の本心がここに生
ヘヘヘへ
きているんだ、という形、おまかせですね。み心のままに、ということです。
神体の頭と通りをよくしよう
まか
私は”み心のままに” という言葉が好きで、み心のままにと任せきってしまう。任せる
ということはこの頭のゴタゴタをなくすわけだから、無くなってくると、いわゆる本体の
力がサーッと流れて来て、自分で思いもかけないような素晴らしいことが出来るわけです。
自分でやろうたって出来ないこと肉体の自分ではどうにもならないことがこの世界にはた
くさんある。人の心がわかることなんかもそうでしょ。光が流れてくるのがそうでしょ。
私は一朝一夕でこうなったわけじゃない。長い年限があって神我一体の形で、自分が何
i46
も思わなくても、神の姿がそのまま現われている、というようになったわけです。その間
の苦心たるや大変なもんなんで、私は他の人にはそうした苦労をさせまいと思って『天と
地をつなぐ者』にも、皆さんにはそう苦労させないで、立派になるようなことを書いてい
るんですゆ
皆さんはどうしたらいいかというと、私と同じことをしたってしようがないから、世界
平和の祈りの中に入ってしまえば、私のほうでうまくコントロールして、皆さんの頭の中
をきれいに掃除して、通りをよくしてあげます。天と地をつなぐ通りがよくなるのは、神
界と自分の頭の通りがよくなるのは、やっぱり平和の祈りなんですよ。
“世界人類が平和でありますように
” といつも思っていると、肉体の磁場も幽体の磁場
もきれいに掃除されていくのです。そうすると霊体、神体の磁場光の波動がそのままスーッ
と入ってくるんだ。そして常識をはずれないで普通の行ないをしながら、人よりも優れた
人になるわけですよ。(昭和38年8月)
*註白光真宏会前理事長、故人。
・47天地の通りをよくしよう
互48
七、解脱と全託
完全な解脱
げだつ
解脱ということについてお話しましょう。私がよくいうんですが、仙人のように神通自
在になって、姿が消えて何処でも飛んで歩けるような力を持っていても、本当に解脱して
しようかく
いないと、正覚を得ないんです。仏さまの境地、神と一体にならないんです。
どういうことかといいますとネ、自分というものと神というものとの間に、へだたりが
あればそれは本当に解脱していないんです。
現われている自分というものの想いがスッカリなくなって、神さまからそのまま流れて
くる、いつでもそのまま流れてきているという、そういう形にならないと本当の解脱じゃ
ないんです。だから解脱即正覚というんですね。
何にも把われがない、想いが何にも乱れない、乱れる想いもないんです。一挙手一投足
じねんほうに
が自然法爾に神さまのほうからやらされている、ということが自分がやっていることと一

つになる。つまり、やらされていることと、やることとが一つになる。観るものと観られ
るものが一つになる。思うことと思わされることが一つになっていく。そういうのを解脱
しているというのです。
ぎよう
ところが一生懸命行をやった、修行した仙人みたいな形の人、行者のような形の人の中
えんのぎようじや
には、それは正覚を得た人もありますよ。役行者のような人もいるんだからね。
役行者という人は山から山へ渡り歩いて修行に修行を重ねた人で、初め観音さまをまつっ
て祈っていた。ところが観音さまにも依存しちゃだめだ、と観音像を谷へ捨ててしまって、
しげせんしかばね
自分の念力だけで、ついに形が消えちゃうんですね。屍化仙といいまして、屍を残さない
で、いわゆる肉体を消しちゃって、肉体がそのまま霊化しちゃった人なんです。自分の力
・49解脱と全託
えんのぎようじやしげせん
でネ。それほど凄い人です。役行者ばかりでなくその弟子に随分屍化仙がいるんです。
しかし、それだけでは解脱したとはいえないんです。肉体がなくなっただけで解脱したと
いうことはない。
1うQ
神通力の有無に無関係
自分というものが神さまの一つの光の流れだ、ということが本当に心の底からわかりき
らないと、解脱したということにならないんですよ。分けられた自分というものと神さま
とが分かれていたら、解脱にならないんです。いくら神通力があって、人の心が全部わかっ
たとしても、ここから姿を消して遠隔地へ飛んでいけるとしても、水の上を歩けたとして
も、岩を何も使わずに動かせたとしても、山を動かしたとしても、地震を起こしたとして
も、雨を降らせたとしても、それだけでは本当の完全な解脱というわけにはいかないんで
すよ。それは何故かというと、奇蹟というもの、自分の力というものに把われているから
です。
ぎよう
だから仙人などというのは、一つの行の方法がありましてネ、それによっていろんな神
はんちゅう
通力を出すわけです。ところがそれに把われている。把われているからその範疇でないも
の、離れたものとは交流がうまく出来ないんですよ。この世の宗教者で立派な人であって
ヘヘへ 
も、普通の世間の人とのつきあいが出来なかったりする場合がある。自分だけは高い所に
行っちゃうから、この地球界に住んでいながら、地球界の人とはまるで交渉が出来ないよ
うな立場になってしまう場合もあるんです。
ここう
孤高、つまり、自分一人高く人よりそびえ立ってしまうと、他との釣り合いがとれない
から、他との付き合いが出来なくなっちゃう、日常の社会の付き合いが出来ないような立
場になる人がある。それは本当は解脱してないんです。
大聖は街に隠れ、小聖は山に籠るで、大きな聖人というものは町にいてちゃんと仕事を
しているというんですね。
それは何故かというと、自分がどんな高い地位にいても、平気で貧しい人とでも話せる
し、若い人とも話せるし、年寄りとも話せるし、誰とでもいつでも心が交換できるような
・う・解脱と全託
自由な心になることが、宗教の極意なんですよ。どの世界に住んでも、例えば地獄に住も
うと、霊界に住もうと神界に住もうと、何処に住もうと自由で把われがない、という心に
げだつ
ならなければ、本当の解脱というわけにはいかないんです。
解脱への道
ぎよう
一つの固まった行をしなきゃ淋しいような、行をしていなきゃ自分が頼りないような、
それじゃあ解脱してませんね。何をしなくたって、どうしたって、自由自在ということに
ヘへ ヘへ
ならなきゃいけないのだ、だけれども、そこへ行くのが大変だ。
そこで私は、あらゆる想い、悟ったという想いも、駄目だという想いも、相手が悪いと
いう想いも、自分が悪いという想いも、失敗したという行ないも、すべて消えてゆく姿な
んだというんです。
この世に現われて、どんなに偉そうに見えたって、偉くなさそうに見えたって、そんな
ものはどっちにせよ消えていく姿。在るものは何かというと、宇宙神の光が流れて来てい
1う2
る。流れてそのまま生かされている。生かされていることと生きているということが全く
一つになっている境涯、そういう境涯が一番尊い境涯だ。だからその他のあらゆるものは
みんな消えていく姿なんだ、ということなんですね。それでふんわりしていればいい。そ
のまま生きていればいい。
“そのまま
” とどこの宗教でもよくいうけれども、その”そのまま” がなかなかわから
ヘヘヘへとら
ない。そのまま、というのは、現象界のあらゆる出来事に把われない。把われてもすぐ放
せる。消えてゆく姿! とパッと放せる。そういう心になることが一番の悟りなんですよ。
そこへ行くんですよ。宇宙人というのはそういう境涯なんです。神さまのみ心と自分たち
のやっていることが全く一つになっている。それで神さまをとても信じているし、判って
いるんです。神のみ心によって自分たちが仕事をしているんだ、ということをハッキリ知っ
ている。それで、自分たちの想いと神さまの想いとが一つになってスーッと降りてくる。
そういうのが宇宙人なんです。そのようにやがて地球界もすべてなるんです。霊体になっ
てしまうのと同じですね。すべての修行はそうなるためのものであって、神通力があろう
153解脱と全託
が能力があろうが、それはこの世だけのことであります。
げだつ
だから、解脱した境地からでてくる光、力というものは、それは素晴らしいし、
意味の神通力ですね。そうならなきゃいけないし、やがてみんなそうなるんです。
為すべきは全託のみ
本当の
役行者は、自分でもってこの体をスッと消せられた。統一したままで姿が消えちゃった
んだから、凄い意志力というか念力ですね。そういう念力の持ち主でありながら、消えて
しまってから何をやったかというと、自力は駄目だと思ったんだネ、自分の力では限度が
あって、いくらやってもやっても駄目なんだ、だから全部大神さまの中に入らなきゃいけ
ない、というんで、全託するという所へ入っていったわけです。それで救世の大光明の中
心者になったんですよ。
よく滝に当たったり、水をかぶったり、山に籠ったり今時やっている人もあるけれど、
そんなもの昔の修験者からくらべたらものの数でない。昔の役行者一統の修験者の難行苦
154
行なんていうのは、もう言語に絶するんですよ。狼や獣ばかりがいる山に籠って、食物も
なければ何にもない。雨風にさらされても平気。誰も人気のないような所、チミモウリョ
ウがいる所でスーッと坐って、修行できるなんていうのは大変なことですよ。チベットの
仙人たちもやっていますね。そういうことを昔の修験者はやっていたんです。その修行の
さま
様なんていうのは、今の人が滝に当たって行をしました。山に籠って行をしました。断食
けた
しました、そんなのとはてんで桁が違うのですよ。だから、どんなに修行したって昔の修
験者の修行には及びもつかないんですよ。
それ程やって、生命をかけ肉体をすべて捨てて、修行に修行を重ねた役行者のような人
ぜんたく
のいうことが何かというと「全託あるのみ。宇宙神のみ心の中に全部投げ出す以外に悟る
方法はないそ」ということ。そして私のところに来ているわけね。実は私なんだ。だから、
あそこで修行しました、なんて偉そうなことをいってくる人もありますが、子供のような
赤ん坊のような修行をして何をいっているか、と私は思うんです。
かこせ
それほど修行がいるわけなんです。ところが皆さんもやっぱり過去世においては、大変
・ラ5解脱と全託
ぜんたくぎよう
な修行をして来ているんですよ。だから今は、全託行だけでいい。過去世からの修行の最
後の磨きをかけるための全託行になって、すべて神さまのみ心の中に投げ出せる、という
ことになるわけなんです。
i56
全託行は日常生活の中で出来る
段階がありまして、小さな修行から凄い厳しい、生命もすべてもかけた修行から、すべ
てを投げ出す、全託するというところまで来る。だから神さまにスパッと全託できるよう
な人は、さんざん過去世において修行した人なのです。ですから今更、滝に当たったり、
水をかぶったり、呼吸法をやったり、そんな小さな修行なんかする必要はないんですよ。
今は、神さまのみ心に「世界人類が平和でありますように」とすべてを投げ出してしま
う。「世界人類が平和でありますように」という時には、もう、自分というものは世界人
類の平和の中に入っている。世界人類の平和というものは神さまの大御心なんだから、神
さまのみ心の中に入っているわけなのです。消えてゆく姿で世界平和の祈り、というのは
そこなんだ。
自分も無い、人も無い、すべてないんだ。みんな消えていく姿なんだ。あるものは神さ
まの平和のみ心だけなんだ。世界人類が平和でありますように、って入っていくんですよ。
それが全託なんです。
変に修行したい人があるんですよ。しかししたきゃしたってかまわない。只そんなもの
は何にもならないということなんです。例えば、発明がある。九十九% は出来ている。あ
と一% がどうしても解けない。その発明は完成してないわけです。そうすると、全然何も
考えていないことと、九十九出来ているけれども一つ足りないということとは、やっぱり
効果的に同じことなんです。役に立たないんだからね。テレビがある。けれど真空管が一
つなかった。というのと、全然テレビがおいてない家と同じでしょう。それと同じですよ。
かえって使えないんだから邪魔かもしれない。使えないものは無用の長物でしょう。だか
ら使えないことをやってもしようがない。
使えるのは何か、というと、完成品です。ズバリ完成品を持って来なければ何の役にも
157解脱と全託
立たないでしょう。今はズバリ完成品を持ってくる時代なんです。こちょこちょ小さい修
行なんかしなくていいんです。
修行といえば、日常生活であらゆる修行をしているわけです。子供が病気になり、夫や
妻が病気になり、自分も病気になったり、貧乏になったりするのは、大変な修行なんです。
それが修行なんだから、わざわざ昔のように山に籠ったり、滝に当たったりする必要はな
い。そんなにして体をいじめる必要はない。それよりも、どれだけ神さまのみ心にまかせ
られるか、ああこれで生きても死んでも神さまが生かして下さるんだから、これでいいん
だな、どんな悪いことが現われても、それは消えてゆく姿なんだな、と、何でもかでも神
あらわ
のみ心の顕れだということを肯定できるような、すべてに感謝できるような、そういう心
になることが、修行の修行の最大の修行です。
心の修行が【番
心の修行というのが最大のことです。体の修行など二の次、三の次です。心の修行が出
ig8
来ると体が自然に修行していくわけです。
力道山のことをいうんじゃないけれども、力道山はものすごくタフネスで、凄い力の人
ですね。だからまさか力道山が短刀で刺された位で死ぬとは誰も思わない。あんなに鍛え
た人なら短刀で刺された位なんでもないと一寸思いますね。だけど死んでしまった。かえっ
てへんぱに肉体の外部は鍛えてあるけれども、中の内臓器官は案外弱っていたかもしれな
い。
てつあれい
いかに肉体を鍛えたといっても、現代で力道山ほど鍛えた人はないでしょう。鉄亜鈴を
ぶつけたり、鉄の玉をぶつけたり、バットで叩いたりでしょう。惜しいことをしちゃった
と思うのですよ。あれだけ鍛えられた人が、短刀で刺された位で死んじゃうでしょう。い
かにいかに人間が肉体を鍛え鍛えたとて、たいしたことはない、ということがわかるでしょ
う。
何が一番大事か、というと、心を鍛える、要するに想いを鍛える。想いが乱れない。恐
怖が起こらない。弱らない。そういう想いにしなければならない。何があっても心が平然
159解脱と全託
として澄み切っていられるような、そういう人間になることが一番大事ですよ。それは永
遠の生命を得たことです。
心が何事があっても乱れないということは、永遠の生命を得ることなんです。肉体はい
くら鍛えたって、死んでしまえばそれまで。あとは心の在り方です。心の問題で高くも行
けば低くも行く。心が全部決定する。
心というのは想いのことです。想いが乱れなきゃ心が平静なんです。心と想いとは別の
もので、心の上を想いが往ったり来たり走っているんだからね。心というものは神さまの
光そのもの、生命そのものです。想いが往ったり来たり走らないでピタッと本心の中に入っ
てしまえば、スカーッと光り輝いちゃうわけです。そういう人間になることが一番大事な
ことです。肉体を鍛えるということも必要だけれども、心を鍛えるとは別の問題で、心を
鍛えることが一番大事です。
ところが、どうやったら心を鍛えるのか、方法がわからないでしょう。そこで、想いと
いうものを、すべて神さまのみ心に投げ入れちゃいなさい、生きるも死ぬも、現われて来
i60
るすべては神さまのみ心でなされているんだから、自分の想いで何事も出来ないんだ。肉
われな
体の我は何事も為し得ない。だから想いを全部を神さまのみ心の中に入れてしまいなさい。
只入れたんじゃ面白くないからネ。目的をもって入れなさい。何の目的かというと、世界
が全部平和になりますように、誰も彼もがみんな仲良く、みんな調和して、平和に生きて
いかれますように、ああ世界人類が平和でありますように、というような目的をもった中
に想いを全部入れちゃいなさい。それで神さま有難うございます、と入れると、そうする
と、世界人類が平和であることは神さまの大御心だから、み心の中に自分が入っちゃうわ
けですよ。自分の本心の中に入るわけです。そうすると想いが乱れません。
けつじよう
世界平和の祈りに決定したら想いは乱れません。そういうことを悟りというんです。だ
げだつ
から一番やさしい悟りの方法、解脱の方法が、消えてゆく姿で世界平和の祈りだというん
です。
いくら只想いを叩いてみたって、体を叩いてみたって、それは一部の枝葉のことに過ぎ
ない。全部投げ出すことが一番よい。役行者がいっているんだから間違いない。役行者ほ
・6・解脱と全託
ど鍛えに鍛えた人はないんだから。その役行者が「いくら鍛えたって、そんな鍛えは枝葉
のことだ。一番素晴らしいのは全託なんだ。ロハ全託といってもなかなか出来ないだろうか
ら、世界平和の祈りのような、大きな目的をもった中に自分が入っていき、想いを常に常
げだつ
に入れていれば、知らないうちに全託になってしまうんだよ。それが一番やさしい解脱す
る方法なんだよ」と教えてくれているんです。
肉体は何事もなし得ないんだ
私はいつもこればっかりいうけれどもサ、自分の肉体に力があると思ったら間違いです。
肉体はそれ自身では力がないんです。いかに神さまのみ心の力、能力を自分の肉体を通し
て現わし得るか、ということです。どれだけ神さまが使い良いような肉体になるかという
ことが問題です。
神さまが使い良いような肉体になれば、その人はしめたもの。一〇〇% 使い良いように
かくしやほとけ
なればそれは覚者、仏です。だから「どうか神さま、自分の肉体が使い良いようになりま
c6z
まつと
すように」つまり「我が天命を完うせしめ給え」というわけです。そうすると、自然に、
ゆつ
神さまが「よし愛い奴じゃ」っていうんで、スーッと光を流してくれる。
自分がこう修行しなきゃ、自分で、自分が… … とそんなことをいっていたら、ろくなこ
とはない。それはそれだけ神さまから離れている時。神さまどうかみ心のままになさしめ
給え、と想っている時には、神さまはやりやすいんです。それで神さまが修行させたほう
がよければ、何処かへ行って修行させるかも知れない。病気をさせたほうがいい時は病気
をさせるかも知れない。それは向こうさんの勝手です。しかし、やがてはその人を充分意
義ある仕事に使おうと思ってそうするわけです。それは神さまが知っていらっしゃるんだ
まか
(神さまというのは自分の本心、あるいは守護霊守護神といってもいい)。だから神さまに委せ
ればいい。これは私自身がさんざん経験して来たんだし、いろんな人を指導して、そうやっ
たら立派になっていっているのですよ。
自分が自分がと思う時には、こうしなきゃと思った時は、祈りの中に入れてしまいなさ
い。それでもスーッと出て来てやりたかったらやればいい。やったことが失敗であろうと
・63解脱と全託
成功であろうと、そんなことは問題じゃないんです。只自分が一生懸命神さまを信じて、
神さまのみ心の中に入りながら、世界平和の祈りをしながらやっていけばそれが失敗であ
っても成功であっても、失敗はやがて大きな成功になるし、成功は次の成功を産むでしょ
う。とにかく、自分のやらなきゃならない大きな天命を果たさせてくれるのです。一〇〇
%全託すれば一〇〇%自分の天命が完うされる。九〇%なら九〇%、八〇なら八〇、とど
まか
れだけ委せたか、全託の程度によって、天命が大きくも小さくも果たされてゆくのです。
(昭和39年1月27日)
互64
八、はじめから悟っている自分
無限億万年の昔から悟っている仏
ほけきようによらいじゆりようぼんぽだいじゆ
法華経の如来寿量品に、お釈迦さまは菩提樹の下ではじめて悟ったのではなくて、永遠
しゆじよう
の昔から仏であって、つねに衆生を教化して仏道に入らしめていたとありますが、これに
ついて説明していきましょう。
お釈迦さまは断食したり、身体を痛めたり、いろいろ苦行しまして、最後に、苦行は悟
みようじょう
りの因ではない、といって菩提樹の下であけの明星をみて悟ったわけです。ところが悟っ
あそうぎこう
てからどういったかというと、三十何歳で悟りを開いたのではない、自分は無量阿僧祇劫
i65はじめから悟っている自分
から、つまり、無限億万年の昔から悟っている仏なんだというんです。
ちょっときくとおかしいですね。三十何歳で悟りを開いたのに、悟りを開いてみたら、
自分は三十何歳で悟りを開いたのではなくて、昔のむかし、無限億万年のむかしから、い
わゆる生命を得た時から悟りを開いたものだ、というのですね。矛盾するようでしょう。
これはどういうことかといいますと、いつも私が申しておりますように、この肉体に現
われている人間というものは、あなたとか私とかいうものではなく、あなたであり私であ
るものの一つの生命の現われとして、肉体人間として生まれてきているのです。だから私
もあなた方もすべてほんとうは、神さまのみ心のなか、仏さまそのものの姿で生きている
のです。
ふつうこの真理がわからないで、五十歳の誰某、三十何歳の誰々、八十歳の誰々と、迷
こうしよう
いのなかの、業生のなかの波に合わせて生きているのが人間であると思っているわけです。
それが私でありあなたであると思っているわけです。ところがほんとうは、神のみ心、真
実の自分が地球界に働きをひろげるために、地球界を開発するため、開拓するために、か
c66
りに肉体身に現わしている自分なのです。
お釈迦さまはそれがわかったわけです。だから三十何歳で悟りを開いたのではなくて、
あそうぎこう
阿僧祇劫以前、いいかえればどんな数を積み重ねてもはかりしれないくらいの昔の無限年
間の前から悟りを開いているということは、自分の本体は仏そのものであり、神そのもの
であるということなのです。そうお釈迦さまは悟った、そこでみんなにわかるように阿僧
祇劫前から悟っているのだと説明しただけなのです。
いつ
現代流にいえば、永遠の流れというものは大生命、一なるものがいくつにも分かれてこ
の宇宙が出来ているわけですね。その一なる神のみ心のなかに自分がいたわけですが、そ
の一なるものが各種に分かれて、私流にいえば七つの直霊に分かれて、さらにそこから分
こんばく
霊魂醜としてこの肉体界に宿っているのです。ですからもとの自分、ほんとうの自分とい
うものは直霊そのもの、神そのものであるというわけです。これがわかればいちばんいい
のです。
肉体界で何歳で死のうと、どうなろうとそんなものはなんでもない。消えてゆく姿。泡
・6アはじめから悟っている自分
沫のようなものなのです。時間がたてば忘れてしまうものです。ところが永遠の生命とい
うものは、無限時間永遠に生きているものですから、それは忘れようも、消えようもない、
実在するものなのです。なんの誰がしという名前で現われているものではなくて、生命そ
のもの、自分そのものが永遠に生きているんです。それでしかも永遠に生きているという
ものは個性を持っているのです。
ただ、唯一の神のみ心は働きとしてほうぼうに分かれている。その働きの源というもの
が本体なのです。A であり、B であり、C である働きのもとにいるわけです。ですから神
さまのみ心にそのまま入る、全託すると、肉体界の想いというもの、あるいは幽界の想い
というもの、霊界の想いというものが、つまり小我が全部なくなってしまって、神そのも
のが現われてくる。神のみ心が行動となり、教えとなってゆくわけです。
そういうことの出来る人は、神さまのみ心そのままであるから、今、悟ったのではなく、
永遠に生きている自分であり、神そのもの仏そのものの自分であり、初めから悟りを開い
じゆりようぼん
ている自分であるということになるのです。法華経の寿量品はそれをいったわけです。
i68
悟りを開くということは
そこで考えなければならないことは何かというと、肉体の生活をよくしよう、肉体生活
の幸せを得よう、ということは二の次、三の次であって、いちばん大事なことは、悟りを
開くということなのです。これがほんとうの幸せを得ることなのです。
悟りを開くということはどういうことか、というと、自分の本体、自分の本質をハッキ
リ体覚することです。その本質は何かというと、神のみ心である、唯一なる神、絶対者の
なかにそのまま生きている自分であるということ。それがわかりさえすればいいことなの
です。
それをわかるにはどうしたらいいかというと、頭のなかで右往左往して、これが損だこ
れは得だ、こうしなければ、ああしなければ、と思いまどうこころ、また小智才覚をなく
くサつ
すことなのです。そこでお釈迦さまは”空” になれといったのです。空になって、空になっ
あそうぎこう
たところから自分の本体が現われてくるのだ、阿僧祇劫から生きている、永遠に生きてい
・69はじめから悟っている自分
くロつ
る自分がそのまま現われてくる。だから空にならなければいけない、といったわけです。
本体の自分の現われを閉ざして、少しずつたまった知識とか、たまった経験とかで力は
出てくるが、空になって出た力とはまるきり違ったもので、消えてゆく姿で、諸行無常の
しきそくぜくう
力なのです。そこで、色即是空といった。空になると、神さまの力がそのまま現われてく
くうそくぜしき
る。そして空即是色とひらけて、空になって現われてきた物事、事柄というものは、すべ
て本体、神のみ心から出てくるものだから、素晴らしいものなんだ、だからそうなりなさ
いよ、と般若心経を説いたのです。
お釈迦さまは悟りを開いた時にそれがわかったわけです。そしてそれを弟子たちに教え
たわけです。直接、お釈迦さまに教わった人は、現在、生まれ変わって生きています。皆
さんのなかにも随分います。お釈迦さま時代にきいた時にわからなかったことが、今日に
なってだんだんわかってきた人も随分あります。もちろん、皆さんも何べんも何べんも生
まれ変わっているわけですよ。世界平和の祈りをほんとうにわかる人は、そうとう古い魂
で、何べんも生まれ変わっているのです。
170
なんども生まれ変わり、霊的体験、肉体的体験におけるいろいろな体験を加えていきま
すと、ああ、この肉体の世界というものはただたんに消えてゆくんだナ、ほんとうに在る
のはお釈迦さまと同体である、仏と同体である自分なんだナということを、だんだん悟っ
てゆくわけです。
神のみ心のなかに入る祈り
悟るためには空にならないといけないけれども、空になることは非常にむずかしい。ま
た小智才覚でなんにも思わないということもむずかしい。この現象世界では想いにとらわ
れてしまいます。とらわれてはいけないということも、空になるということもなかなかむ
ずかしいことなので、私はどうしたかというと”消えてゆく姿” を使ったわけです。
この頭のなかで、いいと思うことも、悪いと思うことも、あいつはいやな奴だと思うこ
とも、他からおかされることも、自分から出てゆくことも、すべて真理に反することはみ
んな消えてゆく姿なのです。あるものは神のみ心だけなのです。いやなことがあったら、
・7・はじめから悟っている自分
過去世からの業想念が今現われて消えてゆくのだ、消えてゆく姿だ、と神さまのみ心の中
へいやなことを持ったままで入ってしまいなさいというのです。
神さまのみ心のなかに入るにはどうしたらいいか、そこには祈り心がほしい。祈り心と
いってもどういうことかわからない。… … 自分と人類は同体で、自分というものは人類の
中にあり、人類は自分の現われなのです。人類が自分でもあるのです。だからほんとうは
自分が人類の中に入りこんでしまわなければいけない。それにはどうしたらいいか。人類
すべてが平和でありますように、幸福でありますように、本体が現われますように、とい
ごと
うので”世界人類が平和でありますように”という祈り言が出来たのです。
まつと
そして”日本が平和でありますように、私たちの天命が完うされますように” という祈
り言がつづいたわけですが”私たち” というのは自分たち一家だけではないのです。私た
ちを含めて無限の数です。いわゆる世界人類です。ですから、世界人類の天命が完うされ
ますように、ということと同じことなのです。そういう祈り言をすると、つねに自分は人
類の幸せを願う心でいっぱいになっているわけです。一人の人間が三十数億の幸せの中に
172
生きているわけです。そういう大きな大きな自分になってゆく。
いいかえれば、神のみ心の中にそのまま入っているということです。”世界人類が平和
でありますように” という祈り心で、神さまのみ心の中に入ってしまうわけです。入る時
は自分の持っている業想念- 誤った想い、把われる想いーもそのまま持って祈るので
す。そうすると、自我欲望にまつわる、いろんな小智、才覚、もろもろの間違った想い、
人からおかされる想いというものが、みんな世界平和の祈りで一緒に消えてゆくわけです。
これを何回も何回もくりかえして祈り、だんだん深くなってゆくと、しまいには業想念
がスッカリ消えるわけです。初めは深く入れないかもしれない。しかしみんな練習ですか
ら、だんだん深く祈りの心のなかに入ってゆくうちに、いつのまにか、自分の幸せだけ願っ
ていたことが、ほんとうに、世界が平和でなければいけないナ、というふうにだんだん心
がつよまってくる。そうすると、自分の心がサバサバとしてくるのです。心が青空のよう
に晴れわたってくる。
こういう境地はやっぱり悟りの境地なのです。お釈迦さまはそういうように悟ってくる
・73はじめから悟っている自分
のだ、という一番のもとを説いているわけです。それをわれわれが、お釈迦さまの心を了
解し、悟って、現代的にはこういうように説きあかそう、といって”消えてゆく姿で世界
平和の祈り” という生き方を発見したわけです。(昭和43年4月)
174
九、把われをはなてば
本来人間に備わっているもの
いつも申しますけれど、誰でも人間というのは肉体だと思います。なぜ肉体だと思うか
というと、五感の眼、耳、鼻、舌、触覚、この五つの感覚でしか見ていないからです。と
ころが本当の人間というのは、無限の感覚があるわけなのですね。五感以上の六感もあれ
ば、七感もあれば、ずうっと深い感覚があるわけです。
たとえば犬は、ご主人が帰ってくる。それも門の遠くのほうにいても、もうワンワンと
吠えてパッと門のところにとんできましょ。目にも耳にも、なにも聞えも見えもしないよ
・75把われをはなてば
うな時にとんできます。あれは六感なのですね。人間が感じている五感以上のものを持っ
ているわけ。
とく
なぜ六感が備わっているかというと、犬は頭を働かせて、ああしたら得をするだろう、
こうしたら得をするだろうと考えていません。本能のまま、生かされているまま生きてい
るわけでしょう。だから五感以上のものが備わっているのです。
人間にも本当は六感も七感も備わっているのだけれども、自分の肉体の想いで、目に見
えなければ見えないし、聞えないものは存在しないし、さわらなければわからないと、も
う思いこんでいるわけ。生まれかわり死にかわりして思いこんでいるわけです。そのため
に五感以上の感覚がないわけですよ。
本当は直覚といって、すべてを心でサッとわかってしまうものが誰にでも備わっている
わけなのです。直覚を持っているということが、神さまの世界から、神界も霊界も幽界も
ずうーっと通って肉体界に同時に人間というものは存在するということなのです。この五
感の世界の肉体の人間と、幽体を持った人間と、霊体を持った人間と、神体を持った人間
i76
とが肉体に生きていながらも、そのまま一直線につながっているものなのです。
肉体がなくなるということは、その肉体の感覚のところだけがなくなって、あとは在る
わけですよ。神界、霊界、幽界の人間はそこに生きているわけです。そういうわけでしょ
う。ところがふつうの場合には、肉体だけのほうに重きをおいて、上を見ないのですよ。
肉体の世界ばかり、五感の世界ばかりに把われているのです。
くロつ
そこでいろいろな聖者が現われて説いた。「肉体想念を空にしなさい」とお釈迦さまは
いう。老子さんは「無為にしてなせ、これをしようと思ってするのではない。あれをしよ
うと思ってするのではない。そうやって小智才覚で、こうだああだと利害だけの、この現
象世界のことだけを思っているのでは、本当の世界が自分のものにならないのだ」と説く
いのち
わけです。イエスさんは「生命を捨てざれば命を得ず- 自分の生命を得ようとすれば、
本当の命が失われてしまう。生命を捨てようと思えば本当の命が自分のものになる」といっ
て、やっぱり肉体の生命というものをつねに捨てさせることを教えているわけです。
肉体に把われないことを、みんな教えているわけです。なぜそういうふうに教えるかと
・77把われをはなてば
いうと、肉体に把われている以上は、永遠の生命というものがわからないのです。
互78
生命には死はない
永遠の生命とは何かというと、神界、霊界、幽界、肉体界を貫通し、過去、現在、未来
を通しているものなのです。その永遠の生命にこちらの想いがピチッと入らないと、本当
の幸せがこないわけです。肉体界の生活だけの幸せなんて、たかが知れていて、生まれて
死ぬまでまるまる幸せづくめに暮らしたにしても、百年ですよ。ところが百年が百年、全
部幸せなんていう人はいません。必ずどこかしら幸せでないものがあるわけです。でも幸
せに生きたとしても百年。あとの、無限億万年というものは、そのまま地にうずもれて、
うごめいているというだけになってしまう。
ですから唯物論者というのは1 共産主義者の中にも唯物論者でない人もいますーど
ういうことになるかというと、肉体だけ、目に見える世界、科学の世界でわかっている世
界、それだけが全存在だと思っていますから、肉体が死んだら無いと思います。肉体の世
界きり持っていないのだから、肉体の世界のほかの「霊光の世界? そんなものはあるも
のか」「神? そんなものはあるものか」とやっていましょう。だから、肉体が亡くなり、
肉体を離れて魂が目を覚ましますね。肉体が亡くなっても意識はありますから、目を覚ま
します。けれど自分のいる場所はないわけですよ。死んでしまったら無いと思っているの
だから、深く潜在意識まで思いこんでいるのだから、ないわけなのです。
たとえば、ここにマイクがあります。だけどマイクなんて全然ないと思っている人には
見えません。見えても見えずということです。テレビで面白い時代劇をやっている。それ
を夢中になって見ていると、そばに誰がきたってわからない。見えません。誰がきた、な
んて気にしていないから全然見えない。それと同じように、肉体の世界のほかに住む世界
がない、と思っているから、住む世界がないのです。
神さまなんかない、と思っていると、神さまは大光明であり、大生命ですから、その人
にとって、光もなければ生命もないわけです。住む世界もないわけです。ただ意識だけが
目覚めている。意識はあるけれども、住む場所がないから全然動けない。わかりますか。
・7g把われをはなてば
生命があるから動けるのであって、生命のひびきがないのだから、意識だけあっても全然
動けない。それを地獄というのです。そういう人たちが折り重なってうごめいている。
お互いがお互いを意識しないのですよ。お互いに自分だけしかないのです。ただ必死に
うごめくだけ。うごめくというのは動けない、働けないのですよ。そういう世界に長い間
いるのです。そして心の底から、意識がああこれは間違っていた、私は神さまを思わなかっ
た、とか、霊界はあったのだ、と本心に目覚めるまでは動けないのです。
ところがこれは一人では目覚められないのです。意識が固着しちゃって、潜在意識まで
深く入って、無いのだ、と思いこんでいるからだめなのですよ。
たとえば、自分が王様の子であったとします。ところが自分は百姓の子だと思いこんで
いる場合、いくらお前は王様の子だといわれたって、そんなことあるものか、百姓の子だ
と思いこんでいるから、絶対に王様の子だと思えません。それと同じように、神の子だと
いうことを知らないで、肉体の子だと思いこんでいますから、神を認められないわけです。
そこでうごめいてそこにいるわけです。
180
これを助けるのは何かというと、兄弟とか親子、あるいは友だち、そういうものが愛の
想いをさしむける、その中に宗教的な人がいて、神さま、どうぞあの人の天命が完うされ

ますように、誰々の天命が完うされますように、と祈りますと、その光明がその人に射す
わけです。光が射すと、初めてなんとなく違ったことを感じるわけです。そういう祈りを
常にしていますと、その意識がだんだん何か違う世界があるなあ、何かあるなあ、という
ふうに感じてくる。そしてだんだんよみがえってくる。そうでもしない限りは、その唯物
論者というのは救われないわけです。何千年も何万年もうごめいているのがいるのですよ。
それほど神を否定した想いというのは、すごいものです。
何故執着をすてうというのか
今度は幽界のことを思う。死んでもやっぱり人間というのは同じであろう、肉体と同じ
ようなことをするのではないか、とただそう思っている人がいます。そうするとそれは、
幽界の、肉体と同じようなことだけをするところにくるのです。たとえば執着を持ってい
・8・把われをはなてば
ますね。自分は大工さんが好きだったとしますと、幽界で同じように大工さんの仕事ばか
りやっている。魚屋さんが好きだったとする。ピストルを撃つのが好きだったとする。そ
はんちゆう
うすると死んでも幽界でそればかりやっている。自分の好みという範疇を出ないわけなの
ですよ。だから世界がずうーっと縮まってしまって、広い範囲で神さまの世界に行かない
わけです。
そこで、自我を捨てる、自分の想いを捨てるということを、宗教家は説くわけです。自
分はこうなのだ/ と思っている以上は「こうなんだ」以上は行かないのです。よく私は
仙人の話をするでしょう。仙人というものはある修法があって、その修法の通りに修行し
なければいけないものと思いこんでいる。だから修行しないではいられないのです。
肉体の執着も何もないのだから、本当は相当高い境地にいなければならないのに、ただ、
こういう修行をしなければならない、という想いがあると、つねにその修行をしておりま
むげほとけえんのぎようじや
して、それ以上に自由自在な、無磯自在な仏の世界に行かれないのです。役行者のよう
になると自由自在になって、そういう把われがなくなっているから仏さまです。神界で縦
182
横に働いています。
です。
そこまで行ければいいけれども、一つのものを持っていると駄目なの
消えてゆく姿のあとに現われるもの
ですから、どんなに智恵や才覚があろうとも、自分はどんなに利口だと思おうとも、ど
んなに自分に地位や財産があろうとも、そんなものはもうたかのしれたもので、宇宙の大
智恵からみれば、たかのしれたものだ、ということを知らないといけないですね。
私なども自分でさんざん修行しましたでしょう。自分の智恵、才覚というのは問題にな
らないとわかりました。私は若い頃、霊魂があるなんて思っていなかったのです。神さま
があるということは小さい時から信じています。私の母は真宗の信者で、年中、南無阿弥
陀仏ばかりやっていまして、私は赤ん坊の時から南無阿弥陀仏を聞かされていました。南
無阿弥陀仏は頭の中に入っていますから、仏さまがあるということはわかっている。仏さ
まがあるというのは神さまがあると同じです。だから神さまは否定しないけれども、霊魂
・83把われをはなてば
が肉体のなくなったあとも、そのまま存続するというのは思っていなかったのですよ。と
ころが自分の修行が始まったでしょう。そうしたら、あるも無いもない、すっかり体全体
でわからされた。霊魂もあるし、神さまもあるとハッキリ悟らされた。
それで、自分の肉体の中で思ってもいないことがパアッとわかってくる。思ってもいな
い言葉がパアッと出てくる。そして、この肉体以外のことがわかってきたのです。しかし
それだけではだめなのです。それだけだと幽界のものと神界のものとが区別がつかないで
しょう。
自動書記で、自分は弘法大師だ、自分は聖徳太子だ、自分は何々の神だといろいろ出て
きた時期があります。ところが出てくるものさえも私は全部否定してしまったのです。ど
んな神さまが出てこようと、どんな仏さまが出てこようと、どんな霊光がみえようと、そ
んなことはどうでもいいのだ、自分が立派になることだけ、自分が愛深い人になるだけだ、
自分の行ないだけがすべてなのだと思ったのです。
自分の行ないがすべて自分の地位を決定する。自分の魂の場所も決定するのだと思った
i84
わけです。そこから消えてゆく姿という教えが出てくるのです。仏さまが見えようとも観
音さまが見えようとも、すべては消えてゆく姿、自分の行ないだけがすべてなのだ。そう
いうふうに思うようになったのです。
そうして、昔の五井昌久のような性質にもどったけれども、実は中身としては、三六〇
度一回転してしまって変わった自分なのです。でもはたから見れば同じに見える。おかし
な振舞いもしません。初め修行途中では、誰か人が私を見ていたって、私は知らん顔して
向こうを見ているのです。霊界の人と話をしているから、肉体の人が話しかけたって、そ
んなのは問題ではないですよ。こっちが見れども見えず、聞こえないのですよ。そうする
と「五井君は気違いになっちゃった、わしが何をいっても聞こえない」「昔の五井さんは
よかったのに、なんて変になったのだろう」と友だちや知人が思ったわけです。少しおか
しい立場、気違いみたいだったでしょう。
それを通り越してしまって、三六〇度まわった五井昌久になったらば「ああ昔に帰った、
直った」と人は思った。ところが普通の人に直ったのでなく、まるっきり変わってしまっ
・8ラ把われをはなてば
て、五井昌久という個性的なものが出てきたわけです。個性も単なる個性ではなく、神の
み心をそのまま現わした個性なのです。前は人間の五井昌久という一青年、ところが三六
〇度まわって同じように現われたものは、神のみ心をそのままに体して現われた五井昌久。
まるっきり違うのです。
把われさせないコトバ
みなさんにも肉体の何の誰々という自分なんていうのは、ほんのちっぼくさいものだか
ら、どんなにうまいことを考えたって、どんなうまいことをしたって、地位があろうと金
があろうと、才能があろうと、そんなものはたかがしれているのだ、天にいる本当の自分、
神界に働いている自分の力がそのまま現われなければ大したことじゃないーと一遍、肉
体の自己を否定しないといけません。そうしますと、今度は把われのない、力強い、明る
い、幅の広い、要するに神界の自分がそのまま現われてくるわけです。それが空即是色で
す。
i86
色即是空、空即是色というのは、ここに現われているものというのは、本来は無いもの
で空なのだ、実在しているように見えるけれど、それは現われているだけで、本当は空な
のだ、というのが色即是空でしょう。その空になった時、初めて本当のもの、本当の色が
現われてくるのだ、という「色」は神界のすべてのものなのですよ。だから”空” ときっ
て初めて、自分の本当の神さまの姿が現われてくるわけですね。それで空の境地というの
は大事なわけです。
といっても空になかなかなれないから、私は把われを徐々に離してゆこうと思って、た
かこせ
とえば悪いことが出てこようとも、それは過去世の因縁の消えてゆく姿、いいことが出て
こようとも、それは過去世の因縁の消えてゆく姿、すべて過去世の因縁の消えてゆく姿な
のだというわけです。それで把われさせない。
想いをそれでどこへ持ってゆくかというと、世界平和の祈りに持っていっちゃった。世
界平和の祈りは人類愛の想い、すべての人の悲願ですよ。すべての人がこうなければなら
ないと思っている想いが、世界人類が平和であるということでしょう。そこにすべての想
187把われをはなてば
い、すべての現われをみな持っていってしまったわけですよ。
それは神界からの自分でしょう。
そうすると今度自分は1 鵬
愛と真の行ないを
すべての人を愛せるのは、神さま以外にないわけです。すべての人類を愛するというこ
とは神の心と同じです。その想いの中に入ってしまうので、自分の細かい、小さなものは
なくなって、神界にある自分がそのまま出てきている。知らないうちに出てきているわけ
です。それが世界平和の祈りなのです。
そうすると、今まであまりよくない頭だったとする人もサアーッとひらめいてきます。
今まで勉強したことがみんな蘇えってくる、新しいものは火がつくように入ってくる… …
ということになるのですよ。
やっぱり己れを捨てなければだめだ。自分の肉体のことだけガチャガチャ思っていては
だめ。勿論、肉体の生活を一生懸命やらなければいけません。当たり前のことは当たり前
にやるのだけれども、自分が偉いとか、自分がだめだとか、自分で決めてはいけません。
「私はだめな人間です」というのもダメ。「私は偉い人間だ」というのもダメ。そんなの
は自分が勝手に決めているのであって、神さまのほうから決めているのではないのです。
たとえ学問はできない子がいたとしても、魂は立派な魂もあります。秀才であってもゲ
バ棒ふるっているバカもある。そんなものは神さまの世界から見たら大した違いはないわ
まこと
けです。一番大事なことは何かというと、愛と真です。人を愛すること1 自分のためだ
けでなくて人のためを思ってやること。
勉強するにしても、学問するにしても自分のためだけではなくて、何か人類のたあに私
が役立つように、役立つ人間でありますように、というので学問をすれば、その学問は大
きく生きてゆきます。「どうか私の生きている間は、一人でも多くの人のためになります
ように、そのためにどうか私に学問を授けて下さい」という気持ちで学生は一生懸命勉強
するのですね。そうすればいい学校にも入れるし、いい友だちもできるし、いい先輩もで
きる。そういう生き方をしていきましょうね。(昭和46年6月)
・89把われをはなてば
iqo
十、質疑応答
くうむゼロ
岡圓空と無と零の違いについてお教え下さい。
圏むずかしい質問ですね。一つだと言えば一つです。一つではあるけれども、使い方
くうむ
が違うのです。空というと空だけで、他には何もないのです。無というと、無に対する有
があるわけです。有を消すための無ですから相対的になっている。空ということは絶対な
ゼロ
んです。対照するものがないんです。零というのは無よりも空に似ています。けれど零に
なったら一が生まれるのではないのです。空になったら生まれてくるものはあるのですが、
ゼロはいつまでたってもゼロなんですよ。言葉をかえれば、ゼロはすべてを消してしまう。
実相までも消してしまうのです。だから厳密にいえば、空と無とゼロは違うのです。
空は絶対であり、空の中からあらゆるものが生まれてくる。無というのは無と有がある
から相対的になってしまう。ですから一番深いのは空なのです。空にしても空の奥の、ま
た奥のまたその奥の空とあって、その深い空になったら実相が生まれてくる。本当の姿が
そこから出てくる。
空というのは実はすごい言葉です。私が修行中にいろんなことをしましたが、私が悟っ
こう
てしまうとカルマが働けない、魔が働けないというので業想念が邪魔するわけです。それ
でいろいろなものが来て私を邪魔しようとしました。その時私は何をいったかというと、
くうからさわ
腹の中で「空ー/」って空の気合をかけた。空っぽの空だから何もない。障るものが何も
ないから、ピュッと取れてしまうのです。
ところが自分の中に業想念がありながら、空になったような恰好をして坐っていると、
天魔に魅入られるというか、自分の潜在意識の中にこうしてほしいんだ、地位が欲しいん
だ、権力が欲しいんだ、力が欲しいんだ、という想いがありますと、それにひっかけて来
て、幽界の生物が神さまのような恰好をしてくる。そして”お前は偉い” “お前は地上唯
一の菩薩だ” と私もいわれたこともあります。しかし私はそんなものをみんな吹きとばし
ました。”お前は八幡大菩薩の化身だ” とか”お前は日蓮の化身だ” とかいろんなことを
・9・質疑応答
いわれて、そうかな、と思う時はもう空ではないんです。お前の心境はすごい、といわれ
ても「空/ 」とやるんですネ。そうするとスパーッとはなれていきます。これを何遍もやっ
ていると、本当に空になって神の力が出てくるんです。
私なども何遍もそれをやりました。それで今日になったのです。お釈迦さまは般若心経
で「色即是空、空即是色」と説きましたが、空というものは素晴らしいのです。しかし本
当の空になるのは大変なんで、そこで消えてゆく姿を私が使っているわけです。人にほめ
られたのもそれも消えてゆく姿。お前は観世音菩薩の化身である、といわれても、それも
消えてゆく姿、何か見えてくる、それも消えてゆく姿。全部消えてゆく姿に否定すると、
知らないうちに、神の生命がそのまま現われた空即是色と同じような状態になるわけなの
です。
はしごだん
私は一遍に空というよりも、梯子段をかけて、知らないうちに消えてゆく姿、消えてゆ
く姿とやっているうちに、だんだん高い所へ行って、空と同じような、仏さまと同じよう
な境地になってゆく、そういうことを私は教えているわけです。
igz
空というのは最後の究極なんです。空になると空即是色とひらいて、本当の実体、本心
がそのままひらいてくる。それをお釈迦さまが教えたわけです。しかし今の時代になかな
かそう出来ないから、私のような人が現われて、消えてゆく姿で世界平和の祈りを教えて
いるわけです。
固昔の講談に柳生+兵衛が気がおかしくなった時に、沢庵禅師が歌を書いて渡したと
いう。”闇の夜になかぬ烏の声きけば生まれぬ先の父母ぞ恋しき”という歌を書いて渡し
たところが、それを考えているうちに頭の狂ったのが直ったという話ですが、何か深い意
味があるんでしょうか?
圏ありますよ。なかなか面白いと思いますね。闇の夜になか猷麟の声きけば、という
さき
ことは声がないんですよ。無という意味です。生まれぬ前の父母ぞ恋しき、というのは父
母がわかったということでしょう。生まれぬ前の父母というのは神であり仏のことをいう
んですね。ですから自分の本体がわかるということです。無になれば、すべてのことがわ
・g3質疑応答
かるんだ、お前の行く道がわかる、お前の天命がわかる、お前の本性がわかるんだ、とい
うことをいったわけです。それをじーっと考えているうちに無になったんです。要するに
無為になった、そこで悟ったのです。うまいことを歌でいいましたね。
闇の夜になかぬ烏の声きけば… … 何にもないじゃないですか(笑)。だから他の言葉だ
っていいんだけれども、いかにも烏は黒いし闇は黒いし、闇の中で烏が鳴かないでいたら
見えやしませんですよね。それは無ということなんです。
無の心になると自分の本心がわかってくる、というふうに説いたのですね。なかなか沢
庵さんも味がある。昔の禅宗の坊さんなどは、そういう歌を作ってはみんなに示したわけ
です。これで”そもさん” って問答をした。題を出しては弟子をためすわけです。指をた
ててわかれとかね。そのお師匠さんの形だけを真似て、指を切られちゃう弟子がいますが、
切られて、ハッと悟った人もあるのです。そうかと思うと、お師匠さんと弟子がなぐりあ
って、悟ったりする。
現代ではそういうことをしたら、みんな弟子がいなくなっちゃいます(笑)。それでは
194
いけないから、ちゃんと理路整然と説かなければならない。だから現代のほうがむずかし
いです。
言葉でわからせるよりも、行ないでわからせるほうが本当はわかりやすいんです。けれ
なま
ど生じっか現代は言葉が多いから言葉でわからなければ、わからないような習慣になって
いますでしょ。だから言葉でわからせるようにしているわけ。
私はどんな質問をされても、即座にスーッと智恵が出てくる。それは空になっているか
らです。私のうしろに学者もいれば賢者も聖者も一杯いるのです。アシスタントじゃない
けども、応援者が一杯いるんです。何か問題が出ると「その問題は私の役だ」「よし、わ
しの番だ」とパッと出て来てしゃべってくれるから、こっちは空っぽになっていれば、チャ
ンと答が出てくる。
みなさんも、なかぬ烏の声きけばじゃないですけど、無為にしてなす、空の心境にいつ
もなっていれば、こうなければいけないとか、あれはいいとか悪いとか、そういうふうに
一々大したことでもないのに、俺の顔をたてなかった、俺に一言もいわなかった、とか会
195質疑応答
社などでよくありますが、そんなくだらないことはどっちでもいい。仕事さえすればいい
んです。いい仕事が出来てみんなが救われればいいのに、みんなのためになればいいのに、
俺のハンを押さないで、俺にいわないでした、けしからん、オレはなんだ、という。それ
しようじん
を小人というんです。アイッは愛想が悪かったから、ハンを押してやるものか、今日は出
来ませんよ、といって返してしまう。役所などにいくと、書類が山とつんであるそうです。
三年も五年もたまっているのが随分あるようです。つまらない小人根性でやらない。
いつも空っぽの心、空の心でいれば、スースーと仕事が出来、智恵はいくらでも出て来
ます。人の十倍、百倍、万倍出て来るわけです。頭の中でガチャガチャと、あいつがなん
だ、こいつがなんだ、なんていうことはキッパリ消えてゆく姿にして、平和の祈りの中で
生きてゆくんです。そうすると自然に力が出て来ます。
老子は無為にしてなす、といい、お釈迦さまは空になれ、といい、キリストはみ心のま
まに、といっています。すべてまかせるということが人間の生きる最上の道であるわけで
す。どこにまかせるかというと、神さまのみ心の中にまかせる、頭のゴチャゴチャは消え
iq6
てゆく姿として、世界平和の祈りで、神さまの中にそのまま入ってしまうわけです。
小さな小さな心にならないで、自分は世界人類を救う一つの大きな役目を持っているん
だ、自分たちは世界人類を平和にさせるための天命を持っているんだ、というように大き
く考えて、枝葉のことはどうでもいいから、大きな心になってやって下さいね。今の歌で
はありませんが、なかぬ烏の声をききましょう。
むそうむさ
固空、無想、無作という言葉がありますが、どういう意味でしょうか?
むそう
因巴簡単に答えましょう。無想というのはこうなければいけない、こうしなければいけ
むさ
ない、ということを思うな、ということ。想わないということです。無作というのは構え
てはいけない、ということで、無想も無作も否定ですね。ところが空は否定でもなんでも
ない。絶対なんです。空が元にあるわけです。
チョコチョコと小智才覚を働かせるな、ああしてはいけない、こうしてはいけない、構
えるな、空になれ、というわけです。三段階になっています。ところが本当は、そこに消
・97質疑応答
えてゆく姿が入らないと、空までなかなかいかない。消えてゆく姿をハッキリ使ったのは
私以外にはないんです。消えてゆく姿を世の中に出したこと、守護霊守護神をはっきり世
の中に出したこと、それは私を使っている神さまの大きな働きです。
だから無想無作の所に更に消えてゆく姿をつけて空になれば、それは完全なる悟りの姿
です。悟りに行く道です。
ig8
固”うつるものおのずうつりておのず消ゆ己れは澄みてただひそかなり”というお歌
のみ心を教えていただきたいと思います。
図巴これはどういう歌かというと、私の心境なんです。皆さんもこうなったほうがいい。
うつしよ
というのは、この世に現われてくるものはみんなうつるだけなんです。この世は現世、浮
うつしみ
世 ともいい、肉体は現身ともいいます。ただ現われているにすぎない。この肉体というも
のは実在じゃないんです。
実在はなにかというと、神のみ心そのもの、神の子である霊、神霊が実在であって、神
霊波動がここに現われている。神霊波動がまっすぐ現われていれば、これは文句なく人間
はみんな神の子で立派なんだけれども、神霊波動が神界から肉体界に現われるまでに、波
動が随分違ってくる。微妙な波動なのに肉体界でずーっと粗い波動になる。
たとえば歩いていけばここから大阪へいくのでも何日もかかる。それがジェット機で行
けば僅か一時間かそこらで行っちゃう。それだけの違いがある。本当の世界では一瞬にし
てすべてが善である、すべてが完全なわけなのが、肉体の世界では完全にまで歩みを進め
るためには、何十年何百年何千年とかかる。歩みが遅い、波動が粗いから遅いわけです。
ピューウとスピードが速くない。
本当は人間の本性は完全なんだけれども、この現われの現身の世界では不完全なんです。
やがて最後に完全になるけれども、完全に到達するまでは不完全です。不完全なものはあ
くまでも不完全だけれども、それは現われてくるだけでどんどん消えてゆく。消えてゆく
と本質がそのまま現われる。ちょうど舞台に幕を引いているみたいなもので、幕の外から
見ていればなにも中が見えませんけれど、幕を開ければ中の本当の姿が見えてくる。幕を
・99質疑応答
開けなければ完全な姿は見えない。
おの
だから、うつるものは自然の法則で自ずから消えてしまうんです。うつるものおのずう
つりておのず消ゆ、なんです。本当の自分はただ光り輝いているものなのです。これは私
が体験したことです。うつるものに把われないでうつらせておけばいい。病気が出たら病
こんじよう
気が出るような原因があったわけ。前の世と今生の生き方想い方で病気になってくるんだ
おび
から、ちゃんと対応処置をとっておきさえすればいいんで、心が怯える必要はない。心が
怯えないためにもその病気に把われちゃいけないということです。
それがちゃんとわかって悟っている人は把われないんです。病気とか痛いのは嫌です。
だけど嫌だ嫌だと思わないで、痛いな、嫌だナと思うけれど、それだけなんです。うつる
ものはうつるままで去らしてしまう。ところが下手な人、悟らない人は病気とか不幸とか
嫌なことが現われると、掴んじゃって嫌だ嫌だと放さない。放さなけりゃいつまでもうつっ
ている。放しさえすればどんどんうつって消えちゃう。消えるに従って本当の自分の真我
というものが現われてくる。真我は静かに輝いている。zoo
昔から仏教では「把われるナ、空になれ」というけれど、言葉では易しいけれど、実際
に行なうためにはなかなか難しい。
そこで私は把われてもいいというんです。怒りに把われる、恐怖に把われる、嫉妬に把
われる、憎い想い、悪いことに把われる。把われたら把われたものをそのまま平和の祈り
の中に持っていきなさい。世界平和の祈りをしていれば、把われを世界平和の祈りの光明
波動で消してくれる。把われちゃいけないといっても把われる。人間は聖者ばかりじゃな
いから把われても仕方がないから、把われたらすぐ平和の祈りをしなさい、平和の祈りの
中で洗濯しなさい、とこうやって教えている。わざと教えを下げているんです。
お釈迦さまが現われキリストが現われてもこの世界があんまり幸せになっていない。な
ぜかというと難しすぎた。あんまり真理が高すぎて現実が低く離れすぎているからどうし
くロつ
ても出来ない。空になれ、無為にしてなせといってもなれません。そこで私が消えてゆく
はしご
姿で平和の祈りという梯子をかけ、エレベーターを作って、さあ消えてゆく姿ですよ、あ
あこれは消えてしまった、これで良くなるんだ、とやっているうちに知らないまに空の世
2Q・質疑応答
界に到達しちゃう。そういうふうに梯子段あるいはエレベーター、エスカレーターをつけ
ている。
だから消えてゆく姿で平和の祈りさえやっていれば、あんまり他のことを考えなくても
自ずから自分の幸せはくるんで、あまり考えて考えに把われると、またそこでもたもたし
ます。考えて考えて考えに把われたら、把われた想いをまた平和の祈りの中へ入れる。ま
た把われたら平和の祈りの中へ入れる。そうやっているうちに、把われが千のものが百に
なり、百のものが十になり、十のものが一になってくるということで、それで把われがな
くなります。
霊界へ行っても自由自在になります。肉体界は把われることが多い。しかし、霊界へ行
きますと、パッと把われがなくなります。それは守護霊守護神がもっと身近になりますか
ら。
固祈りに住して祈りに把われず、というお言葉がありますが、その把われる祈りといzoz
うことについてお教え下さい。
圏光に住して光に把われず、祈りに住して祈りに把われず、というのは『老子講義』
の中にあります。
祈りに把われるということは、例えば九時とか十時とかにお祈りするって自分で決めて
いる場合があります。お客がきて祈れない場合、お客がこなければよかった、祈りが出来
おの
なかった、ああ祈らなけりゃいけなかった、というのは把われです。自ずから祈れる時に
祈ればいいわけで、形は一応は決あても、決めたからそこで必ず祈らなけりゃ、祈りを邪
魔する奴はみんな敵だなんて思うと、祈りに把われている。
それから祈り方が悪かった、どうも祈りに心が入らない、今日は平和の祈りをしてもな
んだか心が把われて祈りが出来ない、うまくいかない、といって祈りのうまくいかないこ
とに把われる。祈ったからもういいや、あとなにもいいことしなくたって祈りだけでいい
んだ。祈ったんだから形の世界でいいことしなくてもいい、とこういうのも把われです。
祈っているからいい、という心、祈りがうまくいかないから駄目だ、この時間に祈らな
2・3質疑応答
きゃ駄目だ、今日は祈りが少なかったからいけない、とかいちいち把われると折角の祈り
が無駄になる。
祈りというのはどういうことかというと、心がスッキリするために祈るんです。祈りは
なぜするかというと、神のみ心がそのまま現われるために祈る。だから神のみ心を邪魔す
るようになるんじゃ祈りになりません。祈りをするためにかえっていらいらするようだっ
たら、それは神の心を乱す、祈りに把われることになります。
祈って祈りに把われず、自然に流れてくる祈りになってこなきゃいけないわけです。自
ずから祈る。祈る自分と中から生命が溢れ出てくるものと合体している。こちらは意識的
に祈る、中から祈りが溢れ出てくる、そういうのが合体してスーッと統一してくるんです。
そういう状態が本当の祈りなんです。
それから光に住して光に把われず、というのもあります。例えば統一すると光が見える
ことがあります。そうすると、光を見たことが嬉しくてしようがない。ああ光が見えた、
私もやっと霊眼が開いた、と思う。それはいいんですが、今度はまた光を見なけりゃと思っzoo
たりすると把われになるんです。
神さまはなにを教えようと思っているかというと、この世の想いというものを一遍すべ
くロつ
て消してしまいたい。お釈迦さまがいうように空にさせたいんです。空になりますと、本
当の神の子の姿がそのまま現われてくるんです。ところがなかなか空になれないってこと
は私もよく知っています。私はさんざんそれを練習して苦しんだから。想念停止というも
のをやってさんざん苦しんで、私は出来た。独り者だったし、信念が大分違いましたから
出来たんだけれども、普通の人はやれっていってもなかなか出来ません。
そこで私は消えてゆく姿にしたんです。あらゆるものに把われない。善にも把われちゃ
いけない、悪にも把われちゃいけない、みんな消えてゆく姿で全部否定してしまいますと、
中から本当に力が出てくるんです。
断食して病気を治したりします。どうして断食するといいかというと、今まで中の力が
いろんな食物をこなすために分散して働いていた。だから力が弱くなっている。それが断
食しますと食物に対する働く力が全面的に働くんです。働きが強くなり、食物に対して把
2・5質疑応答
われがなくなるから悪いところが治ったりするんです。それで断食をするわけ。だからあ
らゆる面で把われないということが一番いいんです。
剣道をやっても相撲をやってもそうです。大横綱、名力士といわれる人でも、把われちゃっ
て、力があるのにモタモタしてやっと勝つということがありましたけれど、把われると筋
ボクシング
肉が緊張しちゃって力が出ない。拳闘でも倒そう倒そうと思うと駄目。スポーツの面でも
生活の面でもそうです。把われたら善であってもそこで力が出なくなるんです。そこで善
にも悪にも把われるなということになるのです。
それには消えてゆく姿という教えが実に有効に働きます。ああこれも消えてゆく姿なん
だナ、と一遍消えてゆく姿にすると、中からやらなきゃならないことがズーッと出てくる
し、自ずから力が湧き上がってきます。
把われたら私の仕事は出来ません。ああ、かわいそうだナ、ああしてやりたいナ、とこ
の世の今の目の前のことに把われたらもう答えは出ません。そういうものなのです。いつ
から
でも空っぽになっていなけりゃならない。大勢の人がくるのに、前の人が質問した、それzo6
が大変な問題とします。そうすると、ああ、あの人可哀想に、なんて思って次の人がきた
時に、あの人可哀想に、なんて前の人の答え教えちゃったら大変です。だから一つ一つス
パッスパッと、それこそ”うつるものおのずうつりて… …” で、みんなその場その場で処
理していかなけりゃならないんです。一問一問全部処理して頭を空っぽにしておかなけり
ゃ駄目です。把われがあると本当の指導が出来ないと同じように、あらゆる生活において、
善でも悪でも把われたら駄目ということです。
固祖先の因縁で自分が苦しむということはあるのでしょうか?
圏祖先が悪いことをして、それで子孫の自分が苦しむとは何事だ、私は祖先なんか知
らん、という人もあるでしょうね。祖先の因縁で自分が苦しんでいる、という言い方が少
しおかしいからね。
祖先の因縁で苦しんでいるのではなくて、自分の因縁で苦しむのです。自分に現われて
来ている悪い運命というものは、すべて過去世の自分の悪いことなんです。人の想いを背
2Q7質疑応答
負うんではありません。自分のものを自分が果たすのです。だから祖先が迷っているその
迷いで、自分が迷っているのではないのです。自分が犯した罪が自分に返ってくる。これ
は絶対の法則です。人の罪が自分にかかってくることは絶対にないのです。人の罪がかかっ
てくるように見えるけども、実は自分が過去世において犯したものが、自分に返ってくる。
だから祖先が迷っているから、自分が苦しむということはないのです。自分が悟れば祖
先の迷いなんてありゃしない。
私は皆さんの苦しみを背負います。皆さんが苦しんでいる。悩んでいる。一緒に苦しん
で悩んでいるように見えるけれども、私は苦しんでいませんよ。心はいつも澄んでいる。
こう
心はいつも明るい。それと同じように、自分が苦しんでいることは、自分の業なのです。
前生の因縁でもって苦しむのです。苦しむ業のない人は苦しまないんです。同じ立場になっ
ても、同じ環境になっても、苦しまない人は苦しまない。苦しむ人は苦しむのです。苦し
むという業を持っているわけ。それを越えなければいけません。それが宗教なのです。
祖先が自分か、自分が祖先かというと、祖先の中に自分もいます。いたわけです。何遍Zo8
か祖先になって生まれて来ています。だから祖先の中に自分が何人かいるわけです。しか
し、祖先というのは自分自身ではありません。やはり祖先は祖先で違うものです。もっと
深くいえば、全部自分です。もっと深くいえば自分一人きりしかいないんです。けれどそ
ういう言い方ではなくて、当たり前の言い方をすれば、祖先の中に自分は何人かいる。し
かし祖先が全部自分というわけではありません。そこでもう一回言いますが、祖先が迷っ
こう
ていて自分にかかってくる、と言うけれど、それは違うのです。自分の中にある想い、業
を消すために神さまが、そうやってかかったような形でもって消してくれているわけです。
だから何ものもかかるものはありません。自分の想いが消えてゆく姿として現われて来て
いるのです。消えてゆく姿として現われて、消えてしまい、光り輝いてしまえば、祖先が
しゆつけ
迷っているも、へったくれもありませんよ。みんな輝いてしまいます。それで一人出家す
れば九族救わる、と言うのです。出家ということは悟るという意味なんですよ。いわゆる
こうしようぽうず
肉体の業生の世界を出る、業生の家を出てゆくというのが出家です。坊主になることが出
家したんではないのです。
2・g質疑応答
皆さんはそう意味で、出家している人が随分あるわけ。業生の世界をぬけ出してゆく。
かたく
火宅の世界を出てゆく。そうすると悟ったわけね。そうすれば九族が救われるのだ、とい
うのだから、祖先が迷っているもへったくれもあるものですか。そんなことみんな自分の
責めです。わかりますね。その責めさえも消えてゆく姿で世界平和の祈りの中で、みんな
神々が消して下さるのだから、すべて神々に全託して、世界平和一念にやっていれば自分
も救われる。いわゆる祖先が迷っているというのも救われるわけです。
こう
祖先の業で自分が苦しんでる。祖先のやつが、バカどもがオレを苦しめやがって、と思
う人が随分あるんです。そういう言い方をするから「そんなことはないんだ、自分が苦し
むのはすべて自分に原因がある。自分のことは自分です。人のせいではない」と私は言う
わけです。どんな苦しみがあっても、人のせいのように見えても、それは人のせいではな
くて自分のせいです。そう思わないと宗教の道ではないんですよ。いいことは自分がやっ
てやったんだ、私がやってやったからあの人はよくなった。悪いことはあいつがやったか
らだ、あいつのせいだーこれでは全く反宗教的なのです。宗教精神ではありません。
210


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です