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8/19/2022
五井昌久著
私に荷物を預けなさい
著者(1916~1980)
聖ヶ丘講話シリーズ刊行のことば
ひじりがおか
聖ヶ丘講話とは、市川市中国分にある聖ヶ丘道場統一会でなさった五井昌久先生のお話である。お話
のあと、先生のご指導のもと世界平和の祈りを全員でするのだが、祈りの言葉を単純に心の中で唱えつ
づけることによって、想いを世界平和の祈りに統一する実修をした。
お話はたいがいは質問に応えてなさったもので、これから続々と刊行される聖ヶ丘講話には、質疑応
答で終始する本も当然出てくる。質問もさまざまなら、お話の内容も多岐にわたっていて、ご身辺の問
題から、ひろく世界の平和や宇宙の問題、霊界や死後の生活のこと、永年の生命の覚醒、霊性開発とい
う本質的な問題、またご自分のことなど、きわめて親切に、わかりやすくまた面白く答えて下さり、人
間とは何か、いかにして解脱して自由の心にいたれるかを、うまずたゆまず説いて下さっている。なお、
聖ヶ丘道場での講話以外のお話も聖ヶ丘講話として収録した。
平成三年一月
1
愛
あ
る
生
き
方
目
次
宇宙に鳴りひびく
必ずよくなるに決まっている
信仰の極意
祈りは観念論ではない
87 56 45 25 7
2
宇宙人との提携は夢物語じゃない
私に荷物をあずけなさい
祈りは宇宙に満ちみちる
思い出さずに忘れずに
190 156 125 104
装傾笹本悦子
3目次
4
私たちの考え
私たちは、人間の真実の生き方について次のように考え、実行して
おります。
ほんらいかみわけみたまごうしょうしゅこれいにんげん
『人間は本来、神の分霊であって、業生ではなく、つねに守護霊、
しゅごじんまも
守護神によって守られているものである。
よくのうにんげんかこせげんざいあやま
この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤
うんめいあらきときおこすがたそうねん
てる想念が、その運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
くのうあらかならきき
いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え
さつよしんねんいまぜんねん
去るのであるという強い信念と、今からよくなるのであるという善念
おここんなんじぷんゆるひとゆるじぷん
を起し、どんな困難のなかにあっても、自分を赦し人を赦し、自分を
あいひとあいあいまことゆるげんこうしゆ
愛し人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづけてゆくとともに、守
しゅごじんかんしゃこころおもせかいへいわいのいのごれい
護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の祈りを祈りつづ
こじんじんるいしんすくたいとくでき
けてゆけば、個人も人類も真の救いを体得出来るものである』
せかいへいわいの
世界平和の祈り
せかいじんるいへいわ
世界人類が平和でありますように
にほんへいわ
日本が平和でありますように
わたくしたらてんめいまっと
私達の天命が完うされますように
しゅこれいさましゅごじんさま
守護霊様、守護神様ありがとうございます
いのこいせんせいしんかいやくそくごといの
この祈りは五井先生と神界との約束事で、この祈りをするところに
かならきゅうせだいこうみょうかがやじぷんすくせかいじんるい
必ず救世の大光明が輝き、自分が救われるとともに、世界人類
こうみょうかだいらようわぜつだいらからはっき
の光明化、大調和に絶大なる力を発揮するのです。
5私たちの考え
愛ある生き方
白光誌昭和37年3月号掲載
宗教の問題
汝の敵を愛せよ、というキリストの言葉があります。現実の問題としては、汝の敵を愛
することは非常にむずかしい。あらゆる感情想念、いわゆる自分の中に、好きだ嫌いだ、方
き
いやだという想いがある限りは、汝の敵を愛せない。敵を愛するということは至難中の至生
る
難、難問中の難問ですね。どうしたらよいか。動
簡単に出来そうに言う人はありますよ。キリスト教などで、どうしても偽善になるのは、7
普通一般の人には出来ないことを、いかにもやすやすと出来るようなことを言うからなの
です。生長の家などでもそうですね。病気はないと言えば病気はないんだ、完全円満と言
えば完全円満だ、無いと思えば無い、というようなことです。
それと同じように、汝の敵を愛せよ、なんていうことは本当にむずかしい。そこで私は
そういうような言い方は一切しないことにしているんです。何故しないかというと、出来
ないからですよ。業想念、三界の想いがある以上は出来ないんです。敵が、という感じが
あったらもう愛せません。だから汝の敵がなくならない限りはだめなんですね。
イエスさんは、汝の敵を愛せよ、と言葉として言ったけれど、しかし敵を認めて敵を愛
するということは出来ませんね。もし敵を認めた場合どうするか。それを愛するにはどう
したらよいか。それはこの世の肉体人間の想いでは絶対に不可能です。ここまでは当たり
前の考えなんです。汝の敵という敵が愛せないことも当たり前なんです。そういうことを
こ
超えないと駄目なのです。そこからが宗教の問題なんです。だからこの世の儲かった儲か
らない、愛する愛さない、そういうものはもう宗教というのではなくて、当たり前の日常
8
生活、ごく当たり前のことなのですよ。修養というような程度です。そこから先が宗教な
んです。出来ないことを出来るようにする、むずかしいことをむずかしくなくする、そう
いうことが宗教なんです。
つまり宗教というのは、自分というものはなくなってしまう、肉体生活の自分、肉体に
いのち
まつわる自分というものを一遍捨ててしまう。”生命を捨てざればいのちを得ず”私はこの
言葉が好きなんだけれど、自分の生命というもの、肉体の生命というもの、肉体の運命と
いうもの、それらすべてを投げ出してしまった時に、初めて本当の人間がそこに現われる
んです。神性の人間、神の子の人間キリストが現われるわけですよ。
そうならない以前は宗教なんて言うことはおこがましいことです。何か儲かるためとか、
病気が治るため、というのでは、宗教でもなんでもない。ただ宗教に入る道なんです。道
筋ではあるけれど宗教そのものではない。宗教というのは何かというと、元の教えをその
まま実行することです。元の教えというのは何かというと、人間は神の子だ、仏だ、神の
わけいのち
分生命だ、完全円満なものだ、ということです。その教えを頭でわかるのじゃなくて、体
9愛ある生き方
で日常生活に実行していかないことには、宗教者というわけにはいかないんです。ところ
がそういわれても出来やしない。出来ないということがわからないとだめなんですよ。肉
体の人間には何事も出来ないんだ、自分の病気さえ治せないんだ、自分の性質さえも直せ
ないんだ、ましてや自分の運命なんか変えることは出来ないんだ、肉体の人間には何の力
もない、ということがわからなければ、本当のことはわからない。「
まド
肉体の人間を働かしている力は、生命の本源いわゆる神です。神のみ心が働かない限り
は自分には何も出来ない。それで神のみ心と一番ぴったりするためにはどうしたらよいか、
というと、神のみ心の中に入りこんでしまう、神さまの大御心の中に入りこんでしまうこ
と以外にはないわけです。神さまがあって肉体の人間がある。神と人間が分れている以上
は、人間というものは完全になりませんし、汝の敵を愛するどころじゃない。味方でさえ
も裏切ってしまうというようなことになる。
10
汝の敵を愛するには
そこで汝の敵を愛するためにどうしたらよいか、というと、神さまのみ心の中に入って
しまう。肉体人間の自分ではどうにもならない。教えとしては、汝の敵を愛さなければな
はらから
らないし、すべての人を愛さなければならないし、みんな生命の世界においては同朋だし、
ねた
兄弟姉妹なんだから、自分の都合などで、人を恨んだり憎んだり妬んだりしちゃいけない
んだ、とわかっているわけですよ。わかっているのだけれども肉体人間には出来ない。だ
から肉体の人間というものを一遍捨てなければならない。捨てるというとなかなかむずか
しいから、神さまのみ心の中に入ってしまうことが一番でしょ。
神さまのみ心にはどうやって入るか。どこかに梯子段はないか。梯子段を登ろうとした
って梯子はありませんし、見えませんね。神さま!とさがすけれど、宇宙に充満している
生命でしょ。神さまは生命の本源で大生命です。宇宙に充満している生命、ありてあるもき
方
のです。しかしありてあるものとか、満ち満ちている生命とか言われても、掴めない。そ姓
こでどうしたらいいかというと・祈り言によって掴めるわけです。神さまの考えていらっ動
しゃること、つまり神さまの理念、神さまのみ心の現われと自分の心が一つになるでしょ。1
12
神のみ心と一つになること
つか
神さまは形がないんだから、姿もない声もない、だから掴もうとして掴めないでしょ。
それでうっかり掴もうとすると、幽界に浮遊している低級ないたずらな不良の霊魂の声が
聞こえたりなどして、それが神さまの声だと思って聞いちゃったりする。それは霊魂の声
であって神さまの声でもなんでもない。それを霊能者というのはみんな間違える。何か人
よりぬきん出て、他人より立派な力を得たいとか、他人をおどす力を得たいとか、自分が
特別な者になりたいとか、そういうような想いを持ちますと、神ならぬ幽界の生物が愚依
して来て、いろいろなことを聞かせたりして、こうしろ、ああしろとやる。当たることも
あるが当たらないことが多い。あるいは当たって、実行したらかえって苦しいようなこと
を、いろいろ教わったりする。
あるご夫婦があった。その奥さんが信仰して霊能的になった。いろんなことが見えてく
るわけですね。旦那さんの一挙手一投足が見えるわけです。統一していると、旦那さんが
飲み屋にいって、一杯のみながら女の人とにやけている。そんなところが見えてくる。そ
うするともういらいらしちゃうから自動車。てとんでゆく。よもやわかるまいと思って旦那
さんのほうはにやけているところへ、奥さんが目をつり上げてとんでゆく。お前どうして
わかった、私はちゃんとお祈りして見えたんです。なんてね、いくら旦那さんだって、一
杯のみたいこともあるだろうし、きれいな人と話したいこともあるだろうし、いろいろと
あるわけでしょ。それが見え、いちいち一挙手一投足見られたら不自由でしょうがないで
しょ。自由を縛ばられちゃう。それで離縁になったという話があるのです。
あまり霊能力があって物がわかったりすると、かえって始末に困ることがあるわけです
ね。そういう霊能力などいらないわけです。何が必要かというと、神さまのみ心と一つに
なる。これが一番大事なのです。それにはどうしたらよいかというと、神さまのみ心の現
われというのは〃みんなが平和でありますように、人類がみんな兄弟姉妹なんだ、みんな
争わない。て平和でありますように、すべてが大調和しますように” ということでしょ。だ
からそのみ心に合うような祈りが必要なわけですよね。自分を助け給え、というのでは、
13愛ある生き方
自分のただ単なる願いでしょ。商売繁盛では単なる願いでしょ。病気が治りますように、
ではただ単なる願いですね。病気が治った、健康になった、それで悪いことをしたら困る
でしょ。それと同じように、ただ単に病気が治ったり、ただ金持ちになったってしようが
ないわけですね。神さまのみ心に合うような生活が開いて来なければならない。
14
敵も仇も祈りの中へ入れよう
神さまのみ心は大調和なんだから、私の言う世界平和の祈りがそこに生まれてくるわけ
です。”世界人類が平和でありますように、自分の祖国が平和でありますように、私達の天
命が完うされますように”天命というのは神さまのみ心の現われだから、みんな神さまと
同じ心ですよ。そういう祈りでもって、神さまと一つになっていくわけです。
それを年中想っていると、神さまのみ心と自分の心がいつもいつも一つになっているわ
けです。そうしていると、知らないうちに、汝の敵のように現われて来ても、ああ、あの
人の業が消えてゆくんだな、消えてゆく姿だな、と思えるわけです。
この世に現われているいろいろな悪事、あるいは誤ったことは、すべて神さまのみ心で
はないわけでしょ。神さまのみ心は大調和、平和、慈愛です。だから喧嘩したり、妬んだ
り恨んだり怒ったりする心は、神さまのみ心の中にはないわけ。神さまから離れた人間の
想いであるわけです。それを業想念、カルマと私は言っているのです。カルマを消すには、
神さまの中に入ればカルマはなくなっちゃう。ところが神さまは形も姿もないから、祈り
心をもって神さまの中に入ってゆくわけです。そうすると自分の中の神さま、本心の分霊、
直霊とつながっていく。大神さまにつながってゆくわけですね。そうすると自分の行ない
が、すべて神さまのみ心と一つになってくるわけです。
例えば敵があるとしますね。敵と一応認めて、あいつは敵みたいな奴だ、いやな奴だと
思う。しかし、ああ、あれは業想念がそうさせているんだな、神さまの中にはそういう悪
いものはないんだから、あれは消えてゆく姿なんだな、どうかあの人の天命が完うされま
すように、どうか一日も早く消えてゆきますように、神さまお願い致します、世界人類が
愛ある生き方
平和でありますように、とやりますね。そうすると普通の人が、あの奴憎らしい憎らしい、15
と想っているよりも、憎らしい想いがすべて神さまの心の中に入っちゃいますから、憎ら
しいものがだんだんなくなってゆく。こういうことになるんですよ。
一遍に汝の敵を憎むな、そうだハイ、ニコニコニコ。そんな馬鹿なことは出来ない。た
だニコニコすりゃあいいと思っているものもあるんですよ。ただニコニコしてたってしよ
うがないんですよ。
16
わざとらしさはいけない
昨日、私の留守の間にね、キリスト教のエホバなんとかいう新聞や雑誌などを出してい
る教会の人が新聞を家に売りに来たんです。時々来るんですよ。それで家内の話ですが
「本当におかしな人なんですよ」というわけね。「どんな人」「宗教をやっている人があん
な変だったらいやになっちゃうわね」どういうことかと思ったら、何もいやになることは
ないんです。ただニタニタ、ニタニタしているんですって。二人の男がね。女ならまだい
いって言うの。男の青年がですよ、ニタニタ、ニタニタなんでしょ。「神さまがなんとかで、
教会がなんとかで… … L って言うのだそうです。そうするともういやらしくてぞくぞくす
るって言うんだね。
あんまり男にニタニタ笑われたら嫌になっちゃうですよね。明るい感じというのはよい
けれど、ニコニコ、ニタニタすればいいと思っている。男だから少しはキリッとしたほう
がよい場合があるでしょ。それがニタニタだったと言うんですね。あんまり男がニタニタ
してもおかしいんですよ。女の人もそうですよ。街の中をあっちを向いてニコニコ、向こ
うむいてニコニコ。「あれ、少しおれに気があるぞ」みんなが寄って来ますからね。だから
あんまりニコニコするっていうのもおかしい。それはその教えに把われるわけです。わざ
とらしさというのは神さまのみ心に通じていないのです。神さまのみ心と一つになるとわ
ざとではなくて、自然にニコニコする。自然に明るい感じがする。おのずからになる。
おのずから、というのは天からのものでしょ。みずからというのは自分のものですね。
おのずからとみずからが一つになって、ぴったりして天地一体になって行ないが出てくる
わけです。
17愛ある生き方
汝の敵を恨まないのでも、恨んじゃいけない恨んじゃいけない、と心臓をバクバクさせ
てやっている。そうすると自分の中にぐっと詰まってくるでしょ。潜在意識に入るからど
こかで思わないところで爆発してしまうんです。ですからその時パーッと出してしまった
ほうがかえって楽なくらいです。だからわざわざやるというのは私のとるところではない
し、私の教えはそういうものではない。自然にニコニコしてくる。自然に明るい心が出て
くる。自然に他人に愛を行ずる。そういうものでないと、幽界霊界へ行っては通用しない。
あの世へ行ったら抑えているものでは駄目です。必ず出て来ますからね。自然な愛情、そ
ういうものが大事なことなんです。
18
過去世からの想いを消す
汝の敵を愛せよ、というのでも憎らしい奴を、憎らしくないんだ憎らしくない、といく
らやっても駄目です。「先生、私はどうしてもあの人の顔を見るとなんだかムラムラしてく
るんです。どうしたらようござんしょう。ムラムラしちゃいけないと思えば思う程ムラム
ラしてくるのですLというのがあるんです。前生の因縁で前生でさんざんいじめられたり
した人に会うと、なんだか知らないけれどムラムラすることがあるんですよ。過去世の因
縁というのは長い間溜まっているものだから、それが現われてくると自分ではどうにもな
らないんです。恨み合ったりしていた過去世のものを集めて、そこで業を消させるために、
夫婦や兄弟や親子にする場合があるんです。そうした場合にはなんとも自分ではわからな
いんだけれども、カーッとして顔を見るのもいやだっていうのがあるんですよ。結婚した
途端に顔をみるのもいやだというのもあります。そしたらすぐ別れるほうがいいですね。
それは要するに過去世の想いなのです。これを消すにはどうしたらいいか。
自分の力ではどうにもなりません。過去世からつながっている三界の業想念の中で、い
くら理性でもっていけない、いけない、と抑えていたってどうしようたって、どうにも出方
き
来ない。それではどうしたらよいか。いつも言つように、その業想念を持ったままでいい姓
んだから、持ったままで祈りの中に入るよりしようがない。祈って祈って祈りぬくと、自動
分の想いがいつの間にか神さまの中に入りこんでしまい、業想念の世界を抜け出して、自19
分の心はいつでも天界に行けるわけです。そうすると嫌なものがあっても、消えてゆく姿
になって、なんでもなくなっちゃうんです。だから感情想念に把われてはいけないと、私
はよく言いますね。
感情想念というのは過去世からのもので、一目みて、憎らしいなという人もある。Aの
人はBの人をああいい人だな、と思う。Cの人はBの人を見て、なんだあんな奴、と思う
かもしれない。その人が完全に立派な人なら、誰が見てもよいと思う。その完全に立派な
だいば
人のお釈迦さまにでも、敵対する人があるんだからね。提婆のようなのがね。お釈迦さま
程に偉い人なら提婆のような人はいなかろうと思う。皆屈服してみんなお釈迦さま、と崇
だいばだった
めるだろうと思うと左にあらず、提婆達多のように最後まで敵対する人があるでしょう。
どんなに立派な人でも前生の因縁では敵にまわる人があるんですよ。これはしかたがない、
だから誰にでもあるわけですよ。
20
神さまのほうにふりむけばよい
ではそれを消すためにはどうしたらいいかというと、三界の業想念の感情想念の中では
いくらやっても駄目だから、感情想念がいやならいやでもよい。憎らしいなら憎らしいで
もよい。妬ましいなら妬ましいでもよいから、かまわず世界平和の祈りの中に入れるので
すよ。ところが世界平和の祈りでも間に合わない、ムラムラしちゃって、やる気がしない
という時があるんですね。その時はそれを出さなければならない。人に爆発させたんじゃ
傷つけてしまうから駄目でしょ。自分だけでうまく人を傷つけないで、爆発させる方法は
ないか、といったら、やっぱり祈りなんですよ。ただ祈りの方法が違うわけ。この間も福
田さんじゃないけれど、この馬鹿野郎の天命が完うされますように、と祈ったって言うで
しょ。ああいう調子。片方でムラムラして、片方で祈る心がある。だからムラムラしてい
るものが消えればいい。それにはムラムラしたままでいいから、世界平和の祈りをすれば
いい。
世界平和が出ない時は、五井先生の馬鹿野郎、なんで俺を早く立派にしないんだ、この
馬鹿野郎!というのがある。それでもかまわないんですよ。祈りのほうへもっていけばい
21愛ある生き方
い。五井先生!と呼べば祈りの中に入ってしまうからね。馬鹿野郎でもいい。私はいくら
馬鹿と言われても一寸も損をしないからね。なんでもよいからぶつかっていくんです。や
っているうちに気が晴れて来ますよ。それで今度は本当に”世界人類が平和でありますよ
うに”と祈れるわけです。そういうふうにうまく消さなければだめです。
だけど弱い人に業を絶対ぶつけちゃだめですよ。相手が傷つきますから。自分より強い
者にやらなきゃだめですよ。自分より先輩、宗教でいえば人間が出来ている人に言えば、
その人は受け止めてくれますからね。それでその人が苦しくなれば私のほうにぶつかって
来ます。ところが弱い人にやってしまうのね。だからよく子供が文句を言いたくなって、
お母さんに向かってゆくでしょ。お母さんは何も悪いことしてないのに、子供にいじめら
れてしまうことがあるでしょ。あれはお母さんに力がある、ということを子供たちは知っ
ているから、甘えてぶつかってゆく。お母さんが受け止めるわけだけれど、受け止められ
るお母さんが少ないから、ふらふらするけどね。お母さんはまた私のほうへぶつかってく
ればよいわけですね。そういうことで、強い者にぶつかっていかなければだめ。
22
本心を曇らせるものは一切消えてゆく姿
だから、汝の敵を愛することはどうしたらよいか、というと一遍に愛そうと思っても出
こ
来ないから、祈り心をもって三界の業想念、感情想念を超える練習をしなければだめです
ね。この練習をすれば、汝の敵ばかりではありません。すべてのものを愛せます。どんな
にぶつかって来ても愛せます。いつも私言うんだけれども、自分には何にもいじわるされ
る原因はないのに、向こうがどんどんいじわるする。あるいは不幸な出来事がうんと重な
って起こってくる。そうなってもそれにひっかかって、自分が悲しんだり嘆いたり怒った
りするんでは、やっぱり自分が業想念を出しちゃう。要するに泥棒に追い銭、というもの
で、業想念で向こうからやられて痛んで、また自分で怒りを出す、不安なら不安を出すで
しょ。するとそれだけまた業想念が増えるわけです。それじゃ損なんです。
自分のほうが正しいんだ、向こうが悪いんだ、だから俺が怒るのは当たり前だ、という
のはこの世の当たり前ということは、神さまの世界には通じやしない。神さまの世界には
23愛ある生き方
怒りも妬みも不安も何もない。宇宙人の世界もそうなんですよ。そこで怒りや妬みや不安
があったら、それだけ神さまのみ心から離れるでしょ。けれどもこれはしかたがない。肉
体の世界にはそういう想いがあるんだからね。そこで神さまと人間とをつなぐ柱の守護神
があるわけです。祈り心があるわけです。祈りの言葉もあるわけです。そこでその中に入
ってしまおう、というわけです。
怒り妬み不安恐怖という想いを把えていてはだめなのです。把えつづけてはいけない。
想いが出ている間にうまく処理するのです。どこへ処理するかというと、祈りの中に処理
してしまう。だから一にも二にも三にも四にも、祈りなんです。祈り心の中にすべて病気
も不幸もなんでも入れてしまう。そして祈り心を根本にして当たり前な生き方をして行け
ばいいのです。そうすれば自然に良い生活が出来てくる。神のみ心、神の子の姿がそこに
必ず現われてくるわけです。それを私が教えているのだし、それが世界平和の祈りの生活
なんです。
宇宙に鳴りひびく
(この日、まず坂井義秀氏の体験談があり、
五井先生のこ講話だった)
それを受けての
昭和3 年5 月1 日
五井先生とは
五井先生、というのは説明するのが大変むずかしい。古い人や霊能者の方はわかります。
ところがまだ来て日の浅い人はよくわからない。ひげのはえた、洋服を着たり着物をきた
り、冗談を言ったりする五尺何寸、十一貫何百の五井先生がいます。ところが坂井さんに
とっては、五井先生というのは、絶対神でもあるし、守護神でもある、すべてのすべてな
のです。私がこういうことを言うと、まことにおかしなことになる。
25宇宙に鳴りひびく
働きは絶対神の働きが守護神的な働きになって、救世の大光明として、私の体を通して
働いているんです。そういうことになると、新しい人や、この会に入っていない人がそれ
を聞くと、なんだろう五井ってヤツは、肉体でもって何が神さまだ、ということになるで
しょう。踊る宗教のおばあさんと同じことになったように思うんです。”わしの中の天照大
神”とこう言うんですね。ところが私のは、わしの中でもなんでもないのです。神さまが
そのままここ(肉体)を本拠として、場所として、方々中に働きに出ている。救世の大光
明ですよ。それは世界平和の祈りの中にあるのです。
世界平和の祈りというのは五井先生なのです。五井先生は世界平和の祈りなのです。坂
井さんは、あの与太者の中にも五井先生がいる、あの子供の中にも五井先生がいる、あの
おじいさんの中にも五井先生がいる、と言う。坂井さんにとっては、輝く生命として、神
の子として、そこに五井先生という名前でいるわけです。そんな五井先生なんてって笑え
わら
ば笑えで、その人は喧うだけでいい。
キリスト教がイエスの御名によって、神さまにつながる、天国にいける、というのと全26
く同じなのです。それで五井先生はどこにいるかというと、宇宙に充満している。そして
救世の大光明をふりまいているわけです。そのポイントは何かというと、世界平和の祈り
なのです。世界平和の祈りをしますと、そこに救世の大光明が輝くのです。これはいろん
な人が体験しています。この肉体の五井先生は何かというと、大光明の中心として働いて
いる器なのです。
この世界平和を祈る中心の場所を通って、電車の中にも行けば、汽車の中にも行けば、
いくつに分れても行ければ、全部の中に入れる、という形にもなる。これがわかればいい
んですけれど、これは信ずるより仕方ありません。
汝の信仰汝を癒せり、汝の信仰汝を救えりですね。五井先生というものを慕っていらっ
しゃるならば、五井先生一点ばりでいいんですよね。世界平和の祈り一点ばりでいってい
ロつち
いんです。「自分の家のことも出来ないのに、世界平和の祈りをして、どうして自分の祈り
がきくものか」って思うのは、業想念です。自分の神性、神の心を否定する想いが業想念
です。
27宇宙に鳴りひびく
今言った”五井先生”というのは神さまなのです。ということは、皆さんもすべて神さ
まなのですよ。私ばかり、この肉体の私が威張っているわけじゃないのですよ。皆さんも
神さまだということなのです。神さまの子供である、或る時は大神さまにもなり得る。そ
こがわからないといけない。
それが法華経というんだし、神道というんです。
人間はみんな神さまなんだ、神々なのです。神の子なのです。それが肉体という器を使
って、この地球界に地上天国を創りに来ているんです。みんな協力して創りに来ているの
です。それが天命なのですよ。それは職場職場によって違います。ある人は大工さんで働
くかもしれない。ある人は土建屋さんで働くかもしれない。ある人は職人さんになるかも
しれない。ある人はサラリーマンになるかもしれない。ある人は政治家になるかもしれな
あまくだ
い。それは働きの現われなのです。神々が地上に天下って働いているんですよ。
28
神の化身- 植芝盛平先生
今までの新興宗教の教祖というのは、イエスさんとかお釈迦さまという聖者を除いて、
すみよしのおおかみ
何かに使われているのです。うしろに神さまがついて使うとか、たとえば住吉大神が白髪
の老翁になって使っているというのが”生長の家”でしょう。そういういき方ですね。
ところが本当はそういうことではないのです。この間、植芝盛平先生(合気道創始者)
が飯田橋の会場にいらっしゃったのですよ。私とお話が終わったら、佐藤さんという工学
博士め日本開顕同盟理事長と、同盟理事の大植さんが見えて、会わせてくれというわけで、
植芝先生と会わせました。その時、佐藤さんが植芝先生に言うんですよ。「私は植芝先生の
働きが科学的な原理によってやるのかと思って、大植に聞いたら、植芝先生のうしろに神
さまが働いていらっしゃる、とこう言ったけれども、植芝先生本当ですか?」と聞くんでく
び
すよ。私は横にいて「ああ、それは違うんです。神さまがうしろに働いていらっしゃるんひ
じゃないん薯神さまがつしろで植芝先生を使っていらっしゃるんじゃないん咤神さ㈲
まが植芝先生そのものになっているんです。植芝先生が神さまなのです」と答えたのです。報
植芝先生はそうなのですよ。
29
ある機会にうちの斎藤秀雄さんが会ったら、「私は神がかりではないんだ、神さまがこの
中にいて、私自身なのだよ」と言われたそうです。私の思っている通りなのです。神の化
身です。神さまと人間が離れているのでは、ある時は神さまになり、ある時は肉体人間に
なっちゃうでしょう。それでは本当の仕事は出来ない。もしちょっと間違いをしたら、神
さまが離れてしまうでしょう。
昨日言ったことと、明日言うことと違っちゃいます。それは神がかりというのです。自
分の言ったことを知らなかったりね。そうじゃない。神さまがこの中に入って、この人が
神さまそのものになるのです。それが神の化身であり、植芝先生です。その植芝先生が、
私と会わない二ヵ月も前から、誰か二ヵ月の間に私に会わなければならない神人がいる、
というわけなのですね。私は植芝先生の合気道の本を見て、植芝先生に会いたいと思った。
こんい
そしたら林さんという人が見えて、私は植芝先生とは懇意だから、すぐ連絡を致しましょ
う、といって連絡してくれたら、ああ、その人が私が待っていた人なのだ、というんで、
すぐ神田の会場へ見えて、お会いしたのです。その時、植芝先生が神の化身であをことが
30
パッとわかったのです。
ということは、どういうことかというと、植芝先生と私の体が同じような状態だという
ことですよ。自己宣伝しているんじゃないんですよ、わかりますか。これからの仕事にさ
しつかえるから、私はだんだんこれからハッキリ言うのです。今まではあんまりハッキリ
言わなかった。ぼかしていたけれども、ハッキリ言わなければならない時機が迫ってきた。
それでハッキリ言うんですが、私自身がないということです。肉体の想念がないというこ
とです。
光と愛を返す
私は人の顔を見ているけれども、この目で見ているけれども、実は見ているだけなので
きたな
あって、きれいだとか機いとか思っちゃいないのです。何が見ているかというと、神の目
で、奥からその人の心を見ている。心を浄めているだけなのです。そうすると、向こうが
私を愛している、私を一所懸命慕っている。慕っている感情だけ、愛情だけがうつって、
31宇宙に鳴りひびく
こちらが余計に愛する。二重三重になっている。けれどもこっちの想念は何もない。
だから向こうが慕うだけ、こっちが愛するんですよ。”汝の信仰汝を癒せり”で、向こう
が一所懸命慕っているだけ、向こうに感応して返ってゆく。一〇〇%愛すれば一〇〇% 愛
される。一二〇%愛すれば一二〇%愛される。向こうの想いがそのままうつって向こうへ
返ってゆくのです。その想いが返ってゆくという時に、光をともなって返ってゆく。だか
ら愛されますよ。神の光をともなって、愛の想いとしてそっちへ返ってゆくんですから。
だから私は、先生!と思う人は可愛いと思うのです。子供なんか無邪気ですからね、先
生! って膝の上にだっこするでしょう。かわいい、一〇〇% かわいい。私は眼を細めて、
まるでだらしのない顔をしている。この間そういうところを写真にうつされちゃったので
す。私はこんな顔をして、子供を見ているのかなと思ってね。悪い顔じゃなかったですよ。
うっとりとしているんですよ。それは向こうがうっとりするからです。
叩けよ、さらば開かれん。求めよ、されば与えられん。汝の信ずる如く汝になれ、とい
うのはそういうことなのね。向こうさんが思う通りに神さまは与えるのです。その与える32
ものは何かといったら、愛です、光です。想いで向こうは愛するのだけれど、その想いは
カカ
慕う想いで、我もあるかもしれない。しかし我でもなんでもそんなものかまわない。こっ
ちへ入ってくると、私のほうへうつって、反復して向こうへ返ってゆく。その時、神さま
の光がそのまま入ってゆく。だから五井先生を愛した場合には、神さまの光はそのまま入
ってゆく。愛しただけ返ってゆく。
それをもっと深く言いかえれば、五井先生なんか無くたっていいんだ、なんにもなくた
っていい。自分が本当に愛の心で、神さまを慕って、本当に愛していれば、そのままその
人の愛の世界が出来上がるのです。
何故ならば、誰に救ってもらわなくたって、人間は神なのだ。本来が神の子なのだ。だ
く
からそのまま光り輝いているものなのですよ・理論はそうなのです・そうなのですが・さ甜
て、そこが問題なの毛ああ、理論じゃ言なのだ、私は神の子で光愚いている、と醐
本当に心の底から思える人があったならば、五井先生もいらない、なんにもいらないんだ。縮
そのまま救われている。そこを生長の家などは言ったのですよ。
3
完全円満な神の子に何故悪があるのか?
人間は完全円満で神の子なんだ、と言うのです。ところが実際には、自分は神の子で完
全円満なのだ、と本当に心の底から思える人がいないのです。思えないから不幸も出てく
るでしょうし、貧乏も出てくるでしょう、病気も出て来ますね。どうして完全円満な神の
子に病気や不幸が現われるか。ここで疑問が出てくるんですよ。そうすると、この完全円
満な神の子に不完全な姿が現われたのは、お前の心の影なのだよ、と言った。完全円満な
神の子が”お前の心が悪い” という、その悪い想いはどこから出て来たのか、ということ
ですね。
それは神さまから離れた想いがそうなのだ、と言います。神さまから離れた想いがだん
だん積もってくる。積もってきたものをどうやって消すのか。自分でなくすのかーここ
へくるんですよ。そうすると、もうどこの宗教もどうにもならなくなる。ここでつまっち
ゃ・つ。
完全円満な神の子に何故悪いものがあるのか? 悪い心があるのか? 悪い運命がある
のか? このように世界が悪いのか? そうするとそれは神を離れた想いがマイナスとな
ごう
って業になって来たからという。そこまではいい、そこからが大事なのです。その神を離
れた想いが現われて来た時に、私のように、それは消えてゆく姿なのだ、とやれば問題は
ないでしょう。
人類が争っているのは、争っている想いがあるから、その争っている想いをなくせばい
い、敵をやっつける想いをなくせばいい、あなたの怒りの想いをなくせばいい、恐怖の想
いをなくせばいい、人を疑う想いをなくせばいい、人間は完全円満で、実相は神の子だか
ら、人を悪いと思う想いをなくせばいいとこう言うんです。
誰がそれをなくすの? 誰が? なくすのは自分でしょう。さて、自分でなくせます
か?自分は泥の中へ入っちゃって、ぶくぶくしていて救えますか? 焦れば焦るほど抜け
なくなります。そこが生長の家などの間違ったところなのですね。生長の家とか修養とい
うものを長くやっていると、ますます自分が苦しくなってくる。初めは神の子完全円満で
35宇宙に鳴りひびく
ある、とパーッと嬉しくなるけれども、さてだんだん深く入ってくると、神の子が何故不
幸になっているか、という疑問がわいてくる。そこで本当に悩まない人は、自分でごまか
しているだけなのです。頭の中でごまかしている人は悩まない、悩まないけれど悩んでい
るんですよ。悩まないように見せているだけなのです。知識で、観念でもって、神の子だ、
完全円満だ、と慰めているだけなのです。それでは運命もよくならないし、本当に悟れや
しない。
ぱな
何故悟れないかというと、業をそのまま置きっ放しだから。それで頭の中で、ただ神の
子完全円満だくとやっていて、どうして救えるものか。世界が悪いのは、アメリカやソ
ビエトが争いの想いを出しているからだ、だから争いの波をなくせばいいと言う。一体誰
がなくすのか。ソビエト自身、アメリカ自身がなくさない以上なくならないでしょう。誰
が勧告しにゆくの。双方になくせ、と言ったってなくならないでしょう。そういうのは観
念論というのです。言葉のあやにすぎない。そんなものは三文の値打ちもない。なくせな
いから。36
呼べば必ず救われる
そこで私の教えはどういうことかというと、一方では消えてゆく姿、一方では守護霊さ
“講欝繕眺罫ほ軽縫励獅ご鰻慕蝦罫鶴就
のではないのですよ、神さまの五井先生、皆さんの本心がそう言っているのです。皆さん
ちよくれい
の直霊が言っているのです。皆さんの直霊というのは私なのです。それが守護神の働きと
して、さあ五井先生を思いなさい、救いましょう、とこう言うんです。そう言った時には
救うことに決まっているのです。
ああそうだ、五井先生にすがれば救われる、とすがってきた人はそのまま知らない間に
救われてゆくのです。私が救ってあげますよ、と言って救えないとすれば、私が地獄へ落
ちるわけです。こっちが落ちるんだからね。いちいち地獄へ落ちてちゃかなわない。もっ
とも地獄へ落ちりゃ地獄が明るくなるけれどもさ。
37宇宙に鳴りひびく
「あなたを救ってあげますよ」という言葉、「大丈夫、私が引き受けましたよ」という言葉38
は大変な言葉なのです。これをうかうかと聞かないで下さいよ。私が救ってあげますよ、
ほうそうぼさついやく
という時には法蔵菩薩と同じなのですよ。自分を投げ出しているのです。もし違約すれば、
私が苦しむんですよ。救ってあげますと言って救えなかったら、私はいつまでたったって
悟れないことになりますよ。それは三人や五人じゃない、百人にも千人にも万人にも、私
ごう
が救ってあげますよ、と言う時には、皆さんの業を全部ひっかぶったことなのです。何百
何千何万何十万という業をひっかぶるんですよ。ひっかぶる役目を一銭も貰わずにやるヤ
ツはないよね。それは何かというと、皆さんの後の守護霊守護神が引き受けた、というこ
とと同じなのです。ということは、救世の大光明が、神さま自体が、ハイお前たちを無罪
放免する、ということと同じことなのです。
私に一目会ったら必ず救われるのです。一目会ったということは、必ずまた会うのです。
ところが全然知らない人にこう言ってもわからないでしょう。しかし今わからないけれど、
後にわかるのです。だんだんわかってくる。だから皆さんはかまわず、五井先生!と言っ
ていりゃいいんです。そうするとみんなが五井先生になっちゃう。皆さんは今に自分で五
井先生がのりうつるのを自覚しますよ。のりうつるというと、なんだかキッネかタヌキの
おばけがのりうつるようだけれど、そうじゃない。神がかりになるんじゃなくて、自分の
中の本心が開くということです。
これを話していると、守護霊守護神が出て来て、言葉がぞんざいになりそうになるので
すよ。「お前さんたち、わかったかい」こういうふうになる。「いいかい、そうなんだよ」
と言いたいところなのだけれども、そうやると踊るばあさんと同じになるでしょう。だか
らそう言わないで、わざわざ丁寧な言葉をあとでくっつけているんですけれど、非常に言
いにくいですよ。私の常識が丁寧な言葉で話しているんです。言いかえれば、ここで話を
く
しているのは、皆さんの先祖の先祖の大先祖、と言えば、守護霊も守護神もひっくるめた、碍
元の元が話をしてい発その元の元が「お前たちの運命は私が引き受けている、心配する剛
なよ、救ったんだよ」と言っているのです。それがこの場所である五井先生という肉体を縮
通してしゃべる。それを霊的にみれば、ここに光り輝く大光明がある。キリストや仏陀が39
立ったり、白髪の老翁が立ったりするのだけれど、
ある。それは今にわかる。必ずわかるのです。
それはみんなこの中(自分を指す)に40
本当のことば
皆さんが他の宗教や誰かに言われて、信仰をゆるがしたりすると、ゆるがしただけ損で
すよ。皆さんが世界平和の祈りをやっていれば、その中に大光明があるのです。救世の大
光明が輝いている。世界平和の祈りは声の言葉でやらなくてもいいのですよ。中で思って
いる。ねても覚めても世界平和の祈りなのです。
「だって先生、そういうけれど、ソロバンをはじいている時はどうするのですか?」
「めしを食っている時は思っているけれども、頭を働かせて、人と話をしている時はどう
するのですか?」
「電話をかけている時はどうするのですか?」
と質問が出るのですが、それは本当の言葉というものを知らないから。本当の言葉とい
うのは声に出る言葉じゃない。ただ単に思った言葉じゃない。もっと深くく、潜在意識
の奥の奥に入っているひびきなのです。想念以前のひびきです。
世界人類の平和を祈るという想い、世界平和の祈りが自分の生活だと思いこんだ人は、
改めて”世界人類が……”とやらなくたって、この中で(自分の中で)世界平和をやって
いるのです。声に聞えなくても、想いに現われなくても世界平和をやっている。ねても覚
めても世界平和の祈りが中で鳴りひびいていると、石段から落っこちても怪我しない。何
をしても怪我しないようなことになるのですよ。自動車が来ても止まっちゃったりするよ
うなことになる。それは何故かというと、世界平和の祈りというのは、救世の大光明なの
です。
そういう人が一人二人増えてゆけば、だんだん増えてゆくに従って、その人の周囲は輝
くでしょう。一人でもって、何百人何千人に輝かせているかわからないのですよ。どれだ
けの広がりになるかわからないのです。そういうふうに世界平和の祈りというのは素晴ら
しいのです。
41宇宙に鳴りひびく
42
世界平和の祈りは神界に鳴りひびいている
誰がなんと言おうと、世界平和の祈りの素晴らしさは変わりないのです。世界平和の祈
えいこう
りをしたということは、未来永劫、あなた方の魂が素晴らしく輝くことなのです。だから
どんなお婆さんでもいいんだ、何もしないでもいいんだ何もしなくちゃいけないけれ
どもーお婆さんは何も出来ないでしょう。余計なことをしないで、と言われちゃう。だ
から世界平和の祈りだけしていればいい。お嫁にゆく前の娘さんだって、世界平和の祈り
だけしていればいい。
この世界平和の祈り以外に、この世界を救う方法はないのです。祈っていますと、平和
のひびきがソビエトにもとんでいきます。アメリカへもとんでいきます。イラクにもイラ
ンにもみんなとんでいきます。光の流れなのだからね。
宇宙は一点でもあり、広がりでもある。無限でもあり点でもある。だから一人の人が世
界平和の祈りそのものになれば、その人は宇宙なのです。宇宙なのだからその人は宇宙に
鳴りわたっているわけよ。世界人類が平和でありますように、という時、宇宙に鳴りわた
っているのです。
皆さんが世界平和の祈りをやっていることは、地震も止めるでしょう。火事も少なくす
るでしょう。水害も少なくするでしょう。だんだん世界を平和にします。世界平和という
のは、戦争を防止することだけではありません。天変地変も防止することです。世界人類
が平和になるのに、悪いことがあってはならない。業の現われを最少限度にして、業が現
われない前に、幽界でみんな浄めちゃうわけです。
世界平和の祈りというのは、肉体界に鳴りひびき、幽界に鳴りひびき、霊界に鳴りひび
き、神界に鳴りひびいているのです。言いかえるなら、神界から世界平和の祈りが降りて
くるんです。それにちょっと波長を合わせればいいんです。世界平和の祈りというのは、
神界で鳴りひびいているのです。神さまの世界で鳴りひびいているのだから、こっちが余
計な邪魔をしないで、世界平和を思いさえすれば、そうすれば向こう(天)から流れて入
ってくるのですよ。それをこっちから、一所懸命”世界人類がく” とやらなきゃならな
43宇宙に鳴りひびく
いと思っちゃいけない。それは自力です。
小さな声でいったんじゃだめだろう、神さまに聞えないといけないから、力を入れて、
りき
大きな声で”世界人類が……”とやる必要はないのです。力むんじゃない。力むことは自
力です。念力です。力を入れてやれば効果がある、と思ったら間違い。そういうものじや
ありません。静かでいいのです。わかりますか? それがわかってくれないと困る。世界
平和の祈りというのは、自力でこっちの業想念の人間がするんじゃないのですよ。いいで
すね。
覗
必ずよくなるに決まっている
昭和3 年7 月12 日
喝人間の自由自在性を奪うな
熟
つ
ごう
神さまは、この世に現われている業を全部消そうと思って、守護霊守護神をつかわして、灘
に
業を一所懸命消しているわけなんです。だから、恐れないで神さまの中へ入りこんでいれる
な
ばいいんですよ。入りこむ練習だけしていればいい。そうすると、だんだん度胸のない人よ
く
が度胸がよくなってくる。暗い顔をしていた人が明るくなってくるのです。粥
これからいろんな世界が展開されます。世界が平和になるのは現実の世界としては遠い45
おびや
でしょう。その間にいろんな恐ろしいことがどんどん出て来ます。みんなを脅かすような
ことがたくさん出てくる。その時に、ああ自分は死んても、自分たちは天国へ行くんだ、
と思いこんじゃえばいい。昔のクリスチャンは偉かったですね。十字架にみな平気でかか
った。
私が教えていることは、人間は神さまの子だから、みな自由自在なんだということです。
ところが今までの宗教とか、修養というものは、その自由自在性を奪ってしまって、一つ
かこ
の囲いの中に入れてしまって、人間はこうでなければならない、こうしなきゃいけない、
わく
というふうに決めちゃったんです。枠の中で生きているものだから、みな不自由になって、
やりたいこともやらないで我慢したり、命を縮めてしまったのです。縮めた上に宗教に入
って、さらに縮められてしまう。お前、こういう心じゃいけない、こうしちゃいけない、
というふうに言われますでしょう。やりたいこともやれない。というのは想いが消えてし
まったのではなく、やりたいのを我慢したわけです。潜在意識の中にみなたまっていきま
ぎようしゆく
して、うんとたまって、原子爆弾みたいに凝縮されるわけです。ある縁にふれるとボン46
と爆発しちゃうわけです。
きどサつ
人間は生まれて来てこの方、みな軌道というものがあって、その軌道によって運命は廻
っているわけです。だから親子であろうと、兄弟であろうと、夫婦であろうと、相手を押
さえて、自分に屈服させて、相手を自分の思う通りに指導しようということは、もう神さ
まのみ心じゃないんです。相手を自分の意思に従わせるということは、たとえどんないい
ことであっても、それは神さまのみ心ではない。何故かというと、神さまが本当に力を発
揮すれば、全知全能なんだから、フルシチョフがいけないと思ったら、ポンとフルシチョ
フの首を切るでしょう。毛沢東がいけないと思えば、ポンと殺してしまうことが出来るで
しょ・つ。
神さまはどんなことでもいっぺんに出来るわけですよね。ところがそういうことはない
でしょう。悪いことをやっていても悪いままにさせておく、良いことをしても良いままに
させておく。そのまま人間の自由にまかせてあるわけですよ。さあそこが問題なのですね。
自由にも二つあるわけです。本当にいのちを自由にして、みんな仲良く手をつなぎ合っ
47必ずよくなるに決まっている
て、各自の立場でみんなが自由に生きられるような生き方をしているか、または外の自由
はみな奪っちゃって、自分たちだけの自由と権利を主張して生きていくか。これは業の生
き方です。もう一つのさっき言った仲良く手をつないで、みんなが自由に生きられるよう
な生き方を、自分がしていることが神さまのみ心でしょう。
そこで私は神のみ心の生き方を指導しているわけです。そのためにはどうしたらいいか
というと、親子であろうと、夫婦であろうと、兄弟姉妹であろうと、友だちであろうと、
やっていることを押えてはだめですよ。失敗してもいいと思うんですよ。間違ったことを
してもいいと思う。廻っているんだから仕方がない。いくら押えても廻っているものは、
軌道にのっているんだから、いくら押えたって、手をはなせば今度はものすごい力で廻っ
て、かえって破壊力が大きくなるわけです。だからそういう方法というのはだめです。そ
れではどうしたらいいかというと、ぐるぐる廻っている業の外へ出て、神さまのみ心の中
へ入れてしまえばいいわけです。
48
小言ではだめだ
神さまのみ心は何かというと、愛なのです。光なのです。自由自在性なんですね。だか
らこちらの光を向こうへ当てればいいわけなんですよ。
一人の人間が業につぶされているとしますね。そうすると、お前そうしちゃだめだ、と
言っても、そうすることは業をただ叩いていることなのだから、業がますます固くなり厚
おお
くなって本心を掩ってしまうわけなんです。それではいけないから、二人なり三人なりの
同志が、その人の知り合いが「神さまお願いします。天命が現われますように、どうかあ
の人が立派になりますように」という祈り心をこちらから出すと、祈りは光ですから、神
さまのみ心ですから、相手に行って相手の業をはぐわけです。業を薄めちゃうわけです。
それが二人なり三人なり五人なり、団体になると、大勢の祈りが光になって、その人の業
を消してゆくわけですよ。
言葉で、だめだ良いというよりも、そうやって光を投げかけてゆくと、いつの間にか業
49必ずよくなるに決まっている
がはがれてしまって、神さまの軌道にのれるわけ。本心が現われるわけですね。そういう
生き方を私は教えているわけです。今までの宗教や修養とそこが違うわけ。今までのは、
必ずその人の悪いところをつかまえるのですよ。あなたが短気だから短気を直さなければ
いくじ
いけない。お前は妬みが多いからそれを直さなければいけない。お前は意気地がないから
それではダメだ、とこうやるわけね。
そうやることはその人に悪いことを認めさせちゃうことです。ああ自分は短気でダメな
んだ、自分は妬みがあってダメなんだ、自分は気が弱くてだめだ、というふうに、小さな
小さな業の人間になっちゃう。
そうじゃないんです。あなたは神の子で光り輝いている、あなたは出せばどんな力でも
出るんだよ、あなたがやればどんなことでも出来るんだよ、ただし、神さまにつながらな
くちゃだめなんだから、神さまにつながりなさい。神さまはどういうことになっているか
というと、守護霊守護神としてあって、祖先の悟った人が守護霊としてついている。その
上に神さまそのものとして守護神がついていて、それが協力して分霊の自分にいい仕事を50
させよう、神さまのみ心を現わさせようと思って、一所懸命になっているんだから、守護
霊守護神につながりなさい、つながる方法は世界平和の祈りだよ、と教えているわけね。
ぜん
とやかく口でうるさく小言をいったってダメなんです。悪い子供が出来るというのは前
しようこんじよう
生の因縁ですけれども、今生のやり方としては、あまり小言をいいすぎちゃだめなんで
のほうず
す。といってあまり野放図に業のなすままをさせちゃだめなんです。業をはがすようにし
てやらなければ。業を押しこむ小言はいけません。対等にいのちが流れてゆくんじゃなく
て、自分のほうが、これを教えてやろうと言って、高みに立って、自分は威張りたい心で、喝
ダメじゃないかと言ったって、威張りたい心は業だから、業と業とがぶつかってずっと押”
つ
さえこんでしまうだけなのです。だから喧嘩になる。何言ってやがるんだ。なんだあのヤ灘
に
ロー生意気に、とこうなる。そういうことではだめ。る
な
凝別の人間になっちゃだめ
肘
本当の愛で、向こうの立場になって、そうだな、勉強するのはいやだな、お父さんだっ51
て勉強は面倒くさいからいやなんだ、いやだけども、やらなきゃ偉くなれないだろう、ま
一所懸命やろうよ、協力してやるよ、というふうにやれば、なんだか味方にしたようでや
るわけでしょう。それを夫でも妻でも、先輩後輩でも、たいがい教えようとするのですよ。
あなた間違っているからそれじゃだめじゃないの、とこうやるわけ。間違っていると言わ
れると、そこに掴まっちゃうわけね。どうせだめだってことになる。そういうふうに業に
掴まらしちゃだめだから、業をはぎとることをみんながやらなきゃならない。
自分の業も消すんだし、人の業も消すんだし、消すためには、肉体の自分の力では足ら
ないから、神さまの力を借りて来て、守護霊さん守護神さんよろしくお願いします、あの
人の天命が完うされますように、という心でもって、あなたこうしましょうよ、私も一所
懸命やるわ、というようにやれば、ああ家内が一所懸命応援してくれる、うちの子供が応
援してくれる、うちのお母さんは応援してくれる、というふうになって、力が倍加してい
くわけです。
夫と妻の間でも、親子の間でも離れちゃだめです。別の人間になっちゃだめ、みないの52
ちというのは一体だから、すべてが一体になっているんだから、一体の境地にならなきゃ
だめでしょう。小言というのは離れています。愛というのは離れていません。愛は小言な
ど言いませんよ。ああかわいそうに、私も一所懸命やりましょう、とこう思うんです。小
言というのは子供なら子供を別に見る、離れてます。夫なら夫、妻なら妻を別に見て、な
んだ夫はだめじゃないか、この子はだめじゃないか、なんだあんなことをして、とこうや
る。だから胸がむかむかして言うような言葉なら、言わないほうがいい。
注意の言葉をいう時には、いつでも胸がスーッとしている時に言う。むかむかした時は喝
絶対にいっちゃだめで玄むかむかしている時は祈って、まず自分のむかむかを奮して、州
平気になって、心が平静になったら、あなたこうしましょうじゃありませんか、とか、子灘
に
供に、お前こうしようよ、お母さんが一緒にやるからね、とか言えば、それがスーッと入る
な
ってゆく。抵抗がなくなるわけね。誤
自分の心臓がバクバクしているさつじゃ言ってはだめだというの。心臓がバクバクして粥
言う雪暴木か、バクバクしないで言う言葉か、ということを考えていただきたい。53
騒
いのちを自由に生かしきる
私の教えというのは、お互いのいのちを自由に生かして生きる、ということです。ただ
生きいきと生きる手前には、前生からのいろんな業があるから、間違ったことも失敗もす
るでしょう。しかしそれは消えてゆく姿としてやらなきゃだめだ、というわけです。
悪いことは悪いことでだめなんだけれども、悪いことに引っ張られたら、それがはがれ
る場合には、引っ張られたほうがいいでしょうし、カツンとやったほうがいい場合には、
カツンとやったらいいでしょう。しかし大概カツンとやるよりも、柔らかく優しく、じわ
じわと光をあたためて光を入れてやったほうが、おおむね効果がある、と私の経騒ではそ
う思うのです。だから私はあまり叱ったことも怒ったこともない。黙ってポンポンと柏手
を打っています。どうしてこれが光になるかというと、私の中に何もないから。相手が馬
鹿だ、ちょんだと何も思ってない。黙って光が入ってゆく。これをつづけてやっていると
幽体にある業がどんどんはがれてゆく。中の本心がどんどん出てくるわけです。すると知
らない間に運命が良くなる。
人間の生き方としては、あせってはダメ。運命は決まっている。平和の祈りに入ってい
る人は、平和の祈りの中でもう運命は決まっちゃっているわけね。平和の祈りは世界最高
の祈りなんだから、人類が平和になるということは神さまのみ心だから、平和の祈りに入
ったら、その人は悪くなりようがないですよ。入らない前より悪くなりっこない。心ず良
くなるに決まっている。だからどんなことが現われても、あせらないで、悪いことが現わ
れたら、消えてゆく姿と思って、一所懸命祈ってさえいれば、現われてくるものが、どん
どんいいものに変わってくる。
そのうちに、いいも悪いも問題でなくなって、この世の現象のいいとか悪いとか問題で
なくなって、いつも心が平安であることだけを目指してゆくようになってしまいます。
55必ずよくなるに決まっている
56
信仰の極意
昭和3年9 月6 日
じゃ
鬼が出ようと蛇が出ようと
宗教信仰の極意というのは、いかなる災いに見えるようなことがあっても、その中から
神さまの愛を見出せる、ということです。これは一番大切なことなのです。
願い事が叶ったり、何かが自分の思った通りになったりすることだけで、感謝をしてい
ると、思う通りにならなかった、という反対現象が出たりすると、なんだこんなに俺は祈
っているのに神がなんだ、というように神さまに対して反抗するような形になりがちです。
そうなっている人が多いです。
そういうのは信仰でもなんでもなくて、ご都合主義というものです。本当の宗教信仰と
じや
いうものは、鬼が出ようと蛇が出ようと、何が出ようと、それはそのまま有難いんだ、自
分のいのちが肉体から消えようと、ああ、これで有難いんだと思えるようになるのが、極
意なんです。
けれどもそこまでゆくのは、なかなか大変なのです。そこで一番いい信仰の方法という
のは、私が説いているように、悪いことが出て来ても、どんな苦しみが出て来ても、どん
な病気が出て来ても、どんな貧乏が出て来ても、みんなそれは過去世の因縁が消えてゆく
姿であって、消えてゆくに従って、自分の本当の姿、神の子の姿が現われてくるんだ、有
難いんだ、となると気張らず気負わず、楽に本当の信仰になってゆくのです。
どこの宗教でも、お前の心が悪いから病気になったり、貧乏になったりするのだ、お前
が夫を拝めば、妻を拝めばよくなるんだ、お前がもっと子供を拝まないから良くならない
のだ、すべてお前の心なのだ、というのがあります。
57信仰の極意
bそうした宗教団体でも一番いいのは”生長の家”なのです。人間は神の子であって、完
全円満な本体を持っているんだ、ということをズバリと言っているのは生長の家なのです。
病気というものも、不幸というものも、災難というものも、そんなものは無いんだ、とい
うのは一寸ゆきすぎなのだけれど、真理なのです。一つも間違っていないけれど、少しゆ
きすぎただけなのです。それで「お前の心の影なんだ」と心の法則が出て来た。それは生
長の家ばかりでなく、PLや天理教だの何々教だのがそれなのです。お前の因縁なんだ、
お前の心なんだ、というのはどこの宗教にもあるのです。
生長の家はそれをやらなければよかったんだ。そうすれば神の子だけが生きたんだけれ
どもね。人間は完全円満な神の子なんだ、肉体は無いんだ、と言った。ところが肉体があ
ります。病気もあります、貧乏も出て来ます。そこで、神の子なのにどうして悪があるん
だ、貧乏があるんだ、病気があるんだ、貧乏が出たのはどういうわけなんだ、と突っ込ま
れます。そうすると困ります。今度は実相の世界には病気は無いんだ、実相の世界には貧
乏は無いんだ、と言い換える。それで現象として現われている世界の貧乏や病気や不幸な58
どは、お前の心が悪いんだ、とこうなって来たのです。メンタルサイエンス、精神科学と
いうのです。そこから生長の家の間違いが始まってくるのです。
私のように、本来そうなんだから、今現われている業や悪や不幸や貧乏や争い事は、今
のあなたが悪いのではなくて、過去世の因縁、つまり過去世で神仏(真理) からはなれて
いた想い、人間は神の子だと思わなかった想い、人間と神とは別々だと思っていた想いが、
そのマイナスが今現われて来て、病気や不幸や貧乏になって現われて消えてゆくところな
のだ、とこうやればよかった。そうやらなかった。それは私の役目だから仕方がない。私
のために神さまがとっておいてくれた。
実相論と現象
谷口先生は何をやったかというと、無いということをやった。現象というものは、思う
通りになる世界だから、お前たちの思う通りになるんだから、病気もお前が作る、貧乏も
お前が作るのだし、不幸もお前が作るんだーこれは本当なのです。そうすると神の子の
59信仰の極意
完全円満が本当なのか、貧乏や病気を作るのが本当なのか、どっちがどっちだかわからな
くなってしまった。こっちは実相でこっちは現象というのですが、実際には現象に生きて
いるのでしょう。肉体のAならAを見て、BならBを見て、何々さんはいい人だな、何々
さんは悪い人だなと言うわけですね。
実相は完全円満、現象はお前の心の影と別々に分けた。そうすると実相と現象の二元論
になって来た。
人間は完全円満なのだ、で入ってゆくと、その中でも二つ出来てしまう。一つは、なに
があっても神の子なんだから、なんでもないんだ、俺は神の子だ、とやる。青年にはよく
あるのです。
病気をしている人があると「神の子が病気していることがあるか、神の子は完全円満、
病気なぞない、ふとんをたたんですぐ起きなさい」とやるんですよ。病人は苦しくてハア
しゆうとめ
ハアいっている時にね。これが姑と嫁さんになると大変。姑が生長の家で、完全円満を
知っている。嫁さんが病気で苦しい、熱があって、ねている。すると、嫁の中に病みたい60
心があるから、働きたくない心が病になって現われて寝ているんだ、起きなさい、病気は
無いんだーこういう話が随分あるんです。
姑さんにそう言われるものだから、嫁さんは苦しいのに起きているうちに、大病になっ
てしまう、というようになったりする。
自分は神の子だくと威張りながら、人を見下して、それは神の子を知らない奴だ、と
自分だけ偉くなったような気がして、他の者はみんなバカに見えて、他の宗教をやってい
る者はみなバカに見えるーそういう形になってゆく。
それからもう一つは、人間神の子だ、と頭でわかった。それでたとえば失敗をします。
あるいは悪い想いが出てくる。あるいは病気をすると、自分は神の子だと知っていますか
ら、どうして病気をするのか、どうしてこんな悪い想いが出てくるのか、私は神の子く
と言いながら、私はダメな人間だな、ダメだくと思ってしまう。心が行かないで、頭だ
け神の子の中へ行ってしまったから、私はなんて悪いやつだろうと自分を責めて責めて、
責めぬいてしまう。それで病気が重くなったりしている。
61信仰の極意
ぜんしょう
前生から修行に修行を重ねて、菩薩のような人は、聞いてサッとわかる時があります。
私はわかった。何故かというと過去世から修行しているから。ところが菩薩級の人は少な
いものだから「あなたの心の影ですよ」というほうに走る。
この世は想いの世界だから、あなたの思う通りの世界が出てくるんだ、あなたがこれは
出来ると思えば出来るんだ、出来ないと思うから出来ないんだ、お前さんの中に痛む心が
あるから痛むのだ、お前さんの中に貧乏な心があるから貧乏になるんだ、とこうやる。こ
れは生長の家ばかりではありません。他の教団もあなたの因縁ですよ、とやっています。
これは始末に困るのです。たとえば病気になる。そうすると私の心のどこが悪いのかし
ら、私のこの病気の原因はどこだろう、とさぐり始める。
私ならば、病気が現われたら消えてゆく姿だ、これでよくなるんだ、とやるでしょう。
さっぱりしますね。それを、消えてゆこうとする想いを追いかけて、原因を追求しようと
するのです。私はどうして肺病になったのかしら、私狭い心があったかしらとやる。まだ
自分を追いかけているうちはいいんだ。こんどは人をやっつけることになるのです。62
よく私は薯え話をするのだけれども、左が男であり、右が女だということになってい
る。指なら指を怪我をして、左手を包帯しているとすると、あの奥さんは夫を拝まないか
らだ、というのです。何故かというと、左手は夫とか息子とか大事な人、男という意味だ
から、あの人は旦那さんと喧嘩したんだ、とこうなのです。足を怪我している、あるいは
病気している、そうするとあの人は立てるべきものを立てないから足が悪い、ということ
になる。
子供が寝小便ばかりしていると、あのお母さんに泣きたい心があるから、子供に現われ
て寝小便になるんだ、吹き出物が一杯あると、あれはブツブツ言う心があるからブツブツ
が現われる。鼻が悪いと素直な心がないから鼻がつまっている。頭がはげるのは自慢高慢
の想いがあって自分の心をてかてか光らせているから、頭がはげて光るんだという。痔が
悪いのはその家にいたくないから、いつも尻が落ち着かないことになって痔が悪くなるん
だという。
63信仰の極意
偽善者をつくってはいけない
まるでおとし話でしょう。こういうようになってゆくのです。それは生長の家ばかりで
なく、他の宗教は大体そうです。人間神の子になかなかなりにくい。そこで心の法則のほ
うをとるのです。人の相談を受けた時、私ならパッパッとわかります。ところが向こうの
因縁因果がわからない場合には、どうしても現われたものをみます。
「実は夫は二号をつくりまして、私は一所懸命尽くしておりますけれども、夫は向こうに
入りびたりで、どうしたらようございましょう?」と相談にくると「あなたは夫に尽くし
方が足りない、ニコニコと夫を迎えないから、二号さんをつくったんだ」と相談した宗教
の先生にやられてしまう。夫の言う通り、なんでもハイハイと素直に聞いている奥さんな
んて、この世の中にそういやしない。ならばみんな二号が出来なければならないのに、二
号の出来る人もあれば、無い人もある。何さ! と威張りながら夫に二号をつくらせない
人もありますよ。そんなものつくってごらんなさい、(笑) ってね。ところがああそうです
か、ハイって夫の言うことばかり聞いて、ニコニコしているのに、二号さんをつくる場合
もある。奥さんのほうがきれいで、とても優しくて、二号さんのほうが鬼瓦みたいなのが
沢山いますよ。
こっちは一所懸命尽くしているのに、相談にゆくと、お前さんが悪いからと言うんです。
二号さんをつくって、ふざけているほうが怒られないで、一所懸命尽くしている奥さんが
怒られてしまうのです。それでは立つ瀬がないでしょう。
私だったら一度「それはひどい、そんな奴はない、よし私が祈ってあげよう」と言って
おいて、徐々に前の世でこれこれこうだったのだから、これで借金が返せるのだから、お
互い、今のあなたが悪いんじゃないんだ、今の夫が悪いのではなくて、みんな過去世にお
いてつくった因縁が今現われて、消えてゆくんだよ、だから何日たてば、あるいは何年た
意
てば消えますよ、とこう教えます。それで浄めて治して元通りにさせます。極
の
そついう霊覚がないから、形式だけの思う通りになる世界、心の法則で、お前の心が悪儲
いというほうに持っていってしまうのです。そうすると言われた方も言う方も苦しんでし65
まう。病気が出てくると、なんの心の現われかと思う。ですから生長の家の仲間たちには
本当のことが言えないのです。たとえば私がこの間熱を出して、どこかが痛くて、と言い
ますと「あなたは神の子でしょう、病気は無いんです」とこうやられるでしょう。そう言
われると、いかにも自分は程度が低くて、心境が浅いように見えますね。だから親しい友
だちにも病気の話はあまり出来ないのです。病気すればあなたの心が悪いから、あなたが
足らないから、と言われるでしょう。貧乏すればあなたが足りないから、失敗すればする
で、あなたの心が足りないから、とやられます。だから一寸古くなると、もうなんにも訴
えられない、何も言えない。だんだん偽善者になってくる。
自分の心をいつわって、本当は姑と嫁が仲が悪かったり、夫とうまくゆかなくても、う
まくいっているような顔をしている。顔だけですよ。心は違っている。心の中に自分の想
いを押しつめて、いかにも私は悟っています、てな顔をしなければ付き合いが出来ない。
そうなってゆくと偽善者になる。私のところに来ている生長の家の人たちは、みんなそう
いう苦しみからぬけて来たのです。66
あなたが悪いのではありませんよ
何故、私のところに来たかというと、私はあなたが悪いんじゃない、と言うでしょう。
生長の家式に何か言われるかと思っていると、やあいらっしゃいくと私が気軽に言うで
しょう。「私はいたらない人間です」「いやあなたはいい人ですよ。悪いと思っているけれ
ど、あなたが悪いのではなくて、過去世の因縁が今、夫とぶつかってチャンチャンバラバ
ラやって、それで消えてゆく姿で消えてゆくんだ。そうすりゃあなたも夫の姿もよくなる
んですよ。そのためには守護霊さん守護神さんに感謝しなければいけません。あなたのう
しろに、過去世からズーッと守っている守護神がいるんだ。その下にあなたの祖先の悟っ
た守護霊さんがいるんだ。守護霊さん守護神さんがズーッと縦になって守っていて、あな
たの本心を出そうとしているのだから、過去世の因縁が消えようとして今、あなたの運命
として現われてくるのだから、守護霊守護神に感謝して、つながっていさえすれば、それ
はやがて消えてゆくんだ。今、夫はどんなに悪かろうと、あなたがどんなに悪かろうと、
67信仰の極意
そんなことは問題ではない。みんな消えてゆく姿なんだよ。だから守護霊さん守護神さん
有難うございます、と思いなさい。それだけでいいんですよ。あなたが悪いんじゃないん
ですよL
と言われるから、すっかり気が楽になってしまう。ああ私が悪いのではなかった、過去
わけ
世なんだ、となんだか理由がわからないけど、自分のせいではなくなってしまう。それで、
あなたの本心は光明燦然として輝いているんだ、ただその本心を業が覆っていて、今どん
どん出ていって消えてゆく姿- 実を言うと同じことなんだ。ただ今のあなたが悪いんだ、
というのを、過去世までもっていっちゃった。過去世だって自分なのです。しかしそれは
実在としてあるのではなくて、現われては消えてゆく、煙のようなもの雲のようなもので、
どんどん消えてゆく。それで本当の姿は完全円満な神の子なんだ。
生長の家と似ていて全然違う。どこが違うかというと、私のは慈愛一本槍なのです。誰
も責めようと思わない、責めるところが一つもない。初めからみんな赦してやろうとかか
っている。生長の家の教えには赦しというのがない。初めは神示として”人間神の子、完68
メンタルサイエンス
全円満” というのが出て来た。あとの心の法則というのは精神科学、クリスチャンサイエ
ンスなどを谷口さんが英語で読んで、それを翻訳して自分のものにして書いたものです。
それは神示ではないんです。
生長の家の神示の中には「日本と支那とが戦っているのは、それはお互いの業が消えて
ゆく姿なんだ」というのがあるのです。この折角の神示を使わない。消えてゆく姿を使わ
ないで、無いということを、お前の心の影だ、というのを使ったのです。消えてゆく姿を
忘れてしまった。そこで私のほうへ神さまが移って来て「五井昌久よ、汝それをやれ」と
いうので、さんざん修行させられて、自分の直霊と一つになって始めたのが〃消えてゆく
姿”。
実相も現象も一つにしている
私の教えというものは、細かい、くどくどしいことは一つも言わない。消えてゆく姿一
本にしぼってしまったのです。消えてゆく姿の背後として何があるかというと、あなた方
69信仰の極意
の本心は完全円満なんだよ、ただ過去世からの業が覆っているんだ。それを消してくれて
救ってくれるのは誰かというと、守護神守護霊なんだ。だから守護霊さん守護神さん有難
うございます、と感謝をつづけていれば、守護霊守護神の光とつながって、業がたやすく
消えてゆくんだ、他のことを思う必要がないんだ、守護霊守護神を通して神さまの中へ入
ってしまえば、あとのことはどんなことが出て来ようと、みんな消えてゆく姿なんだから、
あなたは必ず良くなるに決まっているーということです。
単刀直入に一本でしょう。実相完全円満、現象はなんとか、そんなものありゃしない。
全部吹っとばしちゃって、実相も現象も一つにしているのが、私の教えなんです。単純で
素朴でわかりやすい。それでサッと赦されて救われるというので、心ある素直な人、真理
の目のある人、正直な人、生長の家に疑惑を持った人がみんなこっちへ入って来たのです。
谷口先生という人は十一月二十二日に生まれ、私も十一月二十二日に生まれているので
す。あちらは朝の五時とか、私は晩の五時かそこらに生まれている。間違えてはいけませ
んよ。生長の家が悪いというのではありませんよ。いいところと悪いところがまざっちゃ70
って、かえって迷わせてしまうというのです。
生長の家はとても素晴らしいのです。神さまはある年限まで説かせておいて、私を同じ
月の同じ日に現わしておいて、これの始末をつけうと言うのです。悪いところをいいもの
に変えろ、という使命を天からもらったわけです。ごたごた難しい理屈を並べたてるのが
宗教ではないのです。単純で誰にでもわからなければだめだ。
消えてゆく姿というのはとてもよくわかるのです。消えてゆく姿にも何段階もあるんで
すよ。一番簡単なわかり方は、この世に現われているものは、肉体といい、物質といい、
ある期間がきたらみな消えてゆきますね。形あるものは滅すということです。形あるもの
はみんな消えてゆくのです。消えないものは本心、神のいのちだけなんです。
神のいのちは永遠にして無限なのですよ。無限にして永遠なる神のいのちを持っている
のが、人間なのです。世界人口、二十何億ある人間に神のいのちが流れている。各人に入
ほつしん
って働いている。だから肉体がたとえ消えてなくなろうとも、法身のいのちというものは
そのまま生きている。だから消えてゆく姿くとみんな消えてもいい。あるものは神だけ
71信仰の極意
が残る。
全部が全部消えると、すっかり消えた時には、神のいのちがそのまま生きてくるのです。
そうすると消えるものも無くなってくる。
形あるものはみんな消えます。財宝も消えます。名誉も消えます。昨日の総理大臣も死
ねばなんにもなくなってしまう。
なんだってかんだって、消えてしまえば忘れられちゃいます。なくならないものは神の
いのち、これは永遠に消えません。
いのちは消えません。それは神さまから来ているのだ。それで神さまを大親さまという
のです。宇宙神、大生命ともいいます。大生命のいのちはいつでも変わらず消えない。
そして大生命というものは、大生命だけで生きているものではなく、細かく光の線にな
わけみたま
り、光の分霊となってここに来ているわけなんです。
ちよくれい
分霊の一番大元に、人類としての大元に直霊があるのです。それが七つある。七とは完
成ということで、七つの直霊が集まって本当に輪になると、完全なものが出来てくるから、72
七を完成にしてあるのです。この七つの直霊から分かれて、分霊、分霊となって、みんな
ここに生きているわけです。ですから皆さんが肉体に生きているということは、肉体にい
ながら、幽界にもいるし、霊界にも神界にもいるわけなのです。
あなたは神の子です
それをみんな肉体にだけいると思うのです。そう思う人は唯物論者というのです。神さ
ま神さまと言ったって、肉体だけしかないと思う人は唯物論者です。そうでしょう。肉体
ものヘヘへ
というのは物でしょう。神さまのいのちというのは神界に輝いている、霊界に輝いている、
幽界にもいる。肉体が浄まってゆくと、幽体さえも浄まって霊体だけになってしまう。霊
体はそのまま神体に通じるのです。
意
私はどつなっているかというと、もつ幽体はないんです。霊体じかになっているのです。唖
幽体がないからいくら人が思っても、どんなに思っても溜まらないのです。何百人もの想訥
{
いがパッパッと霊体の光にとかされて浄まって、そのまま私はなんともないでしょう。光73
の体にならなければいけません。
本当はみんな光の体なんだ。光の体は神体霊体という。それをみんな知らない。本当は
知っているのだけれど忘れている。
その忘れているのを思い出させようと思って、私が「あなた方は神の子なんです」と自
分が神界に行ってみて、確かめて来たことをお話しているのです。
私は肉体にいながら、幽界を通り霊界を通り、種々な階層へ行って、そして神界へ行っ
て、自分の直霊と直接つながって、それでまた降りて来たでしょう。だから、地獄も知っ
ていれば、幽界も知っていれば霊界も神界もみな知っているのです。
神界には人間の元の姿がある。神が自分の姿に似せて創ったのだというその人間がいる
わけなのです。霊界の上のほうはいいけれど、幽界に来ると、業想念があって、それが詰
ってきて肉体の人間になる時には、神さまの姿が消えてしまうのですね。幾らかだけしか
現われないのです。それで迷っているのです。
こうしよう
それがこの業生の迷いの世界の人間なのです。しかしそれは消えてゆく姿なのです。何
ヘへ
故かというと、本来あるのではないからです。消えてゆく姿も本当はなくなってしまうの
だから、無いのだけれども、消えてゆく姿にすると楽です。病気は無いんだく、罪は無
いんだく、と頑張るよりも消えてゆく姿だを使えば、今私は病気だけれども、これは時
間がたてば消えてゆくのだ、今私は貧乏だけれども、これは時間がたてば消えてゆくんだ、
というふうに簡単に消えてゆく姿がわかりますね。
それに現実に肉体の五井昌久がいて、五井先生! と呼べば私が現われて消すでしょう。
私の光体の写真(霊光写真のこと)がありますね。あれは私でもあり、皆さんの本心で
もあるのです。私の専売特許ではないのです。皆さんもそうなんだと私は教えているので
す。
人間は神の子なんだから、みんな神の子でなければならないのですよ。迷っているのは
本当はおかしいのですよ。ところが迷っている想いがあるでしょう。それは消えてゆかな
ければあるのですよ。早く消えてゆく姿という真理がわかって、そんなもの相手にしない
で、病気になろうと不幸になろうとそんなもの相手にしないで、どんな悪いことが出て来
75信仰の極意
ようと、それは神さまが大難を小難でさけてくれたんだ、有難うございます、神さま有難
うございます、というように、想いを神さまのほうにみんな入れてしまえば、業を相手に
しないのだから、神さまの中に入りきりなのだから、やがては神の姿がそのまま現われて
来て、その人は完全になるに決まっているでしょう。そこで初めて、人間は神の子なんだ、
ということが生きてくる。私はそういう方法を教えているのです。
76
里住宗忠の素晴らしさ
みんな直霊なのです。自由自在なのです。けれど自由自在でないと思っている。肉体そ
のものだと思っている想いが不自由にしているのです。だから人間は神の子だ、と本当に
わかると、その人は自由になります。
少なくとも私は自由です。ここに居ても、大阪の田中太郎さん、ハイその人はこういう
人です、とすぐわかります。みんなの心の中がすぐわかります。誰でもわかるのです。た
だわかろうとしないだけ。今にみんなわかってくるのですよ。そうすると地上天国になる
のです。
どうやったらわかるかというと、自分という肉体の業想念、例えば、ああじゃない、こ
うじゃない、あいつの心がなんとか、あのやつ憎らしいとか、あのやつ妬ましいとか、あ
いつと俺とどっちが偉いなんてそんなつまらない想いがあるうちは、相手の心が本当にわ
からない。相手と一つにならない、自分がある。業想念の自我があるでしょう。本当の自
我というのは神さまなのだけれど、業想念の自我欲望がある、だから人がわからない。色
眼鏡で見る。私は色眼鏡をかけていない。肉体としての五井昌久というのはいないのです。
から
だからいつも空っぽなのです。そうすると向こうの心がうつってくるのです。
“立向う人の心は鏡なりおのが姿をうつしてやみん
“
くろずみむねただ
黒住宗忠の歌があります。黒住さんも業がなかったのです。自分と人とはみんな同じだ
意
と思っていた。極
の
ある時聯嘱の人が治してく些とやって来㌃そつすると奥さんは嫌がって、「癩病儲
だから上げちゃ困るく」と言うと、黒住さんは「可哀そうじゃないか、苦しんでいるじ7
やないかLと言って家に上げて、癩病人の体をさすって治してやった、という話があるん
ですよ。それ程に愛が深い。それは自分と向こうが同じに見えてしまうのです。黒住さん
という人はそういう人なのです。
私は黒住さんを偉い人だと思っているのです。まだ黒住さんが人助けを始め出した頃の
ねた
こと。人が大勢来ておりました。それを他の行者たちが妬んで「あのヤローなんだ新参者
のくせにして」と腹を立てて、その代表が黒住さんのところに来て、さんざん悪口を言う
のです。
奥さんがたまりかねて「あなた、やっちゃいなさいノ\ 」とつっつくわけ。宗忠さんは
ばりぞうごん
ニコニコして、黙って行者の罵署雑言を聞いているのです。「お前なんかどこかへ行っちゃ
え」と言われても、黙って一言もいわずに聞いているのです。それで行者は、黒住さんを
やっつけたと思って、いい気持ちになって、悠々として帰ってゆくのです。
奥さんが「あなただって一派の統領じゃないですか、あなたの理論は正しいのだから、
理論で打ち負かさないのですか」と言ったら、「私がやることはわけない。私が言えば向こ7s
うは一遍にまるつぶれになってしまう。あの人の中にいる神さまもしぼませてしまう。あ
の人は今、いい気持ちになっている。それをやっつけたら、あの人は委縮しちゃうじゃな
あまてらすおおみかみ
いか、そうしたら中にいる神さま天照大御神に申し訳けない。だから私はあの人をぺちゃ
んこにしなかったんだ、ああよかった。あの人の嬉しそうな姿を見なさい」とこう言った
のです。偉いでしょう。出来ますか?
黒住さんは中にいる大神さま、私のいう本心を天照大御神の分身分霊と思ったのです。
本当にその通りで、みんな中に天照大御神の分霊がいるのです。みんなが持っている神の
子をけがしちゃ大変だというんで、行者の神の子さんを拝んだ。業は消えてゆく姿だと思
メンツ
っているんです。神の子さんをけがしては大変だというんで、自分の面子などどうでもよ
いからというので向こうを立てたのです。とても真似の出来ることじゃない。その一つだ
けでも、とても偉いと思う。もう一つあるのですよ。
ある時、講演会にゆくのに、川を渡ろうと思った。そこに丸木橋かなにか細い橋がかか
っていたのですね。そこを渡ろうとした途端に、グラグラとしたのです。落ちそうになっ
79信仰の極意
て、あっと思わず思ったのですね。危いと思ってドキッとしたわけなんだ、それでも渡り
きった。そして講演会の席についたのですが、なんと言ったかというと「私は今、天照大
御神さまに対して申し訳けないことをして来た」みんななんだろうと思った。「実はこれこ
れで、天照大御神さまはここにいて、完全円満な自分なのに、橋を落ちそうになって、あ
っと驚いて神さまをおどろかせてしまった、私は本当に申し訳けないことをした」と言う
のです。みんなに涙を流してあやまるんですよ。
素晴らしいでしょう。そういうのを真実に神の子というのです。
そういうようにはなかなかならない。そこで私はそこまでになる方法として、いつでも
いつでも神さま! という気持ちで、守護霊守護神に全部まかせてしまうことを教えた。
自分の本心は天照大御神でもいい、分霊でもいい、神の子なんだ、だからこの大御神に対
して悪い行ないをしてはいけない、悪い想いを出してはいけない。人をいじめ自分をいじ
めてはいけないんですよ。
80
自分をいじめることは本心をけがすこと
自分をいじめることは本心をけがすことなんだ、自分の中の神さまをけがすことなんだ
から自分をいためてはいけない。お前の心の影だなど、とんでもないことで、黒住さんは
そんなことは言いません。お前の心が悪かったら神さまが悪いことだもの。お前の本心は
立派なのに、お前の業想念が悪いのでしょう。業想念は早く消さなければならない。お前
の業想念は消えてゆく姿と教えなければだめでしょう。消えてゆくには守護霊守護神にま
かせて消してもらうのだ、ということでしょう。
消えてゆくくとやっていると、自分の本心が出て来て、黒住さんほどにはなれないか
も知れないが、相当立派な人になるわけですよ。それをやさしく簡単な言葉で、消えてゆ
意
く姿なんですよ、守護霊守護神に感謝しなさいと言っているのです。極
の
この消えてゆく姿がわかってくると「先生、消えてゆく姿は素晴らしいですね」と言う訓
{
のですよ。どこにも把われることがないから、たとえば欲望なら欲望が起こる、怒りの心、
81
妬みの心が起こる。普通ならば、私は信仰しているのに、なんて私はダメな人間だろうっ
て、自分をいためます。それをああ、これは消えてゆく姿だ、私の中の業、過去世の因縁
が消えてゆくんだ、というように思えます。だんだんやっているうちに、どんどん思えて
来ます。そうすると、自分をいためないで、自分の中の悪いものをどんどん減らしてゆく
ことになります。
こういう簡単な教えというのはありませんよ。どこの教えどの宗教よりもうんとやさし
くサつ
いです。むずかしい教えでは空になれというのがあります。
くの ノ
空にならなければ人間の本体がわからない、空にならなければ仏さまが現われない、と
ぼさつ
いうけれど、空になれませんね。菩薩級の素質のある人はなれますけれども、普通の人は
こう
空にはなれません。けれど、消えてゆく姿を真剣にやっていると、いつの間にか業はみん
な消えるでしょう。そうすると神さまと一つになってしまう。自分の直霊分霊と一つにな
る、守護霊守護神と一つになる。そうすると空ともなんとも言わなくても、ちゃんと本心
が現われてくる。82
世界平和の祈りの根本
私がこうやって話すのも、何を話そう、と考えていないのですよ。誰が話をするかとい
うと、直霊の五井昌久が話をする、神さまが話している。神さまでなくちゃこんないい話
は出来やしませんよね。人間の創り話では出来ないです。
どんどん話が出て来る、それでみんなの胸を打っている。何故かというと、わかりやす
いからです。
だるま
神さまはお釈迦さまを生み、キリストを生み、達磨さんを生み、いろんな人を神の子と
して、神の使いとして、守護神的な役目にして生んで、そしていろんなことをやってみて、
これでも救えないか、これでもかくというんで、いろんなことをして救おうと思ってい
意
るのです。それで時機が来るのを待っているのです。極
の
いくら救おうと思っても、宇宙がまわっていて、ある一点にまで来ないと、業が馨点儲
ひそ
に達して、業想念がうんと浮き上がって来ないことには救えないのです。潜んでいるもの83
を引っ張り出しても、けがをしてだめです。それでお釈迦さまが祈ったり、キリストが祈
ったり、いろんな聖者が祈った祈りによって、業がどんどん浮き上がって来て、今一番表
面に出てしまって、まさに大戦争が起こりそうな気配があったりする。それが起これば原
水爆戦争になりかねない。それまでに業が浮き出て来た。そこに向かって世界平和の祈り
をやれ、という至上命令が下ったのです。それで私が世界平和の祈りをしているのです。
世界平和の祈りの根本原理はどこにあるかというと、みんな消えてゆく姿なんだ、人間
は神の子であって、光り輝いているものなのだ、しかし業想念がとりまいていて、その光
が外へ出ないんだ、外へ出すためには自分の想いを神さまの世界に全部投げ出さなければ
いけない。しかし神の世界といってもちょっとわからない。神さまの世界はわからなくと
も、神さまのみ心はわかる、それは世界人類の平和であり、世界人類の平和を祈る想いが
神さまのみ心なのだ。だからそのみ心の中に飛びこみなさい、サア、世界人類が平和であ
りますように、と祈って神さまのみ心の中に想いを飛びこませてしまうのです。自分だけ
では飛びこめないような気がするから、守護霊さん守護神さん有難うございます、という
感謝の想いとともに飛びこませてしまう。それでも出来なかったら、私が提唱者なのだか
ら、五井先生! って私の中へとびこんでしまう。そうすると私と共に、世界平和の祈り
の神さまの中へ、要するに救世主の中へとびこんでゆくわけです。そうすると肉体の人間
を通して、光がパーッと拡がってゆくのです。拡がってゆくと、今まさに原爆を落とそう
かな、とする時にパッと想いが変わってしまう。
今まで、戦争の危機が何べんもあるんです。それを私たちの世界平和の祈りや、他の人
たちもたくさんやっています、そういう人たちの調和の祈りが、業想念を消して戦争にも
させない、天変地異も起こさせない、そういうふうにしているのです。
平和の祈りも何もしないで、自分たちの明日の生活をどうしよう、金儲けや食うことば
かりに熱中していたら、この世界は必ず亡びてしまいます。業想念がそのまま出て来るか
らです。そこで神さまは、大急ぎで私をつくって、世界平和の祈りをさせているのです。
そして平和を祈る人たちが大勢集まって、真の輪になってつながった時には、本当の地上
天国が出来るのです。皆さんはその一員なのです。
85信仰の極意
皆さんは、自分が救われると同時に、人を救う立場になっている。それを断固として思
わなければいけない。自分は救われながら、菩薩行をやるんだと思わなければいけない。
自分が菩薩行をやっていることは、自分が救われていることなのです。そういうことを私
は一所懸命話しているわけなのです。
86
祈りは観念論ではない
昭和33年9 月6 日
真理がわかることが霊的
い
霊的にいろいろわかる人があります。霊的というと、気違いみたいになって、踊り出し諏
で
たりするんじゃないか、と思う人もあるけれど、それは本当の霊的ではない。本当の霊的論
念
というのは、霊がめざめる、霊覚といって自分が肉体ではなく神の子である、霊体である、燗
ということがわかることで実直感的にパッと真理がわかるのも霊的なので究だからそ襯
ういう人と、見えたり聞えたり、書かされたりする人と両方に分かれています。しかし最87
後には全部の人が霊的になります。だからいわゆる霊的になろうと思う必要はない。
ただ世界平和の祈りをして、想いをみんな平和の祈りの中へ入れてしまっていると自然
となる。自分で”なろう、なろう” とすると、そのなろう、とする想いを取りはらうため
に、いろんな修行をさせられます。修行はつらくないほうがいいです。私の所に来ている
と、他で修行するより、ずっと楽なのです。
この頃、統一修行会をやっていますと、他の統一会や神想観などをやっている人たちが
うちへ来て、私といっしょに座りますと、とても楽に統一出来て、いい気持ちになる。こ
の間、杉浦さんという人が統一している間、ずっと極楽にいました、なんて喜んでいます。
他でやったら、そんな統一しないんです。誰も彼もが楽になるのです。何故かというと、
はら
私のところに働いている神々が、みんなの業想念をひょいひょいと祓っている。
みんなが統一しますと、へんなものが寄ってくる、あるいは業想念が出てくる。そうす
かしわでいん
ると私が柏手を打ったり、印を組んで光を送るのです。光がゆくと、パッと晴れるから、
みんな楽にスッとする。邪魔ものは私が除くのです。そういうやり方だから統一がとても
88
楽なのです。
集団の統一をしている時は、私がいつもいます。午前十時のお祈りでも、午後三時のお
祈りでも、たいがい私は二階で祈っています。そうすると祈っている人が楽なんです。個
人の場合でも世界平和の祈りをする時、私をたいがい呼びますから、私が(霊的に)行き
みずか
ます。それで浄めるからこれも楽です。他の宗教ではそういうのが無いんですよ。自ら一
人でやる。自分でやらなければならないんだ。それに、統一を教えてやるとお金をたくさ
んとったりする人もあるんだ。
ところが統一じゃなくて、何かヘンなものをつけられて、人間として人格破綻のように
なって、人格的にはとても低くなってくる場合がある。ところが私のところでやりますと、
皆明るく、浄らかな感じになってくる。
そろそろ明かしましょう
ここで、ソロソロ話してもいいんだけれど、金星からどれだけの人が、今私たちのとこ
89祈りは観念論ではない
うに働きに来ているかというと、一番上に長老が一人いる。この人はキリストよりも偉い
人なのです。肉体界の近くまで現われて働く人がこの長老で、中心にいます。その脇にき
れいな目をした女の人もいます。二十七、八人ここにいて、みんなこの霊団に働きかけて
いる。そういう人たちがいてやっているのです。
これは「もう言ってもいい」というので、初めて言うのですよ。向こうで言ってはいけ
ない、というと言えないのです。
こういうように働きかけていることを、私が書くでしょう。それがわからない人たちは
わざわざ忠告に来たりする。「消えてゆく姿はとてもいいと思う、守護霊守護神を教えてゆ
くのもとてもいい、それで病気を治したり、貧乏を直したりするのはとてもいい。けれど、
宇宙人が出るとか、神霊が物質化するとかいうと、世の人がまどうから、そういうことは
言わないほうがいいでしょう。ちゃんと人を救っているんだから、先生はそれだけでいい
じゃないですか」と言ってくるのです。有難うと私は御礼を言っておくけれど、実はちっ
とも有難いと思っていない。いけない、いい、じゃなくて、本当のことが本当に現われる90
だけだから、私は聞いておくだけです。
この霊団は折角いい教えをしているのに、それだけでいいのに、宇宙人が現われるとか、
霊が物質化するとか、そんな余計なことを言ったら、かえっていけないだろうと、その人
たちは思うのですね。ところが消えてゆく姿の教えは勿論いいです。一人一人はみな救わ
れます。私に会っている人はそれだけでたくさんです。ところがそれだけでは、私に会っ
たり、白光誌にふれたりする人だけしか救われないですね。世界人類なんてだめです。そ
んなに広まりませんから。そこでどうしたらいいかというんです。そこまでは普通の宗教
なのです。
い
宇宙人の降りやすい場磁
舖
普通の宗教の教えの中では、私の教えの消えてゆく姿というのは、一番率直で純化され耀
て、短かくて易しくて、一番早く救われる教えなんです。それだけでも他の宗教よりはい棚
いのです。だがそれだけでは人類世界が救われない。そこで世界平和の祈りが始まった。91
そして宇宙人と地球人が提携することが始まった。向こうからこちらへ来て「やりましょ
う」ということなのです。
宇宙人と提携するという人はたくさんいるんですよ。宇宙人が降りますように、空飛ぶ
円盤が見えますように、というように祈ったりしています。早く宇宙人に会いたい、とか
が
言うのです。それは我なのです。そういう想いがあるうちはダメなのです。何故かという
から
と、空っぽにならないと向こうの波と合わないからです。向こうの波はすごく微妙なので
す。宇宙人は霊体ですから、波長が合わないのです。宇宙人が早く来ますように、では来
たって低い人が来るだけで、本当の働きが出来るような人は来ない。
私たちの祈りはどういうことかというと、宇宙人が来るのは、向こうで来ます、と言っ
ているのだから、当たり前だから、来ますようにとか、現われますようにとかいう想いは
ない。ただ世界平和の祈りをして、宇宙人が降りやすい波、降りやすい場所を作ればいい。
それをしているのが山(聖ヶ丘)の統一なのです。何々して下さい、と祈るよりも世界人
くサつ
類の平和を祈る祈りだけです。それは無我の祈りでしよう。空の祈りなのです。世界平和92
の祈りさえもなくなった祈りをしている。そのまま祈っている。それを誰が提唱している
かというと、肉体的には五井昌久、霊的には長老なのです。アダムスキーの会った長老と
らようろう
は違います。そうすると、唯物論的なわからない人は、私を嘲弄するんですよ。(笑)と
ころが笑っている人は、今に驚くことが来る。
金星というのがあります。形が星に見えます。星に見えるけれども、これは命の光なん
です。命の光の中にいのちの光がともに住んでいるんです。この地球も球です。その中に
光の玉である人間が共存しているのです。地球を司る王さまを地球霊王といいます。金星
にも金星を司る王さまがいるわけです。その中に長老が何人かいるわけです。
金星の人たちは、感情に把われない人たちなんです。あのヤロi憎い、とか、恨めしい
とか、そんなことは思ってない。あれが欲しいとか何とか思わない。そんなものは全然な
い人たちなんです。そのままの人たちなんです。たとえば私のような人なんです。なんに
も思わなくても、スッと出来るような人なんです。
93祈りは観念論ではない
感情をこえることが大事
だから人間というものが一番立派になるためにはどうしたらいいかというと、自分の感
こ
情を超えなければいけないんです。あのヤロー、憎らしいとか、恨めしいとかいう感情を
こえて、感情と違った感情1 ちょっと言葉がないんですけど、やっぱり一転して、天か
ら来た神のみ心が現われなきゃならないんです。神のみ心の中にも、やはり感情みたいな
もの、情愛みたいなものはあるんです。守護神には情愛みたいなものはある。だけど、そ
れはとらわれの執着の情愛ではないんです。我欲のものではありません。
私も「ああ、がわいそうだな、あの人を救ってやりたいな。ああ、苦しそうだな、私が
代わってやりたいな。あの人どうしたのかな、大丈夫かな? 大丈夫だ、よかった。あの
人はどうしたかな? 、危ないな、何とか助けたいな」とこう思う。そう思うけれども、こ
れは肉体人間の我欲じゃないです。愛、慈愛なんです。ですからすべて感情のように思わ
れることは、すべて慈愛の現われになってくる。そういうふうにならなきゃいけないんだ
し、またなってくるんです。
世界平和の祈りによって、自分の自我欲望をいっぺん神さまの中へ捧げてしまうと、神
さまのほうから愛の光、慈愛の光が流れて来て、それが肉体的に人間的に働くと、神愛、
情愛というか、執着でない本当の愛情になってくるんです。私なんかそうなんですよ。み
んな一人一人来ると、百パーセント愛するんです。この人もかわいい、この人もかわいい。
ところがその〃かわいい” というのは、普通いう〃かわいい” “ほしい
” というのとは違う
んです。「この人が立派になりますように」とか「この人が幸せでありますように」と思い
ます。
い
それは愛なんです。といっても、その人を自分のところで掴んで離したくない、なんて臆
思いません。娘さんなら、いいお嫁さんになるように・と思います・世の母親は・自分の諏
念
娘を早く嫁にやりたいし、さりとて手離すのは惜しい、恵そしょ。ところが私たちの臓
場合は、惜しくないです。いいところへお嫁にやろうと思うし、いい人が出れば「ああ、棚
よかったな、嬉しいな」と思って喜びます。ただそれだけで、向こうから何してもらおう
95
とは思わないです。私はこれだけ愛してやったんだから、これだけ何してやったんだから、
あの人からお返しを、なんて思いやしないです。ただやりっぱなしです。与えっぱなしで
す。それが神さまの愛なんです。その神さまの愛をもって、なんでもなくそのまま生活し
ている集団が、金星人やなにかなんです。
96
ごんげ
宇宙人は愛の権化
宇宙人というのはそうなんです。普通の業想念の感情がなくて、神さまのみ心が普通の
人間の感情のように現われている。そういう人たちなんです。だから肉体の人間でもそう
いう心になれば、宇宙人と同じ資格になるわけです。そういう人が多くなればなるほど、
宇宙人が早く降りて来てくれます。そこで聖ヶ丘の統一会の人たちは、それを目標にして
から
いるんです。空っぽになるわけですね。空っぽになることを、世界平和の祈りの中でやっ
ているんです。
みんなはじめは”世界平和… … ” というけれど、あとは何も思ってないんです。そうす
ると現われてくるものは現われてくる。いろんなことが現われてくる。
この間も話した暁の祈りではないけれど、目をあけてても、この身体から光がダーッと
流れ出ているのが見えるんです。それが物質化してくると、宇宙人の姿になり、金星人の
姿になるんです。守護神と金星人というのは、はっきり言えないけれど似ているんです。
同じと言っていいくらい似ているんです。だとすると、金星人は普通の人みたいに、円盤
から降りて、ノコノコ歩いてくるか。アダムスキーの本ですと、ノコノコ歩いてくるけれ
ど、あるものにはパッと消えたりすると書いてるのもあります。さて、うちに現われる宇
宙人はどういうのか、ということです。
ここに現われているんです。キリストと仏陀が一緒にいるように金星人がいて、話して
る。私がこうやって口をきいてるでしょ。それで今「こういう人がいて、二十何人働いて
いるんだ」と言うのは、一体誰が言っているのか、ということです。私の頭じゃ何にも言
ってないです。では誰が言っているのかというと、降りてくるご本人が言うんです。だか
ら間違いないわけです。ただしみんなには見えない。それが見えてくるんです。言ってい
97祈りは観念論ではない
る本人が見えてくる。この中(自分をさして) にいるんです。ということは、もっともっ
と言い換えれば、みんな一つの中にいるんです。一つの中にいる。皆さんの中にもいるん
だけれど、皆さんにはわからないんです。私みたいな人でないとわからないんです。
それは何故かというと、私がそういう役目を持って生まれて来ているからです。私は前
の世でありったけの難行苦行をしていたんです。それでこういう体に作りあげて、サアも
うやらなきゃならないと、現われることになっているのです。現われるということはもう
決まっているし、当たり前なんです。
98
現われるべき時に現われる
だから世界平和の祈りをする時は「現われたまえ」と言うんじゃないんです。世界人類
が平和になるように、ということは勿論ですし、これは根本なんですが、ただ「平和にな
るように」だけでいいんです。そうすると、ちゃんと宇宙人が現われるべき時に現われる。
が
「現われますように、現われますように」というのでは我なんです。そこのところがむず
かしい。他の宇宙の研究家とか宇宙人と交流しよう、という人はアダムスキーでもそうで
すが、念力で念波を送って呼ぼうと思っている。その呼ぼうと思う心がまだだめなんです。
それじゃ働けないです。会うことは会えるかもしれないけれど、今度は向こうで働く場面
が出来ないですよね。だから呼ぶんじゃなくて、もうそのまま現われるに決まっているん
だったら、こちらの心を整えておけば現われるんです。その役目を私たちがやってますか
ら間違いない。
これから「そんなのウソだ、それなら現わしてみろ」とか、いろいろなことを言ってく
ると思うけれど、現われるに決まっているんだから、私は実にのん気なことを言っている
んです。何しろ反対のほうが多いんですから。また現われる頃になったら、更に反対が来
ます。業想念の念波が来ます。今、こうやって話してると、念波がお腹の底を襲って来て
いるんです。だけどそれは別にどおってことない。襲って来ようと向こうの勝手だから、
だんだん、だんだん業想念が近づいてくればくるほど、向こうが浄まるんだから、向こう
から来ればこっちは楽でいいですよ。
99祈りは観念論ではない
だから私が山(聖ヶ丘) へ行く時でも、いつも邪魔しようと思って、妄念がいっぱいか
かってくるのです。それでやっとこさ、というような形で歩くこともあるけれども、襲っ
てくりゃ襲ってくるほど、向こうは早く浄まるんだからこちらは楽でいいですよ。わざわ
ざ向こうに行く必要はないですから、何故襲ってくるかというと、金星人と日本とが手を
つないで、日本に金星との連絡場所が出来たならば、ソビエトの業想念も困るだろうし、
サタン
アメリカの業想念も困るだろう。人類の業想念というのは姿になれば悪魔です。サタンが
滅びなければならないから、最後の抵抗を試みるけれど、そんなもの問題じゃない。
見ててごらんなさい、今にそう遠い将来じゃなくて現われます。現われるぐらいはわけ
ない。ただ現われてからが問題なんです。現われてからどうなるか、どういうふうにして
やるか。しかしそれはあまり深く知らないほうが、何だかおもしろいですね。映画も途中
で「これからどうなるのかしら… … 」とハラハラしたほうが面白い。ただ本当に現われる
んだ、ということだけはっきりしてたらいいです。現われるに決まっているんですから、
それはもう断言します。そうすると、親切な人は本当に心配するんです。100
「先生、そんなこと言っちゃって大丈夫ですか? もし現われなかったらどうしますか」
なんてね。現われる、と言っているけれど、日は切っていませんから。日は切れないけれ
ど、現われるに決まっている。それは要するに、こちらの波長と向こうの波長が合った時
なんだから。しかし遠い将来ではない。「先生、五十年先じゃないですか? 」そんな遠くじ
ゃない。まだ皆さんが生きているうちです。五十年も六十年も先じゃ間に合いやしないも
の。業想念は第三次世界大戦をひき起こそうとしているんだから、それより前じゃなきゃ
だめでしょ。だから近い将来なんです。
光の集団
だんだんいろんなことをはっきり教えますが、今教えていることはーきょう初めて言
ったことは、中心の長老が一人いて、その下に現実界に働く男性と女性の長老がいて、二
十何人の金星人、宇宙人が働いているんだということです。といって、みんな変になっち
ゃって「先生、私に金星人が現われて予言がありました」なんてやって来られても、私は
101祈りは観念論ではない
本当にしません。ただ「ほうそうかい」と言っているかも知れません。ほうそうかい、と
聞いていたから先生は私を信用してくれた、と思ったら間違いですよ。私は本当のことで
ないと、笑って聞いているだけです。本当のことであれば「そうです。それは本当のこと
です」と言います。霊的になったりして、いろんなことを言われても、私は忙しくて困る
から。
ただ世界平和の祈りの中へ身を挺して、すべてを投げこんでしまうと、世界が平和にな
るのです。平和になるためには観念論の、心の影でやったってだめだし、ただ”神さま”
と言っててもだめなんです。実際的に働きが出来なきゃだめです。実際的な活動が出来る
ためには、唯物論の共産主義や社会主義に立ち向かってやったってだめなんです。立ち向
かってやれば闘争です。そんなもんじゃないんです。もう共産主義も唯物論もなんにもな
い。そんなものはみんな消えてゆく姿として、パーッと光るとみんな吹っとんでしまうよ
うな光の集団、力の集団が出来る。要するに力を持たなきゃだめだ、ということです。
日本よ、力を持て、と言うんです。その力はどこから来るかというと、宇宙人との提携102
から来るんです。宇宙人と提携しなきゃ絶対、力はないです。アメリカも大きいし、ソビ
エトも大きいんだから、それを超越してゆくのは宇宙人との提携じゃなければだめなんで
す。その提携が霊的にはもう出来て、しっかり手を握っているんです。ただそれが現われ
てくる時間だけなんです。その時間を早めるのは、皆さんの世界平和の祈りだ、というこ
とになるのです。
103祈りは観念論ではない
104
宇宙人との提携は夢物語じゃない
昭和3年12月14 日
仲立ちは大犠牲者
人間は皆神の子であるのに、人間にすがらせてゆくということは、本心の開発を邪魔し
ている、ということを、他の教団の教祖が書いているんです。
人間は神の子完全円満だよ、と言って、こちらは全部肉体を投げ出してしまって、神さ
まの器になりきっている。そうなりきっている者が、私の名を呼びなさい、救ってあげま
すよ、と言って日々行じている。それがどうして悪いのか。
人間にすがらせてはいけない、という言葉をいうのは、口では人間神の子完全円満と教
えながら、実は人間は神の子じゃないと思っているんですよ、その人は。人間は業の子だ、
肉体だと思っているから、肉体の人間が”すがれ” というのはおかしいと、こう思うので
すよ。自分が神の子になっていないから、自分がなっていれば、サァ私にすがりなさい、
私が救ってあげますよ、と言って、どうしておかしいことがあるでしょう。
私はちゃんと『白光』の一月号に御返事を書いておきました。い
な
口だけでいくら、人間は神の子だ、病気は無いんだ、貧乏はないんだ、と教えてもなんい
にもならない。整る人が実行しなきゃだめ。整る人が実際に実行して・サァ私を思い擁
夢
なさい、私が救ってあげます、といって、思ったら救われれば、その人は救われたわけでは
携
す。福田さんみたいに、知らない間に、いきばらないうちにスッと救われて、安心立命の曜
中に入ってゆくでしょう。是
宙
それは守護霊さん守護神さんもそうだけれど、私が言っちゃおかしいんだけれどもやっ宇
ばり五井先生が土台になっているからです。それが百人救われ、三百人五百人千人救われ塒
るとなると、五井先生!と言って救われてかまわないでしょう。ところが谷口さんの言う
のには、神と人間の仲立ちはいらない、自分が本心を開発すればいいんだ、と言うんです。
そうすると観世音菩薩やイエス・キリストはどうなるのか。イエスさんは人間だった。
イエスの御名によって救われるという教えはどうなるのか。イエスの御名によって、本当
に神さまの中に入って救われているキリスト教の信者はたくさんいます。牧師さんたちは
みんなイエスの御名によって、と言って救っています。イエスの御名によって、と言って
と
身命を堵して働いている人はたくさんあります。
つねに神の座にのぼるためには仲立ちが必要なんです。仲立ちになる人は大犠牲といっ
て並みなみならぬものなのです。大変な大犠牲なんです。仲立ちをして、サァ私を通して
救われなさい、さあいらっしゃい、とやっているのは、大犠牲なんです。道場に来ている
人はよくわかりますね。
霊的な人がたくさんいます。霊的な人に波が、想いがかかって来たりすると、その人で
はどうにもならない。お前は人間神の子、完全で病気は無い、なんて言ったって、ワッと106
やって来たら、どうしようもないでしょう。そういう時どうするのか。誰がどうやってや
るのか。生長の家ではどうやって治すか、わからない。人間神の子もへったくれもないで
すよ。南無阿弥陀仏もなにもないですよ。どうにもなんないですよ。どうやったらいいか、
サッとだいてやればいいです。そしてじっとこちらの光を当ててやる。そうすれば治って
くるでしょう。そういうことがザラにある。
かか
葱ってくるものを、こちらの光が吸いこんじゃうのです。みんな私が吸いこんできれい
にして返えしてやると、葱って来たものがみんな浄まって、天へと行っちゃう。そうする
とそれらが今度はみんな味方になって、守護の神霊になってくるわけです。だんだん味方
が増えてくる、そして霊団がだんだん大きくなってくる。
夜中の二時三時に、お腹が痛くてしようがない、ああ神さまって言ったって、神さまじ
ゃちょっと届かない。なんだか遠い気がする。五井先生! というとこっちヘパッと来ま
す。私をかすっていきますよ。そうすると向こうは治ります。だからいつでも仲立ちとい
うものはいるんです。必ず神さまにつながる仲立ちはいるんです。
107宇宙人との提携は夢物語じゃない
それを私は抽象的には守護霊守護神として打ち出し、守護霊守護神に感謝しなさい、と
言っています。守護霊守護神でも間に合わない、世界平和……でも間に合わない、ひとり
でに、自然に、五井先生と呼んじゃうわけです。そうするとその想いがパンと私に来て、
私を通してスッと光の中に入ってゆく、それでみんな救われている。そういう仲立ちがど
うして悪いでしょう。悪いわけがないでしょう? そう言えないのは、人間は神の子であ
るということを知らないからです。
108
身を投げ出して救う
人間は神の子であると自分が思ったら、自分が引き受けてやったらいいじゃないですか
ね。イエスは身を投げ出したんです。イエスという人は自分を投げ出して、さあ人類を救
おうと、十字架にかかっていったわけですよ。自分を十字架にかける、そういう大犠牲心
がないから、「お前の心が悪いからお前の信仰が足らないから、お前の病気はだめなんだ。
ぶつぶついうのはお前の心の影だ。自分の悪いのはお前の心なんだ」そういう下らないこ
とを言って、みんな弟子のせいにして、自分はただ口だけで教えを説いている。サァ自分
に来るものはみんな自分が引き受けて、自分がどんな辛い想いをしても、みんな引き受け
て救おう、という菩薩心がないから、口だけでお説教をしている。そういうお説教をして
いる人が私の悪口を言ってるんですよ。
れいれい
私はちっとも痛くもなんともないですよ。それもまた本に麗々しく、夫が書き、妻が書
き、両方で書いているんですよね。そういうのは実におかしい。それでしかも人間は実相
完全円満で悪はないのですと言っている人が、私を悪人のようにでっちあげてしまう。そ
れで自分は高みの見物で、要するに、教団を保持するために、金ばかり集めている。そう
いうやり方をしている。私が大犠牲になってサァいらっしゃい、みんな私を通して救われ
なさい、と大手をひろげてやっているでしょう。みんな先生! といって治ってゆくでし
ょう。そういうのをけなしている。自分が出来ないからね。
いかなる時であってもかまわず、苦しい時は先生! って呼びなさいよ。そしたら私が引
き受けますから。咄嵯の場合はいつでも引き受けます。
109宇宙人との提携は夢物語じゃない
ふだんはどうやったらいいかというと、世界平和の祈りを唱えていることです。
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊さん守護神さん有難うございます
これをいつも祈っているんです。そうすると潜在意識が消えてゆく姿と感謝の想いでい
っぱいになります。
110
すべては消えてゆく
何が出て来ても消えてゆく姿。怒りの心が出て来ても消えてゆく姿なのです。今までの
宗教をやっている癖があると、自分の中に悪い想いが出ると、自分を責めちゃうんですよ。
たいがい良い人は、私はこんな宗教をやって、こんなに神さまを求めていながら、なんで
こんなに怒りの想いが出るんだろう、なんでこんなに妬みの想いが出るんだろう、なんで
こんな不安が出るんだろう、ああ、なんてダメな人間だ、とこう思うんですよ。それはい
らないんですよ。
なんで私はこんな想いが出るんだろう、ああ、それは消えてゆくんだ。今あるんじゃな
くて、中にあった過去世から溜まっていた想いが潜在意識にあって、それが出て来て消え
てゆくんだ、消えてゆく姿だ。それをつづけている。そうすると知らない間に、福田さん
じゃないけれど、不安の心がなくなり、安心立命して来ます。呑み屋さんの前を通っても
酒を呑みたくなくなる、これは大したものです。短気が直っちゃう。それから利害関係の
みつき
儲けたい心が減ってきちゃう、ということになるでしょう。それが三月やそこらで直ちゃ
った。だから皆さんが世界平和の祈りをやって、消えてゆく姿を本当にやれば短ければ、
三ヵ月、長くかかっても九ヵ月。そんなにお酒も呑まない、つつましい人だったら早く直
るわけですから、かまわず世界平和の祈りをやっていればいい。
よけいな理論的なものにひっかかっちゃいけません。神さまというのは大愛です。神さ
まは人間を責めようなんて思っていません。ところが今までの宗教には、人間は罪の子で
111宇宙人との提携は夢物語じゃない
じんらゆうぼんぷ
ある、というのがあるでしょう。人間は罪の子である、罪悪深重の凡夫である、というの皿
は何かというと、業想念のほうなんです。
あ
罪悪深重の凡夫である自分も、罪の子である自分も、それはみんな消えてゆく姿。在る
ものは何かというと、神の子である自分だけ。完全円満なんです。しかし業想念を捉えて
いて、私の心が悪いんだ、お前の心が悪いんだ、それは心の影だ、なんてやっているうち
は、本当の神の子にならないんです。
生長の家は実に言葉たくみにやっているけれども、本当につきつめてゆくとおかしなも
のが出来上がってくる。完全円満だったら、悪はないんだったら、心の法則もないんです。
お前が思うからこうなる、というのもないんです。そういうのはみんな消えてゆく姿。あ
るものは神の子だけ。あるものは大神さまだけ。
あるのは大神さまだけなんだけれども、大神さまの光が分かれて、それでみんな調和し
て生きてゆくわけですね。そういうのが私の教えなんです。ですから、人間は理屈を考え
る必要はありません。実際にやらなきゃだめ。今までは知識的、学問的宗教があったけれ
ど、また原始にかえって、古代にかえって、ただ直線的に、神さま! って神さまの中へ入
ってゆく行き方が一番いいです。
神さまだけでやれる人は神さまだけでいいんですよ。守護霊守護神でいい人は守護霊守
護神でいい、五井先生でいい人は五井先生でいい。なんでもいいです。なんでもいいけれ
ど、想いを神さまの中へ入れてしまうということ。神さま有難うございますッて、神さま
の中へ入ってしまう。それが縦の自分のやり方。神さま神さま、これは守護霊さん守護神
さんでもいいし、五井先生でもいい、想いが上へ入っていっちゃう。そうすると、上から
下ヘスッと光が突きぬけます。天地がつながります。
世界を救うやさしい方法
これは個人的な自分の本心開発です。それから今度は十字交差に生きるということです。
あめうきはし
十字交差に生きるということは、天の浮橋に立つということはどういうことかというと、
世界平和の祈りなんです。
113宇宙人との提携は夢物語じゃない
世界人類が平和でありますように、という想いの中に、日本が平和でありますように、
という想いの中に、自分の天命を完うせしめ給え、という想いの中に、その中に神の光が
輝いているんだからね。神さまは地上天国を創ろうと思っているんだから、そのために人
間をここに現わしているんだから、神さまのみ心は世界人類の平和です。だから、世界人
類の平和をこちらが思う時には、神さまの光の中に入ってしまうわけ。それで入ると、十
字交差になっているその真ん中に入ってゆく。世界人類が平和でありますように、とパッ
と真ん中に入ってゆく。そうすると、神さまの光がそこに結集してますから、自分の体を
通して、今度は横にひろがってゆく。ひろがってゆくと、周囲のものが浄まってゆく。
だから世界平和の祈りというのは、自分の天命を完うすると同時に、自分の本心を開発
すると同時に、人類の心を開発してゆくわけです。それで世界平和の祈りをやっているだ
けで、自分が救われると共に、人々を救っているんです。それが古い人になるとだんだん
わかってくるんです。ですから、常に世界平和の祈りを唱えるんです。わざわざ口で何も
言葉に出してやらなくたっていいんですよ。心の中でやる。114
世界人類が平和で、日本が平和で、といちいち並べたててやる必要もないんですよ、ど
ういうことかというと、世界平和の祈りの中へ自分が入っていっちゃう。言葉でいうより
も何よりも、サッと入っちゃう。そういう練習をしていると、いつもこの中(自分の中)
に世界平和が鳴りひびいています。
いつも何を買うのでも、大根一本買うんでも、世界人類が平和… … って買います。たく
あんをきざむのでも、世界人類が平和… … ってきざみます。怒る時でも、世界人類が平和い
な
で:・… といったら怒りゃしまい。そういうふうにみんなが知らない間に、世界平和の祈り酔
の中へ入ってゆく。そつすると、自分が自分だけで生きているんじゃなくて、人類の中に・擁
日本の中に光がデッと入ってゆくんです・それがやさし垂界姦つ方法なんです・腰
蹴
宇宙人が出現するゆ
世界平和の祈りにのって世界平和の大光明にのって宇宙の金星あるいは火星ぢ掛
宇宙人が降りてくる。宇宙人は年中来て働いているんです。宇宙人というのはスピードが鵬
ものすごく速いんです、光と同じ。スーパーマンてあるでしょう。スーパーマンの力は列
車を止め… … って映画でやっているでしょう。あ紅と同じでパッと来るんです。それは嘘
じゃない、本当なんですよ。
スピードが速ければ見えやしませんよ。空飛ぶ円盤というのがそうでしょう。ジェツト
機でいくら追跡しても見えなくなっちゃうでしょう。何故見えなくなるのかというと、ス
ピードが速いんです。それは地球界の人間が考えた法則とは違った法則にのっているわけ
です。違った法則にのって現われるんです。引力や重力の法則とは違う別の法則があるん
です。地球人類が知らないだけであって、宇宙人はみんな知っている。それにのって現わ
れる。
その宇宙人はどこにいるかというと、いつもいるんです。聖なる山(聖ヶ丘のこと) の
祈りの時はいつでも来ています。ただまだ人間界に姿を現わす時機ではないんです。まだ
早いんだけれども、時機が来れば必ず現われます。もういるんだから。お山の祈りのグル
ープはみんな宇宙人の顔を知っています。だんだんに現われてくるでしょう。それにはや116
っばりみんなに世界平和の祈りを一所懸命やってもらって、この日本を宇宙人の降りやす
い場所にしなければならない。業想念の渦巻きの中では降りにくい。というのは波長が合
わないから。波長が合わないと降りられないんです。現われられない。現われにくいから、
業想念をきれいにするために、世界平和の祈りをするんです。たゆまず、たゆまず世界平
和の祈りをする。そうすると宇宙人が降りてくる。
何故、宇宙人が必要か。今、現象的に考えてみますと、このままだと日本は亡びます。
こうしよう
方法がないんだから。どんな人が総理大臣になったって、今の業生の日本を救うことは出
来ません。何故かというと派閥があるんだから。何派何派という派閥は絶対に消えません
よ。自分の子供は人の子供より可愛いと同じように、自分の子分は可愛いから子分をみん
な大事にしたいんだ。だからみんなが派閥争い。身を捨ててやる人が一人ぐらい出たって
間に合いません。一人や二人身を捨ててやる人が出たって、とても政治がうまくゆくわけ
がない。また日本なら日本の政治がうまくいったって、アメリカやソビエトを動かすわけ
にいかない。日本には力がないから。残念ながら日本には力がなんにもないですよ。力の
117宇宙人との提携は夢物語じゃない
ない日本がいくら叫んだってだめですよ。原爆水爆反対をやっても、反対しているそばか
ら実験をやっているじゃないですか。いかに日本を無視しているか。
日本が何を言っているんだ背に腹はかえられない、というところです。みんなそれで武
力でなければだめだと思っている。アメリカはソビエトに勝つ武力でなければならないと
思っている。お互いが武力なんだから無気味なんです。
そうすると日本はどうすべきか。この間もいったように方法がないんですよ。安保条約
でも改善する方法もないでしょう。改善すれば沖縄を守らなければならない。今、日本に
は沖縄を守る力なんかない。沖縄を守るとしてアメリヵの力を借りるとすれば、アメリヵ
は日本に基地を造り、有事の際には日本の基地から飛び立つでしょう。そうすれば戦争に
なればソビエトが日本の基地をぶっつぶしますね。日本は喧嘩にまきこまれるでしょう。
どこからみても、いざ戦争が始まったら、日本はどうにもこうにもならない。日本が平和
を唱えようが、武器を持って再軍備しようが、どっちにしたって、日本は戦火をまぬがれ
ないですよ。
118
しかも戦火というのは原子爆弾、水素爆弾でしょう。一発か二発ぐらいで日本などなく
なっちゃう。こういう危機にある。だからこの間の予言では、一年以内に世界中火の海に
なる、というんでしょう。予言者が見なくたって、普通の目で見たって、そういう危機に
あるんです。それをみんな平気で、自分だけ生活が出来ればいいんだ、自分だけ食べてい
けりゃいいんだ、自分の子供が大きくなりゃいいんだ、とそういうふうに思っている。と
ころが方法がないから一般の人はやりようがない。いくら大変だ大変だ、と思ったってや
りようがないでしょう。自分が政治家になってやれないし、自民党が悪いからといっても
社会党はなお悪い。なお悪いから仕方なしに自民党に票を入れる。棄権すれば共産党が出
てくる。仕方がないから入れているでしょう。賛成して入れているわけじゃない。最小限
度に過失を少なくしようと思って、自民党に入れているわけね。
誰が日本を救うのか
ところが誰がやったってだめなんです。日本の国だけじゃだめなんです。といって、手
119宇宙人との提携は夢物語じゃない
をつなぐ国はどこもないんです。アメリカと手をつなげば、今のところ現実的には一番い
いんです。しかしアメリカと手をつないだからといってソビエトが攻めて来ないか、とい
うと、そんなことはわかりゃしない。かえって攻めてくるかも知れない。あるいは攻めて
来ないかも知れない。まず攻めてくると思います。だから日本はぬきさしならない。戦火
の中心になって、アメリカでも欲しい、ソビエトでも欲しい、欲しくて欲しくてしようが
ない。日本は軍事上の重大な基地だからね。日本はどうにもならないところに立っている。
さて誰が日本を救ってくれるのか? いくら日本が力んだってだめです。ソビエトはず
るい奴だ、アメリカがなんだ、と言ったってだめです。いくら叫んだってどうにもなりゃ
しない。どうにもならないものを救うのは誰か。それは宇宙人なんですよ。
ソビエトは明らかに悪党なんだ。といってアメリカが善人かというとそうじゃない。ア
メリカは自分の国を守りたい、自分の国を守りたくて、日本と手を組めばやり易いから、
日本と手を組むんであって、日本がやられたからといって、自分の国をおっぼり出して日
本を守りゃしませんよ。日本と自分の国と一緒にやられたら、自分のほうを守ります。日120
本はどっちでもいいんだ。それは仕方がないんだ。人間の業生の想いなんだから。
そうするとアメリカも頼れぬ。ソビエトも勿論だめ、インドなんかも勿論力がないから
頼れない。どっこも頼れない。何が頼れるかというと、宇宙人だけしかいない。幸いにし
て神さまはちゃんと計りめぐらしていて、最後の時は宇宙人が出て、そして救世の大光明
と一つになって、地球を救うことになっているんです。宇宙人はどこへ降りてくるかとい
うと、一番力のない日本なんです。一番先に原爆にやられ、一番先に水爆の被害をこうむ
った日本に降りてくる。なぜ降りてくるに違いないかというと、提携が出来ているからで
す。
それ以外に方法がないんですよ。皆さんも冷静になって考えてみるんだ。どういう方法
があるんだろうかと、政治がああいうけれどどうだろう、こうだろう、なんていってもな
んにもわかりはしない。メーファーズ、死ぬ時は死ぬさ、なんて言っているだけですよ。
それでヤケになって呑んだりなんかしている。いくら偉そうなことを言ったって他に方法
がないんだから。宇宙人きりないんです。その宇宙人とは提携が出来ている。ただ時機が
121宇宙人との提携は夢物語じゃない
来ていないだけ。
122
これは夢物語ではない
少しでも危険を早く取りのぞき、少しでも早く安心し、少しでも怪我を少なくしてゆく
ためにはどうしたらいいかというと、みんなが世界平和の祈りを祈って、そしてこの地上
界に早く宇宙人を降ろして、現わして、そして手をつないで日本を守り、世界を守らなき
ゃいけない。
宇宙人というのはすごい科学力を持っていますから、アメリカが逆立ちしたって、ソビ
エトが逆立ちしたって、てんで及ばないような科学の力を持っているんです。その力を借
りるのです。その力を借りられる一番優秀な民族は日本民族なんです。だから皆さんはほ
かのことは何もしなくてもいいから、霊性の開発、本心の開発をすることが一番大事なん
。
てす。
霊性の開発にはどうしたらいいかというと、消えてゆく姿と世界平和の祈りだけしかな
かんげん
いんですよ。ほかになんにもありゃしません。なんにもないんですよ。いかにも甘言で誰
かが言ったって、そんなものは問題になりません。今、個人だけ救われたってなんにもな
りません。個人の生活が豊かになったって、病気が治ったって、そんなものなんにもなり
ませんよ。このままいけば遅かれ早かれやられちゃうんだもの。
自分が救われ人類が救われるためにはどうしたらいいかというと、世界平和の祈りによ
って、自分が浄まり、その光を日本および世界に流して、光をひろげて、そして宇宙人の
到来を待つより仕方がない。これは夢物語じゃないんだ。本当にあるんです。宇宙人は本
当にいるんです。ちゃんと顔も姿もあるんですよ。今ここへ来て連絡している。二十七、
八人います。ただ皆さんの目には見えないだけです。私の目にはハッキリ見えています。
その宇宙人たちが現われる時がある。その時こそ、日本は力が出る時なんです。他には
メ フア ズ
考えようがない。それが出来なかったらサァ没法子だから、枕を高くしてじゃなく、枕を
低くしてもいいから、原爆と水爆の餌食になるつもりで、世界平和の祈りを祈って死んで
いけばいいですよ。そうすればちゃんと霊界へ行きます。
123宇宙人との提携は夢物語じゃない
けどそうはさせないです。させない、と向こうで言ってますから。大丈夫見てて下さい、
と言ってますからね。今、そう宣言したんだから本当だろう。何か現われるからね。現わ
れなければもう間に合いません。だから皆さん、世界平和の祈りをやってもらうことが大
事だと、こういう話です。では終わりに致します。
124
私に荷物をあずけなさい
信仰心正しければ子孫は栄える
昭和3年12 月25 日
急に光の前に出ると、まぶしくて目が開けられないと同じように、光の強い者のそばに
は、迷い多い魂はなかなか寄れない。熊沢さんは信仰心がとても強く、深く五井先生を思
っている。それに守護している霊たちも強いんです。この人の家名を起こさせようとして
いる。家名といっても地位などを上げようという意味ではありませんよ。正しく自分の先
祖のことを知らせたい、という想いで守護している方も多いわけです。守護する霊と迷っ
125私に荷物をあずけなさい
ている霊と両方とも数が多い。それを私が統括して、ハイお前さん、そっちへ行って働き
なさい、こっちへ来て働きなさい、といろいろ陰で指図しているわけです。
熊沢さんの体験談(『新しい朝』参照)ですが、お母さんが病気になって危なかったです
ね。いろんな病気がいっぺんに出て弱って寝ていたわけなんです。その時、ガス栓が切れ
てガス中毒になり、いっぺん死んでしまったわけです。そこで熊沢さんが祈ったわけです。
霊感応が強いですから、熊沢さんに私の霊体が移っていった。そしていろいろ指図して、
お医者さんまで指図して、説教して、それでお母さんはガス中毒が治って助かったばかり
でなく、病気のほうもほとんどよくなった。大体霊魂のさわりなんですから。霊系統が古
いと、古ければ古いほどいろんな因縁があるんですね。
自分という者が一人ここにいると、自分一人じゃなくて、先祖代々から周囲からいろん
なものが作用して、自分が出来上がっている。ですから現在の自分というものは、自分が
正しくて、自分が勇気があって、自分が清らかで、自分が信仰心が強ければ、子孫はみん
な栄えるのです。子孫に及ぼす影響がプラスになるか、マイナスになるかということは、
126
自分の生き方にかかっています。自分が正しいということは、自分だけではなくて、自分
の先祖も浄まれば、子孫もいい生活が出来るということになるんです。
子孫のために美田を買わず、と西郷さんが言ったように、お金、財産だけを残したので
はいけません。ただ自分のいい行ないを残す。霊系統を浄めておく、それが一番必要なん
です。その一番いい方法は何かというと、やはり世界平和の祈りなんです”本当に神さま
に直通する祈りがあれば、先祖も浄まりますし、子孫も浄まってゆく。縦にもズッと浄ま
ってゆくし、横にも浄まってゆく。だから一人が立派に生きるということは、実に重大な
ことなんです。
一人出家すれば九族救われる、ということがあります。出家するということは坊主にな
げんぞく
ることではなくて、還俗のままでもいいのです。そのままで本当に神さまに入って祈りが
出来れば、熊沢さんのように浄まってくるから、非常に霊的な働きが強くなり、先祖も全
部浄まってゆくでしょう。何万という数が浄まるのですから大きいですよ。浄まった霊魂
たちはどうするかというと、霊界から肉体界のほうに応援が出来るようになる。そして働
127私に荷物をあずけなさい
きます。亡くなった人たちは忠臣なんだから。国を憂い君を立てて働いた忠臣義士ばっか
りでしょう。そういう人たちが浄まっていけばその働きは大きいですよ。
熊沢さんが一人浄まったから、今までマイナスだったものがプラスになって、何万とい
ひと
う魂が生きて働けることになるんです。それで霊界から日本の国を守ってゆくことになり
ます。皆さんも一人一人が本当に世界平和の祈りをして、神さまの中へ入ってゆきさえす
れば、皆さんの背後にある先祖がみんな浄まって、日本のために働ける、世界のために働
ける。だからいつも自分一人がいると思っちゃ間違いです。ここに一人がいることは、何
千人何万人が同時に生きているんだ、ということを考えないといけませんね。それを普通
はそう考えない。「わしはもう腰ぬけの婆だから、こんなの居ても居なくても……」なんて
よくありますよ。居ても居なくてもいいようなものを、神さまが創るわけがない。みんな
居なくちゃ困る。それで働いているんです。
128
天命について
こんど白光誌にも書いておきましたがね(『宗教問答』収録)。私たちの天命が完うされ
ますように、という祈り言葉がありますが、天命とはどういう意味か、という質問に答え
を書きました。
わけみたま
天命というものは一代で果たせるものじゃないんですね。自分の霊魂が分霊として現わ
れ、肉体界に働いてくる。その霊界から肉体界まで働いている長い年限のうちで、天命は
果たせるんです。一生の五十年六十年で天命を全部果たしちゃうんじゃないんです。分霊
こんじよう
となった天命なのだから、長い期間があるわけです。それで今生で果たせる人もあれば、
らいしよう
来生、再来生にならなければ果たせない人もある。前生で果たしちゃった人はもう生まれ
て来ない。
私たちのように人を救うための働きをする者はまた別なんです。ですから今生で果たす
ためにはどうしたらよいかというと、やっぱり世界平和の祈りをすることです。世界平和
の祈りがどうしてそんなにいいかというと、世界平和の祈りをするということは、世界人
類のために自分が生きている証拠なのです。
129私に荷物をあずけなさい
世界人類が平和でありますように、日本が平和でありますように・… :これは自分のこと
ではない、世界中のことでしょう、日本のことです。世界人類の中には家族もまじってい
れば、自分の先祖もまじっていれば、自分自身もまじっています。だから、世界人類の平
和を祈る場合には、自分の一家もよくなりますように、というのも入っているわけなので
す。
よく「先生、世界人類なんて大きなこと思えないんです。うちの子が立派でありさえす
ればいいんです。もう他になんにもいらないんです」とやってくる人がある。自分の子を
立派にしたいなら、その安易な心を世界平和の祈りの中に入れなきゃだめです。人のこと
はどうでもいいから、自分のことだけ立派になろうなんていう想いならば、神さまが援助
するわけがないですよ。せいぜい自分のそばについている守護霊しか援助出来ないでしょ
う。大神さまの力は働きっこないです。そんならお前たち勝手にやればいい、ということ
になる。まだ自分の子供の天命を完うせしめ給え、というのはいいけれど、子供なんか置
いて逃げちゃったりする、自分の欲望だけを満足させる、というのがあるでしょう。そう130
いうことだったらだめですね。
要するに、人間というものは、自分一人だけで生きているものではなくて、自分は先祖
の代表としてここに来ているんだ、何々家、何々家の先祖がダーッと何千何万あるわけで
す。この人類が始まって以来の数ですから、無数ですね。また、自分の生まれ変わりも随
分あるわけですよ。それを含めた先祖が全部働けますように、というのが”私たちの天命
が完うされますように”ということなんです。私たちというと、自分の夫なら夫、妻なら
妻、子供なら子供だけが私たちと思うけれど、そうじゃない。”私たち”という言葉の中に
は、自分の今生きている家族、それから先祖、それらを含めている。
天命というのは肉体だけの天命じゃなくて、霊界にも天命があるし、幽界にも天命があ
るんです。それを完うせしめ給えという祈りなのです。わかってもわからなくても、そう
いう意味で”私たちの天命が完うされますように”という祈りがあるんです。だから世界
人類の平和を祈ることも、日本の平和を祈ることも、私たちの天命が完うされますように
も、同じ意味なんです。
131私に荷物をあずけなさい
132
神のみ心が現われている
日本が平和でありますように、というのでも、日本というのは世界という意味なんです。
今にそれがわかって来ます。島国の日本、形の日本のことを言っているんじゃないんです、
本当は。しかし形の日本も加わり、世界人類が平和でありますように、日本が平和であり
ますように、私たちの天命が完うされますように、という祈りは、すべて自分も自分の先
祖も含めた平和という意味なんです。ですからそれが光らないわけはないでしょう。
すべてを含めたということは、神さまのみ心ということです。神さま自体なんです。神
さま自体の平和がここに実現しますように、という祈りなんですよ。だから神さまがその
まま降りて来ないわけがないですよ。神さまのみ心がそこに現われるわけです。
だから世界人類の平和を祈ろうという時には、神さまのみ心がそこに現われている。神
さまのみ心は光なんです。光り輝いているんです。だからどんな病気になろうと、どんな
不幸があろうと… … いっぺんやったから、一遍に熊沢さんみたいにうまく出来ないですよ。
五井先生! って言ったらパッと五井先生が現われて「市川の五井だ」と出てくればいいで
すよ。出て来ない人がたくさんあるわね。本当は出て来ているんですよ。けれどわからな
いだけ。本当は呼べば、あなたと呼べばあなたとこだまするようなもので、先生!と呼べ
ば先生はそこに現われるんです。みんな見えないんです。見えなくたって現われているん
だから見えまいと聞こえまいとかまわないから、先生と呼べば先生はそこにいます。
なぜ先生がいるかというと、先生は光だからね、光はどこまでもゆきます。距離が遠い
から行かないわけじゃない。太陽との距離が遠いからといって、東京は照らすが北海道は
照らさない、ということはないでしょう。みんな平均に照らしますね。それと同じように飾
な
どこへでも行くんです。肉体の五井先生がいくのではありません。呼べば、想えば、霊のけ
ず
世界には時間も空間もないんです。形があると離れているようだけれど、離れていないん筋
です。一緒なんです。なぜ籍かというと、想つきッと来るんです。太陽と離れている舳
に
けれど、光は離れていないでしょう。目の中に入って来ている。まぶしいというでしょう。私
それは離れていないんですよ。離れているけれど離れていないでしょう。塒
それと同じように時間空間がない。テレビ放送を流している。市川なら市川で受けても、
東京で受けても、時間差がほとんどないでしょう。放送局で発信したら同時にこっちに映
って来ます。そのように神さまの世界、霊の世界には時間空間がないんです。だから皆さ
んがここにいて、五井先生って言ったら、五井先生はちゃんとここに来ている。そのタネ
がわかると楽ですよ。どこへいったって、先生って言いやいいんだから。
134
光はどこまでもゆく
本当に最後になると間に合わないですよ。今、息引き取ろうかという時に”世界人類が
… … ” とやっている間はないでしょう。間に合わない。先生、先生と絶叫する、それより
他に方法ないものね。先生、先生とみんなが言って、病気も治り不幸も直り、奇蹟が続出
すると、世の中に一大センセーションを巻き起こす。(笑)
先生ということは、神さまの代名詞なんです。五井先生というと、肉体があるようだか
ら、肉体がとんで来られないような気がするんですよ。肉体は動かない。ところがこの中
に働いている光というものは、どこへでも行く。あの霊光写真が本体だから、あれは太陽
と同じようでしょう。だからあの光はどこへでもいきますよね。
もっとくわしくいうと、すべて自分なんですよ。ここにA さんならA さんという人がい
る。そして神さまと一つになる。本当に神さまの中に投げ出してしまうと、神さまはそこ
に現われるんです。けれど神さまに投げ出すことがなかなか出来ない。神さまと自分との
想いの距離が遠い。よくわかったような人が「神さまは自分の中にあるんだから、何も五
井先生に頼まなくたって、自分で神さま!と言えば、神さまは現われてくる」とこう言う
んですよ。ところがそんなに生易しく神さまは出て来ない。なぜ出て来ないかというと、
想いが弱すぎて、自分たちでは本当に神さまの中にいる、と思えないんです。
自分は神さまの中にいて、神さまと一つである、ということを本当に想える人を覚者と
あらかん
いい、阿羅漢というんです。そういう人はあまりこの世の中にはいないんです。この世の
中にあまりいない人のやり方を教えて「ただお前の中に本心がある。お前の中に仏がある
んだから、自分の中の仏さえ拝んでいればいい。その仏を開きゃいいんだから、他の人に
135私に荷物をあずけなさい
救ってもらう必要はないL とこういうんだけれど、それは嘘なんです。出来る人はいいで
すよ、出来やしない。本当に実感として、自分は神だと思えないでしょう。
思ったような顔をして、オレは神の子だと威張っていて、人をいじめたりするのがある
んですよ。オレは神の子だ、お前はバカだって。そんなことを言ったらその人はもう神の
子ではない。神の子は人を馬鹿にする者ではない。人を馬鹿にして、自分だけ偉がって、
人をいじめるのは神の子じゃないんです。そんな間違いを起こす。そういう間違いを起こ
させるか、あるいは逆に、自分の中の神さまがわからなくて、「私のような者が神の子であ
るわけがない」と、だめだ、だめだと思ってしまう。
136
天と地をつなぐ役
そこで本当に神の子を自分で体験した人、体覚した人が、天と地をつなぐ者になるわけ
です。
いとめ
“天と地をつなぐ綜目のひとすじとならむ願ひに命もやしつ
“
よ
という歌を私は詠みました。天の理想を地の現実につないでしまわないと、この世の中
はよくならない。理想はとても素晴らしいものを持っていても、みんな立派なことを言う
けれども、実際この世の中を見たら、迷いに迷っている。闘争はあるし、泥棒はあるし、
貧乏はあるし、病気はある。こんなに間違った世の中があるのに、理想だけいくら振り廻
わしたってだめだ、と私は思ったんです。自分が天と地をつなぐ、理想を現実にもってく
る糸目の役目、その時はまだ器になると思わなかった、わからなかった、それで糸目だと
思った。ただ一本の糸目でいいから、光の伝導体にして地上に流しこむそういう役目をし
たいと思ったのです。それで今言った歌を詠んだわけですね。趣
な
それで天と地をつなぐ糸目の一筋となった。その糸目がだんだんひろがって太くなって、け
ず
光が多くなって柱になっちゃったんですね。天と地をつなぐ柱になった。それで自叙伝に赫
は『天と地をつなぐ者』という題がついたのです。これは自然につくんですね。天と地を舳
に
つなぐ者というのは、見えない体をして人のそばへ行き、知らないうちに業をとってやる。私
流れが悪いから掃除してやるーということをする。私は業のドブ掃除みたいなんですよ。窟
クリーニング屋で掃除夫です。
みんなごみを一杯ためているんですよ、幽体に。あのヤロー憎らしい、でごみが溜まる。
妬ましいでごみが溜まる。あれがほしいでごみが溜まる。恐ろしい、不安だ、で幽体に一
杯ごみをためているのを、私がちょいちょい見廻っては、みんなが「五井先生!」って言
っている時に、私が中心になって霊団には一杯いるから、「ちょっと君、あそこへ行って、
ごみ溜まっているから取って来てやって」「ハイ!」「こっちにごみ溜まっているから取っ
て来てやって」「ハイ/」って五井先生霊団の人たちがみんな行って、ごみ掃除をしている
んですよ。みんな知らないでしょう。眠っている間にちゃんとごみ掃除をしているんだか
ら。
そうすると、なんだか知らないけど、体が楽になった、心が明るくなった、お酒を飲み
たいのが飲みたくなくなった、タバコが止んじゃった、というようになる。タバコがのみ
たい、お酒が飲みたい、遊びたい、怠けたい、そういう想いがゴミなんですよ。幽体に溜
まっているそのゴミを、五井先生!という時に、ここに(自分をさす)働いている神々が138
行って掃除している。ああ熱心に呼ぶから行ってやろう、
うとそういう話なんです。
と掃除するわけね。具体的にい
肉体は場である
皆さんが本当に世界平和の祈りをしていれば、天と地をつなぐ者なんです。者というの
はどこへでも動けるんですよ。天と地をつなぐ光なんだね。そのように皆がなれるんです。
熊沢さんは、五井先生って呼んで世界平和の祈りをして、自分が天と地をつなぐ者になっ
た、そこから光を向こうへ出したら、お母さんの病気が治っちゃうでしょう。そういうよ趣
うにみんながなればいいわけでしょ先肱
ず
皆さんは、自分はここに肉体として居ると思っているけれど、実は肉体というのは場所莇
であ腹凝である。その場両器を運んでいるのは誰かというと・守護霊守護神なんで玄舳
に
守護霊守護神がうしろから、いいように運んでくれているんです。あっちへ行ったほうが私
いいな、スーと行く。こっちへ行ったほうがいいな、スーと行く。そういうものなんです㎜
よ。それを自分でやっていると思っちゃうんですね。自分でなんとかすればなんとかなる
だろうといっても、なんとかしようとしたってなんとかならないんです。なんとかするの
はうしろ。て働いている守護霊であり、守護神なんです。
ところが肉体のほうの業想念で、自分だけを守ろうとしている、人のことはどうでもい
い、自分だけ、うちの家族だけでいいんです、という想いになっている。それは小さなも
なりたさん
ので神さまから離れている想いです。自分の家内安全だけ願って、成田山へ行こうと、ど
こへ行こうと、そんなもので神さまは救うんじゃないんだ。それは一時は救われるかも知
れない。けれど永遠には救われないんです。ただその場のご利益です。それも与えられた
のではなく、あとからくるものをちょっとまけてもらって、先に出させてもらったので、
あとに借金が残ってゆく。自分が神のみ心である愛と誠にかなわないならば、それは借金
を先へ延ばしただけなんです。本当に借金を返して救われたのではないのです。
やはり愛と誠(真)というのは大事なのです。しかし隣人を愛せよ、というので、隣の
奥さんがどこかへ旅行しているから、隣の旦那さんの面倒をみてあげる、食事から洗濯ま
140
でしてやってごらんなさい。奥さんが帰って来たら怒ります。よけいなことをしたとか、
あやしいとかいってね。だからうっかり親切も出来ない。それで一番やさしい方法は、世
界平和を祈るんですね、世界平和の祈りをしていれば、自然になんとなく明るくなってく
る、ニコニコしないでも明るい感じを受ける。
世界人類が平和でありますように、と電車の中でやっていれば退屈しないし、祈ってい
から
る時は自分が空っぽになっているんだから。光になっているんだから。神のみ心がうつっ
て来ているのだから。ねる時でも世界人類が… … て、ねちゃえばいいんですよ。なぜいい
かというと、世界平和を祈ろうとする想いになっているでしょう。その想いのままで眠っ
てしまうんだから、魂が夢の世界へ行ってもチャンと世界平和をやっています。そういう
もんなんですよ。
とっさが勝負
世界平和を祈ろうとする想いが、もうすでに世界平和を祈っていることになるんです。
141私に荷物をあずけなさい
だから、わざわざ忙しい時に、頭でいちいち想わなくてもいいんです。仕事をしながら、
勉強しながら、たくわんをきざみながら、そのひびきの中に世界平和の祈りがあるんです。
そうでなければだめなんですよ。そういう祈りを教えているんです。
ほうねんしんらんなむあみだぶつ
それは昔、法然や親鸞が教えた南無阿弥陀仏と同じことです。法然上人は南無阿弥陀仏
を口に唱えてました。百万遍の念仏といって、いつでも南無阿弥陀仏だった。しかし今の
世の中では、いちいち口の中で南無阿弥陀仏は出来ないでしょう。声に出していってたん
では仕事になりませんよね。坊さんならそれが仕事だからやれるけれども、家庭婦人がい
ちいち南無阿弥陀仏をやっていられません。だから口に出さないで、心の中で一念の念仏
と言ったのは親鸞だった。自分は阿弥陀さまの中に入っているものなのだ、阿弥陀さまの
中から仕事をしているものなんだ、というように思いこめばいい。口にいわなくても阿弥
陀さまと一つなんだということを親鸞は教えているんです。
それを私は世界平和の祈りにしてやっている。世界人類が平和でありますように、とい
う想いが中にあれば、それが口に出ようと出まいと、世界平和の祈りがここにあるわけで
142
す。それよりもっと簡単なのは、五井先生!というのが一番胸の中にありますよね、とっ
さの場合出てくる。とっさに五井先生/ というような想いになればなおいい。その練習
をするわけ。
想いをいつでも神さまのみ心の中に入れておく。世界平和の祈りの中へ入れておく。そ
れは言葉のひびきね。コトバは光なり、コトバは即ち神なりきの言葉ですね。世界平和の
祈りはいい言葉で、神さまの光なんですから、世界平和の祈りの中へ入ってゆくから助か
るんです。それを教えているのが五井先生でしょう。神さまが教えさせているんです。神
さまがここに働いている姿が五井先生なんだから。それがうつって来て光になっているの
だから、五井先生! て言えば助かるんです。
自分を想えば救われる、と言えば人がうんと集まるだろう、人を集めるためにうまいこ
とをやっているーなんて生長の家じゃ言っているらしいけど、うまいかどうか自分がや
ってみうと言う。言わしてごらん、谷口雅春を想いなさい、と言ったら死んじまうから。
何千何万人が想ってごらんなさい、業想念が寄って来て、たいていの人は死んでしまいま
143私に荷物をあずけなさい
す。一人の想いがかかったって死んじまう。二十人も三十人もの先祖の想いがかかって来
たら、ノイローゼになっちゃって、そのまま放っておいたら死んじゃうですよ。私のとこ
ろには首吊りはおろか、切腹はおろか、もろもろが、五井先生! と想えばダーッと来る。
それをホイキタくと私はみんなもらっているんですよ。それはちょこっと痛くなります
よ、首もぐっと張って来る。だけどこちらは光だから、スッと相手は浄まってゆく。だか
ら遠慮なく五井先生によこしなさい。
親切な人で、夜ぐらい先生をねさせてあげよう、といって、自分はお腹が痛い、苦しい
けれど呼ばないで遠慮している人があるんです。やっぱり想ったほうがいい。夜中だろう
が、夜明けだろうが、いつだって別にねてるわけじゃないんだから、肉体はねてるように
見えるけれども、霊体はねてるわけじゃないんです。霊体はいつでも光り輝いて覚めてい
うかき
ます。私の肉体は濾過器だから、いくら通ったってかまいません。
144
宇宙大にひろがっている
普通の人は自分は肉体だと思っているでしょう。肉体だと思っている人は肉体だけの形
しかないんです。五尺何寸だと思ったら五尺何寸しかないんです。ところが肉体は神の器
だと思っている。場所であると思っている。自分は神と一つのものだと思っている。そう
いう人は宇宙大に大きいのですよ。たとえば死刑にされた人が幽霊としてついたとしても、
それは五尺何寸だけのものでしょう。こっちが宇宙大なら、それは蝿にもならない。だか
ら皆さんがいくら想ったって、幽霊がいくら来たって、私にすれば蝿も同じなんです。
この間も話したかも知れないけれど、ある行者さんがいまして、自分の弟子や信者がみ
んなこっちへ来ちゃうんで、市川の五井って奴は憎らしい奴だ、と行者さんが祈ったんで趣
会な
すって。その人に祈られると信者さんみたいな人は皆震えちゃって、どうにもならなくてけ
ず
がら
がんじ搦めにされるんです。だから信者さんは恐ろしいと思っている。「なんだそんなもん、萄
蝿みたいなもんだ、なにが恐ろしいのか」「いえ、ところが恐ろしい」と言つんです。行者舳
ごまに
さんが護摩をたいてやったらしいんです。やったら向こうがひっくり返っちゃった。その私
信者さんが来て、「実は昨日、行者先生は倒れちゃいました。五井先生のこと祈ったんです燭
ごまヘへ
って」と言う。護摩たいたって、そんなことでごまかされる私じゃない。(笑)
こっちはなんにもないでしょう。なんにもないところへ来たって、損うことは出来ない。
逆に自分の念力が自分に返って、自分が倒れるだけ。だから皆さんもなんにもなくなっち
ゃえばいいんですよ。ああじゃない、こうじゃない、と思う想いを世界平和の中へ入れち
ゃうんです。あるいは五井先生の中へ入れるんです。そうすると、なんにもない、までに
ならなくても、それに近くなりますよ。そうすると何ものもその人を損うことは出来ない。
なんにも無い、ということはどういうことかというと、宇宙と一つだということ。なん
にも想わない、ということは宇宙大になったということです。
奈良漬けにしようか、味噌漬けにしようか、面倒くさいから大根にしとこーそんなの
罪ないです。業にもなんにもならないですよ。だけど、あのやろう憎らしい、こいつが恨
めしい、なんていうのは罪になりますよね。人を憎む想いは自分を痛めるからね。恐れな
い、なんて人はない。だからおそらく一番取りにくいのは不安の想いです。短気などは割
り方とれるんです。妬みもなかなかとれない。ご婦人方にはね。不安恐怖の想いはなかな146
かとれない。やっぱり恐怖をなくすには、世界平和の祈りの中へ入ってゆくこと。それで
も足りなければ五井先生の中へ入ってゆく。入ってゆくのが一番です。
私に荷物を預けなさい
想いをなくすということが一番むずかしい。恐怖心がなくなったら、ほとんど悟りに近
いです。ところが森の石松みたいのがいますからね。(笑) それは悟っているわけじゃない。
桶屋の鬼吉とか、なんとかの豚松とかいうのがいるでしょう。ああいうのは悟ってもなん
いのら
でもない。「さあ殺せ」ってやるでしょう。命がいらないんですね。悟りと違って、前生
の因縁で、命がいらないような気になっているんですね、向こうの世界のほうがいいと思
っているんだ、先に。ああいうのは度胸というのです。勇気じゃないし、悟りじゃない。
わざわざ危険なところに身をさらして、サア殺せ、てんだからね。
しかしあれでもまだ、度胸のない人よりいいですよ。年中こわがって、ぐらぐらとする
と地震じゃないか、火事じゃないか。(笑)天井でねずみがガタガタっていうと、ああ泥棒
147私に荷物をあずけなさい
じゃないか、それでは朝から晩までこわがっていなければならないでしょう。それなら石
松や鬼吉のほうがまだいい。だから「こわい」という想いをなくすことは必要ですね。そ
れから妬みの想い、怒りもそうだな。
なくす手段は、想いを棚上げしちゃうんです。大体もう十二月だから、そろばんをはじ
たなおろし
いて店卸して、今月一杯で棚上げしちゃうんです。五井先生へ棚上げすればいい。みんな
預ってあげますから。そしてきれいに洗って、光にしてお返ししますから。光の利息をつ
けて返します。
想いが自分を安心させない、不安な想いなんかあると、縁にふれて出てくるんですね。
今、怒りもなんにもないのに、縁にふれて出てくるんです。今、妬みがないのに、縁にふ
れて出て来る。縁にふれて出て来ちゃ困るんですよ。出て来ないようにする。更になくさ
なければならない。
自分を不幸にしているのは何かというと、他人が不幸にしているわけではなく、社会が
不幸にしているわけでなく、人類が不幸にしているわけでもない。自分自身が不幸にして
148
いるわけです。その原因は何かというと、想いなんです。私がいう業想念、自分の肉体を
守ろうとする、自分の家庭を守ろうとする想い。自分で守ろうとするから不安が出、欲張
りも出、もろもろの想いが出るわけです。
人間というものは、この世に生まれたからには、夫が出来ようと、子供が出来ようと、
それはみんなこの世に生んでくれた神さまがやっていてくれるんだ、ということに気がつ
かなきゃいけません。みんな神さまがやって下さるんだ、というふうにならないと、いつ
までたっても不安があります。いつまでたっても業想念が消えないんです。
それで私は先に神さまがわかった。ああ神さまってこういうもんだ、ということがわか
った。それでこの肉体界を一度おさらばして、向こう(天) へ行っちゃったんだ。そして
直霊と一体になって、こんど改めて入って来て「サア、私がやって来たんだから、私のこ
とを想いなさい」と言うわけです。「みんなあなたの不安をなんとか取ってあげましょう、
業想念をあずかってあげましょう、さあいらっしゃい」って私はみんなの業想念をとって
あげる。そうすると向こうはだんだん業想念がへってゆく。
149私に荷物をあずけなさい
少なくとも私の所へ来る前よりも、私の所へ来てからのほうが心配苦労がなくなってい蜘
ることは確かなんです。だからかまわず迷わず五井先生にあずけちゃうほうがいいです。
あなたのお荷物を私が預かってあげますからお荷物預かり所だと思って、業想念というお
荷物をみんな預けちゃいなさい。私がみんな持ってあげます。そして空っぽになって、き
れいに光を入れる。そうするとまた業想念が戻って来ても、それは自分で受けられますよ。
光が強いから、そんなものなんでもなく自分で消せるようになる。そのために五井先生が
来ているんです。
キリストと十字架
はりつけ
今日はイエスの生まれた日ですね。あの人はどうして礫になったか。本当に肉体が礫
になったんだか、そうでないのかわかりません。しかし肉体は礫になったことになってま
しょう。どうして礫になったのか。それはあなた方が、自分たちが今悪いことをしている
と思っているけれど、それはあなた方が今、悪いことをしているんじゃなくて、過去世か
らの業想念がそこに現われて来ているんだ。アダムとイブの原罪といいますね。キリスト
は旧約聖書を本当に解釈して、教えようと思ったんです。あのままでは間違っているんだ
から。そのためにはアダムとイブの原罪、人間は罪の子だという観念を一度、抹殺しなけ
ればならないでしょう。それでキリストが出て来て、サア、あなた方に代わって私が十字
架にかかって、あなた方の罪をみんな消したんだから、私を想いなさい、と言ったんです。
私が身代わりになったんだから、私を想いなさい、そうすれば皆救われるんだと、こう言
ったわけです。
聖書にはそういうようにうまく書いていない。お弟子が書いたからね。それで十字架に
かかったんです。ところが長い間それがわからないんですね。本当のキリスト教というの
が少ない。イエスが折角、十字架にかかって、あなた方は罪はないんだよ、私が代わりに
背負ってやったんだから、のうのうと明るく、みんな愛し合ったらいいじゃないか、と言
うのにそれが出来なくて、やっぱり自分は罪があるような気がして、自分が自分で守らな
きゃならないような気がしている。イエスさんにまかしちゃえばいいのよ。私にまかせな
151私に荷物をあずけなさい
さいと言って十字架にかかったんだから「さあ、イエスさんおまかせします」と苦労も何慨
もみんなイエスさんにまかせてしまえば「イエス」ってみな罪を赦されちゃうんですよ。
(笑)
それが罪がゆるされない、イエスさんにまかせないからね。イエスの姿が見えないから、
イエスにまかせようと思っても出来ない。特別に信仰の厚い人たちが本当にイエス・キリ
ストを想えば、イエスが現われたりはしました。だけど目に見えない人というのは、なか
なか現われにくいですよ。それでいろんな人が出て来たのです。いろんな人が十字架にか
かっているんです。それでもまだだめなので、私が出て来た。
何をやっているかというと、世界平和の祈りをやっている。キリスト教には「天にまし
ます我等の神よ、願わくば御名のあがめられんことを… … 」という主の祈りがあります。
それと世界平和の祈りは似ているんです。それよりもっと具体的でわかりやすい。しかも
それを説いている人が生きている。生きているから楽なんです。目に見えますから。おで
この大きい、ひげの生えた人ー私が歩いていると、おでことひげだけしか目立たない。
(笑) 目があったか、鼻があったかな? おぼえやすいでしょう。目をつぶっても五井先
生って見えます。たとえ仮に、私が悟っていない者だとしても、普通の肉体であったとし
ても、あなた方としては、五井先生にまかせきったら、あなた方は救われるのです。
まかせた側は救われる
たとえば病気の子供がある。熱が四十度ある。五井先生! と五井先生にまかせたら、
というとスッと安心します。安心しているほうが、不安よりもいいんですよ。不安で、ど
うなるくと言っていれば、自分も痛むし、その不安の想いが子供のほうにも行く。病気
に悪いでしょう。まかせ切っちゃったら不安の想いが子供にゆくのが軽くなります。子供
けが
の命を汚すことが少なくなります。それと同時に自分の心も汚さない。だから五井先生が
悟っていようと悟っていまいと、どっちでもいいんだ。肉体の人間であってもいい、五井
先生って想いをこっちへ向ければ、あなた方は救われる。重荷をこっちへくれちゃうんだ
から。
153私に荷物をあずけなさい
まい
もし私が肉体だとすれば、こんど貰った荷物は重たくてしようがない。私が参っちゃう
ですよ。ところが十年やっているけれども、幸いにますます元気になって、ますます顔が
光ってくる。何故かというと、それは私は肉体じゃないからですよ。肉体じゃないから、
いくらでも引き受けられる。どんな想いでももらっちゃう。朝から夜中まで、二十四時間
プラスアルファーみんなの想いが来るんですよ。それで貰っているんです。寝る前なんか
床へ入ると、足のところがくすぐったいですよ。ピュッと電気みたいに、いろんなものが
かかって来ますから、たまにはピーンとなることもある。しかしそれもいいやね。もうそ
うなったが因果と思ってあきらめました。(笑) 想いなさい、と言っているんだからね。
皆さんは、こちらが悟っていようといまいと、私のことなどかまわないんだ。皆さんは
五井先生って想いさえすれば救われるんだからね。遠慮なく想ったらいいんです。それで
私が死ねば、私の不徳のいたすところで、これはしようがない。あなた方の責任じゃなく
て、こちらの責任だから、かまわないから遠慮なく先生! と想えばいいんですよ。
つが
ところが幸いなるかな、心の柔和なる者、汝は地を嗣ん、というんです。私は死なない
154
んですよ。いくら想われても。それだけの確信がなければ、神さまはそんなことはさせな
い。だから皆さんはかまわず五井先生と想いなさい。皆さん辛い時は、先生、先生って想
うんです。それが一番早い。それと同時に”世界人類が平和でありますように、日本が平
和でありますように、私達の天命が完うされますように、守護霊さん守護神さん有難うご
ざいます” とやって下さいね。
なご
そうやっているうちに、知らない間に和やかになり、知らない間に短気が直り、嫉妬心
が直り、不安が直ってゆくんです。そういうのを観世音菩薩行というんです。
155私に荷物をあずけなさい
156
祈りは宇宙に満ちみちる
昭和鈍年7月26日
神という言葉を使わなくとも、仏という言葉を使わなくとも、生命をそのまま生かして
いれば、それは祈りの姿です。生命が業想念にわずらわされないで、業想念というのは迷
いの想い、あれが欲しい、これが欲しい、あれが怖い、あれが妬ましい、という想いです。
とら
そういう想いに把われないで、与えられた生命がそのまま生き生きと生きていけば、それ
は祈りの姿なのです。白光誌にも書きましたね。
たとえば山野に木が茂っています。草が繁っています。木というのはそのまま何ものに
もわずらわされないで、すくすく伸びています。天まで届くような杉がたくさんあります。
そういうものは生命がそのまま生きている姿で、祈りの姿なんです。
野原に草花が咲いている。草花にはなんにも肥料をやるわけではありません。人間が行
こや
って肥しをまいてやるわけじゃないでしょう。自然にそのままに素晴らしい花が咲くわけ
ですね。ブラジルのアマゾン流域など誰も人が踏み込んだことがないのに、もう素晴らし
い花が咲いている。この間テレビでやっていました。自然のまま、花壇になんかあるよう
な花じゃない。もっともっと素晴らしい花が咲いているわけです。与えられた生命がその
まま花開いている。自分の天命を完うしているわけです。そういうのを祈りの姿というの泌
みです
。ち
満
何かお願いすることを祈りと田心ったら間違いですよ。お願いは念力です。ひどいのにな臨
りますと、願をかけるんですね。それで何か助けて下さいと祈る。それを祈りだと思って貯
かなり
いるけれど、願うわけです。それが叶わないと、あの神はニセ神だと文句をいう、ケチを祈
つけるのがある。しかし、これは自分勝手であって、神さまの知ったこっちゃないです。僻
祈りというのは自分の本心が発現すること。自分に与えられた生命というものが、その
ままさわりなく、スーッと現われてゆくことが祈りなのね。
158
生命の働きをさまたげるもの
祈りの姿がそのままに現われるためにはどうするかというと、自分の頭の中で、ぐるぐ
る、ぐるぐるまわっている業想念、あれがほしい、こいつが憎らしい、あれが妬ましい、
地震が怖い、火事が怖い、貧乏が怖い、病気が怖いという恐怖とか不安とか妬みとか怒り
とかいう、さまざまな欲望からぬけ出せばいい。
欲望の中で一番大きな欲望は何かというと、いつも言いますように自己保存の本能です。
とっさ
自分を守りたい、自分の肉体を守りたいという本能があります。もう咄嵯に守りたいとい
かど
う本能がある。この本能はなくてはならない本能なのだけれども、今はあまりに過度にな
っています。過度になりますと、自分を害する者、自分のためにならない者、損を与える
者、自分の利害関係に反する者、それらはみんな敵に思えてくるわけですよ。なんでもか
んでも敵に思える。ですから常に不安を持っている。あれも敵じゃないか、これも敵じゃ
ないか、あれは泥棒じゃないか。そのようにいつでもいつでも不安な気持ちを持っている。
そこ
そういう不安な気持ちというものは、生命を損ねるものなのです。たとえば「チチキト
ク」なんて電報が来ますと、とたんに心臓がドキドキして、御飯が食べられなくなっちゃ
う。胃の活動がなくなっちゃう。何が心臓をドキドキさせたかというと、アッと思った恐
怖というか、不安というか、心配というか、そういう想いなのです。だから、心配とか不
安とか恐怖とか、妬みとか怒りとかいうものが生命の働きを阻害しているわけです。
生命の活動が素直になされている時は、肉体が完全です。運命も完全なんですよ、それ
を不安の想いとか、想いがすべて邪魔してしまうわけ、さわりになるわけです。だからそ
ういう想いから抜け出せばいい。そういう想いと生命そのものとを離せばいい。生命その
ままが現われていることを、本心が現われているという。その本心の大きなところが神さ
まというわけですね。宇宙神、大生命といいます。大生命から分かれてきた小生命が人間
。
てすからね。
159祈りは宇宙に満ちみちる
小生命の与えられた生命をそのまま出せば、みんな幸福になる。みんな人を損なわない
で、みんな完全になるわけですが、それを邪魔しているものがある。それは前にもいった
自己保存の本能です。自分を守りたい守りたいだから、みんな敵にする。大きく言えば民
族なり国家なりが、自分の国家を守りたいために、自分に反するものと敵対する。昔、日
本とアメリカがそうだった。自分の権益をおかす憎らしい鬼畜米英ということだったでし
ょう。そして戦争して日本が負けた。負けたから、神も仏もないのだ、という人が随分あ
ったものです。
大神宮にもお参りした。明治神宮にもお参りした。観音さまにお参りした。八幡さまに
お参りした。国民が総力をあげてお参りしているのに、どうして負けたんだろう、神も仏
もないじゃないか、という論がありましたね。そして無神論になり唯物論になった人がた
くさんいます。それは祈りということを全く知らないで、自分勝手なことを願ったからで
すよ。
どういう願いをしたか。自分のほうが勝つ、敵をやっつけ、相手を殺したってなんだっ
160
てかまわない、それで自分が勝とうというんでしょう。神さまは人類の神さまなのです。
神さまはすべてのすべてなのです。神さまからすべて分かれて来たから、日本人もアメリ
カ人もイギリス人も中国人も、みんな神さまからみれば自分の子であるわけです。自分の
子である人間を、先方は神さまと言ったから支持し、片方は神さまと言わないから支持し
ない、殺しちゃうーそんな馬鹿なことをするんだったら神さまは平等じゃありません。
だから日本人も祈ったろう、アメリカ人も祈ったろう、祈ったけれど、それはお互いの業
想念。自分を守ろうとする、自分の願いを達成しようと思って祈ったわけです。人数から
すれば向こうのほうが多かった。武器もお金もアメリカやイギリスのほうがたくさんあっ
た。こっちは武器がなかった。
本当の祈りが必要
結局、祈りというのではなくて、念力でそれが五分五分としても、物質的には向こうの
ほうが多かったから、多いほうが勝つのは当たり前ですよ、これは。それを神さまにお願
161祈りは宇宙に満ちみちる
いしたけれど叶わなかった、というのは、祈りでもなんでもなくて、祈りということを全醜
然知らなかったからです。
つの
現在はどうなっているかというと、アメリカとソビエトが角つき合わせしている。話し
合いをするっていったって、自分の勝手なのだからね。利害関係をちゃんと考えて、自分
が損がいかないなら妥協しよう、こっちも損がいかないなら妥協しよう、こう思っている
わけです。お互いが自分を守ろうとする、自分の損得を考えての話し合いだから、これで
は話し合いはつきはしません。表面つくように見えたって、完全にはついてない。いつも
敵対している。ソビエトとアメリカが敵対しながらの話し合いなのだから、本当に仲良く
なるわけはない。
一番大きな国と国とが話し合いしたって、いつまでたっても仲良くなりっこない。仲良
くならないとすれば、小さな日本みたいな国はどうしたらいいか、日本など武器がありゃ
しません。安保改定でどうするかわかりませんが、どうなったって、アメリカに勝るもの
じゃない。ソビエトや中国に勝てやしません。
かな
国民のお金を全部しぼったって、とても武器では敵いません。そうするとアメリカなら
アメリカの言う通りに動かなければならない。だから常に敵を見ている。中国は敵だ、ソ
ビエトは敵だ、何は敵だと敵ばかり見ている。そして敵よりも武力があればその場で勝つ
かもしれない。勝ったってしようがないんだけれども、また負けるんだからね。いつも勝
ち負けは業想念だから、勝ったり負けたりするわけですよ。それが今までズーッとつづい
てきたわけですよ。戦争につぐ戦争で来たわけです。
もし今度戦争があれば、それは原子爆弾、水素爆弾がとびかうから世界は全滅しちゃう
わけなのです。それほどのものになって来ている。泌
み
そこで今度は今までのお願い主義、念力の祈りではなく、本当の祈りが必要なのですね。満
ち
本当の祈りというのはどついうことかというと、業想念を消してし考ので玄争いの濠臨
恐怖の波、自分を守ろうとする波、敵を見る波、そういう波が人類世界にいっぱい満ちみ埠
01
ちている。だから、一人ではおとなしくて何も出来ない人が、上役に何も言えない人が、祈
三人集まり五人集まり組合になると、さあ今度は力が出て来ちゃって、日頃おとなしい人鵬
ふわらいどう
が鉢巻きをして”資本家を倒せ”とやる。付和雷同というのか、大きな力になってくる。
それは何かというと業想念の集まりがどんどん大きくなるからそれだけの力を持ってくる。
相当に破壊力が大きくなる。そういう寸前に今来ている。
164
神々が集まってくる祈り
その逆をいえば、真実に本心を明らかにする祈り、神さまの中に入って世界平和を祈る
人たちが多くいれば、神さまの力が集まってくる。世界平和というのは神さまのみ心です。
神さまにとって、人類は自分の子たちですから、子供が喧嘩しているのを、親がただみ
ている馬鹿がないでしょう。人間でもそうなんだから、ましてや神さまが子供の喧嘩を喜
んでみているわけはない。みんなが仲良くなるように、と思っている。みんなが本当の心
を現わしてくれますように、というのが神さまのみ心なのです。だから、神さまのみ心は
世界人類が平和でありますように、という世界平和の祈りなのです。神のみ心がそのまま
現われたのが世界平和の祈りなのです。
ということは、神々が世界平和の祈りをする人のところへ集まってくるという意味です。
それを私は神さまから教わったのですね。それを霊眼でみれば、世界平和を祈る時にはも
う神々が光り輝いていっぱい集まっていらっしゃる。この間の聖ヶ丘などでもすごいです
よ。神々が光り輝いています。視える人には視える。宇宙人だって集まってくる。
光り輝くもの1 内部的には自分の本心、外部からいえば天なる神、同じことなのだけ
ちょくれい
れどね。それを私は外部的には守護霊守護神といっている、内部的には分霊- 直霊といっ
ている、それは本心です。中をさぐれば本心が開いてくる、守護霊守護神につながってい
けば外部的に見える神々が現われてくる、というように教えているわけです。
本心は神なのだ、お前は神の子なのだ、お前は仏の子なのだ、本心をさぐれば、と言わ
れても、業想念の妬みとか恐れとか欲望がありますから、また、いくら神の子だ神の子だ
と言われても、肉体があるし、神の子っていったってオレは亀の子ぐらいじゃないか、と
いうわけでなかなか神の子というのはわからない。完全円満なのだよ、と言われても完全
円満ということがわかりませんね。そうすると、どうしても外から神さまということを教
165祈りは宇宙に満ちみちる
えてもらわなければならない。
そこ。て私が、
うしろ
「祖先の悟った霊が守護霊になって後で守っているんですよ。その上には神さまそのも
のから分かれた守護神が守っているんですよ。守護霊守護神とズーッとつながって天高く
宇宙神につながっているんだ。そして守護霊守護神の力によって、本心をおおっている業
想念、自我欲望が消えてゆく。守護霊さま!といって守護霊につながってゆくと、守護霊
の中へ入ってゆくと、守護霊の光と自分の内部の光とがつながってゆく。つながってゆく
と業想念がきれて、切れ目が集まって、天からの光がパーッと中へ入ってくる。中に入っ
てくるに従って、本心がズーッと開いてくるんだよ」
こういうように教えているのね。それだけじゃ自分のお願い事だけのような気がするか
ら、そこで世界平和の祈りをしよう、というのです。
世界平和の祈りをするということは、一つには、世界人類が平和でありますように、と
思うと自分の想いとしても世界人類の中へ自分が入っていきますね。常に”世界人類が平166
和でありますように、日本が平和でありますように”とやっていると、想いがいつの間に
か世界人類のこと、日本のことを思うようになる。そうすると、日常茶飯事のごたごたと
したつまらないことが、いつの間にか世界平和の祈りの中に消えてしまうのです。要する
に想いの転換です。業を神さまのほうヘパッと転換してしまう。大きな世界人類の平和を
祈る想いの中へ入れてしまう。天のほうからいえば、こちらの想いを世界平和の祈りに合
わせると、神々の光が肉体人間の中ヘサーッと入って来て、そして神さま本心とつながっ
てしまう。
そういうことを私が教えているわけね。だから想いの転換でもある。これは科学的な方
法なのです。
想いをためておかないこと
人間というのは、一度に二つのことを思えない。入りまじっては思えるけれど、一遍に
は思えない。いつもゴタゴタ思っている。たとえば怒りなら怒りの想いが出てくる。怒り
167祈りは宇宙に満ちみちる
へ む
の想いが出たままで世界平和の祈りの中へ入るなら入れますね。想いを持ったままだカら。16
不安なら不安になってくる。地震がグラッときたら、あっ五井先生!とみんな言うものね。
そうすると何か不安がなくなってくる。
島田重光さんの話ではないけれど、子供が自動車にひかれた、と電話がかかってきた。
とたんに五井先生と想わなかったけれども、次には五井先生が自分の中にいる、というこ
とがわかって、じっと落ち着いてきた、というんでしょ。というのは常に五井先生が胸の
中にある、世界平和の祈りがこの中にあるものだから、それで大丈夫だという気がしてく
るわけね。そしたら案の定大丈夫だった。そういうことはざらにあるわけです。あるいは
とつさ
咄嵯に五井先生!と思って安心する人もある。
それはどういうことか。想いが不安の中に入っていかないような練習、癖がついている。
不安の想いとか、怒りの想いとか、そうしたものはいつでも世界平和の祈りの中へどんど
ん、どんどん入ってゆくから、いつの間にか自分の幽体の中に積みこんである業想念とい
うものがなくなってしまう。いつの間にか消えていっちゃう。それで幽体の中に光が満ち
みちてしまうわけなのですね。光が幽体にいっぱいにつまれば、幽体というものと霊体と
いうものが同じになっちゃうんです。そうすると、業想念が入ってきたら、パッと光にな
って消えてしまう。
たとえば皆さんが、五井先生!と思いますわね。おなかが痛い五井先生、頭が痛い五井
先生、夫が乱暴です五井先生! ってやる。そうするとそれはみんなこっちへ来るんです。
それを私が全部、幽体に積みこんだら、私はあくる日ねこまなければならないでしょ。十
何年もやっているけれども、私はそういうふうに一回もならない。
何故ならないかというと、私の幽体というものはないのです。霊体と一つになっちゃっ泌
み
ている。だから、ピュッとくるけれども、すぐ消えてしまう。一遍にどんとくる時は、一ち
満
遍に消妥いから、百か二日ちょっと熱が出ることもあるけれどへそれも滅多にない。麟
そういうようにサッサと消えてゆく。その代わりに何かあると、すぐ現われてすぐ消えて貯
り
しまう。現われ方が早いんですよ。そのように皆さんも常に世界平和の祈りで、光の中に祈
入っていますと、業想念をためておかなくなる。ためておかなければどんどんなくなる。鵬
よご
どぶ川はどうして汚れているかというと、流れというものがない、流れていないです。
たまっている。だからどんどん汚れてゆく。しかし山の川なんかきれいですよ。ターッと
流れているから。澄んでいます。流れは速ければ速いほどきれいになってゆく。そういう
意味で、想いを溜めておいてはいけません。それはいい想いであろうと、悪い想いであろ
うとたまったら、流れが止まっちゃうんです。そこで想いというものを、常に流しておか
なければね。どんどん流しておく。
あのヤロi、このヤローと思ったら、世界人類が平和でありますように、と世界平和の
祈りをして、あのヤロー、このヤローを向こうへやってしまう。恐ろしいと思ったら、恐
ろしいと思う想いを世界平和の祈りの中に入れてしまう。お金がほしい、と思ってもです
よ。あっ私はどうしても百万円が欲しい、と思ったら、百万円も世界平和の祈りの中へ入
れちゃうんですよ。そうすると、世界平和の祈りの中から、その人に与えたほうがその人
のためになるものなら与えられる。与えてためにならないものなら与えてくれないですよ。
170
神はその人に必要なものを知っている
神さまというものは、自分より先に、この肉体人間より先に、ちゃんとその人になくて
はならないものを知っているんですよ。ところがみんなは神さまは耳がきこえないと思っ
ている。それで神さま百万円、百万円。(笑) しまいには、それはきこえません観音さま
(笑)なんて、聞こえても聞こえないも、神さまは中に入っているし、外にもいるし、全
部なんだからね。声で神さまと呼ばなきゃ聞こえないもんじゃない。でかい声を出さなけ
りゃ聞こえないんじゃなくて、思えば神さまには聞こえているんです。向こうのほうが先
に知っているんだから。向こうの力で生まれてきたんだからね。それを聞かせようと思っ
て、私にもそう言うんですよ。しつこく、しつこく言う人がある。何遍でも、かんでふく
めるように私に頼む。人がいようといまいと、かまわずに言っている人があるけれども、
言わなくてもわかっているんだから、一遍でたくさんだね。私はそういう人には「ああ、
わかった」と先に言っちゃう。(笑)
171祈りは宇宙に満ちみちる
ましてや宇宙に充ち満ちている。中に入っているんだからね。自分と同じものだからわ
かりきっているわけです。だからお願いということは、本当は必要ないのですよ。それを
今までの宗教観念が〃お願い”でやって来た。向こう(神さま) はこの人には何月何日い
くら与えて、何月何日にはいくら引いてって、(笑) と考えているんです。ちゃんと考えて
ごう
いるのだから、向こうに任せておけばいいものを任せられないのです。それが業なのです。
任せられない想いが出て来たら、それも世界平和の祈りの中へ入れちゃいなさい、とこう
言うんです。
今までは世界平和の祈りのようなものがないのです。神さまというけれど、どこにいる
かわからない。宇宙に満ちみちている。というけれど、どこに満ちみちているかわからな
い。充満している生命というのがもうわからないんですよ。それで観音さまの像とか画と
やしろ
か、お釈迦さまの像とかを拝むわけですね。それでお願い、とやった。神社という社の中
に神さまがいるとして、チャラチャランとお春銭をあげ、ああ、入れすぎちゃったなんて
ね、(笑) やっているんですね。172
やしろやしろ
今はそれでは間に合わなくて、生きた動いている社です。みんな社なんです。だから
ここにいるわけです。そこで頼めばいい。神社へ行ってごらんなさい。神さまって、口を
きいてくれないから。こっち(自分のこと) は口きいてくれる。しかし本当をいえば、口
をきいて返事してもらう必要さえもないんですよ。だけどやっぱり返事したほうが、みん
なが安心すると思って返事するけれども、どっちだっていいんだ、返事なんぞは、本当は。
先生、と言った時には「あい」って先生のほうではわかっているわけだね。
想いの持ってゆきどころ
その人になくてならないものは与えられるし、その人に一番いいようにゆくわけなので
す。だからお願いというよりも、自分の天命が完うされますように、世界人類が平和であ
りますように、という想いを強く持つのですよ。その練習をする。そうするとその人の運
命が自然自然のうちに、天命を完うしてゆくような運命になってゆく。天命完うを邪魔す
るような運命じゃしようがないものね。
173祈りは宇宙に満ちみちる
何かお願いして、思わぬお金が入った、与えられたといってもそれは天命の完うじゃな
い。飲んだり、競馬に行ったりなどして足を出しちゃったりして、(笑)宝くじが当たって
気違いになった人もある。思わない金なんか入らないほうがいいから。なくなったと思っ
た時は現われてくる。現われたと思ったらなくなって、また現われる。そういうように知
ごう
らないうちにお金も循環してゆくようになればいいんだけれども、まだ過去世の業がある
おろ
から、それが全部消えるまではそうは問屋が卸さない。
たまたま叶えられて、たまたま叶えられなかったりするわけですよ。それは業があるか
ら。業が消えてゆく姿として、苦しみもあるわけです。しかしやがて、全部業というもの
は消えてゆくものなのです。何故かというと、人間は神さまの子だから、完全円満なのだ
から、迷ったりなどするわけがない。困ったりなどするわけがないのです。わけがあると
いうのは、過去世の業が消えていないからです。
それを普通は、貧乏なら貧乏の業がある、病気に現われている業がある。そうするとそ
れを掴んでしまう。それで「私は貧乏だ、いつになったらお金が豊かに入ってくるのか、
174
貧乏だ貧乏だL と年中唱えているものだから、貧乏のほうで、私をこんなに歓迎してくれ
るのか、というんで貧乏のほうで喜んで居ついてしまうわね。(笑)
掴んではいけない、だめだ、と教える宗教はあるんだけれども、どこへ放していいか教
えてくれない。貧乏は掴んじゃだめ、病気を掴んじゃだめ、というんだけれども、サァど
こへ持っていっていいかわからない、もってゆく所がない。神さまの中へ入れて、といっ
ても神さまがどこにいるかわからないから、持っていけないんです。また持っていった気
がしない。
世界平和の祈りの中に入れる
私はそこで、神さまといってもわからないのかもしれないけれど、神さまのみ心ならわ
かる。神さまのみ心は世界平和の祈りだから。貧乏は世界平和の祈りの中へ持っていって
しまいなさい。病気は世界平和の祈りの中へ持っていっちゃいなさい。迷いも世界平和の
祈りの中へ持ってちゃいなさい。それで足りなかったら、五井先生って言えばいい。私が
175祈りは宇宙に満ちみちる
引き受けます。貧乏でも病気でもみんな引き受けます、と言っているんだから、こんな楽聡
なことはないですね。
ぐちでも誰かに聞いてもらうと、フッと晴れるものですよね。それは業が消えてゆくか
らね。たとえば自分が困ったことがある。自分一人で悶々とやっていると、とても苦しい。
親しい友達に「実はうちの亭主はこれこれで」ってやるでしょう。(笑) 聞いているほうは
いやだけど、ああ、この人はかわいそうだ、聞いてあげようと思う。「それは大変ですね」
ヘへ
なんて相槌を打っているうちに、録音が向こうからこっちへ移っちゃう。すると向こうは
消えてゆくんです。それで楽になる。聞かされたほうは明日病気になったり。(笑)
いくら聞かせても私は病気にならないから、みんな私の所に聞かせにくるわけね。私い
くらでも時間を限って聞いてあげます。あなたは五分間聞きましょう、あなたは三分で
… … というふうに聞きますから、いくら言って下さってもいいんです。だけど、肉体のこ
の私に言わなくても、世界平和の祈りの中へ自分で入れてしまう練習をしておくといいで
すよ。
何か言いたいことは、世界平和の祈りの中へ入れちゃうんですよ。あのヤロウ憎らしい、
世界人類が……くちゃくちゃ、もんもんもんもん、世界人類が……そうやる。世界平和の
祈りの中へ入れると一番早く消えます。世界人類が平和でありますように、という時には
その想いが世界平和の光明の中に入っているんだから、貧乏も不平もみんな光の中に入っ
てしまう。それを続けて続けてやっているうちに、いつの間にか心があかあかと明るくな
ってくるんです。これは間違いのないことです。
心の中でゴタゴタ思う想いを、みんな世界平和の祈りの中に入れちゃう。自分の天命が
完うされるために、祈りの中に入れてしまう。そうすると自分の本心が開いてくる。本心
が開いた姿を祈りの姿というんですよ。真実でもある。初めは方便的にやるんだ。そのう
ちに本当になっちゃう。世界平和の祈りというのは、神々が輝いているからです。
だから一つには科学的にいうと、観の転換、想念を転換させ変えてしまう方法です。一
つは世界平和の祈り自身が光り輝いているのだから、そのままそこで消えてしまう。この
二つが同時に行なわれている。
177祈りは宇宙に満ちみちる
それで世界平和の祈りの中へ入ると、世界平和の祈りがあべこべに自分の中へ入って自
分はもっと広くなってくる。今まで小さい自分だったのが、世界平和の祈りをしていると、
祈りから光が入ってくるからグーッと広くなっていくわけ。自分が上等になるわけですよ。
世界平和の祈りを一遍すると上等になる。もう一遍するとまた上等になる。うんとやって
こくじょう
いるとごく上等になっちゃう。極上になると、何も自分の想いがなくなっちゃって、(笑)
人のことばかり思っているようになる。人のことだけしか考えられないような人は極上な
のですよ。自分のことばっかり考えて、人のことは何も考えない。人なんか死んじゃった
ごくあくろうごく
ってかまわない、というのは極悪者。同じごく.てもね。牢獄なんていうのもあるけれども、
そういうのは困る。
想いというのをためちゃいけません。想いをためない練習をするんですよ。それが世界
平和の祈りなのですよ。祈りというのはそういうものです。
お願いするのは業想念、祈りというのは神さまの中へすべてを任せてしまう。神さま!
どうか私たちの天命が完うされますように、これが祈りなのですよ。もっと大きくすると178
日本の天命が完うされますように、もっと大きくすると、世界人類の平和が達成されます
ように、世界人類が平和でありますように。これは大きな祈りです。私達の天命が完うさ
れますように、というのが小乗としても、世界人類が平和でありますように、というのは
大乗です。だからそれを混ぜて、
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
祖先の悟った守護霊さま有難うございます
神さま守護神さま有難うございます
とこう祈るわけなのね。それで間に合わなければ、五井先生!とやるんです。そう祈っ
ていますと、知らないうちに自分の本心が輝いてくるわけです。
さあ、質問があったらして下さい。
179祈りは宇宙に満ちみちる
ふだ
質問神棚にまつってありました天照大御神のお札がどこかへ行ってしまったのです。㎜
まつらなければいけませんでしょうか?
答まつっても、まつらなくても、どっちでもいいです。ということは、神棚に神さま
がいるわけじゃないし、神さまは自分の中にもいる。自分についているんですよ。各自に
ついている。けれど神棚の前で、神さま、と思うから、神さまがそこにうつってくるだけ
なのです。ただ神棚がそこにあったって、神さまがくるわけじゃないですよ。「神さま」と
本当に神さまを思うから、そこに神さまの光がくるわけです。
質問仏壇は?
答仏壇は祖先の霊光が来ますから、あったほうがいいでしょうね。
質問仏壇の向きは?
答都合のいいほうへ向けて下さい。(笑)本当はどうでもいい。そういうのをやかまし
く言うのがあるんですね。西へ向けちゃいけない、北へ向けてちゃいけないって。どこへ
でも向けて下さい。
質問ねる時は枕をどっちにしたらいいか。
答私は頭を北にしていますが、頭北面西といってね、頭を北にすると冷えるでしょう。
頭はあっためちゃいけないから、北にやるんです。死んでから北枕じゃなくてね。頭北面
西、顔を西向きにするといい、ということになっていますね。
質問方角ってのはあるのですか?
答本当はないんです。自分がこうしようと思ったらそうすればいいし、西がいけない
と言われたから、といって迷っていたら、変えたほうがいい。ということはどういうこと
かというと、想いなのですよ。自分の想いがそう思っている以上、それに反すると、自分
が何か罰を受けるような、うまくいかないようなことになるのです。家相とか方位があり
ますよね。たしかに家相に反したら悪くなったり、方位を破ったら悪くなったりします。
しかし外国人に家相や方位があるかというと、無いでしょう。あったとしても東洋の家相
や方位と違うでしょう。反対の場合もありましょう。
どうして西洋人はなんともなくて、東洋人、特に日本人だけやられるのか? それは東
181祈りは宇宙に満ちみちる
洋人、特に日本人の想いの中にはそうしたものが根深く入っているので、それでその波を魏
受けるんです。みんなの家相がどうだ、という想いがあります。その想いが伝わってくる
んですね。一人が方位をおかした、あっちの方位がいけないんだ、という積み重ねた想い
がズーッと流れて伝わってくるんです。それで悪いんですよ。
わざわざ悪いという方向にやる必要はないけれども、自分が何も知らなきゃ、そんなこ
と考えることもなくってそのままです。それこそ私のところへ来た人たちならば、世界平
和の祈りをしてなんでもやったらいいと思うんです。私がよけてあげますから大丈夫です。
ほこら
質問祠があるんですけれど、丁寧に扱うべきでしょうか。粗末にしてはいけないと言
われますが… … 。古い木があるのを交通の邪魔になるからといって切ってしまう。そうい
うことをしてなんともないでしょうか? あとの人がまつらないと罰があたったりするよ
うなことがありますか。
ほこら
答本当は罰じゃないんですよ。どういうことかと言いますと、祠なら祠、お宮ならお
宮を建てる時には、お狐さんか、大蛇かなんかしらないけれど、そういうのを呼ぶんです
よね。それでまつったりするわけです。狐にしても大蛇にしても動物ですね。それでもい
ろいろあげたりすると、お礼にこちらのために尽くしてくれるんです。病気を治してくれ
たり、お金儲けをさせてくれたりする。それで守ってくれるわけなのですね。
こ
生きとし生けるものは、みんな感情があるわけです。神さまになっちゃうと感情を超え
てしまいますけれど、みんな人間と同じように感情がある。それで感情霊というんです。
かんじょう
こっちの勘定とあっちの勘定と両方合うと、保護してくれるわけ。(笑)
先祖がまつってくれていたのに、急に子孫になったらあげてくれない。なんだオレがさ
んざん助けてやっているのに、このヤロウ生意気な奴だ、といって苦しめるわけです。そ
ういうことがあるんです。だからそういう時はやっぱりやっといたほうがいいと思うんで
す。それでもし皆さんの中に、そういう時があったらば、その上に、世界平和の祈りを祈
る。五井先生に頼んでおくことです。そうすると、今までの感情霊がだんだん、だんだん
静まって、今度は高級霊になる。あげたり、さげたりしなくたって、(笑)感情(勘定)に合
183祈りは宇宙に満ちみちる
わなくても守ってくれますから。(笑) 高級霊にさせてもらえばそれは有難い。一枚の油あ
げをもらうよりも、お芋をもらうよりもいいんだから。(笑)高級霊になれば今度はそのま
まで守ってくれる。だから一遍にバサッとやっちゃう必要はない。
きせい
それから古い木、大木を黙って伐るのはいけません。木には精がいます。聖ヶ丘道場へ
いちょうめおといらよう
くる途中に銀杏(下矢切、愛宕神社前) の大木が二本あるでしょう。夫婦銀杏ですね。そ
こにきれいなひげをはやした老翁がいるんです。私が行きますと、いつもちゃんと迎えに
出て、案内してくれていたのです。ところがこの間うち、あの枝をみんな伐っちゃった。
そしたら老翁が出て来ないんですよ。いなくなっちゃった。そこで、私祈っていたら出て
来ましたがね。銀杏はまた(木の勢いを) 回復すると思います。
普通ならば罰があたりますよ。老翁の怒りでもってやられます。しかし私祈ってありま
すし、罰あてないようにと思っているんです。罰というのは神さまがあてるのではなくて、
感情霊とか自然霊とかね。植物でも生きているものでしょう。生きているものを理由もな
く無断で伐れば、これはシャクにさわりますよね。黙って伐ってはいけないです。伐る場184
合には、銀杏さんなら銀杏さん、私の都合ですけれど伐らなければならなくなりました、
まつやしろ
かんべんして下さい、といって一遍祀ってやる。どこかに小さな社でもつくって、祀りか
えなければいけませんね。そういうようにすれば、精たちも感情霊もわかります。
それでなかったら、世界平和の祈りをして、世界平和の祈りをあなたのためにいつも祈
りますから、どうか許して下さい、といって伐るように。やっぱり断りなしに伐ってはい
けません。そこに住んでいるんだからね。
木も人間と同じです。人間は誰だって傷つけたら怒りますよ。それと同じこと、少しも
違わない。
質問霊界にもいろいろと細かいことがあるんですね。
答あるんですよ。私はあまり詳しいことは言わない。何故かというと、みんな面白が
って、そっちの方面の研究をしたくなったりして、世界平和を忘れられると困るから、余
計なことは言わないんだけれど、本当はいろんなことがあるのです。
たとえば酒呑みの祖先がいたとする。霊媒か何かにかかって来て、酒をあげろくとい
185祈りは宇宙に満ちみちる
う。酒をあげないと、怒って子孫を病気にさせたりするのがあるんです。まあ生きている
人間でもありますよね。酒を呑ませろ、いやだめだ、と言うと、怒って暴れるのがいる。
それと同じで、向こうの世界まで影響していることがあるのです。酒をあげないと機嫌が
悪いわけです。
同じようなことで、私に相談に来た人があるので、私は「やめなさい」と言って、酒を
あげさせないんです。しばらくあげないでおきなさい、いつまでもそんなことをやってい
たのでは、その祖先が迷ったままだから、私が光をあててあなた方少し病気したりするか
もしれないけれど、酒をあげるのをよせ、と言って止めちゃうんです。幽霊に禁酒をさせ
ちゃう。幽霊の禁酒、(笑) そうやって、こちらで世界平和の祈りを祈っていると、祖先も、
ああ酒なんか呑むべきものじゃない、と悟ってゆく。あるいは肉体側の呑まされているほ
うが悟って、それがあちこちに映ってゆく。そういうのが随分ある。
だから木を伐る場合でも、祠を建てる場合でも、初めはやってあげていいんです。だけ
どいつまでもやっていたんでは困るから、世界平和の祈りの光をあてて、昇華させて、み
186
んな神さまのお使いにしてしまわなければいけない。神さまの本当のお使いならば、罰な
どあてないですからね。まあそういうことがあったら、私に頼んじゃうんですよ。そした
ら私のほうでちゃんとうまくやってあげます。その代わりひまがかかるんです。それはそ
うでしょう。そこの親分だと頑張っているものが、縄張りを荒らされちゃうんですからね。
(笑)でちょっと暴れるわけですね。しかし世界平和の祈りを祈ってあげているうちに、
だんだん、だんだんおとなしくなってゆく。〃ああ本当にこのほうがよかった”と思って昇
天してゆくわけです。そうするとお宮も祠も何もいらない。身代わりはいらないわけです。
だから全部世界平和の祈りの一員にしちゃえばいいんです。宇宙に満ちみちて、自由に泌
み
歩けるわけですから。そういうのが本当の救いになるわけです。ち購
感謝以外に極意はない縮
猟
この世に現われているあらゆるものには、全部神さまのいのちが働いている。ただ二通祈
りに現われているわけ。神が造ったものとして現われているものと、神さま自身の駕幽耀餅
として現われているものと二通りあります。
わけいのち
神さまの分生命として現われているものが人間なんです。人類なんですね。それで造ら
れたものは動物、植物、鉱物なんです。造られながらも、だんだん分けられたような形に
なってくるような場合もあるわけです。人間など初めから神さまの分生命が現われて、神
さまそのものなのです。いわゆる神の子なんです。それを認識しないといけませんね。
神の子がやたらに造られたものを無駄に使ったりしちゃいけないわけですね。植物でも
動物でも鉱物でも、みんな感謝しあって使うと、たとえば食器を使うのでも「有難うござ
います」と感謝して使わなければならない。食物だって有難いという気持ちで食べなけれ
ば、神さまのいのちが生きないわけです。「なんだこんなもの」これじゃあ神さまのいのち
が生きない。感謝しながら使えば、すべてのもの、万物が生きる。生きて人間を応援する
ことになるんですよ。
すべてを生かして使う方法、自分が幸せになる方法、みんな役立たせる方法は感謝とい
う以外はありませんね。宗教の極意は感謝なんです。感謝以外のものはないんです。わざ
188
わざ感謝するんじゃない、自然にすべてのものに感謝が出来るようにむけてゆく、それが
宗教の極意なんですね。
自分が悪いんだ、自分はだめだ、だめだと思ったり、人がだめだ、だめだと思ったり、
そういう余計なことはいらないんですね。それは消えてゆく姿です。自分にも感謝出来る、
人にも感謝出来る、あらゆるものに万物に感謝出来るような人間になるように、神さまは
一所懸命業を消して下さる。守護霊守護神はそういうように業を消して下さるんですね。
だから感謝の想いの深い人はやっぱり立派な人ということになるんです。
いくら理屈をいったって何にもなりはしません。言葉だけでいくら「有難つございます」泌
み
と言ったってだめですよ。本当に心から「有難いなア、みんなが私を生かして下さるんだち
満
なア」とこういうふうに毘ることが、宗教の極意です。鶴
購
蹄
190
思い出さずに忘れずに
昭和35年8 月21 日
亡びるか平和が実現するか一一つに一つしかない
でんぎょうこうぼうほうねんしんらんどうげんにられん
伝教でも弘法でも、法然でも親鸞でも、道元でも日蓮でも、当時、世界というものが離
ればなれになっていたから、現在にならないと、世界平和ということは言えない。法然の
頃、親鸞の頃、日蓮の頃に世界平和なんて言ったって、世界の交通ができていないんだか
ら、世界平和なんて考えも及ばないでしょう。日本の平和きり考えられはしない。
現在では、世界が昔の日本よりもっとせまくなっています。スピード、時間からいけば
“箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川
“なんていった頃と今では、全然時間
的に短縮されている。アメリカに行くんだって、日本国内を歩くより速く行ってしまう。
ズーッと縮まっているということになるわけです。
そこで今こそ世界平和というものが本当に考えられる時なのです。今では、誰でも彼で
も世界中を知っているからです。地図を見ればわかるし、テレビをみればわかるし、ラジ
オをきけばわかる。世界というものは、一瞬にしてわかるわけです。
今が一番、世界平和が実現しやすい時になっている。と同時に、世界が滅びるのも近い
時になっているわけです。だから滅びるか、世界平和が実現するか、二つに一つしか無い
わけです。中途半端はないんです。いい加減なところに止まっていることはないんです。
だから他のつまらないことはどうでもいいんですよ。それは後廻しでいいと思うんだ。世
界をまずつぶさないようにしなければならない。地球人類をつぶしてはしようがない。こ
れを滅亡させないようにするために、どうしたらいいかというと、第三次大戦というもの
を防がなければならない。原爆水爆の戦争を防がなければならない。それともう一つ、天
191思い出さずに忘れずに
変地変を防がなければならない。魏
この二つが人間の力で出来ますか? 肉体の力で出来っこない。今、世界の戦争を防げる
ものは誰かといったら、ソビエトきりないんですよ。フルシチョフが戦争をしまいと思え
ば、手を出さないと思えば、それはしないで済むでしょう。ところが小さなことでバタバ
タやった時には、うっかり手を出すかもしれない。今の状態では手を出します。アメリカ
とソビエトが戦争をしない、と本当にその気になればしないかもしれない。しかしそんな
気になっていない。自分の力を見せよう、知らせようとし、相手を押さえようとしている。
お互いが武力で競争しているんだから、うっかりすれば「なめるな!」というんで戦争
しちゃいますからね。だからソビエトには世界平和にする資格がない、アメリカにも資格
がない。原爆水爆をもちながら世界平和なんていったって、そんな資格がありはしません
よ。どこに資格があるかというと、日本です。インドにもあります。(編注・のちにインド
は核実験を行なって失格した) 日本は原爆に一番先にやられたし、被害を被っている。一
番平和の音頭をとる資格があるのは日本なんですよネ。それなのにそれなのに。(笑) 武力
でもってしなければ日本はだめになる、という考えが多いんです。
日本の進むべき道
そんなこと一切考える必要はないんです。平和に適進すればいい。片方では原水爆禁止
運動の先頭に立とうとしながら、片方ではアメリカと手をつないで、アメリカが核兵力を
増強し、核実験をしても知らん顔しようという気持ちなのでしょう。そんなへんぱな、そ
んな腰のまがったような平和論なんてありっこない。片方では戦争に加担するような気持
ちもあるし、いざとなったら戦おうという気持ちもある。そんな気持ちがあって、平和と
いうのは無いんです。
平和というのは、あくまで平和ですよ。徹頭徹尾、平和じゃなきゃならない。ところが
肉体の人間の業想念では、まず殴られたら殴り返そうという気がある。どうしてもありま
すね。自分がやられないうちに、敵をやっつけちゃおうという気がある。それがあるうち
は地球はダメになります。
193思い出さずに忘れずに
私どもにもそういう気持ちはありますよ。誰だってあります。何があったって”有難う〃
めつた
というほどの心境の人は滅多にあるものじゃない。敵が攻めて来ても、ああ、そのまま殺
されましょう、という心境の人も滅多にあるものじゃない。滅多にあるものじゃないから、
皆がやっぱり敵が来たら向かってゆこうという気があるに決まっている。ソビエト軍が日
本に入って占領しようとすれば、自分も向かってゆく気がある。日本人全部にありましょ
う。やっぱりそれは業想念なんです。
それをなくせと言ったって、なくなりっこないんだから。その業想念はあるままでいい
きゅうせ
から、それを世界平和の祈りの中に入れてしまって、一日も早く、救世の大光明を肉体界
に降ろさなければだめですよ。守護霊守護神の本当の姿がここに現われるようにしなけれ
ばだめです。守護神が大挙して現われる、と向こうで言っている。あるいは宇宙人として
現われるかもしれない。それで地球世界を潰滅させるような兵器というものが使えなくな
るようにするんだ、という神々の宣言が私の中にあるんです。そのための世界平和の祈り
なのです。
194
救世主が光り輝いている
世界平和の祈りには救世の大光明が光り輝いている。救世主が光り輝いている。その中
に入って、救世の大光明と一つになって、地球界を照らさなければならない。だから小さ
いゴタゴタしたことは後廻しでもいい。それはそのまま世界平和の祈りの中に入れちゃえ
ばいいんだから、かまわず年中、世界平和の祈りをやることです。そして、一日も早く宇
宙人が現われること、あるいは守護神が現われてソビエトならソビエトの、アメリカなら
アメリカの武力が全然価値のないもの、力のないものにすることです。それ以外に地球が
救われる方法はありません。あとはみな観念論です。
いくら理論で、人間はこうなければならない、こういうふうにしなければならない、と
言ったって何にもならない。なぜなら聞いてわかっているんだから。
「人を愛さなければならない」「ああ、そうです」
「善いことをしなければならない」「ああ、そうです」
195思い出さずに忘れずに
「右の頬を打ったら左の頬を打たせるような心境にならなければいけない」「もっともだ」
「上着をとる者があったら下着をも与えるような心境にならなければならない」「そうで
すね」
196
出来ることを教えている
みなわかります。誰でもわかるんだけれども、実際問題は出来ないんですよ。実際に人
間が出来ないようなことを、いくら教えてもだめです。いざとなったら何もならない。そ
こで私は実際問題として、人間に出来ないようなことは教えないんですよ。出来ることだ
け教えている。
出来ることは何かというと、自分の全想念を神さまの中に入れることです。どういうふ
うにして出来るか。それは世界平和の祈りで祈り言葉にのっていけばいい。「世界人類が平
和でありますように」と言う時には、自分の想いがズーッと世界人類の中に広がっている。
神さまの中に入っているという意味ですよね。自分をまぜてみな平和である、みな調和で
ある、ということだから、その想いがいつも、いつもあればその人は神さまと一つじゃな
いか、神の子じゃないか、それをいうんです。
自分がまず神の子になること、自分が光り輝くこと、それはむずかしいことじゃない。
自分の業想念を神さまの責任にしてしまえばいい。いいことも悪いことも、みな神さまに
返してしまえばいい。いいことだけを神さまにあげるんではない。悪いことも何もかも神
さまに入れちゃうんです。
らようず
それを大概、うがい手水に身を浄め、そしてポンポンとやらなければいけないと思う。
そんなことはない。汚れたら汚れたままで神さまの中に入れなければならない。お風呂に
何故入るのか。汚れているから入るのでしょう。どこかできれいに洗って来て、お風呂に
入るバカはない。信仰というものはそういうものです。汚れたままでいいのです。汚れた
ままで入れば、神さまのほうできれいに洗ってくれるのに、今までの宗教というのは余計
なことをして、自分の力で自分のごみをとってきれいにしなければ、神さまの前に出られ
ない、と言うのですよ。神さまをけがすとか言って。だから女の人が月のものの時は神詣
197思い出さずに忘れずに
りが出来ないとか、お産があったら神詣り出来ないとか、亡くなった人があったら神さま
の前に出てはいけない、とかいう民俗信仰のようなのがありますね。そんなバカなことあ
るものか。
神さまが人間の想いで汚れるわけがないんだから。神さまは大光明なんだから、光り輝
くものが人間の想い。て汚れてたまるものか。何故機いのか? お産が機いわけがない。き
れいな神聖なことです。何故月のものがきたないのか? きたないことはない。そういう
ものをきたないとかきれいとかいって、わざわざ神さまから離す必要はない。三七日二十
一日かなん日かはお参りしてはいけないとか、四十九日がすぎなくてはいけないとかいう
のがあるでしょう。どうして四十九日も五十日も神さまを離れて生きていられるか。一秒
たりとも神さまを離れて生きていられない。一秒たりとも離れては生きていかれないのが
人間なのです。それなのに、お産の後はいけないとか、死んだ時には喪だから神詣りして
はいけないとか、そんなバカなことがあってたまるものじゃない、というのが私の説。
198
神さまにだきつけ
どんな汚れた体の時でも、どんな悪いことをした時でも「神さま、ごめんなさい!」と
か「神さま!」と言って、神さまの中にだきついていって、神さまで誰が「お前は稼いか
ら下がれ!」というやつがあるものか。そんな神さまはいらない。今いらないんですよ。
どんな汚れた体でもどんな汚れた心でも、神さま!と言えば神さまがきれいに洗ってくれ
るような、そういう神さまが必要なんです。そういう神さまが今現われている。それは何
かというと、救世の大光明として、世界平和の祈りとして現われている。その祈り言をす
ればお前がどんな悪いことをしていても、どんな悪い想いがあっても、みんなきれいにし
てあげるから、この祈り一念で生きなさいよ、と言っているんです。わかりますね。
いいかえれば「自分のゴタゴタしている想いを持っている間は、いつまでたってもお前
さんは偉くはならないんだから、お前さんが自分でやらないで、みないいも悪いも、こち
まか
らに任せなさい。みなこちらできれいに洗濯して、お前に返してやるよ」とこういうわけ
199思い出さずに忘れずに
なのね。それが守護霊守護神の役目だし、救世の大光明の役目なんです。そして初めて人㎜
間が生まれる。新しく生まれ変わるのです。
思い出さずに忘れずに
新生するんですよ。世界平和の祈りを一日一日、毎日毎日、瞬時も隙間なくやっていれ
ば、隙間なく神さまと一緒でしょう。いつでも神さまと一緒ということになります。それ
はわざわざ言葉で「世界人類が… … 」とやらなきゃならないのではない。想いでいつも世
界平和、と思うわけじゃない。いつでも想いがこの中にあって離れないんですよ。
ほ
『思い出すよな惚れよじゃないよ、思い出さずに忘れずに』という小唄のように、本当に
好きだったら、わざわざ思い出すということは無いんだ。いつでも神さまの中にある。い
つでも世界平和がこの中にあるんですよ。いつも言うけれど、親が子供を思う時にいちい
ち、あの子は、この子は、と思い出しはしないんだ。いつも中にある。子供はいつでも親
の心の中に入っている。思い出さなくたって子供のことは忘れることは無いですよ。
それと同じように神さまのほうでは、子供のこと、つまり人間のことを忘れることがな
い。いつでも人間をみている。ズーッとみている。くっついて離れないでみている。だか
らこっちも離れないでみていればいいわけです。いつでも思い出さないんだけれど、いつ
でも忘れていない、というようにならなきゃ。母親が子供を思うような想い方で神さまを
思うんです。
子供のほうは遊びにかまけて、母親を忘れちゃう場合があるんです。母のほうは子供の
ことを忘れません。浮気している人は知らないけれど、当たり前の人は忘れはしない。そ
ういうものなんですよ。こ
引信仰
というものは、思い出しもしないけれど、忘れもしない。いつでもこの中で世界平れ
忘
和が鳴り響いている。わざわざ”世界人類が… … 〃と言わなくとも、いつでも鳴り響いて臓
いるような、そついう人間にならなければならない。その練習のためには、やっぱり想い躁
の世界で〃世界人類が平和であります考に”と思わなければならない・練習ですからね・恥
その練習を強化するために、この統一会をやっているんです。鋤
統一している時には、みな想いが救世の大光明のほう、世界平和の祈りのひびきにのっ
て、神さまのほうに行っているわけです。それが行なわれない場合には、私が柏手で助け
ます。ですから、あなた方は平気な顔をして、のんびりと世界平和の祈りだけやっていれ
ばいい。世界平和の祈りが消えたら消えたでいい、雑念が起こったら起こったでいい。足
がしびれたらしびれたままでいい。汗をかいたらかいてもいい。拭きたかったら拭いても
いい。鼻をかむならかんでもいい。欠伸をするならしてもいい。眠るなら眠ってもいい。
そのまま任せるんです。そうすると守護霊守護神のほうできれいにその人を磨いてくれる
わけです。
お風呂屋さんに行ったら、お風呂屋の三助がみな背中を洗ってくれますね。やってくれ
ます。だから入っていればいい。洗いたいところは自分で洗えばいい。洗うということは
思えばいいんですよ。お風呂ならもう沸かしてあるんです。救世の大光明の霊浴が出来る
んですよ。楽にやればいいわけです。
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