我を極める


刊行にあたって
「人間はいかに生きるべきか」この誰もが抱く根源的な問いについて、五井昌久先生は、覚者
としての立場から、やさしい言葉でさまざまに、お話ししてくださいました。本書は、そうした
お話の中から、特に「自分を極める生き方」に関するものを収録し、編集したものです。
それらはすべて、昭和三十年代後半から五十年代初めにかけての講話ですが、今読み返しても、
決して古びることはなく、むしろ現代人に必要な叡智が内包されている気が致します。それは、
地球の未来を見通していた五井先生が、未来を生きる私たちに向かって投げかけてくださった、
閉塞社会を打開して新世界に飛び立つための、「キーワード」であるのかも知れません。
「我を極める生き方」とは、一見武道家や求道者だけが歩みうる、険しい道のようにも感じら
れます。しかし本来は、老若男女誰にでも出来る易行道なのであります。その真実を、私たち一
人一人が知ることが、真の自己実現、そして世界平和成就につながってゆくのです。
そのような生き方を誰しもが出来るようにと、五井先生は、本書でその秘訣を、さまざまに説
いてくださっています。
平成十九年六月
編集部
1
目次
刊行にあたって
第-章自我と大我
自己の本体を知る
本当の人間とは
神界の自分との一体化
自我と大我
1
6
第2章人間に宿る限りなきカ
t
内なる力を発揮する
自分自身の力を信じる
72
本体の力を百パーセント出す
90
無限に進歩する生き方
114
102
第3章あなたも免許皆伝
すべては自分の磨きのため
あなたも免許皆伝
150
130
すべてに超越した生き方
常識の世界から本当の世界へ
165
179
第4章
意義のある人生
価値ある生き方
甲斐ある入生
生き甲斐のある人生
208196
光の足跡を残してゆこう
230
242
ブックデザイン・渡辺美知子
第輩自我と大我
6
自己の本体を知る
人間の本体とは
人間は、物心がついて、いわゆる考えることが出来るような年令になったらば、一番最
初に「自分はどういうものなのか、人間というものはどういうものなのか、自分はどうし
てここに生まれて来て、どういうようにして生きてゆくのがよいか」ということが心に浮
かぶのが本当なのです。
ところが世の中では、死ぬまで自分自身が何んにもわからないで、自分自身のことを探
求もしないで、ただ目の前の利害得失や、つまらない喜怒哀楽だけを追っている人がほと
んどです。皆さんは自分自身を求めて、それを探りたいために宗教に入っていらつしゃる
わけですが、本当に幸福なのです。
一番始めの望みであり、最後の究極のものであるのは、やはり自分自身を知ることなの
です。それを知ることによって、人間として本当の生き方、働きが出来るのです。知ると
いっても頭で知識として知るということではないのです。心で知ることです。心の中でハ
ッキリ知っていて、それが行ないに自然に現われているお婆さんやおじいさんがいます。
理屈はわからないけれど、自分は今日生かされているままを生き、そのまま有り難く感謝
して生きている、という人がいます。そういう人は確かに自分を知っているのです。
ところが少し学問をしてくると、ますます自分がわからなくなってくる、それでいて自
分を知ろうとは思わない。ただ現象の利害得失、地位とか権力とかお金とか、そういうも
のだけを追うようになっていきます。肉体の自分というものの満足感だけを追い求めて生
きてしまうわけです。
ただ、人によって前に会った時そうだったから、現在もそうかというとそうでない。昨
日会ってくだらない者が明日、明後日に会って立派なほうに向いていることが随分ありま
7第1章自我と大我
す。
りげでつ
たとえばここに五十になる人がいるとします。五十になるまでには脱皮したり、業をつ
けたりいろいろと変転して、立派な人が立派でなくなる場合もあるし、立派でないように
なにがし
見えたのが実は、中の立派なものが出てくる場合もある。何の何某と名前がついているか
ら同じ人間かと思うと同じ人間ではないのです。肉体人間として顔形としてそう違いはし
ないけれど、年々歳々、瞬々刻々変化しているのです。そして最後に一番の大変化をとげ
た時、それは本心の自分、本体の自分がそのまま現われてくるのです。
私を例にとれば、子どもの時の私と二十才台の私、そして三十才台の私と四十才台の私、
さらに五十才になった私とは大きな変化をしています。特に三十才台の時には大変化をと
げて、まるで違った人間になったわけです。外側から見て肉体が変わったわけではないけ
れども、肉体を通して現われた人間像としては、まるっきり違った人間になったわけです。
赤ん坊はみな可愛い顔をしています。なんて可愛いんだろうと思います。あどけない、
何んの悪意もない、見ているだけでも気持ちがいい。ところが、十五になり二十になると
8
嫌な子になる場合があります。一体どこからそれが出てくるのか、赤ん坊の頃の可愛い感
じが本当なのか、嫌な人間のほうが本当なのか、どこに一体その子の本質があるのか。ま
た三十才の頃は嫌な奴だったのが、五十になって立派になって来て、六十才になってさら
に立派になるかもしれない。ですから名前は同じだけれど、本当に同じものではないので
す。現われている肉体人間というのも、年々歳々変わっているのです。細胞組織は瞬々刻々
しんちんたいしゃ
新陳代謝しています。そして何年かすれば身体の細胞は全部変わってしまうのです。だか
ら肉体を持った人間というものは本当のものではないのです。消え去ってゆく姿です。
本当の人間は何かというと、神様のみ心の中で光り輝いている霊なる人間なのです。そ
かこせ
の光がそのまま真直ぐ地上界に現われるために、過去世からの誤まった想い、業想念が病
気になったり不幸になったり、災難に遭ったり、いろいろ変化して消え去っていって、最
後にはきれいな霊なる神なる人間の姿がここに現われるわけなのです。
わけいのち
人間の本体は神のみ心そのものであり、神の分生命そのものであるのですから、どうし
ても、本体のほうから、自分というものはこういうものだということを、知らせずにはお
9第1章自我と大我
かないのです。ですから、どんな人間でも遅かれ早かれ、自分の本体はいかなるものか、
本体とは思わなくても、自分というものは一体どういうものなのか、ああ自分を知りたい、
自分のことが本当にわかったらそのまま死んでもいい。「朝に道を聞かば夕に死すとも可
なり」という言葉がありますが、朝本当に道を聞いてわかったらば、もうその時死んでも
いいんだ。自分の本質を知り、自分自身の本体がわかったならば、もうそのまま死んでも
悔いはないということです。
肉体人間がいくら辮蜘をつくし、権力を得たところで、瞬々刻々瓢瀧してゆくのだから
やがては消えてしまう。いくら総理大臣だの大統領だといってみたところで、或る事変が
くれば、一介の庶民よりも辛い想いをしたりして果ててしまうわけです。そういうもので
ロごヒう
はあきたらないものが人間の中に誰でもあります。ただ業に覆われていると気が付かない
のです。そんなことに見向きもしない、想いが行かないだけなのです。想いが行った人が
宗教的になって、心霊の研究をする人もあるでしょう。まともに宗教に入る人もあるでし
ょう。社会事業の面に入る人もあるでしょう。あらゆる面で本当のものを求めてゆ
くわけ
10
です。
自分の本体を知れば、本当の仕事、いわゆる天命が完うできるわけです。それを私は、
消えてゆく姿で世界平和の祈りという方法で教えているわけです。あらゆるもの、喜怒哀
かこせいんねん
楽も現われてくる幸不幸も、環境もすべて過去世の因縁の消えてゆく姿であって、消える
に従って、自分の本心、本体の姿が自然に現われてくる。その本体は何かというと、神の
み心と一つであって、光り輝いている完全円満な実体なのです。それがだんだん現われて
くる。だからたとえ不幸があろうとも、病気があろうともそんなものは問題ではない。消
えてゆく姿なのだ、そのあとから本体が現われてくる、もし病気でそのまま死んだとして
も、肉体が消えてしまっただけで、本体は光り輝いている。
そうすると、また必要あれば地上界に本体から生まれかわる形になりますから、死ぬ時
に”消えてゆく姿” がわかっていれば、いくら病気で苦しんでも、ああこれで消えてゆく
のだな、これで私が清らかになって本体が現われるのだな、と思って死んでいけば、きれ
いな心になっていけるのです。そして今度生まれ変わる時には菩薩のようなきれいな輝く
11第1章自我と大我
心で生まれてくるわけです。或いは富貴栄達、名誉を得て生まれてくるかもしれない。
12
守護霊守護神の存在
過去世の借金というか、過去世の因縁として悪い行ないをし悪い想いをしていたら、そ
れだけが現われて消えてゆくわけです。その悪い行ないというのはどういうのかというと、
神のみ心から離れているもの、大調和精神のみ心から外れているものです。そういう業が
ある以上は、神様のみ心の中にスッカリのれません。神のみ心にスッキリとつながるのを
邪魔する業想念というものを、病気や不幸や災難にして出して消してしまうわけです。
 な  
業がある以上はどんなことをしても、それが出てくるわけです。しかし、守護霊、守護
神につながり、祈り心で加護を願っていますと、守護霊守護神が肩替りしてくれるのでず。
百ある業想念を九十背負ってくれ、あと十だけ肉体のほうへ出して、肉体は十だけのもの
を背負っていけばいいようにしてくれるのです。いっぺんに千だとか万だとかたくさんの
ものを出したら苦痛が激しくつぶれてしまうから少しずつ出して消してゆく。人間側に力
がつけばそれだけのものを出してゆく。そしてあまり気が付かないうちに出してしまって、
苦しみ少なくてこの一生を過ごしてゆけるようになるのです。ですから守護霊、守護神の
加護というものは大変なものなのです。
自分自身に信仰がなく、宗教心もないのに良い生活をして、苦しみもない人がたまたま
あります。そういう人はどういうことかというと、過去世で非常に徳を積んでいるのです。
それは自分も積んでいるし、先祖も積んでいるもので、先祖の加護を受けながら、その徳
が現われているわけです。ところがあまりそれに甘んじて、自分の力だなんて思っている
と、最後にガタッとくる。或いはこの世を去ってから、高慢の想い、誇りの想いが現われ
 な  ゆうかい
て、幽界で苦しむことになるわけです。
ですから結局は、自分というものは神のみ心そのものであるけれども、この地上界に肉
体として生まれてきて、何回も何回も転生しておりますので、その過去世の因縁によって
は不幸にもなり、幸福にもなるわけです。けれど過去世の因縁というのは、今はどうしよ
13第1%%自我と大我
ゆうたい
うもありません。録音…機と同じだから、幽体に録音にされたものはぐるぐる廻っていて、
いつかは出てくるわけです。だからこれはどうしようもないのです。直せといってもどう
しようもない。食べてしまったものをまた出せといわれてもしようがないと同じようなも
のです。
さんがい
過去世の因縁がぐるぐる廻っているのを三界といいますが、三界というのは現象の世界
 なヨ 
という意味です。肉体界、幽界、霊界の下のほうですが、この三界をぐるぐると業想念は
廻っているのです。この三界から出なければいけない。解脱し超越しなければだめです。
超越する世界はどこかというと、神のみ心の中なのです。神のみ心の中に入るためにはど
うしたらいいかというと、肉体界にいますと、肉体の想いが激しいから守護の神霊たる守
護霊、守護神の手助けがなければ入れないのです。
それで「守護霊さん守護神さん有難うございます」といつも守護霊守護神につながって
いますと、守護霊守護神の光の柱が出来て、その光の柱の中に入ってスーッと神のみ心の
中に入ってしまうわけです。皆さんは守護霊さんに感謝しながら、守護神さんに感謝しな
14
がら、世界平和の祈りの大光明の中に常に入っているわけです。そうすると三界の世界か
らぬけているのです。
けれど、いくら三界をぬけても、肉体があり、縁がありますから、想いがかかってきま
す。かかってくるけれども、常に光の中に入っていると、知らないうちに少なく少なく消
えてしまうわけです。そうすると宗教信仰のない、世界平和の祈りのない人よりも、ズー
ッと楽に楽にこの世を終われるし、あの世に宝を積むことも出来るのです。しかも、何も
しないように見えても、世界平和の祈りをしていれば、その光明が地球界の業想念を浄め
る役目をしていますから、人類救済の大きな仕事を果たしているのです。だから、消えて
ゆく姿で世界平和の祈りをしていることは、その身そのままが何もしていないようにみえ
るけれども、自分の本心を現わしているのだし、過去世の因縁を軽く消しているのだし、
さらに人のためにもなっていると、こういう三重の得があるわけです。
15第1章自我と大我
守護の神霊への感謝の大切さ
1G
人間には誰でも業があるわけですが、自分の業と一緒に、地球界に住んでいると人類の
業もみなで少しずつ分担するんですから、人類の業を少し背負うのです。そこで守護霊守
護神が守っているのですが、業が深いと肉体との間がズーッとはなれてしまって、余程守
護霊さんを想っていないと、守ろうとしても守れないことが随分あるわけです。業が消え
た時ぐらいしか守れない。ところが常に守護霊さん守護神さん有難うございます、と感謝
していると、守護霊さん守護神さんと昇ってゆくわけです。常に一つになっているわけで
す。そうすると、例えば業が厚く取りまいていても、守護霊守護神さんにつながった光の
柱が立っているから、業が現われてきても大した怪我でなくてすむ、大した病気にはなら
ない、不幸にならないわけです。もしなったとしても光がつながっているから、すぐ光が
通ります。そしてすぐに消えてゆくという形になるのです。だから常に常に守護の神霊が
守っていてくださるんだ、ということが信仰の一番のポイントです。
ああ守護霊さんが守っていてくださる、守護神さんが守ってくださっている、うちの先
祖が守っていてくださる、有難うございます、という形です。そう思っていると常に大き
な自分になっている。小さな自分ではなくて、大きな守護の神霊と一つになっている大き
い自分になっているわけです。だから守護の神霊と一つだということをいつも思うことが、
一番大事だと思います。
あらゆる理屈をこえて、守護の神霊が守っていてくださるんだ、有難うございます、と
いう感謝の心が常にあることが一番の根本です。それから始まるのでなければならないの
です。理屈など後廻し、理屈などなくてもいいのです。理論を知ることがどうして大事か
というと、理論を知ると意識が強まるからです。ああそうなんだ、この教えは本当だ、と
こう思うから理論を知ることがよいのであって、守護の神霊が守っていてくださるという
ことが本当にわかれば、その理論はいらないわけです。神様は愛なので、必ず人間に悪い
ようにはしないのだ。そう思えればそれが一番よいのです。理屈に勝るものです。
ひゃくちいっしんじっこうおよまこころ
「百知は一真実行に及ばず」百知っていることは、一つの真心のある実行に及ばないん
17第1章自我と大我
せいじつしんニうばんりまさ
だ。「誠実真行万理を知るに勝る」誠の行ないはいろんなことを知るよりも勝っているんだ、
というのは、私がこうなる時に守護神からもらった言葉です。行ないが一番です。という
のは常に一番根本は、神様に守られている自分なんだ、ということ。そういうことが有り
難いことなのです。この教えを行じていると、知らないうちに「ああ守護神さんに守られ
ているな、ああ守護霊さん有難うございます」と自然に思えてきます。
世界人類が平和でありますように… … そして最後に守護霊さん守護神さん有難うござい
ます。といつもみなさんは祈り、感謝していますが、それが絶え間なく守ってもらってい
るという証拠なんです。いつも唱えているということが、だから有り難いことなのです。
(注1) 守護霊守護神とは、人間の背後にあって常に運命の修正に尽力してくれている各人に専
属の神霊。
(注2)(注3) それぞれの解説については、巻末の参考資料の蹴頁参照。
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本当の人間とは
目に見えるその奥に神の世界がある
いつも申しますけれども、人間というものは肉体ではないということです。神様のひび
きの一つの現われ、いうなれば器であり、場である。神様の命が働くために創られた場所
であり、器なんです。ですから肉体が人間だと思っていたら、いつまでたっても本当の真
人間にはならないわけです。
なにがしふちょう
何の某という名前がついているとすれば、それは符牒なんです。鈴木一郎とか、佐藤次
郎という名前が付きますと、それが肉体の自分であると思います。けれど名前は一つの符
牒にすぎない。だからこの肉体が自分だ自分だと思っている以上は、絶対悟れないんです。
19第1章自我と大我
はじ
始めに大神様がいらつしゃいます。その大神様の分かれた働き、ひびきがいろんな神霊
の世界を作ったんです。この地球世界にも、元の世界、まだ物質の地球でない、物質化さ
れていない神霊の姿の地球がある。そこで神霊そのままの人間がひとまず働いていたわけ
です。それは光のひびきですから、お互いがひびき合って、心と心が直ぐ通じ合う、直感
力で通じ合って、悪い想いなんか全然出せないわけです。たとえ悪い想いを出したとした
ら、すぐ自分に還って来て、自分が損をする。だから悪い想いがない世界、いい想いだけ
の世界。想いというよりも行ないがそのまま現われてくる、ひびきそのままの世界がある
わけなんです。テレビでも、鳴らそうかな鳴らそうかなではなくて、スイッチがポンと押
されて鳴ってしまう、そういうような世界があるのです。完全円満な世界です。
それが或る時、神様が物質界をお創りになるために、天地に分け、いろんな姿に分けて、
細かい波動を粗くしてみたわけです。そして物質の地球世界、眼に見える地球が出来たわ
けです。そこでその地球にふさわしい形のいろいろな生物を創ってみたんですね。この間
も或るところで、兜虫などを売っていましたが、いろいろな色が付いたり、形をしていた
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り、まことに小さな虫でさえすばらしいんですね。で、あらゆる姿や形の生物を神様が創
あまくだ
られた。最後に神霊がそのまま神霊世界から天降って来て、物質界に肉体というものを創
って、その中に入ったわけなのです。それで今の人間が出来たわけなんです。
物質波動の虜になった人間
初めはアダムとイブから出発しています。創られたままで生きているんだけれども、だ
んだん肉体的な知恵がついてくると、欲望が出てくる。肉体のほうに心がいってしまった
わけです。それでだんだん神様の完全円満の姿から分かれて、自分という肉体、神様から
離れた人間というものを作りはじめてしまった。第二の人間ですね。これが誤てる想念な
のです。想いが出て来たわけです。そして完全円満から離れて、こうしなけりゃいけない、
ああしなければいけない、というふうにだんだんなって来て、ついには神様と人間とは別
ぎょくせき
なものであるというふうに意識してしまった。そして今日にまで来ているわけです。玉石
21第1章自我と大我
こんこう
混清して、争いの世界が出来ているわけです。
本当に真理を知らないで、このままいきますと、神様から離れきってしまうことになる。
そうなると人間の存在価値がなくなってしまうわけです。つまり神様の命のひびきからだ
んだん遠ざかります。すると蓄積された生命エネルギーがだんだんなくなってしまうわけ
ほろ
なんです。そうなれば否でも応でも、亡びなければならなくなる。そういう世界がやがて
やってくるということに、各予言ではなっているのです。
人間の知恵が発達し、知恵を使って、科学が発達した。ところが物質偏重の科学だから、
物質の肉体を保護するために、お互いに自分たちを保護するために、お互いが相手をやっ
つける形になって科学兵器を作りはじめた。せっかくの原子力の開発も爆弾のほうにもっ
ていってしまう。水爆の威力のすごいのが出来ていますから、やがて、それを使わなけれ
いつぺん
ばおさまらないような事態になれば、一遍で地球世界はダメになります。
そういうふうに、神を離れた誤てる想念というのは、本当は神様のひびきを現わすため
の肉体なのに、その神霊のひびきを忘れてしまって、肉体だけを別に離して考えるから、
22
こかつ
生命はそこにだんだん枯渇してゆきます。生命エネルギーがなくなってきます。やがては
滅びるということになります。それは天変地変で滅びるか、戦争で滅びるか、どちらにし
ても生命エネルギーがなくなってくるから、枯れてしまうわけです。
 はる ちょくれい
それでは大変であると思われて、肉体人間が出来た始めから、直霊が分かれて守護神に
なって、陰になり、日向になりながら守ったわけです。始めのうちはちゃんと守護神が姿
を現わして、人間と話し合って事を運んだりしたことがあるんです。それは何故かという
と、物質に慣れないで神霊のひびきそのままでいたから、お互いにわかり合ったわけです。
物質化がだんだん増えて来て、物質波動のほうがだんだん濃厚になってくると、神霊のひ
びきがだんだん忘れられていった。そして物質波動の虜になってしまって、神なんかない
という形になって来た。唯物論になって来たわけですね。
唯物論になると、肉体が主ですから、肉体の文明文化が栄えます。肉体生活が便利なこ
とを図り、肉体が安易であること、肉体が喜ぶことばかり考えますから、肉体が喜ぶよう
な科学が出来てきて、便利になってきた。便利になると同時に、ますます物質偏重になり
23第1章自我と大我
ますから、
来た。
神様のような目に見えないひびきを忘れてしまってきた。それで今日になって
24
守護霊守護神なしでは生きられぬ
そうなることは神様のほうで初めから知っていらっしゃいますから、守護神を遣わした。
守護神が分霊の人間を守って、つねに危いところを助けているわけです。守護霊、守護神
が守っている。これから先は、人間は守護霊守護神を考えなければ、生きていけないんで
す。守護霊、守護神なしだったら、生命エネルギーが枯れてしまうんだから、やがて滅び
てしまう。ところが残念なことに、守護霊、守護神の存在を知っている人は少ないわけで
す。宗教信仰をしている人の中でもわかっていない。信仰をもった僅かな人が守護霊守護
神の加護を信じている。
私たちは守護霊守護神の加護の力というものを、みんなに知らせようと思って一生懸命
宣布しているわけですよ。
一人の人間がここに生きている時には、働いている人間の魂が一つではなくて、うしろ
に守護神さんが一体、守護霊さんが三体(主守護霊と副守護霊二体)四体の神霊が必ず守っ
ていらっしゃるのです。少なくともネ。それでいろんな人のために尽くしている人や、大
きな仕事をしていれば、たくさんの神様が付いて守っていらっしゃるのです。自分を絶対
守ってくださる方は四体必ずあるのです。そんなに守っていてくださるのに、迷いのほう
へ迷いのほうへと入ってしまう。過去世からの誤てる想念ですね。
“神様が守っているというけれど、俺は俺だよ、人間は人間だ
” なんて思うのは迷いで
す。それはあくまで消えてゆく姿。病気なら病気になる、不幸なら不幸になった時には、
それは過去世の誤てる想念がそこに現われて、守護霊、守護神の力によって消されてゆく
わけです。「ああこれで消えてゆくんだナ、有難うございます」と思うことです。たとえ
ちょっとした痛みでも、これは業の消えてゆく姿なんです。ちょっとした不幸でも業の消
えてゆく姿です。「あっ痛い、これで消えてゆくんだな、神様有難うございます」不幸な
25第1章lil我と大我
ことがあったら「こんなことがあった、しかしこれで消えていって、私はよくなるんだな、
もとの本当の神様の姿にかえるんだな」というように感謝すれば、光が充満してくるわけ
です。
悪いことがあるたびに、悪い想いが出るたびに「ああこれは消えてゆくんだナ、これか
ら善い想いを持ちましょう。これからきっとよくなるに違いない」といって神様に感謝す
れば、だんだんその人に光明が充実して、すばらしい人間になってゆく。
26
人はみな一つの神の命の現われ
私たちの考えている未来の平和というのは、ただ単に戦争がなくなるとか、飢餓がなく
なるとかいうのではないのです。本当に人々が愛し合い、仲よくし合い、本当に手を握り
そんとくかんじょうだきょう
合う世界でなければ平和じゃないんです。損得勘定で妥協して戦争になり、妥協して仲よ
くなる。それではまだ危険が未来にあるわけだから、いつでも心配していなければならな
い。妥協ぐらいではもうたっていけない世界なのです。地球は滅びるか、それでなければ
真の平和を獲得するか、という時なのです。
今の人間の想念意識では、ほんとうの平和というのは絶対出来ないのです。何故ならば、
自分の子どもが可愛い、自分が可愛い、ほかの人は憎らしい、という想いが大体あります。
自分と他人とを区別し、すべてを区別し、自分本位な生き方をしているようでは、いつま
でたっても平和は来ないんです。滅びが早いんです。
われわれのやっている運動は、自分も他も、自国も他国も、みんな一つの神の命として
拝み合う運動なんです。ところが幸か不幸か、人間の想いの中には自分を可愛がり、人よ
り自分を愛するということがあるわけです。それは業として抜きさしならないものです。
ぬきさしならぬ自分を愛する、自分の身内を愛するというのがあるわけです。
また自分の子どもより人の子どもを愛したんでは、これはどうしようもありません。や
つばり自分に授かった子どもは自分の身近かだから、まず愛する。余力で他人の子を愛す
る。そうしなければ子どもは育ってゆきません。それより仕方がないんですね。仕方がな
27第1章自我と大我
いことなんだけれども、ほんとうの世界の平和のためにはそれが邪魔なわけなんです。
面白いように出来ているんです、この世界は。いいことなんだけれど、裏をかえすと困
ったことになるんです。
愛情といいます。愛することはいいことなんだけれども、それがすぎると執着になって
困ったことになる。いつも長所と短所が混ざってこの世は出来ているわけなんです。それ
は何故かというと、この地球世界、物質世界というものは、本当のものが出来てしまった
ら存続しないように出来ているわけなんです。そこで足りないところは足りないでいいん
です。欠点は欠点で仕方がない。出来るだけ長所をのばして、欠点をなくすようにするこ
とです。
しんらんなげ
欠点をなくすといったって、なくならないでしょう。親鸞さんはそれで嘆いたんだ。九
なげざいあくじんじゅうぼんぷだかつ
十歳まで歎いて歎いて歎きぬいて死んだ。罪悪深重の凡夫だ、心は蛇蜴のようだ、蛇か、
さそりのようだと思っていたわけです。人間にはそういうぬきさしならないものがあるん
です。そこからが信仰なんです。
28
その欠点を補って余りあるものが、守護霊守護神の加護なんですよ。人間の我慢できな
い、足りない、しょうがないところを守護霊守護神さんが守ってくれて、それを日々瞬々
刻々プラスにしてくれているのです。たとえば夜ねるにしても、人間はただなんとなく眠
っていますね。どうして眠くなるんでしょう。一方眠れなくて困っている人もずいぶんあ
りますね。ふつう人は自然に眠ってしまう。誰が眠らしてくれるんでしょう。自分が眠る
んでしょうか? 肉体の自分が自分で寝たり、自分で起きたり出来るんでしょうか? 出
来ません。それは内なる分霊と、守護霊守護神がやってくれているんです。三者が協力し
て寝たり起きたりするのです。
分霊としての自分を感じられる人間に
肺臓や心臓を動かしているのは守護神の関係です。守護神がそれらを止めようと思った
らわけがない。守護神が身体を動かさせまい、とすれば体が動かなくなってしまう。守護
29第1章自我と大我
霊守護神さんのいう通り動いてしまうんです。その逆に考えれば、守護霊守護神さんにつ
ながっていさえすれば、たとえ自分が罪悪深重の凡夫であっても、足りない欠点だらけの
自分であっても、ちゃんと足りる自分として、この世に通用するように、神様のみ心にか
なうようにしてくださるんですよ。
それだから守護霊さん守護神さんは有り難い。私なんか一挙手一投足、肉体の自分がし
てはいないんです。なんにするにも、スーッと神様の意志しだい。字を一つ書くんでも神
かみがか
の意志- わざわざ神様って神悉りになって書くんじゃない。自分で書くんだけれども、
自分が書こうとするのと神様が書かせるのが全く一つになっている。文章を書くにしても
そうなんです。スーッと神様が書いている。
というわけで、守護霊さん守護神さんの加護がないと、一瞬たりとも生きていけないん
です。それなのに生きてゆけると思っている。それが間違っている想いです。
平和になる未来には、守護霊さん守護神さんと本当に一つになって、自分は神の分霊だ
な、ということを心の底から感じられる生き方の出来る人間になるのです。それまで一生
30
懸命に世界平和の祈りをして、心を磨いて神様と一つになる練習をしてください。守護霊
さん守護神さんと一つになる練習をズーッと続けてゆけば、そういう人がたくさん出来れ
ば、真の平和が来るのは早いのです。
われわれはほかのことを顧みないで、まず神と一つになる、守護霊守護神と一体になっ
て、神のみ心をそのままこの地球界に現わせる、そういう運動をしているわけです。ほか
のことは一切かまわないから、神様有難うございます、守護霊さま守護神さま有難うござ
います、世界人類が平和でありますように、そればっかりを根本にして、それで当たり前
の生活をしていればいいんですよ。そうするとその人は神の国に住んでいる人になるわけ
です。(昭和49年4月)
(注4) 巻末の参考資料の蹴頁参照。
31第1章自我と大我
神界の自分・との一体化
32
初めに神の世界あり
宗教は何を目指しているかと申しますと、想いの世界から神様の世界に、人間を送りこ
むことなのです。神様のみ心と人間の心とが一つになるように、いろんな道を説いている
のが各宗教なのです。
そこで私が一番大切にしているのは何かというと、やっぱり想念の在り方ということで
こんじょう
す。常日頃から想っていることが、自分の運命として現われるのです。それも今生だけで
はなく、前の世、ずーっと過去世から肉体がこの地上界に生まれたその初めの時から、人
問の世界というのはあるのです。初めから肉体があるんじゃありません。
 はヨ うちゅうしんしんらばんしょう
神様のみ心があって、宇宙神が森羅万象を創るわけです。あらゆる星をつくり、あらゆ
る物質をつくり、その中で人という神の分け命、神自らの生命力、創造力を分けて人間と
いうものがつくられているわけです。
人間は初めに肉体界にあるのではないのです。初めに神様のみ心の中にある。いわゆる
やおよろず
神霊として、神の命そのままとして各種に分かれた。神道でいえば八百万の神です。一神
にして多神。宇宙神が一つあって、多神に分かれた。初め神霊の世界にありました。人類
ちょくれい
のもとを私が直霊といっています。それが各種に働いているわけです。そして地球の人類
が出来たわけです。
地球というのは物質界です。はじめは微妙な波動の神霊がありまして、だんだん幽波動、
肉体波動、いわゆる物質波動になりまして、この地球などが出来ています。古事記にも書
ほこ
いてあります。鉾でもってかきまぜて、国を生み、島をつくったりしています。ああいう
物語は真実のことで、鉾でやったというのは象徴ですけれど、いろんな形で国をつくるわ
けです。
33第1章自我と大我
生物の進化
34
地球が出来て、そこに物質人間というものが現われてくるわけです。初めに何が出来た
かというと、原始生命体が生まれた。アミーバーのような単細胞の生物が出来るわけです。
神様の力で生まれているわけです。比喩的にいえば、神様がいろいろと試してみる。初め
に単細胞を作ってみた。これじゃ面白くない、もう少し違ったものを作ろう、だんだん複
雑なる細胞群をつくった。昆虫をつくった。魚をつくった。また鳥をつくった。獣をつく
った。いろいろな動物を作ってみた。これは少しはうまく出来た。もう一寸うまいのもつ
くろうと猿が出来た。猿の顔を一寸直し、もう少し頭をよくして、という形で、だんだん
力を加えてゆくわけです。そして最後に出来たのが人間なわけです。
ですから人間というものは、物質的、肉体的にみれば動物の進化したものです。猿から
進化したというダーウィンの進化論はたしかに本当なわけです。ところが肉体を動かして
いる生命というもの、生命力、知恵、創造力というものは、肉体にあるのかというとそう
ではない。神のみ心の中にある。霊なる命がそのまま創造力であり、智恵であり、あらゆ
ほんとう
る能力の源泉であるわけです。それが肉体の中に入っている。というと真実はおかしいん
だけれど、まあ中に入っていると表現しておきます。中にいて動かしている。
すべては波動の集合体
人間には脳があります。脳には大脳とか小脳とかあります。この脳の中に働く力が入っ
ているわけです。この脳というのは形からみると体でしょ。そうすると形の中にあるみた
いでしょ。ところがこの肉体というのは波動なんです。波動が現われてこの形にみえるだ
けです。肉体の五感でみるとこの肉体の形にみえるだけなのです。ところがもっと微妙な
目でみれば、こういう形のものではなくて、波が集まっている。
私がいつも話しますけれど、机はかたいもので固体に見えますね。しかし固体だけれど
釘なら釘、刃物なら刃物をさしますとささってしまいます。どうして固いものなのにささ
35第1章:自我と大我
るのか。それは原子と原子の間があいているからなんですね。隙間があるからです。空間
があるわけです。原子のもとは陽子と電子、陽子はいわゆる素粒子で出来ています。目に
見えない。電子顕微鏡で見えるものもあるし、見えないものもあります。そういう微粒子
が集まって働いている。
うちゅうし
もっと細かいところでは、私たちは宇宙子というんです。それは今、研究しています宇
宙子波動生命物理学というものの基礎です。この宇宙子にはプラス、マイナスがありまし
て、その中に物質となるべき宇宙子もあれば、精神として働く宇宙子もあって、精神宇宙
子というのが非常に重大な役目を持っているわけです。宇宙というのは碁盤の目のように
なっているんです。何故かというと縦のプラス性と横のマイナス性とが組み合わさってい
るから、碁盤の目のような動きになっているわけね。縦の働き横の働きが交叉している。
縦と横の働きが常に角度を転換しながら、場を変えていって、いろんな物質が出来るわけ
です。
縦の働きが大まかにいえば精神ですね。横の働きが大まかにいえば物質です。だからこ
36
の肉体の五感の世界に見える、三次元の世界にみえる物質だけが物質ではなくて、幽界に
も物質があれば、霊界にも物質があれば、神界にも物質があるんですよ。それを大体そう
思わない。物質というとこの目に見える五官の世界だけに、物質があると思うのです。
あらゆる世界に物質がある
ところが実際、霊能のある人たちが、目に見えない世界にチャンと神様の姿も見られれ
ば、富土山のような山もみえれば、川も海も見えるわけなんです。見えるということは何
かというと、物質なんです。生命というのは、精神というのは見えないんです。感じるだ
けで見えません。ところが霊界と神界とでは見えるわけです。幽界などは勿論見えます。
霊能のある人は見えるわけです。
目に見えるものは物質なんです。だから肉体世界ばかりではなく、あらゆる世界に物質
がある。ただ同じ物質でも波動が微妙な物質なわけです。霊界、神界の物質はもっと霊妙
37第1章自我と大我
な物質です。私なら私が肉体の粗い波動の物質体をまとって、この机の前にいます。と同
時に、神界にもっと微妙なる波動の五井先生が向こうにちゃんといるんですね。それがい
ろんなふうに変化していますけれども、微妙極まりない光明燦然たる姿をしている。皆さ
んもそうなんです。
38
人間はみな本当は神界にいる
皆さんもこうやって道場に坐っていらっしゃるでしょ。鼻の低い人もある、高い人もあ
る。目の大きい人も小さい人も、頭のはげた人も毛の多い人も、いろいろあるわけです。
ところがそういう皆さんとは全く違う、中味が全く違っている、純粋なきれいに磨きこん
だ、光り輝いた皆さんが向こうにいるんです。なのに皆さんは気が付かない。私は気が付
いている。
自分がこう肉体にいながらも、神界にちゃんと自分がいる、と私は知っています。修行
中に知ったのです。本体と合体してそのまま降りて来ていますから、向こうもこっちも自
由に行ったり来たり出来るわけです。皆さんが亡くなって、肉体を地上に置いて、霊界へ
魂がいきますね。五井先生っていえばパッと五井先生が現われる。五井先生というのは肉
体にいるのに、なぜ霊界で五井先生って呼んだら先生が出てくるのか、その五井先生とい
うのはなんだ、という質問がくるそうだけれど、やっぱり五井先生。ただこの中にあるけ
れど、もつと微妙な精妙化された光明燦然たる五井先生というわけです。それは私ばかり
ではありません。皆さんもそうですよ。
皆さんも肉体にいますけども、神界にもいるんです。それをわかるために統一が大事な
のです。何故お祈りするか、統一するかというと、それがわかるためなんです。統一する
ということはどういうことか。自分は肉体の人間である、という想いが赤ん坊の時からあ
るわけですね。肉体の人間だと決めてかかっている。自分は波動体だ、と思っている人は
ないでしょ。自分は光明燦然たる光の玉だ、なんて思ってないですよね。頭では聞いてい
ますけれども、話には聞いているけれど、この肉体が俺じゃないかと思うのです。
39第1章自我と大我
肉体人間観を超える
40
目に見える五官というものが仮りにあって、仮りにこういう形に見えているんですよ。
蟻から人間をみたらどんなに見えるかわかりません。犬から見たってどう見えるかわかり
ませんよ。犬はちゃんとご主人をしたってくるけれど、あれは目で見ているのか、やっぱ
りこういう顔に見えるのかどうか、犬に聞いてみないとわかりません。うちの犬は違うと
いっています。
彼らは人間の肉体をみているわけではなく、波動を見ているわけです。そういう点では
犬のほうが微妙です。ところが人間というものは、肉体をまとってしまうと、目で見、耳
できき、手でさわらなければわからないんです。ああこれは机だな、と目で見、手でさわ
ってわかる。ああこの人は誰だなって見るわけです。
私の場合は一寸違うのです。この間外国から帰って来た女性歌手の人がいます。向こう
で相当活躍していて、日本へ帰って来て忽ち第一線に出ているのです。その人が音楽会を
やったのです。私に来てくれといわれたけれど、いかれなかった。行かなかったからわか
らなかったというとそうでない。私には歌っているのがわかっている。高いところがとて
も素晴しくて、あのアリアがとても素晴しかった。こういうふうにうまかった、とあとで
会っていうと、その通りなのです。講釈師みて来たような嘘をいい、というけれど、私は
見て来ているのよね。
肉体はここにいるんだけれども、ちゃんと向こうへ行ってみている、聞いているんです。
肉体だと思っていれば聞けませんよ。東京上野の文化会館でやっている音楽を、市川にい
て聞ける人はあんまりいないでしょ。ここにいて、ふっと聞けば聞けちゃう。何が聞いて
くるのか、肉体が聞くんじゃないです。何が聞くんでしょうね。不思議でしょ。
中の自分の本体は五尺何寸なんて小さくないんです。宇宙大にひろがっているんですか
ら。上野だって日比谷だって、アメリヵだって、どこだってそんなこと関係ありません。
地球中わかっているわけです。要するにテレビジョンの受像器がここにあるわけです。ス
イッチをひねりさえすれば、どこで演奏していたって聞こえてくるわけです。何もわざわ
41第1章自我と大我
さアメリカへ聞きに行かなくたって、
便利な体というわけです。
ちょっとひねりさえすれば聞こえるわけ。そういう
42
たゆみなく消えてゆく姿を行じる
それはどうして出来たかというと、自分は肉体だと思っていないわけですね。肉体はこ
こに仮りにあるんであって、真実はここでないことを、さんざんの修行で知っているわけ
です。だから一寸ひねりゃわかる。便利でしょ。今にみんなそうなりますから。
ところが心が出来ていない場合には、まだ魂がきたえられていない場合には、そういう
ことがわかると、大変なことになるのです。たとえば一つの波なら波をパッと受けてしま
って、その波にやられてしまう。あるいは自分で捻りたくないのに捻られちゃって、どこ
からか急に聞こえて来たり、見えたりする。幽霊なんか見えたり、向こうの想いがかぶさ
ったりする。そうすると肉体を解脱していないんだから、とても苦しむわけですね。
単にそういう現象的なことがわかる、目に見えないものが見え、耳に聞こえないものが
聞こえ、遠くのものがわかるということは、非常に便利だけれども、こうなるためにはと
ても苦労がいるわけです。そこで苦労がなくて、しかも肉体人間観をこえて、神霊の人間
に肉体を持ったままでなれる方法はどういうものかというと、それはたゆみない消えてゆ
く姿なのです。
何が聞こえて来ようと、聞こえて来なくても、人が悪口言おうと、褒めてくれた時は喜
んでいいけれど、どんなことがあろうと、自分の都合の悪いことがあろうと、自分の中か
ら都合の悪い想いが出て来ようと、サァみんな消えてゆく姿なんだ、自分は神様と一つな
んだ、自分は守護霊守護神と一つなんだ、という信念を強める。あらゆることを消えてゆ
く姿にして、神様と一つなんだ、と思う。ただそれだけ。神様の中にいるんだ、というそ
れだけの想いの中にいることです。
43第1章自我と大我
常に神のみ心の中に想いをおく
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神様のみ心の中に、自分の想いをいつも置いておくということです。具体的にどういう
ことかというと、例えば大工さんであれば、カンナで削る時にああこれは神様がやってい
らつしゃるんだ、納豆作りの人であれば、有難うございます、神様がやっていらつしゃる
んだ、銀行員ならお金をかぞえお金を渡すのも、神様がやっていらつしゃるんだ、と思う
ことです。神様から神様へ渡し、神様から神様へもらい、すべてを神様同志の取引、神様
と神様がつき合っているんだ、というような観念になる、これが一番なんです。それがこ
の世が神様の世の中になる、この世が地上天国になる一番の方法なんですよ。
誰も彼も神様の中にいれば、神様は原爆を落としちゃうわけはないですからね。このヤ
ロウバカッ、となぐってしまう神様はいない。あの奴死んじまえばいい、なんて思わない
です。とにかくみんながよくなるように、という心が神様の心です。すべての人が幸せに
なりますように、というのは、神様の愛の心です。そういう想いの中にいつもいればいい
わけでしょ。
それを単刀直入にいえば、世界人類が平和でありますように、日本が平和でありますよ
うに、私どもの天命が完うされますように、みんなが幸せでありますように、ということ
です。みんなが幸せでありますようにという想いで、守護霊さん守護神さん有難うござい
ます、という想いでいれば、神様の中にいることになるでしょ。
一回か二回言ったってしようがない。寝ても覚めても言うんです。眠る時でもいい、お
便所の中でもいい、歩いている時でもいいから、世界人類が平和でありますように、と祈
る。なんか嫌なことがあったら、ああ消えてゆく姿だ、あらゆることを消えてゆく姿だと
思って、ただひたすらに平和の祈りをし、いいことばかり思うんですよ。
いいこと明るいことのみ思う
未来のいいことを思うのです。今は貧乏しているけれど、今にみてろ、オレは六十五だ
45第1章自我と大我
けれど九十才まで生きればまだ二十五年もあるから、これからだってお金がもうかる、そ
んなはしたないことは思わなくていいから(笑)具体的に、自分の欲して人も欲する、自
分も人もいいようなことばかり思うんです。完全なことを思うということは、やっぱり神
様のみ心に合うのです。神様は完全円満です。何一つ神様に出来ないことはないわけです。
ところが神様が肉体の人間の中に入ってくると、肉体の人間は肉体だと思いこんでしまう
ので、出来なくなってしまう。本当は何んでも出来るわけね。
常に肉体の中にいるから、胸が痛いナ病気かしら、頭が痛いナどうかしら、ああ咳が出
るダメかしら、足が痛いナンダカンダといちいち肉体の変化についていっちゃうわけね。
親が四十二で死んだから私も四十二で死にやしないかしら、親が癌だったから私も癌にな
らないかしら、そういうふうに思っている人がありますよ。親の命日は十月三十日だから、
だんだん近づくに従って、私もダメじゃないか、親に義理を立てて、親の死んだ日に死な
なくたっていいですよね。ところがそう思う人があるんですよ。なんでも悪いほうへ悪い
ほうに思う。いいほうに思うのはいいですよ。親が九十まで生きた、私はどんな病気をし
46
たって九十まで生きる、というのはいいけれど、悪いことばっかり思う人があります。
すぐ悪いことばかり思うくせの人がありますが、そういうのはやはり消えてゆく姿と思
って、消さなければいけませんね。悪いことを思ったらすぐ消えてゆく姿。憎い奴がいて、
あいつ死んじゃえばいい、と思うことはいいことではありません。生き死には守護神さん
の権限だから、守護神さんにまかせておけばいい。自分に都合の悪い奴はいないほうがい
いでしょう。会杜でも、上役に都合の悪い人がいますと、あいつどこかへ転勤しないかな、
病気にでもならないかな、いい案配に病気した、なんて思うのは愛じゃありませんよ。自
分勝手でしょ。
神界にいる自分と一つになる
お互いに都合のソロバンをはじいていてはダメです。想いのソロバンをはじかないで、
今現われてくることは皆、過去世の因縁の結果が現われてくるんで、いいことが現われて
47第1章自我と大我
くるのは過去世の徳が現われて、自分に返って来たのだし、悪いことが現われたのは過去
世の不徳、徳を積まなかったものが返って来ているのだから、あらゆることが今現われて
いることは、今やったことではなくて、過去世から現在にいたるまでの業想念が現われて
消えてゆく姿です。
今出て来たことを悔んだって、どうしたってしようがないです。もうすでに前の世から
出来ていることですから。だから今、一瞬一瞬いいことを思い、明るいことを思い、世界
平和の祈りを祈るのです。それが未来に徳となって現われてくる。今積んでおく善徳とい
とかく
うものは未来に向かって花が開くわけです。今現われたことを兎や角いっても始まりませ
ん。
一遍、仕方がないとあきらめることです。肉体人間に生まれたんだから、初めから仕方
がないんです。仕方がないところから始めるんです。俺はこの世に生まれたくなかった、
と言ってもこの世に生まれたんだから仕方がないんですよ。会社がいやだ、といっても勤
めたら仕方がない、一旦あきらめて、サァ今度は、仕方のある方法をやるのです。
48
一つのあきらめの上に立って、それからお祈りするんです。神様にすべてお任せいたし
ましょう、神様はこの命を下さったんだし、この生活や環境というものは自分が過去世で
作ったんだから、仕方がない。ブツクサというのは止めて、サァこれからいいものを創り
ましょう、この世界は自分が創ってゆくんだから、いいものを創りましょう、というんで、
いいことばかり想う練習をするわけです。いいことを思えるようになるために、お祈りを
し、統一をするんです。
不平不満の想い、暗い想い、悪い想いが出たら、ああ消えてゆく姿だ、といって、神様
に消してもらうわけです。これは消えてゆく姿だ、神様有難うございます、世界人類が平
和でありますように、といって、神様の大光明の中へどんどん入れちゃうのです。世界平
和の祈りに入れちゃう。そうすると、救世の大光明の中でどんどん消されてゆくわけです
よ。悪いものがどんどん消えていって、あとに残るものは何かというと、世界人類が平和
でありますように、みんなの天命が完うされますように、という深い深い愛の心だけが残
るんですよ。愛の心だけが自分の潜在意識の中にズーッと入ってゆく。それをやりつづけ
49第1章自我と大我
ていけばきれいなきれいな魂になるわけです。
そうすると、本体の自分と同じになる。光明燦然たる神界にいる自分と全く一つになっ
てしまえば仏様。全く一つになるまでいかなくとも、かなりきれいになって来ます。そう
すると自分もいい生活が出来るし、世の中のためにも自然になる、とこういうことになる
わけです。
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(注5) 巻末の参考資料の蹴頁参照。
自我と大我
真実の自我は神のみ心のこと
普通”自我をなくせ” ということを言いますが、根本的な自我というのは、神様のみ心
なのです。ところが、自我を小我の意味に使っている。自分というものが肉体だとみんな
思っている。肉体だと思っている以上は、肉体の想いというのは自我であるわけですよ。
本当は、自我というのは大我なのです。
それで、この世の中では大我と自我とに分けて、大我を神のみ心であり、自我を自分た
ちの業想念、と伝えられてるわけです。自分というものがまだ本当に判っていないのです
ね。
51第1章自我と大我
 なむり
『神と人間』にー宇宙神が或る時、その統一していた光を各種各様相に分けて、一部
の光は山川草木等の自然界を創り、一部の光は動物界を創り、そして後の光は直霊と呼ば
れて、人間界を創ったーと書いてあります。
人間の一番はじめのもとは、宇宙神の中にあるわけです。それが分霊、分霊、分霊と分
かれて来て、ここに来ているんですね。
その分霊は肉体界に現われて、肉体界の経験を経ては、また幽界へ行ったり霊界へ行っ
たり、そしてまた肉体界に生まれてくる。そしてまた幽界へ行ったり霊界へ行ったりして、
りんねてんしょう
ぐるぐるぐるぐる廻って、輪廻転生し生まれ更り死に更りして、何回も何回も経験を経て
いくわけです。
何故経験を経なきゃならないか、というと、これはむずかしいことなんです。
神様のみ心というのはごくごく微妙な光の波なんです。み心がさっと動く時は光の波に
なる。色でいうと、紫の光もあれば、青の光もあれば、赤の光、黄の光もあり、基本的に
は七色の光の働きがあって、縦、横に働いてこの地球界が出来てくるのです。これは簡単
52
にはいえないけれど、初めに神様のみ心があって、宇宙核という場所が出来る。そこから
宇宙子が絶え間なく無数に流れ出して、縦の働き精神波動の宇宙子と、横の働き物質波動
の宇宙子とがまざり合って、幾段階かを経て、物質界が出来てくるわけなのです。
しかし、地球の物質界に来るまでに、いろんな波の世界があるんです。何種類あるかわ
からないんです。微妙な波が粗くなって、この肉体界になる。その場合、神様がパッと物
質界にそのまま現われられるわけじゃない。
宇宙神というのは無限の広さであり、無限の大きさであり、そして無限の小ささでもあ
る。言葉のあやのようになるけれど、無限大であり無限小である、ということは、姿が無
いということなのです。み心のひびきだけなのです。それで宇宙神ってどういうのか、っ
てくわしく説明することは私には出来ないわけです。肉体を持っている人間には、大神様
そのものを説明するわけにはいきません。大神様宇宙神の中でみんな生きているわけだか
らね。
53第1章自我と大我
肉体界は波の粗い世界
54
宇宙神の心に一番近い光の人を、キリストというんです。だから神の右に座せる者、と
聖書に書いています。宇宙神のみ心というのは、形に現わそうと思えばどんな形にも現わ
れるわけです。
キリストというのは何かというと、地球人類ばかりでなく、あらゆる星の世界の人類を
だいぺんしゃ
進歩向上させるためにある神の代辮者。宇宙神の人類に対する中心の働きがキリストとい
うんです。要するに真理をキリストというんです。真理が肉体化するとキリストという人
格的な形になるわけです。それが働いている。
キリストわけいのち
真理を中心にして、あらゆる神々がいて働く。その神々の微妙なるひびきが、分生命と
ぶんれい
して分かれてくると、元の波よりも当然粗くなるわけだ。分霊になるともっと粗くなって
くる。だんだん粗くなって、肉体界の物質界の波動と合うようなひびきを持たないと、こ
ゆうり
の肉体界に入って来られないんですよ。遊離してしまう。
たとえば、なんといいましょうかね、飛行機と人間とかけっこをしたってダメでしょ。
れいみょう
どうにもならない。絶対に合いっこない。それと同じように、あまり微妙な霊妙な霊の世
界の生命というものは、物質界にそのまま働くわけにはいかないんです。粗い波動という
ことは、スピードが遅いという意味でもあるんです。
はく
そこで魂として、ずっと波を粗くする、スピードを落としてくる。もっと落とすと醜と
こんはく
なる、魂というのは物質界と同じレベルにある速度なのです。魂魂の世界に入って、はじ
めて霊魂醜として肉体界に入り、肉体を動かしているわけなんです。
そうすると、霊は生まれ更りも何もしないわけなんです。霊は神様そのものなんだから
ね。神の生命そのものなので、魂暁として肉体界に入って動いているんです。
魂暁の世界はどういうのかというと、神界という一番微妙な波動の、この肉体では目に
も手にもふれない世界がある。その下に霊界という段階があるわけ。そこに魂がいまして、
魂醜として幽界に入って来て、肉体と魂醜とつながっているわけなんです。
霊界と肉体界との間の所に、神々の波を伝える中継所のような場所、幽界がある。とこ
55第1章1`1我と大我
うがあれが憎い、こいつが憎い。うらめしいとか妬ましいとか思う、そういう想いもこの
幽界に溜っている。幽界・幽体の中には善いものも悪いものも溜って、ぐるぐるぐるぐる
廻っているのです。そこで幽界の波がきれーいになりさえすれば、物質界の肉体人間もき
れーいになるわけなんですよ。
が、現在、幽界はすごくよごれているのです。この幽界がよごれているうちは、平和な
世界は出来ないわけなのです。幽界というのは皆さんわからないんですよ。肉体界きり見
てないから。ところが、この世界にくっついてあるわけなんです。波の世界だからね。
あらゆるもの万物はすべて波動なんだ。光の波動であるか、想いの波動であるか、その
混合した波動であるか、とにかくすべて波動なんです。
56
神は生命のエネルギー
光をエネルギーとして想いが出ます。皆さん、こうやって考えていて、想いがどこから
ヘヘへ
出るかわからないでしょ。想いはどうして出るのか。いのちがあるから想いが出ますネ。
肉体が眠っている時、熟睡している時は想いが出ないでしょ。それは霊魂が肉体から離れ
ているからね。霊魂の力、要するに生命の力があって想いが出てくるわけです。
ところが、想いそのものが神様か、というとそうでない。神様というのは、霊妙なひび
き、いのち、光なんです。光明のエネルギー、生命のエネルギーなんですよ。その生命エ
ネルギーを利用して、自分たちがそのまま想いを作っていくわけです。
例えば、お父さんが金持ちだとする。子どもが十人いたとする。そして子どもに「お前
たちの好きなように使いなさい、何してもいい」とお金をそれぞれ分けた。十人の子ども
が、長男の子はいい仕事をしてお金を有効に使った。次男はそれを無駄に使った。三男は
使わないで銀行に預けた、というように、みんなそれぞれお金の使い方を自分で勝手に決
めるわけです。それで幸不幸、成功不成功を創ってゆく。
ヘヘへ
それと同じように、人間も神からいのちを与えてもらったけれど、光を与えられたけれ
ど、その使い方は、人間各自に好きなようにさせたのです。好きなようにやって、成功す
57鍔醇1呼ヒ自手薫と大1茂
る人もあれば成功しない人もある。要するに不幸を作り出す人もあれば幸福を創り出す人
もある。
それが、一回の五十年や八十年の人生じゃなくて、生まれ更り死に更り、生まれ更り死
に更りして、自分で失敗した人は、ああこれではいけないんだな、そうじゃない人は、こ
れでよかったな、とかいろいろ思って、いろんな経験に従って、本当に、神のみ心のいわ
ゆる生命波動を、神様のみ心通りにちゃんと使えるようになるまで修業するわけです。
生まれ更ったり死に更ったりして、神様のみ心の通りに使えるようになると、今度は肉
体界に来ずに、神界へ行き、守護霊守護神のような形になって、自分が神様と一体となり、
神々そのものになって、今度は人類を守っていくわけです。
キリストの許にみんな到達して、そして人類、子孫を守っていくわけです。それで生ま
れ更り死に更りするのです。
58
大我と小我との一体化
その場合、生命そのものが動いている場合は、大我というんです。肺が自然に動いてい
る。それは神のみ心で動いているわけです。心臓なら心臓が自然に動いている。これは神
のみ心で動いているわけ。あらゆる機能はみんな、神様のみ心がそのまま動かしているわ
けでしょ。いいかえれば生命がそのまま動かしているということ。
いのちすごやかなれば、心臓も肺臓もすごやかです。ところが想いのほうは神のみ心の
通りにやらないんですよ。
すえ
神様のほうで「お前は神々の商で、神々に守られているんだから、そのままなんにも心
配しなくったっていいんだ」と言ったって心配するでしょ。
何を食わんと思い煩い、何を着んとて衣のことを思い煩うや、野の鳥を見よ、播かず苅
つむ
らず紡がざるに… … とイエスは言っている。何もしなくたって、神様は鳥などは食べさせ
ている、というふうに言ってます。鳥は何も頭で考えやしない。自然自然に、本能的にや
59第1章自我と大我
っているでしょ。
ところが人間はいちいち考える。考えることが善いとか悪いとかは別問題にして、「大
丈夫なんだよ」と言われても「大丈夫じゃないんじゃないか」と思い、「お前は神の子な
んだ」と言われても「そうじゃないだろう」と思う。自分で勝手に思っている。神様のみ
心を離れた想いが一杯あるわけですよ。
そういう想いを自我というわけです。本当の意味の自我じゃないんだ、小我というわけ
です。自我欲望です。
だから宗教の極意というのは、自我欲望をすっかり神様のほうにおかえしして、「私は
いろいろと考えていますけれど、どうも自分の考えじゃうまくいきません。人類を平和に
しようと思うけれど、どうやっていいかわかりません。どうか神様、み心のままになさし
めたまえ、どうか私の天命が完うされますように、世界人類が平和でありますように」と
いう想いで、神様に想いを全部やってしまうのです。生命の本源に還してしまうわけです。
そうすると自我は、ホラ減ってゆくでしょ。生命の本源にどんどん吸いこまれてゆく。
60
すると生命そのもの、大神様のみ心そのもの、キリストのみ心がそのままスーと流れて入
ってくる。そして大我と小我が一つになっていくわけです。それで自然法爾、そのままの
生活が出来るわけなのです。
為すこと言うことが、生きていることが、そのままみんな人のためになる。そのままで
自分も喜びがあるというような、人間になるし、生き方が出来るのです。
人間はいのちにおいて一体である
地球人類は一番大事なことを忘れている。それは何かというと、人間というものは、い
ヘへ
のちによって全部一つなんだ、ということです。
みんな個人があるでしょう。個体という形があるから、みんな別々な人間だと思ってい
るんですよ。ところが、みんな一つなんです。太陽から光が流れています。いろんな色は
あるけれど、その光線の一つ一つは太陽から来ています。と同じように、私たち人間は太
61第1i”r自我と大我
陽光線なんですよ。そしてその光線一つ一つがみんな自分なんです。
人のことをいじめれば自分をいじめたも同じなんですよ。あいつはバカだ、という時に
は自分のどつかがバカなんです。だからバカじゃないように治してやらなきゃならない。
自分と同じなんだからね。隣りの人も向かいの人も、みんな自分と一つのもの、い伽ひは
全部一つなんです。それがわからないんですよ。
よく私が話すけれど、自分の子どもが一寸風邪でもひくと、大変だ大変だと騒ぎます。
手なんか折ったら大変だ、オロオロしちゃう。ところがよその子が死んでも、ああかわい
そうにねえ、ともうあきらめがついちゃう。実際の話がそうでしょ。
例えば台風にしても、日本に来たら大変だと思って、日本から離れるようにと祈る。と
にかく日本領土じゃなくて、他の国へ行きゃ、ああよかったよかった、おかげさまで、と
いうことになる(笑)。そういうものが地球人類の業の波の中にあるわけですよ。自他一体
観がない。
子どもが怪我をしたり、病気したりすると、お母さんは自分自身のように痛くて苦しい
62
でしょ。皆さんの中で病気したり苦しんだりしていると、私は胸が痛いです。あいつは業
が深いから仕方がないなんて思わないです。ああかわいそうになあ、と自分の胸が痛いで
すよ。それは自他一体観というかネ、皆さんは私と同志だから、仲間で自分のうちの一家
の人、だから私はうちの人というでしょ。うちの人だから、怪我をしても何しても、アー
と思って胸が痛い。あの人どうしたろう、といつもいつも思ったりする。そういうふうに
生命が通い合い流れている。ところが、アメリカ人がどこで怪我しようと、イギリス人が
死んでも、全然歯牙にもかけないでしょう。この肉体的なほうはですよ。それじゃ世界平
和にならないんです。自分の子どもよりもアメリヵの子どもを可愛がろう、といったって
そんなことは出来ないでしょ。
自他一体観を破る想いを祈りに入れる
そこでイエスは言っています。”近きより遠きに及ぼせ” 自分に近いものから愛を及ぼ
63第1章自我と大我
してゆきなさい。そうしなければ届かない。
自分の子どもをほっぼらかしておいて、という人もよくあります。社会事業などで、生
活に困った子どもがたくさんあるとする。そういう子がかわいそうだと思って、前生の因
縁でやらなきゃならないんでしょう。一生懸命困った子どもばかり世話していて、自分の
子が不良になってもかまわない、というのもあるんです、それじゃまずいでしょ。やっぱ
り自分の身近かからやらなければならない。そういうふうに肉体界は出来ている。
出来ているけれども、それは本当であって本当でない。むずかしいのですよ。地球の肉
体人間ではまだまだそこまで行かないに決まっているから、仕方がない。そこで神は、「肉
体人間では何事もなし得ないんだから、自分で出来る出来ないという思いを、すべて神様
のみ心にお還しなさい」と言うのです。
「みんな消えてゆく姿なんだよ。あるものは神のみ心だけなんだけども、神のみ心をそ
のまま現わすことは、この地球の人間にはまだ無理だから、現わせないで、自分がああも
してやりたい、こうもしてやりたいけれど、自分は自分のほうが大切で出来ない。だから
64
悪い悪いと思う必要はない。もう仕方がないんだから、それよりも、悪いなと思う心も、
どうだこうだという想いも、みんな神様の中に入れてしまいなさい。只入れただけじゃ何
んだかもの足りないだろうから、積極的に世界人類のためになる、自分の罪ほろぼしだネ。
罪ほろぼしのような気持ちで、世界人類が平和でありますように、と思いなさい」という
んですよ。
自分が悪いとか、人が悪いとか、自他一体観、生命の同一観を破っている想いを、その
まま世界人類の平和の祈りの中へ入れてしまって、神様に消してもらうんです。神様申訳
けありません。せめても、世界人類の平和を願いましょう。私たちは罪深い者なんだから、
という形ですよ。本当はね。
みんな消えてゆく姿なんだ、ああ神様有難うございます、世界人類が平和でありますよ
うに、と平和の祈りの中に入れてしまうと、自分を痛める想いとか、人を痛める想いとか、
神にそむいているような想いが、みんな世界平和の祈りの中で消えちゃうでしょう。そう
いうことを私が教えているわけです。
65第1章自我と大我
祈りの中に生命の平等観が現われる
66
人を愛せよ、なんて言われたって、まず自分が先なんですよ。地球人間の今の社会制度
がそうなんだから。自分で自分を守らない限り、誰れも自分を食べさせてくれないんだか
ら。働かざるもの食うべからず、で自分で自分たちのことをやらなければ生きられない。
お互いに自分を守るより仕方がないでしょ。
しかし、生命の同一観からすれば、それじゃだめなんですよ。だけど社会機構がそこま
で行かないから、それは出来ないでしょう。そのハンディキャップをどうすればいいかと
言うと、自分ではそれをどうすることも出来ないんだから、神様、どうかみ心のままにな
さしめ給え、世界人類が平和でありますように、と入れてしまうわけです。
そして、自分の想いを全部世界人類の平和を願う祈り一念にすれば、あとの細かいマイ
ナスの面は、みんな神様のほうで赦してくれるわけですよ。何故かというと、根本は世界
が平和になればいいんだから。
世界人類が平和で、みんな仲良くすることを大神様は願っていらっしゃるんです。だか
ら、それに協調して、み心に合わせれば、あとの枝葉のことは自然に消えていくわけです。
いちいち自分のことをいじめなくても、人をいじめなくても、みんな世界平和の祈りの中
に入れてしまえば、生命の平等観がそこに現われてくるわけです。
出来ないことをやれ、と言っても出来ないんですよ。お前たちは肉体じゃないんだ、と
言われても判らないでしょ、肉体だとどうしても思ってしまうでしょ。そういう想いが習
慣としてあるんだから、あらゆる習慣的想いを平和の祈りの中に入れてしまって、どうぞ
神様お願いいたします、とやんなさい、と言うんです。
出来ないことをやろうとしたって出来ない。人のために自分の財産を全部投げ出すこと
はなかなか出来るもんじゃない。だから出来る範囲でやっておいて、出来ないことは全部
神様にお赦しを願って、世界平和の祈りの中に入れてしまって、勘弁してもらいましょう。
とこう言うんですよ。そうすると、知らないうちに世界平和の祈り一念にだんだんなって
きます。
67第1章自我と大我
そうして、一人一人とだんだん多くの人が世界平和の祈りの中へ、自分の欠点を投げ出
して、消してもらっていけば、知らないうちにひびきが、光のひびき、大生命のひびきに
還って、平和になってゆくということなんです。
いのちを捨てざればいのちを得ず、というのは、自我(小我) を捨てなければだめだと
いうことです。自我をどこへ捨てるかというと、世界平和の祈りの中へ捨てなさい。自分
勝手な想いが出たら.世界人類が平和でありますように” 人を憎む想いが出たら、”世界
人類が平和でありますように” 妬む想いが出たら”世界人類が平和でありますように”自
分に偉ぶる想いが出たら”世界人類が平和でありますように” とみんな世界平和の祈り中
へどんどん入れてしまいなさい、というわけです。
そうするときれいな合唱のように、美しく力強い交響楽のように、みんなの心のひびき
が一つになって、調和したひびきがこの世の中に現われてくるわけです。
(昭和38年8月)
68
(注6 ) 霊と魂醜、
した本。
生前死後、守護霊守護神、因縁因果を超える法等、神と人間との関係を明示
69第1章自我と大我
第2章人間に宿る限りなきカ
内なるカを発揮する
72
内なる本質を発揮させるのが宗教の本質
宗教の教えには、ものをあてて、予言をして、お前はこうこうして病気になった。その
ロつ
病気の原因は、何々をまつらないからだとか、井戸を埋めたからだ、というようなものも
あります。しかし、ほんとうの宗教というのは、そういうのではなくて、与えられている
生命力をいきいきと生かす、いきいきと働かせる、そういう道にのることなのです。いい
かえるならば、大宇宙の法則によって、自然がさわりなく運行されているように、人間が
みちすじ
神の生命の道筋にのることが宗教の本質なのです。
その法則にのって病気がなおる人もあれば、法則にのって貧乏がなおることもあります。
そういうなおり方なり、なおし方ならばもちろん結構なのですけれども、ただ目に見えな
い幽界の生物を使って貧乏をなおしたり、病気をなおしたりすることがあるのです。そう
いう場合には、必ずお礼を出さなければならない。お礼というのはお金ばかりではありま
せん。いろんな意味の礼をしないと、今度は恨んで、逆に病気にしたり、貧乏にしたりす
ることが多いのです。そういう生物も神様と称しますから、そういうところに集まる人は
あわれむべき人々です。一時はよくなるかもしれないが、やがては亡びてしまうことにな
るのです。
その場その場のご利益信心というのは、宗教の本質を知らせず、大生命の本質を知らせ
くぜ
るのではなく、また悪い癖を取るのではなく、自分の力というものを出させるのでもなく、
なんでもかんでも神様にやってもらおうという、そういう依頼心ばかり起こさせて、それ
でおしまいになってしまう。そうすると、生命がいきいきと生きるというわけにはいかな
いのです。ですから、いかにもよさそうに見えるけれど、自分が損をするものなのです。
金持ちの息子が親にばかりお金を貰っていて、働かないで暮らしていると同じようなもの
73第2章人間に宿る限りなき力
です。
神様から与えられている力をフルに働かせ得る、そういう道に人々を導き入れるのがほ
んとうの宗教なのです。そこで私どもの宗教というのは、守護霊、守護神の加護と結びつ
けて、自分の中にある生命の力を充分にふるいおこし、自分に与えられた力を万全に発揮
しよう、発揮させようという宗教なのです。それが”世界人類が平和でありますように

という祈り言になるのです。
一個人の生命というものは人類の生命とつながっている。個人が立派に生きるというこ
とは、人類にそれだけプラスする。一人の人間がつまらない生き方をするということは、
人類にそれだけマイナスする。だから個人というものは、たえず人類と切っても切れぬ関
係にあるわけです。ですから、個人がつまらない宗教に入って、いわゆるお狸さん、お狐
さんの幽界の低級なる生物のご利益にすがって生きてゆくとすれば、そんなものは人類の
マイナスになりこそはすれ、ひとつもプラスにならない。その人自身にもプラスにならな
い。なぜかというと、依頼心だけを起こさせるからです。
74
人間の中にある生命力が神様
そういうのは宗教でもなんでもない。その人の持っている生命力は無限の生命力につな
がっているから、必要な時にそれを発揮させるために宗教があるのです。
だからただ単に神社まいりしたとか、単に宗教団体に入った、なんていうことだけでは
真の信仰とはいわないのです。神まいり仏まいりするのはいいです。宗教団体入りするの
もいいでしょう。しかし、そういうことが本質ではなくて、自分の持てる力を充分に出し
得るような道にのること、つくことが大事なのです。その道に導くのが宗教家の役目なの
です。
宗教団体に入り神仏になんでもいいからすがって、自分の力を一寸も出さず、それで神
をこわがってふるえ、罰があたりはしないか、お餐銭が少なかったから悪いんじゃないか
しら、とか、お札をなくしたから悪いことがありはしないか、こんなことをしては罪には
なりはしないか、というように、ひねこびた精神になっていたのでは何にもならない。
75第2章人間に宿る限りなき力
宗教をやったがために、いつも心が把われていて、いつも自分の心がおびえているよう
な宗教信仰入りならば、そんなものはすぐやめたほうがいいです。そんな導き方をするの
は神様でも仏様でもありません。
神様は自分のなかにある。自分の中にある生命力が神様なのだし、それを全部出したも
のを仏様というのです。ですから神様になるのも仏様になるのも、すべて自分の生き方に
よるのです。
祠や神社に神様がいるわけではないし、お寺に仏様がいるわけでもありません。自分の
中にある神様、仏様が、信仰が強く深くなると、その神社、仏閣に現われてくるだけであ
って、神社、仏閣に行かなければ、自分の中の神様が出ないわけではありません。どこに
いたって、寝ていたって、起きていたって、神詣りしなくたって、自分の中に神様、仏様
があるのだから、その内なる神、仏を引き出してくれる、そういう方向に導いてくれる、
というのがほんとうの宗教家なのです。
76
人間は無限の力を宿した存在
我々の宗教というのは、私がまず体験してよくわかった、そうした点から出発している
わけです。わかったというのはどういうことかというと、自分と神様とが一つだった、と
いうことなのです。神様と一つになると、無限の力が現われてくるのです。
人間は本来、量り知れない無限の力、無限の智慧、無限の愛を持っているのです。誰れ
でも持っているのです。それが肉体に限定され、肉体人間になると、十とか百とか千とか、
僅かの力しか出せないわけです。どうしてかというと、自分で「私はこういうものなんだ」
「自分はこれだけの能力しかないんだ」「自分はこういう性質なんだ」と自分で決めてしま
うと、自分の力がそれで決まってしまうわけです。
私もはじめそうでした。ところが気が付いて「ああ自分で決めてしまうからいけないん
だナ、自分というものをすべて自分の本心、神様のなかに入れきってしまえばいいんだ。
神様どうぞ私の生命をお使いください。どうか人類のために働かしてください」って投げ
77第2章人問に宿る限りなき力
出した。全部心の底から投げ出したのです。それからいろいろな修行があったけれど、本
質のいわゆる五井先生という直霊の力がサーッと入って来て、いろいろなことがわかるし、
力がついて来た。力というのは光です。
みなさんが自己限定して、肉体を人間だと思っている。そういう人が、たとえば十の力
しかないとしても、私のように自己限定したものを全部投げ出して神様のなかに入ってゆ
くと、神様の力が無限に出てくる。千でも万でも億でも、必要に応じて、どれだけの光で
も出てくる。そういう体になるのです。
だから、自我をなくして、というとむずかしいけれど、自我というものを世界平和の祈
りの中に入れてしまうと、自分で自分を限定していた想いがなくなるから、本体の力がそ
のまま出てくるわけです。そういう人がたくさん出てくれば、世界はそれだけ大きなプラ
スになるのです。そういう人間をつくろうと思って、一生懸命やっているわけです。
神様、神様というけれど、さわらぬ神にたたりなし、というのもあるのです。どういう
ことかといいますと、間違った宗教団体に入ったり、低級な生物を神として祀ってある神
78
社へお詣りしたりすると、入ったが因果で、今度は出られなくなる。年中、心は痛められ
る、金はとられる。金はとられ、心は痛めつけられながら、自分の力を一生出せないで終
わってしまう。そうすると、さわらぬほうがいいし、入らないほうがいいということにな
ります。つまり、さわらぬ神にたたりなし、ということになるわけです。
その他、宗教は阿片なりとか、いろいろ宗教とか神に反対していうことがありますが、
それは神というものが、考え方によっては危険だからです。何か偶像のようなものを思っ
て、それを神様だと思う。
神様というのは大生命、生命の親です。自分のなかでいつも生命の親様がつながってい
るのです。みんな大生命のお子様方なのです。親様に感謝すればいいのだから、親様、有
難うございます、本心さん有難うございます、といってもいいし、私のなかの神様有難う
ございます、私のなかの仏様有難うございます、といってもいいのです。けれどそれでは
なんだかピンと来ないでしょう。大神様から分かれてきている守護神があるし、守護神に
よって助けられ、浄化された守護霊があります。祖先の悟った霊ですね。だから、ここに
79第2章人間に宿る限りなき力
祖先の霊が守っていてくれるんだな、有り難いな、祖先というものはおじいさんおばあさ
ん、あるいは亡くなったお母さんといえば、ピンときます。そこで守護霊さん有難うござ
います、守護神さん有難うございます、自分の祖先の悟った人にまずお礼をいってつなが
り、それから守護神さんにつながり、大神様につながって行くわけです。
自分に反対の想いがあるとほんとうのものになりません。自分で自分に納得させないと
力が出て来ないんです。信仰心でも同じことです。自分が納得するような方法が一番いい
わけです。それには先祖崇拝がいいんです。おじいさん、おばあさんが守っていてくれる、
というと何かピンと来ます。おじいさんおばあさんが子孫に悪いことをしっこないです。
これは感情としてわかっています。感情でわかるような教え方がいいわけです。
80
自分の生命に感謝する
守護霊さん守護神さん有難うございます、大神様有難うございます、というようにつね
に感謝の想いを棒げていると、天と地がつながって、もとの大生命と小生命がつながって、
つねに新陳代謝して、いつもいつも光が交流しているというかたちになるわけです。
ですから自分で出来るのです。けれども自分だけでは心細いので、私なら私のところへ
来て統一します。私は人間は光だということが、わかっていますから、わかった人の体を
通して、光がくまなくいきわたります。そうすると、皆さんの意識が、ああこれでよかっ
たんだと満足します。それによって力が出てくるのです。
そういうところから考えますと、どこの神社へおまいりしなくたって、仏閣へおまいり
しなくたって、自分の体にほんとうに感謝し、自分の生命に感謝していれば、それで宗教
の本質は完うされているのです。
自分の生命に感謝するような人は、他人のためにも尽くす人です。自分の生命がほんと
うに感謝できれば、人の生命にも感謝するわけです。人をぶんなぐって、自分だけ得をし
ようなんていうことは、できっこないのです。感謝することに徹底しないといけないわけ
です。
81第2章人間に宿る限りなき力
中途はんぱはいけません。お金を貸せといってきたとします。「あの人も神の子だ、み
んな信じあわなければいけない。あの人が持っても私が持っても同じだから、貸そうか、
いやよそう。しかし、それでは相手がかわいそうだ、まあ仕方がない、貸しちゃおう」な
んてやるから、返ってこない。お金を貸してくれときたらば、家には金がないから、とハ
ッキリ断るか、あるいは私はこれだけある。しかし全部やってしまうと困るから半分だけ
あげましょう、とハッキリした態度を示せばいいのです。そうすると、案外返ってくるも
のです。
いちばんいけないのは、どうしようどうしようと、迷うことです。いつまでたってもき
りがない。信仰でもそうです。五井先生というのは本当にいいのかナ、きょうだけではわ
からない、あしたもいってみなければ… … ほんとうにいいのかな、嘘かな、なんて躊躇し
ていたのでは、いつまでたっても前進できません。止めるなら止めるのです。それで、外
で苦労してくると、ああやっぱり五井先生がよかった、と戻ってきた時は、もう確固不動
のものになります。
82
生命への感謝が人類愛につながる
どうしようどうしよう、といったり来たりするのはいちばん損です。いっそのこと、唯
物論、無神論に徹してみることです。そして、失敗したら、生まれかわってきた時は、こ
んどは素晴しい宗教家になります。
この肉体の一生などというものはたいしたことではないのです。ぶつかってみることで
す。ぶつかって、しまった1 と思った時、こんどはほんとうの信仰になるのです。いい
かげんの信仰がいちばんいけない。それを「神と富とに兼ね仕えることは出来ない」とか
いうわけです。
やはり、信心というのは、一向専念でなければいけない、これがいい、といったら最後
までいいのです。たとえそれが間違ったとしても、ぶつかって、ああしまった、とほんと
うに気が付けば、正しい道を真剣に行じるようになります。
ここで信仰というものはどういうものかともう一度いいますと、ここに生きている自分
83第2章人間に宿る限りなき力
というものは、大生命の分かれであるんだから、大生命さま有難うございます、神様有難
うございます、とひたむきに感謝することが大事です。神様に感謝して、生かされている
生命に対する感謝の気持ちが、こんどは横にひろがって、人のために尽くす、人を愛する、
というかたちになるのです。真理の言葉はかんたんですが、そういうことなのです。
それがなかなか出来ないから、私がお手助けをして、柏手を打ったり、口笛を吹いたり、
印を組んだりして光明を送り、みなさんの本心開発のお手伝いをしているのです。私はそ
ういう役目になっているのです。
84
消えてゆくに従い、本来の姿が現われる
にんげんせいぜんせつせいあくせつ
この世では昔から哲学的に人間性善説と性悪説に分かれて論争が繰りかえされてきまし
た。私はどう説いているかというと、性善説なのです。
人間はみな神の子であり、本来は完全円満なのだ。今ここに悪のように現われ、不幸の
ように見えているのは、過去世の因縁、つまり過去世で間違った神のみ心をはずれた想い
が、今現われて消えてゆく姿として現われているのであって、消えてゆくにしたがって、
本来善なのだから、消えてゆく姿にいつまでもつかまっていなければ、本来のものが出て
かとき
きて、そのまま神の姿が現われるのだ、今は、その過渡期なのである、と説いているわけ
です。ですから本来は人間は善なのです。大生命の光明を宿している生命なのです。
悪と現われるもの、神のみ心から離れた想い、自分勝手な想いがどうして生まれてきた
のかというと、本来は生命は一つであって、みんなが相関関係で、みんなが、みんなの幸
せを祈りながら生きていかなければならないように出来ているのを、自分だけの幸せとい
うものを考えはじめたわけです。それが業になった。いいかえれば、光からはずれた波、
リノねうそうねんはどう
業想念波動というわけです。その業想念波動が今、光のなかへ消えてしまえば、みんな性
は善なりで、いい人になってしまうのです。
消えてゆく過程ですから、いいものは奥にひそんで、今、悪いものが現われている。表
面は悪いものばかりが見えるので、人間は悪いように見えてしまう。ところがたまたまい
85第2章人間に宿る限りなき力
い行ないをした人がいると、ああいいなア、人間もいいなアと思うのです。ですからいい
行ないをしている人がふえれば、人類というものは力づきます。ああ人間も悪くないな、
こんないい人もいるんだなあ、私もいいことをしよう、といって善い行ないをするように
なるのです。ところがなかなかそれが出来ない。
86
やがてみな光り輝いた人間になる
先日「逃亡者」という映画をテレビで見たのですが、主人公がとても人の真似できない
いい行ないをするのです。その映画のなかで、無実の罪の自分を追ってくるしつこい刑事
ついせき
がいる。以前その主人公に助けられたのに、追跡してくるのです。ちょうど嵐になって、
その刑事がけがをしてしまう。けがした人にかまわず自分は逃げてしまえば助かるのに、
自分の運命をかけても人を救わなければいられないで、みんなが反対するのにかかわらず、
輸血までして助けるのです。
人間の本質のなかには、自分の運命をかけても人を救わなければいられない、というも
のがある。けれど、ただそれが覆われているだけなのです。しかし、その主人公は本心が
むき出しに現われているから、それが出来るわけですが、今はそういう人が少なくなって
かえり
いるのです。自分の身の危険を顧みないで、敵である人を救うということは、なかなか出
来がたいことであるのです。ところがその映画ではつねにやるから、ああ立派だなアと、
こちらが感動するわけです。
そういう人間が仮りにここにいれば、ああ立派だなア、私も真似したいな、というよう
になるわけです。だから一人の人間がいい行ないをすれば、大勢の人に勇気を与えるわけ
です。一人のシュバイツァーが出れば、ああシュバイツァーは立派だナ、とあとからそう
にちじょうさはんじ
いう精神をつぐお医者さんが出るでしょう。そういうふうにして、日常茶飯事のなかでも
立派な行ないをすれば、その人の周囲が浄まります。
ああいう立派な人がいる、私たちも立派になりたいなアということになります。
その立派な行ないはどこからくるかというと、性善説の神の光が出てくるわけです。そ
87第2章人間に宿る限りなき力
の逆に、立派でない行ないはどこから出てくるかというと、神の光を覆っているところか
ら出てくる。その覆いをはずせば、光は出てくるのです。光は一番奥にあるわけですから
ね。業が覆っているのだから、それが落ちれば、消えてゆく姿になってしまえば、光が出
てくる。光の奥には業はないのです。
根本は光なのです。業が光をくらましているだけなのです。自分さえよければいい、自
分さえ、と思っている想いがくらましているのです。その業が幽界にみちみちていて、人
類が自分勝手な生き方になっているわけです。しかし、それは本質的なものではないから、
やがては必ず消えてしまうのです。
ところが、そのまま見過ごしていたのでは消えません。そこで、人間は本来神の子であ
って、光り輝いているものだから、自分の悪い想いが出ても、人の悪い想いが出ても、不
幸なことが現われても、それは過去世の間違ったものが出て、消えてゆく姿なのだから、
消えてゆく姿と思って、悪い想いを持ったままでいいから、世界平和の大光明の中に入り
なさい。「世界人類が平和でありますように」と、祈って入りなさい。そうすると大光明
88
が消してくださる。これをくりかえし実行しているうちに、やがて自分も人も光り輝いた
人間になっていくのです。本来の性、善なるものがここに現われてくるのです。こういう
ように説くわけです。
こういう教えがなかったら、世の中はよくなりません。いつまでたってもお前の心は悪
いんだ、お前の心を直さなくては、とやっていたのでは、よくなりません。やっぱり消え
てゆく姿で世界平和の祈り、というような、心の転換、想いの転換方法というのがなけれ
ば、この世の中はよくならないのです。この教えはじっと考えて、実践してみると、素晴
しい深い教えなのです。そのリーダーシップを私がとっているわけです。
89第2章人間に宿る限りなき力
自分自身のカを信じる
90
神様の力を忘れた人間
人間というものは、いつも言うんですけども、簡単に言えば二つになっているんです。
肉体の中の自分というもの、何の誰がし、何の誰子という自分というものと、それから本
心本体としての神そのものである自分というもの、この二つあるんですよ。それで、どつ
ちが本物かというと、神様である自分が本物であるわけです。
よく人間だから神様になんかなれっこないとか、人間だから仕方がないって、言うんで
すよ。しかし本当の人間というもの、神人というものは、神と全く一つなんです。
この世の中に現われているものの中で神様がお創りにならないものはないんです。すべ
て神様がお創りになった。本当のものは神様が全部お創りになった。それから神様の生命
エネルギー、いわゆる神様の力を人間は持っていますから、神様のエネルギーを使って、
人間が作ったものがある。それは何かというと業なんです。
神様の中にはもう悪いものは一つもあるわけはない。神様はもう全体ですからね。完全
わけいのち
円満大調和です。神様は大調和そのままだし、人間は神の分生命だから調和そのままなん
です。ところがこの世の中というものは、実は悪もあれば、不幸もあれば、災難もあるわ
けです。
どうしてそうなってしまつたか。それは人間が肉体に入ってきてから神様の力を忘れて
しまったんです。自分の本体を忘れてしまった。それで自分は肉体の人間だ、五尺何寸の
人間だ、とね。AとBとは違う、あの子とこの子は違う、とみんな別々に考えているわけ
ですね。今でもそうでしょ。みんな人間の生命は、こう通い合っているのが分かりません
でしょ。みんな形が別だから、あの人と私は違うと思っている。
ところが本当の底を探りますと、みんな一つの生命に結ばれています。そこでキリスト
91第2章人間に宿る限りなき力
教でもあらゆる宗教でも、みんな人間は兄弟姉妹であるという。みんな一つの生命に帰一
するわけですね。みんな神様のみ心の中にあるわけです。そういうことが分からないと、
宗教がダメなんですね。
だから私この間も言ったけど、この五井先生という肉体がありますね。肉体の五井先生
というのは、やっぱり皆さんと同じようです。皆さんよりちょっと微妙ですからね。微妙
は微妙です。あなた方の心が分かったり、いろんな運命が分かったり… … 。そうして普通
の肉体よりは、大分上等は上等です、これね(ご自分の体を叩かれる)、申し訳ないけども。
だけれども、やっぱり肉体ですよね。皆さんより物が分かるというだけで、肉体です。だ
から肉体はやっぱり一つの道具ですよ。
本当の五井先生というのは、神界にいるわけです。皆さんはどこにいるかというと、や
つばり同じ所にいるんですよ。神界にいるんです。神様の中にいるんです。
皆さんはそれが分からないんです。私は分かっている。その違いなんですよ。分かると
いうことは、大変に得なことでしてね。分からないということは大変に損なことなんです。
92
自分にお金があるのにーもう千万くらいじゃこの頃少ないですね。百億くらいにして
おきましょう。百億くらいあっても、ないと思ってる。財布の中に千円しか持ってないと
しますね。百億あるんだけれども、千円しか持ってないとすると、もう千円だ千円だと思
って小ちゃく細かくケチケチ使うわけです。実際は百億持ってる。でも知らないんですよ。
知らないから千円きりしか使えないんです。
ところが私は無限億万円持ってることを知ってるんです。だから平気なんです。お金に
も把われない、何にも把われない。分かりますか?
お金にたとえたけれども、力にしても能力にしてもね。素晴らしい能力を持ってるんだ
けれども、自分は知らないで、少しの能力きりないと思っている。思い込んでるから出せ
ないんですよ。あると思っている人は出せるんです。
それで、どっちが本当かというと、あるほうが本当なんです。何故ならば、人間の本体
は神様だから、神様の生命をそのまま持ってるんだから、いくらでも出せば出るんです。
天にありますから、どんどん引き出せば、どうにでもいくらでも出てくるんですよ。それ
93第2章人問に宿る限りなき力
を引き出さない。チョコチョコと出してね、それでもって、”私は駄目です、私は出来ま
せん” という。何でもかでもやらないうちから出来ません、やりもしないで出来ません、と。
それが案外やれば、出来るんです。まあ戦争中でも、力のない女の人が、もう空襲とか
来れば、うんと力を出して、いくらでも力が出ましたね。寝る時間でも二時間くらいしか
寝なかったり、食べる物も、あんまり食べなかったり、それでいて、今以上の力仕事を平
気でしていたんです。ところが今は食べる物は余計食べて栄養をたくさんつけて、充分に
寝ていながら、昔よりずっと力がないんですよ。ないんじゃなくて出さないんです。
しかし一旦緩急があると、何か事があると、力が出てくるんです。事があると力が出る
ということは、力があるのに出さない、出し惜しみしている。出し惜しみじゃなくて力が
あることを忘れている。
94
祈りにより本来の力が出てくる
だから自分に能力、才能、力がある、知恵があるということを再び思い出すためにお祈
りをするんですよ。自分が神様の子であって、神様の分生命であるということを思い出す
ために、一生懸命お祈りするわけです。
どういうのがお祈りかというと、自分が本当はまあ億万の力がある、素晴らしい力があ
るということを知らないでしょ。何がそれを忘れさせているか、ないと思っているかとい
うと、自分の肉体のほうにある想いなんですよ。肉体のほうにある想いが自分は駄目だ駄
目だと思うのです。だからこの想いを、どんどん毎日毎日、神様のほうへ入れていく、お
祈りによって入れておきますと、邪魔がなくなるでしょ。邪魔がなくなるに従って、力が
どんどん出てくるわけです。
 なフ 
斎藤さんが私の所に来た時には、唯物論者から抜け出して、ちょこちょこと心霊科学や
ったりなんかしていたところへ行って、何にも知らないわけですよ。知らないから力がな
95第2章人間に宿る限りなき力
い。ところが、私のところへ来て、だんだん研究して、だんだん自分の力を開いていった
わけですね。霊能も何もなかったのが霊能が出てきた。絵が描けないのが絵が描ける。字
も上手くなる。すべてが向上してくるわけです。それはないものだったら向上しっこない
でしょ。あるから向上する。それは斎藤さんばかりじゃなく、皆さん全部があるんですよ。
皆さんは恐らく、例えば百万の力があったとしても、出してるのはたった三か五なんで
すよ。百万分の三か五しか力を出していない。それで自分はいっぱしやってるつもりなん
です。
96
自分自身にある無限の力を信じる
だから一番最初に言いたいことは、神を信ずるとか、五井先生を信ずるとかいうより先
に、自分自身を信ずることなんです。自分自身には力があるんだ、自分は神の子なんだ、
自分は神の分生命だから、悪いことがある道理がない、あったとすれば、神様を離れてい
た時の自分の想いが、いわゆる消えてゆく姿として現われているので、それを知らない前
の業が現われているので、自分が神の分生命と知ったその日からは、業はないんです、本
当は。それを信じないといけません。
だから神様の世界は完全円満であって、自分は神の子だから素晴らしい能力があるんだ
ということを信ずることなんですよ。
ところがそう言われても信じられないでしょ。信じられないから信じて行なっている私
みたいな人がいますね。こういうのを、先覚者って言うんです。先に分かって、神と自分
とは一つであるということが分かって、力、能力が発揮できた人、能力を出した人。普通
の人よりも能力が出ています。”ああこういう人がいるんだな、それじゃこの人の言うこと、
やることを信じよう” と、こういうことになるんですね。
だから自分で自分の力を信じられる人は、誰にも頼ることはない。自分一人で生きられ
るわけですよ。自分の中の神様を出せばいいんだからね。結局私を信じうとか、宗教を信
じうというのは、各自の自分の中の力を出させるために、こういう宗教団体なんかがある
97第2章人間に宿る限りなき力
んですよ。教祖だとか会長だとかがいるんです。だから自分自身で力をどんどん出せれば
誰もいらないんですよ。自分でやったらいいんですよ。
だが、自分で出せないと思ったら、”五井先生を信じよう、五井先生の言うことは間違
いないから信じよう” と思って信じればいいんです。分かりますね。
まず第一番に自分を信じることなんです、根本は。自分は神の子であって、無限の力を
持っているんだということを信じることがまず第一なんだけども、出来ないから先に本当
に力を出した人を信じる。その生きてきた道を信じる。その人の書いたもの、その人のし
ゃべることを信じて、”ああそうなんだ、ああやっぱり自分は神の子なんだな、神の分生
命なんだな” と。
もしここに不幸や災難や病気が現われているとするならば、それは過去世の因縁が、神
様の子であることを知らなかった時の想い、神様を離れていた時の想いが現われてきて消
えてゆく姿なんだなと思うんです。
98
世界平和の祈りを続ければ必ずよくなる
皆さんはもう世界平和の祈りを知ってますね。だから常に、自分が罪を作ってるとか、
自分が悪いことをしているとか、そういうことを一切帳消しにしなければいけません。も
し誤って人を恨んだとするならば、”ああこれは過去世の因縁がここで現われてくるんだ
から、ああ申し訳ない、そんなこと心に起こしちゃいけないんだ、神様有難うございます、
どうかあの方の天命が完うしますように” と、パアッと変えちゃう。悪い想いが出、悪い
行ないが出る、そうした時にもう即座に神様に謝っちゃって、世界平和の祈りの中に入っ
てしまう。
そうやって常に常にいいものばっかり、いいことばっかり自分の中から出すんですよ。
悪いことはどんどん消えてゆく姿にしてね。あとはどんどんいいことばっかり、自分がな
りたいようなこと、人がなってもらいたいようなことを… … 。
そうすると、一番なってもらいたいことは、世界人類が平和であること。自分の天命が
99第2章人問に宿る限りなき力
完うされること。そういうことが一番なってもらいたいことでしょ。それを皆さんは気が
付かないうちに、知らないうちに、世界人類が平和でありますように、と言ってるわけで
す。日本が平和でありますように、と言っている。私どもの天命が完うされますように、
と一番自分の望むことを唱えているわけね。毎日毎日、朝昼晩歩いていても、電車に乗っ
ていても、お便所の中でも、食事の時にでも、いつでも世界人類が平和でありますように、
とやっているでしょ。これはただ事でない、大変なことなんですよ。大変に徳を積んでる
ことなんです。分かりますか。
何故かというと、もう一回言いますけれども、人間は神様の子で、自分自身が創造主な
んですよ。自分の運命を作るのは自分なんです。誰も他の者が自分の運命を作ってくれる
わけじゃないんです。自分の運命はすべて自分が作るので、どんな悪いことも、どんない
いことも、みんな自分が作ったことで、ただその悪いことが現われてくる場合には、過去
世の因縁として、それを自分の中に入れておかないで、消えてゆく姿で祈りの中に送り込
んでしまえばいい。
ioo
だから常に悪が現われたり、不幸が現われたり、自分の中に嫌な想いが現われたら、過
去世の因縁としてパアッと切り離さなけりゃいけない。それで消えてゆく姿にしてお祈り
の中に入れてしまう。
それで、今の自分はいいことばっかり、本当にいいことばっかりを思うんですね。その一
番最上のいいことが世界人類が平和でありますように、日本が平和でありますように、私
たちの天命が完うされますように、という言葉に現われている想いなんですよ。言葉は即
ち神なりき。だからそれを言葉に現わすと、言葉通りの運命が自分に現われてくるんです。
こういう簡単な原理です。あんまり難しいことはないんですよ。人間が立派になるのも、
運命がよくなるのも、あんまり難しいことはない。ただひたすら、ひたむきに、たゆみな
く飽きないで、世界平和の祈りを続けていれば、必ずよくなるに決まっている。
それは法然、親鸞が、南無阿弥陀仏と言えば、必ずその人たちはいい所へ行くと教えた
のと同じであって、それがもっと現代的に分かりやすく、しかも意味がはっきりとれるよ
うに説いているのが世界平和の祈りなんです。(昭和45年3月)
101第2章人間に宿る限りなき力
本体のカを百パーセント出す
102
何が人間の本体か
人間の本体は肉体ではないんです。よくよく考えてみますと、肉体というものは器でし
ょ、場所ですから、生命が無くなってしまえば、肉体は動きはしません。何も考えません。
そうすると、動かしていたものは生命でしょう。その生命というのは何かと言うと、波動、
微妙ないろいろな種類の波動が生命という名前であるわけです。
だから想いというものは、その生命のエネルギーの中から出てきたものなんです。この
肉体の世界にいますと、肉体の世界で生活していますと、肉体環境によっていろんな想い
がそこに湧いてくるわけです。それがいろいろとぶつかったりして業想念になってくるん
です。だから神様のみ心そのままで、もう初めから終わりまで無始無終の永遠の生命の中
にすっぽり入っていれば、神様から離れた想いがあるわけがない。そのままでいいわけな
んです。そのままその場で知恵が出てくる。その場で力が出てくる。そういう形になるわ
けです。
だけれども、そこまでに行くのがまた大変なんです。業想念の中を通って来ないと、そ
こに行かないんです。肉体世界のいろんな経験を経て、いろいろやって、いろいろ考えに
考えて、こうして勉強したけれども、だけどもまだまだ何も分かっていないんだな、自分
は、と思った時に、初めて本当の統一になったりする。それで今まで経験した、体験した
ことが生きてくる。生きてパッパッと浮かんでくるわけです。さらに、この世ではまだ体
験しないような知恵がそれに加わってくる。だから考えたい人は、考えて考えて考え抜い
たほうがいいんです。その場そのものを、その自分の持っている持ち味を生かし切った時
に、持ち味以上のものが出てくるんです。持ち味っていうのは小さいものかも知れない。
そうすると持ち味を生かし切った時に、その持ち味からもっとずっと、ああ自分にこんな
103第2章人間に宿る限りなき力
力があったのか、こんなことも出来たのか、ということが出てくるわけです。
斎藤さんの例じゃないけれど、斎藤さんは絵なんか何も画けない人でしょう。画けない
人がいつの間にか、観音様とかなかなか立派な絵を画いて、その絵によって磨かれたって
人もある。そういうふうに自分の肉体で画くんではないけれども、向こうのいわゆる霊界
の波動が感応してきて画くわけです。それにはやっぱり常に消えてゆく姿で平和の祈りと
いう純粋な祈りがなければいけない。自分の力が欲しいから、自分が人に、あの人は力が
ある、あの人は立派な人だって思われようとして、何か肉体人間の力よりもっと勝ったカ
カカ
を得ようと思って統一したりすると、そういう想いは我でしょう。だから、そういう我の

想いには我が感応してくる。肉体の世界に近い幽界の想いや何かが感応してきて、変な自
動書記をしたり、変な態度をしたりするわけです。
だから肉体の人間が自分で考えて、自分で話しているように見えても、実は神様がやら
せている場合もあれば、幽界の生物が話させている場合もある。それを判断するのはどう
したらいいかというと、常日頃の自分の想いがどれだけ無我であるかということによるん
104
です。自分のことばかり思ってないか、あるいは自分が奇跡を見せたいという想いがない
か。人によく思われたい、人に褒められたいとかそういうつまらない想いがあるかないか
ということなんです。そういう想いがすっかり無くなって、本当に純粋に人のために尽く
したい、純粋に自分の本心を開きたいという想いで統一したり祈ったりしている場合には、
本当の力が出てくるんです。
常に反省しながら立派になってゆく
だから、そのやってることがいいことか、悪いことか実際に自分の心を計ってみれば分
かるんです。ところが深く計らないで、いい加減でごまかしちゃうわけです。そこで、常
日頃から統一しても、すべて何事をやっても、常に自分の心を顧みて反省しながら、ああ
これでいいかな、これでいいかな、と思いながら一歩一歩一歩上がっていく。そうすると
知らない間に立派な人間になるわけです。
105第2章人問に宿る限りなき力
私なんかこうなる前、実に何遍も何遍も反省反省反省して、ああこれでいいのかな、こ
れでいいのかなって自分の心を顧みたものです。もう全然考えさせられなかった時は別で
すよ。全然意識を取られてしまって、いわゆる全然想念停止というのがありましたね。思
考力が無くなったっていうか、無くしたっていうか、取られたっていうか、本当はこれは
難しい問題だけれども、守護神とこっちの話し合いで想いが無くなってしまったでしょう。
それで自然にスースー、スースーとやっていた時はまた別だけども、そういう段階は通っ
てしまって、今度は当たり前の人間として世間に出て、当たり前の生活を始めた頃からは、
やっぱり反省反省、反省に続く反省をしたわけです。だから普通の場合は、いつでも常に
反省しながら自分を向上させていくことはやっぱり必要です。これでいいんだ、これでい
いんだ、と自分でごまかしたんでは、これは何時の間にか落っこっちゃいます。
一番大事なことは、宗教が深くなって相当分かってきた時に油断が出ちゃうんです。あ
はた
あこれでいいんだ、俺は随分偉くなった。端の奴から見ると… … 、ああ、あんな奴らは
… … 、俺だけ偉い。五井先生の次に俺が偉いなんて、こう思ってしまうんです。こう思う
106
カコカ
時が一番危ない。そういう想いは我でしょう。それは我ですから、スーッて下がってくる。
そうすると幽界の生物がサーッと掴むわけです。そうすると、ズーッと感応して入ってく
る。それで俺は偉い、俺は偉い、ウー、アーとやっているうちに、知らない間にグーッと
幽界へ引っぱり込まれてしまう、それで気が付かない。そうなるとその人は普通の、初め
ての新しい信者さんよりズーッと下になっちゃうんです。
そこで常に古い人は、余程反省しないと怖いと、私はそう思うんですよ。みんなに立て
のぼ
られますからね、立てられ始めたら怖い。だから段階があって、一つ上った時が危ない。
まあ野球なんかでもスランプということがありますね。もう急に一つも打てなくなったり
するでしょう。それで迷う。そういうことは宗教の世界にもたくさんあるんです。一つ段
階を上ろうとする時には必ずスランプみたいに、何か迷いが生じたり、あるいは自分をか
ばったり、ごまかしたり何かするんです。
そこでごまかさないでしっかり反省して、すっかり裸になると、これが成功してまた上
らせんけい
に行くんです。そうしてこう行く、あるいは螺旋形にこう行く。上がったり下がったりし
107第2章人間に宿る限りなきカ
て、また上がって行く。下がったように見えて上がって行く、というそういう形があるわ
のぼ
けです。螺旋形に上って行く。
そうすると螺旋形の下に来た時は、ああ自分は駄目だと思う、これも困るんです。それ
で上がった時に、自分は凄い立派になったって思うと、これがまた落っこちぢゃうんです。
これは難しいですよ。だから立派に、より高い立場に立ったら、あるいは古くなった、も
う大丈夫だと思う時に、もう一遍反省してみるんです。そうすると、もう一つ上に行きま
す。
私の経験からすれば、反省につぐ反省で今日になっている。今日になってもまだ反省し
ていますよ。ああ、みんなに対する態度はこれでいいのかと、すべていつもいつも常に反
省して、立派にしよう、より立派にしようと思っているんです。人間なんかどこまで行っ
てもきりがない。もう全然きりがないんです。
108
肉体を纏ったまま本体の力を出す
たとえば自分が守護神なら守護神の生まれ変わりとしますね。人類を救うために菩薩と
かぶ
なって肉体に入ってきて、肉体の生活の波を被りますと、守護神が肉体の波を被らないで
自由自在に働いていた時百パーセントカがあったとしても、肉体の波を被るとそれが二十
パーセントにも三十パーセントにも減ってしまうんです。何故かというと、私はよく言い
ますけれども、裸で泳げばスーッスーッと速く泳げるものが、着物を着て、その上に潜水
服を着たならば動きは鈍くなると同じように、どんなに素晴らしい人でも肉体界の波を被
るとズーッと力が弱るんです。
それを、習練し、習練し、肉体を持ったまま、肉体の生活の中にいながら、また元守護
神であった力、菩薩であった力を、そのまま百パーセント発揮できたら、それは素晴らし
い。もう大変なものですよ。そんな人は今までかつていないわけです。
釈迦にしてもイエスにしても、そこまでは力が出なかったんですよ。お釈迦様にしたっ
109第2章人間に宿る限りなき力
て初めから菩薩です。イエスにしたって神の子、初めから天使です。ところが肉体に入っ
て来ると、天使であった時の力、菩薩であった時の力、それが全部出ないんです。出れば、
イエスだってはりつけになんかなりませんよ。予言を成就したかも知らないけども、はり
つけになったことは、肉体としては失敗ですね。三十何歳で死んじゃうのは、あんまり、

成功とは言えません。キリスト教の人はそれを褒めるけれど、成功とは言えません。しか
し、それは役目でそうなったんだけども。そうすると、それだけの力が全部出なかったわ
けです。それは無理もない、肉体の波動ってものは、それをたたき落とすものがあるから
です。
だから私なら私がいたとする。そうすると五井先生という神界の存在、それは凄いんで
す、これがこう肉体の世界に入ってくる。肉体のいわゆる環境というものがある。家族も
親もあるわけです。友達もある。親戚もある。みんなある。そういう波もある。それから
かぶ
人類というものの波がある。そういう波も全部被るわけです。そうすると、元のままの力
が出やしないんですよ。それを脱皮し、脱皮してね、いろんな修行をし、いろんな反省を
110
して、どんどんどんどん、だんだんだんだん本体に近くなってくる。本ものの、神そのも
のであった時の力がだんだんだんだん出てくるんです。だから五年前の五井先生とは違う
んです。どんどんどんどん立派になる。立派になるって言うよりも、本体がどんどんどん
どん現われてくる。
だから私はいつも自分は五十で、五十というのを機会にして、全部、五井先生の本体の
そのままの力を肉体に現わしたいと思って、努力しているわけです。それがまあ、着々成
功してます。自分から見ますと、だんだんだんだん広がってきています。
それと同じように、皆さんもそうなんです。皆さんの本体というのは、凄いんです。そ
すえ
れはやっぱりみんな神々なんですから、神の商なんですから。かつては皆、菩薩であった
人なんです。だから、それが出てないわけなんです。菩薩であった人が出ていない。たと
でんきょうだいし
えば伝教大師であったかも知れない、法然であったかも知れない。あるいは日蓮であった
かも知れない。まあいろんな人がいるわけです。そういうものの分霊になって来ているわ
まと
けでしょう。それの力が出てないわけです、肉体を纏ってると。
111第2章人間に宿る限りなき力
それを、肉体を纏いながらも、その力を出すためにはどうしたらいいかと言うと、やっ
ぱり絶え間ない消えてゆく姿で世界平和の祈りと言って、消えてゆく姿と平和の祈りを常
に結びつけて、常にそれをしていると、そうするとまた、本もの、本体の力がそのまま出
てくるわけです。それがそのままそれきりになれば、その本体の光がそのまま出てくる。
百パーセント出てくるわけです。だから百パーセント本心の力を現わすようにしなければ
駄目なんです。それを私をはじめ、皆さんも一生懸命やってるわけです。だからたゆみな
い錬磨と、たゆみない忍耐と、たゆみない努力と、たゆみない反省と、いろいろあるわけ
です。それで立派になる。
まか
それを、ただ託せたから俺は何もしなくていい、ああ神様がやってくれる、ああ神様が
何とかやってくださるとやっていたんでは、いいわけないんです。俺は一遍に立派になっ
ちゃった。俺は神の座にいた。ああ俺は何したっていい、そんなことではない。そんな安
易なものではないんです。たゆみなく、絶え間なく、この地球界の業想念は襲ってくるん
だから、常に常に常に脱皮し、常に常に上がっていかなかったら、足を引っぱられて落っ
112
ことされちゃう。そういう世界です、
そして立派になってゆくんです。
この世界は。ですからたゆみない努力が必要です。
(昭和41年6月)
(注7) 斎藤秀雄氏。19 3 3年より47年まで、満州大連に渡る。種々さまざまな職業を経て、
53 年、五井昌久先生につながり、”祈りによる世界平和運動” に挺身、東奔西走した。
白光真宏会事務局長、副理事長を歴任。84年逝去。『霊験巡講記』『光のドーナツ(童話集)』
などの著書がある。
113第2章人問に宿る限りなき力
無限に進歩する生き方
114
霊身そのものが本当の人間
くうそくぜしきあめつち
1 我はただ空即是色天地に世界平和の祈り声充つ1
私の作った歌ですが、その意味は、私たちは現われの世界だけのものではなくて、現わ
くロつ
れの世界を無しとした、空にした所から、本当の光から生まれて来ている人間なんだ。そ
れで何をしに生まれてきたかというと、世界平和を成就するために、神の姿を現わすため
に生まれてきているんだ。だから「我はただ空即是色」空から生まれた光であって、世界
平和の祈りの声がみちているそういう一人一人なのだ、ということなのですね。
ここに”私” というものがあります。普通”私” というと宗教的な考えのない人は五尺
われ
何寸かの肉体の我が自分だと思うのですが、本当の人間というもの”我” というものはそ
うではありません。肉体の我というものは小さな我であって、肉体という一つの場所であ
り、生命の現われなのです。本当の人間というのは肉体ではなくて、神のみ心そのもの、
神のみ心の中から生まれて来ている霊身そのものが人間なのです。
その霊身の働きが地球界の働きに合わせるために、肉体という物質波動をまとってここ
に存在しているのです。ですから肉体の我というものは、現われているものであって実在
ではない、ただ現われているに過ぎない、と悟った時に、本当の我、本心が現われてくる
のです。
その本心が現われてくると、どういうことになるかというと、肉体の人間では出来得な
い能力が現われてくる、智恵も力もすべての能力が現われてくるのです。悟った人という
ものは普通の人間では出来ない能力を発揮するわけです。天才などというのもそういう能
力を持っています。
例えば音楽家のバッハとかベートーベン、モーツァルト、シューベルト、チャイコフス
115第2章人間に宿る限りなき力
キーなどという人は、どういうようにしてあのような素晴しい音楽を作ることが出来たか
というと、肉体の人間が頭の中で技術的にこね合わせて出来たのではなく、神界や霊界の
ひびきが肉体のベートーベンやバッハなどの中に伝わって来て、それが表われているわけ
です。ベートーベンならベートーベンが作曲するような場合に、曲想が浮んでくる時には、
かたわらに友だちがいようと、今、友だちと話をしていようと、それをついと中断してし
まって、何もかも忘れてそこを出てしまって、作曲のひびきに浸ってしまうのです。現象
界のあらゆるものを忘れてしまうのです。それで神霊界のひびきだけに浸っている。とい
うような形で、曲が出来たわけです。
116
霊身と肉身のギャップに苦悩した天才
ゴッホという天才の画家がいます。この人は或る時、気狂いのように自分の耳を切って
しまうのです。どうしてそのようになったかといいますと、肉体に天のひびきが流れて来
て画想が浮んでくるわけですが、天のひびきと肉体の自分が合わない、天のひびきが強烈
で合わないわけです。そうすると肉体がうんと苦しくなるのです。それで気狂いのように
なって、どうしていいかわからなくなって、耳を切ったりしてしまうというわけです。け
れど出来上がった作品は非常に素晴しい。肉体の人間がつくるというより、向こうよりか
かせられているという状態です。そういうのを天才というわけです。
ところが私はそういう天才は嫌いなんです。作品の良し悪しは別ですよ、ベートーベン
の作品はいいし、ゴッホのもいい。作品はいいけれども、そういう生活態度は嫌いなので
す。といってもベートーベンやゴッホぐらいの天才ならいいですけれど、天才だと自分を
感違いする凡才がいるのです。奇嬌な行ないをして、常識外れなことをしていて、あたか
も自分はベートーベンであり、ゴッホであるというような思い上がりをする場合があるの
です。そこで普通の人は天才の真似をしてはいけないというんです。
本当の天才というのは滅多にいない。ザラに出れば天才ではないのです。天才といわれ
る人は人の迷惑を省みないから、私は嫌いだった。だから私は天才を願望するとか、天才
117第2章人間に宿る限りなき力
を羨やむ気持ちはなかった。なかったんだけれども、私自身どうだったかというと、私自
身も随分変わっていました。普通の人がわからない事がわかり、普通の人が出来ないこと
が出来たりするわけです。みんなの心がわかったり、未来がわかったり、過去世がわかっ
たりいろいろするわけです。これは形でいえば天才なのですネ。ところが私の生活という
のは常識そのものなんです。
私は子どもの頃ベートーベンの作品は好きで立派だと思いながらも、どうしても、心の
中に何といいますか、承知しないものがあったのです。それは私の今日の役目がそうあら
しめたのですけれども、常識外れな、人の迷惑を省みないというような生き方を、私はと
ても嫌うように生まれて来ているんです。けれど、私がこうなりはじめの何年間というも
のは、やっぱり気狂いと同じで、人の迷惑を省みるも省みないもなくて、自分自身がどう
にもならない形で修行させられたわけですから、これはどうにもならない。しかし、本当
に真理がわかって立ち直った時は、常識の人間そのものになり切ったわけです。天才など
というカケラもなくて、当たり前の人間になり切ったわけです。とくにそうつとめたわけ
118
です。そして今日の私が出来上がったわけです。
当たり前で素晴らしい人づくり
私が目指している宗教の道というのは、常識外れの人間を作るのではなく、当たり前の
常識のある日常生活をしながら、しかもその心の中、その行ないは常識をこえて、素晴し
いひびきをたてている、普通の人の及びもつかない世界人類を救うという仕事をしている、
そういうような人間にすべての人々を仕立てあげたい、と思って自分が見本を示している
のです。言葉だけでなく体で示している。
一人や二人の天才を作りあげるのではなくて、多くの人がいつの間にか今までの肉体人
間の波動と異った霊波動、神霊波動のひびきをたてている人間、自分が気づこうと気づく
まいと神霊波動のひびきをたてている人間に、自然になっていくという形、方法をつくり
上げたわけです。それは何かというと、今、現われている出来事、あらゆる想い、あらゆ
119第2章人間に宿る限りなき力
る行ないは、過去世の因縁の消えてゆく姿ということなのです。
あらゆる過去世の因縁が現われては消えてゆく、いい想いも悪い想いもすべて消えてゆ
く。消えてゆくと何が現われるかというと、人間の本来の姿が現われてくるのです。
人問は本来神の分生命であり、みなベートーベンでありゴッホであり、釈尊でありイエ
スであるというように、あらゆる人々が神の御心の中に住んでいる神の子であるわけです。
その神の子の現われる邪魔をするものは何かというと、過去世から習慣づけられている想
いのひびきなんです。過去世から何回も肉体として生まれ変わっている想念波動が習慣に
なっていて、神のみ心をそのままこの地球界に現わす妨げをするわけです。例えていえば、
壁に穴をあけたとします。穴はあいているけれどゴミがつまっている。すっかり空気なら
空気が通るのを邪魔するわけです。そのゴミを払わなければならない。そのゴミは何かと
いうと、過去世からの想念波動なのです。
微妙な速い神霊波動を粗いおそい肉体波動に合わせるために、速度をゆるめる。そのハ
ンディキャップが業想念となって長い間たまり、今日に至っているわけです。それが想い
120
のくせ、習慣となって、神の御心を素直にハッキリと現わすのを妨げているわけです。そ
こでお釈迦様は空になれ、すべての肉体の想いを捨てなければいけない、というのです。
ところがなかなかそういうふうには出来ない。長い間の習慣の想いで、肉体が人間だと思
っているから。
そこで私は、いいことも悪いことも、あらゆる想いもあらゆる出来事も、みんな過去世
の因縁因果が現われて消えてゆく姿なのだ、と想いを放さした。消えてゆく姿ということ
は、業生は限りがあるもの、本当のものではないということです。神様の御心というのは
永遠の生命であって、永遠の光であり、限度がない、無限の長さ、無限の広さ、無限の尊
さなのです。業のほうは有限ですから必ず消えるわけです。ですから、消えてゆく姿だと
たえず想っていれば、必ず消えてしまって、本当の自分、本心の我、空即是色の我がそこ
に現われてくるのです。そういう原理が私はわかったわけです。
121第2章人間に宿る限りなき力
もと
自然に本が開く光の柱
122
さて、消えてゆく姿のその消えてゆくものはどこへやったらいいかというと、肉体人間
では消せませんから、神様に消していただく、神の守護によって消していただく。人間に
は守護霊(先祖の悟った霊) 守護神がついていて、いつでも守っていてくれるのですから、
守護霊守護神を通して救世の大光明、いわゆる神様の救済のお光の中で消していただくわ
けです。
その大神様は一体どこにいらつしゃるか。ただ神様といっても掴みどころがない。しか
し神様の御心はわかります。世界が完全になる、地上界に天国が出来る、全く平和になる
ということが神様の御心ですから、その地上天国を作る想いの中、世界人類が平和であり
ますように、と唱えることをもって、神様の御心とピッタリと一つになる運動をはじめた
わけです。
“世界人類が平和でありますように” とこちらが思うと、大神様の理念、御心にピチッ
と合うわけです。神様の中は大光明です。太陽でさえも神様の一つの現われなのです。太
陽が無限に集ったものが大神様の実体なのです。太陽は太陽系の唯一の恒星ですが、銀河
系宇宙の中の一つの小さな星にすぎないのです。この宇宙には太陽より大きい輝く星が無
数にある。そして一つの銀河系宇宙をつくり、その銀河系宇宙が十二集ってまた大きな宇
宙となり、その大きな宇宙が十二集ってまた大きな宇宙を構成しているのですから、どれ
だけ大きいかわからないような彪大なのが神のお姿なんです。
そういう大きな神様の大光明の中に入る唯一の方法は、神様と同じ波長を出すことです。
同じ波長を出さなければ大神様の御心の中に入ることは出来ない。同じ波長を出すという
のはどういうことかというと、大神様が思っていらつしゃることと同じことを思わなけれ
ばならない。どういうことを思っていらつしゃるかというと、大宇宙の調和、これを理念
として持っていらっしゃるのです。現在はその大理念が現われ切る過程にあるのです。
今は、地球の大調和の番なのです。そこで、地球人類のほうから大調和を願う祈り”世
界人類が平和でありますように”というひびきを出しますと、大神様の御心にピタリと合
123第2章人間に宿る限りなき力
い、大調和があらわれるのをスムーズにさせるのです。しかも私たちの教えには、守護霊
守護神を通してという教えがありますネ、守護霊さん守護神さん有難うございます、とい
う感謝の気持ちをもちながら”世界人類が平和でありますように” と願う。そうすると守
護霊守護神がうまく波長を合わせてくれるのです。
“世界人類が平和でありますように
“というあの一連の祈り言をしますと、祈った人は
そのまま神様の御心の中に入っていく。そうすると神の御心、大光明の中で、過去世から
まとってきた業因縁が消えていく姿となって消されてしまうのです。そして自分の本心が
そのまま開き、本体が開いて、汚れがなくなってくるのです。ところが過去世の因縁とい
うのは、なかなか深いものですから、一遍や二遍、或いは二年や三年や五年やって、全部
なくなるというわけではありません。しかし、祈りつづけ、消えてゆく姿と思いつづけて
いると、業因縁、くせの想いは有限なのですから、しまいになくなってしまうのです。残
るものは何かというと、神の御心であり、神の子である自分の本体が光り輝いているので
す。
124
人類は無限に進歩してゆく
業想念というものは本来あるものではありません。有限のものであり、肉体が現われて
から出来たものなのだから、神様の御心の中に入りつづけていれば、必ず消えてしまうの
です。生命エネルギーがそのまま真直ぐに働いてくるのです。神の子人間としての姿がそ
のまま現われていくわけです。そして、地球界より一段階昇華するのです。止まることな
く昇華してゆくのです。私たちは宇宙人の存在を認めています。というより、常に交流し
ていますから、肉体人間がここにいるというより、ハッキリとしているのですね、この宇
宙人といっている人類は素晴しい神霊と同じなのです。そういう世界があるのですけれど、
その素晴しい神の世界でさえも、もっともっと進化向上してゆくのです。無限に進歩して
ゆくのです。
地球界はまだそこまでいかないけれど、これから地球界は一変してゆきます。上空には
常に軍事衛星がとび、ボタン一つ押せば地球を破滅させるに十二分な原水爆が出来て、二
125第z人間に宿る限りなき力
たいじ
つの世界が冷たく対峙して、いつどうなるかわからない最後の段階に来ています。末法の
ななこう
世になって改めて、七劫が始まっているわけです。七というのは完全を意味しますから、
七劫で完成するわけです。そうすると他の先輩星と同じような人類に昇格するのです。今
はそういう時代なのです。
業想念というものは必ず消えるのです。消えてゆく姿で世界平和の祈りをつづけていれ
ば、どんな人でも、どんなに業が深かろうと、厚かろうと、必ず業想念はなくなってしま
うんです。ただし、早くなくなる人と遅くなくなる人とがあります。それが過去世の因縁
で違うんです。違いますけれど、どんなに遅くなってもやがてはなくなってしまうのです。
どうせ罪悪深重の凡夫なんだ、いくらどうやったって悟れないんだ、ダメな人間なんだ
というだけではいけません。人間は罪悪深重の凡夫、それも結構です。本当なのですから。
しやま
業が深くて、よいことより悪いことのほうが多いように見える、そういう苦の娑婆です。
しかし、それはあくまで消えてゆく姿です。浄土門的にいえば、阿弥陀様の中にそのまま
持っていってしまって、阿弥陀様の光をあらためて頂き直しさえすれば、やがてはみんな
126
阿弥陀様の子になるし、神の子になってしまうのです。業想念はなくなるに決まっている。
ですからそういうことを改めて思い直して、消えてゆく姿で世界人類が平和であります
ように、とやっていさえすれば、必ず自分は立派になるに決まっているという確信をさら
に深めて、皆さん生活して頂きたいと思います。
127第2章人間に宿る限りなき力
箸章あなたも免許皆伝
すべては自分の磨きのため
130
霊身と肉身とが調和するために
人間は本来は神の分霊であり、完全円満な神様、全智全能の神様から分けられたものだ
から本来、完全円満なのです。完全円満な自由自在な霊の働きなのだけれども、肉体とい
う粗い波動の中に入りますと、どうしてもスピードが遅くなり愚鈍になってくる。そこで
不完全な業というものが出てくる。
ですから肉体身として生まれた時に、キリスト教的には原罪、仏教的にいえば業という
ものが起こる。その業が邪魔をして、完全円満な人間の姿がそのまま現われないで、今日
まできている。
りんね
その業が(私は業想念といいますが)輪廻して、何遍も生まれかわり死にかわりしつつ、
その業を取りながら霊身の自分と肉体の自分が調和するために、肉体の生活のあらゆる経
験を積んで、肉体にありながらも神霊の世界そのままの自由自在の行ないが出来るように
なる。そういう修業のためにいろんな出来事が起こってくるわけです。
飲みものを作るんでもなんでも、入れて混ぜます。いろんなものをミックスして混ぜる。
少しかき混ぜているうちはうまくないけれど、ちゃんとかき混ぜるとおいしいものになる
というように、まだ業がよどんでいるわけです。その業想念波動というものをすっかり浄
め去って、肉体にいながらも本心の世界、霊の世界の自由自在性が現われるためにいろい
ろ修業する。
それがある時にはその中の生命力で、この業が邪魔なものだから、それを押し出そうと
して病気のような形に現われる。或いは不幸災難のような形に現われて消えてゆく姿にな
っていく。過去世から今日に至るまでの誤っていた想いや行ないが消えてゆくために起こ
る姿であり、消してくれるものはなにかというと中の本心であり、守護霊守護神さんなの
131第3章あなたも免許皆伝
です。消えるに従って本心が現われる。本心というのは神様の世界の霊の心です。本心が
現われるに従っていろいろと消えてゆく姿も現われてくる。それを常に常に消えてゆく姿
と思って、あらゆる病気や不幸災難をみていますと、やがて消えてゆく姿がなくなってく
るんです。
132
すべては光の中で消えてゆく
そこで消えてゆく姿をどこへ消したらいいかというと、お祈りの中へ消しなさい、とい
うわけ。お祈りもただ自分が幸せになりますようにというだけの小さな祈りではいけない
から、大きく地球世界、宇宙すべてが平和になりますように、大きな意味でみんなが完全
円満に調和した世界になりますように、というんで世界人類が平和でありますように、と
祈るわけです。その他に日本の平和も祈ります。私たちの天命が完うされますようにと自
分たちのことも祈る。
そうやって常に業想念の誤った波動が現われてくる毎に、それを消えてゆく姿として平
和の祈りを祈る。そしてその中でもって自分が昇華されていく。きれいに浄まっていくわ
けです。そうすると、これは他力でありながら自力、自力であって他力というように、自
分で自分の想いを神様のみ心の中の世界平和の祈りの中へ入れてしまう。入れてしまうに
従って神様の完全円満な大光明波動がこの肉体の中へ入ってくる。
自分の中の過去世からの業というものを持ったままで、例えば嫌な奴があったら、こん
畜生、あんな奴ぶんなぐってやりたい、ああしかしそうじゃないんだ、あの人は過去世に
おいてなんかしら私があの人のために悪いことをしたので、そのお返しで向こうで悪いこ
とをするんだ。ああこれで消えてゆく姿なのだナ、というふうに思って、世界人類が平和
でありますように、あの人の天命が完うされますように、とこうやって祈りに入れます。
そうすると、そこでプラスマイナスがゼロになって、残るものは何かというと、みんな
が幸せでありますようにという愛の心が残る。愛の心は光明心ですから光明だけが残って
くる。
133第3章あなたも免許皆伝
だから悪いこと、病気なら病気が出てくると、ああこれでウミになって出ていって痛み
になって出ていって、熱になって出ていって、これで私はきれいになるんだナと、それで
平和の祈りを祈る。そうすると痛みや苦しみはあるけれども、それはそのまま平和の祈り
の中で消されていく。それでやがては痛みも苦しみもなくなっていきます。たとえ痛みや
苦しみがなくなってあの世へ行ったとしても、その魂はもう苦しみを解脱して、きれいな
良い世界へいくわけです。
それを苦しみを持ったままで、病気を持ったままで、私は病気でなんと不幸な人間だろ
う。私はなにも悪いことしないのにこんなに苦しんでって、自分に愚痴をいうような恨み
ごとを思うような想いならば苦しみは続くし、またあの世へいったとしても、苦しみを持
ったまま、汚れたままでいくわけです。
だからあらゆる汚れというものをこの世の肉体と共に、肉体が灰になると共に置いてい
かなくちゃいけないわけです。
それをどこへ置いていくかというと、平和の祈りの中で、神様の大光明の中で、もとの
134
光のなかで消してもらう。世界人類が平和でありますように、日本が平和でありますよう
に、私たちの天命が完うされますように、守護霊さん守護神さん有難うございます、とい
うこの祈り言がエスカレーター、エレベーターになって、神様の世界へ自分を運んでくれ
るのです。
置かれた場から逃げてはいけない
それを日々瞬々刻々やっていますと、いつのまにか神様の世界の光だけが自分の中へ入
っていて、いいかえれば、潜在意識の中へどんどん入っていって潜在意識がきれいに浄ま
っちゃう。と同時に表面の心もやがて浄まってくる。そうすると知らないまに業の少ない
きれいな心の自分になってくるわけです。従って運命も良くなってくる。
ところが今までの宗教はそういうふうに人を赦さない。私の教えには自分を赦し人を赦
し、自分を愛し人を愛し、と常に自分というものが入っているんですね。自分がなくてこ
135第3章あなたも免許皆伝
の世は成り立つわけがないんです。自分がなきゃこの世の中などないんだから。やっぱり
なんといっても一番大事なのは己です。自分が大事でなくて、自分はいらないんだ、人の
ためだけだ、なんてそんなことはありません。人のために尽くすのでも自分が徳を積みた
い。自分の徳というものを積みたいためにやるんであって、それは表面的に思わなくても
潜在的には徳を積みたいと思っている。だからいつも常に自分というものはあるわけです。
いいことをしようと悪いことをしようと自分があるわけです。
ただ悪いことをして自分のためにするんじゃなくて、いいことのために自分を尽くさせ
たほうがいい。自分が尽くしたほうがいい。それは永遠の生命が生きますから。そこでま
ず一番先に自分というものを立派にしなければならないわけです。
そこで自分が身に受けるあらゆるもの、自分の環境に起こってくるいろいろな事柄を受
け止めなけりゃ駄目です。逃げたら駄目です。自分はここにいるのが嫌だから逃げちゃお
う、といって他へ行ったって自分のなかに業がある限りは、自分の宿命としてあるもの、
或いは過去世の因縁としてあるものは、逃げても逃げても追いかけてきます。それをきれ
136
いに浄めない限りは追いかけてくるわけです。
例えば結婚がいやだと思っても、旦那さんがいやだからといって離縁しても、まだその
業を果たしていないうちに逃げたって、また結婚すればまた不幸なものがくる。どこかへ
勤めていて、まだ業が消えないうち、修業が足りないうちにそこを逃げ出せば、また勤め
たところは悪い。何べんでも勤め替えさなければいけなくなる。だからそういうふうに逃
げてはいけない。
これぞ光明思想の生き方
あらゆる環境で、あらゆる悪いもの、自分の心に染まないもの、自分の感情を乱すもの、
そういうものはすべて過去世の因縁が消えていく姿。もう絶対にそう思うんです。そう思
って否定しきってしまうわけです。自分の悪いことを、自分に起こってくる悪いものを悪
いとみないわけです。過去にあった悪いことが今現われて消えてゆく姿。これが大事なの
137第3章あなたも免許皆伝
です。
今悪いことをしているんじゃないんです。今悪い事態が起こっているんじゃないんです。
それは過去世において起こるべきものが、時代を経て今生の自分として現われて、それで
消えてゆくんだ。だから自分が悪いんでも、その人が悪いんでもない。あらゆる環境とい
うものは、自分の過去世の因縁を消すために、あらゆる環境におかれるのであって、今の
自分が作っているんじゃないんです。
今の自分は一生懸命いいことばかりしている。ところが報いられてくるものは悪いこと
ばかりということがありますよね。一生懸命信仰をやって、一生懸命いい行ないをしてい
るんだけれども、自分に現われてくるものは悪い環境であり、悪いことばかりだという人
もあります。そうすると不合理でしょう、これは。ところが実は不合理ではない。
今その人はいいことをしているかもしれないけれども、過去世においてはいろんな悪い
ことをしている。その悪いことが現われてきて、いいことをすればするほど早く消えてゆ
く。だからどんどんいいことをすればするほど悪いことが起こってきて、消えてゆく姿に
138
なることが随分ある。
それを私はこんなにいいことをしているのにどうしてこんな悪いことが起こるのだろう、
と思ったらその人はまだ駄目なのですよ。これは宗教の宗の字も知らないわけです。今生
において現われてくることというのは必ず自分に原因があるのに決まっている。いいこと、
いい報いがきてもそれは自分に原因がある。ただそれは今の自分ではなくして過去世の前
生、前前生……ずうっと過去世からのためている蓄積がある。いいことの貯金があればそ
れはいいこととして現われてくる。借金がいっぱいあれば今度は返さなきゃならないから
借金の責め立てをくう、というようにどうしても今現われてきたものは必ず自分が行なっ
たことなのです。ただし過去世において行なったことで現在の自分ではない。
だからああこの悪いことは過去世の因縁が消えてゆく姿だナ、私がいいことをすればす
るほど、早く消えてゆくんだナ、早く消えてゆくに従って自分の本心が開き自分の運命が
良くなっていくんだナ。そういうように思えばいいわけ。
八十や九十の老齢になってまだ消えないとします。これは全部今生で消してしまって、
139第3章あなたも免許皆伝
あの世へいってきれいなところへいこう、とそこまで考えるわけね。だからあらゆる出来
事が消えてゆく姿なのですよ。
本当に消えない実在というものは何かというと、光明燦然たる神様のみ心だけ。大調和
しているみ心だけは消えないんです。本当はきれいな絵、大調和の絵が画いてあるのにい
ろんなものをくっつけて不調和にしてしまい、それでこれが自分だ、これが自分だとやっ
ている。
かくしや
そこで覚者たちは、お釈迦さまは空になれっていったし、キリストさんは全託しろとい
しょうちさいかく
うし、老子さんは無為にして為せと、自分が小智才覚でああしなきゃ損だ、こうすれば得
だというような、そういうような想いでいちいち動かないで、そのままの心、神様のみ心
のままにスーっと生きなさい、とこういうわけです。
ところが、そういわれても神のみ心がどういうみ心だかわからない。一口にいうならば
神のみ心というのは愛の行ない、思いやりの心、調和する心、それが神のみ心ですね。美
の心も勇気というのもみんな神のみ心です。そういうものを損なうものはみんな業です。
140
臆病も、愛の不足も、思いやり不足も、自分勝手も、嫉妬心も、美を感じない心もみんな
業なんです。愛を損なう想い、美を損なう想い、寛容の美徳を損なう想い、勇気を損なう
想い、そういうものはみんな業なわけです。
すべてのものに感謝できる心
世の中には自分はなんにも悪いことをしたことがないから神様にお願いすることも、掌
を合わせることもないというような馬鹿なことをいう人がある。なんにも悪いことをしな
いなんていう人がこの世の中にあるわけがない。なぜならばこの世界を歩くだけでも虫を
踏みつぶしている。虫を踏みつぶす権利は人間にはありません。だけれども虫を踏みつぶ
している。あらゆるものを食べている。動物を殺し魚を殺して食べている。人間はあらゆ
るものの犠牲の上に成り立っているんですよ。
しかしそれも”ああこの魚によって私は生かされて有難うございます。この肉によって
141第3章あなたも免許皆伝
生かされて有難うございます。この野菜によって生かされて有難うございます。ああ天地
の恩恵が有り難いナ” と、そういうように有難うございますって感謝して食べれば生きて
くる。
ところがなんだこんなのまずい、なんでえ、なんていいながら食べている。ちっとも感
謝しないで食べていれば、これは殺していることになるわけです。悪いことしていること
になる。あらゆることに感謝して生きられて、しかも日常茶飯事いいことしていれば本当
に悪いことしていない。けれどそういう人は滅多にあるものじゃなくて、またそういう人
は謙虚ですから、私はなんにも悪いことしないなんて威張りはしません。ああ私は足りな
いもの、至らないものでますます勉強しなければなりませんとか、立派な人はそういうよ
うに思うんですよ。
立派でない人に限って私はなにも悪いことしていない、俺の生き方でなにが恥じること
があるかなんてやっている。だからそういう心はもうすでに恥じているわけです。
なぜかというと、人間の生命というのは神様から頂いたんですね。神様の分生命です。
142
自分で自分を創った人はありませんよ。ドロドローンって自分が現われてきやしないんだ
から。ちゃんとお父さんとかお母さんとか、天地の恩恵をうけて地上界に現われてくる。
自分で育てて自分が大きくなると思ったって大きくならない。身の丈一尺を加えんや、で
す。
自然に伸びていく。その肉体を伸ばし肉体を成長させるもとは生命です。それはどこか
らきているかというと、神様からきているに違いない。神様といいたくなかったら大生命
でもいい、大自然でもいい。神様といいたい人は神様で勿論結構なんだし、神様といいた
くなかったら大生命さん、大自然さん、あああの恩恵によって生かされているんだナ、有
り難いナ、とそれに感謝するのが当たり前でしょう。
その感謝もしないで、自分が悪いことしないなんて威張っている奴は馬鹿なんです。な
ぜかというと、自分を知らないからです。
143第3章あなたも免許皆伝
すべては自分のために神様がしてくださっている
144
そこで守護霊さん守護神さんは、自分の子どもたちであるこの肉体の人間をなんとかし
て本当の人間にしよう、神の子と業が混ざっているような人間じゃなくて、神の子そのま
まの人間にしようと思っていろんな修業をさせるわけです。
今現在自分たちのところに起こっている悪い環境があるならば、それは過去世の因縁を
きれいにして、魂を立派にさせようとして守護霊さん守護神さんがやっていらっしゃるん
だ、とそう思わなきゃあいけませんね。
そうやっているうちに自然に立派になる。なんの苦労もない人には大した修業がないか
わりに立派にもなりません。苦労した人がみな立派になる。だからといってわざわざ苦労
を求める必要はないけれども、もし苦労がきたり厭なことがあった場合には、ちょっとし
た痛みであっても、ああこれは業が消えてゆくんだナ、私の本心はこれによって開くんだ
ナ、私はこれで立派になるんだナ、そういうふうに思うことですね。それであらゆるもの
に感謝すること。これが宗教の一番の根本でありまして、霊光をみた、観音様をみた、何
しようまっせつ
を見た、なんて、そんなのは枝葉末節のことです。
自分が明るく素直に正しく生きられる。神様はじめすべてのものに感謝して生きられる
という、そういう状態に心がなっていくことが一番上等なことなのです。お陰があって儲
かった、病気が治った、どうかしたって、それも有り難いに違いないが、それだけのこと
は一つの事柄です。そういうことではなく、根本的になにがあろうとも、どんな悪いこと
があろうと、みんな自分のために神様がしてくださるんだナ、守護霊守護神さんが、自分
のために自分を愛してくださってこういう状態に現わしてくださるんだナ、有難うござい
ます。そういうふうに何事にも感謝できるようになれば、これはもう本当に一人前でこれ
ほど立派な宗教者はないんです。
145第3章あなたも免許皆伝
人をも自分をも責めない生き方
146
そういうふうになるように私は消えてゆく姿で平和の祈りを教えているんだし、自分を
愛し人を愛し、自分を赦し人を赦し、と自分を責めるなんていっていません。人を責める
ともいっていません。自分をあんまり責めすぎる人、自分をあんまりいじめる人はやっぱ
りその目で人をみますね。あんまり正しくなんにも悪いことしなかったと思うような人は、
人がちょっと悪いことをしても、あれはなんとか、あれは… … って、すぐ人を責める気持
ちが起こる。人を責める心は地獄の想いです。
もしそういう心が起こったら、ああこれはしまった、ごめんなさい、消えてゆく姿を出
して済みません、ごめんなさい。向こうの守護霊さんごめんなさい、私の守護霊さんごめ
んなさいって、すぐ謝ってしまえばいいんです。そうすると消えます。それを、人の悪口
をいったり悪いことをしちゃいますね、それで、いやあれは仕方がない、あっちが悪いん
だから仕方がないよ、俺は仕方がないんだ、ってやったら駄目です。そうやったらますま
す自分が駄目になります。
もう、すぐ反省して、向こうがどんなに悪くても、たとえ向こうが悪いことをこっちへ
してきても、憎む心を出したら(相手を憎むということは自分の心が汚れることです)相手
を憎んだら、ああごめんなさい、神様すみません、これからそういう心を起こしません、
と謝るんです。
なんべんでもやります、それは人間に業がありますから。因縁の悪い人もありますから、
この世の中には顔をみるだけでも憎らしい人もあるんです。それは前の世でさんざんいじ
められたりなんかしていると、顔みるだけでも憎らしいことがあります。しかし、それさ
えも消えてゆく姿、すべては消えてゆく姿で、憎らしいと思ったら、ああこれは消えてゆ
く姿だ、ごめんなさい、ってやる。
147第3章あなたも免許皆伝
極意は”すっきりした心”
148
神様のみ名においてはみんな兄弟姉妹なのだから、みんな手を取りあって仲良くやらな
ければいけない。ああこの恨み心は自分の業だ、ああこれは消えてゆく姿だナ、とそうい
うふうに自分の守護霊さんに謝り、相手の守護霊さんに謝り、それでスーっとすっきりし
た心にならなければいけない。いつも青空のようなきれいな、澄みとおった心でいなけり
ゃ人間は損なのですよ。なにかちょこちょこしたものがあればあるだけ損です。いつもす
っきりした心になる。それが宗教の極意です。他に宗教の極意なんかありません。
祈ったらおかげがあった、儲かった、それは枝葉のことで、自分の心が立派になって病
気が治り、自分の心が立派になってお金が儲かる、これは本当に結構なことです。だけれ
ども自分の心が汚れているのにお金が儲かったってそれは結構なことではないのです。そ
れは必ず返さなければならなくなる。因縁の世界だからね。だから因縁の世界を超越しな
ければならない。因縁の世界を超越するためにはどうしたらよいかというと、やっぱり消
えてゆく姿に徹底して、平和の祈りに徹底して、あらゆるものに感謝し、あらゆるものに
祈りを捧げる。そういう気持ちになれば、その人は立派に生きられることになるんです。
149第3章あなたも免許皆伝
あなたも免許皆伝
150
想いが運命を作っている
「光に住して光に把われず
空に住して空に把われず
業に住して業に把われない」
ということについてお話してゆきましょう。
この世の中というのは想いで出来ています。その想いはどこから来るかといいますと、
はじめ大生命があって、その生命が分かれて小生命となり、人間になっている。そのいの
ちのエネルギーを土台にして想いが出来ている。ところがいのちのエネルギーを土台には
するけれど、命の本筋をいかないで、本筋からはなれてしまって、肉体という一つの場に
片寄ってしまった。そして肉体だけの平和とか、肉体だけの安心とか、肉体だけの富とか、
そういうものばかり考えて、把われてしまった。それでだんだん業想念が出て来たわけで
す。
想いというものがこの肉体世界の運命を作っているのですから、想いを一番の本筋であ
る神様のみ心に返してしまえば、いつもみ心の中に入れていれば、真直ぐ生命の理念が現
われてくるわけです。神様のみ心が現われてくるわけです。
ところが想いを神様のみ心の中に入れてしまう、というのがなかなかむずかしい。そこ
で祈り言というものが各宗教宗派で編み出されて、南無妙法蓮華経もあれば、南無阿弥陀
カラタンノウトラヤヤ
仏もあれば、南無喝曜但那、移曜夜耶もあれば、アーメンもあり、その他いろいろとある
わけです。その宗教宗派の祈り言葉、あるいはその形式に把われてしまって、本当は大き
い広いひびきであるべきものが、固まった一つの波の中に入りこんでしまった。
南無妙法蓮華経でなければいけない、南無阿弥陀仏でなければいけない、いや、南無力
151第3章あなたも免許皆伝
ラタンノー… … でなければいけない、というように把われる。把われるとその中で生活す
るから小さい人間になってしまう。
中近東や東南アジアでは、宗教的カルマというのが特に強く、回教とヒンズー教、回教
とユダヤ教との問によく争いが起こります。イスラエルとアラブとの紛争も宗教の争いが
はんちゅう
一番の根源ですからね。みなお互いに自分の宗教の道を進んでゆくので、狭い範疇で考え
て神様のほうへいかないんです。すべてがつながっている、大きな広い広い立場の神様の
み心ではなくて、何々教という中の狭い範躊に入ってしまうものだから、お互いが対立し
てしまう。
そういう対立するような、ある把われが出来るような教えというものは、神様のもので
はないのです。神様の名前とか宗教というものは、本当の命を知らせるために、あれが月
である、というように出された指であるけれど、指であって”そのもの” ではないわけで
す。
神様のみ心はどういうことかというと、人間というものはみな神様の分生命であって、
152
互いに兄弟姉妹である。そしてみな使命をもっていて、お互いに手を取り合って神の理念
を現わしてゆくものだ、ということになっています。ですからそういう調和を破る教えが
あったらば、調和を破っただけそれは把われになるわけです。
光に住して把われない
そこで冒頭の言葉の説明に入るわけですが、或る人が神様のみ心を知って光の中に入っ
ている、とします。その人は昼間は会社で勤めている。夜、家へ帰って来て、あるいは日
曜日は統一ばかりしていて、子どもが話しかけてきても、妻が話しかけてきても、また何
か用をいってきても、そんなの全然相手にもしない。お祈りばかりしている。そういう生
活を続けていたとすれば、家族とも仲が悪くなりますし、調和した家庭とはなりませんで
しょう。それは光に住して光に把われてしまっているわけです。
また空になっている。歩いていて知人に会って話しかけられた。「ヤァーなになにさん、
153第3章あなたも免許皆伝
今日はし「… … … し「ご機嫌いかが」「… … … 」何も答えない。昔、私は修行中はそうやっ
たことがありました。これではやはり世間を渡っていかれません。空に住して空に把われ
てしまっている状態です。そういう生き方では、せっかく神様の中に入っていても、かえ
ってこの世にとってマイナスになります。
よく宗教をやっている人で、自分の悟りというものを目の前にぶらさげて、オレは悟っ
ている。みんなわからない奴だ。馬鹿な奴だ、と思って生活している人がよくいます。と
ころが、九〇パーセント馬鹿な奴がこの世にいるんですから利巧な一〇パーセントの人は
置き去りになってしまうわけです。九〇パーセントの人たちから見れば一〇パーセントの
人たちは馬鹿な奴なんだし、一〇パーセントの人たちから見れば九〇パーセントの人たち
が馬鹿な奴となる。どっちが馬鹿かわからない。それは両方ともバカなんです(笑)。
悟りの道といったって、自分だけが光に入っちゃって、他を相手にしない、誰ともロを
きかない、ということではこの地球世界では生きられないわけだし、人々を教化していけ
ない。本当の偉い人というのは、自分は光に入り、空の境地も体験していながら、迷って
154
いる、つまらないことをいっている人たちともおつきあいし、相手にし、相手の中に入り
ながら、しかもだんだん相手を引き上げてゆくのです。
引き上げるといったって、自分が教育してやろうとか、自分が浄めてやろうとか、自分
が自分が… … というのではなくて、自分が相手の中に入って、相手の立場にたっていると、
自然に相手の人がその人格に感化され、知らない間に心がきれいになってゆく、というこ
とになるのです。そういう人間になればいいわけでしょう。そうなるためには、自分が光
の中に入った経験もある。空になった経験もある。それでしかも業に把われないで、業の
中で生活している人と一緒になって生きてゆく。和して同ぜずですね。それが把われがな
いことなんです。そういう人間にならなければダメだと私は思っているし、自分もそのよ
うに実行しているわけです。
155第3章あなたも免許皆伝
思いやりの大切さ
156
自分の宗教だけがいいんだ、いいんだと押しつけてはだめです。例えば奥さんが世界平
和の祈りをやっているとする。旦那さんはやっていない。旦那さんが家に帰ると、これみ
よがしに「世界人類が… … … 」と奥さんがやる。「チェッうるせいナ、なんだい」「あなた
なんかわからないの、あなたダメね。あなたは低いの。私は偉いのよ」といったり態度に
現わしたりしたら、旦那さんは絶対に世界平和の祈りをしない。「このバカヤロー、変な
所へ行きやがって、鼻もちならない」と思われます。そういうことではなくて、世界平和
の祈りをやったとすれば、心の中で祈りながら、いつも静かに旦那さんのいうことを聞き、
祈れば祈るほど態度が柔らかくなり、愛情が出て来て、旦那さんや子どもたちにサービス
出来るようになる。そうなれば家族は自然にこちらに向いてくるのです。
頭ごなしに自分は偉い、お前は馬鹿だ、とやったら誰も入りません。それは光に住して
光に把われ、教えに住して教えに把われているわけです。教えはいいんだから、それを行
ないに現わさなければいけない。言葉でいうより体で示せ、と白光日めくりにあります。
言葉より行ないなんだと、私は常にそう思っています。行ないに現わしていますと、宗教
が生きてくる。生きた宗教にしなければだめです。
宗教に入っている人にはいやな癖があるんです。自分たちだけがわかって、ほかの人に
わからない。なんとなく変な感じがする。そういう感じを人に持たせてはいけません。な
んとなく温かくて、柔らかくて、なんていい感じの奥さんだろう、旦那さまだろう、とい
う感じを誰にでも与えなければいけませんね。そうすれば、言葉でいわなくたって自然に
みんな親しんでくるわけです。そうなればその人は立派に宗教生活をしている人なんです。
言葉でいくらうまいことをいったって、行ないで人を厭がらせていたら、その人は宗教以
前の人。
よくお話ししますけれど、夕飯の支度の忙しい時に訪ねていって「うちの宗教はいい宗
教で、これこれ… … … 」としゃべり始める。訪ねられた人はこれから台所の準備をしなけ
ればならない時ですから、お尻が浮いて、お勝手のほうにばかり気がいっているのに、捕
157第3章あなたも免許皆伝
まえてしまって、一時間でも二時間でもしゃべって教えを強要する人がいます。そうする
と面倒くさくなってその宗教に入るかもしれませんよ。しかしいい気持ちで入っていませ
ん。面倒だから、うるさいからと思いながら入っている。そんな信者をいくらたくさん入
れたってしょうがない。人の気持ちを悪くさせながら、宗教入りをすすめたって、そんな
ものはなんにもならないし、そういう入れ方はよくありません。相手の立場を考えられな
いような心が宗教精神ではないんです。
愛情、思いやり、これは宗教精神の根本です。思いやりのない、相手の立場を考えない
で自分のノルマだけを果たせばいい、というようないき方は宗教精神に反します。光に把
われ、空に把われ、教えに把われていますと、宗教精神がどこかへ行ってしまう。人には
強要しないで、人格として相手を包む、そういう人間になることを私は望んでいるわけで
す。
158
消えてゆく姿の効用
世界人類が平和でありますように、という言葉に反感をもつ人は誰もありません。ああ
いいお言葉ですね、と思います。それにうちには消えてゆく姿という教えがあります。
お前の心が悪いからお前の子どもが病気になるんだ、お前が夫に尽くさないからお前の
家はダメなんだ、とか相談すればすぐ責められる。宗教というのは大体そうですね。うち
はそうではなくて、人間というのは魂は光り輝く世界に住んでいても、肉体の世界という
ざいあく
のは業生ですから、なんかしら間違いはあるんです。完全ではなく不完全なのです。罪悪
じんじゅうぼんぷしんらん
深重の凡夫と親鸞がいっているように、悪いことと善いことと半分半分ぐらいある。それ
をいちいちつかれてはたまりません。生きちゃいかれません。もし間違ったことがあった
と自分で想うならば、あるいは厭なことを人にされたと思うならば、そこで消えてゆく姿
で世界平和の祈りの中へ入れてしまうんです。
お前が悪いんでもない。あいつが悪いんでもない、どこが悪いんでもない。過去世から
159第3章あなたも免許皆伝
今日までの、神のいのちの本源からはずれたそういう生き方が悪い想いになって、自分の
潜在意識に溜まったり、人の潜在意識にたまったり、世界人類の意識にたまって、地球を
覆っている。それが現われて消えてゆくのです。誰が悪いんでもない、みんな消えてゆく
姿なんだーと世界平和の祈りの中へ、自分の業も人の業も、地球人類の業も消えてゆく
姿として”世界人類が平和でありますように、どうかみんなの天命が完うされますように”
と祈りの中へ入れてゆくのです。
そうしますと、誰も責めることはない。自分も責められることもない。神様のみ心がそ
こに現われるように、スカッと神様が現われられるような光の柱がそこに立つわけです。
神様のほうでは「みんなが幸せであれ」と願っている。こちらは「どうか人類が幸せであ
りますように」と祈っている。神様のみ心と人間の心が一つになっています。大愛の心、
大生命の理念が地球に現われるように、一日も早くなるように、と私たちは一生懸命やっ
ているわけですね。
自分も責めない。人も責めない。みんな本心は神の子だから、その神の子の自分を愛し、
160
神の子の人を愛し、それで現われて来たことは責めるのではなく、みんな消えてゆく姿と
して祈りの中で消していただく。そうやって生きてゆくのですから、こんなにやさしい、
こんなに有り難い教えはないと思うのです。
私は、この教えを説いた人は偉い人だと思っているんですよ(笑)。それはこの肉の身
の五井昌久が説いたわけじゃない。ここに来ている神様が説かせるわけです。私は説かさ
れただけ。皆さんはそれを行じるわけですね。だから説いた私も行じる皆さんも同格です。
講師の先生方が消えてゆく姿を説いているのを聞いていて、どなたが説いたか知らない
けれど(笑)いい教えだナ(笑)ーと聞いてたんです私は。私も一生懸命やっているんで
す。自分で説いていながら聞かされているんですよ。教祖とか創立者というものは、自分
で教えを創って自分で説くのではないのです。神様のみ心が伝わって来て、この肉体は器
になって説くのですよ。だから自分自身も教わっているんですよ。教わりながら行じてい
るのです。自分も行じなければ何もならない。
ここ五、六年、疾があって肉体的には眠る時間も殆んどありません。しかしちっとも恐
161第3章あなたも免許皆伝
怖心もなければ、不平も不満もありません。「先生みたいにいいことをなさって、それで
そんなにお苦しみになって… … 」と人がいってくれます。私は一つも苦しんじゃいない。
息がつまるようなのがきても苦しいとは思わない。不平も不満もなんにも起こらない。恐
怖も起こらない。”ああこれで地球が浄まるんだナー有り難いな” と思っています。神様
の教えを自分で行じています。
私は本来丈夫でした。子どもの時は弱かったけれど、ズーッと病気などしたことがない。
ここ五、六年病気のような状態が現われているでしょう。そうすると、ああ病気の人はこ
このところで参っちゃうんだナ。ハハー、ここをこうやればいいんじゃないか、と再確認
したわけです。
痛みとか苦しみがありますね。そういう時、やっぱり神様有難うございます、と思うこ
とです。アッこれも神様がなんか私のために、私によかれと思ってこうなさってくださる
んだナ、とそう思うんですよ。神様は愛なんだ。私にいいことをさせるために、私をよく
するためにこうやってこの痛みを与えてくださるんだナ、この苦しみがあるんだナ、と思
162
うと、有り難いなというように変わります。そうすると恐怖もなくなれば、大変だ! と
いう想いもなくなります。不平も不満もなくなります。私は過去世からズーッとそういう
修練をしていますから、いちいちそんなことを思わないで出来るけれどね。
悟りは”有難うございます”
一遍には出来ないと思う。だから再びいいますが「神様は愛なんだから、決してわれわ
きゅうぼう
れに悪いことをするわけがない。この痛みもこの苦しみも、この窮乏も、みんな神様が自
分を立派にするためにやってくださるんだナ、有難うございます」とそう想う練習をする
んです。私は自分の体験として本当にそうですから、私が道を開いてから二十五、六年に
なります。いろいろなことがありました。しかし、みんな禍が転じて福となっています。
私としては少しの恨みもないから、有り難いなと思うだけです。神様有難うございます、
という祈り心がもう心の中に充満している人間になれば、その人は幸せな人ですよ。それ
163第3章あなたも免許皆伝
が悟りなのです。
悟りの中には不平がありません。みんな有り難いな、なんでもかでも有り難いな、だけ
になる。神様の姿を見たから悟り、パーッと空になったから悟り。悟りとはそんなのでは
ないんです。何をされても、どういうことが出てきても神様有難うございます。有り難い
ナーという心が湧いてくることが悟りなのです。有難うございますと思えばいいんだから、
易しいでしょう。そうなるように一生懸命消えてゆく姿で世界平和の祈りをやってくださ
いませ。(昭和48年1月)
164
すべてに超越した生き方
浄まった世界では魂は自由自在
ふつうの場合は目に見えない所へ行っちゃえば会えないと思います。ところがわれわれ
の場合は、目に見えないから会えないんじゃないんです。浄まっていて目に見えない世界
へ行けば、かえって自由自在になって年中会えるわけです。どんな子どもであろうと、夫
であろうと、妻であろうと、常に一緒にいるということはありませんね。離れています。
たまたま顔を合わすだけです。ところが霊界にゆき、或いは神界にゆき、自由自在になり
ますと、いつでも会えるわけです。
しよサつ
私の母親は随分前に亡くなりました。母親はスーッと神界へ行っちゃった。天界から笙・
165第3章あなたも免許皆伝
ひちりきのりと
箏築で迎えに来て、祝詞でスーと昇っていった。私も霊体で一緒に送っていきましたが、
神界に一遍で行っちゃいました。それからどうなったかといいますと、いつも一緒にいる
わけです。肉体にいる時には亀有(東京都葛飾区)にいましたから、月に一遍か二遍会いに
いかなければ、肉体の顔は見えないわけです。ところが神界へいっちゃったら、いつでも
一緒なんです。肉体にいる時よりも一緒なんです。
こっち
そういうわけで浄まってしまえば、肉体界は不自由ですが、向こうのほうが自由です。
だからいつでも会いに来られるわけです。そういう立場から考えれば、本当の真理を知る
ということは、肉体に命がいようといまいと、どこにいようと同じことなんです。
166
人間には神の光の一筋が宿る
ということは、人間というものは、本来は神の分け命であって、この肉体に住んでいる
者じゃないんです。本当の命というものは、神様の中にあるのです。神様の中にいて、そ
の光の一筋が肉体に宿って、肉体を場として働いている。常に神様の中にいるわけですよ。
だから亡くなるということは、浄まっていれば、神様の一番深い所にゆくし浄まっていな
ければ、途中でフラフラしますけども、大体、平和の祈りをしている人は浄まっています
わず
から、神様の一番深い所にゆくわけですね。そうすると、僅かな一筋の糸で働いていたも
のが、大きな光になって働くわけです。
邪魔なものがかえってなくなって、不自由がなくなり、自由自在心になるということで
す。だから、例えば赤ちゃんで亡くなろうと、九十才で亡くなろうと、それは浄まってさ
めでた
えいれば、自由自在でお目出度いわけなんですよ。ふつうでいえば、赤ちゃんや若い子が
亡くなったりすれば、お目出度くありません。「うちの赤ん坊が亡くなりました」「お目出
度うございます」なんていったらぶんなぐられちゃいます。ところが本当は一つの段階を
卒業して、新しい大きな働きの場に移るわけです。だから本当はお目出度いんです。
何故かというと、人間は永遠の生命であって、神様のみ心の中にいながら、いろんな所
はけんちゅうざいいん
に派遣されて、肉体界なら肉体界へ派遣されて駐在員になり、それで働いているわけです。
167第3章あなたも免許皆伝
たとえばどこかへ行って、一社員で働いていた。お前はうんと働きがあるから課長にする
とか、今度は部長にするとか、上がってゆくわけですね。そういうわけで最後には神様の
み心になって、キリストのように、神の右に座する、という形になるわけなのね。元々は
神様の中にいるわけです。それがわからないと、本当の宗教の味がわからないんです。
人間というものは、肉体の中にいるのじゃなくて、みんな一筋の光が肉体という場に宿
っているだけなんですよ。一筋の光なんです。その一筋の光を支えて守護霊守護神が光明
体で取り巻いて、その一筋の役目を完うさせよう、完全にさせようとして守っているわけ
なんです。だから守護霊守護神を知らなければ、一筋の光が完全に自分の使命を完うする
ことが出来ないんですよ。それが私にはわかったわけなんです。それで守護霊さん守護神
さん有難うございます、と常に感謝しなさい、と教えるわけです。
そう教わった人がやっていますと、知らないうちになんとなく心が豊かになる。なんと
なく安心立命してゆくわけです。
168
本当の人間は永遠の生命
この世というものは、たかだか生きても百年です。百年の寿命きりしかありません。永
遠の生命というのは無限億万年、数えられない。例えば赤ちゃんが生まれて、一才で死ん
だとします。そうすると、その赤ちゃんはこの世では一才しか生きなかったことになりま
す。ところが実際は、一才プラス何億万年、無限億万年という年限があるわけです。ただ
一才と現われたけれど、無限億万一才なんですよ。ただの一才で死んでいるわけじゃない。
無限億万年に一才を加えて、それで天命を成就して、神様の中へ入ってゆくわけですね。
そういうふうに永遠の生命を持っているわけです。
永遠の生命がある時は幽界に働き、ある時は霊界に働き、ある時は生まれ変わって肉体
で働く。それは生命全部が来るのではなくて、一筋の光が流れてきている。映画で撮影し
ているみたいに、フィルムには映してある。それが光によってスクリーンに写し出される
うつしよ
だけです。それでこの世は現世というんです。昔の人はちゃんと原理を知っていた。
169第3章あなたも免許皆伝
それを考えますと、この肉体をいつ離れようと、いつ肉体に生まれようと、生まれたこ
とはお目出度いことで、また他界へゆけばお目出度いこと。こちらへ来るのも誕生だし、
あちらへゆくのも誕生なのです。どちらにしても本当はお目出たなんですね。悪いように
見えようと、いいように見えようと、どちらにしても有難うございますなんで、そうして
いるうちに、自分で知らないうちに本当にわかってくるんです。
170
感謝一念が一番有り難いこと
そこで一番大事なことは感謝一念なんです。あらゆることに感謝できる。祈ったらお金
が儲かって、商売がうまくいった。それもこの世的にはいいですよね。病気が治った、そ
れもこの世的には有り難い。しかしもっともっと有り難いことは、いかなる難事にあって
も、いかなる場合でも、心が動揺しないで、ああ有難うございます。これで私はますます
浄まってゆく、本当の姿が現われてくるんだ、というように、どんなことがあっても感謝
の出来る人間になれば、これは一番有り難いですね。そういう人間に育てたい、と私は思
っているわけです。
げんせ
いろんな宗教がありますけども、ただ現世の利益だけで、ここへ入れば儲かるぞ、ここ
へ入れば病気が治るぞ、それだけじゃ困るんですね。まして、自分たちだけが救われて、
自分たちの団体に入らない者はみんな地獄へおちる、他の宗教はみんな邪教で、悪いこと
が出てくるのは当たり前だ、ざまあみろ、というんではそれは邪教ですね。
アメリカの人であろうと、ロシアの人であろうと、中国の人であろうと、アラビアの人
すみずみ
であろうと、どんな世界の人であろうと、すべてみんな幸せになりますように、世界の隅々
まで、宇宙の隅々まで、あらゆる人間が、あらゆる生物が幸せでありますように、そうい
う深い愛の心がなければ宗教というわけにはいきません。自分たちだけよければいいんだ。
他の者は滅びたっていい、あんなの殺しちまえ、なんてそういう心だったら、それは宗教
でもなんでもありません。それは利己主義です。自分だけのことしか思っていない。そう
いう教え方を私どもはしたことはありません。
171第3章あなたも免許皆伝
だから私は病気が治るからいらっしゃい、貧乏が直るからいらっしゃい、なんていいま
せん。みんなで気を揃えて、心を揃えて世界平和の祈りを致しましょう、と唱えている。
世界平和の祈りの中には、自分の天命の完うも、自分の幸せもその中にあるわけです。自
分だけが自分だけがという想いでいるならば、それは宗教をやっても駄目なんですね。自
分だけの幸せなんていうのは大したことはありません。小さなものです。そうなると、元々
大きなものが小さく生きることになるわけです。
自分が幸せになると共に、隣りの人も向かいの人もあちらの人も、あの町の人も、日本
全体が、世界全体が幸せでありますように、自然にそういうふうに思える人間になること
を、私は一生懸命すすめているわけだし、講師の人も説いているわけです。それは、世界
人類が平和でありますように、守護霊さん守護神さん有難うございます、という感謝一念
の生活から出てくるわけなんですよ。これが一番大事なことです。
172
把われが消えてゆく
他の宗教でも同じようなことをいいますが、必ず何か把われが入るわけです。それは何
かというと、お前の心がけが悪いからお前の運命が悪くなる。こうおびやかすわけね。夫
に仕えないから悪くなる。妻に仕えないから悪くなる、といいます。どこかに間違いがあ
るから悪くなるんですけども、それは実はこの世だけのものではなくて、過去世からのも
のが八〇パーセントあるわけね。過去世の因縁が八〇パーセントあって、それに二〇パー
セントが加わってこの世の運命になっているわけでしょ。それを、この世の二〇パーセン
トだけをつかまえて、お前の心が悪いから、それを直さなければ運命はよくならない、と
いうんです。そうじゃないんです。よくなろうと思っても、自分だけじゃどうにもならな
いから、宗教に入るわけです。どうにかしてくれるものが神様の中になければならない。
そこで私は守護霊さん守護神さんを教えるわけですよ。
あなたが短気であっても、あなたは直せないでしょう。自分が臆病でも自分じゃなかな
173第3章あなたも免許皆伝
か直せないでしょう。それはみんな過去世の因縁の消えてゆく姿だから、消えてゆく姿だ
と思って、守護霊守護神に感謝しながら、平和の祈りの中に入れちゃいなさい、平和の祈
りの大光明の中でみんな消してもらいましょう、と説くわけです。そうすると知らない間
に消えていって、だんだん清らかになってゆく。
174
守護霊以上に素晴らしい人
そりゃあこの世的にはいろんなことはあります。貧乏することもありましょう、あるい
は病気をすることもありましょう。誰か亡くなることもありましょう。しかし、それは心
たくま
の傷にならないんです。あらゆることが出てくるたびに、心が逞しく、魂が逞しくなって
ゆく。命がいきいきと生きてくる。どんどん自分の命がひろがってゆくんです。そしてこ
の肉体にいながらにして、神界にいると同じような状態になってゆく。
守護霊さん守護神さんというのは肉体はありません。だから自由自在に働けます。とこ
うが肉体にいますと、どんな聖者でもどんなすばらしい人でも、肉体の把われがあるわけ
です。肉体にいれば肉体的に足を使って歩かなければならない。肉体的に口をきかなきゃ
ならない。あるいは肉体を養うために何か食べものを食べなきゃならない。そういう把わ
れが出来てきます。ところが守護霊さん守護神さんというのは、そういう把われがないで
すよね。だから肉体の人間の立場より楽は楽です。そんなことをいうと守護霊守護神さん
に悪いけれど、本当は楽ですよ。
だから肉体を持ちながら、守護霊守護神の働きが出来る、いわゆる把われがない、とい
うこと、病んでも把われない、どんな災難が来ても把われない。あらゆることに把われな
いという想いがあれば、守護霊守護神以上なんですよ。この肉体の生活は、あらゆる把わ
れる条件がそなわっているわけです。把われることばっかりでしょ。この肉体世界は理想
が現われてない世界だから、まだ不完全な世界だから、あらゆる把われが出てくるわけね。
不合理なことが出てくる。その不合理なことに一切把われないで、いつも光明燦然と輝き
わたっている心を持っているとするならば、その人は守護霊以上でしょ。素晴しい人なん
175第3章あなたも免許皆伝
です。
176
永遠の生命を生きよう
やがて誰でも肉体を去ります。肉体を去って霊界にゆくに決まっています。自分も子ど
もたちも、誰も彼もやがてはゆくんです。ふつうでいう死ぬことを、ただ死んじゃいけま
せんよね。生きなきゃあいけません。生き通しの命にしなければいけません。肉体に来て
何十年、病気になって死んじゃう。それは当たり前のことですよ。亡くなってもそのまま
目が覚めてゆくんです。死んでしまった。四十九日眼がさめない。百日も千日も、十年も
二十年も目がさめないのがいるんですから、そんなのではなく、亡くなった、ああ今度は
霊界だな、と認める。
本当に浄まっていますと、神々がズーッと降りてきて、連れていってくれるんです。そ
れがわかるんです。ああ神様が迎えにきてくださった。有難うございます。と感謝しなが
ら神様に守られて昇ってゆく。肉体をはなれてゆくと、幽界があり、そこにはいろいろな
所がありまして、一人でゆくとさらわれてしまうんです。それで守護霊守護神が守って、
光明の柱の中を、丁度エレベーターにのったみたいにスーッと上げてくれるんです。私は
いろんな人の状態を見ていますけれど、みんなそうです。そういうように、永遠の命をそ
のまま生きるように、肉体が亡くなって、自分の魂がはなれる時、そのまま守護霊守護神
と共にどうも皆さん有難う、あなた方の道をきっと開いておきますよ、お先に、と挨拶し
てスーッとゆけるようにならないといけませんね。
それには世界平和の祈り一念でやっていればなれるんです。自分の父親や母親がゆく時
でも、誰がゆく時でも、チャンと守って連れてゆきますよ。そうすると天と地がつながっ
てしまう。神界も霊界もズーッとつながって、自分がここにいることも、亡くなった人が
向こうにいることも、みんな一つになって、世界平和の祈りの中で一緒に手をつないで働
いてゆくことになるんです。そういう世界がだんだんひろがってゆくと、この地球世界に
も本当の平和が訪れるんですよ。
177第3章あなたも免許皆伝
ただ自分の宗団が大きくなるように、と念仏や題目を唱えても、その宗団のためになる
かどうかわかりません。マイナスになるかもしれません。自分の宗団だけ、自分だけがよ
くなればいい、なんていうチャチなことを考えているような宗教では、神のみ心にかない
ません。
うたゆ
皆さんは倦まず弛まず、何があってもそれは消えてゆく姿、あらゆることに把われない
で、把われたら把われたでいいから、消えてゆく姿として世界平和の祈りの中へ入れて、
常に守護霊守護神に感謝して、歩みつづけてゆけばいいわけです。それがあらゆることに
超越したいい生き方です。(昭和45年2月)
178
常識の世界から本当の世界へ
“百尺竿頭一歩を進めよ
“の意味
ひゃくしゃくかんとういっぽ
百尺竿頭一歩を進めよーという言葉が禅宗にありますが、どういう意味か、またどう
したらそういうふうになれるか、という質問がありましたので、その話を致しましょうね。
ぜんたく
一口にいうと、全託ということなのです。百尺の竿というのは常識世界。見えるものは
見えるんだし、聞こえるものは聞こえるんだし、感じるものは感じるんだし、現われてい
るものはすべてがそのまま本物だと思っている世界、という人生観、世界観というのが、
百尺の竿の上のことなのです。そこを行ったり来たりしている。
ところが本当の真理の世界、宇宙観というのは、百尺の竿の上、いわゆる常識の中で生
179第3章あなたも免許皆伝
活していたのではわからない。人間の本当の姿をわかるためには、常識の世界、肉体の人
間というものの世界を超えて、客観的に眺めてみないとわからないわけです。
自分自身を知るために一番いいのは、客観的に、自分のやっていること、思っているこ
と、願っていることを、自分から離れてみることです。自分の中に入っていますと、ある
いは会でも団体でもその中に入って眺めていると、何もわからなくなってしまう。自分を
本当に知るためには、どうしたらいいかというと、仏教的にいえば空の気持ちで自分を見
つめ直す。あるいは、百尺の竿から離れて、それをとびこえて眺め直す、ということをす
ることです。そうしないと本当の自分がわからない。
自分というものが他人と別にあったり、世界と別に自分があったり、人類と別に自分が
あるような考え方をしておりますと、いつまでたっても人間の本体というものはわからな
い。自分というものはわからないのです。
しんらばんしょう
そこで百尺竿頭一歩を超えなければならない。日常生活のあらゆる森羅万象を、この肉
の目で見、肉体の手で感じ、耳で感じているそういう世界から一歩、歩を進めないと、本
180
当の宗教の世界には入らないのです。ところが現代の新しい宗教というものは、何をする
かというと、百尺竿頭一歩を超えないで、目の前に現われております利害得失というもの
だけを追いまわすわけです。病気を治したいから宗教をやりたいとか、お金がないからお
金儲けのために宗教に入りたいとか、子どもをなんとかして学校に入れたいから、宗教を
やりたい、ということを皆考えています。
それは本当の宗教の世界ではない。真理の世界ではない。それは利害打算のいわゆる常
識の世界だし、肉体が人間であると思っている肉体観から来る世界なのです。その世界を
超えなければ本当の世界にならないのだから、利害関係だけを説いているような教え方が
あるとすれば、本当の宗教ではないのです。
本当の真理をめざす世界というのは、やはり肉体世界を超えた、生命の本源の世界から
眺め直さなければ入り得ない。そこでどうしたらいいか?
181第3章あなたも免許皆伝
常識の世界をいっぺん認める
182
人間はどうしても利害打算から離れることは出来ないのですね。いくら百尺竿頭を超え
ようと思っても、肉体世界の日常生活を超えようと思っても、日々刻々と迫って来るもの
は、お金の計算もあるし、病気のこともあるし、不幸災難から逃れたいというものが、常
にあるわけであって、言葉だけで「百尺竿頭一歩を超えよ」「ハイ」というかもしれない。
あるいは「空になれ」「全託しろ」「ハイ」というかもしれない。
しかし実際問題としては、なかなか空になったり、全託したり、百尺の竿頭を超えるわ
けにはいかないのです。そこでどうしても「なんだい、つまらない。本当にいいかも知れ
ないけれど、この忙しい世の中で、利害打算で追われている生活の中で、そんなこと言っ
たんじゃ食べてゆかれない、生きてゆかれない」というように、現代の人は考えてしまう
わけです。
そこで新しい宗教という形の、目の前の利益、病気を治そう、貧乏を直そう、位を上げ
てやろう、災難がないように、という教え方が流行ってくるわけです。入りやすいから、
そういう所に人は集まってくるわけです。それは本当の世界ではないんです。
本当の世界は、利害打算から入っても、病気を治そうと思って入ってもいいし、お金儲
けをしたい、と思って入って来てもいいし、小児麻痺になりたくないからお祈りをしてく
れ、と入って来てもいい。いろいろな入り方はあるけれど、最後に行き着くところはどこ
かというと、病気とか貧乏とか災難などを恐れる想い、そういう想いが一切なくなってし
まう世界、そういう世界に入ることが宗教の根本なのです。
そこで私はどう教えるかというと、この世の中に現われている利害打算の想い、損だ得
だ。病気をした、恐い。貧乏は嫌だ。あいつより偉くなりたい。とか権力への想い、富へ
の想い、不幸をしたくない想いーそういう想いを業想念と呼んでいるんです。仏教語で
いえばカルマ、カルマというのは想いも行為も全部入っているのです。これは本当の人間
性から離れた想いというのです。
本当の人間は何かというと、神様の子だから、完全円満で、不幸などありっこないんだ
183第3章あなたも免許皆伝
し、病気や災難などありっこない。ましてそんなものを恐れる想いなどありっこない。し
かし実際問題としては、不幸もあるし、病気もあるし、災難もあるし、恐れる想いもある
わけでしょう。長い間、肉体界に生活をしておりますと、どうしても知らないうちに癖に
なってしまいます。病気を恐れることが癖になる。災難を恐れることが癖になって、習慣
の想いでもって恐れたりすることになるんです。
病気をするのは嫌じゃないか、当たり前だろ。貧乏は嫌だ、当たり前だろ。偉くなりた
い、当たり前だろ。暑い時には涼しくなりたい、当たり前だろ。寒い時には暖かくなりた
い、当たり前だ。これが常識の世界でしょう。しかしそういう世界だけに住んでいたんで
は、どうにもならない。すごく暑くなったり、すごく寒くなったり、どうにもしようがな
くなったら困ってしまう。
ところが百尺竿頭一歩を超えた本当の世界というのは、暑いことも、寒いことも、苦し
いことも、不幸も、欲望というものも一切抜け出た解脱した世界なのです。
184
肉体人間を解脱しない限り苦しみがある
そこで私は、貧乏が嫌なのは当たり前だ、人より偉くなりたいという想いも当たり前だ、
人に勝ちたいという想いも当たり前だ、嫌なことをしたくないというのも当たり前だ、と
いっぺん是認するのです。それは仕方がない、と当たり前だとするのです。ところがそれ
だけでは、自分と他人が別、ここに自分がいる、他人がいる、自分と他人とは別人ですよ
ね。形の世界から見れば別です。だから他人のことを思うよりも、自分のことを先にやる
のが、いいに決まっている。自分の子ども、他人の子どもとあれば、自分の子どもによく
してやりたいのは当たり前。他人の子どもより自分の子どもは可愛い。他人の子どもが小
児麻痺になった。「ああ、可哀相に」というけれども、ああ、うちの子でなくてよかった
と思っちゃう。「他人の子が病気にならないで、うちの子が病気になればよかった」なん
て思う親はいない。これは常識で当たり前でしょう。だから当たり前の世界を突きぬけて
「自分を捨てても他人のために尽くせ」と余りいいすぎますと、ちょっと苦しくなってし
185第3章あなたも免許皆伝
ま・つ。
宗教の話を聞けば、他人のために尽くさなければならない、自分と他人とを同じように
思わなければならないんだから、他人の苦しいことを自分の苦しみとして、平等に分けて
苦しまなければならないことになる。他人は一人だけではない。三人も五人も十人も二十
人も知り合いはたくさんいるわけですよ。知り合いの苦しみを全部自分の苦しみとしてご
らんなさい。いい人は、あの人のこともこの人のことも、と自分は十人分苦しめば十倍苦
しんでしまうわけ。一人分しか苦しまない人からみれば、現象的には自分だけが損しちゃ
・つ。
「他人の苦しみを自分の苦しみにしろ」ということは、言葉としてはいうけれども、実
際問題としては、実感としては出来っこない。また出来たとすれば、それは余程の力のあ
げだつ
る人か、空になって解脱した人です。中途半端な善人というのは、たとえば自分は幸福で、
いい生活をしているとすると、自分だけがこんなに幸福な生活をしていていいものだろう
か? 誰も彼もが苦しんでいる世界にあって、自分だけがこんなにのうのうと、楽な生活
186
をしていては申しわけない。だから何かしら皆の苦しみが自分の苦しみにならなければ、
いけないような気がしてしまう人があるんですね。
その人としてはなんの不幸もなければ不足もない。それなのに年中苦しんでいる人があ
るんですよ。あの人を見ればあの人は可哀相、この人を見ればこの人は可哀相、可哀相、
かわいそうだ、と人のことばかり可哀相がって、自分が毎日楽しくないんです。そういう
人が、宗教をやっている人には多いんですよ。といって、自分にはなんの力もないから、
何をしてやることも出来ない。病気を治してやることも出来ない。不幸を救ってやること
も、災難を救ってやることも出来ない。しかし自分は苦しい、こう訴えて来る人があるん
です。
その人が良心的であればある程、宗教的であればある程、その人の生活は苦しくなるわ
けなんです。そうすると、その人は仕方がないから、その人の生活の安定を捨てて、苦し
い人の中に飛びこんでゆかなくてはならないんです。しかし実際問題としては、それが出
来ない。そうすると宗教的観念と日常生活の常識的な観念とが混ざってしまって、とても
187第3章あなたも免許皆伝
苦しんで、ノイローゼのようになっている人もあるわけです。
ただし、いい人よ。いい人はいい人で苦しむ。悪い人は悪い人で苦しむ。いろいろ苦し
おういつ
むものが、この常識の世界には横溢しているわけです。肉体の人間というものを解脱しな
い限りは、いつまでたっても苦しいんですよ。その場その場はよくなっても、いつまでも
苦しみは消えないわけです。そこで私は、肉体の人間観というものを超える方法を教えて
いるわけです。
188
肉体人間観を超える方法
肉体にまつわるさまざまの想いも行ないも、すべてそれは消えてゆく姿であって、自分
が悪いのでもなければ、人が悪いのでもない。今は天と地をつなぐトンネルを掘っている
最中のようなもので、トンネルが掘れれば、光明燦然として神様の世界が、この地上界に
開けるのだけれども、まだ掘り切れていない。皆が一生懸命汗水流して掘っている。余計
にほこりをかぶっている人もあれば、砂をかぶる人もある。少ししかかぶらない人もある。
いろいろあるけれども、少しずつみんな泥土をかぶって、泥だらけになりながらトンネル
を掘っているのが、今の世の中。
だからこのトンネルが掘り上がってしまえば、皆が完全円満になって、神の地上世界が
出来るんです。今、トンネルの中で掘っている間は、光が見えませんから、ああ、嫌な世
界だ、病気もあるし、貧乏もあるし、神様一体どうしたんだろう、私は一生懸命神様神様
と呼んでいるのに、いつまでたってもこの世界はよくならない。神様は本当に愛があるの
ふしん
かしら、と不審を抱く人もあるわけなんです。掘り上がらなければ出て来ないんです。そ
こで私は守護霊、守護神の存在を説いているのです。
肉体の人間がいくらやってもトンネルの中にいるのだから、いくらやっても自分の力で
は、最後まで時間が来なければ掘り上げることが出来ない。あるいは掘り上がらないうち
に、皆疲れてしまって、泥だらけになって倒れてしまう。
それではいけないというので、大神様が慈愛の心をもって守護霊を遣わし、守護神を遣
189第3章あなたも免許皆伝
わして、肉体人間の背後につけている。それで守っていてくださる。助太刀してくださっ
ている。泥をかぶってトンネルを掘っていると、守護神が手を出して、その泥をドンドン
外へ放り出してくれている。消えてゆく姿にして、どんどん消してくれているわけです。
そうすると、トンネルが掘り上がるのも早いし、光明が守護霊のほうから来ますから、ト
ンネルを掘りながらも、やっぱり神様はいらつしゃるんだ、と、守護霊守護神を思ってい
る信仰心のある人は、明るさを忘れないわけなんです。
やがてトンネルが掘り上がった時には、人間というものは、今までこんなに苦しんでい
たけれど、実は自分が苦しんでいたんではなくて、業想念、過去世の因縁が消えてゆく姿
として、苦しみや不幸や災難のように現われていたんだなア、ということが初めてわかる
わけなんです。
個人差によっては、早くわかる人もあれば、遅くわかる人もある。しかしやがては、人
類全部が”これは天と地をつなぐトンネル掘りをやっていたんだな。神様のみ心をこの世
の中に写し出すためのトンネルを掘っていた。その苦労が人類の不幸のように見えていた
190
んだな。実は不幸というものはなかったんだ。災難というものは無かったんだな” という
ことがわかってくるのです。
そこで、やはり信というものが出てくる。
神様は大愛であって、人間の世界に不幸をもたらすものではないんだ。神様は愛だから
大親様だから、子どもである人間に悪いことを与えるわけはないんだ。人間をいじめるわ
けはないんだ。トンネルを掘って泥にまみれていく。それを本当の姿だ、と思っているか
ら苦しいだけである。トンネル掘りはまだ途中であって、やがて掘り上がって明るい自分
になる時が来るんだ、ということを信ずることが大事なのです。
ところがなかなか信じられない。神様は愛なんだといいながらも、いつまでたっても病
気が治らない。自分はいつまでたっても不幸が直らない。この世の中はいつまでたっても
不幸が直らない。いつまでたっても争いに満ち満ちている。こんなに悪い人が多いのに、
どうしていい世界が出来るんだろう、という疑問が随分あるんです。そういう想いがたく
さんある。
191第3章あなたも免許皆伝
そこで、そういう疑いの想いも、不幸なら不幸でいいから、そのまま祈りの中に入りな
さい、というのです。祈りも、世界平和の祈りの中に入りなさい。世界人類が平和であり
ますように、という想い一念で、この世の中を生きてゆけば、いつの間にか小我の想い、
カルマの想いを超えて、世界平和を願うただ一つの心になってしまう。それは常識の中に
いながら、百尺竿頭一歩を超えた世界になるわけです。
常識の世界では「自分が自分が… … 」といって、自分が一番大事なのね。自分を守ろう
とするのが常識の世界のカルマです。そこであらゆる宗教は自我をなくさせようとしてい
るんだけれど、私は最初から小我など無いと思っているから、なくさせようでもなんでも
ない。そんなものは消えてゆく姿だ。それで、なんにも構わずに、世界人類が平和であり
ますように、という祈り言を常に唱えていれば、その想いというものは、いつの間にか世
界平和の祈りのエレベーターに乗ってしまって、世界平和という、大きな神様のみ心に入
ってしまう。そういうことを私は説いているわけです。
世界平和の祈りを常に祈りつづけていれば、いつの間にか百尺竿頭一歩を超えてしまう
192
し、全託の境地にもなってしまうし、空の境地にもなってくる。そうすると、自分という
ものは神様の子である、神様の光であることが、そのままわかってくるわけなのです。
とにかく、寝ていても歩いていても、平和の祈りをしていればいいんですよ。想いを、
自分を否定したり、人を否定したり、人類を否定して、だめだと思うような想いの中に置
かないで、いつも光明の、楽天的な希望的な、いわゆる明るい心の中に入れておく、とい
うのが世界平和の祈りなのです。(昭和
36年7月)
193第3章あなたも免許皆伝
第4章甲斐ある入生
意義のある人生
196
生かされている命と生きている命
今日は人生いかに生くべきか、なんのために生きているのか、という疑問に答えてみま
しょ・つ。
ヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘへ
人間は肉体のほうからみると、生きているのではないのです。生かされているのです。
ヘヘヘヘへ
生命自体、いのちそのものからみると生きているのです。これをハッキリ区別しないと、
くもん
哲学的な苦悶におちいって、しまいに死んでしまったり、生きている価値がなくなって、
みずからいのちを絶ったりする人が随分出てくるわけです。
ヘヘヘヘヘへ
生かされているいのちと、生きているいのちがわからなくて、自分で生きていると思う
から間違いが出来るのです。いのちというものには、大生命(宗教的にいえば神様)があっ
て、大生命のいのちが個別に分かれて、各人間に分かれ、あるいは植物、あるいは動物と
なおび
いろんな形に分かれているわけです。それで人間の場合には、私がいつもいうように直毘、
ちょくれい
直霊として大神様のみ心奥深くに、七つの働きに分かれて一番始めに存在したわけです。
そして直霊の分霊として各個別の人間が出来たわけです。
ですからあくまでも人間は肉体ではなく、形ではなくて、いのちそのまま、生命エネル
ギーそのものがいろんな角度に分かれ、各種に分かれて、一人一人の人間が出来ているわ
けです。だから人間の本体というのは何かというと、いのちそのもの、生命エネルギーそ
のものであって、肉体というものはいのちの力によって作られたもの、被造物なのです。
肉体はだからいのちの力そのもので生きているのであって、肉体自身で生きているのでは
ないのです。これは誰でもわかりますね。
いのちがなくなって死んでしまった状態になれば、肉体がそこにあっても、肉体はどう
しようもない。肉体は無に等しいです。いのちが入ると肉体が動く。ちょうど、動力があ
197第4章甲斐ある人生
って、ゼンマイをかけておけば動く、動力がなくなってしまえば動かなくなってしまう機
械と同じであって、肉体は機械と同じです。ですから私は器であるとか、場であるとか、
いうように説明しますね。いのちの一つの働きの場が肉体なのです。
皆さんが自分だと思っているもの、何の誰れ子、何んの誰兵衛なんだと主張している肉
体というものは、実は自分で生きているのではなくて、生かされている。
赤ちゃんとして男の子に生まれてくる。女の子に生まれてくる。ということは、肉体人
間側としてはどうすることも出来ないことです。男の子は男の子、女の子は女の子、私は
男の子に生まれればよかった、といっても女の子は女の子。私は女の子に生まれればよか
ったといっても男の子は男の子。これは自分ではどうしようもありません。絶対絶命のも
の。
そのように、肉体側からいくと、絶対絶命のもの、仕方ないということがあるんです。
人間の世界では自分でどうにもならない、仕方のないことがあるんだということをハッキ
リわからないと、自分でどうにかしなければいけない、自分でやるやるといっていて、ど
198
うにもならなくなる場合があるのだから、その時自分を苦しめいじめてしまうことになる。
肉体はあくまで生かされているのです。神様、守護霊守護神の力によって生かされてい
る。肉体は生かされるままに素直に生きていれば、完全なる神様のみ心のまま、大生命の
理想とするところの人間がそのまま生きていくわけです。
いのちの源を忘れた人間

ところがみんないのちの元を忘れてしまったので、肉体の自分という「我」というもの
が出てくるわけです。これがオレなんだ、と肉体がオレなんだと思うわけですね。自分の
思うことは自分なんだから、自分の運命は自分で始末する、とか、人が忠告したって、そ
れは自分で考えることなんだ、自分なんだ、と決めている。ひどいのになると、神も仏も
そんなものあるもんか、人間があるだけだ、自分があるだけだという。
自分があるだけだといったって、肉体の自分なんていうものは自分で作ったのではない
199第4童甲斐ある人生
んですからね。自分で作ったものではないものを、自分のものだ、誰れの厄介になるもの
か、オレの運命はオレが始末をつける、オレのことはオレがやるんだ、とこういう。いか
にも勇ましそうに聞こえるけれども、それならもう一遍やり直して、自分の力で初めっか
ら生まれてこい。自分の力で生まれてこられたら、サア自分のことは自分なんだから、自
分で全部やって全部自分のままにしたらいい。
ところが実際問題として、自分自分という前に、目に見える力として両親のエネルギー
によって生まれてくる。目に見えない姿としては大生命の力として、生命エネルギーいわ
どがいし
ゆる神様の力として生まれてくる、それを度外視しちゃって、一番の出発点を忘れちゃっ
て、オレなんだ、オレがやるんだ、オレがオレがとなんでもこの形の肉体の自分という、
 ぞヒしょう
五尺何寸の自分を後生大事に、これほど大事なものはないような恰好で、自分の主張、自
分の権限はこうだといっている。大きな目からみればおかしくて、おかしくてしようがな
い。
自分、自分と思っている人には、自分の運命もわからないし、自分の生きる目的もわか
zoo
らないわけです。人間の目的、人生の目的がわかるためには、一度肉体の自分というもの
を捨てないとわからないんですね。肉体で自分が生きているんだ、自分の運命は肉体の自
分が作るんだ、自分なんだ自分なんだという自我を一遍もとの世界、赤ちゃんの前の世界、
未生の世界、生まれない前の世界に帰さないと、本当の自分というものがわからない。小
さな肉体の生かされている自分だけしかわからないのです。だから、唯物論の人が、人生
いかに生くべきかと考えたって、唯物論の人には本当の人間の目的なんかわかりっこない。
人生の目的も人類の意義もわからないんです。
人間はいかに生きるべきか
要するに、神様のみ心にすべて返してしまって、そこから改めていのちを頂き直して、
これは神様から預かったいのち、この神様から頂いた体を、いかに人類のために、もっと
いいかえれば神様のみ心のために生きていくかということです。
201第4章甲斐ある人生
神様というのは大生命だし、一なるものです。数十億の人類に分かれていますけれど、
元をずーっと探ってゆくと、大生命のなかで全く一つなんです。大生命のなかでは韓国人
も日本人もアメリカ人もインド人も、そんなものはない。みんなもとをただせば一つのい
のちなんです。それで似通った波の人たちが集まって何々民族、何々民族となっているん
です。
そして、日本人は日本人で一つであり、アメリカ人はアメリカ人で一つであるわけです
が、ところがアメリカはアメリカを守るために、日本は日本を守るために、中国人は中国
を守るために、自民族を守るためにというんで、戦争が起こるわけです。しかし、すでに
そういう時代ではないのです。それは過去のこと、過去の習慣のままに進んでいってしま
ほろ
っては、自民族を守るどころか、地球人類を自分の手で亡ぼしてしまいかねない。
やっぱりどうしても、人聞は大神様のみ心のなかで一つのものなのだ、と知らなければ
いけません。神様のみ心は目には見えない。相対ではなく絶対であって、宇宙に遍満して
いる。それを人間が人類として形に現わして、各々の場で自分の天命を果たしてゆくので
202
す。天命を果たしてゆくようになると、自然にみんながつながり合い、助け合うことにな
って、神のみ心である大調和世界をこの物質の世界に実現することになるわけです。大調
和の、完全な世界をこの地球界に実現してゆくために、われわれが生まれているわけです。
誰れも彼もその目的のために生まれてきているわけです。
人間の生きている目的というのは、大生命の理念といいますか、神のみ心をこの地球界
に現わすために、自分たちの一人一人が生きているんであって、ただ単に自分の肉体生活
の満足を得るためにだけ生まれているんじゃない。人間各自が自分の肉体生活の満足だけ
を得るために生きているとするならば、その人はやがて破滅する。自分の肉体的な自我を
満足させるために、権威と地位を利用して、自分の勝手放題なことをした人は、最後には
刑法にさらされて恥かしい目を見て、悲惨な姿になりますね。おごり高ぶった実業家、お
ごり高ぶった政治家、おごり高ぶった宗教家、おごり高ぶっている知識人、等々、おごり
高ぶっている人たちはみんな末路が悪いです。おごる平家は久しからずです。
やはり、自分たちの肉体の満足を得るため、自分一家族のため、自分の集団のため、自
203第4章甲斐ある人生
分の国のためだけを考えてやった個人、あるいは集団、あるいは国家というものは亡びま
す。自然の運行がそうなっている。
なぜならば、神様のみ心というものは、完全の調和、全体の調和というものを考えて作
られているんであって、その調和を破って自分だけの自我をだせば、出る釘は打たれるで
はないけれど、邪魔だから神様のほうから光が流れてくると、それが崩れてゆくのです。
どんなに隠しおおうとしても、間違ったことをしていたら、必ずそこに現われてくる、い
わゆる消えてゆく姿になって、間違ったものは滅亡してゆくわけです。
人間はいかに生くべきか、というこの課題に対する答は、いかに自分が人類の調和のた
めに役立っているか、人類の調和のためにどれだけ自分が役立つような生き方が出来るか、
生き方をしなければならないか、ということになります。
204
意義のある生き方
そこで端的にいうならば、人間は人類の大調和のために、世界平和のために働かなけれ
ばだめだ。そうしなければ生きている意義はないんだ。各自は神のみ心から分かれ分かれ
になって、この地球界に平和を築くためにわれわれが生まれかわり、死にかわりしてここ
に現われて生きているんだ。これがわれわれ人類の天命なのです。その線に向かって働い
てゆけば、その人は立派な人だし、意義ある生き方をしている人なんです。
ですから、頭のなかでガチャガチャ、いかにあるべきか、人生とはなんぞやなんて深刻
ぶってやっているよりは、少しでも一人の人のためにでも尽くせる、一人の人でも愛せる、
誰れかのためになって生きる、ということがより必要だし、一番大切なのです。ふつうの
ヘヘへ
家庭を持った人は妻のため、子どものために働いていればそれだけいのちが生きているわ
けです。しかし、妻のため子どものためにはかることが、他の利を損なうようではだめな
のです。他のものをつぶして自分の家庭をたてるという形じゃいけません。収賄したりし
205第4章甲斐ある人生
ていることは、どこかを汚しているわけです。国民の税金をむさぼり使っていたら、それ
は悪になります。そういうことはいけない。
自分が正しく働いて、妻子のために非常に明るい生活をする、というのでしたら、これ
は家庭にしては、一番いいわけです。もっと簡単にいえば、人の迷惑にならないで、少し
でも多くの人のためになる、多くの人の調和のために働ける、そういう生き方が一番立派
な生き方です。
それを大きくひろげてゆくと、世界人類が平和でありますように、という祈りの心にな
ります。常にみんなの平和を願い、調和を願い、みんなが仲良くやってゆくことを願うよ
うな想いの人、祈り心の人は、おのずから人類のために尽くしている意義ある生き方をし
ているわけです。
皆さんのように、世界平和の祈りをして日々過ごしていられる方々は、そのままで生き
ている意義があるわけです。八十、九十のおばあさんやおじいさんであろうと、四つの子
どもであろうと、ベッドで寝たきりの病人であろうと、台所から離れられない主婦であろ
206
うとどんな人であろうと「世界人類が平和でありますように、みんなが幸せでありますよ
うに」という想いで生きている人は、そのまま人類のために働いている意義のある生き方
をしているんだ、ということなのです。
207第4章甲斐ある人生
価値ある生き方
1′
万物の霊長である人間の特性
さんせんそうもくきんじゅうちゅうるい
この世の姿、人間の肉体身をはじめ、山川草木禽獣虫類すべて、みな現われているもの
は神のみ心の現われなんです。神・絶対者、大智慧大能力の現われなのですね。これは宗
教的な言葉で、科学的には大自然の現われという言葉になるでしょう。どちらにしても同
じです。それで動物・植物と人間というものはどういうふうに違うのか、人間でも動物で
も同じじゃないかと考えるわけです。生物学的にいうと、人間というのは動物の一種で、
せきついほにゅうるいれいちょうるいえんるい
背椎動物の哺乳類の中の霊長類に入っているんですよ。猿類の七番目にヒトと書いてある
んです。そうすると人間というものは、動物の一種で猿類の延長でチンパンジーより一寸
いい位になっているんですよ。
ばんぶつ
しかし実際問題としては、人間は神のみ心み姿がそのまま現われているという、万物の
霊長ということになります。動物というものは、神の姿がそのまま現われているのではな
くて、神によって現わされているもの、神に造られている被造物である。山川草木もそう
すえ
です。ところが人間はそうではなくて、神の姿が現われている神の商なんです。神の子な
んです。
どこにどういう違いがあるのかというと、人間は考えることが出来る。未来の計画をた
てて、考えて考えて物事を成就してゆく。創造してゆく。要するに科学性というものをも
っている。動物というものは、チンパンジーにしても教わったものをそのままやるという
ような、本能的な動きを示しているだけです。未来を考えて計画性を立ててやっていける
のは人間より他にないわけです。
ところがそれだけでは、人間が万物の霊長たる所以ではないんですよ。神の姿がそのま
ま現われているのが人間だ、人間は小宇宙なんだ、という言葉はどこから現われてくるか
209第4章甲斐ある人生
というと、考える力があると同時に、深い神の姿を自分で把握することが出来る。神と一
つになれる、神を自分のほうから客観的に見られるという特性があるところからです。そ
こが要するに他の動物とは全く違った所なんです。その違ったところを宗教的にいうと、
神の子、神の商だということになるわけです。
人間は、神の姿神のひびきがそのまま真直ぐ現われて来ている、それを私は直霊と分霊
うちゅうしん
というふうに説いているわけです。宇宙神があって、宇宙神のみ心のひびきが現われてく
なおび
るのですが、どういうように現われて来たか、というと宇宙神がそのまま直毘直霊として
七つに分かれて、その直霊の分かれがそのまま人間の姿になっているんだ、というふうに
説いている。
動物や植物などというものは、その上に神がいて神のみ心にいちいち支配されて、動か
されている。人間は自分の想念意志力で、他動的ではなく自動的にいくらでも自分の運命
を作っていくわけです。動物は自分の意志力ではどうにもならない。創られたまま動かさ
れるより仕方がない。そこに大きな違いがある。動物は飼主なら飼主の心のままに動かさ
2io
れる、環境に動かされるわけです。動物とは一応そういうことで全部区別できるわけです。
人類は神のみ心を現わしているか
さて今度、よく考えてみますと、果たしてこの地球人類が、神のみ心そのままを現わし
ているかどうかということなんですよ。一応計画性もあり、知恵もあり、知識もあり、動
物とは違っているけれども、本質である一番大事な神のみ心を、そのまま自分の生活に現
はなは
わしているかどうかということになると、甚だ疑問なんです。何が疑問か。神様から見れ
ば、動物も植物も人間も全部が自分の子どもであるわけです。そしてその長としてあるの
が人間で、あとはみな脇役としてあるわけです。神のみ心み姿をもって、その中心に立ち、
動物、植物、鉱物を使って、人間が神の世界をこの地球界に作っていくようになっている
わけです。
それをやっているかいないかというと、実際問題としてはやっていないわけです。神の
211第4章甲斐ある人生
み心でもって、世界の平和を創り、大調和をこの地球界に現わそうとしているんだけれど、
実は反対に自分の現われの肉体だけを守ろうとしている。個人にすれば、個人の肉体を守
おとしい
るために、生活のために人を陥れてもなんでも、ガンガンやっていこうとする。国家とす
れば、国と国とが戦いながら、自国の権力を増していこうとする。
この間も新聞に出ていましたけども、アメリカは人間衛星(人間が乗ることの出来る人工
衛星)に成功しましたね。人間衛星にかけている費用が、日本の国家予算の五ヵ年分だと
かいうんです。ソビエトでもそれ位の金をかけてやっているわけでしよ。何が彼等をして
そうさせるか。アメリカでもソ連でも、本当に月との交流を願っているのか、本当に宇宙
開発のためにやっているのか、目的はどこにあるのか。
人間衛星が出来たって、直接アメリカが富むわけでもなければ、ソビエトが富むわけで
もない。それなのに、それに血道をあげて、日本の予算の五ヵ年分のお金を使ってやって
いるかというと、それはいうまでもなく、ハッキリわかることは、自国の権力、権威力つ
まり自分の国はこんなに科学が進んでいるんだ、自分の国は一番なんだ、ということを見
212
せたいわけです。ソビエトはソビエトで見せたい。そして各国の心を自分のほうにひきつ
けようとする。自分の陣営にひき入れようとする。要するに国家の権力欲なんです。そう
いう考えは果たして神のみ心に叶うか叶わないか。叶いようがないでしよう。
大神様のみ心というのは、みんな自分の子なんだから、みんなが仲良くして、みんなの
天命を完うして、役目役目を完うして、それで手をつないで、地球世界に自分の心を現わ
してもらいたい、ということなんですよ。ところが実際問題としてはそうじゃないわけで
す。ああいうのをみていますと、いかにどんな費用をかけて、科学力を増大してやっても、
いつでも戦いの、権力欲の闘争の具になってしまう。情けないなと思う。
半人半獣の人間が多い世の中
それは国家と国家ばかりでなく、個人も大体そうです。この頃新聞に出ていますけれど、
選挙の時は国民の皆様のためにも一生懸命やる。果たして代議士になって国会で働いてい
213第4章甲斐ある人生
るかというと、殆んど出て来ないで、自分の仕事や自分の名前を売ろうとかなんとか、そ
んなことばっかりやっている。中には立派な人もいますけれどそんな人が多いわけです。
だからこのままで行きますと、神様のほうでしびれを切らして、一遍やり直しちゃおうと
いうことにならないとは限らないんですよ。そういうのが予言で現われている。
まっぽう
もう今は末法だ、と。末法というのはお釈迦様の頃から末法なんで、ズーッと末法で来
ているわけです。それで最後のドタン場に来て、もう地球人類が三分の二亡びてしまう、
というような、また大天変地変か戦争が起こって終わりになってしまう、というような予
言が方々にあるわけです。
そんな予言がなくとも、現実世界をジーッと見ていれば、やがては権力欲の争いで、ど
こか間違って原水爆でも落としてしまって終わりになっちゃうような、そういうことが明
らかに見えているわけですね。お互いの心がお互いに自分たちだけを守る、いわゆる動物
と同じ弱肉強食の世界と何ら異なることがないことを、現在人間はやっているわけでしょ。
人間は豚も殺し、牛も殺し、鳥も魚も殺し、みんな殺して食べて、自分の栄養にしてし
214
まって、それで食べたことに感謝も何もせず、その上自分の好き勝手なことをしているわ
けでしょ。キャバレーに行って遊ぶ人もあるだろうし、ダンスして遊んでいる人もあるだ
ろうし、とにかく自分の生活だけを満足させる。自分の生活を満足させるためには、豚を
殺そうと牛を殺そうと、何を殺そうと何んにもかえりみない。自分の栄養にするだけで、
えいようえいが
栄耀栄華をほしいままにする。一寸字が違うかも知れないけれどね(笑)。それで何んにも
神様に対してお返しはしないわけですよ。
自分の生活だけやっていて、神様に何んのお返ししたか、貰うものは貰っている。いの
ヘヘへ
ちを貰っているんですよ。一番大事ないのちというものを神様から貰っている。どこから
貰ったか。
自分はちょこんと生まれてきたわけじゃないし、両親から生まれてきたけど、両親の中
には要するに神様の力があって、それがうまーく和合して調和して、この世の中に人間と
して生まれてきているわけです。現われの世界に現われて来たわけです。すると、自分で
やったことは何んにもないわけですよ。霊的にいえば自分でやったことなんだけども、肉
215第4章甲斐ある人生
体的な現われの世界のほうから見ると、人間は何一つやらない。初めから何もしないで赤
ちゃんに生まれて来て、親に育てられ、みんなの庇護のもとにのびのびと生きて来て、そ
れで一人前になって、俺の力だ、俺の運命は俺が決めるんだ、俺のことを何余計なことを
干渉する、とこういうことになって、自我意識が非常に強くなり、自分だ自分だというふ
うに、自分だけを守るような、自分の幸福だけを守るような、そういう生き方になって来
てしまうわけ。
ところがそれが大きな問違いだっていうことを、だんだん宗教でもやってくると気づい
てくるわけです。
ヘヘへ
ああここにいのちがあるな。いのちの原動力というのはどこからか来ているんだな。こ
うして自分が寝ていても、知らない間に肺臓は動いている。心臓は動いている。胃腸も働
いている。知らない問に動いて、知らない問に自分を生かしてくれている大きな力がある
んだな、ということがわかってくる。
ヘヘへ
この心臓を動かしているのは何んだろう。何んの力だろう。ああそれはいのちというも
216
のだなあ。いのちが生きているから、こうして自分が生きているんだな、といのちが生き
ていることが有り難いなあ、心臓を動かし、肺臓を動かし、頭を働かしてくれる、こうい
ヘヘへ
ういのちというものは有り難いんだなあと思う。病気になったり不幸になったりすると、
健全な時の姿がなつかしくなって、有り難いなと思うわけ。
水がなくなりますと、水が有り難いなと思う。その水というのはどこから来ているか。
人間が創ったわけじゃありません。肉体の人間が現われる前から水や空気はあるわけです。
ヘヘへ
だから人間がこうやって、一日一秒生きているのは何かというと、いのちが働いている
ということ。ところが、いのちが外から水だの空気だの、いろんな生きるに必要なものを
吸収して来て、同化作用をして、調和させ、新陳代謝させて、こうやって生きているわけ
です。だから生きているんじゃなくて、生かされているわけです。
肉体の人間というものは、大きな力、山川草木すべてのものに生かされて、生きている
のです。だから本当のことをいうと、大きなことは言えない。
肉体の人間のほうでは、俺が生きている、俺の力だ、俺の頭だ、なんて言っているけれ
217第4章甲斐ある人生
ども、実は俺の頭なんて何にもないわけです。生かされているんです。空気がパッとなく
なればそれでおしまいなんです。水がなくなればおしまいなんです。心臓が動かなくなれ
ばそれでおしまいなんです。だからはかないもの。肉体人間程はかないものはない、とい
うことがわかるんですよ。
いつペチャンコになるかわからない。巨億の富を積んでも、どんな地位があろうと、死
んでしまったら、それでその人の肉体の現われの世界はおしまいになるんですよ。だから、
神のみ心と一つに合致しない限りは、この肉体人間程はかないものはない。人間は考える
力がある代わりに、常に病気になりはしないか、不幸になりはしないか、天変地変があり
はしないか、戦争がありはしないか、といつも不安や心配恐怖が人間につきまとっている
わけです。
何故か。それは自分で生きていると思うからです。霊身のまま、神のみ心のままに、自
分は肉体に現われ霊界に現われ、いろいろと現われているんだな、ということに徹してし
まうと、生かされているということと、生きていることが一つになっちゃうんですよ。
218
神様に生かされているんだな、ということと、自分が生きているんだなということが一
つになってくる。主観と客観が一つになってくる。自と他が一つになってくる。神と人間
とが一つになってくる。それを神我一体という。そういう心境になると、何にも恐くなけ
れば何も欲しくない。なんでもない。といってボンヤリしているかっていうとそうじゃな
い。なんでもないという境地になると、生き生きと生きてくる。そこで宗教の一番の極意
むい
というのは、空になる、ということです。或いは老子に言わせれば無為にしてなせ、とい
うことで、昔から宗教につきものなのは、座禅とか統一とか滝をあびるとかいって、肉体
人間の想いをなくそうとする修行をしたわけですよ。
現代で悟るのはむずかしい
ところが現代の社会のように、目まぐるしい程スピードの早い機械化している時代には、
年中座って座禅観法して、空になれ空になれ、といってもそれはなかなかむずかしい。家
219第4章甲斐ある人生
庭の生活もあるし、世間のつきあいもあるし、社会とのふれあいもある。だから何んにも
想わないで生きて行こうということは、とてもむずかしい。昔の坊さんがやったほうがズ
なんきょうくきょう
ッと楽です。確かに肉体的難行苦行というのはあったけども、心の問題としては難行苦行
じゃなかったでしょ。だから現代において悟るということは一番むずかしい。
そこで現代において悟る方法はどうしたらいいかというと、空になれとか無為にしてな
せ、というのは言葉の上や知識理論の上では勿論それでいいわけですが、実際問題として
はそういうわけにいかないんですよね。こういう現代の複雑な人間関係の社会、生きるの
にむずかしい社会の中にいながら悟るには、空になるために山にこもって修行した坊さん
よりも、魂的にうんと強くなければだめなんです。
いわゆる、水泳で、百メートルを五十何秒で泳いだとする。着物をきたまま泳いだら、
五十何秒ではつかない。二分か三分かかってしまうでしょ。その上にさらに潜水服をつけ
て泳いでごらんなさい。遅いですよね。丁度今の社会というのは、潜水服をきて泳いでい
るのと同じです。潜水服をきてしかも、裸で泳ぐ人たちよりも速く泳こうというのが、今
220
の世界だし、私たちはそれをしているのです。
昔の独り者の時なら、死んでも生きてもどうでもよかった。今、こうしてうちの人たち
がたくさん増えて、仲間の人が増えている場合、仲間の責任を全部負うわけですよ。世界
人類の運命を背負おうと思っているんだから。そうすると、自分だけが死んだらいい、自
分だけがどうすればいい、というんじゃない、自分なんか全然ない。世界が平和にならな
きゃ私の役目は済まないでしょ。
世界人類が平和になるためには自分なんかのことを考えるどころじゃない。何んにも無
いだけじゃ済まない。死んでも生きてもいいじゃない。生きなきゃならない。死んで済む
のは楽なこと死んじゃいられないんですよ。どんなに苦しくたって、どんなに嫌なことが
あったって、どんな責任があったって、逃げるわけにいかない。生きなきゃなんない。私
たちの立場は、世界が平和になるためには生き通さなきゃならない。
昔の坊さんは死ねば死ぬでいい。こっちは死ねないんですよ。殺そうたって世界が平和
になるまでは死なないんですよ。皆さんもそうなんです。世界が平和になるためには死ね
221第4牽甲斐ある人生
ない。さあ、そういう立場を保持するためにはどうしたらいいか。むずかしい。否でも応
でもこの面倒くさい社会の中で、永遠の生命を自分のものにしなければならない。そうし
ない限りは、この世に生きている価値がないんですよ。
この世でどんなに金が出来ようと、地位が高く昇ろうと、それは世界平和を成就するた
めの一つの方便手段にすぎない。この世の地位も、この世の学問も、この世の財産も全部、
世界平和を成り立たせるための一つの方便ですよ。そう思わなきゃいけません。そうしな
いと永遠の生命は得られませんよ。
222
与えられたものを人類のために生かす
社会のよい地位を得ただけで満足する。お金が出来ただけで満足する。学問が出来るだ
けで満足する。それだけで生きるとするなら、その方便を使って、世界が本当に平和にな
るために働かない限りは、方便だけで死んじゃうわけ。その地位がよければよい程、お金
があればある程、世界平和のために使わなければ、あの世に行った時、差が激しく起こっ
てくるわけです。
だから、地獄をみてますと、昔の高僧だといわれたような、いわゆるみんなに立てられ
ていたような人、地位の高いような人が地獄に堕ちているのがとても多いです。何故かと
いうと、それだけの位にあげられながら、それだけの力を持たせられながら、仕事をしな
かったということは、やっぱり神様からみればマイナスになってくる。自分の本心が許さ
ないわけです。それで自分で地獄へ行って修行するようになるのです。守護神がそうさせ
るわけ。だから地位が高ければ高い程、或いは学問があればある程、お金があればある程、
余計に世界平和のために尽くさなければ、その人のマイナスはあの世へ行ってからうんと
増します。と言って脅かすわけじゃない。そのつもりでいろ、と言うんじゃない。いや、
そう言いたい、私は世間に向かってね。
だから能力もない、お金もない、地位もないという人は働けないのも無理ないですよ。
それだけのものを与えられてないんだから。ところが地位もある、能力もある、頭もある、
223第4章甲斐ある人生
学問もある、お金もある。それでもって世界平和のために働かない人は、犬畜生よりも劣
っていると私は思うんです。
万物の霊長たる人間が徳をたくさん貰いながら、只で使いつぶしていたら、その徳の分
だけのマイナスが来るわけです。だから徳があればあるだけのものを、世界人類のために
働かなきゃだめなんですよ。
それが貧乏で才能もないと自分で思いながらも、しかも一生懸命世界平和の祈りをし、
三度の食事を二度位にしてまでも、やりたいという位の熱意があったら、その人は徳がな
いのに徳を積むことだから、余計立派になるんです。
こも
そこで一番問題なのは、どうしたら、昔の人が山に籠ってやっただけの心境になり得る
か。まともに表面的にはなり得ません。表面的には昔の坊さんが山に籠って修行した境地
でんきょう
と、今社会生活をして家族をもっている境地とは、まるっきり違いますよ。昔の伝教だの
どうげんこうぼうほうねん
道元だの、弘法だの法然だのの境地と、皆さんの家族をもった社会生活をした境地とが一
緒になるということはありません。向こうは初めから捨ててかかっている、皆さんは捨て
224
られない。生きねばならぬ。やらねばならぬ仕事があるわけですよ。勝手に死ねないんだ
から、随分これはハンディキャップがあるわけです。
そのハンディキャップを持ちながら、道元や法然や弘法の境地と一緒になるにはどうし
たらいいか、と言ったら、やっぱり祈るんですよ。世界平和の祈りを年中絶え間なく、一
瞬一瞬やらなければだめです。そしていつも出てくる想い、子どものために自分のために
家族のために、何んとかのためにという想いを、みんなハンディキャップも全部含めて、
世界人類が平和でありますようにと祈りの中に入れていれば、救世の大光明によってそれ
しんらん
が消されて、今度は逆に大光明が入ってくるんです。そうすると、法然、親鸞、道元など
の偉い坊さんたちと全く同じ境地になるんです。同じ立場になるわけです。だから世界平
和の祈りをすることが、あらゆる宗祖・聖祖と同じ位に自分を持っていくわけですよ。そ
れが世界平和の祈りの功徳です。
225第4章甲斐ある人ノk
人間を変える世界平和の祈り
226
何故、世界人類が平和でありますように、という言葉がいいかというと、想いが世界人
類という大きい世界に入っていくと同時に、一番大事なことは、知らないうちに、法則の
軌道にのっていることなんです。神様のエネルギーから生命力から想いというものは出て
いるわけです。自然に想いが出るわけです。だから想っちゃいけないと言ったって、言わ
れたって思っちゃうのですよ。
これは私のおはこなんだけれども、短気じゃいけないな、子どもを叱っちゃいけないな、
子どものすることをあまり心配しちゃいけないな、お金のことを心配するんじゃないな、
地位のこと心配しちゃいけないな、とこう思う。否定するけども、想いが潜在意識に溜ま
っているから、否定しても否定してもダーッと出てくる。止めようがないんです。止めて
止まるけれど、後で反発して出て来ます。子どもが病気しても心配するな、と私もよくい
いますよ。心配しないで祈りなさい、といいます。しかし、心配するなったって、心配す
るんですよ。
だからいけない、だめだ、だけじゃだめなんですよ。いけないじゃなくて、それよりも
っと力のあるもの、恐怖心より強い力のものをここに出さなきゃいけない。それは何か。
神様なんです。神様のみ心なんです。神様の光なんです。神様の光の中に入る以外に、そ
の恐怖心を退治することは出来ないんです。そこで、私は「驚いちゃいけませんよ」とか
「短気じゃいけませんよ」「お金儲けのことを考えちゃいけませんよ」なんて言わない。
考えたら考えたでいいから、そのまま「世界人類が平和でありますように」と祈りの中
へ入りなさい、そうすれば消えます。一遍には消えないかもしれませんよ。潜在意識とい
うのは、溜まっているけれども出せばなくなるんです。ただ出した時にどこへ出すかとい
うと、神様のみ心の中へ出しちゃえばいい。”世界人類が平和でありますように、お願い
いたします” と出せば、自分の中にある恐怖心や疑惑心が、世界人類の恐怖と一緒に、世
界平和の祈りの中に入っちゃうわけです。それで消えるわけです。戻って来ないんだから、
それを何遍も何遍も繰り返していれば、潜在意識の恐怖や嫌なものがなくなって、世界平
227第4章甲斐ある人生
和の大光明だけが入ってくるんですよ。循環するのが法則なんだからね。
どんな汚い水があっても、どんどんきれいな水を入れていれば、汚い水ときれいな水と
一緒に溢れて、知らないうちにきれいな水になります。それと同じこと。だからどんどん
新しい光の水を入れなきゃならない。光の水はどこからくるかというと、世界平和の祈り
の神様の救世の大光明の中からくるわけですよ。だから救世の大光明の中に、どんどん自
分のいやな想いも、善い想いもみんな入れていけば、知らないうちに潜在意識がきれいに
光で洗われていく。こんなやさしい方法はないですよ。
かんしゃくおくびょう
そうすると、今まで痛癩持ちだったのが見違えるように穏やかになる。今まで臆病だっ
た人が見違えるように勇気が出てくる、というようにまるで人柄が変わってくるんですよ。
何故変わってくるかというと、古い潜在意識はみんななくなる。私流にいえば古い宇宙
うちゅうし
子がどんどんなくなって、新しい宇宙子が一杯入って来て、新陳代謝が激しくなって、常
に新しい宇宙子が満ちている、ということになるんです。だから山に籠って行をしなくた
って、いつも祈りをしていれば、いつの間にか自分は変わってくる。世界の様相も変わっ
228
ていく、ということになるんです。(昭和38年5月)
229第4章甲斐ある人生
生き甲斐のある入生
230
今こそしっかり時代を見据えよ
昨日からテレビで勝海舟をやっていますが、明治維新というのは大変でしたね。日本は
長い間鎖国で政治も経済もやって来たのが、外国の影響がどっと入って来て、日本がてん
やわんやになりました。先駆者は牢屋に入れられたり、首をきられたり、大変な受難を被
っています。
ところが本当は、現在のほうがもっともっと大変なのです。日本は第二次世界大戦に負
けて、他国に占領され、やっと回復した。今度は何が起こるか? 地球は宇宙の中の一つ
の星である、ということがハッキリ明るみに出る時代なのです。
今までは地球の中の日本なんです。地球の中のアメリカ、地球の中のソ連なんです。こ
んどは宇宙の無数の星の中の一つの星の地球という立場になる時代がやがて来るわけです。
それをみんな知らない。宇宙人がいることも盛んに研究する人が多くなりましたけれども、
まだハッキリしない。ところがハッキリしようとしまいと、実は、宇宙の中の地球である
ことに間違いはない。宇宙の中の地球という立場を除いては地球はやっていけない時代に
なって来ます。
二十五年たてば石油がなくなってしまうというんでしょう。そのままでは地球人は生き
こかつ
ていけない、という立場になる。それは石油ばかりではありません。あらゆる資源が澗渇
して、だんだんなくなってゆくわけです。今までの調子では何十年で地球が亡びるという
ことになってしまいます。そうしますと、今までの地球だけの地球という考えでは、戦争
がなくても、天変地変が来なくてもだめになってしまう。どういうふうに向かっても、地
球はおしまいということになるのです。それを少しも考えないで、のうのうと暮らしてい
るわけです。
231第4章甲斐ある人生
自分の家が安全ならいい、国が安全ならいい、儲かりゃいい、家内安全、商売繁盛とた
だそれだけでやって来た。家内安全、商売繁盛もその一瞬一瞬だけであって、何十年とい
う先には滅びの時が来ているわけですから、どうにもならない。ただし、このままでゆけ
ばの話です。ところが神様は愛ですから、必ず人類を救うように出来ているわけなんです。
救いの手を差しのべているわけです。その救いの手は宇宙の彼方から、宇宙の神として宇

宙天使としてやって来ている。われわれは世界平和の祈りとしてここに新しい宗教を樹て
ている。天と地をつないで今ここに光の柱がたっているわけです。それで皆さんはその光
の柱の中に入っている。光の階段を上っていらっしゃるわけです。
まず先に光の階段を先に上っていらっしゃった。世界人類が平和でありますように… …
はし ぜね
消えてゆく姿で世界平和の祈りというんで、光の梯子、光のエレベーターにみなさんは先
に乗っていらっしゃる。皆さんのように、あちらもこちらも平和の祈りをしていたとする
たちまへんぼう
ならば、この地球は忽ち変貌してくるでしょう。
232
枝葉の癖は消えるに決まっている
あいつやっつけちゃおう、俺が儲かればいい、あんな奴はどうにでもなれ、というよう
な想いの人と、みんなが平和になりますように、みんな仲よくゆきますように、という人
と、どっちがいいかといえば、みんなが仲良くみんなが手をとり合って生きてゆきますよ
うに、という愛の心の人のほうがいいに決まっているでしょう。皆さんは愛の心の人です。
少しは悪い所もありますけれど、意地の悪い人も中にはあるかも知れないけれど、でもだ
んだんなくなって来ます。要するに過去世の癖があるだけで、その癖で嫉妬心もあるでし
ょう、臆病なところもあるでしょう。しかし癖が残っているだけで、本質としては、皆さ
んは世界人類が平和でありますように、という平和の心、愛の心になってしまっています。
本心が余計に現われているわけで、過去世の癖が少しある。それはだんだん消えてゆき
ます。消えてゆく姿というのは大した教えです。それでいつも平和の祈りに包まれている
わけです。そういう人が一人でも多くなれば、一人多くなっただけ平和になるわけでしょ
233第4章甲斐ある人生
う。みんなわれわれの仲間なんだ、ということでどんどん平和の祈りをすすめてゆけば、
やがて平和にならざるを得ないわけなんです。
何故平和の祈りを皆さんがすれば平和になるかというと、この世の中は人類の想いの波
で出来ているわけなのです。その想いの波は滅びに至るという波、もうだめだ、という想
いの波で、それが心の底にみんなあるんです。みんな自分の心をだましながら生きている
けれども、実は、アラブとイスラエルが戦争している。喧嘩している。それをみて、ああ
この仲は直りっこない、どうやったって仕方がない、とどこか心の中にあるわけです。
アメリカとソ連、ソ連と中共、どうやっても人類が違うのだから、本当に平和になりっ
こないと思う。みんな人を信じませんからね。お互いが個人的にも信じないけれど、国と
国とはもっと信じない。何かしやしないか? あれは謀略じゃなかろうか? とお互いの
国が信じておりません。そういう波を綜合してみると、崩壊と滅びの門に至る。人問の潜
在意識層に、幽界に、もう滅びるんだというものが満ち満ちているわけなんです。それを
変えるための平和の祈りでしょう。
234
神の平和郷を地上に映し出す祈り
世界平和の祈りはどういうことかというと、肉体にいる自分の想いが、神様の大光明つ
まり神の国がここに現われる、天国が現われるという光の波とピタッと合っている祈りな
のです。神様のみ心が出来上がっている平和郷、平和の世界をこの地上に映し出すのが世
界平和の祈りなのです。だから、皆さんが世界平和の祈りをすれば、世界平和の出来上が
った世界を、ここに映し出しているわけなのです。ですからここは平和そのものなんです。
そういう人がたくさんになれば、平和の世界が早く来るわけでしょう。
「あいつやっつけちゃえ、倒しちゃえ、俺の国はいいんだ、あの国はダメだ」という想
いだけだったら、必ず滅びます。滅びに至るほうが先か、神の国を造るほうが先か、どつ
ちが先になるのか、それはひとえに皆さんの肩にかかっているわけです。皆さんの役目な
わけですね。私はどんどん光を送ります。
明治維新で、坂本竜馬をはじめたくさんの志士が現われて、殺されたり脅かされたりし
235第4章甲斐ある人生
ています。今はいかに先駆者となって働いても、殺されもしなければ、やっつけられもし
ないんですよ。今はいい時代です。先駆者というのは大がい危険にさらされたり、殺され
たりして来たものです。今は牢屋に入れられ殺されることもない。こんなやり易い時代は
ないんです。だから皆さんは安心して、世界平和の祈りをほうぼう中にすすめられるわけ
です。
昔のクリスチャンは、隠れキリシタンといって、蔭にかくれてお祈りしたり集っていま
した。お役人に捕まって、踏み絵というのをやらされて、礫になったりしましたね。とこ
ろが今は、世界人類が平和でありますように、と祈りましょう、と公然といくらすすめた
って、どこからも縛りに来なければ、殺しにも来ません。正々堂々と自分の教えをひろめ
ることが出来る時代になっているわけです。
皆さんは同じ先駆者でも、先達でも非常に気の楽な、当たり前の生活を当たり前にしな
がら出来る、気楽菩薩さんなんです。昔は大犠牲者が菩薩なんです。人の苦しみをみんな
背負って、命を投げ出して人を救った、それを菩薩といいました。今は気楽に日常茶飯事
236
の中で、お孫さんの面倒みながらでも菩薩行が出来る本当に安楽な世の中になったわけで
す。それはやっぱり消えてゆく姿で世界平和の祈りという教えが現われたからなんですね。
この教えは肉体の五井昌久が説いたわけではないんです。ここにいる五井先生というの
は、肉体にいるけれども、全然自分はありませんよね。世界平和が出来ることだけしか考
えてない。世界人類のために自分はなんにもいらないからと、身を投げ出して、ものすご
い業を引き受けて、毎日疾で苦しんでいるわけ。苦しみはしないけれど。いろんなものが
押し寄せてくる。ふつうでいえば、何百遍死んでいるかわからないような立場に置かれな
がら生きてるわけでしょう。それでなんの不平も不満もない。それでいいと思っています。
自分の肉体にまつわる業というものがないわけです。そうしますと、肉体としてもふつう
の人よりは神様に近いわけでしょう。そういう人を神様は使うわけです。大神様の働き場
所であり、大神様の器である。その器として使える体を持った人なわけです。
皆さんの中にも神様の器としての菩薩がたくさんいるんですよ。神様の光を受けて、み
んなに放射する菩薩さまがいるんです。みんなそうです。ただ菩薩でなくなるのは、肉体
237第4章甲斐ある人生
のことばっかり想う人です。
明日のおかず何にしようか、なんてそんな可愛いことはかまいません。そうじゃなくて、
生活のことをどうしよう? お金の心配、地位の心配、肉体生活の心配ばっかりして、本
質の魂の問題を忘れている人、そういうのは神様から遠いでしょう。少しでも心が浄まろ
う、立派な人間になろう、世界が平和になるように一生懸命祈ろう、という想いがあれば、
それは神様の心です。そういう心をいつもいつも積み重ねてゆけば、やがては本当の神様
と一体になる、天使になっちゃうわけです。皆さんはすでにそういうふうになっているわ
けです。
だからみなさんは一生懸命やっても力む必要はありませんから、今のままでいいけれど
も、世界平和の祈りを倦まず弛まずやってらっしゃって、一人でも二人でも三人でも、十
人でも百人でも千人でも万人でも、多ければ多いほどいいけれども、世界平和の祈りの同
志をつくっていかれれば、地球があまりみじめな目に遭わないで、痛い目に遭わないで、
本当の天国が出来るわけなんですね。
238
秘訣は生きる死ぬるに怖れがないこと
目に見える働きというよりも、陰の働きのほうがうんと大きいんです。どれだけ大きい
かわかりません。皆さんに説明したってわからないんだけれども、私が一日こうやってい
ますと、どれだけ業が押し寄せてくるかわからないんですよ。
わんさわんさ来るわ来るわ。そしてこの体を通過して浄まってゆく。だから私は洗濯機
よ。皆さんも小さい洗濯機になって、みんなで洗濯すりゃ早いんです。だから皆さん少し
ずつ洗濯してください。だから体がちょっとどこか痛くたって、ああこれは消えてゆく姿
だ。頭に熱があって、ああこれも消えてゆく姿、とやっていれば、死ぬ時は死ぬんだから
ね(笑)。死なない時は死なないから治りますよ。
私なんかでも、ふつうで見たらば、非常にひどい時がありますから、死ぬかと思うでし
ょう。息がつまっちゃってね、ところが当人は平気。怖れもなければ不安もないから平っ
ちゃら。息もたえだえでも冗談をいっていますから。知らない人がみたらびっくりしちゃ
239第4章甲斐ある人生
う。だけど私にとっては別になんでもないんです。それは怖れがないから。この病気みた
いな形に対して、怖れることが一つもないでしょう。生きる死ぬるに怖さが全然ないんで
す。だからなんでもないんですよ。
怖れがないということはいいことですよ。皆が厭な想いをするのは怖れがあるからです。
不安、恐怖、それがあるから世の中生きにくいんでしょう。不安と恐怖がなくなってごら
んなさい、生きいいですから。ああみんな神様がやっていてくださる、生きるも死ぬもみん
な神様任せ、逝く時はひょっと逝かしてくださる。この世にいる間はいるんだーそうい
う気で日常茶飯事、一生懸命、自分に課せられたる使命を達成していればいいんですから。
自分に与えられた仕事を一生懸命やっていて、あと全部、神様に任せておいてごらんな
さい。こんな気楽なことはありませんよ。今日からやってごらんなさい。「ああ生きるも
死ぬも神様任せ、みんな神様がやってくれるんだ、呑気なもんだ」それで怠けて寝ていた
んじゃだめですよ。与えられたものを一生懸命やるわけです。それが天命を信じて人事を
尽くすということですね。そうやっていれば本当に呑気です。私などそれで生きているわ
240
けです。だから生きているのです。
人間というものは、肉体に生きているんだけれども、実は想いがいつも神様の中にいる
わけなんですよ。いつも神様の完全平和の天国の中に自分は住んでいて、世界平和の祈り
の光をドンドン肉体のほうへおろしてくる。肉体から宇宙にパーッと放射して、一日も早
く地球が宇宙の中の一つの星であることを実証しなければなりません。今まだ独立してな
いようなものですからね、宇宙神(宇宙天使)の助けを借りてやっているわけなんでしょう。
皆さんは知らないんだけれども、宇宙神が助けてくれて、地球を滅びないようにしてく
れているのです。それを私共はよく知っています。
そのお礼のために、一生懸命、世界平和の祈りをして、神様有難うございます、といっ
て、神様にお礼をしなければいけません。
皆さんは守護神守護霊さんに感謝しながら、平和の祈りの日常生活を毎日続けていてく
だされば、地球は亡びないし、皆さんが生まれて来た甲斐がある、ということになるので
す。(昭和49年-月)
241第4章甲斐ある人生
光の足跡を残してゆこう
242
肉体の死はこわくない
人間はどんないい人でも、いい心を持っていても、焦ったり、あわてたりしてはだめで
す。焦ること、あわてるということは、怒るということと同じで業想念なのです。だから
焦らないこと。
自分の天命というものが、否でも応でも祈っていれば完うされます。焦ったって焦らな
くたって必ず完うされるに決まっている。だから焦ったら損です。
物質、この肉体もそうですけれど、科学的には波が現われて、分子になり原子になった
りするわけです。
夜、空をみると星がみな光っていて、星と星との問がありますでしょう。肉体というも
のも天体と同じ、空を見ているのと同じで、肉体を構成している原子と原子との間は、星
と星との間のようにはなれている。その原子が集まって分子となり、分子が集まって陰陽
に活動して、生きているわけです。その分子を分けると、原子であり、原子は電子と原子
核という粒子になって、それは波になって消えちゃうんです。調べていると消えてしまう。
元は波だということね。
その波動がどこから出てくるか、今の科学ではわからない。その波動の元を神様の力と
いうわけです。その波動が精神的な波動となって働くのと、肉体的に働くのがあって、い
ろんな波、光の波が来て、肉体が出来ているわけです。
死んで、骨になって粉になってしまいますと、無くなったと思うでしょう。それはただ
波動に還ったにすぎない。その中の精神波動というものは残っている。それを魂というわ
け。それは肉体よりもっともっと微妙な細かい波の世界で生きてゆく。
形あると思えばやっぱり形はあるんですよ。自分の思う通りの形になる。肉体の世界で
243第4章甲斐ある人生
はなく、心の世界だから、自分の思う通りのものが、自分の心にふさわしいものが着られ、
ふさわしい家が出来、ふさわしい状態が現われるわけなのね。そういう世界があるんです。
もっと高いところへゆくと、そんなもの問題ではなくて、光だけでもって、自由に活動で
きる世界もあるわけです。それには段階があるんです。
肉体というものは、一番波の粗雑な、一番商なのです。人間は、微妙な波動のところに
いっては、また粗い波動、肉体のところに戻って来て、いろんな修行をし、また戻って修
行を終えてしまうと、今度は、この肉体は何も欲しくないんです。欲しくないけれども、
因縁というものを果たすために、肉体に生まれて来て、いろんな苦労をして、業を消して
ゆくわけです。業を消してしまうと、今度は魂が違う体になって、ズーッと高いところ、
さわ
なんの擬りのないところにいけるわけです。
それがいわゆる天国浄土というわけです。肉体が死ぬことなんて、なんにもこわくはな
い。ところがこわいような感じがする。何故そういう感じがするかというと、こわくなけ
れば、向こうのほうがよかったら「ハイ、さようなら」ってみな自殺して死んじゃうでし
244
よう。それでは困るんで、肉体を大事にしなければいけないので、何か死ぬことが怖いよ
うな感じを持たせておく。
だんだん悟ってくると、死ぬことも生きることも、そんなことどうでもいい、このまま、
今置かれた立場で、一生懸命やっていればいい、ということになってくるんですよ。そこ
まで来ると、やっぱり悟りなんです。
心の波を調和させることが一番
この世の生活、いわゆる自分の置かれた環境に文句をいわないで、一生懸命やれる、と
いうことは、やっぱり立派なことなんですよ。どんなに嫌な環境であっても、それは業と
して現われているんだから、消えてゆく姿とみて、一生懸命生きて、満足していると、自
然と道が開いていって、いい環境に移ってゆくわけです。
病気なら病気でもそうです。病気、病気とつかまっていれば、いつまでたっても病気は
245第4章甲斐ある人生
治らない。ああこれも消えてゆく姿なんだナ、といって、薬をのんだってかまわないし、
注射を打ったってかまわないけど、その根本が祈りの生活になっていれば、そのまま消え
ていっちゃう。そういうものなのですね。
波の変化だけなんです。だからいつも波を調和させておく、いつも調和させた波にして
あんのん
おけば、その人の生活は安穏だ。その人の生活が安穏ならば、世界人類も従って安穏にな
るわけなんですねエ。
一人が乱れていたら世界人類が乱れているんですよ。自分が乱れていることは、世界人
類が乱れていることなんです。だから、自分の心を調和させるように、そのために世界平
和の祈りをするんですよ。そうすると自分が調和してくるということになるわけです。波
を調整すればいい。心の波を調整することが第一。そのための統一であり祈りなのです。
人間、どういう立場に立とうと、その人の心が一寸も動じなければ、不動の心であれば、
神のみ心の中に入りきっていれば、どういう生き方をしようとどういう死に方をしようと、
形の問題ではないのです。
246
形の問題だけを捉えて、早死にしたからいけないとか、病気で死んだからいけないとか、
たいぜんじ
いうけれど、私たちの眼からすれば、形の問題ではなくて心の問題なんです。心が泰然自
じやく
若としていれば、どんな生き方をしようと、どんな死に方をしようと、貧乏をしようと、
それは問題ではない。そういうようなものが神のみ心なんです。
やがてこの世の中が完全になった時には、心のいい者が完全な生活を得るということに
なります。ただ今のところは、過去世の因縁が渦まいて、今生の運命が出来ているんだか
ら、過去世の因縁をはなすことが大きな役目になりますね。過去世の因縁を消しながら、
しかもこの世の中に光の足跡を残してゆく、そしていい仕事をしてゆく。いい生き方を示
してゆく、ということが大事だと思います。
誰でも消し方をうまく行じていけばいいわけです。消すために人に迷惑をかけたら、ま
た業が増えますからね。自分の業を消しながら、しかも人のために尽くしてゆく、という
生き方が出来るのが一番いい生き方なのです。
247第4章甲斐ある人生

人間と真実の生き方
250
わけみたまこうしょうしゅニれいしゅごじん
人間は本来、神の分霊であって、業生ではなく、つねに守護霊、守護神によって守られ
ているものである。
かこせ
この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念が、その運
命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去るのであるという
強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難のなかにあっても、
ゆるまこと
自 分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづけてゆくとと
もに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の祈りを祈りつづけてゆけば、
個人も人類も真の救いを体得出来るものである。
世界平和の祈り
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
まっと
私達の天命が完うされますように
守護霊様ありがとうございます
守護神様ありがとうございます
251参考資料
第1図
宇宙神(大神さま)は、ま
ず天地に分かれ、その一部の
うみだまやまだまこだま
光は、海霊、山霊、木霊と呼
ばれ、自然界を創造し、活動
せしめ、その一部は、動物界
ちょく
を創造、後の一部の光は、直
霊と呼ばれて、人間界を創造
した(第-図〉。直霊は、各種
の光の波を出し、霊界を創り、
ぶんれい
各分霊となり、各分霊が幽界、
\ 界/ \ 界/ \・\茜繰窪界、ノ
(薦貝鎌翼騰讐
第2図
肉体界を創造した。その過程
において、各分霊は、自ら発
ロサリういん
した念波の業因の中に、しだ
いに自己の本性を見失ってい
った。そこで、直霊は自己の
光を分けて、分霊たちの守護
神となし、守護神は、最初に
肉体界の創造にあたった分霊
のほりういんねん
たちを、業因縁の波から救い
上げた。この分霊たちは、守
護霊となり、守護神に従って、
ひきつづき肉体界に働く後輩
の分霊たちの守護にあたるこ
とになった。そして分霊の経
験の古いものから、順次、守
護霊となり、ついには各人に
必ず一人以上の守護霊がつく
までになって、今日に及んで
いる(第2図)。
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