愛すること


序文
現代における宗教は、現代の人々によく理解できるものでなければならないし、
入り易く行い易いものでなければならない。
仏教教典やキリスト教の聖書などが、魂を喜ばせ、心を清らかにするものであっ
ても、それがあまりにも現実社会からみて理想的であり過ぎ、時には、理想と現実
の板ばさみになって、良心的な人程、この社会を生きにくくしてしまう恐れがあ
る。
まともカルマ
現代は釈尊やイエスの教えを、正面に行ずるには、あまりにも、業生の波に蔽わ
れ過ぎている。といって、現代ばやりの現世利益一本の宗教では、本心の開発はと


1
ても望めない。
そこで、どうしても、日常茶飯事の中で、理想に向って進むこともでき、現世の
利益も現われてくる、という宗教の道が必要になってくる。
それに、現代は、昔と違って、個人が単なる個人として生きることのできない時
代になっている。個人と社会国家、国家と人類という横のつながりが、きっても切
れぬものになっていて、米国の動きが直接日本の経済に影響し、国の動きは勿論個
人の生活にひびいてくる。
今日のように文明が進んで、すべての人が文明文化の恩恵に浴していると、急に
昔の不便な生活に戻ることはできない。もし日本に外国から石油が入らなくなれ
ば、電源が駄目になり、電気が急に使えなくなってしまう。電気だけでも大変なの
に、すべての文明生活がゆらいでしまって、殆んどの人の、その日その日の生活が
できなくなってしまう。その電源のことや文明文化の動きを握っているのが国の政
治なのである。
2
だから、個人はそのまま国の政治と直結していることになる。個人はその国家の
中の一単位である個人なのである。
そこで、この現在においては、個人の幸福は国家の安泰の中にあることになる。
私は現代の宗教は、個人の精神的安心と、社会生活における安定とを同時にもたら
し、その個人の安心立命の姿が、そのまま国家に影響してゆくようなものでなけれ
ばならぬと思っている。
この書はそういう個人、国家、人類というつながりが、同時に平安になる道を、
宗教の道として、しかも日常茶飯事の中で容易に実行でき得る道として説いている
のであり、その道がそのまま永遠の生命の輝きとなるのである、と説いているので
ある。
昭和四十八年三月
著者識


3
序文
目次
どうして人間は神の子なのか
人間の尊厳性
神と神々について
神の愛について
自分を愛し人を愛す
愛ということ
永遠につながる一瞬
111 94 77 6042 25 7 1
4
5




仰… … … ・… … … ・・… … … … … … ・・… … ・… …
252
永遠の生命の自覚… : : : … : … : ・・… : : ・: ・: : … ・・: ・: ・・…
Z34
把わ




● ● ● ■ ● ● ■ ● ● ■ ● ● ■ ● ■ ● ● ● ● ● ● ■ ● ● ■ ● ● ● ● ● ● ● ● ■ ● ● ● ● ● ● ● ● ■ ● ● ■ ● ● O ● ● ● ・O
217
悟りと









● ● ■ ● ● ● ● ● ● O ● 9 ● ● ● O ● ● ■ ● ■ ● ● ● ■ ● ● ● ● ● ● ● ● ■ ● ● . ・● ・● ●
200
真の幸福を

かむ統
__..
行… … … … ・… … ・・… … … … … … …
182




活… … … … … ・… ・… ・… … … … … … … … … …
164
生命と心に



・● ● ● ● ■ 0 ● O O ■ ● ・● ● ・O O ● ・■ ・O ● ・O O . ・● ● ・● ・● O ・・● ・● ● ・■ ● ・● ● ・O ●
145




質… … … … … … ・・… … … :… … … ・… … … … ・
128

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西~M》禽♂ 》馳駈~ 》》》~~ 《の

人間と真実の生き方
わけみたまごうしようしゆこれいしゆごじん
人間は本来、神の分霊であって、業生ではなく、つねに守護霊、守護神によって守
られているものである。
かこせ
この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念が、そ
の運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去るのであると
いう強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難のなかにあ
ゆるゆるまことゆる
っても、自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづ
けてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の祈りを祈
りつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得出来るものである。
vwAmow・》W》WWW》W》W》r》W》wWW》WW》W
ピ(`く〜をピピξ ζ ζ 《《《《くく〜〜《ζ ‘〜《〜〜⊂〜《《《〜〜5 〜《〜〜く《《く《《くく《くく⊆`〜〜ごど《「〜く《《《》
人間の尊厳性
人間と動物の相違
昔からくらべますと、人間の尊厳性が次第に重要視されてきていますけれど、今日のように世界
的に文明文化の進んできている時代におきましても、その尊厳性というものは、ただ表面的な、肉
体現象、肉体生活の面だけでありまして、本質的な尊厳というところまでは一般的には考えられて
はおりません。
昔のように支配階級の尊厳を強調して、一般の民衆は犬猫同様に扱われていた時代とは、まるで
べつしほうけん
今日では異なってはおりますが、階級差による尊厳、蔑視の感情は封建時代からみれば嘘のような
平等感に立っておりますが、個人個人そのものが、果して自己の尊厳性というものを、はっきり意人





7
あや
識しているかどうかということになると、甚だ危うい定見のないものになっております。
人間と犬猫とは一体どこが違うのか、犬猫に対して尊厳などという言葉はつかわれませんが、人
間に対してだけは、尊厳性という言葉が使われます。それはどういうわけなのかなどということも
せんさく
あまり詮索する人もおりません。
せいさつよだつ
人間の生命は尊くて、動物の生命は尊ばない。動物は人間の支配下に置かれて、生殺与奪の権限
を人間が持っている。こういう考えを昔の権力者は同じ人間に対しても抱いていたのであります
が、生命における平等性という宗教観念が一般化してまいりました今日では、人間同志の中でそう
いう差別観念は表面的にはなくなりまして、人間対動物の悶だけにそういう観念が残されているの
であります。
人間と動物とではどこにそういう根本的な相違があるのかと申しますと、人間には考える能力が
ある、未来を創造し得る智慧能力がある、動物にはない善悪理非を判断する力や、自己を進化させ
得る計画性や、お互いに譲り合う精神や、奉仕し合う精神がある。こういう動物との差異は決定的
なものであります。
わけいのち
これを宗教的に申しますなれば、人間は神の分生命であって、神の生命と能力がそのまま分れて
8
ひぞうぶつ
きている霊なる存在である神の子なのであり、肉体のみが、その被造物なのでありますが、動物は
肉体は勿論のことその本質そのものも、神によってつくられたるものであって、次元の低い階層に
ある被造物なのであります。
ですから人間の低劣な行為をみると、動物的な行為というのです。一口に人間といっております
が、実際面をみ、その想念行為をみてみますと、その本質である神の子の姿をみせている人ははな
はだ少く、動物に近い行為の人のほうが多いのではないか、と思われる時があります。人間の尊厳
みつか
性を自ら傷つけている人がいかに多いかは、日々のテレビや新聞のニュースをみるとよくわかりま
す。
なぜ人間の生命が尊重されるのか
しかい
せっかく昔から斯界の秀れた指導者たちが、人間各自の尊厳性を認め合うような、今日の社会を
築きあげてきたのでありますが、各個人個人がそれを表面的なものだけにしてしまって、内面的に
神のみ心に通じる尊厳として現わすことができずにいるのであります。
人間の生命が尊重されるのは、神の分生命であって、神のみ心をこの地球界に現わすための主な人





9
る存在者であるからなので、肉体人間としての生活だけを主にするためではないのです。肉体人間
観だけを主にいたしますと、形の世界の個々の人間という感じが強くなりまして、縦に神につなが
る永遠の生命としての人間の本質を離れてしまいがちなのです。現在の世界を蔽っております唯物
思想というものは、神につながっている人間本来の永遠の生命というものを忘れ果てた、肉体世
界、物質世界だけの幸せをつかもうとする思想でありますので、どうしても相対的になってしまっ
て相対する個人や社会や国家を敵視して憎悪したりするのであります。
肉体人間を主といたしました場合には、動物世界の次元とあまり次元が異なりませんので、どう
しても動物と同じように弱肉強食の形になりまして、武力の強いほう、力の強いほうが弱いほうを
しいたげたり膝下に敷いたりして自己の権力を誇示してゆくことになります。こういう場合には、
自分のほうだけに人間の尊厳性を認めて、相手の側の尊厳性は認めようとはしません。
また全学連の人たちの、自己の主張だけを通したいあまりに、その暴動を取り鎮めようとして働
いている同じ世代の青年である警官を人間扱いせずに、撲殺したり投石で傷つけたりしている行為
は、人間の尊厳性などまるで無視した、動物的行為そのものであります。その行為の中には人類愛
もなければ、永遠の生命という人類最大の問題も皆無な、原始人的な行為があるだけなのでありま
10
す。
神の存在を無視した唯物思想で行為する場合には、神の存在を信じ、神において人間生命は同一
のものである、という、縦の線からくる生命の同一感がありませんので、自己の行為を邪魔するも
のをすべて敵とみ、その敵を憎悪する感情になってしまうのです。
ですから共産主義にしても、他の唯物思想者にしても、形式の上では、人間の平等性を説き、そ
ういう社会をつくるべく働いていながらも、それが形の上だけのことなので、常に自己の思想が成
就することを邪魔する者たちを、殺傷しつづけてゆかなければならぬような状態で生活していま
す。そこには自分たち側の尊厳性は認めても、他の人間の尊厳などは少しも認めようとはしない、
神の平等性を欠いた片手落ちのやり方があるだけなのです。
神のみ心においての平等性というものを認めぬ限りは、人間は人間の尊厳性を平等に認めること
はできないのです。なぜならば、形の世界においては、人間は決して平等になり得ぬ存在だからな
のです。その理を知らずに、形の世界、肉体の世界においての平等を頭の中で思想的に考えて、そ
れを実行しようと致しますと、人間は神の生命において同一なのである、という真理がどこかにふ
き飛んでしまって、形式の中で平等になり得ない人々、つまり共産主義において資本階級とか、そ
11 人間の尊厳性
れに属する人々を敵とみて、これを倒そうとするのであります。
12
神のみ心においての平等性
人間はまず、神のみ心の中において平等なのであって、その能力の差異によっては、形の世界で
の不平等は当然なことなのである、という真実のことを知らなければならないのです。この真理が
わかりませんと、いたずらに平等平等と叫んでいて、遂いには、人間を低い動物的環境に追いこん
でしまいかねないのです。人間は常に無限性を追究していますのでより高く、より広く、より富有
に、より自由になり得たいと思うのでありまして、この自由性を抑えつけての平等観などは、とて
も永つづきするものではないのです。共産主義中国における同志的結合も、いつかはお互いの権力
きのうきよう
争いになって、昨日の友は今日の敵となって、力に勝ったほうが咋日の友を追い落してしまうので
あります。こういう行為の中には、人間の尊厳さもなければ、安心立命の生活も成り立ちません。
神を中心としていない生活というものは、個人にしても国家社会にしても、真実に人間の尊厳さ
を認め合う心の状態になり得ませんし、安心立命の生活は永久に成り立たないのであります。今日
の資本主義社会にしても、未来を目指している共産主義社会にしても、いずれも唯物的唱、屈で政治
をとっていたのでは、人類は今日以上の進化はいたしませんし、やがては、地球滅亡の土壇場に追
こんにち
いこまれてゆくことになります。ですから今日では資本主義とか共産主義とかいう主義争いの時代
ではなく、人類の宇宙観を正しくしなければいけない時代になってきているのです。
神を離れた思想には一定の中心がありません。常にその中心は流動していて、変化変滅します。
ですから権力争いになり、国家と国家とが争うようになります。神という不変の中心があって、そ
の中心にあらゆる個人、国家民族が帰一して、帰一したところから各自の天命を完うしてゆけば、
争いごとなど起るわけがないのでありますが、今日の宇宙観、人間観では、肉体という個人が主で
あり、この物質的地球の国家とか民族とかいうものが主になっていますので、どうしてもお互いの
権力争いになってきてしまいます。
今日の思想は、この宇宙には地球にだけしか人類が存在しないというような思想であって、大宇
宙の運行は地球人類のためにだけなされているように思っておりますが、実はとんでもない間違い
で、この大宇宙には、数多の星があると同様に、各種の人類が生存しているのでありまして、ただ
その存在が地球に住む肉体人間に見えない、というだけで、存在しない、と思いこんでいるので
せいしん
あります。大宇宙の運行は、あらゆる星農、あらゆる人類生物のためになされているのでありまし人





13
はず
て、地球人類だけがひとりよがりに独走しているならば、地球人類だけが宇宙の運行を外れてしま
って、いつかは消滅してしまわなければなりません。大宇宙の運行は、すべて大調和の法則によっ
てなされているのですから、地球人類が、なんのかのとお互いに理屈をつけあって、自分たちの思
想がよい、いや俺たちの思想でゆくなどと、限られた肉体や物質の運行だけを問題にして争い合っ
はず
ている限りは、いつかは大宇宙の大調和の法則に外れて滅びてしまうより仕方がないのです。私は
いつもくどくどとこのことを説いているのでありまして、地球人類を救うのには、お互いの生命の
尊厳を確認し合って、枝葉のことはさておいて、根本においての大調和がなされていなければ、と
ても地球人類は存続してゆけないのであります。
14
唯神論と唯物思想
ところがはなはだ残念なことには、ますます人間は唯物的になってきまして、神を求めるように
みえる人たちでも、実は神ならぬ、自己の肉体生活の満足感のみを求めている傾向が多くなってい
るのです。新しい宗教に入っている現世利益のみを求めている人々は、神仏を求めているようにみ
えてその実は、自己の肉体生活の利害関係が主なのであります。これは私どもの考えている唯神論
ではなくて、やはり唯物思想の一つの現われでしかないのです。
真実の唯神思想というのは、現世の肉体生活、精神生活、肉体離脱後の生活及び永遠の生命のす
ぺての働きを、神のみ心の中に投入し得る人や、神への全託の道に進んでゆこうと意識している人
たちでありまして、この現世の利益などは枝葉のことであることを知っている人々なのです。すべ
ての生命は神のみ心によって生かされているのであって、神のみ心なくしては自己の存在はないの
だ、ということを知っている人、あるいは知ろうとしている人々は、真実の唯神思想家なのであり
おの
まして、こういう人々は、自ずから人間の生命は神のみ心において平等なのであることを知ってい
るのであり、真実に人間の尊厳性を知っているのであります。
いかに私は何々の神を信仰していますと、自己の信仰を強調しようとも、それが自己の現世利益
のためだけのものであれば、そこには真実の救われはありませんし、真実の神は現われてはまいり
ません。人の心の中を見通す霊能力や、未来を予見する能力がありましても、その人の人格が物質
や権力に執着していたり、自分だけが尊厳な存在であるように思っていて、自己の人格を磨き、人
々の幸福を願う、愛の心のない人は、神の使徒ということはできませんし、真実の唯神論者という
こともできません。なぜならば、その人には神のみ心である、すべての人は生命において平等であ人





15
る、兄弟姉妹なのであるということがわかっていない、いいかえれば、他の人の生命の尊厳さを認
める深い心がないからなのです。
ばんにんばんよう
この世の現われとしては、万人万様でありまして、能力の劣った人も秀れた人もありますので、
社会的な地位とか富とかに差異ができるのは当然であります。しかし、能力が劣っている、あるい
は貧しい生活をしているということで、その人の本質である生命体(霊性)を馬鹿にしたり、さげ
すんでみたりしてはいけません。ああ、あの人は醜いとか、悪い心をもった人だとか、知能の劣っ
こんじよう
た人だとか、ということは誰しも思いますが、それはあくまで今生のその人の現われでありまし
けんお
て、生命の本質そのものではないのですから、人をさげすむ想いとか、嫌悪の想いが心に浮んだ
ら、それをそのまま持続して想っていないで、すぐに消えてゆく姿として、神のみ心の中に祈り心
をもって投入してしまうことが大事なのです。そうしますと、そこにその人の生命の本質の真善美
すがた
の相が現われてくるのであります。
すがた
そういう方法がとれるようになるためには、やはり、すべての人間の生命の尊厳さ、神の子の相
を認める心にならなければならないのです。自己のみが秀れている、自己のみが神の子である、自
己のみが救われればよい、こういう心は神のみ心に反する心で、決して真の信仰心ということはで16
きません。あまりに自己の肉体意識ばかりに把われていますと、どうしても、生命の平等性が意識
こうそうねん
できません。そこにすべての対立感情が生れ、神のみ心の大調和の波を乱す、業想念(誤った想い)
が渦巻くことになってくるのです。
やつかい
しかしながら、人間の想いというものははなはだ厄介なもので、自分にくらぺて劣っていると思
う者を、どうしても下目に見がちになりますし、権力のあるもの、地位の上の者には頭が自然と下
がったり、あるいは逆にわざと反抗してみたりして、生命の平等観で動けぬことが多いのです。
完全性を顕現させる祈リ
そういう時に神という中心がありませんと、不平等心のままこの世を過してしまいまして、あの
世での辛い修業が待っている、ということになってゆきます。神という中心を常に心に抱いて、そ
みずか
の中心の心に照してみて、自らを反省する意識がありますと、あああれはいけないことだったな、
かこせ
と想いか、兄し、祈り心になってきます。私はそれを、すべての誤った想念行為は過去世からの因縁
の消えてゆく姿として起るのだから、常に神の愛の心、完全性に照してみて、ああこれはいけない
と思ったら、直ちに消えてゆく姿として、世界平和の祈りのような、人類愛の祈り言の中に、その17人





想念を入れきってしまいなさい。そして、神の大光明波動の中で、誤った想念をすてて消していた
だきなさいと説くわけでありまして、この方法は、この世の自己の生活を明るく浄らかにするとと
もに、あの世での自己の地位を高めあげる方法なのであります。
人類の誰も彼もが、真実に神の子の姿をこの世において現わし得るように、という神の大愛がこ
の祈り言になって現わされているのです。イエスキリストのいわれているように、天(神) のみ心
が地に行われるためには、ひたすらに神を愛し、神のみ心である調和の波に乗りきるようにいたさ
ねばならぬのです。その調和の波には、世界人類の完全を願う、世界平和の祈りによって乗り得る
のです。
個人個人も国と国ともお互いの生命を尊重し合い、お互いの天命の完うされることを祈り合わね
ば、この世の争いはつきないのですから、どんなことをしても、できるできないではなく、お互い
の生命を礼拝し、国と国とは、その天よりの使命の達成しやすいように、お互いが助け合わねば、
すべてが滅びの道にいたってしまうのです。
わけいのち
神は完全円満であり、大調和の実体であるのですから、その分生命である人類も、いつかはその
完全性を現わさずにはいられないのです。そこで個人も国家民族も、うちに持っているその完全性
18
を現わそうとして、自我を張るのでありますが、悲しいかなその自我は、神のみ心そのままの調和
した大我ではなく、個々別々の縦は神へのつながりを持たず、横には兄弟姉妹という愛情ももた
カルマ
ぬ、自己本位、自国本位の業想念の波で動いているのです。そのために個人も国家人類も真の幸福
を得られず、常に不安混迷の生活を送っているのであります。
だつきやく
地球人類が滅亡しないためには、こうした小我の業想念波から脱却して、神のみ心そのままの人
類に進化してゆかねばなりませんので、そうなるための必死の努力を人類ははらわねばいけないの
です。資本主義がよい、社会主義共産主義がよい、いや何々主義だといっても、神のみ心の大調和
精神を破る、相対的な主義主張を現実政策にうつしている限り、人類は昔から幾多の予言者によっ
なんたいや
て示されている超絶した苦難を何度びとなく通らなければならなくなります。ただ、戦争は嫌だと
くつじよく
か、他国の属国になるのは嫌だとか、というそういう嫌だから、恐ろしいから、屈辱に耐えぬか
はず
ら、といって、その恐怖や辱かしめを逃れようとしていても、どうにもならないのです。
まず神の国を求めよ
神界には世界完全平和ができあがっているのですが、
ゆうかい
幽界には大戦争や天変地変によって起る世19人





にも悲惨なる状態が画かれているのであります。そのどちらの状態をこの世に現わしたらよいか
は、人類そのもののこれからの想念行為によるのです。もっといいかえれば、ひとりひとりの想念
行為のいかんによって、人類は世界の完全平和を築きあげることもできるし、地獄世界をこの世に
実現することもできるのです。
ですから、人々は、常にすでに世界完全平和のできあがっている神界の様相を、この世にうつし
出すことに全力をそそがねばならぬ、と私はいうのであります。キリストが、神の国のみを想え、
といっているのも同じことなのです。
それなのに人類は個人の小我の拡張のために、各国家民族の権力拡張や維持のために、神の国に
すでにできあがっている完全世界をないがしろにして、この世に地獄絵を画きつづけているのであ
ります。なんという馬鹿気きったことなのでしょう。
地球世界が滅亡か否かの時に、少しぐらいの自己の損失や、自国の面目など、どうでもいいでは
こうそうねん
ないですか。それができにくいところが、人類の悲劇であり、業想念に蔽われている証拠なので
す。そこで、こちこちの唯物論老はまあひとまず置いて、少しでも神を想い、信仰心のある人は、
みんなで心を揃えて、この世に完全平和を築き上げる努力をはらってゆこうではありませんか。な
20
んにしても、もうこれ以上人類は悲劇をつくりたくはありません。戦争も天変地変も、すべて人類
そのものの誤った想いがつくり出しているのです。
誤った想いの最大のものが、生命の親である神の存在を忘れたり、ないがしろにしたりしている
ことなのです。そこで私どもは、今日まで現世利益一本の信仰でやってきた人も、神の存在は否定
しないが、特別の信仰というものを持っていない人も、戦争を再び起したくない、天変地変があっ
ては困る、と思う人々は、自己の心に地獄絵を画かずに、神の国顕現を願って、世界平和の祈りを
していただきたい、と私は願うのであります。
人間一人の想いは、そのまま世界人類の運命にかかわるのです。自分一人ぐらいがいくらあがい
ても、どうにもなるものでない、と思っている人がずいぶんとあると思いますが、世界というもの
は、そういう一人一人が集ってできているのですから、自分一人の想念や行為などどうにもならぬ
と思うのは、地球人類を滅亡に追いやってしまう片棒をかついでいることになるのです。地球人類
の平和のためになんにもしないでいるということが、そのまま地球人類を地獄に追い落すことにも
なるのです。
21 人間の尊厳性
22
生甲斐のある生き方をはじめよう
よくよく人間一人一人の生命の大事なことを考えてみて下さい。なんにもしないで地球滅亡の片
棒をかついだことになるより、積極的になんらかの方法で、世界平和達成の一役をになったほう
が、ずっと生甲斐があるとは思われませんか。その方法は別にむつかしいことではないのです。今
までやってきた日常生活の根底に世界人類の平和を願う想いをもてばよいだけなのです。それが少
しく強まって、世界平和の祈りとなるのです。
世界人類が平和でありますように、という一言の祈り言葉には、人類の強い悲願が現われている
のです。古代の聖者賢者から、あらゆる一般大衆の心の中にも、常にこの地球世界の完全平和を願
う想いが積み重なっているのであります。やっても駄目だと思うより、一日でも二日でもよい、実
行してみるとよいのです。歩いていても寝る時でも、仕事のたまゆらの問にも、世界平和の祈りは
できるのです。心の中で思えばよいのですから、この世もあの世も人間の想いのままにできあがっ
ているのです。明るい想いの人は明るい世界をつくり出し、暗い想いの人は暗い世界をつくり出し
ているのです。
駄目だという想いを、やってみよう、という想いにかえて、この文を読んだらすぐに世界平和の
祈りをしてみて下さい。一度二度三度と唱えているうちに、なんとなく心が広やかになってゆき、
心が明るくなってきます。それは当然なことでありまして、世界人類の平和を祈る心は、神の大愛
のみ心と全くまっすぐ一つにつながってゆくからです。人間の生命の尊厳さが、この祈りの底から
湧き上がってきて、自然と自分が尊くなり、人々が尊くなり、神への感謝が湧き上がってくるので
あります。
自分の生命を礼拝し、他人の生命を礼拝する、そういう心が自然とこの世界平和の祈りから湧き
出てくるのです。もう一日も無駄にしてはいられません。皆さんも世界人類を救う一人として、世
界平和の祈りを祈りはじめましょう。人類が万物の霊長である実際の姿を、自分を尊び他人を尊
び、世界人類の平和を祈りつづける姿の中で、大宇宙にひびかせてまいりましょう。
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように人





23
守護霊様、守護神様
ありがとうございます
24
どうして人間は神の子なのか
人間の本質は動物か
人間は神の子なのか、無意志なる自然から偶然生れ出た、植物や動物の進化した生物なのか、そ
れともサタンの申し子なのか、種々な人間観があるのですが、果して一体どういう姿が、人間の本
質なのでしょうか。
まず人間は、無意志なる自然から偶然生れ出た、本質は植物性や動物性の融合した生物である、
とする考え方について、検討してまいりましょう。
これは唯物論の考え方でありまして、神や仏の存在を認めない人々のいうところです。無意志の
自然から偶然生れ出た人間が、なぜ意志や考える力、創造し計画する能力を持っているのでしょ25ど












う。その人たちはいうでしょう。人間は、植物、魚貝類、虫類、鳥類、獣類と様々な進化の末にで
き上がったもので、進化に進化を重ねているうち、自然と複雑な構造を備えるようになってきて、
考える力や創造する能力まで備わってきたのだ、と。とすると、生物学的にいう、遺伝子の法則と
ほノり
いうものは、一体どうなるのでしょう。一口に瓜の木になすびは成らぬ、といわれているように、
他の生物から他の生物に自然進化してゆく、ということは、到底あり得ないことです。進化という
ことの動きの中に働いている、叡智の存在を無視したら、すべて偶然の所産ということになって、
学問の土台は崩れてしまいます。
学問が成り立っているのは、一定の法則の積み重ねによって成り立っているのでありまして、法
則をぬきにした偶然の上に成り立つ学問などはあり得ないのです。仮りに偶然のようにして成り立
った学問があったとしても、学問として成り立った時には、必ず一つの法則を基準にして成り立つ
のであります。科学などは勿論そうなのです。
植物にしてみても、なんらかの種と、そしてその種の中に含まれた生長してゆく力と、自然の中
に働いている成長させてゆく力というものがなければ、一つの瓜さえも成り立ちません。まして、
人間のように考える力を持ち、創造する力、意志する力を持つ高級にして複雑なる生物が成り立つ26
のには、それ以上の考える力、創造する力、意志ある力がなければなりません。形の上において
は、猿から進化した者が人間であるとしても、そのように進化させてゆく力というものは、肉体人
間以上の智慧能力の持ち主でなければなりません。
そういう智慧能力を、偶然の所産として片づけるのは、それこそ智慧のない考えの浅い、進化し
ていない頭脳の人々のすることとしか思えません。自らの智慧能力が浅いから、深い高い智慧能力
の存在に思いが及ばないのであります。
この大宇宙も自然の運行も、人類の誕生も、すべて無意志なる自然の偶然の所産とするならば、
大宇宙の無限の星々が、各自大なる調和を保って存在している素晴しさも、人類が肉体外部の自然
の力、つまり太陽とか空気とか水とか、食物とかいうものによって生かされ、肉体内部の統一され
た諸機関の働きによって生きてゆく、という、肉体の智慧知識以外の働きの偉大さも無視しさって
しまうことになります。
人間内部に秩序よく、統一されて働いているこうした諸機関、諸機能を動かしている生命という
不思議なる力と、宇宙万般の生物を生かしてゆく大自然の力というものが偶発的になされていると
している唯物的考えは、動物的意識でありまして、完全な人間として進化した者の考、兄ではないのど












27
です。ところがどんな唯物的に見える人間でも、大宇宙の広大さ美しさに眼をみはり、大自然の景
観には心を打たれるのであります。それはどういうわけかといいますと、肉体人間としての自分よ
り広大な美しさに対し、大自然の景観の雄大さに対して、自分より偉大な、自分より高い深い、神
とはいわないまでも、大きな素晴しい力に敬意を表し、圧倒されてそうなるのです。肉体の人間以
おの
外の大きな力を、自ずと観じとっているのであります。
そうした感嘆、讃嘆する気持は、この大宇宙を宇宙たらしめ、自然を自然たらしめ、人間を人間
たらしめている神秘な力をすでに認めている心の姿なのです。ですから厳密な意味で申すと、人間
の世界には唯物論者などというものは一人も存在しないのであります。ただ、神とか仏とか絶対者
とかいう、人間的姿を想像させる存在を否定しているだけなのです。
28
個性存続の尿遠性を否定する人間観
次に人間は神の子なのか、という問題の手前のところに、神は人類を創られたのだが、創っただ
けで、後のことは一切関係していない、という考え方の人たちがいるのです。この人たちは勿論、
死後の存在を信じておりませんで、肉体人間として、神の本質である、愛と真と善と美を追究し
て、立派な人格者として生きてゆこうとしているのであります。実に立派なことで結構なことで
す。私も若い時はこの種類の人間であったのです。
しかし、この生き方だけでは一歩足りないのでして、死後の世界において、非常に苦労すること
になるのです。なぜかと申しますと、この人々は唯物論者と同じように、死後の生存を信じていま
せんので、幽界に往ってからある期間の無意識状態の後の自己の意識の甦えりの時に、必然的に自
己の肉体というものを思い出すのです。肉体人間以外の人間の存在を否定しているのですから、意
識が甦えれば、当然生きかえった、死ななかったのだと思うわけです。そこでその人の想念はすぐ
かか
に現界の生存中の状態の中に戻ってくるのです。そして、自分の身近かな肉親とか知人に懸ってく
るのです。自分では生きかえったと思っているのですから、肉体をもっていると思うのは当り前の
ことです。ところが、すでに肉体は無く幽体だけがあるのですから、想い浮かべた人の肉体にダブ
ひようい
ッて自己の存在を確認するのです。これが葱依作用ということになるのです。すべてがすべてこう
ひようい
いう風になるというのではなく、なりがちである、ということです。すると懸依された人が、その
人の死の前と同じ病気の症状を呈したり、なんとなく体の自由を奪われたりするわけです。ですか
ら、神の存在を信じ、自己も立派な行いをしながらも、やはり死後の存在、霊界の存在を信じるこ
29 どうして人間は神の子なのか
とが必要なのであります。
30
神に対する悪魔の存在を信じている人々
次には、神の存在も信じ、霊界のあることも信じながら、神に対する悪魔、サタソの存在を信じ
ている人々があります。この世は神と悪魔との戦いが常に行われていると信じ、悪魔の存在に恐れ
を抱いているという、キリスト教信者に意外なほど多い生き方であります。神に対する悪魔の存在
を信じていると、常に悪魔にさらわれることを恐れていなければなりませんし、この世の人類は、
悪魔にどこまで喰いこまれてゆくか、ある時は神様が負ける時もあるのではないか、などという神
への不信を抱くこともあるのです。
クリスチャン国であるアメリカが、共産主義勢力に対して、武力攻撃をしているイソドシナ戦争
なども、共産主義というサタンの勢力を攻め滅ぼすことは、神を信ずる国の使命だ、ぐらいに思っ
ているところもあるのです。共産主義者は、唯物論者ですから、神を信ずる者たちからみれば、サ
タソの姿にみ・兄るのかも知れません。そういう正義感がアメリカのどこかにあるように見受けられ
るのです。
サタソ
神対悪魔、正義対不正義、こういう考え方は、個人的にはまだしも、国対国ということになる
と、全く恐ろしいことで、神と悪魔の戦争が行われることになるのです。この考えではやがては共
倒れになり、地球は滅びてしまいます。現在は、広島に落ちた原爆の一万倍の破壊力のある水爆が
あるのですから、これの落し合いでは、地球は忽ち滅びてしまいます。神もサタンも、正義も不正
義もあったものではありません。もっとも、この世が滅びても自分たちは神霊の世界に住んでいる
のだから、と信じこんでいる人はよいのですが、現在の地球人の心境では、この世の滅亡は、是が
非でも喰い止めなければならないのです。
ましてや、人類はサタンの落し子だなどと思っていたら、たまったものではありません。この世
は暗い暗い世界になってしまいます。そこにこれこそ真実の人間観であり、宇宙観であるという生
き方が生れ出ているのです。これは日本の神道では昔からそうなのでありますが、人間は神の子な
のである、という考え方なのであります。神道は勿論のこと、欧米にもこうした神の子観の光明思
想が生れていまして、私などは霊的には、日本神道をそのまま体していたのですが、理論的には、
欧米の光明思想も随分と益するところがあったわけです。
31 どうして人間は神の子なのか
32
神は人間の祖親である
神道をはじめ仏教でもキリスト教の光明思想でも、老子でも、ヨガでも奥義はみな、人間は神の
ものであり、神の分生命である、というところへくるのであります。
神道では、天之御中主神、つまり宇宙神からはじまって、三神、五神というように、その働きの
名をつけられた神々が生れ出られ、人間は、そうした神々の末(子) である、といわれ、男は彦
ひこひめ
(霊子)女は姫(霊女) と呼ばれたのであります。誤ったキリスト教のように、人間を神の下僕と
しもべ
か、僕というような、神と離れた召使いのような扱い方はしていないのです。神はあくまで人間の
父親であり、師でもあったわけです。
一神であって、しかも多神となり、人間はみなそれらの神々の子として生きていたのでありま
す。神は大生命であり、人間はその分生命であることを、神道ははっきりしめしているのです。そ
して仏教では、人間各自に内在する仏を説いておりますし、キリスト教では、内なる神と申し、老
むい
子は無為に為すと説き、肉体人間観を捨て切り無為にして為した時、大生命即ち道がそこに現わ
れ、自分が道となって大宇宙に生きているのだ、と説くのでありまして、いずれも神(仏・道)と
とも
人間とを離して考えてはいず、神と倶なる人間として、あるいは内在する仏、内なる神、無為の道
として、すべて人間の奥深く、人間の内に神の存在を説いているのであります。
そのどこにも、真実の人間を、罪の子ともサタンの子とも、説いてはいないのです。罪の子であ
り、サタソの子であり、凡夫なる人間は、神の子の本質を離れた、想念所業が生んだものでありま
して、神の子の光明が現われるにしたがって、消え去ってゆく迷いの波であり無明であるのです。
ですから、人間神の子といい、神の分生命というのは、人間の肉体をいうのではなく、生命その
ものをいうのであります。肉体そのものは、あくまで場であり、器であるのです。神の子的立場に
立つためには、どうしても、生命そのものの立場に立たねばなりません。人間の生命というもの
は、太陽の光線のようなもので、太陽の円光に見えるのを宇宙神とすると、光線はそのまま太陽の
子であり、太陽の働きを各自受け持っている、神の子ということができます。
各自の光線は、太陽そのものがなくてはその存在がなくなります。神と人間との関係は正にその
ようなものなので、人間側で知ろうと知るまいと、想おうと想うまいと、神の人間への働きは人間
の中でも外でも行われているのであります。神なる大生命の分生命の人間は、守護神の指導協力の
下にその生命エネルギーによって、自らの肉体を創っていったのでありますし、その肉体的運命もど












33
自らの想念行為によって生れてゆくのであります。人間の生命が、神の分生命でありながら、神の
あら
ような完全性を現わし得ないのは、肉体という物質波動が、神霊の光明波動にくらべて非常に粗い
波動なので、微妙極まりない神霊波動に同化しにくいのでありまして、そのギャップが、神の本質
と異なる不完全、不調和なる現象として現われてくるのであります。そこで、人間が自らの神の分
生命であることを忘れて、肉体という物体の幸不幸や利害に把われている限りは、そこに人間の完
全なる姿を現わすことはできないのです。
34
生命の根源は神のみ心の中にある
人間の本質である生命の、その根源は神のみ心の中にありますし、神霊の世界を根拠にして働い
ていまして、霊界、幽界の各段階を通って、各段階で働きながら、肉体界に働きかけているのであ
ります。これを逆にみますと、肉体界が主で、各階層を昇ってゆくということになります。ヨガな
どでは、人間の体をアストラル体(幽体) メソタル体(霊体)ブデー体(神体) というように幾つ
もの体を持っているといっていますが、正にその通りで、私など常に各階層の体を保って、地球世
界の平和実現のために働いているのであります。釈尊などは、肉体を主として生活している、通常
の考えを、顛倒妄想した考えであり、生活である、といわれています。ごもっともなることで、こ
から
の顛倒妄想を正常にするためには、一度肉体頭脳を走り廻わる、想念意識を空っぽにする、つまり
くう
空にならねば駄目だ、と坐禅を教えたわけであります。空になることによって、空即是色という、
真性の人間の姿が現われてくるのでして、人間の根源がみ仏のみ心と一つのものであり、神のみ心
の中にある、ということが、はっきりわかってくるのです。
ところが、この空になるということが実にむずかしい。肉体というものに想いを把われさせる
な、ということもむずかしい。そこで私はその助け船として、消えてゆく姿という言葉を表面に出
して、肉体に把われる想いも、種々な感情や、善悪、幸、不幸の出来事も過去世の神仏のみ心を離
れていた、無明から起った因縁因果の消えてゆく姿だ、と断ち切り、そういう消えてゆく姿に把わ
れる想いもまた消えてゆく姿だとして、消えてゆく姿とつづけてゆき、遂いには空の心境に達する
ように指導しているのであります。そして、その消えてゆく姿の奥底の祈りとして、守護の神霊の
加護に対する感謝の想いと共に、世界人類が平和でありますように、という人類愛の祈り言を唱え
つづけることを教えているのであります。
そう致しますと、凡愚の自己も他も、すべて消えてゆきまして、清々しい心の中に残るのは、世ど












35
界人類の平和を願う、神のみ心と等しいひびきだけになってゆくのです。巧まずして、神の子、神
の分生命の自己が、そこに現われてくるのであります。
36
神と人間とをはなす一切の想いを否定せよ
人類の不幸災難をつくり出しているのは、人間の脳裡を走る、神の完全性を否定する想いであ
り、神と人間とをひき離して、神のみ心の中で、兄弟姉妹であるべき生命体を、自己とは別個の存
在であるとして、自己を愛するように愛することができなくしてしまったことであります。
人間は神の子であり、神の分生命であることは確かなことなのですから、常にこの世のあらゆる
出来事、事柄、あらゆる感情を、消えてゆく姿として、神のみ心の中で消滅させてしまうことが大
事なのです。そうすることによって、自己の生命の根源である、そして完全性をもった霊妙にして
微妙な神のみ心の中に、いつでも住んでいられるようになるのです。
自己の肉体生活における様々なる願望を、神に願うことも、時にはよいと思いますが、それよ
り、もっと確実に自己の幸をつかむのは、そうした様々な願望さえも、消えてゆく姿として、神の
み心の中に、世界平和の祈りと共に投入してゆくことなのであります。なぜならば、神はすべての
すべてであり、人間の生命の根源であって、すべてはそこから生れ出てくるのですから、あなたに
必要なものは、すべて神のみ心の中に備わっているのです。ですから、あなたの願っている望み事
かな
より、更に更に深い高い、尊い望み事を、適えてくださることになるのです。
私などは、世界人類のために、私の生命をお使い下さい、と神様にすべてを投げ出した時から、
私の生活は急速に変化し、日立の一社員あがりが、二年も経たずに、日立の社長や重役の先生とし
て、立てられるようになってしまったのです。正に作り話のような運命が生命を神に投げ出したこ
とによって開かれていったのです。こうした私の経験からしても、あまり肉体の病気や貧乏や不幸
に把われていてはいけません。すべての運命を神のみ手にゆだねた時、自己の真(神)性が開かれ
てゆき、思いもかけぬ大きな広い世界が自分の前に展開してゆくのであります。
祈リと感謝
へだ
神と人間との間を距てているものは、一体何か、それは神の中に自分があり、自分の中に神が在
わす、という、神我一体の気持を、否定する想いです。こうした神我一体の気持になり得るのは、
たゆみなき祈り心であり、神への感謝の気持であります。神のみ心の中に身心を投げ出して生きてど












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ゆく時、その人は最上の幸を自己のものとした人というべきです。
過去世において、神のみ心を離れていた、想念行為の多かった人は、なかなか神への全託の気持
になりきれません。かりに成り切ったとしても、過去世で積んできた、様々の業因縁がこの世の不
幸や災難となって現われてくることが多いのです。しかし、こういう時にこそ、消えてゆく姿の教
えが生きてくるのであります。消えてゆくのだ、消えてゆくのだと一方で想いながら、神への感謝
の祈りをつづけてゆく時、やがて、その人の上に、真の幸せが、表面の生活の上にも現われてくる
のです。人間は本来すべて神の子であり、神の分生命なのです。サタソの子に神になれといっても
なり得ませんが、神の子の姿を現わすことが、なんで不可能なことでありましょう。正に可能なこ
となのです。民間で誤っていわれていることは、人間はなんていったって人間だ、神様になれっこ
ないのだ、とか、どうせ人間だ、悪いことを少しぐらいしたって仕方がないや、というような類の
言葉です。
真の人間は何度びでも申しますが、神の子であり、神の分生命です。ただし、肉体はあく迄、神
の被造物ですから、肉体にその想念を把われつづけていたら、人間の本質である神の子の姿は現わ
れてきません。そこに宗教の修業というようなものが必要になってくるのです。山に籠り、滝にあ
38
たり、断食をし、という修業は昔から行われております。そういう修業も時には必要なこともあり
ます。しかし私は、あく迄易行道を皆さんにさししめしているのです。それが日常生活そのままで
できる祈りの行、消えてゆく姿で、世界平和の祈り、という行であります。易しくて実に実益のあ
る行です。朝の目醒めに、食事の前後に、歩いている時に、電車の中で、便所やお風呂の中で、寝
床の中で、というように、寝ても醒めても、世界人類が平和でありますように、と祈り、守護の神
きんみつ
霊への感謝をつづけている時、その人の心は、大きな広い深い人類愛の心の中で、そして緊密な神
のみ心とのつながりの中で、生活をつづけてゆくことになるので、これこそ、神の子、仏の子の日
常生活となるのであります。
祈リなくしては神仏と一体化できない
先日、世界連邦の宗教者会議が、鶴見の総持寺でありましたので、私も代表者の一人としてまい
りました。代表者間の会議においても、大会においても、宗教の本質である、神仏との接触は少し
もなく、ただ単なる肉体人間の立場で、観念論的な希望を述べ合う会になっていました。こういう
会でも、世界を平和にしよう、という意識の人たちが一堂に集ったことは、それだけでも大きな意ど












39
.義はあるでしょうが、恐らくしゃぺっている人たちも、聞いている人たちも、これではどうにもな
らないなあ、と心の隅では思っていたことでしょう。私の会からも平和を熱望する三百人あまりの
人々が参集しましたが、常に私たちの、具体的な祈りを行じている人々ですから、どうにもつまら
なくて、もの足りなくて、体のやり場に困却していたようでした。
主催者の人にこんなことをいっては甚だ申し訳ないけれど、もっと具体的な、生きいきとした、
入々の心が真の平和運動に向って熱気が溢れてくるような、そんな方向に持ってゆかないと、折角
お金をつかって集っても、あまり効果が望めないことになってしまいます。
京都の世界宗教者平和会議の時にもそうでしたが、どうして宗教者の集りなのに、参集者の一同
で、心の籠った世界平和の祈りをしないのであろうか、宗教者にとって祈りは根本の行であり、す
べての行動は祈りの行からはじまらなくてはならないのに、しゃべるほうは只しゃべり、聞くほう
は面白くもなく聞いている、こんなことでは、何回会を重ねたとて、世界を動かすことにならない
と、私はつくづく思ったのであります。
私はこの会にははじめての出席なので、出しゃばることはしなかったのですが、何回か出席して
いったら、あく迄、世界平和の祈りを全員で真剣に祈ることをすすめつづけようと思っています。40
すべての行動はそこからはじまるのであります。祈りというものを、科学者が知らぬのはまだし
も、宗教者が軽く考えているようでは、とても世界は救われない、祈りというものの重要性を考え
ていたら、主だった高僧や神父さんの誰からか、一言ぐらい祈りについての話がでてもおかしくは
ないのに、と私はひそかに思っていたのであります。人はともかく、私たちの同志は、朝に夕に世
界平和の祈りを祈りつづけ、この世に、神のみ心を、一日も早く成就させなければいけないのであ
ります。
祈りなくして、神仏との緊密なつながりはでき得ないのですから、祈りに祈りつづけることを私
はすすめつづけているのです。祈りとはただのお願いごとではありません。神の子仏の子の真の生
命を、生きいきとさせるための方法なのです。その祈りをおろそかにしては、どんな活動をして
も、唯物主義者と同じ基盤に立っての活動になってしまって、神仏のみ心をこの世にはっきり現わ
す、真の世界平和ができ上がることはないのです。宗教にたずさわる人は、そうした基本的なこと
を忘れては困りものです。
世界人類が平和でありますように
すべての人々の天命が完うされますようにど












41
42
神と神々について
迷信におちず深い信仰に入るために
普通、神と一口にいう場合は、宇宙の大神という意味で、万物の生命の根源でもあり、すべての
すべてであり、全智全能という、そういう神を想うわけですが、現実としては、種々な神社があ
り、種々な名の神々が祭られているのであります。
そこで今日は、神と神々ということについて書いてゆきたいと思います。神や神々を生きいきと
身心に感じているほうが、深い信仰に入り易いし、変な迷信におち入らぬためにも必要なことだと
思うからです。
キリスト教の人や、知性人と称される人々は唯一神という神観をもっているようで、神を神々と
いうように観ずることができにくい人々が多いようです。その人々にとって、唯一神だけが必要で
あって、他の神々の必要を感じないからなのでありましょう。その人々にとっては、その神観でよ
いのだと思います。
ただ、事実は、常に唯一神があり、神々が存在するのでありますから、概念的にでも、神と神々
というように考えておいたほうが、幅広い生き方ができるのであります。ただし、神々のうちの一
神に信仰が集中してしまいますと、これまた、自分の信ずる神だけになってしまって、他宗教、他
はず
宗派の人々と信仰争いをするようになってしまって、宗教の本質から外れてしまいます。
私は神と神々というものの本質を知っていただいて、その神や神々にも把われぬ生き方のできる
人間が多くできることを望んで、ペソを進めてゆきたいと思います。
唯一神と神々の関係
先ず唯一神の大神についてでありますが、これは最初から申し上げておりますように、万物の生
命そのものであり、智恵能力の基であり、ありとしあらゆるものを、各自の立場で存在せしめてい
る根源の力である絶対者のことで、これを宇宙唯一神と申すわけです。この神なくしては我々は存43 神


h




在しませんし、万物も存在しないのですし、すべてが無になっていることになります。ですからこ
の神は絶対者であり、我々の内にも外にも同時に住み給うているのであります。
ですけれど、唯一神が唯一神のままではその働きができませんので、種々な光に分れ、種々とそ
の権能を分けて働かれるわけなのです。その光明の分れの一柱ずつ、その分けられた権能の一働き
一働きが、神々と呼ばれているわけで、古事記などでは、各神々の働きがそのまま名前になって現
わされているのであります。
あめのみなかぬしおおかみたかみむ
例えていえば、宇宙唯一神を、天御中主大神と申し、その陰陽の働きの分れを、陽の神を高御産
すびかみむずび
巣日の神、陰の働きの神の名を、神産巣日の神、というように、その働きを御名にして、多くの神
々となっているわけなのであります。
そして、神界だけで働いておられた神、霊界まで働きを伸ばされた神、幽界にまで働かれた神、
肉体界にまで現われて働かれ、神去られた神、等々各種の働きをなされた神々が存在するわけで
す。日本中にある神社はそうした神々をお祭りしてあるので、各神社というのは唯一神の働きを各
自分けられて働かられた神々で、信仰深き人々の祈りによっては、そこに現われるのであります。
44
氏神様、産土神と守護霊守護神
この神々を細かく分けて説明しますと、その中に、その土地を守っておられる、氏神様という神
うぶすな
がございます。それから、一人の人間の誕生を見守っておられた、産土の神、という神様もござい
うぶすな
ます。ですからその人が生れた土地の神様は、産土の神であるわけで、次々と住居を変えたとすれ
ば、その土地土地には氏神様がいらっしゃるので、その守護の下にその土地に住んでおられるの
で、生れ故郷の産土の神と、住んでいる土地の氏神様とには常に感謝をささげていなければならな
いのです。
人間は自分独りで生きてゆけるような感じをもっていますが、両親や周囲の人々の恩恵は勿論の
こと、こうした眼に見えぬ神々の守護を常に受けながら生かされていることを知らねばなりませ
ん。そういう人間一人一人のために、私がいつも申しております、守護神、守護霊がその人その人
専属で守って下さっており、その人の感謝の足りぬところ、考えの足りぬところを、代って、神々
や人々に感謝して下さり、考えて下さって、不幸や災難を少く、天命を完うさせようとして下さっ
ているのであります。神


h




45
神と神々との説には、古事記によることがよいのでありますが、古事記にはあまりにむずかしい
名前の神々が多くでてまいりますので、かえって読者が興味本位にだけに終ってしまって、神のみ
心の真意に触れにくくなってしまう傾向にありますので、ここでは簡単にわかりやすく、神と神々
について書いてゆくつもりです。
いざなぎいざなみ
古事記では、伊耶那岐、伊耶那美の陰陽の神様が、国生み神生みをなさいますが、国土と神々と
わざ
を同列にあつかって生みのみ業をなさっています。国土も生命のひびき、神々も人も生命のひびき
という、そういう感じが、古事記には感じられます。事実、この地球は地球霊王の体でありまし
て、地球霊王の体の上で我々肉体をもった人間は生かされているのであります。
神は、宇宙大神を根幹にして、神界において働く神、神霊にまたがって働かれる神、神霊幽の三
つの界に働かれて、肉体界に影響を及ぼされる神と各種の働きがあるわけですから、肉体をもった
人間が、いきなり、唯一神とのつながりだけを求めても粗い波動の肉体界と微妙極まりない唯一神
のひびきとの間には、多くの波動の世界のへだたりがあって、容易にぴたりと一つになるわけには
ゆきません。そこに、その人その人にあった神々の守護があり、生れ変り死に変りして、遂いに
は、唯一神のひびきに全く一つになり得るまでに精妙な霊体になってゆくわけなので、一朝一夕
46
で、唯一神との一体化なぞできるものではありません。ものごとには、何事によらず、順序や段階
かみごと
があるもので、神事もその通りなのであります。
この宇宙はすべて波動の世界、ひびきの世界でありまして、神霊の光明波動と、物質の重い波動
とでは、その微妙さはくらぶべくもないので、物質波動に把われた、つまり肉体人間感に把われた
くう
想いでは、とても神我一体の境地にはなれぬので、釈尊は、空になれといわれ、頭脳を駈け巡る想
念波動に把われぬ訓練を弟子たちにさせたのであります。
絶対なる神は宇宙に遍満しており、人間の内部にも存在しているのでありますが、そう一口に簡
単にいうように、この神の実体を把握することはできません。口でいったり、頭で考えたりは易し
いのですが、実際に神との一体化ということ、内なる神を自己に現わしきることのむずかしさは、
古来から聖者賢者が生命がけの修業によって為し遂げたことで、生易しくできることではありませ
ん。そこで、絶対神と人間との間を取りもつ神々の必要がでてまいりまして、各神社に祭られてい
る神々の援助を人々は願ったのであります。
47 神と神々について
4s
にせ神さまとご利益
ところが、こうした正当な神々といつわって、幽身の生物たちが、人間に尊敬されたり、優越感
かみがみ
をもちたがったりして、現われてくるのです。そうした幽身幽身は、肉体身に近い波動をもってお
りますので、肉体人間の想いをよく見ぬいておりまして、肉体人間の喜こぶような利益を与えたり
するのであります。そこで、あの神様は御利益あらたかな神様だといって、幽身の実は人間より低
あが
い階層に住む生物を、神々として崇め奉ったりするわけなのです。
唯一神の絶対者としての神だけを信じ、その神のみ心を自己の行為として生きようとする、純粋
なる宗教者には、幽身の生物にたぶらかされるような危険はありませんが、現世的な利益は、その
信仰態度の中からは得られないのです。なぜかと申すと、神は崇め称えるものであって、神に求め
るものではない、という潜在意識がありますので、信仰によって、自己の現世利益があったりした
ら、自己の堕落のように感じるからなのであります。
大体、人間は神の分生命であって、神の末であるのですから、人間も神々の一員なのでありま
やしろ
す。人間の肉体は、神々の社と同じように、つくられたるものであります。しかし肉体を動かして
いる霊は、神の分れであり神なのです。その点、神社に祭られている神々と同じなのです。
やしろ
社より、中に祭られている神々が大事なのであるように、人間も肉体そのものより、内なる霊が
大事なのでありますのに、ともすれば、肉体の快不快、肉体の幸不幸ということのみに把われて、
霊性の開発ということがなおざりになってしまいがちなのです。
そこで、いずれの聖者も、霊性の大事さを説き、肉体に執着する想念から解脱せしめようと指導
していたわけなのです。この大宇宙は宇宙神のみ心を基として、宇宙経論、運行のために働かれる
無数の神々が存在するのであります。私共地球に住む者は、地球のみに重点を置いて物事を考えて
おりますが、地球の運命というものは、宇宙経論の一つの場として、神々によって運行されている
ので、地球人は、常に宇宙の運行に合わせて、自己の生活をなさなければ、神々の負担が増えるこ
とになるのです。
重大なる守謹霊守護神への感謝
ここでもう一度繰りかえして、神と神々の在り方を取り纒めて申してみますと、先ず、宇宙大
神、宇宙の運行経輪にたずさわっておられる神々、各神社に祭られている、古代からの神々、肉体
49 神と神々について
人間として生れて働かれ、昇天して人々によって神社の神と祭られた方、それに産土の神、各氏神
様ということになります。
私はこれらの神々との接触を、人間智で考えたのでは、かえって繁雑で効果のない場合のあるこ
とを知って、守護神、守護霊への全託ということを想ったのであります。私の申す守護神とは、そ
みたまおや
の人の御霊の祖としての守護神でありまして、その守護神は、その人の古い先祖を悟らせ磨いて、
守護霊として加護させ、その上の力として個人の専属として守護の働きをしている神であります。
やさ
易しくいえば、守護神は祖父母として、守護霊は親の立場で、人々を守っているのであります。
私はこの守護の神霊のことを、霊修業中にいやという程知らされ、一人の人間がこの世でもあの世
でも生きてゆく上において、これらの守護の神霊が存在しなければ、とても生きぬいてゆけるもの
ではない、ということを悟ったのです。
そして、あらゆる神々との接触も、人間相互の関係も、自然の運行との関係も、すべて自己の運
命にかかわる一切を、この守護神、守護霊におまかせしつくすことを実行したのであります。現在
人生指導にあたっているのはみな、守護の神霊の加護によってなされているのであります。
肉体人間の智恵や知識でわからぬことを、守護の神霊はよく知っておられて、自分たちの力で足50
りぬ時は、他の神々の力を借りて、その人の働きを助けてくれるのです。氏神様や産土様への御礼
もすべて、守護の神霊が、その人に代ってやって下さるのです。その人は只、ひたすら守護の神霊
に感謝をつづけ、世界平和の祈りをしていればよいのであります。
この方法を、私は神様から教わったのであります。教えてくれたのは勿論私の守護神であるわけ
です。私の守護神への全託行が成功して、私の天命がそうであったのでしょう、多くの人々に光を
与える役目になっていったのです。
そのうち、多くの神々が、それぞれの役目をもって、私との接触をはかられ、今では私の体は多
うつわ
くの神々の場となり器となって、世界平和達成の働きをしつづけているのであります。
そこで私は皆さんにすすめているのです。何をおいても、守護の神霊への感謝を怠ってはいけま
せんよ、守護霊様、守護神さまありがとうございます、と祈ることを忘れてはいけませんよ、とい
っているわけなのです。
なんのための信仰か

宗教信仰というのは、頭で知ることだけではないのです。知ったことが実になって、実行されて神







51
ゆかなければ、なんの効果もないのです。頭で知るということは、自分の歩んでゆこうとする道
が、正しい道であるか、誤った道であるかを知ることで、その道が正しけれぼ素直に実行してゆ
く、誤っているとわかったら、直ちに正しい道に歩みを変えてゆく、ということでなければなりま
せん。
ただいたずらに、なんの理もわからずに、神様神様と神詣でしたところで、なんのことはありま
せん。現世利益を得るためだけの神詣でなどは、実におかしなもので、過去世で徳を積んでおかな
ければ、いくら神様にお願いしても現世利益のあるものではありません。現世の利益というもの
は、過去世の貯蓄がそこに現われてくるものなのです。ですから、神様に現世の利益を願うなどと
いうことは、真理の面からいえば愚かしいことだともいえるのです。頼まずとても神や守らんとい
うのはそういう真理をいった言葉です。
では、なんのために神詣でをし、なんのために宗教信仰をするのかと申しますと、これは、神様
に自己の本心の開発をして頂き、正しい道を歩んでゆけるように、というためのもので、例えてい
えば、軌道を外れている車を、軌道に乗せて貰うための宗教信仰なのであります。
そういう正しい軌道に乗り、本心を開発してゆくにしたがい、その人の生活から病気や貧乏や不52
幸災難が、知らぬ間になくなってゆく、というのが、宗教信仰の本筋なのです。
ですから、いたずらに神社仏閣をお詣りしているから、その人が信仰が深い、というわけにはゆ
かみ
かないのです。もし低級な幽身にご利益の願いをして、過去世に徳を積んでもいないのにご利益が
かみ
あったとすると、それはその幽身への借財になるので、どうしてもその借りは必ず返済しなければ
ならなくなります。
そこで、やがて今迄繁昌していた店が急に駄目になってしまったり、思わぬひっかかりで店をつ
ぶしてしまったり、変な病気になったり、という、不幸災難がでてきたりするのです。
自然に徳をつんでいる世界平和の祈リ
やはり宗教信仰は正しくなければなりません。神社仏閣を詣でるにしても、自己の現世利益など
頼まずに、人類や国家の安泰、いいかえれば、世界平和のお祈りをして、感謝の意を表してくれば
よいのであります。そう致しますと、それがその人の徳となって積まれまして、願わずとても、そ
の人の現世利益となって返ってくるのであります。
人は常に他のための働きをすることがよいので、その行為が自ずと自己の徳となって積み重ねら53 神







れるのです。国のため、人類のためという祈りの日々は、知らぬ間に、その人が大きく徳を積み重
ねていることになるのです。そこで、私の提唱している世界平和の祈りなどは、いつの間にか、唱
える人が徳を積んでいることになるのです。なぜならば、世界人類が平和でありますように、とい
う祈り言葉は、そのまま人類愛の心の現われでありまして、なんのかんのと、自己の現世利益の頼
みごとをしなくとも、その人の前途は知らぬうちに開けてくるのであります。
世界人類の平和の祈りの後で、自己の願いごとをしてもよろしいのですが、願わなくとも救世の
大光明のひびきは、あなたの人類愛のひびきに合わせて、あなたの生活を明るいものにして下さる
のです。
この世に生きていて、現世の利益を願わぬ人はないのですから、現世利益を願うのも結構です
はす
が、そのために宗教信仰の本筋から外れていってしまっては困りものです。宗教のことを知りたく
て勉強をつづけるのもよいのですけれど、これがまた、知識の遊戯のようになってしまい、頭で知
ることだけが面白くなり、実行面はからっきし、ということになりかねません。そうかと思うと、
常識では考えられない、神秘なことに触れると、今度はその神秘のみを追いかけ廻わして、これも
はず
現実の愛とか調和とかいう、神のみ心の本質から外れた、宗教マニアのようになってしまう人々も
54
あるのです。
釈尊は神を否定しない
また誤った仏教信者は、釈尊が自己の外なる、神々というものから、内在する仏心開発の教えを
したことによって、神などというものは存在しない、人間自体が自己の仏を出せば、この世の中は
よくなるのだ、とか、深い悟りに入ったわけでもないのに、そのままの生活でよいのだ、そのまま
なのだ、と善悪混交のこの世を是認して、神への感謝などということは迷信である、というような
教えをする人もでてきているのです。
前に申しましたが、釈尊がなぜ、外面の神というものに想いを把われさせずに、内なる仏に観を
むける生き方を指導したかというと、その頃のイソドでは、蛇でも墓でもけだものでも、まつられ
たものをすべて神とみて、外部の神にばかり頼って、自己の神性をすっかり忘れてしまったよう
な、バラモン外道的信仰が広がっていたので、これではいけない、と釈尊は、人間に内在する仏心
開発に重点を置いて修業をさせたわけなのでありまして、決して真実の神を否定したのではないの
です。ただ真実の神を内在するものとして一度はその開発に観をむけるように指導したのでありま神







55
す。内なる仏心が開発すれば、自ずと宇宙の在り方がはっきりわかってきまして、神や神々のこと
が自ずと判然としてくるということを釈尊は自己の体験として知っていたのです。
そういうことで、釈尊.の法話の中には、仏菩薩や阿羅漢の他に、神霊の世界の様々な生命体の話
じん
がでてまいります。神という言葉も随分でてきますが、これは神霊あるいは霊人ということであり
ます。
一知半解の人は、釈尊の法話の一方だけを取り上げて、仏教があたかも無神論であるように説い
たりしているのです。
56
把われを放つことが第一
私は何事もそうですが、宗教信仰には特に把われが多いので、把われを放つように指導しており
ます。神は一即多神である、というと、すぐにどの神様がお力があるか、という問合せがあったり
しますが、本当は一即多神であるということだけを知っていただいて、何々の神、何々の神という
ように、いちいちその神の名にこだわらぬほうがよいと思うのです。守護神、守護霊にしても、何
々という名とは一切私は教えておりません。なぜかと申しますと、神々の名はその時々によって変
わるのでありまして、神道などでも、いくつもいくつも名をもった神様がいらつしゃいます。
ですから私は、すべてを、自己専属の守り神である、守護神様、守護霊様におまかせしておい
て、ただ、ひたすらなる感謝の生活をしていることがよいのだ、と申しているのです。むずかし
く、面倒くさいことが、深い宗教でもあるかのように思い違えしてはいけません。また、何々の神
ともっともらしい名がついているからといって、その神様が尊いわけでもありません。
信ずる側の宗教態度がどのようであるか、ということが、一番問.題になるのでありまして、その
人の想念のあり場所によって、現われる神の高低がきまるのです。神の高低などというと、神様に
も高い低いがあるのですか、ときっと疑聞が起ると思います。それは人間世界の高低とは勿論違い
はありますが、宇宙神の一番近いところからの光明を発しているか、離れたところからの光明かと
いうことで、神の高低がきまるのであります。高低というと一寸当らないかも知れませんが、この
世的にあてはまる言葉がないので、一応そういう表現になります。
神様にも強い光明を発する神様、柔かい光明を発する神様、というように光明の種類や強弱が違
いますし、働きの範囲の広い神様や狭い神様があります。しかし、そういう神々ではない、もっと
ずっと低い階層の霊魂や幽波動の生物が、かなり神々のふりをして、人間の信者をたくさんもって神







57
おりますので、この点を十分注意する必要がある、と私は常に申しているのです。
にせ
そこで、そういう贋神に取りつかれぬように、いつも自己専属の守り神である、守護神守護霊の
加護を頼んでおくことが大事なのです。頼むというより、頼まれずとも守っていて下さるのですか
ら、常に守っていて下さることを感謝しつづけていればよいのです。
58
忘れてはならないこと
守護の神霊への感謝行がどれ程大事なことか、私は心の底から知っております。このことは忘れ
てはならぬ大事な大事なことなので、口をすっぱくして、いつも説いているのであります。守護霊
様、守護神様ありがとうございますだけでもよいのですが、それで心のすまぬ人は、神々様ありが
とうございます、大神様ありがとうございます、を加えて祈ってもよいのです。
要は神への感謝が深ければ深い程よいということになります。神への感謝、そして万物への感
謝、それに出来事、事柄についての感謝、その出来事、事柄のよい時、悪い時にかかわらず、感謝
できるようになればたいしたものです。
そこに、私の説いている、消えてゆく姿で世界平和の祈りの行が必要になってきます。現われて
くる出来事事柄は、すべて過去世の因縁の消えてゆく姿、消えてゆくにしたがって、本心から発す
る、よい運命が現われてくる、というのです。その消えてゆく先は、世界平和の祈りによって、救
世の大光明の中で、消していただくということになるのです。
この世は自己の想いの置き場所によって、どんなにでも幸せになり得るのです。常に常に世界平
和の祈りによって、自己の想念を神の大光明世界に置いておくことを、日々瞬々行じていて下さ
い。その人の運命は必ず良くなってゆくのであります。
59 神と神々について
60
神の愛について
生命探究の心を培おう
神など存在するわけがない、という唯物論者の頭ほど不思議なものはない、と思うのは、あに私
のみではありませんが、神の存在は信じながらも、神の愛を信じていない人のいるのも困りものだ
と思うのです。
どんなに早く両親に死に別れた人でも、自分には親は存在しなかった、両親によって自分は生れ
たのではない、といい切る人はいないはずなのに、親の親の一番根元の大親様であるべき大生命、
いいかえれば神の存在を否定する頭脳の在り方というものに、不審を感じないのが私にはおかしい
ことなのです。
人間には生命がある、この事実を知らぬ人はおりません。生命がなければ生きられぬということ
は、誰にもわかっていることです。それでいながら、真剣に自己の生命に感謝をしている人は少い
ようです。人間にとって生死ということほど大事なことはないのですが、その生命というものにた
いする探究心が足りないのです。
たんに生命があるから生きている、というそれだけの感じでは、とても人間性の深さがわかるわ
けがありません。生命のことや肉体のことは医者や科学者の考えることであって、自分たちのあず
かり知らぬことだ、と日々の生活にだけ追われている人々が多いようでは、人類の進化はあり得ま
せんし、勿論、自分自身の進化向上もありません。生命が肉体だけのもので、肉体が消滅してしま
えば、生命はそのまま無に帰してしまう、というようなことでなんの疑惑ももたずにいるという、
生命軽視の想いの人たちが政治家であったり思想家や学者であったりするのでは、人類の進化は今
のままでストップしてしまうに違いありません。
永遠の生命というものを思想的な永遠の生命とし、個人個人の思想が永遠の生命の中に記録され
るのみで、個人個人の生命が個々の意識をもって永遠に存在しつづける、ということを否定してい
るのは、今日ではもはや古い考え方なのであります。個人個人の生命は肉体離脱後は更にいきいき
61 神の愛について
と大宇宙の各階層において、生きつづけ活躍しつづけているという事実を進歩した人々はよく知っ
ているのであります。
人間は個性をもって永遠に生きつづける、ということがわかってきますと、今日世界にはびこっ
ている唯物思想というものは消滅してしまうのですが、生命は肉体のみにある、という考えはなか
なかなくなりそうもないのです。世界の学者や指導者層の人々の頭脳に神が存在しないということ
は人類にとって非常に不幸なことです。
現在の日本の学校教育などは、実にひどいものでありまして、生命が神からきているものである
ことなどは勿論、親や師にたいする礼節の何かさえも教えられず、ただただ自己の肉体にまつわる
自我を拡張させる教えにのみ終始しているのであります。
人間というものは、すべて、縦に神、祖先、両親、横に兄弟、知人、社会、人類、というよう
に、縦横のつながりによって生きているのですから、この事実をないがしろにして、横だけに働き
かけ、横の生活だけを唯一のものにしていたのでは、どうしてもそこに片寄った平衡性を失った生
活になりますので、そういう在り方で社会運動をしたり、世界政策を行いますと、必ず敵味方に分
れてしまって、争いが起るのであります。62
なぜかと申しますと、縦のつながりである、神のみ心の大調和精神に心を合わせておりませんの
で、縦横の本来のバラソスが失われ、片寄った宇宙観、世界観の上ですべてが行われてしまうから
なのです。人間の生命というものは、神(大生命) の流れを常に充足しながら生きることによっ
て、いきいきとするのでありますし、人間の智慧というものも、神の叡智の流れによって、道を誤
たぬ智慧となりますので、神からの流れを拒否していて、善い生き方、正しい智慧を得ることは絶
対にできないのです。
そこで私は、唯物論的世界観、人生観による生き方は、個人的にしても、社会人類的にしても、
正しい生き方にはならぬ、そこには必ず争いや破壊が行われる、というのであります。まさにその
通りに今日までの世界は動いてきております。
物質生命観をこえねば
以前には、地球原始大気の熱い水蒸気と地下から噴出したカーバイドが反応して、炭化水素が生
じ、それがもとでしだいに複雑な有機化合物アミノ酸、タンパク質が生じた、ということから、物
質から生命が生れたことを発見した、とソ連の科学者オパーリンが発表しました。これによって生63神






命の起源がわかった、と唯物科学の勝利を各科学者が謳っていました。そして近来では、遣伝子の
中のDNAタンパクを人間の力によって作ることができる、ということで更に、人間が物質から生
命をつくる方法につき進んだ、と声を大にして、物質から生命が生れるということを叫んでおりま
す。私はこうした科学者の絶えざる努力研究は尊いことである、と大なる敬意をはらうものであり
ますが、物質から生命が生れるということは大きな誤りであって、こういう誤りの方向に科学が進
んでいる限りは、人類が神に帰一することも、人類が叡智をいただいて、地球の大調和を実現する
こともできないと確信するのです。
神という言葉を嫌う唯物論者にとっては、大生命から分れた小生命が人間であるといっても、や
はり大生命も小生命もみな物質ということになるのでしょうから、私どものいう、神である大生命
という観念を唯物論者はもつことができないのでしょう。しかしよくよく考えてみて下さい。この
人間のような素晴しい智慧能力をもった人間が、たんなるタンパク質や物質から成り立つというこ
とがあるものでしょうか。そういう物質から人間生命が生れたという考え方の中に、どうして人間
生命の尊厳性が認められるでしょうか。物質の中から生れた人間に尊厳性などみとめられるわけが
ありません。愛するということなどは、たんに物質と物質が結びつくということではありません。64
心と心とが通い合うことです。心とは物質ではありません。宇宙大生命(神) の本源から流れてく
る光のひびきであります。縦横十字交叉の中心の働きが心なのです。
この心が縦に向って動けば、宗教心となり、横に働けば科学心となるのでありまして、科学の道
は、神の法則を現われの世界から徐々に発見してゆき、人類と大宇宙との調和の在り方を成就しよ
うとしてゆく道なのであります。DNAタソパクを合成できたということで、物質から生命を生み
出すことができるなどという浅薄な考えではいけないのです。
事実は、タソパクから生命が生れたのではなくして、生命の流れがタンパクを運動せしめたとい
うことであり、生命の流れが、DNAをつくり出しているのであって、すべては神(大生命) の物
質ならざる霊性の働きが根元になっているのです。私の宇宙子波動生命物理学から簡単にいえば、
活動している宇宙子の数が多く、静止している宇宙子の数の少い融合合体が精神になり、その反対
が物質となるのであって、ともに、宇宙心、神のみ心の働きかけによるのであります。
人間のいっている精神も物質も、ともに神のみ心、大生命波動によってつくられているのであり
まして、その働きかけがなければ何一つできあがらないのであります。科学者はその法則を少しつ
つ発見して、人類生活に役立てているに過ぎないので、人間が物質から生命を生み出すなどという神






65
考えは、俺は両親から生れたのではなく、一人で生れたのだぞ、といっているようなものなのです。6
霊的生命観こそ真の生命観
神がなんの報いも要求せず、人類に生命を与えつづけているという大愛を忘れて、人類が独り立
ちしているという錯覚を起していることは、やがて自らの滅亡を招来する最大のミスなのでありま
す。
両親があり祖父母があり、曽祖父母あり、それを潮っていった時、最後に一体何があるか。大宇
宙が残り、大宇宙を形づくっている大生命が残り、その大生命の中に始祖は吸いこまれていってし
まいます。いい変えれば、大生命の中からわれわれの始祖が生れ出たということであって、われわ
れの始祖は神の生命の分れであるということになります。こう考えますと、生命は大生命(神) の
中からきていることは確かであり、その大生命は、物質ではなく、自由自在心である霊なる者であ
るということになります。
こういう真理を知らないで、人類の幸福を生み出そうとしても、これはどだい無理な話でありま
ほきゆう
す。人類は絶え間ない神の生命の補給により生存していられるもので、神の生命の補給が止まれば
死滅してしまうのであります。肉体が死ぬということは、神の生命の流れが、神体、霊体、幽体、
肉体というように流れていたものが、幽体あるいは霊体までで流れを止め、肉体に生命の流れがゆ
かなくなったということでありまして、肉体の諸機能が止まるということは、その結果なのです。
唯物的な考えのように、肉体の諸機能、つまり心臓が止まったから死んだ、というのは、生命の
流れが肉体に及ぼさなくなったその結果なのであります。生命とは本来光り輝やくものです。です
から、神を信じ、神と一体の心で生きております人は、肉体死後においても神霊の世界でいきいき
と生きつづけるのでありますが、神の存在を信ぜず、死後の世界を信じない唯物論者には住む世界
うごめ
がなくなってしまい、真暗な中で重なり合って蚕くだけの生活しかできなくなり、自己の思想の誤
りを認めるまで、そうした苦しみをつづけるのです。
人間は、自己の想念によって自分の世界をつくり出すのでありますから、肉体以外の生命の世界
を認めぬ想念の人には肉体界以外の世界はないので、虫のように蚕く生き方よりできなくなるので
あります。
67 神の愛について
6S
神の愛をくみとろう
神は法則の神として、宇宙大生命として、人類生命の御親として存在し、生命エネルギーを供給
して下さり、その運命の道は人類自身の自由に任せているのでありますが、人類としては、神の法
則の通りに生きないと、どうしてもその運命にゆがみができ、不調和な悪や不幸や災難の渦巻く世
界をつくりあげてしまうのです。神様のほうは、そういう人類の運命をご存知ですから、各個人に
守護の神霊をつかわして、人々の運命の修正をなさしめ、宇宙大生命の法則に乗せきろうとなさっ
ているのであります。
釈尊やイエスや老子等、古来からの聖賢はみな人類救済の守護の神霊のこの世への現われなので
す。個人個人の守護の神霊は個人個人の運命の修正に全力を挙げておりますが、唯物論者のよう
に、神の存在を否定している人々は非常に守りにくいのです。しかし、どんなに神を否定し、神に
そむく行為をしても、この世の親が子を想うと同じように、自己の霊身にその人の汚れをひっかぶ
って、その人を大生命の法則に乗せようと働きつづけているのであります。それは肉体にいる間
も、幽界で蚕くような状態にあっている時でも、あらゆる手段で、神の光明の道に運び入れようと
働かれるのです。
まして、神の存在を信じ、少しでも神の道に近づこうとしている人々のためには、守護の神霊は
喜んで援助の力を差しのべているのであります。私がいつも申しているように、守られている人が
とき
睡っている間中も一時刻も離れず、この人を浄め、見守りつづけているのであります。
もしこの人類に守護の神霊の援助がなく、肉体人間としてだけの、知恵才覚のみで生活していっ
た時は、個人も人類もやがては滅亡してしまうことは、火を見るより明らかです。それは今日の世
界情勢を観じ、個人個人の想念の在り方をみれば、自つからはっきりわかります。そういう日の来
ることを憂いて、イエスキリストは、自らの肉体を十字架にかけての大犠牲者となって、人類の滅
亡を防こうとなさったのです。「
私は私に与、兄られた天命として、守護の神霊の存在を説き、各個人は常に守護の神霊に守られつ
づけているのだから、自己や自己の周囲に起る様々の不幸や災難や、自己の感情を乱す出来事、自
己への不信感等々を、過去世の因縁の消えてゆく姿として、守護の神霊の加護の中に入れきってし
まいなさい、そのためには、消えてゆく姿で、世界平和の祈りをなしつづけなさい。朝に夕に守護
の神霊の加護に感謝し、世界平和の祈りの中で、日常生活をしてゆきなさい、と説きつづけている神






69
のであります。
70
守護の神霊と天地の経論
守護の神霊のことは、守護神、守護霊と分けて、拙著「神と人間」にくわしく書いてありますか
ら、それを参照してごらんになるとよいと思いますが、人間には、肉体身として両親や祖先がある
と同様に、霊魂としての親や祖霊というものがあるのでして、何人といえど、一度び肉体に生れる
場合には、祖霊の中の誰方かの分霊魂として生れてくるのであります。ですから守護の神霊の中心
いと
者は、自身が守っている肉体人間を、愛しの我が子よ、というような呼びかけをしてきます。この
世的な親子とは勿論すべての上で違うのですが、正守護霊や正守護神にとっては、肉体人間は魂の
子供であるわけなのです。守護神が祖父母、守護霊が父母と思ってもよいわけなのです。しかしあ
くまでこの肉体界の親のように、情に流されて、生命進化の本質をないがしろにするようなことは
ありません。
ですから、生命進化のために、肉体的に苦しんだほうがよいと、守護の神霊が思われる場合に
は、その霊魂の耐久力のつづく極点まで、肉体身としての苦労を与えることもあるわけなのです
が、その霊魂(肉体身心) の耐え切れぬような苦労は絶対に与えることはありません。しかしなが
ら、常に自己の進化に逆行しようとして、我欲を出しつづけている人々は、自らが苦しみの渦巻き
に突っこんでいってしまうので、この苦しみを救うのには、守護の神霊も大変に苦労するのであり
ます。
大宇宙は常に絶えざる進化をつづけておりますので、地球人類もそれにともなって、これまた絶
こう
えざる進化をつづけなければならぬようにできております。その大きな進化の段階を仏教では劫と
いっているのでありまして、一劫二劫と今は七劫にさしかかっています。
七の数をもった劫というのは、人類が、大きな進化を遂げざるを得ないという時期であることを
示しているので、好むと好まざるとにかかわらず、神々のみ計いは、地球人類に大進化を遂げさせ
るように仕向けてきているのであります。こうした宇宙の神々の経倫に合わせて、肉体人間守護の
神霊方も、急速に被守護体の進歩向上を計って種々と働かれているのでありまして、大宇宙の運行
にたつさわる神々、地球人類の進化促進を計って働らかれる神々、直接個人個人の進化を計り、一
さわり
瞬の障もなく守りつづけておられる守護の神霊の方々が、今や一体となられて、七劫の計画を大き
く進めてゆかれているのであります。神






71
この地球の運命は、単に地球だけのものではなく、大宇宙の運行に常にかかわりをもっているの
さわり
でありますから、大宇宙の運行進化に障擬のある場合は、その障は自然消滅してゆくようになって
いるのです。そこで私はいつも、大宇宙の法則に乗って人間は自己の生活をしてゆかなければなら
ぬ、大宇宙の法則とは大調和なのだから、自己の正義を主張するのあまり、調和をこわすような想
念行為をしては、それだけ自己のためにも人類のためにもマイナスになるのだよ、と説いているわ
けなのであります。
72
安心立命の道ここに
肉体人間としては、ただたんに、自分たちの肉体生活が不安なく満足にゆけばよい、と思ってい
るでしょうが、事実はそんな単純なものではなく、常に大宇宙の経論の下に一瞬一瞬が過ぎていっ
ているのです。考えてみますと、どのように富有でありましょうとも、高い地位にありましょうと
も、大天変地変がくればひとたまりもありません。核戦争にでもなれば、これも貧富の関係など問
題でなくなります。そのように、肉体人間の不安はこういう根源の問題の解決がなされねば、いつ
でもつきまとってまいりまして、安心立命の生活ができるものではありません。
真実の安心立命というものは、神のみ心の中にすっぽり入りこんで、自己が意識的に知る知らず
にかかわらず、大宇宙の法則に乗りきって生活してゆくことによって生れでるので、他の方法では
絶対にこの境地に入ることはできません。自分は神仏の懐に抱かれている、神仏にすべてを任せき
っている、という境地こそ、安心立命の境地なのでありまして、この境地の人々は、肉体死後の生
活もいきいきと安らかな生活ができるのであります。
わけいのち
なぜならば、人間はすべて神の分生命であって、本来は神のみ心の中にあるものなのですから、
神のみ心に任せきっていることが、大調和そのものなので、そこにはなんの不安も不満も不調和も
あるわけはないのであります。
いかに現象的に頭がよいとか、知識が豊富だとか申しましても、大宇宙の神秘不可思議なる実体
からみれば、まるで問題にならぬことで、生半かの知識よりも、素直に神のみ心に自己をゆだね
て、その場その場の環境で真剣に働いている、という人のほうが、智慧の必要な時、物の必要鶴
時、その人に必要なものは自然と神のほうから与えられるようになっているのですから、自己を誇
ることもなく、人をさげすむこともなく、ただ、ひたすらなる神への感謝で生きつづけられるの
で、こんな安心なことはないのです。神






73
浄土真宗の妙好人などは、みんなこの形であったわけで、わが会にもそういう人はたくさんおり
ます。人間には肉体の頭脳より、もっとはるかに精妙にできている霊的な頭脳があるのですから、
その霊的な頭脳を、時あるごとに働かせ得るようにしておけば、この世の唯物学者先生など及びも
つかぬ大智慧がさつかるのであります。私どもはいつでもそういう智慧能力で生きておりますの
で、人の名前など聞かなくとも、その人の人柄や性質運命などがわかり、事件事柄などもわかり、
宇宙の運行などもわかってくるのであります。ちょうどそれは、肉眼では見えぬテレビがあって、
それに全体が映ってくるようにわかるのです。これは、そうした立場に立たぬと、説明だけではわ
かりにくいものです。
しかし、人間は誰でも、この世のテレビジョソと同じような肉眼肉耳を超えた、超テレビジョソ
を持っているのでありまして、神のみ心に素直になり、常に自我欲望を祈りの中で消していただい
ていれば、誰でもそういう能力になり得るのです。なぜならば、人間は本来そういう世界で生きて
いるものであるからなのです。
守護の神霊という者は、肉体人間ができぬ超能力の世界に住んでおりますので、守っている肉体
の運命は手に取るようにわかるわけで、なんとかして、肉体的精神的苦しみを最も少くしながら、74
生命の本質を悟らせ、大宇宙の法則に乗せきろうとして、自身の身にかえて守りつづけておられる
のですから、肉体人間側は、それこそ寝てもさめても唱名念仏すべきものなりという、真宗の教・兄
方のように、寝てもさめても、常に守護の神霊への感謝をしつづけているべきなのです。
そう致しますと、守護の神霊方は非常に守りやすくなり、労少く効果をあげることができるよう
すみ
になり、その人自身速やかに神との一体化を得ることができ、安心立命の生活に入ることができる
のであります。
幸いなる恵まれたる神の子たち
なんにしても、この世においても、あの世においても安心立命して生きてゆけるのでなくては、
本物というわけにはまいりませんので、この世の少しぐらいの苦労など問題にせず、常に守護の神
霊に守られつづけているのであることを、自己にいいきかせて、安心して生きてゆくことが大事で
あります。
あの世にいったご両親や祖父母やご先祖方が、子孫であるあなた方の運命を平気な顔でみている
わけがありません。いつでも子孫であるあなた方の幸せを祈っていることは間違いありません。そ神






75
ういうご両親や先祖方の心を心として、守護の神霊方が力一杯あなた方を守りつづけていて下さる
のですから、守護の神霊の存在を知らされた人々は幸せだというべきなのです。
神も無い、仏も無い、まして守護の神霊の守りなど、てんから信じない唯物論者こそ哀れむべき
存在なので、この人たちは自分の肉体消滅後の苦しみにどう耐えてゆけるか、私は時々未来そうな
るべき運命の人たちをみて、思わずその人たちの開眼を祈らずにはいられなくなるのです。
76
幸いなるかな神仏の存在を信ずるもの。
まして、守護の神霊の絶え間なき加護を信ずるもの、
その人たちは恵まれたる神の子なのである。
私は一人でも多くの人に、守護の神霊の加護の事実であることをわからせ、神々と人間との親し
い交流によってのみ、地球人類の進化がなされ、地球人類の完全平和が達成されるのであること
を、私や私の同志たちの多くの体験をもって知らせてゆきたいと切望するものであります。
世界人類が平和でありますように
自分を愛し人を愛す
自己愛と祈リ
白光の教義に、自分を愛し人を愛す、という言葉がありますが、普通の正しい言葉としては、人
を愛しということは勿論いわれていますが、自分を愛す、ということを教えているところはありま
せん。
むな
自己を空しくして人を愛せ、とか、自己を犠牲にして人を愛す、とかいう言葉が道の言葉として
あるわけです。ところが実際の社会生活においては、自己をむなしくしたり、自己を犠牲にしたり
して、真実人を愛する人というものは、そうざらにあるわけではありません。そうたくさんあるこ
とではないので、そうした自己滅却の行為や、自己犠牲の愛の行為が人の心を打ち、美談として世
77 自分を愛し人を愛す
に残るのであります。
多くの人のでき得ない善行をする、というところに人を感動させるものがあるのでありまして、
誰でもできることをしたのでは人は感動しないのです。人間の心というものはなかなか複雑であり
ますので、自分もそういう立派な人間になりたい、という想いを一方で持ちながらも、自己の感情
の動きや、生活上の損得問題が、愛の行為や犠牲精神を抑えてしまって、実際行動にうつせなくし
てしまうのです。
おの
そこに自ずと偽善行為というものが起ってくるのであります。偽善行為とは、心からその愛の行
為をするのではなくて、世間体を考えて行ったり、自己を人々から善く思われたい、自己を善くみ
せたい、という自己本位の想いからするのでありまして、真実に相手を愛し、相手のためだけを思
ってする、という行為ではないのです。自己の本心をいつわり、他の人の心をごまかして、人の眼
には善行為とうつる行為が、偽善行為であります。
こういう人は宗教団体に入っている人などには特に多いのでして、言葉だけは実に真理の言葉そ
のものでありながら、その行いは真理に反することおびただしい、という人や、真実は愛の心でも
なんでもないのだが、自己の立場をよくするための善行為、人気取りのための善行為などもそうで7s
す。こういう偽善者は、悪を行う人や善いことを何一つしない人々よりはよいでありましょうが、
その人自身のためには非常に霊魂の進化を遅らせる行為でありまして、常に本心をくらましていま
すので、魂は一歩も進歩してゆかないのです。そういう想念の習慣がつきますと本心を開発する努
力を怠ってしまいまして、悪いことをして罰を受け、悔い改めてやり直し真実の道を直進し出した
人より、心の進歩が遅れてしまうことがあるのです。
それは常に、自分は善いことをしているのだ、と自己にいいきかせて、本心を蔽いかくして自己
満足をしていますので、同じ階層をぐるぐる廻わりしているのです。そしてその階層というもの
カルマ
は、いつでも業想念の自己愛の段階なのであります。こういう想念の習慣性をもった人がこの世を
去ってゆきますと、あまりよい境界にゆくことはありません。自我と自我とのぶつかり合う、身動
きならぬ状態の世界に住みついてしまうのです。
ただし、こういう想念の人でも、真実の祈りをしつづけていますれば、いつの間にか、そういう
偽善的想念の世界からぬけでて、真実愛行為のできる人間に進化してゆくのであります。祈りはす
べてを浄化してゆくのでありますから、この世もあの世も祈り心ほど尊い行為はないのです。まし
て、世界人類すべての幸福を念願として生れ出た、世界平和の祈りのような、広い人類愛の祈りを自








79
祈りつづけていれば、何人も本心開発の道を発見して、真実の神の子人間として生きてゆくことが
できるのであります。
祈りとは、すべての業想念を本心の世界、神の世界で消滅していただく行為なのですから、すべ
ての想念行為は過去世の因縁の消えてゆく姿と思って、祈りを根底にした生活をしてゆけばよいわ
けなのです。
80
神の子の自分を愛する
ところで表題の、自分を愛し、ということなのですが、ちょっとみますと、自分を愛し、といい
むな
ますと、先程から申し上げている、自己を空しくするとか、自己犠牲とかいう精神と全く反対の自
こうしよう
己愛であり自我の心であるかと思われますが、これは業因縁の自分、業生の自分を愛する、という
ことではなく、自分の本心を愛する、ということであります。自分を愛し、人を愛す、ということ
はともに真理を愛し、神を愛する、ということなのであります。
人間はお互いが神の分生命でありまして、神のみ心のなかでは全く一つの生命なのであります。
業想念、業因縁というものは、人間の生命が、個別の肉体という物質体を纒った時から生じたもの
で、本来性のものではないのです。ですから私どもが人間と申しますときには、本来性の神の分生
命としての人間を第一に思うのです。そして、次に現われては消えてゆく姿である、因縁因果の波
動である肉体人間を思うのであります。私どもの本体であり本心である神の子人間は永遠に消え去
らぬ本質でありますが、現われの世界にある幽体人間も、肉体人間も、或る時間的経過をへれば消
え去ってしまう波動体なのです。善悪貧富すべてこの世のものは肉体人間の死とともに消滅し去り
ます。
そして、肉体を離れた生命体は他の世界で、新しい境界において活動することになります。こう
いう世界が人間の世界には何重にもなっているのでありますが、その本源は神の大生命のなかにあ
るのであります。私のいう自分を愛しという自分は本源の世界の自分のことで、その自分というも
のは、本源の世界、神のみ心のなかから、ずっとこの世までつながっている生命そのものなのであ
ります。
そういう本質的な自分を愛することは、そのまま他を愛する行為となり、他を愛する行為をする
時に、その行為がそのまま自分を愛することになるのでありまして、真実に自分を愛することので
きぬ人に、なんで他を愛することができるでしょうか。真実に人間を愛するということがどういう
81 自分を愛し人を愛す
ことか、ということを知るためには、自分を真実に愛しきってみなければならないのです。自分の
生命を粗末にし、自分の精神や肉体を損うような行為をしていて、人のためとか、人を愛するとか
いっても、それは神のみ心に叶った行為とはいえないのです。
自分を愛するということは、自己の生命が神より分れたものであることを認識して、素直に正し
く生かしきることにあります。生命が素直に生きている状態というのは、精神に把われがなく、肉
体が欲望に縛られることがなく、自由自在に生きていられる状態です。自己の肉体生活の欲望を
充たすことや、単なる感情を満足させることが自分を愛する状態であると思ったり、人の感情や生
活を損わせても自分を守ろうとすることが、自分を愛することだと思ったりすることは誤りなので
す。
82
真実に自分を愛する人は… …
おの
真実自分を愛する人は、真理を生活に行じている人なのですから、自ずと本源において一つであ
るべき他の生命をも愛し得る人なのです。自分を愛することと、人を愛することとは全く一つの心
なのです。愛国心でも人類愛というものでも、他の人の生活を破壊するような行為をしながらで
は、真実のものであるわけがありません。
自己のヒロイズムに酔い、社会秩序を乱し人心を寒からしめて、国家や社会や人類を改善するの
だとデモ騒ぎをしている学生たちが、果して自分を愛し、人をも愛しているのでしょうか、真理に
対する無知から起る行動という他はありません。真実自分を愛することを知らない浅薄な想念感情
が、こうした暴動を起させるのです。
真実自分を愛する人は、人間の本性を探究してゆく心の強い人です。あらゆる欲望感情に把われ
ず、正しい真理の道を自己のものにしようとして努力するものです。ちょっとしたことにも憎しみ
の感情をもったり、自己の感情や思想に反する人たちや集団をみると、すぐに反感を抱いて立ち向
っていったり、デモったりするような落ちつかない精神状態は、自己をも他をも損うものであっ
て、人類平和をつくりあげる健全なる精神状態ではありません。
青年の愛国の至情がほとばしって、学生運動になったり、革命運動になったりするのであろう、
と思う人々がありましょうが、よくよく考えてみて下さい。現在の日本を二つにも三つにも分裂さ
せてしまったら、一体どうなるというのです。米国、ソ連、中共こう三つの国家群の紐つきになっ
て、どうして国家の独立が安全であり得ましょう。日本に今革命が起ったら、喜ぶものは日本国民自








83
ではなくて、ソ連であり中共であり北鮮であります。日本は革命を起した共産主義者やその手先の
学生たちのものでも、本来の日本人のものでもなくなり、中共やソ連という共産主義陣営の指導下
に置かれる哀れな状態になってしまい、言論の自由はおろか、職業選択さえもできない、自由を縛
られた状態になってしまい、以前の日本を恋い慕う心で生きつづけなければなりません。
学生運動をしている青年も、若い社会共産主義者たちも赤い学者先生たちも、ソ連や中共が今日
までたどってきた道をみてごらんなさい。旧体制下の指導者やその同調者たち数百万の尊い生命は
無惨に消されているのです。そして革命に力をつくした人々も相ついで、その勢力争いの下に倒れ
ていっているのです。
親と子との愛情を断ち、子は親を訴え、兄弟相争わせ、ただ共産主義勢力というものの増強のた
めには、信義も愛情も恩恵もすべてを打ち捨てきってしまう、人間に非ざる社会がそこに現出する
のです。人間の感情を無視した、共産主義勢力という機関のなかに、単なる機械のごとく人間は働
かされつづけるのです。
そういう社会機構をつくるために、なぜ尊い若い生命をかけて、つくさなければならないのか、
私たちは不思議に思うのです。それが人を愛し、国を愛し、人類を愛している行為なのでしょうか。84
いな
否です。真実の世界がどうあるべきかを知らない無知と、真実に自己の生命を愛し、他の生命を愛
さない、愛の不足から起る行為が革命につながるすべての行為となってゆくのであります。
また一方、米国一辺倒の生き方というものも、真実国を愛し、人類を愛する生き方とはならない
のです。なぜならば、米国は大国という高慢さをもって、絶大なる武力という背景の下に、他国に
対しています。米国の武力をもってすればベトナムの共産主義など一ひねり、といった軽い気持で
はじめた戦争が意外に長びき、多大の自国の犠牲がはらわされたのです。今や米国は身動きできな
い状態に立ち至り、遂いに意を決してベトナムから手をひくことになったのです。
共産主義を育てる四つの条件

自国の権力維持と他国に対する愛の不足が米国を現在の苦しい立場に追いやったことは論を侯ち
ません。共産主義の侵透を防ぐための武力攻勢ということは、ある人々にはわかることかも知れま
せんが、武力態勢で共産主義が滅亡できると思う、滅亡できるとまでは思わなくとも、撃退できる
と思ったのは、米国が人間の心の動きを知らなすぎたことから起っているのです。
武力で叩くということは、物質を破壊することはできても、思想を破壊することはできません。自








85
昔各国でキリスト教徒弾圧をいたしましたが、キリスト教は滅びずに今日では世界の宗教の雄とな
っています。共産主義もそれと同じことで、いくら武力で滅亡させようといってみても断絶するこ
とはありません。
なぜならば、共産主義が育つべき土壌が各国にあるからです。それはどういうことかと申します
と、一に貧苦にあえぐ人々が各国に存在するということであります。二に生活が不平等ということ
であり、三に、真理を知らぬ無知なる人々が多いということです。各国すべてが富んでいれば、ど
うして共産主義が起るわけがありましょう。また、不平等な生活がなければ、これも共産主義の生
れる余地がありません。
わけいのち
最後に、人間は神の分生命であって、みんな一つの生命である。今ここに肉体として現われてい
る人間は、それは単に本源の世界の光をうつして、その光によって画いている一つの絵なのであっ
て、実在ではない。人間の真実の姿は、絵筆をもって画いているその老であって、自己の思う通り
の絵を肉体生活に画いているのである。肉体に善き絵を画きたいならば、自らが本源の世界の大調
和した心になって画くべきである。肉体や幽体のゆがんだ醜い姿を真実の姿と思って画いている愚
かさをやめるべきである。という真理を知ることができたら、共産主義にも何主義にも一切の対立
86
抗争の主義主張はおのずと消え去ってしまうのであります。
ですから各国の政治家たちは、自国の政策だけがうまくゆけばよいという考えでなく、各国の貧
乏というものをなくすための智慧ある行為をなすべきなのであります。ただ単に他国を自国の味方
にするために、金品を送るというような姑息な手段でなく、真実に平和世界をつくるための助力を
お互いにしあうことが必要なのです。そのためにはその国に足らざる金品を送るということも必要
ですが、科学力を与えることも必要です。
米国がもし、ベトナム戦に使っただけの金品や科学力を貧乏な国や低開発国に、無償の愛で送っ
ていたら、少くも現在より、米国の人気は上昇していたでありましょう。また中共などを敵とみな
いで、中共に足らざるものを喜んで送るようにしていたら、中共も米国の悪口ばかりはいっていら
れないことでしょうし、国内的にも米国憎悪の感情が薄らいでゆくことでしょう。すべて自国を愛
するように他国を愛して、兄弟姉妹として遇することが必要なのです。自国は大国だから、小さな
国は勝手についてこいでもいけないし、自国の自由にするためという意図をもっての経済援助など
も、自国本位の真実の愛でない、偽善行為なので、なんらの効果もないのであります。
大国は下流に立て、という老子の言葉ではないけれども、大国は常に小国の主張を受けて立っ自








87
て、小国の立ちゆくような援助をしてやることによって、小国は自然とその大国のいう通りに動く
ようになるのです。日本も大国の端に住するとするならば、そういう大度量な気持で政治政策を行
わなければいけないのです。
日本の政治家が、まず日本の国から貧乏人をなくする政治をしてゆかなければ、不平分子は絶え
ませんし、共産主義の策動が効を奏することになってきます。大会社に有利で中小企業には不利で
ある、というような政治体制も、やはり革命の温床となり得ます。
88
政治家がまず人格者になること
人間のなかには、常に不平不満をいいたい人たちがかなりおりますので、大きな不満にならぬよ
うに、革命思想の温床にならぬように国民に対してゆかねばならぬのです。金のかかる政治といっ
まとも
て、代議士や大臣になるのに大きな金がかかるようでは、とても正面な政治ができっこありませ
ん。金がかかるから、その金欲しさに法律に触れないように上手に金を集める、そのうちに法律の
外に足を踏みはずしていて、国民の前で赤恥をかく、というようなことでは、国民の信頼を得るこ
とはできません。
代議士諸公や、大臣各位が、国民の前で常に裸でいられるようなシステムにしなければ日本の政
治はとても立派なものにはなりません。保守系の大臣代議士の人格なべて立派であるとするなら
ば、再軍備とか武力増強とかいうまえに、国民が保守党を強く支持して、革命政党の温床の場が少
くなってゆきます。従って他国が侵略する隙もなくなってきます。
すべては真実に自分を愛し、人を愛し、国を愛し、人類を愛する、という愛一元の心から日本の
運命は開けてゆくのであります。愛のとぼしい心で、共産主義侵略の脅威を説き、軍備増強を説い
たところで、国民の心は納得することはありません。ただ、共産主義革命を恐れ、国を守る信念を
失ってゆき、その場限りの享楽にふけってしまう人間を多くつくってしまうだけです。
すべての国民がお互いに愛し合わなければいられない、という状態を、国の政治がつくっていか
なければいけません。代議士諸公が大臣各位があんなに身心を投げ打って国を守っておられるのだ
から、私たちも力を合わせて国家を守らなければいけない、という決意を国民にもたせるような政
治態勢にならなければ、今日の人類の危機を乗りきってゆくことはできません。
そういうことが代議士や大臣諸公の天命だからであります。ただいたずらに虚名を売るための政
治家ならば、その人の未来は哀れなものとなりましょう。宗教家が神のみ心のままに動くのが天命sy 自








であると同じように、政治家は国民の代表として、国民の利益と国家の運命との責任をもって生き
てゆく役目をになっているのであります。自己がその任にあらずと悟ったならすぐに退陣すべきで
あり、自己の他にその任に適するものがいないと思ったら生命を賭して、その任を完うしてゆく覚
悟を定めることであります。
その場その場をごまかして通してしまうような政治は国民の信頼を得るわけにはまいりません。
国家と国民に生命をあづけた気持で政治にたずさわってこそ、真の政治家といえるのでありましょ
う。なんにしても多くの人の代表として起つ以上は、自我を捨てて起たねばなりません。真に自己
を愛する気持で、自己の生命を多くの人々のために捧げつくす、という、真実の自己愛によっての
み、善き政治ができるのでありましょう。
90
大きい日本の価値
世界各国を巡ってきた人たちの話をききますと、日本ほど思想の自由を持ち、経済的繁栄を遂げ
ている国は少いそうです。表面的には日本が一番平和な国のようにみえる、ということですが、そ
れは単に表面的にそうみえるだけで、どこの国も、大国同志の権力争いにまきこまれてゆく危険を
相当に持っているのであります。まして、日本は米国とソ連と中共という三大国の最も欲っする地
形にあります。
米国にとっても、ソ連にとっても、中共にとっても、その工業力といい、地形といいその利用価
値はベトナムの比ではありません。どこの国にとっても日本は離し難い国であります。ということ
は、いざといえば侵略しても自国の自由にしたい、と思えるほど価値のある国なのです。ソ連や中
共が虎視胆々と狙っているのもそのためであり、米国が力にしているのもそのためなのでありま
す。
これをひるがえって考えてみますと、日本の在り方一つによって、世界が大きく動くのだ、とい
うことにもなります。世界を平和の方向に動かす強い力を日本が持たなければいけない、というこ
とは、こういう状態からも急を要することなのであります。
先程からも申しておりますように、中共やソ連の手先になって革命など起せば、日本はすっかり
自主性を失ってしまって、日本人は在って無きがものになります。日本の天命は永劫に果されなく
なります。といって米国の子分のようになって、米国の武力だけを頼りにしての反共政策を取って
いれば、やがては第三次大戦の火蓋は日本本土から切らねばならぬようになりかねません。自








91
共産主義の侵透を防ぐのは武力ではありません。武力でも一時は防ぐことはできますが、それは
地球壊滅という第三次大戦に持ちこんでしまうか、ベトナム戦同様の膠着状態に立ち至ってしまう
かして、不安この上もない状態になってしまいます。
要は日本国民の肚一つ、精神状態一つによるのであります。真に国民が日本を滅亡させたくない
のならば、枝葉の感情や思想はひとまず捨てて、世界平和の中心に日本をならしめる、という根本
原理を確立しなければならないのです。右にも左にも片よらない、世界平和を念願する、というこ
とを中心に、すべての活動をはじめることが必要なのであります。
私はそれを、想いを一つにして世界平和の祈りという運動にして宣布しているのです。細々とし
メンツ
た指導のことや、面子のことは後々どうにでもできることで、まずは世界中に戦争が起らぬよう
に、争いの波をなくするように、という運動を日本全土をあげて行わなければならないのです。
真に自分を愛するならば、一生一代の有意義な平和運動に自己の全力を挙げてもよいではありま
せんか。真に日本を愛するならば、日本を他国の侵略に任せるような、革命運動や暴力運動に、国
民をまきこんではいけないのです。といって右翼の再軍備のように、日本を守るということを、武
力第一主義に考えることも危険なことです。92
そういうことよりまず、国民の誰でも日常生活そのままでできる、祈りによる平和運動を大きく
広げてゆくことが意義あることだと思うのです。少年も青年も壮年も老人も、みんなそのままの環
境にあって、世界の平和を祈る明け暮れの生活、日本の平和を祈る明け暮れの生活は容易にできる
ことなのであります。
世界平和の祈りのひびきが、家々にひびきわたり、家々の軒に、邸の塀に、世界人類が平和であ
りますようにのポスターがはられ、ラジオやテレビから、絶え間なく世界平和をひびかせる音楽が
奏せられているようであったら、世界各国のジャーナリストがそのまま捨てておくわけがありませ
ん。各国の新聞や雑誌やテレビやラジオに取り上げて、日本の実体を報ずるでしょう。同調する団
体や国々が各所にでてまいることは必定なのです。こんなにも日本は平和を愛しているのか、とい
う世界の声は、いやでも日本を世界平和の中心国として仕立てあげてしまうのです。
そうするより他に、今の日本が真に世界のために大きく働ける方法はないのです。そのためには
枝葉の思想感情はひとまず置いて、この運動を推進してゆくことが大事なのであります。
93 自分を愛し人を愛す
94
愛とい卸つこと
愛の行者
愛については、何度でも書いておりますが、この愛のことについては、何度びでも話し合い、お
互いに愛深い人間にならなければいけない、と私は常に思っているのです。愛と執着との相違、宗
ヘへ
教的な放つ、ということと冷淡ということとの違いなど、真実の愛を行じつづけることのむずかし
さは、並み大抵のことではありません。
可愛いいから愛する。好きだから愛する。こういう愛し方も確かに愛の一つの現われではあります
が、その心の裏がわには常に憎しみとか冷淡とかいうものがかくれております。それから真実の愛
はず
から少しでも外れると、執着という想いに悩まされたりします。母親が子供を愛する。男性が女性
を愛する。これはすべて愛ではありますが、その根底の心がどこにあるかによって、その愛の価値
が定まってゆくのです。
人間が果して神の子であるか、動物であるか。人間は勿論、霊的には神の分生命であり、肉体的
には動物性であるのですから、神の子の性と動物としての本能とが交ぜ合っております。それでな
いと、この物質地球界に肉体人間として生存してゆくわけにはまいりませんので、そういう状態に
なっているのです。
ですから肉体をもった人間の中には、神そのものの人間というものは存在しないので、いかなる
偉大な覚者でも、物質波動、つまり肉体という形の世界に制約されるのであります。もし自分自身
の肉体というものには制約されぬとしても、人類という全体の物質性、肉体波動のすべてを超える
ことはできないのです。肉体人類の不自由さを、自己の身心にかえて、どれだけ自由になし得る
か、ということが、覚者聖者の為すべきことであって、それをいいかえれば、地上天国をつくりあ
げるための働きをしているのが、聖賢たちであり覚者たちであるということになります。こういう
人たちは、常に真の愛を行じつづけている人々でありまして、愛にまつわる執着ということも、放
つということによる冷酷の想いも少しももたぬ人々で、肉体人間として生活している自己をすべて
95 愛ということ
むな
空しくして、神のみ心をこの地上界に現わそうとしているのです。
だからといって、カチカチの堅物というのではなく、一般人との想いの交流も自由にでき、常人
の笑う話に笑い、涙する事柄に涙する、という、この世の人との一体観をもっているのです。神の
光明を身心に充分に有しながら、地球界の肉体波動、物質波動に同化して、その交流によって、こ
の世を光明化してゆこうとして働いているのが、いわゆる聖者賢者なのです。自己の心境のみを案
じて、市井を離れて山に住む、というのは、自分を愛する心だけで、愛が他に及ぶまでに至ってい
ない小聖なのであります。
しかし一般の人々というのは、常に自己を愛することがまず先になる人が多いのであります。こ
の場合の自己愛は、本心本体(神)を愛するというのではなく、自分の欲望の満足を計る想いのこ
とであります。普通ではこうした自己愛が主になった、愛なのでありまして、真実相手の本心を現
わすための愛とか、本質を現わさせるためのもの、とかいうのではなく、動物的本能を言葉や態度
で美化して表現しているに過ぎないのです。そういう愛が執着となり、憎しみとなったりするので
あります。
96
〃愛〃を考え直そう
母親が子供を愛する愛などは、本質的には純粋であるのですが、子供が大きくなるにつれ、子供
の本質をみぬくよりも先に、自己の欲望を達成させるための、自己愛の延長として、なにやかと世
話をやき、形にはめてゆこうとする傾向が多くなってゆきます。我が子というものを、神からおあ
つかりしたもの、社会国家人類という大きな生命体の一つの生命、というような、大きな考えから
育ててゆくのではなく、ただ単に我が腹を痛めた子、自分たち夫婦がつくったもの、という小さな
範曜に我が子を置いてしまうのであります。
こういう小さな考えのもとに育てた子供が立派な人格者になるわけがありません。小さな自分勝
手な、利己主義的な人間になってしまうに違いありません。なぜかと申しますと、育てる親の心が
神を愛する想いも、人類愛の想いもなくて、ただ、自分と自分の分れを愛するという、天にもつな
がらず、地にもつながっていない、宙ぶらりんの自己愛、ほんとうに小さなエネルギーの蓄積だけ
の生き方でしかないのですから、大生命エネルギーの供給をいただけないことになってしまいます。
真実の愛というものは、縦には神とのつながり、横には、小生命と小生命のつながり、というよ愛





97
いのち
うに、生命と生命が交流しあうことでありまして、お互いの欲望と欲望が通じ合ったり、肉体と肉
体が一つになったりすることではありません。親が子を愛するのでも同じことで、自己の欲望を充
足させるために、子供を大学に入れ、成績をあげさせるための教育ママになったりするのは、その
子を真に愛している心より、自己の欲望を愛する、ということになるのでありまして、もっと根本
的な愛の心というものを考え直さなければいけません。
まず赤ちゃんがお腹の中にいる時のことから考えて下さい。どうして赤ちゃんがお腹に宿ったの
でしょう。そりゃあ、精子と卵子が結合したからだ、というけれど、精子でも卵子でも人間自体が
つくったものではありません。なにか不可思議な力がそこに働いて、赤ちゃんという生命をお腹に
宿した、というより他に言葉はありません。不思議でもなければ神の力とかなんとかいうのでもな
い、という人があったら、自分自身もう一度、自分の力で赤ちゃんとして宿ってきてごらんなさ
い。そんなことができるわけがないでしょう。人間の誰にもできないことを、無限といいたいほど
の数をつくりあげている大自然の力というものは、いくら尊敬しても崇めても足りない尊いことで
す。
人間には一つの生命さえつくりあげられないのに、大自然(神) は無限の生命をこの宇宙につく
98
りあげて、秩序よく調和せしめているのです。こういう根本的な生命礼拝の気持をもたなくて、た
だ単に赤ちゃんができた、自分の子だ、自分たちだけの子だ、と自分勝手に育ててよいわけがあり
ません。
夫も妻もそしてその子もすべて神より分けられたる生命です。神からいただいた生命を、ただ自
分たちの生活のためだけにつかっていてよいわけがありません。子供が親にそむけば親不孝である
と同じように、人間が神の真意にそむいて、縦の神との交流も横の人類愛の心をもたないで、自分
たちだけの生活の中にひきこもろうとすることは、神になんの恩返えしもしないことでもあり、神
の大生命からもしだいに離れ、人類の生命体から離れてゆくことで、その死後の生活がいかに淋し
い孤独なものであるかは想像に難くありません。
愛あればこそ
この地球界にもし真実の愛が行われなかったら、一体どうなるでしょう。この世は氷のように冷
い死の世界となってしまうでしょう。愛がすべてを生かすのです。生命は愛によっていきいきと生
きるのです。真実に愛し合っている男女がいきいきとしてくるのも、二つの生命が交流し合って、
99 愛ということ
強い力となってくるからです。愛とは欲望を満足させるためのものではありません。生命と生命が
交流し合って、お互いの心が満足し合うのです。そしてその結果が肉体的に結ばれてゆくのであり
ます。
親子の愛でも、恋愛でも夫婦愛でも、常に相手の本心が開かれるように、相手の人がもっている
生命の力がいきいきと輝くように、そういう心づかいが必要なので、自分の生命を相手の中に生か
しきってゆく、ということが本質なのであります。
自分が喜ぼうとする前に相手を喜ばせようとする、そしてその相手の喜びが自分にかえってく
る、ということが愛なのであり、その愛がもっと根本的になると、相手の本質を生かし、相手の生
命をいきいきとさせ、相手の人格がおのずと立派になってゆく、というところまでくるわけなので
す。
子供でも夫でも妻でも恋人でも、愛していると、常にその人のことが気がかりになり、いつも想
っていなければいられなくなる。これが執着になってゆく。愛する人のことを想いつづけるのは当
然なのですけれど、いつもいつも執着しているようですと、相手の生命をあべこべに縛ってしまう
ようなことになって、相手の運命を駄目にしてしまったりすることがあります。ですから、想われ100
て想われて仕方がなかったら、その想いを、誰々さんの天命が完ういたしますように、某さんの生
命がいきいきと輝いていますように、とかいう風に祈り言にしてしまうとよいのです。それならい
くら想っても、相手の生命を縛ることにはなりません。相手のためになることになります。執着の
想いを、常に祈り言に変えてしまうことが非常に善いこととなるのです。
子供や近親の人が病気になったりしている場合、どうしてもその病気に把われてしまいます。愛
するがあまりの執着になるわけです。この時も世界平和の祈りをして、この子の天命が完うされま
すように、と祈りつづけているとよいのです。執着する想いのマイナスが、祈りによってプラスに
なり、その子の病状に善い結果をもたらすことになります。
放つということ
よく宗教の言葉に、想いを放ちなさい、ということがあります。執着している想いを放つ、とい
うことですが、なかなかただ想いを放つ、といわれても、想いは放れようとはいたしません。放し
たような格好をしていても、執着しつづけます。そこでここでもやはり祈り言の中にその執着する
想いを入れ、観を神のみ心の中に転換してしまうのです。神への全託の道に入るわけです。病気を愛





101
するのも執着するのも、神への全託が足りないからだ、といって、ただ叱りつけている指導者もあ02
1
りますが、人間には過去世の因縁というものがありまして、今生ではかなり神に全託している人で
も、病気や不幸に見舞われる人もあります。私はこういう時に、過去世の因縁の消えてゆく姿とし
て、そういう病気や不幸が現われているのだから、消えてゆく姿と思いつつ、世界平和の祈りをし
つづけなさい、と説いているわけで、ただ、あなたの心境が悪いから、病気や不幸になるのだ、と
いうように説かないのです。
かつ
病気で苦しんでいたり、不幸で嘆いてみたりする人に、大喝を喰わせるのには、よほど神のみ心
深く入っているか、深い愛があるかしないとできないことで、そう深い愛もないのに形だけ悟った
ようにして叱りつけたりするのは、病気や不幸から想いを放させようとして、かえって冷たい、愛
を消してしまうひびきを相手に与えてしまうものです。ですから病人や不幸な人にはよほどの場合
でない限り、やはり優しくいたわりつつ、道を説いてあげたほうがよいのです。
悟った態度を現わそうとして、冷酷になる人を私は時々見かけますが、あまり感心したものでは
ありません。私などは病人や不幸な人には滅多に大喝を喰わすことはありません。人に道を説くと
いうのは心と態度とが離れてはいけないので、心がそのまま言葉になり、態度になって現われなけ
ればいけない。作意のある態度や冷酷な態度は相手のためになることではないのです。
愛と祈リ
むな
愛は忍耐なり、と私はいつもいうのですが、ほんとうに真実の愛を行ずるためには自己を空しく
する修練がいります。自己の想いというのがありますと、いつまでたっても同じことをくどくどと
いってくる人や、自分の利害得失ばかりで相談にくる人などは、相手にしきれなくなるものです。
自分勝手なことばかりいってくる人でも、すがってきている人には、やはり、こちらも力をつくし
てあげねばなりません。片方に意義深い仕事がまっているのに、こんなつまらぬ事柄に時間を費す
のは時間の浪費のような気がする時もたまたまありますが、そういう想いも祈り心に入れて、その
人のための善き相談相手になってあげているのであります。愛は忍耐なのです。
しかし、こんな態度がすべてと思ってもいけません。或る時は、すばっと相手を断わって、主要
な仕事のほうにうつってしまうこともあります。私の場合は、すべて神のみ心によって行われてい
るのですから、一定の定まったやり方というものはありません。その場その場で自由に行われます
が、この世において神の愛をそのまま行じるということはとにかくむずかしいことです。
103 愛ということ
ですから、祈りということが必要になってくるのです。行いとしてやりたくとも、時間とか環境04
1
とか財政とかいうことによって愛を行じられない場合には、その人の天命を祈ってやることが必要
です。祈りのひびきによって、その人に光明を送ってやることは、形の世界を超えた法施になるの
であります。
根底に祈りのない救済活動というものは、真実のものとはなりません。明けてもくれても祈り、
たゆみなき祈りの中に、この世の活動をしてゆくのです。肉体を纒った人間というものは不便なも
ので、同時に東と西の人に逢うわけにはゆかないものです。ところが霊体は同時にどこにでも現わ
れます。私など常にそうした状態にあって、人々の力になっているのであります。
皆さんも同時に多くの人のためにつくさなくてはならなかったら、世界平和の祈りをするので
す。そういたしますれば、同時に多くの人々の上に神の力がゆきわたってゆくのです。形を超え、
方法を超えた愛の行為は世界平和の祈りなのです。世界人類が平和でありますように、これは広い
大きな愛の行為です。私たちは常にこの祈りを根底にして愛の行為をしつづけているのです。
守護の神霊の愛
ここで、守護の神霊の愛について話してみましょう。守護神、守護霊の愛の行為というものは、
人間の親子どころの話ではなく、一瞬の休みなく、自分の被守護体である人間を護りつづけておる
のであります。拙著〃神と人間〃にも書いてありますように、人間が睡っている間にも守護の神霊
が働きつづけておられるので、睡眠中の守護の神霊の働きがなければ、人間はとっくに滅び去って
いるのであります。
人間は一生の間に何度びとなく生命の危機に直面しているのですが、当人の気づかぬ間に常に守
護神様、守護霊様が、その業因を身に代えて守っていて下さるのです。私のところへくる人などで
も、あまり業因縁が深すぎる人は、守護の神霊も守りきるのに容易でなく、といって極端に業の消
滅を計れば、あまりにも肉体の苦痛が多かったりするので、でき得る限りその霊身に被守護体の業
波動を背負い、みずからもすっかり光明をくもらせて、私のところへ運び込んで来ることもあるの
です。そこで私を取り巻く神霊方が、まつその守護霊の霊身を浄め、守護霊をいきいきとさせるの
です。それほどまでに守護霊が人間を守っているのですが、大方の人間は、その愛の行為を知らな
いのです。私のところへ来ている人たちは、守護の神霊に感謝の祈りを捧げているのですが、人類
のほとんどが守護の神霊への感謝をしてはいないのです。愛





105
守護の神霊へ感謝をするということは、神我一体になる早道で、守護の神霊も守るに楽であり、
人間側も、誤ち少なくこの世を渡れるということになるのです。私など毎日これら守護の神霊の陰
の働きを見ておりますので、思わず守護霊様、守護神様ありがとうございますと、浄められている
人間にかわって、お礼をいっているのであります。
106
天国に宝を積む行為
肉体の人間には、自己のした愛の行為を人に目立たせようとする人々がありますが、愛の行為と
いうものは、目立つとか知られるとかいうことは問題でなく、その行為をすることによって、その
人の霊身が輝くのであり、天国に宝を積むことになるのであります。
愛の行為とはこの世のプラスだけではなく、あの世においてもプラスであり、永遠の生命を自己
のものとなしてゆく唯一の道なのであります。
男女の愛でも、純真なる愛は、人々を感動させますが、より多くの光明となる愛の行為は多くの
人々の本心開発のためになされる愛行為です。イエスキリストの大犠牲が高く評価されているの
は、人類すべてのためになされた愛の行為だったからです。しかし私は、人類愛のために自己の身
を犠牲になせ、などと説く気はありません。
自己も救われつつ、人類のためにもなる愛の行為を説きつづけているのであります。それが、心
を一つに世界人類の平和を祈りつづけようということであります。どんな人にでも容易にできる大
ぎな愛の行為、それは世界平和の祈りより他にありません。
人間は本来神の分生命です。神と一つのものです。ですから、人間が本来の姿にかえれば大きな
力が発揮されるわけなのです。あの山に向って海に入れといえば動くのだ、とキリストがいいます
が、そういう強い信念があればそうなるのです。しかし、大体の人にはそういう奇蹟を行うことは
できません。私がいうのはそういう大きな力でなくとも、神の子である本来の姿を蔽いかくす想い
を少くすれば、それだけその人は光明力を発揮する、ということです。そこで、寝ている病人で
も、八十過ぎの老人でも、小さな子供でも、たゆみなく、世界人類の平和を祈る、世界平和の祈り
をしていれば、しだいにその想いは神の世界、本心の世界につながって、その人の身心が光明化し
てゆき、世界を平和にしてゆく、光明の伝導体になってゆくのである、というのであります。
これは正しく大愛の行為なのです。誰にもやさしくできる人類愛の行為なのです。人類を愛する
想いと神への感謝、この想いが一つに祈りにまで高めあげられている世界平和の祈りなのですか
107 愛ということ
ら、是非みなさんに実行してごらんなさい、というのです。
神さまは愛です
自分が救われると同時に人類の平和に役立つ、この祈りの同志が一人でも増えることはそれだけ
人類の平和が近づくことになるのです。祈りなどで平和がくるものか、などとおっしゃる方は、そ
のまま自分の好きなことをしていればよいでしょうが、祈りを根底にしない運動で、世界を平和に
する運動など絶対にないことを私は明言します。
この世が現在は闇のような状態でありますが、これはまだ神の光明がはっきり現われきらぬため
の現象で、やがて時がたつにつれ、しだいに神の光明が広がってゆくのであります。これは必然的
にそうなることになっている。闇が深ければ暁が近いと同じ理なのです。そういたしますと、おの
ずと神の心にめざめる人々が多くなり、真実に世界の平和を願う人々が寄り集まってくるのです。
その時には数多の奇蹟が行われ、仏教もキリスト教も、新しい宗教も、そうした宗教宗派の別は
一掃され、ただ宇宙神の御前に一つになった、神の子の集団が新しい世界をつくるために、それぞ
れの能力才能を発揮して活動をつづけるのです。そういう日のために、私どもは、世界平和の祈り108
を祈りつづけ、地球上に起らんとしつつある、天変地異や、戦争の波を、浄めつづけてゆくのであ
ります。
この地球人類の災害が少なからむことを常に祈りつづける同志は、各地で真剣に平和の祈りをし
ているのです。
愛というものは、個人と個人との問においても、個人と国家社会の間においても、人類愛そのも
のにおいても、すべて神のみ心を基盤にしていなければならないのです。神のみ心がそのまま、素
直にすうーと行じられた時、そこに純真な愛の行為が現われるのです。肉体と肉体との接触だけを
愛だと思ったり、相手の運命などおかまいなしの性行為が愛だと思ったり、他国の運命のことなど
思ってみようともしないで、自国の利害得失のために計ったりするのが愛国の行為だと思ったりし
ている、神のみ心を知らない行為は、やがての日にはすべて改められると思うのです。
ただその日がくる前に、多くの不幸な人たちが出ないように、私たちは祈らずにはいられないの
です。唯物論者はともかくとして、神の存在を信じ得る人は、今こそ一丸となって地球の運命を、
新しい光明に温れた運命に画きかえてゆかねばならない時なのです。
宗派とか宗団だとかいうのは昔の話で、神の子は全く一堂に集って、ただひたすらに、救世の大
109 愛ということ
わら
光明の救済の光を仰ぐ必要があるのです。政党の派閥を曝う前に、私たち宗教者が一つに手をつな
ぎ合うことのほうが先決問題なのです。
神は愛です。神は人類をこよなく愛しておられるのです。神界において、仏界において、神仏
が、俺のほうが偉いんだなどと、権力争いをしていることはないのですから、この地上界において
も、教祖や先達は神のみ前にみな平等の心になって、ただひたすらに世界平和の一日も早く来らん
ことを祈りつづけようではありませんか。
私はいつも思うのです。うちの宗教は何々の神、うちの宗派は何々仏などと、神仏の名前を一つ
だけにくぎることはありますまい。神は自由自在、一神にして多神なのですから、どの神様にでも
変貌できるのです。お前のところよりわしのところの神様がといったりしていても結局は同じ神様
であるわけで、神名争いなどは笑止の至りだと思うのです。
そんなことはどうでもいいのです。人間がみんな立派になって、お互いに真実の愛で結ばれて、
一つ心になって、この地球世界を守りつづけ、地上天国をつくりあげてゆけばよいのです。つくり
あげるで悪ければ、本来の神の国を地上界に顕出せしめればよいのであります。
世界人類が平和でありますように合掌
110
永遠につながる一瞬
救いは用意されている
宗教の法話には、よく「今を生かす」という言葉が、使われます。今月は、最も大事なこの言葉
の意味をお話してゆきましょう。
普通人間が、人生と呼んでいる、この世の生活は、真実、神の子と呼ばれる人類の生活でしょう
か。真理の眼からみれば、それは、神の子の世界が出現するための、変化しつつ消えてゆく姿なの
です。そして、その消えてゆく姿の奥底から、神の子の世界、神のみ心そのままの世界が出現して
くるのであります。
人間が、五感の眼で見、五感の意識で味・わっている、この人生というものは、神のみ心の中にあ111永








る真理の世界の周囲を廻って、あるものは真理の世界につながり、あるものは、そのまま神の世界
からますます遠ざかり、消え去ってゆく状態のものであったりするのです。
過去の想念行為が、現在の運命と現われ、現在の想念行為が、未来の運命として現われる、肉体
人間の世界は、轍趣しながら、やがては自らを滅亡の淵に追いやろうとしております。個人や国家
民族の、自己本位の在り方の中には、そうした運命の路が、かなりはっきり刻みこまれつつありま
す。
その一例は皆さんご存知のように、多量殺獄兵器である核兵器を、各大国が、あたかも宝物の如
く温存し、増強して、自国防衛の根幹としていることであります。多量殺獄兵器を消滅し得る科学
力を、宝物としている、というのなら、平和を欲っする国家ということがすぐにもわかりますが、
自国も強大な殺獄兵器をもちながら、世界の平和を欲っするなどという考えは、甚だしく道理に合
わぬ考えであります。この考えを改めぬ限り、地球の滅亡は時間の問題となってきます。
ですから現在の地球人類世界は、全く砂上の楼閣のように、いつ崩れるかも知れないのです。と
ころが、ここに一つの救いがあります。それは私どもが、完全円満であり、全智全能である神の、
いと
愛し児であることです。神の子である我々を、親である神が救わぬわけはありません。というよ112
り、すでに神のみ心には、地球人類の救いが用意されている、ということであります。
地球人類の救われの道は、すでに定まっています。それは核兵器でもなく、軍備でもなく、神の
み心と一つになる祈りの道であり、祈りによって生れてくる叡智による行為なのです。神のみ心を
離れて、我々に救いがあると思ってはいけません。他に何一つ救いはないのです。なぜならば、こ
の世に実在するのは神と神につながる生命のみであり、その他はみな消えてゆく姿だからです。
真実の「今」
変化変滅し、消、兄去ってゆく、この人生を唯一と信じて生きている愚かさから、脱却して、改め
てこの人生を見直さなければいけません。神のみ心とつながっている一瞬一瞬が、過去、現在、未
こうしよう
来という、業生の現象社会を超えた、真実の「今」でありまして、その今を生かしきってゆくこと
によって、人類は真に地上天国を現出することができるのであります。
とこう書いてみましたが、これがなかなかむずかしいことで、おわかりになる方は少いと思いま
すので、逐次細かく説明してゆくことに致します。
人間が、現在と呼んでいるのは、一体何をさしていうのでしょう。当然、今のことだよ、という
11s 永遠につながる一瞬
答がかえってくると思います。ところが、その今は、一瞬の後には過去になっていってしまいま
す。そして今まで未来であった今がそこに現われてくるのです。この今はこの世の時間帯の中で、
過去として消え去り、未来として内蔵されている今であり、横流れに運命を運んでいる一瞬間とし
ての今なのです。そして、やがては消え去ってしまう今なのであります。
ところが、真実の今、宗教的にいう今というのは、一瞬一瞬で消え去ってしまう今ではなく、神
のみ心と縦につながって、永遠の今として、光を放っている今なのです。今が一瞬ではなく、神に
つながった一瞬から、永遠の今として、宇宙にひびきを放ちつづける今となるのです。
普通にいわれる今は、一瞬一瞬のことであり、宗教的の今は、一瞬を…機として、その人の心を永
遠のひびきと一つにひびきわたらせる、消ゆることなき今ということになるのです。ですから、普
しきそくぜくう
通いう今と、宗教的な今とで、その内容がまるで異なっているのです。それはあたかも、色即是空
しぎくうそくぜしきしき
の、色が玉石混交のこの世の色であり、空即是色の色が、真理そのもの、光明波動そのものの色で
ある、というのと同じことなのであります。
114
永遠の今を生かす
説明しながらますますむずかしくなってゆく感じですが、この説明の経過をたどって、次第にも
っとわかり易くしてゆくつもりです。
大空に輝く星は無限数あるといわれています。その多くの星々の光は、今輝いている光が、すぐ
に私どもの眼にうつるのではなく、何百光年、何千光年、何万光年という程の年月を経て、私ども
地球に住む者の眼にうつってきているのでありまして、私どもが今輝いたとみている星の光は、実
は遠い過去の星の光であるわけなのです。
それと同じように、今私どもの運命と現われてきている境遇は、実は、過去世からの想念行為の
現われでありまして、今私どもがつくっている運命ではありません。今人間が自らの想念行為によ
ってつくっている運命は、それは未来に現われるべき運命なのです。こうして過去、現在、未来の
想念が、過去の想念行為が現在の運命の根幹になり、現在は未来の運命の基となるというように、
輪廻してゆきますので、どこかで、この輪廻を断たなければ、人類は自由自在に神のみ心を現わす
ことができないのです。
そこで、普通いわれる現在とか今とかいう消えてゆく姿的な見方ではなく、永遠の生命につなが
る、現象の変化変滅にかかわりない、神のみ心の中にある今、実在そのものの今を生かすことを知
115 永遠につながる一瞬
らなければならないのです。神のみ心、実在そのものの在り方というのはどういうものか、と申し
ますと、愛であり、大調和のひびきなのであります。
ですから、人間の真実の今を生かした生き方といいますのは、愛の想念行為、大調和の想念行為
を、一瞬一瞬の問にもひびきわたらせているということになります。愛、調和ともに宇宙法則その
ものでありますので、地球人類が、永遠の生命をこの世に輝やかせ自らをより進化させるために
は、どうしても、愛と調和の心で、一瞬一瞬を生活しなければならぬのであります。
いつも申しておりますように、人間は肉体界に住みながら、神霊の世界にも住んでいるのであり
まして、想念が神霊の世界のひびきに通ずれば、神霊の世界にその人の生活の重点が置かれるので
ありまして、その人は肉体界に存在しながら、神霊のひびきである、高い深い叡智に導かれて生活
できるのです。
こうしよう
ですから、神霊の世界に通ずる永遠の今を生きるか、業生世界の消えてゆく姿的今を生きるかに
よって、その人の運命も、人類の運命も大きく変ってくるのであります。神霊の世界に通ずる今を
生きるためには、愛と調和の心を一瞬一瞬の間にももっていなければならないのですが、その愛と
調和の心を最も具体的に光明波動としてひびかせ得るのが、祈りなのです。そして、世界人類が平116
和でありますように、と祈る世界平和の祈りは、端的に人類愛と、宇宙の調和のひびきを、ひびか
せつづけている祈りなのです。
これを心霊的に説明しますと、この現象の世界を唯一として生活している、生き方からしますれ
ば、今を生かすということは、現在の自己の利害得失によって生きることであり、神霊の世界、根
源の世界とは関係なしに、過去からひきついできた業生の立場を生かす、ということであります。
この生き方でも、今を真剣に生きることは、怠けて時を過ごすより余程よいことでありますが、こ
の生き方ですと、肉体界と幽界という玉石混交想念波動の蓄積場における、輪廻による運命しか現
われませんで、歴史は繰り返えす式の運命が、次々と現われてくるだけなのです。
私たちが、最もよき生き方をする場合は、肉体と幽体だけに想念波動を輪廻させていたのではい
けないので、生命の根源の世界、つまり神霊の世界に常に通じて生きていることが大事なのです。
私どもの生活の一瞬一瞬をそうした生き方にしてゆくことによって、個人も完成されてゆくし、人
類も神のみ心の完全平和を、この地球界に現わしてゆくことができるようになるのであります。
その最もやさしい方法が、世界平和の祈りなのです。世界平和の祈りは私たちの生活の一瞬一瞬
が、神霊の世界に通ずる永遠の今となって、私たちの生活を神のみ心そのものの生活となし得る生永








117
き方となるのです。18
1
要するに、人間の一瞬一瞬の生命の歩みを、ただ単に自己の怠惰のために、消えてゆく姿そのも
のとして浪費してゆくか、それとも、この三界の現象生活の向上のための今としてゆくか、更に進
んで、神霊の世界に通じた、永遠の今として生かしてゆくか、の三通りになるわけで、最後の永遠
の今を生かしてゆく生き方を、人類がとらなければ、この地球界はやがては、滅びてしまうという
ことになるのであります。
神と人間の関係
ここで改めて、宇宙というものと人類というものとを考えてみましょう。宇宙というものは人間
の考え及ばぬ程、広大であり、神秘に充ちております。宇宙の一つの小さな星である地球自体をと
ってみても、ごとごとに神秘に充ちているのですが、人類はそのことことに馴れてしまいまして、
特別に神秘と感じようとしないのです。
種をまいて花が咲き実がなる。当り前だという。毎朝、太陽が出、夜、月や星が輝やく、当然の
こととみる。結婚して子供が出来る、そのことにも大半の人は当然とみるだけで、その神秘不可思
議さに心を打たれる、という人は少いのです。
この世の不思議さの中で、最も神秘不可思議なのは、人間というものの誕生なのであります。そ
れぞれの種を土の中にうめておいて、時折り水をかける、というだけで、それぞれの種の中からそ
れぞれの花を咲かせ実を成らせる、というその内なる力というものの不思議さもさることながら、
この人間のように、物事を考え、計画し、創造力を駆使して、様々の物事をつくり出してゆく、と
いう智慧能力をもった存在をこの世に生みなした、その生みの親である力の不思議さに対しては、
ただただ驚嘆するより仕方がありません。そうした神秘不可思議の力をもつ存在者を、私どもは神
と呼ぶのでありますが、唯物論者にとっては、それはただ、自然の科学的作用によって、生れ育っ
たのであって、神などという神秘な存在があるのではない、と思われるわけです。
自分の親が、なんの智慧も能力もない、単なる科学作用に過ぎない、と思うのと、絶大なる叡智
と絶対なる能力をもっている神秘者と思うのと、どちらが、自己を信じ、自己を高める気持になる
ことでしょう。親が立派であり知慧能力の秀れた存在者である、ということはその子にとっても誇
りであり、自己をその父のように高め、深めようとする心が強くなるのは当然なことです。
信仰者といわれる人たちでも、神が自分の親である、というようには考えられない人々もあるの永








119
ですが、自己の生命そのものでもあり、生命の根源でもある大生命が神なのですから、神は人の親
であることは間違いありません。但し、直接の肉体的父母はやはり人間なのであり、神は霊のみ親
であります。
そこで、神との親子関係を再認識するためには、自己が霊の心となり、霊の心というのは純粋な
る生命、純朴な心になるということでありまして、そうした心になって、神を呼びつづけることが
大事なのであります。
神の存在を信ずる純粋な想いで、神を呼びつづけることは、必ず神に通ずることなのです。なぜ
かと申せば、元来、神と一つの生命によって生きている人間なのですから、純粋に神への感謝をつ
づけていれば、自己の全身全霊で、神を認識することがでぎるのです。私は神の認識を容易にする
ために、守護の神霊の存在を説き、そのたゆみなき守護に対する感謝を強調しているのでありま
す。
内なる生命そのものなる神と、守護の神霊としての神々とを一つにして、私は神と人間との親子
関係を再認識させ、自己をより高く、より深く磨きあげてゆくことを教えているのです。
仮りにも宗教信仰をしている人々は、何か自分が間違いを起せば神に罰せられる、などという、120
恐怖の心で、神をみてはいけません。神は愛であって、人を罰することはありません。病気や災難
はず
や不幸は、自己の本心を蔽う真理に外れた過去の想念行為の消えてゆく姿として現われてくるの
で、別に神が罰を当てているわけではないのです。自己が真実の自己を現わそうとして、その邪魔
をする波動を消滅させようとしているのが、天罰のようにみえるのです。
儀式、形式に把われると… …
東南アジアや中近東やアラブ、アフリカ等の諸国は、米国やヨーロッパ諸国の文明文化の力に、
その指導権を奪われてしまいましたが、それはアジア、アフリカ諸国の宗教観念が、人間が神の子
でなくて、神の下僕であり、卑しき者である、という観念でいる向が多いからで、その観念が古く
みずか
からの宗教儀式をそのまま踏襲し、自らを信仰の名の下で縛りつけてしまって、自由に文明文化を
享受し、その利用発展に力をそそぐことをしなかったからなのであります。
ただいたずらに自然を破壊して、文明を展くということは恐ろしいことでありますが、それを恐
れて、いつ迄も昔通りの不自由な生活態度をつづけていたのでは、神のみ心の完全性を地球に顕現
することはできないのです。物質科学の発展もマイナス面はかなりあるとしても、地球人類の進化永








121
の一過程として、通らねばならぬ道なのであります。
唯物論者が多く存在するということでも、宗教信仰者が誤った道に入って、人類の進化を阻害す
るのを防ぐための一つの役目として存在するのであります。この世というものは、面白いもので、
左に対して右があり、縦に対して横があるように、相反するものが存在して、一つの秩序を保って
ゆけるのでありまして、日本の政治に例をとれば、仮りに自民党が一番よい党としても、自民党だ
けでは一方的になって、どうなることかわからぬ政治でも、社会、民社、共産等の野党が存在して、
けんせい
その反対を唱えて、政府を牽制しているので、どうやら、政治が保っているのであります。だから
といって、社会党や共産党がよい党かというと、そうともいえないわけです。
というわけで、宗教信仰もあまりに片寄ってしまいますと、物質世界を全く軽視することによっ
て、現象的に物質で動いているこの地球世界に住みにくくなってしまうのです。儀式や形式に把わ
れてしまっている宗教信仰の態度は、唯物論のマイナスとどちらがどうともいえない困ったことな
のであります。
宗教信仰の根本は、諸々の把われから解脱して、心を自由自在にすることであります。そのため
に神との一体化が必要なのです。その神との一体化を計るための一つの方法としてつくられた儀式
122
や形式を、その元の心を忘れて、その道を通らなければ、神に通じないと思い違いをし、その儀式
や形式に把われてしまって、その儀式や形式を離れては自己の宗教信仰が成り立たぬように思いこ
んでいる宗教信者が、アジア、アフリカ諸国にはたくさんいるのでありますし、日本をはじめ各国
にも存在するのです。
てんとう
これは全く本末顛倒したことです。神は宇宙に遍満する大生命であり、人間はその分生命である
のですから、その真理を心の底から認識すれば、神との一体化が果せるのです。それをかえって儀
式や形式に想いが把われてしまっては、本来一体であるべき神と人との間に儀式や形式という隔た
りをつくってしまうことになります。儀式や形式がいけないというのではないので、儀式や形式に
想いが把われてしまうことによって、人間の生命の自由がかえって阻害されてしまうのだ、という
のです。
儀式や形式は、神と人間との一体化の本質を知って行われることが大事なのです。日本の天皇が
行う各儀式は、儀式そのものが非常に大事なのでありますので、これを把われきった宗教儀式と混
同しては困るのです。
123 永遠につながる一瞬
日々の愛と誠の想いと行いが必要
その儀式が絶対に必要である、と思われるものが他にもあるでしょうが、私のいうのは、何者、
何事にでも把われることによって、人間の自由自在性は失われ、神との一体化が遅れてしまうので
ある、といいたいのです。まして、宗教の儀式に把われると、その儀式をおいて他に救われの道の
ないように想いこんで、自己の神の子としての独立心が失われてしまうのです。アジア、アフリカ
諸国の文明文化の遅れはこうしたところに重大な要因があるのです。
神の子である人間は、神をあく迄もみ親として尊び敬い、そして親しんでゆくのが本筋であり、
神のみ心の中で人間が生かされているのである、ということを知るように努めなければなりません。
人間の想念行為が、神のみ心である、愛と調和の中にあることが、如何なる儀式にも勝る大事な
ことなのであります。その本筋を忘れて、ただ単に儀式や形式に従うことが宗教信仰だと思ったら、
大間違いであるのです。
人間は常に、神のみ心の中で生かされているのだ、といって感謝の気持を持ちつづけていなけれ
ばいけないので、一瞬一瞬の感謝行が、遂には神との一体化を成就して、真実の神人となり、神の
124
子の姿を現わし得るのであります。
そのためには、消えてゆく姿の今ではなく、一瞬一瞬が永遠につながる今となる、愛と調和の想念
行為に生きなければならぬのです。その愛と調和の行動を、私は、世界平和の祈りとして世界人類
が平和でありますように、という、人類愛の祈りによって、神の人類を愛し給うみ心との合致点を
つくり出し、縦の神愛と横の人類愛との縦横十字の中心において、人類が生活してゆけるようにし
たいと願っているのです。
縦の働きとは神の慈愛による働きであり、横の働きとはその神の働きを受けて、人類の進化を計
り、神のみ心をこの地球界に顕出させる働きをいうのでありまして、この働きを成就させるのは、
永遠の今を生かす、祈り心による行動より他にないのです。
そういう意味で、この地球世界の生活の一瞬一瞬は尊いものであります。一瞬一瞬を無駄に過ご
すものは、自らの進化も、人類の進化をも妨げるものとなるのです。近頃、週休二日制という制度
が、各社において行われる気運になっておりますが、休みの多いのは結構ですが、その休日を、永
遠の今とは全く関係のない無駄な時間として過ごすようであったら、あたら休日もかえって、人類
滅亡に、一役買うことになってしまいます。
125 永遠につながる一瞬
いついかなる時も、神への感謝と、人類愛の想念行為をもちつづけて生活してゆけるような人々
を一人でも多くつくり出すことが、この地球世界を救う急務であると思います。
神への感謝と、人類愛の祈り言である、世界平和の祈りこそ、いついかなる時も無駄にせぬ、永
遠の今を生かす、一瞬一瞬の時を生かす、聖なる祈りであるのです。
宇宙経編と地球人類
人間は時折りは、大空を眺めて悠久無限なる大宇宙を思いみるとよいのです。無限にある、その
星の一つ一つが、すべて生きて輝いているのです。というのは、眼にみえている星の輝やきの奥に
神々のみ光が輝やきわたっているのであります。
前にも申したことがあるのですが、全智全能であられる宇宙神が、ただ単なる小さな星である地
球の景観としてだけに、こんなに多くの星々を大空にちりばめておくでしょうか、否です。一つ一
つの星には、その星の世界が繰りひろげられているのであり、地球だけに生物が住んでいるのでは
ありません。今こそ地球人類が、大なる進化を遂げて、大宇宙の星々との交流をはじめ、大宇宙の
実体を知ってゆくべき時なのです。地球はあく迄、大宇宙の一つの星の世界なのです。しかも小さ126
な弟妹星なのです。
大宇宙の星々の中には、地球に勝ること数等倍とでもいいうる進化した星々もあり、我々の守護
の神霊よりも秀れた、宇宙天使方が働いておられ、次々と種々と他の星の運命の修正をしておられ
るのです。そして、今は、地球人類の進化のために、我々に働きかけて、大いなるみ麹の援助をし
ていて下さるのです。
私どもはその深い愛に常に感謝をささげながら、私どものでき得る限りの努力をはらって、宇宙
天使の愛に報いるべく、祈りに祈りつつ働いているのであります。地球人類の運命は、ただ単なる
肉体人間の智慧能力では、とうてい救いきれぬ段階にきています。私はその事実を、昔から知って
いましたので、常に深い祈りをささげ、守護の神霊の並々ならぬ働きを知り、そして、やがて、守
護の神霊の手引きにより、宇宙天使との交流に成功し、宇宙子波動学の教導を受けているのであり
ます。
今日も宇宙子波動学の勉強をしながら、自分たちが、ますます深く、いよいよ高い心境をもちつ
づけていかねばならぬことを切に感じているのであります。
地球人類を救う唯一の道、永遠の今を、皆さんと共に、生かしつづけてまいりましょう。
127 永遠につながる一瞬
128
人間の本質
生きる充足感
人間の心というか想念というか、一般的には心といわれているものは、実に矛盾したものをもっ
ていまして、何ものにも束縛されない自由というものを欲っしながら、それでいて、他のものの
かんしよう
干渉や、関心をよせてくる自分以外の人々を欲っするのです。
仕事に縛ばられ、他人関係に自由を縛ばられることを.嫌いながら、それでいて、縛ばられる仕事
がなく、縛ってくれる他人がなければ生きている張り合いがなくなってくるのが、一般人の感情で
す。
人間は誰でも自己本位でありながら、他人につくしたり、つくされたりする、他との交渉がない
と、生きている充足感が得られないように古代から次第になってきています。人間は全体につなが
っている一入でありながら、お互いが自己という一人を主張しつづけて生きているのであります。
その自己主張というものが、全体につながっている一人の人間としての、自己主張ならよいのです
けれど、全体とのつながりを忘れてしまっての自己主張が多いので、他から束縛感を感じたりする
わけなのですが、それは、全体の中の一人だという意識が、現代の人には、まだはっきり自覚され
ていないところからくるのです。
全体といっても、これがまた社会国家とか民族とかいう全体と、地球人類という全体、もっと広
く大きくいうと宇宙すべての全体ということになりますが、わかり易く簡単にいいますと、生命そ
のものの全体観ということになります。もっと平たくいいますと、宇宙全体に充ちみちている生
命、つまり大生命ということになります。
この大生命とのつながりを考えないと、その人間自体が、つまらない小さな人間になってしまい
ます。大生命の分生命として地球人類が存在しているのであり、地球人類の一人として個々の人間
が存在しているのでありますから、大生命とつながりなく個々の人間が存在し得るものではありま
せん。
129 人間の本質
人間の本質というものは、大生命の全体の動きの中にあるのでありまして、個々に分れた肉体人
間の中にあるものではありません。しかし、こうした原理を知っている人は少いし、知っていて
も、つい肉体人間としての、物質生活にまきこまれてしまいまして、ついその真理を忘れがちにな
ってしまうのです。
人間が自由を欲っするというのは、肉体生活という限定された生活機構の中では、生命の本質
が、どうしてもゆがめられ、萎縮されてしまって、本質そのものを充分に発揮することができなく
なりますので、その原理を知るも知らぬも、不自由さ不満足さを感じるのであります。
生命の自由、生命の充足感というものは、肉体人間的な、権力とか、金力とか物質力とかいうも
のでは、一時的な満足感を得ることがあっても、長つづきしない満足感でありまして、いつかはそ
の満足感、充足感に欠けはじめてまいります。如何なる権力者も王侯貴族も、生命の真理を知らぬ
限りは、真実の生命の自由や生命の充足感を味わいつづけるわけにはまいりません。最後には肉体
の死というものがやってくることだけでもそれははっきりしています。
130
裸にした自分を一度たしかめてみよ
人間の本質が、肉体の中にあるのでも、物質の中にあるのでもなく、生命そのものの中にあるの
ですから、生命そのものをしっかり自己のものとしていない人には、真実の生命の自由というもの
は得られないのです。諸行無常的な、変化変滅する形の世界や、物質やこの世だけにつながってい
る栄枯盛衰に想いが把われているような状態では、とても生命の自由を得る資格は与えられないの
です。
人間は好むと好まざるとにかかわらず、自己の本質というものを知らざるを得なくなるのであ
り、そのために様々な把われもあり、苦しみもあったりして、物質界から解脱してゆくようになっ
てくるのです。物質を蔑視したり、物質世界を嫌悪したりするのではなく、物質世界に住み、肉体
世界において生活しながら、物質世界に想いを把われず、肉体身に執着しないで、ただひたすら生
命の本質であり、自己の本質でもある、大生命のみ心、つまり、唯一絶対なる大智慧大能力者のみ
心の中で生きてゆくことが必要になってくるのであります。
肉体身をもっている人間の眼からみますと、肉体世界の社会機構や国家機構の中での権力者や、
物質財宝を多く持った人々が、恵まれた人であり、偉い人であるようにみえたり、学問技芸や才能
に恵まれた人が幸福な人に見えたりしますが、それはそのことそのものにおいては恵まれた人でも
131 入間の本質
あり、幸福な人でもありましょうが、人間の本質、実在界からの眼をもってしますと、只、そうい
う恵まれ方や幸福は一時的なものであって、大生命のみ心に直通した、み心のままなる生き方の人
でないと、その幸福はいつかは崩れ去ってしまいます。
ですから人間は常に、金力とか権力とか、自己の地位や財産というものを、一度自分から取りの
ぞいてみて、果して自分はそういう背景なしに、充実した生き方のできる人間なのか、他人の眼か
らみて、立派な人格の人間なのか、魅力のある人間なのか、値打ちのある人間であるか、というこ
とを自分で確めてみる必要があるのです。そして、最後に死に向っても、少しもたじろがず、死の
彼方の自己生命の行方に柔順についてゆける人間なのか、ということを、ようく見極めてみる必要
があるのです。
そして、自己に不満足な答が出たら、満足を得るための道の究明を、生命がけでやってゆかねば
ならぬのです。いいかげんなごまかしは、自己の生命の自由の道、真の幸福を得るためには、マイ
ナスになるばかりなのです。他人はごまかせても、自己をごまかすことはできないのです。
肉体生活の五十年八十年というものは、いかにも長い年月にみえましょうが、過ぎてしまえば、
一瞬の夢でしかないのです。そういう短い期間の自己満足のために、一生の貴重な時間を無駄にし132
てはたまりません。自己の生命というものは、肉体生活の五十年八十年プラス無限億万年でもある
のです。自分という一個人は永遠の生命を生きぬいてゆくものなのでありまして、五十年八十年で
終りになってしまうような、そんなお粗末な生命ではないのであります。
そういう真理を知らせるために釈尊や老子やキリストのような聖者賢者が、この世で道を説かれ
くう
つづけたのです。空になる修業も、無為になる道も、みんなそういう真理を知らせるために説かれ
ているのです。
私など常に肉体に現われている自己と、永遠の生命として宇宙大に働きつづけている自己との二
つの生命の現われを、ようく認識して道を説いているのであります。肉体に自分が存在しながら、
大きく広く宇宙生命と一つになって生きつづけている自分というものをはっきりみつめることので
きる状態というものは、その日その時々をみ心のまま生きつづけられる状態でもあるのです。
実在界の波の現われ
私が常に申しておりますように、物質的に現われておりますこの肉体も、霊的要素である光の体
も、すべて波動であることは真実なのです。自分だ自分だと思っておりますこの肉体は、只単に因人




133
縁結合して、或る一時を生命の働き場所として現われている波動の体なのであります。この肉体と314
いう波動圏の奥の世界には幽波動圏、霊波動圏という順次微妙になってゆく波動の圏があり、最後
の奥深くに、神のみ心の中心の場があるのです。
新しく私の説を読む人には、想念波動という言葉でも、ちよっとわかりにくいと思いますが、想
いというものは一体どんなものか、と聞かれて、すぐに答えられる人はなかなかないと思います。
想いというのも念というのも、みな、霊、幽、肉というそれぞれの場の中で、ひびきわたってい
る、つまり波の動きとなってぐるぐる流れて廻っているものなのです。
想念というものは、手にはつかめない、しかしなんとなく感じられる。そして想念が肉体の口や
ことば
手を通して現わされると、言葉となり文章となり、態度となってくるのであります。言は神なり
き、と聖書にありますのは、想念の元である神のみ心のことであり、言は即ち光なり、でもあるの
です。その言、つまり神のみ心が、神霊の世界をめぐっている間は光の波そのもの、光のひびきそ
のものであったのですが、幽界の波動圏、肉体の波動圏というようにひびきが粗くなり、雑でない
と伝わらない圏内にまいりますと、光がずっと薄れてまいりまして、現在の人間の想念のはじまり
のような状態になり、肉体人間が多くなるに従って、光の波動が汚れてまいりまして、神の言(ひ
びき) と肉体人間の想念との混清された想念波動になってきてしまったのであります。
テレビ局で役者が演技をしております。役者の表情や衣裳が、神の実体としますと、テレビ局か
ら種々な機械器具を通り、空間の様々な波動圏を通りぬけて、テレビ電波が各家庭のアンテナにキ
ヤッチされ、テレビ受像器に映写されてまいるわけですが、その写ってきている役者は、役者その
ものではなく、その衣裳も色も形も実物そのものではない、大分違ったものになってきてしまうの
です。
実物の役者のほうは、縦横厚みのある肉体をもった人間ですが、テレビのブラウン管に写ってい
る人物は、厚みを持たぬ映像です。色も同じように、実物とは違ってきています。
ことば
そのように、肉体人間の想念波動というものは、神のみ心のひびき(言) とは大分違ったずれた
リズム
ひびきを伝えているのです。神のみ心もひびき(波動或いは律動)として伝わってくるのでありま
すが、これをそのまま肉体人間が現わし得れば、みな立派な神の子人間になり、従って人類は完全
平和な、戦いも争いもない人類になってしまうのですが、神のみ心が、肉体世界までひびきわたっ
てくる、その中間の圏として、霊界、幽界という界がありまして、幽界という圏には、神霊界のひ
カルマ
びきも伝わってきますけれども、肉体界の汚れた誤った、つまり業の波動も伝わってきて、そこで人




135
渦巻いているわけです。そしてこれを肉体界からみますと、肉体界の常に想ったりしている表面の
せんざいけんざい
音心識、つまり顕在意識というものの底に、幽界圏の潜在意識層というものがありますし、その奥の
霊界神界の神霊意識というものもあるのです。
136
肉体生活に大きく影響する潜在意識
しかし、肉体に大きく影響してくるのは、幽界圏の潜在意識でありまして、これは、肉体界に生
ウんね
れ変わり死に変わりしてきた、過去世からの輪廻の記憶がすっかり記録されておりまして、その記
億がぐるぐるぐるぐる顕在意識に現われたり、表面行動として現われたりしてくるのです。争いの
想いも、人を憎む想いも、人を疑う想いも、妬む想いも、権力欲も、金銭欲も色欲も、私たちが業
想念と呼んでいるあらゆる想念が、この潜在意識と顕在意識の問をぐるぐる廻わりして、この地球
人類をいつまでも苦しめているわけなのであります。しかしこれは人間の本質ではありませんで、
カルマ
業の波にしか過ぎません。ですから私はこれを消えてゆく姿といっているのでありまして、永遠に
消えない実在のひびき、神霊界のひびきの中に、自分たちが入りきってしまわねばいけないと説い
ているわけなのであります。
それを間違えて、人間の本質は肉体界にあると思っているのが、今日の人の大半なのです。です
から、顕在意識と幽界圏の潜在意識を通り越して神霊意識の中に、常に自己の想念を送りこんでお
くことこそ、真実の人間性つまり神の子の人間の本質を生かす最大の生き方のできる道となるので
す。こうした生き方が祈りなのです。
消えてゆく姿で世界平和の祈り、とはこういうことを簡単に行じられる方法なのです。人間の肉
体細胞はみんな生きております。細胞分子は原子の集りであり、原子は、電子や陽子や中性子や中
間子という素粒子の集りでありますが、その素粒子の波動がすべて生きているのです。そしてその
波動が新陳代謝が悪くて汚れていると、その細胞の働きが悪くなり、肉体の働きが悪くなってくる
のです。
それと同じように、現在の科学ではまだわかっていないようですが、精神細胞というようなもの
がありまして、これも新陳代謝しないとその精神能力が衰えてくるのであります。私たちはこの元
を宇宙子と呼んでおります。物質細胞と精神細胞を共に汚さず、常に新陳代謝させて生きいきとさ
せて置くためにも、両細胞の元の素粒子、もっと深くは宇宙子の流れてくる根源の世界、神のみ心
との交流を常によくしておかなければなりません。人




137
世界平和を唱えながら、戦争をつづけている人々などは、精神宇宙子が余程汚れきっているので
ありましょう。真実の祈りの足りない人々なのでありましょう。
人間はいつでも元の世界に想いをはせる必要があります。現われの世界だけで細工をしようとし
ておりましても、事実は、元の世界、神の世界から、生命要素を頂きつづけて生きているのであり
ますので、何事につけても、元の世界のみ心を体してやってゆかねばならぬのは理の当然なのです。
そんな当然なことが、いつの間にか、この地球人類にはわからなくなってしまったのです。
138
この世で真理を貫き通すためは
親がなくて子供が生れたためしがないように、生命の本源がなくて、生命体である人間が生れて
くる筈がありません。それを自然といおうと大生命といおうと、神と呼ぼうと仏と呼ぼうと、人間
の生命の本源として、大事な有難い、感謝せずにはおられない存在であることには変りがありませ
ん。
それを少しも恩とも感じず、顧みもせず、自分の生命だから、自分勝手なことをして生きてい
る。生きている、というけれど、実は自分で生きているのではなく、生かされている。その生かさ
れていることさえしらずに、自我欲望だけで生活している。そういう人間たちでさえも、本質は神
の子であるのですから、神々はその人たちをも守り育てて、いつかはその本質のわかる人間に仕立
てあげようとしておられるのであります。
私たちは、そういう神霊方を守護神、守護霊と呼んで、常に感謝を捧げているわけですが、宇宙
神大生命の法則としては、宇宙万般の秩序を整然として運行せしめているのでありますので、法則
おのはず
を外れたものは自ずから滅び去ってゆくことになっているのであります。小生命と分れた人間であ
はずはず
っても、その想念が宇宙の法則を外れつづけていって、光明のとどかぬところまで外れきってしま
えば、滅び去ってしまうより仕方がありません。しかし宇宙神のみ心は、慈愛そのものであります
から、一方では法則として厳然としたものですが、一方では守護の神霊として、各種に分れて働か
れるわけであります。私共が神様といって救済を願っているのは、実は守護の神霊方に対してであ
り、法則そのものの神に対しては、自分自らが、法則に乗り切ってゆかねばならぬのです。
はず
地球人類の大半が神の法則である愛と調和の精神を大きく外れている時代に、自分一人だけが、
自力で愛と調和の精神を少しも曲げずに生きようとするのは、並大抵のことではなく、貫き通すこ
とが実に困難であります。古来から宗教者予言者の秀でた人々が、十字架にかけられたり、斬首さ139 人




れたりして悲惨な最後を遂げられたのも、この世で真理を真直ぐ通し切ることのむずかしさを物語
っています。現在でも死刑にこそされませんでしょうが、貧と迫害の生活を送ることが多いことと
思われます。
ですから、真理を貫き通すためには、どうしても守護の神霊との一体化にょる生活の他はないの
カルマ
です。守護の神霊の守りによって、この世の業の波に妥協しているようにみせながらも真理の道、
はず
宇宙法則を外れずに生きてゆける道が生れてくるのです。
14U
肉体人間の欠点をカバーしてくれる存在
例えて申しますと、右の頬を打たば左の頬も打たせよ、上衣を取るものがあったら下衣をも取ら
せよ、というイエスの言葉を、そのままできる人はなかなかあるものではありませんが、この通り
実行することが真理なのであります。または、自己の知人が人に殺されたとしても、その殺人者を
恨んだり憎んだりしてはいけないことにもなります。ところが実際にはそういう心にはなりませ
ん。と致しますと、真理を実行するのは、この世の人間の心としては無理に近いことになります。
私は大半の人に無理なことであると思いました。しかしその道は真理の道に違いないのです。こ
れは真理を求める人にとって、良心的な人にとって重大なることなのであります。私はその時、守
護の神霊の存在の重大さに気づいたのです。
人間が愛と調和の精神を常に持ちつづけ得ないで、時には悪を憎み、敵を叩こうとするような、
神のみ心には叶わない想念を出してしまう、そういう想念をどこかに消滅してしまわぬ限りは、人
類は永劫に救われないのではないか、と思ったのです。釈尊が大法を説き、イエスが十字架上に人
類の業生の身代りになって以来二千年以上も経った今日でも、この現象世界は救われの方向には動
いていないのは、真理があまりに高すぎて、人類の手にとどかないところにある、行うにはむずか
しすぎることにあったのではないか、と気づかされたのです。
誰にもできないような真理では、とてもついてゆけない。神の法則と肉体人間の間に立って、人
間の欠点をカバーしてくれる存在者を私は求めたのです。そして守護の神霊の存在を、私ははっき
りつきとめたのです。
どんな人にでも一人一人の人間に、守護の神霊は守りつづけていて下さる。肉体の人間の欠点を
熟知していて、その欠点をカバーしながら、次第に真理に近づけていって下さる守護の神霊の存在
が、どれ程人間を力づけてくれるものか、私ははっきり知ったのでした。(拙著神と人間参照) 人




141
私はすべてを守護の神霊に託し、そして今日の教を説くようになりました。真理はこうであると
は知りながら、しかもそれをまともに行じられない肉体人間の業の波を、私は消えてゆく姿とし
て、守護神、守護霊に消していただくことを教えはじめたのです。良い人程、善人程、自己の行い
はす
が真理に外れていることを恥じらい悩むのです。その恥じらい悩みを、自分一人でしていないで、
守護の神霊の加護に託して祈ることによって、自己の罪悪感、偽善者感が少くなってくるのです。
ゆる
人を恨み憎み裁くことがいけないと同じように、自己を裁くこともいけないのです。人を赦し自分

を赦し、すべてを守護の神霊のみ心に託かせきってしまう。この世のありとしあらゆること、自他
のあらゆる想念行為、それはすべて過去世からの因縁の消えてゆく姿なのであって、本心は神のみ
心の中で光り輝いているものなのである、ということが、消えてゆく姿と思って、守護の神霊への
全託の祈りによって実観されてくるのであります。
142
たい
神 のみ心を体して職に励むこと

それをもう一つ超えて、消えてゆく姿で、世界平和の祈りというように、自己の欠点をつかまぬ
ための、人を責め裁かぬための消えてゆく姿の教えが今度は、大乗的、人類救済の本願的祈り言葉
ぽにい
に飛躍していったのです。煩悩即菩提心というように、人を責め裁き、自己をうとみ責める想念が
そのまま、世界人類の平安、幸福に結びついてゆく祈り心に転じてゆく、昇華してゆく、そうい
う、消えてゆく姿で世界平和の祈りという教えが自然と生み出されてきたのです。
言葉だけの真理を説いていても、また聞いていても、実行にうつせないようでは、その教えが死
んでしまいます。科学の世界では、実際に役立たぬものは、忽ち消滅してしまいます。理論として
出しても、実験してその理論が証明されなければ、その理論は真の科学として認められません。し
かし宗教の世界では、僅か数人の人にしかできないことでも、すぺての人ができることのように説
かれます。それでは、とても人類は救われません。釈尊が行えイエスが行え、老子が実行できたと
しても、それは頂点に立っている人の話で、理想としてはそこまで行きつくべきであるが、一般大
衆には高嶺の花なのです。法然親鸞の易行道はそれをかなり一般化して、随分と日本人の宗教を易
しくしてゆきました。私はそれをまた一歩易しく、広くしたつもりでおります。
易しくてそして深く広いものでなければなりません。易しく入っていって、いつの間にか、人間
の本質をはっきり把握できる教え、それが消えてゆく姿で世界平和の祈りなのです。やがてそのう
ち、この道を科学的に証明し得るような時代もやってくるのですが、今日でも多くの人々が、この人




143
道の実践をして、大きな効果を得ているのです。政界や財界の指導者たちも、次第にそういう方向
に動きはじめてくるようです。人間が肉体的な智慧や能力をのみ頼んでいるようであれば、その人
の栄光は長くつづきはしないのです。謙虚に神のみ心を体してその職に当ってこそ、その人の完成
ともなり、その道の完成ともなって、国家人類のために得難い人物となってくるのであります。
144
生命と心について
心はどこにあるのか
人間にはわからないことがたくさんありますが、一番人間にとって大事である、生命というもの
と、心というものが、一体どんなものなのか、どこでどうしてできたのか、またどこからきて、ど
かいもく
こへゆくものか、どういう状態で人間の中にあるのか、皆目わかっておりません。
この一番大事な生命や心のことがよくわからずにいても、平気で生活してゆける人間というもの
は不思議なもので、こうした本筋の問題にはあまり力をそそがずに、眼前の現象的な利害関係の問
題のほうに、その智慧能力を集中してしまっているのです。
てんとう
そういう本末顛倒した考え方が戦争になったり、公害問題になったりして、地球人類を追いこん145 生







でいってしまうのです。人間がこうして生きている、その根本をないがしろにして、枝葉の問題に
ばかり頭を向けているのですから、どうしても、根本の生命そのもの、心そのものの在り方と反対
の方向に進んでいっても、無理からぬことです。
生命の根本的在り方、心の根本的在り方についての知識がなければ、その場その場の利害得失を
追いかけてゆくばかりで、どういう在り方が、生命意識の目的にふさわしい生き方なのか、心の欲
っする道なのか、永遠につながる深いことがわかる筈もありません。
人類の文明文化の発達にともなって、この地球の崩壊をもたらす公害というものが、世界中で問
題になりはじめています。それは外面的に現われた現象ばかりではなく、人間精神の動きに現われ
てきまして、昔の人には考えられもしなかった、常軌を逸した行動をする人々が増加しているので
さぐ
あります。今こそ生命の根源を探り生命の本来の在り方と、心というものの在り方を、はっきり認
識しなければならない時になっているのです。
生命というものが、肉体にだけ宿っていて、肉体が消滅したらなくなってしまうもの、という考
え方、そして、心というものも、やはり肉体だけに附属しているもの、という考え方、これが近代
の人間観ですが、これでは人類の進化はゆきづまって滅亡の方向に向ってゆくより仕方がありませ
146
ん。
個人個人に永遠の生命があり、永遠の心がある、ということを忘れ果ててしまったところから、
今日の人類の悲劇が起ってきているのです。なぜかと申しますと、五尺何寸という、小さく限定さ
れた人間として自分を考え、そういう人間の集りとしての社会や国家を考えているので、どうして
も狭い浅い範囲での自己防衛をしてしまうのです。それが、まず、人間の不幸のはじまりなので
す。ですから、人間の生命や人間の心の本来の在り方を認識してから、すべての生き方を定めてゆ
かなければ、人類はとうてい幸福にはなれないのです。そこで、心が一体どこにあるのか、という
ことを真剣に考えてゆかねばならぬのです。
ここで私の書いた「こころ」という詩をとりあげてみます。
こころ
こころよこころよどこにいる
まことのこころよどこにいる
いくてんしよう
探し求めて幾転生
ー〃ひびき”よりー
147 生命と心について
私はこころの在り場所を
はじめてしっかり知りました
148
こころは天にありました
いのちの中にありました
光の中にありました
私の中にありました
こころは私でありました
こころはいのちでありました
こころは光でありました
人と人とをまんまろく
つち
天と地をまっすぐに
つなぐ光の波でした

なぜここで、この詩を掲載したかと申しますと、この詩は、心の在り方や状態をかなり適確に詠
んでいるからなのであります。
こころは天にありました。いのちの中にありました。光の中にありました。私の中にありました。
確かに心というものはそういうものなのです。そして、人と人とをまんまろく、天と地とをまっす
ぐに、つなぐ光の波でもあるわけなのです。
人間の本源の心というものを、ないがしろにしていて、どうして完全な人間をこの地球界にうつ
し出せるでしょう。すべてを心の本源にのっとって、そこを起点として、あらゆる生活、あらゆる
活動をしてゆかねばならないのです。この詩だけでは、まだまだとても心の説明にはならないので
順次に書いてゆきたいと思います。その前にもう一つ拙著「釈迦とその弟子」からぬき書きしてみ
ましょう。
149 生命と心について
心についての問答
150
「この悩む心は、はたしてどこから来るのであろう?」阿難は歩きながら、ふと過ぐる日の世尊
のみ教えを思いかえしていた。それはあの恥辱の日の翌日であった。
「阿難よ、おまえの心も私の心も同じだと思うし、天の倫理も同じに働くと思うが、おまえは
につしんおこ
私の法話のどこがよくて発心を興したのかな。どうして、世間の深い恩愛を捨てて出家したのか
なー」
世尊のみ言葉は常の如く柔らかく温かった。
「世尊、私は世尊のお姿の中に如来の三十二相の真に勝れた絶妙な美しさを感じたからです。み
仏のお姿の中には少しの欲望の影も、乱れた心の影もみえず、そのお姿はただ紫金のような尊いお
光に輝いているのを私は観じたからです。そう観じました時、私は種々な欲望に乱れきっているこ
の社会が真実の世界でないことを知りました。そしてみ仏に従いまつったのでござりまナ」
阿難は、今日は必ず世尊のお怒りを受けるものと覚悟を定めていただけに、世尊のいつに変らぬ
優しい言葉での質問にかえって戸惑いながら、しかし真剣な気持でこうお答えした。

「阿難よ、それは非常によかった。だが阿難よ、おまえが如来の三十二相を観、如来を愛慕した
のはおまえの何がしたのだ?」
「世尊、それは私の心の眼がしたのです。そして私は生死を捨ててこの方に従いまつろうと思っ
たのでござります」
「阿難よ、その心は一体どこにあるのかな?」
「心は身の内にあると思います」
「それは少しくおかしい。心が身の内にあるものなら、体の中のことはすべてわからなければな
らないが、阿難よ、おまえには体の中のことがすぺてわかるかな?」
「世尊、私の只今の答は誤りでした。こうして如来の法音をおきき出来るのは心が身の外にある
からだとわかりました。心は身の外にあるのです。と申しますのは、心を燈火にたとえますと、も
しその燈火を室内に灯しますれば、室内のすべてが照し出されて見えますが、私共衆生には体の中
が見えません。それは体の中つまり室の内に燈火がなく、室の外に燈火があるということになるか
らだと思います。ですから心は身外にあると思います」
「では阿難、おまえが如来の三十二相を観じて、私に従ってくると決意したその心が、もし体の
151 生命と心について
外にあるとしたら、心と体が離れて、心で知ったことを、体が自覚することが出来ぬではないか。512
それ故、自覚したり、認識したりする心が、身外にあるということは、誤りであるL
「世尊、自覚する心も認識する心もすべて一つ処にあるのだと考えます」
「その一つ処とは今いつれに在るのか?」
「中間にあります」
「ではその中とはどのような処か。何と何との問のことか。もし体の辺にあらば中ではない。体
を離れてあらば外となる。また体の中にあれば、これ中間にあらず内となる。阿難よ、そうした言
葉のみの答では心というものがわかるものではない。よくよく想いを澄ませて答えるがよい」
「世尊、私つくづく思考致しましたが、覚知したり分別したりする心は内にも外にも中間にもあ

るのではござりません。一切のものやところに著かないのが心です」
「阿難よ、その答も真実ではない、覚知する心と分別する心とは一つのものではない。覚知する
心とは本心であり、分別したり認識したりする心は因縁性の想念である。直覚し、知覚するのは無
てい
死無生の心、空の底にある無限の心と等しき心、仏と一つの心であり、眼で見、耳で聞き、想いで
じれん
分別し、認識しようとする心、善悪を判断しようとする心等々は、すべて仏の心、自然の心に相反
する業因縁の想念の心である」
「」’
「阿難よ、おまえが外道の幻術に敗れて危く戒を犯そうとした心は、このいつれの心であった
か?」
「世尊、申訳けもござりませぬ。あのような不始末を仕出かしましたるこの阿難は仏弟子として
の価値なき馬鹿者でございます」
「これこれ、私はおまえを責めているのでもなければ、非難していうのでもない。今おまえがそ
うして苦しんでいる心も、昨日のように迷った心も、みなおまえの本心ではなく、無明より起った
業因縁の心、現われれば消えてゆく根抵なき想念の波であることを、おまえはよくよく認識せねば
ならぬ。そうして苦しんでいるおまえのその心をも消し去らなければ、本心の在るところを覚知す
ることは出来ない。悩むも善い、苦しむもよい、しかしその苦悩にひきずられて本心を離れてゆけ
ば、それは誤ちを犯していると同じことになる」
「はい、申訳けござりませぬ」生







153
によらい
「申訳けないのは、おまえの本心に対してである。おまえは常に如来と相対する時は、どういう54
1
心でいるのか?」
「如来に対します阿難は、勿論、本心の阿難でござります。業は如来に相対することは出来ませ
ん」
とも
「それでは、常に如来と倶にいる心、如来と相対する心でいられれば、阿難は、本心そのままで
いられるわけであるな?」
「左様かと存じます」
「では再びいうが、昨日迄の出来事は、すべておまえの無明のなせるわざ。業の一つの集積が表
面に愛欲行となって現われ、そして如来の光明によって消え去っていっただけである。けっしてお
まえの本心が傷ついたわけでもなければ、おまえ自体が駄目であったというわけでもない。おまえ
の本心は、依然汚れず痛まず、真玉の如く輝きわたっているのである。おまえはその真理を知って、
今日限り消え去った業を追いかけてはならぬ。再びその業を想い起してはならぬ。想い起せば、そ
の想念がそのまま無明となり、またおまえの意識を曇らせてゆくであろう。もしそうした時には強
く如来を慕い、如来と倶なる自己の本心に呼びかけねばならぬ」
本心と業想念を区分けして考える
これは私の書いた「釈迦とその弟子」の一節です。宗教的には、この説明で、かなり心について
の納得がいったことと思いますが、一般的の人や、なんにでも科学的説明を求める人たちには、ま
だまだ納得がゆかぬものと思います。しかしそういう人たちに充分納得のゆくように話すことは、
現段階の科学の道からいったら不可能なのですが、私は宗教的見解と宇宙子科学の学説と二つの道
から話してゆこうと思います。
ヨガで人体の説明をする場合に、最も大事な場として、七つのチャクラということがいわれま
す。そのうち一番大事とされているのは、普通脳天といわれる場所にある、第七のチャクラであり
ます。
もっとも、人間を肉体だけと思っている人には、このチャクラの話もあまり乗り気になってこな
いと思いますが、そういうことをかまわず、ここでは話をすすめてゆきます。肉体人間の脳天とい
うのは、いつも私が申します、肉体以外の体、つまり幽、霊、神と仮りに呼んでおります各階層の
体につながっていまして、神霊の階層の心の波動が、そのまま素直に肉体の脳天に伝わってきて、生







155
それがひびきわたりますと、それは神智といわれ、神そのままの心の状態を現わしてゆきます。本
心そのままの働きというわけです。
ところが、なかなか、神霊そのままの心が肉体の脳天に伝わってはこないで、他の階層、幽界な
おお
ら幽界の諸々の波動に蔽われて伝わってきます。そこでもう神霊の心そのままの働きはできなくな
り、いわゆる業想念的心となってしまうわけです。
この脳天のチャクラを、神本来の働きにするためには、このチャクラを蔽っている、業想念をは
らい浄め、チャクラを完全に働かしめる必要があるのです。そういう行法をヨガでは、呼吸法と瞑
想でやっているわけなのです。他の六つのチャクラも同じ理であります。
私は神意識そのものの心、神霊の世界からそのまま肉体のチャクラにきている心を本心と呼んで
おりまして、あとの普通いわれる心を、すべて想念あるいは想念波動と呼んでおります。「釈迦と
その弟子」の一節にも、その理を書いているのであります。本心は神そのものの心であり、永遠の
生命そのものの心である。そして意識したり分別したり、不安混迷したり、ああではない、こうで
はない、とゆれ動く心を、業想念波動である、とはっきり二つに分けてしまっているのです。
くなノ
ですから、業想念波動を消滅し、空になったところから、本心が現われてくるので、業想念で本156
くう
心を求めても、本心を自己のものとしてつかみきることはできないのです。釈尊が空になることを
説き、老子が無為の道を説くのもこういう理によっているのであります。
この理はあくまで、人間を肉体だけのものとして、説いているわけではなく、神霊の世界から肉
体までの様々なる階層に人間は住んでいるのだ、ということを含めて説いているのであります。も
っとももう暫く経ちますと、人間を肉体だけに住むものだ、というような考えは、過去の迷信とし
わら
て曝いさられてしまう時代がくるのです。
肉体は神の器
私自身の例をとってお話しますと、こうやってペンをとっている肉体的な私と、私の中から、種
々とこの肉体の私に文章を書かせている私というものは、一つ私でありながら、実は一つでないこ
とがあるのです。これは話をしている時などもそうですが、お浄めしている時などは、まるっきり
主と従、師と弟子、光と器というように、はっきり二つに分れていて、しかも一つの働きをしてい
るのであります。
ですから私は、私のこの肉体を、いつも、神の器であり、場である、というのです。私の本体本
157 生命と心について
心である神霊は、この肉体という器であり、場である私を使って、この世に神のみ心を知らせよう
としているのであり、この世の人々の救済を計っているのであります。
宇宙子科学の学説でいけばすぐわかることなのですが、人間の心も想念も、そして肉体も、すべ
て元は波動なのであります。その波動が五感に触れぬ形で現われていたり、五感に触れる肉体のよ
うな形で現われていたりするのでありまして、すべては生命波動の現われなのです。
この大宇宙には、やはり中心がありまして、そこには宇宙神のみ心がお在すのであります。その
宇宙神のみ心が、その働きに応じて、各種様々な神々に分れて働かれているわけなのです。その人
類に働きかけている、一番元の姿を直霊と呼び、何段階もの分霊となって、この地球界に働きかけ
ているのです。(神と人間参照)
この宇宙神のみ心が働かれようとしている根元を宇宙心と呼び、ここには宇宙核という核があり、
ここから中心核、宇宙子核というように働きが拡まり、様々な波動が交流し、離合して、人間をは
じめ、各種の生物や物質を生みなしていったのであります。それには縦横の働き、プラス、マイナ
スの働き、様々の角度や場など、いろいろな科学的変化をしつつ、人間をはじめ各種生物そして物
質というようにこの世に現わされてきているのです。
158
宇宙の根源
そして、その根源はすべて、宇宙神のみ心、宇宙心にあるのでありまして、人間の心も本来は宇
宙心の心をそのままうつし出しているのであります。唯物的科学で考えるような、単なる自然の科
学変化ではなく、宇宙心という、大智慧、大能力のみ働きによって、万物が生みなされ、運行され
ているのです。
宇宙心は常に多くの神々のみ心として働かれ、人類は神々の子としてこの地球界において、神の
み心を現わそうとしているのであります。しかし、現在はその過程にありますので、地球という物
質の波動を自由になし得ないで、かえって精神波動が物質波動に巻きこまれてゆき、神の存在さえ
忘れかけている人々が多くなっているのです。それも宇宙神のみ心の中に計画済みのことで、その
ために一人に三体以上の守護の神霊を加護につけ、物質波動の重圧を超えて、自由自在な神の子の
姿を現わすようにと、日夜を分かたず守護の力をふるっているわけなのであります。
とも
ですから人間は常に、最も微妙な、自由自在性をもつ、神のみ心と倶にある本心を開発しておく
ように、心がけなければいけないので、その方法が祈りなのです。物質にまつわる、地球世界の玉
159 生命と心について
石混交の波動に左右されてしまう、想念波動のままに生活しているような人間であっては、この地
球界に永劫に神のみ心は現われませんし、やがては戦争とか天変地変とかで、この地球人類は滅亡
してしまうのです。
160
本心はつねに天にある
人間の本心は常に天にあるのです。神のみ心と一つになっているのです。本心のままに生活して
いれば、その人は自由自在であり、平安そのものでいられ、周囲への大きな善い影響を与えつづけ
ていられるのです。業想念波動の喜怒哀楽を土台にして、しかもそうした業想念を消えてゆく姿と
いのち
して、祈りの中で消し去ってしまい、ひたすら生命の本源であり、本心そのものである、神のみ心
の中から、自己の生活をいただき直すことが大事なのです。
心が、自分の頭の中にあると思ったり、心臓の辺にあると思ったりしないで、自分の心は神のみ
心と一つのところにあるのだ、そして自分が自分の心だと思っている心は、実は、善も悪も共に含
くとり
んで、玉石混交のこの世の産物である業想念なのだ、だから釈尊のいわれたように、空になるつも
りで、その業想念を現われては消え去ってゆくものとして、世界平和の祈りの中に投げ入れて、祈
りを起点として、改めて、行動を起す、ということにしよう、と思うとよいのです。
業想念波動で想うことを、自分の心がこう想うなどときめてかかってはいけません。よしんばそ
れが正しいことであっても、一度は祈り心の中で反すうして、定めなければいけません。常に祈り
の中から判断してゆきますと、公正な、適当な答が出てくるのであります。
なぜかと申しますと、自分の想いの奥の本心が開いてくる前に、すでに背後で常にその人を見守
っている、守護の神霊が、その人の祈り心を受けて、正しい方向にその人を導いてくれるのです。
そして同時に、本心の開発もなされてゆくのです。
人はよく、私はこう想うと、自分のことを、さも、自信あり気にいいますが、その私とその人が
ヘへ
いっている、私は、本心の現われの私ではなくて、業想念波動の私なので、それは過去世から今日

までの様々な習慣によって生れた、性癖つまり業想念波動にすぎないので、神の子としての私では
ないのです。

真実の私というものは、神のみ心に通ずる、本心の現われている人間でなければなりません。単
なる業想念波動では、やがては消滅してしまうのであります。永劫に消滅しない人間、永遠の生命
につながる本心を開発した人間こそ、神の子としての人間であり、地上天国に住み得る人間なので
161 生命と心について
あります。
人間が、本心開発した姿でこの世に在る時は、肉体波動も霊妙で光明に充ちております。ですか
らすべての人々の本心が開発された時は、この世は光明に充ちた、自由で明るい、地上天国となる
カルマ
のでありまして、争いの想いや自分勝手な想いのような、業の存在する場がなくなっております。
162
先輩星の援助を受けて
この天体には、地球より先輩の星がたくさんありまして、そうした地球にとっては理想境に住ん
でいる人類がいるのであります。そうした人類、一口に宇宙人と呼ばれていますが、そうした宇宙
天使方は後輩の星の人々の指導のために、いろいろと変身して、手を代え品を代えて献身して下さ
っているのです。
私どももいつもそうした宇宙天使の指導め下に平和の祈りの活動をし、宇宙子波動学の研究をつ
づけているのであります。
先日も誰かが質問していました。生命と心とは一つなのか別なのか、ということですが、生命は、
宇宙神の定めた法則のままに働きつづけるものでありますが、心は、生命そのものの働きを受けな
がら、常に自らも他をも、調和にもってゆく、智慧能力を働かせているものなのであります。
そして、共に、宇宙神のみ心の中に生まれているのでありますが、生命は大自然の根源の働きそ
のものであり、心はその根源の働きをその智慧能力で、大調和達成のために生かしきってゆく働き
をしているものである、ということができましょう。
人間が生命を充分に生かし、本心を開発してゆくためには、繁雑な想念波動を超えて、天のみ心
の中に入りこむ機会を多くつくる必要があるのです。それが坐を組むことであり、統一行をするご
ざが
とであるのです。そして常住坐臥を祈り心で生活する、ということにすればよいのであります。
163 生命と心について
1G4
祈りの生活
平和の根源はどこにあるか
世界平和は誰だって想っている。どこの教団でも世界平和を祈っている。よくこういう言葉をき
くのですが、このことについて、種々と書いてみたいと思います。
世界の平和を想うのは、狂人以外の誰しもが想うのであります。世界が平和であればよい。戦争
や天変地変がないように、とは誰でも想うのです。そして行動的な人たちには軍備をもっては平和
にならぬ、軍備を撤廃しろ、自衛隊もなくせ、と丸腰平和論を唱えている人たちや、アメリカと手
を切れ、アメリカと結んでいる以上は、日本も戦争に巻きこまれる、という人がいます。日本を平
和にするためにも、世界を平和にするためにも、まず自国が強い軍備をして、他国にあなどられな
くならねば駄目だ、軍備が弱ければ、共産国はすぐそこにつけこんでくる、そういう例がいくつも
ある、という人。親ソ派、親中国派、親米派、ナショナリスト、というように、種々行動している
のであります。
ところが平和の根源というのは、そういう現象の動きの中には、もう無くなっているのです。な
ぜ無いかと申しますと、この現象界の想念行為の世界には、真実の平和とか調和とかいうものは、
個人の想念行為の中にも各種の集団の中にも、社会国家の中にも、世界人類の中にも、すでに失わ
れているからなのであります。
すべては自己本位、自集団本位、自国本位になっておりまして、そうした利己心の汚れた想い
で、真実の平和や調和の心を黒く染めてしまっているのです。中には汚れの少い人々もあるのです
が、どんなに汚れの少い人々が叫び行いましょうとも、その想念も行為もやはり、黒く汚れたこの
三界(善悪混交、対立抗争の世界) の世界の動きでしかありません。
汚れが少いというだけで、どうして黒く染った想念行為の波を、白光に輝く平和の波に変えるこ
とができましょうか。こんなに黒く汚れた想念行為の波は、白光に輝やく、清らかな強い光明を間
断なく流しこまなくては、とても洗い浄められるものではありません。祈




165
現在騒がれている公害を浄めるためには、その街やその都市の空気をどのように動かしてみて6
1
も、その河の水を操作してみても、致し方ないのです。公害を無くすには、公害になる原因を除去
すると共に、その空気や河川を浄めるなんらかの手を打たねばなりません。
地球人類の想いや行為の汚れも、公害と同じようなもので、汚れていない世界の光明を流し入れ
なければ、浄まることはないのです。
人間が平和を想い、平和をつくる行為をするということはよいことですが、これが三界の黒い汚
へめ
れの中だけでの想いであり行為であるならば、ただこれは三界を経巡ぐっているだけで、黒い汚れ
をかき廻わしているに過ぎないのです。どうしても一度は三界を超越した世界に昇り、その世界の
清らかな光の波動を自己に流し入れる道をつけて、そこではじめて平和をつくる行為をする、とい
うことにならねば効果はありません。それが世界平和の祈りなのです。
想いというのは、三界をぐるぐる廻っているだけで、神のみ心に入ってゆきませんが、祈りとい
うのは、想いを光り輝やいた汚れのない神のみ心の中で浄化していただき、神のみ光を、自己の中
に流し入れる方法です。ただ平和を想うのは汚れの中に心をひたしたままで、平和を想うのであり
まして、世界平和の祈りをするのとでは、大きな相違があるのです。
祈るということは、常に神との交流をしているということで、常に神の子である本心を開いてい
るということなのであります。ですから、ただ平和を想っている、というぽつんとした横の想いで
は効果はないので、真に平和を想うなら、一歩踏みこんで、神の心とつながって、平和を実現して
いただく道を開く、という実際効果のある方法まで進んでゆかねばなりません。
永遠の平和を築くための宗教者の役割
現在の世界情勢をみつめて、よくよく考えてみて下さい。米国でもソ連でも中共でも、そして日
本自体でも、どこの国が一体他国の利益のために働いていますか。みな自国の立場、自国の利害得
失のために、政治政策を行っているのです。米国の日本に対する経済圧迫にしても、ニクソンの訪
中にしても、自国の利害のためには、日本の利害など問題にならぬ、という現われ方です。今日ま
で種々と日本の復興のために米国が尽してくれたことは確かであり、日本としては非常な恩を受け
ているわけです。しかし、これを意地悪く考えれば、米国が日本に尽してくれた行為は、その根本
は米国の利害得失に結びついてなされていた、ということになる、ということもいえるのです。だ
からといって、日本が今日迄の米国の恩義にそむいていいというわけにはまいりません。祈




167
日本がもし米国の立場に立っていたら、やはり米国と同じような心で相手国に接したかも知れま
せん。純粋な愛他の精神というのは、国家対国家では、まるで不可能なことのようです。
この三界の世界では、お互いに利害得失をはさみながら、その場その時々で、助けたり助けられ
たり、やっつけたり、やっつけられたりしているわけで、まして国家となると、自国の利害得失を
主にすることが甚だしいことになるのです。
ですから、この三界つまり、現われの世界だけを全存在としての政治政策をとっていたのでは、
いつまでたっても、戦争の危機は無くなりません。中ソが離れ、米中が結ばれようと、米ソが結ば
れようと、それはその場その時々の利害関係によるのでありまして、いついかなる時に利害が相反
し、また離間して、戦争状態になるかわからないのです。こんなことは誰方にでもおわかりになる
ことで、永遠の平和を築くことにはなりません。
永遠の平和を築くためには、どうしても、今日の世界観、宇宙観を根底から変えなくてはなりま
せん。それを変えさせるのが宗教者の役目なのであります。ただ平和を想うとか、あの政策が駄目
だ、あのやり方はいけない、というような現象的な問題に対してだけの批判や攻撃では、真の平和
世界を築くことはできません。こういう現象面だけみていると、どうやったって、世界の平和など
168
くることはない、その場その時々をうまくやってゆくより仕方がない、ということになってしまう
のです。
それで諦めてしまう人は、それでしようがありませんが、私どものように、絶対に世界は真実の
平和世界になり得る、という確信をもっている者は、真実の世界平和を築き上げ得る方向に、どん
な困難や忍耐があろうとも、歩みつづけてゆくことになります。
どうしてそんな確信をもっているかと申しますと、この肉体世界の根元になっている神霊の世界
では、すでに完全平和な世界ができあがっているからなのであります。神霊の世界でできているこ
とは、必ずこの世界にうつり出てくる、ということになりますので、平和になると私はいうので
す。しかし、この神霊の世界と肉体の世界との間に幽界という階層がありますが、この世界には、
肉体人間の様々の欲望の想いの波が蓄積されていまして、その様相を具体的に観ますと、戦争とか
天変地変とかいう状態ができあがっているのです。
幽界の浄め
祈りの生活
この幽界の様相をそのままにして置いて、この肉体界の出来事にだけ執着して、ああじゃあいけ畑
ない、こうしなければ、あの国はいかぬ、この国はいかぬ、この主義だ、あの主義だといって争い70
1
あったり、責め合ったりしていてもなんにもならぬので、時がくれば、幽界で起っていることが、
そのまま肉体世界にも起ってくるのであります。先程から、平和を想うだけではいけないというの
は、このことをいっているので、幽界にできあがっている、戦争や天変地変をまず浄めさらなけれ
ばどうにもならないのです。
それをやるのが私ども宗教者の大きな役目なのでありまして、宗教家がそうした本職をないがし
ろにして、政治や事業に口出しをしたり、この世の現われの出来事だけを直そうとして、懸命にな
ほんまつてんとう
っているのは、本末転倒した在り方だと私はいうのです。
この幽界の浄めは、神霊の光明を流し入れて浄めるより方法がありません。それをするのが、祈
りなのであります。そして世界平和の祈りは、この地球世界を平和にしようとして専門的に働いて
いの
おられる救世の大光明の働きを、最も容易にするために、神界の指示によって、できあがった祈り
ごと
言なのです。ですから、世界平和の祈りをするところに、救世の神々の光明が流れ入って、幽界を
浄め肉体界を浄めて下さるのです。
じゆもん
祈り言にも種々とその祈りの範疇があります。昔から各種の呪文がありまして、こうしたことに
はこの呪文、この願いにはこの呪文というようにしめされています。どこの教団でも世界平和の祈
りをしているという人がありますが、それは時折りは祈ることでありましょうが、私どものよう
に、世界平和の祈りだけをすべてとして、朝に昼に夕に、一日二十四時間プラスァルファー、多く
の人々が世界平和を祈りつづけている、体中が世界平和の祈りに充ち充ちている、という団体はあ
まりないのではないかと思います。救世の大光明の神々がのりうつって祈っている、そういう祈り
なのです。
この祈りの主意は、個人人類同時成道ということでありますので、世界人類の平和と、個人々々
の天命が完うされる、天命とは神からさずかった使命ですから、これが完うされることの二つの願
いが籠められているのです。この二つの願いは、人間側の願いであると同時に、神のみ心そのもの
でもありますので、神のみ心と人間の想いとが、全く一つに結ばれる祈りとなるのであります。し
かも子供にもわかる、単純卒直な言葉がそのまま祈り言となっているのですから、意味がそのまま
わかり、表面意識が納得して、当然のこととして祈るわけです。そこで素直に神のみ心につながっ
てゆくのです。
171 祈りの生活
祈リというのは… …
172
宗教はどこの宗派でも、祈りが根底になって様々な行事が行われるわけですから、どこの宗教で
も祈りが重要なはずです。だが自宗団の祈りや儀式にこだわり過ぎますと、他宗団と対立すること
になり、宗教戦争などという、つまらぬことになってしまいます。
その宗教団体が邪宗でない限り、その宗団の祈りは、神霊の世界とその教祖との交流によってで
きたものです。ですからどこの宗団の祈りでも、その祈りは立派だと思うのです。しかし、その祈
りをいかに個人のためにも、人類のためにも有効につかい得るかということが大事なことなので
す。
祈りというのは、個人及び人類の本心を開発するためのものです。神と人間との一体化を果すた
あのものです。ですから神と人間との一体化の道を促進させ、人間の本心を開発させる祈りなら、
どのような祈りの型でもよいのですが、個人が人類を離れて幸福になるということのない現在の世
界においては、個人と人類が同時に救われてゆかねばならぬので、個人人類同時成道の祈りが必要
になるわけです。
そうした祈りが、すぺての行動の根幹になっている、ということが大事なので、祈りは祈り、行
動は行動と別になってしまっていて、なんらかの行動を起している時には、その心は祈り心でなく
なっている、という在り方では、真実の宗教者の行動ということにはなりません。
会議の前には長いお祈りをする、しかし会議がはじまってしまうと、誰の心にも祈り心はなくな
ってしまって、討論そのものになってしまい、善悪混交のこの三界の姿そのままをそこに現わして
しまうのです。その姿はもう神の子たちの姿ではなく、薄汚れた魂の集団でしかなくなってしまい
ます。どんな名論卓説もこうした世界の産物では、世界を平和にするためのものではなくなってし
まいます。
こうしよう
人間は常に祈り心で、神の光明の中で生きていなければ、この業生の三界の流れに流されて、遂
いに戦争とか天変地変とかによって滅亡してしまうものです。現在最も必要なのはこの祈り心なの
です。祈り心がわからなければ感謝の心でも結構です。神に感謝し、すべての物事事柄に感謝す
る、そういう心は、すでに祈り心と等しいものですから、それでもよろしいと思うのです。
地球人類が、より以上の進化をつづけるか、やがて滅亡してしまうのか、好むと好まざるとにか
かわらず、現在はすでにその岐路に立たされているのです。その鍵は何にあるかと申しますと、人祈




173
類が、神のみ心を常に自己の心に住まわせているか、それとも、肉体人間としての智慧才覚による
行為に終始しているかというところにあるのです。
神の力なくて、人類の今後の進化はあり得ないし、人類は次第に光を失って滅びの道を突き進ん
でゆくだけになってしまいます。まして、宗教に志すものから、真実の神のみ心が消え去ってしま
ったら、一般大衆は一体どうなるというのでしょう。
宗教の道
宗教の道は単なる現世利益の道ではありません。奇蹟を売り物の、興味本位の道でもありませ
ん。真実自己の本心を開発し、神との一体化を計り、この人生を光明一元にする道なのです。祈り
ということが、生命を明らかにし、神との一体化を計る方法であることを忘れて、ただ単なるお願
いごとと思い違えしたり、祈りを様々な儀式に縛りつけて、一つの形式化したりしてしまった旧来
の宗教が世界各国にあります。
祈りとは自己の生命を明らかにすることだし、神のみ心と人間の心とが一つに通じ合うためのも
のでもあるので、神の生命によって生かされている人間が、祈りつづけて生きてゆくのは当然なご174
とです。この重大なる祈りということを、変に儀式化し、迷信くさくしてしまった、旧来の宗教心
の誤りは、人類の進化を妨げる、宗教的カルマなのです。
どこの宗教でも世界平和を祈っている、というその世界平和の祈りが、どれだけ神と一体化し
た祈りであるのでしょう。祈っている人たちが、果して、神との一体化を感じて祈っているのでし
ょうか? 自己の想いは、三界の善悪混交の世界にいたままで、神との一体化を計ろうとしても無
理であるように、ただ単なる形式的世界平和の祈りなどでは、とても、神のみ心がこの地球上で働
き得るまでにはなりません。
この地球世界が、真実の世界平和を達成するためには、どうしても守護の神霊との一体化によつ
てなされねば、三界の業生の波に人類は飲まれつくされてしまうのです。ですから私は、寝ても醒
めても、歩いていても、働いていても、いついかなる時にでも、世界平和の祈りが心の中でひびい
ているような、深い祈りになり得る祈りが必要なのであると説いているのです。
今日まで、宗教者は祈りつづけていたけれど、世界はよくならなかった、だから実際行動による
世界平和運動より仕方がない、という宗教者もあり、神だの、祈りだのといってたって世界はよく
なりっこない、といっている宗教者もあります。しかし、宗教者は誰がなんといおうと、祈りを根祈




175
底にして行動することがその天命なのですから、その線を崩すことはできません。自分がそうする
ばかりでなく、一般大衆にも、神の存在を認識させ、祈りの必要性を強調して、神の力と人間の力
とが相まって、この世界が平和になるのであることを、説いてゆかねばいけないのです。
それを宗教者が、唯物論者と同じような行動をしていたのでは、致し方ありません。今日まで祈
っていても効果がなかった、というけれど、祈っていたからこれだけの傷で済んでいるのかも知れ
ません。また、その祈り方に間違っていたところがあって、真実の効果を発揮できなかったのかも
知れません。祈り心というものは、常に継続して持ちつづけていることが必要なのです。或る一定
あとうんぬん
時だけ祈って、後は祈り心のない唯物論的生き方をしていて、祈りの効果云々といったとて、その
人は真実の祈りを実行していないのですから、祈りを云々する資格はないのです。
176
想いと祈リの相違
くどいようですが、想いと祈りとの相違点をもう一度繰り返して申し上げます。想いというの
は、あく迄、三界(肉体界、幽界、霊界の下層) の世界の、つまり横の波のひびきでありまして、
これが縦に働きかけ三界をぬけきりますと、神のみ心とのつながりができてくる、いわゆる祈りに
なってくるのです。
ですから、いくら世界平和を想ったところで、そうした横の想いのひびきだけでは、三界の業想
へめ
念の中を経巡ぐるだけで、業想念の汚れの中に吸いこまれていってしまうだけです。祈ったって効
果はなかった、という祈りも、実は祈りではなくして、この想いの延長に過ぎないのです。想いだ
とて、個人的の想いなら、人の一念岩をも徹す、というように、想いが叶うことが随分とありま
す。しかし、これはあく迄念力でありまして、業を浄めた祈りによって叶えられたものではありま
せん。
宗教によっては「欲しいものがあったら、その欲しいものを頭に画いて、この願いが叶えられる
叶えられると一心に想いなさい、そうすればそれは叶えられます」という念力の願望達成の方法
を、祈りとして教えているところもありますが、それはあく迄念力でありまして、神のみ心によっ
て叶えられたものではありません。業生の想いの力によって達成したものです。これを一概に悪い
と申しておるのではありませんが、この方法はあく迄、業生の渦の中での出来事で、神のみ心の現
われを願う祈りとは、別のことだと申すのです。
この念力的生き方でまいりますと、同時に幾人かの人が同じ物を欲した場合、どうしても念力の
177 祈りの生活
争いになり、調和な心は崩れ去ります。これを宗教的な在り方ということはできません。宗教的な
生き方とは、主体は常に神であり、神のみ心でなければなりません。神のみ心は愛そのものであ
り、調和そのものでありますから、神のみ心がこの世に現われれば、この世は愛に充ち、調和した
世界に必然的になってまいります。
178
神のみ心と一つになる祈りの生活
このように神のみ心を主体にし、自己の想いを神のみ心に合わせてゆく、という生き方をしてゆ
かた
くことを、祈りの生活というのです。すべてを神の方から与えられる、という基本的な生き方、こ
さんせんそうもく
れが祈りの生活なのであります。山川草木という自然そのものの現われはみなそのまま祈りの生活
です。ですから、横の波の想いで世界平和をぽつんと想ったのでは駄目だ、神のみ心に通じる、縦
横のひびきである、世界平和の祈りでなければ効果が無いと私はいうのです。
何事も自我の想いでしたのでは、神のみ心である、完全なる調和や人類愛にはなり得ないので、
自我の想いを昇華させた、祈り心で世界平和の運動をすることが大事だというのであります。
こうした祈りによる世界平和運動を基盤にして、各種の運動や行動を起こせばよいので、祈りの
ない運動では、すぐに対立抗争の渦の中に溺れてしまうのです。
世界人類が平和でありますように、という祈り、私たちの天命が完うされますように、という祈
りの中に、自我欲望は昇華してしまっています。そして、その仲立ちをして、浄めを援助してくれ
る、守護の神霊が存在するのですから、私たちは心強い限りなのです。
人間は誰でも、自分や自分の周囲の者の幸福を願わぬものはありませんのに、幸福の願い方を知
らずにいるのです。赤子と生れるはじめから、いただき通してきた我という生命を忘れてしまっ
て、生命は自分がつくったとでも錯覚してしまったのか、自分たちで幸福をつくり得ると想い違い
してしまったのです。
ありとあらゆる点で、他動的な力によって生かされてきながら、あたかも自分の力で生きてきた
ように想っている人間の頭の悪さは、一体どうしたことなのでしょう。肉体人間は生かされている
のであるのに、自分で生きている、と想い違いしていたところから、人間の不幸がはじまったので
す。人間の不幸を無くすためには人間は生かされて生きているのだ、という謙虚な心になることが
大事なので、真実の幸福への道は、神の愛に感謝し、神のみ心に沿った生き方をしよう、というと
ころからはじまるのです。祈




179
人間の一人一人が、神のみ心と一つになる祈りの生活をしつづけ、その影響を受けた人々がまた80
1
祈りの生活をしてゆく、というように、焦らず、あわてず、光明波動をひろげてゆくことによっ
あせ
て、世界平和の地盤が固ってゆくのであります。いくら焦っても、いくら急速に世界をよくしよう
と思っても、祈りを忘れた行動からは、真の世界平和は生れる筈はないのです。守護の神霊と人類
との協同の働きによってのみ、地球界の平和は達成されるのです。そのさきがけの私たちの世界平
和の祈りなのです。
今、世界が平和にならなくちゃあ、と想う人、天変地変が無いように、と想う人は、早速、世界
平和の祈りをやってみて下さい。あなた一人で、心配そうにぽつんと想っているより、多くの人々
と一緒に明るい気持で世界人類が平和でありますように、と祈ったほうが、何層倍気持が安らぐか
わかりません。想うだけより祈れ、心配するより祈れ、です。
肉体人類だけでこの地球界を救える、と想う愚かさを捨て去れ。肉体人間はあく迄、つくられた
る物質体であって、霊なる人類こそその主たるものである。霊なる人類、神の子人間こそ、この地
球界に平和をつくりなすものであるという真理を知らぬ限り、その人は救われないのであるという
ことなのです。
人間は、眼に見え、手に触れぬと、無いというのですが、人間にとって一番大事な生命というも
のは、眼にも手にも触れないのです。この生命、即ち霊の働きなのです。この生命エネルギーは、
五感に触れぬ、ずっと深い奥の世界から、この肉体界まで、ずっと働きつづけているのでありまし
て、この働きが肉体界までも及ばなくなった時を、肉体の死というのですが、肉体が死んでも、人
間の本質である、この生命エネルギーは、他の階層で働きつづけているのであります。
祈りというのは、この生命エネルギーを最大限に肉体界で発揮し得る方法であることをつけ加え
でおきます。
181 祈りの生活
182
真の幸福をつかむ統一行
真実の自分はどれか
人間は、肉体をもって、一人一人別々に存在しておりますし、一つの肉体は、一人の人間の所有
物であるわけです。ところが、そう簡単に考えるわけにはゆかぬところに、人間の複雑性があり、
人類世界の混乱が常に巻き起こされることになるのであります。
田中五郎なり、中村花子なりの一人の人間は、肉体的にみれば、確かに一人の人間であります
が、その精神的内容からみると、一つに統一されている人間ではありません。幾つかの異なる精神
的内容がミックスされて、一人の人間として成り立っているのです。
簡単に申しますれば、会社にゆかなければ、と一方では思いながら、休んでしまいたいと思った
り、もう一杯呑みたいという思いと、体に悪いから止めよう、という思い、あいつには思う存分の
ことをいってやろう、という想いと、争いになるからいってはいけない、という想い、こういうよ
うに、相反する想念が同時に出てくることが随分とあります。
これは精神が一つに統一されていないという証拠です。よくもまあこんなに種々の想いがある
な、と思えるほど幾種類もの違った想いがあるものです。どの想いも、一つ肉体から出てくるの
で、自分の想いということになりますが、真実にどの想いも自分のものなのでしょうか、この点を
よくよく考えてまいりますと、真実の統一行の大事なことが自ずとわかってまいります。
これからの例は、ちょっと飛躍しすぎると思いますが、参考のために書いてみます。いずれも心
霊現象的なもので、普通人の多種類の想念というのと少し異なりますが、こういうこともあるとい
う意味でお読み下さい。
ジキルとハイドの場合
有名なスチヴンソソの小説「ジキル博士とハイド」では、主人公のジキル博士は、秘密の薬の力
によって自分を悪の化身ハイドに変えてしまい、ハイドの犯す悪業をひそかに楽しみつつ、身の危真










183
険が迫ると、薬の力によってジキル博士にかえっていましたが、このような生活は長くつづかず、
ついに、ハイドの力が強くなり、ジキル博士が眠っているうちに、自然にハイドになってしまいま
す。結局は、ジキルの自殺によって物語は終ります。これは小説ですが、実際の事例として、次の
ようなことがありました。
アンセル・プアンという牧師さんが突然家を出奔、その後消息をたっていましたが、実は全く人
格が変ってしまって、ブラウンと名のる商店主になっていたのです。約ニヵ月後、ブラウンはまた
突然もとのプアンに戻り、自分でも自分が商売などしていることに大いに驚き、結局は牧師の位置
に帰っていったということです。
これなどやはり心霊現象というべきで、普通人の二重人格的なものとは違いますが、根本的には
相似たところがあるのです。
184
ピーチャム嬢の事例
二十三歳の女子大学生ビーチャムは、道徳的、良心的、宗教的で、つまり「聖者」と呼ばれるに
ふさわしい人格であり、ただ聖者にしてはいくぶん陰気な感じのする人物でありました。ところ
が、自らサリ!と名乗る第二人格が、ピ:チャム嬢の肉体に現われます。このサリーはピ!チャム
嬢とは全く逆で、茶目で朗らかで、子供っぼく、亨楽的であります。彼女はビーチャムといれ代っ
て出現するや否や、ピ: チャムの思いもよらない亨楽生活を楽しむのです。ここに、ピーチャムは
サリーの存在を知らず、サリーの行為の間は完全な健忘状態になってしまいます。サリ!のほうは
ピーチャムのことを知っており、その堅苦しさを軽べつしています。なおこれには第三人格まで存
在し、それはサリーが「白痴」と名づけている人格です。
これは粗野で喧嘩好き、見栄坊で幼稚な人格でありました。そしてビーチャムはフラソス語が得
意であるのに、第三人格はフランス語を全然知らないのてす。
この話など、全く心霊現象の話ですが、心霊現象的でなくとも、これに近いことはあるのです。
イヴ・ホワイトとイヴ・ブラックの事例
イヴ・ホワイトのほうは地味で慎み深く、声も温和で、むしろ陰気なほうですが、これに対し
て、第二人格のイブ・ブラックは派手好みで、粗野で陽気でありました。ここでも、イブ・ホワイ
トはイヴ・ブラックのことを知らず、イブ・ブラックはイヴ・ホワイトのことを知っていて、いろ185真










いうといたずらをしたりするのは、ピーチャムとサリーの関係にそっくりです。やがて二つが調和
したような第三人格が出てきて、新しい人生を歩むのですが、この事例の報告者はサリーはまるで
イヴ・ブラックの双生児のようだとさえのべています。
186
山田少年の場合
今度は日本の話で山田少年の事例です。山田少年は中学二年生ですが盗癖の矯正のため、中村古
峡氏(心理学者) のところに連れてこられたのです。中村氏はすぐ催眠状態のままで暗示によっ
て、不良少年のついに落ちてゆくべき監獄の中の凄惨な光景を詳細に山田少年に目撃させた後、窃
盗などという悪心の起らない暗示を与えました。これは成功したかのようでありましたが、母親の
甘さも手伝ってまた犯行がくりかえされます。
山田少年に会って、犯行後盗んだ金で映画を見にいった点などを聞いてみますと、そのあたりの
ことを彼は全く記億していないことがわかりました。そして、自分は悪いことをしないつもりでも
「私の悪心」がけしかけて悪いことをさせるのだというのです。そこで、中村氏は山田を催眠状態
にして「悪心」を呼びだしますと、山田の態度はがらりと変り、傲然とした態度になりよく喋るの
です。この「悪心」も山田のことをよく知っており、自分が山田をそそのかして犯行をいかに行な
わせたかを語るのです。悪心はもちろん映画のこともよく覚えていました。
中村古峡氏はここで思い切って「悪心」に山田と離別して欲しいと頼みますが、断られます。こ
こで中村氏は「暴力をもって追い出してみせる」ということになり「鼓に於て余は例の暗示法で、
悪心を直ちに傍の壁に礫刑に処して、散々酷い目に会わせる」といって、中村氏独特の暗示法によ
って、悪心を降参させ「離別する」ことになります。ところが少年はまたも盗みをするのです。そ
こでまた前回と同様の方法で悪心を追い出す療法を行ない、これでよくなったと思っていますと、
またもや悪行がくり返されるのでした。
そこで中村古峡氏は反省して、自分の方法が第二人格を追い出すのに余りにも強制的な手段をと
りすぎたと考えます。そして次回は「気長き説得」によろうとして、山田の第二人格に説得したり
嘆願したりした結果、山田に代る適当な人物を周旋してさえくれれば山田と離別してもよいという
ことになります。そこで「じゃ中村を世話してやろう」と古峡氏は自分を推せんしますが、これは
悪心が嫌がって駄目になり、またも話合いは持久戦になりますが、結局手切金を渡して「百年間」
の間別れることになります。真










187
手切金三万円(大正時代だから大した金額である)を要求されますが、そこは「勿論、幻覚を利
用して空札を渡す」のだから簡単なものです。これでやっと安心していますと、なんと第三人格の
「悪心の兄分」というのが出現してきまして、山田少年を犯行にさそってしまいます。結局これと
も話合って、手切金を前の十層倍も払って離別してもらうことになりますが、その兄分は別れぎわ
に、自分たちは兄弟分が幾万人いるかわからないから、親分にあって、それらが山田にとりつかぬ
ように依頼するとよいと、忠告を残してくれます。
そこで、早速に親分を呼びだしてみますと、ここでも長い話合いになりますが、親分は侠客に扮
した役者のせりふとそっくりの話し方をして、山田の身辺三町以内には子分を近づかせないという
ことになりました。
188
心を調和させること
こんな話を書いていますと、まるでつくり話のようで、真実性のない話と思う人もありましょう
が、心霊現象としては、随分ある話なのです。なぜこんな極端な例話をひいたかと申しますと、人
間はこのように、一つの肉体の中で、種々な想念が入り乱れているのであり、その想念の分裂状態
が不調和状態によって、その人間の不幸災難というものがつくられてゆくのである、ということ知
ってもらいたかったからです。
精神科学的な言葉でいえば、賦襟幽思講と濯糠款講のアソバラソスが、人間の不幸を生んでゆくの
であります。潜在意識も浅いところのものは、表面の意識で汲み取ることができますが、少し深く
なってきますと、まるでわからなくなり、表面意識が潜在意識に合わせてゆくことができなくなり
ます。
前生において結婚生活で非常に苦しんだような女性は、その苦しみが潜在意識に蓄積されていま
して、今生の顕在意識では結婚を望んでいながら、いざ見合となると、わざと相手にいやがらせを
して断わらせたりするのです。結婚の遅れている女性の大半は、過去世の結婚でなんらかの非常な
苦しみを味わった人々か、宗教的に男女の営みを悪と感じている人々なのです。
人間の想念意識というものは、表面で想ったことが、そのまま潜在意識となってゆくものであ
り、逆にまた潜在意識の中から、表面の意識や行動に自然に現われてきたりしてするのです。表面
で過去世から今日まで想ったり行動してきた、いわゆるその人の過去の想念行為が、現在の意識と
は全く相反する行為となってでてくることが多いのです。そこに人間の不幸が起ってくるのですか
189 真の幸福をつかむ統一行
ら、その潜在意識を、表面の意識と全く一つの想念に統一しておかないと、自己が現在望んでいる
幸福な環境が現われてこないのです。
けんざいいしぎせんざいいしき
顕在意識というものは、肉体構造の中にあるものですが、潜在意識というものは、肉体構造の中
から、幽体、霊体という奥の体、つまり四次元五次元という次第に次元の高い階層に蓄積されてい
ます。そしてそのずっと奥に神意識というものがあるのです。そして、普通いわれる潜在意識とい
うのは、肉体と幽体にわたって潜んでいる意識なわけです。
ひようい
前述の心霊現象の場合は、肉体と幽体とに、霊魂が愚依して二重三重の人格となっていたので
す。ですから、愚依現象という特異のものでなくとも、二重三重というように想いの分裂した人間
でなく、本心に統一された人間にならなければ、真の幸福をつかむことはできないのです。
190
統一行が必要
そこに、私どもの実践している統一行ということが必要になってくるのであります。統一という
言葉をききますと、すぐに、精神統一という、念力的な方法を考えます。私どもの統一行というの
は、そういう精神統一ではありません。日頃分裂している種々の想念を、神の心である、本心に統
一する、そういう統一行なのです。
しこん
神道の言葉に、一霊四魂三元八力、というのがあります。一霊というのは勿論、直霊に通じ宇宙
にぎみたさくしみたまさちみおまあらみたま
神に通う、人間の本源の光です。そしてその光が四魂、つまり和魂、奇魂、幸魂、荒魂の四つの働
きをもち、三元八力に働くというのですが、すべての働きは一霊のみ心そのままに統一されて働か
ないと、その人格がゆがんだり、ひねくれたりするわけで、調和した、完成された人格にはならな
いのです。
にぎみたま
人間の想念というものは、実に面倒なものでして、優しい和魂の面の働きの多い人は、得てし
あらみたま
て、押しの弱い、気の弱いところがあったりしますし、荒魂の面の多い人は、気力も烈しく、押し
も強く、あたりかまわず突き進んでゆくかわり、人との調和に欠けたり、粗暴だったりします。で
すからたとえ、一つの働きのほうが多い人でも、想念を一霊、つまり、神のみ心に統一して、自己
の働きの面が裏面にならぬよう、欠点にならぬように、他の働きの補いをつけてもらわねばなりま
せん。
そういう意味で、自己が本来もっている、性質というものを、そのまま、それでよいのだと思わ
ずに、常に、神のみ心の中で、自己の本心に統一して、よりよく生かしてゆかねばなりません。真










191
よく金持などにろくな奴はいないとか、よほど悪いことをしなければ、あの権力の座は握れない
912
とか、いう人がいますけれど、金持になった、権力の座についた、ということは、そのこと自体、
他の人々になんらかの力が勝っていた、ということで、なんらかの力という長所があるわけです。
例えば、仕事においてヒラメキを持ち、周囲の気を計らず行う、実行力に富んでいる、思ったこ
とを押し通す、というような、気力迫力の充実した人間でなければ、なかなか並はずれた地位と
か、富とかを得ることはできません。それはやはり一つの長所と見るべきで、その裏面が、強引だ
とか、思いやりがない、薄情だとか、いうことになるのでしょうが、やはり金があり、地位がなけ
れば、善いことをするにも大きな善いことはできませんので、その長所に加えて、愛とか思いや
り、というものを、その人と反対の精神の友人や知人が補ってあげる必要があるわけです。
その人自らが、その自己の欠点に気づいて、信仰的になり、私のいうような統一行でもはじめれ
ば、それはしめたものなのです。
要は、どちらの側の働きの人でも、常に自己の想念を統一して、一霊のみ心そのままの働きにな
るように努めることが、人類を進化させる一番大事なことなのであります。ですから、人の悪いと
ころをみて、非難しているより、長所のほうをみつけ出して、その長所を自己も取り入れるよう
に、それこそ統一をして、自己拡大を計ることがよいのです。
平和の立場に立って処理する
現在の地球人類は、まだまだ人類としては、進化の途上にあるので、動物的要素と、動物にもな
はず
い、道(宇宙法則) に外れた行いを平気でしている向きも随分とあるので、地球人類が進化をつづ
け、完全平和を達成できる人類になるためには、どういう生き方が人類の滅亡につながり、どうい
う生き方が人類を平和に存続せしめ得るかを、自己の生き方や、人類全体の今日までの在り方を、
冷静にみつめて、正を取り誤ちを捨て去ってゆくように、一人一人の人間が、自己のでき得る範囲
で、勇気をもって処してゆかねばなりません。
今日迄の人間の習慣の想念で、この世に処してゆこうと思えば、どうしても弱肉強食的生き方に
なり、自国を守るためには、他国に勝る武力をもって、対処してゆかねばならぬということにな
り、常に戦争への恐怖を世界にまき散らすことになります。
かんわ
米中の交流は、表面的には確かに世界の緊張緩和に一歩前進した感じではありますが、それはあ
く迄単なる表面的、いわゆるお互いの現象利益的な交際でありまして、大調和した、真の世界平和
193 真の幸福をつかむ統一行
を目指した交流ではありません。真の世界平和を目指すためには、一度は自国の利害とか自国の権
威とかいう、打算的な意図を捨て切って、次第にどこの国もが真の平和を享受できるような、そう
いう立場に大国がまず立たねばなりませんが、米国もソ連も中共もすべては、自国の利害得失と自
国の権威というものが、やはり主でありまして、その線を外れることを極端に拒否してきています。
しかし、現在の国家群にこんな高い立場でものをいっても無理なことと思いますので、先ず個人
から、この真の平和の立場に立って、すべての物事に処することを学ばねばなりません。私どもは
その行為を、祈りによる世界平和運動として、平和の祈りという、神の救世の大光明の中に、自己
の全想念を統一させる日常生活をつづけているのです。
194
統一行は世界平和の祈りで
この方法は何もむずかしいことは一つもありません。善悪混交の想念を自力で善のみの想いに変
えろなどという、できそうにもないことをいうのではありません。善悪混交の想念のままで、その
すぺてを消えてゆく姿という意識をもって、世界平和の祈りの中に、その想念すべてを投入してし
まう祈り言の連続の日々をつづけてゆけばよいのであります。浄土真宗の念仏一念の生活と同じ状
態で、日常生活をしてゆけばよいのです。その行をつづけてゆくうちに、いつの間にか、世界平和
の救世の大光明の中で、善悪混交の想念の悪や誤りの想念行為が浄められてゆきまして、善であり
光明である、神のみ心に叶う想念行為だけが残るようになってゆくのです。
人間が常に、これが自分の性格だと思い、こういう風にしか自分はゆかれぬ、というような自己
限定をしていますが、それは単に自己のほんの一部を現わしているに過ぎないので、真の統一をす
れば、自己というものが、はるかに大きく広くなりまして、人物に幅も深みもできてきます。人間
はこれが自分だと思っている自分は、過去世からの業想念の波でしかないのです。
自己のすべてを一度神のみ心に投入しきった人間であっても、常に反省し統一していないと、肉
体世界に生きている限りは、つい肉体界の波動にひきこまれまして、肉体人間と同じような生活を
くめのせんにん
当然としてしまいます。天人の五衰とか、久米仙人の転落という話にもありますように、常日頃の
たゆみない祈りの生活、統一の生活が、その人の神性を豊かに保ちつづける秘訣となるのでありま
す。
かた
といって、頑くなに、この世的な生活を拒否していたのでは、世間とのつき合いができなくな
り、変り者としてつまはじきされてしまいます。その点で、常に祈り心で統一されていますと、こ真










195
の世的な生活に同調しているように見えながら、心はこの世の汚れに染まない光明のひびきを出し
つづけていられるのであります。
純心なる信仰態度
黒住教の教祖で私の尊敬する、神人黒住宗忠は、或る時、講演にゆこうとして、或る川に差しか
かり、そこに渡してある丸木橋を渡ろうとしましたが、渡る途中で、足がぐらっとして危うく川に
落ちそうになりました。その時さすがの神人も思わず、はっとして想いを動かしてしまったので
す。宗忠は、神に全託していながら、想いをぐらつかせた、という不信をいたく恥じまして、その
日の講演会で信者の前で、その事実を告白し、神や信老に自己の不信を深く詑びたということで
す。
なんという純心な信仰態度でありましょう。私なども常にこの態度を私のものにしようと努めて
います。宗教者のうちには偽善的な人がかなりおりますが、その態度は一日も早く改めることが肝
要です。この黒住教祖に学ぶべきでしょう。
人間が現在のように、本心に統一されていない、分裂した想念意識で、すべての行為をしている19G
限りは、自己の平安も、世界平和への貢献もできるわけはありません。本心とは神のみ心そのもの
なのですから、人間は神のみ心に統一して行動しないことには、真実の人類の目的である、世界平
和はできないことになります。
人類は絶対に進化をつづけなければならぬことになっていますので、今日のままでゆくわけがあ
りません。神のみ心はどのようにしてでも人類の進化を計ってゆきます。人類がそうした神のみ心
を知らずに過していますと、地球人類の大半が滅亡して、ほんの少数の残された人々で、これから
カルマ
の進化の道を進んでゆかねばならぬようになってしまいます。神の光明を、業の波で蔽いつづけて
カルマ
ゆきますと、神の働きの邪魔になりますので、光明波動でその業を消滅させることになります。
それが天変地変という形になってしまうのであります。一方では、はっきりと人為的に起る戦争
の脅威と、この天変地変という恐れとは、今のままの人類の心の状態では、つきまとって離れぬも
のです。
この二つの滅亡への道を防ぎとめるためにも、私たち地球人類は協力して、どのようにむずかし
いと思われることでも実行してゆかねばなりません。地球人類が滅亡するかどうかという時なので
す。どんなことをしても、滅亡してはならぬのです。真










197
大調和世界の実現
198
この日のあることを知っておられる神々は、老子や釈尊やイエスという聖者をこの世に遣わし
て、滅亡を防ぐ方法を人類に教えていたのであります。その方法は無為の道であり、空の道であ
り、神への全託であったりしました。しかし地球人類は、これらの方法を全面的に受け入れはしな
かったのです。ほんの一部の人々が受け入れはしましたが、他へのおよぼし方が、真理そのままと
いうわけにはゆかなかったのです。それはあまりにも、それらの方法がこの世の生き方からすれば
むずかしすぎたのであります。その根本を要約すれば、この肉体の生活に把われきった人間を、神
くう
霊 の世界の人間として、認識し直すということなのです。それを無為といい、空といい全託という
業想念消滅の方法を通して教えていたのです。
私どもはその方法をもっと一段引き下げて、消えてゆく姿という方法にしたのでありまして、す
べての不幸や誤ちや想念波動のすべてを、過去世の習慣によるものとし、それらを現われた時が消
えてゆく姿であるとして、そういう想念や状態を、そのまま、世界平和の祈りにして、救世の神々
の大光明波動の中で、消し去っていただくということにしたのであります。
煩悩即菩提として、悩みがそのまま、救世の祈りとなってゆくのです。それがそのまま、統一行
となるのであります。そこにおいて、大調和の世界、平和の世界が個人にも人類にも実現してくる
のです。
参考資料岩波新書「コンプレックス」
199 真の幸福をつかむ統一行
200
悟りということについて
悟を字解すると
さとわれ
悟りという文字は、心と吾とが一つになってできています。この吾という字は口の上に五が乗っ
えき
ている字です。これはどういう意味かと申しますと、五というのは、易でも中心に位するところに
ごだいちすいかふうくう
ありますし、あらゆる要素の中心になっています。五大といって、地水火風空という五つの要素に
よって人間の体はできている、と昔の学問ではいわれています。そして五の下の口は体と言葉を代
われ
表して現わされているので、こういう五つの要素によってできている体をもつ者が吾である、とい
しようけいもじ
うことになるのです。文字というものは面白いもので、物の形をそのまま現わした象形文字と、こ
ういうように、意味を現わした文字とがありまして、この意味を解いてゆくと、その文字のもつ本
われわれわれわれ
質がわかるのです。そして、この吾、この吾は、我と違って、肉体をもった個人個人の吾でありま
たいこ
す。大我といって、神のみ心を現わす場合がありますが、大吾とはいいません。
われ
吾はあくまで、肉体を持った、肉体想念のほうの人間でありまして、一方の我のように、本来が
われ
神というか個人の吾でない大我という意味で使われている文字ではありません。我は神もしくは神
われ
の分れという意味で使われている我です。ですから大我に対して小我ともいいます。我と吾とはこ
われわれ
のように違いますので、心に我をつけても悟りという意味にはなりません。心に吾をつけたところ
に悟りという意味があるのす。
われ
と申しますのは、この心は本心のことでありまして、神仏本来の心です。この本心と吾とが一体
われ
になることが即ち悟りである、という意味です。我は本来が神のみ心ですから、神のみ心、本心を
ごだい
二つ合わせたのでは悟りの意味になりません。神仏のみ心、本心と、五大によってつくられた肉体
身であり、個人個人としての想念意識をもつ吾即ち、神によって形の世界に個人個人として創られ
た人間が、神そのもののみ心である、本心と一つになることによって、個人が神の理念の通りの個
人となるのでありまして、これが悟りの状態なのであります。
我というのは本来が神のみ心そのものの現われなのですから、神を離れた肉体人間としての想念悟










201
意識はないのでして、光そのものであるべきなのです。神の末、神の子なのです。ところが、現在02
2
では全く我も吾も混同しておりまして、いずれも、神仏のみ心を離れた想念行為に終始しているわ
けです。私は文字の専門家でありませんが、このように一つ一つの文字を見極めてゆけば、人間の
為すべきことも、世界の在り方も日本の進む道も、はっきりわかってくると思うのです。
大悟徹底にいたるまで
ところで悟りのことですが、悟りにも種々の段階がありまして大悟徹底したといえば、神我一体
の境地になったということでありますが、なかなかそういう悟りの段階にはまいりませんで、煙草
の害を悟って止めた、という悟りでも、少しは、本来心に近づいたので、悟りといえばいえるので
す。そんな小さなことでも、本心が少しでも開ければ悟りなのですが、宗教本来の悟りというの
は、そのくらいでは悟りの仲間には入れてくれません。
やはり大悟徹底を目指し、神我一体の境地を目指して突き進んでゆくわけで、その間に難行苦行
をする人もあるでしょうし、家を捨て妻子を捨てた人もあったでしょう。この現われの五十年百年
の幸福、家や妻子や地位や財によって得る幸福などは、本心が開発された、大悟徹底した幸福にく
らべれば、なんのそのだ、という気持で地位や家族を捨てた人もあったでしょうし、またそのよう
な幸福論ではなくて、止むに止まれぬ内もよおしで、難行苦行をしつづけたり、家や妻子や地位を
捨てた人もあったでしょう。いずれもその人々の過去世の因縁によってなされているわけです。
かこせ
ところが大悟するということは、過去世の因縁からすっかり解き放たれた、ということでありま
さんがいるてん
して、過去世の三界流転の因縁因果の波動界を脱出して、神のみ心そのものの、光明波動の中に、
すっぽり入りこんでしまった、自由自在心になりきったということです。
人間は本来神のみ心そのものである、と私は常に申しておりますし、事実そうなのですが、実際
は人間が、肉体という物質体を纒って以来、本来心である微妙な波動と肉体という物質体との間に
甚だしい波動のギャップがありまして、本来心が非常にゆがんで現象界の人間の生活に現われてき
げんざいむみよう
てしまったのです。これがキリスト教でいう原罪であり、仏教でいう無明であり十二因縁でありま
す。カルマともいいます。
無限の進化
悟りということについて
03
神のみ心そのものである大宇宙は、無限の運行をつづけ、無限の進化をつづけているのでありま2
して、地球という星も、生れてこの方次第に進化をつづけているのであります。そして、その地球
024
進化の中心として、肉体という物質体を纒った人間が働きつづけることになっているのです。
私がいつも申しておりますが、大宇宙というのは、精神(陽)という縦の働きと、物質(陰)と
いう横の働きとが十字交叉して、多くの十字交叉が重なって、ちょうど碁盤の目のようになってい
るのです。ですから、物質というものが、この五感の感覚に触れるところだけにある、つまりこの
世だけにある、というものではなくて、四次元の世界にも五次元の世界にも、ずっと次元の高い世
界にもあるのであります。
人々は物質物質といって、あたかも固りきったもののように思っていますが、実はもう現在の科
学でも解き明かしてありますように、素粒子から、波動に還元するもので、元は私共が申す、宇宙
子の波動の一種なのであります。精神も勿論、宇宙子波動の一種なのです。このように高次元の世
界から次第に低次元の世界に宇宙の運行はなされつづけられ、常に神の分生命である人間がその進
化の中心となって働きつづけているわけで、現在地球世界の進化が突き進められているのです。
進化というのはわかりやすくいうと、トンネル掘りのようなもので、掘りあげるまでは、人間は
土をかぶり、ほこりをかぶって真黒になり汚れきって掘りつづけるわけでして、掘りあがれば、非
常に人間にとって便利になり、人間自体も汚れを洗いきって、奇麗になってしまうのであります。
この進化の過程の、人類の悪や不幸や災難でありまして、やがてはすべて浄らかな神仏そのものの
人間になってゆくわけです。しかし、ここに大きな間違いを人間がしでかすところでした。それ
は、人間は、肉体のこの人間自体で何もかもやれると思っていることなのです。それでは人間はや
がて滅びてしまいます。
二つの働き
人間が微妙な波動の神の世界から、粗い波動の三次元の物質波動の世界に生れてきたことによっ
て、人間は本来の能力の何分の一をも出し得ぬ不自由な心身になっていますので、神のみ心はその
ハンデキャップを埋め補う意味で、守護の神霊を各自につけられ、守護の神霊との一体化によっ
て、地球の進化をつづけてゆき、遂いには神のみ心そのままを地球世界にも実現する、ということ
になっているのであります。
それを肉体人間だけでやり遂げようとしては、当然滅亡の方向にむかってしまうのです。そうい
う真理を知っていますので、私は常に守護の神霊への感謝を強調しているのです。守護の神霊は私悟










205
どもが感謝してもしなくとも、守りつづけていることは確かなことなのですが、私どものほうから
感謝して想いを向けてゆけばより一層守りやすく、人類の進化を促進させることができるのであり
ます。また人間の悟りは、守護の神霊の加護がなくては到底できぬことを知らねばなりません。
宇宙神は自らの働きを大きく二つに分けておられるので、一つは法則としての神でありまして、
これは宇宙万般から人間はじめ生物一切に適合されています。この法則は狂いもなければ、破るこ
ともできません。この法則の根本は、大調和に向って進む、ということでして、地球人類などの利
己的な生き方は、随分この法則を外れているわけで、このままゆけば、当然次第に大きく法則外に
動いてゆき自滅することになります。
ところが、神は一方では人類救済のための、守護の神霊として働かれているわけで、小は一人一
人の背後に立ち、大きくは国家、人類全般の守護神として、常に人類の足らざるを補ない、人類の
滅亡を防ぎ、進化に向かって歩みを進ませているのです。進化の極限はやはり大宇宙の大調和とい
うことにありますので、人類はどうしても調和そのものの生活になりきらねば自滅してしまうよう
になっており、それを防ぐため、守護の神霊は、各人、各民族国家、人類すべてを陰ながら指導し
て、時により聖賢をつくり、発明家や芸術家や科学者や政治家、実業家や宗教家やあらゆる面で、20G
肉体人類の欠陥を補う人々をつくり出して今日まで進んできておるのであります。
そして今日では、より強力に地球人類を指導し守護する必要が生じ、守護の神霊が大結集して、
私の申す救世の大光明、ヨガやその他で、ハイラーキーという光明力を集中させた大集団となっ
て、地球人類救済の力を大きく発揮してきているのです。その力が私どもには、世界平和の祈りと
してまた、宇宙子波動生命物理学という科学面の智慧として、働きかけてきているのであります。
もはや地球人類は、守護の神霊の加護を信じ、その感謝と世界平和の祈りなくしては、生存でき得
こう
ぬ時代に突入しているのであります。いわゆる第七劫の時代を大光明の世界に進化せしめるか、古
代から何度びとなく繰返えした、人類滅亡の方向にもってゆくか、の二つに一つの時に突入してい
るのです。その中間的生き方などは無いのでありまして、少しぐらいの善事ではとても、この難関
を突破してゆくことはできないのです。
にちにちしゆんしゆんこくこく
そこで救世の大光明につながる世界平和の祈りが生れ出たのです。日々瞬々刻々、この祈りを
することによって、個人も救われると同時に世界人類も救われの方向に一歩つつ近づいてゆくので
あります。そうなるべく、神計りに計られているのです。
207 悟りということについて
私の体験
208
話が悟りのことから大分それましたので、ここで、私の悟りというより、私が神霊によって今日
の私に仕立上げられた、というほうが適当な経過を皆さんにお話したいと思います。私のは、私が
悟ったとか、梵辟鷹麟したとかいうそういう状態ではなく、次第次第に神霊によって、身心共に育
成されていったというほうがよいと思います。尤も私の過去世のことから申しますと、大変な難行
苦行の末に大悟徹底したという時代もあったようなので、そのへんのつながりが今日の私になった
原因になっているかも知れません。なんにしても過去世は過去世、今日は今日なので、過去世にど
んな立派な人物であっても、今日落ちぶれていてはなんにもなりませんので、今日の私の悟らされ
ぶりをお話し致します。
じじよでん
私 は私の自叙伝「天と地をつなぐ者」にも書いてありますように、貧しい家に生れたせいもあっ
てか、昔おっびらきといって片手を広げて歳をいっていた、今でいえば満三歳ぐらいの時に、一体
自分はどういう風にしてお金をかせぎ、どんな風にして、世の中のためにつくすのかなあ、と真剣
に考えていたのを、今でもはっきり想い出すのですが、何か、自分と社会というものを一つにして
考えていたようでした。そういう点で、少しませた子であったことは事実です。
十三歳で家を出て、働きながら勉学したわけで、それまでどういうわけか、五人も男の兄弟がい
るのに、私は常に母親の側に寝ていて、毎朝、毎晩、南無阿弥陀仏、あなかしこを子守唄のように
聞いて過していたものでした。ですから南無阿弥陀仏が、すっかり心の中に入りこんでいて、いつ
でも心の中で南無阿弥陀仏がひびいているようでした。今にして思えば、それもそのはず、私の過
去世の中で、念仏と一体になっていた時代があったからです。
キリスト教の人などで、過去世などというと嫌がる人がおりますが、嫌であろうとなかろうと、
ぜんこうあくこう
過去世からの善業、悪業のどちらもが、人間の運命について廻っているので、この過去世の因縁を
ぜんいん
超越して、神仏との一体化を成し得ることが、真実の悟りなので、過去世の善因に把われているこ
あくいん
とも、悪因に振り廻わされていることも、共に悟りとは遠いことなのです。
ふうじや
ですから、過去世の善因で富者の家に生れ、その上才能もあり、美人でもある、ということで
も、それは過去世の徳であって、現在の徳ではありません。そこで、そういう人は、過去世の徳に
甘んじていないで、その徳を生かして、ますます人々のために尽し、美しい愛の心で日々の生活を
過してゆけば、いよいよ徳が積まれてゆくわけです。またその反対に、過去世の不徳の至すところ
209 悟りということについて
で、貧乏に生れ、才能もとぼしかったとするならば、それはすべて過去世の悪因縁の消えてゆく姿
としてそこにその結果が現われているのですから、その消えてゆく姿をすべて神仏にゆだねて、世
界平和の祈りをしつづけ、自分のできる限りの善事をしてゆけば、やがて今生においての徳が積ま
こんじようらいしよう
れて、幸福な生活がめぐってくるのですし、今生で恵まれなければ、あの世であるいは来生で恵まれ
あら
てくるわけです。要するにすべては過去世の因縁(想念行為) の結果がこの世の運命として現われ
てくるのですから、善徳に恵まれていたら、ますます善徳を積み、悪因縁にさいなまれていたら、
それはみな過去世の因縁として、祈り心で神仏に消していただくことを願い、この世で善徳を積ん
でゆくことにするのです。すべてはめぐってゆくので、その人その人の魂の尊い経験となってゆく
のです。これは宇宙の法則で致し方ありません。その援助者として守護の神霊がおわすのですか
ら、守護の神霊の加護への感謝を忘れず、一心に世界平和の祈りをすべきなのです。
210
神様ありがとうございます、だけだった
ところで私のことですが、私は子供の頃から特に霊感があったわけでもありませんが、神仏の実
在ははっきり信じていましたし、人類社会のために何か尽したい、という気持が熱烈にありまし
た。また、自分を立派な人間にしたいという想いも非常に強かったのです。そこで、種々な哲学書
も読みましたし、大体が音楽家で詩人の仲間入りをしていたので、文学書は随分読んでいました。
しかしそれだけではとても満足できず、本当に立派な、神仏の世界に通じた人に会いたくて、終戦
間際から、本格的に自分の師匠を探し歩き、種々な統一法や、祈りの方法をやってみたわけでした
が、遂いには、ただ、神様ありがとうございます、の一点に祈り心が集中してしまいまして、寝て
も醒めても唱名念仏すべきものなりのように、寝ても醒めても、神様ありがとうございますに終始
していたのでした。私の今日こうなった極意は、ただ純粋に素直に神様に感謝をささげ通した、と
いうことの他はありません。何をみても、何をいただいても、けとばされても、悪口をいわれて
も、善いことをしてかえって邪魔扱いされても、ただただ、神様ありがとうございます、と真実心
の底から神への感謝が湧いてきたのは不思議なぐらいでした。
いのち
そのうち、身心共に白光の中に融けてしまったり、「汝の生命はもらった、覚悟はよいか」と神
いのち
の声が聞え、即座に「結構です、私の生命をお使い下さい」といとも簡単に応えたりしているうち
に、肉体身というものが、次第に薄くなった感じで、意識をもった自分自身が、】段一段と天に昇
ざぜんかんぽう
ってゆく感じになってきました。これは何も坐禅観法している時だけでも、坐って祈っている時だ悟










211
けでもなく、歩いている時にもそうなるのです。この時分が想念停止の修業時代だったのです。意122
識している自分があって、しかも意識が少しも動かないで、自分の状態はすべてわかっている、と
ちょくれい
いう工合で、やがて天に昇りついて、直霊の我と一体になってしまったのです。五尺何寸の小さな
自分の肉体はそのまま存在しながら、天地を貫いて立っている自分が在るのです。大きな大きな我
なのです。
これまでの状態は他人からみれば、周囲一切に眼も触れず、耳も動かさぬ状態なのですから、ま
るで狂人のようであったでしょう。見ても意識が動かず、聞いても心は微動だにもしない、雨も風
もすべての物音も、一切私の心を動かさない、という状態です。これが歩いている時なのですか
ら、母や兄弟からみれば困ったものだ、と思うわけです。そういう状態で、小我の五井昌久はすべ
て消え失せ、大我の五井先生が、そこに出現したわけなのです。この間、守護の神霊の厳しい愛の
むちが鳴りひびいていたのです。(拙著「天と地をつなぐ者」参照)
小我よリ大我への転かん
ですから私のは、私が悟ったのではなく、守護神によって悟らされた、というほうが適切なので
す。悟りというよりむしろ、神の人類救済のための器として磨きをかけられた、というほうが真実
のような気がします。しかし、考えようによれば、悟ったという人も、実は内面的にみれば、みな
こんな工合であったのかも知れません。守護の神霊の加護なくては大悟することができない、とい
しやくモん
うのが私が実際にこの道を通ってきての実観なのです。釈尊にも守護神の加護があり、イエスにも
ミカエルやガブリエルなどの大天使の守護があったのです。
ところで私は、こんな風にして、三十歳迄の私と三十過ぎの私とでは、表面的にはまるで違わず
へんぽう
にいて、内容的にはすっかり変貌してしまったわけです。この間に自分の肉体の頭でものを考え、
そして行っていた私というものが、想念停止の修業によって消え失せてしまったわけです。消え失
せたというより、一応片隅によせられてしまったという感じです。小我の私は片隅によせられて、
ちょくれい
想念停止、つまり空観の後に、直霊と一つになり、天地が一つになった大我の私が、非常に霊化し
た私の肉体を使って、人類救済の大仕事をすることになったわけです。
私の波動圏が、昔の私とはくらぶべくもない、広がりをみせたわけです。本当に私の肉体は神の
うつわ
器になってしまい、私の智慧能力も働きも、すぺて広い大きな波動圏の中から、天降ってくるわけ
です。それでいて、昔の小さな私の役目も重要でありまして、その小さな波動圏の中から、昔の私悟










213
が私であった時の性格や知識才能や癖に至るまで、そのまま引き出して使われていて、これが、こ
の世のまだ悟りに至らない人々との接触に、非常に効果があって、私の奥の神のみ心、神の智慧能
力と、表面の昔の私自身とが、うまくバランスをとって今日の仕事がうまくいっているわけなので
す。
ですから私は、世の教祖のように、我は神なり、といった態度で、尊大ぶって人に接することは
ありません。私は昔のサラリーマンをしたり音楽をやったり、詩人と交っていた時の私そのままに
人々に接していて、当り前の人が、当り前に話をするように、相手に合わせて話したり聞いたりし
ているのです。
人間は誰でも、自分の波動圏というものをもっていて、それが大きく広い人もあれば狭い人もあ
ります。それが人問の幅や、仕事の範囲や、交際範囲の相違になってきます。ところが自己の肉体
想念行為を、すべて神のみ心に投入しきった、いわゆる小我が無くなり、神と一体化した人間の波
動圏は、如何なる大きさにもその波動圏が広がり得るのであります。
その大きな波動圏の能力や交流範囲が私に世界平和の祈りの中心者としての仕事をさせ、宇宙子
波動科学を生み出させ、そして、ヒマラヤの大聖たちや古来からの聖賢たちとの交流をさせて、よ214
り大きな力を発揮させようとしているのです。そして一方では小さな波動圏の昔の私の生き方をそ
のまま、日常生活の社会人としての立場に生かしているのであります。
人間は神の子
そこで現在の私という者は、表面上は普通の平凡な常識人として生活しながら、奥へ奥へと探っ
ぎゆうせだいこうみよう
てゆくと、救世の大光明の中心につながっている存在者ということになるのです。ですから、表面
の肉体波動の近くにいる私が気づかないことでも、奥の私がはっきり知っており、表面の私が行っ
ていないことでも、奥の私は手落ちなく行っているのであります。便利といっては申訳けないので
すが、非常に便利な仕組になっているわけです。これは実はあに私のみでなく、皆さんのすべても
そうなのですが、その事実を知っている人が少いのであります。知っていても知識として知ってい
て、実際に知っている人は甚だ少いのです。
そういう自身の体験から、私は人間は神の子であり、業生ではない、という教義を生んだわけで
す。人間は確かに神でもあり、神の子でもあります。ただ肉体頭脳を駈けめぐる想念意識が、自己
の実体である神と離れていることによって、人間は凡愚のままで、いつ迄も過ごさなければならぬ悟










215
のであり、やがては地球滅亡にまで自らを追いこんでいってしまうのです。
ただ、私のたどってきた神我一体への道は、誰にでもできるものとは思われません。これは私自
身だけの道でありまして、皆さんにすすめようとは思いません。私のこうなった根本には、私が国
家や人類のために、私の生命を捧げ尽そうと決意していた強い信念があったからで、少しでも生命
が惜しかったら、私と同じような道は踏めぬと思います。
しかし、私が申しました、神様ありがとうございます、ですべてを通ってくることは、誰にでも
できることですから、素直におやりになったらよいと思います。その上に世界人類の平和を願う、
世界平和の祈りを畦に如し醗し麺ん行じてゆくことによって、あなた方の品性は日に日に向上し、世界平
和のためにも大きな貢献をすることになります。
現在の世界では、単に自分だけの幸福というものはありません。自分が真実の幸福をつかむため
には、常に世界人類の平和を祈る、という個人人類同時成道の道しか残されていないのです。地球
人類が死滅するか、大進化を遂げるかは、皆さんの一人一人が、守護の神霊へのたゆみない感謝
と、世界平和の祈りを根底にした日常生活をつづけてゆくことによって、善き方向に進んでゆく、・
つまり大進化の方向に進んでゆくことになるのであります。
216
把われを放つ
宗教の本道
家内安全、商売繁昌、病気全快などを願っての宗教入りは宗教の枝道を歩いているだけで、宗教
の根本の道に入っているわけではない。ただやがて、枝道を伝わって根本の道に足を踏み入れる…機
会をその人たちはもっているし、そうならなければいけない、と私は常に申しておりますが、自分
たちは宗教の根本の道に入っている、と信じ、御利益信仰の境地をぬけ出ている、と自負している
人たちが、意外と、宗教の根本の道から外れていることが多いのには驚きます。
それはどういうことかと申しますと、その人たちが、かえって普通の人より以上に、把われた心
をもっていることがある、ということなのです。その例話を一つ申し上げます。把





21?
或る日、坦山和尚が同僚の環漢和尚と田舎道を歩いていますと、せまい道がひどいぬかるみにな
っているところにでました。暫く進みかねていますと、そこへ妙齢の女性が通り合わせ、同じよう
に行き悩んでいました。坦山はひょいと衣の裾をまくり、女性を抱き上げてぬかるみの路をわたし
てやり、さりげなくまた歩き出したのです。連れ立って歩いていた環渓和尚は、出家たる身をもつ
て一時にもせよ、妙齢の女性を抱いた坦山の行為が苦々しく、暫く無言でいましたが、ついにこら
えられなくなり
「女性を抱くなどは、出家にあるまじきことだ」と口をとがらしてとがめました。坦山はそれを
きくなり、
「このバカヤロウ、貴様はまだあの女を抱いていたのか」と吹き出して笑いました。
坐忘を錬心の要としていた坦山は、渡してやったその場限り、女を忘れていたので、心さながら
流れの如くサラサラとしていましたが、環漢は、女性に把われまいとして、かえっていつ迄も把わ
れつづけていたわけなのです。
この話など、一方は本道をゆき、一方は一つの教えに把われていた、ということになります。宗
げだつ
教の本道というのは、あらゆる把われから解脱して、神と我とが一体になり、神仏のみ心そのまま
218
の生活を行じてゆく、ということであります。つまり自由自在心になる、というところから、神仏
のみ心が行じられる、ということなのです。
ところが、宗教宗派の一つの型に把われてしまう人が多くて、つい本道を外れてしまうのです。
ヒンズー教の教えなどでも本来は立派なものである筈なのですが、どこでどういう教え方があった
か知りませんが、インドなどでは、牛を天の使として、尊重し、牛を食べるどころか、道の真中に
寝ていて、歩行のさまたげになっていても、どかすでもなく、かえって礼拝する格好で、人間のほ
うが除けて通るという程の、牛の天国だそうで、これなど宗教の本道とは全く関係ない把われの行
いです。
「あれあそこに満月が」と指さす、指が重要なのではなく、満月をみること、満月(神)と一つ
心になることが重要なのですが、宗教信者は、ともすると、満月自体よりも、指さす、指のほうに
てんとう
関心をもってしまい、あの指はこう、あの指では駄目だ、というように本末顛倒してしまうことが
多いのです。
219 把われを放つ
自分の願望達成のために神様を利用する?
220
宗教信仰の一番の利得は、神仏のみ心と一つになり得る、神仏のみ心に近づける、ということで
ありますのに、反対に、自己の願望のほうに、神の力をひきよせようとするのであります。
それが、精神的なものであれ、物質的なものであれ、自己の肉体的頭脳の想念でつくり上げた利
得の世界から、自己は一歩も動こうとせず、かえって、神をその世界にひき下して、自己の願望達
成の援助者としようとするのです。
そして、それが出来易い、宗教信仰の道を選ぽうとするのです。その人たちにとっては、満月
(神)をみることが目的ではなく、自己のこの世における願望達成が目的なのでその目的達成のた
めなら、神でなくてもなんでもよいのであります。ただ仮りに神仏というものを対象にして、自己
の願望達成の礼拝をするのです。
わら
余程気をつけていないと、御利益宗教の道を歩ている人を嘘いながら、正しい宗教を行じてい
る、といっている人でも、実は、自己の肉体に附随する精神的満足のために、神仏を求めている人
むな
が 多いのでありまして、自己の想念意識を空しくして、神仏のみ心を自己のものにしてゆこう、と
いう人は意外と少いのです。
ですから、自分で求めた宗教団体に入りながらも、常に、自己の想うような在り方を、その団体
に求めて、それが叶えられなければ、その宗教団体は駄目なりとして、他の団体に入り、またその
団体をぬけて、他にうつる、という工合になってゆく人もあります。それが次第に、向上した団体
にうつってゆくのなら結構ですが、自分をおだて上げられて、前より低い階層の団体にうつってゆ
く人もあるのです。
人間は誰でも、自己を認めてもらいたい想いをもっております。社会生活の中で、或る長になっ
すいじゆん
ていて、多くの人に自己を認められている人はそうでもありませんが、生活水準が低いので、他か
ら認められることのない人は、宗教団体の先達として認められ、後輩から立てられたりしますの
で、これが何にも変えられぬ喜びとなり、夢中で信者獲得に励むのです。
大きくなった新しい宗教団体の殆んどがこういう人たちに働きかけて、教団の勢力を拡大してい
ます。人間の弱点に向って働きかけ、信者を増してゆくわけです。この方法は事業家的には上手な
やり方でしょうが、宗教的なあり方としては、あまり感心したものではありません。宗教の根本の
在り方と相反する在り方だからです。把





221
宗教の根本は、自我を脱却して、神仏のみ心と一つになり、この世に神仏のみ心を現わしてゆく22
2
ことでありますので、神仏のみ心に反する権力欲、名誉欲のようなものを、宗教団体が助長するよ
うな在り方ではいけない、ということになります。しかし、現実は、そういう手を用いたほうが用
いない団体より勢力が拡大しているのですから、この世は三界であり、業想念波動の世界である、
ということができます。
私は自分ではそういう手は絶対に用いませんが、そういう手を用いて勢力を拡張している宗教団
体があっても、それを責めようとは思いません。只、働きの階層が違うのだな、と思っているだけ

です。私なんかの働き方は、あく迄、宗教の根本である、自由自在心、無磯自在、というところ
に、人々を導き上げることを念願として、その間に幾つもの段階を置いて導いているのでありまし
て、それが、「消えてゆく姿で、世界平和の祈り」という教え方になってきているのです。
把われない
むげ
自由自在心になり、無擬自在になれば、どんなにか楽であるかわかりません。ところが、なかな
かこの理想境にはまいれませんので、そこで、たゆみない、消えてゆく姿の、教えが生きてくるの
であります。
私は私の導き方を、把われない、という一点にしぼっております。今まではあらゆる教えが、老
子の教え以外は、すべて何らかの宗教的把われを、人々にもたせる教えになっています。
何してはいけぬ、こうしてはいかぬ、という式で、そこに何らかの戒律があり、してはいけぬこ
と、しなくてはならぬこと、というのがはっきりしているわけです。たとえば、女人に対し欲心を
起こしてはいけぬ、とキリスト教でも、仏教でも同じことを教えています。たとえ虫でも殺しては
いけぬ、ということでも同じです。
じゆ
儒教なども、何々してはいけぬ、何々すべし式の教えですから、人々はその教えに従ってゆけば
確かに人格が立派になってゆきます。と共に、そんな教えを知らぬ人より、心の把われが多くなっ
てきます。平気で女遊びの出来る人より、宗教的な人はそこで把われます。あるいは自分や人を偽
わってしまいます。
宗教的な愛の教えにしたがえぱ、人にやりたくないものでもやらなければならないし、人と一緒
にはしたくないことでも、やらなくてはなりません。そこに常に心のかっとうがあります。宗教的
でない人はそこははっきりしていまして、自己の利害得失によって、ちゅうちょなく、イエス、ノ把





223
ーがいえます。
なま
こう考えてまいりますと、生じっかの宗教信者なら、宗教信仰のない、自己の考えだけで物事を
割り切ってゆく人のほうが、大らかで伸びのび生きてゆけるのではないか、と思います。
そこが問題のところなのです。自己の精神状態をごまかすための宗教入りや、単なる現世利益だ
けの宗教入りでは、うっかりすると、唯物的な押しの強い神経の太い人のほうが、この世的には幸
福になる可能性が多いのです。
そこで私はいいたいのです。宗教信仰の道に入ったら、やはりその根本義である、神仏との一体
げだつ
化に至るよう、自由解脱の心境になるよう努める必要がある、というのです。平たくいえば、神様
だけを自分の心に住まわせて、すべての把われを無くす、というところにゆかなくては、宗教に入
った甲斐がない、といいたいのです。
224
把われを放すために一度把われを認める
宗教の道に入ると、どうしても、神仏の道への教えがあります。信徒を完全な人格にするための
ものです。ところが、神仏のみ心と一つになるような行いのできる迄には大変な修業がいりますの
で、こうしなさい、という教えを受けても、実際にはその行いができなくて、そこに把われて悩む
わけです。
真理の教えはわかるのだが、自分たちのもっている業想念、つまり肉体生活における習慣の想い
が、真理をそのまま行じさせないのです。自己と同じように他をも愛しなさい、と教わっても、自
分の家族がまず大事で、自分の家族のためにつくしてからでなくては他へ及ぼす、ということがで
きにくいのが、この世の人たちです。
真理の教えとどうしても実生活はギャップがあります。そのギャップに把われて、宗教的な人は
悩むわけです。私ははじめから、真理を自己にそのまま現わすことのむつかしさを知っていまし
た。私自身は想念停止の修業によって、自我を脱却して、神のみ心としっかりつながることができ
ましたが、普通の修業ではとても、真理を自己の行為にそのまま現わすことは至難のことで、真理
と現実の間に立って、宗教的であればある程悩むわけです。つまり真理に把われて、心がかえって
不自由になってしまうのです。
光に住して光に把われず
くうくユフ
空に住して空に把われず把





225
ごうごう
業に住して業に把われぬ
という心境にならぬといけないのですが、とてもそういう境地になることはできません。そこで
私は、すべての把われを放つために逆に一度は把われを容認することに致しました。把われを認め
て、次の瞬間には、そういう把われはすべて、過去世から今日に至る迄の業想念の消えてゆく姿と
して、神のみ心の中に、その把われごと自己の想いを入れきってしまうことを教えはじめたのです。
神のみ心に入るということは、感謝の祈りによって入ることが一番よいので、守護の神霊への感
謝の想いと共に、世界平和の祈りをくりかえし、くりかえしてゆくのです。そうして、神の大光明
の中で、業想念波動を消し去ってもらうのです。
こういう繰り返えしによって、真理と自己とのギャップが次第に少なくなり、宗教の教えを身を
もって行じられるように、自然になってゆくのです。
把われまい、把われまいとすることは、やはり把われになりますから、把われてもよい、すぐ消
えてゆく姿として、お祈りの中で、守護の神霊をはじめ救世の大光明の光明波動で消していただけ
ばよいのだ、と素直に世界平和の祈りを行じればよいのであります。
むいくう
神との一体化を計るためには、老子のいう無為の行ない、釈尊の空の行、キリストの全託、とい226
うように、どうしても、肉体的な自己の想念を無くさねばいけないことになってきます。肉体的想
念を頭につめこんでいて、神との一体化も、自己を自由自在心にすることもできません。
宗教知識の把われ
ところが、頭の知識だけで、人間は神の子である、病気だの不幸だのというもののない完全円満
な存在だ、と知っても、これは真実心の底から知ったわけではないので、口で人にいってみたり、
自分で一生懸命、表面の心にいってきかせたりしても、当人の想念そのものは、神界ではない、三
界を経巡っているのですから、実際の行為としては、神仏の行為になるわけがないのです。
しかし当人たちは、そこの宗教でそう教わったのですし、そう想ったほうが心が明るくなるし、
勇気も湧いてくるので、そう想いつづけようとします。だがどうも、それは、そう想おうとするだ
けで、地上にいて天の星にさわろうとするのと同じで、自己の行いがすべて、肉体生活に附随し
た、肉体生活を基盤にした行いなのですから、神との一体化ができようはずがありません。
病気はない、病気はない、と想いつづけているので、病気が直ったりすることもあります。しか
しそれは三界の中での想いの転移だけでありまして、神との一体化によって直ったのではありませ把





227
ん。またやがて病気になる時もあります。何故私がこんなことをいうのかと申しますと、そういう
生き方も一つの把われなのだ、といいたいからなのです。幸福と不幸、健康と病気、完全円満と不
完全、神の子と肉の子というように、いちいち分けて考えて、自分に都合のよいほうにしがみつい
むげ
て、一生懸命、自分の都合のよいほうのことを想おう、などというケチな根性で、どうして無擬自
在の心境や、自由自在心になれるでしょうか。なんでもかでも、自分の都合のよいほう、生き易い
ほう、というように宗教の道をご都合主義で歩いてゆこうとしても、それは自分勝手ということ
で、神のみ心でも、神の子のすることでもありません。
うっかりそんな生き方になれますと、他の生き方をしている人が、皆愚かな人に見えたり、自分
の生活に病気や不幸が現われたりすると、他人にはひたかくしにしようとして、自己を幸せそうに
みせようとします。常に、自己の心の底を割って、人と相対することのできぬ、偽善的な人物にな
ってきてしまいます。みせかけの多い人間になってしまうのです。
その反対に、なんでもかでも、心の問題として、はいといわないから肺病になるとか、背骨が曲
がっているのは、先祖とうまくいっていないからとか、限が悪いのは、口が悪いのは、耳が悪いの
は、足が、手が悪いのは、夫が妻が子供が悪いのは、みんなあなたの心の持ち方が悪いのですよ、228
などという教えにふれますと、いつでもいつでも自分を責めつづけ、また他人の病気や不幸をみる
と、あの人、心の持ち方が悪かったのよ、というように、同情するより先に、その人の心を非難す
るような想いが自然に出てきて、常に自他の精神分析をして生きていなければならなくなってしま
います。まして、前者の教えと、後者の教えとが一緒に組まれた教えについた人などば、或る時ば
完全円満論、神の子論者になり、或る時は精神分析論者になって、二重の把われをもって宗教の道
をいかねばならなくなります。
宗教の道はあく迄、科学の道ではありません。宗教の道から調和の科学は生れ出ましたが、宗教
は直覚の道です。人類は平和でなければならぬ。世界はみんな仲良くしなければいけない。こうい
う純朴な想いと同じように、神仏を求める心、自己の本心本体を求める心は純粋であり、純朴であ
ります。それは貧富の差なく、貴賎の差なく、心の奥底から湧いてくる想いです。
自己の立場を神様の中へ捨てる
人間が自由を求めるのでも、神仏の世界にある人間の本心、本体は自由自在身心であるから、自
ずと自由を求めるのです。それが、肉体生活だけの自由と浅く考えている人が多いので、病気や貧把





229
のが
乏の不自由さから遁れたくて、宗教の道に入ってゆく人が多いわけです。そして唯物的な人は、権320
力者や為政者を、自分たちの自由を縛る敵として、革命闘争に入ったりするのです。
唯物的な人のことはひと先ずおいて、現世利益から宗教入りした人たちでも、心の底では神仏や
本心本体を求めているのでありますが、それが浅い感じででているのです。病気や不幸の脱却から
ではなく、自己の本心開発を願っての宗教入りの人は、立派な魂の人であるわけですが、宗教の求
め方が浅い深いにかかわりなく、共にすべての把われを捨てることが大切です。
先程から申し上げておりました、神の子完全円満論者も、精神分析論者も、一度自己の立場を捨
て切ってしまう必要があるのです。自分はこういう教えのこういう立場にある、ということを神様
さんがい
のみ心の中に捨てきってしまう。三界の中、肉体生活にしみている業想念を、祈り心、私流にいえば
消えてゆく姿で世界平和の祈りとして、神の大光明の中に入れきってしまうことが大事なのです。
一度、宗教の道に入ったら、それ迄のその人の習慣の想いや立場を神様のみ心の中にお返しして
しまって、新しい自己をいただき直す、ということが必要なのです。それをしない限り、いくら神
の子完全円満と唱えていても、その人にかえってくるものは、その人の心境そのものでしかありま
せん。
肉体人間としての自己を、そのままそこに置いておいて、神との一体化も本心顕現も出来るもの
ではありません。肉体人間としての自己を何らかの形で、一度消滅させなければ、自由自在心にな
ることはできません。消滅しろといっても、それは形の上のことではなく、心の上のことです。
親鸞上人式に、罪悪深重の凡夫として、阿弥陀仏の中に投げ入れてしまうのもよいでしょう。法
然のように、百万べんの念仏として、念仏一念の中に自己を投入してしまうのもよいでしょう。只
口先きで人間神の子をやっていたところでたいしたことはない、というのは、肉体的な自己がいつ
迄もそこにいて、神仏としての自己のいる場所が、そういう人にはないからであります。
人間神の子完全円満を唱えるなら、自己が宇宙と一つになる程の気持で、神の完全円満性の中
へ、自己をぶちこんでしまわねばなりません。そこには肉体的人間の願いごとなどあるはずはあり
ません。何故ならば、その時から、その人は、完全円満でなければならぬ筈だからです。
だから私はそんなむずかしいことをいったり想ったりするより、常に私たちを守って下さってい
る、守護神様、守護霊様がいらっしゃるのだから、常に守護の神霊への感謝をおこたらず、すべて
の不幸や災難や、自分に都合の悪いこと、自分の間違った想い等々、真理にそわぬ想いや出来事
を、すべて過去世の因縁の消えてゆく姿として、世界人類が平和でありますように、という、人類把





231
愛の祈りである、世界平和の祈りの中に投入してしまう。その繰り返えしの生活をしてゆくことに
よって、むずかしい理論も理屈も必要なくなってくるのです。
232
幼児のように神のみ心の中に
要は、神のみ心から離れた、肉体人間という自己をもったままでは、人間の救われも、悟りもな
いのですから、肉体人間の自分としてではなく、親に対する幼児のように、無邪気な気持になって
神のみ心の中に入ってしまうことなのです。個人的な何を救って、何を直してくれ、という想いで
はしご
はなく、愛の気持で、すうーと神様のみ心に融けこんでゆくのです。その道でもあり、梯子でもあ
るのが、世界平和の祈りなのです。
世界平和の祈りが何故いいのかと申しますと、世界人類が平和である、ということは人類全員の
悲願であり、人類の親様のみ心でもあるのです。ですから、人類の一人一人の誰でもが、常に世界
平和の祈りをしていなければならぬ筈で、祈りつづけて生活してゆくのが当然のことなのです。
ところが実際は、改めて世界平和の祈りをしている人が意外と少ないのです。まして、日々瞬々
宗教的祈りとして行なっている人は、私の会の人以外は甚だ少ないのであります。世界平和の祈り
は人類の当然なさねばならぬことであると同時に、宗教的祈り言でもあるわけで、宗教宗派をとわ
ず、唯物的、唯心的を問わず、祈りつづけておかしくない祈りなのです。
この祈り方は、浄土門の南無阿弥陀仏という、念仏行と同じように、神の方から救いあげて下さ
る、神のみ心に唱名と同時に一つになって、帰一して、そこで改めて、自己の運命をいただき直
す、人類みんなが行えば、人類の運命を改めていただき直す、ということになるのでありまして、
神のみ心本来の、大調和の姿に人類が復帰する、ということになるのです。
一宗一派の祈りでもなければ、日本だけの祈りでもない、世界中誰でも、抵抗なく祈れる祈りが
この世界平和の祈りなのです。
人類は、個人も人類もあらゆる事柄に把われ過ぎております。自己の欲望の把われ、国家社会の
みずか
把われ、地球人類としての把われ、そして、この把われから人類を解き放つのは、個人個人が自ら
の把われを脱却することからはじまるのです。
すくなくも、宗教をやっておられる方、宗教団体に入っておられる方は、自己の欲望の把われを
放つと同時に、宗教的把われをも放って、真理を自己に現わす生活に入っていただきたいと願うも
のであります。把





233
234
永遠の生命の自覚
輪廻転生についての質問
この世を完全に生きるには、自己の生命の永遠不滅なることを自覚し、その永遠の生命を生かす
生き方をすることだと思います。過去、現在、未来の三世に生きながら、また肉体界に生きている
と同時に、霊界、神界にも生き生きと生きる生き方について、次の質問に答えていただきつつお教
え下さい。
こういう要望がありまして、次の質問がきております。そこで、この質問に答えながら、永遠の
生命について、種々と書いてゆきたいと思います。
*
ウんねてんしよう
輪廻転生について五井先生は、業因縁が現われて消えてゆく時の、その人の心の状態が問題なの
で、心の状態が悪ければ折角消えていった業因縁がまた違った形の業因縁となって、再び潜在意識
層にひそんでいき、何かの機会で再び現われる。したがってその時の心の状態で業因縁はいつまで
たっても消え去ることはない。これを輪廻転生という(白光38年10月号9頁) とありますが、前
記、業因縁が消えるか盈かは、現世の出来事であり、輪廻転生は死後、幽界霊界において神界に至
るまでの間における問題ではないのでしょうか?
仏陀に従えば「われらの生活は決して一期の存在ではなく、業の力によって無始無終に相続する
ものである。しかもその業の性質に応じて種々の形の有情として生を受くるに至る。これを業によ
りんねてんしよう
る輪廻と名つく」といっております。(木村泰賢全集第三巻一五六頁) これによっても輪廻転生は
死後の問題であって、現世の問題ではないように考えられますが、いかがでしょう。
また親鸞の高僧和讃においても
「真の知識にあふことは
難きがなかに猶難し
流転輪廻のきはなきは永







235
疑情の障りにしくそなき」
とありますし、正信偶を見ましても「還来生死輪転家」とあり、われわれ衆生は生死を家とし、
六道を輪廻としておる相を述べたもので、信心決定ができなければ生死輪転の家に還って来るので
ある、との意味と思います。
いずれの点より見ても輪廻転生は死後の問題であって、現世の問題ではないように思われます
が、この点に関する五井先生のご意見を伺いたいと思うのであります。
*
この質問は仰せの通りではありますが、私は現世だけの輪廻転生を説いているわけではありませ
ん。やはり、輪廻転生というのは、現世をも含めて、死後の世界につながっていますので、現世の
世界と死後の世界を通しての輪廻転生という考え方のほうが、いろいろの意味で人間の本心本体
と、業想念の在り方ということについて、説明がしやすくなると思って、死後の世界の輪廻転生に
加えて現世のことも説いているのです。
23G
輪廻するものとしないもの
わけいのち
本来、人間は神の分生命として、大生命である神の理念を、各種の世界に顕現してゆく役目をも
っています。そして、神の分生命である生命の光としての人間は、輪廻転生も、生れ変りもなく、
くおんじつじょうぶつぼさつあらかんか
久遠実成の生命のひびきとして、生き通しているわけなのであります。仏菩薩や、阿羅漢果を得た
人々は、自己が久遠実成の生命そのものであることを知っている人々なのです。
それでは一体人間の何が輪廻転生するかということになります。輪廻転生するのは、真実の人
間、分生命の人間そのものではなくて、生命エネルギーによって生みなされた、業想念波動、その
こんばく
働きである魂暁が、霊体をつくり、幽体をつくり、肉体をつくって、輪のように三界を経巡り、生
まれ変り死に変りするわけなので、勿論、守護の神霊の援助によって、そういう働きがなされるわ
けなのですが、あくまで業想念波動の変化の姿なのです。ですから、業想念波動の一瞬一瞬の連続
が、肉体人間を含めた三界の運命として、輪のように経巡り、生れ変り死に変りという形で、この
世に現われたり、あの世に住んだりしているのです。
業想念波動も、肉体の諸細胞も、常に変化変滅し、いわゆる一瞬一瞬を生れ変り死に変りしてい
るので、「業因縁が消えるか否かは、現世の出来事であり、輪廻転生は死後、幽界霊界において神
界に至るまでの間における問題ではないでしょうか」というご質問の答としては、業因縁が消える永







237
のは、肉体界だけでなく、神界に至るまでの階層のあらゆる部面に亘っての原理なのだと申し上げ
ます。したがって、輪廻転生というのは、肉体界を含めた三界の間において行われているのだ、と
申すのです。
さて、今度は永遠の生命のほうですが、永遠の生命そのもの、絶対智、無限能力そのものを、人
間は宇宙神と呼んでいるのですけれど、永遠の生命の働きそのものとしては、神々として多神とし
て働かれるわけです。そして、人間は、その永遠の生命の働きの分生命として、各個性をもって、
永遠に生きつづけているのでありまして、不滅の生命体なのです。その永遠の生命体の人間が神界
と名づけられ、霊界と呼ばれ、幽界、肉体界と呼ばれる、各階層を通して、神のみ心を顕現してい
くわけであります。(拙著「神と人間」参照)
その永遠の生命のエネルギーを基にして、生れたのが、業なのです。業と申しましても、善業も
悪業もありまして、善業は神のみ心をそのまま現わしているものであり、悪業は神のみ心を離れ
て、肉体人間の面にのみ把われた想念行為として現われたものです。肉体人間の面にのみ把われて
おりますと、神から伝わってきている智慧能力を受ける力が弱くなってまいりまして、神の完全性
を発揮し得る力が少くなり、不完全な行為よりできぬ人間がそこに現われてしまうのであります。23g
真実の人間の仕組みを知らず、人間は肉体人間そのものよりないのだ、という思想では、どうし
ても、自分と他人、大きくは自国と他国というように、現われた形の世界で判断してしまいまし
て、対立抗争の地獄絵を現出してしまうのです。人間の真実の姿が、高い次元(神霊としての自
己) の世界では、お互いに一つに結ばれていながら、各自の天命のままの働きをしているのですか
ら、人間が霊であることを知らずじまいで終ってしまったのでは、この地球界は滅びに向うより仕
方がなくなります。
ところが、眼で見、耳で聞き、手で触れるという、五感で、すべてを判断し、処理してゆこうと
するこの肉体世界の習慣で、五感で感じ得ない世界を実在する、と認識することは容易でないよう
です。私どものように、肉体に在ると同時に、神霊の世界に自分が働いていることを身心をもって
知っているものにとっては、自己が永遠の生命であることを信じきっておりますので、肉体生活の
幸福を考える時には、常に神霊の世界との交流を密にすることが大事であることを認識し、それを
実行する祈りをつづけておりますし、神霊の世界を離した、肉体人間の生活だけという生活態度は
一切いたしておりません。
239 永遠の生命の自覚
神霊世界との交流を密にする二つの方法
240
神霊の世界と肉体世界とを一つにつないだ生活をしておりますと、自己というものが、非常に大
きく、実に広い範囲で生きてゆけるもので、五尺何寸という肉体人間としての生活とは問題になら
ぬ、豊かな生活態度ができるようになるのです。
しかしながら、こうなるためには、徹底的に素直に神の愛を信じて、神にすべての運命をゆだね
た生活をしてゆくか、生命をかけて修業の道を突き進むかの二つの道のどちらかの道を進まなけれ
ばなりません。私は前者の道を選び、しかも後者の修業を神霊の方からさせられたのであります。
私はそうした自分の進んできた道を顧みて、仏教の聖道門のとっている空観の修業方法や修験道の
厳しい修業方法よりは幾分優しいものであったようですが、しかし、家族の生活をその肩に荷った
人々には、到底歩み得ぬ道であろうと思いました。私は私のたどってきた道に照らして、夫があ
り、妻子があっても、神霊の世界との交流ができ、この肉体生活において、神霊の智慧能力を身心
に受け得る状態に、この地球世界の人間の多くの人々がなり得なければいけないと思い、そういう
容易に永遠の生命につながり得る道を衆生のためにつくり出さねばならぬ、と思ったのです。
人間が、肉体生活にだけ固執しておりますと、どうしても自己の肉体や、自己に密接な家族や、
大きくは自己の属する国家のことだけを守る想いになり、互いに相対的感情になって、争いや戦い
が起ってしまうのです。
ですから、この肉体を主にした相対観を改めぬ限りは、この地球世界は平和になることはありま
せんし、個人としても永遠の生命である自己を悟ることもありません。
人は永遠の生命を生きつづける者であって、肉体だけの生命を生きているのではない、という真
理を、この地球人類が知ることが、そのまま世界平和につながってゆくのですが、この真理を知っ
ている人は、未だ数少いのであります。古来からの聖者も、なんとかしてこの真理を知らせたい
くうむい
と、種々の道を説いてきているのでありまして、釈尊は空になる道を説き、老子は無為の道を説い
たのであり、キリストは全託の生き方を説いたのであります。そして、法然や親鸞は、自己をすべ
て罪悪灘霧凡夫と割りきって、騨樵の中に投入しきり・露の方から・日藤々刻々・その
生活をいただく、という、念仏一念の生き方を拡めたのであります。
おの
こうした聖者方の教・兄のままを、この生活に実践していさえすれば、自ずと、永遠の生命である
自己を悟り得るようになるのですが、人間はなかなか先師の教えを実践しつづけることをしないの永







241
げんわく
です。今日のように文明文化の恩恵になれきった人々は、今生の生活に幻惑されて、永遠の生命を
求める、修業の道を進もうとする人が少なくなっているのです。しかしながら今日こそ、是非共永
遠の生命と肉体人間との関係を知らねばならぬ時に立ち至っているのであります。
242
目のつけどころを誤るな
テレビの座談会で、一青年が「この世界は、様々な公害で十五年位しかもたないといわれてい
る。だから僕たちは、昔のように五十年、六十年先の計画を立てたって仕方がない。ただ刹那刹那
の喜びを求めて生きてゆくだけだ」というようなことをいっているのを聞いて、私は、この青年に
限らず、今日までの大人でも、事の大小、時間の長短はあるにしても、こういう考えに根ざした生
活をしているのだ、と思ったのです。
人間の一瞬一瞬の生活態度が、その人の今生の生活ばかりではなく、あの世における生活そして
また再び肉体に生れ変ってくる、いわゆる輪廻転生の苦楽を決定してゆくのであり、その一瞬一瞬
かな
の想念行為が、神のみ心の、愛と真と善と美とに叶っているならば、その人は輪廻転生の三界の苦
楽の世界を超えた、神仏の世界に生活することができるようになるのであり、永遠の生命はその人
のものとなるのであります。
この真理を知らないで、人間には肉体人間の生活しかないという、浅薄な思想だけで生活してい
ますと、刹那享楽主義者になるか、相対界にだけに眼を向けた、相手を倒さねば自分たちが滅び
る、相手の権力を倒して、自分たちの想いのままの世界をつくろう、というような生き方になって
しまいます。これはそのまま世界戦争につながる生き方です。
その極端な現われが、新左翼学生の火焔ビソです。自分たちの思想に合わぬもの、自分たちの生
き方に反するものは、すべて敵とみて、手段を選ばぬという在り方ほど危険な生き方はありませ
ん。しかしこれは極端に現われているので、永遠の生命につながってない生き方の人は、その差異
はあっても、いずれも、自己本位、自己集団本位になりがちです。
こういう唯物的な人たちに、まともに宗教をすすめても、祈りをすすめても、決して受けつけは
いたしません。ですから、少しは宗教的な人、宗教的ではないけれど、別に宗教に反感をもっては
いない、という人々にまず、人間は肉体だけではなく、永遠の生命を、各階層、各次元において生
きつづけてゆくものである、ということを知らせねばなりません。宗教に関心がある、或いは反宗
教でない人々を一人でも多く結集して、祈りの力を強めてゆくことが、世界平和達成のために必要永







243
なことだと思います。
物質の肉体、物質の地球という観念から、肉体を生み育て、働かしめている、霊なる生命という
もの、地球を地球たらしめている、地球霊王の生命というものに、人間の想いを常に向けている習
慣を、宗教的な人々につけさせねばなりません。天にも地にも、あらゆる生物に、あらゆる存在
に、瞬時もたゆみなく働きかけている生命エネルギーというもの、いわゆる神々の慈愛というもの
に、人間はいつでも想いを向けていなければならないのです。唯物的な人が、自分たちの力で生
き、自分たちの力でやる、神だの仏だのそんなものはいらぬ、といいますが、肉体の自分たちだけ
で、どうして生きてゆけると思うのでしょう。私が口ぐせのようにいっている、太陽の恩、空気の
恩、水の恩というように、人間は人間の力でない、あらゆる自然の要素の恩恵にあずかって、生か
していただいているのに、なんで、自分たちの力で生きてゆく、やってみせるなどという、感謝を
知らぬ生意気な口がきけるのでしょう。
すべては大生命の力、永遠の生命の慈愛によって生かされていることは間違いのないことです。
大生命、永遠の生命(神) への感謝を根底にして、人間は生きてゆかねばなりません。私はその感
謝行を一歩すすめて、世界平和の祈りという、祈り言にして、人々にすすめているのであります。244
たんなる自己本位の祈り言、願い言ではなく、神のみ心を実現する、世界人類の永遠の平和を願
う、世界平和の祈りは、そのまま全人類の悲願なのですから、まず宗教的な人からでもいいです
ていこう
が、唯物的な人でも、あまり抵抗を感じないのではないかと思います。なんの儀式もなんの方式も
いらない、各自が想い想いに「世界人類が平和でありますように」と祈ればよいのです。想いを常
に、世界人類の平和を祈る祈り言の中に入れていればよいのです。
生命とそのエネルギー
世界人類の平和を祈る心は、そのまま永遠の生命につながっている心です。なぜならば世界人類
の平和は、神のみ心そのもの、愛そのものでありまして、永遠の生命のひびきがそのまま現われて
いる心だからです。
わけいのちわけみたま
人間を大きく二つに分けて考えますと、大生命(神)からきている生命、つまり分生命、分霊
ニんにく
と、その生命エネルギーによって、魂となり、魂となっている、想念波動とがあります。生命その
ものは、神そのものでもあり、人間の本質そのものでありまして、根源の世界から、霊、幽、肉と
いう現象の世界に霊魂魂として働いています。根源の世界では光そのものであり、霊、魂、醜(肉)と245永







いう場の中で働くことによって、自ずと体を生ずるようになります。その生命の働きの力を、生命
エネルギーといいますが、この生命エネルギーには、創造力も智慧も意志力もあるのです。
この生命エネルギーは本来縦の働きそのものなのですが、霊、魂、魂という、場や体に働きます
時に、場や体のもつ横の波動と交流して、縦横十字の働きになり、縦そのものの光一元の働きでな
く、想念波動という、自由無蕨の生命の光から生れながら、場や体によって、ある種の制限を受け
た働きになってきます。
ですから、霊そのもので、場も体もない時には、何もの、何ごとにも制限を受けぬ、自由自在の
こん
生命の光が、霊の体、魂の場(幽体)塊の場(肉体)というように、その場、その体の働きと同化
することによって、現象の世界をそこに現わすのであります。しかし、同時に現象の世界の制限を
受けることになり、その自由を次元の下る毎に束縛されてしまうのであります。肉体界は最も次元
かんまん
の低い、波動の緩慢な世界なので、生命エネルギーの働きも、非常な制限を受けるようになりま
す。
このため、神の子であり、本来自由自在な生命である人間が、不自由、不完全な人間として生活
しなければならなくなってしまったのです。しかしながら、こうした肉体という制限の中におい246
て、宗教的なトレーニングと、科学の進歩の両面にょりまして、制限の中にありながら、制限を超
越する人間として、神の理念をこの肉体界に顕現してゆくようになるのであります。現在は、その
過程の段階にあるのでして、やがて、現在の肉体人間とは格段の差異ある進化を遂げてゆくのであ
ります。肉体世界に生活しながら、永遠の生命をはっきりと自己のものにしてゆくのです。
人類が不幸災難の中にあり、常に争いに充ちた世界をつくりあげているのは、肉体生活というも
のに把われ過ぎていて、人間生命の根源である、神を自己から離してしまっていることであり、大
生命の光を充分に受け入れていないということから起っているのであります。一ロにいえば、肉体
の自己というもの、物質の世界というものにあまりにも把われ過ぎていて、人類の本質を見失って
しまっているということから、様々な不幸災難が起っているのです。
永遠の生命を自覚するための方法
個人個人の救われも、人類全体の救われも、ひとえに、肉体世界、物質世界にのみに向けられて
いる想念を、生命の本源の世界、神のみ心の中に向けかえることを第一にしなければ成り立たない
ことなのです。その行事が祈りなのです。日々瞬々の祈りの心なくして、どうして、肉体生活に把
24? 永遠の生命の自覚
われきった人間を、生命の本源の世界、完全調和した世界に引き上げることができるでしょうか。
祈りこそ、永遠の生命を人間に得せしめる唯一無二の行なのであります。
三界を経巡る業想念を主とした生活からは、苦多き輪廻転生の世界しか生れてきません。いつも
申しておりますが、祈りというのは、ただたんに、神様、病気を直して下さい、貧乏から救って下
さい、というお願いごとだけではないのです。人問の本質、本心を開発するための方法なのです。
人間の本質本心である神の生命、神のみ心を、この現象界において、現わしきってゆく方法が、祈
りなのです。
人間の本質、本心を蔽っているのは、常に肉体をかばい、肉体生活の幸不幸だけを問題にして、
右往左往している、人間の想念意識なのです。この想念意識を、常に浄化し、精神的なものとし、
高次元波動のものとするためには、たゆみなき、神々との交流が必要なのです。その交流の方法が
祈りなのですから、祈り心なくして、今後の人類の進化発展、真の世界平和は望めるわけはないの
です。
祈りなどで、世界は救われない、と思う人は、人間の本質を知らぬ、智慧浅き人なのでありま
す。祈りこそ、人類の進化を促進させる根本の行事なのです。永遠の生命とのつながりを自己のも248
のとするのは、祈りをおいて他に方法はないのです。祈りを根底にした諸々の修業や活動によっ
て、個人も人類も進化し、幸福になってゆくのです。
その祈りの中でも、自己の肉体世界の生活を、すべて、人類全体の幸福の中に投入しきった、世
界人類の平和を祈る、世界平和の祈りに徹した、祈りの生活こそ、個人の救われと、人類の完全平
和達成の道とが全く一つになった生活といえるのです。
虚心担懐に考えてみよう
何宗、何々教の祈りではなく、何派、何教団の祈りでもない〃世界人類が平和でありますよう
に”という祈り言は、唯物的な人々にも、合言葉的に祈れるのではないかと思います。一つの教団
を主宰している私が提唱したからといって〃世界人類が平和でありますように〃という祈り言葉
は、一教団だけのものであるわけがありません。世界中の誰でもが抵抗なく祈れる、平和の合言葉
的祈り言なのであります。
ヘヘヘへ
人間という者は、あまり易しい言葉だと、つい、なおざりにしてしまいがちです。ありがとうご
ざいます、という人間にとって大事な感謝の言葉でも、あまり易しすぎるので、つい馬鹿にしてし永







249
まって、いうべきなのに、いわずにすごしてしまうことが随分とあるようです。むずかしいから善
い言葉で、易しいから低い言葉だなどということは絶対にございません。
易しい言葉のほうが、かえって実感が籠って、人と人との愛の交流ができるものです。ありがと
うございます、でも、感謝の心がにじみ出ている易しい言葉です。「世界人類が平和でありますよ
うに」でもそうです。一読そのまま意味がわかる易しい言葉です。それでいて、どこまでも深い意
味をもち、ひびきをもっています。
世界中のどんな未開の人々にも意味のわかる易しい言葉です。そして世界中の誰もが願いつづけ
ている意味をもっています。
世界中の合言葉にふさわしい言葉です。ですからこの言葉を、たまたまぽつんといったり想った
りするのではなく、祈り言として、日々瞬々の日常生活ににじみこませて、自ずと湧き上がるよう
なものにしたらよい、と思って、この言葉が、世界平和の祈りとして、表面に現われてきたので
す。
世界人類が平和でありますように、この易しい言葉は、地球人類のためばかりではなく、宇宙の
あらゆる星々に住む生物にも適合する言葉なのです。大宇宙の調和のひびきそのものの言葉なので
250
あり、永遠の生命と一つの言葉なのです。
理窟も理論もそうした、枝葉のことではなく、言葉そのままが、人類の希求するところのもので
あり、永遠の生命のひびきそのものであるから、これを一教団だけの祈り言とする必要はありませ
ん。また一教団のものと思う狭い量見も捨てねばなりません。現今の世界において、一番ふさわし
い、祈り言として、宗教者をはじめ、真実人類の平和を望む人々が、各自の祈り言葉として取り上
げて、早速実践にうつしても少しもおかしくない祈り言葉なのです。
永遠の生命の自覚は、この祈り言をすることによって、自ずと開けてくるのであります。どう
きよしんたんかい
そ、虚心担懐にこの真理を考えてみて下さい。この祈りを根底にして、すべての活動をして下さ
い。祈りのない生活には永遠の生命のつながりはないのです。世界人類の平和を築くために、心を
開いてこの言を聞いて下さい。
251 永遠の生命の自覚
252
現代の信仰
宗教の系統
古い昔から、どこの国でも宗教信仰というものは、ずっとつづいて今日まできておりますが、そ
へんせん
の民族や国柄や時代の相違によりまして、宗教は種々と変遷しております。今日まで、どれほどの
宗教の形があったかはかり知れませんが、今日まで残っている世界的宗教というのは、仏教、キリ
じゆ
スト教、マホメット教、道教、儒教という五大宗教であります。しかしこの他にもかなり大きな古
い歴史をもった宗教もあるわけです。
ユダヤ教などはキリスト教の母体となっている宗教でありますが、ユダヤ人以外の人は信じよう
とはしていません。それでいて、キリスト教信者は、旧約聖書を読んでいまして、ユダヤ教の聖者
たちを崇めています。これは、イエスが救世主であり、キリストであることを肯定するためにはユ
ダヤ教の予言を信じ、その予言にあてはまる事蹟がイエスの生涯に現われていることによって、イ
エスをキリストであり救世主である、と肯定しているわけなので、どうしてもイエスキリストとユ
ダヤ教とを切りはなすわけにはゆかなかったのです。
そこへゆくと、釈尊の仏教というのも、イソドの古い宗教である、ヴェーダ思想やその奥義書と
もいうべきウパニシヤッドの影響を非常に受けているわけで、それをバラモソの仙人などから伝授
されているのでありますが、釈尊はこのバラモソ流の教えを超越して、今日の仏教の基をつくりあ
げているのであります。
しかし仏教の場合は、キリスト教におけるユダヤ教のような、そういう立場にイソドの古い宗教
はおかれてはいないのです。これはキリスト教と仏教の立っている基盤の対照的な在り方でありま
す。イエスと釈尊との氏素性の違いや、悲劇の主人公として大犠牲者として若くして世を去ったイ
エスの短い生涯と、天寿を完うした釈尊の長い生涯という、そういう相違も加わって相異った形に
古い宗教が置かれたわけなのです。
日本の鎌倉仏教といわれた、法然親鸞の浄土門、日蓮のはじめた日蓮宗などは、いずれも釈尊の現




253
流れをくむものではありますが、本質的には釈尊の仏教と相違した日本人的な要素が大きく入って
いるのです。しかし釈尊の立てた仏教の一つ一つの分派として、浄土門も禅宗も日蓮宗も仏教とい
う名で存在しているのであります。
ところがキリスト教はユダヤ教に基本を置いていながら、明らかにキリスト教という別の宗教に
なっております。それでいてキリスト教の中には、常にユダヤ教のひびきが伝わってきているので
す。仏教を考える場合には、釈尊の仏教でこと足りるものが、キリスト教を考える場合には、ユダ
ヤ教のひびきがいつでもその中に漂っている感じなのです。
その点、鎌倉仏教の浄土門や禅宗、日蓮宗などを考えると、常に釈尊の心がその中にひびきわた
っているという感じと似ているのであります。似てはいますが、キリスト教の場合のユダヤ教との
関係は、ユダヤ教の予言というものとイエスという人との関係に密接なものがある、ということに
おいてユダヤ教を考・兄ないでキリスト教を考えるわけにはゆかないということなのですが、…鎌倉仏
教つまり日本仏教と釈尊とのつながりは、そうした予言的なものでつながっているのではなく、釈
尊の教えのひびきが根本になったつながりなのであります。
そこでキリスト教は予言的霊感的であり、ユダヤ教のもっている地球世界への現実的な働きか
254
け、ユダヤ人が神の選民である、というような考え方が、キリスト教にも影響しておりまして、キ
リスト教の人々が社会への働きかけを活発にしていまして、多くの社会主義者や、社会の改革運動
に加わる人々が多くでているのであります。社会人類というものが、個人の完成ということより先
に考えられてくる、そういうひびきをキリスト教はもっているのであります。ユダヤ教が個人の幸
福というより、集団的民族ということを根本にして、その教えや予言がなされていることと、ユダ
ヤ選民思想というものと、キリスト教のみが真の宗教である、というような在り方とによく双方の
類似点がうかがわれます。
仏教のほうでは、あくまで教えが主でありまして、仏陀や各宗祖方の教えを体して、自己完成の
道に突き進んでゆく、というのが本筋になっておりまして、自己完成の道が自ずと国家人類のため
になってゆく、という、社会や人類のことが、自己完成の次に置かれているのが、キリスト教との
目立った対照であるのであります。このことは、よくよくキリスト教や仏教の今日までの在り方を
みればはっきりわかってくるのであります。これは宗教の系統の相違でありまして、どちらが良
い、どちらが悪いというものではないのです。
255 現代の信仰
日本に生れた総合宗教
25G
ところが現代になってまいりまして、各国に新しい宗教がたくさん現われてまいりまして、日本
では、神道、仏教、キリスト教等々と心(神) 霊主義をミックスして一つに現わしてゆく、という
宗教が現われてまいりました。それまでの日本の宗教は、神道系統、仏教系統、キリスト教系統、
じゆ
そ れに儒教といった系列で、それぞれに宗派を立てておりましたが、各宗をミックスした宗教とな
りますと、各宗教の特長を生かして、一般人にもイソテリ層にもわかりやすく、入りやすいという
広い範囲の信者をいれ得るものになってきました。出口王仁三郎を主とした大本教がそういう宗教
でありました。
仏教だけでもキリスト教だけでも神道だけでも個人と人類とを同時に救うわけにはゆかない、と
神界の神々のご相談の結果そうなったものでありますが、これは神道や仏教やキリスト教が、自分
たちの教えだけがよい、というナルシズム的傾向で、相対的な考えをもっていたのでは、すべての
宗教が神のみ心から出ているのであり、大調和しなければいけないのに、それに反した方向に進ん
でいのてしまうのであります。
大神様のみ心は、そういう宗教の動向を憂われて、総合的宗教を生み出されたのです。ちょっと
異なりますが、同じような意図で中国には道院紅卍字会というものが生れ、大本教と手を組んで世
の中の立て直しを計っていたのでありました。確かに、仏教だキリスト教だ神道だと分れて、神の
み心を分断していたのでは、どうしても、宗教界が相対的になるのは必定です。現代に当然総合的
宗教が生れなければならなくなっていたのです。
神道系の人々が、どの宗教もくらぶべくもなく神道が秀れているのだ、と説いて、それが真実そ
うであったとしても、他宗派の人々はそれを肯定するはずがないのです。他宗派の多くの人々に肯
定されないことを、これが絶対だといいはっても、神のみ心をこの世に現わすなんの働きにもなり
ません。要は言葉でわからせることではなくて、身心共にわかってもらわなければならないからで
す。
ですから何宗教にしても、独善的になっていることそのものが、神の大調和のみ心に合わないこ
となので、そこのところをまず先に考えなければならないのです。その点で総合的宗教が生れ出た
ことは特筆すべきことなのであります。ところがこの総合的宗教さえもただ単なる一つの宗団とい
う風に考える既成の宗団があるわけですし、大本教の生れ出て活躍した頃が、軍部の勢力下にある現




25?
時代でもあったので真実のことをいいすぎて、第一次大戦と昭和十年の二度にわたって遂に弾圧を
くって、小さく縮少されてしまいました。
そして、戦後になりますと、新しい宗教が輩出してきまして、この中で日蓮宗系統の宗教がいく
つか大きな宗団となって現われてきました。しかしいずれも現世利益を表面に立てすぎて、真実宗
教本来の永遠の生命につながる自覚者を生み出す力にはなってこなかったのであります。中には宗
団の力を利用しまして、政治結社を組織し、永遠の生命とは程遠い、本来の面目とは全く縁遠い、
現象世界の勢力争いの中に首をつっこんでしまった宗教もあるのです。
神の本質的な在り方をこの世に示そうとして生れでた総合的宗教も、現世との波長の相違で、小
さく縮ってしまい、それに変って、宗教を看板にして、しかも真の宗教とは道を異にする宗団の勢
力が拡大されてきているのですが、こういう状態が長くつづくことはありません。
258
現代における宗教の使命
現代の宗教が、現世利益を表看板にして信者を獲得してゆけばそれで足りるというものではあり
ません。宗教はあくまで、神の本質である永遠の生命を各自に悟らせることを本分とするものであ
り、永遠の生命を悟る度合において、現世の利益も与えられるというものでなければなりません。
昔の仏教やキリスト教が、真の道に深く入るに従って、現世の利益から遠ざかっていったのと全く
反対の立場に立つのが、現世利益を本願とする現代の宗教でありますが、これはどちらも、真に一
般人の道というわけにはまいりません。
現世利益だけを追って、永遠の生命から離れてゆく道よりも、昔流の仏教やキリスト教のほうが
魂にとってどれだけよいかわかりませんが、現代における宗教の在り方は、どちらにも片寄らぬ中
庸の道でなければならぬと思います。
五大宗教を生み出した、神のみ心の奥深いところから、真直ぐに地球世界の現世にまでつながっ
ている、という光明一筋の道というものを見出さないことには、現代における宗教の道が成り立ち
カルマ
ません。何故ならば、地球世界を蔽う業の波は、第三次大戦または大天変地異によって現われてく
る可能性が非常に多いからであります。
永遠の生命につながり、しかもこの地球界の現世においても、立派に成り立ってゆけるという道
が、宗教の道として示されなければならぬ時代に現代はなってきているのです。それでなければ、
地球世界は壊滅し去るより仕方のない様相を呈示しているのは、皆さんも薄々感じておられること
259 現代の信仰
と思います。
60
2
仏教に片寄りキリスト教に片寄り、神道のみをよしとする、そういう在り方ではなく、どの道を
通っても神のみ心と一つになり得る、永遠の生命を自己のものとなし得る道でありながら、地球の
現象生活を立派に守り通し、発展せしめ得る道、というものが現わされることによって、現代の宗
教の天命が完うされるのであります。
それは自己の宗団から人を政界に出すことにより、政治的発言力を強め、自己の思想を政治に影
響せしめようとする、宗教者の本質を誤またせしめるような在り方で、現象界のためにつくすので
はいけません。自己の宗団のものが、自ずから政界に進出することも、政界の雄が自然と自宗団に
入り、自ずと政界への進言ができ得る、ということも、これは自然にそうなることであって、神の
意志と解してもよろしいのですが、自己が意図して運動をして、そういう立場に立つことは、宗教
の本質にもとるのであります。
現象世界のために役立つには、個人を悟りに導くだけではなく、その個人個人が自らの職場や社
会的立場にあって、神のみ心を顕現することにあるのです。神のみ心とは大調和であって、明るく
愛と勇気に充ちたものであります。そういう職場や社会にするために役立つ人間を多く育て上げる
宗教こそ現代の宗教といえるのであります。
昔の仏教のように、自己が悟るために山や寺に籠りきりになってしまうのでもなければ、すべて
を現世利益のために、という宗教でもなく、自然と大らかに、人のため、世のために働き得て、し
かも自らも傷つかぬ、という宗教、そういう宗教人を育てあげる天命が現代の宗教指導者にはある
のです。
自己の宗団の拡張を計るためには手段を選ばぬというのは、汚れた政治家のやることと同じこと
で、政治家でも立派な人は、日頃から当然のごとく、地元の人のために尽している、そういう愛念
が自己の票となってかえってくるのであります。
み心のままに生きるには
宗教指導者には自己のためとか、自宗団のためとかいう心があってはなりません。人々の生命浄
化のため、社会のため、国家人類のため、という観念を更に越えた、神のみ心のまま、という生き
方になっていなければならないのですが、なかなかそこまでゆきつくのは大変なことです。
そこで、私は、神のみ心に叶わぬこと、間違ったと自分で想ったこと、他人からこうむった不快現




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なこと、病気も不幸も災難もすべて、過去世からの宿業の消えてゆく姿と思い、その消えてゆく姿62
2
を、守護の神霊への感謝の想いとして祈りなさい、そして、次にはもう自分を責めたり人を裁いた
り、不幸をなげいたりしないで、祈りつづけなさい、というのです。人間には、どうも自己をかば
う本能がありまして、つい相手のせいにしたりしがちなものですし、人によってはなんでも自分の
悪にしてしまう向きもありますが、そういう風に、自分にしても他人にしても、悪や不幸をつかみ
きりにしておいてはいけないので、それを消えてゆく姿として、神のみ心の中で消滅してもらう祈
りをするわけです。
私は浄土門の教えをよし、とみておりますが、どこがよいかといいますと、すべてを阿弥陀仏の
み心の中で昇華(高められ浄められること)していただくというところなのであります。阿弥陀様
におわびして、すべてを阿弥陀様からいただき直す瞬々刻々の生活ということは、実に几夫にとっ
ての救いであります。浄土門が生れた鎌倉時代は、現世の生活が、どうにも浮び上りょうのない、
貧しい厳しい生活の中にありましたので、現世での幸福を望む想いを捨て切って、来世であるいは
仏の世界で救っていただこうと真剣に想いこみ、南無阿弥陀仏を唱えたのであります。それだけに
ひたむきで純粋であったと思います。
ところが現代では、自分のやり方一つで、金銭や地位に恵まれた生活ができますので、そう純粋
に来世や極楽浄土での救われを念願する気持が少くなっています。そこでどうしても葬式宗教的な
色彩が強くなってきてしまったのです。私は折角の善い宗教がこれではいけないと思いました。そ
こで私の説いている消えてゆく姿で、守護の神霊への感謝というのを一歩ひろげて、消えてゆく姿
ごとで世界平和の祈り、という阿弥陀様という救いの仏を、目的ある行動として現わした祈り言にした
のであります。
世界人類が平和でありますように、という人類愛の想いと、守護神様、守護霊様ありがとうござ
いますという神への感謝とを一つにして、南無阿弥陀仏の唱名と一つ道の祈り言としたのです。こ
れはわかる人にはすぐわかることなのです。
世界の平和を祈願する宗教
現代における宗教は、学問知識のない人にでも知識階級の人にでも同時にわかる教えでなければ
ならぬと思うのです。南無阿弥陀仏に抵抗を感じる人でも、世界人類が平和でありますように、の
祈り言になら抵抗を感じません。私の宗教は、神道も仏教もキリスト教もすべてを包含した総合宗
263 現代の信仰
教です。そして、個人と人類が同時に救われる道というところに特長があります。
そして、他の宗教によくあるような、力んだ祈り方はありません。南無阿弥陀仏と、阿弥陀様に
すべてをおまかせしてしまったような気楽なのびのびとした気持で、世界平和の祈りをするので
す。どんなに個人の願いごとであっても、言葉に、世界人類が平和でありますように、と唱えるの
ですから、自ずと、世界人類の平和を祈願するひびきが、言葉のひびきとして宇宙に放射されま
す。
ですから、自分の想いでは、自分の病気治癒の祈願であったり、商売繁昌の願いであっても、そ
れはそれなりに神のみ心の中に入ってゆくし、それとは別に、世界人類の平和を祈るひびきが、言
葉のひびきとして、宇宙を経巡ってゆくのであります。
商売人が商売をしながら、心になんの感謝もなくとも、習慣的に、ありがとうございます、とい
ことぽ
いますと、客の耳にはそのありがとうございますが残ってゆきます。言はすなわち神なりき、であ
りまして、どんな想いでいいましょうと、その言葉のもつひびきはこの世に残るのです。ですか
ら、冗談にでもあまりつまらぬことはいわぬほうがよいので、なるべく善い言葉を使うほうがよい
のです。
264
言葉の中でも、もっとも善い言葉は、神様をはじめとして、すべてへの感謝の言葉と、世界人類
の平和を祈る言葉です。私たちは、この二つの尊い言葉を、日常生活の瞬々刻々の間にも使いつづ
げているのです。
これこそ現代の祈リ
これこそ現代の宗教として、もっともわかりやすく、効果のある祈り言であるわけで、一宗一派
的祈り言でないことが、すぐわかります。人間というものは、どういうものか、使いなれたやさし
い言葉を馬鹿にする傾向がありまして、ありがとうございます、という感謝の言葉なども重くみて
うなず
はおりません。しかし、世界人類が平和でありますように、という言葉は、誰でも肯ける言葉であ
りまして、やるやらないは別として、自然に心に入ってくる言葉なのであります。
重大な発明でも、案外日頃みなれたり、使いなれているものの中からヒントを得ることが多いの
でありますが、世界人類が平和でありますように、という一見平凡であたりまえのような言葉の中
に、今日の世界にとって最も大事な、重大な意味が含まれているのです。ただ今日まで誰もこの言
葉を祈り言として、日常茶飯事の瞬々刻々の間にも祈りつづけられる、ということに気づかなかっ現




265
たのです、
現代の宗教の祈り言、唱えごとは、やはり現代人に理解されやすく、他人にきかれても恥ずかし
い想いをしないですむものがよいのです。世界人類が平和でありますように、この祈り言は、どん
な人の中にあっても、どんな会合の中でも、少しも不自然でも不愉快でもない言葉です。
一日も早く世界が平和になるとよいですね、戦争は二度と嫌ですね、などという、当りまえの日
ごと
常茶飯事にいいかわす言葉を、よいですねなどという生やさしい言葉でなく、祈り言にまで高めあ
げて使わなければいけないのです。
世界人類が平和であるようにということを思わぬ人は、世界中にあまり多くあるものではありま
せんで、大半の人々は、世界人類の平和が一日も早く来ることを望んでいるのでありますが、ただ
単に望んでいるだけで、心の中では、現在の世界情勢では、絶対に平和になりっこない、という望
みとは反対の想いで生活しているのです。そんな心の状態では、世界平和のためになんの役にも立
たないのでありまして、無目的な日常生活ということになってしまいます。
そんな人ばかりがいたのでは、世界平和のためにどうにも力になりません。しかし、そういう人
たちは、ただ自分が世界平和のためにどうしたらよいかわからないでいるだけなので、少しでも世
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界平和のためになるとわかれば、その道に向ってくるにきまっているのです。世界の平和というこ
とは、他人事ではなく、直接自分たちの運命にも影響してくることだからです。
なんにもしないで、世界が滅びてゆく日を待っているより、少しでも世界平和のための働きがで
きるのですから、平和になればいいね、というつぶやきに代えて、祈り言までに高め上げた、世界
人類が平和でありますようにという言葉を、日常茶飯事の中で祈りはじめることは、別に苦痛でも
面倒なことでもなく、やさしくできることであるはずです。
この文章をはじめてお読みになった方は、まあ、何もしないよりは増しだろうぐらいな気持では
じめてよいのですから、おやりになって下さい。はじめはそれでもよいのです。いつの間にか、こ
の祈り言の力に気づいてきます。自分の生活がなんとなく明るくなってくる。愛が深くなってく
る、というように、何かしら自分や自分の家族が善い方向に変ってくるのに気づきはじめます。
何故そうなるかと申しますと、この祈り言には救世の神の大光明がひびきわたっているのです。
神という言葉をつかわなくとも、世界人類が平和でありますように、というような広い人類愛から
生れ出た言葉の中に力のないわけがありません。しかし、実際に神の大光明は、この祈り言葉の中
で輝きわたっているのであります。現




2E7
これは私たち同信の人たちの等しく観じているところなのでありますし、同信でないなんの関係628
もない霊能者の霊眼にも、その大光明が観じられている事実が何度びとなくあるのです。この祈り
言は、会社の往きかえりの電車の中でも祈れるし、歩いていても、寝床の中で祈ってもよいので
す。
この祈り言葉はよくわかってよいな、と軽い気持で祈っても、いつの間にか、個人的な善い影響
が現われてきますし、個人の現世利益のために祈っても、そのまま世界人類のための祈り言にもな
っているのであります。個人人類同時成道の祈り言であることは確かな事実なのです。
現代における宗教はこのように、誰にでもやさしくできて、しかも、自分のためにも、国家や人
類のためにもなるものであることが大事なのであります。それに加えて大調和の科学の完成があれ
ば、世界平和に大きく一歩近づくのです。私たちはその日のために、日日遙進しているのでありま
す。


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