序文
先に出した宗教問答が、宗教を理解するのに非常に役立った、判り易く行い易
い教え方で私の眼が開けた、という風に、大変評判がよかったので、同じような
形態でもう一冊出すことに編集部が決めて、この出版となったわけだが、宗教の
教えは、頭で判っても、実行できぬ、という場合が多いので、私は常に知識とし
ての満足も味わえるし、そのまま実行にもうつせる、という教えを書きつづけて
きているのである。
いわゆる現世利益というものばかりを、新しい宗教に求めている人々は、とて
も真の宗教の奥義を体得できないし、かえって宗教団体に入ったことが害になる1
ことがあるもので、逆に唯物論の社会主義者の方が、宗教精神を生かして、人々
のために尽している、という珍妙な結果になっていることが随分とあるものなの
である。
これは実に困ったことなので、宗教の道を求める人は、現世利益を求めること
も結構ではあるが、やはり、宗教精神をこの世においていかに生かしきるか、と
いうことを念頭において、求めるべきなので、奇術や魔術をみるような想いで、
宗教の道に入ってくることは誤りなのである。宗教の道は実に当り前の道であっ
て、そこには奇術や魔術の道はなく、自他を真実に愛し、神仏を真実に礼拝する
道が開けているだけなのである。だけなのである、といっても、この道がすべて
の道であって、他に真実の道というものがあるわけではない。
この道をただひたすら進みつづけることによって、その精進努力の結果として、
霊性が開発され、超越した力が現われてくるのである。そして神仏との一体化が
成就され、永遠の生命を自己のものとすることができるようになるのである。
2
本書はそういう真理解明の書なのである。
昭和四十五年六月著者識
3
問問問問問
9493929190序
問95
目
文
次
神様というものを説明して下さい
人生はドラマだとはどういうことですか… … 三
神様の中に入ることは現実逃避ではないか… 蓋
真の勇気ある人間になりたい二〇
神を求めようと焦って行をするとかえって
邪霊の餌食になるといいますが二四
人間はなんのために生れ、なんのために死
ぬのか
七一一●
問問
9796
問98
問9
問m
因縁とはどういうことですか
時々世界平和の祈りを忘れてしまうのです
どうしたらいいでしょう
一度祈ったら世界平和の祈りはなりひびい
二八
三二
ているといいますが
曇
世界平和の祈りをする時自分で意識できな
くとも光に包まれているのか
世界平和の祈りを祈っていたら、死んだ母
四〇
が救われますか
四四
四九
問m
問問
103102
間脳
人間が神の子であり、神が完全円満なら何
故この世に悪や不幸が生じたのでしょう… …拡三
ざんげと祈りとはどう違うのか窓
腹が立った時憎いと思った時にすぐ消さな
いとその想いは消えないか六四
この世で善行をした人は死後のよい世界を
約束されますか
問鵬人間はどうして死ぬことを恐ろしく感じる
問問問問問110109108107106
交
4
のでしよう
愚依現象がどうして起るのか
宇宙人と心霊とはどう違うのか
霊界でどのように生活するのですか
死を恐れなくなる心構えは
自殺する人には守護の神霊はついていない
のですか
八八八七七
ノuコ鼠一。六三三
問問問問問115
11411311211]
全託すれば反省の必要はないのか
人間の自由意志と業について
生命と想念の関係を教えて下さい
自分と調和するとはどういうことか… …:・
宇宙人と地球人との相違は9
碧窒
一〇〇
δ四
δ八
二四
問問問11
8117116
罪本来無しといいますがご八
地球人類は果して救われるでしょうか… … 一三
初めにコトバありき、の聖書の言葉の真意
を教えて下さい
問m 宗教活動で病気や天災のない社会を実現で
問㎜
きますか
三五
問問
122121
三九
神通力の持主のイエスキリストが何故十字
架にかかったのでしょうか一三三
生命にいたる門が狭いとはどういうことか三七
離婚は聖書によれば罪であるという牧師さ
んの説は正しいか
問鵬罪の意識におびえるクリスチャソ青年への
助言
問…… 誕生と共に往生(死) は祝事であるとはど
一空
ういう意味か
問聯どうしたら統一技術が最も短時間で上手に
問問
127126
一四六
なるでしょうか
;O
睡眠と統一との相違
空とは自意識が全くなくなってしまうもの
なのか、忘我状態なのか
三乱五
八四
二公二
問鵬座禅中の霊現象はすべて幻か、魔境なので
しょうか
問鵬統一しよう空になろうと努力することは把
問問
131130
問脱
問塒
問m
われでしょうか?
六つの神通力について説明して下さい… …
霊魂が個性をもって永遠に存続するならど
ういう状態や形でするのか
夢で予知されたりすることもありますが、
夢についてのご説明を求む
凡愚の自己が悟るのではない、とはどうい
うことですか
私の主人は無信心で、私が世界平和の祈り
をすすめても見向きもしません。主人も同
じ道を歩いてもらいたいがどうしたらよい
二盒
一六九
一七三
一薯
一凸
でしょう
熟慮して断行するのと、直感のひらめきで
行うのとどちらがよいか
人間神の子をハッキリ体覚したいのですが
どうしたらよいでしょう
スポーツは競争心を造り出すから神のみ心
天六
問麟
問鵬
問餅
一九〇
一西三
一九七
5
問瑚
問㎜
の平和に反する、中止すべきだという人が
いるが
脳性麻痺で寝たきりの人や精薄の人など世
の中の厄介視されている人たちはどんな目
的をもって生れて来たのでしょう
悪や不正を憎み憤ることは光明思想に反し
二9
二〇四
問問
141140
ますか? 二〇九
改宗をおそれる老人への助言を二三
女性に心をひかれる性情を超越する方法を
教えて下さい
問即魂が浄まることと現実生活がよくなること
間問
144143
との関連について
宇宙人は霊的な存在なのか
肉体生命を維持する上において他生命の犠
牲を必要としている、この犠牲なくては生
きられない人間の矛盾を解決する方法を教
三六
示下さい
問踊日米安保条約改定に対する宗教老の態度い
一三〇
一三四
かに?
一三九
問描水爆実験に憤る
二毫
二四〇
問瑚警察・検察・裁判の仕事にたずさわる者は
「人を責め裁いてはいけない」の教えに反
する職業か?
問酩死刑を宣告し執行するのを神様は許される
カ?
二四四
つねに愛深くあるためにはどうすればよい
も
カ?
一西六
6
問囲
問聯愛しながら悲しみに把われなくするために
は?
二四七
二垂
問90 神様というものを、わかりやすく、誰にでも納得できるように説明するには、どうしたらよ
ろしいでしょうか。
答実際に、神様を説明すること程むずかしいことはないし、わからせにくいものはないのです
が、また逆にいえば、これ程わかりょい、説明のいらない存在者もないのであります。というのは、
わかっている人には何もいわなくともわかっているし、わからない人には、いくら説明してもわから
ないからなのです。
しかし私は、ここではそういうことをひとまず考えずに、神様の解明をしてゆくことに致しましょ
うo
神様を一口にいえば、生命そのものでもあり、生命の基ということができます。この生命は、限り
無い智慧、限り無い力、限り無い創造力をもっております。そして、人間が小生命であるのに比べて
大生命とも呼ばれております。
大宇宙の在りとしあらゆるものは、この大生命の心のひびきによって存在しているのであって、こ
の大生命の心のひびきの外にあるというものは無いのです。ですから神様のことを絶対老ともいうの7
です。
絶対者はその働きの中に陰陽、プラスとマイナスをもっていて、その陰陽の働きによってものを生
すがた
みだしてゆくのです。絶対者が陰陽に分れて、数限りない存在者、存在物となり、絶対者自身の相を、
その存在者、存在物の中から仰ぎみるということになっているのであります。
わけいのち
そこで、分生命のほうの人間は自分の内部に神を存在せしめているので、内部の神が、外部の神々と
・交流し合っていることになるのです。この内部の一番奥の神の姿を、直霊といい、その分れとして存在
しているのを分霊といい、直霊、分霊の働きを本心の働きというのです。そして、この直霊分霊の働
ぎを真直ぐになさしめるために、外面的に働いているのが守護神なのであり守護霊なのであります。
さて、こうなってきますと、もう神様の簡単な説明ということにはならなくなってきましたが、こ
うした説明は、やはりわかる人だけにわかってもらうより仕方のないものなのでしょう。しかし、わ
かろうとわかるまいと、神様はすべてのすべてであり、人間は神様の子として祖先の悟った霊である
守護霊と、直霊の半面の働きである守護神に守られっづけて、誰でも神の子の本体をこの地球界に現
わさずにはおられない存在者なのであることには変りないのです。
神様は一つであって多(人間)であり、多がすべて一なる神の生命を真直ぐに現わすことができる
8
すがた
ようになって、一なる神の働きと多なる神の相とがはっきりわかってくるのであります。
もう一つの説明の仕方でいいますと、神は大光明であり、その現われはひびきなのである、という
ことです。
言は即ち神なりき、と聖書にあるように、言即ちひびきなのであります。ひびき、いいかえれば、
リズム
律動、波動ということもできます。
この世のすべては、神のみ心のひびきでできているのです。
山川草木、虫魚鳥獣類人類、その伸びゆく力、育成の力は、神のものなのであります。神なくては
何ものも存在しないのです。神様とはそういうものなのです。
ぼらならぼらの花をみてみましょう。北原白秋の詩に、
ぼらの木にばらの花咲く
何ごとの不思議なけれど
というのがあります。全く、この世の人の常識では、ぼらの木にぼらの花が咲くのは、なんの不思議
もないことに思えるのです。しかし白秋の詩のように、何ごとの不思議なけれど、なのであって、当
り前のことと思っていることが、よく考えてみると、なんとまあ、当然と思っていることのうちにあ9
る不思議さ、深い内容というものが、自ずと心を打ってくるのであります。
私の家の庭にもばらの木がありますが、五月になりますと、ほとんど毎年、日をきめたように花を
咲かせはじめるのです。この美しい形よい花々は一体今日までどこにひそんでいたのでしょう。冬の
間のあの枯枝の一体どこに芽を吹く要素があり、こんな美しい花を咲かせる力があったのでしょうか、
それは枝の中にあったのか、木の中にあったのか、それとも土の中にあったのか、どこにあったとし
ても、そうして花を咲かせる力は一体どこからきたのか、どんな力が働いているのか、こう考えを突
きつめてゆきますと、詩人が直感的にその内容の深さに打たれたと同様な感動が誰の胸にも伝わって
くると思うのです。
人間の赤ん坊などでもそうですQ今まで、どこにもその姿形が無かったものが、原形は小さな小さ
な精子と卵子であったというものがいつの間にか、人間というこういう姿形として生れ出るのです。
ああ、なんという不思議さ、なんという偉大さ、なんというドラマチックな出来事でありましょうか。
全く全く、それを考えるだけで、胸が熱くなってまいります。
私たちがこうしてものごとを考える力、私たちがこうして呼吸をしているそのこと、心臓や肺臓を
動かしている力、それは肉体の私たちの意識しての力でないことは明らかなことです。どんな人でも、10
今日は心臓をゆっくり打たせよう、明日は早く打たせようなどといっている人はありません。
そのように人間の肉体を動かす原動力となっている力、それは一体なんでしょう。神様というもの
は、そうしたすべての力の原動力なのです。
神様という言葉に想いがひっかかる人は、何も神様といわなくとも、自然でも大自然でも、大生命
でも、如来でも仏でも絶対者でもどうでもよいと思います。どんな呼び名で呼ぽうとも、神様は、や
はりすべての力の原動力として、絶対者的力、創造者として厳然と存在しつづけるのであります。
ただ神様は、前にも申しておりますように、種々様々な働き方をしておられるので、うっかりする
と、神様という言葉や、神様という観念的な想念にひっかかって、かえって自分の生命の動きを不自
由にしてしまったりする場合が随分とあるので、それに気をつけなければいけないと思うのです。
自分の力以上の出来事に出会ったり、ちょっと奇跡的なことをみせられると、すぐにも大神様が直
接働きかけているように思ったりする人が、宗教をやっている人たちにはかなり多いのですが、大神
様はすべての力の原動力ではありますが、それは法則として働いておられるので、その法則に外れた
生活をしている人々は、直接的にはどうしても大神様を感じ得ない場合があったり、法則を外れたま
まで、神様の力を自分に働きかけてもらおうとしますと、法則に外れただけのゆがんだ神様の姿、い
11
わゆる業想念の姿が神様そのもののような顔をして、その人の前に現われるのです。そうした誤った
消えてゆく姿的の神様をかついでいるのが邪宗教といわれる宗教なのです。ですから神様はやはり各
人の生命の本源であり、絶対者であり法則であって、守護の神霊としては、個人人類の天命を生命の
力を素直に自由に伸び伸びと働かせるため、生命の法則に乗せて下さる力である、といったほうがよ
すがた
いと思います。世界平和の祈りは、そうした神の真の相を知らせる真行なのであります。
12
問91 この人生はドラマだ、悪役をやる人があったリ、二枚目をやる人があったりするが、悪役を
やるからといって、その人が悪人であるというわけではない。ということをよくききますが、先生は
どのように、この点についてお考えになっておられるのか、ご解説下さい。
答実際に、この人生は、大神様のつくられたドラマだということができます。ただし、大神様の
原作を、脚色したり、役老(人間) たちにやりやすいように、種々とその役者むきに書き変えたりす
るのは、守護霊、守護神の役目なのであります。
ところが、今日までの役者(人間) たちは脚色家や監督(守護神、守護霊) たちを無視して、原作
なま
だ けを忠実に演じようとしたのです。しかしながらこの原作は、それが原作の生のままでは、この地
球界の環境や波動とはあまりにも開きがありすぎて、どうにも演じようがなかったのです。そのため、
役者(人間) たちは、次第に原作をも無視しはじめ、自分たちが演じやすいように、勝手な芝居にし
て演じつづけていったのであります。
そして、ついには何がなんだかわからぬような芝居となってしまい、脇役が主役をないがしろにし
たり、主役がいつの問にか脇役のような演技をしてしまったり、収拾がつかなくなってしまい、果て
はつかみ合いの喧嘩となり、椅子や布団を投げ合うということになってきてしまったわけです。
これが、人類世界の現在の姿なのであります。ですから、悪人とかなんとかいっても、実は神様の
み心、神様の意図がよくわからなくて、自分勝手な演技をしてしまったということなので、いつの間
にか、自分では二枚目をやっているつもりで、悪役をやってしまっていた、ということなのです。回
り合わせが悪かったともいえるのです。
とはいっても、いつまでも悪役があったり、敵役があったりしては、この人類はいつまでたっても、
神様のみ心である、完全調和の大芝居はできないのですから、この辺でどうしても、この行きづまっ
てしまった人生劇場に、新風を吹き入れなけれぽならないということになってきたのであります。
それにはどうしたらよいかといいますと、やはり、前に申しましたように、大神様の原作(生命の
13
流れ)を、自分勝手に演出しないで、一度守護神の脚色演出にゆだねることが大事なのであります。
そう致しますと、守護の神霊の見事なる脚色演出によって、この地球人類にも容易にしかも美しく楽
ヘヘヘヘへ
しく演じられるドラマがくりひろげられてくるのです。そのドラマの題名が、世界平和というのであ
ヘヘヘヘヘヘへ
りまして、この劇が、より優美に楽しく演じられるために、世界平和の祈り、という祈り言が更に必
要になってくるのです。
この世界平和の祈りの中には、大神様のみ心も、守護霊、守護神のみ心も、私たち祖先のあらゆる
人たちの願いも、山川草木虫魚禽獣、生きとし生けるものすべての本心が、大光明となって輝きわた
っているのであります。
世界平和の祈りというのは、一口にいえば本心開顕の姿であり、大神様への帰一ということでもあ
るのです。そして、大神様への帰一、本心開顕の姿が、この地球界に世界平和劇という、大光明ドラ
マになって演じられてゆくということになるのであります。
そうしますと、この人類には、悪役も敵役も全くいらない、明るい美しい役柄だけでよいというわ
けになってきます。
ですから、この地球人類の現在の混迷した在り方に想いをわずらわされず、また悪と見え、敵と見14
える姿に把われず、いかに自己に都合の悪い状態が現われても、そのような神のみ心にない姿や想い
は、一切世界平和の祈りの中に消して頂きつつ、自己に与えられた日常生活をしてゆきさえすれぽ、
自分が力まずとも、いつの間にか各人が、世界平和劇の大光明ドラマの一役をかっているというわけ
になるのです。
そういう意味での人生はドラマだ、と私はいいたいのであります。
問92 神様の中に入るということは、現実逃避ではないかと人にいわれましたが、いかがなもので
しょうo
答神様の中に入るということは、現実逃避どころか、現実生活を充実させるための、最も大事な
ことなのです。一体人間は、現実世界をどういうふうに築きあげてゆくことを、目的としているかを
まず考えてみなければいけません。
個人も人類も等しく願うことは、自分たちの生活が平安で、自由にのびのびと生活できることであ
ろうと思います。
人間が、常にあくせくと働きつづけているのも、自分たちの生活を楽にしたい、平和な自由なのび
1与
のびとした生活にしたいと思うからなのです。そのために、物質に富むとか、地位が高くなるとかい
うように、自己の環境が、自己の生命の自由を拡張してゆき得る環境にする努力をしているわけなの
です。
これは個人も国家も民族も同じようなものだと思うのです。個人も人類も、この現実生活を平和で
自由でのびのびとしたものにしたいという目的をもっているのです。
ところが、自己の生命の拡張、自己の自由、自国の自由というものが、他人や他国の自由とぶつか
り合うような状態になり、そこに人類が根本的に願わねばならぬ平和世界の樹立という目的に反する
争い、戦争ということが起ってしまうのです。
枝葉末節的な目的のために、根本目的の、大調和、大平和というものを崩してしまっているのが現
実の個人と人類の姿なのです。
ですから、人類は自己の目的と相反する結果に自らを追いこんでしまっているように、現在の世界
の状勢では思われてしまいます。そこで問題になってくるのは、どうしたらこの現実世界を人類の根
本目的である平和世界にしてゆけるか、ということなのです。
おもい
そこに出てくるのが、宗教信仰ということなのです。争うまいと思っても争ってしまう想念、平和1G
を望みながら、戦争にまで持ちこんでしまう業想念、こうした人間の欠点を、いかにしたらなくすこ
とができるか、人間の悩みは、ついに自己の生命の根源である大生命、神にその欠点の矯正を求めな
ければならなくなったのです。いいかえれば救いを求めることになったのです。これが宗教信仰の根
本なのです。
それには一体どうしたらよいか、自己の欠点を直してもらうのには、直し手に自己のすべてをゆだ
ねなければなりません。医者に治療してもらうのに、いちいち医者にとやかくいう必要はありません。
体を医者にまかせてしまうわけです。
信仰というのも、そうしたもので、自己を神のみ心に、神のみ手にゆだねなければなりません。神
の中に入る、というのはそういうことなのです。神の中に入りきってしまえば、その人は、神と一体
になってしまうので、その人の欠点は、神のみ光の中で消え去ってしまっているわけになります。
自己の欠点をなくして長所だけにすれば、その人は立派な人になれるわけなのですから、神のみ光
によって自己の欠点を消し去って頂けぽ、神の子本来の長所だけが、その人の全生活に現われてくる
のは理の当然です。長所だけを現わしている日常生活であれぽ、その人の生活は必ず善い立派なもの
であるにきまっているのですから、この方法は消極的どころか、全く積極的な、智慧のある生き方な
17
のです。現実逃避どころのさわぎではない、現実を生かす方法なのです。
宗教信仰というものはそうしたもので、現実逃避の宗教信仰などというものが現在あったとすれば、
それは間違った宗教信仰であるといえるのです。
自分を生かし、他を生かすことが宗教信仰の在り方であります。自分を生かし他を生かすというこ
とは、自分が神のみ心と一つになって生きていれぽ、自己のあらゆる動きが、そのまま他の人のため
にもなり、人類のためにも役立っていることになるのです。
何故ならば、神のみ心は、大調和であって、すべてを生かしきることに、その目的があるからです。
自己の生命を自由に生かしたい、のびのびと平安に生きてゆきたい、と思うならば、まず自己の心を
自由の根源であり、平安の根源であり、生命の根源である、神のみ心の中に入れきってしまうことが
必要であるのです。
神のみ心の中に自己を入れきるということはどういうことであるかといいますと、神のみ心と同じ
ょうな心で生きてゆくことであります。神のみ心とはどういう心であるかというと、まず、平和な心
ということ、すべてを自ら自身と観ずる心、こちら側からいえば、自他一体の心ということになりま
す。これを普通の言葉でいいますと、愛ということになります。18
自分と他人とを区別して考えぬ心、これは口ではいえますが、なかなかむずかしいことで、容易に
できるものではありません。自他一体観、こういう言葉をきくと、全く、いい言葉だと思いますし、
そういう心境になりたいと誰しも思うのですが、実際問題が起りますと、いつの間にか、自分の生死
や利害がつい先に立ってしまっているのが、今日の肉体人間のようです。
そこで私は、自他一体観をそのまま現実生活に行為することはむずかしい、どうしてもマイナス面
がでる。しかしそのマイナスの想念ごと、もう一度神様のみ心の中に入ってしまえ、入ってしまうに
はどうしたらよいか、というと、ただ神様といっていたのでは、やはりどうしても幾分かマイナスの面
が残るから、ただ神様というのではなく、神様のみ心である大調和、大愛の行為を、人間側の祈り言と
して唱えて、その唱え言の力で、自己のマイナスを消して頂いて、日常生活をしてゆこう、というこ
とを思い立ったのです。思い立つというより、守護の神霊たちから教えられたのです。それが世界平
和の祈りなのです。この世界平和の祈りは、大神様が救世の大光明となって、人類の業生を消し去っ
て下さろうとして、肉体人類に唱えさせてくださる人類救済の祈りなのです。ですからこの祈り言を
唱えていさえすれば、自ら自己も人類も救われてゆくということなのです。
19
問93 真の勇気ある人間になりたいと思うのですが、どうすればよろしいのでしょうか。
答この間に答える前に、一体真の勇気というものがどういうものであるかを説明しなければなら
ぬと思います。
いつかも書いたことがあるかと思いますが、勇気というのは、強そうにみせたり、烈しい行動をし
たりすることではありません。読んで字のごとく、気が勇む、ということです。気とは心のひびきの
ことで、心のひびきに勢がある、心が生き生きとしたひびきを出している人を勇気がある、というの
です。この場合の心というのは、本心のことであって、業想念のことではありません。
勇気というのは、因縁性から出てくる力ではなく、真我即ち本心から出てくる力なのです。この勇
気と似ているものに度胸というものがあります。この勇気と度胸とは常に混同されてしまっています
が、根本が違っているのです。しかし、同じような現われ方をすることもあるのです。
ちなみに天一坊や河内山宗俊のようなサギ漢の図太さを、誰も勇気がある、とはいわないでしょうQ
おとこ
また、森の石松のような無鉄砲さは、度胸のある漢、とはいっても、勇気のある漢とはいえないでし
ょうo
勇気とは先程申しましたように、因縁性でない本心の中から出てくるひびきであり、度胸とは、因
20
縁性の業生の中から出てくる強い想念波動なのであります。この業生の中から出てくる強い波動も、
その波動がそのまま本心のひびきを現わしている場合もありますので、度胸そのまま勇気という場合
もあるのです。
勇気のある人の態度は、常日頃は、柔和な穏やかな態度であることが多いのですが、度胸のある人
というのは、表面にその強さがはっきり出ている場合が多いのです。
ですから、勇気のある人というのは、自己の業想念波動を抑える力が強く、滅多に怒ったりするこ
ともなく、暴力行為に出たりすることはありませんし、人を眼下に見下したり、人の心を痛めたりす
ることもないのです。
ところが度胸一方の人は、ともすれば、肩肘怒らせてみたり、人を痛めつけたりしてしまうことが
あるのです。
こう考えてまいりますと、真の勇気というのは、ただ強いとか、人に負けないとかいうのではなく、
自分の業想念、つまり自我欲望を抑え得る、自我欲望を超越し得る力と、自分の歩む道に対する絶対
の確信とをもつ強さ、ということで、いざという時には、生命も地位も、すべてのものを投げうって、
自己の信ずる道を突き進んでいって、なんらの悔をも残さない、という程のものなのです。
21
さてこのへんで、ではどうしたらそうした真の勇気のある人間になるかという問に対して答える順
序になってきました。
真の勇気ある人間になるためには、自己の本心に忠実であれ、という一言が最適な答えであろうと
思います。本心とは真我です。真我とは神の性です。この神性に忠実であることが勇気ある人間とし
て起つ唯一の方法なのです。
神性とはどういうことかと申しますと1
愛深き心、美しく清らかな心、真をつくす心、善事をなす心等々、すべて人間生活を高め深める心
さが
のひびきです。そうした性です。
こうした性質を、日常生活に現わすように日々の想念行為を調整してゆくことが、神性に忠実な行
為なのです。
ところが、そういわれる意味はわかるが、実際問題として、そういう想念行為をすることがむずか
しいので、そのためにこそ勇気がいるのです、というような反問が必ずあると思います。
そこで私は、そうした神性を現わす最大の方法をあなたに示そうと思うのです。それはやはり祈り
なのです。祈りも、ただ単に神様神様という祈りではなくて、人類世界の永久平和を願う祈りなのです。
22
世界人類が平和であることと、自己や自己の周囲との平安であることとが、全く一つであって、世
界平和と自己の平安とが離れてあるものではない、という、真理をそのまま現わした、神性をそのま
ま現わした、世界平和の祈り言の中に、自己の日々の全想念を入れきって、世界平和の祈り心の中か
ら、日々の生活を頂き直すという習慣を身心につけてゆくことを私はあなたにおすすめするのです。
世界人類が平和でありますように
祖国が平和でありますように
私たちの天命が全うされますように
という祈り言の中からは、必ず真の勇気が湧き起ってまいりますし、愛も真も美しい心も湧きあが
ってくるのであります。それは私はじめ幾多の同心の人々の体験済みのことなのです。
本心そのままの人間ならぽ、その人は、そのまま、愛と真と勇気ある人として、この世の生活をし
ているに違いありません。ところが、この世の人々は、ほとんどが、その本心を業想念によってくら
まされているのです。ですから、その業想念ごと、世界平和の祈りの中に、自己の意志をふりむけて
いさえすれば、世界平和という神のみ心の大光明に業想念は消し去られて、本心そのままのその人が
現われてくるのです。
23
どうぞあなたも肱界平和の祈りの中にこそ真の勇気があることを悟られて、
日常生活をして下さるよう願います。
世界平和の祈り一念の24
問94 ある人は、「神を求めようと焦って山に籠ったリ、水ごりしたリ、滝に打たれたリ、断食し
た人々に巣喰うものは、ほとんど邪神である」といっておりますが、そのような行をすると、どうし
て邪神にとらわれるのですか。また同じ人が「真の神につながるには、神を求める欲望があってもな
らない、無の心、博愛の心に帰ることである」と説いています。神を求める心がなくてどうして、無
の心、博愛の心に帰れるだろうか、と私は思うのですが、先生のご意見をおきかせ下さい。
答あなたのおっしゃる、ある人とは誰であるのか知りませんが、とにかく名の知れた宗教者か、
宗教研究家であると思います。確かに、何をするのにも焦り心があってはいけないのですが、神を求
めるにはなおのこと、焦ってはいけません。焦り心で山ごもりしたり、断食や滝行をしたりすること
は危険な率が多いのです。このある人は、邪神が巣喰うといっていますが、神には邪しまなものがあ
るわけがないので、邪しまな幽界の生物ということであると思います。
種々な修行で、肉体の耐久力が衰えているような時には、邪しまな幽界の生物や邪霊魂がついて、
その人の正常な意識活動を妨げてしまい、正常でない人格にしてしまうことがよくあるのです。です
から、霊力の強い先達が一緒でない時には、山籠りや、断食や滝行等の空になる修行ははなはだ危険
なことなのです。ですから私は、そうした修行を人にすすめようとは思っておりません。肉体にま
っわる業想念を超えようとすることは勿論よいことですが、そのために肉体に苦痛を与えたり、肉体
を衰えさせたりして、肉体感覚から放れようとする修行方法は、私の好むところではありません。大
体、日常生活を離れなければ修行のできないような、宗教信仰の在り方は、現代における修行として
は受け入れ難いものです。自己が置かれた環境の中において、修行できるような悟りへの道でなけれ
ば、現代における宗教の道が生きてまいりません。
山籠りや滝行や断食修行が、愚依の危険があると同時に、現代人の日常生活と離れた修行であると
いうことの両面において、一般人の修行方法ではないと私は思っているのです。
二番目の問題の、真の神につながるには、神を求める欲望があってもならない、無の心、博愛の心
に帰ることである、というある人の説法は、深い真理を語っているようでいて、観念論の域を出て
いない言葉なのです。
なぜかと申しますと、一体何人が神を求めずして、神につながり得ることができたでありましょう
25
か。神といい仏といい絶対者といっても全く同じですが、そうした大自然の本質を求めずに、宗教信
仰に入り得る人が一体実在するものでしょうか。何かを求めるから、その道のほうに心身が動いてゆ
くのであって、方向なしに心身が動くことは、霊能的に動いている人以外は絶対にないのであります。
神を求める欲望といっていますが、神を求めるのが果して欲望でありましょうか。私は神を求める
想念を欲望の中に入れるのは当を得ていないと思います。神を求める心は本質的なものであって、欲
望という範躊には入らないと思います。神仏を求めずに、無の心、博愛の心に帰れなどといったとこ
ろで、無の心、博愛の心に帰ろうとする想いが、そもそも神仏を求めるところから発しているのであ
って、それは外部に求めようと、内部に求めようと、求める想いには変りないのであります。
求める心がなくて、突然に無になろうなどという想いが起るものではないので、このある人そのも
のでも、神仏を求める想いから、無の心、博愛の心に帰れ、という言葉が生れてきたのであります。
仏教者のある人々の中には、無とか空とかいう言葉をやすやすと口に出して、そうならねばならぬ、
そうなるべきだなどといっておりますが、無になり空になることが、どれだけむずかしいことである
か、この人たちはご存知ないのでありましょうか。自分が真実に無の境地になり、空の境地になって
いると、そんな言葉を誰にでもやすやすといえるものではないのです。なぜかというと、無や空の境
26
地になることは実に至難なことであるのを、その人々はみずからの修行でよく知っているからです。
くうそう
この私も空相に至る道の至難なことを、身心をもって体験しているものなので、無や空のことを、な
んでもなさそうに、一般の人々に説いている文章などをみますと、その人々の悟りの程度が知れてお
かしくなることがあるのです。
そこで私は、神を求める欲望があってもならないなどということを、言葉や文章で説くようなこと
はしないで、序々に無の境地、空の境地、博愛の境地になり得るように人々を導いているのです。そ
の導き方が、消えてゆく姿と世界平和の祈りの日常行なのであります。
すべての物事を無しと断じ得る心、何もの何ごとにも一切把われぬ空の境地になり得る人が、この
地球世界に何人存在するでありましょうか。実に数少ない人であろうと思います。私は一般大衆の誰も
が容易に入り得る空の境地と同等の境界に人々を導いてゆこうと思っているのです。それが消えてゆ
く姿であり、そして世界平和の祈り言をエレベータにした、神への全託行であるのです。
消えてゆく姿という言葉は、空の境地に入る一歩手前の言葉です。目に見え手に触れ耳に聞え、心
に感ずるすべての物事は無であり、空であるのだ、といくらいってきかされても、観念的にわかる人
はあっても、実際的にわかる人は、滅多にあるものではありません。ところがそうした説き方を一歩27
ひき下げて、すべての事柄、物事、環境は、みな過去世からの業因縁の消えてゆく姿だ、といわれる
と、うんなる程、そういえば、人間自体もいつかは消えていってしまう、というように、簡単な思い
方から、自然に深い意味の消えてゆく姿がわかってきて、遂いには無とか空とかいう、真理の言葉が、
はっきり体得できてくるのです。そして神仏のみ心、博愛の心が、世界平和の祈りとしてその人の中
から光を放ってくるのであります。
今日までの、哲学的な宗教者、あるいは研究者は、ともすると、一般大衆には手もとどかぬような、
深い真理を生のままで提出するので、一般の人々は、かえって頭だけの知識だけの宗教者になってし
まったり、やさしい新興宗教のご利益宗教に走ってしまったりするのであります。
一般人が容易に入り得て、しかも深い真理をいつの間にか体得できるような宗教の道でなければ、
今日の宗教としては、もはや時代遅れといわねぽなりません。
28
問95 人間はなんのために生れ、なんのために死ぬのですか… … やさしくお教え下さい。
答人間と一口にいいますと、この肉体をもった、というより、肉体人そのものが人間であり、そ
の他には人間というものがないように一般の人には思われていますが、実は人間というものは、肉体
そのものをいうのではなく、肉体を動かしている生命体をいうのです。ですから肉体が滅びてしまっ
た、いわゆるこの世でいう死という状態は、人間の真実の体、生命体が、肉体を離れて、他の波動の
世界に移転したということで、人間そのものがなくなってしまったのではないのです。
わけいのち
人間という生命体は、宇宙を創りなした大生命の分生命であって、その実体は大生命と等しいもの
であるのです。
大生命、すなわち大神様は、ご自分の生命の力を、種々な光の色分けにして、大宇宙の中に種々様
々なものを創られておられるのですが、人間は大神様の光(絶対智、創造力、絶対愛)の分れとして、
大神様の智慧、創造力、愛を分け持って働いているのであります。
人間の生命体は、神の光そのものであるので、その神の光が内面的には、直霊、分霊として輝いて
さわ
いるのであり、その内面の神の光を碍りなく輝かすために、外面的な守護の働きとして、守護神、守
護霊として存在するのであります。
この世に一人の人間が生きて働いていられるのは、直霊、分霊、守護神、守護霊という四通りの光
明力によって、つつがなく生きつづけていられるわけなので、守護霊などは、一人に三者ぐらいつい
ているのが普通なのです。ですから、真実の人間というのは、こうした光明力、生命体が一つに融け29
きって働いている人間をいうのですが、普通の人は、こうした真理を知らないで、人間とは、この肉
体一個人として、自己とは肉体人間の自分であると思いこんでいるのです。ですから、肉体人間の自
己としての能力しか現わせないで、すべてを相対的にみつめ、肉体という小さな殻に籠った自己のた
めの幸福というものを考えて生きつづけるわけなのです。そこで、お互いの利害が反すれば、争った
り闘ったりするのです。ですから、生命が一つに融け合うような、調和した生活を、お互いが味わう
ことはできずに、自己保存に窮々とした生活をつづけているのであります。
人間は神の生命を身にうけた、神の子です。人間がこの地球上に生れたのは、神のみ心をこの世界
において、精神の上にも形象の上にも、顕現するためなのです。そのためには、縦には守護霊、守護
神と想念を合わせ、横には人間同志が調和し合って、科学に、政治に、事業に、芸術に、労働に、技
術に、すべての面において、神の子の能力を出しきって、ゆかなけれぽならないわけなのですが、現
在までは、その過程でありまして、霊なる生命体が、物質面の地球界に降り立って、地球界の物質面
の波動に合わせて、自分たちの世界を築きつづけてきたのです。そして、その成功の面が、物質文明
の偉大なる進展であり、そのマイナスの面が、肉体も加えた物質になじみ過ぎて、霊的な面から想い
が離れた、肉体人間化すぎたマイナスなのであります。
3Q
このマイナス面が現在は、はっきり現われてまいりまして、核兵雅世界戦争にでもなりかねない事
態に、人類を追いこんできているのです。そしてこのマイナス面を補って、人類の使命を達成させる
ために、守護神霊団が一つに結集した救世の大光明の働きが現わされてきているのであります。
そこで、人間の個々人の生死の問題についてお答え致しますと、この地球界への誕生は、いかなる
人でも、地球界における神のみ心顕現のために誕生するのですが、その生命体(霊魂)が動かしてい
る器的な役目をもつ肉体が、その霊魂の働きに不適当になってきたと、守護の神霊が認めると、その
肉体から霊魂を去らしめ、幽界あるいは霊界において、その界の修行(仕事) を暫らくさせて、また
再び適当な肉体を創りあげて、地上界に誕生することもあり、もう地球界の役目を果し終えて、今度
は他の天体に移って、その天体の住人となることもあるのです。
そして、こうした生死を繰りかえしているうちに、次第に大神様のみ心と等しくなって、守護神そ
のものに融けこんでゆくのです。
ですから、この世に生れるということは、一つには大神様のみ心を現わすためであり、一つには自
己の神性を顕現するための、修行として生れてくるわけなのであります。死ということは、幽界なり
霊界なり、他の天体なりへの誕生であるわけです。
31
32
問96 因縁ということがよくいおれますが、因縁とはどういうことでしょうか、お教え下さい。
答因縁という言葉は、仏教からきた言葉ですが、諸行無常という言葉と同じように、その言葉の
もつ雰囲気というものが、何か不幸や暗さを現わしているように感じられるので、私はこの言葉だけ
をぽつんと使うようなことはしていません。
因縁というのは、原因結果と同じ意味のものでもあるのですが、原因結果は、個人的にはこの世だ
けのもので、過去世とか来世とかいうところまでの原因結果を含んではおりません。ところが仏教的
な因縁という言葉には、人類そのものの発祥の時からの原因結果とか、その個人が生命体としてはじ
めて現われた時の原因結果とかいう、過去の過去のあらゆる想念行為によって起った原因結果から、
未来に起る原因結果までを、すべて総合して、因縁因果といっているのでありまして、実に深い意味
合いのものであるのです。
ですから、浅い意味での原因結果と考えて、因縁因果を考えると、不合理なことが多々あるのです。
ところで、この因縁という言葉が、どうして、暗い雰囲気不幸な雰囲気をもっているかと申します
と、この因縁という言葉が暗い運命の場合や、不幸な事柄に多くつかわれて、善い事柄にあまり使わ
れていないので、ついそうした雰囲気を人に感じさせるのでしょう。因縁というものは、善悪共にあ
るのですから、善い運命の場合にも、もっと使われてもいいわけなのですが、現在ではそうではあり
ません。
それも因縁だとあきらめなさい、とか、それは因縁だから仕方がない、あなたの因縁が悪いのだ、
というような、因縁という言葉の使い方をしているのは、仏教的な諦め思想の浅い使い方によるので
す。なんとはなく今日まで使われつけていた因縁という言葉の暗い雰囲気を取り去ってしまうために
は、因縁因果というそうした暗い雰囲気の外に、人々の想いをひっばり出してしまわねばなりません。
仏教的には、仏のみ心からそのままでている想念行為の波動を、本来因果といっていて、仏のみ心
から離れた想念行為の波動を業因縁といっているのですから、私はこの仏のみ心そのままに現われて
いる本来因果のほうを、主にして取りあげ、人間は仏性であり、神の子であるのだから、暗い運命や
不幸な状態、不調和な姿があるわけがないのだ。現在現われている不幸、不調和といった環境は、人
間が、神のみ心から離れていて、神の光明に浴そうとしなかった想念行為、つまり光明に触れなかっ
た暗い世界が、今、光明に触れて消えてゆく姿となって、消え去ろうとしている、波動調整のための、
ゆれ動く姿なのだ、いいかえていうならば、業因縁の消えてゆく姿なのだ、と、普通暗い面にぼかり
33
用いていた因縁という言葉を、神のみ心が人類世界に現われ出でるための、暗の消えてゆく姿、とし
けんげん
て光明顕現の面にだけ使うことにしているのであります。
因縁という言葉も、こうした消えてゆく姿として使えば、明るい、希望に充ちた面に使えるわけな
のですから、一つの言葉の用い方でも、気をつけて使わねばならないのです。人間のためになるかな
らぬか、ということは、真実のことを、なんでもそのままいえばいいというものではありません。相
手の心もちになっているか、いないか、おもいやりがあるかないか、の相違によって、その人の言葉
が相手を生きいきとさせるか、悲観させるかの両面となって現われるのです。
因縁という言葉なども全くその通りなのであります。因縁という言葉と同じような言葉に、心の法
則という言葉があります。あなたの想いがこうだったから、こうした不幸が出来たのだ、という式の
言葉です。心の法則を知り、因縁因果のことを知るのもよいのですが、こうした言葉を、自分を責め
たり、人を裁いたりする道具として使っていると、いつの間にか、宗教の本質が外れていってしまっ
げどう
て、外道と呼ばれる、神のみ心から離れたところに自分の心を置いてしまいます。
ですから、どんなに宗教的な言葉を知っても、どんな方法を知っても、その言葉や方法を、神のみ
は
心である、愛と寛容、生命を生きいきと生かす、という根本的なところから外ずしてしまっては、そ$
4
うした言葉や方法が、かえって人を傷つけ痛めてしまい、ひいては自分の魂にも負担をかけることに
なってしまうのであります。
姓名学とか気学とか、方位学とかいう、運命学的な学問が随分種々とありますが、これらも、心の
法則と同じように、本来因縁因果を超えるための学問であり、開運のための学問なのでありますが、
どうも開運のために使われるよりも、自己や相手の心の自由を縛るために使われてしまう場合が多い
のです。
この格数は悪い数だ、と覚えてしまうと、そうした悪い格数の名前を見ると、それだけで相手の人
格や運命を判断してしまったり、悪い方角や方位だといわれると、他へ越すにも越されぬ状態にあるの
じじようじまく
に、そのことに想いを把われてしまって、自分で自分の運命を自縄自縛してしまったりするのです。
どんな運命学にもそれ相当に、長年月の体験の集積があるのですから、私は運命学そのものを否定
する気持は毛頭ないのですが、そうした運命学をやるからには、運命学というものも、すべて、人類
の開運を主としてやるのであり、神のみ心をそのままこの地球界に現わすためのものであることを知
って、消えてゆくべき因縁因果の波動を、本来因果ともいうべき、神のみ心顕現のための一助として
なされるよう望んでやまないのです。
35
とにもかくにも、すべての想念行為を、光明一元の道に到達でき得るためのものとする生き方をこ
そ、人類は現在必要としているのであります。
36
問97 あるおばあさんに「有難くて有難くて、世界平和の祈リをするのですが、時々お祈リを忘れ
てしまうのです。どうしたらよいでしょう」ときかれたのですが、どうお答えしてあげたらいいでし
ょうか。
答祈りとはどういうことかということは度々お話しているのですが、ここではこのおぽあさんの
ために、またわかりやすくお話し致すことにしましょう。
このおばあさんは、世界平和の祈りをしているのだが、時々忘れる、といっていますが、世界平和
の祈りというのは、その人が日頃この祈りをする意志がありさえすれば、時折り祈りを忘れたように
思う時でも、その祈り言はその人の心の中で鳴りひびいているのであります。それは以前にも説明し
ましたように、世界平和の祈り言というのは、地球人類を救済しようとして働いている救世の大光明
波動(救世主の神霊団体) につながる祈り言であります。一度つながりますと、救世の大光明のひび
きはその人にそのまま伝わってきていますので、その人が時折り祈り言を忘れたとしても、その人の
心の中ではやはり鳴りひびいているのであります。
この肉体人間というものは、常に私が申しておりますように、直霊、分霊の他に守護霊守護神とを
共に含めての存在でありまして、ただ単に一個の人間がいるというようなものではないのです。
どんな人でも、守護神、守護霊、分霊魂という一つのつながりによって、この世に生活しているの
であって、分霊魂だけの肉体人間として存在しているのではありません。ところが普通の人はその真
理を知りませんので、自分というものは、ただ単なる一個の存在としてしか考えていないのです。
人間が祈り心を起こした時には、もうすでに、その人は意識的に知ろうと知るまいと、その人の分
霊魂と守護の神霊とが、はっきり交流していることを物語っているのでありますので、祈り心の少し
も起らぬ人たちとは、少しく住む世界が異なってくるのです。
祈り心の無い人の場合でも、守護の神霊はその人のための守りはつづけておりますが、なんにして
も、その人の想念が、守護の神霊のほうにはむかないで、物質波動のほうにばかり向いていますので、
はっきりと一つに交流することが出来ないのです。守護の神霊との縦のつながりがずれていますと、
その人はどうしても心の世界の安心立命は得られぬ不安定な生活をつづけなければならないのです。
もしやその人がどのような過去世の善因で、地位や物質運に恵まれていたとしても、その人には安心
37
立命への道は開かれないのです。
それにひきかえ、祈りの生活をつづけている人は、地位物質に恵まれない生活をしている人でも、
心の世界は序々に安心立命の道、神の道を歩みつづけていることになるのであります。
人間にとって、何よりも先きにしなければならぬことは、守護の神霊と一体化の道に踏みいること
なのです。それはやはり祈りにょる感謝行の行為が最上だと思うのです。ですから、祈り心の全く無
い人より、一度でも二度でも、祈り心を起こした人のほうが、神の国に近い人に違いないのです。私
のいっている祈りというのは、お願い事の念力行とは違いますからそのつもりでお読み下さい。
カルマ
私のいっている祈りとは、業想念波動に取り囲まれている人間の心を、本心そのまま、生命のひび
きそのままに、素直に輝かせる行為をいっているのです。こちらの業想念(欲望)をあちらの業想念
(欲望) に代えた、というに過ぎないお願い事の唱えごとをいうのではありません。
本心がそのまま輝き、生命がさわりなく活動すれぽ、その人のマイナス面である病気や貧乏や不調
おの
和のような不幸な生活は、その人から自ずと消え去ってゆくのです。何故ならば、本心とは神のみ心
そのままであり、完全円満なる生命の働きでありますから、本心がそのままさわりなく働き出せば、
不幸不調和が消え去るのは当然なことです。ですから、もしや不幸や不調和な状態が自分に起こって
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いる場合は、単にその不幸や不調和の好転だけを願うことよりも、自己の本心の開発,神との一体化
を願ったほうが大きな幸せを得ることになるのです。
そこで私は、世界平和の祈りのような、神のみ心と一つになる最も自然な祈りであり、自己の天命
の完成と、神への感謝をやさしく一つに纒めた祈り言を唱えることにしたのであります。
そしてこの祈り言は、一度唱えることによって、ちょうどテレビのスイッチを入れたと同じように、
救世の大光明とのつながりがつき、自然と救済の大光明が流れ入ってくることになるのです。ですか
ら無理に祈ろうというよりも自然と祈り言が心に出てくるのです。
ただ、本心を取り巻いている業想念波動の度合によって、なかなか祈り言が浮んでこない人もある
めですが、それでもいつかは、折りにふれて祈りたくなってくるのであります。ですから、質問のお
ばあさんのように、常に祈ろうとしていながら、時折り忘れるというような場合は、その忘れたこと
はなんのマイナスにもならないのです。自分が忘れている時でも、その人の守護霊さんはその人に代
うて、祈りっづけているのであります。
人間には、それぞれの業想念(習慣の想い) がありまして、その業想念が神仏からその人を遠ざけ
ようとしている場合は、祈りどころか、人の説法なども、聞く耳持たぬ、という程になるのです。し
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かし、そうした人々をも、救済の大光明は救い取ろうとなさっているのですから、少しでも祈り心の
ある人を救い取らずにはいない筈です。そういう大愛のみ光が輝いてこそ、世界人類の平和が達成さ
・れるのであります。そして、その祈りが地球人間の言葉として唱えられるのが、世界平和の祈り言な
のであります。世界平和の祈りは、あなたと守護の神霊との一体化になった祈りであることを知って、
いつでも想い出した時に祈って下さい。それでも目的は達するのです。
40
問98 一度祈ったら世界平和の祈リはなりひびいているのだ、常に祈れということですが、祈るこ
とをしばしば忘れてしまって、他のことを想っていたりします。そういう時、神様と離れてしまって
いたように感じるのです。祈リ言を思っていなければ、祈っているのではないような気がするのです。
この点から世界平和の祈リについてお教え下さい。
ヘヘへ
答祈りというのは、いつも申しますように、いのちを宣りだす、生命を自由に働かすということ
なので、口先でぶつぶつ祈り言をいっていたり、頭で想っていたりすることだけではないのです。
くう
ですから人間が、何にも把われぬ空の境地にたっていれば、殊更に祈り言をする必要もないのですが、
くうくう
空 の心境などにはなかなか普通ではなれるものではありません。そこで空になることを邪魔している
もろくう
諸々の想念を、祈り言に託して、本源の世界、神のみ心の中に入れてしまい、空の境地から現われて
くる、本心の姿、神の子、仏子の姿を、この日常生活の中で現わそうとするわけなのです。
くう
空の境地になるということは、どういうことかといいますと、この地上界におけるあらゆる業想念、
自我欲望というものを、すっかり超えた、何もの、何ごとにも把われぬ、全く神の子の本体を現わし
ている境地なのですから、やすやすとなれる心境ではありません。
人間は常に、自己として現われている肉体生活の中に、神の分生命そのままの心で、姿で、日常生
活を送っていられればよいのですが、実際はそういう人はほとんどなく、大半の人々は神の分生命と
しての生命力や、本心の働きを、肉体生存のための業想念、自我欲望の想いで蔽ってしまっているの
ちか
です。ですから、お互いの利害得失によっては、どんな近しい人とでも、面白からぬ感情のやりとり
になってしまったりするのです。
くう
世界平和の祈りは、この空の境地と同じ効果を、一般大衆の人々に現わさしめる程の祈りなのです。
それはどういうわけかと申しますと、世界平和の祈りは、救世の大光明が、肉体世界に直結して輝
きわたることのできる祈り言だからなのです。個人個人の祈りというのは、その個人の本心開顕のた
めのものであり、その個人の生命の自由なる働きのためのものであります。生命の自由なる働きとい
41
いますのは、業想念の把われから解き放たれて、生命本来の働きが自由にできるようになったという
ことです。業想念の中には、生老病死に対する苦悩の想いがあるわけで、こうした苦しい想いから解
脱するために、神仏への祈願や、祈り言があるわけなのです。そうして、そうした祈願や祈り言をし
さわ
ていると、その間だけでも、心の安らぎを得て、心が本然の碍りない働きができることになるのです。
人間の生命や本心は、何やかの想いわずらいのない時に、一番本然の働きができやすいのでありま
す。そこで、仏教の坐禅や、神道の鎮魂などという、本心顕現の方法が行われてきたのです。
私の提唱し実践している世界平和の祈りは、そうした個人の祈願と、世界人類の本然の姿の顕現の
ためとの両面を、同時に成就せしめるための祈りでありまして、この祈り言は、普通個人の祈りのよ
うに、一心かけて他の何事何ものをも忘れてやらねぽ効果がないというような祈りではなく、もうす
でに肉体界に近々と降りてきていて下さる救世の大光明(守護の神霊団) に、ちょっと想いの手をの
ぼせばよいだけの祈りなのです。
世界人類が平和でありますように、という祈り言にょるスイッチをひねれば、その人は直ちに、救
世の大光明の光のエレベーターに乗ったことになるので、あとはあまり想いわずらわないで、日常生
活を当り前の姿でやっていれぽよいのです。そして思いわずらいの想念がでたら、またすかさず平和・
42
の祈りを心の中で唱えればよいのです。一度世界平和の祈りを唱えた人は、もはや光のエレベータ;
に乗っているのですから、神様のみ心から離れようはないのです。ですから、そういう点は安心して、
日常生活の面を生きいきと生活してゆけぽよいのです。
世界平和の祈りは、肉体人間のこちら側から一心かけて祈ってゆくという祈りとは違って、神様の
ほうから身近に降りてきて下さっていて、その人々がちょっと祈りのスイッチを入れるのを待って
いて下さり一緒に祈っていて下さるのですから、気を楽にして祈れぽよいのです。そして想い出した
度びにまた祈れぽよいのです。
あッ、祈るのを忘れていた、と思いついた時祈っても、けっして遅かった、ということはないので
す。それは何故かといいますと、この世界平和の祈りは、あなたが肉体の想いでやる以前から、あな
たの守護霊があなたの代りに、すでに祈りつづけているからなのです。そして、あなたが祈り言を忘
れている間でも、あなたの守護霊は、あなたに代って、やはり祈りつづけているのであります。
きま
世界平和の祈りをあなたが唱えるようになったことは、過去世からの定りごとで、あなたが、救世
の大光明の働きの一つの場となる天命をもっていたからに他ならないので、あなたが、自分は駄目だ
と思おうと、真剣になれないなあと思おうと、そんな想念とは関係なく、神様の光明は、あなたの体
43
から輝き出るのです。そして、やがては、あなたの肉体としての想念も、いつしか、本心や守護の神
霊の心と等しい祈り心になってきてしまうのです。
ですから、何も思いわずらわずに祈り言を想い出した時につづけて祈って下さい。思いわずらった
ら、その時こそ大事ですから、また祈って下さい。世界平和の祈りというのはそういったものなのです。
44
の
問9 〃世界平和祈る忽ち祈リ人の姿光につつまれてあリ”という先生のお歌がありますが、自分
ではそう意識できなくとも、業想念に把われて、その中で祈っているような時でも、やはり光に包ま
れ・ているのでしょうか。
の
答 どのような心の状態の時でも、祈り言の一節でも心に浮べれば、その人は光に包まれているの
です。しかしながら、その人にとっては、その人の心のまわりを業想念波動が回わりつづけているの
で、その光をなかなか感じることができないのです。
人間というものは実に複雑にできているものでありまして、ただ単に心といい形といって、一つし
かないように思っているのは、実は非常な誤りなのであります。
人間とは常に私が申しておりますように、一番奥深いところに、神そのものである直霊というもの
があり、これが人間の本心の存在するところなのです。ところが、この本心(直霊) が、この地球界
わけみたま
で分霊魂として働きだした時、このわけみたまとしての光の波動が、肉体や物質界の波動と入り交じ
って、直霊そのもののような強い光明力が失われてゆき、そこに業想念というもの、光を離れた想念
(心) ができあがってきたのです。
こうした光というものも、業想念というものも、すべてこれは波動でありまして、一ヵ所に止まっ
ているというような固定したものではないのです。それはこの肉体のような固定した形をもっている
ようなものでも、実は数知れぬ程の原子によってできているのであって、この原子は常に動きつづけ
ているものなのであります。そして、この原子を更に細かくすれば、陽子、電子、中間子等になり、馳
その先をたどってゆくと、ついには波動となってしまっているのです。
このように物質というものが、常に変化流動しているように、心の世界も、波動として常なき変化
をつづけているのであります。そして、一人の人間がここに存在するためには、最深奥の直霊からく
る生命の波動と、分霊魂の波動(心) と、業想念波動(心) と、守護霊、守護神の救済活動(心) が
働いているのであって、このうちどの心(波動) が一番強力に働いているかによって、その人々の霊
位が定まり、運命が決ってくるのであります。
45
現在迄の世界は、業想念波動が強力に働いていまして、そのために、自我欲望による戦争や争いご
とがつきなかったのであります。そこで現代を、天の岩戸隠れの世界、闇の世といっているのです。
そしてこうした世界は、もう終局まで来てしまっているので、どうしても嫌応なく、光の世界に人類
が手を伸べるより仕方のない時代となってきているのです。
この姿が、神を呼ぶ姿であり、宗教信仰の真実の姿なのであります。
世界平和の祈りは、こうした時代にどうしても生れてこなければならぬ必然性をもって生れでてき
た祈りでありまして、このくらい誰にでもわかりゃすく、どの宗教信仰者でもこだわりなく祈りうる
祈りは他にないのです。
さて、説明を前に戻しますが、人が業想念波動に蔽われている時には、中にある分霊魂の光と、世
界平和の祈りの持つ大光明とが全く一つになるということはできませんので、世界平和の祈り言をし
たから、忽ち気持が晴々として、一挙に運命がひらいてくる、というようにはなりませんが、祈り言
をした時には、その人が光に包まれていることは確かなのです。ですから、即座の救いを願わずに、
ただ一心に祈っていれば必ず救われるのだ、という信の気持をもって、祈りっづけてゆくとよいので
す。そうしていますと、いつの間にか、うちなる分霊魂の光と救世の大光明の光とが業想念波動を突
46
き破って一つとなり、救われの実観がはっきりとしてくるのであります。
一心に祈る気にもなれない、信の気持にもなれない、という人は誰か知人の世界平和の祈りの先輩
に助太刀してもらって祈るとよいのです。それで足りねぽ、その人に連れられてでも会合にいらっし
ゃるとよいのです。
それからよい方法は、常に信の気持を養うために、会で発行しているパソフレットや図書、雑誌を
およみになっているとよいと思います。要は、世界平和の祈りを、自分たちの潜在意識層に蓄積して
しまえぽよいので、蓄積さえしてあれぽ、困った時、迷った時、おのずと、平和の祈りが心の中から
湧きでてくるようになります。そうなったらしめたもので、もうその人は、完全に本心開発の道に乗
っている人といえるのです。
どんな仕事でも、習いごとでも、即座に上手くなるということはないので、次第に上達してゆくの
であります。世界平和の祈りでも、それは人によって異なりますが、即座にその真奥に達する人とい
うのは少いのです。
やはり日常のたゆまざる精進ということが大事なことなのであります。
ただ、世界平和の祈りが、他の宗教の祈りと違うことは、誰にでも意味のわかりやすい言葉ででき
ていることと、その意味が、何人にとっても必要な、そして、どこの宗派ともぶつからない祈り言で
あるということです。世界中が念願していながら、今日まで、系統立ててやらなかった祈りが、実は
世界平和の祈りなのであります。
世界平和の祈りは、実に生きいきと脈うっている祈りです。理想と現実を全く一つにした祈りであ
り、天(守護霊、守護神) と地(分霊魂魂)とを一つにつないだ祈りです。
今日まで、漠然と説かれていた守護霊、守護神を、はっきりと人間世界に密着させた祈りなのです。
守護霊、守護神は、あなた方の肉体がそこに実在している以上の実在であり、あなた方の背後で、心
の眼をみひらいて、あなた方の運命をきり開こうと働いているのです。
私はこの事実を、はっきりもはっきりも、実に私自身がここに存在していると同様に知っているの
です。世界平和の祈りのもっている大光明もそれと同じことで、大光明燦然たるさまは、やがて開か
れる地球界の運命を象徴しているようであります。
この大光明は、世界平和を祈っている人々以外の人々にも霊視されているのです。時が来ると、こ
の大光明が何人にも見られるようになり、守護霊守護神の姿が、光として、あるいは人間の形として
私たちの周囲に集っているのが、肉眼にも見えてくるでありましょう。48
これは、時代が進み、今日までは実現不可能と思っていたテレビやロヶットの時代が訪れたと同じ
ように、神界、霊界、肉体界の交流、宇宙人との交流等が実現したとしても、あながち驚くには当ら
ないと思います。
人類の夢は次々と実現されてゆきます。そして最後の夢、世界平和の夢は、守護の神霊や宇宙人の
出現によって、必ず達成されるのであります。
その日の一日も早からんために、どうぞ、皆さんも、世界平和の祈りをかかさずつづけていて下さい。
世界平和の祈りは人類共通の祈りであり、個人人類同時成道の祈りであります。
問㎜ 世界平和の祈りを祈っていたら、死んだ母が救われますか、昔親鸞上人は親や兄弟のために
念仏を唱えるのではない、といわれたそうですが、五井先生のご説明をお願い致します。
答親鸞上人の答はもっともな答です。と申すのは、念仏でも世界平和の祈りでも、ある事柄を頼
みごとするために祈るのではなく、すべての想念を神仏にお還えしするためのものなのですから、親兄
弟のためにするのではない、自己の本性の中、本心の中に自分の業想念のすべてを投入するためのも
のなのだ、そうすれば必然的に自己の本性(本心)の神のみ光りの中から、自己をも自己の因縁にまつ
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わる人々、つまり親兄弟や親類縁者の心も浄められてゆくのだ、と私の説明はそうなるのであります。
親鸞上人もそうでありましたが、私の教えも親鶯と同じように、本心(み仏)と業想念とに人間の心
を二つにはっきり分けているのであり、普通人間といわれている肉体のほうを、罪悪甚重の凡夫と親
驚がいわれておられるように、私も業想念人間の消えてゆく姿として、その姿をあまりいじくりまわ
さぬことにしているのです。業想念人間や、罪悪甚重の凡夫である人間を、いくら根堀り葉堀りして
修正してみたところで、神仏的人間にはなりっこないのです。(これは特別の上根の人は別として一
般人の話です。)
そこで親鸞上人は、罪悪甚重の凡夫と一度自己を捨離し、そして捨離し否定した自分をそのままの
姿で、阿弥陀仏の大光明の中に南無阿弥陀仏の称名に乗せて投入してしまったのであります。
ですから南無阿弥陀仏一念になってからの親鸞の生活に現われてくる幸も、不幸もすべて弥陀の方
よりでてくるものであって輝きつづける姿も、消えてゆく姿もそのまま有難くうけつづけたわけであ
ります。私はそこをどのようにしたかといいますと、親鸞よりもう少し明るく、神の子人間、完全円
満性の光明心の人間のほうだけを強く表面に出して、あとのすべての出来事や業想念は、世界平和の
祈りの中ですべて消え去ってゆくものであるとし、必ずこの世においても、その人その人の真性が現
われでるものであるといいきっているのであります。
そして、それと共に、世界平和の祈りそのもののもつ大光明が、各人の祈りにつれて、各人の肉体
身を通して、世界人類の上にひびきわたり、影響を与えてゆくものである、と説いているのでありま
す。そして世界平和を祈っている私の同志が世界平和の祈りのもつ大光明の効力は体験しつづけてい
ることなのです。
ですから、問のように、わざわざ親のためとか兄弟のためとか思わなくとも、ただひたすら世界平
和の祈りをしていることによって、自己も救われ、自己の周囲の生きている人、あの世の人の区別な
く、救われてゆくのであります。
と申しても、親のためにと思ってはいけない、兄弟のため、縁者のためと思いながら祈ってはいけ
ないなどと、堅いことを私はいうのではありません。私は人間の心というもの、想いというものがよ
くわかりますので、そうしてはいけないといわれて、はいそうですか、とすぐに想いが納得するもの
ではなく、習慣の想いというもの、執着の想いというものは、そう簡単になおせるものではないこと
を知っているのです。
私が他の宗教者と違うところは、私のほうから相手を説得しようとか、抑えようとか少しも思わぬ
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ことで、相手の想いのなすがままになさしめて置いて、その相手の想いの波に自分も一緒に乗ってや
って、そしてその想いの波の中で、いつの間にか私がその舵を取るようになり、世界平和の祈りの大
光明の中に知らぬ間に各自が入ってしまっているというようにしていることなのであります。
植芝盛平先生の合気道がそうですが、相手と自分が全く一つになってしまって、相対的な相手など
はなくなってしまう。ですから相手は自分と同じことになってしまって、自分の自由になってしまう
というわけで、相手を抑えつけようとかやっつけようとかいう思いが全くないわけなのであります。
私の提唱している世界平和の祈りはこの合気道と全く同じなのですから、私の申している意味をしっ
かり判読して世界平和の祈りをつづけてきている人が救われないはずはないし、本心の開発ができな
いわけがないのです。もっといいかえますと、救われるも救われないも、悟るも悟らぬもない。ただ
皆さんの中で世界平和の祈りがなりひびいていさえすれぽ、神の子としての人間がそこに立派に天命
を果しているのであります。
ですから皆さんは枝葉の心の問題などにあまり把われず、迷っている迷っていないなどにあまりか
かわらず、ただひたすら世界平和の祈りの明けくれの生活にしていさえすればおのずと大悟徹底した
人格がそこに現われてくるのです。52
問期人間が神の子であリ、神が完全円満ならば、なぜこの世に悪や不幸が生じたのでしょうか、
なるべくくわしくやさしくお教え下さい。
答この問題は何度びとなく質問される問題ですが、非常に重大な根本的な問題ですから、また改
めてなるべくくわしくお答え致しましょう。この問題がはっきりしないために、折角の宗教心を曇ら
せて、唯物論者になった人々が、かなりあるのです。神が大愛であり、絶対者であるのに、何故人類
の不幸をいちはやく正しくしないのか、という問もありますが、これは同質の問題ですから、このこ
とも含めてお答えしてゆきましょう。
この世の姿を見ておりますと、全く悪や不幸に充ちております。自己の利害のためなら、親兄弟を
も退けうとんじ、恨み妬みさえします。まだ、民族間や国際関係においても、自民族、自国を守るた
めには、他民族や他国の損失など顧みる余裕のない行為をしている場合がたくさんあります。
こうした姿を実在の人間だとみている人々は、人間の性は悪なりとして、性悪説を唱えているので
あります。この世の思想は、昔から性善説と性悪説とが入り乱れておりますが、両説ともに肯づける
ものをもっているのです。私はどちらの説かと申せぽ、勿論性善説であり、しかも徹底した性善説、
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つまり、人聞神の子説なのであります。人間神の子説にも種々の説き方があるようですが、私は徹頭
徹尾、人間の性の善なることを認めて、いかなる悪も不幸も消えてゆく姿としているのであります。
いわゆる全くの光明思想なのです。他の宗教者の中には、折角人間神の子完全円満と説きながら、そ
の口の下から、人間の心の悪を把えて、おまえの心が悪い、おまえの心の影として病気になったり、
不幸になったりしているのだから、おまえの心を直さなければいけない、と神の子であるべき人間の
心を責め裁いているむきもありますが、こうした神の子論光明思想は中途半端なもので、ある時は神
の子になり、ある時は悪の子になってしまい、人間は果して神の子なのか、悪の子なのかわからなく
なり、ついには、人間は善悪混交の子として、神と悪魔の両性の子となってしまうのであります。そ
の教、兄がいかに悪はないのだ、不幸はないのだ、悪魔はないのだ、と一方では説いていても、罪や不
幸や悪を、人間の心として認めて、おまえの心が悪いから相手が悪くなるのだ、という精神分析的な
教、兄方をしているのでは、神の子であるべき人間の心に悪や不幸を認めていることになり、どちらが
真実か一般大衆には判然としなくなるのです。そういう説き方を致しますと、神の中に悪があること
になり、神は完全円満でも、善そのものでもなくなってきて、信者の心が、永遠の生命の輝き、から
っと晴れわたった心境をいつまでもつづけてゆくことはできなくなってしまうのです。
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誰がなんていおうと、神は完全円満性であり、人間は神の子であることは間違いのないことで、神
の子である人間には、悪も不幸も病気もなく、悪い心も誤った心も、心の影という暗い影もないので
あります。それはすべて消えてゆく姿であって、神の子としての人間の姿が、真実の姿をこの世に現
わすために、未完成の領分が次第に削りとられてゆく、削り屑のようなものであります。
それは前にも申したことがありますが、彫刻のようなもので、神の子像という彫刻像が完成されて
ゆくに従って、種々な形の切り屑がそのへんにちらばってゆくようなものなのです。その切り屑を相
手どって、おまえの心はこんなに悪い、私の心はこんなに醜いなどと、人を責め裁き、自己を責め裁
いているのですから、今日までの宗教の在り方は、光明思想として不徹底で、人間神の子の真の生き
方を教えていたというわけにはゆかなかったのです。
ところが、実際の生活面、社会面或いは国際面においては、この切り屑的悪想念、悪行為が、どう
にも善想念、善行為の邪魔をして、かえって、善行為や善想念が負けてしまいそうにさえ見えている
のです。ですから誰しも表題の問が出したくなるのでしょう。
ここで私の答えを一歩進めなければならなくなります。
私は人間を、肉体人間だけとして説いてはいないのです。肉体人間というのは、永遠の生命である
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人間の、ほんの一部であるというのです。私はその真理を知識として知っているのではなく霊覚で知
り、実際体験として味わいつつあるのです。そこで私はいつも、人間というものは面白いものだ、不
思議なものだ、と思いつづけているのです。こうした経験を直接的にあるいは間接的に知っている人
は、私ばかりでなく、かなり多くあると思うのです。永遠の生命というのは、ただ単なる哲学的言葉
ではなく、人間の世界に、真実のこととして使われる言葉なのであります。
人間が肉体人間としてだけで終りならば、神が完全円満でも、人間が神の子でもあり得ません。神
は不完全であって、悪魔と戦いながら、完全になろうと努めているものといわれても仕方がないし、
人間は神に創られたまま、後は神はなんらの責任ももたず、人間のみにその責任が荷せられるという
ことになって、人間は単なる神の被造物となり、人類の救われというものは永遠にあり得ないものと
なります。何故かと申しますと、肉体人間の一般の人々は自己保存の本能が主となっていて、自己を
守るためには他を倒すという、動物と等しい行動をするものでありますので、常に利害の上において
相対的である人類社会は、永劫に戦の場に立たされているということになるからです◎
ですから今日までの人生観、世界観で進んでゆく限りは、やがてはこの地球界は滅亡してしまうこ
とになるのですから、神の完全性、人間の神の子性も真実のものではなくなってしまうのです。そこ56
で、今日までの人生観、世界観を、ぐるりと一変せしめなければならぬことになってまいります。一
変するといっても、真実をくつがえすというのではなく、釈尊のいわれている、転倒妄想している地
球人の思想行為を、真実の思想行為に正すということなのであります。
さか
今日までの人生観、世界観は、逆さまの想念行為であったのです。どのように逆さまであったかと
いいますと、真実の人間、真実の世界を無しとして、ただ単に真実の人間の道具として、表現として
現われている肉体というものを、実在としていることと、やはり真実の世界の表現場所である形の世
界を、実在の世界と思いこんでいることであります。
このように真理が、真理として認識されぬ間は、人間が神の子であり、神が完全円満なのにこの世
に悪や不幸があるのか、という疑問が起ってくるのです。
神の完全円満性を否定しはしないが、悪魔や悪人が実在として有るという宗教思想は、どうしても
中途半端な思想で、善と悪、神と悪魔というものを対立させて考えていることになるので、人間世界
に対立抗争の波は消え去ることはないということで、神の完全性に対する不敬になるわけなのですが、
ヘヘヘへ
相当な宗教者でも、ついこうしたところがあいまいになってしまっているようです。
神と悪魔を対立させて考えていながら、周囲の国々が皆軍備をもっているのに、日本だけは軍備を訂
もってはいけない、という考え方をしている宗教者がいますが、これはやはり半端な考え方で、日本
が軍備をもたぬという考え方をするならぽ、その人々の心の中に悪魔や悪という存在を、すっかり消
えてゆく姿として、神のみ宇宙唯一の存在者という絶対的な立揚に自己をたたせなければなりません。
またその反対に悪魔や悪を認めぬ神の完全円満性を宣言しながら、それでいて、自国を侵略してくる
敵を認めて、軍備を持つことを唱導する宗教者がいるのですが、これもはっきりとした宗教思想の確
立していない宗教者といわなけれぽなりません。
私は、人間というものを、永遠の生命の具現者と観じていますし、神の完全円満性を確信し、人間
神の子の真理を体覚致しておりますので、この世において現われる一切の悪魔的行為や不幸なる状態
けんげん
を、すべて、人間がこの地球界において、神の姿を顕現するための過程に起る一変化として、現われ
ればそのまま消えてゆく姿や行為としてみているのであります。また人間一個人としては、自己の生
命がいかなる環境においても、そのまま神の子としての能力を出し得るための修行過程として、悪や
不幸のような姿が現われているのであって、悪や不幸がそのまま実際にそこにあるのではなく、真理
を知った時に、その悪や不幸は直ちに消え去ってゆくものであることを強調しているのです。
ですから、悪や不幸や病気を、実在として掴んで放さないうちは悪や不幸や病気はいつまでもそのss
人から消えないでしょうが、悪や不幸や病気を消えてゆく姿として、そのまま神のみ心の中に入れ切
ってしまう人には、その時限り、そうしたマイナスの姿はなくなってしまうのです。
質問のこの世の悪や不幸ということは、人間の想念が、そうした波を把えている限りは消えないの
であり、そうした波を神のみ心に投げ入れた人からは消え去ってしまうのでありますから、その人が
真実に神のみ心に飛びこむか、飛びこまぬかによって、この問題が解決するわけなのであって、これ
は理論上の問題ではなく、実際行為の上において答えの出る問題なのであります。
これは個人の問題ばかりではなく、国際間においても、全人類の間においても、等しい答えの出る
問題なのです。
そこで私は、この問題の答えを最もやさしい行為により、実際体験として、多くの人々に認識させ
ようとして、消えてゆく姿の教えと、世界平和の祈りの実行を、皆様にお薦めしているのであります。
こうち
こうした宗教的問題は、いくら巧緻な理論を展開しても、その理論が実際生活の上において行いに
くいものであったら、これは一般大衆の上にひろまってゆきません。一般大衆にできぬようなことは、
現代の宗教としては、著しくその価値を下げることになります。今日では、少数の偉人だけではどう
にもならぬ時代になっているので、どうしても一般大衆の力というものの必要を痛切に感じるのであ
59
ります。
私の世界平和の祈りは、少数の秀れた人々にもわかってもらえるし、一般大衆にもやさしく理解で
き体得できる、世界平和実現の方法なのであります。この世界平和の祈りをしていますと、いつの間
にか、人間の本心が開発されてゆき、個生命の永遠性と、宇宙生命との結びつきとが、知らぬ間に体
得されていって、日常生活における不安が消え去ってゆくと共に世界人類の業想念消滅の働きができ
ているということになるのです。
本心が開発され、個生命の永遠性、つまり人間は永遠に死なないもので、種々な階層において生き
つづけてゆくものであり、すべては神の慈愛のみ心によって、指導されてゆくものであって、悪など
というものは真実存在するものではないという真理がわかってくるのであります。
それにはやはり、人間各自を守護し、人間の運命を指導しておられる、守護の神霊の存在を信ずる
ことが大事なのであります。そしてそうした守護の神霊の一大集団が救世の大光明として、世界平和
を祈る人々、国々の上に輝きわたり、地上天国実現の大きな役割を果しておられるのであることを心
に銘じて感謝することが大事なのであります。
60
問麗ある教会では、ざんげは祈リだと教えているのですが、ざんげと消えてゆく姿の関係につい
てお教え下さい。
答ざんげと祈りとは違います。ざんげとは祈りに入る前の心の状態と同じものですが、ざんげそ
のものが祈りということにはなりません。
ざんげの心になって、そのざんげによって、今迄の想念行為が消えてゆく姿になり、そして祈りの
姿がそこに現われるのです。ざんげそのものが祈りだとすれば、四六時中ざんげしていなけれぽなら
なくなって、いわゆるざんげ誇りの状態になってしまいます。
ざんげ誇りとはどういう状態かと申しますと、私は罪深いものです。私は悪いものです。私はこれ
これの悪いことをしています。罪を犯かしていますと、人に会うごとに、自分は常にざんげの生活を
していると、自己のざんげをする謙虚さを示して歩いていることを、宗教精神だと思い違いしている
人の状態です。
ざんげというのは、反省し、悔い改めるためのものであって、毎日毎日自分は罪深い、悪い者だと
いっていたのでは、その人の周囲は暗くなってたまりません。そんな態度は、神のみ心を真実にわか
っていない態度なのです。ざんげすることは勿論悪いことではありませんが、何も人にいうことはな
61
いので、心の中で神にむかって詑びて、再びそういう行為をしないと心で誓えばよいのです。しかし
キリスト教的な原罪というような罪の観念の場合は、ざんげして改めようにも、改めようのない罪の
観念なのですから、こんな場合には、神にすべてを全託しての生活にしなければ、その人の罪の観念
は到底消えそうもありません。
ただ単なるざんげだけでは、真実の宗教生活にその人が導かれてはゆかぬものなので、そこで、反
省してざんげして、そのざんげの内容を、これが原罪の場合でも、消えてゆく姿として、神のみ心の
中に入れてしまう祈りをし、そしてその祈りの中から改めて、自己の生活を頂き直すということが必
要になってくるのです。
その祈り方は、ただ神様とか、キリスト様とかいうより、世界平和の祈りのような、縦に神のみ心
に入りながら、横ひろがりに働きかけてゆく祈りにしなけれぽ、人類の原罪までを消すことはできな
いのです。
現在の地球人類の中で、神のみ心をそのまま、その想念行為に現わして生活している人はほとんど
いないのでありまして、そういう意味で肉体人間はどうしても罪の子という形になります。キリスト
教的な原罪、浄土真宗的な罪悪深重の凡夫であるのです。ですから人間をそういう意味でみている限62
り、ざんげにつづくざんげをしても、人間は永劫に罪の子であり、罪悪深重の凡夫なのです。そこで、
こうした罪悪深重の凡夫、罪の子の人間をどこかへ消し去らねばならないのです。そして、その消し
去るところは、やはり、人類の生みの親であり、絶対者である大生命、神のみ心の中でなければなり
ません。そこに消えてゆく姿で、世界平和の祈りという、人間の生き方が生れてこなければならない
必然性がでてくるのです。
もから
神は絶対なる権能であり、大愛者です。そして大光明です。その大光明の分生命である人間が、ざ
んげざんげというような罪の子意識で生きていってよいわけはありません。ざんげはそのまま光明人
間をつくるわけではないので、ざんげして消えてゆく姿として、祈りの姿、つまり生命の真の光明を
輝かす姿の中に全想念行為を投げ入れてしまうことが大事なのであります。
ざんげがそのまま祈りだといっているような教会の教えでは、いつまでたっても、イエスキリスト
だけが神の子で、その他の人類はすべて終生神の子にはなり得ないことになります。
人間は誰でも、神の子と罪の子の両面をもっていながら、神の子は実の姿であり、罪の子は消えて
ゆく姿の面であるので、やはり消えてゆく姿の教えがないと、人類の姿は神一元の姿にはならず、神
と業の両面の相対的姿で終始してしまうのです。
63
どんな人間にもキリストが内在している、そして、それを現わし得たのが、イエスなのですから、
誰でもイエスが背負った十字架つまり、縦に神につながる線と、横、人類が手をつなぐ姿の十字交差
の中心に自己を置きさえすれば、内在のキリスト(真理)がそのまま現われてくるのです。その方法
が、すべての想念行為は消えてゆく姿と、一度肉体人間の自己を否定し、その否定した想いをそのま
ま世界平和の祈りの中に投入してしまう方法なのです。
何故、そうすれば、十字交差の中心に自己が置かれ、内在のキリストが自己に現われるかと申すと、
肉体人間の罪の子の人間が、一度消えてゆく姿として、人類救済のために働いておられる救世の大光
明(神) の中に消えてしまう、そうすると罪の子の人間が、そこで消えてしまう、これが縦の線です。
そして今度は、神の子となりきった人間が、世界平和一念の姿で横ひろがりに、その光明を放って生
活してゆくということになり、その縦横十字交差の中心に自然に自己を置くということになるのです。
消えてゆく姿で世界平和の祈り、という教えは自然と人間に神の子一元の生活をなさしめてしまう
力を持っているのであります。
64
問鵬消えてゆく姿のみ教えは、腹が立った時、憎いと思ったときに、すぐ消さないと消えないも
のでしょうか。
答消えてゆく姿の教えは、業想念や誤った行為が現われようとする時に、そうした想念や行為は
真実の自分の心や行為でなく、消えてゆく姿なのだなア、とおのずと思えるようになって、その瞬間
にそうした業想念が消え去って、晴れやかな気持になっている、というところまで、かなり短時間で
熟達でき得るように、守護の神霊の大きな愛の働きがあるわけなのですが、はじめの頃は、どうして
も自分で消そうという力みがあるので、守護の神霊の光のほうに自分の想いが通ってゆかないのです。
消えてゆく姿という教えは、消してゆく姿ではなくして、守護の神霊の光明の中で、自己の業想念
を消してもらうのであります。ですから腹の立ちっぱなし、憎みっぱなし、妬みっぱなしでは、そこ
には少しの反省も悔いもないのですから、その人の業想念の消えるはずがありません。その人は守護
の神霊の力も、自己の本心が、真善美の完全性をもつ神からきているということをも知らぬので、自
己の誤った想念行為を反省したり悔いたりすることがないのだということになります。自己が神の子
であることを思わず、怒りや妬みや憎み心があるのがあたりまえだと思っているようだと、その人は
そうした業想念を肯定していて、神の光明のほうを否定していることになるので、そうした業想念が
その人から消えてゆくはずがありません。
65
問のように、業想念の起った時に、すぐ消さないと消えないか、というのは、このすぐ消す、とい
うところを、守護の神霊の光明の中、つまり世界平和の祈りの大光明の中に祈り言と共に、そうした
業想念を入れてしまうというふうにすれば、業想念を発した直後でなくとも、気持の落ちついた後で
も、その業想念は消えてゆく姿になります。しかしなるべくは腹が立ってきた、憎しみが湧いてきた、
という時に、それを行為に現わさぬうちに、その想念をもったままでよいから、世界平和の祈り言を
唱えるのです。それは声に出さなくともよいし、出してもよいし、どちらでもその時の都合でやれば
よいのです。そうするほうが、より早く、より素直にその人の業想念は消え去り、本心の光がその人
の想念行為となって現われることになるのです。
この間の方などは、まだ、消えてゆく姿の真実の深い意味はおわかりになっておられぬようですの
で、そうした場合は、たとえ行為に現わしてしまっても、その行為が悪いと思ったら、再びそうした
行為はいたしません、という想いをこめて、世界平和の祈りを祈るとよいのです。それでもその人は
救われの道に入り得た人となるのであります。
ヘヘへ
消えてゆく姿の教えは、あくまで、消えてゆく姿であって、肉体人間の側からは、決して消してゆ
く姿としてはいけないのです。このことは間違いやすいことなのですが、非常に大事なことなのです66
から、よくよく覚えておいて下さい。自己の意志力や、思念で消そうとするのは、これは自力行であ
へ
って、余程意志力の強い上根の人でないとできないことであるのですが、消えてゆく姿は、神霊の光
明の中、世界平和の祈りの中に、おのずと消えてゆく姿となり、本心が開発されゆく他力の行なので、
どんな凡夫にも、老人にも幼児にもできるのであります。
要するに人間は、すべて自己の想念によって自己の運命をつくり、そうした想念行為に自己をみず
から縛ってしまって、本来自由自在心であるべき、神の子的人間性を蔽いかくしてしまっていたので
すから、そうした業想念から自己を解脱させれぽよいわけなので、把われている想念を、どこかへ引
き離せば、その人は本心の自由をその人の想念行為の上に、生活の上に現わし得るわけなのでありま
す。私はその真意を掴んで、すべての業想念を、世界平和の祈りによって、神様のみ心の中に転じさ
せようと実行したのであります。その方法が見事に成功して、私のいう通りに行じて下さった人は、
みんな明るい安心した、深い信仰の上に立ち得た日常生活を営めるようになってきているのです。
自力のような力みは、私の教えには不必要なのです。力むことは、そのものごとに想いがひっかか
っている状態から起っているのですから、把われの想いであって、自由な心になり得ません。私の教
えは絶対他力から入って絶対力になる教えであって、しかも何人にも迷いなくやさしくでき得る方法
67
なのです。
どうして、こうした教えが生れたかと申しますと、私自体が、人間の本体は神のみ光そのものであ
ることを確認したことにより、人間は神の子なのだ、光そのものなのだ業想念は実在ではなく消えて
ゆく姿なのだ、とはっきりいえる立場になったからであります。そしてその上に、世界平和の祈りの
ひびきである救世の大光明が、世界平和の祈りを祈るところに、この大光明を放射される、という神
示を受け、それを人々に実行させていると、実行している人みなが、大光明に照らし出される現実を
はっきり認めることができるようになったのです。
ここにおいて、いかなる業想念も、世界平和の祈り一念によって、消し去られてゆき、祈る人々の
本心が輝きだすと共に、その周囲の人々にも救世の大光明の光がゆきわたってゆくのだ、ということ
を確認し、本格的祈りによる世界平和運動を展開したのであります。
この教えはあくまで、思念の力によるものではなく、幼児が母親にすがってゆくような、ふわっと
した素直な、楽な気分でやれるところに大きな大衆運動になり得る可能性をもっているのです。
68
問悩社会のため、人々のために尽したいい人がいますが、その人は霊界の存在や死後のあること
を信じません。いい人なのですが、こうした人は死後どういうところへ行くのでしょうか。また、こ
の世で善行をした人は死後のよい世界を約束されますか。
答この間は、なかなか微妙な問題なのです。この答を、この世的な例にとってみれば外国(霊界)
のことを少しも知らないある人がお金(善行) をたくさんもって、いつの間にか他動的に外国に行っ
てしまったとすると、この人は果して不自由なく外国で暮すことができるでしょうか、どうでしょう。
いくらお金をもっていても、そんな国があるとも知らずに他動的に渡ってきてしまったのでは、地
理もわからず、知人もおらず、言葉も通じなくて、はじめは実に不自由な月日を送ると思います。し
かし、お金をたくさんもっておりますので、やがてはそのお金の力で、種々の人と知り合いになって、
その国の地理にも世情にも通ずることができ、次第に落ちついた善い暮しができるようになるでしょ
うo
という答えになりそうです。あの世というのもこの例のようなもので、あの世の存在を知らない人
は、どんな善行を積んだ人でも、はじめはあの世の道に迷ってしまって、実に淋しい嫌な時を過ごさ
なければなりません。そして、死後というものが真実にあったのだと、その経験によって、はっきり
わかった時に、はじめて、その人の住む環境が定まるのです。その時の環境は、その人の善行が報わ
69
れて、その人の善行の通りの環境が与えられるのであります。
これが、この世において善行も積んでおり、しかも死後の存在も信じ、守護の神霊への感謝行をつ
づけているような人は、息をひき取る間際から、ひき取ってあの世にわたる刹那においても、守護の
神霊の導きがあって、直ちに、その人の住むべき世界に案内されるので、中有に迷うということがな
いのです。しかもその人は善行を積んでいるので、その善行の報われの地位にすぐさま昇れるわけな
のであります。
ところで今度は、現在は神の存在を信じ、あの世のあることも信じているが、過去における生活は、
あまり善い行為をしていなかった人は、死後において一体どういうことになるか、という問がでてき
そうですから、その間に対してのお答えもしておきましょう。
人間というものは、神の救済の面を考えにいれなければ、自分の想ったこと、行ったことが、必ず
回り回って自己に還ってくるので、死後の世界のような微妙な波動の世界に往けば、過去世から現
世までのその人の想念行為が、そのままその人の環境となって現われてくるのですから、善業を積ん
だ人は善い環境を、悪業を積んだ人は、その悪業の報いの環境を現わしてゆくのでありますが、ひと
たび神の救済の面を考えに入れてきますと、そうした因果応報的な環境が、かなりその様相を変えて
70
くるのです。
因果応報的な世界だけが、人聞の世界だとしたら、この人類は到底救われっこはないし、あの世の
存在はかえって恐怖を人々の心にそそらせさえします。例えていえば、この世で苦労をしつづけた人
が、しみじみその苦労を嘆き悲しみ、つくづく生きてゆくのが嫌になりながら、それでも自殺もせず
あたりまえな死に方をしたとしますと、この人は苦労をしつづけた上に、その苦労を嘆き悲しむ暗い
こう
想念という悪い業を積み、尊い生命を汚すような、生きてゆくことを嫌む想いを起していたのですか
ら、当然あの世の世界でも暗いみじめな環境をつくりだしてしまいます。この例は極端な例ですが、
大体においてこの世の人間の想いは自分勝手な想念行為で充ち充ちているのでありますから、あの世
りんねてんしよう
とこの世の輪廻転生の人間の運命は、いつまでたっても総体的には善くなってゆくはずがないのです。
しかし、実際問題としては、神の救済の力が常にこの人間界には働きつづけているのです。この救
済の面の神の光を守護神、守護霊というのです。そして、この守護の神霊の大きな集団が救世の大光
明なのであります。
そしてこの救世の大光明の救済力が働いて、人閥の因果応報的循環を、神の光明の循環に変じさせ
てくれるのであります。そうした救済の働きがなければ、人閲の世界は到底成り立ってゆかないので
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あります。この救済の大光明が私に働きかけて提唱せしめたのが、世界平和の祈りであって、この世
界平和の祈りがもつ大光明は、この世はおろか、あの世、つまり幽界、霊界、神界と、すべての世界
に輝きわたっているのです。
ですから、この大光明の中に、世界平和の祈り言をもって飛びこんでゆけば、各人がもっている業
想念、因縁因果の波が、その飛びこみ方のいかんによることの時間の差異はあっても、必ずすべて消
滅し去ってしまって、新たに神の光明の世界が人々の上に開けてくるのであります。
世界平和の祈りによる救世の大光明が、この世に輝きはじめた今日では、人間は、今までの宗教の
ように、因縁因果の波動に把われず、把われたら把われたそのまま、世界平和の祈りの中に、因果応
報の波動と共に飛びこんでゆきさえすれば、おのずから幸福生活がひらけてくることを約束されてい
るのです。
世界平和の祈りは、祈り言そのものが光なのですから、祈り一元の生活をくりひろげてゆくことだ
けで、あの世の生活のよい環境はおのずから定まってしまっているのです。
この理は人間は本来神の子であって、完全円満であるということが真実であることの証明となるの
です。72
問価人間はどうして死ぬことを恐ろしく感じるのでしょうか。今迄に何回も生れ更って来て、死
の経験をし、他界の経験をしていると思いますのに、どうしてでしょう。
答人間は誰でも習慣性の中で生きているもので、恐ろしいとか悲しいとか妬ましいとかいう感情
想念は、すべてこの習慣性からくるものなのです。本能と人々がいっているのも、これも深く探って
ゆくと習慣性の現われなのであります。
想念行為の習慣というものが、この人間社会を幸せにしたり、不幸にしたりしているのです。そし
て、この習慣性が、神のみ心と真直ぐつながっている心から出ているものか、肉体人間としての想念
から生れてきているかによって、この人間界の幸不幸が定まってくるのであって、神と真直ぐにつな
がった心、つまり本心から現われてきているものを真理といい、肉体人間にまつわる想念から出てき
カルマ
ている習慣性の想念行為を業といっているのです。
さて、死というものを恐れる想いは、余程の悟りに達した人か、少しく頭の狂った人以外の人には、
誰にでもあるものですが、これは、やはり習慣性からくる恐れなのです。
何度びかの生れ更わりをして、他界での経験があったとしても、現在肉体人間として毎日肉体生活73
を営んでおりますと、肉体人間としての想念行為の波動の中での習慣を身心につけてしまいます。U
旦そうした習慣がつきますと、その習慣をぬけ出ることは、なかなか容易ではないのです。日本人が
日本の生活の中からその習慣をぬけて、外国の生活に飛びこんでゆくのでさえも、その生活になれる
のが大変なのですから、全く波動の異なった、五感には触れ得ない、肉体的には全く未知な他界への
移行を、なんの恐れも心配もせずに行うというのは容易なことでないのは尤もな話です。
ちょっとした習慣でさえも容易に脱皮し得ないのがこの世の人間なのですから、肉体人間から霊界
への移行という、大きな脱皮をするのがむずかしい問題であるのは論をまちません。
この脱皮を容易にする方法は、常日頃から、肉体人闘観の習慣の想いを超える想いの練習をしてお
くことなのです。それには、人間は肉体そのものではなくて、生命そのものなのだ、その生命が、或
る時期には肉体という器をまとって生活する物質界に生活し、或る時期には霊波動によって交流し合
う霊界に生活したりするものであって、本質は自由自在心をもつ神と全く一つの者である、というこ
とを認識するような勉強をして、肉体生活をしながら次第に肉体波動の世界から霊波動の世界への変
化を成し遂げてゆけぽよいわけなのであります。
そうするためには、いつでも神のみ心の中、本心の中に自分の想念を入れておく練習をしておくべ
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きなのです。肉体的習慣を急に霊的習慣にしようとするのは大変ですが、少しずつ常にやっておれば、
いつの間にか、霊的習慣が身心についてゆくものです。
その一番やさしい方法は、肉体人間の生死の鍵を握っている守護の神霊とのたゆまざる交流という
ことなのです。守護神というものは、肉体人間の生死のことを、はっきり握っておられるのですから、
そのつながりがしっかりしていさえすれぽ、肉体をもったままでも他界のことが実によくわかり、肉
体を離れて生命が他界の生活をする時でも、なんの不安も恐れもなくなってしまうのです。つまり、
肉体的習慣を、守護の神霊の援助でやすやすと超え得ることができるのが、不安や恐れをなくす最大
なことなのです。
ですから、守護神、守護霊の存在を認識しないで、ただ、神とか仏とかだけいっている修行方法は、
一般の人々にとっては、実にむずかしいものとなるわけなのです。どうしても自我の力みができてき
て、自分の行為が、神のみ心に叶った、理想通りのものにならないと、死ぬにも死ねない、という気
持になってしまったりするのです。何かいつも自分の心を責めさいなむようになりかねないのです。
神仏をもっとも自分の身近に心の近くに置いておく宗教の道が、一番死の恐怖を超え得る方法な
のです。それが守護霊、守護神とたゆみない交流の下に行われる祈りである、世界平和の祈りの教え
75
なのであります。
自分の祖先の悟った人が、この世でもあの世でも自分を守りつづけてくれる。その上、その祖先よ
りも、もっと強力な神そのもの、生死の鍵を握っている守護神が、守りつづけていてくれる、という
真理を知らせるのが私たちの宗教なのです。この事実を信じさえすれば、この世の生活もあの世の生
活も自然と不安でなくなってくるのです。
死の恐怖を超えた時の人間程、偉大になることはありません。死の恐怖を超え得る最大の易行の道
は、守護の神霊の加護を信じ、守護の神霊に感謝しつづけながら日常生活を営んでゆくことなのです。
自分と守護霊とは一体なのだ、守護霊と守護神とは一体なのだ、自分は大神様のみ心の中で、大慈
愛の中で生活している者なのだということを、世界平和の祈りの日常生活の中から、いつとはなく確
認してゆけるのが、私たちの宗教なのであります。
76
ひようい
問 鵬愚依現象という、いわば異象、それによって起ってくる病気不幸というものを見聞きします
が、どうして愚依現象が起るのでしょう。
答愚依現象、俗にいう愚きものというものは、実に厄介なもので、医学的にみても、原因も病名
も病状もつかみようのないものが多いのです。急に首や肩が張って苦しくなってきたり、心臓がつま
ってきたり、にわかに世の中が嫌になってきたり、死にたくなったり、いらいらしてきたり、その状
態は種々様々ですが、肉体的病状となって現われるもの、精神的病状となってくるもの、不幸や失敗
というように運命的に現われてくるもの、愚依作用による不幸な出来事は、この世には実に馬鹿にな
らぬ程、数多いのであります。
そうした作用による病気の場合には、いくら薬物によって病状を抑えようとしても、やたらに病状
が変化するだけで、全快というところまではなかなかゆきつかないで、死に至ってしまうことがある
のです。
この愚依作用ということは、どういうことかと申しますと、唯物論者にょれば、この世の他に存在
する生物などは認めないでしょうが、事実は、この肉体世界、眼に見える世界の他に様々な世界があ
って、そうした世界の生物たちが、この肉体世界に種々と干渉してくるのです。この生物の中では、
肉体世界の人間として生存していた者が、この世で死亡して、霊魂的人間として、この肉体世界に干
渉してくる場合と、もともと幽界という界に生存している人間以外の生物、天狗、狐、狸などと普通
呼ばれているものの干渉とがあるのです。
77
この世の肉体とか物質とかいうものでも、実は固体のように見えているだけで、真実の姿は、波動
の現われにすぎないのです。その事実は時代が進むに従ってはっきりわかってくることですが、現在
でも、物質波動説という、科学の証明がすでになされているのです。この世以外の世界というのも、
やはりそういう波動の世界で、その界のお互いは、お互いの姿形をわかり合うことができますが、こ
の世の人たちとは波動の周波数が違うので、この世からあの世の人たちの姿形を見ることはできない
のです。しかし、特殊な能力の人には、あの世の生物の姿形まで知ることができるのです。
このように普通の人には姿形の見えないあの世ではありますが、想念の波としては、姿形のみえぬ
まま常にこちらに想いが伝わってくるのです。この想念の波が、光である場合には、この世の人のた
よ
めになり、怨恨や妬みや、執着や、俺りかかってくるような波動である場合には、愚依作用となるの
であります。
この世もあの世も、すべては想いの波動による世界なのですから、この世の想念の波があの世に、
あの世の想念の波がこの世に、というように、お互いの波が交流し合うのです。ですから、日頃から
の想いというものが大事なのです。
そして、この想念を出す原動力はどこからくるのかと申しますと、これは光の波と同じく大神様の7s
力にょるのでありまして、ここのところが、人間というものの面白いところなのです。何故面白いか
といいますと、光を出す力も、業想念を出す力も、その原動力が神の中にあるのなら、神のみ心の中
には、善悪両方あるのであり、神が大愛であったり、完全円満であったりするわけはない、というこ
とに一応なりそうなのですが、実は、神の中に業想念があるのではなくて、すべてを生み出す能力は、
神からきているのでありますが、どういう想念を出そうと、それは人間自体の自由に任せられてある
というところが、実に人間の生活を面白くバラエテーに富ませているのです。もし人間が機械のよう
に、その自由をすべて神に縛られていたらなんとみじめな退屈なものとなるでしょう。変化の妙と
いうものが全くない、単調でつまらぬ人生が生れてきてしまいます。考えるだけでも嫌なものです。
ところが神は人間に、神の分生命として、ご自分と同じような権能をもつことを許されておられる
のです。全く人間というものは、たいしたものなのです。しかしながら、その反面、人間は、動物や
機械類のように自己に無責任ではいられなくできているのです。自分の幸、不幸、運命は、自分自身
で創ってゆかねばならぬからです。
人間は自由であるかわりに、自己の運命の責任は自分で負わねばならぬようにできているのです。
神から与えられている智慧能力を、神のみ心に沿うように自らを努めることによって、神の完全性で
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ある、光の部面がそのまま自己の生活環境に現われてくるのです。その最も大事な方法が、自己の想
念の波を、神のみ心の完全性に合致させて生きるようにすることなのであります。
神の完全性の心とは、愛と真と美と善と勇気というように現わされているわけなのですから、そう
した行為をしてゆくようにすればよいわけですが、この言葉がまた漠然としていて、わかったようで
わからない言葉となってくるのです。そこで、私は一応、自分の自由意志で、自己のすべての能力の
原動力である神のみ心の中に、自己を全託してしまうほうがよいと思ったのです。自己が神から離れ
た独立した自己としてある限りは、どんな波動があの世からも、この世からも愚依してくるかわかり
ません。また、自己の中に過去世からひそんでいる業想念が、自己の運命を傷つけ損ねるかもわかり
ません。
いかに自分の運命は自分の自由にできるといっても、あらゆる業想念波動の中で、自分をひとりぼ
っちにして置いては危険でなりません。この危険さは、肉体人間同志の助け合いぐらいではどうにも
ならない、目に見えない波動の世界の動きからくるのですから、どうしても、この波動の動きを常に
さけ得る状態に自分を置いておく必要があるのです。そこで自己の心の隠れ場所として、神のみ心の
中を選ぶわけです。神のみ心は何ものもいかなる業想念波動も冒すことのできない大光明であるから
80
なのです。その神のみ心の中に入る方法として、私の提唱する、守護の神霊への感謝行と、世界平和
の祈りがあるのです。
人間は自己に許されている自由を、最も高度につかうためにも、一度神のみ心に入りきって、そこ
から光明化した人間として出直してくる必要があるのです。それが世界平和の祈りなのであります。
問柳宇宙人は霊媒にかからぬという説と、霊媒にかかってきて話をした、という外国の書物もあ
るのですが、}体、宇宙人と心(神)霊と、どこがどう違うのでしょうか、全く同じもの.てしょうか、
この点わかりやすくお教え下さいませんでしょうか。
答現在宇宙人といわれている人々は、地球人類の肉体波動よりも微妙な波動の体をまとっている
人々です。その波動はちょうど地球人類の幽体といわれる波動と等しい波動です。ですから宇宙人が、
宇宙人本来の波動のままでいれば、地球人類の肉眼には、その姿が見えないのです。しかし、宇宙人
は、ある科学的操作によって、容易に肉体人間として現われることもできるのです。
地球人類が、本来肉体をまとっており、死去する時には、その霊魂が、幽体を乗り物として、幽界
あるいは霊界に去ってゆくのですが、宇宙人の死は、地球人類の死のように、肉体と霊体との甚だし
81
い波動の差がなく、僅かな波動の差で異なる環境に移動し得るわけですから、死の恐怖とか、苦痛と
かいうものが全くないのです。地球人類が、死に対する恐怖や苦痛を伴うのは、他界に対する未知と
いうこともありますが、肉体波動と、他界の波動との差が甚だしく相違するので、その調整のできな
い人々が多いので、それが調整される期間苦しむのであり、その未知の調整方法を予感して恐怖する
のであります。
というわけで、地球人類は、肉体人間としては、心(神)霊との差がありますが、宇宙人は、心(神)
霊そのものではありませんが、心(神)霊的であって、心(神)霊になり得ようと思えば心(神)霊
と全く同じ状態になり得るのです。
いいかえますと、地球人類は、肉体の他に幽体、霊体、神体と四つの体をもっており、常時は肉体
人間として、幽体(潜在意識)に様々な想念を知らぬ間に蓄積して、自己の運命をつくりあげてゆく
わけですが、その幽体の曇りの濃いか薄いか透明かによって、その人の死後の霊魂の地位がきまるわ
けなのです。そして普通一般人としては、自己の死後の地位はわからぬわけなのです。
ところが宇宙人は、幽、霊、神という体をまとっていて、常時は肉体的な波動はないのです。です
から、すぐに霊体になれ、神体にもなれるので、神と人類との心の距離が実に近いのであります。
$2
そして、長老格の人になれば、幽体をつけながらも、神霊そのものでもあるのです。そこで宇宙人
と心(神) 霊は厳密にいえば違うのですが、同じであるということもできるわけです。
神(心) 霊も宇宙人も地球人類も、すべては大神様の生命の働きでありまして、この働きは、それ
ぞれの生命の律動(波動) によってなされるのですが、それが霊的波動として働くか、幽的波動とし
て働くか、肉体的波動として働くかによって、その現われ方が異なってくるわけで、地球人類として、
この世に肉体をもって働いていながらも、常にその主なる働きは、神霊的微妙な霊妙な心的波動をも
ってなされている人もあるのです。そうした人は、そのまま神霊ともいえるし、宇宙人と同じような
働きをしているともいえるのです。
ですから、人間神の子としての立場から観れぽ、神(心) 霊も宇宙人も地球人もみな同じであると
いえるのですが、実際生活として見ると、現在の地球人類のうちで、神の子の実体をその日常生活に
現わし得ている人は数少ないのですから、同等といい切ることはできないことになるのです。
しかしながら、やがてはすべて同等の立場に立ち得るようになるのです。そうした地球人類になり
得た時に、世界平和、地上天国といえる時代となるわけなのです。
それから宇宙人は霊媒にかかるか、かからぬかという問題ですが、霊媒というのにも、ピソからキ
83
リまでありまして、霊覚者といわれる釈尊やイエスでも、非常に高度な霊媒といえばいえるのです。
ただ、高度な人と低い人とでは、その霊のかかり方が相違するのです。高度の人にとっては、かか
ってくる霊魂或いは神霊と、自分自身とが、全く別な存在ということがはっきりわかっていて、確固
たる自分の意識をもちながら、その霊魂の言葉を伝えるわけですから、自分自身を、かかってきた霊
魂や神霊に自由にされてしまうわけではないのです。ですから自分自身が常なる姿、態度そのままで
霊魂や神霊の言葉を、自分自身の言葉を通して伝えるわけなのです。
それはどういうわけかといいますと、霊覚者となりますと、自分つまり分霊魂と直霊との一体化が
すでになされているので、肉体界にいながら、その心は神霊の世界に通じていますので、神霊界と肉
なおひ
体界に光の柱が立っているわけです。そして、かかってくる神霊や霊魂は、その人の直霊の許可の下
に、その人の肉体身に伝言を依頼するわけなのです。そして、その霊覚者は平常なる姿、態度で、い
かなる神霊の伝言をもなし得るということになるのです。単なる霊能者である霊媒は、その肉体を、
神霊や霊魂の自由にゆだねてしまうわけで、その人自身の主導権がその時はなくなってしまうのです。
ただし、背後の指導霊はそのことを承知しているわけなのです。
そこで、宇宙人の場合も、この例と同じように、高級な人には、やはり伝言として、そのいいたい84
ことを伝えてもらうのであり、霊媒素質は良質だが、心の波動の低い人の場合は、乗りうつったよう
な形で現われることもあるわけです。
結論的にい・兄ば、宇宙人でも霊媒にかかってくることはある、ということになります。ただし、そ
れは乗りうつる形でくることは少く、伝言的な形でくることが多くなることと思われます。
問朋霊界で人はどのようにして生活しているのですか、天国というのを遊んでのんびりしている
処と思っている人がありますが。
答幽界の低い階層では、この世の生活と同じように、物というものが、実際にそこにあるように、
物に執着したり形に執われたりした生活をしています。この世の生活の中での我欲の想念が、むき出
しにそこに現われたような生活なのですが、幽界でも高い層になり、また霊界に昇ってゆきますと、
物や形への執着はなくなり、自己というものが神の光の流れの一つであることがわかってきます。
ですから、この世の生活とはまるで異なった、光のひびきの生活となります。光のひびきの生活な
どといっても、ちょっと見当がつきませんでしょうが、太陽や星々が輝いているのと大体同様と考え
てもよいでしょう。太陽や星々との光の交流と全く等しい生活なのです。といって、形を現わせない
85
わけではなく、どのようにでも随時に姿を現わすことはできます。ただ肉体のように、粗い波動の現
ひびき
われでなく、微妙な波動の現われなので、くらべもののない程、美しい律動をもち、その体は光に溢
れ輝いているのです。皆さんが統一会での統一中や、統一後に、ふだんの皆さんより数等倍、輝か
に美しくなっていることを、ご存知ですか。実際に統一中や統一直後の皆さんは美しいのです。そう
した美しさの何層倍かわからぬ輝いた体を霊界の人々はもっているのです。
といっても、ただ遊んだり、う・まいものを食べたりしているだけではありません。宇宙運行を正し
く誤りなくなさしめる重要な役目をもって働いているのです。この大宇宙は神界、霊界という階層を
も含めて、全く彪大きわまりなく、変化きわまりないものです。
数知れぬ波動の異なる世界があり、そして相異なる様々な波動の世界を、大調和させて正しく運行
せしめてゆくという、大神様の大権能には、おのずから頭を下げずにはおられません。
太陽系宇宙だけでも膨大なのに、そうした宇宙が数限りなく存在するのですから、驚き入ったこと
なのです。肉体人間の五感に触れる部分は全く、そのわずかなわずかな部分に過ぎないのですから、
自分の経験外のことを、そんなものあるものか、そんなことあるものかなどといっている人々は、実
に白痴に等しい頭の持ち主というべきなのです。
h6
地球には普通、物質といわれる世界とあの世といわれている幽界、霊界、神界という世界が、波長
を異にして重なり合っているのですが、金星にも火星にもやはり、そうした同じような状態で各々の
世界があるのです。そして、金星や火星などでは、地球でいえば最下層の波動の肉体界というものが、
ひびき
霊界に殆んど近い波動の世界に進化してきているのです。
ですから金星人たちは、死というものに対しての恐怖は全くないのです。何故かといいますと、死
というものの往先きが、はっきりわかっているし、死にともなうなんらの苦痛もないからです。
よく、霊界の存在というものと宇宙人というものとは、どういうふうな関係があるのかという質問
をしていられる人がありますから、ここでちょっとその説明もしておきましょう。
霊界というものは、今申しましたように、地球界にも金星や他の星々にもあるのでありまして、お
互いの交流は自由自在なのです。ですけれど、霊界にも神界にでも、幾多の階層があるので、上位に
ひびき
なればなる程、その律動(波動)が微妙になってくるわけなのです。
ひびき
ですから、星々お互いの波動のひびきの相等しいものが交流し合うことがやさしいので、波動の段
階の相違するものは、交流しにくいことは、当然なこととなってくるわけです。
この肉体の考え方、というより習慣性から、ものを見、考える時にはどうしても、形というもの、
87
つまり、時間と空間というものを考えてしまいます。どういう生活といっても、すぐに形の世界が心に
浮びます。ところが、この宇宙万般の根源は、光の波動でできているのです。光の波動というのは、
この肉体世界の五感では見えも捉えもできません。
テレビなどで考えてみるとよくわかるのですが、テレビのブラウソ管に映像が写りだすまでは、そ
の写りだすものを五感でとらえることはできません。私たちの歩いている空中を、種々な光や電波が
交流しているのですが、肉体人間にはわかりません。わからないけれど、テレビ放送局で実演してい
ることも、各家庭へその光波や電波を送っていることも事実です。これは誰も否ということはできま
せん。
霊界というのはそういうところで、光の交流がすなわち、私たちのいう生活ということになってい
るのです。それが、霊人と霊人との間での交流もあれば、物質界に対しての光の放射の仕事もあるわ
けで、私たちのいう食物というものも、肉体人とは違った意味で摂取するわけです。それは波動その
ままで取る場合と、形のように現わして食する場合とがあるのです。しかし、すべての存在は、光の
波動である、という真理には変りはないのです。
ですから、この肉体世界にあっても、物質欲や権勢欲や様々の想念に把われる想いの少ない人程、88
いわゆる我欲の想念の少ない人程、光の波動をより多く放っているということであり、霊界人に近い、
天国的な人というべきなのです。
そこで宗教では、執着を放つこと、我欲を放つことを教えているわけなのです。私の提唱している
世界平和の祈りは、大光明波動そのものなのであり、神霊界そのものの働きでもあるので、この祈り
言をすれば、いつの間にかその人々の霊性は開発されて、真の幸福をつかむことになってくるのです。
問鵬死を恐れなくなる心構えをお教え下さい。
答死を恐れなくなることは、人間等しく念願していることなのですが、人間の真実の姿を、はっ
こ
きり認識しない限りは、死を超えることはできません。人間は夢中になっている時には案外平気で死
に飛びこんでゆくことがありますが、そうした人が、常に死を恐れないかといいますと意外な程に、
死に臆病であったりします。
戦争中に戦火の中を勇猛果敢に突進していった軍人が、日常生活の中では甚だしく死を恐れるとい
うことが随分あるのです。ですから、一種の興奮状態で死に飛びこんでゆくことは案外にできるので
すが、平常心でいて死を怖れないということができがたいのです。
89
私たちが、これが人間自体だと思っている肉体身は、実は人間の一つの現われに過ぎず、人間生命
は、肉体以外の他の体、つまり、肉体身より微妙な波動をもつ、幽体とか霊体とか神体とかいう、違
う言葉でいえば、エーテル体とか、アストラル体とかメンタル体とかブデー体とかいう、種々の体を
もって活動しているのであります。そして、肉体の死というのは、ただ単に自己が肉体波動から、よ
り微妙な他の生命波動に移って活動することになったことに過ぎないのです。
こうした真理を知ることが大事なのですが、こう説明されただけでは、そうですか、それでは死ぬ
ことはなんでもありませんね、という工合に、想いが切り変るわけにはまいりません。自分は肉体身
だけではないのだ、肉体身において、その環境において、誠心誠意の生き方をしていれば、かえって
肉体身を脱け出た、いわゆる死後には、肉体身の生活とはくらべようもない程自由な美しい環境で活
躍することができるのだ、ということを、常に自分にいいきかせておいて、その想いを潜在意識に入
れておくことが大事なのです。
死を恐れるということは、自己がそこで消滅してしまうことの恐れや、死後の世界の不明な点から
くるのですから、死ということが他界への転移であって、自己が一心に日常生活を生きていさえすれ
ぽ、よりよい世界に転出できるのだということを知ることによって、自己の心が安まり、死を恐れる9U
気持が薄らいでくるものです。
それから、それよりもっと大事なことは、自己の生命は神より来ているものであり、神のみ心は慈
愛なのだから、神が人間に対して悪いようにするわけがない、と信じて、神のみ心の中に常に入りこ
んでいることです。
いわゆる真実の信仰心なのです。真実の信仰心というのは、神が罰を当てるとか、自分たちの行い
が悪いからとかいって恐れているような信仰態度ではありません。真実の宗教信仰者は自己が神の分
生命であることを認識し、親神様の大愛に自己のすべてを託しゆだねて生活してゆける人でなければ
なりません。
神が愛そのものであることを信じなければ、宗教信仰というものは成り立たないのですから、愛そ
のものの神が罰を当てたり、人間を困らせたりすることは絶対にないのです。
ところが、自分自身の力には頼りきれぬ、さりとて神様にすべてを託することもできかねるという、
あやふやな生き方をしている人々が多いのです。
死を恐れぬ人になるためにも、やはり神の愛を信じ、神への全託行に生きてゆくことが必要なので
す。そこで私は、愛の神様をただ神とは呼ばずに、守護神と呼び、祖先の悟った霊を守護霊と呼んで、
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この守護霊、守護神が、いつもあなた方を守りつづけていられるのだから、あなた方はよけいな心配
苦労をせずに、自己の置かれた環境で、守護の神霊に感謝を捧げながら、人事を尽して生活していれ
ばよいのです、と説いているのであります。
自己の身近に守護の神霊がいらっしゃって、自分たちの睡っている間も守りつづけていて下さるの
だ、ということは、どんなにか安心できることでしょう。この守護の神霊は、その守られている人々
が、生れる時から死後の世界までもついていってくれるのですから、守護神、守護霊に、死後のこと
までもお願いしていれば、これ程安心なことはないのです。守護神はあなたを、肉体身において置か
ひつじよう
れていた環境より以上の世界に、連れていってくれることは必定なのであります。
それは私が幾多の例でよく知っているのです。私などは守護の神霊とは全く一つに交流して働いて
いますので、神々のみ働きを熟知しているのです。
こ
死の恐怖を超える方法としては、今申し上げた二つの方法を同時におやりになって下されば必ず非
常な効果がありますから是非おやり下さい。またそれに加えて世界平和の祈りをおやりになれば、あ
なたの生活はますます光輝あるものとなります。
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問m 自殺しようとする人には、守護霊、守護神はついていないのですか。ついているなら、なぜ
自殺などしないように導いてもらえないのでしょうか。
答いかなる人にでも、守護の神霊がついていないということはありませんが、過去世からの業想
念の層があまりに厚すぎますと、いかに守護霊、守護神が光の波を送って、その業想念波にその人が
巻きこまれぬように注意しても、その人に感応しないで、業想念のままに運命を決してしまうのです。
自殺老の場合などには三通りありまして、自分自身が、この世を生き通してゆく自信を失い、世を
はかなんで死んでゆく場合、この場合は自分の望みがかなわぬと思って自殺する場合も含まれており
ます。これはすべて、自分本位の生き方がとげられぬと思っての場合であります。これはいくじがな
じ
い人だ、と普通思われます。二つめの場合は、明治の乃木将軍や太平洋戦争の敗戦の責任をとって自
じん
刀した将兵たちのように、自分本位の自殺ではなく、他に対する申訳けなさ、責任感からの自殺、つ
まり、いくじなしで死んだのではない場合。
うらみ
三つめには、祖先や父母たちにきている怨恨の想念の波を受けて、自分自身では死にたくもなんと
もないのに、突然に自殺してしまったりする場合、これは一つの犠牲死ともみられるのです。
こうした三つの場合があるのですから、いちがいに自殺は罪悪なり、として、自殺者はすべて地獄
93
に落ちて苦しみつづけるのだ、といっている他の宗教者のようなことを私はいおうとは思っておりま
せん。
第一の場合は、これは自己のいくじなさのために、生きつづけなければならぬ肉体生命を生きつづ
けられないで他界へ遁げだしたのですから、自然(神) の法則にそむいただけのマイナスを、他界に
おいての苦行によってうめあわせなければなりません。これが永い間の地獄の苦しみをうける形にな
るわけなのです。
生命には自然にそなわる生命の法則がありまして、その法則にそむけば、そむいただけのマイナス面
は、どうしてもみずからつぐなわなければならなくなるのです。ですからそうした生命の法則にそむ
いた生き方、あるいは死に方をしていれば、その人自身が必ずその報いを受けるのです。そしてその報
いを受けて苦しみつづけているうちに、はじめてその苦しみが、生命の法則、すなわち神の道にそむい
ていた報いであったことに気づくのです。そう気づいた時には、その人はもはや救われの道、真の道に
入ったことになるのです。気づけば必ず、気づいたような道を踏み行う気になってくるからなのです。
ですから地獄の苦しみをすることも、その人の進歩にとっては必要なことなのです。それが消えて
ゆく姿となって、真実の自己、神の子の本心が開顕してくるのです。ただ私たち宗教者は、世の人々94
にそうした苦しみを多く味あわすことなく、容易に本心開発の道に導き入れたいという念願をもって、
宗教の道をひらいているわけなのであります。私たちは痛切にそのことを考えつづけ、今日の世界平
和の祈りの道をきりひらいたのです。
二番めの自己の臆病からでなく、責任をとって自殺した場合は、一番めの自殺とは全く違った取り
扱いを霊界で受けるのです。太平洋戦争の敗戦責任者として自殺した阿南陸相などは、自決者であり
じゆん
ながら、神界に在るのですから、特攻隊員として純粋に国に殉じた人々と同格に神々から認められて
いるわけなのです。
近頃の思想としては、自己を守ることのみを主として教え、国家社会のため、人類のために自己の
身心を投げうつということを、あたかも、無駄死のごとく教えていますが、これははなはだ誤った思
想であって、大いなる生命の中に小なる自己の生命を投げうつことは、小さな自己が、大なる生命と
して生き得ることであって、真に自己を生かしきったことになるのです。ですから、こうした精神は
いかなる時代にあってもマイナスの死ではなく、大いなるプラスたるべき死なのであります。
こうした最大のプラス的死をとげたのが、イエスであって、イエスは、生命を捨てざれば生命を得
ず、といって、肉体生命にこだわっている以上は、真実の生命を得ることはできない、本心を開発す
95
ることはできない、といっているのです。
とは申せ、私はなにも責任感による自殺をすすめているわけではありません。いかなる責任感から
でも、あくまで自殺は止めるべきであって、すすめるべきものではありません。死ななくとも責任を
果す方法がいくらでもあると思われるからです。そのもっとも顕著な例は今上陛下が、普通の言葉で
いえば、最大の屈辱を忍ばれ、マッカーサーのもとにご自分のほうから行かれ、ご自分の身心を投げ
出されて、国民全部の生命ごいをされたことであります。
ああした行為は、普通人の考えからすれば、死ぬより辛いことであって、ひと思いに自決してしま
ったほうが余程楽であったと思われます。あの時の天皇の姿こそ、真の天皇の姿であり、キリスト仏
陀の姿なのであります。国民全部を自己の背にかばって十字架にかかっているお姿でありました。
この姿になり得れば、やはり最高の生き方でありますから、人間すべて、こうした天皇の生き方を
鑑としなければならぬと思います。もっともこうした生き方は、真実蛮の境地にならぬとでき得ない
と思いますが、消えてゆく姿と世界平和の祈りの生活者たちには、いつかは達し得ることができるの
ではないかと思います。
さて三番めの場合、これは一番めの場合と区分けのつけがたい場合もあると思いますが、守護霊さ
96
んが承知で、その人を祖先や父母の因縁消滅の犠牲者として自殺を止めないという場合もあるのです。
それは、その人の運命がそのままこの世にあっても、霊性開発のプラスにならぬと守護霊が認めて、
そうした因縁消滅の犠牲者となし、本心開発の近道のための霊界入りをなさしめるのであります。
霊界からの働きかけには、肉体人間の計り知れない種々な方法があるので、いちいちそれを説明し
ているわけにはまいりませんが、なんといっても一番よい方法は、常に神のみ心の中に入りこんでい
て、守護の神霊の感謝行で生活してゆくことなのです。そのもっとも効果のある方法が、世界平和の
祈りにょる日常生活なのであります。
ですから、世界平和の祈りによる生活からでてきた事柄は、すべてこれ善しとみてゆくことが大事
なのです。世界平和の祈りのような大乗的な祈りの中から、悪い結果が生じるわけは絶対にないから
であります。
消えてゆく姿と世界平和の祈りで、日々を送ってゆく時、その人から不幸というものは必ず消滅し
てしまうのです。
問川全託すれば反省の必要はないのでしょうか。
97
答真実の全託生活になれば、反省するとかしないとかの問題でなく、すべての行動が神のみ心に
じねんほうに
合致した、いわゆる神我一体、自然法爾の生活になってくるのですが、そうした心境になることは、
なかなか容易なことではないのです。
自分では全託しているといっている人が、知らず知らずに自我の想念で行動しているのをよくみか
けます。その人自身は全託だと思いこんでいるのでしょうが、こちらからみると、神のみ心による行
為でないことを、いったりしたりしているのをよくみかけます。
ですから、自分では全託していると思いこんでいる人でも、自分の想念行為は常に反省してみる必
要があるのです。思いあがった宗教信仰者ほど嫌味なものはないのですが、反省のない全託への道な
ども、それと同様になりがちです。
宗教信仰者というものは、普通人以上に反省ということが必要なので、全託生活になりきらぬ限り
は、反省の必要は大いにあるのです。完全なる全託生活者となれば、もはや、そうした質問の範疇を
脱しているのですからこの限りではありませんが、皆さんは、反省につぐ反省にょる全託への道を歩
んでゆかなければならないのです。しかしながら、私の提唱している世界平和の祈りと消えてゆく姿
の教えを行じておられる方々は、反省と消えてゆく姿とが表裏一体となって、瞬間的反省になってく98
るので、反省につぐ反省の生活という生き方が、とかく人間の心を暗く重苦しくしてしまうのにくら
ヘヘヘヘヘヘ
ベて、反省した瞬間にその想念事柄は過去となって、いわゆる消えてゆく姿となって、世界平和の祈
りの中に融けこんでしまうのであります。消えてゆく姿と世界平和の祈りの生活には、反省というこ
とが即座に本心開発のための明るい、把われのない消えてゆく姿となって、そのまま反省の意義を高
めてゆくのです。
今日までの善人といわれる、いわゆる、自分の一挙手一投足をいちいち善悪のはかりにかけて行動
し、悪いことをすまい、悪いことをすまいというように、常に善悪にのみ把われて、戦々競々とこの世
を送っているような善い人になれと私はすすめているのではなく、自己の行為の把われを、消えてゆく
姿として、世界平和の祈り言の中に送りこんでしまう、その瞬間の反省を私は必要だというのです。
例えて申しますならば、誰かと争いごとをしてしまって、あっ、しまった、あんな争いはしなけれ
ばよかったと後悔し、その後で、もう再びそういうことはすまい、と決意するのが反省ということだ
としますと、それだけでは、いつまでもその悔いが残っていて、自分の心を苦しめるのです。そこで
よい人程、自分の誤った行為に把われてしまいがちになってくるのです。
誤ちを悔ゆるはよけれ悔いのみに生くるいのちはおろかしきもの
99
という私の歌がありますが、いつまでも悔いを残すような反省の仕方では、人間が暗くなっていけ
ません。悔いを一瞬にして消滅させてしまう反省の仕方が、消えてゆく姿と世界平和の祈りによる行
じ方では、容易にでき得るのです。
ああ、しまった、あんなことをするのではなかった、と思った瞬間、ああ、それは、みんな自分の
過去世の業因縁と、相手の過去世の業因縁が、そこにお互いの行為に現われて消えてゆく姿だったの
だ、よし、この消、兄てゆく姿を、世界平和の祈りの大光明に投げ入れて、再び現われないように消滅
させて頂こう、というように、反省と同時に消えてゆく姿、またその瞬間に世界平和の祈りの唱え言
をして、すべてを救世の大光明の中に全託してしまうのであります。そう致しますと、全託と反省と
が全く一つになって、神我一体となった覚者と同じような、自然法爾、つまり神のみ心のままなる生
活が、その人の全生活として現われてくるのであります。
100
こう
問 ㎎ 人間には自由意志がありますが、この自由意志と業についてご説明下さい。
答人間のもっている自由意志というのは、本来、神のみ心そのものであるのですが、自分勝手な
気ままな行為をしても、それが自由意志だと考え違いしているのが、現今の肉体人間の在り方のよう
です。この考え違いが、地球人類の精神的進化を妨げている大きな原因であるのです。
ヘへ
業というのは、神のみ心と人間の心とが、ぴたりと一つにならないで、そのつながりにずれができ、
ヘへ
そのずれ、つまり、神のみ心より、自己保存の本能のほうに心が傾いた時に起った想念行為なのであ
ります。
人間が万物の霊長といわれ、自由なる意志をもち得て、創造したり思考したりすることのできる力
を授けられているのは、その自由意志や思考能力をもって、神のみ心、み姿を、この地上界に現わす
ためのものなのです。そして自分を守る本能を備えているのも、神のみ心を自己という者の心を通し
姿を通して現わすために与えられているのであって、ただ単に自己の自我欲望を充すために与えられ
たものではないのです。
ただ単に自己の肉体を守り、自己の集団を守るために自己保存の本能が必要であるとするならば、そ
よくせい
れは動物となんら変ることはないのですが、人間には、そうした本能を適度に抑制し、神のみ心の現わ
れである、愛と真の道のままに進み得るための思考能力と自由意志が授けられているのであります。
この理がわからぬと、いつまでたっても、個人も人類も神のみ心を現わし得ることができないので
す。ところが、そういう真理は頭ではわかっているのだが、実際に行うとなると、どうにもできない
101
のだ、というのが、今日の人問のいつわらぬ心のようであります。02
1
それ程に、過去から今日まで積んできた人類の業、つまり、神(光)から離れていた人間の心の隙
間にできた暗い重い波動が、厚く深いのです。
この暗い重い波動は、人間の内部にある本来性の心、本心の光明が外に輝きでるのを、妨げている
のです。本心の光明がそのまま外に輝きでれば、その人は神のみ心の素直な現われである自由意志の
ままに行動できるのですが、業想念波動が厚いので、どうしても、本来の自由意志が、そうした業想
念波動でゆがめられて、その人の行動となって現われてしまうのです。
今日の人たちが、自由意志だ、自由意志だと叫んでいるのは、ほとんどが、業想念をかぶった自由
意志であるのです。そしてお互いがそうした自由意志を強調して生活しているのですから、個人にし
ても国家民族間にしても、力の強いもののほうがその自由意志を行為にうつすことができるので、弱
肉強食の動物たちの生活と同じことをしていることに結果的にはなってしまっているのです。
では一体そうした生活を個人間にも国家民族間からもなくし得るためにはどうしたらよいのでしょ
う。私はそれを世界平和の祈りの実行によって為し得ると信じているのであり、その運動に身心を投
げ打っているのであります。
どうして世界平和の祈りによって、業に妨げられず真の自由意志のままの行動ができ得るようにな
るかと申しますと、私が常に申しておりますように、世界人類の平和を願うのは、神のみ心そのもの
であり、世界平和の祈りは、世界人類の誰しもが心から希求していることなのであります。
ですから、何事をするのも、その一挙手一投足の間も、世界平和の祈りを根底にして生活すれば、
その人の想いはいつでも神のみ心の中で生活していることになり、いくらその人の本心を業の波動が
つつんでいても、その業想念波動ごと、神の大光明の中に運びこんでいることになり、いつの間にか、
本心の自由意志を妨げている業の波動も神の大光明の中で浄まっていってしまうのです。
すべての個人がそうした生活をしていればおのずから世界人類が光明化し、平和な交際ができるよ
うになってくるのです。この事実は私たち多くの人々が実践していて、大きな好結果を得ているので
す。人間の一人一人には守護の神霊が慈愛をもって守っていて下さるのであり、各国家民族もそうし
た慈愛に守られているのです。その真理を今日までの人々が、はっきり知らなかったため、人類世界
は今日の苦境にまで追いつめられてしまったのです。しかし、今や世界平和の祈りという易行道によ
って、守護の神霊の救済の大光明が、この地球界に輝きわたる時になってきたのであります。どうぞ
一人でも多く、一日も早くこの祈りの実行に参加して下さることを願って止みません。鵬
104
問陥生命と想念の関係についてお教え下さい。
答生命と想念の関係を知ることは、真実の人間を知る上において最も大事なことであるのです。
この生命というものは、宇宙に遍満しているのでありますが、人間の五感に触れ得ず存在する生命
め働きと、五感に触れ得る物体という形の世界で働いている生命とがあるわけなのであります。
そして、すべての生命は、私たちが宇宙神と呼んでいる大生命の働きなのであります。この大生命
め働きは、無限の智慧、創造力をもって種々な種類の働きをしておりますので、それぞれの働きの根
源に、宇宙神(大生命) は、各親神として分れ分れの光(姿)で、その働きを司どっておられるので
す。そうして、こうした親神様の働きで、様々な生物が、この地上界に生れいでたのでありますが、
人聞以外の生物は、すべて、親神様の被造物として存在しているのであります。従って、親神様のも
っているような、智慧や創造力をもっていないので、創造された各種の状態をみずからの手で進歩さ
せたり、改善したりすることができずに、創造されたままの状態が自然に変化するにまかせてゆくわ
けなのであります。
しかし人間は、親神様(直霊) の分生命として、霊体、幽体、肉体という体を働き場所とし、親神
様と同じような、智慧や創造力や愛の心をもって生活してゆける、神の子である存在者なのであって、
外部の力で創られたるものではなく、創造主の分生命がみずから自己の肉体を創って、そこに住して
いるわけなので、被造物ではないのです。
そこで、この分生命(分霊)が、本来そのままの、生命の能力を出しきっていれば、それは光その
さわ
ものであって、なんの碍りもなく、親神様のみ心をこの地上界にうつし出すことができるのですが、
こんぱく
霊体、幽体、肉体という体をまとって、各体的な波動、つまり魂塊的要素を加えたことによって、生
命の光は、素直に親神様の光を現わすことができにくくなり、霊魂魂としての波動を出すことになっ
ひびき
てきたのです。この霊魂魂的な波動が、想念波動といわれるものなのであります。
ですから生命は霊そのものであり神そのものであって、霊的波動、つまり光の波なのであり、完全
れいこんぱく
円満性の波動なのでありますが、想念とは、霊に魂魂の波動が加った、霊魂塊としての波動なのであ
ばく
ります。こうした想念波動の世界を業生の世界といい、霊なる光が塊要素、物質要素によって、その
こん
光を蔽われている状態の世界なのです。魂とは霊要素と魂要素との混交されたものであります。
従って、生命(神) の力なくては魂魂は生れず、想念を発することもできず、この現われの世界は
存在しないのですが、塊の力、つまり物質の力に魂が把われすぎると、霊的光が薄くなって魂の輝き
105
は弱くなり、業想念の波が、厚く、ひろく働くことになり、この世は自我欲望の想念で乱れてしまい、
神のみ心とは全く相反する世界を現出してしまうのです。
そこで、神の世を現わす過程として人類がこのような姿になることを、かねてから予測しておられ
た親神様は、その光明力を人類救済の面に分け光らせて、守護神となし、人類の古い祖先から浄化せ
しめて、守護霊をつくり、守護神、守護霊の力をもって、人類に、神本来の生命の力を素直に発揮さ
せて、この世を業想念行為の世界でなく、光明波動の世界に仕上げようと、働かれているわけなので
あります。
ですから私共人間は、すべての想念を、守護神、守護霊のみ光の中に一度びは投げ入れて、守護神、
守護霊のほうから改めて生活を頂くようにすると、今度は自己の心から発する想念も、生命本来の神
の子的光明力となって、その生命力をこの世においても、十二分に働かせ、神の世顕現のための働き
をすることができるようになるのです。
そうした真理を私は、守護の神霊への感謝行を加えた世界平和の祈りとして、人々に知らせている
のであります。
この世界平和の祈りこそ、業想念波動渦巻く地球世界において、そうした業想念波動に巻きこまれlOG
ず、神本来の生命の光を、容易に輝やかし得る、最大の方法であると私は信じているのです。
何故業想念波動に巻きこまれないかと申しますと、業想念波動は、すべて現われては消えてゆく姿
として、救世の大光明に融合する唱え言である世界平和の祈りの中に入れてしまうから、業想念波動
は、大光明波動の中でいち早く消え去ってしまうのであります。いいかえますと、小生命についた汚
れごとを、常に大生命の光明である、世界平和の祈りの中に入れてしまって、時々刻々、小生命の洗
濯をしているから、小生命は業想念の汚れに染まる暇なく、生命本来の輝きをこの世において現わし
得るわけなのです。
結論的に申しますならば、生命は神そのものの光であって、霊そのものであり、想念とは魂魂より
出ずる波動である、ということであります。
想念の中には、善い想念も悪い想念もありますが、私は、そのどちらの想念も、すべて一度びは世
界平和の祈りの中に入れてしまい、世界平和の祈りの中から、再び浮び出で、行動される、想念行為
おもい
を、神のみ心として取ってゆくことをお薦めしたいのです。自己の意だけで、自己や自己の周囲や団
体の善悪を考える場合、それは常に自己本位になって、善悪を正当につけがたいものなのであります。
そこで私は、善と想い、悪と想うのも、神から離れた想いでしてはいけない。いかなる場合でも、
107
その真意を神に問うて、その後に神もよおし、神はからいにて事を計ることがよいと思うのです。
すべての想念行為を、世界平和の祈りの中へ入れきった生活をしていますと、自分では考え及ぼぬ
ような、智慧才覚が、おのずから、ひょっこり浮んできて、神はからい、神もよおしの想念行為とな
うて、自己の生命を有意義に働かせ得ることができるようになるのであります。
人間の誰にでも、守護の神霊は必ず守っていて下さるのです。守護の神霊は、常に、肉体人間の背
後から、種々と教え導いていて下さるのです。この導きのままに動いていれば、その人は絶対に困る
ことも、不安になることもないのです。この導きを最も誤ちなく受け得るのが、世界平和の祈りによ
る生活なのであります。
108
問鵬先生の教えの中で、自分と調和しというお言葉がありましたが、この点をもう少しくわしく
お教え下さい。
答よいご質問です。自分と調和し、ということは、本心と調和しということで、業想念の自分と
調和しということではありません。自分と調和することができないと、人とも真実の調和はできませ
ん。これはなかなかむずかしいことなので、常に自己の想念行為をみつめ、本心の平静を乱すような
想いがでたら、消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中に投入しつづけてゆく日常生活によって、
次第に本心との調和が完成してゆくのでありまして、一朝一夕でできるものではありません。
私は、自分と調和しとか、自分を赦し、自分を愛しとかいって、常に自分というものを出していま
す。他人と云々ということはどこの教えにもあるのですが、自分自分というように自分というものを、
はっきり表面に出したのは、私の教えの特徴でもあるのです。
私は自己完成というものが、すべての根本になるものだと思っていますし、その自己完成がそのま
ま、他との調和生活を生み出すものだと思っているのです。
自己が完成されていないでの、他への調和への働きかけはどこかに無理があったり、妥協であった
りするのです。といっても、自己が完成されてからでなければ、他への働きかけができないかという
と、そんなものではないのですが、それには、常に自分を磨きつつ他への働きかけという行き方をし
なければなりません。自己がまるでできていないような人、自己を磨こうともしないような人が、社
会運動などをしていますと、とかくその人の行く先き先きに風波が絶えないというようなことがある
ものです。自己が磨かれていないで、どうして社会の指導などできるでしょう。
社会主義者や共産主義者が、ともすると、闘争一点ばりになってゆくのは、自己の本心との調和が鵬
できていないから、その不調和が外にうつって、外の世界も、破壊、闘争、不調和といった姿になっ10
1
てくるのです。
自己の本心との調和ということは、どうしたらできるのでしょう。仏教の人たちは、常に自己完成
を主にしていますので、他への働きかけがにぶくなっています。自己完成が必要だといっても、自己
完成だけにあまりに時をかけすぎると、他へはなんらの働きかけもできぬうちに、この世の生涯を終
ってしまったりしますので、私は、自己完成の道と他への働きかけとが、一つの道、一つの時間でで
きる方法を、神様から仰せつかってやることになったのです。
それが、消えてゆく姿と世界平和の祈りなのであります。自己完成を主にする人は、他への働きか
けに消極的な人が多いのです。これはあまりにも常に自己をみつめすぎていますので、自己の本心
(神の心) と、自己の想念行為との差が、いつでも気になるわけなのです。そして、私はまだまだこ
んなことでは駄目だ、人様に働きかけるなど、とんでもないというふうに、自己の業想念をつかんで、
自己卑下の態度になってしまうのです。
他からみると、ああいう人たちが働き出せば、他への良影響が大きいのだが、と思えるような人々
は、引っこみ思案で、あんな人が、と思われるような人々が、積極的に外に働きかけてゆくのですか
ら、この世はなかなか善くならないのです。
ですから、自己の本心と完全な調和ができない人でも、調和しようという道に入っている人は、同
時に人にも働きかけてよい方法を見出さなければならなかったわけです。それが消えてゆく姿と世界
平和の祈りの道なのであります。
消えてゆく姿と、世界平和の祈りの道が、どうしてそうしたことになるかと申しますと、消えてゆ
く姿というのは、この世の不調和、不完全の姿をいうのであります。なぜ不調和不完全が消・兄てゆく
姿なのであるかといいますと、この世はすべて神のみ心の顕われでなければならない。神は全智全能
であって、完全そのものであるのですから、神のみ心に現われてきたものが不完全なわけがないので
す。人間は勿論神の子ですから完全円満でなければならぬわけなのです。
ところが、この現われの姿は、不完全、不調和の姿が多くでています。これはどうしたことでしょ
う。神様が完全なら、なぜこのような不完全な姿をつくったのか、という質問がでるのは当り前なの
であります。
しかしよく考えてみますと、神様のみ心は完全円満であられたとしても、この現われの世界はまだ
未来にむかって進行中でありまして、完成されていない世界であることがわかります。完成されてい
111
ない途中の状態では、どんな物事でも、完全であるわけはありません。地球世界は未完成であって、12
←
完成へ向っての過程にあるわけなので、地球人類は神の子でありながらも、未完成の中にあって、そ
の完全なる姿を、いまだに現わし得ないでいるわけです。ですから、本来は完全円満である神の子であ
る人間が、この地球界において、その本心本体を現わしきらずにいる過程に現在は在るわけなのです。
完全円満であるべき神のつくり給うた人類が、地球世界においては不完全不調和な姿を現わしてい
るのは、こういうわけであって、未来は次第に完成にむかってゆくのであります。そこで、真実の自
分、つまり本心との調和もなかなか一朝一夕ではできないわけですが、個人が本心との調和ができな
ければ、人類が神の子としての完成に向うわけにはまいりません。
そこで、消えてゆく姿と世界平和の祈りの方法で、このむずかしい問題を解決してゆくのですが、
消えてゆく姿というのは、本心に反する姿、神の子らしからぬ想念行為、つまり不完全、不調和の姿
を、次々と消し去ってゆかなければ、人間の本来性として内奥にある神の子の姿、つまり本心が現わ
れ出ようがない。私はこの本心と違う想念行為、不完全不調和の姿を、どこかへ捨て去ろうと思った
のです。ところがどこへ捨て去るにも捨て去るところがない。そこで私自身は、神のみ心の中に、私
自身全部を投げ入れて、業想念行為を捨て去ってしまったのですが、他への働きかけとしては、もう
一歩進んで、世界人類のすべてが平和になり大調和になるようにという、世界平和の祈りを実践する
ことを提唱しはじめたのです。
神のみ心は完全円満で、大調和なのですから、世界平和を祈念することは、神のみ心と全く一つと
いうことになります。と致しますと世界平和の祈りをするということは、そのまま神のみ心に飛びこ
んでゆくことであり、今度は神のみ心がその人を通して世界中にひろがる働きとなるわけなのです。
こうした理由で私が世界平和の祈りをはじめますと、世界平和の同志たちが次々と、世界平和の祈
りをしている人々は大光明につつまれている、と報告してきたのです。それは仲間うちだけでなく、
他からもいってきているのです。もっとも私には、世界平和の祈りは、守護の神霊の集団の救世の大
光明による人類救済の祈りだ、という神示によってなされたのですから、わかる人々がそういってく
ることは当然であると思っているのです。
そして何がでてきても、それは本心開発のために業因縁の消えてゆく姿として、そうした業想念的
感情や環境を、そのまま世界平和の祈りの中に投入させているわけなのです。こうしますと、自己完
成の道と、他への働きかけとが一つの道でできて、卑下にも高慢にもならずやさしく光明生活が送れ
ることになって、知らぬ間に自分との調和も他との調和も成就してゆくのであります。m
U4
問価宇宙人と地球人との一番の違いはどこにあるのでしょうか、また、地球人の心の波動を変え
れば、宇宙人との提携が出来るということですが、それはどういうことですか。
答宇宙人と地球人との一番の違いは心の持ち方です。どういう風に心の持ち方が異なるかと申し
ますと、地球人は自分と他人というものを、実にはっきり分けて考えています。そして、他の利益よ
りまず自己の利益と思います。思うというより本能的にそうなっています。自分の生命も他人の生命
も実は一つの生命の流れであって、二つに分けて考えるべきものではない、ということを、頭でわか
っている人はいても、実感として、実際の行動の上に現わし得る人は極く稀であります。
どうしても自分や自分たちというものと、他人や他国というもの、つまり利害得失の結ばれ合った
同志が仲良くし、利害得失が分れれば離れるという、生命の結ばれではない利害得失の結ばれによっ
て、この社会が運営されているのです。そしてそこから生ずる悪い結果を見ると、それを非難しなが
らも、自分みずからが、そうした想念の波め中からぬけ出られないで、一生を送ってしまうものが、
地球人の一般人なのです。
ところが、金星なら金星の宇宙人には、そうした自己保存の本能から生れた業想念が全く無いので
あります。それではどんな心で生活しているのかと申しますと、神の生命の結びつき、つまり、各人
が一つの生命によって動かされていることを、実にはっきりと知っているのです。
一なるものの生命を、自己の天命のおもむくままに運営してゆくのが自分である、ということをお
互いが知りつくしているのであります。ですから宇宙人の心には、自分だけの損得などという想いは
かけら程もないのです。自分の心の動きは、それは常に天命に適ったものであって光そのものである
のです。お互いがそうなのですから、お互いの思い違いだの行き違いだのということはなく、大きな
神のご計画通りを、お互いが一つ一つの天命として分れ分れに成し遂げてゆくわけなのであります。
仏陀キリストの集りともいうべきなのです。こうした宇宙人の偉大な心境も、一朝一夕で生れてきた
のではなく、地球人と同じような、光と業想念波の混合していた世界に住みついていた時もあったの
ですが、より秀れた星の世界の宇宙人の援助で、今日の金星の宇宙人が誕生したわけなのですから、
地球人もそうした宇宙人の援助によって、いくらでも偉大なる心的進化も望み得るわけです。
ところが現今、宇宙人宇宙人と誰かが騒ぎ出すと、興味本位に、宇宙人との提携を夢みる人々が現
われてきて、やれ金星、やれ火星といっていますが、宇宙人との提携はそう生やさしく出来るもので
はありません。宇宙人との提携を望むならば、まず自己の心から興味本位の想いを捨て去り、真実に
115
神のみ心を自己の想念行為に現わすように心がけなければ駄目なのです。16
1
神のみ心とは、一口にいって愛と真と美であります。自分だけが助かりたい、自分たちだけが良い
子になりたい、という自我欲望の想いがあっては、決して真実の宇宙人との提携は出来ません。そこ
で私達の方法は自我欲望を消滅せしめる世界平和の祈りによる宇宙人との提携ということになるので
あります。
宇宙人と地球人の心の相違は、宇宙人が神のみ心そのもので動いているのにひきくらべ、地球人は
自我欲望の業想念で動いているわけなのですから、まずこのギャップを除かなければならぬことにな
ります。ところが長い間に積み重ねた業想念が一朝一夕で除かれるわけがありません。
そこで私は、そうした地球人の業想念を、神様のみ心の中で消滅して頂こうと思ったのです。それ
が今日の世界平和の祈りのはじまりなのです。私たち一人一人の人間には、必ず守護の神霊が三人以
上は守護していて下さるので、その守護の神霊の方に常に感謝の想いをむけていさいすれば、その人
は幸福にならずにはいられないし、心の清らかな人にならぬわけがないのです。私はまず私自身が、
守護の神霊の中に自己のすべてを投げ入れてそこから新しい自分となって生れ変ってきて、霊覚者と
なったのですから、何人でも、守護の神霊への全託がなされれば、神のみ心を自己の生活にそのまま
現わし得ることができるのです。
そこで、その方法をもっと深くひろく拡げて、世界人類の平和を祈願する、世界平和の祈りという
人類の大悲願の言葉の中に、個人的な願いをも含めて祈り言葉を昇華せしめたのであります。こうし
た方法で日常生活をやってゆきますと、自分の中にあります業想念が知らぬ間に消え去ってゆきまし
て、宇宙人の心の波に合致する清らかな正しい心の波が自分の心から流れでてゆくのであります。
それはどうしてかといいますと、この世界平和の祈りは、各守護の神霊が、一つに集って、救世の
大光明となって輝きわたっているところからひびいてくるものなので、そのひびきにこちら側が合わ
せますと、その大光明にすべてが融かされて、神の子人間がそこに生れ変ってくるのです。
ですから、自力で力んで自分の業想念を消し去って、宇宙人の心の波に合わせようというのではな
く、おのずから宇宙人の心の波に、世界平和の祈りのひびきが合わせてくれるのであります。
宇宙人は私たち世界平和の祈りの同志の動向を最も大きな期待をもって眺めているのです。私たち
の提携は次第に深くなりつつあります。それはいと静かに、いと和やかに、いと穏かに進められてい
るのであります。その成果はやがて序々に現われてくるでありましょう。
117
問冊私は目下罪悪の問題で混迷中です。生長の家では、罪本来なしと悟れば罪なきなリ、といっ
ていますが、実際に過去一切の我々の罪悪が滅尽するのでしょうか、それとも観念論にすぎないので
しょうか、お教え下さい。
答罪本来なしと悟る、ということは、口や筆では楽にいえますが、実際問題としては、なかなか
どうして悟れるものではないのです。罪本来なし、という悟りに至るためには、肉体身として、神の
み心を離れてあるように見える人間は、実は消えてゆく幻影のようなもので、実在しているものでは
ないのだ、実在として在るのは、神そのものであり、神の光明の一筋一筋である神の子の生命がある
のみだ、だから、肉体身として在る自己の全想念は、すべて神のみ心の現われである、という体得が
なければならないのだ、というところまでこないと駄目なのです。
ただいたずらに、罪本来なし、肉体なし、病気なし、などといっているのは、あなたのいうように
観念論ということになるのです。深い真理を易しく説くことはよいのですが、あまりに、現実から飛
躍してしまいますと、言葉としては易しく聞えるが、実際としては手がとどかなくて、その中間に立
って、上にも下にも自己の居場所が無くなってしまうような心の状態になってしまうのです。
罪本来なし、ということは全く真理なのです。神の完全性の中から、不完全な人が生れるわけがな
its
いからです。しかし、これはあくまで、本来なし、本質として無いということでありまして、その本
来性、本質が、この地球界に現われるためには、或るこの世的な時間経過が必要になってくるのです。
現在の地球界の様相は、どうみても、罪本来なし、の様相ではありません。罪も不幸も充満してい
るように見えます。こうした現在の姿は、いくら眼を閉じて見ないようにしようとしても、見えてく
るし、聞えてもくるわけです。
自分自身の心の問題でも、その大小はありますけれど、同じように、完全な現われ方はしていない
のです。そこで、どうしても、神の本質のすっかり現われきるまでの、想念の在り方、心の状態の在
り方というのが問題になってくるのです。
罪本来なし、病気なし、貧乏なし、といっても、自己の奥底の心からそう想わなければ、その罪も
病気も貧乏も消えてはゆかないのです。いくら自己にいいきかせたところで、単に自己の想念をごま
かしているだけで、本質が開いてきているわけではないのです。そこで、真理を知ると、かえって自
己の心が、知らない時以上に悩んだり苦しんだりしてしまうのです。自分は駄目だ、自分にはできな
い、という工合にです。
私はこうした真理の道に入りきるまでの、人間の想念の経過を自己も体験して知っておりますので、m
ヘヘヘヘヘへ
神のみ心、神の本質、神の子の真実の姿が現われるまでの掛け橋として、消えてゆく姿、という言葉
を中にはさんだのであります。
神のみ心は不完全なものでありようがないのだから、その分生命である神の子人間にも不完全な姿
があるわけがない。しかし、この地球界に、神の子の光明がすっかり現われきるまでの途中経過とし
ては、途中経過としての当然なことである、完成されていない現実が現われでているので、その不完
全のように見える姿は、あくまで、神の子の完全性が現われるために、次第に不必要になってきてい
る、あらゆるものごとの消えてゆく姿なのだと説いているのであります。
そして、その消えてゆく姿を、肉体的存在としての個人や人類を苦しませぬ消えてゆく姿にするた
めには、肉体人間として存在する以外の、神の光明のみ働きである守護の神霊への加護を願って、守
護霊、守護神への感謝行の中に、すべての消えてゆく姿的物事事柄を投げ入れてしまえと、説くので
す。その上、自己の想いとしても、人類の真実の姿である大調和した世界を築きあげる一役を買う、
という実際の方法として、世界人類が平和でありますように、という、世界平和の祈りを、おすすめ
しているのであります。
この世界平和の祈りは、守護の神霊の大集団である救世の大光明の働きの場から働きかけてきてい120
る祈り言なのですから、この祈り言をやることによって、自己の想いも自然に世界人類の平和という
大きな根本的な生き方につながってゆくし、実際的にも、救世の大光明の光が、自己の肉身の場を通
して、世界中に広がってもゆくので、個人と人類が同時に深まってゆき、その本質を現わすのが楽に
できるようになるのです。
ですから、真理の言葉だけにつかまっていて、その翼理の言葉に自由を失ってしまうようなことを
していないで、実際に神との交流が日常茶飯事の中でも行われる、世界平和の祈りのような祈り言の
中に、あなたの想念を入れきって、世界平和の祈り言の中から、正しい日常生活、平常心是道の生活
をしてゆけばよいと思います。
どんなよい言葉でも、その言葉だけに把われていると、真理が消えてしまいます。何事何物にも把
われぬ、生命の自由ということ、自由自在心というのが、悟りの根本のことなのですから、どうぞそ
のおつもりでご精進下さい。
問醇先生は地球人類は必ず救われるとおっしゃっていますが、私たちの眼では、どうにも救われ
ようがないようにみえますが、一体どのようにして救われるのでしょうか、お教え下さい。皿
答実際に普通の人の眼では、とてもこの地球人類は救われそうもない様相を呈しています。米ソ
の原水爆競争をみていますと、誰しも世の終りを想像するのは当然なことです。
確かにこのままでは人類は滅亡するに違いありません。私が地球人類は必ず救われるというのは、
現在の世界の政治家たちに望みを託しているからではないのです。
カルヤ
今日までの人間の考え方では、現在の利己主義的な業想念の波動の世界から抜けることはとてもで
きる筈がありません。自我欲望の想いの世界をぬけきらない政治では、この世界を平和にしてゆくこ
との不可能であることは、米中ソの対立をみていれぽよくわかります。
個人や国家が、自分たちの利益をまず考えて、その上で他との交流をはかろうとしているようでは、
お互いの利害が対立するにきまっているのですから、平和になるわけはないのです。
そこで私たちの考えは、そうした利己主義的な想いを、まず、世界中が念願している、世界平和と
いう根本的な想いの中に入れきることを最初にすることにしたのであります。
世界中の心を一つに交流させるのは、世界人類の平和を念願することより他にはありません。こう
した私たちの想念は、宇宙大神にもはっきりひびいてゆきますので、大神様のほうからそれでは、み
んながこぞって、世界平和の祈りをなさい、そうすればその祈りはそのまま、大神様の人類救済の大
122
光明と合致して、この地球人類の誤った想い、つまり業想念波を浄め去ってゆくから、というお示し
があって、今日のような世界平和の祈りが生れたのであります。
人類の今日までの自分勝手な想いを浄めないで世界平和などいったとて、それは駄目です。ですか
ら、そうした自分勝手な想いは想いとして、その想いもこめて、世界平和の祈りをしなさい。さすれ
ば、救世の大光明のひびきは、そうした業想念をそのまま光明のひびきに融けこませて、禍変じて福
となるようにしてしまう、というのです。
凡夫がそのまま菩薩になり得るのが世界平和の祈りなのであります。この祈りによって、次第に人
間の想念が浄まってゆき、やがて、多くの人々の心が神のみ心と一つになってゆくようになるのです。
そして、その後が今度はいよいよ実際面の地球界の建て直しということになるのであります。実際
面の世界平和樹立ということになりますと、皆さんはすぐに現在やっているような政治力を想い出す
でしょうが、現在やっている政治は、実は神のみ心の現われではなく、消えてゆく姿のほうの現われ
なので、これからの政治というのは、今日までの在り方とはまるで違うのです。
ヘヘヘヘへすがた
政治とは日本ではまつりごとといっていまして、神のみ心の現われた相をいうのであり、また、神
のみ心を現わすためのものであったわけです。そうした本来の椰貯還えることによって、この地球界鵬
が平和になってくるのです。
さあ、それを一体どのようにしてやるかということが間題になってきます。こうなりますと、もう
地球人類だけの力ではどうにもならなくなります。世界平和の祈りの光明波動に乗って、いよいよ宇
宙人の積極的な援助がなされる段階になってきたのです。
宇宙人というのは、智慧能力ともに地球人類とは格段の差のある、全くの神人の集いともいうべき
人々でありまして、その科学力などは地球人類の能力からはとても考えられぬ程の力をもっているの
です。
そうした科学力をもった宇宙人たちが、その科学力をもって、いよいよ地球人類の完全平和のため
に、本腰になって援助の手を差しのべて下さることになったのです。私たちは、早くからその事実を知
っていましたので、世界平和の祈り一念で、地球界を光明波動で浄めながら、今日の来るのを待ってい
たのであります。そうした信念が、地球界は必ず救われるという私の確言になってきているのです。
平和な調和した祈り心をもった地球人類と神の使者の宇宙人たちとの、全き協力によってこの地球
界の平和は達成されるのです。ですから私たちの為すべきことは、ただただ、世界平和の祈りによる
光明波動の放射ということであり、自らの心の平和、業想念波動を超越する心の在り方で常にいられ
124
るようにとの修練なのであります。
自らの平和な心が、世界平和をつくり出すのであることを、私たちは夢々忘れてはならないのです。
そのことを想うと、寝ても醒めても世界平和の祈り一念ということになってくるのであります。自分
たちの日常生活のすべては、世界平和の祈りが根底になってくりひろげられるものであることを、よ
くよく知っていて下さい。
問㎎ 聖書の言葉に「初めにことばあリ、ことばは神と倶にあリ、ことばは神なりき」ということ
があリ、尊い真理の言葉と思われますが、その真意が深遠て、胸にこたえる程掴めませんので、ご教
導下さい。
答ことばと申しますと、普通の考えでは、肉体の声帯を振動させて出てくる、いわゆる声によっ
て現わされている言葉だけのことのように思うわけですが、イエスのいうことばや、神道でいうこと
ばは、神のみ心のひびき、光のひびきをいうのです。光のひびきというのは、人間の肉声を振動させ
て現われれば、普通いうことばともなるわけなのです。
しかしながら、神のみ心のひびき、光のひびきは、宇宙万物を創造する力をもっていまして、すべ
X25
てがこのひびき、即ちことぽによって成っているのであります。
「神光あれといえば光ありき」とある如く、神とことばとは全く一つのものなのであります。神が
宇宙の実体を現わす表現とすれば、ことばは神の作用を現わすものである、といえるのです。
ですから、ことばは神と倶にあり、ということになるのです。地球の人類は、あまりこの真理を知
らないので、無造作に、不用意に言葉をつかっているのです。人間の想念というのもことばの一種な
のですから、人間の想念の波は、その想念の波の世界を創ってゆくのです。
神のひびきも、人間の想念の波も、言葉のひびきもすべて事物事柄や運命そのものをつくり出して
ゆくのでありますから、人間の想念や言葉は非常に大事なものであるのです。
この真理を地球人類の多くの人々が知らないと、いつまでたっても、この世の平和は成り立たぬこ
とになるのです。イエスは勿論、賢者聖者といわれた人は、みなこの真理を知っていて、種々の方法
で人々に知らせようと働いていたのです。我が国では神道の翫釜の教えがそうなのですが・現代社会
の在り方と、今日までの言霊の説明の仕方とが、離れ過ぎていたような感じがしていて、人々は言霊
などというと、特殊な人たちの研究だと思って、興味をよせなかったものでしょう。
言霊というのを、ひびきと簡単に訳してもよいわけなので、なるべく、一般大衆にわかりやすいよ126
うに説明することが必要だと思います。
ひびぎ
アイウエオの五十音でも、みなそれぞれ神の光の律動なのでして、各種の創造の動きなのでありま
す。人格的に表現すれば、アの神様、イの神様というわけです。そして、私共肉体を持った人間は、
誰でも、この神々の光の末の働きをしているのです。
キリスト教的な考え方からすると、神というのは、創造主、絶対者としての唯一の神を説いていま
して、働きとしての神々という形ではあまり説いておりませんが、神は唯一でありながら、働きとし
て諸神諸仏ということになるのであります。
それはあたかも、太陽は一つであるけれども、その働きとしての光の波は無数に放射されているの
と、同じようなものなのであります。ですから、神は唯一神でもあり、諸神でもあるのです。それを
古事記などでは、巧みに説いているのです。
何の神、何の神というのは、光の働きにつけられた名前なのであります。古事記の神々の名前をみ
ていますと、実にその働きがよくわかります。私共人間は、そうした神々の働きをこの肉体界で果そ
うとして働いているわけなので、神々の光のひびきの延長なのですから、神の子なのです。ですから
宇宙神のことを親神様という呼び方をしている宗教もあるのです。
127
大親様のみ光、親神様のみ光を身心に沁みこませて、私共は各自の天命を完うしてゆかねばならな
いのですが、地球界の人々は、肉体人間としての物質的波動からくる、自我欲望の業想念で、この神
の光を自ら汚してしまっているのです。
ヵルマ
人によっては、全く神の光を覆いつくしてしまっている、業想念波の固りのような人間も出来てい
るのですが、現在肉体界の近くに降り立っていられる、守護の神霊団、つまり救世の大光明波動は、
私たちが唱えている世界平和の祈りの光明のひびきに合致して、この地球界の浄化に大きな働きをつ
づけていられるのであります。
私たちはいつでも、神の大光明と一つになれる世界平和の祈りの日常生活をつづけ、イエスのいう、
神と倶なる心のひびき、清らかなことばをもって、地球世界の天命を果してゆきたい、と思いつづけ
ているのです。
「初めにことばあり」確かに私たちの日常生活も、先ず初めに神のみ心、神のみ光と等しい正しい
心のひびきをもって生きてゆかねばならぬと思います。
神のみ心と一つの正しきひびき、それは世界平和の祈り言であるのです。
12$
問佃宗教活動で病気や天災のない社会を実現できますか。
すがた
答宗教活動の根本的なことは、神の完全円満性、大調和な相を、この地球界にそのまま現わし、
個人も社会も真実の平安な生活を送り得るようになるためと、他界へ往っても、自由自在心でいられ
るようにという二つの事柄であります。
ですから、病気や貧乏や不幸な人間の姿がこの世から無くなるための活動でもあるわけです。しか
し、病気や貧乏は宗教的心の持ち方で直し得ることはできても、天災を心で防ぐことはできないだろ
う、と普通の人は思うことでありましょう。
ところが、天災というような形に現われる事態も、やはり人類の心の在り方によって起ってくる事
態なのです。いいかえれば、この世で起るあらゆる事柄は、すべて、人間の心の動き、すなわち、想
念波動によって現われてくるのであります。
現在自分が病気であること、貧乏であること、不幸であること、人類がしばしば天変地異によって、
なわざおもい
不幸になっていることなど、すべて、誰の為せる業でもなく、自分たちの想念の波の現われたもので
わざ
あり、人類の業想念の為せる業なのです。
この地球界に人類が誕生したのは、この地球界に神のみ心、み姿を現わすためであり、人類は神の
129
み心、み姿を各自に分けられて、この世に生れ出でているものなのであります。ですから、人類すべ30
1
てが、神より分けられた自己の本質そのままを、この世において現わし得れば、この地は忽ち、神の
国となるのですが、この地球界というのは、物質的な波動でつくられておりますので、その物質的な
波動の中で生活するためには、人類もどうしても同じような物質波動で生活しなければならなくなり
ます。そこで神の本質的霊波動と物質波動とのバランスをとらなければなりません。
カルマ
そのバランス、調和がとれるまでの間に、種々と波動の変動があるわけです。それが業想念波となり、
人類の不幸、不調和の姿として現われてきているのです。天災も波動調整の一つの現われなのです。
リズム
あの世もこの世も、光の律動と想念の波動とで転回されているのですから、この世の自我欲望から
くる業想念行為の巻き起す波動を、一切、神のみ光のひびきに換えてしまえば、あの世もこの世も大
調和してゆくわけなのです。業想念波を光のひびきそのものに切り替えてゆく道が宗教の道なのです。
宗教というと、なんだか科学的にみて、眉つばもののように思う人がたくさんいますが、宗教の本
質は科学の本質と一向変るものではないのです。今日までの宗教信仰の中には、実際に眉つばものの、
いわゆる迷信的要素のあるものが、かなりありますが、それをみて、宗教であると思ったりする人の
ほうが、研究不足なのです。
宗教信仰で病気を直すということまで迷信だと思っている人さえあるのですが、病気というのは、
精神的変動によって起ることが多いのでして、精神的抑圧によって、その想いが集中して毒素となり
肉体を冒かしてしまう場合と、精神的動揺がそのまま諸神経作用を阻害して病気と現われる場合があ
りますが、いずれも精神作用に他ならないのです。しかし、現在の医学では、前者の場合のことはあ
まり深く考えていないようで、誰にでも病名によって一律の医薬を用いているようです。進歩的な医
師の間では、癌などという病気も精神作用で起きるとさえいっています。
ですから病気の大半は精神的な作用によるのです。そこでこの人間精神を常に平らかに安らかにし
ておけば、肉体はいつも諸機能に故障を起さず、また轟素も少なくなり、健康が保持出来ることにな
るのです。
そして現在病気の人は、その病気の原因である、想念行為を、私流にいえば、消えてゆく姿として、
世界平和の祈りの中に入れっづけていれぽ、おのずから、病念が、平和の祈りの光明波動に変ってい
って、いつの間にか病気が直ってしまっているのです。観の転換ということになるのです。
病念や不幸の念波を、世界平和を祈るという人類愛的光明波動に切り替えれば、自然と暗い念波は
明るい念波に切り替わって、健康になり幸福になることは理の当然であります。宗教の世界というの捌
は、或る程度までは科学的な説明のつくものです。このように考えてまいりますと、宗教が病気を直
すということも迷信でないということが明らかになります。その立証は各新興宗教で、かなり多くみ
られます。病気直しや貧乏直しだけなら、正しい宗教といわれるもの以外の邪教的要素のある宗教活
動でも出来得るのです。何故かといえば、そうした病念を他の方向にふりむけさえすれば、病念と他
の念とが振りかわって直るからです。波動の変更とでも申せましょう。
ところが、それだけでは、人間が真実の幸福も平安もつかむことはできません。
この世は波動の世界であることは先程からも申し上げている通りですが、この波動を、一つの業想
念波動から他の業想念波動にかえたところで、神の光明波動にふりかわったわけではないので、いつ
までもこの世の争いや不幸は絶えません。まして天災地異を未然に防ぐすべもありません。
ですからあらゆる業想念を、神のみ心である、光明波動にかえてしまわないと、この世が真実の平
和世界になることはないのです。
例え医学やその他の社会施設で、病気や貧乏がなくなったとしても、天変地異だけはなくせません。
戦争や天変地異をなくしてしまうためには、そうした波動をこの世からなくしてしまわねばならない
のです。132
戦争や天災をなくし得るのは、ただ単なる観の転換だけではなく、この世の波動すぺてを光明の徽酬
に変えてしまわねばなりません。それがこの世の大平和を実現する唯一の方法なのです。そして、その
実現のためには祈りを根底にした生活よりないのであります。祈りもただ神様を祈るだけではなく、縦
と横とを十字交叉に調和させた、世界平和の祈りのような祈りの方法が最も効果ある方法なのです。
世界平和は神のみ心そのままの現われ、世界平和は人類すべての念願、世界平和の祈りこそ、神と
人類とが全きつながりを示す最大の祈りとしての価値があるのです。ですから宗教活動においてあら
ゆる不幸のない社会が実現出来るといえるのです。
問伽イエスキリストは海の上も歩けたし、二三個のパンで三千人五千人の飢をも満たし得る程の
神通力を持ちながら、なぜ十字架にかかったのでしょうか。また、聖書にはイエスが十字架にかけられ、
絶息する前に「神よ神よ、なぜ私を見捨て給うか」といったと書かれてありますが本当でしょうか。
答イエスキリストは超越的神通力を持っておられたことは確かなようです。しかし、そうした神通
力とその人の天命とは別に考えなければなりません。イエスの天命は、旧約聖書の予言を成就するこ
・とであり、十字架にかかることはその予言の最大の成就を意味することであって、みずからのキリス
133
トなることを確実に示すことになるからなのであります。私の著書「釈迦とその弟子」の中で、神通
314
自在の目連尊者が、自己に迫っている兇匁をはっきり知っていながら、その双に倒れることが自己の
最後の業因縁消滅のためであることを覚知して、禅定を組んだまま双に斬られて昇天してゆくところ
がありますが、イエスの場合も、自分の最後の場面を覚知していて、その通りになったのであります。
ばんさん
ですから、最後の晩餐において、イエスははっきりと、自己の運命を予言しているのです。イエス
にとっては、肉体的な死というものなどはあまり問題ではないので、自己がキリストであるところの
天命を完うしさえすればよかったわけであります。そうしたイエスが、予言的に定まった自己の運命
をわざわざ変化せしめる必要はいささかもないわけでありまして、神通力をつかう用がなかったわけ
なのです。イエスが十字架にかかったということは、霊的にも実際的宗教活動面においても、重大な
る意義をもつことであって、単なる革命家のギロチソなどとはわけが違うのです。それはどういうわ
けかといいますと、まず霊的な面の説明を致しますと、十字架と申しますのは、縦の棒は天を示し、神
のみ心、理想を現わしているのであり、横の棒は地の心、人間界の心、現実を現わしているので、陽
と陰、火と水ということにもなるのです。そしてこの縦と横の大調和こそ、この地球界における根本
理念なのであります。
この根本理念を実現するためには、肉体人間の力が絶対に必要なのでありますが、肉体人間という
ものは、聖書的にいえば原罪ともいうべき、自己保存から発した業想念の波動に巻きこまれていて、
この縦横の大調和世界を実現することは、到底困難なことに思われてきたのであります。こうしたこ
とは、大神様のみ心のうちでは勿論わかっておられることなので、イエスキリストを、そうしたこと
を行い得ない肉体人類全体の身代わりとして十字架上にはりつけさせ、縦横、天地の大調和を霊的に
実現せしめたのであります。
イエスキリストの肉体的苦難の大犠牲の行為は、地球人類の救われを、霊的に決定したものなので
あります。そしてイエスキリストはそうした自己の天命をはっきりと知っていたのであります。イェ
スが、キリストとなったのは、実は十字架上において肉体身を全人類のために投げ出した瞬間からな
のであります。キリストとは真理ということであり、真理を現わした人を何々キリストというべきな
のです。
こうしたイエスなのですから、神よ神よ、なんぞ我れを見捨て給うや、等という泣きごとじみたこ
とをいうわけがありません。私は聖書の原語はよくわかりませんが、恐らく後の人が、イエス程の高
い境地にいなかったので、自己の心に合わせて、そうした解釈にしてしまったのではないかと思いま鵬
す。私の霊覚では「神よ神よ、これで成就しました。これで成就しました」という意味の言葉をいっ
たように思われるのです。
次に実際的宗教活動面におけるプラスはどういうようなものであったかと申しますと、イエスの世
の権威を恐れぬ毅然たる態度と、その末路の劇的シーンが、世々における大きな物語的要素をもって
いたことが、キリスト教今日の発展の最大の効果となっていることは何人もいなめないところであり
ましょう。もしイエスが、無事平穏に長寿を完うしていたとしたら、キリスト教今日の発展はあり得
なかったことと私は思っているのです。こうしたところ、人問の心の動きは全く面白い動きをみせる
もので、神々はこうした人間の心の動きを巧みにとらえて、様々な宗教活動を各国各民族になさしめ
ているのであります。
私のような、世界平和の祈りの宗教は、今日において発展し得るためのものであって、前の世のも
のでも後の世においてのものでもないのです。私の宗教は、イエスのように旧約聖書の予言の成就を
常に心において歩みを進めてゆくものではなく、現実世界の現実生活の中に、現実生活そのものに融
合しきって、いつの間にか、この現実生活を神のみの生活に変貌せしめてゆき、やがて全人類がいつ
の間にか、神の世的姿を現わしてゆく、というようないき方をする宗教なのであります。
136
ですから、私の宗教は、過去からの予言に把われる必要もなければ、未来の予言につかまる必要も
ないので、ただひたすら、世界平和の祈り一念の生活に身心を投げ入れてゆけばよいだけなのです。
イエスキリストの教えが今日あのままの姿で現われても、もはや駄目なのであり、釈尊の教えが今そ
のままで現われてきても今日の世を救うわけにはまいりません。
今日には今日の宗教、世界平和の祈りがあるのであります。
問旧〃命にいたる門は狭く、その道は細い”と聖書にあるのですが、すべての人が救われなけれ
ばならないのに、命にいたる門が狭いというのはどういうことでしょうか。
答命にいたる、というのは、神のみ心と一つになる。真実の自由を得る。真理を体得する。本心
を開発する。というような悟道に入ることをいうわけですから、なかなか容易なことではなく、確に
その門は狭く、その道は細いのです。
今日までの宗教的な生き方からすれば、この世のあらゆる欲望を切り捨て切り捨ててゆかなけれぽ、
命に至る道を通るわけにはゆかなかったのですから、その門は狭く、その道は細いにきまっているの
です。
137
ところが、この世の人々は、誰も彼も、真実の生命の自由を得たいのだし、自己の心の平安を得た318
いのです。そのために、唯物的な人は、富や地位を求めつづけ、唯心的な人は神を求めつづけている
のです。しかしながら、人間が求める、命にいたる道は、キリストのいうごとく、狭く細いのであり
ます。
この狭い門をくぐり、細い道を歩みつづけるためには、どうしても、心にまとっている様々な欲望
という、厚い殻を、最少の薄いものとしなければならないのです。この論理からしますと、この地球
界の人間のうちで、真に救われる者は極く僅かな人よりない、ということになってくるのであります。
そこで、この質問が出てきたわけです。本当にこの質問のように、この世のすべての人が救われな
ければならないのに、救われることがそんなにむずかしくては、とてもこの地球世界の運命は見込み
がない、というようなことになってしまいます。この世の現状を見渡してみますと、どうにも救われ
ようがないとも見えるのです。キリストの言葉通りが今日にそのまま適用するとすれば、確かに人類
は救われません。
果して大神様は、人類の救われの道を、そんなに狭いものとして、今月までも一向に変更なさろう
とはしないものなのでしょうか、大愛の神が、そんなことをなさるわけがないのであります。
そこに守護の神霊の存在が必要になってくるし、救世の大光明の人類救済の働きが重大なものとな
ってくるのです。守護の神霊の力、救世の大光明の光の援助がない限りは、肉体人間の大半は、真実
の救われに入ることは出来ないのですが、幸なことに、守護の神霊の力が、総結集して、救世の大光
明となり、人類のすべてを救済する、大きな働きをして下さることになっているのですから、実に有
難いことなのであります。
その真実を知らせるために私はこの世に存在しているのであり、救世の大光明の働きを、世界平和
の祈り言として、誰にでもわかりゃすく行じやすく説きさとしているのであります。
宗教の道も、時代につれて非常に変化してきております。今日の世界のように物質文明文化が進み
すぎてきますと、釈尊やキリスト時代のような欲望否定の原理を説いてみても、あらゆる欲望が、か
なりたやすく満足でき得る習慣のついている現代人にとっては、無理難題に等しいむずかしい行いと
なってきているのです。
例えていえぽ、今日のように食べたい物がなんでもあり、便利に電化されている時代の人に、戦時
中のことを想え、戦時中の苦しい生活のことを想って、同じような耐乏生活をしろ、といっても、も
う便利な生活に馴れきっている人々には、どうにもそういう気にはなれないのであります。習慣とい
139
うものはそういうもので、その場、その時の止むを得ない、絶対の場に立たされないと、その習慣を
超えることはむずかしいのであります。いつでもそれができる人は、やはり並はずれた偉い人という
ことになるのです。
こういう人々が、キリストのいう狭き門をくぐり得る人なのでありましょうが、残念ながら、その
数は極めて少いものと思われます。そこで、私の提唱し実行しているような、世界平和の祈りによる、
個人人類同時成道の道が現われなければならぬ必然性があるわけなのです。
秀れた特定の人だけが救われるのではなく、凡夫といわれる一般大衆のすべてが救われる宗教、そ
うした宗教こそ現代の宗教でなければなりません。宗教の道はもはや狭き門であってはいけないし、
細き道であってもいけないのです。すでに先覚者の法然親鱒は、宗教の道を一般大衆、凡夫の世界に
広げ、何人をも救われの道に導き入れる広き門を開いていたのであります。
私たちはその門を更に世界人類のために広げた世界平和の祈り、として宣布しはじめたのです。
この道は、巷間の新しい宗教のように、現世利益だけに重点を置くのではありません。いかに現世
利益があったとしても、本心の開発がなされず、真の安心立命に至らなければ、その宗教は未熟なも
のであります。私の説いている道は、本心の開発が主であって、それに附随して、現世の利益も自然
140
に得られてゆく道なのであります。
消えてゆく姿で世界平和の祈り、この教えは、日常生活そのままで、
になり、神との一体化がなされてゆく教えなのであります。
いつの間にか、安心立命の心
問慨キリスト教系の雑誌に〃結婚前の女性”と題して、〃結婚はイエスも聖書でいっているよう
に、神の合わせられたものであリ、神によって二人のものは一体となったのですから、この聖なる人格
的契約をどんな理由があるにせよ、破ることは出来ない。離婚は罪だπ と牧師さんが説いています。
先生はどうお考えですか。
答これは非常にむずかしい問題で、ただ単に一般論としてこれこれだといえるものではないので
す。しかし、一応お答えしておきます。
私はイエスとは違って、結婚を二つの面から考えているのです。一つは神によって結ばれたもの、
一つは避葺世の業想念、つまり因縁の消滅のためのものとの二つの面の結婚があるということなので
あります。
もちろん
勿論、業想念の消滅という底には神のご意志が働いておることには違いありませんが、前者は、神
141
が結婚の姿そのままを祝福なさっておられるという結婚であり、後者は消えてゆく姿として神の認め42
1
られている結婚なのであります。ですから前者は、そのまま光を輝き出すプラスそのものの結ぼれで
あり,後者は、消えてゆく姿があった後、はじめて二人の光が現われてくるという結ばれであるわけ
です。
この差別なくして、なんでもかんでも、離婚は罪だ、といい切られては、後者の結ばれによる男女
にとっては、実にやり切れぬ程辛く苦しいことであろうと思われます。理想論は勿論結構であります
が、理想をあまり押しつけますと理想通りにはゆきかねるこの世の人々を、かえって苦しめ傷つける
ようになることが多いものですから、その点に気をつけぬと、宗教というものが人間の自由を縛る鎖
のようになって、宗教本来の使命である、自由解脱への道を閉じてしまいかねません。
私は人間をすべての縛りから解き放つ、ということを使命づけられてきていますので、善悪双方の
把われから、人間を解き放つことを第一の主眼にしているのであります。それが、自分を赦しという、
一切責め裁かぬ教えとなってきているのです。
人間の生活の中には、自分ではそのようにしたい、理想通りの善なる道をゆきたいと思っても、な
かなかそうはゆかなくて、自分の理想とは反対の方向へいってしまうことがなかなか多いのでありま
す。こうした人々に追い打ちをかけるように、それは罪である、そうしたことは神への不信行為であ
る、と責めたてることは、私のような心のものには、到底できることではありません。
ですから私は、その人が自己を責めている場合、責めながらも悔いながらも、その時その場の環境
で、どうにも離婚なら離婚をしなければならぬ、ということになった時には、その人の心の痛手が回
復するような言葉で、その人の離婚を認めてやることにしているのです。人によっては、他から責め
られても裁かれても、離婚しなければいられないような因縁をもっている場合があるからです。
過去世からの因縁というものは、そう簡単に消滅するものではなく、再婚なら再婚の運命にあるも
のは、もって生れたままの性質なり、想念行為では、その運命をくつがえすことは不可能なのです。
その人が、もし易者や観相家にそうした運命の予言をされたりした場合には、即座に、自己のもって
いる性質(性癖)なり想念を変える方向に自己を向わせなければならないのです。それは自分一人で
はとてもできるものではありません。それは真実の宗教の道でなけれぽならないのです。
その宗教とはどういうものかというと、自己の想念思想をすっかり変えてくれる程の強力なもので
なけれぽなりません。それは、私の提唱している世界平和の祈りのような、自己の想念を、世界人類
の運命を祈るという、大きな広い想念に変化せしめるようなものでなければ、いつまでも、もって生協
れた性癖や想念傾向の波にもてあそばされてしまっていて、いつしか結婚適令期になり、またたく間
に失敗してしまうような結婚に、業想念の波の中にもっていってしまわれます。
そうした人は、まず、自己というものを捨て去る訓練をすることです。その訓練に最もよいのが、
やはり世界平和の祈りなのです。そう致しますと、想念行為の波が光明の波に変化してゆきまして、
暗い運命をひき出すような結婚生活には入らないようになってゆくのであります。
結婚はなんといっても一度で済むに越したことはありません。そうした結婚生活に入るよう、相性
の善い妻なり夫なりが自己に選ばれますように、守護霊守護神の加護を願うことが必要であります。
その祈りも同時に含めたものが世界平和の祈りなのであります。
理想通りの結婚とは、一つの魂が二つに分れて、その二つがこの肉体界で結ばれる、というもので
ありましょうが、そうした百点満点の結婚というものは、この世ではあまりないようです。いかによ
いくばく
さそうに見える結婚でも、どこかに幾許の食い違いがあるものですが、その食い違いの少ない程善い結
婚といえるのでしょう。しかしこの食い違いを、かえってお互いの欠点の是正、長所の交流というよ
うにもってゆくことが、夫婦の間の正しい生き方であろうと思います。
他人の誤りや失敗は赦せても、夫や妻の非はなかなか赦せないのが一般人の心ですが、一番身近
144
に生活しているお互いこそ、過去世からの最も縁深い人であることを知って、その縁をいよいよ善き
縁となすように神に祈る気持こそ、尊い夫婦愛であると思います。
かこせ
そこにも私の説いている業想念所業は、過去世の誤りの消えてゆく姿という真理の言葉が大事なこ
とになってくるのです。愛と赦しの生活はまず夫婦相互の消えてゆく姿の体得と世界平和の祈りにょ
ることが、一番やさしい方法であると思うのです。
私のように日々夫婦間の問題の相談をうけているものは、種々様々な家庭状態を知っておりますの
で、ただ単にこちらが善であちらが悪というような裁定は下せないと思っています。その一事につい
ては妻が善い場合でも、結婚はじめからのいきさつを細かく知りますと、どちらがどちらともいえな
い場合が随分多いのです。
相性、つまり魂の波の合う合わぬ、性格の相違ということは結婚するものにとっては重要なるもの
でありまして、相性が非常に悪い場合にはお互いが、お互いの心を傷つけ合い、精神と肉体を損い合
ってゆき、社会人類の調和の波を乱してゆくという、大きなマイナスになることがあるのです。です
からそうした相性の悪い夫婦は、離婚させて、お互いにもっと相性のよい、異性と結び合わせるよう
にはかってやることが、人生指導者としても宗教者としても必要であると私は思っているのです。そ燭
うしてやることによって、一挙に四人の男女の生活が正しいものになり、社会人類の波が、それだけ
調うことにもなるのであります。
ですから私は、理想だけに凝り固った宗教観念は、人類を救うどころか、人類の真の自由を宗教と
いう名の下に縛りつけてしまうものである、と痛切に思うのです。
人間相互の因縁因果の波がわからぬような宗教者なら、観念論だけの説教で、消えてゆかんとする
業をひきとめるようなことをしないで、個人々々の想いの自由にまかせて置いたほうが、かえって早
くその人たちが救われの道に入るのではないかとさえ、私は思うのであります。
14G
問協A君は私の友人で、熱心なクリスチャンです。しかしなんといっても三十そこそこの青年で
すから、血の気も多く、議論しても相手を不愉快にする場合もあります。そういう時、彼はあとでひ
どくそのことを気にやみ、自己の良心の呵責に耐えかねているようです。
また美しい女性を見ると、彼も心が動かされることがよくあるそうです。心に姦淫を思うことは実
行することと同じだ、とキリストも教えているので、彼はそのことについても、罪の意識におびえる
ようなのです。常にそうした罪意識におびえている彼は、プラットホームで電車を待っている時など、
幕進してくる電車の前にとびこみたい衝動にかられるそうです。先生のご指導をお願いします。
答宗教をやった人、特にクリスチャソには、罪意識におびえる人が多いようですが、真実の宗教
の道は、実は人間を罪から解放することにあるのです。
私はそれを消えてゆく姿、という言葉で現わしているのです。肉体をもつ人間の中に、一体、神そ
のままの、罪なき人間がいるでありましょうか、ごく僅少の人以外にそうした人は存在しないのです。
生れてこの方怒ったことも不安になったことも妬んだことも、一度もないという人はいないでしょ
うし、青年時代に、女性をみても、姦淫の想いが全然起らなかったなどといい切れる人もあまりいる
ものでもありません。
宗教をやらない人々にとっては、そんなことはあたりまえのことで、表面的に良心の呵責などをう
けることなど、おかしなことぐらいに思うでありましょうが、A君のように、また私の青年時代のよ
うに、宗教の道に入って、すべてを神のみ心の通り、理想通りの生活をしてゆこうとしているものに
とっては、こうしたことにおいての、罪意識は、他人からみたらおかしいと思われる程、強いものな
のです。
ところが、こうした業想念や本能的な想いは、どのような手段で抑えても、余程超越的な人でない
147
と、とても抑えきれるものではないのです。そこで、そうした本能を抑えきれぬ自己の意志の弱さに418
対して、自己嫌悪の感情に把われてくるのです。
ですから、キリストのいう通りにはほとんどの人が実行し得ないし、でき得ないということにおい
て、その業想念に輪をかけて、自己嫌悪という業想念を積んでしまうのであります。
私はこのように、理想をそのままこの世において現わすことの無理であることを知って、本心と業
想念とをはっきり二つに分けて考えることにしたのです。そして、本心は理想通りの神のみ心であり、
神の子である。業想念は、そうした本心(神のみ心) を蔽っている肉体にまつわる想いであるが、こ
れは自分が把われさえしなければ、おのずと消えてゆくものであるのだから、どのような理想に反す
る想いが出てきても、その想いをどうのこうのと自己批判しているよりか、その想念ごと、神のみ心
の中に入れてしまう。つまり祈りの中に入ってしまう。その祈りが、世界平和の祈りだ、とこういう
のです。これは私が肉体的な自己を一度、全否定してしまって、すべてを神様にお還えししてしまっ
て、神様の方からの私になって、はじめられた教えなのであります。
ですからA 君のような人も、肉体としての自己がキリストのいう冒葉の通りに実行しなければいけ
ない、と思いつめた末に、そう出来なかったのですから、そうしたどうにも理想通りの行為のできぬ
自己を捨て切ってしまったらよいのです。捨てるといっても、どこへ捨て切るのかわからないでしょ
うから、神様の中に捨て切ってしまうのです。神様はすべてであり、A君の生命の大親様であるのです
から、神様のみ名を呼ぶだけにして、肉体人間である自己の想いに把われぬようにするとよいのです。
悪い悪いと思ったとて、できないものは仕方がないではありませんか。仕方のないことにつかまっ
て、嘆いたり、悲観したりしたとて、自己の生きる力を消滅させてしまっては、それこそ神への最大
のマイナスになるのです。
何故ならば、神は大生命であり、大光明であるし、人間はその分生命であり、光であるから、その
生命を生きいきと生かさないで、その光を輝かさないで、神だ、宗教だなどといっているのは、本末
転倒した生き方なのです。良心的なのはよいのですが、いたずらに理想主義になって、その理想と現
実との自分を結びつけて、そのへだたりの甚だしいのに幻滅してばかりいるのは、実につまらぬ生き
方で、神のみ心に反するのです。
枝葉末節の善悪に把われず、生命を明るく生かしきり、生き切ってゆくこと、まず自己の心の調和
を計ってゆくことこそ、人生の第一歩であるのです。
どうぞ、皆さんも守護の神霊への感謝行と消えてゆく姿、世界平和の祈りをもって、神と人間との
149
全きつながりの生き方をして下さるよう、願っています。
150
問伽誕生と共に往生は祝事であると、お説きになっていますが、普通の人はそう考えません。ど
うして往生が祝事であるかご説明下さい。
の
答 往生とは読んで字の如く、生れて往くということであり、生命があの世に往くことであります。
普通の人は、肉体の働きが停止してしまうと、人間の生命が滅びてしまった、無くなってしまった
といい、それを死と名づけて恐れおののくわけでありますが、私たちのように心霊的知識や体験をも
っているものは、肉体の働きが停止したことを、人間の消滅とはいわないのです。どうしてそういわ
ないかと申しますと、肉体の運動が止まったことと、生命が滅びてしまうということとは全く異なる
からであります。と申すことは、肉体の死というものは、単に人間の本質である生命が、肉体内で働
かなくなったことであり、生命そのもの、人間そのものが滅びてしまったことではなく、肉眼では見
えぬ波動の世界で、ひきつづき働ざつづけ、生きつづけている事実を知っているからです。
人間とは、いつも申しますように、神の光、大生命の分けられたものであって、神界という自由自
在に波動を変え得る世界にも住み、霊界という微妙な波動の世界にも働き、幽界という波動の世界、
肉体という粗い波動の世界で働いていることもあるのです。しかし、普通の人間、いわゆる肉体人間
は、人間の中で一番粗い雑な世界である、肉体界だけしか知らず、その他の世界に人間が住んでいる
ということなどはわからないでいるのであります。
こうした真理がわからない限りは、肉体の死に対する恐怖がなかなか去ろうとはしないでありまし
ょう。また、あの世の生活が自己にとって幸せになり得るものか、ということ、幸福な境界になり得
る方法を知っておかなくては、これも死の恐怖を超え得ることはできないのです。
このことは人間にとって実に大事なことであって、ただ単に神様といって信仰していれば、死んだ
ら直ぐに神様のみ許に往かれると思い誤っている人や、神様の存在は信ずるが、あの世があることな
ど信じられぬ、という人々は、余程その人の想念行為が、愛と真の道にかなっていないと、立派な往
生を遂げることはできないのです。
白光誌(本局で発行している月刊誌)で書いたように、往生は、誕生と同じように、本来は祝事で
あるのです。それはどうしてかといいますと、ある霊魂が、赤児として誕生することは、自己の修業
のためであると共に、人類の進化の一つの役割りを受け持たされてなさわるので、いかなる悪事を為
すものも不幸なる生涯を送るものでも、それはみな、自己の進化の過程であると同時に人類進化のた
151
めの一こまであるのです。512
それは神界と肉体界を真直ぐつなぐためのトソネル掘りのようなもので、掘りあがるまでは、皆が
泥だらけになって働くわけで、自分の持場が終って、体を洗い、すっかりきれいな姿になった人と、
まだ持場についたばかりで真暗な中で夢中でシャベルをつかっている人との相違があるだけで、掘り
あがれば、神界の光明がそのままそのトンネルを通して、この地上界に輝きわたり、肉体界そのまま
が神の国になるわけなのです。
ですから、現在泥だらけの真黒な心の人であっても、やがてはきれいに磨かれた光明体になるので
すが、そのためには、あの世とこの世の生れ変りを何度びかつづけて、種々な体験を積み重ねて、遂
いには、そのトソネル掘りの監督となり指導者となってゆくのであります。
こう考えてまいりますと、誕生も自己の本質である神の子を現わすための出発であり、往生もあの世
における体験を積みかさね、自己の本心を開顕するための出発であるのですから、誕生も往生も共に
ひこみこと
祝事であるのです。この理をはっきりわかっております神道では、亡くなった人が男なら彦とか命と
か名づけ女性なら姫と名づけています。そしてお祭りするわけでして、決してお悔みではないのです。
みことひみこと
彦とか命とか、姫とかいう名は、人間本来の神性を現わした名で、彦は、霊(日) の子であり、命
ひ
は、み言、コトパは神なりきの言であり、姫は霊(日) 女であり、霊の女であります。
このように本来の神性を現わすためのものとして、肉体の死をかえってお祭りとして祝ったのであ
ります。私は心霊のことをくわしく知っておりますので、亡くなればすぐにその人が神になったり仏
と一体になったりするとは思っておりませんが、霊魂についております業想念が、生れ変りの度ぴご
とに、落されていって本心開顕の道を歩いてゆく、ということのために、往生を祝蛮と思っているの
であります。
そして往生の道を、より効果あらしめるためには、往生する前のこの世の生活において、神のみ心
である、愛と真の生活を行じてゆくことが第一であると思うのですが、なかなかこの世の生活では、
愛と真の生活が行じにくい、そこで私は、世界平和の祈りという、愛と真を行じやすくする祈りを皆
さんに伝えているのです。
この世界平和の祈りは、いつも申しておりますように、救世の大光明神霊団の働きが、そのまま現
わされている祈りなので、この祈りを祈る人々は、その人のこの世の生活の善悪を問わず、救世の大
光明の光が、その人の霊体を通り、幽体を通り肉体身に影響してまいりまして、その人の生活が明る
くなり・その人の想念行為が愛と真の方向に進むようになり、その人の周囲の人乏も、その人の光螂
が伝わってゆくようになるのでありますQ
善き往生を願われる人は、日常生活そのままでよいのですから、すべての想念を世界平和の祈りの
中に投げ入れて、世界平和の祈りを根底にしての想念行為の生活を行じられるようにして下さい。
これ程やさしい悟りへの道は他にないのです。
15A
問伽統一がよくなる、深くなることが、精神的にも現象的にも、よくなることと思いますが、ど
うしたら統一技術が最も短時間で上手になるのでしょうか、お教え下さい。
答一口にいえば、素直に神様と思えるようになることと、何事も神様の愛の現われであると信ず
るように想いをもってゆくことなのですが、どうしたらそうなれるかということがまず問題になって
きます。
その前に、どうして素直に神を想うことや、神の愛を信ずることが統一と関係があるのかというと、
す
統 一ということは、人間の業想念、様々の想いを、一つに統べるということであります。この一つに
統べるということは、一つの心に纒めるということであります。
この一つの心というのは本心であります。自己の本心の中に種々様々な自己の想念を一つに纒めて
ゆくわけですが、この本心というのが神のみ心でありますので、素直に神を想い、神の愛を信ずるこ
とは、本心に統一し、神に統一することになるのです。神のみ心の中、本心の中には、悪いもの、悪
いことが、一切無いのです。何故かといえば、神は完全円満であり、大智慧、大愛であるので、その
み心の中に、不完全な悪や不幸などありようがないからなのです。
その完全なる大智慧、大愛、大能力の中に一切の想念を統一してしまうのですから、統一したこと
によって、そこから生れてくる智慧能力によって開運もし安心立命するということは、これはあたり
まえのことであります。
そこで素直に神の愛を信じ、神のみ心の中に想いをむけるのにはどうしたらよいかといいますと、
`
やはり日常茶飯事における、たゆまざる行為が大事なのです。その行為とは何をするのかというと、
何にかにつけて、ただ神様神様と常に心に想うだけでもよいのですが、世界平和の祈りのような、心
に納得のできる祈り言による神への心の向け方のほうがやさしいのではないかと思います。
何か特別の行法による統一などよりは、日常茶飯事、生活の一切を世界平和の祈りを根底にしてや
ってゆくような生き方のほうが、雑念の起らぬ、起ってもすぐ消えてしまう、統一と等しい状態にな
りやすいのです。
155
それに加えて、ある一定時間、その人の随意の坐法で、世界平和の祈り一念で統一実修することも
よいと思います。世界平和の祈りは、何も殊更にむずかしい形式はないのでして、ただ思い思いに坐
って、のんびりと、意気ばらず世界平和の祈り言の中に、一切の想念を投げ入れてしまえばよいので
す。その時大事なことは、雑念が起ってきたら、その雑念を自己の想いで消そうと思わないことです。
すべての想念を追わないということ、消そうと力まないことがよいのです。どんな雑念も放っておけ
ば必ず消え去ってゆきます。力まないということは統一にとって最も必要な心構えなのです。
人間というものは、本来神の子であって、本心そのものなのでありますから、その本心を妨げてい
る業想念が消えてゆきさえすれば、神の子の自分が現われてきて、立派な人間になるにきまっている
のです。そこで、現われてくるどんな業想念をも相手にしないで、ただひたすら本心の中、世界平和
の祈りのひびきの中に入る練習をすることがよいのです。
もっとも私が中心になってやっている統一会に出席なさる場合は、すべてのわずらわしい注意のい
らない、ただ、私の柏手のひびきの中に入っていて頂けばよいのですから、これはとやかくいう必要
のない程、楽な統一行なのであります。ですから、どうやったら早くうまくなるか、深くなるかとい
うこともないので、ただ、熱心に出席なさっていさえすれば自然と深い統一を味わえるようになるの
156
です。
いわゆる自力で統一しようとすることは、私の統一会の主旨ではなく、すべてを世界平和の祈りの
中にまかせてしまう、柏手のひびきの中にまかせてしまう、ということになるのですから、やはり素
直な心ということが一番大事になってくるわけです。
どこのどんな統一修行でも、自力だけの統一ということは絶対にできないのでありまして、必ずそ
の人の守護の神霊の援助によるのであります。援助というより、守護の神霊が統一させてくれるので
あります。ですから、統一行にはまず守護の神霊の加護を願うことが必要なのです。この点、世界平
和の祈りは常識的にも、はっきりわかる言葉で人類愛を表明しておりますし、それに自己の天命の完
うされることの祈りも加わり、守護霊、守護神への感謝の言葉もあるのであります。
ですから、世界平和の祈り言をしているだけでも、おのずと統一行と等しい効果をあげているので
す。
改めて申しますが、統一というものは、統一行として坐っているときだけのものではなく、日常茶
飯事の中でも、統一と等しい心の状態になり得ることができるのですから、そのためにも世界平和の
祈りを根底にした生活をして下さるとよいと思います。珊
1
問囲睡眠と統一との相違をお教え下さい。
答睡眠と統一とは、よく似たような場合もあるのですが、根本的に相違するのです。どのように
違うかと申しますと、睡眠は疲れてくれば、おのずから催してくるもので、自意識でなされるもの
ではありませんし、大体定期的にくるもので、疲労が著しくなれば、どうやっても睡入ってしまうも
のであります。この状態はちょうど、この世からあの世に往き、あの世からこの世に生れ変ってくる
という、あの世に生きながら往っている状態なので、肉体頭脳の意識を何ものかの力で休止させられ
ている間に、霊線というものだけで肉体につながりながら、その人の霊魂が、守護霊の力で霊界の浄
めの場に行き、そこで浄められている状態なのです。そして浄められているその間に、幽体に蓄積さ
れ潜在されている業想念波が、目醒めてから意識しているとしないとにかかわらず、夢として現われ、
消えてゆく姿となってゆくのですが、普通の人はこの原理を知らないので、その消えてゆく姿をまた
つかんで、再び自己の意識の中に積みこんでしまうのです。
ですから睡眠は熟睡する程、疲労が恢復するので、目ざめがさわやかになるのです。ところが、消え
てゆく姿の教えを知っている方々は、夢と現われたすべての事柄を消えてゆく姿として世界平和の祈
りの中に投入してしまいますので、浅いと思われるような唾りも、熟睡と同じような効果をもってく
るのであります。熟睡のできにくい人は、この原理をお信じになって消えてゆく姿と世界平和の祈り
の実行をして下さい。必ず心も体もさわやかになってまいります。(神と人間参照)
深い熟睡は統一と同じ効果をもつことがあるのです。そのわけを次に申し述べましょう。
統一と申しますのは、睡眠と違って原則的定期的に催されてくるものではなく、自意識的に、自分
で統一の修行をしようと思うことによってなされるものであります。そしてこの行為は、睡眠と違っ
て一定の目的をもっているのです。その目的は、自己の本心、つまり神仏との一体化という目的をも
げだつ
っているのであります。そしてその方法は、自己の心をわずらわしている業想念の把われから解脱し
くう
て、空といわれる境地に自己を置くことであります。
こう申してまいりますと、睡眠は他動的にくるもので、統一は自力をもってなされるものと解釈さ
れますが、現在までの統一修行というのは、実際に自力的であったのです。しかし私のやっている統
一実修会というものは、統一修行をしようと思う自意識を起し、会場まで足を運んでくる労を取れば、
後はこちらにすべてをお任せになればよいようになっている、統一修行なのであります。
睡眠というものは自由意志でなされるものではなく、自由意志を超えたものでありますが、統一は
↓59
自由意志で入って、しかも自由意志を超えた絶対者の意志が守護の神霊の力となって、その人の本心
開発のために作用してくるのであります。
睡眠の場合も、睡りに入ってからは、守護の神霊の力によってすべてがなされるのですが、目醒め
て生活している時のその人の想念行為が、強くこの睡眠中に働いて、守護の神霊の働きを助けたり、
妨げたりするのであります。ですから日常生活の想念行為の高低善悪は、その人の睡眠の効果を左右
するのであります。例えていえば、常に人を傷つけ痛める想念行為の持主は、守護の神霊がその業想
念に妨げられその霊魂を、神界霊界の高い浄めの場に導き入れることができにくくなり、睡眠中の浄
めの効果を高めることができなくなるのです。人間という者は、自分で気づこうと気づくまいと、常
にこうして守護の神霊の援助加護によって浄められつづけているのであることを感謝の気持で思いみ
ることが大切なのであります。
統一の場合も睡眠とここのところはよく似ていまして、自己の雑念で統一を妨げてはいけないので
す。雑念はすべて消えてゆく姿として観ずる練習が必要なのですが、私のところへ来ておられる方は、
この練習さえも、自意識でやる必要はないので、ただ、統一会に数多く出席していれば、自然と深い
統一状態を体験するようになるのです。また、統一会に出席できない人は、世界平和の祈り言の中に、160
善悪すべての想念を、ふんわりと任せてしまうことがよいのです。自分一人でも世界平和の祈りをつ
づけていれば、自然と統一の真の状態を体得し得るのです。それはちょうど称名念仏と同じような調
子でやればよいのです。それでうまくゆかなければ、その都度私の名を呼んで下されば、私がこちら
から統一のお助けを致します。
要するに、人間ははじめから神と一つ生命の神の子なので、調和統一しているのが本質なのです。
ところがこの統一を邪魔しているのが肉体幽体にまつわる業想念なのですから、この業想念をどこか
へ消滅してしまえば、元の統一体に還えるわけなのです。この原理をやさしくわかりやすく行じさせ
るのが、私のやっている統一修行の方法なのです。私は皆さんの業想念の消滅揚所として存在してい
るので、皆さんはただ世界平和の祈り言の中にまたは私の中にふんわりと入っていれば、知らぬうち
に、神との一体観、元の本質的人間を体得でき得るのです。
ですから私のところでは、他の坐禅会のように居睡りしたりする人を棒で叩いたりは致しません。
棒のかわりに私は柏手を打って、居睡りの隙間に入りこもうとする、良からぬ波動を、普通いう睡魔
を、光の波で浄め去ってやるのです。
睡魔でも何魔でも、汚れた波動はすべて、世界平和の祈りのもつ大光明ではらい浄めてしまうので
161
す。その方法が世界平和の祈り言であり、私の柏手や印となって形の上では現わされているのであり
ます。
生命の働きを自由自在にするための方法が統一であり、そうした統一された人間を多くつくりだす
のが、私の世界平和の祈りの運動なのであります。
皆さんは今夜から、睡りに入る前には必ず世界平和の祈り言を唱えつつ睡りに入って下さるとよい
と思います。そうすればあなた方の睡りは、全く統一と同じ状態の睡眠となるからなのです。
定まった統一の時間は勿論ですが、歩いている時、乗物の中、起床時に就寝時に、常に世界平和の
祈りをなさっておられると、その祈り心は、仕事の最中でも、生きいきと心中で輝きわたって、その
仕事は、いかなる仕事であろうと、世界人類を浄める意義ある仕事となってくるのであります。
世界人類のすべての心は、深い奥においては全く一つのものであります。しかしそれが想念として、
現象の世界に働き出しますと、自己主義的相対的な波動となって、敵、味方となって争いの渦を巻き
起こしてしまうのです。これは全く哀しむべきことなのです。
私たちはこうした相対的な想念の波を、世界平和の祈りという、絶対的な生命の本源からくる光の
ひびきに変えて、神の子である人類世界本然の姿、大調和大平和の世界をこの地球界につくり出さね162
ばなりません。そのための働きとして我等の頭上に背後に救世の大光明のひびきが、輝きわたってい
るのであります。私はその大光明をこの世に光り輝かす一人の使者としてこの地球界に存在している
のであります。どうぞ皆さん世界平和一念の姿で、この世の日常生活をお送り下さい。
くう
問梛空というのは、自分の意識が全然なくなってしまうものなのでしょうか、忘我状態とは違い
ますか。
くう
答空ということを、言葉で実際に表現することはむずかしいのですが、一口でいえば自我欲望の
想念を無くした境地をいうのです。個人の自分というもの、肉体人間の自分というものを、すべて捨
て去り、しかも、何しよう、かにしようと、国家的人類的な想念さえも捨て切った境地をいうのです。
いいかえれば、無念無想の境地ともいえるわけです。しかし、念無く想い無く、ただぼんやりして
こうこつ
いるのが空なのかというと、そうではありません。胱惚状態かというと、そうでもありません。空と
いう状態がそのままあるわけではなく、空になった瞬間から、真実の自己、本心の光が、そのまま、
その肉体をもったままの人間からほとばしり出でるのです。
艦恭心経というお経に、殴殿燈劉、餐殿燈極という言葉があります。このはじめの色という言葉は、塒
みもの
肉体人間の五感に観えるすべての物質のことであって、こうした物質は、すべて実際は眼に見えるよ
くう
うな形のあるものではなく、空と同じものなのだ、といっているのであります。そして、次の空即是
色のほうの色とは、実在の光、実在するもの、という意味であって、そうした実在するもの、即ち神
であり、霊である真実なる存在は、自我欲望を捨て切った空の境地になった瞬間に、現われてくるも
のなのだ、といっているのです。
ですから、空というのは、なんにも無い境地というのではな窯空という時間的なものがあるので
はなく、空がそのまま、実在であり、神仏のみ働きを顕現させるわけなのであります。
む
空の境地とは忘我状態とは違いますし、なんにも無いという心の状態でもありません。無というこ
くう
とと空ということとを全く同意義に考えている人が、かなりおりますが、無という言葉と空という言
葉は厳密にいいますと異なるのです。
む
無とは、すべての現われを無しと断ずることでありまして、無し、と断じた後が空となるのであり、
空と観じた瞬間に、真実の存在、即ち実相の光が現われてくるのであります。これは肉体界だけの問
題ではなく、幽界霊界を通しての真理なのです。無しだけでは、その後に何も現われることもなくて、
虚無と等しいことになってしまいますが、無しと断ち切った後に空の境地がひらけ、ひらけた瞬間に、
164
真実の神仏の世界がひらけてくるのであります。厳密に申せばこうなのですが、何もそうした言葉に
こだわることは、私の教え方からしてはないのであります。私の教え方は、こうした面倒なできにく
くう
い教え方ではなく、安易に日常生活そのままで、空と等しい境地に知らぬうちになってゆく、世界平
和の祈りであり、消えてゆく姿であるからです。
くう
よく唯物論的な仏教学者が、空の後はなんにもない無であるごとく説いておりますが、空の境地に
なった後で無であったら、それは全く虚無主義なのであって、神仏を求める人々のゆきつくべき道で
はありません。
くう
空という境地を求めるのは、空の後に神仏の光、真実の人間が現われてくる、真実の自分、本心の
自己が現われるということによって、その意義があるのであります。
体験の無い、単なる学問的理論はかえって人を迷わせるものですから、学問と同時に心身共にその
教えの中に入りこんでゆくことが必要だと、つくづく思います。
問協坐禅の最中に、霊的に見えたリ、聞えたリ、感じたりしますが、それを老師に話すと、それ
は幻だとか、魔境だとかいって否定されます。そこで自分も否定に否定をつづけてきたが、やはリ見
165
えたり聞えたり感じたりする。これは一体どうしたものか、と永らく禅の修行をしている人にきかれ
ましたが、先生のご説明をお願いします。
答この問題は以前にもお答えしたことがあったと思いますが、また改めてお答えします。
宗教の根本の道は、神と人間との関係を明らかにすることであり、人間が神の子である事実(仏教
的にいえば仏になること)を体得することであります。ですから、その根本の道の邪魔になるような
修行方法や、修行状態は否定するわけです。そこで禅宗の老師などが、正覚するまでの霊能的なこと
を、全部否定し去って、空の境地を目指すこと以外の境界に想念が把われぬように指導するのも正し
い指導方法だと思うのです。ところが、誰にも彼にも相手かまわず、このような指導方法を取ります
と、どうしても霊能者になるような天命をもった人々は、苦しくなってきて、その師の下にはいられ
なくなってしまうのです。
じねんほうに
宗教の根本目的は空になって、神我一体の境地になり、自然法爾の生き方ができるようになること
なのですが、その境地に到達するまでの道が、それぞれの人によって異っているわけなので、あまり
極端に霊能(霊的に見えたり、感じたり、聞えたりすること) への道を否定されてしまうと、一度は
そうした霊能を得て、その後に神智、仏智の境涯になり得るようにできている人たちの道を閉ざして
166
しまうことになってしまうのです。
確かに空の境地になり、神智を得ますと、そうした霊能を超えた直覚力が備わってまいりますし、
何もの何事にも把われぬ自由自在心になり、無凝自在の力ができてくるのですが、ここまで来るため
には、過去世からの大修行がいるのでありまして、短い期間の坐禅修行ぐらいでその境地になれるも
のではありません。
そこで、単にそうした空の境地だけを目指しての修行道では、途中で耐え難くなって落第してしま
う人がたくさんできるか、いいかげんのところで、空になり、見神したと想ってしまったりする人が
できたりするのです。
根本的にいえば、見えたり、聞えたり、感じたりすることを一切否定し去ってしまうほうがよいの
ですが、その人の指導霊や守護霊がどうしてもその人に知らせておこうと思って、何度びでもその人
に働きかける楊合があるのでして、そうした場合は、どんなに否定しても、否定しきれぬ程、はっき
りと知らされるのです。こんな場合には指導者の人は、根本的なことばかりいっていずに、その人の
言葉に愛深く耳傾けてやる必要があるのです。
何ごとにも把われてしまうと、頑なな、わからずやの師匠になってしまって、せっかくの根本的聯
な真理の道を共に歩む人がなくなってしまいます。まして、今日のように人心が真理から離れている
618
世代においては、何事もやさしく、行じやすく、わかりやすく導き教えてやらねばなりません。
悟りへの道も幾段階もありますので、見えたり、聞えたり、感じたりすることが、その人にとって
必要な場合もあるのですし、実際的にこの世の人に神仏の存在を知らせ、霊魂不滅の事実を知らせる
役目を果すことにもなるのですから、根本的にはそうした霊能に把われぬことを注意しながら、ますま
す高い境地への段階を進んでゆかれるように指導しなければ、真実の教師とはいえないと思います。
私のところには、そうした霊能力をもった人が、かなりおりますが、みな、平常心是道といったよ
うな、当り前の生活を普通人並みにくらしている人々であって、魔境といわれる境界に住みついてい
る人は一人もおりません。
全く、心の世界というものは、実に深く厚い層をもっておりまして、数え切れない階層があるので、
肉体の世界から、一躍、み仏の世界、神界に跳躍できるものではないのです。そのことを、宗教指導
者たちは考えてみなければいけないのです。宗教の世界は、ただ単なる観念の世界ではなく、その境
界が生きいきと生きつづけているものでなければなりません。ある人は一の階層に、ある人は五の階
層に住んでいるわけですが、どんな階層に住んでいようと、その階層で生きいきとしていられるよう
な力をその人々に持たせるのが、宗教指導者の役目なのです。
私はそこで、守護霊、守護神の存在を人々に知らせ、その守護の神霊の導きの下に、自己の本心開
発、仏性開顕、神我一体への道を突き進んでゆくことを指導しているのです。その最善の教が、消え
てゆく姿と世界平和の祈りなのであります。
問四統一し、空になろうとして努力することは、業想念である。もともと統一しているのが真の
人間であるから、空になろうなどと思えば、かえって業想念をつけることになる、という説明を聞き
ましたが、五井先生のところに集ってくる人たちは、空になり、本心の開発をしようと努力している
のではないでしょうか。この説明を換言すれば、五井先生と想うことも、統一会に出席しようとする
ことも業想念.てあるという説明になりかねません。解明をお願いします。
答何事につけても、努力するということが悪いはずがありません。求め、探求し、努力して、は
じめて真実の道を自己のものとするのであって、求むることも努力することもなくては、到底その人
の前に真理の道はひらかれてはまいりません。
あなたに、努力することは業想念である、と説いた人は、空の境地、統一の境地は、力んでなれる169
ものではない、空になろう、統一しようとする力みをなくして、すっぽり神のみ心の中に全託せよ、70
1
それでないといつまでも業想念の世界、三界の境地を超えることができない。というように、統一実
修の時の心構えをいったのではないでしょうか。言葉というものはなかなかむずかしいものでして、
その境地ずばりとわかるような言葉は、この世で使っている言葉の中にはないようです。
正覚(仏・菩薩の悟り)の境地になった人には、もはや、声に出る言葉でのなんの説明も必要ない
くうヵルマ
のですから、統一という言葉も、空という言葉も、業想念という言葉も、ただ消えてゆく言葉となっ
てゆくわけですし、空になろう、統一しようという想いも、行動と離れた想念としては、その人には
ないのです。その人たちにとっては、想念と行為とが全く一つになっていて、想ったことはもうすで
に同時に行っていることになるのです。ですから、想うも想わぬもなく、空になっているのであり、
統一になっているのであります。
ですから、その人たちにとっては、神のみ心の行為だけがあるのであって、なんらの業想念もない
のです。
しかし、こういう境地になっている人は、滅多にないのですから、そういう人の境地を、一般の求
道者に求めては、一般の求道者はいたずらに戸惑うぼかりです。一般の求道者はやはり、想念して行
為して、努力して求めて、そして、その場になったら、すべての想念は消えてゆく姿として、世界平
和の祈りの中に消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中に投入してゆく、という方法がよいのだと
思います。そうして世界平和の祈りの行いをつづけてゆくうちに、常に心が澄み切った統一の境地に
なってくるのです。
じねんほうに
自然法爾に動いてゆく、神のみ心のままにひとりでに行動ができるようになるためには、たφ まざ
る努力と、反省がいるのです。努力も、反省もせずに、自然法爾の境地になったつもりでいたら、そ
れは非常に危い心境です。
そこで、常に神のほうに想いをむけていることが必要なのであり、統一行をして、自己の本心の開
発をはかることが必要になってくるのです。ところが、ただ、神、神と想っても、神というものの実
体がはっきりつかめていない人々にとっては、どういう心の姿が、神との一体化であるか、真実の統
一であるかがわからないのです。そこで、神と肉体人間との間をつなぐ役目の人が必要になるのです。
それが真実の宗教の導師というのです。
釈尊やイエスや、法然親鸞など、みなそうした役目を受け持った人々なのです。私などもその噌人
であって、世界平和の祈り言という天地をつなぐ光のエレベ!ターをもって、人々の本心開発の手助171
けをし、人類の大調和世界現出のための働きをしているわけなのです。
そういうわけなのですから、自分ひとりでは本心の開発ができない、うまい統一ができない、神と
の一体化ができない、と思われる方々は、神様神様と呼びながら、その人の想念を世界平和の祈りの
光のエレベーターに乗せてしまったほうが楽に真実の統一の道に入ることができるのであります。
自分ひとりで雑念を消そうと思ったとて、なかなかできるものではありません。もともと統一して
いる人間といっても、それは人間の本心のことですから、その本心を邪魔している業想念を消し去る
ことが大事なのです。その業想念を消し去ってくれるのが、守護霊、守護神であり、救世の大光明の
働きである世界平和の祈りであり、その祈りを神から受けもたされた私でもあるのです。
自分ひとりで統一していて、何も想わぬような境地になったとしても、それが真実の統一であるか、
幽界の生物の干渉による想念の停止であるかその人自身ではわかりません。ですから、反省し、求道
し、探求することが必要だというのです。反省しながら求道していさえすれば、必ず本物がわかって
くるものです。その後の後に自然法爾の境地、空そのままの境地がひらけてくるのです。そして、そ
の間をうまくつなぎ合わせてゆくのが私の役目でもあるのです。
172
じんつう
問㎜ 神通力とよくいいますが、この神通力には、六つの通力があるそうですが、その一つ一つに
ついてお教え下さいQ
答神通力という言葉は仏教から出た言葉で、この神通力を六つにわけて、六神通といっているの
げんにうじん
です。この六神通は、神足通他心通、天眼通、天耳通、宿命通、漏尽通といわれています。
神通力というのは、いわゆる神に通じる力、神からきている能力ということですから、ただ単なる
霊能力というものではなく、神のみ心を現わす能力でなければなりません。ですから、我欲のために
その能力をつかうような人々は神通力者というわけにはゆかないのです。
神のみ心が、愛にもとる行為となったり、自己や他人の心を傷つけたりするような霊能力となって
現われるわけがないのです。こういうことを心に置いて、これからの説明をお読み下さい。
じんそくつう
まず神足通というのは、その身は東京なら東京にいながら、アメリカへでもソ連にでも自由に行か
れる能力であります。それは相手の人に肉体的にはっきり現われる揚合もありますし、波動(ひびき)
もくれん
として、霊的な姿として現われる揚合もあります。釈尊の十大弟子の一人である目連尊者などは、そ
の代表的な人でありますが、印度の行老の中にも、日本の仙人といわれた人々の中にも、西欧諸国の
中にも、そうした霊能力をもった人は存在しましたし、現在もおります。瑠
次に他心通というのはどのような通力かと申しますと、他人の心の中が、想っていることが見徹せ
る能力のことをいうのであります。この能力は、大なり小なり何人にもあるのですが、見徹せるとい
う程の能力をもつ人は少ないということになるのです。直感力ともいえると思いますが、いわゆる霊
能者といわれる人々の誰も、若干つつでももっている能力なのですが、本格的な他心通の人は数少い
のであります。
げんに
この通力に加えて、天眼通、天耳通、宿命通などの通力を、霊能力といわれて、人生指導をしてい
る人々は、多少にかかわらずもっているわけなのですが、真実のこうした通力というまでになってい
る人は、この地球世界には、現在では僅かな人より存在しないと思います。
さて、天眼通というのは、神霊の眼で観る通力のことです。神眼とも霊眼ともいうのですが、遠隔
の地のことも、肉眼で見えぬ事物生物をも観うる能力のことをいうのです。勿論神界霊界という他界
のことも観えるわけです。
ところが真実の天眼通でない、霊視能力をもつ人は、常人よりも自他の心を傷つけ痛めることがあ
るのです。
ある中年の奥さんは、ある宗教に凝っているうちに、いつの間にか霊視能力を得たのですが、ある
174
時、ふっと統一していると、そのご主人がドテラ姿のくつろいだ格好で、若い女性とふざけながら酒
を呑みかわしているところが観えてきたのです。そして、その家の内部も、その家の所在地もはっき
りと脳裡に浮び上がってきたのです。主人は遠くへ出張していることになっていたのに、その場所は
東京なのです。奥さんは思わずカッとなってそのまま履物をつっかけて家を飛び出し、その家にタク
シーを乗りつけ、血相変えて主人とその女性を罵倒したのです。
それからは、主人が外でしている一挙手一投足でも、観ようと思うと観えてくるのです。ご主人は
常住妻君の監視の下にあることになり、ついにノイローゼになってしまい、お互いに心傷つき夫婦別
れをしてしまったということでありました。
この実例のように、精神状態が未熟で、悟りの段階に至らない人の、こうした能力は、かえって自
他共に痛め傷つけてしまいます。霊能力というのは、あくまで、宗教精神が根底にあって発現しなけ
れぽならないもので、宗教精神の浅い人々にとっては、危険な能力であるわけです。
私は、こうした危険性をもつ人々からは、本人の気づかぬうちに、その能力を消滅させてしまい、
その他の人や他へのプラスになると思われる人々には、その能力の開発を促進せしめる祈りをしてい
るのであります。
175
ごんに
次に天耳通というのは、神々や霊人のひびきが、耳に聞えるようにわかってくる通力をいうのです。
これは幻聴といわれる状態とは全く異なる悟道から来る能力なのです。
宿命通とは、自他の過去世での想念行為がわかる通力です。あなたは前生では藤原某の息女○○ 姫
であって、これこれしかじかのことをしていた、というようなことがわかる能力であります。この能
力は、人類のはじまりをもわかり得る能力ともなり得るのです。
うじん
最後に神通力の中で、最も大事な漏尽通の説明を致しましょう。
漏尽通とは、この世のこと、肉体世界のあらゆる汚れを浄め去り、何もの何事にも把われぬ、澄み
きった心境をいうのです。ですから六神通のうちでも最高の通力といわれているのです。
私の一番望んでいるところも、みなさん方が、この通力を得る心境になってもらうことでありまし
て、他の通力はその後でよいと思っているのです。
無擬自在、自然法爾、行雲流水、みなこの漏尽通から出た生き方なのであります。この生き方にな
るためには、神への全託の道を歩みつづけることが、一番やさしいことであり、その全託の道への最
大の易行道が、消えてゆく姿と、世界平和の祈りなのであります。
176
間個霊魂が個性をもって永遠に存続するのは、どういう状態、どういう形で存続するのでしょう
か。その人の人格や品性とどういう関連がありますか。
答普通一般人の常識となっている人間というものは、この地球世界に住んでいる、肉体という体
をもった者ということになっていますが、実は、人間というものは、実に広い範囲、数えきれぬ程の
あら
種々様々な世界に住んでいるのでありまして、地球世界の肉体人間は、現在の段階では、かなり粗い
波動の中で生活している非常に幼い未完成な人間なのであります。
ところが、肉体人間観がこびりついている地球人類の一部の人々は、霊魂などという言葉をきくと、
その言葉をきいただけで反擾を感じ、肉体人間の死は、そのまま人間の消滅と思いこんでいるのであ
ります。霊魂という言葉が嫌なら、私は生命という言葉でもよいと思います。
各個人の生命は、肉体を離れても、他のそれぞれの世界の階層の人間としての生命の営みをつづけ
てゆくものである、といってもよいのです。
さて、質問の肉体を離れた生命(霊魂)はどういう状態で永遠に個性をもったままで存続してゆく
のか、ということのお答えをしてまいりましょう。
宗教者の中でも、肉体の生活を終ると、もう個性というものは消え去って、宇宙神の中に融けこん
177
でしまうものだ、というような、説き方をしている人々もありますが、個性はあくまで存続するので
あります。しかしながら、日本に住んでいた人が、米国に移り住んだ、というような、そういう転移
とは違って、肉体生活をしていた時代とまるで異なった個性となって、霊界、神界で働くということ
が、宗教生活を送っている人々の中には随分あります。
八十才位で亡くなった老婆が、あちらの世界では、少女のような若々しい姿で働いていて、肉体を
離れる前の老い呆けた姿の影さえも見えぬ、という例がたくさんあります。
肉体死後の世界というものは、その個人の人格や品格や、悟りの状態によって、著しく異なるもの
でありまして、神仏を否定している人々などは、肉体人問として生活していた時の想念行為が、その
まま継続した環境が、その人の生活の中に現われて来まして、自己の想念がすぐさま自己に戻ってま
いります。怒りの想いを出せば、即座に怒りの波が、対人的な形となって、自己に向けられてくるの
です。
いわゆる、肉体人間の時の想念の波動が、鏡に向った自己の姿の如く、自己にかえってくるのであ
ります。神仏を否定しているその人々の生活の中には、神仏の姿、つまり慈悲大愛の赦しや守護の姿
は現われませんで、すべて自己の力によって何事も行わなければなりません。ですから、この人々の
178
救われは、この人々のかつての知人たちの愛念の波動による救いの波、援助の波しかないことになり
ます。地獄で迷っている人々を救うのは、やはり、その人々の知人の愛念につながって働く守護霊、
守護神の救済の光明力ということになるのです。
ところが生前において、守護の神霊の存在を信じ、しっかりと守護霊、守護神につながっていた者
たちは、そのつながり方の深さによる高低はあっても、いずれも、光明界といわれる霊界、神界の生
活ができるのであります。幽界下部の生活というものは、肉体界と全く同じような想念の世界ですか
ら、肉体世界と同じ状態の環境に加えて、想念がそのまま形となって現われるのですから、妬心や怒
りは、その場に忽ち火炎が立ち昇るといった形の状態が現われてきて、皆さんご存知の地獄絵の様が
できてくるのですが、霊界、神界の光明界の住人は、想いはすでに神に全託してあって、自我という
ものがないのですから、心が自由自在なのです。この自由自在心の住人はそのまま、その人の天命を
完うするに必要な事物がそこに現われてくるような心の状態になっているので、何一つ不自由のない、
不愉快なことのない、明るく柔和な調和した環境が、いつでも、その人々の前にあるのであります。
そして、その人たちはどういう体をしているかと申しますと、各人の天命による光の体を成している
のでありまして、自己の好む通りの形を現わすことができるのです。これは肉体人間にわかり得る適珊
切な言葉はありませんが、例えていえば、太陽や星のような本体をもっていて、各自の光の波動を放
射することが天命なのであります。そしてその体はどのようにでも変化し得るものであって、各自が
一つの天命を果すと、また、それより高度な天命を果す役目に廻るというように、限りなく高く昇っ
てゆくわけなのです。
ですから、かつては地球人類の一人であった人間が、現在では、他の星の中心老となって働いてい
る場合もあれば、宇宙の運行を司る働きをしていることもあるのです。
人間というものは、生れ変り生れ変りして地球界のすべての経験をなし終えると、霊界神界の重要
な役目についたり、他の星の世界の住者となったりして、永遠の進化をつづけてゆくものなのです。
人間は誰でも、神の分生命ですから、神仏を否定した生活をしているような人々は、非常に幼い、
未発達な霊魂なのであります。そうした未発達な霊魂も度重なる生れ変りをしておりますと、その経
験によって、自己の生命の親である、守護霊や守護神や宇宙神の実在を確認してくるのです。
人間が神仏の存在を否定している限りは、その人は、肉体を離れた世界においては、最も悲惨な環
境に陥ることになるのです。何故ならば、その人は神の全能の力から、最も遠い所の、最も力弱い存
在として、みずからの環境をつくりあげることになるからです。180
神は大光明なのです。大調和であり、大平和そのものなのです。そして、神に全託し得た者の生活
は、神の大光明を充分に自己のものと成し得る者なのです。消えてゆく姿と世界平和の祈りの生活は、
全託者の生活と全く等しい生活であることを、救世の守護神たちは口を揃えて保証しています。皆さ
んの世界平和の祈り一念の生活によって、あなた自身は勿論、この世もあの世も次第に光明化してゆ
くものであることを信じて下さい。
問齪先生の著書の「神と人間」の中に、夢はすべて消えてゆく姿とありますが、消えてゆく姿で
ない夢もしばしばみます。いわゆる悪夢というものでしょうか。また将来の悪いことの予知などもさ
れたりします。この不思議な夢について、もう一度教えて下さいませんでしょうか。
答夢というものは実際不思議なものですが、それにも増して人間というものは不思議なものです。
ですから人間というものの真性がわかり、この世に現われている人間、つまり肉体人間と真性の人間
とのつながりというものがわかってくると、夢のこともそれにつれておのずからわかってくるのです
が、人間の真性がわからぬため、この世で人間が苦労しているわけなのです。そこでここでは、夢の
解説につれて真性の人間と肉体に現われている人間との関係などを説明してゆきたいと思います。
isi
大体人間というものは、こうした肉体という固体をもち、その固体の中に種々の機関(器管)があっ812
て、その機関(器管)が生命という不可思議な力によって動かされてこの世の生活をしているわけであ
りまして、一般の人々にとっては、この固体をもっただけが人間であるとして、他の姿形における人間
の存在というものを考えてみる人はあっても、実際に.知っている人は数少ないわけであります。
ところが実際の人間の世界というものは、そんな狭いものではなく、宇宙に充ち充ちているのであ
ります。それではどのようにして、宇宙全体に生活しているのかと申しますと、光として心の波とし
て、想いの波として存在しているのであります。人間というものは、皆さんがご存知のような、こう
した固った形をもったものではなく、ある時は光の波として働き、ある時はその光波に想念を乗せて
活動している存在者なのであって、肉体人間というものは、その一部のわずかな現われでしかないの
です。もっといいかえますと、この世の一般の人々がみている人間というものは、人間の真性のほん
の一部の粗雑な波動を、肉体という固体的に認めているだけなので、人間のすべてを認めているわけ
ではありません。
すべての物体は原子のより集りであり、その原子は陽子と電子と中間子という、微粒子でできてい
る、その微粒子は、もっと細かくみてゆくと波動になって、遂いには把えられなくなってしまう、と
いうのが現在の科学で説明しているところです。
この科学の説明のように、肉体人間というものは原子の集合体であり遂いには波動の現われである
ということになり、固体的な人間というものは、単にそう肉眼的に見えるだけなのであります。
あら
私の知っているところでは、人間の肉体は光と想念の混合した波動が粗い粗い波動になって固体化
したものであり、人間の心というものは、中心に光り輝く本心が厳然と存在し、その本心は宇宙の中
心の光と直結しているのですが、その本心の周囲を、肉体的世界の様々な想念の波によってつくられ
た業想念的層が蔽っていて、それがぐるぐるまわりをしていて現在の肉体世界の精神と物質の生活が
できあがっているのです。
さてここで夢の説明に入ることに致しますが、夢というものは、肉体の頭脳に入る以前、つまり過
去世からの想念波動と、肉体頭脳に今日まで経験として残っている想念波動を、肉体意識の眠ってい
る間、いわゆる霊魂が、幽界なり霊界なりに還っている間に、その人の守護霊が、幽体に夢の画とし
て現わしているのを肉体人間がみるわけなのであります。
どうしてそんなことがなされるかと申しますと、「神と人間」にも書いてありますように、肉体界
における人間の想念は、常に善いことばかり想っているわけではなく、人を憎んだり妬んだり、自分鵬
を責め裁いたり、人を責め裁いたりしているものです。人間が一度発した想念は善悪にかかわらず、
いつかはまわりまわって自己の運命として還ってくるもので、想ったことは行ったことと同じような
ものなのです。そこでキリストは、女をみて姦淫の心を起せば、行ったも同じだ、というような強い
言葉をいっているのであります。
ところが、この肉体世界で想ったことがみんな行ったことと同じような結果になってしまったら、
人間は安心しているより、不安心のほうが多く、各自がみんな人の幸福を喜ぶより自分の幸福のほう
がより大事なような、自分勝手の想いのほうが多いのですから、たちまち各処に争いの巷ができてき
て、たちまち人類は滅びてしまいます。それこそ野獣の世界と変りない世界が現出してしまいます。
そこで神様は各人の守護霊に、各自の業想念を肉体の世界の不幸としては、最少限の現われにする
ようにと、幽界において夢のように現わして消滅させているのであります。おとなしい人が夢の中で
は人をなぐりつけたり、殺してしまったりする夢をみたり、してはならない人と道ならぬことをした
りする夢をみることがあるのですが、それはみな潜在意識にある業想念を表面の行動に現わさずに守
護霊が夢で消してくれているのです。
それから悪夢つまり実際に現われる悪いことを予知するような夢は、それは守護霊の力をしても幽184
界の世界だけでは消し得ないので、多勢の祈りの力や、秀れた人の祈りの力で、その不幸を軽からし
めようとして予知的にみせるわけなのですが、今日までは、そうした予知をうけても、その不幸を軽
くし得るような祈りの方法がゆきわたっていなかったので、予知がそのまま予知通りに現われること
が多かったのであります。しかし今まででも夢の予知を受けて、災害を未然に防ぎ得た人もいくらか
はあったのであります。
みなさんのように、世界平和の祈りをなさっている方々は、どんな予知的な夢をみようと、その夢
の内容ごと消えてゆく姿と思って、世界平和の祈りの中に入れてしまいさえすれば、悪い予知も、実
現せずにすむことになるのであります。それでも不安な時は私のことをしっかりと想って下さるか、
手紙でその内容を書いてよこされれば私がご援助致します。
すべては波動の世界なのですから、常に善念波動を起して生活してゆくことが大事です。その善念
波動のうちでも、世界平和の祈りは最も神様のみ心にかなった光明波動となるのですから、寝ても醒
めても、世界平和の祈りを心に置いての日常生活にして頂きたいものであります。
185
問協詩集「いのリ」の〃聖法然”の詩の中にi
凡愚の自己が悟るのではない
凡愚の自己がみ仏のみ光の中に消えた時
その身そのままが仏となる
という言葉がありますが、ここのところを今少しわかりやすくお教え下さい。
答ここのところが浄土門の真髄でありますし世界平和の祈りの根本精神でもあるのです。いくら
南無阿弥陀仏と唱えていたところで、世界平和の祈り言をしていたところで、凡愚の自己が悟れるも
のではないし、肉体人間がみ仏になれるわけではない。南無阿弥陀仏と唱え、世界平和の祈り言をし
ている時には、肉体人間の自己が気づこうと気づくまいとにかかわりなく、み仏の光、神の光明が、
その人間から照射されているのであります。
ですから、唱名念仏しているから自分は悟っているのだ、世界平和の祈りをしているから自分は他
の人間より上等なのだ、というような、悟ろうとする自分と仏心とをひきはなして考えたり、自他差
別の感じをもったりしていたのでは、神のみ心と自分の心とがはっきり離れているので、神我一体にも
仏心一如にもなれないで、いつまでたっても凡愚の自分が、そこに存在しつづけるのであります。186
法然の教えや世界平和の祈りの教えは、自己は凡愚なり、肉体人間は駄目なものなりと、一度び、
自己や肉体人間全部の力を否定しきり、否定しきったところから、阿弥陀仏に自己を投げ入れ、世界
平和の祈りの中に飛びこんでゆくのであります。しかし、こういうふうに、はっきり自己否定できる
人ばかりはいませんので、日常のその人そのままの想念行為でいいから、唱名念仏をしつづけなさい、
世界平和の祈りを根本にして生きなさい、とこういっているのです。
実際は、凡愚の自分がみ仏の中に、世界平和の大光明の中に消えた時は、その身そのままがみ仏の
行為となり、大光明の輝くところとなるのでありますが、それは凡愚の自己、つまり肉体人間の自己
と神仏との距離感、自他の差別感等が、念仏や祈りの中にすっかり消えた時の姿でありまして、そう
した想念の消えていない自己が、後から後から出てくる時には、やはりそこに凡愚の自己があり、業
想念に包まれた肉体人間が存在するのです。
そこで私は、私は駄目だと思う想いも、人を嫌だと思う想いも、自分は悟ったという想いも、人を
羨む想いも、不平も不満も恐怖も恨みも、そうした業想念のすべてを、凡愚の自己のすべてを過去
世からの因縁の消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中に入れつづけなさい、と説いているのです。
そうした自己否定が肉体人間としての側にないと、絶対に正覚を得ることができません。消・兄てゆ
187
く姿というのは、現象人間として現われている人類全部を実在ではないと否定し去る方法なのであり818
ますが、何気なくやさしくできるように消えてゆく姿という言葉で表現しているのです。
何故この世に現われている、つまり現象的人間を実在ではないと否定し去るかといいますと、人間
の本性は神の分生命であり、神の子であるのですから、現在の地球人類のように、自分本位、自国本
位の我欲で動いている人類を、実在の人類というわけにはゆきません。こうした人類を実在と認めて
いる限りは、この地球界は神のみ心を現わすわけにはゆかないので、遂いには滅びてしまいます。
そこで、昔から、あらゆる宗教が、肉体人間以上の力を求めて、神を呼びつづけたり、或いは、肉
くう
体人間観を超えようとして、空の境地になろうとする修行をしたりしたのであります。この世に現わ
れている肉体人間ではどうにも大調和世界を築きあげることはできないのです。
今日の世界をよくみつめてごらんになるとわかりますが、米国西欧諸国とソ連中共との間に一体ど
うしたら平和な結びつきができるでしょうか、お互いの国が、自国のほうが主導権を握りたいのです
から、当事国も他の諸国もこの両者間の間をどうにもしようがないのです。ただ、カルマの流転のま
まに、不調和な姿が変化して現わされてゆくだけなのです。
ここに肉体人間以上の力が働きかけない限りはどうにもなりようがないことは明らかなのでありま
す。こうした人類を、神の子である人類と呼ぶことができるでありましょうか。神(実在) の分生命
の完全性の現われと、どうして呼ぶことができましょうか。昔から幾多の人々が、こうした人類の非
実在性を知って、宗教の道を説いたのです。
聖法然の行き着いたところも、やはりここなのです。人間はすべて凡愚なり、肉体人間が、肉体人
間観のままでは、何事もなし得ない。この考えが根本になって、浄土門、南無阿弥陀仏の道がひらか
れたのであります。私の世界平和の祈りの道もその道なのです。何事もなし得ぬような肉体人間観の
ままでは、いかなる手段方法を用いても個人も人類も救われない。真の救われの道は一体どこにある
のか、それは聖法然の行きついたところ、み仏(神) のみ心の中にのみあったのです。
そこで私は、日常茶飯事の間も、二十四時間プラスアルファの一瞬時も、救世の大光明のみ教えで
ある、世界平和の祈りの中に入っている方法を、しきりに説いているのであります。
この世界平和の祈りが生れる前には、まず守護霊、守護神の寸時もおかぬ加護に対する感謝の想い
の大事なことを説きつづけてきたのであります。守護霊、守護神への感謝の想念がなければ、この世
界平和の祈りは成り立たないのであります。ところが、時折りは感謝はするが、それはほんの時折り
のことです、といわれる人もあるのです。そこが大事なところなのです。
189
あなた方が守護霊、守護神に感謝していないように思われているときでも、あなた方に代って、私
が守護霊、守護神に感謝をしつづけておるのです。また、あなた方が世界平和の祈りを忘れているよ
うな時でも、あなた方の守護霊、守護神は、あなた方に代って、世界平和の祈りをなしつづけておる
のです。
ここのところが、私の提唱している世界平和の祈りの易行道の最も易行道たるところなのでありま
す。
そういう意味の世界平和の祈りを私は、大神様から天命として受けもたされて、この地球界で働い
ているわけなのです。どうぞ皆様も、法然親鱒の道をもう一歩進めた道として世界平和の祈りを気楽
に行じつづけて下さい。あなたの平和も人類の平和もやがて達成されることでありましょう。
190
問嗣私の主人は無信心で、私が世界平和の祈りの話をしても、見向いてもくれません。私は先生
によって、身心共に救われましたので、そのご恩報じにぜひ主人にも共に同じ道を歩いてもらいたい
のですが、どうしたらわかってくれるでしょうか
え下さい。
、またど
うしたらご恩報じになるでしょうか、お教
.答無信心だと一口にいいますが、無信心だと思っていた人が、しばらくぶりで逢ってみると、非
常に信心深くなっている場合もあるので、一概にいうことはできません。あなたのご主人でも、ふと
した機会で信心深い人にならぬとは限りません。
あなたはまず最初に、主人は無信心だという想いを、世界平和の祈りの中に祈り言を通して入れて
しまわねばなりません。あなたがご主人を無信心なりときめてかかって、それでこの無信心の主人を
信心の道に入れなければ、と意気張っておられるのは、あなたの心の中に自分をご主人より上位に置
いての考え方があるからなのです。それはなぜかと申しますと、自分は信心深くもなっている、救わ
れの道に入っている、それなのに主人は浅はかな人間で… …という想いがあり、あなたの日常の態度
から、なんとはなくご主人をさげすむ様子が見えるのではないかと思います。あなたが世界平和の祈
りの話をしても、ご主人が聞き耳を立ててくれないのは、あなたの話し方のどこかに、押しつけがま
しい態度があるのではないでしょうか。世界平和の祈りの話をなさるなら、ご自分がまず平和な調和
した気持になって、自然に流れてでる調子で何気ないように話すようになさると、相手もなんの抵抗
も感ぜず、知らぬ間にあなたの話を聞くようになると思います。
世界平和の祈りは、すべてと調和する祈りなので、相手に聞かせてやろうとか、相手に無理に行じ
X91
させようとかいう力みがあってはいけないのです。ふんわりと自然にまかせた態度で相手に当ってゆ
くわけなので、自分が相手がというより、神様が自分を通して自然に相手に話しかけて下さるのだ、
という気持でやって頂くとよいのです。
何事においてもそうですが、押しつけがましい態度は人に嫌われがちです。まして宗教の道は、た
と、兄ご主人であっても押しつけがましくすすめるものではないのです。人はそれぞれ自分の立場とか
自分の行く道があるのでどんなよい道であろうと、その人がその道に入る時期が来ていなければ、入
るわけにはゆかないし入ってもかえって反感を抱いて離れてしまうこともあるのです。
あなたの場合は、ご主人を同じ道に入れたいという心はよくわかるのですが、今しばらくそのまま
にして置いて、あなた一人が世界平和の日常生活を送っていって下さい。そして、ご主人の天命の全
うされることを特に祈りの中に入れてやっていて下さい。あなたがひとり世界平和の祈りをやってい
ても、あなたのご一家には救世の大光明の光は流れてきているのですから、あなたが焦ったり、力ん
だりしないでも、いつの問には、救世の大光明の光によって、あなたのご主人の業想念が浄まり自然
とご主人も世界平和の祈りをはじめるようになると思います。同志のご一家はみなそうした経路をた
どって、一家中が世界平和の祈りを行じるようになってきているのですから、あなたは世界平和の祈192
りのもっている大調和精神で、柔かな穏かな明るい主婦となっていって下さい。あなたが平和の祈り
をなさる以前より、現在以降のほうが立派な日常生活、立派な行為の人になっていたとすれば、ご主
とな
人は必ずなんにもいわずに、世界平和の祈りを称えて下さることでしょう。これが神へのご恩報じと
いうものです。
問価熟慮して断行するのと、直感のひらめきで行うのと、どちらがよいでしょう。日々の生活の
中での超常識と非常識との区別がともするとわからなくなるのですが。
答これは一概にいえることではありません。人間の中には、知性的な人と直感的な人とがあって、
知性的な人の長所は熟慮断行ということであり、短所は考え過ぎ、想い迷いすぎて、決断力に欠ける
ということであります。一方直感的な人の長所は、即断即決、敏速ということで、仕事が早く、決断
力がよいということでありますが、短所は、思慮浅く、落ちつきがない、早呑み込みで物事を誤りや
すい、ということであります。
このように、人間それぞれ生き方が相違するので、いずれも真理につながっているかいないかによ
って良否が定まるのであり、一概に善悪はつけられないのです。
193
そこで、私は、知性的な人にも直感的な人にでも、どちらにでもむく、世界平和の祈りをすすめて
いるのであります。世界平和の祈り心の中から行動をしていれば、知性的な人は、その知性的な人の
欠点がなくなり、長所だけが現われてゆくようになり、直感的な人はますます直感力が増大し、その
欠点は消滅してゆくのです。
守護の神霊の光明は、すべての不完全を完全にしてゆく力をもっているのですから、すべての行為
を守護の神霊との交流によってしてゆくことがよいのです。守護の神霊との最もよい交流方法は世界
平和の祈りなのです。何故こう断定するかといいますと、私自身が、その実証者であり、私の周囲に
その効果の実証者がたくさんいるからであります。
他にも種々と祈りの方法があるでしょうけれども、世界平和の祈りのように、理の当然でわかりや
すい祈り言はないのです。ここが、知性的な人にも容易に入り得る祈りとなっているのです。
ことばことば
言は神なりき、と聖書にあるように、言というものは神のみ光、神のみ心の動きなのであります。
ですから一言一句の言葉でも大事なのです。そして、この言葉も時代によって現わし方が異なり、国
によっても異なった表現をするようになっているので、その時代、その国にふさわしい、直ちに共感
を呼ぶ言葉でなければならないのです。194
日本には日本の言葉があり、西欧には西欧の言葉があり、釈迦、キリストの時代と現代とでは、言
葉のつかい方が違ってきているのは当然なことでありましょう。
わけ
祈り言でもそれと同じでありまして、訳のはっきりしない言葉で唱えるよりは、意味のはっきりし
た祈り言のほうが、祈る人の想いが、祈り言の中に入りやすい、世界人類が平和でありますように、
のように、言葉そのものが、直接意味を祈る人に感じさせる、ということは神のみ心が、素直に心に
入ってくることになるのです。世界平和、世界平和、といつも想っていることは、これは実に重大な
ことで、小さな個人の欲望は、この世界平和という言葉のもつ意味の中にいつの間にか融けこんでい
ってしまい、なんとはなく、心が広がってゆき、人柄が寛大に大きくなってゆくのです。これが祈り
言にまで高まってきているのですから、より効果が重大になってくるのです。
さて、次の超常識と非常識の問題ですが、超常識とは、常識に非ずという、非常識とは違って、常
識の立場に立ってしかも、常識を広げ高めることをいうのです。今日までの常識だけにとらわれず、
常識を超えてゆくということは、人類の進歩のために実に大事なことなのです。
この超常識の生活をするためには、なかなか深い信仰がないとできにくいのです。人間が常識だけ
で生活していたら、決して進歩はないし、小さなつまらない人間になりがちです。個々人が常に常識
195
をひろげ、高めていくことが、人類の進歩のためには是非必要なのです。
ところが、人によっては、超常識と非常識とを間違えまして、やたらに常識家を馬鹿にしたり、常
識破りをして偉ぶったりしている向きもありますが、これはとんでもないことで、常識ということは、
やはり大切なことであり、やたらに破ったりしてはいけないのです。しかし、この常識というものも、
時代時代によって、種々と変化しておりますので、常識だけに把われていてはいけない、と私はいい
たいのです。
病気の場合を例にとってみますと、現在常識となっておりますのは医薬による療法です。ところが
次第に、精神療法というのが、常識の部類に入ってきております。しかしながら、同じ精神療法でも、
医師のやっている精神療法は常識の部門で容許されながら、宗教的な精神療法は、非常識の部類にま
だ入っているようです。
どうしてこうなるかというと、病気は医者という常識があって、宗教と病気治療とは関係のないこ
とのように常識者たちが思っているからです。
また、病気というのはどういうものか、ということについて、常識では、肉体的な病気では、五臓
六鵬のどこかが病んでいるとか、パイキンのためとかいうことになっておりまして、精神的な面をあ
196
まり考えません。近頃はかなり考えてはきていますが、まだ一般の常識とはなっていません。ただ、
医者が精神面を重要視したときだけが、常識の部門に入るわけです。
ところが心霊的、宗教的に考えますと、心霊的、精神面が重要なのであって、肉体の症状はその現
われに過ぎないということになっています。しかし、この考えは、今日では常識の部門に入ってはい
ません。また、医学では発熱は敵であるようにいって、熱がこわいというのが常識ですが、熱は体内
にある毒素を柔かく融かして、外部に出してしまうための生命力の働きである、という心霊的の考え
は、まだ常識とはなっておりません。しかし、やがてこれらの心霊的、宗教的考え方も常識となって
くるのでありましょう。
今日の超常識は、明日の常識となってくるのですから、非常識にならぬように、超常識的精神を少
しつつでも身心につけてゆくことが、自己を進化させ、人類を進歩させるためにも大切であるのです。
その超常識が自然に自己のものとなるためにも祈りは必要なのです。
問溺人間神の子と心の底から思うことができません。それをはっきリ体覚したいと思うのですが、
どうしたらよいでしょうか。
197
答実際にこの世に肉体を纒っておりますと、どうしても、人間は肉体だと思いがちで、霊的な人
間というものが、どうしても普通の人にはピンとこないものなのですが、人間は霊的なものであって、
」
肉体そのものでないことは、はっきりしているのです。
しかし、何度こういわれても、自分で体覚していないと、余程素直な人でないと、そうだと心から
納得しがたいものなのでしょう。
ですから、霊的、霊的でない、ということはひとまず雌いて、肉体人間として、人間神の子の実観
を得る考え方を述べてゆきましょう。
いつも申しておりますように、人間は生命があって生きております。そしてこの生命は神様からき
うなず
ていることは、宗教信仰のある人なら誰でも肯けることであります。
そういたしますと、生命の元である神様は、大生命ということができます。大生命と小生命即ち神
と人間とは親と子の関係になることは理の当然でありましょう。
こう考えますと、人間は神の子だということがなんの不思議もなく思えてくる筈です。人間が神の
子である証拠には、人間は神と同じように智慧や創造能力をもっております。愛する心をもっており
ます。しかし、他の生物にはそうした心はありません。ただ本能だけで動いているのです。
198
ただし、ここで人々は、こう考えるのです。人間が神の子だというなら、何故お互い兄弟姉妹であ
るべき人間同志が、自分の利害を守るために、争い合ったり、憎み合うような想いを抱いたりするの
でしょう。神のみ心の中にそんな悪い想いがあるわけがないのに、何故人間にはそんな悪い心がある
のでしょうか、そんな風に考えると、どうしても、人間神の子というようには思われなくなってくる、
という考えなのです。
本当に良心的な人なら誰しもこう考えずにはいられないのですし、現在の世の中が、あまりにも、
不調和な想い、不完全な姿に立っているから、こんな不調和な不完全な人類が神の子であり得ようか、
と思ってしまうわけです。
全く、この世の人々は、現在のままでは、決して神の子人類というわけにはゆきません。神の子の
姿は、業想念(誤った想い) の陰に隠れて、いまだその姿がはっきり現われてはいないからです。個
人も人類もそうなのです。
どヴしてそうなってしまっているかといいますと、神の生命は、光明波動として、人間や人類とし
て活動しているのですが、その生命の光明波動が、人間と人間とが、生命波動そのものの微妙なひび
きでない、粗雑な波動体である肉体というもので、別々に別れているので、その粗雑な波動に邪魔さis9
れて、お互いの調和ができにくくなり、果ては人類全体が、そうした理由で不調和な想念行為に立た0
2
されてしまっているのです。
いいかえますと、生命の光明波動が、肉体という粗雑な波動にそのまま素直に通じないため、その
マイナス面だけ生命の働きに影ができ、神の本質が隠された、自己本位の生き方となってきてしまっ
たのです。そして、それを仏教的にはカルマ、私流には業想念波といっているのです。
ですから、こうした業想念波があったままでは、そのまま神の子人間ということはできません。そ
こで祈りということが必要になってくるのです。祈り心なくしては、人間は決して神の子の本質を全
面的に現わすことはできないのです。
祈りというのは、毎度び説いておりますように、生命をそのまま素直に出しきること、であります。
生命そのまま出し切るということは、神様のみ心を素直に現わすことであります。
神様のみ心をそのまま現わすためには、自己と他という肉体的な対立感をもっていては現わすこと
はできません。何故かと申すと、神様は全体であり、神の子人間は、全体の光明が、光線となって別
れ別れの働きをしている、ということになるのですから、人間同志は決して、お互いに孤立したり自
己主義になるべきものでないのです。そこで、神のみ心の中に、自己も他もすべての人類をも入れき
ってしまって、日々生命新たに、光明燦然と生活してゆくことが絶対に必要になってくるのです。そ
れが祈りなのです。そしてその祈りの、最も広く高いひびきをもつものが世界平和の祈りなのです。
ここではじめて、人間神の子の姿が現われてくるのです。人間神の子の体覚は、祈りなくしてはで
き得ないことであり、世界平和の祈りの日常生活こそ、その最大の方法なのであります。
ですから、あなたも、ただひたすら世界平和の祈りをつづけていってごらんなさい。あなたの生命
はいつの間にか生きいきと輝き出し、生きていることの大きな意義を見出してゆくことでありましょ
う。それは間違いのない事実なのです。
あまり、むずかしく考えることはありません。真理はただ実行する者の上に輝くのであることをご
承知下さい。
問田スポーツは競争心、争う心を造り出すから、神のみ心である平和に反する、だから中止すべ
きである、といっている人がいますが、先生はどうお考えになっていますか。
答人によると、簡単に良い、悪いを断定する人がいますが、世の中には、簡単に良い悪いと断定
することのできぬ問題がたくさんあります。また、時代時代によって、その時には良しとされたもの
201
が、時代が変れば悪い、とされてしまうことやものが随分とあるものです。02
2
要は、世の人を毒するか益するかにあるのですが、毒するか益するかさえも、判別できない場合も
あるのです。
さて、スポーツの問題ですが、真のスポーッというものは、争う心を造り出すようなものではない、
と私は思っておりますし、むしろ人の世の争う想いや、様々な欝積した想念をスポーツ精神に昇華さ
せるものであると思っているのです。
この世の人の中には、人に勝ちたい想いや、人に負けたくない想いをもたぬ人は稀にしか存在し
ないのですから、なんらかの形でそうした想念を晴らさないではいられないし、晴らさないでいると、
そうした想念が心の中に積ってしまって、病気になったり不幸になったり、あるいは突発的な争いに
なったり、するものなのです。
そこで、それを宗教的な解決にもってゆけば、消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中に昇華さ
せてしまい、自分を立派にすると共に、人類をも立派にしてゆくということになるのですが、宗教的
な解決方法を知らない人のために、スポーッなどは、実に適当な業想念の転化方法だと思います。
高い理想というものは勿論結構なのですし、私なども、最高至高の理想を、この地球人類の上にもっ
ているわけなのですが、それはひとまず私の心の中に収めて置いて、業想念世界の地球に住む人間の一
人として、種々様々な人々の立場立場に当てはまるように、世界平和の祈りの道を説いているのです。
まだ競争心の充ちているこの世において、そうした想念を無視した教えや言論を吐いたところで、
それは現在としてはできぬ相談なので、そうした論は現実としては、空論ということになるのであり
ます。
あまり理想に走り過ぎると、無駄な労力をついやすのみで、この世的にはなんらの効果もなく、こ
の世に容れられずに果ててしまう場合もあるのです。理想と現実の調和ということが大事なことで、
理想を縦とし、現実を横とすれば、理想と現実の縦横十字交叉の中心に、この世の生活がなされるよ
うに自らも生活し、大衆への働きかけもしなければならぬと思うのです。
スポーッそのものを考えてみて、スポーッがこの世に害を与えることがあるでありましょうか、実
害を私はあまり考えることができません。益のほうを考えてみましょう。人の心の欝積を晴らしてく
れることは、益であると考えてもよいのではないでしょうか。それに加えて、忍耐力、耐久力、団結
力、協調性等々、なかなか教わることが多いのであります。
拳闘のように、お互いの体をなぐり合い血を流し相手を叩き倒して勝負をきめるような、一見惨酷鄭
非情にみえるスポーツもありますが、ああした競技をやっている青年たちが、惨虐な人たちであるか042
といいますと、意外にそうでなく、真面目な、純情で努力型の人たちが多いようです。真面目な努力
型の人でないと、とても一人前の拳闘家になれぬ、厳しい勝負の世界なのです。
この世の中の正しい歩みの一つに、誠実で真面目ということがあります。真のスポーッとはこうし
た精神を基に、忍耐力、耐久力をも養うという精神的訓練なくては叶わぬものなのであります。
宗教というものは、神との一体化によって、こうしたスポ! ツから生れてくる精神的な要素に加え
て、愛と赦し、把われなき心等が、自然と自分の想念行為に現われてくる道なのです。この世の人間と
いうものは、自己に適した種々の生き方をしながら、知らぬうちに自己を磨いているものなので、やた
らに、人のやっていることをけなしたり、そしったりしてはならぬものと私は考えているものです。
問旧人間はみな天命を持って生れてきたのだと思いますが、脳性小児麻痺で寝たきりのものや、
精神薄弱者など、いわゆる世の中の厄介者とされている人たちは一体どんな目的をもって生れてきて
いるのでしょう。
答人問は誰一人.として天命を持たずに生れてくる者はありません。ただ、この天命というものが、
この世だけの天命と、一つの分霊が、生れかわり死にかわりしながら、守護神と全く一つになって果
す天命とがあるのです。
この世の生活は、一なる神が、神々として分れて、その神々が各自の天命を果してゆくための、一
こんばく
鮪一鮪の現われなのですが、この一齢は一齢で、その分霊魂塊としての一つ一つの天命があるわけな
のです。
ですから、天命には永遠の生命性をもった神々としての天命と、個々人として、この世やあの世で
果す天命との、大小二通りの天命があるというわけになるのであります。
人間というものは、肉体をもったこうした格好で生きておりますと、なんとなく、神様とは別なも
ののように思われますが、実は神の生命が、智慧や創造力等々の神のもつ能力をそのままもった心が、
根源となり、人々の椰どして存在しているのであります。ですから、人々が、そうした本心から離れ
た生活さえしなければ、神そのものとして、この世の生活してゆけるわけなのです。しかしながら、
この世は物質体の世界なので、人々も、そうした物質体としての生活を、各自の経験として味あわな
ければならないことになっていましたので、今日までは、その経験をしつづけているわけなのです。
そしてやがては、神霊なる人々が、物質体(肉体)がもつ波動とすっかり調和しきって、肉体をもった
205
まま、物質界に住まったまま、神そのものの全能を発揮してゆくことになるのであります。現在はそ026
の過程ではありますが、これからの一歩一歩は、急速に霊化現象を示してゆくものと思います。
問題の、脳性小児麻痺や精神薄弱者のような場合は、その子やその人の生れ出ていることが、現象
面からみれば、その周囲の人々の迷惑になり、マイナスになっている、ということになります。そう致
しますと、どこのところが、その子や人々が、その天命を果しているか、ということになってきます。
親兄弟の足手纒いになっている脳性小児麻痺や精神薄弱老は現在かなりおりますが、現在医学的に
決定的な治療方法がないのです。
こうした人々は一体どういう霊魂が肉体を纒ったのでしょう。こうした人々には二種類あるのです。
一種類は、前生において、自己の力や権力を笠にきて、他の人々の肉体や精神を痛め傷つけつづけて
きた人々。そしてもう一種類は、霊魂自らが、自己の霊魂の浄化のために、自己につながりをもつ霊
系統または肉体系統の因縁消滅を買って出て、そうした不具の身に生れ出でているのです。いわゆる
菩薩行のためであります。
どうして、こうしたことが菩薩行になるかと申しますと、一つには、そうした不具の子を生み育て
ることによって、苦しみ悩むことによって、その両親や周囲の人々が、自ずと浄化されてゆくのです。
苦しみ悩むということは、過去世の業因縁を自然と消滅させてゆくことになるのです。肉体意識とし
ては、苦しみ悩むだけでなんのプラスにもならぬように見えるのですが、実は、霊魂的には、自分の
過去世からの誤りを、その苦悩の中で、はっきり認識してゆくのです。過去世の誤りを認識するとい
うことは、もう再びそうした誤りを冒さぬための反省となるのです。
ですから、私流に、何事でも自己にふりかかってくる、自己に嫌な事柄、不幸な事柄等を、すべて
過去世の因縁の消えてゆく姿として、その環境に不平不満をいわず、そのまま世界平和の祈りの中に
入れてしまう生活をして下さい、ということになるのです。そうすれば、霊魂的な反省と、肉体精神
乏しての反省とが全く一つになって、その暗い嫌な事柄が、いつかは光明生活に振りかわってくるこ
わざわい
とになるのです。禍変じてかえって幸せとなってくるのであります。
不具者として生れた人々は、そうした周囲の因縁浄化のための天命を果してゆくのですから、過去
世の悪因縁でそうなっても、菩薩行としてそうなっても、ともに天命を果してゆく、ということにな
るのです。
悪因縁を果たすために不具者となった人々は、その天命を果せぽ、次には立派な人間として生れ変
ってくるでしょうし、菩薩行として生れ変ってきた人々は、もはや肉体界に生れる必要のない、浄化珈
されつくした霊魂として、神界または霊界で働くことになるでありましょう。そして、大きな天命達
08
2
成のために光りつづけてゆくのであります。
ところで、脳性小児麻痺や精神薄弱者というものは、一体医学的にいう、いわゆる単なる肉体の病
気や肉体に付随する精神の病気なのでありましょうか。これは、肉体的病気だけでは勿論ないのであ
ります。いつも私が申しておりますように、肉体人間というものは、霊波動と物質波動の両面から成
っておりまして、これが全く調和した交流を成し遂げている人が、精神面も物質面にも立派な生活を
してゆくようになるのです。
霊波動と肉体波動との間に幽波動という中間的な波動がありまして、この波動の世界には、いわゆ
る迷った想念、不調和な想念の波が渦巻いているところなのです。この世界の波動が、神霊界からく
る光明波動を遮ぎって、肉体波動と、神霊波動との交流を妨げますと、肉体が、神霊波動の完全性を
失ってしまい、神霊的自由性が発揮できなくなり、不自由な肉体となってしまうのです。
こうした不自由な肉体が、小児麻痺となり、精神面にこのマイナスがくると、精神薄弱者となった
りするのです。普通この状態を心霊的には霊魂の障擬といっているのです。
この障擬を無くすためには、肉体面の力を強化する方法もよいけれど、それにも増して必要なのは、
神霊の光明波動を、より強く、肉体に交流させなければならないのです。その方法は、周囲の人々の
愛念によるハ守護の神霊への感謝によるのです。感謝しながら、守護の神霊を呼びつづけることなの
です。この一番やさしい方法が世界平和の祈りなのです。
問靭悪や不正を憎み憤るということは、.世界平和の祈リの光明思想に反することでしょうか。
答人間は誰でも本来は、愛の心、正しい心、調和した心をもっているので、それに反した想いや
いと
行為を嫌わしく思うものなので、それが人類全体の本心なのです。そして大きく本心にそむいてくる
と、憎しみや憤りとなってくるのです。ですから、悪や不正を憎み憤る心は、自然の心なのです。と
いっても、憎みや憤る想いそのものは、やはり光明思想、世界平和の祈りの心には反しているのです。
この例えは少し違うかも知れませんが、ヴァイオリンを弾いているのを聴いても、その音色や音程
やリズム感が非常に下手なものは、聴いていていたたまれないような、不快感を覚えます。これは音
楽的音色から程遠いひびきをそのヴァィオリソが灘でているわけで・そんな音は嫌だ・とはどんな人
でも思うでしょう。まして音楽感覚の秀れた人は、よけいにたまらない気持になるに違いありません。
人間の心は本性として調和しているものなのですから、不調和な想いや行いを人からしてみせられ㎜
ると、嫌な気になるのです。この嫌な気になる、悪や不正を憎む気になる、この想いをそのままでも10 9θ・
カルマ
っていてはその人自身も業想念の波の人となってしまって、本来の光明心、調和心に反する行いを自
らもしていることになるのです。
それでは悪や不正を否定しながら、自分自身も本心に反する憎しみや憤りという誤った想念を起こ
していることになり、誤りの層の厚さは違っても、やはり業生の自分を脱け出ていない人に自分もな
っているわけになるのです。
世界平和の祈りというものは、悪や不正をそのまま見過しているというものではありません。善悪
も正も不正も、はっきり見分け得る想いがいつの間にかしっかりしてくるし、そのしっかりした根底
から自分の想念行為が神のみ心に叶ったものとして現われてくるのです。
この世で善とか悪とか、正とか不正とかいっていても、その事柄によっては実にはっきりしている
ものもありますけれど、実際にははっきりわからない場合も随分あるのです。
罪もない子供を殺すとか、欲のための殺人とか、国政を誤たす収賄とかいうものは悪であることは
判然としていて、憎みてもあまりある、ということになるわけなのだし、それが人間として当然な感
情なのです。
ところが、この当然な感情も、その感情がそのままであっては、相手にぶつかってゆくばかりでな
く、自分の心の平静を乱し、自分自身を不調和体にしてしまうのです。そういたしますと、いかなる
理由にせよ怒りや憎悪の想いがそのままあるということは、自分を傷つけ損ねるということになり、
平和の祈りの心、光明心ではないということになります。
そこで、世界平和の祈りの立場からいうと、そうした至極当然な感情想念さえも、消えてゆく姿と
して、祈りの中に入れてしまうのです。あんな悪い奴、憎らしい奴だ、とんでもない奴だ、と、その
カルマ
悪人を責める当然な感情を、全人類の業の消えてゆく姿の一部として、一日も早く平和の世界が現わ
れますように、という真理の言葉、祈りの言の中に入れきってしまうと、そこに現わされた悪行為、
不正行為も、現われただけ、この人類世界から減少してゆくわけになるのです。
カルマ
何故かと申しますと、世界平和の祈りは、救世の大光明の中に入る祈りで、そうして現われでた業
の行為は、その大光明の中で消滅されてしまい、再びこの人類世界の業生の中にかえってゆくことが
ないからです。
悪や不正を憎み憤ってはいけない、と私は申すのではありません。そうした正義感というものは非
常に大事なものであり、この人類を浄化させる大きな力となるのでありますが、その憎しみや憤りを鋤
その人々が自分でもっていてはいけないというのです。自分でもっていないで、世界平和の祈り言を122
光のエレベーターとして神様の大光明の中へもっていってもらいなさい、というのです。そうすれば
それだけ人類の業想念波が減ってゆくのです、と私はいっているのです。
人の悪や不正は憎みながら、自分もそれとさしたる変りのない、悪や不正をやってしまうこともあ
るのですから、真実に悪や不正を憎みきれる人間は、案外少ないのではないかと思います。
人によると、自分の中にあるものを見せつけられたような気がして、かえって憎み憤ることもある
のです。
キリストの名言である〃汝等のうち、罪なき者はこの女を石にて打て”という言葉がありますが、
人間のうちには、人を責め裁ける程、純潔なる人は少ないのです。正義感で人を憎み憤っていると思
ったら、実は自分の中にある想念を憎み憤っている、ということもあるのです。
ですから私は、すべてのそうした感情想念を、世界平和の祈りに入れきって、その祈り心の中から
自然と出てきた平静な行為で事を処しなさい、と説いているのであります。
問柵私の母は幼少の頃よりの熱心な天理教の信者です。私のすすめにより「白光」「宗教問答」
等を拝読しておりますが、今迄にない大きな感動を得たようです。そして五井先生を大いに鑓仰して
おります。反面何か天理教の教祖様に対して一つの罪悪感を感じているように思われます。このよう
な想いは、昔の人はみな持っているようで何か年老いた方々の宗教道徳上の悩みとなっているようで
す。私ではとても説得できませんのでよろしくお願い申し上げます。
答本当にあなたのおっしゃるように、宗教的な素直な老人程、改宗を恐れるのです。二つの神(仏)
に兼ね仕えることあたわず、と思っているのでしょう。ところが、私の説いている宗教というのは、
改宗ではなく、各人が、今日までたどってきた宗教の道をそのまま真実の神仏への道として、容易に
誤たず歩み得るように教え導くものなのです。
天理教なら天理教の教えを一例にしてみますれば、天理教々祖の根本の教えは、赤児が母親の膝に
何のためらいもなくはい上ってゆくように、作意のない心で、神のみ心の中に入ってゆく、信の心が
大事である、というのであります。神を自分から遠い高いところにおいて、自分は駄目だ駄目だとい
っているような想いや、他人の欠点をみつけては責め裁くようなことは、天理教祖は教えてはいない
のです。
ところが、現在巷間に伝わっている天理教の教えというものは、全くの精神分析で、人間の想念行㎜
為の欠点を指摘しすぎて、自己の心を痛め、他人の心を傷つけるようなことをしてしまうのです。こ四
れは天理教ばかりではなく、生長の家などでもそうなのです。折角素晴しい真理の言葉を伝えながら、
その真理を蔽ってしまうような、マイナスの教えに重点を置いてしまっているのです。そこで私の教
えはそうしたマイナスになるような、人間の心を傷つけ損ねるような欠点探しのようなことを、すっ
かり取り去った、人間神の子一本の教えにして、後のすべての欠点は、過去世からの業因縁の消・兄て
ゆく姿として、悪や不幸や不調和を把えつづけさせぬようにしているのです。
いいかえれば、天理教祖の神と人間との親子関係、親の愛を信ずることを主にして、親様の懐に、
世界平和の祈り言をもって、素直に飛びこんでゆき、後の枝葉末節的なことには一切かかわらぬよう
にしているわけです。ですから、私の教えを信じて、世界平和の祈りを行じておられても天理教祖に
申し訳けないどころか、天理教祖は、我が意を得たり、と大いにその行を賞めて下さることでしょう。
ちなみに天理教祖も世界平和の祈りの中に生きいきと働いておられることを申し上げておきましょ
うo
世界平和の祈りは、あらゆる神々、あらゆる聖者が総協力して働いておられる、救世の大光明につ
ながる祈りなのですから、世界平和の祈りをするところには、各教祖たちも必ずきておられるのです
から、世界平和の祈りによって、各教祖の教えが、はっきりと生かされるわけなのです。
あなたのお母様が、私の教えに感動なさったのは、天理教祖の教えが、はっきりとやさしく私の教
えの中に説かれているからなのであり、白光の教えが、真理の光そのものだからなのであります。あ
なたのお母様が、世界平和の祈りをしている時には、天理教祖も共に世界平和の祈りをしているので
あり、金光教の人が世界平和の祈りをしている時は、金光教祖もまた世界平和のための光明を放って
いるのです。
いかなる宗教の教祖も、その人が真実の宗教者なら、個人の完成と、人類の大調和を願わない人は
いないのです。ですから、私の説かされている、世界平和の祈りに同感しない教祖があるはずがあり
ません。個人が救われると同時に人類の大調和が成就する世界平和の祈りは、一宗一派でも、個人の
つくった教えでもありません。地球人類を救済しようとしておられる、神々、つまり守護神、守護霊
の大結集によってなされた教えなのです。
どのような教えを説く聖者や教祖でも、守護神、守護霊の加護によらぬものはないのです。守護神、
守護霊の援助なくして、悟り得た聖者はいないのです。
その点を今日までの宗教者は、あまりはっきり説いてはいなかったのです。私の教えは、一面、守鋤
護霊、守護神教でもあるのです。世界平和の祈りの中に、守護霊、守護神への感謝が含まれているの16
2
も、守護霊、守護神の加護なくしては、世界人類の平和は成り立たぬことを、実にはっきりと私は知
っているからなのであります。
すべての宗教を生かす道、それが私の提唱している世界平和の祈りなのであります。
問側私はどういうわけか、女性に心をひかれる性情がございます。そうした性情を超越する方法
を教えて下さい。
答男性というものは、多かれ少なかれ、誰でも女性には心をひかれるものです。ですからあまり
その性情を気にする必要はないのです。あなたがそうした性情への反省があることそのものが、あな
たの女性関係の失敗を未然に防いでくれることでしょう。
あまりそのことばかり気にしていると、かえって、あなたの本質を損ねてしまい、あなたを生命力
の萎縮した人間にしてしまいます。物事というのは、反省することは必要なのですが、その想念行為
ひ
に把われっづけていると、いつまでたっても、その想念の波を脱けきることはできません。
ですから、これはいけない、と思ったら、いけないという想いにのせて、女性にひかれる想念をな
んらかの方法で消してしまうか、転化させてしまえばよいのですが、その一つの方法として、体を運
動させる、つまりスポーツのようなことをするか、勤労をするかして消してしまう。または祈り言の
中にそうした想念を投げ入れてしまう、ということになるのですが、こうした感情を祈り言の中に消
す方法は、一番よいことでありながら、なかなかむずかしいのです。その祈りの場合は、祈り言をし
ながら、仏像や天使の清らかな姿を瞼の中に想い浮べるようにするとよいのです。心に去来する妄念
を、清らかな姿に置きかえることによって、心から自ずと清まるものです。
その祈り言は、やはり大きい広い意味をもつ、世界平和の祈りのような祈り言がよいのです。何故
かといいますと、世界平和の祈りは祈り言そのものが、自然と人間の想いを浄化してしまう、重大で
大らかな意味をもっていますから、心に想い浮べている清らかな映像と合体して、その浄めの力を強
めてゆくのです。
昔から異性への執着を超越しようとして、宗教者たちがいかに悩みつづけたか、ということは明ら
かな事実です。しかし、異性が相ひき合うということは、陰陽の原理であり、神のみ心の現われなの
ですが、神様の肉体界への現われ方というのは、常に充分なる余力をもってなされているので、人間
想念の中にも、常に余分な力が蔵されているのです。”
それはこの地上界において、いかなる物を造る場合でも、材料そのままでできるものはなく、常に126
切られたり、はがされたりして屑にされる材料があるわけです。ぎりぎり一杯の材料では何物をも造
り得ません。神よりきている素材もそれと同じことなのです。そういう点で、人間の生活、まして人
間がこの地上界に誕生するための、根本的な問題である陰陽合体、男女の結合ということには、十二
分なる余分の力が与えられているのであります。
ですから、異性にひかれるという想いは別にそのことが悪いというのではなく、ひかれる想念を汚
れのない純化したものにすればよいわけです。
そのためにも、人間神の子の観点に起つことが大事になってくるのです。自己の存在を肉体そのも
のと観ぬことと時に異性の存在をも同じ観点でみることを習慣づけなければならないのです。
何事も想いの習慣によるので、人間神の子と想う習慣をつけ、人間は霊であり、生命そのものであ
って、肉体ではない、と想う習慣性をつけますと、いつの間にか、肉体にばかり把われる想念が、肉
体に把われぬ想念に変化してくるのです。肉体に把われなくなれば、異性への想いも、自然と精神的
なものが多くなり、自ずと浄化されたものになってくるのです。
そうなるためにも、世界平和の祈りを日常生活の中で、常につづけてゆくことが必要だということ
になるのであります。
なんにしても人間は、その想念がすべてを決定してゆくのですから、想念の在り方がその人の運命
をつくりあげてゆくのだ、ということになります。
異性にひかれる想いなどというものは、私からいえば、そうたいしたことではないので、そんなこ
とにあまりくよくよせず、想念全体の根本的な在り方を研究していったほうがよいと思います。
人間は果してなんのためにこの世に生れ出でたのか、自分は一体どのような生き方をしていったら
よいのか、そうした根本的な問題のほうが重大なのです。
人間は個人的には、過去世の因縁を浄化するために生れていると同時に、神のみ心の大調和性を、
この地球界に顕現するための一つの働きをするために生れてきているのです。
神のみ心の大調和性がそのままこの地球界に現われれば、個人も人類も完成された人間となり、人
類となるわけなのですが、これは実は反対ないい方で、個人と人類がその完全さを発揮することによ
って、地球界に大調和世界がつくられるわけとなるのです。
個人と人類が完全にその本質を現わすためには、どうしても、神より与えられている智慧能力を、
神のみ心のま蓬使っていかなければなり喜ん。そのためには、本質である完全隻邪魔する余分㎜
な想念を消し去ってしまわねばなりません。ところがどうしてその余分な想念、つまり業想念を消し220
去るかということになります。そこで昔なら、滝にあたったり、断食をしたりして、本心を現わそう
としたのですが、現在では、とてもそうした時間の余裕がありません。そこで私は、ひとまずすべて
の想念を世界平和の祈り言の中に流し入れて、世界平和の祈りのもつ大光明の中で全想念を洗い浄め
てもらって、きれいになった本心だけを、再び自己の中に戻してもらって日常生活をしてゆくことが
よいと思ったのです。そして、この祈りは全く成功していまして、行じている人々が次々と本心を開発
してゆくのであり、女性への妄念もその祈り言の中で必ず消え去ってゆくのであります。
せいひん
問㍑清貧に甘んじるという言葉がありますが、魂が浄まることと、現実生活がよくなることとの
関連についてお教え下さい。
答清貧という言葉は、清らかな美しさをもっていますし、清貧に甘んじられる人々は、やはり魂
の清らかな人たちなのでありましょう。物質欲の少ない人は、それだけこの世の把われが少ないわけ
なのですが、真実清貧に甘んじられる人は甚だ少ないので、表面は無欲のような顔をしながらも、内
心は自己の無力のため、仕方なく貧しい生活をつづけているという人が多いのです。
清らかで無欲なために貧しい生活をつづけ、しかもその貧しさに把われていない、いわゆる清貧と
いうものと、自己の無力や因縁の悪さで、貧しい環境をぬけきれないで、いたずらに、富んでいる人
たちを恨んでいるような貧弱な人とは同じ貧しい生活の中にいながらも、全く違った存在老というこ
とになるのです。
ところで、魂の浄まりと、現実生活の向上とは、簡単に一致するとはいいかねますが、魂の高まり
浄まりと、現実生活の向上とが全く一致することが、理想とされるところなのです。
ご利益信仰でない、真実神仏の道を求める人々は、とかく物質の把われを超えようとするあまり、
富むことをこぽんだりする気持を持っています。物質に恵まれると、心が汚れるという想いがあるか
らなのです。
表面ではあまりそう想わないつもりでも、潜在意識に深く物質軽視の想いがたまっていることが多
いのです。そう致しますと、宗教の修行によってますます魂が浄まっていっても、そうした想念が潜
在意識にあるうちは、その人の日常生活は富んでくることはむずかしいのです。
ですから、自己の過去世からの因縁や想念の習慣を、一度すっぽり捨て切ってしまわないと、魂が
浄まり高まっていても、この世の生活では物質に恵まれなかったり、地位に恵まれなかったりするの鋤
くう
です。そこで、宗教の極意は、やはり空になるということになってくるわけです。
くう
空になるというのは、どういう状態であるかと申しますと、過去世から今生に至っているあらゆる
からげだつ
あらゆる想念から解脱する、全く把われない心境になる、というこ想念を、空っぽにする、つまり、
くう
とでありまして、こうした空の状態になりますと、その瞬間から、本心そのもの本体そのもの、神仏
のみ光そのもの、み心そのものが、自己の肉体身を通して現われてくるのであります。
猷殿ぞ餐、餐腓溜殴と艦都砒縷々ありますように、この世の現われ(色身心)はすべて、即ち響で
ものくうカルマ
ある。そして、色が空であることがわかると、空の中から業にわずらわされぬ実在の、神仏そのもの
もの
の、光明心、光明に輝く色が現われてくるのであります。
こういう心境になりますと、自己が富もうと思えば富むし、地位を高くしようと思えば高くなるよ
うな、自由自在心身になるのであります。前に申しましたような理想境が実現されてくるのです。
くう
このように文章では一筆で申し上げられるのですが、実際問題としては、この空の境地になること
が容易なことではなく、昔からそう多くの人がこの境地になり得たわけではないのです。
そこで私は、この空の境地になる修行の代りに、祈りの日常生活を人々にすすめているのでありま
す。寝ても醒めても、神様ありがとうございます、の一点張りでも、自己の業想念がその感謝の祈り
222
ヨ
心の中に消え去ってゆきますので、いつの間にか、空の境地になる修行と等しい道をたどっているこ
くうノタ
とになり、やがては空に、あるいは空に近い心境になってゆくのでありますが、私はこの感謝の祈り
の行に加えて、世界平和の祈りという、神が人類に抱いている大慈愛のみ心、神の理念の現われであ
る祈り言葉を祈りつづけることを提唱しているのです。
清貧に甘んじることも、その人の心の美しさでよいのですが、心が清く美しくて、地位にも富にも
恵まれていたほうが、より神の理念に近いのですし、この世でも大きな働きができるのですから、私
は清貧よりも、清く富んだ生活のほうを高く評価するのです。とは申しても、清貧に甘んじたい人は
そのままでもよいと思います。
ともかく、神のみ心の中に入りこんで、神仏のみ心そのままにこの世の生活をしてゆくことが大事
なことだと思います。貧富に把われず地位や立場にこだわらず、その人の生きていることそのものが、
おのずか
世のためになり、世の光と自らなってゆくような、そういう人に多くの人々がなってゆくことが、私
たちの理想なのです。
カルマ
今日流行のご利益本位の宗教は、その信者さんたちの霊性を高めるより、霊性を業想念で蔽いつく
してゆくような気がして・黙ってみていられない気さえするのですが、それもその人たちの魂の一つ脚
の経験として、味あわねばならぬものなのでしょう。
24
2
神のみ心の中に悪いことはある筈がないのですから、誤ったような、悪いような出来事がいかに多
くありましょうとも、それはこの世に真実神のみ光の現われるための闇の消えてゆく姿に他ならない
のであります。
皆さんのように世界平和の祈りにひかれて集って来られた人たちは、すでに魂の経験の深い人たち
なので喜ぶべきことなのです。自己の平安と世界人類の平和とが全く一つに実現されてくる、この世
界平和の祈りの宗教こそ、今日現われるべくして現われた、大救世主の慈愛の大光明に充ちた宗教な
のです。
問陥宇宙人は霊的な存在で、次元の異なる人種であり、肉体をもたない、肉眼に見えない者であ
って、他の星の空気も水もない処に住んでいる、という説明をする人があるので、迷っていますが、
実際はどうなのでしょう。
答宇宙人とは、この地球上に住んでいても、実際は霊体そのものになりきっている人たちをも含
めての名称なのですが、一般に宇宙人と呼ばれているのは、地球以外の他の天体に住んでいる人々を
いっているようなので、その説明を致しましょう。
地球人類というものは、この肉体を人間だと思いこんでいるものが大部分ですので、どうしても、
物質の法則に支配されてしまいます。ところが宇宙人たちは、人間とは霊であって、物質をその心の
自由になし得るものであることを、はっきり知って、物質を自分たちの自由に運用している人々なの
であります。
ですから地球人類が、自分たちの肉体を自分たちではいかんとも変化せしめられない、固体化して
考えているのとは、大分その自由自在さが違ってくるのです。
人間というものは、本体は光の体であって、その働きが光の波動となっているわけなのですが、そ
うしたことを地球人類はごく一部の人のほかは知ってはいないのです。しかし宇宙人たちは、その真
理をよく知っていますし、自分たちの体が、光体の波動の変化によってできていることを知っていま
す。そして、その光体の波動をもっと粗い波動にしてゆけば、地球人類が、人間の唯一の体だと思っ
ている肉体のような体にもなり得ることを知っており、そうした肉体にもなり得ているのです。
もっとくわしく申しますと、地球人類が近頃やっと学問的に、物質は本来波動でできているという
ことがわかってきたのに対して、宇宙人は、物質が波動から成り立っていることなどは勿論、人間自郷
体が、光の体であり、その働きが光の波となって、種々な精神的事柄となって現われることもあれば、262
物質的な現われをすることもできるのだ、という事実を行為として現わしているのであります。
地球人類が、自己の存在する場所を、肉体だけに限定しているのは、宇宙人にとっては、実は非常
に幼稚なことであって、地球人類が自己と限定している肉体などは、人間の働き揚所としては、一番
粗雑なものであることを、実際問題として知っているのです。
問のように、宇宙人は確かに霊的存在老なのですが、そういう意味では地球人も霊的存在者である
ことには変りはないのです。ところが、その事実を、地球人は認めていないので、霊的な働きができ
ないで、いつまでも物質的な雰囲気の中に禁縛されて自由になれずにいるわけなのです。その反対に
宇宙人は、みずからが霊的存在者であることを知っていますので、霊的な働きは当然できますし、そ
の波動を少しく粗雑にしてゆけば、肉体としても現われることができる自由自在性を、その生活の中
にもっているのです。
この地球人の中にも、同じような肉体として見えながら、その肉体のように現われている波動がま
るで異なっている人たちがいるのです。ただ目には同じように見える肉体でありながら、片方はその
肉体と見えている波動が本源の体である光体そのままの霊妙な波動でできている入と、動物体と全く
等しい粗雑な波動でできている肉体身とをもつ人がいるのであります。そして、その両方の間には無
数の波動の階層があるのです。ですから、地球人といっても実は単一な人間ではないのです。そこが、
世界平和のできにくい、大調和できにくいところでもあるのです。
ところが、現在私たちが交流している宇宙人たちは、地球人のように、そうした階層の違いはない
ので、心がすぐに通じ合い、理解し合えるので、そのままが調和しているのです。そしてどうしたら、
そうした調和した世界ができるのか、ということを、地球人に教えようとしているのです。
私たちがやっている世界平和の祈りは、私が、私に働いている守護神たちの加護によって教えはじ
めたもので、この祈りをすると、実際に適面にその効果が現われてくるのです。どうしてそうなるか
と申しますと、世界平和の祈りをすると、その祈りの場所や環境の、物質的業想念的な汚れの波動が、
そこに働く守護神霊団の光明で浄められて、平和な調和した波に次第になってくるからなのです。
じねん
こうした大調和の波動は、秀れた宇宙人たちの心の波と全く同じなので、宇宙人たちは、自然とこ
の祈りに交流してきたのであります。
問のように、宇宙人に肉体がないということは、現在の一般の地球人のような肉体がないというこ
とはいえますが、肉体を現わせないということではないのですから、お間違えないように願います。脚
この地球人が、肉体を去りましても、まだ死んだことを知らない人々にとっては、肉体がないのに、28
2
やはり肉体をもったままの感覚で働いていたりする界があって、その界の人々は、お互いの肉体を見
合っているのであります。体とはそういうものなのです。
ですから、在るということは、自分が認めている想いの状態が、そこに在ると認めるので肉体を強
く認めている限りは、やはり死後においても、認めている肉体界のままの生活がそこにあるのであり
ます。宇宙人にとっては、こうした幻覚は全くなく自由に体の波動を変えることができるのです。そ
れは地球人の覚者たちも同じなのです。宇宙人とはそういう人類なので、水がないとか、空気がない
とかいう物質的なことは、そこまでくるとどうでもよいことになるのです。地球人類もこうした宇宙
人のように、人間というものを肉体的にだけ限定しないで、人間には種々な働き場所があるのだとい
うことを知らねばなりません。そのためにも、人聞の本体が光体であって、神のみ心の中にそのまま
働いているものであり、その働きというものは、自我欲望に染まぬ、常に神のみ心の波である光の波
の働きをせねばならないことに思い至らないと駄目なのです。
いつの間にか、そうした宇宙人並みの人間になる唯一のやさしい方法が、世界平和の祈りなのであ
ります。
問幽人間は肉体生命を維持する上において、動物植物等々の生命の犠牲を必要としています。こ
うした他の生命体の犠牲の上に立った生き方は、良心的な人にとって随分辛いことなのです。しかし
ながらこの現実世界ではどうしても他の生命の犠牲の上に立たなければ人間は生きてゆけません。ど
うかこの矛盾を解決する方法をお教え下さい。
答私はこうした良心的な問を真実に嬉しく思うのです。人間は自分たち種族の生命体は尊重する
けれども、他の生物の生命は、それがあたかも当然であるかのごとく、自己の勝手次第で殺したり食
したりして平気でいるのです。また、そうした気持が自然と積み重なって、今度は同種族である人間
同志が、自分の都合によっては、他の人々や国々を傷つけ痛めても平然としていられる心の状態にな
ってしまうのです。
生物の生命を尊重するということは、なんにしても非常に大事なことでありまして、自己の遊びの
ために、鳥獣を殺傷するようなことは、実にとんでもない誤った行為だと思います。
さて、問のように、食糧問題としての他の生物の殺傷ということになってきますと、遊びのための
殺傷とはまた異なった問題になってきます。この世の肉体人間は、どうしても、他の生物体を頼らな㎜
ければ生きられぬ存在となっています。ですから、いたずらに感傷的になって、他の生物の犠牲をい
たんでばかりいたら、今度は人間自体の生命が損われてしまいます。
人間は万物の霊長という言葉を、この際よく考えて下さい。人間は確かに他のいかなる生物よりも
総体的にみて秀れています。人間以外の他の生物には、人間のように、物事を創造する智慧能力があ
りません。宇宙を創造し、人間はじめあらゆる生物を造りなした神の智慧能力は、人間だけに分かち
与えられていて、他の生物には本能としてのみしか与えられておりません。
こう考えてまいりますと、人間は確かに万物の霊長であり、万物の中心者であることは、間違いな
いようです。そうした万物の霊長である人間が、霊の本源である神のみ心の、慈しみ愛する心を忘れ
果てて、他の生物を自分勝手に殺傷したりしてよいものではありません。
人類がこうして地球界に住み、他の様々な生物が同じようにこの世に生活していることは、この地
球界に、すべての生物が協力して、神のみ心を現わすために存在しているのであって、お互いが気ま
ま勝手な生き方をするために存在しているのではないのです。
目的は唯一つ、神の国をこの地球界に顕現することにあるのです。人類の本心はそれを知っており
ます。他の生物の精霊もその真実を知っています。知らないのは愚かなる肉体身だけなのです。肉体230
身でも、霊性の開発された肉身体は自ずと、その道の方向に働いています。
他の生物の精霊は神のみ心を現わすためには、人類に協力しなければならぬことを知っています。.
ですから、人類がもしそれらの生物を食べなければならない時には、その生物の協力に感謝しつつ、
自分たちが神のみ心をこの地球界に現わすための働きをするのでなければいけないのです。
地球界に神のみ心の大調和を現わすために頂く食物であることを、身心にしみて人類は悟らなけれ
ばならないのです。
この食物は世界平和達成のために頂く食物であります。ありがとうございます。世界人類が平和で
ありますように…… … と世界平和を祈りっつ頂く心がまえでなければ、生物を損ねて食べるすべての
食物は、人類の霊性を汚してしまうのです。
すべての食物への感謝行は、食物となった生物が、人間の肉体要素となって、人間と共に世界平和
のために働けることになって、その天命を全うしてゆくのであります。
そうした心持ちで他の生物を食する時には、他の生物は人間の犠牲になったのではなくして、人間
の肉体として昇格したことにな為のでありますから、悲しむべき状態ではない、ということになるの
です。231
ですから、朝昼晩の食前食後には、必ず世界平和の祈りを祈って、その時の食物に感謝して頂くこ
とが大事なのであります。それでこそ人間が、はじめて万物の霊長といわれる資格ができるのであり
ます。
人類のためになんらの貢献もせぬ私利私欲のみの生活を送りながら、他の生物の犠牲の上にあぐら
をかいて生きている人間は、この世の生活を終った後の世で、苦痛にあえぐ生活を送らねばならぬこ
とは必至のことであるのです。
もしあなた方が、自分はこの世になんの貢献もしないでいる、と思われるなら、世界平和の祈りが、
なんにも勝る人類への貢献であると信じて祈りつづけて下さい。一人一人の世界平和の祈りは、必ず
地球世界に平和をもたらす礎となるのですから。
人類並びにすべての生物の平和を祈りつつあなたの問にお答えしました。
232
問爾只今、日本では安保条約継続か破棄の問題について、世論が二分されています。両方の言分
をよくきいてみますと、賛成よりも反対の方が道理にかなっているようにも思えるのですが、この問
題に対して宗教者はどのように思っているのか、先生のご意見をおきかせ下さい。
答安保条約改定の問題より先きに、安保条約というものが必要なものであるのか、どうなのかと
いう問答が起り、それから改定の賛否ということになってくるのでしょうが、この問題は人間の在り
方をもっと深い根本的なところから考え直さなければ、安保条約という一つの問題が、改定されよう
と、改定されまいとまたそのまま破棄されようと、日本の平和、人類の平和がきずかれてゆく道に入
るというわけにはゆかないのです。ですから私のように、真実の世界平和、つまり霊魂の救われと、
肉体人間としての平和生活とを共に成しとげるための運動に全霊をあげているものは、そうした表面
上の問題が右しても左しても、どちらをもプラスとは考えていないのです。それはどちらにしても業
想念の消えてゆく姿としての問題だからです。
じっと心をしずめて考えてみて下さい。もし日米安保条約が、現在のままの日本人の精神状態にお
いて破棄されたと致しますと、一体どのような事態が日本国内に起きてくるでありましょうか。日米
安保条約が破棄されることは、すべての点において、米国の支援を受けなくともよい、ということで
あります。米国が日本と安保条約を結んでいるのは、日本自体の運命の問題を主眼にして結んでいる
のではありません。米国がソ連中共との勢力争い、良い意味の言葉で申せば、米国を中心にした世界
平和を達成しようと思っての、力関係を強めようとして、日本を自己の陣営にひき入れるためであり
233
ます。そしてそのために、日本に対し、様々な援助をしているのであります。
ですから日本が米国との安保条約を破棄することは、日本は米国の権力外に脱出したということで、
ソ連、中共を敵視しないと共に、米国からのすべての恩恵をも破棄するということになるのです。
安保条約は破棄し、米国との協力をこばんでおいて、他の面での援助だけを受けようなどという、
自分勝手な考えは絶対に通用しないのであります。安保条約を破棄することは、日本がすべての点に
おいて、独立独歩でやってゆける、という強い決意がなければできないことなのです。
さて、その決意が日本人全体にできるでしょうか、現政府は絶対にできないと思っているのです。
できないと思っているから、世論がどのように叫ぼうと、米国の意にそうような安保条約改定でも飲
みこもうとしているのであります。ところがこうした安保条約の改定をすれば、日本軍は、米国と協
力して、米国の指図のままに、日本以外のところへも派兵しなけれぽならなくなるのは勿論のこと、
原水爆を日本国内に持ちこむようになるのも、当然の出来事となるのです。そこまでしなければ、ソ
連中共に対する極東の重要基地としての、日本の万全の処置とはなり得ないからです。
そうした米国の腹の中は、ソ連中共のほうですっかり見透しておりますので、日本がそうなっては
原水爆戦争をやって、いちかばちかの決戦をしなければならないので、なんとか反米思想に日本を追234
いこんで、日本を孤立させて置いて、徐々に日本を自分の都合のよ炉ような政治態勢にもっていって
しまおう、と狙って、種々なおどかし文句をいったりしているのです。
ところが日本人の大半は、政府に文句をいうことだけは知っていても、今日の日本の状態は、各自
一人一人が、本当に真剣に国家の運命を思わなければ、原水爆戦争で滅びるか、共産圏の属国となる
かの二つに一つしかないのだ、ということを、意外な程心にしみこませていないのです。
勝手ないいほうだいのことをいっていて、その責任はすべて政府に帰してしまおうとしているので
す。
現在の日本人のまず一番先に考えなければならないことは安保条約問題ではなくして、日本人全体
が心を一つにするということなのであります。今日のように、各自が自我欲望で蔽われていて、しか
も、思想は二つにも三つにも分れ分れになっていて、もうすでに国内的には戦争と同じような相手を
憎しみの想念でやっつけあっている心の状態でいて、どうして日本が世界平和に役立つ国になれるで
しょうか。
もし今日のような思想状態で、安保条約を破棄したら、忽ち、共産圏の魔力は日本の政治態勢を自
己の手中に握ってしまうでしょう。それはソ連の武力金力をもってすれば易々たることです。そして235
その次は、今度は米国が日本を敵の一陣営とみなして、そうした政策を取ってくることになります。
今度は日本の敵はソ連中共でなく米国となるわけです。
安保条約の現在のままの継続は、ソ連中共を敵としての原水爆戦争への第一歩であり、安保条約の
破棄は、共産圏の属国となると同時に米国を敵としての原水爆戦争への歩みとなるのであります。
さあ私共は一体どうしたらよいのでしょう。現在のままの日本人の精神状態では、結局、以上の二
つの運命があるのみで、いずれも滅亡の門をさし示しているのです。
私はここではっきり申し上げたいと思うのです。日本の運命が進展するためには、いずれの方にも
敵をみない、という思想に全国民を統一しなければ駄目だと思うのです。敵をみない、といっても、
実際に敵をみない、自分に害する者や国を、敵と見ないということは、容易な修業でできるものでは
ありません。そうした人間の業想念を私はよく知っております。
そこで私は、日本人の全体の想いを、世界平和を真実に願う想いに統一してしまったらよいと思う
のです。この想いは、親米派でも、親ソ派でも、唯心論でも、唯物論者でも誰の心の中にもある想い
です。世界平和を願わない者は、狂人の他は誰一人として無いと思います。
私がしきりに提唱している世界平和の祈りは、そこを狙っているのです。日本人全体の想いが世界
236
平和の願いに結集して、朝に夕に世界平和の祈りを高々と唱えあげていてごらんなさい。その結集し
た想念の波は、他国からみたら、日本人の一致団結の姿に見えてきて、ちょっとやそっとで、犯かす
ことのできない、厳然たる威力を自ら備えてくるのです。そしてその祈り言を全世界にむかって喧伝
するのです。原爆の唯一の被害国であり、水爆においても最初の被災者をもつ日本が喧伝する平和へ
の絶叫こそ、どこの国をも動かし得る大きな力をもっているのであります。
各自が種々な思想をもつのは、それは各自の勝手です。また、各自が自己の身の安全を考えて、各
自に有利と思われる党や組織に入るのも勝手です。私はそのことについてとやかくいおうとは思いま
せん。とやかくいうことは、絶対から相対に落ちることで、敵を認めるのと同一であるからです。各
自の思想は各自の過去世からの因縁で、その道を進むのを止めることは、相対的な力によってはでき
得ません。
私はそうした思想行為の違いはひとまずおいて、まず最初に世界平和を願う想いを、一つの祈り言
として、国内全部が揃ってやりつづけようではありませんか、というのです。それは一つの歌を国民
全部で歌うのと同じであって、その声は万国にひびきわたるのです。それが唯一の日本国内統一のや
さしいやり方であるのです。蹴
私の提唱しているのは、2
錦
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私たちの天命が全うされますように
守護霊さん
守護神さん
ありがとうございます
という祈り言でありますが、守護霊、守護神の存在を信ぜぬ方や、唯物論の人は、守護霊、守護神
への感謝の言葉を入れなくとも、最初の三行の言葉だけでもよいでしょう。
最初の三行だけなら、唯物論の人であっても常に心で想っていることなのですから、なんの反抗も
感じないことと思います。ただ今日までその人たちも、こうした系統立った言葉にして改めて想った
ことがなかっただけです。
祈りによる平和運動に、日本人の心を結集することこそ、日本を救い、世界人類を救う唯一の方法
なのです。この他に日本人の心を一つに結集する方法はありません。昔なら天皇に帰一で済んだので
すが、現在ではそれは駄目です。とすると、結集させる方法論が必要なのです。親米に結集させます
か、それは親ソ派があってとてもいけません。親ソ派への結集もその反対で駄目です。中立論などに
は、とても誰もが結集しません。何故かといえば、どちらかの援助を受けないで日本が立っていける
程、日本の経済は豊かではないからです。もし自主独立の経済で起ってゆくとするならば、全国民が
戦時中と等しい程の耐乏生活にしてゆかなければ、とても独り立ちはできません。できもしないこと
を安易に主張している人がなかなか多いのですが、できないことをできそうに主張することは無責任
きわまりないことで、罪悪に等しいのです。
そこで、どうしても、現われの面は現われるままにまかせて置いて、まず国民の心を一つの目的に
結集することを第一にしなければならなくなってくるのです。一つの目的に結集するためには、誰も
が反対でき得ない大眼目でなければなりません。それが世界平和の念願を、一つの定まった言葉によ
って表現する方法となるのであります。
それを私は、常に説いている世界平和の祈りをもって成しとげようと思っているのです。
この世界平和の祈りは、救世の大光明が輝きわたっている、末法最大の容易なる祈りの方法なので
す。なんでもなく日常生活そのままででき得る方法で、しかも日本を救い、世界人類の平和達成を自脚
然に成しとげ得るこの方法の他に、国民の心を一つに結集し、世界中の人々に成る程と肯かし得る方
法を私は他に知らないのであります。
この世界平和の祈りを根底にした上で、その時々の政府の長所を支援し、短所を補ぎなってゆく実
際理論を、世論として出してゆく時、日本は、はじめて他国に侵略されず、しかも日本の声が、世界
人類を真実の平和への道に導き入れることができるようになるのであります。
X40
問粥世界人類の平和への世論を無視して、ソ連は水爆の実験をつづけ、最近は数メガトンの実験
をしました。現在死の灰は大量に降ってきています。このニュースをきいて、なんともいえない憤り
を憶えました。まるで悪魔だとさえ思いました。しかし平和を祈る者としては、こういう想い方をす
ることは、大変矛盾していることに思えるのですが、一体どのような考え方をとればいいのでしょう
かお教え下さい。
答全くあなたのおっしゃる通り、ソ連指導者の頭はどうかしているのではないかと思われます。
自己の権力を守ろうとし、或いは拡張しようとする欲望に把われきっていますと、その欲望達成のた
めには、良心が麻痺してしまって、常人なら誰しもが悪であると思える行為も、何かと屍理窟をつけ
かしやく
て押し通してしまうのです。良心の呵責を感じないのです。
カルマ
神の子の光が、業想念にすっかり蔽われつくされているというのが、ソ連指導者の現在の姿でしょ
う。ですから、幾分でも神の子の光明心が外に現われている人々なら、誰しも、神のみ心に反するそ
うした誤った行為を憎み憤るのは当り前なのです。
しかし、そこまでの感情で、ソ連の行為に対したのでは、やはり憎み憤るという、業想念波動を、
自らも把えてしまう、ということになるのであります。ここのところが、真実の宗教者となることの
実にむずかしいところなのです。正義の心の厚い人であればある程、悪の行為、誤った行為を憎み憤
る想いが強いからなのです。
ところが、神のみ心というものは、人々に正義といわれている行為として現われている一方、寛容
という心でも現わされるのです。正義心によって、悪行為を憎み憤る想いは、片面からみれば当り前
であり、正しい心であるのですが、他の片面、寛容という美徳の面からみれば、正しいということに
はならないのです。
正義心そのものは、誰が想っても正しいものであり、神のみ心と思えるのですが、それが相対的な
形になって、相対するものを、悪魔と見、憎しみ憤りの想念をもってみた時には、その正義心と別個
241
にそこに業想念、つまり悪が生れてくるのです。このへんのところから、真実の宗教、世界平和を根42
2
底にする宗教心が必要になってくるのであります。
神は完全円満なる存在であり、唯一絶対者であります。すべてのもの神によらずして成れるものは
ないのであります。完全円満者であり、絶対者なる神のみ心から生じたものに悪があるわけがないと
信ずるのが真理に叶うわけであります。もし神のみ心の他に、悪があり、悪魔というものが存在する
のであったら、神は絶対者ではなく、悪魔と並んだ相対者になります。
ところが、神は唯一絶対者であり、完全円満なる存在者であることは、真の宗教者のすべての実観
であり考察でもあるのです。さあ、ここのところが問題点なのであります。
神が絶対者であり、完全円満老なら何故この世に悪魔的な行為が生じてきているのか、悪や不幸が
充満しているのかが、誰しもの疑問になってきます。しかしこういう疑問は、人間という老がこの世
だけの者、肉体界だけの存在という唯物的な考えの習慣性からくる疑問なのです。この地球界の人間
という者の実体が永遠の生命体であって、種々様々な階層や世界に住んでいるのであり、次第しだい
に大神様のみ心そのものの完成体に成長してゆくものである、という真理を知っている者たちにとっ
ては、この世にどんなに悪や不幸の姿が現われていても、それらはすべて、地球人類が完成に向って
進んでゆく過程の現象であって、悪とか不幸とかいう固定した状態はないのであり、それは現われの
ヘヘヘヘヘへ
世界の、消えてゆく姿に過ぎない、そうした消えてゆく姿の後から、次第に進歩した完成に近づきつ
つある人間の姿が現われてくるのである、と知ることができるのであります。
そういう意味で、ソ連のいわゆる悪魔的行為をみますと、ソ連指導者もやはり、人類の業想念消滅
のための、消えてゆく姿的な一役を買って、神のみ心の地球界に完全なる現われをなすための働きを
させられているということになります。
この地球界における消すべきものを消し去らぬ限りは、神のみ心の完全なる現われは成立しないの
です。ソ連の核爆発の実験も、そうした地球人類の消すべきものの消えてゆく姿なのであります。し
かし私たち宗教者は、そうした消えてゆく姿を、より小さな被害においてなさしめる平和運動を活発
に行わなければならないのです。ソ連の悪魔的行為を、それでよい、と容認しているのではありませ
カルマ
ん。業想念の波に対して、こちらも憎み憤りという同じような業想念で対さないで、寛容という想念
で対そうとするのであります。そしてこの寛容の態度というものは、消えてゆく姿という真理と、世
界平和の祈りにすべてをかけた日常生活から自ずと生れてくるものなのです。
辮に鷺空対する愚をなさず、すべてを神のみ心の中に投入して生活してゆくことが、具体的には、即
消えてゆく姿で、世界平和の祈りということになってくるのです。
神のみ心は完全であり、慈愛なのですから、神のみ心の中で生活している人々を救いあげて下さら
ないわけはありません。いわゆる消えてゆく姿の真理を知れば知る程、消えてゆく姿的現われが少く
なってくるのです。それは、その人が神のみ心により深く入っていることになっていることなので、
すみや
神の光明心、完全円満性が、より速かにその人の生活に現われ出てくるからなのであります。
憎み憤ろうとする想念を無理むり抑えて寛容の心になれといっても、これは駄目なのでそうした想
念ごと、世界平和の祈りの中に入ってしまう祈り言を心の中で唱えつづけるとよいのです。これはや
っているうちに、自然に無理なくできるようになります。私たちの運動は無理に自己の想念を抑圧し
て、平和を祈れというのではなく、平和の祈りの中に、憎みも憤りも不平も不満もすべて投入する練
習からはじめられてゆくのです。
問即五井先生はこ著書の中でたえず「人を責め、裁いてはいけない」と戒められておられます。
その意味が十分わからぬための質問かも知れませんが、警察官は犯罪を犯した疑いのある者を逮捕
し、検事は勾留を請求して、裁判所の令状により人を留置場に留置し、犯罪事実の有為を解明し、あ
244
りとの確信を得ると情状によっては裁判所に起訴し、公判維持にあたリ、厳しい論告、求刑を行うこ
とがあります。これら警察官、検事は犯罪を行った者に対して、情状によリ許して罪を不問に付する
ことも相当あるわけですが、特徴的なこととして犯罪を糾弾する側面があるわけです。これは「人を
責めてはいけない」という先生の御教えに反する職業でしょうか。また裁判官も人を裁くことを職業
としておりますが、やはり先生の御教えに反する職業でしょうか。この肉体世界の秩序維持のため
に、仮リに右のような警察・検察・裁判の仕事が必要であるとしても、宗教人としては、そのような
立場に身をおいてはいけないでしょうか。
答真剣なる質問、うれしく思います。
人間の悪行為というものは、過去世からのその人の業因縁の消えてゆくために起る行為なので、悪
行為をした者をそのまま放置しておくことは、悪行為を善しと認めることになり、悪業がそこに止ま
って消えてゆかぬことになります。そこで、その悪業を消し去ってしまうために、他の人、つまり国
家においては法を用い、その代理者としての警察官、検事、裁判官などがその者を処罰する必要が出
てくるのです。
ですから、これは個人として、人を責め裁くこととは異なり、神のみ心を国家が体し、国家の法と
245
なし、国家の法を施行するために裁判官や検事や警察官が存在するので、その人々は自らは知らずし426
ても、神の使命を果していることになるのです。そこで裁判官や検事や警察官は常に自らの心を正
し、公平な立場において、犯罪人に対する必要があるのであり、そのためには、たゆみない、神への
祈り心が必要になってくるのです。
こういう天命にある人こそ、何びとに比しても劣らぬ程の宗教心を必要とするのです。
あなたはその真理を知って、日々の世界平和の祈り心をその天命の上に生かしきって下さい。
問酩現行刑法では強盗殺人を犯したもの、または親殺しといおれている尊属殺人を犯したもの、
放火犯など一定の兇悪犯罪を犯したものについては、極刑である死刑が科されてもよいように規定さ
れ、現実の裁判においても時に死刑判決がいい渡されております。
法律に規定があるとはいえ、人間が人間を裁き、更に最高の極刑である死刑を宣告することも、果
して神様は許してくれているのでしょうか。
答死刑については、今日の人類の心の状態では必要であると思います。何故ならば、前の説明と
同じように、その犯罪人の業因縁を消し去り、その当人の本心を開いてやることが大事なので、甘や
かした刑では、その本心開発がなされなくなります。
人間にとっては、肉体の存在よりも、霊性の向上のほうがより大事なことなのですから、魂の汚れ
をそのままにしておいて、肉体を生かしておいてもなんにもならぬことで、かえって本心の開発を遅
らせ、死後の世界において、それだけ大きな苦しみを受けることになるのです。ですから、自らが霊
性を開発できぬ人のためには、他の力によって、その汚れを消し去ってやり、霊性の開発を促進させ
る必要があるのです。
極刑というものは、一方では他の人の犯罪を止めることにもなるのです。ただし、あくまで正しい
裁判、正しい判決が望まれることは勿論のことです。
問囎五井先生はよく愛ということをお説きになりますが、常に愛深くあるということは大変なこ
とだと思います。とくに与え続ける一方の愛の場合、その時の精神状態によっては疲れてしまい、ヒ
ステリックになってそれ迄の愛行をだいなしにするようなことも、ままありますが、こういう場合、
常に精神をどのように保つよう努力すべきかお教え下さい。
答あなたのいわれるように、真実の愛の行いというものは、大変むずかしい行為です。しかし、脚
この人類世界は、常に愛によって支えられているのですから、一人一人の人間が、真実の愛に目醒め蹴
真実の愛行の出来る人間になってこないと、この地球世界は遂いには滅亡してしまうことになります。
戦争状態などは、最も愛から離れた行為であります。お互いが自国を愛するから、自国を守るため
の戦争になるのだ、などという人もありますが、これは真実の愛ではなくて、自我愛ということで
す。自我愛とは、神のみ心そのものの自他一体観からくる、真実の愛、仏教流にいえば、慈、日本の
あいあ
昔風にいえば「むすび」という、分れ分れていたものが、一つになる時の心、つまり相、合う、とい
う心とは相違するのです。
何故ならば、神のみ心の中においては、自も他も全く一つの生命の流れでありまして、自分という
ものが、他から離れてあるものではなく、他も自から離れてあるものではなく、すべて、神のみ心の
中で一っに結ばれているものなのですから、自が他と争い殺し合うことは、神のみ心の中で結ばれて
いるものを、この肉体の世界で、ひきちぎり、ひき裂くということになり、むすびの状態を破り、愛
の心にもとるということになります。
ですから、愛の一番の根源は、神のみ心の中での自他の生命の結ばれを成就するということであり
まして、いわゆる人類愛ということになります。すべての根幹をこの人類愛というところにおいて、
社会も国家も動かなければいけないのです。こう考えますと、個人個人の愛も、家族の愛も、友人知
人との愛も、すべて、この人類愛を成就するところに結びついてゆく方向にむかってゆくことが、真
理であることになります。
そこで、個人個人の恋愛にしても、親子の愛にしても、兄弟姉妹の愛にしても、愛するように見え
るその状態が、実は、神のみ心での結ばれを離れてしまった、単なる肉体的な愛であったとしたら、
それは実は、真実の愛ではなく、動物的欲望ということになります。母親が子供を愛するのでも、そ
の子を社会人類の進展に背を向けるような、自我欲望の強い人間に育ててしまうような在り方をして
いるとすれば、それは母親が子供を愛しているのではなく、単に母親が自己の感情を満足させるため
に、子供をその道具につかっているに過ぎない、ということになります。
真実の母の愛は、その子供が、なんらかの社会人類の進展のために役立つことのできる人間に、育
てあげることであると思います。子供をいいかえれば、神のみ心に合致できる人間に育てあげるとい
うことが、母の愛行であるのです。
ただよい学校に入れるために血道をそそぐ、よい就職をするために懸命になる、ということだけで
はなく、なんのためにそうするのか、その根幹をしっかり握っていなければ、世間的にはその母親は49
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いかにも子供を愛しているようにみえますが、永遠の生命的な見方からしますと、やはり、真実の愛脚
から外れているのであります。
病気をさせないために、悪い道に入らないためにと、種々と心を砕く、そのことはなんといっても
親の愛ですが、一番根本の神のみ心に合った子として育てる、人類愛の行じられる子に育てる、とい
うことが、なんにしても大事な親の愛の行いであるのです。そのためには親自身が、神のみ心の中に
常に住んでいられるような、祈り一念の心を養っておく必要があるのです。神を忘れ、人類全体の幸
せを忘れているようですと、どうしても真実の愛の行為ができないものなのです。
あなたのいう、与えつづける愛というのも、この人類愛につながる愛だと思います。この愛行を自
然に素直に行うためには、やはり、祈りによって、常に神のみ心と交流しつづけていることが大事な
のです。友人や知人を愛する揚合でも、愛しても愛しても、自分に返ってくるのは反発だけだ、とい
う場合も随分とあることです。これは、過去世の因縁の消えてゆく姿でありましょうが、もう一っ
は、あなたが、相手に対して、私はしてやっているのだ、という一つ高みに立っての想いがある時で
はないかと思います。すべては他にしてやっているのではなく、神に対する感謝として他にさせてい
ただいているのであって、してやっていることなど何もないのです。これはやさしそうでなかなかむ
ずかしいことですが、すべてが、大きな自分が自他に分れてこの世に現われているのだ、と思えば、
自然な行いとして愛行ができることになるのです。世界平和の祈りなどは、自分にかえってその効果
の大きさがはっきりわかっていないだけに、何気なく、自然に他の人のためにも祈ってやれるわけな
のです。
大上段に、愛の根本精神について申しましたが、皆さんは、何気ない行為の中で、かえって、真実
の愛を行じている場合が多いのです。小さな親切といわれる行為がそれです。
落し物をわざわざ届けてやる、といったことや、交通信号でまごまごしているおばあさんを親切に
向うまで渡してやるとか、母親が忙しくてかまっていられぬ子供の面倒をみてやるとか、あまりたい
して愛行をしているようでないことのほうが、自然に神のみ心に叶つた行為になっていたりするもの
です。要は、自分がしてやっているんだ、してやっているんだ、という想いを捨てさって、自然な何
気ない態度で、大きな愛行でもできるようになることが大事なのです。それは、その人格が備わって
いる人は別として、普通の人は、常にたゆみない世界平和の祈りの中から、そうした人格が自然と養
われてゆくのであります。
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問珊愛が深まれば深まる程、他の悲惨な状態を自分のこととして受けとめる悲しみも多くなるの鯉
ではないかと、私には思われますが、悲しみにとらおれるのは高級霊ではないと聞きました。愛をよ
り以上高く深く大きくするようにしながら、なおかつ悲しみにとらわれないような修行を高級霊はど
のようにしてなさったのか知リたく存じます。
答仰せの通りで、愛深い人程、人々の悲惨な状態が自分にこたえてくるのです。その一番の例
が、イエス・キリストの十字架上の受難ということになります。愛が浅ければ、人事として、なんで
もなく見過ごし、聞き過ごしてしまうことを、何故私はこんなに人のことが気になるのだろう、とい
う人が、宗教的な人には随分あります。そして遂いには、蟻の街のマリアのように、何不自由ない善
い家庭を捨てて、貧民街に飛びこんでいったりする人ができてくるのです。
ここのところが問題なのです。そこのところは、仏教の因縁因果説をとって、あの人は何かの過去
世の因縁でそうなってしまったのだろう、というように、一度、自分の心からその事柄を離してしま
わねばなりません。それでないと、一人苦しめぽよいところを、二人も三人も共に苦しんで、かえっ
て、本人の業因縁を深めてしまうことになります。社会的なことについても同様です。自分でしてや
れば解決できることなら、してやればよいでしょうが、自分ではしてやれないことがたくさんありま
す。病人の問題でも、貧乏人の問題でも、政治の問題でも、そのすべては、神のみ心が、個人的にも
社会国家的にも、人類的にも、すっかり現われきるための、業の消滅状態として、種々な不幸災難と
思われることが起ってくるので、愛深い人たちは、そうした業の消えてゆく姿が、一日も早く、痛み
少く消え去ってゆきますようにと、世界平和の祈りの中で、祈りっづけていればよいのであります。
業を浄め去るのは、すべて守護の神霊の役目でありますので、あなた方は、すべての守護の神霊の
働きやすいように、祈りつづけることによって、業の波の消えてゆくのが早く、容易になされてゆく
のであります。それは、祈っている時、あなたが、神の光明と一体になっているので、あなた自体の
光明も、それらの業因縁消滅の一助となっているからなのです。
人々はまだ祈りの効果について、あまりよく知ってはいないのですが、人類すべてが、真実世界平
和の祈りのような、光明波動のひびきの中に入っていれば、その姿そのものが、人類の完成された姿
となるのでありますから、一人でも早く、一人でも多くの人々が、世界平和の祈りをすることによっ
て、この人類世界は、ひどい災害を受けずに、神の姿を現わすことができるようになるのでありま
す。そういう祈り一念の生き方を、自分が行ってゆくことによって、その人は大きな愛行の生活をし
ていることになるのであります。523
すぺての生活を祈り心を中心にしてしてゆく時、愛深き人々も、人々の不幸災難に想いを把われる
ことがなく、しかも人々の不幸災難を軽くとどめることができる、愛の行いをしていることになるの
であります。
すべての不幸災難は、過去世からのその人々、その社会国家の歴史の中にひそんでいたものが、現
われて消えてゆく姿なのですから、それを止める亡とはできません。止めるのではなく、その人や、
その国家や人類全体が負担少く、上手にその業因縁を消滅させてゆくことが大事なのです。そのため
に、多くの人々の愛の心が役立つのです。そしてその愛の心が最上に役立つのが、世界平和の祈りな
のであります。
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