宗教問答(正)

序文
宗教的な教えというものは、現実面の実際聞題となると、それはそういう風にすればよいには決ま
っているでしょうが、実際になるとそうは出来ないのですよ、と教わる側が言うような場合が沢山あ
ります。
宗教老の中でも、宗教というものは、心の問題を取りあつかうもので、現実面の問題を云々するも
のではない、と言ったりしている人がありますが、それでは宗教は全くの観念論になってしまって、
この世の生活に生きてはきません。
宗教というものは、現世利益を目的にするものでないけれど、自ずから現世の利益が得られる程
の、心と物との両面を善くしてゆくものでなければ、神仏のみ心の現われた教えとは言えない。何故
なれば、神仏のみ心は心の世界にも物の世界にもお働きになっておられるので、心の面だけがよくな
って、物の面の生活は全然駄目だということはないわけだからです。
と言ったからと言って、心の面がよくなったと同時に物の面も同時によくなるかというと、そうゆ
かぬことも沢山あるのですが、時間の経過に従って心の面のよさが、やがて物の面のよさとしても必
ず現われてくるのです。
私はこうした物心両面の相談事を、お答えしつづけてきているわけで、私の答を読んだ人たちが、
心に痛手をうけないように、現実問題としても私の答が役立つようにということを、常に心がけて答
えているのですから、この宗教問答をお読みになると、各種の問題が、心と生活の面の両面において
納得されると思うのです。
宗教の道を深く突き入ってゆくことはよいことですが、知識的にのみわかろうとすると、かえって
本道をそれて枝葉を伝ってゆくようなことになりかねません。宗教の道はあくまで直感の道で、知識
はその直感を正しいものにしてゆく意味で必要なのですから、知識欲に偏向した求め方は、神仏の道
に、なかなか入り得ないのであります。
この宗教問答のお答は、私が体得した救われの道を根抵にしてお答えしているので、学問として頭
脳で覚えたことをお答えしているのではありません。その点をどうぞ御理解下さいまして一読再読し
て下さるようお願い致します。
昭和三十四年十月
著者識

問問問問問
54321
問問問問問問問問聞
14131211109876



第一編
神秘力と宗教とはどんな関係がありますか… 皇
全託の心はどうしたら出来ますか嵐
どんな病気でも信仰で直りますか虹
信仰すれば商売が繁昌するようになるか…… 七
先生の教えを受けたら他の宗教は止めるべ
きか九
常識を外れず常識を超える宗教とは=
家庭平和の秘訣を教えて下さい三
素直になるにはどうしたらよいでしょう… … 三
生長の家と先生の教の相違点について… …:三〇
どうして戦後新興宗教が多くなったか… …:三七
世界平和の祈りの最中に雑念が出て困るが…三〇
運命は変えられますか三二
煩悩即菩提とはどういうことでしょう…… …三四
お浄めをして頂くと運命や病気がなおる理
由は毫
問15 私達信徒として菩薩行をするのには四一
問16 死後の生活をわかりやすく説明して下さい… 窒
問問問問問問問
23222120191817
第二編
私は小児麻痺の子を持つ親ですが
宗教と政治について
五露
四一
問24
問25
自然法爾という言葉の意味をお教え下さい…五八
委せるという事では進歩がないではないか…六二
真実の救いとは、又救われの状態とは・…・…⊥盆
気が弱いとか短気とかいう性質は直るか… …六七
救世主の現われる前に天変地異があり人類
は悲しみ嘆きに覆われるだろうという予言
は真実か六九
自己の内部に神が在るのだから他人に浄め
てもらう必要がない、という人がいるが……三
いつも先生のことを想っていれば先生の処
へ行かなくともよいか、数多く伺った方が
よしカ
問26 生活即宗教の秘訣を教えて下さい
問27 世界平和の祈りは順序通り唱えた方がよい
七七
七五

問28 自己反省と〃自分を赦し4との関係につい


問29
問30

問問問
333231
問34
希墓する物事を強く思って祈れば、必ず与
えられる、ということは祈りでしょうか…… 八六
世界平和の祈りが空念仏のようになってし
まうが
忍耐について
因縁因果と人間の自由性について
先生は統一されると肉体にいらっしゃらな
いそうですが、どういうことですか
霊的能力が欲しいが、その方法を教えて下
ノt」九九
五二==O
さい

問問問
373635
問問問
403938
霊的な人とそうでない人との違い
思慮分別を去ることと社会生活の関係……
個人悪社会悪国家悪を只消えてゆく姿と見
るだけでよいか、正義感との関係について
迷った霊魂を悟らせる方法について… … …
どうすれば温かな心で病人に接しられるか
信仰の深浅で世界平和の祈りの効呆は違う
九八
一9
δ 三
6五
δ 八
δ 九
問問
4241
問問問問
46454443
問47
問48

姑とお嫁さんと仲良く暮せる方法は… ……
先生はなぜ相手の悪を指摘して直させるよ
うに指導なさらないのか
子供を育てる心構えについて
見神(見真)とは何か
除霊と浄霊との相違について
信仰と医薬の関係について教えて下さい・:
第三編
世界平和なら誰でも思っているし祈ってい
るということと先生の提唱される祈りとの
相違点について
世界平和を祈るならば自分が迷ったり病気
不調和であったら、祈りの効果はないもの

守護霊さんの名前を知った方がよいですか
前生のせんさくは必要ですか
統一するということはどういうことですか
念力と祈りの相違について教えて下さい・: 〇

二巳




三五
問問問問
52515049
三九
一里
西四
一塁
三〇
問53 信仰している人に不運不幸が多く、無信仰
や悪い人が、自由で幸運なのはどういうわ
けですか
問54 卑下高慢はいずれも生命を汚すものという
意味
一皿三
問5 他の宗教にはお経をあげたり静座観法など
の行があるが、先生の教に行がないという
人へ
人間は罪の子でイエスキリストによっての
み救われるのだということについて… ……
み教の通り、現われてくる悪不幸を消えて
ゆくと想っているが、前と同じように出て
ヨ六
問56
問57
くる
宍O
一六二
問58
問問問問
62616059
写真でお浄めするだけで性格病気が直るこ
とについて、又五井先生とよぶのと神様
と呼ぶことの相違
力みと勇気、怠惰とおまかせとの相違… …
先生は何故欠点を指摘し叱られないのか…
情と愛との見分け法と使い方について… …
気持がいらいらするのは
=ハ六
=ハん
一七三
一薯
天二
天四
問63 人間の実相は完全円満だから、人間の悪を
見るな拝みなさい、という教があるが、実
際やってみると出来ない、先生はどうお考
えですか
問64 人格の高さと霊能力とは違うものですか…
問65 五井先生の処へ行って、あなたは事業に失
敗した、どうしてだと責められます。適切
問問6
766
問68
な説明を願います
ノ憶ノ㍉
一七
肉体人間の誕生と生更り前生について… …
消えてゆく姿を行じているが、過去に商売
のことで他人に借財し、いろいろ迷惑をか
け、いまだに返済出来ていない、これも消
えてゆく姿と想っていいですか二呈
道を歩いていて、神社や祠を拝みたくなる
カニ0(
ノ4」九A
=二
問69
第四編
妹が永い間病気だが、病気を直そうと思っ
ている間は直らないといわれました。どう
しうことでしょう三誕
問70 私達の天命が完うされますように、とはど
ういうことですか
問71 生長の家との相違点というご法話の中での
問72
疑問について
人々の想念を背負って病気のようになって
しまうが、業因縁を全く断ち切る秘訣を教
三八
えて下さい
一人出家すれば九族救われる、について…
病気や不幸になるのは墾の高低に関係ある
三二
問問
7473

二孟
一三八
問問問問
78777675
問79
問80
先生は何故予言をされないのか
無功徳ということについて教えて下さい… 二三六
中庸の生活とは、中庸の道を進むには… … 二昌
本能と業想念との関係について、この世の
楽しみを味わうことは罪悪か二四三
霊界の相当の処にいて解脱出来ない仙人が
いるが、何故解脱出来ないのか二四七
悟ると全く感情がなくなってしまうのです
か一三〇
問81 人間は初めから統一している、また一度世
一三九
二三三
問82
界平和を祈れば祈りは、もう鳴りひびいて
いるのだということは
どんな場合でも堕胎は宗教的にみて悪なの

ある宗教団体が、凡そ道徳の原則に反する
政治には、必要止むを得ない時は流血の犠
牲も惜しまない、と声明していますが、先
二五三
問83
問84
問85
生のお考えは
個人の為にも祈ってあげることは、平等施
一切の大慈悲ではないのか
現実の生活に困っている人と世界平和の祈

高僧名僧は一度にパッと悟ったようですが
私は悟っては迷い、その迷いから悟るとい
うような事を繰返していますが、これでよ
いでしょうか
一三七
二六〇
二六四
問86
問87 説教や祈ればどうにかなるという宗教では
ダメだ、ということについて
二六六
二七〇
二七皇
問8 キリスト教神道仏教と先生の教との相違点二七七
間89 医学と宗教の融合点について二八〇

第一編
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人間と真実の生き方
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人間は本来、神の分霊であって、業生ではなく、つねに守護霊、守護神によって守
られているものである。
かニせ
この世りなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念が、そ
の運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去るのであると
いう強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難のなかにあ
ゆるゆるまことゆる
っても、自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづ
けてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の祈りを祈
りつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得出来るものである。
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問1 神秘力と宗教とはどんな関係がありますか。
答神秘力というと、こうして人間をはじめ、様々な生物が、この世界に生かされていること、太
陽や地球や月が、調和して運行していることなど、すべて神秘力ならざるものはないのですから、こ
の間の神秘力とは、神通力のことをいっておられるのだと思います。
他人の心の中がわかったり、死んだ人の姿が見えたり、他界の生物の声が聞えたり、未来の予見が
出来たり、病人を癒す力があったり、そうした常人には出来ない力、いわゆる霊能といわれる力のこ
とであろうと思いますから、そのつもりでお答え致します。
神通力と呼ぼれる中には、実際に神我一体になって現われた、いわゆる霊覚(悟り)からきた力と、
神我一体になったわけでもなく、真理を悟ったわけでもないが、前生の因縁的に、体が、他界の想念
の波を受けやすく出来ている人が、ある動機で、つまり、ある宗教に入って、夢中になって題目を唱え
たとか、精神的なんらかの衝撃を受けたとか、一種の統一状態になった時に、自己というものが瞬間
からつだからつぼくうからつぼ
空になって(この空は、悟りの空とは違う)その空の中に、他界の生物の想念の波が感応して
ひようい
きて、他界の生物、過去に亡くなった人とか、自然霊が(天狗とか狐狸等と普通呼ぼれている)が葱依
して、相手の人の幽体に記録されてある、想念の波を読んで、つまり相手の心をみて、相手の想って
いることを当てたり、未来を予告したりするとか、または、相手の幽体に愚依している死人なり動物
3
なりを、こちらの愚依霊の力で追い払って、相手の病気を癒したりすることが出来るようになる場合の
二っがあるのです。大体の行者とか霊能者は後者の場合が多く、これは正式には神通力とはいえない
ので、単に霊能と呼ぶべきでしょう。この種の力があったからといって、この人々を、それだけで宗
教者と呼ぶことは出来ないのです。
宗教とは、人間の真実の姿を知らせる教であります。人間の真実の姿とは、神と等しいものであ
り、円満完全なものなのであって、不和や、恐怖のあるものではないのである。不和や恐怖のような
想念行為は、すべて人間の真性を知らぬところから起ってくるものであって、人間の真性を知るに従
って消え去ってゆくものである、ということを知らせるためのものなので、人間に真理を知らせ安心
立命を得させるためのものなのです。ですから、この理に相反するような霊能であれば、これは宗教
とはなんらの関係もありませんし、勿論神通力ではありません。
神通力とは、神我一体、あるいは真理の道に沿って真剣に行じている人々に、自然に備わってゆく
力でありますから、神通力を先に考えるより、真理の道に乗ってゆくことを先に行ずることが大事で
あると思います。
答をまとめますと、真の神通力は、自己の神性開発と共に開けてゆくものであって、宗教と深い関
係がありますが、自己の神性開発(愛と真と美) の行ないにもとるような霊能は宗教とはなんらの関
係もありません。つまり邪道であるわけです。
4
問2 全託の心はどうしたら出来ますか。
答一に神は愛であって、人間を絶対に損うものではないと信ずること。
二にこの宇宙万有、すべて肉体人間自身の力で創ったものではなく、いかなる生命といえど自然に
創られてゆくものであることを、よくよく考えること、イエスの云う「汝等のうち誰れか思い煩いて
たけ
身の長一尺を加え得んや」であります。
三、神はすべての智慧なのでありますから、一人の人間でもけっして無駄に創ることはありませ
ん。ですから何人も天命(神の使命) をもってこの世に生れてきているのです。その理を信じて、現
在自己の置かれている立場で、一心に神を思いながら、その仕事に励むこと、この三箇条に忠実であ
れば、その人は全託者であり、神我一体の人になり得ます。
問3 どんな病気でも信仰で癒リますか。
答いかなる深い信仰に入ったとしても、万病が癒るということはありません。病気と肉体寿命と
は自ずから異るので、信仰深き人でも、病気のような姿でこの世を去ってゆくことは多いのです。釈
迦牟尼世尊すらその通りです。しかし、信仰深き人は、その体が病気のように人には見えようとも、
自らは想いを神仏にゆだねているのですから、気を病んでいることはありません。その人は、すでに

病気を超越しているのであって、肉体をぬぎすてて他界へ転移する時期がきたため、霊魂がその生命
力を肉体から次第にぬいているので、肉体が衰えてゆくのであります。それは、もう病気ではなく、
自然の現象というぺきでありましょう。
ですから、寿命があれば病気は必ず癒り、寿命が終われぽ、いかなる聖者も、病体の如くして他界
するのであります。
人間の寿命は三段に分れていて、第一の寿命、第二の寿命、第三は定命といって、いかなる人も定
命で他界するのです。
自己の悟り、あるいは霊界の援助があって、病気が癒ることが沢山ありますが、これは第一あるい
は第二の危機を乗り超え得たということで、定命を変え得たことではありません。しかし、信仰生活
に入っていれば、普通は第一なり第二なりの寿命の危機で他界すべきを、定命迄生ききれることがな
かなか多いのです。
こう考えますと、無信仰の生活よりも、信仰生活に入っている人の方が、この世の生活を長びかせ
ることも出来、安心して生活してゆくことが出来やすいのです。
信仰ということは、実に素晴しいことであって、病気になっても、これを癒し得ることも出来、病
気の苦悩を超越することも出来るのですが、一番願わしいことは、病気を癒そうとして信仰に入るので
はなく、生きても死んでもよいから、真の安心立命を得たい、神仏とつながりたい、と思って入信す
6
ることなのです。そうした信仰態度こそ、大きな奇蹟を巻き起すものなのです。
問4 信仰すれば商売が繁昌するようになりますか。
答商売の繁昌と信仰とは、直接はなんの関係もありません。
しかし、信仰生活に入ったら、急に商売が繁昌しはじめた、という人もありますし、かえって、商
売ががた落ちになってしまったという人もあります。
これはどういうことでありましょう。
信仰に入って商売が繁昌しはじめた、という場合も、いくつもの理由があります。
一つには、私はこのようにして神様にすがっているのだから、うちの店は絶対に繁昌する、という
確信による明るい気持が、客側に伝わって、なんとなく明るい店、感じのよい店、という工合になっ
て、人をひきつける。
二つには、私は信仰しているのだから、信仰の精神を客に尽そう、というまこころで、一生懸命に
サービスをするようになり、そのサービス精神が店を繁昌させる。
三つには、その信仰の対象、つまり、宗教団体なり、神社仏閣なりの霊団の力が、客に感応して、
客を力でひきつける。
この場合は、善悪二種類がある。善の場合は、その人の真実神仏にゆだねた真心に感応して、高級
7
神霊が、力を貸してくれる場合、悪の場合は、その人の利欲の想いで、教団なり、神社仏閣なりに献
納する供物につられた低級霊(欲望で踊る人霊、動物霊) が、客に念力を送って、その店にひきつけ
る、という場合とであります。
前の場合は、そのまま結構ですが、後の場合は、これはしまいには実に困ったことになってくるの
です。
それは、どういうことかと申しますと、はじめから、欲と欲とで動いている同志の結合で、神霊が
働いているわけではないのですから、片方が欲ぼれぽ、片方も欲ばるで、献納が少かったり、供物が
少かったり、気に入らないことがあったりすると、たちまち、念力で客を退けてしまって、その店を
滅してしまいます。それも、低級霊側が次第に欲ばってゆき、遂いには、店主の方が、いくら上げて
も、満足せず、もっとよこせ、もっと上げろ、と脅迫しつづけるのです。
それは、その教団の教主なり講師なりを通して行なわれるか、あるいは、神社仏閣ならば、夢とか、
他人に告げさせるとか、商売が次第に衰微してくることによって知らされるかして、常に不安の境地
に追いつめてゆきます。
こんなことになってしまったら、それこそ大変です。ところが、このたぐいの信仰が、実に多いの
でありまして、現在信仰によって、商売が繁昌している人々でも、よくよくこの理を考えて、自己の
心を反省してみるとよいのです。
8
自分は果して、どの系列に入るか、をじつと考えてみるべきです。考えてみて、ああ、これではい
けない、と思つたら、その宗教や、そのお詣りを直ちに止めて、その時は一時店が衰えるかも知れな
いが、勇気を出して止めてしまい、真実の教を説く宗教入りをし、正しい信仰に入るのが智慧という
ものです。
商売繁昌の秘訣は、奉仕精神(愛) と明朗さであって、神社仏閣詣でではありません。信仰とはそ
うした愛と真の精神を自己のものとするためのものであることを思うべきです。
問5 先生の教えを受けたら他の宗教は皆止めなければいけませんか。
答そんなことはありませんが、あなたが真実のことがわかってくれば、他の教を受ける必要がな
くなるのではありませんか。
宗教の教には、自力(聖道門) と他力(浄土門) の二つに大別されるのですが、新興と称される教
の中には、自力も他力もまるで区別なく混合させて、お題目などを唱えさせているところが多いよう
です。
宗教の根本目的は、人間の真実の姿、本心の開発というところにあるので、たとえ現世利益を得さ
せるにしても、その根本を知らせるための一つの道順でしかありません。宗教が現世利益だけを目的
にしているようでは、これは宗教の道からはずれているのです。真実の宗教は常に、神仏と人間との
9
関係を説き、肉体人間の神性、仏性の開発に寄与するものでなければいけないのです。ですから、そ
うした道に違わぬ教ならば、他のどの宗教家に話を聞いても一向差しつかえないと思います。ただし、
あなたの素質が、自力信仰に適していないのに、自力信仰の話を聞くと、〃ああこうしなければいけ
ない。こんなことでは駄目だ瀞というように、その教が説く種々な修業を実行し得ないで、かえって
苦しみつづけ、心を痛め、傷つけてしまい、生きてゆく勇気を失ったりしがちです。
ヨガ(統一行) の信仰をやっている人たちが私のところにきておりますが、その人達は一様に、ヨ
ガの呼吸法が、なかなかむずかしく実行し得えないで、途中で私のような他力信仰の教の方に転向し
てきているのです。自力で一定の修業を成し遂げようとするのには、実に強靱な意志力と、それにつ
いやす時間が必要なので、特殊な上根の人でなければ成功することが出来ないようです。私は自分が
上根の人間とは思えなかったので、神様宜しきように私をお使い下さい、とすべてを神様にお任せし
て超人的な力を得ることが出来、今日の教を説けるようになったのです。神様にすべてをお任せする
と、神様(守護の神霊)が、その人に一番適当な方法で、その人の神性を開発出来るようにして下さ
るのです。
宗教を、芝居見物や映画見物のようなつもりで、興味本位に渡り歩いたのでは、なかなか本心の開
発は出来ません。
まず、一つところで二三年は、じっくり落ちついて励んでごらんなさい。二三年もすれば、その教
io
の良し悪しは、大体わかりましよう。それでこの教だけでは、とても自分は喰い足りぬと思ったり、
自分にほ合おぬと思ったら、他を探究してごらんなさい。真理は案外簡単な原理なのですが、それを
しきそくぜくうくうそくぜしき
行じるか行じぬかに、その人の運命がかかるのです。色即是空、空即是色。現われるすべては消えて
ゆく姿、本心はそのままゆるぎなし。
問6 真の宗教は、常識をはずれずに常識を超えねばならぬとはどんなことですか。
答普通の常識だけでは、宗教のない生活と同じです。見えるものは存在し、見えないものは存在
しない。こうした考え方が常識ですが、これでは、人間の安心立命も、地上天国の創設も出来は致し
ませんが、といって、相手の心境お構いなしに、病気になっても絶対に薬を飲んではいけません。医
者にかかってはいけません、などと教えたり、頼まれもしないのに人の家に乗りこんで、お宅の病人を
お祈りで直してやろう、と云ったり、人の弱みにつけこんで、強迫的に自分の宗教団体に入会させよ
うとしたり、主婦の忙しい夕方に訪れて、相手の迷惑も顧みず、長々と説法をしていったりする宗教
者がいるとすれぽ、それは常識をはずれた行為というのです。
このどちらも、真実の生き方ではなく、真の宗教的行為でもありません。
真の宗教、正しい宗教的行為というのは、肉体人間は常に神仏の力によって、生かされているので
あること、自も、他も、すべて神の使命をはたさんがためにこの世に生れているのであり、この世の11
役目が済めぽ、他の界で働きつづけるのであることを信じ、愛と真心に満ちた行為をなしつづけ、ま
たはそのようになろうと努力している人たちの行為であります。いたずらに奇異なる行為はせず、平
常は常識人そのままでありながら、永遠の生命を信じているが故に、病んでも傷ついても、死に臨ん
おご
でも平然として心乱さず、貧富の生活の波にも心騒がず、驕らず、ただひたすら、自己の職責をはた
しているような人、または、他人の苦悩を己れのそれの如く感じ、自己の力を挙げて、その人の救済
に当り得るような人、あるいは国家社会人類のために、自己欲望を投げうって働き得る人。
これらは、すべて、常識を根抵にして、しかも常識を超えたる、超人的行為なのであります。
こうした行為の出来得る人を多くつくり出すことこそ、宗教者の役目というべきでありましよう。
現世利益的霊能力をいたずらに弄び、勤めず労せずして利益を得んとするような怠惰なる人間をつ
くりあげるような宗教者は、やはり常識はずれの部類に入るのであって、そのような宗教にひきずら
れぬようにお互いにそうした想いを消しつづけなければなりません。
12
, 問7 家庭平和の秘訣を教えて下さい。
答一口にいえば、お互いのおもいやりにあると思います。一つ家庭に、妻となり夫となり、父子
となり、母娘となって生活するということは、過去世からの深い縁によるのです。というより魂的に
深いつながりがあるのです。
貴方がもし悪妻をもち、貴女がもし低級な夫をもったとするならば、それは、貴方や貴女が、過去
あかし
世において、そうした妻であり、夫であった証であり、その負債を今生において払っているのである
ことを、まず知らねばなりません。
そうしたことを認識することが、家庭を現在より以上に明るくする第嚇歩です。もし幸いに、夫も
妻も、息子も娘も、まずまずの出来であったなら、朝に夕に、一家全部の守護の神霊に感謝を捧げて
生活する習慣をつけることであります。ところが、配偶者や、子供たちの出来が悪い場合には、口で
いうように、神様に感謝することが出来ません。そこで、私は、過去世からの因縁説を説くのです。
自分の出した想念、自分のやった行為、これは善悪共に必ず、自分自身に還えってくるのが、この
世の法則なのです。愛すれば、必ず愛されます。憎めば必ず憎みかえされます。ただ時間的に直ぐに
還えってこないだけなのです。人間は何度でも生れ更って生活しているものなので、前世のことは、
今生で払うことになってくるのです。ですから、その人の現在の生活は、過去世プラス今生の想念行
為ということになってくるのであって、易や姓名学などの鑑定は、過去世のその人の想念行為の集積
を、人相や姓名や、生年月日にみるのです。これを先天運というのであります。
ということから、この世には、先天運的に家庭運の悪い人と、善い人とがあることになるのです。
家庭運の善い人はそのまま万物に感謝出来る立場にいて結構なのですが、悪い人の場合は、一旦は悪
いのが今生の運命なのだ、と諦めてしまって、その諦めから再出発することが肝要です。
13
一旦すっかり諦めてしまうと、人間は案外気が楽になるものです。よくしようしようと力んでいる
から苦しいので、とにかく一旦諦めてしまって、自分の想念を、なんらかに集中させてしまうのです。
そのなんらかは、神様が一番よいのです。1 自分を生み育てて下さった神様、どうぞ、あなた様の一
番いいように、私の運命を進めて下さい。私は今、どうしようもないのですから、あなた様にすべて
をお任せ致しますーと、何もかも自分をこの世に生み育てて下さった神様にお任せする気になって、
そうした祈り言を、朝、昼、晩の閑ある限り祈りつづけるのです。そうしていますと、意外な程、心
が落ちついてきて、誰れの目にも、それ以前のあなたとは、まるで違った人間に見えてくるし、自分
でも何かこう安心したような気持になってくるものです。そう致しますと、家庭の人たちが、これも
やはり、以前とは異なる雰囲気になってきて、必ず、あなたに親しさを見せはじめます。そうなつて
きたらすかさず、その人たちの背後に在る守護の神霊(これは必ず守っているのです) にむかうつも
りで、心の中で、守護の神霊への感謝をはじめるのです。そうした祈りをつづけていますと、思いも
かけぬように、家庭が明るくなり、平和になってくるのです。そんなうまい工合にいきますか、と云
うなら、嘘だと思ってもいいからやってごらんなさい。やらぬ以前とは比べものにならぬ程よくなっ
てゆきます。何故ならば、神は愛であって全能なのですから、神に運命を任せている人間を不幸のま
ま置くわけがないからです。
ともかく、神の愛を信じ、夫なり妻なり子供なりの奥底にある神のみ心の善なることを信じ、自己14
に都合の悪いような出方、自己を困らせ、嫌がらせるような言行を、相手がしてきた場合は、すべて
自分の過去世からの誤つた想念行為が、そうした形になって消え去ってゆき、やがては家庭が円満に
なってゆくに違いない、と信じて、相手を責めることを止めることです。
1 信ずる者は幸なりー
問8 素直になるにはどうしたらよいでしょう。
答素直になるということは、言葉ではやさしそうでいて、実は誠にむずかしいことなのです。
素直ということは、人のいうことを、なんでもはいはいと聞いてやればよいか、というと、なかな
かそんな簡単なことではありませんし、実際に、どんな無法なことでも、なんでもかでも、はいはい
云って聞け、といっても、純粋な素直さで、その通りゃれるものでもありません。人のいう通りにそ
のままやれる人は、大馬鹿か、聖老かのどちらかでありましょう。私の答は常に、大馬鹿や聖者のた
めの答ではなく、普通常人のための答でありますから、そのおつもりでおきき下さい。
いつであったか、ある新興大宗教々団の先生が、この素直であれ、という講演の中で、次のような
ことを云っていたのを、その教団発行の本で読んだのですが、それはーある夫が妻に向って、僕は
これから泥棒に行こうと思うが、どんな風呂敷を持っていったらよいか、と云った。するとその妻は、
すかさずあなた、大風呂敷にしましょうか、それとも、小風呂敷にしましょうか、ときいたーとい
i5
うのです。そして、妻というものは、このように素直でなければならない、とその先生は説いている
のです。これは落語ではなく、宗教家の先生が、そうおっしゃるのです。
私はこれを読んで、全く驚き入ってしまったのです。いかに磐え話とはいえ、馬鹿々々しすぎる例
話です。智慧の薄い女性は、こんな讐え話を、真実と思って実行しかねません。
私の考えている素直というのは、そんな無思想、無根抵の素直をいうのではないのです。素直とは
もとなお
素に直くある、ということで、素(元) 即ち、神に直くあれ、正しくあれ、神に真直ぐにつながれ、
ということであります。泥棒しよう、という心が、神につながっているかいないかは、誰れにでもわ
かることですが、これが泥棒でなくて、法律にふれない、良心があまり痛まない悪行為であったら、
その先生に教を乞うている女性たちは、夫の誤りを是正することなく、易々として従ってゆくことで
しょうo
私は、そんな行為を素直だなどとは、とても思えません。もし夫が、そのような誤った行為をしょ
うとするならば、妻はひたむきに神に祈りながら全精神力を結集して、本当に真剣になって、その夫
の行為を阻止すべきです。それこそ神につながっている真実の素直であって、夫の悪行為に易々とし
て従ってゆくようなことは、悪に妥協した、弱い、卑怯なる態度であり、神に逆いた行為なのであり
ます。
宗教の誤った素直の教えをうけている女性の中には、こうしたわかりきった事柄の中で、かえって悩16
み悶えている人たちが沢山あるのです。
どんなことがあっても、夫に口答えしたり、逆ったりしたら妻の道ではない、夫は天であり陽であ
り、妻は地であり陰である。絡の針に従う如く、妻は夫に従わねぽならない。これは宗教の教として
至極もつともなことであり、道理であります。しかし夫が天であり陽であって、天の如く正しく、陽
のように明るく積極的であれぽ、問題はありません。ところが実生活は、そううまく出来ていないの
です。もし夫に天の如き正しさなく、陽の如き積極性なく、じめじめと陰気で消極的であった場合、
妻は易々として、夫の性格に素直について行けるでしようか。必ず無理に自己を抑えて、従っている
に違いありません。そこには自然にそむく無理があるのですから、そうした夫のなすがままにつき従
つていったら、その家庭は破滅してしまいます。針が曲っていたら、締の縫目は、その針の通りに曲
つてしまうにきまっているのです。こうしたところが、原理と実際問題との違いのむずかしさなので
す。
よこ
素直とは、あくまで、天(神)真理に素直であるべきなので、相手の曲った行為や、邪しまに従う
ものではなく、夫の本性(本心) が現われるように、愛と智慧とを働かせてその欠点を補い補いして
夫婦という一対の調和を計ってゆくところにあるのです。
ですから、真実に素直であることは、生易しいことではないのです。
こうした素直にはどうしたらなれるかというと、やはり自分を守り、夫を守って下さっている守護
1?
の神霊に、夫婦共々の天命を完う出来ますように、道に違わぬ生き方が出来ますように、と祈りつづ
けることです。そう祈ることによって、神の愛、神の智慧が、その夫に働きかけてゆくのです。
男性の場合などは、自己の行動が、常に社会につながっているので、この素直なる心の現わし方が
よりむずかしくなってくるのです。会社や、官庁の上役、下役の関係、商売のお得意関係等々、生活
の利害関係が、常につきまとうのですから、こうした態度が素直なのだなどと一口にいえるものでは
ないのでありますが、やはり原理は、神(真理) に素直である、ということになるのであります。し
かしこうした広い範囲の場合は、どれが一体真理なのか、どれが一体正しい行為なのか、実に複雑で
わかり難いものなのです。
自己の狭い善なる見解で、上役のやっていることを非難し、その仕事に同調してゆかぬ下役がよく
あるものですが、その下役は下役なりに、自分の見解が正しく、自分の考えこそ神の道、真理に沿っ
ているものである、と思いこんでいるのでしょうが、実は、その下役の低い地位の場所から見れぽ、
自己の主張が正しいように見えても、上役のより高い、より広い場所から見ると、その下役の見解は、
そのことそのもの、その事柄については、確に真理であり、正しくはあるのですが、その真理のよう
に見え、正しく見える見解の下に仕事を進めてゆくと、より広い発展、より大きな仕事へのつながり
の面で、破綻を来たしてしまうことになる、という見通しが、高い地位、先きの見える立場にある上
役には、はっきりわかるのです。そこで一度は邪しまと見え、正しからぬと、下役の眼には見える、
18
そのものなり、その事柄なりを、飲みこんでしまうのです。そうしなけれぽ、その会社なり、その国
家なりの未来の不為めになるというような例はなかなか多い事実なのです。
と致しますと、この下役は、自分では、自分の行為は真理に素直であった、と思いこんでいるでし
ょうが、大きな眼からみて、この下役は、独りよがりの不従順者ということになって、その勤先が不
首尾に終るようなことになってしまいます。
共産主義に走るような青年にはこうした狭い見地からの独善で、親兄弟や友人たちと離反してゆく
ような者が多いようです。
こうした青年の行為は、一見すると、真理に素直な、純真なる人間に見えるのですが、国家人類と
いう大きな見地から見ると、その青年の、愛国心と見え、人類愛と見える行為が、実は全く困った行
為である、ということになってくるのです。
ですから素直な生き方ということは、一度びは、相手の立場を尊重して、従順に相手の言葉を拝聴
し、不審な点があったら、柔かな穏やかな言葉態度で、その点についての説明を求め、それでも、どう
しても相手の考えに誤りがあると思えたら、より謙譲な態度で、自分の考えを、私はこのように考えて
おりますが、いかがでございましょうか、と進言してみるとよいのです。それで、相手が自分の言葉
を受け入れなかったら、その時はそのまま引退って、その採決を神にゆだねてしまうのです。
ー神様どうぞこの仕事が、神様のみ心に適うものになりますようにーそうして、相手の守護霊に
19
むかってもー○○ さんの守護霊さん、○○ さんの仕事が○ ○ さんの天命をはたす道でありますよう
にーと祈っていると必ず善い方向に仕事は進んでゆくものです。こうした生き方を、真理に素直な
生き方というのです。
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問9 生長の家の教えと、先生の教えの相違点をご説明下さい。
答生長の家は万教帰一と銘うっているように、神道、仏教、キリスト教はもとより、心霊科学、
精神分析等々、各種の教を混合させて、こちらでわからなけれぽ、あちらで、そちらが駄目なら、こ
ちらで、というように、実に知識的に複雑多岐なる説き方をしているのでありますが、その教の根本
ヘへ
は、人間は神の子である、であるから、この世界には、悪も、不幸も、貧乏も病気も無いのである。
ヘヘヘへ
物 質は無い、肉体は無い、という実相論と、現象に現われた病気も貧乏も、あらゆる不幸な出来事は、
みな、あなたの心が間違っているからである。夫が悪く現われているのも、子供が悪く現われている
のも、あなたの周囲に現われている悪なる姿は、みんなあなたの間違った心の影なのだ、という現象
論で、この現象論の実際指導として精神分析学を応用して、〃心でぶつぶつ云うから腫れものが出来
るのだ〃〃その家に居住したくない心、つまり尻が落ちつかぬ気持でいるから、落ちついて坐われ
ぬ痔のような病気になったのだ〃〃頭がてかてか禿げるのは、神(髪) に遠いから、髪(神) が抜
けるのだ〃等々、例をあげればきりがない程、こうした精神分析指導をするのであります。
想うことはすべてこの世に現われる、ということの原理から、その想いに類似した形で病気や不幸
が現われるのだから、それを悔い改めれぽ、その病気や不幸が直る、というのであります。ところが、
この実相論と現象論が、なかなかうまく縦横十字にならないで、現象論の精神分析の方に心が傾いて
ゆくのです。そして、しばらくその方法を実地応用していますと、精神分析の方が面白くなって、実
相論は、そうした分析の影にかくれて、次第に姿が小さくなってしまうのです。そうした体験は生長
の家の人なら皆がもっているわけなのです。無理もないのです。
この現象世界には、悪や不幸や病気が充満しているのに、実相は完全円満で、悪も不幸も病気も無
い。この肉体も、すべての物質もあるように見えるけれども実在ではないのだ。だからいかに相手が
悪人と見えようとも、実相完全円満と拝みつづければ、必ずその相手は善なる実相を現わしてきて、
あなたと大調和するであろう。という実相論、つまり法華経の教は、頭ではわかる人はいても、実際
に行なうには、実にむずかしいことであって、余程の上根(立派な) の人でなければ実行不可能に思
われるのです。普通人でも、時たまは実行出来るのですけれど、どうも精神分析つまり因縁因果の分
析の方がやさしいので、衆生(普通人) はその方に重点が傾きやすいのです。そして、人間は本当は
完全円満なのに、どうして私はこのように病気や不幸が絶えないのだろう。私の心は余程悪いに違い
ない、と折角の実相論、法華経のすべてはみ仏である、という教が、反対に堕落してしまって、罪人
意識に把われてしまう人が出来たり、また一方、自己以外のすべての人を精神分析的に観て、その人21
たちの不幸や病気を、あなたはこういう心があるからそのような不幸になり、そうした病気になるの
だ、と相手を常に責め裁き、痛めて、自己を相手より優位に置くことに専念し、自己は、神の子完全
円満を、口先きだけの唱え文句にして、反省なき偽善者になってゆく人もかなり多いのです。
このように、実相論(法華経、華厳経) のような素晴しい教を説きながら、万教帰一、実は各種の
教の混ぜ合わせ、悪口をいう人にはカクテル宗教といわれるように、何処から突かれても隙がないよ
うに、誰れでも入れるように、とあまり才智をしぼり過ぎて、法華経を誤またす信者を沢山つくり出
してしまったのです。
私は、法華経をあんなにやさしく説かれた実相論には万腔の敬意を表するのですが、折角の法華経
を、精神分析論で、めちゃめちゃにしてしまった愚かさを、谷口教祖のために非常に惜しむものなの
です。これも大神様の神意の中にあったことなのでしょうから、致し方がないと思うのですが、何故
実相論一本槍で通さなかったかと再び惜まれてくるのです。
カルマ
現象はすべて心の影という心の法則論は、昔からいわれている、因縁因果のことで、業の流転のこ
とです。それを新しい言葉で、実相論に並べて現象論として説いたところが生長の家なので、これは
どう云おうと、これ以上に説くことも、変えることも生長の家としては今では出来なくなっているの
です。ところが、これだけでは到底真実の救いに入ることが出来ない、と私は思ったのです。これで
は、入門二三年は、実相論で心がくるりと変って、ちょっとした救われに入る人があるでしょうが、
22
年がたってゆくうちに、頭の鋭い人や良心的な人なら、この教団の教や、教団の講師諸氏の教えと実
生活(実際行動)との差異の甚しさがわかってきたり、教の中の矛盾に突き当ったりして、悩んでき
ますし、頭のあまり秀れぬ人達は、偽善的な生活に気づかず、人間神の子円満完全と、自己の魂の在
り場所も知らずに、他人の欠点を裁いたりして得意になっているでしょう。
このことは、私が講師として生長の家教団にいて、はっきり確認し、自己も味わった生活であるの
ですから間違いはありません。神様は私にわかりやすく、行じやすい真理を説かせるために、各教団
の勉強をさせたものなのです。そこで今度は、私が神様から説くことを命ぜられている、教の説明を
改めて致しましょう。
私は生長の家の実相論(法華経)は本当に素晴しいと思っているのですが、実相論と現象論との使
い方が、実に下手で逆効果になってしまっているのに気づいたのです。今私が説いている教は、この
ヘヘヘヘヘヘへ 
法華経を基として、この法華経に浄土門の教を一つに結びつけた教なのです。法華経が天の声とすれ
ば、浄土門は地の声が天に合体せんとする教です。私は、法華経の実相論(み仏のみの世界である)
というのを、人間の本心(本体) は直霊(神) であるが、この肉体世界を創るために、幾つかの分霊
に分れ、地上界に天降ってきて、それが次第に細く分れて現在の肉体世界になったのだが、この肉体
世界を創る以前には、霊界(霊人) 幽界(魂)が創られてあって、神、霊、幽、肉の四つの世界を通し
て働いているのである。ところが、分霊魂となって肉体界に働いているうちに、肉体界の重い波動、23
にぶい動きに次第になれてきて同化され、本来の軽妙な律動による動きが出来なくなって、本来身
カルマ
(霊身)と肉体身との動きの差異が業となって、この地上世界を現在のような迷妄に蔽われた世界に
しているのである。だから、この原理を知って、想いを自己の本体、神(直霊)と一体となるように
して、この肉体界に本体の力(光)を、そのまま働かせるようにしなけれぽならない。ところが一た
ん肉体という粗雑な重い波動に蔽われてしまった分霊魂(人間) は、それ自体では、その業生の波を
突き破って直霊(神) の光明と一直線につながることが出来ない。しかし直霊(神)は全智全能なの
ですから、はじめからこのようになることを知っておられて、その時の援助者として、自己の光明を
分けられて守護神とし、人間の肉体世界を観守られていたので、その光明によって、肉体界に最初に
天降った分霊たち(祖先)を霊界にひき上げ、新たに守護霊として、肉体人間一人一人の背後につけ、
人間の運命を守護させることにした。そして守護霊、守護神が梯子のように肉体人間の想いを乗せて、
直霊(神) の光明につなげ、本心を開発させ、法華経や華厳経の世界をこの地上世界に顕出させよう
としているのであると、実相世界と現象世界をつなぐ柱として守護の神霊の存在を説き、寝ても起き
ても、立っていても、歩いていても、仕事していても、いつでも自分を護っている守護の神霊に感謝
して生活し、現われてくる悪いと見えること、不幸と見えることは、みな、そうした原理を知らなか
った、過去世からの想念行為の誤りが消えてゆく姿である、とそのままその現われを把えず、掴まず
に、突き放してゆきなさい。そうすれば、本来が、完全円満なる神の子である人間なのだから、必ず
24
カルマ
本来の姿がこの地上界にも現われてくるにきまっている。守護霊、守護神は、背後にいて休みなく業
の波を消していて下さるのだから、あなた方は、現象の悪や不幸や、自己の脳裡を駈け巡る、欲望、
恐怖、悲哀、憎悪、そうした業生の想念を、精神分析的に把えずに、守護霊、守護神への感謝の祈り
にすり代えてしまいなさい、と説いているのです。
生長の家の教えとよくくらべて下さい。生長の家だと、実相完全円満の人間が、どうしてこのような
 
不完全な悪や不幸に満ちた人間世界をつくったのですか、の問に対して答えることが出来ません。谷
口教祖は〃悪は無いから、無い悪を探すことは出来ない〃式の答をしているのですが、谷口教祖の実
際言動、実際生活は、すべてを実相完全と拝み、誰れの悪をも認めない、という実相論を踏みはずす
こと数段の生活言動をしているのです。その例は枚挙にいとまはありません。教祖自ら教が生活に現
わせないのです。それは教に無理があるということを如実に示しているのです。
地上世界の人間には、多かれ少かれ、悪い想念はあるにきまっているので、それはそれではっきり
認めてよいのです。いったん認めて、認めた瞬間、これで消えてゆくのだと、その掴んだ想いを、守
護の神霊への感謝の祈りに変えてゆくのです。そうすれぽ、悪は無い、病気は無い、と本当は心から
想えるわけでもないのに、想ったようなふりをする偽善者的無理をせずに、三界の迷妄から自然にぬ
けでて、実相の世界、安心立命の生活の中に生々と働くことが出来るようになるのです。守護の神霊
を実相界に昇る梯子として使うのが私の教です。25
生長の家と私の教との相違点を一言にして云えば、生長の家は、最初に頭ごなしに、人間の実相は
完全円満で悪も不幸も無い、肉体も物質も無い、だから病気も無い、という素晴しい真理の言葉で読
かつ
者や信者に喝をくわせて、この現象界を問題にせぬ立派な態度を見せながら、今度は現象に現われた
不幸や病気を、因縁因果説、心の法則に落してきて、あなたの心が間違っているから、そうした不幸
わざこう
や病気が現われるのだ、とその人々の心の迷いのなせる業だ、と改めて、人間の悪や迷い、つまり業
をはっきりと認めている二元論なのです。はじめの一二年は、法華経(実相論) の喝のききめで病気
がなおり、家庭が調和したりするのですが、しばらくたって、その教の矛盾つまり、完全円満の実相
人間から、どうして迷いの多い人問が出来てきたのであろう、ということに気づきはじめ、時折り現
われた実相が、次第に現象の心の分析の影にかくれてしまって、人間は本来完全円満である、という
真理を知っていることが、かえって自己を責め裁く、という反対現象を起してくるのです。それは、
実相と現象をつなぐ梯子がないのに、現象の迷妄の中に喘ぐ人々に、実相はここだ、昇ってこい、と
高い理念の世界から呼びかけてくるので、いち早くそこ迄昇ろうと、焦りもだえて、現象の自己の力
弱さ、低さを歎き哀しむか、あるいは、自己を偽購してしまうかしてしまうのです。私はそこに守護
霊、守護神という梯子をかけ、実相と現象を一本につなぎ、一元的にして、現象無しというところを
病気も不幸も悪想念も、すべて過去世からの誤った想念行為の消えてゆく姿、消えてゆくに従って、
カルマ
人間の本心(実相)が現われてくるのだ、と分析の代りに、消えるという言葉で業生の幕をひらいて
26
1 r 屍
曳盛
ゆくのです。こうすると虚勢を張らぬ裸のままで素直に、自分を赦し、人を赦して、伸びやかな大ら
かな生活が出来てくるのです。要するに迷いの想念を分析的につかわず、一直線に守護霊、守護神、
直霊(本心) の方に感謝全託の想念として振りかえてしまわせる教なのです。ですから私の教には、
私が悪いも、あなたが悪いもなく、悪いものはすぺて過去世からの業(因縁因果) の消えてゆく姿と
なり、在るものは法華経や華厳経の説く、光明燦然たる実相身、み仏ばかり、ということになるので
あって、そうした本質の世界が次第に現われてくることになるのであります。
問10 どうして戦後に新興宗教が多くなったのですか、並びにその良否をお伺いします。
答肉体人間という者は、常に自分の生活というものに、なんらかの不安をもっているものなので
すが、戦争中は、それがすべて、国家の重大危機という問題にぶつかって、個々人の不安は、その大
きな問題の中に消滅してしまい、国家の危機感に個々人の不安が、置きかえられてしまっていたの
で、個々人の生活の不安だけを別にして考え、案ずる心の隙がなかったのです。
ところが戦後は、国家は敗れて、国家が個人個人の生活を守ってくれる、という安心感がもてず、
国家への不信感が大きくなってきて、個人の生活は個人で守らなくてはならぬという考えに、国民が
なってきたのです。
そうなりますと、それまでは、自分たちを守ってくれる国家として、その国家を守り通せぽ自分た2T
ちの生活が守られる、と国家を自分たちの生活の安心の目途にしていたものが、急にその目途を、他
の何かに変更せねぽ安心ならぬ状態に立ち至ってきたのです。
そこで、他の何か、自分たちの生活して中く不安を解消する為にすがる何者かを、神仏に求めはじ
めたのです。そして、その神仏は、既成宗教、つまり古くからあった宗教のように、現象の生活のご
利益などはさて置いて、永遠の生命の問題、真理、真実の自己の探究などを説く宗教では、現在の自
分たちの不安の解消には、とても遠いことであるように思えて、すがれる気にはなれないのです。そ
こへ、現象の利益、この世の生活の利益を、君板にした宗教、つまり、この世の生活を利益してあげ
よう、という神仏? を売りものにした宗教が現われたのですから、何かにすがらずにはこの世の生
活も、あの世の生活も、今日の生活も明日の生活も不安でならない人や、貧苦、病苦に悩む人たちが、
そうした宗教に押し寄せたわけなのです。
こうした宗教を、一応に新興宗教と呼んでいるのです。そして知識階級の一部や、既成宗教派の人
々が、新興宗教というと、一概に邪教あつかいにしてしまっているのです。
ところが、現世のご利益を云々したから邪教であるかというと、これはとんだ間違いであって、現
世利益があることは、宗教としてなんら邪しいことでもなく、誤ったことでもありません。邪しいこ
とは、迷える人々を餌にして、多額の金品を取ったり、その時々の現世利益だけを与えて、その人の
魂(真実の心)を、一人立ちの出来ぬようにし、依頼心の強さをますます助長せしめたり、神仏を、
28
自分の利益の為だけに使おうとしたりする人間を造ってゆくことだの、物質に対する欲望執着を、ま
すます強めたりするものがあったりすることなのです。
こんなことをする宗教団体は、どんなに現世利益があろうとも、これは邪教なのであって、新しく
興った宗教の面汚し、ということになるのであります。
中には、自分の団体に引きこむ為に、無理やりに人を脅やかして入会させ、否でも応でも、脱会さ
せぬような、強迫団体もあるのです。これらは宗教などではなく、暴力団と変りはありません。
これらは戦後の人心不安を利用して、旨い利益や権力を得ようとする輩が、幽界の低級な生物の玩
具になってやっていることであって、宗教と名乗っていたとしても、宗教ではないのであります。
既成宗教の他に新しい宗教を、神様が興させたのは、既成と呼ばれる宗教が、あまりにも高遠な理
想的人格の完成に、この世の人々を導こうとしていて、この現世の人間の生活状態とか、心の状態と
かを、まるで問題にせぬ、つまり現世利益を、てんから問題にせぬ説法の仕方、導き方をしておりな
がら、一方僧職の人々は、ただ死骸にお経をあげている、という状態だけになっているのに鑑み、現
世利益を与えつつ、知らず知らずに業生の生活からぬけでて、仏(神)菩薩の心を心として生きてゆ
けるような教や導き方をする宗教をこの世に生み出そうとしたからなのであります。
云いかえると新宗教の興った正しい頓的は、宅の現世を、大調和世界にしてゆくことであり、その
過程には、個々人の心的物的、両面の生活を高度なものに仕上げてゆく、ということが含まれている29
のであります。
ですから、新興宗教の正しいものは、既成宗教の行なわなかった部面を加えて、既成宗教にプラス
カルマ
してゆくものであり、誤てるものは、人間を地獄に引き落そうとする、業の使いであるのです。皆さ
んはよくこの理を考えて、どれが正しく、どれが誤っているかを、よくよく思考せねばなりません。
30
問1 世界平和の祈リの最中に雑念が出て困るのですが、これでもよいのでしょうか。
答それでよいのです。大体祈りというものは、肉体の自分がするのではないのです。祈ろうとす
る時は、もうすでに自分というものが、神仏の中に一体になっているのです。このことをまず信じな
ければなりません。
何故かといえぽ、自己というものは、本来神仏の中に本住の地があるのであって、真実の自我は、
神仏の心であるのです。これが、宗教の根本なのであって、この真理をはずれては、宗教が成り立ち
ませんし、人間の救われはないのです。
この世の真実は、神仏だけが実在する世であるのですが、この真実がすっかり現われるまで、悪と
見え、迷いと見え、不幸と見える姿が存在するように見えているのです。
ところが、私たち肉体界に住みついた人聞は、五感、六感という感覚の中に閉じこめられていて、五感
(眼耳鼻舌身)六感(五感に意を加える)の中で、すぺてを感じて、幸、不幸と想っているのであります。
祈りは、この五感、六感の束縛の中から、自己を、神仏の世界、人間の本住の地に昇華させること、
させることというより、することなのであります。自分の本住の地に還えることなのであります。
仏教では、このため、坐暉を組み、心を空にする練習を、たゆみなくやっているのです。
祈りの目的は、業想念から離れて、本心の世界、神仏の世界に、自我を帰一させるということにあ
るのです。
世界平和の祈りは、自分が神仏の世界に還えると同時に、逆に神仏の世界から、肉体人間の世界が
平和であるようにと自己の肉体を通して、神仏の光明を、肉体世界に放射している、祈りなのであり
ます。
ですから、世界平和の祈りをしようとした時、もうその人はすでに、光明の世界神仏の世界に一歩
足を踏み入れているのですから、そのまま、祈りをつづけていればよいのです。その時いくら雑念が
湧きあがってきても、それは、業想念が消えてゆく姿なのですから、祈りには一向影響致しません。
これでよいのかしら、と思う想いも、業想念の消えてゆく姿なのです。すべての想いは消えてゆく
姿であって、真実の人間の心、祈りの心は、どんな雑念の中にあっても、光り輝いて、世界を照して
いるのです。
たゆまず世界平和の祈りをしていれぽ、やがてその真理が確認出来てきます。私は自分がはっきり
祈りの真実性を確認して、体験として説いているのですから疑わずつづけて下さい。すべての雑念は
31
消えてゆく姿、祈りの効果を分別する想いも消えてゆく姿、そのことを一日も早く体認して下さい。
32
問12 人間の運命は変えられますか?
答運命は変えられます。変わります。易者や行者を三四軒廻ってきて、最後に私のところにきた
人が、今迄の人々に云われた鑑定と私の云う言葉とが違っていて、(前の人々がニケ月先きの悪い暗
示を云い、私はそれを否定した)遂いに悪い運命は出ずじまいで何年かたってしまった、というよう
な例が沢山あるので、運命は変えられるし、変わる、と云い得ます。
運命を変える為には、その人が、現在までの物の考え方、行ない方などの習性を改めなければなり
ません。これはその人一人ではとても出来難いことなので、その為の指導者は是非必要です。

本来運命というものは、過去世からの想念行為の集積が、今生の想念行為の波に乗って、果に現わ
れる姿をいうのでありますから、前の世からの習性の想念行為の連続で、自分の生活をしていたので
は、生れた時の観相や手相や姓名学に現われたままの運命をたどってゆくにきまっています。ですか
ら、悪い運命と人に云われたり、現在そうした運命にある人は、現在までの想念(思想)行為を改め
ることはどうしても必要になってくるのです。
怒りっぽい人は、その怒りを消し、妬みっぽい人はその妬みを去る、という工合にしなければなら
ないのですから、一人ではとても無理だと思うのです。
そこで、宗教の必要が起ってくるのです。何故宗教が必要になってくるかというと、宗教とは、現
在のその人の想念行為とは全く別に、神仏のみ心を、その人に現わすことを教えるからなのでありま
す。
神仏のみ心とは、完全な善であり、美であり、真であって、悪や不幸はその中にはないのでありま
す。
今まで習慣性になった想念行為の中に住んでいながら、その想念行為を変えようといっても、これ
はなかなか出来ない相談なのでありますので、宗教心なくして、定まった運命が変わるということ
は、ほとんどないことなのです。
しちゆうすいめい
運命というのは、生れた時から一度は定まっているものなので、四柱推命学や、その他の運命学の
確率が相当高いパーセソテージを示しているのであります。
ですから宗教者でない運命学者の中には、運命は変らない、といっている人々が沢山あるのです。
そうしたことを心に入れてから、私の云うことをよくきいて下さい。
運命を変える為には、まず、自分というものは、自分自身で生きているものではなく、何かの大き
な力(神仏) に生かされているものである、という謙虚な心になることが第一であります。
謙虚になった心で、日々、神への感謝を行じなけれぽいけません。自分が現在置かれている不幸と
は、全く別に、神への感謝に心を籠めてゆく練習をするのです。今、自分が置かれている不幸な環境33
は、過去世から現在までの誤った想念行為、神仏と離れていた想念行為の為なのであって、これから
もその運命がつづくと限っているわけではないのです。(これからとはこの世の未来と幽界霊界をも
含めてのことです) ですから、不幸の中にあっても、この不幸は、今迄の間違った想念行為が消え去
つてゆく為のものであって、これからは善くなるのだと想いつづけるのです。そしてその想いと共に
守護の神霊への感謝をつづけるのです。そうすれぽ、必ず運命は善い方向に変ってゆきます。不幸や
病気の観念の中に沈んでいては、とても運命は変えられません。その時は、生きていられるだけでも
有難いと思うのです。想念を不幸から神様の方に切りかえるのです。

ぽんのうぽだい
問13 煩悩即喜提という言葉がありますが、これはどういう意味でしょうか。
答煩悩とは字の如く煩い悩むということで、人間が種々様々な欲望執着に想い悩むということで
あります。
菩提とは彼岸の体、つまり、人間の真実の姿、本心の姿、正覚の姿、悟り、神仏そのまま、という
ことであります。
この二つの言葉を合わせて、煩悩は即ち菩提だというのであります。一見実に面妖な言葉でありま
す。
煩い悩んでいるそのままで、どうして悟りの姿と言えましょう。どうして本心の姿と言うことが出
来ましょう。文字のまま解釈したら、こんな難解な言葉はありません。
この言葉は様々な宗教家が種々な言葉で説明しており、各種の解釈の仕方をしているのですが、私
は次のように解釈するのであります。
この世の中を五感で観ますと、どうみても煩悩に充ち充ちた世の中に見えます。一家一個人を見て
も、社会国家を見ても、世界人類一般を見ても、どうしても煩悩を超えた世界、煩悩の無い世とは見
えません。
人は人を疑い、国は国を疑い、個人は自己を守ることに窮々としていて、他人を救う菩薩心はその
影をひそめ、国家は、国家で、お互いに自国の利益のためには、他国の損失は一切おかまいなしの如
く見える現実の姿なのであります。
ですから、この世の中を五感で観るだけだったり、人間世界をこの世だけのものと観たりする心で
は、到底、煩悩即菩提の意味がわかるわけがありません。これは本来、実相(本源の世界)を観じて
の言葉でありますが、ここでは現象的に説明しましょう。、
この地上世界は、神そのものが、自らの生命を人間(霊)として分ち現わして、神そのものの姿を
霊の物質化による、肉体人間としてうつし出そうとしているものである、ということと、人間の生命
は永遠性のものであって、霊化したり物質化したりするものであるが、神仏そのものに本源を置くも
のである、という理を認識しないと、この言葉の真実の意味をつかむことは出来ないのです。95
神を一人の彫刻家に讐えますと、霊的人間(人間の霊要素)は、彫刻刀ということになります。そ
して、地球世界、つまり物質の世界が彫刻の素材、材料となります。
この神(彫刻家)が、自分の意図する彫刻を為し遂げようとして、素材(地球世界) にむかって、
彫刻刀(人間の霊要素) を働きかけますと、素材(地球世界・物質)から、種々な形で切り屑(業想
念行為)が飛び散ります。そうして神(彫刻家) の意図する彫刻は次第に出来上がってゆくのであり
ます。その彫刻(完全なる人間世界)が出来上がるために、いかに切り屑が飛び散ったとしても、誰
れもその切り屑だけを見て文句をいうものはありますまい。その切り屑が出なけれぽ、素材は彫刻す
ることが出来ず、神(彫刻家) の意図が、この地球世界に顕現されることが出来ないからでありま
す。
その完成された彫刻が菩提であり、その切り屑は肉体人間の業想念(欲望、恐怖、悲哀、憎悪、妬
心) っまり煩悩であります。この煩悩は自己保存、自他一体の愛の心から起ったのですが、この愛が
情と流れ、執着となり、欲望となったものではあるが、これはやがて浄化されてくると、本来の愛の
心がそのまま現われてくるものなのであります。
そこで、煩悩は菩提を現わすためのものである、というより、煩悩は菩提と離れてあるものではな
く、この世の菩提は、煩悩の中から生れてくる、煩悩即菩提である、というのであります。
神(大生命) の理念の中には、すでに完全な人間像があるのでありますが、地上界の現在は、各分
%
霊(小生命) が、守護神、守護霊の援助の下に、霊肉調和せる人間を、この地上界に創造しようと懸
命に働いている過程なのであります。ですから現在の肉体身、地球世界は、切り屑、つまり業想念が
盛んに飛び散っている、煩悩が渦巻き流れているところなのであります。しかし、これはあくまで大
調和人間、大調和世界、この世の菩提を現わそうとしている過程であることを知らなけれぽなりませ
ん。
そこで私は、すべての欲望、それにともなう恐怖、執着、憤怒、妬心、それらの業想念の行為は、
現われれぽ消えてゆく姿であって、消えてゆくに従って、人間の真実の姿、本心、菩提心、神仏の世
界がこの地上界に顕現して、地上天国の出現となるのであるから、現われてくる業想念に把われず
に、守護の神霊への感謝に、想いを切りかえなさい、と説いているのであります。
問14 お浄め(お祈リ) をして戴くと、どうして運命や病気がよくなるのですか。
答人間というものは、いつも私が申しておりますように、肉体の他に、肉体に重なって、幽体、
霊体(神体) というものがあるのでありまして、霊体(神体) は神体につながっていて、光明燦然と
した完全性をもった人間の真性なのであります。
この霊性が、そのまま肉体身として働くことが出来れぽ、そのまま地上天国なのでありますが、こ
の霊性が肉体界にそのまま働くのには、霊体と肉体身との波動の相違が、あまりにも差異があり過ぎ37
まして、そのまま一つにつながるわけにはゆかないようになっているのであります。そこで、霊体と
肉体との中間に、幽体というものが出来ていて、霊肉をつなぐ役目をしているのであります。
もう少しくわしく申しますと、人間は大別して、神界、霊界、幽界、肉体界の四つの世界に住んでい
る者であって、ただ簡単に肉体界にだけ住んでいる者だと思っているようだと、いつまでたっても、
地上世界が平和になぞなりっこないのです。
人聞は、はじめから肉体界に住んでいたのではなく、神界に本住の地があって、つまり神(大生
命) そのものの中に分れ住んでいたのでありました。そして、神の働きが、地球界、物質界を創造し、
わけみたまあらく
魚類、鳥獣等が住みついた後、人間は、神の分霊として、その精妙なる光明体を、まず少しく粗雑し
た、幽体をつくり、次に肉体をつくり、そして霊体が幽体を乗り物として、肉体界に舞い降りてきた
のであります。ですから、人間は肉体界に.いながらも、幽界に住み、霊界に住み、直霊としては神界
にも住んでいるのであります。
ところが、そのように精妙な神霊の体を内部にもちながらも、代々肉体界の粗雑な体を通して働く
うち、遂いには、自分たちが本来は精妙な神霊の体であることを忘れてしまって、肉体界、地球界の
不自由な動きを、すっかり自分たちの本来の姿であるように思い違いをしてしまつたのです。それが
現在の人間の姿なのであり、世界なのであります。しかし、中には、そうした姿に不審を感じ、真剣
に人間の内部世界を探求して、人間の本体は神仏なのだ、本来は自由自在のものなのだ、だから、一
38
くうから
度、この肉体人間の想念を、空にして、空っぽにして、肉体人間世界のすべての現われを無と観じた
ならば、真実の人間の姿が現われてくるであろう、という思想に到達したのが、過去の諸仏、諸聖者
であったのです。
そして、その人々は、実際体験としても、自由自在なる心になり得たのであります。
私の浄めというのは、一般の人々が、そうした諸聖者のように、自分自身の能力で、空を観じ、仏
の姿を現わすことが、大変むずかしい、不可能に等しいことであろうと思って、そうした境地になる
手助けをするためにしているものなのであります。
くうかん
私は、自己の修業体験として、想念停止、つまり空観の練習を、私の守護神によって、執拗にやら
されたのであります。そして、その想念停止の練習の結果、この私という者が、否、人間すべてが、
肉体をもちながらも、幽、霊、神の各界に同時に住んでいる者であることを知ったのであります。そ
の間に、守護神、守護霊という、一瞬の休みなく常に人間を、守護していて下さる有難い存在をも、
はっきり知つたのです。
この世界は、諸神善霊によって守護されつつ、真実の肉体人間完成の道を、突き進んでいるもので
あることを知った時の喜びは、筆舌には尽し得ないものでありました。
こうして、私の役目は、諸人のために、諸人の守護の神霊と肉体身とが、すっきりつながり得るよ
うに、守護の神霊が、守護の働きに万全を尽くせるように、私の肉体身を、守護の神霊のための器と39
し、場所として提供して、被守護体の業想念、汚れを、側面から払い浄めているのです。
どういうわけで浄めるかといいますと、普通人は、肉体身と霊体との間、つまり幽体(念体) に過
去世から今生にかけての想念行為の汚れ、業が蓄積されているので、守護の神霊の光明が、その業の
壁をなかなか通り得ないのであります。そこで私のように一度空っぽになって、神霊との交流の容易
に出来得る肉体を使って、側面から、神の光明を放射した方が、その業の壁を突き破りやすいので、
そうした役目を、神様から私が受け持たされたわけなのです。
私がお浄めをする時には、この人の病気を癒し給えとか、この人を幸福になし給えとか念じるので
はないのであります。
その人を、どうした方が善いのかは、守護の神霊がよく知っていることなのでありますから、私は
黙って、無心に統一すれぽよいのです。無心になり透明になった私の体を通して、浄めの光明が、相
手の幽体の汚れを浄め去ってゆくのです。
光が相手の幽体、肉体に放射されるに従って、相手の各種の業が、浄められてゆくのであります。
高いところから浄めるより、同じ階層にある肉体身から光を放射した方が、浄めの距離は近い、と
いうことが、私の浄めの効果が多いということになるのでありましょう。
宗教をわかったようなことをいっている人の中に、他人に浄めてなど貰う必要がない、自分自身が
自分の内部の仏を発現させれぽよいのだ、と人々に説いている人もいますが、そうした自力の行が、
40
どれ程大変なものであるか、その人自身やりつづけてみるとよいのです。大死一番の大決意がなくて
は、そのような偉そうなことはいえないものであります。
かた
口では一言で云えることが、さて、行なってみると、どれ程難いものであるかがわかるのでありま
す。真理の言葉だからとて、そうやすやすと出来そうに説くと、その人が遂いには、退くにも進むに
も、どうにもならぬ境地に陥ったりするものです。
宗教者という者は、全身全霊で悟ったことを、人に説くものであり、人に行じさせるものでありま
す。私は、私の辛い修業の結果、神と人間との交流を援ける仕事を授かったわけですが、その方法の
一つが、相手の境界境界に私の身を置いて、相手と一つになって、神霊の浄めの光明を、相手に放射
する、という役目なのであります。
個人個人の天(完全性) と地(現実) とをつなぐ柱としての役目は、ただ、愛だけでありまして、
その愛を行ずるために無心(空) となるのであります。それは念力ではなく、真の祈りであり、真実
の浄めの方法なのであります。私の浄めとは一口にいって、神の慈愛(光明) を人間に取り次ぐこと
であります。
問15 私達先生の信徒として善薩行をするには、
しょうか。
どんな心掛けで、どんな行ないをしたらよいので
41
答私の教、つまり、私の肉体身を通して神様が教えていらっしゃることは、人間の本心(本体)
から、業想念(誤った想念) をすっかりひき離す方法であります。
たいださいぎこうかつ
云いかえますと、業想念(恐怖、悲哀、怠惰、猜疑、狡猪、妬心、憤怒等々) の世界から、人間を
本心の世界、神仏の世界に引き上げる方法を教えているわけであります。
真実の宗教者という者は、各自が違った表現方法で道を説いていますが、いずれも、人間の本心の
こうせつ
開発を指導している者で、その方法に巧拙があり、それぞれの特微があるのです。
私の教の特徴と申しますのは、自分をも他人をも少しも責め裁かず、しかも日常生活の中で、なん
の形式的な修業もせずに、知らず知らずのうちに、神仏の心(本心) をその想念行為に現わすことの
出来るような方法をとっていることなのであります。と云いましても、何もせずに、神仏のことも思
わずに、本心の開発が出来るわけではありません。私の教は消えてゆく姿と守護の神霊への感謝行と
によるのです。私は普通いわれている救済的働きの神仏を、守護霊、守護神という呼び方で、一瞬の
休みなく我等を常に守っていて下さることへの感謝行を根抵とするのであります。
それは一定の時間とか、一定の方式があるのではなく、寝床の中でも、仕事中でも、歩いていても
一向かまわないのです。ただ、心の中で守護の神霊に感謝を捧げる気持になっていればよいのです。
そうしていれば、守護の神霊の心と、肉体人間との想いとが、非常に接近し、あるいは一つになっ
て、神霊側が、この肉体身を、守護しやすくなるのであります。
42
ところがこの肉体の世界には、過去世からの業因縁の波が、充満していまして、それらの波に触れ
ますと、自分の中に積み重っている過去世からの業因縁が引き出され、その人の不幸とか病気とか、
悪い想念とかになって、表面に現われてまいります◎ そして、その悪い現われは、いくら守護の神霊
への感謝をつづけても、どうしても、その全部をその生活に現わさずに済ますということは出来ない
のです。
そこで、守護の神霊への感謝と同時に、現生活に現われている病気や不幸、または悪想念を、過去
世からの悪因縁の消えてゆく姿として、その業に把われず、突放してゆく方法をとっているのです。
現われというのは消えてゆこうとして現われてくるのですから、その現われが、どのように悪いもの
でありましょうとも、その人の本心が悪いのではなく、過去世からの想念所業が誤っていたのですか
ら、その悪や不幸を把えて、自分が悪いのだ、他人が悪いのだ、と云っていたところで、その人が幸
せになることはありません。そこで、私は、あなたが悪いのでも、他人が悪いのでもありません。悪
かった過去世からのあなたの想念行為が、今消え去っていって、真実のあなた、あなたの本心が、今
幸福の姿を現わそうとしているところなのですよ、と教えているのです。
この世が、責め合い、裁き合いの世界なのですから、宗教者までが、責め裁きの生活をしていては
たまりません。
あなたが私の教を善いと信じて下さるなら、まず、責め裁く想いを消え去る姿として把えぬこと、43
自分を愛し、人を愛し、自分を赦し、人を赦すことに専念することです。
わざ
菩薩業とは、一口に云うと、人間の真の救済に役立つ業でありますから、人間のうちの一番身近で
ある自分を神仏の世界に住わせることが最大のことであります。
それは、守護の神霊への感謝の想いを根抵にした消えてゆく姿の実行によるのであります。そして
一歩進んで、世界平和の祈り、それと平行して、自分の周囲に現われるすぺての人の天命が完うされ
ますように、の祈りであります。
いたずらに声に出る言葉で説法するより、しぼらくは黙って祈りながら、相手の心の状態をみなが
ら、私の教を、愛の想いをもって説き聞かせてやることがよいでしょう。
相手を自分の下位に置くような気持で、教を説いたとすれぽ、相手に、あなたの愛の心は通じない
と思います。
愛行とは、常に相手の心の位置に自分の想いを置いて行じてこそ、その効果を現わすものであるこ
とを、私は自分の今日迄の経験で知っております。
真実の菩薩とは、相手と同悲同喜の想いになりながら、その想いに把われず、かえってその想いを
浄化して、神仏の心(本心) の開発に役立たせ得る程の人をいうのであります。
どうか、あなたもそのような人に成り得ますように、私も深く祈っております。

問16 死後の生活をわかりやすく説明して下さい。
ー先生の信徒が死んだらi
ー唯物論者が死んだら1
答まず、私の体験として、死後の世界が絶対に存在するということを、最初に一般読者に申し上
げてから、このお答を致しましょう。
死んでしまったらもう終りだ、という考え方が、まだ圧倒的に多い世の中ではありますが、私たち
にとっては、死後の世界は、この肉体世界以上に、はっきりした存在であることが確実なのでありま
す。死後というより、この五感に感じられない世界が確実に存在するといった方がよいでしょう。
いつも申しておりますように、大きく分けて、幽界、霊界、神界という世界が、肉体界と異なる世
界として現存することは真実なのであります。
私たちは、いつも、自分の想念のままの世界に住んでいるのですが、この肉体界では、その想いが
ある年月をへて、現実として現われてくるので、一寸目には、自分の想念のままに自分の世界が現わ
れてくるとは思えないのであります。このある年月が、過去世、つまりこの肉体身の、前の世におけ
る想念行為であることが多いから無理もありません。しかし今生だけでも、自分の想念所業が、自分
に帰えってきている場合も多いのです。
そこで肉体が亡くなった後の人間という者は、その人の想いが、非常に早く、その人の環境として45
現われる世界に居住することになるので、その人の習慣性となっている想念の世界に、その人はまず
住まねぽならぬことになっているのです。
つまり、喧嘩ぐせのある人は、そうした人ぼかり集っている世界に、おしゃれの人は、そうした人
ばかりの集っている世界に、というように、同種類の想念の人が、そこに集まって生活するわけであ
ります。
一口に云うと日頃からの自分の想念所業の中に、自分の生活が展開されるのです。
ですから、神を想わず、神のみ心を自己の生活に行じていなかった人々は、神の存在を感じぬ世界、
愛のない、暗い、不完全、不円満、不調和な世界に自らを置くのであります。そして、自己の生活に
神仏の存在せぬということが、いかに不幸であり、不調和であるかを、その苦しさの中から感じさせ
られるのです。
何故かと云いますと、人間の本体は神そのものでありますから、自分の本体、本心が現われずに、
その人が幸福感を感じ得るわけがないのでありますし、本体はどうしても現われずにはいないのであ
ります。
その神の本体が、その本体を現わすためには、人間として現われている霊魂の周囲を取り巻いてい
る業想念を、一日も早く消し去らなければなりません。
消し去るためには、その業想念が誤りであったということを、その人間に知らせなけれぽなりませ46
ん。そうした神の働きが、うちからは良心となってその誤りを責め、外からは悪い運命となって、そ
の誤りを指摘するのであります。
その姿が、肉体界以外の世界では、実にはっきり現われて、つまり、地獄といわれる世界となって
その人の生活は、その世界の中で、苦悶の中に行じられ、今迄の想念所業の誤りを悟らせられるので
あります。
唯物論者のように、肉体界の物の面にのみ想いを固執していた者は、その想いが神の存在を認めぬ
以上は、想念が形の世界、物の世界にこびりついていて、心が自由自在な楽な境界には出られないの
です。彼等は、いつまでも物の世界で争い合い、傷つけ合い、いがみ合って生活するより仕方がない
のです。
ところが、真実に神の存在を信じ、しかも、神の慈愛の現われとしての守護神の存在、祖先の子孫
への愛の現われとしての守護霊の存在を信じ得る者、そして、それらの神霊への感謝の念に生きる者
は、よしやそれまでの行ないが、どのように悪いものであったとしても、死後は、はっきり守護の神
霊の存在を確認することが出来、それらの守護の神霊の守り給うままに生活出来るのであります。
真に守護の神霊と想いを一つに出来得るもの程幸せな者はありません。その人々は、常にそれら神
霊の指導が受けられるのですから、その生活が乱れるわけがありません。ですから現在以上に業想念
の増加する憂いはなくなるのであります。47
あの世は、この世より、すべての速度の早い世界であります。悪を想えば、すぐその悪の現われる
ように、善を想えば、すぐその善も現われてくるのです。善のうちで、神を想う程、善なることはな
いのです。何故なれば、神はすべてのすべてであり、完全なる能力者であるからです。
しかし、絶対神は、すべてのすべてであるが故に、個体としてその姿を現わされることはありませ
ん。それ故、人間世界には、守護神、守護霊をして、守らせ指導するような方法がとられてあるので
す。最も微妙である絶対神と、人間の心の波長を合わせることより、自分に身近い守護霊に波長を合
わせることの方が肉体身にとっては、ずっとやさしくて、早い時間で出来るのです。守護霊と想いが
一つになれぽ、守護霊は常に守護神のもとに想いを交流させているのですから、肉体身、守護霊、守
護神と想いがつながり、やがて、自分の本体、直霊の光明がはっきり現われてくるのであります。そ
の時その人は、神界の居住者となるのであります。それは絶対神と一つにつながっていることにもな
るのであります。
そうしたわけで、私の教の通りに行じておられる方が、地獄に落ちることは絶対にありません。
まして、世界平和の祈りを真剣にやっておられる人は、その行ないが、そのまま菩薩としてのもの
ですから、霊界の上位あるいは神界にまでも到達することが出来るのであります◎
今迄亡くなった人の中に、死後自分の境界を知人に知らせてきた人がありますが、皆安らかに亡く
なられ、安らかな境界に、その死後の生活を営まれております。48
第二編
50
慈愛
人の行為に美を戚じた時
その人の心も神となつて美しく輝いている
人の心の醜さをいつまでも自分の心にしまつておくと
その人の心はいつの間にか神の光を消し去つてしまう
問17 私は小児麻痺の子を持つ親ですが、手足はきかず、ものもよくしゃべれぬその子のために、
思い惜んで種々の宗教団体にも入リましたが、成人になつた今日までもまだよくなる傾向がありませ
ん。私はこの先、一体どういう想いで生きてゆけばよいのでしょうか。また無邪気な清らかな子供が
どうしてこのような体で生れついてきたのでしょうか。
答こうした問題は、日本ばかりでなく、諸外国にも沢山の例があり、いずれの親御さんも悩みつ
づけておられるようで、お気の毒に耐えません。
小児麻痺と精神病とは、全治しにくい病の双壁といわれ、現在の医学では、軽症者を除いては、ほと
んど癒やされてはいないようです。あなたのお子さんも勿論医者にもかけられたでしょうし、その上
各宗教の祈祷も受けられたようですが、それでも癒らないのですから、一度、癒そうという想いを、
すっかり捨て切ってしまわれて、その子を生んだために、そうした苦悩の日々を生活しなけれぽなら
ない、そうした運命の廻り合せ(因縁因果) を、過去世における自分たちの想念行為の消え去ってゆ
く姿と、諦めきる想いの習練をなさることです。
こんな答を私がするのは、私の教の根抵に、神は絶対の愛であって、人間を不幸のままに置くわけ
がないのだ、という深い信念があるからなのです。神は人間の生命の元であり、一瞬の休みなく、人
間の内部で働きつづけているのでありますが、人間は過去の世からの自分たちの誤った想念行為によ51
って、この生命の働きを不自由にしてしまっているのです。この生命の不自由さが、種々の病気や不
幸の原因となっているのですが、小児麻痺や精神病の場合は、ほとんど、そうした生命の不自由な波
長に、迷界(死後世界の迷える界) の祖先や親類縁者が感応してきて、体におぶさってしまうので、
ひようい
肉体も精神も不自由になってしまうのです。ですから、その愚依している妄念を悟らして葱かれた人
の体から離してやらなければ、癒ることは出来ないのです。各国の医学者がその治療に真剣になって
いながら、その成果が挙がらないのは、そうした見えない世界の病原因を知らないからです。
病気とは、肉体的な故障と、精神的原因、他界からの干渉によるものとの三通りあるのですが、現
在の医学が、第三の他界からの干渉に関しては、ほとんど関心を払っていない状態なのですから、他
界のことのわかる人々、つまり心霊研究家や宗教者の援助がなければ、そうした病気が全治すること
がむずかしいのです。
あなたの場合、種々の宗教家にも看て貰ったとのことですから、今度は、先程申し上げた心構えと
同時に、神の大愛が、あなた方の運命の守護をする役目として、守護霊、守護神を、あなた方の背後
につけていて下さることを、素直に信じることをお薦め致します。
しようげ
守護霊は、祖先の中の悟った人の霊ですから、あなた方に障擬している妄念の想いを、はっきり知
っております。知ってはおりますが、あなた方が、あなた方の想念の中に、自分とぴったりつながら
ない、肉体界につきものの、過去世からの業想念(不安、恐怖)神を離れた想いがあると、その障擬52
を払い浄める力(光明) を、あなた方に強く送りこむことが出来ないのです。
ですから、あなた方が一度、癒そうという想いさえ捨てた、(癒そうと思うから、焦り、恐れ、種
から
々の想いに執着するのです) 空っぽの心になって、守護霊、守護神に、真剣な感謝を捧げるのです。
神様は、愛なのだから、自分の子供である私たちに悪いように、するわけがない、と思いこむよう
にして、神様に自分の前途も、子供の前途も一任する気になることです。
カルマ
あなた方の不幸な病気は、あなた方に真の幸福(真理を知らせる) を与えるために、業の消えてゆ
く姿として現われているのです。一日も早く、自分たちは不幸だ、という気持を消し去って、自分た
ちが真実の幸福、永遠の生命、神につながるための、一ときの不幸的現象なのだ、という想いに、心
を切りかえて下さい。
また、純真な幼児が、どうしてこんな不幸な病気になるのでしょう、というご質問ですが、人間と
いうものは、今、この世に生れたことが、生命として活躍の最初ではないことを知らなけれぽなりま
せん。
一つの生命は、自己に与えられた神からの使命を、霊、幽、肉の三界を経巡りながら、果してゆこ
ひそんでいるこころ
うとしているのであり、その間に生じた種々の妄念を幽体に潜在意識として蓄積したまま、今生(現
世) の肉体人間として生れ出でているのであります。それで、今、赤児として生れ出でたとしても、
その赤児の生命の周囲には、過去世からの想念行為が音盤のように録音されていて、それと同じよう
53
ひびき
な波動に合うと、響鳴して鳴り出すのであります。それがその児の運命となって表面に現われてくる
のです。その響鳴させる相手が両親の過去世からの業であるといえるのです。
質問の小児麻痺の場合などは、子供と両親との過去世からの業が、響鳴し合い、そこに他界の妄念を
呼び寄せた、ということになるのであります。しかしこれは、あなた方に、あくまで神の生命を素直
にすっきりと顕現させるためのものであって、そうした苦しみに会わせて、あなた方を責めさいなも
うとするようなことではなく、潜在意識に蓄積されている過去世からの業を、表面に出して消し去ろ
うとする神の慈愛なのでありますから、今の苦しみは、肉体人間としてのあなた方にではなく、生命
(霊) としてのあなた方にとつて一大進歩となる苦痛なのであります。この理をよおく考えて、想い
を不安や恐怖や、神への不信感にもってゆかず、守護の神霊への感謝に切りかえてさえゆけぽ、あな
た方の生命が、すっきり光明化してきて、今迄癒えなかったその子の小児麻痺も癒えてくるかも知れ
ないのです。もし癒えぬとしても、あなたの心は必ず安心立命の境地に入ることが出来、あなたの今
後の運命は明るくなり、子供の霊魂は高く昇華してゆくことを、私が保証致します。
問18 現代の心ある人は個人の救済に満足せず、大きく社会、国家の救済幸福を要求していますが
それにはやはり政治がよくならなければと思われます。宗教と政治について先生はどのように考えら
れておられるのでしょうか。
答私にはこれという政治観はありません。何故かというと、私のすぺての考えを、神様にお任せし
ているので、その場その場において、叡智がきらめき出でるからです。しかし今、私がはっきりと云
えることは、世界は決して唯物論政治には屈しない、ということであります。ソ連といい、米国とい
い、唯物論的政策の政治家の政治では、絶対に世界の平和は出来得ないということであります。
聖書の言葉のように〃カイザーのものはカイザーに、神のものは神に返えせ〃でありまして、神か
らきている人間生命を、自民族、自国家の利得に反するという理由だけで、他民族、他国家の損失を
顧みず、国力をもつて虐げ、責め裁く大国の態度は低劣であります。神はいかなる国家民族にもこう
した権限を与えてはいないのです。
ですから、資本主義制度も、社会主義、共産主義制度も、こうした根本的理念に反する動物的方法
が用いられているようでは、その政治は正当なものではないのです。これは一国家内の政治において
もいえることでありますので、現在行なわれている日本の政治も、神の叡智の全く働いていない政治
であるといえましょう。
どのような制度に政治の形を変えようとも、政治家の心が、神の叡智を受け入れ得るようでなけれ
ば、到底国家を安泰にし、世界を真の平和に導くことは出来ません。
施政者の心が、神の叡智を受け入れるまでに浄まれば、政治の形や、制度は自ずから定まってくる
もので、そうした心における政治こそ、不安なき揺ぎなき政治と成り得るのであって、その場の利害55
得失のみで動く政治は、一時はいかに善く見えようとも、失敗に陥るに決っております。
神の叡智が画いている政治というものは、現在どこの国家にも現われていない政治方式であって、
神権政治とでもいいましょうか、肉体人間の上に、神霊を置いての政治であります。この具体的方法
ヘヘヘヘヘヘへ
は、まだ神からはっきり示されてはおりませんが、ただひたすら世界平和の祈りをなせ、世界平和の
祈りと、守護の神霊への感謝をなしつづけよ、さすれば、驚天動地の方法で、世界平和を生み出す政
治がなされるであろう、ということだけは、はっきり示されているのであります。
なんにしましても、世界人類の大半の心が、現在のように、神の実在に確信をもてず、まして、神
霊の光明が、肉体世界の平和のために、働きつづけているという事実を全く知らずにいるようでは、
とても世界平和に至る政治など行なえようもありません。
そこで、私たち神霊界と肉体界とにおいて、同時に働いている人間たちが、お互いの祈りによって、
神と肉体人間とを隔絶させている業想念の波を、拭い浄めつづけているのです。自我欲望の業想念が
人類世界に満ち、そうした業想念によって、各国の政治が行なわれている以上、地球世界は滅亡に至
るより仕方がありません。
この地球世界の滅亡を防ぐのには、いかなる政治政策よりも、各人の世界平和の祈りを第一にしな
けれぽならないのです。
私はその最先達として、皆さんにこの世界平和の祈りを、種々と説き聞かせ、一人でも多くの祈り
56

の使徒を、増やしてゆきたいと念願しているのです。
私の現在の政治観を、強いていうならば、祈りによる神権政治の出現というわけでありましょう。
しかしそれまでの私たちは、現実の政治面の動きをどうしたらよいのでしょう、と訊く方もありま
しょうから、それについての私の考えも一寸説明致しておきましょう。
私は根本的に、神を無視した政治を嫌います。米国とソ連が、現在の二大強国ですが、そのどちら
がより唯物論的でありましょう。日本の立場は、好むと好まぬとにかかわらず、米国かソ連かの二大
陣営に組みしなければならぬ立場にあります。中立などといったところで、国力のない日本が、中立
を保ってゆける道理がありません。中立を保つためには、国民の思想感情が、すっかり統一されてい
なければ、とても駄目なのです。ところが現在の日本の思想感情は、米ソの二大国に半々に分れてい
るのですから、両国側の呼びかけ次第で、国論が二つに分れてしまい、中立にはなり得ません。
こう考、兄ますと、まずより無事な政策をもち、極端な革新を行なわず、今日までの政策状態で、あ
まり人権も無視しなかった、表面クリスチャン国である米国を選ぶ方が無難であろうと思います。ソ
連のような徹底した唯物論国、人権無視をなんとも思わぬ国との交渉は、なかなか容易ではあります
まい。
これも、現在の業生世界における、一時期の考え方であって、私にとって、このことはさして重要
問題とは思えないのであります。57
58
じねんほうに
問19 自然法爾という言葉の意味をお教え下さい。
答自然法爾とは、一口に云って、自然の法則のそのまま、ということであります。云いかえます
と神仏のみ心のそのまま、ということであり、ひとりで、ということでもあります。そしてこの言葉
は宗教の極意であって、この言葉のままの生き方が出来れば、その人は大覚の人ということが出来ま
す。
ところが、現今の世は、全くこの言葉と反対の生き方をしている人で充満しております。宇宙世界
は、神仏のみ心のままに、その世界を展開しているのであり、肉体人間は神仏の生命の分生命として、
各々がその神の使命(天命) を分担して、この地球世界に、神の理念を築き上げてゆくものなのであ
りますが、現今のように神と人間との真実の関係を知る人が少ない世では、神と人間とを全く別のも
のとして離して考えていたり、神仏を全然否定していたりして、神仏のみ心のそのまま、いわゆる自
然法爾の生き方をしている人が、極めて数少いのであります。
神と人間との真実の関係を知らなければ、自然法爾の生活が出来る筈がありません。自然法爾の生
おのず
活 に入る第一歩は、人間は神からきている者であるから、神のみ心のままに行動していれば、自と自
分の天命がはたされてゆくものである、ということを信ずることであります。第二に、すべての人間
は神の分生命であるのだから、生命の親である神が、人間のために結果的に悪いようにするわけがな
い、と信ずることであります。第三には、神は絶対の権能力を持つものであり、神の他に実在するも
のはないのであることを信ずることであります。
この真理を信ずることが出来ぬと、自然法爾の境地にも、その境地に近づくことも出来ません。も
しかして、神が罰を当てはしなかろうか、神にも誤りがありはしなかろうか、神の他に悪魔というも
のがあって、その悪魔の方が、神より強いのではなかろうか、などと思ったりしていては、とても自
然法爾の境地に近づくことは出来ません。
神は人間のために絶対に悪いことをしないのです。罰を当てることもしないのです。また神の他に
悪魔という実在者はありませんし、神が誤りをすることもないのです。
この世の中が、今のように乱れているのも、悪い人達が横行していて、悪魔のような人たちの方が
勢力があったりしているのは、遠い過去から、人間が、神と人間との関係を忘れはて、神から分けら
れている生命や、思考し想念する能力や、肉体の力を、神からきているものと思わず、各自、各集団
の欲望の満足のためにだけ使いはじめたから、つまり神を離れて、神の使命を離れて、自分たちのた
めだけの、勝手気ままな生活をしはじめたから、神の愛の心から離れた、自分勝手な、悪魔の心のよ
うな世界が次第に、この世界に繰りひろげられてきたのであります。
そうしますと、ここで、神の心とは一体どのような心なのか、という疑問が起ってきますが、神の
心とは、すべての人間が愛し合い、すべての人間がお互いのために働き合い、援け合う、という心で59
ありまして、すべての人間、すべての生物が大調和した生活の出来得る世界を創りあげる心でありま
す。
こう言葉でたやすく申しましても、この大調和の世界が出来上るには大変なことであります。世界
はおろか、一家の中の調和さえ、生易しいことではありません。そこで、自然法爾の心になれぽ、そ
れが出来るというわけになるのでありますが、この自然法爾が、これがまたとてもむずかしいことな
のであります。そこで私は、自然法爾の道に入る手順として、〃消えてゆく姿∬ の講義をするのであ
ります。
〃消えてゆく姿〃の話は、白光誌やその他の私の著書を読んでおられる人は、頭では何度びも読ん
でおられるのでありますが、実際生活に応用出来ているかどうかはわかりません。そこで私は、毎回
この消えてゆく姿を中心にして話をするわけであります。
この世界は、神(大愛の大生命) の他に実在するものはないのであります。他のすべてはここにあ
るように見えても、一時姿を現わしているだけで、みな、やがては消え去ってゆく姿なのでありま
す。いかなる悪魔的な姿も、どのような不幸そうな姿も、みなすべて、時間を経て消え去ってゆくの
であります。
ただ、消え去らぬもの、それは神なのであります。神を具体的に説明しますれぽ、愛の姿、光明、
誠実、美、真実の幸福、大調和の姿などでありまして、その中には悪や不幸の姿は絶対にないのであ
60
ります。この神の真実の姿の他は、すべて時を経て消え去ってゆくのでありますが、世界の人々は、
この真理を信じ得ずに、自分や自国の欲望を充足するためだけの行為に日夜をくらしているわけなの
です。そうした生活や政策は、すべて神から離れているものであって、時を経て消え去るものなので
あります。いかなる時を経ても消え去らぬためには、神のみ心の中に入って生活しなけれぽならぬの
です。時を経て消え去るような、業想念の世界から抜け出るためには、神への感謝を第一番になさね
ぽなりません。神への感謝と、自己を生かしていて下さる周囲への感謝、この周囲への感謝の代表と
して、常に自分を護っていて下さる祖先の悟った霊である守護霊と、神の救済面への働きを分担して
いる守護神とに対する感謝を、常に欠かさぬようにすることであります。そして、すべての悪も不幸
も、みな時がたてば消え去ってゆくのだ、病気だ、不幸だ、と想う想念も、今日迄蓄積されていた迷
いの想いの消え去ってゆく姿なのだ、と思いつづけるのです。
この二つのことをなしつづけていると、いつの間にか、自然法爾の心境に近づいてゆき、どのよう
な事態が起ってきても、神仏のみ心そのまま、愛と真の行為をつづけてゆけるような心境になってく
るのです。
自然法爾の心境になる一番の近道は、消えてゆく姿の実行にあると、私は固く信じているのであり
ます。
61
ヘヘヘへ
間20 まかせる、ということでは、人間世界に進歩がないではないか、と青年層の人々に、常に質
問されますが、この点についてお教え下さい。
答まかせる、とか、お任せ、とかいう言葉は、何もしないで、ぶらぶらしていて神様におまかせ
してある、などということではありません。
この言葉は、自然法爾ということと一つでありまして、今までの宗教の教では、なかなか出来難い
ヘヘヘへ
のであります。このまかせる、という心境は、自分のものを、人にまかせる、というような浅薄なも
のではなく、神からきている生命なのだから、神様のご自由にお使い下さいという意味のおまかせな
のであります。
イエスのように十字架にかかるようなことがあっても、じたぽたしない程の心になることが、お任
せなのであります。たとえ、どのような自己に不都合に見える事態が起ろうとも、不平も不満もなく、
感謝の出来る心境、これが、真実のおまかせの心境なのであります。あなたに質問なさる青年たちは、
勿論こんなに深いことを考えて、あなたに質問したわけではないと思いますが、真のおまかせとは、
このように絶体絶命の境地に、常にいることなのであります。良寛和尚などは、このお任せに徹して
いた人のようでありまして、ある時、一人の船頭が良寛の心を試みようとしたのか、船から良寛を突
へ ヘヘへ
き落したのであります。すると良寛は、落されたそのまま、手足をぽたつかせもせず、ふわりふわり
と水の上を流れてゆくではありませんか、その様子に、かえって落した船頭の方があわてて、水から62
救い上げて、平詑まりに詑まったそうでしたが、良寛は、自分が落されたことを知っていながら、に
こにこしつつ、船頭に心からお礼を云った、という話があるのです。
私はこの話を思い出す度びに、良寛の偉さに敬服するのですが、これ程にお任せに徹していれぽ、
何ものにも恐れず、何事にもあわてることがあるまい、と思うのです。
へ ヘヘへ
落されることも仏のおぼしめし、救い上げられたことも仏のおぼしめし、落された恨みはないが、
救い上げてくれた仏の代理の船頭さんには、いくら感謝しても感謝しきれないものが、この時の良寛
にあったことなのでしょう。
落される因縁があって、落されて死ぬのも仏のおぼしめし、と思えば、落した船頭に恨みのあろう
わけがない、ということを、その時わざわざ思うのではなく、常日頃からそうしたおまかせの心境に
あった良寛であればこそ、救い上げられて、無邪気に礼が云えたものなのでしょう。偉いものです。
ところが、普通の一般人が、こんな真似はとても出来っこありません。ですから、私はおまかせと
は、天命を信じて人事を尽すこと、という風に説いているのであります。人事を尽くさないでのおま
かせなどは、普通人のおまかせにはなりません。神仏の実在を信じ、神仏から自分に与えられた天命
を信じた上で、その天命を神仏におまかせして、自己の置かれた立場で、真剣な努力を払う、という
ヘヘヘへ
のが普通一般の人に出来る、おまかせ、であろうと私は思っております。
私なども、こうした立場になる迄は、何か自分に天命があるに違いない、と思いながら、置かれた
63
立場々々で懸命に、その仕事に従事していたのでありますが、ただ、他の同輩たちと違ったことは、
常に、神に対して、〃どのような仕事でも結構です。神様のお仕事に私をお使い下さい〃と念じつづ
けていたことでした。そうしましたら、私の著書「天と地をつなぐ者」にも書いてありますように
〃おまえのいのちは貰った覚悟はよいかガというような天の声が心内で鳴りひびいて、私が速座に
〃宜しうございます〃と答えたので、それから、様々な守護神霊団の錬磨にあって、大変な修業をさ
せられたのであります。そして、今日の私が出来上ったのであります。
しかし、この修業が、とても大変なものであったので、私は、私の後からくる者たちに、このよう
な苦労はさせたくないと思い、なるべく苦労少く、本心の開発が出来るようにと念願して、今日のよ
うな、守護神、守護霊の教、消えてゆく姿の教を説いているのであります。
自分の心の中に、自己批判の想いが強すぎると、自分で自分を苦しめ過ぎますので、すべてを、消
えてゆく姿として、守護の神霊への感謝に想いを変えてゆくことを教えているわけであります。そし
て一歩進んでは、世界平和の祈りをすすめているのであります。真実は、世界平和の祈りの中から、
あなた方の運命も世界の運命も、すべての運命が展けてゆくのであって、この祈りが、神へのお任せ
の祈りでもあるのです。
この祈りをするところに、神霊の光明が白光燦然と輝く、ということは、会員の人々の実証してい
るところなのです。
64
問21 救いとか、救われとかいいますが、真実の救い、真実の救われの状態とはどんな状態をいう
のでしょうか。
答一般的にいわれている救いとか、救われとかいうのは、生活に困っている人にお金をやった
り、仕事を世話してやって、その人の生活を救った。それによって救われた。あるいは、病気で悩ん
でいる人を救った、救われた。または、仕事を援助してやって救った、救われた。等々の現象面、現
われの面を主題にしての、救いであり、救われでありまして、これは、その生活の一時期の救いであ
り、救われであります。
これも勿論救った方は善事であり、救われた方にとつては有難いことではありますが、これだけで
は、宗教的な救い、救われ、真実の救い、救われとはいえないのであります。
宗教的救いは、仏教でいう法施でありまして、真実の人間という者を知らせる、真実の人間の生き
方を知らせる、つまり、本心を開発させ、神仏を人間の生活に発現させることであるのです。
救われたという方は、神仏と人間との関係を知り、神仏のみ心を知って、神仏のみ心、つまり、愛
と真の生活を行じられる心境になっている人、ということになります。
云いかえますと、真実の救いとは、精神的、霊魂的の救いであり、永遠の生命(神の生命)を人間
生活に発現させ得る心の状態をいうのであります。65
こうした救われに入った人は、自我欲望少く、あるいはなく、その日常生活の中において、常に真
善美の生活が、巧まずして、自然に行じられている、その人の想いには、なんらの不安も恐怖もな
い、ということになるのであります。
ですから、真実の救われに入りたい人は、精神的な安定、不動の心を求めて進まなけれぽいけませ
ん。その場その場だけの生活の安定を求めていては、一難去ってまた一難というように、常に不安の
想いの去りやらぬ生活を送りつづけなけれぽなりません。その不安は、この世だけではなく、死後の
世界にまで、ひきつづいて展開されてゆくものなのです。
この不安の想念を超越出来得る心境になることが、真の救われの境地なのですから、その境地にな
るためには、どうしても、人間の本源である絶対者(神) との一体観を、観じなければなりません。
神仏と自分とは一つのものである、という直覚こそ、人間の真の救われなのであります。しかしなか
なかその境地にはなり得ませんから、私の説いているように、守護の神霊が、常に自分を護っていて
下さって、自然に人間の本心(神) を発現させて下さるのだ、と深く想う練習をしつづけ、守護の神
霊に感謝しつづけて生活してゆく道こそ、知らず知らずに、真の救われの道、神我一体の境地に、そ
の人を引き上げてゆく一番やさしく、一番確実な道なのであります。神様は、特定の人々のみを救お
うと思っているのではなく、人間のすべてを救い上げようと思っていらっしゃるのです。何もむずか
しい理論や、出来難い行をしなけれぽ救われないというものではありません。そのために救世の使者66
として、守護神、守護霊をあなた方一人々々の背後に配置して下さっているのです。あなた方が真実
の救われに入るために、是非共なさねばならぬことは、眼に見え、声に聞えずとも、自分たちの背後
には、常に休みなく守護の神霊が、護りつづけていて下さるのだ、とその方々に感謝していることだ
けなのであります。後の行為は、その感謝を根抵にして、自ずから展開されてゆくのであります。
問2 気が弱い、短気等という性質は直リますか。心大きく勇気のある人間になりたいのですが。
答気が弱いとか短気とかいうことは、あなたの性質ではなく、性癖なのであります。こうした性
格の癖、つまり習慣になった想念を、あなた自身の性質である、と思ってはなりません。性質とは、
神のみ心を、この世に顕現されようとして、人間一人々々に、神のみ心の一部分を分けて働かせてい
るものであって、自分を痛めたり、人を傷つけたりするような、マイナスの面としてあるわけではあ
りません。
人間の持っているマイナス面の働き、たとえていえば、気が弱いとか、短気とかいうものは、本来
性のものではなく、人間がこの地上界に誕生して、何度びかの肉体生活をしているうちに、自然と習
慣づけられた想念の癖に過ぎないのです。
ですから、あなた方が、気が弱かったり、短気だったりする癖は、過去世からの習慣性によるので
あります。そこでこの癖を直すためには、すべてのそうしたマイナス面の想念は、今あなたの本質か
67
ら発している想いではなく、過去世からの想いの蓄積が、今現われて消えてゆくところなのだ、ある
いは消、兄て行ったのだ、と思いこむ練習をすることです。そうした癖は時間がたてば、必ず消え失せ
るものであって、いつまでたっても、自分自身の心から離れ去らぬものではありません。
あなた方は、こうした原理を知って、気の弱いこと、短気であることを悩まず、悩んだらすぐに、
これは習慣の想いが消えてゆく姿なのだ、と思いこむのです。人生におけるマイナス面は、すべて神
仏のみ心ではないのですから、時がたてば必ず消えさる定めになっているのです。そして、真実のも
の、神仏のみ心のみが、人間すべての生活の中に、この地上界の生活の中に、やがて現われてくるこ
とになるのです。そうした世界を創造する援助として、守護神、天使の群れが、この地上界に天降っ
てきて、大活躍をはじめているのです。この天使群の活躍を容易にするために、私共は休みなく世界
平和の祈りをしているのであります。あなたが、心大きく勇気ある人間になりたいならば、自分の弱
点にばかり気をつかわず、もつと積極的に、世界人類の平和を熱望する心になり、自分という一個人
を、世界人類という、大きな面に融けこませるように考えなけれぽいけません。
自分は、日本人としての自分なのだ、自分は世界人類の一員としての自分なのだ、というように、
いつでも、大きな集団の一員である自覚を強める必要があります。そうして、その方法として、常に
「世界平和の祈り」の中に、自分の想念を置く練習をしてゆくことです。
そうしますと、いつの間にか、気が広くなり、勇気が充ち溢ふれてきて、自分の小さな癖など、ど
68
こかへ消え去ってしまいます。試してみるつもりでもよいから、この文章を読んだら、早速実行し
てごらんなさい。あなたの生活そのものも、たちまち明るく、希望に充ちたものになってゆくこと
を、多くの実例から、私が保証致します。
問23 救世主の現われる前に、天変地異、戦争などがあリ、人類は悲しみに覆われるだろう、と予
言されていますが、はたして真実でしょうか。
答真実ではあったのですが、今では、そうした不幸を、この人類にもたらさずに済ませることに
なってきています。
どうして、過去からそのような予言があり、現在でも、様々な人々が、そうした予言を種々な方法
をもってしているのでありましょう。それは、人類の業想念の波動をみていると、そうした災害が現
われずには済みそうもない様相に観ぜられるのであります。そうした状態が、星の運行にも現われ、
あるいは、霊的肉体をもつ人間に霊感として感じられたりして、地球世界が、大災害をまぬがれ得な
いようにみえているのであります。
この世は、すべて人間の想念によって、運行されているのであり、戦争も、天変地異も、業想念の
自ら壊れてゆく姿なのであります。過去から現在までの人間世界では、ほとんどの人間が、自己中
心、自国中心でありまして、自分のためにならぬ者、自国のためにならぬ国に対して、常に破壊的想
69
念思想をもっているのであります。お互いが、相手より有利になろうとしている、自我欲望の想いに
みちているのであります。
ひつじよう
こうしたお互いの想念は、必ず相撃つことは必定なのであります。これが実際に現われますと、戦
争ということになります。そして、この破壊の想念が、天地自然に働きかけますと、天変地異になる
のであります。
このように考えますと、霊能者ならずとも、人類の結末がおよそ予想されます。しかし皆さん、大
わけいのち
神は大慈愛者であり、人間は神の分生命、実子なのであります。大神は、地球人間は、肉体人間のみ
では、必ずこうした結末に、自らを追いこむことを、初めから知っておられるのです。そこで、人類
がいよいよ追いつめられたら、最後には必ず、神の方に想いをむけるであろうと思われ、また、想い
を向けさせるために、各守護神を人類の上に置いて、人類を守護させていたのであります。そして、
その各守護神が、人間の祖先の悟れる霊、つまり守護霊と共に、今こそ、その存在を人類世界に知ら
せるために、大きく活動をはじめたのであります。そしてその中心の大光明が救世主と呼ばれるので
あり、私たちは、その大光明の地上界における働き場所として、私たちの肉体機能をすべて提供して
いる存在なのであります。
地球を大破壊から救いたい、と過去世から想いつづけていた、世界の幾多の人々が、今生において
は、手を取り合って、大光明の働き場所となり、その念願である、人類救済の行動を開始しているの
70
であります。そして、その念願は、守護の神霊による、業想念の大きな浄めによって、地上界には、
その何分の一の自壊しか現われないことになっているのであります。そのために、私共は天界との約
束事である、世界平和の祈りを、一人でも多くの人々に実行して頂くように、活動しているのです。
私共が、悠々と娯楽にふけっている時も、ぐっすり睡りこけている時でも、守護の神霊は、休みな
くこの人類世界救済のために、光明活動をつづけておられるのです。私は、それを誰れよりも、はっ
きり知っているのです。知れば知る程、神霊への感謝で一杯になってくるのであります。
こうした守護の神霊がなけれぽ、人類は必ず滅び去るものなのです。あなた方の世界平和の祈りが
深ければ深い程、多けれぽ多い程、この地球世界は、傷つくことなく救われてゆくのです。
この真実を知ることこそ、世界人類が、大災害からまぬがれる、最初のことであり、最大のことで
あるのであります◎
あなた方は、戦争や天変地異を恐れることより先きに、守護の神霊への感謝で、心を一杯にする程
にならねばなりません。
ただただ、世界平和の祈り、その祈りから祈りに終る生活の中にこそ、自分の真実の天命が生かさ
れてゆき、世界人類が永遠の平和に至る道が開かれてゆくのであります。
問24 自己の内部に神が在るのだから、他の人にお浄めなどして貰う必要はないのではないか、と
71
いう人がありますが、この点についてご説明下さい。
答自己の内部に神があるということを、真実に直覚し得て、自己の行動にその神の姿を現わせる
ようになった人には、他の人の浄めだの、他の人の指示だのは勿論不必要であります。しかし自己の
ヘヘへ ヘへ
内部に神が生々と存在し、自らの行動が、その神のうちもよおしのままになされている人が、現在の
世の中にそう沢山はあるまいと思いますQ
そうした人々は、自分が他の人に浄められたり教えられたりするどころか、かえって他の人を教え
導く側に立っておられるに違いありません。
あなたに表題のようなことをいう人があるとすれば、そうしたことを、あなたに質問する、あるい
は詰間する事態そのものが、内部の神の存在ということを、頭で知識としてだけ知っている人で、ど
んなふうに神が存在するのか、どんなふうに自分を動かしているのかも知らず、自らの行為も、神そ
のものの行為ではない人であることは確実なのであります。
何故なれぽ、うちなる神は、他の人の進んでゆく道に、そのようなお節介な言葉を云わないもので
あるからです。と申しますのは、自己独りの力で内部の神を認識し、その力を発現させるということ
が、普通人間にとってはどのようにむずかしいものであり、どのように大変なものであるかという経
験を、その人自身がもったことがないから、そのような言葉を、さもやすやすと云ったりすることが
出来るのであって、それが、その人自身、真実内部の神を、自己の生活行動に発現させていない証拠72
なのであります。知識だけで神を知ったように思い上がることは実に危険なことであり、神への不遜
でもあるのです。
浄めるということは、肉体の人間がするのではありません。私なら私という肉体が、私という個人
の想念を空っぽにして、神のみ光の通いやすいパイプとなし、相手の業想念が蓄積されている幽体、
肉体に流しこんでやることなのであります。
神とは人間の内部、内部とは肉体の内部ということだけではなく、もっともっと深い深い奥処、幽
体を超え霊体を超えた、神体、つまり私のいう直霊、絶対神の人間としての働きの最根源の光明体、
完全体のことをいうのであります。この神の光を、肉体人間の行動に真実の姿として現わすために
は、肉体人間が、自我の我欲の想念行為を、すべて捨て切った状態にならなけれぽなりません。釈尊
のいう空の心の状態にならなければならぬのです。こんな深い心の状態に、自分独りでなり得る人が、
この世にいったい幾人あるのでしょうか。聖者と呼ばれる程の人々でも、自分独りでなり得たのでは
ないのです。ですから普通の人々が、いかなる宗教哲理の本を読み、いかなる法を試みようとも、自
己独りで、内部の神を発現させることなどは到底出来るものではありません。
くう
そこで、先覚者の空になった肉体、あるいは空に近い状態、つまり我欲の業想念を超えた人々の肉
体に対面して、その先覚者の肉体(肉体というよりそうした人々は、もうすでに霊体になっているの
ですが、普通人の眼には、なんら変らぬ肉体に見えるのです)を通して流れ出る神の光明を浴びるの
73
であります。これが浄められる状態なのであります。
それは、法話をきくことによって浄められている場合もあり、黙って祈念していて浄められる場合
もあり、様々な印や柏手によって浄められる場合もあります。そうした姿を霊眼の者が見ると、浄め
ている先覚者の姿が、釈尊やキリストや、種々なる神の姿に見えたり、白光や金色の光明が見えたり
するのであります。
このようにして、そうした先覚者に浄められる機会が多くなると、自然と自分の心が開いてきて、
正しい想念が多くなり、明るい行為や勇気ある態度が、無理なく出来るようになってくるのです。
単なる理論的知識だけで、他人の助けは借りぬなどと威張っていますと、非常に進歩が遅れてしま
うものです。皆さんは、そうした片意地な気持にならず、どしどし他人の智慧や能力や、愛にすがっ
てよいと思います。要は一日も早く、自己の生活を神一元のものに出来得ればよいのであります。
いっも申しますが、神には絶対神の人間界への働きとして、内部の直霊と、背後から守護している
守護の神霊との二つの面のあることを忘れてはいけません。そして、常にあなたの運命を護り導いて
いるのは、守護の神霊であることを改めて認識して下さい。直霊や分霊はあなた自身の光明であり、
生命であるのですが、過去世から業想念に覆われていて、現在ではその光明を真直ぐ肉体生活に発現
することが出来ないので、守護の神霊が、様々な先達のもとにあなたの肉体身を連れてゆき、その業
想念を払って貰ってくれているのであることを忘れてはならないのです。人間救済の光は守護の神霊
74
からくるのであることを忘れてはなりません。
問25 いつも先生のことを想つていれば、先生の処へ行かなくともよいのか、先生のところへは数
多く伺った方がよいのかお教え下さい。
答想いは常に波状になって流れているので、私を想えば、その想いは私のところへ必ず達しま
す。信者の人が私を想う場合には、常に個人の五井昌久を想うのではなく、神の器としてあるいは神
の場所としての五井昌久を想うに相違ありません。ですから私を想っていさえすれば、肉体の私に会
わなくともよいということになります。
ところが人間の想いというものは不思議なもので、その人に会わずにいる期間が長くなると、つい
他の常々会う人々や、様々な用件に追われて、その人のことを忘れがちになりやすいものです。また
実際問題として、真実に愛し、慕っている場合は、よいとか悪いとかいうことより先きに、一目でも
多く会いたい、一目でも多く見たい、一ロでも多く話をききたいという気持になるもののようです。
こんなことは私自身が答えることではないのですが、暇をみては時折りこられる方がよいと思いま
す。それは直接強い光明に接することが多いからです。
しかし、用事が多くて、きたくもこられない、とか、遠くてこられないという人などは、それは仕
方のないことで、たゆみなく白光誌やその他の本を読み、真実の人間の生き方を想念行為に現わすよ
?5
うつとめて下さい。それから私の提唱している世界平和の祈りを、常に唱えていて下さい。この祈り
を真剣に唱えている時には、その人の周囲は必ず光明燦然としていることは、白光誌やその他に掲載
されている体験談にもある通りです。
世界平和の祈りをしようとしても、雑念で妨げられたり、善いことを想おうと思っても想えなかっ
たりすることが、非常に多いと思いますが、そうした妨げの想いも、すべて消えてゆく想念ですか
ら、その想いにかまわず、世界平和の祈りをつづけ、善いことを想う練習をすることです。そうして
いるうちには、必ずいつの闘にか世界平和の祈りが心の中に唱えられている状態になります。そうな
った時には、あなたは、常に神と倶に在る神の子的人間を実生活に現わしている心の状態にあるとい
えるのであります。
私の役目は、一人でも多くの人間が、一日も早く、真実に救われる、つまり、人間は神の子であっ
て、不幸や不運などというものは過去世から現在に至るまでの、神から離れていた、神の子としては
間違っていた人間の想念(業因縁)が消えてゆく姿であり、本ものの人間、愛と真と美である神の子
人間の姿が顕現されるための過程であると教えることであり、そのために、肉体人間の背後には守護
の神霊が、常にその人の業想念を消す働きをしていて下さるのだから、いつでも守護の神霊に感謝の
想いを抱いていなさい、と知らせることにあるのであります。また一方、世界人類の真実の平和達成
のための、世界平和の祈りを、多くの人々に実施させる運動でもあるのです。76
ですから私に会おうと会うまいと、この真理の運動に皆さんが参加してくれれば、神様は喜ぼれる
のであり、その人も世界も救われの道に入ってゆくことになるのであります。
私の運動は一宗一派とか、一教団とかはまるで問題にしていないのですから、どこの宗教団体に属
そうと、どこの宗旨を信奉していようと、それは問題ではありません。
ただただ地球人類を滅亡させたくない、個々の人々の運命を一日も早く改善させたい、という大神
様の大慈愛を、お取り次ぎし、その実行をしているのが、私の使命なのであります。
問26 生活と宗教がチグバグになりがちですが、生活即宗教となる秘訣を教えて下さい。
答生活を離れた宗教などというものは、実際にはあるわけのものではないのですが、現在までは
宗教が生活を離れてあることがあたりまえになっていたのです。宗教が日常生活を離れた別のもので
あったとすれば、一般大衆は、宗教生活などというものが、出来得る筈がありません。
宗教は根源の教、教の基ということであって、神仏そのものということが出来るのです。人間の日
常生活が、その基を神仏に置かずにあることは絶対にないのですから、一人の人間がここに生きてい
るということは、神の一つの分生命が、そこに在るということなのであります。ですから、人間がそ
こに生きているということそのものが、すでにそのまま宗教なのであります。
ところが、そんなことを思ってみることもしないのが現在までの地球人間の大半なのであります。
77
そこに改めて、宗教ということが叫ばれ、種々様々な神仏を知らせんとする教が喧伝されつづけてい
ひとりで
たのであります。しかしこの宗教活動が、神の真実の生き方である、自然法爾、そのまま、という素
朴純真な方向から、理論的あるいは形式的または超絶的な方向に、教をもっていってしまったので、
宗教というものが、知らぬ間に一般大衆から離れてしまって、専門化してしまったのであります。
宗教が種々な形式をもつということは、実は不必要なのであります。宗教が種々な形式をもち、様
々な修業形態をもつ以上は、これは、日常生活と、どうしても相入れぬ面が出てくるのです。
私は、宗教というものは、そんな面倒なわずらわしいものではないと信じておりますし、そうした
考えを実行にうつして、皆さんに対しているのであります。
宗教というものは、人間が絶対者(神) の分生命であると知ることなのであり、自己を生かしてく
れる、すべての神のあらわれに対して、限りない、たゆみない感謝をつづけることなのであります。
その行為は、日常生活そのままに、何の支障もなく出来得る行為であり、何人にも出来得る行為な
のであります。ですが、自己の現在の境界が悪くて、何ものにも感謝の出来得ぬ人(神仏を絶対に認
みおや
めぬ人は別にして) には、神は祖親であり、愛であることを説き、あなたは神の愛によって生きてい
る人間であるのだから、本来は幸福そのものなのだ、現在あらわれている、あなたの悪い環境は、す
べて神仏とあなたの関係を知らなかった、あなたの過去世から今までの誤った想念行為の消えてゆく
姿であり、次第にあなたの業が消えてゆき、神の子である本質の幸福が現われてくるのだから、暗く
78
ならず不安にならず、いつの間にか、その業因縁を消していて下さる神(守護神、守護霊) への感謝
をしていて下さい、と教えているのです。その感謝行には、なんの形式も方法もいらないのです。自
分の運命はこれでよくなる、これでよくなる、という想いを強く思うようにしてやってゆけばよいだ
けなのであります。
宗教とは、素直に素朴に、神仏への感謝を捧げることであります。これが生活即宗教の秘訣なので
す。
問27 世界平和の祈りをしているうちに、次の言葉につまったりしますが、祈りは先生の書かれた
順序通リ唱えた方がよいでしょうか。
答世界平和の祈りは、文字に書いてある言葉通りに唱えなければいけないとか、順序を取り違え
たらいけないとか、いうものではないのです。
それは文字以前の言葉、言葉以前の想念にあるからなのであります。この言い方は少しむずかしい
ようですから、やさしく説明しましょう。
まず白光誌の表紙裏に常に印刷されてある世界平和の祈りという文字を見、その祈りの言葉を見ま
すと、守護霊、守護神という言葉を、ただ神という言葉にかえて思った時、実にわかりやすい、子供
にでも一目でわかる言葉が、文字として並べてあるので、おぼえる、おぼえない、考える、考えない79
という程に、表面に現われている文句はむずかしいものではありません。
誰れにでも、一目で意味のわかる、現代的な、平易な言葉が文字として書かれてあるのです。です
から、実際に祈る時には、その意味は、もう各自の心にはっきりわかっていることなので、順序が逆
になろうが、途中で言葉がつまろうが、そんなことは、その祈りの大意になんら関係はないのであり
ます。
ですから、世界人類が平和で… … と、その人の想いが、その文字の中に、言葉の中に、一歩飛びこ
めぽ、もうその人の想いは、世界平和の祈りの中、云いかえれば、世界人類の平和を達成せしめよう
と、働いておられる、救世の大光明(人類守護の神霊団体) の流れの戸口をあけたことになるので
す。何故かといいますと、この祈りの言葉は、一言一言にそれぞれの力がある、ということも事実で
すが、その全体の意味に大きな力があるのでありまして、最初の、世界… … と、その人が、祈りの言
葉を心に想い、あるいは言葉に出した時には、人類救世の大光明の流れにつながるスイッチをひねっ
たことになるのであって、もうその後は、こちら側、つまり肉体人間の側からの念力ではなく、あち
ら側神界からの救世の働きが、肉体の方に伝わってくるのであります。それは丁度、電流のスイッチ
をひねれぽ、電流が何をしなくとも自然に流れてくるのと同じ理であるのです。
要は、こちらの想いを、救世の大光明の方にむけかえれぽよいので、念力で神の力をこちらにひき
下すというようなものではないのであります。順序がどうでも、途中で祈りの言葉を間違えても、そ
80
の人の想いは、すでに全体の言葉の意味をつかんでいるにきまっているのですから、そうしたひっか
かりは、いささかも、世界平和の祈りの邪魔にはならないのです。
この世界平和の祈りには、二つの利点があるのでありまして、一つは、肉体人間の想いが、常に、
この地上世界の業想念(利害損得、喜怒哀楽) に把われていて、ほとんど一日中、ああではない、こ
うではない、と業想念世界の渦の中をぐるぐる廻りしていて、小我の想いの絶える時がありませんの
で、こうした業想念の渦から、人間の想念を抜け出させ、昇華させる意味で、小我の想念を転化させ
て、世界人類が平和… … という、広い大きな希望の想いの中に投入させてしまい、一時刻でも、小我
の想いを忘れ去らせるためであります。そう致しておりますと、いつしか、小我小欲で悩み悶えてい
る、自己の小ささが嫌になり、自ずから、大きく心が開いてくる、という利点なのであります。もう
一つは、世界平和の祈り本来の、救世の大光明を、この地上界、肉体人類の上に導入せしむる利点で
あります。
人間は本来、法華経にもありますように、仏(神) なのであり、神道でいえば神々なのでありま
まと
す。本来仏であり、神々であるものが、地球界に天降ってきて、物質世界の波動を身に纒って、次第
に自己の神性、仏性を忘れ去ってしまったものなのであり、そのために、現今のように、個人と個人、
国家と国家が傷つけ合い、殺し合って、物質的自国、肉体的自己の利益のみを得ようとして争ってい
るのであります。81
そこで、人類守護の神々が、種々な聖者となって、しきりに道を説き、人間に本来性の仏性、神性
を知らしめようとしてきたのでありますが、こうした末法の世になりますと、普通の説法ぐらいで
は、とうてい人類の滅亡を防ぐことは出来なくなってしまったのです。
どうしても、個人が救われると同時に人類をも救う、という個人人類同時成道という方法でないと、
とても間に合わなくなってきたのです。白光真宏会の誕生は、こうした神のみ心によって、生み出さ
れた団体なのであります。
その重要行事の一つが、世界平和の祈りなのであります。塚本夫人の体験記にもあるように、世界
平和の祈りをしている時には、確かに大光明が、その人の躰を通して、この地上界に燦然と輝いてい
るのでありまして、この大光明は、その人自身を救い、守ると同時に、その人の周囲の業想念をも大
きく浄めているのであります。これは誰人が祈ろうとも、そうなるのであって、特定の個人に限るこ
とはないのです。
何故そのようなことがあるのか、といいますと、人間は本来は仏子であり、神の子であるというこ
あかし
とが、真理であるという証なのであります。本来仏性であればこそ、地上界、肉体界の業想念を、そ
のまま世界平和の祈りという、神界との約束事である祈りの世界に、投入してしまうことによって、
神仏の世界の大光明が、肉体という器を通して、この地上界に浄めの大威力を発揮するのでありま
す。
82
この理は、日蓮と仏界の約束事の題目、法然、親鸞の約束事である念仏唱名と同意義であって、し
かも、まだなんら汚れのない祈り言であり、一般大衆に最も意味のわかりやすい祈り言葉であるの
で、想念が、直ちにその祈りの中に飛びこんでゆき得るのであります。
どうぞこのことをよく理解して、文字や言葉や形に把われず、世界平和の祈りの根本義を自己のも
のとして、日常坐臥、祈りつづけて頂くことを念願するものであります。
救われたい想いが、直ちに救いの光明となって、世界を照す、この世界平和の祈りであることが、
やがて、広く人々に認識されることを私は確信しているのです。
問28 自己反省と「自分を赦し」という先生の教えとの関係をお教え下さい。
答私が、自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、というように、教義に自分という文字を入
れておりますのは、自分という者が、実は、自分にとっては勿論、人類にとっても、一番大事な、一
番貴い存在であるから、自分というものを根抵にして、すべての生き方を考え、行じなければ、他の
人のことを真実に考え、想いやることは出来ない、と私は思っているからです。
ギリシヤの哲人の言ったように、「自分自身を知る」ということが、人間にとって唱番大事なこと
であり、真理なのであります。自分というものが真実にわかっているか、わかるべき道に一歩でも入
つているかしないと、他の人のためを、真実に思いやることは出来ないのです。ですから、自分を赦
83
せぬ人は、人を心から赦すことは出来ないのです。
もつとはっきり申しますと、人間の本体は神(神の子) であって、悪いことや、誤った想念を出す
ことのないものであるのです。ところがこの地球人類世界には、悪い事物や、誤った想念で一杯のよ
うにみえるのであり、佃人々々もまた、常に自我欲望の想念を出しているのであります。
そのお互いの自我欲望の想念が、ぶつかりあって、憎み合い、妬み合い、傷つけ合うことになって
いるのです。しかし、良心的な人は、こうした誤った想念行為を嫌む心が強いので、自分の心にそう
した想念が浮んだり、そうした行為をした場合には、非常に自分を責めさいなむことになるのです。
良心的だとどうして自己を責めさいなむことが多いかと申しますと、良心というのは、人間の本心
(神)あるいは本心から出ている心なので、良心からみると、本心(神) の中にない、そうした業想
念行為(誤った想念行為)が、邪魔なもの、嫌なものとなるのであります。良心的な人は、そうした
不調和な状態にある自分に対して、自己嫌悪の想いを抱き、自分を責め裁いてしまうのであります。
良心的でない人は、業想念で本心が覆われておりますので、本心から発する良心的想いが、表面の心
に浮かび出にくいので、本心と業想念の不調和を、強く感じ得ないのです。
自己のこうした心の不調和を強く感じる良心的な人は、人間すべては、神の分霊であって、悪業の
想念というものは、今の人間の心から出ているものではなく、そうした真理を真実に知らなかった、
神と人間とを分けて考えていた頃の過去世から積み重ねてきた誤りが、今消え去ろうとして心の表面
84
に出てきているのである、という私の説いている真理を認識しない以上は、自己を責めさいなむと共
に、他人をも心の底から赦せるようにはならないと思います。
私が特に自分を赦せ、といった意味は、人間は神(絶対愛、絶対善) の分霊であって、業生(善悪
混合) のものではないのだから、一度び誤ちを犯しても、誤った想念を発しても、「ああ、しまつ
た。これはいけない、もう再びこの誤ちを犯すまい」という、つまり反省、臓悔の想いが湧き起った
時には、その人の想念が、本心の座、神の心につながったことになるので、その時のその人は、業想
念の波の中の人ではなく、神の分霊として生々としている人なのであります。ですから、その時のそ
の人は、罪なき人、救われた人なのです。そこで私は、まず自分を赦し、ということを教えているの
です。赦すというより、悔改めた時のその人は、神の子であって、赦すも赦さないもないのでありま
す。それをいつまでも、自分は悪いことをした、自分は悪い人間だというように想いつめていたら、
いつまでたっても、神の分霊である、自己の本心の許に一体になることは出来ません。良心的であれ
ぽある程、宗教的であればある程、そうした想念の枠に入りこんで動きが取れなくなるきらいがある
ので、特に私が強くこのことを説いているのであります。
悪い想念が出る度び、誤った行為をしてしまった度びに、反省、臓悔の想いにより、神のみ心に飛
び込むことによって、人間は、過去世から今日までに至る、悪業の因縁を、消し去っていることにな
るのでありますが、もう一歩進歩すれぽ、想念として湧きあがる瞬間、あるいは、行為として実行し
85
ようとする瞬間に、「ああ、これは神の心ではない、業想念だ」と、そうした誤った想念行為を、未
然に打ち消すことが出来るようになるのです。
そのような真理の道に入った人が、人の誤ちをも、心の底から赦し得る人となるのであることを、
私は知っているのであります。
自分の悪を掴み、人の悪を握っているうちは、この人類に、平和世界、神の国の出来よう筈があり
ません。
%
問29 ある新興宗教に入っている友人に、希望するものごとを強く思って祈れば、必ずそれは与え
られるのだ、それが祈リだからあなたもそのように祈リなさい、とすすめられましたが、祈リとはそ
んなものではないと思うのですが、いかがでしょうか。
答その人のいうことは、祈りではなく、念力であります。祈りと念力の相違については、私も時
折り説明しているのですが、相当な宗教者でも、これを混同しているようです。
一つの事柄、事物を強く想いつづければ、確かにその事柄が成就し、事物を獲得出来ることが多い
のです。それは人の一念巌をも通す、という言葉の通りであります。しかしそれはあくまでも、自己
の業想念の念力でありまして、神のみ心が、その人の祈りに答えられた結果ではないのです。
そのような念力を、祈りと誤り考えております人は、いつまでたっても真実の神を自己の中に発現
することは出来ません。何故かといいますと、そのような人は、常に自分の欲っすることのみを念ず
る癖がついて、神との一体観ではなく、自我欲望、つまり業想念との一体観になってしまい、神の力
を自己の想い通りに出来得るものと誤解し、業想念の渦の中を、ぐるぐる廻わりしてしまうのです。
自己の欲するものを与えられる、ということが、神の眼からみれば、必ずしもその人の真実の幸福
とは見えないかも知れません。
例えていえば、一人の女性を自己の妻にと望み、一念凝らして神にその成就を願ったとします。そ
してもしそれが成就されたとしても、その妻をめとったことが、その人の未来にとって、幸福なもの
であるかないかは、わからないのです。
また一つの例として、ある金額を是非欲しいと思っている人が、やはり念力の力を信じて、神に対
して、是非これこれの金額を私に与えて下さい、と念じたとします。そして与えられたとします。し
かしこの金額を与えられたことが、はたしてその人のプラスであるか、マイナスであるかは、後にな
ってみないとわからないのです。
自己の想いの成就したことによって、かえって不幸になった人々を、私はかなり知っております。
このようにいうと、その人たちは反問して云うでありましょう。私は神にその成就を祈ったのであ
り、神が私の祈りに答えて、その願いをきき入れてくれたのであるから、決して結果の悪くなりよう
はない、と。だが私はその人の反問に対して、次のように答えます。87
「神は一人一人の人間の勝手な願いに対して、いちいちその願いをきき入れたりはしないのであ
る。神は全智全能であり、人間は神の生みの子なのであるから、神は人間すべてのその時々の必要な
環境、事物をちくいち知っておられるのである。だから特別に一念凝らして願ったから、その人にだ
け特別に願いをかなえられるようなことはなさらない。神が人間になさって下さることは、人間が真
実心の平安を得、自己の生命が神と一つのものであることを確信出来得るようになり、愛と真と善と
美のある生活を送り得るようになさることであって、それは祈りによって成就され得るのである。そ
の祈りとは、自我欲望の想念つまり、こうして欲しい、ああなりたい、という想念のすべてを、神へ
の感謝の想いにかえてしまうことである。
自我欲望の想いをかなえて貰おうとして、神に願って、かなえられることは、神がかなえてくれた
のではなく、想う通りになる、という業想念の法則が、自然的に活用されてかなえられたのであるか
ら、その未来における結果が、幸であろうと、不幸であろうと、それは神の関知しないことなのであ
る。そのような念力は、預金がないのに手形を発行しているのと同じことで、一時逃れは出来るが、
やがて借金で首が廻わらなくなるようなものである」
おわかりになりますか。なかなかむずかしいことなのであります。この説明を誤解なさらぬよう
に、もう一段、くわしく説きましょう。
人間は神からきているものなのです。神の分生命なのであります。ですから、自己の欲っするもの88
を神に願ったとて、決して間違いではないのですが、自己の欲望想念で神に願うことが祈りである、
という誤解は、その人の進歩を大いに阻害すると私は云うのです。
肉体人間は誰れでも、自己の欲望想念があるに決っていますから、自己の希望を神に願う気持が出
るのは否めませんし、それは決して悪いことでも間違ったことでもないのです。
しかし、それが真実の祈りになるためには、そうした願望を、一念凝らして想いつめることでも願
いつづけることでもなく、そのような願望は、その願望が起ったと同時に、神にすっかり預けてしま
い、神への感謝に想念をかえてしまうのであります。神への感謝ということは、神の心に自己の想い
が一直線に通じていることなのであります。感謝の想いは、相手に同化する心なのであります。です
から神に感謝すれぽ、神の心が自己に流れ入ってくることになるのであります。神の心が自己に流れ
入ってくれぽ、自己に必要なものは、必ずかなえられ、成就されるにきまっているのです。
そうした想いで成就された物事、事柄こそ、真に神によって与えられたものであって、その未来の
結末が悪かろう筈がないのであります。
祈りとは、自己の想念を、すべて神に全託することであって、その深い浅いはあるのですが、念力
の願い事とは全く違うのであることを皆さんが深く認識して下さるように願います。
ですから、自己の願い事も、すべて、世界平和の祈りの中に包含してしまうと、その願望が、その
人の真の幸福のために必要であれば、必ずかなえられるのであります。要は個人々々も、人類も共に
89
真の幸福生活に入るための祈りであることを忘れてはなりません。その場その場のご利益だけでは、
祈りの真の効果とはいえないのであることを心得ていて下さい。
念力による希望達成ではなく、真の祈りによる天命の達成、その天命成就のための必要なる事物、
事柄の獲得ということにならぬ限り、個人も世界も、本当の幸福をつかむことは出来ないのでありま
す。
90
問30 絶えず世界平和の祈リをしていなさいと教えられて祈っているのですが、口先きばかりの空
念仏のようになってしまつてもよいものなのでしょうか。
答空念仏のようにあなた自身が思おうと、実は空念仏になっていないのが世界平和の祈りの特徴
なのです。それはどのようなわけかと申しますと、私の提唱している世界平和の祈りを実行している
人は、ほとんど全部の人が、私と面接のあるなしにかかわらず、その祈りの底に提唱者である私とい
う者を意識しているのであります。そして、その人が私の存在を意識した時には、その人の想念は必
ず私の許につながるのであります。
私が世界平和の祈りを提唱し出したのは、私の肉体に働いている直霊(神)真理の光が私のペソを
かり、口をかりて提唱せしめたのであって、私の肉体は、例えれぽ、テレビジョンの受像機のような
ものであります。
ですから、私の肉体に、神のみ心やみ言葉が種々と写し出されると同時に、あなた方が世界平和の
祈りをしようとする時は、私、つまり受像機械のスイッチをひねったということになるのです。
このように考えますと、あなたが自己の想いとしては、空念仏のように力なく世界平和の祈りを唱
えていたとしても、世界平和の祈りと心にその想いを思い浮べた時は、すでに私(神のテレビ受像
機) のスイッチをひねったことになり、あなたの神の分生命の心は、神の世界、世界平和の祈りの根
源の世界につながってしまっているのです。そして、あなたが、自己の祈りを空念仏のように思う、
その想いも、種々様々な雑念にかき廻わされているように思っている想念も、すべて、世界平和の祈
りとは関係なく、三界、つまり業想念の世界を経巡っているのであります。ところが、あなたの神界
につながった心は、神界の光明と合体して、あなたの肉体身にその光明を送りこんでくるのです。そ
の光明は、あなた自身の思慮分別や、自己否定の想念などを問題にせず、あなたの肉体、幽体、つま
り潜在意識を光明化してゆくのであります。
そうしますと、いつの間にかあなたは、信仰心が強まり、世界平和の祈りにより、心の平安が生れ
てきて、今度は理屈なしに、世界平和の祈りがつづけてゆかれるようになって、自己が知る知らずに
かかわらず、あなたの肉体身を通して、神の光明があなたの周囲の人々に伝わってゆくのでありま
す。
でありますから、あなた方は空念仏のようにあなた自身が思おうと思うまいと、そんなことはどう91
でもよいから、繰返し繰返し世界平和の祈りを心に思い淫べ、唱えつづければ、唱えつづけると申し
ましても、いちいち口に出したり、想いつづけたりしなくとも、世界平和と一念で想えばよいのであ
ります。はじめは誰方も、口先だけでやっていたのでありますが、次第に心からの深い世界平和の祈
りになっていった、というのが、皆さんの体験のようです。
92
問31 忍耐は人間徳性の最大なるものの[つであるといわれていますが、先生はどうお考えですか
答忍耐は人間生活にとって、非常に大事なことであると思います。忍耐という理性の働きがある
ことによって、この世の生活秩序が保たれているのであるとさえ思われます。もし人間に耐え忍ぶと
しゆら
いう理性の働きがないとするならぽ、この世はたちまち、修羅地獄、餓鬼畜生のあさましい姿を、そ
こに現わしてしまうであろうと思います。
ところが実に困ったことに、この忍耐、耐え忍ぶということが、人間は本来は神性であって、この
世の悪不幸は、すべてやがて消え去りゆく姿である、という私の説いているような、真理の裏づけが
ないと、一時は、表面の行動には、その人の怒りや欲望や、様々な想念を現わさずに済みますが、そ
の感情は、自分自身がすっかり納得して現わさずに済んだのではなく、現われている意識(顕在意識)
の底、つまり潜在意識層に抑えこんでしまったに過ぎないのですから、そうした忍耐は、潜在意識層
に次々蓄積されて、遂いには、病気として表面に現われたり、不幸として現われたり、強い憤怒とし
て爆発したり、ふとした誘惑におびき出されて、大失態を仕出かしたりするようになってしまうもの
なのです。
心に抑圧された感情想念は、時をへれぽ、必ず表面に現われずに済まされぬように出来ているので
あって、抑えていれぽそのまま消えてしまうようなものではないのですQ感情想念は、常に潜在意識
層から顕在意識、あらわれているこころから、ひそんでいるこころへとぐるぐる廻わりをしているの
です。これを業の転回といい、一つの原因を結果として現わしてしまわぬ以上は、永劫に消えさらな
いものなのであります。テープレコーダ:に吹きこんだものは、何回でも同じことが出てくるので、
意識して消さぬ限り消えないのと同様な理なのです。ですから、怒るまいと思ってもなかなか怒りを
抑えることが出来なかったり、しゃべるまいと思ってもすぐしゃべってしまったりするのであって、
様々な感情想念行為は、余程の意志力をもって抑えぬ限りは、抑え切れないのであります。そのように
なかなか難事なことであるので、こうした感情想念行為を抑制出来る人、忍耐力の強い人を、世人は
立派な人出来た人、と呼んでいるのであります。しかし忍耐力にも限度があり、感情の抑圧が過ぎる
と、その人の病気、不幸となって、その生活に現われてくるのであります。それが善人、立派な人が
意外にも病的であったり、難病にかかったり、不幸な境遇に陥ったりするということになってくるの
であります。
これを社会国家人類的に見てみますと、やはり同じことでありまして、忍耐力の限度がつきると、93
革命とか戦争とかになって、一時に大爆発してしまうのであります。
だからといって、耐え忍んだり、がまんしたりすることをしなくともよいのか、というと、これは
とんでもないことで、この世に忍耐という理性の働きがなければ、人間は動物世界以下の世界にたち
どころになってしまうでしようし、立ちどころに世界中が地獄になってしまうでしょう。忍耐は確に
人間の美点なのであります。
ただ、今日までの忍耐は、人間の真性を、はっきり認識しないで行なわれていた忍耐なのです。そ
れでは人類の滅亡を、少しく遠くへ追いのけたというに過ぎないので、真実の人間の幸福、真実の個
人の完成、人類の平和というところまでは行きつけないのであります。
真実個人の完成、平和、人類の完成、平和を創り出さんとするならぽ、人間は神の生命の分れであ
つて完全円満性のものであるが、それを知らなかった、つまり絶対善である神の愛を知らずに、神を
離れて人間独自の存在があると考えていた誤りが、今日の人間の不幸を生んできたのであることを認
識し、その誤りによって生れた悪や不幸は、その真理を知って、神に真直ぐにつながり、神にすべて
を全託して生きてゆきさえすれぽ、ひとりでに消え去ってゆくものである(何故なれぽ、それは実在
ではないから)ということを知っての忍耐でなければ、その忍耐は、真実に生きてはこないのであり
ます。それが本当に出来るようになれば、忍耐という言葉さえも消えてしまうでありましょう。それ
は国家人類のために死んでゆくことが、犠牲という言葉で現わされているが、その当人が喜んで死ん
94
でゆく場合には、その当人にとっては、その行為が歓喜であっても、
のではないというのと同様でありましょう。
犠牲というような、重苦しいも
問舘この世のすべては因縁因果の輪廻によって現われているので、因縁因果に支配されぬものは
ない、と宗教的にはいわれていますが、人間は因縁にがんじがらめに縛られているものでしょうか。
この点お教え下さい。
答この世の幸不幸、…様々な環境は、因縁因果によって現われていることには違いありません。因
縁因果を現代的にいえば原因結果であるのですから、原因のない結果がないと同じように、因が縁に
ふれて果を生ずるのですから、この世はすべて因縁因果によって生じていることは間違いないので
す。
しかし、こうした因縁因果を超えた世界に住もうと思い、または人々をそうした世界に住まわせよ
うと思って、古来から宗教家といわれた人々が、様々な修業をしてきているのであります。そして大
聖といわれた人々は、因縁因果の世界に住みながら、同時にその因縁因果を超えた神仏の世界に居住
していたのであります。
ですからこの世の現われは因縁因果の波によってなされていながら、その人の生き方いかんによっ
ては、その因縁因果の波を超越して生活することも出来るのであります。それがいわゆる宗教生活な95
のであつて、因縁因果だけを問題にして、あなたの因縁がこうだから、こういう結果が生じたのだ、
あなたがこのような心をもったから、こんな運命になったのだ、あなたの因縁が悪い、あなたの心が
悪いというような説教は、真実の宗教者の嫌むべきことなのであります。
宗教とは、因縁因果の教ではなく、因縁因果を超えた、つまり原因結果を超えた神仏の教なのであ
ります。神仏の中には、この世でいう悪や不幸の波をもつ、因縁因果などはないのであって、悪や不
幸や病気や貧乏は、すべて神仏の心を離れた無明つまり迷いの中から生じたものなのであります。で
すからこの世は因縁因果の波動であつて、人間はその因縁囚果の束縛を逃れることは出来ないと思っ
ているのは、真実の宗教を知らないということであり、神仏と人間との真実の関係を知らないことか
ら起っているのであります。
神は絶対なる智慧、全能力者でありまして、神は原因結果を同時にもっているものであり、すべて
の権能であります。そして人間は、そうした全能者の分生命、分霊なのであって、その他の何者の子
でもないのであります。そう考えますと、完全なる麹慧者の絶対なる愛の神から分れた人間の世界に
悪や不幸が実在するわけがないのです。ところが実際のこの世は悪や不幸で充満していて、因縁因果
の波に翻弄されて嘆き哀しんでいるのであります。これはどうした間違いからくるのかといいますと
現在の地上人類が、神の完全性、人間の完全性を否定して、業想念の因縁因果の波を殆んど全肯定し
でいることから起るのです。そこで真の宗教観の確立が急がれることになるので、人間は神の子であ96
り、本来完全性であって、.この世の因縁因果の波、悪や不幸や病気等々の悪想念は、過去の誤った想
念行為の消えてゆく姿である、という真理の言葉を肯定し、その業想念を常に消し去ってくれている
守護の神霊への感謝行をつづけてゆくことが唯一のなすべきこととなってくるのであります。そうし
てゆくうち》この世の因縁因果の波の底から、神仏の完全性、人間の本来因果たる汚れなき生命の力
が、この世にはっきり真善美の姿を現わしてくるのであります。
間3 先生は統一されると、肉体にはいらっしやらないそうですが、先生の統旧というのはどうい
うものですか、また先生が見えなくなってしまうということはどういうことでしょうか。
答・私が統一して肉体にいなくなってしまうというのを感ずるのは、相手が霊能的な人に限ってい
ます。それはどういうことかと申しますと、私が統一しますと、肉体として働いています粗い想念の
波動を、その時少しも発していず、微妙な霊波動に私の想念が還元してしまうのであります。ですか
ら、そうした波動の相違を感ずることの出来る霊能者は、私と共にいて、私の肉体から、急に今まで
発していた波動を感じなくなってしまうので、私が肉体にいなくなったと感ずるのであります。
人間というものは、普通の人が考えているような単純なものではなく、種々複雑な要素をもってい
るものであって、人間の肉体というものは、人間がもっている種々なる体のうちで、一番粗雑不自由
なるものであるのです。9?
そこでこの不自由なものに把われていては真実の人間の姿、神仏の姿がわからぬとして、求道者は
坐輝観法や種々の統一行をなし、あるいは滝行等々の荒行をやって、この肉体にまつわる想念を否定
して、真の人間を発現しようとしていたのであります。
私は幸いに前生の修業の結果、今生においては、他の求道者よりも短期間において、統一行に成功
し、瞬時にして、肉体身から霊身に、波動を変化せしめることが出来るようになったのであります。
印度のヨガ僧などにはこうしたことの出来得る人が、かなりあるのであります。しかし私の最も本願
としていることは、私自身がそうしたことの出来る出来ないではなく、すべての人が容易に、自己の
本心、本体の姿を肉体の生活の中に現わし得るように指導してゆくことであるので、私が、奇蹟的な
行為をするしないということは、あまり問題にしないように願いたいのであります。
98
問34 私は霊的能力が欲しいのですが、その方法をお教え下さい。
答人間は誰れしも霊的能力はもっているのですが、普通はそれを気づかずに過しているのです。
しかしあなたの欲している霊的能力というのは、人の心の中がわかったり、未来の予見が出来たり、
病気が直せたりする、いわゆる神通力のことであろうと思います。
私はこのことについては、自分が非常な苦しみをへてきているので、一般の人がこの能力を欲っす
ることが、はたしてよいことなのか、悪いことなのか、一人一人に私自身が面接してみてからのこと
でないと、なんとも申し上げられないのです。
そこで、この紙面では、そうした能力を欲っするすべての人たちへの答として、ペソを走らせるこ
とに致します。
皆さんが真実霊的能力を欲っするならば、自己の肉体生命を投げ出してかからなければならぬ、と
いうことを第一に考えのうちに入れなければなりません。少しでも肉体生命に未練があるようでは、霊
的能力を欲っすることは危険であるからお止めなさい、と言いたいのです。
真実の神通力を得るためには、精神異状の危機、生命の危機に、幾度でも遭遇しなけれぽならない
からであります。近頃の巷間には、種々様々な霊能者が、かなり多くあるのですが、真実人を救い、
世を救い得る人々がどれ程存在するでしょうか、私は甚だ疑問に思っているのです。
その人が霊能者になるならぬということは、その人の守護霊、守護神が知っていることであって、
その人の顕在意識ではわからないのです。ですから、農家の一主婦が、病気快癒の祈願をしているう
ちに、急に霊がかりになって、宗教の教祖になったりしているのです。ところがこの霊がかりの種類
は沢山あって、過去世から今生にかけての、その人の想念行為の波に合致した神霊や、人間霊魂や、
あるいは浮浪霊魂、感情霊魂(動物霊といわれるもの)等々が愚依してくるのです。
つまり、その人の日頃からの想念行為の高低によって、懇依する霊魂の高低がきまるのであって、
浮浪霊魂や感情霊魂に愚依されている霊能者は、ますますその人の本心がうちに隠れ、人格が低俗に
Qo〃
なって、その人の霊能によって指導される人々は、常に低級な感情をもちつづけて常識社会の善なる
面から逸脱してゆくようになってしまうのであります。
このように、自然的に霊能力を得る人々でも、日頃のその人の想念行為の高低によって、その人が
天的にもなれぽ悪魔的にもなるのですから、自ら霊能力を欲っせんとする人々は、いかなる悪霊(つ
まり幽界の悪業想念) にも自らの心を冒されぬだけの心の修練が出来ていなければならないのです。
ただ単に、人の上に立ちたい、人にほめられたい、人をあっといわせたいぐらいの、低い想いで霊能
力を欲っしたとするならば、その低い想念に適当する幽界の生物のよい餌食になるのです。
自己の肉体生命を人々のために捧げよう、というぐらいの愛他の想いがあって、そのために霊能力
を欲っしてゆく場合であっても、幽界の幾階層をぬけ出て、霊界、神界に到達して真の神通力になる
までには、口やペソには現わせぬ程の強い神への信と勇気とがなければ途中で坐折してしまうのであ
ります。
ましてその境地までに至らぬ人が、自我欲望の想念で、霊能力開発の修業してゆく場合は、およそ
その結果が思われて、私には心寒い想いが致すのです。印度のヨガの修業を日本でもやっている人が
おりますが、あの修業などこそ単なる健康法としてやる場合は別として、神秘力の探究のためにやる
のでしたら、一身を投げ出す程の欲望放棄の心的状態でやらぬと、その修業期間にとんだ横道にそれ
て、やらねぽよかったというような悔いを残すことになりかねません。もし一身を投げ出し得る菩薩
100
的心になれる人が、その修業に取り組んだとしたら、これは真に神通力を得ることが出来得るであろ
うと思います。
私は、そのような自力の行者ではなく、絶対他力の道を行く者ですから、霊能力を求めさせたり、
様々の欲望の満足を計ってやることをすすめたりはしないのです。私はただ、その人の本心の開発、
神へ昇ってゆく道を開いてやる援助をし、その道を教えることだけをやっているのです。何故かとい
いますと、無理なく自然に、日常生活の中でいつの間にか、本心開発の道に入ってゆくことを願って
いるからで、その本心開発の道をたどってゆくうちに、自ずから霊能力を発揮してゆくことをこそ望
んでいるのです。その道が、消えてゆく姿として、すべての現われを業想念の現われであると打消し
てゆく方法であり、ただひたすら守護霊、守護神に感謝し一任して本心の開発をして貰う方法である
のです。すべての業想念(誤った想念行為)を打ち消しきってゆくうちに、自己の顕在意識に守護霊、
守護神の心がはっきりうつってきて神秘力を発揮することが出来るようになり、本心がすっきりと日
常生活の中に現わされて自由自在になってゆくのであります。これが真の神通力なのであります。
問35 いわゆる霊的な人とそうでない人とがいますが、一体どこがどう違うのですか。
答普通いう霊的な人とは、五感に感ぜぬことを、なんとなくわかったり、予見力があったり、
言や霊聴や、自動書記が出来たりする人のことであろうと思います。

11
101
このような人は、過去世において、霊能力開発の修業を多かれ少なかれやった人に多いのです。霊
能開発の修業をしたから悟りに近いか、というと、あながちそうではありません。霊能力の開発と、
本心の開発とが本来は一つであるのですが、違った意味でなされていることが多いからです。霊能力
開発即本心開発であれぽ、その修業を過去世でやってきた人は、今生でも、真理のわかりの早い人で
あり、真の宗教信仰の行為者であり霊能力者でもあるのですが、違った意味、つまり本心の開発では
なく、その反対の業想念の満足を得るための霊能力開発の修業をやった人は、今生において、いわゆ
る霊的な人でありながら、その日常生活における行為が低級であったりするのです。
そしてこの二種類の霊的な人は、共に肉体の下着として人間がつけている幽体が普通人よりも大き
いのであります。科学的な言葉でいえば、肉体よりも細かい波動の部門が非常に多いのです。ですか
ら、肉体界には見えない。つまり波動の細かい微妙なひびきを、普通の人より以上に感受するのであ
ります。これが未来の予見となり、あるいは霊眼、霊聴となってくるのであります。
この霊的な人が低級な場合は、幽体が非常に汚れていて、清らかな、そして最も微妙なる霊波動や
神界の波動を感受することが出来ず、幽界(低級界) の波動のみを感受するので、人に迷惑をかける
予見を平気でしたり、低卑な雰囲気をまき散らしたりするのであります。この幽体の汚れが清まって
くるに従って、高い霊界、神界の卿慧を感受するようになり、人の本心を開発せしめる助言や浄めが
出来るようになるのです。ioz
普通いう霊的でない人の中には唯物論的な知性的な人がなかなか多いのですが、宗教的な人もかな
りあるのであります。このような宗教的な人は、知性的に、理論的に信仰に入ってゆくのであります
が、入ってしまうと、霊的な人よりも危いところが少く本心開発の道に入ってゆきやすいのでありま
す。霊的な人が直感的で、そうでない人は知性的ともいえるのであります。
間36 信仰するには思慮分別を捨て去らなければならぬということですが、分別を捨て去っては、
この日常生活がうまくゆかぬと思いますが、一体どういうことなのでしょうか。
答確かに信仰には思慮分別が邪魔することが多いのです。神とか仏とかいうものは人間の五感に
はふれ得ぬもので、これだ、と手でつかみ、眼でたしかめることの出来ないものなのですから、常識的
な思慮分別を先に立てていては、決して信仰生活に入ってゆくことは出来ないのです。そこで信仰す
るには思慮分別に把われてはいかぬ、といわれているのであります。これは宗教ばかりではなく、医
学をはじめ他の科学への道でも、はじめは出来上がっておらぬもの、未知なる世界へ一歩一歩踏み入
ってゆくのであって、この道を行こう、この実験をやろう、という時には、思慮分別を超えた心でや
ってゆくわけなのです。彼の医学者ゼンナーが、はじめて種痘をやる時に、自分の子を最初に実験台
にして行なったという話がありますが、その方法を人間に実践してはたして生死のいかんは、思慮分
別を超えたところにあるのです。しかもその実験を、愛する我が子においてなしたということが、は103
たして思慮分別による行為といえましょうか。思慮分別を超えていると見るべきでしょう。それでな
ければそのような無謀とも見ゆることが出来る筈がありません。政治や事業などでも、いざという時
には、思慮分別を超えてなさねば何事も出来得ないのであります。
まして、宗教信仰のように、五感にふれ得ぬ、しかも自らが体験しなければ、絶対にその真相がわ
からぬ絶対者との交流なのですから、思慮分別を先きにたてて入り得るわけがありません。思慮分別
は物事を踏み切る前までのことであって、踏み切る時は、常に捨身でなければ何事も成就しないので
あります。
信ずるということは、何も宗教の面ぼかりではありません。この世の中の万般のことはみな信から
発せねば出来上ってゆかないのです。一人の人との交際にしても、信の心がなけれぽ立派な交際が出
来る筈がありません。
人間の思慮分別は、神仏の道に入るまでのものであって、神仏の道に一歩足を踏み入れたら、絶対
信の心で行じてゆかなければなりません。それが誤って邪宗教の道であっても、その人が神仏に対す
る深い信があれば、その邪宗教さえも、その人の前にはプラスとなって現われてくるものなのです。
信の道に入るには、何の信の道にしても勇気がいるのでありまして、入信せねば罰が当る。ぬけれ
ば罰が当る式の強迫的言辞に恐れをなすようではいかなる信の道にも入り得ないのではないかと思わ
れます。
io4
宗教信仰は本当に思慮分別を捨てると同時に、非常な勇気がいるのでありまずが、それでは一般大
衆の救われる余地がなくなります。そこで、その大衆の勇気の欠如や、思慮分別への戸惑はそのまま
でよいから私にまかせて、私についていらっしゃい、あなた方はただ日常生活に一心をこめていれば
よいのだ。ただし私と一緒にはじめは信じても信じなくともよいから、守護霊、守護神への感謝をつ
づけてゆきなさい。そして現われてくるすべての想念行為や不幸な姿は消えてゆく姿だと思いなさい
と私は説いているのであります。
問37 個人の悪、社会悪、国の悪を、ただ消えてゆく姿であると見るだけでよいのでしようか、幽
切の悪は排除しなければいけないと思います。このような正義感は必要ないのでしょうか。
答あなたのおつしゃるように、正義感は絶対に必要であり、尊い心であります。一切の悪の排除
も、真実の人間世界、神の国の創設には、是非共なさねぽならぬことです。まして青年が悪を憎み、
正義感に燃え立たぬようでは、その国家の前途が思いやられます。そうした感情は、人間としての本
質的なものであって、人間の本質、本心が善であり完全円満性であるところに起因しているのであり
ます。ところが青年から壮年になり、社会の波風の中で生活しているうちに、善なるもの本質的なる
ものが、物質世界の自我欲望に満ちている社会、つまり悪の波風につつまれてしまって、余程に勇気
05
のある人でなけれぽ、善そのままをむき出しにして生活していては、社会生活をする上において非常-
なマイナスになり、物質的にも地位的にも、不自由な生活をしてゆかなければならぬようになってし
まうことがわかってきて、つい長いものには巻かれろ式の、事なかれ主義になっていったのです。そ
こでますます悪がはびこり、善なる道に生きようとする人が、いよいよ社会に容れられなくなり、高
い地位での活躍をはばまれてしまうようになってきたのです。
真なる道、善なる道を貫いてゆこうとするには、非常なる勇気がいることであって、生半かの気持
では、その道を貫き通してゆくことは出来ません。たとえいかなる正義感がありましても、ただ単な
る正義感だけでは、悪を排除するより先に、自分自身がこの社会から滅び去ってしまう程、この地球
社会は、業想念(悪) につつまれているのです。ですから青年たちが考えているように、正義感だけ
深ければ、この世から悪が排除され追放されるというような甘いものではないのであります。その正
義感を貫き通すためには、深い智慧と、高い能力と不退転の勇気とがなければならぬので、そうした
力のない正義感だけの行動や、一時的興奮による正義感での悪への挑戦は、厚い社会の悪想念の壁に
突き当って、自分の身心を傷つけてしまいがちです。
現在の世の中は自我欲望に満ちている世の中であり、また人間というものは、親類縁者間の義理人
情や、先輩後輩間、同郷人同志の友情とか、種々様々の複雑な感情想念によって動きやすいものであ
って、あれのやり方は悪いと思いながらも、それが前記のような関係にあり、しかも自己との利害関
係もある、と思うと、他からの正義的な申出にも応じ兼ねる場合も多々あるのであります。
io6
その上、実際問題として、その個人が真実の悪人であるか、その団体役員や政治家や、その国家の
動き方が、善そのものでなくとも最低の悪行為によって動いているのか、最大の悪行為によって動い
ているのかのどちらかを、はっきりつかむことは出来難いのですから、その正義感の人が、表面に浮
んできた悪だけを見て、中の方で順次に出来上がろうとしている正しい現われ方を見抜かず、そのや
り方は悪であると見ているかも知れないのです。
ですから、うかつに正義感を振りまわすよりは、まず自己の深い洞察力(智慧)を養い、勇気を養
い、それに社会的にも一かどに口をきけるだけの立場をまず造って置くことが第一であると思いま
す。それと共に悪行為を見て、やたらに興奮しない宗教心を養っておかねばならないと思います。そ
の宗教心の根本が、人間は、神の分生命によって生きているものであり、本来は神の完全円満性をも
っているものであるから、自分たちが、悪に把われて、その悪の中にひきずりこまれさえしなければ
その悪は必ず消え去ってゆくものである、という信念を持つようにすることであります。悪を排除追
放しようというなら、まず自分が、いかなる悪想念行為にも把われぬだけの信念をつくって置かねば
ならないので、その信念は、神は完全円満であるから、神の子である人間世界からは、やがて悪と見
える姿は消え去るのであると常に神(守護の神霊) への感謝行をなしつづけることにあるのでありま
す。そうした神へのつながり方の出来る人々が増えてゆけぽ、それに従って社会の悪も減少してゆく
ことになるのです。真実の正義感というものは神につながることによって、不退転となり、悪を消えio7
てゆく姿とみることによって、あせったり興奮したりすることのない、冷静な判断力をもって、時宜
を得た正しい生き方が出来るようになり、それが、力ある正義の行進となってゆくのであります。
ios
問認迷った霊魂を悟らせるのに、私たちに出来る方法をお教え下さい。
答迷っている霊魂の氏名がわかれば、その霊魂の氏名を心の中で呼んで、守護霊さん、守護神さ
ん、どうぞこの人を宜しくお願いします、とお願いして、感謝の言葉を繰りかえして置くのです。も
し氏名がわかっていない場合には、やはり守護の神霊への感謝の言葉と共に、我れにつながる親類縁
者の霊魂を宜しくお願いします、と願って置くのです。それと共に世界平和の祈りを、常に心の中で
唱えていることです。世界平和の祈りだけしていれば、その人の周囲に世界平和のために働いている
救世の大光明が輝きわたるわけですから(〃世界平和の祈り〃のパンフレット、塚本夫人体験記参
照) その人の周囲に集まっている親類縁者の人々(霊魂) は知らず知らずのうちに浄まってゆくので
あります。
ですから、ただひたすら、世界平和の祈りに明け暮れていればよいのです。
世界平和祈れば消えむ汝がうちの生くる苦しみ死ぬる苦しみ
の歌のように、この祈りを根抵にした生活をしていさえすれば、自己の生死の苦しみも、自己につ
ながる霊魂の苦しみも、やがては消え去って、いずれも光明遍照の霊身に還えるのであります。
人の世のすぺて安けく生くる日を神こそ願ふひた祈れ子よ
であります。
問39 病気も業も消えてゆく姿だと、知識ではわかるのですが、私自身も病人に対しても、すっき
りと割リ切れないのです。私は情に把われすぎているのでしょうか、どうすれば平静な、そして温か
な態度で病人に接することが出来るでしょうか。
答この問題は、光明思想の普及者の一度は通らねぽならぬ関門であります。生長の家などでは、
病気は無い、今直ぐ立て、と云っていまして、神の創り給うた完全な人間に病気などあるわけがない
と云い切っているのであります。これは真理であり理論としても頷けるのでありますが、実際問題と
しては、なかなか実行し難い教であって、精神力の弱い人の喝にはなりますが、その反面、それをう
のみにして、自分自身に行なうのならまだよいのですが、雇人や、お嫁さんなどにその教の通りを実
行させようとしている人がかなりあるのです。
先日も、私のところに来ている人の知人が、嫁の身で肺をわずらったのであります。当人は体がだ
るく、呼吸も苦しいのですが、その姑さんが、生長の家の信仰に厚く、「病気は無い、今直ぐ立て」
を、お嫁さんに実行させるので、お嫁さんがいくらだるくとも、苦しくとも寝ることも出来ず、次第
にやつれはててしまったのです。見るに見かねたその知人が、私のところに連れてきたのでありま109
す。私はそのお嫁さんの体を見てびっくりして、「これはいけない。こんな体で働いていたのではま
いってしまう。家では気兼ねで寝ることは出来ないだろうから、病院に入って、暫く安静にしなけれ
ばいけない」とその人に口添えして貰って入院させたのであります。
私はこのお嫁さん自身が、生長の家の教を信じて、自発的に働いているのなら、そんな注意はしな
かったのです。それは信仰の極度に強い場合は、真理がそのまま生きて、働いているままで病気の直
ることも、時たまはあることだからです。それには実に深い信仰心のいることであって、それこそ不
退転の大決意がなけれぽ危いことであるのです。ところがこのお嫁さんの場合は、ほとんどそうした
信仰がなかったのですから、実に危険なことだったのです。そのお嫁さんは、病院での手当によって
今では大分快方に向っているようであります。
私は生長の家式の病気は無い、は凡夫には危険だと思って、あなたの病気は過去世から今生にかけ
ての、悪想念行為の消えてゆくために現われている一つの症状なのだから、心をおびやかさず、ひた
すら守護の神霊への感謝行の方に、不安の想いを投入させて置きなさい。痛みが出ても、不安が出て
も、懸命に守護の神霊への感謝に、自己の想念のすべてを投げこみなさい。そのうちにあなたの完全
性である丈夫な体が、うちから現われて、やがて健康な体に立ちかえるのですよ、と説いて聞かせて
いるのです。その間、薬を飲もうと、注射を打とうと、それには私は一切口をはさまぬことにしてい
るのです。その人がこの世にまだ役目のある人ならぽ、守護の神霊は、必ずこの人の内部の力を引き
iio
出して、この人を癒し去ることを私は知っているからです。注射や服薬が、ゐる時は病人の内部の癒
す力の邪魔をすることもあるのですが、それさえも守護の神霊の癒しの力の前には問題ではなく、癒
える時間が少し遅れるだけなのであります。
ですから病人を看護する時には、看護するその人が、真剣に病人の守護の神霊に対してその人の病
気の速かに癒ゆることを願い、感謝を捧げてやればよいのです。上すべりしたような言葉で「病気は
無いのだ」とか「病気は業の消えてゆく姿なのだ」などと言ってきかせても効果はなく、かえって病
人から冷い人だと思われるぐらいが落ちです。
言葉というものは、何も声に出さなければならないものではないので、消えてゆく姿という真理の
言葉を、看護しているあなた自身が、はっきり自分で認めていれば、そうしたあなたの信念が、相手
の心に伝わって、病人の生命力に力を与えてゆくのです。
間違った宗教者のように、「それは業だ」と冷い言葉を病人にあびせたり、「病気は無いのだ、無
い病気になやむものはおかしい」など、と出来そうもないことを云ったりすることは、私の感心して
いないことです。私は病人に対しては、普通の場合は、やはり温かく、心からの同情心をもって接し
てやり、生じっかな説教めいた口はきかぬ方がよいと思っているのです。その人が一体癒える病人か
死ぬる病人かは、霊覚者以外にはわからぬので、誠心誠意を尽してあげることが大事であると思いま
す。iti
問⑳ 信仰の浅い深いによって、世界平和の祈リの効果が相違すると思いますが、私のように信ず
る心の薄いものは、救世の大光明にしっかりつながることは不可能ではないでしょうか。
答あなたのような疑問をもつ方が沢山いるのです。昔法然上人が念仏門を唱導された時も、信徒
の人々から、〃お上人様と私共とでは念仏の効用が大変な違いでしようねがとの問が出たものでし
た。それは違うさ、と法然上人がおっしゃると思っていると、意外にも、〃わしの念仏もみなさんの
念仏も、念仏の効用に変りはないπと云われたものでした。
私もそうした法然上人と同じ答をしたいのです。何故かと申しますと、私の唱導している世界平和
の祈りも、浄土門と同じように、他力門なのであります。一般の人間が、自分だと思っている肉体身
というものには、なんらの力も無いものだ、肉体身が悟るということも、肉体頭脳が真理を知る、とい
うこともないのである。人間というものは、実は霊であり神仏そのものであるのを、肉体身である物
てんどうもうそう
質身であると誤解し、顯倒妄想したところから、人間の不幸や不自由が起っているのである。である
から、自己が肉体身である、不幸な者である、不自由なものである、という誤った想い、み仏(神)
から離れた想いを、阿弥陀様の中に投入する。私の言い方でいえぽ、救世の大光明の中に投入する。
そして改めて、阿弥陀仏や救世主の方から救いの手をさしのべてもらう、ということが、念仏門や世
界平和の祈りのやり方なのであります。しかし、もう一歩踏みこんでゆくと、人間というものは、今112
更救われるも救われないもない、はじめから救われているものであり、自由なものな㊨であるどいう
ことになるのであります。それは、人間は本来、神の子であり、仏子である。神の子や仏子が不完全
なわけがない、という原理によるのです。ですから法然上人のように、そうした真理を知っていた人
にとっては、自分という肉体人間も、ただ単なる一信徒も、等しく時間的に消え去ってゆく業想念の
現われであって、肉体人間としての両者の間には、なんらの差違もないと思われたのであったでし
ょうo
だから、私は駄目だとか、信仰が浅いからなどという想念も、すぺて消えてゆく姿であって、念仏
にも世界平和の祈りの効用にも、なんらの関係はないのであります。従って、自分が今まで、さんざ
ん修業したということも、念仏や世界平和の祈りの効用のたしになるわけでもないということになり
ます。
ですから、どのような人であろうとも、世界平和の祈りを唱えよう、と思った時から、その人が口
で唱えようと唱えまいと、その人の本心とその人の想念とが、世界平和の祈りという救世の大光明の
.光の中で、しっかりつながり済みであるので、その人は世界平和を祈る使徒ということになるのであ
ります。
これは宗教の奥伝ともいう教なので、この説明だけではちよっとわかりにくいと思いますので、更
にやさしく説明してみましょうo iii
いのち
みなさんは各自に自己の生命というものをもっておられます。この生命は普通の考えでは、肉体の中
にだけあるものとして、肉体が滅びれぽ同時に消滅してしまうと思っているのです。この考えでは、
とても阿弥陀様にも救世主にも救って貰えないのでありまして、人間というものは生命そのものであ
って、生命が肉体を造り、生命が智慧や想念の源泉になっているのであって、その生命は永遠に各個
性をもって働きつづけてゆくものである、ということを知らねばならないのであります。
ちから
その真理を知ることが宗教の道なのです。ですから、肉体としての人間の能力では、自分自身をも
世界をもどうにも救うことが出来ない。肉体人間としての能力以外になんらかの力がこの人間にはあ
るのではなかろうか。それは精神というものであろうか。否々、ただ単に精神というようなものではな
い。何か、常識を超越した大きな力が、この人間に働いているのではなかろうか。その力は、はたし
て人間のうちにあるのか、外にあるのか、うちにもあるようだし、外にもあるようだ。それではどう
したら、この超越した能力を自分自身のものとして、うちからか、外からか、ひき出しあるいはひき
入れることが出来るのであろうか。とに角なんとかして、自分も他人も救われなけれぽいかん、と思
う人が出来てきたのであります。
そこから、様々な宗教の修業道が開かれたのであり、真剣に修業した人々は、真理を知って救われ
の道に入り、人を救う菩薩の道に入っていったのであります。
しかしながら、同じような修業をしながらも、素質の違いによって、悟れる人も悟れぬ人も出来て114
きて、現今では、悟る、つまり人間の真実の救われの道に入っている人が数少いように思われる世界
になってきてしまいました。
それはどこかそれらの修業方法に欠陥があったか、時代が一般大衆の悟りの時期に至っていなかっ
たか、どちらかであったのでしょう。
修業方法の欠陥としては、あまりにも日常生活と離れ過ぎていたことと、むずかし過ぎるというこ
とであります。浄土門の方法は易行道といわれるように、念仏一念でよいのですからやさしいのです
が、法然、親鸞級の聖者が存在した場合はよいのですが、指導者が覚者でない場合は、現在の私のよ
うに、人間は本来神仏そのものである、ということと、すべての業想念は消えてゆく姿、ということ
それに加えて世界平和の祈りというように、この世におけるすべての想念を、種々な角度から、その
人の心から放させ、祈りとすりかえてしまうように指導していなかったため、教えがやさしいだけに
かえって怠惰な、安易な救われの習慣がついて、労せずしてよい汁を吸う式になってしまったものの
ようです。
悪いことをしては、念仏して帳消にして貰えると思い、それを繰返えすといった工合であったので
す。,
また、時期としては、現在の時期が、確に人類全部が救われに入るに一番適しているようです。何
故なれば、科学兵器によって、世界全土が滅び去ってしまいわせぬか、という極端な不安が起っていii5
る時期だからであります。どのような人が考えようと、今度戦争が起れば、地球人類は滅びてしまう
であろう、と思えるのであり、その戦争の可能性は充分にあるように思えるのであって、何か超越的
な力にすがろうとする想いが、その超越的な力がどのような形であろうと、すがりつきたい想いが世
界の各国に湧き上がっているのであります。それが新興宗教を輩出させたのであり、心霊科学や、宇
宙物語に異状な関心をもたせはじめているのであります。
肉体の人間には、天変地異を防ぐことはおろか、人間同志の戦争をさえ防ぐことが出来難いもので
ある、ということを、今日程身に沁みて感じさせられる時期はありません。
世界は一人一人の力が綜合されて動いているものでありながら、表面の想いでは一人一人が嫌がっ
ている争いの方に、滅亡の方に、進んでゆこうとしているのであります。原水爆実験競争などは、そ
の一つの例です。それは人間のうちに潜んでいる自我欲望、業想念の自然的転回であって、そのまま
表面に現われれば、地球人類は滅び去ってしまうのです。その業想念とは過去世から今日に至る、日
常の自己主義の想い、愛にもとった想念の積み重なりであるのです。
そこで人間は、自分自身の力では、どうにも業想念の転回を防ぐことは出来ないと諦めてしまうこ
とが肝腎なのであります。一度諦めてしまえぽ、そこから他力信仰の世界が展けてくるのであり、そ
の諦めが出来た時には、虚無的になるか、信仰的になるかの二つの道よりなくなってくるのです。も
っとも真実の諦めとは明らめるということであって、真理を明らかにする、ということでありますか1

6
ら、宗教の世界にゆくより他にないことになるのです。
あなたが世界平和の祈りをしよう、と思い立ったことで、もうすでにあなたは救われているのであ
り、救世の光明につながっているのであります。それはあなたがすでに肉体人間としての自己の力に
あかし
諦めを抱いた証としての祈りの世界への突入だからであります。もうあなたの信仰が浅いとか薄いと
かは問題外になっているのです。祈りの世界とはそういうところなのであります。祈ろうとあなたが
想った時には、すでにあなたの本体(直霊)神の世界からの光明があなたに流れ入ってきているので、
あなたはその時から業想念の世界の人ではないのです。ですからあなたは、そうした否定の想い(業
想念)が出たら、ああこれは私の過去からの習慣の想い(業想念)が消え去ってゆくために、自分の
脳裡に浮び出たのだ、と思って、その想いを世界平和の祈りの方に切りかえてゆけばよいのです。
神はすべてのすべてであり、大愛であって、あなたは神の愛し子であることを、改めて思って下さ
い。
問41 姑さんと仲良く暮せる方法を教えて下さい。
えにし
・答嫁となり、姑となるのは、前生からの深い縁であって、偶然にそのつながりが出来たわけでは
ありません。大体において、嫁となっている女性は、過去世において、その姑となっている人に深い
恩を受けていることが多いのであります。実母が今生における最大の恩人であることは、誰れにもわiY7
かりますが、姑が過去の世での恩人であるとは、誰れしも思いはしないでしょう。ですから、今まで
なんの恩義もない赤の他人を、急に母のようにしろといわれても出来る筈がありませんとか、実母の
ように愛情を感じる筈がないではありませんか、などとお嫁さん側が云っているのです。
しかし、私たちのように過去世のことと今生との深いつながりを知っている者にとっては、過去世
と今生が、はっきりつながって見えるので、お嫁さんは、姑さんをそういう意味の恩人だと思って、
過去世の恩がえしのつもりで尽してあげなさい、と云いたいのです。そうしていかないと、それだけ
の過去世からの心の負債を、やがて、どこかで無理に払わされるような結果になって、未来で大きな
心の傷手を誰れかから負わされてしまうものです。
そういうことなしに、現在だけで考えても、二十何年か三十何年かを、手塩にかけて育ててきた息
子を、他の人に渡してしまうということは、その母にとって、どれだけの気落ちになるかわかりませ
ん。若い人が恋人を他の人に渡してしまった、とほとんど同じ感情なのであります。そうした姑の感
情を考えてやって、その感情を少しでも柔らげてやるような思いやりがあれぽ、きっと、姑さんとの
仲がうまくゆくと思います。姑さんと仲良く出来るようなお嫁さんは、人間としても必ず立派な人で
あり、神の祝福を受ける人であることを私は疑いません。
its
問42 先生はご指導に当って、お前が悪い、お前の心を直せ等とは絶対におっしゃらないのですが
何故悪いところを指摘して直させるように指導なさらないのですか。
答私の宗教観は、人間の本心は神の心である。人間はすべて神の子であり、神(大生命) の分生
命である。神は円満完全であり絶対なる大智慧者なのであるから、その大智慧者、完全者から分けら
れた生命体である人間が、悪い想念行為をするわけがない。もし真の人間の中に悪想念行為を認める
ならば、神の中にも不完全、不円満がある、と認めることになる、という理念が根本になっているの
であります。そうした理念を根本にして、そこに消えてゆく姿という真理と、守護霊、守護神の直接
的守護ということについて説きつづけているのであります。-
私が何故、相手の悪い想いをとらえて、改めさせるように指摘しないかというと、人間はすべて神
の分生命であるのだから、その事実をその人々に知らせてやれば、本来性に悪のあるわけがない神の
子である人間なのですから、いつの間にかその悪想念行為は消え去ってゆき、本来性である神の心、
円満完全性が、表面の想念行為に現われてくる、という原理によるのです。ですから、あなたの本心
は神の心なのだ、愛に満ちた心なのだ、自分も他人も、全く一つの生命として観じられる心なのだ、
ということだけを、その人々に信じさせることに、私の指導の重点がかかっているのであります。そ
して、どうしても自己の神性を信じられない人々のために、あなたの背後には、守護の神霊が常に守
っていて下さるのだから、自他の神性を否定したり、自他の悪想念行為を、人間にこびりついた心と
想い違えている想念を、何度びでも何度びでも、守護の神霊の加護にうちまかせ、その加護への感謝li9
の想いに切りかえてしまう練習を、日々やらせているのであり、そうしていさえすれば自ずから、自
己の内部の神性、他人の内部の神性が、いつの間にか、表面の想念行為に浮び出てきて、立派な人間
になってゆくのである。もう一歩進んで、世界平和の祈りをすれば、その祈りが、自己を含めた世界
人類の大調和のための大きな力になるのだ、というように説いているのであります。そうした祈りの
実行によっても、その過程にあっては、いくらでも、悪い想念行為の癖が出てきたり、不幸と見える
事態が持ち上がってきたりすることがあるのですが、それはみんな、自己の神性をはっきり認識して
いなかった、過去世からの業因縁の消えてゆく姿であって、あなたのマイナスになるものではない、
神性が徐々に、あなたの表面に現われてくる段階であって、真実のあなたが、真実のあなたの幸福が
やがてあなたにも、あなた方の住む世界全般にも現われてくるのである、と教えているのです。
ですから、他の宗教家のように、教えを乞いにくる人にむかって、いちいちお前の心が悪いから、
こうなるのだ、お前の心を直せ式に、お説教をする必要を認めないのです。
生長の家などで、人間神の子完全円満と説いていながら、お前の心が悪いから夫が不行跡なことを
する、お前の心の影として、子供が悪くなる。お前の病気はお前のこれこれの心の影だ、というよう
に、片方でその人の悪をみつけ出して、責め裁いたりする方法を私は絶対に取らないのであります。
人間神の子完全円満を説いたら、あくまでも、その道一本に教を貫くべきなので、完全円満な神の
子が、一方では悪の子になっていたりする教は、人間を惑わすと思うのです。
120
人間はあくまで神(大霊) の分霊であって、悪は無いのです。悪と現われている想念行為は、すぺ
て器であるべき肉体を、真実の人間と思い違えているところから起っているのでありますから、人間
を肉体の側から見れば、いずれも罪悪深重の凡夫であり、罪の子なのであります。ですから、そうし
た観点からみて指導するならば、いちいち、お前の心は間違いだ、お前の心は悪い、というようにい
うより仕方がなくなるのであります。ここのところをはっきりしていないと、折角の指導がかえって
相手の心を神から遠ざけたり、心を萎縮させたりして、神性本来の、明るい心、伸々とした心、愛の
心、柔和な心、勇気のある心、等々の大事な尊い心を、うちにひっこめてしまうものなのでありま
す。
そこで私は、人間を一度、肉体性としてみて、その眼から人類世界を見渡させ〃どうです。肉体の
人間の智慧でいったい人類世界が救えますかね。人類世界どころか、あなたの家族を、否、あなた自
身をも、救い切ることが出来ますかね。あなた自身が、安心立命した日々を送ることが出来ますか
ね。世界を見廻わしてごらんなさい。米ソの二大強国が益々角つき合わせて、科学兵器の優位を宣伝
しあって、お互いの勢力を、各国に誇示しようとして、札びらを切り合っているではありませんか。
その心は平和とはおよそ反対の闘争の心、権力争いの心ですよ。そうした二つの強大な権力闘争の中
にあって、それを抑え得る能力をもっている国家は、今の世界には一国もないのですよ。中立国が一
つになって、という考えもあるのですが、日本一国の立場で考えてみても、保守系は米国に、社会共12皇
産系はソ連にと、二つに分れて勢力を争っているのですから、多くの国が唱つになれっこありませ
ん。そう考えると、個人の安心立命などは、肉体人間としては全く得られようもありませんね。さあ
どうしたらよいのです? ガ
というように、肉体人間の力の限界、つまり、人間を肉体のみの存在者として考えている以上は、
どんな科学的研究をし、どんな思想が生れようとも、絶対に救われようがないのだ、ということを力
説して、その後で、だから、肉体頭脳で自己の心を責め裁いたり、他の行動を責め裁いたり、あれが
悪い、これがどうのと、悪いところだけをみつけたりする考えを、一度すっかり捨て切ってしまいなさ
い。肉体人間の能力だけでどのようにあがいたところで、結論的な救われに個人も人類も入れっこは
ないのだから、肉体人間以外と思われている能力に一ぺんすっかり任せ切ってしまいなさい。その権
能を、普通は神様と呼んでいるのですから、個人の運命も、人類の運命も、すべて神様に一任する練
習をしてみたらよいでしょう、と神様の方に想念をむけかえさせているのです。
人間が真実救われの道に入るのには、どうしても、霊的の力を肯定しなけれぽなりません。肉体的
の精神力などでは、とても世界人類の運命を変え得るどころか、自己自身の悪い癖さえも直すことは
容易なことではないのです。宗教の門に入るには、まず霊的な自己というものを問題にすべきなの
で、神仏とは、自己の霊的な本源であるのです。
霊的な本源につながろうとするのに、肉体人間としての想念行為を問題にしていてはいけないので
iz2
す。肉体人間は、今迄申しておりますように、真実の幸福、真実の平和、真実の安心立命の生活と全
く別の業因縁の世界、つまり自我欲望の世界、他のことより、自己の幸福、自己の有利を先きにして
ゆくような想いに満ちている世界なのですから、その業因縁の波である善悪をいちいち問題にして、
〃おまえが悪い〃〃おまえの心の影だ」などと指摘して責めても、決して真実の幸福の世界、神仏の
世界に、その人たちを昇華させることは出来ないのであります。
私たち宗教者は、ひたすら、神仏の世界だけを、自分をたよってくる人々に知らせてやって、その
人たちの中に神仏を、ひっばり出してやる援助をしてやればよいのです。それには、その人たちの悪
を指摘するような指導は、かえって悪の存在をその人に再認識させるようなものです。
ある老僧が刑務所に講話にいった時、前に並んだ囚人たちを見て、〃ああ仏様たちがお可哀相に、
こんなお姿でここにいなさる。ああお気の毒な仏様方〃と云って、はらはらと落涙されつづけたそう
です。すると囚人たちはその老僧の真実籠った涙に、声を揃えて泣き出し、すっかり心を浄められた
ということでした。
この話などは、一言の説教も、一言の訓戒もせず、ただ、囚人の中のみ仏の姿をみつづけた老僧の
心が、囚人に大きな感銘を与えたので、老僧の心が、囚人の中から仏性を呼び醒せしめたのでありま
す。
人間はすぺて神の子、仏の子であります。悪とは神仏を離れたマイナスであって、その人の本心の
123
中にあるのではありません。悪や不幸はすべて消えてゆくより仕方のないものなのです。
124
問43 子供を育てるにはどのような心構えが必要でしょうか。
答一口に申せぽ、子供は神様からのあずかりものである、と思うことを根本にして、子供の中に
は、神様の生命と、神様から分けられた智慧や能力が、ひそんでいるので、親となった者は、そのひ
そんでいる智慧や能力を、子供の表面に発現させて、その生命力を生々と輝やかせてやらねばならぬ
役目をもっているものなのだ、と思うことであります。
自分が生んだのであり、自分たちが育てたのであるから、自分の権限内のものである、という思い
方では、後に必ずといっていい程、その子供たちのことで悩まされるようです。そうした考えですと、
どうしても、自分の利害関係や自分の気分で子供を縛ってしまうから、子供とのあつれきが生じるの
です。
子供を自分の心で抑えつけて置くようでは、子供の生命力や、内部から湧きあがってくる生長力を
さまたげるようなもので、その子の天分を完うさせることは出来ません。
子供を立派に育てる最大の秘訣は、まず親である自分が、正しく美しい行為を、日常生活に行ずる
ことです。一度に行じられなくとも、常に正しく美しい心になろうと研究練磨する心掛けを持ちつづ
けることです。
その一番やさしい方法は、万物への感謝、特に守護の神霊への感謝、生命への感謝であります。眼
にふれ、手にふれ耳に聞える、すべてに対しての感謝の想いと神に対する感謝の想いこそ、あなたの
心を正しくし、美しくする最大の効果をもつものでありましょう。
子供の教育には理屈はいりません。ただ愛と感謝の想いが、子供たちに通じるようにすればよいの
です。愛と感謝に充ちていれぽ、その人は自ずから柔和であり、美しくあるのです。
その心が根本にあれぽ、あとは時々の勉強によって、子供をよりよく導き育てることは、非常に容
易になるでありましょう。
子供はまさしく、親の想念行為の鏡であります。それはその親子の前生からの想念行為をも加えて
のものであるのですから、今あなたのお子さんが間違った道を歩いているようでしたら、そのお子さ
んとあなたとの過去世の業因縁が、今消え去ってゆくところなのだ、と、ひたすら守護の神霊に、感
謝の祈りをささげるとよいのであります。
問4 よく「私は見神した」ということをききますが、見神(見真) するということはどういうこ
とをいうのでしょうか。
答見神ということは、読んで字のごとく、神を見た、ということであり、真実の自分、つまり自
分の本心(本体) 私のいう直霊と一体になったということでありますが、普通見神したといっている125
人々の中には、坐輝中や、行中に単なる光明をみた、あるいは脳裡に光波がひらめいたくらいで、見
神したといっている人がかなりあるようです。
真実の見神とは、神我一体になった境地をいうのですから、見神大悟したということであって、本
心(神) と業想念との見分けをはっきりつけ得る境地になり、常に本心の中に住していて、業想念の
波動は消え去ってゆく姿であると見て、いかなる業想念(喜怒哀楽や妬心) の波動にも把われなくな
るわけであります。
この境地の最大なる尊者が、釈迦牟尼仏であるのです。
ですから、私は見神した者であると云いながら、弟子が自分から離れて他の宗教者のところに行っ
たりすると、それに把われて、腹を立てたり、いかなる不幸のような状態も神の現わし給うものであ
るから、喜んでその状態を受けるべきだ、と説きながら、自分の子供が病気して生死の境をさ迷って
いる姿をみて、麻の如く心を乱してしまい、その後で「私は凡愚だ」と今更のようにいって「悲しい
時には嘆くだけ嘆き、迷う時には迷うだけ迷い、あたりかまず嘆き悲しむのが、真実の人間の姿であ
って、悟ろうと思ったり、見神しようと思ったり、修養、修業して救われようとしたりするのは迷い
である」などと云っている宗教老は、本心も業想念も、神と業の区別もまるでわかっていない人で、
どんな見神をしたのか、全く判断に苦しむ程の見神ぶりというべきでありましょう。
私の云いたいことは、見神するとかしないとかより先に、神は愛であるから、最後には人類のすべ
126
てを救い取って下さるのだ、ということを堅く信ずるようにすることが第一であるということなので
す。神が何故愛なのか、というと人間生命の生みの親であるからです。業想念世界に生活している人
間の親でさえ、子供を愛する想いは非常に強いものであるのですから、業想念なき、光明一元の神の
み心が、人間の迷いを浄め、人間が安心立命して、大調和して生活出来るようにとの願いを持たぬわ
けがありません。
そこで、神は守護神という、人類救済の働きに分かれて、人類の本心を開発させようと、常に我等
の身近に働いておられるのです。
だから、肉体人間は、そうした守護の神霊に感謝しつづけていさえすれば、いつの間にか、見神と
同じような状態になって、自己の本心が自然と開発されてゆくのである、ということを、私は私の体
験を通して説きつづけているのです。
,問
45 浄霊と除霊の相違についてお教え下さい。
答浄霊と除霊とは全く違った方法なのですが、普通の人にはわかりようがありません。しかし知
識としてでも知って頂いてもよいと思って、この質問にお答え致します。
浄霊というのは、霊、つまり霊魂の曇り、妄念を浄めることをいうのですが、この浄霊を致します
と、悪依されている人の魂が浄まると共に、悪依している霊魂の妄念も浄められて、再び他の人々に127
悪影響を及ぼすようなことがなくなるのです。私が日々やっておりますのは、この浄霊の方でありま
す。
除霊というのは、その人への障碍になっている妄念を払って、その人から除くことであって、悪依
した霊魂を浄めてやるわけではありません。この除霊ですと、悪依された一人の人は、その障碍を除
かれますが、悪依した霊魂の妄念はその人から除かれただけで、浄められたわけではないので、また
他の因縁のある人に葱依して、その人の障碍となるのです。
(注愚依されて障碍となると、それがその人の病気や不幸となって現われるのです。自殺や、事故死の場合
は、この愚依作用のさわりによることが多いのです)
普通の行者層は、大体、この除霊をやって、頼みにきたその人だけを救ってやることが多いので
す。何故かといいますと、浄霊の場合は、葱依している霊魂の妄念と、障碍されている人の魂の両方
を浄めて、一段高い境界にその霊魂を昇華させるのですから、つまり自由の心にさせるのですから、
除霊の場合より非常に高い浄めの力が必要だし、時間も相当にかかるのであります。よほどに高級な
神霊が背後で働いている宗教者でない限りは短時間では浄霊が出来ないので、除霊して、依頼者に満
足を与えるわけであります。ですからそう高い背後霊はついていないのに、非常に速やかに病気を直
す行者や宗教者がいるのです。これは皆除霊をする人々です。除霊するだけでも、その依頼者には、
それでよいのですが、人類救済という意味では、そう役立たないわけです。人類を救うためには、眼
i2$
に見えない世界の妄念、つまり幽界の汚れを浄め去らない限りは駄目であるからです。
それは医者が、注射や服薬によって、一時病人を直したとても、それは一時、その人の症状を抑え
得たというだけで、その人の業因縁、つまりその人の過去世から積んできた誤った想念行為を浄めた
わけではないのですから、またなんらかの機会に、他の病気や、他の不幸になって、その人の上に現
われてくるのです。
病気も様々の不幸も、すべて過去世から積んできた業想念の現われて消えてゆく姿なのですから、
その消えようとするものを、ただ抑えて現わさぬようにしても、その業想念が減ったわけではないの
ですから、その人が真実の救われの道に入ったわけではないのです。とは云っても、除霊によって、
あるいは医薬によって、一時でもその人の苦痛を救う、ということにも意義がないわけではありませ
ん。病気をしているその人が、その苦痛によって、この人生やこの人生を生みなしたものへの反擾を
抱いたり、その周囲の者の心を暗くしたり、痛めたりする時間が永くつづくことは、やはり新しい業
想念をこの世に積んでゆくことになるから、一時にしても、そうした業想念を積ませぬように、人間
の苦痛を取り去ってやるということにも、それ相応の意義があるのです。
こう考えてまいりますと、短い期間で人間の苦痛を取り、しかもその魂まで浄めることが出来れ
ぽ、それが最高の治療であり、最大の愛の行為ということが出来ます。
そうした浄めのために、私たちは日夜祈りつづけているのであります。その最もやさしく最も効果129
ある祈りが、私の唱えている「世界平和の祈り」であるのです。世界平和の祈りこそ、自己が救われ
ると同時に、自己の周囲、国家人類をも救う、偉大なる祈りというべきなのであります。何故偉大か
というと、この祈りは、肉体の私の提唱したものではなく、神界の救世の大光明から、私に提唱させ
ている祈りだからであります。現代は、もはや、観念論的宗教理論などでは、もうどうにもならぬ時
代になってきているのですから、気づいた人たちから、いち早く、人類世界の業想念の大きな浄めで
ある、世界平和の祈りを各処に宣伝して、大いに拡めて頂きたいと切望するのです。
130
問46 信仰と医薬との関係を先生はどうお考えですか。
答信仰と医薬とが、特別に関係があるとは、私は考えてはおりませんが、信仰生活をしている
と、自然と精神が平安になって、病気などもいつの間にか直ってしまうので、信仰と病気、そして、
病気とは切っても切れぬようになっている医薬とが、つい反応的に対照的に考えられるようになった
のだと思います。
宗教信仰は、純粋に精神の問題であり、霊的な問題なのですが、この世では、精神と肉体とは別に
離して考えることは出来ないので、宗教信仰が、肉体の状態にも影響を与えることになってくるので
す。そこで信仰によって精神がしっかりしてくると、医薬にたよらずに病気が直ったりするので、新
興宗教の多くの人々が、信仰だけしていれば医薬はいらない、医薬などは、かえって体に害がある、
という極端なる言語を吐くようになって、科学と宗教とが対立しているような感じを人に抱かせたり
するのです。
私の宗教は病気直しを看板にするような教ではありませんが、私の教を実行しているうちにいつの
まにか難病の直っていった人々も沢山あります。しかし私は、医者にかかってはいけぬとか、薬を服
んではいけないとか、いうことは一言も申しません。そうしたことは宗教家である私の範疇ではない
ことで、,医薬者と患者との問題であるのです。
ただ私が、病気治療専門のような宗教者と、医学者の一部の人に云いたいことは、崇教者は医薬の
すべてを毒物視して、医薬と宗教治療を同時に受けたいような人々に、「薬を服めば薬毒が体に入っ
て私の治療がきかなくなる、医者にかかるなら私たちは治療をしない」とか云って、信者を混迷させ
たりしてはいけない、ということです。その宗教者や、それに心から同調tて、その宗教治療で病気
は必ず直る、と信じている人々には、それでもよいでしょうが、自分からそこまで信じきれぬ人々
に、前記のようなことを云うのは、一種の恐迫になるからです。
アフリヵの奥地にいって、多くの未開人の病気治療に当っているシユバイッアー博士のような愛深
い人の行為によって、放っておけぽ死んでしまう筈の病人が沢山癒されている事実があるのですか
ら、自分が一つのことを信じているからといって、他のすべてをけなし去るような態度はいましむべ
きだと思います。・13f
また一方の医学者の一部には「病気を直すような宗教は迷信だ」と、宗教信仰によって病気の直っ
た事実を探究もせずに、迷信扱いしたり、人間の内部の自然治癒力という、神からきている偉大なる
力を、少しも顧みずに、ただ注射や、薬にぼかり依存している人々がありますが、その人々には、人
間は動物とは違って、精神の力が肉体に大きな影響力をもっているものであるので、まずその精神力
を発動させるような治療をした上で、適当な医薬を用いるべきであり、ただ簡単に注射をうってごま
かしているような態度は非良心的である、と云いたいのです。
もう一言進めていえば、医学者はすべて、霊的人間の研究をなすべきで、いたずらに肉体の症状を
消し去るような医薬にばかり依存していては、到底今後起るであろう様々な病状に対処することが出
来なくなってくるであろうということです。
医学者(科学者)と宗教者がお互いに人類救済のために援け合ってゆく時こそ、この世に病気や不
幸がなくなってゆくのではないかと私は思っているのです。
132



問47 世界平和なら、誰でも想っているし祈ってもいる、という人がいますが、先生が提唱される
世界平和の祈りとは、どう違うのでしょうか。
答世界の平和は、この人類の平常心の人ならぽ、誰れしも少しは想っているでしょうが、それが
真の祈りにまで高まっている人は、実に少い数しかいないのです。
世界が平和だと良い、戦争がないと良い、天変地異がないように、自分たちが幸福であるように、
とは、正気の人である限りは想っているに違いありません。そして中には、世界が平和でありますよ
うに、戦争がありませんように、と時折りは神に祈っている人もあるでしょう。
しかし、そうした想いや、そうした祈りと、私の提唱している世界平和の祈りとは、根抵的にまる
で違っているのであります。私の提唱している世界平和の祈りとは、そのような力弱い希望的想い
や、懇願的祈りではないのです。
私の世界平和の祈りは、この地上人類の今日の苦難あるを知っておられた、大神様の分れであり、
守護の神霊の集いである救世の大光明(大救世主) に、私共人類の業想念(迷いの想念) を、すべて
投入してしまって、救世主の大光明と、地上人類の分霊的光明とを一つにつなげる祈りなのでありま
す。
ただいたずらに、願望的に世界平和を想ったりするぐらいで、この業想念に満ちている地上世界が135
平和になるわけがありません。また、真剣に真摯に世界平和の祈りをする人々があったとしても、そ
の祈りが、この地上世界の悪想念、悪行為を認めながらの祈りであっては、到底この世界が平和にな
りっこはないのであります。
私の提唱する世界平和の祈りは、業想念世界に生活し、業想念の行為で生活する人間がする祈りで
はないのです。業想念とは、この世には善もあり悪もあり、真もあり迷いもある、という普通一般の
人々の考え方でありますが、私の祈りは、そうした考えを基にして神に祈るというような祈り方では
ありません。
私の祈りは、神様の世界には、不和や闘争などはないのだ、すでに平和そのものなのだ、そして、
人間はそうした神界に自分の生命の根源を置いているもので、神の分霊なのだ、だから、人間各自が、
自己が神の分霊であることを悟りさえすれぽ、自然に神の世界がこの地上界にも展けてくるのだ、と
いうことを根抵にして、世界平和の祈りをするのであります。ところが、言葉でこう云われただけで
は、心からぴんとくる人はあまりいないと思われます。そこで、法然や親鸞の教えた念仏行のよう
に、世界平和の祈りは、私と神界霊界を貫ぬく、守護の神霊との約束事であって、この祈りを祈りさ
えすればよいのだ、どのような悪業想念所業の人であっても、世界が平和で… …と唱えさえすれぽ、
その人の周囲には、守護の神霊の大光明が輝きわたるのだ、それは唱える人の業想念でやるのではな
く、人間内部の神の分霊と守護の神霊とのつながりによってなされるのであるから、ただ、世界平和を
136
祈ろうと想いさえすれば、その想念がスイッチとなって、内部の分霊の光と守護の神霊の大光明とが
一つにつながって、自己も光り、自己の周囲も光明に輝やいてゆくのだ、いかなる雑念が起ろうと、
否定の想念が起ろうと、守護の神霊につながるスイッチをひねりさえすれぽ、つまり、世界が平和で
ありますように… … と祈りはじめさえすれば、あなた自身の分霊の光が、守護の神霊の光明とつな
がり、あなたの業想念を破って外部にその光を放射しはじめるのだ、自分の運命を悲観したり、自己
の善い性質を否定したり、自己の能力を否定したりする想念があっても、それはそのままで、なんら
世界平和の祈りに悪影響を與えるものではないのだから、ただ一図に祈る心になっていさえすればよ
い、と説いているのであります。
根本原理を要約していえぽ、本来は平和であり、調和であるこの世界を、今日のような、闘争に満
ちた世界、悪想念に満ちた世界にしてしまったのは地上人類が、神のみ心を離れてしまったからであ
るので、神を否定する想念、つまり悪や不調和を認める想念をも諸共に、神様の世界に投入させるた
めの祈りなのであります。業想念を神様の世界に投入すれぽ、神様の世界は大光明の世界であり、調
和した世界なのでありますから、地上人間の業想念は、太陽にとける雪のように、解け去ってしまう
のであります。
神様の世界をこの地上に現わす邪魔をしているのは、自己をはじめ人類の業想念、神性否定の想い
であるのですから、この業想念を神様の世界に投げ入れて、この業想念に把われなくなってしまえ137
ば、把われなくなった人や場所だけ地上天国が出来るのです。それが人類全般にひろがれぽ、地上人
類に大平和が出来るのです。こうした根本原理を、聞いた、あるいは読んだすぐ後で、先生はそんな
ことを云うけれど、そんなことで世界平和が実現出来るものではない、とまた否定してくる人もある
でしょうが、その否定が出たら、すぐその否定の想念を、世界平和の祈りに切りかえてしまうので
す。そうすることを度重ねることによって、いつの間にか、その人の心は、世界平和の祈りを全肯定
する立場で祈ることが出来、自己の安心立命をかち得るのです。
自己を否定したり、人類の完成を否定したりする想念は、神の力を度外視した、人間は肉体なりと
いう立場からはうなずける考えであって、私も肉体的立場としては、全否定の立場をとっているので
あります。しかし、肉体人間の力を全否定した瞬間に、神の力、神の完全性を全肯定する立場に心を
切りかえしてしまっているのです。
肉体人間の力では、この世はどうにもならぬ、という否定があってはじめて、神の力に全託する世
界平和の祈りが生れたのであります。この点をよくよく了解して頂きたいと思うのです。
自己の力、肉体人類の力に幾分でも依存しながらの祈りではとても世界は平和にならないのです。
何故なれば、この地上界を救おうとして働いておられる守護の神霊団体、いわゆる救世の大光明が、
そうした人間や、そうした人類世界では、その力を全面的に働かせるわけにはゆかぬからです。
人間に働いている力が、すべて神の力である、という考えが根抵にあれば、神をはなれた自己の力
138
などというものがあるということの誤りに気づかぬ筈がないからであります。このような真理に気づ
いた人が多ければ多いほど守護の神霊の救援の力は強まってくるのです。
そのような、神一筋の人々を一人でも多くつくるための祈りが、私の提唱する世界平和の祈りなの
であります。
私の教義をしっかり心にしみこませて、世界平和の祈りをなさると、世界平和の祈りの力がいやま
すことになりましょう。
真実の世界平和は、神の分霊的人間と、守護の神霊の協力によってのみ出来あがるのであること
を、私は、はっきり知っていて世界平和の祈りを提唱しているのです。神様は地上界に必ず神の国が
顕現すると確信されておられるのです。
問48 世界人類の平和を祈るならば、まず自分が救われていなければならないと思います。自分が
迷っていたり、病気をしていたりする不調和の状態で祈っては効果はないのではないでしょうか。
答そこのところに、人間の根本的な考えの誤りがあるのです。祈りとは、業想念の自分、つまり
迷ったり不調和だったり、病気したりしている自分がするのではないのであります。
祈りとは、人間内部の神性が、宇宙の中心者とつながって、光の交流をするためになされるもので
あります。人間はすべて神の子であり、神の分霊であるのですが、いつからか神と業との混溝者にな139
ってしまっていたので、人間世界が善悪混清のような状態になってしまったのです。
40
この姿のままでゆけば、やがては、悪業の波の中に地上人間は滅び去ってしまいかねないのでありー
ます。その現れとして、いつの世も、悪と見える姿の方が、力をもち、栄えている率が多いのです。
このままでゆくと、地球人類は滅びさらないまでも、永劫に真実の平和な世界になれそうにもありま
せん。
そこに祈りの活用があるのです。祈りとは神に感謝し、自己のすべてを一任することなのでありま
す。神への感謝全託こそ祈りの根本義なのであります。
ところが自己が不調和や不満の心をもっていて、神への感謝が出来るものではない、ということに
なってくるのでしょうが、不調和や不満や貧苦病苦があるからこそ、余計に世界平和の祈りが必要に
なってくるのであります。
その人から、不調和や不満や諸々の苦労が去らなければ、その人が平和にならぬと同時に世界も平
和にならないのです。その人にとっては、自己が平和な心境になることが、世界平和実現に協力した
ことになるのであります。
そこで不調和や不満の想念はそのままでよいから、世界平和の祈りをしてゆくのです。暗い部屋に
いたら、暗い暗いと不平を云っていないで、すぐに灯をつけれぽよい。その灯が祈りなのです。そう
しますと、世界平和の祈りがもっている大光明の波動が、その人の祈りの言葉のひびきにのって、そ
の人の霊体幽体、肉体と流れ入ってきて、その人も気づかぬうちに、その不調和の状態、不満の想念
(闇) が消え去ってゆくのであります◎ これは理屈ではありませんから、実行してみるとこの効果が
よくわかってきます。世界平和の祈りは、自己を光明化すると同時に世界光明化に役立つ祈りなので
あって、往相と還相とを同時に現わすことになるのです。
自己が平和になり、自分の一家が調和しなければ、とても世界が平和になりっこはないのでありま
すが、これを逆に云えば、世界を平和にするのには、まず自分や自分一家が平和になることだという
ことになり、これをもう一歩進めて考えれば、世界が平和になるということと自分一家が平和になる
ということは、一つのことである、ということになってくるのです。
もっと云いかえますと、世界が真実に平和にならなければ、自分や自分一家の平和は成り立たぬ、
ということにもなってくるのであります。
そこで、私の提唱している世界平和の祈りのような、自己の平和と、世界平和とが、同じ祈り方に
よって、成就される祈りが必要になってくるのであります。
自己の利益だけを祈るような祈りは、とてもその人の真の平和を成就することは出来ないのであり
ます。そのことをよく考えて下さい。

間狙個人個人の守護霊さん、守護神さんが誰であるか、その名を知リたいという人がいますが、
知つていた方がよいのでしょうか。
答守護霊や守護神の名を知りたいという人はかなりいるのですが、私は自然にその名がわかるま
ではあえて知る必要はない、と思っております。ただ、守護霊や守護神が、自己の背後に事実はっき
り存在していて、自己を常に護っていて下さるのだ、ということを、直感的にわかるように、守護の
神霊への感謝行をつづけてゆくことが大事であると思うのです。守護霊や守護神の名をいちいち教え
てくれる会もあるようですが、その名を教わったために、かえっていろいろと把われが出来て、悟り
へのさまたげになっている場合を、私は何度びか見て知っております。
大体において、その守護霊や守護神の名前が今迄一度も聞いたことのないような名前で、聞いて、
かえってがっかりしていた人などもあるのです。
この世での氏名と、あの世での氏名とは、全く異なっているもので、守護霊が昔肉体人間として、
この世に存在していた時の氏名は、死後にそのまま幽界や霊界で保っているものではないのです。こ
の世の氏名はこの世だけのものであり、あの人は、これこれこのような人であった、というのもこの
世のだけのことであって、あの世に往ってからの霊的修業によって、はじめて守護霊になり得るよう
な能力が備わってくるのです。
ですから、この世で、何んの何某といわれた人の人格と、霊界におけるその人の魂の格とでは、大
きな差異が出来ており、まるで、別人のような工合になっているのです。
142
例えていえば、田舎で村長の下男をしていて、周囲のすべての人々に気兼遠慮をしてくらしていた
人が、都会に出て懸命に勉学し大臣にまでなったとします。そうしますと、昔の下男はそこになく、
大臣という資格の人があるばかりです。その大臣にむかって、その大臣の昔のことを知った人が、下
男さん、下男さん、と呼んだら、その大臣が、よい気持で返事が出来る筈がありません。
というのと同じように、守護霊という資格は、肉体人間としてくらしていた頃の、その人とは全く
高さが異なるのですから、昔の氏名を、あまり知らせたくもないし、知らせる必要もない、と思って
いるのです。
昔の氏名の中には、その頃の想念行為が印されてあるので、その頃の悪い想い出を常にくりかえし
想い出させられては、守護霊としては、あまり善い気持ではありません。
ですから、肉体人間でいた頃の人格が特に秀れていた少数の人以外は、あまり肉体人間時代の自己
の氏名など探さくして貰いたくないのが、守護霊の気持のようです。どうしても知らせたい時には、
守護霊さんの方から、自己の氏名を自然の方法で、何となくその人に知らせます。私等も守護霊の要
望によっては、その被守護体の人間に、在世当時の氏名を知らせることもありますが、滅多にはあり
ません。ただ私がよく知らせてやることは、あなたの守護霊は、どの時代の人で、どのような仕事を
していた人であり、どのような心の人であった、等のことを簡単に知らせてやるぐらいのことです。
また守護神の氏名のことも実に問題であります。守護神には、宇宙神直接の分れである、肉体世界143
には生れ出たことのない神そのものもあり、通常自然霊と呼ぼれる竜神のようなものもあり、肉体人
間世界に生れ出たことのある霊魂が高く進化して、神の位について、守護神となっているものもある
ので、ただ、宇宙神という大きな呼び名から、もっと自己の身近なものに感じられる守護神という人
格的な呼び名にして、守護霊の上位に置いて、守護霊様、守護神様というように呼んでいる方が、い
ちいちその名をせんさくして、その名に把われるより心の自由があると思うのです。
また守護霊には正守護霊または主護霊の他に、副守護霊が何人かいるのですが、その副守護霊は、
時折り変りますので、これも固定した氏名で呼ぽぬ方がよいと思います。
こう考えてまいりますと、守護の神霊の方から、私は誰々である、と何かの方法で自然に知らせら
れる迄は、守護の神霊の名前のせんさくなどはせずに、守護霊様、守護神様という呼び名で、感謝行
をしていればよいのではないか、と私は思っているのであります。
要するに、自己の内部の本心(仏性)を開発せしめて貰う援助者として、私共の身近に働いていて
下さる守護の神霊は、厳然として存在しているのだ、常に守りつづけていて下さるのだ、と身にしみ
て感じるようになることが大事なのであります。守護の神霊は、人格的であって光そのものでもある
のですから、そんなつもりで、守護の神霊を考えていて貰いたいものです。
144
問50 前生がどんな人であつたというせんさくは必要でしょうか。
答特別の人以外には必要がないと思いますし、宗教の道とも直接関係はありませんコしかし、あ
の世というものがあるのだ、人間というものは、死んでも死なないものであり、何度びも生れかわる
ものであり、その生れかわりによって、種々の経験を得て、自己の神性を顕現してゆくものである、
ということを悟らされるためには、時折り特殊な人々の前生物語りなどを、世に紹介して貰ったら人
間の唯物論的考え方を変化させるのに意義あることと思います。
ですから、自己の前生を知ることそのものより、人間は生れかわり、死にかわりしセ、次第に自己
の本心(神性) を開発してゆくものだ、ということを、人間全体が知るために、前生のあることを、
世の中に知らせることが、宗教的な道にしっかりつながる、よい方法であろうと私は思うのです。
誰れも彼れもが、前生を知ったりしたら、かえって、この世の生活が複雑になって、純一な気持
で、この世の修業が出来なくなるのではないかと思われます。
これも、守護霊の場合と同じように、自然に知らされた時は、必要あって前生が知らされたのであ
るので、他の場合には、いたずらにたんさくする必要はないと思います。
問51 統一がよく出来た、出来なかったなどということをよくききますが、統一するということは
どういうことなのですか、また、どうすれば統一がよく出来るのでしょうか。
答宗教的にいう統一ということは、自己の想念が、本心と一つになることをいうのですから、統145
一がよく出来たとか出来なかったとかいうのは、その人の想念が本心とどれだけ一つになっていた
か、いなかったかということであるわけです。
本心とは、真の心、つまり人間内部にある神の心ということでありますから、人間の想念が神の心
さんまい
と一つにな(.た時が全き統一というのであり、仏教でいう三昧とか、もっと深い意味をこめていえぽ、
あのくたらさんみやくさんぽだい
阿褥多羅三貌三菩提の境地というのであります。
常住こうした境地になっていられれば、その人は真実の人間(神人) であって、肉体をもったまま
肉体を超越し得る人となるわけで、釈尊のような人になれるわけです。
宗教の道に入らんとする人は、いずれも、こうした境地をめざして、静座をし、坐藤をし、自己の
想念を神仏と一体化せしめようと修業をしたわけであります。ところが普通の街中の家や、家族と共
なる家では、他の人々の雑念が入ってきて、なかなか統一出来ないので、深い山中で坐輝したり、滝
にあたって、肉体感覚を麻痺させ、肉体観念を失わせて、想念を統一させようとしたりしたのであり
ます。ヨガなどでは、息の調節によって統一に入らせるようにしています。
このように昔から真の統一をめざして、幾多の宗教者、求道者が、様々な方法で統一行に励んだの
でありますが、なかなか釈尊のような阿褥多羅三貌三菩提の境地に入り、正覚を得るまでに至らなか
ったようであります。
仏教ではこの統一の心の状態を、段階づけて説いておりますが、真実正覚を得る統一、神我一体の
146
統一に至るのは大変なことであったのです。
ところで、宗教では何故統一ということを重大視したのでありましょう。それは統一によって、業
げだつ
想念、つまりすべての欲望の想いを消し去ろうとした、云いかえれば、業想念の世界から解脱せしめ
ようとしたのであります。業想念の波動の中で右往左往している限りは、人間は真実の姿を現わすこ
りんねてんしよう
とは出来ないし、永遠の生命を把握することも出来ない、いたずらに苦界を輪廻転生して、生れかわ
り死にかわりしてゆくだけだ、と古来からの聖者たちは知っていたわけで、いずれの聖者たちも、統
一行をすすめていたわけです。
ここで問題になるのは、現今のように、自分や家族の食生活のための働きに大半の時間を費やして
いる人たちが、昔の人々のように、常に山中に入ったり、滝行をしたり出来得るかというと、なかな
か普通の生活人には出来そうもないのであります。たまたまは行けるでありましょうが、それは昔の
人々にくらべれば、ほんのたまたまであって、修業とかなんとか名づけられる程のものではありませ
ん。
そこで現代の求道者の常住出来得る統一行というのは、自己の家、あるいは近くの静処での早朝と
夜半との統一時間が一番効果的であるということになります。
では統一とは一体どのようにして入ってゆくものか、という実際問題になってきます。仏教的には、
何も想わない、つまり無念無想で空という境地になるようにするおけですが、何も想わない、無念無147
想ということが、実にむずかしいことであって、何も想うまい、無念だ無想だ、と想えば想う程、種
々浮び上ってくる雑念に想いが把われてしまって、つい雑念相になってしまい、雑念を払うための雑
念が出て来て、なかなか統一の初段階にも入ってゆきにくい人が沢山あるのです。この無念無想がむ
まと
ずかしいので、今度は逆に神とか光明とかいうように、一つの的を定めて、その的にむかって統一す
る行をやる人もあります。また題目や念仏の称名で統一に入ってゆく人もあります。あるいは一つの
幻影を画いてそれにむかって統一してゆく人もあります。しかし、この統一ということは、さきにも
申しましたように、直ぐに神と一体になれるというのではなく、本心に統一する、神と一体となるま
でには幾段階もあるのでありまして、統一しようとする人の、日頃の想念や行ないが、神仏(愛と真
と善と美) の行ないに遠いのに、その日頃の想念そのままの、汚れた欲望的想念で統一に入ったとし
ますと、その方法が神を呼ぽうと、光明を想おうと、題目や念仏をしようと、日頃の業想念世界をな
かなか離れることは出来ず、業想念世界(ちみもうりょうの世界あるいは幽界) の波動の中を想念が
経巡ぐっていて、その人の業想念と同じような幽界の業想念の働きに交流し、肉体脳髄の神経が麻痺
し、肉体界を想念が離れたような、神との統一が出来たような感じになって、種々な目に見えぬ世界
の事柄が見えてきたり、わかってきたりすることがあるのです。それを魔境といって、釈尊なども弟
子たちに常々注意していたことなのです。
私もそれを恐れるので、いたずらに題目を唱えつづけたり、統一したりすることをすすめはしない148
のです。私は統一をするとかしないとかいう以前に、統一はなんのためにするのかということを、そ
の人々に考えて貰うことにしています。
統一は、業想念(自我欲望) を超えるためにするのであり、業想念を超えれば、自ずから神と一体
となり、本心が開顕出来、真実の神通力といわれる能力も発現してくるのであって、業想念をなんら
否定しないで、自己の念力で統一しようということは、非常に危険であります。
そこに私が日頃説いている「消えてゆく姿」の教が生きてくるのであります。一度は必ず、自己の
肉体想念を消えてゆく姿として否定し、否定したところから統一に入らなければ、その統一は、いつ
までやっても業想念世界の統一になってしまって、神のみ心、本心開発には役立たぬことになってし
まいます。
ですから私は、守護霊、守護神という、自己の肉体近くにおいて、常に護っていて下さる、神霊へ
の感謝行をつづけることを根抵にして、統一をしなければならぬ、と説いているのであります。
どうしてそのようにするかと申しますと、守護霊は祖先霊であり、肉体人間の魂の親ともいうべき
存在で、常に身近にいるのでありますので、子孫の業想念を常に身にうけて浄めつづけているので
すP そしてその子孫が、自己の方に想いを近づけてくればくる程その生活が護りやすいのでありま
す。そこで、守護霊への感謝を肉体側がつづけていますと、常にその肉体人間は守護霊と一つになっ
ているということになり、統一行をしても、守護霊及びその上位の守護神の光明が入ってきて、その149
人の業想念を消し去ってくれますし、魔境のような危い世界で、よい気持になるようなことはさせな
いで、真直ぐに神界(本心の世界) につなげてくれるのであります。
ですから、定まった時間、静坐して統一する時でも、必ず守護霊、守護神への感謝をもって統一し
なければいけない、というのです。この私の教によれば、何も一定時間静座して統一しなくとも、常
住坐臥の守護の神霊の感謝行と世界平和の祈りをつづけていさえすれば、常に統一行しているのと同
じ効果を得られるわけなのであります。そして雑念、妄念はすべて消えてゆく姿と想って、その雑念
妄念をあえて自力で消そうとしないようにすることです。そうしますと、いつかは神我一体の境地に
なれてきて、自由自在心になれるのです。
統一とは、要するに、すべての想念を本心(神) の座と一つにすることであって、愛と真と美との
正しい行為が日常生活の中において自然と出来るようになるためでなけれぽ、その意味が失われてし
まうことを申し添えて置きます。
150
問52 念力と祈リとの違いを教えて下さい。
答念力と祈りの違いについては、「白光への道」にくわしく書いて置いたのですが、
て、簡単に説明して置きましょう。
念力と真実の祈りとの区別のわからない宗教者はかなり多いのであります。念力とは、
ここで改め
おもい、す
なわち想念や思念の力であって、神とは直接関係のない力なのであり、祈りとは生命(神)を宣り出
す方法、つまり、自己の生命の働きを、神の生命として宣言し、真直ぐに発顕することなのでありま
す。
ですから、念力は、神を考えなくとも、自己が自己の欲する事物に、一念を集中すれば、その一念
の強さに従って、その事物に対する、自己の目的を達成し得るわけであります。想う通りになる世界
などという教はこれです。これは善悪にかかわらず、自我欲望でありまして、この念力のみに頼りま
すと、知らず知らずのうちに、自我の強い人になりがちなのであります。神を信じ、おかげを頂いて
いるという人々の中に、意外な程、この念力による利益に酔いしれている人々が多いのです。この人
々は、自我欲望を達するために、神という的に向って一念を集中し、その念の力によって、自己の望
みが達せられたことを、宗教信仰と誤り考えているのであります。このような悪い癖がついてきます
と、神は常に自己の想う通りになるものと思い違えたり、神はただの飾りものにして、自己の念力の
強大化に満足してしまう傾向をもってくるのです。昔の修験者行者などには、こうした類の人々が多
くあったのです。
その反面に、この念力に頼って、この世界は自己の想う通りになるという、メンタルサイエンス式
の生き方で、生活をしていますと、その念力の強弱によっては、自己の想う通りにならずに、先き見
越しの事業をやって失敗したり、医者にかかったら直り、安静にしていたら直るような病気を、直す151
機会を失って死んでしまったりするのであります。また、念力と念力との闘いになったりする場合も
あるのです。
私は念力を強めること、そのことが悪いとは思いませんし、念力の強いことによって、危難を超え
得る場合もあるのですから、いたずらに否定するのではありませんが、念力はあくまで神そのものへ
の信仰ではなく、神を離しても行なえる力であって、この念力に頼っている以上は、個人の真実の救
われや悟りに入ることも出来なけれぽ、人類の大調和、世界の平和の実現にはなんらの効果もないと
いうのであります。
真実の宗教心とは、ひたすら神仏のみを慕うことであって、神仏の中に、人間の真実の姿を見出し
神仏の中に自己の力を見出し、神仏の中に自己の存在を発見する、云いかえれぽ、人間が神仏と一っ
の者であり、神の子、仏子であるということを、真実に知りつくそうとする心であります。
祈りとは、こうした心が馬神仏と一つになってゆくための方法であります。方法というより、人間
内部の分霊の光が、直霊の光と合体してゆくこと、そのものが祈りであります。
その姿は、幼児が母親の膝に、なんの文句もなく「お母さん」と云ってすがりついてゆく姿なので
あります。ですから真実の祈りには、念力が弱いも強いも、その人が偉いも偉くないもなく、ただ、
神様仏様つまり大親様、と云って、その胸にすがりついてゆくことが祈りなのであります。そうしま
すと、自己を覆っている業想念は、神の大光明によって照破され、その人の心に、その人の生活に、神
152
そのままの善なる、・美なる、真なる生活溝現われてくるのであります。そして、その祈りを一番わか
りやすく、一番誰れにも出来やすく、そうして効果的にしたのが、世界平和の祈りなのであります。
間碍宗教に入リ信仰生活をしている人に、不運や不幸なことが多く、そうでない無信仰な人や、
悪い人といわれる人々の方が自由でのびのびしているのは、どういうわけでしょう?
答宗教の道に入っている人には、不運や不幸、つまり病気や貧乏や家庭不和等が原因になってい
る人々が多いので、信仰生活をしている人に不運や不幸が多いようにも見えるのですが、宗教の真実
の道に触れず、誤った宗教的な生き方をしている人にも、不運や不幸が絶えぬことがあるのです。
どうしてそうなるかと申しますと、いかなる原因かち
■でも宗教の道に入ろうとする人々は大なり小
なり、人間以外の力、つまり神とか悪魔とか業因縁とかを認めている人々でありまして自己の生き方
がスムーズにいかないのは、どこかに心の間違いがあるか、障碍(さわり) があるか、神仏の罰をう
けているかするからであるということを、なんとなく思ρているのであります。
そういう心のない人は、自分自身や、肉体を持つ人間以外には、たよろうともすがろうともしない
のであります。
こうした人々が、真実の宗教の道をさぐりあてるまでは、さぐりあててもやや暫らくの間は、不運
とか不幸とかいうように他者の眼に見える状態を離れ得ないことがあるのですゆ153
それはどういうわけかといいますと、常に想念(おもい) が何かに把われているからであります。
その人々は常に神仏の罰、心の誤り、行為の誤り、先祖の障碍等々の教に把われてしまっていて、自
むげ
分の心が自由になれないでいるから、その生活にいつまで経っても、自由無凝の姿、安定した姿が見
られないのです。
このような信仰の仕方をしている人々の大半は気の弱い、良心的な人が多く、ちょっとした誤った
行為をしても心を痛めるような人や、ちょっと悪いことを人に云われると、すぐに気にかかるような
人々が多いのであります。
そして今日までの宗教のほとんどと云ってよいくらい、その人の心の誤りを、その人に説教するよ
うな方法をとっている、つまりその人の罪とがを責め裁いて、その人を悟らせようとするやり方をし
ているのですから、その人たちの不運や不幸が、一時消えてもまた現われ、また消えてはまた現われ
るというように、いつまでたっても安定した姿を現わしてはこないわけなのです。
それは心の法則といって説教しても、因縁といっても同じことであります。宗教の道に入るのは、
自己の心を自由心、無凝心にするため、つまり、把われのない光明心にするためであるのに、事実は
その逆になってしまい、その人が良心的であれぽある程、気が良けれぽよい程、かえって不自由な生
活に自己を踏みこませていってしまう傾向をもってくるのです。
こうした姿をみると、全く問のように、悪人と見える人々や無信仰老と見える人々の方が、良心の
154
痛みを感ずる度合が薄いだけ、伸々と悠々と大らかな態度で世渡りをしているように見えるわけで、
かえってその方が得ではないか、というような気さえしてくるわけです。
昔の話に、ある坊さんが、他の坊さんと二人で旅をしていてある川にさしかかった時、その川を渡
り悩んでいる女性のいるのに気づき、その坊さんが、私の背に乗りなさいと云って、その女性を背負
って川を渡ってしまい、渡り切るとその女性を背から下して、さつさと歩きだした。それをみていた
他の坊さんが、おまえは坊主のくせに何故女性を背負ったのだ。女性の体にふれるなどとは、実にけ
しからん行為だ、と、非常に怒って、その坊さんをなじった。するとその坊さんは、乎気な顔をして、
わしはもう背中から女性を降してしまったが、おまえはまだあの女性を背負っておるのか、と云って
呵々大笑した、ということがありました。
この話などは、実に面白い話で、心に把われのある人と無い人の差をはっきり示しておりました。
ですから、次々と心に把われをつくってゆくような宗教の道への進み方ですと、やりたいほうだい
の悪事をして、ほんぜんと目醒めて宗教入りをした大悪人にはとてもかないません。何故かといいま
すと、大悪人と呼ばれたような人は、思い切って把われなく物事を出来る性質の人が、過去世からの
因縁によって、悪事に入ったので、悪事も思いきりやったのであります。ですから逆に宗教に入った
場合も、いじいじ心をいじめつけず、すっぱりと神仏のふところに入り得るのであります。
宗教の道というのは、本心(神の心)と業想念とをはっきり区別して、業想念をすべて消えてゆく155
姿として突き放ち、本心ひとすじ、神の心ひとすじに生きつづけてゆく道であるのですから、日々現
われてくる業想念の、怒りや妬みや恨み等々の波をいちいちつかんで、自分が悪い、あの人が悪いな
どと心をいためつけていることは、およそ馬鹿気た、反宗教的生き方というべきなのです。神のみ心
には悪も不幸も誤ちもあるわけはないのですから、人間は真善美と調和とのみを自己の本ものとして
生かし、他のいかなる想念行為も、過去世からの誤った生き方の波の消えてゆく姿と突き放って把わ
れぬようにすることです。そのためにこそ、私の提唱する世界平和の祈りの活用が大事な行事となっ
てくるのです。
156
問54 卑下や高慢はいずれも生命(本心)を汚すもの、という先生のみ教の歌がありますが、この
点をわかりやすくお教え下さい。
ひげ
答 高慢はいけない、ということは誰れでも云うことでありますが、卑下も高慢同様、よいことで
はないのです。本心がそのまま現われている人は、常に高慢でも卑下慢でもなく、そのまま素直な心
の姿を、その言動に現わしている人なのであります。
素直にすっきりと心の姿を表面に現わして生きている人こそ尊い人なのであって、気取りやでひい
のある生き方は、やはりそれだけ本心をマイナスしているわけなのです。
高慢とは皆さんの誰れしもが知っている態度で、この態度を好む人はいないと云っても過言ではあ
りませんが、卑下慢ということを殊更取り上げて云う人はあまりおりません。これは、高慢が他の人
に直接嫌な気持を与えるのに、卑下慢の方は他人には直接嫌な気持を与えないことが多いのでありま
して、かえって謙譲と間違えられて、好感をもたれることさえ、多々あるのであります。
ところが、この卑下する気持は、実に高慢より以上、神のみ心にかなわぬ、生命を汚す想念行為な
のです。何故かと云いますと、高慢は他人にすぐわかりますので、他人から注意されたり、一喝され
たりして気づくことがありますが、卑下慢の方は、他人には直接悪影響がないので、誰れもそれを注
意したり一喝したりしてくれませんので、いたずらに、自己の心をへこませつづけてゆくわけです。
自分の心をへこませるということは自分の生命の光、つまり神の光を自ら削り取ってゆくような想念
であり行為であるのですから、神に対して非常な不忠実になるのです。
この世は神のみ心を現わすべき世でありますのに、このように自らの中にある神の心を削り取るよ
うな生き方をしていては、神の光は次第にこの世から削り取られていってしまいます。
このような人は、すべてが消極的であって、活気がなく、生々としたところが少く、生命の本質で
ある陽気が足りません。
このような生き方の人々は、他から何か云えば云う程、ますます自らを卑下し消極的になってしま
って、折角の自己の力を人類肚会のために働かせようとはしなくなります。私はこの点を神様から示
されて、卑下慢の人をこそまず救わなければならぬと知ったのです。157
自分で気づかずにおりますが、この世には折角自分に与えられている能力を、卑下する癖のために
出し得ずにいる人が沢山いるのであります。
宗教的な人や良心的な人には、特にこの種類の人々が多いのです。私はそのことに気づいておりま
したので、白光の教義の中に、自分を愛し、自分を赦す。という言葉をつかっているのであります。
真実自分を愛することを真剣に考える人は、自分の生命を無駄にすることはとても出来ません。自
分の生命を出来る限り生かし切りたい、という気持にどうしてもなってくるのです。つまり自分を出
し切ることに積極的になってくるのです。これは活気となり陽気となり、魅力ともなってくるのです。
それから自分を赦し、ということは、自分の想念行為を、いちいち自分で突ついて、自分を責め裁
いているようなことでは自分にきている神のいのちを生かし切ることは絶対に出来ない、自分の誤り
に気づいたら、すっぱり一度は自分で自分を赦してしまい、そこから改めて出発しなおさなけれぽい
けない。それが真実の悔い改めであります。そうしなければ、いつまでたっても神のみいのち、神の
み心に触れることは出来ないのです。
何故なれぽ、神は生命そのものであり、本心そのもの、光そのものであって、自らの生命(心) を
責めつけるような想念を喜び給う筈がないからであり、そうした暗い、悪をつかんだ行為を是とする
ことがあるべくもないからです。
神の光明を曇らせる行為は、それが善意からであれ、悪意からであれ、誤りであり、業(カルマ) 158
であることを、皆さんは気づかなければなりません。
私の教はこうした心が根祇になって説かれているのでありますから、したがって自らを卑下するこ
ニこるよ
とを快しとはしないのです。
おもい
卑下せんとする意いは業想念であり、卑下される想いも業想念であって、その心の底には神のみ心
が、常に明るく素直に照しつづけているのであり、それが人間のうちにあって本心として輝いている
のであります。そして、その本心はただ、照り輝きつづけているのであり、本心そのものが、業想念
をつかんでそれを貴め裁いたり、痛めつけたりすることは絶対にないのです。この真理を皆さんはよ
くよく知っていただきたいのであります。
業想念(悪や不幸の想念) は、あくまでも本ものではありません。それは過去世からの因縁の消え
てゆく姿で、つかみさえしなければ、自ずから消え去ってゆくものであって、その姿が現われた時、
心が痛んだり、悩んだりするのは、あなたの本心が痛み悩むのではなく、消え去ってゆこうとする業
想念が、本心に照されて自ずから痛み悩むのであります。そしてある時間経過すれば、太陽の前を過
ぎゆく叢雲のごとく、いつしか消え去ってしまうのです。太陽を、一時雲が覆ったとしても、太陽は
一向に傷つきも悩みもしないのです。この理をしっかり悟られて、高慢や卑下慢の業想念の一時も早
くこの世から消え去るように、世界平和の祈りを致しましょう。
159
問5 他の宗教にはお経をあげたリ、静座観法したりする、いわゆる行があるが、先生のみ教には
行がない、という人がいますがどのように説明したらよいのでしょうか。
答私の教は行がないどころではない、行そのものの教なのであります。云いかえますと、信と行
とが一つに融合して神仏の姿をこの世に現わしてゆく道なのであって、日常生活そのまま道として生
かしてゆく教なのであります。
何故かと申しますと、人間は本来神の分霊であって、業生ではなく常に守護霊、守護神によって護
られているものである、という教義の前半は、まず信じなけれぽならぬ事柄であって、信じてはじめて
行にうつせるのであります。その行は何かといいますと、世界平和の祈りであります。この祈りは信
ヘヘヘヘへ
ずるも信じないもなく、誰れにでもうなずけて、すぐ実行出来る祈りであります。この祈りは他のい
かなるお経よりも、行の方法よりも、わかりやすく行じやすいものであります。他の経文や観法などは
その意味や方法などが、なかなかわかりにくかったり、行じにくかったりするので、それを行じつづ
けるのにおっくうだったり、苦痛だったりするのでつい行ずることを忘れたり、いいかげんにしたり
するのであります。念仏唱名やお題目などはその点では一番行じやすいものであるので、今日まで一
番多く行じられているのであります。しかし、念仏唱名も、お題目もともに、現代の若者たちの感情
にぴったりしたものではありません。近代人の日常生活から、いささかかけはなれた感じさえ抱かせ
て、日常茶飯事の中で何気なく唱えうる、というわけにはまいりません。それは、念仏にしろお題目!
60
にしろ、この世の社会生活と離れた感じで、おのずから心の中にしみこんできたり、心の中から湧き
出てきたりするものを、現代の青壮年層の人々には感じさせることが出来にくいからなのです。
ですから、たとえ誰れかにすすめられてやったにしても、真剣に念仏行をしたりする人は甚だ少い
ものと思われるのです。
お題目にしても、近頃新興の宗教家の指導によって、盛んに行じられているようでありますが、あ
れは、私達の考えている本心開発、仏性開顕のための行ではなく、ただ一つの単調なるリズムによっ
て、日常生活の想念を、そのリズムの中に凝集させた、というに過ぎないのであります。それによっ
て、病念や憂鯵な想いがその方に転移されてその病気や憂鯵が直ったとしても、それは単なる想念の
転移による治癒であって、本心開発仏性開顕のために治癒したのではないのです。
それにああした一定時間をさいての題目の詠唱は、その人の日常生活のつまり他の仕事の時間を妨
げるわけであって、仕事への勤務時間や、他の学問修養の時間をつぶしてしまうわけですから、家庭内
で悶着が起ったりしがちになり、家庭や隣人たちと不調和になったりすることも多いのであります。
そこにおいて、世界平和の祈りのような、意味がそのままわかる、しかも誰れもがその祈りの意義
をはっきり感じうる祈りを根祇にした、日常生活を行ずることを私が提唱しているのであります。
そして、教義の半ばから後半に示されているように、この世のすぺての苦悩は、人間の過去世から
現在に至る誤てる想念が、その運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。いかなる苦悩といえど
161
現われれば必ず消えるものであるから、消え去るのであるという強い信念と、今からよくなるのであ
るという善念を起し、どんな困難の中にあっても、自分を赦し、人を赦し、自分を愛し、人を愛す、
愛と真と赦しの言行をなしつづけてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心を常に想い世界平和
の祈りをつづけてゆけば、人間は真の救いを体得出来得るものである。
という教えを行じるようにすすめているのであります。ですから私の教は、信と行とがはなれぽな
れではなく、一つに融合されて、日常生活の中で何気なく実行されて、いつの間にか、心が開発さ
れ、人類社会のためにも役立っている、ということになってくるのであります。
162
問56 キリスト教では、人間は罪の子であるから、イエスキリストに救いを求め、イエスキリスト
によって救われに入らなければ救われない、といわれていますが、真実なのでしょうか。
答この教え方は実に危っかしい教え方なのです。この教え方は、日本の浄土真宗と表面上は全く
よく似ているのであります。どこが似ているかと申しますと、人間は罪の子であるというところが、
親鸞の云っている罪悪深重の凡夫である、というところと等しく、イエスのみ名によって救われると
いうところが、阿弥陀仏の慈悲にすがって救われる、というところと全く等しい感じを抱かせるので
す。
イエスは人間の原罪を、その一身に背負って、人類の身代りとして十字架にかかった人であり、阿
弥陀仏、すなわち法蔵菩薩は、四十八願をたてて自己の名を呼ぶ人間すぺてが救われなけれぽ仏にな
らぬ、と宣言して仏になった人でありますから、ともに、人類救済の大悲願をもつ、神の救済面の働
きを、人格化して現わしているわけです。
このように表面上全く相等しい教に見えながら、問のような説き方のキリスト教は、真宗の説く念
仏唱名すれば救われるという教とかなりの相違点をもっているのであります。
それはなぜでありましょうか。その第一は、キリスト教のイエスという人が、過去において実在し
ていたということが明らかであったのにくらべ、浄土門の阿弥陀仏の人間であった時の法蔵菩薩は、
釈尊の説法の中で出てくる話の中の人物であって、その人が実存したかしなかったか、ということが
全く不問にふせられている、ということであります。
この相違は、問のように、イエスとキリストとを同意義にして、イエスキリストのみ名によらなけ
れば救われない、という考え方をしている以上は、大変な相違になってくるのであります。
私の解釈では、イエスというのは、形をもった人間としての名であって、キリストというのは真理
(神) ということであります。そしてイエスという人が、真理を開顕し、神としての働きをしたこと
によって、(注今日でも働きつづけている) イエスキリストと呼ばれたのであります。それを誤っ
たクリスチヤソは、イエスのみ名による以外は罪の子である人間は救われないのだ、と云って、キリ
スト即ち真理(神性)を開顕することによって救われるのだという真実を誤り考えてしまったので163.
す。
イエスのみ名を唱えつづけていて、その人が真理(キリスト) を悟って救われることは、勿論数多
くあるのであって、それを否定する気は勿論ありませんが、イエス以外の神仏のみ名による救いを求
めることを、絶対に邪信であるとして否定するそれらのクリスチヤンの教には私は断乎反対している
のであります。
先日ある小学生が教会で、イエスキリストだけが神様で、他の神仏や人間に救いを求めたり、祈っ
たりすることはいけません、それは間違いです、と云われてきて、あの牧師さんは嘘つきだ、僕も家
中の人もみな五井先生にすがっていて、安心して勉強も出来、病気やすべてのことを無事に通ってき
ている。神様は先生の中にも僕の中にもいる、その神様を先生のような人が援助して僕たちの中から
行ないとしてひき出してくれるのだ、だから何も見たこともないイエス様だけが神様だ、というわけ
はない、というのです。
この少年の言葉は実にもっともなことであります。全智全能であり、大愛である神様が、イエスキ
リストだけしか、人間を救済する力がないなどというような、不自由な狭い救い方をなさるわけがな
い、どのような方法で、どのような神仏を拝もうと、その人がその想念行為の中に、真理(神性) で
ある愛と真と善と美との行ないを現わしさえすればよいわけなのです。
そこで真宗の阿弥陀仏による救いの方の説明にうつりますが阿弥陀仏はすでに人間としての法蔵菩164
薩ではありません。自己の名を呼ぶものすべてを救わなければ自分は仏にならぬと宣言して、救い得
るという確信がついて仏になられたわけですからこれをひっくりかえしに考えますと、人間が弥陀の
名を呼ぶ心になった時には、いいかえれば仏の中に想念を飛びこませさえすれば、その人は救われて
いるのだ、ということになりまして、そこから唱名念仏が生れてくるということになるのです。です
から、真宗の念仏には、もう法蔵菩薩というものが実在であるとかないとかいう問題など考えるに及
ばぬ程、阿弥陀仏にとけこんでいる念仏になってきて、罪悪深重という自己は、いつの間にか阿弥陀
仏の中に入りきってしまう迄になってくるので、罪悪深重も何もかもなく、自分で善悪を判断する必
要がない、自然法爾の生き方が出来てくるのであります。
ところが、問のようなキリスト教の罪の子観は、いつまでたっても人間の心から消え去らせぬよう
な説き方に自然になってきてしまうのです。それは、あまりにもイエスという者に重点を置き過ぎて
イエスのみを善しとしすぎるので、その対照的にその他の人々を下に降して罪の子、罪の子といじめ
つけてしまうのだと思われます。
真実のキリスト教の教は、実はそのようなものではなく、神は人間の中に内在する、ということが
主になって説かれているのであって、その内在する神性(キリスト) を呼び出し、その神性を表面の
想念行為に現わすために、主イエスを呼び、イエスにすがってゆくのであります。6
ですから、キリスト教徒にとって、イエスは天と地をつなぐ光の柱ということになるのです。
そこで、私の説くように、人間は肉体身としては罪の子であり罪悪深重の凡夫、つまり業想念の所
有者であるのだから、肉体人間としての知識や能力だけで、いくらもがいても決して救われるもので
はない。救われるためには、肉体身以外の力、神(守護の神霊と本心) に祈りを捧げて、神仏の中に
自己のすべてを投入れてしまえば、自己にそのまま神の力が現われてきて救われるのである、人類す
ぺての救いもその通りである、と、イエスという名の代りに守護霊、守護神を救済の主にしているので
あります。なぜ守護霊、守護神としたかと云いますと、イエスキリストでは仏教や神道の人々には都合
が悪く、阿弥陀仏ではキリスト教徒には都合が悪いからで、いかなる宗教の人々にも祈れるようにと
思ったからです。キリスト教徒はイエスキリストにすがることは結構ですが、問のようなイエスキリス
トを考えて、罪の子意識をいつまでも捨て去らぬようでは、真実の悟りに入るわけにはゆきません◎
166
問57 み教の通り、現われてくる悪や不幸などを、消えてゆくと知っていますが、その後から、前
と同じような悪いことや、悪い想いが起ってきます。本当に前の業は消えていったのでしょうか。
答人間というものは、実に複雑な構造をもっているもので、普通一般の人がこれが人間だと、思
つている人間は、単なる肉体人間、つまり真の人間(霊) の一番粗雑に出来た器にすぎぬのでありま
す。と申しても、ただそう申しただけでは、一般の人々が心から納得出来る筈がありません。
そこで私は、どうしたらその真理を一般の人々に知らせることが出来るかと、全く生命がけで真剣
に考えたのであります。考えたというよりは、真剣に絶対者(神) にぶつかっていったのでありま
す。
そして、そうした私の真剣な願いがかなえられて私自身がまず、真の人間である私の直霊(神、私
の真の姿)と肉体界の私との合体を絶対者(大神)から許されたのです。その時から私自身が、単な
じねんはうに
る肉体人間ではなくなり、神のみ心のままに自然法爾に愛と真の行動の出来る人間になり得、人の心
や人の運命が自然とわかり、人の運命の指導の出来る立場に自ずと置かれていたのであります。
その状態はどのような状態であるかと申しますと、肉体の頭脳は常に空の状態にあり、肉体の自己
の立場から思考し想念することが全然なくなって、その場、その時々に、あたかも自己の頭脳で思考
し、想念してものを云うような自然な状態で、運命を指導する言葉を語り、教を説くようになったの
であります。それと同時に、肉体に私自身がおりながら、他の様々の場所に私の姿を現わすことが出
来るようになったのです。その姿は勿論私自身の直霊の姿であります。
この状態をやさしく説きますと、私自身の業想念がすっかり消え去って、神一元の私がそこに現わ
れたということになるのです。ここが私の教の出発点なのであります。それはどういうことかといい
ますと、人間の本体は直霊(神) であって、その分霊が肉体内において活動しているものであるとい
う体験と、肉体にまつわる種々様々の想念思考を空にして、神ひとすじに自己を投入すれば、神と一
体にな力得て、神通力になり得るものである、ということであります。ところがこの想念思考を空に
167
するということが、一般の人々にはとてもむずかしいことなので、空ということよりU歩肉体人間の
考え方にひき下げて、あらゆる想念行為は、すべて消えてゆく姿、貧も病もすべての不幸もみな過去
世からの業因縁の消えてゆく姿という教にしたのです。人間の本体は神(霊) であることは私の体験
で間違いのないことなのですから、この真実をわからせるためには、その真実を否定する想念行為を
すべて否定し去ってゆけぽ、自ずとその真実の姿、神が肉体人間の姿の中に行動の中に現われてくる
わけであります。
ヘヘヘヘヘへ
その否定の仕方を無とか空とか云わないで消えてゆく姿、としたところに、一般大衆を容易に救い
得る道が開かれたのであります。
消えてゆく、という言葉はどんな人にもわかる言葉なのです。何故かというと、どのような物も、
どのような人も、すべてこの世から消え去らぬものはないことは、誰れでも知っている事実です。こ
の世に現われたものはいつしか消え去る。この真理を逆に、悪も不幸も消えてゆく姿というように、
人間の心を安心させる方向にむけかえ、その消え去ったところにそれだけ人間の真実の姿(神のみ
心) つまり光明の世界がひらけてくるのだ、というように説いたのであります。業想念はその想念行
為、悪や不幸を否定しただけ必ず消え去っていることは蔀実なのです。それは私自身が、業想念の世
界から神のみに想念をむけかえて遂いに自己の本体と合体した、それ以来私自身の運命の不安などは
勿論、私によってくる人々の不安や恐怖を消し去ることが出来るようになったことが証明しているの
168
です。
この世に実際に不幸や不運があるならば、悪や、病気があるならば、どのようにしてもいつまでた
ってもなくなることはないので、やがては地球人類は滅びてしまうにきまっているのでありますが、
悪や不幸や悪想念はすべて表面に現われては消え去ってゆくもので、神のみ心がこの地球界に現われ
るために一時存在しているように見えているだけなのであり、それを人間が真実の存在として掴んで
いるうちだけその人々にその姿を現わしているのであります。
そこで私共のように神がすべてのすべてであり、人間は神の分霊であることを知った人たちが、神
だけをひたすら想念しつづければ、必ずその人は業想念(悪や不幸) の世界を超えた光明世界の住人
になり得、そうした人々が多くなれば、自ずと地上天国が出来あがるのである、と説きつづけ、そう
した真理を体顕する人々をつくりあげているのであります。
業想念、悪や不幸は否定すれば必ず消え去ってゆくものであるということを私は明言致しておきま
す。
問駆畢真でお浄めをするだけでも、その人の性格がよくなったリ、病気が直ったりするのはどう
いうわけですか。それに五井先生と呼んだり、世界平和の祈リをするのと神様とただ呼ぶのとの効果
の違いも教えて下さい。169
答普通の人が写真をみると、ただその人の姿形が写っているとしかみえぬでしょうが、私が見ま
すと、写真はそのままその人のすべてを写しているのであります。すべてを写しているとはどういう
ことかといいますと、その人の心の波、運命の波も姿態と同じように、その写真に現われているとい
うことであります。もっとも人間の肉体そのものも実は光と想念の波動の現われであります。それは
あたかもテレビジョンの映像は放送局で行なわれている実体が光の波動によってそこに現わされてい
るものである、というのと同じような原理で、この肉体の人間そのものは、人間の実体である光と、
その途中から現われた想念波動との合体が肉体人間の眼でみ、手で触れると、波動などとは全く異な
る固形体に見えるのであります。
ですから人間の本体は大神自身と同様な光体であるのですが、この地上界に肉体として現われるた
めに、様々な想念の波動と一つになって現われなけれぽ、その速度が早すぎて、固定したように見え
る肉体とは成り得なかったわけなのです。ひとまず肉体を創り得た人間は、地上界という物質界の生
活を営みはじめ、この地上界に神の理念を形の上においても現わし得るいわゆる地上天国を創設しよ
うとしはじめたのでありますが、ある時問経過と様々な体験を積まなけれぽ、なかなか神の理念の地
上天国は出来あがらないのであります。そして今日では、遂いに物質文明の最盛期に至り、いよいよ
肉体人間が、人間の本質である光体に還元して、今日までにうち建てられてきた物質文明の上に、地
上天国を創設する運びとなってきたのであります。
i70
ところが、まだまだ一般の人々はそうした原理をほとんど知ってはおりません。そこで先にその原
理を知った私共が、一般大衆にその原理を悟らせる役目を神様から受けもたされて、今日の救世運動
をはじめたわけであります。それが世界平和の祈りの運動であります。
さてそこで、一番大事なことは、人間は単なる肉体ではなく霊なる光と、想念の波動の混合された
ものである、という真実を知らねぽならぬということです。その最もやさしく効果ある方法は、神霊
の光明を、肉体人間であると思いこんでいる相手の想念の波動の中に送りこんで、そうした誤った想
念を消し去る方法であります。それが私の印や柏手によるお浄めであるのです。ところが私一人では
一生のうちに会える人は数が知れております。そこで私自身としては一人の人に何枚でも知人の写真
を持ってきて貰い、その写真によってお浄めしたり、世界平和の祈りを拡めようとしているのであり
ます。
写真で浄めるより本人に直接会って浄める方が効果はありますが、写真でもそれは本人のすべてが
そこに現われているのですから、神の光が、私の肉体を通し、写真にうつっているその人の波動を伝
わって、その人自身の業想念波動を浄めてゆくのであります。ですから原理としては同じことで、た
だ複雑になるだけであります。
業想念波動を光の波で浄めれば、丁度クリーニソグをしたようで、その人の心のひびきがきれいに
なり、病気も性質も直ってゆくにきまっているのです。私たちは魂のクーニング屋であるわけです。
171
このような理であるのですから、本人もこられず、写真もない時でも、ひたすら、こちらにむかっ
て想念を集中していればこちらの光はその人の想念と波長を合わせて流れてゆきますから、やはり効
果はあるのであります。
こう申すと、それなら何も五井先生などと云わなくとも、大神様、神様と云えば神様に波長が合っ
て、それで浄められるではないかと云う人が必ずあると思います。そう思われる方はそれで結構なの
ですから、そうなさっていれぽよいのであります。真実、真心で神様を想念すれぽ必ず神のみ心に通
じます。しかしここで一言申し上げたいことは、神様を憶念するにも種々と方法があるということで
あります。一切の疑念もなく、一切の業想念のわずらい、つまり恐怖や悲嘆の想念もなく神を想える
人は、もうそのままで救われているのでありますから問題はありませんが、普通一般の人は、疑念の
中から、恐怖や悲嘆の中から神を想っているのでありますから、そうした業想念の中から神のみ心に
達するには、容易なことではないのです。神を想っては業想念に打ち消され、また想っては打ち消さ
れして、神と一つの想いになるのにはとても時間がかかるのです。
そこでキリスト教ではイエスというこの世に一度肉体として生れてきた人間を通して、神の世界に
飛びこませる教をしているのであります。何故イエスを通さねば救われぬと云うのかと申しますと、
イエスという人が、自身そのまま神と一体になり得た人なので、いわゆる光の柱として光の階段とし
て天と地をつないでいるのであります。ですからイエスという名を唱えれば、つまりイエス様を憶念172
すれば、大神様そのものを憶念するよりも業想念のさまたげがなく、神の世界に達するのでありま
す。云いか、兄れば、イエス様が先きに業想念をきれいに浄めた天国への道をつくってくれていて(後
の人はその道を通っていった方が、天国に昇りやすいという理になるのであります。
私共の場合もその理と少しも違わぬので、現在この私自身が肉体身をもってこの地上界に存在して
いるのですから、より求めやすいわけであります。
ですから私が神から拡めることを仰せつかった世界平和の祈りをすることは、イエス様を呼ぶより
以上に効果のあることを私ははっきり明らかに申して置きたいと思います。何故なれば世界平和の祈
りは何人にも、何宗の人にもすぐ理解出来る祈りであるからです。
世界平和の祈りは、最初で最後の真の祈りであることを私は確信しているのであります。
問59 カみと勇気、怠惰とおまかせとの違いをわかりやすくお教え下さい。
答この二つの相違はわかっているようで、非常に間違いやすいのであります。力みと勇気につい
て最初にご説明致しますと、力みというのは、心の底から湧き上ってくる気の力ではなくして、表面
的に気を張っている状態であります。この力みと云いますか強がりと云いますか、こうした心の状態
は、短時間しかつづかぬもので、長時間にわたると、次第になえてしまうような状態であり、自己に
対しての相手あるいは事件の圧力によっては、その心の張りは打ち砕かれてしまいます。いわゆる真173,
に不退転の心の力ではないのです。
ですから真実に偉大な人や、真実の宗教者には力みや見せかけの強がりはないものであります。や
たらに力んでみせたり、強がっていたり、尊大ぶっていたりする人は、その態度そのものが、すでに
神の心の本質から離れているのでありますから、宗教者などで、このような態度の人がいたならば、
その態度の直らぬ限りは真実の道に人を導いてゆくことは出来ぬのではないかと思います。
ところが、えてして、力んでみせたり尊大ぶってみせたりする態度にかえってひきつけられて教え
を乞うたりする人々が多く、謙虚な態度で見せかけなく真理を説いたり行じたりしている人の方に意
外な程人々が集まらぬ場合も多いのであります。一般大衆の観察力というものは実に当にならぬもの
のようです。
ではその反対である勇気というものはどのような心の状態であるのでしょう。文字のごとく気が勇
むということでありまして、身が力むのではありません。
気とは魂のはたらきであり、人間の本源の生きるはたらきであり、光そのもののはたらきでありま
す。そうした生命のはたらきであり、魂のはたらきが生きる力として、そのまま素直にでている状態
を勇気というのであります。
ですから勇気というのは、ただ単に肉体頭脳にある想念が力んでいる状態とは全く違いどのような
圧力にも耐え得る不退転の心の力なのであります。
174
はじめからこうした勇気のぞなわった人は別として、一般の人々がこうした勇気を自己のものにす
るにはどうしたらよいかと申しますと、自分の生命は神様からきているのであり、自分の運命という
ものはすぺて神様のみ心の通りに動いてゆくものである。神様というのは全智全能者であり、絶対な
力を持たれている絶対者なのであり、大愛者であるのだから、自分の生命を分けて働かしている人間
のために悪いようにしっこはないのだ、ということを常に想いつづけて生活してゆくことです。そし
て神様をいつでも心に憶いつづけているのです。そう致しますと、不安や恐怖の起るべき事態が現わ
れても、すぐその想念が神のみ光の方に吸いこまれていって、次第に魂の力、すなわち勇気が湧きあ
がってきて遂いには何事に処しても不退転の気持になってくるのであります。
あなたがもしご自分を臆病な性格と考えておられるならば、念仏を唱えるような気持で、神と自分
が一つであることを憶いつづけ、神は直霊として自分の中で光り輝いているものであり、守護神とし
てほ背後上方から護りつづけていて下さるのであることを信じるように努めることです。それにもっ
とも身近には、祖先の悟った霊魂が、守護霊として護っていて下さるのだと信じて、世界平和の祈り
を祈りつづけていなされば、必ずいつの間にか勇気に満ちた人格に変貌していることでありましょ
うo
次には怠情とおまかせとの違いについてご説明致しましょう。
宗教信仰をやっているような人には、神への全託のようにみせかけて、自分のなまけ心をカモフラ175
ージュしている人もかなりあるのですが、おまかせと怠惰な想い、自己の責任を逃れる想いとが、自
分自身でも見分けのつかぬことが随分あるのです。
それも神様のみ心のままにすればよい、といって、自分の力で出来ること、出来る努力をせずに、
面倒な事柄はすべて神様という言葉によって、責任を回避してしまう人がありますが、そういう人は
いつになっても真実の神のみ心をつかむことは出来ません。
神様におまかせするということは、「神と人間」その他の著書でも述べているように、そう簡単な
ことではないのであって、自分の責任を回避する気持や、面倒な事柄はなるべくさけたいという想念
では、とてもおまかせの心境にはなり得ません。
真実のおまかせの心境になるには「人事を尽して天命をまて」という言葉のように、出来る限りの
努力をして、いくら努力してやって、どのようにもがいても、肉体人間の力ではどうにもならぬこと
がいかに多いか、ということを知ることによって、はじめてなり得るのであります。このことを私は
逆に説いて「天命を知って人事を尽せ」と教えております。
自分の生命は一体どこからきたのか、それはわからない。そのわからないということを素直に認め、
またこの世の自然の在り方の不可思議さをも素直に認め、その不可思議力の存在を素直に肯定して、
その不可思議力(神) の一つの生命としての自分がこの世にあることを知らねぽなりません。
わからないのにわかったような顔することこそ、人間の堕落の第一歩なのです。わからないと正直
176
に自分が認めた時が神を知る第一段階であり、そこから自己の天命がわかってくるのであります。神
様が自分をこの世に出して下さった以上必ずなんらかの使命があるに違いがないと信じることは、神
の存在を信じ得る者の容易に肯定し得ることなのです。全智全能の神が、一人の人間でも誤ってこの
世に生むことはないからであります。
神よ、自己の天命を完うせしめ給え、の祈りの心を根抵にして出来得る限りの努力を尽すのです。
努力なしには神を知ることも、天命を完うすることも決して出来はしないのです。
神を信じよう、とする想いも、神におまかせしようとする想いも、すべて真剣な心がなければ出来
るものではありません。
ただ単に神に自己の責任を回避して、それがおまかせなどと思ったら、とんでもない間違いです。
この世はすべて真剣に自己の生命を生かす者の勝利に帰するのです。真剣さのない好運などは、ただ
単に過去世の徳を消滅させているだけなので、決して真実の利得ではありません。
おまかせとは、神に一切の運命をおかえしすることです。み心のごとくなさしめ給え、でありま
す。このためには神を真剣に求める努力を払うことです。その一番の近道が、たゆみなき世界平和の
祈りなのであります。
177
問60 先生は何故私たちの欠点を指摘して叱って下さらないのですか。
答私に働いていらっしゃる神様は、慈愛を根抵にしていらっしゃって、特別の場合の他は、個人
指滋の時には穏やかな温かなそして柔和な態度で人々を導かれてゆかれるのです。一口に云えば、個
人々々に対しては観世音菩薩的な立場を取っていられるので、相手が子供ならば子供の心になり、相
手が女性ならば女性の心になり、老人なら老人に、商人ならば商人というように、常に相手の立場に
立ってその行く道を教え導いているのであります。
今日までの宗教家や修養家と称する人々の指導の仕方は、こうしてはいけない、ああしてはいけな
い、そんな心だから不幸になる、貧乏になる、家庭が不和になる病気になる、というように、いわゆ
るお説教ずくめで人を導こうとする形が多かったのです。
ところが実際問題としては、いくら心の持ち方を説教され、欠点を指摘されても、その時は、そう
だと思いはするのですが、思うだけでその欠点がなくなるわけではないので、善良な人々は、なんと
かその欠点を外に出すまいとして、じっと耐えるようになり、そんなことの面倒な性質の強気の人は
何を面倒くさい、という調子でそうした宗教や修養から離れていってしまうむきが多いのでありま
す。
大体人間は自分の痛いところにふれられることが嫌いなのですが、自分の欠点を指摘されると、そ
の欠点に常に想いが凝ってしまって、かえって自分の心が自由にならず、常に自分をいじめつけるよ
うな生活になってしまう人もなかなか多いのです。
178
もう一歩で悟れるというような人ならば、自己の心の足らぬところを、人に指摘されても、速座に
わかって、欠点をふりすてることも出来るのですが、一般の人々は、欠点を指摘されるのを嫌うか、
あるいはその欠点をとろうとして、かえって欠点に自己の想いをこびりつかせて、小心になり、小さ
く固った人間になってしまい、人間の本来性である自由自在な大らかな心を失ってしまうのでありま
す。
悪や間違いを指摘する場合には、その悪や間違いが、その人自体のものであるような指摘の仕方は
誤まりであります。何故なれば、宗教や修養に少しでも関心をもっている人は幾分なりとも、自分の
心の欠点を自分で認めている人が多いのでありますし、そこの指導者は偉い人として、はじめから尊
敬し信じている場合が多いのです。ですから、その指導者の一言は、局外者ならばなんでもないよう
な一言でも、心深く喰い入ってゆくのであります。ここが誤った指導者についたら非常に危険である
ということになるのです。人間というものは自分の想いによっていかようにも変化し得るように出来
ているものであって、その人その人の潜在している意識想念によって、その人の運命が定ってゆくも
のなのであります。ですから人間の潜在意識に悪や不幸や病や貧乏やその他自己の神性、完全性を否
定する想念意識を積ませぬようにせぬと、その積み重ねられた悪や不幸欠点の想念意識が、いつかは
必ず表面の意識想念または行為に現われてきて、その人を病気や不幸にしてしまうのであります。
そうしたことを現代の宗教の中で取り入れて、そうした想念意識を潜在意識に積み重ねさせぬよう179
にとの神様のみ心が働いて、はっきり、そうした方向に指導していった宗教団体が生長の家なのであ
ります。それが人間は神の子であり、悪も不幸も病気も実体のあるものではないのだ、との光明思想
を谷口雅春氏をして説かしめたのでありますが、生長の家は、その教を現代の知識人や医学者たちに
もわからせようとする意識過剰のあまり、精神科学的な分野に足を踏み入れすぎて、心の法則なる言
葉によって、従来の小乗宗教の因縁因果説をもってきて、「こういう病気はこういう心の現われ」こ
のような不幸はこのような心の現われ、というように精神分析的に人々の姿や形や病気や不幸に現わ
れたすべての症状を、心の持ち方に結びつけてしまったのであります。これは天理教あたりでやって
いる、はいといわぬから肺病になる、というのと同じであり、神様が、人間は神の子であり完全円満
性のものであるのだから、悪や不幸や病気などは実体的には無いのだ、と説かせた折角の光明思想を
人間の心の中の悪や不幸を認める精神分析にひきさげてしまったということになるので、責め裁かぬ
ための教が、再び人間の心を切りきざむ、宗教を離れた科学の面に入ってしまったのであります。
こういうことを教わりますと、教わったことはすぐに潜在意識に入りますので、自分が病気をして
も人が病気をしても、すぐにその法則に照らして、自分や人の心を分析解剖してみて、自分の心を痛
め、人の心を裁くような習慣が自然についてしまうのであります。
例えばあの人は右の眼を悪くしている、眼は女だから女関係のことがあるか、妻と不仲なのだな、
という工合に、他の人の姿形や行為をみて、瞬間的にそんな人を裁くような想いが浮んでくるので180
す。
.
‘それが知性の勝った人が覚えた場合は、それ程人を痛めはしないが、知性の欠けている人々がその
原理法則を覚えこむと、なんでもかんでもその原理に当てはめて、人を責め裁くようになるのであり
ます。一般の信者さんはそう知性の高い人ばかりではないのだ、ということを知らねばなりません。
神様はそうした失敗をごらんになって、これではいけないとおぼしめしになり、今度は私に消えて
ゆく姿の教一本の教義を説かせられたのであります。悪も不幸も貧も病もすべては過去世から今日ま
での神を離れていた想いの消えてゆく姿である、という教の中には人の悪や誤ちを掴んで責めたり叱
ったりする余地がまるでないのであります。そうしたことはすべて現われては消えてゆくのだ、何故
なれば人間は神様の分霊であって、完全円満性のものなのでありまして、背後には守護霊、守護神が
ついていらっしゃって、常に人間(分霊) の周囲にある誤った想念、つまり業想念を消していて下き
るのだから、その人々の守護霊、守護神に、その人の本心開発を、祈っていてやりさえすれば、いつ
かはその人の本心が開発されてきて、神の子の道を歩むようになるのだ、という教え方は、複雑なる
人間の生き方を、単純率直な最もわかりやすい説き方にしてあるのであります。
こうした説き方を私にさせるために神様は、私に幽界霊界の種々な体験をさせ、守護の神霊の実在
ヘヘヘヘヘヘへ
をはっきり知らしめているのであります。そして今は、世界平和の祈りを教義の実行面の唯一の行と
して人々にな惑しめているのです。”
isi
この説明で、私が何故人々の欠点を指摘したり、悪を叱りつけたりしないかがおわかりのことと思
います。真剣に世界平和の祈りをしていさえすれば、あなたにもあなたの周囲にも悪や不幸が次第に
消え去ってゆくことでありましょうし、やがては世界中が大調和してゆくことにもなるのでありま
す。
182
問61 情と愛の最も見分けやすい方法と、使い方を教えて下さい。
答実にむずかしい問題であります。これは実行してゆくうちに自然と体得し得るのであります
が、理論的に説明してゆけぽ、愛という心は神の心そのものであり、大調和の心であって、本心その
ものと云、兄るのであります。ところが神の心をそのまま肉体世界に現わしますと、それは大光明であ
りますから、太陽を眼の前近くに見るようなものであまりに光が強すぎてどうにもならぬと同様に、
肉体人間にはまともにうけかねるのであります。愛の心はそのように常に相手の真性(神性) を現わ
すから、現在どのように相手が苦しもうと、その人の真性(神性)を現わすためには真正面にその道
を突き進むのでありますが、この世の人々の心は業生と真性の混合心でありますので、そうした強い
真の心を受けかねるのです。そこで愛がこの世で働く場合には、どうしても柔かく穏やかに、作用せ
ねばならぬことになるので、情といった形で働いてゆくのであります。それは丁度薬品でも、飲料で
も生のままで飲むことは出来ぬので、何分かに薄めて飲んでいるようなものです。
そして情という働きは、本心と業生の心との両方にありますので、ともすれば愛情のつもりでやっ
ていることが、実は業生の執着でやっている場合も多くあるのであります。
この世の人間に働きかける愛の心の殆んどは愛情の形をとっていますが、時にはその人の真性を急
激に現わそうとして、峻厳な形で現わされることもありますが、愛の峻厳だと思ってやっていること
が、案外冷酷なその人の潜在意識の現われであったりする場合があるものですが、昔の宗教者には峻
厳な愛で弟子を導いた人がかなりあったようです。私などはほとんど愛情の形で愛の光を相手に与え
るようにしています。それが私の持ち味だからです。
さて、ここで問題になるのは、愛の表現の情と、執着の現われである情との区別なのであります
が、これがなかなかむずかしいのです。一番根本的なことは、その人がどれ程自分自身の我の想いが
少く神にすべての想念を任せてあるかどうかということであります。
愛情は普通は思いやりという形で現わされるのですが、これさえも、相手への執着で現わされる場
合だの、自分の心の満足のためになされる場合があるのですから、ますます見分けがむずかしくなる
のです。
ですから、この見分け方の一番簡単な方法は、自分の想念をいつでも神様におかえししておくこと
なのであります。自分の心にどのような感情想念が出てこようと、それが愛のように思えようと、情
のように思えようとかまいませんから、守護の神霊を通して、自分の本心、つまり神のみ心にその想183
念を一度戻してしまうのです。その方法は世界平和の祈りなのであります。
そう致しますと、本心(神) の方からやってよいことならどうしてもその行為を実行させるし、や
って悪いことなら実行させぬようにして下さるのです。
どうして世界平和の祈りによってそういうことになるかと申しますと、世界平和の祈りはその祈り
そのものが大光明なのであり、慈愛そのものであるからです。これを云いかえますと、世界平和の祈
りは、天の光明を地上に顕現するための慈愛の光の柱なのであります。皆さんが世界平和の祈りを致
しますと、その人々の業想念はそのままにしていても、慈愛の柱がその人々の業生を貫いて本心の光
と交流してゆくので、その人々の本心の光、つまり愛と真の心が、巧まずに、素直にそのままその人
々の行為になって現われてゆくのです。
ですから世界平和の祈りをすることによって、愛の心が素直に自然に、その人の業生を浄めつつ相
手の業因縁の波を穏やかに融かしてゆくのであります。
そうしておりますと、愛と執着(情)との区別が自ずと判別出来るようにもなってゆくのでありま
す。
184
問62 気持がいらいらするのは、
しょうか。
業の消えてゆく姿なのでしょうか、それとも愚依霊の作用なので
答自分の業であろうと、愚依のものの仕業であろうと、それをいちいち区別する必要はありませ
ん。本心の平安さを乱す想念は、どちらにしてもみな消えてゆく姿である、と知ることが大事なので
あります。自分の業だ、自分の業だと思っていると、自己の心にそまぬ想念が起ってくる度びに、ど
うしても自分はなんて駄目なのだろう、とつい自分をいじめつけたくなるので、気の弱い人などはか
えって神経衰弱になりかねません。それが消えてゆく姿という教えを聞いているからまだよいのです
が、消えてゆく姿を知らないで自分の業だ、因縁だとやっていたら、それこそ消極的な弱い人間にな
ってしまいます。消えてゆく姿の教えを知っている人でも、気の弱い人は、やはり自分を責めがちに
なります。
また一方愚依作用による気持の乱れであると思う場合も、それをあまり強調すると、普通一般の人
との附合の場合でも、ついそのことに話がいったりして、人から変な人だと思われかねませんし、ま
た人によっては、誰れかを訪問したり、あるいは話合ったりしているうちに、気持が悪くなったり、
体が変調を来してきたりすると、すぐその人にむかって、「あなたについているものが私にうつって
きた。」
「私、あなたのものを背負ってあげた。」というように云ったりする場合があるのです。これも一
般の人から見れば実におかしなことなのであって、そういうことが事実であっても、口に出して云う
べきことではないのであります。恩きせがましい気持で云うのでなくしても、そういう考え方のくせ185
がついていますとつい何気なくそう云ってしまうものなので、口ぐせというか、一種の想いの習慣に
なってしまうのです。
ですから、気持の乱れも、体の不調も、いちいち自分の業とか、愚依作用とか思う必要もなく、た
だひたすら消えてゆく姿と想って、世界平和の祈り(神のみ心) の中に飛びこんでしまえぽよいので
あります。
どんな想いにでも把われてしまえば、それがまた業になるのでありますから、把われぬということ
が自己の心を平安にする一番大事なことなのであります。人間すべてを業想念の把われから救い出す
ために、神様は私に、消えてゆく姿と守護霊、守護神にすべての想いを投入してしまう教を説かせて
いられるのです。業想念の把われから解脱し得ますと、人間は神の子であるという体験的実観で生き
てゆけるようになるもので、安心立命して人類のために働けるようになるのです。
ですから、どんなに気持がいらいらしようと、心が落ちつかぬ時であろうと、その気持のままでょ
いから、世界平和の祈り(神のみ心)の中に飛び込んでしまうようにするのであります。世界平和の
祈りはそのまま神のみ心であり大光明でありますから、自己のものであれ他からのものであれ、すべ
ての業想念を消し去るにきまっているのです◎
何度びかは、世界平和を想う気持さえも、そうした業想念が邪魔してしまうでしょうが、それでも
よいのです。世界平和の祈りの想念が心のどこかにあれぽ、やがて必ず、どんないらいらな気持の中
186
}
からでも世界平和の祈りの大光明につながり得るのであります。
.問
63 人間の実相は完全円満だから、人間の悪を見てはいけない、すべての人間を神の子として拝
まなければいけない、という教えがあります。この教えは本当に善い教えだと思いますが、実際やっ
てみようとすると、どうしても中途半端になってしまって、人にだまされたり、かえって人に憎まれ
たりしてしまうのですが、先生はこの教えをどうお考えになりますか。
答私も根本的には善い教だと思います。この教の根本は人間の理想であり、天の心そのものであ
り、神の子の心そのままのものであるので、人間は本来そうしたものであるのです。そうしたものと
いうのは、悪をみてはいけない、拝まなければいけない、などというようにいけない、というような
言葉がついているものではなく、お互いが、善そのもの、真そのもの、美そのものであるということ
であります。
そこで、いけない、などというような言葉をつけてしまうと、もう人間は本来実相完全円満だとい
う真理が死んでしまって、ただお説教だけがそこに残ってしまうのです。
そこが、この教の問題点となって、あなたのような質問がでてくる原因になるのです。私も人間は
神の分霊であって、
●神が完全円満性であると同じように、本来は完全円満なのだと説いているのです
が、だからといって、この地上界の人間の悪をみずに、神の子として拝まなければいけない、などとそis7
うなんでもなさそうに神の子として誰れをも彼れをも拝ませるような導き方はしていないのでありま
す。何故そうしないかと申しますと、私はこの地上界、肉体界の人間の業生、業想念の波の層の容易
ならぬ根深さを知っているからです。いと簡単に人間の悪をみてはいけない、神の子として拝め、と
云われて、そう簡単に拝めるものではないので、そう教えている先生方さえその教を実行し得ている
とは云えない状態であるようです。またその教を鵜呑みにして、相手を善とみて商業取引をして、相
手にひっかかった人を私は多く知っております。ひっかかっても、ああこれで自分の業が一つ消えて
いったのだ、と想えるような人なら、すべてを善とみてひっかかっても、それが神の道への近道に
なるのでしょうから結構なことであり、そうした人は真実の神の子を体得している人なのでありま
す。
ところが大半の人はそうではなく、そうしたひっかかりが出来ると、折角教わった、人間の実相は
完全円満である、という真理に、その時から後向きになってしまって、今度は非常に疑い深い人にな
ってしまったりするのです。
私はそのことを体験として充分知っていましたので、やたらに人を善とみることを教えずに、人間
には本心と業想念とがあって、本心のまわりを業想念が取り囲んでいるので、人間は神の子でありな
がら、その神の子の本心が、業想念の波動を破って本来の光を放ち得ないでいるものなのだ、だか
ら、やたらに人を信じてよいというものではない、やたらに人のいう通りに行動してよいというもの
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でもない。その人々の本心と業想念をよく区別して、相手の業想念の中に自己をひきずりこまれてし
まってはいけない。そうした本心と業想念の区別をつける最もよい方法は、自分の先祖の悟った霊で
ある守護霊さんと、その上にいて常にその守護霊に光を送っている守護神さんとに常に想いをむけて
いて、つまり感謝の想いを送っていると、守護の神霊の側から、その人の心にむけて、その区別を直
感的にか、他の人をもって知らせるかして、必ず知らせて下さるものである。もしそれでもだまされ
たり、ひっかかったりする時は、それこそ過去世からのその人との業因縁が、そこで消え去っていっ
たもので、それも、自己の本心を輝かすための必要なことであったのだ、というように説いているの
であります。しかしそれよりも更によい方法は世界平和の祈りであると説いているのです。
なんでもかんでも悪をみてはいけない、となりますと、他の人や、事柄を悪とみる度びに自分は神
の子でありながら、なんていつまでも悪い想いがなくならないのだ、というように、自分の心を責め
さいなむ想いになったり、相手の悪を認める想いを充分にもちながら、いかにも悪をみぬように、自
ら自分の心をだまして相手の悪をみまいとするのであります。これは偽善と云いまして、自己の心に
不正直なやり方で、次第に潜在意識に自己に嘘つく想いがたまってしまって、それがついには習性の
ようになり、その人の人格的雰囲気が汚れてしまうのであります。
肉体人間の業想念、つまり利害得失で動きやすい人間性というものを無視した神の子論、実相論に
は、どうしても無理があるので、自己を偽るか、他を偽るかしないと、一般の人々はそうした教につ童
89
いてはいけないのです。
そこで私の教義が生きてくるのであります。
わけみたまごうしよう
1 人間は本来神の分霊であって、業生ではなく、常に守護霊、守護神によって守られているもので
ヘへ ヘヘヘヘヘヘへ
ある。この世のすべての苦悩は、人間の過去世から現在に至る誤てる想念が、その運命と現われて消
ヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘへ ヘへ ヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘへ  へ
えてゆく時に起る姿である。いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去る

のであるという強い信念と今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難の中にあっても自
ヘヘへ  ヘヘヘヘヘへ
分を赦し、人を赦し、自分を愛し、人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづけてゆくと共に、守護
ヘヘヘヘヘヘへ ヘヘヘヘヘヘへ ヘヘヘヘヘへ
霊、守護神への感謝の心を常に想いつづけてゆけば、人間は真の救いを体得出来るものであるー
この教義を根本にして、世界平和の祈りをする時、悪と見えるものを、強いて悪ではないなどと自
己の心をだまして、完全円満と思おうとするような、そんな無理なことをしなくとも、自ずから、自
己の神性(本心) の輝きが外に現われて、悪と見えている人々も自然と、その業想念が消え去って
ゆき、拝み合いなさい、などという言葉を超えていつの間にか真実善なる人になってゆくのでありま
す。
天の真理を地上に開顕するためには、どうしても、守護霊、守護神という光の柱と、消えてゆく姿
という真理の言葉が必要なので、ただ、神の子完全円満という観念の言葉だけでは、どうしても、そ
の後に、こうしなければいけない、という説教の言葉がでてきてしまうのです。
190
天の理想を地の現実に現わすために、今日まで幾多の聖者、賢者が、種々と教を説いていたのであ
りましたが、その教は、天の方を主にして説いたり、地の方のいわゆる修養して天に昇ってゆく方法
を説いたり、無為とか、空とかいう教で説いたりしていたのであります。そして今日では、天と地が
十字交叉する丁度中心に位する教が現われなけれぽならなくなっているのであります。
その中心の位になる教というのは、天の真理を、最も無理なく、誰れにも容易に行じ得るものであ
って、それを行じることによって、自己も救われ、人類も救われる、というような教であるわけなの
です。
理想に片寄っては行じにくくなり、行じているようでもそこに無理が生じ、地の現実に片寄って
は、いつまでも相対的な利害関係を離れ得ぬ、その場その場のものになってしまいます。そこで私
ヘヘヘヘヘヘへ
は、世界平和の祈りという、わかりやすく、行じやすくそして自己の浄化と人類社会の浄化が同時に
出来る方法を神様から広めさせられているわけなのであります。無理に悪や病気をみぬようにするよ
り、悪は悪とみて、それも消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中に投入してしまうことの方がよ
り自然で実行しやすいのであります。
問64 霊能者には兎角人格の低い、
とは違うものなのですか
卑しい雰囲気をもった人が多いのですが、人格の高さと霊能力捌
答真実の霊能力をもった人、つまり霊覚者という者は、人格的にも必ず高い雰囲気をもっている
ものなのですが、普通云われる霊能者というのは、一般の人に見えぬ事物が見えたり聞えたり、未来
の予見が出来たりする人全般をふくめて云われていますので、この答の最初に、普通云われる霊能者
と霊覚者との違いから述べてゆきたいと思います。
普通云われている霊能者というのは、その人自体が、自己の本体と一つになって、神我一体の境地
になっていようといまいと、そうした人格的なことはまず省みず、ただ、その人が、霊眼的霊耳的ま
たは霊言的にものを見たり云ったり、普通人のわからぬ事物事柄を当てたり、予見したり、あるいは
自動書記的に超越的な知識や事柄を公開したり、自己がトランス状態になって、霊魂の物質化や物品
取寄せの現象をやってみせたりする、その能力に対して敬意をはらい、霊能者として遇しているので
あります。ですから、そうした霊能力と、その人の人格とが、はなればなれになっていても、その霊
能者にお伺いをたてたりする側からみれぽ、そのこと自体はあまり問題にならぬので、要はその霊能
力が確かか、確かでないか、ということにかかっているわけであります。
ということになりますと、霊能力とは一体どうしたことから生れてくるものであるか、という疑問
が生じてくるのであります。
霊覚者をのぞいた霊能者という者は、その人の悟りから能力が生れてきたのではなく、人間のもっ
ている体のうちの幽体が、肉体よりもはるかに大きく、幽界の波動を、普通人より感受しやすい素質を192
もった人々が、肉体が病んで弱まった時とか、お経を唱えたり、坐輝をしたりして、一種の統一状態
になり、肉体想念が、幽界や霊界に走っている時などに、幽界の生物、あるいは霊界の諸霊と想念の
波長が通じ、肉眼や、肉耳にふれぬことがわかってくるのであります。
しかし、それはあくまで霊覚と云われる神我一体の境地から開けてきた神通力ではなく、ある種の
能力がついたというに過ぎないのです。この種の人々の中には、床の下にあるものが見えたり、財布
の中味が見えたりする透視能力のある人や、人の想念を感じて相手の思っていることを当てたりす
る、他心通のような通力をもった人や、遠方からくる人の姿まで当てる人たちがいるのですが、これ
もその人の人格の高低と、その能力の高低とが等しいものである、というわけではないのです。
人格は低劣であるのに、霊能力は素晴らしいということがままあるのであります。これはどういう
わけかと申しますと、その霊能力は過去世からの、霊能力の修業によるのであって、過去世からの人
格の練磨とは違うのであります。霊能力の練磨、即ち人格の練磨ということにはならないのです。
その人々の人格の高低によって、他界の応援者の高低は定まるのでありますが、他界の生物や霊魂
が低いものであるから、その当て物的能力が劣るかといいますと、そうではなく、低ければ低い程、
肉体生活に近い物質的な波動をもっているので、かえって肉体界の消息や物質的な動きがよくわか
り、その能力が強く確かに働いたりするのであります。失せ物がタソスの引出しの中にあると当てた
り、犯人を当てたりすることが得意な霊能者の中には、意外に低い人格の人がいたりするのは、肉体
193
界の波動の近くに住んでいる、つまり幽界の低い層の生物に応援されているという証拠なのでありま
す。
霊能者の人格が高くなればなる程、その人の霊能は、自分に頼ってくる人々の本心開発のためにむ
けられてきたり、社会人類のためになることに、自己の霊能をむけてゆくようになるもので、個人佃
人のその場限りの当て物をしているようでは、その人の人格はあまり高いものとは思われません。
こう説いてきますと、いくら霊能力が確かであっても、その人の人格の高さとは違うのであり、霊
能力が劣るから、その人の人格が低いとも云いきれません。
ところが霊覚者というものは、人格の高さイコール霊能の高さということになるのです。何故そう
であるかと申しますと、霊覚者とは自己の本体が神であることを認識体験して、自己の霊性をすっか
り開発した人のことでありますから、霊能と人格がアソバランスになるようなことはないのです。し
かしながら、これら霊覚者は、いたずらに、個人の歓心を買うための当て物的指導や、やたらな予見
はしませんので、派手な能力を見せることは滅多にありません。霊覚者の使命は、人々の本心開発、
社会人類の本質の開顕にあるので、そのための霊能力を発揮してゆくのであります。
その最高なる方法は、真実の祈りを、人類に実行させる指導であるのです。人類の一人一人に真実
の祈りを知らせること、これこそ、個人の本心開発並びに人類の本心開発の最大の必要事であって、
全能力をこの一事に集中してよいのであろうと私は思っております。
194
問65 五井先生のところへいっていれば絶対に悪くならない筈なのに、あなたは事業に失敗した、
これはどういうわけだ、と周囲の者から責められます。私自身はなんとも思わないのですが、その人
たちに適切な説明が出来ません。どう説明したらよろしいでしょうか。
答人間がこの世に生きていることは、神様に生かされているからなのだ、と神様に生かされてい
るということが実観になっていると、自分が力んで生きるということがなくなって、神様が自分とな
って生きているということになってくるのです。こうした想念が宗教信仰の一番最初にきていると、
生きるも死ぬるも神様まかせということになって、心の乱れがなくなるわけなのですが、肉体人間は
なかなかそうはなりません。そこで種々の宗教が生れ、種々な教を説いているのであります。
さて、問のように、私についていれぽ事業の失敗などありっこないのに何故失敗したか、というこ
とですが、失敗とか成功とかいうのは、一生を通じた最後の時に判るのであって、一生の途中の成功
というのは、ゲームの途中で勝った、負けた、をきめてしまうと同じような愚かなことなのです。天
下に名を成した人々のほとんどの人が、二度や三度の失敗は必ずという程しているのであって、失敗
の度びに、次の成功への道が、その時開けてきているのであります。それはその人々が失敗を失敗と
して悲観失望してはいずに、その失敗を一つの体験として、その体験を踏み台に次の進展への第一歩
とする気構えにょるのであります。
ところがあなたの場合は、私を通して神につながったから、事業は大丈夫だ、と家族や周囲の人た
195
ちが思ったか、あるいは、神様神様と云っていたって、事業はその人自身がやるのだから、とあなた
の信仰を哩っていたかのどちらかで、前者は期待に反した失望、後者は、それみなさい、といった非
難で、あなたを責める調子になったのでしょうが、その両方共に、真実の宗教信仰ということを知ら
ない人々なのです。
真実の宗教信仰というのは、その人々の本心の開発、つまり神とその人とが真実に一つにつながる
ことが目的なのでありまして、現象的の瞬間くの利害得失のためにやるべきではないのです。現在
憶現実生活の利害得失のために、信仰に入っているような人でも、実はその人の魂自体や守護霊は、云
いかえれば潜在している意識は、神と一体観による、本心の開発を目的にしているのであります。そ
れをその人の表面の心がまだ知らないだけなのでありますが、いずれは、そした潜在意識が表面意識
に現われて、現実の利害得失に把われぬ、魂的信仰に入ってゆくのは必定なのであります。
あなたなどは、もうすでにそうしたその場その場の利害得失に把われぬ心境で、私のところにきて
いる人なのです。
信仰しながらの事業の失敗や、病気や不幸なる出来事というのは、それはすべてその人たちの本心
開発の障害になる業因縁を、守護霊、守護神が、軽い苦しみのうちに消し去ってくれている姿であっ
て、その人のマイナスの面としての失敗や病気ではないのであります。その原理を悟って、すべての
不幸や失敗は、本心からの光明による真実の幸福生活を、この世においても実現し得るためのもので
196
あって、自己や自己の家庭のマイナスとなることはないのだ、何故なれぽ、人間はすべて神の子であ
って、完全円満性をうちにもっているものだから、その完全円満性を蔽い隠している業想念が、一つ
一つ消え去ってゆき、次第に神の子の本心が現われてくるのだから、後々の生活が不幸になる筈がな
いのだ、と思いこむのです。そうした、神の完全性、守護霊の慈愛を信ずる心の練習を常々してゆくこ
とこそ、信仰の真の道なのであります。
あなたの事業の失敗を、とや角いう家族や周囲の人々も、それは単なる表面の意識だけがそう思っ
ているので、実は、その潜在意識や魂的の心では、その失敗と見えることが、後々の本心開発からく
る生活の大安心に至る道程であることを知っているのです。
ですからあなたは、その失敗のことについて、とやかく言訳けをせずに、明るい顔をして、失敗は
成功のもとだよ、位の軽い口調で、新しい事業の道に進んでゆくことです。あなたの心に、私を信じ
つづけ得る確信があれば、あなたは必ず今の事業とは比較出来ぬ程のよい事業に恵まれ、明るい一生
が送れるのであります。
あなたが事業を失敗したということは、あなたのやり方が悪いとか、誰々の働きが足りなかったと
かいう、現在の出来事ではなく、過去世からの業因縁の消えてゆく姿である、ということを、はっき
り知ることが大切であり、今日までのやり方を悔やんだり、責めたりせずに、さらりと消えてゆく姿
の中に流しこんでしまうことです。197
誤ちを悔ゆるはよけれ悔いのみに生くるいのちは愚かしきもの
という私の歌にあるように、その時々に現われること、つまりこの現象生活の中に現われるすぺて
の事柄は、善いにつけ悪いにつけ、皆現われては消えてゆく姿であって、永劫に消え去らぬのは、神
の分霊としてのあなたをふくめた人類の姿だけなのであります。それはすなわち、神の永遠の生命で
あり、個々人の永遠につながる生命なのであります。この生命を、本心とか霊とか、いうのでありま
す。
私の宗教は、根抵を本心開発、霊性開発に置いているのであり、その開発にしたがって、その人の
生活の向上や、真の幸福生活が現われてくる、という教なので、ただいたずらに私のところにくれば
事業をよくしてあげます、貧乏を直してあげます、という教ではないのであります。
198
問6 肉体人間の誕生や前生については種々と説がありますが、先生のお説はどのようなものかお
聞きしたいと思います。
答この問題はなかなかむずかしい問題で、一口に申し上げられるようなものではありませんが、
紙面のゆるす限りお答えしてまいりましょう。
まず誕生について申し上げてゆこうと思いますが、肉体の誕生を語る前に、個性的霊魂の誕生を先
に話してまいらねばならぬと存じます。
今日までの宗教者は、霊と魂とを一つのものの別名として、いずれも同意味でつかっていますの
で、霊を理解する場合に非常な誤った考え方を一般の人々にさせているようであります。例えて云え
ば、幽霊などという言葉がありますが、実は幽霊などというものはないのでありまして、これは幽魂、
あるいは幽想念というべきなのであります。幽霊などという言葉をつかっていますと、神と同意義で
あるべき霊という言葉が、何か迷った、低級ないやらしい、恐ろしい感じになって、霊の話などは嫌
だ、と一口に霊への関心を断ってしまう人々をつくってしまっています。
霊とは、あくまで神そのものの別名でありまして、大霊あるいは宇宙霊と云えば、大神様のことで
あり、直霊と云えぽ、人間の根源の光であり、分霊と云えば、肉体人間の基の姿ということになるの
でありまして、これらの霊には迷もなければ把われもない、自由自在の体であり心なのであります。
ぼく
そして、分霊(光) に想念が加って魂が生れ、魂から醜がつくられ、分霊魂醜となって、肉体人間が
出来あがってくるので、霊と魂とを一つに説明していると、人間の真実を説明するのに往々誤ちを冒
かすことになるのです。
神と人間その他の著書にも書いてありますが、人類としての発端は、宇宙神(大霊)が、各種の光
を放ち(分ち)そのうち、人類そのものとして働く光の根源を七つの光(生命) にしたのでありま
す。これが直霊であり、人間は誰れ一人として、この直霊の分霊でないものはないのです。そこで、
人間神の子という真理の言葉があるのであります。
199
そしてこの直霊(神)から分れたいくつかの分霊が、またいくつかに分れ、またまたいくつかに分
れて、霊界という世界が出来たのであります。これは霊人の誕生であり霊界の誕生であります。この
霊人たちが、大神の他の分られた光によって出来あがった宇宙の星と、人々に呼ばれている世界に、
魂醜となって、物質体をまとって生活することになり、ここにはじめて、地球の肉体人間と同じ要素
をもつ人間がつくられたのであります。そうした星々の世界で種々な経験を積んだ分霊たちは、一方
は再び直霊と合体し、守護神という役目になって、一方の分霊がまたいくつかの分霊となり、分霊魂醜
となって、地球世界に誕生することを指導し、その地上生活を援助することになったのであります。
霊界に生活していた分霊たちは、お互いに光の交流を行ない、七種類の光(性能)が、種々と交ぜ
合わさり、その光の交流の瞬間に、多くの子孫的分霊に分れてゆくのですが、このうち二種類の光
(直霊)から分れた分霊たちはそのまま霊界で働いているのであり、残りの五種類の分霊たちは、守
護神の援助によって、物質界に、霊魂醜として最初の地球人間と誕生していったのであります。
ことだまはじめ
神道でいう言霊は、各神霊の光の働きを説いているのであって、太初にコトバあり、コトバは即ち
神なりき、の聖書のコトバは光なのであり、そしてアナウエイ(アイウエオ) の母音は、五直霊(命)
のことなのであります。ですから、言霊がはっきりこの肉体界に、そのままのひびきを現わせば、こ
の地球界に神界が出現するのでありますが、それは私が常に申しているように、業想念(自我欲望の
想念) が邪魔していて、今日ではいまだに神々のみ心はそのまま現われてはいないのであります。
200
光は神の言葉であり、業想念は迷(カルマ) の言葉であって、この二つの言葉が入り交じって、肉
体人間の言葉となっているのでありますが、光の言葉は神界に生れ霊界を通って輝いている言葉であ
って、永遠にひびきわたっているのでありますが、業想念の言葉は、幽界、肉体界のみにある言葉な
ので、いつしか消え去ってゆくべきものであります。
さて話が少しそれましたが、これで肉体界の誕生を簡略に説明したわけですが、今度は現在の位置
から、肉体人間の誕生や前生について話してゆきたいと思います。
まずはじめに人間の誕生には切っても切れない父母と魂との関係を述べてゆきましょう。しかしそ
の前に、人間の生れ更りということについて話しておかぬと父母との関係に話が進みにくいのです。
人間というものは、この世に何度びも生れ更ってくるものなのですが、一般の人々はあまりこのこ
とについて知っておりません。もっとも誰れもが自己の前生を知り得ないから無理もありません。
ところが、心霊研究が進んでまいりました今日では、科学的にも再生ということは一部の人々には
認められてきているのです。しかし再生つまり生れ更りということも、いちがいにこうだと云えるよ
うなものではありません。と申すのは、生れ更りの中でも大別して二種類の生れ更りがあるからです。
一種類は、前生何の何某が、今生で何の何某として生れ更ったというように、前生の一人の因縁因
果特徴というものをそのまま受けついできた単なる再生、また一種類は、種々な霊魂の因縁因果や特
徴を少しつづ混ぜ合わせて、一人の人間として再生している混合霊魂的人間が在るのであります。二aoi
種類目の生れ更りの一つとして、一人の霊魂が二人以上の人々に分れ分れて生れ更ることもあるので
022
す。
こうした二種類あるいは三種類とも云える生れ更りのいずれをも古い霊魂は誰れしも経験している
のであります。古い霊魂とは、より直霊に近い分霊魂であり、生れ更りの数も多く、あの世とこの世
の両面にわたって経験の多い霊魂をいうのであり、神に対する認識経験の深い人々であるのです。そ
して新しい霊魂とはこの反対であって、あの世とこの世の経験にとぼしいために、自己の本体である
神への認識が浅く、無神論者になっているのです。
ここで肉体の父母と魂との関係と霊魂としての親や祖霊ともいうべき守護霊、守護神について語る
ことに致しましょう。
肉体の親子を霊魂的にみますと、その分霊の霊系統が等しいということもありますが、それは分霊
になった年代が等しいということではなく、魂醜、つまり幽体と肉体的要素が類似している老たちが
結び合うのであります。ですから、親が古い霊魂で、子供が新しい霊魂だというのではありません。
かえって親より子供の方が霊魂的には古い場合もかなりあるのです。そこに親に似合わぬ立派な子が
育ったりするのであります。肉体の親子は霊魂的にみれぽ、兄弟姉妹の立場であって、霊魂としての
親子でなく、霊魂的な親ともいうべき、正守護霊や、祖父母的立場にある守護神から、過去世の縁に
よって、その分霊魂を委任されて育ててゆくのが、この世的な両親なのでありますから、親にとって
は子供は神様からの預り者であり、子供にとっては両親はこの世における最大の恩人なのでありま
す。何故かと申しますと、この世に生れるということは霊魂の進化にとって重大なるプラスになるか
らであります。近頃は子供たちのうちで頼みもしないのに両親は勝手に自分を生んだのだから、親な
どみる必要がないと云う人々があるそうですが、これはとんでもない考え違いで、自分が頼んで親に
生んで貰っているのが真相なのです。
りんね
次に輪廻について少しお話してみましょう。輪廻とは三界(肉体界、幽界、霊界の下層、ヨガの教
でいえば、肉体、アストラル界、メンタル界)の、自己の想念行為によってつくった環境を輪のよう
に廻わりつづけることであります。つまり自己の想念行為のままに、生れ更りして、肉体界と他界と
を往ったり来たりして生活してゆくことであります。
この輪廻は、自己の想念行為の波に乗って廻わりつづけるという法則が出来ておりまして、いかな
る環境が現われてきても、それはすべて自己の想念所業.のわざであるのです。この輪廻の法則を断ち
切り、あるいは乗り超えるためには、自我欲望の想念を、すべて神のみ心に返上してしまうこと、つ
まり神にすべてを全託してしまうことが、一番早道なのであります。その道を私は常に白光誌で説い
ているのですが、それは消えてゆく姿の教と、守護霊、守護神のご加護に対するたゆみない感謝行で
あります。そしてそれに附加して世界平和の祈りであります。鋤
神の世界に想念が入っていない以上は、苦界ともいうべき三界の輪廻転生は止まないのですから、
いちはやく神の世界に飛びこんで、輪廻の世界を逃れ、自由自在心をもって、光明世界に住すること
04
が一番だと思います。神界や霊界の上位は貧老病死のない世界であり、明るい無限の進歩だけがある2
世界なのであるからです。
最後に最も大事な真理をお話し致しておきましょう。それは今まで説いてまいりました誕生や前生
や再生などということは、人間の本体の世界、本心の世界のことではなく、あくまで業想念の世界の
ことであって、人間の本体では常に神の世界において、光明燦然たる光を放ちつづけているというこ
とであります。その真理は肉体人間の頭脳で知ろうと知るまいと、厳然たる事実であって、この世や
幽界、霊界を往来している人間(霊魂)は、水に写っている影のようなもので、その実体はなく、い
つかは消え去ってゆくものであります。
ですから真理の面から一言にして云えば、人間が自己の前生を云々したり、過去世の因縁や今生の
幸不幸にひっかかったりして、一喜一憂しているのは、消え去ったもの、あるいは今現われて消え去
ろうとしているものを、把え、追いかけるようなものであって、あまり智慧のある話ではないのであ
ります。
前生云々と常に云う人たちがありますが、前生はまたその前々生があり、そのまた前生があるので
いつの時代が、その人の運命にいつ現われてくるか、はかり知れないのですから、すべての事柄は、
みな現われては消えてゆく姿として、その姿に把われる想いを世界平和の祈り、神のみ心の中に投入
しつづけていれぽ、私が今一言にして申した真理の世界に、いつか知らず入っていって、自己の神で
ある実体を知ることが出来るようになるのであります。皆さんは素直に、神の愛を信じ、自己の神性
を信じつづけて、世界平和の祈りの中に生活していって下さるよう願います。
問67 私は消えてゆく姿のみ教を出来得る限リ行じているものですが、私は過去に商売のことで他
人に借財をし、いろいろと迷惑をおかけし、いまだ返し得ずにいます。他人に迷惑をかけたことも、
やはリ消えてゆく姿と想ってい、のでしょうか。お教え下さい。
答私が何故消えてウく姿の教を説いているかと申しますと、人間の真実の姿、神と一つにつなが
っている神の子人間の姿を、この世に現わすために説いているのでありまして、この世の人々を、自
己の行為に無貴任な、ルーズな人にしようとして説いているのではありません。このことは常識ある
人ならば誰れにでもわかって貰えると思います。
この世に現われるすべての想念も行為も、それが善であれ悪であれ、それはすべて消えてゆく姿で
ある。それは自分に現われようと他人に現われようと、すべて消えてゆく姿なのである、と私が説い
ているのはその奥に、この現象世界の出来事は、何もかも、時間的経過によって過ぎ去り、消え去っ
てゆくもので、変じ滅してゆくものである。ただ実在するものは、神のみ光であり、神のみ心であ
05
り、神の理念のみである、という真理があるからであります。2
消えてゆく姿の奥に神も仏も無いとするならぽ、その消えてゆく姿は、虚無的な、刹那的な何処へ
06
流れていってしまうかわからぬような無目的な生活態度となってゆくのでありましょうが、私の説い2
ているのは、人間は神の子であって、完全なる愛と真、大調和の姿を本来の姿として生きる生命であ
って、そうした生命本来の姿が現われていないのは、この人類が、生命本来の姿から、物質的、肉体
的欲望の世界に想念を縛ぽりつけられて生活しているからであり、そうした習慣的業想念の中で生活
していては、いつまでたっても人間本来の神の子的人類世界が現われることは出来ない。だから、一
度そうした物質的人間観、肉体人間観を、人間各自の心から離させ、業想念と神の子人間観とを知ら
ぬ問に取りかえてしまおう、というのが、私の消えてゆく姿と、守護霊、守護神への感謝行という白
光表紙裏の教義になっているのであります。
人間の想念行為の習慣というものは過去世から積み重ねられたもので、ちょっとやそっと変えよう
と思っても、やめようと思っても、抑えてみても、なかなか自分の思い通りになるようなものではあ
りません。その最も大きな業想念は、人間は肉体そのものである、肉体が無くなれぽ人間は無くなっ
てしまう、という死を恐れる肉体保存の想念であります。
この想念は、単なる修養や、宗教的説教ではとても取りのぞくことは出来ないのです。そしてこう
した想念は、常に自己を責めさいなみ、他を責め裁くような想念に転じてゆくのであります。
今日までの宗教者の説教は、このような業想念の因縁因果をあまりに絶対なるものに見すぎて、そ
の因縁因果を恐れさせすぎたり、また反対には、神仏のみ心をそのまま肉体人間に強要して、こうし
てはいけない、ああしてはいけない、こうしなければならぬ、ああしなければならぬ、というように、
業想念の波の重さを計りもせずに、ただ単なる理想を押しつけようとしていたのであります。
ですから、片方では因縁や罰を恐れすぎ、人間は神仏とは遠いものであると、人間から神仏を遠く
へ離してしまい、片方では、頭で知識として神仏のみ心がわかりながら、自己の本心を蔽っている肉
体保存の業想念の波を突き破ることが出来ず、自己を責め裁き、あるいは他を責め裁いたりして、暗
い世界を現出していたのです。
ぽんのうぼだい
そこで私は、その両方に片寄らず、煩悩即菩提、災即福というように、自己の心にそまぬことや不
利のことが自己の身辺に出てきたり、自己の想念が自分自身を苦しめたりする場合、それは過去世か
らの神仏を離れた自分の想念行為が、今現われて消えてゆく姿で、そうした姿が現われたことが、も
うすでに自分の中の本心の光が輝きを増していることなので、消えてゆくに従って、自己の心も自己
の運命も善くなり展けてゆくのである。そして自己の業想念を消して下さるのは、守護の神霊なのだ
から、常に守護の神霊への感謝で生活なさい、と説いていて、自己をも人をも、世の中をも責め裁く
ことから想念を解脱させているのであります。そうしますと、その人も気づかぬ間に、その人の心が
明るく豊かになり、安心立命してゆくのであります。これは多くの人の体験であって、間違いない事
実なのです。
207
問のような場合は、今夏自己の過去を覗いて自分の心を責めることはありませんが、あなたに迷惑
08
をかけられた相手は、定めしあなたを恨んだり、憤ったりしていることでありましょう。そこであな2
たは迷惑をかけた相手に心からお詑びして、改めて心を立て直し、そうした過去はひとまず消えてゆ
く姿と観じ、自己の守護の神霊への感謝と共に、相手の本心の開発を、相手の守護の神霊にむかって
心の中で、唱えてやるといいのです。
相手の本心開発を願うことは、相手に光を送ることになるのですから、そうした祈りによって相手の
本心開発が促進されることは事実です。そうしますと、相手の肉体想念にまつわっている業の波が幾
分つつでも薄くなり、守護の神霊の光明をうけやすくなり、その人の心も運命も展けてきて、あなた
を恨む想念もいつしか消え去ってゆくのです。そしてあなた自身はそうした祈りによって、相手の借
財を返せるような立場になりましたら、改めて感謝と共にこの借財をお返ししたらよいと思います。
もし一生返済出来ない場合でも、今申し上げたような祈りをしていれば、形を変えた恩返しになって
いるので、実はこの恩返しの方が、より重大な善であるのです。
物の借りを、法において返却するわけで、物施より、法施の方が重いという仏陀の教と同じことで
あります。
問68 私は道を歩いていても、神社やほこらなどを見るとすぐ拝みたくなるのですが、拝んでも差
支えありませんか,
答信仰深いと云われる人には、そうした人ぶ多いのですが、やたらに神社やほこらを拝んでも仕
方がありません。どんな神社やほこらにも神様がいらっしゃると思うことは迷信です。
八幡様とか何々様というれっきとした御社であっても、実はそのご本体は来まさずに、幽界の生物
が住みついていることがかなりあるのですから、名も知れぬほこらなどをやたらに拝んでも仕方があ
ヘヘヘヘヘヘヘヘへ へ
りません。それこそさわらぬ神にたたりなしであります。
宗教信仰とはやたらに神社詣り仏閣参りをすることではありません。自己自身のうちの本心(仏)
を、自己の想念行為の中に輝き出すことのための宗教信仰であって、ただ頭さえ下げれば敬神の心で
あると思ったら間違いです。
本来神仏は、神社や仏閣の中にあるのではなく、人間の想念行為のうちに現われるものなのです。
その想念行為とは、愛と真と美のことです。いくら神詣り仏参りしていても、その行ないが、愛にと
ぼしく、真が足りぬようなものであったら、それは単なる自己慰撫のためであって、自己の神性仏性
にそむくものであるのです。
ですから、宗教信仰の最も大事なことは、自己の想念行為が知らぬ間に本心を輝き出している、と
いうようなものでなけれぽなりません。
と申しても、何も神社仏閣を参拝してはいけないなどと私は申しているのではありません。神社仏209
閣に参拝するのには、参拝するだけのしっかりした心構えがなけれぽなりません。何々講の物見遊山
10
がてらの神社仏閣詣りなどは、宗教信仰とも敬神の心ともなんの関係もないことです。2
どんな神社にでもほこらにでも、すぐに家内安全、商売繁盛を願って歩く人がいますが、この人た
ちは幽界の不良想念のよい餌食であります。
こんな自分のことばかり思っている人に、どこの神様が真の利益を与えるでしょうか。そうした人
々に利益を与えるのは動物霊と普通呼ばれる、幽界の感情霊(不良想念) だけであります。こうした
幽界の生物は現象利益を与えるかわりに、その人々にいつまでもついて離れず、その人々を弄びつづ
けるのです。
真の神々は、その人々に現象利益を与えもするが、その人の神性を必ず開発させ、この神性開発の
副産物としての現象利益を与えるのであって、その人が現象利益を与えられるまでには種々の心の勉
強をさせられるのであります。
ですから、現象利益を得たいと焦り心のある人でも、宗教信仰に入る場合には、必ずその宗教団体
の教義と、この教の中心者の人柄をよく観て入るべきで、すぐにご利益をあげるというような甘い言
葉につられて入信するものではありません。
大体神様というものは、人それぞれのうちに行為の中に神性として存在しているものであり、また
背後(外部的) にも、守護霊、守護神としてその人々を護りつづけているものなのですから、やたら
に、現象利益のための神社詣りや、宗教団体入りなどをせぬ方がよいのです。
問を出された方は、そういう意味ではなく、なんとなく、神社やほこらなどを拝みたくなるらしい
のですが、拝みたくなったら、私の提唱している、世界平和の祈りを唱えるとよいのです。世界平和
の祈りは大乗的な菩薩的な祈りであって、自己のご利益本位の願い事ではありません。
ですから、自己の業想念の波はこの祈りの中にはありません。もしあっても、世界平和の祈り自体
がもつ強い光明にその想いは消し去られてしまいます。
その神社やほこらが、たとえどのような、いまわしいものであり、どのような幽界の生物が住って
いようとも、世界平和の祈りをしている人を冒かすことは出来ません。出来ぬどころか、世界平和の
祈りの大光明に照らし出されて、そのものらは、そのものら本来の住いに浄まって還えってゆくこと
になるのです。
この本を読んでいるあなた方は、常に世界平和の祈りの中で生活して下さい。世界平和の祈りによ
る生活は、あなたを善くするぼかりでなく、あなたの周囲にあるすべての人々にあるいは物に好影響
を与えているのですから、ただひたすら世界平和の祈りの中で生活をつづけて下さい。
世界平和祈るは神のみ心のひびきにあれば祈るたのしさ
の心になって祈りつづけて下さい。光明はあなたの周囲から次第に全世界に輝きわたり、真実の人
1
類世界の平和が訪ずれてくるのであります。2
白光の同志はこのことに確信をもって生活して下さい。
212
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214
赤ん坊の世界
赤ん坊の世界は
そのま玉神様につながつている
いのちがむき出しに
表面に現われている
問69 妹が心臓をわずらって、永いこと寝ております。なんとか直したいと思っているのですが、
病気を直そうと思っている間は、病気は直らない、とある人から云われました。これはどういうこと
なのでしょうか、また病気を直すためには、周囲の者がどうしたら一番よいのでしょうか、お教え下
さい。
答人間生活の中で、一番心をわずらわすものは病気と貧乏であろうと思います。いかに健康であ
くらし
っても、日々の食生活に追われていては、楽しい生活が出来るものではありません。
そこで人間愛、人類愛に富んだ人々が、この二つの苦しみをこの人類世界から消し去りたいと思っ
て、科学者(化学・医学)となり、社会運動家となり、または宗教者となって、自らの身を捨てて、
働きつづけているのであります。
あなたの家のように、若い育ち盛りの少女が病気でいることは、老人が病気で寝ている以上に、家
人の心をわずらわすもので、なんとも云えずお気の毒に思います。
しかしその病人を直すためには、家の人々が、ただ可哀相だ可哀相だと思いつづけて、悲しみの想
いをその病人に送ってばかりいてはいけません。そうした暗い想念は、それがいかに愛情からでてい
るものであっても、かえって病人のためにはマイナスの働きしかしないのであります。ですから病人
の看護は親兄弟より、他人の方がよいとさえ云われているのです。
125
大体、病気の原因というのは、生命の働きと想念行為とが、アンバランスになったことが根本なの
で、それが前世からのものと、今生でのものとがあるだけです。幼い子供たちの病気はほとんど前生
からの業因縁が、肉体を通して消え去ろうとして現われているものでありますが、その病人の苦悩を
増さしめるような状態は、すべてその両親の想念行為にあるのであります。
病気を直そうとしているうちは直らない、と誰れかに云われたそうですが、それは病気というもの
に想いが把われ過ぎていては、消えてゆく姿であるべき業想念を掴んでいて消え去るのを止めている
のと同様だからという意味だと思います。
健康というのは、生命の力が、想念行為に、邪魔されずに肉体全体にゆきわたって働いている時の
状態でありますが、一度び、想念行為が生命の力の素直な働きを阻止しだすと、阻止しただけが、肉
体の働きのマイナスあるいは、生活環境のマイナスになってゆくのです。そのマイナスが肉体的であ
った場合が、病気となって現われるのであります。
ですから病気でも、貧乏でも神から流れてきている生命の働き、霊の働きを想念行為で邪魔し阻止
した時にその原因が出来、やがて消えてゆく姿として、肉体や運命にその結果を現わしてゆくのであ
ります。
人間は生命体であって、生命が肉体を去ることによって、この世の生活は終ってしまうのですが、
この生命が何処からきて何処に去ってゆくのかは、現在の科学では未だ判明せず、不可知という答が
でているのであります。この不可知なる生命の根源を神と宗教者たちは呼んでいるのです。
216
この不可知なる生命は、自由に把われなく働くことによって、最高の力を発揮してゆくもので、こ
の生命の生きる力、生かす力を阻止する想いを出しただけ、不健康となり、不自由となるのです。こ
の原理を知って、病気の人やその周梱の人々は、生命本来の生々とした光すなわち明るさ、素直さ、
把われのなさ、ということにむかって、生活目標を定めなければならぬと思います。
たと、兄現在どのような家人が病み臥していようと、それは生命の自由さを阻止した業想念行為のマ
イナス面が、今肉体の病気という症状に現われて消え去ろうとしているところなのだから、すべての
苦悩の状態を消えてゆく姿と観じ、それだけでは心が明るくならぬでしょうから、守護の神霊への感
謝の想いの中に、その病気に把われる想念をすべて投入してしまう祈りを常に℃ つづけるのでありま
す。
そう致しますと、病気々々という暗い想い、直るか直るかという不安の想いなど、生命の働きを妨
げる想念が、守護の神霊の光の中で消されてゆき、病気の症状がそれ以上悪化することを防ぐと共
に、守護の神霊の光明が、その病人の幽体や肉体に流れ入って、生命と想念のアンバランスを調整し
てくれるのであります。
そうした心構えを根抵にして医療を受けていれば、その治療も大なる効果を納めてゆくと思うので
す。
17
すべて自分や自己の関係者に不都合のように見える事態は鴇過去世からの業因縁が消え去ってゆく2
姿であり、消え去ってゆくにしたがって、この人や周囲の人々の心も運命も開けてくるのですから、
128
再びそうした業想念を積まぬように神のみ心の中に祈りの心をもって、入りこんでいることが大事な
のです。それが私の提唱している世界平和の祈りなのですから世界平和の祈りを、心の中で鳴りひび
かせてゆく生活をしてゆくようにしていることが大事なのです。
問70 世界平和の祈りの中にある、私たちの天命が完うされるように、ということはどういうこと
なのでしょうか。
答世界平和の祈りの言葉は、簡単な言葉のようで、実に深い意味をもっているのであります。
祈りの言葉はあまり長たらしいものでは、一般の人々がそれをおぼえるだけでも大変だし、短い言
葉よりかえって効果が薄い場合が多いのです。
そこへゆくと、南無阿弥陀仏とか、南無妙法蓮華経という短い言葉の称(唱)名方法は実に素晴し
い方法だと思います。あの短い言葉は、人々を統一に導く最もやさしい方法でもあります。しかし一
般の人々には、その深い意味はわかっていないので、日常生活の中で、その称(唱)名が生かされる
ことが少く本気でこれを唱えることをしない実情であります。
そこで現代ではどうしても、現代の人々にすぐ了解出来、しかも、唱えやすい祈りの言葉が必要に
なってきたのです。そこに生れたのが世界平和の祈りなのであります。この祈りの最大の特長はこの
祈りの言葉を唱えようと心で想う瞬間に、もはやその人のところに、この祈りを私に提唱させた救世
の大光明神霊団のみ働きかけが、行なわれているということなのであります。
ですから、この祈りは全部の言葉を形通りに唱えなくとも、すでに祈り言の効果があるわけなので
すが、形通りに唱えた方が気持のよい人は形通りに唱える方がよいのです。
第二の特長は、子供にでも意味のわかる祈り言葉であることで、一度読み聞きすれぽ、その祈りの
意味がすぐにでも心に沁みてくる、ということであります。
ただ問のように、私たちの天命が完うされますように、という祈り言葉が少しむずかしいぐらいな
ものです。
天命ということはどういうことかと申しますと、読んで字のごとく、天の命、すなわち神の命令神
意ということで、神からきた命ということでもあります。私ども人間のすべては神の生命を分け与え
られてこの世にきているのであり、神のみ心をその一人々々がはたしてゆくべきものなのでありま
す。
神のみ心というのはどういうことかと申しますと、一つの生命が多くに分れて働き、しかも一つと
同じような、なめらかな調和した交流となって、いろいろな色彩をもちながら大調和した姿を地上界
19 2
に現わす、という、いわゆる地上天国という世界を顕現することにあるのです。
人間の一人一人はすべて、神のみ心の分れであり、み光の分れであって、それにはずれるものはな
いのです。従ってどのような人にも天命は必ずあるのであります。しかしながら、その人の一生でこ
の世の天命をはたしきってゆく人と果しきれずにあと何度もこの世に天命をはたしにくる人とがある
わけで、この差はその人の本心を蔽う業想念の層の深浅によるのです。
そこで世界平和の祈りの、私たちの天命が完うされますように、の祈りの意味がはっきりおわかり
になってくると思います。私どもは、この世で、今生で、私たちの天命を完全にはたしてゆきたいと
思うのです。自己に示された神意をはたしきってゆきたいのであります。これは、この世的な業想念
的運命がはたされてゆくということと意味が違うのであります。
ところが、たいがいの人は、自己の天命が何であり、どのようなものであるかがわからないので
す。はたして今やっている職業が天命なのか、自分の生活が天命にかなっているものなのかがはっき
りわからないのであります。
そこにこそ、世界平和の祈りが生きてくるのであります。先程も申しましたように個々人が神意を
完うすることが、天命を完うすることであるという理にはどなたも疑義をはさまれぬことと思いま
す。
世界平和は神意であります。世界平和の祈りは神のみ心の現われであります。そこで、個々人が、
自己の天命のいかなるものであるかがわからぬとしても、いずれも神のみ心、神意を現わすためにご
220
の世に生活していることには間違いないのですから、神意であり、神のみ心の現われである、世界平
和の祈りをすることそのものが、その人、その人の天命を完うしていることになるのであります。そ
して、その人の職業あるいは家庭を通しての働きは、日常そのままで天命に通ずるものとなってくる
のであります。
この理が頭でわかってもわからなくても、素直に世界平和の祈りをしていれば、いつの間にか、な
んの理窟もなしに、あなた方は、天命を完うしているのであり、神のみ心である、地上天国顕現の一
つの役割をなしつつあるのだということになるのです。
ですから、気にそまぬ職業に憂々としておられる人も、病床に叩吟しておられる人も、世界平和の
祈りの中に自己の想念を投入していることだけで、自分がこの世に生れてきたことを意義づけている
ことになるのであります。
もっと云いかえますならぽ、自己の業想念を、神様のみ心、み光の中に常に投入していて、この世
の業想念を少しでも消滅するために役立っている人は、すべて天命を完うしている人と云えるので
す。
ここに従来の小乗的祈りを超えた、世界平和の祈りの大きな効果、大きな役割があるということに
なるのであります。
のごと
天照らす真の光地によぶと我が祈り言は平和の祈り221
であるのです。
222
問71 白光誌新年号に生長の家の教との相違点というご法話の中で、生長の家の縦と横の二元論を
私はすっぱりと縦【元に割リきってしまったのです。と書かれていらっしゃいますが先生は常に、あ
なた方も縦と横との十字交叉の中心の器にならなければいけない、と説いておられるご説と違うよう
に思われますが、この点はどう考えたら宜しいでしょうか。
答なかなかよいところに気づかれました。生長の家でいう縦と横ということは、縦は勿論人間神
の子完全円満ということで、悪も不幸も不完全な姿は無いというわけですが、この縦の教に対して、
この横の教というのが、業生の人間の精神分析的、因縁因果の解剖分析でありまして、縦の教で無い
と云い切ったものを、横の教で把えて分析しているので、折角人間神の子という明るい道を開いた効
果を、一瞬にして暗い業生の面に引き下してしまっているのであります。人間神の子と云ったら徹頭
徹尾神の子で通さなければいけません。これでは神の子になったり、業生の人間になったりして、ど
ちらの教を主にして生きてよいかわからなくなり、結局想い難い神の子より、業生の精神分析の方が
興味があるので、その方に想いがむきがちになってしまうのですし、種々とごたごたとむずかしい問
題が起りゃすいのです。そこで今度は私が縦一元に割り切って、神の子の人間一本の教にしたのであ
ります。
この世の中は、勿論縦の線と横の線があって存在しているのでありますから、私の教も実は縦横の
大調和を説いているのですが、私の横は生長の家の教のように分析的ではなく、いわゆる消えてゆく
姿として、何ものにも何事にも想いを把えさせないようにしてあるので、横の教と云いながらも、業
生をつかんだ横でなく、縦の教の光り輝く状態と同様になってまいるのです。ですからひとまず消え
てゆく姿を、横の教として、いかなる業想念(怒りや恨みや妬み等々)が出てこようと、どのような
病気や不幸が出てこようと、みな過去世からの業因縁の消えてゆく姿であって、消えてゆくに従っ
て、縦の教である、人間神の子の本心が光り輝いて出てくるのである。と説いているのですから、横
の教もやはり、神の子人間としての人間を観じての教なのであります。ですから生長の家の横の教と
誤まられないように、縦=兀に割り切って、と云ったのであります。消えてゆく姿を横の教として、
消えてゆく姿なのだと説いた時には、もはやその横の線は縦の線の光明の中に吸いこまれてしまって
いるので、その瞬間に縦横が大調和して、天地を通した円光になっているのであります。
消えてゆく姿という教には、業生の人間を掴む姿はないので、業因縁を分析して、自己を責めた
り、他を裁いたりする想いが一つもないのであります。もし消えてゆく姿だと思いながらも、自己を
責め悔み、他を裁き怒る想念が出てきた時には、その想念も消えてゆく姿として、縦の教である、神
の子人間、本心の中に、あるいは守護の神霊への感謝の中に、もっと進んで、世界平和の祈りの中に
223
投入してし
まうのであります。徹底した消えてゆく姿として、すべては祈りの中に、神の子人間の中
に自己を住まわせてしまうのです。
こう考えますと、私の横の教は、縦の教と等しいものであるのですから、縦と横と云っても、縦一
元と云っても、縦横調和の円光的教と云っても、天地大調和の教と云ってもよく、実在の世界をその
ままこの現象面に現わす教となっているのであります。
皆さんに縦横十字交叉の中心の器になって貰いたいというのは、横の業生の世界に生活しながら、
消えてゆく姿という言葉の乗物に乗って、いつの間にか縦の神の子人間となるために、素直に空っぽ
な心で祈れる肉体人間、つまり、器になって貰いたいということで、私はすでに守護神の力によっ
て、そうならされているのであります。
縦横の十字交叉というのは、理想と現実の一致点とも云えるのですから、皆さんが、天の理想(真
理) を肉体をもったままで、この地上界に現わすためにも、この地上界の業生の姿、業因縁の波動を
すべて消えてゆく姿として、十字交叉の中心点、つまり、中庸の姿として生かし切って下さることを
私は祈っているのです。
私は今日までの宗教があまりにも、人を責め裁いてはいけないと説きながらも、その教理が自然と
自他を責め裁かずにはいられぬようになっているのを、常にこれではいけない、教理にも実際の生活
の面にでも一切責め裁かぬ愛と赦しの教が必要だと痛切に思っていたのでしたが、ついに現在の教の
ような、消えてゆく姿と、守護の神霊の加護による救われを私の体験を通して説きはじめたのであり224
ます。
宗教者はともすると、神から道を説かされていることを忘れて、肉体人間の自己が道を説いている
ように錯覚しがちで、自己を一般人の上位に置こうとするのであります。私はすでに肉体人問として
の自己は、凡愚なものであると、すっかり守護神の中に捨て切って、捨て切ったところから、縦横十
字交叉の中心点に器として、場所として立たされているのであります。人間は一度肉体の自己を凡愚
なりと捨て切らぬと、いつまでも小智才覚が残っていて、真実の神の子の姿を現わし得ません。自己
の言葉に自己の知識や力を喧伝したい想いがあってはならないのです。私の役目は凡愚と自己を捨て
切ったところから、守護神方の力によってなされていることをご承知下さい。私の教は浄土門的易行
道として、法華経を説き神道を説く立場にあり、今日ではやさしく出来る世界平和の祈りにすべての
教を集中しているのであります。
問η 私は数十年来、真実の安心を求めている考てございますが、道を尋ねる教団や道場でかえっ
て人々の想念を背負’ 2て、数日病気のようになってしまいます。これはどうしたことでしょうか、ま
たこれを超えるには業因縁を全く断ち切ってしまわなければ駄目だと思いますが、その秘訣をお教え
下さい。郷
答肉体が微妙な波動を感じるように出来ている、普通の言葉で云えぽ霊的な人たちは、ともする
と他人の想念を受けやすく、いわゆる因縁の深い人などに会うと、その人の因縁をうけたりして、病
26
気になったりすることが多々あります。2
あなたの場合にも、自分で気づかなくとも、そうした人の一人であるので、宗教教団や、修業道場
で、そこにきている人々やその団体の業因縁を多少なりとも背負ってくるわけなのです。
こうしたことはなかなか大事なことで、中心になる人やその幹部たちが低級な霊醜の人であったり、
浄める力の弱い中心者の教団であったりするならば、そうした教団に近寄ることはかえってその教団
の業因縁を背負うことになって、宗教をやっていることが、その人の日常生活のマイナスになってゆ
きます。
ですから宗教々団に入るのには慎重な態度でなけれぽいけません。義理や無理強いに負けて教団入
りすることなどは、およそ馬鹿気切ったことです。下手な教団入りするよりは自分独りでょいから、
寝ても覚めても唱名念仏すべきものなりという、真宗の言葉のように、日常生活の中で、常に神への
感謝をしつづけて、愛と真の行ないを出来得る限りするように努力していた方が余程上等なのであり
ます。
安心立命の生活を求めるためには、自己に与えられた職業や環境の中で、真剣に生きぬいてゆくと
いうところからはじまるのが本当で、安易な生活を為すためにする宗教入りなどは、あまり感心した
ものではありません。
道は近くにあるのです。それは日常生活への感謝にはじまって、感謝に終る生活の中にあるので、
その中にこそ、あなたの求める神の姿があり、安心立命の姿があるのですが、この境地にはなかなか
ゆきつかぬところがまた、宗教々団を求めてあなた方が歩かれる因縁でもあるのでしょう。
あなたの云われるように、業因縁を全く断ち切れぽ、そのまま安心立命の姿がそこに現われてくる
のでありますが、その一番よい方法は、自分の本心は神の光であると思い定めるようにすることと、
神は大親様であり、愛であるのだから、人間を決して不幸にはしないということ、それに、自分の背
後には祖先の悟った人が守護霊として自分を護ってくれているのだし、その上には守護神が強い光明
で、自分を取りまく業因縁を常に消し去っていて下さるのだ、ということを信じるようになさること
です。それに消えてゆく姿の教をよくよくかみしめて味わい、日常生活に生かして下さることがよい
と思います。
一度にばっと業因縁を断ち切れるような秘訣はどこにもないのですから、日常生活の中で常に白光
誌に書かれていることを実行していて下されば、必ず安心立命の生活が出来るようになります。まず
毎月白光誌を読みつづけていって下さい。
消えてゆく姿の教が真実に実行出来れば、どれだけ安心した日常生活が出来るかはかり知れませ
ん。白光を読んでいる人たちや、私にお会いになる人たちは、いつの間にかみんな明るい柔かな人格7

になって、あまりものに驚かぬ人になってきています。
白光を読んでいて私に会いたくなられたらどうぞお出掛け下さい。あまり種々な教団歩きをなさら
ぬ方があなたのためのようですが、そうした教団の業囚縁を背負われたとしても、それもあなたの過
去世からの業因縁の消えてゆく姿であると守護の神霊への感謝に置きかえて下されば、どこを歩かれ
ても結構だと思います。しかし結局は消えてゆく姿の教がわかる、つまり白光誌で説いているような
真理がわかれば、どこを廻わって歩かなくとも、ご自分の日常生活そのままで、いつかは安心立命出
来るのです。自分の安心立命を求めると同時に、どうぞ世界平和の祈りの中に、あなたの日常生活全
部を投げだして生きてゆかれることを私は望んでいます。世界平和の祈りこそ、自分を救うと同時に
げんそうおうそう
社会人類の真実の姿をこの地球上に顕現する、つまり往和と還相とを同時に成就出来る祈りであるか
らです。
228
問73 一人出家すれば九族救われるという言葉がありますがどういう意味ですか
答この場合の出家するという言葉はたy単に僧侶になるという意味ではないと思います。ただ単
に僧侶になったとて、それで九族が救われるわけがありませんし、自分自身さえも救われるかどうか
わかりません。
これは、自分が仏と一つになればという意味、神と真実つながれぽという意味と私は解しておりま
す。というのはどういうわけかと申しますと、神仏のみ光(み心) の中に自己の業想念をすっぽり投
入して、肉体人間の側からでなく、神仏の側からの自己というものに生れかわった境地になった場
合、神仏(ここでは本心と守護の神霊を含めて) のみ光が自己の肉体を通して親類縁者にまで浄めの
働きをしてくれる、という意味だと思います。
ですから現代の人々としては、僧侶になったり牧師になったりしなければ救われぬか、というとそ
うではなく、自分が常に神仏のみ心の中に自己の想念を入れ切っていて生活してさえいればよいわけ
で、そうした祈りの生活こそ、自己を救い、九族を救う生き方になるのであります。その一番やさし
い方法が世界平和の祈りなのです。
問74 病気になったり、不幸になったりするのは、その人の魂が低いからだと思う人があるようで
すが、先生はどう思われますか。
答病気になったり不幸になったりすることで、その人たちの魂の高低を計ったりしてはいけない
と私は思っております。新興宗教の信者さんの中には、病気や不幸の人たちをそのような眼でみて、
さげすむ傾向をみせるものが大分いるようですが、これ程間違った宗教態度はありません。
病気になったり不幸になったりするのは、確かに魂の因縁や、想念行為の誤りが表面に現われてき
たことには違いありませんが、それを魂の高低に結びつけてはいけません。魂の高い人格者でも病気
29
をしたり不幸になっていたり、魂の低い人格の劣った人たちでも、なんらの病気もせず、不幸な口に2
も会わずに一生を終る人もあるので、そんなに簡単に人間の価値判断をされてはたまりません。
30
誰れにでも思いやりがあり、金銭にも淡白で、人の面倒をよくみるような人でも病身だったり、子2
供に当らなかったりする場合もあるのを、あなたなどもどこかで見掛けておられると思いますが、魂
の高低と想念の持ち方とが一致していない場合が、この世の人にはかなりあるのですし、前生や過去
世からの因縁によって魂は立派でも病弱だったり貧乏だったり、子運に恵まれなかったりすることも
多々あるのです。
問69 の答の中でも書いてありますように、病気や不幸は生命と想念行為とのアンバラソス、不調和
にあるので、生命の働きを素直に働かせるか、生命の働きを抑圧したり、妨げたりする想念行為が多
いか少いかによって、病気や不幸の差が出来るのであります。もっともこの想念行為というのは、今
生だけのものではなく、過去世プラス今生の想念行為というわけですからお間違えないように願いま
す。
過去世のことは殆んどの人にわからないので別としまして、この世では一体どのような想念行為を
もっていたら、病気や不幸な生活をしないで、あるいは少なくなし得るのでありましょうか、それは
今も申しましたように、生命の流れ、生命の働きそのままで生きればよいということであります。
生命の働きが損われず働いている時は、心臓や肺臓の働きを、人間は殊更に考えようとせず、働い
ているのが当り前として気に掛けずにいますが、一たん故障が出来ますと、その故障の出来た心臓な
り肺臓なりが気になりだします。そのように、想念が生命の働きを兎や角思わぬ時が体の調子も運命
の調子も良好だということになります。
あらかんか
ですから仏や菩薩や阿羅漢果を得たような、つまり悟った人は別と致しまして、普通一般の人は、
たとえ魂の高い人でも、その想念の中に生命の働きを抑圧し、妨げる想いがある場合は、その抑圧し
妨げただけがその人の体の欠陥や運命のマイナス面となってくるのであります。それが過去世の業因
縁と合わさって、この世におけるその人の運命を現わしてゆくのです。
その反対に魂の低い人でも、生命を伸々と働かしてゆく、簡単に申すと、明るい気さくな楽天的な
人は、あまり病気などせず、案外不幸な生活をしないで済んだりしています。ですから思いやり深
い、兎角相手の立場ぼかり考えて事を処してゆくような善良な人は、常に自己の心を内省し、自己の
行為を責め裁く思いが強く、何をするにも、ああいうことをしたが善かったかしら悪かったかしら、
あのことはあの人の迷惑にはならなかったかしら、などといつでも想いを千々に砕いて生活している
ような傾向があるので、生命を伸々と生かし働かせることを、そうした想念が抑圧してしまうので、
魂も高くはた眼の生活態度も立派なのに、病気をしたり不幸になったりしてしまうのです。これは
勿論過去世の因縁と切っても切れぬつながりがあるのですから念のために申し添えて置きます。今生
の運命はほとんど80 %が過去世の業因縁によって現われてくるので、これを超える生活をなし得るた
めには因縁因果のつまり三界から全想念を神の世界に投げ入れて生活してゆかなければならないので231
す。
ですから、人間は魂の高低にかかわらず、自己の運命や人類の運命の善なることを信ずることが大
事で、人生の物事をあまり悲観的に見たり暗い不快なものとして見たりすることは、自己の魂を汚
し、生命の働きを阻止することになって、折角善良な人柄を神とのつながりによる生き方にまで昇華
出来得ないでしまうのであります。
神は完全円満であり、全能力であり、大光明であり、大愛であるので、その神から生れた人間が本
来不幸であるわけがないのです。それを不幸にしているのは、神の生命をそのままこの世に現わそう
とせぬ、人間の小智才覚なのであります。神の光をそのままこの地上界に現わすためには、魂の高い
人や善良なる人々が、神の大愛を信じて、神のみ心にすべてをお任せし切って生活してゆくような生
き方になってゆかねぽいけません。
そういう生き方をするのに一番やさしい方法が、私の提唱している世界平和の祈りによる生活なの
であります。白光誌の教義と世界平和の祈りによる日常生活をつづけてゆけば、この世に必ず神国が
生れてくるのであることを、どうぞ信じて下さい。
明るく大らかに、そして清く正しく生きるためにも、人をも自己をも責め裁かぬ白光の教を行じて
いて下さい。
232
問75 近頃二三年すると世界戦争が起って人類の半分以上が滅亡してしまうという予言を方々の宗
教家がしています。また宇宙人との会見を事細く予言して、その通り実現されているとかいうニユー
スをききますが、高い神秘力をおもちの先生が一切そう云った予言をなさらぬのは、何故なのですか、
お尋ね致します。
答宗教者の中には予言者と予言者でない人とが存在するようですが、私は予言者ではなく、実際
面の指導者なのです。私の使命は過去から現在までに否これからのすべての人類にとって不幸なる予
言を実現させぬため、あるいは最少限度でそれらの不幸なる予言を事実として現わさしめぬために、
祈り一元の道を指導する宗教者なのであります。
人類にとっての不幸なる予言は、人類にその予言の実現を防がせようとする気持を起こさせるよ
り、人類の気持を萎縮させ、暗くさせる率の方が多いようです。私は人間の心を萎縮させたり暗くさ
せたりすることを極度に嫌う立場に立っております。
人間には常に勇気と希望を湧き立たせなけれぽいけないと私は強く思っているので、人間の力では
どうにも防ぎようもない未来の不幸を予言したりすることを、私は好まないのであります。
私の霊覚には個人々々の運命の波も、地球人類の運命の波も、かなり明らかにうつっていますが、
それは幽界にうつっているものと、神界においてなされているものと大別して二通りあるのです。
大半の予言者の不幸なる予言は、幽界に出来ている波を観て云っているのでありますがそれだけが
233
人間や人類の運命ではありません。幽界においてすでに出来上がっている個人や人類の運命は、守護
神の干渉がなけれぽ、そのまま肉体界の運命として現われてきてしまいます。そしてその暗い不幸な
運命を易々とこの地上界に現出せしめてしまうのは、個々人の暗い想念、争いの想念、妬みや憎悪や
怒りゃ恐怖の想念行為なのであります。そして、その反対に、そうした運命を個々人の上にも、人類
の上にも現出せしめない方法は、個々人の想念のすべてを神の世界、守護の神霊のみ心の中に全託し
てしまう方法なのであります。
全託致しますと、人類の想念は神界とつながり、神界においてすでに出来上がっている地上天国、
大調和世界の姿が、この地球界に顕現してくるのであります。個々人がそして、人類が、どちらの世
界をこの地球界に現わそうとも、その人々や人類の自由なのです。そうした自由を私たち人間ははじ
めから与えられているのであります。
今こそこの自由を、地上天国実現のために使わなけれぽなりません。私はその方法の中で一番や
さしい方法をこの地球界の人たちに教えるために、守護神団の器となって生かされているのでありま
す。
この方法にはなんらの予言もいりません。たy実際行動が必要なだけなのであります。天の理念を
現実化せしめる実際行動、それは人類守護の神霊団体の光明に輝く、世界平和の祈りを日々の常住坐
臥に行じつづけてゆくだけなのです。
234
神仏の存在を信ずる、少しでも信仰のある人は、自己の利害関係のお祈りお詣りをも含めて、どう
ぞ世界平和の祈りの明け暮れを今日から送って頂きたいのであります。
寝てもさめても唱名念仏すべきものなりと同じように、世界人類が平和でありますように…… の祈
り言を、寝てもさめても歩いていても食事中にでも、ありとあらゆる時間、二十四時間プラス・アル
フアの日常生活に行じて頂きたいのです。
食事しながらだの、寝ていながらだのは、唱えられないではないかと思われる人は、声の言葉や、
頭脳的想念で祈ろうとしているからなので、世界平和の祈りというものは、実は、一日一度でも頭に
思い浮かべれば、そのまま一日中、心の中で鳴りひびいているのであります。親鸞の申した一念の念
仏と等しい方法になっているのであります。
皆さんが一度でも、世界平和の祈りをしようと、世界平和の祈りを唱えたその日から、その人の心
の中では世界平和の祈りが鳴りひびくのであります。それは声で唱えずとも、頭脳で思わないでも、
そのままその人の心に一生を通して世界平和の祈りはひびきつづけているのであります。
それはどういうことかと云いますと、皆さんの本心は、はじめから世界平和の祈りを唱えているの
であって、今改めて祈っているのではなく、その人の業想念がその真理を知らずにいたのです。それ
を私が改めて、外からその人の業想念を破って祈りの言葉を本心につなげただけなのであります。こ
35
れが宗教の真理なのです。この真理を悟るのはなかく時間がいるでしょうから、そういうものかな2
あ、と思って、世界平和、世界平和と何気なくでもよい、思いだす度びに、世界平和の祈りを祈って
いて下さい。そうしているうちに、世界平和の祈りがあなたの心のうちで鳴りひびいているのをあな
たは自覚することでありましょう。私はこの真理を人類に知らせ行じさせるためにこの世にきている
のであって、他のことは他人の役目でありましょうから、他の人におまかせしているのであります。
私は実際家であり、現実主義者ともいうべき宗教者なのであります。
236
問76 梁の武帝が達磨大師を宮中に招待して、私は寺をいくつも建てた。僧侶にこれこれの布施を
した。写経もした。だからこれに対して仏もきっと充分な功徳を報いて下さるだろう、というと、達
むくどく
磨 大師に「無功徳」と云われたそうですが、この無功徳ということについてお教え下さい。
答この達磨大師の無功徳という答は少し強すぎる感じですが、実にすっぽりとした気持のよい答
です。大権力をもった帝王のしかも、道の興隆のために非常に尽しておられた武帝に対して、すっぱ
りと無功徳と答えたところにも、達磨大師の偉大さが実によくにじみ出ています。恐らく達磨大師の
心中には、この人は未だそんなところにひっかかっているのか、という想いとそのひっかかりを超え
させようという二つの想いが同時に湧いて、そうした強い答になったのだと思います。
私などは達磨大師などと全然反対の淳き方をする者なので、こんな強い答は出来ずに、何かにつけ
て徐々にその人がそんな低い境地にとどまっていないように、柔かい態度で辛棒強く導いてゆくであ
りましょう。それはどういうわけでかと申しますと、その人がいちいち報を求めるような我欲の想いで
行為しているとしても、あるいはその金力権力を他に見せようと想って布施をしているとしても、そ
はたら
の根本の心はその師に対する尊敬愛念の気持が作いていて為しているわけですから、その人の心を痛
めるような強い言葉を吐く気にはなれないだろうと思うからです。
ところで、どうしてあんなに種々と道のために布施をした武帝に対して、達磨大師は無功徳と云っ
たのかということを、もっとつっこんで考えてみましょう。
大体功徳ということは、本来現象的現われの面でのことではないのです。武帝の場合は、勿論現象
的生活面では何不自由ない身分であったのですが、それでも、長生出来る功徳があるとか、国家の権
力をより拡大したいとかいう望みがあって、そうした功徳を望んだかも知れません。あるいはまた、
単にこれだけ道につくしているのだから、功徳もそれに比して大きいだろうぐらいに簡単に考えての
言葉かも知れませんが、それに加えてあの世での地位のことも考えたかも知れません。
とも角、肉体界、霊界のこのどちらの功徳か知りませんが、そうした功徳を自己の布施行とひきく
らべて望んでいたところが、武帝の言葉の中には、はっきり見えています。
ところが真実の功徳というものは、実はなんの功徳をも望まず布施行をするところから得られるも
ので、得ようとして得られるものではないのです。
何故なれぽ、なんらかの功徳を得ようとしている想念は業想念であって、本心ではないので、そう237
した業想念の渦の中で、いくら布施行をしても、常にその布施行に我欲の匂いがしみついているわけ
38
であって、させて頂くのだ、という業想念を超えた謙虚さや、本心から輝き出でている光の行為では2
ないのであります。
すべての行為は、愛と真から発していないと、真実の功徳を得る行為にはならないので、いくら布
施行をしても献金しても、それは無功徳というわけになるのです。まして達磨大師のように、本心開
発一本の道を突き進んでいた人にとっては、本心(仏性)開発以外のいかなる歩みも想いも、すべて
無駄事、無功徳である、と思われていたのでしょう。
ですから真実の功徳というものは、本心開発の道を突き進むことによってのみ得られるのであり、
くほノ
その道は一度空の境地を通ってこないと得られない道なのであります。
ところがこの世の肉体人間は、ともすると自分のやった善行為を自分で計ってみたり、人に計って
貰いたいような気分をもっているものなのです。無理もないように思えますが、そうした想念で善行
をしても、決してその善事が自己の本心開発の助けにはなりません。
これを露骨に出した、いわゆる恩着せがましい行為などは、何もしないよりまだ自他を痛め損ずる
場合があるものです。
くほノ
空の境地を通ってこなけれぽ、と先きに申しましたが、恩着せがましい人々の多いこの世の中で、
くこノ
そんな境地に一体誰れがなれるのかという疑問が出ることでしょう。空というとむずかしく聞えます
が、させて頂く、やらせて頂く、という謙虚な布施行はすでに、空即是色の空から発した想いであ
って、そのまま光であり、そのまま真実の功徳への道であるのです。
何事につけても思い上りの気持をもつことは、その人を傷つけ低めるだけであって、決して功徳へ
の道ではありませんので、もし皆さんが、何か他人に善事をして、その善事に把われる想いがあるよ
うな場合には、ああそうした想念も業想念で消えてゆく姿なのだと祈りの想いにすりかえるようにす
るとよいのです。
善にも悪にも把われてはいけません。把われる想いは、すべて業想念であります。いかなることに
でも把われの想いがでてきたら、その時なるべく速やかに、世界平和の祈りの中にその把われの想念
を投入してしまうとよいのです。
そうしますと、空の境地も考えずに、いつの間にか、常に空から発する愛と真の美しい行為を生活
に行じていられるようになってくるのであります。
生命が人間としての自己に生きている、ということが、すでに大なる功徳なのでありますから、そ
の功徳を益々生かしてゆくように、謙虚な気持で、常に業想念は消えてゆく姿の教を信じて、世界平
和の祈りの中から、皆さんの生活をなさってゆくことが、この世における最大の善なる真なる生き方
であるのです。
239
問7 中庸という言葉がよく使われますが、中庸を得た生活とは一体どのような生活なのでしょう
か、またどうしたら中庸の道を進むことが出来るのでしょうか。
答中庸とは孔子の説かれている根本の道の言葉です。そしてそれが普通化して簡単に中正といっ
た意味、片寄らぬという意味で使われています。こうした意味で使われていても結構ですが、真実の
中庸とはそんな簡単な意味ではないのです。なかなか真実の中庸の道を進むことは出来難いのであり
ます。共産党は左で右翼は右だから真中の道をゆけば中庸だと云った人がいましたが、そんな表面だ
った簡単な道が中庸の真意ではないのです。
中庸の道を進むのには、まず自己意識による感情想念を超えていなければなりません。感情想念に
左右されているようでは、決して中庸の道を歩むことは出来ません。自己の利害関係、自己の周囲の
利害関係に把われているようでは中庸の道を進むことは出来ません。
すべての相対的な感情があってもいけません。相対的な考があって、自己のどちらかの分野に想い
を置けば、もうすでにそのことそのものが中庸の道からはずれてしまっているからなのであります。
何故かと申しますと、私は中庸の道というものは、相対を超えた絶対界の道、天(神)の心のその
まま素直に現われた道と思っているからであります。
白光誌にいつも書きましたように、天の理想と地の現実を十字交叉に結んだ中心の心が、中庸の心
だと私は思っているのです。
240
こう考えてまいりますと、この肉体界に生活している肉体人間のうちで、この中庸の道を完全に進
んでいる人が一体どのくらい存在するであろうか、と考えさせられてしまいます。
常に中庸を得て、中庸の道を進みつづけるということは、肉体人間として実に至難なことでありま
して、たまたまある事柄において中庸を得た処置をした、という事実が多いか少いか、というところ
が、この世の人間の生き方ではないかと思います。
ところが私はそのような半端な中庸では満足出来ないのであります。中庸を私は大調和とも解釈し
ているのですから、大調和の心の中に自己を置かなくては満足出来ないのです。
そうした考えを突きつめてゆきますと、肉体人間では、どうしても真の中庸を得た人には成り得な
いという結論に到達するのであります。
真剣に道を求めつづけ、真実に世界人類の平和を希求している人々は、等しくそのような結論に至
るのではないかと思いますが、肉体人間としてこの世に生きている限り、常に中庸であるということ
はとても出来ないことなのであります。
私はそれを悟りまして、肉体人間の自己というものを、神のみ心の中に投げ出してしまったので
す。私には何一つ満足に出来ないのですから、神様どうぞ私の生命を神様のみ心のままに働かせて下
さい、と生命ごと投げ出してしまったのです。
神様にすべてを投げ出した時から、私はそれまでの肉体人間としての私ではなくなってしまい、い241
わゆる神の子としての人間を発現する道に突入していったのであります。そしてこの人間世界という
ものの複雑なる組織、神と人間との関係や、中庸の道に入り得る方法などを、守護神霊各位から、次
第にくわしく教えられていったのであります。
そして、常識を外さず、常識を超えたる生活が出来るようになったのです。いわゆる肉体人間の形
のままで、神霊人と成り切ることが出来るようになったのであります。
神人、霊人になり得なければ、肉体界の業想念の渦を超え得ることはとても出来ません。肉体界の
業想念を超え得ないで、相対世界の渦の中にいて、中庸の生活が出来るわけはありません。
私は私の個我を天(神) に返上した日から、すでに肉体人間に見えながら、肉体人間を超えた神霊
の世界の住者となり、再びこの肉体界に舞い戻り、今日では、天と地の両界に生活している人間とな
ったのであります。
こうした体験を得た人々が、日本にはかなりいたのであり、また今日でも存在するのであります。
この人たちは皆霊人であり神人であるのです。合気の植芝盛平先生などは、正にその一人なのです。
しかし、誰れでもこの一生で、このようになれるものではありません。そこで私は私の体験を通し
て、この世やあの世の業想念に把われさせずに、いつの間にか神霊と等しい境地の世界の住者となり
得る方法を教えはじめたのであります。それが消えてゆく姿と、守護の神霊への感謝、及び世界平和
の祈りなのであります。自己の想念を、常に日常茶飯事における神のみ心の中に投入して置くことこ
242
そ、中庸の生活がやさしく生れる方法であり、神霊の調和した、愛と真と美のみ心が自ずからその人
々の生活の中に巧まずして発現されてゆく道なのであります。
中庸の道、大調和の道こそ、光り輝いている神のみ心の現われた道であり、世界であるのです。
力まず、気張らず、そのまま全託になり得る方法、それが世界平和の祈りなのであります。そして
中庸の生活の出来得る、唯一の祈りなのであります。
問78 私達は昔から食欲とか性欲とかを本能として肯定していましたが、これと業想念についでお
教え下さい。また、この世の楽しみを味わうことを、宗教によつては罪悪視しますが、はたしていけ
ないものなのでしょうか。
答私が業想念という言葉で説明していることは、神の子人間の真相を覆い汚す想念行為のことで
あります。人間がこの世に肉体人間として生きていますのは、この世に神のみ心を現わすためなので
すから、それに反する想念行為は、すべて業想念行為ということになるのです。
この世に神のみ心を現わすためには、入間が霊的な現われ方をしていたのでは、この世が物質的波
動の世界ですから、どうにも働きょうがありません。そこでどうしても人間自休も物質的な波動の中
で働かなけれぽなりません。その物質的な現われが肉体なのであります。
ところが、この世の人達は、肉体という物質人間になじみ過ぎてしまって、自己の本体である霊的243
ひびき
な波動を忘れはててしまい、ついには生命の本源、自己自身の大本である神の有無さえもわからなく
なってしまったのです。
食欲とか性欲とかいう本能は、肉体人間にとっては不可欠な本能ではありますが、この本能が神の
み心として許されるためには、やはり、神のみ心の現われとしてのあり方でなければなりません。こ
れは根本的な人間観、人世観のいかんによって定まってしまいます。
人間はただ偶発的にこの世に生を受け、自分自身の欲望を満足させつつ生きてゆけばそれでよいの
だ、という考え方で生活している人々にとっては、食欲も性欲もすべて業想念であります。なぜかと
申しますと、その人々は神のみ心を現わすなんの働きもしていないからです。
根本の思想に神につながる何ものもなくして、食べたり性交したりしている人々、喰べたいから食
べ、欲情が起ったから交わりをするというのでは、考える力を与えられている人間という存在だけに
かえって動物以下に成り下がってしまうのです。
食欲や性欲を業想念行為としない方法は、神への感謝と、その物、その行為に対しての感謝の想念
であります。食事することによって自己の肉体が保たれ、自己の天命が完うされる道を歩んでゆける
という感謝の気持、交わることによって、二つの魂が一つに融け合い、お互いの長所が交流し合うと
いう感謝の想念こそ、食欲や性欲を業想念としない方法なのであります。そうした感謝の想念を根祇
にして、しかも世界人類の平和を祈る、世界平和の祈りをその度びごとに改めてしてゆくならぽ、そ
244
の人は完全に神のみ心の中に生きている、業想念波動の中にいながら、業想念波動を超えている生活
者だと云えるのであります。
また、この世の楽しみを味わうことは宗教的にとって罪悪かということについては、楽しみを味わ
うことが、なぜ宗教的に罪悪なのであろうかという反問がしたくなるのです。
真理を知らぬ片寄った考えの宗教者は、氷のように冷たく固った感情の持主である場合が多いので
すが、この世の生活を楽しんではいけないというに至っては、神のみ心をまるで知らない宗教者であ
ると云うより他はありません。
神のみ心は自由です。従って神の子の心も自由なのです。自由鮮凝(自由なさわりのない境地)に
なることこそ、宗教老の口的であり、一般人の目標でもあるのです。
この世は日常生活を楽しみながら、神の世を現わしてゆく世界なのであって、凝り固った暗い表情
で、悪から遁れよう遁れようとして生活するところではないのです。
悪の想念行為から遁れようとするのが宗教観念だなどと思い違いしている人が、クリスチヤソなど
には大分存在するようですが、それは一つの悪を遁れるために、他の悪をそこに置き変えるようなも
のであります。
常に罪悪に対する恐怖をもって、自己の心に対している者は、神のみ心が完全円満なる神の子であ
45
り、光の子であることを忘れ去っている者なのです。2
真の宗教者は人間が神の子であることを知っていますので、その人間が罪など犯すことはないとい施
うことを知っているのです。人間が罪を犯しているように見えるのは、神を離れていた人間の想念
が表面に現われて消えてゆこうとしているところであって、真実の人間がやっているのではないので
す。
すべての罪悪は業想念の消えてゆく姿なのでありますから、悔い改めた人に対してやたらに責めた
り、説教したりすることは、かえって消え去ろうとしている罪悪の方に人間の想念を向けようとする
指導の仕方で、実に人間の想念の在り方を知らない人のやることなのです。
そこで私はそうした消えてゆく業想念から人間の想いを離すために、常に守護の神霊の感謝と世界
平和の祈りを人々にさせているのであります。人間の想いは把われはじめたらもうどうにもならぬも
ので、不眠症の人が、眠ろう眠ろうとすればする程眠れなくなり、恐怖症の人が、恐れまいとすれば
する程恐れてしまうようなものなのです。私はそうした人間の想念の在り方を熟知しておりますの
で、そうした想念を、人間の本源の光である大神様の方へ、守護霊、守護神という光の梯子を通し
て、感謝の意と共に昇らせる方法を教えはじめたのであります。
どんな業想念がでても、その度び毎に神への感謝にふりかえてしまってこそ、人間の真実の姿であ
る、神の子の心、光の子の心がそこに顕現されてくるのであります。この方法は法然、親鸞の念仏一
念と同じ方法なのであります。それが私の方は世界平和の祈りという現代的な誰れにでもわかりやす
い言葉になっているし、実際に世界平和の祈りを祈るところに救世の大光明が輝きわたるという体験
からも教えているのであります。
というわけで、人間が固まった自由のきかぬ暗い気持で生活していたら、いつまでたっても神の国
は出来あがらないし、その人の魂も向上してはゆきません。明るい清い自由な楽しい零囲気こそ、真
に神のみ心に叶う生き方なのであります。ただし私のいう自由な楽しさというのは、肉体的な快楽の
ことではありません。魂的な精神的な自由さ明るさ楽しさのことをいうのであります。そしてその自
由さ明るさ楽しさが自ずから肉体的な楽しさとなることは勿論悪いことではないのです。
問79 白光二月号の研究会の記事の中で霊界の相当のところにいながら、まだ解脱していない仙人
がいるとありましたが、なぜ解脱出来ないのでしょうか、今少しくわしく現界の私たちにわかるよう
ご説明下さい。
答あなたは実に白光誌をよく読んでおられる方ですね。一寸見落しそうなところですが、実はこ
れはかなり重大な問題なのです。
仙人と一口に云いますと、もうすでに多くの行を積んで解脱し得た人と思われることでしょうが、
いかに多くの行を積んでも、それで、解脱出来るものではありません。表面的にはなんらの宗教的な
47
行を積まぬように見える農家の老婆などが、すっかり解脱して霊界入りすることもあるです。2
くユノ
解脱ということは、すべての執着を離れ去る、つまり自由自在な空の境地になることでありますか螂
ら、自力行の人々にはなかなか大変なことなのであります。この仙人などは、まだ一つの型にはまっ
た修業を霊界入りしてからもやりつづけているので、その型から脱けでられずにいるのです。いかに
通力をそなえていても、自己の心に少しでもなんらかの把われがあれば、それは解脱したことにはな
らぬのです。
すべての把われを離れ、すべての型を離れ、もうほんとうに自由自在の心境になりきらねぽ駄目な
のであります。
この世の宗教者の中にも、難行苦行の末、相当な通力を得ながら、どこか片寄った奇嬌な行ないの
人がいますし、何かすっきりとしない澄み徹らない雰囲気をもっていたりする人もいます。
人闘の魂には、それぞれの特徴がありますし、個性と呼ばれている性格の相違があります。ですか
ら、誰れも彼れも釈尊のようになれ、イエスのようになれと云っても、これはどうにもなりません。
人を導くのにも厳しい形の人と、柔和な導き方をする人とがいて、それぞれの人に因縁の合う人が
集まってゆくわけなのですから、人間は柔和一本槍でなけれぽ駄目だとか、峻厳でなければいけな
い、とか云いきれるものでもありません。
ですから、お互いの個性を生かしきって、解脱への道を歩みつづけるわけなのですが、解脱するた
めには、自らの個性がつくりだした一つの型をも超え去らなけれぽいけないのであります。
仙人が様々な修業の末、一つの型をつくりだし、その呪法なり、坐法なりで修業をつづけている場
合でも、解脱の境地になれば、その呪法なり、坐法なりをも一度びは超え去ってしまわなければなら
ないのです。
一度び超え去って、今までの自らの修法になんらの執着もなしに、その呪法なり坐法なりを行なって
いるとすれば、それは自由解脱の心境から行じているので、心は自由自在そのままその呪法なり坐法
の中で生々と働いているわけになるのであります。
私はいつも申すように、他力の行者でありまして、この肉体人間にまつわるすべての想念行為を、
神様にすっかり返上して宗教者しての生活がはじまったものなので、私自身の修業の型とか、修得し
た呪文とかいうのは全くないのであります。
ひとりで
今日私が説いている世界平和の祈りにしても、消えてゆく姿にしても自然法爾に守護神各位から説
かされているのでありまして、私自身は全く赤児のような、否もっと空っぽの心の状態で生きている
わけなのであります。ですから、私には、私自身のなんらの型も呪文もないので、私自身はたy全託
というその全託の想念も無い心の状態で働いているのです。もっとくわしく申しますと、私自身が私
の想念として世界平和の祈りを唱えているわけでも、神様と云っているわけでもなく、たy生命の生
きるまま、ここに在るがまま生きつづけておるのであります。しかしそうした生き方が、自ずから
49
常識を外さず、常識を超える霊肉一体の調和した姿となって、この世と神の世とをつなぐ光の柱の役2
目をなしつつあるのであります。蜘
もっとはっきり申せぽ、私という個人は全くなくなって、世界平和の神のみ心が、私の肉体をつか
って、世界平和の祈りの行を、地球人類のすべてになさしめようと働いておられるのであります。
こうしたところが、多くの行を積みながら、霊界入りした今日でも未だに解脱出来得ずにいる仙人
と私との相違なので、他力のやさしさむずかしさの相違点ともなるのでありましょう。
問80 悟ると全く感情がなくなリ、木石のごとくなるのではないかという人がいますが、悟リと感
情についてご説明下さい。
答悟りということは、文字を見るとわかりますように吾れの心という字になっています。吾れの
心、つまり本心ということであります、この一字で本心を表現しているのでありますから、文字から
みても悟りとは本心を開発する、本心を現わすという意味になります。
実際に人間は自己の本当の心、真実の心を現わしている生活をしていれば、その人の生活は神のみ
心を現わしているのであり、神の子そのままの生活ということになるのでありますが、普通の人々に
は、人間の本当の心、真実の心というものが、どういうものであるかがわからずに、自己の想念をそ
のまま出しさえすれば、それが欲望の想いであろうと、自己本位の想いであろうと、自分自身の本心
を出していると思い、裸の心だと思ったりしているようであります。そうしてそうした生き方が自己
に忠実な生き方であると文学者たちまで、そうした生き方に賛意を表して、そうした作品が多く害か
れているのです。
それはその人たちボ、真実の人間というものを全く知らないからであります。真実の人間と拡私が
さわ
常に申しますように、神の子なのであります。神の子とは、大生命から分れた自己の生命を素直に碍
りなく出しきり、充分に働かせ得ている人間をいうのであり、神の本質である光と愛の心をその生活
に現わしている人閻をいうのであります。
光とは明るい把われのない心、いつも神のみ心の中に入っている想いから発する本質的な生命力で
あり、愛とは分れてあるものが一つに結ばれ統一されるところに現われる心のあり方であります。そ
れが縦に働くと神への信となり、横に働くと隣人愛、人類愛となるのであって、その根本は自己が神の
分れである本質を知っている者の行為なのであります。その一番誰れでもがなし得るのが、親子の愛
と恋愛なのでありますが、これは本能的のものであって、そうした愛の心が隣人に、また人類社会に
及ぼしていかなくては、神のみ心、神の子としての本心の働きを現わしているとは云えないのです。
さてここで悟りの説明になるのですが、悟りとはこうした本心の在り方を知ることなのであります
から、悟った人が木石の如く、無感債、無感動になることはありません。無感情、無感動の者が、隣
人や人類のために働き得るわけがないからです。
光の働き、愛の心がすべての行動の根本になっていない人であるならば、その人は悟った人ではあ251
りません。なぜならば、神は光であり、大愛であるからです。だがここで考えられることは、愛と情

との問題であります。「神と人間」にも書いてありますが、愛が感情の波に蔽われてしまえば、それ
は執着となって、愛の心をマイナス面にひきずっていってしまいますが、愛が感情の波を超えて、そ
の感情を純化して働きだしたときには、その感情は光となって、相手を照し、人類を輝やかすのであ
ります。
愛は光そのものですから、肉体の人間世界に働く時は、感情想念の一つである情と呼ぼれている業
想念の波に乗って働かないと、その効果を発揮することが出来ないのです。それは電流は眼に見えな
くとも流れているのですが、電球という器を通さないとその光がわからないと同じようなもので、本
来の光を肉体界の波長に合わせて、肉体界に流れてきて、光り本来の役目を果してゆくことが、この
地球界における愛の働き方なのであります。ですから、肉体人間の世界では、愛と愛情とをほとんど
同じ意味で使っているのです。
ですから悟った人という者は、自己中心の感情、即ち業想念感情はありませんが、他の人の感情は
人一倍感じ得るもので、その感情に執着せず把われずに、常に愛の本質である光に変えてゆき得る人
なのであります。
自己の中に他の人の感情のひびきを受け入れる要素がなくして、他の人のために働くという気が起
るわけがありませんし、愛の働きが出来よう筈もありません。
悟った人、あるいは覚者と云われる人は、業想念の波の中に生活しながらも、その業想念に把われ
ずその波の中に光明波動を、自然法爾に流し得る人、つまり、その人の一挙手一投足が、神の子の本
質である、愛と真の人であるというわけであります。
問81 人間は統一しているもいないもない、はじめから統一しているのだ、と先生は教えて下さい
ますが、この理をわかりやすくお教え下さい。また、一度世界平和の祈リを祈れば、祈り言はもう鳴
リひびいているのだ、とおっしゃいましたが、どういうことなのでしょう。
答この答はなかなかむずかしい答なのです。この理が真実に体得出来れぽ、その人はもはや覚者
なのですから。もっとも、頭で知識としてわかっている人は、この会には大分おられると思います。
ですからひとまずあなたにも知識としてわかって頂いて、それから統一行をして頂いて、体得して頂
こうと思います。
この私の申している人間というのは、肉体としての人間ではなく、真実の人間、つまり神の子とし
ての人間、生命そのものを云っているのであります。私達に働いている生命、そしてその働きとして
の心は、大生命、宇宙神(心) の一筋一筋の働きとしてこの地球界にも働いているのでありまして、
その働きはそのまま、直霊そして宇宙神に統一して、その統一の中から働いているのであります。
そうした一筋一筋の生命体を真実の人間というのであり、神の子人間というのであります。ですから
253
真の人間は統一するもしないもない、そのまま統一しているのだというのです。ところがこの肉体界
において、肉体人間的想念になれきってしまった人間は、この真理から離れた日常生活を送りつづけ
てきてしまったので、業想念として、この統一観からしだいに遠ざかって、改めて神への統一行をし
なけれぽ、統一という心の状態がわからなくなってしまったのです。
そこで各宗教者が、様々な統一法を自らの体験を通して弟子たちに教えて、本来の神の子仏の子の
人間に還元しようとしているのでありますが、それがなかなかむずかしくて、日常生活を捨て去って
市井の巷を去り、山に籠ったり滝にあたったりしての修行や、肉体の感覚を超えさせるための荒行を
したりしていたのであります。
肉体感覚つまり五感を主にして市井の日常生活そのままでのたまさかの統一修行では、五感の把わ
れを放ち得ず、本心への統一が出来にくかったからなのであります。それはあまりにも、統一という
ことに把われすぎたあまり、その統一を乱す五感の想念を邪魔にし、敵視し、かえって再び五感想念
を掴んでしまったから、そうした肉体感覚、五感想念を起こさないでもよい、人里離れた場所や山野
を選んで統一修行の場としたのです。
ところが現代のように、日々ほとんど一日にわたって食生活の為の働きをしなけれぽくらしてゆけ
ない現状では、人里離れた場所や山野での長年月の統一修行などは、とても一般大衆には出来かねる
のであります。254
そこで私に働いていらっしゃる神々は、統一するもしないもない、はじめから統一しているところ
の神の子人間(本心)だけを実在の人間と認め、その他の想念行為はすべて、そうした真理を知らな
かった間のマイナス面の消えてゆく姿として、日々の生活にあっても、その想念行為を把えてとやか
く想う想いを、世界平和の祈りの中に投入させる行を教えられたのであります。
五感の想念、業想念がでてくるたびに、消えてゆく姿として世界人類の平和を祈り、天命の完うさ
れることを祈る世界平和の祈り言を、守護の神霊への感謝の想いにのせて、祈りつづけるうちに、い
つしか諸々の業想念は消え去り、本心だけが輝かに日常生活に現われる、統一体である神の子人間の
姿が顕現されてくるのであります。
統一するということは、業想念に把われさえしなけれぽ、自ずと、統一している真の人間そのもの
が現われてくるのだ、ということを、私は世界平和の祈りと共に教えているのです。そして、たまさ
かの統一修行会では、私に働いておられる神々の光明が、皆さんの業想念を消し去って、やすやすと
統一の状態を皆さんに体得させているのであります。
また、一度世界平和を祈れば、祈り言はあなたのうちで鳴りひびいているのだ、ということは、こ
れも今までの説明と根本は同じでありまして、人間一人一人の根本精神は、誰れでも神のみ心の中に
あるので、大調和、平和の心なのであります。そして世界人類の平和を祈る、祈り言は、神のみ心そ
のものであるのです。255
なぜかと申しますと、神のみ心はこの地球界にその姿をうつし出そうとして働いておられるので、
神のみ心の大調和完全性がうつし出されるために輝いておられるのです。ですから神のみ心は世界平
和そのものであり、世界平和の祈りは神々のみ心であるのです。そして人間は本来神の子なのですか
ら、人間の本心は、世界平和の祈り言そのものであり、平和の光なのであります。ところがその本心
を蔽いかくしている肉体にまつわる業想念が、その光の本来の働きを妨げていて、地球界の人間は個
人の平和を欲し世界人類の平和を欲しながら、その平和への道を自らふさいでしまう歩み方、生き方
をしているのであります。
この業想念行為を破って、本心の平和の光、調和の光を出す方法がなければ、そのまま破壊の方向
に人類はつき進んでしまうのです。
そこで神は、この人類をして神のみ心の大調和世界、平和世界を創りださせる援助の力として、守
護の神霊を用意されておられたのであります。そして、この守護の神霊の大光明を人類世界に放射し
ようとなさっているのでありますが、その放射する道は肉体人間の側からつくらねばならないのです。
そしてその道をつくるためには、自ら神との一体観を如実に体験した肉体人間が必要であったのです。
神はその肉体人間をして、外部からの呼びかけとして、世界平和の祈りを提唱させ、各自が世界平和
を一度びでも祈ることによって外部から内部にむかって、業想念を突き破る光の道がつくられたので
あります。その後はその道を通って、外部からの働きかけとして働いておられる守護の神霊の光明256
が、内部に本来性としてある神の子人間の本心の光と一つにつながって、天地一体、神我一体の働き
となり、人々は自己の本体を自覚してゆく、自己の天命を完うしてゆくことになるのであります。
ですから、世界平和の祈りを一度びなしたる人はその内部に世界平和の祈りは鳴りひびいているの
である、という説明をしたのであります。
問82 私の友人の姉が、初めての子をみこもったのですが、その人は身体が弱く、子供を産むと母
子共に生命が危険だと云われていたらしいのです。しかし友人の父の、堕胎は悪なり、という宗教的
考えから、その姉は子供を産むことにきめたのでしたが、遂いに母子ともに死亡してしまったので
す、こういう場合その女性はやはり堕胎した方がよかったのでしょうか。どんな場合でも堕胎は宗教
的にみて悪なのでしょうか。
答私は一般論として、堕胎には替成出来ませんが、いかなる場合においても堕胎はいけないの
だ、というこちこちの考え方をしているものでもありません。問のような場合は当然医師の言に従う
のがよいのだと思います。ただし、産婦自身が、深い宗教的信念をもって、その産児と運命を共にす
るというなら、産婦のいう通りにするのがよいと思います。そうした深い宗教的信念があるならぽ、
その心が神に通じて母も子も無事に出産でき得ると私は思うからです。
要はその人自体の信念一つなのであって、他の人の言に左右されて自己の運命を決定するようなご257
とでは、その結果はけっしてよいものとはなり得ません。
理想からいえぽ、堕胎などは決してしてはいけない、と云えるのですが、この世の生活は何事にも
理想をそのまま現実に現わすことが出来にくいので、そこに人間のすべての苦悩が生じてくるので
す。宗教者が現実を離れた理想論だけで人を指導しようとする場合には、理想と現実との相離れた距
離の間でその人々をかえって苦しい心境に追いこんでしまうことが多いのです。
堕胎の場合などでも、すでに堕胎の経験をもった人々が、理想論だけの宗教入りをした場合、堕胎
などとんでもない、堕胎程罪深い行為はないのだ、そんな人は神に赦さるるべきではない等と説教さ
れると、どうしてよいかわからぬ程の罪悪感で、自分を責めさいなんでしまうのです。私はそうした
例を沢山知っているのです。
私の宗教観は、他人を責め裁かぬと同時に自己を愛し赦す、という立場に立っていますので、人の
心が痛むような言葉はつとめて吐かぬことにしています。ですから私がそうした説教する場合は、そ
うした行為をしたことも自己と胎児との過去世からの因縁の消えてゆく姿としてなされたことであっ
て、その行為そのものは悪いことではあるけれど、行為してしまった悪にいつまでも掴まっていて、
自己の生命の光の働きを悩みの想念でさえぎるような二重のマイナスをしないように、胎児と神への
謝罪の想いで世界平和の祈り中に、そうした悪因縁を消えてゆく姿として流し入れてしまいなさい。
そして再びそうした行為を犯かさぬように気をつけることです、と説くことでありましょう。
258
人間には、悪いと思っても、どうしてもそうなさねばならぬような破目に立つことがおうおうある
もので、それはどうにもならぬ過去世からの因縁なのであります。そうした因縁の現われた時に、そ
の因縁に想いを把われさせないで、かえってプラス面にむけかえてゆくことこそ、正しい宗教的立場
なのです。
堕胎の場合などには、そうしたことが多いのではないかと思います。そうした立場に立たされた人
自身が、自己の立場を深くみつめて、その立場が絶対絶命のものであるか、単なる自己の生活保護の
ためなのかを真剣に考えてみなければいけません。問のような場合とか、生れる子供が不具者や低能
児や凶悪児として生れる可能性の多い場合など、その魂の冥福を祈りながら、神への赦しを願いなが
ら、堕胎も止むを得ないのではないかと私は考えるのです。
恐怖感や、罪悪感を自ら打ち消しながらの堕胎行為などは絶対にいけません。それは、胎児の魂を
傷つけるばかりでなく、自己の心をも傷つけて、自他の生命に大いなるマイナス面をつくるからなの
であります。
人間の行為はすぺて理想通りにはゆきませんけれど、次第に理想に近づくことは出来るのです。完
全円満という神のみ心に近づく努力をつくすことは人間にとって最も大事なことなのであります。
堕胎は自他の霊性を損ね肉体をも損ねますから、万止むを得ぬ場合の他はするべきではありませ
59
ん。子供を産むことを恐れる人は、産児調節をすれぽよいでありましょう。単なる宗教的観念のため、2
産児調節を拒否してかえって堕胎せねばならぬ破目に追いこまれてしまっている人々もあります。脚
しかし私は、神のみ心のまま、素直にまかせきった、なるままに、あるがままに、の生活態度にす
べての人々がなっていかれるように祈らずにはおられません。
世界平和の祈りを根抵において人々の生活がなされてゆく時、産児調節をもこえた、自然の夫婦
生活、家庭生活が自ずから行われてゆくであろうことを、私は信じておるのであります。
問83 ある宗教団体が「およそ道徳の原則に合しない政治には、わが宗…教は筆舌をもって、これを
諌伐するものであリ、必要止む得ない場合は、流血の犠牲も惜しまないものである。」と声明してい
るのですが、先生はどうお考えですか。
答何か非常に真実の宗教から離れたものを、この声明からは感じられます。
真実の宗教者は、いかなる場合でも、流血の犠牲も惜しまない、などという表現はしないものであ
るからです。私たちは信念として敵をもたない、敵をみない、という立場に立っておりますので、自
己の側が正義の立場であり、相手が悪の立場に立って相向うようなことがあっても、相手を敵とみる
ことを徹頭徹尾さけたいと思っております。まして流血の犠牲などという神のみ心でない、消えてゆ
く姿の言葉や心を極力、世界平和の祈りの中に投入してしまいたいと思っております。
神のみ心はすべての人類を神のみ子としておられます。神の子同志が争うことは絶対にあり得ない
ことなので、今日まで争いつづけてきた人類は、肉体界に神の子の姿が現われるための、業生の消え
てゆく姿であって、真実の人間の姿や心ではなかったのです。
そうした真理を教え、かつ実行するのが真実の宗教者であって、消えてゆこうとしている業生を相
手どって、流血の犠牲などという唯物論的言辞をろうしているようではならないと私は思うのです。.
もし、神のみ心である、愛と平和を念じ、人類は神の生命において一つであり、兄弟姉妹であるこ
とを信じ得る者たちは、その信仰の下に無抵抗で滅びてしまうことがあったとしても、それでよいと
思うのです。真理に従ってこの世を去るならぽ、もはやその人、その国、その民族は、この地球界に
おける神の使命の終った人であり、国であり、民族であるので、決して惜しくも残念でもないので
す。
人類の住んでいる世界は、この地球界に限られているわけではなく、金星や火星やその他地球人類
のおよびもつかぬ立派な精神をもち、霊性の開発された人類が住んでいる場所が沢山あるのでありま
す。
そして神のみ心のままに素直に生きぬいた人々は、地球人間としての肉体を脱した後は、そうした
高い境界に住む人類の一人として、生活することを許されるのです。
ですから、何を好んで、神のみ心に反する相対的、対敵行動によって争い合ってまで、自己の肉体
生存を計る必要や、自国の存在を主張する必要があるのでしょうか。私たちはその事実を知っている261
のです。私たちはそうした事実を知ってから、あくまで神のみ心のまま、愛と真の道を.真直ぐ生きぬ減
いてゆく覚悟が更に強まってきたのであります。
神には敵がないのです。従って神の子である人間には敵はないのです。敵と思えるものは、あくま
で神のみ心を離れた業想念であります。敵を思う間は、その人、その国、その民族には敵が存在する
のです。不幸にして敵のように現われてきて、その人、その国、その民族を滅ぼし去っていったとし
ても、それはあくまで、悪魔の仕業ではなく、その人、その国その民族の業想念行為の消えてゆく姿
であるのです。そうした真理を知って、滅びる寸前までも、神のみ名の中に、神のみ心の中に、自己
の全想念を投入し得るように、自己の想念の訓練をしてゆくことこそ、真理に生くる人であり、真実
の宗教者であるのです。
私はそうした境地にまで人類を高めあげたいと願い、ひたすら世界平和の祈りの宣布をしているわ
けなのであります。人間はこの地球界に住する限り、地球界を蔽う人類の業想念波動の中で生活しつ
づけなけれぽなりません。ですからいかに真理のままに生きてゆこうと思っていても、時折りは業想
念波動に巻きこまれそうになり、敵を認めてしまったりすることもあるものです。しかしながら、消
えてゆく姿の教にふれ、世界平和の祈りの力を知っている人々は、その時瞬時にして、世界平和の祈
りの中に、そうした業想念を投入することが出来るのであります。
はじめのうちは、その切りかえに時間を要するでありましょうが、日々世界平和の祈りを行じてお
りますと、いつか知らぬ間に、そうした業想念波動を超える時間が短かくなってきているのに気づく
のです。
人間神の子と云ったら、あくまで神の子一筋に生きぬかねぽいけません。言葉で神の子だ、と云う
ことは楽ですが、神の子を日常生活に行じつづけることはなかなかむずかしいことです。
敵を認めるな、ということも言葉で云う分にはわけはありません。しかし実際問題としては、実に
むずかしいことなのであります。
実相完全円満と唱え、神の子人間を教え、敵は無い、と教えている宗教者が、その口の裏から再軍
備を提唱し、共産主義国をはっきり敵として認めているのですから、理想を現実に現わすことの難さ
が思われます。
私はこの点をはっきりさせたいと思っているので、肉体人間はすべて凡愚なるもの、とはっきり割
り切り、そうした肉体人間にまつわる想念をすべて一度は消えてゆく姿として消し去ることにしたの
であります。この消し去る方法は、無理に消そうとして、自己の意志を使うのではなくして、親鸞の
弥陀の方より、と同じように世界平和の祈りによってつながる、救世の大光明の方よりの真理の開顕
の流れの中で、自然法爾的に自己の行為をなしてゆく、神の子としての人間を、確立してゆく方法を
行じさせているのです。
筋それが消えてゆ
く姿と世界平和の祈りの行なのであります。この教には理想と現実とのくい違いと
いうことはないのです。
だからです。
なぜかと申しますと、理想だけが真理であって、あとはすべて消えてゆく姿細
問84 今から七八百年前の名曾といわれた栂尾の明慧上人は信者が、「一つ私の家族の安泰と幸福
とを祈つていただきたい」とおたのみすると、「私は毎日朝にタに一切衆生のために祈っている。あ
なただけを特別に祈ることは、私の平等の慈悲に差別がつくことになるから、きいてあげるわけには
いかない」とことわられたということです。これは個人のために祈らないといわれた平等施一切の大
慈悲だ、と禅僧の朝比奈宗源氏が云われるのですが、これが本当に大慈悲でしょうか、個人のために
も祈ってやることの方がより大慈悲だと思うのですが、先生はいかがお考えですか。
答そういう考え方の宗教者もあるでしょうが、現代の宗教者としての私は、そういう慈悲心の現
わし方は致しません。平等の慈悲に差別がつくと明慧上人が言われたそうですが、私はこの世におけ
る宗教生活は、あくまで因縁因果の波の中で、しかもその因縁因果を超えた生活の出来るような指導
をしてゆくべきだと思っております。明慧上人の現存した時代と今日では、すべての現われ方が異な
っておりますので、そのまま今日に適応さるべきではないと思います。
因縁因果の波というのは、たとえて云えぽ親子と生れ、兄弟姉妹と生れるということも、そうした
親子、兄弟姉妹と生れる過去世における近しい因縁によるのです。そういう因縁のつながりというも
のは、大事なものであり、無視出来ないのであります。明慧上人のところに家庭の幸福を願ってきた
信者さんのように私のところにも、そうした人々が沢山見えます。私はそうした人々を、私に縁の深
い人とみて、世界人類の平和を祈りつづけている生活に重ねて、その個人に私の肉体身を通した神の
光を当ててやる、つまり祈ってやることにしているのです。
これは、求めよさらば与えられん、というキリストの言葉のように、求めてきたものには求めてき
ただけの価は必ず与えられるのであります。それが神のみ心なのです。求めぬものと求めているもの
とが同等の価を得ることは絶対にないのです。
誰れに頼まれなくとも、自ずと祈りつづけている世界平和の祈りは、太陽の光のようなものです
ぶ、その太陽の光が人間の健康のために適当に当たるように建築された家に住むのは人間の智慧であ
りその建築を依頼されて、依頼者の好みに応じるように建築するのが、建築家の役目であります。
そのように宗教者も、世堺平和の祈りによる光明波動を、求めてきた者にはより有効に当ててやる
ようにすることが、何故平和の慈悲を傷つけることになるのでしょうか、神のみ光は、原則的には平
等であっても、人間各自の想念行為によっては、差別のあるように現われるのであります。これは神
の側の不平等行為によるのではなく、肉体人間側の業想念行為の責任なのであります。
ですから、平等の慈悲である世界平和の祈りを根抵にしながら、求むる者に特別な祈りをしたとし
65
ても、それはけっして平等の慈悲を損う差別愛とはならないのです。明慧上人のような考をしていて2
は、今日の宗教者としてはとても人類世界の悩みを救ってゆくわけにはまいりません。
今日の宗教者は、平等の大慈悲心の現われであり世界人類の平和を願う祈り、世界平和の祈りに徹
しながら、個々人の自己に縁深き人々のために祈りあるいは相談相手になってやり、お互いが手を取
り合って生きてゆくことを実際指導してやるべきだと思うのです。
266
問85 現実に生活に困っている人に、世界平和の祈リを説いて、はたしてそれで救われるだろう
か、祈リで世界が平和になるだろうか、との質問を受けたのですが、どう解答したらよいか、お教え
下さい。
答この間に対しましては、まず第一番に、祈りとはどういうことかを説明しなければならぬと思
います。この本でも祈りについて再三再四説いておるのですが、また改めて説くことに致しましょう。
祈りとは、生命の宣言ということであり、生命の本質をはっきり出しきるということであります。
云いかえれば、本心を開発することであります。生命と云いますと、誰れにでもはっきりわかること
でありますが、これを神と云いかえますと、神などあるのかしら、無いのかしら、というように思う
人が沢山あるわけです。
神があるにも無いにも、神とは生命の別名なのでありますから、あるも無いもなく、あるにきまっ
ているのです。この生命はいかなる存在にも宿って働いているので、生命のない生物は存在しないの
であります。この生命の本源を大生命あるいは大神様というのであり、個々に分れた生命を、大神様
と同じように自由に使い得るのが人間なのです。
ところが現在の人間は、折角大神様から分れて働いている生命を、大神様と同じような道に乗せて
働かせることが出来ない状態にあるのです。大神様と同じような道に乗って生命を働かせていさえす
れば、人間は争いも不安もない、光明燦然とした、平和な楽しい自由自在な世界をつくりあげること
が出来るのでありますが、人間が肉体人間として物質界に働くようになってから、物質界の遅鈍な動
きになれてしまって、神の分生命である自由自在な微妙な働きを忘れ果ててしまったのであります。
そしてそこに肉体人間の幸福をめざした現在のような物質文化の華が開いたのでありますが、この物
質文化の進展も、もはや進歩の極限にきてしまって、かえって肉体人間世界を破壊してしまう原水爆
時代を現出させてしまったのです。
しかし、これも人間の罪というより、無智というより、生命が、生命自体そのままではこの物質界
においての働きを為し得ないのですから、肉体人間の世界で、生命がその働きを現わそうとする場合
には、まず、自己を守る、自己保存の本能で、自己の肉体保存に不利益をもたらす相手を敵と見、競
争相手とみて、自己や自己の所属する国や民族を守るための科学力を兵器として使用して、今日のよ
うな原水爆時代が出現したのも、生命が、生命本来の姿をそのまま出し切るための一応の過程として
は致し方がないのであります。267
ところがこれは一応過程であって、このまま今日までの物質世界的考えで人類が進んでゆきますと、
人類は行きづまりになるか、崩壊するかより仕方がなくなるのです。何故かと申しますと、いずれの人
間も国家も民族も自己や自国や自民族の利害が第一の問題であって、自己や自己グループの利害はさ
て置いて他のグループの利害を先にするということはまずないことだと思います。ですから、どうし
ても常に利害が対立し、強い国が弱い国を抑えつけてゆくということになり、弱い国はいつかは強く
なって、相手をやっつけてやろうと思うようになるにきまっているのであります。そうしたやり方が
今日まで繰り返えされてきているので、ここで今日までの物質人間的考え方を変えない限りは、再び
今日迄の悲惨な経過をより大にして繰り返すことになるのです。
物質文化の発展も、もはや今日では物質という観念をぬけでた、光波の世界、波動の世界にまで乗
りだしていて、それがテレビの一般化となり、波動科学の領域が生れてきたということにもなるので
す。これは物質文化が物質の本源の世界、生命の世界に一歩足を踏み入れたことを示すものであっ
て、現在は今日までの物質という観念、肉体人間という観念では、これ以上の進展を人類が示し得な
いという証左なのであります。
さてここで私は本題の問に対しての答として、祈りなくしては、個人も人類も救われぬ、という結
論に入ろうと思います。
物質科学が、光波の世界波動の世界に一歩足を踏み入れたことを、私たちはただ科学者だけにまかせ
268
安閑としていてはいけないのです。私たちは祈りによって、自己の今日までの不運な世界不幸な世界を
超越してゆかねばなりません。それと同時に自己の幸福を生み出す本陣である地球世界の平和を祈り
ださなければいけません。それが私の提唱している世界平和の祈りなのです。それはどういうことかと
申しますと、今日までの自己の不運不幸人類の不調和が、自己や人類の今日までの生き方のどこかに、
生命の本質的働きに適さないところがあるのだと考えなければならないのです。しかし、考えただけで
わかりようはずがないしわかっても、これを直してゆく生き方がすぐさま出来よう筈もありません。
そこで、今日までの一切をまたこれからの自己や人類の運命の一切を、生命の本源、神のみ心の中
に、神のみ心の現われである大調和、平和、つまり愛の姿の中に、世界平和の祈り言を通しておまか
せしてしまい、おまかせした想いの中から、再び自己や人類の行動をおこしてゆく、という方法が世
界平和の祈りなのです。
そう致しますと、肉体人間的業想念(不安や恐怖や、怒り妬み等々)が、世界平和の祈り言に乗っ
て、神のみ心、大生命のみ光の中で浄化されて、汚れなき生命の光として、再び自己及び、人類の中
に還元してきて、肉体をもったまま、物質世界の生活のまま、神の子人間的、安心立命した平和な生
活が行じられてゆくのであります。
自己の生活をよくしようとしても、今までの心のままで、しかも業生をつかんだままで、東奔西走
69
してもその成果が得られるものではないし、得られたとしても、またいつかは再び崩れてしまうもの2
なのです。永劫に崩れぬ幸福は、神の生命そのままの生き方を為し得た時にはじめて得られるものな卿
のです。その一番やさしい方法が世界平和の祈りなのであります。
何故ならぽ、世界平和の中にだけしか、自己の安住の世界はないからなのです。その他の幸福は一
瞬一瞬の消え去りゆく幸福でしかないのです。
問86 高僧や名僧あるいは聖者の伝記をみていますと、そのほとんどが一度にパツと悟ってしまう
ように書いてあります。ところが私は悟ってはまた迷い、その迷いから、また悟るというようなこと
を繰リかえしております。どうも、一生そういう悟リの状態にありそうですが、これでよいのでしょ
うか。お教え願います。
答悟りにも幾段階もあるので、一生を通して、迷ってはまた悟り、というように進んでゆく場合
が多いのです。
ある段階の悟りが出来ると、再び迷ったり落ちたりするようにみえても、実は迷ったのでも落ちた
のでもなくして、やはり進歩してゆく一過程なのであります。
一般の人の悟りという場合は、ラセン形の階段を昇ってゆくようなもので、降りたように見えて
も、それは昇ってゆく姿なのであります。ですから、うまずたゆまず精進していれば、決して落ちる
ということはないのです。
高僧名僧が、パッと一瞬時にして大悟したという場合でも、その人たちは、小さい悟りを幾重にも
重ねて、ある一瞬に大悟するのであって、小さな悟りが少しもなくて大悟徹底するということは、あ
まりないのです。
大悟というのは、自己が神仏と一体である、ということを、身心をもってはっきり知ったことであ
りますが、その境地に至るためには、どれ程の苦難の道を昔の名僧たちが通ってきたかは、今の人た
ちには想像もつかぬものと思われます。
ところが、現在では、過去世において難行苦行をつづけて、相当な心の状態にある人々がかなり誕
生しているので、今生では、さのみ苦労をせずに、かなりの悟りに達することの出来る人もいるわけ
なのです。その一番はっきりしているのは、私の提唱している世界平和の祈りと消えてゆく姿の教
を、素直にそのまま実行していて、数年にして、安心立命の境地に入り得ているような人がいる例で
あります。
真理に素直である人、素直に神仏の愛を信じられる人は、必ずと云ってよい程、過去世において、
相当修業をしてきた人であります。
私なども過去世においては、並々ならぬ修業をつづけてきていたので、なんのためらいもなく、素
直に神への全託を為し得たのであります。
今生の悟りも、今生の運命も、ほとんど過去世の精進の結果によるものでありまして、今日の悟り
271
も、今口の幸運も、八十%以上は、過去世における自己の精進の成果なのであります。そして、この
反対の不信の想念、不幸不運というものは、すべて過去世の因縁のそこに現われたものであるのです
から、それは過去世における自己のマイナス面の消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中に、守護
の神霊への感謝行の中に投入してゆくことが大事なのであります。
こう考えてまいりますと、あなた方が、世界平和の祈りに同感して、私たちの同志として祈りの行
をつづけておられることそのものが、もうすでにあなた方の救われを決定づけているのであり、あな
た方の過去世における精進のたまものであることを証明しているのでありますから、世界平和の祈り
を素直になさっている方々は大安心してよいのです。
本当に過去世において精進を怠った人々は、宗教の道に入っても、邪教と思われるような、団体に
入って、ますます心をむしばまれてゆくことが多いので、日頃の精進というものが、どれ程大事なも
のであるかを、しみじみと考えさせられます。
そのやり方をみただけで、はっきり誤てる宗教とわかるような宗教団体に、多くの人々がひきずら
れてゆくのは、やはり、過去世の因縁によるものであって、誤った道に入った場合の恐ろしさを、い
ちはやく、徹底的にわからせるために、守護神、守護霊が、そうした宗教団体に入れて、こらしめて
いるのであります。そうした人々には、身心をもって、その誤ちを体験しなければ、次の段階の足が
かりさえもつかめぬからなのであります。272
その理をよく考えられて、正しき宗教、正しき生き方に導きあげられた皆さんは、守護の神霊によ
くよく感謝すべきであると思います。あなた方は世界平和の祈りの中で、日々の生活をしていさえす
れぽ、この世においても、すでに大悟の境地に入ることを約束されたと同じであることを、知ってい
て下さい。
世界平和の祈りの素晴しさは、次第に拡まってきています。そのことは同志諸氏の等しく体覚して
いるところであります。悟るも悟らぬもない。世界平和の祈りそのものが、悟りの世界の大光明なの
であることを、申し添えておきます。
問87 八月号の「白光」の研究会の記事中に「説教や祈ればどうにかなるという宗教ではもうだめ
です」とあるのですが、これはどういうことでしょうか。それに加えて世界平和の祈リの真意をきか
せて下さい。
答現代は釈尊やその他の聖者、予言者の云っている末世に当るので、現代こそ、現実的救世の活
動の絶対に必要な時代であって、知的理論や、古代聖者の云われた説法を単に繰りかえして説教して
いたところで、どうにもならぬ時になっているのです。
現代の指導者の教は、頭で智識として味あわせて喜こぼせていたり、感心させていたりしているだけ
のものでは救世の役には立ちません。救世の役に立たぬことは、個人として存在してゆくことをも不273
可能にしてしまう現代の世界情勢なのですから、現代の教は、どうしても個人の救われと同時に世を
救う一助になっているという生活を指導しなければならぬ、と私は思っているのです。
どんな巧みな説教でも、その説教が、聴聞者の業想念を浄めさる光り輝いた言葉でなければ駄目で
す。ただ、そういう行ないはいけない、こうしなけれぽいけない。ある人はこのような善い行為をし
た。だからあなた方もそうしなけれぽいけない。というような善行為へのヒソトだけでは、現代のよ
カルマ
うに個人及び人類の業想念が表面に全面的に浮き上がっている時には、本人が行ないたいと思ってい
ても、そうしたカルマが邪魔して行ない得ないのであります。
祈りにしても、祈れぽどうにかなるなどという生半んかな祈りではいけません。祈りは絶対なるも
のであって、きかれるとかきかれぬとかいうものでない。祈りこそ、真実なるものの現われであり、
神のみ心の表現なのであります。
祈りを単なるお願い、と思っていたり、念力で神様に自己の云うことをきかせる、というように思
っていたら大変な間違いです。祈りとは自己の本心を現わす行ないなのです。本心が現われれば、神
は人間の本心と一つのものなのですから、そこに神が現われているので、神の完全性が必ず現実化さ
れてくるのです。従って、その人の生活は神の子的生活になるにきまっているのであります。
ところがこの真実の祈りが今日まではなかなかむずかしくて、どうしても自己の欲望達成の願い事
になったり、観念的なものになったりしてしまいがちだったのです。どうしてそうなったかと申します274
と、祈ろうとする対照がばくぜんとしていたからなのであります。神様と云っても、一体どこにいら
っしゃるのかわからない。宇宙に満ち満ちていると云われても、自分自身の中に在ると教えられて
も、頭ではわかるのだだ、実観として、びんとこない。そこで祈る想いが薄くなってしまう。生命が
けで飛びこめない。そこで神社仏閣詣でとなるのでありますが、これも一日中やっているわけにはゆ
かない。ある一時刻やある日月の祈りでしかない。それも、個人的だけのことで終ってしまって、世
界人類というところまでは想いが及ばない。やったとしてもほんのおざなりに過ぎない、ということ
になってしまうのであります。
そこで私は、そんなことでは地球が滅び去ってしまう。地球が滅びても、個人個人が真実の祈りに
達していれば、死後の世界のことも他の星の世界のことも、わかっているのだから、永遠に生命を生か
しきることが出来るのだけれど、地球を滅びさせてしまう程度の人類の悟りでは、永い期間を迷いつづ
け、苦しみつづけてしまう人々がほとんどといつてもよいのではないか、と思い、個人が救われると同
時に地球人類が救われるという教はないのかと生命がけで真剣に行じ考えつづけたのでありました。
そして、まず私自身が神様に身も心もすっかり全託した生活をはじめたのであります。それはすで
に天と地をつなぐ者という拙著にも書かれている通りです。そして遂いに世界平和の祈りと消、兄てゆ
く姿の教を神様から説かされる役目を仰せつかったのであります。
世界平和の祈り、というと誰れでも提唱しそうな祈り言葉を、今までは私のように組織だって、生275
活とぴったり結びつけてやっていた人は私の知っている限りでは一人もいなかったのです。自分一人
76
だけでやっていた人はあるかも知れません。時折り団体的にやっていた向もあるかも知れません。し2
かし、世界平和の祈りの真の意味を知って、日常生活がそのまま世界平和の祈りの中から生れでてく
るという教をしている人を、私は知らないのであります。
私は人々の求める神を、神のみ心であり、世界人類の等しく要望し希求しているところの、世界平
和、という大願目の中に、祈り言として見出したのであります。
世界平和祈るは神のみ心のひびきにあれぽ祈るたのしさ
この歌の心なのです。神と人とが一つに結ばれるところ、それは世界平和の中でしかないのです。
世界平和の中に、個人の全生活を祈り言として飛びこませることこそ、この地球世界を蔽っている業
想念(迷妄) の波を超えて、真理の光り、神の大光明と一つとなり、その大光明を個入の生活に、人
類の生活に明らかに輝やかせる、唯一無二の方法である、と私は確信したのです。
教は理解しにくくては一般大衆がついてきません、といって、幼稚な個人的なものでは人類世界に
なんのプラスにもなりません。わかりやすくて効果のあるものでなければならないのです。
個人を不幸に、人類を滅亡の淵にまで追いやつているのは、恐怖、妬み、怒り等々の業想念と自己
を守ろうとする本能からくる敵視観なのです。これらはすべて想いに過ぎないのであって、この想念
が消えさえすれば、個人も人類も安心してゆけるのです。想念がこの世の運命を決定してゆくのであ
ります。ですから、この想念を、神のみ心の中に飛びこませてしまうことこそ、個人及び人類の不幸
な運命を瞬時にして幸運の方に光明の方に振り向け得る、ということになるのです。
世界平和の祈りの中には、神のみ心と、人間の想念とが融け合っている姿があり、世界平和実現の
大光明の波を地球上に投げかけている姿があるのであります。
これは抽象的な言葉ではなく、世界平和の祈りとは実際に守護神と神の子人間とが協力して世界平
和のために働いていることなのです。守護神団と肉体人間との提けいの姿は、やがて皆さんの瞳には
つきり映じてくることでありましょう。
問88 キリスト教、仏教、神道と先生の教とはどう違うのですか。
答私の教は真実のキリスト教であり、真実の仏教であり、神道そのものでもあるのですが、主に
仏教の形をかりて説いていることが多いと思われます。これが各宗教を深くきわめた人にとっては、
すぐにもわかって下さることなのであります。
私は教の形はどのようでもよいと思っています。ただ神と人間との関係、真実の人間とはどんなも
のかをわからせ、この地球界にあって、地球界の常識を破らず、その常識をはるかに広いもの、はる
かに高いものにしてゆく行為の出来る人々を一人でも多くつくりあげてゆけるような教であることが
7
大事だと思っております。2
仏教やキリスト教を学問的に把えて、ああではない、こうではないなどと、現代の宗教的生活になん
らのプラスにもならぬことを、くどくど説いたり、論じあったりしている人々をよくみかけますが、
そんな姿こそ、真の仏教でも真のキリスト教でもないのです。枝葉末節的な学問的セソギは一般大衆
には不必要です。釈尊でも、イエスでも、今日伝わっている学問的な書物のように、あんなむずかし
い言葉で説いたりしていたのではなく、その頃の大衆にでもわかりやすい言葉で説いていたに違いあ
りません。
それでなければ、教が生きて人々の胸に伝わるわけがありません。宗教の祖師のすべては、神通力
偉大な人々であって、声に出る言葉というより、その人の人格から流れでる真理の光が、聴聞者に真
実を理解させたのであります。
真実の仏教、真実のキリスト教、真実の神道家とは、すべてその想念行為が、神のみ心に適つた、
愛と真の人でなければなりせん。その人々の愛と真の行為がマイナスになっただけが、その人々の宗
教者としての価値を減じているのであります。
いかなる宗教の教も、根本は皆一つでありまして、根本が違うということはあり得ないのです。そ
れをキリスト者は仏教をそしり、仏教者はキリスト教をあなどるなどということをしている向がある
のは、実に間違ったことだと思います。
ところが、この根本は一つだということを誤り考えて、富士山の頂上は一つなのだから貴方は東か
278
ら登ろうと、西から登ろうと、南から、北から登ろうと、どこから登ってもよいのです。などと教え
ている宗教者がいますが、これは甚だ誤った教え方だと私は思っているのです。何処から登ってもよ
いものなら、何にも先達の宗教者にきぐこともなければ、教えられることもない。その人その人に
よって、自己に身近な登り道があるのであって、一人の人が何処から登ってもよいということは決し
てありません。
イエスと因縁の深い人は、イエスキリストの説き方の道をゆくのが、頂上に登る容易な方法なので
あり、釈尊に縁の深い人なら、釈尊の説き方の道をゆくのがよいのであります。
ですから、各自の道を観別してやって、それぞれの道をおのずから登ってゆけるようにしてやるこ
とこそ、宗教の先達の役目であるので、何処から登ってもよいなどと、教える宗教者があったら、そ
れは先達としての資格のない人である、と私は思っております。
私などの教は、各自の過去世からの因縁を観別して教えているので、根本は世界平和の祈り一元であ
りますが、個人的にはその人その人の因縁を利して、真実の道に導き入れてやっているのであります。
これは言葉としてやるより、霊的に自ずから自己に適する道に入ってゆくよう指導しているので
す。人間は一人一人が皆違った素質をもっているのですから、皆さんは、よく自己の素質を観わけ
て、その道に沿って生きてゆくことが大事なのでありますが、世界平和の祈りを根本にして生活して
79 3
いると、.自ずからなる自己の道がひらけてきて、無理なく、自己の本然の道を歩みつづけてゆかれる
ようになるのであります。
万教は帰一であるとは云いますが、これは味噌もクソも一緒であるというのではありません。味噌
は味噌なりに、くそはくそなりにそれぞれ役立つのであります。それは真実の自己はあくまで自己で
あるので、それを曲げてはいけません。宗教の教というのもそういうもので、そのために仏教、キリ
スト教、神道などと各派が出来たのです。しかし、やがて、そうしたすべての宗教が真実に一つに融
け合う時がくるのでありますが、これは自ずから融け合ってゆくので、無理に万教帰一ということに
するのではないのです。
280
問89 現象世界の出来事は、心の現われ、三界は唯心の所現だから、心を直せば病気は直る、と教
えられ、ろくに医者にもかからず死んでしまったリ、薬毒だ薬毒だと薬や医者を敵視するように恐れ
て、薬も飲まずに死んでしまう人がいるかと思うと、科学迷信式に、なんでも医者だ注射だ、と宗教
的関係、神の救済ということに一向無関心で死んでしまう人もいますが、医学と宗教の融合点につい
てご説明下さい。
答何事にも片寄るということはいけないことです。かたくなの宗教信者の医薬嫌いというのも全
く困ったものです。それは自分自身が自己の信念のままに行動するのは結構ですし、医薬を超え得る
悟りの状態ということはかなりあることなので、その人はそれでよいのですが、自己の信仰を他に押
しつけて、病人が医薬に頼りたい心があるのに、医薬をけなして、よせつけないなどの態度は、実に
宗教精神として最も大事である調和精神に欠けている自分よがりで全く困りものです。
と云って、人間の精神の力というものを全然無視した医学万能主義の人にも閉口します。現在の医
薬には、まだ多くのマイナス面があり、医薬以外に精神面・心霊面において治病することも多々ある
ことを知らねぽなりません。
宗教というものは、人間の心を、神のみ心と一つにつなげる。神と人間との関係を明らかにする教
でありまして、その要素は、調和した心、平安な心、明るい愛にみちた心などでありまして、それら
に外れた想念行為は、宗教心のマイナスである業想念であるのです。
宗教の根本は、病気を直すことでも、生活を富裕にするためのものでもありませんが、宗教精神を
自らの生活に行じていれぽ、おのずから、直るべき病気は直り、入るべき物資は入ってくるようにな
るのですが、一般大衆は、自己や自己の周囲の現象世界の生活環境の善くなることを願って宗教入り
をするのであって、真実道を求めての宗教入りをする人は数少いのです。
ですから、現今のような業想念行為の波が表面にすっかり浮き出している時代には、はじめから高
遠な理想や理念を説いて、これが宗教なのだ、と云っても、ついてくる人はあまりありません。そこ
で方便として、病気も直し生活も改善されるように指導するわけです。
ところが、近頃は、こうした現象面の問題の方が主になってしまって、真実の宗教である、神と人281
間との関係を明らかにすること、永遠の生命の問題などは、どこかへ置き去られてしまうような教が822
多くなってしまっているのです。
こうした病気直しや、貧乏直しに血道をあげるような宗教者が増えてくると、つい自己の宗教の治
病効果や、その他の効能を宣伝するために、医老や薬による効果を大きくけなす結果になってくるの
であります。
実際に病気の大半は精神活動の抑圧によると云っていい程、精神と肉体とのアソバラソスによるの
ですから、抑圧されていた想念を、なんらかの形で喧出させれぽ、抑圧されて病念となっていた精神
状態が他の方向に転移されて直ることが多いのです。
お題目や唱え言を一心につづけてやっていると病気が直ったなどというのは、みな想念の転移によ
るからで、何も神様の力が特別に働いたわけではないのです。そうした方法で治癒した人は、病気の
変形として、凝り固った宗教観念の人物となり、心の自由を失ってしまって、自己の宗教団体以外は
すべて邪悪視してしまう、狭い心の不調和な人間となってしまって、病気をしている方が余程、よか
ったのではないかとさえ思われるようになってしまったりするのです。
宗教団体がそうした宗教本来の生き方にそむいてしまうようではいけません。すべての病気は過去
世から今日までの業因縁の消えてゆく姿なのですから、医者にかかろうと薬を飲もうと、それが宗教
信仰となんのかかわり合いもないことで、医者にかかったから、その人の宗教信仰が浅いとか、薬を
飲んだからあの人の信仰は駄目だ、と云うのはおかしな話です。
ただ私の云いたいことは神と一つになっている信仰、神への全託に生きていれば、そうした一挙手
じねんにうに
一投足も、自然法爾的になされるので、飲むべくして飲んだ薬はきくのであり、かからなくともよい
医者にはおのずとかからないことになるのであります。すべては世界平和の祈りの生活が根抵になっ
て、はじめて神と一つにつながっている神の子的人間の肉体界における生活がなされてゆくのです。
あまり自己の想念で、ああだ、こうだと物事を限定してゆくことは宗教精神に反することであるの
です。善いも悪いも消えてゆく姿であり、ああだ、こうだも消えてゆく姿なのであって、あるもの
は、神と人間とが一つになって光り輝いている祈りの姿だけなのであります。そうした心持ちで、こ
の世の万々の事柄に処してゆくことが最良の生き方だと私は思っております。
(終り)
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