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8/19/2022
五井昌久著
宗教と平和
序文
宗教とことさらに申しますと、すぐに迷信という言葉がかえってくるような風潮
が日本人の一般のなかにあります。それでいながら、誰れもがなにかを求めている。
この直接求めているものは、地位や権力や、物質でありましても、その根本は自己
の平安と生命の自由な立場というものを求める想いでありまして、それが形をかえ
て、物質や地位や権力を欲っする、というように動いているのであります。
この求める想いが生命の根源に深くなればなるほどより宗教的になり、その想い
が浅ければ、物質的、現象利益的になるのです。
ですからいかなる人でも、心の奥底で宗教的なものを求めているのですが、その1
想いを自分でわからずにいるだけなのであります。生命の自由を得るということ
と、心の平安を得るということは、地球人類の窮極の問題でありまして、これをや
さしくいえば、世界人類が平和になる、ということであるのです。
唯物論と唯心論と思想的に大きく二つに分かれておりますが、こういう見地に立
ちますと、全く一つの目的をもって働いているのでありまして、対立抗争する理由
ッルマ
が一つもないのであります。対立抗争する所以のものは、仏教的にいう業、私流に
かルァ
いえば業想念なので、この業、業想念が、この地球界から消え去れば、生命の本然
すがた
の相は明らかに現われてまいりまして、地球人類は平和そのものになるのでありま
す。
したた
私はこういう理論を、種々とかみくだいて本書で認めておりますが、端的に私の
申し述べたいことは、人類の生命そのものは、善も悪もなく、光明そのもの、美そ
のもの、真そのものであるのだから、その生命の本然の姿を汚さぬよう、汚したら
すぐにぬぐい去っておくよう、人類の一人一人が心がけてゆくことが必要であって、
2
カルマ
生命を汚したままで悟ろうとしたところで、世界平和運動をしたところで、業の波
動世界を、ぐるぐる廻わりしているだけで、ますます生命を濁らしてしまうだけで、
果ては、地球滅亡にまでいたってしまうのだということなのです。
そこで本書は、常に生命をいきいきと光あるものにしておき、世界人類平和のた
めに、少しでも役立つ人間が多く生れでるようにと、深い祈り心で書きつづったも
のであります。それを一口に申しますと、消えてゆく姿で世界平和の祈りというこ
とになるのであります。
昭和四十三年五月
五井昌久
3
4
目次
序文
宗教とヒューマニズム
宗教は阿片か
心霊科学と宗教
芸術と宗教
58 40 24 7 1
道徳と宗教
宗教と呪術
ガソジーと世界平和の祈り
生きている宗教、
美を求める心
死んでいる宗教
宗教活動の本質
宗教思想の統一
光明思想の新しい生き方
198 180 161 144 126 cos 92 74
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人間と真実の生き方
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わけみたまごうしようしゆこれいしゆこおん
人間は本来、神の分霊であって、業生ではなく、つねに守護霊、守護神によって守
られているものである。
かこせ
この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念が、そ
の運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去るのであると
いう強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難のなかにあ
ゆるゆるまことゆる
っても、自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづ
けてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の祈りを祈
りつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得出来るものである。
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宗教とヒューマニズム
十人十色の人間
人間というものは十人十色、百人百色といわれるように、人間という等しい名称で呼ばれながら
も、実に多様な心の動きをもち、多種類の精神的なものを含めた生活内容をもつものです。
それは人間という一つの名称で呼ばれるにしては、あまりにも大きな相違点を示す生活様式、ま
たは精神内容をもっている個々人や、集団があるからです。
鳥類や獣類にも種々の種類がありますけれど、形や性能の上におけるような複雑きわまる相違は
見られません。
一体なにが人類にこのような複雑性を与え、大きく広い範囲の形の上における相違並びに精神状
7宗教とヒューマニズム
態における相違を、創りあげさせてしまったのでありましょう。いうまでもなく、考える能力、想
念する力が、人間の複雑性を築きあげてしまったのであります。
人間という形の上では、頭があり胴があり手足があり、そして眼は二つあって、鼻が一つある、
というように大小の差はあっても、いずれも等しい形態のものでありますが、思考の面、想念の面
になりますと、十人十色ということになってきて、すべてにおいて全く等しい、という人間は見当
らないのです。
おとニ
自己の欲望のために、平気で人を殺害できる漢も人間と呼ばれており、自己の欲望のすべてを捨
てて、人類社会のために尽している人も人間であります。前者と後者との心境のへだたりはどれほ
どのものであるかはかり知れません。
そこで釈尊はこうした心境の相違を仏、菩薩、縁覚、声聞、天人、人間、阿修羅、餓鬼、畜生、
地獄など大きく十に分けています。しかし実際の区分は何万何千になるかわかりません。この区分
はそのまま他界における境界になるわけです。
あらわれ
このように現象の世界の人間は実に複雑なる心境の相違をもち、そうした人々が入り交って生活
しているのであります。
8
ところがこの人間を肉体界に生存せしめている生命と普通呼ばれている力は、全く一つのもので
あると考えられております。
聖者における生命も、殺人者における生命も全く一つのものであって、生命そのものにおいては
差異のないものと一般は認めているのであります。聖者が死んでも一つの生命が肉体から消えたの
であり、極悪殺人者のそれも何じように一つの生命が肉体を去ったということになるのでありま
す。
誰れもかれも生命においては一つである、というのが民主的な考えであり、人道的考えであるの
ですが、聖者の死と極悪殺人者の死との民衆に与える影響は著しく相異ったものになるのです。ど
こに一体その相違ができてくるかといいますと、勿論人間世界にその人たちの生存が片方が有益で
あり、片方は有害であった、という差異によるのであります。
たお
有益であった者の生存は称えられ、そして死は惜しまれるのであり、有害であった者の生存は恐
れられ、憎まれ、死は喜び迎えられるのであります。(その正不正を誤まり思われた場合は別とし
て)
生命と呼ばれる等しき力をともに与えられながら、一人は人生を有益に生き、一人は有害に生き9
宗
教
と
ヒ
ュ
ー
マ
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ム
るということは、実に不思議なことであると思うのです。
その相違はどこにありや、と疑問を起さぬわけにはゆかなくなります。
それは、各人の想念行為の相違によるのであります。想念が、神(生命の源、本心) に近づいて
カルマ
いるか離れているか、あるいは業、いわゆる利己的欲望が強いか弱いか、本心(光明) を蔽う暗雲
が濃いか薄いかによるのです。
人間の生命は同等の価値をもち、生命の根源においては、すべて一つなのである、ということ
が、意識的無意識的にかかわらず、真実にわかっている人は、他人の生命や生存価値を、自己のそ
れと同等に見得る人であります。自己欲望のために、他人の損傷を考えぬような人は、口でどのよ
うに立派なことをいおうと、人間の真実の在り方、人類の本質というものを知らない人なのであり
ます。もっとも、大きく広い意味の人類貢献のために、少数の他人に損害を与えるような時は、こ
れはまた別に考えられる問題であります。それは人類に貢献した実質のプラス、マイナスの差によ
って定められるべきだからであります。
ともあれ、多くの人間のために有益でありたい、と思う想念は生命を生かしている想念であっ
て、愛であり光であります。本心開発の姿であります。
10
ヒューマニスト三つの形
ヒユロマニスト
人道主義者というのは、このように、人間のためになることを考えないではいられない人、人類
のためということを思わずにはいられない人のことをいうのです。この人たちは常に、多くの人々
の生命とか、生活とかを思考し、行為していて、自己だけの利益のなかに安住することのできない
さが
性をもっているのです。自己を犠牲にしてでも、人類社会のためになりたい、という想いが、無理
に意識するわけでなくとも、いつでも心のなかに浮んでいるのです。
だからといって、この人たちが神仏を思い、祈りの生活をしているか、というと、そうではない
ヒユユマニストヒユコマニスト
のです。真の宗教者は勿論人道主義者でありますが、人道主義者必ず宗教者というわけではないの
ヒユなマニストビユロマニスト
です。反宗教的人道主義者、唯物論的人道主義者もかなり多いのです。
ヒユユマニストビユロマニスト
人道主義者のなかには三つの型があります。一つは、神仏を信仰する、いわゆる宗教的人道主義
者、一つは神仏は否定しないが、その力に依存もしないで、人間そのものにある能力(これは実は
思い違いなのであるが) をもって、人類社会のために働く、最後の一つは、神仏とか宗教とかは、
人間の創り出した迷信であって、この世の幸不幸、社会人類の進歩向上は、すべてこの肉体人間の
夏1宗教とヒューマニズム
なかにある能力をもってなすのである、と肉体人間以外の一切の力を排除して、人類社会に尽そう
ヒユロマニスト
としている、唯物論的人道主義者(共産党にはこういう型の人が多いのです。) の三つの型なので
す。
ヒユ マニスト
このうち第二と第三の人道主義者には、文化人と称される知識人が多いのです。
いわゆる、種々の著書をあらわし、新聞の文化欄に一筆し、ラジオやテレビやその他講演会に出
席して一席弁じている人たちをはじめ、各種の社会事業に名を連ねている人や、そうした人たちに
つながりをもっている人々であります。
ヒユロマニスト
ここでは売名的な人々は除いて、純粋な人道主義者だけについて申しあげることにしますが、こ
の人たちは、学問的知識もあり、社会的な名声もあり、あるいはそれにつらなっている人々であり
ます。
こうしたグループは、肉体以外の世界だの、その影響についてなどは、少しもその考えのなかに
入れてはおらず、ただ、自分たちの肉体的知識経験だけを力にしているわけで、人間の幸不幸は、
肉体に生存している期間だけであると一様に思っているのです。
ですから、この肉体世界、形の世界だけの人類の幸不幸、人間の幸不幸を問題にしているので、12
一にも二にもこの世の環境の整備、環境の発展進歩のために力をそそいでいるのです。環境がよく
ならなければ、人間は絶対に善くならない、社会政策が立派であれば、おのずから人間は善くなっ
てゆく、というように考えているのです。
このような考えが根底になっての活動なのですから、科学への献身(医学も含めて) によって、
肉体生活期間の延長、文明文化の進展をはかり、各種社会施設の拡充完備による生活の安定などに
力をそそいでゆくことになるのです。そしてこの裏づけとして、隣人愛、同胞愛、人類愛を人々に
説き、教育しているのです。
こ
こうした人々のなかには、宗教者をも超える立派な人格行為の人もあるのですが、この種の人々
ヒユロマニスト
のように、宗教的でない人道主義者は神の存在を、肉体人間の生活とあまり関係のないもののよう
に考えていたり、神仏を否定していたりする思想が根底であり、過去世からの因縁因果ということ
に一考もわずらわさず、しかも、人間は生命において、なにびとも等しい価値をもつものである、
という思想をもつものでありますから、この世界の人間生活の不平等が、実にたまらなく不快であ
り、不平であり、不満であることになってくるのです。片方では、大邸宅に住み、豪華な生活をし
ているブルジ・アがあり、片方では、働けど働けど楽にならないプロレタリアの生活がある、とい
13宗教とヒューマニズム
うことは、一体どこにその原因があるのか。それはひとえにブルジ・ア(資本家) に味方する政治
家たちが悪いのである、だからこうした悪政治家を倒して、真に民衆のために働いてくれる政治家
を立てて、民衆本位の政治を樹立させよう、という考えになってゆき、これが社会主義者と立場を
同じくしたり、共産主義の線に足を踏み入れていったりするのです。
ですから愛深い人たちは、おおむね社会主義とか、共産主義に同調するか、神仏一元の宗教的立
場に挺身するかのどちらかになってゆき、どちらつかずの立場で、自己だけが安穏でいる生活には
耐え得られなくなってくるのです。
人道主義の立場、民主主義の立場でいう人間の生命の価値は、なにびとにおいても等しいもので
ヒユロマニスト
ある、ということは真実なのであります。それは、第一の宗教的人道主義者の主張でもあるので
す。しかし、真の宗教者は、生命の等しい価値というものを、肉体だけについていうのではなく、
魂の面、霊の面においていうのです。いいかえれば、生命の本源の世界における個生命の価値を等
しいと認めているのです。
14
能力の相違があるかぎり生命価値の平等はない
肉体というものは、生れおちたその時から、能力、貧富、環境の差をもっていることは、なにび
とも認めないわけにはいきません。
このうち能力(身体の強弱も加えた) の差における不平等ほど、その人たちの将来の幸不幸、貧
富や地位にはなはだしい相違をみせつけるものはありません。これは生命の価値の平等、というこ
とと、まるで反対な現われ方なのです。
生命の価値が平等でありながら、なぜこの能力がこのように不平等なのでありましょう。能力が
このように不平等である限り、生命の価値のみを、いかに平等である、と叫んだとしても、その叫
びは空虚なものであり、そのような平等政策は、絶対に完全になることはないのです。
たとえ、世界の政治を、社会主義、共産主義になし得たとしても、その最高幹部になり得るもの
は、なんらかの能力において、他に勝るものであり、末端の役付きに至る迄、その下位の人たちよ
りも、能力を上位者に認められたものから先になり得るわけです。
これは、生命の価値の平等によって定った組織ではなく、やはり各種の能力の差によって定まっ
た組織なのです。そして、この者たちがひとたび、肉体の殻をぬいだ時、つまり死亡した時におけ
る国家や人民の待遇も、その能力の差のごとく不平等なのであります。そうしますと、生命の価値15宗
教
と
ヒ
ュ
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マ
ニ
ズ
ム
の平等ということは、一体どこに消えてしまった、ということになるでしょう。
結局、肉体というものだけに、生命の価値の平等を唱えている限り、生命の価値の平等はあり得
ない、ということになり、人道主義も民主主義も、その根本題目を見失ってしまったことになって
くるのです。
真の生命価値の平等ということは、肉体だけの人間にいうのではないということに必然的になっ
てきます。肉体の他に魂を考え、霊を思い、神の存在を信ぜぬ限り、平等という言葉をつかうこと
は実に愚かしいことといわねばなりません。
生命の平等とは、神、絶対者、大生命の立場においていわれることであって、創られたる側の肉
体人間のほうからいうべきではないのであります。もし、あくまで、平等を主張するならば、肉体
人間が、神と同等の立場に立って、赤児に生れた時から、その能力を平等になし得た時に、はじめ
ていえる主張なのであります。
いつ自分の児が胎内に入るか、それが男女のどちらであるか、どのような才能をうちに含んで
いるかも知らずして、ただ、いたずらに平等を叫び、自由を叫ぶのは実におかしな話であるので
す。
16
こうした根本的な思想の誤りがあっては、人類を真実の平等にすることはでき得ないのです。愛
があっても、それが地上的なもの、肉体人間的なものであっては、けっして人類を平等にすること
も、平和にすることも、幸福にすることもできないのです。
愛といい、生命価値の平等というからには、ひとたびは必ず、愛の本源、平等の本源、つまり神
(大生命) に考えを戻さなければいけないということになります。
神の力を借りず、あるいは神仏を否定したところからは真の人類愛が生れてくることはあり得な
い、と私は思っております。それはどこかで、なんらかに片寄った感情であって、真の人類愛では
ないと思っております。真の人類愛は、神の光、太陽のごとく片寄りなく照すものであって、その
よ
光に浴さぬものは、自己が太陽の光を避けているからにすぎぬ、というほどのものであるのです。
人道主義から宗教へ
神における生命価値の平等はなぜ肉体生活における平等とはなり得なかったのでしょう。それ
さわり
は、肉体人間の各個人に与えられた生命が、その与えられたそのままに、擬なく汚れなく純粋に活
動してはいないからです。17宗
教
と
ヒ
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マ
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ム
生命の純粋な活動というのはどういうことかといいますと、意識的無意識的にかかわらず、佃人
の生命は、本源の世界において、大生命につらなっているということを認識することからはじまる
のです。大生命につらなっていて、一つであるとわかってくると、自己の生命は個人のものであっ
て、個人のみのものではない、人類すべての幸福のためのものであるということがはっきりしてき
ます。ですから、人類の幸福を損う想念行為、自己を損う想念行為、つまり、自国だけの、自己の
階級だけの、自家だけの、自分だけの、幸福を掴むために他を押しのけ損う行為をすることは、生
命の純粋な生き方に反するものであり、大生命(神) の意志にそむくものであり、真実の自己を損
18
魂のであります。.」うした誤.た行為を平気でできる人は、もうすでに人道主義から離れている
のであって、生命価値の平等をいう資格はすでにない人々なのです。
生命はこうした誤った想念行為によって、次第にその純粋性を蔽われ、その不純の濃度によっ
て、その生命価値は、下落していったのであります。そこで自分に与えられている生命を自我欲望
さわり
で 汚さず、蕨なく純粋にその生命のままに働いている人を、聖者とか偉人とか賢者というのであっ
て、このような人々と、犯罪者や、それに類似する人々との生命価値は、勿論大なる差異を示すも
のであります。
いいかえますと、自己の生命を純粋に生かす想念行為そのものが、もうすでに人類のためにな
り、大生命の意志にそっているものであるということになるのです。表面に意識せずして、自己の
生命を純粋に生かしきっている人は、その潜在意識に、自己の生命の尊さを意識し、大生命(神)
の恩寵を受けているのです。
ここで問題になるのは、どうして一人の人がそのように生命を純粋に生かすことができ、他の一
人が不純に生きるような性質に生れているかということです。話がここまでくると、もうすでに、
単なる人道主義では問題を解明し得なくなってきて、宗教的解明にまつより方法がなくなってくる
のです。
それは、人間は生命そのものであって、肉体は、生命から発した想念が、三界(霊、幽、肉体)
リんねてんしよう
を輪廻転生しているのだ、生れかわり死にかわりしているのだという、仏教的な説きかたによって
解明されるのです。
過去世の因縁をのぞいては考えられない
現代の人は、真の人間(生命、霊) というものと肉体(想念) というものとを混合して考えてい19宗
教
と
ヒ
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一
マ
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ム
て、相異なり、差異の烈しい想念行為の肉体の個々人を平等に扱わなければ、生命の平等性を侵し
ていると考えているのです。これは大なる誤りであって、真の生命価値は勿論平等でありますが、
ひとたび、さまざまな想念をつけて、肉体として生れて来た以上は、各自すべて不平等なのであり
ます。なぜならば、各自の想念行為にはなはだしい差異があるからです。
けじめ
いいかえますと、太初に大生命から個々の生命として分れて、生命そのものの霊的生活の時には
平等であったものが、肉体という衣をつけた生活をはじめた時から、次第に各自想念行為に差異が
できてきて、子供から孫、孫から曾孫となってくるに従って、生命(霊) と想念(肉体) とを、次
第に肉体一元と認めるようになってきて、その想念が大生命(神) により近づいているか、離れて
いるかによって、その生命の輝きに差異ができてきたのです。それが現在の人間生活の不平等の原
因になっているのです。仏教的にいう因縁因果(原因結果) ということになります。
今、赤児に生れたその時、すでに貧富の差があり、体力、能力の差異が内包されているというこ
とは、過去世において、それらの魂が、いかに生命を輝かに純粋に生きたか、生命の光を蔽って生
きたか、いいかえれば、真の愛の想念行為に生きたか、愛を離れた生き方をしたかの差異が内包さ
れているということなのであって、この理を知らずして、いたずらに人類の平等、個々人の平等を
zo
叫んでも、決して、人類も、個々人も平等にはなり得ないのです。
そこで、真の宗教者は、生命(神、霊) と、幽体肉体にまつわる想念とをはっきり区別して、生
命を純粋に輝かすためには、今迄の誤まてる想念、生命の光を蔽う想念、つまり、愛にもとり、他
カルマ
の不為、国の不為、社会の不為になるような、喜怒哀楽、妬心、不安、恐怖等々の業の想念を、消
え去りゆく想念として、消し去ってゆくことを教えているのです。
その方法は、まず常に神(守護の神霊)を思いつすけをごとです。それは大生命(神)と個生命
さわり
を真直ぐにつなぎ、擬なく生命の光を天と地に交流させる最大の方法だからなのです。そして同時
に身辺に起る自己に不利な事態、脳裡に起る心を乱す想念を現われては消えさりゆく姿と観じつづ
けてゆくことなのです。そ鋲することによって、過去からの誤まてる想念が消幻てゆくとともに、
それだけ生命の光を蔽っている不幸の影が消え去るので、光が充分に輝き出だし、生命の純粋な姿
が、その人間の肉体生活に次第に現われてくるのです。
心と形におのずからなる調和
こうした方法を根底にして、各種の社会施設や、科学の応用をしてゆけば、心と形の両面に平和21宗
教
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な姿が現われ、ことさら生命価値の平等などと叫ばなくとも、おのずから調和した世界が現出して
くるのです。
しかし、誤った宗教者たちのように、いたずらに自己らの教団入りを強要し、入らねば罰があた
ヘヘへ
る、とか、不幸がくるとかのおどし文句をいったり、神仏のなんであるかを、自己そのものが知ら
ずして、幽界あたりをうろついている低級想念に踊らされて、神のおつげ的に無知なる人々に不安
定なる依頼心を起させ、各自が神からきているという真理を曇らせて、その独立心、独創性をうば
ってゆくような者は、唯物論者より以上に世を毒すると思うのです。
人間はすべて、自己内部にある神の意志によって動くようにならねばならぬので、その神の意
志、神の力を発現させるためにこそ、宗教者の役目があるのです。
私はこの神を、宇宙神を根本にして、人間内部の中心に直霊、分霊があると説き、その働きを真
がいかく
直ぐに純粋になさしめるために、守護神、守護霊という、浄化の働きをたすけるための力を外郭に
置いて、守護神、守護霊に感謝をしつづけていれぽ、守護の神霊の光によって、必ず、人間の過去
カルマ
世からの業生的因縁が浄められ、消え去ってゆき、人間本来の真実の姿、分霊、直霊の光が、その
まま肉体に現われて、神そのままの働きを、この地上世界においても発揮することができるのです
22
よ、と説いているのです。
創造主的神は法則として働く神であり、守護の神霊が、救いの神として働いているのですから、
ただ一口に神とか、宇宙神といっていたのでは、救われの実感が起りにくいから、私は特に守護霊
を強調しているのです。
守護神は、神界の座にいて、守護霊は祖先の浄まった代表として、肉体に密着し、個々の人間の
本心発現、生命の完全発揮を援助していることは、実にはっきりした事実として、毎日私は体験し
ているのです。
23宗教とヒューマニズム
別
宗教は阿片か
阿片的宗教というもの
宗教は阿片なり、とは昔からよく聞く言葉であります。これは昔から為政者や権力者が、宗教の
教えを自己の都合のよいように宗教者に説かせて、人民を思うように使った、それはちょうど阿片
のように人の心をだめにする、と唯物論者が宣伝したことに語因があるようですが、私は、この小
論では、そうは解さず一般の誤った迷信邪教の状態にたとえて説明することにいたします。事実誤
った宗教の道に入ったり、邪しまな信仰をすることは、阿片吸飲者のそれのように、その人の一生
を破壊し去ってゆきます。そこでさわらぬ神にたたりなし、などというような言葉も生れてきたわ
けです。
「緑の魔境」という記録映画をみましたが、南米の未開の地の一宗教的行事を実写しているとこ
ろがありました。
一人の教祖的女性を中心にして、種々と神に捧げる行事をやっているうちに、男女の信者たち
が、自然に踊りはじめ、その踊りがしだいに狂熱的になりだし、ついには狂人そのままの、獣的な
狂態で性衝動でのたうちまわるような、見るも醜悪なる手ぶり体つきで烈しく踊りまわるのには、
思わず眼をふさぎたくなるほどのものでした。
これが宗教的胱惚境であるとしたら、宗教とは、人間を神性から獣性に転落せしめるものであっ
て、たしかに阿片的であることは間違いありません。こうした宗教が南米の未開の地にのみあると
思って、一笑にふしていたらとんだことになるのです。なぜかといえば、現今の日本の宗教界に
も、これほどではないにしても、これに類したものや、無知の大衆を威かくや、現世利益の押し売
りで、入会させ、神の名を借りて個人の人格やその自由を束縛しているものがたくさんあるからで
す。
宗教とは、個人を真の自由に解放し、与えられた生命を、素直にそのままに、のびのびと働かせ
得るように導くものでなければなりません。いいかえれば、神と人間との関係を認識させ、日々心
25宗教は阿片か
じねん
を不動に安心立命の生活を営めるようにさせるものでなければなりません。そうした生活には自然
と神が現われているものであります。神が現われているとは、神は愛であり、叡智であり、真であ
り、美であり、善であるのですから、宗教に入ったとするならば、愛か智か真か善か美か、いずれ
かの姿がその人その生活の面、行動の面に現われてこなければならないのです。
常識をはずれた狂乱の踊りや、恐怖を与える言動や、個人の自由を縛り、その生活を不安心にし
カルマ
動揺させるような宗教者や宗教団体があったとしたら、その宗教は神のものではなく業のもの誤っ
たものであります。
宗教に入ったために家庭を不和にしたり、友人知己を失ったり、常識生活の知人から眉をひそめ
られたりするような奇矯な行為言動をするようでは、宗教は阿片なり、といって常識的人々から嫌
われてもいたしかたのないことでありましょう。
宗教団体に入ったりすると、とかく、ひとりよがりになり、自分の団体以外の人々が一様に一段
おとるようにみえたりしてくるものです。ですから、自分の所属する団体以外をすべて邪教視した
り、敵視したり、あわれんだりするのですが、これこそ、真の宗教を知らぬ、道をふみはずしてい
る人であるのです。26
宗教とは第一に調和を旨とするものです。調和とは愛の別名にほかならないからであります。そ
うした大事な神のみ心をはずれていては、いかにどのように大声叱汰して神仏の道を説こうとも、
それは誤りであるのです。
宗教指導者は慈悲心の深い者であるはずなのですから、その慈悲心の輝きで、おのずと人を浄め
神仏と人間とを一つにつなぎあわせてゆくべきであります。
最後の審判を予言し、人を恐怖させながら、自己の所属団体にひきいれようとするような宗教者
は、やはりあまり上等とは申せません。
古代の聖者はすべて、神仏が愛であり大慈悲であることを説いているのであり、人間各自のなか
に神仏が厳然として存在しているのであるから、汝らの内部の神性、仏性を一日も早く現わすよう
に祈れよ、といっているのです。祈るということは、いのちを宣言するということ、つまり、生命
の真実の姿を現わすということでありますから、人間が、自己に与えられた生命を素直にさわりな
く不安なく、言動行為に現わせばよいわけなのです。ところが、生命を素直にそのまま現わすとい
うことはなかなかむずかしいことなのです。
なぜかと申しますと、生命が、自由自在にしてすべてなる神から分け与えられたものである、と27宗
教
は
阿
片
か
いうことが、肉体発生以来次第に実感から遠ざかってゆき、ついには、唯物論のように、肉体人
ヘへ
間だけが全存在であって、神などはないという極端な思想が勢いをしめ、神仏信仰者といえど、た
だたんに神様におすがりする、神の僕である程度の信仰になっていて、神と人間とが一つのいのち
であり、親子的関係で結ばれているという実感をもつ人々がはなはだすくなくなってきたからで
す。
自他を裁き、責め、束縛して、自他の心の自由を失わせてゆくことは、その人々の魂の進化には
役立たず、かえって業因縁の渦を厚く濃くしてゆくことになり、いつまでたっても、神そのままの
生命の光を、この人生に交流させることはできないのです。
宗教的になるにしたがい、その人の心が、種々の事柄にとらわれやすくなったり、偏狭になった
り、一つの枠内にとじこもってしまったりするようになって、自己に与えられている職業生活をお
ろそかにするよ51 であっては、これもやはり阿片的迷いの宗教というよりほかはありません。
死の恐怖を克服する
人間が真実の宗教生活に入り、意識的にせよ、無意識的にせよ、神との交流がすっきりした形で
28
行われている場合は、生活の貧富にかかわらずその人は、心がおのずから明るく、自由に、不安の
影なき生活を送れるようになるものなので、宗教生活に入りながら、心に暗い影、恐怖の影があり
迷いの想いにとらわれているようであっては、それは誤りの宗教生活であるのです。
肉体人間の生活には、つねに死というものへの恐怖とそれにともなう様々な不安(老病貧苦な
げだつ
ど) があります。それは唯物論的生き方では、どうしても解脱し、超越し得ることはできません。
どうしてかといいますと、唯物論すなわち、五感に観ずる形の世界だけの探究では、真理を知り得
ないからであります。
いかに哲学的につき進んでも、その学問が行動として、実際体験にまで進まぬかぎり、その哲学
は、ただたんに、知識欲を満足させるためだけであって、真にその人に真理を知らせるものではあ
りません。真理を知るためには、ただ行為による体験的認識か、無我の全託かの二つよりないので
あります。
人間はいつこよりきたり、いつこにゆくか、人間とは一体何か、こうした疑問は哲学的疑問であ
り、これをなんらかの行動にうつして、自己全体で知ろうとするところから宗教がはじまるのであ
って、眼に見、耳に聞き、手にふれるこの現象生活の利害関係だけを問題にしての宗教入り、とい29宗
教
は
阿
片
か
うのは、実は宗教の門に入ったのではなくして、いぜんとして、その人は唯物論の世界、肉体世界
だけの人であるのです。ですから、神と人間との真実の関係や、与えられた生命の正しい生かし方
を教えず、その場その場の現象利益だけを与えたり、あてもの的にものを教えたり、教わったりす
るだけで、宗教であるとか、宗教信者であるとか思ったりしたとすれば、それは、神のみ心にかな
う生き方ではなく、業因縁的、たんなる生活の方法でしかないのであって、とうてい死の恐怖を超
越する自覚や、それにまつわる不安にまけない自覚をもち得ることはできないのであります。
その場その場の幸不幸だけを問題にして生活してゆくようでは、なかなか神への道に達すること
はできないのです。
知識階級の人々や学者先生方の一部が、とかく宗教を馬鹿にしたり、問題にしなかったりするこ
とは、現今までの宗教が、一般民衆の生活からはなれすぎたり超越しすぎていたり、形式的であっ
たり、あるいは逆に現世利益的であり迷信的でありすぎて、崇高な精神的雰囲気を欠いていたりす
るからなのであります。真実に大生命(神)と人間(小生命) との正しい関係を説きあかし、人間
が神との正しいつながりに入った時に、おのずから奇蹟と人々に思われるような現世利益が生じ、
その信者の人々が、知らず知らず安心立命の生活に導かれているようなものがあったら、いつかは
30
まじめに問題にし、探究してくることであろうと思います。
宗教を口にする人々が(みなこのようになってくることを私はひたすら祈っているのです。
宗教を信ずる人には重大な責任がある
宗教指導者はもちろん、宗教信者とみずから思っている人々は、唯物論の人々より、重大な責務
をおっている者なのであります。なぜならば、宗教を口にするからは、いずれも神仏を認めている
からなのであります。そのように神仏を認めている人々が、神仏を認めぬ人々の前に神や仏の姿を
嘲笑されるような形で現わしたとしたら、それだけ神仏の存在を否定したことになり、唯物論者に
味方したようなことになってしまうのです。
宗教信者が、神仏を認める場合には、必ずといっていいほど、神仏の絶対性、完全円満性、大
愛、大慈悲、大自由、超越性を想定しているものであります。肉体人間を超越せる存在者、神、仏
であるわけです。この超越せる神仏を認識して、いくぶんなりとも神仏の力を得ている人々の行為
言動が、唯物論者のそれよりも劣っているようでは、全く困りものであります。それは現象生活の
貧乏や、病気をいうのではありません。貧乏生活や病床にありながらも、その貧しさや病気にとら31宗
教
は
阿
片
か
われず、神仏の愛を讃美できるような心境にあれば、その人は貧して貧せず、病んで病まずであり
まして、神仏をそこに現わしているのであります。信仰生活に入ったからといって、急に貧乏生活
をまぬがれたり、病気が即座に治ってしまった、というようになる人ばかりはおりませんから、そ
うした形のことはひとまずおいて、その時々の心の在り方をいうのであります。
こ
不幸にあって不幸の感情を超え、恨みにもって愛をむくい、むくいを求めず人を愛し、己れのご
とく他人を愛し、誇らず卑下せず、人を責め裁かず清く明るく、真をもち、心の姿美わしく、その
日その日の生活ができるようになってこそ、宗教者といえるのであります。宗教信仰者は、すくな
くとも、神仏を信ぜぬ人々よりは、右のような行為に近づいていなければなりません。近づく道に
入っているわけなのであります。
こうした道に遠いものこそ、その宗教は迷信であり、邪教であり、阿片的であるといわなければ
なりません。
32
永遠の生命と一つになるために
宗教者とは永遠の生命を求める人をいうのです。永遠の生命、大生命(神) と自己とを合せしめ、
自己が永遠の生命と同一の者であることを確認し体験しようとして探究している人をいうのです。
自己が肉体だけにいるのではない、ということを知れば、その人は死の恐怖をのがれることがで
きます。
自己が大生命(神) と一つの座にいるのである、と知れば、すべての迷いは醒めはて、自由自在
心を得るにきまっています。
ところが、この心境になるためにはなかなか段階があります。私は、この段階を自然に気づかぬ
うちに上昇してゆく方法を自分の体験をもととして教えているものなのです。
人間は肉体だけにいるのではなく、霊界にもいるのである、ということは、私が、はつきり体験
し、今でも一日中体験しているのですからまちがいはありませんし、皆さんのなかでも体験した方
たちよくれい
が相当あるでしょう。しかし、完全円満な、自由自在な、大生命(神) と座を一つにする直霊(真
我) である、ということは、普通の人ではなかなかわかり得ないのです。これは筆にも口にも説明
しにくいので、ただたんに、キリストや釈迦牟尼仏のように、光り輝いて、神の座にいるのであ
る、と説明するわけです。いいかえれば、皆さんの直霊は、キリストと同一であり、釈尊と同一で
あるとい、兄るのです。とこう申しましても、やはりなかなかなっとくできないと思いますし、クリ
33宗教は阿片か
スチャソの人には怒られてしまうかもしれません。しかし、これは事実なのであります。
事実であるといっても、これはちょっとなっとくできそうもありません。そこで私は、一度説明
を改めまして、大神様(大生命) の救いの光の面を守護神とし、その守護神の下に、祖先の悟った
人が守護霊として働いており、あなた方を常に守護して、あなた方の業因縁の想念を浄めつづけて
いてくださるから、寝てもさめても、守護神、守護霊に感謝しつづけていなさい、そうすれば必
ず、いつかは業因縁が浄めつくされてあなた方は悟道の生活に入るのです、と説いているのです。
業因縁(業想念) が浄められれば、自己の本体が神の座にあることが自然とわかってくるものな
のです。
そのことを、キリスト教の人たちは、イエスのみ名によって、信者は天国に入る、といっている
のです。それはイエスのみ名によらなくとも、自己が神と一つの者である、ということをさまたげ
る想念を浄め去ってゆけば、その浄まりにしたがって、その魂は上昇してゆくのです。そしてその
想念が、すっかり神と一つの想いになりきった時には、その人は神の座の自己(真我、直霊) と一
体になり得るのです。
34
自分の生活に神の心を現わそう
現象世界の人間は本心(神) と業想念の二元的生活をしているのであり、業想念の波にとらわれ
ている以上は、本心(神) が、その生活に顔をださぬのですが、業想念波の浄まるにしたがって、
本心の輝きがその生活を照らしはじめるのです。ですから、本心のより多く顔をだしている人は、
それだけ神の心、愛(慈悲心) と真と美とが、その生活面に現われてくるのであります。
いかに神の教、兄を説こうとも、その人の行為が、愛と真と美とにもとっていたとすれば、その人
は、真の宗教者でないばかりでなく、宗教にそむくものであるのです。
ですから、眼を怒らせ、口をとがらせて、自己の所属する宗派に人をひきいれようとするようで
は、その人の姿に神も仏も現われていないのですから、その人は真の宗教信者とはいえないので
す。
私たちは一日も早く、自己全体の雰囲気から、明るい柔和な、調和したひびきを放つようになら
なければいけないと思います。
宗教信者という者は、あのように優しく、あのように温く、あのように親切で思いやり深い人た35宗
教
は
阿
片
か
ちなのであろうか、と、誰れにでも思われるようになりたいものです。
自己の自然の行為のなかに、愛があふれ、誠意がにじみでているようになることが、宗教信者に
なったおかげでなければなりません。そして、その行ないが、常に叡智に導かれていて、誤りなき
ものであるようになることが必要なのです。
宗教理論がわかっても、霊能が開かれても、その人の自然の行為が、人を傷つけたり恐怖させた
りするようでは、宗教者とも、宗教信者ともいうことはできません。
自身の偉さを他に見せたい心、人に知らせるために、善行為をしてみせる心なども、見る人が見
れば醜い、いやらしいものなのです。
明るく、素直に、幼児のような純真さで、神を呼び得るような、そんな宗教信者は、どんなに巧
みな埋論者より、神に愛される者であります。
くロつ
仏教で、空の境地をしきりに説いているのは、それまでの知識や経験のすべてを捨ててしまっ
て、無色透明になれ、ということなので、無色透明の心になれば、神(本心) の光が、そのまま入
ってきて、神仏そのままの行為が自然にできる、というのであります。しかし、この肉体人間はな
ノこつくロつ
かなか空になること、無色透明の心になることができないので、私は、空になれなどと説かず、頭
36
脳をかけめぐる想念は、やがておのずと消え去るのだから、そのままかけめぐらして、ただひたす
ら、自分の過去世からの心の汚れを浄めていてくださる守護霊守護神に感謝をしつづけなさい、そ
うしているうちに、自然と、空の境地と同じように、自分の内部の光と神仏の光と一つにつながっ
てしまって、自己の日常生活の言動行為となって、神のみ心が現われてくるのです、と説いている
のです。これはやさしくできる神への全託の行為なのです。
百の理論を知るよリ一つの実行
すべての理論も説法も、人々に行為せしめるためのものなのですから、聴いたこと、読んだこと
のただ一つでもよいから実行してゆくことが大事なのであります。
柔道のこの技は、このようにしてかけるのですよ、といくら説明だけきいても、それだけでは、
柔道がうまくなるわけがありません。やってみなければいけません。練習しないで上手になるもの
は何一つとしてないのです。宗教とても同じことです。理論や説法を、読んだり聴いたりするだけ
で、心をよろこばせているだけでなく、読んだり聴いたりしたら、すぐに実行にうつしてみること
が大事なのです。百の理論を知っていて行じぬ人よりも、一つの理論を知って行じている人のほう37宗
教
は
阿
片
か
が、より早く悟道に達するものなのであります。
ある時、私がある二人の若い宗教講師と電車で一緒になり、種々と話しあっていました。その時
大きな荷物を持った老婆が、疲れきった様子で、三人の席の前に立ちました。二人はその時愛の問
題について、口角泡をとばして話しあっていたのです。話に夢中になっていたためか、それとも人
になど席をゆずる気がなかったためか、その老婆に席をゆずろうとはしません。そこでその老婆か
ら一番遠い席にいた私が、たまりかねて立ちあがり、その老婆に席をゆずりました。そのことさえ
も知らぬ気になお二人の講師は宗教論義をつづけているのでした。
この二人の講師は、愛の議論に夢中のあまり、愛の行為を放棄してしまったわけです。
このように、宗教論義だけでは、愛の行為にはならないばかりか、理論にばかり心を傾けている
と、普通人があたりまえにできる愛行為すらも見すごしてしまうものなのであります。
人間は理論や、話術ばかりに重きをおきすぎますと、かえって実行する力が弱まってしまうもの
なのです。
実行なくしては、何一つとして運んでゆかぬのがこの世界です。雄大な理論の展開よりも、一つ
の小さな善行為のほうが、それだけ人の心をうるおし力づけるものであります。
38
宗教とは理論でもなく、形式でもなく、ただその行為によって示されるものです。良寛が親しま
れ、白隠が尊敬されたのも、良寛の純真な行為、白隠の自然にまかせきった態度によるのであっ
て、その理論ではありません。理論も行為もともに秀れていれば、これに越したことはありません
が、一般の宗教信者はまず自己の行為のなかに、正しい神仏の姿を現わしてゆくことが望ましいこ
となのであります。
神仏は大慈悲(愛) であり、誠意(真) であり、善であウ、美であることを最後に再び申しそえ
ておきます。
39宗教は阿片か
40
心霊科学と宗教
神霊の実証が必要
見ずして信ずる者は幸なり、と聖書でいっていますが、人間はとかく、実証を見てから信じよう
ノし
としがちであります。まして、知識人と称する人々は、この弊が特に強く、二言目には、科学的科
学的という言葉で、理論的になっとくでき得ることか、実証の伴った事実のみを信ずる傾向をもっ
ているのであります。
ところが、現今迄の宗教というものは、神仏とか霊魂とかいうものを、実証的に見せることは勿
論、理論的にも、知識人を深くなっとくさせえず、今日に至っているのであって、神を見せろ、霊
魂を見せうと、宗教や霊界否定論者にその実証をせまられても、いかんとも決定的な答をなし得ず
にいるのであります。
見ずして素直に神の存在を信ずる者が幸であることは間違いのないことであり、神がすべてのす
わけみたま
べてであって、自己が神の分霊であることを信ぜられる者は、より幸せな者であるのです。しかし
そのように素直に神を信じ得る者は、この地球人類のなかには、それほど多くは存在しないようで
あります。
信じてみたり、疑ってみたり、自分のご都合次第で、常に心を動揺させている人々がいかに多い
かは、日本の一般大衆を見ていると実によくわかります。
宗教というものは、この世に神仏が存在する、この世に人間以外の絶対なる力の所有者が存在す
る、という心が根底になって、はじめてできあがっているのですが、その神仏肯定者のなかでも、
神仏を離れた肉体人間独自の能力を強く肯定しながらの人もおりますし、神仏を自己の欲望達成の
ための存在のように考えて、神様、仏様と念じて、それが宗教信仰であるように思っている人々も
あるのです。
肉体的自己の能力に強く信頼しながらの神仏肯定者は、神仏というものの力が、一瞬のすきもな
く、いきいきとして自己の内部においても活躍しているということを、あまりよくは知っていない41心
霊
科
学
と
宗
教
人々でありまして、神仏はただ、この宇宙を創造し、それに生命を与えただけで、今、現在はどう
しているのか、ということなどは考えようとはしていないのであります。それでいてばくぜんと、
神仏は存在すると思っているのです。
この人々の日常生活のなかには、特別に神仏の存在を感ずる必要がない、いわゆる神仏が特に必
要でない、という程度の神仏肯定者であります。宗教を否定しないでいても、この程度の人々が、
かなり多いことは事実なのです。
また、神仏を、自己の欲望のなかにひき下げて、なんでもかでも、自分の欲望通りに願いをかな
たぐい
えてもらうための、いわゆるご利益宗教者という類の人々は、これも、宗教をやっていると称する
人々のなかにはずいぶん多いのであります。
ところが、この人々は、とにもかくにも、神仏の存在を肯定し、見ずして信じ?ているというよ
り、見ずして肯定している、という立場にあるわけですから、まあ、ひとまず有神論者の側に入れ
ておくといたしますが、全然神仏の存在を否定しきっている人々、肉体人間以外の智慧ある存在を
もへもヘヘへぬへもヘへも
すべて否定しきっている人々にとっては、見ずして信ずる者は幸なり、などという言葉は、まるで
問題にも何もならない馬鹿馬鹿しい言葉に聞えるわけであります。
42
大きい心霊科学の役割
この眼で見ないで何が信ぜられるか、この耳に聞かせずに何が信ぜよだ、と鼻の先で、神仏の存
在をせせらわらうでありましょう。
さあ、こうなると、今日迄の宗教者では、どうにもならなくなってくるのです。この人々には、
いかに熱意を傾けて神を説いても言葉だけではどのような熱声であっても、神仏を信じさせること
はできないのであります。この人々は、現実界の実証だけがすべてであって、現実界での実証がな
り立たなくては、決して肯定しようとはしないのであります。
神仏を説くその宗教者が、たとえ愛に温れた人であって、相手をその行為において感動せしめた
場合であっても、その唯物論者の思想はなかなか変え得ないのであります。その唯物論者はいうで
ありましよう。それはその宗教者自身の人格が高潔なのであって、神仏自身がそこに現われたわけ
ではない。だから自分はその人を尊敬はするけれど、神仏の存在を信じようとは思わない。
こうなりますと、言葉や人間の行為だけでは、かたくなな唯物論者を唯神論になし得る決定打に
はなり得ない、ということになります。ここまでまいりますと、どうしても、この人々が、その眼
43心霊科学と宗教
で見、その耳で聞いて実証し得る、肉体人間以外の存在を、その人々の前に出現せしめなければな
らぬ、ということになってくるのであります。
そこに、心霊科学の必要性が、はっきり現われてくるのであって、心霊科学の出現というもの
は、迷信的宗教者と、唯物論者の二方面へ、強い反省を与える重大なる役割を持っている、と私は
思うのであります。
宗教と心霊科学の融合化
釈迦、キリストは勿論、高い宗教者は、ほとんどといってよいくらい、心(神)霊的な実証を見
せているのでありまして、その実証によって、信者の信仰心が、どれだけ高まったかわからないの
であります。
それが、高祖を離れるにしたがって、宗教は形通りの理論や戒律にとどまってしまって、心霊的
ヘへ
実証、つまり奇蹟というものを否定し去る宗教者が、既成といわれる宗教団体のなかに、かなり多
く存在するようになってきたのであります。
はいしゆつ
そしてこんどはその反動的に、奇蹟を売りものにする新興と称される宗教がぞくぞくと輩出して44
きて、宗教の本道である、神との一体化、仏性(本心) 顕現という、高い目的から転落してきてし
まったのです。
えんおつぬ
釈尊やその大弟子たち、キリストやその直弟子たち、日本においては弘法大師や役の小角とその
弟子たちなどのような、自己が神仏と一体化しての心(神)霊的実証、いわゆる奇蹟と、現今の大
多数の新興宗教々祖の(なかには同等の人々もあるでしょうが) 行なう奇蹟とは、大きなへだたり
があるのでありますが、それを比較するはかりがないので、今は、はっきりその差異を断定するこ
とはできませんが、しかしそれはやがて、心霊科学と真実の宗教との融合統一によって、はっきり
区別することができると私は固く信じています。
心霊科学の重要性は、日本にもしだいにわかりかかってきているのですが、現在心霊科学にたず
さわっておられる人々が、まだ自然科学者たちや、知識人と称する人々に、遠慮気がねした態度で
やっている学者や、真実の高い宗教体験を持たぬ人々のようですので、ディックソソ師やD ・D ・
ホームのような霊媒者を育成することができないのであります。
めいもうさ
唯物論者や、迷信的宗教者の迷妄を醒ましめるのには、一人のディックソソではまだ足りないの
であって、三人、五人、十人と、ディックソン級の霊能者が出現してきての心霊実験神霊実証でな
45心霊科学と宗教
ければ、とうていその望みを達成するわけにはゆきません。
私の霊覚によってみておりますと、現在日本の心霊実験にたずさわっておられる人々が、自分た
ちが現在行なっている心霊実験というものが、神の大なる使命をおびてなされているものである、
という大確信でやっておられるのではなく、自分たちの興味本位というような、楽しみというよう
かん
な、何か、自分たちだけの研究的楽しみというようなふうに観ぜられるのであります。
そして、その実験方法も、低い階層の霊魂たちが喜んで働ける程度の物理現象や、霊の高低にか
かわらずでき得る、霊視、霊聴、自動書記などであって、唯物論的な人々は勿論、心霊的な興味を
もって寄ってくる人々にさえも、神の存在を感じさせる確たる実験ではないのです。
46
心霊研究に欠かせない宗教精神
アメリヵのディックソソ師などの実験例をみると、神を感じさせるある力を相手方に与えている
ようですが、現在の日本の心霊実験会では、とてもその足下にも及ばないもののようです。
きいん
それは一体どこに起因するか、というと、実験にたずさわっている人々が、ディックソソ師のよ
うに、宗教的に深い人でない、ということによっているといわねばなりますまい。
実験会にたずさわる人々が、すべて自己の小我をなくして、純一無雑な心境で、この会を運営し
てゆかねば、とても一人のディックソソ師さえ生みだすことはできないと思われます。
今日まででは、少しく宗教的である霊媒者は、いつの間にか実験会から離れて、教祖的立場にな
り、その独自な宗教を開いていて、様々な予言などをはじめたりしている状態であって、科学的な
研究とは全く相容れない立場に立ってしまっています。
これは、その霊媒者と、それを取りまいていた実験者側との間に、小我のあつれきが、お互いの
知らぬ間に積重ねられていて、別れ別れの立場に立つようになってしまったのであろうと思いま
す。
こうしたことが、日本の心霊研究の進歩を遅らせているのであって、実に情けないことであると
思うのです。心霊研究を科学的立場からしている人も、まず自己を真実の宗教心に磨きあげるよう
にしていないと、いわゆる自己を光り輝やかせておかないと、とても種々さまざまな霊魂や幽界の
かか
生物に愚られる霊媒者に、立派な仕事をさせることはできないのです。
さにわ
審神者的人々が、霊媒者と同等の霊位の人であったり、あるいはそれ以下の人々であったりした
ら、とても、世界人類を救済しようとしておられる救世の大光明の器としての働きを、心霊現象と47心
霊
科
学
と
宗
教
して、この世に現わすことなど、とてもできるものではないのであります。
心霊研究者だから、かえって宗教など不必要である、宗教的になったら、科学的立場で心霊実験
などできないと思ったりしていたら、その人々には、神のなさしめようとしている、心霊現象は起
りようもありません。
心霊実験にたずさわる人々は、宗教一本で生きぬいている人々同様に、心の浄らかな、霊位の高
い者でなければなりません。興味本位の研究心や、宗教心と心霊研究とを別のものとして考えてい
るような人々ではだめです。
48
見ずして信じられぬ人のために
真実の宗教者の集いの心霊実験会こそが、神の使命達成の器となり、場所となることができるの
であって、霊媒者が心の底から崇敬するような、霊力(神秘力)と人格とを持った審神者が中心に
なっての働きでないと、日本の心霊実験が、外国に立ちまさってゆける見込みはまずないと思いま
す。
宗教者の説法だけでは、どうにもこの世の動きが浄化されてゆく傾向のない今日の日本及び世界
にあって、神の存在、心霊の存在をはっきり実証して一般大衆に見せ得る機関がなければ、今の世
めいもう
の人間の迷妄をはっきり開き得ることは永遠にでき得ないと思います。
かいむ
白昼にキリストが肉体をもって現われ、仏陀が中空に現われたとしたら、宗教心皆無の人々でも
神の存在を信じないわげにはゆかないでしょう。その点、ディヅクソソ師などはその道を実証した
最初の偉大なる聖者であったと思われます。
見ずして信ずる者は幸なり、私は見ずして神の存在を信じ、神に自己のすべてを捧げきって、神
の器の自覚を、はっきりと得たものでありますが、私は一般大衆が、はたして私たちのようになり
得るかに、大きな疑問を持ちました。そこで私は私のもとに尋ねてくる人々には、説法するより先
きに、まずその人の願望をかなえてやるような指導を、霊覚によってしてやり、しだいに真実の道
に人々をひき入れてゆくようにしています。大上段の説法より、知らず知らずのうちに神の道に入
ってゆくような指導方法を私は取っているのですが、そうした指導だけでは、限られた人々になっ
てしまって、一生のうちにはたしてどれほどの人を救いうるか、ということになってくるのであり
ます。
49心霊科学と宗教
50
世界平和の祈り
見ずして信ずる者は幸なり、の言葉を第一の言葉として、第二、第三の道を、私は今日迄研究し
つづけてきたのでありますが、第二の道を霊覚による個人的運命指導とし、その運命指導にからん
で、神と人問との関係、真実の人間についての真理の話を聞かせており、第三の道としては、世界
平和の祈りの説法をしているのであります。
この世界平和の祈りは、毎月の白光誌で説いておりますし、パソフレットとして各位に配布して
おりますが、私の願っていることは、一般大衆が宗教心をもって生きてゆけるようにということで
あります。一般大衆というものは、むずかしい理論や、面倒な修錬や、戒律などは、やりたがらな
いもので、やさしくわかりやすいものに飛びついてゆくものなのであります。ですから、いかに真
理であるといっても、その理論がむずかしかったり、実行するのに手間ひまがいるようなものは長
つきもの
つづきがしないのです。といって、ただたんに先祖のたたりや、愚依霊があるから自己の宗教に入
ればはらってやるとか、この宗教に入らなければ罰が当る、というようなことをいう暴力的な押し
売り宗教では、これは唯物論に劣ってしまいます。
そこで私は、実際的な現象世界の動向をあげて、それを理論的に説明して、どうですか、神の力
というものを考えずに、肉体人間だけの力で、この世界が救われますか、平和になりますか、世界
がいつも今日のように戦争や侵略の恐怖におびえていながら、個人の平安というものがありますか
というように、肉体人間の無力というものを徹底的に追究していって、神の力というものを認識さ
せるように説いているのであります。
そして、人間の個人の不幸も、世界人類の不調和も、それはすべて、人間の生命の根源であり、
生命の親である、全能者、神から想念が離れていることから起ったのだから、ひとたび自己の想念
をすべて神様のみ心のなかにお還えししてしまいなさい。お還えしするといってもどうやってよい
かわからないでしょうから、悪い想念、つまり、自己を責める想い、自己の不幸を嘆く想い、他を
責め裁く想い、他を妬み羨やみ、恨む想念等々が起るたびにその想念のままでよいから、神様と心
のなかで呼びなさい。ただ神様と呼ぶだけでは、何か消極的だと思う人もあるだろうから、人類す
べての悲願であり、神の念願でもある、世界人類の平和を願う、「世界平和の祈り」をかかさずや
りなさい。そうしていると、いつの間にか、自己の小我の想念が、世界人類という大きなもののな
かにとけこんでいって、心がひろびうとなってゆき、神様の愛というものをいつ知らぬ間に感じて
51心霊科学と宗教
くる、と説いているのであります。
52
神は明るい心を好む
大体人間というものは、不幸と思う想念がなければその人は不幸ではないので、その人その人の
想念が、不幸だとか不満だとか思っているだけなのであります。ですから、同じ条件下において
も、悟った人には不幸ではなく、凡夫には不幸に感ぜられるのであります。そのように想念のもっ
てゆきどころによって、不幸も不幸でなくなるのですから、不幸だ不満だと、いつでも、不幸や不
満の渦巻きのなかであえいでいる人は、本当に不幸な人であるので、その不幸や不満を感ずる想念
を、常に世界平和の祈りのような大乗的な、深い、広い意味をもつ祈りのなかに投入していれば、
その人は、その時間は、不幸が薄らいでいるとともに、知らぬ間に、神様の大光明が、その人の心
カルマ
のなかに差しこんできていて、その人の潜在意識にたまっている、業想念を浄め去ってゆくので
す。そうしますと、その人の想念も環境も、いつの間にか、善い方向に改まってゆくのでありま
す。
人間はいつでも光のなかに住んでいることが大事なのです。なぜかというと、神様は大光明であ
り、人間はその光明を分けられてこの世界に住んでいるものなのです。大体において、暗い陰うつ
な人より、明るい清らかな人のほうが、誰れにでも好かれるのも、この必然性にょるのです。
そのようなことは、今さらいわれなくともわかっているようでいて、実はその反対の生き方をし
ている人がたくさんいるわけなのです。この世界が暗くてみじめなのは、一人一人の暗いみじめ
な、不幸や病気や悪に、まきこまれやすい生き方が、寄り集ってつくりあげているのであって、一
人一人の責任であるのです。
明るくなるといっても、ジヤズや漫才を聞いて騒いだり、笑ったりしているのは、暗いじめじめ
したものよりよいかも知れませんが、狂燥的な馬鹿騒ぎであったり、根のない明るさであったりし
て、瞬間的なものにすぎません。永遠につづき得る明るさは、真実神につながり得た明るさ、本心
開発の道を歩みつづけている明るさであって、その他のものではありません。
覚者への易行道
神は人間の本体であり、神の世界こそ、人間の本住の地であるから、人間はどうしても神のみ心
に還えらなければ、真実の明るさ、真実の安心を得られぬようにできているのであります。
53心霊科学と宗教
自己の想念が、神の世界に常に還えっていながら、この世の生活をそのまま行じている人を覚者
というのでありますが、私はそうした覚者への道を、昔の宗教者のように難行苦行をなさしめず、
知らぬうちに体得させようとしているのであります。それが世界平和の祈りなのであります。
世界平和の祈りをしております時は、その人はすでに神の世界の住者なのです。なぜならば世界
人類の平和こそ、神の姿の現われた姿であるからで、それを願うのは神のみ心そのものであるから
です◎ 世界人類の平和を乱しているもの、それは人間の業想念に他ならないのですから、その業想
念を神の世界の大光明のなかに各自が持ちこんで、消し去ってくることによって、この世が、神の
真の姿である平和世界になることは必定なのであります。その最もやさしい方法が、世界平和の祈
りなのであります。
第四の方法は、この世界平和の祈りを、皆さんがすることによって、この地球世界が次第に浄ま
ってきて、心霊や神霊の光のひびきに近づいてゆくので、心霊や神霊が地球世界にその姿を現わし
やすくなる、という理を根底にした、心(神)霊現象実験なのであります。この成功こそ世界人類
を現実に救い得る唯一の方法と私は確信しているのであります。
今日ではもはや、理論だけの宗教などはなんら力のないものになっています。いくら理屈をいっ
54
ても、釈尊やキリストのことを学問的に調べて発表しても、無意味に等しいのです。
現在の人類には、そんな余裕も、そんな時間もなくなってきているのであります。原水爆戦、ボ
タソ一つ押せばのスイヅチ戦争を、米国とソ連がやりかねない時なのであります。もし幸いにそう
した戦争にまでならぬとしても、絶え間ない、原水爆実験による放射能禍、そしてそれらの軍備競
争による世界中の不安は、いつまでたってもなくなりっこはないのです。
原水爆戦争など絶対にない、ソ連も米国も狂人ではないなどと宗教信仰もない人々が、簡単にい
カルマ
いきっていたりしますが、その人々は業想念というものの恐しい力を少しも知っていないのです。
ひとたび業想念の厚い層に蔽われると、正常の人聞もたちまち狂人になってしまうことは、しばし
ばあるのであります。暴動なども、正常な常識人の数多が、いつの間にかその渦中にまきこまれて
いる例が、いくらもあるのであります。
残された唯一の方法
カルマ
今日までの戦争でも、やりたくてやった国はめったにありますまい。みんな種々な業が重なって
どうしてもやらねばならぬ破目に、いつの間にか追いこまれてゆくのであります。
55心霊科学と宗教
私たちは、そうした業想念の力を、実にはっきり知っているのであります。それ故、日夜人類の
業想念消滅の祈りである、世界平和の祈りをつづけているのです。祈りだけが今日の人類世界を救
うただ一つの方法なのであります。
その祈りが根底になって、はじめて、ソ連米国を抑えうる力が、日本に生れてくるのです。抑え
るということは、武力や暴力で抑えることではありません。神の力を現実世界に実現せしめて、業
想念のソ連、米国を浄化しつくすのであります。
これは、太平洋戦争時の、神風祈願とは全くことなるものなのです。神風祈願は、米英撃減祈願
で、相手を傷つけ倒すためのものであったのですが、私の提唱する、世界平和の祈りは、すべての
国々を、その本来あるべき使命に還元させるということであって、すべての国々を神の国々として
生かしきろう、という祈りなのであります。
米国の業想念とソ連の業想念が、いくら話しあったところで平和になることは絶対にありませ
ん。話合いなどということは、今日の人間の心では全くだめであると思います。
今日こそ、大神の至上命令が、地球世界に厳然とひびきわたって、大神(救世主) の命のままの
世界の組立がはじまらぬ以上は、地球世界は滅亡のほかはありません。
56
〆㍉
世界平和の祈りこそ、
る祈りであるのです。
大神の姿が、救世主として地球界に君臨する日を、はらい浄めてお待ちす
57心霊科学と宗教
58
芸術と宗教
ドンコザック合唱団をきいて
先目、ある人から切符をいただいて、ドソ・コザック合唱団を、日比谷公会堂に聴きに行きまし
た。
この合唱団は、本拠をニューヨークにおいた白系ロシヤ人の男声合唱団で、聖歌と民謡を主にし
た合唱をしながら、各国を廻っているのであります。
私はこの合唱団の最初の一曲を聴いて、まず驚き、二曲三曲と聴くうち、いよいよ感動させられ
ていったのです。私が現在まで日本で聴いた幾多の合唱団の合唱とは、こちらの胸に迫ってくる力
がまるで違うのです。
二十数名の団員が、さながら一つ楽器のように、指揮者の指先きの動きのままに、高音は女声の
ソプラノの如く、低音はパイプオルガソそのままのひびきで、ある時は会場も裂けるかと思われる
フォルテシモ(強音) で鳴りひびき、ある時は消えも入るかと、かすかにひびくピアニシモ(弱
音) となり、しかもその一音に、歌う人々の心のひびきが曲の内容にとけ合って、聴衆の胸に深い
感動を呼び起すのでした。
たぐい
それは、単に声帯を振動させたひびきが、口先からでてくるといった類の歌とは全く異なった、
魂そのもののバイプレーシコソが、曲と同化して、リズムとなり、メロディとなり、生命力そのも
のとなって、聴衆の心におのずから同感を呼ぴ起し、感激せしめるほどのものなのです。
私は今迄に、この地上界の人間の合唱のなかで、これほど感動せしめられた合唱を聴いたことが
ありませんでした。
ちょうど、ベートーベソの曲を素晴しいシンフォニi ・オーケストラで聴いた時と、同程度の感
激だと思うのです。
声のきれいさとか、美しさでは他にも、もっとよい合唱団があるのでしょうけれども、この合唱
団の第一の素晴しさは、全員が全身全霊で合唱しているということなのです。59芸
術
と
宗
教
ただ、この合唱団のこの日の曲は、天上のリズム、メロディを地上に放送する、といった、いわ
ゆる天的なものではなく、地上界の人間の希求や願望を、天上に向って訴願するといった曲がほと
んどであったので、天的な快感とか、魂の浄化による歓喜といったものは感じられなかったのです
が、人類は地上界のさまざまな苦楽のなかで、常に天におわす神を慕いつづけ、神を心の糧として
生活しているものである、と素裸になって、この地上界の姿を天上界に観てもらおうとしている人
間集団の祈願を、この合唱団から私は感じとっていたのです。
私たちは、このような心の姿で、このような生活のなかで、ある時はこのように哀しみ憂い、あ
る時はこのように喜び歌っているのでございます、どうぞこの私たちの世界に、より深い悲哀を与
え給わず、温い平和な生活をつづけていけるようになさしめ給えーという祈りの心を、私はこの
合唱団から感じつづけていたのでした。
so
真実の芸術とは何か
よい音楽とか、よい演奏者とかいうのは、天(神) のみ心を音楽を通じて、人類世界に伝え得る
ことができるものであり、おのずから人の想いが浄まり、高まるといったようなものか、あるいは
人類世界の悲哀や、憎悪やさまざまな汚れのなかから、そうした不完全を跳躍台にして、神の座ま
で人間を高め上げようという、つまり、人類の完成を目指す想いを元として生れてきたような音楽
であり、そうした想いが心にある演奏者の演奏であると思います。
いわゆる、天と地を交流させるリズムであり、メロディでなければ、よい音楽とはいえないと思
うのです。
絵画でも彫刻でも、文学でも、すべて真の芸術は神(天) と人間(地) との交流がなければなら
ぬのです。神からの愛や美が魂的と肉体的とにかかわらず、表現されているもの、それは、あるい
は生命力の美、内容の美となり調和となって、その作品に現われ、あるいは形の美、調和となっ
て、その作品に現われているかもしれません。
そうした芸術は、心の表面を常にふらふらしている浅い感情や、セソチメソタルな感情には満足
を与えないかもしれないのですが、深い感情、本心に近い感情にとけ入ってきて、人間の真実の調
和や美や、いきいきとした生命力の波動を強く感じさせるものなのです。
ですから、こうした真実の芸術は、宗教心と同じように、本源世界の美や調和を探究する想いが
ないとわかりにくいのであって、何分の勉学心が必要なのです。はじめは幾分我慢しながらでも、61芸
術
と
宗
教
聴きなれ、観なれぬとなかなか入ってゆきにくい世界なのであります。
–
その実、現在、日本の巷に氾濫しているジャズ音楽や、流行歌的歌謡曲などは、実にわかりやす
く、人間の想いを慰めてくれます。しかし慰められる感情は、浮き上っている欲情や感傷であって
その場その場の単なる慰安なのです。それはあたかも、悲しみや怒りを、酒をのんでまぎらわして
いるのと同様なのですが、そこからは、人間の感情を高め浄めてくれるなんの作用もなく、かえっ
て、低い感情世界に、人間を固着させる惰性をもっているのです。
宗教のほうからいえば、現象利益を与えるだけで、その信者の本心開発を助けるどころか、かえ
って、本心をますます肉体世界の欲望で曇らせてゆく、といったほどのものです。
ですから、ジャズや流行歌は、疲れきった時のちょっとした慰めに聞くのにはよいかもしれぬ
ちゆう
が、人間精神の進歩のためには、少しも役立たず、芸術の範疇から遠くはなれたものであるようで
す。
文学でもこれと同様なことがいえると思います。人間感情の低劣な、動物以下の本能の醜悪さ
を、ただそのまま書き写しただけで、神からすっかり離れきった地獄界の生物のうごめきが、なん
ら否定されるところなく現わされている作品がいわゆる文学というものに多いようです。そこには
62
美もなく調和もなく、真実を求める人間は一人も存在しないのです。こうした小説が「文学」とい
う名で通るのですから、日本の文学界の精神の在り方が疑われてくるのです。
業想念の浮き上っている時代というものはしかたのないもので、よいものはなかなか現われず、
醜悪なものが次々と現われて、幅をきかせてゆくのです。
商業主義の宣伝につられて、醜悪低劣な文芸や映画や音楽にひきずりこまれぬように、皆さんも
ニう
気をつけなければいけないと思います。業というものも習慣の想念や行為の集積なのですから、悪
いと思う想念を一つづつ解いてゆけば、やがて輝く本心が現われてくるのです。
今、自分が読んでいる本が、はたして自分の魂を喜ばせ、精神を純化させてくれるものであろう
か、今、聴いている音楽は、自分にいかにプラスしてくれているか、ということを、若い世代の人
々は常に思考してみる必要があるのです。自己の精神問題に怠惰なる人は、しらずしらずに、自己
を地獄の世界、不幸の世界に陥れているのです。
口あたりのよいもの、耳ざわりのよいもの、そうしたものには安易に飛びこんでゆけるものです
が、安易に読めるもの、安易に聴けるものこそ、一応気をつけて、自己の心に訊きただしてみると
よいのです。
63芸術と宗教
自分の精神にプラスとなるか、マイナスになるか。肉体欲望(五感) の満足だけで、精神(魂)
しりぞ
に不満足のものは、これは退けるだけ退けてみることが必要です。
音楽などでも、マソボやゴーゴーなどはおのずと肉体をゆさぶるリズムをもっていますし、三度
笠的流行歌やメロドラマ的歌謡曲は、胸のほんの表面を流れている浅い感傷を、ちょっと慰めてく
れますが、これはただ単にそれだけのもので、本心とはなんの関係もなく、精神の昂揚や純化には
なんらのプラスにもなりません。
04
精神界の生活の習慣をつけよう
肉体の人間は、現在、真実の人間への道程をたどっているものであって、一瞬一瞬といえども、
進歩への道を歩んでいかなければ、置き去りにされていかれるものなのです。一分一秒の時間も大
事なのです。そうした貴重な時間を、単なる感傷の慰安や肉体欲望の瞬間的満足で生活していたと
すれば、その人は、次第に人類の進化の道からはなれていってしまうのです。
人間は神の子なのです。光の子なのです。人間の本心は神の座にあり、光の本源と一つなので
す。
ほんとうは神の座にある人間が、神の生命発現のために、地上界に肉体という衣をつけて、天降
ってきて、その肉体をつけたまま、今再び、神と一つになろうとして、宗教に芸術に、科学に、縦
横の活躍をしつづけているのであります。
その真理を知らない人たちは、いつ迄も地上界の苦痛のなかを抜けきることができないのです。
カルマリんねてんしよう
業生の世界を輪廻転生しつづけるのです。
自己を完全円満なる、自由自在身にするために、現在の安易なる娯楽に溺れることをやめる習徴
をつけないといけません。
習憤性というものが、一番恐しいのです。一つ一つの事柄はなんでもなさそうで、それが積み重
カルマ
なると、もう抜きさしならぬ業となって、自己の自由性をうばい去ってゆくのです。
くだらぬ本を読み、低劣な音楽をたのしむ習慣がつくと、それは安易で努力がいりませんから、
つい惰性となって、そうした雰囲気のなかだけで生活してゆくようになってしまい、気づいた時に
はすでにそうした安易な生活のなかから抜けきるだけの気力も、向上精神もなえていて、つまらな
い人間で終ってしまうのです。
業生の想念行為のなかから一歩も進歩せず、一生を終ってしまえば、その生活がたとえ金銭に何65芸
術
と
宗
教
不自由ない一生であっても、病苦を味わったことのない生活であったとしても、そうした幸福感は
真実の幸福ではありません。
なぜかといいますと、人間の生活はこの一生だけではないからです。死んでからの、いわゆるあ
の世(幽界、霊界) の生活もあれば、再び肉体界に生れてくる再生の生活もあるのです。
しかし、普通の人はそれを知りませんから、この世だけの生活を享楽してゆけば、それで足りる
と思いがちになるのですが、少し進んだ人はそれだけでは心が満足せず、日々消え去ってゆく生活
の、もう一つ底の生命の流れ、魂の声に耳を傾け、そうした精神界の生活を求めようとしはじめる
のです。
芸術に人間性の真実を求める
そこで、真実の宗教を探究し、詩に音楽に絵画に、様々な芸術に人間の真実性を求めつづけるの
です。
それは漫才を聞いてたのしむ気持や、ジャズ、流行歌を好む気持とはまるで異なるものなので
す。
66
ジャズや流行歌をたのしむ人たちが、同時に芸術音楽を聴いている、ということも、今の日本で
は、かなり見られる現象ですが、これは同一人であっても、全く異なる精神状態の現われなのであ
りまして、ジャズ、流行歌をたのしむ気持は、実に軽い気持であり、べートーベソ、バッハを聴く
気持は、厳粛な真面目な気持です。前者にくらべて堅くるしい気持でもあり、精神界の何かを求め
ようとする気持であるのです。
だからといって、私はいついかなる時でもジャズや流行歌などを聴いてはいけない、芸術音楽だ
け聴くべきである、などといっているのではありません。人聞は、たまには気軽に漫才でも聞いて
白痴のようになりたい気分の時もあるのですから、ジャズや流行歌を聞いているから、その人の精
神が幼いとか、低いとかいいきれるものでもありません。私のいいたいのは、べし、とか、べから
ず、とかいうことではなく、気軽に安易にたのしめるような音楽や、文芸は、精神的な深い光をも
っているものではなく、日々うつり変ってゆく業生の浅い感情や、肉体的本能を刺激するだけでヤ
その人の人間性(神性) を高めるものではない。それにひきかえ、少しく勉強し、努力して入らな
ければならないような芸術音楽や、真の文学というものは、入りにくいだけに入ってしまうと、し,
らずしらずのうちに精神(魂) が浄められ、高められて、品性が立派になってゆくものである、と,
67芸術と宗教
いいたいのです。
この世のなかの生活でも、あの世のなかの生活でも、研究努力がなければ、立派な生活ができる
ものではありません。何事にも努力する真面目な生活態度が、その人を立派にしてゆくのであっ
て、安易な不真面目な享楽精神では、とうてい立派な人物になり得ることはできません。老人にな
って、あるいはあの世に去ってから、しまったといっても、なかなか取りかえしがつきません。
たゆみない日々の精進が、その人を真の幸福世界に入れるのです。ですから、若いうちから享楽
を主にしたような生活は、好ましいものではありません。努力した後の、慰安こそ明日のための力
の源泉となってくるのです。そしてまた、その慰安が高度の方法であることこそ、その人の未来を
ますます輝かしくしてゆくものなのです。
慰安がそのまま精神を浄め、高めてくれるようなもの、それが芸術なのです。
68
心にいつも真、善、美を
カルマ
自己の行動の責任は、すべて自己にあるのであって、自己を神の子として生かしぬくか、業の子
りんね
として輪廻してゆくかは、各自の日々の想念行為にかかっているのです。想念を常に神の座(真、
カルマ
善、美) におくように努めるか、業(我欲) のほしいままに動かすか、の二つなのです。
私たちは、いつも申しますように、私たちの生命の本源を、神の世界、完全円満、自由自在の世
界においているのです。神(直霊) から分れた光(生命)が、この地上界で、肉体人間として働い
ているのですから、素直に、神である自分の直霊のほうに想いをむけて活動してさえいれば、調和
した幸福な世界ができないわけはないのですが、どうも肉体人間として物質界に生れてきてから、
ヵルマわけいのら
自他の区別による我欲を元とした業生の想念が、分生命の周囲を輪廻して、人間と人間との生命の
交流をさまたげ、はばんで、人間はすべて個人個人はなれた者であって、自分の肉体生活を守るこ
とが最大のことである、自分以外に自分を守り育くむ者はいないのである、というような識別の想
いが起り、本源の生命(神) から肉体人間を引き離していったのであります。
真実の人間は神仏(直霊) の世界から、この肉体世界までつながっていて、いきいきと、生きつ
づけているのに、神仏と肉体人間とを区別して考え、あるいは神仏を否定しつくして、人間とは肉
体だけのものなり、と断定しているような唯物論を生んだのは、すべて想念によるのです。想念が
行為となり、行為がまた想念を呼び、これがぐるぐる廻りして、次第にその層を厚くしてゆき、つ
いに人間内部の光明(神仏)を見失ってしまったのが唯物思想なのです。
69芸術と宗教
この世のなかは、物質の世のなかで、精神というものも、物質のなかに生れたものであり、人間70
の肉体が死んでしまえばすべてはこれで終るのである、というのがこの思想です。
無明について
ところが、二千五百年前に釈迦牟尼仏は、十二縁起観という教えを説いていましてー
ヘヘヘへ
人間が、老病死を何故苦と感ずるか、それは、生に関心するがためである。どうして、生に関心
へ
を有つかというと、有が一定の身分なり境遇なり(種々の欲望) を固執するからである。何故一定
ヘヘへ
の身分を固執するかというと、それに執着する取があるからである。執着は、渇愛、欲に基く。渇
へ
愛、欲の発動は苦楽の感情、受に基く。苦楽の感情は、対象と接触して感覚を生ずることにょる。
ヘヘヘへ
対象との接触は六根(六入) の活動するによる。六根の活動は個体化された肉体、精神組織(名色)
による。この欲楽を追うの手段として、六根(感覚) の活動となる肉体、精神組織において、個体
へ
感の起るのは、自我意識(識) にょり統制されるがためである。自我意識の起るのは、欲楽を追う
へ
の意志(行) があるためである。欲楽を追うの意志(行) の起るのは、諸行無常にして、追えども
追えども遂いに欲楽は尽くるところのないということを知らざる無明による。無明、行(業)、識、
名色、六入、触、受、欲、取、有、生老病死苦1 という説なのです。
人間すべての悲哀であり、苦悩である老病死苦は、光明心(本体、仏) を知らざる無明から発生
している、ということを釈尊は悟っておられて、こうした十二縁起を説いたり、般若心経を説いた
り、法華経を説いたりしておられたのです。無明というのは、明が無い、つまり、光が無い、明ら
かなものが無い、ということで、この無明から行(業) つまり想念行為が生れてきた、というので
す。その想念行為が、欲になったり、執着になったり、自我意識になったりして、人間世界を悲哀
苦悩の世界にしてしまったのだ、と説いているわけです。
ところが、実際の現象のこの世のなかはすでに想念が生れ、自我意識が生れてきてしまっている
ので、今更、ただ欲がいけない、執着がいけない、自我意識がいけない、といけないづくしで説明
しても、その理はわかっても、そのいけない事柄を、即座に消し去ってしまうことはできないので
す。そこで、最後の無明が問題になってくるのです。
無明、つまり明らかでない、真実でない、神仏が無い、ということが、すべての不幸の、不調和
の最大原因になっていることを人々は知らなければならないのです。
この理を知らないことには、いかに善意に人類のために働いているように自分で思っていても、
71芸術と宗教
唯物論者、共産主義者のように、真実でない、神仏(光)を否定した無明の想念から出発している
人類救済運動、平和運動では、人類の欲望や、執着や、自我意識や、闘争精神や、老病死苦の悲哀
を乗りこえることはできません。
それは、すべてその場その場の為政者のご都合次第で、動き廻わる肉体人間だけの想念行為の浮
き沈みの世界でしかありません。
そんなことをなんたび繰返えしたとしても、人類の真実の平和も、すべての悲哀苦悩をこえ得る
世界も永久にくることはないのです。
平和と幸福のために
人類の永久平和、人間個々人の揺ぎなき幸福を創り上げるためには、無明から発生した想念を、
光明の世界に一度素直に返却しなければいけません。
これは得だ、これは損だ、あの人は憎い、この人は好ましい、私は不幸だ、私は駄目だ、こうし
た現在自分たちの頭脳を駈け巡る想念を、これは無明から生れたものだ、と思い定めて、そうした
想念が起ってくるたびに、神様、仏様、守護神様、守護霊様、あるいは南無阿弥陀仏でもよい、そ
72
の想念を素直に神仏の世界に投げかけてしまうのです。
この世界はすべて神につくられたもので、人間の本体も神(直霊) であるのですから、今、人間
世界を駈け巡る様々な想念を、神仏を称名する想いにすりかえてしまえばよいのです。神様、仏様
へあヘへあ
その他の想念は、すべてなくもがなであります。頭脳を駈け巡り、心に浮ぴあがる無明の想念を、
神仏の光波に切りかえきった時こそ、人類は老病死苦をはじめ様々な悲哀苦悩を乗りこえ得た時な
のです。これを空即是色というのです。
みなさんは、真の宗教指導者の下で、あるいは真の芸術(華道でも茶道でも書道でもそうです)
的雰囲気に数多くひたりきるようにして、一日も早く無明想念と神仏的理念とを切りかえてゆき、
人類の真の平和を創りあげなければいけません。それが個人個人の責任でもあり、天命でもあるの
です。
73芸術と宗教
74
道徳と宗教
エルベール教授との対話
神社本庁からの紹介で、ジュネーブ大学教授のヒソズー哲学の権威であり、日本神道の研究家、
ジャソ.エルベールさんが、中西中央大学教授に伴われて、市川の道揚に見えられました。氏は神
道の研究のため、日本にこられたのだと、中西教授がいわれていましたが、堂々たる体躯で、霊的
にも立派な方でした。
このエルベール教授との】問一答のなかで、道徳をどのように説かれているか、という問があり
ました。宗教と道徳問題とは切っても切れぬ密接な関係があるので、宗教者に道徳についての質問
をするのは当然なことでありましょう。
私はこの間にどう答えたかと申しますと、「私は道徳について、表面的にはとやかくはあまりい
わない。言葉としては、愛と真と勇気をもって生きぬかなければいけない、とはいっていますが、
言葉だけではこういってみたところで、誰れしもそうした道徳的な生き方がしたいのだけれど、業
想念の波に蔽われている限りは、その波に邪魔されて、愛も真も勇気もでてこない。善いことはし
たい。人のためにつくしたい。真の行いに生きたい、と思いながらも、自分の肉体生活を守ろう、
という我欲の業想念があっては、思う通りの道徳生活を送ることができない。ですから私は、道徳
カルマ
の説教をするより先に、まず業想念の波を浄め去ることが大事だと思い、そのための祈りを行じて
いるのです。それが世界平和の祈りなのです。業想念の波を世界平和の祈りの大光明のなかに消し
じねん
去ることによって、はじめてそこに、自然と容易に道徳にかなった行ないができてくるのです。人
間は本来が神の分生命であり、神の子であって、光そのものなのですから、業想念波に把われさえ
しなければ、道徳的な行ないができるにきまっているのです」とこんな内容の言葉を話したのでし
た。するとエルベール教授は、非常に感動して、私は今日まで、そうした話はきかなかったが、本
当にそうだ、と何度も同感の意を表していました。
肉体人間という者はしかたのないもので、正しいと思うことでも、自己の生活環境が、その正義75道
徳
と
宗
教
に味方することによって崩れ去ってしまうというような時には、いやいやながらでも、自己の意志
にそむいた行為をしてしまう。もっと簡単な善悪の場合でも、自己の利益本位の生活をしてしまい
がちで、いくら道徳の説教をされても、その時はそうだと肯ずきながらも、業想念の波のなかに巻
きこまれていってしまう。
人聞の心のなかには、善いことと悪いこと、正しいことと正しくないことは、あまり複雑でない
場合は、わかりきっているのですが、自己の都合では、自分の心を自分でごまかしてしまって、正
しいように、善のように思おうとするのです。そうしてそうしたことのできない良心的な人は、自
己の心をごまかしきれずに、我れと我が心を傷つけ痛めつけてしまうのであります。一般の民衆と
いうものは、そうしたものなのです。
そして、それが党派となり、国家となり、民族という形になると、より大きくより広く、自己保
存の本能が頭をもたげ、神のみ心である「己れの如く隣人を愛せよ」とか「右の頬を打たれたなら
左の頬をもさし出せ」というような大和の心、大愛の心にはとてもなれなくなってくるのです。
76
言葉だけの道徳倫理は不必要
わざ
そこで、単なる道徳の説教などは、それが浄めのみ業と同時に行なわれぬ恨りは無価値に等しい
ものになり、ある時はかえってマイナスにさえなってしまうのです。イエスキリストの最も嫌った
「
偽善者とは、自己に愛の心が薄いのに(愛の心が薄いと浄めの力が弱いのです)そうした低い心を
やから
もちながら、言葉だけで、愛だ真だ、善だ美だ、と説教する輩のことなのですが、こうした輩の多
い限りは、宗教の道が本筋の神のみ心の現われの道とはなってこないのです。
私はそうしたことを痛切に感じて、祈り一念、愛一念の生活にまず自己を置いたのであります。
だから私の宗教には単なる道徳律の説教などはないのです。この世の道徳というものは、神のみ心
の現われでありますが、ただたんに、この世の秩序や社会構成を乱さぬためにあるものもありま
す。ですから、道徳律にだけ心を縛ばられてしまいますと、反対に神のみ心本来の自由自在性が失
われてしまって、機械のように、形式の世界に心が固着してしまうのです。
道徳というようなものが、言葉でいわれ、文が書かれ、一つの形式のように固まってしまうと、
神と人間とが全く一つに交流し合って、生命の光の思うさまの自由自在の生活ができていた神代の
昔からの真実の人間性が、次第に失われてきてしまい、心の狭い、道徳律に縛ばられた、小さな人
間になってしまうのであります。77道
徳
と
宗
教
しかし、これは霊的人間が、地球人類として、物質界に物質的肉体を纒って生活するためには、
一応は是非もないことであったのでしよう。神の本来の自由な生命力、霊力がひとたび肉体という
物質体のなかに閉じこめられて、地球という物質世界に生活し、この地球世界を開発してゆくこと
になったので、物質界に適応した道徳律や形式が定められてきたのも、無理からぬことであります。
これを神道では天の岩戸が閉じられたというのです。天照大神が天の岩戸に隠れ給うたというの
は、宇宙的な意味でもある、と同時に人間個人個人の光明心の隠蔽のことでもあるのです。と申す
のは、個人個人の霊性が肉体のなかに隠れて、肉体人間として、各人が地球世界開発の役目をして
いることが、それであるからです。
さてこれからが、二度目の天の岩戸開きということになるのです。それは、いよいよ人間の霊性
が開発されて、物質的肉体を自由自在に自己の心のままに動かし得ることのできる時代がくるとい
うことなのです。人間各自のうちにある天照大神が光を放つことになるのです。仏教的にいえば、
大日如来が光を放つといってもよいのです。
さと
守護の神霊の援助がなければ解脱れない78
人間はいつも申すように、神の子なのです。神の子といってもなかなか複雑でありまして宇宙大
神様の子という意味もあるし、各直霊の子という意味もあり、各守護神、守護霊の子という意味も
あるのです。
そこで私は、人間というものは、宇宙大神様の人類界への働きかけである、七つの直霊から分け
られた生命であり、その直霊たちの外面から守護の働きとしての、守護神に守られながら、地球世
わけみたま
界開発の役目をしている分霊なのである、といっているのです。そして肉体人間としてこの世で働
いた経験のある、いわゆる祖先の悟った霊魂が正守護霊として各人の脊後に密着して守りつづけて
いるのであり、その補佐として、各種の副守護霊が存在するのである、と説いているのです。
この守護の神霊たちの援助がなければ、一度肉体界という物質的な粗雑な波のなかに入りこんでし
まった霊魂は、とても一人立ちして自己の天の岩戸開きをするわけにはゆかないのです。その状態
が、いくら宗教者が道を説いても、修養団体で修養しても、種々さまざまな修行をしても、この地
球世界の個人も人類も、業想念波動のなかからぬけきれず、争いをつづけている不調和、不完全な
姿として、いつまでも、苦悩しつづけている状態として現われているのです。
ですから、業想念波のなかでの道徳の説教などではとてもだめなので、守護の神霊のみ光にょる79道
徳
と
宗
教
業想念波の浄めによる無言の説法、いわゆる祈りによる天の岩戸開きによっての、善なる真なる美
なる想念行為に個人も人類も生れかわってゆくより他に方法がないということになるのです。
そして、個人人類同時成道の祈りが、私の提唱している世界平和の祈りの日常生活なのでありま
す。
この地球界には、さまざまな性格の人々が存在しているわけで、気の弱い人に、いくら気が強く
ならねば駄目だといっても、それだけで気が強くなるわけにはまいりません。また頭の回転の悪い
人に、もっと頭をよくせよ、といってもそれだけではいけません。そうなるための方法を教えてあ
げなくてはなりませんo
普通、人々が性格と呼んでいるのは、神の天命を果すための素質と、業想念波の癖の混合であり
ますので、その癖のほうを消し去って、天命を果すための素質だけを浮ぴあがらせれば真実の性格
がでてくるわけなので、各人がそのようになれば、地球世界はまたたく間に立派になってしまうの
ですが、どうもこのより分けがなかなかできないでいるのが今日の現状です。
この世の道徳教育とか、修養とか申すのは、このより分けをやるためのものですが、素質を出そ
うとして、あまりにも業想念のほうを抑えつけるようになってしまうので、業想念が消え去るので
80
はなくて、抑圧されてしまい、強い圧力をもったまま潜在意識として残ってゆき、素質的な道徳に
かなったような行ないが表面に少しは現われているのですが、それは時間的な問題で、転回してい
る潜在意識下の業想念の爆発に負けてしまい、その人の肉体を損ねたり、生活を損ねたり、運命を
破壊したりしてしまうのです。
病気とか不幸とか、すべての運命の破壊は、潜在意識にある業想念波動の消えて行く姿として超、
ってくるのですから、ただたんにこの現われだけを対処しても、また同じよケな別同どをぐ軌かえ虜
だけなのです。だから、いかに表面の行いだけをよくしようとして、ただたんなる修養や遺「徳教育
をしてみてもだめなので、やはり、人間の心の底から、潜在意識の底から、業想念波を浄め去らな
ければ、真実の人間の幸福は訪れないし、人間の真の救いは成就でぎかいということになるのであ
ります。
全身全霊で愛を行じる
そういうことをするのが、
葉のことなのであります。
真の宗教の道なので、その他のことは、宗教の道としては、すべて枝
81道徳と宗教
道を求めて一度は宗教の門をくぐったが、牧師や僧侶たちの説教と行為とのちぐはぐな状態をみ
て、かえって宗教に反感を抱き、徹底した唯物論者になったという人々もかなりおります。なかな
か人間を導くということはむずかしいことなのです。私などは、ほとんど相手の話をきいてあげる
ほうが主で、言葉の説教はあまりいたしません。ただ相手の心のなかに神のみ光を送っているだけ
なのです。
それだけなのですが、一度きた人は二度き三度き、ついには家族の一員のような親しさにまで
なってくるのです。ですからまるで一家族のようなもので、みんなが兄弟姉妹のようで、私が祖父
になったり、祖母になったり、父母になったり兄や姉になったり、恋人になったり、相手次第でな
んにでもなって、生命の交流をはかり、神と人間との切っても切れぬつながりを強めてゆくので
す。
すべては全身全霊で愛を行じなければだめなので、いちいちくる人々を批判しているようでは、
とても人を立派にすることはできません。一人の人間が一人の人間に会うということは、これは過
ヨ
去世からの因縁によるもので、これはすべて守護霊、守護神によってなされるものなのです。そし
てその出会いは、光と光の交流の場合もありましょうし、お互いの業因縁の消滅のためのものもあ
82
りましょうが、結果はどうともあれ、人に会う場合は守護の神霊への感謝をもって会うべきであり
ましょう。そうすれば、それが消えてゆく姿の出会いであっても何かの悪いことの後から、思いも
かけぬ善い出来事が必ず起ってくるのです。これは私の今日までの体験で、はっきり明言できるの
です。
前に書いた、エルベール教授との対談でも、エルベール教授を私のところに紹介した人は、神社
本庁の富岡氏であり、案内してこられたのは中西教授なのですが、真実の紹介者は、今は霊界にあ
る印度の聖者、シユリー・オーロピソドー師であったのです。
印度の聖者シユリー・オーロビンドー
オーロピソドー師は、今はこの世に亡い人ですが、学識も深く、行も深い全く解脱した大聖者な
のです。エルベール教授はこの大聖者の弟子として、印度において修行してこられた方なのです。
カルマ
エルベール教授との対談中、談たまたま、業を全く解脱したという人々の話になり、何人かの人
々がエルベール教授から紹介されましたが、その第一の人として、ナーロピソドー師の話がでてき
たのでした。しかし、その話がでる前から、エルベール教授の脊後から私に光を送ってくる聖者の83道
徳
と
宗
教
姿があったのを、私は知っていました。そこで私が「エルベールさん、あなたは常にオーロピソド
1師によって守られ、援助されているから、何かにつけてオーロビソドー師を思ってください」
と、オーロビソドー師の心を伝言しました。その時のエルベール教授の喜びようは、全く純粋な喜
悦のさまでした。そのへんの対談から、エルベール教授と私の心とはすっかり交流し合って、「こ
んなよい雰囲気のこんな気持のよい会談はなかった、ここにきて本当によかった。ここは霊揚で
す」と大喜びで帰ってゆかれました。
外国の人が日本にきて、しかも日本の宗教は高く深いものと思って期待してきているのに、その
期待を裏切るようなことがあったら、その人にも悪いし、日本の真価にも傷がつくのですから、エ
ルベール教授が喜んで帰ってゆかれたのは全くよかった、と私は思っているのです。
なお、エルベール教授を通して、私は多くの印度地方の聖者たちに会うことができました。肉体
に固着した人間観では、肉体と肉体が会わなければ会ったことにならないのですが、私たちの場合
には、一人の肉体をもった人と対座しながら、対談しながらも、五感に触れない、多くの人々と同
時に会って話すことがきるのです。
「私たちの世界には時間も空間もないのですよ」と私がエルベール教授にいったら、エルベール
84
教授もその意味がよくわかって、にこにこしながら、肯ずいていました。
守護の神霊との一体化こそ必要
実際に人間の想念が、時間空間に縛られ形式や物質の世界に縛られているのでは、とても平和
な立派な地球世界になることはかなわないのです。肉体は一つの場として、物質は一つ一つの道
具として、霊なる人間、光なる人間が、その生命力を自由に駆使して、神のみ心を、この地球界
に現わしてゆくのが、真実の生き方なのです。そのためには、どうしても、肉体のうちなる分霊
が、守護の神霊と一つになって働かなければ、とてもだめなのであります。
わざ
いかなる聖者も、守護の神霊の援助なくして、大いなる業を行ずることはでき得ないのです。聖
者となるそのことそのものが、もうすでに守護の神霊との一体化をなし得た結果にほかならないの
です。
今日ほど、守護の神霊がこの肉体波動に接近して働いている時代はないのです。ですから現代
は、種々な聖者が各処に現われずにいないはずなのです。それは宗教者必ず聖者というのではなく
科学者のなかにも実業家のなかにも、政治家のなかにも聖者は存在するのであります。しかしいま道
徳
と
宗
教
だその光が発顕していないのが現状であるのです。
守護の神霊との一体化が成就した時、その人は内面的に全く変貌します。今までの肉体人間が、
その本体を発顕して、霊なる人間として生れかわるのです。そうなると、その人の肉体や、生活環
境は、神のみ心のままなる、霊の思いのままなる様相に変ってくるのです。そして、その人には、
肉体人間の思いも及ばぬ偉大なる能力が発揮されてくるのであります。そういう人は、言葉や文字
で想いを語らなくとも、おのずと相手に自己の心を伝えることもでき、光明を与えることもできる
のです。
エルベール教授の話のなかに、裸の聖者と呼ばれる一人の聖者の話がでました。その聖者は、五
十年間を裸のまま、坐りつづけているのです。その側で二十四時間エルペール教授も坐りつづけて
いたそうですが、側に坐っているだけで大変に浄められたといっていました。私もその聖者にエル
ベール教授を通して会ってみましたが、実に光そのものの聖者で、快い波動がこちらに伝わってき
ます。
86
愛の光が人を変える
人間を良くするというのは、そういうふうに言葉で語らなくとも、文章で現わさなくともできる
のですが、私の役目は、言葉で語り、文章で現わし、体から光を放ち、という種々の方法で、世界
平和の祈りを行じせしめる役目を持っているのです。
ですから、ただたんなる道徳的談議などをする気持にはならないのです。救世の大光明の光があ
たれば、誰れもかれも、みんなが本心を現わして、どのような場合においても悪い行いの一切でき
ない心の状態になってゆくというのが、私の理想であり、そして、着々と現実化してもいるのであ
ります。霊魂が浄まってくれば、おのずから天の道徳律に沿って日常生活ができてくるにきまって
います。なぜならば、人間は神の子であるからです。
浄土門では、いかなる悪も弥陀の光を消すことはできない、といつておりますが、全くその通り
でありまして、弥陀のみ仏のなかに、唱名念仏して入ってゆきさえすれば、その人の罪けがれは必
ず消、兄去ってゆくに違いありません。その時阿弥陀様は、私のいう救世の大光明と等しい人類救済
のみ光となるわけです。
私は常に神というものを二つに説いております。それは宇宙絶対者としての一なる神、そして、
わけいのち
神の分生命として人類世界に働く人間が、本来の光明身として自由自在にその生命力を発揮できる87道
徳
と
宗
教
カルマ
ように、業想念波動を浄めてくださる守護の神霊としての神、この二つにわけて説いているのであ
ります。それでないと、どうしても、人間神の子を説くのには説明ができにくくなってくるので
す。
「神の子の人間になぜ不幸や災難や不完全なことがあるのだ、完全ななかから不完全が生れてく
るわけがない」という疑問が誰れの心のなかにも起ってくるのです。そしてかえって神仏の存在を
疑ったりしてしまうのです。お釈迦様はその点をよくご承知で、造物主というような神のことはあ
まり説かれずに、仏といい如来というふうに、人間自身が人間自身の本心を開発してゆくことを主
目標にして、弟子を導いてゆかれたのです。
人間の外部的な神という存在に、それまでの宗教が頼りすぎていて、ちょっとしたことでも外部
の神に頼んでしまい、人間の自主性を失ってゆき、いわゆる迷信に陥ってしまったので、そうした
弊害を除くために、釈尊はわざと、外部的な神の話はなさらなかったのだと思うのです。しかしな
がら仏教には守護神の話は所々にでてくるのです。そこが実に面白いところだと思います。
現代でも、やれ、おがま様だ、やれ何様だと、正体の知れぬ神社詣りや、新興宗教入りをしてい
る人々がたくさんおりますが、これは釈尊以前の迷信に陥っていることになるのです。現世利益さ
8
えあれば、何様でもよいというのは、これは宗教ではなくて、唯物論なのです。唯物論も、全く自
主性のない、自己確立のない、実に幼稚な生き方なのですが、そういう人は、やはりそういうとこ
ろを通ってこないと、真実の宗教に入れないのですから、過去世の因縁というものは、解脱しない
限りはしようのないものであります。
一般民衆というものは、どうしても現世利益に走りやすいものなので、これはどこの国の人々で
も同じようであります。その場その場の利益というもので一喜一憂するという人間の悪癖を直さぬ
以上は、とうてい一般大衆が真実の救われに入るわけはありません。
世界人類に平和の光を輝かすために
そこで私は、あまりむずかしいことをいわずに、みんなが手を伸ばしさえすれば、真実の救われ
の道に到達でき得る道をひらかなければいけないと思ったのです。そして私がまず自己自身を守護
神に全託して、分霊と守護の神霊との一体化に成功して、今日の霊覚者としての私になり得たので
す。そして守護の神霊の存在が確立し、個人人類同時成道の易行道である世界平和の祈りの宣布を
はじめたわけであります。
89道徳と宗教
守護の神霊の救済の働きがあって、はじめて、人間は神の子の実体が発顕できるのであって、守
護の神霊の存在を認めなければ、人間神の子というのは、ただたんなる言葉だけのものになってし
まい、人間神の子ならなぜ悪や不幸があるかという疑問に出会ってしまうのです。
人間神の子というのは、あくまで、守護の神霊とのつながりにおいていえることであり、守護の
神霊を認めぬ人々は、人間神の子の光明を永劫に発顕でき得ないのです。この汚れきった不調和き
わまりなく見、瓦る地球世界が、肉体人間の力だけでどうして平和な調和した世界にでき得ようか、
どのように考えてみても、どのような道徳論をふりまわしてもとうていでき得ないのです。自己の
ごとく他人を愛し得ないで、自国のごとく他国を愛し得ないで、どうして大調和した世界ができる
でしょうか、でき得ないのは明瞭な事実なのです。
そこに守護の神霊の働き、救世の大光明の働き、世界平和の祈りの働きが、どうしても必要にな
ってくるのです。自他の利害を思う想念、自己保存の本能、そうした業想念のすべてを、世界平和
の祈りのなかに投げ入れて、日々の生活を行ない、政治政策を行なうとき、はじめて世界人類の平
和の光が射し始めるのであります。
ニ
この世の道徳律を超えた世界平和の祈りの生活からこそ、天と地が全く大調和した道徳がやすや90
すとこの世において行なわれてくるのです。
一日も早く地球を宇宙大調和の一つの世界として仕上げなければならないのが、私たちの使命な
のであり、そのためにこそ、世界平和の祈りが絶対に必要になってくるのであります。
91道徳と宗教
92
宗教と呪術
呪術は生きているという家永論
中外日報(S34 ・6 ・19) に、呪術は生きている、という家永三郎文博の論説が掲載されていま
したが、真の宗教を求めている人なら、誰れしもがそのように思うであろう、という事柄がその文
章には書かれてありました。
その文章をぬき書きしてみます。
『ある高等学校の歴史の先生から最近きいたはなしであるが、聖徳太子のころの仏教寺院の説明
をして、その当時のお寺は今のようにお葬式をしたり、お墓に死人を葬る場所ではなく、大陸の新
しい建築や彫刻や工芸や音楽などをあつめた文化セソターみたいなところだった、といったら、生
徒は目をまるくして驚いた』ということから、『一般国民の常識では、お寺と葬式とは最初から不
可分のものであったかのように信じこまれているのである。お経が意味のある内容をもった文章で
あることを知らなかった、という告白は、しばしばひとからきくところであるが、棺前でわけのわ
からぬ、奇妙な節をつけたお経が長々とよみ上げられる光景は、実際奇妙キテレツなものというほ
かはない。ただ長年の習慣で、日本人の感覚がマヒしているから、それほどおかしい現象と考えな
いだけのはなしだ。もし釈迦がこの世に再生したと仮定したら、おそらくその奇怪な光景を見てな
んだろうといぶかることであろうし、それが自分のはじめた「仏教」の儀礼であるときかされた
ら、おどろいて腰をぬかすにちがいない。1 そのお経が、意味のわからないような奇妙な節まわ
しでょみ上げられるとき、その時その儀礼はもはや「宗教」の名には値しまい。それはリソガやワ
ギナを礼拝するのと全く同性質の「呪術」というべきではなかろうか。1 平安時代の加持祈祷が
呪術であったことはいうまでもない。そして私は鎌倉新仏教の念仏と唱題もまた呪術であった、と
付言せざるを得ないのである。法然は「信心」を強調することによって、呪術より宗教への転換の
道に勇敢にふみ切った。親鸞は「行」に対する「信」を前面におし出して、呪術よりの離脱を完遂
するかと思われる飛躍を敢てした。鎌倉新仏教の画期的意義を、私はそこに見出すのであるが、法
93宗教と呪術
然はもとより、親鸞さえも、口称念仏に固執して、ついに呪術と縁を絶つことができなかったので
ある。その後にあらわれるものは、一遍と日蓮も、ふたたび呪術的性格を濃くしていったように見
える。1 遠い将来まで仏教がその生命を維持しようと望むならば、その呪術性を清算して真の
「宗教」に転化するほか、残された道はないことを知るべきである』
家永氏はあらましこのような論説を書いているのであります。氏のいわんとする要点は、真の宗
いのり
教は唱え言をしたり、呪言をしたりするのではなく、人間の真の生き方を教えるべきである、とい
うことにあるように思われます。
ごと
私も常にそうしたことを説いているのでありますが、唱え言がたんなる唱え言ではなく、その唱
え言、念仏なら念仏を通して、神仏との一体観、本心の開顕に役立たせることができることを私は
知っているので、念仏も題目もすべて呪術的なもので真の宗教とはなんの関係もないとは私は思わ
ないのであります。
94
諦経することの真意
葬式にお経をあげることが、全くの無意義であるかというと、あながち無意義であるとはいいき
れないのです。職業僧侶はただたんに儀礼として諦経しているかも知れませんし、諦経は儀礼であ
って、別にその効用があるものではない、と平然といっている僧侶さえあるのですから、訥経は儀
礼なり、と思われてしまうのも無理はありません。
しかし、お経をあげることはたんに儀礼ではないのです。そう思われるのは現在の僧侶たちのな
かに、宗教を学問的にだけ教わっていて、心身を賭しての修業をしていない人々が多いので、仏教
が葬式宗教に成り下がってしまい、諦経さえ、儀礼の一つの型になってしまったのであります。
言葉はすなわち神なりき、と聖書にもありますように、善い言葉は神仏の光をもっているのであ
ります。お経というのは、釈尊の言葉や、各派の名僧の言葉なのでありまして、言葉そのものが神
仏の光をもっているのです。ですから、そうしたことを素直に信じて、お経のもつ光のひびきを、
あの世に去った人々の心に伝えてやれば、亡くなった人の魂の浄めになるので、本当は諦経するこ
とは大事なことなのであります。
ところが職業僧侶の大半は、人間は肉体が死んだらそれまでであるというように、死後の世界、
あの世での生存ということを認めようとしていないのです。そこで、そうした信のない人々のあげ
るお経が死者に通ずるはずがありません。そうした僧侶のあげるお経は、それこそたんなる儀礼で95宗
教
と
呪
術
あって、なんの効果もなく、釈尊を嘆かすような、非宗教となるのであります。
諦経を効果あるものとするためには、謙経は尊いものであるという信と、死者はあの世で生存し
ているのであるという信が必要なので、そうした信がない訥経なら、時間つぶしになるだけです。
96
諦経と心霊現象問題
どうしてこの世の人が諦んだお経があの世まで伝わるかと申しますと、この世でお経をあげてい
る人の信ずる心の波が、お経本来がもっている光の波を伝導して、あの世の人の心の波に合わせる
からなのであります。
いっも私が申しますように、この世に現われている想念も、形も、すべては波動の現れであっ
て、固定した想いというものも、固定した形というものも、実はそのままあるのではないのです。
それはすべて、光と想念の波動がそのように現れているだけで、実在しているものではないので
す。もっと深く申しますと、この世の現れも波動のひびき、あの世の現れも波動のひびきであっ
て、この世にもあの世にも実在する姿形というものはないのです。大体、この世とあの世との差別
は、実にはっきりついているようではありますが、実はそうではなく、一つ場所において交流して
いることが多いのです。
この世で肉体が消滅してしまいますと、普通人の眼には、もうその人は自己の周囲には存在して
いないことになるのですが、実はその人は、粗い波動から細かい波動にその身を変化せしめられた
だけで、そこに存在しなくなったのではないのであります。ただ、肉体人間の眼や手に触れ得ぬ波
動体になってしまっただけなのです。
たとえていえば、テレビのスイッチをひねると姿や音が現われてくるが、スイッチを切れば、そ
の姿や音が消え去ってしまうのと同じ理でありまして、スイッチの切り替えによって波長を合わせ
れば、あちらの姿や音がもつ波動にこちらの波動が一致して、姿や音が現われてくるのです。心霊
現象というのはそうしたものなのであります。
理論だけで呪術性はなくせない
そうしたテレビと同じようなことが今に、
遠い将来のことではないのです。ですから、
の道とはかなりのへだたりがあるようです。
心霊問題としても、実現してくるのです。それはそう
宗教学者たちの思っている宗教というものと、私たち
97宗教と呪術
現今の宗教家は、宗教哲理だけをもちまわっているのですが、それでは一部の人は救えても、一
般大衆を救うことはできないばかりでなく、大衆を無神論や低級宗教に追いやってしまう結果さえ
まねいているのであります。
家永氏のいわれる、呪術を離脱しなければ真の宗教の道は開けないという意味は、私にはよくわ
かるのですが、それだけでは、宗教における呪術性というものがなくせるものではないのです。な
ぜかと申しますと、呪術、家永氏にいわせれば、念仏も題目も含まれる呪術にもかなりの効果があ
るのであり、救われの道もあるからです。
念仏を称え、題目を唱えることによって、病気が治ったり、災難事においても心の動揺が防げた
りする効用が多々あるからなのです。肉体人間には、この世におけるなんらかの効果がないと、そ
の道に入ることは難いのであります。
ですから呪術無用論を唱えるならば、そうした呪術にょる効果も知った上で、そうした効果を追
っていたのでは、真の救われの道には入り得ない、という確たる理論を示さなければ、やはり学者
の死んだ理論といわれてしまいかねません。
どうして呪術ではいけないのか、どこが真の宗教とは違うのか、そうしたことの解明がなされな
98
い小論文では、読む人の心をつかむことができないのは無理からぬことでありましょう。
真の宗教と唱え言について
私はここで呪術と宗教について、私の考えを述べてゆくことにいたしましょう。
今日までの宗教には、家永氏が呪術といわれる唱え言が必ずといってよいほど附随しています。
唱え言のない宗教というのははなはだすくないのです。
くらつ
肉体人間には、ただ黙って空になる練習すること、黙って自我欲望をなくする練習をすることは
実にむずかしいのであります。自我欲望や雑念をなくするためには、どうしても、他の方面に想い
を転じなければできない。そこで、想念を他に転じて、そのなかでしらずしらずに雑念を消してし
まう、あるいは消えてしまう、という方法が、各宗教ではとられたのであります。
その方法のなかで最も秀れたものが、法然、親鸞の念仏なのです。平安時代の加持祈祷というも
のは、空になるとか雑念をなくすとかいうことより、なんらかの目的のため、いいかえれば自我欲
望達成のためになされた傾向が多くありましたので、祈祷くらべ、念力くらべなどという、宗教精
神から外れた外道の道がかなり行なわれたのであります。しかし、こうした加持祈祷はかなり病気
99宗教と呪術
や災難を除ける力があったのです。要するに現代の新興宗教が栄えている原因である現象利益が、
この加持祈祷によってあったわけです。現代の新興宗教といわれる大半はこうした加持祈祷の流れ
であるともいえるのです。それは南無妙法蓮華経を唱える日蓮宗の一派でもそうであるのです。
さて、ここで現われてきたのは最も純粋な、最も真理開明に近い唱え言で大衆を導いた聖者法然
であったのです。法然こそ日本はおろか、世界でも最高峯をゆく真の宗教者なのであります。
法然こそ、末世への宗教の道を開いた私たちの恩人だったのです。そしてそれを完成に導いてい
ったのが、親鸞であったわけです。
100
法然、親鸞は大衆の心を知っていた
法然、親鸞がどうして、そのように偉大な宗教者であったのでしょうか。それは一般大衆が最も
入りやすい呪術性への道を、真の宗教の道、本心開顕の道に何気なさそうにつないでしまい、呪術
的な唱え言を、神仏のみ心のなかにやさしく、しかもしらすしらずに飛びこんでゆけるような唱え
言にしてしまった、真実の救いをもつ易行道を完成させたからであります◎
いわゆる私が何度も申しております、念力と真の祈りとを、はっきり区別して、祈り一本の念仏
にしてしまったことによるのです。
今日の仏教学者のように、仏教の学説だけを説いていても一般大衆にはなんの反応もないが、現
象利益を打ちだした呪術的新興宗教には大衆がいつ知らずひかれてゆく。それは、そうした新興宗
教の中心者の神秘性と呪術的雰囲気に、何か頼りがいのあるものを感じる、一種の信頼感、力を感
ずるので、知性的ならぬ一般大衆は、その力にひきこまれてゆくのであります。この信仰に入って
いれば、私は助かる、という、そうした気持でただその呪術性にすがりついてゆくのであります。
この気持は無理のない大衆の気持だと思うのです。現代人は一体なんにすがったらよいか、知性
的な人は自分の他にすがるものを認めない。自分の知識や行動にすがって生きているのだけれど、
その自分の知識や行動も、外面とのあつれきによっては崩れ去ってしまう、砂上の楼閣のような知
識であり行動であるわけなのですが、そんな不安全な自己であっても、他へすがるよりは、自己に
すがっていたほうが、自己のプライドがゆるして、いくらかましだ、というところであり、一般大
衆はなんでもかでも、眼の前で、身近かで、楽に自分を救ってくれるもの、自分のたよりになるも
のを求めている。そこへ、自信満々とおまえたちを救ってやる、という現世利益的宗教が現われて
くる。なんだか頼りになりそうだ、こうやってひとりで苦しんでいるより、そうした教団に入って
101宗教と呪術
いれば、皆と一緒になんとか救ってもらえるだろう、というような気持で、強力に宣伝する宗教に
入ってゆくのであります。
こうした心情は昔も今も別に変ってはいないので、何かにすがらねば不安でたまらないという気
持は、その度合の多い少いの違いはあっても、一般大衆の気持であるのです。平安時代も鎌倉時代
も現代も、生老病死に対する不安は同じことなので、そこに宗教心の芽生えがあるわけなのです。
ただ、その宗教心が、現世利益という欲望のもとに深く隠れている人と、正面にはっきりでてい
る人とがあるので、一般大衆は、現世利益にかなり蔽われている宗教心をもっているわけです。そ
うした一般大衆の心を、法然や親鸞は知っていたのです。
むずかしく説いたのでは、現世利益の低級な呪術宗教の力に民衆はひきつけられてしまう、とい
って、今までのような呪術では、いたずらに現世利益に人の想いを把えさせてかえってみ仏の心か
ら離れてしまう。さて、と思った時に、善導大師の導きが現われて、南無阿弥陀仏の唱名を民衆に
伝えることになったのであります。
この念仏は、それまでの呪術のように、現世利益の目的を果すための細々しい祈祷ではないので
した。この念仏をしさえすれば、すべて極楽浄土に生れかわるのだ、と阿弥陀仏がそうおっしゃっ102
たのだから、み仏の言葉に間違いのあるはずがないのだから、念仏のなかに一切の想念を投げだす
つもりで唱えなさい。というように、現世利益や自我欲望のことには一切ふれずに、どんな悪人で
も皆救われる念仏であると法然はいいきったのであります。それを受けて親鸞は、いかなる悪でも
弥陀の光明を消すことはできないという、大宣言をしているのです。これは法然、親鸞ともに、人
間の本心はみ仏そのものであり、完全円満性のものであることを知っていたから、業想念を念仏の
なかに入れきってしまえば、知らぬうちに本心が開発されて、救われの境地に入るにきまっている
ことを、阿弥陀仏の言葉に託していったのであります。
こういうことをいいきるためには、いいきる人の人格が秀れていないとだめなのです。法然も親
鶯も、当代でも傑出した学者であって、人格識見ともに秀れていた人であったので、こんな立派な
方がおっしゃることなら間違いないと民衆はぞくぞくとその門に入ってきたのです。
弥陀の方より一切を頂戴する
法然、親鸞ともに自我欲望のきわめてすくないほとんど無いといってよいほどの人であって、し
かもかつ、自己の肉身では何事もなし得ない、すべては弥陀(神・本心) のみ心に投げ入れて、弥
103宗教と呪術
かに
陀の方から種々とさせていただくのだ、という謙虚な心境であったのです。
なんらかの利益を得ようとしている祈りは、これは祈りではなく念力(呪術) です。初歩のうち
は、こうしたやり方もしかたがないのですが、真の祈りというのは、法然や親鸞が行なっていたと
同じような、自己の想念一切を、神のみ心に投げ入れて、神の方からやらせていただく、神の方か
ら頂戴するということになるのであります。
そうした心境になった時、その人の本心は開顕し、その人が神の子となり、仏子といわれてもよ
いほどの人格になっているのであります。
ですから、法然や親鸞のやり方には、妖し気な呪術的雰囲気は一切ないのです。寝てもさめても
の唱名念仏なのであり、一切の想念行為、一切の生活が、念仏のなかから生れてくるのでありま
す。
これはその頃盛んであった呪術的加持祈祷とは全くことなる神我一体の祈りなのです。加持祈祷
の場合は、祈祷するのが肉体人間であり、祈りの対象は自己とは離れた、神であるのですから、お
きき入れになることもあれば、きき入れてくださらぬこともあるわけです。そして、しかも祈祷の
事柄が、大体において、自己の欲望達成のためです。病気の祈願も同じことで、すべて自我欲望達
104
成のためであるのです。ところが法然親鸞の念仏は、そうではありません。自我欲望を発するほう
の自己というもの、業想念を、すべて阿弥陀仏のほうに唱名という方法で投げ入れてしまうのであ
くロつ
ります。ですから、自己を空にするのと同じことなのです。そういたしますと、肉体人間としての
自己はなくなり、阿弥陀仏(神) の分身としての自己が、そこに生れてくるのであります。
家永氏もそうした偉大さを法然や親鸞に認めたのでありましょうが、いつも口のなかで念仏を唱
ニ
えていたということで、さすぶの法然親鸞も呪術性をすっかり超えることができなかったといって
のり
おられます。形の上では確かにそうでありますが、法然親鸞の心は口諦念仏をはるかに超えて、実
在の世界、阿弥陀仏の世界に住していたのであります。私は霊的に法然親鸞とは実に近しい間柄に
あるので、法然親鸞の心が鏡にうつるようにわかってまいるのです。
念仏と題目の相違
いったんは自己否定をしない限りは、神仏との一体化はできません。肉体的自己のむなしさをは
っきり認め、それを全否定したところから法然や親鸞の念仏による救われがあったのであります
し、そうした師を信じた人々の純粋な信仰が、その人々に神仏との一体観を得さしめ、本心の開顕
105宗教と呪術
をなさしめたのであります。しかしながら、こうした自己否定の生き方が、何か消極的なように人
々に感じさせ、それが、日蓮の出現によって、何者、何事をも突破してゆこうという気魂に充ちた
題目の高らかなひびきに人々がひきつってゆかれたのでありましょう。
ところが、この題目の唱題は、念仏の唱名とはその意味が違いまして、家永氏のいわれるよう
に、呪術的要素が濃くなってきているのです。
それはどうしたところに感じられるかと申しますと、念仏は寝てもさめても、ひとり静かにみ仏
のなかに入り得ますが、題目の唱題はひとり静かにというわけにはまいらぬようで、外にひびきわ
たるような、積極的な高らかなひびきがあります。そしてこの題目を唱えることによって起る神秘
力を期待しているような傾向が見えるのです。念仏の唱名では、自分のほうから阿弥陀仏のなかに
入ってゆくという方向にむかっているのに、題目のほうでは、題目の力を自分のなかに作用させる
という行き方をしているようであります。(拙著・白光への道参照) これは自己否定をしなくとも
できるので自己否定なしの神秘力への期待ということになってくるのです。そうなりますと、これ
は平安時代の加持祈祷、つまり呪術となってきますので、たとえ、どのような奇蹟が起ろうとも、
それは、その人の人格や日頃の想念行為と同位置の見えざる生物からの働きかけによる奇蹟であっ
106
て、神のみ心そのままの奇蹟ではないということになるのです。
またUつの病気が題目の唱題によって治ったとしても、それは神仏がその病気を治したのではな
く、題目にむかって、その人の病気の想念が転移して、病気がなくなったということであるので
す。そしてそれはそれでよいのですが、そうしたことを神のみ心の働きと誤り考えては、せっかく
の題目が泣いてしまいます。そんなふうに考えて題目の唱題をしていては、それはいつまでも自我
欲望達成のためであって、太心開発のため、神我一体の道をこの世に開く道とはならないのです。
念力をもって神の力を自己にひきよせようとするような宗教の生き方は、あまり感心したものでは
ありません。日蓮そのものは別として、日蓮宗系統の人にはとかくそうした、強引な念力の所有者
があるように見受けられます。
肉体的自己の否定から神への全託に
宗教の道を念力的な方法で通ろうとする人々は、どうしても相対的になりがちで、自己の道に従
わぬものは屈伏せしめずにはおかぬというように気張る傾向が多いのです。これでは世界平和の達
成はできません。107宗
教
と
呪
術
念力はあくまで横の道であって、天上界の方法ではありません。念力の強さによっては相当な望
みも適いますが、それはあくまで、神のみ心によるものではなく、地上的人間の欲望によるもので
す。ですから、念力と真祈りとの相違、呪術と祈りとの相違をしっかり知っておかなければいけな
いのです。
それはやはり、第一番に肉体的人間の自己否定、自分の力では何事もなし得ないのだ、という気
持を根底にして、神への全託に飛躍しなければいけません。そこで私の説いている世界平和の祈り
が生きてくるのです。世界平和達成のために、自己の全想念を、世界平和の祈りのなかに投入させ
てしまう。そして、自己や自己の周囲に現われる幸も不幸も、すべての現われを消えてゆく姿だ、
と思って、その事物事柄に想いを把われさせない、という方法こそ、現代の宗教の大乗的な生き方
であると思うのです。
tos
ガンジーと世界平和の祈り
真理の道は一般大衆のものとなっているか
神や仏が実際にあるなら、なぜ人間世界をこのように不幸な状態のままにしておくのか、今日ま
でに数多の聖者や賢者がでて、神仏を説き、神仏への道を説いてきているけれど、いつまでたって
もよくなるどころか、次第に人類破滅のほうへ突き進んでゆくではないか、という疑問を投げかけ
てくる人が、かなり多くあります。
また、一度は宗教生活に入りながら、その宗教生活のなかから、愛なる神を見出せないで、かえ
って偽善的なる宗教者の姿にぶつかり、一転して頑ななる唯物論者になってゆく人もあるのです。
人間の誰れしもが、真実の救われに入りたくてしかたがないのですが、一体どうしたら、真実の109ガ
ソ
ジ
ー
と
世
界
平
和
の
祈
り
救われに入れるのであるかがわからないし、その真実に救われた、という状態がどのような状態で
あるかもわかっていないのであります。
そこで一般大衆は、まず現世の利益を求めての神詣でとなり、宗教信仰となってゆくのであり、
はじめから魂の開発、本心開顕のための宗教入りする人は少いのであります。そしてそうした多く
の人たちのなかの理論的な頭の人たちが、前記のようなことをいってくるのであり、その半面の無
おそ
知識的な人々は、ただ盲目的に神仏を催れ、人間以外の強力なるカへの信頼心と、その見えざる力
からくる不信による罰というようなものへの恐れで、神仏だと彼らが思い誤っている力につき従っ
てゆくのであります。
ですから、日本において現在、宗教生活をしているといわれている人たちはかなり多くおりなが
ら、その大半が、神への大きな不信をもちつつも、他に頼るなにものもないところから、心でぶつ
ぶついいながらも宗教入りをしている人と、盲目的な、権威や力にひきずり廻わされていながら、
それが宗教信仰である、と思いこんでいるような無知なる人々であるのであって、真実の安心立命
本心開発の道を突き進んでいる人ははなはだ少いのです。
選ばれた人々や、素質の秀れた人々に、本心開発の道を教え、真理を知らしめることは、割り方
110
できやすいのでありますが、一般大衆をして真理の道、本心開発の道に入らしめることは、実に容
易ならぬ難事なのであります。
ガンジーとその教え
先日印度の生んだ偉大なる聖者ガソジーの修業団への手紙を読んだのですが、ガソジーその人の
偉大さは、全く神人といえるものであって、実に心を打たれるのでしたが、ガソジーの教えそのま
まで、忠実についてゆけるような人々は、この日本ではほとんどないのではないか、と思われまし
た。その教えのうち二、三の例をあげてみますと、
一、真理(神) の探求には、時として死をも伴うべき苦行と、諸種の難業とが必要であり、この
間少しでも利慾の影があってはならない。利慾をはなれて精進せば、なにごとも長き迷いに苦しま
ないであろう、横道に入りこんでも、やがてはさらに正道にかえるであろう。真理の探求はとりも
なおさず真の信仰であり、それが神への道である。臆病と逃口上の余地はない。信仰が死より永遠
の生へ門口を開く護符である。
一、われらは真理の道は狭くして、かつ真直なることを知った。博愛の道もまた同じである。こ111ガ
ソ
ジ
ー
と
世
界
平
和
の
祈
り
の細径を歩むには、剣の双渡りのように釣合を取らねばならぬ。軽業師は強く張った索上で全能力
を集中して舞踊する。真理と博愛の細径を進むにはさらに大なる注意が必要で、ごく些細な不注意
があっても顛倒する。ただ不断の精進によってのみ、これらをみずからの内に実現しうるのである。
われわれが肉体の虜である限り真理の実現は不可能である。思考によってこれを体得することも
できない。朝生暮死の肉体は、永遠の生命ある真理を直前に見るべき材料にはならない。そこで結
局信仰にたよるようになるのである。
ある昔の賢者は真理を完全に体得するのが至難なことから、ついに博愛を尊重するようになっ
た。そこで問題は「自己に困難を与うる人々を寛恕すべきや、あるいはこれを打倒すべきや」であ
った。この賢者は結局、闘争に執着する人は真理に向って少しも進めない、これに反し自己に困難
を与える人々を寛恕すれば目的に近づき、時にはこれらの人々をも指導するようになることを理解
した。彼は試みた闘争で、求むる真理は外部には存在しない、かえって自己の内部にあることを悟
った。外部に求めた敵と闘争する間は、内部の敵を忘れるから、暴力に訴えるので、いよいよ真理
と遠ざかるのである。
われわれは盗賊に苦しめられるから、彼らを懲戒する。その結果盗賊が遠ざかったとすれば、そ
112
れは彼らが他の人々を襲うていることである。自己以外の受難者もまた等しく人間であり、ことな
れる相を持つわれわれ自身である、かくて循環論の内に迷わねばならぬ。一方盗賊は盗みを職業な
りと考えるから、盗賊はますます増加する。結局盗賊を懲戒するよりも、寛恕するのがよいことに
気づくのである。さらに進んでわれわれの忍耐力は、彼らを最も高き道義心へ導きうるであろう。
考え直して見れば、盗賊もまたわれらとことならぬ人々であり、兄弟であり、友人であり、従って
懲戒してはならない人々である。しかし盗賊を寛恕しても、悪に忍従してはならない、かくては卑
怯に堕するものである。そこでわれわれは新たなる勤めを見出すのである。盗賊をわれわれ家族の
一員として認むるなれば、よろしく彼らにこの親族関係を了解せしめねばならない。われらもまた
専心彼らの心を捉える方法を案出すべきである。博愛が即ちそれである… … 。
一、第三にわれわれが守らねばならないのは純潔である。事実上これらの諸法則は真理から導き
だされるので、これを助けることが目的である。真理を婆りこれのみを熱愛する人が、もし他のこ
とに能力を割いたとしたならば、それは不信である。全精力を真理の具現に捧げ、絶対の無慾を要
あ
望する人には、子供を生むとか家事を指導するような、身勝手なことに充つべき余裕がない。利己
心を満足させて、真理を実現するというのは矛盾である。かかる観点に身を置くならば、われわれ113ガ
ン
ジ
ー
と
世
界
平
和
の
祈
り
は完全な無慾でなければ、その完成は不可能である。
一人の男が一人の女に、または一人の女が一人の男に愛を傾けるならば、全人類に与うべき何物
がこれらの男女に残るだろうか。かかる男女間の相愛は、あっさり次のことを意味する。「まず両
人で、残りの人はどうでもよい」忠実なる妻はすべてを夫に捧げ、忠実なる夫もまた妻に対して同
な
様であるからである。どちらも博愛の域に到達できず、またすべての人類社会を自己の家族と見敏
し得ないことは明らかである。彼らの家族が多人数であればあるほど、博愛は遠ざかるのである。
従って博愛の法則に従わんと欲する人は、結婚できないのである。結婚外の性欲満足についてはい
うまでもない。
しからば既婚の人々の立場はどうであろうか、どうしても真理を実現できないだろうか、すべて
を人道の祭壇に捧げ得ないだろうか、思うにこれらの人々にもまた解決の道がある。即ちまだ結婚
しなかったように自己を処するのである。夫婦が兄であり、妹であると自己を観るならば、人道上
の勤めを果しうるだろう。すべての婦人が人道のためには姉妹であり、母であり、娘であるとの観
念は、直ちに既婚男子の道徳を向上し、婚姻からくる拘束を打ち破るのである。
114
● ■ ●
まだまだ例をあげればたくさんあるのです。いずれも、実に立派な言葉であり、そのようにでき
うる人には敬意を払わずにはいられぬ想いがいたしますが、実際問題として、こうした教えに、自
分ならついてゆける、といいきれる人が、一体どれだけあるでありましょうか。
まず第一に、真理を求むるには、死をも伴うべき苦行及び諸種の難行を覚悟しなければならない
のであり、少しでも利欲の影があってはならないのであります。
第二には盗人をも家族の一員と見なしうる寛恕の心がなくてはならぬ。
第三には、真理(神)以外の者、つまり男は女に、女は男に想いを捧げてはいけない、結婚して
はいけない。また結婚してしまっている人は、通常の夫婦生活をしてはいけない、といっておるの
であります。
一般大衆はこれについていけるか
さてここまできますと、一般の大衆はおろか、
のではないかと思われます。
よほど秀れた素質の人でも、ついてゆききれない
ll5ガンジーと世界平和の祈り
ところが日本でも、昔の僧侶などは、この手紙の言葉のような境地を目ざして、真正面から修業16
1
にぶつかっていたのであり、それに到達した人もあったのであります。ですから理想としては、こ
のような境地になるべく修業をすべきであり、真理(神) を求め、神と一体にならんとするには、
このような、肉体生活を捨離した生活に微する覚悟が必要なのでありましょうQ
自力で真の救われの生活に入らんとする人は、どうしても、ガソジー翁の手紙のような、あるい
は昔の禅僧のような肉体生命をまとの、厳しい修業をしなければ、そうした救われの境地に入り得
ようもないのであります。
真の救われとは、神(真理)を真に自己のものとした、安心立命の生活なのですから、この現わ
れの世界の富の安定や、地位の安定などではとても及びもつきません。そのような生活だけでは、
真の救われにほど遠いものであって、安心立命の境地に入ることはできません。
そうなりますと、真の救われに入るためには、まず真理(神) を求めなければならぬし、永遠の
生命を自己のものとしなければなりません。そこでこのことをつき進んで考えてゆきますと、ガン
ジー翁の手紙のような、今生の肉体生活などは、まるで問題にしないようなただひたすら真理(神)
を求める生活に精進しなければいられなくなるのであります。
しかし、現代の日本の生活環境から考えますと、自分自身がそのような考えに根底を置いて、そ
うした道を突き進もうとしても、親兄弟や親族の反対に会って挫折したり、社会環境によって挫折
したりして、とうていガソジー式の精進の道を突き進むことはできがたいのであります。
ところが、真剣にこの問題に取り組んだ人は、その人が真剣であればあるほど、苦しみ悩むであ
りましょう。純潔の問題、博愛の問題等、原理としては、純潔とは神にのみ心を傾けつくすことで
あって、妻や恋人に心を傾けるべきではない。博愛とは、神の生命において、すべては一つであり
平等であるのだから、盗賊をも、敵と見ゆるものをも、自己と同一のものとしてあつかわなければ
ならぬほどの愛であるわけでありますから、いくら真剣に修業精進しても、素質の最も秀れた人々
でない限りは、でき得ることでもなく、でき得ると思う自信も湧いてきそうもありません。
そこで、真剣に真理を求むる人々は、どうしてよいかわからなくなってくるのです。ところが地
上人類の大半は、それほど真剣に真理を求めているのではなく、眼前の利益、この現世だけの利
益を求めているのであって、生命をまとにして真理を求むるなどという、立派な心掛けはないので
あります。
きとも
ですから、真理探求の道を、ガソジー式にあまり真正面にぶっつけてくると、真剣に真理を求めX17ガ
ソ
ジ
ー
と
世
界
平
和
の
祈
り
る人々は懊悩苦悩して、病死したり、自己にあいそをつかして、かえって堕落したり、もっと真剣
度の薄い人々は、偽善的な行為に自己の生活をごまかして生きてゆくようになりますし、一般大衆
は、そうした道とは全く反対な生き方に走ってゆくでありましょう。
戒律の厳しい宗教の人たちには、得てして、偽善者が多くあるもので、真剣な求道者を、反対な
道に追いやってゆくむきがかなりあるのです。
118
法然親鸞が開いた念仏門
真理の道は、いくら高く掲げてもよいのですが、その道があまり厳しい戒律や、凡人ではできそ
うもない教えの枠に入れてしまっていると、真理の道から最も遠い、偽善という、人をいつわり、
自己をいつわる想念行為に走りやすいのです。
私は常にそれを恐れるのであります。法然、親鸞も、それを恐れ、易行道浄土門を開かれたので
あります。
偽善は偽善を積み重ねます。自分の力で神を知ろう、神と一つになろうという想い、真理の道を
突き進もうということは、よほど秀れた素質の人でないと非常に無理であって、どこかで、自己を
ごまかして、見神をしたとか、私は真理の道を誤またず歩いている、というように、人にみせた
り、話したりしがちになるのです。
いつも申すのですが、法然や親鸞のように、生命をまとに修業し勉学をした素質優秀なる人たち
が、真剣な修業勉学の後に、肉体人間としての自己がある以上は、絶対に悟りの道にも安心立命の
道にも入り得るものではない、まして人を導いてゆけるものではない、という悟りに達し、絶対他
ひようぼう
力を標榜する浄土門を開いたのであります。
絶対他力と申すのは、どういうことかといいますと、自己の心のなかにある悪い想い、つま倒憎
悪や妬心や怒りや、欲望などの業想念を、自分の力でどうしようとしても、なかなかどうしようも
ないものだから、そうした想念を、自分でどうしようと思うようなことをせず、そうした想念をつ
けたままでよいから、南無阿弥陀仏の念仏と一緒に、阿弥陀仏(神) のなかにすべての想念を飛込
ませてしまいなさい、というのであります。
自分で修業し精進することは、勿論よいことなのですが、生半かの修業や精進では真理(神)が
わかるわけがない。いいかえれば、神仏と自己とを二つに分けて、自己が修業精進して、神仏まで
昇ってゆくのは、とても大変なことであって、自分たち(法然や親鸞) でもできなかったのだか
U9ガソジーと世界平和の祈り
ら、神仏と人間の想念行為との二つに分けていたものを、人間のほうを、ひとたび罪悪深重の凡夫
として捨てきってしまって、神仏のなかにだけ自分を住まわせていれば、いつか自分と神仏とが一
つになってくるのだから、他の事柄に心を奪われず、日常茶飯事の間にでも、念仏唱名しているこ
とがよいのだ、すべての行為はそうした念仏唱名のなかから生れてくるのであり、念仏唱名のなか
から生れてきた行為こそ、すべて神仏が自己となって行なっている行為である、ということなので
あります。
120
消えてゆく姿で世界平和の祈り
私の教えは、この浄土門の教えを、法華経と一つに結んだ教えなのです。ですから、むずかしい
修業や、精進をすすめず、日常生活の凡夫の姿のままで、いつの間にか、内部の神性仏性を、外面
生活に現わせるようにしているのであります。
それが世界平和の祈りと、消えてゆく姿という教えなのであります。そしてこの世界平和の祈り
と、消えてゆく姿という教えのできた根本原理は、人間は本来神仏そのものであるのだから、病ん
だり苦しんだり、争ったり迷ったり妬んだり恨んだり、怒ったり嘆いたりするような想念は、本来
は神仏であるべき人間の姿ではない、という法華経の実相論によるのであります。
しかし、この現象世界の現在の人々は、悪や不幸と見える世界を実在と見て、嘆き苦しんでいる
のであるから、人間には悪や不幸はないんだ、といってみたり、実相の人間には悪はないのだから
どんな人をも悪とみてはいけない、といったり、人間は本来性において同一生命なのだから、他人
をも自己と同一として見よ、とはじめから説いてみても、真実のことがなかなかわかろうはずがあ
りません。
そこで私は、すべての悪や不幸や病気と見ゆる、すべての業因縁は、本来神仏である、あるいは
神の分霊である人間の、本来性が、この世に現われるために、その神性、仏性を蔽うている不要
なるもの、闇が神仏の光に照らされて今消え去ってゆく姿である。だから、いかなる悪や不幸が自
己の前に現われてきても、どのように自己に不利な事件がでてきても常にその業想念(因縁) を消
し去るために光を送っていてくださる、守護の神霊のほうに感謝の祈りさえしていれば、おのずか
ら、自己の明るい世界が開けてくるのだ、と説いているのであります。
要するに、人間の世界を、神だけの住いにしてしまうのが、私の目的なのでありますが、神だけ
にするには、他のことから自然に神だけに想念をむけかえさせなければなりません。神は絶対力で
121ガンジーと世界平和の祈り
あり、完全円満なる存在であることはまちがいありません。神はすべての光明であり、そのなかに
闇のあるわけがありません。
神のなかに不完全を見ようとし、大光明のなかに闇を見出そうとする人は、見出そうとする想い
の深さだけ不幸なのであります。万物は神に創られたるものであり、人間は神そのものの分霊であ
るのですのに、普通の人々にはそれがわからなくなってきていて、人間世界のなかの悪や不幸と見
えるものを実在として掴んで放さないのであります。
ですから、大上段に、真理はこのようにしなければつかめない、とか、人間世界に悪や不幸はな
いのだ、と一喝しても、その時は一時そう思って、その通りに行なおうとしても、すぐまた、業想
念がかぶってきて、善悪混清、神と悪魔合体の人間になり下ってしまうのですQ
想いの習慣というものは恐ろしいもので、人間生活は善悪混濡のもの、不幸や病気はつきもので
あり、いつどんな災難があるかわからぬものである等々と考える習慣が、永い過去世から心にしみ
てついているので、頭で、これはとてもよいお話だ、全く真理の話だ、と思っても、それを実行す
る段になると、なかなかつづけてやるには、昔からの業の習慣が邪魔をして、実行しつづけられぬ
ものなのです。もし実行できるものでしたら、現今までに世界各国に聖者賢者がたくさんでている
122
のですから、もっともっと立派な世界になっていなければならぬはずです。それができなかったの
は、教えのどこかに足りないところがあったか、時代が全人類救われの時期に立至っていなかった
かの二つでありましょう。
私は時期が到来しなかったので、聖者賢者の真実の教えが、一般人に知られなかったり、わから
なかったりしたのだと思います。
真理の探求と世界平和の祈リ
ところが現代こそ、もう一歩も待ったなしの末法の世といわれる時代になってきているので、こ
こで真実の教えをつかみ、真理の行いを人類が行じないとするならば、地球世界は滅び去ってゆく
必然性をもってきたのであります。
それは、肉体人間の力では、この地球世界を滅亡の方向に押しやるだけで、決して救われの道に
むかわせはしない、という事実です。
今日こそ、その事実を、眼かくしなしに、はっきりと人類がみつめなければならないのです。
今こそ、神の外面的救済力として働いている、守護の神霊、救世の大光明の力にすがらなければ
123ガソジーと世界平和の祈り
自力の悟りの修業などでは、もうとても追いつけぬほど、切迫した時期になってきているのであり
ます。
そこに、世界平和の祈りという、神からの祈りの方法が、南無阿弥陀仏にかわって唱えるべく伝
達されてきたのであります。
世界平和の祈りこそ、この地球世界を救うやさしい、しかも最大の方法であると私は確信してい
るのであります。世界平和の祈りをしていれば、祈っている当人は勿論、その周囲も自然と光明化
してゆく、ということは、今日までたくさんの実証が現われてきているのであります。
理論や理屈をいっている間に、この地球世界は一瞬一瞬滅亡のほうに押しやられていることを、
あなた方の眼で耳で、はっきり把えてみることです。
理論や理屈はもういらない。ただ、ひたすら自己の想念を神の救済の光明のなかに投入しつづけ
ることだけが、われらに残された唯一のなすべきことであるのです。
の
それが世界平和の祈りなのです。祈りとは神の生命をこの地上界に宣り出すことです。自己の我
欲の想いをかなえてもらおうと思ってやるのは念力であって、真の祈りではありません。
病気も不幸も貧乏も、怒りも恨みも妬みも嘆きも、そんな想いも、そのままみんな、神様のなか129
に投げ入れてしまうのです。神様の大光明のなかで、すっかり浄化していただいて、光明として再
び自分のもとにかえしてもらうのです。
世界平和の祈りは、自己と世界人類とを、全く一つのものとしての祈りなのであって、大乗的、
菩薩的祈願なのであります。
この祈りのなかには、守護の神霊の光明が、寄り集って輝きわたっているので、いかなる不幸も
災難も除きうる力があることを知ってください。
世界人類が救われること、それは自分が救われることと全く一つのことであり、自分が真実に安
心立命の境地になること、それは世界人類の平和に直接働きかける大きな力となるのであることも
改めて信じてください。
数多の守護の神霊が、世界平和の祈りをしているあなた方の背後上方で、光明に輝いている姿を
今にあなた方も、はっきり肉眼で見る日がくるでありましょう。
125ガソジーと世界平和の祈り
12G
生きている宗教、死んでいる宗教
神秘性の探求
この世のなかには不思議なことばかりで、どんな事物を取りあげてみても、不思議でないものは
ありません。取りわけ最も不思議だと思うことは、こうして人間がいつの間にか生れて生きている
ということです。
この人間の生命というものが、一体どこからきて、どうしてこう自然と働いているのか、宇宙と
いうものが知らない間にできていて、個人だの国家だの民族だの、人類世界だのというものが自然
にできてきて、こりゃまあ、一体どういうことなのだろう、と誰れしも不思議がらないではいられ
ないだろう、と思ってみると、案外そうではない。そんな不思議さを漠然と感じたのは、少年少女
の頃だけであって、成人してしまってから、そうした不思議には、一切不感症になってしまってい
る人たちが、意外なほど多いのであります。
手品使いがどんな不思議なような手品をつかっても、それは種があることで、知ろうと思えば必
ずわかることなのですが、宇宙大自然の神秘、生命の不可思議さというものは、人間がどのように
して知ろうとしても、その全体を知ることはとうていできない。その科学体験や、宗教体験によっ
て、神秘のいくらかつつは人類が知ってきてはいるけれども、それは宇宙大自然のほんの一部つつ
であって、全体からみたら、知ったというにも値しないほどであるかも知れない。それは人間自身
に一番身近かである自分自身の生命というものの実体が、まるでわかっていないということで、そ
の知ったという範囲のわずかであることが知られるのです。
この神秘性、不可思議さを、現われている面から追求し探究してゆくのが科学であり、内面的に
心のなかに入っていって、この神秘性を追い求めるのが宗教であるのです。ですから科学も宗教も
ともに宇宙大自然の実体、いいかえれば神の実体を知ろうとしての働きであって、その行き方が相
違しているというにすぎないのです。
127生きている宗教,死んでいる宗教
128
自我欲望を満足させる宗教
人間の生き方のうちで、一番進歩のない生き方は、おざなりな、投げやりな生き方です。なにご
とにもいいかげんな、その場その場をごまかしてゆく生き方です。宇宙の神秘や生命の不可思議さ
などには想いをはせらすこともなく、物質生活にこびりついた、なんら精神的に求めるもののない
怠惰な生き方ほど、人間という者の進化を遅らせる生き方はありません。
どんな悲惨な、みじめな環境にあっても、精神的な求めるものをもっている人たちは、いつか
は、その悲惨なみじめな環境を超え得ることができるのですが、怠惰な投げやりな生き方をつづけ
ている人たちほど、人間の完全性をみずからはなしてゆく者はないのです。
「求めよさらば与えられん」とはキリストの言葉ですが、実に求める者にのみ与えられるのは事
実なのであります。しかし、このキリストの言葉は、精神的な希求をいっているのであって、物質
的な求めをいっているわけではありません。近頃の精神的科学的宗教の言葉にも「思う通りになる
世界」という言葉があります。これも真理の言葉です。だがこの言葉には、いささかの危険性が伴
なうのです。それはどういうわけかと申しますと、確かにこの世界は思う通りになる世界であり、
自分たちの環境は自分たちの想念行為によってつくりあげたものであるのですが、これは過去世か
らの想念行為というものが大きく作用して、それに加えた今生の想念行為ということになるので、
これを現在の想念の持ち方で自分の環境がすぐさまにも変ってくるものと思いがちになったり、思
う通りになるというので、物質的欲望の念力になってしまったりするのです。また、その逆に、一
度思ったことは必ず実現するものと、恐怖の念を抱いてしまって、かえって自分の想念に自分みず
からを縛りつけてしまったりしている人たちもあるのです。
「求めよさらば与えられん」という言葉には物質的な匂いはあまり感じられませんが、「思う通
りになる世界」という言葉には物質的なものも大分に含まっている感じがいたしますし、実際にそ
ういう意図でいわれている言葉でもあるのです。
宗教の言葉というものには、やはり物質的なものが含まれていないほうが本物だと思いますし、
真実に神だけを求めていたら、その人に必要な物質的環境は必ず与えられるものであることは、私
自身をはじめ、多くの人々の体験しているところであります。
投げやりな、おざなりな、怠惰な人よりは、物質面にでも真剣に求めている人のほうが、真実の
人間を見出す道に入るチャソスを多くもっているわけですからよいのですが、といって、そうした
129生きている宗教死んでいる宗教
物質面の、あるいは業想念の権力欲望を満足させるための宗教などというものがあるわけのもので
もないのです。ところが実際には、そうした宗教が現代の宗教としては、かなりの勢力をもって宗
教の座をしめているのですから、妙なものです。
宗教の根本
宗教の根本は、やはりなんといっても、宇宙大自然の神秘性、人間生命の本質というものの直接
把握、いいかえれば神我一体、神人合一の境地に入ることが、その目的であって、その他の事柄は
すべて枝葉末節的なことであるのです。ですからそこに主体性を置かない宗教というものは、いつ
かはその存在価値が失われてゆくということになります。しかし実際社会の問題としては、神我一
体や神人合一の問題よりも、自己の目前の環境の打開ということが最も重要な目的であるらしく、
まずその目的達成のための宗教入りということになってくるので、そうした願望を受け入れる宗教
団体というものが発展してゆく傾向にあるのも、自然のなり行きということになっているようで
す。
こうした行き方は、科学面の場合は外面的の現われの面からの探究なので、科学面の進歩と現象
130
面の向上とがマッチ(合) してゆくのですが、宗教面の場合は、外面的環境の打開と精神面との進
化とが必ずしもマッチするとは限らないのです。たとえばある新興宗教に入って、商売が繁盛して
きたという人が、その繁盛と正比例した霊性の開発ができているかというと、そうでない場合が多
いのです。科学面から得る現象利益は、はじめから霊性の開発ということとは関係なくはじめられ
たものですが、宗教面から得るものは、霊性開発というものが主であって、それに伴なった現象利
益ということにならねばならないのですが、現在の新興宗教の在り方は、この逆をいっていて、し
かも、現象利益だけで止まってしまって、霊性開発という主目的にまで手がとどいていない感じが
するのです。
死んでいる宗教
ところがこれとは全く正反対なのが、既成といわれている宗教の在り方なのです。ラジオやテレ
ビ、あるいは新聞紙上においての僧侶や牧師や神官などの宗教の話は、大方の人の話が宗教として
は本筋の話をしていながら、一つも聴く人や読んでいる人の心を打ってこないのです。話がまるで
死んでいるのです。「ああそうですか、さようなら」という程度で、その人についてゆけば悟れそ131生
き
て
い
る
宗
教
,
死
ん
で
い
る
宗
教
うだなどという感じを人に抱かせる霊的な迫力がまるでないのです。ああこれでは一般大衆が現世
利益のある新興宗教に走ってしまうのは無理もないと思えてしまうのであります。
話している事柄が宗教の本道をゆくものであるのに、なぜ人の心を打たないのでしょうか、それ
はたんにいいなれた言葉を、声にだしてしゃべっていたり、筆にしたりしているだけで、神仏と一
っになった光のひびきとして発せられていないからなのです。神仏の話をしながら、神仏と一つに
つながっていない心の状態で話しているのでは、誰れの心を打つわけもありません。
たとえ間違った道をゆく新興宗教の人の話でも、その人がその道が正しいのだと信じきって、そ
の道に入りこんで話していると、それはそれなりに、その人たち程度の人々の心を打つものがでて
きて、信者を獲得してゆくのですが、神仏のなかにも入りこんでいない、俗界の現象利益の面から
もはなれている、というような在り方の宗教者の法話などでは、とても、この乱れきった世のなか
を立て直してゆくことはできるはずのものではありません。
宗祖とか名僧といわれた人たちは、神仏のみ心にすっかり入りこんで、神仏の器として道を説き
道をひろめたのでありますから、おのずから権威も備わり迫力もあり、神秘な力を身にもっていた
のでありますが、近頃の人たちは、形や、声にでる言葉や、文章などだけで道を説こうとしてい
132
て、心の底から盗れでてくる神仏の光明のひびきで道を説くことができなくなってしまっているの
です。
それはどうしてかといいますと、今日までにできあがってきた形式とか格式とか、種々の形の上
での定まりとか、一定の地盤の上にあぐらをかいた布教態度とか、とにかく、自己の身心の自由を
みずから縛ってしまった、宗教という形の世界の縄目のなかでの動きになってしまっているから、
自由自在な神仏との交流、天地を貫く生命の躍動などということを実観することが、とてもできな
くなっているのでしょう。それが既成といわれる宗教の一大欠陥なのです。
宗祖の心から遠くはなれた教団
真宗などをごらんください。宗祖親鸞は、せっかく盛えてきた寺を捨て去って、道を求める自由
な道に老年に近くなってからでていったのは、物質の豊かさ自由さのなかに、自己の真の自由を縛
られたくはなかったからです。自己を縛るなにものがあっても、神仏の道からはなれてしまう、と
親鸞は思ったからなのです。自由な立場に立って、常に神仏との交流をはかりたかったのが、親鸞
の本心であったのです。そうした宗祖をもった真宗が、二大本願寺という大建造物のなかに、貴族133生
き
て
い
る
宗
教
,
死
ん
で
い
る
宗
教
的な日常生活を営みながら、一般民衆を高みから見下しながらの布教活動をしている、ということ
は、宗祖親鸞の痛恨事であるとともに、既成宗教滅亡の一役を買っている馬鹿げたことでもあるの
です。
法然、親鸞のように民衆とともにみ仏のなかに生活していた人の喬が、民衆をはなれた宗教貴族
的な立場にみずからを置いているという事実は、そのまま既成宗教の在り方の誤りを証明している
ようで、なんとも気持の悪いものであります。
どうも宗教団体も大きくなり過ぎると、心の世界から形の世界、形式の世界に焦点がうつってき
て、次第に真理が形のなかに、形式のなかに閉じこめられて、自由に身動きのできない状態になっ
てしまうものです。天理教々団などもその例に漏れないもので、いずれの大教団も教祖、宗祖の心
を痛めているのが、私にははっきりわかります。せっかくの真理の教えが、教団という殿堂を通る
と、すっかり汚れてしまって、神のみ心からはなれた唯物論にも劣ったような状態になってしまう
のです。こういう宗教の在り方を「死んでいる宗教」というのです。
教主や教団の幹部たちだけが、保証された恵まれた経済生活に身を置いていると、信者たちの困
窮した生活状態を思いやる、思いやりの心が失せてしまって、ただたんに、教祖の示した真理の言
134
葉だけを、口にして、こうした心にならぬから、お前たちの生活がひらかぬのだ、と高いところか
ら教えを垂れる、という習慣になってしまって、信者と心を一つにして、ともに泣き、ともに喜ぶ
という、生きた心の交流がなくなってしまうのです。
信者は毎月種々とお金を取られ、その上、なにかと、心の足りないところのお小言を食い、その
お小言の言葉にひっかかって、われとわが心を責めさいなみ、小さな小さな、しぼみきった心にな
って、窮々とした日常生活を送っている、という信仰者の姿を、私は随所に見出して、これは困っ
たことだ、といつも思っているのです。
真理は人間を自由自在にする
じゆうげだつ
宗教生活とは、自分の生命の力を自由に発揮できる生活でなければなりません。自由解脱という
言葉は、宗教の言葉としてあるのです。人間の身心を自由解脱に導くのが、宗教の道なのでありま
すのに、この道に沿った宗教団体がどれほどあるでありましょうか。人間の身心を自由解脱せしめ
る宗教の集いが、かえって、なんらかの形で、その信仰者たちを縛ってしまうようであったら、そ
の宗教の価値は全く失せてしまうではありませんか。それでは宗教の教えが死んでしまうのです。
135生きている宗教,死んでいる宗教
宗教の道というものに、人間を縛るものがあってはなりません。社会生活のさまざまな規定や、
法律的拘束のなかにあって、しかも自由自在に人間の身心を生かし得る道こそが、この地上界を神
の国にする宗教の道であるのです。この地上界のさまざまな拘束のなかにあって、しかもまた宗教
的な身心の拘束があるような、そんな馬鹿げたものが宗教生活なら、宗教などないほうがよほど、
人間が気らくで、のびのびとします。
今日までの宗教の在り方が、自由解脱を看板にしながら、形式の世界から自由になり得なかった
ところに、知識階級の多くが、宗教に背をむけていったいわれがあると思われます。
人間の生命というものは、全く大自然と一つのものなのです。イエスが「山も動けといったら動
くのだ」といっていますが、全く真実の人間の言葉で、そういえば、自然は人間のいう通りになる
のです。人間が勝手に自己の生命を小さく小さく縛ってしまって、自縄自縛してしまったことが、
現在の小さな人間となってきた理由でもあるのです。
しかし、こういう人間に一度はなりきることも、この地球界という物質世界に、霊的人間が物質
はなひら
人間として住みつき、現在の地上文明文化の華を展くためには必要であったので、止むを得ないこ
となのでしょう。だボ今日では、もうそういう物質人間の限界に到達してしまったのです。人間本
乳36
来の生命の自由性ということが、機械文明の窮極になってきて、急速に現われはじめてきたのです
が、その自由というものが、現在ではまだ欲望の自由性とはき違えられているのですが、実はその
人たちの意識しない底には、生命の自由性発揮という、真実の願望がかくされているのでありま
す。
宗教指導者が、神仏という背景をもって、自分たちの権力の座を守ろうとしている愚かしさは、
わら
実に曝うべきことであって、宗教指導者のすべてが、各宗祖の心に帰えらねばならぬ時期が、現在
はいよいよ差し迫ってきているのです。もしその人々が現在のような宗祖の心をはなれた宗教の座
に恋々としている時は、その人たちのあの世への転移は惨憺たる地獄絵を画きだすでありましょ
うo
宗教の道を死の座に置いてはならない。私はそのために世界平和の祈りの宣布を一心かけてやっ
ているのであります。
神と人間をつなぐ道
神と人間とのつながりは、哲学書が説いているようなむずかしいものでもなければ、種々さまざ
137生きている宗教,死んでいる宗教
まな形式をへなければ得られぬというような面倒なものでもありません。ただひたすら神のほうに
自己の想念をむけておればよいのであります。素直な素朴な気持で「神様」と思っている、その想
いが大事なのです。
神様、神様、神様、有難うございます。有難うございます。有難うございます。というような素
朴な感謝の気持で日常生活を送ってゆくこと、それが宗教信仰なのであります。そして、神のみ心
である、愛と真の行いをその生活に現わしつづけてゆくことが、宗教生活なのです。さきほども思
う通りになる世界ということを申しましたが、全く人間の世界は思う通りになる世界なのです。こ
れは真理なのです。しかし、人間の想いというものは、自分勝手なものですから、どんな自分勝手
なことを思うかわかりません。お互いが自分勝手なことを思い合って、それが全部思う通りになる
としたら、一体どうなるでしょうか。神のみ心の愛と平和の世界がひらけてくるでしょうか。誰れ
しも否といわざるを得ません。ところが実際には、そのようになって、現在の不安混迷した人類世
界になってしまっているのです。
どういうふうにそうなってしまったかといいますと、個人も国家民族も、お互いの都合のよい想
念でことを処していたので、利害が相反する場合には、その想念が種々とぶつかり合い、反擾し合
138
って、想いの世界の波をすっかり乱してしまい、今日のような争いに満ちた人類世界にしてしまっ
たのであります。ですから人間の自分勝手な想いの通りの、不調和な状態がこの世界に現出してい
るのは、思う通りになる世界という言葉の通りなのです。
こう考えてまいりますと、人間が神のみ心をはなれたお互いの都合による思う通りになる世界を
つくったのでは、人類世界はついには滅亡してしまいます◎ そこで、思う通りになる世界とか、信
念の魔術とかいう、精神科学的な教えで、それがあたかも新しい宗教の道であるかのような宣伝を
宗教者がしていたとするならば、これはやはり神のみ心にかなった方法とはいいがたいのでありま
す。
そうした教えは、神と人間をつなぐ道ではなくして、人間の業想念世界の成功不成功に、人の想
いを止めて置くような仕儀になってしまいます。
神様のみ心のなかに入る
そこで私は、思う通りになる、という真理を活用して、神様のみ心のなかに、自己のすべての想
念を投入してしまって、神様のみ心の通りが自己に現われてくるようにする方法を実行しはじめた139生
き
て
い
る
宗
教
,
死
ん
で
い
る
宗
教
のです。この方法は、自分で何やかと思ってみたり、思案してみたりしないで、そうした想念も、如
1
思案もすべて神様のみ心に任せてしまう、ということなのであります。
思う通りになると申しますのは、そのままでは宗教の世界の教えではなく、業想念の三界の世、界,
の教えですから、その思う通りを神のみ心の通りにとまでしてゆかなければ、神の世界、宇宙大自
然の神秘な世界のなかに入ってゆくことはできないのです。業想念にわずらわされぬ人間生命の素
直な、完全な生き方をするためには、どうしても、一度は素直に神のみ心のなかに入りきらなけれ
ばだめなのです。
私のいう世界平和の祈りは、こうした原理から出発しているのです。すべての業想念は消えてゆ
く姿として、人間の勝手気ままな、思う通りになる世界を、全否定してしまって、その全否定の消
えてゆく姿を、世界平和の祈りという、祈り心のなかに全託してしまうことなのです。
神のみ心をはなれた人間の想念行為ほど、頼りのないものはありません。よほど立派な人でない
限り、自分や自分の愛情のつながりの人たちの利益を主にして考えるにきまっているのです。です
からそうした肉体人間想念をさらりと神様に全託してしまって、神様のほうから人類の全生活をい
ただきなおしたほうが智慧のある生き方なのです。神様とつながりきった人間が悪い環境をぬけだ
せぬはずがありません。私はその体験者なのですから間違いありません。しかし、神様に託せきる
にしても、神様を自分の心で把握することができにくいので、神様の大愛による人類救済の、世界
平和の祈りのなかに自己の全想念、全生活を全託してしまう生き方を私はすすめているのでありま
す。
自由で素朴な宗教
世界平和の祈りの生活には、自分が悪い、人が悪い、失敗だ、誤ちだ、という、そうした責め合
いというものが一切ないのです。責めることも裁くことも、天罰も神罰も、形式も儀式も、そうし
た一切のわずらわしさのない、自由な素朴な宗教生活なのです。
神様のなかから、今生れでた生命が、神の子そのままの生活を、なんの苦もなく、自由にいきい
きと営みうるのであります。自然にそうなるように、各個人の先祖の悟った霊である守護霊や、大
神様の分れである守護神方が、一つの大光明にまとまって、人類の業想念を一挙に消し去り、神の
み心を、この地球界に顕現しようとしているのが、世界平和の祈りなのでありますから、私ども肉
体人間のほうは、ただ、すみやかに、素直に、神の器となり場所となっていればよいので、よけい
141生きている宗教,死んでいる宗教
な小智才覚をめぐらして、ああでない、こうではいけないなどと思う必要はないのです◎ 412
仏教でいう空の状態を、守護霊、守護神によって、自然に現出してくれるのが、世界平和の祈り
くうそくぜしき
であって、空になった瞬間には、もう空即是色という、神界の働きが、そのままその個人の器を通
して、この地球世界に働きかけているのであります。
月に四回、市川で私は統】実修の会を行なっていますが、そこへ集った人々が、異口同音に、明
るい、快い、平和だ、光に充ちている等々と、世界平和の祈りによる統一の成果を述べています
が、肉体頭脳を蔽っている業想念が神々の大光明で浄められているのですから、心が平安になり、
快くなり、光り輝く世界に住んでいる感じがするのは、あたりまえの話なのです。
これはなにも統一実修会ばかりではなく、日常生活の種々相のなかでも、世界平和の祈りの成果
は同じことなので、嫌いな人々が、いつの間にか好意を示してきたり、家庭が平和になってきた
り、いつも明るい穏やかな気持でいられるようになったり、欲望が純化されてきたり、種々と、神
のみ心に近い生活状態が現われてきているのです。
なんの拘束もない宗教生活、自己の心のままに生活していながら、いつか知らず、業想念の自己
から、神の子の心になっている自己に生れかわっているのを発見して驚く人たちが、次々と現われ
てくる世界平和の祈りこそ、末法-にuお,ける、易行道最大の生きた宗教の道だと思うのでありま
す。
143生きている宗教,死んでいる宗教
149
美を求める
、
♂L・
美は生命の本質の現われ
人間は誰れでも、美しさを嫌うものはいない。常に美を求めていることは確かです。美を求める
心を本質的にもちながら、美からはなれた想念をだし、美とはおよそ縁遠い汚れた生活にうつもれ
ていたりするのです。
美の一番わかりやすい現われとしましては、美人という者があり、風光の美というものがありま
す。人間と生れて姿形の美しさを嫌う人はいません。美人は嫌いだ、などという人は、その美しい
姿形を嫌うのではなく、その美人がもっている高慢さとか、虚色とか、冷淡さとか、思いやりのな
さ、とかいう美の本質をはなれた心の状態を嫌うのであります。
姿形が美しくて、心の状態も美しかったら、これを好かない人はいないはずです。
美というものは、姿形に現われているものと、心の状態として現われているものとの二通りがあ
りまして、姿形だけの美ですと、はじめはひかれていますが、しだいに嫌気がさしてきたりしま
す。それはその人に心の美が欠けているからです。美人娠いの人というのはそういう心の美の欠け
た人を嫌うのでありましょう。
生命の本質がそのまま現われている状態をみると、人々はそれを美と感じます。生命の本質をゆ
しゆう
がめたり、蔽ったりしていますと、その部分を醜と感じます。絵画にしても音楽にしても、人間の
日常の行為にしても、生命の本質がはっきり現われていればいる程、その作品やその行為に人々は
美を感じて、これを讃嘆します。
生命の本質とはなにかと申しますと、調和ということなのであります。人間は常に生命の本質で
ある調和を求めつづけているのでありますが、その調和の実体を、自我(小我) と結びつけて考え
すぎますので、調和だと思い、美と思って求めたものが、意外と大きな全体の調和を破る不調和状
態であり、醜であったりするのです。
美といっても浅いものと深いものとがありますが、たとえ浅いものであっても、本質的な美につ
145美を求める心
ながっていればよいと思いますが、形だけの美にあきたらなくなった画家が、ことさらに醜い姿形
を画いて、超越的な絵画であると得々としていたり、小説家が、人間の醜悪な状態だけを書いて、
売れッ子になっていたりするのには、やりきれない気がします。
フランスの画家ルノワールは、豊満な女体を画くことで有名な人ですが「この世が汚くよごれて
いるのに、その上また、汚いものをえぐりだしたり掘り出したりする必要はない。私は美しいもの
だけを画きつづけてゆくのだ」といっていますが、確かに彼の画は、女体にしても、風景にして
まうなニ
も、生命の豊かな円やかな、輝きを画き出していて、人々の心を和ませ、楽しませます。
ルノワールのいうように、この世は嫌なことや汚れで一杯です。その上醜悪なことや、嫌らしい
ことを、わざわざ現わしてゆく必要はありません。宇宙の本質は大調和であり、人類の本質も調和
なものであるのです。ただ現在までは、まだ地球人類の本質が現われるための過程でありまして、
いわばトソネルの工事中のようなもので、本質の現われきらぬものを、人類の本質というように、
画かれてはかないません。
人間が真黒になって労働している姿形が美しいのではなく、仕事を完成させるために真剣に働い
ている、その精神の美が、その姿形を通して現われてくる、そういう生命の働きに人々は美を感じ
146
るのであります。それを汚れた姿形だけをきりはなして、それを画き出したとしても、それは醜で
あっても美ではありません。なんの働きもしないで、寝ころんでいる乞食が美であるわけがないの
も、そこに生命のいきいきとした現われがないからです。
たとえ、汚れた醜悪なものが表面に画がかれていても、その奥にその醜悪なものを浄め去る生命
の輝やきがあれば、その作品は生きてきますが、醜悪なものを書きっぱなしの作品は、それは芸術
というわけにはゆきません。要は大生命との調和ということが、美という現われになるのです。
それは個人の日常生活にしても、国家人類の在り方にしても、芸術作品の場合においても、同じ
ことがいえると思います。
悲惨な戦争画を画いても、人々に美を感じさせるのは、その作者の心に戦争を否定する想いがあ
り、画かれた戦死者たちの精神が国家に生命を捧げる、という崇高な犠牲精神がある、あるいは作
者の心にそれがあるからであります。また鑑賞するほうにそれがあるからだともいえます。
個人生活にしても、その人がいくら大きい邸宅に住み、いくら美々しく着飾っていたとしても、
社会とか国家とかの全体的生命の流れと融和していなければ、その個人の生活は美なる生活とはい
いわ
えません。なぜならば、多くの人々との違和感があるからです。147美
を
求
め
る
心
それが自然の美、風景の美となりますと、誰れがみても、美しい風景は美しいのです。ただ人に
よって、その美しさを深く感じる人と浅く感じる人とがあるのです。花を観て美しいと感じぬ人は
おりません。なぜ美しいと感じるかと申しますと、自然の生命がそのままそこに生きているからで
す。
148
心も美しい人は花にまさる
それは人間の幼児が愛らしく感じられるのと同じで、幼児には生命の輝やきを蔽い隠す業想念が
まだ現われていないからです。もし人間の美人が、心がそれに伴って美しいとしたら、花にもまし
て美しいことは確かでしょう。
女性が真実の美人になろうと思うならば、心を常に調和させておく必要があるのです。常に人々
の幸福を願い、柔和に温かな想いを常に抱いている、という心の状態でいれば、その人の雰囲気は
人々の心をひきつける、美しいものとなるのです。そこには生命の本質が現われているからです。
かこせ
姿形の美や貧富の差や才能などというものは、過去世の因縁によって、かなり定められていま
す。しかし、想いの持ち方というものは、自分自身でどうにでもなるのです。なるような力を神は
それぞれの人々に与えられているのです。
ですから、自分の心の持ち方、想念の在り方によって、自分の運命も、おのずと変えることがで
きるのです。真実の美を自己のものとしてゆく時、その人の運命はおのずから開いてゆくのであり
ます。
ちなみに、現在美人である人は、過去世において、柔和な調和した想念をもっていた人々の生れ
かわりでありますし、金持の家に生れたり、金運のついて巡っているような人は、過去世におい
て、人々のために金を生かして使った人であります。またある種のオ能に秀れて生れでたような人
は、やはり過去世において、その技術なり仕事なりに打ちこんで生きていた人なのであります。
そのように、今生の生れ性は、過去世の自己の在り方によって定められているのでありますが、
今生において、自己の非を常に改めて、神のみ心である愛と調和の方向に想念行為を常に向け変え
るようにしていれば、いつかは、運命が開いてゆくのであります。
日本の武士道美
国家や民族にしても、大生命の本質である、愛と美にそむかぬように働いていれば、自然とその
149美を求める心
国家や民族は栄えてゆくものなのですが、いずれも、自国家や自民族を優位な立場に置こうとし
て、他国の調和を破壊しようとお互いがし合うのです。こうした自民族自国家主義の想念の渦は、
実に汚れたきたないものでありまして、大生命の豊かな流れを、分断し、裂きちぎるような不調和
な醜悪な流れをつくってしまうのであります。
その結果は、人間同志が殺し合う戦争という状態になってしまいます。
ああいう悲惨な状態が美であるわけがありません。ああいう人間の苦悶の状態をつくりだすこと
こそ、神のみ心にそむくものであり、美を消し去ってしまうものです。ただ、ああいう悲惨な状態
のなかにあっても、国家民族を救うために我が身を投げだして死んでゆく、犠牲精神というか、自
我没却というか、そういう自己より大なるものに統一してゆく境地にある人々の精神は、神のみ心
にかなった美の精神というべきなのです。宗教精神の一つの現われともいうべきなのです。
ですから、戦争そのものは罪悪であっても、真に国家に殉じて戦火に倒れた人々は、やはり勇士
というべきであり、生命を生かしきった美しい精神の持ち主であったといえるのであります。
ここのところの考えが実にむずかしいところでありまして、国家の危急存亡の時に、俺は生命が
大事だから、といって、国家の危機を外にして外国に逃げだしてしまうような人があったら、その150
人を人々は立派な人とはいわぬことでしょう。肉体の生を終る時には、いさぎよく、運命に殉ず
る、ということも、一つの美しい生き方なのです。
日本の武士道が美しいひびきを残しているのも、このいさぎよさ、というものにあるのです。明
治維新の時に、日本全体のためという大きな気持で、幕臣が天朝の側についたのは、これは立派な
ことでありますが、自己の安泰、自藩の安穏のために、急に寝がえりを打って勤王方についたよう
な人々に、私たちは美しいものも、立派なものも感じないのです。
どこにそういう感じ方がなされるかといいますと、その人々が肉体人間の安否のみを気づかう心
境にあるか、永遠の生命を生かす側の心境にあるかによって、その美醜の感じ方が相違してくるの
です。
至高の美を現わす
美の根拠も、善の根拠も、すべて、大生命のひびきにつながっているものであって、大生命(神)
のひびきからはなれた、肉体人間としての想念行為には、人間は美も感じなければ、善も感じない
のです。
151美を求める心
人間は自分で気づこうと気づくまいと、常に神(大生命) にしっかりつながっていたいと思い、
その道を求めているのですが、肉体保存の本能に邪魔されて、肉体界、物質界の波動圏のなかだけ
の幸福を求めて生活してしまうようになってしまうのです。
神にしっかりつながっている人は、肉体の生死にあまり把われてはおりませんし、肉体の環境だ
けを美しいもの華美なものにしようなどとは思いません。ただ、神のみ心をこの世において現わし
たい、と思うだけです。
神のみ心が真直ぐに現われれば、それは美となり、愛の行為ともなるのでありまして、永遠の生
すがた
命の調和した相がそこに現われるのであります。億万の金をかけた庭園にしても、大自然の山水の
風景にはその美において、雄大さにおいてかなうはずがありません。
常に神のみ心のなかにおり、大自然の風光に同化したような心境にある人は、この世の財宝を多
くを持っている人よりも、はるかに豊かに美しい心で日々を過しておられるわけです。
しかし、なかなかそこまでゆきつく人はいないので、少しずつでもよい、神のみ心を自己のもめ
として、愛の行為、美の行為をなしつづけてゆこう、と努力してゆくことこそ大事なのです。神の
み心に同化してゆく方法、それが祈りなのであります。
152
祈り心で神のみ心と同化してゆく、そして自己の生活の根本には、世界人類の平和を祈願する想
いがあり、人々の平和を願う想いが常にある、ということが善いのです。そうした生き方が自然に
できるようにと、私は世界平和の祈りの生き方を説きつづけているのであります。
この世に生活していますと、どうしても、肉体の生活を守ろうとする欲望が起ります。
この肉体の生活が安泰でありますように、一家が無事にすごせますように、と誰れしもが想いま
す。これは当然なことでありまして、誰れもそんなことはいけない、などとは申せません。私はそ
の想いをそのままの状態で知らないうちに、高い次元の世界のひびきに同化させてしまうことを考
えたのです。
それが、消えてゆく姿で、世界平和の祈りの教えなのであります。人間というものは、真実は、
神の子であって、智慧も富も能力も、自然と備わっているものなのだが、過去世からの神のみ心を
離れていた想念の波で、神のそうした完全性をはばまれてしまっているのだから、今起ってくるす
おもい
べての想念も、不幸も災難も、みな過去世の誤っていた想念行為の波の消えてゆく姿と思って、た
だひたすら世界平和の祈りをなさい。
世界平和の祈りというのは、元来神のみ心は大調和のひびきなので、人類の平和ということもそ
153美を求める心
のみ心のなかにあるのだ、だから、神のみ心と一つになって、自己も完全円満な人になりたいなら
ば、神のみ心の大調和のひびき、平和のひびきと一つの想いになることが必要なのだ、世界平和の
祈りというのは、全く、神のみ心と一つの祈りなのだから、世界人類が平和でありますようにと、
祈りのスイッチをひねれば、おのずと神のみ心と一つになる道がそこに開かれてゆくのだ、と教え
ているわけで、真宗の南無阿弥陀仏を現代調にし、法華経の真理をやさしくしたのと、同じなので
あります。
154
うま
美 し国日本を思う
先日も投書で大学生らしき人から、祈りなどしたところで何になる、現在は軍備拡充の時代で、
日本も軍備を拡張しなければ滅びてしまう、しかし自分は、核装備だけは好まない、という意味の
ことをいってきておりましたが、こういう考えは前世紀の考え方でありまして、昔なら、国家を守
るための軍備がなければ攻められてしまうし、軍備が強ければ国は強大になる、ということもあっ
たわけですが、現代はもうすでに核爆弾ができておりまして、戦争がはじまれば、世界は核爆弾で
破滅してしまうことは必然なのであります。もう局地戦争の時代ではないのです。一方の悪を滅ぼ
して、一方の善が残る、という考え方はもう現在の世界の状態からは考えられないことです。現に
米国でも、もしソ連が先に攻めてくれば、米国の運命も危い、というようなことをいっておりま
す。共倒れになる可能性充分なのです。米ソが共倒れということは、両派に分れた各国、すべて倒
れてしまうという状態になってしまうわけです。
人によると、核爆弾を使えば、最後だということを各国とも知っておるから、核爆弾は使えず
に、やはり昔のような兵器で戦うようになる、だから軍拡は必要なのだ、といっている人もおりま
すが、それはその人がそう思うだけでありまして、人間の精神状態というものは、いざ国家の危
機、自己の破滅という時になると、精神状態が狂ってまいりまして、限度を超えてしまうことがず
いぶんとあるものでして、せっかく巨額を費して作ってある原水爆の装備を最後まで使わずに、し
まっておくなどということは、とてもできる相談ではありません。
現在の米国の政治政策の在り方をみても、中共の状態をみても、頭の確かな人間のやっているこ
ととはとても思われない、自分よがりのやり方が随所に見受けられます。この状態はまだ本格的な
戦争状態でない、今日でもそうなのです。まして、本格的な大戦争になって、一番威力のある兵器
をしまったままで使わぬなどということはとうてい考えられません。155美
を
求
め
る
心
日本がもし、軍隊を公然とつくり、軍備拡充ということになれば、核装備をしないわけにはゆか
なくなります。なぜならば、核装備のない軍拡などは、敵側にとってたいした脅威ではないからで
す。
日本が敵国をはっきり定めて、軍拡をした場合、その敵国と目ざされた国は、日本敵視の想いを
烈しく燃やし、脅威を感ずるどころか、敵意に燃えて、日本攻撃の隙を覗うことでしょう。(私は
別に現在の自衛隊を否定しているわけではありません)共産国というのは、手薄なところを狙って
くるので、こちらが軍備を強固にしておけば、狙ってはこぬ、という人もありますが、そういう時
期は、あちらさんに心の余裕のある時の話で、四方から狙われて、このままでは自滅してしまうと
いう、かつて第二次大戦の時の日本のような状態に追いこまれている時であったら、当って砕けろ
式で、まず手近かな日本を捨身で攻めてくることは、当然考えられることです。
それから一番大事なことは、日本人の大半が戦争を極端に恐れていることです。たとえ軍備が拡
充されても、こんなに戦争を恐れ、国を守る意識に欠けている国民感情では、とても軍備に使う費
用が無駄になるだけで戦争などできる状態ではありません。軍備を拡張するからには、戦争覚悟の
気持がなければだめなことはわかりきったことです。
156
どこからどう考えてみても、現在の日本において、本格的な軍備拡大などは無理なことです。投
書の学生の考えなど勿論甘くて話になりませんが、軍事専門家や、誤った日本主義の人たちも、も
っと深く深くこの地球全体の運命を考えてみなくてはいけないのです。
のつゑ
私はあくまで、日本は美し国であり、調和の中心の国であると信じます。日本から真実の調和が
生れでなくて、一体どこの国から調和の運動が行われるでしょう。
美を求める心は神を求める心
日本は大和の国であり、美しい精神の国でありますQ国民も大半は美を求め、調和を求めている
のですが、真の美がいつこにおいて、求められるかを知らないのです。快楽を美と勘違いしている
のは、若者ばかりではありません。美しいものを求める心が、形の世界や感覚の世界だけに美を求
めていたのでは、いつまでも真実の美はつかめません。形を超え、感覚を超えたところに、真実の
美が存在するのです。大生命(神) と小生命(人間) との一体観、小生命と小生命との交流等々、
生命の交流、調和によって生れてくるところの素直な感情のなかに、真実の美が生れてくるので
す。
157美を求める心
母親が乳呑児に乳を与えている姿には美があります。子が母をいたわっている姿も美しいもので
す。恋人同志でも、夫婦でも、友人でも、愛し合い、かばい合う姿もそのまま美です。大自然の風
光のなかに融けこんでいる人間や動物の姿も美しいものです。
天のひびきをそのまま伝えている音楽や、人間の真剣な生き方を表現した音楽、自然の風光や鳥
獣の生態を愛をもって現わしている音楽でも絵画でも美しいものです。
すべて人間の心のなかにある愛や調和のひびきがそのまま現わされていれば、その芸術にも、勾
間各自の日常生活にも、美が現われているのです。生命の交流のない、肉体的の欲望や、権力欲の
生活に美のあるはずがありません。
日本人の本質は、神代の昔から、生命そのままの生活が行なわれていて、大自然と同化した広い
大らかな、しかも純真な生き方をしていたのですが、各国の文明が取り入れられてから、この世
的、物質文明的進歩は非常なものでしたが、真実の意味の美が失われ、つくられた美が現われ出し
たのであります。
なんにしても、美とは調和したひびきの現われであり、生命の純一無雑の現われでもあるのです
から、美を求むる心は、真実は、神を求むる心と同じことになるのです。158
日本人がそうした純一な美意識に戻るためには、一度、雑然とした脳裡の想念感情を、大自然の
なかにとけこませてしまうように、神のみ心に投げ入れてしまうことが大切なのです。それは山や
海やそうした自然の大気のなかに入りこもうとするのもよいのですが、日常生活のなかで、大きな
広い心のなかに祈り心で自己を投げだしてゆくのもよいのです。私はそれを、世界人類が平和であ
りますように、という祈り言のなかに、自己を投げだしなさい、と説いているわけです。
性感覚をくすぐるようなジャズや、妖怪じみた絵画をよしとしたり、その場限りの快楽を美しい
と思ったりする感情から、自己をはなしてゆく練習をすることが必要です。そういう末梢神経を喜
ばすことは、真実の美の世界から人間を遠ざけてゆくものなのです。
何事にも、大生命の流れに同化してゆくことが必要で、この根本を忘れてしまうと、生命の根が
枯れて、人間は滅びてしまうのであります。
今日こそ、まさに、真実の美の探究がなされなければならない時であり、人間の真実の生き方を
はっきりと求めてゆかなければならない時なのです。世界は今や乱れに乱れております。思想は混
乱し、道は汚れつくして、地獄がそのまま現われているような、百鬼夜行とでもいう時です。しか
し、地獄がこの世にはっきり現われてきたことによって、その地獄を浄め去って、消滅させること
159美を求める心
ができるのでありまして、いよいよ神の国がこの地球界に近づいてきた、ともいえるのでありま
す。夜が深くなれば、暁が近いのでありまして、真深い闇黒の世界のすぐ近くに、光明燦然たる神
の世が近づいているのです。
私たちは、その光明世界の実現を一日でも早く、一人でも少い犠牲者によって、成就させてゆき
たいと、ひたすら世界平和の祈りを祈り、その宣布に真剣になっているのであります。
音楽の世界にも、絵画の世界にも、すべての現われのなかに、真実の美が現われますように、神
の大調和のみ心が、あらゆる運動のなかに現われでますように、過去世からの人類の誤った想念行
為が速やかに痛み少く消滅しますように、私たちは世界平和の祈りを祈りつづけ、宗教と芸術と科
学とすべての学問が神のみ心顕現という唯一無二の道に乗って発展してゆくことを、願わずにはい
られないのです。
160
宗教活動の本質
宗教の本質
宗教活動というものは、一体どのようなものなのか、宗教の本質とは一体なにか、ということ
を、別に深くも考えずに、各自各自の宗教団体でお互いの勢力を誇示し合いながら、活動している
人たちがたくさん存在するのですが、その人たちが真実の救われの道に入っているかというと、は
なはだ疑わしい場合がずいぶんとあります。
宗教の本質というものは、あくまで、神と人間との一体化を求めるものでありますし、神性(本
心)開発のための教えを実践することでありまして、ただたんに現世の利益のための働きではあり
ません。
161宗教活動の本質
ですから、最初のうちは現世利益追求のために入った宗教の道であっても、次第に現世利益を求
める想いをはなれて、本心開発という本道に乗ってゆかねばならぬのが、真実の宗教の道であるべ
きです。
これは小さくは個人のため、大きくは国家人類のためであっても、宗教の本道に変りのあろうは
ずがありません。個人の利益のために相手を傷つけるようなことはいけないのは、宗教といわなく
とも、人間の常識の道であります。
ところが、こういう常識的なことでも、こと国家民族の立場に立つと、この常識が一変してしま
いまして、相手の立場を思いやるという心のゆとりを失ってしまいまして、相手の立場がどうあろ
うとも、自国の有利にことを運んでゆこうというような動きになってしまいます。
個人の場合のなんでもないゆずり合いでも、国家間になると、なかなかできにくくなるらしく、
些細なことでもお互いがなかなかゆずり合おうとはいたしません。
宗教の本質からいけば、個人も人類もともに神のみ心そのままに生きてゆかねばならぬもので、
わけみたま
神のみ心のなかには、すべてはわが分霊魂、わが子として存在しているのでありますので、どの子
どの民族を特別に愛し、どの子どの民族を冷遇するというようなことはありません。162
すべて一つの生命の分生命として愛されているわけです。この事実ほ特に重大なことでありまし
て、このことを忘れ去ってしまったところから、人類のすべての不幸が生れてきているのでありま
す。
さけぺつ
個人が他の個人を蔑すみあなどることがいけないと同様に、一つの国家が他の国家や民族を蔑視
して、己れのみ優秀なりと思うのは神のみ心に反するわけで、そのことだけでも世界の調和を乱
し、世界平和達成をさまたげていることになります。
人類愛の行為が先行する
おこる
驕ものは必ず滅びているのは、歴史がなんたびとなく証明しています。自己の、あるいは自国の
正しさを認めるためには、自己や自国の行為が、いかに神のみ心にそうた人類愛にもとついた行為
であるか否やを、自己検討すべきであって、その場その時々の利害得失によってなされる行為であ
ってはならないのです。
ある個人あるいはある国家が、財的にも地位的にも優位な立場にあり、ある個人や国家が、不運
な立場にあるとするならば、それは神のみ心の愛の不平等ではなく、その個人や国家の過去世から163宗
教
活
動
の
本
質
の想念行為の徳、不徳のいたすところであって、過去世、つまり祖先たちを含めた自己や自国の積
徳が、現在の優位な立揚を生み、その不徳が現在の不遇な立場を生んでいるのでありまして、現在
だけの立揚をもってして、自己や自国を誇るものではありませんし、卑下するものでもありませ
ん。
しかし、事実は、現在の各自の力や、各国々の力の優劣が、その地位をはっきりと定めておりま
す。そこで、どうしても、優位な位置にいる個人や国家が、まず神のみ心の人類愛の心になって、
劣れる個人や国家の救済にあたらねばならぬことになります。
ところが、現在米国やソ連やその他の国家が行なっている後進国への援助は、常に大国自身の利
益というものを考えての援助であって、無心に無償で後進国に物品を与えているわけではないので
す。ですから、大国同志が常に、相手の隙を伺っては、自国の有利になるような援助のしかたをし
ているのでありまして、小国援助そのものが、もうすでに、大国家の権力争いの具となってしまっ
ているのであります。
こう考えてまいりますと、世界が真実の平和を創りだすためには、個人も国家もともに、神のみ
心そのものである、人類愛の行為をなににもまして先行させてゆかねばならないのでありまして、
164
自己や自国の利害は、すべてその人類愛の行為のなかに含ませてしまわねばならないのです。
真実の愛国心なども、そういう行為によるものでなければ、お互いの国民の愛国心がぶつかり合
って、やはり戦争ということになってしまうのです。正義も愛国心もすべての想念行為が、世界の
平和、世界の大調和というところに根底をおいて発揮されなければ、世界の対立は永劫に解消する
ことはないと思います。
こう書きつづっておりますけれど、そのような人類愛の行為が容易なことでできるものではない
ことを、私もよく承知しております。しかし、どうしてもそうした心が根底になった活動でなけれ
ば、ついには世界は滅びの道にいたってしまうことは明らかなことなのです。
個人の神性開発を促進させよう
国家としてできにくいことでも、個人としてはできることもあります。国家というものは個人が
多勢集ってできたものでありますから、個人個人が真実にしっかりした人類愛の持主であれば、い
かに国家が種々の業想念の渦に巻きこまれていても、それを浄め去って正しい生き方を遂行させる
ことができるはずです。ですから要は、国家という大きなものを直接動かそうとするより、個人個
ユ65宗教活動の本質
人の神性の開発を促進させてゆくほうが先きということになります。
個人の神性開発のためには、なんといってもやはり、真実の正しい宗教観を徹底させることにあ
ります。真実の宗教精神が確立してもいないのに、政治の面に躍りこんでゆくようなことは、宗教
の本質をゆがめてしまう行為であまり感心したことではありません。
宗教の本質は、生命の同一感、つまり、神と人間の生命の一体感、人間同志、人間と全生物との
一体感にあるのでありまして、人間同志の対立というところからは、宗教の本質は消え失せてしま
います。
そういう一体感の生れてきていない人々がみずから、対立抗争の政界に乗りこんでゆくことは、
宗教者として、神のみ心にそった行為とはいえません。
対立抗争を超えた世界をこの世に導き出すことが宗教者の天命でありますので、みずからがあえ
て対立抗争の波のなかに飛びこんでゆくことは、宗教者が対立抗争を認めることになり、たとえそ
の対立抗争に打ち勝ったとしても、対立抗争の根を消し去る助けにはならないのです。私は宗教者
が一切政治に口出ししてはならぬなどといおうとは思っていませんが、対立抗争の業想念の波をさ
らにかき廻わすような態度にでるべきではないと説くのであります。?
66
宗教者は常に、この世やあの世のすべての業想念波を浄め鎮めるための役目をもつものでありま
すので、汚れた波を右から左に、左から右にとかき廻わすだけでこと足りるものではないのです。
私はすべてを消えてゆく姿とみておりますので、消えてゆく姿を掴んでああだ、こうだと、論じ合
おうなどとは思っておりません。消えゆく姿は、いち早く、痛手すくなく消えさせしめ、といって
も消えてゆく姿の後に本心が開発されてゆくのでなければなんにもなりませんので、消えてゆく姿
で神性開発という意味を含めた、消えてゆく姿で世界平和の祈り、というように、消えてゆく姿の
業想念波を、世界平和の祈りという、人類愛の大光明波動のなかに入れきってしまうことを教えて
いるわけなのであります。
泥沼に入ってもがいている人を救うつもりで、自分も泥沼に入ってしまっては、自分もともども
沈んでいってしまいます。泥沼の人々を救うためには、泥沼でない確固とした地盤に立って、その
泥沼の人々を救いだせる力をつけておいて救いださなければなりません。私は真実の世界平和の働
きというものは、そういうものでなければならないと思います。真実の愛国心というのもそういう
ものなのであります。
167宗教活動の本質
泥沼にもがく世界諸国
168
地球世界の様相は全く、泥沼に入ってもがきつづけている、というところです。米国ソ連中共そ
れに英国仏国、こういった大国の、どの国一つを取りあげてみても、自国の権益を損ってまで世界
平和のために働こうという国はありません。みんな自国の権益が第一であって、他国のことは、次
の次というところです。日本も勿論その範躊をでてはおりません。
それはこの泥沼のなかに入りこんでいては、うっかり動けば自国の生命取りになってしまうかも
知れないからです。
現在泥沼の一番深いところにいるのは、米国と中共でありますし、それを取りまく小国群という
ことになります。ソ連は同じ泥沼にいながらも、動けば損だということを知っていますので、あま
り表面立った動きはしていません。
動きつづけているのは米国であり、それを受けて真正面から立っているのは中共であります。米
国は自由陣営を守るためという正義の旗印をかかげて、共産圏に武力的圧迫を加えているのであ
り、中共は、米帝国主義の侵略に対抗して、という正義の旗印をかかげて断固として抗争する覚悟
を定めております。
中共の米国に対する憎悪というものは、共産主義と資本主義の対立というものに加えて、過去数
十年来の米国の中国に対する、自分勝手な政策の積み重ねによる恨みというものが根強くあります
ので、米国が過去からの政策の誤りを認めての妥協にでなければ、とうてい和解できるようなもの
ではありません。
米国はそうした過去の政治の誤りは一言も口にださず、ただ中共の共産侵略のみを究明して中共
を攻撃しているのですから、どうにもいたしかたありません。これは主義の対立以前のものなので
あり、それに加えての主義の対立なのですから、現在の中共の頑強な態度を、共産主義の侵略のた
めのものとのみ世界に喧伝したとしても、世界各国は心から米国についてゆくとは思えません。
カルマ
米国はみずからが業の泥沼からあがって、それから新しく対策をたて直さなければ、ますます深
みにはまりこんで、身を滅ぼすよりしかたのない状態になってしまいます。
三つに大別される日本の世論
日本の世論も、大きくは三つに分れておりまして、米国のやることならなんでも協力してゆかね169宗
教
活
動
の
本
質
ばならぬ、それが唯一の共産主義対策であり、日本のためであり、自由陣営の一員としての態度で70
1
ある、と思っている、反共そのものの人々があります。もう一つは、それとは全く反対に、共産主
義侵透のためなら、どんな不合理なことでも平気で是認し行動にうつせる、という、ソ連や中共に
席を置いているような日本人、その一例は、米国の核実験には徹底的に反対運動をしながら、ソ連
や中共の核実験には一言も反対をしないし、日本の軍備には全く反対でありながら、中共の武力増
大には諸手をあげて喜んでいるような、変な平和主義者たち。
その三は、どこの国の核実験であろうと、軍備拡張であろうと、戦争に関する事態のすべてに反
対している人々、これは科学者を含めた常識的なイソテリ層に非常に多い。大別この三種類に分れ
ておるのであります。
ところが、この三番目の戦争状態絶対反対の立場を取っている人々に対して、ああいう態度は一
番危険な態度である。現在はどんなに叫んだって、どんな行動にでたところで、共産主義の侵略行
動がとどまるわけではないし、資本主義国と共産主義国との平和などできるものではない。だから
えそらごと
現在できない絵空事のようなことをいっているうちに、どんどん共産主義は各国に侵透してゆき、
日本にも共産主義の勢力が強くなってゆく。日本の周囲を見渡してごらんなさい。北朝鮮、中共、
ソ連と共産圏の国々に囲まれているのが日本ですよ。この国々が侵略行動を起さないのは、目本が
米国の軍事力の庇護の下にあるからで、軍備撤廃どころか、日本は軍備を増強して、本格的軍隊を
もてるようにし、米国と協力して、これら、共産国の侵略に備えなければ、日本はいつか共産圏の
いい餌食になってしまう。そうしたら日本人はどれだけ苦しむかわかりはしない。あの人たちは、
共産主義の真実の恐しさを知らないから、そんな呑気なことをいっていられるのだ、そういう態度
こそ、共産主義者の思うつぼであり、間接的な共産主義協力ということになるのだ、と手ひどくき
めつけている、第一のグループの人たちがいます。
これに対する第三のグループの人々は、米国がまず武力行為を捨てて、共産圏と話合う必要があ
る、まずなにを置いても話合うことが大事なので、話合もせずに、相手が駄目だときめてかかる必
要はない。米国がベトナムやその他の国々に武力干渉をしておいて、爆撃の恐怖で相手と優位に話
合おうとするような、そんな態度でいては、とても正しい国とはいえない。要は、お互いが武力を
背景としての脅し合いでは、とても世界は平和にならないし、いつまでもそんなことをつづけてい
れば、第三次世界大戦にまで戦火が拡大して、それこそ、地球全体が滅亡してしまう。それを自分
たちは恐れるのだ、というわけです。171宗
教
活
動
の
本
質
仏国の元首相なども、そういう意見の人であるようです。皆さんはこの二つの意見をどうお考え721
になりますか、共産主義一辺倒の人々はどう考えてもおかしなものですが、一と三の意見には、そ
れぞれ賛成反対という考えがでてくるでしょう。
しかし、賛成だから、反対だからといって、個人個人がこれをどうしようもない、議員を選んだ
りする時に、自分の賛成する意見の人のところに投票しよう、というくらいしかできることはない
ようです。
どちらをまず防ぐ?共産主義の脅威か戦争の災禍か
米国と全面協力をしてゆこうという一グループの人々は、米国の北ペトナムの爆撃をも是認して
いるのですし、憲法改正して、軍隊をはっきり認めることにも賛同しているわけなのですが、果し
て、神のみ心に照し合わせて、こうした行為が是認し得る行為でありましょうか。相手が殴りかか
ってきたので、殴りかえした、というようなことは、まあ、正当防衛として認められましょうが、
直接はまだ殴りかかってもこないのに、こちらから殴りこみをかける、しかも人員を殺傷し、土地
を破壊する、戦争の雰囲気を撒き散らす、こういうことを、是認することは、自分たちの立場が危
ういと思ったら、どんな手段で相手をやっつけても当然なのだ、ということになり、昔そのままの
無知の行為の継続ということになり、人間の獣性を善しとすることになります。いかに日本の国を
守るためだといっても、そうした米国の行動に賛同することは、日本もそういう立場になったら、
米国と同じ行為をするということになります。
ゆんじ
一体そういうことまでして、国というものを堅持してゆかねばならぬものでしょうか。そういう
ことまでして、共産主義というものを叩かなければ、人間は不幸になってしまうのでしょうか。そ
ういうところが、常識的な人、良識的な人々の割りきれないところなので、共産主義に味方するわ
けではないけれど、必然的に米国のやり方に反対することになってしまうので、それこそ、第一グ
ループの人々や政府の考え方の甘さというものが、一考を要さなければならぬ問題になってくるの
です。
まだ自分の身に起ってみたこともない、共産主義の脅威というものと、自分たち自身が知りきっ
ている戦争の災禍の恐怖というものと、どちらを先に防こうとするか、良識者はどうしても戦争の
恐怖から先に逃れようとするでしょう。そういう人間の本能的なものを考えずに、ただいたずらに
共産主義の恐ろしさだけを説いて、米国の行動を正当化したり、軍隊を持つこと軍備拡張(核武器
173宗教活動の本質
をもつこと)などをその恐ろしさから逃れる手段としているやり方は、どうにも業の輪廻の深さを
知らされるだけでいただきかねるものです。おそらくインテリ層はそう思っているのです。
米国の武力による強腰によって、共産主義の侵略が防げるか、その武力による手段が、かえって
共産主義陣営の力を結集させて、世界戦争にまで持っていってしまうか。どちらの公算が大である
かは、神以外には、はっきり言明できる問題ではありません。
ただはっきりいえることは、米国をはじめとする自由陣営が、武力によって、一時共産主義国を
叩いたり、抑えつけ得たとしても、それはただ一時のことであって、そうした力が、こんどは同じ
形で現われるかどうかは別として、また再び米国やそれに組した国々の前に出現してくることは、
業の輪廻の法則として、当然あり得ることなのであります。
ですから、そうした一時抑えのために、多くの人員を殺傷したり、土地を痛めたり、莫大な資材
を無駄にしたり、戦争の恐怖を世界中に撒き散らしたりすることが、一体人類にとってなんのプラ
スになるだろうか、ということなのです。
日本が再び正当な軍隊を持ち、軍隊を持てば必ず、米国の要請により、核軍備をするようにな
る。現在では核軍備のない軍拡など、軍拡のうちに入らないからです。まして、中共が核爆弾をも
L74
っている現在、当面の敵として認める中ソに対抗するには、当然それに対抗でき得る軍備をしなけ
れば、軍備をしたなんの意義もないのです。
こう考えますと、世界唯一の核爆弾被害国であり、核爆弾による戦争の悲惨なことを国中が知っ
ている、こういう立場に置かれながら、そういう悪魔的武器をみずからも持たねばならぬ、という
ことになれば、もうこの地球世界は永遠に救われることのないことをはっきり証明したことになり
ます。
核爆弾を持つためには、まずその実験をしなければなりません。日本の国中が核実験反対を説き
ながら、こんどは日本自体がそれをやるとしたら、一体日本の心というものはどこにあるのか見当
がつかなくなります。
そういうことを、第一グループの人たちは考えてみたことがあるのでしょうか。共産主義を恐れ
るのあまり、その他のすべてのマイナス面を、ほおかぶりしてゆこうというのでは、とてもそうい
う人たちを愛国者ということはできません。
憲法改正を叫び、軍隊を持てと叫ぶからには、ここのところまで考えなくてはいけないのです。
中途半端な、その時々の考えを、自分たちの主張としていい張ることは、実に危険なことでありま175宗
教
活
動
の
本
質
す。
また第三に属する考えの人々は、もし日本が軍隊を持たず、米国の支援をも受けない立場に立っ
て、共産主義が日本の支配力を握ぎった場合を考えてみなければなりません。そういう時がもし仮
りにきたとした時、米国はただ黙ってその様子を見過しているでしょうか。恐らく黙っていること
はありますまい。米国は南ベトナムと同様に、それら共産主義を追い払うための軍事力を使用する
と思います。その時日本はどうなるか、そういうところまでも考えにいれなければ、自分たちの主
張を声高々といえるものではありません。
176
考えてみなければならぬこと
さあ、こういうふうに物事をつきつめて考えてみますと、一般大衆は一体どうしたらよいのか、
見当もつかなくなります。こういうふうに考えが壁につき当った時、まず考えてみなければならぬ
ことが一つあります。それは一体どういうことでしょう。
人闘はなんの力によってこの世に生れでてきたのであろうか、ということであります。生命の
力、自然の力、神の力、というように人によって種々と考えることでありましょう。どういう力に
よるにしろ、人間は自然に生れいで、両親や自然の要素の多くの力によって、ものを考えて、こと
に処するように育まれてきたわけです。自分で生れようとして生れてきた記憶をもつ人はいない
し、自殺以外に、自分で死のうと思って死ねるものでもない。生死の権は、すべて肉体の自分の力
ではなく、肉体の自分以外の力にょるものであることは明白です。ですから心を落ちつけてしみじ
みと考えてみる必要があるのです。人間の生死は、自分だけの力ではどうにもならないものなの
だ、神(自然) と自分との協力によって、自分というものの生活が展開されているのである、とい
うことを。
そういたしますと、自分も自分の夫や妻子も他の人々も人類すべても、そうした大きな力と肉体
人間との協力によって、その運命が定まってゆくということになります。そしてその大きな力、つ
まり神のみ心は、神のみ心の法則に乗って人間たちが生活してゆくことを望んでいます。なぜなら
ば、大自然の万物はすべて法則によって運営が行なわれていて、人間もその例に漏れるものではな
いからです。
神のみ心はすべての大調和を望んでいます。兄弟姉妹である人間たちが、仲良く手を取り合って
生活してゆくことを望んでいます。そのためにこそ、神々天使が存在し、聖者たちが生れいでたの
177宗教活動の本質
です。ここで私たちの答はきまりました。どうきまったでしょう。
神のみ心のように、世界人類が平和でありますように、世界中が大調和いたしますように、こう
いう心で生活してゆくことです。神のみ心と人間の心とを一つにする方法、これはこの祈り言、祈
り心が最も容易で、最も自然であるということです。第一、第ニグループの想いも、第三グループ
の想いもすべては、世界平和の祈り心に託して、私どもは生きてゆくよりほかに方法はないので
す。実際にいくら偉そうに叫ぼうと、人間は、神のみ心と一つになって動くよりほかに、賢明に動
ける方法は存在しないのです。
私はそこで、私どもはなんら政治的な働きかけはしない、祈り一念の集りである、というのであ
ります。私どもは、私ども個人の生死も運命も国家人類の運命も、すべてひとたびは神のみ心にお
還えしして、改めていただき直してゆく、という方法、消えてゆく姿で、世界平和の祈りという生
き方をつづけているのであります。
想いを一つに日常生活のあらゆる機会に世界平和の祈りをなしつづけることこそ、肉体人間には
どうしてよいか、はっきりわからぬ個人、及び人類の正しい生き方を、真理(神) のほうから、自
然と展開させてくれる唯一の方法であるのです。祈りとは消極的な退歩的なものではありません。
178
肉体智慧をはるかに超えた大智慧大能力を私どもにそそぎこんでくる、高次元の世界と波長を合わ
せる唯一無二の方法なのであります。そういう真理をお信じになって皆さんも是非とも世界平和の
祈り一念の生活を積み重ねてゆかれるようお願いいたします。
179宗教活動の本質
iso
宗教思想の統一
生命の実体と言葉の根源
人間というものは全く不思議だ、と私はいつも思うのですが、そのなかでも生命というものが、
はじめから生きているということと、どうしてこんなに多くの言葉というものが生れてきたのだろ
うか、という二つのことの不思議さです。
これはいくら理論的に考えてみても、結論をうる問題ではありませんが、考えてみたくてならぬ
問題でもあるのです。
生命は肉体が生れいでてからできるものであるという考えは唯物論的な考えでありますが、肉体
が生れいつるということそのものが、生みいだす力、すなわち大生命によってなされていること
は、これは考えるまでもない理の当然のことであります。生命要素をもたぬものから、生命が生れ
でることは絶対にないのであることぐらい平静な心の人には、誰れにでもわかるのでありましょう
が、これを肉体という物質体から生れてきたものとする考えがあるのは、実におかしなことであり
ます。
肉体の両親が、いくらどのようにしてみても、生命体を生みだす要素がなければ、子供は生れて
こない。近頃人工授精などで子供を生むことができるようですが、これとても、その精子なるもの
が、人間の内部から放射されたものであって、肉体人間自体が意識してつくったものではないので
す。
こう考えてまいりますと、生命というものはどうしても、肉体人間以前からあるもので、肉体人
間にとっては、その起源を知ることはどうしてもできません。起源のわからぬ不可思議なる生命の
根源というものとは果してどのようなものなのか、それを宗教的な人々は神と呼んだのであり、神
と呼ぶのを嫌った人々は自然と呼んだのであります。
神と呼ぼうが自然と呼ぼうが、この不可思議なる大生命の作用が、全宇宙にはたらきかけている
ことは事実なのですし、この大生命の行なう創造は一定の秩序をもった叡智によってなされている
181宗教思想の統0
ことも否むことはできないのです。そして、すべての人類はこの大生命によって生命を得ているこ
とも否定できません。といたしますと、この大生命は絶対者であって、そこから分れた生命体であ
る人類には、この絶対者の全貌を知ることはできないのであります。もし知り得るとしたら、絶対
者と全く一つになり得た時に知り得るわけでありますので、自己というものを全くなくしきって絶
対者そのものと一体にならぬ限りは、その片鱗しか知り得ないわけです。ですから考えても考えて
も生命というものの不可思議さを解決でき得ないでいるのです。
そこでこの不可思議なる生命の実体を知るために宗教者は、外面から探りつづける自然科学的な
方法をとらず、心の修練による内面から生命に直入する方法をとったのであります。
自己の内面に直入して、自己の本体、自己の本心というものを、はっきり知りますと、自己の本
体本心というものは、絶対者大生命の力(光)そのものが、そのまま働き、そのまま輝いているも
のであることを知るのです。そうした本心そのものの心の状態の人を、仏といい、神人といったの
であります。
絶対者大生命が、心としての働きを開始した時、その心は光として光の波として宇宙全体に拡が
っていったわけで、その拡がりは永遠につづいてゆくわけなのですが、人類としてこの光が働きか
182
けた時、その光はそのまま言葉となり数となって様々な創造をしてきたのであります。
この言葉というのは、声にでる言葉ばかりでなく、想念をも言葉といっているのであり、この言
葉はすなわち光であり、神のみ心なのであります。そこで聖書では、言葉は即ち神なりき、とある
のです。
この世のなかの万物は神のみ光み言葉によって創られているのでありますが、本体本心を神のみ
心のなかにもつ人類は、神のみ力をみずからももっておりますので、この能力を利して、さまざま
なものを創造して今日の人類世界を造りあげていったわけであります。しかしこの創造力、知識は
絶対者(大生命) そのもののような光一元の創造力ではなく、その光がさまざまに分裂して、未開
の地を切り開いてゆく状態のものなので、やがては個々の光の流れが、一つに結ばれて未開の地域
が次第に完成されてゆくわけなのですが、現在では分裂のままの創造をつづけていますので、お互
いの光がはなればなれになっていて、そこのギャップが闇としてマイナス面として、闘争や不和と
いう状態を現出しているわけなのであります。
こうした心の状態をあたりまえの言葉でいえば、自己保存の本能からくる自我欲望の業想念とい
うので、この業想念も、人類各自の光がやがては一つに結ばれて消え去ってゆき、絶対者大神のみ183宗
教
思
想
の
統
・一
心である状態が、この地上界にもそのまま現われてくるわけなのです。
この世に神があるなら、なぜ不幸な状態に人間をおくのか
この世に神があるならば、なぜこのような不幸な状態に人聞をおくのか、とはよく人のいう神へ
の抗議でありますが、この世の不幸な状態、不完全な状態というものは、真実の幸福への道に達す
る途中の状態であり、不完全な姿も、完成への過程における一現象でしかないのであります。
ですから私は、悪も不幸も不完全もそれらはすべて真実を現わすための消えてゆく姿である、と
いっているのです。私ども人間は大神様の大光明の一筋一筋の光を自己としていただいて、この世
の活動をしているのでありますが、あまりにも先を急ぎすぎて、未開の地の闇のほうにばかり全力
をむけすぎていて、自己の本源である神の大光明のほうを振りむく機会を失い、あるいは忘れ果て
てしまっていたのであります。そこでお互いが、本源からはなれた、神ときりはなれた自己とし
て、自分たちが、神の大光明から発せられた光線の共同体であることを忘れ、自己と他という相対
的な敵対感情のようなものを抱いてしまったのであります。
各個人も各国家も各民族も、そして各自の思想も、本源は神の世界から発せられているのですの
184
に、お互いの自我欲望の波動が、お互いを損い合って、お互いの光を極度に屈折し合って、神の生
命そのまま、神のみ光そのままの現わし方ができなくなって、この地上界に今日の末世状態を現わ
してしまったのです。
ですからこの末世状態を切り開くためには、人類すべてが、自己の光の本源であり、自己の思想
想念の元であり、自己の言葉の本である大生命のなか、神のみ心のなかにすぺての想念行為を還え
して、自己の光の流れを真直ぐ調整してこなくてはいけないのです。自己の光の流れを真直ぐなも
のにした人々は、おのずからその言語動作が、正しい美しい神のみ心と等しいものになってくるの
は理の当然であるのです。
いかなる思想といえど、人間が神の子である真理からいって、悪そのものというわけがないので
すが、その思想を発する人格が、神の光を真っすぐに通せば真理となり、ゆがめばマイナスとな
る、そのゆがみの度合によってマイナス面が少くもなり、多くもなるのであります。ところが自己
の思想がプラスであるかマイナスであるかを知らずに、ただいたずらに自己の思想とし、私はこう
考えるという式で行動している限りは、お互いの思想が衝突してしまって、この世が調和したり、
平和になったりすることは永久にないということになるのです。
185宗教思想の統一
どのような思想でも、他を傷つけ痛めるような在り方が、人間の本質、すなわち神のみ心にかな
うわけがありません。人間の本質は光であり、明るい美しいものであります。自他を傷つけ痛める
ような思想や行動は、光の状態でも明るい美しいものでもないことは、誰れにでもわかることなの
です。そういうあたりまえのことがわからない人々が意外なほど多いのは、やはり末世といわれる
現在の世界にまで、人類を追いこまなくてはいられなかった業想念の層の厚さだったのでしょう。
186
宗教者よ脚つに団結しよう
そこでそうした思想家や行動派の人々はひとまず別にして、私ども宗教者の心だけでも一つのも
のにしてゆかなければならないと思います。宗教者というものは、すべて神仏の存在を信じ仰いで
いる人たちなのですから、自己の全想念行為を神仏にゆだねることが、自己のゆく道であることは
わかっているわけです。
この山に登るのだ、という、その山の姿はみなが知っているわけですから、各自が絶対者という
その山に、勝手な方法で登ってゆくのでは、お互いが自分の登る道がよいのだ、いや自分の登り方
がよいのだ、という論争になってしまい、せっかく絶対者(神) という山の頂上に、すべての人々
を登らせようという善意をもっていながら、各自の力をばらばらに使って、絶対者、真理、大生命
という一つの頂上で結ばれる人々を、宗教という名において、唯物論者とはまた別に分裂抗争させ
てしまうのです。
私はそうした宗教者の行き方を、種々とみていまして、実にばかばかしいことだと常に思ってい
るのです。宗教の中心者となるような人は、いずれも、一般の人々より秀れたなんらかの能力をも
っているのでしょうが、その能力を自分に特別に許された能力というように、自己みずからを特別
視しているので、その信念が心の自由をかえってうばってしまい、他の思想を認め、他の人の言を
容れるという、寛容という美徳、謙譲の美というものを失いがちなのであります。
ですから、お互いが、それぞれ善なる真なる教えをもちながら、お互いに融け合、兄ない、かちか
ちの型や形式や方法をゆずらないのです。それでは神のみ名においても、心を一つに結び合わせる
ことは絶対に不可能になるのであります。
要は人類が心を一つにして、いち早く、神という山頂に登りきればよい、そして神のみ光をこの
地上界に、そのまま照らしだせばよいのであって、言葉のあやや形式そのものは宗教ではない、と
いうことを各自が知らなければならないのです。187宗
教
思
想
の
統
一
一つになれる方法は
188
そこで私は、各宗教者が力をあわせて、神の山頂に容易に登り得る方法を考え出したのです。そ
れはいかなる宗教者でも反対し得ない方法でなければなりません。それは一歩一歩各自の登り方で
山頂目指してゆくのより、一定の道をケーブルカーで登る方が、頂上につくのに楽でもあり、早く
もある、というような方法でなければいけないのです。
登山をたんにスポーッとしてやっているような人は、歩いてゆくところが面白いのだ、というか
も知れませんが、地上天国をつくるためには、人類の損失が少ないうちに、いち早くつくったほう
がよいにきまっているのですから、早くて、楽に地上天国のできる方法のほうに、誰れでも賛成す
るに違いありません。
地上天国、つまり神様のみ心をそのままこの世に現わすためには、各個人も安心立命の境地にな
っていなければならぬので、個人が救われることと、人類が救われることとが、同時であって、し
かも早く救われる易行道でなければならない、というのが、ケーブルカーやエレベーター式の宗教
の道ということになるのであります。
各宗派が宗教論を闘わせれば、いずれにもそれぞれの長所があって、どちらも、こちらも甲乙し
がたい場合が多々あると思います。ですから各宗派が宗教論を闘わせなくとも.,各宗教宗派が、一度
でなるほど、とうなづけるような宗教の道があれば、よほど悟りのひらいていない、我欲の強い教
主や中心者でない限りは、あえて反対することはないと思います。そこで私の提唱する世界平和の
祈りが生きてくるのです。
現今では、どんな個人でも、世界とつながりがないものはありません。自分は自分であって、社
会人類などというものには、なんのかかわりもない、などという理論は、今日の世界状勢からはな
りたたなくなっているのです。それはどうしてかといいますと、個人が滅びたくなかろうと、戦い
たくなかろうと、米ソあたりが、ちょっとした感情のもつれから、核爆弾のボタソを一つ押さないと
は限りません。核爆弾のボタソを一つ押せば、もう自己という個人の意志などはすっとんでしまい
個人は人類の一人として、滅び去ってしまうかも知れないのです。肉体人間の個人の尊厳などは、
今日では、人類という大きな集団の動きによっては、一顧の価値さえももたないのです。それほど
に人類という集団をはなれた個人というものは今日では存在し得ないのであります。それは経済的
の面でも同じことであるのです。189宗
教
思
想
の
統
一
こう考えてまいりますと、昔のように、個人個人が山に籠り滝にあたっての個人的修業などとい
うものは、この世的にはあまり価値のない修業法となってくるのです。人によりますと、過去世か
らの癖で、肉体を痛い目にあわせたい、辛い修業でないと悟れない、と思っているような人があり
ますが、これはとんでもない考え違いで、肉体を痛めたり、辛い修業をしなくとも、立派に悟りを
開き得る道がいくらでもあるのであります。
190
現代にマッチした修業方法が必要
悟りというのは、要するに、自己の本心、仏教でいえば仏、他の宗教でいえば神性を肉体をもっ
たままで現わせるようになればよいのですから、それができれば、どんな方法でもよいわけなので
す。苦しんだり、辛い想いをしてやらなくとも同じような悟りに達しうるなら、なにもこと好ん
で、辛い苦しい修業をする必要はないのです。
いわんや今日のように、日常生活の面で心労の多い時代、生きてゆくための打算が必要である時
代においては、そうした修業に多くの時間を費やしている暇はないのです。
宗教の道というものは、常にその時代相を考えなければいけません。そしてその国柄や土地柄を
考える必要もあるのです。
三千年前の釈尊の弟子や、キリストの弟子たちのやった方法を、今日の人がそのままやれるもの
ではありません。釈尊、キリストといわなくとも、明治の時代のことでも、そのまま今日に通用し
なくなっているのです。
宗教の道といえど、他の諸生活と同様で、宗教の道だから、時代も国柄もないのだ、という人が
あったら、その人は宇宙意志というものを、まるで知らない人なのです。宇宙意志というものは、
時々刻々働いているものであって、逐次変化し発展しているものなのであります◎
大神様のみ心というものは、現象面においてその創造作用を、漸進的に繰りひろげておられるの
であって、現象の面においては非常なる変滅きわまりないものがあるのです。ですから形の面、現
れの面においての虚実は、なかなかつかみにくいものであって、昨日の真は今日の真でないことが
多くあるのです。ただし常に真であることは、神のみ心は愛であり、慈悲であり、美であり、善で
あって、人類を損う要素を一つだにもっていないということなのです。
この点だけは永遠の真理であって、時代にも国柄にも一切かかわりない、全人類が等しく行ない
得なければならない神のみ心なのであります。
191宗教思想の統一
建物より中味が大事
192
さて、ここのところは実に大事なところなのです。この一番大事なことをぬきにして、いかに形
式の上において、型の上において、または宗教学上の議論においてうんぬんしたところで、本末転
倒のいたしかたで、神様は一向にお喜びなさらないのです。
神様の一番お喜びになることは、学問知識や形式はともかくとして、その個人やその国家社会が
いかに神のみ心である、愛の心、善の心、美の心を、その行為や、政治や施政により多く実現して
いるかということなのであります。
このことをよくよく考えませんと、その宗教々団が大きくなればなるほど、神のみ心を損ねてい
る、ということになってきたりする嫌いがあるからです。
ちなみに、自分がいかに自己の教団の教義のよさを信じていようと、他教団を叩き伏せるような
言動をもって、信者獲得をするような行為が果して神のみ心にかなうや否や、あるいはこの世の日
常生活や最愛の妻子を捨てさせてまで、自教団拡張の運動をさせることが是であるや否や、等々数
えればきりのないほど、神の道を拡めるための行為がかえって神のみ心にそむいた行為になってい
ることがあるのです。
このように世の宗教指導者は等しく自戒しなければならぬことがかなりあるのであります。自分
が神の道としてやっていることが、案外、自己の業想念である、権力欲や金銭欲をうちに含んでい
る場合がずいぶんあるのです。近頃の宗教教団の建築競争など、その最たるものだと思われます。
あの教団は二十二億の建築費をかけている、かの教団は二十億だ、というように、けんらん豪華な
建造物を、あちらの教団、こちらの教団で建てているのは、宗教者の等しく知るところであります
が、神のみ心を信者に伝えるのに、どうして、そんなゼイタクな建築物が入り用なのでしょうか、
信者が多勢で入りきらぬなら、土地だけ広い土地を買い、建物はそんな豪華なものでなくともよい
ではありませんか。建造物の豪華で神の偉大さを知らせる道具にしようとするのは、その宗教の教
えが貧しいための援護射撃のように、識者間には思えてくるのです。
私は各教団が、建築のために血道をあげているのをみますと、その教団の空虚さをかえって感じ
させられます。そして、その中心者たちの、虚栄心や権力欲というものを、まざまざとそこにみせ
られた気がして、宗教者が心を一つにして世界平和達成のための、全き祈りの道を実行するのも、
なかなか並み大抵のことではないわい、と思ってしまったりするのであります。193宗
教
思
想
の
統
一
しかし私は、実はあまりそんなことに気をかねているわけではないのです。神のみ心というもの
は、いかなる隈磯がありそうにみえましようとも、必ず、真理の道をそこに顕現し得るということ
を、私は確く信じているからです。
そうした宗教者自体がもつ業想念を含めた世界人類の業想念、神のみ心を違えた想念行為も、救
世の大光明の地上界への直接的働きかけによって、これからは逐次消え去ってゆくに違いないから
なのです。
194
全宗教者が心を一つにしてなすべきこと
心ある宗教者諸師は、枝葉末節のことに把われず、いかにすれば、宗教者全員が、心を一つにし
て、地上界を救済し得るかということに全霊をむけていただきたいと思います。
私の最も問題にしていることは、人間の業想念、自我欲望というものを、いち早く消滅させてし
まうということであるのです。消滅させるためには、その業想念を相手どって、相対的な形で抑え
つけるようなやり方はだめだと思うのです。それではあたかも、神の他に業想念、つまりサタソが
自己の能力で存在ずる形になってしまいます。業想念のサタソが存在しているものとして、これを
消滅させるための神の力といたしますと、そこに烈しい抵抗があって、これはなかなか容易なこと
ではありません。よほどの修業を積んでおらぬと噛下手すれば、その業想念的サタソにしてやられ
てしまいます。
サタン
今日までの宗教者には、神に対する悪魔的考え方の人が多かったのですが、私は、サタソの存在
サタン
を考えてはおりません。悪魔を独立的存在と考えますと、サタソは厳然として神の前に立ちふさが
ってきまして、人間は常に恐怖の想いを抱きつづけなければなりません。それらは、この世の悪や
不幸の存在する姿をそのまま実在と認めている浅い宗教的な生き方で、神は愛であり、完全円満で
あり、すべてのすべてであり、すべての権能であるという真理の言葉に反してしまいます。
そこで私は、サタソは神の光に対する闇のごとき存在として、神の光が進んでゆけば、おのずか
ら消えてゆくものと思っているのです。
私は、それを消えてゆく姿と説き、すべての業想念自我欲望(怒り妬み恐怖等々)は、そうした
想いが起った場合、ただちにその業想念に対抗する想いを起さず、そのまま神のみ心のなかに投げ
入れてしまいなさい、と教えているのであります。それをただ神様、というだけでは、真宗の南無
阿弥陀仏式を一歩もでないので、世界平和の祈りという、神のみ心の現われともいうべき祈り言を
195宗教思想の統一
そこにもってきたのであります。世界人類の平和こそ、神のみ心そのものであることはなにびとも
否むわけにはゆきません。そのみ心を、世界平和の祈りという、横ひろがりの人類愛的言葉にして
各個人の業想念の消滅作用につかったのです。これは、各個人の小さな自我欲望的想念をそのまま
生かして、大きな広い、世界人類の救済という大目的のなかに同化吸収させてしまったのです。あ
る人が世界平和の祈りをする時、その人はその想いの波につれて、個人の自分が、その時すでに人
類の一人としての自分に生れかわっているのであります。自己の日常生活の幸福を願うささやかな
想いは、そのまま世界人類の幸福、平和という広い大きな光明のなかに融け入ってゆくのでありま
す。
個人の業想念は、世界人類の業想念と一つになって、救世の大光明の輝きわたっている世界平和
の祈りという大眼目のなかに昇華されて、本心の光と全く一つの光明となって輝きわたるというこ
とになるのです。これはなるのですではなく、なるにきまっているのです。
なぜきまっているかと申しますと、人間は本来神の子であって、業想念は現われては消え去って
ゆくものであるので、救済の大光明の輝きである、世界平和の祈りのなかに入ればおのずから、闇
が光に照されれば消えると同じ意味で、消え去ってしまうのであります。この方法はなんらの形式
19b
も、なんらの費用も殿堂もいらないのです。そして老若幼の区別なくやさしくなんでもなくできる
方法なのであります。しかも宗教宗派になんのかかわりもない超宗教的方法でもあるのです。こう
した方法を全宗教宗派の人々が取り入れてやられたら、各宗教宗派がそのままの形で、おのずから
一つになりうるのではないかと私は思っているのです。
197宗教思想の統一
1.98
光明思想の新しい生き方
新興宗教がなぜ勢力をえているのか
えど
この世界を苦のシャバとか臓土とかいうふうに思って、その考えを根底にして生きてゆくのは、
安易で気楽な感じさえするのですが、どうもそれだけではこの世界の発展につながらないし、人類
の進歩ということにもつながってゆかないようです。
どうせ人間のやることだからしかたがない、いくらもがいたって、人間が神様になれるわけでは
えど
ない、というような考え方は、深い考えはないにしても、この世界を臓土と考え、昔のシャバと考
えているのと共通したものをもっています。
おんり
仏教の一面である、肉体人間厭離の思想が流れてきている考えなのでしょうが、こういう考えを
もった人が意外と多いのでありまして、その場、その時の社会国家の動きに順応して流されてゆく
生き方で、自分たちのできる範囲で、自分自分の生活を守ってゆく、自分たちがこの世に生存して
いる間だけ、まあ、なんとか無事ですごしてゆければいいのだ、多少の波風はしかたがないが、な
るべく大きな災害のないように、というそういう程度の生活態度がこの人たちのものなのです。
こういう人たちは、積極的に政府の態度や政策に反対するようなことはいたしませんが、誰れか
リーダーがでてきて、こういう政策を取ればみんなのとくになる、というように積極的になんらか
の政策をその人たちに示して、自信満々と演説したり、書類をくばったりしますと、その口当りの
よさや、その自信に充ちた態度にひかれて、その人やその政策を支持したりしてしまいます。しか
し、その政策があまり変化に富んだりしたものであると、自分たちの現在の環境がこわれてしまう
ような気がして、ついてはゆかないのです。
こういう人たちの大部分は、現世利益を表看板にする新しい宗教についてゆくようで、共産主義
のような、極端な革命的な政策には恐れてついてはゆけないようなのです。
現在の環境を根底から変えてしまうようなことは好まない、しかし、少しつつでも、現在以上の
生活ができるように、という考えのこれらの人々は、リーダーが上手に繰って、その人たちの好み
i99光明思想の新しい生き方
に応ずるようにリードしてゆくと思わぬ結束をかためてゆきまして、横のつながりの助け合いをし
てゆくのです。
そしてこういう人たちには、リーダーの厳然たる確信に充ちた指導態勢が必要なので、強い者に
従うという順応性が発揮されてくるのであります。日蓮宗系統の新興宗教団体はおおむねこうした
人々を、その宗団の行き方に順応させてひっぱっていっているわけで、なかなかその勢力の大きい
ものもでてきているわけです。
本来は自分一人ではなんら積極的行動のできない人々が、強固なる指導力を背景にして、自己の
うちに自信を湧きあがらせ、いい気持で新しい信者への説法をしてゆくのであります。自分が人の
上に立ち、リーダーとなって、他の人に積極的に働きかけ得るという、今までの自己のなかにはな
かった、新しい喜びで、その人たちは心がふくらむ想いなのです。
現世利益達成の願望と、権力欲の満足とがこうした今まで弱かった人々の心にはっきりした積極
性をもたせたわけでありまして、これが宗団の拡張に大きな力となってきたのであります。
?.QO
個人、人類同時成道の道
この人たちは、まあ、これで一応はよいことにいたしておきますが、こういうことだけでは満足
のできない、本来性が積極的な人々や、現世利益もさることながら、真理の道を求める願望のほう
が強い人々にとっては、なにか他の真実の道を求めなければ、じっとしていられない気持にかりた
てられるのです。
積極的な一方の人は、根本的な革命思想に飛びこんで、共産主義者として活躍してゆく人もあり
ましょうし、一匹狼として自己の考え出した、新しい思想をかかげて活動している人もあるであり
ましょうo
たち
それほど積極的ではないが、深く深くものを考えつめる性の人で、これが真理だと思う道を心で
つかまなくては落ちつけない気持で、種々な宗教を廻ったり、心霊の研究などしたりして、今日に
いたっている人々もあります。
私の開いた道は、現世利益だけを追い廻わす道ではないし、といって、神様を遠い天上の彼方に
置いて、神様になんかとてもなれっこない、という道でもない。この身このまま、自己の環境その
ままで、自己も救われ、同時に国家人類のためにも尽しうるという、個人人類同時成道の道であり
ます。
201光明思想の新しい生き方
この世は確かに肉体身の生活が、病気や貧乏や不調和であっては、よい生活というわけにはゆき02
2
こ
ません。これは釈尊もそう思われて、どうすれば貧(生)病老死の四苦を超えることができるか、
とその道の探求のために出家されたのであります。ですから、現世利益を思うな、と突っぱなして
だけいたのでは、今日の宗教の道はなり立ちませんが、現世利益を追い求めるような宗教の道は、
これは真理に遠いので、真実の宗教というわけにはまいりません。
ここがむずかしいところでありまして、現世利益から入ってもよいが、いつまでも現世利益から
はなれられないような人ばかりつくっていたのでは、真理の道は現われません。はじめは現世利益
にすがらせてもよいが、次第に現世利益を超越した、真理の道、人間の本体把握の道に昇華させて
ゆかねば、真実の宗教とはいえません。
大宇宙は広大無辺であり、地球世界はそのなかの一集団に過ぎぬ銀河系宇宙の、そのまた一つの
太陽系の小さな星の一つにしかすぎません。そんな小さな星のしかもまた小さな一国家のそのまた
一個の自己というものだけを、たった一つの大事なもののようにして、その利害得失だけに気を奪
われて生きているなどという、どうしてそう小さな想いになってしまっているのでしょう。
真理を知り、自己の本体を知ったものにとっては、そういう小さな想いがおかしくもあり、憐れ
でもあるのです。しかし、現在どんな立派な人でも、過去世において、はじめて肉体身を分霊魂が
まとった時には、ただひたすら、肉体身に融合しようとして、肉体身だけの自己に把われきった時
もあったのですから、そう自己の心境とかけはなれたものとして馬鹿にしてもいられません。かっ
ての自己の姿として、自分の切り開いた道をそうした後進に知らせてやらねばならぬ責任があるの
です。
えど
確かに、この地球世界は、まだ真理の現われきっていない苦のシャバでもあり、稼土でもあるの
です。だがこの苦のシャバも微土も固定したものではありません。自己の心境の変化によっては、
いつでも天国になり浄土にもなる世界なのです。
常に変化変滅しているのがこの世界の姿です。それを私は消えてゆく姿というのです。自他の肉
体も想念波動も環境も変化変滅しつつ消えてゆく姿なのです。そんな消えてゆく姿のなかに真実の
幸福があるはずがありません。
いい古された言葉ですが、巨億の富をもっていても、その肉体が消滅したら、その富が一体なん
になるのでしょう。幽界の地獄は金次第ではないのです。
203光明思想の新しい生き方
ほんものが現われてくる
204
だからといって私は、消えてゆく姿の想念波動や物品を粗末にしろというのではないのです。消
えてゆく姿というのは、善悪すべての想いや環境に人の想いを把われさせないために、表面にだし
て使っている言葉なのです。
消えてゆく姿という言葉の奥には、永遠につながる善いもの、本ものの姿が、はっきり存在して
カルマ
いて業の消えてゆくに従って、その本ものの姿がはっきり現われてくるのであります。
一つのものごとに把われていては全体が見渡せません。把われを放った時、心も体も自由になる
くサつ
のです。そして真実の姿が見えてき、真実の働きができてくるのです。それを釈尊は空といい、老
むい
子は無為といい、キリストは神への全託といい、私は消えてゆく姿で世界平和の祈り、といってい
るのです。
りんほ
だ がただ空になれとか、無為になれとか、把われを放て、とかいっても、業想念波動の輪廻は、
ちょうど録音盤に録音されて巡っているようなもので、なかから押しだされて思えてくるのだし、
行為になってくるので、なかなか先覚者のいうように、空にも無為にもなれないのです。だからと
くユフ
いって、なれないでよいわけではないのです。どうしても、空の境地、無為の境地、全託の境地に
ならなければならぬ時が地球人類の上に迫ってきているのであります。
新興宗教の、現世利益の願望達成や、権力欲の満足などという、浅い生き方では、どうにもなら
ぬ時期が間近に迫りつつあるのです。私はその事実を心配しているのです。いいかげんな宗教観や
世界観ではとうていきたるべき地球の危機を防げるものではありません。
こういう時にあたって、一人一人が、その場その時々だけの幸福感だけで生活していたのでは、
地球人類の滅亡から逃られるものではないのです。うっかりすると、地球人類の一人であり、国民
の一人である、ということを忘れてしまう人がいるようですが、国家の運命も人類の運命も、自分
自身の運命と一つであることを忘れてはいけません。
光明思想的生き方はこの世をかえる
私が口をすっぱくして申しているように、現在の人間には、国家や人類を離れた一人だけの運命
などというものは考えられもしないのです。だからといって、一人の人間がどうあがいたって、国
あうらめ
家や人類の動きのままに動くよりしかたがないのだ、というような諦の生活では弱すぎるのです。205光
明
思
想
の
新
し
い
生
き
方
国家の運命も人類の運命も、一人一人の人間の集合した力によってどうにでも動かし得る、流動性026
をもったものなのです。
えど
この世が苦のシャバであり、稼土であるという想いでも、自分たち一人一人の生き方によっては
そうでなくなし得ることもできるのです。それが光明思想的な生き方なのです。光明思想というの
は、神のつくり給うた世界に悪や不幸があるわけがない。神の世界は光明燦然とした世界であると
わけいのち
いうのであり、人間はみな、完全円満なる神の分生命なのである、という思想なのであります。
そこで、この世における悪や不幸とみえるすべてのものごとは、人間が神のみ心から離れている、
その隙間から起ってくることで、人間の想念の持ち方によっては、そういう悪や不幸の世界はなく
なってしまうのである。だから、常に善いことのみを思い、明るいことのみを思い、悪や不幸のほ
うに想いを把われないようにすることが大事なのである。実在としては悪や不幸は無いのだ、とい
うのです。私はその無いというところが、この現象世界に生活している人々にとって無理に思わな
ければ思えないところなので、消えてゆく姿というように順次光明思想に変えてゆこうとして、消
えてゆく姿の行く先を、世界平和の祈りという、神の人類救済の大光明である祈り言のなかに定め
てしまったのであります。
だと、自然の想いのほうでは思えてくるのに、善い人だ、善い人だ、と無理無理思おうとしたりし08
2
ていると、なんだか心が苦しくなって、体を悪くしたり、反動的に身近かなものにあたりたくなっ
たりしてしまいます。
体が悪いのに病気でないようにみせたり、人に対する僧しみの想いや、嫌悪の想いがあるのに、
そんな気持は少しもないように、あの方も善い人で、この方も立派な人でとやっていると、ついそ
だま
れが習慣性になってしまって、人ばかりか、自分の心をもいつの間にか騙してしまう、いわゆる偽善
者になってしまって、正直な感情をだせない人問になってしまって、他の人からみると、なにか奥
歯にはさまっているような、なにか本ものでない、正直でない人という印象を受けるようになって
しまうのです。
ここが光明思想の道に入った人の陥りやすい欠陥でありまして、このやり方が、他人への説教と
して現わされた場合には、説教されているほうが全くたまらなくなるくらい、できそうにもないこ
とを、すぐにもできるように説教してくるのです。
実際に病気であるものを、病気でないように思おうとしたり、現実に悪いことをしている人を善
い人と思おうとしたり、汚いものをきれいだ、と思おうとしたりすることは、実にむずかしいこと
人間の習慣の想いというものは大変なもので、いくら悪が無い、不幸が無い、病気は無いといっ
ても、現在眼の前で幾多の事例をみせつけられていますと、理論としてはわかるが、実際には思、兄
ない、ということになり、心から湧きあがってくる信念的想念にはならないのです。
この世の人々は、みんな神の子で善い人ばかりなのだ、と思おうとしても、現実にだまされたり
悪い行ないの人をみたりすると、みんな善い人とは思えなくなってくるのです。また病気や不幸な
出来事に会うと、不幸や病気は無いのだ、という気持がゆらいできてしまうのです。そういう心の
動きを、私は多くの人の体験で知っておりますので、無いという言葉をつかわず、病気も不幸も災
…難も、あなたの間違った想念も他人の悪い想念も、みんな過去世からの業因縁の消えてゆく姿であ
って、消えるに従って本心の姿、善なる真なる神のみ心が現われてくるのですよ、といって、世界
平和の祈りのなかに、すべての想念行為を投入させるように、人々を導いているのであります。
自分の心をごまかさない光明思想
なんでもかでも善いほうに善いほうに思おうとするのは、実によいことだとは思うのですが、無
埋に心がなっとくしないのに、善いことだ善いことだと心に押しつけていたり、悪い人だ、悪い人207光
明
思
想
の
新
し
い
生
き
方
でありまして、人間の感情がなかなかそうは思わせないものなのです。
神のみ心は確かに完全円満であり、悪や不幸や不調和のない世界でありますが、肉体人間として
生れてきた、この物質的地球世界には、まだ神の完全性は、その全貌を現わしきっていない、過渡
期なのでありますので、この地球人類の世界には、悪も不幸も病気も災難も存在することは事実な
のです。
ただ、唯物思想家や、苦のシャバや磁土式考え方の人々のように、いつまでもこの世界には悪や
不幸が無くならない、というような考えをもっていては、光明思想にはならないのであり、世界を
真実に平和にする道は開かれないのですが、私どもは、現在は悪や不幸があるけれども、これ伽↓
霊的人間が、分霊魂として、この肉体世界の生活をはじめた時から生じた、神の微妙な波動とのヘ
カルマ
だたりによって生じた業(隙間)なのであって、霊的人間が、肉体人間の波動に融合しきって、微
カルマ
妙な波動にも粗い波動にも、自由に変化できるまでに進化してくれば、その業は消えてゆく姿とし
て消え去って、神のみ心そのままの完全な世界が、この地球世界にも実現されてくるのである、と
いうのであります。
そこで、どうしても、現在の悪や不幸の消え去ってしまう期間灯けは、人附の苦悩の生活はなく
209光明思想の新しい生き方
ならないので、その苦悩の期間が一日でも短かくなるように、守護の神霊への加護を願って、心か102
ら世界平和の祈りを唱えつづけてゆこう、というのです。
光明思想の新しい生き方
その場、その時の人間の想いを慰めるための光明思想であってはなりません。無理して想いをね
じ曲げようとしても、人間には習慣性というものがあるので、習慣性が直りきるまでは、どんな善
いと思うことにでも、心から飛びついてゆくことはできないのです。順次に自然に人間の心が光明
化するように導いてゆくのが真実の光明思想家であって、焦って、偽善者を多くつくってはならな
いのです。
うわモら
そのためにこそ、はじめは上の空でもよいから、世界平和の祈りを唱えさせるようにすることが
大事なのです。世界平和の祈りを唱えていれば、自然とそれが習性となって絶え間なく、光明波動
が心身に入ってきて、知らぬうちに、心の底から、世界人類の平和を願う、世界平和の祈りになっ
てくるものなのであります。
そのためには、やはり普通一般の人々と同じように、悪いものごとは悪いものごととして認め、
嫌なことは嫌なこととして認めつつ、しかし、普通の人のように、それを心に把えているのではな
く、すべて消えてゆく姿として人類愛の祈りであり、宇宙大神のみ心でもある、世界平和の祈りの
なかに、すべての想念行為を投入して、神の大光明のなかで、常に自己の心を洗い浄めていただき
つつ、日々の生活をするのであります。
こういたしますと、無理なく自然に、業波動と光明波動の転換ができて、無理無理に病気なし、
病気なしと思おうとしてみたり、悪や不幸はないのだ、光明燦然光明燦然と思ってみたりしなくと
も、自然な心の姿で、人間が光明体の本質に還元してゆくのであります。
無理があると、どうしても永つづきしませんし、かえって不正直な人間になってしまったり、b
の底で人を嫌がったり、さげすんだりする陰性な人になってしまったりするものです。
要は、大宇宙万般にゆきわたっている、神のみ心に心の波長を合わせることが大事なので、この
くコつ
ためにこそ、空の修業をしたり、無為とか、全託とかいうことが必要だったのです。
神のみ心といっても、なんの神様か、という疑問がでてきたり、私はキリスト、私は釈尊、私は
日蓮、私は法然というように、その宗祖争いなどをしかねませんので、何々の神とか、何々宗祖と
かいうことを、私は一切いわずに、大宇宙神のみ心である、
二大宇宙の調和、地球世界に限れば、地
211光明思想の新しい生き方
球人類の平和という、そうなるべきであり、そうなってもらいたい、大願目を、神との一体化の祈12
2
ごと
り言としてもってきたわけであります。
それが、世界人類が平和でありますように、以下の祈り言であります。
こういうように、普通の人との話合ができるように、悪も不幸も普通の人と同じように認めるこ
とができる、ということは、光明思想の新しい行き方でありまして、悪いものはみるな、悪い言葉
は聞くな式の、狭い光明思想では、やがては行詰ってきてしまいます。あたりまえの生活をあたり
まえにして、しかも悪にも不幸にも病気にも少しも把われず、世界平和の祈り一念で生きられるこ
との幸福は、やりつづけてきた人でなくてはわからない境地ですが、誰れでも、短期間でこの道の
法悦境はそれとなくわかってくるのです。
わかりやすくいえば、闇の思想をやさしく、自然に、光明思想に変えてしまう生き方が、消えて
ゆく姿で、世界平和の祈りの生活なのであります。
観点をかえて見直してみる
どんな嫌なことでも、どんな失敗をしても、それが消えてゆく姿だと思うと、嫌なことがあまり
嫌でなくなり、失敗もあまり苦にならなくなり、新しい勇気が湧いてきて再び失敗は繰りかえさぬ
決意となってくるのです。
愛そう愛そうと思っても愛せない人は、いくらでもいます。しかし、愛そうと思う想いさえも消
えてゆく姿として、相手の娠なところも消えてゆく姿として、世界平和の祈り一念のなかから、再
び相手を見直した時、相手は意外と嫌な人でなくなっていることが多いのです。
人間の想念というものは面白いもので、そうしようしようと思っていると、かえってしたくなく
なり、してはいけない、してはいけない、と思うと、かえってしたくなってしまうという、変なく
せをもっています。そんな時しようも、しまいもすべて消えてゆく姿に一度してみると、心が自由
になって、正しいものの見方、的を射た生き方ができてくるものであります。
現在の世界の情勢、なかんずく、米国や中共の在り方をみていますと、米国は米国で、中共、い
わゆる共産勢力というものに、すっかり把われきっていまして、なにをするにも、なにを考えるに
も、まず共産勢力の侵透ということが頭をはなれないのです。
こう一つの見方に把われてしまいますと、全く心が不自由になってしまいまして、善い智慧が浮
ぶわけがありません。金の使い方も物の使い方も、人の使い方も、政治政策万般が、すべてぎこち213光
明
思
想
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新
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き
方
なく、不自然で、自由な動きというのは政治のどこをみてもありません。
なぜ一度は一つの想いから心をはなしてみないのでしょうか。把われを放って、改めて、世界各
国の動きをみてみれば、もっと雄大な新しい政治構想が浮んでくるにきまっています。現在の米国
のアジア政策は、根底から間違っていることを知らねばなりません。
また中共のほうをみれば、これまた、日本の戦時中と同じように、米国が攻めてくるに違いない
というような観点から、米国に対抗するために、あらゆる手段方法をとって、国内統一をはかって
います。
国内全体を米国を憎悪する方向にひっぱっていっているので、小中学生にいたるまで、日本の戦
時中の鬼畜米英と同じような工合に、米国を悪魔の化身のように、身ぶるいして米国の悪口をいう
といった案配です。
いずれも、一つのものごとに把われきってのことで、その把われが、いかに世界中を恐怖させて
いるか、ということを考えてもみないようなのです。
これは他国のことで、現在ではこの行き方を直接とめることはできません。そこで私たちが民間
にあって、多くの力を集めて、世界完全平和達成の、想いを一つに世界平和の祈り、という運動を214
しつづけようとしているのであります。人間一人一人の力が結集すれば、世界を動かすことのでき
ることを、是非とも実証してみせたいものです。しかもこの運動には敵もなければ憎しみもないの
です。ただただ、地球人類を滅亡させまいとする、人類愛の行動があるだけなのです。是非とも皆
さんご協力下さい。
215光明思想の新しい生き方
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